第15号 - 一泉同窓会

発 行 所
〒921金沢市泉野出町
3丁目10−10
金沢泉丘高等学校内
一泉同窓会
電話(0762)42−0211
定価 1部 150円
㈱騰本清文堂
がJ
.㌦
まり、三百三十余名の参加を得て総
会を開会。先ず物故会員の冥福を祈
ハ泉丘七回1八回、九回卒業期が縫
合幹事期となり会の運営進行に当っ
た。定刻前より会員がぞくぞぐと集
年度総会並びに懇親会を開催した。
ごそかに慰霊祭の行事を行った。
夜は午後五時半より金沢市清川町
のセンチュリープラザで昭和六十三
石浦神社長谷宮司の司祭により、お
三時半より泉丘高校前庭の厳霜碑前
に同窓会役員、泉丘高校々長始め同
窓会各員∴学校教職員の参加を得て
まで心配された天候も、当日は風こ
そ強かったがまずまずの天候。午後
︶
片町を経て犀川大橋を渡るさまは圧
巻であった。
り黙帝を捧げた後1 藤田副会長の挨 ・五年生徒らが校長銅像や巨大な儀
拶、宮崎泉丘高校々長め学校の現況
霜碑を荷車に乗せ、広坂通り杏林坊、
報告を兼ねた挨拶、事務局から事業、
会計決算報告があり会員全員の承認
会者の進行でスピーチ、応援歌、校
歌の合唱など次々とマイクが鋸肯二
語り合い、先輩後輩と挨拶を交わし
合った。会も水谷昭 ︵泉丘七回︶ 司
会場は昨年以上の会員でみふれ、
お互いテ﹂プルを渡り歩いて泊友と
を得て稔会を終えた。引続き会場を
全員が鑑賞したあと、松村靖夫副
﹁兼六の間﹂ に移し懇親会に入った。ノ会長の懇親会開会挨拶のあと、乾盃
をして宴会に入った。
会場では英安富初代同窓会々長が金f
択一中が旧本多町より現在の泉野出
町に校舎を移転した当時の模様を記
録されたフイルムを子息の英勝雄氏
〓中四十二園卒︶ から同寄金に寄
贈きれたので、同窓会事務局ではビ
デオテープにダビングして保管して
展を祝い万オ三唱をして散会した。
い た も の で 、 今 回 ナ レ ー シ ョ ン B G いつまでも名残りがつきず、時の過
ぎるのも忘れ九時すぎ一泉同窓会発
Mを付けて再編集したフイルムを、
毎年十月十五日は絶対といってま 会 場 に 設 け た 大 ス ク リ ー ン に 写 し 会
い程雨が′降らないとか。今年も前日 員全員に観賞して貰′つた。当時の靭
旧金沢一ヰ校舎移転の記録映画を初公開
一泉同窓会総会開磨れる
晦和六十三年度
平成元年3月1日
(1)十五号
(2)
∵ 1 . . ∵ ・
N
′
ヽ ノ
く rノ
J.、
V
人音−
J
〆
ノ∼
筆者が一中在学中の先生は、皆好
きなお方ばかりであった。
マと津名がノつく先生が六人居られ
た、。世上是れを一中の六マと呼んで
いた。チクマ︵辻甫︶セシマ八橋船
次郎︶ニシマ︵洒崎武︶ブラマ︵渡
辺盛次郎∵サンマ︵板坂三郎︶。
∴平常授業中、最も大切な項目︵例
大切な所であるよ﹂と特に教京され
えばピタゴラスの定理︶は﹁是れは
勤められ美事歴然、筆者の恩師内田
.
6\
・元刊であるから、先生は金沢一
前屈∴郷土数学﹂記載は噸和12・
中退職されて後、東京開成中学校に
た。はたせる哉、期末試験はきまり
きって御教東胡箇所が出されるに決
全生徒は其のノ箇所を金科玉条と⊥
成会々報復刊第九号21頁所載︶の大
滝貯偶成学園入園期間は昭和七年1
叉﹁在学中の思い出−大滝浩﹂︵開
雄太郎先生でみることが分った。
て、空暗ずる様にしていた。
それが良車か、悪いか全く未知で
昭和\12年であり、﹁教学は内田先生﹂
と所載されている′から、先生の開成
学園お勤めは正しぐ右期間軋である
あった。
∵不日東都某新聞紙上、東大入学率
と出身校名の羅列が所載されていた
と云/えよう。
開成学園在職親閲とを対比して見る
とある。又先生一中母校在職表上、
下開成中学校教諭を勤めらるる筈。
四高等中学校初回卒業生なり。目
元海軍教授内田雄太郎氏あり。第
・1
5刊︶二〇二束に
郷土数学︵畠中歌書編昭和12・6
調べて見た。
きては同名異人かと思って請書を
はないか。
べし内田雄太郎と掲載されているで
︵逝去叉は消息不明︶の項に、驚く
う本を入手、同史二四六頁、元教員
按うに﹁開成学園九十年史﹂と云
いていた。
った。是れが現在の開成中学校であ
られて、二しこに共立学校復興が始ま
た高橋是清と云う人が経営を引受け
階に下宿して翻訳生活をして屠られ
に加賀藩御用商人菅野と云う家の二
れた。、其時後継者としては、学園前
︵完老︶虎列刺に罷り、東都に報せら
またま学校創立者佐野鼎、明治十年
あたかも加賀分校の観があった。た
前由慶寧、芳野茂兵衛、宇野富有等、
是れの建立にたずさわった人物は、
らである。
東都に出で共立学校を設立されたか
藩の東校佐野鼎氏、明治四年︵天空︶
明治初に建てられた加賀憩の﹁中学
東校﹂打分校と云えよす。即ち加賀
そ逐そも此の開成学園と云、︺のは、
′処、東都﹁開成学園︵其始、佐野鼎
と左記の様であったむ
2・11︵金沢一中泉丘高校七十年史︶
、︶
内田雄太郎教諭大8・4・1−昭
った。︵註︶痛鞘訪米日記、昭和甲7・20金
沢文化協会刊には﹁菅野の二階Lとあ
︶、﹁開成学園九十年史Lには﹁辻金
五郎氏二階﹂と所載。いずれか誤であろ、
′内田サンは数学二幾何学︶ の先生 の共立学校︶﹂が、全国﹂トップであ
であったが如何をる前歴ある先生か、 っ骨。麿かむそのトップ率が数年続
全く未知であった。
び捨ては′鏑木勢岐︵鏑木︶一人。叉
珍らしく敬語を附せられた先生は、
内田雄太郎云内周サン︶一人であっ
た。
〓車三十三回卒︶
山 森 青 硯
内房雄太郎先生
/と開成学園
、
沢山の尭生方の中で渾名無く、呼
写真解説「西田幾多郎(竹田篤司著)」よ
り再写。前列左から藤岡作太郎、内田雄太
郎、金田良書、後列左から福鳥淳書、松本
文三郎、西田幾多郎、松井喜三郎。
も
当時高橋是清氏は大学予備門の教
授であったし、若年米国にも渡り、
見開広く、、異学通であった。筆者母
校在学中、余暇に此の高橋是清先生
伝を内田雄太郎先生から承った二五
があった。
按うに内田先生l中に於いて、学
問の根掛を述べられたと同様に、開
成学園に移られて宣同じく、世界の
学問骨幹を強調されたに違いない。
内田雄太郎先生、/蒐海軍教授七て、
勲三等、∴宮中帝次は校長押上であっ
た。母校全校、尊敬の的であった。
鴫
山 ノ 目 ん
﹁
︺
︶
の台湾総督府の年予算が約五千万円
だったからその規模が如何に当時と
してほ大きかったか総督府開設以来
置し東西七十一キロ、南北八十六キ
ロ、台湾の全耕地両横の四十一卜五
の防潮堤一〇四キロに及びしかも当
時の工事は殆んど人力によって行わ
線九八キロ、支線〓J08キロ潮水
三七七万立方米、水面面積二二〇〇
ヘクタール、南北二本の主な給水幹
四才から四十四才の白髪まじりの中
年になって終っていた用
ダムの長さは一、二七三米γ、高さ
五六米、底幅三〇三米、貯水量一億
の歳月を経た昭和五年四月二十九日
の天皇誕生日に遂に落成し彼は三十
なかった。凍くて工事は幾多の障害、
困難を乗り越えて階調に進み十ヶ年
数千の労務者は氏を蘭や兄の磯に親
しみ慕い氏のために犬馬の労を厭わ
は現場に労務者と寝食艮共にし為に
背負って終った。氏は工事事務所叉
誇 る べ き 我 等 の 先 輩 の 輝 し い 業 績 を 水渓から人工の溝で引水し嘉南十四 も よ く 帰 ら ず 義 歯 大 柳 の 大 工 事 に 没
又私の感激をお伝えしたいと拙な筆
頭した。大正九年九月一日には鳥山
万
五
千
ヘ
ク
タ
ー
ル
の
荒
田
畑
の
欠
水
間
ノ
を 与 っ た 。 こ の こ と を 詳 述 し て い る 題を解決するプランで工事費約五千
頭工務所長並びに監督及工務課長龍
三百万円を要する計画だった。当時
任ぜられこの大工事の責任を一人で
のほ台湾の作家謝新発の ﹁誰にも享
けなかった台湾﹂ の著で戦時日本の
軍国的統治、日本人の台湾人に対す
る色々の行為を批判している中でこ
め 日 本 人 、 八 田 与 一 氏 だ け は 一 生 を の大工事計画だったぺ 時め総督は八
渓と台湾一の長い川一八六キロの濁
く有様だった。
八田氏は魔につかれたように家へ
海が荒れると田畑に潮がのし上り台
風時には常にかなり奥地まで津波が
農作物をあっという間にさらって行
て天を救う有様で叉海に近い田畑は
溝は氾濫して一面の泥海となるかと
思えば乾期に入ると砂漠が濠々とし
に東京で彫刻家吉田三郎氏で作られ
て自然に湧き上り氏が固辞したに拘
らず話まとまり昭和三年工事竣工前
技師八田与一氏の銅像建設の議が工
事関係者主要農民等も八八名によっ
嘉南の二県に跨がり十五万戸百万の
農民がこの恩恵に随喜の涙を流した
のだった。氏の徳を慕い一介の土木
は 濁 水 漢 か ら 水 を 引 く な ど は 全 ぐ 画 れたのでその困難は筆舌を絶するも
のだった。かぐて農産物の収穫は一
聖轟と思われていた。清朝百数十年
来 特 有 の 長 梅 雨 が 綿 々 と し て 続 け ば 川 挙に四二一倍になり供水区域は嘉義
%強を占める大広野で当時はその殆
んどが水利に恵まれず北の曽文渓叉
る決意でとりかかった。
この嘉南大平野は台湾の西南に位
の継続事業として認められたのであ
った。八田氏はこの工事に骨を埋め
′寮南平野の開発に捧げ異国人ながら 代目、初めての女官田健次郎氏であ
我等の父と呼ぶべきだと叫んでいる。 った。′絵督府当局は勿論難色を示し
そ の 人 宙 与 一 氏 は 明 治 十 九 年 二 月 たが南部各庁長の熱心な運動、八田
二十二日石川県河北郡花園村で生れ
氏の飽くなき熱意田絵蜜の理解ある
支持とで遂にこの一大計画は+ヶ年
明治三十七年金沢一中を経て 〓中
科事業同年八月二十四才で台湾捻督
府土木局技手になった。それから約
十ヶ年氏は桃園大明 ︵鯛とは人工の
年二月から総勢八十余名の/スタッフ
師にこの調査を命じた。氏は大正八
してくれと強く要請して来た。
稔督帝は無下に断りかねて八田技
万五千ヘクタールの給水問題を解決
潅漑籍の溝︶ の構築工事に泥まみれ
になっていた。この時末から降った
よすに嘉義庁長等から義歯平野十四
筆 者 先 生 の 詳 細 を 知 り た く 凡 肯 手 段 十一固卒〆︶明治四十年四高二部工科
を尽したが、無駄残念でたまらない。 を事業額治四十三年末大工学部土木
乞う。江湖の諸賢先生生涯御教示
を懇醸して登を輝きたけ。
■
方々が案外少いれではないか、二心の
を率いてこの大荒野の隅々まで酷暑
七年率︶の轟儀で自分は人の誠意と
い う 、 も の は 如 何 に 大 き な 力 の あ を も と疫病にさ/いなまれながらも不眠不
の か と 深 く 感 銘 し た 。 自 分 丈 け で 感 休∼でつぶさに踏査し同年十月土木局
激 し て い る だ け で は 余 り に 惜 し い 。 に土木局も驚いた程の立派な設計書
恐らくこの事実を知っている郷土の を提出した。即ち二二一キロの曽文
義和六十三年二月四日打席京四高
会の席で、丹択一延氏 ︵四高昭和十
故小 堀 保 行
〓中二十六回卒︶
台湾に残るただ一つの日本人
tかも石川廃人の銅像
(3)
身にもナ大異変か起った。工務所長、
掛任技師、養南大柳水利組合顧問と
その時まで身の栄達を離れてこめ嘉
して与−氏の銅像れきめ鳥山頭ダム
工事竣工の時鳥山蘭ダムで陳腐式が
挙げられ氏の努九とその徳かたたえ
たのだった。
南の地に身も心も注ぎ込んでいた氏
にも木綿作地開発のためフィリピン
その著者が八田与二氏を民族の父と
呼んでいる。改めて痢土、同窓の先
きた。その喜びを豪族三岡と共に七
人に報いたのはなんであったろうか
た翌朝未明、太傷がダムの水面ノに輝
⋮⋮恩給か?扶助料か?いや梨のつ
いた時外代樹夫人は﹁みあとしたい
ぶてであったのど﹂と書いてある。
てわれもゆくな隼云々﹂の也隠書を残 台 湾 人 の 心 境 が 我 々 の 胸 を え ぐ る 。
所がここに思わぬ騒動が起った。
この大工事が竣工をするに伴い今迄
に朝服漆に薄化粧されて身を投ぜら
て終った。当時鳥山頭ダム岬で留守
を守っておられた外代樹夫人の愁傷
は見るに忍びかいものがあったとい
農田水利会鳥山頭管理処に安置され
た。戦後島内の日本人の銅像は総督
八田与﹁氏の大工事の嘉南地区へ
の恩恵は上述の農業開発に止まゝかな
観光客で賑い地元住民は莫大な観光
収入に恵まれるに至り八田氏の偉業
は嘉粛平野の発展と共にその輪を展
ーシ﹂ン設備が完成し、二大観光地
と変貌して今や草間九十万人をこす
、つO
かった。鳥山頭ダムの貯水地は甜瑚
A関与﹁氏の銅像は昭和十九年の
渾︵台庸県︶ といい、有名な日月渾
金属回収で一旦高雄に運ばれたが運
点り広く雄大で貫の絶景は台湾屈指
よ く 熔 融 を 免 れ 終 戦 直 後 嘉 南 大 別 関 で交通も便利なので昭和五十四年か
係者一l同が台湾政府に懇願して嘉南
ら観光局と嘉南水和会が提携して開
洛建設がすすめられ種々のレダリエ
があったの証しである了即ち全区を
三区に分ち第一区は砂糖甘露、第二
のものを始め全部廃棄処分されたが
我が八田与一氏の銅像のみは今も烏
亜戦争に突入してしまった。
昭和十七年三月我が八田与一氏の
、︶
んだのであった。
半世紀にわたる日本の統治の中で八 げ氏に対する地方住民の感謝は其の
かくて嘉南大平野は一面の豊能を 田 与 一 氏 ほ ど 台 湾 を 愛 し 寄 与 し た 日 銅 像 前 の た え ざ る 捧 花 に あ ら わ れ て
沃 野 と な り こ の 地 方 は 農 業 製 糖 製 紙 本人は幾人あったろうかと謝新発氏
いるとい、つ。 .
業を中心に一大発展を遂げたのだっ
は書いている。
叉著者は ﹁大東亜戦八年間に戦場
たが図らずも昭和十一年日支間に戟
昭和二十年九月一日⋮⋮この日は に狩り出された台湾人は十八万人⋮
火 が 起 り 日 に 月 に 拡 大 し て 遂 に 大 東 烏山頭ダム工事がスタートして二十
軍夫、農業義勇団、通訳、志願兵、
五周年目に当った。この日奇しくも 徴兵⋮⋮そのうち三万余は戦没した
男が復員して帰って
が、経済大国を誇る日本がそれらの
糖会社も承諾し、しかもその結果以
山頭ダムの青い水面を見守って百万
前 よ り 何 れ も 増 収 と な り 両 者 と も 喜 の農民に守られあがめられている。
区は稲、第三区は雑穀とし毎年交互
に輪作することで農民を納得させ製
案し遂にこの大騒ぎを静めた切は有
名な話だ。これも如何に農民に信望
調停を頼みこんだ。氏は農民代表と
膝を交えて協議し所謂三年輪作を提
糖会社は原料不足のため経営が不可
能になり㊥け農民団体との間に確執
が高まり大騒ぎとなっ七。官局や庁
役人も収拾に手を焼き遂に八瓢氏に
八
田
与
)完
の
次
短
歌
遠き故郷想ふ日の暮れ
ジョギングの父子の姿見やりつ、
暮らしにはもはや不要と思ひっっ
酒場で貰う名入りのマッチ
季節の移ろひ栄の色に知か
枝たわむぐみの実りは花のごと
胸に浮かび来在りし日の両親
笹百合を暮前に献げ額づけば
雨の晴れ間に月蒼く輝る
ダ食を終えて憩えば窓に射すr
光度は増せり日暮るゝ早し
黄昏の能登路を行けばシグナルの
一片明ほぐれ雲散る風あり々
久tき故郷紺碧の空
山崎 農
︵通信卒︶
我 先 に 幹 田 を 叉 荒 畑 を 水 田 に か ∴ え 白 の 喚 声 に 後 髪 を 引 か れ な が ら 上 京 し れた。土の悲報に嘉南百万の恕民は
輩八良与一氏の偉業の尊さを憶う。
彼の生垣日本政府からは勲章一つ
米を席腹食べられるよ、′つになり在来打 合 の 上 船 で 任 地 に 向 う 途 中 南 支 部 勿論新聞で廃った島民はあげて二働
米 を 止 め 蓬 莱 米 つ く 膏 に 専 念 ⊥ 叉 砂 海で米国の潜水艦のため船が撃沈さ
巽⊥てやまな/かっ、たし と著者は伝え 貰えなかったが台湾島民は彼の銅像
糖 原 料 の 甘 蕉 畑 も 稲 作 と な り 為 に 製 れ無念にも五月八日︷海の藻屑と消え ている。∴御夫妻の墓は今も鳥山頭ダ を贈り守っているのだ。
ム畔に眠っている。
芋 粥 を 畷 つ て い た 農 民 は 一 日 を 争 い 行きを命ぜられた。く農民の涙と万才
(4)
随想
葉田∫漆星
︺
校へも望んだものであったが、共に
これらを断念して、技術方面に変更、
日露戦争、奉天陥落の奉祝混灯行
進出した。畑違いの依頼をうけて、
かと、選んで金沢高工の土木に入り、
昭和二年朝鮮稔督府打務局土木課に
建築の福井高工か、金沢高工の土木
列のにぎわいのさなか、即、明治三
郡山の在郷軍人会館を設計施工しき
斬新を外選を誇千て、当時南韓では
〓中三十二回卒︶
十八年三月十日の夜半に生を受け、
おそらく祖父長次郎が、戦捷にちな
︵洋画︶等と計り、絵画同好会を創
の原田太一︵日本画︶二車の堀忠義
いる。更に絵画に興味があり、同級
コンクールに賞を受けた事を覚えて
一中に入学、−年の時、全国作文ノの
久野校長め精神を受けつぐ桜章校
本海の怒涛に青くまれて育った。
勝の地、小舞子の海を友として、日
夕、霊峰白山を眺め、白砂青松の景
に家が建てられてあ?たために、朝
急流手取川に沿い、やや小高い丘
と名づけたものと思う。
を施工したものである。
に三十近くの近代意匠をもった茶室
特色を展開、東京・横浜・湘南地区
藻工務店を創設、特に数寄屋建築に
戦後は本職の土木建築を基本に、
得たのである。二
十一年二月十一日、浦賀港に上陸し
然し幸運に人も復眉するを得、昭和二
ヶ月間勿爆華にまって、遂に終戦、
たるも、B2 4︵後のB29︶による一
見事その北端に基地飛行場を竣工し
ノロ竜ン藤島1ブーゲンビル島に進出、
筆省に転官、凝躍∵南方第一戟のソ
評判を得たものである。
寸五年勤続の後、進められて、落
んで︰筆者の名を、捷夫︵カツオ︶
設して年二回、秋にその展示を催し
父が北国新聞の文芸審問であった関
卒業まじかの四年の冬休み頃は、
に注目したものであった。
ンス画壇で有名な﹁ロート﹂の作品
︵姫路二代の殿様︶﹂の発表をは烏め、
の研究を集中して﹁酒井宗雅茶会記
道に輝する茶伝書の解明に努力とそ
二更に、収集した古文書、とくに茶
理論と実際を公表して、当時他に類
紆ない著作であっ美。
﹁茶室考﹂としてl本を刊行し、
た。
その後、筆者は、当時としては尖
係もあって、一時は新聞記者を志望
﹁茶花作法﹂﹁水指考Ll﹁茶怨抄﹂更に
﹁片桐石州の新発見の著作﹂′等、拾
端を行く表現派︵油︶に志し、フラ
︶し、亦、金城画壇に気を吐いた相川
用松瑞︵日本画︶とも計って、美術学
遂に昭和二十年三月一日米軍の大
︺
冊余の著作を出版、更に来るべき﹁利
官学校に於ける校長閣下、今は華に
も軍司令官閣下としての悲壮なる訓
〓竺 沖縄本島の大攻略作戦を開始
る♪決意を誓ったのである。
米陸海空の三軍は昭和二十年三月
具現すべLL⋮⋮祖国のために殉ぜ
よ⋮⋮大義に燃ゆるこの司令官の一
語に対し、全将兵は唯涙して悲旺な
示である ﹁皇国まさに危急なり。全
将兵宜しく一入残らず大献公精神を
艦隊・陸海空軍による沖縄本島の絶
攻撃は開始せられた。嘗ての陸軍士
休四〇〇年祭﹂ に対する後世に残る
茶伝書の発表に協力すべく平成の新
しい時代を迎えた次第である。
︵茶道研究者︶
あゝ′●沖縄戦記
普 神 益 雄
八一中三十七回卒︶
私達は二度と再び戦争の悲惨を繰
返しではなら\ない。私は悲惨なる戦
争参加の体験を回顧しつって⋮悲惨
悪路を戒衣は裂け肉は破れ、転戦又
転戦熱砂を踏む軍靴は銑鉄も紐もく
した。実際我に倍する兵力と無限を
なるが故に戦争を否定し、すべ七の
人々がそ、十であるよう豆、私も亦戦 誇 を 物 量 の 前 に は 最 早 ほ ど こ す 策 は
争には心か′ら反対である。′即ち富家 な か っ た 。 兵 士 は 泥 渾 ひ ざ を 没 す る
間のあらゆる開港はすべて常に平和
的手段によって解決を計らねばなら
ないし、恒断じて戦争行為に訴えては ち果てていた。それでも果敢なる将
ならないこ、とを力説するものである 兵 は 死 地 を 求 め て 敵 陣 深 く 切 り 込 ん
でゆくのであった。飢えて食なく、
と共に戦争行動に反対し、戟皐を防
止 す る た め に 務 等 今 何 を す べ き や ⋮ 呑むに水なく丁、潜むに地なく、汗と
⋮ を 問 い か け つ つ 、 こ の 悲 壮 な る 戦 泥にまみれながら僅かに一滴の草露
にのどをうるほして奮戟するのであ
つたが、メ近代兵器と物量の前にノはも
記を書きほじめたいと思う。
私は蛮時沖縄本島守備軍の更に前
の陣地を死守する将兵は追撃砲弾に
土と共に飛び散り、壕は数多くの戦
衛 拠 点 た る 南 大 東 島 の 守 備 の 任 に あ ほや対応策を見出し得なかった。海
た っ て い た 。 戦 局 は い よ い よ 緊 迫 し 浜に流れついた木箱を拾い集めて造
日本本土の攻撃近しを感じっつ︰一⋮ った急造爆雷を抱いてMl重戟車に
や が て 沖 縄 に 帝 向 せ ら る る で あ ろ う 突入する肉迫攻撃隊は火燭放射器の
えじきとなって倒れていった。山頂
米軍の大戦団を覚悟しっつ全守備軍
は絶力をあげてその戦備に寸刻を惜
しんだ。
友を呑んだまま次々と崩れ落ちてゆ
くのであった。間断なき五十糎の艦
まさに私達の今後は、この貴き犠
牲者に感謝する心から出発せねばな
らないのではないでしょうか。
てゆく⋮⋮。見れば絹帯は汚れ﹂ 化
私達の先輩戦友達の尊き犠牲の上に
べ
き
も
の
で
あ
っ
た
の
で
あ
る
・
㌦
︰
然
し
膿した傷ほほうじがわいて生きなが
世
界に誇る大戦艦﹁大和﹂を失なっ
立って、今、′平和と繁栄を謳歌しっ♪
たのむ沖絶海我であった℃ 然りと錐 つ あ る 日 本 /
らの屍の行進にA等しかった。だれ
一 人 と し て 手 当 を し て く れ る 者 も な も終我の最後まで沖縄本島周遇にあ
く 、 果 し て 彼 ら は 一 欄 に ど れ ほ ど の って、宮古島、/石垣島、南大東島等
道を歩き得たであろうか。罪なき住 守備隊が厳然と健在したのも牛島軍
民も財産を焼かれ、家を失い砲煙の
司 令 官 の 遺 徳 の 然 ら し む と こ ろ ︰ V ⋮ ㌧ 人類の真の\平和なくして、どこに
叉特に最後に銘記した圭こノとは、叫 人 間 の 生 存 意 義 が あ る で あ り ま し ま
沖縄高等女学校及沖施女子師範学校
桜草の思い出
も幼児を背負って南へ南へと落ちの
ぴてゆく。勝ち誇った米軍は幾百の
し 〓軒四十五回卒︶
戟したことである。勿論男子学生の
殆 ん ど も 学 園 か ら 戦 場 へ と 参 加 し た 。 ′忘れもしない、昭和二十一ノ年六月
そ や 若 き 学 徒 の 心 情 を 察 す る と き 誰 二十七日のことだった。く
続いた泥棒の道を弾雨に追われなが
作戦と相まって⋮⋮敵の心肝を寒か
戦指導と戦果は大東亜戟史上特筆す
ら南へ南へと後退を続けるのであっ
らしめたの易ならず敵の艦船及陸海
た。深手の負傷者も、あるいは背に
軍に与えた甚大なる損失は我に匹敵
負われ、あるいは抱きあいながらも する程のものであり、まさにその作
梶田の中を、岩かげの小径をたどっ
こ
︺
に思い出され、列車のわだちの書の
なかで、ただぼんやり沿線の風景を
た実に、約四百万名になんなんとする な が め て い た の で し た 。
尊き犠牲者⋮⋮。静かに顧みれば、
ふと前に矢張り立ちつくしている
亜戦争へと約十四ケ年間に亘るいわ
ゆる昭和維新の激動の耳で、祖国の
平和と繁栄を碗念しつつ散っていっ
え ど も 、 あ る い は 傷 う き 、 ′ あ る い は 空の太宰に対処し吾が陸軍及海軍並
そうして昭和六年九月十八日の柳 ど 、 思 い 出 し 心 配 は い よ い よ つ の る
片腕を失い、ある者は片足を失いな
に住民は鉄の団結のもと⋮l⋮九州等 候 溝 満 鉄 爆 破 に 端 を 発 し た 満 洲 事 変 ばかりであった。
が ら も 血 に ま み れ 、 泥 に 汚 れ へ ‘ 降 り 本土空軍の果敢にし/て壮絶なる特攻 勃発から、ァ√日支事変/へ⋮・十・更に大東 戦地へ出発してから音信不通の中
で、すっかり忘れていた事等が一度
戦うこと十二旬遂に六月二十五日
声なく∵ここ沖縄の新戦場には天祐
が涙なしに語り得よう。先般連隊を
こフバウル朝揚げ最終の船で名古屋
代 表 し て 昭 和 五 十 五 年 四 月 慰 霊 の た 港に上陸し、引揚げの諸雑務を終え
逐なく神助もなかった。、ただやるせ / 刃 折 れ 弾 つ き て 牛 島 軍 司 令 長 官 及
参 謀 長 は 信 愛 な る 残 存 将 兵 と 共 に 遥 め 沖 縄 本 島 及 南 大 儀 島 を 訪 問 し 美 と 帰郷の外車に北陸方面へ裾還する兵
ない疲労と憂いが将兵の胸に深くお
おいかぶきってくるのであった/。防 か、に東北雰皇居を伏し拝みつつ⋮⋮ き ∵ ㌣ つ し て う ら 若 き 幾 万 名 め 膏 年 達と共にギユーギユーすし詰めの/朔
学 徒 の 尊 き 御 霊 を 祀 る 健 児 の 塔 及 び 車に乗り、米原で北陸線に乗り替、ん
ひ め ゆ り の 塔 の 前 に 襟 を 正 し 頭 を た てからのことだった。
高 畠 三 郎
見るにしのびない屍を南の原野にや
らけだしていた。通信も通信兵の必
横たわっているのみであった。
の殆んど全校職員、生徒が従軍看護
婦として或は伝令、書記、給養部隊
等の後方勤務に学徒勤皇隊として参
き手段も見出し得なかった。血なま
ぐさい風にきちされた草木は荒れて
れて祈りを捧げた時、こみあげてぐ
一般乗客と共にすし詰めの中に立
る あ ふ る る 涙 を ど う す る こ と も で き ちつくし、将来のこと、父母のこと、
なかった。
金沢の街並のこと、友人達のことな
死 の 保 線 の 甲 斐 も 空 し く 次 々 に 切 断 戦車を先頭になだれの如き勢いで南
され﹂ 連絡はとだえ、もはやなすべ\ へ と 迫 っ て ぐ る 。 最 早 退 i に 地 な く
背後には唯死の海⋮⋮。東支部海が
神州不滅を信じ、︿欣然として切腹自
戦に防戦これつとめた首里戦線も敢
決した。
斗の甲斐もなく、その魔鋭め大半を
かくて沖維本島守備軍は破れたり
失い、軍司令部を沖縄の最南端、摩
と錐も、終始周倒なる防禦戦術と常
文仁の丘に後退するの止むなきに至
ったのである。山生き残った将兵とい に毅然たる敢斗精神に徹し、米陸海
僅かに残った車輌とて動かす所なく、 中 を さ ま よ い 歩 く の で あ っ た 。 子 は
ま た か く れ る こ と を 知 ら な い ﹀ 軍 馬 は 親を失い、ノ妻は夫と別れ、少年少女
凍った。道という道、橋と名のつく
丸太棒まで見る影もなく消え去月、
なき住民の屍の山を築いてゆくので
砲は沖鈍の山河を農骸し、赤く焼け・
ただれた赤土の上に幾多の将兵と罪
(6)
︶
あった。
はないかと隼の学生の名前を開くと、
学生の制帽のわきにテラツと光を星
それは私も知っているA氏で、昔若
のような帽章を認めたのだ。だがよ
く見るとそれノほ私達が卒業した金沢 い時私の家にいたこともあり、大陸
に渡り青島で大成功した人の子息で
上中の制帽のワキ章と同じ桜ではな
いか。何か熱いものがグッとこみあ
げてくると同時に、∼青春時代が思い
出されてくるのであった。
その頃上級学校へ入学しでも、金
︶
ルソン島、マl〓フへ
︵我が太平洋戦記その6︶
片 岡 茂太郎
二中四十六回卒︶
を全員死して守った日本の将兵の勇
気と祖国を思う心根を﹂ とあった。
敵味方の立場を越えこ寺、ツツ提督の′
言葉には人間として私達の心をiつ
ものがある。
明け方近くであったろうか。∵突如
昭和十九年八月上旬、マテラの第
私が学生時代に一度、父とA氏と
三人で湯漁の白雲楼へ一泊で静養に
四航空軍司令部から復帰の命令を受 ﹁ ジ ャ ン 、 ジ ャ ン 、 ジ ャ ン ﹂ と い す
行った時、二青島の話の中で ﹁青島′の けた高阻捜術中尉︵金儀一中山期先 けたたましい鐘の音に飛び起きた8
何事ならんと未だ薄暗い甲板にでる
輩︶‘私︵軍屈少尉︶はパラオを発
魔人会の主だった人たちは金沢一中
の卒業生であり、私は学校も打てい
パオに向う駆漕艇に便乗していたも
サイパンは艶に玉砕し、ニュ壬ギニ
ち、/二フィリピン、ミンダナオ島、∴ダと撥軍をんの日く﹁敵潜水艦の魚雷
攻撃を受けたが、船の下を通/つてい
った﹂ と。小さな駆漕艇の吃水が浅
沢一中の卒業生達は好んセ金沢一申
紆帽子のワキ章をそ\の上級学校の制
帽のワキに、金沢一中の卒業生であ
アも亦各所に優勢な連合軍が上陸、
ないので肩身のせまい思いであった
る こ と の 誇 り を も っ て つ け て い た もが 、 息 子 が 金 沢 一 中 へ 入 っ て い る と
の で あ っ た 。 あ ま り の 懐 し さ と 安 堵 言って溜飲を下げて示る﹂ とのこと
く、魚雷の深度が深かったために一
瞬の轟沈を免がれたのである。ダバ
れ湾口には敵潜水艦が何時も経ち伏
せをしていてこれまでにも多数の日
本艦船がやられていた。私達は全く
幸運であったとしかいいようがない。
やがて空が少しづつ白みはじめ、
岸辺の椰子のシルエットがその輪郭
後のことになるが、九月十五日米
軍 は パ ラ オ 諸 島 、 ペ リ リ ユ ー 島 に 上 を露たしてきた。午前﹂ハ時頃ダパオ
栽培で在留日本人が多く住んでいて、
を展開、米軍も局地戦としてほ他に
類を見ない一二月余の死傷者を出七た。 将校宿泊所紆世話をしていた老夫婦
の波止場に着く。
ダパオの町は戟前からマニラ麻の
駅で別れたのでした。それから尋ね
尋ねてようやく帰宅し、両親と涙の
死闘一ケ月余我軍は遂に玉砕するが、 も か つ て 大 き な 農 園 を 経 営 し て い た
戦い終って島に上陸したアメ1日リカ太 そうである小。宿泊所に落ち着き、早
らお祝いにと見事な鯛を頂戴した次
玉名滞在していた。連絡を待つだけ∵
欲しいと依頼する。
ここには他にも便待ちの将校が四、
速飛行場に連絡をとりマニラへ行く
4航軍の飛行便があったら知らせて
対面も済ませ雑談中、前記のA氏か
を 調 べ て か ら で も と 言 わ れ る の で あ 陸し、轍瑚礁の洞窟に立てこもる約
っ た が 、 エ イ ッ ま ま よ と ば か り 金 沢 一万の我軍将兵との問に壮絶な戟椀
じがないのは当然であった。
もしをんなら私の家へ来て移転先
で あ っ た 。 そ の 御 子 息 と は 、 あ ま り 補給を絶たれた我軍は悲惨を敗退を
のため思わず声をかけ ﹁君は金沢一
中の卒業耳か、/俺も金沢∴▼中の卒業
の奇遇におどろくと同時に、帰宅す
続けていた。マッカーサーの次なる
べ ぎ 家 不 明 と い う こ と に な っ て し ま 進攻目ノ標は間違いなくフィリピンで
生だ﹂ と。
同 窓 生 で あ る こ と の 懐 か し さ か 一 った。いろきろ尋ねても御本人は横
あろ、つ。
駆漕艇は単独航行の身扱きから可
度 に お そ っ て く る の で あ っ た 。 そ こ 浜の学校へ行っていて、金沢へは時
で 金 沢 の 街 並 は ど の よ う に な っ て い ど き 帰 る だ け で ぐ わ し い こ と は 御 存 なりの高速をだしているますだ。
るか、俺の家は寺町の万にあるのだ
があ/のあたりは変っていないか等、
矢継ぎ早打質問に、、その学生は大変
落ち着いた態度で応答してくれるの
であ予た。その′ぁげく寺町はどの辺
ですかと開かれ、町名を言ったとこ
ろバ アしそれでは高畠㌢んではない
ですかと言われ、一瞬ドキッとした
った始末。それで紅もしや入違いで
のであった。お宅は御両親其健在で
第である。
平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥は日
す。⊥かし家は何処かへ移られまし
以上の復員帰郷余話を ﹁桜草の思 本軍の敢闘を讃、㌔碑を建てていを
たとの事、はで両親健在はわかるが
い出﹂/として一文を綴った次第であ 碑 文 を 訳 す る と ↓ こ の 島 を 訪 れ る 諸
豪を移転したの′では帰る処が無くな
々の国の旅人たちよ、日本の国をよ
り
ま
す
。
A氏及びその御子息に栄光あれ。
ぎることあらば伝えよかし、この島
(7)
鋸 の無軌のまま街に出かけ︺ることにす
︵ る。中心街の通りは一見西部劇にで
てくる町を思わせるような木造の建
な所に入ってものを食べ終日行を共
迫
り
も
る
フ
ィ
リ
ピ
ン
決
戦
に
備
え
、
輸送機は離陸しノ、しばらく飛んや
にした。帰隊の時間がやってきて別
ダパオの飛行場には海軍の零戦が多
ネグロス島の広大な〆パイナップル畑
れ る 時 彼 は 集 に 名 残 隼 隠 し そ う で あ 数集結七ていた。/飛行場へ凍てから
に続く未完成の飛行場に一旦着陸、
物が軒を並べ′、町はずれには僅′かば
った。 ル
三日昌の朝、見馴れた第7輸送飛行
あちこち見てから再び離陸、レイテ
戦後復員してきてから私達が一緒
かりのバナナ、パパイヤ、マンゴ﹂
隊の輸送機 ︵春龍︶ が一機着陸し、
島のタグロパン飛行場に着いた。一
に歩いたその約三ケ月後に彼が戦死
等を売っているバラック風の小さい
数 人 の 将 校 が 降 り て き た 。 見 る と そ 行は司令部のあをマニラへは直行せ
家が目につく∵人々の身を隼もみす
したことを、そして私と出会って本
の 中 の 一 人 が 半 年 前 ニ ュ ー ギ ニ ア リ ず、他の島を廻るといすことで私達
ぼ ら し い 。 こ の 国 も 貧 し い の で あ ろ 当になつかしかったと書いた手紙が
グエウクで一緒だった軍医部の山口 二人はここで降りることになった。
、つ0
届 い て い た こ と も 奥 さ ん か ら 知 ら さ 少佐やある。飛んでいって敬礼する
タタロバンの飛行場も見るからに慌
あ る 日 の こ と 一 人 街 を ぶ ら ぶ ら 歩 い れたバ 戦争の非情さをつくづく思う。 と ﹁ こ ん な と こ ろ で 何 し て い る ん だ L
し
さが感じられ、多数の4庇軍戯下
て 行 く と 商 号 の 方 か ら き た 水 兵 が 私 に ダパオに来てから既に一週間経って
と半ば串間調である。それでよこに
の飛行機が雑然と集まって′いて吸い
い る 訳 を か い つ ま ん で 話 す と 、 へ 一 行 の真近に迫かを感じる。
談し、ここは海軍の飛行場であをし、
行題来るべき航空戦のためフィリピ
の長、渋谷参謀に掛け合ってくれ、
同乗させて貰うことになった。〓
りかけた時上から隆町てくる顔に旦
その日は飛行場脇の宿泊所に泊る
ことにな牛その二階への階段を昇
いた。毎8飛行場へ問い合せるがなか
行場に泊り込んで掴まえようとい
こんなことを七ていても駄目だから
なか健がないようだ。高房中尉と相
敬礼をした。﹀見る七なんと野崎の甚
まではないかむ 向うも気がつき驚き
と喜甘とをご′っちゃまぜにした顔に
、つことになった。
此鳥方面レーダー配置要図
交わすこともなかったが見ると曹長
で飛行戟隊の整備士とのこと、内地
の白衣を着ていたし叉明日をも知れ
ぬ絶望的な状況の中、あまり言葉を
沈され、太平洋をボートで十週間漂
流した時私と膚をくっ/′つけあってい
た隣りの彼である。あの時は傷病兵
前、藤院船/ぶ、ヱのすあいれす丸が撃
覚えがあった¢ 向うもおやという顔
つきになった。忘れもしない九ケ夷
なっていた。私の子供の時分から毎
日天秤棒をかついで廻ってきていた
魚屋である。︵本名は車叶甚助とい
ンの各島に造成中の飛行場視察のた
め飛来したのである。︶
ったが野崎とヤブ魚屋で働いてい、て、
こ′の時三十七、八才位であノつたと思
うが甚まといす愛称で呼ばれていた︶
開くと召集されつい最近このダバ人オ
へ派遣されてきた海軍設営隊の二等
水兵で、今日はJ偶々外出許可がおり
たのだとい、丁。
この年で最下級の水兵、さぞ苦労
が果して生きて帰れたであろうか、。
翌朝早くから飛行場へ行き健を待
つ。高田中尉と話し合ってここで訂
送還はさせて貰えなかったら守い。
再会をなつかしみ肩を叩いて別れた
子供が三人いる筈、せめて今日一目り
慰労してやりたいものだと、なんだ
か胸を締め付けられるような思いに
個の行動をとることにする。その方
がお互いに都合がよかったからであ
していることだろう。こちらはチョ
ンガだが彼には確か奥さんと小さい
させられる。道々話を開いたり、聞
かせたり、合い間には喫茶店のよう
こ
行き軍用電話を借りる。電話口にで
︶
る。
等医書見軒位に申告をする。軍医部
長は出張や留守であっ′た。書見中佐
J
﹀
バ
︺
中学の五年を卒業した諸君が入るこ
染が薄く、草葉三十年間は同窓会名
に強かった様に記憶している。とに
かく一ケ年間たけの付き合いの為馴
混成であるので、県内に於ては抜群
ほ、昭和二十四年六月頃宮沢先生が
十才台の頃だったと思いますが、舞
台では今迄の静寂を破つて急に起こ
っ﹁た激しい磯子と共に烏帽子を扇子
ありました。現在の宝生流家元が三
れて漉けて小る趣味の蘭楽や書道は
った様であるが∵生徒諸君はそれに
人生の道草と言えそ、丁です。
応えようとしたかどうか′不明である。
毎日が単調で少し憂欝だった高後
スポーツはとにかく三中学の主力の
生の時に、、能・′道成寺を観たごとが
て想い出きれます。勉強や学校から
である。
大 河 校 長 は 旧 四 高 の 教 育 と 伝 統 を の開放感がそ、斗させたのでしょ、ケか。
こ こ に 受 け 継 が せ よ う と す る 意 図 だ そして現在の私にとって、本業を離
二名、松慶一′名、ノ県外六名、。計三五 棲 め な く て も さ き や か な 安 心 と 憩 は 、
五名で県内は全県に亘っていた。組 身近かにあるようです。′ 子供の境へ ノ
道草をして見た空の美しを、用の流
は七組あり、文科四組、理科五組、
それを第二外国語、ドイツ語選択と れの自然さ、田園の景色の長閑さ等
フランス語選択′とに分かれていたの は 、 年 と 共 に か え っ て 鮮 か き を 増 し
一中の桜草の紋と東素二親の柏章を
とになり、大学を受験したい者は全
何時頃だったろうか、一機の九九
たの烏庶務の准尉で、五晩少尉が迎
員 入 学 さ せ ら れ た の で あ る 。 そ の 人 組合わせて図案化したものである。
式事偵察機が飛来し着陸した8 操縦
えに限くからそこで待っていて欲し
士が駆け足で何処かへ連絡にゆき再
いとのこと。待つこと約三十分今年の 員構成ノは一中五二期一名、五四期二
一名、五五期一二二名、二一中四五期
び 戻 っ セ 来 た 。 こ の チ ャ ン ス と ば か 二計二宣−ギニア、ウエワクで別れ
草
り 駆 け よ り 、 若 し マ ニ ラ の 万 へ 行 く た同期の五味少尉が車で来てくれた。 ﹁名、四九期九名、四八期八五名、/
橙 村 晴 夫
のなち乗せてくれなへいかと頼み込ん 車 中 そ の 後 の 積 る 話 を し て い る う ち 三 中 一 八 期 一 名 ↓ 二 一 期 十 一 名 、 二
︵泉丘三回卒︶
二期七九名、小松中十名㍉ 金沢中一
だ。その若い二十オ位の軍曹はいと
に司令部に当てられているフィ日ソピ′
﹁なべて頂に憩あり﹂ と西欧の賢
六名∵市立工業一名、七尾串一名、
も簡単に﹁ああ、行いですよ﹂と快
ン医科大単打艶物に到着。早速高級
人がノ記されたそうですが、特に頂をさ
羽咋中二名、藤島中三各、大聖寺中
く承諾してくれるではないか。
複座の偵察機の後部座席に乗り込
′ ノ
む と ﹁ い い で す か ﹂ ■ と い う 声 と 共 にに連れちれて参謀長、高級参謀、山河
プロペラが廻り、七、八百米も滑走
級副官と順次申告に廻る。
し た か と 思 う と ス イ t と 飛 び 上 っ た 。 後に天王山といわれ、約八万の我
/
軍将兵が昔関㈲未散華するレイテ島
♪
ノ︸
決戦が間むなく始まろうとしていた
輸送機に比べると実に軽やかだ。高
のである。
グ
昭和二十三華三月、学校令改正に
青 竹 毎 詣
〓中五十四回卒︶
金沢■高三年生、了
度三千栄位だろうか∵風防を開けて
下を覗くと、物凄い勢いで風が顔に
ぶつかぅノてきて思わず昔を後ろに廻
す。南北に延びるマスパテ島の海岸
に打ち寄せる白波の帯がゆっくりと
後ろの方へと流れてゆく。これから
先何が待ちうけているか知らないが、
戦いの合い間にもこんなに胸の脹ら
むひとときもあったの〝だろうか。
ルソン島が見えはじめ、やがて機
で叩き落とし、そのまま鐘を指しな
がらヾ小きざみに足早に鐘の内へ入
録 を た よ り に 名 簿 を 作 り 同 窓 会 を 発 るあめクライマックスの歩みの動き
の速さ、確かさ、気品さを観た時に
足させ、それ以来現在まで三回同窓
会を開くことが出来た。ちなみに当 全 身 が 固 く な る よ う な 感 激 を 覚 え ま
時 よ り 泉 丘 に 引 き 継 が れ て い る 校 章 した。今でもその場面が頭の中に蘇
はノマニラのニコルス飛行場に着陸し よ り 旧 制 の 中 学 廃 止 と な り 、 四 月 よ 簿 も な く 、 同 窓 会 も 行 わ れ な か っ た
たァ私は名前を知らない若い軍曹に
り新制の高等学校が発足したのにと′、 のであるが、ノ昭和五十四年一泉同窓
も な い 、 金 沢 一 中 も 金 沢 第 一 高 等 学 会各簿作成の時始めて卒業時の住所
札をいい、今後の武運を祈る思いで
手を握って馴れた。
校と名称が変更され、第一高女が第
復帰命令を受けてから約三週間漸
二高等学校︵現在の二水高︶金沢三
く マ ニ ラ に 着 い た 。 と も か く 4 航 軍 中が第三高等学校︵現在の桜丘高︶
となった。そこで一高の三学年は旧
司令部に連絡せねばと地区司令部へ
(9)
l
射 って来ます。︵あの時が、大袈裟に言
達は、なつかし、■く感激もひとしおで
寿会﹂ の定期通信のみならず、一泉
費二千円を納入し∵本部からほ ﹁泉
やに三〇年の年月を過ごした私達で
学園にとり結ぼう﹂ と。卒業からす
同級生達も、全国各地からお盆休
同窓会の機関誌 ﹁﹂泉﹂ をも送付す
はあるが、今、このメッセージを受
みを利附して帰省し、絶敷〓ハG余
る こ と に よ っ て 広 く 同 窓 会 へ の 参 加 け取っても、さほどおかし汗とは思
名′の大盛況となつた¢なかには三十 を呼びかけながら今日に至ヾつている。 わない。 ︰
隼ぶりの再会者もあり﹂一次会だけ
二十五周年には、名簿の再編には
敗戦の翌年、二九四六︵昭和二二
あった。 ㌧ /
町観賞や誰や仕舞の稽古を挽けノて屠
ります。その後、書道も家内と共に
Vでは話が尽きず、二−次会、三次会へ
とネオンの中に散っていつた。
年春、小学校へ入学した私達、確か
に戦後教育の療二回生である。しか
し心の中には、戦前派でも戦中派で
えば私にとって能楽への開眼になっ
たと思って居ります。その後中断し
たこともみりますが、開業後再び能
楽しんで居ります。.余り上達しませ
ん︶が、しかしそれでよいと思って替
普段の夜は若者達で娠わっている
わずか二〇余名に過ぎない。 L
とする今日だからこそ、なお一層強
いものになっていくのであノろ、つ。
同じ場所で、同じ時間を共有した
友達との絆は、人生八〇年になろう
ていくのである。秋には、関西泉寿
会の例会もある。
に、︶今年もまた、泉丘時代の恩師と
全国各地から何人かの仲間が出掛け
先日も泉寿会本部では常任幹事が
集まって新年会を催した。毎年一月
め最終日曜日に開かれる閑東泉寿会
三 〇 年 で 一 八 名 の 同 朋 を 喪 い 、 総 会 と、仲間の顔が見たくなり、去戸が開
も追悼で開会した。Lしかし同窓会のム
ゾ
きたくなり、たびたび同窓会を開く
のである。
あきたらず、﹁座談会∵青春讃歌﹂﹁思
い出の記﹂を内容とす思記念誌を発
行した。そして、昨年の三十周年記念
ります。人生の道草ですから自然に
関東泉寿会、関西泉寿会の二支部を
むをく、胸を張って﹁戦後派です﹂
とも言えない中途半端な私達は、そ
れが生き方にも現われて、、7まくス
イスイと世渡りが出来ずにいる。
せめて心に潜ったウサを晴らぞう
﹁泉寿会﹂よ永遠なれ
㌧ 小
︵泉丘十回卒︶
河 島/ 和 子
泉丘一〇期生の同窓会は﹁泉寿会﹂
と命名された。二〇年のブランクは
〝 ベ
y昨年八月十三白、金沢東急ホテル
において、卒業三十滴年を祝う同窓
そ の ま ま 名 簿 作 り に 歴 然 と あ ら わ れ ヶ年の生活が、いかに希望と感激に
た。名簿には空欄が多い。しかし、
満
ち、美しい人間形成の場であった
かを思い浮かべ、永遠の友情をこの
これを機に泉寿会では、会員が年会
︵︶
ハ︶
会が開かれた。
当時の先生方に紅多数ご出席いた
だき、そのお元気なお姿に接した私
が寿く、良いことだ﹂ということで、
に基づいて、未知の世界へ新しい第
一歩を進める年だ。お互いの多幸と
健闘を祈ろう。そして、この泉正三
に、同窓会の組織づくりと名簿の作
卒業アルバムの編集後記に、次の
成をはじめた。 ﹁泉丘高校もわれわ ような一文があるっ ﹁今年は、みん
れ も 、 幸 多 く め で た く あ り た い 。 泉 ながそれぞれ自分自身の理知と情熱
し な が ら や っ て 参 り ま し た 。 そ し て 持っている申 卒業二十周年を迎える
一九五八 ︵昭和三三︶年に母校を
つyくづぐ若い頃にこ紆よすな機会を
に あ た り ∵ 卒 業 以 来 個 々 の い く つ か 巣立つとき、三十年後の今首まで、
持 て た こ と を あ り が た く 思 っ て 居 り のグループで継続的にもたれていた こんなにも親密な仲間意識を持った
ミ ニ 同 窓 会 を 一 つ の 会 に ま と め て み 同窓会が続けられるとは、/想像もし
ます。
て は ど う だ ろ う か 、 と の 提 案 の も と なかったことである。
それ以来今迄、ささやかながら道草
か ら 強 く 感 激 し た の か も し れ ま せ ん 。 らなる阿鼠会で、金沢に本部を置き、 庫は強く、現在消息の不明の友は、
・
程の強烈なインパクトを心にうけま
私達の■泉寿会﹂は、泉丘一〇期
した。それはおそらく心が若かった
生一五二名と通信教育一期生二名か
自分の気持の赴くままに、下手の横
杏林坊界隈も、この夜ばかりは﹁貸
鎗馨では﹁泉寿会﹂﹁関東泉寿会﹂ヴ﹁関
好 き な の が か え っ て 永 く 続 い て 居 る 切り泉丘様L ﹁泉寿全様予約﹂と張
西泉寿会﹂ の三本の旗が作られ、﹁一
り紙をした店もあ㍗まさに﹁泉丘
のだと思います。
泉同窓会しの旗とともに会場に掲げ
今から思うと、私は若い時に思い
一 色 ﹂ に 塗 り つ ぶ さ れ た フ ィ ー バ ーられ、総会を盛りあげた。五〇〇余
が け な く 能 の す ぼ ら し さ を 意 識 す る ぶりだっ■た。
名で発足した ﹁泉寿会﹂も、卒業後
(
同窓の集い
◇一中八桜会\︰
倉風十三号も南にそれ、/彼岸入り
︶
◇三々会越前海岸周遊大会
出席者︵
﹁関東﹂ 田中、福田正次郎、谷内、
八牧
﹁関西﹂勝木、坂、能木場、八十島
﹁東海﹂三上、山本
﹁北陸﹂浅井、高崎、中島、野村、
福田尚造、宗広、本村、箕
打、三谷 二三上記︶
の九月二十日昭和六十二年度八桜会
大会を愛知県大田市の迎帆楼におい
て開催した。日本最古の国宝犬山城
固嘗既歴五十年
往時紅顔今白馨
不知来年幾人会
挙楊歌哉今夕宴
①古巣出てから
リンリンサイコロリンサイ
ヨンコロリンコロリンサイナ
六十ウ年ぢゃ
リンリンサイコロリンサイも
昔の紅顔
ヨンコロリンコロリンγサイナ
心はァ若い
山代のー三々全
山代のー三々会
リンリンサイコロリンサイ
②揃たそろォた
ヨンコロ〓リンコロリンサイナ
話もォはずむ
春めや唄えや
リンリンサイコロリンサイ
なる。他人に判らぬ吾々の学年だけ
の宝である。又皆で斉唱出来るのは
多の杜を偲んだ唄と御承知願いたい。
この歌で先生が偲ばれ、友の思い出
が重なって思わず最後に目頭が熱く
記念撮影後六噂から総会、続いて
娯Lやァ今背
懇親会、三々食提唱の近藤君の発声
きンコロリンうロリンサイナ
で乾杯開宴、物故者の黙痔後待ち兼
来年も北陸か
ねた関口君のテープ持参の舞踊、川
来年もー北陸か
西君の敵い喉の謡曲に始まる堂甘た
続いて発生者歌を唄ったが∵昭和
るもの、米林君の噴々たる横笛はや
天十↓年九月一日の ﹁一泉﹂第十二
がて人間国宝級なるべし。次いで竹
号で藤田君が歌詞を報告しセいる。
野君の本会に寄せた藩を三々会讃歌
数年前書々ほホテル並みの新校舎を
として唄う ︵角力部の応援歌の節を
訪ねて、余りの変りようにガツカリ
つけ美自作のもの乍ら皆で唄えば面
して、やはり小便が古い勝子窓を明
白い︶。
けてヂヤンヂヤン鐘を叩いた頃の本
泉大野やに集合、北海道・東京・長
野・金沢から参加したのは男子十八
名、夫人玉名なり。
ナ五月十日好天に恵まれ午後山代温
〓中三十三回卒︶
れる程であった。船中や女中日く﹁
団体のお客さんは歌が出るのに皆さ
いる。
いて解散したが、金沢組はさらにリ
トルワールドも見物されたと聞いて
んお話\に夢中になられ、余程なつか
しいのでしょうね﹂翌月明治村にお
は本年築城四百五十年にあたり、ま
ことに秋晴れの好天気に澄まれた二
日であった。惜しむらくは古稀を過
ぎた老武者のため、ドクターストソ
プにより旅行を見合わせた級友が多
く、当初の予定を大幅に下回り僅か
十九名の参加に止まったことは大変
残念であった。■ ■
午後二時受付開始、各自市内散策
の後∵四時半大会を開き∵今年逝去
された照田、中西、小林、高桑君の
冥福を祈り黙樽、魔元山本幹事寄贈
の一中応援旗の下、/ヶンケンガクガ
タ、我等未だ若しの意を強くしたが、
如何せんいずれも老令のため、来年
度以降の大会は金沢市内において開
催、然も夫人同伴鳶の意見も出たが、
結論は再度金沢において協議するこ
ととなった。
夜は木曽川に舟を出し、伝統の鵜
︶飼を見物、鵜の妙技、鵜匠の説明に
口 耳を傾け﹂ 歓談数刻時の経つのを忘
これと最後の校歌だけである。
︸翌朝小雨を衝いて出発したが、越
前和紙の会館で熱心に明治以来の吾
前海岸の岩儀を眺め乍ら北上し﹁過
の本陣﹂ で最後の海の幸を、ノゆっく
国の宙紙幣の歴史を開く、外に出れば りと心ゆぐまで味わい、福井駅で東
雨上が彗′の新線初森に翻える鯉のぼり京組と再会を約して別れる。
出席会員も毎年減少の傾向あり、
︵井口記︶
当分は北陸地方で開催し、今後四、
五回を目途とtて又考える事とした。
三五会六十周年記念総会
が誠に美しく懐かし′かった。パピル
本会も当初は東京二瀾西・金沢が
ス館で各自ノが色紙大の木の葉入りの 夫 々 に ス ケ ジ ュ ー ル を 建 て て 、 交 互 ◇ 清 流 に 時 の 流 れ を 見 る
記念品を作った。宮崎の陶芸村で越
に運営したが今後は金沢中心でと一
山車、魔仙漢のほとり〝よしのや
適した感慨が主だったが、それにし
妻なり夫妻をカメラに納む
わが卓掛に面輪の似たる親友の︸
越前海岸草みどりなり
水仙の名軒と開けど季遅く
︵和紙の里︶
わが漉きし和紙乾きゆくなり
はめ込みし紅葉おもむろに色冴えて
に依る。 ∴
忍ばれた所である。謡曲﹁花筐﹂
老いがしのびよっているのほ否めな
り、お互い見合わす顔にもすっかり
物故者の数が一四五%と造かに上廻
現存者六八名となった現在で闇、
めやかに行なわれた。
虜にある友、九九名の追悼法麿がし
って集う者二十名。四時から既に幽
関東・関西から駈けつける着もあ
ことで温泉地を選んだ。
っくり語り合おうではをいかという
年を迎える記念の絶食だからノ一晩ゆ
していたが、今年は卒業以来六十周
持ちて狂ひしをみな偲ばゆ 依 緑 周 ″ で 五 月 十 五 月 、 三 五 会 は ′ 能
︵味真野への道標見ゆ︶
会を開いた﹀
。
味真野は継体天皇が即位前に華を
毎年五月金沢で総会を開くことに
任された。
前と備前の古陶を見て、武生から越
V
同期の友らの旅と重なる
ん J
/ 誘ふ仲居の/生活きびし
帰り来てため息探し
老いたる友は
越前の旅八首
ふ こ
根鼻掛の皇子の賜′びにし概観
続けんものぞと去り行く友ら
釆ん年も命長らへこの旅は
旅を語らふ八十路の友ら
笑ふ者鬼のみならじ来年の
はなかったが本多の森の五年間の生
告などあり、欽めや歌えやの販かさ
六時から宴会、各自から現況の報
さを隠すことが出来ない。
いる者が相当あり、今更ながら淋し
ヌードショケホテルの内と思ひしを
夫妻立たしめシャッターを切る
ヽ0
料屠導ぐ夜の殻か鮨
お父さん/と友に呼びかくる妻の′ぁり
然も今日の会場に出たくても身体
ヌードショウはダンスならざりきとご
若葉うるわ七同伴め旅
の都合で出席出来ぬと知らして逐て
呼鳥門その名ゆかしき巌門に γ
そこぼくの報酬得んとヌードショウに
加賀温泉三首
暮あ月経りのありてま年集ひし
七人の姿今年は見えず
小
身二つを欲しとぞ思ふ授業日と
空㌦謹 〓中三十三回卒︶
議穣 川 西∵弘 高
同1期∴骨 旅 心
ても皆若い。
鶴きん、亀きんも重役芸な約六其う
ち皆の感想が届く∵皆八十才の峠に
れたか、年々に腕が上る。近藤君の
小寺君の農曲斉俊坊の濱ずる奇術
の数々はさすが、老人ホームで磨か
(12)
J
︺
思いだす。 くノ
当日の参集者つぎのとおり。
活のつきぬ思い出話に花が咲いた。
ル ﹁たな嘉﹂ に着く。能登島を目前
うちに四時すぎ会場の和倉温泉ホテ
郎、′南部貞二福田重一︵東京在住︶
次、作蕃秀艶、桜井喜文、清水忠次
風景は実に穏やかで心を慰めてくれ
にし、静かな七尾湾に浮かぶ↑小舟の
より持参した校歌、応援歌のカセッ
懇親会に入るや、小唄﹁白扇﹂長
唄鞍馬天狗﹂詩吟と渋いご披露があ
り、宴益々鮒わとなるや同数会本部
歩と思いを新たにするヲ
原村博︵富山在住︶安原一郎︵栃木
車中は想い出話に花が咲いている
塚在住︶内田噴太、金岩明、小坂音
出歌
席者
〝雲に聾ゆる白山のへ⋮︰;″ の校
を 同 窓 会 事 務 局 か ら 借 り て き た テ ー 浅地忠へ板垣昔兵衛、牛塚藤雄︵宝
プに合せなつかしく斉唱し、散会し
たのが九時。福の女中さんも﹁若い
人の会まりも長い時間だった﹂ と感
トテープが鳴り出すや俄然桜章健児
当時に蘇がえり大合唱となり、三時
間におまぶ楽しい懇親会も終る。
後ろ髪をひかれる思いで互に叉の
って一時四十分無事金沢に到着する¢
ー ト
た幸せを痛感′し、′平均寿命にいよい 桜 会 健 児 に 幸 多 か れ と 祈 念 し て 乱 葦
を止める。
よ到達する私達、今後の余生の第一
逢う日を新し解倣、隠路につく。,
快癒を功に祈る。
一 期 一 会 の 今 日 の 集 い に 出 席 出 来 波乱に満ちた時代を過した我々七
心から冥福を祈り黙/藤す。叉病のた
め残念乍ら出席出来をかった学友の
撮影をして大会に入る。
翌朝九時バスでホテルを出発、能
︸まず逝きし学友八十四名を追憶し 登島大橋を渡り鳥か一周し巌門を廻
六時に√l中応援旗をバックに記念
る。
二村︶野村忠、ノ大浦喜三郎、杉野啓バ
結城与久、′大森玄衆
育ち
>︶\り
◇七桜会全凰大会
ノふ昭和七年卒︶
丸首二十∵日秋晴れのよい天気セ
ヶなり、七桜会全国大会を迎えて十れ
た。
今回は丁度空中創立九十五周年の
年に当り、私達も卒業五十六年目と
なる。
牛後二時半金沢駅前に関東、関西、
九州より十一名、地元十六名が定刻
前から顔を揃える。久しぶりの再会
で懐かしさ﹁杯互いに喜び合う。突
然入院中の宮野宗一君がみんなに逢
い1たい二心から病院より馳けつけて
/来た︶
。
一行は迎えのバスでいよいよ会場
へと一路能登路を北上し、千里浜な
ぎさドライブウエーを通り怒涛逆巻
く日本海も今日は風の静かな海であ
っ/た。ありし臼の金石原頭の角力を
思次空士凋み細大△趨鎧メ サ、、
完膚︶藤水利勝︵東京在住・奥様同
心する程だった。
(13)
出席者
三頃、南、村田尚、室賀、吉岡、山
瀬
田、高桑、長沼、西田、春木、福田、
伊藤、地相、 瀬野、赤、高松二 高
村義、竹下、 前田弘、村上、山本正、
幸村、浅香、 岩脇、川崎、国見、塩
(14)
昭和六十三年度
八桜会全国大会
日 時 七月十六日出・十七日㈹
場 所 犀判上流 末町滝の鱒
参加者 三 十 名
︵関東︶ 坂本登、胃中正能、橋本正
久、㌧谷内上、渡辺六郎
︵関西︶ 勝木竜猪、千田民夫、坂伊
之助バ 八十島健二
︵中京︶ 三上修三、山本辰雄
︵富山︶ 織部道雄、押野永光、′土屋
紀一
︵地元︶相川実、粟野利雄、〃大沢正
夫、大村孝一′、小堀広、小
松美音、趨守茂輿、高崎辰
夫、中島正肇、野村潔、隊
本俊一、福由正秋、三谷実、
本寓尚、箕訂正寿、福田尚
造 ︵以上︶ .
幹 事 貧打、小堀、イ福鴇
遠来の友と金沢在住の仲間ちが十
年ぶりの再会を心から喜びぁ示、あ
れやこれやの懐旧談にうち輿ずるこ
けである。
∴夜あり遠方より釆たる、また愉し
からずや。
年に一度の同期諸君との出会いこ
そ、なにもの宜もまさるわれらめ健
康保持の妙薬ではなかろうか。来年
も亦、万障をおしの軋て大挙して参
−生の本多会
会あらんことを、︶今から鶴首して待
つ。//︵S・F︶
四十・\四十l回
三月四日︵金︶大阪南にあをレス
と 程 、 純 一 無 雑 の 楽 し み は 他 に な い 。 トラン﹁乃呂﹂で、五十七年十二月
黙藤してご冥福を祈′る対象が年と守
もに多勢となるのJは、悲しいながら〆
やむを得ない。我やさき他人や先⋮
ひたすらすなおに受け容れるのみ。
親しかった友の消息などに始まり、
レト甲好みのよもやまの一懇談も尽き
る頃、誰からとなく〝百鳥きえぐ春
くれば//狼も花咲く河北潟⋮⋮〟や
〝憶えば去年のみなづきなかばに/
敢なく桜浜風に⋮⋮〟だとか 〝春白
山の峰の雪/秋犀川の淵の水⋮⋮〟
といったたぐいの応援歌や部歌や校
歌の一節が口ずさまれるなりゆきと
もなれば、∫今は昔の青春時代前期に
属するもろもろのイメージが雲のよ
うに去来してやまず、夢多かりL
GO乱0−d㌧d薫伍 を一挙に手もとにた
ぐり寄せるにも似た懐かしい追体験
に、一刻千金の思いを共有できるわ
、︶
、︶
本年は全員金沢駅前に集合し、チ
の初会合から数えて、七回目の本多
会を開催した。いつもの通り出席者 ャ ー タ ー し た デ ラ ッ ク ス 観 光 バ ス に
同乗して絶好の秋晴れの、能登路を和
は僅かに六名だけ。初会合に十各も
出 席 し た の が 夢 の よ う で あ る 。 し か 気あいあいの中に一路称倉の会場へ
し会えば昔の想い出話や近況など、
直行した。
稔倉題例によ息苛会長の歓迎の
魔やかに楽しく語り合った。
。今回は久しぶりに膏肛君が珍らし 挨扱、幹事が今年の経過と会員の動
J
鄭重な御挨拶とお礼の言葉を述べら
出話や心温まるお言葉を戴き、叉故
吉田正一君の御夫人道子様が長男顕
信君を同伴されて、席上お二人より
静を報告したが、先ず今春栄ある叙
勲を授けられ美藤田先生を始め左記
諸兄ノの栄誉を讃え慶びをわかちあっ
れた。
引続き古沢関東幹事の乾杯で開宴
た。
然し今年は残念乍ら吉田正一君、
加藤直二両君が他界された。とりわ
け書留君は十桜会創合当初から骨髄
となるや久間を寂し席の暖まる間も
なく思い思いに帝を立って交盃を重
ね、菖髪禿頭の老勇も昔時に帰り談
席の常連で人一倍交友の情厚ぐ、飾
らずJ気どらず、談論風発、瓢々と
く出席した。当会の会長である八十
島君が、r正に半世寵の五十年間を﹂
し美あの面影が偲ばれて、二二伺両君
論風発、校歌、応援歌の斉唱やカケ
のノご冥福をお祈りするときともに御家
オケと大いに盛り上り沖野関西幹事
膏村、細木、舟田 以上五八名
︵諸江記︶
桜井、久間、税、小林︵幸︶ 駒居、
柴野、高木、高畠、玉井、寺島、中
井、宮川、八尾 ︵孝︶室木、結城、
中野、酒井︵正︶沖野、今井、二口、
浅本∵東、出野、へ井口、小川、梶川、
山崎、山本、中谷 ︵外︶久保田、久
保木、雄谷、西村、古沢、八百︵久︶
妻、故吉田正一夫人・御令息、上島、
出席者
宮沢先生、藤田先生、塚野先生、中
側夫妻、鴻野夫妻、′柿木夫妻、玉村
夫妻、坂本夫妻、葛西夫妻、諸江夫
た。
尚来年は開東地区幹事のお世話で
十月中旬箱根で開催することに決っ
中能登の名勝・名刹を探訪し、′次回
の再会を約して金沢駅前で散会した。
の万オ三嶋でお開きとなった。
翌日は叉金員観光バスに同乗し、
第に、新車工務店に勤務し立派を功
績を残し、、三月未で副社長を退職し、
勲四等瑞宝章/ ゝ 藤田誠﹁先生
勲四等旭日小綬章 中井 患則兄
∵ /\
∫夕 月 ㌦
儀の御多幸をお祈りした。
栄ある叙勲者
為ることを祈ります。本日の通庸者
は能土壌俊吉、干瓢民夫、八十島健
記
引き続き特別顧問として勤務する予
定であると言われている∵喪孝永い
間ご苦労様でした了今後益舟健康で
二、富川健太郎、三浦繁雄、小泉茂
〟h
銀杯一号 十河 義郎兄
︵戦時中に勲四等綬章済︶
勲四等璃宝章 山崎太善男兄
勲五等瑞宝章 中側 尚英兄
吉。
十 桜/ 会
〓中昭和十年吾
故青田正一君は没後正四位勲三等瑞
宝章を綬章
塚野暮藩先生は五十四年に勲三等旭
日草綬章洛∵
毎年恒例の十桜金線会も十七回を
迎え、て本年は和倉温泉のホテル美湾
物 故 者
吉田正一 六十三年三月四日 /
塚野先生より夫々懐しい当時の思い
心不全 .
加藤直二㌦六十三年六月六首
筋萎縮側索硬化症
合掌
懇親宴では宮沢先生、藤臥先生、
荘で行った。
久方振りにお三方の恩師宮沢先生、
藤田先生、︶塚野先生の御来駕を戴き、
又級友も初参加の八百 ︵久︶七着、結
城 ︵善︶君や、大患を無事堪え抜か
れた中側君、玉村君も夫婦同伴で元
気な姿を見せ出席者は五八名とかつ
てない盛会となった。
(15)
イ メ
卒業以来はじれて会ったという者
った。 ノ
た。十月十四日午後二時本多町の旧
校舎跡地に集合、夜の会合にはどう
直前近くなって欠席の通知をうけ出
席三十九名︵夫人同伴二組︶ となっ
催しようということに決定したタ
当初五〇名の参加予定であったが
んで校歌を合唱、しめくくりに高岡 う と い う こ と で 四 年 程 前 か ら 色 々 と
考えアンケートをとったり、あれや
氏︵大阪在住︶ の音頭で、お互いの
健 康 と 再 会 を 的 し て 万 轟 を 三 嶋 し 閉 これやと考えたのが旧校舎跡地に記
念植樹をして能登観光を行い和倉の
会となった。
加賀屋諸事︵夫人同伴︶ で絶食を開
最初に全員で記念撮影をおこない 一 気 に 五 十 年 前 に タ イ ム ス リ ッ プ し
∵︰ 四 四 桜 会
卒業五十周年︵昭利六十三年︶
て、往時を偲ぶなつかしい雰囲気に
膏村幹孝の句会で、先ず今は亡き六
〓中昭和十二年率︶
桜誓会〓示四十五期︶の集い
十二名の学友の′ご冥福を祈って黙藤 つつまれた。
〝本多の森〟校舎最後の五年生と をさ等甘、挽いて世話人を代表して
計は尽きないが、最後は大広間の
卒業五十周年は年令のうえからも
して巣立ってから、五十年の歳月が 本多幹事の挽拶、遠来の友古西氏︵
中央に円陣を作り、がっちり屑を組
人生の大きな節首⋮一つ盛大にやろ
流れた昭和六十二年十月十四日、久 束京在僅︶ の普頭で乾盃、懇親に移
し振牛に四四桜会のメンバーが、加
賀の温泉郷山代温泉・百万石に集い、
も車て、‘もるよもやま話に時の過
通交をあ美ためた。
この日韓東、ノ関西と地元から参集 ぎ る の も 忘 れ て の 談 笑 組 、 歌 の 得 意
した者は三十九名、戦前、戦中、戦
な山長氏のリードで ﹁南征の調べ﹂
後 と 生 き 抜 い て き た 面 々 だ け に 、 そ ﹁桜が森﹂二各部の応援歌﹂等と、
の顔には六十有余年の′年強がきざまな つ か し の メ ロ デ ィ ー に 乗 っ て の 大
れて、それなりの風格もそなわり、 合唱﹂ カラオケで自慢の ﹁のど﹂ を
披露する者︰∵︰多士済々。気持ちは
白髪、禿頭の好々爺ばかり。
しても出られないが皆の顔を′見たい
と淡中章二君、倉澄君もかけつけて
くれた。記念の桜の若木を本多公園
中村記念館前から県立美術館への′昇
自道わきへ全員がスコップで少しづ
つ土をかけて終る。そのあと昔の思
い出をあちこちに思いめぐらせて跡
地を散策往時を語り合う。そしてこ
の桜の木、吾々がい/なくなった後も
どうか大きく育ち毎春桜花を嘆き誇
ってくれることを祈って∵和倉へ向
うペくバスに乗車出発する。途中押
水町の喜多家、羽咋市の妙成寺を見
学して定刻の五時半に和倉の加賀屋
に到着。八階フロアを貸切った各室
に分散くつろぎ、六時半から広間に
.︶
町小学校同窓会の幹事会があり、そ
︶
の席で一中の同期の仲間に話したと
ころ、松本洋三君から自分は上京出
来ないけれど東京の連中に ﹁かぶち
出席者
磯部明 ︵静岡より︶大西正治、菅野
孝夫、坂木敏雄 ︵長野より︶ 下村膏
村井君が幾度となく電話して出席を
雄︵金沢より︶以上二十六名。
尚このクラス会を†開くに当って、
井叉兵衛、村上淳男、森忠書、山田
国雄、山本周三、青田喜市、寺内良
膏正、藤井政美、細川脛 ︵大阪より︶
細田行知′、巻山裕夫 ︵福島より︶ノ村
寿LL でも持って行ってほしいとの 郎、菅田清兼、杉田賢四郎、荷田孝
申 出 が あ り 、 こ り ゃ い い こ と だ と 私男、長沢剛正、中村敏、成瀬亘、西
田勝次、西田敏男、納賀節二、畑中
も佃煮をみつくろって準備して出席
いたしました。
十二月二月 ︵金︶夜六時から銀座
六丁目の﹁交誼寵十の三階食堂でス
キヤキパーティーを開きました。
交諌社は明僧十三年±八八〇︶
福沢諭吉先生によって創設された我
国最古の文化的社交団体であり ︵村
井君はそのメンバー︶その建物は昭 すすめたがどうにも都合がつかぬ人
十一名とのこと。彼の熱意と努力に
和阻年に建てられた銀座で最も古い
ものである由、全く古い建物の石段 は 地 元 幹 事 と し て も 深 く 感 謝 す る と
共に大いに反省 ︵形式的連絡を︶ す
は一中旧校舎の石段を想い出させ、
相 集 う 仲 間 達 の 白 髪 禿 頭 も ふ さ わ し べきと思う次第です。 ︵寺内記︶
い感′︵中に烏まだまだ若々しい感
じ、の人達も居たけれど⋮・こY
吉田喜市君の酪杯で開宴、∴スキヤ
キの煮えるまでには金沢から持参の
ふる溝との味を賞味し︵納賀君が森
八の四谷店から最中を求めて来て供
出︶ それに交歓談がスキヤキと共に
煮えたぎ勺、宴は九時すぎまで続き
散会しました。
衛君から案内の書状が届きました。
ました。 キ
かねてから気にしていた故中島丈治
食堂の閉じる時間となり引続きロ
ビーに移り懇談、記念写真せ撮り、
君 ︵小学校からの同期︶宅への弔問
も こ の 際 に 果 し た く 思 い 上 京 す る こ 互に別れを惜しみ乍ら来年の卒業五
とにしぎした。来信のすぐ後に新竪 十 乳 年 記 念 の ク ラ ス 会 に 再 会 を 約 し
十一月下旬、東京在住の村井叉兵
在 京 の 集 い
︼中四十六期生
−
て稔会、懇親会と夜のふけゆくまで 海岸、恋路海岸を見て下時国家見学、
飲み、かつ語り合って、九時過ぎ桜 曽 々 木 海 岸 で 休 憩 昼 食 を と り 、 午 後
誓会々貝の健康せ祈って万才を三嶋 は輪島のキリコ会館、門前打線持寺
して閉会守なる。散会後も各室を訪 を拝観して帰路につく。金沢へは午
後五時半到着、再会を約して解散し
ね歩j歓談は深更まで続いた。
た。
/翌十五日︵土︶は奥能登観光希望者
出席者
︵二十五名︶八時半宿を出発、内浦
浅井治雄、荒川宏、飯由秀雄、五
十嵐晃、石崎暗三、上田栄一、岡島
弘、′金藤雄三、金原経、楠隆雄夫妻
斉乳元広、清水董男、新沢義男、隅
谷与一郎、高木兼二、高倉健次、高
畠三郎、多川底次、谷内正二、永井
崇顕∵中島栄義、鳴瀬茂男、中村八
郎夫妻、パ中村忠重、西村寛猛、古川
博、堀口渉、J松本武雄、三田幸一郎、
三宅誠、松井輝雄、村木文男、山口
九恥、山崎昌、八木揖書良、安田道
夫、横越英一 ︵堀口記︶
(17)
ノ﹂中四十七期同窓会開催″
二名を加えて大変愉快な一夕を持ち
ました。再来年は卒業以来五十年を
迎えますか㍉同窓各億の益々明ご健勝
を祈ります。 /︵世葡人中野︶
ノ︺
枯 野 犬 ∵ノニ
行くあてのさもありそうに枯野犬
膿
◆
◆
ん
坤
◆
■▼▲11▼−
▲▼・号▲▼寺▲▼皇▲l宰1’専▲▼皇子ムー等1I阜・l・−考l幸1▼幸1▼専◆毒1▼皇1,毎▲▼止
す
せ
◆
脚
一
柳
◆
・い
小 林 たけし
. .. ︵通信六回卒︶
テレ\どの間すこし片づけ雛飾る
梅かたし鎮守の森を出でぬ鳩
花吹雪浴び車座のみな笑ふ \てこ
パン屋よりパン焼ぐ匂ひ聖五月
見残せしものあるごとく滝を去る′
まっすぐに登りし蟻を吹き落す
緑陰へすこし頭をさげて入る
揚花舟待つ間をすこし身構えて
郵便車とまり親子の鹿通す
湖明りして客のなき秋座敷
水上をことさら飛んで秋の蝶
萩枯れてぽつねんと空残る寺
覚むるたび羽ばたきをして浮瀬島
鳩のつもりで鳩といる寒雀
◆
せ
◆
膿
◆
●l毒l毒ヰ毎l専l寺▲▼宅▲▼■tl≒l毒l毒l毒l亀l≒l毒▲▼き▲▼寺l・皇
#l・◆脚ザ脚・■ト→lp−■ト寸か」ト、脚
出席者、′ノ
/︶
出 す 人 達 も い た 。 お 招 き し た 桑 療 定 主だったころの懐旧談に花が咲き、
平、吉崎正桧の両先生は共に八十一
懐しい応援歌、山本ポンプ先生から
歳。桑原先生いわく ﹁債はこれから 習った歌などの合唱が続いた。
冥福を祈った。
の事に全力を尽せ﹂と。また、吉崎
卒業以来はじめて会った顔ぶれも 先 生 は 桜 章 健 児 を 讃 え る 漢 詩 を 朗 々
多く、胸の名札でやっと名前を思い と 吟 じ ら れ た 。 そ し て 、 や ん ち ゃ 坊
普覚樹君読経の狸に一同焼香、さら あ と 二 十 年 は 生 き る 。 君 達 も 徒 ら 定
に校歌を合唱して亡き友三十六名の 明 日 を 思 い 煩 う こ と な く 、 今 日 只 今
開会に先立って物故者追悼法要が
行われ、旧友の松任・極楽寺住職
なく少年時代の面影をとどめている
顔、顔。
そのへ記念や集いとあって、全国から
馳せ参じた同窓は五十一名。互いに
頭の毛は薄くなったものの、どこと
れた。リ今年が入学五十周年に当たり、
母校都立記念日の十月十五日、舟山
津・柴山潟湖畔の ﹁自山荘﹂ で開か
金沢一中五十回生の全国同窓会は、
全 国 同 窓 会
◇一中五十回生︵昭十八卒︶
池保∵岡本放三、大蔵富夫、﹁大谷渉、
残暑きびしい九月二十八月、熱海
金崎肇、木村和義、小鍛治敏雄、杉
において金沢一中第四十七期同窓会
−
田賢四郎、辻沢士郎、中川智雄、中
を開催しました。
川政義夫妻、中島章、中村達、西島
JR東日本の熱海保養所﹁いでゆ
誠ぐ山、新田正之、浜屍芳次夫妻、半
荘﹂に集まる者二十四名、同伴夫人
輯博、深見信一、福岡二郎、本田ヂ
夫、宮保彦継︰山口尚三、若松英書、
中野喜代二
(18)
〓 訂
翌日も秋晴れの宣い天気、白山が
1J ︶
当日は五時半、懇親会に先立ち、“く
◇一中五十五回︵萱−十三年季﹀琵一一三二㌍二三二一㌧∵丁二三、
卒業鱒十周年記念同窓会
恩師三十三名、級友二十二名の物故
祈りました。
者慰霊の黙癖を捧げ、厳かに冥福を
金沢山中五十五回生 ︵会長 松本
進︶ は、去る十月八日、金沢市内の
東急ホテルにおいて、卒業四十周年
雄姿を浮び上がノちせて\いた。大半の
友は再会を約して別れたが、有志十
四名は泉野出町の母校を訪ねた。か
つてこのあたりは一面の野菜畑で、
痕歌的なたたずまいだった。が、い
翌十月九日には有志二十名によっ
いながら散会しまレ雪
次は還暦祝賀の同窓会開催を、と
ま は 住 宅 や 商 店 が ぎ っ し り 建 ち 並 び J 記念同窓会を開催しました。関東、
関西、東海からも十二名がかけつけ、 約束し、再会までの互いの健康を誓
て、千里浜カントリークラブで親睦
昔を偲ぶよすがもない。校舎は四年
前に改築され、堂々たるキャンパス、
厳轟碑だけが元〝の場所に再建されて
九十五周年式典で新たに命名された
賓は、遠来の片瀬貴文君が衰㌻45・
で優勝を獲得しました。二一位乙材量
ったが、山田浩君が45・4
ゴルフコンペを行いヽ互いに腕を競
おり、感慨無量だった∵宮崎光二・
↓啓泉講堂﹂をはじめ、校内をいろ
88で当日の栄誉に輝きました。
5グロス90
いろ見学した。
われわれの入学前年、昭和卜二年
︵金井一郎記︶
泉丘高校長のご案内で、前日の創立
に出来た南校舎は、鉄筋コンクリー
独 楽 窯
君、三位植田息和君、叉、ベスグロ
ト三階建で、暫時としてはすばらし
いものだった。だが、現校舎はエレ
ベーター付きの五階建、建物といい、
北 村 英 昭
︵通信二十回卒︶
器
設備といい、とても比較になゝ力ぬ偉
自分とみ出合い
花
容を誇っている。日魔日なのに何人
かの生徒が登校していて、ノ﹁共通一
友との出合い
次 ま で あ と 99 日 ﹂ と 書 か れ た 教 室 で 、
黙々と自習している姿が印象的だっ
古きを伝え新しきを求めつつ
五彩の綾なす九谷に魅せられ
人生とは不思議な出合い
そして九計との出合い .
自然との出合い
V奮爪
た。
WIT爪 Wエl爪
なお、金沢一中五十回生同窓会で
は、平成元年一月下旬に入学五十周
年記念文集﹁時はゆくよ﹂を刊行す
︵北村尚書記︶
(19)
\
(20)
﹁啓泉講堂﹂と令名
ノ教頭 高︵川 義 l
昭和五十九年五月、萬堂棟の完工
をもって、昭和五十五年に.始まる全
面改築工事が終り、以来、新講堂に
更に、自然石 ︵角閃安山岩往白山 て、創立百同年記念一泉同窓会名簿
をつくってい/る岩石︶ に宮崎光二校 の 編 纂 を す る こ と に な り 、 そ の 委 員
事務局だより
◎一義同恵全役員の不幸
∴泉同窓会各期委員の次の方々が
お亡くな隼になりまし美。色ノ々のご
協力を頂きました。心からお悔み申
◇登谷栄作氏︵一中四十六回︶\
◎同窓生よりの図書の寄贈
叉元金択一中教諭︵S8・3∼S13・
︵63・11︶
回新保由雄氏︵6 3・9︶同加藤俊男氏
三十五回杉野啓氏︵63・1 0︶同三十八
一中三十四/回栖凍直久氏︵63・3︶同
し上げます。
4在職︶〟竹内直良氏が昭和六十四年
長揮ごぅの名を刻み、講堂玄関前に 会 が 昭 和 上 汁 十 三 年 の 秋 に 発 足 し ま し
建立。十月十五日、厳霜碑前の慰霊
た。
祭にひきつづき、藤田同窓会副会長
委員長として一、中西十一期南秀男、
は じ め 同 窓 生 多 数 の 参 列 を 得 て 除 幕 副委員長として一中五十〆四期の膏竹
ふ さ わ し い 名 称 を つ け て は ど う か と 式を行った。参列者一同は、眉周年
毎謳、外に一中期から二名、泉丘期
いう声があったが、創立九十五周年
へむけて新たな﹁歩む踏み出そうと か ら 数 名 の 委 員 が 委 嘱 を 受 け て 編 纂
の 節 目 を 契 機 に そ の 気 運 が 盛 り あ が すぐる母校に対し、大きな期待を七め に着墾TLました。
て柏手を送った。
元より之だけのスタッフのみでは
なお、石はPTA理事山崎正夫氏
ノ到底充分な資料の使果をあげか事は
︵泉丘十三回卒︶よりの寄贈である。 難事で、一中、泉丘の各期を通じて
四年後の完本迄の諭らないお力添を
考。泉丘生の心を啓発する場という
り、職員・生徒から案を募ったとこ
ろ、二十数点の︶応募があった。その
中から四点を選び、く評議委員会で選
−月七日東京都の自宅で死去された6
意味の ﹃啓泉講堂﹄︵高川教頭案︶ と
決まり、九月十日創立記念式典に学
校長よ隼式辞の中で発表された。
︵反骨の半生
人間メディアとエントロビi
◎名簿委鼻会発足
Ⅴ
各期にお願いしたいと思っておりま
◇池田星一氏︵泉丘六回︶
年の記念すべき年を迎えます。
/明治二十六年七月に石川県尋常中
来る平成五年には母校が創立百周
創立首周年記念
﹁泉同窓会名簿の
編纂について
す。
それ等の結果の上た次の百年にも
充分資料として耐え得る名簿を作り
あげたいものであります。一同窓諸賢
右の図書のご寄贈戴き有雉うござい
で、多くの恩師と三万名を超える同
窓生が現在までの長い道を創りあげ
新同窓会名簿発刊を決定、昨年九月
嘱した。
十八回中川恒雄の各氏をそれぞれ委
申橋寿雄、泉丘八回福田大陸、泉丘
中五十四回の青竹毎謳氏、委員に一
名簿委員会が発足。委員長に一中四
学校創立百周年記念の一環として
ました。
て参りました、。
過去何回となく編纂されました名
十一回の南秀男氏、同副委員長に一
︵名簿委員会︶
の美わしいご協力を切にお願い申上
げゆ次第です。 /
簿を見ますと、その時々の母校の歴
史と変遷の重味、素晴らしい先生、
中四十一回平石英雄、一中五十五回
学校として発足してからの歴史の中
俊秀な同窓生の貌が浮かんで参りま
して、名簿の持つ大きな価値を轟々
と感じます。
母校が百周年を遡えるに当り、色
々のプランが計画されておりますが、
︺
その中の黄も重要な行事の一つとし