目次 序章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 Ⅰ章 《テッチェン祭壇画》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5 1. 《テッチェン祭壇画》の成立事情・・・・・・・・・・・・・・・・ 5 2.フリードリヒの思考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6 3. 《テッチェン祭壇画》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7 Ⅱ章 ドレスデン王立絵画館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 1.美術館の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 2.ドレスデンにおける美術館成立の歩み・・・・・・・・・・・・・・13 3.絵画館の展示・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15 Ⅲ章 ドレスデン王立美術アカデミー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19 1.美術アカデミーの創設―ドレスデンの場合・・・・・・・・・・・・19 2.アカデミー主催の展覧会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22 3.展覧会―1814 年 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24 Ⅳ章 フリードリヒの芸術観・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28 1. 同時代に行われた個展 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28 2.創出されたアトリエ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29 3.フリードリヒの見せ方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33 4.斬新な展示の発見・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37 終章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41 註・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43 参考文献一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48 図版リスト・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54 表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・86 年表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・89 序章 君の内の、純粋で、無邪気な感覚を大切にして欲しい。君の内なる声に無条件で 従うように。その声はわれわれの内なる神的なものであり、われわれを欺くことは ない。 君の心の純粋な感動は、すべて神聖なものとして認めなければならない。如何な る敬虔な予感も神聖なものとして尊ぶように。何故なら、それがわれわれの内なる 芸術であるからだ!それは、君が霊感を受けるとき、眼に見える形態となる。そし て、この形態が君の描くべき像なのだ。1 上記の言葉は、フリードリヒの芸術観が述べられた『芸術と芸術精神について』に 書かれている。この文献は、フリードリヒのドレスデン時代の友人であった、ノルウ ェーの画家、クリスチャン・ダール(Johan Christian Dahl, 1788-1857)の遺品から 発見された。フリードリヒがこれをいつ書いたかは不明である。この言葉から、フリ ードリヒは純粋な感覚を大切にし、内なる精神に意識を向けていたことがわかる。フ リードリヒは自然を描き出すことで、内に秘めた思いを表現したのである。 本稿は、19 世紀はじめに活躍したドイツ人画家、カスパー・ダーフィット・フリー ドリヒ(Caspar David Friedrich, 1774-1840)の芸術観を、自身のアトリエで一般公 開した《テッチェン祭壇画》 (1808 年、図 1)を手がかりに考察するものである。フ リードリヒによるアトリエ展示は、ただ作品を見せるだけでなく、作品に合わせて展 示空間を創り出すという、特殊なものであった。フリードリヒの芸術観を考察するに あたり、次のような段階にしたがって論を進める。まず、 《テッチェン祭壇画》が持つ 特異性について明らかにする。そして、当時行われていた典型的な展示と展覧会の確 認を通して、なぜアトリエ展示がなされたのを考える。一連の考察を通して、本作品 の展示をはじめとして、 《峡谷の風景、朝》 (1830-35 年、図 2) 《峡谷の風景、夕暮れ》 (1830-35 年、図 3)や、 《世俗的音楽のアレゴリー》 (1830 年、図 4) 、 《宗教的音楽 のアレゴリー》 (1830 年、図 5) 、 《天空的音楽のアレゴリー》 (1830 年、図 6)とも う 1 作からなる「音楽のアレゴリー」での展示がフリードリヒの芸術観の現われであ るということを明らかにする。 1 フリードリヒは、北ドイツに位置する港町グライフスヴァルト2 に生まれた。厳格 なルター派のプロテスタントの子として育てられ、ここでの教えがその後フリードリ ヒの芸術思想に大きく影響することとなる。画業のスタートは早くはなく、グライフ スヴァルト大学の素描の教授で、 建築家のクヴィストルプ (Johann Gottfied Quistorp, 1755-1835)から最初の美術教育を受けた後、20 歳からコペンハーゲンのアカデミー で絵画の基本を学ぶ。アカデミーでの勉強を終え 1798 年、ドレスデンに移り住んだ フリードリヒは、この地で画業を成功させる。ドレスデンでは、ドレスデンアカデミ ー展覧会への出品も積極的に行い、1816 年からはアカデミー会員として活躍する。そ して 1824 年 1 月にはアカデミーの員外教授に任命される。しかし、フリードリヒと 彼の作品は、死後約半世紀もの間、人々の頭から忘れ去られることとなる。1906 年に ベルリン、ナショナル・ギャラリーで開催された「ドイツ 100 年展」で再発見された 後、現在はドイツ・ロマン主義美術を代表する画家とされるようになった。 フリードリヒの神秘的な風景は、一般的に研究者の間では政治的な意味合いを含む 作品として解釈されていた。このように解釈される背景には、同時代人のことばが関 係しているといえる。フリードリヒと親しかったノルウェーの画家、クリスチャン・ ダール(Johan Christian Dahl, 1788-1857)は次のように語る。 C.D.フリードリヒはいかなる意味においても幸福な寵児ではなかった。きわめ て重要な人物の生前が時折そうでありように、彼もまた大部分の人々から誤解さ れ、ごく少数の人々にしか理解されなかったのである。彼と同時代の人々は彼の 作品に、少しも自然の真実をかえりみないで作りあげられた理念を見ていた。そ れゆえ、多くの人々が彼の絵を買い求めたのはただ好奇心からであり、あるいは、 とりわけ解放戦争(ナポレオンに対する、1813-15 年)の間にそうであったが、 彼の絵の中に、特殊な、国家の行末を予言するような解釈、つまりは外国のくび きに押しつけられ、人々の運命の錯綜しているドイツを解放してくれる、 全能の、 眼には見えない救済の手に対するほのめかしを探し求め、見いだしたからであっ た。 芸術家と美術通はフリードリヒの中に一種の神秘家しか見なかった。というの も、彼ら自身が神秘的なものしか求めていなかったからである。……彼らは、フ リードリヒが描き表したものすべての中にある、正確で誠実な自然研究を見なか 2 った。3 ダールによると、美術通はフリードリヒの絵に対して純粋な感動を持ち作品を求め たのではなく、フリードリヒを一種の神秘家として見なし、その作品を求めたのであ る。特に、解放戦争期はその傾向が大きかったようだ。そこから、今日にいたるまで、 フリードリヒの作品が政治的意味を含むと解釈され続けたのではないだろうか。 フリードリヒ研究は、描かれているモチーフ(教会、十字架、樅の木、フクロウな ど)を、そのモチーフが表す寓意的な内容や時代背景と関連付けて、フリードリヒの 政治性や祖国愛、そして宗教的思想を論じるものが多い。ベルシュ・ズーパンやフル ベルト・フォン・アイネムをはじめとするフリードリヒの研究者は、主として一義的 な象徴やアレゴリーの解読法をもとにして作品分析を行っている。本稿でキーワード としている「展示」を取り上げ、展示場所にアトリエを使用したという面や、展示環 境を創出したことに焦点をあてた研究はまだ行われていないといってよい。 フリードリヒが活躍した時代、ベルリンと並んでドイツにおける最も重要な芸術都 市であったドレスデンは、ドイツ東部のザクセン地方の都市で、エルベ川沿いの盆地 に位置する。ザクセン選帝侯の時代に最も栄えた町で、エルベ川の水路を利用して交 易都市として発展し、ヨーロッパにおける芸術と文化の中心地の一つであった。18 世 紀のザクセン・バロックの時代にはツヴィンガー宮殿をはじめ美しい建物が次々に建 てられた。18 世紀後半から 19 世紀前半の様子を、フランスの作家、スタール夫人 (Madame de Staël, 1766-1817)の『ドイツ論』から窺うことができる。スタール夫 人は「すばらしい画家たちが移り住んでいる」 、 「絵画館の傑作は画家たちにインスピ レーションを与え、彼らの才能を呼び覚まし、競争心を駆り立てている。 」4また、一 時期ドレスデンでフリードリヒと絵画制作をともにした、画家のルンゲ(Philipp Otto Runge, 1777-1867)は兄のダニエルに宛てて次のように綴っている。 「グライフスヴ ァルト出身の風景画家フリードリヒも、若いフォン・クリンコヴシュトレーム(von Klinkowström, 1778-1835 ドイツの著述家、画家)とともにここにやって来ている。 要するに芸術家たちがポムメルンからまさに移住して来たのだ。今やわれわれは 5 人 になった。 」5スタール夫人とルンゲの言葉から、ドレスデンはロマン主義芸術家の活 動の中心地であったことがわかる。第二次世界大戦時の「ドレスデン爆撃」で中心地 の大半が破壊されたが、再建により現在も当時の姿のような町並みを見ることができ 3 る。ツヴィンガー宮殿をはじめとする、ドレスデンにある美術館が所蔵していた美術 品は、戦時中疎開していたので現在も見ることができる。 フリードリヒが行ったアトリエ展示や、総合演出的な展示に関する資料は乏しいが、 フリードリヒの芸術論『芸術と芸術精神について』 『現存の芸術家と最近逝去した芸術 家の作品を主とするコレクションを見ての意見』6、同時代人が残した発言や作品につ いての批評、そして、同時代に開催されたスタンダードな展覧会での展示を考察する ことで、フリードリヒの芸術観を論じていく。 4 第Ⅰ章 《テッチェン祭壇画》 本論文で取り上げる《山上の十字架(テッチェン祭壇画) 》 (1808 年、図 1) (以下、 《テッチェン祭壇画》と呼ぶ)は、現在ドレスデンのノイエマイスター絵画館に展示 されている。この作品は、制作に至った背景、作品自体、そして公開方法などいろい ろな興味深い点を持っている。作品自体の解釈については、同時代人の間でも論争が 繰り広げられた。その論争こそが、フリードリヒの名を当時の美術界に広めた「ラム ドーア論争」である。そして、本論で最も着目する点が、 《テッチェン祭壇画》の展示 である。当時、作品を公に発表する時に一番用いられた場が、アカデミー主催の展覧 会であった。しかし、本作はフリードリヒの自宅兼アトリエで公開されたのである。 1. 《テッチェン祭壇画》の成立事情 《テッチェン祭壇画》は、フリードリヒがドレスデンに住むようになってちょうど 10 年を迎えた年に制作された。依頼主はテッチェンに城を構えるボヘミアの一貴族ト ゥーン・ウント・ホーエンシュタイン伯爵夫人といわれており、家庭用祭壇として仕 上げられた。1921 年にトゥーン伯爵家からノイエマイスターに移され現在に至る。ト ゥーン伯爵家の寝室に飾られていた時の写真(図 7)からわかるように、 《テッチェン 祭壇画》は祭壇画として用いられたのではなく、部屋を飾る一作品にすぎなかった。 フリードリヒがこの事実を知っていたかは定かではない。 《テッチェン祭壇画》が制作された背景には様々な説があり、未だにその真相は明 らかにはなっていない。現在挙げられている説は以下の 2 つである。説 1、1808 年の 夏トゥーン伯爵夫妻がドレスデンのフリードリヒのアトリエを訪れた折、祭壇画の制 作を依頼した。説 2、スウェーデン王に献呈するために制作した。この説は、近年公 表された夫人の書簡をもとに、新たに出た説である7。夫人の書簡には、 「あの美しい 十字架をフリードリヒが「彼の王」 (ママ)に献呈したので手に入れられない」8と嘆 く様子が記されており、この「十字架」が《テッチェン祭壇画》と結び付けられ、 《テ ッチェン祭壇画》は王に献上するために制作されたという解釈が生まれたのである。 しかし、松下ゆう子は「C.D.フリードリヒ〈山の十字架〉 (テッチェン祭壇画)の成立 事情」のなかで、王のために描いた作品を、献呈が叶わなかったからといって他人に 5 売るとは考え難い、と指摘しており、筆者もその考えに賛同する。さらに、松下ゆう 子は《テッチェン祭壇画》に代わる「あの美しい十字架」に該当する作品を挙げてい る。 《山の朝霧》 (1808 年、図 8)あるいはそのヴァージョンである9。図版では確認 しにくいが、確かに山頂には小さな十字架が描かれている。この作品が、王への献呈 作品とするならば、 《テッチェン祭壇画》はトゥーン伯爵夫妻のために制作したと説明 できるのではないだろうか。 2.フリードリヒの思考 《テッチェン祭壇画》が持つ特異性を明らかにする前に、フリードリヒの芸術への 考え方、つまり、彼の「芸術観」を明確にしておく必要がある。本節では、フリード リヒの芸術観を、本稿の冒頭で引用した『芸術と芸術精神について』 『現存の芸術家と 最近逝去した芸術家の作品を主とするコレクションを見ての意見』をもとに考察する。 フリードリヒは、日頃から人間の内なる芸術と芸術精神とはどのようなものかにつ いて考えていた。 『芸術と芸術精神について』で自身の見解を述べている。 君は人間よりも神に従うべきである。何人の心の内にも生と不正の掟があり、良 心がこれは行い、あれはすべきではないと教える。聖なる十戒は真であり、善であ るものについて、われわれのもっている認識のすべてをそのまま、純粋に言葉にし たものだ。誰もがそれを内心の声と認めるのであり、誰もそれにそむくことができ ない。だから、もし君が芸術に専念したいと思い、芸術に君の命を捧げるように、 天命を感じるとすれば、ああ、君はまさにあの君の内心の声に注意すべきなのだ。 なぜなら、それこそがわれわれの内なる芸術であるからだ。10 上記の文章は始まりの部分で、続いて序章の冒頭に引用した文章へとつながる。文 中では何度も、神聖な内なる声に耳を傾けるように警告し、彼の芸術信念が「内なる 心」にあったことをうかがうことができる。つまり、内心の声=神の声に従うことを 根底に制作したといえる。フリードリヒの作品は、十字架や教会をモチーフに用いた 風景画が多い。 《山岳の風景と十字架》 (1805-10 年、図 9) 、 《教会のある冬の風景画》 (1811 年、図 10) 、 《リーゼンゲビルゲの朝》 (1810-11 年、図 11) 、 《キリスト教会の 幻影》 (1812 年頃、図 12) 、 《山岳の十字架》 (1811-12 年、図 13) 、 《カテドラル》 (1818 6 年頃、図 14) 、 《山岳の虹の前の十字架》 (1817 年頃、図 15) 、 《山中の十字架》 、 (1823 年、図 16) 、 《森の中の十字架》 (1835 年、図 17)が挙げられる。これらの作品に描 かれたモチーフは、フリードリヒが大切にする「内なる心」を表現するためには必要 不可欠な要素であった。風景の中の十字架は、山の上や海岸など危険の多い場所で、 実際に現在でも見出すことができ、特にカトリック圏では道端などで出会うことがあ る11。しかし、フリードリヒの風景画に出てくる宗教的なモチーフは、地誌的な意味 で描かれただけでなく、画家の心中を表しているといえるだろう。 さらに、 『現存の芸術家と最近逝去した芸術家の作品を主とするコレクションを見て の意見』でも、フリードリヒの内面的思考をうかがうことができる。 芸術の、唯一真なる源泉はわれわれの心であり、子供のように純粋な心情の言 葉である。この泉から湧き出た形象でない限り、せいぜい技巧をこらしたものに すぎない。真正な芸術作品は、清められた、聖なる瞬間に胚胎し、幸福な瞬間に 産み落とされる。しばしば芸術家には意識されないまま、心の内的衝動から。12 画家たちは、彼らのいわゆる創意工夫と構成の工夫に励んでいるという。だが、 それは言葉を代えて言えば、細切れのつぎはぎ細工の練習をしているようなもの ではないか? 絵は創意工夫するものではなく、感じ取るものであるはずだ。13 これらの言葉から、フリードリヒの思考の根底には内心の声=神の声が存在し、内 面性を大切にしていたことがわかる。フリードリヒは、彼の内面に潜む純粋な感動を 表現するよう努めていたことがうかがえる。 3. 《テッチェン祭壇画》 《テッチェン祭壇画》は、本体をなす風景画と額縁によって構成されている。祭壇 画の本体部分である風景画は、ピラミッド形に構成されている。ごつごつとした岩山 の頂きには十字架が立ち、イエス像はこちらにやや背を向けて立っている。描かれて いるイエス像は、生身の人間ではなく明らかに人工的な像で、足元には蔦が巻よって いるのが見て取れる。十字架の周囲には明確に描かれた樅の樹木が立ち並んでおり、 その背景には赤く暗い空が広がっている。厚い雲に覆われているようにも見て取れる。 7 絵画本体には太陽は描かれていないが、岩山の向こう側に太陽があると思われ、その 太陽からは放射状に射す五つの光がキリスト像を照らしている。 画家自身のデザインからなる金色の額は、伝統的なキリスト教のモチーフが含まれ ている。風景画の下部には、三角形がありその中に神の物と思われる目がある。三角 形からは放射状に線が放たれている。向かって左側には小麦の穂、右側には葡萄の蔓 が浮彫されている。絵画本体の両側は柱によって形成されており、柱の上部からは棕 櫚の枝が尖頭アーチ状に伸び、そこに天使の上半身が五体、画中の十字架に向かって 並べられている。中央の天使の頭上には星が一つ付いている。額縁はフリードリヒの 依頼を受けた友人の彫刻家キューン(Gottlob Christian Kühn, 1780-1828)によって制 作された。 先に述べたとおり制作された経緯に様々な説はあるが、トゥーン伯爵の手元にわた ったこの作品は祭壇画として宗教的な意味を持っていたのは明らかである。フリード リヒ自身も、この作品に込めたキリストへの信仰を次のように解説している。 木柱に打ち付けられたイエス・キリストは、ここでは沈みゆく太陽のほうを向 いている。万物に生命を与える永遠の父として。イエスの教えと共にひとつの古 い世界がそして、父なる神が直接この地を歩んでいた時代が死滅した。この太陽 は沈んでしまい、大地は輝く光をもはや捉えることができなかった。夕焼けの黄 金色のなかで、最も純粋で高貴な金属で作られた、十字架上の救世主が光り輝き、 そうして穏やかな輝きを地上に照り返している。ある岩の上に、イエス・キリス トに対するわれらが信仰のごとく、十字架が揺ぎなくしっかりと直立している。 四季を通じて緑の葉を見せる樅の木の樹々が十字架のまわりに立っている。それ はまるでかれに、つまり磔刑に処せられた者にかけている人間たちの希望のよう だ。14 宗教的な意味を持つ祭壇画として制作されたにもかかわらず、 《テッチェン祭壇画》 には伝統的な磔刑図が描かれなかった。ふつう祭壇画に描かれる伝統的な歴史画の磔 刑の場面には、聖母、ヨハネ、二人の罪人が描かれる。しかし、本作品は金属製のキ リスト像と十字架のみである。しかも、その十字架像はこちらに背を向け、斜め後ろ の角度から描かれており、まるで、ふと山を見上げた時に目にした山の頂に立つ十字 8 架であるかのように描かれている。また、描かれている風景もゴルゴダの丘ではなく、 岩肌の見えた山である。十字架を囲むモミの木は北方の森林地帯に植生することから、 ここが北方の森林地帯であることがわかる。いずれにせよ、風景画で祭壇画を表現す る構想は、当時としては考え難いものであり、 《テッチェン祭壇画》に対する賛否両論 があったことは明らかである。 この作品に対する批判文「ドレスデンのフリードリヒ氏の祭壇画として制作された 風景画について、そして風景画、アレゴリー、神秘主義一般について」を 1809 年の 1 月に 4 回にわたって『上流階級紙』に掲載したのがフリードリヒ・フォン・ラムドー ア(Friedrich Wilhelm Basilius von Ramdohr 1757-1822)15であった。いわゆる「ラム ドーア論争(Ramdohrstreit)」と呼ばれるもので、ラムドーアの論点は三つあった。一 つは風景画としての造形上のアカデミックな規則からの逸脱である。第二に感情的感 動の効果はあるが、芸術的感動としては不適合である。第三に風景画が宗教画にとっ て代わって祭壇画に成り上がることはけしからん。以上の論点にそってラムドーアは 批評を書いた16。 《テッチェン祭壇画》の意図するところを全く理解していないラムドーアに、フリ ードリヒは憤りを感じたのだろう。一次資料の乏しさで知られるフリードリヒである が、本作品については珍しくフリードリヒ自身が自らの絵について述べた発言が残っ ている。この発言は、ラムドーアの意見に対してフリードリヒが第三者を装って、ヴ ァイマールのファッション雑誌に寄せた発言である17。発言の内容は、 「絵の描写」 「額 の描写」 「絵の解釈」の三部から成っている18。 絵の描写。岩の頂上に十字架が高く立てられている。常緑の樅の木に取り巻か れ、常緑のキヅタが十字架の柱に巻きついている。輝きを放ちながら太陽が沈み、 紫色にきらめく夕日の輝きのなかに十字架にかけられた救世主の姿が光っている。 絵の解釈については、すでに紹介したが再度引用する。 絵の解釈。木柱に打ち付けられたイエス・キリストは、ここでは沈みゆく太陽 のほうを向いている。万物に生命を与える永遠の父として。イエスの教えと共に ひとつの古い世界が、そして、父なる神が直接この地を歩んでいた時代が死滅し 9 た。この太陽は沈んでしまい、大地は輝く光をもはや捉えることができなかった。 夕焼けの黄金色のなかで、最も純粋で高貴な金属で作られた、十字架上の救世主 が光り輝き、そうして穏やかな輝きを地上に照り返している。ある岩の上に、イ エス・キリストに対するわれらが信仰のごとく、十字架が揺ぎなくしっかりと直 立している。四季を通じて緑の葉を見せる樅の木の樹々が十字架のまわりに立っ ている。それはまるでかれに、つまり磔刑に処せられた者にかけている人間たち の希望のようだ。 額の描写。額はフリードリヒ氏の指示に従って彫刻家のキューンによって作製 されたものである。額の横の部分にはゴシックの柱が二本立っている。シュロの 枝がそれらの柱から生えてでて上に伸び、絵の上方で丸天井を成している。シュ ロの枝のなかには五体の天使の後頭部があり、かれら天使たちは祈りを捧げなが ら下方の十字架を眺めている。中央の天使の頭上には、最も純粋な銀色に輝く夕 べの星(宵の明星)がある。額の下部にある縦長のパネル部分には、すべてをみそな わす神の眼が描かれ、それは周りに光線を放つ聖なる三角によって囲まれている。 穀物の穂と葡萄の蔓が両側から、すべてをみそなわす眼に向かって傾き、十字架 にかけられた人の体と血を暗示している。19 この発言の他、フリードリヒを擁護する者が多数ラムドーアに反論を寄せた。 《テッチェン祭壇画》は、フリードリヒの代表作であるにも関わらず、その制作背 景がはっきりせず、同時代の人の間では論争が起こり、そして、作品自体も神秘的な 雰囲気が漂う、特異な作品である。しかし、特に興味を惹く点は作品の発表方法、つ まり「アトリエ展示」にある。フリードリヒが活躍した 19 世紀は、現在のように画 家が完成した作品を自らの展示構成で発表することは珍しかった20。フリードリヒの 作品は、完成直後から大きさや内容を問わず、二度三度とアカデミー展覧会に出され るのが常であった。 《山上の十字架(テッチェン祭壇画) 》は、フリードリヒが自身の アトリエを公開してドレスデンの観衆に発表した大変珍しい作品である。これは個展 の最も早い例としても知られ、当時も注目を集めた21。フリードリヒの書簡やフリー ドリヒの総合作品目録で確認したが、フリードリヒが実際に行った個展は《テッチェ ン祭壇画》以外に認められない。 10 フリードリヒが行った「アトリエ展示」が特異であること、そしてアトリエで展示 する必要性を論じる前に、まずは当時ドレスデンで行われていたスタンダードな展示 の機会について触れておく必要がある。次章では、現在もなおドレスデンを代表する 美術館として知られる、ドレスデン王立絵画館について論じる。 11 第Ⅱ章 ドレスデン王立絵画館 1.美術館のはじまり ドレスデンにおける一般的な展示を論じる前に、ヨーロッパにおいて美術館がどの ような流れで創立したかを略記する。 一般的に、近代的公共博物館、美術館の出現は 18 世紀頃からといわれている。そ れ以前に美術コレクションが収められる施設が全く無かったわけではなく、中世ヨー ロッパではすでに、コレクションを収集・保存する施設が存在した。より良い美術品 の所有は権力と結びつけて考えられていたため、権力者はこぞって美術品の収集に励 んだのである。そこで、 「自身のコレクション=権力」を皆に見せるために、美術館や 絵画館などが造られるようになった。しかし、集められた美術品は、王族や貴族、そ して一部のコレクターの間で楽しまれるもので、市民が楽しむ機会は与えられなかっ た。そこで、一般市民に向けて開放された施設を造ろうという動きが起こるのである。 18 世紀にはいると、文化遺産の積極的活用を図ろうとする動きがでてきて、整理され ることのなかったコレクションを展示して活用する、博物館や美術館のような公共の 空間が求められるようになった。 近代的な意味での美術館のはじまりといえるのが、ルーヴル美術館22である。美術 館設立が決まると、委員会が設置され開館に向けてあらゆることが話し合われた。し かし、美術館設立の任務は簡単には進まなかったのである。設立委員会のメンバー間 の思想の利害による対立が起こり、資金面や展示方法をめぐっても争いが絶えなかっ た。1793 年 8 月 10 日、困難の末なんとか開館を迎えたのである。この日は、フラン ス革命による王制打倒のちょうど一周年であった。王や貴族から略奪した美術品は、 フランス市民に属するものであり、市民だれもが入れる美術館に収めるべきであると いう考えのもと、誕生したのである。 開館したルーヴル美術館では、どのようなサイクルで展示が公開されていたのだろ うか。フランス革命暦では、1 週間ではなく、10 日間のサイクルが用いられていた。 ルーヴル美術館では、10 日間のうち、5 日間は模写をする画家や画学生のため、3 日 間は一般に公開、2 日間は清掃日に充てられていた。入場料は無料で、絵にはラベル が付けられていた。カタログも刊行され、価格も安価であった。古美術部門では、展 12 示に関するガイドも行われ、1799 年頃からは、絵画作品を流派別に配置し展示してい た23。入場料が無料であること、そしてなによりも、模写を目的とする者への公開期 間の方が長いことから、絵を学ぶ者への配慮があったと考えられる。 ナポレオンが権力を握るとともに、ルーヴルはナポレオン美術館と改称され、展示 の方法も多少変化する。館長に任命されたヴィヴァン・ドゥノン(1747-1825)は、 時代と流派、さらに作者別に配置したのである。それまでは、展示における絵画の配 置は色の調和や画面の大きさによって並べられていた。しかし、ドゥノンの配置がし だいに各地に広がり定着する。当時の展示は、壁面いっぱいに絵画を掛ける方法24が 主流であったが、ドゥノンもそれを受け継いだ(図 18) 。ドゥノンが手がけた、ナポ レオン美術館は、休日の入館者が 5000 人にもなることから、反響が大きかったこと が想像でき得る25。 アンシャンレジーム期のルーヴル美術館は、美術館であると同時に優秀な画家の住 居兼アトリエも構えていた。つまり、将来の優秀な人材を育てる学校であり、万人の 美術館でもあったのだ。ルーヴル美術館の評判はヨーロッパ中に広がり、外国人も見 学に訪れるようになる。ドイツでは、1830 年にベルリン美術館(現アルテス・ムゼウ ム)が開館するが、創設にはルーヴル美術館が参考にされた。 すでに論じた通り、1793 年に開館したルーヴル美術館は、近代的な意味での美術館 の始まりとされている。しかし、ドレスデンにはルーヴル美術館よりほぼ半世紀も早 く造られた絵画館が存在する。1747 年に一般に公開する形で開館した、ドレスデン王 立絵画館は、規模や構想の大きさにおいても先駆的な試みであったといえる。次項で は、ドレスデンにおける美術館の歴史を、ドレスデン王立絵画館を中心に論じる。 2.ドレスデンにおける美術館成立の歩み 前述のとおり、18 世紀にはいるとヨーロッパのあちこちで美術品を展示公開する場 を設けようという動きが見られるようになる。ドレスデンもその一つであった。今日 ドレスデンの国立美術館の中心をなす、15 世紀から 18 世紀に至る画家の作品を集め たアルテ・マイスター絵画館の発端は、1560 年にまで遡る。選帝侯アウグスト(在位 1553-1586 年)がドレスデン城内に設置したクンストカンマー(美術蒐集室)が始ま りである。他の国の場合と同じく、ザクセンでも骨董品、珍しい自然物、科学的な器 具品、書物、地図その他の珍品が集められた。16 世紀にはすでに、クンストカンマー 13 にはザクセンの宮廷で活躍した 2 人の画家、ルーカス・クラーナハとハンス・クレル、 そしてヤコボ・デ・バルバリの 3 点の作品が収められていた。1687 年にはヴィッテン ベルクの城内礼拝堂から、デューラーの祭壇画《ドレスデン祭壇画》 (1496 年、図 19) が新たに追加された。組織的な蒐集活動はまだ始まってはいなかったが、1658 年の美 術室の台帳には 118 点の絵画が記載されていた26。蒐集主の権力を誇示するクンスト カンマーは、建物の中で最も高い場所、すなわちドレスデン城の最上階の 7 部屋に収 められた。 絵画蒐集が集中的に行われるのは、選帝侯フリードリヒ・アウグスト 1 世(在位 1698-1733) の時代で、 アウグスト1 世が所有する絵画作品の総目録を作成させた1722 年が、ドレスデン絵画館創設の年とされている27。絵画館の創設には、宮廷建築家で 後に絵画館の初代館長にもなったレイモン・ル・プラの「君侯たるものは絵画館の一 つ位当然持つべし」という一声が関係している。そして、18 世紀初頭のドレスデンで は、絵画館だけでなく、その他の特殊な美術館、銅版画蒐集室(1720 年) 、グリュー ネス・ゲヴェルベ(1721-24 年) 、陶磁器コレクション用のオランダ宮(1723 年) 、古 代美術館(1728 年)などが誕生する。いずれの美術館も、収められた作品はかつての 君侯のコレクションにあったもので、美術館が増えるにともない、かつてのクンスト カンマーは衰退し、1831 年に閉館された。 アウグスト 1 世が死去した頃には、すでに絵画館は優れた作品を多数所蔵していた。 しかし、それがヨーロッパ中に知られるようになるのは、フリードリヒ・アウグスト 2 世(在位 1733-1763)の時代だった。アウグスト 2 世は、絵画購入をより効率的に 行うために、ヨーロッパの主な美術市場である、イタリア、フランス、オランダ、フ ランドルなどに代理人を派遣し、その購入規模はしだいに大きくなる。蒐集作品の増 加により収容、展示する空間が無くなり、そのような状況を打破する解決策が、ドレ スデン城に隣接するツヴィンガー宮殿を総合美術館としその一角を絵画館にするとい う案だった。アウグスト 2 世の死によって、この計画は実現しなかったが、息子アウ グスト 3 世によって再始動される。アウグスト 3 世はツヴィンガー宮殿内に絵画館を 開設するのではなく、独立した他の建物に開設する準備をしたのである。絵画館とし て利用されたのは、選帝侯が厩舎として使っていた建物(図 20)で、絵画館創設のた めに 1745 年より建築家ヨハン・クリストフ・クネッフェルが改修工事を始めた28。外 観の左右のアーチ門も入口や、英国式階段と呼ばれる屋外階段はそのまま残し、2 階 14 部分を壊して 1 階に 9 メートルの高さを持たせるように拡張されている29。改修工事 が完了すると、美術品が搬入され、1747 年一般公開の形で絵画館が開館する。 先に述べたように当時のヨーロッパでは、絵画コレクションは鑑賞できる人が限ら れていた。コレクションが飾られる場所はたいてい君主の居住空間で、従ってそこに 入ることが許される者はごく一部に限られていたからである。それに対し、1747 年に 開館したドレスデン王立絵画館(図 21)は、独立した建物から成り立っていて、絵画 館の正面入口がドレスデン城に面していない。これらの点で従来の絵画館のモデルと はかけ離れていた。絵画館の正面入口の前には、ノイマルクトという大きな広場があ り、当時の市民にとって生活の拠点となっていた。つまり、絵画館の入口は一般市民 に向けて開かれていたのである。すなわち、絵画コレクションを一般市民に公開する 目的で計画が進められていたことを示している。従来の蒐集室は上方階に位置してい たが、改修工事後の絵画館には 2 階が無いことから、地上に近い階にコレクションを 展示するという明確な意図のうえで工事が行われていたことがわかる。 ベロット制作の《ユーデンホフから見たドレスデンのノイマルクトの眺め》 (1748 年、図 21)には、アウグスト 3 世が馬車に乗って絵画館に到着した場面が描かれてい る。絵画館前の広場(ノイマルクト)には、一般市民の日常生活の一場面が描かれ、 市民が見守る中絵画館を訪問する君主の姿が表出されている。この作品は、宮廷画家 ベルナルド・ベロットによって 1748 年に制作されたもので、ザクセン領の様々な場 所を描いた景観図連作の一作である。アウグスト 3 世は、自身の権威を国外にアピー ルするために、この連作を利用していたようである30。 一般公開という形で開館されたものの、誰もが入館できる施設というには不十分で あった。たしかに、18 世紀も後半に入ると、外国人や部外者でも心付けをはずめば観 覧の機会が与えられた。19 世紀になると、文字通り誰でも入場することができたが、 そう簡単には実現しなかった。なぜなら、上品な服装の人々だけが入場を許可されて いたからである31。実際は当初の構想通りに完全な一般公開は果たされていなかった にしても、優れた作品群を市民に公開し、独立した絵画館を設立した、という事実は 近代的な美術館創立への動きの一環として、注目すべき内容だろう。 3.絵画館の展示 ドレスデン王立絵画館は、開館からしばらく定まった開館時間が決まっていなかっ 15 た。入館希望者は絵画館の入口で記帳すると館内に入ることができるという、非常に 柔軟性のあるシステムで運用されていた。いつから開館時間が設定されたかは定かで はないが、1784 年の時点では、夏季は毎日朝 9 時半から 12 時、昼休みをはさんで 14 時から 17 時までという開館時間が適用され、冬季は長期休館していた32。一般の鑑賞 と模写のための鑑賞時間は同じであったと考えられるが、開館時期は若干のずれが生 じていたかもしれない33。 絵画館内部の構造は『ドレスデン王立ギャラリーのいとも名高き絵画に基づいた版 画選集』の館内見取り図(図 22)で知ることができる。この見取り図から、絵画館は 外ギャラリー(A)と内ギャラリー(B) 、左下の部屋(C) 、そして右下の部屋(D) の 4 部屋で構成されていたことがわかる。 内ギャラリーには、 イタリア絵画を中心に、 当時重要視されていた作品が収められた。外ギャラリーは、イタリア以外の絵画が展 示されていた。また、 (C)はアウグスト 3 世が愛好した 18 世紀ヴェネツィアの女流 肖像画家ロザルバ・カリエラのコレクションなどを展示するパステル画の部屋であっ た。 (D)は絵画の修復などを行うための作業スペースとされていた。絵画館の建築上 の構造は、開館時から 19 世紀に至るまで変更は加えられていない。 この絵画館は君主の美術収集品から作品を受け継いでいるので、過去の巨匠の作品 が展示されていたことは周知の事実である。しかし、同じ作品をずっと展示していた わけではない。ザクセンの絵画購入は 1756 年の七年戦争勃発まで継続されていたの で、1747 年に絵画館が開館した以降も重要な作品が購入されるたびに変更が行われて いた。戦争前の内ギャラリーでは 2 度の展示替えを行っている。1746 年にモデナから 作品群が到着すると、それまでに集められた作品を含め、宮廷画家クリスティアン・ ヴィルヘルム・エルンスト・ディートリヒらによって損傷した絵画の修復が行われ、 彫刻家マテウス・クルーガーらによってザクセン=ポーランド連合の紋章とアウグス ト 3 世のモノグラムが付けられた額縁に統一された。同時に、展示場所に従って作品 番号も改められた。当時、絵画館の監査官を務めたピエトロ・グアリエンティは、作 品目録の作成と同時に展示場所の指示も行っていた34。この目録によると、内ギャラ リーは壁面ごとに(F1) 、 (F2) 、 (F3)とわけられ、特に(F1)に鑑賞の目玉となる 最も重要な作品が展示されていた。ヴェネツィア派とボローニャ派の作品数が圧倒的 に多いことから、グアリエンティがこれらの流派を評価していたことがわかる。陳列 の方法は、メイン作品となるコレッジョの《聖母と聖ゲオルギウス》 (1530-32 年、図 16 23)を中心に据え、左右対称に大小様々な作品が配置された。ギャラリー内を描いた 《ドレスデン王立絵画館》 (1830 年、図 24)より、展示風景が想像できる。 この時代は、壁一面に作品を並べる展示が主流であった。図 25 は 1767 年にルーヴ ル宮のサロン・カレで開催されたサロンの様子を描いた作品である。大画面の作品の 周りに生じた隙間を埋めるかのように小型の作品がかけられているのが見てとれる。 続く 1785 年のサロン(図 26)でも、壁一面に隙間なく作品が並べられている。これ らの作品から、当時は様々な形の作品を壁一面に並べる展示が行われていたといえる。 しかし、当時の記録35からドレスデン王立絵画館では、 「比較」という概念を用いた新 しい展示の構成を試みたことがわかる。1750 年の展示では、コレッジョの《羊飼いの 礼拝》 (1522-30 年、図 27)とヨース・ファン・クレーフェの《東方三博士の礼拝》 (1525 年頃、図 28)が対照的に配置されていたのである36。このクレーフェの作品は、当時 デューラーによるものとみなされていたため、 「礼拝」という共通した主題を通して、 イタリア絵画とドイツ絵画という 2 つの流派のちがいを鑑賞できるようにという配慮 があったと考えられる。このような展示方法を採用した理由に、18 世紀初頭にパリの 王立絵画彫刻アカデミーの顧問を務めていたロジェ・ド・ピールの影響が挙げられる37。 しかし、この展示方法は例外的なもので、1754 年には完全に撤廃された。なお、ド・ ピールが行った「比較」展示は、18 世紀後半から、パリを中心とする絵画館で順々に 取り入れられていく。つまり、この展示方法を撤廃しイタリア絵画中心の展示構成を 取り入れたドレスデンは、時代に逆行していたのである。 1754 年の展示替え38は、イタリアのピアチェンツァにあるサン・シスト教会から購 入した、ラファエロの《システィナの聖母》 (1512/13 年、図 29)を新たに展示する ためであったと考えられる。この作品は、最も目を引く(F1)に展示され、横に並べ られる形で今度はコレッジョの《羊飼いの礼拝》が配置された。この展示替えは、目 玉作品がコレッジョの《聖母と聖ゲオルギウス》から《羊飼いの礼拝》へ変わったこ とを意味する。 さらに、この展示替えを機に、重要視された作品なら流派を越えてまんべんなく内 ギャラリーに展示する手法を撤廃し、イタリア以外の地域の絵画はすべて内ギャラリ ーから排除された。デューラーやルーベンスでさえ、外ギャラリーに追いやられたの である。特に重要とされたのは、ルネサンス期から 17 世紀までの作品に限定され、 18 世紀の作品は絵画館では展示されることがなかった39。また、絵画ジャンルの差別 17 化も図られ、当時の美術ヒエラルキーに従って歴史画や神話画、宗教画といった物語 画の作品が内ギャラリーに、そして外ギャラリーには風景画や静物画などのジャンル が陳列された。 絵画館の展示は鑑賞者にどう映ったのだろうか。フリードリヒ・シュレーゲルは絵 画館に行った時のことを、 「それらの絵画には、同じ関連があること以外わからない。 1 つの絵画が他の作品を説明し、多数の作品が互いに関係しあっている。 」40と思い出 している。ただ、同じテーマの作品を並べるだけの展示からは、それぞれの絵が持つ 関連性以外、鑑賞者が見いだせるものはない。シュレーゲルの言葉は、かつて行われ た比較展示のように、作品の見せ方を考えた展示を希望していると考えられるのでは ないだろうか。 18 第Ⅲ章 ドレスデン美術アカデミー 1.総合芸術アカデミーの誕生―ドレスデンの場合 18 世紀後半になってドイツの領邦国家に次々と誕生した美術アカデミーは、芸術家 に必要とされて生まれたものではなく、絶対君主の権威を称揚するために創設された。 ドレスデンと並んで、芸術活動が盛んであった都市ベルリンは、ドレスデン美術アカ デミーに倣って、ベルリン王立アカデミーを創る。通常美術アカデミーは、その土地 の美術伝統の上に成立するが、ベルリン王立アカデミーは、絵画伝統のないブランデ ンブルクの土地に突如として現れたのである。選帝侯フリードリヒ 3 世(1657-1713、 在位 1688-1701)がプロイセン国王フリードリヒ 1 世と称しはじまったプロイセンは、 建国の模範としてフランスを選んだ。太陽王ルイ 14 世を範とするフリードリヒにと って、欠けていたものとは、君主の威厳を称揚し、王国の栄誉に相応しく宮廷を潤す 文化であった。戴冠に先駆け 1696 年に創設された王立アカデミーの背景には、人為 的な現象があったのである。他のドイツ諸都市にも似たような状況を見出すことがで きる。 では、ドレスデン美術アカデミーも他のアカデミー同様、絶対君主の象徴として創 られたのだろうか。初期のアカデミーについて知る有効な資料として、モリッツ・ヴ ィースナーがアカデミーの設立と実態をまとめた『ドレスデン美術アカデミー。設立 からハーゲドルンの死まで(1764-1780 年)』 (1864 年刊行)41がある。この書籍や金沢 文緒による『ドレスデン王立絵画館の成立』をもとに考察すると、ドレスデンは王立 絵画館が開館した後に美術アカデミーが創設されたので、他の地域とは少し違う経緯 を持っていたことがわかった。他の地域では、まず絶対君主の権威の称揚のためにア カデミーが創設され、その後美術館が創られた。それに対し、ドレスデンはまず一般 に公開された絵画館が創られ、その後アカデミーが創設された。つまり、ドレスデン では権力を示すためにアカデミーが創られたわけではなく、優秀な画家を育てる目的 で創設されたのである。さらに、近くには過去の巨匠の作品を展示する絵画館があり、 より恵まれた環境で制作できたといえる。しかし、ドレスデンの初期の美術アカデミ ーに関しての研究は少なく、まだ不明な点が多いことも事実である42。 ザクセンの首都ドレスデンは、近代以前のドイツではヴィーンと並んでもっとも有 19 力なアカデミーを有していた。アカデミーのはじまりは、1680 年選帝侯ヨーハン・ゲ オルク 3 世のもと、ザムエル・ボットシルト(1641-1701)という宮廷画家を校長として 発足した素描学校である。つづいて、彼の弟子フェーリンクのもと 2 番目のアカデミ ーができる。その後このアカデミーは、フリードリヒ・アウグスト 1 世のもとで 1705 年、正式に「絵画アカデミー」を標榜するようになるが、校長が唯一の教師で、実質 は私塾とは変わらぬものであった。ただ、アウグストの要請で再編成されたため、モ デル費用に十分な下賜金は受けられたようである43。このような状況は後継者として パリから招聘されたパリ・アカデミー会員のド・シルヴェストル親子(父ルイ 1675-1760、子シャルル 1712-1789)の代になっても変わらなかった。しかしその後、 七年戦争による政治的危機とフリードリヒ・アウグスト 2 世の治世をもって抜本的な 改革への要求が生まれる。 1763 年、外交官クリスチャン・ルードヴィヒ・ハーゲドルン(Christian Ludwig von Hagedorn 1712-1780)が改革の命を受けてアカデミー総裁の座に就き、パリのアカ デミーに倣った組織改革にのりだす。同時に、ハーゲドルンはドレスデン王立絵画館 の美術作品管理も兼任したので、美術アカデミーの運営は絵画館との緊密な連携のも と進められるようになる。翌 1764 年 2 月、シャルル・フランソワ・ユタン(1715-1776) を校長として再発足した「総合芸術アカデミー(Allgemeine Kunstakademie)」には、 各々に専門の教師をおく絵画、彫刻、銅版画、建築の 4 学科が設置された。新規約で、 教師は毎年一定量の美術作品を制作すること、毎年最低 1 人はザクセン出身の学生を 入学させること、成績優秀者をアカデミーの教授職につけること、さらに毎年アカデ ミー展覧会を開催することが取り決められた。アカデミー展覧会は 1765 年以降 1809 年、1813 年、1815 年以外毎年開催された。また、中央集権的な国家体制に沿った教 育機構を整えるため、ザクセンの他の美術学校はドレスデンアカデミーの傘下に収め られた。これによって、ライプチヒのアカデミーはドレスデンの分校となる。アカデ ミー改革の一貫には、ザクセンの地場産業である織物とマイセン磁器の奨励も含まれ ていた。 これらの改革は、ドイツ語圏において初の近代的な美術教育機関を成立させた。後 のヴィーン、ベルリンにおけるアカデミー改革は、ドレスデンの改革を模範している。 しかし、ハーゲドルンとユタンの死後、アカデミーの校長職は任期の長い教授に毎年 交替で委ねられることになり、組織そのものの継続的な発展が困難となる。ヴィーン 20 会議(1814-15 年)以降は、 逆にベルリンのアカデミーから文化的刺激を受けることとな る。 ドレスデンアカデミーを再開させたハーゲドルンは、他の美術学校と同じ教育計画 を実に正確かつ総括的に発展させた。ハーゲドルンは自身の覚え書きで次のように述 べている。 「美術は商業的見地から見ることができる」 、 「すぐれた美術家を生むことが 国の名誉を高める一方、国の工業生産物に外国からの需要がのびることはそれに劣ら ず国の名誉に資する」 。さらにハーゲドルンは次のように論を続けている。 もしフランスのデザイナーの趣味がさほどすぐれていなかったならば、フラン スの美術の所産―たとえばデザイナーが自然を直接に研究した結果得られる花模 様つきのリヨン絹織物―から、大きな利益を得ることはできなかったであろう。 アカデミーは趣味を広げるべきである。それゆえに、工業分校や―とくにザクセ ンではマイセンの磁器産業やライプチヒの出版・印刷業の要求を考慮して―学校 のデッサン授業の支配にまでその活動を伸ばすべきである。その上にアカデミー 自体で、人体デッサンだけの教授ではなく「風景、動物、花など美術の小部門」 も含まれるように注意しなければならない。このような教育計画の結果、金の流 通、外国訪問者の流入、国内製品の輸出が増大するであろう。44 ここで、ハーゲドルンが、人物デッサンだけでなく風景や動植物などの部門のデッ サンも重視していたことに注目したい。当時はまだ、一般的に風景画や動物画のジャ ンルは重視されていなかった。すでに述べたとおり、王立絵画館の展示でも風景画な どは外ギャラリーに展示されていた。また、ドレスデンよりも後で創設されたベルリ ンアカデミーのカリキュラムを見ても、風景、動物や、花などのスケッチの時間は設 けられていない。授業の一環として、小部門のスケッチに重視するハーゲドルンの考 えは、斬新である。 また、先述のとおりハーゲドルンの活躍によって、アカデミーと絵画館はより近く なった。アカデミー設立前も、絵画館は画学生に模写を許可していたが、美術アカデ ミーでは、絵画館内で模写を行うことを学生に義務付けた。さらに、外ギャラリーに 隣接した絵画修復のための部屋には模写に使う画材道具を保管しておくことも許され た。美術アカデミーは絵画館と密接に付き合うことで、優秀な美術家を育てたのであ 21 る。 2.アカデミー主催の展覧会 1763 年、ハーゲドルンによる改革によってドレスデンアカデミーが新しく生まれ変 わる。 そのわずか 2 年後の 1764 年からドレスデン美術アカデミー展覧会が始まった。 展覧会は 1809 年、1813 年、1815 年以外毎年開催され、この展覧会はドイツで初め て行われたアカデミー展覧会である。その後ベルリンアカデミー(1783 年から)が隔 年ごとに、ヴィーンアカデミー(1783 年から)が不定期、ミュンヘンアカデミー(1811 年から)が 3 年に 1 度の割合で開催するなか、毎年の開催は画期的であるといえる。 ハーゲドルンはできたばかりの美術アカデミーの重要性を、展覧会を通してドレスデ ンの市民に伝えようと考えた。同時に、展覧会開催はアカデミーの学生や先生たちの 制作意欲にも火をつけると考えた45。 初期の展覧会についての資料は少なく、伝承や、公文書、同時代の報告書や手紙な どが唯一の手がかりである。本項では、M.プラウゼによるアカデミー展覧会の復刻版 カタログ46や、ケッピングによる 19 世紀のアカデミー展覧会についての最新の先行研 究47をもとに考察を行った。 すでに紹介したモリッツによる書籍48には、1764 年 8 月 3 日には初展覧会の準備が 整ったことが記載されている。しかし、当然のことながら、まだ運営方法は十分では ないうえに、アカデミー会員が少なく、制作に熱心な芸術家もまだ準備できていなか った49。ハーゲドルンは運営に関して、具体的な指示を出していたが、さらに中立的 な意見を聞くために補教授に相談していた。また、出品する作品は模写したものでは なく、オリジナル作品を催促したようだ50。 ここで、今一度アカデミー展覧会を開催する目的を整理する。開始当初からの目的 は、主な生徒の作品や教授の新作を発表することであった。後述するロシアのレープ ニン統治時代(1814 年)もその必要性は重視された。レープニンの憲法では「開かれ たアカデミー展覧会は、芸術愛好家を呼び起こす有効的な手段である。そして、まだ 知られていない優れた才能を観衆に知ってもらえる。だから、毎年アカデミー展覧会 は開催すべきである。 」51と書かれている。1819 年には君主アウグスト 1 世が、展覧 会を通して優秀な生徒を見つけ出すために寄付をし、優秀者に自ら賞金を渡す式典も 開催している。つまり、展覧会の目的は、優秀な人材の発見と、アカデミーの広報活 22 動といえるだろう。 表 1~3 はアカデミー展覧会に関する情報を、復刻版展覧会カタログ52をもとにまと めたものである。このカタログは、フラクトゥール文字を用いて書かれており、記載 されている情報はごくわずかである。例えば、1814 年にフリードリヒが出品した 3 作品中の 1 作は「288. C.D.フリードリヒの風景画、ベルリンアカデミー会員」と書か れているだけである。当然ながら、現在の展覧会カタログのように図版や作品解説な どは付いてない。掲載されている画家の名前もアルファベット順ではなかった。その 使いづらさゆえ、このカタログは同時代人の間でも不評であった53。 表 2 は開催日をまとめたものである。この表から、毎年ばらばらではなく、開会の 日はほぼ定まっていたことが分かる。1765~1812 年は選帝侯の聖名祝日である 3 月 5 日(フリードリッヒデー)に開催していた。そしてレープニン統治時代の 1814 年は 皇帝アレクサンドル 1 世(ロシア皇帝)が即位した 3 月 24 日に開催。1816~1828 年 はザクセン王アウグストの聖名祝日にちなみ、開催日を 8 月 3 日に変更。翌年から開 催日が変動し、1839 年より 7 月中に変更されたのは、夏月に大勢の観光客がドレスデ ンを訪れたからである54。1836 年からの新規約により、アカデミー展覧会はアカデミ ー委員会の管理下に置かれ55、展覧会の運営が組織化されたことにより、観光客の獲 得という考えが生まれたのだろう。 展覧会の開催期間は、状況に応じて変わるが、どの年もだいたい 2 週間から 4 週間 だった。1807 年は例外で、4 月 15 日まで開催していた。それは、王が早期見物に来 られなかったためである。展覧会の開館時間は、朝 9 時から 12 時まで、そして昼の 休憩を挟んで、14 時から 17 時までで、この開館時間は、すでに述べた絵画館のもの とほぼ同じである56。展覧会は当初から皆に開放され、1802 年から入場料を 2 グロッ シェン57と定めた58。アカデミー展覧会の経理課によると、展覧会は大きな収益をもた らし、それらは貧しい人のために使われた59。 次に展覧会場に使われた建物について述べる。美術アカデミーは、創立当初からア ルテンノイシュタットに部屋を構えていた。初年度は教室を展覧会場として使い、 1878 年頃までは図 30 の建物の 2 階部分にある 5 つの教員部屋を利用した60。1791 年 にブリュールテラスにあるブリュールの図書館に移転してからは、1 階で展覧会を行 った。図 31 は建物が存在した位置関係が示されていて、アカデミー(ブリュール図 書館)が教室を構えていた建物は c にあたる。そして、テラス側から見た時の建物の 23 外観が図 32 ある。図 32、図 33 から、2 階建ての長屋だったことがわかる。1803 年 からはブリュールの館の 2 階にあるカナルホールが使われるようになる(図 34) 。カ ナルホールには外から直接入れるように、テラスに繋がる階段が取り付けられた(図 35) 。しかし、表 1 からも見てとれるように、展示品の増加にともない61、展覧会場は 1830 年頃にブリュールのギャラリーに移動した62(図 31、a) 。 次に、会場の部屋割りについて考える。使用される建物が変わっても、会場の部屋 割りの基本的概念は同じであった。展覧会に必要とされた部屋は 5 部屋で、それぞれ ①アカデミーの奨学生、その他の特に優秀な人物の作品、②ドレスデンアカデミーの 生徒、他地域出身の画家の作品(但し、他地域出身の画家は事前に展覧会管理者に許 可をもらう必要がある) 、③建築の下図、マイセン陶磁器工場と素描学校の作品、④ラ イプツィヒアカデミーの展示部屋、⑤アカデミーの教授とアカデミー会員の作品、以 上のような部屋割りになっていた63。しかしながら、アカデミー展覧会の様子を描い た、同時代のスケッチは存在しないため、展示風景がどのようなものであったかは知 ることができない。 すでに紹介した 1830 年のドレスデン絵画館のエッチング (図 24) のみが唯一の手がかりである。表 1 にまとめた出品数からは、毎年 400 前後の作品が 展示されていたことがわかる。出品数はさらに増加し、1830 年代に入ると 700 点を 超える。同時代のパリのサロンでは絵画作品だけで 700 点を超える作品が出品されて おり、図 36 から、壁一面に作品が掛けられている様子が見てとれる。ドレスデンの 場合も、展示品の増加で会場を変えたことを考慮すると、展示でき得るスペース一面 に絵を掛けていたと考えられる。 3.展覧会―1814 年 1814 年はドレスデンアカデミー展覧会の歴史において、注目すべき年である。この 年の前後は政治上の都合により展覧会が開催されなかったが、間にはさまれたこの年 は開催に至ったからである。表 1 の開催日一覧からも、1814 年だけ前後の開催日と異 なることが見て取れる。「1814 年、ドレスデン美術展における愛国的芸術作品」 (Patriotische Kunstwerke auf der Dresdener Kunstausstellung 1814)は 1814 年 3 月 24 日のドレスデン美術アカデミー展をめぐる、匿名の展覧会評に付けられたもの である64。それまでザクセン政府によって愛国的芸術作品の出品は禁じられていたが、 この時はじめて愛国的な芸術展が可能になったのである。その背景には、ロシア人の 24 指導者、レープニン・ウォルコンスキがいた。レープニンはナポレオン解放戦争後、 没落してしまったザクセン全土をあずかる支配者となり、ザクセンの復興に尽力した。 ザクセン国家と社会を立て直すとともに愛国心を広めるために、レープニンは反ナポ レオン的な態度で知られる有能なザクセン人である、ディートリッヒ・フォン・ミル ティッツ(Dietrich von Miltitz,1769-1831)やカール・アドルフ・フォン・カルロヴ ィッツ将軍(Carl Adolf von Carlowitz,1771-1837) 、著名な愛国詩人テオドール・ケ ルナーの父、クリスティアン・ゴットフリート・ケルナー(Christian Gottfried Körner,1756-1831)といった人たちを任用した65。彼らは明確な愛国的素地をもち、 現在ではザクセン社会の復興に寄与したとして知られている。解放戦争後の混乱のな か、アカデミー展覧会の開催だけでなく、ドレスデン宮廷劇場の立て直しといった、 文化事業にまで取り組んだ背景には、レープニンが教養ある芸術愛好家であったこと が関係している66。 本節では 1814 年に開催された展覧会の内容を、同年の展覧会カタログとともに、 フリードリヒの出品作をとおして明らかにする。 1814 年度の会場は、ブリュールの館内にあるカナルホールである。図 37 の平面図 から、ホールが大きく 3 つにわかれていることが確認できる。このホールが利用され た当初は、部屋とは言わず、それぞれのスペースを「場」と呼んでいた。当時のカタ ログで確認したところ、 「1 番目の展示場もしくは入口右側」 、 「2 番目の展示場もしく はホールの真ん中」 、 「3 番目の展示場もしくは入口左側」と表記されていて、アカデ ミー生徒の作品は 1 番目の場所に展示し、教授とアカデミー会員の作品は 3 番目の場 所に、そしてその他は 2 番目の場所に展示され、いくつかの部門が一緒に展示されて いた。フリードリヒの作品は 1812 年まで、2 番目の場所に展示されていたが、ドレス デンアカデミーの会員になった 1816 年からは 3 番目の場所に展示される。1814 年の 展覧会では「5 番目の部屋」にフリードリヒの作品が展示され、さらに 6 番目の部屋 もあったようである。フリードリヒはベルリンアカデミーのメンバーと表記されてい て、他にはアカデミー会員の作品や教授の作品が展示されていた67。展覧会について の詳細は、フリードリヒの書簡や当時の批評からは確認することができなかったが、 歴史的な視点からドレスデンを見ると、1814 年が興味深い年であったことがうかがえ る。 1814 年のドレスデン美術アカデミー展に出品された 368 点のうち、愛国的な主題 25 を示している作品は 19 点あった。そのうち 3 点がフリードリヒの作品である68。画家 フリードリヒの名がドレスデンに広まりだした頃、ドレスデンはナポレオンによる占 領とその解放戦争(1806~14 年)のさなかであった。フランス軍が侵入し、一時はフ リードリヒも近郊へ避難を経験している。そんなフリードリヒにとって、レープニン 統治下におけるこの展覧会は意味あるものだったに違いない。ちょうどこの頃から、 フリードリヒの政治問題への関心は強まり、作品の出品に至ったと考えられる。 フリードリヒが出品した 3 点の作品を順に見ていく。 《解放戦争戦没者の墓(古代英 雄の墓) 》 (または《アルミニウスの墓》 ) (1812 年、図 38)は、紀元前 9 年、ローマ 人の侵略に抗してゲルマン民族を団結させた騎士の墓が描かれている。この作品はす でに、ベルリンアカデミー展覧会に出品されており、そこで「ここで芸術家の考えは、 混乱しかつ明瞭なものとして、見る者の魂に訴えかける」69と評された。この評を書 いたものには、フリードリヒの意図、つまり、自由を求めて戦った祖先を、自身のま わりで起こっている戦いに関わるものへ変化させたことが、理解できたのである。ア ルミニウスの主題を用いた手法は、当時のドレスデンでは愛国的な知識階級のサーク ルに広がっていた。 続く《岩の谷(アルミニウスの墓) 》 (1813/14 年、図 39)は、 《解放戦争戦没者の 墓》と構図、タイトルともに類似している。よって、同様に愛国的な意味が含まれて いる作品と考えられる。 3 点目は長年《森の中の猟兵》 (1814 年、図 40)と考えられていたが、W.ズモフス キによって、別の作品《騎士のいる冬のモミの森》 (セピア、消失)であることが明ら かになった70。しかし、この作品は現在では失われてしまっているので、1814 年 10 月のベルリンアカデミー展覧会に出品された、 《森の中の猟兵》をもとに考えたい。こ の作品は、森の中をさまよう一人の兵士が描かれ、その兵士を見つめるように 1 羽の カラスが描かれている。当時の展覧会評には「古い枝の上にとまっている一羽のカラ スが、雪の降るモミの森を一人行くフランス兵に死の歌をうたう。 」71と書かれた。1812 年の冬に起こった、ロシアでのナポレオン軍敗退が持つ意味を、人間に対する自然の 脅威というロマン主義的な概念と結びつけたのである。密接するトウヒの木は、兵士 の逃げ道を封じ、やがて死へと導く。 《森の中の猟兵》は、時代に対して現実的な作品 であった。 反ナポレオン解放戦争期に描かれた、愛国的な作品は少ししかない。なぜなら、当 26 時の検閲は厳しく、芸術家が自己の愛国心を表現することができなかったからである。 それゆえ、芸術家は検閲官には見つけられないが、わかる人には理解できる表現方法 を用いた。愛国心を示す様々な比喩を、画中に忍び込ませて表現したのである。そん ななか、1814 年の展覧会評には「この展覧会では、他にも多くの愛国的な作品が展示 されていた。とりわけ我らの情感豊かな画家、フリードリッヒによる構想に富む二枚 の絵画が挙げられる。それは、ロマンチックな岩山にある洞窟への入口を描いたもの である。洞窟の前には、自由の精神と故国のために戦った兵士たちの記念碑が立てら れている。 」72という評が寄せられた。画家の意図を読み取れるものには、愛国的な作 品が十分理解できたことを表す。 先述のとおり、アカデミー展覧会には膨大な量の作品が出品され、1814 年も 368 点出品された。会場の壁には一面に作品が並べられている様子が容易に想像でき、フ リードリヒの作品はそのうちのわずかなスペースに飾られるだけである。しかし、愛 国的な作品の出品に至った背景には、レープニンの統治下で開催されたこと、そして 何よりも、アカデミーの展示が大勢の観衆に作品を見てもらえる絶好の機会であった ことが挙げられるだろう。 27 第Ⅳ章 フリードリヒの芸術観 展示空間の創出が、作品にどう影響するか。そして、フリードリヒはなぜ「見せ方」に こだわったのか。本章では、再度《テッチェン祭壇画》を取り上げ、さらにそれ以降の作 品に見られる「見せ方」を考察することによって、画家の芸術観を追究する。 1.同時代に行われた個展 同時代に行われた個展について、パリとローマの例を挙げておく。 ルーヴル美術館(1793 年開館)では、作品の常設展示だけでなく画家による個展も 行われていた。それが可能となった理由は、ルーヴル美術館内に画家のアトリエが存 在したからである。最初の個展はおそらく 1798~99 年(革命暦 8 年)の、ジャン= バティスト・ルニョーが自身で行った《クレオパトラの死》を含む 3 点の歴史画の展 示である。サロンの混乱と美術享受の受け皿の消失によって、画家自らが作品を公衆 に直接見せるという考え方が生まれていたのである。ルニョーは個展の企画を同僚の ダヴィッドから刺激されたとカタログに書いている。そのダヴィッドも少し遅れてル ーヴル美術館で個展を行う(1799~1800) 。普通はサロンに出品しただろうが、サロ ン改革の不満から《サビーニの娘たち》を 1.8 フランの入場料をとって見せたのであ る。ダヴィッドは「美術家がそれ自体で存在し、美術家に独自の財源で自立し、また 天才にふさわしい気高い独立を享受する、そうした手段を手に入れるのは賢明かつ正 当なことではないのでしょうか?」と個展の意図を語っている。 フリードリヒのアトリエ展示以前に、個展が行われていたことが上記からわかるが、 美術家による個展というものが 19 世紀前半にどのくらい定着していたかはよくわか っていない。島本浣氏は『美術カタログ論』のなかで、美術展覧会をカタログ刊行と いう視点から見ている。カタログ刊行の面から見ても、個展に関する情報は少ないが、 19 世紀の前半の同時代美術の展覧会は 18 世紀以上に少なく、数えるほどしかないが、 その中でも興味深いものがある、と述べている。 まず、1829 年のジャン=アントワーヌ・グロの《アブキールの戦い》1 点を展示し た展覧会がある。イタリアに長年あった自身の作品をグロが買い戻し修復したことを 記念したものだったようだ73。20 世紀には珍しくないが、19 世紀には珍しい展覧会だ ったといえる。 28 もうひとつは、1826 年にル・ブラン画廊(画商ル・ブランの死後に継承者によって 運営された)で開かれた新しいスタイルの展覧会である。 「ギリシャ人のための絵画展」 74と題されたギリシャ独立戦争支援をうたったもので、5 月から 10 月までの半年にわ たって開催された75。内容は豪華なもので、ダヴィッド、ドラクロワ、アングル、グ ロを始めとして、108 人の画家と 200 点あまりの絵が展示された一種の現代フランス 絵画名作展とも言えるものであった。画廊で行われたことから、商業目的があったに 違いない。このような規模で同時代の作家の作品を展示した、この展覧会は大変めず らしいものであったといえるだろう。 これらは展示形態が極端に変わっているわけではないが、グロの展覧会は画家が意 図して行ったという点、そして画廊による展覧会ではサロンとは異なる場所に同時代 の作家の作品が集結したという点で、当時としては変わった展覧会といえる。 ローマにはサロンが存在しなかったため、芸術家のアトリエによる展示が頻繁に行 われていた。日曜日の午前中や、ある決められた時間などに、アトリエが公開され、 注文を受ける機会としていた76。ローマの画家にとってのアトリエ展示は、唯一の作 品発表の場であり、パリの画家のように、サロンへの反発心から生まれたものではな い。 2.創出されたアトリエ 《テッチェン祭壇画》 (図 1)は 1808 年のクリスマス当日に、画家自らがアトリエ で公開した作品である。アトリエには絶えず客が訪れ、展示は数日間にわたり行われ たと言う77。祭壇画が公開されたアトリエは、エルベ河畔の「アン・デア・エルベ通 り」27 番地である。 「アン・デア・エルベ通り」は現在の「テラッセン・ウーファー 通り」でエルベ川に面する。当時の地図78から見ると、周辺にはフラウエン教会、ブ リュールのテラス(ドレスデン美術アカデミー) 、ドレスデン王立絵画館などが位置し、 全て歩いて訪れることができるほどの距離であったことがわかる。1816 年 7 月 10 日 付のザクセン王宛の書状で、フリードリヒはドレスデンに定住しようと思った理由を、 「優れた作品が近くにあり、美しい自然に囲まれて制作できるため。 」79と述べている。 この書状からもわかるように、フリードリヒのアトリエは芸術都市のほぼ中心地に存 在していた。当時の建物のだいたいの場所は、1852 年当時の都市図(図 41)から見 て取れる。 (図 42)は筆者が 2013 年夏にドレスデンを訪れた際に撮った写真である。 29 エルベ川沿いには、現在の美術アカデミーやノイエマイスター絵画館が建ち並び、さ らに左に進むと橋の向こう側に大きな建物が確認できる。住所から見ると、この建物 の位置にアトリエがあったと考えられる80。 27 番地のアトリエは現存せず、写真や建物のスケッチも残っていないため、外観や 内部の詳しい構造は知ることができない。しかし、同じアトリエで制作された《画家 のアトリエからの眺め、右窓》 (1805/06 年、図 43) 、 《画家のアトリエからの眺め、 左窓》 (1805/06 年、図 44)から何階にアトリエを構えていたかがうかがえる。27 番 地のアトリエ内部が描かれた作品は、上記の 2 点に限られるが、続く 1809 年から翌 年の間に転居した先でゲオルク・フリードリヒ・ケルスティング(Georg Friedrich Kersting,1785-1847)によって描かれた《アトリエのフリードリヒ》 (1811 年、図 45) 、 《アトリエのフリードリヒ》 (1812 年、図 46) 、そして、結婚後の 1820 年から住ん でいた 33 番地81の外観写真(図 47)など、十分とは言い難いがアトリエ内外を視覚 的に想像できる資料がある。当時のエルベ川畔に並んでいたアパートの構造はだいた い似ているものと考えられるので、図 43、図 45 や外観写真(図 47)から、2 階もし くは 3 階にアトリエを構えていたと推測できる。写真からわかるように、上へと階が 上がるほど窓の大きさが小さくなっている。 《画家のアトリエの眺め》で描かれている 窓は大きく、窓から見える景色は川から然程離れていないように思われる。これらの ことから、作品内の窓に相当するのは 2 階部分、つまり、フリードリヒが 2 階にアト リエを構えていたと考えるのが妥当だろう。 視覚的な情報に加えて、友人や知人の記述からはアトリエの内部の様子がうかがえ る。自然科学者のゴットヒルフ・ハインリヒ・フォン・シューベルト(Gotthilf Heinrich von Schubert,1780-1860)は、 「フリードリヒはピルナ地区のエルベ河畔の近くにあ る家に住んでいたが、近隣のほとんどがそうであるように、乏しい財産しか持たない 人々の家と変わりなかった。部屋の家具もその界隈にふさわしく、木の椅子と仕事用 の絵の道具が置かれている机以外にはまったく何もなかった。 」82と語り、友人で肖像 画 家 の ゲ オ ハ ル ト ・ フ ォ ン ・ キ ュ ー ゲ ル ゲ ン ( Franz Gerhard von Kügelgen,1772-1820)の息子ヴィルヘルム・フォン・キューゲルゲンは回想記におい て、 「画架、椅子、机の他には何もなく、机の上方を見ると、なぜだかわからないが、 壁に T 定規だけがただひとつ装飾のように掛けられていた。油壜と絵具用の並んで当 然あるべき絵具箱さえ、隣の部屋に移されていた。フリードリヒによると外的な物は 30 すべて内面のイメージの世界には邪魔になるということであった」83と、簡素さを表 している。さらに、晩年の画家のアトリエを訪れたフランスの彫刻家ダヴィット・ダ ンジェ(1788-1856)は訪問した日の日記に次のように書き留めている。 「今夜(1834 年 11 月 7 日) 、私は画家フリードリヒの家を訪問した。彼自ら、私たちにドアを開け てくれた。彼は大柄で痩せて、青白い皮膚の色をしている。彼の目は、濃い眉毛の影 で、くっきりと縁取られている。彼は、私たちをアトリエに導いた。暖炉と小さな机、 カンバスを立てかけていない画架が一つあり、緑色に塗られた壁には何も掛けられて いない。 (……) 」84フリードリヒは生涯を通して、アトリエ内部に余計な物を置かず、 簡潔な空間を維持していたことがうかがえる。 では、当時の注目を集めた展示とはいったいどのようなものであったのだろうか。 調査の結果、フリードリヒが《テッチェン祭壇画》をアトリエで展示したことに関す る資料は乏しく、画架の書簡にも展示に関する記述は残されていないが、実際に展示 を見た者の証言から室内の様子がわかる。アトリエにある 2 つの窓の片方は閉ざされ、 室内は暗室の空間が創られていた。テーブルは黒い布で覆われ、その上に置かれた金 色の額縁に囲まれた十字架風景の祭壇画はランプの明かりに照らされて浮かび上あっ ていた。 実際にアトリエで作品を見た、マリー・ヘレーネ・フォン・キューゲルゲンはキュ ーゲルゲン宛に次のように綴っている。 昨日わたしは初めて外出し、ちょうどエレベ川を渡って、フリードリヒのとこ ろへ彼の祭壇画を見に行きました。そこで多くの人に出会いましたが、なかでも 夫人同伴のリール侍従、ベルンハルト王子、ベショーレン、ザイデルマン、フォ ルクマン、バルドゥアなどといったひとたちです。祭壇画は部屋に足を踏み入れ たすべての人の心を捉えました。どうしようもなくやかましい者達、あのベショ ーレンでさえもが小声で、まるで教会にいるように、きまじめな話し振りになっ たのです。 」85 彼のアトリエに足を踏み入れた人々は、一様にあたかも神殿に入ったかのよう な感に打たれた。普段はうるさい人たちも、このときばかりは教会のなかにでも いるかのように小声で厳粛な面持ちで話していた。86 31 キューゲルゲン夫人の言葉から、アトリエ内部がフリードリヒによって意図的に創 りだされていたこと、同時に人々に宗教的感情を喚起したことが読み取れる。 この祭壇画を一目見ようと、多くの人が訪問したが、その中には第Ⅰ章で取り上げ た「ラムドーア論争」の発端である、ラムドーアもいた。アトリエを礼拝堂のように 創出し、宗教的な風景画から祭壇画としての効果を最大限に引き出すべくなされたこ の演出は、画家自身の発案によるものである。しかし、ラムドーアの批評には、アト リエが演出されたことへの記述は見当たらない。作品のみが批評の対象で、作品が置 かれた場所の状況は軽視されていたと考えられるが、展示部屋の創出が作品をより鑑 賞者を真意に導く仕掛けであったことに気づいていない可能性も考えられる。 キューゲルゲン夫人が驚くほどフリードリヒがアトリエを忠実に教会内部のように 創り出せたのは、彼が建築学にも精通していたからと考えられる。1816 年前後、コー ゼガルテンから依頼を受けたとされる教会建築設計に携わっており87、実現はしなか ったものの、 《シュトラルズント市の聖マリア教会の内部設計図》 (1817 年、図 48) を描き残している。これらのことから、画家の建築への関心と、空間創出への興味が うかがえる。その上、フリードリヒが好んで描いたモチーフが、ゴシック教会や十字 架であったことを考慮すると、フリードリヒは教会の構造を熟知していたといえる。 ランプがいくつあったか、どのように作品が置かれていたかなど、展示に関する詳 しい記述はなく、キューゲルゲン夫人の言葉からは展示の際アトリエ内部がどう創り だされていたかは詳しくはうかがうことができない。しかし、アトリエがフリードリ ヒ自身によって創出されていたことは明白である。 《テッチェン祭壇画》が宗教的な風 景画ではなく、礼拝を目的とする「祭壇画」であるからこそ、アトリエを創出する必 要があったのではないだろうか。 《山岳の虹の前の十字架》 (1817 年、図 15)は祭壇 画の構想図である。宗教的な意味を含む風景画だけでなく、絵画本体を取り囲む額、 そして祭壇画を置くための台まで描かれている。台は黒い布で覆われていて、その上 に祭壇画が置かれているのがわかる。 《山岳の虹の前の十字架》での祭壇画の表現は、 まさに《テッチェン祭壇画》がアトリエで展示された時のものそのものなのだ。つま り、ここでフリードリヒの描く「祭壇画」にとって、黒い布が重要な鍵であったこと がわかる。 さらに、展示に対して考えが、 『ある絵画コレクションを見て語る』と題したフリー ドリヒの持論からうかがえる。 32 ひとつの広間あるいは部屋に多数の絵が商品のように展示され、所蔵されてい るのを眼にすると、いつも不快な気持に襲われる。そのような環境では、絵の周 りの作品も同時に眼に入ってくるので、一点の絵だけを切り離して省察すること ができないのである。このような詰め込みは、たとえ至宝の芸術作品であっても、 またとくに(しばしば故意とさえ思えるが)相容れない作品がすぐ横に展示されて いようものなら、どんな観賞者も低い評価を与えるに違いない。一方の絵が他方 の絵をまったく消し去るということはないにしても、互いに印象を損ない合うに 違いなく、両方の絵や、その他すべての作品の印象さえも薄くなるのである。88 この言葉は、フリードリヒの芸術観がよく表されており、壁紙展示に対する否定的 な考えの現れである。 以上のことから、 《テッチェン祭壇画》がアカデミー展覧会に出品されることなく、 個展という形で発表されたメリットをまとめると次のことがいえる。第一に、この作 品は個人に依頼されて制作したもので、完成後は依頼主のもとに渡さなければならな かったので、アトリエ展示をすることによって、納品前にドレスデンの観衆に見せる ことができた。第二に、絵画本体と額が一体となって「祭壇画」を表現しているので、 額ごとアカデミー展に出品することは難しいが、アトリエでなら展示できる。第三に、 「祭壇画」を表現するための演出が、アトリエ展示では可能であった。 3.フリードリヒの見せ方 フリードリヒの総合演出的な作品は、 《テッチェン祭壇画》のアトリエ展示にとどま ることはなかった。晩年に制作した《峡谷の風景、朝》 (図 2) 、 《峡谷の風景、夕暮れ》 (図 3)では、透かし絵という特殊な技法を用いて作品を表出したのである、また、 《世 俗的音楽のアレゴリー》 (図 4) 、 《宗教的音楽のアレゴリー》 (図 5) 、 《天空的音楽の アレゴリー》 (図 6)ともう一点で構成される「音楽のアレゴリー」では、透かし絵の 技法を用いようとしただけでなく、音楽とともに展示する計画をしていたことが書簡 からわかっている89。さらに興味深いことに、フリードリヒは出品する展覧会の展示 方法に希望を出していたのである。1826 年のベルリンの展覧会90 の際、《氷海》 (1823/24 年、図 49)と《ヴァッツマン山》 (1824-45 年、図 50)を向かい合わせて 展示するように希望を出したのである91。両作品を対面させることで、鑑賞者の視線 33 を意図的に動かし、フリードリヒ自身の崇高性を効果的に伝えようと試みたのである。 完成した作品をただ並べるだけでなく、鑑賞者への見せ方にもこだわりを持ってい たことは、フリードリヒ自身が語る芸術観からうかがうことができる。 まず精神の目であなたの絵を見るために、肉体の目を閉じよ。それから暗闇の なかであなたが見たものを明るみに出し、今度は逆に外部から内へと遡る方向で、 他の人々に働きかけるようにせよ。 Schließe dein leibliches Auge, damit du mit dem geistigen Auge zuerst siehest dein Bild. Dann fördere zutage, was du im Dunkeln gesehen, daß es zurückwirke auf andere von außen nach innen.92 上記の言葉はフリードリヒの覚書『現存の芸術家と最近逝去した芸術家の作品を主 とするコレクションを見ての意見』に書かれている。1830 年頃のものと推測されるが、 長時間かけて記された文章の可能性がある93。この言葉から、フリードリヒが常に鑑 賞者を意識していたことがわかる。つまり、作品に向けられる鑑賞者の眼差しに向き 合い、鑑賞者への意図的な働きかけを大切にしていたのである。 鑑賞者への能動的な姿勢は、描き方の表現だけでなく、 《テッチェン祭壇画》のよう に展示環境の創出、さらには「音楽のアレゴリー」連作のような、総合演出にまで繋 がる。では、具体的にどのような「見せ方」が実行されたのだろうか。 まず、近年重視されつつある「透かし絵」を用いた見せ方である。 「透かし絵」とは、 透明紙に水彩絵具とテンペラの混合技法によって描かれるものである。照らしだすラ ンプの光源の位置によって様々なイメージを表出することができる。ドイツでは 1800 年頃に一つの芸術ジャンルとして確立したといわれていて 94 、F.シンケル(Karl Friedrich Schinkel, 1781-1841)が関心を示して用いた技法である95。フリードリヒ が制作した透かし絵で、現在実際に目にすることができる作品は《峡谷の風景》 (図 2、 図 3)の一点しか存在しない。一枚の透明紙の両面に、朝と夕暮れのエルベ川の風景 が描かれている。朝の風景はそのままの状態で見ることができ、後ろから光を当て夕 暮れの風景になると、朝の風景にはなかった遠くの山や町が浮かび上がる。光によっ て、橙色に色づいた雲の隙間から顔を覗かせる沈みゆく太陽が印象的である。1941 年に『フリードリヒ年鑑』を出版したエミール・ヴァルトマンは、実際に見た感動を 34 次のように語っている。 「月光に照らされた魅惑的な夜の山々を今や徐々に出現させ、 宇宙を奥深いものに変貌させた。ランプを動かすことによって、それは夕暮れ、ある いは夜の風景になり、世界は古語の事物に溢れ、現象全体がある時はメランコリック な暗さ、またあるときは穏やかな明るさのうちに神々しく輝いた。光のもたらす雰囲 気は、弱く、強く無限のうちに作用しながら出現する。それはまったく神秘的で、抗 しがたく、魔術のようであった。」961940 年からミュンヘンのギャラリー(Galerie Gurlitt)が所蔵していたことから97、ヴァルトマンもこのアトリエで《峡谷の風景》 を見たと考えられる。ヴァルトマンの言葉からは、ランプが用いられていたとうかが えるが、フリードリヒが制作した当時は蝋燭を使ったのではないかと考えられる98。 かねてから、フリードリヒが描き出す「光」は、透明感があり風景全体に行き渡る ような圧倒的存在があるといわれている。この作品では、描くことで「光」を表現す るのではなく、外的な光源を利用することでの表現が試された。さらに、ひとつの作 品で異なる時間の同じ場所を表現し、光源を動かすことで、時の動きの表現まで可能 にしたのである。実際の光を用いた「見せ方」は、フリードリヒの作品にさらなる感 銘を与えただろう。 フリードリヒの演出は、晩年に構想された「音楽のアレゴリー」をもって最終段階 を迎える。それは、展示という形をとりながら、絵画、光、音楽を融合させた演出的 な「総合芸術」である。 「音楽のアレゴリー」は、 《世俗的音楽のアレゴリー》 (図 4) 、 《宗教的音楽のアレゴリー》 (図 5) 、 《天空的音楽のアレゴリー》 (図 6) 、そしてもう 一作で構成されている。実物は所在不明だが、これらの素描からどのような作品だっ たかがわかる。また、フリードリヒが当初考えていたイメージが、詩人の W.A.シュコ ウスキーに宛てた書簡に残されていて、作品が確かに存在していたことが確認できる 99。 実際に送られた作品は、 1835 年に再度送られた書簡に記述されているものである。 第一の絵は、満月に照らされたゴシック様式の廃墟に二人の女性がラウテ(マン ドリンに似た形の弦楽器)を奏で、歌っています。第二の絵は、バルコニーに座 り、ハープを演奏する女性で、すぐそばに聖像柱、少し離れて教会があり、弱い 光を放つ窓が見えます。この女性はまるで遠くから聞こえるオルガンの音に合わ せるかのようにハープを奏でている姿で描かれています。第三の絵では、高いぜ にあおいの花の下に若い音楽家が、ラウテを横に置いたまま、眠り、夢を見、天 35 空の音楽を聴いていて、雲のなかには音楽を奏する天使たちです。第四の絵では、 陰鬱なとうひの樹の森の中に木々の幹の間から満月が見えます。魔法使いが金の 亡者のまわりに、魔法の輪を欠けています。その輪の中心には恋焦がれた宝が炎 に包まれて見えます。宝を手に入れようと亡者は宝に飛びかかり、片足を安全圏 から踏み外し、そうして悪魔の手に落ち、悪魔は彼をたちまちのうちに縛り上げ てしまうのです。100 フリードリヒによる作品の説明からは、一種の物語性が認められる。物語は《世俗 的音楽のアレゴリー》に描かれた廃墟のゴシック聖堂から始まる。廃墟の天井からは、 音楽を奏でる女性たちに向かって、1 本の木が生えている。続く《宗教的音楽のアレ ゴリー》には、第 1 の絵に描かれていたハープが再び登場し、世俗的なものから宗教 的なものへの移行が図られている。 《宗教的アレゴリー》に描かれている教会は、モデ ルにしたグライフスヴァルトのヤコビ教会に、塔を描き加え、天空を指し示す垂直性 を強調している101。第 3 の《天空的音楽のアレゴリー》では、天使が上空でパイプオ ルガンを奏でている。若者が持つ弦楽器は、第 1 の絵の世俗性を表すもので、天空と 世俗が同時に描かれていることから、物語が循環していることがわかる。続く〈魔法 使い〉の絵の説明は視覚的な手がかりがないが、おそらく異教的な雰囲気を表現して いると考えられる。 なぜここまで凝った構想をしたのだろうか。それは、この作品がロシア皇帝近縁の 年少の公爵のために注文されたからである102。フリードリヒは自身の芸術論のなかで 「芸術の、唯一真なる源泉はわれわれの心であり、子供のように純粋な心情の言葉で ある。 」103と述べている。ここでもなお、鑑賞者(=年少の公爵)を意識して制作して いたといえる。フリードリヒは絵のイメージに合った音楽の実演も重要であると考え、 専門の音楽家による曲作りも考えていた。それぞれの場面に合った楽器、 《世俗的音楽 のアレゴリー》では歌とギター、 《宗教的音楽のアレゴリー》では歌とハープ、 《天空 的音楽のアレゴリー》はガラスハーモニカ104を指定している。 〈魔法使い〉の演奏は、 優しいメロディーではなく「遠くから聞こえるざわめく音楽」と指示している105。 フリードリヒは音楽の演奏だけでなく、透かし絵を展示するための装置の設計や、 ランプの炎の大きさ、月の演出方法まで細かく決めていた。月の光の演出は、光を通 すガラス球の中に水とワインを入れ、それを小窓にかけるという方法だった。窓に掛 36 ける位置や、鑑賞者の数、作品と鑑賞者の距離に至るまで、実演方法に関する細かな 指示を書き送っている106。 これらの絵が気に入られるように、また恵みの時のような効果をあげるため、必 ず音楽の伴奏とともに見ていただきたいと存じます……絵を見る人々はまず、暗い、 いいえ、闇のような部屋に案内されます。そして音楽が遠くから聞こえ始め瑠葉に します。それはひとつ目の絵と調和する音楽で、その後最初の絵を見終わると次に 二つ目の絵、そして三つ目、四つ目へとすばやく移ってゆくのです……ひとつ目は 暗い調子の音楽の伴奏ですが、二つ目では世俗的な音楽、三つ目では宗教的な音楽、 そして最後には天上的な音楽へと移ります……絵を展示するまえに一度あるいは二、 三度、音楽と絵画が互いにしっくり合うか、また互いに補足し合うかを見るために、 そしてまた絵をみたり、音楽を聴いたりしている間、どんな小さな物音もたたない よう、予行演習をやってみる必要があるでしょう。音楽師たちは陰に隠れて見えな いようにして、鑑賞者に気づかれない間に、こちらの合図で正確に絵に合った音楽 を演奏できるよう、気を配る必要があるでしょう。107 《テッチェン祭壇画》のアトリエ展示の際の展示環境の創出、続く《峡谷の風景》 での光源の利用、 「音楽のアレゴリー」の透かし絵の総合演出性は、いずれも見せ方へ のこだわりと工夫がうかがえ、フリードリヒの「芸術観」が顕著に表されている。 4.斬新な展示の発見 「展示とは何か」 。芸術品を展示する行為の反対側には、当然のことながら、見る人 がいる。その背後では常に「誰のため」の、 「何のため」の展示かが問題となり、その 答えは時代や展覧会の内容とともに変動した。展示を行うためには何らかの広場や施 設が必要であり、多くの人に鑑賞の場と機会を提供したのが美術館であった。日本で は「博物館」と「美術館」は別のもとの捉えられがちであるが、ここではあえて同じ 「ミュージアム」として捉えることにする。 18 世紀、19 世紀は、現代よく耳にするような「博物館学」という言葉はまだ確立 されていなかった。つまり、 「展示とは何か」を意味する「展示の意義」も、当然なが ら定まっていなかったし、まだ開館したばかりの大英博物館(1759 年設立)の展示室 37 は、モノが展示されているというよりは、陳列されているだけであった。では、展示 とは何を意味するのだろうか。現在の展示の意義に当てはめると次のようなことがい える。ICOM(国際博物館会議、1946 年設立)の編集した『博物館組織その実際的ア ドバイス』によると、 「展示(exhibition)とは見せること(to show) 、陳列すること (to display) 、眼に触れるようにすること(to make visible)であり、多くの国語に おいて展示とは、ものを選び意味のある表示(meaningful showing of things) 、目的 のある陳列(display with purpose)を意味している」と説かれている108。この定義 が当時の概念に当てはまるかは定かではないが、実際にどのような展示が行われてい たかいくつか例を挙げる。 まず、ヨーロッパ各地で人々を楽しませた「マジック・ランタン(幻灯) 」が挙げら れる。マジック・ランタンとは、17 世紀末期から多用され始める光学機器である。顕 微鏡の原理を利用し、暗箱の原理を裏返しにしたもので、小さな光学の箱の内部に光 源を置くと、レンズの力を借りて画像が拡大し、投影されるという仕組みだ(図 51) 。 箱型で覗きこむタイプ(図 52)のものもあれば、現在のスクリーンのように外部に映 し出すタイプ(図 53)のものもある。原板はガラスでできており、モノクロやカラー で描くことによって、映しだされる映像の色が変化する。マジック・ランタンは、時 に小さな移動美術館となり、多くの人を楽しませた。 (図 54) ドイツのロマン主義者ゲーテは『若きヴェルテルの悩み』のなかで、マジック・ラ ンタンが心の病にもたらす薬剤効果について語っている。 「色とりどりの絵が白い壁に 輝いている!それは束の間の幻影にすぎないが、ぼくたちに幸福をもたらしてくれる。 無邪気な子供のように、そんな驚くべき映像の前に立つと、我を忘れて見とれてしま う。 」109この文からは、ゲーテ自身もマジック・ランタンに魅了されていた様子が想像 できる。 また、ドイツ人作家のエドゥアルド・メーリテ(1804-75 年、詩人、小説家)は、 ランタンの見世物に関する記述で次のように述べている。 ラーケンズと楽団員たちは二つ折の衝立の後ろにいたが、近くにはマジック・ ランタンが置かれ、その時スクリーンには丸い輪郭線が映し出されていた。わず かな沈黙のあと、暗幕の陰から楽団員の一人がピアノ演奏し、ラーケンズがチェ ロで伴奏する序曲風の交響曲が聞こえてきた。すっかり片付けられた部屋で最も 38 広い壁に観衆の関心が集まると、かなり大きなサイズで、いくつかの都市の情景 や異国風で海の波に洗われ、左側に三人の大写しの人物を背にした城館が投影さ れた。110 メーリテの覚書から、マジック・ランタンは単なる見世物としてだけでなく、絵と 音楽そして光の融合からなる、総合芸術的な要素も備えていたことがわかる。その点 においては、すでに述べたフリードリヒの「音楽のアレゴリー」上演と繋がるものが ある。フリードリヒの場合、作品制作から上演の構想に至るまで画家自身が構成する が、このマジック・ランタン上映は製作者自身が全てを構成するわけではない。ただ、 まとまりある上映をするために総合演出を行う人物がいたと考えられる。 次に、フリードリヒと同時代の画家、シンケル(1781-1841)が行った、透かし絵 展示会について述べる。1812 年 12 月 19 日の夜、ベルリンにある「からくり劇場(das mechanische Theater) 」でシンケルは《モスクワの大火》 (1812 年、図 55)111を展 示した。当時の新聞からは大盛況だったことがわかる112。原画は存在しないが、現存 する縮小複製画で描かれた内容を確認することができる。大スクリーン(約 4×6m) に、裏側に設置された照明で浮かび上がる火の絵は、ベルリン市民を感激させただけ でなく、同時に愛国心を燃え上がらせた。 シンケルが用いた透かし絵は、フリードリヒが用いた手法とは異なる。シンケルの 透かし絵は、18 世紀末から 19 世紀前半にヨーロッパ各地で流行した視覚装置を用い たものである。装置を用いるという点においては、既述のマジック・ランタンと通じ るが、透かし絵は半透明のキャンバスに描かれた画像に、前方および後方から光をあ てる仕掛けである。二次元の画像を立体的に見せたり、その変化を楽しませる透かし 絵は、覗き箱のようなタイプと、大画面に描いた劇場風のタイプとがある。光源には、 蝋燭、ランプ(アルガン灯) 、また窓からの自然光などが、色付けられたり強度や方向 を調節して用いられた。 この透かし絵技術は 1800 年頃にベルリンに登場し、シンケルは熱心に研究した。 当時、 「透視図的・光学的絵画(展示) 」113と呼ばれた透かし絵の展示は、クリスマス 恒例の行事であった。シンケルはこの行事のために、約 48 点の透かし絵を制作し、 透かし絵展示の試行錯誤が、後に建築家として成功をおさめるシンケルに大きな影響 を与えた。 39 シンケルの透かし絵を実際に見た評論家ルードヴィヒ・カーテルは、クリスマス展 示について次のように述べている114。 「強いランプの照明が、画像の前方と、透かし絵 効果のために画像の後方とに置かれて、全体が生み出すイリュージョンを高めている。 通例のパノラマを凌ぐ効果があるように思えるのは、パノラマでは観客の視点が(そ れを囲む)画像の内部にあって、自分自身を錯覚のなかに織り込むには想像力を要す るのだが、ここでは、観客は普通の劇場にいるのと同じように、それぞれの場所(客 席)にいて、その眼前に魔法の鏡が現われ、そこに魔術的な幻影が描かれるからであ る。 」強い光に挟まれ浮かび上がった作品は、そこに居るだけで人々を異空間に誘い込 むような迫力であったことがうかがえる。1812 年 12 月には、ゴシック大聖堂を描い た画像を音楽とともに上演する試みがされた。この後シンケルは劇場の舞台装置家と しても活躍し、ついには劇場建設まで手がけてしまう。 透かし絵は、展示という形体をとりながら、光と絵画、そして音楽を融合させた一 種の総合芸術性を持つ。シンケルの場合その芸術性をオペラなどの劇場芸術に、フリ ードリヒの場合は、自身の作品が意図する真意を鑑賞者により伝えるために用いられ た。 ドイツの他、イギリスやアメリカでも興味深い展示が行われていた。ロンドンでは 珍品を見せる「見世物」が流行していた。様々な珍品を並べる見世物フェアは、当時 の市民の興味をひきつけたが、変わった展示というようは珍しい展示品にとどまる。 欧州の美術蒐集室やこの見世物に影響を受けた人物が、アメリカのピール(Charles Wilson Peale, 1741-1827)である。ピールは画家で、自身の絵を展示するための画廊 を早くから所有していた。画廊での展示では、当時ロンドンで人気を博していた、エ イドフュージコン(Eidophusikon)という、大きな絵をストーリーに従って動かすも のを上映していた。さらに、1786 年に開館したピール博物館では、よりわかりやすい 展示を心がけ、照明や色調にも気をつかった。1816 年 5 月には、夕方に行われるデモ ンストレーション展示の照明にガス灯を使用した115。 このように、18 世紀末から 19 世紀はどの国でも展示を試行錯誤した時代だった。 その中で、フリードリヒによる《テッチェン祭壇画》や《峡谷の風景》 、そして「音楽 のアレゴリー」作品の展示方法もまた、見るものに衝撃を与えたと考えられる。 40 終章 フリードリヒは、作品を壁一面に並べる展示を嫌い、それがいくら大作であっても 敷き並べると魅力を失うと考えていた。そして、制作の際は、常に鑑賞者を意識し、 作品に向けられる鑑賞者の眼差しを想像して描いていた116。鑑賞者への意図的な働き かけは、フリードリヒの絵画制作にとって必然的であった。そのこだわりは、 《テッチ ェン祭壇画》のアトリエ展示から晩年の「透かし絵」制作に至るまで変わることはな かった。 《テッチェン祭壇画》の制作は、何もないアトリエで黙々と描かれた。キューゲル ゲンが描いた《アトリエのフリードリヒ》からは、アトリエの窓が片方塞がれている のがわかる。おそらく薄暗い部屋に差し込む光の中、まるで教会のような空間で描い たことだろう。本来、祭壇画は教会や礼拝堂に置かれるべきもので、神聖な祭壇画の 表現には、絵画、額、展示空間のすべてを使っての表出が有効的である。そこで、フ リードリヒは、わずかな光とアトリエを創出することで、 「祭壇画」というテーマを表 現したのである。 「透かし絵」作品、 《峡谷の風景》では、実際の光を使った展示に挑戦する。 《テッ チェン祭壇画》の頃から、画中から放たれる光の表現に長けていたが、ここでは新た に、光の表現が画中から外に飛び出す。外的な光源を用いて、1 つの作品から「朝」 と「夕暮れ」を表現し、それに伴い起こりうる時間の変化、つまり自然の動きを見せ ることに成功した。 「透かし絵」作品への挑戦と成功は、フリードリヒにさらなる表現法をもたらすこ ととなる。それが、 「音楽のアレゴリー」作品群を上演する際の、展示、光、音楽の融 合による総合演出である。フリードリヒは「芸術は子供に喩えられる」117という言葉 を残しており、感受性豊かな子どものような感覚を持っていた。 《世俗的音楽のアレゴ リー》 、 《宗教的音楽のアレゴリー》 、 《天空的音楽のアレゴリー》と「魔法使い」から なる「音楽のアレゴリー」は、子どものような純粋な心を持つ、フリードリヒの芸術 観が生み出した、新たな展示方法による作品表現であったと考えられるだろう。 フリードリヒが行った展示空間の創出や、展示自体の総合演出は、当然のことなが ら、アカデミー展覧会では実行できない。よって、これらの作品はアカデミー展覧会 41 には出品されることがなかった。ドレスデン王立絵画館は、同時代の作品は展示され ることがなかったので、フリードリヒが行った特殊な展示とは直接的な比較対象には ならないが、絵画館での壁紙展示に対しては、かねてから批判的な意見をもっていた。 つまり、壁一面に作品を並べる壁紙展示では、フリードリヒが思い描く表現は不可能 だったのである。自身が監修できない展覧会での創出は、 《氷海》と《ヴァッツマン山》 を対面させて展示するよう希望をだした、1826 年のベルリン展覧会にとどまる。 画家自身による展示空間の創出や、作品展示にともなう総合演出は、アカデミー展 覧会が一般的とされていた当時は特異なものであった。しかし、純粋な感動を大切に し、それを作品の見せ方も含めて表現したフリードリヒの芸術観は、現在に通じるも のがある。序章でも述べたとおり、フリードリヒ研究は、主題の内容と描かれるモチ ーフから、作品に隠されたフリードリヒの「政治性」を問うものが多い。本稿では、 そのような観点から一度離れ、フリードリヒが行った「展示」をキーワードに、彼の 芸術観の考察を行った。フリードリヒの芸術観とともに見る彼の作品は、今後も私た ちに新たな発見を与えてくれるだろう。 42 1 神林恒道、仲間裕子訳『ドイツ・ロマン派風景画論 新しい風景の模索』三元社、2006、 p.166. 「芸術と芸術精神について」より。 (原文 Sigrid, Hinz, Caspar David Friedrich in Briefen und Bekenntnissen, Berlin,1968, pp.83-84.) 2 ポムメルン地方の、当時まだスウェーデンの支配下にあった地区。同様にドイツ・ロマ ン派美術を代表する画家、フィリップ・オットー・ルンゲもポムメルン出身である。 3 展覧会カタログ『フリードリヒとその周辺』 、東京国立近代美術館/東京、京都国立博物 館/京都、p.221、1978。原文は A.アウベルト「カスパール・フリードリヒ」 ( 『芸術と芸 術 家』Ⅲ、1905、p.198) 。 4 スタール夫人著、中村加津、大竹仁子訳「ドイツ論 2―文学と芸術」鳥影社・ロゴス企 画部、2002、pp.361-363. 5 フルベルト・フォン・アイネム著、 藤縄千艸訳『風景画家フリードリヒ』高科書店、1991、 p.55。原文は註 5 を参照。 6 神林恒美地、仲間裕子,op.cit.,pp166-200. (原文 Sigrid, Hinz, Caspar David Friedrich in Briefen und Bekenntnissen, Berlin,1968, pp.83-84.) 7 1977 年、ライタロヴァによって出された。松下ゆう子「C.D.フリードリヒ〈山の十字架 (テッチェンの祭壇画) 〉の成立事情」 、 『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊 12 集、 文学・芸術学編、pp.179-190、1985、p.179、注 3 参照。 8 「フリードリヒとその周辺」展、p.160,註 5、1978 によると、トゥーン伯爵夫人の書簡 は、1808 年 8 月 6 日付け、現在のポーランド発である。伯爵の方は、同年 7 月 30 日― 8 月 1 日のドレスデン滞在中に十字架をモチーフにした作品を見ている。 9 1807 年頃、ナポレオンの侵略に対して、憤慨しながら制作していた《雲海の上の鷲》 (所 在不明)をアトリエで見た G.H.シューベルトはこう語る。 「暴力の限りを尽くしている ナポレオンと祖国の恥辱がすぐに話題となった。フリードリヒはフランスに対するいつ もながらの憤激を込めて、ドイツが卑しめられていることについての心情を口にした。 だが、我々他の者たちが前途の暗さや多少の不安を語っていると、彼は自分の絵の鷲を 指してこう言ったのである。 『ドイツ精神はこの嵐を必ず切り抜けるでしょう。するとそ こには不動の山々が日を浴びて聳えているのです…』 」 。シューベルトによると、この作 品は、大地は一面の霧に包まれ、その霧の中から山が聳え立ち、上空の雲間には青空が 見えて日光が差し込んでいたそうだ。 (松下ゆう子, op.cit., p.185.)1808 年の『プロメ ウス誌』でも同様の作品が紹介されている。 10 神林恒美地、仲間裕子,op.cit.,p166. 11 木村重信、高階秀爾、横山紘一監修『名画への旅 17 19 世紀Ⅰ さまよえる魂』講談 社、1993、p.62 . 12 神林恒美地、仲間裕子,op.cit.,p.172. 13 Ibid. 14 和泉雅人「フリードリヒ『テッチェンの祭壇画』 」 、 『研究年報』20、pp.18-40、2003 年、 pp.23-24 15 ラムドーアは、日曜美学者とでもいうべきプロイセン宮中顧問官であった。 16 大原まゆみ、 「カスパー・ダーフィト・フリードリヒ画「テッチェン祭壇画」考」 、 『美 術史』34(1)、pp.16-27、1985-03、p.17 17 和泉雅人,op.cit., p.23 註 17. Journal des Luxus der Moden. Weimar, April 1809,Ⅲ., p.239 に掲載。フリードリヒの友人である編集者(Johannes Karl Ludwig Schultze) が、フリードリヒの手紙を受け取り、掲載したことになっている。 18 Ibid., pp.18-40 19 Ibid., pp.23-28. 「絵の描写」 「額の描写」 「絵の解釈」の順序で掲載。 20 Hinz, op.cit., p.159. Ferdinand Hartmann はラムドーアに対する見解として発表 した論のはじめに、 「早い時期から、芸術家は公共の展示機会を利用して、作品を民衆に 発表していた。 」と述べている。つまり、この個展が珍しかったことを表す。 43 大原まゆみ, op.cit., 註(7) 開館当初の名称は国立美術博物館で、ついでフランス美術館となり、さらに中央美術館 と改称した。帝政期(1803~14 年)にはナポレオン美術館、さらにルーヴル美術館とな り今日に至る。 23 高橋雄造、 『博物館の歴史』 、法政大学出版局、2008、p.137. 24 壁紙展示 wall paper exhibits と呼ばれる。 25 高橋雄造, op.cit., pp.141-142. 26 マンフレート・バッハマン「ドレスデン美術館の歴史」 、展覧会カタログ『ヨーロッパ 絵画名作展』 、pp.11-14、1974、p.11 27 Ibid., p.11. 枢密監査官のシュタインホイザーが 1722-28 年に作成した蔵品目録は、研 究の基本資料として絵画館内の資料室に今日も残されている。 28 金沢文緒「ドレスデン王立絵画館の成立―近代美術館への歩み―」 、 『青山学院女子短期 大学総合文化研究所年報』20、pp.135-155、2012、註 8 にクネッフェルによる改修工 事についての文献が紹介されている。 29 Ibid., p.137. 30 Ibid., p138. 描かれている風景の真贋については、本文参照のこと。 31 1839 年の規則による。 32 金沢文緒, op.cit., p140. 33 Ibid., p.148, 註 22. 34 Ibid., p.139, 註 13. 35 1746 年に絵画館の監査官に就任したピエトロ・グアリエンティによる手書きの作品目 録。 (Ibid., p.139.註 13) 36 Ibid. 37 ド・ピールは持論『絵画原理講義』のなかで、同じ主題性を認められるものを、時代や 流派によって「比較」することの重要性を述べている。 38 1752 年に死去したグアリエンティに替わり、監査役となったマテウス・エステルライ ヒが担当。 39 一部、例外的に置かれる作品もあったが、その場合は外ギャラリーに展示された。 40 J. M. Weber, Gregor, “1798 in der Königlichen Gemäldegalerie zu Dresden”, in: Dresden und die Anfänge der Romantik, Dresden, 1999, pp.8-15. p.14. 41 Wiessner, Moriz, Die Akademie der bildenden Künste zu Dresden. Von ihrer Gründung 1764 bis zum Tode V. Hagedorn’s 1780, Dresden, 1864. アカデミーの設立 までの歴史や、教員や会員について、また、展覧会とアカデミーの建物など、アカデミ ーについての基本情報がまとめられている。 42 ドレスデンは 19 世紀のドイツ絵画史において最も重要な都市の 1 つであるのにも関わ らず、東ドイツ時代、美術アカデミーに関する研究が少なかったため、他アカデミーに 比べると資料が少ない。有力な資料として、Neidthardt, Hans Joachim, Zweihundert Jahre Hochschule für Bildende Künste Dresden 1764-1964, Werke der Lehrer, Malerei Plastik Graphik, Dresden, 1964. が挙げられる。ドレスデン美術アカデミー創 立 200 年を記念して開催された展覧会のカタログで、東ドイツ時代の出版物のため情報 量は少ないが、ナイトハルトによる巻頭論文、年表は有用な資料である。また、本論に おいても参考にした、Die Kataloge der Dresdner Akademie-Ausstellungen 1801-1850 bearbeitet von Marianne Prause, Berlin, 1975.も有用な資料である。 43 N.ペヴスナー著、中森義宗、中藤秀雄訳『美術アカデミーの歴史』 、中央大学出版部、 1974、p.118 44 Ibid.,p.158. 45 Wiessner, Moriz, op.cit., p.81. 21 22 46 Die Kataloge der Dresdner Akademie-Ausstellungen 1801-1850 bearbeitet von Marianne Prause, Berlin, 1975. 44 47 Köpping, Katharina, Die Ausstellungen der Akademie für Bildende Künste Dresden im 19. Jahrhundert, Saarbrücken, 2008. p. 24. Wiessner, Moriz, op.cit., pp.81-82 にはアカデミー展覧会についてまとめられている。 Ibid. 50 Köpping, Katharina, op.cit., p. 24. 51 Ibid., pp.24-25. 52 bearbeitet von Marianne Prause, op.cit., 展覧会カタログの復刻版。 53 Ibid., p.10.(冒頭論文) 54 Köpping, Katharina, Ibid., p.32. 55 Ibid., p.25. 56 Ibid., p.32. und Wiessner, Moriz, op.cit., p.81. 57 フランクフルト・アム・マインにおける 1801 年頃の物価で考えると、2 グロッシェン は白パン約 2 個分に相当した。 (地域によって物価は異なる。 ) 58 Köpping, op.cit. p.33. 59 Ibid. 60 Inid., p.28. 61 表 2.参照。 62 Ibid. pp.28-30. 63 Die Kataloge der Dresdner Akademie-Ausstelungen. 1801-1850, 2 vols., M. Prause(ed.), Berlin,1975. 序文 p.10 64 Börsch-Supan,Helmut / Jähnig,Karl Wilhelm, op.cot., C.D.Friedrich: Gemälde, Durckgraphik und bildmäßige Zeichnungen, München,1974. p.82. und ゲルト=ヘル ゲ・フォーゲル著、安西信一訳「 「神、自由、祖国のために!」―反ナポレオン解放戦争 時のザクセン美術におけるロマン主義的愛国心―」 、 『広島大学総合科学部 紀要』Ⅲ、 人間文化研究 10、p.147、2001 65 ゲルト=ヘルゲ・フォーゲル, op.cit., p.147、2001、註(1)より。 「ディープリッヒ・ フォン・ミルティッツは、愛国者の地下組織の領袖であり、この地下組織には、C・G・ ケルナー、C・A・フォン・カルロヴィッツ、モーリッツ・フォン・シェーンベルクその 他が参加した。彼らはマイセン近くにあるミルティッツのジーベンアイヘン城で会合を 開くのを常としていた。 」 66 藤野一夫「ドイツ・オペラと境界の政治―ドレスデン宮廷劇場のドイツ部門創設をめぐ って―」 、 『ドイツ文学』110、pp.50-65、2003、p.56. 67 Ibid.,カタログ 1814 年度を参照。 68 フリードリヒ以外では、クリスチャン・フェルディナント・ハルトマン(3 点) 、ヨハ ン・ハインリッヒ・シュミットによる肖像画、ゲルハルト・フォン・キューゲルゲン、 クリスチャン・フェルディナント・ハルトマン、ヨハン・カール・レスラーによる歴史 画。ヨハン・ヤーコプ・ヴァーグナーの愛国的な風景画。さらに、ドレスデンアカデミ ーの生徒が描いた作品 9 点が出品された。 (ゲルト=ヘルゲ・フォーゲル, op.cit., p.148.) 69 ゲルト=ヘルゲ・フォーゲル, op.cit., p.153. 注 5 参照。 70 Ibid., p.155. 71 Ibid., p.156. 展覧会評『フォシッシュ誌』に掲載された。 72 Ibid., p.153. 73 Ibid.,p.109. 本文註 21 参照。 74 同年にベルリンでも同様の展覧会が開催された。作品収集家で出版業者のアンドレア ス・ライマーがベルリンで開催した「ギリシア人の寡婦と孤児の福利のための」展覧 会である。この展覧会はチャリティー目的があり、ライマーが所有するフリードリヒ の《修道院墓地》 、 《スイスの風景、高山》 、 《フッテンの墓》も展示された。 75 島本浣『美術カタログ論―記録・記憶・言説―』三元社、2005、註 22 を参照。 76 渡辺晋輔「礼拝と展示のはざまで―19 世紀初めのローマにおける展覧会事情―」 、 『ロ 48 49 45 ーマ―外国人芸術家たちの都〈西洋近代の都市と芸術 1〉 』竹林舎、2013、pp.25-42. p.26. 仲間裕子『C.D.フリーリヒ《画家のアトリエからの眺め》―視覚と思考の近代』 、三元 社、2007 年、p.69、注(1) 78 番地が明記された 1805 年頃の地図は所蔵されていないが、仲間裕子氏によって「地図 Nr.25199, 1820 年」で確認されている。仲間裕子、2007、p. 232. 筆者もこの住所情 報を手がかりに、アトリエが存在した場所を確認してきた。 (2013 年 7 月) 79 Zschoche , Herrrmann, Caspar David Friedrich, Die Briefe, Hamburg,2006. p.106. 80 アトリエがあった場所には、現在ホテル「アム・テラッセン・ウーファー」が建ってい る。 81 33 番地のアパートでは、2 階に住んでいたと思われる。 (Fiege, Gertrud, Caspar David Friedrich, Hamburg, 1977, p.94.) 82 仲間裕子, op.cit., p.25, 註 17 より引用。 (原文は Hinz,op.cit.,p.229.) 83 Ibid., p.25, 註 18.(原文は Hinz,op.cit.,p.227.) 84 ペーター・ラウトマン著、長谷川美子訳『フリードリヒ【氷海】 』三元社、2000、 p.10. (Börsch-Supan, Helmut / Jähnig,Karl Wilhelm,1973) 85 神林恒道、仲間裕子, op.cit., pp.180-181 マリー・ヘレーネ・フォン・キューゲルゲン書簡による伝記。1808 年 12 月 28 日より。 86 神林恒道編『ドイツ・ロマン主義の世界―フリードリヒからヴァーゲナーへ―』 、法律 文化社、1990、p.40 87 仲間裕子, op.cit., p75, 註 12。 88 神林恒道、仲間裕子, op.cit., p.169 89 Hinz, op.cit., p.58. 90 総合目録には Berliner Ausstellungen と記載されているだけで、どの展覧会かはわか らない。この年、フリードリヒは体調不良で休暇をとっているため、書簡にも展覧会に ついての記載はない。 91 Hofmann, Werner, “Die Romantik – eine Erfindung?”, in: Casper David Friedrich die Erfindung der Romantik、Hamburg, 2006, pp.20-31, p.29. 92 Hinz, op.cit., pp.84-134.「現存の芸術家と最近逝去した芸術家の作品を主とするコレク ションを見ての意見」より、S92 にこの言葉が記載されている。 93 神林恒道、仲間裕子, op.cit., p.182. 94 仲間裕子, op.cit. ,p.152, 註 4。 95 1820 年代にジオラマやパノラマの流行とともに普及したが、ロマン主義の風景画家で 実際に透かし絵を制作したのは、フリードリヒとシンケルしか知られていない。 96 Norbert, Wolf, Painting of the Romantic Era, Köln, 1999, p.44. und 神林恒道、仲間 裕子編, op.cit., p.199. 97 Börsch-Supan, Helmut / Jähnig,Karl Wilhelm, op.cit., p453. 98 Ibid. 99仲間裕子, op.cit., pp.156-157.(Hinz, op.cit., p.58)ロシア皇帝ニコラス 1 世に作品を推 薦した、詩人の W.A.シュコウスキーに宛てた手紙。 この絵画はただランプの光でのみ見ることができ、二、三の装置が必要となります ……描いたのは次のようなものです。まずゴシック四季のアーチ窓にハープが立て 掛けてあります。その両横で二人の少女が、ハープの奏者を待ちわびているかのよ うに、マンドリンとギターを奏で、歌っています。窓から外を眺めると、遠くに森 で覆われた丘が見え、その上に満月が輝いています。―しかし待てども来ない少女 の友は、第二の窓で戸外に広がるバルコニーに座っています。そして月光に照らさ れた近くの教会からオルガンの音が響き渡って来て、少女はその音に合わせてハー プを奏でます。月はいっそう高く天に昇り、遠くでまどろんでいる町に青白い光を 注いでいます。―第三の絵では背丈の高い花々(ぜにあおい)の日田に若い音楽家 77 46 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 が座ったまま、眠りに陥り、夢を見ています。マンドリンが波の手から離れ、落ち ています。雲の上では三人の天使が音楽を奏で、歌を歌いながら、この眠っている 若者の方に舞い降りてくるのです。輝くばかりの光が高みから地上に注がれます。 ―第四の絵はまったく性質が異なります。それは森のなかの場面で、その森では魔 法の力によって大地から宝が奪われ、そのために天上のものがこの夜のもののため に捧げられるのです。 Ibid., p.248. Ibid., p.157. Hinz, op.cit., p.58. 神林恒道、仲間裕子, op.cit., p172. ガラスハーモニカは 18、19 世紀に好まれた楽器である。水平の軸に並べられたガラス 製の鐘をペダルで回しながら、水で濡らした手で擦って演奏する。感傷的な音色を奏 でるゆえに好まれた。 Hinz, op.cit., p.60. Verwiebe, Birgit, “Erweiterte Wahrnehmung Lichterscheinung- TransparentbilderSynästhesie”, in: Casper David Friedrich die Erfindung der Romantik、 Hamburg, 2006, pp.338-344. p.339. 仲間裕子, op.cit., pp.160-161.(Hinz, op.cit., p.72.) 倉田公裕、矢島國雄『博物館学』 、東京堂出版、1997、p.181 ジャン・ピエロ・ブルネッタ著、川本英明訳『ヨーロッパ視覚文化史』東洋書林、2010、 p.237. Ibid., p.240. 1812 年 9 月 14 日、ナポレオン軍がモスクワ入りを決行したことが事件の発端。ロシ ア側の作戦によって家事が起こり、数日間モスクワは炎上し続けた。焼きつくされた 市街で、フランス軍は食糧や駐屯場所を確保できず、ついには退却した。なお、モス クワ市民は予め避難していた。 (Ibid.) 長野順子「 「透かし絵」という魔法の鏡―F.シンケルの劇場改革への道」 、 『美学芸術学 論集』4 神戸大芸術学研究室、pp.1-19、2008、p.1 より、 「近辺の通りという通りは 馬車でごったがえし、初日にかけつけた人々は命からがら劇場の入口まで辿り着いた。 」 Ibid., p4. Ibid., p.5. 1808 年 12 月 29 日付の『シュペーナー新聞』にて。 Ibid., p.115. 鑑賞者の眼差しへの意識については、 《画家のアトリエからの眺め、右窓》に描かれた 鏡に映るフリードリヒの眼が示唆している。 仲間裕子, op.cit., p.159. 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Hagedorn’s 1780, Dresden, 1864. ・Zschoche , Herrmann, Caspar David Friedrich, Die Briefe, Hamburg,2006. 展覧会カタログ ・ 『ヨーロッパ絵画名作展』 、国立西洋美術館/東京、京都国立博物館/京都、1974 ・ 『フリードリヒとその周辺』 、東京国立近代美術館/東京、京都国立博物館/京都、1978 ・ 『19 世紀ドイツ絵画名作展』 、兵庫県立美術館/神戸、東京国立近代美術館/東京、1985 ・ 『ドレスデン国立美術館展―世界の鏡:カタログ編』 、兵庫県立美術館/神戸、国立西 洋美術館/東京、2005 ・ 『ドレスデン国立美術館展―世界の鏡:エッセイ編』 、兵庫県立美術館/神戸、国立西 洋美術館/東京、2005 ・Casper David Friedrich die Erfindung der Romantik、Hamburg,2006 ・From Caspar David Friedrich to Gerhard Richter German Paintings from Dresden, Köln, 2006. 54 図版リスト 図 1 《テッチェン祭壇画(山上の十字架) 》 、1808 年、油彩、カンヴァス、115.0× 110.5cm、ドレスデン、ノイエ・マイスター絵画館蔵 図 2 《峡谷の風景、朝》 、1830-35 年、透かし絵、76.0×130.0cm、カッセル国立美 術館蔵 図 3 《峡谷の風景、夕暮れ》 、1830-35 年、透かし絵、76.0×130.0cm、カッセル国 立美術館蔵 図 4 《世俗的音楽のアレゴリー》 、1830 年、紙、73.5×52.0cm、ルーヴル美術館蔵 図 5 《宗教的音楽のアレゴリー》 、1830 年、紙、72.2×51.5cm、ケムニッツ美術館 蔵 図 6 《天空的音楽のアレゴリー》 、1830 年、紙、72.2×51.5cm、ハンブルク美術館 蔵 図 7 《テッチェン祭壇画》 、トゥーン伯爵家寝室、”Der Sonntag der Zeit” 1939 年に 掲載された写真 図 8 《山の朝霧》 、1808 年、油彩、カンヴァス、71.0×104.0cm、ルードル市、ハ イデックスブルグ城蔵 図 9 《山岳の風景と十字架》 、1805-10 年、セピア、12.2×18.2cm、ワイマール古典 財団蔵 図 10 《教会のある冬の風景画》 、1811 年、油彩、カンヴァス、32.5×45.0cm、ロン ドン、ナショナル・ギャラリー蔵 図 11 《リーゼンゲビルゲの朝》 、1810-11 年、油彩、カンヴァス、108.0×170.0cm、 ベルリン、国立近代美術館蔵 図 12 《キリスト教会の幻影》1812 年頃、油彩、カンヴァス、66.5×51.5cm、シュ ヴァインフルト近郊オプバハ、ゲオルク・シェーファー・コレクション蔵 図 13 《山岳の十字架》 、1811-12 年、油彩、カンヴァス、44.5×37.4cm、デュッセ ルドルフ美術館蔵 図 14 《カテドラル》 、1818 年頃、油彩、カンヴァス、152.5×70.5cm、シュヴァイ ンフルト近郊オプバハ、ゲオルク・シェーファー・コレクション蔵 55 図 15 《山岳の虹の前の十字架》 、1817 年頃、ペン、水彩、27.0×20.8cm、ドレス デン版画素描館蔵 図 16 《山中の十字架》 、1823 年、油彩、カンヴァス、128.0×71.7cm、ゴーダ、ゴ ーダ城美術館 図 17 《森の中の十字架》 、1835 年、油彩、カンヴァス、43.0×32.0cm、シュトッ トガルト国立美術館蔵 図 18 ユベール・ロベール《ルーヴル美術館グランドギャラリーの改造計画》 、1796 年、油彩、カンヴァス、112.0×143.0cm、ルーヴル美術館蔵 図 19 アルブレヒト・デューラー《ドレスデン祭壇画》 、1496 年、油彩、カンヴァ ス、114.0×45.0cm、ドレスデン、アルテ・マイスター絵画館蔵 図 20 旧ドレスデン王立絵画館(現交通博物館) 、2013 年 7 月、筆者撮影 図 21 ベルナルド・ベロット《ユーデンホフから見たドレスデンのノイマルクトの 眺め》 、1748 年、油彩、カンヴァス、136.0×236.0cm、ドレスデン、アルテ・ マイスター絵画館蔵 図 22 絵画館内の見取り図『ドレスデンの王立ギャラリーのいとも名高き絵画に基 づいた版画選集』第 1 館、1753 年 図 23 コレッジョ《聖母と聖ゲオルギウス》 、1530-32 年、油彩、ポプラ材、285× 190cm、ドレスデン、アルテ・マイスター絵画館蔵 図 24 作者不詳《ドレスデン王立絵画館》 、1830 年、エッチング、198.0×246.0cm、 ドレスデン、版画素描館 図 25 カブリエル・ド・サントーバン〈ルーヴル宮のサロン・カレで行われた 1767 年のサロンの様子〉 、黒インクと水彩、25.0×46.5cm、個人蔵 図 26 ピエトロ・アントニオ・マルティーニ〈1785 年のサロンの風景〉 、1787 年、 エッチング、39.0×53.0cm、個人蔵 図 27 コレッジョ《羊飼いの礼拝(聖夜) 》 、1522-30 年、油彩、ポプラ材、256.0× 188.0cm、ドレスデン、アルテ・マイスター絵画館蔵 図 28 ヨース・ファン・クーフェ《東方三博士の礼拝》1525 年頃、油彩、オーク材、 215.0×185.0cm、ドレスデン、アルテ・マイスター絵画館蔵 図 29 ラファエロ《システィナの聖母》 、1512/13 年、油彩、カンヴァス、269.5× 201.0cm、ドレスデン、アルテ・マイスター絵画館蔵 56 図 30 作者不詳《Schossplatz のアカデミー校舎》 、エッチング 図 31 アレクサンダー・ティーレ《エルベ川岸からのブリュールテラス》 、1745 年、 エッチング 図 32 旧アカデミー校舎(かつてのブリュール図書館) 、1840 年、石版画 図 33 ブリュール図書館(1791 年アカデミー校舎のために改築した後の図面) 図 34 カナルホール内部 図 35 グスタフ・トイベルト《ブリュールの館とカナルホールからの階段》 、素描 図 36 F.-J.アイム《1824 年のサロン会館にあたり、美術家たちに褒章を授与するシ ャルル 10 世》1827 年、油彩、カンヴァス、173.0×256.0cm、ルーヴル美術 館蔵 図 37 展覧会会場ホール(カナルホール)の平面図、1829 年 図 38 《解放戦争戦没者の墓(古代英雄の墓) 》 、1812 年、油彩、カンヴァス、49.5 ×79.5cm、ハンブルク美術館蔵 図 39 《岩の谷 (アルミニウスの墓) 》 、 1813-14 年、 油彩、 カンヴァス、 49.5×70.5cm、 ブレーメン美術館蔵 図 40 《森のなかの猟兵》 、1814 年、油彩、カンヴァス、65.7×46.7cm、個人蔵 図 41 H.ヴァルトバール《ドレスデン都市景観図》 、1852 年、石版画 図 42 エルベ川周辺の写真、2013 年夏、筆者撮影 図 43 《画家のアトリエからの眺め、右窓》 、1805/06 年頃、セピア、31.0×24.0cm、 ウィーン、オーストリア・ギャラリー(ベルヴェデーレ)蔵 図 44 《画家のアトリエからの眺め、左窓》 、1805/06 年頃、セピア、31.0×24.0cm、 ウィーン、オーストリア・ギャラリー(ベルヴェデーレ)蔵 図 45 ゲオルク・フリードリヒ・ケルスティング《アトリエのフリードリヒ》 、1811 年、油彩、カンヴァス、54.0×42.0cm、ハンブルク美術館蔵 図 46 ゲオルク・フリードリヒ・ケルスティング《アトリエのフリードリヒ》 、1812 年、油彩、カンヴァス、51.0×40.0cm、ベルリン、ナショナル・ギャラリー 蔵 図 47 フリードリヒのアトリエ 33 番地、キューゲルゲンハウスに展示されている 写真を 2013 年 7 月筆者撮影 図 48 《シュトラルズント市の聖マリア教会の内部設計図》 、1817 年、鉛筆、ペン、 57 水彩、56.6×43.7cm、ニュルンベルク、ゲルマニア国立博物館蔵 図 49 《氷海》 、1823/24 年、油彩、カンヴァス、97.0×127.0cm、ハンブルク美術館 蔵 図 50 《ヴァッツマン山》 、1824-25 年、油彩、カンヴァス、133.0×170.0cm、ベル リン、ナショナル・ギャラリー蔵 図 51 T.ローランサン《マジック・ランタン》 、1799 年、エッチング 図 52 B.ビネッリ《マジック・ランタン》 、1815 年、エッチング 図 53 J.F.ボスィオ《マジック・ランタン》 、1804 年、エッチング 図 54 O.モレッリ《覗きからくりの見世物のある市場風景》 、1820 年頃、油彩、カ ンヴァス、個人蔵 図 55 カール・フリードリヒ・シンケル《モスクワの大火(透かし絵縮小画) 》 、1812 年、45.0×64.0cm、ベルリン、国立博物館蔵 (ご不便をおかけしますが、図版データはインターネットでは掲載いたしません) 58 表1.ドレスデン・アカデミーの展覧会 開催年 出品数 開催年 出品数 1801 数えられないほど多数 1826 682 1802 350 1827 647 1803 412 1828 640 1804 366 1829 640 1805 422 1830 774 1806 376 1831 757 1807 325 1832 693 1808 370 1833 826 1834 759 1809 1810 453 1835 666 1811 354 1836 433 1812 429 1837 316 1838 230 1839 304 1840 243 1813 1814 368 1815 1816 433 1841 391 1817 553 1842 312 1818 584 1843 369 1819 624 1844 344 1820 639 1845 465 1821 614 1846 464 1822 722 1847 471 1823 658 1848 505 1824 671 1849 1825 660 1850 59 491 表2.ドレスデン・美術アカデミー展覧会の開催日 開催年 開催日 開催年 開催日 1801 記載なし 1826 8月3日 1802 記載なし 1827 8月3日 1803 記載なし 1828 8月3日 1804 記載なし 1829 8月2日 1805 記載なし 1830 8月1日 1806 記載なし 1831 7 月 31 日 1807 3月5日 1832 8月1日 1808 3月5日 1833 8月1日 1834 8月4日 1809 1810 3月5日 1835 8月2日 1811 3月5日 1836 7 月 31 日 1812 3月5日 1837 7 月 30 日 1838 7 月 15 日 1839 7 月 14 日 1840 7 月 15 日 1813 1814 3 月 24 日 1815 1816 8月3日 1841 7 月 18 日 1817 8月3日 1842 記載なし 1818 8月3日 1843 7 月 16 日 1819 8月3日 1844 7 月 14 日 1820 8月3日 1845 7月6日 1821 8月3日 1846 7月5日 1822 8月3日 1847 7 月 11 日 1823 8月3日 1848 7 月 16 日 1824 8月3日 1849 1825 8月3日 1850 60 7 月 14 日 表3.フリードリヒの出品点数 開催年 出品数 開催年 出品数 1801 3 1825 3 1803 1 1826 1 1804 9 1827 5 1806 1 1828 2 1807 1 1829 3 1812 5 1830 2 1814 3 1831 1 1816 2 1832 2 1817 2 1833 5 1818 2 1834 1 1819 5 1835 1 1822 3 1836 8 1821 2 1837 3 1822 6 1838 1 1823 8 1840 10 1824 3 61 年表 ザクセンのヨーハン・ゲオルク 3 世、ドレス 1680 デンに素描塾創立。初代校長はザムエル・ボ ットシルト(1641-1701) 。 1705 美術学校、絵画アカデミーと称する。初代校 長はハインリヒ・フェーリング(1654-1725) 。 1747 ドレスデン王立絵画館開館。 1759 1 月 15 日より、大英博物館公開。 1763 外交官クリスチャン・ルードヴィヒハーゲド ルン、ドレスデンアカデミーの総裁となり、 改革に着手。翌年、総合芸術アカデミー (Allgemeine Kunstakademie)と改称。 ドレスデンアカデミー第 1 回展(以降 1809、 1765 13、15 年以外毎年開催) 。 1774 9 月 5 日、C.D.フリードリヒは、石鹸と蝋燭の 製造業者アドルフ・ゴットリープ・フリードリ ヒの息子として、当時のスウェーデン領、グラ イフスヴァルトに生まれる。 1779 1781 カッセルに欧州大陸初の博物館創設。 3 月 7 日、フリードリヒの母、ゾフィー・ドロ テーア死去。 ベルリンアカデミー第 1 回展(以降隔年ごと 1783 に開催) 。 ヴィーンアカデミー第 1 回展(第 2 回 1790、 第 3 回 1813) 。 1787 弟のクリストファーが溺死。 1790 グライフスヴァルト大学の図版教師ヨハン・ゴ 62 ットリープ・クヴィストルプの弟子になる。 1793 1794 ルーヴル美術館開館。 コペンハーゲン芸術アカデミー入学(~1798 年) 。 1797 ヴァッケンローダー『芸術を愛する一修道僧 の心情吐露』 1798 コペンハーゲンでも勉学を終え、ベルリンを経 シュレーゲル兄弟の『アテネーウム』の創刊。 て、芸術の都ドレスデンに定住する。 ティーク『フランツ・シュテルンバルトの遍 歴』 1799 3 月ドレスデン芸術アカデミーに初出品。 ゲーテの美術コンクール第 1 回開催。(~ 1805) 。 1801 1 月グライフスヴァルトに戻り、翌年 6 月まで 滞在。ルンゲと出会う。リューゲン島を 2 度訪 れる。 1803 8-9 月ベーメン北部へ旅行。この頃から油彩画 を開始。ドレスデンアカデミーにおいてセピア 画を展示。 《四季の循環》を制作。 1805 ヴァイマール芸術同好会展で《暁の巡礼》 、 《樫 の木のある風景》対幅作品が受賞。12 月 14 日、 ゲーテに礼状を書く。 1806 病気。ノイブランデンブルクを経て帰郷。8 月 ライン連邦結成。神聖ローマ帝国解散。イエ ドレスデンに戻る。10 月シューベルトがドレ ナ・アウエルシュテットの戦いで、ナポレオ スデンに滞在。解放運動グループ「フェーブス」 ン軍によりプロイセン軍壊滅。 に参加。 1807 北ボヘミアを旅行する。 1808 12 月《テッチェン祭壇画(山上の十字架)》をア トリエにて展示。 「ラムドーア論争」となる。 1809 翌年にかけてアン・デア・エルベ通り 27 番地 から 26 番地に住居を移す。11 月 6 日、父が死 63 去。 1810 6 月ケルスティングとリーゼンゲビルゲを旅 行する。9 月、シュライエルマッハー、ゲーテ が訪問。11 月《海辺の僧侶》 、 《オークの森の 修道院》をベルリン芸術アカデミー展覧会に出 品。この 2 点はプロイセン王室に買い上げら れ、フリードリヒはベルリン王立芸術アカデミ ーの在外会員となる。 1811 6 月彫刻家キューンとハルツ山地を呂国する。 ミュンヘンアカデミー第 1 回展。 (以降 3 年に 1 度の割合で開催、1851 まで存 イエナのゲーテを訪問。 続) 。 1812 1813 1814 《リーゼンゲビルゲの朝》がプロイセンのフリ クライスト、ブレンターノ、アルニム「フリ ードリヒ・ヴィルヘルム 3 世によって購入され ードリヒの海景画を前にした印象」 (ベルリン る。 《解放戦争戦没者の墓(古代英雄の墓) 》が 夕刊紙) 。 ベルリンで展示される。 ナポレオンのロシア遠征。 7 月フランス軍のドレスデン占領の間、エルプ 解放戦争(~1814 年)ライプツィヒの戦いで ザントシュタインゲビルゲに避難。 フランス軍に大勝する。 フランス軍からのドレスデン解放を祝う愛国 ウィーン会議(~1815 年) 。 美術展に参加。 (ドレスデンアカデミー展) 1815 8-9 月グライフスヴァルトとリューゲン島を訪 れる。 1816 12 月 4 日、年俸 150 ターラーの俸給をともな う、ドレスデン王立美術アカデミーの会員とな る。 1817 1818 医者で自然学者でもある画家のカール・グスタ フランクフルトに、美術アカデミーと美術館 フ・カールスと友人になる。 を兼ねた施設、シュテーデル美術研究所創立。 1 月 21 日、カロリーネ・ボマーと結婚。6-8 月妻と帰郷。9 月ノルウェー出身の風景画家ヨ ハン・クリスチャン・ダールと知り合う。神学 64 者のシュライエルマッハー、書籍商でフリード リヒ作品の収集家でもあるベルリンのライマ ーが訪問。 1819 7 月デンマーク皇太子クリスチャン・フリード リヒがアトリエを訪れる。8 月長女エマ・ヨハ ンナ誕生。 1820 4 月ナザレ派の画家ペーター・コルネリウスが アトリエを訪問。8 月アン・デア・エルベ通り 33 番地に転居。12 月ロシアのニコライ大公が アトリエを訪問。フリードリヒと親しい、人物 画家のゲルハルト・フォン・キューゲルゲンが 殺害される。 1821 6 月ロシアの詩人 W.A.シュコウスキーの訪問。 多数の絵の販売をロシア皇室に斡旋する。 1823 4 月ダールがフリードリヒの自宅の一階上に 転居。9 月次女アグネス・アーデルハイト誕生。 1824 1 月ドレスデン芸術アカデミー員外教授に任 命されるが、風景画教授の地位は与えられなか った。12 月息子グスタフ・アドルフが誕生。 彼は後に動物画家として名声を得る。 1825 《ヴァッツマン山》をドレスデンアカデミー展 に出品。 1826 6 月療養のためリューゲン島を訪れる。 1828 ボヘミアのテプリッツを訪れる。新たに創設さ デュッセルドルフアカデミー第 1 回展覧会。 れたザクセン芸術協会の会員となる。 1830 3 月プロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘ 9 月 9-11 日、ドレスデンで暴動。 ルムがアトリエを訪問。 ベルリン美術館(現アルテス・ムゼウム)開 館。 1832 ドレスデンアカデミー展に《大狩猟場》を出品。 65 ザクセン芸術協会により購入される。 1834 11 月フランスの彫刻家ダーヴィド・ダンジェ がアトリエを訪問。 1835 6 月脳卒中で倒れ、手足の自由を失う。8-9 月 テプリッツにて 6 週間の療養滞在。病気によ り、主にセピア画と水彩画を制作。 1836 病状悪化。5 月テプリッツで再び療養。 1838 6 月ドレスデン芸術アカデミーにおいて最後 アルテ・ピナコテーク開館。 の作品群が展示される。 1840 5 月 7 日、ドレスデンにて歿。10 日ドレスデ ンのトリニタティス(聖三位一体)墓地に埋葬 される。 1853 ノイエ・ピナコテーク開館 1854 ミュンヘンのグラスハウスにて第 1 回ドイツ 美術展覧会。 1855 ミュンヘンにバイエルン国立博物館創立。 (ア ルテ・ピナコテーク) 1891 ヴィーンに美術史美術館開館。 66
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