第5号 2011年号 - アカシアの花が咲いている地獄坂を登りきった所に 僕

絵
長 岡 佑 吉 氏 (昭 和 42 年 卒 )
字
松 浦 久 幸 氏 (昭 和 38 年 卒 )
東京緑庭会 会誌
「クレイコートを偲ぶ」
第 5 号 (2011 年 号 )
小樽商科大学硬式庭球部創部百周年記念号
目 次
ページ
【巻 頭 言】
東京緑庭会 会長
青木 高史 (S42卒)
1
【庭球部創部百周年記念 特別寄稿】
・ 緑庭百周年終了
緑丘会 理事長
齊藤 愼二 (S40卒)
3
・ 百周年記念事業に関わって頂いた全ての人にお礼申し上げます 小樽商科大学硬式庭球部創部百周年記念事業 実行委員会 委員長
榎本 正克 (S37卒)
4
・ 小樽商大戦と “私のテニス人生”
楡庭会 会長
能勢 敏壽 (S41卒)
6
・ テニス雑感 - 百周年記念と無数のヒーロー達 -
関東楡庭会 会長
安川 淳一 (S42卒)
8
・ 小樽でのこと
小樽商科大学庭球部 元部長
相原 東孝 10
・ 小樽商科大学硬式庭球部創部百周年を祝して
『昭和59年(1984)より62年(1987)までの王座戦北海道四連覇の軌跡をたどる』
神戸大学名誉教授
小樽商科大学庭球部 元部長
石原 定和
11
・ わがテニス人生を振り返って
前田 次啓 (S31卒)
18
・ 2部での戦い
小樽商科大学庭球部 部長
鈴木 将史 22
・ 「小樽高商・商大とテニス」鈴木将史著を読んで
高橋 悦雄 (S40卒)
25
【庭球部創部百周年記念行事に参加できなかった方々からのメッセージ】
27
【追 悼】
・ 開祖 硬式庭球部 陸田さんを偲ぶ
・ 室谷先輩を偲ぶ
32
35
田中 隆二 (S39卒)
大和田 殖夫 (S32卒)
【歓迎! ゲスト寄稿者】
・ テニスとはコート整備と見つけたり
二宮 健治
山形大学文理学部法律科・山形大学庭球部 昭和39年卒
36
【連 載】
・ おすすめの名画(洋画) - ラストシーン -
The Third man
- 第三の男 -
昭和24年(1949年)(英)
La Salaire de la Peur
- 恐怖の報酬 - 昭和28年(1953年)(仏)
田中 隆二 (S39卒)
38
・ <緑丘会館だより(3)>
緑丘会 事務局長 桶谷 喜三郎 (S41卒)
40
つづく
【会員揃文】(かいいんそろいぶみ)
≪おもいで≫
・ 半世紀、テニスとつきあって
大和田 殖夫 (S32卒)
44
・ 卒業半世紀を迎えて
川口 祐二 (S36卒)
51
・ 久しぶりの小樽
須加 敏夫 (S37卒)
54
・ 緑丘の縁
東京緑庭会 顧問
齊藤 愼二 (S40卒)
56
・ 創部100周年に寄せて
東京緑庭会 会長
青木 高史 (S42卒)
57
・ 二代のマネージャーが明かす『緑庭』第3号裏話
= 前 編 =
長岡 佑吉 (S42卒)
60
= 後 編 =
桶谷 喜三郎 (S41卒)
62
= 付 録 = 部誌「緑庭」を発行しなかった
田中 隆二 (S39卒)
63
・ ふたつの母校の百周年で思い出すこと
東京緑庭会 事務局長
早川 好寛 (S44卒)
63
・ 商大庭球部の忘れ得ぬ人々 - ウォーレス・スミス先生と岡田一利さん -
江川 紘史 (S44卒)
67
・ 経済大国日本への追憶
梶原 啓光 (S44卒)
70
・ 劣等部員の今
岡村 孝 (S44卒)
73
・ テニス部の思い出(1967/4~1971/3)
蓮尾 伸一 (S46卒)
76
・ テニスとの出会い - 縁、そして今
小濱 正寿 (S46卒)
79
・ 還暦を過ぎて思うこと
濱田 光久 (S48卒)
80
・ 私のテニス人生
古川 哲朗 (S48卒)
81
・ 智明寮とテニス部
池田 喜久雄 (S51卒)
83
・ 北大とのジュニア定期戦
原田 博明 (SXX卒)
84
≪徒然なるままに≫
・ GMKからJMTへ
秋山 賢一 (S36卒)
86
・ 3.11と第二国歌 - 故郷(ふるさと)
田中 隆二 (S39卒)
87
・ 心筋梗塞と私
秋本 勉 (S43卒)
89
・ 31年振りのテニス再開
今井 章文 (S44卒)
90
・ 自作の陶製ジョッキーで
今井 央 (S45卒)
91
・ 論語に魅せられて
山﨑 眞樹 (S46卒)
93
・ ラケット - “手”から“道具”へ、そして“武器?”へ -
髙橋 正明 (S46卒)
95
・ 忘れ得ない年
山﨑 敬明 (S49卒)
99
・ テニスは足だ!
成田 芳生 (S49卒)
99
・ 2011年スタジオパラムの仕事記録
島上 絹子 (S54卒)
101
・ 2011年近況ご報告
野村 史朗 (S56卒)
103
・ 近 況
松本 衆 (S56卒)
104
・ テニスの再開に向けて・・・
中屋 章 (S56卒)
105
・ ライフワークとしてのテニス
清野 栄一 (S63卒)
106
つづく
【対関東楡庭会戦】
東京緑庭会 幹事長
【表 紙 絵】
『編集後記』
会誌編集担当
「小樽商科大学校歌」
「若人逍遥の歌」
今井 央 (S45卒)
108
長岡 佑吉 (S42卒)
109
髙橋 正明 (S46卒)
110
111
112
*****
☆ 小樽運河秋色 ☆
*****
◆「小樽商科大学創立50周年記念祭」パンフレットの表紙絵 ◆
※ 深紅色がベースになり、「記念祭」の文字等はグレーとライト・ブルーと
シルバーが交ったような色で、あでやかな中にも落ち着きのあるデザイン
になっています。左側の絵柄は手宮の「古代文字」を模したものか?
カラーでお見せできず、残念。カラー版をMailに添付してお届けできます
ので、ご希望の方はお申し出下さい。 (編集担当:髙橋)
*ホームページへの掲載なので、カラーでお届けできました。
巻
頭
言
東京緑庭会 会長
青木
高史(昭和 42 年卒)
灼熱の東京を後に 7 月 16 日に小雨そぼ降る小樽駅に降り立ちました。
外は薄暗くなっていましたが駅前のたたずまいは以前に来た時と余り変わりは
なく、観光シーズン中なのでやはり観光客の姿が沢山目に付きました。
今回は小樽商科大学硬式庭球部創部 100 周年記念行事に出席するために小樽へ
やって来ましたが、何年ぶりになるか忘れましたが、やはり学生時代に過ごした
小樽への郷愁を肌で感じた一瞬でした。
しかし、そんなノスタルジアに浸っている暇もなく、ホテルチェックイン後に
は早速連絡があり、既に到着組と北海道組の有志が集まって前夜祭をやっている
とのことで、直ちに案内させられ合流しました。店に入ると、既にほとんどの人
が出来上がっている状況で、まさに、前夜祭にふさわしい盛り上がりを見せてお
り、後から増え続ける参加者のために補助椅子を持ち込むほどの盛況振りで、あ
ちらこちら会話が弾んでいて早々に楽しい時間を頂戴した次第です。
翌日は、メインエベントとして全国 OB,OG,そして北大楡庭会の招待者を入れ
てのテニスの試合が商大コートで、祝賀会は朝里川温泉のホテルで開催が予定さ
れていました。
テニスの試合は蝦夷梅雨の雨で危ぶまれましたが、皆さんの日頃の行いの良さか、
雨も上がり実行委員と現役メンバーによるコート整備で何とか無事に開始の運
びとなりました。しかしながら、110 名近くの参加者と限られた時間と使用コー
トを考えると、この行事をものの見事に運営し無事終了させた実行委員の皆さん
のご努力にはただただ頭の下がる思いでした。
観戦して感じたことは、まずラケットがこれだけ進化したのにも拘わらずほと
んどの人が往時を思い出させるフォームやスタイルでやっている姿が微笑まし
く、また楡庭会の皆さんを交えての試合も対抗戦とはまた違って和気合い合いの
ムードが感じられたことです。
試合行事終了後の祝賀会は盛大な結婚披露宴を思い出すような雰囲気のテー
ブル配置と、また人数の多さにはただ驚かされるのみでした。
参加者は 169 名と聞いていますが、会場は熱気むんむん、真に創部 100 周年の
記念行事にふさわしい祝賀会となったことで、全国見渡しても国立大学の体育会
クラブで 100 周年を迎えるクラブはそう沢山ないと思うと尚更感動しました。
そして次回 200 周年には立ち会うことができないと思うと、この瞬間に立ち会
うことのできた自分を始め皆さんも大変幸せなことではなかったかと思います。
加えて、御来賓の方々の祝辞と貴重なお話も大変有り難く、やはり 100 年の歴
史の重みをひしひしと感じさせられ、言葉では言い表せない大変なことだと感じ
た次第です。
そしてこの思いが小樽商科大学硬式庭球部の次の 200 年に向けて前進の一歩に
1
なればと祈念するとともに、参加者全員が陰に日向に支援してゆきたい気持ちに
なったのではないかと思っています。
当東京緑庭会も引き続き現役との連携を取りながら出来る限り硬式庭球部の
発展に貢献し、支援してゆきたいと考えております。
最後になりますが、この記念行事のために骨身を惜しまず、見事に成功裏に導
いてくれた実行委員、事務局の方々には改めて感謝の意を表したいと思います。
本当に有り難うございました。
東京緑庭会 2011 年度総会
2011 年 5 月 14 日
於 「ちゃんこ 巴潟」(両国)
2
庭球部創部百周年記念 特別寄稿
<緑庭百周年終了>
緑丘会 理事長
齊藤
愼二(昭和 40 年卒)
庭球部の百年を祝う行事も夢の如くにあっという間に終わりました。
心の糸が緩みっぱなしの楽しい日々を過ごしました。
母校のテニスコートに立ち、懐かしい OB・OG の皆さんに加え北大 OB の方々
ともテニスを楽しみました。
テニスの後のホテルでの創部百周年記念祝賀会も工夫を凝らした素晴らしい会
でした。
今回の創部百周年実行委員のご努力や現役学生の支援に感謝申し上げます。
私は大学創立五十周年の年に入学しましたが、此の度創立百周年を迎えました。
今日までの五十年間を振り返ると感慨深いものがあります。
また、緑丘会も、皆さんのご支援により、百周年募金は当初目標 60 百万円をは
るかに超える 110 百万円(8 月 3 日現在)となりました。
これは皆さんの熱い燃えるような母校愛によるものと心より感謝申し上げます。
やはり、創立以来、単独でその歩みを続け、一貫して建学の精神に磨きをかけて
きた伝統は力強いものがあります。
庭球部の伝統も日々の精進の中から生まれ、日々形つくられているものと思い
ます。振り返ると厳しい時もあったことでしょう、しかし、皆さんの叡智で乗り
切り今日を迎えました。
百周年を折り返した今、母校庭球部の発展を祈ると共に、庭球部同窓の皆さん
と共にこれからもテニスを大いに楽しみ、又、懇親の輪を広げていきたいと考え
ます。
創部百周年記念祝賀会でスピーチをされる齊藤愼二氏
3
<百周年記念事業に関わって頂いた全ての人にお礼申し上げます>
小樽商科大学硬式庭球部創部百周年記念事業 実行委員会
委員長
榎本 正克(昭和 37 年卒)
それは全くの五里霧中・・・・・全てが手探り状態の中でのスタートだった。
開学百年、創部百年の年を迎えて、何か記念事業(行事)をという思いは、東京・
北海道緑庭会双方の役員いずれもが以前から抱いていた事は事実である。
2010 年 6 月 27 日、北海道緑庭会の役員・有志が札幌に集まり、実行委員会
の立ち上げと今後の運営方針を話し合った。勿論、既に東京緑庭会でも同様の話
し合いをされて居た事は仄聞して居た。
同年 7 月 16 日、東京緑庭会の田中隆二君が来樽され、東京・北海道双方の意
見交換を行った。これは、お互いの考え方の違いを知る上で有意義な会合となっ
たが、今後お互いが歩み寄らなければならない問題も浮かび上がって来た。
しかし、この機会に一人でも多くの OB・OG に集まって頂きたいという基本線
だけは確認する事が出来た。
今から 33 年前の昭和 53 年 7 月に「全国 OB 会」と称してテニス大会が開催
された。
(この件については、緑庭 49 号に掲載の 56 年卒姉崎君の寄稿文を参照
下さい。)不思議な事に、この歴史ある庭球部で当時はまだ OB 会なるものは組
織されて居らず、また、結成の動きすら無かった様に記憶して居る。
長い間学生のテニスを見て居られた斉藤進大先輩の発案で急遽実現したもので
あるが、それでも道外 20 名、道内 20 名の計 40 名の OB が緑丘コートでテニス
を楽しみ再会を喜び合った。この事からも、当時は今より道外への就職が多かっ
た事が推測される。
しかし今回は百周年記念事業という事で規模が違い、OB だけの内輪の会でな
く、来賓もお呼びしなければならない。記念品の選定、学校当局への協力要請、
雨天の場合の弁当の解約、テニス大会のスムースな運営、コートから祝賀会場へ
の移動、二次会の設定、何度も討議を重ねなければならなかった。
冒頭に書いた「手探りの状態・・・・・。」というのは 2010 年 10 月 29 日に
開催した北海道の第 2 回実行委員会議でも続いていた。
テニス大会と祝賀会の出席人数の予測である。当日の議事録を読み返してみると
「祝賀会会場は 100 人規模を想定して、朝里クラッセホテルとする。」とある。
裏を返せば、なんとしても 100 人の OB・OG に集まって頂きたいというのが委
員会の悲願といえた。その為にはいま一度正確な住所録の作成から始めなければ
ならなかった。
しかし、結果は我々の予想を遥かに上回り、当日の祝賀会出席者は 164 人。
テニス大会参加者は軟式コートを急遽用意しなければならない程の盛況となっ
た。(残念乍ら、当日の天候不良の為、使うことなく終わったが)これはひとえ
に若い(私より若干若い)実行委員の皆さんの獅子奮迅の働きの賜と思って居る。
この全国 OB・OG 会の開催が長い間途絶えていた OB・OG 間の交流再開のき
4
っかけとなり、更にしばらくテニスから遠ざかって居た OB・OG が埃にまみれ
て居たラケットを握ってみたいという意欲を刺激してくれるならば、これに勝る
喜びはありません。
更に先輩たちのテニスや部に対する想いを目のあたりにした現役部員がそこに
何かを感じて頂ければ、記念事業開催の意義は実に大きいものが有ったのではな
いかと思っています。
創部百周年記念テニス大会で開会の挨拶をされる榎本実行委員長
第一回全国 OB テニス大会
昭和 53 年(1978 年)7 月 22 日
於 緑丘コート
5
<小樽商大戦と“私のテニス人生”>
全国楡庭会会長
能勢
敏寿
本年、小樽商大庭球部が創部以来の輝かしい歴史の中で大変目出度い節目の百
周年を迎えられましたことを心からお祝い申し上げます。
私は、百周年の丁度中程の昭和 35 年春に北大に入学し、学生として「勉学ば
かりしては健康に悪そう」と思い、“勉学の余暇”に少しテニスをしよう、との
軽い気持ちから庭球部の門戸を叩き、入部した。翌日、高松修キャプテンから「能
勢、テニスはフェアープレーを目指すスポーツだぞ、それからな、樽商に絶対に
負けるなよ!」と、唯この 2 つのことだけを申し渡された。その場の私には「フ
ェアープレー云々」については漠然とではあるが分った気がした。しかし、「樽
商に絶対に負けるなよ!」の一言については、一体「樽商に勝つこと」には何か
特別の意義があるのかな、と、とんと理解できなかった。
翌日から、庭球部の日課であった円山公園へのランニング、戻ってからのコー
ト整備、引き続いて日没までのボール拾い、という殆どボールを打たない庭球部
生活の日々が続いた後、5 月末に小樽商大との対校戦の日を迎えた。私は、日頃
のボール拾いの功が認められたか、一年生部員として小樽遠征に連れて行って貰
えることになり、そこで生まれて初めて大学対校戦に接する機会を得た。試合が
始まると、両校選手間では日頃の練習時とは違った気迫と緊張感に満ちた中での
ラリーの応酬が続き、遂に最後の試合、商大 No.1 の西尾選手対我が北大の高松
選手の対戦となったのである。コート上では母校庭球部の名誉を賭けて両選手が
あらん限りの気力・体力・技量に闘志を奮い立たせて激突した。勝敗の流れは高
松選手優位で進んだが、しかし、西尾選手も決して諦めることなく、勝負に対す
る猛烈な執着心を発揮し、食い下がってきた。両選手が全力を投入し、全てを忘
れて勝負に没頭する姿を目の辺りにして、何故かは分らないが、自然と私も「小
樽商大には絶対負けない!」という気持ちになった。この日をもって、“勉学の
余暇のテニス”から生活のコアが全ては“テニス”にと、私の人生は大転換した
のである。即ち、私の“テニス人生”の始まりである。
その日以降、練習開始の前後に行っていた競馬場 1 周の辛かったランニングも、
不思議と苦にならなくなった。今思えば私の下手くそな田舎テニスが“巧く賢い
樽商テニス”に勝つためには“汗をかくこと”以外に道は無い、と悟れたからで
ある。
今思えば、50 年前の昭和 35 年 5 月 29 日、奇しくも小樽商大庭球部から私の
“テニス人生”へのスタートの切掛けを頂いたのである。このことを改めて感謝
申し上げると共に、その後 50 年間の長きに亘りお付き合い頂けたことを大変有
難く思っている。
振り返れば、50 年前の北海道の庭球界は昨近とは異なり、企業関係のクラブ
はほぼ皆無であり、また、大学関係では小樽商大と北大の両校のみが庭球部の活
動をしている状況であった。この様な状況の元で小樽商大と北大は無二のライバ
6
ルとして、また、永遠のライバルとして、互いに対校戦の勝利を目指して日々切
磋琢磨し、技量、体力、精神力の向上を競い合ってきた。この競い合いの中から
両校は多くの名選手及び指導者を輩出し、庭球界の発展に大いに貢献してきたと
ころである。
商大庭球部さんは、今年新たな出発をされますが、益々のご活躍を願うと共に、
今後も庭球界の発展に両校が相携えて寄与することを望んでおります。
創部百周年、本当にお目出度う御座いました。
創部百周年記念祝賀会でスピーチをされる全国楡庭会会長 能勢敏寿氏
**今回の庭球部創部百周年記念行事に楡庭会からは能勢会長を始めとして
西淳二氏(S40 卒)、中嶋博氏(S40 卒)、安川淳一氏(S42 卒)、長友國男氏
(S45 卒)、安達隆氏(S47 卒)、大堀隆文氏(S48 卒)、太田正人氏(S57 卒)
の 8 名をお招きました。当日のテニス大会では、ぐずついた天気にもかか
わらず、溌剌としたプレーをお見せ頂きました。しっかりした技術に基づく
テニスの継続が如何に大切なものかを現役の学生や若い OB・OG に伝える
ことができたと思います。
(編集担当)
7
<テニス雑感
- 百周年記念と無数のヒーロー達 ->
関東楡庭会会長
安川
淳一(昭和 42 年卒)
小樽商科大学の大先輩田中隆二様より、東京緑庭会会誌「たかがテニスされどテ
ニス」に寄稿せよとの葉書を戴いた。学生時代から田中様のお名前はお聞きして
おりましたが、何故か北大出身にも拘らず卒業してから今日まで変わらず温かい
目で見守って戴いており、このような理由で今回のご要請はお断り出来ないと観
念し、拙文を書かせて戴くことになった次第です。
実は昨年 11 月に早川好寛様からご連絡を戴き、田中様と 3 人で銀座の寿司屋(
本店は小樽)で懇談したいとのことであった。その時、小樽商科大学創立百周年
記念並びに硬式庭球部創部百周年記念行事のお話を伺い、テニス大会を開催し北
大 OB とエキジビションマッチ 3 試合を計画中との話であった。既に田中様は出
場選手のメモを用意されており、楡庭会としては大変名誉なお話なので、早速札
幌の能勢楡庭会会長と相談し、喜んで参加させて戴くことになりました。試合の
結果や戦いぶりは何方か詳しく記載されるものと思いますが、小生もその一員に
名を連ねさせて戴くことになり、真に光栄なことと感謝しております。
この度貴大学が百周年記念行事を開催されるに当たり、平成 14 年(2002 年)の
我が北大硬式庭球部の創部 100 周年記念の行事を改めて思い出した。全国楡庭会
を中心に様々な計画や準備そして寄付活動をし、大学当局の協力を受け、学生に
砂入り人工コート 2 面を寄贈した。実施に当たり北大庭球部 100 周年記念事業委
員長の山口敬三楡庭会会長のもと、実行委員はもとより、OB、OG や関係者の有
形無形の支援、協力無くしてはこのような大事業は成し得ないことであり、脈々
と続く組織の間断ない努力とそれを支える無数の仲間の存在に改めて心を馳せ
る次第である。
現在のように室内コートが出来、冬季でもラケットを握れるような環境とはほ
ど遠い昔に、そもそも商大生にしろ、北大生にしろ、半年はボールを打つことが
出来ない北の大地でテニスと云うスポーツを選んだ理由は何か、誰も明快な答え
など持っていないだろうし、たとえ持っていても人様の前で披露すべきことでも
ないだろうと思う。しかし先人が育んだ、百年と云う途轍もなく永い年月の、そ
の時代、その時々にテニスと云うスポーツを介して心を通じ、今も変わらず杯を
傾ける仲間、悲しくも若くして永遠に別れた仲間、学生時代にテニスをやり足ら
ず今も現役選手の仲間等々、無数の先輩、同輩、後輩すべての仲間が百年を支え
るヒーローである。これは商大も北大も全く同じであると信じている。歳月の経
過と共に、かつての No1 もボール拾いも、レギュラーもイレギュラーも皆同じ場
所に立ち、何時かは無数のヒーローの一員になるのであろう。その時まで、出来
る限り多くの仲間とネットを挟んでテニスを愉しみ、テーブルを挟んで盃を交わ
したいと願っている。
現在関東地区では、東京緑庭会と関東楡庭会の年一度の親睦テニスと懇親会が
何十年も続いており、毎年時節柄忘年会を兼ねた楽しい一日を過ごしている。
8
そして懇親会のお開きにいつも両校の仲間が肩を組み『都ぞ弥生』を声高らかに
謡うあの一時が、これからまた 100 年続くことを切望し、交流がますます深まり、
盛り上がることを信じている。
個人的には偶々であるが、東京緑庭会会長の青木高史君は同期で、1966 年の
学生選手権決勝の相手でもあり、生涯の友でもある。来年で卒業後 45 年になる
が、お互いテニススタイルはあまり変わっていないようで、7 月 17 日のエキジ
ビションマッチが楽しみである。また青木君の息子さんが北大庭球部の OB で、
これも何かの縁であろう。
今年になり、齋藤明徳(S40・北大)先輩が、静岡選手権、東京オープン選手権、
神奈川選手権の 70 歳以上シングルスで 3 連勝し、西先輩の発声で小生のホーム
コートである湘南 LTC で西、能勢、齋藤、倉知、岡、武内、安川の 7 人が集まり、
祝勝テニス会と懇親会を開いた。ちょっと老けた仲間ですがその時の写真を添付
させて戴きます。
小樽商科大学硬式庭球部関係の皆様、貴大学硬式庭球部、東京緑庭会のますま
すのご発展をお祈り致すと共に、北海道大学硬式庭球部並びに北海道大学楡庭会
を今後とも宜しくお願い申し上げます。
最後に、貴大学緑丘会理事長の齊藤愼二様には東京緑庭会会長の時から大変お
世話になっており、この紙面をお借りし、心からお礼を申し上げる次第です。
2011 年 7 月 14 日 記
齋藤明徳氏を囲んで。楡庭会の重鎮勢ぞろい。
9
<小樽でのこと>
小樽商科大学庭球部 元部長
相原
東孝
小樽商科大学創立百周年・硬式庭球部創部百周年の祝賀会が終わって、名古屋
に帰ったばかりの 7 月末か、8 月初め頃に、田中隆二君から東京緑庭会の会誌に
「何でもいいから書いてくれ」と言われ、最終期限まで何日もなかったが、簡単
に引き受けてしまった。もう期限が来ている筈だから、急いで送らねばならない。
私は、昭和 36 年 5 月の連休の頃、小樽商大に赴任した。もっと正確に言うと、
今はなくなった小樽商大短大部に赴任した。当時、短期大学部の事務長には、花
田という年配の方がいらして、小樽駅に出迎えに見えておられたように記憶して
いる。
小樽を去ったのは、それから 8 年経った昭和 44 年 3 月末で、その時の小樽駅
はまさに立錐の余地もないほど人・人・人であふれていた。物凄い人混みのため、
私らの荷物を持って列車内に運び入れてくれた事務局の人(確か庶務課の工藤氏
だったと思うが)は列車内から出るに出られず、結局長万部駅まで立ち通しでご
一緒してもらったことを今更のように想い出しています。当時、私は小樽市立緑
小学校の『建て替えのための委員長』をしていたこともあって、緑小学校の関係
の人達、小樽商大関係の各部局の人達、更には庭球部関係の大学の人や街の人
等々数えきれない人達が小樽駅に見送りに来られたこともあって、物凄い混雑ぶ
りだったことを思い出しています。そんな忙しいときに、「メダカの子」を産ん
だこともあって、後生大事に生れたばかりの「メダカの子」を入れた小さな水槽
を次男坊の英孝(当時小学校 4 年生?)がかかえて名古屋まで来たのも不思議で
あった。
次号へつづく
昭和 43 年(1968 年)12 月の相原先生ご一家
左から東孝先生、英孝さん、故澄子夫人、宜孝さん
背景は旧「智明寮」(昭和 43 年 12 月 25 日撮影)
10
<小樽商科大学硬式庭球部創部百周年を祝して
『昭和 59 年(1984)より 62 年(1987)までの
王座戦北海道四連覇の軌跡をたどる』>
神戸大学名誉教授
小樽商科大学庭球部 元部長
石原
定和
目次
序言
はしがき
Ⅰ 当時の北海道テニス界の環境変化
Ⅱ 商大庭球部奮起の時代到来
Ⅲ 女子部の一部復帰のプロセスと監督・OB との固い結びつき
Ⅳ 男子四連覇の軌跡をふり返る
‐各年毎の強さの特色を浮き彫りにする‐
Ⅴ 五連覇を逃した以後のテニス部
Ⅵ おわりに
‐今後の商大テニス部はどうあるべきか‐
序言
‐創立・創部(明治 44 年、1911 年)に当たって‐
◎小樽高商・商大創立百周年と重なり合う意義について
1)この事実は重要であり、又テニス部の栄光ある発展の基礎となった。
創学当時の初代校長渡辺龍聖の建学理念は「実学・語学及び品格」であり、
商業(学問)としては商学の将来の重要性を強調し、その方面の秀でた
人材の育成を学是としたのである。実践的には、このモットーを結合させ
た授業・実習・講義を行い、その際「学生を紳士として遇する」ことに
自らの姿勢を一貫させた。
2)品格育成のため体育教育を重視し、スキー・水泳を正規科目に入れ、また
テニスをも重要視し、その盛んならしめることに教職員も協力した。その
証拠に歴代部長には高名な教官が任命されている。
浜林正之介、椎名幾三郎、大野純一、井上紫電。テニスは本来“紳士の
スポーツ”である。欧米の有産階級の保護のもとに盛んとなり、諸君も
聞いたであろう有名な選手が輩出した。日本においても旧帝大・旧商大・
旧高等師範学校・等々の高等教育機関において盛んに奨励されたことは
周知の事実である。
3)小樽高商は、内地より遠く離れた、いわば新天地であり、アジアに雄飛
11
する夢を抱いた若者が続々と入学してきた。
内地、特に東京‐都会からやって来た若者‐インテリ集団の子息達は
中学からテニスを覚えてきたのか?ここへ来て“えぞ”の地でも自らを
紳士の卵のあかしたるべくテニスに執着したのであろう。
4)小樽高商はスキーのメッカとして有名であり、このカネのかかるスポーツ
をバックアップする学校側の後援と小樽市民の誇りとしての声援が創学依
頼脈々と息づいて来たのであろう。
5)軟庭(まずカネのかからない普及用)に始まったテニス部も、内地におく
れを取らじと硬庭に転じ、以後名選手を幾多輩出し、初代校長の精神を
実現してきた。要するに“バンカラ”と“スマート”が同居していたので
あるが、テニス部は小樽高商と不即不離の関係を保ちつつ百周年を迎える
ことになったのである。
テニス部 OB、現役諸君は栄光ある歴史の一コマを担うものとして在学中
はもとより、社会人となれば余計に社会の指導者として頑張ってくれなく
てはならない訳である。
6)小生が、直接に御薫陶を頂いた御二方のみを特筆しておきたい。御一方は
陸田清大先輩である。氏は早くから先端産業の会社を設立し、エンター
プリーニャーとして大をなされた。「仕事は人の器をつくり、趣味は人の
風格をつくる」と言うが、陸田大先輩は、当然高商時代の勝負強さを十分
発揮し、
『日本庭球協会』の理事長に就任し、長くテニス界をリードされた。
学生に対しても種々ご配慮を賜った。
もう御一方は、小池輝男大先輩である。学生が上京すると細かい所まで面
倒を見て下さり、関西在任の頃は春季合宿のお世話を頂き、地方のテニス
マンとの交流も盛んに進めて下さった。
はしがき
‐何故この論文を書かなければならないのか‐
・テニス部も特徴的な時期について記録を残しておく必要があると痛感する。
・「序言」でも述べたが、テニス部は創部以来高商から大いなる援助を受けて
きたのであるが、それではテニス部は高商・商大に対して如何なる貢献をなし
てきたのか、百年にわたる期間にテニス部が商大において果たした役割も考え
ねばならぬ。
・テニス部独自の百年史の編纂も計画中だと聞くし、既に田中隆二氏の健筆によ
り、長崎大との交流や商大の往年の名選手をピックアップしての紹介も歴史に
残る名論稿として存在する。OB 諸兄は自らの経験に基づいた歴史的事実を開
示する義務があろうし、テニス部ひいては商大に対して相当程度以上の役割を
果たしたと自負するのであれば、文章として開陳すべきであろう。
・小生は 20 年近く小樽商大硬式庭球部に部長・顧問として関わってきた以上、
12
何らかの意思の表示をすべきだと考える。その際、小生の念頭に浮かんだのは、
学生との最も濃密なかかわりを持った昭和 59 年~昭和 62 年の王座四連覇の
時期の様々な思い出であった。あいまいな記憶をもとにその軌跡をたどってみ
ようと考えた。
・北海道におけるテニスの発展は、ある意味で北大(予科・大学)と商大(高商・
大学)の活躍が大いに寄与したこと、及び北海道テニス界は官立校がお互いに
しのぎを削って競い合って来たからこそ現在があることを再認識してもらう
必要があった。
・近時、北海道テニス界の環境変化が起こっている事実を明らかにすることで、
テニスの内容、及びプレーヤーの態度の変化が起こっていることを重要視する
必要がある。
Ⅰ
当時の北海道テニス界の環境変化
・北大&商大全盛時代から私学強大化時代へ突入
・私学強大化による環境変化はつぎの如し
1) テニス界を取り巻く張りのなくなった緊張状態低下。指導校の実情‐
特に常勝北大のモラルの低下の状態。
2) 商大庭球部員の激減状態。これを横目で見る商大 OB・現役及び部長は
切歯扼腕。改めて小樽商大庭球部に課せられた使命を自覚せざるを得な
い時代の到来。
3) 自覚の時代は内からではなく、外部要因が画期となった。その契機に
なったのは、女子部の二部降格であった。
Ⅱ
商大庭球部奮起の時代到来
1) 斉藤進監督の一大決心と女子部の独立
・女子部の二部より一部復帰までの計画実行プロセス。
~ 一に朝練、二に朝練 ~
・全国王座予選二連覇へ
・学生王座全国大会出場とその後の余波
2) 商大庭球部男子部の勝利への構想
・少数選手が提案した新規格
・男子選手 4 人衆の新提案と主将の英断。
→選抜選手の特訓始まる。(前例は女子にあり)
3) 最大の特徴は冬場の体育館での特訓練習の内容。
・とくにダブルス(サーブ&ボレー)を重点に特訓し、ダブルスで
敵を圧倒する作戦(3‐0 ないし 2‐1)の意義を強調。
・先ずは基礎的技術の徹底的習得と“勝にこだわる”精神力の涵養と
ポイント毎のポイント・ゲットの戦術(攻撃方法)の反復練習
13
Ⅲ
女子部の一部復帰のプロセスと選手達と監督・OB との物心両面での
堅く深い結びつき
1) 問題点‐主力選手が 3 年生であったこと。女子テニス部希望者はもともと
少なく、対抗試合が不可能な状態が続いていた。1 年前に主力 4 選手(高
島・早川・大溝・三橋)が卒業し、学年が続かなかった。経験者は只 1 人
であった。
2) 王座予選で全敗し、札大との一・二部入れ替え戦に敗退した。
3) その翌日から斉藤進監督の奮闘が始まる。石田・小桧山・城野・今村選手
を中心に、齊藤さん得意の朝練の開始である。
・石田、今村はコート近くに住んでいたので、第一陣として早朝 6 時から
の練習開始である。
・2 人の各自 30 分~50 分のベース・ラインからのしっかりしたストロー
ク練習‐時には斉藤さん特有のドロップ・ショットが交ると、選手は前
進してこのボールを返すと、直ちにベース・ラインに戻り、斉藤さんの
深いバックのボールを懸命に返球する‐をみっちりたたきこまれる毎朝
であった。
・つぎに城野が地獄坂を昇ってくる。当時は城野が一番下手であったので、
時間的にも内容も十分鍛えられたようである。
・最後に小桧山が JR の始発で南小樽に到着。ただちにタクシーでコートに
かけつける、といった毎日であった。
4)4 選手の精進と精神力の涵養は、コートサイドで朝早くから見守る高嶋・
石原には感銘深い光景であった。斉藤さんは選手より早くコートへ来られ
るので、我々2 人がネットを張り、ほんのわずかの時間を惜しんで、斉藤
さんに打ってもらう。高嶋・石原もベース・ラインからのストロークを相
手より一本多く打ち返すことに専念した。斉藤さんの指導は簡単明瞭であ
った。
“相手より 1 本でも 2 本でも多く打ち返す。自分の方からミスをしな
い”
5)4 選手とも頑張ったが、努力と頭脳の使い方によってストロークは力強く、
精神的にもどっしりしてきたと思われるが、4 人の上達程度は斉藤さんの頭
の中にしっかり植えつけられた。
6)斉藤監督の頑張り、選手のたゆまざる精進・努力と石原・高嶋の応援振り
を見た OB(室谷・横川・西尾)は、物的援助を引き受けてくれた。監督・
教員 2、OB3 の結束力は今思い出しても胸が熱くなる。それはそれは大層
なものであった。
7)結果として次年度の二部戦ではこの 4 選手で全勝を果たし、最大の難関た
る一・二部入れ替え戦の対北星大(短大)に勝利し、一年で一部復帰を果
たした。
8)女子テニス部の懸命な努力、見事な勝利には種々の要因が存在するが、本
当に“天命”としか言いようの無い幸運が舞い込んだからでもあった。
たとえば、垣原・横川のテニス部入部に始まり、次の片山・佐藤等の入部
14
であった。彼女らが栄冠という果実を獲得した果報者であった。
(女子王座
全国大会 2 年連続出場)。
Ⅳ
男子四連覇の軌跡を振り返る
1) 女子の少数精鋭 4 人組の場が朝練であるのに対して、男子は冬期体育館で
の特訓であった。前述の如く主力となるべき最高学年でない下級生がいき
なり山本主将を取り囲んで、自分らだけで体育館でのテニス部割り当て時
間を総てくれと言うのであるから、主将は驚いた。
・熟考の末、主務と相談し同学年の猛反対を主務が自ら説得し、ようやく特
訓の許可を与えたのである。このときの主将の胸中は如何ばかりかと察す
るに余りあるが、これも時流の要請であっただろう。
・体育館においては主将の見守る中 4 人衆の特殊練習が始まった。指導する
のは高校でのテニス経験者。他の 3 人は“ド素人”であった。
基礎練習を大切にしながら、勝利の方程式としてダブルス(サーブ&ボレ
ー)を重点的に訓練する。是が非でもダブルス 3‐0 ないし少なくても
2‐1 のポイントを獲得するべく、いろいろペアーを替えては練習を積み、
それぞれの選手の得意ワザを皆で見極めることに懸命になった。
・主将は適当なアドバイスと自らボールボーイを務めてくれた。この精神が
王座戦での主将の奮闘をもたらした。貴重なポイント・ゲッターになった
のである。
2) さて王座戦であるが、他の 4 年生のレギュラーも頑張った。I 選手の我慢
は印象に残る。しかしなんと言っても、4 人衆の一人は有言実行、見事な
試合ぶりを見せ、われわれを感動させた。最後の札大戦は圧巻であった。
前へ前へと怒涛のように出てくる相手キャップテン(この試合に王座優勝
がかかっていた)に対し“神がかり的”なパッシング・ショットを連発し
た。- 小生はボロトラとコシェの試合を思い出した。
3)中野・佐藤・田中・青木を主要メンバーとする全国王座出場より何年振り
の栄冠であったか。
4)60 年の北海道連覇は如何にしてもぎとったかのか。これには次のような特
殊・幸運な要因が考えられる。
1 番目は最高学年(3 人のみの部員)の団結が強固であったこと。
2 番目は主将がオーダー編成に得意才能を発揮。また下級生を巧みに競り
合わせ“勝負強い選手”を発見、鍛錬したこと。
3 番目は外部要因として有望新人が入部したこと。
・実践的には昨年度の No.1 を常にヘッド・コーチとして練習・試合を指
導させたこと。
・王座戦ではベンチ・コーチとしてベンチの中心に据わらせ、指揮をとら
せたことも重要であった。部員全体に精神的な安心感を与えた。
5)61 年の三連勝も内的・外的に幸運な要因が存在した。この年になると、最
初から優勝が予想されるほどメンバーが充実していて、主将・主務の間の
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強固な友情と信頼関係が土台になり、主務が同学年の部員をうまく統括し
ていたのが目立った。
・外的要因としても、超有望な新人- といってもテニスはベテラン -の
入部。この選手を主将がうまく手綱をとって存分に働かせたのも大きか
った。
・しかし優勢といわれた商大勢も油断大敵で、対北大戦でダブルスを 1-2
としてしまった。
・しかし天は商大を見捨てなかった。ダブルス終了後、コートの真ん中で
全部員集合で行われたミーティングでの主将の檄でムードは一転した。
・終わってみれば 5‐4 で商大の勝利であった。それにはやはりこの年のラ
ッキーボーイの出現が大きかった。王座戦全勝の選手が現れたのである。
“試合に弱い”とみなされた最右翼の人間だった。
6)62 年の四連覇は部員一同が常勝商大を疑わなかった中で行われた。主将の
胸中は大変だったろう。
しかし冬期体育館を中心に主将は科学的練習を皆に指導していた。勝利の
ためのポイントの取り方、攻め方及び守り方を「図示」し、それを反復練
習させた。そして基礎的パターン練習とそれらのポイント・ゲットの方法
をミックスさせる。いわば“商大方式”のテニス体系を確立させようと努
力した。ただし選手各人の特徴は温存する。- 自分自身がその手本 -
・勝負強さを養成するため、学内マッチを多用化したこと、その中で精神
力が強くガッツのある選手が育ち、副将として主将の貴重な片腕となっ
ていった。他にも強いがあまり上手ではないポイント・ゲッターの出現
も見られた。
Ⅴ
五連覇を逃した以後の商大テニス部
・63 年の惜敗の原因は、今になって振り返ればどうとでも評論できるであ
ろう。
・その要因として、試合形式、環境等が大きく変化したことが挙げられる。
各大学がコートで全部員挙げて応援する中での大熱戦は見られなくなっ
た。
・それに天命を呼び込むまでにはいたらなかった。
・各選手の練習内容の変化- 皆で協力しての練習内容の検討、あるいは各
選手の基礎練習の徹底が少なくなり、我々がたまにコートに行くと我流テ
ニス(強ければよい、人に技術を分け与えない)が横行しているのではな
いか。
・ただし女子部は男子四連覇のあとを継いで、全国王座に出場した。
その勝利の最大の要因として、先輩男子の連覇の主役達がコーチを引き受
けて、厳しく鍛えたからであった。女子選手は絶対服従であった。テニス
の内容では、サーブ&ボレーの平行陣を強制した。サーブはスピン・サー
ブであった。
16
Ⅵ おわりに
・小樽商大とテニス部同時の百周年を改めて考え直す必要があるのではないか。
・今後のテニス部は「頭脳集団」あるいは「知識人材養成集団」としての道を
歩んでもらいたい。貴重かつ大量の経験豊かな OB を有している事実を注視
してほしい。各領域での話を進んで聞きにいくべきである。
・ゼミ、講義が厳しいからと練習量を減らしたりせずに、質でもって克服して
もらいたい。
・昔の高商、商大の時代のように教員・職員とコミュニケーションをとり、教
官をトリコにするような気構えで商大全体をリードしてほしい。
・テニス部の確固たる理念に基づくビジョンとリアリズムを真剣に考えなけれ
ばならない。
・テニス部が小樽商大発展のモーターになるためにはどうすればよいのか。
共生・共創を目指してくれたまえ。
・最後に思いつきだけだが、もっと昔のように対外試合(内地)を多くして、
実戦経験を積むと同時に、幅広い人脈を学生時代より作るよう努力すべきで
はないのか。
以上
「石原先生商学博士昇任祝賀会」の集合記念写真
昭和 62 年(1987 年)3 月 28 日
於 東京ヒルトン インターナショナル ホテル(新宿)
17
<わがテニス人生を振り返って>
前田
次啓(昭和 31 年卒)
わたしとテニスの始まりは、太平洋戦争が終結した昭和 20 年(1945 年) 8 月、
私が小学校 6 年生の夏のことでありました。
その当時、私は父の国鉄勤務の関係で、オホーツク海にほど近い北見市に住ん
でおりました。この地方は真冬には零下 20 度を超える日もあり、四季の移り変
わりが実に鮮やかな魅力的な土地柄であります。
敗戦の日からひと月も経たない頃、我が家(鉄道官舎)の近所でテニスコート
作りが始まりました。その場所は戦前、国鉄テニス部が使用していたコート跡で、
食糧事情の悪化する中、野菜つくりのための畑となっておりました。今では到底
信じられないことでありますが、戦時中のスポーツといえば、剣道・柔道などが
中心で、ほとんどの西洋に端を発するスポーツは「敵国性」
・
「ゼイタク」の名の
もとに禁じられていたのが実態でした。その荒れ果てたテニスコートを前にして、
昔のテニス愛好者達が集まって、軟式テニスを始めようというのです。戦時中の
抑圧感から解放され、世の中全体が自由を謳歌できる喜びに溢れている感じでし
た。たまたま我が家の物置に父の使い古しのラケットがあったことから、急にテ
ニスへの興味が湧き、そのコート作りを子供ながら手伝ったのがテニスを始める
きっかけとなりました。かつて国鉄の名選手として全道大会で活躍したというリ
ーダー格の「オジサン」は実に面倒見が良く、テニスの歴史,三角関数を使って
のコートのラインの位置決め,ラケットの握り方,さまざまな打法など懇切丁寧
に教えてくれました。
翌年の昭和 21 年(1946 年) 、旧制中学(5 年制)北見中学に入学するのですが、
終戦後教育方針が軍国主義から民主主義へと 180 度転換のかたわら、体育・文
化活動が次々と復活を始めました。野球・テニス・卓球・バスケットボール・バ
レーボールなどほとんどすべての運動部活動が白紙の状態からの賑やかな門出
でした。
私は早速テニス部に入りました。集まった部員は学年を問わず、ラケットの握り
方すら知らないのですから、新入生の分際で指導的役割に立てたのは痛快の極み
でした。
私たちが 2 年生になる年から、6・3・3 制が施行されることになり、私たち中学
生は新制高校である北見北斗高校の併設中学校の生徒として扱われることにな
りました。そして、米軍占領下にあって、少年の闘争心を煽ってはいけないとい
う理由で、当時の小中学校生の対抗試合禁止措置が取られておりました。同じテ
ニス部(併設中学の 2,3 年生と新制高校の 1,2,3 年生が部員)の中で、技が
上回っていても、対抗試合では応援に回るという悔しさを味わいました。
やがて、高校 1 年の初陣から北海道代表として第 4 回国体(開催地、東京)への
参加をはじめ、数々の試合に出場しました。
昭和 27 年(1952 年)、小樽商大に入学すると、軟式テニス部・硬式テニス部の
両方から入部の勧誘がありました。これまでラケット・ボールにも触ったことが
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なかった硬式テニスには魅力を感じながらも、しばらく逡巡の時期が続きました。
ところが、秋の北大との定期戦が小樽で開催される前日、当時のキャップテンが
緑町の私の下宿に突如現れ、「明日の対北大戦にどうしても一人足りなくなった
ので、シングルス No.5 でぜひ出てほしい」と懇請され、入部することになりま
した。翌日のシングルスはボールのコントロールままならず、惨敗であったこと
は勿論であります。それをきっかけに、私の小樽商大でのテニス人生が始まりま
した。以来、良き先輩,同輩,後輩に恵まれ、今考えてもかけがえのない青春時
代を送ることができました。
当時の齊藤コーチは市役所の仕事を早めに切り上げては、毎日のように指導を
して頂きました。お陰で、3 年の夏には北海道学生選手権大会シングルスで優勝
することができました。
在学中の商大テニス部の絶頂期は昭和 29 年(1954 年)の秋、北大中央コートで
行われた対北大定期戦でした。セピア色の昔のノートに記されていた対戦記録は
次の通りです。
昭和 29 年(1954 年)10 月 3 日(日) 於:北大中央コート
○小樽商大 5‐2 北海道大学
ダブルス
No.2
喜多・橋本 組 2‐6、4‐6
○管・庄 組
No.1 ○中村・前田 組 7‐5、4‐6、6‐4
中原・阿部 組
シングルス
No.5 ○高島(3 年)
6‐2、6‐1
高野
No.4 ○喜多(2 年)
1‐6、6‐4、8‐6
庄
No.3 ○橋本(1 年)
6‐4、3‐6、6‐2
管
No.2
中村(4 年)
3‐6、1‐6
○阿部
No.1 ○前田(3 年)
6‐4、6‐8、7‐5
中原
当日は小樽へ凱旋して、深夜まで祝杯を上げたのはいうまでもありません。
翌年の昭和 30 年(1955 年)秋、最後の対北大定期戦は花園の市営コートで行わ
れましたが、この戦いは大接戦となり、4 対 4 となったあとの雌雄を決する戦い
は、私と北大中原君とのシングルスの 1 戦に委ねられることになりました。(こ
の時はダブルス 3、シングルス 6 の 9 試合)戦いは 4‐6、10‐8 のセットオー
ルで日没サスペンデッド、翌日再開したファイナルセットは 5‐3 となったあと、
マッチポイント 3 度握るも、勝運に恵まれず、最終的には 6‐8 で敗退。2 日間
にわたる激戦も、結果 4‐5 で北大に一敗地にまみれました。学生時代最後の痛
恨事でした。
北大の中原君とはライバルとして常に接戦を演じましたが、在学中 6 回対戦し、
最初と最後の 2 戦に敗退しました。今では懐かしい思い出です。
昭和 31 年(1956 年)卒業後、第一銀行(のち第一勧業銀行)に入行、晩年、日
本発条に転じ、6 年前現役を退くまでの約半世紀間の間、東京・大阪・横浜とサ
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ラリーマン生活を送る中、業界や地域社会にあって、テニスを通じての多くの人
との交流は、今振り返っても、かけがえのない人生のよりどころとなったことに
感謝しております。
最後に、小樽商大テニス部の「伝説の人」といってもよいほどのテニスをこよ
なく愛した齊藤進監督について語りたいと思います。
11 年前、当時の東京緑庭会幹事の田中隆二君,齊藤愼二君などに世話役を務め
て頂いて、「齊藤進監督を偲ぶ会」が行われました。その時、私は東京緑庭会の
会長として、冒頭の齊藤さんを偲ぶお話しをさせて頂きました。その時の話を再
現して、改めて齊藤さんの在りし日を偲びたいと思います。
齊藤進先輩を偲んで
平成 12 年(2000 年)8 月 28 日
(於 銀座札幌ビール本社ビル)
今日の「齊藤進監督を偲ぶ会」に 50 名に及ぶ「齊藤さんとテニス」にゆかり
のある皆様に、残暑厳しい中、ご遠方からも馳せ参じて頂きました。主催者を代
表しまして厚くお礼を申しあげます。
さて、齊藤さんはさる 7 月 16 日、享年 85 歳の生涯を閉じられたのでありま
すが、齊藤さんにとってはテニスが人生そのもので、仕事あるいは家庭よりもひ
たすらテニスを選んだ齊藤さんの晩年は寂しいものであったと伺い、私としては
なにか申し訳ないような内心忸怩たるものがあります。
しかし、皆様のご協力で今日のような会合を持つことができ、今頃、齊藤さんは
どこか空の彼方から「あいつもいる、こいつもいる」と半世紀以上に及ぶテニス
人生を振り返り、微笑んでいるように思えて仕方ありません。
そこで、先ず始めに齊藤さんについて知る限りの経歴に触れさせて頂きますと、
大正 4 年(1915 年)大阪天王寺に生れ、昭和 10 年(1935 年)小樽高商に入学、テニ
スに明け暮れる 5 年間の学生生活を送り、昭和 15 年(1940 年)卒業しておられま
す。(一説にはウラオモテ 6 年説がありますが、5 年が正しいようであります)
まもなく太平洋戦争で中国へ出征し、昭和 21 年(1946 年)大阪へ復員、そのあ
と昭和 23 年(1948 年)小樽に移り、それからは小樽商大テニス部後輩との長い交
流が始まったのであります。小樽市役所では地位は選ばず、ひたすら地獄坂を上
り下りしてテニスの時間を見出しておられました。
その間北海道代表として国体出場は 20 回を超え、また日本庭球協会から功労
者表彰も受けておられます。
さて、齊藤さんを「ここまでテニスにのめり込ませたものは何であったか」、
今日の偲ぶ会のテーマとも言ってよろしいのではないかと思います。
のちほど皆さんからいろいろなお話しを伺いたいと思っております。
私自身、小樽商大在学中の 4 年間はテニス部に入ったお陰で、齊藤さんと人生
の大切なひとコマとしての交流をさせて頂き、貴重なものを得ることができたと
思っております。
テニスでは勿論思い出は多いのですが、脳裏に焼き付いているいろいろな場面で
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の齊藤さんの中で、最も強烈な印象に残っているのはこんな場面であります。
私が卒業を間近に控えた真冬のことであります。齊藤さんはその時恐らく 40 歳
を少し超えた年齢と思いますが、花園公園の坂道を当時小学生であったであろう
お嬢さんをソリに乗せて息せき切って黙々と上ってくる姿とすれ違ったときで
した。なりふり構わぬ装いで、街ゆく人の視線など眼中になく、まさに崇高な求
道者の姿でした。恐らく、そろそろ筋肉の衰えを感じ始め、来シーズンに備えて
基礎体力を養うための自分に課した訓練だったと思います。
自分の好きな道を最後まで貫き通した齊藤さんの人生は、我々凡人が日頃頭を悩
ますような、もろもろの欲望や媚や虚栄などを超越した純粋でひたむきな人生だ
ったのではないでしょうか。人それぞれに少しずつ想いは違うでしょうが、齊藤
さんの姿から学ぶものが多かったと思います。
本席は齊藤さんと大の親友である昭和 16 年(1941 年)卒の箕輪さんをはじめ昭
和 62 年(1987 年)卒の緑丘テニス部の OB に加え、顧問教授であられた相原先生,
石原先生、また北大テニス部 OB の大和さん,高松さん,倉知さんをお迎えして
おりますので、のちほど皆さんのお話しを伺いながら、齊藤さんの生前のご遺徳
を偲びたいと存じます。
最後に、この会の開催にあたり、ご尽力を頂いた幹事の田中さん,齊藤さんを
はじめ世話役の皆さんに感謝申し上げます。
それでは、皆さんと共にテニスを通じて齊藤さんにお世話になったことに感謝申
し上げ、心からのご冥福をお祈りし、献杯したいと存じます。
合掌
【前田次啓氏 旭日中綬章を受章】
同氏は小樽商大を昭和 31 年(1956 年)
卒業と同時に第一銀行(現 みずほ銀行)
に入行。
昭和 55 年(1980 年)日本発条㈱に転出、
平成 7 年(1995 年)同社社長、
平成 12 年(2000 年)同社会長と
重職を歴任されました。
平成 15 年(2003 年)秋、旭日中綬章
を叙勲。
翌年 1 月 16 日、銀座ライオンに於
いて、東京 OB 会主催の祝賀会が
開催されました。
右は祝賀会でスピーチをされる
前田氏。
(編集担当)
21
<2 部での戦い>
小樽商科大学庭球部
部長
鈴木
将史
創部百周年を迎えた本学硬式庭球部は、ご存知のとおり現在王座予選において、
男女共 2 部リーグで 2 期戦いました。男子は今季 2 部優勝、そして入れ替え戦
にも勝利し、めでたく来期より 1 部昇格となりますが、女子は昨年も今年も 2
部で 3 位となり、3 部優勝校との入れ替え戦をかろうじて免れているという状態
です。私が部長を務めて 11 年になりますが、この 2 年間、私にとって初めての
経験となった 2 部リーグの印象を述べてみたいと思います。
2 部リーグに参戦して私自身大きく変わったのは、ほぼすべての団体戦を見る
ことが可能になったということです。これはリーグ戦が 1 位校の本学で週末に行
われるためですが、男女の試合日程も異なるので、6 月から 7 月にかけて 5 週間
ほど、毎週土曜日はコートサイドに足を運ぶ状況となりました。1 部では普通、
6 月上旬の火・木・土曜日と、1 週間の間に試合が行われるため、私が観にいけ
るのは精々最終日だけだったのです。おまけに家が商大に近いので、家内もはぼ
毎回観戦しに来ます。そのため彼女も目が肥え、帰ってから「あの子のショット
はいい」とか、「あの子はああすればもっと伸びる」だとか、いっぱしの評論家
気取りにコメントするのですが、案外的を射ているので、そのまま本人にアドバ
イスしたりしています。高 3 の息子も学校のテニス部なのですが、大学ではもう
テニスをする気が余りなかったところ、今回の王座対旭川医大戦での No.1 山下
君の圧倒的なプレイにいたく感銘を受け、大学でもテニスを続ける意欲が湧いて
きている様子です。そんな訳で、2 部リーグ降格により王座が我が家により近し
い存在になったのは皮肉な結果といえそうです。
次に 2 部の実態ですが、かつての 2 部と較べ、現在はかなりレベルが上がって
います。特に女子はこの傾向が顕著で、2 部校の No.1 に限っていえば、全員が
春大ベスト 8 以上に入っており、1 部と遜色ありません。従って 1 部同様層の厚
みが 2 部でも勝利の鍵となります。そして男子 2 部を見回して驚いたのは、まわ
りが全て「医大」だったということです。つまり今年と昨年の 2 部 4 校とは、北
大医学部、札幌医大、旭川医大それに本学という構成だったのです。まるで「東
日本医科学生総合体育大会テニス部門(実在)北海道予選」に本学がゲスト参加
したような様相ではありませんか。そして試合をしてみると、どこも部員が多い。
男子だけで 3・40 人います。女子も北大医学部が 2 部でしたが、ここも部員が
10 名以上いました。
(うちの女子は現在 5 名)札大男子や北翔大女子など、1 部
校でも部員が 1 ケタという状態ですから、医大テニス部の部員の多さにはびっく
りしました。中には 40 代の現役部員もいたりして、さすがに医大です。これに
はまず、学年が 6 学年あることも大きいのでしょう。ですが、医学部の 1 学年定
員は高々100 名程度ですから、本学や北大の入部率なら 1 人か 2 人入るのがやっ
とという勘定です。ところが実際に 5・6 人入っているわけです。うちなら 25
人程入る計算です。これはどうしてなのでしょう。思うに、テニスに興味のある
医大生がテニスサークルに入らないせいではないでしょうか。本学庭球部は
22
「ザ・体育会」の呼び声も高い硬派で鳴らしたクラブで、そのためテニスをほど
ほどに楽しみたいという学生はテニスサークル「ビーパル」に流れてしまう傾向
にありますが(女子は軟庭にも流れます)、医大にそうしたサークルがある話を聞
いたことがありません。北大にはテニスサークルが複数ありますが、ここにも医
学部生は加入していないようです。やはり、価値観と学生生活サイクルが異なる
医学生は一般学生と同列に交わるのは難しく、その分庭球部がサークル的雰囲気
を兼ね備えているというのが実態ではないかと思われます。そのためでしょうか、
団体戦の応援が医大は一味違います。妙に陽気で、応援者たちが自分たちも楽し
もうという意識が見られるのです。選手も応援団を煽ったりして、商大で試合を
していながら、どちらがホームだか分らないような感じでした。商大の応援が手
抜きしていたわけではないのですが、もともと 1 コートに 2 名ほどしか応援はあ
りません。とにかく、あのノリには「文化」の違いを感じた 2 部リーグでした。
男子は医大がすべて 2 部で、女子は旭川医大がなんと 1 部に在籍しています。
つまり実力的にも医大は北海道学生庭球界で上位層を形成しているのですが、こ
れは何といっても医大が 6 年制で、学生はストレート在籍中の 6 年間は出場でき
るという特例によるものです。有力選手は 6 年間活躍できますし、始めは下手で
も 5・6 年練習すればそれなりに上達するというものです。女子は 4 人でチーム
を組みますから、この内 2 人でも有力選手が入部すれば、6 年間は安泰というわ
けで、5・6 年待てばまた有力選手も入部するでしょう。そんなわけで、4 年制
大学と医大とでは 1.5 倍のハンデがあるとも考えられるのです。そして近年は獣
医学や歯学・薬学など 6 年制学部が増える傾向にあり、このままでは、王座リー
グ戦におけるこうした不公平な事例が増大しかねない状況となっています。他地
域でも 6 年制大学の 6 年間団体戦出場可能という特例は存在するという話ですが、
そもそも東北以外の他地域で、医大が 2 部リーグ以上に在籍する例などなく、戦
力的に全く警戒されていないからでしょう。ところが北海道は違います。毎年ほ
ぼコンスタントに医大生がインカレに出場してくる地域は北海道と東北だけな
のです。軟式庭球北海道学連は、6 年制大学学生の団体戦出場規定として、「任
意の 4 年間」としています。つまり、出場できる年数は 4 年間に限られるが、3
年生から 6 年制の間でも、1 年生から 4 年制の間でも、或いは中間年を飛ばして
もいいというわけです。これでも十分医大には有利な規定ですが、北海道王座の
出場規定もそれなりの方策を取らねばならない時代に差し掛かっているのでは
ないでしょうか。
いずれにせよ、男子は来年 1 部復帰が叶いました。2 年間在籍した少々異文化
の「医学部リーグ」から脱却できることには、正直ほっとしています。残りは女
子ですが、これは下手をすると再来年あたりに部員不足から大変な状況に陥るか
もしれません(昨年、私が小学生時代から目をつけていた後志地区 No.1 の女子
【榎本さんの教え子】がめでたく商大に合格したのですが、部員の必死の勧誘も
空しくヨット部(22 人いる)マネージャーのひとりになってしまいました。今
思い返しても、残念でなりません。)この点の対策は、医大を見習う必要もあり
そうです。1 部リーグの行われる野幌総合運動公園テニスコートは、北海道学生
23
テニス界の檜舞台です。スタンドをせわしなく移動しながら、男子と女子の試合
状況を交互に観戦した時代の再来を祈念して止みません。
P.S.
先月、商大百周年記念パーティーに出席した折、北大テニス部 54 年卒
堀秀行さんに偶然お会いしました。堀さんは卒業後拓銀に入行されました
が、その後北洋銀に移り、今春より小樽支店長に就かれたという話です。
拓銀 OB の中松小樽市長の部下でもあったようで、宴会後市長と 2 次会に
行かれましたが、堀さんの支店には現在平成 22 年卒部の横山彩奈が配属さ
れています。今度 3 人で飲みにでもいきたいですねと久闊を叙しました。
創部百周年記念祝賀会でスピーチをされる鈴木庭球部部長
**7 月 17 日は前日からの雨が残り、コートは水浸しでした。現役部員の
皆さんがコートの水をかき出してくれたおかげで、テニス大会を決行する
ことができ、OB・OG が楽しませてもらったと言えるのではないでしょう
か。主将の中尾康宏君はじめ部員の皆さん全員に感謝します。
個人的には、B・C ブロックの受付を手伝ってくれた庶務の藤田香奈美君、
大変お世話になりました、ドタバタしていてお礼を言いそびれました。
「ありがとう。」
(編集担当 髙橋正明)
24
<「小樽高商・商大とテニス」鈴木将史著
を読んで>
関西 OB 会 会長
高橋
悦雄(昭和 40 年卒)
百周年記念事業参加の皆さん、心配された悪天候にもかかわらず、無事成功裏
に終わり本当に良かったと思うと同時に、幹事の皆様には大変お疲れ様でしたと
御礼申し上げます。
コート及び祝賀会では随分たくさんのなつかしい人にお会い出来ました。
プレーでも知っている人は昔のフォームを残しており、その当時を想い起こした
り、楽しい 1 日でした。
帰途、読んだ標題著書につき感じたことを記します。
1:我々は、自分の在籍した 4 年間のことしか基本的には知らず、他は、先輩、
後輩から切れ切れに聞く程度ですが、この本で、体系だったテニス部の百年
の歴史が概ね分かり、大変面白かった。昔、小池先輩(S11 年卒)や、
齋藤監督(S15 年卒)から「北大戦で他のクラブは負けてもテニスだけは
勝った。」と何回も聞かされていましたが、7 連勝のことだったのか、なる
ほどなあと思いました。
2:テニスは今でこそ誰でもするが、
「初期のころは大手商社員か大手銀行員の社
交スポーツだった。商大がテニス部を開校と同時に創設した由縁だ」とは今
になって始めて知って、なるほどなあと思うわけだが、そういえば、学生の
とき、東銀の「社宅?」にコートがありよくそこで練習させていただいたも
のだった。
考えてみると、我々子供の頃、例えば小学校の頃、運動といえば相撲とか、
野球とか、水泳程度のもので、テニスなどは存在すら知らなかった。(だい
たいスポーツなどという言葉もあまり使った覚えがない。)ただ、長橋中学
校へ行って初めて軟式テニスなるものを見るわけだが、プールのすぐ傍にコ
ートがあったので今も印象に残っているのだが、裸で泳ぐ(当時は六尺褌を
して)水泳と比べてテニスは上品な(白いシャツに、白いトレパンで)運動
だなあと思ったことがある。
3:
「緑庭」は我々が 2 年生の時、創刊されたことになるが、今にして思えば、意
義あることだったのだなあと思います。それ以前は存在せず、以後はずっと
継続しているわけだから。
4:夕張遠征 標題著書の昭和 40 年頃の年間スケジュ-ル一覧に夕張遠征が記
されてなかったが、当時の出来立ての「緑庭」の記載漏れか?それとも一回
きりだったのか?自分も一回しか覚えていないが、初めて行ったあの炭鉱の
町がなんとも懐かしい。
5:私は、関西で、故小池先輩(S11 年卒)の小樽商大とテニスを何よりも愛
するロマンティシズムに引っ張られ、関西 OB 会の立ち上げとその後の活動、
学生との対応に関わってきました。以来 30 年以上も毎年、学生の春合宿時の
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懇親会に初回から現在までほぼ欠かさず出席し、又、年によっては学生との
懇親試合にも出たり、学生が来阪した折には皆で集まって一席設けたりとし
てきましたので、その意味では、標題著書に登場する名選手にもかなり会っ
ている人がおり実感を持って読めました。又、今回コートで、祝賀会場で、
懐かしい人にもたくさん会いました。
標題著書はそれら学生諸君が織り成すテニス部の歴史のドラマですが、名
前の登場する有名選手だった主峰と共に、幾多の名前の登場しなかった OB
も現在もテニスをこのように続けているのはすばらしいことだと、今、百周
年記念事業を振り返りながら、思います。
6:自分は今迄テニスを継続する中で、故小池先輩と小樽商大庭球部の存在が心
の中で大きなウエイトを占めてきました。その庭球部への認識が在学の 4 年
間をベースにしたものから 100 年の歴史に基づいた充実したものになったこ
とは意義あったことと思っています。
創部百周年記念祝賀会でスピーチをされる高橋悦雄氏
**創部百周年記念行事への C ブロック(愛知・岐阜・富山県以西在住の OB・
OG)からの参加者は、粕谷宏男氏(S36)・高橋悦雄氏(S40)・森吉哲也氏
(S41)・岡田一利氏(S44)・上田文彦氏(S58)・猪口純路/美奈子ご夫妻
(H11/H10)の 7 名でした。
(編集担当)
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庭球部創部百周年行事に参加できなかった方々からのメッセージ
【B ブロック】(敬称略)
<前田 次啓(S31)>(2011.05.02)
硬式庭球部創部 100 周年を心からお祝いします。幹事の皆様の尽力により盛大
な行事が予定されている様子。残念乍ら、所要と重なり出席できませんが、素
晴らしい会合となりますよう、半世紀以上も昔の緑丘のテニスコートに想いを
寄せて、ご盛会を心よりお祈り申し上げます。
<坂上 安雄(S31)>(2011.05.23)
無念。病を得て療養中です。皆さんの御健勝を祈る。
<大和田 殖夫(S32)>(2011.05.08)
小樽は行きたくてむずむずしていますが、体力を考えて欠席することにしまし
た。皆さんによろしく。特に室谷さんに会いたかったのですが・・・。
<和島 松男(S34)>(2011.05.08)
2005 年に肺がんで右肺下葉を切除、以後スポーツは控えております。今回の
記念行事についても、残念ながら不参加とさせてください。悪しからず。緑庭
OB 会の一層のご発展を祈念します。
<川倉 輝治(S34)>(2011.05.21)
ご案内いただきました庭球部創部百周年記念行事の件、予定して居りました旅
行と日程が重なり、残念ながら欠席いたします。榎本委員長に宜しくお伝えく
ださい。
私のテニスは未消化のまま“卒業”してしまいましたが、今も山歩きとゴルフ
で毎日元気に過ごしております。S34 卒の私が緑庭で顔を合わせたのは S31 年
卒の前田次啓さんから 37 年卒の榎本君までの年代ですが、参加予定 B 表では
36 年卒・川口君の名前がありました。ほかに参加される方がおられましたら
宜しくお伝え下さい。
緑庭の想い出話をひとつ・・・・
入学早々に花園公園コートで行われた春の対北大定期戦で、NO,1 同士のシン
グルスを残してタイとなり、変則打球の北大の NO1に対し、本格派の我がキ
ャプテン前田次啓さん(第一銀行を経てのちにニッパツ社長)は押し気味に試
合を進め乍ら粘られて当日は日没のためサスペンデッド、翌日の再試合はよも
やの敗戦となりました。
公園内の茶店で行われたその日の残念会は、前田さんはじめ先輩諸兄も涙ナミ
ダで言葉もなく、ショッパイ酒を飲んだ記憶が今も鮮明に残っています。それ
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まで、北大定期戦では、ヨット部と並んで数少ない優勢に立っていた硬式庭球
部でしたが、この春を境に卒業まで北大戦で勝利の美酒を味わう機会はありま
せんでした。
ご参加の皆様のますますのご健勝と、百周年記念の盛会をお祈り申し上げます。
<西尾 捷三(S36)>(2011.05.31)
いろいろ検討しましたが、予定の変更が難しいため今回のイベントには残念で
すが不参加とさせて頂きます。セレモニーが晴天に恵まれ盛大に行われること
をお祈り致します。ご参加の皆様に宜しくお伝え下さい。
<秋山 賢一(S37)>(2011.01.21)
ご連絡有難うございます。榎本さんからも直接電話いただきましたが、生憎旅
行の計画があり、欠席いたします。ご盛会をいのります。
<髙木 良浩(S40)>(2011.05.25)
いつも何時も連絡有難う。なかなか参加出来ず申し訳ありません。連絡、楽し
く懐かしく読ませてもらっています。今回も欠席です。宜しく!
<宮本 守彦(S46)>(2011.05.09)
3 月末で単身赴任を終え、松本に戻りました。これからは、月に 2・3 回のペ
ースで会社に出かけようかと思っています。お誘いの件ですが、諸般の事情で
参加できません。参加した皆さんで、大いに盛り上がってください。
<佐藤 孝(S46)>(2011.05.09)
今回は出席しかねます。残念ながら。というのは、昨年の七月からシルバーで
行っていた仕事が、いいのかどうなのか正式?採用になり、二人で一日おきに
していた仕事を一人でやることになり、比較的自由に休みが取れた以前と違う
為です。残念!
<石井 周司(S46)>(2011.05.29)
腰痛のため、ここ 3 年間はテニスができませんでしたが、今年 5 月末に退職し、
時間もあるので、40 年前を思いだしながら無理せず地元の仲間とテニスを再
開しようと考えています
<中山 正光(S47)>(2011.05.15)
智明寮の集いも同時期にあり、彼らからも盛んに誘われていますが今回の北海
道行きはしないことに致しました。済みません。家内と息子夫婦と昨年秋、小
樽札幌に行きまして満喫して来ましたので今回は止めた次第です。代わりに同
時期に生まれて初めて智明寮の友人と「四国⇒岐阜など」へ「1週間旅行」を
企画しています。
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榎本さん、佐藤則之さんなど、皆様に宜しく御伝え下さい。
<松田 善昭(S51)>(2011.05.29)
申し訳ありません。残念ながら参加できません。皆様によろしくお伝え下さい。
<柄沢 日出夫(S52)>(2011.05.01)
6 月 18 日小樽にて親戚の法事があり、出席の予定です。行事への参加は欠席
とさせて頂きます。
なお、札幌では庭球部同窓も呼んでファミリーコンサートを開催します。
諸先輩の皆様に宜しくお伝え下さい。
<島上 絹子(S54)>(2011.07.05)
実は、北海道の姉崎さんや堀内さん、越前さんから、100 周年のお誘いのお手
紙をいただきました。とても、心が動いたのですが、どうしても行くことがで
きません。というのも、同じ時、北海道に行っております。生まれ故郷に、母
と 50 年ぶりに帰る予定になっています。スケジュールがどうにかならないも
のかと思いましたが、北海道はあまりに広く、私の生まれた、枝幸町はあまり
に遠く、今になって予定を変更することは難しいことがわかりました。
そんな予定もあり、休まなければいけないことも、今の私の首をしめています。
<清水 通子(S55)>(2011.05.29)
申し訳ありません。義兄の 7 回忌法要と重なり出席できません。残念ですが・・・
皆様によろしくお伝えください。
<藤 まなみ(S60)>(2011.05.07)
折角の機会ですが、息子(高三)高校野球夏の大会日程と重なる為、欠席させて
頂きます。
<白井 千春(H03)>(2011.06.19)
あいにく当日は都合が悪く、欠席とさせていただきますが、久しぶりに集まる OB・
OG の皆さまにはどうぞよろしくお伝えくださいませ。本行事の盛況と成功を収め
られますことをお祈りいたしております。
<長舩 知行(H06)>(2011.05.30)
昨年より御案内を頂きながら、返事が遅くなり申し訳ありません。小樽にもこ
こ 3 年ほど行っておらず行きたいのですが…、欠席致します。9 月の彼岸には、
一昨年亡くなった小樽潮陵高卒の父親の事で小樽に行こうか、などと母と相談
しているところですが。テニスは会社のテニス部に所属し仲間と時々楽しんで
おります。シングルスやダブルスの試合にも出たり。小 6 になる息子もテニス
を始め、今後が楽しみです。
29
久しぶりに商大庭球部のHPを見ながら懐かしく思い、小樽に行った折には顔
を出そうかと思います。
<松村 夕郁子(H11)>(2011.05.30)
現役時代においては、全国王座への寄付等含め、諸先輩の皆様方に大変お世話
になりましたので、このようなイベントに参加して、改めてお礼を申し上げる
べきところなのですが、7 月は都合がつかなく、大変申し訳ありませんが、欠
席とさせて下さい。天候に恵まれ、充実した 1 日となりますよう、祈っており
ます。
<及川 征大(H18)>(2011.05.13)
記念式典への参加ですが、私用により夫婦共に参加できません。子供がまだ小
さく、また妻が二人目を妊娠している(安定期前)関係もあり、100 年に一度
の世紀のイベントには、大変残念ですが、参加しない予定でおります。我々の
同期連中が北海道から参加するでしょうから、お酒のつまみにでも当日の様子
を聞きたいと思います。(奥様の由香理さんは当日帰省しておりコートに顔を
見せてくれました。)
<相原 悠吾(H23)>(2011.06.11)
ご無沙汰致しております。諸般の都合上全行事欠席とさせて頂きます。宜しく
お願い致します。
注)B ブロック:静岡・長野・新潟県以東の本州。今回の庭球部創部百周年記念
行事に関し、該当県在住の OB・OG への連絡は東京緑庭会が担当
した。
【他ブロック】
<岡部 哲二(S46)>(C、2011.05.19)
昨年 6 月末より「椎間板ヘルニアが原因の坐骨神経痛」になり病院に通って
おり、7 月までに治れば・・・と考えていたのですが、癖になっているのか少
し良くなりかけては再発し、一進一退を繰り返しています。
現在も、右足全体に強い痺れ(痛みは時々)があって、歩くのがやっとといっ
た状態で、少しずつは良くなっているようなのですが・・・・まだだいぶ日数
がかかりそうです。 一度、皆なに会いたいのですが、今回は不参加とさせてく
ださい。皆様によろしくお伝えください。
30
<児玉 宜敬(S46)>(C)
この度は庭球部百周年記念行事の案内を頂き有り難うございます。ご返事が遅
くなり申し訳ありません。折角のお誘いを頂戴し恐縮ですが、残念ながら今回
は不参加とさせて頂きます。お手を煩わしますが、悪しからずご容赦ください。
百周年記念行事の盛会を祈念しております。
【楡庭会関係】
<関東楡庭会 顧問 青戸 哲二 氏(S37)>(2011.05.20)
小樽商大庭球部創部百周年との事、誠におめでたくお祝い申し上げます。
田中隆二様からも直接ご招待いただきましたが、7 月 17 日はちょうど長姉の
三回忌の法要の為、出席出来ず申し訳ありません。盛大なる祝賀会であります
様にお祈り申し上げます。関係者の皆様にもよろしくお伝えいただきます様に。
*****
【 庭球部創部百周年記念祝賀会パンフレットと記念品 】
31
追
<開祖
悼
硬式庭球部
陸田さんを偲ぶ>
田中
隆二(昭和 39 年卒)
平成 6 年(1994 年)1 月 31 日、87 歳で亡くなった。神戸の震災の前の年であっ
た。明治 39 年(1906 年)10 月 31 日生まれなので、もし存命なら 105 歳。庭球部
に 100 万円を遺してくれたので、陸田基金として王座やインカレ出場の旅費援
助にあてた。そして、部旗にその名が印されている。
【 陸田清氏 寄贈の部旗 】
大正 8 年(1919 年)卒に戸井正三というテニス界の大御所がいらした。私が子
供の頃プレーを観た記憶が有る。軟式であった。陸田青年が大正 13 年(1924 年)
に東京からラケットを持って入学したのだから硬式庭球部としては 87 周年と言
って良いのではないだろうか。
昭和 37 年(1962 年)1 月に創刊された部誌「緑庭」の先輩住所録にその名が載
ったのは第 6 号からである。なぜ遅れたのか。私は 3 年の秋に東京勤務を条件に
就職が内定しており、東京に OB 組織を作ろうとした。昭和 38 年(1963 年)3 月
に前田次啓さん(昭和 31 年卒)を当時の第一銀行飯田橋支店に伺ったのがスター
トであった。
(前田さんからの応援の手紙、昭和 38 年 3 月 10 日付あり。)以後、
小池輝男さん(昭和 11 年卒)・箕輪汎人さん(昭和 16 年卒)に励まされ、齊藤愼二
さん(昭和 40 年卒)・柿沢昌治さん(昭和 41 年卒)らに助けてもらい、メンバーを
増やしていたが、陸田さんにたどり着いたのが昭和 42 年(1967 年)、上京して 3
年かかったのである。
どなたかは忘れたが(テニス関係者ではない)、
“君は陸田清を知らんのか!”と
32
叱られたことを覚えている。なんと、関東庭球協会の理事長、それより田園テニ
ス倶楽部の理事長だったのだ。私だけでなく、皆田舎者だったのだ。
昭和 43 年(1968 年)7 月 20 日、遠征で上京の早川好寛・梶原啓光・佐藤則之・
江川紘史君ら学生歓迎会の席上で正式に東京 OB 会を発足、会長が陸田さん、幹
事は前田次啓さん、齊藤愼二さんと田中が連絡係となった。
発足の記念写真は OB だけということで、卒業直後の秋本勉さん・岡田一利さん
が写っている。
(陸田さんは所用で欠席。)湊静男さん(昭和 3 年卒)に関西より参
加していただいた。当時神戸製鋼所の常務だったと思う。
翌日は田園コートで学生との対抗戦、当時 2 年目で新進売り出し中の宮本守彦・
蓮尾伸一君(共に昭和 46 年卒)ペアは前田次啓(昭和 31 年卒)
・青木高史(昭和 42
年卒)組に手も足も出なかった。
テニス理論:いかに早く面を作るか。ある OB は「君はテニスは止めた方が良い」
と辛口の批評をくらった。面がふらつくからである。
自慢
・70 歳過ぎてもジャンピングスマッシュができるのは日本ではオレく
らいだろう。
・早稲田でも慶應でもない、小樽のオレが・・・・・。
(昭和 49 年から 58 年の 10 年間、日本庭球協会理事長)
・吉田和子(旧姓 沢松)を育てた。アン・清村と組んで全英選手権
‐ウィンブルドン、女子ダブルス優勝。シングルスで勝ったのなら
又は二人とも日本人なら、国民栄誉賞だっただろう。
口も出すが、金も出した理事長だったので 10 年間続いたのでしょう。仕事で
親しくした元デ杯選手は「陸田のジイサン早く引退しろ」と言っていた。彼は慶
應出身。
サッポロビールを飲む会を主宰していたので、齊藤愼二さんはかわいがられ、
仲人をされた。私は司会を仰せつかったのであるが、「では、仲人の陸田清様よ
り・・・」と始めたところ、「田中君、テープのスウィッチ入れてないよ」と、
さすが海千山千の古強兵と感心した。
昭和 58 年(1983 年)、ある男をスカウトして私のセクションに入れた。まもな
く彼が叔母さんといっしょに私の家に挨拶に来た。義理堅い事と思ったが、「実
は入社間もないのに・・・」と切り出したのが仲人の依頼だった。一応遠慮した
が、ふっと「そのお嬢さんのお名前は?」と訊いたところ、「陸田」というでは
ないか。翌日、電話が有り、「奇遇だ、ヤレ」、甥の娘で孫同然だったのだ。
「金ならいくらでも出す」と言って下さり、毎年緑丘のコートを訪ね、多額の
寄付をしてくださった。行けないときは「代わりにお前、行って来い」
・
「大阪の
小池から是非来いと言って来たが、顔が良くわからん。お前も来い。」。OB 活動
については公私混同の私は、出張の理由を作り、大阪へ。大阪堂島(だったと思
う)のホテルの前で、小池輝男さんが若い OB と一緒に私を待っていた。隣に陸
田さんも立っていた。小池さんは昭和 43 年 7 月田園コートでペアを組んだのに、
33
陸田さんの顔を忘れていた。成田芳生さん(昭和 49 年卒)もその OB の一人で、
そのシーンは記憶に新しいそうだ。
「金ならいくらでも出す。」仕事でも成功した緑丘出身の異色の英雄だと思う。
【 昭和 43 年(1968 年)の東京遠征 】
昭和 43 年 7 月 21 日
於
田園テニス倶楽部
【 インカレ(ダブルス)に出場した女子部員と 】
昭和 57 年(1982 年)6 月 5 日
於 陸田邸(田園調布)
左から田中氏、共に昭和 58 年卒の片山恵里子さんと伊藤美子さん(現 佐藤晴樹
氏・S58 卒・夫人)。右端に陸田大先輩。(ご寄付に対するお礼に表敬訪問)
34
<室谷先輩を偲ぶ>
大和田
殖夫(昭和 32 年卒)
あの室谷さんが亡くなったと聞いて愕然としました。
でも考えてみれば、昨年 6 月に札幌でお会いしたときの様子では、むべなるかな
と思いました。わたしの小樽商大での青春時代の一番大切な先輩でした。
憧れて入った硬式庭球部で、上手な先輩には目もかけてももらえなかった後輩
の私を、あまりうまくなかった室谷先輩が、あのおどろおどろした口調で呼び込
まれ、ようやくボールに触れることができた瞬間をおもいだします。
プレーはたいしたことはなかったのですが、先輩にたいする態度は実に立派で、
斎藤先輩がみえると実に神様が来たような感じで接していました。
しかし、お世話になったのはテニスの世界だけではなく、自宅にゆくとクラッシ
ックのレコードが棚にびっしりとつまれ、必ずシューベルトの“冬の旅“から延々
と始まります。フルトヴェングラーの”運命”が好きになったのも室谷先輩の影
響でした。
これもあまり上手とはいえなかったのですが、例の尺八部に引っ張りこまれた
のも室谷先輩でした。尺八の先生とはいっても、三菱鉱業の小樽支店に勤務をし
ていた一ツ橋大学出身の課長さんの自宅に毎週練習にいくのです。練習は 30 分
で終わり、あとは夕飯をご馳走になって月謝 500 円。晩酌つきですから一生懸命
になるのもうなずけるでしょう。
そんな仲で下から、冬は天狗山に登って、コッフェルで沸かしたコーヒーを飲
んだり、夏は二人で摩周湖の湖畔にテントで夜を徹して人生をかたりあったもの
です。そのお陰で、私の結婚式の仲人はお父さんの室谷教授でした。
就職後は、室蘭と東京に分かれましたが、数十年たって仕事の関係で。芝の東
京プリンスホテルで展示会を主催でやっていましたら、室谷先輩がヒョッコリと
あらわれ、看板をみたらおまえの展示会なのできてみたぞといわれ、大喜びの再
会となったこともありました。
先輩はいいもんですね。兄貴とはまた違った親しさがあります。その先輩が亡
くなったときくと、わたしの青春時代の1ページがなくなってしまった気がしま
す。 室谷先輩、本当にありがとうございました。
合掌
35
歓迎! ゲスト寄稿者
<テニスとはコート整備と見つけたり>
二宮 健治
(山形大学文理学部法律科・
山形大学庭球部 昭和 39 年卒)
小樽商大庭球部、創部百周年、おめでとうございます。
田中隆二さんとは、ナラサキ産業の同期で、室蘭本社での入社式後、東京に赴任
する際、所持品にラケットも一緒でしたので、親しみを感じました。
ナラサキでは経験者は二人だけだが、ソフトの方、女性を募り、田中さんを中
心にテニス部を創り、新橋の事務所近くの都営浜離宮のコートを借り、土曜の午
後練習しました。
規定の抽選会に出かけ、学生の数を頼んだサークルとの競争で、当たりくじを引
かないと出来ませんでした。当たりくじはいつも特定の女子部員が引き当ててま
した。
ナラサキは物品販売・海運業でしたので、京浜地区海運リーグに参加して頑張
りました。自社でチームを組めず、大会後援会社の東京ニュースの方々を頼み、
サッポロビールの齊藤愼二さんを助っ人として、中核会社でコートを持つジャパ
ンラインを破り、ベスト 4 に進んだこともありました。齊藤さんは大学の同窓会
の理事長と伺いましたが、懐かしいです。
小樽商大は国立でも唯一の単科大学だそうですが、山形大学は戦後の新制大学
で、旧制高校の寄せ集めで、一年目は全員が教養課程に集まるが、二年目以降は
米沢の工学部、鶴岡の農学部、山形の文理学部(山形高校)、教育学部(山形師
範)に分れての活動となります。
テニス部の歴史は浅く、S31 年に高校の先輩(インターハイ出場)が中心とな
り創部。平成天皇の軽井沢の恋としてテニスが注目され、S34・S35 年には部員
が増えました。創部の先輩以外は経験者居らず、バトミントン・ソフトテニス・
シェークハンドの卓球をした方々は上達が早かったです。
入部した時には、創部の先輩は卒業していたので、個性的な先輩の真似よりまし
かなと旺文社の[テニスのこつ]を(左利きの藤倉五郎の裏焼きの連続写真、慶応
の石黒がモデル)購入し参考としました。
部の顧問は東北大テニス部出身で理科化学の砂野豊次朗先生で、主要な時にアド
バイスを受けました。白衣でふらりとコートに顔を出し、一試合ほど相手をして、
気が付いた点の指摘。
外部のコーチとしては、S37 年夏に一度、近岡氏の指導を受けました。近岡氏は
早稲田のテニスのコーチをしており、全日本壮年の部に出場していた。また実家
は新庄市で屋敷内にコートを設けている有名一家です。ダブルスのパートナーの
中村氏が山形なので、帰省時に一緒に来てもらいました。
36
部の活動は練習前のコート整備から始まります。校庭の片隅で穴を掘り、篩で
砂をとり、これをコートに運び、撒いてローラーを曳き、ラインを描く。これら
の手順は引き継がれており、参加しない新入りは、整備しない者は、テニスをす
る資格なしの雰囲気でした。
2 年後に施設の拡充とのことで、残念ながらコート上に体育館が建設されること
になり、新設されたコートは従来に増して整備に励むこととなりました。
対外活動としては、東北地区大学対抗戦(東北大、東北学院大とはレベル差が
有りすぎ)、仙台での東北大会個人戦、S37 年の女子複、単での準優勝が主なも
の。定期戦として、岩手大・茨城大・福島大(工学部)が有り、ホームチームが
有利でした。
整備が終わり、ボール缶を開けた時の感覚・高揚感は 70 を超えた今も全く変
わりません。現在さいたま市の片隅で地元(私も在住 36 年)の方々と共に、区
のクレーコートを文字通り『お守り』しておりますが、この瞬間は『青春』です。
生きている実感があります。
独学ですから、マナーも本に書いてある通り守っております。
社会生活も仕事もその心に沿って全うしました。
庄内藩の貧乏な侍の心の『一分』なら、私の人生、悔いはありません。
田中さんは頸椎疾患でテニスが出来なくなって、お気の毒です。
もし、お許し頂けるなら、東京緑庭会のテニス会に参加させてください。
松戸なら一時間で行けますので。
皆様の益々のご発展をお祈りいたします。
緑丘コートでのコート整備風景。昭和 39 年?(1964 年)当時。
故ウォーレス・S・スミス コーチ撮影のスライドから。
37
連
載
<おすすめの名画(洋画)5 - ラストシーン
The third man
- 第三の男
- 昭和 24 年(1949 年)(英)
La Salaire de la Peur - 恐怖の報酬 - 昭和 28 年(1953 年)(仏) >
田中
隆二(昭和 39 年卒)
【 第三の男 】
映画は 1949 年 9 月に開催された第 3 回カンヌ国際映画祭に出展され、そこで最
高賞に相当するグランプリを獲得した。同年 9 月 3 日にイギリスで公開され、興
行的にも批評的にも成功を収めた。1950 年度のアカデミー賞では監督賞、撮影
賞(白黒部門)、編集賞の 3 部門でノミネートされた。そのうちロバート・クラ
スカーが撮影賞(白黒部門)を受賞した。(Wikipedia より、編集担当)
遠近法と言う絵を描く技法をいつ習っただろうか。遠くを小さく手前を大き
く。そんな冬の並木道を黒い大きな帽子、黒いコートの女がこちらに向かっ
て歩いてくる。道端に男が待っている。一瞥もくれず女は通り過ぎて行く。
これが映画のラストシーン
大戦直後のオーストリアの首都ウィーン、英・仏・ソの管理下にあった。男
はアメリカ人で安っぽい西部劇を書いている売れない作家である。親友を頼
ってこちらに来た。死んでいると周りの人は言うが、どうも生きているらし
い。これが第三の男と言うわけだ。実はとんでもない奴で、闇屋の親玉でイ
ンチキなペニシリン(化膿止特効薬)を売り、たくさんの人が死んでいる。
男は正義の為に親友をイギリスの地区司令官に売り、その条件は第三の男の
恋人(チェコ人)を出国させる事であった。それは余計なお世話という事か。
第三の男は姿を現し、観覧車の中でアメリカ人に言う。
「安っぽい正義なんか
クソくらえ。平和、平和のスイスは何を生んだ。鳩時計しかない。」
この映画は映画の技術が存分に活かされている点で史上最高と評価する人が
多い。作製の裏話も映画になっており、これも面白い。アメリカを皮肉って
おり、アメリカではこの辺を修正して公開したとの事。
正義の味方アメリカか。平和、平和、日本海は友愛の海、日本列島は中国・
日本・韓国共有のもの。日米中は正三角形。沖縄から出て行ってくれ。何か
あった時だけ助けてくれればよい。これが今の日本政府ですよ。
この映画を観た事が無くても主題歌は必ず聞いた事があるだろう。チターと
いうギターにもマンドリンにも似た楽器の音色 チンチ、チンチ、チン・・・
原作・脚本:グレアム・グリーン
作製・監督:キャロル・リード
キャスト:ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズ、
38
トレバー・ハワードそしてアリダ・バリ
音楽:アントン・カラス
【 恐怖の報酬 】
1953 年制作のフランス作品。第 6 回カンヌ国際映画祭にてグランプリと男優賞
を、第 3 回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した。
(Wikipedia より、編集担当)
舞台は熱い熱い中央アメリカ、ここは石油が出る。職を求めて喰いつめ者が
集まっているが、仕事があるわけでない。帰ろうにも旅費も無い。そんなと
ころにアメリカの石油会社が運転手を 4 人採用すると言う。しかも大金で。
実は数十キロ離れたところの油田で大火災があり、消火のためニトログリセ
リンを運ぶというのだ。道はデコボコ、山道もある。ちょっとの刺激で大爆
発だ。スリル、スリルの連続。そして生きてたどり着いたのは只一人。4 人
分の報酬をもらい恋人の待つ街に戻る男。うれしくて調子に乗り蛇行運転で
崖から転落。そこで映画は終わるのだが、このラストシーンを言っているの
ではない。映画館の幕が降り、照明がついたのにずっとクラクションが鳴り
続けているこのラストだ。
脚本・監督:アンリ・ジョルジュ
キャスト:イヴ・モンタン(“枯葉”で有名なシャンソン歌手)
次号に続く
ポスター
ポスター
「第三の男」
The third man
「恐怖の報酬」
La Salaire de la Peur
39
<緑丘会館だより(3)>
緑丘会 事務局長
桶谷
喜三郎(昭和 41 年卒)
東日本大震災
3 月 11 日、被災に遭われた地区と比ぶべくもないが、サンシャイン 60 の 57
階にある緑丘会館も、凄まじい揺れに襲われた。ガシャガシャガシャっと、床ご
と持ってかれるんじゃないか、と思ったすごい音、揺れ。グゥィーンと傾ぐよう
な感覚に足下と頭の動きが合わない! 絵画がたくさん壁面にあるが、どれも振
り落とされそうに左右にゆさゆさ動く。写真画などはヒモで軽く吊るしてあるだ
け、カッタカッタと 180 度超の振り切れ寸前だった。幸い事務室じゃなく広いフ
ロアーのテーブルで作業中だったので、事務室の机の抽斗が飛び出し、ロッカー
の扉がバタンバタンとしているのは目撃できなかった。しばらくして扉を閉めに
行った時はちゃんと歩けず、よろよろ辿り着いた。やはり相当な揺れだ! 全室
で落下物は何もなく、ボトルキープのウィスキーやグラスなども無事で損害は皆
無だった。
この時、会館にはお客様 8 名、職員など 5 名が居たが、激しく動揺していたの
はこのあたりまでで、テレビを点け東北の様子を見、ニュースで電車の当日中の
復旧は無いと知り、ビルの防災センターがエレベータの復旧はいつになるか分か
らないとのアナウンスを冷静に聞いた。計 13 名の帰宅は困難となり、覚悟を決
めて非常食を食べ、夜明かしをした。余震に何度も襲われたが、長く尾を引くよ
うな高層ビル独特の揺れで、一晩中船の上で過ごしたようで軽い船酔い状態とも
言えた。殆どまんじりともしないうちに朝になり、のちに問題となる福島に向か
う首相が乗ったヘリを明るい空に見送った。
未曾有の甚大災害となった東日本大震災で、今年の商大卒業生や入学生には幸
いにも被災なく全員の無事が確認され、卒業式と入学式が滞りなく挙行された。
緑丘チャンネルって?
ご存じですか? これは緑丘会若手会員が中心となり、Ustream という動画共
有サービスを使って、学生や卒後間もない社会人に向け毎月様々な企画の Live
中継を行っているものです。Ustream に似たものに、YouTube というものもあり
ます。尖閣諸島で中国漁船と海上保安庁の巡視船が衝突、ビデオが流出して問題
になりましたのでご存じと思いますが、主として録画を繰り返し見るのに適して
います。
さて、Ustream は、パソコンとインターネット環境があればどこでも視聴でき、
Twitter などにより中継者にコメントや質問をし、その応答も入れて番組を進行
させる生中継が大きな特徴です。録画を後で見ることも可能ですが、生中継の面
白さには適いません。
緑丘チャンネルは試験放送を 6 回行い、ゲストの若手社会人に就職の苦労話や
40
就活学生へのアドバイスなどを語ってもらいました。卒業式には潜入レポートと
称して、式典前の卒業生に突撃インタビューを試みたり、式典そのものをこっそ
りライブ中継もしました。
4 月からは本放送を開始、最初のゲストに私が登場、勉強しなかった学生時代の
恥しい話やテニス部での思い出など話させていただきました。
5 月は、恒例の緑丘会館でのホームカミングデー(*1)、大学では朝里クラッセ
ホテルでのルーキーズキャンプ(*2)を同じ日に行っていましたが、新社会人と
新入生とをコラボさせ、初の生中継による交流を行いました。
(*1)関東地区に居る新社会人を卒後 10 年以内の OB・OG が歓迎する会
(*2)毎年 5 月、新入生と上級生、OB・OG との交流を通じて大学生活への動機
付けを促しキャリア意識の向上を図ることを目的として実施される。
6 月は遂に調子に乗って、緑丘会の通常総会をライブ中継、大矢副学長の講演も
中継しました。7 月以降は百周年記念イベントを数々放映していく予定です。
ただ、イベントなどの録画も含め、主に土・日の夜遅くにゲストを入れて中継を
行うため、やはり相応に若く目的意識の高い人たちが熱心に双方向の応答を行っ
ているようです。
※緑丘チャンネルを見るには、パソコンの検索エンジンで「緑丘チャンネル」を
検索し Ustream でご覧下さい。アーカイブ(録画)も同様にして見られます。
ついでながら、緑丘会館では 52 インチの大型テレビを導入しています。同期会
や庭球部 OB 会などで、大学作成の 50/80/100 周年記念DVDの鑑賞や庭球部の
過去写真、これから作成する創部 100 周年写真などの鑑賞会に、是非ご利用くだ
さい!
体育会系 OB の緑丘会館利用について
昨年 1 年の緑丘会館総利用者数は、5,000 名超となりました。この数は、いわ
ゆる有料入場者数で、単なる来客者はカウントしていません。新年交礼会、通常
総会懇親会、講演会懇親会などの入場者数が最も多くなりますが、その他 OB 会
や同期会、会員外利用者もかなりの数になります。意外に思われるかも知れませ
んが、会員外利用では近くの大企業などクリスマスや新年会に貸切り状態で利用
しています。このようにあまねく広く利用していただくことが公益的と言え、当
会の大きな収入源ともなっています。
利用月別には、忘年会のある 12 月が最大、6 月(総会など)、1 月(新年会な
ど)がこれに続き、8 月は夏枯れのせいか、やはり最小となっています。
会員は入場使用料 400 円/人、会員外は 700 円/人を頂いていますが、利用時間と
はリンクしていません。一日利用も1時間のみでも同じ料金となっていますので、
囲碁会などでは特に喜ばれています。時に「お宅では飲み放題料金設定は無い
の?」と聞いてくる方がいますが、「その代わり時間制限はありません」と答え
ています。
※総会など公式行事では入場使用料は不要、懇親会飲食費のみいただきます。
体育会系 OB の利用も盛んですが、ラグビー部が八大学 OB 会というのを毎月の
41
ように行っているのが目立っています。これは北大が核となり交流のある国立 6
大学(*3)で OB 相互の懇親と各大学の OB 会の発展を願って 23 年前に始まり、
その後名古屋大と長崎大経済学部を入れて八大学ラグビーと称しているそうで
す。ラグビー大会や講演会&懇親会の運営方針を決めるため毎月集まっているよ
うですが、5 月には若手 OB 対抗戦の他に年代別の親善試合も行われているとの
事です。テニスもラグビーも年に関係なくプレーできるのがいいですね!
(*3)北大、商大、帯広畜産大、東北大、東京水産大(現東京海洋大)、九州大
その他、定期的に利用するのが、野球部(北大 OB との新年会、総会)、ラ
グビー部、ボート部、卓球部、バドミントン部、水泳部、自動車部の OB
会などです。八大学の影響か、長崎大学ラグビー部 OB 会の単独利用など
に発展しているケースもあります。
このように緑丘会館は、多くの方々にご利用頂いていますが、特長は場所が広く
取れる、多くは同窓である気安さ、それらのため喧騒感が無い、先に述べたよう
に料金が安い(入場料の他、飲食はケータリングのみでマージン少、3,000~4,000
円/人で充分)などです。
これからも皆さまの益々のご利用をお待ちいたしております。
(了)
【 緑丘会館のご案内 】
池袋サンシャイン 60 57 階 19・20 号室 全館面積 204 ㎡(62 坪)
緑丘会館は昭和 55 年 4 月にオープンし、緑丘会活動の中心的場所となっている
外、会員各位の憩いの場として活用されております。池袋サンシャインビル 57
階に位置し、晴れた日には富士山がはっきり見え、特に夜景は館内でも絶景の一
つに挙げられております。
緑丘会館は同期会・懇親会・ゼミグループなどの会合のほか、職場の会議・研修
会などにも利用出来、収容人数は最高 100 人程度まで可能です。
1. ご利用日および時間
○平日‐月曜日~金曜日(土曜日、日曜日、祝日、盆休、年末年始を除く)
○時間‐午前 10 時~午後 9 時(夜は、ある程度の人数が必要です)
2.ご利用方法
○利用は予約制ですので、予め事務局(☎03-3981-2340)まで、日時・人員・
予算・利用時間などをお知らせ下さい。
(部分、「緑丘」102 号・平成 19 年 8 月号より)
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【 緑丘会館から富士山を望む 】
絶景!
カラーでお見せしています。
【 緑丘会館の内部 】
結構、広々としていますよ。
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会員揃文(かいいんそろいぶみ)
【おもいで】
<半世紀、テニスとつきあって>
大和田
殖夫(昭和 32 年卒)
小樽商大百年といわれても驚かないが、庭球部百年といわれたら驚かざるをえま
せん。そんな昔から、日本の国に硬式庭球があったのかと思うと同時に、わが緑
庭の先輩方の創意と努力に感銘するとともに、この年齢までも、私の人生を充実
させていただいたことに深く感謝申しあげます。
テニスを始めた動機;
高校時代、受験勉強の合間に軟式のテニスを楽しんでいたらそのコートに大学生
がきて硬式のあの爽やかな打球音を響かせているのに目を丸くして、合格したら
絶対に硬式のテニスをやろうと胸を躍らせたものでした。
入学して早速駆けつけた先輩が、同郷の福島潤二主将でした。2 年目の主将は室
谷満智男さんでした。3 年目は前田次啓さんでした。この皆さんすべて“尺八の
竹友会”のメンバーでした。
(昭和 30 年斎藤先輩を囲んで)
44
なぜ尺八部なの;
小樽商大硬式庭球部の新入部員が早速遭遇したのが、夏季合宿でした。といって
も校舎のあのガケ下のオンボロ部室に 15・6 名はいたでしょうか。そこに泊ま
り込んだのはよいのですが、翌日は朝からひどい雨模様、全員何もすることもで
きずごろごろしていたら、福島主将が突然尺八を持ち出して吹き始めたのです。
尺八なんてみたこともない連中ばかりですから、暇にまかせて代わり番にオレに
吹かせろオレに吹かせろということになり、翌日から全員、尺八部員いうことと
なった次第です。
“文武両道”のすすめ;
それ以来、天気の良い日はテニス、雨が降れば尺八。昼間はテニス、夜は尺八。
夏はテニス、冬は尺八という生活が定着したわけです。こうしたわけですから勿
論勉学はする暇はありませんでした。しかし、喜寿を迎えた現在の状況では、元
気な時はテニス、腰を痛めたら尺八と、まことに老後に適したスケデュールと相
なるわけであります。
商大生は出世払い;
ある朝、新聞を読んでいたら、傍らにいた息子が、
“オヤジ商大は何年入学か?”
と聞くのです。”28 年だよ“と答えると、
”ふーん、じゃあ一番競争率の高いと
きじゃない”というのです。緑丘会誌を読んでいたようです。たしかに 14.7 倍
というのは一番競争率が高く、理類は北大でも文類は商大という時代でした。
商大生は、小樽高商の時代から街全体におおもてでした。というよりも、町の人
全員が大事に接してくれました。
呑兵衛の友達(コーラスの三井)に今夜は飲ませてやるからついて来いといわれ、
稲穂町の稲荷横丁の踏切脇のバーに連れて行かれました。まだ店を開いたばかり
のバーのカウンターに座ってママを相手に一杯やっているそのうちに、客が来る
と我々は店の裏にまわり、ママから金をあずかって、酒とつまみを買いに行き、
店の裏でするめを焼いて、さいて皿にのせて出したりし、客が帰るとまたカウン
ターに戻ってタダで酒を飲ませてもらう、これがシバシバでした。勿論タダでし
た。今の運河街のあたりには一杯飲み屋の屋台が並んでいて、出世払いで馳走に
なった学生も随分いたようです。
コートは 2 面で、ボールはツルツル;
入部したものの、20 人位の部員にコートは 2 面しかありません。新入部員は夕
方暗くなって、先輩が帰る頃にようやくコートに入れる状態。その間、脇の冷た
い草むらに腰掛けて見ているので、すっかり痔を悪くしてその後随分と苦労した
ものです。
ボールを買いに行くのは我々の役目ですが、あの真っ白で食べてしまいたくなる
ようなボールは、滅多に出場させてもらえない。試合の時しか打たせてもらえな
く、練習のときは先輩の使い古したテカテカのボールを擦り切れて割れてしまう
45
までつかったものです。あの頃も、輸入品のスラゼンジャーが一缶 4 ケ入りで
1,200 円でした。ラーメンが 30 円の時代でした。擦り切れたボールを、下宿そ
ばの倉庫(今では運河観光の目玉)の壁にぶつけてサーブの練習をしました。今
だにサーブはこの年でも自慢です。
北大戦で悔し涙;
さっぱりテニスの話から遠くなってしまいましたが、これでも 1 年のときから北
大戦に出してもらい、必死になって戦ったものです。
彼女が応援にきているのでいいところを見せようと強く球を打つと(勿論アウ
ト)、OB の先輩から試合後こっぴどくおこられ、
“打ってはいかん。ロブでかえ
せ。ねばったほうが勝ちだ”をたたき込まれたものです。おかげで“テニスって
あんなもの、おもしろくないわ”。もてないのも当然でした。
しかし、小樽公園のクラブハウスで石澄先輩やら杉山先輩に、負けた後全員残さ
れ、ヤキをいれられて悔しくて悔しくて涙をボロボロ流したのは今でもハッキリ
と覚えています。55 年前のことですよ。
(S30、北海道新聞;前田主将が唯一のポイント)
*前田次啓さん(S31 卒)が勝利した Game の Score が写真(下段・右端)では
切れてしまっていますが、
【 ○前田 6-4, 6-2 中原 】です。 (編集担当)
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医学部を棒にふった親友;
北大でキャプテンをやっていた庄さんをご存知でしょうか。
最後は、昭和大学の教授でしたが、10 年まえに大腸ガンで亡くなりました。彼
とは小学校以来の友人で、母同士も娘時代からの親友でした。庄さんとは高校時
代からテニスをやり、夏休みになると彼の北大在学中のお兄さんが高校のコート
にきて、真っ白いボールでポンポンといい音をたてて練習し、われわれが眼をま
るくして憧れたのでした。かれはすぐに北大庭球部にはいり、猛練習に励み、み
るみるうちに強くなりました。しかし彼は医学部の編入試験を 2 年次に受けなけ
ればなりません。しかしテニスに熱心なあまり、もう一年もう一年と延ばしてい
るうちに編入試験制度がなくなり、ついに医者の道を断たれてしまったのです。
その後は、研究室にすすみ、薬学をめざすことになり、昭和大学の教授までなり
ました。
彼は北大 OB 戦にはいつも出場していましたので、彼に会えるのを楽しみに私も
時々参加していたのですが、彼がいなくなってからは気落ちしてこのところ欠席
しています。
入社してテニス部創設;
まだまだ戦後の経済不安定な時代で就職難をのりきり、㈱リコーに入社したのが
昭和 32 年 4 月。小樽商大は先輩が立派なので就職率は他の大学に比べて抜群に
よかったです。当時、会社はまだ小さく、新入社員が大学卒で 45 名、役職者が
40 名位で人事担当者が、
“君たちは一生働いても課長になれない人が出る、頑張
って働け”といわれました。しかし会社はぐんぐん成長して、6 年目にはもう課
長になってしまった。経済成長というのは怖ろしいものです。
それはともかくとして、入社してみたらテニス部というものがない。同期入社の
なかからテニス経験者を探してすぐに 5 名で同好会を結成しました。しかし当時
会社にはコートがなかったので、会社の役員が付き合いで青山の神宮外苑にある
神宮テニス倶楽部の会員権を 5 人分持っていたのでそれを借り受け(もちろん違
反)、意気揚々と出掛けていったものです。順番をまっていると、スピーカーか
ら“市村 清さん”と呼び出しがあり、当時有名人であった社長の名前を騙って
“ハーイ”とずうずうしくプレーしたものでした。
その後仲間が増え、部として認められ、東急のグランドを借り、主将といっても
私が朝一番に行ってネットを張って皆を待ち、日が暮れてネットを片づけるとい
う役割でした。折角の日曜日なのに新婚の女房を家に置いての辛い役割でした。
そして、カメラ業界の対抗戦では、毎回最低の成績でした。しかしテニス仲間は、
会社のあちこちの部門にいて、その後仕事を進めるうえでどれだけ助けてもらっ
たかわかりません。
途中課程は省略しますが、その後会社の成長とともにどんどん充実してゆき、昨
年の実業団日本リーグでは男女とも一部で活躍し、男子はベスト 8 にはいってい
ます。数年前には、NEC・日本生命・朝日生命とともにリコーがベスト 4 で戦
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っていました。親が下手でも、子は立派に育つものですね。
そのほかに、音楽鑑賞部などをつくって労音などの紹介をしたりしたものですか
ら、入社早そうは過激な労働組合活動員と会社幹部にマークされていたようで、
あとで聞いて驚いてしまいました。
地元テニスクラブのチャーターメンバー;
頃は日本経済成長の真っ盛りで、仕事に押されてテニスともすっかりおさらばし
ていましたが、42 歳のとき、家の近所に新しくテニスコートの看板がたちまし
た。近くだったので早速夫婦で入会の申し込みをしました。しばらくたって開場
式があり出席したところ 2 番目の申し込み順位でした。面白いことに一番は 3
年先輩の北大卒の林さんという方でした。
私の家内は小樽生まれの小樽育ちの潮凌高校卒(和島さんと同級)でしたが、体
は冷え症で丈夫ではありませんでした。入会してから私が手ほどきをし、それか
らがどんどん楽しくなったらしく、真黒になってテニスをやっているうちに冷え
症もなくなり、すっかり健康になってしまいました。
この“鶴見テニスガーデン”は創立 30 年を迎え、いまでは私が一番古手となり
下手なくせにチャーターメンバーとして大きな顔をさせてもらっています。
開場当初は、全日空のスチュワーデスなど若手ばかりで華やかな雰囲気でしたが、
なかなかに雰囲気の良いクラブだったので、メンバーがそのまま 30 年たった感
じで、華やかとはいえませんが、和気あいあいで、丁度年齢相応のテニスで楽し
んでいます。最近、青木高史さんが近くに越してきて入会しましたが、早速、昨
年の川崎のシニアの男子ダブルス戦で優勝し、いまや、人気抜群、おば(あ)さ
ん連中にかこまれてご満悦の様子です。
テニス仲間“ほどほど会”;
もうそろそろ定年を迎えるという頃になって、子会社で昔苦労した仲間がテニス
をやろうということになって、夫婦 5 組で遊びをはじめました。会の名前を皆で
考えようということになり、お互いの年齢を考慮して、運動も呑むほうもほどほ
どにしようということになり、“ほどほど会”と名付けました。皆が会の名前が
気に入っています。これがもう 15 年つづいています。夫婦そろって元気でテニ
スをしているというサークルはなかなかありません。大変ありがたくおもってい
ます。俳句の宗匠あり、ワインのソブリエあり、尺八の師匠あり、お茶の宗匠あ
り、なかにはラグビー日本一の優勝監督ありで、テニスだけでなく夜は句会を催
したりで、きわめて愉快なサークルになりました。サイパン島合宿をしたり、ウ
イーン・プラハなど東欧旅行したり、年に 3・4 回は軽井沢・草津温泉などで合
宿を楽しんでいます。でも、最近はそれぞれに体が言うことをきかなくなってき
て、テニスは“ほどほど”にして、その他の楽しみに重点が移ってきたようです。
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定年をむかえて;
40 年勤務した会社を去るのは、自営の人には想像もつかないことでしょうが、
サラリーマンにとっては一大事件です。一番気になることは、定年後の時間をど
う過ごすかです。しかし、私にとってはついに自由になれたという喜びで一杯で
した。今まで我慢してきたテニスと尺八を思う存分にすることができる。そして、
世界中に旅行しながらこの“文武両道”を好きなだけ出来る。
定年に際して写真のようなテレフォンカードを沢山つくり、みんなに配ったもの
です。“定年を 迎えて はずむ スニーカー”この川柳はわたしの心根を表し
たものです。
ハワイ諸島でのテニス・ゴルフ、イタリアのフィレンツエやベネティア巡り、ス
ペインはコルタデルソル一周、またプロバンスの修道院に 10 日も泊まり込んで
フランス人と一緒になって尺八を造ったり、エジプト全コース、トルコイスタン
ブール・パムッカレ・など 12 日間、カルフォルニアアビスパ修道院での箏尺八
演奏会、中国西安・桂林・北京・上海と、ともかく枚挙に限がなく動き回りまし
た。“熟年時代”とはこういうことを言うのだな、とつくずく思いました。
竹韻研究会の創設;
50 歳を超す頃、小樽商大時代に尺八を習った師匠(三菱鉱業勤務)の杉山さん
が、定年になったので尺八を再開するが一緒に始めようと電話があり、それでは
と再度始めたのがきっかけでした。その後、会社の後輩を誘い(半ば命令か?)、
一人づつ増えていきました、その話を田中隆二さんにしたら、商大テニス部 OB
で尺八をやっていた後輩を誘ってあげるといって来たのが柿沢さんと西尾さん
でした。西尾さんはすでに師範免許をもっており、柿沢さんは、準師範試験で、
関東地区トップで合格しました。
それで竹韻研究会をつくりメンバーは 15 名を超え、中には音大のピアノ科卒の
女性まで会員になりました。年に数回の演奏会に出演し、年に数回の合宿をし、
フランスでの尺八制作やニュージランドで地元のお琴の先生とのライブをやる
など全く楽しい忘れられないグループ活動になっています。
49
終末の健康管理;
さりながら、齢 70 歳を超える頃になると体が言うことをきかなくなってきます。
健康維持の為のスポーツが、それが原因で健康を損ねる契機になってしまいます。
わたしもテニスをしていると毎日の体調がよく、時間をみつけてはなるべくコー
トに行くように心がけています。しかし、程よく運動したつもりが翌日になって
みるとやり過ぎになっていたというのがほとんどです。
それから勝負にこだわるテニスは絶対に体には毒です。ところがなかなかそうは
いかない、よほど人間が出来てこないと出来ることではありません。“健康は、
人柄によってつくられる”。余裕のあるうちから心掛けましょう。
そろそろ体が動かなくなってきた昨今、私は、尺八のほうに重点がかかってきま
した。学生時代からの“文武両道が”役にたってきたようです。
喜寿を迎えた小生が、テニスを通じて熟年をこころゆくまで楽しませてもらって
いるのも、小樽商大硬式庭球部の皆様のお陰と、百年記念を迎えた今日、こころ
より御礼を申し上げる次第です。
(鶴見邦楽連盟
邦楽の集で 尺八本曲“木枯”演奏)
大和田
都山流尺八
達宇山
日本尺八連盟 大師範
竹帥
URL:http://homepage2.nifty.com/chikuinken
50
<卒業半世紀を迎えて>
川口
祐二(昭和 36 年卒)
今年7月の開学 100 周年に当っては学校でもいろいろな行事があり硬式庭
球部 OB/OG もその一環として7月に母校コ-トに集合することになりました。
私も今年は卒業以来丁度 50 年になり同期の諸君と卒業 50 周年記念を今年 10 月
小樽でやることになっていますがこのような節目の記念に東京緑庭会の会報に
拙文を寄稿させて頂きます。
「思い出と今そしてこれから」
学生時代
私は小樽の花園町で生まれ小学校、中学校、高校、大学ずっと下駄履き通学
していました、昭和 32 年(1957 年)に小樽商大に入学、地獄坂を登り下りしてい
た毎日のある日、道路脇のテニスコ-トが目に入りテニスをしようと思い立ちま
したがテニスには軟式、硬式の両方があることが分からぬまま軟式庭球部に入っ
てしまいました。当時商大にはテニスコ-トが上下、段違いで 2 面あり軟式は下
の段、硬式は現存する上の段のコ-トでした。暫く軟式のコ-トでテニスをやっ
ていましたが上の段の硬式コ-トから聞こえてくる、キ-ン、コ-ンという快音
に矢張りテニスは硬式テニスが本物なのだという気持ちが強くなり 2 年生から
硬式に転向しました。
その頃対外試合は春秋 2 回の北大定期戦だけでしたが当時の北大の戦力は
圧倒的で関西の高校ランキングプレ-ヤ-が毎年次から次へと入部してくるこ
ともあり私の在学中北大定期戦に団体戦で勝利したことは一度もありませんで
した、後年後輩の諸君が北大定期戦に常勝することになったと聞きびっくり、大
変嬉しく、しかし俄には信じ難い妙な気持ちになったものです。
社会人となって
昭和 36 年(1962 年)に卒業、社会人としての第一歩が始まりましたが日本経
済の高度成長がもの凄い勢いで始まった時期でもありました、初任給は 1 万 2
千円でしたが毎年確実に昇給があり3年後の東京オリンピックを機に日本経済
は更に発展という社会経済環境でした。テニスは就職した会社のテニス部や東京
在住の商大硬式庭球部の OB 会等でそれなりに継続してやっておりました。
会社で 10 年選手になりかけた頃から海外の仕事に関与することになり
1970 年台は韓国、フイリピン、マレ-シア、インドネシア、シンガポ-ル等今
でいう ASEAN 諸国、1980 年代はアメリカ西海岸のシリコンバレ-、1990 年
代はヨ-ロッパに舞台が移りました。
51
自分の会社を興して
大きな組織の中では日頃自分の考えていることを実現するには制約が多く
会社勤めが丁度 25 年に及んだのを機に自分で会社を興し爾来 25 年今日に至っ
ています。現在の事業の柱は海外から羽毛ふとんの原料を輸入、ドイツ製の機械
で加工、製品を顧客に販売するというものですが最近のトレンドであるリサイク
ル、エコロジ-の波に乗った形で羽毛ふとんの打ち直し、リフォ-ムが新しいマ
-ケットとして登場、従来の有店舗主体のル-トに加え 24 時間テレビのQVC
等も販売ル-トに組み入れその時その時代のニ-ズを肌で感じながら変化に対
応しています。
ゴルフとテニス
身体を動かすことが好きだったのでテニス以外にもいろいろなスポ-ツを
やり、ゴルフは比較的若い頃 30 代で始めました。ゴルフは最初に飛ばして、そ
の次は運んで、最後はカップに入れるという 3 つの作業だと思っています。テニ
スをやってる人は飛ばすことに関しては野球をやってる人に敵いませんが、運ぶ、
入れる、という部分では押し並べてとても上手です、これは多分テニスのラケッ
トの面の使い方とゴルフのアプロ-チショットの際のクラブフェ-スの面との
間に関連性があるのではないかと思っています。飛ばすということには恵まれま
せんでしたがその分アプロ-チとパットに磨きをかけ所属した龍ヶ崎カントリ
-倶楽部ではシングルプレ-ヤ-になりました。
仕事柄海外あちこちでゴルフをしましたが矢張りなんと言ってもゴルフの
聖地と云われるセントアンドリュ-スのオ-ルドコ-スでのプレ-は忘れられ
ません。キャデイは日本と違いクラブとは一切来雇用関係にはない独立した個人
事業主みたいなものでそのキャデイとのやりとり、スロ-プレ-を防ぐ工夫
(Speed of Play)、クラブハウス内の服装規定(Dress Code)、食堂の洗練されたメ
ニュ-とワインリスト等流石歴史と伝統を誇るゴルフの総本山だと感じさせる
雰囲気がありました。
アメリカではペブルビ-チの 18 番左ドッグレッグのロング、陽も殆ど落ち
かけ、ハウスの灯火を頼りにドライバ-、バッフイ-、バッフイ-と繋ぎ、8 番
アイアンでようやく 4 オン、19 番ホ-ルでモンダビの赤ワインで乾杯等は矢張
り記憶に残ります、
又テニスは何と言ってもウインブルドン、1996 年、2007 年共に仕事で出か
けた際観戦しました。2007 年のセンタ-コ-トのオ-プニングゲ-ムはフェデ
ラ-、雨模様で開始が遅れに遅れ午後 2 時開始予定が開始は午後 5 時になり、試
合そのものはフェデラ-が簡単に勝ったのですがその後その日のドロ-が全部
終了したのは午後 10 時頃、殆ど日没、午後 10 時頃までボ-ルが見えるという
ヨ-ロッパの夏ならではの風物詩です。そういえばセントアンドリュ-スでも最
終スタ-ト時刻は午後 6 時でした。
52
これからの私
学校を卒業、社会人になってから今日までずっと物品の流通に拘わってきま
したがその間物品の流通を巡る環境は考えられない程進化、発展しました、固定
電話から携帯、湿式複写機から乾式、テレックスから電子メ-ル、タイガ-計算
機から電卓、そしてパソコン、インタ-ネットへと、更にこのようなI/Tメデ
イアの進化発展に伴う流通形態の変化は有店舗からネット等の無店舗個別宅配
等へとこの先もどんどん進化してゆくことでしょう。
しかし流通形態がこの先どのように変わろうとも物品を生産、顧客に届けるとい
う私のビジネスモデルは永久になくなりません、今年もヨ-ロッパでの原料買い
付け、輸入、国内製造、顧客への販売というビジネスが続きます。
何かの縁があっての商大硬式庭球部 OB の一員、これからも皆さんと一緒に
学生諸君諸嬢の春合宿、夏のインカレ応援、千葉、神奈川、東京等のブロック練
習会、鷹の台テニス&ビ-ル会、夏の軽井沢テニスト-ナメント、春秋 2 回の龍
ヶ崎カントリ-での親睦ゴルフ、いまや恒例になった暮れの忘年呑み会等皆さん
と共に楽しんで行こうと思っています。
The All England Lawn Tennis Club で
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<久しぶりの小樽>
須加
敏夫(昭和 38 年卒)
2011 年 7 月 15 日(金)。
上野駅 13 番ホーム。薄暗く古臭い倉庫のような昔の儘のホーム。19:03 発‘札
幌行き北斗星’に駅弁を携え乗車。もう 50 年前にもなろうか、急行寝台‘北斗’
の蚕棚のような狭い上段に体を丸めて‘北帰行’を地で行くように小樽に向かっ
た昔をもう一度コピーしたくてほぼ同じ時間設定をして出発した。
夜行列車は今回もよく揺れた。福島駅を 22 時半頃、仙台駅を過ぎたのは 23 時
を回っていた。東日本大震災を思いつつ眠りについた。
7 月 16 日(土)。
以前は青森駅と函館駅で 2 度荷物を抱え走った。青森駅では青函連絡船での席取
り、函館駅では函館本線普通列車の席取り。冬の凍てつくホームでの競い合いは
今でも忘れられない。
もう懐かしの連絡船はない。青函トンネルへいつ入りいつ出たか浅い眠りの中で
はっきり覚えていない。木古内というなじみの薄い駅の近くでしばらく停車した。
時間調整かな、何のアナウンスもないので少し不安を覚えた。そうこうしている
うちに7時前に函館に到着。ホームを走る必要がないので、少し拍子抜け。その
昔は森駅の‘いかめし’長万部の‘毛ガニ’が駅弁の定番で、かつとても安価で
手に入ったが・・・ 函館駅で‘北の家族’なる幕の内弁当のようなものを購い
朝飯を食した。列車の窓から‘いかめし’や’毛ガニ‘を買った昔が懐かしい。
長万部で室蘭本線に入るのには違和感があった。昔は函館本線のニセコ、倶知安、
余市などを経由して小樽に到着したものだ。東室蘭や苫小牧を経由すると随分遠
回りをしているのでは思ったが、これが 50 年の変化の歴史かと少し残念な気持
ちがした。
札幌経由小樽駅に 12 時過ぎに到着。車窓から過ぎゆく駅名を注視したが、
‘星置’
とか‘ほいしみ’とか、“えっ”こんな駅あったかなと劣化しつつある記憶力と
照合したが、新しく出来た駅名とのことでほっとした。銭函を過ぎると脳裏に焼
き付いている昔懐かしの車窓風景とまったく変わらず‘小樽にきたな’と‘ぐっ’
ときました。小樽駅は昔と変わっていませんでした。昭和 38 年に卒業し、埼玉
の実家に帰るとき斉藤進監督がわざわざホームまで見送り来て頂いたのをはっ
きりと覚えている。
7 月 17 日(日)
前日来の雨で開催が危ぶまれたが、みんなの気持ちが通じたのか何とか天気も持
ちこたえてくれた。駅前から学校まで直通の中央バスに乗る。驚いたことに、ラ
ケットを持った女性が6~7人乗り込んできた。全学年を通じ女子学生が 3~4
人しか居なかった当時と比べると隔世の感があった。
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受付を済ませ、周りを見渡すと懐かしい面々が目に入ってきた。昔の姿を彷彿と
させる人もあれば、時の経過をしみじみと感じさせる人もいた。
コートに入る手前に斉藤監督の記念碑があり、可憐な花が添えられていた。
テニスの下手な私であったが、斉藤監督あっての 4 年間の生活が蘇ってきた。
少し大きめ?のテニスシューズを履いた斉藤監督がコートに現れると、凛とした
雰囲気が周りを支配し、ストロークの指導を受ける際緊張して足が地につかずラ
ケットの芯でボールをヒット出来なかったことを思い出す。
記念大会の模様や朝里での記念パーティーについてはほかの方が、詳述すると思
うので省略し、昭和 38 年卒の仲間について触れてみたい。
主将は村井君で松浦君、内沢君、小笠原君、荒沢君、私を入れて人数的には 6
人いたが小笠原君と荒沢君はアクティブメンバーではなかったような気がする。
村井君/松浦君は群を抜いており、きれいなテニスをしていた。この二人のペア
でインカレにも出場した。内沢君とはよくペアを組んだが、下手くそな私がいつ
も足を引っ張り内沢君には悪いことをしたなと今でも思っている。
北大との定期戦は西さんの他に中島/古米選手という段違いに質の違うプレイ
ヤーが現れ、いつも惨敗で悔しい思い出ばかりが記憶に残っている。当時、部長
をやられていた相原先生に連れられ、東北地方に遠征し東北学院、福島大との交
流試合は楽しい思い出の一つである。
さて、この 6 人のうち内沢/村井/荒沢の順で既に黄泉の世界に旅立ってしまっ
た。悲しい限りである。 社会に出てからは山あり、谷ありの生活であったが、
楽しかった 4 年間の思い出は、長期記憶にしっかりと焼き付いており忘れること
はできない。
大会の翌日、午前中。
昔お世話になった下宿先や家庭教師先を探すべく僅かな手土産を携え洗心橋周
辺を 2~3 時間歩きまわったが、丁目の表示も変わり‘かわべ米店’以外は昔の
面影はすべて消えていた。50 年の年月の経過は半端ではないことを実感し、記
憶と現実の落差に驚くばかりで少し心が沈んだ。
昼食は「静屋通り(?)」の‘藪半’でそばを食した。店のただ住まい‘おしな
がき’がとても凝っていた。 昔の小樽を垣間見た気がして心が和んだ。北海道
産の地粉を使ったそばはのど越しもよく‘そば好き’の私には堪えられなかった。
うまかった。おまけにその日の夕食も藪半に出かける始末であった。
小樽の街並みには、あまり言及したくないほど、様変わりの感があった。夜 9
時を過ぎるとアーケード街は人影も少なくほとんどの商店は暖簾をおろし路上
でキャッチボールが出来そうであった。昔、ダンスパーティの券を気恥ずかしい
おもいで売り込みに行った、丸井(今井)、大黒屋、ニュー銀座なども今は跡形も
なく寂れゆく街並みに心が痛んだ。
おわりに
160 余名が集った 100 周年記念行事も成功裏に幕を閉じた。
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長い時間と労力を傾け準備をして頂いた、榎本委員長をはじめ実行委員、関係者
のみなさまに心より感謝と御礼を申し上げます。
<緑丘の縁>
東京緑庭会
顧問
齊藤
愼二(昭和 40 年卒)
小樽商大を卒業してからの 50 年になろうとする。皆さんとの交流は、たった
4 年間の学生生活から始まりました。庭球部 OB・OG との交流は卒業してから
が、はるかに長く、学生時代が、点とすれば、卒業後は長い線とも言えます。学
生時代の庭球部での精進がその基盤であり、伝統と言えば簡単ですが、その背景
には現役学生のみならず、卒業生も含めた、いわば長い年月にわたり、緑丘テニ
ス人が魂を込めてきた思いが詰まっています。
庭球部の伝統という大樹は、緑丘のテニスコートにルーツがあり、卒業生にもそ
の枝葉が及び、長い風雪の中生き抜いてきました。母校百周年ということもあり、
気の赴くままに思い出などを書き連ねてみたいと思います。
私たちの学生時代は、商大のテニスコートは 1 面のみ、東銀や三井のコートを
拝借し、練習を積み重ねたり、小樽での学生の試合などをしておりました。私が
庭球部に入部し、初めて斉藤さん、大和さん(北大 OB)にお会いしたのは東銀
コートでした。斉藤さんには早朝の練習、へとへとになりながらのストロークな
ど指導いただきました。相原先生は東北大 OB でもありますが、商大庭球部の面
倒を在学時はもとより、卒業後も見ていただきました。スミス先生のテニスは今
までの商大テニスに新しい面を加えたと思います。「プッシュプッシュ」、「意味
のないロブ」など大きなテニスシューズと共に思い出します。
また、コート整備も、今のオムニとは異なります。ローラーを引き、にがりを
撒き、水を撒き、白いラインを描き、草をむしりました。また、春休みは融雪促
進のためにスコップでコートの雪を掘るなど雪国ならではの苦労もありました。
そして、春は地獄坂を駆けくだる雪解けの水の音とともにやってきました。
新入生が入り、北国にも遅い春が来ると、春の対北大定期戦となります。やは
り、定期戦が団体戦でもあり、一番の目標であった気がします。私が入学した昭
和 36 年春は北大コートで定期戦がありました。上級生のテニスは自分たち初心
者から見れば手の届かないはるか上にあり、よもや上級生が負けるなどとは思い
もしませんでした。また、此の時は先輩達も今までのメンバーから勝利を確信し
ていたようです。ところがなかなかの接戦でした。古米、中島という関西から入
学したテニス経験者の 1 年生の活躍もあり、3 勝-6 敗で敗戦(フルセットが 4
つ)、秋は 3 勝-5 敗 1 分けでまたも苦杯を喫しました。榎本さんは「この年の
北大戦の悔しさを今でも忘れることは出来ない」と部誌にかかれています。その
悔しさを晴らしたのは昭和 42 年 6 月 5 日でした。榎本さんからの勝利を告げる
速達葉書が到着しました。「前略 とうとう待望の手紙を書くことができまし
た。・・・・・・・・」と。この思いの込められた葉書は今でも大事に取ってあ
56
ります。当時の北海道の学生テニスは北大と商大がライバルであり、たがいに定
期戦での勝利を目指して切磋琢磨していたといえます。
しかし、就職し、東京で見たテニスの世界は「広い」というのが実感でした。
小樽、北海道、日本、世界と広がっていく認識できる世界、今振り返ってみれば、
テニスだけではなく、人としての能力にもそれほどの差異はないが、如何に広い
世界を、はやく理解し、はやく羽ばたくかが成長のためには重要と考えます。
東京では、OB 会で田中さん(S39)の手伝いをし、年代を超えて沢山の人の
知遇を得ました。なかでも陸田さん(S02)には公私ともに大変お世話になりま
した。或る日、会社を休み、田園クラブでテニスをし、その後田園調布の陸田さ
ん宅でテニスの汗を流し、ごちそうになり、テニスなどの話をたくさん伺いまし
た。手入れをされた庭には池があり鯉が泳いでいました。夜の銀座でも楽しいお
酒をいただいたり、また、毎年家族一緒に熱海の旅館へ招待され、皆さんと共に
楽しい宴会など思い出は尽きません。陸田さんは晩年、毎年小樽の商大コートに
出掛け、多額の寄付もしておられましたが、次第に体が不自由になってからは妹
さんが付き添って小樽へ出掛けていました。亡くなられた時のお葬式では、花輪
の順番は商大 OB 会がまずもって最初だったと記憶しています。さらに遺言で母
校庭球部への寄付を指示されており、母校庭球部を心の底から応援して頂いた先
輩でした。
母校は創立百周年です。庭球部の歴史もほぼ同じでしょう。私の歴史も小樽商
大庭球部に入部以来、先輩後輩との交流を経て、ちょうど 50 周年です。まだま
だ楽しい交流を続けていきたいと思っております
以上
<創部 100 周年に寄せて>
東京緑庭会 会長
青木高史(昭和 42 年卒)
小樽商科大学硬式庭球部が今年で創部 100 周年を迎えることになり、心から
お祝いを申し上げます。
100 年の歴史の中で 4 年間という短い期間でしたがこのような伝統のある硬式
庭球部に籍を置いたことに本当に誇りに思う次第です。部誌「緑庭」も 1962 年
の創刊から 48 号まで約半世紀の間途絶えることもなく、ますます充実してきて
いることにも感銘しています。そして、久し振りの良い機会なので、私が入部し
た年の「緑庭」2 号をひも解いてみました。
厚さは現在の 3 分の 1 位(刊行 2 号なので名簿欄が薄いせいもあった)です
が、90%以上が部員の投稿で埋め尽くされ、テニスに対する情熱や心意気が脈々
と伝わってきて、当時の模様が懐かしく思い出され、本当に充実しているなと思
いました。そして特に後半には誰が執筆担当したかはわかりませんが各部員のプ
ロフィールがあり大変ユニークで、また当を得た表現には当時を思い出させ大変
懐かしく感心させられました。
57
この様な節目の年に当って、手元にあった当時の戦績データを頼りに、私の4
年間をざっと振り返り総まとめをしてみました。入部の経緯は省略しますが、入
部した時には今まで見た事の無い硬式ラケットと白球には正直言って珍しいも
の(田舎の高校出なので硬式テニス部はなかった)を見るようでした。一方先輩
がいとも簡単にするプレーを見て、これなら何とか自分にもできそうだと軽い気
持ちになったのも事実でした。しかし、現実は大変厳しく、柔軟体操、三角山へ
のマラソン、素振りに明け暮れ、実際に先輩から借りたラケットで球を打ってみ
ると全く思うようにならなかったことが思い浮かばれます。そして当時東京銀行
から借りていたコート(学校のコートは1面のみでレギュラー用であった)でや
たら目ったらラケットを振り回していたことが懐かしく思い出されます。
そして時々東京銀行のコートに視察に来ていた、当時のキャプテン田中さんから
「満場で恥をかくのも練習の一つ、試合度胸を早くつけろ」の一言で、まだバッ
クハンドも打てずサーブはアンダーの状態の中で、7 月小樽で行われた第 15 回
北海道体育大会庭球競技の公式戦にデビュー、なぜか1回戦に勝ったものの 2
回戦はシードの榎本先輩 に当り、全く歯もたたず、苦もなくひねられ苦い思い
をしましたが、これが後々の良い経験となったことも事実です。
1年目の終わりは納会前の学内新人戦で、これに優勝したのは大変貴重で、これ
を機にテニスに目覚め意欲がでてきたのではないかと回想しています。
2 年目は春合宿で幸いに好成績を残したこともあり、春の北大定期戦に初デビュ
ーさせていただきましたが完敗、またまた苦い経験をさせられたのが記憶に残っ
ています。そして、9 月札幌で開催された北海道 B 級庭球大会では苦戦の末、公
式戦での初優勝を果たし、これが自分なりにテニスに自信を持つきっかけとなり
ました。
3 年目は主将という大役を仰せつかり、北大打倒を目標に頑張りましたが、秋の
対抗戦で 3 対 5、1 預かりの成績がベストで残念ながら勝利を収めることができ
ませんでした。対抗戦での個人成績を見ると、春はシングルス、ダブルスとも勝
ちを収めましたが、秋はシングルスの預かり、ダブルスは負けとなってしまいま
した。そしてこの年の北海道での公式戦は秋の学生選手権の決勝で和田氏(神戸
大)に敗れ準優勝をしたことのみで他の試合は全く芽が出ずシーズンを終了しま
した。
4 年目は重責もなく気分的に楽になり、時間的にも余裕が出てきたこともあった
のでしょうか、まさにテニス三昧の毎日でテニスに没頭していました。春の学生
選手権は No.1 シードでしたが、残念ながら決勝で北大の安川君に敗れ準優勝と
なってしまいましたが、これでインカレへの出場権を得たので、テニスの勉強の
ため東京の田園コートへ行ってきました。1回戦は No.16 シードの榎本氏(日
大)に当り、当然のことながらストレート負けを喫しましたが、中央でのテニス
のプレーを目の当たりに見て本当に参考になったと思いました。そして就職も決
まった後の、夏の北海道選手権ではノーシードでしたが、結果として幸運にも、
シングルス優勝、ダブルス準優勝という大きな成果を勝ち取ることができました。
これにより、全日本庭球選手権(オールジャパン)に北海道代表で出場する栄誉を
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頂きこれまでの人生での最大の喜びと感激を味わいましたが、同時に大変お世話
になった商大硬式庭球部に少しでも恩返しができたのではないかと思っていま
す。そして、これは諸先輩、同期、後輩の皆さんの応援と支えで掴んだものであ
り、改めてこの紙面を借りて御礼を申し上げます。
お陰様で社会人になっても常にテニスだけは忘れず、プレーをする機会と、ま
た有名な選手ともテニスをする機会にも恵まれたのも、真に小樽商大硬式テニス
部が原点にあったのだと今も肝に銘じ大変感謝しています。
参考になるかどうか判りませんが、私は当時大事な試合の前の晩はなかなか眠
れないことがありました。そんな時はいつも枕元に置いたあった著名なプレイヤ
ーのチルゼンの書いた「How to tennis」の戦術編を読んだものです。その中に、
「リードしているときはペースを変えるな、逆に負けているときは変えよ」、
「重
要なポイントでリードしているときは自分より相手の方がもっと苦しい」「相手
の弱点は重要なポイントの時に攻めろ、効果が倍増する」等々で、それで気持ち
が落ち着きぐっすり眠れた記憶があります。
いずれにしても、私の総まとめとして色々書いたつもりでしたが、結局は自分
の自慢話に終始してしまったようにもなり、その点ご容赦願います。来年はつい
に古希を迎える年齢になりましたが、いまだ未熟なテニスで益々納得のゆかない
テニスとなってきて悩んでいますが、少しでも現状維持に努め、健康のためにも
出来る限り長くできるよう精進してゆきたいと思っています。
最後になりますが、伝統ある小樽商大硬式庭球部の益々の発展と栄光を祈念し、
また諸先輩、後輩、現役諸君の健康と発展をお祈りして筆を置きます。
【 東京緑庭会テニス大会(練習会) 】
2010 年 11 月 6 日
於
59
松戸テニス倶楽部
<二代のマネージャーが明かす『緑庭』第3号裏話>
= 前 編 =
長岡 佑吉(昭和 42 年卒)
私(当時副務)の携わった部誌は昭和 39 年(1964 年)12 月発行の第 3 号であった。
遠い昔のことなので記憶が定かではないが、書棚に残してあった第 3 号を眺めな
がら思い出すことを記してみます。
1.まず表紙、パーマネントグリーン色の用紙に「緑庭」の題字。当時の加茂学長
の筆。創刊時(昭和 36 年)、斉藤監督と相談の上「緑庭」と決め、部長の相原
先生を通じて加茂学長にお願いして頂いた経緯は、榎本先輩の寄稿(第 20 号)
に詳しい。加茂学長は白髪頭で文化史、技術史を専攻され、レオナルド・ダ・
ヴィンチについての著書多数あり(一例として「モナ・リザの秘密―レオナル
ド・ダ・ヴィンチの生涯」日経新聞社、昭和 49 年)。
商大での渾名もダ・ヴィンチであった。なお、加茂学長筆の題字は第 5 号
までで、第 6 号からは実方学長筆となった。
2.表紙の絵はスマッシュしている男の後ろ姿。いかにもテニス肘と判る太い
右肘。ネットの向こうには、受けようとまさに身体を右方向に回し始めた
男も入っている。この絵は私が何かの写真を参考に描いたペン画である。
ネットの隅に小さく y.n.のサイン入れてある。
3.肝心の本文内容については、主務の桶谷さん・大西さんが全て取仕切って
やって下さったので、私には特別の記憶がありません。
4.決算報告の責任者名に私の名前が記されています。内容が正確であったの
は申すまでもありませんが、ここに部誌に関する金銭的記録が無いことに
気付きました。因みに決算報告の中に部誌に関する金額が表に現れてくる
のは第 5 号(昭和 41 年)からである。創刊号から第 4 号までの部誌に関する
収支は決算報告とは別会計であったようだが詳細は存じていません。
部誌作成費用(印刷代・送料 etc)を賄う方法としてはダンスパーテイ収益と
部誌に載せる広告料の 2 本柱であった。
5.ここでダンスパーテイの思い出について。
パーテイは市産業会館ホールでオフシーズンの 11~1 月頃実施した。
パーテイ券を印刷して税務署へ持ち込み、非課税扱いにしてもらい、承認
の押印をスタンプ後、部員に配布した。最低ノルマを達成しないと自払いと
なるので結構一所懸命売りに回った記憶がある。
売り先は商大生(他部の同級・先輩)、家庭教師先にいるお姉さん、市内デパ
ートの女子店員さん(圧倒的に若い娘が多いので成功率は高いが、他の部も
週替わりでパーテイをやっているので熱心さと誠意ある対応<「パーテイに
来てもらったら必ず自分がお相手します!」等>が買ってもらえる大きなポ
イントであったが、我が部であっても早い者勝ちとなるので売り場の上司の
目を盗み小回りを効かせて何度も売り込みに行った)などであった。こうし
60
て買ってもらうと前述の「お相手」の約束を守る義務が生じる為、冬に向かっ
て我々部員も必然的にダンスを習うハメに落ち入り、ネクタイと背広姿の初
体験もこのあたりがきっかけであった。
6.もう一つの広告についての思い出。
第 3 号の広告主は、榎本先輩勤務の新宮商行、市内デパートのニューギン
ザ、今井、大國屋、北の誉、八田鶴(酒メーカー)、池田製菓、旭硝子、花屋、
三川屋(料理)、やまざき、バーニッカ、ペーチカ、フラーテ(呑み屋)、青い
鳥(コーヒー)、コンドウ(スポーツ店)、水晶堂、若林(めがね)、デイスク商
会(レコード)、写楽(カメラ)、信盛堂(洋品)の 21 社だった。
当時印刷用の広告原稿版を持っているところは大手以外殆どなく、コピー機
など便利なものも存在しない時代だったので、私が店のマッチとか看板など
を参考にして手書きの版も描かされました。同一人が描いたと判らないよう
に苦労・工夫して字体など変えたのですが、今見てみるとやはり自分のくせ
がどこかに現れていて隠し様が無いのが判ってなつかしく思います。
このように、当時入ったことも無い商店などに何軒でも飛び込みで頼みに回
りました。そのお陰でしょうか、社会人としてずっと長く営業畑を歩みまし
たが、飛び込みを苦に思ったことがありませんでした。
【 表紙絵 】
【 広告のページ(部分)】
61
= 後 編 =
桶谷
喜三郎(昭和 41 年卒)
本稿は、長岡君と共著の約束で、彼に先に書いて貰ったのを後から私が補足す
る積もりでした。が、長岡君の書いた内容は私の予想を遥かに超え、私の知らな
いことが殆どで書き足すことは何も思いつかなく共著はとても無理のようです。
強いて思い起こせば、2 人して広告取りに歩き、疲れたらサテン(茶店)に入っ
て次の対策を練る、という日々が多かったように記憶しています。テニスは下手
糞な 2 人でしたがマネージャーに推されただけあって、部誌の編集などはお互い
に大好きで、議論を重ねるのは楽しくとても遣り甲斐がありました。
創刊は榎本先輩や田中先輩が尽力されたと思いますが、長岡君が送ってくれた
第 3 号の目次を見ると、私はこの号から担当していたことになります。
目次から章建てを見ると、
・先輩寄稿
・四年生寄稿
『今は去る』
・一年生寄稿
『今年テニスを始めたタマゴ達』
・二、三年生の手記 :タイトルなし!
これらが一部、二部に分散・掲載されており、巻頭言に始まり、戦績、総評、部
員プロフィール、部員住所録、寄附者名簿、決算報告など盛り沢山な内容で埋め
られています。
『今は去る』という無粋な括り言葉の次に、
『・・・タマゴ達』い
う可愛い章が続く、何とも不思議な編集でした!
第 4 号からは、一年生寄稿は『ヒヨコのさえずり』となってタマゴから成長し
ています。
第 8 号になると『ヒヨコのさえずり』に加えて、『ヒヨコに対する苦言』も登
場、さらに第 9 号からは『ヒヨコに対する苦言』のみ残り、一転、一年生は鬼の
ような先輩たちに鞭打たれる構図と化しています。可笑しいのは、この章には、
一年生も混じって書いているようで、自虐なのかライバルの足を引っ張っている
のか、詳しくは手元に無いのでよく分かりません。
第 4 号以降は、後輩諸君の編集になるものですが、ヒヨコはどんな形であれ、
暫くは章建てとして使われたようで、卒業後送付されてくる部誌に同じように形
が残っているのは、誇らしくとても気分を良くしていました。
第 3 号の編集後記の近くに、『思うこと』というコラムを設け他章に出番のな
い柿沢副将、大西主務、桶谷主務(この時は主務二人制)の 3 名に語らせる場を作
った。ここに残る文章は、今読んでも当時の三人三様をしのばせるものがあり、
まさに「雀百まで踊り忘れず」の感が湧く。
(了)
62
= 付 録 =
部誌「緑庭」を発行しなかった
田中
隆二(昭和 39 年卒)
創刊号は榎本さん(昭和 37 年卒=1962 年卒)が発案し段取りをして、当時サブ
マネージャーだった私が下働きをしました。私が主将になったのは昭和 37 年夏
ですが、そのシーズン終了後の昭和 38 年初めに発刊すべき第 2 号は出なかった
のです。それで 2011 年版は 49 号なのです。本来は記念すべき 50 号のはずだっ
たのに。
昭和 37 年(1962 年)の夏、村井幸雄さんから主将を引き継ぎましたが、夏休み
期間中に台風で雨が続き、土砂崩れでコートが埋まってしまいました。台風一過
の朝、一年生の宮下佳廣君が「大変だ! 大変だ!」と息を切らして花園町の私
の家まで来たのを覚えています。
一面しかないコートがつぶれ、一年生は入学者約 170 人中 23 人も入部してい
ました。幸い当時の大銀行は小樽に支店があり、各々コートを持っていましたの
で、東京銀行のコートや市営コート等を借りて練習しました。こんな訳で、マネ
ージメントの他にコート探しに忙殺され、部誌まで手が回らなかったのです。
翌年の春の対北大定期戦は出来たばかりの小樽商大コートで行われました。金
網はなく、一年生がテニスのネットを横断幕のように広げて後ろに立っていまし
た。学生時代に一般の部で北海道選手権をとった古米武治さん(故人)の強烈なサ
ービスでコートの面がへこんでいました。跳躍するような伸びのあるサービス・
スマッシュでした。彼との対戦は一生の思い出です。
<ふたつの母校の百周年で思い出すこと>
東京緑庭会 事務局長
早川
好寛(昭和 44 年卒)
このところ「周年」ばやりである。去年は所属する地元テニスクラブ、湘南フ
ァミリーローンの創立 35 周年があった。今年はいわずと知れた小樽商大創学、
硬式庭球部創部百周年、ついでに私の奉職する日本経済新聞社の創刊 135 周年
でもある。そして来年は、やはり母校である札幌西高校が創立百周年を迎えるこ
とになっている。これまでの 65 年間、濃淡はあるがずっとテニスと関わりなが
らなんとか生きてきて、出身校や所属する団体も同様に齢を重ねてきてくれた。
お互いの無事と“無病息災”が本当に有難く感じる昨今ではある。
=商大時代のテニス=
小樽商大硬式庭球部が大学創学の年に創部されていたと知ったときは、本当に
驚き、晴れがましく思ったものである。
日本にテニスが伝えられたのは 1878 年。横浜の外国人居留地に「テニスクラ
ブとコートがつくられた」との記録が残されているが、日本人がプレイをしたと
63
いうわけではないようである。日本人が初めてテニスプレイをしたのは、日本テ
ニス協会の資料によると、翌年の 1879 年という説があるがはっきりしない、と
されている。1886 年、東京高等師範学校(現筑波大学)に「ローンテニス部」
が出来たことは確かなようだが、ゴムマリを使った軟式が主流だった、とされて
いる。硬式テニスの時代は、慶応義塾が本格的に硬式を導入した 1913 年まで待
たなければならない。
硬式であれ軟式であれ、この頃は日本のテニスの黎明期である。その時期に小
樽商大テニス部は創部されたのである。当時の小樽という町と商大(小樽高商)
に満ち溢れていた旺盛な進取の気象を思わずにいられない。
そんな伝統ある小樽商大硬式庭球部での「私の 4 年間」
(昭和 40 年から 44 年)
は必ずしも順調なものではなかった。テニス部員としては、はっきり言って「お
荷物」だったのだろう、と思う。対北大戦の戦力でもなく、後輩を育てる技も指
導力もない。何度も退部しようと思ったが、その都度引き止めてくれたのが故斉
藤進監督。「4 年間プレイを続けて社会人になれば、多分、ひとかどのプレイヤ
ーとして通用する」を頼りに、何とかしがみついていた、というのが実情である。
齊藤監督の“予言”通り、今でもテニスを続けることが出来ているし、会社で
はいくつかある「対抗戦」のレギュラーとしての地位をしっかり確保している。
学生時代には全く縁のなかったポイントゲッターとして、周りのものに“尊敬“さ
れてもいる。
学生時代のテニスでひとつだけ誇れることがある。テニス部内の新人戦(中川
杯)で最後まで勝ち続けたことだ。商大テニス部の新入部員に、経験者はまずい
ない。私は数少ない経験者の一人で、ライバルは札幌南高出身でやはり経験者の
藤森宏泰君。ただ彼は夏の合宿明けの新人戦には、なぜか出場しなかった。残る
優勝候補は佐藤則之君と原照雄君だが、二人は準々決勝で“デスマッチ”を展開。
佐藤君が勝ち残ったが準決勝で、前日の長い試合がたたりダークホースの江川紘
史君に敗れてしまった。漁夫の利のような優勝だったが、昨日のことのように覚
えている。
=札幌西高時代のテニス=
昭和 30 年代後半頃の北海道で、硬式テニス部のある高校は札幌南高、小樽潮
陵高校など数校だけで、わが母校札幌西高にはなかった。札西の硬式テニス部創
部は昭和 37 年である。北大 OB の数学教師、鳴海幸男先生と語らって、当時の
1 年生有志が硬式テニス部を立ち上げたのである。
立ち上げたはいいが、コートがない。コートは軟式テニス部が独占していて入
り込む余地なし。学校の許しを得て、鎌と鋤をもってグラウンド奥の空き地を“開
墾”、ボレーボレーのできるスペースを辛うじて確保して練習をしたものだ。創
部したばかりの西高硬式テニス部だが、この年、潮陵高校コートでの高体連北海
道大会(インターハイの北海道予選)に勇躍出場を果たしたことも、ほろ苦い思
い出である。在部 3 年間、報告できるような戦績はやはり残せなかった。
札幌西高の硬式テニス部で、1 年下には現在関東楡庭会副会長の長友國男君が
64
いた。商大テニス部では昭和 48 年卒の浜田光久君がいる。
=クラブテニス=
神奈川県の茅ヶ崎に住んで 36 年。横浜から引っ越してきて最初にやったこと
がテニスクラブ捜し。住まいに一番近かったのが湘南ローンテニスクラブだが、
ここは会員がいっぱいで入会を断られ、やむなく発足したばかりの湘南ファミリ
ーローンテニスクラブに入会して現在に至っている。
湘南ローンには北大の名選手安川淳一さん(現在関東楡庭会会長)や倉知和人
さんが会員として活躍しておられ、後日安川さんに、入会を断られたいきさつを
話したところ「言ってくれればすぐ入れてあげられたのに」とのこと、残念なこ
とをした。
テニスクラブ入会から 10 年間ほどは仕事が猛烈に忙しく、土曜、日曜日にテ
ニスでリラックスできるような状況ではなかった。40 歳を過ぎたあたりから少
し余裕ができ、クラブライフを楽しめるようになり、40 歳以上の有志で「フォ
ーティラブクラブ」立ち上げ、朝練習に励んだものだ。クラブトーナメントでは
練習の甲斐とパートナー運に恵まれ、それまでほとんど縁の無かった優勝の機会
にも恵まれ、すっかりいい気になっている。
「フォーティラブクラブ」のメンバーは、湘南に工場があるソニー、IBM、三
菱電機、IHI、住友 3M などのサラリーマンのほか、歯医者さんや学校の先生も
いて、文字通り「異業種交流」の場でもある。現在も続いているが、多くの人は
既にリタイアし、
「フォーティラブクラブ」も最高齢 77 歳を含む「アバウトセブ
ンティクラブ」となっている。
卒業後 42 年。この間、
1年間にわずか4~5回だったプレイが月 1 回となり、
今では 1 回のプレイ時間は短いがほぼ毎週1回はプレイする。この間に体重は
30 キロほど増えた。変形性膝関節
症に悩まされながらも、明日もコートに立とうと思っている。
「たかがテニス、
されどテニス」である。
**次ページは昭和 37 年(1962 年)の「第 2 回北海道高校庭球選手権大会」の
パンフレットの表紙絵です。故斉藤進監督はレフリーを務められ、田中隆二
さん(S39 卒)は審判をしていたそうです。会場は小樽潮陵高校テニスコート。
この大会には高校 1 年生の早川好寛さん(S44 卒)が札幌西高校のメンバーに
名を連ね、シングルスに出場しています。
物持ちの良い田中さんに感謝!
(編集担当)
65
= Local で Private な話 =
この大会に出場している小樽緑陵高校(現 小樽商業高校)1 年生の笠間昭子
さん(現 小樽テニス協会会長 近藤真章氏夫人)と岸田順子さん(現 小樽
テニス協会副会長 松井紀夫氏夫人。松井氏は小樽潮陵高校 61 期、S42 卒=私
と同期)は我等庭球部同期の野郎どもの「あこがれの的」、素敵なお姉様でした。
尚、早川さんと同期の佐藤則之さんは近藤ご夫妻・松井順子さんと同期・同窓。
ナ何と! 小樽千秋高校(現 小樽工業高校)の庭球部監督は私の義兄でした。
ビックリ!! 早速連絡を取りましたが、大変懐かしがっており「その当時、
小樽千秋高校では軟式テニスの部しかなく、一人硬式テニスの試合に出たいと
いう生徒がいたので、監督を引き受けさせられた。」との事でした。義兄は、
その後赴任した数か所の高校で庭球部の面倒をみました。
髙橋正明(S46 卒)
66
<商大庭球部の忘れ得ぬ人々
-ウォーレス・スミス先生と岡田一利さん->
江川
紘史(昭和 44 年卒)
私が商大庭球部に入部した 1965 年(昭和 40 年)の春、コート脇で柔和な顔
付きの大柄な外人さんを見掛けた。当時 4 年生の先輩数人と言葉を交わしていた。
その外人さんは間もなくコートに立ってボールを打ち始めた。どなたが相手だっ
たのかはまるで覚えていないけれども、諸先輩たちとは明らかに違うプレー振り
であった。近くの人(恐らく 2 年生)に尋ねると、その外人さんはウォーレス・
スミス先生という商大の英語の先生で、かつてダブルスでカリフォルニア州学生
選手権を取った人だと教わった。独身ということでもあった。当時、40 歳前後
ではなかったかと思うけれども、年齢は尋ねたこともなく、全くわからない。
スミス先生は、コートに来られることはそんなに多くなかったが、来られた時
には私たち新入生にも親切に教えてくださった。覚えているのはサービスで、構
えの姿勢、左手のトスと右腕によるラケットの持ち上げ方からボールを打つまで
のリズム等を根気良く教えていただいた。残念ながらそのサーブを会得した者は
私を含めて我が同期生のなかにはいなかったが。
スミス先生が忘れ得ぬ人となったのは、夏が近づいたある日の夕方、先生に誘わ
れて、花園公園下辺りの屋外レストランで生ビールとジンギスカン料理をご馳走
になり、その後、花園公園近く(だったと思う)のご自宅に招かれて一泊したこ
とがあり、その時の会話の中で今でも記憶に残る遣り取りがあったからだ。
その日招待されたのは私一人だけだったのが気になっていたので、ジンギスカン
料理を食べながら、どうして私を呼ばれたのか先生に尋ねてみた。すると先生は、
それは貴方が何ものにも拘束されずに自由を満喫している雰囲気を持っており、
全学の新入生の中でも珍しい存在だという趣旨のことを述べられ、続いて、その
理由の一つは貴方が山口県出身で北海道には貴方を監視する親戚も知人もいな
いからではないかと喝破されていたところを披露された。私は先生の担当英語ク
ラス員ではなかったため、コート以外で先生との接点はなかった。にも拘わらず、
素性を知られているのに驚かされた。スミス先生は私が言葉を発する前に私の驚
きを察して、「私はこの学校の教師です。学生のことは何でも分かるのです」と
ニヤッと笑って説明された。後から考えてみると庭球部の先輩のどなたかから聞
き出していたに違いない先生のユーモア返答だった筈だが、純情な私は、そこま
で調べるかと更に驚いた記憶がある。
当時の私自身を振り返れば、小樽に身寄りがなかったことは事実であるけれど
も、山口市(当時人口 8 万余)という小樽よりも小さな町で育った田舎者には、
長い浪人生活から解放されて、大都会ではない小樽という身の丈に合った町の大
学生活が楽しくてしようがないという風であったように思う。大都会の喧躁、華
やかさ、冷たさ、猥雑さからほど遠い小樽が私にフィットし、初めてテニスラケ
ットを振り始めた運動神経の鈍い私でも受け入れてくれた小樽商大庭球部の生
67
活を私は心から楽しんでいたことが思い起こされる。井の中の話だが、その年の
部内新人戦で私は準優勝した。準決勝の相手は佐藤則之君であったが、大方の予
想に反して、セットカウント 2‐1 で私が勝ってしまった。決勝の相手は既に前
日勝ち残っていた早川好寛君で、高校時代からテニス部だったという早川君には
2‐0 で敗れた。その後の私のテニスは、新人の今井央君に最初に勝ちを献じた 2
年生となり、更に翌年は、長野県の高校チャンピオンだったという宮本守彦君に
敗れた 3 年生第1号となり、当時は随分情けない思いをしたものだ。二人ともそ
の後ぐんぐん強くなったのが、せめてもの慰みだ。
話をジンギスカン料理の夜に戻そう。食事の後、そのレストラン近くのスミス
先生宅に招じ入れられた。アルコールに弱い私は、レストランでの生ビールジョ
ッキ1杯で既に酔っ払ってしまっており、先生手作りのいくつかのデザートに手
をつけることもなく、ようやくコーヒーをいただいただけで休ませてもらった。
休む前に先生から強く抱きしめられた。
翌日、同じ下宿の桶谷喜三郎先輩に前日のことを報告すると、それでお前無事だ
ったか、との質問を受けた。スミス先生が同性愛者だということを私はその時、
既に知っていたと思うが記憶は判然としない。知っていたらもっと用心していた
のではないかと思う一方、知っていたから抱きつかれても動顛せず、先生がそこ
で自制されたとも考えられる。今となっては謎である。しかし、もともと先生に
はその日私と更に親密になろうとの意思はなく、もう少し起きていてくれたら話
がもっとできたのに、という思いもこめて純情可憐な私にお休みのハグをされた
というのが正解だと思う。
翌朝、先生はにこにこしながら、朝食を準備し、前夜と変わらず丁寧に私をもて
なして下さった。スミス先生のにこにこ顔は、先生を知る人たちは肯かれると思
うが、大変慈愛に満ちた顔であり、それは人を乱暴に扱われることのない人柄を
現わすものだった。
ところでスミス先生による私に関する調査は不十分であった。私が小樽商大に
入学した時、私を知る人が一人もいなかったという先生の推量は惜しくも外れて
いる。以前から私を知っている人が只一人存在していたのだ。
今さら隠すことはないが、恥ずかしながら私は入学前年も小樽商大を受験して失
敗していた。入学試験は東京会場で受けた。試験当日、うろうろしながら受験会
場に向かっていたら同じような一人の受験生と一緒になった。彼は大阪から来た
と言い、偶然にも受験場では席が直ぐ傍であった。二日間の試験が終了した時に
は、互いに親密感を覚えるまでになっており、小樽で会えたら会おうと声を掛け
あって別れていた。
翌年、私は再度の試験にようやく合格し、入学するために生れて初めて青函連絡
船に乗った。空いた座席を見つけ、荷物を横に置いて座ったところ、日焼けした
数人の学生グループが傍に来た。彼らは東京遠征から小樽への帰路にあった商大
庭球部の人達で、その中に部のサブマネージャー・長岡佑吉先輩がおられ、連絡
船が函館に到着するまでに私の庭球部への入部はほぼ決まっていた。また、その
庭球部員の中の一人が木戸先輩で、私が小樽に到着してから宿泊旅館を探すと知
68
った木戸先輩から自分の家は小樽駅前で遠慮は要らないので下宿が決まるまで
家にいろと勧められた。夕暮れの小樽駅に着いたら、一行を新 4 年生のマネージ
ャー桶谷喜三郎先輩が迎えに出ておられた。私は久し振りに自宅に戻られる木戸
先輩に連れられて先輩宅に行き、内地からの帰樽歓迎家族宴に加えていただいた。
結局、入学式当日も木戸先輩の家から登校した。
翌日、それは入学式の前日であったが大学の紹介で下宿を決めたら、そこに庭球
部マネージャー・桶谷喜三郎先輩がおられたという偶然も重なった。
さて、入学式当日、式の後、入部手続きに来いと桶谷先輩から指示されていたの
で学生会館の指定場所に辿り着くと、一団の中から「お前さん、去年受験場で一
緒だったあんたじゃないか」と、にこにこ顔で声を掛けてきた真っ黒に日焼けし
た人がいて、それが岡田一利さんだった。
という訳で小樽に来た時、私を1年前から知っている人がいたとはお釈迦様で
も知らぬ仏のスミスさんであり、その人が庭球部員であったというのも恐ろしい
程の偶然であった。今ではスミス先生を思い出すことは滅多にないが、思い出す
時は、二人だけのあの時あのレストランでの会話も必ず思い出す。
今般、本誌編集局の提案によりスミス先生の思い出を記し始めたら、あの会話の
時、酔っていなかったら、私には入学 1 年前から知る人がいて、それが誰あろう
岡田一利さんなのですよ、と私もスミス先生を驚かすことが出来たのに、と残念
な気持ちになってきた。
しかし、スミス先生との秘話と一緒に岡田さんとの知り初めもこの誌上で公表し
ようと思ったのは、本年 5 月末、約 40 年振りに岡田さんと会ったからかも知れ
ない。その時、私は大阪に出張し、連絡を取り合って夕刻に会い、ご馳走になっ
た。会う前は直ぐに分かるかなと少し不安があったが、指定ホテル前で待ってい
た岡田さんを私はタクシーの中から直ぐに彼と判別できた。その後の 2 時間余は
40 年前にタイムスリップしたようであった。
スミス先生とは社会人1年目だったと思うが、成蹊大学に移っておられた先生
に私たち同期生と1年先輩の方たち数人でお会いした。その時、先生から自著
「CAREFREE ENGLISH のんき英語」
(昭和 44 年 1 月 15 日初版、同年 10
月 15 日増刷 ㈱英宝社発行、定価 480 円)を紹介され、購入した。その時先生
が持っておられたのか、後に書店で買ったのかは覚えていない。今回自宅の書棚
を探したら出て来た。それは英語教本で、途中まで勉強した形跡が残っていた。
先生とお会いしたのはそれが最後だが、大分前に亡くなられたと聞いている。も
うお会いすることはない。
また、岡田さんとは私が最初に入社した相互貿易の多摩川寮のテニスコートに
濱田光久君ほか数人の現役学生庭球部員が来てくれたことがあり、その時、岡田
さんも来られて皆一緒にテニスを楽しんだ。これは先日の 2 時間余の間の会話の
一幕に登場した。相互貿易は私の入社 2 年目の夏に住友商事との合併により消滅
しているので、濱田君達が来たのは 1969 年か 1970 年のどちらかだ。岡田さん
と今年の 5 月にお会いしたのはその多摩川テニスコート以来初めてのことゆえ、
41 年か 42 年振りのこととなる。この次お会いするのは何年後になるのかわから
69
ない。と、思っていたら、今度の庭球部創部百年祭に小樽まで来られると聞いた
ので、5 月からわずか1ヶ月余で再会できると知り、楽しみにしている。
スミス先生と言い、岡田さんと言い、時と空間が離れており、もう会えないか、
滅多に会えないのだけれども、お二人とも私にとって生涯忘れることのない人で
ある。
庭球部員に技術指導をする故スミス コーチ。
昭和 39 年(1964 年)?の撮影か。同氏より頂いたスライドより。
左端に写っているのは岡田一利さん(S44 卒)では?
<経済大国日本への追憶>
梶原
啓光(昭和 44 年卒)
私が卒業した前年の 1968 年、日本は GDP 世界第 2 位の座に上り詰め、その
後一時は Japan as No.1 と言われた時期があったものの、会社生活の幕を引く直
前の 2010 年中国にその地位を奪われたということは、日本が最も輝いてそして
徐々に衰退していたこの期間、私は商社のグローバルビジネスに携わったことに
なります。特に 1980 年代は米国の隣のカナダで北米市場に、1990~2010 年代は
3 度の駐在を通して中国市場に携わったことより、米国に追い着けずに中国に追
い抜かれたことに不思議な縁を感じており、来年 2 月に 43 年間の会社生活を終
えることになる追憶として、日本経済の成長と停滞という外部環境の下で、私が
北米、中国に於いて行ったミクロなビジネスがどのようにマクロと関連していた
70
のかについて、10 年毎に時代を区切って思い出すことにします。
1970 年代:1969 年に住友商事に入社後、東京で航空機用装置・部品の輸入ビジ
ネス、その後名古屋で国内ビジネスを経験していたが、当時の花形であった輸出
ビジネスをやりたくて、1979 年に欧米向け通信・電子輸出担当として東京に戻
って来ました。 この 10 年間の日本は、戦後のブレトンウッズ体制で固定相場
として1米ドルが 360 円であったものが、1971 年のニクソンショックで 300 円
程度の変動相場となり、1973 年の第一次石油ショックによる高インフレ発生等
の日本経済への試練が相次いで海外から押し寄せて来たものの、その都度競争力
を強化して円高の道を邁進していました。1970 年代は海外から資源・材料を輸
入して、国内で製造・加工して完成品として海外に輸出するというビジネスモデ
ルを活用して日本が強くなった時代でありました。一方、当時の中国は毛沢東と
江青等の 4 人組による文化大革命の大嵐の中で多くの人に不幸を強いた暗黒の
時代でありました。
1980 年代:1984 年に最初の海外勤務地としてトロントに赴き、世界第一位の経
済大国である米国の隣のカナダで、機電ビジネスを担当することになり赴任早々
に CNCP という第二電電会社から、トロント―モントリオール間の日本電気製
光伝送装置(容量:405MB)を受注しました。当時としては最高速の基幹ネッ
トワークでありましたが、今はギガ・テラビットの時代ですので、通信分野での
技術革新は目覚ましいものがあります。日本の通信伝送装置はハードの品質が良
く割安な為に北米電話会社に良く売れましたが、1990 年代に入る直前に急速に
競争力を失いました。原因は欧米メーカーによるソフトによるハードの制御化に
対応出来なくなった為であり、今のパソコンの世界では当たり前ですが、ソフト
更新によってハードの交換無くして、ハード./ソフト全体の機能をアップグレー
ドさせるというビジネスモデルの前に衰退したものであり、ハード万能時代が終
わりを告げました。
マクロ的に見ると、1980 年代は米国との経済摩擦が高まり、結果として 1985
年のプラザ合意で急激なドル安・円高(円の価値がほぼ倍増)となり、日本企業
は米国等の先進国に一部製造拠点を移して、円高と経済摩擦に対応すべくビジネ
スモデルの変更を余儀なくされました。
一方、中国は 1978 年以降実権を握った鄧小平の改革開放路線をとり、「黒い猫
でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ」を標語に資本主義的要素を取り入れ始め
ましたが、学生の民主化要求が激化した 1989 年 6 月の天安門事件を引き起こす
ことになります。この騒動で民衆が戦車の前に立ち止まるというショッキングな
テレビ映像を出張中のボストン空港で目にしましたが、3 年後に中国勤務になる
とは思い浮かばぬことでした。
日々のビジネスの面では、円高の影響で競争力を失った日本から仕入ソースを台
湾、香港、韓国に移すことに苦労したり、給与がカナダドルで支給されるので円
に交換すれば経済的損失を蒙ったり、公私共に急激な変化への対応の連続でした。
71
しかしながら、Japan as No.1 と持て囃されて、The Seiho と畏れられた日本の
生命保険会社と銀行が中心となり米国資産を買い込み、日本経済が最盛期で日本
人のステータスも高まっている中で 6 年半北米に接したことは幸せでしたが、日
本のバブル期のメリットを享受出来なったことは、良いのか悪いのか評価は難し
いところです。
1990 年代:日本に戻ってから 2 年後に突然 1992 年に中国との関係が始まり天
津に駐在しました。天津は人口 1000 万人の直轄都市ですが、当時固定電話はク
ロスバー交換機の 25 万回線しかなく、希望者が列をなす状態であるものの、資
金不足の為に円借款援助に大部分を頼っていました。 ところが、1992 年の鄧
小平の南方講話以降、電子交換機による固定電話網は、信じられないのですが、
その後数年間年々倍増するという急拡大を遂げることになりました。メーカーで
ある日本電気の技術者はこのようなネットワークの急拡大は完工出来ないと云
っていましたが、中国人は見事に納期内に成し遂げたので、彼らの人海作戦/高
い工事能力(紀元前の万里の長城建設から判るように)より、中国は国策さえ間違
わねば必ず経済発展することを確信しました。
変化のスピード感も凄まじく、その後欧米の通信機器メーカーとの競争が激しく
なり、単なるファイナンス付きトレードではなく、投資を伴う通信ビジネスが要
求される流れの中で、1996 年米国スプリント社と共に、天津に固定電話網 5 万
回線を有する第二電電なる事業会社を設立して、中国の成長に賭けて 2 回目の天
津駐在となりました。 これは中央政府の認可を得ての進出でしたが WTO 加盟
前後の思惑もあり、2001 年中央政府の方針変更により違約金を貰っての撤退を
余儀なくさせられましたが、既に時代は固定電話から携帯電話に急速に切り替わ
っていた時代でした。 日本がバブル崩壊で失われた 10 年と苦しむ一方、米国
はIT、金融を中心に復活を遂げた時代であり、日米間の経済摩擦は大きく緩和
しました。一方、中国はこれ迄の共産主義から資本主義に近い社会国家に大きく
舵を切った変遷期であり、外国資本を導入して貧しさからの脱皮を計っていまし
た。技術開発区等の法人税が減免される地域に日本を含む欧米の外資企業が進出
して、中国人に技術、管理、経営を教えながら、中国を世界の工場として本国に
持ち帰る(輸出する)スキームが樹立されました。1995 年頃の北京は、天安門
通りにベンツと馬車が共存して走っている不思議な町であり、6 か月離れると別
な町になっていると云われていました。
2000 年代:ITブーム崩壊による一時的な停滞も国際金融ビジネスの活発化に
より、安定した経済/人口成長を続ける米国と、デフレを克服出来ずに低成長/産
業空洞化/少子化に悩む日本とは対照的に、中国は 2001 年の WTO 加盟を梃子に、
毎年 10%程度の急成長を続けて、日本との GDP の差を一気に詰めた時代でした。
2002~2005 年頃に青島にある中国家電メーカーと世界市場での提携ビジネスを
模索しました。これ迄、世界市場に圧倒的な地位を占めていた日本の家電メーカ
ーが韓国、中国勢との競争力低下の為に、軒並み赤字転落して選択と集中を迫ら
72
れた時期でした。商社機能を発揮して日本/中国家電メーカーの世界市場での棲
み分け、日中家電量販店の業務提携等を目論み、今から振り返ると 5 年間ほど時
代を先読みしての構想でしたが、日本勢は縮小する日本市場での勝ち残りに懸命
でありこの提携ビジネスは頓挫しました。
2006 年 に 車 の 設 計 ・ 製 造 に 使 用 す る CAD(Computer aided Design)
/CAM(Computer aided Manufacturing) ソフトを日系の自動車・部品メーカー
に販売・技術支援する上海の子会社に出向して 3 度目の中国駐在となりましたが、
技術漏洩を恐れて日本での開発に拘るトヨタ/ホンダ等の日本メーカーに対して、
中国政府が「技術と市場の交換」という論理で、中国への技術提供を迫っていま
した。日本メーカーはこの動きに抵抗を続けていたので、ソフト販売も期待通り
には拡大せずに、選択と集中路線に基づき 2 年後に日本の IT 専門商社に事業会
社を売却しました。日本が強かった家電、通信に続いて自動車、工作機械産業で
も、中国が追い着き、追い越す動きが顕著ではありましたが、中国はもはや世界
の工場というよりは巨大な消費をする市場としての魅力が語られる時代となっ
ていました。
最後に、1993 年頃やっと外貨準備高が黒字化した中国が今や 3 兆ドルを超える
規模になり、そして GDP 世界第二位になるとは信じられなく、1990 年後半で
も多くの評論家は中国が元の共産国家に戻るリスクを唱えて中国進出に警鐘を
鳴らしていました。 日本、欧米の外資企業が製造、販売、経営管理を中国人に
技術移転した 20 年間足らずに、これらを吸収した政府、国民の総合力がこの驚
異の成長を成し遂げたものです。今後は、日本の第 3 次産業が中国進出を拡大し
て、国民生活を向上させる良いサービスを持ち込むことで、成長する中国市場の
勢いを取り込んで日本経済が元気に復活するように、両国が win-win の関係を
構築することを祈っています。学生時代麻田ゼミで「ミュルダールの低開発国と
経済発展」についての卒論を纏めましたが、1990 年初頭に於いてまだ新興国で
あった中国の発展・成長の現場に立ち会えたことは、南北問題の理論と実践のマ
ッチングを検証する機会を得たことになり意義深く思っております。
<劣等部員の今>
岡村
孝(昭和 44 年卒)
昭和 40 年 4 月、小樽商科大学の入学式に、クラブ勧誘で硬式庭球部の先輩に
声をかけられる。父の転勤で転校した新設の帯広第六中学校で軟式庭球部を創部
し、テニスコート作りから始めた経験を踏まえ、再度テニスをやりたいとの思い
で躊躇なく決めた。同期の新入部員は十数名いたように思う。初めて商大のテニ
スコートに立ち、先輩の指導の下、3 年ぶりに握ったラケットの感触は気分を高
揚させた。講義の合間に新入部員はコートの四隅に立ち先輩たちのボールボーイ
を務める。先輩たちの指導は、素振り、コート整備、そしてボールボーイのマナ
73
ーであった。レギュラーや先輩たちが練習を終える夕暮れ時になって、初めてラ
ケットを持ちボールを打つことができた。1時間ほどの練習後、ローラーを引き
ブラシをかけ、箒でラインをはいてコート整備を終えると最後に旭展望台までの
ランニングをして一日が終わる。新入部員の歓迎コンパでは大いに盛り上がり監
督、部長、コーチそして先輩諸兄の気さくな対応や話題に伝統あるクラブの柔軟
さと権威の両面を感じ取った。こうした日常を繰り返している間に、十数名の同
期も 8 人に減っていった。私もその頃囲碁の魅力に惹かれ、講義のない日は新入
部員の役割義務の履行を時折サボタージュし、地獄坂の途上にある五楽園で囲碁
を打つようになった。地獄坂の正面通りを降りていくと先輩に会う確率が高いた
め、裏通りを通って五楽園に向かう頻度が多くなっていた。こうした行動はやが
て同期および先輩の知るところとなり、昭和 41 年 3 月、当時の青木キャプテン
に呼び出され、「間もなく新たな新入部員が入ってくるが、貴君の行動は彼らの
ために好ましからず、ほかに興味があるのであればやめる、続ける気持ちがある
なら同期皆と共同歩調を取ることの何れか即答しなさい。」と事実上の退部勧告
を受けた。
故斉藤監督との朝練習では、右手平全部皮膚が剥けた状態でラケットを握り続
けて耐え、体育館での冬練習では床を滑るスピードボールに空振りしたり、技量
面においては同期の真面目な練習を積み重ねた連中に後れを取っていたが、1 年
下の後輩にはボール拾いの極意やコート整備のローラ-の腰を使った引き方を
教えたりと、すっかり庭球部員の一員として認知されるほどになった自分がコー
ト上にいた。昭和 43 年の北大定期戦の勝利と、東京遠征では当時の日本庭球協
会理事長の陸田清大先輩の計らいで田園コートでの OB との合同練習会を行う
など、イレギュラーながら商大庭球部の綿々と続く伝統と歴史の奥深さを直接体
験させてもらった。昭和 44 年 3 月、故斉藤監督、相原部長、スミスコーチ、真
面目な後輩達に送られ伝統の商大庭球部を気心の知れた同期共々卒業すること
ができた。
昭和 44 年 4 月、就職した太陽銀行浅草支店に赤坂支店の村田支店長代理から
電話があり、硬式庭球部を作るので手伝えとの内容。普通銀行に転換してインタ
ーバンクに加入するので、社内誌の新入社員の紹介欄に趣味が庭球とある新人に
連絡したとのこと。早速にテニスができる喜びで即了解の返事をした。成城大の
キャプテンを務めた村田支店長代理と自分を含めて 6 名が発起人となり、人事部
および総務部と折衝しクラブ創設の認可と、銀行からのクラブ助成予算を確保し
てインターバンクの加盟を 3 週間で行った。5 月の団体戦に参加するための強行
スケジュールであった。初回参加行は C クラスに登録され C クラス 14 行の、ダ
ブルス 3、シングル 6 の団体トーナメント戦である。6‐3、5‐4、5‐4 ながら
3 試合勝ち抜き、決勝戦では三和銀行に 3‐6 で敗れ準優勝する。初参加として
は大健闘であった。ちなみに当時のレギュラーメンバーは成城大2、慶応大 2、
山形大 1、小樽商大 1 で私を除き全員大学時代のレギュラーメンバーである。こ
の年、優勝した三和銀行はBクラスとの入れ替え戦に勝利し昇格した。当行も B
クラスを目指し月 2 回の合同練習を上野毛のコートで行うことを決めた。翌年は
74
同じく決勝戦で B クラスより降格した三菱信託銀行に敗れ昇格ならず。昭和 46
年、甲南大学のレギュラーで NO.3 の玉田君が入り、シングルス NO.1 で全勝し
他も勢いに乗り念願の C クラス優勝を果たした。入れ替え戦は宿敵三和銀行と
対戦で激戦の末 5‐4 で勝利し B クラス 8 行に仲間入りとなった。昭和 47 年は
強豪ひしめくBクラスで日本勧業銀行に 3‐6 で 1 回戦敗退後、クラス最下位と
なり入れ替え戦にも敗れ再び C クラスに逆戻り。このころ所帯を持ち越谷市の
アパートに居住、この年発足した地元の越谷市庭球連盟に加入し、47、48 年度
のシングルスチャンピオンとなり当時の小型の優勝カップは今回の東日本大震
災で壊れるまで大事に保管していた。昭和 48 年のインターバンクは再びCクラ
ス優勝し、入れ替え戦も制して再度 B クラス入りを果たした。昭和 49 年以降、
1回戦は勝利するも準決勝は突破できず B クラスに滞留することとなる。昭和
54 年沼津支店を皮切りに、昭和 57 年名古屋支店、60 年春日部支店と地方転勤
するまで、インターバンクでレギュラーとして、また越谷庭球連盟では役員兼テ
ニス初心者のコーチとして、卒業以来最もテニスに集中した期間であった。昭和
64 年王子支店勤務のころ、通勤と途上で左足首の靭帯を損傷し 3 か月間松葉杖
生活を余儀なくされた。完治確認のため、医者が最終治療を行う前日に、南浦和
駅で電車とホームの間に左足を挟まれ再びギブスと松葉杖のお世話になった。こ
の年満 42 歳の後厄の年であった。通算 6 か月の傷病期間で、テニスはおろかゴ
ルフもその他一切の運動から隔絶され、その後も月2回程度のゴルフ以外に運動
らしい運動は行わなかった。その影響で、体重 12 ㎏、ウエスト 12cm 増幅し体
型が一変してしまった。このころから、商大庭球部の東京 OB 会の集まりや、北
大楡庭会との OB 対抗戦の案内をもらうようになり、同期以外で久しくお会いし
ていない諸先輩や後輩達との懐かしい交流を持つことができた。中でも、北大楡
庭会との対抗戦では 17・8 年ぶりにラケットを握ったとは言え連戦連敗とテニ
スの技量は腹回りと反比例して減退していた。ダブルスを組んだ 2 年後輩の小浜
君から「先輩!もう少し練習してください!」青木先輩から「走って、もう少し
自分の範疇のボールは拾ってくれ!」と哀願された。以来、緑庭会の練習会には
必ず参加するようになったが、これといった成果が得られない。年 2・3 回の練
習では覚束ないことを認識し、テニスクラブの加入を一大決心する。平成22年
5 月、地元の「春日部硬式テニスクラブ」に入会することとなった。一応テニス
経験 40 年以上の実績を踏まえており、自信を持ってコートに立ったが、50 代の
主婦や70代の老爺の安定したストロークと正確なボレーに圧倒される。聞くと
ほとんどが 50 歳過ぎからテニスを始めて、毎日の練習を楽しんでいる様子で生
き生きとしている。クラブでは毎週日曜日、9 時から 10 時 30 分までダブルスの
実践に向けたスクールを開催しているとのことで早速そのスクールに仲間入り
させてもらった。コーチの年齢は 70 歳近いが指導員資格を持ち、現在のテニス
練習法を取り入れ適切にアドバイスしてくれる。スクールを終了した後はフリー
のダブルスペアーを組み、4 ゲーム先取の試合をするが、私のミスショットで
中々勝利に結びつかない。お互いに声を掛け合い、ミスの要因を反省しながら
12 時まで練習に取り組んでいる。今に至ってテニスの奥行きの深さと、テニス
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での交流の楽しさを満喫し、一方で北大楡庭戦での 1 勝に貢献する意欲に燃えて、
毎日曜日のスクールに臨んでいる。
商大庭球部の劣等部員は 65 歳を目前にして「たかがテニス、されどテニス」
を実感している。
<テニス部の思い出(1967/4~1971/3)>
蓮尾
伸一(昭和 46 年卒)
丁度 44 年前、1967 年私は生まれ育った九州から北海道の小樽商大へ入学した。
住まいは学校の上に当たる場所にある智明寮という名の男子寮で寮生は 100 名
程度であったと記憶している。三食(朝・昼・夕)
・電気代・水道代込みで月 5,000
円という値段は奨学金で大学に進学した学生には有難い寮であった。
入学早々、クラブ勧誘があり、私は ①野球部 ②柔道部 ③ラグビー部の順
でクラブを考えていた。だが、野球部のグラウンドは高校時代の野球部のグラウ
ンドと比較すると余りにもお粗末で野球部への思いは頓挫した。(因みに高校時
代は甲子園を目指す野球部員であった)また、寮内での噂では、柔道部、ラグビ
ー部ともに弱いとの評判があり、クラブを決めきれずにいたが、テニス部の岡田
主将の真摯なクラブ勧誘を聞き入部を決意した。
テニス部の練習は平日は 3:00 PM~日が暮れるまでの 3~4 時間なので、同期
の佐藤君と毎日 6:00AM~9:00 朝練習を続けた。昼食時(12:00~13:00)は斎藤
監督(故人)によく指導を受け、土日には榎本先輩をはじめ多くの先輩がコート
を訪れ、賑やかで楽しい練習ができた。
2~3 ヶ月するとボールを強く叩く事と自分の狙ったコースへコントロールす
ることが出来るようになった。その後ボレー、サーブとテニスの本を読みながら
毎日練習を欠かさなかった。そのうち夏合宿になり、徐々に同期のメンバーとダ
ブルス、シングルスの練習試合を始め、次第に先輩とも試合が出来るようになっ
た。合宿の練習も余り厳しくなく、食事時が楽しい合宿であった。合宿の最後の
打ち上げには多くの先輩が参加され、大いに飲み大いに歓談できた。秋になると、
一年生による学内トーナメントが開かれ、決勝で宮本君(長野県インターハイ代
表)に破れ、2 位になった。
1968 年(2 年生)になると、直ぐ北大との定期戦メンバー選考の学内試合が
行われ、幸運にも 2 年生では宮本君と私が選考された。北大との定期戦ではダブ
ルスは)宮本君と組んで NO.3 で、シングルスは NO6 で出て、共に勝利した。ダ
ブルスは宮本君のクレバーでトリッキーな動きで北大を破ったが、シングルスは
先輩から余り期待されていなかったのか「ミスはするな。繋いで繋いで相手のミ
スを誘うように」とアドバイスをされ 3 時間強繋いで繋いで勝った記憶がある。
春の学生選手権が終わると夏に東京遠征が組まれ、そこに選ばれ東京では陸田先
輩(故人)の尽力により田園調布にある田園コートでプレーすることが出来た。
そこで青木先輩に完敗したことを憶えている。その際陸田先輩(故人)、田中先
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輩、斎藤先輩等に大変お世話になり、凄く良い思いでとして残っている。東京遠
征が終わると夏合宿が行われ、それから秋の学生選手権へと繋がっていった。そ
の後に第1回北海道学生新人戦が開催され、第一回ということで今回限り大学
1・2 年生全員が対象となった。幸運にも決勝で林君(北大)に勝ち、初代チャ
ンピオンとなった。
1969 年の正月は岡田先輩と一緒に別府国際トーナメントに出場し、シングル
ス、ダブルスともベスト 8 で NO.1 シードの九州チャンピオンに敗れた。但し、
シングルスは第一セットを取ったものの雪降る中、北海道で見たことも無いよう
なスピンサーブとネットプレイで押し切られた。ここまでは私のテニス部生活も
順調すぎるほど順調であった。
1969 年春になり、テニスの練習のない日に佐藤君と一緒にスーパーに買出し
に行った。何を買おうとしたのか憶えていないが、突然目の前が真っ暗になり、
目が覚めたときは寮のベッドの上だった。(佐藤君によると救急車で運ばれたと
のこと)直ぐに病院に行き、病名を聞いたが、「脳の血行障害」で再発の恐れが
あるので、過度な運動は控えるようにと先生から告げられた。今まで病気らしい
病気に罹ったことがないので、いくつかの病院を訪ねてみたが、結果は同じだっ
た。丁度その頃、学内では 70 年安保に対する大学紛争が勃発した。私が住んで
いる寮は社会主義学生同盟(社学同)の北海道の拠点となり共産党系の民主主義
青年同盟(民青)とのバトルが連日連夜続いた。また、テニス部では新執行部を
決める時期となり、私達 3 年生で打合せを行った。当然、宮本君が主将になりテ
ニス部を指導するものとばかり考えていたが、宮本君から「自己都合により主将
は絶対にやらない」と宣言され、打合せは大混乱に陥った。勿論、私を推薦する
部員もいたが、私は「脳の血行障害の原因が分からないので主将を務めるのは無
責任なので辞退する」と言い、打合せは平行線のままだった。その気まずい雰囲
気の中、佐藤君が「僕がやってもいい」と手を挙げてくれたので、同期の総意と
して、佐藤君が主将として新執行部はスタートした。
大学紛争はどんどんエスカレートして、練習を強制参加にするか、自由参加に
するかで揉める状態であった。結局、自由参加で決着した。部内での揉め事や寮
内や学内での内ゲバなどの影響で佐藤君にストレスが溜まり、体調を崩し、病院
に入院・治療することになった。佐藤君の後任問題が拗れそうなので、「健康に
自信が無いので、充分なことは出来ないが、佐藤君が復帰するまで私が主将代理
を担う」ことで、この件は解決した。健康問題がいつも頭を掠めるので、毎日の
練習時間は半減し、自分の技術力アップより部員の練習台に徹することになった。
また、大学紛争で自由練習になっていたテニス部も強制練習に戻した。あの当時、
小樽商大の運動部で強制練習を部員に課していたのはテニス部のみだったと記
憶している。今、考えてみるとそれが良かったのかどうか分からない。入部した
当時の岡田体制のクラブ運営が私の教科書になったと思う。
大学紛争の中での強制練習は非常にストレスが溜まった。70 年安保への問題
意識があるにもかかわらず、強制練習を続けたことは部員からの不満も多かった。
しかしながら、60 年近くも続いたテニス部の歴史を後輩に伝えることが我々の
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使命と考え、可能な限り粛々と自己の責任を全うしたつもりだが、残念ながら前
年までの勢いはなく、テニスの戦績は芳しくなかった。インカレに出場するも 1
回戦で敗退してしまった。1969 年は不完全燃焼で過ぎた 1 年であった。
1970 年に入ると、新執行部選出の問題が噴出した。テニス部の継続・継承が
もっとも大切であるという認識で高塚君を主将に任命した。予想通り、彼は練習
を自由参加にし、女子部員の入部を積極的に勧めた。私のイメージでは運動部と
いうより同好会に近いという感じがした。しかしながら、時代の変遷と共に、運
動部の在り方や運営の方法が変わるのが当然かもしれないと考え、彼らのやり方
を認めた。
私のテニス部の 4 年間は最初の 2 年間は悩みも無く楽しくて素晴らしい時期を
過ごしたが、後半の 2 年間は悩みの多いストレスの溜まる 2 年間であった。そう
いう中で、いつも応援し支えて戴いた斎藤監督(故人)をはじめ、榎本先輩等の
北海道の諸先輩、また相原先生、石原先生等の部長先生。東京 OB 会では陸田先
輩(故人)、田中先輩、斉藤先輩、青木先輩等の多くの OB の皆様に御礼を申し
上げると共に、皆様の期待に応えることが出来なかったことを紙面を借りて深く
お詫び申し上げます。
最後に 4 年間私を直接支えてくれた同期のメンバーを簡単に紹介します。
石井君 :将来の夢は税理士になることだと言っていたが、ことテニスの練習は
余りやらず、飲み会には必ず出席する憎めない人。
石川君 :テニスの練習は石井君と同じだったが、夜の帝王として小樽の飲み屋
街で頑張っていたが、残念ながら結婚直後自動車事故で死亡。
岡部君 :テニス部一のモテ男。テニスもスタイリッシュで綺麗なプレーをする
が、粘りがないのが玉に瑕?。
児玉君 :京都出身のまじめ人間。テニスも学校生活もキチンとしていた。
とくに社会運動には一家言もつ論客。
小浜君 :名マネージャーとして部の運営に貢献。テニスはストローク、ボレー
スマッシュ共に堅実。ダブルスプレイヤーとして活躍。
佐藤君 :岩手出身のバドミントンプレイヤー。サーブ・スマッシュは圧巻。
但し、すべてのプレーに手首を使うので安定性に?。主将として大変
苦労をかけた。
高橋君 :昔から「とっつぁん」と呼ばれるテニスの理論家。学生時代は岡部君
と同じく粘りに問題があったが、逆に現在は同期最強の呼び声が高い。
竹田君 :無口で大人しいタイプ。テニスの才能は驚くべきものがあるが、攻め
る気持ちがないのが宝の持ち腐れ。卒業後は連絡とれず。
中村君 :青森出身のパワー人間。体格は同期で一番。才能も豊かだが、上半身
と下半身のバランスに?。下半身が安定すれば鬼に金棒。
枡谷君 :無口で大人しいタイプ。学生時代は練習や飲み会に必ず出席していた
が、卒業後は、年賀状のみの付き合いとなっている。
宮本君 :長野県出身のインターハイプレイヤー。頭脳的なプレーで相手の力を
出させないのが上手い。大酒のみで飲み屋街を石川君(故人)とよく梯
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山崎君
子していた。
:勉強もテニスも努力家。練習も飲み会も必ず出席してくれる人。
自分を押し出さず、チームのムードメーカー的な存在であった。
同期の皆さん!
今後とも宜しくお願い申し上げます。
<テニスとの出会い- 縁、そして今>
小濱
正寿(昭和 46 年卒)
今、本棚にあった「緑丘五十年史」(昭和 36 年 7 月9日発行)を懐かしく眺
めています。序文に、「小樽商科大学は昭和二十四年五月学校設置法の発布に伴
い、全国の国立六十八校と共に新制大学として発足し今日に至っているが、その
前身校たる小樽高等商業学校は明治四十四年五月五日全国の官立高等商業学校
のうち第五番目として開校され、・・・・・・」と当時の加茂儀一学長が述べら
れています。私は昭和 42 年 4 月に入学しましたが、当時の学生協で購入したの
を覚えています。今年は開校から 100 年が経とうとしています。まさに歴史の
重みを感じています。我が小樽商大庭球部も 100 周年となりご同慶の至りです。
東京緑庭会の会誌「たかがテニスされどテニス」が 2007 年から発行され、毎
回楽しく読ませていただいていますが、今年は全員が寄稿せよとのことで、気が
重い中、徒然なるままに書かせていただきました。
4 冊の会誌を読み返してみると各人のテニスとの縁が取り持つ過去、現在が感
じられパワーをもらいます。私も人生とは縁であると、最近つくづく感じていま
す。私が小樽商大に合格しなかったなら(合格後、小樽に行けといってくれた高
校の恩師に感謝)、庭球部に入らなかったら、勤め上げた会社に入らなかったら、
現在の自分とは違った人間になっていたのか。否、やっぱり似たような人生を送
ってきたと思いますが。現状肯定主義の私は、これも縁あっての今日であると思
い、そして明日何をすべきかを考えていきたいと思います。
社会人になって、会社のテニス部に入ったこと、転勤先の前橋(昭和 51 年~
59 年)で地元の同世代の人たちとテニスを通じて友人ができたこと等、環境に
恵まれ今日までテニスを続けることができました。継続は力なりです。先日(1
月 30 日)も寒い中、4セットこなして来ました。そこで、緑庭会員皆様に、末
永くテニスをするための秘策を話したいと思います。私の持病は膝痛(右膝)で
す。ゴルフも影響しています。対策として、膝を柔軟に鍛えるために、自転車乗
り(利根川サイクリングロード走行)をしています。近場の用事は自転車で出か
けます。散歩(ウォーキング)でも OK ですが、自転車の方が膝への負担はきま
せん。軽く1~1.5 時間程度、できるだけ毎日乗る。歳を取ると使わない筋肉は
衰えます。1 週間運動しないで、土日テニスをすると、くたくたに疲れますが、
週中、少しでも散歩とか自転車乗りをしておくと、土日のテニスも快調です。
次に冬のテニス。手にはリストバンド(肘対策)、防寒にはヒートテックのシ
79
ャツとタイツの着用。これは、ゴルフにも最適です。さらにカイロ。腰に貼るタ
イプと手を温めるものをダブル使用。そして極め付きは「サポートタイツ」。短
パンの下にはいている人を見て、自分も購入した所、膝にもバッチリです。足に
ピタッと密着して筋肉をサポートしてくれます。1 万円~1 万 5 千円しますが、
体のためには安い買い物です。
私は一昨年、昨年と縁あって、商大テニスコートに出かけることができました。
今年も行く予定(7 月 17 日全国 OB 会)で、3 年連続のパワーを自己満足して
います。大先輩にお会いして、ますます、意を強くしました。「あの先輩と同じ
歳まではテニスをしたい」が今の目標です。今、永住の地、前橋で人生の中盤(後
半)を過ごしています。土日のテニスは生活の核になっています。だいたい午前
中で 4 セット前後してきますが、1 勝もできない日は、翌週まで気分が悪いので
す。そのときは勝てそうな相手を選んで、泣きの 1 セットをやって貰うことにし
ています。
最後に、商大庭球部に入ったのは、入学式で隣の席で出会った松本出身の M
君のおかげです。彼が教えてくれた、「テニスは個人競技、でも団体競技も楽し
めるぞ」が決め手でした。個人―自己責任で戦う競技が野球しか知らなかった私
には新鮮でした。
以上
<還暦を過ぎて思うこと>
濱田
商大生としての第一歩が始まりました。昭和44年4月
光久(昭和48年卒)
雪の残っている地獄坂
を登り、小樽商科大学の門をくぐり、「今日から商大生」として。私の思うに、
この時から今まで、多くの諸先輩、後輩、そして、部長で在られた先生方に大変
お世話になり、自分の人生に大きな指針を頂きました。特に、斎藤監督、石原定
和先生におかれましては、大変お世話になり、特に、石原先生には、仲人もして
頂き、心より感謝申し上げる次第です。
ご存知の通り、昭和44年当時は、1月に東大紛争の攻防で入学試験が中止とな
り、その煽りも有り、小樽商科大学の門もせまくなった気がしております。ご多
分にもれず、小樽商科大学も入学式粉砕の憂き目に会い、入学式がおこなわれま
せんでした。
私、高校時代より硬式テニスをしていたこともあり、即、ラケットを持って、
硬式庭球部に入部をさせて頂きました。入部当時は、浪人したことで体重が高校
時代より、14キロ以上も増えており、白のトレパンをはき、展望台への毎日のラ
ンニングが大変つらかったことを覚えております。私の過ごした4年間は、やは
80
り、学生運動の影響もあってか、今では考えられない事も多くありました。
1年目は、大学が封鎖されていた関係で、授業は休講が多く、レポートの提出
で単位を頂いた状況であり、時には寺子屋授業と称して大学の外での授業も何度
かありました。
学生時代の最大の出来事は、私が2年になった時、1年先輩の主将が、OBとの絶
縁を実行したことです。当時の四ノ宮主務が大変苦労したのでないでしょうか。
また、次期主将に私がなった際も、引き続き、四ノ宮さんに主務をお願いし、色々
ご苦労お掛けしました。改めて御礼申し上げます。
大学卒業後は、生命保険会社に勤め、広島、札幌、東京、名古屋、神戸、京都、
静岡、東京と転勤で回ってきました。しかし、この間、札幌では、榎本先輩、佐
藤先輩、名古屋では、相原先生、中村先輩、神戸、京都では、小池先輩、高橋先
輩、岡田先輩、岡部先輩等、地方勤務時でも小樽商科大学硬式庭球部の多くのメ
ンバーとの交流を続けさせて頂けたのも、諸先輩方の温かいお気持ちがあったと
感謝申し上げます。
いつも思っていることは、商大コートの中にある、先輩から受け継がれているDNA
を身につけ、そのDNAを多くの後輩に受け継がれていることは、大変なことであ
ると思っております。小樽商科大学硬式庭球部創部100周年を迎えることが出来
たのも、多くの方々のDNAの継続した積み上げの賜物と思っております。
同期に、四ノ宮さん、栗田さん、古川さん、若沢さん、黒川さんがおり、入学
より42年たった今でもお付き合いをさせて頂いていることです。特に、埼玉に居
を構えてから、四ノ宮さん、古川さん、若沢さんとは、古川さんの音頭で、時間
を作っては飲み会を通し、継続してお付き合いをさせて頂いております。
還暦を越えても、学生時代のメンバーをはじめ多くの方々と交流が出来ている
のも、商大のコートにある同じDNAを持って育ったことに感謝申し上げます。
今後、小樽商科大学硬式庭球部が、120年、150年・・・と未来永劫に発展しま
すことを祈念しまして、筆を置きます
2011年6月5日
<私のテニス人生>
古川
哲朗(昭和 48 年卒)
ここ数年、毎週日曜日は家の近くのテニススクールへ自転車で通っている。あ
る時 口が悪い?(歯に衣着せぬ)コーチから、「古川さん そのテニスは誰から
どこで習ったのですか。理屈に合わず確率が悪すぎます。」と言われた。私とし
81
ては、悪い癖を直して上達するためにスクールに通っているわけで、最初から確
率の高い良いフォームならスクールになんかには来ないと内心少々ムッとした
が、言い返すのも大人げないので黙っていた。この“確率の高くない”フォーム
で過ごした 40 年ほどの我がテニスの歩みを書いてみた。
(学生時代)
1996 年(昭和 44 年)小樽商大へ入学した。学園紛争はこの北のはずれの小さな
国立大学にも押し寄せており、入学式は無くまたバリケードで封鎖された中で学
生生活はスタートした。ノンポリを決め込んでいたため紛争には直接かかわらず、
クラブ活動をしようと考えた。熱心な先輩からの勧誘を受け最初はヨット部に興
味を持ち、祝津の湾内を何回かヨットに乗せてもらったが、小樽の 5 月は寒く、
また泳ぎも得意でないため止めた方が良いと思いテニス部の門を叩いた。同期の
入部者は、高校でテニス経験のある浜田君、栗田君と、大学から始めた黒川君、
四之宮君、若沢君、私と横山君(短期大学部)である。ランニングの多さにまいっ
たが何とか練習を続けていた。1 年の秋に急性黄疸になってしまい、その後練習
は熱心にはできなくなった。そのためテニスに燃焼した学生生活とは言えない。
学生時代ではあまり強い人の出ない新人戦のベスト 16(多分?)が最高だった
と思う。その後も学内での試合は別にして、学外での試合では残念ながらあまり
勝っていない。
(社会人になって)
大学を卒業して、松下電器(現パナソニック)に入社。大阪に配属されテニス
部にも入った。同期には関西ベスト 16 や九州ベスト 4 などの選手がいて、最初
の内は打ってもらったが情けなくもまともに返せず、同好会のんびりテニス出身
者達とぼちぼちプレーすることとなった。また月 2 回位は大阪森之宮にあった雪
印乳業のテニスコートで、小池先輩、高橋悦雄先輩、岡田先輩、同期の栗田君と
していた。また時々、小池先輩のお住まいである箕面の近くでテニスをし、その
ままお宅にお邪魔しビールをごちそうになりながら色々な話ができとても楽し
い思いをした。(小池先輩ご馳走様でした)
30 代になって、藤沢、横浜、甲府、大津に転勤し、その間この“確率の悪い”
フォームで、休みの日にはテニスを楽しんでいた。また甲府や大津にいた 3 年位
は、実家の函館に帰省する時に夫婦で札幌まで足を伸ばし、浜田君、栗田君夫婦
とミックスダブルスを行なったりもした。古川夫婦が勝率一番(?)だったと思
う。
50 歳を目前にして、単身で札幌に勤務することになり、栗田君の紹介で中島庭
球クラブの会員となったが、冬の長い札幌はコートを使える時期が短く、また仕
事で忙しく通えないことも多く 5 年間札幌にいたが、10 数回練習しか行けなか
った。
(近況)
50 代半ばに東京へ転勤。健康のために会社近くのテニススクールに入ったが、
クラスの人数が多くボールをあまり打てなかった。しばらくして北大 OB との定
期戦に参加させてもらうようになり、現在まで続いている。試合から遠ざかって
82
いたし、
“確率の悪い”テニスのためほとんどゲームを取れない状態だったので、
3 年ほど前からクラス人数の少ないテニススクールに変え、件のコーチのきつい
指摘をありがたく(?)聞きながら、通っている。ボレーとバックが少しましに
なってきたかと感じているが、まだまだ確率をあげたい。今年還暦を迎え、今後
上達するものやら、肩が維持できるものやら分からないが、できるところまで続
けようと思っている。また数年後仕事を辞めてから家内とウィンブルドン大会を
観戦に行きたいと思っている。テニスを続けることが、将来理想とする「ピン・
ピン・コロリ」実現の近道にならないかと少々期待もしている。
振り返ってみると、テニスを通して多くの人に出会い、その方々に充実した時間
を過ごさせていただいたと思う。本当にありがとうございました。これからもよ
ろしくお願いします。
<智明寮とテニス部>
池田
喜久雄(昭和 51 年卒)
今からさかのぼる事 30 数年前の昭和 47 年、4 月とはいえまだ雪深いなか小樽
商大の門をくぐりました。正確にいうと 3 月後半その正門より更に高台の智明寮
が大学生活の始まりでした。東映前の発声練習、将棋盤の上に乗っての石清水(焼
酎です)の痛飲、夜間の智明寮寮歌指導(当時は智明寮歌はご詠歌のように感じ
た)、夜間ストーム等の寮の新歓行事を入学式前にこなすと、入学式にはもう何
年も大学にいる様な顔をして、式に参加しました。
高校時代から多少テニスの経験があった事から、テニス部に入部しました。当
時の主将は浜田さん(とても怖そうで、雲の上の存在でした)マネージャーは四
宮さん(やさしい感じだった)3 年に実力ナンバーワンの山崎敬明さんというメ
ンバーでした。同期には高校チャンピオンだった佐藤淳一君、今でもテニスを年
間 100 日以上プレーしている小田切君、現在東京緑庭会会計の松田君、女性で
は弱冠 22 歳で早世した金龍菜穂子さんというメンバーでした。その1年後に田
中、青木、中野、安西、柄沢、鈴木、我妻、柳田君等が、女性では高島、三橋、
早川さん等が入部し、その数年後北大を破り全国王座出場へとすすんでいきます。
私は冒頭での話のとおり、寮にはいっていた事もあり、応援団にも所属しテニ
ス部と第 59 代応援団太鼓たたきの二足のわらじを履いてました。テニスの事は
いろいろな方が記述しておりますので、私は智明寮の事を若干述べたいと思いま
す。その中でも智明寮が廃寮の原因となった負担区分及び女子入寮につながった
短大生入寮問題が私の在寮の頃からありましたので、その辺について記載したい
と存じます。
当時は 3 年生が寮務委員となり、大学当局と負担区分について交渉する事になっ
ておりました。昭和 49 年に大学 3 年で第 28 期寮務委員 3 役となり、上記負担
区分問題を学校当局と交渉しました。当時はまさに学者肌の麻田学生部長から極
めて実務的な足立学生部長に代わっておりました。その交渉の席で足立部長は大
83
学事務局に聞きました。「なんで学生はこの問題で騒いでいるのか、負担区分で
学生の要求を呑んだ際の大学側の負担はいくらになるのか」、事務局「年間約 20
万円です。」足立部長「そんな金額で学生は騒いでいるのか、それくらいの金額
ならなんとかしょう。」この一言で寮費は1ヵ月わずか 100 円程になり、全国で
も稀有な負担区分のない寮となりました。永年の闘争がこの一言で決着したのが
現実です。実態は文部省等には明確にせず、大学内部で金額はやりくりしていた
ようです。これが後々文部省、当時の大蔵省から目のつけられる所となります。
又短大生入寮問題も私が 3 年の頃からたびたび寮生大会の議題となり、私は寮は
開かれており、又入寮生も細っていた事もあり金銭的に余裕がない学生は短大生
でも女子でも入寮すべきとの意見を述べてきました。まさに廃寮の原因に関わっ
ており、廃寮問題が詰まる前に何とか出来なかったものか、常に考えておりまし
た。
廃寮となった昭和 59 年頃は東京におりましたが、57 年までは釧路に勤務してま
した。その際に小樽にいき、言葉はよくありませんが、突っ張っている学生に対
して、永年継続していた負担区分問題の決着の有様、及び女子入寮問題の経緯等
話し、寮の存続を第一義とし、負担区分は呑んで、寮費がいくら上がろうと当局
と妥協するよう学生を説得できなかったか反省してます。
テニス部、智明寮、応援団と卒業以来 30 数年経過しましたが、負担区分の交
渉、短大生入寮問題で夜を徹して寮生大会で議論した事、10.21 国際反戦デーに
北大でテニス大会があり、その時全国集会していた某セクトに拉致されそうにな
った事など、当時の事は鮮明に記憶に残っております。
大学 100 周年記念祝賀会、智明寮生 OB 大会(7/9 小樽にて実施 参加者 140
名)テニス部 100 周年大会等に参加し、更になつかしさがこみあげてきます。
できる事は限られておりますが、今後は応援団を復活させる会等に更に関与し、
テニスのプレーからは遠のいておりますがテニス部OB会には参加し、今後も智
明寮関係、テニス部関係には関与していきたいと考えます。東京の大学へ行く事
を希望しており、あまり深く考えずに商大に入学しましたが、この大学に在籍し
た事が人間関係等いろいろ面で大きな財産になっております。
以上
<北大とのジュニア定期戦>
原田
博明(昭和 54 年卒)
緑丘には短大部1年と学部 5 年の計 6 年間お世話になったので思い出は数々あ
りますが、緑庭の掲載なのでテニスに特化して記します。
高校時代は地味で白色禁止の卓球部に所属していたため、青空の下白いウエア
でプレーできるテニスに強い憧れがありました。
4 年目 3 年の7月、授業にも余裕ができた頃で、何となくテニスをやってみよ
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う気が湧いてきて、たまたま高尚湯で会った高校の後輩の佐藤雅規さんに相談し
たところ、彼は当時キャプテンだったのですんなりと入部させてもらいました。
入学同期の 4 年生部員は既にコートを離れており、3 年下の代がテニス部では同
期となりました。翌月には夏合宿があり、1 年目として賄いの手伝いをしました
が、テニス部の朝食は豪華だとの印象を持ちました。(丁度合宿中にプレスリー
の訃報があり島上絹子さんが嘆き悲しんでました。)
今振り返ると、あっという間に秋が過ぎ、コート終いがやって来た感じでした。
また、飲み会に OB が多く参加されるのも庭球部の特徴でしょうか。室谷先輩、
横川先輩、榎本先輩、田中先輩・・・飲む前にお説教話が!
年が明けて 3 月末からの春合宿が、古川哲朗さん(松下電器)のお取り計らい
で、枚方のコートで実施されました。合宿後半での野村史朗君との長い試合はそ
の後のプレーの糧となりました。根気よく粘り強く!(合宿の終盤にはキャンデ
ィーズの解散コンサートが!) 4 月になりようやく後輩!もでき、一緒に早朝
練習をしたのも思い出の一つです。
さて、王座が終わり 6 月には北大とのジュニア定期戦が控えていました。5 年
目の私に出場資格があるか懸念されましたが、佐藤さんが北大側に打診したとこ
ろテニス部は 2 年目ということで OK がとれ、部内の予選会でシングルスの最終
枠を賭けて高橋正君と争い、運よく逆転で勝利できました。
定期戦前夜は多少興奮していたのか、下宿の部屋で落ち着いて 1 人ではいられな
くなり、隣の吉田下宿の川西将文さんを訪ねて思いを伝え、その後いろいろ策を
授かった次第です。
定期戦当日は今にも雨が降り出しそうな空模様でした。スコアボード(プレート)
の北大、商大の文字をみて緊張感が増したのを覚えております。いよいよ試合開
始、硬くなって動きが悪いのは自分でもわかりましたが身体が思うようになりま
せん。石原先生から「なにもたもたやっている」と檄が飛んできてから少し落ち
着いた感がありました。1 セット目は追い上げたものの 4-6 で落としましたが、
コートチェンジの際に斉藤基さんから「原田さん、相手は足にきているので、た
だ返しているだけで勝てますよ」と言われ、恥ずかしながら自分のプレーだけに
夢中になり、相手の様子をみる余裕がなかったことに気が付いた次第です。確か
に相手はボールに追いつくのがやっとという感じでミスを連発してくれ、2-0 と
リードしました。さーここからという時に雨が降り出してきて中断、そのまま預
り試合になってしまい、その結果公式戦初勝利は社会人まで待たねばなりません。
午後からの北大との懇親会では、安堵感と少々の達成感からかかなり酔ったよう
でした。昭和 53 年 6 月、24 歳と 2 ヶ月半。この年齢が今でもジュニア定期戦出
場の最高年齢だと自慢しているのですが、果たして破られたか否や?
以上
85
【徒然なるままに】
<GMK から JMT へ>
秋山
賢一(昭和 36 年卒)
「光陰矢のごとし」とはよくいったもので、来年度は卒業 50 年記念を迎え、
古希稀なる季節もいつのまにか通過してしまった。右肩上がりの経済に育った
我々世代の企業戦士は「遊び」が苦手な人が多く、退職後軟着陸がうまくいかず
体調を崩す人も多い。退職後は趣味やボランティアが人生の大道となる。GMK
ではいずれボトルネックになると考え新しい道を模索している。
第一は音楽(M)。今まではカラオケ一辺倒であったが、なぜかクラッシック
音楽に関心を持つようになった。最初はオペラや演奏会にも積極的に行くことに
した。そのうち聞くだけでは物足りなくなり、たまたま新聞で「第九」の合唱団
の募集広告があり、厚かましくも参加することにした。合唱団員は学生時代のグ
リークラブや職場の合唱団出身のものが多く最初は練習についていくのが大変
であった。苦節何年を経て今では暗譜で歌えるようになった。東京だけでなく大
阪、徳島、福岡などの地方都市、ニューヨーク、ウィーン、ドイツなどでも歌っ
た。近年レパートリも徐々に増え、バッハの「ヨハネ受難曲」ヘンデルの「メサ
イア」等の大曲にも挑戦した。現在は合唱にすっかりハマッテいる。毎週土曜日
が練習日なので緑庭会の行事に参加できないのが、残念である。
第二は日本語(J)。退職後朝日カルチャーセンターの日本語養成講座に参加し
た。文法や教授法などに加え言語学、音声学、日本語の歴史等計 420 時間の授
業がある。講師は大学文学部の教授で、新しい分野でもあり結構面白かった。終
了後日本語学校の教師、海外での日本語教師のオッファーがあったが、フリーハ
ンドの時間が大切と考え日本語ボランティアの途を選んだ。現在地元杉並での日
本語教室室と東大工学部の留学生相手のボランティアをやっている。国も多岐に
わたっており、教える側も勉強になることが多い。本年 4 月には韓国に帰国した
生徒の案内で 30 年振りに変貌著しいソウルの町を見学した。
第三はテニス(T)。緑丘会のゴルフコンペには時折参加している。同級の紀
国兄、後輩の須賀、松浦君などとお手合わせをした。皆さんシングルクラスの腕
前でびっくりした。小生は昨年の袖ヶ浦のコンペで高ハンディキャップのお陰で
優勝したが、腕前は 100 を切れればハッピーという程度でたいした事はない。
テニスは卒業後殆どやっていなかった。女房族の PTA 仲間が 20 年以上平日の昼
間にテニスをやっており、小生を含めた亭主族が肩たたき後参加するようになっ
た。当方も息子のようなコーチに時折指導してもらい何とか面目を保っている。
時折飲み会もあり、テニスは年間 100 回以上するようなり、完全にゴルフとの
地位が逆転している。小生がテニスに復帰できたのも、あまり熱心ではなかった
が、テニス部に所属していたお陰と感謝している。同級の榎本兄から電話を頂き、
100 周年記念の北海道でのテニス合宿に参加しないかと要請された。旅行や音楽
86
の日程と重なり残念ながら参加できない。緑庭 100 周年記念行事が盛大に行な
われることを祈願している。
以上
<3.11 と第二国歌 ‐ 故郷(ふるさと)>
田中
隆二(昭和 39 年卒)
2,3 年前までは 5 月 1 日に私の住まいの近くの井の頭公園で連合主催のメー
デーの集いがあって「君が代 反対」のビラをよく配っていた。カミさんは「で
は あなた方は何を国歌にしたいのか」とよくケンカを売っていた。つい数年前
には当時の民主党党首であった管直人は国旗国歌法の採択の際「君が代」に反対
している。総評か日教組かが独自の国歌を作ったらしいが話題にならなかったよ
うだ。緑の国というテーマだったらしい。大リーグのゲームを NHK‐BS で観
ると、7 回の裏のホームチームの攻撃の前に「ゴッド・ブレス・アメリカ」を観
客は立って歌う。選手は胸に手をあてている。これは 2001.9.11 以降の事と何か
で読んだ。日本だったら西城秀樹の YMCA で体をほぐしていた時もあった。
「第二国歌」の様なものがあってもいいのではないかと思う様になった。
さてこの 3.11 である。
“がんばって”という言葉は被災された方々には禁句だし、
水前寺清子の「365 日のマーチ」や坂本九の「上を向いて歩こう」はこれに類す
る。「君が代」はまさか飲みながら歌うものではないし、自然に心が通じ合う歌
はどんな歌だろうか。朝鮮半島の人とは「アリラン」を、オーストラリア人と「・・・
マチルダ」とか、スコットランドの人とは「ロンドンデリーの歌」とか、ロシア
人となら「トロイカ」(今調べたらロンドンデリーは北アイルランド)。
「ビルマの竪琴」という二回も映画になった話がある。ビルマの山河に捨てられ
ている日本兵の遺骨を拾い弔うため水島上等兵は出家してビルマに残るという
話だ。終戦になったのに未だ抵抗する日本軍をイギリス軍が包囲していた。日本
軍の隊長は合唱団のリーダーで、夜緊張をほぐすため、「埴生の宿」を合唱させ
た。そのうち真暗なジャングルから同じ歌が聞こえて来た。抵抗はやめ投降する
事になった。まさに心が通じ合ったアメリカ人の詩にイギリス人のビショップが
曲を付けたのだ。里見義(ただし)が訳詞、明治 22 年の中等唱歌集に掲載された。
戦前には軍歌があり、国民は一部の人を除き歌った。私の家にもレコードがあり
結構知っている。
「空の神兵」は軍歌とは思えないほど明るくシャレており、そして視覚的だ。
藍より青く 大空にたちまち開く百千の・・・・
見よ 落下傘 空を行く
美しい。シャレているはずで、日本のシャンソン作曲家 高木東六の作品。
マーチでは世界的名曲 - 「軍艦マーチ」。これを運動会で使ったら、朝日新聞
と日教組と民主党から校長は吊るし上げられるだろう。これはずっとパチンコ屋
の応援歌であった。
87
私の小学校時代は国定教科書(こくてい - クニサダではありません)であり、
全国統一教科書の「唱歌」で日本人に共通する歌を覚えた。今はテレビで流れる
歌が教科書に載る。「都の西北早稲田の森に・・・」、「若き血 燃ゆる者・・・」
慶応の応援歌、「白雲なびく駿河台・・・」明治大学、長嶋茂雄で「セントポー
ル」、法政二高 柴田選手の活躍で法政の校歌も覚えた。北大の寮歌は名曲だが、
我々だけの会合では歌わない。
国民歌謡というのがあった。有名なのが「いつでも夢を」である。吉永小百合,
橋幸夫が歌った。作曲は吉田正。昭和 40 年代に入って、今は貧しいけれど先は
明るい、さあ みんなで歌おう、
“星より秘かに 雨より優しく あの娘はいつも歌ってる・・・”。
吉田正はシベリヤ抑留 60 万の日本軍将兵を励まして、「異国の丘」を作った。
“今日も暮れゆく異国の丘に 友よ 辛かろ 切なかろ・・・
帰る日もくる 春がくる“
「さくら さくら」は世界的に有名ですが・・・。
さて長くなりましたが、東北州の州歌はこれかも知れない。
【故郷(ふるさと)】
兎追いしかの山、 小鮒釣しかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
如何にいます父母
恙なしや友垣
雨に風につけても 思い出る故郷
志を果たして いつの日にか帰らん
山は青き故郷 水は清き故郷
作詩は高野辰之(長野出身)、作曲 岡野貞一(島根県出身)で大正 3 年(1914 年)尋常
小学校 6 年の唱歌に採用された。二人は東京でお役人として出世した。外国で日
本人が集まった時に一番歌われる歌だそうだ。アメリカ人のシンガーソングライ
ター グレッグ・アーウィンは英訳し歌い続けているそうだ。3.11 後高名なオ
ペラ歌手 ドミンゴが日本に来て被災された人のため歌った。
「山は青きふるさと 水は清きふるさと」 - スーパー堤防、コンクリートで囲
まれた港・入江でない「ふるさと」に復興出来ればいいなと思う。
もう一つ、「みかんの花咲く丘」。
これは童謡で、終戦の次の年の昭和 21 年 8 月 24 日に作詩 加藤省吾,作曲 海
沼実、童謡歌手 川田正子で作られた。
みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える 青い海
お船が遠く 霞んでる
黒い煙を はきながら
お船はどこに 行くのでしょう
波に揺られて 島のかげ
汽笛がぼうと 鳴りました
いつか来た丘 母さんと
一緒に眺めた あの島よ
今日もひとりで 見ていると
やさしい母さん 思われる
宮城県や三陸の遺児には胸にひびき過ぎる。当時も戦災孤児を思いやって「母さ
ん」を「姉さん」にし、嫁に行った姉のことにした由。伊東市の電話の保留音に
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使われ、愛媛県の国道 197 号の一部は車が通るとこのメロディーが流れる。
(2011 年 6 月 11 日、朝日新聞 “be on Saturday” より)
いやな連想だが、この歌に歌われているのは東海,南海地震の警戒地域ではない
だろうか・・・
<心筋梗塞と私>
秋本
勉(昭和 43 年卒)
「痛い!痛い!」経験のない激痛が走った。前に一歩も進めない。ネクタ
イをかきむしり、200 メートル程の所をはいずりながら、何とか家に戻った。
20 年前、通勤途上での出来事である。(43 歳後厄の時)
前日、決算の打ち上げ会があり、いつもより多めにお酒を飲み、二日酔い
気味ではあった。当日の朝、何とか出勤すべく家を出た。何か調子が悪く、
変だなあと思いながら歩いているうちの出来事であった。この激痛は、よく
「胸に焼き火箸を当てたような痛さ」と表現されるそうであるが、なんとも
形容の仕様がないほどの痛さであった。みぞおちを中心に胸の真ん中に、激
痛を感じ、その瞬間は、何でこうなるのか、何が原因なのか思いもよらなか
った。ただただ『痛い、痛い』の感覚であった。
(後に、心筋梗塞の症状とい
われた。)
ほうほうの体で家に着いたが、家内が救急車を呼んでいる間に、不覚にも、
意識を失った。時間がどれくらい経過したのだろうか、家内も、もうだめだ
と耳元で泣いている。その声が聞こえ、意識が戻った。幸いであった。やが
て救急車が到着し、救急病院へ搬送された。直ぐに心電図をとり、酸素吸入
器をつけ、血管拡張パットを胸に貼り、安静が必要とのことで一週間ベッド
に拘束された。意識が回復してから、自分としては、正常に戻ったように思
えたので、救急病院も一日か二日で帰宅できるものと甘く考えていたが、と
んでもない。後で分ったことだが、救急病院は、一週間程度は留め置くらし
い。救急病院の環境もあまり良いとはいえないので、何とか退院する方策を
考え、紹介で大学病院へ移った。
(救急病院の先生には、異動の危険に対する
保障はできないといわれたが)大学病院では、すぐにカテーテル検査が実施
され、大動脈の基幹部分に 25%の狭窄が見つかった。
通常 25%程度の狭窄では、心筋梗塞どころか、狭心症にも該当しないとの解
説であった。しかし、倒れた時の症状は、明らかに心筋梗塞の症状であり、
この原因が不明では、この先、常に再発に不安感を持たねばならず心配であ
った。
倒れる前の、会社の仕事状況や、家庭状況等 100 項目以上の細かな問診を受
け、専門用語で「れん縮」による一過性の心筋梗塞症状を発症と診断された。
「れん縮」は、ストレスの蓄積をはじめ何らかの要因で、拍動している血管
がくっついて、血流が阻害され、一時的に心筋梗塞と同様血管のある部分が
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壊死の状態になるようである。幸いにして、私の場合は、早くに血流が回復
し、重篤をまぬかれたようだ。
心筋梗塞であれば、治療として、ステント挿入、バイパス手術などあるが、
私は一応狭心症対応として、緊急時のニトロ、血管拡張剤のシグマートを調
合してもらった。
医者から、退院後は、何事も過ぎないようにすれば、
「全て可」といわれ安
心した。しばらくは、禁酒、食事は腹八分、急がない、走らないというスロ
ーライフでした。半年後にゴルフができた時は嬉しかったですね。
残念ながら、テニスは、瞬発力を要求されるので中止しました。爾来約 20
年余りラケットを握る機会を得ず、テニスはプロのテレビ観戦だけでした。
近年東京緑庭会の先輩、後輩にお会いし、いまや一番下手なメンバーでは
あるが、仲間に入ってテニス出来ること、病気の往時を想い、感慨深くもあ
ります。
歳を重ね、いろいろな病気で、通院する羽目になっていますが、
「健康のあ
りがたさ」を今一度、考えてみたいと思っている、今日この頃です。
<31 年振りのテニス再開>
今井
章文(昭和 44 年卒)
まっさらなテニスラケット、テニスウエア、テニスシューズそしてテニスソッ
クスを手にした 6 年前(平成 17 年)、それが私の 31 年振りにテニスを再開する
瞬間でした。学生時代と異なり、期待はなく、不安だけの瞬間でした。そもそも、
前年(平成 16 年)の奥方 3 名帯同の第 1 回目の同期 7 名(敬称略:江川、原、
早川、佐藤ノッキ、岡村、梶原、小生)による、上海旅行を終え、「懐かしの小
樽で、そして商大コートでテニスを」と次回の旅行先を小樽と決定したことに端
を発したことによります。翌年の春を迎え、半年後の 9 月には商大コートでテニ
ス、内心の焦りは増すばかり。何せ、昭和 49 年以来テニスから完全に遠ざかっ
ていた身。道具もさることながら、テニスそのものが出来るのか?
新聞に 1 枚のチラシあり、「テニスのスクール生募集!今なら、格安!」とう
たわれていたチラシに藁をもすがる思いで、即、申し込み。それが、31 年振り
にテニスを再開した瞬間、平成 17 年 3 月でした。
若者に混じり、唯一の中高年(?)が 2 カ月間の週 1 度の室内スクールでの練
習、何となく自信めいたものが付き、5 月に近場のテニスクラブに入会。多少の
自信も芽生えており、他の会員の誘いにのり、プレー開始。ハードコート(今は
オニムコート)とはいえ、全くストロークが出来ず、唖然!球感なし、動きにつ
いていけず、即脱落。これが初日でした。相手の球が速く、空振りし、自分の額
を打った東京緑庭会メンバーとの夏頃の松戸テニス倶楽部での練習。
そして、9 月、学校も随分と変わっていたことに驚きながらの商大コートでの
プレー。榎本さん、同期+江川君の奥方を交えてテニスプレーでしたが、今でも
90
記憶に残るのが、江川夫妻/原・今井組の対決。何と惜敗!いくら女性に華をと
はいえ、連続 4 回のダブルフォールト。これでは惜敗当然でした。
それから、6 年、毎年、クラブでのテニス、東京緑庭会メンバーとのテニス、
同期とのテニス、対北大(関東楡庭会)戦とテニスを楽しむ事ができています。
(もっとも、終わってからの夜の一杯の楽しみが一番かもしれませんが。)
そして、今年は学校創立百周年を記念しての商大コートでのテニス。同コート
でのプレーを非常に楽しみにしながら、幾ばくかの技量向上をと、クラブでプレ
ーをしていたところ、突然、左下腿(ふくらはぎ付近)に激痛。6 月 18 日、あ
まりにも張り切り過ぎた結果の肉離れの一瞬でした。丁度、今日(7 月 3 日)現
在、2 週間経過。7 月 17 日、商大コートに無事立てることを祈りながら、これ
からの 2 週間も安静。
(記念誌発行時には結果が出ていますが。)皆さん方も呉々
もご用心を!
長々と取り止めのない事を書いていますが、要は 31 年振りのテニス再開が、
皆さん方との出会いを作り、楽しみをもたらしてくれていると、感謝している気
持ちで一杯ということです。「たかがテニス されどテニス」そのものの気持ち
です。
平成 17 年の同期旅行先を「小樽」との発案が誰であったか、今は不明ですが、
このことが今をもたらしています。同期の皆さんに感謝!感謝!
(追:同期旅行 3 回目より、小生家内も参加するようになり、家内も皆さん方と
の出会いを喜んでおります。本誌上をお借りして、この点も同期の皆さん
方に御礼申し上げます。深謝!)
<自作の陶製ジョッキーで>
今井
央(昭和 45 年卒)
昨年度の当会誌に投稿した「テニスを愛し土と戯れる日々の中で」の文中で、
「テニス」と「野菜作り」に加えて、60 歳から「陶芸」を楽しみ始めたと書きました。
スタートから 3 年半という短い期間の経験であり、まだまだ未熟者ですが、少し
ずつ「私なりの陶芸の楽しみ方」を身に付け始めているようです。もう少し上手に
なってから投稿しようと思っていましたが、今の方が楽しさを表現しやすいと思
い直し、青春時代から始まった「土との戯れ」を、陶芸中心に書いてみました。
私の「土との戯れ」は札幌での高校時代に始まりました。校庭脇にあったクレー
のテニスコート表面をレキで平らに均した後、手押しローラーを引くことが毎日
の部活の締めくくりでした。商大でも、更に東京の勤務先のコートでも同じよう
にクレーコートの世話に明け暮れました。いやいや、世話になったのはコートで
はなく、そこでテニスを楽しむ私達でした。雨が降った後は、コートに溜まった
水を雑巾で絞り、凹んだ箇所には土や砂を入れ、イレギュラーバウンドの出ない
コートを維持することにも全力を注いだ青春時代そして青年時代でした。
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特に勤務先であった兼松のテニスコートは、東京一、いや日本一と言っても言い
過ぎではない程、手入れの行き届いたクレーコートでした。社宅の敷地内に設置
されていたこともあり、平日は管理人のおじさんが、休祭日は私達テニス部員が
整備していました。商社リーグや東京都実業団の試合を兼松のコートで行った時
には、いつも試合相手から絶賛のお褒めをもらいました。多数の部員と社宅住人
が共同で利用するコートは 2 面のみだったため、数試合の練習に朝から夕方まで
時間がかかりましたが、大変上手な先輩(デビスカップ候補や全日本クラス)達か
らはマナーも含めていろいろ教えを受けることができました。
50 代に入ってから、「土との戯れ」に野菜作りが加わりました。前年号に詳し
くいきさつを書きましたので詳細は省きますが、昨年まで使用していた畑のうち、
自宅から遠い方の畑の借用をやめ、今年 4 月からは自宅近くの畑を借りています。
農家の畑の一画にあることから土地は肥えており、農家のプロからも教えを受け
ることができ、今年は1ランク上達した「野菜作り」が女房から期待されています。
60 歳からは、悪天候の日の室内での「土との戯れ」として陶芸を始めた訳です
が、2 年間は市の陶芸教室に通って勉強し、やっと自宅で使う食器やコーヒーカ
ップ類を作れるようになりました。卒業後は、卒業生が自主運営する「流山陶友
会」という会に入って 1 年半になります。30 年以上続いている陶芸の会であり、
全員 62 歳以上で、プロ顔負けの経験豊かな会員が多数います。先生がいません
ので、昔の徒弟制度さながら、先輩の技を盗んで(本当は教えてもらいますが)
各会員が成長してゆくという形で運営されています。会員(今年約 150 名)を 2 班
に分け、月 1 回ずつ各班が週を分けて作品の窯入れ・窯出しを行います。月 2 回
の窯出日には窯出しされた作品を全員で鑑賞し、作品作りに使用した粘土・釉薬・
作陶方法等を製作者に質問し合います。切磋琢磨の世界です。
この会では、会員の中から 20 名程度の役員が選出されますが、その大半は入会
して 2-3 年目の若輩会員です。「鉄は熱いうちに」の精神で、会運営の中心になり
活動しなければなりません。私も例外ではなく、今年度から 3 つの役割を受持ち、
うち「作品展」と「研修旅行」の主幹事に任命されています。
7 月の「作品展」では会場確保から始まり、ポスター・ポストカード作り、市役所
や教育委員会への種々申請、会員への案内と作品募集、展示場のレイアウト作成
と備品の手配など、準備に 2 カ月以上費やし、冬にも小規模ながら「ミニ作品展」
が待ち構えています。
「一泊研修旅行」は 9 月に実施しますが、行先と見学する窯元の選定、参加者募集、
宴会の手配、旅行行程決定、関係者との打ち合わせなどあり、多忙と緊張の続く
充実した日々を送っています。
肝心の陶器作りと言えば、テニスと野菜作りそして流山陶友会での役員活動の
合間を縫って自宅の書斎で土と戯れる時間を作り、粘土と格闘しています。昨年
からは、30 年前のレコード(映画音楽全集)を押し入れから引っ張り出して、古
いステレオで「シェルブールの雨傘」や「慕情」や「ウエストサイドストーリー」な
どの名曲を聞きながら、女房に捨てられず使いやすい食器や植木鉢作りにも精を
出しています。
92
今年は東日本大震災の影響もあって、会の活動を 1 ヶ月半程休止しましたので、
完成した作品数は多くありませんが、今年の後半は「風鈴」と「ジョッキー」の制作
に専念する予定です。
「風鈴」は昨年も数点作りましたが、作品の肉厚・径・高さ等で音色が異なります。
短い経験ですが、細長く肉薄な風鈴が最も澄んだ高い音色を発し、ガラス製に負
けないほどの涼しさが感じられます。また、音を鳴らす玉の材質によっても変化
しますので、天国にいるおばあちゃんが残した使い古しの様々な貝ボタンを再利
用して楽しんでいます。
「ジョッキー」は私の作品の中で一番の自慢です。去年は 20 個程作りました。自
宅には形と色彩を変えて、潤いと冷たさを感じるビール用、そして焼酎用として
落着きと涼しさを感じる夏バージョンと、香りと温かさを感じる冬バージョンが
あります。また、所属しているテニスクラブで汗を出した後は、中高年仲間(通
称オハヨウ会)と一緒に毎回近くにある馴染みの中華料理屋に通っており、ここ
には 15 個を置かせてもらい、オハヨウ会専用焼酎杯として使っています。ジョ
ッキー制作の都度、不満足な箇所や失敗した箇所は必ず見直して次回の作品作り
で改良していますが、もっと持ちやすくもっと飲みやすいジョッキーの完成を目
指すことを今年の目標にしています。
私の住む流山市(千葉県)では毎年秋に市民祭を開催しています。この祭りで、
流山陶友会は会員制作の陶製品チャリテイバザーを主催し、売上の大半を市に寄
贈しています。流山市は福島県相馬市と姉妹都市関係にあり、今年の震災では
様々な支援と義援金で相馬市を応援しています。今年のチャリテイバザーでは、
従来以上の売り上げを目指してジョッキーの制作に励み、同時に陶芸の腕も上げ
たいと思っています。
前年号で書いた内容と同じですが、私の今のそしてこれからも変わらないであ
ろう生活スタイルを書いて、締めくくりとします。
【家からコートまでの片道 20 分、朝 7 時には準備運動を兼ねママチャリを
駆使してひたすら走り、テニスでたっぷり汗をかき、オハヨウ会の仲間と
渇いた喉をビールで潤し、専用ジョッキーで焼酎を堪能しながら、お互い
健康とテニス談議に花を咲かせ、楽しい行事の相談をします。
「畑仕事」と「陶芸」では、柔らかな手触りを感じつつ「土との戯れ」を楽しみ、
食卓では形は良くないけれど採りたて野菜を自前の食器で味わい、健康に
気を使いながら、快適で忙しい日々をエンジョイしていま~す!!】
<論語に魅せられて>
山﨑
眞樹(昭和 46 年卒)
平成元年に井上靖の「孔子」が発刊された。儒教には全く興味は無かった
が北海道生れの作家が書いた本ということと重厚な装飾に魅せられて買い求
93
めた。この本が中間管理職に人気があり当時 50 万部も売れるベストセラー
となったことは後でわかった。内容は孔子が諸国を放浪した 14 年間を語り
部が解説する内容で黒澤明の白黒映画を見るような重たい印象であった。そ
れから 17・8 年経ったころ書店で論語を手にする機会があり「孔子」を思い
出した。
このころ、勤務先で管理職の育成やコンプライアンスへの取組を指揮して
いたことから組織運営の方法や管理者のあるべき姿、また社員の導き方など
思いを巡らせマネジメント力や部下の統率などに関する本を読んだり、コン
サルタントの話を聞く機会が多かった。しかし、自分でなるほどこれだと納
得できるものはなかなかなかった。そんな時に論語に出会い、人の生き方、
指導者の心構えなど人としての根源的なあり方に触れ大いに感銘を受けた。
それ以来、論語に関する新聞記事や解説本には注目をしてきた。
論語には孔子とその弟子が語った人の生き方や国の治め方などについて
500 編が収められているが、2 千 5 百年の時を過ぎ、国が違い民族が違い文
明が格段に進歩した現代にも人生訓としてまた企業人への忠告として充分通
用する内容となっている。当たり前のことを当たり前に行うことの大切さが
身にしみて感じさせる言葉が多い。ビジネスに携わる人や特に管理職の地位
にある人に読んでいただきたい内容で社内の管理者教育や異業種交流の場で
ことあるごとに大事な章の紹介や論語を読むように進めてきた。特に次の二
つの章は気に入っており忘れないように手帳に書き留め、折に触れ自分の戒
めとしている。
「士は以って弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以って己が任と
なす。亦重たからずや。死して後已む。亦遠からずや」
管理職の心構えとして広い心で最後までやりぬく強い意志がなければならな
い、更にその責任は重く道のりは遠く死ぬまでその重荷を背負って歩き続け
なければならない。このフレーズは徳川家康がその遺訓に「人の一生は重き
荷を背負うて遠き道を行くが如し」と残したと言われている。
「之を道くに政を以ってし、之を斉うるに刑を以ってすれば民免れて恥なし。
之を道くに徳を以ってし、之を斉うるに礼を以ってすれば恥ありて且つ格る。」
リーダが組織を治めるためには法律や罰則で人々を抑えようとしても恥じる
ことなく法律を破る者もでてくる、一方、人への思いやりなどの人徳と節度
ある接し方をすれば人は納得し協力してくれる。
会社でコンプライアンスやガバナンスが叫ばれ厳しく社員を管理すること
が多いが、組織を構成する人々と管理者との人間としての信頼関係を構築す
ることが先ず求められる。その為には先ず管理者が自らを律し、率先垂範物
事に取組み、部下の理解と協力を得る必要がある。
このほかにも論語には自分自身を鍛え高めることや律するための言葉が多
く、日々の生活や仕事をする上で参考としている。そのなかでも好きな言葉
に「有朋自遠方来。不亦楽乎」がある。
大学を卒業して今年で丁度 40 年になる。テニス部ではレギュラーは勿論
94
のこと補欠にもなれず公式戦で単複とも勝った記憶はない。それでも、テニ
ス部同期の首都圏在住の連中とは付かず離れずのお付き合いをさせていただ
き楽しい宴席を重ねてきた。これからも健康であるかぎりお付き合いさせて
いただければと思っている。之だけ長いこと友人とのお付き合いが続けられ
るのは何故なのか、そこにはお互いを認め合い、信頼しあう人間としての絆
があるのではないだろうか。まさに「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」
ではなかろうか。
以 上
<ラケット
-“手”から“道具”へ、そして“武器?”へ ->
髙橋 正明(昭和 46 年卒)
私は自分では「軽度のラケット・マニア」だと思っている。学生時代から社会
人になり所帯を持つまでは、毎年一本以上のラケットを新調していた。所帯を持
ってからはカアチャンの監視の目が厳しいので、毎年 1 本とはいかないが、それ
でも 2・3 年に 1 本は New Model を手に入れている。しかし、継続して使ったラ
ケットの本数は極めて限られている。(いいラケットが無いのか?・・・ 腕が
悪いのか?・・・ ) 以下に掲載させて頂く拙文は、今回若干手を加えたが、
3 年程前に書いたもので、2・3 人の友人に私の思い違いが無いか Check して貰っ
ているので、大きな間違いは無いと思う。
インターネットにある百科事典上の「テニス」から次の部分を引用させて貰う。
① 現在のテニスの直接の祖先に当たる球技は、8 世紀ころフランスで発生し、
当初はラ・ソーユ(La Soule)、後にフランス貴族の遊戯として定着をはじめ
た 16 世紀以降にはジュ・ド・ポーム(Jeu de paume)と呼ばれた。
② 中世では、現代のようなラケットは使わず、手のひらでボールを打ち合って
いた。手袋を使うこともある。「ポーム」とは手を意味する。
③ 「ラケット」の語源がアラビア語であることに注意されたい。フランスの僧
院で特に盛んに行われるようになったのは、イスラム勢力がヨーロッパから
駆逐された 12 世紀ころ以降とされている。
④ ラケットはフランス語の「raquette」からきているが、この語はアラビア語
の手のひら(rahat)に由来する。
私が大学の庭球部でテニスを始めた 1967 年当時のラケットは木製であったが、
2 年生の頃には金属製(スティール/アルミ)のラケットが出回り始めた。新し物
がり屋の私は親をダマクラかして SPALDING 社製のアルミラケットを手に入
れて使ってみたが、球離れの速さに驚き、またネックの繋ぎ部分のビスが緩んで
嫌な震動が手に伝わってくるので、すぐに使わなくなってしまった。その後、金
属製のラケットは何本か買ったが、腰が固くてボールの食いつき感(ボールがラ
95
ケットに乗っている感じ)が無いので、結局使わなくなってしまった。
(以下“小
ラケ”と言う。)
この小ラケはともかくスイートスポット(ラケット面のほぼ中央にある)が極
めて小さく、この場所で高い確率でボールを捕らえるのは至難の技だった。スイ
ートスポットにボールを当てることが中々できない上、フォロースルーをしっか
り取らなければ(インパクト後にボールをしっかり押さなければ)ボールがコン
トロールされて飛んで行かないものだから、ラケットを持っても異物を握ってい
るようで、手との一体感がつかめなかった。何とかラケットの面を手のひらと同
じように扱えないものかと苦心したものだ。
手のひら=ラケットの面にするには、当然のことながらグリップが重要になる。
これを実現するためにはフォアハンドではイースタングリップが一番適してい
る。もちろんウェスタングリップ(厚いグリップ)の方が力のあるボールを打てる
ということは分かっていたが、ボールの重量とボールとラケットの衝撃度を考え
れば、小ラケで非力な私が安定したボールを打つのは無理だと初めから try すら
しなかった。
この小ラケ時代にもラケットを「手より優れた道具」として使っていた一流プ
レーヤーはいた。その一番手はビヨン・ボルグだと思う。彼は DONNAY の腰の
固いラケットにハイテンションでガットを張り、トップスピンのかかったボール
打ち輝かしい実績を残した。全く人間業とは思えない。
いや、もう一人凄いプレーヤーがいた。ジョン・マッケンローだ。彼は木製ラケ
ットとカーボン/グラスファイバー等の新素材のラケットへの過渡期に活躍した
選手だが、全盛期にはやや大きめの DUNLOP 社のカーボン製ラケットを使って
いた。彼はグランドストロークもうまかったが、基本的にはネットプレーヤーで、
ボルグとは対照的にガットを極めて緩く張り、色々な球種を駆使し、特に絶妙な
タッチで繰り出されるボレーは芸術品だった。彼は体ごとボールにぶつかって行
くプレーヤーで、体全体がラケットのようだった。
パム・シュライバーが PRINCE 社製のアルミフレームの大きなラケット(以下
“デカラケ”と言う)を携えて全米オープンに登場し、決勝でクリス・エバート
と対戦し、惜しくも準優勝に終わったのは 1978 年だった。その後、彼女は四大
大会の女子ダブルスで 21 勝(パートナーはナブラチロワとで 20 勝、ズベロワと
で 1 勝)という素晴らしい成績を収めたが、私にはデビュー当時の彼女は「デカ
イ女(183 ㎝)が、デカイラケットを持って出て来た」という印象だった。彼女を
デカラケの先駆者と呼んでも良いのではなかろうか。
私がデカラケを使い出したのは 1983 年頃で、最初に買ったのはヨネックス社
製“R-7”というモデルだった。ともかくスイートスポットが大きく、ボールも
よく飛ぶ。フレームショットを怖がらずにボレーもできるし、腹の周りに付いた
ぜい肉のせいで打てなくなっていたフォアのショートクロスも再び打てるよう
になった。いいラケットが出てきたものだと嬉しくなった。
80 年代の中頃になると、デカラケが標準サイズとなり、小ラケはラケットシ
ョップでも見かけなくなった。さらにカーボンやグラスファイバー等の新素材・
96
製造技術の進歩により軽量で反発力に優れたハイテク・ケットと呼ばれるような
ものまで現われ、ラケット/ラケット面はどんどん大きくなった。
デカラケの恩恵を一番享受したのはテニスの始めたての人だったと思う。なに
せ、ボールがラケットに当たりさえすれば飛んで行くものだから、すぐにラリー
が楽しめる。フォームだとかグリップだとかフットワークだとか難しいことをあ
まり考えなくてもボールが打てる。小ラケ時代には中々ボールがラケットの真ん
中に当たらず、ラリーを楽しむ段階に至らず、テニスを諦めてしまった人も多か
ったわけだから、このデカラケのもたらした効果は極めて大きかったと言える。
デカラケが「手以上の道具」になったと広く認知されたのは 80 年代の後半であ
ったと思う。
現在、一流プロの世界では時速 200 ㎞を超えるサービスを打つ男子選手が現
われたり、女子の試合ですら強打の応酬が普通のこととなった。プレースタイル
では、厚いグリップから繰り出すトップスピンを武器とし守りを重視するベース
ライン・プレーヤー、またはサービスも強くグランドストロークでも打ち勝ち、
機を見てネットに出てポイントを上げるオールラウンダーと呼ばれる選手が多
数を占めるようになった。
このオールラウンダーと認められる最初のプレーヤーは 1990 年代に全盛期を迎
えたピート・サンプラスだと思う。彼は四大大会シングルスで 14 勝(歴代 1 位、
全豪 2、全英 7、全米 5)を上げた凄いプレーヤーで、ファーストサーブと変わ
らないセカンドサーブを打ち、グランドストロークも強く、ネットに出れば多彩
なボレーを放ち、様々なショットでポイントを取れた。ただ、試合中に舌を見せ
る癖は頂けなかったが。
このサンプラスの後を引き継いだのがロジャー・フェデラーということになるの
だろう。フェデラーは確かにバランスの良いオールラウンダーだと思う。フェデ
ラーに続いたのは左利きのラファエル・ナダルだが、彼のテニスは守り主体で、
フォアハンドのスウィングも腕があごに巻きつくようなフォロースルーではな
く卓球のフィニッシュようで、力学的合理性に乏しく、私の好みに合わない。
ウィンブルドンのこの 8 年間の男子単の優勝者はロジャー・フェデラーとラファ
エル・ナダルで分けあっていたが、今年はノバク・ジョコビッチ(セルビア)が制
し、世界ランキング 1 位に躍り出た。しかし彼もいいサービスは持っているもの
の、グランドストロークに頼る類のプレーヤーで、常に前をうかがうような動き
は見られなかった。いずれにせよ、サーブアンドボレーを主体とする選手は極め
て稀になり、ちょっと寂しい。
小ラケ時代にはラケットに関する規則は無かったと思うが、現在でもラケット
の大きさ・形状・構造についての規則は驚くほど少なく、サイズについての規定
があるくらいだ。規則を次の通り引用する。
(規則 4)
ラケット(The Racket)
テニスの規則に基づいてプレーする場合、次の各項に適合しないラケットは使用す
ることができない。
97
(a)ラケットの打球面は平面で、フレームに結合したストリングが、交差した
個所において交互に交錯し、また接着して十文字に交わった模様を成して
いなければならない。更に、ストリングの張り上がり模様は、おおよそ
均一でなければならず、特に、中央部において他の部分より密度が薄くて
はならない。
ラケットは両面のプレー特性が同一になるよう設計され、ストリングが張
られなければならない。
ストリングスには、附属物または突起物をとりつけてはならない。ただし、
摩耗または振動を抑制し、もしくは予防するためだけの目的で、これらを
用いる場合、その目的のため、寸法および配置が合理的なものについては
この限りでない。
(b)ラケットのフレームは、ハンドルを含め、全長 29 インチ(73.66 ㎝)、全幅で
12.5 インチ(31.75 ㎝)を超えてはならない。
この長さに関して、レクリェーションとして行うトーナメントのプレーヤー
に与えられていた、全長 32 インチ(81.28 ㎝)までのラケット使用許可処置は、
2000 年 1 月 1 日以降撤廃される。
ストリングスの面は、全長で 15.5 インチ(39.37 ㎝)、全幅で 11.5 インチ
(29.21 ㎝)を超えてはならない。
(c)フレームには、ハンドルを含め、附属物または装置をとりつけてはならない。
ただし、摩耗または振動を抑制しもしくは予防するため、または重量の配分
を図るためだけの目的で、これらを用いる場合はこの限りでない。
なお、これらの附属物または装置は、その目的のため、寸法および配置が
合理的なものであることを要する。
(d)フレームには、ハンドルおよびストリングを含め、インプレー中、ラケット
の形状を著しく変えうるような装置、または、ラケットの縦軸方向への重量
配分を変えることによって、スイングの慣性モーメントに変化を与えること
ができるような装置、または、インプレー中、ラケットの性能に影響を及ぼ
す、なんらかの物理的特性を故意に変えるような装置等をとりつけてはなら
ない。
ラケットの進化に伴い、守り重視のプレーヤーが大勢を占めるようになり、攻
撃を主体とする個性豊かなプレーヤーが少なくなってしまったことと相まって、
「競技者が使うラケットについては規制を強化すべきだ」という、寡っての名プ
レーヤー達による「武装解除」論も巻き起こって来ている。
とは言っても、私のような趣味でテニスを楽しむ者にとっては、ハイテク・ラケ
ットはありがたい限りで、魔法のラケットの出現を切望している。そのラケット
を何とか手/手のひらのように使うレベルに到達したいものだ。
以上
98
<忘れ得ない年>
山﨑
敬明(昭和 49 年卒)
年齢を重ねると 1 年があっという間に過ぎてしまう。今年は還暦を迎える年
(未だ自分でも信じられない)で既にこうなのだから、この先は更に速くなるの
だろう。冷静に考えてみると、たとえば 20 歳の 1 年が記憶の上では 20 分の一
だったものが 60 歳では 60 分の一になるのだから当たり前と言えば当たり前で
ある。あるいは代わり映えのしない日常が残る記憶を少なくするため、結果的に
過ぎた時間を短く感じさせるのかもしれない。つい先日近くの寺で除夜の鐘を聞
いたばかりと思っていたのに、今は既に 7 月だから半年が過ぎ去った。
しかし今年は後々振り返った時に、感じる時間の長さは別にして忘れ得ない年
になりそうだ。なんと言っても 3.11 だろう。地震、津波、原発事故、政治のも
たつき、これらはもれなく誰の記憶にも刻みつけられる。そして私にとっては、
それらが還暦の年にあったこととして。私事ながら家内が 5 月末に脳出血で倒れ
た。比較的軽症の部類で今はリハビリに励んでおり 8 月か 9 月には自宅に戻れる
予定だ。これもこの年だ。商大、緑庭の 100 周年も今年だが、家内の世話その
他で記念行事への参加ができなくなった。残る半年には何かが起こるだろうか、
過ぎてみなければ分からないが、今までの日常にもどり、あまり記憶に残らない
期間になってくれればなどとも思う。日常といえば、こんな次第であまりテニス
はできないが、近くの公園の池の周りのジョギングは欠かさないようにしたいと
思っている。5月までは週1回土曜日 4~5Km 走っていたが少し途絶えた。し
かし健康のためとテニスの再開に備えて再び始めたい。できれば秋の北大 OB 戦
には出たいと思っているがどうなるか。もし出られて運良く商大が勝てばこの年
の記憶に残るトピックスがひとつ増えることになるのだが・・・・・
(平成 23 年 7 月 13 日記)
<テニスは足だ!>
成田
芳生(昭和 49 年卒)
足の親指の付け根に激痛が走った。来週のゴルフコンペは、だめだ。今日のテ
ニスもキャンセルだ。と頭をよぎり、痛い、痛い。何とかしなければ。昨年の 5
月 19 日土曜日朝、ベッドから起きようとして足を床に着けた途端だった。そう
だ痛風の発作だ、2 回目だ。
とにかく、痛い、痛い、風が当たっても痛い、だから痛風だといわれている。
足の親指の付け根が赤くはれ、足全体が浮腫む。如何わけか、左足ではない右足
である。ほとんどの人が右足の親指付け根が赤く腫れるといわれている。
99
人は、どんな痛みかと、聞くが、ただただものすごく痛いと応えるだけである
。何とかこの痛みを理解してもらおうと、過去に経験した痛みを例にとり、虫歯
のズキンズキンという痛み、歯の治療で神経に障ったときの痛み、慢性盲腸が破
裂しそうになって緊急手術し、麻酔が早々に切れたときの痛みなどと同じぐらい
のものと説明するが、とにかく 痛い、痛いというだけだ。人は、他人の痛みな
どわかるはずないのかなあー、と聞いた人の顔を見て笑うだけである。
痛風は、痛み止めの飲み薬、患部に貼るシップ薬を用いれば、長くても 2 週間
でスーッと痛みは止まるといわれている。40 代に発症した1回目は治療後 1 週
間で痛みが引き、何事もなかった様に足の腫れが取れ元に戻った。が、今回は少
し長引いた。2 回目だからであろうか。普通に歩ける様になるのに 2 ヶ月程度か
かった。重症である。そうだ、発作の 2 週間前に、ボタン海老の刺身をたくさん
食べ、そのボタン海老の頭を油で揚げ塩を振り、海老の脳味噌までおいしく食べ
た。それが重症の原因だ。
私は、いか、たこ、蟹、海老大好き、海老の天ぷらの尻尾、子海老のから揚げ
、かにの味噌、アンコウの肝、寿司ならマグロ、雲丹が好物である。痛風にはこ
れ全部ダメである。これらには、痛風の原因であるプリン体を多く含んでいる。
好きなものが食べられない、これは、つらい。
何故、痛風は痛いのだろうか。それは、この痛さがすぐに治療しろというシグ
ナルなのだ。そのまま放っておいたら、尿酸の結晶が、腎臓のろ過機能を破壊す
るからだそうだ。体の仕組みはよく出来ているものである。
この病気の正式な名称は、高尿酸血症といい、血液中の尿酸濃度が高まって、
尿酸がナトリウムと結合して針状の結晶になり、関節などに突き刺さり傷つけ炎
症を起こすにことにより発作を起こす病気である。成人病検診の血液検査では必
ずその値、尿酸値を明示していると思う。
その尿酸値(血液中尿酸の濃度の値)が、高い値(7.0 を超し、8.0 台)だとい
つ発作が起きても不思議がない状態で、発症の危険がある。薬で尿酸値を下げな
ければならないのである。尿酸値を下げるには、尿酸の結晶を体外に排出させる
か、尿酸の結晶を作りにくくするかのどちらかでそれを促進する薬を飲み続けな
ければならない。しかし、その値が高い値、危険値だからと言って必ず発症し発
作が出るとは限らない。発作が出ない人も沢山いる。なぜだろう?
それは、尿酸がナトリウムと結合しないで糖たんぱく質と結合し、針状の結晶
化が起こらない場合で、そのような体質、食生活をしている人は発作が起きない
のである。糖を作るためのビタミンAとたんぱく質が体内に充分あれば尿酸の針
状結晶化は避けられ発作が起きないのである。尿酸値をあげる食物は控え、ビタ
ミンAが含まれている食物をたくさん食べるとよいのである。
私は、ビールご法度、鳥のから揚げケンタッキーは禁物、蟹、海老、スルメ、
ダメ、プリン体の多い食べ物ダメ、ちょっと、つらい生活を 1 年続けてきた。
その結果、現在は、尿酸値も低下、うまく尿酸値をコントロールしており、テニ
スの後にはビールが飲めそうな段階まで来ている。また、痛風が起きない程度に
ビールとおいしいものを食べようと思っている。
100
学生時代、私は、痛風はおろか疲れを知らないタフな体力があった。しかし、
足がおそく、マラソン、短距離走は不得意で、膝が固く、そのうえ、ふくらはぎ
にはつり癖があった。現在の商大硬式庭球部の練習はどのようにしているのか知
らないが、当時の硬式庭球部の公式練習では、最後に旭山展望台往復のランニン
グで終了だったと記憶している。私は、いつも後方でつらい思い出がある。足が
つって、試合をあきらめたこともあった。札幌大学との定期戦 日野選手との戦
い、4 年生の春の学生選手権個人戦 札幌大学青山選手との戦い、くいの残る試
合をしたように記憶している。
それなのに、私のテニスは、足を使って拾うテニス、守り抜くテニス、ピンチ
をチャンスに変えるテニス、守りの量から攻撃の質へとの転化させるテニス、時
間をかけるテニスをしていたように思う。足の筋肉が疲れるテニスであった。
いまは、テニスはダブルスばかりで、シングルスはしない。的確に走って球を拾
い塩梅よく足をつかっている。
私は、いつも球を追って、あせらず、あわてず、あきらめず、そして明るく、
楽しくテニスを続けようと思っている。
今は、往年の名選手と楽しくテニスができる東京緑庭会を大切にしたいと思っ
ている。
以上
参考文献:「医学常識はうそだらけ」三石巌 祥伝社黄金文庫
<2011 年スタジオパラムの仕事記録>
島上
絹子(昭和 54 年卒)
小樽商科大学創立 100 周年、庭球部創部 100 周年を記念して、100 にちなん
だ思い出(?)などを書き並べさせていただきます。
ちょっとした知り合いに〝百郎〟さんという方がいます。お父様 45 歳、お母
様 40 歳、お兄様 15 歳のときの子どもさんだそうで、生まれる前から名前が決
まっていたそうです。
〝百薬の長〟、これにはずいぶんお世話になりました。
〝100 を切る〟は、多くのゴルファーの最初の目標になるようです。
昔の刑罰に、〝百たたき〟というのがあったようですが、90 切りを目標とす
るゴルファーが恐れるのも〝100 たたき〟です。
そんなわけで、仕事柄どうもゴルフよりになってしまうので、一度、スタジオ
パラムの仕事をご報告させていただこうと思います。今年 1 年つくった本を並べ
ておけば、2011 年と 100 周年がいつまでもリンクするのではないかと目論んで
のことでもあります。
101
「サラリーマンが夢のシングルをかなえる 山口式 7 つの基本動作」山口信吾
著(パーゴルフ刊)
「普通のサラリーマンが 2 年でシングルになる方法」を書いたゴルフ作家、山
口信吾さんのファンは多く、関連本が多く出版されています。パーゴルフは学研
より今年 4 月に分かれた会社ですが、多くの出版社が新書など文字だけの書籍だ
ったものを、ビジュアル版にして新会社第一弾の書籍として発行しました。スタ
ジオパラムは、デザイン、まとめをしています。
「スコアが変わる! クラブ選びの基礎知識」松尾好員著(パーゴルフ刊)
業界では有名なクラブデザイナーが、クラブの選び方を細かに伝授してくれま
す。松尾好員さんは、阪神大震災を機にダンロップを退社しフリーのクラブ設計
家に転身された方です。英国ゴルフミュージアムにも自身が設計したクラブが展
示されているほど。スタジオパラムは、デザイン、まとめをしています。
「ゴルフショップ大賞 2011」(パーゴルフ刊)
これはパーゴルフから出版されたムック本です。「全国書店員が選んだいちば
ん!売りたい本 本屋大賞」をヒントに、昨年よりつくりました。全国 1000 店
舗余りのゴルフショップの販売員に、ドライバー アスリート部門、ドライバー
アベレージゴルファー部門、フェアウエーウッド部門から、パター、ボール部門
までの 9 部門で、〝今一番売りたいクラブはどれ?〟とアンケートをとって集計
し、それぞれ大賞から 20 位までを発表しています。少し興味のある方に結果を
お知らせすると、新・ゼクシオドライバーと新・ゼクシオアイアンは、2 年連続
で大賞受賞です。ゼクシオ人気は揺るぎません。2011 年特筆すべきは、9 部門
中 5 部門をタイトリストが独占したこと。この大躍進には、深夜一人パソコンで
集計しながら驚くばかりでした。
ゴルフ以外の本も少し。
「首都圏 七福神めぐり ご利益コースガイド」
「関東 古
墳探訪 ベストガイド」
「神話の世界をめぐる 古事記・日本書紀探訪ガイド」
(何
れもメイツ出版刊)。 これらは、著、編集、デザイン、すべてスタジオパラム
です。ところが、発行部数も少なく、労して功なしです。
世は出版不況の真っただ中。ベストセラーが一冊あれば、出版社はそれで食べ
ていけますが、本が売れない時代、売り上げを上げるためには、次々に低予算で
多くの本を出版しなければなりません。そのシワよせが編集プロダクションにき
ているというのが実態です。
そんなわけで、しばらく負のスパイラルから抜け出ることは難しいでしょう。
皆さま、どうぞたまには、本屋さんへもお立ち寄りください。最後に、年に数
回しかゴルフ場に行けない私のスコアは限りなく 100 に遠い、それだけお伝え
しておきます。
102
<2011年 近況ご報告>
野村
史朗(昭和 56 年卒)
今年 2011 年は、色々な意味でエポックメーキングな年になりそうです。まず
は何と言っても7月の商大庭球部百周年。実行委員会の一員として成功させるよ
うに努めたいと思います。何しろこれにまさる周年行事は今後二度とないと思い
ますので。
個人的には、私は昭和 56 年(1981)卒ですので、ちょうど 30 年になります。
学生の時は、卒業後 30 年の OB は雲の上の人に見えたものですが、いつの間に
やら自分がそのような年代に達してしまいました。時の経過が恐ろしく早いのに
愕然とする思いです。
会社人生はまだ継続中ですが、遠くない将来に否応なくやってくる定年後の生
活に思いをはせることもあります。だからと言うわけでもないでしょうが、最近
は色々なことに改めてチャレンジしてみよう、年甲斐もないと言われても構わず
に好きなことをしよう、どうせ二度とない人生だ・・・などと刹那的(?)な考
えに囚われることもあります。
以下は、最近手を出している事柄の一部です。
=ゴルフ=
最近 10 年くらい殆どやっていませんでしたが、最近、クラブをインターネット
で安く買い換え(デカヘッドなるドライバーを初めて手にして)練習場に行き始
めました。が、やはりブランクは大きく、リハビリには長期間要しそうです。
=自転車=
自転車といってもホームセンターで売っているママチャリではなく、ロードバイ
クとかクロスバイクとか呼ばれるスポーツ自転車です。昨年、装備も入れて大枚
はたいて購入しましたが、ママチャリとは全く次元の違う乗り物で、これで休日
には自宅(横浜の北の外れ)から湘南海岸や三浦半島まで足を延ばすようになり
ました。自転車用のヘルメット(一見すると宇宙人のような印象を与えます)を
かぶり派手な原色のウェアを着ると、別人になったような気がします。そのうち、
自転車を分解して列車に持ち込んで日本中を旅行する「輪行」もやってみたいと
思っています。
=園芸=
園芸といっても、マンションの狭いベランダで季節の草花を植えている程度です
が、最近の新聞で、「先日の震災による夏場の電力不足が懸念されており、つる
性の植物で緑のカーテンを作るのが人気」とありました。早速、ゴーヤの苗を買
ってきてプランターに植えたところです。
103
=映画 or DVD=
最近はやりの 3D 映画もいいですが、実は昔々の日本映画が結構好みです。監督
で言うと、小津安二郎とか成瀬巳喜男とか木下恵介とか(古いですね)
・・・白黒画面の中の昔の女優さんは実に美しい・・・やっぱり私もトシとって
きたのかなー
=最後にテニス=
まあ、しかし、体が続く限り最後に残るのはテニスなんだろうなという確かな予
感はあります。体力的にも技術的にも右肩下がりですが、なるべく長く楽しむべ
く、また若者テニスにも自分なりにフォローしていきたいなどと身の程知らずの
ことを考えています。
東京の緑庭会会誌も今年で第 5 号、つまり緑庭会も 5 周年ということかと思い
ます。先輩の皆様のご尽力で、組織としての形が出来上がってきていると思いま
す。今後のさらなる発展に微力ながらご協力できればと思っていますし、また願
わくば、私と同年代以降の昭和 50 年代後半から平成卒業の OB にも、もっと気
楽に参加してもらいたいと願っています。
以 上
<近
況>
松本
衆(昭和 56 年卒)
母校及び庭球部百周年に当たり、先輩諸兄姉、同期及び後輩のみなさんさらに
は長きに渡り、庭球部を支えてこられてきたすべての方に御礼を申し上げる次第
です。たった 4 年間の短い期間に凝縮された出来事の数々は今も昨日のように想
い出されます。
さて、社会人になってから随分とたちますが、やはりいろいろなことがあるも
のです。後から振り返れば、きっと何でもないことも、どっぷりつかっている時
は見えないものです。それでも大過なくこれたことに感謝するばかりです。家族
も娘二人とおす犬一匹の 5 人家族です。
とりとめない話で恐縮ですが、最近思うことがあります。何につけ、男目線と
女目線、あるいは男性の視点と女性の視点というものが存在し、それに従って人
は物事を考え、行動しているのではないかということです。本や映画、様々なエ
ッセイやコラム、お芝居、舞台、身近な人の発言等々、何かにつけ、男性の視点
から作られたものなのか、それとも女性の視点から作られたものなのかが気にな
るのです。例えばですが、私以外の家族 3 人は、劇団四季や宝塚、クラシック音
楽などに日頃勤しんでおりますが、私は本当にたまに付き合うことがあるかない
かという程度です。
たまに付き合うととても楽しめるのですが、のめり込むには何か違うと思えて
104
ならないのです。映画の嗜好も違います。痛快アクション映画やサスペンスが好
きだということではなく、最近見た古い映画「ドクトルジバコ」の面白さの視点
はやはり男目線だと思います。沢木耕太郎という作家の「凍」という作品は、ま
さに男目線で書きあげられた登山家のルポタージュです。総じて言えば、視点や
目線の違いというのは、面白いと思うポイントが違うのではと感じるのです。
私はもっぱらテニスやゴルフに、上手ではありませんが、日々邁進しており、
昨日より今日、今日より明日上達することを夢に見ています。ではテニスには、
男性の視点や女性の視点というのはあるのでしょうか。私はあるような気がしま
す。テニスの醍醐味は、また人それぞれではあると思いますが、例えば、効果的
なファーストサーブが入り、終始相手に受け身のプレーをさせて結果ポイントを
とることができた時、面白いと感じるのは男目線であるとすれば、受け身であり
ながら、効果的なロブで反転攻勢し、相手のミスを誘うことに面白さを見出すの
を女性の目線と言えば言えなくもないでしょうか。受け身ばかりだけではなく、
攻撃面においても、頭脳的なプレーや効果的な角度のあるボレーを繰り出すのも、
しっかりと計算高い女性目線のような気がします。
このようなことを考えると、あれはどうだろう、これはどうかなどと、いろい
ろ気になってくるのです。最近では、職場に女性の営業職も増えてきたことによ
り、彼女達の思考パターン・行動パターンもこの女性目線によるものと理解する
と、予測することができ、なかなか興味深い考察が出来るのではと思います。職
場での信頼関係の構築、より円滑な業務遂行に向け、活用できればと考えます。
百周年とは全く関係ない話に終始して、大変恐縮です。
以上
<テニスの再開に向けて・・・>
中屋
章(昭和 56 年卒)
本年 7 月 17 日の商大庭球部百周年記念行事で来樽し、記憶にない位久し振り
に懐かしの商大コートに立ち、プレーは自重しましたが先輩後輩の応援観戦を楽
しみました。
思えば、昭和 52 年入学入部した翌 53 年夏に、当時全国 OB 会が開催され緊張
して諸先輩をお迎えしたことが走馬燈のように蘇ってきました。
あの時には、故陸田先輩、故斉藤監督も勿論ご健在でしたし、前田先輩、青木先
輩(無論、他の先輩もですが・・)のプレーに感動した記憶が未だに残っていま
す。色んな意味で、あれから 34 年も経過したか・・・(思えば自分も 54 歳であ
り、あの時の諸先輩よりも年齢を重ねているので当たり前の話です。)
この日に当時の先輩後輩と出会い、月並みですが、あの頃の自分に戻る自分を感
じました。
今回の行事には、我が 56 年卆の同期が 5 名参加し、しかも姉崎君、野村君、松
本君は幹事役で大いに活躍してくれて頼もしい限りでした。また、卒業以来初め
105
て再開する先輩後輩も多々おり、懇親会・二次会を含めて楽しい時間を過ごすこ
とが出来ました。
さて表題ですが、卒業後今の会社に入社して、幸い当時の独身寮(習志野)に
はテニスコートがありましたので、当然に会社のテニス部に入社し、先輩や仲間
を募り、実業団リーグにも新規加入し活動し、部員も 60 名を超える迄に膨張し、
結婚までのほぼ 9 年間は会社テニス人としてブリブリしていました。
この間、後輩の遠征時には会社のコートを提供したり、ほぼ皆勤で参加していた
記憶があります。平成 2 年に結婚を機に部運営を後輩に任せて楽しいテニスをと
思っていましたが、平成 4 年に首の頚骨を痛め約1年間リハビリに費やし、その
後完治していますが恐怖心もあり、また転勤等もありコートからも東京 OB 会か
らも少し遠ざかる日々が続いておりました。
しかし、幸いに札樽でも、東京でも我が同期が OB 会の幹事として活躍している
姿があり、元来のテニス好きの自分ですので、顔だけは見せようと今回の記念行
事には参加しました。
結論から言うと、「そろそろテニスも一から再開しようかな・・」という思いが
復活してきました。とは言え、メタボ体型のままでは直ぐに心筋梗塞でも起こし
かねないので体力づくりから始めるしかないかと覚悟しています。時間はかかり
ますが、1 年計画位でコートでゲームが出来るレベルへの再生プログラムを立案
中です。その節はみなさんお手柔らかに宜しくお願いします。
最後になりますが、東京緑庭会幹事の皆さんのご苦労に感謝し、本会の益々の
発展を祈念します。
以上
<ライフワークとしてのテニス>
清野
栄一(昭和 63 年卒)
母校小樽商科大学に入学し、テニスを始めて以来、テニス歴は 30 年に近づこ
うとしている。卒業後、テニスの頻度は年に数回、体を動かす程度であったが、
5 年前、群馬に転勤したのを機にテニスを再開、週末はテニス三昧という日々を
過ごした。当初は当然のことながら、学生時代と比べ体力がめっきり落ちていた
こともあり、10 分も打てば息が上がり、1セットもすればヘトヘト、自分でも
体力の衰えにびっくりした。その後、多少体力が戻るもイメージ通りのプレーが
できず、回り込んで打ったら、回り込めずボールが後ろを通った時は愕然とした。
ただ、体力の衰えで出来なくなったこともあるが、新たに出来るようになったこ
ともある。サーブはスピンサーブに加え、体の負担を考えフラット・スライスも
使うようになり、コースを狙いながらゲームコントロール、また相手が返球する
コースを今まで以上に予想しプレーするようになった。学生時代はフォアハンド
一本、ボレーなど出来なかったが、最近はそれなりに返すこともできる(昔の仲
間はボレーをしている私を見てビックリする)。プレーの幅が少しずつ広がった
106
ことで、益々テニスは楽しくなり、その奥深さも感じるようなった。
また、群馬ではテニスを通じて地域のコミュニティに参加、ビジネス上の人間
関係と別の人脈を作ることが出来、あらためてテニスのもつ素晴らしさを認識し
た。
東京に戻り、テニスをする機会は激減したが、定期的に行っている同期とのテ
ニス会や、OB 諸先輩にお誘い頂く練習会に参加するなど、運動不足解消の観点
からテニスをする努力を続けている。もう少しうまくなれるのでは、強くなれる
のではという淡い期待を抱きつつ、これからもテニスを愉しみたいと思っている。
以上
【 新社会人歓迎ビアパーティー 】
2010 年 8 月 21 日
於 えびすジンギスカン海月(くらげ)
Guest は田中秀和君(平成 22 年卒)
107
対関東楡庭会戦
<戦評等>
今年は関東楡庭会に惜敗
晩秋の 11 月 27 日、風もなく真っ青な空の下で、今年も「東京緑庭会対関
東楡庭会戦」が開催されました。関東在住の商大・北大それぞれのテニス部
OBが松戸テニス倶楽部に集合し、4 時間の熱戦を繰り広げました。
東京緑庭会側では山口藍さん(平成 21 年卒)の初参加でヤング層が大いに
盛り上がって 3 勝しましたが、シニア・ミドル層では関東楡庭会側の強力ペ
アに圧倒されシニアの 2 勝のみとなりました。地の利を生かして 2 年前の勝
利再現を目指しましたが、終わってみれば 5 勝 6 敗という惜しい試合結果で
した。
公式戦に続いて両会プレーヤーは混合お好み戦を楽しみ、その後に催され
た懇親会では、両会1年振りの再会を祝い、対戦相手の元気なプレー振りを
称えつつ何度も乾杯し、現役時代の試合を思い出しながらの談笑が尽きない
ひとときを楽しみました。
東京緑庭会 幹事長 今井央(昭和 45 年卒)
<戦
績>
東京緑庭会
シニア層
NO.1
NO.2
NO.3
NO.4
NO.5
ミドル層
NO.6
NO.7
NO.8
ヤング層
NO.9
NO.10
NO.11
5-6
川口(S36)・青木(S42)
西尾(S36)・斎藤(S40)
岡村(S44)・梶原(S44)
早川(S44)・今井(S45)
江川(S44)・今井(S44)
3-6◎
◎6-4
0-6◎
◎6-3
2-6◎
小浜(S46)・成田(S49)
高橋(S46)・山崎(S49)
濱田(S48)・古川(S48)
2-6◎
2-6◎
1-6◎
野村(S56)・清野(S63) ◎6-2
吉田(S61)・北村(H19) ◎6-3
仲田(H21)・山口(H21) ◎6-2
108
関東楡庭会
久本(S38)・倉知(S41)
青戸(S37)・安川(S42)
青戸(S37)・長友(S45)
岡(S42) ・武内(S42)
安川(S42)・長友(S45)
高屋敷(S46)・大野(S50)
高屋敷(S46)・高邑(S52)
川西(S50)・高邑(S52)
吉見(S55)・佐藤(S55)
吉見(S55)・久野(S57)
久野(S57)・西田(S57)
【 対関東楡庭会戦 】
2010 年 11 月 27 日
表
紙
於
松戸テニス倶楽部
絵
本号の表紙絵は第 2 号(2008 年号)に引き続き、長岡佑吉氏(S42 卒)の作
品を使わせて頂きました。
8 月のあたまに表紙絵の相談をしようと田中さんに電話をしたところ、長岡さ
んから「インスピレーションが湧き起こり、いい絵が出来上がった。」との連絡
が入ったとのことで、早速使わせて頂くことになりました。現物は鎌倉にお住ま
いの長岡さんが吉祥寺にお住まいの田中さんのもとへ持参下さったとのこと。
題は「クレイコートを偲ぶ」、なんともホンワリとしたメルヘンチックな絵で
あることでしょう。
同時にこの絵を描くことに至ったいきさつについて、一文を頂いておりますので、
以下にご紹介します。
(編集担当)
奥尻島のあの小母さんはどうしているだろう。もう死んでいるかも。たしか有
坂さんとか言った。
3 月 11 日、津波の映像を見て、奥尻島を想い出した。島ごと被災したのは何
年前だろうか。小樽に行く前に寄ってみよう。
世田谷の高校から昭和 38 年に小樽に入学した。上野発の寝台車に乗る。岩手
ぐらいで朝が来る。それからが長い。それでオバチャンと知り合い、ずっとおし
ゃべりでヒマをつぶした。ぜひ一度奥尻を訪ねておいでと誘われ、帰省の途中、
お世話になったのだ。
小さな島なのですぐ分った。薬屋だが遠い親戚がやっていた。オバチャンの消
息は分らなかった。
宿をとったところ偶然そこのオカミは小さい頃オバチャンの隣に住んでいた。
小樽での百周年が終わって東京に戻ってしばらくしたら、急に昔がなつかしく
なり、この絵を描いた。
2011.8.5
長岡 佑吉
109
編集後記
2011 年 3 月 11 日金曜日、久し振りに(めずらしくも)カアチャンの買い物に
付き合って帰宅し、PC を開いて齊藤愼二さんから頂いた Mail の回答を作って
いる時にグラッグラッと来た。かなり大きかったのでテレビや本棚を押さえた。
我が家の被害は軽微で、ピアノの上に乗せていた飾り物の文鎮(古代の韓国の民
族衣装を着た武人が馬に乗っているもの)が落っこちて人物の首が取れてしまっ
た程度だったが、その後テレビを見て愕然とした。数年前スマトラ沖地震で発生
した津波の映像そのものの現象が三陸沿岸で起こっていたのだ。身近に起こった
悲劇を Real Time で見て、胸が押しつぶされたようで息苦しくなった。翌日は
土曜日・翌々日は日曜日、テニスをする予定だったが、さすがに気が滅入ってで
きなかった。(東電福島第一発電所の事故に関しては、長くなるので割愛する。)
庭球部創部百周年記念行事はどうなるのだろうと、一瞬不安になったが、やる
しかないだろう・予定通りやるべきだと思った。何やかやと雑務をこなし、7 月
17 日の朝を迎えた。その日は前日来の雨が残り、重っ苦しい天気だったが、オ
ムニコートの水をかき出して規模を縮小しても決行するとの判断の下、若干遅れ
ながらも、受付を Open すべく、緑丘コートへ赴いた。我等の受付は北海道在住
者以外の参加者が対象で、関西地域の方々を良くご存知の岡田一利さん(S44 卒)
にも受付に座って頂く予定だったが、中々来てくれない。「時間に厳格な岡田さ
んが」と不思議に思っていた。集合記念写真を撮影する間際になって、岡田さん
がタクシーを降りて来た。その姿を見て全てが分った。岡田さんの胸には故斉藤
進監督の顕彰記念碑に捧げる花束が抱かれていた。(集合記念写真の記念碑をご
注目下さい。)朝のあの時間帯に開いている花屋を探すのは大変だったことでし
ょう。岡田さんのお心遣いにただただ感服・感激しました。
庭球部創部百周年記念全国 OB・OG テニス大会と祝賀会は北海道緑庭会から
の実行委員の大奮闘並びに現役庭球部員のご協力のおかげで、滞りなく行われま
した。誠に誇らしい限りです。
さて、例年の会誌は総会の行われる月(今年であれば 5 月)に発行するのです
が、今年の会誌第 5 号は庭球部創部百周年記念号として記念行事の終わった後に
発行することとしました。また、例年は 20 ページ強の Volume ですが、本号は
200 頁を目指し、全会員からの寄稿を募りました。結局 110 頁程度に止まり、数
名の会員の方からはご寄稿頂けなく、また遅れもありましたが何とか発行にこぎ
つけました。
内容的には寄稿者が過ごしたその時々の学生時代の状況・環境・出来事やこれ
までのテニス人生等を一文にして頂いたものが多く、資料的にも大変興味深いも
のになったのではないかと思っています。
ご寄稿下さりました皆様に御礼申し上げます。
会誌編集担当
110
髙橋
正明(昭和 46 年卒)
小樽商科大学校歌
作詞
作曲
時雨
杉山
音羽
長谷夫
たと
一、金鱗をどる渺々の
あけぼの称ふ波の唄
エルムの花に若人の
涯なきのぞみ数々秘めて
夢うるはしの
緑ヶ丘よ
二、夕陽映ゆる白樺の
梢を渡る風の唄
慈愛の山のふところに
銀翼みがき俊足秘めて
唄ほがらかの
緑ヶ丘よ
そうきゅう
三、 蒼 穹 はてず道つきず
はるかに仰ぐ北斗星
栄冠迎ふこの腕に
飛躍の力ひととき秘めて
花咲き匂ふ
緑ヶ丘よ
四、健腕拓く五大州
凱歌はあがる我母校
感激みてる若人の
血潮に清き教へを秘めて
春永遠の
緑ヶ丘よ
111
若人逍遥の歌
作詞
作曲
ろうかん と
高島
宮内
茂
泰
さまよ
一、琅 玕 融くる緑丘の
浪漫の靄に街沈み
春曙を逍遥へば
風悠久の言葉あり
らんだ
瀾朶の桜吹雪つつ
あわただしくも逝く春の
ひら
伝統古き学舎に
展 ける海の果てしなき
くちづさ
二、夏白樺に囁きて
ハイネの詩を口 誦 む
いと
みめ美はしきまなざしの
またなきときの愛 ほしさ
きりきし
断 崖 落ちて波くだけ
オタモイ遠く帆走れば
うそぶ
小樽の嶺々の夕あかね
冴ゆる北斗に 嘯 きぬ
しょうじょう
三、秋 䔥 条 の思い濃き
流転の行旅夢に似て
悩みの思惟を誰か知る
たたず
わろ
感傷 嗤ふことなかれ
ぼうだ
泪滂沱と憂愁の
ポプラにかかる雲消えぬ
桜ケ丘に 佇 みて
さと
落葉の行方哲 ふかな
ひもと
四、氷雪海に傾きて
月寒ければ 繙 かむ
海冥航路遠けれど
我に港の乙女あり
流星堕ちて影もなし
ゆく青春の足音に
生命を惜しむ若人は
永劫の坏 酌まんとす
つき く
112
東京緑庭会 会誌
「 た か が テ ニ ス さ れ ど テ ニ ス 」 第 5 号 ( 2011 年 号 )
小樽商科大学硬式庭球部創部百周年記念号
2011 年 9 月 印 刷 発 行
発行者:東京緑庭会
編集者:東京緑庭会 事務局
事務局長 早川 好寛
担当:田中 隆二
〒 180‐ 0003
東 京 都 武 蔵 野 市 吉 祥 寺 南 町 3‐ 1‐ 2‐ 1705
Tel/Fax: (0422)42‐ 2913
髙橋 正明
〒 225‐ 0012
神 奈 川 県 横 浜 市 青 葉 区 あ ざ み 野 南 2‐ 10‐ 3
Tel/Fax: (045)911‐ 6204
Mail Address: [email protected] -com.ne.jp
=事務局=
住 所 : 〒 101 ‐ 0051
東 京 都 千 代 田 区 神 田 神 保 町 1‐ 52‐ 12 神 田 耀 ビ ル 5F
スタジオパラム内 東京緑庭会事務局
TEL: 03 ‐ 3518‐ 238 5
FAX: 03‐ 351 8 ‐ 2386
会 費 等 振 込 先 口 座 : 三 菱 東 京 UFJ 銀 行 神 保 町 支 店
普 通 22817 93
東京緑庭会 事務局長 早川好寛
*****
印刷所:ヤマノ印刷株式会社
小樽商科大学硬式庭球部創部百周年記念
全国OB・OGテニス大会
2011 年 7 月 17 日
於
緑丘テニスコート