病気と薬 感染症シリーズ─ e MRSA感染症 学術指導 東邦大学医学部第三外科 教授 炭 山 嘉 伸 耐性菌との半世紀の闘い ペニシリンの発見以来半世紀、細菌感染症はほとんど征服され、もはや人類の敵ではないと 思われた時期もありました。 しかしやがて、抗菌薬に抵抗力をもつ細菌(耐性菌)が出現し、その耐性菌を克服するため に新しいタイプの抗菌薬が作られると、それにまた耐性菌が出現するという追い駆けっこの状 態が始まったのです。そして、こんなことをしていたら、ついにはどの抗菌薬も効かない病原 菌が出現してくるのではないか、という危惧が持たれるまでになってきました。 1980年代になって、とうとうその怖れが現実のものとなったのです。 MRSA(Methicillin-resistant Staphylococcus aureus)の登場です。MRSAはメチシリン耐 性黄色ブドウ球菌という意味ですが、実際はメチシリンという抗生物質だけでなく、広くペニ シリン系、セフェム系、アミノ配糖体系など多くの抗菌薬に耐性をもっている、大変治療し難 い細菌です。 この厄介な細菌の出現は、一時は医療界に大変なショックを及ぼしました。50年積み上げて きた抗菌薬治療のメリットが根底から崩れるかもしれないという瀬戸際に立たされたのです。 この十年、MRSA感染症をいかに防ぎいかに治療するかが大きな課題として取り組まれてき ました。そして幸いに、すこしずつ乗り越える道が見つかりはじめたのです。 今回は、その歴史と現状をお伝えしたいと思います。 ■突然の発熱、 下痢、 多臓器障害! 感染予防に第三世代セフェム系とアミノ配 すでに欧米では1980年代前半から、術 糖体系抗菌薬の投与を受け、手術の翌日に 後や中心静脈栄養のカテーテルを留置した は回復室から病室にもどり、順調に回復し 患者が、突然高熱をだし、どんな抗生物質 ていくものと思われました。 も効かずに悪化していき、ついには多臓器 ところが術後3日目に、Aさんは突然高熱 不全で死に至る、という、いままで経験し (38度、数日後には39度に達した)を発し、 たことのない症例が報告されはじめました。 さらに激しい下痢が始まったのです。下痢 そして日本でも1985年頃からそれが出現 は、水様便が4000pに及ぶという激しい しだしたのです。 もので、Aさんの全身状態はあっというまに 例えば── 悪化し、熱発後4日でショック状態に陥って 1987年の秋、ある病院で胃癌の全摘術 しまいました。 を受けたAさんの場合です。 3 Aさんは60歳、手術も問題はなく、術後 便から検出された病原菌は黄色ブドウ球 病気と薬 感染症シリーズ─ e MRSA感染症 菌で、ミノサイクリン以外 (表1) MRSA腸炎症例 MRSA腸炎症例 (表1) のほとんどの抗菌薬に耐性 を示す、まさしくMRSA ℃ 39 38 熱 型 で し た 。 つ ま り A さん は 37 MRSA腸炎という状 態 に なっていたのです。 臨床 経過 ICUに移されたAさんに は唯一の有効な抗菌薬と考 WBC 培養 全と事態は悪化していき、 D I C シ腎呼 ョ不吸 ッ全不 ク 全 I 人 C工 U透 析 挿人 管工 換 気 呼 吸 不 全 死 亡 I C U 抜 管 25 ×10 3/mm 3 われましたが、翌日には腎 機能の低下、ついで呼吸不 手 術 処置 えられるミノサイクリンが 投与され、必死の治療が行 下 痢 症状 15 WBC 糞便 MRSA MRSA MRSA 血液 MRSA MRSA 痰 腎透析、気管内挿管での補 MRSA カンジダ MRSA 29 1 3 5 7 9 11 13 15 17 19 21 23 25 27 29 31 2 4 6 8 10 12 9/ 10/ 11/ 助呼吸を実施せざるをえな くなります。さらに4日後には全身的に出血 原因となります。 が起こりやすくなるDIC(広汎性血管内凝固) しかし元来、MRSAもその一種である黄 も起こってきました。多臓器不全(MOF) 色ブドウ球菌というのは、強毒菌とはいっ という極めて重篤な状態です。 ても、普通に人間の鼻腔や喉などに常在し 血小板輸血や全血輸血、ステロイド投与 ているごくありふれた細菌なのです。その などで一時はもちなおすかに見えましたが、 状態では格別の毒性を発揮するわけではあ 結局、発症後36日(術後39日)でAさんは りません。これが、傷とか、体力低下で免 死亡するに至ったのです。(表1) 疫機能が下がるといったチャンスに生体に Aさんのこの不幸な事例が、典型的な MRSA感染症の姿なのです。 入り込み増殖すると、重大な事態を引き起 こすことになるのです。 最初の抗生物質であるペニシリンがこれ を制圧し、人類に大きな福音をもたらしま ■MRSAの病態 した。 しかしやがて、ペニシリンの重要な化学 この例でわかるように、MRSA感染症と 構造であるβラクタム環を破壊するペニシ いうのは、単に、菌血症や手術部位の炎症 リナーゼという酵素を持つ耐性菌が増加し、 が、抗菌薬が効きにくいために長引く、な 治療の有効性に不安がもたれる事態になり かなか治らない、といった簡単なものでは ます。これには、グラム陽性菌に強い抗菌 ないのです。 力をもち、ペニシリナーゼで無効化されな 病原菌である黄色ブドウ球菌はグラム陽 性の強毒菌に分類されます。強い毒性をも つ菌体外毒素を分泌し、トキシック ショッ クなどの危険な症状を起こします。 い第一世代セフェム薬が登場してその危機 は乗り越えられます。 その後、第一世代セフェム系よりもさら に広い抗菌スペクトルをもつ第二世代、第 また、腸管内で増殖したMRSAは、門脈 三世代のセフェム系抗菌薬が開発され、広 血流やリンパに乗って肝臓、さらには全身の く使われるようになりました。抗菌スペク 臓器組織に流れ着いて、そこでトラブルを トルが広く多くの細菌に効果がある方が、 引き起こします。bacterial translocation いろいろな感染症をよりよく抑えられるだ と呼ばれる現象で、致命的な多臓器不全の ろうと考えられたからです。 4 しかし、第二世代、第三世代セフェム薬 はグラム陰性菌に抗菌力が強く、どちらか これを防止するためには、細菌汚染防止 の厳重な病棟管理が必要になります。 といえばグラム陽性菌への抗菌力は弱いと ……新人看護婦のBさんも、赴任早々大き いう問題点がありました。1980年代に入 な経験をしました。ステーションにいくと ると、これを反映してか、感染症の起炎菌 まず「一処置一手洗い」という大きな張り として一時は制圧されたかに見えたグラム 紙に気付きました。そして婦長から「一人 陽性菌が再び復権してきたということが報 の患者さんの処置が終わったら、次に移る 告されるようになります。それに合わせて、 前に必ず手洗いをして下さい」といい渡さ MRSA感染症の報告も増えてきます。 れたのです。 これは何を意味するのでしょう? Bさんは内心「え?」と思いました。言葉 通りなら、病棟を巡回して30人の患者さん を処置したら30回手を洗わなければなりま ■MRSAとの闘いq 院内感染対策 MRSA感染はなぜ起こるのでしょう? せん。ひょっとしたら、一日数百回手洗い しなければならないことになります。「そん なのあり?……」 しかし事実これが必要だったのです。試 一番簡単に考えられることは、どこかで しに、手術手洗いなみに十分に除菌手洗い 黄色ブドウ球菌の遺伝子が突然変異し、抗 をして、寒天培地に手指を押しつけて除菌 菌薬に強い耐性を獲得し、その細菌が病院 の状態を確かめます。その上で一人の患者 内に入り込み、患者から患者へ、医療スタ さんの処置をして、また培地に手指を押し ッフから患者へ、見舞客から患者へ……な つけます。 どと伝染していく、というパタンです。い わゆる院内感染です。 事実、一例としてある病院のある病棟で のMRSA感染症の起こった様子をみると、 同じ時期に同じ病室で複数発症している、 という事例が4例あります。細菌の型もそれ ぞれ一致しているので、これは患者→患者、 あるいは患者→スタッフ→患者というよう な院内感染だろうと考えられました。 (表2 の部分) (表2)MRSA感染症発症状況 この二つの培地を培養してみると、処置 87.9 ∼ 88.2 単独発症 5名 同時期同室発症 2名(1例) 88.3 ∼ 88.8 単独発症 6名 同時期同室発症 5名(2例) 88.9 ∼ 89.2 単独発症 4名 同時期同室発症 2名(1例) 89.3 ∼ 89.8 単独発症 5名 同時期同室発症 なし 89.9 ∼ 90.2 単独発症 6名 同時期同室発症 なし 前の手指からは全く細菌は検出されません が、処置後の手指を押しつけた培地には掌 の形に沢山のコロニーが出来て、簡単な患 者さんの処置でも大量の細菌が付着するこ とが証明されます。しかも、細かく同定す ると、それらの細菌はほとんど患者さんの 着衣やシーツ、皮膚からのものだというこ とが分かります。 5 病気と薬 感染症シリーズ─ e MRSA感染症 さらに、MRSA肺炎のような咳をする患 (表3)抗菌薬と腸内細菌の変化 ─ 第三世代セフェム薬投与 ─ 者さんだと、周辺の空気中の塵からも log MRSAが検出されます。(黄色ブドウ球 11 菌は比較的乾燥に強く、塵にのって伝播 10 するのです) 9 生 菌 数 ︶ CFU/g 全好気性菌 8 腸球菌属 7 MRSA 全嫌気性菌 6 5 ︵ 4 3 B B 大腸菌 2 バクテロイデス属 ≦1 mean±SD ラット n=5 0 1 2 3 4 5 6 7 8 ( 日) 第三世代セフェム薬 投与 そのようなことで、MRSA院内感染を 防ぐためには、医師や看護婦などの手指 の厳重な消毒や、塵の飛散の防止、清掃、 (表4)抗菌薬と腸内細菌の変化 ─ メトロニダゾール ─ それにMRSA排菌患者の隔離が大切です。 log 11 10 ■MRSAとの闘いw 手厚い治療がなぜ? 生 菌 数 ︵ 院内感染防止の努力がはっきり結果と CFU/g ︶ もう一度「表2」を見て下さい。 8 6 5 4 院内感染が推定される「同時期同室」の 3 しかしおかしいですね。院内感染は無 くなったはずなのに、やはりMRSA感染 症は単独発症というかたちで起こり続け 大腸菌 腸球菌属 7 なって現れています。表の前半にあった、 発症が、後半では全くなくなりました。 全好気性菌 全嫌気性菌 9 MRSA バクテロイデス属 2 ≦1 mean±SD ラット n=5 0 1 2 3 4 5 6 7 8 ( 日) メトロニダゾール投与 ています。これはどういうことなのでしょ うか? これらの症例は大部分がセフェム系の第 ム薬を与えます。すると糞便中の細菌叢が 二世代、第三世代が使われています。この 大幅に変化します。大腸菌と嫌気性菌のバ ような比較的グラム陽性菌に弱くて広領域 クテロイデス フラジリスが大幅に減少し、 の抗菌薬を使ったことがMRSA発症と何か MRSAが急上昇したのです。また、メトロ 関係していないのでしょうか。 ニダゾールという一部の原虫類や嫌気性菌 その検討のために、一連の基礎的な実験 が行われました。 MRSAを腸管に住み着かせたラットを使 います。このラットに広領域第三世代セフェ に限定した効果をもつ薬剤を投与した場合 は、嫌気性菌のバクテロイデス類だけが急 減し、MRSAはほとんど変化しません。 (表3,4) 6 こういった多方面の検討によって、広領 域抗菌薬を使うと、場合によってはMRSA が急激に増加する場合があることが分かっ 多種類の細菌に対して抗菌力のある「広 てきました。メトロニダゾールなどのよう 領域抗菌薬」は、広い範囲の細菌を抑制出 に、有効範囲が狭くて、一種類程度の細菌 来た方が感染症をよりよく押さえ込めるだ しか減らさない場合は、MRSAはほとんど ろう、という観点から開発され使われるよ 影響を受けません。しかし、広領域で2種類 うになりました。しかし、事態は一部で逆 以上もの細菌が減少すると、MRSAがその の結果を招いたのです。広範囲の抗菌力か 間隙をぬって増加するのです。 らもこぼれでた、MRSAのような厄介な細 これは、ある意味で当然の結果といえま す。腸管という限られた空間の中で、多種 菌が増殖してしまう、ということになりま した。 多様の細菌が、一定の栄養を取り合って、 おそらく、人間と、人間がお腹にかかえ 競合共存しているのです。もし、広領域の る腸内細菌とは、数百万年の歴史の中で、 抗菌薬を投与して、その中の多数の細菌を おたがいにメリットを分け合って共存して 殺してしまったら、競争相手がいなくなっ いく「協定」を作り出していったのです。 たMRSAのような生き残りが、残りの栄養 細菌は、腸管に住まわせてもらうかわりに、 を独占して急増殖するでしょう。競争相手 宿主に危害は及ぼさない、宿主の人間も住 を殺してしまう、つまりバランスのとれて まわせて栄養を分け与えるかわりに、腸の いた腸内細菌叢を大きく攪乱するのは大変 調子を整え、外来の危険な細菌などが入り 危険なことなのです。 込むのを防いでもらう、という相互互恵の 感染経路がはっきりせず、病棟のあちこ ちで散発的に発症するMRSA感染症は、ひ ょっとすると、患者さんが本来もっていた ものなのかもしれません。一人の患者さん がもっている黄色ブドウ球菌という群の中 には、少しずつ異なったいろいろな遺伝的 性質をもったものが混じっているはずで、 その中にMRSAのようなものが潜んでいて もおかしくはありません。普通の状態だと、 お互いが競合牽制しあって、ある一つの性 質をもったものだけが大増殖することは抑 えられています。しかし、抗菌薬などで競 争相手がいなくなると、MRSAのような特 別なものが暴走するというわけです。 7 ■人間と自然環境の共存 協定です。 これを一方的に破棄すれば、もめ事が起 こるのは当然です。 病気と薬 感染症シリーズ─ e MRSA感染症 それはちょうど、今大きな (表5)MRSA感染症対策 関心を集めている環境問題と 似ています。人間vs腸内細菌 は、人間vs森林、人間vs海洋、 1)手洗いなどの厳しい感染防止手順の実行 2)抗菌薬使用への配慮 q術後感染を防ぐためには、手術対象臓器の常在細菌の1∼2種に 人間vs大気などと同じです。 限定した抗菌薬を使う。 (広領域を濫用しない) 共存し利用し合う関係です。 w大きな手術、弱っている患者、高齢者でも感染予防薬の選び方 一方的に相手を無視したり酷 は変えない(qの原則に従い、狙い狙いの抗菌薬を使う) 使したりしようとすると、必 ず手痛いしっぺ返しを食らい ます。 e術中から投与を始め、術後2−3日間投与にとどめる。 3)抗菌薬の種類 上部消化管手術 というわけで、この病院で 食道、胃、十二指腸、胆嚢………セファゾリン 1.0g×2/日 はMRSA感染症を防ぐガイド 下部消化管手術 ラインを策定しました。 (表5) 大腸、虫垂、肝、膵臓………セフォチアム 1.0g×2/日 その結果、MRSAの発症は 大幅に抑制されました。当初 5%前後に達していた発症率 穿孔性腹膜炎………フロモキセフ 0.5−1.0g×2−3/日 4 ) 3日 を 過 ぎ て 感 染 症 の 徴 候 が あ れ ば 、 一 歩 進 ん だ 感 染 治 療 の 体 制に入る。 が1%以下になったのです。 MRSAの防止には、これ一 つやれば、というような決め手はありませ 上回る「超MRSA」が出現してくるでしょう。 ん。MRSAを殺しきる強力な抗菌薬を開発 環境と共存する人間のあり方に配慮した するというのも、確かに緊急避難的な方法 多様の試みの積み重ねだけが、いい結果を としては必要かもしれません。しかしそれは もたらすものと考えられるのです。 根本的解決にはなりません。必ずその薬を (編集部) (表6)MRSA感染症発症推移 20% 術 後 感 染 発 症 率 N.S. 10% ※P<0.01 1987.9 1988.3 1988.9 1989.3 1989.9 1990.3 1990.9 1991.3 1991.9 1992.3 1992.9 1993.3 1993.9 1994.3 1994.9 1995.3 1988.2 1988.8 1989.2 1989.8 1990.2 1990.8 1991.2 1991.8 1992.2 1992.8 1993.2 1993.8 1994.2 1994.8 1995.2 1995.8 ∼ ∼ MRSA対策 ・手洗いの励行 ∼ ∼ ∼ ∼ ∼ ∼ ・MRSA患者の隔離 ・予防的投与抗菌剤の指定 ・第三世代セフェム薬の ・リカバリー室の定期的 ・周術期管理の再検討 制限 消毒 ∼ ∼ ∼ ∼ MRSA 腸炎発症率 ∼ ∼ ∼ MRSA感染発症率 ∼ 術後感染発症率 (表類のデータの出典:東邦大学医学部第三外科教室) 8
© Copyright 2024 Paperzz