ジーン・リースにおけるアイデンティティーの回復

ジーン・リースにおけるアイデンティティーの回復
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‘Let Them Call It Jazz’における「庭」と「歌」
栗 原
晶 江*
Jean Rhys は文学批評の観点からみると、フェミニズムあるいはポストコロニアリズムにさまざま
な問題を投げかける作家である。彼女の代表的作品 Wide Sargasso Sea は、Charlotte Brontë の Jane
Eyre に対して特異な作品形態を用いて問題提起を行なった。すなわち、『ジェイン・エア』の作品構
造および登場人物を基に、そのうちの影の存在的人物バーサに焦点を当て、異なる視点から再構築し
新たな作品としたのである。『サルガッソーの広い海』は組み込む作品(『サルガッソーの広い海』)
と組み込まれる作品(『ジェイン・エア』)という興味深い構造をもち、それを十分に活用しながら、
文学批評理論にとってフェミニズム的アプローチを実演して見せてくれた、わかりやすい作品として
受けとめられている。『ジェイン・エア』なくしてリースのこの作品はなかったし、またリースでな
ければ、これほどブロンテの作品中に性的、人種的偏見の隠された意識を鋭く読み取ることはなかっ
たと思われる。それはフェミニズム思想の言語作品化ということが出来るであろうし、また、白人社
会における有色人種への偏見を作品中に鋭く読み取った、ポストコロニアリズム批評の作品化ともい
うことが出来るであろう。
リースは何篇かの自伝的要素の強い作品を書いているが、短編‘Let Them Call It Jazz’( Tigers
Are Better-Looking 所収)では、作家の実像に近い主人公が突き放した視点から描かれている。『サル
ガッソーの広い海』が強い意志と明確な意図に基づいて書かれていることを読み手は作中に感じるが、
彼女の奇妙な実生活に題材を求めたこの自伝的作品は、フェミニズムあるいはポストコロニアリズム
的性格を成り立たせている別の側面を明らかにしていると思われる。作家自身西インド諸島出身であ
り『ジェイン・エア』の中に敏感に差別を嗅ぎ取ったリースが、自己の分身とも言える主人公をどの
ように分析・提示するかは、彼女の作品世界の背景を探る鍵といえよう。本論では‘Let Them Call It
Jazz’を取り上げ、主人公の肌の色、および作中重要なイメージを形成している「庭」および「歌」
を手がかりに、リースの作品におけるアイデンティティー回復の過程を探りたいと思う。
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Akie KURIHARA 国際言語文化学科・英米言語文化専攻( English and American Course, Department of
International Studies in Language and Culture)
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短編集 Tigers Are Better-Looking 所収‘Let Them Call It Jazz’では、主人公 Selina Davis がロンド
ンの下町で隣人とのいさかいを繰り返し、Holloway の監獄に入れられ、1週間後に解放されるまで
の経緯が描かれている。作者の実人生の断片を切り取り色濃く投影させた作品と考えられている。作
品構造は1人称の語りの構造で、イギリスにやってきた非白人女性が、自分を取り巻く出来事や人々
の反応を独白の形で描写してゆく。作品全体を貫いて用いられているセリナの言語は文法的に破格な
もので、その独特の言い回しは、彼女の出身地西インド諸島のものである。貧困と無気力と希望のな
い生き方が、白人社会において非白人であるために生じた結果として提示されている。主要な原因は
肌の色である。はじめに、白人社会において異化される者を、主人公の肌の色を取り上げ論じてみた
い。
‘Let Them Call It Jazz’で主人公が自己の出自について述べるとき、第一に挙げるのが肌の色であ
る。
Then my mind goes to my father, for my father is a white man and I think a lot about him. If I
could see him only once, for I too small to remember when he was there. My mother is fair coloured
woman, fairer than I am they say, and she don’t stay long with me either. She have a chance to go to
Venezuela when I three-year old and she never come back. She send money instead. It’s my
grandmother take care of me. She’s quite dark and what we call‘country-cookie’but she’s the best
I know.(‘Let Them Call It Jazz’−以下 LTCIJ と略して記す, p.164)
父親はイギリスからやってきた白人だが、母方の血を引く「私」は祖母に似て黒い色をしている。
肌の色で単純に分類できないことについては、後に述べることにするが、ロンドンが舞台として設定
されているこの作品において、主人公は他の人々とは異なる肌の色のために次々と不当な扱いを受け
ていく。作中、好ましくない住民として隣人から警察に通報される事件で、セリナは隣人の次のせり
ふに排斥の真実の理由がこめられていることを知る。
“It’s disgraceful,”he says, talking to his wife, but loud so I can hear, and she speaks loud too−
−for once.“At least the other tarts that crook installed here were white girls,”she says.(LTCIJ,
p.167)
社会人としてふさわしくない行動をとるセリナは、その不適切さよりもむしろ「白人」でないこと
が彼らの苛立ちの原因だったことが、はじめてわかり、彼女は故郷の祖母(色が黒くて田舎者といわ
れていた)が歌っていた歌を口ずさむ。それは、イギリス社会にあって「異化」された者がいやおう
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なく認めなくてはならない現実に向かって、彼女が非白人としての自己認識をすることになる場面で
ある。そして、この作品の主要場面に必ず登場する「歌」、この場面においては西インド諸島の男が
「恥知らずの女め」とののしる歌が、彼女を支え、彼女のアイデンティティーを確立するのである。
主人公の血統に関して、セリナの母は「色が白かった」(fair coloured)が、セリナの父が「白人」
(a white man)と呼ばれたように呼ばれることはなかった。つまり、母親は西インド諸島の住民クレ
オールであり、表面上の白い色の背後に別の文化(黒い色に代表される)を本質的にもっているため
である。「白い」人種だがどの社会・文化に帰属することになるかというあいまいさを備えた母親に
対して、セリナはその血統を明確に物語る外見を持つものとして設定されているである。その結果が
白人社会における疎外であり、また社会からの排斥につながることになる。主人公が自己の出自にこ
だわる理由は、この「あいまいさ」
、つまり父親が白人であり、
「色が白かった」がクレオール文化に
白人側からすれば帰属すると分類される母が存在することのため、「私」はロンドンの住民に対し強
い拒否的姿勢をもつと思われる。主人公はどちらの社会にも安住できずに、常に自己確認を迫られて
いたのである。
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作者リースは人種に関わる問題を扱った‘Let Them Call It Jazz’において、主人公に自分の姿を重
ねて描いているが、その現実世界から虚構世界への移行において決定的に異なる点がある。上記で述
べたように作中の出来事はほぼ作者の実生活をモチーフとしているが、主人公が何色の肌をしていた
かが、異なる点である。Elaine Savory は Jean Rhys(2000)において、次のように指摘する。
She struggled to engage with her racial identity, sometimes falling into white racial and class
conventions, sometimes challenging them by trying to appropriate, in her writing voice, a black
identity. Selina in‘Let Them Call It Jazz’, a black working-class woman, has Rhys’s own
experience of being arrested and confined in Holloway prison for disorderly conduct. This is
problematic: Rhys sought in Selina to express her own white English and female underclass identity,
choosing a black character’s voice either to mask her own or because being poor white Creole in
England was, to her, like being poor and black in Dominica−marginalised, and therefore, if
possessing of any spirit, hostile to established authority and social hierarchy.(Jean Rhys, p.30)
Savory は、作者リース自身が実人生において、白人と非白人のいずれにも許容されないディレン
マに陥っていたと指摘する。それが、時に白人社会を志向し、時に逆に挑戦という形になるという。
作者は主人公セリナに、無秩序な振る舞いのため逮捕されホロウェイ刑務所に入れられた作者の現実
体験を、物語中で経験させるが、興味深いことに主人公セリナは労働者階級の黒人女性に仕立ててあ
る。作者と同じ「白い」クレオールではない理由は何であろうか。それは上述引用箇所で触れられて
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いるように、イギリス社会で貧しいクレオールが置かれた最低の位置づけは、ドミニカでの貧しい黒
人と同じ社会的位置になるという点である。もっとも社会から排除され敵意を抱かざるを得なくなっ
た黒人(非白人)に、作者リースの心情はもっとも近かったからではないだろうか。
強い敵意と拒否的姿勢を表すには、作者は自分と同じ経験をするよう設定した主人公を、作者の文
化的背景であるドミニカにおいてもっとも強い怒りをもっていた貧しい黒人女性に仕立てる必要があ
ったようである。したがって、この作品は自伝的経歴に基づいた構成であるが、作者は主人公セリナ
を自分とは異なる黒人として設定し、自己の内部に深く潜んでいる被差別感を表面に浮かびあがらせ
たといってもよいだろう。内なる「黒」の抱く被差別意識を顕在化した結果と解釈できる。
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‘Let Them Call It Jazz’はロンドン郊外の住宅地とホロウェイ刑務所を舞台とし、そのいずれの場
所に関しても言及されているのが庭である。日本語で「庭」は原文では“garden”,“yard”であるが、
この場所を作者は特別な象徴性をもつものとして描いていると思われる。作品における庭の象徴性に
ついて考えてみる。
作品中最初に登場する庭は、次のようにひとつの典型的な型を持って描かれている。
I eat in the kitchen, then I clean up everything nice and have a bath for coolness. Afterwards I lean
my elbows on the windowsill and look at the garden. Red and blue flowers mix up with the weeds
and there are five-six apple trees. But the fruit drop and lie in the grass, so sour nobody want it. At
the back, near the wall, is a bigger tree−this garden certainly take up a lot of room, perhaps that’s
why they want to pull the place down.(LTCIJ, p.160)
家賃の不払いのため家主に追い出されたセリナが、見知らぬ人物から借りることになった部屋に到着
し、改めてあたりを見渡したとき目にする光景が庭である。気持ちよく眺めた庭は、雑草が生い茂り、
花が咲き、数本のりんごの木と地面に転がったりんごがある。広い緑の庭はセリナに、社会から疎外
された後の一時の安らぎを与える。そして、この作品の読み手にとってこの描写は、まさに聖書の中
の「庭」
、
“garden”を暗示するものとして解釈できるのである。りんごの木がアダムとイヴの楽園お
よびその後の堕落を暗示し、そして草むらに転がるりんごの実は堕落自体をほのめかす。堕落を明示
するように、この庭はすぐ取り壊される運命であることが続いて告げられる。読み手には、たどり着
いた部屋が主人公にとって安住の場所でないことを、この庭によって予測するのは簡単である。
Not much rain all the summer, but not much sunshine either. More of a glare. The grass get
brown and dry, the weeds grow tall, the leaves on the trees hang down. Only the red flowers−the
poppies−stand up to that light, everything else look weary.(LTCIJ, p.161)
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植物が枯れ生命感のない庭がそこにある。理想の楽園の消滅を主人公は見ることになる。読み手に
とっても最初に抱いた「庭」
、
「楽園」への救済の期待は、すぐさま、枯れた土地あるいは「死」を内
包する不毛の地によって壊される。この期待と失望のパターンは『サルガッソーの広い海』のなかで
も同様に用いられているので、次に引用する。
Our garden was large and beautiful as that garden in the Bible−the tree of life grew there. But
it had gone wild. The paths were overgrown and a smell of dead flowers mixed with the fresh living
smell. Underneath the tree ferns, tall as forest tree ferns, the light was green. . . .
All Coulibri Estate had gone wild like the garden, gone to bush. No more slavery−why should
anybody work? This never saddened me. I did not remember the place when it was prosperous.
(Wide Sargasso Sea, pp.10-1)
『サルガッソーの広い海』では、
「私たち」つまり主人公アントワネットとその家族が西インド諸島ド
ミニカ島に所有している庭が、聖書の庭、楽園として明示される。広くて美しく、「生命の木」“the
tree of life”がある庭は、まさにアダムとイヴの楽園そのものを思わせる。しかし、ここも先述の短
.
編中の庭と同じく死を内包している―“a smell of dead flowers mixed with the fresh living smell”
その描写の直後には、庭だけではなくすべてのクリプリの土地の荒廃が続く―“ wild like the
garden, gone to bush”.奴隷制度が廃止されて新しい時代になるとともに、かつての緑の楽園は消滅
することになる。聖書の中の「庭」は、没落あるいは死を予告する記号としてここでは用いられてい
ると思われる。しかしながら、サルガッソーの海の「庭」でシダ類の下草が緑に輝いているとする描
写は、イギリスでは存在し得ない生命がドミニカ島にのみ残されていることを、暗示しているようで
ある。
『サルガッソーの広い海』の庭で言及されたシダ類がドミニカ島の生命力をかすかに暗示するのに
対して、『サルガッソーの広い海』という題名は、その生命力を明確に作品のテーマとして提示した。
リースは題名決定の経緯を、手紙の中で次のように述べている。
)
(To Francis Wyndham, March 29th[1958]
I have not title yet.“The First Mrs Rochester”is not right. Nor, of course is“Creole”. That has
a different meaning now. I hope I’ll get one soon, for titles mean a lot to me. Almost half the battle.
I thought of“Sargasso Sea”or“Wide Sargasso Sea”but nobody knew what I meant.(The Letters
of Jean Rhys, selected and edited by Francis Wyndham and Diana Melly〔New York: Viking, 1984〕
in Wide Sargasso Sea, P.136)
この新しい作品のテーマは、『ジェイン・エア』の隠された女性バーサの復権でもなければクレオー
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ルの民族回復でもなく、
「サルガッソーの海」に象徴される生命であったと思われる。
「サルガッソー
の海」とは、バミューダ諸島を囲む北大西洋上の海域で、サルガッサムという海藻の塊が漂い、船舶
の航行を迷わせる不気味な海域でもある。一見、魔の海域の表情を持つが、海の動植物にとっては豊
かで安全な生命を育てるに条件のよい豊饒の海でもある。死をもたらすと同時に生をももたらすこの
生と死の両義性をもつ海を、作者リースはもっともふさわしい題名として選択する。非白人であって
白人の背景を持ち、楽園であって死を内包し、生をもたらすと同時に死をもたらす−そのいずれで
もなくていずれでもあるという両義性は、作者自身の姿であり、また‘Let Them Call It Jazz’の主人
公セリナの向かう方向でもある。先に触れた死を内包する「庭」は、この曖昧さ、実は背後に豊穣を
隠し持つ「死」であるが故に、主人公セリナを象徴していると考えることが出来るであろう。
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ロンドンの住宅地にある空間に“garden”を設けた作者は、主人公セリナが収監されるホロウェイ
刑務所に“yard”を置いた。“garden”がセリナの心情を象徴的に表すように、“yard”もまた刑務所
における彼女の自己認識にかかわる重要な場面となっている。厳密には両単語の指し示すものはまっ
たく同じではなく、後者は通例囲まれた囲い地、あるいは中庭を意味し、単に木や草花を植えた庭と
は区別されるが、ここでは建物以外の空間を形成するものとして共通していると考える。
セリナが他の収容者と刑務所の庭で運動する場面は次のように描かれている。
We walk round and round one of the yards in that castle−it is fine weather and the sky is a kind
of pale blue, but the yard is a terrible sad place. The sunlight fall down and die there. I get tired
walking in high heels and I’m glad when that’s over.(LTCIJ, p.172)
ここには2つの問題が含まれている―ひとつは、中庭の構造からくる閉塞感であり、もうひとつ
は先の庭“garden”に見られた「死」のイメージである。主人公がこの囲まれた庭を「ぐるぐる歩い
て回る」
“walk round and round”動作は、決して先に進まない円環的行為を示し、閉じた空間での生
を表していると考えられる。刑務所に収容されている拘束状態そのものを意味すると同時に、セリナ
の人生そのものも暗示していると解釈できる。2番目の「死」のイメージに関しては、
「庭は陰気で荒
涼としている。差している日光も、この庭に当たると死んでしまう」
“the yard is a terrible sad place.
The sunlight fall down and die there”と断言する。太陽の光に寄せて、「私」の生もここでは否定され
ることを示唆している。
同じこの庭“yard”が、次の場面で生への希望をもたらす場所となって描かれることになる。
We were walking round and round in the yard and I hear a woman singing−the voice come
from high up, from one of the small barred windows. At first I don’t believe it. Why should anybody
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sing here? Nobody want to sing in jail, nobody want to do anything. There’s no reason, and you
have no hope.(LTCIJ, p.172)
閉塞状態の場所に歌声が聞こえ、それが収容者の歌とわかり、信じられない事実に主人公は驚きの
声を上げる。
「上の高いところからの声」
“the voice come from high up”は、まるで空の天井から降り
注ぐかのような印象を与える。
“But it don’t fall down and die in the courtyard; seems to me it could
jump the gates of the jail easy and travel far, and nobody could stop it.”(LTCIJ, p.173)どこにも出口の
ない「庭」に、歌う「声」によって風穴があけられたといえるであろう。この短編の題名‘Let Them
Call It Jazz’の“It”にあたるのが、この場面のこの歌、つまり囚人の歌う歌である。そして「庭」
と「歌」が出会うところから、主人公セリナは円環的行動をやめて閉塞状態から開放される方向へと
進むのである。上記の「庭」の場面は題名とかかわる重要な場面となっている。
作品の最後に出てくる「庭」“garden”はもう別の顔を持っている。ホロウェイ刑務所から1週間
後に開放されて帰宅した元の家である。
When I get to the house I see two men talking in the garden. The front door and the door of the
flat are both open. I go in, and the bedroom is empty, nothing but the glare streaming inside because
they take the Venetian blinds away.(LTCIJ, p.174)
死の影はもうなく、庭から入った部屋は光に満ちている。何もない空の部屋は、すべてが終わった
ことを示唆している。庭はそこへ行く途中に位置して、すべてから解放されていくであろう主人公を
導く役割を担っていると考えられる。ここで、この作品での庭の役目は終了したと思われる。
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最後に「歌」の救済作用について焦点を当ててみたい。先に触れたようにこの作品の題名‘ Let
Them Call It Jazz’は、刑務所で主人公が聞いた歌に言及したものである。「彼ら」とはイギリス人を
指し、セリナが刑務所で聞いた歌を偶然彼女から聞いたイギリス人が、ジャズ風にアレンジして商売
にしたことに対して、セリナが最後はあきらめの気持ちで言ったせりふである。「私」はその歌を捨
てたのではなく、自己のものとして確信したために言えたことばでもある。その葛藤する気持ちが次
の箇所に述べられている。
I read the letter and I could cry. For after all, that song was all I had. I don’t belong nowere really,
and I haven’t money to buy my way to belonging. I don’t want to either.
But when that girl sing, she sing to me, and she sing for me. I was there because I was meant to be
there. It was meant I should hear it−this I know.(LTCIJ, p.175)
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主人公セリナがどの社会にも帰属できない現実は変わらないが、「ホロウェイの歌」は彼女を閉塞
状態から解放してくれる唯一の力であることに、
「私」ははじめて安らぎを感じるのである。
一般的に歌は治癒能力を持つと考えられるが、この作品においてそれはさらに別の強い治癒の動機
を持つ。たとえば、「私」がロンドンの住宅地の隣人から肌の色を指摘されたときに歌うのが、ドミ
ニカ島の祖母が歌っていた歌であった。イギリス白人社会に対して黒人文化の歌で対抗したのである。
そして、「ホロウェイの歌」は社会から疎外されて収容された囚人の励ましの歌であった。いずれも、
排除され異化された側の者の所有物であったのである。一般的な歌の効力ではなく、明らかに自らの
アイデンティティーを確認するための、手段であったと理解できる。
現実の人種的抑圧に対し、自己の帰属社会の不透明さあるいはその存在の有無について主人公の確
認してゆく過程が、「庭」という場と「歌」という伝達媒体をみることによって、明らかになると考
えられる。そしてそれは、同時に作者自身の踏んだであろうプロセスでもあると思われる。西インド
諸島に育ったクレオールとして、イギリス社会にもまた16歳まで育ったカリブ海文化のいずれにも帰
属できない不安や怒りが、この短編を書かせたのであろうし、また、『ジェイン・エア』に強い不満
を持って『サルガッソーの広い海』を書いた原動力になったと思われる。フェミニズムやポストコロ
ニアリズム批評から見ると、あたかも理論を作品として実践した明確な輪郭を備えた作品を、リース
が書いているようにみえるが、リースはもっと個人のレベルにおいて書いているのではないだろうか。
自己のアイデンティティー確立という一種の成長物語としても読めると思われる。
テクストとして以下を使用する。
Rhys, Jean. The Collected Short Stories. New York: W・W・Norton & Company, 1987.
Rhys, Jean. Wide Sargasso Sea. Ed. by Judith L. Raiskin. New York: A Norton Critical Edition, 1999.
〈参考文献〉
Brontë, Charlotte. Jane Eyre. Middlesex: Penguin Books, 1965.
Gilbert, Sandra M. and Gubar, Susan. The Madwoman in the Attic. New Haven : Yale University Press, 1980.
Savory, Elaine. Jean Rhys. Cambridge: Cambridge University Press, 2000.
鷲見八重子・岡村直美編『現代イギリスの女性作家』頸草書房 1991年。
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