万葉集における文字遊び―風景と記憶 - robertwittkamp.eu

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交響する古代 N
予稿集
『高葉集』の記憶詩歌における文字遊び
一風景と記憶
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(ローベルト F.ヴィットカンプ/関西大学)
小学生が「春過ぎて夏来るらし...J などの有名な『高葉集』の歌を暗記させる授業は今でも行われて
いる。子供たちが学んでいるのはもともと『寓葉集』の専ら漢字で表記された歌ではなく、平安時代
に始まった読み声(読み下し)を表す平仮名と漢字で書かれた、当時の文法に合わせた『百人一首』
の漢字仮名交じり文である。おそらく、万葉仮名や正訓字等の表記があまりにも複雑で通じなくなっ
てしまったことが、村上天皇の「寓葉集を翻訳せよ」という命令の理由だ、ったと考えられる。もしそ
こから始まった長い歴史のある「書き下し」がなかったら、
となってしまったに違いない。言い換えれば、
『高葉集』は「国民的健忘症 J1の犠牲者
『高葉集』を救ったのは新しい文字制度だ、ったという
可能性が考えられる。このように、漢字仮名混じり文の書き下しの文字形態は、文化的な記憶にとっ
て非常に価値が高かったが、これによって本来的な『高葉集』の歌ではなくなってしまったこともま
た事実である。
言うまでもないが、日本の国文学は意味論的に複雑である訓字交じりの万葉仮名の「表現」の可能性
に早くから気づいていた。例えば高木市之輔は吉沢義則の研究に基づいて万葉仮名の「文学的用法」
を
、
「用字の持つ意味を見る」や「文字の持つ可視性J、 「音韻的な言葉を超える可視性j と描写し
た
。 2また近年の研究においても、その「文学的用法」は「視覚を通して二重性の情報がもたらされ(中
略〉文字情報を歌意の表現に参加させる方法 J3として理解されており、また「万葉仮名で書くことで
その漢字としての意味を歌のくことば)に付け加えるものであ J4るなどの説明も見られる。
それにもかかわらず、狭義的にいうと、
「解釈と鑑賞」という日本の文学研究史を大観する限り、『高
葉集』の研究対象は万葉仮名のテキストではなく書き下しに基づくものが多いように思われる。上述
したように、本稿は『高葉集』の書き下しには相応の文化的な価値があることを認めており、それゆ
えにここでは国文学の批判というよりも、視点をもともとの文字制度に戻すことを目的としている。
もし、西洋の文学理論が主張するように文学、特に詩歌の特徴の一つがその多義性にあるとするなら
ば、万葉仮名の「文学的用法J を重視することは『高葉集』をより文学的に読むということに他なら
ない。
本稿の第一の目的は、
『高葉集』の歌における漢字の「可視性」には、場合によって口頭的な「こと
加藤周一「日本の社会・文化の基本的特徴」加藤周一、木下順次、丸山真男『日本文化のかくれた形』岩波書
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年
、 1
7
4
8ページ。
庖
、 1
2 高木市之助『吉野の鮎』岩波書庖、 1
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1年 (
1
9
3
8
年) (~高木一之助全集』第一冊、講談社1976年、 197-----198
ページ)。
3 犬飼隆『木簡から探る和歌の起源』笠間書院、 2
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8
年
、 1
5
8
1
5
9
ページ。
4 小川靖彦『万葉集-隠された歴史のメッセージ』角川選書2
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年
、 2
3
9ページ。
1
119
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『高葉集』の記憶詩歌における文字遊び(
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ばJの意味を支える、またはそれに対立する働きがあることを明らかにすることである。筆者は「可
視性」や「二重性」等の概念では、文字の持つ本来的な意味を十分に示すことができないと考えてお
り、すでにドイツで提出した教授資格論文において、文字の「可視性Jや「二重性」を「文字遊びj
として捉え直す試みを行っている。しかし文字遊びの射程は非常に広範囲に渡ることから、本稿で扱
う範囲を限定する必要がある。本稿では、世界の文化論における記憶研究ブームに乗じて、記憶とい
うテーマを『高葉集』の万葉仮名の表記に応用することで、文字遊びの射程を限定することとする。
和歌全体がそうであるように、『寓葉集』においても風景、より厳密に言えば風景描写は、例えば「寄
物陳思」や「詠物」や「叙景歌」などと同じように非常に頻繁にモチーフ化されている。そこで本稿
では、
「風景」、特に四季を文化的記憶として捉え、そこから「風景J と「記憶」との関係について
検討していきたい。ただし、本論は文化的記憶としての風景や四季一般を問題にするのではない。む
しろ、
『高葉集』の和歌における具体的な風景描写が、記憶にとってどのように機能しているのかに
ついて考察するものである。
なおドイツ語圏の記憶研究は、残念ながら日本において導入が進んでいないように思われる。しかし、
紙面の都合により本稿ではその紹介を控え、別の機会に委ねることにしたい。
5
本稿は以下の 5点を基盤としている。
① : ~高葉集』、
『古事記』、
『日本書紀』などの八世紀に書かれた文化的テキストは、文化的記憶
を持続的に構築し、またトランスフォームするための大型プロジェクトに属している。最近の研究に
おいて、特に「初期万葉 j や「古撰」、
「原撰部と第一の増補」などと称される『高葉集』の第一・
二巻などの成立史には、皇統を正当化しようとする政治的な背景があることが明らかになってきてい
る。しかし、それは官僚のための日常的な政治・政策だけではなく、皇族による支配を正当化するた
めに、神話的歴史的な過去の創出や、文化的アイデンティティーの一貫性を構築し維持するものとし
て、不可欠なものであったとも推測されている。
6しかし、大和の文学だけではなく、一般的に文字の
発生と成立それ自体に権力が関係していると考える文字史の研究家も少なくない。
7
それに対してドイツ語圏の記憶研究は、過去創出における政治的な背景を文化論的に捉えるものであ
る。特に、記憶研究に大きな影響を与えたヤン・アスマンが、言語文字の発明と記憶との関わりを強
調していることは、本稿にとって興味深い点である。神話的歴史的過去や文化的アイデンティティー
の一貫性を構築させる、または安定化することは、古代国家成立としづ過程にとって非常に重要であ
るが、文字はその目標達成に大きく貢献するもので、あった。~古事記』や『高葉集』は勿論、例えば
稲荷山古墳や江田船山古墳で出土した鉄剣に刻まれていた銘文も、このことを示唆しているように思
われる。
②:以上のような、文化的アイデンティティーの一貫性を後世に渡って持続しうるように構築すると
いう国家的大型プロジェクトに関連し、次の点を想定することができる。もし、記憶が『古事記』や
『高葉集』といった巨大プロジェクトを遂行するために重要な役割を果たしたとするならば、記憶は
安川晴基「文学的記憶のコンセプトについて 訳者後書きに代えて」、アスマン・アライダ『想起の空間・文化
的記憶の形態と変遷』水声者、 2007
年
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ページ(ドイツ語の原文2006
年)。
6 小川靖彦(同上)、太田光一『持統万代集ー『万葉集』の成立』郁朋社、 2
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7 神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』東京大学出版会、 2
007
年
、 4
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6ページ、犬飼隆『漢字を飼い慣らす
ページ、東野治之『書の古代史』岩波書庖、 2010
年
、 2
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一日本語の文字の成立史』人文書館、 2008年
、 2
1,29
205ページ。
5
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120
交響する古代町予稿集
マクロレベル(晴、宮廷の儀礼や宴の歌、歌の収集・選択など)のみならず、そこから分岐するミク
ロなレベル(叙情詩、製など)においても反映される可能性が高い。
③:人麻呂、赤人や家持などの所謂「万葉人Jは、他人の文字用法や文字それ自体を丹念に観察し、
自身の書において様々な「文字実験」を行った。特に七世紀後半までは、中国から伝来した『文選』
などの文学は、日本列島の土着民(日本人)にとって外国語だ、った。例えば、
「おもふ」という言葉
自体は文字が使われるようになる以前から存在したはずであるが、漢字で書かれた文学では、 「思」、
「
想 J 、 「念」、
「憶」などの漢字に対し、やむを得ず一律に「おもふ」としづ読み下しを付けるこ
とになったのである。しかし、文字が異なっていることを考えると、当然意味も異なっているはずで
ある。人麻呂らが文字を観察し実験した過程において、
「ことば」の意味が分割・細分化され、その
結果として「おもふ」という語が、文字のメディア性に従って現代語に区別される「おもう J、 「
か
んがえる」、
「おもいだす Jなどという言葉になったと推測できる。この最も象徴的な例として、
「
記
憶 Jとしづ文字自体をあげることができる。なぜなら、「記」は「書しるした文章や文書。書き付け。 J8
という意味であり、それゆえ記憶という複合語は文字を書くことに帰結するメタファー的な用法に過
ぎない。
④記憶概念の問題について一言触れておく必要があるだろう。~テレビという記憶~ 9という本のタイ
トルが示唆するように、
「記憶」としづ概念はやや暖昧である。本稿では、記憶を「想起すること(思
い出す) J、 「想起する過程・結果(思い出) J、 「記憶の物理的な側面(文字、身体、風景など) J、
および「忘却(自然的・志向的) Jの傘概念として用いることとする。なお「想起」の二つの側面は、
分析のために区別されたものであり、自立的に並存しているわけではない。
すでに筆者は詩歌と記憶の関係を分析することを目的に、研究対象となる「記憶詩歌 J としづ概念
を提案し、日本にも既に紹介しているが 10、その概念を提案するもうひとつの目的は、国文学を支配し
ているように思われる「こころ」というパラダイムに対し、
「記憶」という領域にも視野を拡大させ
ることにある。これは「こころ J という文化的記憶に属する読み方を否定するものではなく、上述し
たように、文学の多義性に基づいて文学を文学として強調することを意味している。
⑤:記憶論に視点を移し、文学と記憶との関係を研究する際、 ドイツの文化論的文学研究が展開して
いるモデルが役立つように思われる。そのモデルは次の三点から構成されている。
1
1
1:文学の記憶
2:文学における記憶
3:記憶メディアとしての文学
第一の「文学の記憶」について、
「
の J の文法的な機能から見て、さらに次の二つに分類で、きる。そ
の一つは、文学を主語として、文学自体が何かを想起しているというものである。間テキスト性
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) 、分類・ジャンル(和歌、俳句、歌物語、小説など)、類句・類語
(I
見れどもあかぬ」など)、
トポス性 (
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c、風景、四季や時間の比喰)などがここに含まれる。
もう一つは、文学を目的語として、文学が想起の対象となるということである。ここに属するのは、
8
~日本国語大辞典』第三巻、 1436ページ(第二版)。
9 秋原滋(編)
~テレビという記憶ーテレビ視聴の杜会史』新曜社、 2013年。
ヴィットカンプ・ローベルト「万葉集における記憶詩歌一文化研究からの試み一J I
万葉古代学研究所年報』
2012・3・第 10号
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『高葉集』の記憶詩歌における文字遊び(
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例えば勅撰和歌集(カノン)、歌論、国学、国文学、国文学を教える教育機関、海外における日本古
典文学研究などである。つまり、前者は文学を象徴制度 (
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) として捉えているのに対し
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) としてアプローチするものと言える。
て、後者は文学を社会制度 (
第二の文学における記憶とは、記憶や想起、忘却が文学の中でどのようにテーマ化されるか、を意味
している。ここには、登場人物が記憶を話題としている場面を分析する、
「おもひで」や「われは忘
れじ J、 「形見」などの記憶を観察するための表現を分析する、などが属する。分析対象となるメデ
ィアは異なるが、テレビドラマの中で演出された回想シーンはどのようにして視聴者に回想として理
解されるか、などもこの研究分野に属する。
第三の記憶メディアとしての文学において、文学は集合的または文化的記憶のメディア、すなわち記
憶の担い手として分析される。例えば、四季は『高葉集』の歌の中で生まれてきたモチーフであるが、
平安時代以降の和歌においても、四季は文化的記憶として重要視され保持されている。また和歌のみ
ならず、四季は扉風や能、俳句、衣装、絵画、庭園や建築といった他のメディアにも採用され、現代
に至るまで日本の自己描写(文化的記憶)の中心的な位置を占めている。秋が近づくと、突然コンビ
ニの棚に紅葉の模様が描かれたビールの缶が並び、そのビール缶が春には急に桜の絵に変化すること
も、文化的記憶としての四季を如実に示す好例であろう。また、文学における神話や歴史、習慣や文
学において、日本の自己描写に相応しくないとして書かれない戦争の体験なども、この問題設定に属
する。前者は想起、後者は忘却の問題という違いはあるが、両者は記憶という点で一致している。
『高葉集』においては、以上の三点(四点)を認めることが出来るが、本稿では特に第一の象徴制度
(文学の記憶①)としての文学と、第二の文学における記憶に限定して論を進める。
記憶詩歌と文字遊びとの関係を具体的な例で説明する前に、二つの問題に触れておく必要がある。一
つめとして、文字遊びが殆ど見られない『古事記』などの歌謡へも記憶論的なアプローチが有効であ
2:文学における記憶」で例解してみたい。岩波書店が大型プロジェク
ることを、先述したモデルの 1
トとして『日本文学史』を出版したが、その第一巻は藤井貞和の「古代文学史論」としづ基調論文で
始まっている。その中で藤井は日本の歌謡の事始についても考察しているが、それが所謂「久米歌 J
ではなし、かと推測している。
1 (省略)歌詞や内容の古さ(省略)からも、記歌謡九などは三世紀代
に発生がさかのぼる。この辺りが古代歌謡の最も古いものであろう。 J12この正当性に関する議論は国
文学の専門家に任せるしかないが、記憶詩歌にとって以下の点で非常に興味深い指摘である。という
のも、現在第 1
2
番歌として数えられている久米歌に属する歌謡に、
「和礼波和須礼士」としづ誓いが
含まれているからである。山口佳紀と神野志隆光は「われは忘れじ」と読む誓いを、物語の文脈に乗
せて次のようにパラフレーズしている。すなわち「私は復讐の思いを忘れましリ、と。
1
3ここで重要な
2
番歌の前にも、同様の言葉が用いられている点である。第8
番歌は「伊毛波和須礼士余
ことは、その 1
能許登碁登遁」としづ二句で終わり、
一生の間」と訳されている。
「妹は忘れじ世の悉に」としづ読みが「妻のことは忘れまい、
14
このように、日本文学における最も古い核心部分において、
「けっして忘れましリなどという宣誓が
表現されているが、これは冒頭で述べた「国民的健忘症」を見立てた加藤周ーが述べた「日本社会・
文化の基本的特徴」と相反するように思われる。~古事記』歌謡の 51番歌では、歌の歌い手がある渡
1
2 藤井貞和「古代文学史論」久保田淳(ほか)
W日本文学史』第一巻、岩波書庖、
1
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べ一、引用:1
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1
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山口佳紀・神野志隆光『古事記』新編日本古典文学全集第一巻、 1
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年(引用は2
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年第7
版から)、 1
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1
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山口佳紀・神野志隆光(同上)、 1
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ページ。
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交響する古代町
り瀬で樹木を見ながら、
予稿集
「本方は・君を思ひ出・末方は・妹を思ひ出・苛けく・其処に思ひ出・愛し
けく・此処に思ひ出」をまるで魔術的な言葉で想起していることを表現している。
1
君」や「妹」が
誰を指すかは不明であるが、明らかなことは、渡り瀬にある木、つまり風景がその思い出の切っ掛け
や思い出の担い手(媒体)になっている点である。欧米の記憶研究では、想起を惹起させるメディア
を「キュー J (
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) と呼ぶが、この歌における渡り瀬の木はまさにキューとしての役割を果たしてい
ると言える。
二つめの問題として、風景と記憶の関係に言及したい。 この分析に先だ、って、両者の関係を大まかに
分類すると、以下のとおりになる。
①キューとしての風景
②想起の対象としての風景
③記憶のトッピク・メタファーとしての風景
せ
この例として、右の『寓葉集』の第54番歌を見てみよう。
つつ偲はな・巨勢の春野を J15と読まれるが、
1
巨勢山の・つらつら椿・つらつらに・見
「思」という漢字を「しのふ」と読み下すのは、
『高葉
集』の慣用的な読み方である。標目(題詞)から、持統天皇が紀伊に向かつて御幸することが分かる
が、その季節は秋の九月である。つまりこの歌の歌い手は、秋に巨勢山を見ながらにして、春の姿を
思い出していることを詠んでいるのである。御幸という晴の場や、通過儀礼としての鎮魂などを念頭
に置くと、この歌の風景の機能はいろいろ考えることができる。しかし、上述した関係として次の二
ある風景を見ながら場所的・地理的に違う風景
番歌は
を想起する歌も少なくなく、例えば第 64
その典型的な例である。この歌は、
丙 午J (
7
0
6
年)、
「慶雲三年
「難波宮に幸せる時 l
こj 志
登粋岳山一部宿祢赤人作歌一首井短歌
まれている点に特徴がある。
三諸乃神名備山爾五百枝刺繁生有
ぞ、れの季節は異なっている一方、同じ地名が詠
都賀乃樹乃弥継嗣爾五葛絶事無奈
である風景と想起の対象である風景とのそれ
在管裳不止符通明日香能蓄、京師者
えないテーマに属する。しかし、想起のキュー
山高三河登保志呂、之春日者山四九
『高葉集』の中では特異とは言
容之秋夜者河四清之官?宮ニタタ頭
た風景という、
反
歌
羽乱タ霧丹河津者駿毎見交耳所
である。この歌は、風景に面しての思い出され
泣古忠者
働きと、思い出された風景、つまり想起の対象
日香河川余藤不去、五霧乃念感過狐悲
爾不有圏
16すなわち、キューとしての
つを指摘したい。
貴皇子が詠んだ歌であることが目標から知る
ことができる。その内容は、詠み手が「葦辺を行く・鴨の翼に・霜が降っ
寒い晩には郷里の大和が思われる」、というものである。
て」いることを見るーまたは想像する - 1
ここで「思われる」と訳された動詞は、原文では「所念」としづ漢文の語句で書かれており、
ほゆ」 と読まれる。
17
「おも
1しのふ」や「おもほゆ J は、度々ステレオタイプ(類語・類歌)として記憶詩
歌の挙句に含まれるなど、記憶詩歌の特徴の一つに数えられる。ここで、記憶詩歌におけるそのよう
な動詞を「記憶・ノエシス的動詞フレーズJ (
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) と呼ぶこととしたい。
1
5 小島憲之・木下正俊・東野治之『高葉集一巻第一 巻第四』新日本古典文学全集大六巻、 1
994
年(引用は 2006
年かか) 5
7
ページ。
1
6 言うまでもないが鎮魂も記憶研究の対象になりうる。なぜなら儀礼は重複を意味し、重複自体はーイ義礼のよう
に-記憶の形態の一つに他ならなし、からである。
1
7 小島憲之・木下正俊・東野治之(向上)、 6
1ページ。
1
2
3
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『寓葉礁』の記憶詩歌における文字遊び (
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『高葉集』が書かれた時代は、現在は別の意味で用いられている「考える」
この概念が強調する点は、
(ノエシス)と「思い出す」
(記憶)などは未分化で、あった、または分化しつつあったということで
ある。
上述した分類の第三の側面である、記憶のためのトピック・メタファーとしての風景に言及したい。
次の歌は山部赤人が詠んだ、第324
番歌の長歌とその反歌である。この長歌は、
「春日は・一秋夜は Jの
ように、風景を対句に演出された時間のメタファーとして機能させているが、その他の風景要素も少
なくない。長歌の終りである「古思者 J は川、にしへ思へば」と読まれ、これは記憶詩歌のステレオ
タイプと言えるが、長歌全体としては「儀礼的、晴のようなJ という印象である。しかし、本稿の興
味を喚起させるのは「明日香川・川淀去らず・立つ霧の・思ひ過ぐべき・恋にあらなくに J と読む反
歌のほうである。下の三句を「たつ霧のようにすぐ消え失せるような私の恋ではないのだ J18と解釈す
ることは、
「恋の歌」として理解される恐れがあるものの、特に問題がないように思われる。しかし、
原文の「念慮過 j という、おそらく赤人に発明されたであろう記憶・ノエシス的動詞フレーズは、現
代語訳において失われてしまっている。いずれにしても、その風景としての霧は立ってから過ぎる、
つまり忘却のように消えてしまうため、念磨、過のメタファーとして機能していると言える。
ところで、
「形見 j としづ重要な記憶概念も風景に関する語として導入された概念である。
安騎の野に宿らせる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」の中に、
r
軽皇子、
「荒野」を「過ぎにし君の形見とそ来
7
番歌がある。この歌の意味は「今は亡き皇子の形見の地としてやって来られた」
しJという内容の第4
とされているが、明らかに安騎の野という風景が想起のキューとして働いていることがわかる。
終わりに、本論の中心テーマである文字遊びに再び目を向けてみたい。以下の歌のグループ。は、 8月 7
日に大友家持の屋敷に行われた「宴j としづ晴の場で詠まれた歌である。添付された原文の注による
9
4
3
番歌は家持、後の三首は池主が詠んだ歌であることがわかる。宴とは儀礼的な場であ
と、最初の 3
るため、最初の二首は女郎花(平美奈倣之)をテーマとする主客の典型的な歌交換として解釈されて
し
、
る
。
八月七日夜集子守大伴宿祢家持舘宴歌
秋田乃穂牟伎え我氏里和或勢古或布
左タタ乎里家流乎美奈赦之香物
右一首守大伴宿祢家持作
乎美奈赦之左伎タタ流野透乎由伎米具
利吉美乎念出タタ母益保亘伎奴
安吉能欲波町加益吉左牟之忠路タタ倍
乃妹、之、衣袖伎牟母式毛
小
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保政笠等甘受須奈伎氏須疑念、之乎加備可
、良秋風吹奴余之母、安良奈久
右三首捧大伴宿祢池、五作
これらの歌に詠まれている「我が背子」と「君 j としづ言葉が、儀礼的な歌交換としづ解釈の正しさ
番歌
を裏付ける証拠と考えられており、例えば新日本古典文学全集の『高葉集』では、池主の第3944
が「前の家持の歌に対する反歌であろう」と見なされている。
1
8 小島憲之・木下正俊・東野治之(向上)、
1
9しかし、そうであるならば、客である
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0
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ページ。
1
9 小島憲之・木下正俊・東野治之『高葉集一巻第十五
巻第二十』新日本古典文学全集大九巻、 1
9
9
6
年(引用は
124
交響する古代W 予稿集
池主の三つの歌の一貫性はどこにあるのかという疑問を禁じ得ない。
ところが、この歌を文字遊びの観点から捉えなおすと、意外にもう一つの読み方が現れてくる。四首
の歌は共に、殆ど音仮名で書記され、所謂音仮名主体の典型的な例である。家持の歌には「秋田、穂、
見」としづ正訓字があり、一方の池主の三首の歌には「野漫乎・念出 J (
3
9
4
4番歌)、
「妹之衣袖」
(
3
9
4
5番歌)と「秋風吹奴 J (
3
9
4
6
番歌)というフレーズが含まれているが、これらも付属語「平、
之、奴 Jを除いて正訓字である。ここで池主の三首の訓字を-続きに読んでみると、次のようになる。
すなわち、
「野べを・で思い出して、妹(妻?)の衣の袖、秋風が吹いてきました」。このテキスト
だけでは、つまり背景を知らずに意味をとることは難しいが、家持と池主との個人的な関係を考慮す
ると、つまりその歌の背景を文脈として解釈に加味させると、意味を十分に理解できるようになる。
すなわち、両者の関係から池主は家持の歌をよく知っている、想起していることは明らかであり、そ
番の歌も知っていたに違いないと思われる。第465
番は「秋風寒思努批都流
れゆえ例えば家持の第465
可開(しのひっるかも) J という歌であるが、その現代語訳は「秋風が寒いので妻を思い出す」であ
る
。
20
ここで大切なことは、
「しのふ」が「思い出す」として理解され、
「寒い秋風」が想起のキューとし
て働いているという点である。天平十二年 (740年)ごろ、久遁京にて務めを果たしていた家持が「奈
良の家にとどまっている坂上大娘」に一首の歌を送ったが、その歌の中で自分の寂しさを次のように
表現している。すなわち、
「山遺伝居市秋風之日異吹者妹乎之曽念 J (1山辺にいて・秋風が・日増
しに吹くとあなたを恋しく思う J)21、と。また池主の 3945番歌の「妹之衣袖」とは、振っている袖を
見送りや離別の象徴に見立てたものであり、すでに人麻呂の歌にもよく詠まれていた。そういう意味
では、 「妹之衣袖 j は記憶詩歌のトピックであり、かつ記憶に纏わる語葉に属するとも言えるだろう。
上述した宴歌の集いは越中にあった家持の屋敷で行われたものであり、それゆえ当時の家持の寂しさ
は十分に想像できるであろう。つまり、そこで詠まれた歌全体の文脈としては、記憶としづ側面がよ
く考えられるだけではなく、家持と池主の歌交換においては記憶自体がテーマとして意識されていた
に違いないと言える。
さらに、それを示唆するのは文脈だけではなく、文字用法ーすなわち文字遊びーの視点からも見て
取ることができるだろう。なぜなら、第3944
番歌における四つの動詞(左伎多流=咲きたる、由伎米
具手Ij=行き巡り、念出=思ひ出、保里伎奴二ほり来ぬ)の三分のーが音仮名で表記され、
「念出」だ
1靖彦が訓宇主体からなる第 1
5番歌を
けが例外であることは、明らかに偶然ではなし 1からである。小)1
分析して、その中にある万葉仮名「伊里比禰之 J (し、りひみし:入日見し)と「月夜」、つまり音仮
名対正訓字という対立的な文字の使われ方を見つけ、
た
。
「伊里比禰之」の方を「仮名に開く」と命名し
その「仮名に開く」に対して、池主の音仮名主体における正訓字を以って意味を作る方法は「司 1
22
字に絞る」とでも言えるのではないだろうか。
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年から) 1
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ページ。
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0 小島憲之・木下正俊・東野治之『高葉集 巻第一 巻第四』新日本古典文学全集大六巻、 1
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年から) 2
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1 小島憲之・木下正俊・東野治之『高葉集一巻第五 巻第九』新日本古典文学全集大六巻、 1
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年(引用は2
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年から) 3
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8ページ。
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2 小川靖彦(同上)、 2
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