亀井茲矩コース ~鹿野城主 亀井茲矩公に縁のあるコース~ ①鳥取市鹿野往来交流館童里夢(ドリーム) 鳥取県東部及び鳥取市西地域(青谷・気高・鹿野)の交流の拠点として 地域や観光情報を発信している観光施設。館内には多目的ホール、 お食事・お茶処、地域特産品展示・販売スペースなどがあり、 お客様に地域の魅力をお伝えしている。 ↑↑お車は童里夢に駐車して散策してください。 徒歩約2分 ②馬つなぎ石 城下町の中央を鹿野往来が通っており、鹿野祭りの屋台が通るメイン通りには、今でも 馬つなぎ石や牛つなぎ石が残っている。現在、藩政時代に設置させれたと言われるものが7個あり、 当時、因幡・伯耆の中心地で交通・商業の要衝の地であったことがうかがえる。 徒歩約11分 ③三光院(さんこういん)…滞在約5分 天正16年(1588)、川渕(現在の上町北側)から不思議な光があるので 鹿野城主亀井茲矩により探させたところ、渕の底から薬師如来、観音菩薩、 勢至菩薩の三体の仏像が見つかった。茲矩はこの渕を埋め寺を建てて 三像をまつったと伝えられる。これが三光院と呼ばれる所以である。 やがて、亀井氏の移封とともに荒廃したが、寛永年間に池田輝澄が 現在地に建立した。本尊の木造薬師如来立像は県保護文化財。 是像高1,4M平安中期の作といわれている。 徒歩約11分 ④鹿野城跡…滞在約15分 天正8年(1580)羽柴秀吉は亀井茲矩等を先陣に立て鹿野城(毛利軍) を攻略し鳥取城主であった山名豊国は秀吉の軍門に下った。しかし、 豊国の家老たちが毛利氏についたので、秀吉は鹿野城確保の困難を察知し 撤退命令を出す。だが、玆矩はただ一人でも鹿野城を死守すると決意し、 城を守るのみならず近隣の城を次々と攻め落とし、二代政矩が津和野に 移封されるまでの37年間鹿野城に在城する。現在も内堀・外堀・ 石垣などの城跡が昔の面影をとどめている。また、春には見事な桜の花が 城山周辺を一色に染め多くの観光客が訪れる。 徒歩約15分 ⑤城山神社…滞在約5分 創立年代は不明であるが、もとは加知弥(かちみ)神社の摂社で 古くから妙見大明神と称し町民から崇敬されていた。素盞鳴尊 (すさのおのみこと)を祀り、亀井茲矩在城の頃は鹿野城の守り神 としてまつられていた。社殿の規模は小さいが、その構造や彫刻は 近郷に例を見ない精巧なものである。「鹿野祭り」として 知られる祭礼は昭和32年に県の無形文化財に指定され、御輿、 榊、四台の屋台(山車)、武者行列、獅子舞とにぎやかに しかも情緒豊かに行われる。獅子舞は昭和29年に県の 無形文化財に指定されている。祭礼は近年隔年の4月に行われている。 徒歩約18分 ⑥T字・L字路 町内の街路は、城下町特有のT字路、L字路が各所に見られ侵入者からの遠見遮断が考えられて いる。また、道路の側面には水路が作られており、防火用水として水をたたえ随所に石造の 「せき」が設置され、緊急事態に対応できるようになっていた。 徒歩約1分 ⑦牛つなぎ石 鹿野は江戸時代初め頃、因幡国ではにぎやかな町で文化、政治、経済の 中心であった。鹿野に行けば生活に必要なものは、ほとんど手に入ったと 言われるほどに商工業も盛んでした。そのなごりとして、荷の運搬に 用いられた牛をつないでおく牛つなぎ石が残っている。 徒歩約1分 ⑧幸盛寺(こうせいじ)…滞在約5分 亀井茲矩の義理の父で、武士山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけ ゆきもり)の菩提寺。茲矩が鹿介の菩提を弔うために現在地に移転させ、 鹿介幸盛の2字をいただき、幸盛寺と改めた。境内には大イチョウ (高さ34m)がある。山中鹿介は、戦国時代に主君尼子氏の再興を 果たしえず、非業の死を遂げた武士であった。鹿介の墓の前に高さ130cmの 大きな五輪塔がある。これは慶長19年に亡くなった茲矩の姉の墓である。 ~山中鹿介と鴻池家のつながり~ 山中鹿介幸盛の長男(次男説もある)新六は、摂津国川辺郡鴻池村に逃れ, やがて武士を辞めて濁酒の醸造販売をはじめる。ある時新六に恨みを持った 人が腹いせに酒樽に灰を投げ込み、それが偶然清酒になり以来清酒を醸造 するようになった。そしてその清酒が爆発的に売れて江戸時代の豪商となる きっかけを作る。新六は、村名にちなんで姓を鴻池、屋号を鴻池屋とした。 これが鴻池家の始まりであり、2代目を新六の八男善右衛門が継ぎ、 本家となる。 (幸盛寺にある山中鹿介の墓横には、左側に「男爵鴻池家」と書かれている。) 徒歩約1分 ⑨鳥取市鹿野往来交流館童里夢(ドリーム) 車で約4分 ⑩譲伝寺(じょうでんじ)…滞在約10分 譲伝寺はもと毫王山抱月寺といい、古仏谷にあった。ここから 因幡の曹洞宗は広められていった。鹿野城主となった亀井茲矩は 文武両道に秀で、禅の修行にも怠りなかった。この抱月寺は山深く 参詣に不便だったので現在の地に移し、譲伝寺と名付け、菩提寺と 定めている。寺は明治43年と大正6年の二度火災にあい、昭和3年に 今の本堂が完成した。寺宝には茲矩の将来品があり、このうち 孔雀文様刺繍、花禽獣文様刺繍、雲に双龍文様胆は昭和32年12月 県の保護文化財に指定されている。その他天狗の爪、虎の爪、 金欄袈裟、蟹の甲などがある。また、近世中期の面影を残す庭園も 本掌衷に残り町指定文化財に指定されている。また、山門を入って すぐ右側の山頂(弁天山)には茲矩の実父である湯永綱の供養墓がある。 車で約3分 ⑪亀井茲矩公の墓所…滞在約25分 鹿野城主亀井茲矩公の墓所は、武蔵山の「明星ヶ鼻」にあり、 墓標は鹿野の城山を望んでいる。墓石には「中山道月大居士」と 刻まれているが、これは、天正10年(1582)羽柴秀吉から琉球守を 認められ、茲矩が海外雄飛を夢見た「琉球」をしのんでつけられたと 言われている。「中山道」とは中国風の琉球の別名である。 ※墓所まではゆるやかな坂道になります。(徒歩10分くらいの距離)
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