第2号 2008年号 - アカシアの花が咲いている地獄坂を登りきった所に 僕

東京緑庭会
会誌
第 2 号 (2008 年 号 )
目 次
【巻 頭 言】
・ 愉しく、そして・・・
東京緑庭会 会長
ページ
齊藤 愼二 (S40卒)
1
【寄 稿】
・ 私の健康法
東京緑庭会 幹事長
青木 高史 (S42卒)
・ 小樽商大の学生生協の思い出
・
小樽商科大学 庭球部 元部長
石原 定和
・ 小樽商大との親善試合
東北大学 庭球部OB
藤井 淳 (S32卒)
・ どうして尺八なんかはじめたの?
大和田 殖夫 (S32卒)
・ 全国OB会への参加と近況報告
榎本 正克 (S37卒)
・ 平成十九年 テニス三昧
北大庭球部OB
西 淳二 (S40卒)
・ ブラジルと野村證券
秋山 賢一 (S37卒)
・ 「近江商人」と「風林火山」
高橋 悦雄 (S40卒)
・ 私の2007年
長岡 佑吉 (S42卒)
・ おすすめの名画(洋画)2
Casablanca(カサブランカ)
田中 隆二 (S39卒)
・ ジョギング考
山崎 敬明 (S49卒)
3
4
6
7
9
10
11
12
【緑庭全国テニス大会】
【対関東楡庭会戦】
1
13
14
東京緑庭会 事務局長
早川 好寛 (S44卒)
15
東京緑庭会 幹事長
今井 央 (S45卒)
16
【題 字】
17
【表 紙 絵】
17
『編集後記』
会誌編集担当
*****
田中 隆二 (S39卒)
18
小樽商科大学 硬式庭球部
部誌 「緑庭」 創刊号 表紙
部誌「緑庭」創刊号は昭和37年、榎本さん(昭和37年卒)の発案で、田中さん
(昭和39年卒)が編集者となり刊行されました。題字は歴代の学長にお願い
しておりますが、創刊号の題字は当時の加茂儀一学長の筆によるものです。
*****
巻
頭
言
<愉しく、そして・・・>
東京緑庭会 会長
慎二(昭和 40 年卒)
齋藤
8 月 4 日、思い出は時空を超え、一瞬にして蘇る
過去のテニスコートでの真実はそれぞれの心の中にあり、時は過ぎ、
そして、過去のテニスの試合は、おぼろげな幻想の中にあり、伝説となる
学生時代からの仲間は、あの日のままで何も変わっていない
しかし、明日の日々は現実であり、今の私たちの手の中にある
今たとえ過去を振り返るときがあったとしても、過去は蹉跌と迷妄の中にあって、
おそらく、現実の方法や忍耐力を欠いたために自分の持っていた可能性を浪費し、
喪失したのかもしれない
しかし、そのようなことは後講釈で良しとしよう
言ってみれば、今となれば、明日という現実を愉しみにしたい
己の人生を愉しむのに理屈はいらない
今更、どのような新しい手解きを望むことが出来るのだろうか
明日は、肩の力を抜いて、日差しの降り注ぐテニスコートで汗を流し、
また、語らいの場で仲間とともに杯を傾けたい
われらの交流も年代の隔たりを超えて、人生のささやかな愉しみになればと思う
寄
稿
<私の健康法>
東京緑庭会 幹事長
青木
高史(昭和 42 年卒)
今年も残り 1 ヶ月余りで、なんとなく慌しさを感じているこの頃です。
私も今年は結構色々あり、節目の年だったと思っています。
年初には、古傷の肘を痛め、今度こそは完全に治そうと決意し、信頼している
整骨院に 6 ヶ月通い、先生に励まされながら頑張りましたが、残念ながら肘は完
全に伸びず、結局完治できないままで終わりました。しかし以前ほどの痛みを伴
わないので、不自由ながらテニスを続けることが出来るようになり喜んでいます。
会社関係では 6 月に退任、第一線を退き、自分の時間も徐々に出来てきました
1
が、意外に色々なことがあり、昔と変わらない忙しさを感じていますが、メンタ
ル的にはストレスも少なく、結構毎日を楽しく過ごせることに充実感を感じてい
ます。一方、数日前には 65 歳の誕生日を迎え、なんとなくこれも自分にはひと
つの節目のような気がします。
前置きはさておいて、今日は皆さん、特に中高年の人を対象に、お役に立つか
どうか判りませんし、自分自身が満身創痍の身で、生意気なことを言える立場に
無いのですが、私の健康維持法を若干披露したいと思います。
1. ストレッチ体操の励行:40 歳頃会社で行われた運動能力検査で、60 歳後半
と判定され大変なショック。一念発起、「無理しない中高年齢のストレッチ」
という本を読み、10 数年以上毎日欠かさず励行し、現在も運動開始の前には
必ず行っています。
2. 信頼の持てる整骨院を持つこと:それでも無理がたたり、7 年前に両膝を痛
め歩行不能に陥りましたが、幸い良い整骨士に恵まれ、1 年間をリハビリで
棒に振りましたが、再度テニスは楽しめるようになりました。現在でも何か
故障が起これば必ず相談に行く整骨院です。
3. それ以外の運動:毎朝腹筋と腕立て伏せを無理の無い回数で実施、さらに毎
日入浴時に浴槽内で正座を数回繰り返し行う(膝の柔軟性を維持するためで、
水圧で無理なく出来る)。また、テニスをしない日は必ずウォーキングを約 1
時間程度しています。ウォーキングにも色々あるそうで早足は持久力を付け
るといわれ、並足は消化器系統に効くといわれています。その時の気分でや
っています。
4. 最後に欠かせないのがアイシングです。私の通う整骨院では不具合の部分は
毎日 15 分から 20 分アイシングを行うことを推奨しています。したがって、
風呂上りには膝、肘、腰等をアイシングしています。
5. 上記以外では最近流行のサプリメントに凝っており、これまではビタミン
A,C,E を欠かさず服用していましたが(家系が癌血統のため)、更にアンチエ
イジングのため、マルチビタミン、COQ10、筋肉痛を和らげる錠剤などを服
用しています。本当に効いているのかどうかは本人も判りませんので、ただ
信じるのみです。
以上が私の健康維持法で、ご披露させていただきましたが、基本的には個人差
もありますので各人に合った方法や摂取を取り入れることが肝要で、最も重要な
ことは三日坊主にならずに継続して行うことだと思います。
では、皆さん健康に留意し頑張って行きましょう。
2007 年 11 月 27 日
2
<小樽商大の学生生協の思い出>
小樽商科大学 庭球部 元部長
石原
定和
わたくしは、小樽商大の硬式庭球部の部長を 20 年近く勤めささて頂きました
が、その軌跡につきましてはまた別の機会にご披露しますが、今回は商大で貴重
な経験をした生協の理事長の時の思い出を少し話させて頂きましょう。
学生・教員・事務職員が出資して出来上がった学生生協ですが、大学の方々にと
って一番大切なのは食堂でした。生協が組織化される前は、三国さんという方が
経営されていました。食糧難の時代から一貫して、商大の学生さんを可愛がり、
カネの無い学生さんには煙草のバラ売りを行い、1 本,2 本と身ゼニを切るよう
な対応をされていたようです。また、体育系の学生さん達には、いろいろなサー
ビスをしてくれていたようです。たとえば、ご飯だけを注文した学生に味噌汁と
漬物をつけてやったり、特別の大盛りにしたりとか。メニューの値段を上げて欲
しいと要請があっても、大学側はその通りに値上げを認めることが出来なかった
ようです。
生協の直営になってからは、調理士さんとして働いてもらいましたが、家族の
全員で働いても、生活が最低水準であったと思います。いろいろ工夫したメニュ
ーを出してもらって、われわれは助かりました。学生さん達も、三国さんの努力
に対しては、いつも感謝していたことでしょう。
のち、退職時に、わたくしは長年の三国さんのご苦労に対して、大学側に感謝
状を出してくれるよう、当時の学長の長谷部先生にお願いにあがりましたが、ど
んな理由かわかりませんが、とにかく国立大学では無理だと言われました。わた
くしは、何とかいい方法で感謝の気持ちを表わすよう再考してくれとねばりまし
た。長谷部学長は、自費で北海道の有名な画家の描いた絵を購入して、その裏に
みずから筆をとり、永年のご苦労をねぎらう言葉をしたためられたうえで、三国
家へ赴かれ直接手渡されました。長谷部学長のお人柄に対し、わたくしは常に敬
意を表してきましたが、この時の思い出は、今でも強烈にわたくしの脳裡に焼き
ついています。
もう一つ、生協の思い出として、食堂の材料の仕入れについてです。食堂経営
を継続している過程で、物価の値上がりが一番苦しかったです。ある時期に、豚
肉の仕入れ材料を生(なま)物から冷凍物に替えたのですが、当時の専務理事と何
日も何日も悩んだのも、つらかった思い出の一つです。学生さんは、魚は食べま
せん、肉食なのです、トリでもだめです、やはり豚なのです。味が落ちるのでは
ないかと心配で、食堂に入っては学生さんの反応を一週間ほど見ていたほどです。
今では、笑い話になりそうですが、当時は真剣でした。
いろいろ経験はしましたが、思い出の二つを書いてみました。
3
<小樽商大との親善試合>
東北大学庭球部 OB 昭和 32 年卒
藤井
淳
1954 年(昭和 29 年)7 月、我々東北大庭球部の面々は、第 24 回対北大定期戦
を戦うため津軽海峡を渡り勇躍遠征の途につきました。試合は 7 月 3,4 両日北大
中央コートで行われ,我が軍が 7‐2 で勝利し、戦後の戦績を 3 勝 3 敗のタイとし、
通算では 14 勝 9 敗とリードしました。この中央コートは、明治 35 年に札幌農
学校庭球部(当時は軟式)が発足して以来、長く北大庭球部のホームコートとして
親しまれてきましたが、昭和 31 年に廃止され、その跡にクラーク会館が建ちま
した。
勝利の美酒に酔いしれる暇もなく、翌 7 月 5 日、私達は小樽に赴き、小樽商大
との親善試合をおこないました。小樽商大とは、我々の北海道遠征の都度親善試
合をおこなっていたそうですが、いつの頃からなのかは記録に残っていません。
この年私はマネージャーでしたが、どういう経緯で親善試合をやることになった
か、記憶が定かでありません。戦後東北大学庭球部とテニスコートの復活に貢献
された相原東孝先輩は、この年の 5 月に名城大学に着任され、小樽商大に移られ
たのは昭和 36 年春ですので、相原さんのご縁によるものではないようです。
さて親善試合ですが、商大コートでやったとばかり思っていたのですが、昔の
記録を引っ張り出して見たところ、小樽市営コートとありました。駅から 20 分
位?歩いた、丘の上か中腹の斜面を削ったかしたところにあったと記憶していま
す。丘の斜面に作られたスタンドから海が見渡せる素晴らしい眺望でした。
試合は 8‐1 で勝たせていただきました。当時の選手の方々は、小樽商大が喜
多,橋本,佐藤,室谷,中村,前田、東北大が堀内,嶋田,阿部,加藤,大場,
白石,片平の各氏です。
親善試合が終わってから、私達はその足で定山渓に向かいました。在札 OB の
お心づくしの祝賀会に出席するためです。そのため小樽商大の皆さんとコンパを
やることが出来ず,親睦の実をあげられなかったことがちょっぴり心残りな思い
出です。
**親善試合が行われたコートは花園公園内にあった市営コートで、私達が
「花園コート」と呼んでいたものだと思います。このコートは少なくても昭
和 42 年までは存在し、その後入船公園にあったバレーコートがテニス用
に改修されたことにより廃止になったものだと思います。(編集局)
=筆者紹介=
藤井 淳
氏:湘南高校で石原慎太郎氏と同窓。東北大学へ進み、法学部・
庭球部で相原東孝先生(商大庭球部元部長)の後輩。庭球部マ
ネージャー時代の昭和 29 年、対北大戦で札幌遠征の折、小
樽に赴き親善試合を行う。昭和 32 年三菱電機㈱入社、家電・
冷熱部門で活躍。退職後 40 数年振りにテニスを再開し、月
4
2回 OB 仲間とプレイを楽しむ。平成 15 年出版の『闘志と
友情湧き溢れて・東北大学庭球部八十年史』の編集を担当。
**文中の親善試合のスコアをお尋ねしたところ、以下のご回答を頂きました。
同氏からは「我が方の圧勝なので其方の会誌に載せるのは遠慮したい」と
のお心遣いを頂いておりますが、懐かしく思い起こされる方もおありでし
ょうし、また貴重な記録ですのでご披露させて頂きます。
我等に貴重な 1 勝をもたらしたのは、当時 1 年生であった橋本勉さん(昭
和 33 年卒)です。同氏は今年(2007 年)お亡くなりになられました。心より
ご冥福をお祈り致します。(編集局)
ダブルス
№3
№2
№1
シングルス
№6
№5
№4
№3
№2
№1
TOTAL
小樽商大
0
喜多・橋本
佐藤・室谷
中村・前田
東北大
-
3
(5‐7,6‐4,5‐7) 堀内・嶋田 ◎
(2‐6,6‐2,2‐6) 阿部・加藤 ◎
(1‐6,1‐6
) 大場・白石 ◎
1
佐藤
喜多
◎橋本
室谷
中村
前田
1
-
(3‐6,1‐6
)
(3‐6,3‐6
)
(7‐9,6‐3,7‐5)
(6‐1,4‐6,3‐6)
(2‐6,5‐7
)
(4‐6,1‐6
)
-
5
7
白石
片平
阿部
片平
加藤
大場
8
◎
◎
◎
◎
◎
<どうして尺八なんかはじめたの?>
大和田
殖夫(昭和 32 年卒)
受験勉強を終わって、入学してさあ何をやろうか。そして高校の時に憧れなが
ら出来なかった硬式庭球部に、いの一番に駆けつけました。
最初の夏合宿は、初日から雨降りで練習もできず、あの崖下の小屋(部室)で空を
見上げて無聊をかこっていました。
その時でした。キャップテンの福島さんが尺八を持ち込んでプープー吹き始めた
のです。手持ち無沙汰のみんな[室谷さん(昭和 30 年卒)・前田さん(昭和 31 年卒)
等]が俺にもおれにもと、競い合って吹き始めたのは当然のなりゆきでした。
その日以降、庭球部全員がそのまま尺八部に入部し、お嬢様方との琴の合奏を楽
しんだのでした。
晴れた日はテニス、雨の日は尺八。夏はテニス、冬は尺八。昼はテニス、夜は尺
八。こんな学生時代がつづきました。これを文武両道とよびました。
そして、テニスと尺八は私の一生の伴侶となったのです。
戦後の不況から高度成長の時代へ。そしてバブルの崩壊。
死に物狂いで企業戦士として戦うことが、家族をふくめた幸せにつながるのだと
信じての現役時代でしたが、それなりに満足感もある毎日でした。
しかし、趣味どころの騒ぎではない緊張した毎日の中で、テニスも尺八も中断せ
ざるを得ませんでした。
定年を迎えてから、ようやく好きなことに打ち込める、この喜びはなんともい
えない開放感でした。そして期待に違わぬ素晴らしいものでした。
充分な時間があり、健康であり、体力・意欲も残っており、介護しなければなら
ない人もなく、そして少しのマネーも手に入り、熟年とはよく表現したものだと
つくづく思いました。
仕事をやめたあと、何をしようかとうろうろしているのを見るのはつらいもの
です。それにつけても学生時代にもらった遺産に感謝しています。そろそろ体力
に不安を感ずる方、定年後は何をしようかと検討中の皆さん。今からでも遅くは
ありません。尺八を楽しく学べる方法を伝授します。
西尾さん(昭和 36 年卒)も柿沢さん(昭和 41 年卒)も一緒にやっています。秘湯合
宿もありますよ。
詳しくは http://homepage2.nifty.com/chikuinken/をみてください。
6
<全国 OB 会への参加と近況報告>
榎本
正克(昭和 37 年卒)
時の流れるのは早い。ついこの間までテニスコートでジュニア達に「オジサン」
と呼ばれる事に凄い抵抗を感じていたと思ったら、いつの間にか「オジイサン」
と呼ばれても全然おかしくない歳になってしまった。1937 年 8 月 5 日生れであ
るから、OB 会で上京中に 70 才の大台に突入してしまったのである。
それでも毎日のテニスコートへの JR 通勤では、思いトーナメントバッグを肩
に、ガラ空きの“優先席”を横目で見ながら、さり気なく一般の空席を探してい
る。いくら歳をとっても、つまらない見栄を張る事だけは相変わらず健在である。
今年一番の思い出といえば、それはなんと言っても東京緑庭会が企画・開催して
くれた“全国 OB 会”である。8 月 4 日に開催との通知を田中君から受けた時に
は、「その日は OK だ」としか思わなかったが、良く考えてみると私の 60 才台最
後の日に懐かしい OB 諸氏とラリーを交し、葛飾柴又で杯をかたむけ、70 才台
最初の 1 日目は佐藤則君(S44 卒)と一緒に川口さん(S36 卒)の案内で終日東京見
物をさせてもらった事になる。
OB 会の前日には川口さんがメールで呼びかけてくれた諸氏が集まってくれ、
“銀座ライオン”で美味しいビールと珍味をごちそうになった。当日偶然にも同
じビルで会合のあった齋藤東京緑庭会会長(S40 卒)と舟本君(S41 卒)が忙しい間
を縫って顔を出してくれ、須加君(S38 卒),岡村君(S44 卒),山田研太君(H11 卒)
を交え本当に楽しい“前夜祭”となった。舟本君とは多分卒業以来だから 41 年
振りの予想もしていなかった再会で、実に嬉しかった。須加君は「斉藤監督を偲
ぶ会」の際も、会の終わった後、銀座で夜遅くまでつき合ってくれたが、今回も
貴重な時間を割いて駆けつけてくれ、感謝の言葉も無い。
松戸テニス倶楽部でのテニスは 30℃を遥かに超える暑さとの戦いでもあった
が、楽しくプレーする事が出来た。ハプニング続出で田中君(S39 卒)や青木幹事
長(S42 卒)は大変だったと思うが、20 代から 70 台までの幅広い人間が集まると
全員が 100%満足という事は中々難しい。
私の最初のゲームは、田中君の配慮と思うが、同学年の北大 OB 西君と対戦さ
せてもらった。西君とは昭和 36 年秋の対北大定期戦シングルス№1 で対戦して
以来 46 年振りの再会である。昔の彼の得意なショットを思い出し乍ら楽しくラ
リーを交わした。2 戦目は野村史朗君(S56 卒)に組んでもらった。彼とも卒業以
来 26 年振りの再会であったが、学生時代と比べても全く遜色のないプレーをす
るのには驚いた。きっと卒業後も地道にテニスを続けていたのだと思う。3 戦目
は川口さんと組んで卒業したばかりの北村清文君と対戦した。これは川口さんの
「一番強い奴の球を受けてみたい」という強い要望で実現したものだが、随所に発
揮してくれた北村君の“武士の情け”のお蔭でスコア上では互角の試合となった。
持つべきものは良き後輩(?)である。
葛飾柴又の「川千家」での懇親会終了後も上野駅ビル内の居酒屋で夜遅くまで
つき合ってくれた秋本君(S43 卒),早川事務局長(S44 卒),岡村君,今井章君(S44
7
卒)等に感謝申し上げたい。久し振りに昔のテニス部での思い出、そして現在の
テニス部の学生気質について語り合えた事は本当に良かったと思っている。
秋本君が 20 年振りにテニスを再会した事を知って嬉しかった。なんといっても
十年ぶりの対北大定期戦勝利の立役者の一人であるからである。これからもマイ
ペースで続けて欲しいと思っている。
さて、かくいう私は 66 才で無事会社を無罪放免となり、それ以来夏も冬も JR
の定期券を買ってコート通いを続けている。私のような“独居老人”にとって世
間とどうつき合うか、どうやって社会性を保って行けるかは大きな課題である。
いつ寝ても,いつ起きても構わない。人が働いている時に眠り,人が眠っている
時にひとり BS でグランドスラム大会や深夜映画を観るのも勝手である。即ち、
先は短いのに時間はたっぷり有るという錯覚に捕らわれる。そして油断はたちま
ち時間の浪費を拡大させる。だからこそ自ずからを律するものがどうしても必要
なのである。それらのいくつかは人によって異なるが、趣味,ボランティア,外
出,家事等である。最低限の家事は生活にリズムを刻む為にも必要となる。外食
を止め、食材を買い求め、簡単でも出来るだけ自分で食事を作り、自分で栄養価
を考える。洗濯と洗物は毎日欠かさずするが、家の中の掃除と整理整頓は全くの
苦手である。一寸油断すると部屋の隅にはホコリがたまり、部屋の中は新聞,雑
誌,チラシ,DM の山となる。
趣味と言う点だけはテニス,カメラ,旅行,庭いじりと事欠かない。夏の間は
日の出と共に庭に出て季節の花と野菜作りで腰が曲らなくなった。庭木の冬囲い
で膝を痛めた。僅か 80 坪程の空き地だが、その対価としてほぼ半年以上は必要
とする野菜のほとんどを収穫する事が出来る。
社会と関わりを全く断って生きる事も出来るが、それでは余りにも淋しい。そ
の為、時にはくじけそうになる心を鬼にして、セミナーや講演会に出て、新しい
知識を吸収しようと試みる。しかし、すっかり固くなった脳のスポンジは確実に
吸収力を失いつつあるのである。ODA とか ASEAN まではなんとかついて行け
るが、EPA とか ISS とかになるとすっかりチンプンカンプンなのである。
年に何回かは 40 数年お世話になった会社に顔を出す。小さな会社で喧嘩別れ
したわけでないから出入りは自由である。しかも現在在籍しているのはほとんど
が後輩であるから「我々 エコノミックアニマルと呼ばれた時代はなあ~・・・」
とか「高度成長の時代は・・・」とか好き勝手な事を言って帰って来る。ストレス
の発散という点では最高なのである。
こうして一見暇そうに見える“ひとりもの”はそれなりに多忙な毎日を送る事
になる。しかし最大の弱点は病気である。幸いこれまで大きな病気無しに過ごし
て来たが、毎朝顔を合わせて客観的な評価をしてくれる相手を持たない身では,
自分で自分の肉体の異状に神経を研ぎ澄まさなければならない。肉体上の苦痛に
は或る程度反応し,売薬その他で対応できても、頭の内部の変化には弱い。いつ
ボケが来るか? 突然来なくても徐々に衰えはやって来る。物忘れが多くなり、
人の名前が中々思い出せなくなり、手紙を書いていても辞書で調べる回数が多く
なった。
8
身体が先か、脳が先か。どちらかが完全に参ってしまわない内に、また誰かに
今回のような OB 会を計画してもらいたい。それが北海道緑庭会でも、東京緑庭
会の主催でも、或いは大阪でも、そんな事はどうでも良い。その時はまた是非参
加させて頂いて、今回時間の都合でゆっくりお話出来なかった多くの OB の皆さ
んと語り合いたいと思っている。
最後に今回裏方の仕事に徹して居られた田中隆二君,早川事務局長、試合の組
合せに苦労された青木幹事長に心からお礼を申し上げます。
2007 年 11 月 28 日
<平成十九年
テニス三昧>
北大庭球部 OB 昭和 33 年入 昭和 40 年卒
西 淳二
8 月の小樽商大 OB 会(東京)の丁寧なご報告を頂き、ありがとうございます。
12 月 1 日(土)の対抗戦にもぜひ参加したいと思っておりましたが、あいにく千葉
県大会のダブルスの試合と重なってしまいました。欠席です(残念)。この大会の
シングルス(11 月 25 日)1 回戦のドローを見て、びっくり、がっくりです。なん
と卒業同期の石橋健一さん(北大庭球部 OB、昭和 40 年卒)と当たることになって
います。彼は本大会の優勝候補です。胸を借りて練習してきます。
夏休みには、8 月 10 日、南小樽の入船公園内テニスコートにて、榎本さん・
佐藤さんとテニスを楽しむことができました。これも商大 OB の皆様とのご縁で
す。ありがたいことです。
最近はもっぱら「日本シニアテニス連盟」関係の集まりと、湘南シルバースター
ズテニスクラブ(鎌倉シーサイドテニス倶楽部のお休み日の月曜日)関係の集ま
りに参加して時間を過ごしています。番外には静岡県御前崎そばの相良テニスク
ラブの集まりにも参加してきました(9 月 9 日)。
テニスの日(9 月 23 日)は、東京都都区市町村テニス協会主催の「第 11 回テニ
スの日東京都グランドベテラン大会」の男子ダブルス 60 才以上に申し込みをし
ています。このごろの 60,70 才代の方々は球が速くて、なかなか対応に苦慮し
ておりますが、勝ち負けにあまり拘泥しないで、「健康のため」という大義に殉じ
ています。
9 月 28 日(金)は、田園テニス倶楽部での百寿大会にも参加申し込みをしていま
す。昨年の最年長ペアーの合計年齢は 189 才と伺っています。90 才までとすれ
ば、あと 22 年もあります。とてもそんなには出来ませんが、ぽっくりとテニス
コート上で往生できれば、最善だと思っています(この説は割と支持者が多いの
ですが、そうかといって救急車を呼ばないわけにもいかないと思います)。
10 月 31 日~11 月 1 日には、大阪で開催される「第 1 回日本シニアテニス全国
大会」(団体戦)の東京地区代表(60 才~69 才クラス男子ダブルス)として参加して
9
きました。代表といえば聞こえがよいのですが、申し込みが 1 組しかなかったた
めに、予選なしで代表になってしまって、すこし肩身が狭いのですが。個人的(ダ
ブルス)成績は 3 勝 3 敗でした。
今年を振り返るには少し早いかもしれませんが、今年は、東京オープン(4 月)、
千歳の「北海道毎日テニス」(6 月)、北海道ベテランテニス(野幌、8 月)と参加して、
やっとシングルス・ダブルスとも初めて 1 回戦を突破しました。トーナメントは
1 回戦で半数が負けるとはいえ、10,000 円とか 9,000 円ではちょっと落ち込みま
す。参加しないで飲み代にしておけば、2~3 回飲めたのに、という感じです。
2007 年 11 月 22 日
=筆者紹介=
西 淳二 氏:北海道大学工学部土木学科卒。昭和 36・37・38 年の学生チ
ャンピオン。学生生活を心行くまでエンジョイされ、長年に
わたり我が庭球部は同氏に苦しめられました。苦い思いを味
わった OB も多いはずです。
土木の最大手パシフィックコンサルタント㈱に勤務された
後、名古屋大学工学部教授を勤められました。
懇親会での「他人より長い学生生活をおくり、国家の金を浪
費し、大変申し訳なく思っている」というお言葉が心に残り
ます。
<ブラジルと野村證券>
秋山 賢一(昭和 37 年卒)
(元野村證券ブラジル社長)
私のブラジル赴任期間は 1985‐1991 年の 6 年半。帰国して 15 年も経過した。
言葉も忘れ、月日のたつのは早いものだと驚いている。
私の所属していた野村とブラジルの関係は 80 年前にさかのぼる。創業者の野
村徳七翁がブラジル移民を援助するためにパラナ州バンディランテスに当時の
お金で 100 万円を投資し、農場(ファゼンダ)を昭和元年に開いた。
ブラジルは円建国債(サムライ債)を 10 回以上日本で起債している。ブラジル
は第一回債以降すべて野村を主幹事に指名してくれる有難い国であった。当時は
経済の変動期でもあり、中銀総裁,大蔵大臣をはじめ政府の幹部が頻繁に交替し、
その度ブラジリアにご挨拶にいった。新任の方には野村とは何ぞやから説明を始
めるのが普通だが、当方が説明する前に「ファゼンダをやっている野村だな」と言
ってくれて、たちまちアミゴになってしまう。
赴任した頃はハイパーインフレの真っ最中(1989 年、年間 1764%のインフレ
率)。すべての物がコンソレ・モネタリア(通貨価値修正)で計算されていた。マー
10
ケットには野菜,果物,肉,魚といった生鮮食料品や日用品が豊富にあり、治安
の不安はあっても市場は活気に満ち溢れていた。近代経済学を学んだ者にとって、
極めて理解しがたい国であった。
野村農場の社長をやっていた故東田氏より彼の書いた「借金学の経済学」
(1986)を読ませてもらった。彼の説によると、ブラジル経済を理解するためには
二つのポイントがある。一つ目は、ブラジルはアングラ経済と実物経済に支えら
れていること。二つ目は、有機社会と無機社会の概念を導入し、「有機社会には
捨てるものがない。落ち葉も肥料,栄養素となってリサイクル、およそ無駄とい
う観念がないといってよい。これに対し、無機社会は多くの廃棄物をまきちらか
していく」。極めてユニークな見解で、ブラジル経済のストックの厚みのある、
余裕ある社会について解明している。
「インフレの進行のおかげ(?)でしょう。貨幣で評価する意味が薄れ、実物経
済とか裏経済の勘定が重要になったのです。表経済のギスギスした関係は逆に裏
経済の微温的な関係で癒される。そんな風景が一般化したのです。」
ブラジルに足を踏み込んで間もない者にとって、極めて貴重な書物であった。
最近では BRICS とか環境問題とかブラジルの話題にこと欠かないが、若い時代
に若干でもブラジルに滞在した者にとって、時代を先取りした体験をつませても
らったと思っている。
<「近江商人」と「風林火山」>
高橋
悦雄(昭和 40 年卒)
今年私は商社(34 年)、社会福祉法人事務方(8年)のサラリ-マン生活を終
え、今は家で自分の時間をすごしています。
かねてより歴史(経済史)に興味があったこともあり、この4月、日本経済新
聞社が主催する「近江商人の里めぐり」のバス旅行に参加しました。滋賀県の日
野町、近江八幡市、五個荘町の片田舎の狭い地域から伊藤忠、丸紅、江商(現兼
松)、大丸百貨店、ツカモトコーポレ-ション(旧塚本商事)、ワコ-ル、布団の
西川、市田等の上場企業をはじめ藤井毛織、外与等幾多の企業を排出し、尚西武
グル-プ総裁の堤康次郎、三井家(三越)の先祖、高島屋の創業者も近江の生ま
れ、どうしてこんなにたくさんの事業家がこんな田舎から生まれたのかと驚きま
した。
古来、近江が東の経済圏と西の経済圏の接点にあり要衝であったこと、江戸時
代の封建体制の中では隣国へ行商に行くには現在の外国へ行くに等しい障害が
あった中で、当時の為政者、蒲生氏郷が交易奨励策をとったこと等がその背景と
して考えられていますが、私は近江人の若々しい夢が有ったのではないかと思い
ました。
天秤棒を担いだ一部の成功した行商人が故郷に錦を飾るのを見て、「よし、俺
11
もやってやろう」と思ったのではないか。金持ちになるためには「酒宴、遊興、
奢りを禁じ、長寿を心がけ、商売を励むより他に別義候わず」との家訓と倹約の
精神は彼らに共通しているが、彼らの営業方針は「三方良し」にありそれは「買
い手良し、売り手良し、世間良し」という現在の企業方針と変わらぬ立派な夢の
裏づけがありました。畑の大根を農夫からもらってかじり昼飯代わりするほどの
倹約を重ね、関西の物品を関東、東北へ、逆に東から西へ、天秤棒を担ぎ、やが
て各地に支店を作り、その資産管理に現在の複式簿記制度を世界で始めて考案し
たり正にこの地域の住民が一丸となって、この夢に燃えたのではないか。古来「意
の無い所に事は成らぬ」というが近江人の″意″に深く感じた次第です。
「速(疾)き事風の如く、静かなる事林の如く、侵略(掠)すること火の如く、
動かざること山の如し」とはなんとよい言葉であろうか。ビジネスの世界にぴっ
たりの行動指針ではないか。5月に東京にいる娘のところへ行った時、日帰りで
甲州を一日バスに乗って名所めぐりをしました。塩尻からの電車の車窓から見た
笹子峠、この峠を武田勝頼が織田、徳川の軍勢の追われ一族郎党と共にさまよい、
天目山の山裾、田野村で滅亡した物語のくだりが彷彿とよみがえり武田家の興隆
と滅亡に思いをはせながら、それにしても信玄こそは北条にも、今川にも、上杉
にも、徳川にも負けなかった天下取りの実力がありながら謙信との抗争に 14 年
もその精力の大部分を使い果たし、やっと天下取りを目指した時には健康が残っ
ておらず病に負けて夢はたせなかったというなんとも残念な思い、一方謙信も信
玄に劣らぬ実力者ながら関東出兵や特に信玄との抗争に長年の年月をかけ、やっ
と都を目指し進軍を開始した時には健康が残っていなかったのはこれも無念な
話、この二人が無益な抗争を切り上げいま少し早く天下取りを目指していたら歴
史は変わっていたか。
信玄も、謙信もそれぞれ周囲の諸々の事情があったとはいえ、また運命とはい
え、自分の人生のウエイト配分を結果として間違えたことになったのではないだ
ろうか。ささやかながら私も今改めて自分の今後のウエイト配分を考えてみるべ
きかと思ったりしています。
<私の 2007 年>
長岡
佑吉(昭和 42 年卒)
2007 年も押し迫ってきましたが、私にとって今年は楽しいこと多い年でした。
商大との関係の出来事といえば、酷暑の 8 月 4 日に緑庭全国テニス大会に参加さ
せてもらい、卒業以来始めてお会いできた先輩・後輩をはじめ先生・諸兄各位と
楽しくプレー・歓談で過ごせたことが何と言っても一番でした。
その後 10 月 5 日に卒業 40 周年同期会で 10 年ぶりに小樽へ行きました。斉藤
大先輩の「友よ白球よ」の石碑をかねてから見たいと思っていましたので、商大コ
ートを久し振りに訪れました。丁度練習中の現役が声を掛けてくれました。4~5
12
人の現役には斉藤さんの人柄とか 40 年前の様子等を話す機会ができ、この碑の
由来の一端を少しでも伝えられたかなと思っています。
紙面の都合上細かい経緯はカットしますが、榎本先輩とは狭い小樽で(佐藤則
君にも心配かけたりして)お会いするまでに苦労しましたが、お忙しい中 半日
お付き合いいただき大変お世話になりました。
又、学生の時に行けなかった積丹半島もバスで一周したりと、連日晴天に恵ま
れた旅行でありました。
今年から趣味で地元の水彩画スケッチ会に通い始めました。つい最近この会の
先生(鎌倉市在住 下田常三氏)がサラリーマン時代に、部署は違っていたとのこ
とですが、32 年卒の大和田さんの先輩で、当時の大和田さんのこともご存知で
あることが判りました。全く世の中狭いものだと感じ入りました。
これからも下手なテニスしかできませんが、ずっと緑庭 OB の一人でゆきます
ので、仲間ははずしをしないでよろしくお付き合いの程お願い致します。
2007 年 11 月 18 日
<おすすめの名画(洋画)2
Casablanca(カサブランカ)>
田中
隆二(昭和 39 年卒)
カサブランカとはモロッコの街の名でスペイン語で“白い家”という意味で、
マンションの名前にカーサ○○とあるがカーサは家。ブランカは白いで女性名詞
につける。ちなみに“白いブランコ”は“ブランコ ブランコ”か――(私は第
二外国語はフランス語をとったが、28~29 歳の時スペイン語を 50 レッスン習っ
た。― 余談)
昭和18 年作製のアメリカ映画で、当時フランスはドイツの支配下にあり、フ
ランスの植民地だったモロッコにもドイツ軍がいた。反ナチ映画である。
話の筋はどうでも良い。
昭和 21 年、戦後早々に入ってきた映画で、日本人には印象が深い。
大輪の花―絶世の美女イングリット バーグマン。でもこの役も彼女でなくても
良い。
主役はへんな顔の中年の小男―ハンフリー ボガードである。
街の裏社会のボスは「あっしには関わりあいのない事でござんす」と言いながら
も、自分を裏切った女とその夫(反ナチのレジスタント)をドイツ軍をだましてア
メリカに亡命させる。
見逃してくれるフランス人の警察署長。いざとなった時の愛国心と男の友情。
どう観ても高倉健さんの東映任侠映画と同じ。
この映画を日本人が好きで、カサブランカという名のバー、モロッコというキ
ャバレーがたくさんできた。後年アメリカの大衆も大好きと知り意外だった。
13
ともかく気障でかっこいいセリフが多い。“君の瞳に乾杯”と女をうっとりさせ
る。女から昨夜はどこに居たのかと問われ“そんな昔のことは忘れた”、明日は
どうするのに対しては“そんな先のことはわからない”。アメリカで男がカミサ
ンにこれを言っていたら離婚されるかも。竹村健一ではないけれど“あ~ いっ
ぺん言うてみたかった”のかもしれない。
首題曲は「As time goes by」 ― 「時の過ぎ行くままに」と訳した当時の日本人
に拍手。今はカタカナの題名、政治家も同様、センスない。
次は老いて行く男が若さと美しさにあこがれ、美少年をストーカーして死ぬ
―「ベニスに死す」。
<ジョギング考>
山崎
敬明(昭和 49 年卒)
一番やりたいスポーツはなんてったってテニスだ。しかし、時間的,地理的,
あるいはその他の環境が必ずしもその望みを叶えさせてくれない。それでも体を
動かさないと体調が良くないし、ストレスがたまる。それを解消する手段がジョ
ギングだ。
もともと走ることは嫌いではない。サラリーマンの宿命で転居,転勤は両手の
指の数に納まらない。その先々で走ってきた。ロンドン郊外では、家の近くの散
歩道で途中に名も無い(本当はあったのだろう)小さな池があるところを走った。
住んでいたところはウッドサイドパークで通りの名前はローレルウェイ。赤レン
ガの戸建ての家が並ぶのどかなところだった。パリでは,住んだのが郊外にある
画家のコローが愛したヴィルダブレーで、手前・奥二つからなる池があり、その
廻りを走った。今住んでいるところは石神井公園だが、ここにも手前と奥に池が
2 つあり、ヴィルダブレーとよく似ているのに最初驚いた。香港では、山の中腹
を同じ等高線でつながる散歩道があり、そこを眼下に摩天楼と対岸の九龍,海に
見え隠れする船を見ながら走るのは爽快であった。
1 年前より鹿島(住んでいるところの住所は正しくは神栖・・・カミスと読み、「神
が住む」の意のようだ)に単身赴任しており、週末帰らないときはできるだけ走る
ようにしている。神の池(ゴウノイケ)という池の周りだ。どうも池に縁がある。
週末帰ったときには、石神井公園の手前の池(通称「ボート池」)の廻りを走ること
にしている。1 週約 1 ㎞で約 8 分、それを 2 周だ。2,3 年前の調子の良い時は
16 分を切ることもあったが、ここのところはもう切れなくなった。寄る年波と
いうことか。公園は、日中特に天気の良い日は、散策客が多いので走りにくく、
朝早く走ることにしている。「早朝の運動は心臓に良くないわよ(実はパリでは心
臓で 1 ヶ月入院していた)」と言う、まだ布団の中からの家内の声を振り切って出
て行く。春先の花粉が飛ぶ季節はマスクをしながら、雨が降った後の寒い冬の朝
は水溜りに張った氷に足を取られないよう注意しながらということになる。
14
しかし、それもこれも今めったに無いテニスができる機会に、悔いのないプレ
ーがしたいがためだ。
緑庭全国テニス大会
8 月 4 日は、この夏の記録的猛暑が始まった日でした。常盤平駅から松戸テニ
ス倶楽部に続く線路脇の道をゆっくり歩いてくるお年寄りが遠くに見えました。
「相原先生」。昔ながらの笑顔いっぱいにして、「おう」と言われました。腰痛をお
して名古屋からご参加下さった。翌日 70 歳になる榎本さん、同期の佐藤ノッキ
は小樽から。2 年後輩の中村寛君は十和田から。高橋悦雄さんは大阪から。コー
トの表面は 40℃を越した中、無事プレーが出来たことで一安心。
交歓会はフーテンの寅さんの街――葛飾柴又の「川千家」。コートまでマイクロ
バスを出してくれるのが選んだポイントでした。昔ながらの、東京ではめったに
ない座敷の宴会場が雰囲気を作ってくれました。ゲスト参加の北大 OB の青戸さ
ん、西さんのユーモアと暖かい心のこもったスピーチ、有り難うございました。
硬式庭球部部長の鈴木先生が参加下さり、過去と現在、そして未来、また、横へ
の広がりを予感させる大会になったのではないかと思っています。
東京緑庭会 事務局長
早川 好寛(昭和 44 年卒)
<参加者氏名(敬称略)>
相原東孝(元部長) 鈴木将史(現部長) 青戸哲二(北大 OB) 西淳二(北大 OB)
榎本正克(S37) 高橋悦雄(S40) 佐藤則之(S44) 中村寛(S46)
大和田殖夫(S32) 川口祐二(S36) 須加敏夫(S38) 松浦久幸(S38)
田中隆二(S39) 齋藤愼二(S40) 桶谷喜三郎(S41) 青木高史(S42)
長岡佑吉(S42) 秋本勉(S43) 今井章文(S44) 岡村孝(S44) 早川好寛(S44)
今井央(S45) 小浜正寿(S46) 髙橋正明(S46) 山崎真樹(S46) 濱田光久(S48)
古川哲朗(S48) 成田芳生(S49) 山崎敬明(S49) 松田善昭(S51)
島上絹子(S53) 松本衆(S56) 中屋章(S56) 野村史朗(S56) 大橋雅之(S58)
北村清文(H19)
計 36 名
<懇親試合結果>
◎古川(S48)・北村(H19)
◎大和田(S32)・榎本(S37)
◎齋藤(S40)・佐藤則(S44)
◎高橋悦(S40)・秋本(S43)
佐藤則(S44)・今井章(S44)
◎髙橋正(S46)・北村(H19)
松田(S51)・野村(S56)
6-4
6-4
6-1
6-0
0-6
6-5
5-6
15
山崎(S49)・野村(S56)
西(北大)・田中(S39)
川口(S36)・青木(S42)
長岡(S42)・岡村(S44)
◎早川(S44)・今井央(S45)
小浜(S46)・中村(S46)
◎成田(S49)・松本(S56)
対関東楡庭会戦
<戦評等>
2007 年 12 月 1 日、恒例の「東京緑庭会対関東楡庭会戦」が、好天の晩秋の下、
東京昭和の森テニスコートで開催されました。
今年は、北大 41 年卒の名選手で、今尚各種トーナメントにも出場されている
能勢さんが北海道からご参加下さりました。また、常連の中高年齢層に加えて、
緑庭会側からは OB に成りたての若者、楡庭会側からは男勝りのプレーをする紅
一点の奈良さんや青木ジュニア(青木幹事長の御子息)など、両会合わせて 9 名の
平成卒の若者が参加し、まさに老若男女による対抗戦となりました。
また、大半が室内コートでの対戦となり、やりにくさを感じるプレーヤーもい
ましたが、50 代・60 代の白熱したシーソーゲーム、スピード溢れる若者同士の
レベルの高い試合が続出しました。
試合は、中高年層では楡庭会が、若年層では我方が優勢でしたが、全体では我方
の 3 勝 6 敗と、今年も楡庭会の勝利で終わりました。
対抗戦に続くお好み戦の後、プレー観戦の川口祐二さん(昭和 36 年卒)・田中
隆二さん(昭和 39 年卒)を含めて、参加者による懇親会が催されました。その席
上で、戦績の自慢と反省が飛び交ったことは言うまでもありません。
東京緑庭会 幹事
今井 央(昭和 45 年卒)
<戦
績>
東京緑庭会
№1
齋藤(S40)・青木(S42)
№2
今井章(S44)・早川(S44)
№3 ◎今井央(S45)・小浜(S46)
№4
髙橋(S46)・山崎(S49)
№5
古川(S48)・成田(S49)
№6
野村(S56)・松本(S56)
№7 ◎吉田(S61)・清野 (S63)
№8 ◎松田大(H10)・北村(H19)
№9
山田研(H11)・及川(H18)
2007 年 12 月 1 日
3 -
6
4
3
6
4
0
0
6
6
3
6
6
4
6
6
6
2
2
6
-
-
-
-
-
-
-
-
-
◎関東楡庭会
◎青戸(S37)・能勢(S41)
◎岡(S42)・安川(S42)
能勢(S41)・武内(S42)
◎安達(S47)・大野(S50)
◎川西(S50)・藤原(S50)
◎奈良(S60)・林(S63)
伏見(H5)・青木(H15)
奥村(H7)・神山(H7)
◎麓(H5)・青木(H15)
於 昭和の森テニスセンター
16
題
字
題字は昨年の創刊号(2007 年号)に引き続き、松浦久幸さん(昭和 38 年卒)筆のも
のを使わせて頂いております。
松浦さんは学生時代には対北大定期戦等のスコアボードの作成を一手に引き受
け、達筆を揮っておられました。
本誌の題字につきましては、テニス同好の士の集まりの会誌の題字にふさわしく
伸び伸びとした立派なものですが、ご本人は「単調で味がでませんが、使えます
か?」とご謙遜されております。
確かに、ひらがな・カタカナの表題で、実力を発揮して頂けなかったのではと申
し訳なく思っております。
表
2007 年
紙
絵
長岡画伯誕生 !!
長岡さん(昭和 42 年卒)は今年から水彩画スケッチを始められたそうです(同氏の
寄稿文<私の 2007 年>をご参照下さい)。
本誌の表紙を飾っている絵は長岡さんが 2007 年 10 月に小樽を訪れた際、小樽
運河をスケッチし、帰京後水彩画として完成されたものですが、ご無理を言って
借用させて頂きました。
お人柄どおり、明るい色調、そして素朴で暖かい愛情が伝わってきます。
小樽運河の絵はプロも含めたくさんの人が描いていますが、長岡さんの個性がよ
く現れていると思います。会員の皆様も学生時代を過ごした「ふるさと」を懐かし
く思い出し、青春への思いがふくらんだことでしょう。
2007 年号(創刊号)の表紙絵をお願いした佐藤弘氏(昭和 46 年卒)夫人に続いて、
長岡画伯が誕生したことは「今後、会誌の表紙絵には困らない」と編集局も大変喜
んでおります。
17
編集後記
実は 2006 年 10 月、当選直後の杉村大蔵議員(南関東地区比例選出)に 11 月
25 日の松戸での東京緑庭会と関東楡庭会のテニス大会にゲスト出場の案内を出
すべく、タイプもしてありました。
当方には藻岩高校庭球部の OB もいる。千葉・神奈川のテニスクラブのメンバー
もたくさんいる。今からコツコツ選挙活動をしなければ次回の当選はおぼつかな
い。まずは小樽商大・北大の庭球部 OB に顔を売っておいたらいかがという文面
でした。彼が来るとなれば、人寄せパンダで参加者は増えるだろうと思ったから
です。でも結局、この手紙は投函しませんでした。
彼の素直といおうか幼い言動を「けしからん」と思う人もいるだろう、また国体で
優勝したため筑波大学は貴重な推薦入学の枠を与えたのに中途退部で、関係者は
怒っているし、テニス界が好意的であるわけがないと考えたからです。
今 彼は札幌(北海道一区)からの立候補を目ざしていますが、むずかしい状況で
あるし、サッポロホールディングスの齋藤さんや日本経済新聞社の早川さんが役
職を務める「東京緑庭会」が推薦してくれているなどとブログに載せられれば、お
二人にご迷惑をかける事になったでしょう。
これがメールであれば出していたかもしれません。文章にして「て・に・お・は」
をチェックするうちに、行為そのものをチェックして慎重になるのでしょう。
ところで、本誌へのご寄稿をお願いするのですが、皆様はいろいろな思いがあ
って、筆が進まないように思われます。どんな事でも、身近な小さな事でも素直
なお心を伝えて下されば、読む人はこの会誌の中に“会いたい人”を見つけ出す
事もあろうかと思います。どうかここは気楽に短い文をお寄せ下さい。
編集局
田中
隆二(昭和 39 年卒)
=事務局=
住所:〒 101‐0051
東京都千代田区神田神保町 1‐52‐12 神田耀ビル 5F
スタジオパラム内 東京緑庭会事務局
FAX:03‐3518‐2386
会費等振込先口座:三菱東京 UFJ 銀行 神保町支店
普通 2281793
東京緑庭会 事務局長 早川好寛
18
緑庭全国テニス大会
2007 年 8 月 4 日
於
松戸テニス倶楽部