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社会的世界を作る
人間文明の構造
ジョン・R・サール
2010
目次
序文 3
謝辞 4
第1章 この本の目的 8
付録:この本の一般理論と社会的現実の構成の特殊理論の比較 21
第2章 志向性 26
第3章 集合的志向性と機能の割り当て 40
第4章 生物学的かつ社会的なものとしての言語 57
第5章 制度と制度的事実の一般理論:言語と社会的現実 81
第6章 自由意志、合理性、制度的事実 109
第7章 力:義務論的、バックグラウンド、政治的、その他 127
第8章 人間の諸権利 150
付録 171
結びの意見:社会科学の存在論的基礎 173
主題索引(アルファベット) 175
主題索引(日本語) 180
人名索引 186
巻末注 188
序文
この本は人間の社会的制度的現実の基本的性質と存在の様式 ― 哲学者が本質と存在論と呼
ぶもの ― を説明することを試みる。ほんのわずか名前をあげれば、国民国家、お金、企業、スキー
クラブ、夏休み、カクテル・パーティー、フットボールなどの存在様式とは何か?私は社会的現実の
創出、構成、維持における言語の正確な役割を説明することを試みる。
この本は私の以前の著作、『社会的現実の構成』(1) で始めた一連の議論を続けるものである。
社会的存在論の謎めいた性格に焦点を当てるひとつの方法は私たちの社会的現実の理解におけ
る明らかなパラドクスを指摘することである。私たちは完全に客観的である社会的事実 ― たとえ
ば、バラク・オバマはアメリカ合衆国大統領である、私の手にある紙片は20ドル紙幣である、私はイ
ギリスのロンドンで結婚したなど ― について陳述する。だが、これらは客観的陳述であるものの、
それに対応する事実は人間の主観的態度によってすべて創出される。パラドクスの最小の形式は
こう問うことである。どのよう主観的意見によって創出される実在/現実(reality)についての事実
に基づく客観的知識を持つことができるということはどのように可能か?その問いがたいへん魅力
的に思うひとつの理由は、それがもっと大きな問いの一部であることである。私たちは、心のない、
無意味な、物理的粒子からなると独立して知っている世界において ― 心のある、合理的な、発話
行為をする、自由意志をもつ、社会的で、政治的的な人間として ― 私たちの特異な人間的特性を
もつ私たち自身の説明を、どのように手に入れることができるのか?どのようにナマの物理的事実
の領域に私たちの社会的精神的存在をどのように説明できるのか?その問いに答える際、私たち
は精神的と物理的、さらにに悪いことに、精神的、物理的、社会的のような異なる存在論的領域を
前提することを避けなければならない。私たちは、ひとつの実在について語るのであり、私たちはど
のように人間の実在がそのひとつの実在に適合するかを説明しなければならい。
私が社会的存在論の一般理論を示した後、政治権力の本質、普遍的人権の地位、社会におけ
る合理性のような特別な問いにその理論を適用しようと思う。
謝辞
私はこれまで出版したどの本よりこの本で多くの支援を受けた。これにはふたつの理由がある。第
一に、この本は『社会的現実の構成』 The Construction of Social Reality (2)で始めた一連の
議論の続きである。その議論は哲学者ばかりでなく、経済学者、社会学者、心理学者、そして社会
科学一般から大量のコメントを受けた。第二に、私はバークレー社会的存在論グループのメンバー
のひとりである。そこでこれらの議論や関連する問題が毎週議論されている。私を支援してきてく
れたすべての人々に謝意を述べることはできそうにないが、少なくともその幾人かの名前をあげな
ければならない。
私には素晴らしい助手がいた。彼らを「研究助手」と言うのは、私の知的生活への彼らの貢献に
ついて適切な概念を示さない。彼らはみな、すべての意味で私の協力者であった。特に Jennfer
Hudin、Asya Passinsky、Romelia Drager、Beatrice Kobow、Matt Wolf、Anders
Hedman、Vida Yao、Danielle Vasak、Biskin Lee、Francesca Lattanzi に感謝する。
彼らのほとんどはバークリー社会的存在論グループのメンバーである。私の助けになった他のグ
ループの人々には、Cyrus Siavoshy、Andrew Moisey、Marga Vega、Klaus Strelau、Maya
Kronfeld、Ásta Sveinsdóttir、Dina Gusejnova、Raffaeia Giovagnoli、Andy Wand がいる。
『社会的現実の構成』の諸問題には、多くの何冊もの雑誌や論文集が捧げられた。特に David
Koepsell と Laurence S. Moss が編集した American Journal of Economics and
Sociology(3)の“John Searle's Ideas about Social Reality: Extention, Criticism,
and Reconstruction”(「ジョン・サールの社会的現実についての観念:拡張、批判、再構築」)と
いうタイトルの特集号があった。それには Alex Viskovatoff、Dan Fitzpatrick、Hans Bernhard
Schmid、Mariam Thalos、Raimo Tuomelo、W. M. Meijers、Frank A. Hindriks、Leo
Zaibert、Ingvar Johnsson、Nenad Miscevic、Phillp Brey、Barry Smith が寄稿した。これは
その後書籍として出版された。訳注
Roy D'Andre は「制度についてのサール」(Searle on institutions)というタイトルの
Anthropological Theory(4)の特集号を編集し、D'Andre、Steven Lukes、Richard A.
Schweder、Neil Gross が寄稿した。Savas Tsohatzidis は「Intentional Act and
Institutional Facts: Essays on John Searle's Social Ontology」(志向的行為と制度的事
実:ジョン・サールの社会的存在論についての論文集)(5)を編集し、Tsohatzidis、Margaret
Gilbert、Krik Ludwig、Seumas Miller、Anthonie Meijers、Hannes Rakoczy と Michael
訳注 David Koepsell , Laurence S. Moss eds., John Searle's Ideas About Social Reality:
Extensions, Criticisms, and Reconstructions (Economics and Sociology Thematic Issue)
(Malden,MA and Oxford: Blackwell,2003)
Tomasello、Robert A. Wilson、Leo Zaibert と Barry Smith、Ignacio SánchezCuenca、Steven Lukes が寄稿した。
The Journal of Economic Methodology は『Ramifications of John Searle's Social
Philosophy of Economics』(『ジョン・サールの経済の社会哲学の派生問題』)というタイトル
のシンポジウムを公刊した。これには Stephan Boehm、Jochen Runde、Philip
Faulkner、Peter J. Boettke と J. Robert Subrick、Alex Viskovatoff、Steven Horwiz の記
事が含まれる。(6)
ZIF の支援のもと Bielefeld で私の著作について開かれた国際会議は、Günter Grewendorf
と Georg によって編集された『Speech Acts, Mind, and Social Reality: Discussions with
John Searle』(「発話行為、心、社会的現実:ジョン・サールとの議論」)(7)という書籍にまとめら
れた。訳注会議の様々なセクションの中のひとつは Staley B. Barns、Georg Meggle、Josef
Moural、David Sosa、Raimo Tuomela による論文とともに社会的現実に捧げられた。
Barry Smith は『On John Searle』(「ジョン・サールについて」)(8)という本を編集した。それ
は私の著作の他の側面についての多くの記事とともに、Smith、Nick Fotion、Leo Zaibert、
Gerge P. Fetcher によるこの本の問題の議論を含んでいる。Smith はまた社会的存在論につい
ての3つの会議を催した、2003年のそのひとつは私の著作と Hernando de Soto の著作につい
てのものだった。これは Barry Smith、Isaac Ehrich、David Mark によって編集された『The
Mystery of Capital and the Construction of Social Reality』(「資本のミステリと社会的現
実の構成」)に結実した。訳注Hernando de Soto、Barry Smith、Jeremy Shearmur、Ingvar
Jonansson、Josef Moural、Errol Meiger、Erik Stubkjaer、Daniel R, Montello、Dan
Fitzpatrick、Eric Palmer の私の著作に関する記事が寄稿された。
私の考えを議論する本の公刊に加え、私は文字通り世界中の講義や連続講義で自分の考えを
披露する機会から有益な成果をえた。私にとって、私の考えを検証し、評価され、攻撃されたことは
本質的に哲学をすることの一部である。私の教訓にはこういうものがある。はっきり言えないなら、
理解していないのであり、公開討論で擁護に成功しないなら出版してはならない。私はこれのプレ
ゼンテーションのすべてないし大半をすらリストするつもりはないが、一部は特別に取り上げる価値
があるだろう。
私にとってもっとも重要なもののひとつは Jennifer Hudin と Beartice Kobow が組織し、200
8年7年バークレーで開かれた会議「Collective Intentionality VI」(集合的志向性 VI)だった、
この本の考えの一部は、基調講演で提起された。そして私は他の会議で有益な成果を得た。私は
訳注 Guenther Grewendorf , G. Meggle eds., Speech Acts, Mind, and Social Reality:
Discussions with John R. Searle, (New York:Springer, 2002)
訳注 Barry Smith, David M. Mark et al., The Mystery of Capital and the Construction of Social
Reality, (Chicago, Ill.;Open Court Pub Co, 2008)
2006年ロッテルダムの「Collective Intentionality V」(集合的志向性 V)でも講義をした。2007
年、私は Tsinghua 大学での第13回科学の論理、方法論、哲学国際会議での満員の聴衆に北京
での講義でこの内容の一部を提起した。私はまた上海の華東師範大学でも講義をした。私は中国
のホスト、特に、Shushan Cai と He Gang に大変お世話になった。私は2005年スエーデンの
Lund 大学で Puffendorf 講義を行った。ホストは Åsa Andersson と Victoria Höög だった。ふ
たりはバークレー社会的存在論グループの創設メンバーだった。2007年 Cornell 大学のメッセン
ジャー講義を行った。そのホストは Trevor Pinch だった。
私はイタリア、特にトリノとパルメオの友人であり同僚に支援を受けてきた。私はそれぞれ二度そ
この客員教授となった。私は Francesca di Lorenzo Ajello、Guiseppe Vicari、Ugo
Perone、Bruno Bara、Oaolo du Luccia、Giuseppe Lorni に感謝する。
プラハの仲間もまた特に私に重要である。私は the Center for Theoretical Studies で何度
か講演をする機会を持った。Ivan Haval, Josef Moural, Pavla TrácŎvá に感謝する。
2008年私は Bernhard Geisen が組織したドイツの Konstanz 大学で例年の
Meisterklassse として一連の講義を行った。これらの考えの一部を厳しい精査にさらした他の機
関には Vienna 大学、ハワイ大学、ブリティッシュコロンビア大学、コロラド州 Durango の
Mountain State Pholosophy Conference、Albany のニューヨーク州立大学、フライブルク大
学(ドイツ)、Friboug 大学(スイス)、ライプツィッヒのマックス・プランク研究所、シカゴ大学、
Lubin カトリック大学、スタンフォード大学の TARK conference、ベニス大学、サンディエゴの神
経科学研究所、InterUniversity Centre Dubrovnik、Herdecke 大学がある。
これらの出会いの貢献について、私は特に、Nikolaus Ritt、Jeannie Lum、Richard
Sikora、Margaret Schabas、Dugald Owen、Istvan Kecskes、Michaek Kober、Michael
Tomasello訳注、Martine Nida-Rümelin、Les Beldo、Gerald Edelman訳注、Zdravko
Radman、Chris Mantzavinos、Markus Witte に感謝する。
支援しサポートしてくれた他の友人、仲間、学生には、Brian Berkey、Ben
Boudreaux、Michael Bratman、Gustavo Faienbaum、Mahdi Gad、Mattia Gallotti、Anne
Hénault、Geoffrey Hodgson、Danièle Moyal-Sharrock、Ralph Pred、Axel
Seeman、Avrum Stroll、Jim Swindler がいる。
この本の編集段階での特筆すべき努力について Romelia Drager に、索引の準備について
Jennifer Hudin に特に感謝する。
訳注 Michael Tomasello, Why We Cooperate(Cambridge, MA; MIT Press, 2009)邦訳マイケル・トマ
セロ、 橋彌和秀訳『ヒトはなぜ協力するのか』 勁草書房、2013 で『社会的現実の構成』を参照
訳注 G. M. Edelman, Wider than the Sky: The Phenomenal Gift of Consciousness (Yale Univ.
Press 2004) 邦訳:G. M. エーデルマン、冬樹 純子等訳『脳は空より広いか:「私」という現象を考える』草
思社、2006、で John R. Searle, Mind, Language and Society,1998 を参照(未邦訳)
謝意を述べることができなかった人々がいることは間違いないが、これは少なくとも始まりである。
何よりもまして、52年以上続く、その継続的な支援とサポートについて私の妻、Dagmar Searle に
感謝する。そしてこの本を彼女に捧げる。
第1章 この本の目的
I. 社会、基本的事実、哲学的プロジェクトの概要
この本は人間社会の、それゆえ人間の文明の明白の特徴の創出と維持に関する本である。この研
究はもっと一般的な哲学的プロジェクトの一部であるため、私が現代哲学の根本的問いとみなす
そのより大きな問いの中にこの本を位置づけたい。すなわちどのように、いやしくも、私たちは物理
学や化学やその他基礎科学によって記述されるような世界のある特定の概念を、人間として私た
ちが自分たちについて知っているもの、あるいは知っていると考えるものと和解させることができる
のか?意識、志向性、自由意志、言語、社会、倫理、美学、政治的義務のようなものがあることは、ど
のように力の場における物理的粒子から完全に構成される宇宙で可能なのか?。多くの、おそらく
ほとんどの現代哲学はそれを直接本気で扱っていないが、私はこれが現代哲学におけるただひと
つのすべてに優先する問いであると考える。私は私の職業的生活の大半をその様々な側面に捧げ
てきた。この本は社会的存在論を説明するため、私の志向性の説明と発話行為の理論を使用する。
私たちは電子から選挙に、陽子から大統領にどうやっていたるのか?
私が提案しようとしている種類の説明についてのふたつの種類の適切さの条件があり、私はそ
れをまず最初に述べる必要がある。第一に、私たちは二つの世界、三つの世界、あるいはその種の
どんなものもの前提することを自らに認めてはならない。私たちの課題は私たちが正確にひとつの
世界にどのように生きているか、どのようにクオークや重力からカクテルパーティーや政府まこれら
すべての異なる現象がひとつの世界の現象の一部であるのかについて説明を与えることである。
二元論、三元論(1)や他の存在論的とんでもない考えの拒否は、「一元論」の是認と受け取られる
べきではない。というのも「一元論」という用語の使用は私たちが拒否し、置き換えようと躍起に
なっている形而上学的存在論をすでに受け入れているからである。第二の適切さの条件は、説明
は宇宙の構造の基本的事実を尊重しなければならないということだ。これらの基本的事実は、物
理学、化学によって、進化論的生物学や他の自然科学によって与えられる。私たちは実在のすべて
の他の部分は、基本的事実に依存し、さまざまな仕方で由来する。私たちの目的にとって、基本的
事実のもっとも根本的な集合は、物質の原子論と生物の進化論である。私たちの精神生活は基本
的事実に依存している。意識的、無意識的精神現象はともに、脳における神経生物学的プロセス
によって引き起こされ、脳において実現する。そして神経的プロセスそれ自体は分子、原子、亜原子
のレベルのさらに根本的なプロセスに依存している。意識や他の精神的現象に関する私たちの能
力は生物学的進化の長期の結果である。私たちが組織された社会で手に入れる種類の集合的精
神的現象はそれ自体個人の精神現象に依存し、由来している。この依存性の同じパターンは政府
や企業のような社会制度が個々の人間の精神現象や行動に依存し、由来しているのを見るように、
より高度に継続する。これは、「私たちの研究の基本的必要条件」である。説明は基本的事実と矛
盾してはならず、どのように基本的でない事実がどのように基本的事実に依存し、由来するか示さ
なければならない。「基本的必要条件」という表現の曖昧さは意図的なものである。私たちが議論
する現象 ― お金、大学、カクテルパーティー、所得税 ― がより「基本的現象」に依存するという事
実と、この条件をみたすことが、私たちの企ての根本的か「基本的必要条件」であるという事実の
両方を私は捉えたいのである。どのように、私たちが主張するすべてが単に矛盾していないだけで
なく、さまざまな方法で基本的事実に依存し、依存してるかを私たち示さなければならない。
現代哲学の中で育った人たちは、私が「還元」の概念や、「随伴性」(supervenience)のような
概念を用いるのを回避したと気づくだろう。私はこれらの概念は、研究の途上で行う必要がある重
大な区別を過剰にカバーしがちであるため、混乱のもとであったと思う。
II. 社会の哲学
この企て全体は、「社会の哲学」(the Philosophy of Society)と呼ぶことができるかもしれない
新しい哲学の分野を必要としているという仮定に一部は基づいており、一部は正当化する試みで
ある。哲学という学問は、永遠ではない。もっとも重要な哲学の一部は、かなり最近生み出された。
知らないかもしれないが、バートランド・ラッセル、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとともにゴット
ロープ・フレーゲが 19 世紀末から 20 世紀前半にかけて言語哲学/言語の哲学(the
philosophy of language)を発明した。だが私たちが哲学の中心的部分として言語哲学をみなす
という意味で、イマニュエル・カントはそのような態度を持たなかったし、もつことができなかった。私
は「社会の哲学」は心の哲学(the philosophy of mind)や言語哲学のような学問分野とみなさ
れるべきだと提案するつもりだ。私はこれが、「社会的存在論」(social ontology)や「集合的志向
性」(collective intentionality)の問いへの最近の関心が証明するようこれはすでに起こってい
ると考える。たくさんの大学の講座がある「社会哲学」(social philosophy)と呼ばれる認知され
た哲学の分野がすでにあると反対する人がいるかもしれない。だが伝統的に考えられてきたような
社会哲学の講座は、社会科学の哲学か、場合によっては「政治社会哲学」とも呼ばれる政治的哲
学の延長のいずれかでありがちであった。そのためそのような講座では演繹的な法律学的説明に
関する C. G. ヘンペルのようなトピックか、正義論に関するジョン・ロールズのようなトピックのいず
れかを学びがちである。私は社会科学の哲学や社会学的政治学的哲学以上により根本的な一連
の研究、すなわち人間社会自体の本性の研究があると示唆するつもりだ。政府、家族、カクテル
パーティー、夏休み、労働組合、野球の試合、パスポートのような社会的実体の存在様式とはなに
か?私たちが社会的現実の本性と存在様式のより明確な理解を手に入れるなら、私はそれが社会
現象一般の理解を深め、社会科学の研究に資すると考える。私たちは将来の社会科学の「ため
の」(for)、実際社会的現象のより深い理解を欲している誰かのための哲学を必要としているほど
には、現在や過去の社会科学「の」(of)哲学をそれほど必要としていない。
この研究は歴史的に位置づけられている。それは 100 年前、あるいは 50 年前に企てることが
できた種類のものではない。以前の時代、17 世紀から 20 世紀後半まで、ほとんどの西欧的伝統
の中の哲学者たちは、認識論的問題に夢中だった。言語と社会についての問いですら、ほとんど
認識論的なものと解釈された。私たちは他の人が話すとき意味するものをどのように知るか?私た
ちが社会的現実についてする陳述が本当に真であることを私はどのように知るか?私たちはそれ
をどのように検証するか?これらは興味深い問いだが、私はそれらを周辺的なものとみなす。現代
の著作の合意できる特徴のひとつは、私たちは認識論と懐疑論にとりつかれた 300 年をおおむね
克服したということである。疑いなく多くの興味深い認識論的問題は残っているが、この研究で、
私はそれをほとんど無視する。
この 100 年の偉大な哲学者たちが社会的存在論についてほとんど、あるいはまったく何も言う
べきことがなかったのは知的歴史の奇妙な事実である。私はフレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイ
ン同様、クワイン、カルナップ、ストローソン、オースティンのような人物のことを思い描いている。だ
が彼らがこの本で私を魅了する問題を解決しなかったとしても、彼らは私が用いようとする分析の
テクニックと言語へのアプローチを発展させた。彼らの方法と私の初期の著作の上に立って、私は
彼らが見なかった領土を見ようと試みる。そしてなぜこれは哲学の適切な主題であって、経験科学
プロパーの領域ではないのか?なぜなら、社会は論理分析を認める、実際必要とする論理的(概念
的、命題的)構造をもっているからである。
III. 概念装置
この節で用いようと思う基本的概念装置のほとんどの簡潔な要約を示すことから始めたい。疑い
なく、これらすべてを手早く済ませ、完全な理解を得るためには、あなたはこの本の残りを読まなけ
ればならないだろう。だが、私は最初から私が何を頼りにしているか、なぜ私がそれが重要と考える
かあなたに理解してもらいたい。
この著作はある特定の方法論的仮定の基礎の上に進行する。本当に最初から、私たちは人間
社会が、私が知っている他のすべての動物社会と重要な点で異なっている社会が、ある特定のか
なり単純な原理に基づいているということを仮定することからはじめなければならない。事実、私は
その制度的構造は正確にひとつの原理に基づいていると論じる。人間社会の巨大な複雑さは基
礎的な共通性の異なった表面的な現れである。それはその存在論の単一の統一的な原理がある
という、存在論の確かな理解をもつ領域の特徴を示している。物理学においてそれは原子であり、
化学においてそれは化学的結合であり、生物学ではそれは細胞であり、遺伝学ではそれは DNA
分子であり、地学では大陸プレートである。私は同様に社会的存在論の基礎的原理があることを
論じるつもりであり、この本の第一の目的のひとつはそれを説明することである。自然科学へのこよ
うのようなアナロジーをすることで、私は社会科学が単に自然科学のようであると言っているので
はない。要点はむしろ制度的事実創出のための一連の論理的に独立したメカニズムを私たちが用
いることを仮定することが、私にとってもっともらしいとおもえるということである。私はひとつの形
式的言語的メカニズムを用いることを主張し、私たちはそれを繰り返し異なる内容に適用する。
人間社会を創出し、維持するこの基本的原理を説明する前に、私はその原理に関連するいくつ
かの他の概念を説明する必要がある。
1. 地位機能
人間社会の顕著な特徴、私が知っている動物的現実の他の形式とは異なる仕方(2) は、人間は
物や人がその物理的構造によってだけではその機能を遂行できない物や人に機能を課す能力を
もつということである。機能の遂行は人や物が当の機能を遂行できる集合的に承認された地位が
あることを必要とする。その例はどこにでもたくさんある。一片の私有財産、アメリカ合衆国大統領、
20 ドル紙幣、大学教授はすべて地位の集合的承認なしにはなしえない仕方でその機能を遂行す
ることを可能にする集合的に承認された地位を持つという事実によってある特定の機能を遂行で
きる人や物である。
2. 集合的志向性
どのように地位機能のシステムは働くのか?私はこれについて後に非常に多く言うべきことがある
が、現時点で私は実際に働く地位機能にとってその地位をもつものとして集合的に“受け入れ”
(acceptance)ないし“承認”(recognition)することがなければならないと言わなければならない。
初期の著作で、私は受け入れを強調する傾向があったが、何人かのコメンテイター、とくに
Jennifer Hudin は、それは賛意を含意する可能性があると考えた。私はそれが賛意を含意する
とは考えなかった。私が解釈するものとしての受け入れは、熱狂的支持から、不承不承の容認、人
が自ら見つけた制度について、単に何かするか、さもなければ拒否せざるをえない承認まですべて
含む。だからこの本で誤解を避けるため、私は「承認」ないし場合によっては選言「承認ないし受け
入れ」を用いるつもりである。要点は地位機能は集合的に承認される程度に従って働くことができ
るということである。私はふたたび「承認」が「賛意」を含意しないことを強調したい。憎しみ、無気力、
絶望でさえ、人が憎み、無気力であり、変化に絶望するものの承認と矛盾しない。
地位機能は集合的志向性に依存している。この本で私は集合的志向性にまるまる一章をあてた。
だから、人間や一部の動物についての驚くべき事実は彼らを協力する能力をもつということだとい
うことを除いて、私は今それについて語るつもりはない。彼らは、遂行する行為において協力するだ
けでなく、共有された態度、共有された欲求、共有された信念さえもつことができる。動物心理学者
が決して解決しない(3) 興味深い理論的問題は、どの程度、集合的志向性は他の種にも存在す
るか?である。だがひとつのことは明らかである。それは人間の種に存在する。その紙片が20ドル紙
幣であること、バラク・オバマがアメリカ合衆国大統領であること、私が合衆国市民であること、サン
フランシスコ・ジャイアンツが、ロサンゼルス・ドジャースを11回に3対2で勝ったこと、道路の自動車
が私の財産であるのは、集合的承認によってのみである。
3.義務論的力
これまで、私は集合的志向性によって存在する地位機能があると主張してきた。だがなぜそれはそ
んなに重要なのか?例外なく、地位機能は私が“義務論的力”(deontic power)と呼ぶものを担う。
すなわち、それらは権利(right)、義務(duty、obligation)、要件(requrement)、許可
(permission)、授権(authorization)、資格(entitlement)などを担う。私はこれらすべて、積極
的義務論的力(例えば、私は権利を持つ)と消極的義務論的力(例えば、私は義務を負う)の両方
と同様、条件的義務論的力や選言的義務論的力のような他の論理的置換えをカバーするよう“義
務論的力”という表現を導入した。条件的義務論的力の例は私が民主党員として登録するなら民
主党予備選で投票する私の力である。選言的義務論力の例は、民主党員か共和党員のいずれか
あるいは両方に登録する私の力だろうということである。
4.行為の欲求独立的理由
地位機能が、人間の文明をまとめる接着剤を提供するのは、それが義務論的力を担うからである。
動物の王国ではありふれていない、おそらく知られていない義務論的力は特別な属性をもつと私
は再び思う。いったん承認されるなら、それは傾向性や欲求から独立した行為の理由を私たちに提
供する。もし私がたとえば「あなたの財産」としてある物を認める場合、私はあなたの許可なく、それ
を奪ったり、使ったりしない義務を負うことを認める。たとえ私が泥棒であっても、私があなたの財産
を着服するとき、私はあなたの「権利」を侵害していることを認める。実際、プロの泥棒になることは
私有財産の制度における信念なしには無意味であるだろう。なぜなら泥棒がしたいと思うことは他
人の私有財産を奪うことであり、それを自分の所有物にすることであり、それゆえ、私有財産の制
度への彼のコミットメントと社会のコミットメントを再強化することだからである。だから、地位機能は
社会をまとめる接着剤である。地位機能は集合的志向性によって創出され、義務論的力を担うこと
によって機能する。だがそれは非常に興味深い問いを提起する。どのように地球上で、人間はその
ような驚くべき特徴を創出できたのか?またいったん創出された存在においてそれをどのように維
持するのか?私は次章「宣言によって創出された地位機能」の議論に達する前に、その問への解
答をなし遂げたい。
5.構成規則
少なくとも二つの種類の規則を区別することが重要である。私たちのお気に入りの規則の例は、先
行して存在している行動の形式を規制する。たとえば「道の左側を運転せよ」はアメリカ合衆国に
おける運転を規制するが、運転はこの規則から独立して存在することができる。しかし一部の規則
は、単に規制的なのではなく、またそれが規制するまさにその行動の可能性を創出する。だから、例
えばチェスの規則はボード上の駒の動きを規制するだけでなく、十分多くの規則に一致する動き
がチェスをプレーするための論理的必要条件である。なぜならチェスは規則とは別に存在しない
からである。その特徴として、規制的規則は「X せよ」という形式をもち、構成規則は「X を文脈 C で
Y とみなす」(X counts as Y in context C)という形式を持つ。そのため、たとえばしかじかをチェ
スのゲームで適正なナイト「とみなす」、そしてしかじかのポジションをチェックメイト「とみなす」。制
度に適用すれば、バラク・オバマが特定の条件 X を充足するなら、彼をアメリカ合衆国 C で大統領
Y「とみなす」。
だれでも簡単に例を増やすことができる。手にもつ紙片を20ドル紙幣「とみなす」。それゆえ、そ
れに地位を、その地位とともに、それがその地位の集合的承認なしは遂行できない機能を与える。
フットボールの試合、株式市場の取引、カクテルパーティー、会議の休会はすべて構成規則によっ
て、存在をもたらされる地位機能の例である。
同じ原則はほとんどすべての根本的制度、言語に適用される。だがそれは重要な異なる仕方で
適用される。「雪は白い」という文の意味それ自体は、その適正な発語が雪は白いという結果/意
味(effect)に対する陳述とみなされることを決定する。あなたは「とみなす」と別の行為を必要とし
ない。なぜか?私はこの章と第5章の両方で後に、この違いについてさらに語るつもりである。
6.制度的事実
どんな人間の制度から独立した一部の事実が存在する。私はこれをナマの事実と呼ぶ。だが一部
の事実は存在するために人間の制度を必要とする。ナマの事実の一例は、地球は大洋から9千3
百万マイル離れているということであり、制度的自実例はバラク・オバマはアメリカ合衆国大統領
である事実である。制度的事実は通常客観的事実であるが十分奇妙なことに、それは人間の合意
ないし受け入れによってのみ事実となる。そのような事実はその存在のため制度を必要とする。通
常、制度的事実は人間の制度内でのみ存在する事実である。私たちはすでにそれに対する潜在
的な答えを既に見てきた。そして今それを顕在的にしたい。制度は構成規則の体系であり、そのよ
うな体系は自動的に制度的事実の可能性を創出する。そのためオバマが大統領であるという事実、
あるいは私が自動車免許をもっているという事実、チェスの試合である人が勝ち、他の人が負けた
という事実はすべて制度的事実である。なぜなら、それらは構成規則の体系内に存在するからで
ある。
IV.宣言によって創出されるものとしての地位機能
私がこれまで導入した装置の要素はもともと、私が以前の著作で提示したものであった。(4) この
本の主要な理論的革新はそしてそれを私が書くひとつ、たったひとつではないが、私が非常に強い
理論的主張を導入したいということである。すべての制度的事実、そしてそれゆえすべての地位機
能は、私が1975年「宣言」(Declaration)(5) と名づけたひとつのタイプの発話行為によって創出
される。その概念を説明するため、私はどのように言語が働くかについて、発話行為について何か
言わなくてはならない(今これをあなたが理解していなくてもそれほど心配することはない。なぜな
ら私は言語とはなんであり、それがどう働くかを説明するため、第4章すべてを割くつもりだからで
ある)。発話行為の一部は、実際哲学者たちのお気に入りの発話行為は、物に世界でどのようにあ
るかを表象することを主張することによって機能する。いくつかの哲学的お気に入りをあげれば、
訳注
「猫が寝ころんでいる」(The cat is on the mat)
「雪は白い」「ソクラテスは死すべき存在であ
る」は、世界に物がどのようにあるかを表象すると主張する陳述であり、それらは世界に物がどのよ
訳注 “The cat is on the mat,”は他愛のない指示のある命題形式をもつ文だが、お気に入りなのは、“cat”と
“mat”が韻を踏んでいることである。そのため日本語では「猫が寝ころんでいる」とした(指示は若干あいま
いかもしれない)。
うにあるかを表象するのに成功する程度依存して真か偽であると評価される。かなり未熟で子供っ
ぽいメタファーを考えよう。これら発話行為が世界の上をホバリングし、私が言葉から世界への適
合方向と呼んだものをもつのと同じように世界への適合したり、適合に失敗したりするように、それ
を指さすのことを考える。私はこれらを下向き矢印↓で表す。発話行為が言葉から世界への適合
方向をもつかどうかに関する最も単純なテストはこうである。あなたはそれが真か偽であるとそれ
について言うことができるか?正しい適合が存在するなら真であり、そうでなければ偽である。
しかし世界に物がどのようにあるか私たちに語ろうとするのに従事するのではない多くの発話行
為がある。それらは発話行為の内容に適合するよう世界を変えようとする。だから、たとえば、私が
誰かに部屋から去れと命じるとか、水曜日に誰かに会いに行くと約束する場合、私は彼らにどのよ
うに物があるかを語ろうとしているのではなく、私は、その目的が変化を引き起こすことである発話
行為を創出することで世界を変えようとしているのである。命令は服従を引き起こすことを目的とし
ている。約束は履行を引き起こすことを目的にしている。これらの場合、独立して存在する実在に
適合することが発話行為の目的ではない。そうではなく目的は発話行為の内容に適合するよう、
実在を変化させることである。水曜日にあなたに会いに行くと約束するなら、発語の趣旨は、私が
水曜日に、あなたに会いに行くという理由を創出し、私が約束を守らせることによって実在に変化を
もたらす。私があなたに部屋を去れと命令するなら、目的は私の命令に従う仕方であなたが部屋を
去るようにさせ、あなたの行動を発話行為の内容に適合させようとすることである。私はこれらの
ケースを世界から言葉への適合方向をもつものと言う。その趣旨は発話行為の内容に適合するよ
う世界を変化させることである。私は上向きの矢印↑で上向きのないし世界から言葉への適合方
向を表現する。これらの適合方向のいずれももたないが、私があなたの足を踏んで謝るとか、あな
たが私に100万ドルくれたのに感謝する場合のように、適合が当然とされる今は立ち入らないいく
つかの他の発話行為がある。だが、それらは私たちの現在の研究には関連しないため、私は第4章
までその議論を先延ばしする。
言葉から世界へ↓と世界から言葉へ↑の適合方向をっ結びつける魅力的な発話行為のクラス
がある。それは単一の発話行為で同時に両方右方の適合方向をもつ↕。これらは私たちが実在を
発話行為の命題内容に適合するよう変化させそのため世界から言葉への適合方向を達成させる。
しかしそしてこれは驚くべき部分であり、私たちがそう変化されたものとして実在を表象するために
そうするのに成功する。30年以上前、私はこれらを「宣言」(Declaration)と名づけた。それは自体
が存在すると“宣言”することによって存在にその事態をもたらすことによって世界を変える。
“宣言”の最も有名なケースはオースチンが「遂行的発語」(performative utterance)と呼ん
だものである。(6) これらはあなたが顕在的に何かが真であると言うことによって真となるケースで
ある。そのため、あなたは「私は約束する」と言うことによって約束することを真にする。あなたは「私
は謝罪する」と言うことによってあなたが謝罪することを真にする。誰かが「私は命令する」あるい
は「私はここに命じる」とすら言うことによって、彼が命令を与えることを真にする。これらが“宣言”
の最も純粋なケースである。
この本の主要な理論的趣旨のひとつは、非常に強い主張をすることである。言語自体の重要な
例外とともに、すべての制度的現実、そしてそれゆえある意味ですべての人間の文明は“宣言”と
同じ論理形式を持つ発話行為によって創出される。厳密に言えば、そのすべてが“宣言”なのでは
ない。なぜなら場合によっては、私たちは単に言語的に創出されたものとして、その実在を表象する
ことによって実在を創出する仕方で物を扱い、描き、指示し、それについて語り、考えさえする。これ
らの表象は“宣言”と同じ適合方向をもっているが、それは厳密に言えば“宣言”ではない。なぜな
ら“宣言”的発話行為がないからである。存在するものとして表象することによって地位機能の制
度的現実を創出するこのようなケースを、“宣言”の顕在的な発話行為がない場合でさえ、「地位
機能宣言」(Status Function Declarations/場合によっては短く「SF 宣言」(SF
Dexlaration))と呼ぼう。「私がこの本で説明し、擁護しようとしている主張は、すべての人間の制
度的現実は“宣言”の顕在的形式では発話行為ではないケースを含めて、SF 宣言(として同じ論
理形式をもつ表象)によって存在を創出され、維持されるということである」。
すべての制度的現実が、“宣言”と同じ論理形式をもつ言語表現の集合によってその存在を創
出し、実際維持するという私が正しい場合、私たちはどのように構成規則が適合するか説明する
必要がある。そして私はこれからそれを試みようとする。制度的事実の創出の最も一般的形式は、
私たち(私)は地位機能 Y が存在するという“宣言”によってそれを真とするということである。「X
を C で Y とみなす」と言う形式の構成規則は私たちが「持続的な“宣言”」(standing
Decraration)と考えることができるかもしれないものである。そのため、チェックのしかじかのポジ
ションをチェックメイトとみなすと言う規則は、持続的な宣言と考えることができる。そして特定の実
例は単にその規則“キングがチェックのポジションにあり、キングがチェックメイトとみなされる
チェックから逃れる適法な手がない”の適用であるだろう。だから私たちは今、構成規則と特定の
ケースの適用での間の区別をしようと思う。規則自体は持続的な SF 宣言であり、別に受け入れあ
るいは承認の行為が必要ないような、個別の事例で適用される。なぜなら承認は既に規則の受け
入れに潜在しているからである。ゲームの規則や国家の憲法は、持続的な宣言として構成規則が
機能する典型的な例である。だから、たとえばアメリカ合衆国憲法は、選挙人団における多数票を
受けた大統領候補が大統領当選者とみなされることを“宣言”によって真とする。なぜなら、憲法の
条項は、持続的な宣言として機能するため、しかじかの候補が現在選ばれた大統領であるというこ
とを受け入れるのに、それ以上の受け入れないし承認の行為は必要ではない。憲法それ自体の一
部である、構成規則の受け入れはしかじかの条件を充足する誰かが、選ばれた大統領であること
を受け入れることを、その制度の参加者にコミットさせるのに十分である。
この議論はこれまで以前の著作『社会的現実の構成』で指摘した点、すなわち、すべての制度
的現実が言語的表象によって創出されたことを強化する。あなたは常に既存の最初の実際の言葉
を必要とはしないが、制度的事実が存在するため、何らかの種類の象徴的表象をあなたは必要と
する。しかし前に言及したとおり、例外の興味深い重大なクラスが存在する。言語的現象それ自体
である。そのため、“宣言”の存在はそれ自体制度的事実であり、それゆえ地位機能である。だがそ
れはそれ自体さらに宣言が存在することを必要とするのか?そうではない。実際そうだったら、私た
ちは無限後退に陥るだろう。だが今度、すべての地位機能が「地位機能宣言」(Status Function
Declarations)によって創出されるという一般的必要条件から、ある地位機能の体系が、免除され
るということは言語についてどういうことなのか?私たちは意味論を、意味論を超える現実を創出
するのに用い、意味論を意味論的力を超える力を創出するために用いる。だが言語的事実、しかじ
かの発語が陳述や約束とみなされるという事実は意味論が意味論を超える事実ではない。反対に、
意味論は陳述や約束の存在を説明するのに十分である。発話行為自体の意味論的内容はお金も
私有財産も作らないが。発話行為自体の意味論的内容は陳述、約束、要求、質問をするのに十分
である。違いは関与する意味の性質にあり、私は第4章と第5章で更に詳しくその違いを説明する。
一見して、形式「X を C で Y とみなす」は他の制度的事実と同じく、言語にも機能するようにおも
える。そのため、彼がある条件を満たすため、バラク・オバマをアメリカ大統領とみなす、が真である
ように、文「雪は白い」の適切な発語を、雪は白いという陳述をするとみなすのが実際真であるよう
におもえる。だがこの明らかな類似性にもかかわらず、巨大な違いがあり、それは意味の本性を扱
わなければない。「雪は白い」と言う文自体の意味は適切な発語が雪は白いと言う結果に対する
陳述をすることを構成するだろうことを保証するのに十分である。だが「オバマは大統領だ」という
文自体は実際オバマが大統領であることを保証するのに決して十分ではない。その文の場合形式
「X を C で Y とみなす」の公式は、意味の「構成」を記述するのであり、私たちが遂行する別の言語
的操作なのではない。だが非言語的制度的事実のケースでは、形式「X を C で Y とみなす」の構
成規則は、私たちが遂行する「言語的操作」を記述する。それによって私たちが新たな制度的事実、
その存在が単なる文の意味以上に関与し、発語がそれを創出するのに用いられる事実を創出する
私たちが遂行する「言語的操作」を記述する。私はこの違いについて第5章でもっと語らなければ
ならないだろう。
V.どのようにこの本は哲学的プロジェクト全体に適合するか
私は読者がどのうように個々の主張が全体的なパターンに適合するかを理解できるように、全体的
な哲学的主張から今要約の作業を行う。心は美しく総体的な形式的構造をもっている。「形式的」
という言葉で、私は単に信念、欲求、知覚、制度などが、どんな個別の内容から独立して特定するこ
とができるということを言っているだけである。その形式的構造に基本的なのは、「認知的能力」 ―
欲求、お金、信念 ― と、「意欲や意思に関する能力」 ― 欲求、事前の意図、行為中の意図の間の
区別である。これら二つの集合はまったく異なる現実に関係する。私は既に発話行為の特徴として
の適合方向の概念を導入したが、私はそれが精神状態にも等しくうまく適用されることが明らかで
あることを望む。陳述のような信念は、下向きのあるいは心(ないし言葉)から世界への適合方向↓
をもつ。そして命令や約束とおなじく、欲求や、事前の意図、行為中の意図のような意欲-意志的状
態は世界から心への適合方向↑をもつ。それらはどのように物があるかを表象するのではなく、ど
のように私たちが物があって欲しいか、あるいはどのように私たちが物をあらしめることを意図する
かを前提している。このふたつの能力に加えて、第三の、想像がある。その場合命題内容、意欲的
意志的な文脈の命題内容が適合を前提される仕方では現実に適合するとは前提されないが、そ
れにもかかわらずそれは社会的制度的現実の創出において重要な機能をする。フィクションのよう
な想像は命題内容をもっている。たとえば、私が古代ローマに暮らしていたようなことを想像しよう
とするなら、どんな場合でも私が実際私に起こった何かにコミットメント(commitment)を負わない
仕方で、それは何がしか古代ローマでの私のフィクション的説明を与える。想像とフィクションの両
方で、世界に関係するコミットメントは放棄され、私たちはいずれの適合方向伴わず、それが表象
するいかなるコミットメントももたない命題内容をもつ。これらの話題は次章のの大半の主題をなす。
そして集合的精神的プロセスへの拡張、ひとり以上が関与するプロセス、集合的志向性は第3章
の主題である。
現在の目的にとって心は、志向的行為を含む精神状態、プロセス、出来事からなる。人間の心は
象徴体系を創出することができる。私たちは有意味な発話行為を遂行するためその体系を用いる
ことができる。発話行為の構造は精神状態の構造と同じように美しいまでに単純でエレガントであ
る。いったんあなたがどのように意味の本性が発話行為の可能性を創出するかを理解したなら、あ
なたは言語によって設けられる限界がすでに心によって設けられた限界であることを理解できる。
意味自体の本性のため発語内行為(illocutionary speech act)の可能なタイプは5つ、5つしか
ない。(7) それに私はぞれぞれ、「主張的」(Assertives/私たちはそれをどのように物があるかを
語るために用いる。例えば陳述 statement や主張 assartion)、「指示的」(Drectives/私たちは
人々に物事をするよう語るのに用いる。例えば命令 order や指令 command)、「責務的」
(Commisives/私たちはそれをも物をすることに私たち自身がコミットするために用いる。例えば
約束 promise や宣誓 vow)、「表現的」(Expressives/私たちはそれを自分の感情や態度を表
現するため用いる。例えば謝罪 apologies や感謝 thanks)、そして宣言(Declarations/私たち
はそれを宣言することで何らかの事態を真とするため用いる。たとえば宣戦布告 declarating
war や会議の休会 adjouring a meeting)。(8) これらのタイプの中で、宣言はそれが表象するま
さに現実を創出する点で特別である。以前の節で言ったとおり、非言語的人間の制度的現実はす
べて、宣言によって創出される。そのようなことはいかに可能なのか?第4章で私は言語がどのよう
なものか、第5章で言語が非言語的制度的現実を創出するためどのように働くか説明しようと試み
る。一旦「宣言」が制度的現実、政府、大学、結婚、私有財産、お金、その他すべての現実を創出す
る力を理解するなら、あなたは社会的現実が、それを創出するのに用いられる形式的構造をもつこ
とを理解することができる。
VI.研究を導くいくつかの原則と区別
私はつづく議論に関する条件を形作るいくつか根本的を区別を行い、いくつかの一般的原則を述
べる。私はこれらがすべて明白で、実際常識的だと考える。だがそのすべてが一部の思想家たちに
否定されてきた。だからそれをまず最初にあきらかにするのは重要である。
1.精神的、心=依存的と心=独立的現象、志向性=相関的
直感的に、多くの現象は明白な意味で精神的である。これらは信念、希望、お恐れ、欲求のような
志向的現象だけでなく、痛み、漠然とした不安の状態のような非志向的現象を含む。等しく直感的
に、山、分子、大陸プレートのような心から完全に独立した多くの現象がある。これらの陳腐なカテ
ゴリーに加えて、私たちは私たちのには実際位置づけられないが、私たちの態度に依存する現象
のクラスを導入する。これらはお金、財産、政府、結婚を含むだろう。以前の著作で私はこれらを「観
察者=相関的」(observer-relative)と呼んだ。だがその表現は、まったくもっともなことに、ミスリー
ディングでありえる。なぜならそれは人々や物に観察者=相関的地位を割り当てる人類学者的立場
を取る、外部の観察者であることを含意するようにおもえるからである。だが、それは全然私の関心
事ではない。お金は実際の制度への参加者が、お金とみなすため、お金である。だからその代わり
に「観察者相関的」というかわりに私は「志向性=相関的」(intentionaliry-relative)という表現を
用いようと思う。私が言いたいのは、人々の態度がお金、政府、政党、期末試験のような何かを構成
するのに必要だということである。だからこの説明で伝統的な「精神的」と「非精神的」の伝統的区
別に加えて、あなたは意図や痛みである仕方で、いわば本来的に、精神的ではないが、志向性=相
関的である意味で精神上のその存在に関して依存している実体のカテゴリーを同定する必要があ
り、これらはお金、財産、結婚、政府のような私たちのお気に入りを含むだろう。実際の志向状態は
それ自体志向性相-関的ではない。なぜならそれらは外部の誰かがそれについて考えるものとは
関係なく存在するからである。
私たちが研究しているこれらの現象すべては、志向性=相関的である。制度的事実はそのため
相関的である。だが、それはそれによって認識論的に主観的にはならない。それは私たちが行う必
要とするさらなる区別に導く。
VII.認識論的に客観的と認識論的に主観的 VS 存在論的に客観的と存
在論的に主観的
研究を突き動かすパラドクスを提起するひとつの方法は、お金や国民国家のように客観的である
実体のクラスを研究していると言葉にすることである。たとえばこの紙片が20ドル紙幣だということ
は、私の意見の問題などではない。それは客観的事実の問題である。だが、同時にこれらの制度的
事実は、私たちの主観的態度のためによってのみ存在する。どのようにあるものと同じものがともに
主観的でありかつ客観的でありえるのか?答えは、この区別が根本的に曖昧であるということであ
る。客観的/主観的区別の少なくともふたつの異なる意味がある。認識論的意味と存在論的意味
である。認識論的意味は知識を扱わなければならない。存在論的意味は存在を扱わなければなら
ない。パリ、くすぐったさ、かゆさは、それらが人間や動物の主体によって経験されるものとしてのみ
存在するという意味で存在論的に主観的である。この意味でそれらは誰の主観的経験にも依存
せず存在するという意味で、山や火山とは異なる。だが、それに加えて、その区別の認識論的意味
がある。一部の命題は誰かの感情や態度から独立して真であると知ることができる。例えば、ヴィン
セント・ヴァン・ゴッホはフランスで死んだという陳述は、認識論的に客観的である。なぜならその真
偽は、観察者の態度や意見から独立して確かめることができるからである。だが「ヴァンゴッホはマ
ネよりいい画家だ」という陳述は、それが語るとおり、主観的意見の問題である。それは認識論的に
主観的である。それは認識論的に客観的な事実の問題ではない。存在論的客観性と存在論的主
観性は、「実体」の存在様式を扱わなければならない。認識論的客観性と主観性は「主張」の認識
論的地位を扱わなければならない。私たちは今度は少なくとも明らかなパラドクスの一部を取り除
く仕方で、私たちの明らかなパラドクスを提起することができる問いは、どのように主観的で客観的
実在があり得るか?ではない。そうではなく、「どのように存在論的に主観的である実在についての
認識論的に客観的な陳述の集合はありえるか?」である。この本の大部分はそれについてである。
付録:この本の一般理論と
社会的現実の構成との比較
この本は進行中の研究プロジェクトの一部であり、私の以前の著作『社会的現実の構成』におけ
る研究の延長線上の続きである。この付録で、私は類似性と違いを明らかにしたい。現在私は『構
成』の理論を、この本で拡張された「一般」理論の具体化である「特殊」理論を述べたものだと考え
ている。現在の著作と以前の著作の主な違いは、当時私は制度的事実の創出と維持の両方にお
ける「地位機能宣言」の中心性を理解していなかったということである。私は言語は制度的現実の
創出と維持に本質的だと理解していたが、構成規則「X を C で Y とみなす」がその現象を説明する
のに十分だと考えていた。現在私は「X を C で Y とみなす」は「地位機能宣言」のひとつの形式で
あるが、また他の形式もあると考えている。
その違いを明確化するひとつの方法は、『構成』の説明に、自分自身や他の著者が唱える異議
を検討することである。
1.場当たり的なケース
ひとつの問題は制度を必要するようには見えないいくつかの制度的事実があることである。実際、
最初の段階で制度を創出するため、あなたは先立って存在する制度があることなく、ある物を地位
を持つとみなすことができなければならないようにおもえる。『構成』で、私は一般的構成規則をも
つことなく、石の列を扱うようになる部族を想像した。さらにそのような部族は、指導者の選出につ
いて、既存の制度も、一般的構成規則の集合もなくとも、単にある特定の人を彼らの指導者とみな
し(count as)、その指導者に義務論的力と地位機能の普通の装置を与える。私が『構成』を書い
たとき、このようなケースや他のケースを議論したが、私はそれを私の説明にとって問題を突きつけ
るとは思わなかった。なぜならそれらは制度の構成規則と同じ論理構造を例示するからである。そ
のため場当たり的(ad hoc)に、部族のメンバーたちがこの X をこの C でこの Y とみなす、この男を
この時この場所でこの指導者とみなす。そしてそれが「X を文脈 C で Y とみなす」という形式の一
般的規則を採用する途上の一段階なのである。部族は指導者を選ぶ制度をもたないが、それはそ
こから前進する単にひとつの段階にすぎない。たとえば、多くの部族が実際採用したように、死んだ
指導者の最年長の息子が指導者を継承すると決定するなら、彼らは構成規則を採用したのである。
2. 独立した Y 項
大変洗練された社会で、地位機能が課される物や人を必要とさえしない地位機能の賦課の形式、
義務論的力の形式になる、もうひとつの興味深いケースが起こる。そのため、バリー・スミスが「独
立した Y 項」(9)と呼ぶものは、地位機能の担い手とみなされる既存の人や物があることなく、地位
機能が創出される場合に存在する。その最も明白なケースは企業法人
訳注
の創設である。そして実
際、有限責任会社の全観念は、企業である何らかの人や人の集団が必要とされないということで
ある。なぜなら、それらの人々が、企業法人と実際同一であるか、企業を構成するなら、企業の責任
を引き受けなければならないからである。だが、企業法人と同一でもなく、構成もしないので、企業
はたとえ何ら物質的実在がなくても、存在し、存在を継続することができる。もうひとつのケースは
は電子マネーのケースである。その場合存在するものはお金の電子的表象、たとえば銀行のコン
ピュータ上の時期の痕跡である。通貨や硬貨の形式でお金の物理的実現がある必要はない。「物
理的に」存在するすべてはコンピュータディスク上の磁気的痕跡である。だがこれらの痕跡はお金
の表象であって、お金ではない。もうひとつの別の例は目隠しチェス(blindfold chess)である。プ
レーヤーはクイーン、ビショップ、ルークをもつ力があり、それぞれは義務論的力をもつがクイーン、
ビショップ、ルークであるような物質的な物をもたず、標準的なチェスの規則におけるこれらの表象
だけをもつ。
3. 集合的承認を必要としない制度的事実
一部の哲学者や社会科学者たち(10) が『構成』で与えられた説明に対して提示した拒否は、集
合的合意、受け入れないし承認の問題ではないが、例えば社会科学者が発見する制度的事実が
あるようにみえるということである。例えばそのため経済における不況の存在は、たとえそれが経済
取引の参加者に知られなくとも認識論的に客観的である。実際、不況の概念は、以前にも多くの不
況はあったが、20世紀まで登場しなかった。要するに不況の存在のような制度的事実は集合的承
認を必要とするようにはみえない。
かくして、私たちは『社会的現実の構成』で与えられた説明に反対する少なくとも3つのクラスを
もっている。場当たり的ケース、独立した Y 項、そして集合的受け入れを必要としない制度的事実
である。私たちはこれらのケースについてどう言うべきだろうか?実際それらはみなかなり簡単に
『構成』の枠組み内で扱うことができると思う。そして私は実際3つすべてに解答を公刊した。それ
訳注 企業法人については第5章で詳述される。日本の企業とは法体系が異なるため、企業とは区別して、
「コーポレーション」として区別する場合がある
をここで手短に要約する。場当たり的ケースは X を C で Y とみなすと同じ形式の例である。それら
はそのため構成規則をもつ途上の諸段階なのである。場当たり的に指導者を選ぶ部族はすでに構
成規則と同じ論理構造をもった操作を伴う地位機能を既に課したのである。そしてその意味で、規
則の形式における成文化への一段階と理解したのである。場当たり的ケースはその説明の反証で
はなくむしろ同じ論理形式の前制度的例なのである。
独立した Y 項についての反対は同様に『構成』の枠組み内で解答できる。独立した Y 項は具体
的な物の底まで達していないが、それは問題の義務論的力をもつ実際の人々で底に達する。だか
ら、企業である物や人はないが、社長、取締役会、株主その他がおり、義務論的力は彼らに生じる。
企業は単に実際の人々の間の実際の力の関係の集合のための代理項(placeholder)である。同
じことは電子マネーについても目隠しチェスについても言える。電子マネーの所有者もクイーンの
所有者も関与する力をもつ。
発見された制度的事実についての第三の反対もまた『構成』の分析枠組み内で解答できる。そ
のような事実は体系的副次的効果ないし一階(ground-floor)の制度的事実の結果ついての事
実である。経済についての一階の事実は売買や参加者の他の経済的活動や態度である。これら
はたとえば景気循環のような特定のマクロな必然的結果を伴うだろう。だがシステム的副次効果
は一階の、あるいはより低いレベルの制度的事実によってすべて構成されるマクロの事実である。
私は「体系的副産物」(systematic fallouts) (11)という表現を導入した。Åsa Andersson は、
彼女の本でこれらを「マクロ制度的事実」(macto institutional facts) (12) と呼んだ。一般に、
人は一階の経済的制度的事実はミクロ経済学によって、システム的副産物はマクロ経済学によっ
て研究されるということができる。
したがって『構成』に対する主要な反対はその理論の一般的枠組み内で解答可能なように私に
はおもえる。しかしながらこれらの問題すべてに関する反省は、私にオリジナルの理論を拡張する
するようさせた。そしてこの本の主要な目的のひとつはその拡張を詳述することである。
場当たり的に私たちが単に X を Y とみなす場合、私たちがしかじかを王とみなす場合、しかじか
の石の列を境界とみなす場合になど、制度をもつにいたる途上に私たちがいるのが明らかなケース
は、ふたたび「地位機能宣言」の形式を例証する。これらのケースで、私たちは前もって存在する制
度的構造なく、私たちは X をある Y とみなしている。しかし X をある Y とみなすことは、ある Y であ
ることを表象することによって、ある X をある Y にするケースである。*訳注 それは正確に「地位機能
宣言」の形式である。これらのケースの特別な特徴は、私たちが場当たり的にそれを行うということ
である。独立した Y 項にともなう問題もまた容易に扱われる。これらは私たちが「宣言」によって地
位機能を創出する ― 例えば、電子マネーを創出する、あるい企業を創出する ― ケースである。そ
して実際第5章で見るように、企業を創出するための成文法がそれ自体、特定の他の「宣言」が企
業を創出することを「宣言」する「宣言」である。企業の個々の創出はその場合独立した「宣言」の
*訳注 「ある X」「ある Y」はそれぞれ、an X、a Y。
制度内での特定の「宣言」である。
『構成』の中の説明に対する反対の第三のクラスはもまた容易に扱われる。実際私は以前の解
答に変更を加える必要はない。集合的承認を必要とする一階の制度的事実があるため、その存在
に集合的承認を必要としないが、単に一階の制度的結果である、制度的事実のマクロないしシス
テム的副産物がある。これは私が後に述べる用語法で変更を余儀なくさせる。厳密に言ってこれら
のケースは制度的事実のケースではない。
用語法の変更
新たな説明は等価性や論理的含意のかなり単純な集合を私たちに与える。すなわち、制度的事実
= 地位機能 → 義務論的力 → 義務論的力 → 行為の欲求-独立的理由。 平易な言葉で言い
換えれば、
*訳注
すべてのかつ唯一の制度的事実は、地位機能である。地位機能は義務論的力を含
意する。そして義務論的力は常に行為の欲求-独立的理由を提供する。
しかしこの要約で暗に示されているのは『構成』で私が用いた用語法からの3つの変更である。
これらの内ひとつは純粋に表記上の問題である。『構成』で、私はすべての制度的事実は制度内
に存在すると言った。だが私たちがいったん一部の地位機能が確立された制度の外部に存在でき
ることに同意するなら、私たちは選択を迫られる。私たちは制度の外部に存在する一部の制度的
事実があると言わなければならないか、すべての地位機能が制度的事実であるわけではないと言
わなければならない。私は同延のもの(coextention)として制度的事実の概念と地位機能の概念
を扱うのが有用であることを知った。だから私はそれに従って、用語法を変更する。すべての地位機
能は制度的事実であるが、すべての制度的事実が構成規則からなる事前に存在する制度内に存
在するわけではない。
さらに、上記で手短に示唆したとおり、それらは義務論的力を担わないため、制度的事実の体系
的帰結(consequence)はそれ自体制度的事実ではない。すなわち現在が現在不況であるという
事実は、多くの他の制度全体についての事実であるが、それ自体は義務論的力を持たないため、
制度的事実ではない。たとえば議会が不況の期間の連邦準備制度理事会に低金利を求める法律
を採択する場合、不況であることは、制度的事実になるだろう。なぜならそれは義務論的力を担う
だろうからである。それはあるレベル、不況であるレベルにおける何かが、より高次のレベルでの義
務論をになる、すなわち連邦準備制度理事会を義務のもとに置く、制度的事実の標準的形式をも
つだろう。
第三の変更もまた暗に示されている。『構成』で、私は一般に制度的事実は義務論的力を担う
*訳注 原文は「平易な英語で」、等価や条件を日常語に言い換えるという意味。
が、一部例外、最も顕著なのは名誉的ケースがあると言った。誰から大学から名誉学位を得るなら、
誰かがミス・アラメダ群のタイトルを獲得するなら、彼ら、彼女らは、新たな制度的地位を獲得する
が、新たな力はもたない。だが今は名誉をある種の義務論的力と扱うのがより有用だと私は思って
いる。おそらく限られたケースで、しかしなお義務論的力 ― 名誉は、例えば尊敬を与えられると考
えられる。だから私はすべての地位機能は義務論的力を創出すると現在私は言う。要約すれば、
用語法で3つの変更がある、第一に、一部の制度的事実はいかなる確立された制度の外部でも存
在し得る。第二に、制度内に存在を必要とする一部の事実は、義務論的力を担わないため、それ自
体制度的事実ではない。そして第三に、定義によりすべての制度的事実は義務論を担うが、制限さ
れたり、弱いことがあり得る。
第2章 志向性
私たちの目的は人間の社会的存在論を説明することである。その存在論は心によって創出される
ため、私たちが分析しようとしている現実を創出するその心の特性からはじめなければならない。
この分析の方向はまた、心と社会のより高次の現象がどのようにより低次の物理学や生物学に
依存しているかを示すことの私たちの必要条件を満たす。生物学は物理学に依存する。神経生物
学は生物学の一分野である。意識や志向性は神経生物学によって、それにおいて引き起こされる。
集合的志向性は志向性のひとつのタイプであり、社会は集合的志向性によって創出される。
I. 志向性:基本
「志向性」(intentionality)は、それによって通常それ自身から独立した世界の物や事態を指示す
る、あるいはそれについての心の能力の特別な哲学者の用語である。そのため私が雨が降ってい
ると信じるなら、金利の上昇におびえるなら、映画を見に行きたいなら、 ピノ・ノワールよりカベルネ・
スーべニヨンを好むなら、私はそれぞれの場合ある志向状態にある。志向状態はつねに、何か「に
ついて」(about)であるか、何かを「参照する」(refer to)。私が映画を見に行くつもりであるという
ような日常的な意味で、意図は、信念、欲求、期待、恐れのような他の多くの志向状態と並ぶ志向
状態のひとつのタイプにすぎない。(1)
社会を理解するためには、集合的な人間の行動を理解しなければならないので、私たちは志向
性から始めなければならない。集合的な人間の行動は集合的志向性の顕在化であり、これを理解
するためには、個人的志向性を理解しなければならない。実際、このいずれも理解するためには、
意識を理解しなければならず、もちろん意識の深い理解はどのように意識が脳の構造によって引き
起こされ、脳において実現されるか理解することを必要とするだろう。今のところ、誰もこれらの問
いに対する答えを知らない。どのように意識が脳のプロセスによって引き起こされ、脳において実現
されるのか?私たちは意識の哲学的側面についてかなり理解していると思うが、私の主たる関心、
すなわち志向性を担う場合を除いてここで扱うつもりはない。この章で、社会的存在論の理解に
とって本質的な前提条件をつくる志向性の理論の骨格を示すつもりである。主な課題はわずかな
基礎概念を説明することであり、私はかなり断定的な仕方の様式でそれを行うつもりである。それ
で始めよう。(2)
志向性と意識
志向性(intentionality)は、精神状態の指示性(directedness)ないし、「について」という性格
(aboutness)についてのひとつの名前であると私は言った。すべての精神状態が志向的なのでは
ない。私は何について不安なのか心配なのかわからず、また何か「について」不安でも心配でもな
い場合でも、私は不安や心配の状態にありえる。私が目覚めている間いつでも、私の志向状態の
一部は意識的である。まさに今例えば、空腹であることを意識しているが、私の精神状態の多くは、
ほとんどの間無意識的である。私が考えていない時でさえ、事実私が眠っている時でさえジョー
ジ・ワシントンがアメリカ合衆国初代大統領であったと私は信じている。だから意識と無意識の間
の区別そして志向的と非志向的の間の区別は、次の4つの論理的可能性の形式を与えるような仕
方でたがいに交差する。意識的志向状態、無意識的志向状態、意識的非志向状態、無意識的非
志向状態。最初の3つのには明確なケースがある。私は第4の例、無意識的非志向的精神状態に
ついてはよくわからない。おそらく無意識的非指示的不安がそのような状態の一例なのだろう。私
はそのような例についてよくわからないが、少なくともこの分類はその存在の可能性を許容する。
志向状態の構造
それぞれの志向状態はふたつの構成要素に分かれる。その状態のタイプと、その内容つまり通常
命題内容である。私たちは志向性のタイプと命題内容の区別を S(p)という記法で表現することが
できる。たとえば私は、雨が降っていると信じ、雨が降っていることを恐れ、雨が降っていることを望
むことができる。これらのそれぞれのケースにおいて、私は同じ命題内容p(雨が降っている)をもつ
が、私はさまざまな志向的タイプ、すなわち S によって表現される心理学的様式、信念、恐れ、欲求
などにおいてそれをもつ。多くの志向状態は完全な命題で生じ、その理由のため、そうするものはし
ばしば哲学者によって「命題的態度」と記述される。これは間違った用語法である。なぜならそれは
私の志向状態が命題に対する特定の態度であることを示唆するからである。一般に信念、欲求な
どは命題に対する態度ではない。ワシントンが初代大統領だったと私が信じるなら、私の態度はワ
シントンに対するものであって、その命題に対するものではない。私たちの志向状態の非常にわず
かしか、命題を指示しない。大半はいかなる命題からも独立した世界における物や事態を指示する。
場合によっては、志向状態は命題を指示するかもしれない、たとえばベルヌーイの定理は瑣末だと
信じる場合、私の信念の対象は命題、すなわちベルヌーイの定理である。「ジョンはワシントンが初
代大統領であったと信じている」という文において、ワシントンが初代大統領であったという命題が
信念の対象であるようにみえる。だがそれは文法的な幻覚である。命題は信念の「内容」であり、信
念の「対象」ではない。この場合、信念の対象はワシントンである。「信じる」や他の志向的動詞が
信じるものと命題の間の関係を名指すという誤った主張によって哲学や認知科学になされたダ
メージをいくら誇張してもし過ぎることはない。
一部の志向状態は内容として完全な命題をもたない。例えばそのためひとはサリーに恋をし、ビ
ルを憎み、トマス・ジェファーソンを賞賛することができる。その場合、志向状態は完全な命題内容
を持たないが対象の表象をもつ。私たちは、「恋をする(サリー)」、「憎む(ビル)」、「賞賛する(ジェ
ファーソン)」のように「S(n)」としてこれらを表現することができる。
前の章で見たように、発話行為はさまざまな「適合方向」をともなって現実を表象し、適合方向の
同じ概念はまた志向状態に適用される。そのため信念の目的は真であることであり、それが偽なら、
それは失敗する。それが真であるかぎり、その信念は世界に一致する、あるいは適合する、より正確
には表象すると私たちは言うことができる。それは「心から世界への適合方向 ↓」をもつ。他方、欲
求や意図はどのように世界があるかを表象するとは考えられないが、どのように世界があって欲し
い(欲求の場合)が、どのように世界があるべきか意図する(意図の場合)かと考えられる。私たち
はそのようなケースで意図や欲求は「世界から心への適合方向 ↑」をもつと言うことができる。お
そらく「方向」よりよい用語は適合に関する「責任」(responsibility)であるだろう。信念が真である
べきだと考えられる。そしてそれゆえその「責任」は世界に一致することである。それは心から世界
への適合方向をもつ。信念が適合を達成に成功するなら、それは真である。さもなければ偽である。
だが欲求ないし意図が失敗するなら、責任があるのは欲求や意図ではなく、いわば世界である。そ
してこの理由のため、欲求や意図は、世界から心への適合方向、ないし適合の責任をもつというこ
とができる。私はこの区別が直感的に明白であることを望む。良い手がかりはこうである。真か偽で
ありえる精神状態をについてあなたが字義通り言うことができる場合、心から世界への適合方向を
もちがちである。なぜなら真や偽は心から世界への適合方向を達成することにおける、成功ないし
失敗を評価するための標準的用語であるからである。信念は真か偽でありえるが、欲求や意図は
そうではありえない(まぎらわしいが、英語には“My wish came true.” という言い回しがある。し
かしやはり願いは字義どおり真でも偽でもない)。欲求や意図は充足されるか、失敗する、実行さ
れるか実行されない。これらが心から世界へではなく、世界から心への適合方向をもつ事実の印で
ある。
同じ方向が言語も共有していることは、第1章で述べた重要な事実であり、その重要性を第4章
でも主張した。ちょうど志向状態と同じように、「S」で記される状態のタイプと、「p」で記される状態
の内容の間の区別をすることができるように、言語の理論において、オースティンが「発語内的力」
と呼んだ(3) 「F」で記される発話行為のタイプと、「p」で記される命題内容との区別をすることが
できる。そのため私が、あなたが部屋を去るだろうと信じるとか、あなたが部屋を去るのを望むこと
ができるのと同じように、私たちはあなたが部屋を去ることを予測したり、あなたが部屋を去るよう
命じたりすることをできる。どの場合も、私たちは志向状態の場合は異なる心理学的様式と、発話
行為の場合は異なる発語内的力、ないしタイプをもつ、同一の命題内容をもつ。さらに、私の信念
が真か偽でありえ、そのため心から世界への適合方向をもつのとちょうど同じように、私の陳述は
真か偽でありえ、それゆえ言葉から世界への適合方向をもつ。そして私の欲求と意図が真や偽で
ありえないが、さまざまな仕方で充足されたり、されなかったりしえるのとちょうど同じように、私の命
令や約束は真や偽ではありえないが、命令の場合は従われること、ないし従われないことによって、
あるいは約束の場合は守られるか、守られないことによって、さまざまな仕方で充足されるか、充足
されないことができる。これは、私たちに志向性の非常に単純な骨格を与え、重要な結果を含意す
る。私たちは、内容として完全な命題と、適合が起こるべき場合、世界で真でなければならないもの
についての表象として適合方向をもつ志向状態を考えることができる。私は志向状態が充足され
るべき場合、充足されなければならない世界における条件に名前、「充足条件」(conditions of
satisfaction)を導入した。私たちは完全な命題内容とその充足条件の表象としての適合方向をも
つすべての志向状態を考えることができる。信念はその真理条件を表象し、欲求はその実現条件
を表象し、意図はその実行条件を表象する。少なくともこれら単純なケースについて志向性を理解
する鍵は、非常に特別な意味での「表象」(reprisentation)である。志向状態はその充足条件を
表象する。
これまで私たちの説明は、ご覧のとおり、かなり限定されている。完全な命題内容をもつ一部の
志向状態は適合方向をもつようにおもえない。そのため私の鼻が大きいことに誇りをもったり、私の
鼻が大きいことを恥じたりする場合、両方のケースで、私の鼻が大きいと言う事実は単に当然のこ
ととされている。すなわち、それは私の鼻が大きいという事実を表象する志向状態の目的(心から
世界へ↓)でもなく、あるいはその目的は私の鼻を大きくすること(世界から心へ↑)でもない。これ
らの状態において、私たちは私の鼻が大きいことを単に「当然としている」(presuppose)。以前の
著作でこのような状態を「空の適合方向」(null direction of fit)と言ってきた。なぜなら適合は単
に当然とされているだけだからである。反対に適合が「当然と」されており、私の鼻が大きくない場
合には、誇りや恥の感情が不適切であったり誤っていたりするだろう。なぜならばこれらのケースで
適合は「当然とされている」ため、私は「空」(null)ないし「∅」を Presup fit(当然とされた適合)あ
るいは単に短くするため Presup(当然とされる)に変更することを提案する。だから以前の著作(4)
で言ったように、誇りや恥のような感情は∅の適合方向をもっていると言う代わりに、今後私は、そ
れらは Presup fit(当然とされた適合)をもつと言うつもりである。それは美しい表現とはいえない
が、少なくともミスリーディングではない。
さらに私たちはサリーに恋をしたり、ジェファーソンを賞賛するような内容として完全な命題をも
たないような志向状態をまだ説明していない。私はいくつかさらな区別を行った後でそれに戻るつ
もりだ。
志向性のこの説明のいずれも、どのように私たちに物が見えるかとか、どのようにその場で私た
ちに感じられるかを記述することを必然的に意図していないことを理解するのは重要である。私た
ちが生活の出来事を扱うようには、めったにこれらの問題を考えることはしない。私がどのように物
が私たちに見えるかを記述しようとは試みていないことを強調するのは重要である。「現象学」と呼
ばれた哲学運動がある。その実践者の一部は、志向性の研究における決定的な考慮は、どのよう
に物が私たちに見えるかであると考える。「現象学」は事実、しばしば意識の哲学的研究について
の別の名前として用いられる。私は信念、欲求、意図、その他志向状態をもつ ― またそれを操る ―
プロセスに対する直接的な現象学的実在がつねにあると主張しているのではない。すべての人の
信念や欲求が適合方向をもつ充足条件の表象をもつことを理解するためには多くの反省が必要
である。それは直接的に明白に現象学的なのではない。志向性に対する直接的に現象学的な実
在がある必要がないのとちょうど同じように、志向的な表象に対する現象学的な実在がある必要
はない。表象の概念は場合によっては問題を生む。なぜなら、人々は誤ってすべての精神的表象は
精神的表象として意識的に考えられなければならないと考えるからである。しかし私が使用してい
る表象の概念は機能的であって存在論的な概念ではない。志向性の特徴である仕方で成功か失
敗かすることができる充足条件をもつどんなものも、定義により、その充足条件の表象である。
これまで私は確かな基本的区別を描くことに関心を持ってきた。私が行ったひとつの重要な理
論的主張は、志向状態一般は充足条件の表象であるということである。だが私はまた多くの明ら
かな反例について指摘したことを思い出してほしい。私たちは適合方向を持たないようにみえるよ
うな志向状態、適合が当然とされるケース、愛や憎しみ、誇りや恥などの感情のような志向状態に
ついて説明する必要があるだろう。さらに、私たちは完全な命題内容をもたないが、志向状態が単
に物を指示するようなケースについても説明する必要がある。これまでのところを要約すれば、私は
次のような概念にあなた方が慣れ親しんだことを望む。命題内容、心理学的様式、適合方向(その
中には4つのバリエーションがある:↓、↑、Presup、↕)、そして充足条件である。
II. ネットワークとバックグラウンド
私たちの志向性の骨格的理論で必要な他のふたつの概念は、ネットワークの概念とバックグラウン
ドの概念である。私の志向状態は孤立した単位として私に生じるのではない。私は多くの他の信
念や欲求全体をもたないなら、映画を見に行くことを意図することはできない。私は映画が公共的
娯楽の形式であり、人はしばしば映画を見ることができる映画館へ行くことによって映画を見るの
であり、人は入場料を支払った後そこに入り、映画館の席に座り、大きなスクリーン上の映画を見る
などを、他の多くの志向状態全体とともに信じなければならない。
しかし志向状態のネットワークに加えて、あなたはまた一群の能力を含む志向性の適用について
の一群の前提の概念を必要とする。あなたがニューヨークで道に迷わない場合、あなたは通常の
志向状態が機能するため、他の関係のない一群の複雑な志向状態を必要とすることがわかるだろ
う。だから、たとえば、今私が大学のキャンパスの自分のオフィスまで自動車を運転することを意図
するとする。オフィスへ運転する意図をもつために、私は何を信じたり、欲求したりなどしなければな
らないのか?それはかなり長いリストになり、私はすべて、ないしその大半を述べようとすら思えない。
私は自動車をもち、自動車を運転できると信じなければならない。私はしかじかがキャンパスへの
ルートであると信じなければならない。そして私は自動車が移動手段であり、それが道路で動き、私
を含む運転者によって運転されることを信じなければならない。私はあなたにこのリストを続けるこ
とができるが、あなた方に知らせたいことがひとつある。すなわち、もしこのリストを続けるなら、それ
に関する物の一部は、通常の志向状態のようには見えない。たとえば、私はキャパスが自動車で行
ける範囲内にあると実際信じなければならなない。だが私の運転能力自体についてはどうか?私
はその能力を当然のこととしておりその能力は一群の志向状態にはない。同様に私は地球の表面
を移動することを当然のこととしている。私の能力と同様に私が当然のこととしている多くはよい志
向的な状態のようなものとして適切に考えられるようには見えない。私たちはそのような志向状態
を適用することについて、一群の能力を必要とする。この一群の能力を私はバックグラウンドと呼ぶ
つもりである。バックグラウンドは能力や性向、物事の仕方、私たちの意図を実行し、私たちの志向
状態一般を適用することを私たちに可能にする一般的ノウハウからなる。
いかなる時でもほとんどが無意識的である一群の志向状態とみなされるネットワークと、能力や
性向と解釈されるバックグラウンドとの間にはカテゴリーの違いがある。だが実際には、単にネット
ワークが無意識的である場合、その無意識的な要素が、意識化可能であるバックグラウンドにある
ためだけなら、両者に明確な境界線はない。この問題について現代哲学において多くの論争があ
るが、この本の目的にとって私はこれらの論争に立ち入るつもりはない。この議論について私が必
要とすることは、私たちが思考や行為や知覚において世界においてたとえ何を扱うのであれ、私た
ちは非常に多くのことを当然としなければならないという考えである。たとえば、自分のオフィニス
まで自動車を運転する意図を形成するとき私が当然とすることは、一群の信念と欲求(ネットワー
ク)と一群の能力(バックグラウンド)である。
ネットワークとバックグラウンドの概念によって、今や私は、私たちの志向性の説明を悩ますよう
にみえる問題を解決できる。すなわち充足条件と適合方向の概念は、愛や憎しみに典型的である
ような完全な命題内容を持たない志向状態や、誇りや恥におけるように上向き↑でも下向き↓でも
ない「当然とされる適合」を命題内容をもつようなケースにどのように適用されるからである。私は
これらの問題は、いったん私たちがネットワークの存在を認めるなら簡単に扱うことができると考え
る。たとえば私がサリーに恋に落ちている場合、完全な命題内容をもつ必要がないのは真である。
だが、他の人についての非常に多くの信念や欲求をもつことなしにその人に恋をすることができる
ことは決してない。すなわち恋をする関係は他の志向状態のネットワーク内でしか存在しない。そし
てネットワークのそれらの要素は充足条件のある適合方向をもつのである。
さらに適合が前提されるような思考状態を考える場合、信念や欲求をもつことなくそのような志
向状態を持つことができることは決してない。そのためレースで勝ったことを誇らしく思う場合、人
はレースに勝利したと信じ、レースに勝利することを望まなければならない。すなわち「X はpを誇り
に思う」は「X は p であると信じ」かつ「X はpを欲求している」を含意する。ともに充足条件をともな
う適合方向をもつ。
だから充足条件に関連した志向性の説明は、見た目以上により一般的である。志向性を理解す
る鍵は、充足条件であり、私たちはそれらの充足条件を分析することによって社会的現象の志向
性の構造を分析できるというように、それはするだろう。
III. 意図と行為
さて次に、たとえば、私が次回の選挙で投票に行くつもりだとか、私がさっき手を上げたとき、私
は故意にそうしたという意味での「意図」の日常的な意味で、意図の問題に注意を向けよう。私た
ちは意図のその充足条件に対する関係について何を言うべきだろうか?ふたつの特別な性質が信
念や欲求から意図をまったく異なるものにする。第一に、意図はまったく異なるふたつの論理的カテ
ゴリーからなる。たとえば30秒間手を当てることを意図する場合行為の遂行に対して「事前に」
(prior)もつ意図と、私が腕を意図的に挙げる場合、そのため行為自体の一部である意図をもつよ
うに、行為自体遂行の「間」(during)もつ意図とを明確に区別する必要がある。用語法を整えるた
め、私はそれぞれ「事前の意図」(prior intention) 、すなわち意図的行為を遂行に先立って形成
する意図と、行為中の意図が行為自体の構成要素である「行為中の意図」(intention-inaction)と呼ぶ。だから私が自分の手を挙げる事前の意図を形成する単純なケースで、私が手を挙
げるなら、事前の意図は意図的行為を生むだろう。意図的行為はふたつの構成要素をもつ。すなわ
ち、行為中の意図と私の手が上がる身体運動である。事前の意図の英語での別の名前は「計画」
(plan)であり。通常、事前の意図の形成を名指す語は「決定」(decision)である。私が後に何か
することを今決定したなら、私は事前の意図を形成したのである。私がそれをすると計画するなら、
私は事前の意図をもつのである。すべての意図は、行為中の意図を必要とするが、すべての行為
が事前の意図を必要とするわけではない。なぜなら場合によっては、何かをするいかなる計画もせ
ず、事前の決定もすることなく、まったく任意だが、そうすることがあるからである。そのようなケース
では唯一の決定は一組の行為それ自体だけである。たとえば私が椅子に座って哲学的問題につ
いて考えている場合、私は時々まったく任意に立ち上がり、部屋をうろつき回ったりする。このような
ケースでは事前の意図はない。私は単に立ち上がりうろうろする。より厳密に言えば、ほとんどの場
合、会話の最中、人々は次の発語を計画していない。人々は単に任意に対話者に応えるだけである。
存在論的に言えば信念や欲求のように事前の意図は心の状態であるにも関わらず、行為中の
意図は実際の出来事である。それは私が身体運動をともなう意図的行為を遂行するのに成功する
場合、身体運動に伴う心理学的出来事である。たとえば、私が意図的に手を挙げるならその意図
的行為にはふたつの構成要素がある。行為中の意図と身体運動である。行為の遂行に成功する
なら行為中の意図は身体運動を引き起こす、行為中の意図に最も近い英語の単語は「trying」
(試みる)である。私が何かをしたいと思い、失敗しないよう試みるなら(try but fail)、やはり私は行
為中の意図をもったのである。行為中の意図をもったなら、その場合私は試みたのである。人は誰
かに何かをするよう命じることができるにもかかわらず、だれかに事前の意図をもつよう命じること
ができない。「映画を見に行くことを意図しろ」と言うのは無意味である。私はこう言えるかもしれな
い。「映画を見に行く意図を形成するよう試みろ」と.その場合私は、事前の意図を形成することを
試みる(つまり、行為中の意図をもつこと)を命じているのである。状態としての事前の意図と試み
る行為としての行為中の意図の間の区別にとってもうひとつの手がかりは、英語の“intend”(意
図する)は、“try”とは異なり、現在進行形を取らないことである。そのため「君今何をしている?」と
いう問いに対する答えにおいて、私は「論文を書くことを意図している」(I am intending to write
an article)ということはできないが、私は「私は論文を書こうとしている」(I am trying to write
an article)ということができる。私はしばらく人間の行為の構造について語る際にこれらの関係に
ついてもっと述べるつもりだ。
第二に、意図の顕著な性格は、充足されるため行為中の意図も、事前の意図も両方とも、充足
条件の達成において因果的に機能する。だから、たとえば私が15秒手を挙げることを意図し、その
後、その意図をについてすっかり忘れ、なにか完全に別な理由で手を上げているなら、私のもともと
の意図は実際には実行されず、充足されない。「充足されるためには意図自体が行為の産出にお
いて因果的に機能しなければならない」。同様の考えは行為中の意図でも維持される。私が手を挙
げようとする場合、私がその試みに成功するなら、すなわち行為中の意図が充足されるなら、その
場合試みそれ自体は私が達成しようとしている運動を因果的に引き起こさなければならない。身
体運動を生み出すことにおいて行為中の意図が因果的に機能しないなら、行為中の意図は充足
されない。
意図の充足条件の私たちの表現において、事前の意図も行為中の意図もともに、私たちは信念
や欲求についてもったものとはなんらかの異なる表記法をもたなければならない。なぜなら意図の
内容はそれがその内容であるまさに意図を参照するからである。それゆえ、その内容が充足条件を
決める形式が志向状態それ自体を参照する因果的なものであるため、私たちはこれらの意図が因
果的に自己参照的(5) であると言うことができる。それゆえ単純なケースに関してすべて詳細に説
明するため、私が手を挙げ、自分の手を意図的に挙げることによって事前の意図を実行すると考え
てほしい。事前の意図、行為中の意図、身体運動の図式はこのように見える(事前の意図に対し
「pi」、身体運動に対し「BM」、行為中の意図に対して「ia」を用いる):
pi (私は自分の手をあげるという行為を遂行し、かつ、この pi は私が自分の手をあげる行
為を遂行することを引き起こす)
pi ( I perform the action of rasing my arm and this pi causes that I
perform the action of rasing my arm)
ia (私の手は上がり、かつ、この ia は私の手が上がっているこをと引き起こす)
ia(my arm goes up and this ia causes that my arm goes up)
それぞれのケースで因果的な節は、それに先行する節を含意するため、私たちは先行する節を省
略することができる。そして行為は単に行為中の意図プラス身体運動(身体運動は行為中の意図
によって引き起こされる)からなるため、私たちはかなり単純に、実際エレガントに、これらの関係の
図式をする:
pi (この pi は行為と引き起こす)
pi(his pi causes action)
ia (この ia は BM を引き起こす)
ia (this ia causes BM)
行為 = BM を引き起こす ia の出来事
action = event of ia causing BM
そして因果関係の集合は、因果関係を表現する矢印を使って等しい単純さで表現できる:
(Action) pi → (ia →BM)
IV. 複合的な意図と行為
要約すれば、通常の意図の志向性についてこれまでの主張したふたつのものがあり、その両方と
も社会的行為の説明と社会的存在論にとって本質的である。第一に、私たちは事前の意図と行為
中の意図とを区別する必要がある。第二に、事前の意図と行為中の意図はともに因果的に自己参
照的である。事前の意図と行為中の意図を区別する必要がある重要な証拠は、ふたつのケースに
おける充足条件が著しく異なることである。単純な例を取り上げよう。私が今30秒手を挙げることを
意図する場合、私は事前の意図をもち、その充足条件は完全な行為が起きることを要求する。だが、
私が手を挙げる場合、私が手を上げている間、実際に意識的出来事が起きていること、私の努力
の意識的経験は、行為中の意図でありその充足条件は、完全な行為を要求しないが、行為中の意
図自体によって引き起こされるものとして私の手を上げている身体運動を要求する。
両方とも因果的に自己参照的であるという重要な議論は、どのようにその充足が生じるかが、志
向状態の充足に問題とならない場合である、信念や欲求とは異なり、意図のケースでは、意図自
体が充足条件の達成に因果的に現れなければならないことが意図の機能にとって重要であると
いうことである。そのため私が金持ちになりたい場合、その欲求は私が金持ちになる場合、その場
合に限り充足されるだろう。私がどのように金持ちになるかは問題ではない。だが私たちが自分を
金持ちになるため十分なお金を稼ぐ事前の意図を今もつ場合、私が大金を稼ぐ意図は、私が金持
ちになる事態を達成するのに因果的に機能しなければならない。さもなければ、たとえ私が何かほ
かの仕方で金持ちになったとしても意図が実行されたのではない。そして私がドアを今開けようと
とする場合、私の試み、私の行為中の意図は、その試み自体がドアが開くことを引き起こす場合に
限り充足される。何か他のことがドアが開くことを引き起こすなら、たとえば誰か他の人が私のため
にドアを開く場合、私の行為中の意図は充足されない。
次の段階は人がなにか他のことを行うことによって、あるいはそれを通じて、何かを行う複合的な
行為の構造を説明することである。だからたとえば、議長が「動議に賛成のものはみな、右手をあげ
よ」と言い、かつ私が右手を挙げる場合、私は単に右手を挙げているだけでなく、また動議に賛成す
る投票を行うのである。これらはふたつの別の行為 ― 右手を挙げることと投票すること ― ではな
く、二つの行為の異なる特徴の、二つのレベルの記述のをもつ一つの行為である。その環境で右手
を挙げることは投票することを「構成する」。私は右手を挙げること「によって」投票する。
複合的行為のもうひとつのタイプは、志向性がなにかほかのことが起きるのを引き起こす何かを
行う場合である。たとえば引き金を引くこと「によって」、銃を発砲することである。繰り返しになるが、
二つの行為 ― 引き金を引くことと、発砲すること ― があるのではなく、二つの異なる記述レベル
をもつひとつの行為だけがある。底辺のレベルで私は意図的に引き金を引く。私が引き金を引くこ
とは銃の発砲を引き起こす。その文脈でそれは単に銃を発砲する。だが銃を発砲することは、それ
によって私の底辺のレベルの意図的運動が高次のレベルの結果を引き起こし、その組み合わせが
総合的な行為となる、因果的な「によって」の関係によって、銃が発砲する結果を意図的に達成す
る複合的な行為である。
だから私たちは少なくとも複合的行為の構造の複合性の二つの資源をもっている。私たちは記
述の異なるレベルをもつ。その場合、あるレベルはより低次のレベルの行為によって構成される。投
票はその文脈で手を挙げることによって構成される。しかし「関係による構成的なもの」に加えて、
私たちはまた「関係による因果的なもの」をもつ。すなわち引き金を引くことは銃を発砲することを
引き起こす。そしてそのため私は引き金を引くことによって銃を発砲する。
行為中の意図のこのような内的構造は非常に複雑になりえる。そのためたとえば、ジョーンズが
引き金を引くことによって銃を発泡し、彼は銃を発砲することによって政敵を撃ち、彼を撃つことで
敵を暗殺し、彼の政敵を暗殺することによって、復讐の欲望を達成したと言うことができる。ひとが
― 引き金を引き、銃を発泡し、犠牲者を撃ち、犠牲者を暗殺し、復讐を遂げる ― 行為の記述を拡
大ないし縮小することができる、この複合的な構造を「アコーディオン効果」と呼ぶ。(6) なぜなら人
はアコーディオンを拡げたり、閉じたりするように記述を拡大したり、縮小したりすることができるか
らである。アコーディオン効果は無限につづくと場合によっては言われる。だが私たちが意図的行
為のアコーディオン効果について語る場合、アコーディオン効果の境界は複合的な行為中の意図
の充足条件によって決まる。行為中の意図の内容でなく、そのため充足条件の一部でないあらゆ
る種類のさらなる副次的結果あるいは長期の結果がある。さらに、人が何かを行うことによって何
かをしない場合、人が遂行する最初の行為を基本的行為と呼ぶ。(7) あなたが最初のものをするこ
とによって意図的に何か他のことをする必要がない場合、あなたが意図的に行うことができるどん
なことでも、基本的に行為である。引き金を引くことによって銃を発砲し、発砲することによって敵を
殺害するという私たちの例では、私たちは引き金を引くことを基本的行為と考えることができるだ
ろう。私たちは引き金を引くことによって何か他のことを意図的に行うことを行為者はする必要がな
いと考える。彼はそれをただ引く。
私は何がある人にとって基本的であり、他の人にとって基本的でないかがこの説明から明らか
であることを望む。基本性はバックグラウンド能力に依存している。たとえば、良いピアニストは基本
的行為として完全なアルペジオを演奏することができるだろう。彼女はただそうする。どのように彼
女はそうしたのか、あるいはどんな手段で彼女はそうしたのか、疑問の余地はない。だが初心者の
ピアニストにとっては、どんな複雑な一節を演奏することも、曲全体を演奏することを意図すること
によって 一群の副次的な行為中の意図― たとえば左手の親指でこの鍵盤を叩く ― を要求する。
V. 志向性の一般的構造
これまで、私は記憶や知覚についてほとんど語ってこなかった。この本はこれらのより厳密に認知
的な現象よりむしろ行為に関するものだからである。しかし完全を期すために、私は事前の意図や
行為中の意図のように知覚や記憶が因果的に自己参照的であることを指摘させてほしい。あなた
は物の現前がその視覚経験を引き起こす場合に限り、物を見る。あなたはピクニックを経験したと
いう事実がピクニックの現在の記憶を引き起こす場合に限り、ピクニックを思い出す。だが適合方
向と記憶や知覚の因果方向は事前の意図と行為中の意図の鏡像である。記憶と知覚は下方の、
あるいは心から世界への適合方向をもつが事前の意図や行為中の意図とは異なり、記憶と知覚
は上向きの、あるいは世界から心への因果方向をもつ。視覚経験と記憶経験の因果的自己参照
は、その状態自体が状態の内容で表象される事態によって引き起こされる場合に限り充足される
ようなものである。その結果、私たちがこれまで記述してきた志向性のタイプの間のかなり洗練され
た一群の形式的関係を手に入れる。私はそれらを次の図表で示す。私は志向状態の基本的タイプ
を名指すのに何ほどか古臭い用語、「認知」(cognition)、「意思」(volition)を用いる。(「N/A 」
という表現は適用できないことを意味する。信念や欲求はその志向内容において因果的な自己参
照的条件を持たないため、因果方向の問題は生じない)。
表2.1 志向性
認知
意思
行為中 事前
知覚 記憶 信念 の意図 の意図 欲求
適合方向
↓
因果方向
↑ ↑ N/A ↓
因果的自己参照性の有無 あり
↓
あり
↓
なし
↑
あり
↑ ↑
↓ N/A
あり なし
志向性のさまざまな構成要素の間の形式的関係は非常に洗練されており、実際非常に美しい
ため、私は少なくともその対称性の含意について論評しなければならない。充足条件を構成する事
態が、その充足条件としてのその事態をもつまさに知覚や記憶を引き起こす場合に限り、私たちは
下向きの適合方向の形式の充足を達成すると考えることは、認知の基本的な形式 ― すなわち知
覚や記憶 ― を通じて実在世界に対する私たちの関係の私たちの概念にとって絶対的に根本的で
ある。意思とともに私たちは正確にこの鏡像を手に入れる。私たちのまさに計画や試みがその成功
を引き起こす場合に限り、意図的現象や精神的現象がそれらが表象する世界の事態を引き起こ
す場合に限り世界から心への、ないし上向きの適合方向の達成に成功することは私たちの試みや
性向、私たちの行為中の意図や事前の意図における性向の概念に等しく根本的である。私たちは
心から世界への因果方向の力による限り、世界から心への適合を達成できる。
要するに、知覚や記憶について、私たちはどのように物事が本当にあるかを表象する、そのため
世界から心への因果方向の力による限り心から世界への適合方向を達成する。事前の意図と行
為中の意図について、私たちはどのように私たちは物事があるかを意図するかと、それらが実際ど
のようにあるかを一致をえる。それゆえ心から世界への因果方向の力による限り、世界から心への
適合方向を達成する。
多くの哲学者は志向性の基本的形式は信念や欲求であると考えている。だが、私たちはこれら
を行為や知覚におけるより生物学的な基本形な志向性の形式の派生的な、漂白された形式と考
えるべきだろう。信念や欲求におけるこれらの因果関係は漂白されてきた。信念や欲求はそのまさ
に理由のためより柔軟である。なぜならそれらは因果的に自己参照の構成要素をもたないからで
ある。だが、現実に関することの生物学的により基本的な形式は、私たちが計画すること(事前の
意図)、私たちが試みること(行為中の意図)、私たちが知覚すること、私たちが記憶することにある。
これらの中で、私たちは因果的要素と表象的要素の両方をもち、それらは正確に私が記述した方
法で組み合わせられる。
適合方向をもたないため、図表から除いたひとつの能力は、想像(imagination)である。状態 S
のタイプと内容pの区別は想像にも適用される。私が雨が降ることを信じたり、願ったりできるのと
ちょうど同じように、私は雨が降っていることを想像できる。だが下向きの適合方向をもつ信念、上
向きの適合方向をもつ欲求とは異なり、私が何かを想像することは私が何かを想像することが真
であると信じることにも、それを望むことが真であるとにも、私にコミットさせない。場合によっては人
が起こって欲しいと空想 fantasize するが、それらが欲求の形式であることは空想や創造の本質
的性格ではない。人は恐れたり憎むことと同様に、人は起きるかもしれないと信じること、そして人
が起きる可能性があると信じることを空想することができる。想像に適合することに関して責任は
なにもない。想像することに特異な別の性質は、それは自由で、自発的な行為である、あるいは、あ
りえるということである。私は私が思いどおりに信じ、欲求し、意図することができない仕方で私が
望む何かを想像できる。「想像する」は、他の動詞はしない仕方で、気軽な命令法をとる。「ベニスで
暮らすと想像してごらん」。それによって私は「ベニスで暮らすがどんなものか想像してごらん」は良
いと言っているのである。「ベニスで暮らすと信じてごらん」「ベニスで暮らすと欲求してごらん」「ベ
ニスで暮らすと意図してごらん」はすべてまともな表現とはいえない。想像は、私たちの社会的存
在論の説明においてひとつの役割をもつだろう。なぜなら私たちがそれが存在すると考えるためだ
けで存在する現実の創出は、ある程度のレベルの想像力を必要とするからである。
より基本的ものから、より基本的でないものへの志向性のこの説明における自然な進歩がある。
もっとも原初的な志向性の形式は知覚と意図的行為である。これらのケースにおいて、環境が動
物に何かを引き起こすこと(知覚)、ないし動物が環境に何らかの変化を引き起こすこと(行為中の
意図)とともに、動物は直接環境と接触する。これらより基本的でないものは、充足条件としてこれ
らをもつ表象である。これらは、事前の意図と知覚的記憶である。これらのケースにおいて、私たち
はなお、因果的構成要素をもっているが、充足条件との直接的因果的つながりを失う。記憶は過去
を表象する。事前の意図は未来を表象する。その後次の段階は信念と欲求である。そこでは因果
的構成要素の必要条件を排除する。たとえあなたが信じることがあなたの信念を引き起こさないと
しても、あなたは何かを信じることができ、その信念は充足されえる。またたとえあなたの欲求が欲
求の充足を引き起こさないとしても、あなたは何かを欲求しあなたの欲求は充足されえる。想像力
の場合、あなたは充足条件との内的つながりを失う。
あとで示すように人間の行動を理解することと、人間の社会的行動や社会的現実と理解するこ
との両方にとって本質である志向性の私たちの説明に対する最後の追加がある。図表で表現され
ない認知と意図の間にには非対称性がある。私たちの意志的行為のケースにおいて、私たちは特
徴的に信念や欲求における反省と、事前の意図の形成、決定の形成の間に因果的ギャップを経験
する。通常それらの信念や欲求が、決定の、そのため事前の意図の形成の理由ではあるが、それ
自体では決定を強いるのに因果的に十分ではないという意味で因果的なギャップがある。更に私
たちは通常、事前の意図と行為中の意図の形式で行為を実際に開始することの間に因果的
ギャップを経験する。私は何かをすると決心した後、私はなお身構え、それをしなければならない。そ
して通常事前の意図は行為の着手を強いるのに因果的に十分ではない。私は努力しなければな
らない。さらに私たちが本を書くとか、英仏海峡を泳ぐというような拡大された行為、ないし一連の
行為を行う場合、どの段階でも志向性は、すなわち単なる行為中の意図の存在は、それ自体では、
完了のプロセスを継続するのに十分ではない。人は継続的な努力をしなければならない。だから少
なくとも三つのギャップ、あるいはむしろいかなる段階でも意図的な現象と次の段階への連続の間
には三つの連続的ギャップの部分がある。すなわち、理由と決定の間のギャップ(事前の意図の形
成)、決定と行為の開始の間のギャップ(行為中の意図)、そしてより複雑な行為について、行為の
着手とその完了までの継続の間のギャップである。哲学において、このギャップには伝統的な名前
がある。それは「意志の自由」(Freedom of the Will)と呼ばれる。私たちがそれを好むと好まざる
とにかかわらず、私たちが世界と対処する際、私たちは意志の自由を前提することを強いられる。
次の図表はギャップの現れの位置を図示する。自発的行為のギャップは、連続的であるが、それは
次の図表で示すとおり、それ自体が現れる三つの特別な場所を持つ。
行為の理由(信念、欲求、義務、必要など)→(ギャップ)決定→(ギャップ)行為の着手→
(ギャップ)完了までの連続
私は通常私たちが、決定を決めるものとしての理由、あるいは行為を決めるものとしての決定、ある
いは行為の完了までの連続を決めるものとして行為の着手を経験しないという意味で自由の「経
験」をもっていると強調しようと努めてきた。だが、私は私たちがこれらの経験をもつという事実は私
たちが実際自由意志をもつことを保証しないことを強調しなければならない。それはなお経験が架
空のものであるかどうか開かれた問いが残る。
私はこの章の短さと速さを遺憾に思う。私は引き続く章で本質的な考えを伝えようと思う。
第3章 集合的志向性と機能の割り当て
私たちの企てが、単に人間社会の性質を説明するだけでなく、どのようにその性質が基本的事実と
矛盾せず、それから発展するかを示すことであることを思い出してほしい。基本的事実とは物理学、
化学、進化論的生物学、その他いわゆるハード・サイエンスが与えるものである。これまで、私は興
味深い論理的特性をもつ自然な生物学的現象としてどのように志向性を考えることができるか示
そうと説明をしてきた。ある特定の記述レベルで自然の脳のプロセスが論理的意味論的特性をも
つことを常に念頭に入れておくことは重要である。それらは真理条件や他の論理的な関係のような
充足条件をもつ。そしてこれらの論理的特性は、シナプス間隙への神経伝達物質の分泌であるの
と同じほど、私たちの神経生物学の一部である。もちろんあなたは他の脳のプロセスと論理的に矛
盾する脳のプロセスをもつことができる。まさに今、あなたがこれらの言葉を読むとき、あなたが今気
づいている意味論的内容をもつ脳で進行する電気化学的プロセスが存在する。二元論の伝統に
おいて、私たちは本来的に論理的特性を持つものと、自然の生物学的現象を考えるのに慣れてい
ない。論理的特性はぐにゃぐにゃの生物学とは別の抽象的領域に存在すると考えられる。フレーゲ
でさえ、無時間的に存在することができる心と身体とは別の何かである第三の領域を仮定してい
た。私はそれを地上に引きずりおろそうと試みている。私はあなたがこの文を読んでいる時あなた
の心で進む思考もまた脳における神経生物学的なプロセスであると主張しているのである。そして
そのプロセスは、論理的特性、正確に思考と同じ論理的特性をもっている。誰でも、哲学では非常
にしばしば誰もが志向性を「自然化」(naturalize)しようと試みる。志向性を自然化することによっ
て、彼らは志向性が本当に存在することを否定し、本当は何か他のものであると普通主張しようと
しているのである。これに対する私の答えは、志向性は本当に存在し、何かほかのものではないと
いうことである。志向性はすでに自然化されている。なぜならたとえば考えることは消化することと
同じように自然だからである。
I. 集合的志向性を分析する
私は前章で志向性の論理的特性の一部を記述することを試みた。この章で、私は志向性の論理
構造を記述することを続けるつもりだが、すべての人間の社会的存在論と人間社会一般の根本的
な構成要素であると信じるものに焦点を当てる。他の多くの社会的動物とともに、人間は集合的志
向性のための能力をもっている。これまで私たちは、「私は信じる」とか「私は欲する」のような一人
称単数の文で表現される個人的志向性だけを検討してきた。しかしこの章で、「私たちはしかじか
をしている」とか「私たちはしかじかをすることを意図する」とか「私たちはしかじかを信じる」という
ような形式の文におけるような志向性の一人称複数の形式を私たちは 検討する。私はこれらの種
類のケースをすべて「集合的志向性」(collective intentionality)と呼ぶが、この本の目的のため
に、もっとも重要な集合的志向性形式は、計画し、行為する際の集合的意図(collective
intention)、すなわち集合的事前の意図(collective prior intention)と集合的行為中の意図
(collective intention-in-action)である。だが信じたり、欲求したりするようなことにおける集合的
志向性の形式もまたある。たとえば、私は宗教的信仰のメンバーとして、私たちが、信仰の一部とし
て、それを信じることの一部としてのみ何かを信じることができるだろう。私は、政治運動の一部とし
て、私たちがそれを欲求得することの一部として何かを欲求することが出来だろう。このようなケー
スは実際に集合的志向性のケースであるが、この章で私は、ピクニックに一緒にいくと集合的に意
図するとか自動車を一緒に押すとかを集合的に試みるというような意味で集合的に意図すること
にほとんど関わる。この章での私の主な目的のひとつは、何が正確に協力的な計画や行為におけ
る集合的志向性を構成するかを語ることである。
さらに、集合的志向性の重要な適用は、人や物への機能の集合的割当である。機能はつねに志
向性相対的であり、この本の説明装置にとって本質的である機能の重要なクラスは、機能が集合
的志向性によって課されるクラスである。私はその機能の議論でこの章を終える。
人が集合的志向性を扱う仕方は、単に個人的志向性についての前の章で与えた説明を採用し、
すべての志向的表現の「私」に代えて「私たち」で始めることである。だから「私は店に行く」の代わ
りに、私たちは単に「私たちは店に行く」と言い、私が「私」のケースで提供した志向性の正確な分
析を行うだけである。このアプローチにはいくつか問題があり、そのいくつかは深刻である。第一の
ものは、私たちが基本的事実を尊重する限り、私たちはすべての人間の志向性が個々の人間の脳
にのみ存在することを認めなければならない。そして「私」の代わりに「私たち」に変えようとするなら、
私たちは正確に誰の個人の脳ないし諸脳に「私たち=志向性」は存在するのか語る必要がある。第
二の困難は、私の個人的な個別の志向性は、私が個人的に引き起こすことができる行為の範囲
にしか及ばない。そして通常協力的行動において、私の因果関係の範囲を超えた志向性がある。
第三の困難は、ひとつの行為で私たちが共同するため、私が行っていることの内容は、私たちが一
緒にしようとしていることを達成するため、あなたが行っていることの内容は異ならなくてはならな
い点で、多くの集合的行動の形式があることである。これは、チームの異なるメンバーが異なる行
為を遂行しなければならない野球のようなゲームにおいて、チームのメンバーとしてプレイをする場
合のようなケースで説明される。もうひとつの例は人が音楽グループのパートとして楽器を演奏す
る場合である。単純なケースは私がピアノのパートを弾き、あなたがバイオリンのパートを演奏する
デュエットを演奏する場合である。このようなすべてのケースにおいて、本物の協力的行動がある
が、たとえゲームをプレイしたりひとつの楽曲を演奏するという共通の全体的な目標を共有してい
たとしても、それぞれの個人の意図の内容は、他者の意図の内容とは異なる。続けて、私たちはこ
れらの問題を解決しよう。集合的志向性の説明が満たさなければならないいくつかの適切さの条
件がある。そして、私たちはこれらが何かを知っている限りで、私はそれらをここにリストする。
1. 私たちは事前の意図と行為中の意図の明確な区別をしなければならない。これは個人的
行為と同じように集合的行為や意図にとって重要である。
2. 私たちは事前の意図と行為中の意図の両方の充足条件が因果的に自己参照的であるこ
とを絶対的に明確にする必要がある。
3. 集合的であろうと個人的であろうとすべての志向性は、個人の頭のなかに存在しなければ
ならない。
4. 集合的志向性のケースで、私たちは、どれを私の志向内容の充足条件の一部とすることが
でき、どれを集合的志向性における私の協力者による貢献として当然とするか、自分が個
人的に引き起こしえることを区別しなければならない。私たちが交響曲を演奏しているなら、
私が実際引き起こすことができるすべてのことは、私の個人的パフォーマンスだけである。
だが、私は総合的集合的パフォーマンスへの貢献としてそのパフォーマンスをする。
5. 充足条件の特定において、私たちは何が命題内容でありえ、何かありえないか、明確にしな
ければならない。命題内容は意図の充足条件を表象することだけができる。一般的な要点
は、志向状態の命題内容はつねに、命題内容の外部で特定されるその状態のタイプから
区別される充足条件を特定するということである。事前の意図は行為中の意図とともに因
果的に自己参照的であるため、命題内容は行為者が因果的に影響できる(あるいはできる
と考える)要素を表象することだけができる。
6. 集合的志向性において、個々人が他者の志向性が何であるか知ることを、個々人の志向性
に要求することはできない。チームワークないし集合的行動の複合的な形式において、人
は通常他者が行っていることを詳しく知らない。人が信じる必要があるすべてのことは、彼
らがその集合的目標を共有し、その目標の達成において、自らの役割を果たすことを意図
することである。
II. 集合的志向性の最近の説明
集合的志向性は最近何か分析哲学の家内工業のようになった。「集合的志向性」というタイトルを
もつ隔年開催される会議さえあり、その主題に関するいくつかの重要な著作が出版された。推察の
とおり、その主題には大量の論争があり、確実に集合的志向性について一般的に受け入れられた
説明はない。
この本がその分野の歴史的調査と意図しているなら、私は Margaret Gilbert(1) や Raimo
Tuomela(2) のようなパイオニアによる重要な著作や記事に何章か割かなければならないだろう。
詳細にカバーされなければならない重要な著者には、Michael Bratman、(3) Seumas Miller、
(4) David Velleman、(5) 他である。この章の初期の草稿で、私はこれらの著者たちのほとんど
の議論を含めた。しかし、徹底的かつ適切な仕事をするには別の本、あるいは少なくとも私の目的
から外れた余談を必要とするように今はおもえる。だから価値ある詳細な注意をもって他の著者を
論じる代わりに、私の説明が、私が目にした他の著者と異なるいくつかの一般的性質を単に述べる
つもりである。
一般的プロジェクトは「私たちは行為 A を遂行することを意図する」という形式から事前の意図
の文を、「私たちは今(意図的に)A を遂行している」という形式の行為中の意図の文を分析するこ
とである。最もありふれた試みは、「私たち」文を一群の「私」文に還元することによって、「私たち」を
排除することである。私が見てきたほとんどの説明は事前の意図だけを扱い、著者が事前の意図
と行為中の意図の違いを認識しない場合それは私にとって明らかである。だから通常の分析は次
のように始まるだろう:
X が庭掃除の自分のパートを行うと意図し、かつ Y がそのパートを行うと意図し、かつそれ
ぞれが他者の意図について相互に信念をもっている場合、その場合に限り、X と Y は一緒
に庭掃除を意図する。
それぞれが意図する場合、ふたりの人の間で意図についての相互の(共通の)知識(あるいは
信念)が生じ、それぞれは、他者が意図すること知り、それぞれが他者が知っていることを知ってお
り、そしてそれぞれが他者が知っていることをそれぞれが知っていと知っている等々、と無限に続く。
私はこの分析のパターンを動機づけるものは、基本的事実についての尊重であると考える。この
場合、基本的事実はすべての志向性は個人の脳に存在しなければならないということである。しか
し「私たち」志向性が個人の脳にのみ存在する場合、どんな3人の人々 A、B、C によってなされるす
べての「私は意図する」という陳述は、「A としての私が意図する」プラス「B としての私は意図す
る」プラス「C としての私は意図する」プラス A,B、C 間の相互信念に還元されるようにみえる。
この分析のパターンに反する二つのことを私は論じる。第一に、その基本的事実に対する尊重
は、「私たちが意図する」という陳述が「私は意図する」という陳述に還元可能であることを必要と
せず、第二に提案された還元は失敗するということである。
別の著作で、私は基本的事実の尊重は、すべての志向性が個人の頭に存在しなければならな
ないこのケースにおいて、「私たち=志向性」が、「私=志向性」へ還元可能であることを必要としな
いと論じた。(6) 私たちが何らかの協力的活動に従事する場合、私たちのそれぞれの頭において、
私たちは非還元的な私たち=意図をもつことができない理由はない。もちろん私たち=意図が、それ
ぞれの身体を動かすことができるべきなら、その私たち=意図は、なんらかの私=意図に体系的に
関係づけられなければならない。だが、時には「方法論的個人主義」と呼ばれるものの一般的必要
条件は、私たち=意図が、私=意図に還元可能であることを必要としない。なぜなら、すべての志向
性が個人の脳に存在する必要条件は、個人の脳に存在する内容が、複数形の文法形式で存在で
きないことを含意しないからである。私たちが一緒に庭を掃除する場合、私の頭の中で「私たちは
庭掃除をしている」という考えをもち、あなたの頭のなかで、あなたが「私たちは庭掃除をしている」
という考えをもつ。
「私たち=志向性」の「私=志向性」への還元に反対する議論
私は以前、私が集合的志向性、「私たち=志向性」(we-intentionality)を、個人的志向性、「私=志
向性」(I-intentionality)に還元すると考えたすべての試みに反対する研究と考える一般的な反
例を提供した。(7) それはこうである:
ビジネススクールのケース 1
アダム・スミスの神の見えざる手の理論を教わり、信じるようになったハーバード・ビジネス・スクー
ルの卒業生のグループを想像する。卒業式の後、各人は可能な限り利己的になることにより、可能
なかぎり個人的に金持ちになることを務めることによって人道の増進に務めるため、彼らはそれぞ
れ世に出る。それぞれは他者がそれをしている相互知識をもってこれを行う。そのため各人がもつ
目標があり、かつ各人は他のすべての人がみなその目標をもち、各人がその目標を持つことをそれ
ぞれが知っていると各人は知っている。協力があるべきではないというのイデオロギーですらもつ。
これは人々が目的をもち人々が他の人々が他の目的をもつ共通の知識をもつケースである。しかし
その場合、私の言う意味での集合的志向性はない。
ビジネススクールのケース 2
彼らが全員卒業式の日に集まり、各人が世に出て、できるかぎり金持ちになり、できるかぎり利己的
に振る舞うことによって人道に資するとまじめに約束することを想像する第二の可能なケースがあ
る。これらすべては人道に資するためなされるだろう。この場合たとえ低次の協力がないことが、結
果的に高次の協力であるとしても、本物の協力があり本物の集合的志向性がある。私は第一の
ケースは集合志向性のケースではなく、第二のケースが集合的志向性のケースであると言いたい。
だが、何が違うのだと反対するかもしれない。結局私たちは行動は二つのケースで正確に同じ
だと考える。それぞれのケースで、各人はできる限り金持ちになることによって人道に資することを
試みる。第二のケースで、個々のメンバーが前提する義務があるため二つのケースには莫大な違
いがある。第一のケースでは、各人はこのやり方で行為するというどんな約束もない、もし誰かが気
が変われば、いつでもドロップアウトして、平和部隊に働きに行く自由がある。しかし第二のケース
では、全員互いになされたまじめな約束がある。
III. 集合的志向性の様々な概念
集合的志向性についての論争の明らかな、ほとんどの解決不能性は、二つの誤解の源泉に由来
する。第一に、人々は分析されるべき考えについて異なる概念をもっている。集合的志向性のケー
スでは、私たちが訴えることができるこの用語の共通に受け入れられた常識的な日常的語法はな
い。通常「真理」や「知識」のような概念をもつ哲学では、「真である」や「知る」の常識的な日常的
語法があり、分析は少なくとも日常語法の一部に答えなければならない。場合によってはタルスキ
の有名な真理の定義のケースのように、(8) 用語の日常的使用の一側面から意識的に出発する
かも知れないが、なお人が訴える共通の核となる概念がある。しかし「集合的志向性」の場合、この
表現に対応する共通に使用される概念はない。まったく多くのことなる考えがある。そのうちいくつ
かをリストしよう。第一に私が何かをあなたが同じことをする場合、少なくとも私たちは両方とも
(both)それをしているという意味があるのは日常的な英語の単なる特徴にすぎない。たとえば、私
がサンフランシスコへ自動車を運転し、あなたがサンフランシスコへ自動車を運転する場合私たち
は両方とも(both)サンフランシスコへ自動車を運転していると言うのは本当である。だがこれは必
然的に集合的に志向性なのではない。というのもあなたが自動車を運転しており、私があなたがそ
うしていると知っており、かつ私が同じことを行い、あなたが私がそうしていると知っていることがあ
りえるからである。相互的な知識があるとしても、どんな意味でも、私たちが協力していない。さらに
私たちがいかなる協力もなく、共有された共通の「目標」を達成している場合さえある。それが起き
るのは、今、私が環境を改善するため、いろいろなことを行うというような場合である。たとえば可能
な場合いつでも私は大気汚染を最小にしようと試みる。しかし私はどんな意味でも、たとえ私が非
常に多くの他の人々が同じ目標を持って同じことを行っていたとしても、それを行う場合、だれとも
協力してはいない。たとえ他の人々が同じ目標を共有しているという知識において同じ目標をもっ
ていても、また他の人々とその目標を共有していると他の人々が知っているという知識においても、
同じ目標をもっていることだけでは、それ自体私が言う意味では協力にとって十分ではない。私が
集合的志向性のこの形式について語る場合、私は人間や他の動物がその活動で実際に「協力」
する能力について語っている。協力は、共通の知識ないし共通の信念の存在を「含意する」が、共
通の目標を達成する個人的意図を伴う共通の知識ないし信念は、それ自体では協力にとって十
分ではない。
第二に、私が目にしてきた説明に共通した特徴は、著者たちが分析している集合的志向性は言
語を使用する成人の間に生じると仮定をしがちであることである。それはもちろんほとんどの理論
的目的にとっては合理的な仮定であるが、私にとって、人間社会を分析する際の根本的概念では
ありえない。なぜならそれはすでに言語を前提しており、言語を持つなら、次章で詳しく述べる理由
のため、あなたはすでに人間社会をもっていることになるからである。集合的志向性が会話を通じ
て引き受けられるコミットメントが生じる場合、あなたはそのコミットメントを生む会話をもつことを始
めるためでさえ、集合的志向性を前提しなければならない。ファースト・オーダーの集合的志向性
の形式があり、それは言語の使用に先立ち存在し、言語の使用自体を可能にするものである。それ
は、さまざまな文化で私が知っているような、社会の機能として、人が見知らぬ人にアプローチし、
特定の会話を行うことができると、私たちが考えるものに本質的な重大な人間のバックグラウンド
能力である。人は「すいません、東大に行くにはどうしたらいいですか」(原文は Excuse me, how
do I get to Dwinelle Hall? ;Dwinelle Hall、UC バークレーの大講堂)のような質問をすること
ができる。たとえば、「知らないよ」とか「ばかなことを聞くな」とか「ニホンゴ、ワカリマセン」とか言う
ことによってさえ何らかの仕方で見知らぬ人に答える場合、集合的志向性は働いているのである。
集合的志向性をもつために約束は必要ない。実際、約束をする、そして受け入れられたり拒絶され
たりする、まさにその会話は、すでに集合的志向性の形式なのである。会話は、会話を行うバックグ
ラウンド能力を前提する。そしてバックグラウンド能力は集合的志向性のより根本的な全言語的形
式をもっていることに依存している。会話の始まりはそれ自体高次の集合的志向性である。だから
私の視点から見て、約束をすることでコミットメントを創出することは、すでに集合的志向性の構築
のセカンド・オーダーなのである。あなたは言語形式が構築される集合的志向性の全言語的形式
をもたなければならず、コミットメントを表明するために会話の集合的志向性をもたなければならな
い。
IV. どのように、「私たち=志向性」は、個人の身体を動かすことができるか
「私たちは意図する」「私たちは信じる」「私たちは欲求する」のすべての発生が「私は信じる」「私
は信じる」「私は欲求する」プラス相互信念に還元できないという事実をいったん受け入れるなら
集合的志向性について、さらにいくつか問題がある。重大な問題は、「私たち」の内容が、集合的努
力でひとりの役割を行うことを構成する「私」の内容と同じでない場合、「私たち=志向性」が、各人
の身体を動かすことはいかに真になることができるのか?である。私たちがピアノとバイオリンの二
重奏を演奏する場合、私がピアノを演奏することで私のパートを、あなたがバイオリンを演奏するこ
とであなたのパートを行うかもしれない。どのように「私たちの」集合的志向性は「私の」身体を動か
せるのか?どのようにして私たちは「私たちは二重奏を演奏している」から、私が言う「私はピアノの
パートを演奏している」と、あなたが言う「私はバイオリンのパートを演奏している」を手に入れるこ
とができるのか。
繰り返し言ったとおり、意図は二種類に別れる。行為の着手に先立って始まる事前の意図と行
為の意図的構成要素である行為中の意図である。事前の意図と行為中の意図の両方とも因果的
に自己参照的である。
手を上げるというような単純な例を検討する場合、私たちは次のよう考えにおいてこれらの事実
を表現できる。丸括弧内は意図の命題内容を表し、丸括弧の前の部分は志向状態のタイプを表す。
事前の意図(この事前の意図は私が自分の手を挙げる行為を遂行することを引き起こす)
行為中の意図(この行為中の意図は私の手を上げていることを引き起こす)
事前の意図を「pi」と、行為中の意図を「ia」と、身体運動を「BM」と、そして行為を「a」と略記するな
ら、これらの関係の一般的形式を次の図式によって表すことが出きる(そして私は第2章の分析を
ここで繰り返している)。
pi(この pi は a を引き起こす)
pi (this pi causes a)
ia(この ia は BM を引き起こす)
ia (this ia causes BM)
a = ia + BM、その場合 ia が BM を引き起こす
a = ia + BM, where ia causes BM
人間の行為はまた、通常、手を上げるような単純な行為を遂行するだけではないく、他の何かを
行うこと「によって」何かをするという事実に由来する非常に特別な特徴をもっている。これらの関
係は第2章で書いたアコーディオン効果を起こす。たとえば、私が引き金を引くこと「によって」銃を
発砲したり、手を上げること「によって」委員会で投票する。引き金を引くことは、銃の発砲を引き起
こすが、私が手を上げることは投票が起きることを引き起こさない。それは単に投票を構成する。私
はこれら行為の内的構造のタイプを、「因果的“による”関係」(the causal by-means-of
relation)と「構成的“による”関係」(the constitutive by-means-of relation)と呼ぶ。私たちは
次のような表記でこれらの関係を表すことができる。
ia A による B(この ia は、B を引き起こす A を引き起こす)
ia B by way of A (this ia causes A, which causes B)
ia A による B(この ia は、B を構成する A を引き起こす)
ia B by way of A (this ia causes A, which constitutes B)
今、現在の議論に関する問いは、すべてのこの仕組みが集合的意図と行為までどのように継承
されるかである。私たちの個人の貢献がさらなる結果を引き起こすなんらかの集団の努力で、私た
ちが協力している場合、私たちは「因果的“による”関係」をもつ。そして私たちの個人的努力が欲
求された結果を構成する努力で、私たちが協力している場合、私たちは「構成的“による”関係」を
もつ。(9)
因果的関係と構成的関係の両方を含む集合的行為中の意図の例を検討することによって、こ
れらのケースを私たちは解決できる。私とあなたが一緒に、私が自動車を押し、あなたが運転席に
座り、一定のスピードに達した後クラッチを外すことによって自動車のエンジンをかける因果的関
係の例を検討しよう。因果的に言って、「私たち」は「私が押し」、点火装置をオンにしながら「あなた
がクラッチを外す」ことによってエンジンをかけようとしている。私が以前の著作で検討した別の
ケースは、私が注ぎ、あなたがかき回すことによって、ベアルネーズ・ソースを一緒に作る場合であ
る。因果的に言って、私たちは私か注ぐことと、あなたがかき回すこと「によって」ソースを作る。
それを私たちが、私がピアノのパートを演奏し、あなたがバイオリンのパートを演奏する二重奏の
パフォーマンスをするケースと比較しよう。この場合、私たちが演奏することが、二重奏のパフォー
マンスを引き起こすのではない。私が演奏し、あなたが演奏することは単に、二重奏のパフォーマン
スを「構成する」だけである。だから私の視点から見れば、「あなたがバイオリンを演奏しているのを
私が当然のこととする文脈で」、私がピアノを演奏することによって、「私たち」が二重奏を演奏する
という集合的行為中の意図をもつのである。
志向性が集合的であるということが意味するもの一部は、それぞれの行為者がその集団の他
のメンバーがそれぞれのパートを行っていることを仮定しなければならないということである。では
それは正確に何を意味するのか?他者もまた、各人が自分の行為 A を遂行することしかできない
ため、単独の A(singular A)が異なることができる場合、同じ目標、同じ「集合的 B」(collective B)
をもつ行為中の意図を持つと各人が仮定することを意味する。
どのように、私たちは志向性の構造を表象することについて、私たちの標準的な表記法ですべて
を表現できるか。これが因果的なケースである:
ia 単独の A による集合的 B(この ia は次を引き起こす:A 自動車を動かす:B エンジンが
かかる)
ia collective B by means of singular A(this ia causes: A car moves, causes:
B engine starts)
これは次のように読まれるべきである:私が自分の単独の行為 A を遂行することによって、自分
のパートを行う集合的行為中の意図 B を私はもち、その行為の内容は、その文脈において、この行
為中の意図が、その文脈で B、エンジンがかかることを真とすることを引き起こす、A として自動車
が動くことを真とすることを引き起こすことである。さらに括弧内の独立変数「B」と「A」は、それぞ
れに続く「自動車が動かす」と「エンジンがかかる」と言う動詞句によって限定されることに注意し
てほしい。
私の集合的志向性の背後にある仮定は、あなたが自分の貢献をすることを仮定した上で、私が
自分の貢献をする場合、私たちは一緒に、自動車が発車することを引き起こそうとしているだろうと
いうことであるであることに注意してほしい。また私は因果的に影響する立場に「ない」現象である
ため、私の行為中の意図の命題内容の中には、あなたの志向性、ないしあなたの行動への参照は
ないことにも注意してほしい。集合的志向性において、私は他者が私と協力していると前提しなけ
ればならないが、その協力の事実は、集合的志向性の私のパートの命題内容の部分ではない。そ
うではなく、それは括弧の外で、集合的志向性の形式において特定されるのである。「集合的 B」と
言う表現は、暗黙に、行為 A を遂行する際、私がひとりでは行為していないが集団の一部として行
為し、B を達成する目標が集団の他のメンバーによって共有されるという前提を表現している。この
点は私への批判の一部によって誤解されてきた。(10) 誤解を防ぐ最も単純な方法は、他者が協力
しているという信念の顕在的表現を追加することである。(訳注:Bel は belief、信念の略)
Bel(集団の私のパートナーもまたこの形式の行為中の意図をもつ(ia 単独の A による集合
的 B(この ia は次を引き起こす:A クラッチを離す、引き起こす:B エンジンがかかる)))。
Bel(my partner in the collective also has intentions-in-action of the
form(ia collective B by means of singular A (this ia causes: A clutch
release, cause: B engine starts)))
日常英語では、この追加した節は次のように読める:私は集団の私のパートナーもまた私のものと
同じ形式の、すなわち、単独の A によって、集合的 B を遂行する、このケースでは、その文脈で B と
してエンジンがかかることが真であることを引き起こす、A としてクラッチを離す行為中の意図をも
つ。
追加の節について二つのことが強調されるべきである。第一にそれは集合的行動(collective
behavior)の観念に潜在的な「信念」だが、それは私の行為中の意図の内容の一部ではない。私
の行為中の意図の内容は、私が引き起こすこと(あるいは少なくとも私が引き起こすと信じている
こと)を参照出来るだけである。集合的行動に取り組むためには、私は他者が私と協力していると
信じなければならない(あるいは仮定、前提しなければならない)。そして他者の協力は私がもつの
と同じ目標を特定するが、目標に対して同じ手段を特定する必要はない、他者が行為中の意図を
もつことにある。私は他者が協力していと信じなければならないが、例外的な場合を除いて、それは
その協力を引き起こす私自身の行為中の意図の内容の一部ではない。
第二の特徴は、私が他者の貢献が何であるか知る必要がないということである。私は他者の行
為中の意図の形式で、行為「A」の価値を知る必要はない。検討している特殊例では、私は「A」の
価値を知っているが、大きな集団の複雑な諸行為に関して、他のすべての人がしていることを誰も
知らない。
さてついで、私たちは、二重奏のパフォーマンスで、私がピアノ・パートを演奏しており、あなたが
バイオリン・パートを演奏する「構成的“による”関係」のケースを検討しよう。私はピアノを演奏する
ことを引き起こしことだけをできる。私はあなたがバイオリンを演奏することを前提しなければならな
い。そのため私の志向内容について、私たちは次のことをもつ:
ia 単独の A による集合的 B(この ia は次を引き起こす:行為 A ピアノを演奏する、それはは
次を構成する:行動 B 二重奏のパフォーマンスが行われる)
ia collective B by way of singular A (this ia causes: A piano plays,
constitutes: B duet is performed)
そして因果的ケースに並行する、対応する信念は、
Bel(集団における私のパートナーは次の形式の行為中の意図をもつ(ia 単独の A による
集合的 B(この ia は次を引き起こす:バイオリンを演奏する、それは次を構成する:B 二重
奏のパフォーマンスが行われる)))
Bel (my partner in the collective has an intention in action of the form (ia
collective B by way of singular A (this ia causes: violin plays, constitutes:
B duet is performed)))
再び日常的表現で、これらは次のように読むことができる。私は、私のパート、単独の A を貢献する
ことによって B を達成するため集合的行為中の意図をもつ。その意図の内容はこの行為中の意図
が、A として、ピアノを演奏することが真であることを引き起こし、その文脈で、B として二重奏を演
奏することを真であることを構成するということである。信念について追加した節は、次の通り読め
る:私は集団における私のパートナーが私のものと同じ形式の行為中の意図をもつ、すなわち、そ
の文脈で、二重奏が演奏される B として、それが真であることを構成する、A として、バイオリンを演
奏することにおいて単独の A による集合的 B を達成する結果に対する信念をもつ。
重要な特徴は繰り返しに値する:私の単独の志向性は両方のケースであなたの単独の志向性
の内容を本質的に参照しない。私は単に、私がその文脈で、私が自分のパートを行う場合、私たち
は、あなたが自分のパートを行うだろうという仮定で私が活動し、私が自分のパートを行うという仮
定の上であなたが活動しているため、私たちは目標を達成しようとしているだろうということを当然
のこととする。これには認識論的基礎がある。しばしば人は集団の他のメンバーの心の中の個人
的志向性が何であるかを知らない。フットボール・ゲームで、パスプレイにおけるオフェンシブ・ライ
ンマンのブロックは、ワイドレシーバーがどんなルートを追うか、クウォーターバックがパスを投げる
前何歩後ろに下がるのか必ずしも知る必要はない。彼が知らなければならいことのすべては、彼が
行うと仮定されていることである(フットボール・コーチのジャーゴンで「彼の割当て」 his
assignment と言う)。そしてこの表記法は彼の意図の充足条件を捉える試みである。
私がこの分析に成功しているなら、集合的志向性が諸個人の心に存在することができ、また同
時に非還元的に集合的だが、それにもかかわらず集合的志向性が諸個人の身体の運動を引き起
こすことができることが、どのように真でありえるかを示すことに成功したことになるだろう。行為は
私の身体が動かないなら、遂行されない。そしてこの行為は、たとえ集合的志向内容が、集団の私
の脳やあなたの脳や他のメンバーの脳に完全に存在するとしても集合的志向内容に反映されな
ければならない。
V. 分析の直感的動機
提示した分析は複雑に見えるかもしれない。そして私は手短かに、おそらくいくらかの繰り返しの代
償を払って、その直感的動機を説明したい。集合的志向性の構造を分析する方法は、何が正確に
集団が行おうとしているかを自問することである。「試みる」(trying)が行為中の意図に対する日常
英語の名前であることを思い出してほしい。そしてまた試みることはつねに成功を試みているが、試
みることと成功することには違いがある。行為中の意図にある全てのものは、試みることである。
存在することができる唯一の志向性は諸個人の頭にある。それぞれの集団のメンバーにあるも
のを超えた集合的志向性はない。だから、次のステップは、さて、何を集団の各個人が達成を試み
ているのかを問うことである。そしてあなたが「因果的“による”関係」を考える場合、それぞれのメ
ンバーは、自らの個人的貢献を行うことによって共通の目標を達成しようとする。だが個々の貢献
は他者がその貢献を行うことを前提しているだけである。それは人が集団の一部として行為してい
ると言うことによって意味されることである。人は他者がその貢献を行っていることを誤るかもしれ
ないが、それは個々の努力が集合的努力の部分とし行われる個々の努力をともなうという本質的
な信念ないし前提である。だから私たちは少なくとも集合的志向性の私たちの分析におけるふたつ
の要素を必要とする。私たちは意図自体の表象を必要とする。その場合その意図は、行為者が達
成できる(あるいは達成できると考える)ことを参照できるだけであり、他の行為者の行為に対する
参照を伴うことができない。そしてその場合私たちは信念の表象を必要とし、その信念は他の行為
者が行っていることについての信念である。
個人の志向性が集団の他のメンバーの志向性を参照できるケースがある。これはたとえば軍の
部隊の指揮官が命令を出すケースである。それは集団の他のメンバーの志向性を創出するよう設
計される。もうひとつのケースは、フットボールチームのクオーターバックがプレイの実行で彼の役
割を実行するためチームの各メンバーにハドル(プレイ前作戦を立てるために集まること)を告げ、
ある意図を創出する場合である。だがあなたや私が何かを一緒に行っている通常のケースでは、た
とえば、私たちがあなたが注ぎ、私がかき回すことによってソースを混ぜる場合、私の志向性はあな
たが注ぐことをカバーすることはできない。あなたが注ぐことは単に私がもつ信念である、それは私
の行為中の意図の志向内容の部分ではない。私の以前の分析の陳述で一部の批判者を悩ませ
たことは、それがあたかも行為者が他の人々の行動をカバーするその意図を持たなければならない
かのようにみえることであった。だがもちろんそれはその分析の一部でもなくまた、その分析によっ
て含意もされない。行為者が行うことを達成できるのは、集団の他のメンバーの貢献がある場合だ
けであるが、それにもかかわらず、その意図は共通の目標を達成しようとすることである。私が選挙
の候補者に投票するなら、たとえ自分の投票が百万票の中の一票でしかないと知っていたとして
も、私は候補の当選をさせようと試みているのである。
VI. 協力と集合的承認の間の区別
これまで、私は第一に集合的事前の意図と集合的行為中の意図で表された完全な協力の構造を
説明することに関心を払ってきた。しかし私たちの社会の分析にとってもまた重要である集合的態
度のもっと弱い形式がある。それは私が「集合的承認」(collective recognition)と呼ぶものであ
る。たとえば、私が誰かから何かを買い、その人の手にお金を入れ、その人が受け取る場合、完全な
協力をもつ。だがこの志向性に加えて、私たちは取引に先立って、取引後引き続いて、私たちがお
金として紙片を承認し、受け取る売り手の手に私が置いているタイプの紙片に対する態度をもち、
実際私たちが商業の制度と同様お金の一般的制度を受け入れている。一般的要点として、制度構
造は機能のため、制度の参加者によって「集合的承認」を必要とするが、その制度内の特定の取
引は私が記述してきた種類の「協力」を必要とする。そのため、結婚を計画しているカップルは実際
に結婚するのに先立ち、結婚の制度を受け入れている。これは行動の形式の協力のケースではな
いが、単に制度を伴う。だが実際の結婚式は協力の例である。私が記述してきた種類の完全な協
力的集合的志向性はしばしば制度の創出を必要とする。たとえば、独立宣言の際のアメリカ合衆
国の創出を考えてみよう。この章で私は協力を分析してきたが、私は制度的構造内で協力が起き
るためには、制度の一般的集合的承認ないし受け入れがなければならず、それは必ずしも顕在的
な協力を伴わないことを強調したい。
正確に集合的承認ないし受け入れの構造に何が伴うのか?以前の著作で、私は「受け入れ」の
概念だけを用いたが、多くの人々にとってそれはなにがしかの程度、「賛成」を含意した。そして私は
それを含意することを望まない。人はその制度が悪いことだと考えるケースでさえ、制度を承認し、
制度内で行為できる。私は時々「集合的承認ないし受け入れ」(collective recognition or
acceptance)という複合的な概念を用いる。(11) そして私は構造の熱狂的支持から、それにただ
同調する(go along with)まですべてのやり方は連続体をなすということをはっきりさせたい。たと
えばナチス時代、ナチ党のメンバーは第三帝国の制度的構造を熱狂的に支持した。だが当時、そ
の制度構造を支持はしなかったが、ナショナリズム、無関心、慎重さ、あるいは単なる無気力として
それに同調した多くのドイツ人がいた。協力もまた連続体上に存在するが、この連続体は、集合的
承認ないし受け入れの連続体を切断する。私は協力のケースで、集合的志向性は一般に個人的
志向性プラス相互信念に還元されえない。だが、集合的承認のケースについてはどうだろうか?集
合的承認は個人的承認プラス承認内の相互信念に還元されえるのか?ここで、見通しは明るい。
なぜなら顕在的協力が必要とされないからである。顕在的な協力の場合、単に他者の意図につい
て相互信念と共に個人的信念を持つことはハーバード・ビジネス・スクールのケースで説明したと
おり十分ではない。私たちは集合的承認のケースの類似の反例を作ることができるだろうか?ビジ
ネス・スクールのケースにおいて、何ら協力はなかったが、集合的承認のケースでは、たとえ参加者
が集合的承認に反対だとしても、やはりそれぞれが個人的にその現象を承認し、そしてそう承認す
る相互知識がある場合、私たちは集合的承認をもつようにみえる。両者の何が異なるのか?協力は
協力するために集合的意図を必要とする。だが集合的承認は協力の形式である必要はなく、その
ため協力する集合的意図を必要としない。
前に論じたハーバード・ビジネス・スクールのケースを検討してみよう。協力のケースと協力のな
いケースの両方で、ビジネス・スクールの舞台の参加者たちは、お金の存在と有効性当然のことし
ている。集合的承認は何からなるのか?それが「協力」を必要としているようには私には思えない。
むしろ、それが必要とする物は、それぞれの参加者が、他者のパートにおける相互的受け入れがあ
るという信念においてお金の存在と有効性を受け入れることである。だから私たちは興味深い結
果をもつ。すなわち制度の存在は協力を必要としないが、単に集合的受け入れないし承認を必要
とするということである。売買したり、結婚したり、選挙の投票に参加したりするような制度内での特
定の行為は協力を必要とする。これは重要な点である。なぜならそれは「私=志向性」プラス相互
信念に還元可能である集合的志向性の何らかの形式があることを示すからである。あなたがお金
として何らかの集合的承認をもつなら、その集合的承認は、それぞれの人がお金を承認し、全員が
お金を承認する参加者の間の相互承認があるという事実によって構成されることができる。(12)
VII. 機能を課すこと
人間は、他の生物種とともに、物に機能を課す能力をもっている。その場合機能を課すことが、志向
性相対的な現象、機能を創出する。通常、物が何らかの目的に用いられる場合、それに課される機
能をもつだろう。私はこれらは「行為者的機能」と呼ぶ。(13) 人間はすべての道具とともにかなり劇
的な行為者的機能を創出する。だが人間でない動物も物の使用者によって機能が意図されるある
種の機能を遂行する物をもつことができる。鳥の巣、ビーバーのダム、地中から食料を掘り出すた
め棒を使う霊長類を考えてほしい。現在の私たちの目的にとって「機能はつねに志向性相対的で
ある」ことを指摘するのは重要である。これは生物学で、私たちがしばしば自然に機能を「発見す
る」事実よって私たちから隠されている。私たちはたとえば心臓の機能は血液を送り出すこと(17世
紀まで知られていなかった)、あるいは前庭眼反射は網膜像を安定させることであることを発見す
る。だが私たちが自然に機能を発見する場合、私たちがしていることは、特定の原因が、目的の概
念は心=独立的な自然に本来的ではなく、私たちの一群の価値に相対的である特定の目的に貢
献するためどのように活動しているかを発見しているのである。だから私たちは心臓は血液を送り
出すことであることを発見できるが、私たちが心臓の機能は血液を送り出すことであるという場合、
私たちは生命、生存、再生産が肯定的価値であり、生物学的組織の機能はこれらの価値に貢献す
ると当然のこととしている。だがその価値は何に由来するのか?機能の概念に規範的要素がある
ということの手がかりは、一旦私たちが機能の用語で何かを記述したなら、私たちは規範的ボキャ
ブラリーを導入できるということである。私たちは「これはその心臓より良い心臓だ」「この心臓は機
能不全である」「この心臓は病気を患わっている」というようなことを言うことができる。私たちは石
についていかなるこのようなことも言えない。石は石の機能不全ないし石病を患わない。だが石に
機能 ― 文鎮や投てき物 ― を割り当てるなら、私たちは評価的な査定をすることができるだろう。
手短に、荒っぽく言うならおそらく、「機能は目的に貢献する原因である」。そしてその目的は何か
から由来しなくてはならない。この場合それは人間に由来する。この意味で機能は志向性相対的
であり、それゆえ心依存的である。
この本はおおむね私が「地位機能」(status function)と名付けた機能の特別なクラスに関心を
持つ。すべての機能と同様に、地位機能は志向性相対的である。他の多くの機能と異なり、それは
ふたつの特徴をもっている。第一に私たちの研究に重要なケースで、それはその最初の創出につ
いても、その継続的存在にとっても、集合的志向性を必要とする。そして第二に、それは人や他の
実体が、物理的構造によってではなく、少なくとも物理的構造によってだけではなく、地位を集合的
に課し、集合的に承認することによってもつ。その実体は特定の地位をもち。そしてその地位の集
合的承認はその実体が地位機能を遂行することを可能にする。人間の制度的存在論の創出にお
いて、集合的志向性と機能の割当ては随伴する。なぜなら問題の重要な機能は集合的志向性を
必要とするからである。ある個人がそれ自身の使用のため「私的」制度と「私的」制度的事実を構
築することは可能である。たとえばある個人が自分だけがプレイするゲームを発明するかもしれな
い。だが私たちの研究にとって、社会的世界を作ることにとって、重要なケースは、お金や政府のよ
うなケースは集合的志向性を必要とする。
VIII. 結論
この章は三つの主な目的をもつ。第一にそしてもっとも重要なことは、いかに基本的事実と矛盾し
ないかを示す仕方で集合的志向性の構造を記述することであった。私たちは個人の心の外部に
存在するなんらかの神秘的な志向性のプロセスのタイプを仮定してはならない。すべての志向性
は、集合的であろうと個人的であろうと、個人の心に存在する。だが同時に、私たちは協力を伴う集
合的志向性の強い形式が「私=志向性」に還元可能ではないことを認めることができる。さらにそ
してこれはこの章の最も重要な目的だが、私たちはどのように集合的志向性を私が第2章で示した
志向性の一般的説明に吸収させるかを示すことができる。第二に、私は協力と、集合的承認ないし
受け入れを区別した。ともに集合的志向性の形式だが、協力はより強い形式である。なぜなら協力
は参加者が単に相互信念を伴う特定の態度を単にもつ以上のことを伴うからである。第三に、私は
私たちはどのように機能を課すことが集合的志向性に関係するかを示した。私は機能がつねに志
向性相対的であることを論じ、どのように機能を課すことが集合的志向性に関係するか示そうと試
みた。私たちは今や、社会的制度的現実の説明を構築するのに必要な素材の、すべてではないが、
ほとんどを集めた。
第4章 生物学的かつ社会的なものとしての言語
この章には、ふたつの目的がある。第一に、私は徹底的に自然主義的である言語の説明を示した
い。それは言語を、志向性の生物学的に基本的な、前言語的形式の拡張として扱い、それゆえど
のように人間的現実がより基本的な ― 物理学的、化学的、生物学的 ― 現象の私たちの基本的
必要条件を満たすという意味で自然主義的である。第二に、私はすべての制度的存在論にとって
の基礎を提供するのを可能にする言語の特別な性質を説明したい。この本は、志向性から言語へ、
その後、言語から社会へ進む。この章は、心と社会の橋渡しをする章である。
このふたつの目的に対応するものは、私が哲学的伝統に反対している二つのより論争的な主張
である。第一にその莫大な業績にもかかわらず、分析哲学は言語を自然の、生物学的な現象として
扱わない点でうかつだったように私にはおもえる。言語は通常志向性の前言語的形式の拡張とは
みなされない。反対に言語はしばしば志向性の第一の形式とみなされ、一部の哲学者たち(たとえ
ば、ドナルド・デイヴィドソンやマイケル・ダメット)(1) は言語がなければ、思考はまったくありえない
と主張する。私はこの見解は哲学的誤り以上のものだと考える。それは間違った生物学であり、私
は後でそれについてもっと語るつもりだ。第二に、社会の基礎を議論する伝統は一般に言語の説
明なしに、社会的存在論の適切な説明を与えることは不可能であるという事実を直視してこなかっ
た。
言語の説明を示す際、私はアリストテレスから、デュルケム、ウェーバー、ジンメルを経て、ハー
バーマス、ブルデュー、フーコーにいたるすべての社会的(そして政治的)理論家の呪縛を克服しよ
うと思う。私が知っている政治や社会のすべての哲学者たちは、言語を当然のこととしている。彼ら
はみな、私たちが言語を話す動物であり、社会、社会的事実、理念型、政治的義務、社会契約、コ
ミュニケーション的行為、妥当性請求、ディスクールの秩序、ハビトゥス、生権力などその他すべて
の説明に失敗したまま議論を続ける。(2) 私がハーバーマス、ブルデュー、フーコーが言語を当然の
こととすると主張するのは奇妙にみえるかもしれない。なぜなら彼らはみな大いに言語について語
り、彼らの哲学的/社会学的研究にとってその重要性を認識していたからである。だが彼らすべて
がもつ問題は、彼らが言語とは何かを語らないことである。彼らは私たちが言語とは何かすでに
知っており、そこから始めることを当然のこととしている。この点で最悪の攻撃者は社会契約論者
である。彼らは言語を話す生物としての私たちの存在を仮定し、そしてどのように私たちが社会契
約をするため「自然状態」において一緒になったか推測する。私が繰り返し指摘している点は、いっ
たんあなたが共有される言語をもつなら、社会契約をもつ、実際あなたはすでに社会をもつというこ
とである。「自然状態」によって人間の制度がないという状態が意味される場合、「言語を話す動物
にとって自然状態のようなものはない」のである。
あなたが社会の本性や、社会における言語の役割を説明することができるようになるためには、
まず最初に言語とは何か?という問いに答えなければならない。この章で、どのように言語が他の
社会制度と異なり、他のすべての存在が言語に依存するような仕方で異なるかを私たちが理解で
きるような仕方で私はその問いに(少なくとも部分的に)答えたい。あなたは言語をもつが、政府、
私有財産、お金をもたない社会をもつことができる。だがあなたは政府、私有財産、お金をもつが、
言語をもたない社会をもつことはできない。私は誰もがこれに同意すると考えるが、哲学的に重要
な課題は、なぜそれが真なのか正確に言うことである。すべての人間の社会制度は繰り返し重ね
重ね適用できる単一の論理的=言語的操作によって存在をもたらされ、その存在を維持する。
私はこの章と次の章で、言語が制度的現実に構成的であり、どんな意味ですべての人間の制度が
本質的に言語的であるかを説明するつもりである。
言語と制度的事実の間にはトップダウンのつながりがある。あなたは言語なしに制度的事実をも
つことはできない。そしていったん共有された言語をもつなら、あなたは任意に制度的事実を創出
できる。私たちは直ちにこの本で論じられる諸問題に興味をもつ人々のクラブをつくること決定でき
る。だがボトムアップのつながりもある。なぜならいったん言語をもつなら、それはあなたが非言語的
制度的事実を手にすることは避けがたいと私は考える。言語があれば、あなたはいわば任意に制
度的事実を創出することができる(これはトップダウンの部分である)。しかし言語をもつなら、他の
社会的制度は不可避に言語外に成長するだろう(これはボトムアップの部分である)。
I. 音韻論、統辞論、意味論としての言語
標準的な教科書の説明は人間の自然言語の三つの要素をリストする。どのように語や文が発音さ
れるかを決定する音韻論(phonology)的要素、どのようにその要素が文に配列されるかを決定す
る統辞論(syntax)要素、そして語や形態素(moroheme)の意味を決定する意味論(semantics)
的要素である。さらに洗練された説明は第四の要素、特定の言語に特殊ではないが、言語の「使
用(use)」についての一般的制約をきめる語用論(pragmatics)を加える。私たちの目的にとって、
言語が話される、説明に本質的ではないため、音韻論を無視できる。実際、発話を必要としない人
間の言語的コミュニケーションの形式 ― たとえば手話 ―がある。また書かれた形式しか存在しな
い言語を想像するのはたやすい。
しかし統辞論は重大である。それは三つの明確な特徴を伴う:離散性(discreteness)、構成性
(compositionality)、生成性(generativity)である。統辞論のこれら三つの特徴は私が今これか
ら説明する仕方で意味論を組織する。
離散性(discretness)
文は、語や形態素(以下「語」と略す)によって構成されるが、語が組み換えでその同一性を維持す
ることが文の特徴である。これはたとえばケーキが、その材料が同一性を保持しない材料からなる
仕方とは異なる。あなたはリンゴ三つあるいはリンゴ二つあるいはリンゴ二個半のアップルパイをも
つことができる。あなたは8語や10語の文を持つことができるが8語半の文をもつことができない。
リンゴ、小麦粉、バター、砂糖、シナモンのようなどんなパイの材料も混ぜ合わされ、その同一性を
失いえるが、言語の場合は再結合後も語は同一性を保持する。文はアップルパイがしないしかた
でその要素の離散性(訳注;連続的でないこと)を維持する。
構成性(compositionality)
構成性はどのように文が統辞論的に構成され、どのように意味が統辞論的に配列れるかの両方
の問題である。だからある配列が英語の文を構成するが、他の配列はしない。だが、そしてこれが
私たちの現在の研究にとって重大な点だが、文が有意味な語からなる場合、文における統辞論的
な語の配列は、文の意味に影響を与える。そのため私たちは「ジョンはマリーを愛している」という
文が、「マリーはジョンを愛している」という文とは異なって理解する。なぜならそれぞれのケースで
それらの意味をもつ語が同じであっても、異なる配列が文の異なる意味を決定することを理解する
からである。
生成性(generativity)
第三の特徴は、自然言語の無限の生成的能力を意味する生成性である。いったんあなたが、関係
詞に導かれる節(relative clause)を作る規則や、接続詞を挿入する規則のような特定の種類の
規則をもつ場合、あなたは厳密に言って、無限の数の文をもつことができる。生成できる新たな文に
限界はない。無限の数の新たな文の可能性は無限の数の新しい考え、新しい意味論的内容を表
現する可能性を生む。だから、三つの特徴 ― 離散性、構成性、生成性 ― は単に統辞論の特徴で
あるだけではない。それらは統辞論が意味論を組織する原理である。意味論的単位は統辞論的変
形の下でその同一性を保持する、文の意味は要素の意味と文における統辞論的配列の構成的機
能である。無限の数の文を生成する可能性は、無限の数の新たな文の意味の生成の可能性をそ
れに伴う。
私はこれは言語の標準的教科書の説明であると言った。どこが間違いなのか?それがうまくい
く限り問題ないと思うが、それは重大な問題に答えないままである。意味論 (意味 meaning)はど
うなのか?そしてその問いに答える場合、私たちは標準的な教科書の説明が言語の使用に伴う重
大な義務論(deontlogy)的要素を置き去りにしていることを理解するだろう。そしてそれは意味論
と語用論の関係の伝統的概念の外に置き去りにされたいくつかの結果に私たちを導くだろう。私
たちは意味を超える現実を創出する意味(意味論)を使用することを見出すだろう。
II. どのような特徴が言語と前言語的精神に共通なのか?
私が提起している議論の構造を理解するひとつの方法は、どのように言語は進化しえたのかにつ
いての説明として、それを想像することである。この目的のため、私は言語がどのように進化したの
かについて実際に推測することに関心はないが、言語に帰属する様々な要素についていくつか概
念的指摘をしたい。言語はもたないが、人間のすべての前言語的(prelinguistic)志向的能力をも
つヒト科の動物(hominid)の種がいると仮定する。彼らは第2章と第3章で記述した知覚、意図的
行為、少なくとも短期記憶、信念、欲求などをもつ。「ヒト科の動物」によって、前言語的人間を含め
ることを私は意味している。私たちは個人的志向性と集合的志向性の両方の生物学的形式をもつ
が、言語はもたない初期の人間の種を想像している。私たちは彼らが協力的行動をする能力があ
り、全幅の知覚、記憶、信念、欲求、事前の意図、行為中の意図をもつと想像する。彼らは言語を獲
得する場合何を獲得するか?これは SF ファンタジーではない。なぜなら私たちが知るかぎり、言語
なしに地球上を歩きまわり、その後言語を獲得した、多かれ少なかれ私たちのような初期人類がい
たことを知っているからである。彼らは何を得たのか?
また私たちの問いを技術工学的問いとして私たちは考えることができる:あなたは私たちのよう
な人々のために言語を開発するエンジニアであるが、たまたま言語をなくす。彼らはすでに何をもち、
あなたは完全な人間の言語を構築するため彼らに何を与えなければならないか?
私はこの方法で問いを構成する際、推測的な進化論的生物学に関わっているのではないことを
改めて強調しなければならない。人間の言語の進化に関係する進化論的生物学の正統な分野が
ある。(3) それは困難な企てである。なぜなら私たちは言語の進化に直接関係する化石的証拠を
ほとんどもたないからである。私たちはまったくその企てには関わっていない。私の問いは概念的
である。私たちのような種から言語を差し引いたら、あなたは何をもつか?ついで言語を加える。あ
なたは何を加えているのか?
研究全体は精神状態が非=志向性=相対的な様式で本来的に人々に存在することを仮定して
すすめる。私は、誰か他の人が何を考えるかにかかわらず、たとえば、空腹や喉の渇きなど志向状
態を私はもつ。だが「意味」と呼ばれる言語の、語や文の志向性は、志向性=依存的である。言語の
志向性は人間の本来的な、ないし心=独立的な、志向性によって創出される。
私たちが答える必要のある四つの問いがある。私は「意識」という言葉を「意識と志向性」の略
語として用いる。
1. 言語のどのような特徴が、すでに前言語的意識に現前しているか?
2. 言語のどんな特徴が前言語的意識に欠いているか?
3. 意識のどんな特徴が言語に欠いている?
4. 私たちがすでに前言語的意識をもつなら、私たちは言語を遂行するため、どんな特徴が必
要か?
第一の問いは、前言語的意識と言語に共通の特徴とは何か?である。さて、私たちは以前の章で
その問いのほとんどにすでに答えた。発話行為も志向状態も命題内容、充足条件、適合方向を
もっている。私は信念や欲求のような心理学的様式のさまざまなタイプと陳述や約束のような発話
行為のさまざまなタイプの関係をまだ議論していない。私たちはこの章で後でその問いを扱う。しか
し私たちは次の形式の志向状態を含む表現形式をもっている
S(p)
この場合、「S」は心理学的様式の記号であり、「p」は命題内容の記号である。私たちはどのように
動物がそのような構造から次の並行する形式をもつ発話行為にいたるか説明する必要がある。
F(p)
この場合「F」は発話行為、その発語内的力のタイプの記号であり、「p」は命題内容の記号である。
心理学的様式における命題内容の構造に加えて、前言語的意識はすでに私が第1章と第2章で
手短に記述した両方の構造を伴う本質的要素をもつ。第一の要素は適合方向である。信念や知覚
のような認知的志向状態は、断定的(Assertive)発話行為のように、下向きあるいは心から世界へ
の適合方向↓をもつ。指示的(Directive)や責務的(Commissive)発話行為のように、欲求や意
図のような意志的(volitive)ないし意欲的(conative)状態は、上向きないし世界から心への充足
方向↑をもつ。第二の要素は、適合方向をもつ全ての状態は命題内容によって決定される充足条
件をもつということである。だから志向状態と発話行為の形式的構造は驚くほど類似しており、私
はこの類似性に基づく方法を示すつもりだ。
意識の前言語的形式と言語に共通するもうひとつの特徴は、意識の前言語的形式において、動
物はすでにかなり多くの伝統的哲学(たとえばカントやアリストテレス)のカテゴリーをもって活動す
ることができるということである。環境に意識的に対処することができる動物は、すでに対象や物の
カテゴリーをもっている。なぜなら動物はそれが出会う物をそれぞれ区別することができる。たとえ
ば動物は環境の他の特徴から木や別の動物を区別する。それは時空のカテゴリーをもつ。なぜな
ら動物は空間に位置するものとして対象を観察し、時間を通じて変化を経験するからである。たと
えば動物は向こうで歩く動物とこちらで座る別の動物を観察し、自らについて、まず食料を探した
後、それを食べることを経験する。動物はまた作用のカテゴリーをもつ。なぜならば動物はものごと
を起こすことを、単にものごとに起きることに対立するものとして経験することができるからである。
たとえば、動物は自分の努力で地面を掘ることと、それに落ちる物の区別を経験する。対象のカテ
ゴリーとともに、動物はすでに同一性や個体化のカテゴリーをもつ。なぜなら少なくともいくつかの
対象について、動物はこの対象が、以前見た対象と同じ対象であると理解でき、この対象がその対
象かとは違うと理解できるからである。いったん動物が同一性と個体化をともなう対象を持つなら、
それはすでに特徴や関係をもっている。たとえば動物は、あそこのこの対象は茶色であり、それは
身近なここのこの緑のものより大きいと理解できる。動物はあそこの対象がここのこの対象に対し
て空間的関係に位置すると理解できる。私はこのリストを続けるつもりはない。なぜならここでの私
の目的はただ言語に先立つ志向的表現形式が、諸カテゴリーに大きく負っていることをあなたに
理解してもらうことだけだからである。私は「概念」より「カテゴリー」という言葉を使っていることを
強調しなければならない。なぜなら私は、環境と対処するにあたって前言語的動物が完全な意味
で概念と私たちが考える何かをもっていると主張しているのではないからである。私が主張してい
るのは、私たちと同じように動物の前言語的意識的経験は、空間、時間、個体化、対象、因果関係、
作用などの形而上学的カテゴリーによってすでに「構造化されている」ということである。
III. 言語は前言語的意識が欠くどのような特徴をもつか?
私は先ほど、言語は統辞論的要素によって構成される文からなると言った。だが言語において、こ
れらの統辞論的要素は自由に操作されえるが、非言語的志向状態はそのような操作可能な要素
をもたない。犬は誰かがドアに近づいてくると考えるかもしれない。だが彼は、ドアが誰かに近づくと
いうような、誤った考えを考えることができない。また彼は誰かがドアに近づいてくるという考えと、ド
アが誰かによって近づかれているという考えを区別することさえできない。いったん文が語によって
構成される(文境界、イントネーション曲線、その他すべてとともに)文に構造化される言語を所有
するなら動物は意味論を担った統辞論的要素を任意に操作できる。これこそ人間文明の構成に
とって重大であるだろうという結果にになる。
文が操作可能な要素を持つという事実に関係して、言語それ自体が経験を離散的な文節に構
造化するという事実がある。非言語的意識は夢のない睡眠や他の形式の無意識によってのみ中
断される連続的流れである、あるいは少なくともありえる。しかし言語は本質的に分節されている。
それぞれの文は離散的でなければならず、実際完全な発話行為として発語される場合、文の断片
すら離散的でなければならない。「今風邪をひきそうなので、暖房をつけなければならない」という考
えを今もつと考えてほしい。その考えは時を待たず起こる。なぜならその考えは時間的連続の中で
私の脳を通じて英語の文において私に生じるからである。だがそれは前言語的志向がつねにもた
ない種類の離散性をなおもつ。私がスキーをしたり、歩いたり、ダンスをしたりしているなら、私の意
識経験の流れは連続的で未分節の流れの中にありえる。
前言語的思考が欠く言語がもつもうひとつの特徴は、私が第1章で記述した宣言
(Declaration)の発話行為に特徴的な二重の適合方向をもつ表象である。もっとも有名な例は、
「私はあなた方を夫と妻と宣言する」(I pronounce you husband and wife)や「私はあなたに
会いに来ると約束する」(I promise to come and see you)というような遂行的発話
(performative utterance)である。そのようなケースで、言語は私たちが存在するものとして現実
を表象することによって現実を創出することを可能にする。ひとつのレベルで、これは言語の非常に
神秘的な能力のようにみえるが、それを完全に理解した場合、それは言語と集合的志向性から社
会的、制度的現実を私たちが創出することを可能にする仕組みであることを理解するだろう。私た
ちは人間の制度的事実の創出が遂行的発話と同じ基本的な論理構造をつねにもつことを理解す
るだろう。
可能な発話行為のタイプは5つ、5つだけ、5つの発語内的行為(4)のタイプがある。(1)断定的
Assertives (陳述 statements、記述 descriptions、 主張 assertions、など)。その特性は、どの
ように物があるかを表象することであり、それゆえそれは下向きの、ないし言葉から世界への適合
方向↓をもつ;(2)指示的 Directives (命令 orders、指令 commands、要求 requests、など)。
その特性は、他の人々にものごとをさせようと試みることであり、それは上向きの、ないし世界から
言葉への適合方向↑をもつ;(3)責務的 Commisives (約束 promises、誓い vows、誓約
pledges、など)。その特性は、話し手が何らかの行為の方針にコミットすることであり、訳注それは指
示的と同じように上向きのないし世界から言葉への適合方向↑をもつ;(4)表現的 Expressives
(謝罪 apologies、感謝 thanks、祝福 congratulations、など)。その特性は、たいていすでに存
在すると前提されたケースである事態についての話し手の感情や態度を表すことである;(5) 宣
言 Declarations。それは、一度に両方の適合方向を顕著にもつ。宣言において、私たちは何かを
真であると宣言することによってそれを真にする。発話行為の最初の4つのタイプは志向状態と正
確な類比性をもつ。断定的に対応するのは信念↓であり、指示的に対応するのは欲求↑である、
責務的に対応するのは意図↑であり、表現的に対応するのは前提 Presup、適合方向が当然のこ
ととされる感情や他の志向状態全般である。しかし宣言と類比的な前言語的なものはない。前言
語的志向状態はすでに存在するものとして事実を表象することによって世界における事実を創出
訳注 「コミットメント」については「X. 次の段階:義務論」の詳述を参照。Commisive も同根の語だが『心、言
語、社会』で採用した「責務的」をここでも使用する。
することができない。この顕著な芸当は言語を必要とする」。(5)
IV. 言語が欠く意識の特別な特徴
前言語的意識について単に生じない言語哲学における伝統的問題がある。言語哲学において、そ
れは時には「命題の単一性」(the unity of proposition)あるいは統辞論的に「文の単一性」(the
unity of the sentense)の問題と呼ばれる。その問いはこうである。文がこれらの個別の要素、文
や形態素をもつ場合、どのようにある文が統一された実体でありえることが可能か?文と単なる語
の寄せ集めの違いとは何か?そして命題について問いをひとつにするなら、結局個別の要素をもつ
命題が統一された全体につねになるということはどういうことか?そのため、たとえば私たちは首尾
一貫した命題を表現するものとして、文法的に首尾一貫した文であるものとして「左に二つ白い
フェンス柱がある」(There are two white fence posts on the left)という文をみな理解する。だ
が「白い左に柱そこフェンス二つにあるその」(white left posts there fence two on are the)と
いう語の連なりは、そのような仕方で、首尾一貫した考えを表現しない。これは言語哲学にとっては
興味深い問題だが、意識は直ちにそれを解決する。私が個別の語を統一された文をつくるためど
のようにまとめることができるかにについて問題があるという仕方で統一性をつくるため私の経験
の要素をどのようにまとめることができかという問題は存在しない。これは病理的な場合を別にし
て、意識的経験はそれにすでに組み込まれた統一性をもって生じるからである。意識的な視覚的
知覚、空腹、喉の渇きなどにおいて、充足条件の決定は経験それ自体の性格によってすでに決
まっている。
意識経験の統一性に伴う何か奇妙にみえる第二の特徴は、知覚において、物は目立つという事
実である。物は突出する(salient)。今部屋を見回すなら、私や個別のものを見るのであって、単に
色のついた表面を見るのではない。今私は目前のコンピュータスクリーンを見る。私は目前に「スク
リーンがあること」を見ることなく、目前の「スクリーン」を見ることができない。すなわち、充足条件
は単に対象だけでなく、事態全体で生じるのである。しかし同じことだが、私が目前のスクリーンが
あることを見る場合、私はスクリーンを見るのである。私は対象と事態全体を両方見るのであり、そ
れらは他のものなしに、あるものを私がすることができないという意味で内的に関係しているので
ある。「ことを見る」(see that)の形式における報告は、通常見る者が適切な概念を処理することを
必要とする。たとえば、私の犬は泥棒を見ることができるが、彼はそこに泥棒がいることを見ること
ができない、なぜなら彼は適切な概念を欠いているからである。同じことだが彼はそこに何かがあ
ることを見るのである。
さて意識経験がすでに物や特徴を分節するという事実は、言語の対応する要素に基礎を提供
するだろう。異なる言語が経験を異なって分節するのは真である。有名なのはすべての言語が標準
的なヨーロッパの言語のそれに一致する色のボキャブラリーをもつわけではないということである。
しかしどれくらい多くの異なる仕方で、私たちが合理的に経験を分節できるかには限界がある。私
たちは、物質的対象について語をもたない言語を容易に想像できる。だがそのような言語は想像で
きるが、それは物質的対象を突出させる私たちの知覚経験に反する。標準的な知覚においてゲ
シュタルト心理学によって示されるように知覚は通常背景に対してその特徴をもつ対象についての
ものである。
V. 言語の機能: 意味、コミュニケーション、表象、表現
今度は4つの問いの最後のものに移る:どのように主要な機能ないし諸機能は言語によって遂行
されるか?主要な機能によって、私は言語がその機能を遂行しない場合には言語でまったくありえ
ないようなものを意味している。
第一の主要な機能はこうである:われわれヒト科の動物がたがいにコミュニケートできるメカニ
ズムを言語が提供することを私たちは必要とする。「コミュニケート」とは何を意味するのか?また何
がコミュニケートされるのか?第二の問いに対する標準的な答えは会話において私たちは情報を
コミュニケートするということである。だが「情報」は現代の知的生活で最も混乱し、定義のひどい
概念のひとつである。だから私は偶発的な場合を除いてそれを使うのに慎重である。私は通常発
話行為で通常コミュニケートされるものは、志向状態であると単に述べるつもりである。そして志向
状態は世界を表象するため、志向状態によってコミュニケートされるものは通常「世界についての」
情報である。私があなたに、雨が降っているという私の信念をコミュニケートするなら、その特徴は
通常私や私の信念についてあなたに語るのでは「なく」、天気について語るのである。だが私が天
気についての私の精神的表象、私の信念のような、私の天気=指向的な志向状態を用いることに
よらず、天気について何かあなたに意図的に語ることはありえない。
私たちの前言語的ヒト科の動物はすでに知覚、意図的行為、前言語的思考プロセスをもってい
る。これらはすべて、完全な命題内容をもつ志向状態である。そしてそのような生物のひとりが意図
的に他者とコミュニケートするなら、それは他者の頭に自らの志向内容を再生しようと試みるので
ある。ヒト科の動物がたとえば「ここは危ない」とコミュニケートする場合、それはここは危ないとい
う信念をもち、他の動物にこの信念を伝えるような仕方で行為する。
コミュニケーションの最も単純なタイプはある動物が他の動物に構造化されていない命題をコ
ミュニケートすることによって世界についての情報をコミュニケートとするようなケースであろう。構
造化されてない、ということによって、私は命題内容な内的統辞論を持たないということを言ってい
る。自然言語の語に対応するものは何もない。このタイプのコミュニケーションは明らかに動物で
非常にありふれている。たとえば警告の叫びを考えてほしい。そのような例はピーター・ストローソン
(6) がかつて「特徴づけること」(feature placing)と呼んだもののケースである。私たちは環境に
ある特徴があることをコミュニケートするだけである。実際の言語でこれらの「特徴づけること」の発
語はしばしばひとつの単語でなしえる:「危ない!」「雨!」「火!」。そして私たちがこれらのひとつを完
全な文に拡張するなら、「It is raning」という場合、「it」によって何も指示するものがないように、そ
の文の他の文は時々意味論的に空虚な何かである。そのような意図的コミュニケーションの単純
なケースは実際ある動物から他の動物に志向内容を伝達するが、それは現実の言語にいたる道
の非常に小さな一歩である、なぜならそれは非常に限られているからである。あらゆる種類の動物
はこの種のコミュニケーションをもつが、人間の自然言語の完全な意味でいまだ言語的ではない。
VI. 表現と表象の区別
私たちが単純な一単語コミュニケーションのような限界をどのように超えることができるかを示すた
め、私は最初にいくつかの重要な区別と概念を説明しなければならない。第一に私たちは表現
(expression)を表象(representation)から区別する必要がある。すなわち、私たちは世界の自体
を意図的に表象することに伴うコミュニケーション的行為と動物の志向状態を単に表現する
(express:「押し出すこと」「さらけ出す」という元来の意味で)それとを区別する必要がある。後者
の場合、その表現は世界についての情報を伝えるかもしれないが、何かが真であると表象したり、
他の充足条件を表象することによってそうするのではない。そのため私が「雨!」と言うなら、私はた
とえ表象が構造化されていなくても天気を表象する。だが痛みの自発的な表現として私が「い
たっ!」(Ouch!)と言うなら、私は情報を伝えているが、何も表象していない。私たちの課題をより明
確にするためここで一般化をしよう。たとえ意図的に遂行された場合でも単純な表現的発話行為
は、私たちが明確化しようと試みている意味で「言語的」ではない。そして実際の言語の対応する
語は、私たちの意味では「語」ではない、「いたっ!」(Ouch!)「くそっ」(Damn!)「おえっ!」(Yuck!)
「おお!」(Wow)はすべて志向的、非志向的両方の精神状態を表現するのに用いられるが、それら
は私たちがここで説明しようとしている種類の言語的現象ではない。なぜそうではないのか?なぜ
なら私がそれらを用いるのを想像する仕方でそれらは話し手の志向的ないし他の状態を状態をさ
らけ出すが、それらは表象しないからである。私たちが理解したいと思うことは、どのように私たちの
初期の人間が言語的「表象」を進化させることができたかである。
表象することと、表現することの正確な違いとは何か?私天気の状態を記述することを意図を
もって「雨!」というなら私の発語は字義どおり真か偽でありえる。なぜならそれは現在の天気の状
態を表象するからである。だが、「いたっ!」と言う場合、私が自分自身について情報を伝えるが、私
は字義どおり真か偽であることは何も言わない。私が痛くない時、「 いたっ!」と言う場合、私は欺
いているか、誤解させるかもしれないが、私は厳密に言って嘘をついているのではない。(7) 私たち
の研究では、私たちは表現ではなく、表象に集中するつもりである。
Vll. 充足条件に充足条件を課すこととしての話し手の意味
私たちが説明する必要がある次の概念は、話し手の意味の概念である。文の確立した慣習的意味、
短く言えば文の意味と、話し手が特定の発話を生み出すときにもつ話し手の意味とを区別する習
慣があり、それは私は正しいと思う。私は慣習的な文の意味を説明する前に話し手の意味を説明
する。なぜなら話し手の意味は、慣習的な文の意味が、いわば話し手の意味の標準的な、ないしコ
ミュニケート可能な、あるいは代替可能な形式であるという意味で論理的に先立つからである。慣
習的意味は話し手が、文を発話し、それによって理解される仕方で何かを意味することを可能にす
るものである。文は誰かと話すことである。
私たちの初期の人間のケースでは、ある初期の人間が危険や食料がここにあるというような何
らかの情報を他者に伝えたいとするなら、彼はその情報をコミュニケートする意図をもって発話する。
その発話についてのどんな事実がそれを有意味にするのか?意図的に単に発話を生み出すことと、
発話を生み出しそれによって何かを意味することの違いは、ふたつのケースにおける志向内容にお
ける違いの問題である。両方のケースで、話し手は発話をする意図をもつが、発話が有意味である
場合、話し手は、発話自体がさらに充足条件をもつことを意図する。私たちはその場合、話し手が
何かを言い、それによって何かを意味する場合、話し手の意味の本質は、話し手が意図的に充足
条件に充足条件を課すことである。
私はこの点を既存の言語について、それがどのように働くかを示すことによって最善の説明をす
ることができる。私がシャワーを浴びながら、フランス語の発音の練習をしていると考えてほしい。私
は繰り返し「Il pleut」(訳注;英、It is raining)と言う。私の行為中の意図の充足条件は私が正確
にフランス語の発音をしようとすることである。誰かが私に「雨は降ってないよ。アホか。君はシャ
ワーを浴びているんだ」と言うなら、彼は私がしようとしていることを誤解したのである。私は雨が
降っているとは「意味」しなかった。だがこんどその後、外に出て雨が降っているのを知ったと考えて
ほしい。今度私は「Il pleut」と言い、私はそう意味する。二つのケースの違いは何か?両方のケー
スで私はフランス語の発音をしようと意図し、正確な発音は両方の発話の充足条件である。しかし
第二のケースでは、私は、発音の産出が、それ自体さらなる充足条件、すなわち雨が降っているこ
とをもたせようという意図する。繰り返せば、話し手の意味は、充足条件に充足条件を課すことであ
る。
これを行う能力は人間の認知的能力の重大な要素である。それは言語の使用にとって本質的
である仕方で一度に二つのレベルで考える能力を必要とする。ひとつのレベルで話し手は意図的
に物理的発語を生むが、別のレベルでその発語は何かを表象する。そして同じ二重性は象徴それ
自体に影響する。ひとつのレベルはいかなる他の物と同じく物理的対象である。別のレベルで、そ
れは意味をもち、それは自体のあるタイプを表象する。
これまで私は表現と表象の区別を主張してきた。そして私は私たちが集中する必要がある言語
の使用は表象的ケースであると言った。なぜならそれは純粋に意味論的だからである。それは意
味論的に評価可能である。なぜならそれはたとえば字義どおり真か偽でありえるからである。私は
さらに話し手の意味は、充足条件に充足条件を意図的に課すことの問題であると主張した。説明
すべき次の概念はコミュニケーションである。話し手が何かを言いそれによって何かを意味し、さら
に聞き手にその意味をコミュニケートすることを意図するなら、彼はさらに聞き手が彼の意味の意
図を認識することを意図しなければならない。すなわち、彼が発話をし、たとえば、雨が降っていると
いう事態を表象することを意図し、彼がこの情報を聞き手にコミュニケートすることを意図する場合、
彼は聞き手が彼の意味の意図を認識し、実際に彼がそれを認識することを意図されていることを
認識することを意図しなければならない。これが標準的な発話行為の状況である。話し手は有意
味な発話をする。彼は可能な発語内的様式のひとつで事態を表象することを意図する。彼は聞き
手にその表象をコミュニケートすることを意図する。そして彼のコミュニケートする意図とは、聞き手
が彼の意味の意図を認識し、彼がそうして、それを認識することを意図されていることを認識する
意図である。(8)
Vlll. 言語的慣習と語や文の意味
私が説明する必要がある最後の概念は、慣習(convention)の概念である。
訳注
私はどのように話
し手が有意味な発話を創出することで聞き手にコミュニケートできるか記述した。しかし彼らが定
期的にそれに成功するとするなら、何らかの社会的に承認された仕組み、何らかの繰り返し可能な
仕組み、話し手が、メッセージを伝えることを規則的に意図できる産物がなければならない。話し手
の意味を定期的に繰り返し可能な基準で伝えるのに用いることができる繰り返し可能な仕組みを
導入することで、私たちは言語的慣習の概念とそれとともに確立された語や文の意味の概念を導
入した。話し手の意味を伝えるための慣習的仕組みは、今度は、それ自体の恒常的な文の意味を
もつ。これを記述する際、私たちはタイプとトークンの区別に訴えてきた。慣習はすでにある種の一
般性に訴える。なぜならそれは異なる場合に何度も同じことを繰り返す可能性に訴えるからである。
慣習的意味は語や文のタイプに付随し、そのためその意味を伝えるためそのタイプのさまざまな
トークンの発生を可能にする。
意味について私たちがこれまで言ってきたことには二つの別の側面がある。第一に話し手の意
訳注 convention を「慣習」とする。ポアンカレの科学論などの訳語「規約」と区別する。
味は私たちが記述を試みた志向性の二重のレベルをもつ。話し手は意図的に発話をし、発話がそ
れ自体充足条件 ― たとえば真理条件 ― をもつことを意図する。だが、そしてこれは次の重大な
点だが、話し手が定期的に成功するようにする場合、なんらかの「社会的に承認された慣習的仕組
み」、何らかの繰り返し可能な仕組み、定期的に慣習的にメッセージを伝えるため対話者が受け取
ることができる産物がなければならない。今度は、私たちは言語にたいへん近づいてきている。なぜ
なら第一の現象は発話行為の遂行に本質的であり、第二の現象、繰り返し可能な仕組みは、通常
言語の語や文からなるからである。
かくして私たちは、私たちのヒト科の動物が有意味な発話を創出し、言語の既存の慣習に訴える
ことによってこれらの意味をコミュニケートする能力をもつと想像するなら、実際の人間の言語への
道をかなり歩んだ。そして、問題の有意味な発話のケースで、それは表象であり、単なる内的志向
状態の表現ではない。しかしながら、これまで、それは統辞論的複雑さによる何ものももっていない。
私たちがこれまで想像したすべては、私たちの一単語文とほとんど同じ何かである。次の段階は文
に内的統辞論的構造を与えることである。
IX. 統辞論的構成性
言語への道のさらなる段階は(そして「段階」と言うメタファーは何ら歴史的なものを含意しない ―
私は論理的構成要素について語っている;私は実際の歴史がどんなものか何の考えもないことを
思い出してほしい)、複雑な統辞論的仕組みを生み出すため他の統辞論的仕組みと結びつけられ
うる単純な統辞論的仕組みの導入である。そして複雑な仕組みのそれぞれは完全な志向状態をコ
ミュニケートするのに使用されるだろう。それはヒト科の動物が、私たちの語や形態素に対応する
要素を進化させる必要があり、参加者が要素の意味と文におけるその配列から文の意味を理解す
ることを可能にする方法で、構成的な仕方で語や形態素を文に結びつける方法を必要とすること
の別の言い方である。私たちにとって、コミュニケーションの最小単位、発話行為の最小単位は、完
全な文である。ところでそれはすべて言語が文をもち、非常に多く(ほとんどすべて)がまた名詞句
や動詞句をもつことは驚くべきこととして私は捉えなければならない。すべての言語が文をもつとい
う事実の明白な説明は、文が完全な発話行為を遂行するため、そしてそのため完全な志向状態を
表現するための最小単位だということである。文内の統辞論的仕組みの選択を支配する原理は、
それが意味論的機能を遂行するということである。それぞれが可能なコミュニケーションの単位
(文)として機能できる繰り返し可能な仕組みがなければならず、それは全体のコミュニケーション
的内容が要素によってまた文における結合の原理によって決定されるような要素(語)から構成さ
れなければならない。
どのように文が体系的に後から構築される、このような特徴 ― 語と文 ― を私たちは導入する
のか?私たちは動物がすでに持つ資源の上に構築しなければならない。そしてこれらは実際本当
に豊富である。私たち野獣はすでに物を同定し、再同定する能力をもつため、私たちは物に「名前」
を導入できる。そして野獣は同じタイプに異なるトークンを認識する能力を持つため、「犬」「ネコ」
「ヒト」などの一般的名前を導入できる。そして物は特徴をもつため、私たちは「形容詞」や「動詞」
に対応する何かを導入できる。しかしこれらには重大な制約があることに注意しなくてはならない。
私たちは名詞句や動詞句に対応する指示(reference)や叙述(predication)、訳注発話行為が何ら
かの単純な仕方で、独立した要素であることを仮定していないが、むしろそれらがいったん完全な
発話行為をもつなら、私たちが構成要素としてこれらから抽象できる。フレーゲに従って私たちは名
詞句や動詞句を完全な文から派生するものとして名詞句や動詞句を考えるのであって、名詞句や
動詞句を結びつけることによって達成されるものとして完全な文を考えるのではない。
それは何を意味するのか?私たち動物は構造化されていない命題内容をすでにもっている。だ
がそれに対応するものは実在世界の構造化された特徴であり、動物はその構造「とその要素」を
認識する能力をもっている。だから私たちがヒト科の動物にすでにもっている充足条件に対応する
文の構造を与える場合、私たちはどんな論点先取りもしていない。意味論的機能はただで(for
free)手に入る。なぜなら私たちはすでに意味を導入したからである。ここに基本的アイディアがあ
る:動物は統辞論的構造を欠いた知覚的内容や信念内容をもつ。動物は「それが私の方に来てい
る」(It is coming toward me)のように、私たちが報告できる(動物は報告できないが)ことを、見
ることができ、それゆえ信じることができる。今度はその動物が意味論的に有意味な出来事、すな
わち発話行為を生み出す能力をもつなら、その場合それは私が前に記述した二重の志向性をもっ
てこの事態を表象できる。その動物の視点から、その表象は、繰り返し可能な要素のない、あたか
も一単語であるように、これを考えるかぎり、「今-私-の方に-物が-来ている」(Comingtoward-me-thing-now)という形式のものでありえるだろう。
動物は特徴づける能力をもつが、まだ指示や叙述をもたない。指示や叙述を獲得するためには、
動物は命題内容を要素に分割する象徴的仕組みが必要である。だが動物は、今何かがそれの方
に来ているのを見ることができ、それゆえ何がか今それの方に来ていると信じることができる。そし
てそれは私たちに指示や叙述を遂行できる仕組み、名詞句や動詞句の形式である仕組みを導入
する可能性を与えるのに十分である。私たちはそれらの仕組み(語)を複雑で合成的な構造(文)に
配列するための規則ないし手順を加える。私たちがこれらの実質的な要素をどのように構成するか、
あるいは私たちが繰り返し可能な要素に分割出来る限り、そして要素が前言語的志向内容の要
素と一致する限り、それらをどのように結びつけるかは大した問題ではない。私が知っているヨー
ロッパの言語に類似したスタイルに分割されたと仮定してきたが、それは必然的な仮定ではない。
訳注 述語論理で reference は、主語(物)が指示対象/外延をもつこと、主語に対する述語は predicate で、
属性(特徴)/内包に相当する。後者を一般的に叙述 predication としている。したがって以下ここで潜在的
に分析哲学の命題の形式が扱われている。
私は前統辞論的「今-私-の方に-物が-来ている」は、“man”のような文脈的に特殊な物を指
示する仕組みや、“coming toward me now”の叙述に、分割することを仮定してきた。それは次
のとおりである:
A man is coming toward me now.
このようにすることは論理的に必然的ではないが、このようにすることは私たちが想像できるいくつ
かの方法よりよく、私たちの前言語的現象学に合う。私たちが物と考えるものが、循環的で繰り返し
可能なプロセスのように扱われる言語を想像することができるかもしれない、だからそれは次のよ
うになるだろう
It is manning now towards me comingly.
これは次と類比的である
It is raning now on me heavily.
だがそのような言語は私たちの知覚の現象学の物の離散性を反映しないだろう。
どのように人間の言語の名詞句や動詞句の汎用性を説明するか?またどのように通常、文が名
詞句と動詞句をもつことを説明するのか?私たちが経験の現象学的構造、特に意識、知覚経験に
注目するなら、私たちは「物とその特徴」は離散的であることを理解するだろう。私たちの視覚経験
の充足条件は全自体を必要とするが、そのため私たちは決してひとつの物だけを見ることはなく、
たとえばしかじかの特徴をもつ物があそこにあることを見る;やはり、現象学的に、私たちは物を見
ていることや物がしかじかの特徴をもつことを見ているのに気づく。だから完全な文によって表現さ
れる命題的統一性はすでに前言語的志向性によって提供され、内的な主語述語構造は私たちの
現象学が私たちに命題的内容を提示する仕方で提供される。
これまで、その場合、私たちは言語への三段階の道を歩んできた。第一に話し手の意味の創出、
すなわち、充足条件に充足条件を課すこと、第二に、文の意味が話し手の意味の確立した可能性
である文の意味にアプローチする何かを私たちに与える、話し手の意味の行為を遂行するための
慣習的仕組みの創出。文の意味は慣習的である、話し手の意味は通常、発話行為の遂行におけ
るその慣習の採用ないし使用である。第三に私たちは意味、意味論的内容をもつが、発話において
自立するすることができない識別可能な統辞論的要素の形式で発話行為に内的構造を加えてき
た。それは文の一部であり、そのため語に対応するが、なお完全な文ではない。私たちはまたこれら
の仕組みを結びつけて完全な文にし、文法的連鎖と非文法的連鎖を区別するための規則を必要と
する。これらの両方ともどんな言語の説明にも重大である。第一のものは、私たちにコミュニケー
ションにおいて機能するのに十分大きな有意味な単位を私たちに与える。第二のものは、私たちに
構成性を与える。文は有意味な要素からなる。そしてその有意味な要素は、結合のその規則ととも
に、私たちが新たな文を生成し、私たちが以前決して聞いたことがない文と発話の意味を理解する
ことを可能にする。
私たちはまだ生成性、すなわち話し手が可能な無限の数の新たな文を生み、理解する能力を
もっていない。だが、何らかの再帰的な規則、終わりなく繰り返し適用される規則を単に加えること
によって構成性に生成性を加えるのはたやすい。生成性を提供する方法の例は、「ということは可
能である」(It is possible that)とか「とサリーは信じている」(Sally believes that)のような表現
か、「サリーは隣りに住む男を見た」(Sally saw the man who lives next door)のような関係節
を作る規則である。文の接続詞についてはどうなのか?それを加えるのは難しいようには見えない。
実際、私たちは発話行為で二つの文を結合する場合、潜在的な文の接続詞をすでにもっている。
私が「雨が降っている。お腹が空いた」(It is raining. I am hungry)と言う場合、私は「雨が降っ
ており、そしてお腹が空いている」(It is raining and I am hungry)と等価な何かを既に言ったの
である。私たちは顕在的にこれらの役割を果たす接続詞、「そして」(and)や「あるいは」(or)や「もし
…なら」(If...then)や「ない」(not)に対応する接続詞を加えることができる。
言語的統辞論を動物の志向性に加えるのに伴って、私たちは非言語的動物ができない何かを
話し手が行うことを可能にする。話し手は意図的に実際の、可能な、そして不可能でさえある世界
の事態の多くのさまざまな表象を構成することができる。私たちは表象と知覚刺激の結びつきを解
くことによって、話し手は時制や様相を用いることができる。私は今度は「今人間が私の方に来て
いる」とい考え、言うことができるばかりか、「来週人間が私の方に来るだろう」(The man will
come toward me next 私たち)とか「山が私の方に来るだろう」(The mountain will come
toward me)など無限に言うことができる。
これまで発展した仕組みを持つヒト科の動物は、字義どおり言語なしに思考不可能である思考
を考え発話行為を遂行することを可能にするボキャブラリーを拡張することができる。数詞を最初
に指一致するよう導入するなら、ヒト科の動物は無限に数えることができ、数詞なしにはできない数
的要素を伴い思考をもつ。言語なしにかれは「野原に三匹犬がいる」(There are three dogs in
the field)と考えるかもしれないが、言語があれば「野原に千匹犬がいたらなあ」(I wish there
were a thousand dogs in the field)と考えることができる。
X. 次の段階:義務論
だから、意味の慣習プラス構成性と生成性とともに、私たちは言語への道をうまく進んでいる。
なぜ十分ではないのか?なぜ私たちはまだ道半ばあって、まだたどり着いていないのか?私があ
る非常に特別な仕方で与えた説明の含意を理解するなら、すでに私たちはたどりつくある意味が
あると考える。その説明で、たとえば聞き手に世界について何か真を伝える目的のため社会的環境
における慣習的仕組みを採用している話し手は、それによってその真理に「コミットしている」。訳注す
なわち、言語が社会的コミットメントを必然的に伴うことや、これらの社会的コミットメントの必然性
が、コミュニケーション状況の社会的性格、使用される仕組みの慣習的性格、話し手の意味の志
向性に由来することを理解しないなら私たちは言語に本質的な特徴を理解しないだろう。言語を人
間社会一般の基礎を形成することを可能にするのはこの特徴である。話し手が意図的に世界のあ
る事態について聞き手に信念を生む目的のため社会的に受け入れられた慣習を使って聞き手に
情報を伝える場合、話し手はその発話の真理にコミットしている。私はこの点を今説明しようと思う。
私たちは前に志向状態の形式的構造、S(p)が、対応する発話行為の形式的構造、F(p)によく似
ていることを見た。だが「F(p)」は意図的行為を表象し、その場合私たちはそれが社会的に受け入
れられた言語の慣習と一致して計画的に遂行される行為を表象するとみなしている。話し手の意
味の本質が発話に充足条件を意図的に課すこと、発話で表現された志向状態の充足条件として
同じ充足条件を課すことであることを思い出してほしい。そのため、私たちが、雨が降っていると私
が信じかつ、雨が降っていると私が言いたい場合、私は元の信念と同じ充足条件をもつことを意図
した発話をすることによって、私の信念を表現する。その発話は、信念の適合方向を継承し、そのた
め信念と同じように発話は真か偽でありえる。私が「雨が降っている」と言う場合、私の発話は言葉
から世界への適合方向をもち、命題内容が充足されるかどうかに依存して真か偽であるだろう。他
のケースも同様である。
だが、今度発話行為と対応する志向状態の関係に関連して興味深い問題が生じる。発話行為
は、表現された志向状態のコミットメントに対するコミットメントを伴う。これは陳述や約束のケース
で最も明確だが、命令や謝罪のような他の種類の発話行為についても真である。私が陳述する場
合、私は信念を表現するだけでなく、私はその真理にコミットする。私が約束する場合、私は意図を
表現するだけでなく、私はまたそれを実行することにコミットする。だが正確にコミットメントとは何か、
そしてこのコミットメントはどこから来るのか?信念や意図は、陳述や約束のコミットメントのようなも
のは何ももたない。私たちが陳述や約束をもつ言語の論理的概念的進化を説明しようとする場合、
どのように話し手が聞き手にその信念を伝えることができるかを説明するだけでは十分ではない。
私たちはどのように話し手が発話行為にこれら特別な義務論を加えるかを知る必要がある。陳述を
したり約束をしたりする制度の構成規則が、すべての陳述を真にコミットさせ、すべての約束を何か
をする義務を負わすと言うことは魅力的であり、実際に真である。その規則は通常「X を C で Y と
みなす」(X count as Y in C)という形式をもつ。(たとえばしかじかの発話 X をこの文脈 C で Y を
約束するとみなす)。問いは、コミットメントとは何か、そして私たちはどのように私たちにコミットさせ
る規則、発動、使用を得るのか?
コミットメントの概念には二つの構成要素がある。(9) 大雑把に言って、第一に取消し難い企て
訳注 コミットする(commit)、コミットメント(commitment)は定訳がなく、一般に文脈依存的なためカナ書き
のままにする。一般的な広い意味では主体的、能動的な責任、義務(を引き受ける、負うこと)である。詳しくは
後述される。
の概念があり、第二に義務の概念がある。これらは通常、たとえば約束の概念で結びついている。
私が約束をする場合、私は簡単に取消しできない企てをする。だが同時に、私は義務を創出する。
これら取消し不能性と義務の二つの特徴は、規則に従って遂行される発話行為で結びついている。
動物は充足条件に充足条件を課すこと(したがって意味を創出すること)と他の動物にその充足
条件(したがってその意味)をコミュニケートする両方をする意図をもつ。動物はこれを慣習的手続
きに従って行う。その集合的に受け入れられた慣習的手続きはヒト科の動物がその手続に内的な、
しかし慣習的手続きなしには現前しないコミットメントのタイプを創出する。私たちに近づいてくる
動物がいるという命題の真理に公的にコミットすることなく、またそのコミットメントが対応する信念
自体の真理へのコミットメントより強く、私が誰かに、公的に、意図的に、顕在的に「私たちに近づい
てくる動物がいる」と言うことができることは決してない。信念と対応する陳述は両方ともコミットメ
ントを伴う。だが陳述のコミットメントははるかにより強い。私的に抱いた信念が偽となっても、私は
それを取消することだけを必要とする。だが陳述の場合は、私は偽の場合訂正することにコミットす
るだけけではなく、私は元の陳述について理由を提供できることにコミットしており、私は誠実にそ
れをすることにコミットしている。そして私はもしそれが偽となった場合公的に責任を取ることありえ
る。
だがからいったん私たちは、顕在的な発話行為が言語の慣習にしたがって遂行されえる顕在的
な言語をもったなら、私たちはすでに義務論をもつ。私たちは取消し不能性と義務を結びつける完
全に公的な意味でコミットメントをもつ。言語は公的義務論の基本的形式であり、私はそれが取消
し不能な義務の公的仮定を伴うと言う完全な意味で、言語なしにはそのような義務論はないと主
張している。私はいったんあなたが言語をもつなら、あなたが義務論をもつことは避けがたいと今論
じている。なぜならあなたがコミットメントを生むことなく言語の慣習にしたがって遂行される顕在的
な発話行為をする方法はないからである。これは陳述について真であるばかりでなく、すべての発
話行為について真である。命令は、聞き手がその命令に従うことが可能であるという見方に対し、
また存在する命令で対象が指示される味方に対し、聞き手にその命令に従うことをのぞむことに私
をコミットさせる。私は、あなたが部屋を去ることができ、私があなたが部屋を去ることを望み、そして
あなたや部屋のようなものがあり、あなたが部屋を去ることを可能にする部屋に対する関係にあな
たがいるという命題について真であることにコミットすることなしに、あなたに部屋を去ることを命じ
ることができない。発話行為のすべてのタイプのコミットメントの要素をもっている。ほとんどの発話
は字義どおり約束ではない。だが約束することが範例である、取消し不能性と義務の両方を含むコ
ミットメントのタイプすべての他の種類の発話行為、命令、感謝、謝罪などに影響する。
コミットメントの形式での義務論が発話行為の遂行に内的であるという私の主張は、義務論的
必要条件が何らかのかたちで発話行為のタイプに外的であるという哲学において広く抱かれてい
る見解に対抗するものである。その見解では、まず私たちは陳述をし、その後私たちが真にするも
のだけを求める規則をもつ。また、まず私たちは約束をし、その後私たちが約束を守ることを義務付
ける規則をもつ。この真に対する陳述の関係の見解は、バーナード・ウィリアムズ(10)、ポール・グラ
イス(11)、デイヴィド・ルイス(12) など広く哲学者たちがもっている。だがそれは正しくない。陳述が
陳述した者にその真理に対してコミットさせることを説明せず、約束が約束した者をその実行にに
対してコミットさせることを説明することがなければ、陳述ないし約束が何であるか説明できない。
両方のケースでそのコミットメントは、遂行される発話行為のタイプに「内的」である。その場合私
が言う「内的」によって、それがそのコミットメントをもたなかったなら、そうである発話行為のタイプ
ではありえず、まさにその発話行為ではありえないことを意味している。しかし問いを繰り返せば、ど
のように私たちは発話によって何かを意味する行為から義務論的力を進化させるのか?信念の充
足条件と同じ充足条件を表象する行為は、どうして本質的に信念のコミットメントを超えるコミットメ
ントを伴うのか?意図と同じ充足条件を表象する行為は必然的に意図のコミットメントを超えるコ
ミットメントを伴うのか?あるいはこれら他のコミットは単なるアドオンなのか?それらはさらに言語
制度歴史的発達に伴う蓄積物なのか?私はそれらは内的だと考える。
なぜかを理解するため、私たちは発話行為が単なる意図の表現や信念の表現以上であることを
理解しなければならない。「それは何にもまして公的パフォーマンスである」。私は何かを他の誰か
に語っている。だが私は単にある信念をもっていることや、ある意図をもっていることを彼に語って
いるのではない。私は彼にその信念によって表象される世界について何かを語っているのである。
自分が(陳述をすることで)その信念の充足条件にたいしてコミットすることによって、私はこれがど
のように世界があるかということを彼に語っているのであり、(約束をすることで)私の意図の充足
条件について語ることによって、私は自分が実際しようとしていることを彼に語っている。(約束の
自己参照性がここで生じる。私は何かを単に約束するだけでなく、私はそれをすることを「約束する
ため」それを「する」と約束をする。日常語法で“I give my word” 私は約束する、と言う。
私は次のとおり私たちのこの部分を要約できる。言語を創出することにおいて、私たちは話し手
の意図、慣習、内的統辞論的構造を必要とすることを見出した。だがこれらが人間の志向性に対し
てある仕方で関係することを理解するなら、あなたは発話行為の異なるタイプを理解することがで
き、そうすることによって、あなたは既に通常そのタイプの発話行為にともなうコミットメントを手に
入れる。さらに話し手がその発話によってコミットすることを保証する必要があるものは何もない。
志向性の前言語的形式から、言語が進化しすることができ、実際進化したという常識的考えに
従って、私たちは言語は前言語的志向性には存在しない何か、慣習的にコード化されたコミットメ
ントの公的仮定、を提供するよう進化したことを見出した。
XI. 社会的現実への義務論の拡張:どのように言語は私たちが社会制度
を創出することを可能にするか
これまで示した議論は意味の意図的な行為 ― すなわち受け入れられた慣習にしたがって遂行さ
れる、充足条件に充足条件を意図的に課すこと ― は必然的に義務論を伴う。今度は、いったんそ
の義務論がこの意図的行為によって、集合的に創出される場合、それは一般に社会的現実へ拡
張されるだろうことは非常に簡単である ― 実際、私は不可避だと考える。私はその拡張は論理的
に必然的に伴うと主張しているのではなくそれは経験的に避けがたいと主張しているのである。
いったんあなたが表象する能力をもつなら、あなたはすでにその表象によって現実、表象の部分に
存在する現実を創出する能力をもつ。このいくつかの例を示そう。「彼は私たちの指導者だ」「彼は
私のボーイフレンドだ」「これは私の家だ」という能力をもつ場合、あなたはあらかじめ存在する事
態を表象する以上の何かをする能力をもつ。あなたは新たな義務論をもつ事態を創出する能力を
もつ。あなたはある種の発話行為を遂行することによって、それを他の人々に受け入れさせることに
よって権利や義務を創出する能力をもつ。いったんあなたや他者が、誰かを指導者と、ある物を誰
かの財産と、ある男性ないし女性をあなたと特別な関係のある人と認める場合、あなたは既に公的
義務論を創出したのである。あなたは既に欲求=依存的である行為に対する公的な理由を既に創
出したのである。だがどのように私たちがこれらの現象を記述するのに用いる言語が機能するか注
意してほしい。それは機能を創出する。言語は重要な仕方で機能を構成する。なぜか?なぜなら問
題の現象は、それであるものとして表象されるために、それであるものであるからである。制度的現
実を部分的に構成する表象、政府、私有財産、結婚、お金、大学、カクテル・パーティの現実は本質
的に言語的である。言語は単に記述するのではない。それが記述し、創出する両方をするものを、
創出し、部分的に構成する。第1章で主張したとおり、私が記述している仕組みは、宣言
(Declaration)の論理形式をもつ。私たちは何かを真であると表象することによってそれを真とする。
だから私が「その女性は私の妻だ」とか「彼は私たちの指導者だ」とか「それは私の帽子だ」という
場合、これらのカテゴリーが二つのレベルの意味をもつ。ひとつのレベルで、単にあらかじめ存在す
る関係がある。だが私がある仕方でその関係を記述する場合、私が人や物を今、既存の物理的事
実以上の何か「とみなす」(count as)という場合、私は人や物に義務論を付け加えようとしている
― そしてその義務論は未来に拡張する。その義務論は地位機能宣言(Status Function
Declaration)によって創出される。
構成性は社会的制度的現実の創出において本質的に現れる。構成性があるなら、動物は既存
の事態を単に表象する以上のことをすることができる。それは存在しないが、発話行為のあるクラ
スを受け入れるようにコミュニティにさせることによって存在させることができる事態を表象できる。
だから、「これは私の財産である」と言う人、ないし「この人は私の夫だ」という女性は以前から存在
する事態を単に報告する以上のことをする。彼ないし彼女は、宣言によって事態を創出することが
できるかもしれない。他の人々にこの宣言を受け入れさせることができる人はその宣言に先立って
存在しない制度的現実を創出するのに成功するだろう。
私たちはまだ遂行的発話行為(performatives)をもっていない、なせならそれは特殊な遂行的
動詞ないしたの遂行的表現を必要とするからである。だが、私たちは二重の適合方向をもつ宣言を
もっている。私が「これは私の家である」と宣言する場合、私は自分を家に対する権利をもっていも
のとして表象する(言葉から世界への適合方向)。そして私が他者に私の表象を受け入れさせる場
合、私はその権利を創出する。なぜならその権利は集合的受け入れによってのみ存在するからで
ある(世界から言葉への適合方向)。そしてそれらは独立的ではない。私はそれをもっていると私を
表象することによって権利を創出する。
この基本的働きがすべての制度的現実の基礎をなす。この点を理解するのは簡単ではないが、
私は社会を理解するのにそれは本質的だと考える。発話は、それが創出しようと試みる地位機能
がコミュニティの他のメンバーによって承認されるなら欲求独立的理由(desire-independent
reason)を創出することができる。個別の発話行為のケースでこうにとって欲求独立的理由を創出
する、同じ働き、X を-文脈-C で-Y ーと-みなす(X-counts-as-in-context-C)の同じ働きが、今
度一般化される。だから、たとえば、私が私有財産と考えるものはある種の確立された発話行為を
伴う。それは物に付属するある種の持続的発話行為である。それはこのモノの所有者は特定の権
利と義務をもち、このモノの所有者ではない他の人々は、その権利と義務を持たないと言う。ある種
の確立された持続的発話行為としてお金を考えてほしい。(場合によって、その発話行為は詳述さ
れる。アメリカの紙幣ではこう言う:「この紙幣はすべての公的私的債務に対する法定貨幣であ
る」”This note is legal tender for all debts public and private.”)
この章を通じて、私は人間の言語のいくつかの顕著な特徴に注意を払ってきた。これ以上に顕
著なものはない:人間の言語において私たちは、どのように現実があり、どのように現実にあってほ
しいかの両方で、現実を表象するだけでなく、また存在するものとしてその現実を表象することに
よって新たな現実を表象する能力をもつ。私たちは私有財産、お金、政府、結婚、その他存在するも
のとして表象することによって非常に多くの現象を創出する。
ここで私が指摘している三つの点は、次のとおり要約することができる。第一に言語は不可避に
義務論的である。なぜなら、コミットメントなしに慣習的に確立された規則に従う発話行為をもつこ
とができることはありえないからである。第二に、いったんあなたが言語的コミットメントをもつなら、
あなたがそれを、家族、結婚、財産、地位のヒエラルキーのような生物学的に原初的な形式の拡張
である制度的現実の形式への拡張をもつだろうことは不可避である。そして第三に制度的事実の
創出の論理的構造は正確に宣言のそれと同じである。表象は二重の適合方向をもたなければな
らない。なぜならそれは真であるように何かを表象することによって、それを真とするからである。私
は次章でさらに詳しくこれを説明するつもりである。
XII. これまでの議論の要約
この章の多くは言語的構造と前言語的志向性の概念的関係を説明する試みにささげられた。そし
てそれは議論の第二の部分につながる:私は言語が社会的関係への義務論の導入し、どのように
それが義務論的構造をもつ制度的現実を創出するかの両方を示そうと試みた。私の議論の第二
の部分をつき動かした基本的知的動機は次のとおりである:言語学の例外に放り出された語用論
を伴う統辞論、意味論、音韻論からなるものとして、言語の標準的教科書の説明から置き去りにさ
れた何かがある。基本的に置き去りにされたものは、充足条件に充足条件を課すことをコード化す
る一群の慣習的仕組みを伴うコミットメントの本質的要素である。議論の最終的部分は、存在する
ものとしてある事実を言語的に表象することによる、社会的制度的存在論の創出、それゆえその事
実を創出についてである。この第三の点を理解する場合、私たちは社会と社会的制度の構成にお
ける言語の構成的役割への深い洞察をえるだろう。できるかぎり明確にするためその議論の段階
を復習しよう。
第一段階。私たちは意識と前言語的志向性をもつ、また自由な行為と集合的志向性を与えられ
たヒト科の動物種を想像する。彼らは協力し、自由意志をもつ。
第二段階。私たちは彼らが、私が定義したように、表象が話し手の意味をもつ事態の表象につい
ての手続きを進化させることができると仮定しなければならない。彼らが存在すると信じる事態、彼
らが存在を欲求する事態、彼らが引き起こすことを意図する事態などを彼らは表象することができ
る。
第三段階。これらの手続きは、あるいはその少なくとも一部は慣習化されるようにり、一般的に
受け入れられるようになる。それは正確に何を意味するのか?それは集合的志向性がある場合、誰
かがこれらの手続きのひとつに意図的に関わるなら、その場合グループの他のメンバーはその手
続が正しく従われることを期待する権利をもつ。これは慣習について本質的であると私は考える。
慣習は恣意的だが、いったんそれが決まったなら、それは参加者に特定の期待に対する権利を与
える。それは規範的である。
第四段階。私たちはまたそれが指示と叙述の機能を遂行する繰り返し可能で操作可能な要素
に表象を分離することを想像することができる。
第五段階。その議論の中心的アイディアはこうである:単に信念、欲求、意図をもつことはこれま
で何らかの公的方法で人にコミットメントをもたせない。もちろん信念は真に対するコミットメントで
あり、欲求は満足へのコミットメントであり意図は行為へのコミットメントである。だがこれまでこれら
のいずれも「公的」な企てではなかった。伴う社会的義務論も、公的に承認された義務もない。だが
いったんあなたが自らこれら対応する志向状態の充足条件にコミットし、充足条件に充足条件を課
すことによって公的な仕方でこれを行い、あなたが言語の規範的慣習に従ってそれを行うなら、そ
の場合あなたは義務や他の種類の義務論的コミットメントを創出するのである。コミットメントが世
界の事態に対してであり、対応する志向状態に対してだけではないことに注意してほしい。そのた
め私が陳述をするなら、私は事実の存在に自らコミットするのであり、約束をするなら将来の行為の
遂行に自らコミットするなどである。
第六段階。発話行為に権利、義務、コミットメントなどの義務論を実行することを可能にする同じ
基本的言語的働きは、お金、政府、結婚、私有財産などの社会的制度的現実を創出するよう拡張
されえる。そしてこれらのそれぞれは義務論の体系である。一体私たちが言語に構成性と生成性
の要素をその場合導入するなら、私たちが創出している言語において、ただ合意によってだけで、
創出できる制度的現実に字義どおり限界はない。私たちはたとえば、大学、カクテルパーティー、夏
休みなどを創出する。制度的力における限界は義務論自体の限界である。場合によっては ― たと
えば刑法のケースにおいて ― 制度的力に物理的力で裏付けするが、警察力や軍隊もまた義務論
の体系である。
第七段階。制度的現実の創出の論理形式は宣言(Declaration)のそれであり、それゆえ遂行
的発話行為のそれと同じである。私たちは何かを真として表象することによってそれを真とする。制
度的現実のケースでは、これらすべては地位機能宣言(Status Function Declaration)である。
なぜならそれは制度的現実が存在すると宣言することによって地位機能を創出するからである。
XIII. 地位機能宣言の非神秘性
私は地位機能を脱神秘化することによってこの章を結論したい。私は通常ではない力を与える仕
方で地位機能宣言(Status Function Declaration)について語ってきた。しかし私たちが口から
雑音を出すことだけですべてこれらの力を創出できることは神秘的にみえるにちがいない。だから
私は問題全体をもっと地味で現実的なレベルまで引き下げたい。パブで、席を立ち、カウンターに
行き、ビールを三杯注文すると仮定する。その後、私はビールを席に運び、テーブルに置く。私は言
う。「これはサリーの、これはマリアンヌの、そしてこれはぼくのだ」。さてこれはものすごく注目すべ
き形而上学的努力であるようにはみえない。これらの発話をすることによって、私は実際に新しい
権利を創出した。事実、それらは陳述以上のものである。私は、たとえばマリアンヌがもたない権利
をサリーがもち、サリーがもたない権利をマリアンヌがもつという現実を創出した。これはマリアンヌ
がサリーのビールを飲もうと試みるなら、サリーは正統な不平をもつだろうという事実を生むだろう。
事実、私は何も「言う」必要もない。単に新たな所有者の方向にビールを差し出すことが発話行為
でありえる。地位機能宣言の形而上学がバーで効果的に機能しえるならその場合、どのようにそれ
が機能しえるかが神秘的すぎるということは全然ない。
さてどのようにこのすべては働くのか?私たちは存在するものとしてそれを表象することによって
現実を創出する能力をもつ。私たちがそのように創出できる現実だけが義務論的現実である。それ
は権利や、責任を与える現実である。しかしこれは取るに足らない達成物ではない。なぜなら、これ
らの権利や責任などが人間社会をまとめる接着剤だからである。
第5章 制度と制度的事実の一般理論:言語と社会的現実
I. 制度的現実の海
私たちは人間の制度的事実の海に住んでいる。この海のほとんどは、私たちには不可視である。魚
が泳ぐ水を見るのが難しいのとちょうど同じように、制度的事実は例外なく言語によって構成され
るが、元の機能は特に見るのが難しい。こう言うのは奇妙なことにみえるかもしれない。なぜなら、
私たちは会話をしたり、電話を受けたり、紙幣を支払ったり、電子メールに応える場合しばしば言語
を意識しているからである。私が言っているのは私たちは社会的現実を構成する際の言語の役割
を意識していないということである。私たちが遂行する実際の意識的発話行為のようなものに私た
ちは気づいており、またしばしば他の人が話すアクセントのような重要でないことにしばしば気づく
が、私たちが使っている力の関係における言語の構成的役割は、ほとんどの部分、私たちには不可
視である。
訳注
他の文化に住んでいることの長所のひとつは、異なる親しみのない制度構造に実際より意識的
になることができるということである。しかし自分の国では人は制度の海にあまり気づかない。私は
私と「妻」が共同で「所有する」家で朝めざめる。私は私たちがともに「登録している」自動車を
「キャンパス」へ自分の「仕事」をするため運転するし、私は「正規のカリフォルニアの運転免許」の
所持者であるため私は「合法的に」運転できる。その途中で、私は「違法に」昔からの「友人」がか
けた携帯電話に応える。いったん私が自分の「オフィス」に入ったら、制度的現実の重さは増す。私
は「カリフォルニア大学バークレー校哲学部」にいる。私のまわりには、「学生」、「同僚」、「大学職
員」がいる。私は「大学の講座」で教え、「学生」にさまざまな「宿題」を出す。「大学」は私に「給与を
支払う」が、私は「現金」を目にしない。なぜなら私の「給与」は自動的に私の「銀行口座」に「振り
込まれる」からである。講義の後、私は「レストラン」に行く。そして私は「勘定」を「クレジットカード」
で支払う。キャンパスへ戻るとき、私は「住宅総合保険」について私の「保険代理人」に電話し、また
「哲学協会」での「招聘」講義のための「航空券」を手配するため「旅行案内業者」に電話する。私
は「ディナーパーティー」に「招待」を「受ける」。すべての舞台で私は「発話行為」を遂行している。
発話行為は、カッコに入れたすべての制度的現実の基礎である。読者は、自分自身の制度的絡み
合いの目録でこのリストを続けてほしい。
前の段落で、カッコに入れた表現のすべては、さまざまな側面で制度的現実を参照する。制度的
訳注 力(power)、義務論的な力である。文脈により権力、権限、効力、能力、その他権利、義務、資格、許可を含
意するが、論理的構成要素であるため原則的に「力」とする
現実は友情の非公式性から、国際企業の極端に法的に複雑性にいたるすべての範囲に広がる。
現象ないし事実が本当に制度的かどうかについての単純なテストはその存在が義務論的力、権
利、義務、資格、許可のような力を含意しているか?を問うことである。市民権や雇用の(成文化さ
れた)権利や義務とちょうど同じように、友情やディナーパーティーの(成文化されていない)権利
や義務がある。制度的事実のない義務論はある(たとえば、私はすぐ命がけ助けの必要があり、私
が助けることができる人々を道徳的に助ける義務がある)が、何らかの義務論の形式のない制度的
事実はない。これら義務論的力はこの章で明らかにしようと思う共通の論理構造をもつ。
いくつかの典型的な制度や(非言語的な)制度的現実のタイプにはこれらがある:
政府の制度: 議会、行政、司法、軍、警察。
スポーツ制度: ナショナル・フットボール・リーグ、アマチュア野球チーム、スポーツ・クラブ。
特殊な目的の制度: 病院、学校、大学、労働組合、レストラン、映画館、教会。
経済制度: 製造会社、証券取引所、不動産会社、ビジネス、商社。
一般的目的の構造的制度: お金、私有財産、結婚、政府。
構造化されない非公式の(ほとんど)成文化されない制度: 友情、家族、恋愛、パーティー。
それ自体制度ではないが制度を含む人間の活動の一般的形式: 科学、宗教、レクリエー
ション、文学、セックス、食事。
制度ではないが制度を含む専門的活動: 法、医学、学界、劇場、大工職、小売業。
名詞が制度を名指すかどうかについてテストは、その対象の記述が義務論的力をもつかどうか
だと私は言った。このテストでカトリック教会は制度であるが、宗教はそうではない。ナショナル・サ
イエンス・ファンデーションは制度だが、科学は制度ではない。私有財産は制度だが、自動車は制
度ではない。
これら制度のどんなものも制度の運用になれた人々にとっては明確な仕方で制度的事実を生み
出すだろう。議会は法案を採択する。野球選手はヒットを打つ、ビルはバスのチケットに5ドルを支
払う。さらに制度を伴う制度がある。たとえば、ひとつの制度、アメリカ合衆国政府は、別の制度、議
会をもち、議会は政府機関などより多くの制度を設置する。会社は子会社を設ける。この用法は専
門用語として「制度」(institution)を扱う。なぜなら、私の程度で制度の資格をもたない制度を私た
ちが通常呼ぶものがあるからである。たとえばキリスト教のこよみは通常、制度と考えられる ― そ
れはとにかく設けられる(institueted) ― が、私の定義ではそうではない。なぜなら別に、単にこよ
みを実施することによって創出されえる義務論はないからである。色彩の言葉のように、こよみはあ
るナマの事実や制度的事実を位置づけるボキャブラリーを提供するが、その事実を位置づけること
は義務論を生まない。たとえば、私の文化では、1月17日は制度的事実ではない。なぜなら何ら特
別な力を生まないからである。他方クリスマスであることは制度的事実である。なぜなら他の義務
論とともに、それは人々に休日を与えるからである。私の文化では退屈すること、酒、知識人である
ことは制度的事実ではない。なぜそうではないのか?なんら特別な集合的に承認された義務論が
その記述によって含意されないからである。私は個人的に、知識人として特別な義務をもっている
と感じることができるが、私の社会は一般に、「知識人」と言う記述の下にある人々に付される特別
の義務論はない。そしてこの点で、知識人であることは教授であること、自動車の所有者、刑の確
定した犯罪者とは異なる。ところで、アメリカ合衆国では、私たちは一般に受け入れられるなら、地
位機能であるである「公的知識人」の制度を進化させているようにおもえる。
II. 制度の一般理論と制度的事実
私はこの章で、人間の非言語的社会制度とその内部での社会的の一般理論を構築するため、こ
れまでの章で集めてきた素材を使いたい。私は第4章で言語について説明しようと試みた。そして
今度、私はお金、財産、政府、結婚のような非言語的制度的事実を説明するため、その説明を用い
たい。
用語法には、明確化する必要があるぎこちなさがある。私は誰かが雨が降っていると述べるとい
う事実のような「言語的」制度的事実と、オバマは大統領であるという事実のような「非言語的」制
度的事実とを対照させたい。しかし私自身の説明では、制度的事実は言語的に創出され、また言
語的に構成され維持される。だからその一部を「非言語的」と記述するのはミスリーディングであり
える。それによって私が言いたいことは、問題の事実は意味についての事実を超えているというこ
とである。大統領の権力は意味論によって創出されるが、問題の権力は意味論の力を超えている。
直感的に、誰かが陳述したり、質問したりするような事実と誰かが大統領であるとか銀行口座に10
00ドルもっているというような事実の間には明確な違いがある。私は前者のクラスを「言語的」と後
者のクラスを「非言語的」と名付ける。だが私は非言語的なものが言語的に創出され維持されない
ということを含意するとは意味していない。この章の主な説明は正確にどのようにかを説明するこ
とである。
これから私が「制度的事実」と言う場合、特に記さないかぎり、「非言語的事実」のことを言う。私
は次の問いに答えたい。制度的現実を創出する手続きとは何か?制度とその制度内の制度的事
実との違いは何か?制度的事実の最初の創出と、その存在のその後の継続の違いは何か?既存
の制度なしに制度的事実を創出することはどのように可能か?
制度的事実の創出
私は第1章で、すべての制度的事実は、同じ論理操作で創出されると言った。すなわち、存在する
ものとして表象することによる現実の創出である。地位機能の創出についての一般形式はこうで
ある:
私たち(あるいは私)は、地位機能 Y が存在すると宣言することを真とする。
この一般形式はその後、これから説明するさまざまな異なる仕方で実現される。これをするため、
私は議論している言語で用いられる同じ戦略を使用するつもりである。私たちは概念的に進化的
な説明をするつもりである。私はより単純な形式からより複雑な形式へどのように進むことができる
か示したい、言語と同様、重要な点は、人間の制度の実際の進化的歴史について推測することで
はなく(言語の起源についてかなりより多く制度の歴史については知っているが)、義務論的力の
より単純なケースから、より複雑な形式へ移行するような、概念的複雑性の増大を説明することで
ある。
タイプ1: 制度のない制度的事実の創出:壁から境界へ
以前の著作で(1) どのように制度的事実が非制度的物理的事実を進化しえるかを私は記述した。
私は小屋の群の周囲に壁を築く部族を想像した。そこで壁は物理的構造の力によってアクセスを
制限する機能を遂行する。なぜならそれはたやすく登るには高すぎるからである。私はその後、石
の列となるまで壁が崩れてなくなると想像する。だが住人が、外部の者とともに、ある地位をもつと
して石の列と承認し続けると仮定しよう。その地位を私たちはそれが境界であると言うことによって
記述できる。そして彼らは「許可される」ことがないなら、境界を「横切ることは考えられない」と「承
認」し続ける。私はそれが非常に無邪気に聞こえることをのぞむが、実際それが含意することにお
いて重大である。このケースで、私たちは物理的構造の力によってその機能を遂行する物から始め
る。だがそれはその物理的構造の力でよるのではなく、石の列内外の、関与する人々によって集合
的な承認ないし受け入れがあるという事実の力で、その機能を遂行する物に進化する。その意志
の列は、その地位の集合的承認ないし受け入れの力によってのみある地位をもち、その機能を遂
行する。これが「地位機能」(status function)の例である。私は地位機能を物(諸物)、人(人々)、
あるいは他の種類の実体(諸実体)によって遂行され、そして機能が遂行されるコミュニティが、あ
る地位を問題の物や人や実体に、割当てる事実によってのみ遂行されることがき、それはその地位
をもつものとして物、人、実体の集合的受け入れや承認の力によって遂行される機能として、地位
機能を定義する。私は単に物や人々以外の他の実体に言及しなければならない。なぜなら私たち
は有限責任会社(a limited liability corporation)(2) の地位機能のように抽象的実体に地位
機能を課すことを認めなければならないかである。
地位機能境界をもつものとしての壁のケースは、書かれた言語や一般的規則を必要としない。
このケースで、関わる人々は、地位機能 Y を対象 X に文脈 C で課す。
このケースは、すべての制度的事実と同様、言語、あるいは少なくとも何らかの象徴形式を伴う。
それを理解するため、私たちは列を横切らないという単なる性向(disposition)を、それを横切らな
い「義務」に従うのを承認する場合から区別する必要がある。私の犬に、単に外に出ようとする場合
罰し、境界内に留まる場合褒美を与えることで庭の外に出ないように私は訓練できるかもしれない。
私は彼が庭に留まるよう彼の性向を変えた。だがこれまで伴う義務(obligation or duty)の問題
はない。人間にとって行動する性向と義務の承認の間の漸進的移行が疑いなくある。だが、私たち
が境界として承認する人たちに義務を課すものとして石の列を考えることを私はのぞむ。その義務
は石の列に割当てられた集合的に承認された地位があるという事実に由来する。「石」の列 X は、
今や地位「境界」Y をもつが、その地位は制度への参加者それを表象するのに十分豊富な言語を
もつ場合に限り存在できる。すなわち、私は言語を必要としない行動する単なる性向と制度的義務
論があるケースとを区別している。「そのような義務論はそれが存在するものとして表象される場
合に限り存在できる」。義務論と性向のこの区別はまた、承認された指導者をもつ人間の部族と最
優位のオス(alpha male)をもつのオオカミの群との区別によってより良く示される。指導者は継続
する義務論的地位、言語によって表象され、創出される「権威」をもつ。最優位のオスのオオカミは、
物理的強さのため、恐れと尊敬をもって扱われるが、彼は公的に承認された義務論をもたない。そ
のように義務論は言語を必要とする。なぜか?なぜなら言語がなければ、あなたは性向に伴う欲求
や信念のような前言語的志向状態しかもたない。あなたが義務を義務として承認できるという点を
理解するためには、あなたは義務として何かを、すなわちあなたの性向や欲求から独立した理由を
あなたに与える何かを表象できなければならないことである。あなたは実際に「義務」という言葉や
他の同義語をもつ必要はないが、あなたは義務論を表象するのに十分豊富な概念装置をもたなけ
ればならない。
私は石の列があることから境界があることへの移行の論理形式が地位機能宣言(Status
Function Declaration)のそれであることを強調したい。宣言の発話行為があるなんらかの特定
の機会がある必要はないが、石の列を境界にする仕方で境界として石の列を表象することを構成
するなんらかの発話行為、一群の発話行為、または他の種類の表象がなければならない。表象が
集合的に承認され、ないし受け入れられる場合、石の列は新しい地位を獲得する。それは今や境
界である。そしてそのような表象は正確に地位機能宣言の論理形式を例示する。
タイプ2: 形式「X を C で Y とみなす」の構成規則
境界の地位機能を創出した同じ部族は、また単にその地位を特定の人に割り当てることで部族の
指導者の地位機能を創出しえるだろう。だが世代を経るに従い、彼らは王を選ぶ標準的な手続きを
うまく進化させるかもしれない。ほとんど読み書きのできない社会で、男系でその王の地位が継承
されると仮定する。数世紀間、これは地位機能が死亡した王の長男に継承されたヨーロッパの
ケースである。このケースでは、境界のケースとは異なり、実際に規則がある:すべてのxについて、
xが死亡した王の長男である場合、xを王とみなす。成文化できない規則は、おそらくそれにもかか
わらず多くない。(3) 地位機能の創出と継続する存在は、、通常コミュニティは特別な髪飾りや王
冠や特別な衣装のような他の地位表示子を使うが、書かれた文書の形式を必要としない。無文字
社会でさえ、これらの象徴としての機能は、そしてそれは地位機能の創出にとって必要ではないが、
その維持に有用である。なぜならそれはたやすく問題の地位機能の保持者を特定し、その王の地
位を象徴化するからである。文字を持つ社会も、ユニフォームや結婚指輪のような多くの非言語的
地位表示子を使う。
構成規則「X を C で Y とみなす」 ― 死亡した王の存命する最年長の息子 X を新しい王 Y とみ
なすと言う規則 ― の意味(論理形式、意味論的内容)とは何か?私たちが規制的規則と対照する
なら、構成規則をもっともよく理解できる。「規制的」規則、たとえば「道の右を運転せよ」は持続的
な宣言である。その機能は行動のある形式を生むことであり、それは行動が規則の内容に一致す
る場合充足される。その規則は上向き、世界から言葉へ↑の適合方向をもつ。対照すれば、構成規
則、「最年長の存命する息子を新しい王とする」は、持続的な宣言である。その機能はかつての王
の死にあたりある人を新しい王とする」ことを真とすることである。最年長の存命の息子を新しい王
とするため、その結果を受け入れること以外、誰も何も充足する必要はない。それは言葉から世界
へと世界から言葉へ ↕ の充足方向を同時に持つ。それを真であると表象することによってそれは
何かを真とする。私はそれを持続的な地位機能宣言(standing Status Function Declaration)
と呼ぶ。なぜなら死んだ王の最年長の存命の息子であることを充足する誰かが王であることを無
際限の将来に真とするからである。それは何かを真とするが、それは無際限の多くのそのような何
かに適用される。
タイプ3.複雑なケース:企業法人を作る
これらのケースを顕在的な規則、複雑な法的構造、書かれた言語を必要とするはるかに複雑な
ケース、有限責任会社の創出と対照させよう。カリフォルニア州では、多くの権限におけるように、
顕在的な法が、宣言の発話行為による企業法人の創出を可能にする。
企業法人に関するカリフォルニア法はそれをこのように明記する。訳注
セクション200 A: 「国内外のひとり以上の人、共同経営体、社団、企業法人は“法人の
約款を執行し満たすこと”によってこの条項の下企業法人を結成することができる」。
セクション C:明示的に法や約款によって規定されないかぎり「“企業法人は約款を満たす
ことで存続を始め、持続的に継続する”」。(“”は著者追加)
これら二つのセクションは、一緒になって、非常に強力な構成規則を形成する。実際のテキスト
は持続的な宣言である。それらはある条件を充足する何らかの実体が別の宣言を遂行することに
よって法人を設立することができ、法人はその後、何らかの他の条件が起こらないかぎり「持続的
に」存在することを宣言によって真とする。だから法人の創出に伴う二重の宣言がある。法律はそ
れ自体(一群の)宣言である。それが宣言するものはある種の意思を宣言するものが法人を創立し
たということである。
そのような構成規則は創出される特定の制度的事実のもとで条件を特定する宣言である。場合
によっては、このケースのように、条件は別の宣言の遂行を伴う。場合によっては、野球でヒットを
打ったり、第一級殺人を犯すケースでは、制度的事実を構成する行為は、それ自体発話行為でな
い。私たちの難問のひとつは、すべての制度的事実が宣言によって創出される場合、私たちはヒッ
トを打ったり、第一級殺人を犯したりするような出来事が発話行為ではないという事実をどのように
説明するか?である。その答えは、問題の物理的出来事が、それが地位機能を割当てている持続
的な宣言があるため、ヒットを打つ、あるいは第一級殺人を犯すという制度的事実を構成するとい
うことである。その規則はしかじかの事実を充足することが特定の種類の制度的事実とみなすこと
を宣言する。
企業法人のケースでは、他のケース ― 石の列が承認された境界になるとか、最年長の息子が
王となる ― にあるような、企業法人となる既存の対象がなかったことに注意してほしい。法律はな
訳注 正式には California Corporations Code で、「カリフォルニア州会社法」とされる。原文引用は
Chapter 2. Organization and Bylaws CA CORP § 200 に当たる。「企業法人」が“corporation”、
「法人」が“incorporation”である。アメリカの会社法はコモンローから20世紀に成文化した。日本は明治期
主にフランス民法典にならった民法に法人が規定され、下位法に授権する。現行の日本の会社法は、アメリカ
会社法の影響を受けて、平成17年旧商法を大幅に改変統合して成立した。約款、登記、株式などより具体的
な規定からなる。日本の企業の法人格についての規定は民法の次が法源とみなせる。
民法第 34 条(法人の能力) 法人は、法令の規定に従い、定款その他の基本約款で定められた目的
の範囲内において、権利を有し、義務を負う。
約款をもつ法人格に権利義務を与えることは、義務論的力を与えることと理解できるため、論旨は変わらない。
にか既存のXを企業法人にするとは言わない。そうではなく法律は企業法人は「創設できる」と言
う。それは、これら書かれた発話行為の遂行 ― 「法人の約款を執行し満たすこと」 ― を企業法人
の創出と ― 「企業法人は約款を満たすことで存続を始め、持続的に継続する…」 ― みなすと言う。
このケースで、私たちは注目すべき潜在的な対象、有限責任会社を、いわばどこでもないところ
から創出したようにみえる。どんな既存のものも企業法人に変えるため操作されない。むしろ単に
企業法人が存在すると、認可によって、宣言によって、真とするだけである。これを行う全ての重要
な点は実際の人間との間のかなり精巧な一群の権限関係を創出することであることに注意してほ
しい。実際企業法人はそのような関係からなる。人が企業法人を創出する場合、その場合ビジネス
ができ、法人の社長、取締役会、株主として地位をもつ実体を創出する。法人が創出される場合、
その地位はたとえ企業法人がその中で、さまざまな地位機能をもつ立場を占める人々の変化を通
じて同一性を保持することができるとしても、地位機能は実際存在する人々に生じる。
石の列のからの境界の創出は非常に単純な義務論を生む。企業法人の創出は多くの人々の相
互関係を伴う非常に複雑な義務論を創出する。文字なしにこれができる生物種があることは論理
的には可能だが、私たちの種類の人間にとって、そのふたつを先ほど引用した成文化された精巧
な一文の構成規則や、精巧な成文化された法人の活動の記録なく、それらの活動に従事する企業
法人の存在の創出し、維持することは不可能である。
これらの三つのケースのタイプは三つの明確な論理形式を示すようにみえる。三つすべてに例
示される共通の構造はあるのか?地位機能を創出する操作子(operator)の基本的形式はこうで
ある。
私たちは地位機能 Y が文脈 C で存在することを宣言によって真とする。
We make it the case by Declaration that the Y status function exists in context C.
そして私たちはそれを完全に顕在化することで真にする。それはこのようにみえる:
私たちは X が地位 Y をもち、かつそのため C で機能 Y を遂行することができることを、宣言
によって真とする
We make it the case by Declaration that X has the status Y and thus able to perform the
funciton F in C.
その場合、地位自体が一群の義務論的力として詳述されることを思い出してほしい。履行の他の
形式は構成規則と独立した Y 項を含む。それを詳述しよう。構成規則は、今度は次のようにみえる。
私たちは条件pを充足するどんなxについても、xが地位 Y をもち、かつ C で Y を遂行するこ
とを宣言によって真とする
We make it the case by Declaration that for any x that satisfies condition p, x has the status
Y and perform the function F in C.
そしてこれはアメリカ合衆国大統領から有罪の犯罪者や野球の安打まですべてをカバーする。
もっとも難問であるケースは、たとえば企業法人を創出する独立した Y 項のケースである。企業
法人を可能にする法は、遂行される他の宣言を可能にする宣言自体である。順番にそれを見てい
こう。法律は次の形式である:
私たちは特定の条件の集合pを充足するどんなxについても、xは C で宣言によって地位機
能 Y を伴う実体を創出することを宣言によって真とする。
We make it the case by Declaration that for any x that satisfies a certain set of conditions p,
x can create an entity with Y status function by Declaration in C.
そのため、私が引用した法文において、条件pは自然の人、法人などであることであり、そのような
実体は、宣言によって企業法人を創出できる。だから法は他の宣言に権限を与える宣言である。そ
してその場合あなたが企業法人を実際創出するなら、そのようであるものはこうである:
私たちは C で(諸)地位機能 F をもつある実体 Y が存在することを宣言によって真とする。
We make it the case by Declaration that an entity Y exists that has status function(s) F in C.
機能が存在するだけでなくたとえ人が言うように実体が「架空」であるとしても、機能を持つ実体
Y、企業法人があることを詳述する必要があるためそうしなければならない。要点はそのようなケー
スで、独立して存在する X がないということである。地位機能 Y をもつ実体の創出だけがある。だ
か名詞「企業法人」(corporation)は、実体の名前と地位機能の存在の両方を担う。すべての独
立した Y 項がこの形式をもつわけではない。銀行が、自らがもたないお金を貸し出すことによってお
金を創出する場合、その宣言はこのようにみえる:
私たちは地位の実体 Y が機能 F とともに存在することを真とする。そのためジョーンズにそ
のお金を貸し出す際、銀行は以前存在しなかった、今貸し出されたお金のあるパーセン
テージが存在することを宣言によって真とする。(お金の創出については後でもっと語るつ
もりである。)
We make it the case by Dexlaration that a status entity Y exists with the functions F. Thus in
lending Jones the money, the bank makes it the case by Declaration that a certain
percentage of the money loaned now exists that did not previously exist.
石の列、王、企業法人、お金で真であることは、私有財産、政府指導者、大学、祝祭日、カクテル
パーティー、運転免許、国民国家、アメリカ合衆国軍、マフィア、アルカイダ、スクゥオ―・バレー・ス
キー・チームについて真である。これらすべてのケースで、宣言による地位機能の創出がある。神は
「光よあれ」と言うことで光を創出することができる。さて私たちは光を創出することはできないが、
類似の驚くべき能力をもつ。私たちは境界、王、企業法人を「これを境界としよう」「最年長の息子を
王としよう」「企業法人よあれ」と何がしか等価なことを言うことによって創出できる。
III. 発話行為と義務論的力
これらの例を念頭に入れて、私たちは今度、制度的現実が創出され、その存在が維持される一般
的原則を述べることができる。私たちは正確に三つの基本的概念を必要とする。第一、集合的志向
性;第二、機能の割り当て;第三、構成規則を含む地位機能宣言の創出を可能にするのに十分な
言語。私は第3章と第4章で、集合的志向性を説明し、機能の割り当てについてある程度語った。
私はどのように言語が義務論と宣言の発話行為を点って発展できたのか説明しようと思う。
私が『構成』を書いたとき、制度的事実の創出と維持における第三の要素は単に地位機能を付
属しする構成規則ないし手続きの存在に達し、これらは形式「X を C で Y とみなす」をもつと考え
た。その時自問しなかったが、今私が自問しているのは、何が正確に発話行為の理論的視点から
みてその手続なのか?である。さてふたつの根本的に異なる種類のケースがある。「雪は白い」と言
う文の字義どおりの発話は、単にその意味によって雪は白いと陳述をすることとみなされる。それ
以上発話行為は必要ない。だが、私が特定の種類の紙片を20ドルとみなす場合、私たちは宣言に
よってそれらを20ドル紙幣とする。宣言は「何かをとみなす」ことによって、すなわちそれを真と宣言
することによって真とする。それは言語の本性と制度的現実の本性の両方に対し、非対称性を理
解するのは本質的である。私はそれについてこの章の後で語るつもりである。
地位機能を課すことのすべてが「X を C で Y とみなす」という形式をもつわけではない。なぜなら、
場合によっては法人のケースないし電子マネーのように、義務論は伴うが、それを直接誰かや、物
質的対象に付属させることなく地位機能を私たちは創出するからである。これらはバリー・スミスが
「独立した Y 項」と呼んだもののケースである。(4) だから公式「X を C で Y とみなす」はひとつの形
式だが唯一の形式ではない。それにおいて私たちは制度的現実の創出のもっとも一般的論理形
式と呼んできたものを示す:
私たち(あるいは私)は地位機能 Y が C で存在することを宣言によって真とする。
We(or I) make it the case by Declaration that a Y status function exists in C.
これを行うことの趣旨の全体が、義務論的力を創出することであるため、私たちはまた宣言の範囲
内でその力の創出を明記する必要がある。そしてそれはこのようにみえる:
私たち(あるいは私)は地位機能 Y が C で存在することを宣言によって真とし、そうすること
で私たち(あるいは私)は Y と特定の人や人々 S との間の関係 R を創出し、そのため主体
機能関係 SRY によって、S は行為(のタイプ)A を遂行する力をもつ。
We(or I) make it the case by declaration that a Y status function exists in C and in so doing
we(or I) create a relation R bet 私たち n Y and a certain person or persons, S , such that in
virtue of SRY, S has the power to perform acts (of type) A.
訳注
この追加した節の趣旨は、私たちがただそれ自体の目的のため地位機能 Y を創出するだけでなく、
「創出された地位機能 Y に実際の人々を関係させることによって」彼らに力 ― 肯定的、否定的、条
件的など ― を割り当てることである。これらの関係は、問題の地位機能のタイプとともに変わりえ
る。大統領のケースでは、その人は地位機能の担い手と「同一」である。お金のケースでは、人はお
金の「所有者」である。私有財産のケースでは、権限を与えられた人は私有財産の「所有者」であ
る。企業法人のケースは、特定の人々は特定の権限と義務をもつ。これまで、私たちは地位機能を
創出する操作子を導入した。その後、その操作子の範囲内で、私たちはその地位機能に付随する
力を導入した。次の段階は地位機能の承認がその運用に本質的である形式を示すことである。
私たちは次を集合的に承認する(Y が C と次の理由で存在する、(SRY(S が次の力もつ(S
が A をする))))
訳注 SRY 主体と地位機能の関係 Subject -Relation-Y(status function) 主体機能関係
We collectively recongnize (Y exists in C and because (SRY (S has the power (S does
A)))).
義務論的力の機能を可能にする集合的承認のため、地位機能の存在とその S への関係の両方は
集合的承認の範囲内になければならない。
IV. 制度的現実の継続的維持:さらなる地位機能宣言
これらの運用が実際の社会において働くことを可能にする集合的志向性と機能の割り当ての両
方を私たちは必要とする。制度的事実が集合的に承認されるないし受け入れることがないなら、ま
た参加者が地位機能が担う義務論を理解しないなら、制度的事実は人間的合理性に組み込まれ
ず行為の理由を提供しないだろう。たとえばなんらかの所有権の集合的承認ないし受け入れの形
式がないなら、また所有者が最初に「権利」の概念を持たないなら、私有財産の体系は働かないか、
理解不能でさえあるだろう。
実際の複雑さは特別な特徴を導入する。たとえば既存の制度的構造内の制度的特徴について、
承認ないし受け入れの「別の」態度を必要としない。たとえばあなたが野球の制度を受け入れた場
合、所与のホームランやヒットは、別の受け入れを必要としない。あなたはすでに制度の受け入れ
によってその受け入れに既にコミットしている。唯一の問題は認識論的である。それは本当にヒット
なのか?彼は本当に犯罪を犯したのか?これはなぜ私たちがアンパイヤや裁判所をもつかの理由
である。構成規則の体系があるなら、問題の行為は規則内に事実収まるのか?いったん参加者が
受けれたなら、体系は彼らに体系内の事実の受け入れにコミットさせる。なぜなら体系は一群の持
続的な宣言からなり、これら宣言によって決定された条件を充足することを問題の制度的事実を構
成することとみなすからである。
力を創出する操作子に加えて、私たちは地位機能の継続する存在と維持を記す集合的な承認
ないし受け入れの操作子を必要とする。
私たちは次を集合的に承認あるいは受け入れをする(S は次の力をもつ(S は A をする))。
We collectivelly recognize or accept (S has power (S does A)).
日常語で言うと、私たちは地位機能 Y が文脈 C で存在することを集合的に承認する、そして人間
の主体 S が C における地位機能 Y に特定の適切な関係 R にあるため、私たちはさらに S が、地位
機能 Y によって決定される行為 A を行う力をもつことを承認する。直感的な観念は、制度的事実の
創出の維持の要点は力であるが、 全装置 ― 創出、維持、そして結果する力 ― は、集合的受け入
れないし承認を理由としてのみ働くということである。
私は地位機能の創出は地位機能宣言によることは当然明確だと考える。地位機能継続的存在
は地位機能宣言のように働く表象を必要とするということはより明らかでないが、私はそれもまた
真だと考える。なぜか?制度とその制度内の制度的事実は継続的な承認ないし受け入れを必要と
する。なぜならそれはそれが承認ないし受け入れされる限りにおいてのみ存在するからである。承
認ないし受け入れのひとつの印が制度と制度的事実の継続的使用であり、これは対応するボキャ
ブラリーの使用法を必要とする。これは制度と制度的事実がその継続的に存在に必要とする態度
の詳細な説明によって賛成されることを含意するとを私が意味していないという事実を記すため表
現「承認ないし受け入れ」を私が頻繁に用いる理由である。発話行為の形式における承認は、たと
え発話行為が宣言の形式でない場合でも、宣言のように機能する。
人は革命的、改革主義的運動の活動におけるボキャブラリーの役割を見る。それらは地位機能
の体系を変えるためボキャブラリーを手に入れようとする。フェミニストは「紳士淑女」のボキャブラ
リーが彼女たちが拒否したい義務論を含むことを正しく理解している。またロシアの共産主義者は
新たな地位機能を創出し、古い地位機能を破壊する方法として「同志」とたがいに人々が呼ぶよう
にもとめる。ボキャブラリーの継続的使用は既存の地位機能を維持し、強化する。この現象を理解
する別の方法は、どのように地位機能を記す言葉が地位機能それ自体の対応する侵食で次第に
偽りに堕すことがありえるかを理解することである。“spinster”(未婚婦人)という言葉は、古いア
メリカ法で顕著に現れるが、現在普通の会話で聞く言葉ではない。私が自分の教室で「未婚婦人
は何人いますか」と尋ねたら、たった一人の中年の女性が怒りを持って腕を突き上げた。
“bachelor”(未婚男性/学士)の使用の類似の衰退はこの行を書いているとき、起こるかもしれ
ない。そしてそれとともに関連する地位機能において衰退が起きるかもしれない。だから、下向きの
適合方向をもつボキャブラリーの日々の使用は、すでに時間を超えて地位機能の存在を維持する
ことで累積的な上向きの適合方向をもつ。
これが正しいならその存在における漸進的な言語の獲得による地位機能の創出と同じ地位機
能の継続的な存在の間に明確な境界線はないだろう。「私たちは石の列を境界と承認し続ける」と
か「私たちはビルを指導者と承認し続ける」と言うことから、「今石の列が本当に境界になった」とか
「ビルは本当に私たちの指導者になった」ということができる特別な点はないかもしれない。
V. さらなる問い
一般理論を述べた今、私たちは次の問いに答える必要がある。
1. 何がこれを行う趣旨なのか?どのように私たちはこれらの制度や制度的事実から便益を受
けるのか?
2. どのように私たちはそれをやってのけるのか?私たちは無から現実を発明しているようにみ
える。
3. どのように制度的事実の私たちの説明は私たちの基本的必要条件、制度や制度的事実の
人間の現実が世界の基本構造と矛盾してはならないだけでなく、その基本構造からの自然
な結果でなければならない必要条件を満たすのか?
4. なぜ言語は特別であり他の制度の中の単なるひとつではないのか?
5. 「書かれた」言語の特別な役割は何か?
6. 制度的事実は存在するために存在すると信じなければならない場合、どのように私たちは
それについて新しい驚くべき情報を発見できるのか?どのように社会科学における驚くべき
発見は可能なのか?
7. 制度的事実についての陳述の論理手的形式は何か?そしてどのように私たちは外延性の
その明らかな欠如について説明するのか?
8. 制度的現実の創出における想像力の役割は何か?
私は既に潜在的にこれらの問いの一部に答えたが、私は今度は顕在的にその答えをしたい。
問い1:地位機能と義務論的力
なぜ私たちはこれを行うのか?なぜ私たちはお金、政府、財産、大学のような成功な制度的構造を
創出するのか?すべての人間の制度が貢献する単一の目的はない。そして実際制度的現実は人
間の現実自体とほとんど同じように多様である。だが、すべての(あるいはほとんどすべての)制度
に通じる、そしてそれらが多くのさまざまな仕方で人間の力を増す構造を可能にしている共通の要
素がある、と私は論じてきた。お金、学校、財産権、そして何にもまして言語をもたないなら、生活が
どのようになっていたか考えてほしい。一部の社会理論家は、本質的に制約的なものとして制度的
事実を理解してきた。(5) 実際、社会制度には強制の要素はある。たとえば選挙されないなら、大
統領ではありえない。あなたがお金を持たないなら、お金を払えない。野球の場合、あなたはフォー
ストライクを持ちえない。だがまさにお金や野球の制度はあなたの力を増す。私は力の操作子の一
般形操作子をこのように主張してきた。
私たちは次を承認する(S は次の力をもつ(S が A を行う))
We recognize (S has power (S does A)).
だから、たとえば、大統領は議会が採択した法案を拒否する力をもつ。ついで議会は大統領の拒
否権をくつがえす力をもつ。制度的構造によって創出されるすべての義務論的力は、この基本的
力の創出の操作子についてブール演算の結果としてこの構造を示すものとして扱うことができる。
そのため私が駐車違反の切符を切られ、私が罰金50ドルを支払う義務を負うなら、私は否定的義
務論的力をもつ。その義務はこのようにみえる:
私たちは次を承認する(~(S が次の力をもつ(~(S が当局に50ドルを支払う))))。訳注
We recognize (not (S has power (not (S pays $50 to the authorities))))
日常表現では、私が負うお金を支払わない力を持たない。そして私が野球のバッターとしてツー
ストラクを取られた場合、少なくとも私の義務論的地位の一部は、条件的である。私がもうひとつス
トライクを取られたならアウトである。私は条件的否定的義務論的力をもつ。
制度的現実創出の要点がそれ自体なにか特別な地位の価値をもつ物や人に与えられるのでは
なく人々の間の力の関係を創出し、規制する。人間の社会的現実は人々や物についてだけではな
く、それは人々の関係についてであり、それらの活動を支配し、構成する力の関係についてである。
問い2:どのように私たちはそれをやってのけるか?
この本における説明の私の主な戦略は、親しみのあるものを奇妙で顕著にみえるようにすることで
ある。制度的事実のもっとも奇妙でもっとも顕著な特徴は、制度的事実の創出に先立って、制度的
事実にとって制度的なものは何もないということである。それはどうやって成功するのか?私たちは
それをなんとかしてどうやってのけるのか?それはただの手品ではないのか?この問いに対する短
い答えは、私たちは他の人々にそれを受け入れさせることができる程度にそれをやってのけるとい
訳注 英語の not の代わりに、一般的なブール演算の否定の記号「~」を用いた。たとえば命題 P「雪は白い」
に対して、~P は「雪は白くない」である。
うことである。制度的事実の集合的承認ないし受け入れがあるかぎり、それは働くだろう。それは義
務論的力からなるため働き、そして義務論的力はそれが受けられる場合働くだろう。場合によって
は、もちろん、それは警察や軍事力によって裏付けられなければならない。だが、警察力や軍はそれ
自体、地位機能の体系である。
だが、この答えは人々にそれを受け入れさせることによってやってのける場合、私たちはやっての
けると言う。だがその場合問いは「なぜ人々は制度と制度的事実を受け入れるのか?」である。もっ
とも一般的な答えは、人が考えることができる制度のほとんどは、私たちの力を増すことによって、
私たちの利益のために働くということである。言語やお金のような多くの制度は、非常に多くのすべ
ての人の関心をもち、どのように合理的にそれを拒否することになるのか知るのは難しい。だが、ど
のように何らかの制度がすべての人の関心をもちやすいかについてのそのような曖昧な見解を超
えて、人々がなぜ制度を受け入れるかに応える一般的答えはない。実際、不当な取り決めであるよ
うにみえるだろうものを人々が喜んで受け入れるあらゆる種類の制度がある。人はさまざまなクラス
の構造、多くの社会における女性の低い地位、お金や財産や権力の広範な不均等な分配を考える。
だが多くのクラスに通じるひとつの特徴は制度的事実において、人々は通常起こっていることを理
解していないということである。彼らは人間の創造物として私有財産を、そして私有財産を分配す
ることに関する制度を、人権、政府のことを考えない。彼らは、天気や重力を当然のこととするのと
同じ仕方で、当然のこととする自然の物の秩序の一部とそれらを考えやすい。場合によっては実際
彼らは神の意志の結果であると諸制度を信じる。そのため、たとえば、それを人々は「確実な不可侵
の権利とともにその創造主によって与えられる」と信じる。(6) 私はどのように諸制度が創出され、
機能するかについての一般的理解が実際にその機能の遂行に資するか、まったくわからない。そ
れらの多くは、私がほとんど偽だと考える超自然現象を信じることや、人々が当然のこととし、批判
的に分析しない場合、もっともよく働きやすい、お金や政府のように、疑わしい信念に基づいて形成
されるのではない諸制度でさえ信念にもとづいている。カール・マルクスが指摘したように「ある男
は他の者が彼に服従する関係に立つためによってのみ王である。彼らは他方彼が王であるから臣
下であると想像する」。(7) 人々が制度と制度的事実を承認するないし受け入れる関連する理由は、
人々が制度的現象の恣意性や不正に気づいているケースでさえ、それを変えることができることに
すっかり絶望しているということである。もちろん財産の分配は不正であり、場合によってはおそらく
私有財産の制度それ自体についてなにか不正があるが、しかし個人がそれについてできることは
多くなく、だからその個人は制度に直面して絶望を感じやすい。私は政治権力について語る場合こ
の現象についてさらに語るつもりである。
制度と制度的事実の受け入れの関連する強力な動機は、他の人々と同じようにあろうとする、ま
たその集団のメンバー、集合的志向性の共有者として彼らに受け入れれるために従う人間の衝動
である。
私が引用してきた一般的理由 ― 自己利害、権力の増大、無知、無気力、絶望、順応 ― 以上に、
何が受け入れを動機づけるか?という問に対する一般的答えはないように見える。個別の制度に
は個別の動機がある。制度が政府や政治権力一般のケースにおけるように脅かされえる権力関係
を伴う場合、正当性の問題が重大になる。私はこの権力にして第7章で更に述べるつもりである。
問い3:どのようにこの説明は基本的必要条件と矛盾しないか?
どのように私たちは実在世界においてすべてのものが物理学と化学の実体や実在世界のその他
のものに達しなければならない私たちの基本的必要条件と矛盾しない物理的実在をもたない制度
的事実の存在を作ることができるのか?すべての制度的事実がナマの事実に達しなければならな
いと、私たちがしなければならないように考える場合、どのように私たちは抽象的な、ないし束縛さ
れない存在論をもつようにみえるこれらのケースを扱うのか?私が支持してきた基本的存在論の
概念において、実在世界におけるどんなものも、基本的事実に基づかない、このように独立してある
ことは不可能でなければならない。お金、企業、目隠しチェスはどこでもない場所にただ浮遊するこ
とはできない。
私は、潜在的にこの問いに既に答えてきたが、今度はそれを完全に顕在的にしよう。私が前に示
唆した仕方で地位機能の創出を述べる公式を結びつけるなら、それはこのようにみえる。
地位機能 Y が C で存在し、そうすることで SRY によって(S が次の力をもつ(S が A をす
る))ように、人ないし人々 S と Y の間の関係 R を創出することを宣言によって私たちは真と
する。
We make it the case by Declaration that the Y status function exists un C, and in so doing
we create a relation R bet 私たち n a person, or persons, S and Y, such that in virtue of SRY
(S has power (S does A)).
これに照らしてみれば、それは独立した Y 項がつねに問題の力をもつ実際の人間に達することに
なる。なぜならそれは人々がいることと表象されるからである。だからあなたがお金や企業や目隠し
チェスのコマをもつため、物質的な実在を必要としないのは真だが、あなたはお金の「所有者」や、
企業の「役員や株主」や、チェスの「プレーヤー」をもたなければならない。そして力の創出の操作
子はそれらを動作させる。制度的事実はなお、ナマの事実に達するが、これらのケースにおけるナ
マの事実は、実際の人間や言語的表象を構成する音や印である。
この点を簡潔にまとめれば:存在論的に言って、最小の制度的現実を創出するために、あなたは
正確に次の3つの物を必要とする:(1)人間(あるいは関連する類似の認知能力をもつ何らかの種
類の存在)。それは(2)物や人に機能を課す能力を伴う集合的志向性を含む志向性、を伴い、(3)
宣言的発話行為を行える言語 ― すなわち二重の適合方向をもつ発話行為、である独立した地位
機能 Y が複雑であり、持続して存在する場合、あなたは第四の物:文書を必要とする。独立した y
項のケースはつねに人間と言語が制度的現実の特定の形式に必要な二つだけの現象である。不
動産や、運転免許や、夫婦のような他のケースでは、あなたは地位機能を割り当てることができる
特定の物理的特性を持つ物質的対象や人間を必要とする。
問い4:なぜ言語は特別か?なぜそれは他の制度の中で単なるひとつの制度ではな
いのか?
このテーマについて考察を始める前に、直感的に言語は第一の社会制度であるようにおもえる。あ
なたは言語をもつが、政府も、財産も、結婚も、お金もない社会を想像することができる。前理論的
に、私たちは何らかの仕方で言語が制度的現実に構成的であるとみな直感的に気づいている。私
が非常に不適切であると思った著作の著者でさえ、「言語は社会的現実に構成的である」という文
を受け入れてきた。実際私はアリストテレス以来ずっとすべての人がそれを受け入れてきたとだろう
と思う。問題はどのように言語が構成的かを述べることである。正確に制度的現実を創出する発話
行為とは何か?正確にそのように創出された現実の存在論的地位とは何か。そしてどんな種類の
発話行為によって正確にそれは維持されるのか、これらこそ、私がこの本で答えようとしている問
題である。
私はすべての制度的現実は宣言によって創出され、宣言のように機能する表象(発話行為とと
もに思考)によって継続的な存在が維持される。だが言語自体は宣言によって創出されるのではな
い。この節で私は、言語と他の社会制度の間になぜこの非対称性があるのかを問いたい。第一に
構成規則「X を Y とみなす」は言語にとっても非言語的制度によって同じような仕方で働くようにお
もえる。そのため、私たちはバラク・オバマをアメリカ合衆国大統領とみなし、「Snow is white」を英
語の文とみなす。両方のケースで、何らかの種類の地位機能が創出される。さらに私たちは文
「Snow is white」の発話を、雪が白いという意味の陳述とみなす。注意すべき第二の明らかな類
似性は、遂行性が、非言語的制度的事実の創出に関して働くのと同じように、宣言による発話行為
の創出に関して同じ仕方で働くようにみえる。「ここに宣戦布告する」や「会議をここに休会する」と
いう発話は制度的事実、それぞれ戦争や休会についての事実の遂行的創出である。私は一部の
ムスリム国で男性が遂行的発話とともにその妻と離婚できるという話を聞いた。男は三つの白い
小石を投げながら三回「私はあなたと離婚する」と言うことだけ必要とする。そして同様に「私はあ
なたに会いに来ると約束する」や「私はあなたが部屋を去ることを要求する」という発話もまた遂行
的である;第一のものは約束を、第二のものは要求を創出する。しかしこれらの例で、私たちはふた
つの異なる種類の遂行性、私が「言語的遂行的」と、「言語外ないし非言語的遂行的」と呼ぶつも
りの遂行性を同定してきたことにことに注意してほしい。言語的遂行性は言語的行為、約束や要
求のような発話行為を創出する。非言語的遂行性は実際は言語的である(結局それは発話行為
である)が、それは離婚や休会のような他の種類の制度的事実を創出する。
言語的制度的事実と非言語的ないし言語外的制度的事実の違いは何か?注意すべき第一の
違いは非言語的制度的事実は存在するため言語的表象を必要とするということだ。だからオバマ
が大統領でありえ、私が教授でありえ、この自動車が私の財産でありえるのは、それらがそのような
ものとして表象される限り、これらの表象が集合的に承認ないし受け入れられる限りにおいてであ
る。だが英語の文は、英語の文であるため、さらなる言語的表象を必要としない。もしそうだったら、
それは無限後退に陥るようにみえる。「そのとおり、だがおそらくあなたの見解は無限後退に導くと
いう事実はあなたの見解を反駁し、言語と言語外的制度的事実の区別の証拠ではない」という人
がいるかもしれない。この区別をするために、私は意味(meaning)の概念を導入する必要がある。
その場合、意味は記号や印に充足条件を課すこと帰着する。そしていったんその概念を導入する
なら、私たちは構成規則が非言語的制度的事実に適用する仕方が、それを文に適用する仕方と本
当にまったく異なることを理解できる。だからオバマをアメリカ合衆国大統領とみなすなら、それは
みなすことの「操作」(operation)を明示する。私たちはそのように彼をみなすために何かしなけれ
ばならない。だが、「雪は白い」という文の発話を、雪は白いという意味の文とみなすという場合、
「とみなす」はこの場合操作を明示しない。むしろ、発話を特定の陳述とみなすという事実は、発話
の意味について「構成的」なのである。文の意味は、すでに、その適切な発話がそれ自体が対応す
る陳述を作ることについて構成的であるようなものである。だが、「オバマは大統領である」という文
の発話自体はオバマを大統領にすること、あるいは大統領であることについて構成的ではない。こ
こで私たちが用いている意味の概念は、発語内様式における命題的内容をもつ何かの概念である。
だから「雪は白い」という文は、雪が白いという事態を断定的に表象するため有意味である。だが
大統領ないし私有財産のアイテムはそのような仕方で有意味ではない。それは何も表さない、ある
いは表象しない。そうではなくそれはそれがもつ地位機能をもつものとして表象されなければなら
ない。さもなければそれは地位機能をもつことができない。
言語的制度的時事の遂行的創出はまったく非言語的制度的事実遂行的創出とは異なる。なぜ
か?会議を休会すること、宣戦布告すること、離婚するなどのケースで、私たちは文の「意味」に加
わる何かを必要とする。意味を創出する慣習に加えて、私たちは適切な人によるその文の発話を鍵
を休会すること、宣戦布告すること、離婚することとみなす意味の慣習ないし規則(convention or
rule)を必要とする。言語自体の慣習を超えて何らかの外的慣習、何らかの言語外的慣習がなけれ
ばならない。あなたは言語外的慣習が対応する制度的事実を創出するための力を与える。その特
別な力事態は言語によって創出されなければならない。だから戦争、休会、離婚についての非言語
的遂行性と約束することや要求することの間の明らかな並行性は、錯覚である。非言語的ケース
はその機能を遂行できるための地位機能宣言を必要とする。だが、言語的ケースはそうではない。
言語的ケースが必要なすべてのものは、意味である。遂行的文の意味はそれ自体その分を伴う発
話行為を遂行することを能力のある話し手に可能にする。それ自体地位機能宣言の遂行による非
言語的制度的事実の創出において、制度的事実の創出は狭く解釈された文の意味を超える。この
ケースで、私たちは言語の意味論を意味論を超える力を創出するため使用する。
この違いを理解するため、「雪は白い」の発話を対応する陳述をすることとみなす仕方と、バラ
ク・オバマをみなす仕方とを対照させよう。なぜなら彼は、合衆国大統領としてある条件を充足する
からである。「雪は白い」について発話が陳述を構成する仕方を理解するために必要なすべては、
文の意味を理解することである。だがバラク・オバマのケースでは、一群の憲法の条項がある。選
挙候補の投票の多数を得る誰もが、次期大統領とみなされ、そして次期大統領が合衆国首席裁
判官の前で宣誓するなら、彼は合衆国大統領とみなされる。「雪は白い」という文のケースでは、意
味が「とみなす」が生じることを必要とするすべてである。さらなる操作は必要ない。だが大統領の
ケースで、「オバマは大統領である」と言うという文では十分ではない。あなたは特定の手続にした
がって大統領と彼をみなさなければならない。そしてこれが意味の「構成」に対するものとして「操
作」と呼んでいるものである。あなたはその実際の操作におけるその適用に先立つ言語外的な慣
習をもたなければならない。
要するに二つの明らかな並行関係はともに錯覚である。公式「X を Y とみなす」は非言語的制度
的事実と言語では異なって働く。そして言語的制度的事実の創出では私たちは意味論的力を超
えた一群の義務論的力を創出するため意味、言語の意味論的力を用いる。意味論的力はただあ
る発語内的様式や他の様式で表象される力である。これらは遂行的発話を通じて発話行為を創
出する力を含む。だが非言語的制度的事実のケースでは、私たちが言語を用いるとき、表象以上
のことをする;私たちは表象されるそれを創出する。私たちは大統領の権力やお金や結婚の力のよ
うな言語外的な義務論的力を創出する。
私たちは次の図表でこれらの違いを要約できる。(8)
言語的制度的事実
非言語的制度的事実
創出の必要条件
言語の慣習
言語の慣習プラス
言語外的慣習
(それ自体言語により創出される)
構成的要素
発話が創出を構成する
特別な状況での発話と
ときには伴う行為が創出構成する
行為者
どの有能な話し手も
言語的制度的事実を
創出できる
通常話しては非言語的制度的事実を
創出するため特別な立場や
特別な条件を必要とする
今や、なぜ言語が根本的な社会制度であり、なぜそれが他の制度と同じでないかを私たちはさ
らに深く理解できる。他のすべての制度的事実は言語的表象を必要とする。なぜならいつくかの非
意味論的事実は表象によって創出されるからである。そのためお金、政府、私有財産は意味論に
よって創出されるが、すべてのケースで力は意味論を超えて創出される。意味は意味を超えた力を
創出するため用いられる。だが言語自体は意味を超えた力をもたない。それは20ドル紙幣につい
て「この紙幣はすべての私的公的債務のための法定通貨である」と言う。こんどはなぜなぜそれは
それに続けて「これは本当に英語の文であり、それはそれが言うことを意味する」と言う文を付け加
えないのか?私たちはその際に保証を見いだせるだろうか?紙幣上の文は地位機能宣言である。
それは紙幣が法定通貨であることを明確にする。だが私が想像した文は他の文が本当に文である
という意味に何ら付加的な明確化を付け加えることができない。言語それ自体はそれがその意味
を伴う文であることを決定する。
だから私たちの問いが「なぜ言語の義務論的力は他のすべての義務論的力が表象をもたなけ
ればならない仕方で言語的に表象される必要がないのか」だったなら、その答えはその義務論的
力は意味を超えるものであるかぎり表象されなければならないということである。意味それ自体は
あなたが誰かと離婚したり、会議を休会させることさえ可能にしない。あなたはなんらかの言語外
的慣習をもたなければならない。だが言語的に表象する文の能力は言語的表象能力を必要としな
い。それはすでに文の意味論に組み込まれているのである。
それ自体、意味(意味論)は、ひとつ以上の異なる発語内様式で、充足条件 ― 真理条件、実行
条件、従属条件など ― を表象しなければならない。だが非言語的地位機能宣言では、私たちは表
象以上のことをする。私たちは創出する。私たちは意味論を超える力を創出するため意味論の力を
用いる。
これまでの説明は、強い予言をし、私はそれを顕在化する必要がある。それは字義どおりの意味
だけが成功する遂行を保証するのに十分であるようなものに関する会議を休会する、宣戦布告す
る、誰かが夫婦であると宣誓する遂行動詞をもちえないという予言である。なぜならあなたはこれら
のものを行うため何らかの言語外的慣習を必要とするからである。言語的表象はそれ自体では十
分ではない。
だが、私が強調したいより深い点がまたある。私が語ってきた言語の能力のすべては伝統的に
考えられてきたような意味論を超えている。言語哲学の主流派には、字義どおりの意味の帰結とし
て私が記述してきた言語の特性を説明するだろう字義どおりの意味 ― モデル理論において、可能
的世界の意味論において、真理条件的意味論において ― の説明がない。私の議論では意味は
意味を超える現実を創出するために用いられる。ところでそれはなぜその問題がそんなに魅力的
かのひとつの理由である。私たちは意味論外の意味論の下位分野を研究しているのである。
最後に、私はあるアイロニーを記すことでこの節を締めくくりたい。私の最初の言語の説明、『発
話行為』(9) で私は言語を説明するためゲームと他の制度的現象に伴う類似性を用いようと試み
た。今や私はゲームの存在と他の非言語的現象が現に関連してのみ説明できると主張している。
あなたはゲームとのアナロジーを言語を説明するため用いることができない。なぜならあなたは既
に言語を理解している場合に限りゲームを理解するからである。
問い5:何が文字言語の特別な役割なのか?
いったんある部族が文字言語をえたなら、すべての種類の他の発展が可能になる。「この文字言語
の安定性が言語的表象それ自体を超えた何らかの物理的存在を必要としない地位機能創出と継
続的存在を可能にする」。このふたつの特徴的な例は文字言語の創出後はるかに遅れて発明され
たかなり現代的な発明である。実際の通貨のいらない現代的通貨の形式、特に電子マネーと、有
限責任会社である。
独立した Y 項のケースにおいて、地位機能Yが割り当てられる物理的対象や人はなく、結果的
に文字言語がこれら地位機能の創出と維持に一般的に本質的である。たとえば、お金はいかなる
物理的実現もなく存在しえる。口座収支を記録する銀行のコンピュータディスク上の磁気トレース
は実際にはお金ではないが、たとえそのお金がなんら物理しないとしても(これはなぜそれらを法
人 fictitious person と呼ぶ理由である)、いかなる負債額なしにあなたが支出できるあなたの口
座にあるお金の残高を表象する。そして目隠しチェスのゲームではゲームのコマはいかなる物理
的存在ももたない。それは単なる標準的なチェスの記法の表現によって表象される。これらすべて
のケースで、お金、企業、チェスのコマのような制度手的対象の表象の物理的存在があるが、制度
的対象事態の物理的存在はない。これらすべては書かれたもの存在によって可能とされる。という
もの書かれた記録は問題の地位機能の持続する表象を提供する。書かれたもの別の便益は、文
書は持続し、そのため、長期間にわたって問題の地位機能の存在を証明する。
さらに所有件の文書は、それがもつある種の地位機能の生命を獲得する。たとえば文書はその
所有者が資産に対して借金をすることを可能にする。また文書は国家に、資産の所有者に課税す
ることを可能にする。Hernando De Soto は所有権の文書をさもなければ貧しい土地所有者の
繁栄の発展における重要な要素とみなす。(10)
問い6:制度的事実が単に存在すると信じられるため存在する場合、どのように私たち
はそれについて驚くべき新たな事実を発見できるか?どのように社会科学は何
か新しいことを私たちに語ることができるか?
『構成』(11) について何人かの論評者、特に社会科学者たちは、コミュニティのメンバーが気がつ
かず、社会科学者が発見できる制度的事実がありえるか、を指摘した。だからたとえば、経済はコ
ミュニティのメンバーが、不景気や、景気循環の概念をもつことがなくとも、経済学者は不景気を経
験し、景気循環の局面を経験できる。私は私の説明で、制度的事実は存在すると表象される場合
に限り、存在すると言ってきた。だがこれらのケースでは、誰かがそれを存在すると表象することか
ら独立して存在し、誰かの意見から独立して発見することができる制度的事実があるようにみえる。
これらのケースについて私たちはなんと言えばいいのだろうか?制度的事実あ記述の下でのみ
そのようであり第一の記述、他のものが依存する記述は、何らかの形式で問題のコミュニティに
よって承認し受け入れられることを必要とする。この条件を満たさないように見えるケースは、一階
(ground-floor)の制度的事実の体系的副産物ないし結果(systematic fallout or
consequence)である。だから人々が売買し商品を所有し、お金に対しサービスを提供するという
事実は、一階の制度的事実である。そのような事実の総体は、景気循環や景気後退の一部として
記述することができるより高次の記述レベルをもつが、これらの副産物は一階の制度的事実によっ
て構成されている。Åsa Andersson(12)は、これらが、「ミクロ」の制度的事実によって構成される
「マクロ」の制度的事実と記述する。これらの反省は私たちの制度的事実の理解をより深めるだろ
う。
制度に関与する人々にとって、一階の制度的事実は存在すると表象される限り存在できる。だが
その制度的事実の集合とその固有の表象は、またそれ自体表象されない、される必要がない他の
条件もまた充足するだろう。瑣末な例を取り上げれば、野球で、統計的に、左打ちバッターは右投げ
ピッチャーをよりよく打ち、右打ちバッターは左投げピッチャーをよりよく打つことが発見される。これ
は野球の規則を必要としない。それはただ起きる何かである。私はこれらを「制度的事実からの三
人称の副次的事実」あるいはもっと短く、制度的事実の「副産物」(fallout)と呼ぶことを提案する。
それは「三人称的」である。なぜならそれは制度の参加者に知られる必要がないからである。それ
は三人称の、文化人類学的、視点から述べることができる。それは付加的な義務論を担わない。だ
から副産物はどんな力関係も創出しない。二期以上連続した四半期間の国内総生産の低下と定
義された用語「景気後退」(recession)は、もともと体系的な副産物を名指すのに導入されたので
あり制度的地位ではなかったが、議会が景気後退に義務論的地位を割り当てる法律の採択を決
定する場合、地位機能を伴う地位にたやすくなりえた(そしてすべてについて私はそれがそのように
すでになったであろうと知っている)。そのため、たとえば、議会は連邦準備委員会が景気後退の期
間、利率を調整することを要求することができる。そのようなケースでは、「景気後退」は地位機能を
記す地位用語となるだろう。なぜならその場合景気後退は義務論的力をもつからである。
単純に体系的副産物を発見するケースのクラスの興味深い論理的特性がある:あなたは志向
性相関的な現象に志向性独立的な事実をもつことができる。言い換えればいったん志向性相関
的現象が制度の参加者によって創出される場合、参加者であれ、他の者であれ、誰でもそれにつ
いてさらなる志向性独立的事実を発見することができる。そしていつもどおりテストは、人々がそれ
を今度信じない場合、過去に信じなかった場合、それはなお真なのだろうか?ということである。景
気後退のケースで、人々がそれが景気後退だと信じなかったとしても、それはなお景気後退であろ
う。それにもかかわらずお金の存在のケースや、大統領の存在のケースで、だれもお金が存在する
ととか、大統領が存在するとか信じることがない場合、これらのないし何らかの義務論的に等価な
記述の下で、そのような制度的現象は存在できない。ある現象が志向性相関的であるが、その後
その現象について志向性独立的事実を発見できるというあなたはパラドクスをもつ。そのためこの
説明に関して景気後退は心=依存的的であるが、志向性相対的ではない。
経済学において一回の事実は一般的に志向性相関的である。たえとばしかじかが、しかじかの
物を売買する。だが経済学者によって報告される事実は通常志向性独立的である。たとえば1929
年大恐慌が始まった。
別のクラスの現象は、外部の者がコミュニティのメンバーが気が付かない、そして受け入れさえ
しない仕方で実際の地位機能の体系を記述することができるケースである。だから、たとえば私た
ちは社会のメンバーがたとえ自らをレイシストと考えず、レイシズムの概念をもたないとしても、ある
社会を「レイシスト」と記述できるだろう Thomasson はこれが体系的副産物として景気後退の発
見の現象のようであると考えるが、私はふたつのケースはまったく別であると考える。人々が異なる
義務論的地位をもつものとして ― まさにその理由で異なる権利と責任をもつものとして ― 異なる
肌の色の人々を純粋に扱う場合、彼らは制度的事実をもつ。彼らがレイシストと自分を考えていな
いという事実は、関与しない。なぜなら彼らは実際に人種にもとづく義務論的地位をコミュニティの
メンバーに割り当てているからである。これは重大な点である:コミュニティのメンバーが人々や物
に義務論的地位を割り当てている限り、彼らはその義務論的地位を表象する何らかの仕方をもた
なくてはならない。なぜなら義務論的地位はそのように表象されることなしに存在できないからで
ある。義務論的地位が割当てられるものと同延の他の記述はありえるが、彼らがその義務論を承
認し続ける限り、コミュニティのメンバーは、それが現前する場合でも、これらの記述に気づいたり、
受け入れる必要はない。そうすることで彼らは制度的事実を創出し、維持する。私が彼らを「レイシ
スト」と記述し、彼らが自らその記述を受入れないことができるなら、彼らが制度的事実を創出して
いるかどうかには関係がない。
これは興味深い問いを提起する。そしてそれは、どの程度人々は地位機能 Y について誤ること
ができるかである。だから、たとえば、人々は天国でなされる場合に限りそれが結婚だと信じること
ができる。訳注 だが私の説明に関してたとえ天国でなされなくてもなお結婚である。重大な問題は、
どんな権利や義務がカップルはもつのか?である。コミュニティのメンバーはそれに結婚の地位を
与える場合、彼らがそれに誤った信念をもってそうしているかどうかは無関係である。しかしこの問
題についてはもっと述べる必要がある。誰かが聖なる力をもっていると、たとえばローマ法王が不可
謬であるとコミュニティが信じると考えてほしい。その地位機能は存在しないかもしれない尋常なら
ざる力をになると信じられる。それはなお地位機能であるか?さて私の定義ではそうである。なぜな
らローマ法王はない義務論的力をもつからである。カトリック教徒は彼を信じる義務のもとにある。
だがその力は地位機能として承認されない。ローマ法王はこんどは付加的な、信念が事実を超え
る物理的(超自然的)力をもつと信じられる。そしてその地位機能は正確に地位機能であるのでは
なく、宇宙についてのナマの志向性独立的な事実と信じられるために地位機能とし働くだけである。
制度的事実あるいは実際地位機能の全体系の受け入れは、誤った信念にもとづいているかもし
れない。その信念が真か偽かは問題ではない。極端なケースでは、制度的事実はそれが制度的事
実である信じられないためだけで機能しないかもしれない。そのようなケースでは集合的受け入れ
は義務論的力だが、何らかの信念のためだけで受け入れられる。
問い7.なぜ制度的事実の陳述は通常、内包的(intensional-with-an-s)なのか?
制度的事実は言語的表象によって創出され、部分的にその表象によって構成される力の関係にあ
る。それがなぜこれらの事実の陳述がつねに外延的でないかの理由である。陳述は表現を与える
ことの代用可能性のようなテスト(ライプニッツの法則)で失敗する。たとえば「とみなす」は内包的
文脈を創出する。それはクワインの用語では指示的に曖昧(referentially opaque)である。
1. 2008年の選挙の勝者として、バラク・オバマを現在のアメリカ大統領とみなす。
2. 現在のアメリカ大統領はミシェルの夫と同じである。1と2は必然的に伴わない。
3. 2008年の選挙の勝者として、バラク・オバマをミシェルの夫とみなす。
オバマはそのように表象される限り、大統領か夫かだけである。そして一方の表象に対する条件は、
他方を必然的に伴わない。
実際量化論理、なんらかのトピックを形式化するための哲学者のお気に入りの仕掛けは制度的
現実を議論する際ほとんど助けにならない。私たちが議論した法人を創出するようないくつかのの
ケースについて、あらかじめ存在する物の領域をカバーする普遍的に量化された規則をもつことは
訳注 原文:”It is a marriage only if it is made in heaven.”は格言”Marriages are made in
heaven.”/「縁は異なもの」にもとづくダジャレ。
できない。そしてさらに興味深いことに、私たちはxが法人であるような何らかのxがあるという意味
を持つ存在の量化の形式をもつことさえできない。なぜなら、仮定により、法人になるあらかじめ存
在するxがないからである。私が引用したように規則の一般形式はしかじかの発話行為を企業の
創出とみなすということである。だから特定の法人の創出の論理形式は次のとおりである:
あるxについて、xは法人 Y となる。
For some x, x becomes the corporation, Y.
そうではなくその形式は宣言のそれである。
企業 Y が存在することを宣言によって私たちは真とする。
We make it the case by Declaration that the corporation Y exists.
量化論理の意味論の標準的説明において、量化子は存在するモノの領域をカバーする。だが地
位機能をもつ実体の創出のケースではそのような領域は存在しない。
銀行による通貨のないお金の創出は、異なる論理構造をもつ。中央銀行以外の銀行を検討する
場合通常銀行はそれがもたないお金のローンを発行することでお金を創出する。再びこれは宣言
である。バンク・オブ・アメリカがジョンズに1000ドル貸すと仮定する。その宣言はこの形式である:
われわれバンク・オブ・アメリカはここにジョーンズに1000ドルを貸し、それを彼の名の下に
1000ドルの預金残高をもつ口座を開設することによって行う。
これは大変おもしろいケースである。なぜならお金の創出が標準的に経済学の教科書で記述され
るようにそれは一部、一階の事実というより制度的事実の体系的副産物であるからだ。制度的事
実はお金を貸していることである。銀行員は銀行がもっていないお金を貸していることによって、銀
行が実際に経済において利用可能なマネーサプライに加える事によってお金を実際に創出してい
ることに気づいていないかもしれない。
だから X としての発話行為は、ジョーンズが地位機能 Y をもっていること、地位機能 Y、1000ド
ルの所有者を真にする。しかし1000ドルには物理的実在は必要がない。ただ表象だけがある。
重大な点を繰り返せば、すべての制度的現実の創出の論理的構造は遂行性の構造と同じであ
る。あなたは何かを真と表象することで真とする。だがこのケースで、宣言はローンがあったことを
真とした。お金の創出は体系的な副産物であった。
お金の創出が体系的副産物であり、宣言の内容でないという証拠は何か?銀行がしようとして
いることを自問してほしい。銀行はジョーンズにお金を貸そうとしているのであり、経済におけるマ
ネーサプライを増やそうとしているのではない。これが証拠である。連邦準備委員会が経済からお
金を取り除くことによって経済におけるお金の総量を一定にすると決めると考えてほしい。やはり、
ローンは、たとえ体系的副産物が生じないとしても、続くだろう。
問い8:制度的現実の創出における想像力の役割は何か?
地位機能は存在するものとしてそれを表象されない限り、本当は存在しない。ある意味で私有財
産の、結婚、政府の存在には想像力の要素がある。なぜならそれぞれのケースで、私たちは本来的
ない何かとして、何を扱わなければならない。この人間の能力の個体発生の発達に関する限り、人
間の子どもたちは非常に早く、制度的現実創出や維持の特徴である思考のこの二重のレベルを
行う能力を獲得することを指摘する価値はある。小さな子どもたちは、お互いに「オーケー、ぼくは
アダムになる、君はイブだ」と言うことができる。ひとがそれについて考えることを自ら認めるなら、こ
れは唖然とする知的特徴である。それは Tomasello と Rakoczy が私に指摘した。(13) そしてそ
れは制度的現実を創出する人間の能力の個体発生的起源であると考えるのはもっともなようにお
もえる。お伽話で私たちが現実的ではない X を Y とみなすことができるなら、大人になって、どのよ
うに X を Y がある種の存在をもつ Y とみなすことができるかを理解するのはまったく難しくない。な
ぜなら、それはたとえ Y の特徴が自然の本来的特徴ではないとしても、私たちの社会生活を規制
し、権限を与えるからである。あなたは言語なしにこのいずれもできないことに注意してほしい。子
どもたちが思考を形成し、表現するなんらかの言語的媒体を持たないなら、彼らは「ぼくはアタムに
なる。君はイブだ。そして僕たちはこれをリンゴにしよう」と考えることはできない。さらに重要な点は
があることに注意してほしい。子どもたちは通常言葉自体については考えない。一般に子どもたち
は「この塊を言葉にしよう。そして僕たちはそれがしかじかを意味するつもりになろう」とは言わない。
小さな子どもは、お伽話でナマの事実と制度的事実に対応する二重のレベルで考えることができ
る。だが同じことを言語についてすることは難しい。大人は言語に関する場合同様の盲点をもつ。
言葉と意味の違いを理解することは全然難しくない。だが言語を使わず考えることや、言語がまっ
たくないように生活することを想像することは大人にとっても非常に難しい。社会的現実について
哲学化したと私が考えることができるすべての偉大な哲学者たちは言語を当然のこととしている。
彼らはひとびとが 言語をもち、「どのように人々は社会を形成するか」と尋ねた。この本の主要な
テーマのひとつはいったん共通の言語をもつなら、あなたは既に社会をもつということである。
VI. 結論
制度的社会的存在の人間の形式の唖然とする多様性にもかかわらず、すべての構造を基礎づけ
る単一の論理的原理とその原理が実際の制度で実現される仕方の小さな集合があると確信して
いる。基本的で単純な考えはすべての非言語的制度的事実は、宣言と同じ論理的形式をもつ発
話行為によって創出され、維持されるということである。
私はこの一般原則が実現される三つの方法を見出した。第一の方法で、私たちは単に場当たり
的に地位機能を創出する。たとえば部族は誰かを、単に指導者として扱うことでその指導者とする。
第二の実現の形式は、持続的な宣言、構成規則をもたなければならず、これはおそらく発達した複
雑な文明にとってもっとも共通の形式である。第三の方法は実際は第二の方法の特別なケースで
あり、規則が働くいかなる実際の人や物を必要としないが、単に宣言により実体を創出する。この
第三のタイプの構成規則は、通常制度的事実を創出する他の宣言に権限を与える宣言である。
第6章 自由意志、合理性、制度的事実
I. 義務論的力
これまで、私は制度的現実の構造を記述してきた。そして今度は人間の性格におけるこれらの制
度が実際にどのように機能するかについてさらに語る番である。もちろん人間の制度は、宗教から
国民国家、スポーツ・チーム、企業まですべての仕方で莫大に変化する。そして私はそれらについ
て経験的一般化を行うつもりはないが、人間ではない動物の生活で、私が知っているようなもので
はない仕方で人間の生活で機能を可能にする共通にもついくつかの純粋に「形式的な」特徴を単
純に同定するつもりである。私は制度的事実が義務論的力(deontic power)を伴う義務論
(deontology)を私たちに提供すると言うことによってこの形式的特徴を記述してきた。どのように
制度的事実が人間の行動で実際に機能するかについて語る時が来た。義務論的力の普通の名
前は、「権利」(rights)、「義務」(duties)、「授権」(authorizations)、「要件」(reqirements)、「許
可」(permittions)、「資格」(certifications)である。これらの名詞は重要な様相助動詞、「すべき」
(ought, should)、「できる」(can)、「しなければならない」(must)に結びついている。そのため、た
とえば私は明日朝午前8時に講義を「しなければなない」、なぜなら私は学生と大学の両方に対し
て、その時間に講義をする確固とした「義務」を負うからである。(1)
これらは、義務論的力が行為の欲求独立的理由を私に与えると言った時、念頭にあった種類の
ものである。この章の目的のひとつは、どのように行為のそのような理由がありえ、またどのように
制度的事実がそのような理由を表象するかを説明することである。しかし、それが制度的事実の唯
一の趣旨であったなら、それらは私たちにかなり陰鬱な生活を与えることになるだろう。制度の主な
要点は、それらは莫大な可能性を創出するということである。だからたとえばお金、結婚、アメリカ合
衆国大統領の制度がないなら、あなたは大金を稼ぐことも、結婚することも、アメリカ合衆国大統領
になることもできない。そしてこれはまた非公式で非成分的な制度についても真である。あなたは
対応する地位機能なしに、情熱的な恋愛もをしたいとか盛大なディナーパーティーしたいとかする
ことができない。私が繰り返し繰り返し強調したように、制度の存在は、莫大に人間生活を可能にし
ており、さもなければ考えることができないすべての種類の可能性を私たちに与える。私たちは私た
ちとは異なる種の進化した霊長類にさえ知られていない可能性をもっている。
人間の制度的事実は人間の合理性と不可分である。それは行為のための私たちの理由に現れ
る。私が制度的事実がどのように機能するか説明しようとするなら、私はまず、合理性についてと行
為の理由について少し語らなければならない。これは非常に大きな主題である。私はそれについて
かなり長い本を書いた。(1) 私はここでその詳細のすべて、あるいは多くさえ、繰り返すつもりはな
い。だが、私は制度的現実が合理性にどのように関係するか理解できるように合理性の十分な図
式を示したい。
古臭い三段論法を検討してほしい。
1. ソクラテスは人間である。
2. すべての人間は死ぬ
3. それゆえソクラテスは死ぬ
論理の問題として、1と2は3を含意する、ないし必然的に伴う。そしてそれは何を意味するのか?
さて一部はそれは1と2が真である場合、3は真でなければならないことを意味する。これまでの趣
旨のすべてはこれら三つの陳述の意味論についてである。1と2が真ならば、3は真でなければなら
ない。さてそれは人間の合理性とどう関係するのか?さてこれら論理的趣旨を信念、推論、知識の
ようなある種の心理学的概念に結びつけるなら、あなたは次のように結論する。1と2が真であると
信じるなら、あなたは3を信じることに「コミットする」。あなたが1と2が真であると「知る」なら、あなた
は3の真を推論するのは「妥当である」。
このすべてはいわゆる理論的理由についてであり、何を信じ、推測し、結論するかについての推
論である。だが実践的推論と呼ばれる合理性の別の形式がある。それは何をすべきか、何をしなけ
ればならないかについての推論である。実践的理由の議論の形式を検証しよう。
私が窓の外を見て、「私は雨が降っているのを見る」と記述する経験をもつと考えてほしい。この
経験に基づいて、私は雨が降っていると信じることになる。さてまた私が外出すると計画し、雨に濡
れたくないと考えよう。また私は、傘をさすことによってのみ雨に濡れるのを避けることができると信
じると考えよう。これらの検討に基づいて、私は傘をさすと結論する。細かい点を除けば、私たちは
これを三段論法のようにすることができる。
1. 私は濡れたくない。
2. 私は傘をさす場合にのみこの状況で濡れないと信じる。
3. それゆえ、私は傘をさす。
理論的理由のケースでは、論法の結論は信念に導いた。実践的理由のケースでは、論法の結論
は意図ないし場合によっては行為に導く。この導出における第三段階は事前の意図ないし予言の
表現である。
これはアリストテレスが「実践的三段論法」と呼んだ例である。行為自体は実践的三段論法の
結論であるかもしれないとアリストテレスで冷笑するのが通例だ。だが私の行為の説明では、その
概念には全然不合理なものは何もない。行為自体は志向的命題内容、行為中の意図をもつ。そし
て事前の意図と同じく行為中の意図は、単に「私は濡れたくない」「私は傘をさす場合にのみこの
状況で濡れないと信じる」。そして命題内容は私の行為中の意図、傘をさすという結論の命題内容
で表明された場合、私は単に傘を開いて、屋外に出る。
この実践的三段論法の例で本質的な「前提」は、私が濡れないでいたいという欲求である。これ
は行為の欲求依存的理由(desire dependent reason for action)の例である。そしてそのよう
な実践的三段論法の欲求に基づくケースは普通、二種類に分かれると考えられる。何らかの目的
がそれ自体のため欲求される場合と、何かがそれ自体のため欲求される何らかの目的に対する手
段として欲求される場合である。後者の推論のタイプは「手段-目的」推論(“meansends”reasoning)と呼ばれる。そして傘のケースは、教科書的例である。他方、私がただビールを
飲みたい場合、そして私がビールを飲むなら、ビールを飲むことはなにかさらなる目的のための手
段ではない。それはそれ自体のため欲求される。だが傘をさすこととビールを飲むことの両方の
ケースで、行為に導く推論は欲求依存的である。
制度的事実の検証を続ける前に、私はこれらすべてケースで起きることを記述するための用語
法を導入したい。私はその例がたいへん退屈であることを遺憾に思うが、それはどのように制度的
事実が実践的推論を表すかについての私たちの検証において必要とするいくつかの重大な装置
を私が導入することを可能にする。理論的理由と実践的理由の両方で、推論のプロセスで操作さ
れる要素はつねに完全な命題内容をもっていたことに注意してほしい。たとえば、私は雨が降って
いるのを見る。私は濡れないことを欲求する。この状況で濡れないでいられる唯一の方法は傘をさ
すことであると私は信じる。推論のプロセスのこれらの要素 ― 視覚経験、欲求、信念など ― は完
全な命題内容をもっている。そしてこれは合理性の一般的特徴である。合理性と推論はつねに完
全な命題内容をもつ実体を扱わなければならない。欲求、信念、知覚のような志向的現象がありえ
る。それらは雨が降っているという事実のような世界の事実がありえ、義務、権利、責任のような現
象もまたありえる。私は 命題構造をもつこれらすべての種類の実体に一般的名前を導入する:私
はそれを「作為的実体」(factitive entities)と呼ぶ。訳注1この点でこの名前を強調する理由は、義
務、要件、責任その他のような行為の欲求独立的理由のすべてが作為的実体になるだろうという
ことであり、そしてそれらが合理性と推論のプロセスに現れることができるのはその理由のためで
ある。
私は行為における合理性を理解するために重大であろう四つの他の概念を導入したい。これら
四つは理由全体(total reason)、動機要因(motivator)、作用要因(effector)、構成要因
(constitutor)の概念である。訳注2私は例によってこれらを説明したい。誰かが私に「なぜあなたは、
訳注1 “factitive”は「作為的な」だが、通常“a factitive verb”で作為動詞で用いられるだけである。さくい動
詞は目的語と補語をとるたとえば make+O+C で、「O を C にする」など。
訳注2 “motivator”等は言語哲学の慣習に習えば、「動機付け子」等とすべきだが、アリストテレスの「作用
因」(英:reason;motive)からの派生とみなし、かつそれと区別するためそれぞれ動機要因、作用要因、構成
要因と造語した。
傘をさすのですか?」と尋ねたら、私はさまざまな異なることを言うことができる。私は言う。「濡れた
くないんだ」と言うことができる。私は「雨が降っている」と言うことができる。あるいは「私は濡れな
いために傘が必要なんだ」とさえ言うことができる。これらのそれぞれは行為の理由を述べている。
だがそのような理由は行為の理由全体の一部である場合に限り理由でありえる。このケースでの
行為の理由全体は欲求と信念からなる。濡れたくないという欲求と私が濡れない唯一の方法は傘
をさすことだという信念でありうる。このケースにおける理由全体は、私が濡れたくないという目的
(のための欲求)と、私が傘をさす手段(についての信念)の両方を含む。信念と欲求の両方は、作
用的実体であるが、私が以前述べたように、それらは異なる適合方向をもつ。欲求は上向き、ないし
世界から心への適合方向↑をもち、信念は下向き、心から世界への適合方向↓をもつ。このケース
で、濡れたくないという欲求は傘をさすための動機を提供し、私は問題の作為的実体が上向きの
ないし世界から心への適合方向↑をもつこういう理由のようなすべてを動機要因と呼ぶ。そして私
はこの例である別の一般的主張をしたい。すべての行為の理由全体は、その動機要因が上向きの
適合方向をもつ欲求や義務のような作為的実体からなる、少なくともひとつの動機要因をもたなけ
ればならない。私はこの短い説明を完成させるため、他のふたつの専門用語概念を必要とする。作
用要因の概念と構成要因の概念である。通常の手段目的推論において、私たちは結果としての目
的を引き起こす手段をもつ。私はこのような手段を「作用要因」と呼ぶ。そのため、たとえば、傘をさ
すことは濡れない目的に対する作用要因である。作用要因は実際のないし潜在的な原因である
が、すべての実践的理由のすべてのケースが、特定の効果としての結果を達成する因果的プロセ
スを見出すケースではない。場合によっては、推論は結果を「構成する」が、「引き起こさない」何か
に導く。だから、たとえば私がフランス語の文を発語することを欲し、文“Il pleut”を発語するこの
欲求を私が充足させるために、私が“Il pleut”を言うことは私がフランス語の文を発話することを
「引き起こす」ことはない;それは私がフランス語の文を発話することを「構成する」。私はこのよう
な作為的なものを「構成要因」と呼ぶ、傘をさすことは濡れないでいることの目的に対して作用要
因である。“Il pleut”を発語することは、フランス語の文を発語することの目的に対して構成要因
である。
私は、次の通り実践的理由を分析するための形式的装置のこの手短な表現を要約できる。すべ
ての理由は作為的実体である。作為的実体は理由全体の部分である場合にかぎり理由として機
能する。そして理由全体は少なくともひとつの動機要因をもたなければならない。それはまた構成
要因と作用要因ももつことができる。さらに論法や推論がよい場合には、構成要因、作用要因、動
機要因の間に体系的に論理的な関係がなければならない。
多くの哲学者たちは私が記述してきた種類の推論、行為についての欲求に基づく推論が存在
する行為についての唯一の種類の推論だと、すべての合理性が欲求に基づいていると考えている。
この主張については場合によっては大変魅力がある。なぜならすべての自発的行為はその時そこ
でまさにその行為を遂行するための欲求の表現であるからである。私が歯を削るために歯医者に
行くなら、それは私が歯を削るのが楽しいからではなく、歯を削ることが私が欲求する目的、良い歯
をもつことに対する手段だからである。だがやはり私が歯を削りに行く場合、それはその時そこでし
たいことである。良い歯をもちたいという私の「基本的」欲求は歯医者に行き、歯を削ってもらうと
いう派生的欲求につながる。(2) だから歯を削ってもらうという私の欲求は欲求依存的な欲求であ
る。それは第一の欲求、良い歯を手に入れる欲求に依存している。だが今度、私たちが異なって機
能する欲求の興味深いクラスにいたる。これらは私が行為の欲求独立的理由と呼んできたもので
ある。そしてそれは義務、権利、責任などを含む。私が論じようと思うことは、行為の欲求独立的理
由を創出して、それに基づいて行為する合理的能力をもつということが人間の特色だということで
ある。私はそれをもつどんな非―人間動物のことを知らない。そして他の動物がそれをもつとは私
には思えそうにない。なぜならそれは言語を、実際行為の欲求独立的な理由を創出し、それを述べ、
それに基づいて行為するためのかなり特殊な種類の言語をもたなければならないからである。
人間の制度的合理性は人間の合理性に組み込まれている。これこそ合理性に構成的力を与え
ものである。これこそ合理性が人間社会を創出する仕方であり、これこそ多くの、おそらくすべての、
他の動物から人間を区別する仕方である。アリストテレスは人間が「唯一の」合理的動物であると
考えたのは間違いであった。なぜなら他の動物も、たとえば、目的手段の推論を行うことができるか
らである。だが人間の合理性の程度、範囲、力は他の動物のそれをはるかにしのいでいる。なぜな
ら私たちは、私が知っている他の動物の言語的能力とは異なる言語のための特別な能力をもって
いるからである。
私が明日講義をする義務を検討してみよう。私は講義をしたかろうと、なかろうと義務を負う。そ
して私は私がその講義をするのに必要な手段についてさまざまな信念をもっている。たとえば、私
はキャンパスへ自動車を運転し、講堂へ歩かなければならない。講義を準備するようなことをしなけ
ればならないというさまざまな他の物がある。だがここで興味深いのは、講義をする義務は欲求独
立的であるということである。さて正確にそれが意味するのは何か?私がその時したいような気が
することから独立した、それをする理由をもつということを意味している。たとえ私がこの特定の日
に講義をしたいような気がしないとしても、あるいは私がそうでなかったとしても、やはり、私は私が
そうする義務を負うことを承認する場合、自分の欲求から独立した、そうする理由をもつことを承認
する。私の義務は動機要因であり私の義務の承認は行為の欲求独立的理由の承認である。私が
してきた説明で、義務としての何かの承認は単純な気分以上の高次のレベルにおける表象を必要
とする。それは私たちの一階(first-order)の信念と欲求を反省し、変え、無視する能力を私たちに
与えることができる義務の承認のような物である。それはこの、言語に基づく合理性を言語を必要
としない合理性から区別することについて語っている欲求独立的な行為の理由の種類の第二レベ
ルの特徴である。
だが、今度、私たちは明らかなパラドクスに出会う。私はすべてに意識的自発的行為はその行為
を遂行する欲求のその時そこでの表現であると言った。私が何か不満足なこと、さもなければした
くないことをしている場合、同じことだが、私がそれをその時そこで行っている場合、意図的かつ自
発的に、それはその時そこで私がしたいことである。たとえば、私がさもなければ痛みと歯を削る不
愉快さを被りたくない場合、やはりそれはその時そこで私がしたいことである。歯を削ってもらうた
めに歯医者に行く。だが私は良い歯をもつ目的の手段としてそれをしたい。だから良い歯をもちた
いという欲求存的理由は、歯を削ってもらうことの欲求依存的理由となる。義務のケースについて
パラドクス的なのは、義務を果たすことを構成することを行う独立したなんらかの欲求がある必要
がないということである。だからこのようなケースにおける推測のパターンは、私が義務の妥当性を
承認するということである。義務の承認に基づく場合、私は義務を果たすことを構成する何かを行
う欲求を形成する。その場合義務の承認は、一体どのように私を動機づけることができることが可
能なのか?その答えは、私が義務の妥当性を承認し、私が行う義務を負うことをする妥当な理由を
私に示す物と承認するため、その場合義務は、私が行う義務を負うことをする欲求の根拠でありえ
る。ようするに欲求は義務に由来する。あるいはより厳密に言えば、欲求は義務の承認に由来する。
そして義務は欲求に由来しない。義務は行為の「欲求独立的」理由であることができるにもかかわ
らず、行為を「動機づける」。なぜなら義務は義務を果たすことを構成する行為を遂行するための
「欲求の根拠」でありえるからである。だから私は構成要因 ― 講義を行うこと ― を充足する別の
動機要因 ― 欲求 ― の根拠を形成するある動機要因 ― 義務 ― をもつ。
私が義務が欲求に基づく「ことができる」と言うことを強調し続けるのは重要である。私は義務を
承認する誰もが義務を果す傾向性があることが論理的必然性の問題として帰結すると私は思わ
ない。何かをする欲求独立的理由の承認は、すでそれを行う欲求について根拠の承認である。だ
が現実の生活でそれはつねに働くわけではない。人々が妥当だと承認するが、行う義務を負うこと
を承認しないことを行わない多くのケースがある。このケースにおいて、義務は動機づけに失敗す
る動機要因である。
だから、私たちはパラドクスとそのパラドクスの解決を再論できる。そのパラドクスは、行為の欲求
独立的理由がありえるが、同時にすべての行為はその行為を遂行する欲求の表現でなければなら
ない。パラドクスの解決は、欲求独立的理由の承認は、たとえそれが行うことが論理的に不可避で
はなく、経験的に普遍的でないとしても、欲求を根拠付け、それゆえ欲求を引き起こすことができる。
義務論力の体系が働く仕方は、その場合人間の合理性によってである。これは、もっとも習慣的
なケースで、私たちがまったく問題について考える必要がないという事実によって私たちとは異なる。
私たちは、潜在的な論理構造に関して反省することなく、日々の義務を単に実行する。それは、私が
今行おうとしているように、いつでも前景に出すことができ、反省することができるが、私たちのバッ
クグラウンドの性向の一部になる。私は以前私が言及したことを強調した。そして合理性の機能に
おける欲求独立的な理由の関係が、私たちが信念や欲求の根拠について反省することを可能に
する高次の表象として機能できるため言語的に表象されることをそれは必要とする。言語を私が
記述しようとしている種類の完全な義務論に本質とするのはこの特徴である。ひとつの潜在的な
点は完全に顕在的にされる必要がある。行為の欲求独立的な理由は、行為者がそれを妥当だと
承認される場合に限り、行為者に機能する。その場合行為者にとってのすべての欲求独立的理由
は行為者によってそのように創出されるという意味がある。私はこの点について後にまた戻るつも
りである。
これら義務論的理由が他の動物種を特徴づけない仕方で時間を組織することを強調するのは
重要である。私たちにとって、時間が季節や、日の出と日の入りの循環の様なものによって組織さ
れる場合には、私たちは他の意識的動物種と似ている。だが一群の欲求独立的な理由を創出する
ことによって、人間はまたまったく恣意的な仕方で時間を組織できる。私は私たち双方の都合に合
わせて昼や夜のどの時間でもあなたと会う計画ができる。私たちは義務論的力の体系の中にいる。
目的としてでない場合、少なくとも手段として、人が行うことを独立して欲求しない何かをするた
めの動機をひとは決してもつことができないと、哲学史の多くの人々は考えてきた。有名なのは、
ヒュームが「理由は情熱の奴隷であり、またあるべきである」と論じたことである。(3) またバーナー
ド・ウィリアムズは「外的理由」、すなわちあらかじめ存在する動機の集合に訴えない理由は存在し
ないと論じた。(4) この反対に答える方法は、合理性自体の本性に訴えることである。そしてどのよ
う人がさもなければ欲しなことについて行為するように動機付けられうるかを理解する最善の方法
は、さもなければ信じない命題の真理を受け入れるよう動機づけられうるかを理解することである。
私が非常に悪い結果を示す医療診察を受けるなら ― 私が末期的病気で余名ニヶ月に満たない
と語られると仮定しよう ― 私はそれを信じたくない。やはり、合理性は私がそれを受け入れること
を要求する。このケースで、私はそれを受け入れることに欲求独立的な理由をもつ。これに対する
答えで、あなたは「さて、それはあなたが真理を信じることを欲求しているからだけさ」と言うかもし
れない。その通りだが、私が真理を信じる必要条件は信念の概念に組み込まれている。あなたは偽
ではなく真をのぞむことなく信念をもつことはできない。なぜなら信念は真へのある種のコミットメン
トだからである。このケースで、行為の欲求独立的理由のケースにおけるように、「欲求が理由の根
拠であるのではなく、むしろ理由が、欲求の根拠なのである」。有名な例を上げれば、私が約束をし
たことを承認する場合、私は約束を守る欲求独立的な理由をもつ。そして「そのとおり、だがそれは
あなたが約束を守りたいからにすぎない」と言うのは間違いである。私は実際約束を守りたいが、
約束を守る欲求は、約束の本性がそれを守る欲求から生じるのではなくむしろ、約束をすることの
本性から生じるのである。 ヒュームとウィリアムズの両方における合理性の誤った概念の背後にある真理はこうである。私
を実際に動機づけることができるだけの世界における事実、あるいは私が負う義務のような外的動
機要因は、私がなんらかの志向状態の形式で外的動機要因を内面化する場合、合理性を課すこ
とを通じて私の行動で成功することができるだけである。そのため、雨が降るという事実のような世
界の事実は、私が例えばそれを「知覚」したり、それによってそれを信じるようにな場合に限り、私の
行動に影響をあたえることができる。同様に、私が負う義務は、私が義務を「承認」し、その承認に
基づいて、行う義務を負うことをするのを欲求を形成する場合に限り、私の行動に影響をあたえる
ことができる。
合理性が行為者に義務的であるために、制度的事実に含まれた行為の欲求独立的な理由は顕
在的、潜在的にその行為者によるものとして創出されなければならない。そのような理由は、行為
者が、たとえば、売買し、結婚し、約束することによる行為の行程に明らかに自らコミットする場合、
顕在的に創出される。行為者が家族の一員である、国民である、親友であるというようなことを自
覚しする何らかの状況の力に航されることを承認する場合潜在的に創出される。この議論を完全
に発展させるため、この本の範囲を超えた複雑な仕事であろう。だが、基本的な直感的考えは単純
に述べることができる。特定の行為者にとって、行為の欲求独立的な理由の存在を主張する何ら
かの陳述をするとする。つぎに、この陳述によって報告されるどんな事実が、その行為者に対する
妥当な主張を構成するのか?自問してほしい。たとえばオーストラリアに人々のグループが集まり、
私が彼らに1000ドル支払う義務を負うと決定したとする。「X を C で Y とみなし、私たちはこの文脈
で私たちにお金を貸す誰かとしてあなたをみなしている」と彼らが私に考える。私が実際そのような
義務を引き受けないなら、何らかの理由で彼らが私に妥当な主張をもたないなら、彼らの主張は効
力をもたず、申し立てられた義務は存在しない。今度は、このケースを、私が約束を顕在的にするこ
とによって、あるいはたとえば私の家族のメンバーであると自分をみなす状況における潜在的なな
義務を承認することによって、そのような理由を創出したケースの種類とを対照してほしい。多くの
人々は単純に彼らが自身を見出す社会的状況と、無反省に上手くやっていく。だがこれは不誠実
あるいは悪意の形式にまで達しえる。なぜなら彼らは彼を合理的に拘束するが、その問いについて
考えなかったなら創出されなかったかもしれない欲求独立的理由を創出しているからである。
II. なぜ社会はこの構造をもたなければならず、他の何かではないのか?
これまで、私は制度的現実の説明を示し、どのように制度的事実が行動を動機づけることができる
か説明しようとしてきた。私の説明が広く行って正しいとこの議論に関して仮定しよう。すなわち制
度的構造が、地位機能の割り当てと維持のこれらの内容が宣言の論理的形式をもつ表象のタイ
プによって創出され維持され、機能が集合的受け入れないし承認がある場合遂行されることがで
きるるだけである、集合的承認の形式で通常集合的志向性の問題であると仮定しよう。
問いが自然に生じる。「なぜそれはそのようでなければならないのか?」。すなわち人はすべての
種類の社会を組織する他の仕方を想像できる ― だからなぜ人間社会はこれらの特定の形式を
進化させたのか?私たちはある種の生物学的獣性(beast)をもっており、またある種の制度的構造
をもつ。なぜ私たちのその種の獣性は私たちがもつ種類の制度をもつのか?
いつものとおり「なぜ」の問いは、いくつかの異なる仕方で曖昧である。私たちが尋ねている問い
のひとつは、制度的現実をもつことの長所は何か?である。私はその問いに答えるのはかなり簡単
だと思うが、もっと難しい問いは、制度的構造をもつことが明らかな長所がある場合、何が私たちが
もつ構造の特定の論理形式をもつことの長所なのか?である。そしてさらにこれらの構造をもつこと
に何らかの「必然性」はあるのか?他の構造も私たちにその長所をあたえるのと同じように働くので
はないか?
私はこれらのすべての問いに対する答えを知らないが、この章の目的のひとつは、その一部を探
求することである。私が示唆しようとしている答えは次の事実の周囲に中心がある。私たちは強い
られない意思決定をする感覚をもっているという特別な種類の意識をもっている。私たちは、あるも
のを選ぶが私たちが何か他のものを選ぶことができたという感覚を持つ種類の意識をもっている。
そのようなケースで、私たちは意思決定と行為の間の、行為の決定と行為の間の「因果的ギャッ
プ」訳注 を感じる。私たちは理由に基づいて行為するが、その理由は、私たちの意思決定と行為に
とって因果的な十分条件を通常決定しない。たとえば、私は前回の大統領選挙で、特定の候補に
投票したが、私は十分等しく、他の候補に投票できた。私が他でなくある仕方で投票する気にさせ
た理由は、私にそう強いたのではなかった。ライプニッツの有名な言葉を借りれば(ただし彼が意図
しなかった意味で)、理由は「必然性なしにするする気になる」(incline without necessitating)。
哲学におけるこのギャップの伝統的名前は、「意志の自由」である。私はこの表現を使うのはたい
へん気が進まない。なぜならそれは非常に汚れた歴史をもっているからである。だから大部分で私
は、理由の形式における私たちの意思決定と行為の原因と、私たちが行い遂行する実際の決定と
行為の間で経験されるギャップを名指すのに、「ギャップ」という表現を使い続けるつもりだ。私が
提示し、探求したいテーゼはこうである。人生の可能性は、私が記述した種類の制度的構造をもつ
なら、莫大に増加する。だが、より重要なのは、「私たちのギャップの意識的経験がある場合、ひとが
想像できる種類の他の構造はその任務を果たさないだろう」ということである。私はギャップがない
なら ― すなわち自由の意識がないなら ― 制度的構造は無意味であると論じるつもりである。だ
がギャップがあれは制度的構造は本質的である。ギャップが幻想であることはまったく可能である
が、それはこの議論にとって問題ではない。私たちは私たちが意思決定をする場合、ギャップを前
提しなければならない。だからたとえ、ギャップが幻想であったとしても、私たちはそれを振り払うこ
とができない。
III. 工学問題として社会の構成
これらの問いを解決する際、私はあたかも工学の問題であるようにある哲学的問題を扱う戦略を
訳注 “gap”、飛躍とされることも多い。
続けるつもりである。この場合、私は工学の問題として社会の構成を想像するつもりである。あなた
が、いわばゼロか作業をする場合、どのように社会をデザインするだろうか?社会の構成をデザイン
する際の私の企ては、伝統的政治哲学とある種の類似性をもっているようにみえるかもしれない。
ユートピア論者や社会契約論者は工学的アプローチにおけるバリエーションをもった。ユートピア
主義者として、あなたは理想的社会をどのようにデザインするだろうか?社会契約論者として、どん
な種類の社会にあなたは契約するだろうか?だが私たちの現在の視点から興味深いことは、既存
の社会的、制度的構造のどれほど豊富な装置を前提しなければならないかである。最悪の問題は、
自然状態について理論化する際、理論家は自然状態の人間が言語をもっていることを当然のこと
としていた。だが私がおそらく多すぎるほど繰り返してきたとおり、言語をもつことはすでに豊富な
制度の構造をもつことである。陳述をすることや約束をすることは財産や結婚と同じほど人間の制
度である。さらに、いったん問題の被造物が完全な人間の言語をもつなら、何らかの他の制度は避
けがたくなるだろう。いったん人々がものについて「これは私のものだ」と言うことができるなら、彼ら
は既に財産に対する主張をしているのである。この点を非常に短くまとめれば、私は以前の章でし
た主張を繰り返すことになるだろう。「自然状態によって、私たちがいかなる制度的構造のない他の
動物のように生きている状態を意味するなら、その場合、「言語を使用する人間にとって、自然状態
のようなものはありえない」。
手短に歴史的状況を述べれば、私たちはこういうことができる。ユートピア理論は制度を当然の
こととしており、理想的なものが何であるかを問う。契約理論家は、一部の制度を当然のこととし、
どのように私たちが政府の創出や政府に対する市民の義務を説明できるかを問うた。ジョン・ロー
ルズのような社会契約理論の現代的改訂は、(5) 制度を当然のこととし、どのように正義を不正な
制度と区別することができるかを問う。私はこれらの研究のどれにも賛成ではない。この章での私
の問いは、なぜ人々はその構造をもち、何かほかの構造を持たないのか?である。
ゼロから始める工学の問題として、社会のデザインを想像する以前の章からの思考実験を私は
続けようとしている。それらの章で、私たちは最初に私たちは言語を進化させ、そしていったんそれ
が進化したなら、社会についての他の興味深いすべての種類の帰結が従うだろうと想像した。この
章において、私は思考実験を継続したいが、人間の本性の異なる概念の観点から今度は行う。
私たちが制度構造と人間の本性の間の関係を検証するなら、形式的に言って、少なくともふたつ
の可能性がある。私たちは人間の本性のある概念を仮定することができ、その場合どのような種類
の制度的構造が適合するかを理解する。あるいは私たちはある制度の概念を仮定することができ、
その場合どのような種類の存在がそれらの制度に適合するかを理解する。人間の認知が標準的な
認知科学のコンピュータ・モデルにしたがって動くという考えをマジメに受け取ってみよう。私たち
は認知が、コンピュータ的でアルゴリズム的であり、それは結果として意識は実際問題にならない
と仮定するだろう。意識は随伴現象的であるか、それ自体単にもうひとつのコンピュータ的メカニ
ズムであるかである。これがあなたに不自然なファンタジーのように聞こえるなら、これが実際、支
配的な人間の認知の概念と人間の合理性の概念であり、認知科学でまったくありふれてさえいる
かもしれないことは思い返す価値はある。だから私たちはこのコンピュータ的認知科学モデル、し
たがった社会を構成することを想像することを試みよう。私たちは一群の意識的ロボットをもち、そ
れらに適切な自動的な出力を伴う入力刺激に反応するプログラムを与える。そのシステムは、完全
に決定論的である。だから今や、私たちは完全に「合理的な」ロボットの社会をもつ。そしてそれはロ
ボットが意識的かどうかはその行動に本当に問題ではない。ロボットの行動を決定する際の因果
的働きのすべては、実装されたコンピュータ・プログラムによってなされる。
IV. 無意識的ロボットは制度を持つことができるか?
今度は言語をもって始まる、私が記述してきた種類の制度的現実をそれらに与えると仮定しよう。
私たちはそれらに時空を表象する一群の象徴メカニズムを与える。だから、それらは今経験された
もの以上の時空についてコミュニケートできる。これはそれらの認知能力を莫大に増加させる。たと
えば、今度それらが、単に今ここだけでなくに、未来についてまた他の場所についても望んだり、信
じたりことを言語的に表象することができる。私たちはまたそれらに実際に存在する一群の事態を
表象する一群の言語的メカニズム(たとえば陳述のような主張的)と、他のロボットに存在をもたら
す事態を表象するメカニズム(たとえば命令や指令のような指示的)を与えるだろう。私たちはまた
それらが遂行する行為のある行程を表象するメカニズム(たとえば、約束のような責務的)を与えよ
う。正確にどんな意味で私たちはこれらのロボットが陳述しているとか、命令しているとか、約束をし、
守っていると言うことができるのだろうか?ロボット A がロボット B の側の未来のニーズを認知する
場合、A がみたいで B に適切な援助を与えると「約束」するとプログラムされたと仮定しよう。A は B
のある未来の状態に適合するあるプログラム状態にある。私たちは A の状態が B の将来の状態を
「表象する」とさえ言うことができないことに注意してほしい。なぜなら私たちはこのケースで表象
の概念に何の意味も与えなかったからである。A は、A の継続的行動に体系的に関係する信号を
B に送る。だが私がこの状況で見出すことができないものは、人間の形式における制度的現実に
本質的である義務論である。約束をし、守ることの概念はギャップを前提している。それは約束が
無意識的でなく、約束者の口からでる決定的機械的放射ではないことを前提する。そしてそれは
約束を守ることはまた約束者の側における無意識的、決定的、機械的活動でもないことを前提す
る。この点を手短に要約すれば、約束をし、守ることを約束をし、約束を守る行為者の側における意
識と自由の感覚を必要とする。さらにいったん行為者が、私がこれらの言葉で意図している字義的
意味における意識的に志向的に約束することをもつ場合、私が前に記述した義務論を伴うことは、
二重のレベルの志向性をすでにもつ。すなわち、信念や気質をもつことに加えて、それはコミットメン
トの基準に照らして、行為の欲求独立的理由の基準に照らして、信念や気質を認識する一群の方
法をもたなければならない。
約束することについて真であることは、制度的現実一般について真である。財産を考えてほしい。
私たちはそれぞれのロボットにとって、特別な関係にあることを表す一群の対象があるようロボット
をプログラムするかもしれない。それは他のロボットの対象と相互作用しない仕方で自らの対象と
相互作用し、他のロボットは同様に自らの対象と他のロボットの対象とを区別する仕方で反応する
ようプログラムされる。この代用品は私たちに財産を与えるのか?私たちが置き去りにしたものは、
なんらかの財産の「権利」の意味である。ロボットは雨に反応できるよう対象に反応する。それらは
特定の方法で反応するようプログラムされ、それでおしまいだ。類似の主張はお金についてなしう
る。ロボットはそのニーズを充足するため使用できる一群の計数器を与えられると私たちは仮定す
る。それらが燃料切れになる場合、それらは燃料提供者のところへ行き、計数器を燃料と交換する。
だが私たちがそれを記述した仕方における困難は、その特徴はまだ本物の交換の構造をもたない
ということである。売買がない。なぜなら、それに伴う財産の「権利」や「義務」の意味がないからで
ある。完全に機械的な宇宙で、売買は正確に、1ドル紙幣を挿入されたら、25セント硬貨(クオー
ター)4枚に交換する機械の活動のようである。
私たちが慣れ親しんでいる種類の制度的現実は本質的に義務論をもっている。たとえば、レスト
ランで食事をすることを考えてほしい。そこでメニューと価格のリストは制定によって「値段」を構成
し、「私が注文し、注文された物を消費すること」は支払う「義務を引き受ける」ことを構成する。だ
が義務論的力の概念は、あなたが意識とギャップを前提しないなら意味をなさない。いったんあな
たが認知科学でありふれたコンピューター的モデルのような被造物を考えるなら、あなたは私たち
の意味で制度的現実をもつことができないように私にはおもえる。あなたは制度的現実の形式の
一部に似た機械をプログラムできらかも知れないが、実質は失われるだろう。ある環境で「私は約
束する」とプリントアウトし、引き続き私たちがあたかもそれが約束を守るかのように記述した仕方
で行動するよう機械をプログラムする場合、私たちは単に約束をする段階をスキップすることがで
きる。約束を産出するプログラムの段階は既に「約束を守る」ことを算出するのに十分である。だか
らある意味で、私たちはすでに約束する段階をスキップしたのである。なぜならそれはまったく同じ
ことだからである。それは単に他のことと同じく機械の表のひとつの状態である。機械は単に特定
のシーケンスを産出するようプログラムされているだけである。
この議論が正しい方向に進んでいるなら、自由の概念は私たちの制度的現実の概念に本質的
であることを示唆する。
V. ロボットのように行動するよう私たちはプログラムしえるか
これまで、私はコンスタントに制度的現実をもち、その場合私たちが異なる人間的本性、実際にある
ないし最近まであった ― 私が数十年間攻撃してきた(6) ― 現代認知科学の多くで仮定されてい
る ― ものの思考実験をしてきた。だが今度は思考実験を反転させよう。私たちが規範的な存在す
る思考プロセスをもち、私たちがそのギャップの上で意思決定をし、それについて行為すると仮定し
よう。私たちはまったく異なる種類の制度的現実を想像できるのだろうか?私たちが現在が機械的
でアルゴリズム的である自由選択のタイプを私たちに認めない制度的現実を私たちは想像できる
のか。さてこれはかなり有望であるようにおもえる。実際、ある種の制度的現実はこのモデルに適合
するようにみえる。たとえばあなたがこの文を読む場合、あなたの脳は自動的にそれを構文解析し、
あなたは自動的に意味論的内容をもつものとして、それを自動的に理解する。自由意志の問題は
何ら存在しない。処理は脳によって自動的にすべてなされる。次に、なぜすべての制度的現実はそ
のようではありえないのか。制度的現実における行動が、いわば、あなたが自動的に約束を守り、財
産権を尊重し、あなたが文を聞いた場合、自動的に文を構文解析するのと同じ仕方で真理を話す
装置を想像してほしい。だがこの仮説に伴う困難はそれは私たちが通常人間の意識や意思決定
をすることについて行う仮説に対して生命抜きの計算器を走らせるということである。単にしかじか
の状況でどのように反応するかについての一群の正確な規則だけでなく、人々が地位機能や義務
論的力やその他すべてをもたないよう、どのように人々が行動すると仮定されるかについての一群
の規則を設定する場合、直ちに問題が生じるだろう。人々は規則に単に従わないかもしれない。
人々は「規則なんてクソくらえ」と言い、したいと感じることをするかもしれない。アルゴリズム的スタ
イルの規則が働くケースでは、ギャップはなく、たとえば知覚プロセスはあるギャップはなく、それに
伴う自発的な行為がない場合である。最初の思考実験で私たちはギャップを必要とし、自由意志
を必要とする体系内で活動するロボットの社会を想像し、そして私は体系が社会におけるようなそ
の意味を失うことを見出した。第二に思考実験で、私たちは私たちのような人々にロボットが課され
るのに適切な一群の規則を想像し、私たちは体系は、人々が規則に従う独立した動機を持たない
ため、働かないことを見出した。私たちが規則に従うようプログラムしても、それが自由な行為者な
ら、それらはプログラムを破壊できる。規則に従うことはあなたが今読んでいる文の構文解析にお
いて無意識的に規則に従うようなことではない。私たちは行為者が時間において字通りに活動し
ていると仮定している。だから行為者は規則に従ったり、従わなかったりする選択肢をもっている。
しかしあなたは今読んでいる文を構文解析するため従ったり、従わなかったりするいかなる意識的
選択肢ももたない。
これまで私は私たちの義務論的力がギャップの感覚を持ち、伝統的用語法で「自由意志」の感
覚をもつ存在に関してのみ意味をもつと論じてきた。だが論争的なことに、いったん自由の感覚を
持つなら規則に従うようプログラムされえない。プログラムの規則を破るのはつねに彼らしだいだで
ある。あなたは制度的現実をもつことなく意識とギャップをもつことができる。(それは正確に人間
以外の高等動物がおかれた状況である)。だがあなたは意識とギャップなしに私たちの意味で制
度的現実をもつことができない。なぜならそのようなケースでは、制度は機能なしにありえるからで
ある。そしていったんあなたが意識とギャップをもつようになるなら、規則の体系はなんらかの動機
付け的構造を生むだろう。単に行動を規定する規則をもつことは作動しないだろう。なぜなら自由
な行為者にとって、それはつねに規則を破る行為者次第だからである。
VI. 義務論、合理性、自由のつながり
私は人間社会の特徴である種類の制度的現実が必然的に義務論を含むと主張してきだ。だがそ
の主張は私たちに次の問を提示する。なぜこの義務論は制度的に現実にそれほど重要なのか?
特に、どのように義務論は全制度的状態における人間の本質的特徴に関係するか?である。答え
にはふたつの部分がある。第一の部分は、私たちが創出する社会に義務論があると仮定するなら、
その場合私たちが社会をデザインしている被造物は、ギャップを経験する場合、制度的構造に組
み込まれるだけだろう。自由意思なしには、私有財産、選挙の投票、カクテルパーティへいくこと、大
学で講義をすることは無意味である。それは決定論的コンピュータ・モデルを想像する趣旨である。
自由意思なしには、構造は趣旨をもたない。答えの第二の部分はこうである。問題の被造物が自
由意志と合理性をもつため、問題の構造は構造が彼らの意識的合理的行動に何らかの影響をも
つ場合に限り彼らに効果がある。制度的構造の参加者は、参加している行為者に動機づける能力
がなければならない。だがこの体系が問題の動機を提供できる唯一の方法は、行為者に行為の理
由を与えることである。今すぐの行為者の傾向性では十分ではないではないだろう。だから体系は
行為することの欲求独立的な理由を創出できなくてはならない。レストランで、私は勘定を払う欲
求独立的な理由をもつ。何らかの陳述をする際、私は心を語るため欲求独立的な理由をもつ。義務
論を承認することは行為することの欲求独立的なないし、傾向性独立的な理由を承認することで
ある。そして問題の制度 ― 陳述をすること、財産など ― がそのような理由を提供できないなら自
由の行為者の社会において存続することも機能することもできない。だから義務論と意識的自由
な行為者の社会の間には二重の関係がある。第一は、ギャップは義務論に実質を与える。意識的
自由な行為者がいないなら、その場合実質的な義務論のない形式的殻しか存在しない。だが第二
に、義務論は合理的意識的行為者が、破壊することなく制度を使用することを可能にする。意識的
行為者が、たとえばレストランで勘定を支払わなかったり、博物館で陳列物を盗まなかったり、真理
を話さなかったりする理由を承認しなくとも、レストラン、博物館、陳述の構うところではないだろう。
これはなぜ制度的現実が関係する場合、制度の受け入れ ― マックス・ウェーバーが「正統性」
の問題と呼んだもの ― が重大であるかの理由である。私はこの本全体を通じて、制度はそれが承
認されないし受け入れる限りその程度に働くと強調してきた。だがその承認ないし、受け入れが特
に政治的制度のケースで、しばしばなんらかの種類の正統化を必要とする。このようなケースで、
人々はなんらかの制度の受け入れの根拠があると考えなければならない。通常、制度は単に当然
とされる場合もっともよく働き、たとえば私たちが言語やお金を当然のこととするのと同じように、正
統化は要求も提示さえもされない。だがどんな制度も挑戦されうる。そして社会変化はしばしば制
度がもはや受け入れらない場合、しばしば起こる。この点で明白なケースは1989年のソビエト連邦
の崩壊である。
私は以前なぜ私たちは生物に所有権を尊重したり、真理を語る生物学的実在を単に与えること
ができないのか問うた。だが今や私たちはその答えを理解している。生物が自由意志をもつなら、こ
れらの実在がばらばらになった時、不適切になるだろう。その実在が彼ら持つ全てなら、動機が実
在に過ぎならないなら、その場合もっとも強い実在がつねに勝つだろう。
私はまた、なぜ私たちがみな単にコンピュータ・モデルのように行動する決めることができなかっ
たのか問うた。ふたたび繰り返せば、その答えは私たちが自由意志をもっているなら、たとえ私たち
が「すでにコンピュータ的存在論の一部でない義務論を持たない」なら、その決定は私たちに義務
的ではないということである。義務論がなければ、私たちはそのモデルとは関係なく、したいことを
する。
自由の前提と合理性の制約の下で行為する私たちのような存在にとって、私たちの制度的構造
の種類は制度的構造なしに存在しえない行動を促進することができ、自由と合理性に体系的に関
係する仕方でそれをすることができる。制度的構造に関わる人間は、実際自由の前提の下で行為
する。その様な制度は行動を強制しない。それは可能性を創出するだけであるが、その可能性は構
成規則体系がさもなければ行為者がもつかもしれない、傾向性から独立した行為の理由を行為者
が創出することを可能にするという仕方で制約される。これは制度一般に真である。私があなたの
財産のような何かを承認する場合、私が私の政府のような何かを承認する場合、私が私がした約
束のような何かを承認する場合、私はそれぞれのケースでこれら制度なしには存在しえない行動
の可能性だけを承認しているのではなく、またこれらの制度内で活動する行為者として私の行為
に関する制約を承認しているのである。私たちの制度的現実の形式に特別なのはこの結びつきで
ある。私たちのような意識的存在にとって、体系を新たに可能にする創出による私たちの力につい
ての議論は十分ではない。体系を可能にすることは私たちの合理性と調和しなければならない。制
度的現実における理由の特別な特徴はこれら理由の多くが、欲求独立的であるということである。
あなたがさもなければする気になるかどうかにかかわらず、結婚、お金、私有財産、政府などの制度
内の活動であなたがものごとを行う理由をもつことを承認する場合に限って、あなたは結婚、お金、
私有財産、政府などの範囲内で活動できる。制度的構造は私たちがその構造なしにはできないす
べての種類のものを行うことを可能にする。だがこのに可能にする機能はそれが少なくとも一部は、
義務論的体系、行為の欲求独立的理由の体系によって構成される場合に限り遂行されうる。
さらに、人間の制度の参加者は義務論を強化する。自動車やシャツは使えばボロくなる。大学、
スキー・チーム、政府はボロくはならない。使えば使うほどそれらはより力をえる。
VI. 制度とナマの力
だが、制度的構造が行為の理由を提供するなら、なぜそれはひじょうにしばしば実力の脅威によっ
て裏付けられなければならないのか?なぜ制度の体系内に警察や他の様々な強制的メカニズムを
もつ必要があるのか?義務論的力と強制的力の間の関係とは何か?ギャップがあるため、制度内
で使用する場合、規則を侵害する可能性は常にある。そしてもちろん多くの人々は、嘘をつき、盗み、
さまざまな仕方で欺く。私の制度構造について特別なものは、それに参加する者が、合理的行為者
が欺かない、そして彼がしたくない何かをしない、またその時その場で、彼がそれをしたいと感じな
い場合でさえ何かをするための理由を与えることである。人々は規則を破る強い動機をもつ。そして
規則は自己強制的ではない。場合によっては、あなたは警察を呼んだり、他の強制措置を使用しな
ければならない。だが警察の必然性は義務論の力と矛盾しない。警察の力は、義務論と矛盾して
いるのではなく、義務論を前提している。なぜなら警察の力の内容は義務論に忠実に反映される。
たとえば刑法や法の警察にしよる執行は、人や財産権を保護するため機能する。組織された強制
力は地位機能のある体系を維持するため実際必要である。だが警察力、軍、その他の組織された
強制力の形式はそれ自体地位機能の体系である。
制度的構造内の行為の唯一の理由が打算的理由(prudential reason)であると仮定してほし
い。陳述をする前に自問するのに唯一合理的な問いは、「それは真か?」ではなく「私がそう言うこ
とで何の得があるのか?」である。私が財産の「権利」の外をもたないが単に、「他ではなくある仕方
で物質的物や不動産を扱う打算的に何の得があるのか」という関心があるだけだと仮定してほし
い。そして約束をする際、私がなんであれ義務を引き受けることとしてそれをみなす理由はないと仮
定してほしい。私は私の将来の行動に言及する単なる雑音としてそれをみなす。だが「約束を守る」
時が来たら、私の唯一の合理的動機はが打算である。私が「行う」と約束したことをする際、私に
とって得なのは何か?さて実際一部の哲学者はそれが私たちが既に置かれている状況だと示唆し
てきた。ひとつの標準的な解釈について、ヒュームは約束を守る唯一の理由は打算的理由であると
考える。そしてリチャード・ローティは(率直に、彼や他の誰かが実際それを信じていると想像するこ
とができないのだけれど)、事実への一致に対するコミットメントとしての真理は陳述をすることに
内的強制力はないと主張する。私が記述したような状況で、義務論的理由がまったくなく、なんら
行為の欲求独立的理由がないのであれば、その場合対応する制度は単に崩壊するだろう。陳述を
すること、財産の所有者約束をすることの体系は他の条件が同じなら、人は合理的に自分の発話
や他の人々の発話が真理を述べる試みであると仮定することができる。財産の所有は所有者に権
利と義務を与えると仮定することができる。約束をすることは、他の条件が同じなら、行為者が約束
を守る理由を創出するとみなすことができる。
だから自由と構成規則の間の関係には二重の側面がある。自由な行為者に対してのみ、そのよ
うな体系は意味をなすが、正確に自由な行為者にとってそのような体系は必要である。行為の欲
求独立的理由を創出するこの能力をもたない体系は、崩壊するだろう。
VIII. 結論
私は次の通りこの章の議論の一般的概略を要約することができる:
1. 人間の制度は、何にもまして、可能にすることであり、さもなければもたない莫大な一群の力
を私たちにあたえる。
2. 体系は、行為者が、行為する欲求独立的な理由を創出することを可能にすることによって
機能する。
3. 「いったいなぜ制度的現実をもつのか」と問うなら、答えはぞんざいにこう述べることができ
る。私たちは文明化された生活をすることによって無限に動物より豊かである。
4. 「なぜ私たちが行う種類の構造を私たちがもたなければならないか」と問うなら、その問い
はより興味深い。答えは意識、自由、合理性の間のつながりを扱わなければならない。自由
の経験はある種の意識、ギャップにおける決定や行為の意識に特異である。合理性の概念
は自由の概念と同じ概念ではないが、それらの適用領域は共存的である。
合理性の概念は自由な行為に唯一適用される。なぜならさもなければ合理性は無意味だ
からである。私たちの制度的構造 ― 財産、大学、政府、お金など ― は正確にギャップを前
提として進化してきた。そしてその構造内の制度的事実は自由な行為の合理的根拠を提
供する。
5. ギャップなしに、私たちの義務論的構造は無意味である。完全に機械的な宇宙では義務論
には何の意味もない。
6. ギャップ、すなわち自由の前提のもと考え行動する能力、の中で活動する生物の場合、規
則の体系は規則に従う何らかの理由がある場合にのみ働く。しかし厳密に、規則は行為者
がその規則に従う動機がなければに単に無視される。
7. ギャップがある場合、私たちの義務論的構造は意味をもつが、私たちが行為の欲求独立的
理由を創出することを可能にするという事実は、構造の存続に本質的である。私たちの制
度の記述にはふたつのレベルがある。構成規則の体系としての体系がさもなければ存在し
えない行動の形式 ― たとえばお金の規則、私有財産、ゲーム ― を可能にするレベルがあ
る。だが第二のレベルでは、体系内で、人間の行為者はまた規制される事実を創出すること
が可能になる。制度は自由な行為者がさもなければできないことをすることを可能にするが
それを可能にすることで、それらは可能な制度がまったく継続的に機能するようにする仕方
で行為者を規制する。
第7章 力:義務論的、バックグラウンド、政治的その他
I. 力の概念
この本全体を通じて、私は説明なしに力(power)の概念を使ってきた。そして人間社会と制度的現
実にともなう力の特定の形式を同定した。私はそれを「義務論的力」(deontic power)と呼んでき
た。私は義務(obligation)、授権(authorization)、許可(permission)、要件(requirement)のよ
うな一般的な名前をリストすることでこの力を同定した。第6章で、私はどのように義務論的作為
(deontic factitives)のようなものが合理的行動で機能できるか示した。この章で私はどのように
義務論的力が一般に力に、特殊に政治権力に、関係するか説明するつもりである。力の一般理論
を提供することは私の目的ではないが、私たちは一般に人間のあいだの力の関係について何らか
のことを言うことなく義務論的力を理解することはできない。(1)
力の概念について注意すべき最初のことは、それは人間のあいだの関係を規制するものではな
いということだ。アメリカ合衆国大統領が憲法で規定されたある力をもつという同じ字義どおりの
意味で、私の自動車エンジンは馬力で測られるある力の総量をもっている。ここにはどんなダジャ
レもない。力の概念は「能力」の概念であり、そしてその理由のため、力は一切用いられることなく、
行使されることなくとも存在する。私は自分の自動車の全馬力を使ったことはない。また行使され
てたとしても大統領の権力のいくつかはめったに使われない。たとえば大統領在任中、彼は権限
はもっているが、戦場の合衆国軍を指揮したことはない。だから力はその行使と区別されなければ
ならない。力は、要するに、出来事を名指すのではなく、能力を名指すのである。力がその行使で明
らかになるため、私たちはこの章で、力が帰属する文を分析するだけでなく、その行使についての文
も分析するつもりだ。
私たちは範例的な力=付与的文から始める。あなたが大統領の権限ないし大学学部長の権限、
あるいは、バークレー警察力の権限のリストを作るなら、あなたのリストの文は次のような構文のよ
うな何かをもつだろう。
X は力をもつ(することができ、能力をもつ)A をする;
X has the power(is able, has the capacity) to do A;
その場合 A をすることは他の人々に関係する
X は行為 A について Y に対し力をもつ
X has power over Y with respect to action.
義務論が力の形式であるうる手がかりは、義務論のボキャブラリーが通常、政治権力を特定する
のに用いられるという事実によって示される。カリフォルニア州知事は法案を拒否する「権利」
(right)をもち、予算案に署名する「義務」(obligation)がある。唯一ではないが、力を行使する通常
の仕方は人々がさもなければもたない行為の理由を人々に与えることである。(2) たとえば当局の
ある地位にある誰かが与える命令は、そのような理由である。そして暴力の脅威は打算的な
(prudential)理由を創出する。脅迫のケースで力の源泉は潜在的な暴力であるが、すべての力の
源泉がこれから見るように、暴力の可能性や脅威に基づくのではない。
この研究で、私は力が人々ないし制度のあいだの関係を伴い、つねに他の物でなくある物に関
係するある範例的用語法に集中するつもりだ。だかたとえば、大統領は議会の法案を拒否するた
め議会に対して力をもつ。だが議会は両院の三分の二の多数によって大統領の拒否権をくつがえ
す力を大統領にもつ。これは社会的力の付与の特徴である。それは人々と制度のあいだの関係を
記述し、他ではなくある力をもつ者として、力の所有者を記述する。
これまで私たちは単に構文を分析しただけであり、概念それ自体は分析していない。政治権力、
警察力、軍事力をもつことは、他の人々や制度に対するどんな種類の力であるのか?力の概念の
もっとも単純な範例的観念、ある人々の力が他の人々に対して関係する力の概念の中核的概念は
(そしてこれは何人かの著者たちによって主張されてきた)(3) 行為者(agent)が服従者
(subject)訳注にするよう望むことを、服従者が望むと望まざるとにかかわらず、服従者にさせる力の
行為者の能力を伴う。一般に力の「行為者」は力の「服従者」が同じことを望むかどうかにかかわら
ず服従者に望ませることができる。それゆえ力を行使するひとつの方法は服従者が、行為者が服
従者が望むことを望むものを望むよう服従者にさせることである。そしてそのため、このこの世界の
特別なケースは、誰かがさもなければ望まないだろう何かを「望む」(want)ようにさせる事例である。
Lukes(4) が論じた別のタイプのケースは、力の行使は服従者がすべての行為の利用可能なコー
スを知られるようにみえる場合、たとえ望まなかったとしても、服従者がしたいと行為者が望むこと
を、服従者がしたいと思うことになるよう、自由な行為の内、ひとつのコースしか知らせない場合に
起きる。力の一般的な特徴を、人々が望むと望まないとにかかわらず、何かを人々にさせる能力であ
るとするため、私たちはふたつの特別なケースを付け加えなければならなない。第一に力の行為者
は、さもなければすることを望まなかったことをさせることによって力を行使することができる。第二
訳注 "subject“ 中世ラテン語の「臣下」が、"object“に対立する語として「主語」「主体」という反対の意味をも
ち、現代、後者が圧倒的に優勢となった。フランス哲学者が主体の否定のため、古い用法を復活させた。ここ
では古い用法に従い、力との関係で「服従者」の訳語を当てた。
に、行為者は唯一の利用可能な選択肢として他の行為者が望む選択肢を提示することによって、
それゆえ、知られた他の選択肢が利用可能であった場合、望まなかった何かを望むように服従者を
導くことによって、力を行使する。そのため力の行使の概念には反事実的要素がある。行為者 A が
服従者 S に行動 B をさせる場合、たとえ S が B をするのを望まない場合、A が S に B をさせること
なる B をするのを望まず、S が B を行いたくなかった場合、あるいは A が利用可能な別の選択肢を
S を意識させなかった場合、S が B をすることを望まなかった場合でも、それは力の行使である。
力が決して経験されず、力を経験されうる服従者がなんであれ、その行為をすることを望む場合
でさえ、力が存在しえることを強調するのは重要である。力は要するに人々の欲求や好みに反して
行為させることを必ずしも伴わない。そうではなく人々をそうさせる「能力」であるが。それは行為者
が服従者に望むと望まざるとにかかわらず何かをさせる場合、力の「行使」でしかないのである。だ
が服従者が彼がとにかくしたいことをしている場合、行為者は例えできたとしても、服従者に力を
「行使している」というのは真ではない。
誰かに何かをさせる単純な範例的ケースで、力の掌握は、必ずしも実力を行使しなければならな
いのではない。実際、これは義務論的力を性格づける特徴である。義務論的力は実力を使うことな
く人々にものごとを行わせることを伴う。「義務論的力」はなお力であるが、誰かが何かをするよう強
いる性格をもつケースではないという事実は、私たちは単純なナマの物理的力ないし実力の脅威
の範例を超えた拡張された力のバージョンを必要とすることを示す。だから私があなたに約束をす
る場合、あなたは実際私に義務論的力をもつ。なぜなら私は自分が行うと約束したことを行う義務
的理由を自分自身に創出したからである。私はこれが力の関係のケースであるが、通常義務論的
力は、力が「行為の理由」からなるケースだと考える。私が借りたお金をあなたに支払う義務のよう
な否定的義務論的力をもつ場合、私は何かをする理由をもつのであり、あなたは私がそうすること
を期待する理由をもつ。そして私があなたの所有物で釣りに行く資格を与えられるような肯定的義
務論的力をもつ場合、私はあなたの所有物で釣りに行くことができるという力をあなたにもち、あな
たは私が釣りに行くのを望むかどうか介入しない理由をもつ。だから「義務論的」力はたとえ実力
の行使あるいは脅威が真でないとしても「力」として正当に記述される。私たちが政府の政治権力
について語る場合、通常それが実力によって裏付けられているのを見るだろう。権力の服従者は逮
捕され、銃で撃たれ、国外退去され、さもなければ処罰される。前に示唆したとおり、私たちが政治
権力を記述するボキャブラリーは通常義務論的である。大統領は法案を拒否する「権利」をもつ。
大統領は一般教書演説をする「義務」がある。
私たちの力の中核的概念に何かが加えられなければならない。そしてそれは「意図的」行使
(intentional exercise)の概念である。だからたとえば誰かが部屋を入るなり、ひどい匂いを嗅い
で、部屋を立ち去る場合、ひどい匂いがする部屋に彼が入ることは、力の行使ではない。だが彼が
非常に意図的に誰かを立ち去らせる場合、それは力の行使になりうる。だから私たちは、「X が“意
図的に”Y に行為 A に関する仕方で、Y がその仕方の行動をすることを望むかどうかにかかわらず、
行動させることができる場合、その場合に限り、X は Y に力をもつ」と公式を改訂しなければならな
い。力は、力として、力の行使だけでなく、能力であり、つねに意図的行為である。
影響力は一般的に力の亜種とみなされ、それはしばしばある種の力である。だが影響力の行使
のすべてのケースは必ずしも力の行使のケースではない。たとえばジョン・デューイはアメリカ合衆
国の教育に巨大な影響力をもったが、実際の力の大半はデューイに影響されたため教育的必要
条件を変えた教育委員会や地方政府によって行使された。影響力のある行為者が意図的に人々
にさもなければしなかった何かをさせることによって彼らの行動を変化させることができるなら、影
響力の行使は力の行使である。これは「説得力」の概念によって言及されるものの一部であると私
は考える。
力の行使は、公然性の程度で変わるだろう。1948年の共産党のクーデターの時、チェコ国境の
ロシア部隊の集結は、実際にはチェコスロバキアに侵攻はしなかったが、力を行使した。ロシア部
隊は他の何らかの仕方で行動することに反対する仕方でチェコに行動させるよう意図的にそこに
駐留した。実力を行使する脅威は、実力は行使されないが、それ自体力の行使でありえる。歴史的
に、植民地都市の港湾でイギリス船が単に姿を見せることで蜂起を終わらせることができたと言わ
れる。
力はまた、指導力と区別されなければならない。そして指導力は指導者であること同じではない。
多くの指導者は、指導力を欠いており、指導力をもっている多くの人々は実際の指導者ではない。
なぜなら彼らは「在野の人」だからである。だから例えば、ジミー・カーターは憲法上アメリカ共和国
の指導者だったが、彼は効果的に憲法上の力を行使する指導力の能力を欠いていた。実際の政
府の日々の決定の多くは、しばしば GS13訳注のレベル以下の政府職員によってなされた。カーター
に対する政府職員のあいだの共通の不満は、彼がビジョンの明確さを表明しなかったため、彼らは
経常業務で何をすべきと考えられているか知りえなかったことである。効果的な指導者、例えばロ
ナルド・レーガンをもった政府職員は特定の意思決定の状況で何をすべきと考えられているか知っ
ている。カーターとは対照的に、フランクリン・ルーズベルトは力と指導力の両方をもっていた。政治
的指導者の特徴のひとつはたとえ「在野」にあっても強力で影響力をもっている能力である。ド・
ゴールとチャーチルはこの良い例である。
以前に言及したとおり、Lukes(5) が論じた、別のタイプの力は、ある仕方で人間の行為の優先
事項(agenda)を決定する力である。たとえば行為者が、力が行使されるものに対する利用可能な
明確な選択の範囲を制限することによって、力は行使される。他のことも実際に可能な場合、服従
者が小さな範囲の選択肢があると知るなら、その場合この知識が力の非常に強い形式、利用可能
な選択肢の服従者の知識を操作する力を行使する。実例あげれば、2003年ジョージ・W・ブッシュ
大統領はアメリカがイラクで戦争を行うか、イラクの大量破壊兵器のターゲットとなるリスクしか選
訳注 General Staff の略 : Chapter 51 of Title V in the U.S. Code で決められた官僚のランク。、GS-13
以下(no higher than GS13-15)が末端のレベル。下級政府職員。
択肢がないことを非常に多くの人びとに説得した時、彼がこれを意図的に行ったと仮定するなら、
彼は強い力の形式、行為の可能なコースの優先事項を設定する力を行使したのである。この優先
事項は可能な選択肢のブッシュ自身の理解を反映している。これは私たちの中核的な概念の特
別なケースであるが、それはなお力の行使なのである。力の行使は人々が利用可能なものとし、唯
一の特定の選択肢を知らせ、他の選択肢に気づいた場合、さもなければ望まなかったことを望むよ
うにさせる。これは服従者がさもなければ望まなかった何かを望ませることによって、彼らが望むか
どうかにかかわらず、何かを指せる特別なケースである。
しかしこの方法で優先事項を決めることができ人は、これが意図的になされる場合に限り、力を
行使できることを理解することが重要である。あらゆる種類の物は、人々のバックグラウンド能力の
感受性に影響を与え、意図的になされないため、実際の力の行使ではないかもしれない物を知覚
する仕方でたまたま起きる。例えばアメリカ合衆国の全国放送のテレビのプロ・フットボールを計画
し、放映する人々は、あらゆる種類のアメリカの実際生活に影響を与えるが、ほとんどの場合、これ
らは非意図的に達成される。彼らの唯一の意図は高い視聴率を得て、そのためテレビコマーシャル
のため多くのお金を請求することでお金を稼ぐことである。だがテレビの前の日曜午後における消
費のためのビールやポテトチップの売上は、もしビールやポテトチップを広告するのでない場合、
彼らの意図のひとつではなかったことになる。結果的に、それはこの点で非意図的に影響を与える
が、彼らにとっては力の行使ではない。私がここで提起している説明において、意図されざる影響
力は非常にありふれたものであるが、力の意図的行使が意図せざる結果をもつ場合、力の意図せ
ざる行使が通常起きる。たとえば、合衆国議会が1980年代最低代替税を採択した時、富裕層に議
会が税のかなりの割合を占めると考えたものを支払うという意図をもってそうした。しかしインフ
レーションのせいで、長期的な結果は議会が最低代替税のターゲットと意図しなかった非富裕層
の多くの課税を非意図的に増やすことになった。これは元の法が意図した人々のクラスに対する意
図されざる力の行使であった。一般に、意図されざる力の行使は、その意図されざる効果や結果
の関連で記述された意図的力の行使であるということができる。
影響力の意図されざる行使は非常にありふれている。たとえばどんな大学教授も意図せずさま
ざまな仕方でその学生に影響力をもっている。しばしば大学教授は学生が彼の話し方に魅了され
たり、拒絶したり、その話し方や服装などを真似しようとしたり、拒否しようとすることに気づきさえし
ない。これらのすべてのケースは、影響力のケースだが、それは力の行使のケースではない。私は
学生たちが、私の話し方を真似ている(あるいは避けようとしている)場合、私は意図的に彼らの行
動に影響を与えようとしていないため、学生たちに力を行使してはいない。
これまで議論した問題はかなり雑多なものであったが、この議論に潜在的に現れている何らか
の原則がある。そして私はそれを完全に顕在的にしたい。
1. 力の中核的概念は、服従者 S が行うことを望むかどうかにかかわらず行為者 A が行為 B に
関して望むことを意図的に S にさせる場合、その場合に限り A が B に関して S に力をもつというこ
とである。この特別なケースは S がさもなければ B を行うことを望まなかった場合、かつ S が A に
よってすべての可能な選択肢を知ることを妨げられたため、S が B を行うことを望まない場合、A が
S に B をさせるケースである。
2. 人間のあいだの力は通常、発話行為の遂行を通じて行使される。これらは通常、指示的
(Directives)の発語内的力をもつ。場合によっては、これらは、一般的な指示がその後無限の数
の将来のケースについて働くよう出されるという意味で、持続的な指示である。明らかな例は、刑
法であり、それは特定の行動の形式を禁止し、それに対し特定の罰を課す一群の持続的な指示で
ある。通常、「X を C で Y とみなす」の形式の構成規則が持続的な地位機能宣言でとして機能する
のとちょうど同じように、刑法の陳述は、持続的な指示として機能する。
3. 力の概念は論理的に意図的な力の行使の概念と結びついている。「S は B をする力をもつ」
は「他の条件が同じなら、S は意図的に B をする力を行使することが可能である」ことを含意する。
(私たちは「他の条件が同じなら」と言わなければならない。なぜなら S は何らかの無関係な理由で
彼がもつ力を行使できないことがありえるからである)。それゆえ力の行使の詳細(specification)
は、その行使の志向内容の詳細を必要とする。志向性がなければ、力の行使はない。力の意図的
行使は意図されざる結果をもったり、意図が無意識であることもありえるが、やはりすべての力の
行使は志向内容をもつ。これを「志向性の制約」(intentionality constraint)と呼ぶことにしよう。
(6)
4. 力について語るときはいつでも正確に誰が、正確に誰に正確に何をさせる力をもつかいうこ
とができなければならないということが、力の十分な議論における制約である。今後の参照のため、
これを「厳密性の制約」(exactness constraint)と呼ぼう。この制約は、たとえ力の行使者と被行
使者の両方が、互いに未知の場合でも適用される。たとえば、団体として議会が、議会のメンバー
に未知である数百数千万の市民に対し、彼らに税金を支払わせるため、力を行使する。大半の場
合について、議会のメンバーやこの行使に伴う納税者は互いに知らないが、やはりその属性は厳
密さの制約を充足する。
5. 力を行使することの脅威、あるいは知られた意見でさえ、特定の環境で、力の行使でありえる。
だから出動し、可視的に武装している警察官は、たとえいかなる法を執行する必要がなくとも、ある
種の力を行使できる。そのようなケースにおける志向内容の詳細は、実際の志向内容を含むだけ
でなく、その志向内容が実行されない場合に課されるだろう制裁の反事実的詳細を含む。明確に、
このケースにおいて、志向内容は「あなたは法に従わなければならない」であり、潜在的な制裁は
「法に従わなければ、私はあなたを逮捕する力をもつ」である。そのケースでは、力の可視的装置は
その行使に十分である。同様に1948年チェコ国境に駐留したソビエト軍は、力を行使する脅威
だった。そしてその脅威はそれ自体力の行使である。
II. フーコーと生権力
フーコーの生権力(bio-power)の議論は大変影響力があったため、私はそれについて少なくとも
何か言いたい。彼の主張は完全に明確とは言いがたい。そして彼はなんらかの理論を構成すると
は考えないと主張する。それにもかかわらず、私たちの研究に関連する彼の説明にあるテーマがあ
る。彼は「生権力」の概念を導入する。彼の主張では、生権力は社会全体に偏在している。彼は歴
史的、あるいは彼が好むニーチェのスタイルで言うなら、「系譜学的」(genealogical)な生権力の
発展の説明を示す。それは人間を社会の「規律化する」習慣(normalizing practice)に服従させ
ることによってその身体に対するコントロールの達成の問題である。教育制度、親、監獄、病院、医
療技術、宗教的告白のならわし、精神分析は ― 多くの他の習慣や制度とともに ― すべて管理し
える人間の主体を創出するある種の規律化の生産の効果をもつ。
フーコーの説明において、解放するようにみえる何らかのものは、実際さらに生権力の表現であ
るということが重要である。たとえば、20世紀中葉の性的解放運動は、多くのその参加者によって、
抑圧から解放することであると考えられた。だが、フーコーによれば、これらの参加者はあるコント
ロールを別のコントロールに換えていたのである。大衆は「抑圧によるコントロール」から「刺激」に
よるコントロールに移動した。(7) 私たちは見かけがよく性的にアクティブであるべきだという観念
に規律化されている。そしてこれはそれに先んずる抑圧としての権力関係と同じである。
生権力の活動のフーコーのお気に入りの例は、ベンサムのパノプチコンである。パノプチコンに
おいて、監獄の看守はタワーの中心に座り、看守が囚人を見張ることを可能にする窓を通して、タ
ワーのまわりの監房にいるすべての囚人を監視する。だが囚人は看守を監視することができず、そ
の時そこで監視されているかどうか決して知ることができない。パノプチコンのひとつの特徴は、囚
人が自分自身の看守になるということであり、どんな場合も当局に監視されているかどうか知るこ
とができないため、自らを監視するということである。彼の行動は彼の置かれた認識論的状況に
よって完全に規律化される。フーコーはこれを知識と権力の結合のモデルと解釈する。看守の完全
な知識は彼に完全な権力を与える。パノプチコンのように、生権力は偏在しており、匿名で、経常的
である。フーコーは、過去二世紀にわたって発展した通常の官僚的、学問的、教育的治療的技術の
多くをこの権力/知識結合の例とみなす。すぐ思いつく、ひとつの反対は、パノプチコンは、単に看
守が認識論的地位から独立した権力を既にもっているため権力の乗り物として働くということであ
る。彼は単なる出歯亀ではない。彼はその監視にかかわらず囚人に権力をもっている。そのような
ケースで知識は力を創出せず、単に既に存在する力をより効率的かつ効果的な使用を可能にする
だけである。これを理解するひとつの方法は認識論的役割を逆転することである。すべての囚人が
看守を見ることができ、看守は囚人を見ることができないと考えてほしい。囚人が牢獄に入れられ
ている限り、これは権力関係を逆転はしない。フーコーは社会を、服従者とその服従を構成する、こ
れら不可視の、匿名の規律化する習慣によって偏在された物と考える。
私たちは生権力の外をどう理解すべきなのか?その表層において、フーコーの例はすべて私た
ちの厳密性や志向性の制約を充足するようにはみえない。私たちは正確に誰が、正確に誰に力を
行使しているのか、また正確に何が行使の志向内容であるかを言うことができない。医療専門職、
教師、ソーシャルワーカー、政府職員は彼らが健康で標準的な人間と考えるものを創出するため奮
闘するだろう。だが正確に誰が、正確に誰に正確にどんな行為に関して権力を行使しているのか?
最終結果が官僚制の当局によってより管理しやすい人間を創出することだったなら、それが権力
の行使の形式であるということは帰結しない。フーコーは人々は彼らが何を行うかは知っているが、
彼らは、彼らが行うことが何を行うかを知らないと言う。だがそれが正しいなら、そしておそらく妥当
に思えるが、その場合その結果を生むこと(彼らが行うことが何を行うか)は権力の行使でない。な
ぜならそれは厳密性の制約も志向内容も充足しないからである。十分奇妙なことにフーコーはこ
れらの制約を承認しているようにみえる。「権力は他の誰かによって、たとえ、もちろん、常設の構造
によって支えられた希薄な利用可能性の領域に刻まれているとしても、行為に挿入される場合に
のみ、行使されるものとしてだけ存在する」。(8)
Lukes によればフーコーはあたかも新たなラジカルな理論を構成したかのように「社会学的な
決まり文句」を提示していたと、フーコーを批判する。すなわち「個人は社会化されている」。それは
文化的社会的に与えられた役割や習慣のことを言っている。それはこれらを内面化し自由な選択
とし経験されるかもしれない。実際デュルケムが好んでいったように彼らの自由は規制の成果 ―
訓練とコントロールの結果 ― であるかもしれない。(9)
私はフーコーがオリジナルかラジカルかどうかにはあまり関心がないが、私はそのような「社会
学的決まり文句が権力関係のケースを述べることができるかを探求したい。今後の私の目的は、
注釈や詳細な説明や批判によってフーコーの著作を議論するものでは断固としてないが、引き続く
頁は、彼のような概念が厳密性の制約や志向性の制約に一致できるかの程度に応じて知的に尊
敬されるうるかどうかについて反省によって刺激を受けたものである。
III. バックグラウンドの習慣と力の行使
厳密性の制約はいかなる力の正統な属性も正確に誰が、正確に誰に力をもつかを言わなければな
らず、また志向性の制約は力の意図的行使のいかなる属性も行使の志向内容を特定しなければ
ならないと言う。
これらの原則を念頭に、私は成文化されていない、めったに顕在的でないほとんど無意識的で
さえあるかもしれない社会におけるあるタイプの力があると言う考えを探求したい。ただこのための
言葉をもつために、私はそれを「バックグラウンド/ネットワークの力」あるいは単純に「バックグラウ
ンの力」と呼びたい。(第2章の志向性についての議論で、私はこれらふたつの概念を導入している。
大雑把に言ってバックグラウンドは志向性が機能するのを可能にする一群の能力、性向、傾向、慣
習などからなる。そして志向性のネットワークは特定の思考状態が機能することを可能にする、すな
わちその充足条件をを決定することを可能にする一群の信念、態度、欲求などからなる。簡潔にす
るため、この議論で私は「バックグランド」をネットワークとバックグラウンドの両方の略記として使用
するつもりである。)私の議論はフーコーの生権力に議論と Åsa Andersson の彼女が「目的論的
力」(telic power)訳注と呼ぶものの議論と類似性があり、それらによって部分的に触発された。私
が念頭に置く種類のものは、行動の社会的、性的、言葉の、そして他の形式におけるさまざまな通
常成文化されていないバックグラウンドとネットワークの制約である。だから会話で話す適切なもの
とみなされるもの、適切なドレスとみなされるもの、許容しうる性的行動とみなされるもの、許容しう
る政治的道徳的意見とみなされるものはすべて私がそれらを記述してきたすべてネットワークと
バックグラウンドのケースである。これまで、特定の制約が課されるとしても、これらの物に伴う力の
として多くがあるようにはみえない。たとえば、私のコミュニティの習慣によって自分が着る衣類に
制約を私は感じる。だがこれまでそのような物は私たちの厳密性と志向性のふたつの制約を充足
しないだろう。私たちはなお誰が誰に正確に何に関して力をもつか、そして何が権力の行使の志向
内容であるか特定しなければならないだろう。私が不道徳あるいは非道とみなす政治的意見を抱
くなら、その場合社会は私に何らかの制裁を課すだろうし、あるいは私が容認しがたいとみなされ
る性行為を行っていると知られるなら、その場合社会は私に特定の制裁を課し、その制裁の脅威
は、力の行使であるかありえると私は論じたい。私は社会がそのメンバーに力を行使できるという
概念をなんとか理解しようと試みるつもりだ。
だが振り返って、最後のふたつの文に注目しよう。有名だが、マーガレット・サッチャーは社会は
存在しない、人々とその家族だけが存在すると言った。私は自分がこの本で発展させた議論に照ら
してその主張を拒否する。そして私は集合的志向性を共有する何らか集団に対する社会的存在論
があると主張する。私が規定したように社会的事実は二人以上の人間ないし動物の行為者の集
合的志向性をもつという何らかの事実である。社会は人々や家族から単に構成されるのではなく、
スキークラブ、国民国家、企業法人その他社会的実体を含む。しかし、彼女が言っていることにつ
いて何か正しさがある。そしてそれは「社会」は集合的志向性の形式を名付けるものではないとい
うことである。この定義において、社会的ニーズの存在は社会的事実ではない。それは社会のメン
訳注 通常 telic は主に telic verb として、言語学の「完了相」動詞として使用される。だがギリシア語の telos
に由来するため、哲学的に「目的論的力」と訳せる。アリストテレスの場合、「目的は個人の自己決定による
ものではない」ことが含意されるため、(社会的)目的論的力であることが含意される。Asa Anderson
の論文( Åsa Andersson, "Power and Social Ontology", Lund University ,Sweeden, 2007)の
アブストラクトで次のように使用されている。“But there are other forms of power in social reality,
such as opaque kinds of social power, telic power, and power as the imposition of internal
constraints.”(だが曖昧な種類の社会的力、目的論的力、内的制約を課すこととしての力のような社会
的現実における他の力の形式がある)。
バーが共有する集合的志向性がある場合にのみ社会的事実である。偏在する集合的志向性があ
る特定の社会がある。そして国民国家はおそらくもっとも有名な政治的集合的志向性である。(10)
私がここで拡張したいより重要な点もある。それはこうである。「社会」は集合的志向性の形式を名
付けないが、ある社会のメンバーが通常共有されるバックグラウンドの習慣、前提などがある。実際
何らかの程度の共有されたバックグラウンドなしに、どのように社会が機能しえるか理解するのは
難しい。私はバックグラウンドの習慣や前提の(すべてではなく)一部は一群の力の関係を構成で
きると論じるつもりである。だがそれを示すためには、私はまずどのようにそのような属性が志向性
の制約と厳密性の制約を充足するか示さなければならない。私の問題はこうである。なんらかの力
の真面目な議論は、私が特定した制約を充足しなければならないが、同時に私は社会が力を行使
する能力があると考える。社会的圧力は力の形式でありえる。私たちはその直感が制約と矛盾せ
ず捉えることができるのか?私たちはそれができると論じるつもりである。
私が規定したとおりバックグラウンドとネットワークは他の物、一群の行動規範をもつ。誰かがコ
ミュニティの規範を侵害するなら、さまざまな種類の制裁が侵害者に課されうる。それは単純な不
支持の表明から、追放、侮辱、憎悪、軽視、暴力すら含む強い形式まで変わるだろう。この歴史的実
例をあげるため、最近のいわゆるゲイ解放運動以前のホモセクシュアルの扱いを考えてほしい。こ
のようなケースで、誰が誰に力を行使しているのか?私はこのようなケースにおける答えは、一群の
共有されたバックグラウンドの規範が実際あるなら、「誰でも」他の「誰か」に対して力を行使できる
ということである。だからあなたが、あなたの社会のバックグラウンドの仮定を共有する場合、あなた
は仮定を共有する者たちとともに、力の行使をする能力がある。禁じられた意見を抱いたり、容認で
きない行動を行う人々のあなたの扱いは力の行使の形式であり、実際単なる脅しや力の行使の予
期される意見さえ、それ自体力の行使でありえる。私は今、法的制裁について語っているのではな
く、社会的圧力について語っているのである。
たとえば、さまざまな仕方で、私たちはみな自分の文化の衣装の習慣によって制約されている。
たとえば私の大学の女性教授は、裸では講義はできないが、ドレスとハイヒール姿で講義を行うこ
とを選べ、あるいはブルージーンズと T シャツ姿で講義を行うこともできる。これはバックグラウンド
の可能性における変化である。50年前ブルージーンズと T シャツは男でも女でも論外だった。私
のケースでは、バックグラウンドの習慣はなお彼女が制約されない仕方で、私を制約している。私は
ドレスとハイヒール姿で講義をすることができない。これは実際バックグラウンドの制約である。そ
れは力の行使の問題なのか?ミニスカートとストッキングとハイヒールを身に着けて講義を私がで
きないことは私に強制される力の形式なのか?実際、私はそういうふうに着飾りたくはない。そして
私がそうすることができないということが私に対する力の行使であると言うのは奇妙に聞こえるだ
ろう。誰がこの力を私に課しており、どのように彼らはその力を行使するのか?
私に制裁が課されうるという私の知識と私がその制裁を受け入れがたいと知るという私の知識
は、制裁を課すと知られた選択肢をもつ者たちの力の関係に私を置く。すなわち彼らは意図的に私
がしたいかどうかにかかわらず私に何かをさせることができる。そしてそれは私たちの第一の力の
中核的定義を充足する。これはまた予期される意見ないし力を行使することの脅威であるケース
でもある。私たちはこれらの関係を正確に述べなければならない。私が容認できない仕方で服を着
ることを望まない限り、いかなる力も私には「課される」ことはない。だが私が容認できない仕方で
服を着ることを望んだ瞬間に、私が社会の他のメンバーの予期される脅威によってそうしないよう
制約される瞬間に、力は私に課されることになる。どのように私たちが私たちの制約を充足できる
か見てみよう。
第一に力の中核的概念、私の社会のメンバーが、私が望むかどうかにかかわらず、私に何かをさ
せることができるため、力をもっていることに無意識であるが、私に力をもつ。
第二に、この力は私がさもなければ知るだろう何かをすることを制約するケースでのみ行使され
る。社会的バックグラウンドとネットワークの規範が力のメカニズムとして機能する場合、それは「持
続的指示」として機能する。それは個々の社会のメンバーに、何が受け入れうる行動か、何がそうで
ないか語る。正確にその志向内容は何か?さて、私たちはバックグラウンドについて語っているので
あり、社会のメンバーが意識的に考えている何かについて語っているのではない。だが私が嘲笑、
敵意、侮蔑、排斥その他否定的やり方で扱われた場合、彼らが制裁を課す点にそれがなるなら、彼
らはおそらく「ひどいカッコウだ」、「そんな服は着ちゃダメだ」「君は全然バカみたいだ」など何か言
うだろう。すなわち、制裁が課されるという知識が、力の服従者に、たとえ彼ないし彼女が特定の仕
方で行動するのを望まない場合でさえ、その仕方で行動させることができるなら、制裁を課すとい
う既知の選択肢をもつこと自体が、力の行使でありえる。制裁の確実性は、その志向内容が潜在
的である場合、無意識的な力の行使を構成できる。もっとも一般的な形式における志向内容は、
「従え!」である。この内容が潜在的に状況に現れているという議論は、服従の失敗のために、予期
される制裁が課されるとあなたが考える場合に限りにおいて意味がある。服従の失敗が予期され
る制裁を顕在化させるために、服従者は従う。もちろん社会的制裁を無視したりそれに無関心でい
ることはつねに可能である。ほとんどの人々は実際、他人の賛成や不賛成に実際敏感である。
刑法のようにバックグラウンドの力の行使は出来事から持続的な指示に志向性の制約を拡張す
る。志向性の制約のもっとも単純な形式、最も範例的な形式は出来事 ― 大統領が指示を出す、
将軍が部隊の侵攻を命じる ― であるが、刑法のように、バックグラウンドの力のケースでは、私た
ちは持続的力と持続的志向内容をもつ。志向内容は単に「この場で従え」ではなく「従え!」である。
だが厳密性の制約についてはどうなのか?正確に誰が正確に誰に力を行使するのか?私が示
唆している答えは、これらのケースでは「誰でも」、「誰に」対しても力を行使できるということである。
あなたが社会のメンバーなら、その社会の規範を共有しているとわかっているため、あなたは制裁
が他人によって考えられているという知識において規範を侵害するものに対して非公式な制裁を
課す能力のため、力を行使する立場にいる。だが、あなたはまた誰であなたの何らかの侵害に対し
て、あなたにそれらの制裁を課すことができるため、力の服従者である。ハイデガーは「俗人(das
Man)は決して死なない」と言う。そして彼はこう付け加えるべきだった。「あなたは俗人である」。
私は社会がそのメンバーに力を行使できるという考えを理解しようと試みている。私たちは「社
会的圧力」にみな服従しているため、この考えに対して何かがあるに違いないと感じていると私は
考える。問題は志向性の制約ないし厳密性の制約を侵害しないこの種の力の一貫した陳述を示
すことである。だが人は思うかもしれない。何の違いがあるのかと。結局「力」はただの言葉であり
私たちがその言葉を従うべき社会的に課された圧力のケースに適用するか、しないかどうかに何
の問題があるのか?私たちが社会的メカニズムやそれがどのように働くかについての理解をえよう
とするなら、それは重要であると私は考える。あなたは少なくとも一部はネットワークとバックグラン
ドが力のメカニズムとして機能することを理解するなら、その機能をもっとよく理解できるだろう。そ
して力の行使は、社会のメンバーが他の社会のメンバーに従うことを課す場合に起きる。(11)
私たちの感受性の全様式はほとんどの部分が私たちに不可視な力や影響力 ― 何が男か、何
が女か、市民であることに何が伴うか、大学教授であることに何が伴うか ― によって形作られる。
場合によってはこれらの点は顕在的になされる ― 例えば市民は選挙の投票する資格をもつ ―
が、それらが非顕在的なあるあらゆる種類のやり方がある。たとえば政治的問題について互いに同
意しない文明的形式であるものは文化ごとに莫大な違いがある。会話の適切な話題は何か?適切
な求愛行動は何か、どのような種類の社会的関係を人は友人、同僚、家族のメンバーともつことが
できるか?実際何が友人、同僚、家族のメンバーを構成するかのまさにその概念は強くバックグラ
ウンドによって形作られる。
バックグラウンドの力の基本的概念は、一群のバックグラウンドの前提、態度、性向、能力があり、
そして制約を侵害するような仕方でコミュニティのメンバーに「規範的」制約を設定するコミュニ
ティの習慣が、コミュニティの「どんなメンバー」によっても制裁を否定的に課されることに服従する
ことである。だから私が人種差別主義のプラカードを掲げながらバークレーの通りを歩くなら、私は
コミュニティのただ誰かのバックグラウンドの力に服従するだろう。答えはバックグラウンドの前提を
受け入れ、この前提が広くコミュニティで共有されていると知っている「誰でも」、その前提を侵害
する「誰にでも」力を行使することができる。これらの力が行使される、行使を試みられる形式は、不
賛成、軽蔑、嘲笑、衝撃、恐怖などのすべての表現から、物理的暴力や殺人さえまで幅がある。
バックグラウンド能力のすべてが力の問題なのではない。たとえば互いにエレベーターでどれだ
け離れるか、いつ彼らが会話を交わすかはバックグラウンドの性向であるが、力の関係ではないと
私は考える。
バックグラウンドの力は他のすべての力の形式のようにその行使と区別されなければならない。
人がしたいことをするのを制約されない限り、人がしたくない何かをするのを制約されないかぎり、
その場合力は行使されない。だがバックグラウンドの力はそれが実際人々の行動に影響をあたえ
る場合行使される。力の概念における反事実的要素の以前の議論を踏まえれば、力は行為者がさ
もなければ望まなかったであろう何かを服従者に望ませる場合、あるいは服従者の利用可能な選
択肢の理解を制限する場合行使される。その場合私たちは、バックグラウンドの力はバックグラウ
ンドが私の欲求を形作る場合や私の利用可能な選択肢の理解を制限する場合、行使されると言う
べきではないのか?性的欲望のバックグラウンドの構成のケースを考えると、人の欲望がその社会
によって形作られ、人の利用可能な選択肢の理解が同様に形作られることは力の行使のケースな
のか?私はそうではないと考える。なぜならこれらのケースでは人は次の問いに答えることができ
ないからである。正確に誰が正確に誰に力を行使しているのか?
IV. 政治権力のパラドクス:政府と暴力
これまでの説明はかなりさまざまな種類の制度的構造感の区別について中立的である。そして政
府について何ら特別なことはないとか、家族、結婚、教会、大学などの中の単なるひとつの制度的
構造以外の何にものでもないと、そのような説明から思うかもしれない、だが実際それは単なるもう
ひとつの制度なのではない。ほとんどの組織された社会において「政府」は「究極的な制度的構
造」であると言う意味がある。(12) もちろん政府の力は自由民主主義から全体主義国家まで莫大
に変化する。だがやはり政府は家族、教育、お金、経済全般、私有財産、教会でさえ他の制度的構
造を規制する力をもつ。経済はすべての人の生活に影響を与え、現代もっとも重要な経済問題は
自動的に政治問題とみなされ、政府の行為を条件としている。安定した社会で、政府は唯一家族
と教会だけが競合する、もっとも高度に受け入れられた地位機能の体系である傾向がある。実際
過去数世紀のもっとも圧倒的な文化的発展のひとつは社会における集合的忠誠の究極的焦点と
して国民国家(nation-state)の興隆である。
訳注
たとえば、人々はカンサス・シティーやヴィトリー・
ル・フランソワ村や、アラメダ郡のために闘ったり、死んだりしようとは思わない仕方で、アメリカ、ドイ
ツ、フランス、日本のために戦い、死のうと思った。それは民族(nation)の境界線を手に入れたり、
それに一致する国境(boundary of state)を獲得することが、その業績ではない。国民/民族
(nation)は文化的実体である。国家(state)は政治的実体である。いかなる歴史的状況において
も、民族の境界と国境が一致するアプリオリな保証はない。過去2世紀の歴史の多くはそのような
境界の不一致についてであった。19世紀、ドイツとイタリアは小さな公国の集合であったものから
国民国家をそれぞれ形成した。20世紀末、ユーゴスラビアとソ連は、それが内蔵していた多くの民
族が、自らの国民国家になるとともに国家であることを停止した。
これらを数行で書けば、イスラム過激派の多くが政府より重要ななものと宗教をみなし、政府は
イスラム原理主義聖職者によって支配されなければならないと考える。教会と国家の分離は、西洋
民主主義に幅広く受け入れられているため、非常に多くのイスラム原理主義者が抱く、宗教に対
訳注 nation-state は国民国家が定訳であるが、nation は民族/国民である。文脈により訳語を変えた。
する国家の関係の真にラジカルな概念を私たちが理解するのは難しい。
これらふたつの歴史的発展、国民国家の興隆と教会と国家の分離は、ともにかなり最近の歴史
的点である。どちらも不可避ではなく、また実際私たちはどれだけそれらが反直感的であるかの印
象をもつことを認めざるをえない。政府が究極の権力の保管庫であり、宗教が究極の価値の保管
庫である場合、政府が宗教の価値をその力を行使しなければならないというのは自然な結論であ
るようにみえるだろう。多くの人々にとって、それは自然な結論に見える。実際の実践では、それは
手短に述べようと思う理由で、ほとんど不可避に悲惨である。非常に長い期間かかって、教会の支
配から政府が独立するのを認める仕方で西欧民主主義は進化した。
教会と国家を分離しない悪しき結果は単に特定の歴史的環境の経験的結果であるだけではな
い。そのふたつを統合しようとすることには哲学的矛盾がある。なぜか?手短に論じるとおり、政治
は定義により、コンフリクトとその平和的解決についてのものである。だが私たちが知っている種類
の教条的宗教にとって、コンフリクトは異常な状況である。そのような信仰にとって、教会と国家が
統合されている場合、政府の批判は、たとえたまたま政府のコントロール下にある人々の批判でさ
え、神への冒涜の形式であり、政府を変えようとする試みは異端である。そのようなシステムでは、
政府にたいするどんな攻撃も神への攻撃である。すべての問題についての自由な議論、権力の分
配についての時間的性格、権力の座にいる者たちへの体系的な言葉での攻撃のような民主主義
政府の本質的特徴は、根本的に、教条的宗教のバックグラウンドの前提と矛盾する。私はこの区
別の重要性を誇張することはできない。民主的政府は、まさにその定義により、意見の違いや不一
致の経常的な受け入れにコミットする。対立する政党が異なる一群の価値と異なる根本的信念を
もつことは民主的政府の欠陥ではない。だが啓示宗教に関する場合、このすべては、最善でも神
への冒涜であり、最悪の場合皆殺しに値する。啓示宗教の考え全体は、神の法に照らして唯一の
真理、唯一の正しい道、唯一の正しいものごとの仕方しかないということである。民主主義政府が
啓示宗教と矛盾しえないあり方は存在しない。この事実を認めれば、私たちは、教会と国家を分離
し宗教制度が政府の政策を完全にコントロールすることを阻止する一群のメカニズムを進化させ
た ― それは痛みに満ちた進化であった。
政府は、ほぼ無政府状態から、普通の市民の生活が高度に制限される全体主義まですべて広
がるそのコントロールの程度は異なりうる。「政府」のコントロールの極端には全く自由を認めない
強制収容所がある。だがコントロールの程度がなんであれ、政府の活動で行使される権力は、他の
制度的構造のそれを超える。なぜなら政府は通常武力を独占しているため、政府の権力の自発的
受け入れと単なる受動的に受け入れることの明確な区別をすることは難しい。
どのように政府は、いわば武力なしに行うのか。すなわちどのように政府は他の地位=機能を超
えた地位機能の体系として受け入れらるようにするのか?通常政府はふたつの領域で結合した特
徴をもつ。組織された暴力の独占と領土のコントロールである。組織された暴力の独占と領土のコ
ントロールの結合は政府に地位機能の競合する体系内での究極的な権力の役割を保証する。政
府が領土の一部に、組織された暴力の独占をもつことができないケースでは、その場合その領土
の部分にたいする政府としての機能を停止する。これが現在一部のアフリカ諸国に見られるケー
スである。そしてそれはマフィア、カモッラ訳注1、その他犯罪組織が事実上国家の領土の特定の部
分に対し犯罪組織が機能した時の南イタリアやシシリー島におけるケースであった。政府のパラド
クスは、次の通りでありえる。政府の権力は地位機能の体系であり、そのため集合的承認ないし受
け入れにもとづいているが、通常それ自体は暴力に基づかないが、集合的承認ないし受け入れは
軍や警察の形式における恒常的な暴力の脅威がある場合に限り、機能を継続できる。正統性は政
府が機能にするのに重大である。なぜなら政治権力は何らかの程度受け入れを必要とするからで
ある。だが、政府に関する場合、それ自体の正統性は決して十分ではない。軍や警察権力は政治
権力とは異なるが、一般に警察力や軍事力なしに政府のようなもの、政治権力のようなものはない。
政府が究極的な地位機能の体系であるという意味は、伝統的政治哲学者たちが国家主権
(sovereignity)について語る場合に手に入れようとしてきた意味である。私は国家主権の概念は
何がしか混乱した概念であると考える。なぜならそれは推移律(transitivity)を含意しているからで
ある。訳注2だがほとんどの国家主権の体系は、少なくとも民主国家では、推移律的ではない。独裁
制において、A が B に権力を持ち B が C に権力を持つなら A は C に権力をもつが、それは民主主
義では通常真ではない。アメリカ合衆国では、政府の三権のあいだと、それらと市民とのあいだに
複雑な一連の連動する憲法の仕組みがある。だから伝統的な国家主権の概念は伝統的政治哲
学者たちがそれがあって欲しいと望むほど有効ではないかもしれない。
にもかかわらず私は政府を説明するため究極的地位機能の力の概念を必要とすると考える。
なぜなら政府は社会における義務論的力の究極的な保管庫であるため、正統性の疑問は言葉
やお金のようなすべての人の関心事である制度にとってほとんど問題にならない仕方で、政府に
とって重大になるからである。私は箇条書きで、政治権力について本質的な点のいくつかを要約し
ようと思う。
1. すべての政治権力は地位機能の問題であり、その理由のため、すべての政治権力
は義務論的力である。
義務論的力は、権利、義務、認可、許可、特権、権威などである。訳注3地方の政党のボスや村の議会
の権力は、大統領、首相、アメリカ議会、最高裁判と同様、承認された地位機能のこれら実体によ
訳注1 ナポリを支配する犯罪組織。原文では Commora とされているが通常 Cammora と知られる。
訳注2 「もし最初と 2 番目が有効で、また 2 番目と 3 番目が有効である場合、最初 3 番目の関係も必ず有効
であるという 3 要素間の関係」
訳注3 原文では”rights, duties, obligations, authorizations, permissionsm privileges,
る所有にすべて由来する。そしてこれらの地位機能は義務論的力を割り当てる。政治権力はその
ため軍事力、警察力、強いものが弱いものにもつナマの物理的力とは異なる。外国を占領する軍は
その市民に権力をもつが、そのような力はナマの物理的力に基づく。侵略者の中で地位機能の承
認された体系があり、そのため軍内に政治的関係がありえるだが、占領されたものに対する占領し
たものの関係は、占領されたものが少なくともその地位機能の妥当性をある程度受け入れるか承
認するようにならなければ、政治的ではない。占領されたものが占領者の占領を受け入れる程度に
応じて、地位機能の何らかの妥当性を受け入れることなければ、占領されたものは恐怖と打算から
行為する。
私はもちろん権力 ― 政治的、軍事的、警察的、経済的など ― のこれら様々な形式のすべては
あらゆる種類の仕方で相互に作用し重なりあうことはわかっている。私はそれらの明確な分割線が
あるとはひとときも考えていない。そして私は「経済的」や「軍事的」と区別されるものとして「政治
的」という用語の日常的使用に多くの関心をもっているわけではない。しかし私が指摘している点
は、権力が義務論的である存在論の論理構造はが、例えばナマの力あるいは自己利害に基づく
ケースと異なるということである。
受け入れられた地位機能の体系を伴う動機付けの形式は政治的なものの概念に本質的であり、
私はそれについて手短に語るつもりである。歴史的に、その中心性の意識は古い社会契約理論家
を動機付けた基本的直感である。彼らは私たちが政治的義務の体系を持ちえることはありえず、実
際私たちは約束のような何か、政治的現実を維持するのに必要な義務論的体系を創出するだろう
原初的「契約」なしに政治社会をもちえることはないと考えた。
2. すべての政治権力が地位機能の問題であるため、すべての政治権力は、上から行
使されるが、下から生じる。
地位機能の体系が集合的承認ないし受け入れを必要とするため、すべての純粋な政治権力はボ
トムアップから生じる。これは民主主義においてと同様に独裁でも真である。ヒットラーとスターリン
は、たとえば、共に治安のニーズにつねにとりつかれていた。彼らは現実の所与の一部として、地位
機能の彼らの体系の受入を当然のこととすることは決してありえなかった。それは経常的に大量の
報酬と罰の体系によって、恐怖によって維持されなければならなかった。
ムッソリーニやヒットラーがまねをしたレーニンの偉大な発明は、 ― 伝統的な政党ではなく、古
い地位機能の体系を転覆するために働かせることができ、いったん転覆したなら権力を奪取し、そ
の後新たな地位機能の体系を創出する訓練された、献身的な狂信者のエリート組織である ―
「党」である。「10月革命」は革命ではなかった。それは古典的に実行されたクーデターであった。な
ぜならレーニンは党の完全にコントロールし、党はたやすく暫定政府を転覆できたからである。ボル
シェビキは実際革命的変革を行ったが、「10月革命」という表現の使用は、大量の下からの蜂起
であることを誤って含意する。ドイツで、ワイマールの政治家たちは、いったんヒットラーが首相とな
るや、ナチが国家のコントロールを獲得した速さと完全さに衝撃を受けた。それはあたかも
NSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)が脚本をもっているかのようであった。誰もが何が行われ
ると考えているかあらかじめ知っていた。両方のケースで、党は指導者と一般民衆のあいだの地位
機能の仲介になった。党の忠誠は指導者の機能に本質的であり、報酬と恐怖の結合によって確実
にされた。
20世紀後半の唯一のもっとも唖然とする政治的事件は共産主義の崩壊であった。正確にどの
ようにそれが崩壊したかという問いは歴史的研究の問題である。私はその崩壊を分析する決定的
な歴史的著作を見たことがない。だが論理構造に関する限り、集合的志向性の構造が地位機能の
体系をもはや維持できなくなった時、それは崩壊したと言うことができる。レーニンが創出した構造
は、結合したエリートのシステム、特に何にもまして党を必要とした。いったんエリートの指導者、ゴ
ルバチョフ自身の人格で、その時現前したシステムの受入可能性において信頼を失ったなら、それ
は単にほどけ始めた。明らかにゴルバチョフは共済主義を改革できると考えたが、彼が試みた改革
はシステムを破壊した。訳注それは絶対にこの構造を理解することに本質的である。指導部の人格、
独裁者は直接党や他の種のエリート構造によって受け入れをもたなければならない。彼らはついで
受け入れと恐怖の結合をもって人民をコントロールできるため活動する。だが指導部の人々が信頼
を失い、下層の人々が、指導部の人々や彼らがコントロールする構造の正統性を受け入れないし承
認するのをやめる時、全構造は崩壊する。類似の変質は、シャーがイランを放棄した時、マルコス一
族がフィリピンから逃亡した時、起きた。
3. たとえ個人がすべての政治権力の源泉であるとしても、集合的志向性に関わる能
力によって、個人は通常無力を感じる。
個人は、自分にどんな仕方でも依存しない権力を感じる。これが、なぜ革命家がある種の集合的志
向性、階級意識、プロレタリアとの同一化、学生の連帯、女性のあいだに生じる意識、あるいは集団
に権利を与えられると感じさせる、また実際その集団に権利を与える個別の集団を伴う、何らかの
同一化を発展させることが重要かの理由である。既存の社会の構造全体は集合的志向性の上に
あるため、その破壊は集合的志向性の代替の矛盾する形式を創出することによって達成されうる。
私はこれまで地位機能の役割と、結果的に社会的政治的現実の構成における義務論的力の役
割を強調してきた。だがそれは当然私たちの問いを強いる。どのようにそれは働くのか?どのように
訳注 “system”について、政治及び経済の体系を含意する場合、「体系」ではなく、「システム」とする。
地位機能と義務論的力についてのこのすべてのものは、選挙で投票したり、所得税を支払うことに
なる場合、働くのか?どの様にして実際の人間の行動についての動機を提供するように働くのか?
人間が行為の欲求独立的理由を創出し、それにもとづいて行為することは、人間固有の特色であ
る。私が知るかぎりどんな高等な霊長類でさえこの能力を持たない。これは第4の点につながる。
4. 政治的地位機能の体系は少なくとも一部は承認された義務論的力が行為の欲求
独立的理由を提供するため働く。
通常、私たちは行為者によって意図的に創出されたものとして行為の欲求独立的理由を考える。
そして約束することは単にこのもっとも有名なケースである。だが政治的存在論と政治権力を理解
するのに重要なことのひとつは、地位機能の全体系が行為の欲求独立的理由を提供する体系で
あることを理解することである。政治コミュニティの市民によって語られるべき、妥当なものとして地
位機能の行為者による承認は行為の欲求独立的理由を行為者に与える。そのような承認なしに、
組織された政治的ないし制度的現実のような物はない。
私たちが説明しようとしているものの一部は、人間と、制度的構造をもたない動物との違いであ
る。その違いを説明する第一段階は制度的現実特徴を同定することである。制度的現実は地位機
能の体系であり、その地位機能はつねに義務論的力を伴う。たとえばバークレーの私のオフィスに
近いオフィスを構える者は哲学部長である。学部長である地位機能は、その地位にあるものがさも
なければもたなかった権利や義務を課す。そのような仕方で、地位機能と義務論的力の本質的結
びつきがある。だがそしてこれは次の重要な段階であるが ― 私のような ― 意識的行為者による
地位機能の承認は、私の欲求から独立した、行為することについて私に理由を与えることができる。
私の学部長が私に委員会で働くよう求めるなら、そして私が学部長としての地位を承認するなら、
私は、たとえ委員会が退屈で、拒否してもペナルティがないとしてもそうする理由を私はもつ。
さらに一般的に、私が例えば誰かと午前9時に会う義務をもつなら、たとえ朝、そういう気分では
なくとも、そうする理由がある。義務がそれを必要とする事実は、私がそれをすることを望むための
理由を私に与える。そのため人間社会のケースでは、私が知っている他の動物社会と異なり、理由
は欲求によって動機付けられることに代わる欲求を動機づけることができる。この最も明白な例は
約束することである。だが政治的現実に関する場合、私たちが約束をしたり、あるいはさまざまなコ
ミットメントを行う場合と同じように、正確に行為の欲求独立的理由を作ったり、創出する必要はな
いことを理解するのは重要である。最近の事例を取り上げるなら、2000年の選挙後、多くのアメリ
カ人はジョージ・W・ブッシュは不法な仕方で大統領の地位機能を手に入れたと考えた。訳注だがア
訳注 ブッシュ対ゴアの選挙で拮抗したフロリダ州票の再集計を連邦裁判所が禁じる決定により結果が確定し
た。
メリカ合衆国における義務論的な力の構造にとって重要なことは、非常にわずかな例外を除いて、
彼らはブッシュの義務論的力を承認し続けるということである。どのようにバックグラウンドの前提
が民主主義が機能するのを可能にするかに関心をもつ者は誰でも、2000年の選挙を詳しく見なけ
ればならない。普通、選挙では誤りの余地がある。そして普通勝利の余地は、誤りの余地をはるか
に超えるため誤りは問題にならない。だが、2000年の選挙では誤りの余地は勝利の余地をはるか
に超えていた。これは一言で言えば、勝者がいないことを意味する。選挙は五分五分で終わった。
だが選挙は五分五分で終わることができない、だから人はどうすべきか?アメリカ人はすべての困
難な事例は最高裁判所によって決定されるべきだという憲法には書かれていないバックグラウンド
の前提をもち、そしてこれはそのひとつだった。私はその決定が知的か、非知的か、正しいか正しく
ないか言うつもりはないが、顕著なことは、大衆はおおむねそれを受け入れているということである。
さまざまなヨーロッパの批評家は、2000年の選挙はアメリカ民主主義の弱点を示したと示唆した。
私はそれがその強さを示したと思う、選挙は五分五分で終わり、ジョージ・W・ブッシュに勝利を与
えた最終的な判決は決定的ではない正統化をもったが、それはほぼ普遍的にほとんどの大衆に
よって受け入れられた。暴動は起こらなかった。戦車は出動しなかった。私はバークレーで「奴はお
れの大統領じゃねえぞ」と言うステッカーをバンパーに貼った車を少し見た。だが、大統領や他の誰
からそれに困ったとは思わない。今私が指摘している点は、民主主義は単に規則に基づいて働く
だけでなくバックグラウンドの前提にもとづいて、習慣にもとづいて、そして感受性の様式にもとづ
いて働くということである。
もし正しいなら、すべての政治的動機付けは自己利害的でもなくし打算的でもないということが
私が言っていることの帰結である。あなたは政治的動機付けと経済的動機付けを対照させること
によってこれを理解することができる、政治権力と経済的力の論理的関係は極端に複雑である。
経済的システムも政治的システムもともに地位機能の体系である。政治システムは付随する政党
機関、利害団体などとともに政府機関からなる。経済システムは商品やサービスを創出し、頒布す
るための経済機関からなる。論理的構造は類似しているが、合理的動機付けの体系は面白いほど
異なる。経済的力はほとんど経済的報酬、インセンティブ、ペナルティを与えることができることの
問題である。金持ちは貧乏人より力をもつ。なぜなら貧乏人は金持ちが彼らに支払うことができる
ものを欲し、それゆえ金持ちが望むことをするだろうからである。政治権力はしばしばそれと似てい
るが、つねにではない。それは政治指導者がより大きな報酬を与えられる限り権力を行使できる場
合に似ている。これは政治的関係を経済的関係と同じ論理構造をもつものとして扱おうとする数々
の混乱した理論に導いた。だがそのような欲求に基づく行為の理由は、それが義務論的体系内で
あってさえ、義務論的ではない。強調すべき要点は政治権力の本質は義務論的力であるというこ
とである。
5. 政治権力一般と特別な能力としての政治的指導力のあいだに区別があるというこ
とがこれまでの分析の帰結である。
大雑把に言って、力は望むと望まないとにかかわらず、人々に何かをさせる能力である。指導力は
力の特別なケース、人々がさもなければしたくない何かをさせる能力である。指導力は、力の一形
式でありそのため、意図的に行使されうる。それゆえ、同じ公式の地位機能をもつ政治権力の同じ
立場につく異なる人はその効果が異なりうる。なぜならある人は効果的な指導者であり他はそうで
ないからである。彼らは義務論的地位の同じ「公式の」立場をもつが、義務論的力の異なる「効果
的」立場をもつ。たとえばルーズベルトとカーターは同じ公式の義務論的力をもった ― ともにアメ
リカ合衆国大統領であり、民主党党首であった ― が、ルーズベルトははるかに効果的であった。な
ぜなら彼は憲法により割り当てられた力を超えた義務論的力を維持したからである。それを行う能
力は政治的指導力を構成するものの一部である。さらに効果的な指導者は力を行使し、たとえ在
野の人となっても非公式な地位機能を維持し続けることができる。
6. 政治権力は地位機能の問題であるため、それは大部分言語的に構成される。
私は政治権力は一般に義務論的力だと言った。それは権利、義務、認可、許可などの問題である。
そのような力は特別な存在論をもつ。バラク・オバマが大統領であるという事実は、雨がふるという
事実とは全く異なる論理構造をもつ。雨が降るという事実は、気象学史についての事実とともに、
水滴が空から落ちるということからなる。だがバラク・オバマが大統領であるという事実は自然現
象のような仕方の事実ではない。その事実は極端に複雑な一群の顕在的な言葉の現象によって
構成される。言語なしにその事実があり得ることは決してない。その事実の本質的な構成要素は
人々が彼を大統領とみなし、それを受け入れ、継続的にその元々の受け入れを伴なう義務論的力
の全体系を受け入れることである。地位機能はそれらが存在すると表象される限りにおいてのみ
存在しえる。そしてそれらが存在すると表象されるためには何らかの表象手段が必要であり、その
手段は通常言語的である。政治的地位機能に関する場合それはほとんど不可避に言語的である。
表象内容が義務論の力の論理構造の実際の内容に一致する必要がないことを強調するのは重
要である。たとえばバラク・オバマが大統領であるために人々が「私たちは彼に公式 X を C で Y と
みなすに従う地位機能宣言を使って彼に地位機能を課した」と、たとえそれが彼らが正確に行った
ことであっても、考える必要はない。だが彼らは何かを考えることが可能でなければならない。たと
えば彼らは通常「彼は大統領だ」と考える。そしてその考えは地位機能を維持するのに十分である。
なぜならそれは地位機能宣言の論理形式をもち、そのためすべての宣言に特徴的な二重の適合
方向を持つからである。
7. 社会が私たちの意味で政治的現実をもつためには、それは他の区別しうるいくつ
かの特徴を必要とする。第一、公共的領域の一部としての政治的なものととも
なう、公的領域と私的領域の区別、第二、非暴力的集団のコンフリクトの存在、
第三、その集団のコンフリクトは義務論の構造内における社会的財にめぐるも
のでなければならない。
私は政治的事実を他の種類の社会的、政治的事実から区別するいくつかの違いを示唆すると
言った。だが暴力や領土のコントロールに関する重要な例外を除けば、これまで私が示した義務論
は、また宗教、企業、大学、組織されたスポーツのような非政治的構造にも適合するかもしれない。
それらもまた地位機能の衆望的形式と継続的な義務論的力の集合的形式を伴う。義務論的力の
この種の体系内の「政治的なもの」(the political)の概念について特別なものは何か?
私は何らかの種類の本質主義を支持しない。そして政治的なものの概念はあきらかに家族的類
似の概念である。政治的なものの本質を定義する一群の必要十分条件はない。だが多くの通常区
別できる特徴があると私は考える。第一に政治的なものの私たちの概念は範例的に公共的活動と
しての政治とともに、公共的領域と私的領域の区別を必要とする。第二に、政治的なものの概念は
集団のコンフリクトの概念を必要とする。しかしどんな集団のコンフリクトもただ政治的なのではな
い。政治的コンフリクトの重要な特徴は、それが社会的財に関するコンフリクトであるということで
ある。そして多くのこれらの社会的財は義務論的力を含む。だからたとえば堕胎の権利は政治問
題である。なぜならそれは義務論的力 ― 胎児を殺す女性の法的権利 ― を伴うからである。
8. 武力の独占は政府の本質的前提である。
以前に示唆とおり、政治的なもののパラドクスはこうである。政治システムが機能するためには集
合的志向性を共有する集団の十分多くのメンバーによる、一群の地位機能の承認ないし受け入れ
がなければならない。だが一般に、政治システムにおいて、その一群の地位機能は、武力の脅威に
よって裏付けられている場合にかぎり、働くことができる。この特徴が教会、大学、スキークラブ、
マーチングバンドから政府を区別する。政府が究極的な地位機能の体系としてそれ自体維持でき
るという理由は、それが物理的力の経常的脅威を維持するということである。民主主義社会のい
わば奇跡は、政府を構成する地位機能の体系が、軍や警察を構成する地位機能の体系を超えた
義務論的力を通じてコントロールを行使することができたことである。集合的受け入れが働くのを
やめる社会では ― たとえば1989年のドイツ民主共和国では ― 彼らが言う政府は崩壊する。
9. 民主主義のいくつか特別な性格
カール・シュミットは正確にすべての警察は敵と味方の区別を伴う言う。(13) だがその場合彼は
― 不正確に民主主義に関する限り ― それは双方がたがいに殺すことを望む政治的概念の一部
であると言う。これは決定的に成功した民主主義について真ではない。アメリカ合衆国や西欧諸国
のような安定した民主主義は、意見の違いについての寛容のバックグラウンドの前提にもとづいて
いる。それは単に事実上対立する政党が通常彼らの政治的対立者を殺さないというだけではない。
それは政党が政治的対立者を殺すことを望みさえしないことであるようにみえる。政党は次の選挙
で政治的対立者を打ち負かすことを望み、権力の座にあることを望み、対立者を権力の座から追
い払うことを望むが、通常誰も殺すことを望むことなくこれを行う。奇跡に近いもうひとつの安定し
た、健全な民主主義の特徴は、政治的コンフリクトが驚くべきことに抑制されることである。競合す
る政治家たちは、情熱をもってたがいに憎しみ合うかもしれないが、そのバックグラウンドは憎悪を
隠したほうがマシで、それが得票を犠牲にするだろうというようなものである。アメリカの歴史ではコ
ンフリクトが非常に極端になったため通常の憲法的手続きで解決されえなくなり、私たちは南北戦
争を起こした。
民主主義が一部選挙で表明されたものとして多数決によって規定されると考える場合、成功し
た安定した民主主義の別の特徴は、なんであれ、生活の重要な問題は、選挙によって決定されな
いということである。誰が生き、誰が死に、誰が金持ちになり、誰が貧乏になるかのような問題は、国
が安定しているなら、選挙で決定されえない。なぜそうでないのか?選挙は人々が選挙結果にもと
づいてその生活を計画するにはあまりにも予測不能である。あなたの対立者が次の選挙で勝った
場合、あなたは強制収容所に放り込まれそうになったり、あなたの財産をすべて没収されたりすると
わかるなら、あなたが安定した持続的な生活設計ができない。成功した民主主義において誰が選
挙されるかは大した問題ではないし、あるべきではない。伝統的にアメリカ合衆国では、政党は投
票者の中間層をめぐって争い、結果的になんであれ彼らは彼らが本当の姿より違いにより似たよう
にみえるよう試みる。選挙から生じる興味深い違いはあるが、私は誰が選挙されるかにかかわらず、
選挙以前と同じように選挙後も生活がうまく続くことを知ってきた。これは健全な民主主義のあか
しである。どのようにその場合私たちは民主主義において生死の問題を決めるのか?さて観念的に、
そのほとんどは政治の領域では決して生じない。金持ちか貧乏か、生きているか死んでいるか、東
海岸で生活しているか西海岸で生活しているか、教育があるかないかは、ほとんどの場合、誰が選
挙されるかの機能ではない。場合によっては、本当に重要な問題は、あまりに情熱をかきたてるた
め、民衆の政治的に活発な人々は、それを扱うことを好まないということになる。そのようなケースで、
アメリカ合衆国では、問題は普通最高裁判所によって解決される。過去100年間のふたつの有名
な判決は人種の平等と堕胎であった。最高裁判所が堕胎問題の解決に取り組んだ知的転回は、
本当にわかりにくいものだったが、誰も覚えていないようにおもえる。誕生前の胎児の殺害した女
性の義務論的力は合衆国憲法修正第4条によって保証されるものとして「プライバイシーの権利」
に関する問題として扱われた。しかしその問題を再審する経常的な試みはある。
V. 結論
この章は二種類の狙いをもっている。第一の種類は力の概念に関する。そこで私は力のいくつか
の一般的特徴を記述しようと試み、その後バックグラウンドの力の概念を導入する。それは社会に
おいて集合的に受け入れられたバックグラウンドとネットワークがそのメンバーに対して力の関係を
もたらすことができるということである。私はこれらが適切に力の関係として解釈されると論じる。な
ぜならそれらは社会のメンバーが他のメンバーに望むと望むかどうかにかかわらず、ある仕方で行
動することを強いることができる制約を充足するからである。
章の最後で私は政治的なものの概念が、公的な領域としての政治的なものに伴う公的領域と
私的領域の区別を必要とし、非暴力的手段によって解決される集団のコンフリクトの存在を必要と
し、そして集団のコンフリクトが社会的財をめぐることを必要とすることを示して行為の欲求独立的
理由の体系内で政治的なものの際立った特徴を記述しようとする。政府の力は警察力や軍事力と
同じではないが、わずかな例外を除いて警察も軍もない場合政府はない。
第8章 人間の諸権利
この本はほとんど、制度、制度的事実、地位機能、義務論的力の本性とその間の関係についてで
ある。これら義務論的力を名指す英語の名詞の中で有名な物は、“obligation”(義務)、“duty”
(義務)、“entitlement”(資格)、“authorization”(授権)とともに“right”(権利)である。人が考
えることができる権利のほとんどは、制度内に存在する:たとえば、財産の所有者や大学の学生の
権利など。
だが今度、私たちは独特の明らかな例外にたっする。「人間」の諸権利のようなもの、市民、教授、
夫の権利のように、私が制度のメンバーであることでもつのではなく、私が単に人間であることに
よってもつ権利、「普遍的な」人権(Universal Human Rights)さえあることが一般に合意されて
いる。そんなものはどのようにしてありえるのか?夫、教授、市民の権利から区別されるものとして人
権について語ることは本当に意味があるのか?人々は、普遍的人権について自由に語るが、私は
普遍的人間の諸義務について多くを、あるいは実際ほとんど聞いたことがない。この章で後に見る
ように、普遍的人権のようなものがあるなら、それは論理的に普遍的人間の諸義務があることが帰
結する。だが「普遍的人間の諸義務があるのか?」という問いを提起するなら、「普遍的人権はある
のか?」とおそらく違って聞こえる。
人権の最近の議論には独特の知的空白がある。ほとんどの哲学者たちは、そして実際ほとんど
の人々は、普遍的人権の概念に問題をはらむものは何も見い出さないようにみえる。実際、バー
ナード・ウィリアムズは、どんな履行や施行だけを伴う人権の存在に何も問題はないと私たちに語る。
「私たちは人権が何であるかについて良い考えをもっている。もっとも重要な問題はそれを特定す
ることではなく、それを実施させることである」(1) と彼は書く。だがジェレミー・ベンサムによって築
かれ、普遍的人権の考えすべてが馬鹿げていることを見出すアラスデア・マッキンタイアによって継
続された懐疑的伝統がある。私たちがその問いに答えなければならない権利の概念を理解しよう
とするなら、正確に何がその存在論的地位なのか?所有権と市民権の存在論的地位はあまり問題
をはらんでいない。そしてこの本の目的のひとつは実際そのような地位=機能の論理構造を展開す
ることである。私たちは類似の分析を普遍的人権に施すことができるのか?
懐疑的議論から始めよう。ジェレミー・ベンサムは法的承認とは別に、単に人間であることによっ
て権利がありえるという考えは「単なるナンセンス」だと考えた。フランス革命の後「人間の権利」
(Rights of Man)の革命的主張に反対して書かれたすばらしい記事で、(2) 彼はこう書く:
自然権は単にナンセンスである:自然かつ不可侵の権利は修辞的ナンセンスである ― 竹
馬に乗ったナンセンスである。だがこの修辞的ナンセンスは悪意あるナンセンスの古い血
統を終わらせる:というのも、直ちにこれらの偽りの自然権のリストが与えられ、そしてそれら
が法的権利とみなすため提示させれるように表現されるからである。それがなんであれこれ
らの権利について、なんであれどんな場合でも、どんな政府も最小の条項を廃棄することが
できる何らかのものがないようにみえる。(230行 ff)
ベンサムは、「実質的権利」と呼ぶすべての権利が法によって創出されると考えた。繰り返し次の節
は引用に値する:
権利、実質的権利は、法の子どもである:現実の法から現実の権利が生まれる;だが空想さ
れた、詩人、修辞家、道徳的知的地位の取引人によって発明された空想的法から、自然の
方からは想像上の権利、化物「メデューサとキメラの欲望」の私生児の血が生まれる。そし
てそれは法的権利、法の結果、平和の支持者から、反法的権利、法の道徳的敵、政府の転
覆者、治安の暗殺者が生まれるということである。(730行 ff)
より最近だが等しく熱狂的な懐疑論はアラスデア・マッキンタイアによって表明されている:
権利のようなものはない。そしてその信念は魔女や一角獣の信念のそれである……権利の
ようなものがないという非常にぶっきらぼうに主張する最善の理由は実際、魔女やそして…
一角獣がいないと主張するため私たちもつ最善の理由と正確に同じタイプのものである。
そのような権利があると信じる最善の理由を与えるすべての試みは失敗した、自然権の18
世紀の哲学的擁護者たちは場合によっては人間がそれを所有するという主張が自明の真
理であると示唆した;だが、私たちは自明の真理はないと知っている。(3)
I. 地位機能に由来する義務論的力としての権利
私たちはベンサム-マッキンタイアのスタイルの懐疑論に答えることができるか?私はできると思う
が、そうするためには、私たちは普遍的人権を地位機能として承認しなければならない;人権は割
り当てられた地位に由来する義務論的力である。懐疑論における真理は、私たちは人々が自分の
顔に鼻を発見する仕方で普遍的人権を人々がもつことを「発見」しないということである。そのよう
な権利の存在は人間の創造物であるため志向性相関的である。だがいったん私たちはその存在
論的地位について明確にするなら、権利の存在はお金、私有財産、友情より神秘的なものは何もな
い。だれもお金、私有財産、友情の信念がナンセンスだという者はいない。
私は一般に財産権や夫権のような権利は地位機能であるということが明らかであることを望む;
すなわちそれらは集合的に承認された地位機能に由来する義務論的力である。それらは人々に課
され、集合的承認ないし受入れによってのみ機能できる義務論的力である。それがロビンソン・ク
ルーソーが孤島でひとり、彼が何らかの人権をもっているというのがなぜ的外れか、おそらくナンセ
ンスでさえあるかの理由である。私たちが彼が人権(すなわち、彼が行方不明であると知る人々に
よって探される権利)をもつと言う場合、私たちは彼を人間社会のメンバーとして考えている。
権利が地位機能であるなら、それが志向性相関的であるということが直ちに帰結する。それはつ
ねに集合的志向性によって創出され、課される。それは光合成や水素イオンを発見するような仕方
で自然に発見されはしない。人権の創出と維持の論理構造のため、次のふたつの陳述が、たとえ
論理的に矛盾しているようにみえるとしても整合性を生む仕方で解釈されえる。
1. 自由な発言に対する普遍的権利は、それが存在するに至った時代である西欧啓蒙主義以
前には存在しなかった。
2. 自由な発言に対する普遍的権利はつねに存在するが、この権利は西欧啓蒙主義時代にの
み承認された。
すべての表現が間違いなく解釈されるなら、これらふたつの陳述は矛盾するが、それらを矛盾なく
するように解釈するある仕方がある。この章の目的のひとつは、表面的な違いの明らかさにもかか
わらず、どのようにそれが矛盾なくできるか示すことである。明らかな矛盾を解決し、懐疑主義の疑
いに応えるため、私たちは普遍的人権の本性とその存在の正統性の両方を説明しなければならな
い。
II. すべての権利は義務を含意する
権利(right)の陳述の論理形式は、他の側における相関する義務(obligation)を含意する。そのた
め、X が Y の財産(A)を横切る地役権をもつ通常の種類のケースで、
X は次の権利をもつ(X が A を行う)
は次を含意する
Y は次の義務をもつ(Y は次を妨害しない(X が A を行う))
X has a right (X does A)
implies
Y has an obligation (Y does not interfere (X does A))
強調すべき重要なことは、権利はつねに誰かに「対する」権利であるということである。この例にお
けるように、私があなたの財産を横切る地役権の権利をもつ場合、それはあなたに対する権利であ
る。そしてあなたには、あなたの財産を私が横切ることを妨害しない義務がある。権利と義務はその
ため論理的にたがいに関係する。X が Y に対して権利をもつ場合、Y がは X に義務をもつ。そして
言論の自由(free speech)のような基本的権利として、アメリカ合衆国で私たちが考えるものは普
通、政府に対する権利である。私たちに言論の自由を保障する、実際修正第一条の条文は単に
「議会は言論ないし報道の自由を剥奪する…法を作らない」(Congress shall make no
law...abridging the freedom of speech, or of the press)と言う。字義どおり言えば、私たちの
言論の自由に対する憲法上保障された権利は、議会に対して守る権利である。
標準的義務論の論理で、人に関してすべての義務論的概念を規定することは不可能である。そ
のためたとえば、私たちが基本的なものとして義務を理解する場合、私が行為 A を行わない義務を
負わない場合、その場合に限り、私は行為 A を行うことを許可されている。私が見てきた義務論の
論理は完全には充足されないが、私の説明ではその行為について何か権利がなければならない。
私はひとつの義務論的力に関連するすべての地位機能を規定しようとするため、私たちがひとつ
の義務論的基礎との関連で義務論の完全な分析を与えることができなければならないことは、私
がコミットするものの厳密な論理的帰結であるようにみえる。
権利と義務の間のこの種類の完全な一致があると主張する明らかな反例がある。権利がその
所有者に特定の権力を与えるケースがある。だからたとえばアメリカ合衆国大統領は、議会の法案
を拒否する権利をもつ。だが誰に対して彼はこの権利をもつのか?彼は議会に対して権利をもつ。
彼らの義務のひとつは大統領の拒否を受け入れることであり、大統領の拒否権をくつがえすため
には議会の三分の二の多数を必要とすることを承認することである。
これまで私たちは次をもつようにみえる:
1. すべてのxについて、xが権利 R(xは A を行う)をもつことは2を含意する
For all x, x has a right R(x does A) implies:
2. xがyに対し R をもつようなあるyがあり。そしてそれは3を含意する
There is some y such that x has R against y. And that implies
3. yはxに次を認める義務をもつ[妨害しないなど](xが A を行う)。
Y has an obligation to x to allow [not to interfere with, etc.] (x does A).
このパターンによって捉えられない権利をもつ何かがあるのか?「すべての権利」は誰かに「対す
る」権利であるため、すべての権利は義務を含意し、権利の対象となる人々は、対応する義務をも
つ。だが、すべての義務は権利を含意するのか?私たちが注意深く語っているなら多くの非公式の
対応する権利のない社会的義務 ― たとえばパーティーに人々を招待する義務 ― があると私は
考える。時には人々は誰か他の人のパーティーに招待される権利について適当に話したり語ったり
することに同意するが、私たちの目的により、私たちがすべての権利が地位機能だという仮説を追
求しなければならないと考える。権利をもつことは、あなたに義務を負う、あなたがその権利をもつ
人に対してそれをもち、そしてその義務はあなたがもつ何らかの地位に由来する。だから少なくとも
X が、何かを行う Y に対し地位機能に由来する権利をもつこのケースのクラスについて、私たちは
権利の特定のクラス(私は後に「消極的権利」(negative rights)と呼ぶ)と義務の間のクラスの間
の関係を暫定的に次のように特徴づけることができる:
(X は Y に対し次の権利をもつ(X が A を行う))→(X は次の地位 S をもつ(S は次の義務
のもとに Y を置く(Y は次を妨害しない(X は A を行う))))
(X has a right against Y (X does A)) → (X has a status S (S places Y under an obligation (Y
not interfere with (X does A)))).
普通の言い方をすれば、X が行為 A を遂行することを Y に対して消極的権利をもつということは、
X が A を行うことを妨害しない義務のもとに Y を置く、特定の地位 S を X はもつことを含意する。こ
れはこれから見るようにすべての権利をカバーするものではないが、消極的権利の重要な特徴を
述べている。
第一の含意は、普遍的人間の権利のようなものがあるなら、直ちに普遍的人間の義務があるこ
とが帰結することである。言論の自由に対する普遍的権利があるということはそれは人がすべて
の人に対してもつ権利であることを含意する。そして結果的に、すべての人は他のすべての人が自
ら自由に表現することを認める義務のもとにあることを含意する。これは重要な点であり、私は後に
この点に立ち返るつもりである。現時点では、ただこう強調させてほしい:私たちは権利の陳述は、
その権利に対する者たちの側で対応する義務の陳述の意味において等価だと主張する必要はな
いが、私たちはすべての権利にとって、権利の行使を妨害しない対応する義務があることを主張す
る必要がある。そして結果的に普遍的人間の権利があるなら、普遍的人間の義務がなければなら
ないことが直ちに帰結する。
III. どのように普遍的人権はありえるのか?
私は理解しやすい権利は、制度に結び付けられたそれであると言った。家族、私有財産、市民権、
組織のメンバーであろうと、制度におけるあなたの地位のため、あなたがいる地位に結び付けられ
た義務とともに権利をもつ。だが今度私たちは興味深い歴史的発展に出会う:私有財産の所有者、
市民、王の権利があるという考えに加えて、誰かが、ただ人間であることによって人がもつ権利があ
るという素晴らしい考えを手に入れた。人間であることは、私たちの地位機能の定義を満たす、機
能が割り当てられうる地位である。財産権、市民権に加えて、「人間」の権利がある。正確にいつど
のようにこれは起きたのか?私はよくわからないが、今私が提示できる最善のものはこうである。理
想の国の立法者ないし法施行者が法を定式化すると考える場合、人権もまた自然法の一形式で
あるというのは非常に短い一歩である。自然法の理論は人間が作った人間の方は自然 ― 特に人
間の自然 ― と一致し、実際それに従うべきであるという理論である。その仮定は、人間は普遍的
であり、結果的に人間の自然に従う普遍的法がありえるということである。私が言える限り、フー
ゴー・グロティウス(1583-1645)は最初のひとりであり、おそらくこの考えをもった最初の主要な
近代哲学者である。Josef Moural は私にその考えはまたストア派哲学者たちにあると言う。そして
Marga Vega は私に、スペインの神学者たちが新世界のインデオと遭遇したとき、普遍的人間の
権利の考えを発展させ、この人たちは人間であることによってのみ、神によって与えられた権利を
もっていると考えたと語る。私はこれら両方の主張に懐疑的である。なぜなら私たちが今日理解す
るとおり、人間の概念をとりまく特異なオーラは、ほとんど西欧啓蒙主義の産物だと考えるからであ
る。誰が人権の観念を最初に定式化しどのようにその観念を発展させたか発見しようとするのは魅
力的な企てだろう。(4)
もちろん、人は普遍的人権の存在を含意するものとして聖書を解釈することができる。たとえば
すべての人を殺さない権利や父母が「敬われる」権利を確立したものとして十戒を解釈できる。私
はこの点を長々論じるつもりはないが、私は人権の近代的概念は聖書から程遠く、実際ストア派哲
学者からもスペインのコンキスタドールからも程遠いと考える。何がしか曖昧にその点を指摘する
なら普遍的人権の近代的概念は、私たちがこの権利をもつことは人間としての私たちの威厳によ
るということである。たとえ神によって授けられたとしても、それは私たちのまさに自然によって授け
られる。聖書の概念は単に価値のない人間性に神によって定められた一連の戒めがあるというだ
けにすぎない。私が言える限り、どんな場合も「人権」の神学や特に普遍的人権はかなり最近のも
のであり啓蒙主義以前には存在しなかった。私たちの普遍的人権の近代的概念は、すべての人が
人権をもち、人間が平等であり、すべての人が他のすべての人と等しい権利をもち、ある意味でそ
の権利が私たちの自然から帰結すると言う意味で人権が普遍的であるということを必要とする。
「それは自然で、普遍的で、平等である」。私はこの特異な概念が西欧啓蒙主義以前に普及したと
は思わない。(5)
だが権利一般が地位機能であり、地位機能の存在が制度的事実の問題である場合、人権には
何か難問はないのか?その観念は論理的に馬鹿げていないのか?人権があることの観念には何
ら論理的バカバカしさはない。なぜなら論理的に言って、人間に権利を割り当てることは割り当てら
れた地位に由来する義務論的力のどんな他の割り当てと同じだからである。難問の特徴は、複雑
な社会システムにおいて、権利が通常、財産、軍、裁判所、政府官庁、営利企業、結婚のような「す
でに」割り当てられた地位機能のいくつかの層から生じるという事実に由来する。だが紙片や金塊
にお金であることをの地位=機能を割り当てること以上に、直接人間に権利の地位機能を割り当て
ることに論理的バカバカしさはない。論理構造は、私たちは私有財産であること国家の職員である
こと、結婚していることのような地位機能として人間であることを扱わなければならないということ
である。公式 X を文脈 C で Y とみなすにおいて、Y 項は「人間」である、;だからあなたが人間として
資格をもつなら、あなたは自動的に人権を保障される。しかし、人権には少なくとも二つの点で難問
がある。第一に、制度的権利のケースでは、権利の正当性は、制度の目的に由来する。財産、政府、
結婚の目的は、権利と責任を必要とする。どんな意味で人間であることは権利を必要とするのか?
その問題に答える第一段階は、人間であることはそれ自体他の人間への行為のための欲求独立
的理由を課す地位でありえるのか。ありふれた誤りは何かが志向性相関的である場合、それは完
全に恣意的であり、権利の割り当てが完全に恣意的で合理的視点から正当化されないと考えるこ
とである。だがそれは誤りである。私たちがその概念を使用しようとするなら、私たちは人権の正当
性を示すことができなければならない。
第二に、私たちは場合によってたとえ承認されていない場合でも人権が存在し続けると主張す
るため、人権と他の制度的な地位機能の間に非対称性があるようにみえる。実際、詳しく見れば、
人権と特定の他の地位機能の間にはかなり密接な並行関係がある。通常の制度的事実には三つ
の要素がある。X 項、Y 項、そして地位 Y に付随する地位機能(義務論的力)である。だが何かが X
項を充足するが Y 項にともなう承認が否定され、また対応して、Y 項にともなう機能が否定される
ケースについてはどうか?たとえば、だからアメリカで生まれ、そのため自動的にアメリカ市民として
資格をえる誰かが、市民権を否定され、市民権を持ちながら、それが承認されないということが時
にはアメリカ史上起きた。私たちは彼は市民権を失ったとか、彼は市民権をもっているが、承認され
ていないと言うことができる。私たちはまたかれは本当は市民だが、誰も彼を市民と承認していな
いとか、彼は誰も市民権を承認しなかったため、市民権を失ったと言うこともできる。人権の状況は
正確に、ひとつの重要な例外でこれと正確に平行している。用語「人間」は特別な地位として人間
性が承認されるのに先んじる用法をもつ。それは「結婚」、「私有財産」、「大統領」がもつ仕方で地
位機能を定義することによって伴うものはない。誰かが人権を否定される場合、彼はその人間性、
ただ人権の義務論を受け入れるものに対する地位にともなうと考えられる地位を通常否定される。
これは何が人権の創出における X 項なのか?を問うならもっと明らかになるだろう。それへの答え
はあなたの人権理論に依存している。あなたがそれは神によって与えられていると考えるなら、X 項
は、次のような何かかもしれない:「その似姿で神によって想像された」。そのように想像された誰で
も、人間とみなされ、人権の担い手とみなされる。だが私を含む、他の物にとっては X 項は単に私た
ちの種のメンバーであることを構成する一群の生物学的事実である。それを充足することは、人間
であることとみなすこと、人間を人権の担い手とみなすことである。状況は、人権の存在において、
権利を定義する既存の制度がないという重大な例外を除いて、お金、私有財産、市民権のそれと
平行している。
一部のケースでは、特に道徳的問題が関係する場合、私たちは、地位機能の所有の形式として、
地位機能の資格を扱う。そしてそのため、権利が承認されない場合に人々が権利を失ったというこ
とと、権利を失ったのではなく、権利を保持していたが、その権利がもはや承認されなかったという
ことの両方を主張するのは矛盾していないということを、自己矛盾なく言うことができる。第一の文
で、私たちが地位機能 Y の所有者について十分であるものとして条件 X の充足を同定しているこ
とを理解することによって、明らかな矛盾は取り除かれる;第二の発話で、私たちは地位機能 Y が
機能していることが承認を必要とし、そのためその承認の欠如において私たちはその存在を否定
できる。その場合「人権」の概念は曖昧であるという意味があるが、それは他の多くの地位機能の
概念によって共有される曖昧さである。
私たちは今度、普遍的人権のようなものはないという場合あきらかな常識的事実を述べると自ら
考えるベンサムやマッキンタイヤの主張と、実際、普遍的人権はあると考えるその他の私たちとの
間の緊張を解決できるように私にはおもえる。私たちは、ベンサムやマッキンタイヤとともに他の地
位機能と同じく権利はそれが承認される程度に応じてのみ働くと言うことができる。承認がなけれ
ば、義務論的力はない。同時に私たちは権利が否定されるか承認されないケースで、あなたはあな
たの権利を失わないという常識的仮定を共有することができるようにおもえる。X 項の充足 ― あな
たがアメリカ合衆国で生まれ、あなたが生物学的人間であること ― における地位機能の根拠の存
在は Y 項の充足にとっての根拠とみなされる。あなたは市民権の資格が与えられ、あなたは人権
の資格を与えられる。だが、あなたはこの最後の文のひとつの読み方は、あなたは人権の存在を資
格を与えられるというのではなく、むしろあなたは既存の権利の承認の資格を与えられていると
言っているのである。
あまりに頻繁に哲学で起きるため、深刻な不同意の見かけは注意深い分析のもとでのみ解消す
る。懐疑論者は、注意深くそれについて考える誰にでも平易であるべき明白な真理を述べていると
考える。そして人権の常識的信者は、他の誰にでも「自明」でなければならない何かを単に主張し
ていると考える。私は両方の説明で真であることを明確にしようとしてきた。
多くの人々は、とくにアメリカ合衆国では、すべての人権は神に由来しなければならないと考え
る;もし神が私たちにこれら「不可侵の」権利を授けなかったなら、それは何ら根拠がなく、私たちは
それを主張することを正当化されないだろう。たとえ私たちが神の存在を仮定しても、私たちに権利
を与えることにおいて神は、基本的人権のリストは変わり続けるため、彼の心を変え続ける。たとえ
ばアメリカ合衆国憲法は、神の力で鼓舞されたと考える者たちは、神がこれら権利を私たちに与え
たとき、彼は1865年まで奴隷制を認めたと言う事実に困惑しなければならない。そして女性は192
0年まで選挙権をもたなかった。だから権利を神から導く試みには神学的、実際的両方の欠陥があ
る。もっともおそらく真だと恐れるように、神が存在しないなら、その場合誰も権利を持たない。第二
に、神が私たちに明確なリストを与えたと仮定する場合、神が私たちにどのような権利を与えたかを
理解する試みに問題がある。そのリストは変わり続ける。十戒、七つの大罪、七つの枢要徳とは異
なり、何が人権であるかについて一般的合意はない。たとえば、国連世界人権宣言、第15条は「す
べて人は、国籍をもつ権利を有する」と言う。なぜか?国民は、国籍なしに、あなたが基本的人権を
失うような社会的組織の基本形式であると仮定されなければならないのか?前に引用した文で、
バーナード・ウィリアムズは人権にともなう問題は、私たちがそれが何か知らないということではなく
私たちがそれを履行する困難をもっていることだと言う。(6) 私はそれは誤りだと考える。私たちの
問題は、その権利が何か知らないということである。この章の私の目的のひとつは人権が何かにつ
いての主張を解決するための何らかの原則を示すことであった。だが人権の基本的リストについて
一般的合意がないということを強調するのは重要である。
IV. 消極的、積極的権利(Negative and Positive Rights)
さらに、18世紀以来、微妙なシフトがあった。アメリカ独立宣言と権利章典が書かれた時、自明と考
えられた権利はすべて消極的権利であった。すなわちそれは国家の一部や他の誰かのなんらかの
積極的も必要としなかった。それは単に国家が言論の自由や武器の保有や所持のようなものに介
入しないことを必要とした。だが人権の概念の漸進的拡大は、適切な生活水準の権利や高等教育
を含む教育の権利 ― そのまさに定義により他の人々に義務を課す権利 ― のような積極的権利
があるという観念に至った。だからたとえば、世界人権宣言第25条は、「すべて人は、衣食住、医療
及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権
利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、
保障を受ける権利を有する」と言う。このような陳述にともなう困難は、その陳述を有意味にするた
めには、その「権利」すべてに支払う義務を負う誰かを特定しなければならないということである。正
確に誰に対して、人はこれらの「権利」すべてをもつのか?これは重要な論理的な点である。私たち
は前に権利の概念は義務を含意するということを見た。義務がなければ、権利もない。だからすべ
ての人が適切な住居、生活の良い水準、高等教育の権利をもつ場合、たとえばあなたや私は適切
な住居、生活水準、教育をもつ誰か他の人のために支払う義務のもとにある。それはそのような主
張を確立するための非常に強い議論を引き起こすだろうと私にはおもえる。人権についての多くの
議論において著者たちは「もしそうならそれはいい考えだろう」と単に言っており、その場合かれら
は望ましい「権利」の陳述を提供しているように聞こえる。人は誰もが適切な住居、生活水準、教育
をもつのはいい考えだと同意するかもしれない。だがそれはあなたや私や他のすべての人々が、す
べての人々にこれらのものを提供する義務のもとにあると言うこととは別の問題である。私は世界
人権宣言は根本的に責任のない文書であると思う。なぜならその起草者たちは普遍的権利と普
遍的義務の間の論理的つながりを熟考せず、基本的かつ普遍的な人権のための社会的に望まし
い政策を誤解したからである。
言論の普遍的権利について、人は権利と単純な陳述と対応する義務の地術を示すことができ
る。すなわち:
X は次の権利をもつ(X は自由に発言する)
は次を含意する
Y は次に妨害しない義務をもつ(X が自由に発言する)
X has a right (X speaks freely)
implise
Y has an obligation not to interfere with (X speaks freely)
どのように積極的権利について類比的な論理的含意を示すのか?次のように言うのでは十分では
ないだろう:
X は次の権利をもつ(X は適切な生活水準をもつ)
は次を含意する
Y は次の義務を負う(Y は次を妨害しない(X は適切な生活水準をもつ))
X has an right (X has an adequate standard of living)
inplies
Y has an obligation (Y does not interfere (X has an adequate standard of living).
それは適切ではない。なぜならそのような条件は X が権利をもつ生活水準を享受するのに十分で
はないからである。そのような義務は誰かに適切な生活水準を「獲得しようとする」権利だけを与え
るだろう。だが積極的権利は不干渉以上のものを必要とする。
私たちは人権について、(1)権利は誰に対してか、(2)正確に何が権利の担い手に対する義務
の内容か、(3)正確になぜ権利がある者に対して人々がその義務のもとにあるのか、を述べる用意
がないならば、語ることを決して認めるべきではない。私は人権の最小のリストとして次のものを真
とすることができると私にはおもえる。個人の安全の権利、個人の財産(衣服のような)を所有する
権利、言論の自由、他の人々と自由に団結し、誰と団結するかを選択する権利、宗教的信念ととも
に無宗教を含め、人が信じたいことを信じる権利、渡航の自由、そしてプライバシーの権利である。
権利の存在が、私が確実にそのケースであると考えるような義務の存在を含意するなら、人権に
関する場合、私たちは消極的権利と積極的権利の間の根本的区別をする必要がある。私は絶対
的正確さをもってこの区別をすることができるとは考えないが、直感的考えは十分明確である:言
論の自由のような消極的権利は、他の者に干渉しない義務を課す。私が言論の自由をもつ場合、
あなたは私が自由な言論を行使させる義務の下に、他のすべてのものと同様にある。たとえば適切
な住居の申し立てられた権利のような積極的人権は適切な住居をすべての人に提供する義務を
すべての人に課す。積極的人権について与えることができる正統化の種類は消極的権利の種類
と私にはまったく違ってみえる。私は消極的権利はかなり正統化が簡単だと考える。積極的権利を
正当化するのははるかに困難である。
国連世界人権宣言は、字義どおりまじめに理解しようとするなら、世界のすべての人間に義務を
課す試みと解釈しなければならない。そして私はすべての積極的権利のケースにおいて、それが私
たちがそれをするための根拠を与えたとは思わない。私は直ちにふたつのことを明確化する必要が
ある。第一に実際の政府による、私たちの場合は、カリフォルニア州による、州のすべての市民に適
切な住宅の権利を保障することと、その権利を履行するため課税と支出をするための決定を区別
することが重要である。そのようなケースは普遍的人権のケースではないが、その州の立法的力に
よって実行される特定の州の市民の権利である。国連人権宣言は他方、国家の政府に課されたも
のではないが、かなり世界のすべての人間における消極的義務論を課す試みである。そう解釈さ
れるならそれはとんでもないものだろう。だがそれはあまりに愚かしいため、私は多くの人がそれを
マジメに取るとは思えない。私は国連や他のだれからが世界人権宣言でなされた主張を正当化す
るような何かを行ったは思わない。
第二に、問題の「権利」の多くが積極的権利として述べられず、単に積極的権利が保障を主張
するさまざまな目的を人が追求する資格を与える消極的権利であるなら、完全に正当だろうという
ことが強調する必要がある。それゆえ、私はすべての人が適切な住宅を手に入れる普遍的権利を
もつとは思わないが、私はすべての人は自らとその家族のため適切な住宅を手に入れようと試み
る権利はあると考える。そしてそれは実際有意味に正しい。なぜならそれは政府がその権利を妨害
しない義務のもとにあることを意味するからである。そして私有財産と同様に、私がすべての人が
私有財産の権利をもつという場合、私は彼らが特定の物に対する権利をもつことを意味している
のではなく、彼らは所有を獲得し、維持することを試みる権利をもつことを意味しているのである。
人はかなりの論争の的となることを抱えてどれだけ前進できるのかと私は考える。だが私が着るも
の、私が住む家、私が運転する自動車の財産権を持つ資格を私が与えられていることは、消極的
権利の正統化の主張であるようにおもえる。
V. 言論の自由の権利
私は前に人は絶対的消極的権利の最小のリストについて真とすることができるといった。それを議
論の俎上にのせるため、私は、ただすべての人権理論についてよって一般的に合意されているよう
にみえる基本的消極的権利、すなわち言論の自由と表現の自由の権利を検証したい。この議論は
また消極的権利と積極的権利の区別を私が明確化することを可能にするだろう。なぜ社会は言論
の自由を認めるのか?人が言論の自由の権利について理解する実際の議論が悪名が高いほど弱
いように私にはおもえる。ふたつのタイプの議論がある。人は言論の自由の権利が神によって私た
ちに保障され、それゆえ必然的に有効だということである。この立場を表明するもっとも有名な文
書はミルの『自由について』である。(7)
ところで権利の議論がしばしば問題の憲法の条項を引用することで単に打ち切ることはアメリ
カの奇妙な点である。そのため多くのアメリカ人にとって言論の自由の正当化は単純に憲法修正
第一条によって保障されているということである。議論はおしまい。この見解では、奴隷制の唯一の
間違いはそれは修正第十三条を侵害しているということである。訳注 私はこの議論の目的にとって、
これらのいずれも問題の権利をの適切な正当化ではないと考えている。アメリカ合衆国における
権利についての議論を打ち切ることができるのは政治的に有用であるかもしれない。だがそれは
哲学的に十分ではない。神への訴えも同様である:権利が課された地位機能の形式である場合、
それは合理的根拠にもとづいて正当化されなければならない。私は今度言論の自由の権利の正
統化を検証することを目的とする。
権利の功利主義的正当化は、悪名高く不適切であり、言論の自由のケース以上に不適切な場
合はない。私の言論の自由の権利は私の自由な言論の行使が最大多数の最大の幸福を導くと言
う事実に由来する場合、その権利の存在と行使は完全に最大多数の最大の幸福についての特定
の事実に完全に依存している。私が公然と自由な発言を行使するケースで ― たとえば暴動を起こ
し、私のコミュニティのメンバーを激怒させるようなことを言うことによって ― 私は言論の自由の権
利を失うだろう。そしてそれは馬鹿げた結果である。だからその理論にはなにか間違いがなければ
ならない。あなたは功利主義的正統化をもつ標準的規則のケースを検討するなら、これを理解でき
る。私は一般的な功利主義ないし結果論者の根拠にもとづいて一日に二度歯を磨くという規則に
従う。私は一日に二回歯を磨くなら、私はマシになる。だが何らかの特別な理由で私が歯を磨くこと
が破滅的結果をもつ場合(私の歯が突然放射能を蓄積し、そのため今日私が歯を磨くと都市が爆
発すると考えよ)、私が歯を磨くべき規則に対して「独立的」力は何らない。それは単に習慣的な功
利主義的長所のパターンの要約にすぎない。
標準的に功利主義者はこれらの種類の反対に、ふたつの答えをもつ。第一に彼らは、あなたは
規則を侵害する結果が何かを知ることができないと言う;全体的に、功利主義的正統化をもつ何ら
かの規則を維持する前提がなければならない。たとえこのケースで自由な言論の行使が悪い功利
訳注 アメリカ合衆国修正第13条
第 1 節 奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存
在してはならない。ただし犯罪者であって関連する者が正当と認めた場合の罰とするときを除く。
第 2 節 議会はこの修正条項を適切な法律によって実行させる権限を有する。
主義的な帰結をもつとしても、あなたは本当に確信できない。私はこれを認識論的議論と呼ぶ。
人々に言論の自由の権利を与える規則のような規則は、そのような規則が尊敬されることを人々が
信頼できる場合に限り機能する。私たちがそうするのがぞっとするようにみえるケースで、言論の自
由を認める規則に従うことができない場合それは規則の信頼を弱める。規則における信頼の功利
主義の長所は、規則が特定のケースで無視されるべきかどうかに関する考慮に加えなければなら
ない。
これらの議論はいずれも不適切である。認識論的議論に答えるため、単に私の認識論的状況が
完全なケース、私が結果がなんであるかを知っている場合を想像してほしい。そのようなケースは
単に命令によって認識論的議論を防ぐ。認識論的議論の不適切さは、私が認識論的に完全な知
識をもっている何ら認識論的困難のないケースを想像する思考実験によって示される。そのような
ケースでは、言論の自由の私の権利はどっちみち影響を受けない。言論についての重要な点は、
認識論的な点ではない。信頼に由来する議論もまた弱い。その主張は、私がその権利を行使する
ことが攻撃を生むような私の言論の自由の権利は、その権利の廃止がその原則において信頼を弱
めるだろう事実によって維持されるということである。だがそれはその権利を疑わしい経験的仮説
次第にする:廃止される原則を認めることは、それを弱めるだろう。だがそれを弱めないケースにつ
いてはどうか?経験的議論におけるように、私たちは単に命令によってそのようなケースを検討する
ことができる。これらの議論の両方における弱さは同じである:それらはまさに権利の存在が行為
の欲求独立的理由である事実と妥協することができず、そしてそれを欲求独立的にする特徴はま
た功利主義独立的ないし結果独立的にするのである。それらは要するに権利に何らかの独立的
地位を与えることができず、それができないことで、それらはその権利がある権利であることである
ことを認めることができないのである。
だから規則功利主義はその明白な弱点から功利主義を救うために不適切な努力であると私に
はおもえる。今度は言論の自由の実際の正統化を見てみよう。第一段階はまったく単純である。私
たちは発話行為をする動物である。私たちは二足歩行をし、食料や水を消費し、地球の大気を吸う
動物であるのと同じほど発話行為を遂行する動物である。自由に発言する権利(the right to
free speech)は、人間が発話行為を遂行する動物(speech-act performing animal)であり自
己表現の特徴的な能力が種として私たちに生来のものであるという事実の自然な結果である。自
由に発話する権利の承認は一部、私たちの生活のこの特徴の中心性の承認である。
私はこれは自由は発話の最初の正統化であると言ったが、私はそれが十分な正統化であると
は思わない。たとえば、男性の青年はあきらかに、おそらく女性をめぐる競争で、他の男性の青年を
殴る自然な傾向をもつ。だがたがいに殴りあう権利はない。何が自由な発話について特別なのか?
私が他人に対する暴力の例は扱うのに難しくはない。なぜならそのような暴力の概念は、他人を傷
つけることを伴い、他人の権利を侵害することなくそうする権利を人はもつことができるありかはな
いからである。権利の平等の概念は、他人に対して暴力を行う権利の概念を禁じる。しかし私たち
はなおこの問題に伴う困難から出てはまだいない。なぜなら他人を傷つけない私たちがもつ多くの
傾向があるからである。ドラッグを楽しみ、中毒になる傾向を仮定してみよう。私たちはそうする権利
をもつか?私はここでその問題を解決しようとは思わないが、単にそうであるとは思わない。だが私
たちが他人を傷つけない何かをする自然の傾向をもつという単なる事実はそれ自体では問題のも
のごとを行う普遍的人権の十分な保障ではない。
だが、その場合なにが自由な発話について特別なのか?私は私たちが自由な発話についての議
論において必要とする第二の特徴は私たちの合理的発話行為を遂行する能力にとって特別な重
要性を私たちが付すということである。私たちが親指を吸う傾向を持つ可能性があるように自由な
発話をする傾向を持つということだけではない。そうではなくむしろ、私たちが特別に価値がある何
か、自由な発話の行使において、人間として私たちの完全な潜在能力を私たちが成し遂げることに
本質的な何かがあるのである。第一に私たちは発話行為を遂行する動物であり、第二に私たちが
発話行為を遂行する能力について特別に重要なあるいは価値がある何かがあるということである。
私が完全に明確にしたいと私が言ったことについて重要な含意がある:「人権の正当化は倫理的
に自然ではあり得ない。それは私たちがその種類の存在であるものの単なる生物学的概念以上の
ものを伴う;それはまた私たちのまさに存在に実際的にあるいは潜在的に価値があるものの概念も
伴う」。私はこの点について後で立ち返るつもりである。
発話行為を遂行する動物としての私たちの自然に従うものとしての自由に発話する権利に賛成
する議論をする最善の道は、自由に発話する権利に反対するさまざまな議論を検討することであ
る。最近のファッショナブルな議論は次のように進む:言語の最善の理論に従えば、言語は行為の
一形式である。発話「行為」である。だが他の行為のように発話における行為は他人を傷つけうる。
それゆえ私たちは他の種類の行為で行うのと同じように発話行為を寄生する多くの権利をもつ。
私の発話行為はあなたを傷つけうる能力があり、他人一般を傷つける能力があるため、社会は私
が自由に発話する権利にさまざまな規制をする権利、実際には義務をもつ。
発話行為は実際に行為の一形式である;それにもかかわらず、この議論は誤謬である。なぜか?
あなたが傷ついたと知る何かを私があなたに言うなら、あたかも、私があなたを殴ることによって身
体的にあなたを傷つけたかのように、まったく同じほど傷つくかもしれない。やはり巨大な違いがあ
る。重大な違いは発話行為のケースでは発語媒介的効果(perlocutionary effects)は、聞き手の
心理学的状態であるが、物理的ダメージの形式ではない。私はあなたが言うことによって、いらだ
ち、激怒し、単に傷つくかも知れないが、やはり私は血は流さず、骨は折れない。これは棒と石の子
どもの古いことわざの起源である。訳注
さらにそしてこれは等しく重要だが、聞き手に対する発語媒介的効果のほとんどの部分は聞き
手次第である。私があなたの言うことによってイライラし、激怒し、傷つく場合それにもかかわらず、
訳注 Sticks and stones may break my bones / But words will never hurt me. 棒と石はぼくの骨を
折る/けど言葉はぼくを傷つけない
私がイライラし、激怒し、傷つく理由と、私が感じる実際の感情的状態の間にはギャップがある。実
際、発話行為の特別な性質は、私たちは単に発話行為をする動物であるだけでなく、私たちはそれ
によって合理的動物であることである。しかし攻撃的発話行為はおそらく、発語媒介的効果を決定
づけることにおいて発話行為の合理的評価の選択肢をもつ可能性がある。繰り返せば、発話は、た
とえ攻撃的であっても、人が殴られたり、縛り上げられたり、さもなければ、身体的に衝撃を与えられ
ることによる行為とはまったく異なる。
発語媒介効果が聞き手次第であるということが真でないケースは ― すなわち、合理的活動に
関する余地がないケースは ― 正確に弁護士、裁判官、立法者たちは言論の自由に対して、合理
的な制約を課そうと努めてきた種類のケースである。これらははふたつの種類に別れる。第一に発
語媒介的効果がいかなる合理的考慮なしに、破滅的でありえるケースである。標準的なクリシェの
例は混雑した映画館で「火事だ!」と叫ぶことである。第二の種類のケースは発話の実際のター
ゲットにおける発語媒介的効果と、他の聞き手における発語媒介的効果と、それらが特定の個人
にもつ可能性がある効果との間の区別にある。名誉毀損と中傷の法につながるのはこの発語媒介
的効果である。あなたが敵意のある何かを私「に」言うなら、私がこれによってどれほど傷つけられ
るかは、重要な意味で、私次第である。だがあなたが私「について」他の人に完全に誤った何か、故
意に悪意をもって誤った何かを言うなら、これは私のコントロールから完全にはずれた仕方で私に
大きなダメージを与えることができる。これは名誉毀損と中傷に反対する基礎である。なんであれ、
名誉毀損や中傷の法は、それがある以上にアメリカ合衆国でより強くなければならないことである
ように私にはおもえる。
VI. 人間の権利と人間の自然
最初に私は消極的に普遍的人権の最小のリストを示すことから始めた。これまで私は次の通りリス
トした:個人的私有財産を所有する権利、言論の自由の権利、他の人々と自由に結社し、誰と人が
結社するかを選択する権利、宗教、無宗教を含む人が何を信じたいかを信じる権利、渡航の自由
の権利、プライバシーの権利。何か他のものはあるのか?私はリストは続けられると思う。そして世
界がますますうるさくなるなら、私は追加の強い候補として静音の権利を示唆したい。人権のどん
な理論も人間の自然のアプリオリな理論上になければならない。権利の存在は地位機能を課すこ
との問題である。だがこれらの場合地位機能は ― 制度の目的が自動的に制度に本来的な種類
の権利を要求する、財産、お金、結婚のような ― 何かの制度に由来しないため、単に人間であるこ
とによって存在するものに割り当てられるいかなる権利の正当化も人間が何であるかの私たちの
概念に依存しなければならないだろう。この理由のため、私はすべての合理的な個人が基づくこと
ができる人間の生活の限定的な目標のリストがある以上に、すべての合理的な個人が基づくこと
ができる限定的な人権のリストがあることを疑う。
数十年間、政治社会哲学の議論で「人間の自然」に訴えることはファッショナブルではなかった。
私はこれは深刻な誤りであると考える。この本で、すべての点で私たちが議論している生物学的基
礎を検討を試みなければならないということは、私たちの基本的事実の受け入れに由来する必要
条件であり、実際私たちが議論していることの生物学的基礎をすべての点で検討を試みなければ
ならないということは基本的必要条件から帰結する。私は人間の特定の生物学的特徴を論じるこ
となく、人間の権利について聡明な議論をもつことはできず、そして私たちが示してきたリストは人
間の自然の特定の概念と何が人間の生活において価値があるかについての特定の概念との結び
つきに基づいている。生物学的に人間の自然の私の概念を正当化することができ、少なくとも人間
の生活で価値があると考える私の概念ついて議論することができると私は考える。通常倫理にお
けるように、これらの議論は一部の合理的個人が非合理性の不快感をともなってそれを受けなけ
ればないという意味で実証的ではない。だが議論が認識論的主観性の要素を持つという事実か
ら、それらが恣意的であるとか議論の範囲を超えていることは帰結しない。
次に、どのように私たちはいかなる本来の権利は法によって裏付けされなければならないかとい
うベンサムの主張に答えるのか?私は議論はいかなる人権の議論からも独立して反駁されうると
考える。法はそれ自体地位機能の体系であり、しばしば他の地位=機能にたいする制裁を提供す
る。だが地位機能の有効性は、法的制裁に普遍的依存しない。たとえば、私や他の非常に多くの他
の人々が受け入れる結婚の概念について、結婚において、配偶者はたがいに他の配偶者の側の
いかなる人生を変える決定について事前に相談される権利をもつ。たとえば私が私の職業ないし
生き方を変えるのとを考えているなら、私の配偶者はそのような決定をし、それを実行に移す前に
相談される権利をもつ。これはたとえ保障する法がなくとも、完全に有効な権利である。
VI. 何らかの積極的権利はあるのか
私は現在の議論で一般に受け入れられない仮説を検討することによって議論のこの部分を終わら
せたい。その仮説はなんであれ積極的普遍的人権が非常にわずかしかないという仮説である。生
きる権利と言論の自由の権利は絶対的に普遍的な人間の権利である仕方では、そのような積極
的権利はほとんどない。そしてこの理由は普遍的人権の存在はすべての人間に義務を課すという
ことである。言論の自由の権利を行使するようなある行為に関して他の人々に構わない義務をすべ
ての人間に課すことと、たとえば他のすべての人に良い生活水準を提供する、すべての人に義務を
課すのはまったく別のことである。以前に示唆したようにそれが意味するすべては、そうできれば望
ましい、あるいは素晴らしいということだが、普遍的人権の概念はある種の義務論的主張、すべて
の人間に対する義務、を伴うということである。結果的に絶対的な消極的権利 ― 言論の自由の権
利、信教の自由の権利、渡航の自由の権利、生きる権利 ― の項目がある仕方で、快適な生活水
準に対する権利、高等教育に対する権利、無料の医療の権利のような積極的権利はそのような仕
方ではない。私は私が維持しているものを絶対的に明確にしたい。カリフォルニア州か、何らかの
政治的実体が無料の医療や良い住居の権利を市民すべてに保障したいなら、それは州の権力の
正当な行使であるようにおもえる。だが私が検討している主張は異なる。それはしかじかの積極的
行為が遂行されなければないことが、すべての人間に義務を課す普遍的人権があるということで
ある。そして私はそのような積極的権利はほとんどないと言っているのである。事実問題として、富
裕な諸国は低開発国に巨大な援助を提供するが、それは人権のためではなく援助である。
私が考えることができる絶対的普遍的人権のわずかな例は、問題の人間が自分で話すことが
できない状況に関わるだろう。そのため乳児や低年齢児は世話を受け、食事を与えられ、居住をす
るなどの権利をもつ、そして同様に怪我、老齢、病気その他の原因のため能力を失った人々もまた
絶対的に世話を受ける権利をもつ。他の推論上の積極的絶対的権利から、これらを区別する原則
は、これらのケースのそれぞれで、高等教育に対する権利や、みすぼらしくない生活の便益の権利
とは異なり、問題の権利が人間生活のいかなる形式の維持すべてにとっても必要であるということ
である。私がここでしている示唆は、実際に他の人々がのまさに生存が危機に瀕し、彼らが自助の
方法をもたない場合彼らを助ける普遍的義務があるということである。だが、この義務さえ特定の
状況的特徴に相対的にのみ存在する。だからたとえば、子どもが私の家の前で怪我をし、私が助け
なければ死ぬ場合、その子は普遍的権利を持ち、私はその子を助ける義務をもつ。だがバークレー
に座りながら、私は世界のすべての怪我をした子どもたちを助けるような義務はもたない。だから絶
対的普遍的人権としてのこの公式は次のような何かでなければならない。人が自助できない場合、
他者がその人を助けることができるような状況にいる場合、悲惨な状況で他者によって助けられる
普遍的権利がある。
一部の人々が私の説明に対してする反対は次のとおりである:あなたは消極的権利と積極的権
利の明確な区別をできない。なぜなら、場合によっては消極的権利の履行は、巨大なコストの高い
努力をコミュニティの側に必要とするからである。そのためたとえば有名なスコキー、イリノイ判決に
おいて、訳注ファシスト・スタイルのデモの言論の自由の実行は、デモ隊を保護するための警察や州
兵のために、州が支出する巨額な費用を必要とする。公衆の反対が非常に大きかったためそれは
表現の自由の権利を保障するためかなりの警察と州兵部隊を必要とした。私は、この反対の効力
訳注 Wikipedia - National Socialist Party of America v. Village of Skokie の要約
1977 年、アメリカ国家社会主義党(NSPA がイリノイ州スコキー(Skokie)で党がデモをするという発表した。
スコキーは、ユダヤ人の多いコミュニティで、住民6人に1人がホロコースト生存者だった。ナチ制服と鉤十字を
着用することを提案したスコキー集会の行進者に禁じたイリノイ州クック郡巡回法廷によって出された禁止命
令に異議申し立てがなされ、その禁止命令は修正第1条の行進と表現の権利を侵害しているとした。裁判は
合衆国最高裁判所に送られ、1977年6月14日、イリノイ州に差し戻した。州上告審は鉤十字を表現と認め、禁
止命令を破棄した。地元反対運動のため、最終的に NSPA はスコキーでの行進を実行できなかった。
を高く評価するが、私はそれに回答があると思う。実際、消極的権利の行使がコミュニティにとって
高価であるケースがあるだろう。そして人はどんな種類の考慮が消極的権利の「実行」を制限する
か決定しなければならないかもしれない。だがコミュニティの側の積極的努力を必要とする権利そ
れ自体のまさにその内容には何もなく、権利の行使者がその権利を行使させるがままにする必要
条件だけがある。積極的権利のケースでは、しかし、それが人間のすべてのメンバーからコストのか
かる努力を必要とすることは、権利のまさに本質の一部であり権利のまさにその内容の一部である。
それが私にとって大きな違いが横たわるようにみえる場合である。
結論する前に、私は多くの重要な哲学的問題を指摘し明確化する必要がある。
VIII. 権利の定式化の実用的な検討
私の説明において、私たちは、たとえ権利として特定するのに煩わされるに値すると考えない特定
の他の事柄以上に人間の生活に中心的なものはないとしても権利として人間の生活の特定の特
徴を特定する傾向がある。だから、たとえば私がしたいように腕を動かし、私がしたいようにどこにで
も体を動かし、私がしたいように深くあるいはゆっくりと息をし、私がしたいように歩く権利は人間の
生活に根本的であるように私は思う。それらは話をすることよりおそらく重要でないが、なお非常に
重要である。その場合私たちはなぜ身体の移動や場所の自由は言論の自由の権利より人権の項
目でリストされない傾向があると考えるのか?私が考える答えは私の身体の場所は他の人々に影
響を与えず。私の自由な言論の行使のように潜在的に攻撃的ではないからであり、それゆえ妨害
されにくく、顕在的な保護の必要性が乏しいからであるということである。
私たちは、基本的人権として国境を横断する渡航の自由や意見を表現する自由のようなものを
リストする実際的、実用的な理由を持つ。なぜならそれらは人が食べたいものを食べる自由や人が
座りたい姿勢で座る自由、人が歩きたい道を歩く自由のような事柄が、それはまったく根本的であ
るが、人権としてリストされる必要がないにもかかわらず、保護をより必要する傾向があるからであ
る。要するに私が指摘している点は、人権の項目が実際的、実用的考慮によって作られる傾向があ
るということである。私たちによって挑戦される傾向がある事柄が人を煩わせない事柄より人権と
してリストされる傾向がある。言論の自由は憲法に当然リストされている。歩く自由はリストを煩わ
す価値がほとんどない。(8) 現代生活の一般的雑音を考えるなら、私たちは普遍的静音権を承認
するかもしれないと示唆した。暗黙の承認において、多くの都市は既に夜一定の時間以降の大き
な騒音を禁じる法律をもっている。私はそのアイデアは好きだが、現在の議論に関する重要な点は
それが歴史的に偶然的であり、何が基本的人権とみなすかの実用的な特徴を説明する。
IX. 権利に関する5つのありふれた誤り:絶対的権利 vs 条件的権利 vs 明
白な権利
哲学者たちと一般公衆の中の両方で、人権の議論に悪影響を与える多くの論理的概念的混乱が
ある。通常これらの混乱は権利の「コンフリクト」の論理的本性の誤解に由来する。通常その行使
における権利は、人間の価値の他の考慮すべき事柄との ― 生活の他の考慮すべき事柄との ―
可能なコンフリクトを伴う。だからたとえば、私は言論の自由をもつが、有名なのは、この自由は混
雑した映画館で「火事だ!」と叫ぶ資格を与えない。このケースで、私の言論の自由の権利は、他の
人々の安全の権利のような他の権利とコンフリクトを生む。議員や憲法弁護士や裁判官は、人の権
利が正当に他の考慮すべき事情によって無効にされるかもしれない場合に決定することについて、
何らかの種類の実用的基礎に多くの時間を使い果たしてきた。コンフリクトの可能性を本来的に条
件とし、結果として、いかなる価値の理論もコンフリクトの可能性を許容しなければならないことは、
一群の価値、特に道徳的価値の自然の特徴である。人々がこれらのコンフリクトについて犯すいく
つかの有名な種類の誤りが哲学にはある。
第一に一部の人々は問題の権利が功利主義的考慮によって無効にされうる場合、権利の基礎
はまず第一に功利主義であると考える。それは間違いである。権利は決して功利主義的権利では
ない。なぜならそれは功利主義的考慮によって無効にされるかもしれないからである。権利の義務
論は非義務論的価値とコンフリクトを生む可能性があるが、それは義務論が、それ自体非義務論
的であることを示さない。人の言論の自由は、それがある種の明白な現在の危険があるなら制限さ
れるかもしれない、そしてこれらの考慮は完全に功利主義的でありえる。だが言論の自由が功利
主義的であり、義務論的でないことは、これらの制限の可能性から帰結しない。
第二に、より重要な、等しくありふれた誤りは、権利が他の何かの考慮によって無効にされる場
合、これが何らかの形で問題の権利が「絶対的」であるのではなく、単に「明白」(prima facie)で
あると示すと考えることである。ふたつの絶対的権利がたがいにたやすくコンフリクトしえるだろう。
私の言論の自由とあなたのプライバシーの権利はコンフリクトを生む。そして私たちが一方か、他
方を支持してこれらに裁定を下さなければならない事実は権利が絶対的でなく、単に明白であるこ
とを示すのではない。哲学においてもっとも混乱した概念は明白な権利、義務などの概念である。
(9) 「明白さ」は法律の中で用いられる認識論的文の修飾句である。それは「その表面上、…と示
唆する証拠がある」ことを意味する。そのため、あなたが明白なケースをもつなら、その表面で、証拠
はあなたは有効なケースをもつことを示唆する。だが、「明白さ」は権利、義務、何か他のタイプの名
前ではない。
絶対的権利を明白な権利と対照することには何の意味もないが、絶対的権利を条件的権利と
対照するのは意味がある。そしてそれらの混乱は権利の議論でありふれて行われる第三の種類の
誤りである。たとえば言論の自由は絶対的だが、反対尋問の証人の権利は条件的である。私に反
対する反対尋問の証人の権利を私はもつが、それは私が被告人である民事ないし刑事の裁判中
であるという条件においてのみである。私は世間のうわさ話で私について悪いことを言う人々に反
対尋問をする権利を持たない。反対尋問の証人の私の権利は字義道理条件的、私がある種の制
度構造にいる条件的権利であるが、私の言論の自由の権利と私の生きる権利は、その仕方で条
件的ではない。それらはたとえば、場合によって他の権利や他の価値と、条件的であろうと無条件
的であろうと両方ともに、コンフリクトをする可能性があっても、絶対的権利である。
この点を強調するのは非常に重要である。1960年代に起きたフリー・スピーチについての大規
模な論争において当局は頻繁に言論の自由は「絶対的ではない」と主張して、懸念を示した。彼ら
が言おうとしたことは、あなたがさまざまな功利的根拠で言論の自由の権利を無効にすることがで
きるということだった。だが言論の自由は実際絶対的である。あなたは言論の自由や生きる権利以
上の絶対的権利をえることはできない。しかし肝心な点はそれらは他の権利の行使を含む他の考
慮すべき事柄とコンフリクトしえるということである。これはそれらを絶対的でなくすることも条件的
にすることもない。
第四のありふれた権利についての間違いは、あなたが何かをする権利をもつ場合、それは何ら
問題なく、権利の存在が、その権利にもとづいて遂行される行為がそれによって妥当だと意味する
何かと考えることである。だがこれは大きな間違いである。人間社会の実際の組織の理由にとって
人々が実際行使することが受け入れられるより広い範囲の権利を与えることが必要である。アメリ
カ合衆国における学園紛争の期間、この誤りのありふれた形式は教授たちが時々、学問の自由が
権利を与えるのだから、教室を政治的に組織されたフォーラムとして彼らが使用するのはまったく
問題ないと言ったことである。学問の自由は教室で行われることに関して大きな自立性の権利を
彼らに与えるが、彼らがその自立性をもつという事実は彼らがするどんなこともその場合受け入れ
られとことは意味しない。何かが権利(right)の名のもとになされるという事実はそれをするのは問
題がない(all right)ということは含意しない。
また言及するのに値する権利についての第五のありふれた誤りがある。一部の人は一部の権利
ないし義務が一部の他の価値とコンフリクトをもち、この他の価値によって無効にされる場合、何ら
かの仕方で、この無効の承認は元の権利ないし義務の概念の変化をもたらすと考える。ロールズ
のような良い哲学者でさえ、約束を守るという義務が無効になりえることを私たちが承認するという
事実は、私たちが承認する場合約束することの規則を変更していることを示すと言うとき、この誤り
を犯す。(10) 私たちはそうではない。これら義務論的力のすべての適用において他のものが等し
い条件があるという事実は、私たちが他の=ものが=等しいという考慮を顕在的にする場合、私た
ちは第一の義務論的力を生む構成規則を変更していることは示さない。
X. 結論
このすべてのあまりに短い議論の私の結論は、普遍的人権を語ることが完全によく理解できるとい
うことであり、地位機能が与えられうる地位として人間であること(being human)の事実を扱うの
に何ら論理的曖昧さがないということである。これら地位機能の中で人権によって名付けられる義
務論的力がある。人間の生活や社会の完全に自然主義的な概念は、お金、私有財産、政府の存
在の信念と矛盾しないのと同じ仕方で、普遍的人間の諸権利の存在の信念と矛盾しない。私はさ
らに人権を正当化するいかなる試みと人権特定のリストを創出することは、人間的自然の概念と
一群の特定の価値の両方を必要とするだろうと主張する。人権についての議論は、私の説明では
倫理的に中立ではありえない。これは議論が恣意的であるという意味でも、なんでもかまわないと
いう意味でもない。言論の自由の権利が、たとえ実際にあ特定の非常に特別な種類のコミュニティ
や文化において恨みを抱かれるとしても、有効な普遍的人権として承認されるべきであると考える
理由を提供できると私は考える。その正当化は普遍的に共有されない一群の基準に相対的だと
いう事実はそれらの基準を恣意的ないし無効にはしない。
付録
量化子的形式で詳述されるそれらの論理的関係を好む人達のため、私は短い要約を付す。それ
ぞれの公式に日常の表現のパラフレーズ付す。
普遍的人権(Universal Human Rights)
(∀x)(生物学的に人間 x → xは地位 S をもつ(S のため、xは次の UHR をもつ(xは A を行う)))
(∀x)biologically human x → x has status S (because of S, x has UHR (x does A))
*訳注;UHR:Universal Human Rights/普遍的人権
生物学的に人間であるどんなものもそれによって、人間の地位をもち、かつその地位のため、特定
の種類の行為を遂行する普遍的権利をもつ。
消極的普遍的人権(Negative Universal Human Rights)
(∀x)(x は次の NegUHR をもつ(xは A を行う) → (∀y)(y は次の義務のもとにある(yは次を妨害
しない(xが A を行う))))
(∀x)(x has NegUHR (x does A) → (∀y)(y is under an obligation (y does not interfere with (x does
A))))
*訳注;NegUHR:Negative Universal Human Rights/消極的普遍的人権
誰かが特定の種類の行為を遂行する消極的普遍的権利をもつ場合、他の誰かはその行為の遂行
を妨害しない義務のもとにある。
積極的普遍的人権(Positive Universal Human Rights)
(∀x)(x は PosUHR をもつ(x は A を行う) → (∀y)(y は次の義務のもとにある(yは次を保障する
措置を取る(xは A を行う))))
(∀x)(x has PosUHR (x does A) → (∀y)(y is under an obligation (y takes action to guarantee (x does
A))))
*訳注;PosUHR:Positive Universal Human Rights/積極的普遍的人権
誰かが特定の種類の行為を遂行する積極的普遍的人権をもつ場合、すべての他の人間はその人
がその種類の行為を遂行することを保障する措置をとる義務のもとにある。
結びの意見:社会科学の存在論的基礎
人間社会がおおむね、地位機能を割り当てることによって、また社会において、それらの地位機能
が異なる社会的役割をもつ、義務論的力の関係を創出し、分配し、明確な制度的構造によって構
成されると私が正しいと考えてほしい。なんであれその説明が社会科学の実際の研究にとって持
つ含意とは何か?短い答えは私には本当はわからないということではないかと思う。何が実際の
研究にとって有用になるか前もって語るのは不可能である。少なくとも原則的に根本的な問題を理
解するのに必要でない社会科学研究の多くの分野があるようにみえる。だからたとえば私がパリで
ピエール・ブルデューのための追悼のとき、これらの主題を講義した際、他の参加者のひとり、労働
組合の社会学を専門とするアメリカの社会学者は私に彼の仕事は私が終えたところから始まると
語った。そして私が彼が労働組合の存在論的基礎を知る必要がないと言っているのだと理解する。
彼が理解しなければならないすべては特定の歴史的にな状況に置かれた組織における実際の活
動である。彼らが描いたと私が考えるイメージはちょうど地質学者が原子物理学の詳細を理解せ
ずにテトニック・プレートの移動を研究するの同じように、かれは社会的存在論の詳細を理解する
ことなく、労働組合の運動を研究するかも知れないということだった。彼はそれについて正しいかも
しれない。だが私の直感は根本的問題を理解するのはつねに良いアイディアだということを考える
ことである。どんな学問でもその基本的存在論を理解することはその学問内の問題の理解を深め
るだろうと考えるのは私にはかなりもっともらしい。どんなケースでも私はこの本で既存の社会科学
の哲学を提供するのではなく、社会科学によって研究される実体の根本的存在論の論理分析を
提供しようとしている。これは将来の社会科学に有用だと証明するかもしれない ― しないかもし
れない。
私がオックスフォードで学部学生として経済学を勉強していた時、私の教師たちはだれも研究
の存在論的前提について懸念を持っていなかった。私たちは、力は質量掛ける加速度と等しい(F
= MA)と物理学で教わるのと同じ声の調子で、貯蓄は投資と等しい(S = I)と教わった。私たちは、
水が水素と酸素からなることを発見するのと同じ仕方で、限界費用は限界収入と同じだと発見し
た。経済的現実は科学的研究の世界の実在と同じように扱われた。最初私がウィスコンシン大学
で社会学の講座を履修した時、根本的存在論的問いへの言及はなかった。最初に言ったとおり、
私は場合によっては存在論的問題について心配することなしに良い研究をすることは可能だと考
えるが、研究全体は人が研究される現象の存在論を正確に意識的である場合大きく深まると考え
る。たとえばあたかもお金や他のそのような道具が物理学や、化学や、生物学において研究される
現象のような自然現象であるかのように扱うのは誤りである。最近の経済危機はそれらが大量の
ファンタジーの産物であることをはっきりとさせる。すべてのひとがそのファンタジーを共有し、それ
を信頼する限り、システムは立派に働くだろう。だが、サブプライム・モーターゲージ・インストルメン
トで起こったように、そのファンタジーの一部が信じられることを停止する場合、システム全体が溶
解する。私は制度的経済学における関心の最近の復活を歓迎する。(1)
この本は(少なくとも)三つの非常に強い主張をしている。可能な限り、強いバージョンでそれを
述べるのは重要だ。なぜならそれはそれを反駁するのをより簡単にするからである。その三つの主
張とは、第一にすべての人間の制度的現実とその意味でのほぼすべての人間の文明は単一の、
論理言語学的操作によって構成された存在においてその最初の存在を創出され、維持されるとい
うことである。第二に、私たちはその操作が正確に何かを述べることができる。それは地位機能宣
言である。そして第三に、人間の文明の巨大な多様性と複雑さは、その活動が主観的問題によっ
て制限されず再帰的な様式で繰り返し適用され、実際の人間社会の複雑な構造すべてを創出す
るため、様々な相互に結びついた問題とともに、しばしば以前の適用の結果に適用されるという事
実によって説明される。
研究の結果はすべての人間の社会的=制度的現実は共通の基礎的構造をもつということであ
る。ついでこれが正しいなら、あたかも社会学や経済学のような社会科学の様々な分野が根本的
に異なる主題とし扱われるのようにそれを扱うのは誤りである。さまざまな社会科学は完全に互い
に透明でなければならない。すべての奇妙で素晴らしい多様な人間の諸制度は言語的表象の特
別な形式、地位機能宣言の繰り返される適用による力の分配を形成し、再形成するケースである。
私は以前おそらく人は良い地質学者であるために多くの原子物理学を知る必要はない可能性を
検討した。やはり自然科学でも、あなたはすべてが原子構造をもつことを理解しなければならない。
私は社会科学者が研究する主題の存在論の完全な理解は私が記述しようとした構造の理解を必
要とする。
私は社会科学と自然科学の間のアナロジーを誇張することは望まない。私の説明にはいかなる
還元主義も存在しない。だが説明が正しいなら、その場合すべてのさまざまな社会科学はすべての
社会的現実に共通の力の構造を扱っている。そして私は力の構造が創出され維持される基本的
メカニズムを記述しようと試みたのである。
主題索引(アルファベット)
action 行為 32 - 36
intentions-in-action 行為中の意図 32 - 34
and intention 行為と意図 32 - 34
and causal self-referentiality 行為と因果的自己言及性 33 - 34
Background バックグラウンド 30 - 32, 134 - 139
Bio Power 生権力 133 - 139
and Bentham's panopticon 生権力とベンサムのパノプチコン 133
and knowledge 生権力と知識 133
and normalization 生権力と規律化 133
collective action 集合的行為
as constitutive of performance 遂行の構成的なものとしての集合的行為 48 - 52
as causal 因果的なものとしての 集合的行為 48 - 52
Collective Intentionality 集合的志向性 11, 40 - 52
and class consciousness 集合的志向性と階級意識 143
and collective assigment of function 集合的志向性と機能の集合的割り当て 41
and reducibility 集合的志向性と還元可能性 45
as fundamental to social ontology 社会的存在論に根本的なものとしての 集合的志向性 40
Collective Recognition 集合的承認 92
as distinguished from cooperation 協力と区別されるものとしての集合的承認 53 - 54
condition of satisfaction 充足条件 29
consciousness, preliguistic 前言語的意識 60 - 75
corporations 企業
as double declarations 二重の宣言としての 86 - 90
Declarations 宣言 15 - 16
and linguistic phenomena 宣言と言語的現象 17
as performative utterrances 遂行的発話としての 宣言 15
as Status Functions 地位機能としての 宣言 16, 101
deontic powers 義務論的力 12, 109
conditional 条件的 12
disjunctive 選言的 12
negative 消極的 12
positive 積極的 12
and rationality 義務論的力と合理性 114
and speech acts 義務論的力と発話行為 90
amd status functions 義務論的力と地位機能 94
deontology 義務論 72 - 77
necessity of language 言語の必要性 74
and social reality 義務論と社会的現実 75 - 77
as commiment コミットメントとしての 73
as obligation 義務としての 73
as internal to speech acts 発話行為に内的なものとしての 74
desire 欲求
primary and secondary 基本的と派生的 113
direction of fit 適合方向 28 - 30
epistemic objectivity 認識論的に客観的 20 - 20
epistemic subjectivity 認識論的に主観的 20 - 20
Exactiness Constraint 厳密性の制約 134
freestanding y terms 独立したy項 22, 89 -91, 98
and creation fo deontic powers 独立したy項と義務論的力の創出 91
free will 自由意志 109 - 126
function 機能 54 - 55
agentive function 行為者的機能 54
status function 地位機能 11, 55
Gap, the ギャップ 117 - 122
government 政府
as ultimate institutional structure 究極的な制度的構造としての 139 - 141
human tights 人権 150 - 170
absolute 絶対的 166
conditional 条件的 168
negative and positive 消極的と積極的 171
prima facie 明白な 168
and free speech 人権と言論の自由 160 - 164
and obligations 人権と義務 152 - 154
and universal human obligations 人権と普遍的人間の義務 154
as status functions 地位機能としての 151
institutional facts 制度的事実 14
discoverable 発見可能な 23
and free will 制度的事実と自由意志 109
and imagination 制度的事実と想像力 107
and intensionality 制度的事実と内包性 105
and systematic fallout 制度的事実と体系的副産物 23
as coextensive with status functions 地位機能と同延としての 24
as macro facts マクロの事実としての 23
institutions 制度
and brute force 制度とナマの力 124
and unconscious robots 制度と無意識的ロボット 119 - 120
intentionality 志向性 26 - 39
definition 志向性の定義 26
naturalize 志向性の自然化 40
structure of intentionality 志向性の構造 27
and consciousness 志向性と意識 27
intentionality-relative 志向性相関的 19
intention 意図
causal gaps 因果的ギャップ 39
and freedom of will 意図と意志の自由 39
language 言語 17 - 80
naturalized language 自然主義化された言語 57
primary function of language 言語の主要な機能 65
and compositionality 言語と構成性 59
and discretness 言語と離散性 59
and extralinguistic operations 言語と言語外的活動 99 - 101
and generativity 言語と生成性 59, 72
and manipulation of syntax 言語と統辞論の操作 72
and preliguistic mentality 言語と前言語的精神 60
and unity of the proposition 言語と命題の単一性 64
as an institution 制度としての 98
as basic form of commitment コミットメントの基本的式としての 74
as necessary for functions 機能に必要なものとしての 58
Leibniz's Law ライプニッツの法則 105
Leibniz and rationality ライプニッツと合理性 117
linguistic institutional facts 言語的制度的事実 100
and non-linstitutional facts 言語的制度的事実と非言語的制度的事実 100
methodological individualism 方法論的個人主義 44
Network ネットワーク 30 - 31
obligation 義務
and the necessity of language 義務と言語の必要性 152
observer-relative 観察者=相関的 19
ontological objectivity 存在論的客観性 20
ontological subjectivity 存在論的主観性 20
performatives 遂行的
linguistic 言語的遂行的 99
non-linguistic 非言語的遂行的 99
role of meaning 意味の役割 99
power 力 127 - 149
Bio Power 生権力 133 - 135
political 政治権力 139 - 143
telic power 目的論的力 135
and Background practices 力とバックグラウンドの習慣 134 - 139
and directives 力と指示的 132
intentional exercise of power 力の意図的行使 129
and social pressure 力と社会的圧力 136 - 138
and threats 力と脅威 132
and unintented consequences 力と意図されざる結果 131
as capacity 能力としての 127
as distinguished from leadership 指導力と区別されるものとしての 130
power over 力に対する力 128
power as a right 権利としての 129
prior intention 事前の意図 32
reason 理由
desire-independent 欲求独立的 12, 77, 113 - 116
desire-dependent 欲求依存的 111
practical 実践的 110 - 112
prudential 打算的 124
theoretical 理論的 110 - 111
total reason 理由全体 111
and motivators 動機要因と理由全体 112
as constitors 構成要因としての 112
as effectors 作用要因としての 112
as facitive entities 作為的実体としての 111
representation as distinguished from expression 表現と区別されるものとしての表象 66
representation as functional notion 機能的概念としての表象 30
rights 権利
and deontic powers 権利と義務論的力 151
as obligations 義務としての 152 - 154
as status functions 地位機能としての 151
rules 規則
constitutive 構成規則 86
regulative 規制的規則 86
as Status Function Declarations 地位機能宣言としての 86
standing Decraration 持続的な宣言 16
Status Function Declarations 地位機能宣言 17, 21, 23, 86, 92, 101
non-linguistic 非言語的地位機能宣言 101
status functions 地位機能 11
and deontic power 地位機能と義務論的力 12
the political 政治的なもの 147
public and private requirement 公的必要条件と私的必要条件 147
trialism 三元論 8
type-token distinction タイプートークンの区別 68
文字言語 writing 102
X counts as Y in C X を C で Y とみなす 13
and laguage X を C で Y とみなすと言語 98
as constitutive rule 構成規則としての 86
as Status Function Declaration 地位機能宣言としての 21 - 22
主題索引(日本語)
意識 consciousness
志向性と意識 intentionality and consciousness 27
意図 intentions
因果的ギャップ causal gaps 39
意図と意志の自由 intentions and freedom of will 39
行為中の意図 intentions-in-action 32 - 34
行為と意図 action and intention 32 - 34
事前の意図 prior intention 32
意図されざる結果 unintented consequences 131
因果的 causal
因果的なものとしての集合的行為 collective action as causal 48 - 52
行為と因果的自己再帰性 action and causal self-referentiality 33 - 34
階級意識 class consciousness
集合的志向性と階級意識 Collective Intentionality and class consciousness 143
還元 reducution
集合的志向性と還元可能性 Collective Intentionality and reducibility 45
観察者相関的 observer-relative 19
企業法人 corporations
二重の宣言としての企業法人 corporations as double declarations 86 - 90
規則 rules
規制的規則 regulative rules 86
構成規則 constitutive rules 86
地位機能宣言としての規則 rules as Status Function Declarations 86
機能 function 54 – 5554 - 55
行為者的機能 agentive function 54
集合的志向性と機能の集合的割り当て Collective Intentionality and collective assigment of
function 41
地位機能 status function 11, 55
義務 obligation
義務と言語の必要性 obligation and the necessity of language 152
義務としての権利 rights as obligations 152 - 154
普遍的人間の義務 universal human obligations 154
義務論 deontology 72 - 77
義務としての義務論 deontology as obligation 73
義務論と言語の必要性 deontology and necessity of language 74
コミットメントとしての義務論 deontology as commiment 73
発話行為に内的なものとしての義務論 deontology as internal to speech acts 74
義務論的力 deontic powers 12, 109
権利と義務論的力 rights and deontic powers 151
消極的義務論的力 negative deontic power 12
条件的義務論的力 conditional deontic power 12
積極的義務論的力 positive deontic power 12
選言的 義務論的力 disjunctive deontic power 12
義務論的力と合理性 deontic and rationality 114
義務論的力と地位機能 deontic power amd status functions 94
義務論的力と発話行為 deontic power and speech acts 90
義務論と社会的現実 deontology and social reality 75 - 77
ギャップ the Gap 117 - 122
因果的ギャップ causal gaps 39
脅威 threats 132
言語 language 17 - 80
X を C で Y とみなすと言語 X counts as Y in C and laguage 98
機能に必要なものとしての言語
language as necessary for functions 58
義務と言語の必要性 obligation and the necessity of language 152
コミットメントの基本的形式としての言語 language as basic form of commitment 74
自然主義化された言語 naturalized language 57
制度としての言語 language as an institution 98
言語と言語外的活動 language and extralinguistic operations 99 - 101
言語と構成性 language and compositionality 59
言語と生成性 language and generativity 59, 72
言語と前言語的精神 language and preliguistic mentality 60
言語と統辞論の操作 language and manipulation of syntax 72
言語と命題の単一性 language and unity of the proposition 64
言語の主要な機能 primary function of language 65
言語と離散性 language and discretness 59
言語外的 extralinguistic and non-linguistic
言語と言語外的活動 language and extralinguistic operations 99 - 101
言語的 liguistc
言語的制度的事実 linguistic institutional facts 100
宣言と言語的現象 Declarations and linguistic phenomena 17
非言語的制度的事実 non-linstitutional facts 100
厳密性の制約 Exactiness Constraint 134
権利 rights
義務としての権利 rights as obligations 152 - 154
地位機能としての権利 rights as status functions 151
権利と義務論的力 rights and deontic powers 151
言論の自由 free speech 160 - 164
行為 action 32 - 36
行為中の意図 intentions-in-action 32 - 34
行為と意図 action and intention 32 - 34
行為と因果的自己再帰性 action and causal self-referentiality 33 - 34
行為者的機能 agentive function 54
構成規則 constructive rules
構成規則としての X を C で Y とみなす X counts as Y in C as constitutive rule 86
構成性 compositionality 59
構成要因 constitors 112
合理性 rationality
義務論的力と合理性 deontic and rationality 114
コミットメント commtment 73
コミットメントの基本的形式としての言語 language as basic form of commitment 74
作為的実体 facitive entities 111
作用要因 effectors 112
三元論 trialism 8
志向性 intentionality 26 - 39
志向性の定義 intentionality definition 26
志向性相関的 intentionality-relative 19
志向性と意識 intentionality and consciousness 27
志向性の構造 structure of intentionality 27
自然化 naturalize 40
指示的 directives 132
自然主義化された言語 naturalized language 57
社会的圧力 social pressure 136 - 138
事前の意図 prior intention 32
持続的な宣言 standing Declarattion 16
社会的現実 social reality
義務論と社会的現実 deontology and social reality 75 - 77
自由意志 free will 109 - 126
意図と意志の自由 intentions and freedom of will 39
制度的事実と自由意志 institutional and free will 109
集合的行為
collective action
因果的なものとしての集合的行為 collective action as causal 48 - 52
遂行の構成的なものとしての集合的行為 collective action as constitutive of performance 48 - 52
集合的志向性 Collective Intentionality 11, 40 - 52
社会的存在論に根本的なものとしての集合的志向性 Collective Intentionality as fundamental to
social ontology 40
集合的志向性と階級意識 Collective Intentionality and class consciousness 143
集合的志向性と還元可能性 Collective Intentionality and reducibility 45
集合的志向性と機能の集合的割り当て Collective Intentionality and collective assigment of
function 41
集合的承認 Collective Recognition 92
協力と区別されるものとしての集合的承認 Collective Recognition as distinguished from
cooperation 53 - 54
充足条件 condition of satisfaction 29
消極的人権 negative human rights 171
条件的人権 conditional human rights 168
人権 human tights 150 - 170
消極的と積極的人権 negative and positive human rights 171
条件的人権 conditional human rights 168
絶対的人権 absolute human rights 166
地位機能としての人権 human rights as status functions 151
明白な人権 prima facie human rights 168
人権と義務 human rights and obligations 152 - 154
人権と言論の自由 human rights and free speech 160 - 164
人権と普遍的人間の義務 human rights and universal human obligations 154
積極的人権 positive human rights 171
絶対的人権 absolute human rights 166
遂行的 performatives
言語的遂行的 linguistic performatives 99
遂行的意味の役割 performatives role of meaning 99
遂行的発話としての宣言 Declaration as performative utterrances 15
非言語的遂行的 non-linguistic performatives 99
生権力 Bio Power 133 - 135
生権力と規律化 Bio Power and normalization 133
生権力と知識 Bio Power and knowledge 133
生権力とベンサムのパノプチコン Bio Power and Bentham's panopticon 133
政治権力 political power 139 - 143
政治的なもの the political 147
政治的なものの公的必要条件と私的必要条件 public and private requirement of the political 147
生成性 generativity 59, 72
制度 institution
制度としての言語 language as an institution 98
制度的事実 institutional facts 14
地位機能と同延としての制度的事実 institutional facts as coextensive with status functions 24
発見可能な制度的事実 discoverable institutional facts 23
マクロの事実としての制度的事実 institutional facts as macro facts 23
制度的事実と自由意志 institutional and free will 109
制度的事実と想像力 institutional facts and imagination 107
制度的事実と体系的副産物 institutional facts and systematic fallout 23
制度的事実と内包性 institutional facts and intensionality 105
制度とナマの力 institutions and brute force 124
制度と無意識的ロボット institutions and unconscious robots 119 - 120
政府 government
究極的な制度的構造としての政府 government as ultimate institutional structure 139 - 141
宣言 Declarations 15 - 16
宣言と言語的現象 Declarations and linguistic phenomena 17
遂行的発話としての宣言 Declaration as performative utterrances 15
地位機能としての宣言 Declaration as Status Functions 16, 101
二重の宣言としての企業法人 corporations as double declarations 86 - 90
前言語的意識 preliguistice consciousness 60 - 75
想像力 imagination 107
存在論的客観性 ontological objectivity 20
存在論的主観性 ontological subjectivity 20
体系的副産物 systematic fallout 23
タイプートークンの区別 type-token distinction 68
単一性(命題の) unity of the proposition 64
地位機能 status functions 11, 55
地位機能と義務論的力 status functions and deontic power 12
地位機能としての権利(人権) rights (human rights) as status functions 151
地位機能宣言 Status Function Declarations 17, 21, 23, 86, 92, 101
地位機能としての宣言 Declaration as Status Functions 16, 101
地位機能宣言としての X を C で Y とみなす X counts as Y in C as Status Function Declaration 21
- 22
地位機能宣言としての規則 rules as Status Function Declaration 86
非言語的地位機能宣言 non-linguistic Status Function Declarations 101
力 power 127 - 149
権利としての力 power as a right 129
指導力と区別されるものとしての力 power as distinguished from leadership 130
力に対する力 power over power 128
能力としての力 power as capacity 127
力と意図されざる結果 power and unintented consequences 131
力と脅威 power and threats 132
力と指示的 power and directives 132
力と社会的圧力 power and social pressure 136 - 138
力とバックグラウンドの習慣 power and Background practices 134 - 139
力の意図的行使 intentional exercise of power 129
適合方向 direction of fit 28 - 30
同延 coextensive 24
動機要因 motivators 112
統辞論 syntax 72
独立したy項 freestanding y terms 22, 89 -91, 98
独立したy項と義務論的力の創出 freestanding and creation fo deontic powers 91
内包性 intensionality 105
ナマの力 brute force 124
認識論的に主観的 epistemic subjectivity 20 - 20
認識論的に客観的 epistemic objectivity 20 - 20
ネットワーク Network 30 - 31
能力 capacity
能力としての力 power as capacity 127
バックグラウンド Background 30 - 32, 134 - 139
バックグラウンドの習慣 Background practices 134 - 139
発見可能な制度的事実 discoverable institutional facts 23
発話行為 Speech Acts 14
発話行為に内的なものとしての義務論 deontology as internal to speech acts 74
義務論的力と発話行為 deontic power and speech acts 90
表現 expression 66
表象 represetation
機能的概念としての表象 representation as functional notion 30
表現から区別されるものとしての表象 representation as distinguished from expression 66
方法論的個人主義 methodological individualism 44
マクロの事実 macro facts 23
明白な人権 prima facie human rights 168
目的論的力 telic power 135
文字言語 writing 102
欲求 desire
基本的と派生的 primary and secondary desire 113
欲求依存的理由 desire-dependent reason 111
欲求独立的理由 desire-independent reason 12, 77, 113 - 116
ライプニッツと合理性 Leibniz and rationality 117
ライプニッツの法則 Leibniz's Law 105
離散性 discretness 5959
理由 reason
実践的理由 reason(practical) 110 - 112
打算的理由 reason(prudential) 124
欲求依存的理由 reason(desire-dependent) 111
欲求独立的理由 reason(desire-independent) 12, 77, 113 - 116
理論的理由 reason(theoretical) 110 - 111
理由全体 total reason 111
構成要因としての理由全体 total reason as constitors 112
作為的実体としての理由全体 total reason as facitive entities 111
作用要因としての理由全体 total reson as effectors 112
理由全体と動機要因 toal reason and motivators 112
ロボット robots 119 - 120
X を C で Y とみなす X counts as Y in C 13
構成規則としての X を C で Y とみなす X counts as Y in C as constitutive rule 86
地位機能宣言としての X を C で Y とみなす X counts as Y in C as Status Function Declaration 21
- 22
X を C で Y とみなすと言語 X counts as Y in C and laguage 98
人名索引
訳注; 古典的著者のみカナ名を付した
Andersson, Å. 23, 103注 12, 127注, 135
Andrade, R. 23 注11, 103注11
Aristotle 57, 98, 110 *アリストテレス
Austin, J. 10, 28 *J. L. オースティン
Bentham, J. 133, 150, 150注, 157, 165 *ジェレミー・ベンサム
Bratman, M. 43, 43注
Bourdieu, P. 57 *ピエール・ブルデュー
Carnap, R. 10 *カルナップ
Chomsky, N. 60 注 *ノーム・チョムスキー
Danto, A. 36 注
Davidson, D. 57 *ドナルド・デイィヴィドソン
De Soto, H. 102, 102注 Dummett, M. 57 *マイケル・ダメット
Durkheim, É. 57, 94注, 134 *エミール・デュルケム
Eccles, J. C. 8 注1
Feinberg, J. 36 注6
Fitch, T. 60 注3
Frege,G. 9, 10, 40, 70 *ゴットロープ・フレーゲ
Friedman, J. 22 注10
Foucault, M. 57, 127注1, 133 - 134, 135 *ミシェル・フーコー
Gilbert, M. 43 注1
Grice, P. 68, 68注8, 75, 75注11 *ポール・グライス
Grotius, H. 155
Harmermas, J. 57 *ユルゲン・ハーバーマス
Hauser, M. 60 注3
Heidegger, M. 137 *マルチン・ハイデガー
Hempel, P. 9 *ヘンペル
Hudin, J. 11, 53注11, 54注12‐13
Hume, D. 115, 115注3, 115, 124 *デイヴィド・ヒューム
Hunt, L. 155 注4‐5
Kant, I. 9 *イマニュエル・カント
Lawson, T. 174 注1
Ledayev, V. G. 127 注1, 128注 3
Leibniz, G. 117 *ゴットフィリート・ライプニッツ
Lewis, D. 75, 75注12
Lukes, S. 127 注, 128注4, 130, 130注5, 133注, 134注9
Maclntyre, A. 150, 151注, 157 *A. マッキンタイア
Marx, K. 96, 96注7 *カール・マルクス
Mill, J. S. 161 注 *J. S. ミル
Miller, S. 43, 43注4, 73注9
Moural, J. 155
Nagel, T. 113 注2 *トマス・ネーゲル
Passinsky, A. 54 注12, 100注8
Quine, W. V. O. 10, 105 *W. V. O. クワイン
Rakoczy, H. 107
Rawls, J. 118, 118注, 169, 169注 *ジョン・ロールズ
Rorty, R. 124 *リチャード・ローティ
Russell, B. 9, 10 *バートランド・ラッセル
Schmitt, C. 148, 148注 *カール・シュミット
Searle, J. R. 26 注, 44注6‐7, 84注, 110注 J. R. サール
Siavoshy, C. 128
Simmel, G. 57 *ゲオルク・ジンメル
Smith, B. 22, 91
Sosa, E. 64 注 Strawson, P. 10, 65, 66注6 *ピーター・ストローソン
Tarski, A. 45 *タルスキ
Tomasello, M. 107 *マイケル・トマセロ
Tuomela, R. 43 注2
Vega, M. 155
Velleman, D. 43, 43注5
Weber, M. 57 *マックス・ウェーバー
Williams, B. 75, 75注10, 115, 115注4, 115, 150, 150注, 158, 158注 *バーナード・ウィリアムズ
巻末注
序文と謝辞
1. Searle, John R., The Construction of Social Reality, New York: Free Press, 1995.
2. Searle, John R., The Construction of Social Reality, New York: Free Press, 1995.
3. The American Journal of Economics and Sociology 62, no.1 (January, 2003). Koepsell, David
and Laurence S. Mass (eds.), John Searle's ideas about Social Reality: Extentions, Criticism, and
Reconstructions, Malden, Mass.: Blackwell, 2003 として別に出版。
4. Antholopological Theory 6, no. 1 (2006).
5. Dorderecht: Springer, 2007.
6. Vol. 9, no. 1 (March, 2002), 1-87.
7. Dorderecht: Kluwer, 2002.
8. Cambridge: Cambridge University Press, 2003.
9.Chicago: Open Court, 2008.
第1章 この本の目的
1. 「三元論」(trialism)という表現は実在が、一元論者が主張するものとしてひとつでも、二元論者が主張するも
のとして二つでもなく、三つの部分、物理的なもの、精神的なもの、そして「その出現の全てにおける文化」をもつ
という主張にサー・ジョン・エクルスによって発明された。Eccles, John, “Culture: The Creation of Man
and the Creator of Man,” in Eccles(ed.), Mind and Brain: The Many-Facedted
Problems,Washington: Paragon House, 1982, 65-75.
2. この本で私はときどき人間と動物を対照させる。この点は私たちの種の優越のための抗弁ではなく、いくつか
の明白な人間の現象の論理構造を分析するためである。何らかの他の主もまた所得税、大統領選挙、離婚裁判、
その他制度的事実をもつなら、私は彼らを人間クラブに迎えることを歓迎する。その存在は説明の対する反対で
はなくさらなる研究の主題だろう。
3. De Waal, Frans, Our Inner Ape: A Leading Primatologist Explains Why we Are Who We Are,
New York: Riverhead, 2005; and Call, Joseph, and Michael Tomasello, Primate Cogmition, New
York: Oxford University Press, 1997.
4. 特に、Searle, John R., The Construction of Social Reality, New York: Free Press, 1995.
5. Searle, John R., “A Taxonomy of Illocutionary Acts,” in Keith Gunderson (ed.), Language,
Mind and Knowledge, Minnesota Studies in the Philosophy of Science, Vol. Vll, Minneapolis:
University of Minnesota Press, 1975.
6. Austin, John L. How to Do Things with Words, Cambridge: Havard University Press, 1962.
7. 「発語内」(illocutionary)は J. L. Austin, How to Do Things with Words.による。
8. 専門用語であるため、私は発語内行為のタイプの名前を大文字で書く: Assertives, Directives,
Commissive, Expressives, and Declarations.
9. Smith, Barry, “John Searle: From Speach Acts to Social Reality,” in John Searle, Barry Smith
(ed.), Cambridge Unversity Press, 2003, 1-33. A similar objection was made by Amie Thomasson,
“Foundations for a Social Ontology,” Protosociology: An International Journal of
Interdisciplinary Research 18-19 (2002): 269-90.
10. Thomasson, ibid; and Friedman, Jonathan, “Comment on Searle's 'Social Ontology': The
Reality of the Imagination and Cunning of the Non-Intentinal,” in Anthropological Theory, Roy
D'Andrade (ed.), 6, no. 1 (March 2006): 70-80.
11. Searle, John R., “Reality and Social Construction: Repy to Friedman,” in Antholopological
Theory, Roy D'Andrade (ed.), 6, no. 1 (March 2006): 81-88, esp. 84.
12. Andersson, Åsa, Power and Social Ontology, Malmö: Bokbox Publications, 2007,
第2章 志向性
1. 意図すること(intending)が、ただ多くの中の志向性(intentionality)のひとつでしかない場合、なぜあたかも
intentionality と intending 間に何らかの特別なつながりがあるかのように聞こえるよう言葉をなぜ使うのか?
答えはその言葉を(中世ラテン語 intensio から手に入れた)ドイツ語圏の哲学者から私たちが手に入れたという
ことである。志向性のドイツ語“Intentionalität”は、意図のドイツ語“Absicht”とは似て聞こえない。
2. 続く説明はほとんど、Searle, John R., Intensionality: An Essay in Philosophy of Mind, Cambridge:
Cambridge University Press, 1983.に由来する。以前の説明になく、ここでした二つの点は、自由意志の議
論と想像力の議論である。
3. Austin, John L. How to Do Things with Words, Cambridge, Mass.: Harvard University Press,
1962.
4. Searle, John R., Intentionality: An Essay in the Philosophy of Mind, Cambridge: Cambridge
University Press, 1983.
5. 意図が因果的に自己言及的(causal self-referential)であると言う事実は多くの著者たちによって言われて
きた。たとえばカントは『判断力批判』(Kant, Immanuel, Critique of Judgement, Indianapolis: Hacket
Publishing, 1987)の初めでそれを指摘した。「因果的自己言及性」という用語は、私が知るかぎり、Gibert
Herman(Harman, Gilbert, “Practical Reasoning,” Review of Metaphysics 29(1976): 431-63). に
よって最初に発案された。
6. 「アコーディオン効果」(accordion effect)という用語は、Feinberg, J., Doing and Deserving: Essays in
the Theory of Responsibility, Princeton University Press, 1970, 34,によって発案された。
7. 「基本的行為」(basic action)という用語は、Arthur Danto (Danto, “Basic Actions,” in A. R. White
(ed.), The Philosophy of Action, Oxford: Oxford University Press, 1968, 43-58.によって発案された。
第3章 集合的志向性と機能の割り当て
1. Gilbert, Margaret, On Social Facs, London: Routledge, 1989. “Walking Together: A
paradigmatic Social Phenomenon,” Midwest Studies in Philosophy 15 (1990): 1-14 をも見よ。
2. Tuomela, Raimo, “We Will Do It: An Analysis of Group-Intentions,” Philosophy and
Phenomenological Research 51 (197-91): 249-77. Tuomela, Raimo and Kaalo Miller, “Weintentions,” Philosophical Studies 53 (1988): 367-89.をも見よ。Tuomela, Ramio, The Philosophy
of Society: The Shared Point of View, New York: Oxford University Press, 2007.をも見よ。
3. Bratman, Michael E., Faces of Intention, Cambridge: Cambridge University Press, 1999.
4. Miller, Seumas, Social Action: A Telelogical Account, New York; Cambridge University Press,
2001.
5. Velleman, David J., Practical Reflection, Princeton, N. J.: Princeton University Press, 1989.
6. Searle, John R., “Collective Intentions and Actions,” in P. Cohen, J. Morgan, and M. E. Pollack
(eds.), Intentions in Communications, Cambridge, Mass.: MIT Press/Bradford Books, 1990,
reprinted in Searle, Consciousness and Language, Cambridge: Cambridge University Press,
2002.
7. Ibid.この例でわたしはアダム・スミスもハーバード・ビジネス・スクールのどちらも軽蔑しているわけではない。
歴史的にアダム・スミスが彼に普通帰される見解を信じていなかったことはまったく可能であり、ハーバード・ビジ
ネス・スクールが普通それに帰されるビジネスの概念を持たないことも可能である。もしそうならこの思い違いを
続けていることに両者に謝罪する、私の意図は単に明確な例を示すことである。
8. Tarski, A. “The Semantic Conception of Truth and the Foundatios of Semantices,” Philosophy
and Phenomenological Research 4 (1944): 341-76.
9. 続くものは John R. Searle, “Collective Intentions and Actions.”の議論の続きである。
10. 議論のため、Bardsley, Nicholas, “On Collective Intentions: Collective Action in Econoomics
and Philosophy,” Synthese 157 (2007): 141-59.
11. 集合的承認(collective recognition)の用語は最初、Jennifer Hudin によって示唆された。
12. 私はこの節の諸問題の議論に関して Jennifer Hudin と Asya Passinsky に多くを負っている。さらなる議
論は Hudin の”Can Status Functions Be Discoverd?”(The Journal for the Theory of Social
Behaviour 掲載予定)を見よ。
13. この用語は最初 Jennifer Hudin が私に示唆した。
第4章 生物学的かつ社会的なものとしての言語
1. Davidson, Donald, “Rational Animals,” Dialectica 36, no. 4 (1982): 317-27; Dummett,
Michael, Origins of Analytical Philosophy, Cambridge, Mass.: Harverd University Press, 1994.
2. ロックはその有名な“Essay”で(訳注;“An Essay Concerning Human Understanding”「人間悟性論」
または「人間知性論」)の言語について一節全体を割いたと思う。だがその説明は言語の説明としさえ不適切で
あり、かれは言語のいかなる説明も言語がどのように社会を基礎づけるか示すことができることを理解する証拠
を示していない。
3. コミュニケーションの進化に関するいくつかの最近の著作については次を見よ。Hauser, Marc, Norm
Chomusky, and Tecumseh Fitch, “The Faculty of Language: What Is Is, Who Has It, and How Did
It Evolve?” science 293 (Nov. 22, 2002): 1569-79. Tomasello, Michael, The Origins of Human
Comunication, Cambridge, Mass.: MIT Press, 2008.
4. 私は他の場所でこの主張についてある程度語った。特に次を見よ。Intentionality: An Essay in the
Philosophy of Mind. 基本的に、議論の形式は意味それ自体ははひとが言語でできるものの可能性を制約す
る。私はここで議論を繰り返さない。
5. これにはいくつかの奇妙に明らかな例外がある。彼が考えているというデカルトの思考は彼が考えているとい
う事実を創出することができる。Ernest Sosa が私にこれを思い出させた。
6. Strawson, P. F., Individual: An Essay in Descriptive Metaphysics, London: Methuem, 1959,
202ff-14ff.
7. 標準的に純粋な表現的発話行為であるものが表象的に遂行できる例を構成することができる。私の歯医者
が「痛い」と私に言い、ひどく痛い場合、「痛い」と言うことで、私はひどく痛いという趣旨の陳述をしている。
8. Grice, Paul, “Meaning,” Philosophical Review 66 (1957), 377-88. このコミュニケーションの説明は
グライスの意味の分析に由来するが、重要な点でその説明とこなる。グライスの説明の明確な特徴はかれが意
図の自己言及的クラスを導入したことであり、かれは意味する意図は発語媒介的効果を生む意図を聞き手に承
認させることによって聞き手にその効果を生む意図であるということだった。私はこの説明に沢山の反対がある
が、その中で私者これはこ k ミュニケーションの分析だが、意味の分析ではないと主張する。コミュニケーション
があるためには、コミュニケートされる意味がなければならない。
9. コミットメントについての良い議論については次を見よ。Miller, Seumas, “Joint Action: The Individual
Strikes Back,” in Savas Tsohatzidis (ed.), Intentional Acts and Institutional Facts: Essays on John
Searle's Social Ontlogy, Dorderecht: Springer, 2007, 73-92.
10. Williams, Bernard, Truth and Truthfulness: An Essay in Genealogy, Princeton, N. J.:
Princeton University Press, 2002.
11. Grice, Paul, “Logic and Conversation,” in Peter Cole and Jerry L. Morgan (eds.), Syntax and
Semantics 3: Speech Acts, New York: Academic Press, 1975, 41-58.
12. Lewis, David, “General Semantics,” in G. Harman and D. Davidson (eds.), Semantics of
Natural Language, 2nd ed., Dorderecht:D. Reidel, 1972, 169-218.
第5章 制度と制度的事実の一般理論:言語と社会的現実
1. Searle, John R., The Consruction of Social Reality, New York: Free Press, 1995.
2. 地位機能の概念は「機能」という語の日常的用法の拡張を伴う。そのためたとえば、人権は地位機能である
結果となるが、私たちは言論の自由を行使することを、私たちの「機能」のひとつと普通考えない。だが地位機能
の一般的カテゴリーのもとにそれを理解することが正当であるということは、地位によって割り当てられる日常的
な機能と十分同じであると私は論じるつもりである。
3. すでに述べたとおり、私は小文字の「x」、「y」を量化子の変数として用い、大文字「X」、「Y」を隣接する名詞句
に結び付けられうる独立変数として用いる。
4. Smith, Barry, “John Searle: From Speech Acts to Social Reality,” in Barry Smith (ed.), John
Searle, Cambridge: Cambridge University Press, 2003, 1-33.
5. Durkheim, Emile, The Rules of Sociological Method, George E. G. Catlin (ed.) trans Sarah A.
Solovay and John M. Mueller, Glencoe, IL: Free Press, 1983.
6. 独立宣言
7. Marx, K., Captal: A Critical Analysis of Capitalist Production, London: Swan Sonnenschein &
Co., 1904, vol. 1, 26n.
8. この図表を含めることについて Asya Passinsky の示唆に多く負っている。
9. Searle, John R., Speech Acts: An Essay in the Philosophy of Language, Cambridge: Cambridge
University Press, 1969.
10. De Soto, Hernando, The Mystery of Capitalism: Why Capitalism Triumphs in the West and
Fails Everywhere Basic Books, 2003.
11. Thomasson, Amie, “Foudations for a Social Ontology,” Protosociology 18-19 (2003): 269-90;
Friedman, Jonathanm Comment on Searle's “Social Ontology,” in Roy D'Andrade (ed),
Antholopological Theory 6 (2006): 70-80.
12. Andersson, Åsa, Power and Social Ontology, Malmö. Bokbox Publications, 2007.
13. Rakoczy, Hannes, and Michael Tomasello, “The Ontogeny of Social Ontology: Steps to
Shared Intentionality and Status Functions,” in Savas L. Tsohatzidis (ed.) Intentional Acts and
Institutional Facts, Dorderecht: Springer, 2007, 113-37.
第6章 自由意志、合理性、制度的事実
1. Searle, John R., Rationality in Action, Cambridge, Mass.: MIT Press, 2002.
2. 私が知る限り基本的欲求(primary desire)と派生的欲求(secondary desire)の用語法はトマス・ネーゲル
が次の本で初めて導入した。Nagel, Tigge (ed.), New York: Oxford University Press, 1978.
3. Hume, David, Treatise of Human Nature, Book II, Part 3, Section 3, L. A. Selby-Bigge (ed.),
New York: Oxford University Press, 1978.
4. Williams, Bernard, “Internal and External Reasons,” Moral Luck: Philosophical Papers 19731980, Cambridge: Cambridge University Press, 1981, 101-13.
5. Rawls, John, A Theory of Justice, Cambridge, Mass.: Harverd University Press, 1971.
6. たとえば、Mind, Brains and Science, Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1984. 次も見よ。
“Minds, Brains, and Programs,” The Behavioral and Brain Sciences 3 (1980): 417-57. また、The
Rediscovery of the Mind, Cambridge, Mass,; MIT Press, A Bradford Book, 1992.
第7章 権力:義務論的、バックグラウンド、政治的、その他
1. 力を主題については、かなり多くの興味深い最近の著作がある。この章で論じられる問題にカンレする4冊の
本は次のとおり:Andersson, Åsa, Power and Social Ontology, Malmö. Bokbox Publications, 2007;
Foucault, Michel, Power, James B. Faubion (ed.), trans. Robert Hurley et al., New York: New
Press, 1994/2000; Ledyaev, Valeri G. Power: A Conceptual Analysis, New York: Nova Science,
1998; Lukes, Steven, Power: A Radical View, 2nd ed., New York: Palgrave Macmillan, 2005.
2. 私はこの点を思い出すことについて Cyrus Siavoshy に多くを負っている。
3. たとえば、Ledyaev, Power: A Conceptual Analysis.
4. Lukes, Power: A Radical View.
5. Lukes, Power: A Radical View.
6. 力の直接の帰属は外延的だが、力の意図的行使は外延的ではない。下の議論で、(a)かつ(b)は、(c)を含意
する。しかし(d)かつ(b)は(e)を含意しない。
(a) X は Y に A をさせるため Y に対する力をもつ。
(b) A = B
は次を含意する
(c) X は Y に B をさせるため Y に対する力をもつ
だが次の推論は妥当ではない。
(d) X は Y に A を遂行させるため Y に対する力を意図的に行使する。
(b) A = B
(e) X は Y に B を遂行させるため Y に対する力を意図的に行使する。
7. Cited in Lukes, Power: A Radical View, 94.
8. Foucoult, Power, 340.
9. Lukes, Power: A Radical View, 97.
10. ところでアメリカのジャーナリズムでは「黒人社会」(black community)と呼ぶ何かについて語るのはあり
ふれている。そのようなコミュニティがあるのは疑わしいが、私が確信しているひとつのことは「白人社会」(white
community)のようなものがないことである。なぜなら、いわゆる白人のすべて、あるいはほとんどに普及している
集合的志向性が単にないからである。
11. 私の経験で、極端に順応主義的社会集団はアメリカの学者である。アメリカの教授たちは、どんな種類の趣
味をもつのが適切か、どんな種類の友人といるのを見られるか、受け入れ可能な政治的主張とはなにか、どんな
種類の文化財を賞賛できるかなどについての特定の一群のバックグラウンドの仮定や前提を受け入れることを
学部学生にさえ条件付ける。従順の圧力は、多くにとって、圧倒的であり、独立性はまれである。テニュアはあらゆ
る種類の非順応的考えや行動にたいして知的独立性を提供していると考えられているが、もしそうなら、独立性
はめったに行使されない。
12. これらの目的のため、私は「政府」(government)と「国家」(state)と等価に扱う。場合によって「政府」は所
与の時点で権力をもつ一群の人々や政治的機関を指示するのに用いられる。私はそれを制度的構造自体を指
示するため使用している。アメリカ合衆国では、「ステイト」(state)は普通連邦政府に対するものとして州政府を
支持するのに用いられる。
13. Schmitt, Carl, The Concept of the Political, trans. George D. Schwab, Chicago: University of
Chicago Press, 1996.
第8章 人間の諸権利
1. Wiliams, Bernard, In the Beginning Was the Deed: Realism and Moralism in Political
Argument, Geoffrey Hawthone (ed.), Princeton, N. J.: Priceton University Press, 2005, 62.
2. Bentham, Jeremy, “Anarchical Fallacies; Being an Examination of the Declaration od Rights
Issued during the French Revolution,” in John Bowring (ed.) The Works of Jeremy Bentham, vol.
2, Edinburgh: William Tait, 1843.
Accessed from http://o;;.libertyfund.org/title/1921/114226 on Feb. 12, 2009.
3. Maclntre, Alasdair, After Virture: A Study in Moral Theory, Notre Dame, Ind,: University of
Notre Dame Press, 1981, 69-71.
4. 良い歴史的研究は次を見よ: Hunt, Lynn, Inventing Human Rights: A History, New York: W. W.
Norton, 2007.
5. これら3つの特徴の重要性の議論については eginning Was the Deed.
6. Williams, In the Beginning Was the Deed.
7. Mill, John Stuart, On Liberty and Other Essays, New York: Oxford University Press, 1998.
8. もちろんそのような単純なものがたとえば宗教的勅令によって規制されるなら、人は安息日に旅行する権利、
肉を食べる権利、ブルカを着用しない権利、祈りをしない権利を主張するかもしれない。
9. この点についてのさらなる議論は次を見よ: Searle, John r., “Prima Facie Obligations,” in Joseph
Raz (ed.), Practical Reasoning, Oxford: Oxford University Press, 1978, 81-90.
10. Rawls, John, “Two Concepts of Rules,” Philosophical Review 64 (1955): 3-32.
結びの意見:社会科学の存在論的基礎
1. Lawson, Tony, Economics and Reality, New York: Routledge, 1997.