Title 広汎性発達障害の子どもをもつ親の感情体験過程に関す る研究

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Author(s)
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広汎性発達障害の子どもをもつ親の感情体験過程に関す
る研究
嶺崎, 景子; 伊藤, 良子
東京学芸大学紀要. 総合教育科学系, 57: 515-524
2006-02-00
URL
http://hdl.handle.net/2309/1441
Publisher
東京学芸大学紀要出版委員会
Rights
東京学芸大学紀要 総合教育科学系 57
pp.515 ∼ 524,2006
広汎性発達障害の子どもをもつ親の感情体験過程に関する研究*
嶺h
景子**・伊藤 良子***
教育実践研究支援センター
(2005 年 9 月 30 日受理)
である。慢性的悲哀説の特徴として,中田6)は次の 4
1.問題
点を挙げている。障害などの終結することがない状況
1.1.はじめに
においては,悲哀や悲嘆が常に内面に存在すること。
近年,軽度発達障害の子どもへの支援に注目が集ま
それらは常には顕現しないが,時に再起するか周期的
っており,さまざまな研究,報告がなされている。一
に顕現すること。反応の再起の要因には内面的なもの
方で,こうした子どもたちを育てる親の抱える問題に
もあるが,外的な要因もストレスとして作用すること。
着目した研究はまだ少ないのが現状である。また,軽
喪失感・失望・落胆・恐れなどの感情を含むことがあ
度発達障害の一つである高機能広汎性発達障害は,広
り,事実の否認の態度が並存することもあること。
汎性発達障害に含まれる概念であるにも関わらず,知
的障害を伴う広汎性発達障害の子どもをもつ親と高機
1.2.3.螺旋形モデル
能広汎性発達障害の子どもをもつ親について比較を行
これまで行われてきた親の障害受容研究には,対象
った研究は多くはない。そこで,本研究では,広汎性
者の子どもの障害の種類が不詳であるなどの問題点が
発達障害の子どもをもつ親全体に焦点を当て,親の感
あった。障害の違いに焦点を当て,調査を行った結果,
情体験過程について検討を加えたい。
確定診断の困難さが親の障害受容過程に影響すること
を見出した中田6)は,段階説と慢性的悲哀説の概念を
1.2.障害のある子どもを持つ親の障害受容過程
包括できるモデルの必要性を訴え,螺旋形モデルを提
1.2.1.段階説
唱した。螺旋形モデルの考え方は,親の内面には,障
段階説は,親の障害受容過程について非常に分かり
害を肯定する気持ちと否定する気持ちの両方の感情が
やすく説明しており,広く受け入れられてきた。その
表と裏の関係として常に存在し,それらが表面的には
ため多くの研究がなされているが,中でもよく取り上げ
交互に現れ,繰り返すように見える。しかし,段階説
られるのが Drotar, et.al.
2)
である。段階説には,次のよ
うな特徴がある。まず,障害を知ったために生じる混乱
が唱えるような最終段階があるのではなく,すべてが
適応の過程であると考えられる,というものである。
は時間の経過のうちに回復する,正常な反応である。ま
た,受容を最終的なゴールとし,受容にたどり着くまで
1.2.4.軽度発達障害のある子どもを持つ親の障
害受容過程
に,いくつかのステップを設定している。しかし同時に,
段階説では受容を誰もが行き着くゴールとすることで,
近年では,軽度発達障害の子どもをもつ親の障害受
行き着いていない親に過剰な要求をしてしまう危険性
容過程についても,いくつかの研究がなされている。
があるという(中田6))問題点も挙げられてきている。
こうした研究はいずれも,軽度発達障害の子どもをも
つ親の障害受容過程は,段階説の枠組みではとらえら
1.2.2.慢性的悲哀説
慢性的悲哀という言葉を初めて用いたのは Olshansky
れないことを示している。また,重度から軽度まで含
8)
めて,発達障害の子どもをもつ親全般の障害受容を考
* A study on the process of feelings of parents who have children with parvasive developmental disorders / Keiko MINESAKI, Ryoko ITO
** 大田区立都南小学校
*** 東京学芸大学(184-8501 小金井市貫井北町 4–1–1)
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東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
えた時,螺旋形モデルによるとらえ方がふさわしいこ
スも障害受容過程も,いずれも親の感情体験であると
とが示唆されてきている。
考える。感情体験を明らかにしていくには,尺度を用
いてある時期の感情体験の傾向を見る方法と,面接に
1.2.5.障害受容の定義
より,個々のケースについて時間を追って明らかにす
これまで,障害のある子どもをもつ親の障害受容に
る方法が考えられる。個々の感情に即したサポートの
関する研究を概観してきたが,障害受容についてはっ
あり方を検討するために,本研究では質問紙および面
きりと定義をしている研究はほとんど見当たらない。
接を行う。
本研究では亀尾 3)の定義を元に,障害受容を「障害を
また,これまでの研究から,子どもの障害の種類に
もった子どもを自分の子どもとしてあるがままに受け
よって親のストレスが異なること,軽度発達障害の子
入れ,現実を受け入れていくこと」と定義する。なお,
どもをもつ親のストレスや障害受容過程の構造・様相
6)
が用いた障
が,中・重度の発達障害の子どもをもつ親のものとは
害を肯定する感情と否定する感情,という言葉に代わ
異なることが示唆されてきている。そのため,本研究
り,ポジティブな感情,ネガティブな感情という用語
では相対的にストレスが高いとされる,広汎性発達障
を用いる。
害の子どもをもつ親を対象とする。その中でも,高機能
今後検討を加えていくに当たって,中田
の子どもをもつ親と中・重度の知的障害を伴う子ども
1.3.障害のある子どもを持つ親のストレス
をもつ親とでは,感情体験も異なるものと推測される。
障害のある子どもの親のストレスに関して,中塚7)
そこで本研究では,高機能広汎性発達障害の子ども
は,障害のある子どもの親のストレスを因子分析より,
をもつ親(以下,HF 群)と知的障害を伴う子どもをも
①社会的圧迫感,②障害児を持つことによる負担感,
つ親(以下,MR 群)を対象としての質問紙および面
③不安感,④療育探究心,⑤発達可能性への期待の5
接を通して,次の仮説の検証を行い,広汎性発達障害
因子を抽出した。障害のある子どもの親のストレスの
の子どもをもつ親の感情体験を明らかにする。
要因として,①子どもの年齢,②子どもの性別,③障
害の種類がよく取り上げられている(本山5))。
仮説1
通級学級に通う子どもの親と,養護学校に通う子ど
HF 群,MR 群とも,螺旋形モデルが示すように,
もの親のストレスについて検討した本山5)は,軽度発
ポジティブな感情とネガティブな感情を併せ持って
達障害児をもつ親のストレスは,中・重度発達障害児を
いるだろう。
もつ親のそれとは構造が違っていることを示した。渡
仮説2
邉
11)
HF 群と MR 群とでは,感情体験の変化の様相が異
は,高機能自閉症・アスペルガー障害の子どもを
もつ親のストレスについて,入園・就学という移行期に
なっており,HF 群は常に両面的な感情を示すだろう。
焦点を当て,検討した。その結果,高機能自閉症・アス
これに対し MR 群は,両面的な感情から次第にポジ
ペルガー障害の子どもをもつ親は定型発達児の親より
ティブな感情がより強くなるだろう。
も不安感や負担感が高いこと,高機能自閉症・アスペル
ガー障害の子どもをもつ親でも,子どもの問題が顕在
3.方法
化した時期によって不安感の高さが異なることが明ら
3.1.対象者について
かとなった。
以上のように,障害のある子どもの親は,様々なス
本研究において,感情体験に関する質問紙,サポー
トレスを感じていること,そしてそのストレスの高さ
トに関する質問紙および面接調査を行った対象者は,
や構造は,子どもの年齢や障害の種類・程度などの要
広汎性発達障害の小学校1年生から高等学校3年生ま
因により推移することが明らかとなっている。
での子どもをもつ主養育者である。彼らから報告され
た子どもの最新の IQ(もしくは DQ)70 未満を MR 群,70
2.目的
以上を HF 群とした。MR 群 12 名,HF 群 15 名であった。
対象者の子どもの年齢の平均は,MR 群が 132.25 月
障害のある子どもの親に関する研究は,上記のよう
(11.02 歳,SD = 32.42),HF 群が 155.4 月(12.95 歳,
な障害受容過程とストレスに関する研究が主になされ
SD = 31.13)であった。T 検定の結果,2群間に有意差
てきた。それに対し,筆者はストレスに関する研究と
は見られなかった。
障害受容過程に関する研究の共通点から,親のストレ
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現在の所属に関しては,MR 群では 12 ケース中 11 ケ
嶺 h ・伊藤:広汎性発達障害の子どもをもつ親の感情体験過程に関する研究
ースが心身障害学級もしくは養護学校に所属しており,
てから記入してもらった。記入例を図1に示す。
現在は特別な教育的支援を日常的に受けていた。一方
の HF 群では小学校に所属する7名中4名が通級指導教
室を利用していた。また,中学校に所属する5名は公
立校の通常学級に1名,心身障害学級に2名,私立校
の障害児を集めた学級に1名,フリースクールに1名
がそれぞれ所属していた。対象者は HF 群の1名以外全
ケースが東京都在住者であった。
図1 感情体験に関する質問紙・記入例
3.3.手続き
3.2.質問紙について
3.2.1.フェイスシート
感情体験に関する質問紙と面接により調査を行っ
面接を始める前に,対象者にフェイスシートに記入
た。面接は A 大学附属 B 研究施設内の面接室か,対象
してもらった。フェイスシートは次のような項目から
者の自宅もしくは自宅近くの静かな場所で実施した。
構成した。
面接は,感情体験に関する質問紙に記入してもらった
① 子どもが生まれてから現在までの間に受けてき
後,質問紙の内容を手がかりとしながら自由に話をし
てもらう,半構造化面接である。
たサポートをたずねる項目
② 子どもの障害が明らかになる過程における節目
となる時期(発達上の問題への気づき,他者か
4.結果と考察
らの障害の指摘,診断)について,きっかけや
誰から告げられたのかといったこと,および,
4.1.障害が明らかになるまでの過程について
本研究では,障害が明らかになるまでの過程として,
その時の感情をたずねる項目
9)
のサポート尺度に用い
3つの節目となると考えられる時期を設定した。3つ
られた項目と結果を参考に,行われているサポートを
の時期とは,「気づきの時期(子どもの発達上の問題に
広く網羅できるよう,選定した。②の時期については,
対象者自身が気づいた時期)」,「指摘の時期(第三者か
これまで様々な障害受容研究において取り上げられて
ら指摘を受けた時期)」,「診断の時期(医師による診断
きた,障害受容過程における親の感情の揺れ動いた時
もしくは専門家による障害名の告知を受けた時期)」と
期を参考に選定した。さらに,②の感情については,
する。
①の項目については,宋ら
松下
4)
気づきの時期の MR 群の平均は 22.58 月(1.88 歳,
の用いた診断時の感情項目を参考にし,予備面
SD=9.95),HF 群の平均は 25.13 月(2.09 歳,SD=20.71)
接を行って数項目を追加,削除し選定した。
であった。T 検定の結果,気づきの時期に有意差はな
3.2.2.感情体験に関する質問紙
かった。指摘の時期は,指摘した人や,その指摘の内
感情体験に関する質問紙は,芦澤1)の形式に手を加
容にばらつきがあるため,時期の検定は行わなかった。
えて作成した。感情体験の項目は,松下 4),亀尾 3),
診断の時期は,MR 群で平均 42.8 月(3.57 歳,
1)
の研究を参考にして選定した。また,感情体験
SD = 36.39),HF 群で平均 98.1 月(8.18 歳,SD = 53.41)
項目は,子どもに関する感情体験と親自身に関する感
であった。T 検定の結果,有意差があり(t = − 3.06,
情体験からなり,ポジティブな感情とネガティブな感
df = 25,P<.01),MR 群より HF 群の方が有意に診断の
情が同数になるように構成した。
時期が遅かった。また,気づきの時期から診断の時期
芦澤
対象者には,「お子さんの誕生から現在までの間に,
までの期間は,
MR 群で平均 20.25 月
(1.69 年,
SD=36.08),
あなたご自身がどのように感じ,また,どのように思
HF 群で平均 73 月(6.08 年,SD = 60.46)を要していた。
っていたか(いるか)についてお尋ねします。各項目
T 検定の結果,有意差が得られ(t’ = − 2.81,df = 23,
に書かれているような気持ちを経験したことがある場
P<.01),MR 群より HF 群の方が有意に気づきの時期か
合は,『ある』に○をつけてください。『ある』と答え
ら診断の時期までに時間がかかっていた。
た方は,お子さんの年齢を表示した枠に,そのような
以上の結果から,HF 群は MR 群に比べて診断を受け
気持ちを持っていた時期をマークしてください。また,
た時期が有意に遅いことが明らかになった。しかし,
一番強くそう感じていた時期に○をつけてください。
気づきの時期については,MR 群と HF 群間に差は見ら
以下の例を参考に,ご記入ください。」という教示をし
れず,広汎性発達障害の子どもをもつ親が子どもの発
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達上の問題に気づく時期は,知的障害の有無には関係
していたが,現在までの間にグラフの軌跡が交差し,
しないことが示された。聞き取り調査時に,発達上の
現在ではポジティブな感情体験の回答比率の方が高く
問題に気づいたきっかけとして「目が合わなかった」
なっている型を指す。p-n 型は,初めはポジティブな感
「言葉がなかなか出なかった」「ひとり遊びが好きで,
情体験の方が高い回答比率を示していたが,現在では
奇妙な遊び方をしていた」「周りの子と比べて,明らか
ネガティブな感情体験の回答比率の方が高くなってい
に様子が違っていた」といったコメントが両群共にあ
る型を指す。p 型,n 型はそれぞれ,感情体験項目を報
ったことから,子どもは現在の知的障害の有無に関わ
告し始めてから現在まで,ポジティブもしくはネガテ
らず幼児期には同様の問題を呈することが示唆された。
ィブな感情体験が一貫して高い回答比率を示している
そのために,気づきの時期に差が見られなかったもの
型を指す。螺旋型は,ポジティブな感情体験とネガテ
と考えられる。
ィブな感情体験のグラフの軌跡が交差を繰り返してい
る型を指している。
4.2.質問紙から見られた感情体験の変化過程につ
いて
各ケースの感情体験の変化の軌跡を示すグラフを
図2_1 から図 2_27 として示す。
4.2.1.分析方法
感情体験に関する質問紙の分析方法としては,まず,
各感情体験項目の記入内容の得点化を行った。年齢が
気:気づきの時期,指:指摘の時期,診:診断の時期
記された枠は半年毎に区切られており,この半年の区
切りを1セルとし,マークされた部分を1点,マーク
されていない部分を0点とした。この個人得点から,
ポジティブな感情,ネガティブな感情について,年齢
ごとの個人の回答比率(各項目における年齢ごとの個
人得点を,ポジティブ,ネガティブな感情ごとに合計
し,年齢ごとの個人の総記入数で割ったもの)を算出
し,年齢を横軸に,個人の回答比率を縦軸にとってグ
ラフを作成した。
4.2.2.信頼性の検討
本研究で用いた感情体験に関する質問紙は,先行研
図 2-1
感情体験回答比率・ MR ①
図 2-2
感情体験回答比率・ MR ②
究に基づき作成した,本研究独自の質問紙である。こ
の質問紙に対する記入内容の信頼性を検討するため再
調査を行い,以下の計算式により一致率を算出した。
再調査には 22 ケース(81.48 %)の協力を得た。
一致セル数
一致率(%)= −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− × 100
一致セル数+不一致セル数
一致率を算出した結果,一致率平均は 82.25 %であり,
一致率平均が8割を上回っているため,記入内容には
一定の信頼性が認められるものと考える。
4.2.3.個別ケースの結果
各ケースのグラフを作成したところ,グラフを5つ
の型に分類できた。以下,分類したグラフの型に着目
して分析を行った。
グラフの型とは,回答比率を算出しグラフ化したも
のの軌跡を5つの型に分類するものである。n-p 型は,
初めはネガティブな感情体験の方が高い回答比率を示
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嶺 h ・伊藤:広汎性発達障害の子どもをもつ親の感情体験過程に関する研究
図 2-3
図 2-4
感情体験回答比率・ MR ③
図 2-7
感情体験回答比率・ MR ⑦
感情体験回答比率・MR ④
図 2-8
感情体験回答比率・ MR ⑧
図 2-5
感情体験回答比率・ MR ⑤
図 2-6
感情体験回答比率・ MR ⑥
図 2-9 感情体験回答比率・ MR ⑨
図 2-10
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感情体験回答比率・ MR ⑩
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図 2-11 感情体験回答比率・ MR ⑪
図 2-15
図 2-12 感情体験回答比率・ MR ⑫
図 2-16
感情体験回答比率・ HF ③
感情体験回答比率 HF ④
図 2-13 感情体験回答比率・ HF ①
図 2-17
感情体験回答比率・ HF ⑤
図 2-14 感情体験回答比率・ HF ②
図 2-18
感情体験回答比率・ HF ⑥
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嶺 h ・伊藤:広汎性発達障害の子どもをもつ親の感情体験過程に関する研究
図 2-19
感情体験回答比率・ HF ⑦
図 2-23
感情体験回答比率・ HF ⑪
図 2-20
感情体験回答比率・ HF ⑧
図 2-24
感情体験回答比率・ HF ⑫
図 2-21
感情体験回答比率・ HF ⑨
図 2-25
感情体験回答比率・ HF ⑬
図 2-22
感情体験回答比率・ HF ⑩
図 2-26
感情体験回答比率・ HF ⑭
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が有意に小さいことが示された。また,現在の感情体
験の回答比率の差についても T 検定を行ったところ,
有意差があり(t = 2.29,df = 14,P<.05),HF 群の方が
MR 群よりも有意に比率の差が小さいことが示された。
よって,気づきの時期に差のない MR 群と HF 群では,
幼児期よりネガティブな感情をポジティブな感情より
強く,両群ともに同程度に体験するものと考えられる。
また,グラフが交差しポジティブな感情体験がネガテ
ィブな感情体験を上回った後は,MR 群よりも HF 群の
方が回答比率の差が小さい事が明らかとなった。よっ
図 2-27 感情体験回答比率・ HF ⑮
て,両群を比較すると,MR 群はよりポジティブな感
4.2.4.感情体験のグラフに関する分析
情体験の比率が高くなり,HF 群はポジティブな感情体
MR 群については,n-p 型が8ケース(MR ①,MR ②,
MR ④,MR ⑤,MR ⑦,MR ⑨,MR ⑩,MR ⑫),n 型
験がネガティブな感情体験を上回った後も MR 群より
両面的な感情を示しているものと考えられる。
2ケース(MR ③,MR ⑪),p-n 型1ケース(MR ⑧),
螺旋型1ケース(MR ⑥)であった。HF 群については,
4.2.5.仮説の検証
n-p 型が8ケース(HF ①,HF ②,HF ③,HF ④,HF ⑤,
次に,目的において述べた仮説の検証を行う。
HF ⑩,HF ⑬,HF ⑭),p 型4ケース(HF ⑥,HF ⑦,
仮説1『HF 群,MR 群とも,螺旋形モデルが示すよ
HF ⑧,HF ⑨),n 型1ケース(HF ⑫),p-n 型1ケース
うに,ポジティブな感情とネガティブな感情を併せ持
っているだろう』に対しては,それぞれのケースにお
(HF ⑮)
,螺旋型1ケース(HF ⑪)であった。
p 型は HF 群のみに4ケース報告されている。この4
けるグラフの軌跡の推移より,支持できるものと考え
ケース中2ケースは,今回の調査において対象となっ
る。具体的には,現在までの過程においても現在も,
た子どもの障害が明らかになった時期には既にきょう
全体として両方の感情を体験してきていること,なら
だいが自閉症との診断を受けており,自閉症および広
びに,現在はポジティブな感情体験のみを報告してい
汎性発達障害に関する知識は持っていたという。事前
るケースにおいても,これまでの各ケースの感情体験
の障害や相談先に関する知識が親の感情体験の変化と
の推移などから,今後再びネガティブな感情を体験する
も関係があることが示唆された。
ことが予想されることから,支持できるものと考える。
仮説2『HF 群と MR 群とでは,感情体験の変化の様
また,グラフの型は5つの型に分かれているものの,
これまでの感情体験の推移を示すグラフから,全ての
相が異なっており,HF 群は常に両面的な感情を示すだ
ケースでポジティブな感情とネガティブな感情の両方
ろう。これに対し MR 群は,両面的な感情から次第に
の感情を体験してきていることが明らかとなった。
ポジティブな感情がより強くなるだろう』については,
MR 群,HF 群ともに n-p 型のケースが最も多かった。
グラフの型による分類と,MR 群,HF 群という群分け
2
n-p 型内で両群の比較を行った結果,ポジティブな感情
体験がネガティブな感情体験を上回った後には,HF 群
という2つの変数間の関係を x 検定により検討した結
の方が MR 群よりも有意に回答比率の差の平均が小さ
果,有意差が見られなかった。さらに,対象者全体に
く,現在の回答比率の差においても HF 群の方が MR 群
2
おけるグラフの型の比率を x 検定により検討した結
2
よりも有意に小さいことが示された。これらから,全
果,有意差が得られ(x = 26.50,df =4,p<.01),n-p 群
体として,MR 群の方が両面的な感情を抱きつつも,
が他の型より多いことが示された。よって,ここから
よりポジティブな感情が強くなる傾向があることが示
は n-p 型のケースに着目し,MR 群と HF 群の比較検討
唆された。よって,仮説2についても,本研究の結果
を行う。
支持されたものと考える。
グラフの交差する前後における,ポジティブな感情
体験とネガティブな感情体験の回答比率の差の平均に
4.3.感情体験の変化のきっかけについて
ついて T 検定を行った。T 検定の結果,交差前におい
4.3.1.分析方法
質問紙の分析の結果,感情体験の変化の様相がグラ
ては有意差が見出されなかった。交差後の回答比率の
差の平均については,有意差があり(t = 2.65,df = 14,
フで表された。感情体験の変化の中でも,特に大きな
P<.05),HF 群の方が MR 群よりも回答比率の差の平均
変化の時期であると考えられるのは,感情体験のグラ
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嶺 h ・伊藤:広汎性発達障害の子どもをもつ親の感情体験過程に関する研究
フが交差した時期である。感情体験の過程をより詳細
診断や指摘が関係している6ケースはいずれも,障害
に明らかにするために,このグラフが交差した時期と,
が明らかになった時期がグラフの交差した時期と密接
障害が明らかになるまでの過程の時期および幼稚園や
にかかわっているものと考えられる。また,残りの2
学校等の所属機関の移行の時期とを比較し,グラフが
ケース中1ケースは療育開始から1年後に,もう1ケ
交差した時期と関係のある時期を検討した。グラフが
ースは幼児期に海外に在住しており,帰国した時期に,
交差した時期に,障害が明らかになるまでの過程とな
それぞれグラフが交差している。
これらから,感情体験のグラフが交差した時期の特
る出来事や所属期間の移行が見られなかった場合は,
面接において得られたコメントより,グラフが交差した
徴としては以下のことが挙げられる。MR 群では,グラ
時期に関係のある時期を検討した。以下の分析は,感情
フが交差した時期と療育開始が関係していることが多
体験に関する質問紙と同様に,n-p 型のケースで行った。
かった。また,療育に慣れたり,親自身の気持ちに整
理がつくまでには時間がかかるため,何らかの出来事
4.3.2.グラフが交差した時期の特徴
があった時期とグラフが交差した時期は必ずしも一致
MR 群で n-p 型を示した8ケース中,半数の4ケース
するものではないことが示された。HF 群では,障害が
において,療育開始がグラフの交差した時期に関係し
明らかになった時期とグラフの交差した時期が一致す
ていると考えられる。2ケースは療育開始の時期とグ
ることが多く,グラフの交差した時期と障害が明らか
ラフの交差した時期が一致している。2ケースは療育
になった時期が密接に関係していることが示唆された。
開始から半年,もしくは1年ほど経過してからグラフ
が交差しているが,いずれのケースも「療育開始後し
5.本研究のまとめと課題
ばらくして」「療育になじんできて」とコメントしてい
ることから,療育開始がグラフの交差した時期に関係
5.1.本研究のまとめ
すると考えられる。他には,診断をきっかけとすると
本研究は,広汎性発達障害の子どもをもつ親の感情
考えられるケースが1ケースあり,このケースは4ヵ
体験の過程を,MR 群と HF 群の比較を通して明らかに
月後に療育を開始していた。また,幼稚園就園をきっ
することを目的とし,以下のような結果を得た。
かけとすると考えられるケースが1ケースあり,この
子どもの障害が明らかになった過程については,子
ケースでは就園を機に「(子どもの障害を)自分の中で
どもの発達上の問題への気づきの時期には両群の間に
しっかり認めた」とコメントしている。残りの2ケー
差は見られなかったが,診断の時期は HF 群が有意に遅
スは,きっかけとなったと考えられる,グラフが交差
かった。
親の感情体験については,知的障害の有無を問わず,
した時期と時期が完全に一致する出来事が見出されな
かった。しかし,いずれのケースも感情体験の変化の
広汎性発達障害の子どもをもつ親はポジティブな感情
きっかけとして,親自身の気持ちに「整理がつき始め
とネガティブな感情を併せ持っていること,MR 群で
た」「余裕が出てきた」とコメントしていた。
は次第にポジティブな感情がより強くなるのに対し,
HF 群で n-p 型を示したのも8ケースであった。半数
HF 群では常に両面的な感情を体験していることが明ら
の4ケースにおいては,診断がグラフの交差した時期
かとなった。また,親の感情体験は HF 群では特に障害
と関係があると考えられる。そのうち2ケースは幼児
が明らかになった時期,MR 群では特に療育開始をき
期に診断を受けており,すぐに療育を開始している。
っかけに変化することが示唆された。
他の2ケースは子どもが不登校になった後に診断を受
本研究では螺旋形モデルを支持する形で仮説を立て,
けたケースであった。指摘が関係すると考えられるケ
検証を行ってきたが,以上のような結果から筆者は,
ースが2ケースあった。いずれのケースとも,指摘を
障害,特に本研究において対象とした広汎性発達障害
受けた相手が所属機関の人であったことが共通してい
の子どもをもつ親の感情体験は,段階説や螺旋形ほど
る。また,指摘が関係すると考えられるケースのうち
はっきりしたモデルでは捉えきれず,より不安定な両
1ケースでは,指摘を受けた時期にポジティブな感情
面的な感情を抱きつつも,その内容は確実に変化し,
とネガティブな感情の回答比率が同率になり,診断を
その時々の出来事に向かい合っているものと考える。
受けた時期にポジティブな感情の回答比率がネガティ
また,先行研究では,障害のある子どもをもつ親の感
ブな感情の回答比率よりも高くなっている。もう1ケ
情体験について,『障害受容』,『適応過程』という異な
ースでは,指摘を受けた時に「障害だとわかった」と
る用語が用いられてきている。筆者は本研究の結果か
コメントしている。よって,グラフが交差した時期に
ら,障害のある子どもをもつ親の感情体験を表す言葉
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東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
として,受容というゴールを想定している『障害受容』
がより高いという可能性がある。今後,本研究の成果
という言葉よりも,『適応過程』という言葉がふさわし
を支援に役立てていく上では,留意すべき点であろう。
いものと考える。障害のある子どもをもつ親の感情体
験は,両面的な感情を抱きながらもその時々の出来事
引用文献
に適応していく過程なのではないだろうか。
1)芦澤清音: LD およびその周辺児をもつ母親の適
5.2.今後の課題
応過程,LD 研究,10,48_58,2001.
本研究において,広汎性発達障害の子どもをもつ親
2)Drotar, D., Baskiewicz, A., Irvin, N., Kennell, J. &
の感情体験では,ポジティブな感情とネガティブな感
Klaus, M.: The adaptation of parents to the birth of an
情が常に存在することが明らかとなり,さらにその感
infant with a congenital malformation : A hypothetical
情体験の内容が年齢とともに変化することが示唆され
model, Padiatrics, 56, 710_717, 1975.
た。しかし,感情体験の内容が具体的にどのように変
3)亀尾綾子: ADHD をもつ子どもの母親が体験する
化するのか,詳細にわたり明らかにすることはできな
感情−適応過程の観点から−,上智大学文学部研
かった。今後の課題として,本調査における感情体験
究科心理学専攻修士論文,2002.
について,とくに面接調査の内容をより詳細に分析す
4)松下真由美:軽度発達障害児をもつ母親の障害受
る必要があろう。今回の分析対象から除いた,障害が
容過程についての研究,応用社会学研究 東京国
明らかになる過程の気づき,指摘,診断時の感情と,
際大学大学院社会学研究科,13,27_52,2003.
それぞれの時期のニーズについてのコメントも,今後
5)本山優子:通級学級に通う児童の親のストレスに
関する研究−ストレスパターンから見た効果的な
分析を行いたい。
サポートの考察−,東京学芸大学大学院教育学研
なお,本研究では適応過程を中心として感情体験の
検討を行ったが,調査対象者の子どもの年齢が平均で
究科学校教育専攻心理学講座修士論文,2001.
11 ∼ 12 歳程度と若く,今後親の感情体験に変化が見ら
6)中田洋二郎:親の障害の認識と受容に関する考
れる可能性が大きいものと考えられる。さらに,HF 群
察−受容の段階説と慢性的悲哀−,早稲田心理学
において,より年齢の高い子どもを持つ親ほど将来の,
年報,27,83_92,1995.
特に就労への不安を口にしていた。就労を巡っては杉
山ら
10)
7)中塚善次郎:障害児を持つ母親のストレスの構造
(2 ),和歌山大学教育学部紀要教育科学,34,
により,知的な能力と安定就労は一致せず,む
5_10,1985.
しろ知的な遅滞のない群において,安定就労が極めて
困難であることが示されている。このように,特に高
8)Olshansky, S.: Chronic sorrow: A response to having
機能広汎性発達障害の子どもとその親にとっては,就
a mentally defective child, Social Casework, 43,
190_193, 1962.
労は学校生活とはまた異なる危機的状況であるといえ
よう。本研究の対象は,学齢期にある子どもをもつ親
9)宋慧珍・伊藤良子・渡邉裕子:高機能自閉症・ア
としたが,就労にまつわる親へのサポートや,子ども
スペルガー障害の子どもたちと親の支援ニーズに
が社会人になってからのサポートについても,今回の
関する調査研究,東京学芸大学紀要 第1部門
ような親の感情に配慮したサポートのあり方,という
教育科学 第 55 集,2004.
視点に立ち,検討することが課題であろう。
10)杉山登志郎・高橋脩・石井卓:自閉症の就労をめ
また,本研究は調査対象者数が少なく,調査に協力
ぐる臨床的研究,児童青年精神医学とその近接領
してくださった対象者は比較的情緒が安定していたも
のと考えられる。よって,本研究の,特に感情体験の
域,37,241_253,1996.
11)渡邉裕子:高機能自閉症・アスペルガー障害の子
変化の様相に関する分析を一般的な傾向と述べるには,
どもの移行支援に関する研究−入園・就学前の親
考慮すべき点が残っていると言えよう。本研究におい
の行動やストレス,支援ニーズから検討する−,
て n 型を示したケースでも,ポジティブな感情を体験
東京学芸大学大学院教育学研究科総合教育開発専
してきたことが示されているため,広汎性発達障害の
攻教育カウンセリングコース修士論文,2003.
子どもを持つ親が両面的な感情を体験することは支持
されたと考えるが,一般的な傾向としては,ネガティ
付記
ブな感情をずっと体験する n 型のようなケースがより
多い,もしくは,現在のネガティブな感情体験の比率
本研究は平成 14 ∼ 16 年度科研費補助金基盤研究
C(2)14580269 の補助を受けて実施された。
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