- 1 - 考 古 学 か ら み た 邪 馬 台 国 と 狗 奴 国 白 石 太 一 郎 はじめに

考 古 学 か ら み た 邪 馬 台 国 と 狗 奴 国
白 石 太 一 郎
はじめに
『魏志』倭人伝にみられる邪馬台国や狗奴国をめぐるさまざまな問題は、基本的には文献史学
上の問題である。ただ『魏志』倭人伝の記載には大きな限界があり、邪馬台国の所在地問題一つ
を取り上げても、長年の多くの研究者の努力にもかかわらず解決に至っていないことはよく知ら
れる通りである。一方最近では考古学、特に古墳の研究が著しく進み、定型化した大型前方後円
墳の出現年代が3世紀中葉に遡ると考えられるようになった。その結果、3世紀中葉頃には近畿
の大和を中心に西は北部九州に及ぶ広域の政治連合が形成されていることは疑い難くなってきた。
したがって今日では、こうした考古学的な状況証拠の積み重ねから、邪馬台国の所在地は近畿の
大和にほかならないと考える研究者が多くなってきている。ここではそうした最近の考古学的な
研究の成果にもとづき、邪馬台国と狗奴国の問題を考えてみることにしよう。
1.前方後円墳の出現と邪馬台国問題
従来、定型化した大型前方後円墳の出現年代は、3世紀末葉ないし4世紀初頭頃とされてきた。
そのため古墳の出現やそのあり方は、3世紀前半の邪馬台国の所在地問題に直接関係しないと考
えられていた。ところが最近 20 年あまりの間に、出現期の古墳に多数副葬されている三角縁神獣
鏡の年代研究などが著しく進展し、出現期の前方後円墳の中でも古い段階のものは、3世紀中葉
ないし中葉すぎに遡ると考えられるようになってきた。
すなわちこの段階には、近畿の大和には墳丘長 280 ㍍の箸墓古墳というような巨大な前方後円
墳があり、その二分の一ないしそれ以下の墳丘を持つ前方後円墳が吉備や北部九州などに営まれ
ている。したがってこの時期には大和を中心に西は北部九州に及ぶ広域の政治連合、すなわち初
期ヤマト政権が成立していたと考えるほかないのである。3世紀中葉ないし中葉すぎにすでに初
期ヤマト政権が成立していたということになると、3世紀前半から3世紀中葉ころまで存続した
ことの明らかな邪馬台国連合は、そのまま初期ヤマト政権に繋がる可能性がきわめて大きいこと
になる。私はこの点については、後に述べるように少し異なる意見を持っているが、邪馬台国が
大和を中心とする地域に存在したことは、最早、疑いないと考えている。
なお、近畿大和の邪馬台国を中心に、西は北部九州に至る広域の政治連合が成立した契機につ
いては、弥生時代後期の 1・2 世紀まで鉄資源をはじめとする先進的文物の輸入ルートの支配権を
一手に掌握していた北部九州に対して、それ以東の瀬戸内海沿岸各地から近畿中央部の首長たち
が、鉄などの安定的入手を確保するために、まさにそのために連合して北部九州を制圧した結果
と考えている。このことを直接示すような考古学的な材料はまだないが、それまで北部九州を中
心に分布していた中国鏡が、3世紀初頭を境に近畿の大和を中心とする分布に一変することから
も、それは疑いなかろう。この中国鏡や鉄器保有状況の大きな変化を、九州勢力の東遷によって
説明しようとする研究者が今もおられる。しかし土器の移動がきわめて活発になるこの時期、北
部九州の土器が瀬戸内や近畿にほとんど移動していないことからも、この説は成り立ち難い。
2.邪馬台国連合と狗奴国連合
3世紀前半には、北部九州から近畿中央部に至る範囲に、大和の邪馬台国を中心とする 29 ヶ国
-1-
(
『魏志』による)の小国からなる邪馬台国連合が成立していたことはほぼ確実であろう。その範
囲は厳密にはわからないが、東は近畿までであった可能性が大きいと思われる。この時期、邪馬
台国の中心と想定される奈良盆地東南部では、纒向石塚やホケノ山などの前方後円形墳丘墓が盛
んに造営されていた。それに対し近江以東の東海・中部高地・北陸・関東の地域には、大きな前
方後方形墳丘墓が盛んに造営されていた。その中心は、弥生時代後期に三遠式銅鐸を製作してい
た濃尾平野であったと思われ、私は『魏志』倭人伝にみられる狗奴国がその中核をなしていたと
考えている。濃尾平野以東の地域はこの狗奴国を中心に「狗奴国連合」を形成し、鉄資源などの
共同入手を図っていたのであろう。その入手先が、大和の邪馬台国であった可能性は大きい。纒
向遺跡からの多量の東海系土器の出土はこのことを裏付けるものであろう。
なお、この東日本の狗奴国を中心とする広域の政治連合は、あくまでも各地の政治勢力間の線
的な結びつきで、東日本に面的な領域をもつ政治連合が成立していたなどと考えるのは誤りであ
ろう。これは西日本の邪馬台国連合の場合も同じであろう。日本海側で、独自の鉄資源入手ルー
トを持っていたと思われる出雲や丹後のような山陰地方などは邪馬台国連合には加わっていなか
ったものと考えている。
3.東西の政治連合の合体と初期ヤマト政権の成立
『魏志』倭人伝によると、正始8年(247)邪馬台国は狗奴国と戦っている。ついに西の邪馬台国
連合と東の狗奴国連合が衝突するのである。狗奴国は邪馬台国にとっても手強い相手だったよう
で、帯方郡にまで使者を派遣して何らかの援助を要請したようである。この戦いの帰結について
は倭人伝には何の記載もないが、その後の歴史の流れからも邪馬台国連合側の勝利、ないしその
主導による和平に至ったことは疑いなかろう。いずれにしてもこの戦いの結果、西の邪馬台国連
合と東の狗奴国連合が合体するのである。
東西の広域の政治連合が合体したということは、日本列島の中央部が始めて一つの政治的まと
まりを形成したということである。またそれを契機に、それまで邪馬台国連合、あるいは狗奴連
合に加わっていなかったクニグニも競ってこの政治連合に加わったものと思われる。そうしなけ
れば鉄資源など先進文物の入手が困難になったからである。私は、こうして出来上がった西日本
から東日本に及ぶ広域の政治連合を初期ヤマト政権と捉えている。
初期ヤマト政権では、この広大な地域からなる政治連合の体制を維持発展させるために、それ
までの邪馬台国連合の段階とは比較にならない体制の整備が求められたと思われる。この体制の
整備の一環として、連合に加わる各地の首長たちが連合の構成員であることを示し、合わせて連
合内での身分秩序を表示する機能を持つ古墳の造営を始めたのではないか、と私は考えている。
したがって古墳の出現は、初期ヤマト政権の成立を考古学的に物語るものとみてよかろう。
ただその場合の古墳は、定型化した画一的内容を持つ初期ヤマト政権のシンボルでもある大型
の前方後円墳・前方後方墳をいうのであり、邪馬台国時代の前方後円形墳丘墓や前方後方形墳丘
墓は含まない。弥生時代というのは政治史的にみれば、水田稲作農耕、すなわち生産経済の進展
にともない各地で政治的統合が進展した時代である。邪馬台国時代というのは、その政治的統合
進展の最終段階であり、西の邪馬台国連合と東の狗奴国連合が対峙した時代である。この両者が
合体することによって、はじめて日本列島の中央部が一つの政治的まとまりを形成するのである。
その意味からもこの時代は「弥生時代」の最終段階と捉えるべきであり、
「古墳時代」の始まりは、
この初期ヤマト政権の成立、すなわち画一的で定型化した古墳の出現に求めるべきであろう。
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「狗奴」国情報の深源
関 和彦
Ⅰ はじめに―何故、今、狗奴国か
考古学の発掘成果、その集積と体系化
Ⅱ 魏志倭人伝の「狗奴」国、三つの情報
① 「狗奴」国の所在地 ②「狗奴」国の構造 ③「狗奴」
」国王
Ⅲ 「狗奴国」の王とは―「王」をめぐる対立
a 倭の各地(例えば30余国)の首長の称号
b 奴国王の事例:建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す⇒光武賜うに印綬を以てす
漢委奴「国」王
c 濊伝:朝鮮侯準、僭号して王と称す
韓伝:侯準、僭号して王と称するも、燕の亡人衛満の攻撃する所と為りぬ、
。その
左右の宮人を将いて走りて海に入り、韓地に居して、自ら韓王と称す。
高句麗伝:高句麗王、使いを遣わして朝貢し、始めて見えて王と称す。
d 奴国・伊都国・狗奴国:僭号か賜号か
伊都国:世ヽ王あるも皆女王国に統属す⇒二重王家の存在?
伊都国王の賜号記事は見えずも存在
《参考》本五族あり。涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部あり。本涓 奴
部、王なりしも、稍く微弱となりて、今は桂婁部、之に代わる・・・王の宗族、
その大加は皆、古雛加と称す。涓奴部は本国主なり、今、王ならずと雖も、適統
の大人は、古雛加と称するを得、また宗廟を立て、霊星・社稷を祀ることを得。
⇒伊都国の待遇に顕現
Ⅳ「狗奴」国の形成と構造
倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。
① 遺跡と国の直結の前に・・狗奴国は「一国」なのか、それとも邪馬台国のように
複数の国をともなうのか
② 魏志夫余伝:邑落には豪民あり
東沃沮伝:世世邑落有りて、各ゝ長帥有り
濊伝:其の邑落相侵犯せば
高句麗伝:その国を破り、邑落を焚焼す
③ 其の南に狗奴国有り。男子を王と為す、其の官に狗古智卑狗あり、・・・。
大倭・一大率との比較
Ⅴ おわりにー「青は藍より出でて藍より青し」か
文献史料と考古資料
(尚、関心の高い三つの情報①「狗奴」国の所在地は討論にて)
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『邪馬台国論と狗奴国論』
高島 忠平
邪馬台国論争は、邪馬台国の所在地論と同時に狗奴国がどこにあったがセットになって論じら
れる。また、そうでなくても、邪馬台国と狗奴国の両者の政治的、社会的、地理的関係は、邪馬
台国論にとっては、避けて通れない課題であろう。狗奴国は邪馬台国の所在地論と同様、魏志倭
人伝の読み込みが前提となる。魏志倭人伝に登場する狗奴国は、二ヶ所である。それぞれは地理
的な関係と政治的関係が記述されている。その部分は、
「・・此女王境界所盡其南有狗奴国男子為王其官狗古智卑狗不属女王・・」、「倭女王卑弥呼與狗
奴国男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升
米為激告喩之卑弥呼以死大冢径百余歩・・」は、
「・・女王が統括する境界の南に狗奴国がある。男子を王と為し、その国の官狗古智卑狗、女王
に属していない。倭の女王と狗奴国の男王卑弥弓呼とは素より和せず。倭載斯烏越等を遣わして
郡に詣り、相攻撃する状を説いた。曹掾史(郡の属官)張政等を派遣し因って詔書・黄幢を齎し、難
升米に拝仮し檄を為して、之に告喩す。卑弥呼以って死す。大なるに冢は径百余歩・・」と読む
べきか。
前半の文意は、女王国、つまり卑弥呼を王とする邪馬台国をはじめとする末盧国、伊都国、奴
国等の連合勢力とは別の勢力、男王の狗奴国を中心とする連合勢力の存在を物語っている。後半
は、卑弥呼の女王連合勢力と卑弥弓呼の男王連合勢力とは昔から、戦争を含む抗争関係にあって
なかなか決着がつかない。倭地において覇権を掌握しようとする女王連合勢力にとっては、狗奴
国は焦眉の敵であったと同時に、倭地の覇権をめぐる両勢力の抗争であったとも見られる。その
ため、親魏倭王の地位を得ていた卑弥呼は、使者を帯方郡に派遣し、魏の配下として倭を代表す
る女王連合の再確認と支援を請うたのであろう。魏の東夷支配の拠点である帯方郡は、それに応
えて、郡の属官張政を派遣して詔書と錦の御旗である黄幢を、倭の有力者難升米に与えて激励し
た。このことがあってか卑弥呼は死亡、大いに墓つくりがされ、直径百余歩(150 メートル近い)
の墓に百余人の奴婢を殉葬して葬られた。卑弥呼は、男王狗奴国連合勢力との戦いの最中に亡く
なったのであろう。老死か、病死か、敵との戦いが原因か、告諭の結果か諸事情が考えられる。
この抗争でどちらが勝利を占めたか記録にはない。いずれにしても、倭には、二つの政治勢力
の存在があり、容易に決着のつかない対等な戦いが繰り返されていた。この二大政治勢力がどこ
にあったのか、一方は、末盧国、伊都国、奴国、不彌国など北部九州を含む国の連合体であるこ
とはいうまでもない。男王狗奴国連合は何処か、これまでも邪馬台国の位置論とリンクして論じ
られてきた。古代文献史学では、九州南部クマソの地、熊本県菊池、和歌山紀の国の地、関東ケ
ヌの地など、考古学では、北部九州とは異なる弥生文化をもつ九州南部、北部九州に引けをとら
ない鉄器文化を持つ九州中南部、近畿邪馬台国と土器文化で親縁関係にある濃尾地域、古い前方
後方墳のある濃尾地方などなど、邪馬台国論争とあいまって激しい論争となっている。ただし、
最近考古学の一部にみられる魏志倭人伝という文献を離れているかにみえる邪馬台国や狗奴国論
争はありえない。邪馬台国論争は重要な国家史の課題であり、考古学資料を魏志倭人伝の記述と
都合よく符合させることではない。魏志倭人伝の正鵠を得た史料批判のもと、また史料批判に耐
える考古学資料の適用でなければならない。
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ここで注目したい資料がある。
「封泥」である。卑弥呼以外に、魏の皇帝から叙位を受け、銀印・
青綬などを下賜された難升米や牛利などがいる。下賜物の梱包には、当然封泥が用いられている。
彼等の居住した遺跡から封泥や銀印が出土するかもしれない。それが何辺にあるかによって邪馬
台国の位置が絞られてくる重要な案件である。難升米・牛利は大臣或いは侯国の王だと名乗って
いる。なかでも難升米は、帯方郡で詔書・黄幢を直接受けとるなど、倭国では発言権をもった重
要な地位にある。はたして彼の故国はどこであろうか、狗古智卑狗の故国の位置を含め興味があ
る。
狗奴国は何処か、フォーラムメンバーの洞察に期待したい。
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狗奴国伊勢湾沿岸説
赤塚
次郎
伊勢湾沿岸部を「狗奴国」と特定する事は難しいが,その可能性を以下の点に求めてみたい。
二・三世紀,東海地域の土器やお墓,風俗風習の中に見られる個性的な展開と列島的な広がり。
二世紀に至ると伊勢湾沿岸部では,土器様式や墳墓のカタチ,生活の道具類といった考古学的遺物・
遺構の組合せに一筋の方向性が出来上がる。それは近畿地域と全く異なる土器のカタチが生み出され,
独自の発展と進化の過程で,伊勢湾沿岸部の各小地域が共鳴し,遅くても二世紀中頃までには周辺地
域から隔絶した一つの独立した様式が鮮明になっていく。ここに伊勢湾沿岸部が一つの大きな部族集
団へと変化していった可能性を読み取ることができる。さらにそのために用意されたであろう特殊な
儀式・儀礼場登場した。特徴的な空間遺跡である養老町象鼻山古墳群・一宮市萩原遺跡群・松阪市片
部貝蔵遺跡などなどである。
二世紀前葉には東海系土器様式が誕生し,弥生中期にその祖型が遡る「前方後方墳」が伊勢湾沿岸部
の各部族長クラスの墳墓に採用され,その祭式の中で特殊な小型精製土器群が使用されはじめる。加
えて鏃の形やS字甕特定混和材への固執(仕来り)
,人面文等によって推測できる個性的「風俗・風習」
が,一つのまとまりある部族社会の外枠を明確に造りはじめていった。つまり髪型・イレズミ・服装・
デザイン・色彩・お祭りのスタイル・・,伊勢湾沿岸部を外から観るとその違いが明確化した。さま
ざまな文物・デザインが大阪湾沿岸部や他の列島各地とはまったく異なる別の世界観・宇宙観を持つ
集団が誕生し,独自の世界を築きはじめる。そしてやがてその文化が東日本の地域社会に広く「佳し」
として受入れられる事になる。
廻間様式(一宮市八王子遺跡 SK73
西暦2世紀前半)
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狗奴国 九州中・南部説
宮崎 敬士
弥生時代後半の頃、熊本を中心とした九州中・南部には九州北部とは少し毛色の違う文物が行
き交います。
一つは赤色顔料、もう一つは鉄です。阿蘇カルデラの中、阿蘇市阿蘇町狩尾の地域では、住居
や墓に十キロ単位で赤色顔料(ベンガラ)を撒き、一集落で鍛冶屋1軒以上、鉄器数百点をもつ
例が、わずか4平方キロあまりの範囲に群れ広がります。これら発掘調査の成果は、
『魏志』倭人
伝に「その山には丹あり。
」
「朱丹を以ってその身体に塗る、中国の粉を用うるが如きなり。」と描
かれたことに重なる様相です。これらの文物が発掘された範囲は、阿蘇カルデラの褐鉄鉱(リモ
ナイト)鉱床の範囲とピタリ重なります。このリモナイトを焼くと、簡単にベンガラができます。
発掘されたベンガラは、精良粗悪の別に応じて使い分けられており(阿蘇市下山西遺跡、狩尾湯
の口遺跡、下扇原遺跡他)
、その制作技術と使用思想は体系化されている節があります。また、リ
モナイトは、鉄鉱石として北九州の八幡製鉄所に送られていた時期もありました。製鉄跡こそ見
つかっていませんが、海岸から 40 ㎞離れた山中に鍛冶屋と鉄器が多い理由はリモナイトの存在に
求める以外にない。ここ 30 年来の発掘成果は繰返し囁き続けています。
その一方、弥生時代後半の九州中・南部の土器、免田式土器とジョッキ形土器は広範囲を旅し
ています。重弧紋で飾った算盤玉形のボディにすらりと伸びた頚。精美な壺、免田式土器は、三
雲遺跡、下稗田遺跡(福岡県)から具志原貝塚、宇堅貝塚(沖縄県)にまで広がります。括れた
腰に薄帯の把手。シャープなフォルムのジョッキ形土器は、東アジア最古の船着き場が発掘され
た原の辻遺跡(長崎県)を経て、大邱(韓国)等、北方とつながります。このように九州中・南
部の土器は、韓半島、九州、琉球弧とつながる環東シナ海ルートの上を移動しているのです。西
アジア産のガラス玉、中国産ガラス製のガラス勾玉は韓半島を経て、南海産の貝製品は琉球から、
これらの土器と同ルートを辿って九州中・南部に到達しています。このように、熊本を中心とし
た九州中・南部では、弥生時代後半の頃、外世界への窓口が九州中・南部の人々自身の手で営ま
れていたことを示す文物が多く発掘され続けてきました。環濠集落内を横切る道(嘉島町二子塚
遺跡)は、東夷世界の南北の軸線にピタリと重なっていたのです。
さて、狗奴国の男王は、倭の女王卑弥呼と「素より和せず」ではあるものの、蛮人ではありま
せん。
「官に狗古智卑狗あり」と官僚制を整えた狗奴国は、中華の発する詔書、黄幢を弁えて外交
に臨んでいる気配が濃厚です。むしろ繰返し女王を「共立」した邪馬台国の方が、正統を重んじ、
法治制度にこだわる中華の見識から逸脱しているのです。
弥生時代後半、倭人の外交権は単一ではありません。中国王朝の正史にその名を記され、その
記述に合致した文物を有し、東夷世界を南北に市糴した九州中・南部の弥生社会。熊本の地は中
華世界におけるコモンセンスを弁えているが故に、狗奴国と重なる面影にあふれているのです。
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日本での出土が期待される遺物 封泥
九州国立博物館 谷豊信
日本列島では今のところ未発見であるが、出土すれば大きな話題となるであろう中国系遺物の
一つに封泥がある。
封泥とは封印に用いた泥である。古代中国では、封印すべき器物は紐で縛り、これに粘土を押
しつけ印を押した。図 1、2 は、封泥の使用法がよく分かる一例で、前漢時代・前 2 世紀の遺物で
ある。副葬品を収めた行李を紐で縛り、紐が交叉する部分に断面が凹字形の木札を糸で縛り付け、
糸の上に粘土を盛り、その上に責任者の印を押した。開封しようとすれば、紐や糸を切るか、封
泥を破壊するかせねばならず、開封の痕が歴然と残る。改めて粘土を盛っても偽造印を押しては
露見する可能性が高い。封泥には開封を防ぐ錠前のような機能はない。あくまで開封されたか否
かを確認するためのものである。現代日本で封泥にもっとも近いのは現金封筒の封緘紙である。
今日知られている封泥は、秦、前漢、新の時代(前 221~後 23 年)のものが圧倒的に多いが、
後漢(25~220 年)
、三国の時代(220~280 年)にも相当程度用いられていたものと考えられる。
現在のピョンヤン市に残る楽浪郡遺跡では、前漢時代後期から後漢時代前期(前 1~後 1 世紀頃)
の郡の役人の公印を押した封泥が多数出土している(図 3)
。
この時代の封泥の形態は様々であるが、多くは一辺 3cm 弱の正方形で厚さは 1cm 内外、色は
黒色、暗褐色、赤褐色、灰色が多く、まれに白色のものがある。大きさ、色、形は、高級なチョ
コレートかキャラメルのようなものといえば、当たらずとも遠からずである。
周知のとおり、倭は前 1 世紀から後 2 世紀までは楽浪郡と、そして 3 世紀には楽浪郡の南部か
ら分離した帯方郡と盛んに交渉した。郡から倭にもたらされた品物の内、重要なものは封泥によ
って封印されていたであろうことが想像される。
日本の弥生・古墳時代の遺跡から封泥が出土すれば、日本古代史研究に一石を投ずることにな
ることは疑いない。
1.湖南省長沙市馬王堆 1 号漢墓出土の行李
2.「軑侯家丞」封泥 3.「楽浪太守章」封泥
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吉野ヶ里のクニと狗奴国
七田
忠昭
倭人伝には、卑弥呼を女王とする倭の都があった邪馬台国と女王に従う 28 国、それに敵対する狗奴
国の存在が記されている。狗奴国の位置については、
『日本書紀』の地名などから、近畿説では、毛野
国(現在のの栃木県・群馬県)や熊野地方(和歌山県新宮市周辺)、肥後国(熊本県)球磨郡、同菊池郡な
どに、九州説では、熊襲国(熊は熊本県球磨郡・曾は大隅国贈於郡)や熊県(熊本県球磨郡)などに推定
されている。中でも、熊本県以南の熊襲国に比定する考えは近畿説・九州説を問わず以前から根強い。
狗奴国長官である狗古智卑狗(くこちひこ、きくちひこ)と菊池地名の関係や、景行天皇やその皇子
ヤマトタケルによる熊襲征伐神話と重なるためである。
倭国が都をおいた邪馬台国の位置を有明海北岸地方と考える筆者は、方保田東原遺跡や二子塚遺跡、
うてな遺跡など、近年の熊本地方の弥生時代後期の有力集落の発掘成果などから、倭女王卑弥呼が魏
皇帝に緊迫感をもって救援を願うほどの存在として、狗奴国が存在していたものと考える。
倭国の都が存在する邪馬台国と傘下諸国との政治、交易のネットワークとなる交通路や、中国との
外交ルートを侵すといった狗奴国の行動は、大和王権のもつ交易・外交の基地として北部九州が確保
したルートへの度重なる侵入を示す「熊襲亦反之侵辺境不止」(『日本書紀』景行天皇二十七年秋八月
条)の記事の内容と似通っている。鉄製武器で武装した九州北部の国々に対抗できるだけの装備を有
していたことが想定されるが、近年の熊本地方の弥生時代後期以降のおびただしい鉄器の出土も、そ
のことを裏付けており、時速 3~13km の逆時計回りの海流が流れる有明海入口から熊本沿岸で反女王
国に対する活発な妨害活動をしたものと考える。
熊本県を中心に南九州に分布する独特な形態の免田式土器は、県内でも鳥栖市、吉野ヶ里町、佐賀
市、武雄市などで出土しているし、吉野ヶ里遺跡でも破片が出土した。吉野ヶ里町二塚山遺跡の甕棺
墓地に伴う祭祀土坑からは、弥生時代後期初頭の丹塗りの壺形土器や高坏形土器などの祭祀土器に交
じって完全な形の免田式長頸壺が出土したが、前漢代の連弧文絜精白鏡を副葬した中期後半の甕棺墓
や 3,573 個のガラス小玉が出土した後期の土坑墓を含む墓群への祭祀の際に供献されたものと考えら
れ、両地方に良好な関係が保たれた時期があったことを示している。しかし、その後は破片が断片的
に出土するに過ぎない。
倭人伝によると、王の存在を記す国は狗奴国と、
「世々王有り」と記された当時の外交の窓口であっ
た伊都国のみである。倭国の重要拠点であった伊都国についての詳細は不明であるが、狗奴国につい
ては、倭女王卑弥呼と4人の長官・次官がいる邪馬台国の組織構造と類似し、熊本地方の、律令期の
1~2 郡の範囲と考えられる複数のクニの連合体であった可能性もある。
弥生時代後期終末期以降の東海系土器や東海起源の前方後方墳の東西への拡散は、興味をそそられ
るが、佐賀地方でも弥生時代終末期以降の東海系土器が出土し、吉野ヶ里遺跡では弥生時代の環壕集
落の終焉とともに前方後方墳4基が丘の頂に相次いで築造される。日常品や祭祀具である土器や、独
特な形の墳墓は地域性や社会性を帯びて存在しているが、地方間の交流・交易は、特に弥生時代終末
期以降に活発化した。それまでの他の文化要素の伝播や波及が示すように、モノの移動を単に政治的
側面からのみ語ることはできない。
いずれにせよ、結論をみない邪馬台国の位置論争を解決するためにも、九州北部地方や奈良大和を
中心とした近畿地方とともに、熊本地方や東海地方の発掘調査に注目しながら、狗奴国の位置につい
ての議論も積極的に進める必要がある。
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