環境事業評価のための費用便益分析 - FASID 財団法人国際開発機構

第
3章
環境事業評価のための費用便益分析
―円借款事業への CVM 適用の有用性―
Evaluation of Sector-wide Program
内田勝巳
Xxxx Xxxx
要約
開発途上国が,多額の円借款資金の借入れと国民の税金を用いて行う大
型公共事業は,当該途上国の国民経済や国家予算規模に比較して,相対
的・絶対的に多額の資本や希少資源を長期間必要とすることから,事業の
選択や意思決定を行う上で,費用便益分析による資源の効率的配分の評価
は非常に重要である.しかしながら,2002 年 2 月から 2008 年 3 月 10 日
にかけて貸付承諾された円借款事業のインフラ関連 299 事業のうち経済的
内部収益率(EIRR)を算出した事業は 60 %に満たない.教育・医療・情
報通信事業では EIRR は全く算出されておらず,また,環境や電力事業で
の実施も 50 %前後に止まっている.他方,先進諸国では,環境意識の高
まりや政策評価の重要性の認識に伴い,環境質や非市場財の測定も可能と
する仮想市場法(CVM)による費用便益分析の実施例が増えていること
から,本稿において,途上国の環境事業への CVM の適用可能性と有用性
について考察した.CVM は,アンケート調査等により,環境の変化やサ
ービスの変更に対する個人の支払意志額を直接尋ねることにより便益を計
測する手法であり,CVM の信頼性は,質問設計や統計分析で生じるバイ
アスをより少なくすることにより向上する.考察の結果,CVM には,需
要サイドのデータを提供する有効な手法であること,開発によって得られ
る利益と環境破壊によって失われる損害とを直接比較することにより環境
保全と開発のありかたの客観的検討を可能とすること,住民のニーズが意
思決定に反映されることから住民参加を推進させるための道具となりえる
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第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
こと,等の有用性が見いだされた.大規模な費用を投入し,社会的な影響
が大きい円借款事業において,環境関連を中心とする社会インフラ事業の
定量的評価が十分になされていないことは問題であり,CVM は積極的に
活用されていくべきである.
はじめに
費用便益分析は,開発途上国が行う公共事業に対する融資判断を行うた
めのアプレイザルのツールとして円借款事業において長い間使われてきて
いる.公共事業計画に不可欠な視点は,社会的便益を最大化するような資
源の配分である.開発途上国が,多額の円借款資金の借入れと国民の税金
を用いて行う大型公共事業は,当該途上国の国民経済や国家予算規模に比
較して,相対的・絶対的に多額の資本や希少資源を長期間必要とすること
から,事業の選択や意思決定のツールとして費用便益分析は非常に重要な
役割を果たす.
円借款事業では,交通,電力,灌漑セクターのような経済インフラ事業
に対する貸付比率が高いが,これらのセクターでの費用便益分析は 1975
年に世界銀行で理論化され,手法化されたものが,一般的に用いられてき
ている.他方,近年,上下水道事業,廃棄物処理事業,植林事業といった
環境社会インフラ事業が急速に増加してきたが,これらの環境社会インフ
ラ事業に対する費用便益分析は,前者の経済インフラ事業と比べて,手法
が定型化されないまま推移してきている.
2002 年 4 月に日本政府は政策評価法を施行したが,ODA 事業も対象に
組み込まれ,事前評価が義務づけられるようになった.その結果,円借款
事業融資のために行われていたアプレイザルの概要が,国際協力銀行
(JBIC)のウェブサイト(http://www.jbic.go.jp/japanese/oec/before/
index.php)において,事前評価表として情報公開されている.表 1 は,
2002 年 2 月から 2008 年 3 月 10 日にかけて貸付承諾された 325 事業の事
前評価における費用便益分析(経済的内部収益率の計算)の有無につき分
類したものである.
○○○○
61
表 1 円借款事業事前評価時における経済的内部収益率計算の有無
(注)
( )内は財務的内部収益率の計算もない案件数と全体に占める割合
(出所)国際協力銀行ウェブサイト情報を筆者が独自に分類し作成
この表から次のことが読み取れる.全 325 事業のうち費用便益分析が実
施された事業は 175 件(53.8 %)である.ツーステップローンや財政・政
策支援といった費用便益分析になじまない案件を除いた 299 事業における
実施比率で見ても 58.5 %にすぎない.セクター別では,交通・灌漑・防
災セクターでの費用便益分析の実施率は約 90 %と非常に高い一方で,教
育・医療・情報通信セクターでは費用便益分析は全く行われていない.ま
た,環境セクターや電力セクターの実施率は 50 %前後に止まっている.
さらに,事業実施機関の収益を分析する財務的内部収益率の計算もなく,
定量的分析が全く行われていないインフラ関連事業が 66 件(22.1%)ある.
つまり,この表から円借款事業の費用便益分析は,非常に限定された種類
の公共事業にしか適用されていないことが理解できる.
ところで,上記 325 事業のうち,筆者が環境事業として分類した案件は
84 事業(25.8%)であるが,DAC(開発援助委員会)の Creditor Reporting System(CRS)に則り,環境保全を主目的(principal)あるいは重要
目的(significant)としてマーキングし,DAC に報告されている環境関連
の円借款事業の割合は,過去 10 年間,毎年 50% 前後で推移している.こ
れは,交通や電力セクター等に分類されるプロジェクトであっても,環境
改善を重要な目的とする事業が相当数あることを意味している.
現在,米国や日本をはじめ先進諸国においては,環境意識の高まりや政
策 評 価 の 重 要 性 の 認 識 に 伴 い , 仮 想 市 場 法 ( Contingent Valuation
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第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
Method:CVM)やヘドニックアプローチといった環境質や非市場財の測
定も可能とする費用便益分析手法の理論化が進み,実施例も急速に増加し
ている.
本稿は,途上国における環境事業評価のための費用便益分析手法として
の CVM 適用の可能性と有用性について考察することを目的としている.
1.費用便益分析とは何か
費用便益分析は,正式には社会的費用便益分析という.社会的便益とは
財やサービス(本稿では開発プロジェクトの実施)によってもたらされた
社会の構成員(家計)の満足度(効用)の増分であり,市場財・非市場財
を問わず様々な価値(例えば存在価値や環境価値)を含むものである.
円借款事業では,費用便益分析において,経済的便益とか財務的便益と
いう言葉が使用されているが,経済学的見地における経済的便益と社会的
便益とは同義である.しかし,これまでの費用便益分析の多くは,社会的
便益の一要素としてのプロジェクトの直接的利用価値にのみ焦点を当てて
便益を計測してきた事例が多い.また,財務的便益は,事業実施機関のプ
ロジェクトの実施に伴い発生するキャッシュフローに基づき費用便益分析
を行うものであるが,開発プロジェクトの実施によりもたらされる効用の
増分の一部が最終的に家計に帰着する途中段階としての事業実施機関の収
益に着目したものである,と捉えることにより,社会的便益の概念がより
明確に理解されるかもしれない.他方,社会的費用とは,当該プロジェク
トの実施や維持に投入される社会資源の(機会)費用を指す.
費用便益分析は,社会的便益と社会的費用の差である純便益(効用の純
増分)を計測することを目的としており,純便益がプラスであるというこ
とは,社会資源がより効率的に再配分されたことを意味する.具体的には,
プロジェクトを行った状況(with)と行わなかった状況(without)の差
分を計測することにより,仮にプロジェクトが実施されなければ,状態は
いかに悪化・劣化するか,また,プロジェクトの実施により,いかに改善
されるか,の双方から純便益の変化を計測する.
○○○○
63
なお,費用便益分析は,社会全体にとっての資源の効率的配分を評価し
ようとするものであり,配分の公平性に関わる議論に直接答えようとして
いるわけではない点は留意しておく必要がある.つまり資源の再配分(プ
ロジェクト)により,仮に損をする人がいたとしても,得をした人が補償
費を支払うことで,パレート改善が実現できるのであれば,そのプロジェ
クトを実施すべきであるという仮説的補償原理の思想に基づいている.
2.支払意思額と効用の貨幣測度
公共事業の純便益を計測するためには,費用と同様に便益(効用の増分)
も貨幣換算する必要がある.一定の効用を維持することを前提に,ある財
やサービスを享受あるいは維持するために費用を支払う必要のある場合,
人々が支払ってもよいと考える金額のことを支払意思額(Willingness to
Pay:WTP),また,財やサービスの享受を受けなかったり,失ったりす
ることに対する補償として受取りたいと考える金額のことを受入補償額
(Willingness to Accept Compensation:WTA)という.あるプロジェクト
による便益を WTP や WTA の総和として捉え,プロジェクトに対する
WTP や WTA を連続的な変数として社会全体に拡大したものがマーシャ
ルの需要関数である.
効用の貨幣測度として,交通セクター等の公共事業の便益測定に一般的
1
に用いられているのは,この需要関数に基づく消費者余剰法である .交
通セクター利用者の需要関数を推計して WTP を求め,ここから使用料金
を控除した残りである消費者余剰を用いて,公共事業の有無による両者の
差を便益とする.しかし,WTP の値は消費者の所得により変化してしま
うので,消費者余剰法が正確な効用の測度であるためには,所得の限界効
用が一定(ヒックスの補償需要関数)でなければならず,一定でない場合
は価格の変化する経路によって値が異なる「経路従属性」の問題が生じる.
★下線用12文字分ダミー★
1 消費者余剰とは,消費者が,その財なしですませるくらいなら支払ってもよいと考え
る最高支払許容額の和から,実際にその財の購入のために支払った金額の合計を差し引いた
もの.
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第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
したがって,消費者余剰法は,あくまでも効用の近似的な貨幣測度である 2.
これに対し,消費者余剰法の「経路従属性」の欠点を持たない効用の他
の貨幣測度として,補償変分(Compensating Variation:CV),等価変分
(Equivalent Variation:EV),補償余剰(Compensating Surplus:CS),等
価余剰(Equivalent Surplus:ES)がある.CV と EV は,通常の市場財・
サービスの「価格変化」に用いられ,CS と ES は,市場のない環境質や
非市場財の「量的変化」を貨幣換算する際に用いられる.
CV は,価格変化前の効用水準を維持したままで価格の低下(上昇)に
対して,個人が支払っても(受け取っても)よいと思う額を示す.また,
EV は,より低い価格での財の購入をやめる個人を補償するのに必要とな
る額,あるいは,より高い価格での購入を免れ,価格変化後の実質所得水
準にとどまるために個人が支払ってもよいと思う最大の額である.
さらに,価格の低下を「環境状況の改善」,価格の上昇を「環境状況の
悪化」に置き換えると,CS は CV と,また,ES は EV と同様の概念とし
て理解されうる.
図 1 の両図は,横軸を対象財の価格軸,縦軸を対象財以外の合成財の価
格軸としている.ある所与の所得を持った個人の予算制約線は,対象財の
価格が P0 の時,予算制約線(P0)の直線として示され,2 財に対する個人
の選好が与えられると,効用最大化水準は予算制約線(P0)と無差別曲線
(u)との接点となる.
右図で,対象財の価格が低下(P0 →P−)すると,同じ所得水準のもとで,
個人は対象財をより多く買うことができるので,予算制約線(P0)は予算
制約線(P−)へと回転する.この時,個人の効用最大化水準は予算制約
線(P−)と無差別曲線(u”)の接点である.この接点から対象財の価格が
低下する前の無差別曲線(u)に予算制約線(P−)を平行にシフトした点
線との垂直距離が CV であり,元の効用を維持しつつ新たに得られた効用
に対し,個人が支払ってもよいと考える額(WTP)となる.他方,EV は
対象財の価格が低下する前の予算制約線(P0)と無差別曲線(u)との接
★下線用12文字分ダミー★
2 また,(交通)需要関数の推定にのみ焦点をあてた外生モデルには恣意性が入りやす
く,実用上も問題がないわけではない.
○○○○
65
図 1 財の価格変化に対応した WTP,WTA,CV,EV の関係
(出所)肥田野(1999)p.118 からの転載
点と無差別曲線(u”)まで予算制約線(P0)を平行にシフトした点線との
垂直距離であり,より低い価格での財の購入を止める個人を補償するのに
必要となる額(WTA)となる.
また,左図は,対象財の価格が上昇(P 0 →P+)したときの予算制約線
(P+)と効用の減少した無差別曲線(u’)を示したものであり,CV は価格
の上昇(効用最大化水準の低下)に対して受け取ってもよいと考える額
(WTA)となり,EV はより高い価格での購入を免れる(元の効用最大化
水準を維持する)ために支払ってもよいと考える額(WTP)と等しくなる.
つまり,CV(または CS)は,プロジェクト有り(プロジェクト実施後)
の視点から見た効用の貨幣測度であり,EV(または ES)は,プロジェク
ト無し(現状)の視点から見た効用の貨幣測度であることがわかる.
3.仮想市場法(CVM)について
便益の推定方法には,顕示選好法(revealed preference)と,表明選好
法(stated preference)がある.
顕示選好法は,個人の選好をその行動結果から判断しようとするもので
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第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
ある.実際の消費行動データや市場で売買されている財・サービスの価格
データ等を用いて,需要関数を推定する手法であり,交通セクターの需要
予測のように,大多数の円借款事業の費用便益分析は顕示選好法に基づき
行われている.
他方,表明選好法とは,アンケート調査等によって個人の選好を直接的
に尋ねる手法である.表明選好法には仮想市場法(CVM)やコン・ジョ
イント法などがある.表明選好法は,既存の需要データや代替データを必
要としないので,表明選好法に基づけば,理論的には,市場財ではない大
気や水質などの環境財や,まだ存在しない財・サービスの評価を含めて,
あらゆる財・サービスの価値を推定することが可能ということになる.特
に,CVM は,近年の環境意識の高まりの中で,環境関連の公共事業や環
3
境の価値を測定する手法として注目を浴びるようになった .
CVM は,仮想的に市場を作り出して,環境の変化やサービスの変更に
対してどれだけの額を支払う意志があるか,あるいはどのくらいの補償を
受ければ受忍するか,といった WTP や WTA をアンケートや面接によっ
て直接質問し,得られた回答額を統計的に処理して,その環境財やサービ
スが持つ価値を推計する手法である.したがって,回答者が正しく回答し
ていれば,前章にて考察したとおり,WTP や WTA は,CV,EV,CS,
ES といった効用の貨幣測度と等しくなる.すなわち CVM は,回答額イ
コール効用の変化を貨幣価値で示したものという考え方に基づくものであ
り,原理的に明快で,個人単位での分割が可能,また評価対象が極めて広
いという利点を持っている.
しかし,一方で,この手法は質問設計の方法や統計処理の段階で様々な
バイアスを受けやすいという欠点を持っており,調査結果の信頼性の向上
4
を図るには質問設計や統計分析の適切性が特に重要となる .
ちなみに,米国商務省国家海洋大気管理局(The National Oceanic and
★下線用12文字分ダミー★
3
CVM は,1947 年に米国の Ciriacy-Wantrap の土壌流出防止の便益に関する論文により
提案され,1958 年に米国の国立公園局がデラウェア川流域のレクリエーション価値を求める
ために実際に用いたのが始まりといわれている.1980 年の土壌汚染に関するスーパーファン
ド法,1990 年の油濁防止法の制定で,環境汚染を回復するための賠償責任等についての法制
度上のメカニズムが確立される一方で,1986 年に米国内務省が環境汚染を評価するための手
法として CVM を位置づけた.以来,現在までに 2 千以上の研究蓄積があるとされている.
○○○○
67
Atmospheric Administration:NOAA)は,自然資源破壊の損害賠償に関
する訴訟において議論を開始するための材料として,CVM は十分な信頼
性を提供することができる,と結論づけている.そして,訴訟にも耐えう
るだけの信頼性を確保するための必要な条件を,1993 年に具体的なガイ
ドラインとして提示しており,同ガイドラインに示された注意事項を満た
すならば,CVM は非常に重要な情報を提供できるとしている.NOAA ガ
イドラインは,一般項目,価値評価項目,目標とすべき項目に分けられて
おり,一般項目は,サンプルの大きさやアンケートのとり方などの基本的
な注意事項,価値評価項目は,CVM の質問項目に関する注意事項が記さ
れている.また,環境破壊の損害額を評価するとき(図 1 の左図)は,過
大評価よりは過小評価の方が望ましいとの判断基準があり,控えめな評価
5
額を得るためには,WTA よりは WTP の方が望ましいとしている .また,
目標とすべき項目には,今後に取り入れるべき項目が示されている.
NOAA によりガイドラインが発表された 1990 年代以降,日本において
も CVM の研究が進められるようになり,特に 2002 年の政策評価法施行
以降,公共事業の費用便益分析に CVM が用いられる事例が増えつつある.
他方,円借款事業において,CVM を用いて費用便益分析を行った事例
はあるのだろうか.表 2 は,2002 年 2 月から 2008 年 3 月 10 日にかけて
貸付承諾された 325 事業の事前評価における費用便益分析(経済的内部収
益率の計算)において,便益として,「支払意志額(WTP)」という言葉
が明記されている案件の一覧であり,全部で 16 事業ある.
しかしながら,便益項目に支払意志額(WTP)という言葉が明記され
ていることをもって,これら全ての事業が CVM を用いて行われた費用便
益分析であると断言はできない.また,上記 16 事業のうち,9 事業が
2007 年に入ってから貸付承諾された事業であることから,ODA 事業にお
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4 栗山(1998)はバイアスを原因別に 5 つに分類している.すなわち,①回答者が偽り
の解答を行うもの,②回答の手がかりとなる情報によって影響されるもの,③質問者の意図
している内容が回答者に正確に伝わらないときに発生するもの,④アンケートのサンプル採
取時に発生するもの,⑤評価結果を集計する段階で発生するもの,の 5 つである.
5 人は,補償額(WTA)については過大評価,支払額(WTP)については過小評価す
る傾向があるからである.
68
第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
表 2 事業便益として住民の支払意志額(WTP)が明記されている案件
(注)観光税の WTP を便益としている.
(出所)国際協力銀行ウェブサイト情報に基づき筆者作成
ける CVM 手法の導入は,上下水道整備事業の費用便益分析を中心によう
やく緒に就いた段階にあると推測される.しかも,上記 16 事業のうち 7
事業はインドの事業であることから,同国では国内的な義務づけの下で上
下水道事業に対して CVM が用いられている可能性もあり,その場合,信
頼性の高い CVM 調査が行われているかどうかについても詳細が公開され
ていない以上,確認はできない.
いずれにしても,CVM を用いた費用便益分析により,信頼性の高い評
価結果を得るためには,CVM の方法と実施手順についての十分な理解が
必要であり,この点について次節で考察する.
4.CVM における質問設計や統計分析の方法と手順
JBIC 開発金融研究所(JBICI)は,平成 15 年度開発政策・事業支援調
査(SADEP)「持続可能な上下水道セクターに向けた民活の役割:中南米
のケース」の一環として,ペルーのイキトス市を対象に CVM を用いて上
下水道サービスの受益者の支払意思額(WTP)の推計を行った.上下水
道料金支払額の家計支出に占める割合の国際比較やペルーの家計調査に基
づき推計した受益者の「支払可能額」と比較分析することにより,事業持
続性の基盤となる適切な受益者負担額について考察したものである(藤田
○○○○
69
ほか[2004]
)6.
本節では,CVM における適切な質問設計や統計分析の方法や手順につ
いて理解を深めるという目的の下で,JBICI が実施した CVM 調査の具体
的内容を研究報告から抜粋・要約・再整理して掲載した.また,バイアス
の除去等,CVM 調査上の一般的な留意点については,主として脚注に記
述した.
イキトス市における CVM 調査は,(1)評価対象の情報収集,(2)母集
団の確定およびサンプル抽出,(3)シナリオ策定,(4)調査票の作成,
(5)フォーカス・グループ・ミーティングとプリテストの実施,(6)調査
票の修正及び最終設計,(7)本格調査の実施と調査結果の分析,の 7 つの
ステップに従い実施されている.以下で,ステップ毎に,どのような作業
がなされ,どのような結果が得られたのかを概観する.
(ステップ 1)評価対象の情報収集
最初に,イキトス市の上下水道施設の状況を中心に情報収集がなされて
いる.このうち,特に重要と思われる情報として,以下のような事項が記
述されている.
①イキトス市はロレト県の県都であり,人口約 42 万人(2003 年推定).
行政単位は 4 地区に分かれ,産業は観光と小規模農林水産業.アマゾ
ン川(南側)と支流のナナイ川(北東側)とイタヤ川(西側)の 3 河
川に囲まれている.
②現上水道の水源はナナイ川.JBIC の事業内容は,上水道の取水施設,
導水施設,浄水場,送配水施設等の新設及びリハビリで,上水道施設
のないサンファン地区へのサービス提供と,市内全域の 24 時間供給
体制の確立と水圧の向上を目的としている.
③下水の多くは,ナナイ川の既存の上水取水口の下流部に位置するラグ
ーンへ未処理のまま放流されることから,ナナイ川とラグーンの汚染
★下線用12文字分ダミー★
6 JBIC は,2000 年 9 月,ペルー 3 都市(イキトス,クスコ,シクアニ)における「地
方上下水道整備事業(Ⅱ)」に対する融資(7,636 百万円)を承諾しており,JBICI がイキト
ス市を調査対象地としたのは,調査結果の同事業へのフィードバックも念頭に置いていたも
のと思われる.
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第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
が著しく,悪臭や,食用魚に起因する皮膚病の報告がある.また,ア
マゾン川やイタヤ川への放流もある.現在,ロレト県上下水道公社は
下水道整備計画策定中.アマゾン川の浄化能力上問題ないことから下
水処理せず,アマゾン川に放流する計画案もあるが,この案に対する
反対意見も見られる.
7
(ステップ 2)母集団の確定 およびサンプル抽出
①受益者候補リストの作成
上下水道サービスの受益者リストとして,ロレト県上下水道公社の
「ユーザーおよび潜在ユーザー台帳」を使用している.同台帳には,現
在のユーザー及び近い将来ユーザーとなる可能性がある約 5 万 2 千世帯
が登録されており,上下水道へのアクセスの状況,世帯主の氏名および
住所の確認が可能となっている.同台帳に,上下水道未整備のサンファ
ン地区の約 5 千 8 百世帯を加えることにより母集団を構成する受益者候
補リストを作成し,同リストからサンプル抽出を行っている.
②上水道サービス受益者の母集団の確定と類型化
リストに掲載されている世帯すべてのユーザーおよび潜在ユーザーを
母集団とし,上水道サービスの受益者として,グループ 1 :現在給水管
に接続されておらず,水道サービスが全く提供されていないグループと,
グループ 2 :現在水道サービスが提供されているものの,限られた給水
時間および低い水圧によって不完全な水道サービスしか提供されていな
いグループに類型化した.
③下水道サービス受益者の母集団の確定と類型化
市全域を対象としてアマゾン川の汚染を回避するための下水処理場を
含む下水道プロジェクトを実施するという想定の下で,既に下水道が接
続されて満足している世帯を含むリスト上の全ユーザーを母集団とした.
下水道サービスの受益者として,グループ 1 :現在下水道管渠に接続さ
れておらず,下水道サービスが全く提供されていないグループ,グルー
★下線用12文字分ダミー★
7 アンケートの対象となる住民を誤るとバイアスが生じる.評価対象プロジェクトから
効用を感じている人々を全て取り込んだ母集団を設定することにより評価結果の信頼性が向
上する.
○○○○
71
プ 2 :現在下水道管渠に接続されているものの,降雨などにより汚水が
あふれるなど,完全な下水道サービスが提供されていないグループ,グ
ループ 3 :現在下水道管渠に接続されており,汚水を当該世帯から安全
な場所まで運ぶという意味でサービスが提供されているものの,周辺河
川に生下水道を放流しているグループに類型化した.
④サンプルの抽出
上水道・下水道サービスの各グループの合計サンプル抽出数を 1,000
8
に設定 .また,対象地域の層の作成に必要な家計情報が事前に入手で
きなかったことから,「層別抽出法」の代わりに,母集団リストから乱
数を用いて無作為に抽出する「単純無作為抽出法」を採用している.
(ステップ 3)シナリオ策定
調査票のシナリオとして,現在の上下水道サービスの不満足な状態を定
義し,上下水道整備事業の実施によって「満足のいく上下水道サービスが
9
供給された」という仮想的状態を設定している .最終的なシナリオは,
上水道,下水道の受益者各グループ(上水道 2 グループ,下水道 3 グルー
プ)それぞれの現状をベースラインに策定された.
なお,回答者である一般市民に,現在の状態および仮想的状態をわかり
やすく伝達することが重要であるとの認識の下,ペルー国立衛生事業監督
庁(SUNASS)およびロレト県上下水道公社における上下水道サービスに
★下線用12文字分ダミー★
8 確定した母集団の中から十分な量のサンプルをランダムに抽出すれば,評価結果の信
頼性は向上する.NOAA のガイドラインでは,二者択一の質問の場合,サンプル誤差を 3 %
に制限するには,1,000 人のサンプルが必要としている.なお,統計上,サンプル・サイズ
を 1,000 以上としても推定誤差は殆ど減少しない.
9 プロジェクトそのものについて正確で十分な情報を提供することは,回答者の正しい
判断を導き,評価結果の信頼性を向上させる.また,そのプロジェクトによって得られる便
益のどの部分を CVM で評価したいのかが正しく回答者に伝わらないと,バイアスが発生す
る.したがって,評価対象プロジェクトの明確な定義が必要である.
10 仮想市場のシナリオをできるだけ現実感あるものとすることにより,評価結果の信頼
性が向上すると考えられる.栗山(1998)は,①写真等を用いてシナリオのポイントとなる
事項を実感しやすくさせること,②シナリオが,実現可能に思えること,③シナリオが非道
徳的でないこと,④評価対象となっているプロジェクトへの支払いが,他のプロジェクトへ
の支出や個人的な消費の額を減少させることについて言及すること,⑤シナリオをリアルに
するために与える情報の過多により,回答者が支払意思額を決める際の重要な情報の無視や,
重要でない事項へ焦点が向かう危険性に留意すること,等を挙げている.
72
第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
関する一般ユーザー用の広報資料が,シナリオ説明の際に活用された 10.
(ステップ 4)調査票の作成(設問,質問形式,調査方式)
一般市民の回答ストレスを軽減するために,できるだけ理解容易なデザ
インに留意し,また,フォーカス・グループ・ミーティングやプリテスト
の結果に基づき,内容を適宜修正しつつ作成された.本格調査には,以下
11
の 13 の設問 が含まれている.
①上水道供給の現状
②下水道処理の現状
③現状の上水道供給サービスへの評価
④給水時間帯および給水圧力の現状
⑤現状の下水道処理サービスへの評価
⑥上水道消費量および需要量
⑦水因性疾病の現状
⑧上水道供給サービスへの支払意志額
⑨下水道処理サービスへの支払意志額
⑩その他公共料金の支払額
⑪シナリオへの理解度
12
⑫回答者および世帯主の基本的プロファイル
⑬世帯月額所得額および世帯月額貯蓄額 13
このうち,⑧,⑨の支払意志額を尋ねる設問が,CVM 調査票の中で最
も重要な部分となることはいうまでもない.
質問形式は,金額を 2 回提示する「二段階二項選択方式(ダブルバウン
★下線用12文字分ダミー★
11 設問において与える情報によって結果が変わる情報バイアス(information bias)があ
ると言われている.
12 NOAA ガイドラインは,回答額の理由について自由形式の質問によってフォローアッ
プされるべきであり,またこの自由形式で得られた回答は,注意深く分類して分析すべきで
あるとしている.また,CVM では,質問の際,回答者に新しい情報を与えるので,回答者
がその情報をどの程度理解したか,そして受け入れたかを確認すべきであるとしている.こ
のようなフォローアップ情報は,CVM がうまく機能したかどうかを推定するデータの一つ
となり,評価結果の信頼性の向上につながると考えられる.
13 CVM 手法においては,調査対象者の家計所得の把握は必須である.
○○○○
73
ド)」を使用 14 し,調査方式は,十分な調査スタッフが確保できることか
ら直接面接方式を採用している 15.
(ステップ 5)フォーカス・グループ・ミーティングとプリテストの実施
CVM 調査では,本格調査前に,事前調査(フォーカス・グループ・ミ
ーティングおよびプリテスト)を実施することが「必要不可欠」となって
いる.調査設計のさまざまな問題点を事前テストによって確認し排除する
ことを目的とするものである.
①フォーカス・グループ・ミーティング
母集団から無作為に 10 人の世帯主を選択し,1 名が当日欠席したため 9
名による自由ディスカッション形式で,調査目的やシナリオに対する理解
度などをチェックし,調査票の問題点を明確化した.その後各世帯主との
個別面談も実施した.
②プリテストの実施
調査票ドラフトをもとに,母集団から無作為抽出によって受益者 50 世
帯を選出し,プリテストを 2 回実施.合計 100 世帯に対してインタビュー
が行われた.
★下線用12文字分ダミー★
14 質問形式は,どの程度実態に近いか,どの程度回答者の評価作業を簡易にするか,ど
の程度バイアスと無関係であるかの 3 点を勘案して選択される.なお,二段階二項選択方式
では 400 以上のサンプル・サイズがあれば WTP 推定の統計学上の信頼性が担保できるとさ
れている.
15 調査実施方法としては,面談調査(インタビュー),電話調査,郵送調査等が考えら
れる.NOAA は面談を推奨しているが,他の学者等の見解をみると必ずしも面談が明らかに
優れているとは言えないようである.調査者は,各調査手法のメリット,デメリットを勘案
して適切な手法を選択し,各々の留意事項に配慮した調査を実施することが望ましい.面談
調査では,調査者バイアスを回避するために,面接者が,回答者に対して,中立的な立場を
表明することが特に重要であり,NOAA のガイドラインでも明記されている.また,調査者
が,WTP の回答がよく分からないでいる回答者に対して,無理に回答させようとして,プ
レッシャーを与えるようなことがないように注意すべきである.回答者が答える前に,その
テーマについて考える十分な機会を与えることや,回答者に対して報酬を支払うことは,真
剣に考えるインセンティブになり,また無回答を減らす効果があると考えられている.この
ように面談調査では調査スタッフの質が調査結果の質に大きく影響するため,本調査では,
調査スタッフとしてイキトス市の大学生 10 名を雇用して,十分なトレーニングを実施した
としている.
74
第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
(ステップ 6)調査票の修正および最終設計
フォーカス・グループ・ミーティングおよび 2 回のプリテストの結果を
踏まえ,特に,以下の 3 点に留意して,調査票の最終版作成が行われてい
る.
①グループごとの設問設計
上水道 2 グループ,下水道 3 グループそれぞれのシナリオに応じた設問
を設計.いずれも,サービス向上により,新規に支払うべき金額,現在の
支払額に対する追加的支払額を質問している.
②支払意志額のグループ別提示額の適用
プリテストの結果に基づき,上水道および下水道サービスそれぞれのグ
ループ別に,支払意志額に係る設問に適用する第一回および第二回提示金
額を作成.
③バイアスの除去
CVM 調査において最も重要な点はバイアスの除去にあるが,JBIC によ
る円借款事業が実施されるとの情報から「支払意志額を過小表明しようと
16
の誘因が働く」戦略バイアス(strategic bias) と,二段階二項選択方式特
有の「質問者が最初に提示した金額が下方バイアスとして回答に影響する」
開始点バイアス(starting bias)17 が特に懸念されため,プリテストにおい
てこれらのバイアスの有無をチェックするとともに,バイアスを可能な限
り除去するように質問表が修正された.
(ステップ 7)本格調査の実施と調査結果の分析
本格調査は,トレーニングを受けた調査スタッフ 10 名により実施され
た.質問表が回収できなかった場合は,無作為サンプリングを繰り返すこ
★下線用12文字分ダミー★
16 自己の回答が調査結果や政策へ与える影響を考えて,改善に対する支払意思額を過大
に,あるいは過小に回答するバイアスのこと.例えば,回答者は,事業の実現性が高いと考
えれば,支払意思額を控えめに答えるが,財政的に負担しなくていいと言われれば過大に答
えるということ.
17 支払意思額をあらかじめ与えられた数値の中から選択させる方法(クローズエンド形
式)をとるとき,この初期値が回答者に影響を与えることになる.
18 CVM の信頼性を高めるためには,母集団を明確にした上での無作為な標本抽出が最
大の必要条件となる.
○○○○
75
とにより,当初目標の 1,000 サンプルを確保している 18.
調査結果のデータベースを作成し,「CVM 2002」19 を活用して,以下の
手順で分析が実施されている.
①単純集計・クロス集計・基本統計の計算(回答者のプロファイルの把
20
握 )
②支払意志額(平均値・中央値)の推定
③信頼性の検証(統計的テストによる支払意志額の妥当性の検証)21
④支払意志額に影響を与える要因解析(属性との回帰分析)
上記①は,一般的な社会調査で得られる基本統計であり,CVM 調査の
最も重要な目的は,②の上水道および下水道サービスに対するそれぞれの
支払意志額の推定であることはいうまでもない.
本調査では,二段階二項選択方式の設問によって支払意志の受諾
(Yes)・拒否(No)を確認しているが,二段階二項選択方式においては,
2 つの提示額をともに拒否の場合は「支払意志額は低い提示額未満」,と
もに受諾の場合は「支払意志額は高い提示額以上」,一方が受諾で他方が
拒否の場合は「支払意志額は低い提示額以上高い提示額未満」と解釈して
計算される.
各回答の組み合わせは,そのままでは支払意志額の代表値を推定するこ
とはできないので,本調査では,ワイブル分布モデル(パラメトリック法)
★下線用12文字分ダミー★
19 CVM データの分析を目的とした統計ソフトであり,画面の指示にしたがって操作す
ると,支払意思額の推定と母集団への拡大から,スコープテスト等,さまざまな検定を行う
ことができる.
20 回答者のプロファイルは以下のように把握された.
・回答者の平均年齢 41.3 歳,平均世帯人数 5.8 人.
・世帯の平均収入 852.4 ソル/月,このうち約 5.5 %の 46.9 ソルを貯蓄に廻している.
・世帯あたりの上水道使用量 952 リットル/月,上水道料金支払額 20.8 ソル/月(月額収入
の 2.44 %)
.
・平均給水時間 12.7 時間.
・世帯あたりの下水道料金支払額 6.5 ソル/月(月額収入の 0.76 %)
.
・上下水道料金の約 2 倍の月額 49.2 ソルの電気料金を支払っている.
21 CVM においても,他の統計調査と同じように,母集団に関する値について,様々な
検定法を用いてその精度を分析している.このようにして,出された値の「確からしさ」を
説明することが,CVM 結果の適切な理解に役立つ.
76
第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
を用いて,サンプルのデータにみられる回答パターンをもたらす確率を最
大化させるような受諾率曲線(生存曲線)を推定することにより支払意志
額の代表値を求めている 22.受諾率曲線の受諾率は,「1 回目及び 2 回目を
通して,
両方あるいはいずれかにおいて提示額を受諾したサンプルの割合」
を示す指標である.極端に高い支払意志額の影響を受けて,平均値が無限
大になる可能性もあることから,最大提示額以上の支払意志額を計算から
はずした「裾切り平均値」を求めることが重要となる.
こうして推定された 1 世帯あたりの月額支払意志額に受益世帯数を乗じ
ることによって,シナリオによってもたらされる受益対象地域の支払意志
額の総額が推定され,この総額が今回のシナリオによって説明された上下
水道事業という環境改善プロジェクトの価値の総和となる.なお,受益世
帯数は,現在上下水道に接続している世帯だけでなく,このシナリオによ
って将来便益を享受すると予測される世帯の総計である.
この結果,イキトス市における 2003 年の推定支払意志額総額は,
16,241.9 千ソル(4,707.8 千米ドル≒4.94 億円)と推定された.また,世帯
数の伸びを勘案した 2004 年および 2005 年の予測支払意志額の総額は,そ
れぞれ 16,388.7 千ソル(4,750 千米ドル≒4.99 億円)および 16,545.8 千ソ
ル(4,796 千米ドル)≒5.04 億円)と推定された(表 3)
.
また,追加的な支払意志額の推定採用値は,上水道サービスにおいては
現行支払額の 65.1 %,下水道サービスにおいては現行支払額の 144.5 %に
達し,上下水道総額では,83.9 %となった.下水道サービスへの支払意志
の選好が強いことが証明された.
★下線用12文字分ダミー★
22 支払関数の関数形を先験的に知ることはできないため,当てはまりの良い受諾率曲線
を探すことになる.この時,論理的に体系立てて様々な関数形について試算を行い,その中
から適切なルールに従って解を選択するとともに,これら全ての結果や解の選択理由を公表
していくことにより,結果の信頼性を確保する必要がある.
なお,ワイブル回帰による受諾率曲線の推計式は以下のとおり.
S(T)=exp[−exp(lnT−μ)/σ]
T:提示額
μ:位置パラメーター[μ=βXi(Xi は個人 i に関わる説明変数,βは説明変数の係数)で表
される個人の回答パターンによって変わる受諾率曲線の形状を決めるパラメーター]
σ:スケール・パラメーター(受諾率曲線を決定するパラメーター)
○○○○
77
表 3 受益対象地域の支払意思額の推定総額
(出所)藤田ほか(2004)p.23 より転載
最後に,上水道および下水道サービスそれぞれの支払意志額の要因に関
して,提示額を従属変数とし,いくつかの提示額に影響を与えると予想さ
れる以下の変数を独立変数として,ワイブル・モデルを利用して回帰分析
を実施しているが,支払意志額に有意な影響を与えていると判断できる説
明変数は以下のとおりとなっている.
上水道サービスに対する支払意志額は,
①回答者の年齢が若いほど支払意志額が高い.
②月額収入が高いほど支払意志額が高い.
③現在の上水道使用量が少なく,給水時間が短いほど支払意志額が高い.
また,下水道サービスに対する支払意志額は,
①回答者が女性の場合,支払意志額は低い.
②年齢が若いほど支払意志額が高い.
③現在の下水道サービスへの満足度が低いほど支払意志額は高い.
④トイレが家庭内にない世帯ほど支払意志額が高い.
以上が,JBICI がペルーのイキトス市で行った CVM による上下水道サ
ービスへの支払意思額(WTP)推計調査の手順である.JBICI の研究報告
は WTP と他国の家計支出に占める料金支払額の割合等から推定した受益
者の支払可能額を比較分析することにより,事業持続性の基盤となる適切
な受益者負担額について考察することを目的としたものである.しかし,
この WTP を用いて,CVM 調査で仮想した上下水道サービス事業の実
78
第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
施・維持管理にかかる費用とプロジェクトライフを明確にして,費用便益
分析を行えば,事業の実施可能性が検討できることはいうまでもない.
5.CVM 手法の信頼性と円借款事業への有用性
仮想市場評価法(CVM)は,アンケートにより非市場財などの価値を
直接尋ねることが可能であるため,存在価値が重要な部分を占める自然生
態系の保全や地球温暖化対策といった環境問題から高齢者の介護まで,ほ
とんどあらゆる政策や事業の評価を可能とする.
一方,回答者の意識調査によって価値を計測する CVM の最大の問題は,
主観的な個人の回答が,現実に存在しない市場で正しい値を表明するかど
23
うかである .肥田野(1997)によれば,これに対するひとつの考え方は,
人間の意識は変化するし,われわれの遭遇する多くの状況は一回限りのこ
とが多いから,アンケートなどによる意識調査の方法でも正しい値を把握
可能とする社会調査や心理学に依拠する考え方であり,通常の CVM はこ
24
の理論に従っている .この立場からは,質問設計や統計分析においてバ
イアスをより少なくすることが重要な課題となる.
したがって,CVM の信頼性を高めるためには,母集団を明確にした上
での無作為な標本抽出が最大の必要条件となる.また,被調査者への中立
的な立場にたったシナリオの作成も大きな要素となる.そして,結果につ
いて適切な推定法で支払い意思額を推定し,また検定を行うことにより,
調査によって明らかになった部分と,不明確な部分を区分することが必要
である.仮にこのような手順をとっていない CVM 調査があれば,その信
★下線用12文字分ダミー★
23 例えばまったく異なるリスク削減効果に対する WTP を尋ねたとしても,同じような
値が返ってくるスコープ無反応性がある.確率的生命価値の値の幅が大きいことは,この
WTP に関するスコープ無反応性によって説明することができるものと考えられる.
24 もうひとつの考え方として,本来,人間の行動は情報の非対称性や意思決定自体の不
完全さによって正しいとはいえないが,何回もその状況に置かれれば合理的になるという考
え方があり,この考え方の代表は実験経済学のアプローチである.例えば,仮想的ではあっ
ても真剣に回答をするか否かで回答者の報酬差をつけ,繰り返し回答させるという方法を取
ることによって真値に接近できるという立場である.ただし大サンプルでの実験は極めて困
難である.
○○○○
79
頼性は極めて低いということになる.NOAA は,CVM の信頼性の立証責
任は調査者にあるとしており,NOAA のガイドラインが指摘しているさ
まざまな問題を解決していることを,事前調査や他の実験を通して証明す
る必要があるとしている.
他方,中立的な立場に立ったシナリオの作成という観点も含め,第 3 者
の専門家により,CVM 調査自体の検証,及び,統計処理における検証を
行ってもらうことは有用である.また,CVM 調査については,サンプリ
ング方法や使用した質問書,質問方法,回答結果等を極力公開することが
重要であり,また,統計処理においても,試行した全ての関数形とその結
果等を明らかにする必要がある.原データをできるかぎり公開し透明性を
高めるような努力がなされなければ,どんなに精緻な CVM を行っても信
頼のおける評価とはみなされない.さらに,調査結果が一般に受け入れら
れるためには,一般市民に対して結果をわかりやすく説明する責任がある.
説明を行うことによって,CVM を社会的に認知させ,被調査者に真剣に
取り組むことを求めるという社会的規範を作っていくことが必要である
(肥田野[1999]
)
.
最後に,CVM の円借款事業適用への有用性について,以下のとおり考
察する.
(1)上下水道サービス事業を実施する際,料金設定の適切性が問題とな
ることが多く,これまでは事業実施機関の財務分析,つまり供給サイドの
視点を通じて議論がなされる場合が殆どであった.しかし,CVM を用い
た費用便益分析は,JBICI の調査でも明らかなように,その過程を通じて,
需要サイド(受益者)に関するデータを提供する有効な手法となりうるこ
とから,適切な料金水準の問題に対する有意義な示唆を与えることを可能
25
とする という視点からは価値のある手法と考えられる.
(2)円借款事業の融資判断においては,費用便益分析を含むフィージビ
リティースタディー(F/S)と共に環境アセスメント(EIA)の実施が基
本的に求められている.これは環境保全と開発の二項対立的な捉え方を前
提としたものである.しかし,社会調査を基本とする CVM 手法を用いれ
80
第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
ば,例えば,周辺居住者の交通インフラによる時間短縮便益と騒音による
社会的費用の増大を同一の尺度で比較することも可能である.つまり,開
発によって得られる利益と,環境破壊によって失われる損害とを直接比較
し,環境保全と開発のありかたを客観的に検討することが可能となる.
(3)社会調査を基本とする CVM 手法は,住民のニーズが直接的に意思
決定に反映される.CVM は,開発計画の中で無視されがちな一般市民の
生の声を聞くことができることから,住民参加を実現させるための道具と
して使えるのではないかという見方もある.また,費用便益分析は効率性
基準に基づく評価手法であるものの,CVM 手法においては,調査対象者
の家計所得の把握が必須であることから,公平性やリスクにまで踏み込ん
だ評価が可能である.
(4)CVM は,社会調査を必要とし,使用される情報やその処理法にか
なり専門性が要求されるため,調査分析を行うためのコストも大きくなる.
NOAA は調査実施方法として,面談調査(インタビュー)を推奨してい
るが,先進国ではコストがかさむことから郵送調査の方が好まれている.
しかし,途上国においては先進国よりも人件費が安いため,JBICI の調査
のように,大学生をトレーニングして面談調査を行うことが相対的に安価
にできるというメリットもある.また,円借款事業の事後評価では受益者
分析が義務付けられている.事前評価時の CVM によって得られた情報は,
受益者分析を実施する上での重要な参考資料となりうる.
★下線用12文字分ダミー★
25 JBICI の CVM 調査の質問票においては,現在の水使用量に関する設問に加えて,「満
足のいく」上下水道サービスに対する支払意志額,および,それらの「満足のいく」上下水
道サービスを受けた場合の上水道使用量(現在の上水道使用量の倍数という形式で質問)の
設問を設けている.このため,各回答者の上水道の需要量(汚水排出量)およびそれに対す
るサービス受け入れ価格(支払意志額)を数値化することが可能である.すなわち,x 軸に
上水道需要量 wv(下水道排出量 sv),および y 軸に上水道供給サービスに対する支払意志額
wp(下水道処理サービスに対する支払意志額 sp)をとることによって,1,000 サンプルの組
み合わせ(wvn, wpn)および(svn, spn)をプロットすることにより,上下水道サービスの
それぞれの需要曲線を導出することが可能となる.さらに,上下水道サービス施設の供給曲
線を描くことによって,価格理論から導き出されるサービスの適正理論価格を推定すること
ができる.
○○○○
81
6.おわりに
NOAA のパネルでは,CVM について肯定的な見解を示すとともに,
CVM と他の手法による評価結果の整合性等から,正しく CVM を使用す
れば,CVM について妥当性や信頼性が確保されると主張する学者は多い.
他方で,CVM によるバイアスの発生機構は複雑多岐にわたっており,バ
イアスの除去方法等,信頼性を確保するための研究が盛んに行われてきて
いるものの,多くの留意事項を満足させ,正しい方法で CVM 調査を行う
ためのノウハウが既に確立されているとは必ずしもいえないとの主張もあ
る(建設省建設政策研究センター[1998]
)
.
他方,日本の円借款と同様に環境社会インフラ事業の多いアジア開発銀
行(ADB)では,1996 年の「環境インパクトの経済手法(Economic
Evaluation of Environmental Impact)」や,1999 年の「上水道プロジェク
ト経済分析ハンドブック(Handbook for the Economic Analysis of Water
Supply Projects)」,その後の複数の技術レポートにおいて,CVM 手法の
紹介を行っており,環境関連事業を中心に CVM の実施実績が見られる.
ADB の経済分析の中心である経済分析・業務サポート課(Economic
Analysis and Operations Support Division)では,経済分析外の事象ととら
える向きが多い,貧困削減,環境保全,社会開発など全て経済分析の対象
として的確にとらえられるべきであるとしており,実際に実務上の経済分
析もしかるべき質的向上と量的な拡大を遂げてきている(国際協力銀行
[2002]
)
.
CVM 手法は,社会調査を必要とすることから,他の費用便益手法と比
較してコストがかさむ.このため,円借款事業のように大規模な費用を投
入し,社会的な影響が大きいと考えられる事業でなければ,CVM による
費用便益分析を行うことは必ずしも適切ではない.しかし,この事実を別
の視点から眺めれば,上下水道整備事業を含む多くの円借款による環境関
連事業の定量的評価がなされていないことは問題視すべきであり,評価結
果の取り扱いについて十分な注意を要するものの,前節の(1)から(4)
の円借款事業への適用の有用性の考察も踏まえれば,上下水道整備事業の
82
第 3 章 環境事業評価のための費用便益分析―円借款事業への CVM 適用の有用性―
ような社会資本整備の便益評価手法として CVM はむしろ積極的に活用さ
れていくべきものであると考えられる 26.
引用・参考文献
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26 円借款事業では先方政府から提出された F/S 報告書に基づいてアプレイザルが実施さ
れることから,JBIC が行う費用便益分析は,F/S 報告書の費用便益分析のレビューが中心と
なる.したがって,CVM 手法は国際協力機構(JICA)等の実施する F/S で積極的に採り入
れられていく必要がある.また,JBIC は F/S の内容が不十分であると判断した場合,案件
形成調査(SAPROF)を実施して事業実施の成熟度を高めているが,その際に,CVM 調査を
行うことが可能である.
○○○○
83
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