うごく七夕祭り - 聖心女子大学

2013 年
8 月 6 日~7日
うごく七夕まつり
報告集
目
次
活動について ......................... 2
川原祭組との出会い ................... 3
旅程表 ............................... 4
資料 ................................. 5
写真 ................................. 6
学生報告集 ........................... 7
1
「うごく七夕まつり」と聖心女子大学
■ 活動のはじまり
2011 年 3 月 11 に起こった東日本大震災。国連機関であるユ
ネスコは、ドイツの総合化学メーカーBASF 社の出資を受け、東日
本 大 震 災 の 復 興 支 援 を 開 始 し ま す 。 そ の 名 前 は ” Bringing
Back Smilies Project(「こころに笑顔を」プロジェクト) “。様々
な分野に分かれて行われるプロジェクトのうち、被災地における
「オープンスペースづくり」の分野への協力を聖心女子大学が行う
こととなりました。
■ 具体的な活動
活動を行うのは、岩手県陸前高田市。東日本大震災で、特に
被害の大きかった地域のひとつです。陸前高田市で復興支援に
関する様々な活動を行う NPO 法人 P@CT(パクト)と連携しながら、活動を行います。
学生を被災地へ定期的に派遣し、P@CT が運営する「みちくさルーム」で、遊び場や居場所を失った子
供たちの”遊びサポーター"として、活動しています (2013 年も継続中)。子どもたちが楽しめる遊びは何か、
どうしたら円滑なコミュニケーションが取れるのか、出発前から研修とミーティングを重ねて、現地での活
動に備えます。
もうひとつの活動は、被災地の現状を「見て」「知る」こと。
地域の方々と交流しお話を伺ったり、大きな被害に見舞われた地域に足を運んだり。自分の足で、現
場に立つ。そこから必ず何かが見えてきます。
子ども支援とともに、地域の方々との交流も活動の柱のひとつでした。こうしたなかで、「うごく七夕まつ
り」川原祭組の方々と知り合ったのです。
■ 「うごく七夕まつり」とは
毎年、陸前高田市では、この地域のお盆である8月7日に、七夕飾りを付けた町内地区ごとの山車
12 台が、お囃子に合わせて町を練り歩きます。
山車は1台1台がそれぞれに華やかに装飾され、日が落ちるとその山車に明かりが灯り、幻想的な
世界が広がります。このお祭りには、鎮魂の意味もあり、お囃子の音と山車の明かりを頼りに、亡くな
られた方々の魂が帰ってくると言われています。老若男女問わず 1 年を通じて楽しみにしているお祭
りです。しかし、2011 年 3 月 11 日、この日を境に、高田の人々の暮らしは一変します。それでも、な
んとかして、祭りを復活させたい。その思いは、高田の人たちの祈りに近い思いでした。
そして、2013 年、震災前の 12 台すべての地域の山車が復活し、お祭りは行われました。
2
■
川原祭組との出会い
川原町内会は、1世帯をのぞく 200 世帯超が津波によって失われ、町内会会員の皆さんは、市内
外の避難所等へ離散を余儀なくされました。
しかし、町内会は解散したものの、祭組は存続さ
れました。祭りの復活は、地元の皆さんの悲願でし
た。津波で破壊された山車を再建し、2012 年「う
ごく七夕まつり」に参加したいという川原祭組の皆
さんの強い思いは、県内外の多くの人々の共感を
呼び、支援の輪が広がっていきました。
聖心女子大学と川原祭組との出会いは、2012
年の春でした。子ども支援の活動に参加した学生
6名は、現地で、川原祭組の佐々木会長をはじめ
とする祭組の方々にお会いし、山車の飾りである、
和紙製「アザフ」折りのお手伝いをしました。そこで学生たちは、山車の歴史や、山車復活へこめられ
た思いなどを伺うことができました。この出会いがきっかけとなり、2012 年 8 月の被災地支援活動は、
この「うごく七夕まつり」の日程にあわせ、まつり当日は、実際に山車も引かせていただきました。こうし
た経験は、参加した学生たちの胸に大きな感動をもって刻まれました。
聖心女子大学では、この「うごく七夕まつり」に継続的に参加させていただくことが、陸前高田市の
文化復興支援、さらには地元の方々のコミュニティー再建のお手伝いになるのではないかと考えまし
た。そこで、より多くの学生が参加できるような企画を立てて学生を募集し、2013 年夏には、総勢 29
名の大所帯での参加となったのです。
【2012 年~2013 年】
2012 年
6月
川原祭組佐々木会長と出会う。
まつりの歴史、まつりへの思いを伺う
7 月 再度川原祭組を訪れ、まつりの飾り作
りを手伝う。
8 月 復興うごく七夕まつりに参加
2013 年
1月
秋葉権現川原獅子舞に参加
改めて、伝統文化を絶やすまいと頑張ってお
られる川原祭組の皆さんの熱意に打たれる。
4月
子ども支援の一環ではなく、七夕まつ
りにしぼった支援活動提案
多くの学生に、触れて、感じてもらいたいと
いう思いから。
6月
具体的なプランが決定
川原祭組の山車の色合いを学生が考案
7月
学内にて、山車の装飾である「アザフ」
「花」折りを学生に呼びかける。
8 月 6 日 学生 29 名で現地へ出発。
3
2013 年 8 月 6 日(火) ~8日( 木)
日次
月日(曜)
※全行程、貸切バス利用
行程
7:30
聖心女子大学 宮代ホールロビー集合
8:00
14:30
16:00 頃
大学発 - (首都高速・東北道)- 一ノ関 IC - 気仙沼
1
※途中トイレ休憩(2 時間に 1 回程度)
08/06
休憩予定地:佐野 SA 又は上河内 SA・国見 SA(昼食時間帯)・長者が原
(火)
SA
到着後:気仙沼市内自主見学
19:30
夕食:ホテル内
6:30~8:00
2
08/07
朝食:宿泊箇所
(水)
8:30
9:00
12:00
気仙沼 - 陸前高田(七夕まつり参加・山車引き等)- 昼食
13:00
14:00
14:30
夜の山車飾り準備 - 陸前高田 - リアス・アーク美術館
※リアスアーク美術館では「東日本大震災の記録と津波の災害史」の展示を各
自見学。
17:30
18:30
気仙沼 - 陸前高田(七夕まつり参加・山車引き等) -
21:30
22:00
22:30
集合 - 陸前高田 - 気仙沼
3
6:30~8:00
08/08
(木)
8:30
朝食:宿泊箇所 - 振り返り(ホテル内)
10:00
11:30
気仙沼 - 一ノ関※昼食弁当積込 -(東北道・首都高) -
※途中トイレ休憩(2 時間に 1 回程度)
18:00~19:00 予定
聖心女子大学着
4
■ 引率者
菅原
健介(人間関係専攻教授)
【当日参加】
土肥久美子(学生事務部交流連携課長)
市川 典子(マグダレナ・ソフィアセンター)
岡崎 淑子 学長
長野 美香
(マグダレナ・ソフィアセンター長)
国際交流 1
英語英文学 1
人間関係 1
哲学 1
日本語
日本文学
2
基 礎 課 程
9
心理学 4
初等教育 3
教育学 7
■
参加学生数:
29 名(内訳は左記)
Special thanks
災害対応寄付金にご協力下さいましたみなさま
本活動は、災害対応寄付金からの援助をもとに実行いたしました。
みなさま方の温かいご支援に、あらためて心より厚く御礼申し上げます。
今後とも、みなさまのご厚情に報いるよう、被災地支援活動に力を注いでいく所存です。
なにとぞ温かくお見守り下さいますようお願いいたします。
■
宿泊先
気仙沼ホテル観洋
〒988-0021
http:// www.kkanyo.jp
宮城県気仙沼港町 4-19
5
6
出逢いに感謝
~これからもずっと~
参加学生感想より
7 万本あったといわれる松原で、1本だけ残った「奇跡の松」
(学生撮影)
7
1年
今回陸前高田「うごく七夕まつり」に参加し、陸前高田の現状をこの目で見ることができました。今は
草も生え、道が整備されていましたが、美術館に展示されている写真は、震災の傷跡を色濃く写し出して
おり、こんなに大変なことがここでたった二年前に起きていたんだと思わずにはいられませんでした。祭
りに参加している地元の人逹もきっと様々な事情を抱えて、今日この日を待ち望んでいたのだと感じまし
た。夜になると山車の明かりが暗闇の中で鮮やかに浮かび、真っ黒な海でともる灯台のように見えました。
きっと亡くなった人々もあの明かりを頼りにこの町へ戻ってこられるだろう、そのくらい小さいけれど力
強い光でした。震災について私(非被災者)が知っている情報はあまりに一面的で乏しくやはり自分の目で
少しでも実際に触れることが大切なのだと改めて感じました。この貴重な経験を援助して頂いた方々に感
謝すると共に色々な人々に今回の経験を話していきたいと思います。
1年
2013 年 8 月 6~8 日、私は陸前高田「うごく七夕まつり」に参加させて頂きました。
私自身、高校生の頃からボランティア活動には積極的に参加していました。もちろん、東日本大震災が
起こった際にも、すぐに現状を自分の目で確かめたいと思っていたのですが、なかなか恐怖心を拭えず、
踏み止まっていました。
しかし大学生になり、震災関連の授業を受講していくなかで、このまま私は現実に目を背けたまま生活
していくのかと思うと、なんとも言えない恥ずかしさが込み上げてくるのと同時に、現地に行きもしない
で震災を語り、知ったようなふりをするのはおかしいのではないかと思い、今回の活動に参加致しました。
今回の活動に参加して、非常に印象的だったことは、「うごく七夕まつり」の最中、山車を引いている
ときにふと献花が見えました。おそらく家があったであろう場所であったことから直ぐに意味を察するこ
とが出来ました。他にも割れたお茶碗が無造作に転がっていたり、きらびやかな山車と地元の方の表情、
そしてそれらがあまりにも対照的で、今でも心に残っております。
七夕祭りが始まり、川原祭組全員で山車を囲んで、お祭りを盛り上げたときの高揚感は忘れられません。
川原祭組のみなさんが私達に想像以上に優しく接してくださり、とても心地よく良い雰囲気で過ごせまし
た。その反面、私達をお客様のように扱ってくださったことで、私達に甘えが生じてしまった部分も多々
ありました。
この点においては、来年からの課題にしておくべきだと思います。
この活動に参加したこと、また東北の現状を美化することのないように、ありのままを後世に伝えてい
けたらと思います。
帰りのバスでそれぞれの感想を述べているときに、先輩方のお話を聞いて、どれだけ先輩方がこのお祭
りに熱意をかけていたか実感できました。
私はまだ一年なので、先輩方の想いを背負って、また来年、再来年と参加させて頂きたいです。
最後に、この活動を立ち上げてくださったマグダレナ・ソフィアセンターの皆様、学長、引率をしてく
ださった市川さん、土肥さん、菅原先生、その他携わってくださった方に感謝致します。
8
1年
私は今回、「うごく七夕まつり」に参加させて頂いて、お祭りを楽しんで良いのか、葛藤がありま
した。 「うごく七夕まつり」の参加希望書を出させて頂いた時は、伝統あるお祭りに魅力を感じ、
微力ながらも楽しくお祭りを盛り上げたいと考えていました。しかし、山車作りや お祭りの準備に
初めからお手伝いもせず、当日だけひょっこり来てお手伝いするのは、何だか良いとこ取りをする感
じがあり、また、3.11 を東京で体験した私には東北の方々が経験されたつらい思いを当然ながら全て
理解するには限界があり、本当に私がお手伝いして良いのか、迷いました。しかし、当日川原のみな
さんにお会いして、考えが変わりました。みなさんの笑顔、お祭りに対する熱い思い、そして 温か
い優しさを何度も何度も感じ、私自身も心から楽しんで盛り上げることが、自分自身に出来る最大の
お手伝いだと気づきました。葛藤がありながらも、地元の方々や他のボランティアの方々、聖心生、
みんなで心を一つにした 「うごく七夕まつり」を楽しんで良かったと今は思っています。
その一方で、初めて訪れた被災地を自分の目で見て、ショックを受けました。バスの中から津波で
流された大きな船を見て、怖さを感じ、初めて一本松を見て寂しさを感じました。また、資料館で見
た写真や現物は、戦争のあとを見ている感じがして、本当に現実に起きたのか、夢ではないか、とい
う思いに何度もさせられました。
2年5ヶ月が経った今、東北の事が風化されているような気がします。私は「うごく七夕まつり」
に参加させて頂いたことで、感じることがたくさんありました。「今回行ったから、終わり」ではな
く、家族や今回行けなかった友人、母校の後輩など色々な人達に今の東北の現状を知ってもらうため、
話や写真を見せて伝えていけたらと思っています。また、私自身これからも東北の方々に寄り添わせ
て頂きたいと強く思い、大学のこのようなプロジェクトを利用させて頂いて、これからも東北に足を
運びたいと考えています。
そして、このようなプロジェクトを企画して下さった 大学、マグダレナソフィアセンターの方々
に感謝しています。
大切な体験が出来たと同時に有意義な時間を過ごすことが出来ました。
3 日間どうも、ありがとうございました。
1年
今回のボランティアに参加して自分の体を通して経験しないとわからないものがあると思いまし
た。最初陸前高田に着いた際、現地の皆さんがとても元気だったので安心していました。しかし、道
を歩きながらお話をしていくうちに心の底にある本当の気持ちを聞くことができました。又、道を歩
きながら家の跡地を見たりすることでそこから様々なことを感じ取ることができました。本当に今回
のボランティアに参加して良かったです。
今回、2 日目にミュージアムに行くのが正直予定がハードできつかったので別日、特に 1 日目にし
て欲しかったです。一日目にすることで事前学習の一環にもなると思いました。そして事前学習の際、
体験したことのある先輩のお話をもっと聞いて学習して行きたかったです。
9
1年
今回初めて被災地ボランティアをしました。なぜ参加したのかというとまず私の祖父母や親戚が東
日本大震災で被災しているからです。東日本大震災が起こり初めて身近な人の安否を確認するまでの
恐怖というものを感じました。あれから3年という月日がたちだんだんニュースで報道されなくなり
ましたが、新たに見つかる問題点などもあり正直まだまだ復興への道のりは長いなと新聞やニュース
だけの情報で他人事のように判断していました。しかし大学生となり授業を受け、被災地に自分の足
で行って自分の目で見て今の現状を知りたい、そして何かお手伝いしたいと思い今回参加させて頂き
ました。陸前高田へは初めてで最初は現地の方とどのように接したらいいのかと少し緊張していまし
た。そんな私の緊張は川原祭組の方々と会い、挨拶をしたら消えてしまいました。私が思っていた以
上に笑顔が多くてとても驚いたと同時に嬉しかったです。
陸前高田の旧市街地というのは本当に何もなく、トラックやダンプカーがたくさん走っていて心が
痛みました。しかし前回参加された先輩が去年は草も生えていなかったという事を教えて下さり、山
車を引きながら少しずつ前進していっているという事も感じました。また美術館では普段見ることが
できないような展示物がたくさんあり感慨深かったです。そんな中でも特に印象に残った事は、「お
風呂のタイル」の破片で自分の家が分かる、がれきではなくて被災物と言ってほしいという事です。
ただのタイルではないという事を学び私たちは本当に何も分かっていないし上辺だけしか考えてい
ないという事に気づかされました。
夜に山車を引く時に私が心がけたことは大きな声を出して主体的に参加するという事です。もし自
分が地元の人でよそから山車を一緒に引く人が来てくれたらどうしてほしいのか?という事を考え
た時に小さい声で遠慮がちにしている姿は見たくないと思いました。正直聖心大学から 30 人という
大人数が参加させて頂いた割に声がとても小さかったように思いました。なので来年はもっと自分か
ら巻き込んで行動する位の高い気持ちを持って参加することができればよりよくなるのではないか
と思いました。また、川原祭組の方々が本当にあたたかく私たちを迎えて下さり感動したと同時に、
人と人との出会いほど素敵なものはないという事を体で実感しました。聖心祭でお会いできるのが今
からとても楽しみです。たくさんの事を学ばせて頂けた陸前高田の皆さんをはじめ、先生方、参加し
た人全てに感謝したいと思います。
1年
私が今回の「うごく七夕まつり」と初めてかかわったのは今年の 6 月、子ども支援の道すがら川原
祭組の佐々木会長にごあいさつした時だ。あの時はまさか伝統あるお祭りの山車のデザインをさせて
いただくなど考えもしなかったので、頼まれたときは、「これが聖心生が陸前高田市と築いた絆か」
と感動しました。
また、私は今年の ASEACCU の国際会議にも参加していたので、様々な先生方の講義を通して、
聖心スピリットとは、人を助けることとは、と普段深く考える機会のないスピリチュアルなことを陸
前高田市への支援を話題に突き止めていくことが出来ました。そういった事前授業で学んだ地元の
方々の郷土愛は、実際のお祭りでの真夏の夜に数時間にわたって太鼓を叩く情熱とリンクし、かけが
10
えのない体験をしたことに感謝しました。
しかし、今回の「うごく七夕まつり」での聖心生の現地の方々からの評価は高いとは言えないかも
しれません。事前授業などで知識を得ていてもやはり本番で力を出し切れていなかったかと思います。
私たち聖心生は、その学校のカラーから、お上品、おしとやか、などというラベルをつけられ、実際
とは違う場面でもその期待に応えようとする傾向があるようです。今回の地元の方々には、その部分
を金繰り捨て、川人(かわんちゅ)として声からがらにお祭りを楽しむのが求められていたのに、普
段から体にしみついている習慣か、お祭り前半はもじもじとしていたようです。一緒にお祭りに参加
していた大阪から来た共学の学生さんたちは力強く大変盛り上がっていたのでよりいっそう私たち
聖心が頼りなく見えたのかもしれません。帰りのバスの中でした反省会では、実際に地元民の人が「聖
心の子たちってどっち?ああ、あの声小さい、盛り上がってるのかよく分からない子たちね」と言っ
ていたのを聞いた人がいました。前半でエンジンがかからなかったというならばそうと言えるかと思
いますが、お祭りの本番はその日一日だけ。2 年かけてようやく組を立て直し山車をつくりあげた地
元の人々にとっては真剣みの足りない大学に見えたかと思います。
しかし、逆の声もあり、私たちの前々から支援していた山車のデザインから始まる制作は、知られ
ている人には知られていて、感謝のお声をいただきました。特に、当日限りの山車引きボランティア
の人たちが横を通ると、
「ああいう一日限りのボランティアを集める組はね、気持ちはわかるんだけ
れど、やっぱりその場限りだからね。聖心の皆には続けてもらってうれしい」と言っていました。継
続の力がこの時期になって認められたのかなと実際に面と向かって伝えられ、自信が付きました。
大いなる成功に失敗はつきものですから今回の失敗は反省し、次回をより良いものにすることに繋
げたいです。お祭りは私たちのカラーには合わないのではないか?などという疑問は生まれるかもし
れません。しかし覚えておきたいのが私たちは聖心女子大の学生は男性に劣らない秀でた部分がある
ことです。冷静な目線で絆を強めていくことが出来ます。また、私達は女子大生であっても大学生。
青春の若々しいエナジーでお祭りを盛り上げられる力は備わっています。今年の夏は前期を通して学
習した ASEACCU での講義の成果と、自分たちの実力を発揮しきれなかった悔しさがお土産になり
ました。大学生には様々なボランティア活動ができる機会がありますが、私は今回のこともあり、ボ
ランティアは継続の力と信じ、陸前高田の子ども支援と「うごく七夕まつり」にしぼっていくのかな
と感じています。
1年
二泊三日という短い日程で、更に川原祭組のみなさんと共に活動させていただけたのは二日目だけ
でしたが非常に思い出に残る楽しいお祭りでした。反省点として、昼の部のときは要領がまったく掴
めず声もあまり出せず、暑さですぐに疲れてしまったので皆さんには非常に迷惑をかけたと思います。
ただ夜になって雰囲気が祭りらしくなったこともあり、聖心の同級生や先輩だけでなく川原祭組の方、
地元の方ともお話ししたり盛り上がることができたので夜の部に関してはあまり心残りはありませ
ん。ほんとうに楽しい時間を過ごせたのですが、その後私も含めて帰りのバスの振り返りで皆が言っ
ていたように、お手伝いに来たのにこんなに楽しんでばかりでよかったのだろうかという心配がうま
れました、しかし、私たちは楽しさを共有する組員であるということを先生が仰って下さったのでそ
の不安もなくなりました。次回参加させていただける機会があるなら、昼も夜も今回以上にみんなで
11
盛り上がりたいと思いました。
また被災地を訪れたのは今回がはじめてだったのですが、テレビの向こうの出来事であるように思っ
ていた光景が目の前に広がっていたこと、まだ「瓦礫」が残っているというのを目の当たりにして、
報道は少なくなったけれども被災地の復興はまだまだであることを改めて確認しました。また、今「瓦
礫」と表現しましたが、美術館でみた津波の被害をうけた様々なものに所有者の言葉が添えてあり、
地元の方々の生活、人生が流されたのであり、瓦礫と簡単にいうことはできないと感じました。
二泊三日という短期間であり、お祭りについても初心者であったため全てを出し切れたかというとそ
うではありませんが、非常にいい時間を過ごすことができました。次に参加させていただける機会が
あれば、もっと準備をして、今回の反省をいかして参加したいと思います。三日間ありがとうござい
ました。
1年
私は今回初めて被災地に行かせていただきました。行く前はボランティアの経験が無かったため、
邪魔にならないかなと不安を感じたり、緊張していたりしていました。しかし、いざ行ってみると、
現地の方がとてもあたたかく迎えてくださり、最後には「また来てね」と言ってもらうことが出来た
ので、私自身楽しむこともできましたし、とても安心しました。
初めて被災地を訪問してみて、地震から約二年経つにも拘わらず、津波の被害を垣間見る部分がま
だ多く残っていました。例えば、建物の屋根が剥がれていたり、津波により流されてきた船が原っぱ
にあったり、クリニックがあった場所にお花が置いてあったりしました。そういう光景をメディアや
授業を通して何度も見ていたのですが、現地で見る光景は津波がどれ程の高さであり、勢いがあった
のかを想像させました。私が今立っている場所に津波が押し寄せ、沢山の方が被害にあわれたと思う
と、言葉を失ってしまいました。
お祭りに関してですが、現地の方から「この七夕まつりは、織姫と彦星が会うためにやっているの
ではなく、亡くなられた方が迷わずに帰って来られるようにするためのまつりなんだよ。」と教えて
いただきました。
それからは積極的に声をだすようにしました。そうしてお祭りに積極的に参加することで、楽しむ
こともできました。
私自身の反省は現地の方とあまり交流が出来なかったことです。何をしていいのか分からず、ただ
立っていることが多かったです。来年も「うごく七夕まつり」があるならば、積極的に話しかけ、で
きる範囲で進んでお手伝いしたいと思いました。
このボランティアに参加することができて本当に良い経験ができたと思いました。実物は写真より
も津波の高さ・勢いを想像させ、「うごく七夕まつり」に関わる方のあたたかさは、現地に行かなけ
れば分からなかったです。
12
1年
「受け継がれる伝統」
8 月 7 日に陸前高田で「うごく七夕まつり」が行われた。このイベントは東日本大震災以前か
ら行われており、伝統として受け継がれてきた。私たち聖心女子大学は震災後、その伝統的な祭
りに参加し続けてきた。そして今年は、8 月 6~8 日の間、気仙沼市のホテル観洋という、震災
で被害に合わなかった高台にあるホテルに宿泊した。昔の写真と比べてわかることは、街の建物
や家がすべて流され、何もない風景になってしまったということだ。ここに家が建っていたのか、
ここに人々が住んでいたのかと目を疑わせるほど、変わり果ててしまっていた。そんな被災者の
悲しい想いを少しでも明るくしたい、亡くなった人の想いを大切にしていきたいと実行されたの
が、今回の「うごく七夕まつり」だ。私たちには想像不可能なくらいの強い想いで作り上げられ
たのだということを、忘れてはいけないと自分の中で言い聞かせた。
8 月 6 日、まず行きのバスの中で学生全員の意気込みや思いを口にした。陸前高田を訪れるの
が初めてという人もいれば、前回も七夕まつりに参加したという人もいた。私は前月、子ども支
援活動第三期に参加し、現地を訪れるのは二度目だった。なので復興状態は知っていたが、心持
は全く違った。今回はボランティアという名の盛り上げ役であり、以前のように綿密な計画や反
省会などという堅苦しい雰囲気を作らないように意識した。一日目に皆の意気込みが聞けてよか
った。
7 日は予定通り、七夕まつりが行われた。始まる前に現地の方々が口をそろえて、「やっとこ
の日がきましたね」とおっしゃっていた。そこで、彼らは何カ月も前から準備をして、この日を
無事に迎えられること自体が喜びなのだと感じた。祭り内容は想像を遥かに超えて盛り上がった。
この様子を見にきた多くの地元の方々が嬉しそうな顔をしていて、温かい気持ちになった。被災
者全員の気持ちをこの祭りに込めたのだという、強い想いが亡くなられた方々に伝わっていれば
よいと思った。
8 日は朝からバスに乗り、感想や反省を一人ずつ述べ、振り返りを行った。ボランティアとし
て訪れているのにも拘わらず、楽しんでしまっていいのか悩んだと、多くの学生が口にした。市
川さんがおっしゃった、自分の得意なことをして、相手も自分も楽しめるのが、ボランティアな
のだという言葉を今後も大切にしていきたい。またこれからは「ボランティア」ではなく「サポ
ーター」という言葉を使っていきたいと思った。
13
2年
陸前高田 うごく七夕祭り 2013
今回初めて東北の地に足をふみいれました。東北のほうにはあまり縁がなく、東日本大震災後も関
わりのないまま過ごしていました。震災を含めたすべての情報がメディアからの断片的なものでした。
そんな私が今回参加しようと考えた理由は二つあります。一つ目は、当時一歳で記憶はありませんが
阪神淡路大震災を経験しています。その時の話を家族から聞くと全国のみなさまにお世話になったと
いうことでした。私はその恩返しを少しでもしたいとおもっているからです。二つ目は、東北のこと
を知らなさすぎるために行くことに臆病になっていた私と東北との距離を縮めたいと思い参加を決
めました。
一日目、雨のなか気仙沼につきました。はじめにホテルの方の体験談をききました。娘さんに震災
発生時から数日間会うことができず再会したときには涙がとまらなかったそうです。こんな苦しい体
験をだれかに話すことができるまでに頭の中を整理し、どれほどの勇気と時間が要したのか想像もつ
きません。大切な人を失うかもしれない災害は避けることができないのでしょうか。その後ホテル周
辺を散策しました。海の方へ行くとガレキは撤去されているが、津波の爪痕のある建物はそのままで
した。まだまだ生活が戻ってはいないことがうかがえました。いまの姿を自分の目に映しはじめた一
日目となりました。
二日目、「どっこい所」で川原祭組の山車をみて大きさに驚きました。写真では見ていましたが、
目の前にすると想像以上の大きさと高さでした。お昼のお披露目がはじまる前に海の方へむかって黙
祷しました。経験したことのない想いのつまった黙祷でした。これから山車を引かせていただくに当
たり、背筋の伸びるかんじがしました。お囃子と「よーいよい」という声ではじまり、もとは駅前の
商店街だったところを歩きました。ふと足元を見ると玄関先の址がところどころあり、津波により草
原のようになってしまったここは生活の場だったことを示していました。昼の部と夜の部の間にリア
ス・アーク美術館へいきました。展示や写真には所有者などの想いのつまったことばが添えられてい
ました。その中でも印象的だったのが、
「すべての物に人々の思い入れがあるのだから瓦礫ではなく、
被災物と呼ぶべきだ」です。ひとやものすべてが被害にあっていることに気付かされました。もうひ
とつ、
「地震発生後に町はぐちゃぐちゃになっても鳥たちは何もなかったかのように過ごしていた」。
自然の怖さに向き合えていないのは人間だけなのではないのかと思わされる写真でした。説明の中に
「2013」というワードが多々でてきました。また来年、訪れたらこの言葉も新しくなるのでしょうか。
すべてのものが少しずつ時間とともに進んでいるのだと思いました。「どっこい所」に戻ると、夜の
部の山車に様変わりしていました。昼とはちがった雰囲気になっていました。川人の魂のこもったお
囃子や声にただかっこいいとおもい、川人の「うごく七夕まつり」にかける想いの強さを実感しまし
た。山車をひいているときに同年代の女の子たちと話すことができました。お祭りのことなどを教え
てもらいました。最後に彼女たちに「また会おうね」と言ってもらえたことが嬉しくて来年も七夕に
訪れようと決意しました。
文化復興ボランティアとして「うごく七夕まつり」にいきましたが、ボランティアではなくお祭り
に参加したという感じでした。今回参加しておもったのは、私たちはこれからも陸前高田のみなさん
と関わっていくべきで、当日だけの参加ではなくもっと密接した交流が必要だと思います。そして、
普段は東京にいる私たちは見てきたことをより多くのひとに発信していくべきだと思いました。私は
今回の体験を家族や友だちに伝えずっとこころに止めておくことが今私にできることだと思ってい
ます。川人のみなさんに出会えたことに感謝し、つぎに会えることを楽しみにしています。
14
2年
陸前高田うごく七夕祭り振り返り
前回は子ども支援、今回はお祭りに参加させていただいて、違った形で支援ができてとても良い経
験になりました。前回、川原祭組会長の佐々木さんからお話を伺うことができ、その時からこのお祭
りに参加したいなと思っていたので、今回それが実現してとてもうれしく感じました。前回、陸前高
田を訪れた際はちょうど建物を解体している最中で、被災物も沢山積み重なっている状態でしたが、
半年経った今ではそれらも片づけられていて、少しずつではあるけれど復興に向かっていっているの
だなということを感じました。しかし一方で、津波でご家族などを亡くされた方も沢山いらっしゃっ
て、今もその傷が癒えていない方もいるということも忘れてはいけないなと改めて思いました。今回、
このお祭りに参加するにあたって事前に何もお手伝いができずに、当日いきなり参加という形でとて
も申し訳なく感じましたが、みなさんが私たちを温かく迎えてくださり、川原祭組の一員として接し
てくださったことをありがたく感じました。「お祭りを思う存分楽しもう」という気持ちで参加しま
したが、本当に心から楽しむことができました。私の地元では、こんなに多くの方々がひとつになっ
て作り上げているお祭りはないので、良いお祭りだなというのをとても感じました。山車を引きなが
ら周りの光景を見ていましたが、ここには家があったりお店があったりして賑わっていただろうなと
思うと、今は何もなくなってしまっていてずっと遠くまで見渡せることが衝撃的で、津波の恐ろしさ
を改めて感じました。リアス・アーク美術館にあった言葉の中で〈外面と内面は同じではない〉とい
う言葉が印象に残っています。地域の方々とお話をさせていただき、とても明るくて私自身元気をも
らいましたが、その裏には多くの葛藤や苦しみがあるということを忘れてはいけないなと思いました。
今回の反省点はあまりいろいろな方々とお話ができなかったことです。せっかくこういう機会があっ
たのに友人とばかり話してしまったことが勿体なかったなと思いました。次回はもっと自分からお話
ができればいいなと思います。今回行きたかったけれど予定が合わずに行けなかった友人もいるし、
きっとボランティアに行きたくても勇気が出ずにあきらめてしまっている人も沢山いると思うので、
この経験をしっかり伝えたいなと思います。また、聖心祭で川原祭組の方々に来ていただくので、私
たちもしていただいたように温かくお出迎えをして盛り上げたいなと思います。そしてこれからも聖
心と川原祭組のつながりを大切にしていけたらいいなと思います。また来年も再来年も絶対に参加し
ます。ありがとうございました。
2年
七夕支援
陸前高田「うごく七夕まつり」では、地元の方々と接する機会が多くあった。まつりに参加してい
らっしゃった地元の方々は、お祭りを楽しんでいらして、それぞれが心のどこかに辛く悲しい出来事
を抱えていることを微塵も感じさせない様子だった。被災地を知り、支援することを目的として、ボ
ランティアに参加した私にとって、3.11 に関する経験談を伺うチャンスであった。お話を伺うことで、
大地震と大津波による被害を受けた当事者にしかわからない気持ちや伝えたいこと、現在本当に必要
としている支援はどのようなことかを知ることができると考えていたからだ。しかし、3.11 に関して
どこまで話題に出して良いのか、自分で判断することができない上に、勝手に判断してはいけないと
感じたので、今回はお聞きするのを控えた。結果的に、リアス・アーク美術館の展示を見学したり、
15
気仙沼・陸前高田の町を歩きながら考えることで、多くを学ぶことができたので、充実した 3 日間と
なった。
今回のボランティアを終え、私の中で大きく変わった考えがある。これまでは、被災者に経験談を
聞くことが、震災の真実を知る一番の近道であり、ボランティアに参加する際も、被災者の気持ちを
少しだけ理解した上で活動できると思い込んでいた。しかし、今回の活動を通して、無理に被災者の
方々の気持ちを知ろうとしなくて良いと考え直すようになった。積極的にボランティアに参加して支
援を行い、自身の中で震災の記憶を風化させないことができれば、それで十分なのではないだろうか。
大学生の私には、経験談を聞くことよりも、自分ができる範囲で被災地の役に立つことの方が重要だ
という結論に至った。
最後に、これからも聖心女子大が、陸前高田「うごく七夕まつり」でのボランティア活動を続けて
いく際に必要だと感じたことを一つ挙げたい。それは、聖心女子大ボランティア参加組が、事前に結
束しておく必要性についてである。ボランティアに参加する前に、聖心生同士で顔合わせを行い、わ
ずかな時間でもよいので、互いにコミュニケーションをとる場を設ける必要があるのではないかと感
じた。その理由は、「うごく七夕まつり」のボランティアは、川原祭組の一員となり、団結してお祭
りを盛り上げることだが、聖心生同士がよそよそしいと結束力が弱いように感じた。そこで、前もっ
て少しでも聖心生同士で結束しておけば、掛け声が小さいなど、現地の方々が不快に感じてしまう部
分を減らすことができるだろう。
今回お世話になった川原祭組の皆様が、聖心祭に来てくださった際には、私たちが中心となって、
パフォーマンスを盛り上げるお手伝いができれば良いと考えている。継続的な支援活動を目指してい
る「うごく七夕まつり」の活動なので、少しずつ信頼関係を築いていくことがとても重要であり、最
初が肝心なので、慎重に活動することが大切だと思った。
2年
私にとっては「うごく七夕まつり」に参加することも、被災地に訪れることも、初めての経験でし
た。説明会などで聞いていましたが、予想以上に川原祭組の方々は優しく受け入れていただいて驚き
ました。市内を歩いている時にも、見に来ている地元の方に、見慣れない顔が多いわねと言われ、今
回の活動について説明をしましたが、遠くからありがとう、本当にきれいでしょ?と喜んでいる姿を
見ることができ、参加して良かったと思いました。
お昼の部は特にですが、聖心生の声がとても小さかったと思いました。また、おそらく子どもが書
いた願い事であったと思いますが、お花屋さんになりたいなどという短冊が飾ってあった一方、おか
あさんに会いたいなどと書いてあるものもあり複雑な思いになりました。
震災から 2 年以上経った今、
前向きに生きようとしている人も多くいることに気づきましたが、今でも大切な人を無くした悲しみ
は変わることはないということにも改めて気づかされました。
美術館のキーワードの 1 つに、地震から子どもたちを守るのは防波堤などのものではなく最後は教
育だ。地元を深く愛してもう一度街を興すこどもたちを育てなければならないと書いてあり、防災教
育の重要性を感じました。
私自身初等教育学を専攻しており、将来教員を志望しているので、残りの大学生活もこのような活動
に少しでも多く参加して、自分の将来に繋げていけたら良いと思いました。
16
2年
陸前高田は、昨年の「うごく七夕まつり」の時の子ども支援以来、二度目の訪問となりました。1
年経って、陸前高田の町の様子に変化があるのか気になっていましたが、1 年前とほぼ変わらず、建
物はなく、更地が広がっている状態でした。しかし、この 1 年の間に高田高校や市役所が取り壊され、
奇跡の一本松の保存作業が完了し、現在はところどころで嵩上げ工事が行われていました。一見、復
興に向かっているように思いますが、一方で震災前と全く同じ状態に戻ることが出来ない悲しさ、も
どかしさを感じ、復興の意味を考えさせられました。
また、リアス・アーク美術館の展示では、写真や被災物と一緒に添えられていた震災に関するキー
ワードの説明がとても印象的でした。その中でも特に、“顔は笑っているけど、心は泣いている”と
いうフレーズが心に引っ掛かりました。よく被災地へボランティアに行った人たちが、地元の方々の
ために活動し、勇気づけるつもりが、逆に地元の方々から沢山の勇気や元気を頂いたと言っています。
それは、地元の方々がいつまでも震災の悲しみに暮れ、その場で立ち止まったままでは、何も始まら
ないから、前向きに頑張るしかなく、そうせざるを得ないような状況にあるからなのです。私も昨年、
初めて陸前高田ボランティア支援に参加した時に同様の経験をしました。私たちに温かく接して頂い
たり、さらには、地域の伝統的なお祭りでは本来ならば地元の方しか山車を引くことが出来ないのに、
私たちを川人の一員として迎えて下さり、「うごく七夕まつり」の山車を引かせて下さったりしたこ
とに対して、感謝と共に戸惑う気持ちも少しありました。しかし、1 年後にこのフレーズに出会い、
地元の方々の複雑な想いを知り、自分の中で引っ掛かっていたことと繋がったような気がしました。
今年のうごく七夕まつりでは、昨年よりもこういった地元の方々の心境を考慮しつつ、大きな声で
掛け声を出してお祭りを盛り上げ、自分自身も思いっきりお祭りを楽しむことに専念することが出来
ました。今年は、震災後初めて全ての祭組の山車が出揃った年で、昨年震災後初めて川原祭組の山車
を出せた時のことや、それぞれの祭組が様々な想いを抱きながら今年のお祭りに向けて一生懸命準備
をしてきたことを考えると、非常に感慨深かったです。また、主会場に各祭組の山車が集結している
のを見た時に、いつも温かく迎えて下さる川人をはじめ、陸前高田の方々との関係や、このお祭りの
伝統を未来に繋ぐことが私たちの使命であると感じました。
今回の陸前高田支援では、記憶や目に見えない部分の風化について考えさせられました。街並みも
お祭りも、少しずつ震災前の日常の状態に戻りつつあり、見かけ上は復興しているように感じますが、
地元の方々が震災で負った心の傷はそう簡単に癒えることはないと思います。最近はマスコミで震災
関連について取り上げられることが少なくなり、世間一般の方たちの震災に対する意識や凄惨な記憶
が段々と薄れています。そうなることがないように、私たちが陸前高田で見たこと、聞いたこと、感
じたことを、周りの人に伝え、未来について一緒に考えることが大切であると強く感じました。
今年も貴重な経験をさせていただき、本当にありがとうございました。これからも子ども支援を含
め、
「うごく七夕まつり」に参加し、陸前高田の方々と是非交流を深めていきたいと思っております。
17
2年
東北ボランティアを受けて
(行く前)
自分は支援活動に行く前の事前研修の段階で正直行くかどうか迷っていた。
主な理由としてはある程度復興している東北に自分が行くことで何か意味があるとは思えなかった
からだ。自分たちの力でお祭りを復興しようとしているところに、自分たちのような大学生が入るこ
とによって迷惑になるのではないかと思った。
そう感じていたのは、自分が被災していないからと言うことが主な理由と考えられる。
自分がいた鳥取県は東日本大震災当時少しの揺れも感じることはなかった。
現地の情報をテレビで見ることでしかなく、どこか海外の発展途上国の映像を見ているのと同じよう
な感覚で見ている自分がいたことを思い出すことができる。
(当日)
バスの中で皆さんの震災の体験を聞き、自分は衝撃を受けた。自分以外のほとんどの人が地震を体験
していたからだ。そのときに自分は行くべきではないのかもしれないと思った。被災地に着きホテル
の方に当時の様子を見せていただき、実際の場所と比較することができ震災の悲惨さを感じた。お祭
りのときに誰もが笑顔だったことが大変印象深かった。今もなお仮設住宅などで不自由な暮らしをし
ておられる人がたくさんいるという中誰もが笑顔だったことは素晴らしいことではないかと思う。陸
前高田では玄関であったところであろう場所や家があったであろう場所にお線香が備えてあったこ
とが印象に残っている。笑顔の裏側に悲惨な思い出が隠れているのかと思うと、自分もがむしゃらに
楽しまなければならない、楽しむことこそが一番の支援活動になるのだと感じた。
(行った後)
行く前と明らかに違っていたことは行って良かったと心から思っていたことだ。
自分のように震災を肌で体験することのできなかった人こそこのように被災地に行く活動に参加す
ることで、当時どのようなことがあったのか知っておかなければならないのではないだろうか。
18
3年
「復興を考える」
2012 年6月。第1期派遣として初めて被災地の一つである陸前高田市を訪れた。当時はがれきで
ある被災物が山積みとなっており、海がとても近いように感じた。
「うごく七夕まつり」では山車を出す前に、海に向かって一礼した。あの時より海を遠く感じた。ま
た海が遠くなるのか。人間が作り出すものが自然によって壊され、また人間が作る。現在陸前高田で
は土地のかさ上げのために重機が行き交う。毎日変わっていく景色。だから僕は撮り続ける。カメラ
マンさんの言葉に彼の使命を感じた。来年は同じ旧市街地での開催は難しいと聞いた。この変わりゆ
く景色の中の川原祭組の山車。しっかり目に焼き付けよう、そう思った。
2012年6月にお手伝いさせて頂いたのは「うごく七夕まつり」のアザフ作り。当時川原の方が震
災についてお話してくださったことを一つ一つ思い出しながら山車を引かせて頂いた。一人ひとりが
思いを持って山車を引かせてもらう。地元の高校生と話した中で、いきなり東京から来て山車を引か
せてもらうことに対して正直戸惑い・申し訳なさもある、だけど川原の一員として迎えてもらった以
上精一杯盛り上げるねと私が言ったことに対して、彼女は笑顔でみなさんがサポーターとして来てく
ださっているからなんとか山車を出すことが出来ている、感謝していると言ってくれた。陸前高田市
は地元コミュニティのつながりが強いと聞いた。避難所でも違う地区の方とは暮らせないと言った方
もいたと派遣経験者から聞いた。川原祭組の方もボランティアという異質な存在を受け入れるか否か
という大きな葛藤の狭間で私たちのようなボランティア及びサポーターを受け入れてくださってい
ることを一人ひとりが強く認識せねばならないと感じた。そして地元の方の参加者に対してサポータ
ーやボランティアが中心になりつつあることに対しても山車を引かせて頂く以上我々は考えていか
ねばならない。
完成された山車は色鮮やかで旧市街地の殺風景の中に彩りを添えた。あたり一面真っ暗闇の中、夜の
ライトアップされた山車を見たとき、一人ひとり何を思ったのだろうか。
6月の派遣で出会った元消防団の方に聞いたお話の中で印象深かった言葉がある。
「生かされている人間だから出来ることがある。俺たちは生かされているんだ。必ず山車を出す。彼
らから託された使命なんだ」
震災からの復興を願っていた今までの自分。だが復興とは何か、今回2度目に陸前高田市を訪れたこ
とで新たな課題が出来た。今の段階では、震災の前の日常に戻ることが復興ではなく、このような震
災で多くの人々が亡くなることを防ぐためにどのようにしていくか。教育が大きな鍵を握っているの
ではないか。新たな課題にこれから向き合っていきたい。
19
3年
今回、陸前高田を訪れたのは 2 回目で1ヶ月振りの訪問だったため大きな変化はありませんでした
が、今回もまた違った出会いや新たに感じることが多くありました。
川原祭組の山車は予想以上に迫力があり、地域全体が1つになって盛り上がっていて驚きました。
また前回の子ども支援で飾り付けを手伝わせていただいていたので、自分の作った飾りが実際に山車
についているのを見て嬉しくなりました。七夕というと織り姫と彦星が年に 1 度再会する行事という
イメージが強いですが、この「うごく七夕まつり」には亡くなった方の魂を呼び、鎮魂する意味が込
められていること、年に 1 度みんなが高田に戻ってきて盛り上がる大切な行事であること、古くから
ある行事でこれだけはこれからもずっと守っていきたい!という思いを川原祭組の方から直接伺い、
非常に心に響きました。毎年やっているからやらなきゃという義務感もあるとは思いますが、それ以
上にやりたい!という人々の思いがあってこそ実現出来たのだと感じました。また、実際に参加して
いる高田の方だけではなく、震災で亡くなった方のため、復興のため、いろいろな思いが沢山詰まっ
ているお祭りだと思います。また、この「うごく七夕まつり」だけではないですが毎年開催できるこ
と。当たり前の不自由のない毎日が送れることが幸せなことだということを自分自身改めて実感しま
した。
リアス・アーク美術館では津波の被害の恐ろしさを目の当たりにしました。被害の様子は震災直後、
報道番組などのメディアでよく目にしていましたが、震災から 2 年と数ヶ月が経ち悲惨さを忘れかけ
ていた部分があったり、実際に訪れた場所の当時の状況を見ることによって忘れかけていた被害の大
きさを改めて感じました。また、実際の被災物の展示もあり映像だけではわからない被害の大きさや
自分が所有しているものと似ている物の無惨な姿を見て衝撃を受けました。写真と共に掲示されてい
たキーワードも心に残るものが多くあり、特に「震災は今は過去となっている。このように未来がも
っと先の未来にとっての過去になる。だから過去としての今の為に私たちは最大限の努力をしていか
なくてはならない」という言葉が印象に残っています。被災者の方は大きな傷を抱えている中、生き
て行くために立ち上がっています。震災は過去になってしまったけれど、過去があっての未来なのだ
からこの震災の事実・被害はこれからも伝え、そして私たち第三者も知るべきであると感じました。
その為には実際に被災した方の思いも考慮しつつ、私たちのような被災地を訪れた人間がこの経験で
感じたことを周りに発信していくことも復興を進めて行く上で大切なことだと思います。
以前、陸前高田市の市長さんが「私たちが今頑張って行っている復興は未来のため、子どもたちの
ために行っている」とおっしゃっていたことを今回改めて思い出しました。「うごく七夕まつり」も
陸前高田の復興の第一歩だと今回参加して感じました。今後も自分が出来ることを少しでも協力して、
一緒にすてきな未来を作って行きたいです。
今回の参加にあたり、協力してくださった大学関係者の方々、川原祭組の方々をはじめすべての方
に感謝いたします。
20
3年
「陸前高田うごく七夕祭り」に参加して
今回私は初めて被災地に行くということで、行く前は正直大分身構えてましたし、緊張もしていま
した。ボランティアなのに楽しんでいいのかな、とも思っていました。しかし実際に行ったら川原祭
組の皆さんはとても快く迎えてくださり、歓迎してくださって本当に嬉しかったことが率直な最初の
感想です。川原祭組の皆さんは、とても仲間意識が強くまるで家族のように周りと関わりあっていて
びっくりしました。また、お昼ご飯であったり、休憩する場所であったり、常に私たちを気にかけて
くださっていて本当にありがたかったです。しかし同時に、私たちはボランティア(サポーター)とし
て川原祭組として参加していた立場なので、本来は私たちが頑張っている川原祭組の皆さんにサービ
スを提供すべきではなかったのか、とも感じました。
また今回、実際に気仙沼、陸前高田という被災地を見て、言葉では言い表せないくらい様々な衝撃
がありました。震災時の水深のマークは自分の頭上を軽々と越え、家が立ち並んでいたであろう場所
は見渡す限りの草々。リアス・アーク美術館では、普段の何気ない身近なものがまるで宝物のように
言葉とともに展示されており、胸が痛くなりました。どんなに避難訓練を重ねても、立派な避難場所
を構えても、人間の力では全く敵わない自然の猛威を改めて思い知らされました。
「うごく七夕まつり」に関しては、煌びやかで、綺麗で他の組の山車にも見とれてしまいました。
川原祭組の方たちだけでなく、陸前高田の方々が震災で失ったものは計り知れないと思います。それ
でも震災の前と変わらずお祭りをして、盛り上げて以前の活気ある七夕祭りをもう一度取り戻そう、
という気持ちが強く感じられてとても感動しました。「うごく七夕まつり」に対して熱い思いをもっ
て全力で楽しむ皆さんは、誰よりも輝いていて、とても素敵でした。ただ一つ、私の中で心残りがあ
ります。今回私ははじめてだからということもありましたが、被災地を目の当たりにし、メディアの
情報で知ったりテレビで見ることとのギャップでたくさんの衝撃を受けました。純粋に、川原祭組の
方たちにも「辛くないのかな?」と思ってしまいました。彼らにはもちろん少なからず様々な体験が
あり、苦しい思い、辛い思いもたくさんあったと思います。なので、震災のことに関してどこまで触
れていいのか分からず、私自身が少し距離感を感じてしまった部分が正直あります。しかしその距離
感も埋めつつ、川原祭組の方々の歓迎に応えられるよう、是非来年も参加して「うごく七夕まつり」
を盛り上げたい、と心から思いました。このような素敵な経験ができたことにとても感謝しています。
本当に、本当にありがとうございました。
21
3年
七夕支援感想
私は昨年の「うごく七夕まつり」参加に続き、今回は 2 回目の参加であった。昨年は初めての陸前
高田訪問ということもあり、いっぱいいっぱいになってしまった部分や、初めて高田を訪れた自分が
ボランティアという身でありながら、この伝統的な地域のお祭りに参加して良いのだろうかなど、大
きな不安を抱え、模索しながらの参加であった。しかし、今年は高田訪問 4 回目、
「うごく七夕まつ
り」2 回目の参加となり、どのような心持ちで参加すべきか、このお祭りの意味は何なのかを、昨年
よりも噛みしめながら参加できたように感じる。
川原祭組の方々は、どの方も笑顔で私たちを迎え入れて下さり、「来てくれてありがとう」と感謝
の言葉まで下さった。その温かさに触れると、つい、どの方も震災の傷を抱えて生きていて、それを
表に出さないように私たちに接して下さっていることを忘れそうになってしまう。お祭りという楽し
いムードの中には、復興への希望であったり、前を向いて生きていこうとする川原の方々の思いであ
ったり、様々な思いが共存している。しかし、私たちは全く同じ思いでいることはできない。だから
こそ、その思いを少しでも感じ取ろうと、彼らが全力で次世代へ繋げようとしているこのお祭りが絶
えぬよう、お祭りに参加して盛り上げることが私たちの役目なのではないだろうか。
8 月 7 日の「うごく七夕まつり」は、織姫さまと彦星さまが出会う七夕とは意味が異なる。この 1
年間で亡くなった方々の魂が、山車の灯りを頼りに戻ってくるという、鎮魂の意味が込められた七夕
である。山車を引いている最中、1 人の川原の方がおっしゃった言葉が印象的であった。
「俺は今は東
京に住んでいるけれど、このお祭りがあるから帰ってきたんだ。この 1 年で亡くなった人たちが、今
日帰ってくる。俺たちの灯りと声を頼りに帰ってくるんだ。みんなが帰ってくるのに俺だけ帰ってこ
ないなんてありえないから、俺は絶対にこの日は帰ってくる。だからみんながちゃんとここに帰って
こられるように、迷わないように、精一杯山車を引いて、声を出して欲しい」この言葉から、川原の
方々がどれだけこのお祭りに思い入れがあるのか、私たちは何をすべきなのか、改めて実感すること
ができた。
また、今回はリアス・アーク美術館で震災の記録を見ることができた。瓦礫と一括りにしないで、
思いの詰まった物たちだから「被災物」と呼んで欲しい、非日常が日常になりつつある今、ゆっくり
と現実と向き合って乗り越えていく時間の大切さなど、被災者の視点ならではの重い言葉が多くあっ
た。その中でも、私は植物の脅威について書かれているものを見て、大変衝撃を受けた。私は初めて
被災地を訪れた際、1 輪の美しい花(恐らくコスモス)を見つけ、震災後もこうやって綺麗な花を咲
かせるなんて、なんて逞しいんだと感動したことを覚えている。しかし被災者からすると、なにもか
も飲み込まれて、復興も全然進んでいないのに成長する植物は、不気味であると感じると書かれてい
たのだ。これは明らかに被災者にしかわからない感覚であると思う。自分が第三者であることを痛感
したが、だからこそより一層もっと内面的に被災地と関わっていきたいと感じた。
22
3年
忘れられない経験
陸前高田に訪れたのは、昨年(2012 年)9 月、大学の子ども支援ボランティアに参加した時である。
初めての被災地訪問であったため、陸前高田の状況はとても強い印象を残した。何もない草原が広が
る旧市街地。そこから少し陸地に入ったところでは、被災地に残り生活を続ける人々。その一人一人
が抱える辛い経験。しかしその中でも、元気いっぱいに今を生きる子ども達。光と影を一度に目の当
たりにし、気持ちの整理がつかなかった。東京に戻ってから、再び陸前高田に行くチャンスはあった
ものの、なかなか一歩が踏み出せずにいた。しかし今回、一年たち自らも色々な経験を積む中で、よ
うやく「もう一度行きたい」と心から思えるようになった。
「うごく七夕まつり」が引き寄せてくれ
たのかもしれない。
一年ぶりに被災地に入り、最初に訪れたのは気仙沼だった。一口に被災地といっても、その状況は
大きく異なることを実感した。海のすぐそばで生活は再開され、多くの建物は整備されていた。気仙
沼では、リアス・アーク美術館も訪れた。
多くの展示や写真、そこに添えられた説明は一つ一つが強いメッセージを伝えていた。中でも忘れ
られなかったのは、
“被災地に来る人たちは「元気をもらった」と口にする。しかし、被災者は「や
らなきゃならない」から動いていくのではなく、「やらざるを得ない」のだ”という一節。前回の陸
前高田訪問の際、P@CT の方が、
「使命感とかじゃなく、目の前のことをただ必死にやっているだけ
なんです」と語っていらしたのを思い出した。必死にならざるを得ない状況が、3 年たった今でも続
いているという現実を突きつけられた。もう一つ印象的だったのは、“震災前を日常とすると、今は
非日常の毎日。しかし、その生活も長く続けば日常となっていく”という一節。生活の安定は復興の
目標でもあるが、しかしその日常は本当の意味で「元通り」ではない。被災者には元の生活をする権
利がある。
今回参加した「うごく七夕まつり」は、その“日常”の一部である。陸前高田の人々にとって、
「う
ごく七夕まつり」は地元の象徴であり、代々受け継いできた文化である。夜に輝く山車は“迎え火”
の意味が込められており、その明るさとお囃子の音を頼りに多くの魂が帰ってくると信じられている。
祭り開催には、陸前高田の人々の計り知れない想いが込められている。わたし達を受け入れてくださ
った川原祭組の人々は、その一員のことを「川人(かわんちゅ)」と呼ぶ。川人の祭りに対する姿勢
はとても熱く、そしてその繋がりは強い。津波によってもとあった町並みや家は一つも残っていない
故郷を歩く気持ちは、私たちの想像を超えるものであるはずである。しかし彼らは、一人一人が輝い
ていた。かっこよかった。信念と熱意はきっと天に届いたはずである。
地震や津波は天災であり、避けられないことである。その天災がもたらすリスクをいかに減らすか
は、わたし達の心がけ次第で大きく変わる。東日本大震災から学ぶべきことは多い。わたし達が生き
残った意味はきっとあるはずである。「うごく七夕まつり」を続けていくことは、震災を忘れないこ
とに繋がる。来年も、川人と聖心の繋がりを絶やさずに、七夕祭りの伝統を守るお手伝いをしていき
たい。
23
3年
8 月7日、
「うごく七夕まつり」を通してたくさんの方々と関わらせていただく中で、心に残
った言葉がいくつかありました。その中でも特に考えさせられた言葉があります。それは美術館
の中で出会った言葉です。すべてを書き取ることはできなかったので、私自身の言葉で要約させ
ていただくと、
「人はものを作るときに美しいフォルムであることを求める。だから作るとは、
美しさを生み出すこと。その一方で、破壊は美をなくし、醜さを生み出す。醜さは人の心を蝕む
ものである。」というものでした。今年の祭りは、震災後初めてすべての山車がそろった年だっ
たそうです。どの山車も本当にきらきらしていてきれいで、そこには伝統だったり人との出会い
だったり、嬉しいこと悲しいこと、色々なことが背景にあってこそ生まれた美しさがある、とい
うことに改めて気付かされました。また、私だけではなくうごく七夕祭りに参加させていただい
た全員が、山車や灯籠の美しさを感じたと思いますが、そんな美しい川原祭組の山車の土台も津
波によって流されたいわば“被災物”ではあるけれど、その上に伝統と新しさを交えた山車を完
成させることによって“美をなくした醜いもの”だって、こんなにも美しくなれるのです。
「醜
いものは人の心を蝕む」と美術館にはありましたが、もともと人が作ったものだからこそ、本当
に心から大切なものであるならそれは人の心を蝕むのではなく、それでもなお美しいものに生ま
れ変わらせようと人々に勇気とエネルギーを与え、人々を惹きつけるのではないでしょうか。そ
して“ボランティアである以上何かしなくては”という思いではなく、“サポーターとして心か
らお祭りを楽しもう”という思いをもって臨みましたが、川人(かわんちゅ)のみなさんには本
当に良くしていただき、私もその優しさにもっともっと応えられるよう、みなさんに喜んでいた
だけるよう、何かしたいという思いが前よりもずっと大きなものになりました。その「何か」は
きっと、継続して関わっていくことであり、体験したことや感じたことを持ち帰り、みなさんに
シェアすることなのだと思います。この山車が来年も 10 年後も 20 年後も人が集まる明かりでい
られるよう、これからも聖心と川原祭組、そして被災地との関係を築けていきたいです。
24
3年
8 月 7 日、陸前高田市で行われた「うごく七夕まつり」に参加させていただきました。マグダレナ・
ソフィアセンターで募集を見て、そのときは「うごく七夕まつり」がどういったお祭りなのかよくわ
からなかったのですが、お祭りが好きで、純粋に楽しそうだと思ったのと、震災後の東北の状況を実
際にこの目で見て知りたい、そして、少しでも復興の力添えになれればと思ってのことでした。また、
募集があったちょうどその頃、わたしは小学校 5 年生への社会科の授業という設定で、東日本大震災
についての模擬授業を行ったのですが、そのことも参加を強く後押ししました。
震災が起こってから何度も東北へ赴きたいと思ったのですが、これが同じ日本で起こっていること
だとどこかで信じられなかったことや、勇気がなかったり、ただの物見遊山になってしまうのではな
いかといった思いを抱いたまま二年が過ぎてしまいました。なので、今回は本当にいい機会を頂けた
と感謝しています。
一日目は、宿泊する気仙沼のホテルの周辺を散策したのですが、震災の惨禍を物語る爪痕があちらこ
ちらに見られ、胸が痛くなりました。また、ホテルの従業員の方から当時のお話を伺い、なんと言葉
にしたらいいのかわかりませんが、生きているってそれだけで素晴らしいことなんだと改めて感じま
した。
そして二日目。伝統的で地元のみなさんにとってとても大切なお祭りであり、震災が起こってますま
す重要な意味を持つものとなった「うごく七夕まつり」
。さまざまな思いを抱え、準備を要してきた
お祭りです。そのお祭り本番にいきなり来るわたしたちをどう思うのだろうと不安があったのですが、
川原祭組のみなさんはわたしたちをボランティアとしてではなく、川原祭組の一員として温かく迎え
てくださいました。先輩方や学長をはじめとする先生方のおかげです。このつながりは絶対に絶やし
たくないと思いました。
お祭りは本当に大盛り上がりで、最高に楽しかったのですが、その背景にあるものを忘れてはいけな
いと思います。
よく、震災のことを「忘れてはいけない」「風化しないように」と言いますが、被災地の人々にとっ
てみれば、忘れたくても忘れられないし、風化も何も、未だ復興は進んでおらず、現在進行形の出来
事です。いつどこで起こるかわからない震災に対し、当事者意識を持って向き合うこと、知ることが
大切だと思います。
とても日常とは言い難い、あたり一面の更地を練り歩く山車に切なさと同時に力強さも感じました。
震災前の日常に少しでも早く戻り、未来を守るためにはどうすれば良いのか、何が必要なのか、これ
からも考えてゆきたいと思います。
25
3年
私は「うごく七夕まつり」だけではなく、ボランティア活動に参加させて頂くのは初めてのことで
した。少しでも文化復興に役に立つことができたらいいという思いと、また参加させて頂くことによ
って、私自身なにか成長することができるのではないかという思いが私の中にありました。
映像や写真などで被災地がどのようになっているのかは知っていましたが、実際に行き自分の目で
みてみると、建物があった跡は残っているのに本当に何もない場所になってしまっていたり、残って
いる建物の姿を見ると何とも言えぬ気持ちになり、本当に津波のおそろしさを再確認することができ
ました。私の祖父の家は福島県にあり、その家も地震の影響により取り壊してしまったので、地震の
怖さは目の当たりにしていました。
リアス・アーク美術館で「東日本大震災の記録と津波の災害史」の展示をみましたが、心に残るも
のがたくさんありました。キーワードとして、被災地での様々な情報や私たちの課題などが挙げられ
ていて、震災について考えさせられました。
私たちは流されたり倒れたり落ちているものを、『ガレキ』と言っています。しかし、お風呂場の
タイル一つであっても、それはすべてを流されてしまった方々にとっては思い出であり、自分達の生
活の中にあったものだとわかる大切なものです。そのため、『ガレキ』という言葉で表現するのでは
なく、被災物という表現を自然にすることができたらいいと思いました。
川原祭組の方々は本当にパワフルで、元気で明るい人たちなのだと思いましたが、山車を引いてい
る際にボソッと「ここおれん家」と言っているのを聞きました。なんと言っていいのかわらず、話さ
れたことに触れることができなかったのが、自分にはまだまだ考えていくことがあると思い、悔しか
ったです。美術館でのキーワードにもあったように、外面だけでは内面のことはわからないので、私
たちはそのことをしっかりと踏まえて、
「被災地の方々は元気でした」という言葉で済ませるような
発言は決して、してはいけないと思いました。
お祭りに参加させて頂くにあたって、なにも知らない私が参加していて大丈夫なのだろうか、とい
う思いがありましたが、
「うごく七夕まつり」の意味を教えて頂いたり、川原祭組の方々と関わる中
で「ここは楽しくおもいっきり、お祭りに参加しなくてはいけない!」と思い、先頭の方で思いっき
り綱をひっぱることができました。休憩の時間には、お婆さんにいきなり手をひっぱられ、「どこか
らきたの?こんな遠いところまで来てくれて、本当にありがとうね。」と言っていただけて、お祭り
に参加させて頂いて本当によかったという思いと、もっとたくさんの方々と関わることをしたかった
という思いが残っています。
頭の中で考えたり思っているだけでは何も変わらず、大切なのは声に出したり行動に移すことだと
いうことを今回、再確認することができました。私は現在三年生で、残りの学生生活は悔いのないよ
う、思ったことは行動に移していけるよう過ごしていきたいと思います。また、ボランティアではな
くサポーターとして、これからも活動に参加させていただきたいと思いました。
26
3年
私は昨年の12月に子ども支援の活動で陸前高田を訪れました。その時の自分自身の訪れた第一の
目的は、現地へ行き、実際に自分の目で被災地の現状を知るということでした。震災から2年が経っ
た被災地は、復興という言葉からはほど遠い状態であり、衝撃を受けたことを今でも覚えています。
また、支援活動の中で自分は無力ではないかと感じることもありましたが、現地の人や支援団体の方
のお話を伺う中で、自分たちにしか出来ない支援があるということに気づかされ、一回きりの支援で
なく、再び何らかの形で被災地を訪れようと決めました。
そして約半年後、今回のお祭りのサポートをするという、子ども支援とは異なる形の支援活動に参
加することを決意しました。お祭りの準備の段階やお祭りの中で、現地の方々が「よく来たね」と優
しくおもてなしをして下さり、たくさんの方と触れあうことができました。山車をひく中で私たちは
最初、かけ声が小さく、
「もっと声を出す」ようにと言われました。そこで、現地の方に私たちは他
所から来たボランティアの人ではなく、お祭りのメンバーの一員としての扱いを受けており、私たち
もその思いに答えなくてはならないという使命感が芽生えてきました。つまり、お祭りをメンバーの
一員として精一杯盛り上げていくことが私たちの「支援」です。支援・ボランティアというと困って
いる、可哀想な人を助け、決して楽しいものではなく大変なことであるというイメージを持たれると
思いますが、前回の子ども支援と今回のお祭りを通して考えたことは、「支援」にはさまざまな形が
あるということです。子ども支援は、遊ぶ場所がない子どもたちに遊びのコンテンツを考え、遊ぶ場
所を提供する「支援」
。今回の「うごく七夕まつり」は、人手が足りないため山車を牽く要員として
参加すること、また、お祭りをメンバーの一員として一緒に盛り上げるという「支援」。形は異なり
ますが、どちらも「支援」活動です。お祭りの前は、お祭りを純粋に楽しんで良いのか、どのように
振る舞えば良いのかなど、さまざまなことを考えていましたが、今回の活動の場合は一緒に純粋にお
祭りを楽しむことも「支援」のひとつであるということを感じ、自分の中の視野を広げることが出来
ました。被災地支援に拘わらず、
「支援」の形はさまざまな形があり、「これが支援である。」という
定義はないと思います。自分たちにしか出来ない、自分たちらしい「支援」活動をこれからも考え、
持続的に「支援」活動に参加していきたいです。
活動の他に、震災に関するものが展示されてある美術館を訪れました。美術館というと、震災があ
った過去を振り返るものが展示されていると考えていましたが、そこは未来を考える美術館であると
いう印象を受けました。震災があった過去は変えることが出来ないが、その過去から今後、このよう
なことが起こることを想定し、どのように私たちは振るまい、行動していけば良いのかという、未来
を考える場所でありました。支援ももちろん大事ですが、このようなことが再び起こる可能性はあり
ます。その時に、この震災で学んだことを学ぶだけでなく、生かしていかなくてはなりません。2回
目の陸前高田は、さまざまなことをより深く考える機会となりました。
27
4年
「被災地の方々との話し方がわからない」、
「初めて来た自分が、お祭りを楽しんでいいものか」気
仙沼から東京へ向かうバスの中で聞いた一人ひとりの思いは様々で、しかし皆が共通して不安や疑問
と葛藤していたことに気付き、七夕祭りに初めて参加した去年の自分を思い出しました。
「被災地」
という、そこに街があったとは想像もつかないような場所で、東京からたった一日だけ参加する自分
が楽しむことは本当に抵抗があったと思います。しかしお祭りが始まり、山車を引いたり、地元の方々
とお話したりする中で、学生の表情がだんだんと柔らかくなり、笑顔になっていく姿を見て、安心し
ました。今回は自分が去年に引き続き「うごく七夕まつり」に参加できたこと以上に、30 人ちかく
の学生が陸前高田、そして七夕まつりに興味を持ち、自分も参加したいと足を運んでくれたことが嬉
しく、これからも陸前高田や川原との縁を大切にし、引き継いで欲しいと心から思いました。振り返
りの中で、
「川原祭組の皆さんが温かく迎え入れてくれたことが嬉しかった」という感想が多かった
ですが、高田の方々が毎回温かく迎え入れてくださるのは、聖心の今までの活動が一過性のボランテ
ィアとは異なる継続的なかかわりになっている証拠であると思います。しかし継続的なかかわりとい
っても、私たちへのお客様感覚はなかなか抜けることはありません。被災地に深くかかわれていない
自分に悔しくなることもありますが、地元の方以上に盛り上がり、心から祭りを楽しむことで、被災
地に足を運ぶ直接的な支援同様、間接的ではありますが被災地を想うことも、支援のひとつではない
かと思いました。
実際にテレビでのニュースや新聞、身近なところでは「人間と災害」での学生の授業態度など、日
常の様々な場面で震災の風化がうかがえます。あんな恐ろしい震災が起きたことを忘れかけているこ
とが目に見えてわかります。震災直後は合言葉のようにして唱えられていた「がんばろう日本」、日
本の中で現在どれほどの人々の心に刻まれているでしょうか。自分自身の国に対してあまりにも無関
心すぎだと落胆することもあります。人々の生活や思い出までも飲み込んだ大津波によって被害を受
けた街、そしてその地に生きる方々のことを私たちは忘れてはいけない、それは初めて被災地を訪れ
た日から変わらない気持ちです。また、昨年山車の先導をされていた方が、長距離は歩けないようで
車に乗られており、話すことばも以前より聞き取りにくくなっていました。川原祭組の中でも特に祭
りに熱い方でしたが、年月とともに身体は徐々に弱まっていると伺いました。震災から今までの年月
を改めて感じた瞬間でした。陸前高田市が東日本大震災により、
「被災」したことは紛れもない事実
であり、その事実を塗り替えることはできません。しかし、乗り越えることはできます。乗り越えよ
うと必死でもがいて、前進している方がいることが紛れもない証拠であり、その方々、そして被災地
にかかわっていきたいと思っています。この活動に関わって下さった全ての方々に心から感謝致しま
す。ありがとうございました。
28
4年
昨年の 12 月から今年の3月まで、毎月陸前高田市に足を運んでいた。陸前高田市に行くたびに、
川原祭組の会長である佐々木さんから「うごく七夕まつり」についてお話をうかがっていた。川原祭
組のみなさんが大切にしている祭りに参加できることが決まり、「うごく七夕まつり」に参加出来る
のをとても楽しみにしていた。
陸前高田市に着くと、1月に参加した獅子舞祭りで見た顔ぶれが揃っていた。獅子舞踊りで仲良く
なった子どもたちが話しかけてくれて、祭りに参加することがやっと実感できた。獅子舞踊りの時は
有志で数名が集まって参加したが、今回は大学で参加者を募集し、学生が 29 人も集まった。正直、
初めて陸前高田市に行く参加者が多く、地元の人たちが大切にしている祭りに馴染めるのか心配だっ
た。しかし、川原祭組のみなさんは暖かく受け入れてくださって、少しでもお世話になっている恩返
しができたのではないかと感じていた。
昼と夜の祭りの間にリアス・アーク美術館に伺った。気仙沼市の被害や学芸員さんが綴った、これ
から被災地はどうしたらいいのかという言葉たちが、私たちの心を震わせた。その展示の中で「非日
常から日常に戻らなければならない」という言葉が私は一番印象に残っている。私たちボランティア
が被災地に足を運ぶことは、被災者の方々にとっては非日常だ。津波の前の生活を取り戻すためには、
日常を取り戻さなければならないのだ。私たちがしていくことは、彼らと一緒に歩んでいくことだと
思っていた。しかし、このままでは、戻ることができないのではないか。
今回の祭りに聖心から 33 人もの人が来て、山車のアザフを聖心生が折る手伝いをした。アザフの
色のデザインも聖心からボランティアに行った人が考えた。それは佐々木さんからの提案だった。い
つも来てくれて感謝していると言われて、私たちも恐れ多かったが佐々木さんの提案が本当にうれし
かった。継続して交流してきた関係が、祭りに携わらせてもらえるまでに深まっていることに驚き、
光栄だった。
しかし、ずっと幼い時から川原祭組の人の気持ちになって考えてみると、自分達がずっと大切にし
てきた祭りに外部の人たちがここまで入り込んでいいのだろうかと疑問を感じた。私たちがここまで
入り込んでしまうことで、自分達の誇りであった祭りが自分達だけのものではなくなってしまったの
だ。復興するためには沢山の人たちの協力が必要であったが、地元の人たちが入りづらい雰囲気を外
部の人たちが入り込んでいることで作っているのではないだろうか。
私は本当に心から川原祭組の人たちが好きだ。好きだからこそ、これからもこの関係を続けていき
たい。しかし、私たちが入りすぎないようにしなければならないのかもしれないと新しい考えを持っ
た3日間であった。
29
4年
陸前高田うごく七夕まつり
今回参加して一番感じたことは自分が実際に行って体験することの大切さです。テレビなどの情報
では知ることのできない足から感じる地面の固さや肌で感じる空気、そして川原町の方々との会話か
ら多くの学びを得ました。
事前研修などで七夕まつりの主旨を理解して行きましたが、お祭りの前に海に向かってみんなで黙
祷した時に、ここまで津波が到達して多くの命を奪ったことを改めて認識したと同時に、今まで亡く
なった方への思いや、お祭りに参加する方々のお祭りに対する熱意を私達も感じ取って一緒に盛り上
げようと思い、力いっぱい掛け声をかけました。
川原町の方々と初めてお会いした時、
「はじめまして」という挨拶ではなく、川原町の一員として「こ
んにちは!」とお互い元気よく挨拶してすぐに一緒に参加させていただくことができ川原町の方々の
温かさに触れました。
しかしお祭りの最中の休憩で飲み物が配られたとき、私は一番疲れている舵棒をコントロールしてい
る方々やお囃子の方々に先に飲み物を配らなくては思っても「女とこどもは先に」って言ってもらっ
て申し訳ない気持ちとありがたさが入り交じりました。
そして、私たちができることは何かということを強く考えさせられました。今回川原町の方々と出会
うことができたことが私にとってのスタートラインであり、今後も関わりを持つこと、自分が得た体
験を今度は発信することが私にできることだと思います。
リアス・アークミュージアムで展示されていた写真に「地域文化」というキーワードがありました。
被災後、地域文化を守るために川原町だけでなくさまざまな地域や団体の方が懸命に努力をされてい
ます。私たちはお祭りに参加して地域文化に触れて現状を知る必要があると感じます。川原町の方々
との出逢いに感謝し、これからもうごく七夕まつりを忘れずに伝えていきたいと思います。
30
4年
今回初めて、七夕まつりに参加させて頂きました。恥ずかしい話、行くまで七夕まつりの存在を知
りませんでした。事前の研修や、以前参加したことある学生の話、そして現地で直接地元の人とお話
をすることで少しずつどういったものなのか知ることができました。現地の方にとっては、幼い頃か
ら馴染みがあるお祭りで、何らかの形でずっと携わってきた伝統的なものです。そんな大事なお祭り
に参加できたことを私は光栄に思っています。
私が当日まで疑問に思っていたのが、なぜ 8 月なのに七夕まつりと呼ばれているのかです。今回お
世話になった川原祭組の方に聞いてみました。七月七日の織姫と彦星の七夕とは関係ない行事で、一
年通して亡くなった方だけではなく、今まで亡くなった方を供養し、その方々の魂が戻って来られる
ように、山車を明るく照らし、みんなで声を出しながら台車を引くという、意味が込められているそ
うです。私たちは実際、山車を引く前に海に向かってみんなで黙とうを捧げました。これは 3 年前の
東日本大震災が起きてから行っていることだそうです。夜は点灯した山車を引いて、大きな掛け声を
かけることで、亡くなった方に「私たちはここにいるよ。ここに戻っておいで。」という目印になる
そうです。そんな深い意味があるとは知らず、私たちの声の小さかったことを後悔しています。
今回のボランティアはどれぐらい役に立てたのかわかりません。逆に迷惑をかけたかもしれません。
もっと「うごく七夕まつり」や地震について勉強し、知識をつけ、こまめにグループで反省会を行う
などたくさん改善しなければならない点はあります。短い期間、そしてほとんどの人が初めて参加す
るということもあって、
“参加”していることにだけ満足していたような気がします。川原祭組の方
にもご飯や飲み物を用意して頂くなど、至れり尽くせりで、
“ゲスト”として迎えて頂いていました。
私たちも何をどうお手伝いすればいいのかわからずおたおたし、川原祭組の方々も私たちが女子とい
うのもあってか遠慮してなかなか指示をできずにいて、お互い気を遣っていました。私からしてみれ
ば、両方の間に小さい壁があったような気がします。その壁を取っ払うには、一回だけの参加ではな
く、同じ人が継続して子ども支援や「うごく七夕まつり」に関わることで、信用・信頼をもらい、地
元の人と絆を深める必要があると思います。同じ人でなくても、過去の反省点やアドバイスを知り、
分かち合うことで、引き継いでいけると思います。今回のボランティアのことも、次の人にうまく伝
えられるように何か目に見える形で残していきたいです。
最後に、今回引率して下さった菅原先生、土肥さん、市川さん、そして川原祭組のみなさんと、部
屋を提供して下さったホテルの方々に感謝しています。そして一番感謝しているのは、今回の参加費
を援助して下さった卒業生の方々です。今回のボランティアは現地に行かないと経験することのでき
ない貴重な経験をさせて頂きました。この経験を無駄にしないように、継続していきたいと思ってい
ます。本当にありがとうございました。
31
4年
東日本大震災が起きた際、震源地の近くにいたこと、そして助かったことに感謝すると共に、そ
の後東日本はどうなっているのだろう?
大切な人を失った人たちは大丈夫なのだろうか?
私は
教員を目指しているため、子ども達はどうしているのだろう? と気にかけていたものの、時間がな
いことや、一歩踏み出す勇気がないことを理由に東日本に自分の足で向かう決意が出来ずにいた。同
じ学科で教員を目指す仲間の中には、陸前高田を何度も訪れ、学びとっている友人がおり、影響を受
けた。このような背景があり、今回の「うごく七夕まつり」に参加させていただいた。
テレビや大学の講義などでも、東日本の写真や映像を見る機会はあったが、実際に被災地に足を
踏み入れ、自分の目で見ることは初めてだった。柱は切れ、根本はぐにゃっと曲がっていた。奇跡の
一本松、町に流されてきた大きな船、窓ガラスや扉はなくなった暗い建物、自分の目で実際に見るこ
とで東日本大震災の悲惨さを実感した。また、リアス・アーク博物館では、私たちの生活に当たり前
にある物、人が亡くなる悲しさ、辛さを思い知った。特にゆりかごの中に入った砂だらけのぬいぐる
み、ぼろぼろになったランドセル、ぐにゃぐにゃになった学校の机が印象に残っている。宿の方が話
してくださったお話も印象的であった。娘の無事が確認できず、生きている意味が見いだせなかった
とき、娘が帰ってきてこんな幸せなことはないと感じたときの話を聞かせていただいて、3 月 11 日
のそれぞれの出来事、思いが今に繋がっているのだと感じた。
「うごく七夕まつり」は亡くなった方を迎える伝統的な祭りとして行われていた。小学校 5 年生
の男の子は立派な山車を見て「やっぱりかっこいいなぁ。」とつぶやいていた。この子は 5 歳から太
鼓の練習をしているようだ。子どもたちの成長やこの町の思いがたくさん詰まったお祭りだった。こ
の町で亡くなった方もたくさんいる。その地で一員として受け入れてくれる川原祭組のみなさんに本
当に感謝しながら黙とうをした。川原祭組の山車には「出逢いに感謝」と刻まれていた。最後お別れ
の際、川原祭組の方が「また来てね」と言って差し出してくださった手がとても温かかった。私はこ
のお祭りに参加して、人の温かさを感じた。何事にも積極的に取り組む姿勢、誰人とも関わっていこ
うとする姿勢が大切だと考える。私もしていただいたように、誰かに少しでも優しく温かくできる人
になりたいと思う。この出会いに感謝し、子ども支援に参加し、また陸前高田にサポーターとして必
ず行きたい。
32
「生かされている人間だから
出来ることがある。俺たちは
生かされているんだ。
必ず山車を出す。彼らから託
された使命なんだ」
学生が報告書のなかで、元消防団の方のお話として紹介した言葉
聖心女子大学
University of the Sacred Heart,Tokyo
東日本大震災復興支援推進会議
マグダレナ・ソフィアセンター