日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.8, 197-207 (2007) 後期西田哲学における神と人間との関係 ―キルケゴールの思想を手がかりにして― 藤城 優子 日本大学大学院総合社会情報研究科 The Relationship between God and Human beings in Late Nishida Philosophy ―Examined with Kierkegaard's thought used as a clue― FUJISHIRO Yuko Nihon University, Graduate School of Social and Cultural Studies The purpose of this paper is to examine the relationship between God and human beings in late Nishida philosophy by using, as a clue, the thought of Sören Kierkegaard, of whom Nishida thought highly because Kierkegaard had regarded the relationship between God and human as paradoxical. This paper, by examining and comparing their ideas of the relationship between God and human in both Nishida and Kierkegaard, clarifies the characteristics of this relationship in late Nishida philosophy. はじめに 西田の「場所の論理」は、神と人間との関係を説 明できる論理でもある。本論は、西田の考える神と 人 間 と の 関 係 を キ ル ケ ゴ ー ル 1 ( Sören Aabye Kierkegaard, 1813-1855)の思想を手がかりにしながら 考察する。なぜなら西田は、キルケゴールが神と人 間との関係はパラドックス的であると見なしたこと について特に共感をもっていたからである。 本論は、 「場所の論理」がどのような論理なのかを 神と人間との関係という視点から考察することが目 的である。 いたとは考えられていない5。 西田が本格的にキルケゴールの著作を取り上げる のは、中期の著書『無の自覚的限定』に収められた 論文「私の絶対無の自覚的限定といふもの」、及び「永 遠の今の自己限定」においてであり、後期の『哲学 論文集 第四』に収められた論文のうち、特に、論 文「実践哲学序論」おいてかなりの共感をもってキ ルケゴールの思想を取り上げている。 中期から後期にかけて西田の論文に現われたキル ケゴールに関する言及 51 箇所6について見ていくと、 西田が引用しているとわかるキルケゴールの著作は、 『おそれとおののき』 (1843 年)、 『哲学的断片』 (1844 2 西田のキルケゴールの思想に対する共感 西田の論文においてキルケゴールの名前は、1906 (明治 39)年に出された小論「自覚主義」に出てく る。この小論は、西田が『善の研究』を出版する以 前に書かれたものである。キルケゴールの名前が初 めて活字となって印刷された最初のものが、この小 論であると考えられている3。この時期に西田がキル ケゴールの著作を直に読んだ形跡はなく4、また、こ の時点で西田がキルケゴールに大きな関心を抱いて 年)、 『不安の概念』 (1844 年)、 『哲学的断片への結び の学問外れな後書』 (1846 年)、 『愛の業』 (1847 年)、 『死に至る病』(1849 年)、『キリスト教への修練』 (1850 年)の七冊である7。西田がこれらの著作の中 で特に問題にしていることは、第一に、 『哲学的断片』、 『哲学的断片への結びの学問外れな後書』、『死に至 る病』、『キリスト教への修練』から、パラドックス の概念8、第二に、 『不安の概念』から、 「瞬間は時に 於てあるのではなく、その外にある」9という時間論、 後期西田哲学における神と人間との関係 定した第三者への関係である、即ち絶対他者への関 第三に、 『おそれとおののき』から、信仰と道徳との 10 質的差異 、第四に、『愛の業』から、愛と義務との 係である」17のように『死に至る病』に対する共感と 関係11という以上の四点である。 共に論じている。更に、神が自己矛盾的に人間であ 1941(昭和 16)年に出版された西田の著作『哲学 るということについて、 「神人は矛盾の符号であると 第四』は、実践哲学を主題としている。こ 云う。併し我側に居る大工の子が神である、このパ の著作において西田は、 「絶対矛盾的自己同一」の論 ラドックスが私は我々の行為の根本的原理であると 理という自己自身の最終的立場から実践哲学を考え 思うのである。絶対矛盾的自己同一の個物的多とし ようと試みる。この著作における西田のキルケゴー て、我々の自己と絶対との関係は、大工の子が神で ルへの共感には驚くべきものがある。『哲学論文集 あると云うことでなければならない。個人が自己矛 第四』には、 「序」と「実践哲学序論」、 「ポイエシス 盾的に神であると云うことである」18のように、『キ とプラクシス」、「国家理由の問題」を含む四つの論 リスト教への修練』に対する共感と共に論じている 文が掲載されているが、先の 51 の言及箇所のうち、 のである。 論文集 この著作の「序」において 1 箇所、 「実践哲学序論」 このように、キルケゴールへの共感と共に神、及 において 27 箇所、「ポイエシスとプラクシス」にお び人間について、そして、神と人間との関係を論ず いて 3 箇所、 「国家理由の問題」において 1 箇所の計 るという方法は、キルケゴールに関する言及頻度は 32 箇所の引用がこの著作内でなされているのである。 低くなるものの、論文「ポイエシスとプラクシス」、 この著作の趣旨とも言える「序」において既に西田 「国家理由の問題」においても貫かれている19。 は、 「キェルケゴールは我々の自己は自己自身に関係 このように、西田にとってキルケゴールの思想は、 する関係であると共に、絶対他者によって措定せら 「自己の思想の実証もしくは例証」20としての役割を れた関係であると云う。実践哲学はかかる立場に基 もっていると考えられるのである。 12 礎付けられねばならない」 と述べている。つまり、 西田の考える実践哲学の基礎付けが、キルケゴール の言葉を借りて行われているのである。 「実践哲学序 論」において西田はまず、 『死に至る病』の内容の要 約から始める。西田が他人の思想を解説すること自 体珍しく13、このことは、西田のキルケゴールに対す る深い傾倒を示すものである。つまり、この論文は、 西田にとってキルケゴールとの本格的な出会いのド キュメントとも言えるものなのである14。 次に西田は、自己とは何かということについて、 「キェルケゴールの「死に至る病」は、 〔中略〕我々 の自己の深い内省的分析として、極めて深酷に徹底 的と云わざるを得ない」とか「絶望は精神の病、自 己の病である」15のように『死に至る病』に対する共 感と共に論じる。そして、自己と自己を措定する絶 対他者とのパラドックス的関係について、「「後書」 に於てはキリスト教を〔神人の〕パラドックス的な 宗教として論じて居る」16のように『哲学的断片への 結びの学問外れな後書』に対する共感や「キェルケ ゴールは、人間の自己とは単なる関係ではなくして、 自己自身に関係する関係であると共に、全関係を措 198 神と人間との逆対応的関係 西田は、 「宗教に入るには、何等かの途に於て一度 絶対矛盾に撞着せなければならない。併し一旦自己 の真に徹した時、それは神の呼声であったのである」 21 と述べている。神と人間との間には、絶対的な矛盾 が存在する。そして、神と人間との関係は、その絶 対的な矛盾の解決によって初めて築かれる。それで は、神と人間との間にある絶対的な矛盾とは如何な るものなのか。そして、この絶対的な矛盾は、如何 に解決されるのであろうか。 西田は、 「我々の自己の根底に、深き自己矛盾を意 識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを 自覚した時、我々の自己の存在そのものが問題とな るのである。 〔中略〕併し多くの人は深く此の事実を 見詰めて居ない。何処までも此の事実を見詰めて行 く時、我々に宗教の問題と云うものが起って来なけ ればならない」22と言う。つまり、人間の存在そのも のが矛盾であり、この事実を深く見つめていくと、 宗教的問題が必然的に起こってくると言うのである。 そして、 「我々の自己存在の根本的な自己矛盾の事実 藤城 優子 は、死の自覚にある」23と述べられているように、我々 ものでなければならない。つまり、真の絶対とは、 人間が矛盾的存在であることを強く意識するのは、 相対を自己の内に含むものである。そのために絶対 死においてである。つまり、死の自覚よって人間は、 は、自己自身を否定する必要がある。絶対が自己自 自己が絶対の矛盾的存在であると意識するのである。 身を否定することによって、相対を自己の内に含む このように、人間が死を自覚した時初めて、人間は、 ことができる。それは、自己自身の相対化を意味す 神と接することができる。しかし、人間は、 「逆対応 る。即ち、絶対は、自己の絶対否定によって表現的 24 的」 に神に接している。つまり、人間が自己自身を 自己である相対になるのである。このように、真の 否定するのみならず、神の絶対の自己否定があるか 絶対は、 「自己の内に絶対否定を含むもの」29である。 らこそ、人間は神に接することができるということ 従って、絶対は、自己矛盾的な性質をもっている。 である。このような神と人間との相互の絶対否定的 つまり、絶対が自己自身を否定することによって、 関係が西田哲学において「逆対応」と呼ばれる概念 自己が相対となる。相対となった絶対は、絶対の表 である。従って、人間は単独では存在し得ない。た 現的自己を意味するのであるから、絶対は「自己の 25 だ、 「〔神の〕自己射影点として神の肖姿」 としか言 内なる自己自身に対する」30ということになる。自己 いようのない存在なのである。 を否定することが、自己を肯定することである。つ このように、宗教心というものは、決して人間の まり、絶対は、自己を否定することによって、絶対 側から起こるものではなく、神の側の呼声として起 自身である相対を肯定する。絶対は、自己自身の中 26 こる 。従って、宗教が問題となるのは、人間が自己 に相対である自己を見るものでなければならないの の矛盾を意識すること、即ち死を自覚した時であり、 である。 その時初めて、神の呼声がある。しかもそれは、逆 ここで注意しなければならないのは、西田の使う 対応的である。つまり、人間の自己否定であると同 神という表現である。西田にとっての神は、決して 時に、神の絶対の自己否定がなければならない。人 対象的、超越的な存在ではない。西田にとって神の 間の自己否定は当然のことであるが、神の側の絶対 呼声は、自己の根源から起こる。自己の根源に徹す の自己否定があってこそ我々人間は、存在し得るの ることが、宗教的入信、あるいは、回心である31。従 である。西田の「逆対応」の概念は、神と人間、即 って、神と人間との関係が逆対応的であるというこ ち絶対と相対との関係を明確に示している。つまり、 とは、対象的、超越的に考えられる神と人間との逆 「逆対応」は、西田にとっての神と人間、即ち絶対 対応的関係ではない。自己の根源が、神であり、絶 と相対という相矛盾する両者の相互否定的関係を一 対である。この神の自己否定によって、一切のもの 語で表すことのできる概念である。 が肯定される。従って、西田にとって神と人間との それでは、神と人間、即ち絶対と相対との相互否 関係はあくまで、自己の根源としての絶対と相対と 27 定的関係 は如何なる構造なのであろうか。 の関係を意味しているのである。 西田は「絶対者とは対を絶するものではない、相 人間は、自己矛盾的存在である。それを意識する 対に対するものは真の絶対ではない〔中略〕。真の絶 のは、死を自覚した時である。死の自覚において初 対者は悪魔的なるものにまで自己自身を否定するも めて人間は、神と逆対応的関係を築くことができる。 のでなければならない、そこに宗教的方便の意義が しかし、神と人間とが逆対応的関係にならなければ ある。而してそれは又絶対者が悪魔的なるものに於 ならない根拠は、何処にあるのであろうか。 西田は、人間は、その存在そのものが根本悪であ ても、自己自身を見ると云うことでもなければなら 28 ない」 と言う。絶対という言葉には、対を絶したも ると考えている32。人間は、生来的に生と死という矛 のという意味がある。しかし、西田の考える真の絶 盾を抱えた存在である。従って、人間であること自 対は、単に対を絶したものという意味ではない。つ 体が根本悪である。このことが、自己が自己の在処 まり、何等かの意味で他に対するものでなければな に迷う原因であり、宗教を問題にしなければならな らない。対を絶したものであると共に、他に対する い根拠である33。このように、人間の存在が根本悪で 199 後期西田哲学における神と人間との関係 あるということを認めることによって初めて、神と る。しかし、単にその一方にのみとどまるのは、真 人間との逆対応的関係が問題にされることになる。 の宗教ではない42。宗教的関係は、対象的、超越的で 人間は、根本悪である。そして、神との逆対応的 あると共に、我々の自己の根源であるという意味の 関係を築くことによって、人間の根本悪は初めて解 超越的なるものと人間、即ち内在的なるものとの逆 消される。つまり、真の自己になるということであ 対応的関係でなければならない。つまり、 「何処まで る。ここに、道徳と宗教との断絶、更には、道徳と も我々の自己を越えて而も我々の自己を成立せしめ 宗教との本質的な異方向性が明確にされる。つまり、 るもの」43としての超越的なるものと、「何処までも 「道徳は一般的であり、宗教は個人的である」34とい 唯一的に、個的に、意志的なる自己」44との関係であ うことを意味している。道徳が自己の当為の問題で る。 あるとすれば、宗教は自己の存在や在処を問うもの 35 神と人間との間には、絶対の断絶が存在する。こ 36 である 。道徳と宗教との関係 は、初期、及び中期 れが、神と人間とのパラドキシカルな関係である。 においても問題にされている。初期の『善の研究』 この関係は「絶対矛盾的自己同一」として論理化さ においては、要するに、道徳と宗教との一致が強調 れる。 「絶対矛盾的自己同一」の矛盾的側面を強調し され、道徳は、宗教に至って完成されるものと見な ているのが「逆対応」であり、この論理の同一的側 されていた。そして、中期になると、道徳と宗教と 面を強調しているのが「平常底」である。「平常底」 の断絶は明確にされるものの、道徳的自己である人 は、禅宗の平常心に由来するもので、最も日常的な 間の側の自己否定によって、宗教への道が開かれる ものが最も根源的なものであるという禅仏教に特徴 ことが強調されるにとどまる。つまり、真の自己、 的な考え方を示すものである45。 「平常底」の概念は、 即ち宗教的自己は、道徳的自己を否定し、超越した 神と人間とが逆対応的に接しているという人間の側 ところにあると考えられていた。後期において道徳 の宗教的立場を示している。それは、人間の側の本 と宗教との関係は、根本悪という性質をもつ存在で 質的立場46であり、我々の自己が自己の底に徹した時、 あり、自己の在処に迷う人間と神との相互の自己否 神と逆対応的に接していると自覚する立場である。 定によって成立する関係であると考えられるように この「平常底」なる立場は、同時に「終末論的」な なる。そして、これが西田の最終的な立場となる。 立場である。このことを西田は、「終末論的なる所、 即ち平常底」47、及び「終末論的に平常底」48という 神と人間は、神の自己否定によって、神自身の表 現的自己である人間を内に含むという関係にある。 言葉で表現する。「終末論的」という言葉の意味は、 つまり、神は、自己自身の中に根本悪である人間と 西田が「キリスト教のそれと異なって居る。対象的 いう矛盾を含んでいるということであるから、 「全智 超越的の方向に考えられたものではなくして、絶対 37 全能」 であると言えるだろう。従って、真の神は、 現在の自己限定として内在的超越の方向に考えられ 極悪にまで下り得る神である。絶対のアガペ、即ち たものである」49と述べている通り、キリスト教の目 神の愛は、絶対の悪人にまで及ぶものなのである38。 的論的な終末論50を意味しているのではなく、「絶対 このように、神が絶対的な自己否定によって根本悪 現在」において世界の始めと終わりが結合している である人間を救うということが絶対の愛である。仏 ということを意味するものである。絶対現在の自己 教的には、仏の悲願であり、キリスト教的には、イ 限定であり、内在的超越の方向に考えられる西田の 39 エス・キリストの受肉である 。キリスト教における 終末論は、如何なる終末論なのであろうか。 絶対者は、対象的、超越的に人間に対する。これに まず、西田の終末論の定義のうち、 「絶対現在」の 対し、仏教における絶対者は、人間を包むものであ 自己限定であるということは、如何なることなので 40 る 。このように、絶対者と人間との関係には、相反 あろうか。 「絶対現在」は、西田の時間論の核心とな する両方向を認めることができる。つまり、客観的、 る概念である。西田にとっての現在は、過去と未来 外的超越の方向にある絶対者、あるいは、主観的、 を含んだ「絶対現在」である。 「絶対現在」において 41 時間は、瞬間と瞬間が連続しているから、連続的で 内的超越の方向にある絶対者 と人間との関係であ 200 藤城 優子 あると共に、一瞬一瞬は独立しているから、非連続 「絶対現在」の自己限定としての時間的なるもの、 的である。つまり、非連続の連続である。 「絶対現在」 即ち歴史的世界において成立するものである。そし が非連続の連続であるということは、 「直線的限定即 て、西田の終末論における人間と神は、人間と人間 円環的限定、円環的限定即直線的限定」であるとい の根源である神との逆対応的関係にある。従って、 うことでもある。つまり、一瞬一瞬が継起的である 西田の終末論は、西田の考える宗教的歴史観である という意味で時間的であると同時に、各独立した瞬 と言えるだろう。つまり、歴史的世界において生き 間が並在的であるという意味で空間的であるという る人間は、自己の根源である神、即ち内在的超越と ことである。従って、「絶対現在」は、「時間的・空 いう方向にある神と逆対応的関係にある。そして、 間的、空間的・時間的」でもある。西田にとって時 この歴史的世界は「絶対現在」の自己限定として生 間は、無限の過去と無限の未来を自己の内に含む「絶 じる時間において成立するということである。 対現在」から生じ来るものである。 「絶対現在」はい それでは、西田が終末論的に平常底と言うのは、 わば「永遠の今」であって、その一瞬一瞬の自己限 如何なる立場なのであろうか。西田は「我々の自己 定として時間が考えられている。「永遠の今」とは、 が矛盾的自己同一的に自己自身の根源に帰し、即ち 一瞬一瞬が絶対であるということを意味している。 絶対者に帰し、絶対現在の自己限定として、即今即 「時は絶対現在の自己限定として理解せられねばな 絶対現在的に、何処までも平常的、合理的と云うこ 51 らない」 のである。従って、西田の終末論が「絶対 とは、一面に我々の自己が何処までも歴史的個とし 現在の自己限定」であるということは、それが、 「絶 て、終末論的と云うことでなければならない」56と説 対現在」から生れる時間において考えられるもので 明する。つまり、人間が神の自己否定によってある あるということを意味している。西田が「絶対現在 という宗教的境地、即ち「平常底」の立場にある人 52 の自己限定としての歴史的世界」 と述べている通り、 間は、永遠の過去と未来、人間の始めと終わりの結 「絶対現在」の自己限定である時間において考えら 合の立場である「絶対現在」の自己限定として歴史 れるものが、歴史的世界である。この世界は、 「永遠 的世界の個であるということを意味している。これ の過去と未来と、即ち人間の始と終との結合の立場」 が西田の終末論的に平常底という立場である。 53 西田が禅仏教に由来すると考えられる「平常底」 である「絶対現在」の自己限定として初めて考えら とキリスト教を意識したと考えられる「終末論的」 れるものである。 次に、 「絶対現在」の自己限定である西田の終末論 という言葉を、なぜ、終末論的なる所、即ち平常底 が、内在的超越の方向に考えられるということは、 のように即で結び用いたのであろうか。西田はこの 如何なることなのであろうか。西田は「絶対の自己 言葉によって如何なる宗派も超えた立場から宗教を 否定を含み、絶対の無にして自己自身を限定する絶 論じようと意図したと考えられる57。つまり、如何な 対者の世界は、 〔中略〕自己に於て自己に対立するも る宗派も越えたところに立つことによって、将来の 54 のを含む、絶対現在の世界」 であると説明している。 宗教の方向性を示す必要があったということである。 つまり、西田にとっての神、絶対は、決して対象的、 それは、 「将来の宗教としては、超越的内在より内在 超越的方向に考えられるものではなく、自己の根源 的超越の方向にある」58ということである。終末論的 において考えられるものである。 「自己自身を超越す に平常底のような表現は、西田の考えるキリスト教 ることは、何処までも自己に返ることである、真の 的なるものと日本的精神のそれぞれの短所を補い、 55 自己となること」 でなければならない。このことか 将来の宗教的立場を端的に表現した言葉である。 「従 ら、人間が自己の根源に返ることが超越的なものを 来の日本精神は、島国的に、膚浅なる平常底に偏し 求めることであるという意味の内在的超越の方向に て、徒らに自負して居るに過ぎない。今日、世界史 考えられるのが、西田の終末論である。 的立場に立つ日本精神としては、何処までも終末論 以上のことから、西田の終末論は、永遠の過去と 的に、深刻に、ドストエーフスキイ的なるものをも 未来、人間の始まりと終わりとの結合の立場である 含んで来なければならない。そこから新なる世界文 201 後期西田哲学における神と人間との関係 化の出立点ともなるのである。 〔中略〕併しドストエ ルの時間論の三点についてキルケゴールの思想を概 ーフスキイ的精神は平常底と結合していない。そこ 観する。 にロシア的なるものと日本的なるものとの相違があ キルケゴールによれば、人間は、有限性と無限性、 る。而もそれが平常底なるものと結合せなければ、 時間的なるものと永遠的なるもの、自由と必然とい 現実的とならない。加之、尚主語的なるものに囚わ う相反するものの綜合である。しかし、それだけで 59 れて居るのである」 と述べられているように、従来 は、なんらの自己ではない。人間が自己であると言 の日本的精神は、日常的なるものと根源的なるもの えるのは、人間を否定的に統一する積極的な第三者 との間に相互の絶対的自己否定的契機が見られず、 との関係がなければならない63。つまり、神との関係 膚浅なものとなっており、従来のキリスト教的なる である64。この関係そのものが精神と呼ばれる65。キ ものは、我々の日常と全くかけ離れたところに人間 ルケゴールの人間論の骨組みは、「関係としての自 を救う超越的なものが対象的に考えられていて、宗 己」という考え方である66。従って、キルケゴールの 教が真に現実的なものとなっていないと考えられて 考える人間は、神との関係における人間である。こ いる。逆に、西田の考える日本的精神の長所は、日 のことから、人間と神との分裂関係は、絶望と呼ば 常的なるもの即根源的なものであるということ、即 れる。絶望が「死に至る病」67である。つまり、死ぬ ち根源的なるものは、決して我々の日常を離れたと ことができないという深い苦悩である。そして、キ ころにあるのではないということであり、キリスト ルケゴールが「絶望は罪である」68と言うように、絶 教的なるものの長所は、ロシアというキリスト教世 望、即ち人間と神との分裂関係は、罪である。従っ 界に生きるドストエフスキイ(Fyodor Mikhailovich て、神と分裂関係にある人間は、罪人なのである。 Dostoevskii, 1821-1881)を例にして述べられている。 このことから、神と罪人である人間との間には、絶 西田が「我々の自己と云うものは、考えれば考える 対的断絶がある69。しかし、罪人としての人間は、神 程、自己矛盾的存在であるのである。ドストエーフ との関係を築くことによって罪から解放される。神 スキイの小説と云うものは、極めて深刻に、かかる を信じることによって、神との関係を築くことが、 60 問題を取扱うたものと云うことができる」 と述べて 信仰である70。信仰は、人間が自らを神に基礎付ける いるように、ドストエフスキイが人間を絶対の自己 ことである。従って、キルケゴールにとって信仰は、 矛盾的存在であると深刻にとらえていることをキリ 罪の対概念である。 スト教的なるものの長所と見なして、評価している 信仰と罪との関係は、信仰と道徳との質的差異を のである。このような短所と長所から、西田の考え 主題としたキルケゴールの『おそれとおののき』に る真の宗教的立場は、終末論的に平常底の立場でな よって一層明確になる。つまり、この著作は、神と ければならないのである。つまり、 「絶対現在」の立 の関係においてある人間と、普遍者としての人間と 場、即ち永遠の過去と未来、人間の始めと終わりが の質的差異について説明しているからである。この 絶対矛盾的に結合している立場は、決して我々の日 説明のためにキルケゴールは、この著作において旧 61 常を離れた立場ではないということである 。宗教は、 約聖書の創世記第 22 章に記されたアブラハムとその 我々の日常的生から決して離れない。そして、歴史 子イサクの物語を題材にする。この物語は、神の命 も、我々の日常的生において始まり、日常的生にお 令に従い、子供を生け贄として奉げようとした父ア いて終わるということが西田の主張である。 ブラハムの行為を描いている。この物語を主題にし たねらいをキルケゴールは「信仰というものがいか 62 キルケゴールの思想 キルケゴールの残した膨大な業績、そして多岐に わたる主題の中から、特に西田との関連で、第一に、 人間、及び人間と神とのパラドックス的関係、第二 に、信仰と道徳との質的差異、第三に、キルケゴー にとほうもない逆説であるかを知ろうというにあ る」71と語る。この物語に描かれている父アブラハム がしようとした行為そのものは、殺人であるから、 道徳的には決して認められない行為である。しかし、 宗教的には、神の命令に従おうとしたアブラハムの 202 藤城 優子 行為は、神聖なものとして認められるのである。つ 罪人である人間は、イエス・キリストが「神人」で まり、殺人を犯してはならないという道徳的義務に あるという事実を受け入れることによって、イエ 対して、神に従わなければならないという「絶対的 ス・キリストと同時にあることができる。これが、 72 義務」 と言えるものである。この義務関係において 真のキリスト者となるための信仰であり、キルケゴ 人間は、個別者として絶対者に対する。この関係に ールの「同時性」79の概念である。「同時性」とは要 おける人間は、決して普遍者とはなり得ないのであ するに、「キリストとの同時性」80である。このこと る。 「アブラハムの行為は普遍的なものとはなんらの から、キリスト者は、イエス・キリストを模範とし 73 かかわりもなく、純粋に私的な行為」 である。従っ て生きなければならない。イエス・キリストに倣う て、この行為をアブラハムは他人に説明することは ということが、キリスト者が現在においてなすべき できない。また、他人もこの行為を理解することは ことである。キルケゴールにとって罪は、神と人間 できない。しかし、キルケゴールは、 「個別者として との関係の不調和を意味している。現在においてキ 生きることは何よりも恐ろしいことであるというこ リスト者がイエス・キリストを模範として生きるこ とを学んだ者は、個別者として生きることはもっと とができない時、それは、罪である。キルケゴール 74 も偉大なことであると、臆せず言うことであろう」 の時間論的に表現すれば、 「瞬間の欠如態」81である。 と述べる。このような絶対者と個別者との関係が、 つまり、現在において、イエス・キリストの受肉と 75 「信仰の逆説」 である。従って、個別者としての人 いう出来事を信じないことこそ、罪なのである。そ 間と普遍者としての人間との差異は、信仰と道徳と して、キリスト者の現在的生は、最終的に未来に向 の間の絶対の質的差異を意味している。人間が普遍 けて営まれるべきものである。なぜなら、キルケゴ 者にとどまる限り、人間と神との間には、絶対的断 ールが「未来的なるものが現在的なるものや過去的 絶が存在するのである。 なるものよりもより多くを意味しているということ である。 〔中略〕永遠的なるものはまずもって未来的 それでは、普遍者としての人間は、神と如何に関 ることができるのであろうか。このような人間と神 なるものを意味している」82と説明しているように、 との関係は、イエス・キリストを意味する「神人」 キルケゴールの時間論は、未来的なるものを中心に によって説明できるとキルケゴールは考える。ここ して考えられているからである。つまり、過去にお に、キルケゴールの考える時間論が顕現する。キリ けるイエス・キリストの受肉という歴史的事実は、 スト教を時間的な概念で明確にしようとしている点 現在において、その事実をキリスト者が信じること 76 は、キルケゴールの思想の特徴の一つである 。過去 によって、絶対的歴史的事実となる。けれども、イ において、イエス・キリストが人間の姿でこの地上 エス・キリストは、父なる神から生れた子であると に現われた時、即ち受肉ということが、キルケゴー いうことである。現在とは、 「永遠の現在」83である。 ルの「瞬間」の概念である77。「瞬間」78とは、神が つまり、未来的な現在である。従って、未来におい 人間となった瞬間であり、永遠が時間になった瞬間 て初めて、現在は完成される。子であるイエス・キ を意味している。ここで、時間的なるもの、即ち過 リストは、父なる神と一つになることで、永遠的な 去、現在、未来という区分も明確になる。イエス・ るものになることができるからである。従って、永 キリストの受肉という出来事は、過去の事実である。 遠的なるものを未来的なるものと考えたキルケゴー ここで、キリスト教の宗教的な歴史が始まる。しか ルの思想が、キリスト教的終末論と結びついている し、この事実は単なる歴史の一場面ではない。現在 ということである。イエス・キリストの「永遠の現 を生きる人間は、イエス・キリストを信仰すること 在」は、「終末〔の待望〕即現在」を意味する84。 によって、イエス・キリストと共にあることができ キルケゴールの終生の関心は、 「いかにして真のキ る。つまり、 「瞬間」は、神が人間となった瞬間であ リスト者となるか」85ということであった。そして、 り、過去の歴史的出来事が現在における絶対的歴史 「信仰において問われるのは客観的な神の本質では 的事実になった瞬間である。そして、現在を生きる なく、いかに実存が真実なる神関係に立つかという 203 後期西田哲学における神と人間との関係 ことが問題」86とされるように、キルケゴールにとっ 一方、宗教と道徳に関するキルケゴールの立場は、 ては、真実のキリスト教的な神と人間との関係は如 普遍者としての人間の間に生じるのが道徳的義務で 何なるものかということが最も重要な課題であった あり、神との関係において生じるのが絶対的義務で のである。 ある。この絶対的義務関係において人間は、個別者 として神に対する。従って、この関係における人間 神と人間との関係 これまで、西田とキルケゴールの思想を考察して きたのであるが、ここでは、特に、西田の考える神 と人間との関係における特徴をはっきりさせるため に、西田とキルケゴールの思想における共通点と差 異点を述べる。このことにより、西田の考える神と 人間との関係における特徴を明確にすることができ ると考える。それでは、西田とキルケゴールの思想 における共通点はどこにあるのであろうか。 第一の共通点は、人間が単独では存在できず、神 との関係において初めて真の人間になることができ ると考えられていることである。西田にとって人間 は、生と死という矛盾を抱えた根本悪の存在である。 人間は、死を自覚した時初めて、神と逆対応的に接 することができる。つまり、人間が自己自身を否定 するのみならず、神の側の絶対の自己否定によって 人間は、神に接することができる。これが「逆対応」 と呼ばれる概念である。人間の存在そのものは悪で あるが、神との逆対応的関係において初めて人間は、 存在できるのである。 一方、キルケゴールにとって人間は、絶望という 病にかかった罪人である。神との関係を築くことが できない絶望の状態は、罪である。しかし、神に対 する信仰よって人間は、罪から解放される。従って、 神との関係を築いていない罪人である人間は、なん らの自己でもない。神との関係においてある人間だ けが、本来の人間の姿なのであり、そのためには、 信仰あるのみである。 第二の共通点は、宗教と道徳との間には、絶対の 質的差異が存在すると考えられていることである。 そして、宗教はあくまで、個人の問題であると見な されている。宗教と道徳に関する西田の最終的立場 は、宗教が自己の存在や在処を問うものであり、極 めて個的な問題だということである。これに対して 道徳は、自己の当為の問題であるから、あくまで一 般的としての自己を問うものである。 204 は、決して普遍者とはなり得ない。 第三の共通点は、神は、悪である人間にまで下り、 罪人である人間を救うと考えられていることである。 この関係を西田は、 「逆対応」と称する。つまり、人 間の側が自らの存在そのものを根本悪であると認め、 自己否定するとともに、神の側も自己の絶対否定に よって表現的自己である人間を含むという関係であ る。神の自己否定は、神の表現的自己である人間の 肯定になるのである。従って、生来的に悪という性 質をもつ人間は、神の自己否定によって初めて存在 することができる。 一方、キルケゴールは、「神人」、即ちイエス・キ リストの姿においてこの関係を見る。イエス・キリ ストは、神であると同時に人間でもある。 「栄光のイ エス・キリストと卑賤のイエス・キリスト」87である。 イエス・キリストは、神であるにもかかわらず人間 の姿になり、キリスト者の模範となって、キリスト 者と共に生きる。罪人である人間と共に生きようと する神である。 「神人」というのは、論理的には矛盾 である。しかし、キリスト者は、イエス・キリスト を模範として生きること、そしてイエス・キリスト を信じることによって、救済される。 それでは、西田とキルケゴールの思想における差 異点はどこにあるのであろうか。 第一の差異点は、両者の考える神の概念である。 西田にとっての神は、決して対象的、超越的な存在 ではない。従って、神と人間との逆対応的関係は、 対象的、超越的に考えられる神と人間との関係では なく、自己の根源としての神と自己との関係である。 つまり、自己の根源に徹することが、西田にとって の信仰である。 一方、キルケゴールにとっての神、及び「神人」 としてのイエス・キリストは、対象的に考えられる 超越者である。父である神と子であるイエス・キリ ストと聖霊という三位一体的神は、相互内在的に一 つの神であるが、それぞれ別の位格であると見なさ 藤城 優子 る論文「知識の客観性について」では、 「私は時と永 れている。そして、三つの位格は一つの実体と考え 88 られている 。従って、キリスト者にとって神は、対 遠とが瞬間に於て相触れると云っても、未来を全体 象的に考えられる実体である。キリスト者にとって となすキェルケゴールの考に全然同意することはで の信仰は、このような対象的方向に考えられる神を きない。〔中略〕キェルケゴールの立場は、〔中略〕 信じることである。 主観的である。 〔中略〕未来への時の傾斜に於て、実 第二の差異点は、両者の考える時間概念である。 践の足場はない。そこに現実はない」91と述べて、キ そして、時間概念の違いは、両者における歴史観の ルケゴールの時間概念を批判する。つまり、西田は、 差異となって現われる。西田の時間概念は、現在を 未来を中心に考えるキルケゴールの時間論では、現 中心に考えられる。つまり、過去と未来を含んだ絶 在を生きる人間の行為の意義を十分に説明できない 対的時間が「絶対現在」である。「絶対現在」とは、 と考えたのであろう。 永遠の過去と未来、人間の始まりと終わりとの結合 このような批判は、既に述べたドストエフスキイ の立場である。そして、西田の終末論は、 「絶対現在」 に対する批判に通じるものである。つまり、キルケ の自己限定として成立する。つまり、 「絶対現在」の ゴールやドストエフスキイのようなキリスト教的終 自己限定としていわゆる時間が生じ、歴史的世界が 末論は、西田の言う「平常底」の立場と結合してい 成立する。従って、西田の終末論は、西田の考える ないから、未だ主語的なものに囚われ、真に現実的 宗教的歴史観である。つまり、歴史は、「絶対現在」 なものになっていないということである92。従って、 において始まり、終わる。歴史的世界が絶対現在の キルケゴールの立場は、西田の最終的立場である「絶 自己限定として成立するということを人間が直観す 対矛盾的自己同一」の変容形とも言える終末論的に ると同時に、歴史的世界において、物を作り、社会 平常底という考え方には至っておらず、西田のキル を作り上げ、歴史を発展させていくことが、西田の ケゴールへの共感は、結果的に自らの立場との違い 89 考える歴史である 。そして、歴史的世界における人 を際立たせて終わる。つまり、両者の間には、絶対 間と神との関係は、人間と自己の根源である神との 者の考え方に対する埋められない溝が存在している 逆対応的関係である。つまり、人間と神との関係も ということである。 西田の考える神は、自己の根源であるから、内在 絶対現在を中心にして考えられるのである。以上が、 的超越の方向にある。このような神と人間との関係 西田の終末論であり、宗教的歴史観である。 一方、キルケゴールの時間概念は、未来を中心に は、永遠の過去と未来、人間の始まりと終わりとの 考えられる。過去におけるイエス・キリストの受肉 結合の立場である「絶対現在」において成立する。 の事実が「瞬間」の概念であり、現在においてキリ このような特徴は、キルケゴールとの対比によって スト者は、この事実を信じることによって、イエス・ より明瞭になっていると言えるだろう。 キリストと同時的になることができる。これが、 「同 時性」の概念である。キルケゴールは、現在におい 1 てキリスト者がなすべきことは、イエス・キリスト を模範として生きることであると考える。しかし、 神は、未来的なるものであるとキルケゴールは考え ているから、未来において初めて、キリスト者の生 は、完成されるということである。 キルケゴールに対する西田の態度は、ほぼ共感に よって貫かれているといってよいだろう90。しかし、 唯一抱いた違和感が、キルケゴールの時間概念であ る。キルケゴールへの共感一色であった『哲学論文 集 第四』の次の著作『哲学論文集 第五』におけ 205 本論における「Kierkegaard」の日本語表記については、 廣末渉・子安宣邦・三島憲一・宮本久雄・佐々木力・ 野家啓一・末木文美士編『岩波哲学・思想事典』岩波 書店、1998 年の表記である「キルケゴール」に準じた。 ただし、西田の著作、及びその他の参考文献における 表記は、そのまま用いた。なお、人物の欧文表記、生 没年の記載は、同書に準じる。以下同じ。 2 西田とキルケゴールの関係については、以下の文献を 参考にした。大峯顕「西田幾多郎の著作に現われたキ ェルケゴール」 (大谷長・大屋憲一編『キェルケゴール と日本の仏教・哲学』東方出版、1992 年) 、小川圭治「西 後期西田哲学における神と人間との関係 田幾多郎のキルケゴール理解」( 『比較文化』15 号、東 京女子大学比較文化研究所、1969 年) 、小坂国継「西田 幾多郎とキルケゴール」( 『西田哲学と宗教』大東出版 社、1994 年) 、小坂国継「キルケゴールの実践概念との 比較」 (『西田幾多郎――その思想と現代』ミネルヴァ 書房、1995 年)。 3 小川圭治『人類の知的遺産 48 キルケゴール』講談社、 1979 年、38 ページ参照。 4 小坂『西田哲学と宗教』、238∼239 ページ参照。 5 桝形公也「日本に於けるキェルケゴール受容史」(大 谷・大屋編『キェルケゴールと日本の仏教・哲学』 )、 274∼275 ページ参照。 6 西田のキルケゴール言及に関するデータは、山根理寛 「西田哲学に映る緒思想家の像――索引とアンソロジ ー――」 (茅野良男・大橋良介編『西田哲学――新資料 と研究への手引き――』ミネルヴァ書房、1987 年)、315 ∼316 ページ参照。言及箇所は、1 ページにつき 1 箇所 と見なす。 7 西田が引用しているキルケゴールの著作名については、 以下の各巻注解を参照。新版『西田幾多郎全集』第五 巻、岩波書店、2002 年、新版『西田幾多郎全集』第七 巻、岩波書店、2003 年、新版『西田幾多郎全集』第九 巻、岩波書店、2004 年、新版『西田幾多郎全集』第十 巻、岩波書店、2004 年。なお、キルケゴールの著作の 邦題は、大屋憲一・細谷昌志編『キェルケゴールを学 ぶ人のために』世界思想社、1996 年に準じた。 8 新版第五巻、110、118 ページ、新版第九巻、101∼190 ページ参照。なお、西田の著作からの引用は、原文の 旧仮名遣いを現代仮名遣いに、送り仮名及び、旧漢字 の一部を現代の用法に訂正した。また、必要に応じて 濁点・句読点を補った。以下同じ。 9 新版第五巻、126 ページ。 10 新版第九巻、221 ページ、新版第十巻、321 ページ、 341∼342 ページ参照。 11 新版第五巻、156、181 ページ、新版第九巻、184 ペー ジ、新版第十巻、346 ページ参照。 12 新版第九巻、98 ページ。 13 小坂『西田哲学と宗教』、241 ページ参照。 14 「実践哲学序論」における西田のキルケゴールに対す る傾倒振りについては、小川「西田幾多郎のキルケゴ ール理解」、74 ページ、小坂『西田哲学と宗教』、241 ページ、小坂『西田幾多郎――その思想と現代』、134 ページ参照。 15 新版第九巻、101 ページ。 〔〕内引用者 16 同巻、112 ページ。 〔〕内引用者 17 同巻、113 ページ。 18 同巻、137 ページ。 19 小川「西田幾多郎のキルケゴール理解」 、77∼78 ペー 206 ジ参照。 20 大峯「西田幾多郎の著作に現われたキェルケゴール」 、 138 ページ。 21 新版第十巻、107 ページ。 22 同巻、312∼313 ページ。 〔〕内引用者 23 同巻、313 ページ。 24 同巻、315 ページ。 25 同巻、333 ページ。 〔〕内引用者 26 同巻、334 ページ参照。 27 「絶対」と「相対」との逆対応的関係については、小 坂『西田幾多郎――その思想と現代』 、226∼231 ページ 参照。 28 新版第十巻、345 ページ。 〔〕内引用者 29 小坂国継『西田哲学と現代――歴史・宗教・自然を読 み解く――』ミネルヴァ書房、2001 年、258 ページ。 30 小坂『西田幾多郎――その思想と現代』 、227 ページ。 31 新版第十巻、334 ページ参照。 32 同巻、322 ページ参照。 33 同巻、323 ページ参照。 34 同巻、341 ページ。 35 小坂『西田幾多郎――その思想と現代』 、150∼151 ペ ージ参照。 36 西田哲学における道徳と宗教との関係、及び初期から 後期の各時期におけるそれらの特徴の比較は、同書、 148∼157 ページ参照。 37 新版第十巻、316 ページ。 38 同巻、321 ページ参照。 39 同巻、344∼345 ページ参照。 40 同巻、343∼344 ページ参照。 41 同巻、同ページ参照。西田は仏教の特色を「主観的方 向」 、 「内的超越の方向」にあるものと表現しているが、 キリスト教の特色については、 「客観的方向」にあると は説明しているが、 「外的超越の方向」という表現はし ていない。しかし、西田にとって、仏教とキリスト教 とは反対の方向にあるものと考えられているから、キ リスト教の特色は、 「客観的方向」であると共に「外的 超越の方向」であると考えられる。 42 同巻、345∼346 ページ参照。 43 同巻、343 ページ。 44 同巻、同ページ。 45 小坂『西田幾多郎――その思想と現代』 、231∼232 ペ ージ、小坂『西田幾多郎の思想』 、298 ページ参照。 46 新版第十巻、357 ページ参照。 47 同巻、353 ページ。 48 同巻、357 ページ。 49 同巻、355 ページ。 50 ここで西田が自らの「終末論」と対比させているキリ スト教における「終末論」は、人間中心的な意味での 藤城 79 歴史の終わりを意味すると共に、神意の究極的成就、 救済史的目的の完成という目的論的終末論を意味して いると考えられる。キリスト教的終末論については、 武藤一雄「キリスト教の歴史観」 (武藤一雄・平石善司 編『キリスト教を学ぶ人のために』世界思想社、1985 年)、12∼23 ページ参照。 51 新版第十巻、354 ページ。 52 同巻、361 ページ。 53 同巻、359 ページ。 54 同巻、335 ページ。 〔〕内引用者 55 同巻、同ページ。 56 同巻、337 ページ。 57 小坂『西田幾多郎――その思想と現代』 、233 ページ参 照。 58 新版第十巻、366 ページ。 59 同巻、356∼357 ページ。 〔〕内引用者 60 同巻、328 ページ。 61 同巻、358∼359 ページ参照。 62 キルケゴールの思想については、小川『人類の知的遺 産 48 キルケゴール』、大屋・細谷編『キェルケゴール を学ぶ人のために』、東専一郎『同時性の問題』創文社、 1975 年、武藤一雄「キルケゴールの宗教哲学」( 『神学 と宗教哲学との間』創文社、1961 年)を参照。 63 キェルケゴール『死に至る病』斎藤信治訳、岩波文庫、 1939 年、第 91 刷(2004 年)、20∼25 ページ参照。 64 同書、46 ページ、大利裕子「実存」 (大屋・細谷編『キ ェルケゴールを学ぶ人のために』 )、103 ページ参照。 65 細谷昌志「憂愁・不安・絶望」(大屋・細谷編『キェ ルケゴールを学ぶ人のために』 )、135 ページ参照。 66 小川『人類の知的遺産 48 キルケゴール』、23 ページ参 照。 67 キェルケゴール『死に至る病』、28∼29 ページ参照。 68 同書、124 ページ。 69 同書、198∼199 ページ参照。 70 同書、133 ページ参照。 71 『キルケゴール著作集 5』桝田啓三郎・前田敬作訳、 白水社、1962 年、89 ページ。 72 同書、117 ページ参照。 73 桝田啓三郎「解説『おそれとおののき』 」 (『キルケゴ ール著作集 5』) 、366 ページ。 74 同書、125 ページ。 75 同書、同ページ。 76 佐藤幸治「同時性」 (大屋・細谷編『キェルケゴール を学ぶ人のために』 )、191 ページ参照。 77 細谷昌志「神」(大屋・細谷編『キェルケゴールを学 ぶ人のために』) 、218 ページ参照。 78 築山修道「瞬間」(大屋・細谷編『キェルケゴールを 学ぶ人のために』 )、158∼175 ページ参照。 優子 佐藤「同時性」、191∼206 ページ参照。 同論文、203 ページ。 81 東『同時性の問題』 、104 ページ。 82 キェルケゴール『不安の概念』斎藤信治訳、岩波文庫、 1951 年、第 45 刷(2006 年)、156 ページ。 〔〕内引用者 83 武藤「キルケゴールの宗教哲学」 、133 ページ。 84 同論文、134 ページ参照。 〔〕内引用者 85 小川『人類の知的遺産 48 キルケゴール』、2 ページ、 細谷「神」、215 ページ参照。 86 武藤「キルケゴールの宗教哲学」 、130 ページ。 87 東『同時性の問題』 、345 ページ。 88 P.ネメシェギ『父と子と聖霊』南窓社、1970 年、増 訂第一刷(1993 年)、166∼168 ページ参照。 89 新版第八巻、88∼89 ページ参照。歴史的世界において 種々なる生産様式や種々なる社会が成立するという点 については、同巻、382 ページ参照。 90 大峯顕は、「西田が一番思想上の親近感をもったとい われるヘーゲルとライプニッツの二人さえ、同時に批 判と対決を受けているのに対して、キェルケゴールに は終始、共感のみが支配している」と述べている。大 峯「西田幾多郎の著作に現われたキェルケゴール」 、138 ページ。 91 新版第九巻、378∼379 ページ。 〔〕内引用者 92 西田のキリスト教からの離反ということについては、 小川「西田幾多郎のキルケゴール理解」 、82∼85 ページ 参照。 80 (Received: May 31, 2007) (Issued in internet Edition: July 1, 2007) 207
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