資料 シ⑥ 日本人とオオカミ

森のふしぎ
…No6
(メモ)
【 日 本 人 と オ オ カ ミ 】
森林動物であるシカが、日本の森林山野で採食圧を起こしている。そこで今では絶
滅した天敵であるオオカミは、どのような存在であったのかを知りたくなった。
「日本人とオオカミ(栗栖健・平 16 年、雄山閣)」をもとにその姿に迫ってみた。
(文中の斜字は他の資料、青の斜字は独り言、緑字は昔の話)
【神の使い】
ο 埼玉県秩父郡大滝村の秩父山地、妙法ヶ岳にある三峰神社は、オオカミを眷属(神
の使い)としている。そのオオカミの絵があるお札を貰って“神の使い”であるオオ
カミを借りるというものである。
このような信仰が 18 世紀に盛んになり、後半には江戸にも知られた。120p
〔村落部の三峰信仰はシカ、イノシシ退治を願う農業に関わるものであったが、時代が
下るにつれ都市的な火防、盗賊除けの願意が表だってきた。:三木一彦(文京大学)〕
ο 佐渡や江戸で町奉行をつとめた根岸鎮衛が、来客の話しなどを書き留めた『耳嚢』
には「三峰山にて犬を借りること」の項で、三峰信仰の賑わいぶりにふれ「三峰権現
を信じ盗難・火難除けの守護の札を付与する時、犬を借りるという事あり、右犬を借
りる時は 盗難・火難に逢うことなしとて、・・・」と信仰の型を紹介している。
ここでの犬は狼であり、「遠野物語(柳田國男・明 43 年)」には、三峰信仰が当時、
東北の三陸地方に伝わり「狼の神」と呼ばれていたことが記されている。121p
ο 三峰神社に、その由来、伝承などをまとめた『三峯山観音院記録』があり、一度破
滅したが室町時代後期に再興され、のち江戸の中期に住職が亡くなり(宝永 7 年・1710
年)一時荒れた神社を同じ郡内で生まれた日光法印が再興した、と記されている。
《当山の眷属の由来は、昔ある修験者二人が此の山に来て、深山霊地最勝也とし秩父
の総社として山の神をまつり、その神の使いをオオカミとした。
日光は、1720 年に住職になり、じきに甲州あたりで広く信仰されていたオオカミを
借りる札を発行し始めた。彼の代になって檀家が増え、金銭、物の奉納が地元から信州
の村々に広がるようになった。享保 11 年・1726 年には社殿を銅瓦に葺き替えした。》
と、役所に出した文書(文化 7 年・1810 年)に記されている。オオカミ信仰が盛んにな
り、広がっていく様子が伺える。121-123p
【神使信仰が流行った理由】
ο この頃に、オオカミ神使信仰が脚光を浴びるようになった理由の第一は、その頃に
山地やその周辺部で、シカ、イノシシによる農作物の被害が深刻になっていた。
第二は、山野の開発や狂犬病の流行に伴い、オオカミの人間襲撃が増えたことであ
る。つまり狼害除け、「病犬」除けの祈願である。
第三は、江戸など都市の住民が盗難、火災などから逃れるため、すがる心の拠り所
を求めたのだろう。128p
< 第 一 、 農作物の被害 >
ο 奈良県吉野郡大塔村篠原は、大峰山脈の西側に深く入り込んだ最奥の集落である。
毎年 1 月 25 日の氏神祭で伝統の篠原踊りを奉納してきた。
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その踊りの由来は、「昔オオカミが人を害し、村人たちが氏神に、退治できるよう
にと祈ったのが始まり」という話が伝わっている。(大塔村史) ・・・(オオカミは凶獣)
しかし、村の長が神前で述べた口上は「今年はシシも出ず、サルも出ず焼畑も豊作
で、氏神様に何か踊りを献じましょう。」だった。2p
ο 畑焼は山林を切り払って焼き、その灰を肥料に雑穀や豆、イモ類などを栽培する、
山村では生活に欠かせないものであり、山国の吉野には水田は乏しく、篠原では戦後
まで焼畑が続けられた。そして、そこにある農作物は、シカ、イノシシ、サルなどの
森林動物にとって、このうえない栄養豊かなご馳走であった。5p
ο 駿河の人、桑原藤泰が大井川上流を踏査した時(1812 年)の記録「大井河源紀行(宮
本勉)」に、山中で合った焼畑農民との会話として《山中の事業を尋に、答えて云う。
高山に圃を開き…秋の頃実りの時は…極老・疾病の外は皆山圃に至りて、守舎を造
り、昼は女子童子等をして木板を鳴らし飛禽、サル、シカをおどさしめ、丁壮(男)
は夜も松明を燈して木板を打ち、大声で相叫び禽獣の害を防ぐ。故に夜といえど睡る
事を得ざれば昼の疲れ癒すことあたはず、その労苦甚だし。》と記されている。6p
* つまり、山村の生活は害獣から必死に作物を守る戦いの日々であった。
ο ここにおいて、山の畑の周辺は、オオカミにとっては待っているだけで獲物が集ま
ってくる狩場であり、そのオオカミの狩りは、農民にとって生活を脅かす憎い害獣の
駆除となっていた。・・・(オオカミは益獣)
かつて吉野では、オオカミの食べ残しを
「オオカミ落し」と呼んでいて、この贈り物の多くはシカであった。7・8p
ο 「狼―その生態と歴史(平岩米吉・1981 年)」には、オオカミのよい面が現れると
オオカミを祀る神社ができ、悪い面が目立つとオオカミという地名となって残る。
その神社は関東から中部地方にかけて多く、地名となって残っているのは東北、
なかでも奥羽地方に多い。 [森と人間、神田リエ・2008 年〕
<第二、山野の開発と狂犬病の流行>
ο 近世の前半、特に 17 世紀は城下町を中心とした都市建設の時代で、都市は度々大
火に見舞われ建築材、また生活の燃料材として多量の樹木が消費され、耕地の開拓と
森林の伐採などで山野の荒廃が進み、そのため洪水被害も頻発するなど森林の乱伐が
問題になった時代であった。98p
ο この時代の耕地の拡張ぶりが「江戸時代(大石慎三郎、中央公論新社)」の「明治以前
耕地面積の推移表」に示され、耕地面積は室町中期を 100 とすると、平安中期が 91、
江戸の初頭が 130・中期が 314(1720 年頃)、明治初期は 322 の比率になるという。
史料は、平安・「和名抄」、室町・「拾芥抄」、江戸・「慶長三年大名帳・町歩下組帳」などで、“統一的
手法による統計ではないが、一応の目安にはなる”と筆者(大石)は位置づけている。95・96p
* つまり、森林山野の大規模で急速な開発が野生動物たちの生活環境を圧迫して、
人間とオオカミとの摩擦を増加させた。
ο 狂犬病の大発生は、大分県立図書館所蔵の『両郡古談』によれば、享保 17 年・1732
年に長崎から始まり、 翌年には大分に、4 年後には山陽・東海道を経由して江戸へ。
津軽藩平山日記には「享保 20 年、諸国とも犬の病はやり・・・候」、と津軽にまで諸
国流行の様子が伝わっていたことを知ることができる。 さて 18 年後には山形庄内
地方に、29 年後には下北地方にまで伝播していった。これは人獣共通感染症であり
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約 4000 年前から人類に知られ、世界では年間 4 万~6 万人が亡くなっている。
[人と動物の共通感染症研究会、岐阜大獣医公衆衛生学講座・源宣之、厚労省検疫所〕
ο 遠江の人、西村白烏の自序『煙霞綺談』
(1770 年)に、東海地方で狂犬病がオオカ
ミの間に広がっていたことが、
「狼を画に写しても常の犬のごとし。しかれども夜陰
に眼の光ること明星の如く、口の切込耳に近し、啼く声も牛に等しく、人を見て恐れ
ず。享保の末より、犬に病出来て人を噛むに毒気をうけて、其の人後には犬のごとく
狂いまわりて死亡す。駿河遠江の間には、狼にも此の病着きて、折々人を咬む怖るべ
し」と記されている。91p
【 縄 文 ・弥 生 時 代 の オ オ カ ミ 観 】
ο 日本列島では 1 万 2 千年前、日本海側北緯 40 度以南の多雪地帯を中心にブナ、ナラ
などの温帯林が拡大した。それは森の狩猟、木の実の採集保存など、森の恵みによっ
て生きる縄文文化の始まりであった。
[森と文明の物語他、安田喜憲(環境考古学)]
ο 狩猟・漁撈、採集生活をしていた縄文人は、その貝塚より出土する骨から、シカ・イ
ノシシ・サル・ウサギ・クマ・キジ、海川の生き物はほとんど食べていたことが分かる。
しかし、オオカミと見られる骨はとても少ない。弥生の貝塚からも同様に極めて稀
だ。 弥生人は土器に、人や家・舟とともにシカ・トリ・魚・などを描いており、銅鐸に
もシカ・イノシシ、その狩りの様子や犬などが描かれていた。しかし今まで発見され
たものからはまだオオカミは姿を見せていない。16・19p
ο それは、縄文・弥生時代ともヒツジ・ヤギ・ブタ・牛などの本格的な食用家畜を持たな
かったからである。「魏志倭人伝」は、弥生後期の 3 世紀ころ、わが日本にはヒツジ・
馬・牛はいなかったという。 他方、同時代の黄河流域の墓からは副葬品に付けられ
た家畜形飾り(ブタ・牛・ヒツジ・など)が出土している。21p
ο その頃は、世界的に農耕・牧畜が始まった時代であるが、わが国には牧畜が伝わら
なかったので、オオカミが放牧した家畜を襲うことによる人間との対立関係は生じな
かった。 従って、この最強の肉食獣についての思いは、古代人の生活において特段
に意識されるものではなかったと考えられる。 しかし、牧畜が重要であったヨーロ
ッパや中国などでは、日常的にオオカミが家畜を襲い、人間との敵対関係が激化した。
このことが、現在でもわが国とは異なるオオカミ観の基となっている。18~22p
【その後のオオカミ】
ο 遡った記録、伝承なども収めている奈良時代の「日本書紀」、欽明天皇の項に“秦
大津父という者がオオカミを「貴き神」と呼んだ”との話が出ている。しかし同書紀
の他での「狼」という字の使い方は中国の『荘子』の一節を借りたり、また『春秋左
氏伝』などからの引用であった。24・26p
当時の知識人が、中国から輸入されたオオカミ観に拘束されていたことが分かる。
― 中国でのオオカミ像は、邪悪な凶獣である。― しかし、「日本書紀」ではオオ
カミをあからさまに凶獣とはしていなかった。26・28p
ο 秦氏は渡来系集団の有力氏族で京都盆地北西部の桂川流域を根拠地にしていた。
同氏が養蚕、織物を得手とした話があり、耕地の開発もしていたであろう。
その京都盆地北西部は丹波の山並みへと続き、近世でも中部山岳地、その周辺とと
もにオオカミ神使信仰が盛んであった地域で、それ故に当時もシカ、イノシシをはじ
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めとする獣害に苦しめられていたと考えられる。28・29p
従って、秦氏一族がシカ、イノシシを捕食するオオカミに敬意を払うようになり、
* オオカミを「貴き神」と呼んだとしても、それは極めて当然のことといえる。
ο 古代わが国ではオオカミを「眞神」とも呼んだ。『万葉集』には「眞神原」の地名
を詠みこんだ歌、“大口の眞神ヶ原に零る雪は・・・”があり、“大口の”はオオカミ
を表す枕詞である。しかし、収められた約 4500 首の中にオオカミの害を嘆いたり、
シカ、イノシシを追ってくれることを感謝した歌もない。人里遠く暮らすクマさえ姿
をみせているのに。36・37p
ο 平安時代、文化人層によるオオカミへの態度は冷淡、無関心になっていったように
みえる。 『古今和歌集』にオオカミは出てこない、野生の獣では鳴き声にあわれを
感じたシカくらいである。しかし、12 世紀前半・平安後期の『今昔物語』には、古代
に例のない貴重なオオカミの観察記録「母牛、狼を突き殺しゝ話」が記されている。
この話で意外なのは、小童が牛の周囲を回るオオカミを見ているが、逃げたり騒い
だりせず、直にそのことを忘れてしまっている。当時、オオカミは凶獣ではなかった
ことを伺わせる。以後、鎌倉前期の『新古今和歌集』にオオカミに触れた歌はない。
鎌倉末の『徒然草』にヘビ、イヌ、キツネの噂話はあるがオオカミは出てこない。
『曽我物語』では、オオカミが巻き狩りの獲物の一つになっている。48‐54p
* そして、神との関わりが明瞭でないまま江戸へと繋がることになる。
<神とは何なのか>
・ 広辞苑によれば神とは、[人知をもってはかることのできぬ能力を持ち、人類に禍
福を降ろすと考えられる威霊。 人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの。]で、
五番目の意味として[人間に危害を及ぼし怖がられているもの、雷、トラ、オオカミ、
ヘビなど。]がでてくる。
* 日本には「八百万の神」がいる。また「貧乏神」という神もおり、崇拝や信仰と
は無縁といえるような神が数多く存在している。
【日本の山野からオオカミが消えた】
ο かつて関東一円はもとより甲斐、信濃、東北にまで篤い信仰を集め、三峰講が組
織され参拝者が訪れた、三峰神社の神の使いオオカミは・・・[森を守る文明・支配する
文明、安田喜憲(環境考古学)]、明治 38 年(1905 年)1 月、奈良県東吉野村の鷲家口
で若い雄が捕獲されたのが最後と云われ、その後ニホンオオカミは消えた。 216p
ο 近代・明治に入って姿を消した原因としては、開発、狩猟など人間による圧迫、生
息地の分断のほか、狂犬病、輸入された犬からのジステンバーなどの流行、エサで
あるシカの減少などが考えられるが断定的なものはない。それらが複合的に作用し、
絶滅に追いやられたのだろう。
江戸の後期以降の文献でキツネ、オオカミ、ヤマイヌきわめて多いと記すもの、
また根岸鎮衛の『耳嚢』には、江戸の後期、都市部ではオオカミが既に珍しく、そ
の子は見世物になるほどだった、と少ないことが記されている。218p
― 人間による圧迫については、北海道日高の官営牧場で農耕用の繁殖馬がほとん
ど全滅する被害が起こり、明治 10 年(1877 年)から全道的なオオカミ駆除が始まり
11 年間続けられた。その 10 年ほど後に、北海道のエゾオオカミの消息は、ニホン
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オオカミに先立って全て途絶えた。―
[知床博物館研究報告、石城謙吉:北大]
* その昔に、森林生態系の一動物であった人間、とオオカミの間には利害関係はなか
った。従ってお互いに意識する関係になく、とても長い時代をごく自然に共存し、
のちに、彼らは農作物を害獣から守ってくれるので「貴き神」と呼ばれた。
時代を下り、長い年月の間に繰り返された激しい戦乱や、人間が食糧確保のための
耕地拡張による山野の荒廃などがあった。それでも彼らは精一杯に生きてきた。
ο 近世に入ってからの開発や、明治の文明開化とジステンバーの流行は大きな要素で
あったが、人間による圧迫、両者の軋轢の増加をみると、二ホンオオカミは滅ぶべく
して滅んだという感じがする。182p つまり人間圧に抗しきれずに消えていった。
* エゾオオカミはまさに、明治初期の北海道開発と人口急増による生息域の破壊、シ
カ捕獲による餌の減少など、人間圧に負けて官営牧場を襲ってしまった。
【 森 林 山 野のその後】
ο オオカミは森の生態系の頂点に立ち、獣害から農作物を守る存在であったが、実は
森そのものを守っていたのだ。 1995 年 7 月 23 付け朝日・日曜版に、奈良県大台
ケ原の白骨樹林のカラー写真が載っていた。シカが増えすぎて、幹の皮を剥いで食べ
尽くしたため、トウヒの樹林が立ち枯れているのである。さらに、若木や下草まで食
べ尽くし森の再生を不可能にしている。日本の山野からオオカミが消え、その代わり
を果したのは人間だった。
[森を守る文明・支配する文明、安田喜憲(環境考古学)〕
ο しかし、高度成長期以後多くの山村が荒廃し、既に消滅しつつある。
振興山村(生活環境向上の施策が必要とされる)は国土面積の 5 割、森林面積の 6 割で
あり、それを支えるのは、わが国の人口の僅か 4%である。そこでの高齢者は 24%
をしめる。[森林・林業白書、平成 15 年版]つまり、山村には人がいなくなってしまったのだ。
* 今、人間はオオカミの代わりを果せなくなっている。そのため森林山野はシカによ
る被害を受け続けている。 1000m付近の山野の尾根上、また緩い斜面では、
リョウブ、ウラジロモミなどの樹皮が激しく剥され、また人工林は被害を防ぐために
ネットで被われている状況を見る。さらに山地崩壊という話もきく、・・・・・ 。
* 近代西欧の人々は生きるために家畜を襲うオオカミと戦った。そのオオカミ観を示
す説話はグリム童話にある「オオカミと 7 匹の子ヤギ」や「赤頭巾」なのだろう。
* また、日本では絶えて久しいのに今もって送り狼という言葉も使われいる。
《 昭和 38 年 10 月、仲間3人と白根三山縦走のため北岳吊尾根末端に向かうため、
夜 9 時ころ、雨後の深沢下降点を野呂川に向かって下っていた。 そのとき 2 回、
犬の長い遠吠えが聞こえてきた。しかし直にオオカミだと判断した。-〔距離はかな
り遠かったが、少し怖さを感じたことは今でも覚えている。〕-何故ならばそこは、
甲府駅からマイクロバスで 1 時間以上も走った、野呂川沿いの夜叉神トンネルの先で
ある。 夜間に怖くて、野犬といえども一人で散歩をするような所ではない。
今でも、日本には、あの時点までオオカミは生存していたものと考えている。》
森林インストラクター
平20.3.3 〈 岡 安 正 一 〉
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