ボーダーライン

)
ボーダーライン
1(
九( 四 枚
﹁しっかり焼いてくれませんか?﹂
)
ボクの言葉に江里子さんは、他の客には分
からない程度、鼻をしかめて頷いた。
間近に見る彼女の姿に、ボクの神経は、蜜
を吸うハチドリの羽のように震え、額と脇か
らは、暑くもないのに汗が滲み出る。
ビジネス街のランチタイム。
このハンバーガーショップを利用する人は
多いが、パテの焼き加減まで注文するのはボ
クだけかもしれない。
一 分 半 待 っ て 出 て き た﹃ ビ ッ グ マ ッ ク ﹄と 、
コークのラージカップを掴み、ボクは江里子
さんを盗み見できる椅子に座った。
システム・エンジニアの派遣会社から、大
手スーパーの売上管理を処理する仕事へ回さ
れて一年。最初の日、このバーガーショップ
で彼女を見てから、ランチはずっとここでと
っている。でも、ボクの勤務体系はかなり複
雑で、夜勤と日勤が不規則な組み合わせにな
っており、毎日会えるというわけではない。
花村江里子さんの、ひと月のスケジュール
は忙しい。
仕事の合間には、参加するのが恒例になっ
ているらしいニューヨーク・シティーマラソ
1
ンへ備えてか、ジョギングやスポーツジムで
の エ ク サ サ イ ズ を 欠 か さ ない 。 英 会 話 教 室 へ
も 通 っ て い る が 、こ れ は 講 師 の ア ル バ イ ト だ 。
年齢はボクより一つ上の二九歳。銀行マン
と結婚したが、一年前に離婚している。
ボクは、頼んだのにマニュアル通りにしか
焼いていないハンバーガーにかぶりつき、江
里子さんを見た。容姿から言えば、スッチー
や、秘書、外資系のキャリアでも通用する。
もっとも、世界最大のハンバーガーチェーン
の店長なら、キャリアと言っても間違いには
ならないだろう。
三角形の鼻腔は外人のようだし、少し大き
めの口から飛び出る巻き舌のお喋りは、英 会
話向きに見える。ランニングとジムで鍛えた
ナイスボディは、ベッドの上の三連チャンに
も耐えられそうだ。
店長の江里子さんがカウンターの奥へ引っ
込み、交替の女の子が現われたので、ボクも
食べかけのバーガーを掴み外へ出た。ビルの
谷間を吹き抜ける三月の埃っぽい風がネクタ
イを跳ねあげ、口元の肉汁をこする。
大阪市営地下鉄、本町駅の傍にある事務所
まで戻ってきたら、隣の三和銀行の陰から、
会いたくない顔がこちらを見ているのに気が
ついた。足元の煙草の吸殻から、相手はもっ
と前からボクを待っていたようだ。待ち切れ
なさそうに声を掛 けてきた。
﹁森尾、野生の豚がタロイモをたいらげた時
のように、楽しそうだな?﹂
2
﹁分かりますか?
です﹂
ちょっとそこ
ランチを済ませたところ
なるべくそっけなく応えた。
﹁まだ時間はあるのだろう?
の公園で話をしようや﹂
断 わ っ て も よ か っ た が 、執 行 猶 予 中 の 身 で 、
刑事から声を掛けられたら、無視するわけに
もいかない。鳩にパンくずをやっているOL
の近くを避け、ボクたちはベンチに座った。
﹁今日は一人ですか?﹂
﹁チンケな事件に、二人もかかっとったら税
金の無駄遣いや、俺だけで充分。ところで昨
夜は何をしとった?﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってくださいよ。それっ
て職務質問ですか?﹂
﹁どうとってくれても構わん。答えは?﹂
再び額に汗が滲み出そうになり、ボクは努
めて冷静になろうとした。二日前の早朝、江
里子さんのマンションからゴミ袋を密かに持
ち帰り、いろんな成果があったことを悟られ
てはいけない。
﹁夜勤でした。今から事務所へ寄って帰宅す
るところです﹂
﹁ふん、調べてみる﹂
﹁警察手帖を振りかざし、事務所へ行かない
で下さいよ﹂
﹁ そ ん な こ と は せ ん 。電 話 一 本 で 済 む こ と だ ﹂
﹁では、なぜそうしないのです?﹂
﹁ し た さ 、お 前 に 直 接 聞 い て み た か っ た だ け ﹂
着古したツイードの上着から、ラーメンの
3
匂いが漂ってくる。この五十過ぎのヤクザみ
たいな迫田刑事を好きになれと言うのは、生
きたスズメバチを、尻からかじれと言うのと
同じことだろう。
色白のボクのほうが体重も勝っているけど、
刑事の浅黒く贅肉のない身体は取っ組み合い
に適していそうで、とてもじゃないがそうい
う状況にはなりたくない。
﹁どんな事件です?﹂
﹁民間人に喋る必要はないが、お前だから聴
かせてやろう。女子大生が昨夜、車で連れ去
られ、まだ帰宅しとらん﹂
﹁イヤラシイ目的で、拉致されたのですか
ね? ﹂
ボ ク は 別 の 想 像 を し て 、脇 の 下 を 湿 ら し た 。
﹁ 利 い た 風 な 口 を き い て 。お 前 な ら す る か ? ﹂
﹁とんでもない。どうしてそんな発想が浮か
ぶのです?﹂
﹁ボーダーラインのお前は、どっちにでも転
ぶ。なんか知っとるのじゃないかなと思って
な﹂
刑事の眼は、零下二十度のツララのように
硬く鋭く、ボクの目の奥を探った。江里子さ
んのデータベースが完成間近なのに、ここで
あらぬ疑いをかけられると、また一から出直
さなくてはならない。それにこの刑事は、ボ
ーダーラインの意味をわざと違えて使う。
以前、ボクが捕まったとき精神鑑定も行 わ
れ 、ス ト ー カ ー は 境 界 性 人 格 障 害 ボ( ー ダ ー ラ
イ ン ・ デ ィ ス オ ー ダ ー 、) つ ま り 神 経 症 で も 分
4
裂症でもない精神病理の者がなりやすいと、
医者が言ったのを覚えている。
﹁森尾、お前は人間かそれ以下の境界で蠢い
てる奴だから訊いている。これからも眼を離
さないからな﹂
狼の腹から生まれた狐のように、攻撃的で
狡 賢 い 迫 田 刑 事 は 、両 切 り の ピ ー ス を く わ え 、
火を付けると立ち上がった。なんとか放免さ
れそうだ。ボクには寝る前に済ます仕事があ
ったから、これ以上引き止められるのはご免
こうむる。
﹁何か知らせるようなことがあったら、一番
に 刑 事さ ん へ 連 絡 す る と 約 束 し ま す よ ﹂
﹁当たり前や。お前も﹃ストーカー規制法﹄
が施行されたのは知っとるやろ。女に付きま
とったり、待ち伏せたりしたら、三度目の正
直や。今度こそ即懲役やからな﹂
下を向いたボクの足の甲を、刑事は思い切
り踏みつけ、勝ち誇ったように頷くと地下鉄
の方へ歩き出した。要領を心得た刑事の暴力
は、傷は残らないのに、目から星が飛び散る
ほど痛い。
ボクだって、ストーカー行為が良いとは思
ってはいない。もしこれが﹃心の病﹄である
ならば、即効性のある薬が欲しい。暑くもな
いのに好みの女性に近付くと、身体の そこか
しこに汗をかくのは堪らない。もっとも迫田
刑事に脅された時かく汗は、別のものなのだ
が。
なぜそういう変質行為に走るのか、自己分
5
析してみたこともある。しかしそうしたとこ
ろで、オス犬が路上で、メス犬の跡を嗅ぐの
を止められないのと同じで、どうしようもな
い。しかし犬はそれが正常だと言われれば、
返す言葉が見当らないのも確かだが。
気に入った女性の下着や使用物に強い愛着
を抱き、性的興奮を覚えるのをフェティシズ
ムと言うのなら、ボクにもそういうところが
あるのは否定しない。医者はボーダーライン
と い う ﹃ 心 の 病 ﹄ が 、 幼 児 期 の母 親 の 愛 情 不
足 が 原 因 だ と も 言 っ た 。し か し 本 当 の と こ ろ 、
なぜそうなるのか自分でも理由は分からない。
江里子さんはそろそろ周期だと思っていた
ら、おととい持ち帰ったゴミ袋からタンポン
の包み紙が見つかった。一応、生理は順調そ
うなので安心する。
パソコンの前のボクは、同じゴミ袋から見
つかったコンビニのレシートを見ながら、順
番に打ち込んでいく。
キノコの入ったスープ・スパゲッティ、食
パン、週刊誌、ウーロン茶::。コンビニは
POSシステムだから、買った人の嗜好や時
間、生活習慣まで判ってしまう。
だいたい、袋の結び目を 変えたぐらいで、
ゴミの排出者をごまかそうとしても無駄なこ
とを知って欲しい。
ベテランになれば、鋭利な針金を数箇所突
き 刺 す だ け で 、中 身 に お お よ そ 見 当 を 付 け る 。
シュレッダーにかけていない紙くずから、口
6
座振替や自動振込みの通知書を見つけたなら、
保険年金の整理番号や基礎年金番号を知り、
ほくそ笑むだろう。分別収集と透明な袋が、
居住者を割り出すのに役立っているのは間違
いない。
ボクは江里子さんの電話番号など、NTT
の請求書を郵便受けから失敬していたので、
とっくに知っていたし、宅配便の伝票から、
静岡にある実家の住所、電話 番号まで確認し
ていた。
彼女には親しい男友達が、三人もいる。
デートの時、車を持たない江里子さんを、
男は迎えに来る。トヨタのクラウンで現われ
るのは、三十なかばの営業マン、三澤郁夫。
住宅メーカーの課長で、彼女の勤めるハンバ
ーガーショップで見たことがあった。
もう一人はかなり若く、ビルの清掃会社で
バイトしながら、演劇の修業を続けている望
月司郎。乗っている車はポンコツの軽自動車
だが、それでも江里子さんは嬉しそうに助手
席に乗り込んでいく。
悔しいボクは運輸省陸運支局へ行き、二人
の 車 の ナ ン バ ー を 書 き 込 み 、 登録 事 項 証 明 書
を発行してもらった。住所と名前が判れば、
あとは﹃ゼンリン住宅地図﹄を、NTTが始
めたFAX地図案内サービスで引き出し、簡
単に所在地を割り出せる。
三人目は英会話講師の同僚で、アメリカ人
のケン・ウオーカー。江里子さんはネイティ
ブな英語にいつも接していたいのか、この頃
7
頻繁にデートする。ボクは思い余って、彼女
の留守電に、外人とは付き合わないように、
伝言を入れておいた。
江里子さんがバツイチだと知ったのは、ひ
ょんなことからだ。ボクはスーパーの売上管
理をしているから、カードで買い物した人の
検索もできる 。大塚江里子が結婚した時の姓
だと分かるのに時間はかからなかった。
前のご主人の大塚正人氏は、地銀の係長だ
ったのに、倒産に伴う合併のさなか、リスト
ラにあい、離婚と同時に行方が分からなくな
っている。
ボクはパソコンの画面をスクロールしなが
ら、舐めるように文字を追った。江里子さん
のデータは、揃ったようで、どこか抜けてい
る。
落ちている情報に気が付いた。女友達の欄
が空白になっている。共学の四年制大学を出
ているのだから、皆無ということはない。そ
れに、江里子さんが住んでいるマンションの
間 取 り も ハ ッ キ リ さ せ た い 。 一度 部 屋 に 忍 び
込 め ば 、彼 女 の 全 て が わ か り そ う な 気 が す る 。
ボクはウイスキーの水割りを作り、パソコ
ンの画面に、デジタルカメラで盗み撮りした
江里子さんの姿を映した。制服姿でにっこり
笑い、チーズ バ
・ ー ガ ー を 差 し 出 し て い る 。タ
イトなシャツが、豊満なバストを強調し、数
枚撮った中では、これがいちばん官能的だ。
すでにボクの額と脇の下には汗が浮き出て、
身体中のエビネフリンが沸き立ち、ストーカ
8
ー行為の最中と同じ興奮状態になった。
水割りを飲みながら、マスターベーション
で欲望を果たし、スッキリした体でバスルー
ムの扉を開け た。
熟睡したので早朝五時に、ファンヒーター
のタイマーがスイッチを入れる音で目が覚め
た。コーヒーを煎れ、ピッキングの練習のた
めにテーブルの前へ座った。
江里子さんの住む賃貸マンションは、淀川
支流近くの、紡績工場を再開発した都島区に
ある。
扉 に は 、建 築 当 時 で は 新 式 の 、鍵 穴 が ﹃ く ﹄
の字のピンタンブラー錠が付いている。ボク
は既に同じ型の錠前をホームセンターで手に
入れていたから、通販で買ったピッキング・
ツ ー ル を テ ー ブ ル に 広 げ た 。コ ー ヒ ー を 啜 り 、
両手の関節を鳴らす。
ま ず 手 に 取 っ た の は ウ エ ハ ー・テ ン シ ョ ン 。
厚み 0 5
・ ミリほどの四角い金属製レンチで、
長さ十センチの先端はL型に曲げてある。
鍵穴に挿し込み、シリンダーを開く方向へ
回転させるような感じで、軽く力を掛けてや
る。この作業で、シリンダーと外殻部にわず
かなズレを発生させてやるのだ。
次にテーブル上の十本ほどのピックから、
折りたたみ式の耳掻きより細い金属棒を鍵穴
の一番奥に入れた。シリンダー内の、ボトム
ピンの位置を確認しながら、ゆっくり押し上
げる。順次手前までピンの押し上げが完了し
たところで、静かにシリンダーを回せば金属
9
音とともに開錠する。
ところが近ごろは、ピッキング警報機が出
回り、ピンを挿し込みガチャガチャさせてい
ると、大きなアラーム音が鳴り出す仕掛けが
あるから、用心しなくてはならない。
ボクは、この手順を会得するのにひと月か
か り 、一 連 の 作 業 を 六 十 秒 以 内 で 済 ま す の に 、
三カ月を要した。しかし電動のピックガンを
使うようになってから十秒に短縮できた。そ
れでもピックを手に持ち、基本操作の練習を
怠ったことはない。
壁のハンガーに掛けてある宅配便の制服を
眺めた。胸の所に顔を掏り替えた本物そっく
りの名札が留めてある。ポケットには、ドア
ス コ ー プ を 利 用 し て 作 っ た 、 オ リ ジナ ル の 逆
見スコープが入っていた。これを使えば、外
から部屋の中が鮮明に見える。
空のミカン箱に、ピッキングの道具やデジ
タルカメラを収め、包装紙を掛けて宅配便の
伝票を貼った。静岡の実家から、ミカンが届
いたように見せかける。あくまで本物と同じ
でなければならない。昼前には、江里子さん
のマンションに忍び込んでいると思うと、期
待感とうしろめたさが交差し、テレクラで知
り合った若い女と、ホテルの門をくぐったの
を思い出す。
あの時はあとが拙かった。その若い女が忘
れ ら れ ず 、何 度 も 後 を 付 け て 自 宅 を 突 き 止 め 、
忍び込んだところを捕まった。初犯だったか
ら罰金刑で済んだが、
﹃ 心 の 病 ﹄が 顕 著 に な り
10
始めた頃でもあった。
朝 食 に 、電 子 レ ン ジ で 温 め た カ レ ー パ ン を 、
パック入りの牛乳で流し込んでいたら、電話
が鳴った。受話器の奥から、かすれた声が流
れてくる。
﹁公彦、元気なの?﹂
守口市に住んでいる姉に違いない。
﹁ああ、人並みに元気だよ。姉ちゃん、声が
おかしいな?﹂
﹁治りかけた風邪が、なかなか抜けなくて、
今日も休んだのよ﹂
歳の離れた姉は、十トンダンプの運転手を
し て い る 。結 婚 し た 旦 那 も 乗 っ て い た の だ が 、
事 故 で 亡 く な り 、 保 険 金 で 新 し い ダ ン プを 購
入し、採石場から砂利を運ぶ仕事を引き継い
だ。
母親が早くから居なかった我が家では、ボ
クが学校を出るまで、姉が母親代わりになっ
てくれた。いま乗っている中古車のカローラ
も、姉のお下がりだ。
﹁電話なんか掛けて来ずに、ゆっくり寝てい
たらいいのに﹂
﹁寝ていると、あんたの事を思い出して。ど
うしているのかと::。仕事は上手くいって
いるの?﹂
ボクは家の事情もあり、大学へ進学せず、
コンピューターの専門学校に入った。就職は
できたのに、長続きせず、今の会社で五つ目
になる。そんな事を姉が心配するのは、過去
に 起 こ し た 二 つの 事 件 の 後 遺 症 も 残 っ て い る
11
のだろう。
﹁今度は長続きすると思う。勤務時間は不規
則だけど、時給がいいから、辞めるのはもっ
たいない﹂
﹁もう﹃名簿屋﹄の時みたいなヘンな癖、出
てないでしょうね?﹂
確かに名簿屋に勤めていたころは、その道
が好きそうな情報に埋もれていた。そこでは
殆どの名簿がデータベース化され、項目ごと
に分類されている。
大学同窓会や趣味、旅行、スポーツは当た
り 前 と し て 、変 わ っ た と こ ろ で は 、
﹃精力剤購
入者﹄
﹃愛人バンク﹄
﹃テレクラ利用者﹄
﹃一人
で カ ラ オ ケ に 歌 い に 行 く 者 ﹄﹃ 年 三 回 以 上 海 外
旅 行 経 験 者 ﹄﹃ ハ ゲ か け て い る 者 ﹄﹃ あ と 半 年
で 死 亡 見 込 み 者 名 簿 ﹄﹃ コ ン ド ー ム を 通 信 販 売
で買った独身女性﹄等々。
そ の 中 で も ボ ク が 興 味 を 持 っ た の は 、﹃ 顔 写
真 付 き 恋 人 募 集 中 女 性 ﹄﹃ 独 り 暮 ら し の O L リ
スト﹄だった。おそらく結婚相談所や、独身
女性のアンケート調査から、情報漏れがある
のだろうが、その二つの中から浮かび上がっ
た、美人で二十三歳の迫田道子に狙いをつけ
た。
しかしボクは検索のプロでも、女性へのア
プローチはいつまで経っても素人だった。目
的の女性のあとを付け、アパートを見つけ出
すと隙を見て忍び込むまでは良かったが、ベ
ラン ダから下着を盗んで歩いているところを、
あえなく御用。
12
会社はクビになり、二度目だったので実刑
を覚悟したが執行猶予で収まった。しかし警
察のブラックリストに載っているのは間違い
ない。特に父親の迫田刑事からは、一生つけ
狙うと脅された。どちらの一生かは聴き忘れ
たが::。
ボクは話題を変えたくてきいた。
﹁オヤジには会っている?﹂
﹁年末に面会に行ったけど、痩せてがりがり
だった。やっぱり刑務所の生活は、歳をとる
と体に堪えるのよ。公彦だって、今度何かあ
ると、監獄だからね、注意しないと﹂
﹁あと何年かかるの?﹂
﹁ 三 年。 う ち の 家 族 は 、 い つ も 誰 か 欠 け て い
るのよね::﹂
オヤジの最後の仕事は十数年前。ボクが小
学五年生の時だった。それまで旅役者だと思
っていたオヤジは、温泉町でポルノショーを
実演する一座の座長になっていた。
興行は儲かったらしいが、好色なオヤジは
座員の女にも手を出し、トラブルもあったの
だろう。そのうち興行師で土地の顔役の女に
惚れ、刃傷沙汰になり、二人殺して刑務所に
入ってしまった。
ボクと姉は、その頃、遠縁に預けられ、母
親の顔を見た覚えはなかった。多分、姉とは
腹違いだと思うが、物心ついてから母親代わ
り を し て くれ た 姉 に 、 あ か ら さ ま に 聴 く の は
怖く、そのままにしている。
﹁姉ちゃん、風邪気味ならビタミンCを摂ら
13
なくちゃ。ミカンを一ケース持って行くよ﹂
ボクは目の前の箱を睨みながら、本気でそ
)
うしようと思って言った。
2(
江里子さんのマンションは、地下鉄谷町線
の都島駅から歩いて五分の所にある。大通り
から一筋入っているが交通量も多く、ボクは
近くのファミリーレストランに車を停めた。
後ろの座席に、途中で姉のために買ったミ
カンを、一ケース積んでいた。ボクは車を降
り、ガラス窓に映った配達人の格好に満足 し
たので、助手席の箱を持ち出した。
通りを渡ると急ぎ足になり、いかにも配達
中だというような仕草で、マンションの玄関
にたどり着いた。五階建、総タイル張り建物
は、足元に貼った真鍮のプレートから、築十
六年だと判る。北側に、通路と出入り口があ
るから、全二十五戸が南向きになっていた。
江里子さんの部屋は最上階の端にあり、日
当たりも良く、これで十万ちょっとの家賃な
ら、ボクの住むワンルームは高すぎる。
誰でも入れる玄関から、エレベーターで五
階へ上がった。念のため軍手をする。扉が開
き、外の様子を見ながら通路へ出た。この階
の江里子さん以外の住人は、手前が共稼ぎの
若夫婦で、続く三戸は、薬品会社の借り上げ
社宅になっている。住んでいるのは独身男性
だが、プロパーらしく出張が多い。
14
ボクは江里子さんの玄関の前に座り、素早
く箱を開けた。エレベーターの方を睨み、テ
ンションを鍵穴に挿し込む。軽く回しながら
負荷を掛け、左手のピックガンの先端を慎重
に鍵穴に挿入、引き金を引いた。
ア ラ ー ム 音 は 鳴 ら ず 、跳 ね 上 が っ た 先 端 が 、
一度にピンを叩き、簡単に開錠する。扉を開
け中に入り、首だけ外へ出し通路に人気が無
いのを確認して扉を閉めた。
ま ず 部 屋 の 匂 い を 、 腹い っ ぱ い 吸 っ た 。 石
油ファンヒーターを切った後の臭いに混じり、
トーストの焦げた薫りが微かに漂ってくる。
出勤して二時間。江里子さんのタイムスケジ
ュールは完全に把握している。
ボクは滞在時間を一時間以内と決めていた。
ファミレスの駐車場に停めた車も気になるし、
誰かこの部屋に訪ねて来ないとも限らない。
玄関に脱ぎ捨ててある、紐無しの真新しい
スニーカーは無視し、傍の靴箱を開け、履き
古したパンプスの中を嗅いだ。江里子さんの
体臭を感じ、全身が熱くなる。興奮して額や
脇の下、背中にも汗をかいている。
手前のウォークスルーになっ ているクロー
ゼットへ入った。冬物のコートに混じり、春
先に着るブルゾンも吊ってある。それには見
向きもせず、冬中着ていた、黒のタートルネ
ックのセーターに顔を埋めて鼻をクンクンさ
せ、脇の辺りを舐めてみた。
整理ダンスを開け、水玉模様のショーツを
一枚だけ戴く。どうせこれからちょくちょく
15
お邪魔することになるのだから、初日は悟ら
れたくない。
デジカメで部屋を写し、ダイニング・キッ
チンへ移った。シンクの下に置いてあるゴミ
缶の蓋を開けた。食べかけのトーストが捨て
てある。拾い上げ、ひと口かじった。満足感
で体が震えるが、残りを 元に戻しておく。冷
蔵 庫 を 覗 い た 。缶 ビ ー ル や パ ッ ク 入 り の 牛 乳 、
オレンジ・ジュースに混じって、レタスやハ
ム、ヨーグルトも目に付く。デザートに欲し
いけど我慢した。ここも写真に収める。
隣の書斎兼ベッドルームへ入り、パソコン
の傍の書棚に近寄ってみた。文庫本の他に、
村上龍の﹃ニューヨーク・シティ・マラソン﹄
や、運動生理学、フィットネスの参考書が並
んでいる。
パソコンのスイッチを入れ、立ち上がるま
での時間を見込み、ベッドの中へそっともぐ
りこんでみた。うつ伏せになり、枕の匂いを
嗅ぐ。ヘアリンスと化粧水の匂いが脳天を揺
さぶ り、下腹部が勃起してくる。堪らずパン
ツに手を入れ、もそもそしながら、そのまま
射 精 し た 。し ば ら く 興 奮 が 収 ま る の を 待 っ て 、
ベッドを抜け出る。
パソコンのマウスをクリックし、Eメール
を 引 っ 張 り 出 す と 、﹃ 受 信 ト レ イ ﹄﹃ 送 信 済 み
アイテム﹄に残っている文章を、全部ボクの
パソコンへ転送しておく。その後くまなく部
屋の写真を撮り、最後にバスルームの前にき
た。
16
期待して洗濯機の中を見るが、空になって
いる。洗面台から、柄がピンクの歯ブラシを
抜き、口に入れる。しゃぶったまま、バスル
ームのドアを開けた。
ボ ク は 目 の 前 の 光 景 に 愕 然 と し、 歯 ブ ラ シ
を吐き出した。下半身に何も着けず、男物の
トレーナー姿だけの江里子さんが、浴槽の中
へ上半身を沈め、仰向けになって湯の中から
空を睨んでいた。格好の良い両脚は不自然に
左右へ広がり、その奥の黒い茂みが、存在感
だけをアピールしている。
一瞬、空白になった脳天が衝撃で弾け、
﹃心
の病﹄を嘲笑うかのように爪先まで稲妻が走
った。
殺人だ!
江里子さんは風呂で溺れたのではなく、殺
されたのは間違いない。
誰がやった?
ここにいるのを見られたら、百二十パーセ
ント、犯人扱いされる。
ボクは誰かにハメられたのか?
絞首 台の傍で、赤鬼のように笑う迫田刑事
の姿が浮かび、熱い火山灰を喰ったように、
口の中が干上がり、喉の奥がヒリヒリ痛い。
先ほどまで浮き出ていた汗は一斉に退き、残
った塩が凍りついたように冷たい。
震える手で床の歯ブラシを拾い、後ずさり
で玄関に戻ると、持ってきた箱に道具を大急
ぎで仕舞い外へ飛び出た。エレベーターを待
てず、階段を駆け下りる。膝が普通の動きを
17
しないから、何度もこけそうになった。
ファミレスの駐車場まで戻ってきたが、先
ほどの光景が忘れられず、動悸が激しい。手
に持った箱を助手席に置き、気を落ち着ける
た め 、 レ スト ラ ン へ 入 っ て い っ た 。
昼時で混んでいたが、一つだけ空いていた
スタンド席に座り、カウンターに置かれた水
をひと息で飲んだ。
頭 の 中 で 江 里 子 さ ん を 殺 し た の は 、﹁ 誰 が ?
どうして?﹂と疑問の投げ合いをするばかり
で、注文した日替わりランチの味なぞ分から
ないまま、数杯の水で流し込み、気が付いた
ら姉の家近くまで来ていた。
姉の家は、守口市の京阪電車と地下鉄谷町
線の間に建つ、数棟の建売住宅の中にある。
そこまでの道順は覚えているのに、慌てて
いたのか、何度も狭い路地に入り込み、家の
前まで車で行き着けない。しかたなくボクは
路上 駐車して、宅配便の制服を脱ぐと両手で
ミカン箱を持ち、玄関へ向かった。
やっとたどり着いた建売住宅群は、幅六メ
ートルの私道を挟んで、向かい合わせに十棟
ずつ並んでいる。姉の家は手前から二軒目。
﹃高岡﹄の表札が掛かった門柱のインターフ
ォンを押し、返事も聞かずに玄関の扉を開け
た。
沓脱ぎに、泥で汚れたスニーカーが数足、
乱雑に置かれている。
﹁姉ちゃん、ミカン、持ってきたから﹂
奥からテレビドラマらしいセリフが流れて
18
上がってよ﹂
く る 。ス イ ッ チ が 切 ら れ 、姉 の 声 に 替 わ っ た 。
﹁公彦?
ほ ん と は す ぐ 出 て 行 き た か っ た 。顔 を 合 わ
すと、平静でいられる自信がない。ボクは靴
を脱ぎ、狭い六畳間を通り抜け、ダイニング
キッチンへ入った。
﹁風邪気味だと聞いて、果物がいいかと::﹂
﹁ありがとう。今やっと食欲が出てきて、昼
ご飯食べてるの。あんたは?﹂
﹁いや、もう済ませた。子供たちは元気?﹂
﹁二人とも元気よ。たまに仕事を休むと、気
を使ってくれるの﹂
姉は目を細め、ボクのためにお茶を入れ、
自分の茶漬けにも注ぎ足した。子供達は中学
と小学生だから、これからが大変なのに、愛
情深い肝っ玉母さんの風情がある。
﹁姉ちゃん、頼みがあるのだけど:: ﹂
﹁そうだと思った。風邪ぐらいでわざわざ訪
ねてくるところを見たら﹂
そう言いながら、塩昆布をたっぷり茶漬け
に放り込んでいる。
﹁もし、もしもだよ、警察が、ボクのことを
訊きに来たら、朝からここに居たことにして
くれない?﹂
姉が箸の動きを止め、ボクの顔をじっと見
た。
﹁公彦、あんた又、ヘンな事をしたのね?﹂
﹁いや、そうじゃないって。姉ちゃんには、
まさか盗んだ女の服着
絶対迷惑かけないから﹂
﹁何をしたのよ?
19
て::﹂
姉は日焼けした顔に皺を寄せ、大きくした
眼で疑わしそうにこちらを見ている。
﹁違うよ、だ から、何もしてないって。もし
来 た 時 の こ と を 言 っ て る の だ か ら 。忙 し い し 、
もう帰るよ﹂
ボクは立ち上がり玄関へ向かった。靴を履
いていると、姉の声が背後から追いかけてき
た。
﹁公彦、あんたは朝から、ここに居た。子供
が学校へ行った後、見舞いに来て、昼過ぎま
で ず っ と 居 た 。: : こ れ で い い ね ﹂
﹁ありがとう。風邪、早く治してよ﹂
ボクは扉を閉め、誰か見ていてくれるのを
願いながら、あたりをきょろきょろ見回し、
車へ向かった。
﹁公彦、ミカンありがとうね﹂
)
小窓を開け、叫ぶ姉の声が通りに響いた。
3(
﹃美 人店長殺し﹄のテレビニュースを見たの
は、その日の夕方、六時だった。何度電話し
ても連絡のないのを不審に思った同僚が、マ
ンションを訪れ、管理人と一緒に部屋に入っ
て死体を発見したらしい。警察は痴情、怨恨
の両方から捜査を開始し、目撃者や交友関係
を調べていると伝えていた。
ボクは、江里子さん所から持ち帰ったショ
ーツをハサミで細かく切り、裏地が綻びたダ
20
ウンジャケットの中へ押し込んだ。歯ブラシ
は、今まで使っていたものを捨て、江里子さ
んのをコップへ立てかけた。
デジカメで撮った部屋の写真は、パソコン
へ 取 り 込 む と セ キ ュ リテ ィ を 掛 け 、 カ メ ラ に
残っていた映像は消去した。
迫田刑事と出くわしたのは、午前中の仕事
も終わり、昼食へ出ようとしたときだった。
﹁よお、森尾。昼飯ならつき合うぞ﹂
三和銀行の前で、ボクが出てくるのを待っ
ていたらしい。ある程度予測していたので、
ランチの味が落ちるので、
わざと驚いた様子で刑事を見た。
﹁ え っ 、な ん で ?
一人で食べますよ﹂
﹁ハンバーガー屋へ行っても、お目当ての人
はいてないぞ﹂
﹁テレビで事件は知りましたが、ボクはチー
ズバーガーが食べたいだけです﹂
本心ではないが、行かないと刑事に勘ぐら
れそうだ。
バーガーショップは普段通り営業していた。
心なしか、スタッフの注文を取る声にも元気
が な い 。ボ ク は 列 に 並 び 、店 の 中 を 見 回 し た 。
代わりの店長らしき男が陣頭指揮をとり、
いつものアルバイトスタッフがカウンターの
前 に 立 っ て い た 。天 井 の 隅 の 監 視 カ メ ラ に は 、
以前から気が付いていたし、エンドレステー
プが働いているのも常識だろう。しかし警察
が常連客のチェックをするにも、ビデオテー
21
プに事件当日のボクの姿は写っていない。
ボクがチーズバーガーを受け取る時、女性
スタッフが大きな声で言った。
﹁ 毎 度 あ り が と う ご ざ い ます ﹂
店の中は迫田刑事以外にも、警官が紛れ込
んでいる可能性はあった。
﹃ 毎 度 ﹄は 、 常 連 客
の識別に使っているのかもしれない。ボクは
店の中に座らず、外へ出た。慌てて、ポテト
お前の体
フライを手に持った刑事が追っかけてくる。
﹁森尾、いつから小食になった?
重を維持しようと思ったら、でっかい奴を二
つは食わないと﹂
﹁今日は、食欲が湧きません﹂
﹁綺麗な店長がいなかったからか?﹂
﹁食欲と、美人とは関係ないでしょう﹂
ボクはチーズバーガーにかぶりついたが、
麩を食べているみたいな無味乾燥な味がする。
そ れ で も 早 食 い の ボ ク は 、一 分 で 食 べ 終 え た 。
﹁刑事さん、食事は終ったので、付きまとわ
ないで下さいよ﹂
﹁友達の俺に、それはないだろう。ホンマの
ことを言うと、府警本部は、女子大生拉致事
件や美人店長殺しに、ストーカーが関係して
いるのではないかと関心を寄せている﹂
﹁それで所轄でもない迫田さんが歩き回って
いるわけか::﹂
﹁そのとおり、森尾は勘がいい。ところで何
か聞き込んだことはないか?﹂
刑事はポテトフライで汚れた指を、ツイー
ドの上着の襟で拭いている。公園の近くまで
22
来ていた。
﹁ボクは痴漢と付き合っているわけでもない
ので、その手 の情報はありませんよ﹂
﹁天気もいいし、ベンチに座ろうか。昨日は
休 み や っ た や ろ う 、朝 か ら ど こ へ 行 っ て た ? ﹂
﹁守口に住んでいる姉が風邪気味で、果物を
持って見舞いに::﹂
﹁姉さん以外に、それを証明できる者がいた
らいいのにな﹂
﹁近所の人で、ボクを見た人がいるかもしれ
ない。刑事さんの仕事でしょう、調べてくだ
さい﹂
﹁近所の人は箱を持った男が、昼過ぎに来た
と言っていた。俺が訊きたいのは午前中の行
動だ﹂
迫田刑事の言葉は、アイスピックで突つか
れるように鋭い痛みを伴う。これなら姉がボ
クのことを繕ってくれても、バレ るのは目に
見えている。
﹁近所のスーパーに、見舞い用のミカンがな
か っ た の で 、あ ち こ ち 探 し 回 っ て い た の で す ﹂
そんな事は信用していないとでもいうよう
に、刑事が言った。
﹁ 一 度 、森 尾 の 家 へ 遊 び に 行 き た い の だ が な ﹂
﹁狭いワンルームだし、来てもらっても面白
くないです﹂
﹁そう言わずに、俺以外にも、お前の部屋を
令状もなしに他人の部屋へは入
見たがっている者がいる﹂
﹁誰です?
れませんよ﹂
23
﹁欲しかったら令状も、持っていく﹂
それからで
﹁とにかくボクは今から仕事ですから﹂
﹁夕方五時には終るのだろう?
も構わん﹂
刑事は頑として譲らないつもりだ。ボクは
部屋の中を思い浮かべた。ピッキングの道具
は車に隠しているし、練習用の錠前は、大和
川に捨てた。宅配用の偽服も袋に入れ、長居
公園のゴミかごへ投げ入れた。
パソコンの中身は直接覗けないし、歯ブラ
シまで気が付くはずはない。この刑事に付き
まとわれないようにするには、早く言う通り
にしてやるのが良いかも知れない。
﹁いいでしょう。そのかわり、コーヒーだけ
しか出ませんが﹂
ニヤリとした刑事が言った。
﹁五時には、車を事務所の前に回しておく﹂
午 後 か ら の 仕 事 は 集 中 で き ず 、ミ ス も 出 て 、
)
手直しをしている間に五時になってしまった。
4(
迫田刑事はライトバンのドアに背中をあず
け、煙草を燻らせながら待っていた。ボクは
部屋を見せたら、断固として十五分以内に出
て行ってもらうつもりだった。
﹁おう、森尾。時間どおりだな。道順を教え
て欲しいいから、助手席に乗ってくれ﹂
開けてくれたドアから乗り込むと、若い運
転手が座っていた。バーバリのブルゾンに、
24
目深に被ったコーデュロイの登山帽。ドアを
閉めた迫田刑事が後ろに乗り込んできた。
﹁よーし、出発だ。住吉神社なら阪神高速を
玉出ランプで 降りたほうがええな﹂
ボクが住吉神社の近くに住んでいるのを、
既に知っている。夕方のラッシュを、巧みな
ハンドルさばきする運転手を眺めた。
女性か::。
﹁森尾、運転手に触ると、痴漢行為の現行犯
だぞ﹂
後ろで迫田刑事が嬉しそうに笑った。
窃
「 盗で執行猶予中だから、今度は懲役ね 」
運転手が前を向いたまま、冷ややかな声で
呟く。後ろからタバコの煙に乗って言葉が返
ってきた。
﹁お陰さんで、俺の助手が出来るまでになっ
た﹂
今度は運転手が感情を込め、はっきりと宣
言した。
﹁私の下着を盗んだ行為は、一生許さ ないか
ら。今度同じような事を犯したら、私が逮捕
します﹂
チラッとこちらを睨んだ顔は、ボクが捕ま
る 原 因 に な っ た﹃ 恋 人 募 集 中 ﹄
﹃独り暮らしO
いつから警察の運転手になった
L リ ス ト ﹄で 浮 か び 上 が っ た 美 人 の 迫 田 道 子 。
﹁ええっ!
のですか?﹂
ボクは喉が詰まりそうになりながら訊いた。
﹁あの時は交通巡視員だったが、頑張ったか
ら正式の警官になれた﹂
25
迫田刑事がまだ可笑しそうに言った。
﹁いえ、こんな破廉恥な奴が、うろついてい
るのが許せなかったのよ﹂
道子さんはバックミラーを見て話している。
﹁ 親 子 で ボ ク を 見 張 るほ ど 、 府 警 本 部 は 人 も
金も余っているのですか?﹂
﹁ そ う い う わ け じ ゃ な い さ 。重 大 事 件 だ か ら 、
全ての可能性を調べている﹂
迫田刑事が急にあらたまった口調になった
のが、ボクには言い訳に聞こえた。そこで道
子さんに言った。
﹁まだ、恋人を募集中ですか?﹂
ボクの問いに、聴こえぬ振りをして運転し
ている。
﹁森尾、お前が拾った情報は、情報会社を解
雇された社員から流れていた。恋人なんか募
集していたわけではない﹂
﹁では、質問を訂正して、まだ伴侶をお探し
ですか?﹂
﹁二人とも黙って!﹂
道子さんが乱暴な運転で前の車を追 い越し、
玉出ランプへ入った。横顔を盗み見する。二
十五歳になったはずなのに、ボーイッシュな
髪 型 を 帽 子 で 隠 し 、殆 ど 化 粧 し て い な い 顔 は 、
少年のようだ。
ボクはどちらかと言うと、男っぽいタイプ
に惹かれるような気がする。幼少の時から母
親と殆ど接触のなかったのが、ボーダーライ
ンの原因とも言われはしたが::。
車はボクが指示する前に、住吉警察の駐車
26
場へ入っていった。
﹁ こ こ に 停 め て お け ば 、駐 車 違 反 に な ら な い ﹂
後ろから迫田刑事が、いつもの癖で勝ち誇
ったように言った。確かに僕のワンルームマ
ン シ ョ ン は 、 こ こ か ら 目 と 鼻 の先 に あ る 。 建
物は南海本線と、ちんちん電車の阪堺線の間
にあり、この二種類の軌道を挟んで東西に住
吉公園と住吉大社が位置している。
警察署の駐車場から歩いて三分、ボクたち
は線路際に建つマンションの玄関を入った。
エ レ ベ ー タ ー で 四 階 へ 上 が り 、通 路 を 歩 く と 、
神社の鳥居が見える。
﹁森尾、神聖な場所に住んどるな。ここから
毎日拝めば、不埒な考えもおこらんやろ?﹂
﹁狙った女性の家に、上手く忍び込めますよ
うにと、拝んでいるかもしれない﹂
この父娘の会話はしつこく、ボクの気持ち
を不安にする。もう一度部屋の様子を頭に描
き 、 扉を 開 け た 。
﹁むさ苦しいところですが::﹂
ボクの言葉を無視し、二人の眼が部屋中を
チェックしている。女物のパンティが満艦飾
に吊ってあるとでも思っていたのだろうか。
部屋が綺麗に片付いているのが気に入らな
いのか、二人はボクがいれたインスタントコ
ーヒーを無言で飲んだ。
﹁パソコンは趣味なのか?﹂
迫田刑事が、隅のパソコンを顎でしゃくっ
た。
﹁在宅で仕事をすることもあるので、両方で
27
す﹂
﹁その大きな体で、イヤラシイ画像でも見て
いるのでしょう﹂
道子さんのニコリともしない態度は、マル
暴 刑 事 で も 通 用 し そ う 。 ボク み た い な 色 白 の
太った男を見ると嫌悪感を抱くとしか思えな
い。
﹁ちょっと、お手洗いを借りようかしら﹂
道子さんが、生理現象に他人の干渉を断じ
て挟ませない様子で、バスルームへ入った。
﹁森尾、彼女はいないのか?﹂
﹁職場と、ここの往復ですから、そんな閑は
ないです﹂
﹁悲しいこと言うなよ、その歳で彼女の一人
もおらんとは﹂
突然、キャッと声がした。ボクは慌ててバ
スルームの外から声を掛けた。
﹁どうしました?﹂
入りますよ﹂
﹁ゴキブリよ。私の服に入り込んで::﹂
﹁入ってもいいですか?
ボクは、ドアを開けた 。道子さんが、何事
もなかったように、鏡の前でルージュを引い
ている。
﹁ゴキブリはどこです?﹂
﹁ 逃 げ た わ 。: : ど こ か へ 逃 げ た ﹂
道子さんの血の通わない態度に、キツネに
摘まれたように後ろを振り向くと、迫田刑事
が洋服タンスの扉を閉めるところだった。
鈍いボクでも、二人が手分けし、一瞬の内
に部屋をチェックしたのは分かる。抗議しよ
28
うと刑事を見ると、逆に燃える目でボクを睨
んだ。
﹁森尾、茶番は終わりや。お前にそっくりな
奴を、花村江里子のマンションの周りで見た
と言う、タレコミがあった。もちろん昨日の
昼前や。このまま しょっ引いてもええが、タ
レ込んだ奴の名前も判っとらん。俺は二日で
証拠を集め、必ずお前を捕まえに来るから、
おとなしく首を洗って待っとれ﹂
﹁何のことか分かりませんが、ボクは逃げも
隠 れ も し ま せ ん 。い つ も の よ う に 仕 事 を し て 、
帰ってくると、ここで寝ます﹂
﹁ハンバーガー屋のネエチャンたちは、お前
が殺された女店長に惚れとったと言うとる。
逮捕は時間の問題やな::。帰ろか、道子﹂
道子さんは既に靴を履いていた。刑事が出
て行くと、タバコの匂いだけが残った。
バスルームを覗いた。コップから歯ブラシ
が 消 え て い る 。 江 里 子 さ んの 上 皮 細 胞 が 付 着
それが二日間なのか?
していれば、DNA鑑定で判ることになるの
だろうか?
道子さんがトイレを使った様子はなかった
し、洋服タンスからは何も持ち出されていな
かった。
ボクは会社に電話して休ませてくれと頼ん
だ。理由を訊かれたので、風邪で二日ほどと
答えた。その間に真犯人を捕まえないと、迫
田刑事に犯人の身代わりをさせられてしまう。
刑務所の中では、ボクみたいな色白の太っ
た男は、女の代わりをさせられるらしい。考
29
えただけで、ぞっとする。出所する頃には心
の病どころか、心に傷を負い、心身ともボロ
ボロにな っているだろう。
それより面倒を見てくれた姉に申し訳ない。
オヤジに続いてボクまで塀の中だと、子供た
ちにどんな説明をしたらいいのか。
ボクは両手の握り拳で、頭をがんがんと殴
った。身から出たサビとは言え、事の重大さ
に泣きたくなる。
迫田刑事の顔が浮かんだ。ボクの尻尾を掴
んだ以上、決して離さないだろう。じっとし
ていたら、江里子さんの部屋へ侵入した事も
突き止めるはずだ。どっち道、このままでは
済まない。
本当に真犯人を見つけ出せるのだろうか?
窓を開けた。早春の夕闇に、住吉神社の鳥
居 が 浮 か ん で い る 。 ボ ク は 、 柏手 を 打 ち 、 三
度お辞儀してパソコンの前に座った。苦しい
時の神頼み、聴いてくれるかどうか分からな
)
いが、頼る人は居ない。ボクがやるだけだ。
5(
それにしても道子さんはセコイ女だ。能面
みたいな顔で人を引っ掛ける。父親譲りなの
か、持って生まれた警官の素質がある。ボク
は二人の全てを頭から追い出し、パソコンに
浮き出た文字を見詰めた。
江里子さんへ、四人の男からメールが届い
ていた。殺される三日前からになっており、
30
それ以前は消されている。受信文とそれに対
する返信を並べてみた。
最 初 は 、 ク ラ ウ ン に 乗 った 住 宅 メ ー カ ー の
係長、三澤郁夫。
﹃今日、お店に行った時、あなたは奥へ引っ
郁夫﹄
込んでしまった。悪いところは直すから、以
前のように付き合って下さい
E﹄
﹃何度も言ったけど、もう、お付き合いする
気はないわ
男の未練たっぷりな様子が分かる。
E﹄
郁夫﹄
﹃諦めませんから。毎日、お店でもご自宅で
も押しかけますよ
﹃これ以上構わないで
こ の 断 わ り 方 は 拙 い 。無 視 す れ ば い い の に 。
それにしても何でこんな男と関わりになった
のだろう。
ポンコツ車に乗る役者志願の望月司郎。
司郎﹄
﹃ To be or not to be 金 欠 で 生 死 の
境を彷徨っています。お代官様、なにとぞお
恵みを
﹃私はキミのパトロンじゃないよ。早く稼げ
エリ﹄
る役者になることね。でも、三万なら給料日
まで貸してあげる
司郎﹄
﹃お代官様、どうしても三十万両お願いしま
す。田舎のおっかあが病気で::
﹃司郎冠者、おぬしが若い娘と駆け落ちしよ
エリ之丞﹄
うとしているのを知らいでか。今まで貸した
金は餞別だ。それ以上はノー
江里子さんは若い役者志願に、だいぶ注ぎ
込んでいたようだ。
31
アメリカ人のケン・ウオーカー。
﹃エリコさん、わたしの愛を 受け入れてくれ
るのなら、アメリカでの生活はOKです。テ
ケン﹄
キサスの牧場は広く、子供がたくさん生まれ
てもだいじょうぶです
﹃日本語を書くのも上達しましたね。でも私
江里子﹄
が住みたいのはニューヨーク。それに子供は
欲しくない
﹃ニューヨークの環境より、子供のためには
テキサスの牧場が適しています﹄
﹃変な留守電が入っているの。外人と付き合
江里子﹄
うなとか。犯人の目星は付いているけど、心
配だから家に来て
大塚正人氏は別れたご主人。
正人﹄
﹃江里子、僕が顧客の預金を横領したと言う
話 は 、 あ く ま で 嘘 だ 。調 べ れ ば 判 る
江里子﹄
﹃隠れていては駄目。私も偽装離婚と思われ
ているのだから
﹃今はまだ、出て行くことは出来ない。とこ
正人﹄
ろで、郵便局の定期は僕たち二人のものだろ
う。僕の分が欲しい
江里子﹄
﹃寝ぼけたことを言わないで。私達は離婚し
たの。全ては解決済みのはず
独り暮らしの江里子さんが、見ず知らずの
人を部屋に入れるわけはないし、殺されたの
が午前九時前後だとすれば、かなり親しい人
の訪問を受けたのは間違いない。
この四人の中に犯人がいる確証はないが、
調べ始めるとしたら、四人のアリバイからの
ほうが手っ取り早い。
32
外は夜の帳を降ろしていた。ボクは窓を開
け、神社の森から微かに漂ってくる春の匂い
を感じながら、ジーンズに黒いナイロン製の
ヤッケを羽織った。何をしたら良いのか判ら
ないのに、体が動けと命じている。
ボクは靴を履く前に再びパソコンの前に座
っ た 。メ ー ル の ア ド レ ス は 分 か っ て い る の で 、
四人の男達へ、一時間の時間差で会うように
メールを送った。
﹃江里子さん殺しで、あなたは疑われていま
す。シロならアリバイを説明してください。
梅田、阪急デパート前の歩道橋の上で待ちま
す。来なければ警察へ通報します。
江里子さんを大好きだった男より﹄
夜中の午前零時から、一時間ごとに男と会
うため、玄関を出た。最初は住宅メーカーの
営業マン、三澤郁夫から始める。
大気は放射冷却のせいで、橋の上で佇むボ
クの両肩に霜が降りるほど冷えていた。既に
歩道橋の上で一時間が過ぎようとしている。
時刻は午前零時五十分。住宅の営業マンは夜
遅くまで仕事をするし、帰りに一杯飲めば、
午前様になるのも珍しくない。
下を走るタクシーの数より、客待ちの空車
のほうが多くなっている。歩道橋を渡る通行
人の姿もめっきり減っていた。
階段の下から嬌声が聞こえてきた。若 い女
のようだ。上って来ている。
現われたのはハーフコートにハイヒールの
二人連れ。商売用のミニスカートから、セク
33
シーな脚が伸びている。何がおかしいのか、
笑いながら歩道橋の上を歩いてくる。こちら
に気がつき、一瞬笑いを止めたが、すれ違う
と再び大声で喋りながら遠ざかっていく。時
刻は一時五分前。
ボクは女たちが消えた階段のほうへぶらぶ
ら歩いて行った。見下ろすと、歩道へ降り立
とうとしていた。まだ笑っている。よほど仕
事が楽しかったのか。
突然、感電したようなショックが脇腹に走
った。続いてドスンと、腰の辺りに衝撃を感
じ た 。体 が 宙 に 浮 き 、 階 段 が ス ロ ー モ ー シ ョ
ン で 近 付 い て く る 。両 手 で か わ そ う と す る が 、
緩慢な動きで間に合わない。
額を打ちながら、階段をラワンの原木みた
いに転げ落ち、気が付いたら歩道のアスファ
ルトを舐めていた。女たちの悲鳴が、白い脚
と共に遠のいていく。
﹁チカンやー﹂
僕に聴こえたのは、他人事みたいな叫び声
だけだった。
﹁ 森 尾 公 彦 、猥 褻 行 為 の 現 行 犯 で 逮 捕 す る ! ﹂
ホ ス テ ス に し て は 、客 を 拒 絶 す る よ う な 声 。
腕 が ね じ 上 げ ら れ 、後 手 に 手 錠 を 掛 け ら れ た 。
﹁立ちなさい!﹂
ま た し て も 、今 夜 の 大 気 み た い に 冷 た い 声 。
関 節 の節 々 が 痛 く 、 階 段 か ら 転 げ 落 ち た 事 実
だけはおぼろげに理解できるのに、頭はスッ
キリしない。ボクは踏みつけられた油虫が、
最後の力を振り絞って逃げるように立ち上が
34
った。傍を見るとブルゾンに登山帽のセコイ
女。
﹁::道子さん、何でここに?﹂
﹁助ベエなシロ豚さん、とうとう又やったわ
ね﹂
どこから湧いてきたのか遠巻きの野次馬に
混じって、悲鳴をあげた女たちが、こちらを
見ている。
近くの曽根崎署へ連れて行かれた。
﹁何度も聴くけど、あなたは誰かに突き落と
されたと言うのね?﹂
道子さんが信じたくなさそうに訊いた。
﹁え え、スタンガンみたいなもので自由を奪
われ、階段の上から体当たりを::﹂
制服の若い警官がニヤニヤして訊ねた。
﹁若いホステスのナマ足にフラッときて、階
段を踏み外したのと違うか?﹂
手錠は外されていた。脇腹と脛に掠り傷が
あり、腕には左右とも打撲したように痣が現
われている。頭の擦り傷からは血が滲み、道
子さんが渡してくれたガーゼの下で疼いてい
た。
﹁道子さんは、なぜ橋の下に居たのです?﹂
﹁捜査の内容を話す必要はありません﹂
もしそうなら、突き落とした奴
﹁まさかボクの後をつけていたのじゃありま
せんよね?
を見 たはずだから﹂
制服の警官がとりなすように言った。
﹁ホステスは、痴漢行為はなかったと証言し
たのだから、今日は帰ってよろしい﹂
35
﹁ボクを突き落とした奴は?﹂
﹁誰も見ていないし::、被害届を出します
か?﹂
警官の言葉にも、道子さんは悔しそうに宙
を睨み黙っている。
﹁江里子さん殺しに関わっていると思ってい
るのですか?﹂
ボクの問いに、道子さんがやっと本音を喋
った。
﹁女子大生拉致事件も、猥褻目的ではないか
と本部は考えているからよ﹂
﹁身代金の要求がきていないのですね?﹂
﹁ノーコメント﹂
道 子 さ ん は 、大 便 を し て い る の を 見 ら れ た
犬のように、口をつぐんでしまった。被害届
を出さないのなら、帰るように警官に言われ
ボクは署を出た。
コイン式の駐車場に入れていた車に乗り込
み、暫らく考える。節々の痛みが、思考能力
を著しく低下させているのか、断片的にしか
思い出せない。
ボクを突き落としたのは、最初に現われる
はずだった三澤郁夫に違いない。付近から様
子をうかがい、スタンガンでよろめかせ、体
当たりをかけた。
江里子さんとヨリを戻そうとマンションへ
行ったのはよかったが、話がこじれ、あやま
って殺してしまった。慌てた三澤は、 暴漢に
よる犯行に見せかけるため、下着を剥ぎ取り
浴槽に沈めた。
36
車を出した。ダッシュボードのデジタル時
計は、午前三時を指したばかり。今ごろは、
首尾よくいった行為に満足し、寝込んだとこ
ろだろう。三澤のアパートは、住宅展示場の
ある千里ニュータウンに建つ、二DKの賃貸
マンションの八階七号室だと分かっている。
新御堂筋に入った。気分だけはニック・ノ
ルティ扮するタフな探偵か。ドアを蹴破り、
寝ぼけまなこの三澤を締め上げ、江里子さん
殺しを白状させる。すぐ道子さんに連絡し、
手柄を譲り、あのセコイ女の能面みたいなツ
ラの皮を ひっぺがす。下からボクが憧れた血
の通った美しい顔が現われる。
危うく、中央分離帯に接触しそうになり、
くだらない妄想を吹き飛ばしながら、桃山台
から千里ニュータウンへ入った。
公園の前で救急車に追い抜かれた。老成し
た 街 の 寒 い 明 け 方 に 、救 急 車 は 不 思 議 で な い 。
でも不吉な予感。アクセルに力が入る。遠く
で赤い回転灯が光っていた。
現場に数名の警官の姿が見える。ボクは車
から降り、近付こうとするが警官に制止され
た 。救 急 車 が け た た ま し い サ イ レ ン を 鳴 ら し 、
現場から離れていく。無線で話す警官の声に
混じって、携帯電話をかける 記者の声が聴こ
えてきた。
﹁変死体の身元は、三澤郁夫。三十六歳。事
故、自殺の両面で警察は調べています﹂
マンションの住人が、ガウンを引っ掛けた
ままの姿で遠巻きにしていた。死体が運び出
37
され、興味がなくなったのか、寒いのか、少
しずつ人数が減り始めている。ボクも現場を
離れ車に戻ると、ヒーターの温度を上げた。
今 夜 の 大 気 は 、と て つ も な く 冷 た く 、痛 い 。
)
ボクはそっと車を出した。
6(
消毒液と軟膏にサロンパス。ボクはシャワ
ーを浴び、薬箱から出した製品を眺めた。額
を 消 毒 し て 、 打 ち 身 擦 り 傷 の 軟 膏 を丁 寧 に 塗
り込んだ。
薬箱の隅から、去年、歯科医で貰った痛み
止めの錠剤を見つけ、ウーロン茶と一緒に飲
み下した。ボク流の治療だが、少し落ち着い
てくる。
朝遅く目覚めると、テレビのニュースで、
三澤郁夫が他殺だったと知らされた。玄関に
争った形跡があり、倒れた三澤は窓際まで引
きずられ、そこから投げ落とされたと、警察
は発表していた。
ボクを階段から突き落とした奴と、三澤を
マンションから投げ落とした奴が同一人物な
ら、犯人はボクを突き落とした後、三澤のア
パートを訪れ、隙を見てスタンガンで襲い、
失 神 さ せ た と し か 思 え な い。
残りの三人からアリバイを聴く機会を失っ
たので、とりあえず役者志望の望月と、英会
話の講師ケン・ウオーカーを、職場に訪ねよ
うと思った。
38
望月司郎の働くビル清掃会社は、北区の堂
島川に沿って建つテナントビルの地階にあり、
食事が済めば訪ねるつもりだった。遅い朝食
兼用の昼食に、ラーメンを作っていると、玄
関の扉を叩く音がした。
﹁森尾、居てるか?﹂
会いたくない奴ナンバーワンの、迫田刑事
の声。ラーメンが外まで匂っているから、居
留守を使うわけにはいかない。
﹁あいていますよ﹂
言い終わらないうちに、扉が開いた。浅 黒
く狡猾そうな顔が笑いをかみ殺している。
﹁昨夜は階段から転げ落ちたそうだな?﹂
﹁誰かのせいです﹂
﹁若いホステスに、見とれとったと違うの
か?﹂
﹁道子さんがそう言いましたか?﹂
﹁どうだか。それよりお前は誰が突き落とし
たか知っていて、そいつの家まで追いかけ、
怒りのあまり窓から投げ捨てた﹂
﹁素晴らしい推理ですね﹂
﹁感心してる場合やないで。ヘタしたら絞首
刑や﹂
﹁それなら、誰がボクを突き落としたので
す?﹂
﹁きまっとるやないか。花村江里子の恋人、
三澤郁夫や﹂
﹁何のために、ボクを襲ったのだろう?﹂
﹁お 前が花村江里子を殺したから、仕返しを
したのさ。店員の話では、三澤も彼女にぞっ
39
こんだったそうだからな﹂
﹁花村さんは美人だったし、他にも交友関係
があったと思いますが::﹂
﹁他のアリバイを訊いているのなら、答えは
お前に不利だな。英会話講師のケン・ウオー
カーは、事件当日、教室でレッスンしていた
からシロだし、元亭主の大塚正人は、顧客と
商談中だった﹂
﹁元のご主人は、どこへ勤めているのです
か?﹂
﹁お前には関係ないことだが、金融関係だと
教えておく﹂
﹁関係者はそれだけですか?﹂
﹁ い た と し て も 花 村 江 里 子 殺 し に 、 関 係が あ
るとは思われない。ラーメンが冷めるぞ﹂
刑事の顔は、自分のほうが食べたそうにし
ている。
役者志望の望月司郎の存在に、警察はまだ
気付いていないようだ。
﹁元ご主人の大塚氏は、何処に住んでいるの
ですか?﹂
﹁本人が死体を確認したし、アリバイがある
のだからそんな事はどうでもいい﹂
﹁今日、ボクに会いに来たのは?﹂
﹁様子を見ただけや。会社に連絡したら風邪
で休みやと、言うとったからな﹂
ボクがラーメンを食べ始めると刑事も空腹
を覚えたのか、やっと立ち上がった。
﹁三澤の部屋から、お前の痕跡が見つかった
ら、即逮 捕状を請求するつもりや。首を洗う
40
て待っとくのやな﹂
それはないと思うけど、歯ブラシの一件が
不安だから、ボクの行動も迅速でなくてはな
らない。
﹁道子さんも同じ意見ですかね?﹂
﹁お前、まだ道子に興味があるのか?﹂
﹁とんでもないです。婦人警官の下着を盗ん
だのを、とても後悔していますし、二度と間
違いを犯したりしません﹂
ボクは道子さんの少年っぽい横顔を思い浮
かべた。えげつない事を言わなければ魅力的
チャンスが
だし、小さいが締まっていそうなバストは、
かえって官能的に見える。
﹁そんな事を信じると思うか?
あ れ ば: : ﹂
刑事は親の役目を思い出したのか、急に黙
り込んだ。
﹁チャンスがあっても二度としません﹂
自信はなかったが、この刑事の前ではそう
言うしかない。
﹁いいか森尾、道子が地下鉄でケツを触られ
ても、通りでナンパされかけても、飲み屋で
見知らぬ男に酒を奢られても、みんなお前の
せいにするからな。これから俺がいないとき
は、半径五キロ以内に近付くな﹂
喋りながらいやらしい妄想をしたのか、迫
田刑事が息巻いて出て行った。こんな親を持
った道子さんの夫になる男性が思いやられる。
ボ ク は ラ ー メ ン を 食 べ 終 わ る と 、外 へ 出 た 。
刑事のお陰で手間が省け、望月司郎だけを調
41
べたら関係者のアリバイが明らかになる。南
海電車と地下鉄を乗り継ぎ、淀屋橋へ着いた
のは午後二時を回っていた。
堂 島 川 に 沿 っ て 歩 き 、﹃ 環 境 ビ ル メ ン テ ナ ン
ス﹄という、清掃会社の入った建物の地下へ
降りていった。
事務所の扉を開け、パソコンの前に座って
いる白髪混じりの男に声を掛けた。
﹁望月司郎さんに会いたいのですが::﹂
男は訪問者より、パソコンが大事なのか、
画面から顔を上げようとしない。
﹁望月さんはいますか?﹂
﹁応募の人?﹂
男が顔を上げ、ボクの方を見た。
﹁ え え、 職 場 を 訪 ね て き た ら 、 仕 事 の 内 容 を
見せてくれると::﹂
ボクは男の質問に合わせた。
﹁望月君は、今この近くのビルで窓拭きをし
ている。よかったら行って見ますか?﹂
﹁そうします﹂
﹁それならこれを被って行きなさい﹂
社名入りのヘルメットを貸してくれた。被
っていれば屋上まで行けるらしい。だがほん
とのところ、僕の額の傷を見て、工事現場か
何かでケガでもしたと思ったのだろう。
男の教えてくれたビルは、歩いて十分もか
からなかった。
エレベーターで最上階まで上がり、非常階
段を使って屋上へ出た。三十八階建ての屋上
は 風 があ り 、 気 温 も 低 い 。 ク ー リ ン グ タ ワ ー
42
と機械室の間を抜けると、ゴンドラに乗った
若い男が、一人でタバコを吸っていた。ボク
の方を見て怪訝そうに言った。
﹁応援か?﹂
﹁:::﹂
﹁応援に来たのと違うのか?﹂
初対面なのに、ぞんざいな喋り方をする。
﹁応援というと?﹂
﹁相棒が休んだから、事務所の爺さんが気を
利かせたのかと思った﹂
ヘルメットの陰から見える顔は若いのに渋
く、どちらかといえば悪役に向いている。
ボクのほうが年上だけど、したてに出た。
﹁うかがったのは、殺された花村江里子さん
エリちゃん
の 事 で 、ち ょ っ と お 聴 き し た か っ た の で す が ﹂
﹁おたく、警察の人と違うな?
とはどんな関係?﹂
﹁学生時代の友達でした﹂
望月がタバコの火を消し、手に持った電動
リモコンのボタンを押した。
﹁仕事が忙しいし、話はこの中で聞こうか﹂
ゴンドラがゆらゆらと動き始めた。屋上の
寒いところで待つのも厭だから、ボクは仕方
なくゴンドラに近付き、開いた扉から乗り込
んだ。
﹁こんなのに乗るのは初めてか?﹂
﹁もちろんです﹂
﹁それなら暗くなるまでに終わりそうにない
から、窓拭きの助手でもしてもらおうか﹂
望月はボクの返事も聞かず、再びリモコ ン
43
の ス イ ッ チ を 操 作 し た 。ゴ ン ド ラ が 宙 に 浮 き 、
横に滑り出しながら屋上のパラペットを乗り
越え、空中へ迫り出した。
足がすくみ、揺れる手摺にしがみつく。寒
気がズーンと背筋を這い上がり、こわごわ中
腰になって下を見た。吹き上げてくる冷たい
風で涙が出て、下を走る車が滲んで見える。
﹁もっとよく下を見せてやろうか?﹂
望月がリモコンのスイッチを触った。ゴン
ドラが急に下がりだし、立っていられない。
﹁怖いから、停めて下さい!﹂
﹁ホンマのことを言ってもらおう﹂
﹁何でも話しますから﹂
ボクはすっかり弱気になった。ゴン ドラの
スピードが弱まり、やっと止まった。最上階
から三分の一ほど降りていた。
﹁バンジーゴンドラの乗り心地はどうや?﹂
﹁もうたくさんです﹂
﹁エリちゃんの友達と言ったな?﹂
望月は顔色一つ変えず、口元には薄笑いさ
え浮かべている。怖がらすために、わざとゴ
ンドラを急降下させたのだ。この調子ならボ
クの返答しだいで、外へ投げだしかねない。
話題を変えることにした。
﹁いえ、望月さんが何処にいたのか訊きたか
っただけです﹂
﹁いつだよ?﹂
﹁つまり、江里子さんが殺された時﹂
﹁ そ ん な こ と 、 あ ん た に 答 え る 必 要 は ない ﹂
﹁警察は、関係者のアリバイを知りたがって
44
います﹂
﹁警察が訊きに来たら、その時話す。それよ
りあんたはなぜ、そんな事を嗅ぎまわってい
る?﹂
﹁江里子さんを殺した犯人が憎いからです﹂
﹁あんたとエリちゃんはどんな関係?﹂
﹁どんなと、言われても::﹂
望月が下を見ながら、リモコンをもてあそ
んでいる。
﹁つまり、寝たかどうかと聴いている﹂
だから俺も言えない﹂
﹁そんなプライバシーに関することは言えな
いですよ﹂
﹁そうだろう?
この男は一筋縄ではいかないが、寒いし落
ち着かないから、早く結果を聴きたかった 。
﹁望月さんが劇団の若い恋人と遊ぶのに、江
里子さんからお金を借りていたのは事実だし、
クソ!﹂
今月も三十万円無心していましたよね?﹂
﹁エリがそんな事を喋ったのか?
望月の顔色が変わった。足元のバケツから
プ ラ ス チ ッ ク の 容 器 を 取 り 出 し 、栓 を 捻 る と 、
中の液体をボクへ向け、水鉄砲のように飛ば
した。
濡れたジーンズから、揮発性の匂いがツー
ンと立ちのぼって来る。
﹁落ちにくい汚れをこれで拭くと綺麗になる。
あんたも少しはマシになるぜ﹂
望月がタバコを銜えライターで火を付けた。
﹁見習いで来た奴が、銜えタバコで窓 拭きし
ながら、うっかり溶剤に引火させ、火だるま
45
になってゴンドラから落ちたことがある﹂
望月の右手が動き、揮発性の液体が、再び
ボクの胸に掛かった。
﹁よしてください!﹂
火を付けられる恐怖で、ボクは胸の辺りを
両手で押さえた。望月がシコを踏むようにし
てゴンドラを揺すった。思わず手摺を掴み、
振り落とされないようにする。
﹁地上に落ちても、作業中の不注意だったと
報告しておく﹂
﹁これは殺人だぞ!﹂
ボクは思わず、悲鳴に近いかすれ声で叫ん
だ。
﹁そう思うのは、おたくだけさ﹂
望 月 が く わ え た タ バ コ を 指 で 摘 み 、 ボク の
方へ弾き飛ばそうとした時、ゴンドラがガク
ンと揺れた。
ゆっくり上昇している。望月の視線が、怪
訝そうに上を向いた。屋上のパラペットに人
影が浮かんだ。
﹁ちぇっ、上で操作してやがる﹂
望月がタバコをもみ消し、投げ捨てた。
﹁あんたが俺を怒らせるから、こうなった﹂
望月は呟いたあと、上でゴンドラのスイッ
チを操作しているのが、見知らぬ人間だった
のが気に喰わなかったのか、屋上へ着くまで
黙っていた。
ボクは助かった思いが蘇ったのか、小便で
下着を濡らしているのに気がついた。
ゴンドラがパラペットを越え、所定の位置
46
に停まった。傍に迫田刑事が立っていた。
﹁揺れていたから、危険だと思って引き上げ
た﹂
ほんとは逮捕すると言って欲しいところだ。
﹁素人が勝手に触ったら困りますよ﹂
本能的に敵わない奴と読んだのか、演技か
知らないが、望月の言葉遣いが変わった。
ボク達がゴンドラから降りるまで、迫田刑
事の視線はこちらにそそがれている。
﹁森尾、こんな所で何をしておる?﹂
﹁江里子さんの、友達と会っていたのです﹂
濡れたパンツの染みが、表へ出てないのを
願いながら答えた。
﹁お名前は?﹂
刑 事 は 警 察 手 帖 を 掲 げ 、望 月 の 方 を 向 い た 。
﹁警察がなんの用ですか?﹂
ボクを焼き殺そうと脅したことも忘れ、望
月が顔色も変えずに訊いた。
﹁花村江里子の件で、関係者に事情を訊いて
い ま す 。よ か っ た ら 少 し 話 を お 聴 き し た い が ﹂
刑事の有無を言わせぬ態度に、眼に怒りを
滲ませ、望月がこちらを見た。
﹁二人だけで話しましょう﹂
望月の言葉に、刑事が頷きながらボクに言
った。
﹁森尾、あとで話しがある。アパートへ帰る
のだろう?﹂
﹁ボクをつけていましたね?﹂
﹁堂島川の傍で見かけたから、追いかけてき
たのさ﹂
47
嘘だと判っていても、このさい望月は、救
世主 に見える刑事に任せるのがいい。ボクは
非常階段に通ずる鉄の扉を開け、エアコンの
)
効いたビルの中へ入って行った。
7(
駅前の商店街で買ったおでんを、電子レン
ジで温めなおし、缶ビールを飲みながら食べ
警察はあんたの午前中の
ていたら、姉から電話があった。
﹁公彦どうなの?
行動を知りたがっていたけど﹂
﹁心配しなくてもいいよ。ちゃんと説明して
いるから。それより姉ちゃんの風邪は?﹂
﹁もう大丈夫。今日からでもダンプに乗りた
いんだけど、この不景気で仕事も少なくて﹂
滅多に愚痴を言わない姉がこぼしている。
これ以上ボクのことで煩わすのは、申し訳な
い。
﹁ 姉 ち ゃ ん ご め ん よ 、昔 の こ と で 心 配 か け て 。
もう迷惑はかけないから﹂
﹁なに言ってるのよ。困った時助け合うのが
姉 弟 な の だ か ら 。そ れ よ り こ の 頃 多 い の よ ね 、
女の服着て喜ぶような男が::。そんなのじ
ゃないよね?﹂
﹁誤解だって。もう切るよ、今日は疲れたか
ら﹂
﹁ほんとに困ったら言ってよ。どんなことで
もするから﹂
﹁今は大丈夫﹂
﹁::信じていいの?﹂
48
﹁いいよ﹂
ボクは電話を切った。姉のためにも、江里
子さん殺しの犯人が早く捕まって欲しい。
テ レ ビ に 女 子 大 生 拉 致 事 件 の続 報 が 出 て い
たが、犯人から身代金要求の連絡もなく、警
察 は 目 撃 者 捜 し に 、全 力 を あ げ て い る ら し い 。
実際には、裏でいろんな捜査が行われている
のだろうが、ボクの場合と同じで、表に出て
くる情報は少ない。
再び電話が鳴る。迫田刑事だった。
﹁ 森 尾 、望 月 は 花 村 江 里 子 が 殺 さ れ た 時 刻 に 、
劇団の若い女と、ラブホテルにいた。従業員
の証言もあったし、アリバイは完全だ﹂
﹁警察が一市民に、特定の情報を流してもい
いのですか?﹂
﹁限りなく黒に近いグレーに説明しておけば、
捕まるのを恐 れて逃げる
逃げる恐れもないと思ったからさ﹂
﹁反対でしょう?
のでは?﹂
﹁ 慌 て る か ら ボ ロ が 出 る 。そ の 時 捕 ま え れ ば 、
手間も省ける﹂
ハッと気がついた。ボクは既に警察の監視
下に入っているのか。このマンションの周り
も二十四時間態勢で、張り込まれているかも
しれない。
窓を開け、外を見た。寒の戻りか、冷たい
空気が入り込んでくる。それらしい人間は見
当らず、神社の参拝客も、寒そうに襟を立て
急ぎ足だ。こんな日はとてもじゃないが、外
での張り込みは慣れているといっても大変だ
49
ろう。それともビデオで見るハリウッド映画
みたいに、車の中でドーナツなどかじりなが
ら待つのだろうか。
良く考えると、ボクは突き飛ばされたり、
火だるまにされたりするタフな探偵は向いて
いない。この事件が変質者の仕業なら、頭脳
派に変身するほうが、解決への近道に違いな
い。
パソコンの前に座り、以前勤めていた﹃名
簿屋﹄のアドレスへアクセスした。
一般に会社の企業秘密や情報は、部外者が
覗くことはできない。いや、社内でも全部を
知ることが出来るのは、特定の役職の者だけ
に絞られる。
特に機密情報は、ファイアーウォールと呼
ばれるセキュリティーで守られ、まず近寄る
ことは出来ない。つまり相手のコンピュータ
ー に 入 り 込 み 、ハ ッ キ ン グ が 不 可 能 な わ け だ 。
名簿屋は苦労して集めたデータを、盗まれ
ては商売にならないが、そのシステムをある
程度プログラムしたのはボクだから、侵入す
るのに時間はかからなかった。
パ ス ワ ー ド は 、数 十 個 の 中 か ら 日 替 わ り で 、
たらい回しだし、ウイルス防止で設けた進入
路は、ボクが作ったままだった。
まず﹃わいせつ行為で捕まった人﹄で検索
を掛ける。過去二十年間に捕まった約五万人
余りの中から、地方紙、スポーツ紙も含めて
三面記事に載った名前と年齢が出てくる。
この中に未成年は含まれていないし、仮名
50
や 某 な に が し は 省 か れ て いる か ら 、 実 名 が 出
ているのは一万人弱であった。
ボクも、知らずに婦人警官のストーカーを
して、下着を盗んだアホな男ということで、
一部スポーツ紙に実名が出た。だから検索す
れば引っ掛かる。二時間かけて全ての名前を
確認するが、江里子さんと関係あるのは、ボ
クぐらいだとしか思えない。
疲れたのでコーヒー・ブレークにする。文
字ばかり見ていたから、デジカメで撮った江
里子さんの部屋の写真を、パソコンの画面に
出してみた。
玄関から撮った写真は、ダイニングキッチ
ンの窓の逆光で上手く写っていない。しかし
ク ロ ー ゼ ッ ト の コ ー トか ら は 、 江 里 子 さ ん の
好きな柑橘系の香水が匂ってくるようだ。書
斎兼寝室からは江里子さんの乱れた寝姿を想
像する。
ダイニングから玄関の方を写した写真は、
光線の具合が良く、ハッキリしている。洗濯
機の横の洗面台に、コップに入った歯ブラシ
の柄が見える。写真を撮った後、ピンクの柄
を取り上げ、口に含んだ思いが蘇ってくる。
それからバスルームの扉を開けたのだ。見た
光景に動転し、中の写真は撮っていない。
ボクは奇妙なことに気がついた。
画面を拡大しながら、沓脱ぎを見た。ボク
の靴は写っているが、玄関へ入った時、確か
に見た紐 無しのスニーカーが見当らない。
背筋に冷たいものが走る。
51
スニーカーは江里子さんの物ではない::
ということは、ボクが部屋に侵入した時、江
里子さんを殺した奴は、まだどこかに潜んで
いた可能性が強い。ベッドの中でマスをかい
て い る 間 に 、犯 人 は ま ん ま と 逃 げ 出 し た の だ 。
ボクはアホさ加減に自分の頭を叩いた。もう
少し早く行けば、江里子さんは殺されずに済
んだかもしれない。
それにしても、殺された江里子さんの写真
を撮っておくべきだった。何か手掛かりを掴
めたと思うのに::。
大き目のトレーナーは作業をするとき
どうして男物のトレーナーだったのだろ
う?
女装
楽だから、着易かったのかな。いや、ひょっ
としたら無理やり着せられたのかな?
して男装の女を襲う、そんな構図も考えられ
ないことは無い。
ボクは無意識に名簿屋のコンピューターに
入 り 込 み 、﹃ 女 装 好 き な 男 ﹄ を 検 索 し て い た 。
見つかったのは、その手の趣味のクラブだ
った。この世界にも下着フェチやブランド好
きがいるようだ。
うさぎ﹂
﹁ドルチェ&ガッパーナのピンクのブラ。連
絡待つ
レア物有り
美香﹂
﹁ピエール・カルダンのレディス下着とカッ
トソー
ナオミ﹂
﹁ルイ・ヴィトンのマーレイのリュックを譲
って
メッセージの後に、携帯電話やファックス
の 番 号 、E メ ー ル の ア ド レ ス が 書 か れ て い る 。
52
ボクは三十人ほどのメンバーの人相や、キャ
ラクターを想像した。男なのに全員が女性の
名前になっている。会ってみればごく普通の
人間に違いないが、どこかピントがズレてい
るのはボクと同じか。
﹃心の病﹄の奥底は、覗
けないほど深い。
アメリカ製最高級補正下着
気になるメッセージが出てきた。
雅美﹂
﹁美人に変身!
入荷
気になったのは文面じゃなく、後のEメー
ル・アドレスだった。見覚えがあった。メー
ル ア ド レ ス か ら 、 住 所 は 一般 に は 判 ら な い よ
うになっている。しかしこの名簿屋の凄いと
ころは、メールアドレスにクリックしたら、
本人の住居が表示されることだ。ボクは画面
に出てきた住所を書きとめ、パソコンのスイ
ッチを切った。
外は寒そうなので、タートルネックの上に
セーターを重ね、ウインドヤッケを羽織る。
)
時刻は夜の十一時を回っていた。
8(
地下鉄御堂筋線と、JR東海道本線が並ん
で南北に走る軌道を、串刺しにする形で新幹
線が東西に延びる分岐点、新大阪駅。
ボクは駅前の駐車場を迂回し、東京資本で
建 て ら れ た 、 ビ ジ ネ ス ホ テ ル の 斜 め向 か い に
車 を 停 め た 。こ の 辺 り は た ま に し か 来 な い が 、
いつまで経っても大阪の薫りがしない。
53
コンビニや今風の居酒屋はあるのだが、猥
雑さがない。たしかに﹁ホテトル﹂とか﹁女
装品レンタル﹂の張り紙は目に付くのに、助
平さにイチビリ精神がないから、もろにエッ
チな感じがする。
目的の賃貸マンションも、危うく見過ごす
ところだった。レンタル・ビデオショップが
一階に入っており、ブラインドの隙間から見
える、アダルト専門のポスターに気を取られ
ていたからだ。
店の脇の通路を通り、狭いエレベーターホ
ールに出た。八階建てのマンショ ンは古く、
郵 便 受 け の 名 前 は 、個 人 名 も あ れ ば 、事 務 所 、
アトリエもある。何も書いていないのは空室
か 。ボ ク は 探 し て い る 五 階 の ポ ス ト に﹃ 雅 美 ﹄
の文字を見つけた。
アルコールと、アンモニアの混ざった臭い
がするエレベーターで、五階へ上がった。扉
が開くと、小さなホールを挟んで、両側に一
戸ずつ納まっている。
壁の吹き付けタイルに、ミミズが這ったよ
うなクラックを補修した跡があり、よけい建
物の貧相さをうかがわせる。
ボクは﹃雅美﹄の向かいの部屋を見た。表
札はなく空室のようだ。念の為、取っ手を捻
るが、ロックされていた。ここか らはいっそ
う慎重になる。
この時間なら、
﹃雅美﹄の部屋の主は、在宅
の可能性が強い。逆見スコープで、覗き穴か
ら中の様子を窺った。薄明かりが廊下を照ら
54
し て い る だ け で 、人 影 は な い 。ノ ブ は 動 か ず 、
鍵が掛かっている。ポケットの中から、ピッ
キ ン グ の 道 具 を 取 り 出 し 、鍵 穴 に 差 し 込 ん だ 。
建築コストの安さは随所に現われていた。
旧式のピンタンブラー錠など、ピッキングに
物足りなささえ感じる。五秒で開錠したノブ
を静かに回し、扉をそっと引いた。チェーン
が掛かっていないから、部屋の主はまだ帰っ
ていないようだ。玄関へ素早く滑り込んだ。
一瞬、ドキッとする。
江里子さんの部屋を撮った、デジカメに写
っていた紐無しのスニーカーが、黒い革靴と
一緒に並んでいる。
息を殺し、左右が部屋になっている廊下を
進んだ。蛍光灯の明かりは奥のリビングから
漏れていた。ガラスの入った化粧扉の隙間か
ら、リビングを覗く。ソファに、ラメ糸を織
り込んだ派手なブルーのランジェリーが投げ
掛けてある。テーブルには、金髪や赤毛のカ
ツラも置いてある。
ボクは、
﹃ 心 の 病 ﹄を 持 っ た 同 類 だ け が 感 ず
る衝動を押さえきれず、部屋へ入った。
雅美さんはドレスアップして外出したに違
いない。 カーペットの上には、補正下着や、
サポーターの他に、黒いレースのパンティと
揃いのブラが散らばっている。壁際のハンガ
ーには、ピンクのシャネルのスーツが、無造
作に吊ってあった。
この部屋でいろんなコスチュームを試し、
入口からは気が付かなかった等身大の鏡に映
55
していたのだろう。部屋の静けさが、住人の
アブノーマルさを強調し、不気味な感じを醸
し出している。
ボクの研ぎ澄ました感覚に、何かが引っ掛
か っ た 。: : 動 物 の 声 。 猫 を 飼 っ て い る の か 。
引き戸を開けるが、隣は六畳の和室で、が
らんとしている。リビングから廊下へ出た。
すすり泣くような声が、ドアの向こうから微
かに聞こえてくる。ドアを開けた。
ベッドの上に誰か横たわっている。壁のス
イッチを入れた。
大の字で仰向けに、背広姿の人間が両手両
足をベッドに縛られていた。口には幅広のガ
ムテープが貼られ、目と鼻から水を垂らして
いるのが、すすり泣きの原因だった。灯りが
眩しいのか、瞬いた目から大粒の涙がつたい
落ちた。
縛られているのは、背広を着ていたが髪を
栗色に染めた女性だった。ボクはベッドに近
付き、女性の口に貼られたテープに手を掛け
た。眼が大きく見開き、何かを訴えている。
背後か ら声が聞こえた。
﹁勝手に、ひとのものに触るな!﹂
振り向くと、赤いコートの女が間近に迫っ
ていた。雅美か。
いきなり腰の辺りで、パチパチと何かが弾
け、稲妻が飛ぶ。スタンガンだと気付くが、
遅すぎた。体が痺れ、床に崩れるように座り
込む。脇腹にケリが入るのが分かった。続い
てうずくまった顔面に、尖ったハイヒールの
56
先端が、容赦なしに襲ってくる。
別の声がした。
﹁警察よ、やめなさい!﹂
道子さんの声だ。顔を上げた。警察手帖を
掲げた道子さんが入口に立っている。スタン
ガンを、コートのポケットに隠した雅美が叫
んだ。
﹁変質者よ、早く捕まえて!﹂
まずい、道子さんが手錠を取り出し近付い
てくる。喋りたいのにスタンガンのせいか、
声が出ない。ボクの両手に、冷たい手錠が掛
かった。
立ち上がる道子さんの首筋に、背後からス
タンガンの稲妻が光った。床に転げた道子さ
んへ、雅美が蹴りを入れようと脚を振り上げ
る。ボクは足に飛びついた。雅美が倒れ、カ
ツラが吹っ飛ぶ。
道子さんが力を振り絞り、雅美の足を掴も
うとするが、起き上がった雅美のキックが早
かった。後頭部を蹴った靴と骨のぶつかる鈍
い音と共に、道子さんが再び床に転がり、動
かなくなった。
ボクは手錠のまま、雅美へ体当たりを掛け
るがかわされる。スタンガンが再び胸の辺り
で弾けた。鈍いショックに転がりながら、雅
美 を 見 た 。身 を ひ る が え し 、部 屋 か ら 消 え た 。
すぐ現われた雅美の右手に、刺身包丁が光
り、うつ伏せにノビている道子さんへ近付い
ていく。合図をしようとするが、体は思うよ
うに動かず声も出ない。
57
雅美が包丁を振りかぶる。青竜刀のように
大きく見えた。
ボクはありったけの力を振り絞り、道子さ
んに覆い被さった。裸の背中に、ウニを殻ご
と投げつけられたような痛みが走る。
手 錠 の 掛 か っ た 両 手 で 、 道 子 さ ん の頭 を 挟
んだまま床を這いずる。腕や手先に痛みを感
じるが、構っていられない。雅美の足の動き
を読みながら這いずる。もう一度這いずる。
﹁手間が省けていい。こうなりゃ二人、同時
に::﹂
雅美の荒い息と捨て鉢なセリフに、最後の
攻撃を感じた。雅美のステップから逃げるよ
うに移動するが、脇腹を掠めた刃先が肉を切
り裂く。
こうなったら道子さんが包丁で切り刻まれ
るのだけは、どうしても避けねばならない。
ボクの大きな体が役に立つのならと思い、全
身で道子さんをしっかり包んだ。
﹁大塚正人、刃物を捨てろ!﹂
一瞬の静寂。バン!
ボクには拳銃の発射音に聴こえたし、叫ん
だのが迫田刑事の緊張した声だと判った。
﹁救急車を呼べ!﹂
再び同じ声が叫んでいた。薄れる意識の中
)
で、覚えていたのはそれだけだった。
9(
窮屈な思いで再び声を聴いたのは、消毒液
58
のキツイ臭いの中だった。
﹁::ちょっとでいいですから、先生お願い
します!﹂
迫田刑事の声はどこに居ても判る。
﹁だめです。今が瀬戸際ですから、もっと回
復してから﹂
﹁生きるか死ぬか分からないから、お願いし
ているのです!﹂
刑事がしつこいのは職業柄か。
﹁何度言われても 、だめです。瀬戸際なんだ
から﹂
﹁ボーダーラインなのは分かってます。ずっ
と分かっていたんだから::﹂
刑事の声がむせんだようだった。ボクはベ
ッドの上に寝かされ、包帯でぐるぐる巻きに
され、右腕と左足がバンドで吊られていた。
薬のせいか、再び眠りに落ちた。
何度朝と夜を迎えたのか分からないが、あ
る朝、点滴を替えに来た看護婦の話では、ボ
クの右手中指と薬指は、皮一枚で繋がったま
まのブラブラ状態で、腕や背中に切り傷、刺
し傷が無数にあったらしい。出血多量で、と
ても危ない状態だったと言った。
な ん と か 命 は 取 り 止 め た よ う だ 。午 後 か ら 、
短 い 時 間 な ら 面 会 の 許 し が 出 た ら し い 。最 初 、
病室に入ってきたのは、迫田刑事だった。
﹁森尾、話したいことはたくさんあるが、面
会時間を制限されているから簡単に話す。お
前が花村江里子を殺していないのは判ってい
59
た。暴行され、扼殺された体から出てきた精
液 と 、お 前 の D N A が 一 致 し な か っ た か ら だ 。
しかし歯ブラシから検出されたのが、花村江
里子とお前のDNAだったので、話がややこ
しくなり、お前をマークすることになった﹂
迫田刑事は窓を少し開け、タバコをくわえ
た。
﹁俺は、ガイシャの交友関係を洗い直した。
演劇をやってる望月という生意気な若造が一
番怪しかったが、アメリカ人のケン・ウオー
カーと共に完全なアリバイがある。殺された
営業マン三澤郁夫の司法解剖で、高圧電流の
ショックが筋肉を特殊な状態にさせる事が判
り、お前が橋の上でスタンガンで襲われた話
を思い出した。あとは本名で購入していた元
亭主、大塚正人のアリバイを洗い直すと、あ
っさり崩れたので、大塚を追っていた。推測
だが、三澤を殺したのは嫉妬からだろう。三
澤の部屋から、差出人不明の﹃江里子と付き
合うな﹄と脅す文面の手紙も見つかった。離
婚の原因が、結婚前から付き合ってい た三澤
だと信じていたのかもしれない﹂
迫田刑事はライターをもてあそんでいるだ
けで、火を点けようとはしない。
﹁大塚の部屋で見つかった女性は、車で拉致
された女子大生だった。大塚には女に男の服
を 着 せ 、女 装 し た 自 分 が 襲 う 変 な 癖 が あ っ た ﹂
別れた妻を執拗に追いかけ、隙を見て襲い
掛かり、あげくは男の格好をさせレイプして
殺す。恐らく拉致された女子大生も、弄ばれ
60
た後、同じ運命だったに違いない。
ボーダーラインから転げ落ちていった、大
塚の歪んだ精神構造に戦慄を覚える。
﹁道子は、お前のセンで追っていたから、別
行動にな っていた。大塚が死んだ以上、事件
は終ったことになるが::﹂
刑事がやっとタバコに火を付け、煙を窓の
外 へ 吐 い た 。澄 ん だ 青 空 を 一 筋 の 煙 が 横 切 り 、
心のモヤモヤを表しているようだ。
﹁俺は三十年近く警官をやってきたが、人が
自分の命を顧みず、赤の他人を庇っているの
を始めて見た。本来俺たちの仕事のはずなの
に::。そして俺は俺の仕事をした﹂
大塚を撃った事に、じくじたる思いがある
のか、迫田刑事は窓の外を見ていた。
﹁::そやけど、森尾、ありがとう﹂
タバコの火を消した刑事が、そっと外へ出
て 行 っ た 。 入 れ 替 わ り に 姉 が 入っ て き た 。 目
の周りが赤い。
﹁公彦、良かったね。命が助かって﹂
それだけ言うのが精一杯なのか、ハンカチ
を目に当てている。
﹁姉ちゃん、ごめん。心配かけて::﹂
﹁それより生きているのが嬉しいよ。公彦と
私は母親が違うけど、二人の絆は、だれより
も太くて強いからね﹂
姉もボクが言い出せないことを、気にして
いたのだ。幼児期の母親の愛情不足が、ボー
ダーラインの原因らしいと聴いていた姉は、
母親の代わりをしてやれなかった自分を、責
61
めているのかもしれない。
﹁輸血は、私だけでは足りず、同じO型の女
の 刑 事 さ ん も し て く れは っ た の 。 先 生 に 止 め
ら れ る ま で 何 度 も 、﹃ 私 の 血 を 使 っ て く だ さ
い!﹄と泣きながら﹂
姉はハンカチで目の周りを押さえて続けた。
﹁拉致されていた女子大生のご両親も、見舞
いに来られたよ。気の毒な娘さんの傍に付い
ていてあげてくださいと言って、帰ってもら
ったけど::﹂
姉が出て行き、そのあとしばらくして、道
子さんが入ってきた。制服姿と刈り込まれた
髪が、一段と凛々しく美しい。僕の目を見て
言った。
﹁私の不手際で、あなたをこんな目にあわせ
てしまって、大変申し訳ございません。一瞬
の判断ミスが、命取りになることをつくづく
思い 知 ら さ れ ま し た ﹂
﹁気にしないで下さい。ボクも咄嗟にしたこ
とで、誰でもああいう状況になれば、同じ方
法をとったでしょう﹂
道子さんは病室に二人しか居ないのに、辺
りを見回し、声を落とした。
﹁私はあなたの心が、少しぐらい病んでいた
としても、気にしない。もし、まだ﹃心の病﹄
を引きずっていきそうなら、打ち明けて。あ
なたの心の支えになる。どこかのベランダに
干してある下着が欲しかったら、私が盗って
来る。女性の後を付けたかったら、代わりに
私がやる。地下鉄で、女性のお尻に触りたか
62
ったら、私のを触って。あなたには、そんな
事で刑務所へ行って欲しくないの。人間関係
から情緒不安になり、躁鬱だとおもったら、
い つ で も 相 談 し て 。﹃ 心 の 病 ﹄ が 癒 え る ま で 、
ずっと傍にいてあげる。なぜなら、あなたは
と っ て も 大 事 な こ と を 教 え て く れ た か ら ::﹂
腕に巻かれた包帯に落ちた熱い雫が、じわ
りと広がってきた。いつもだったら好きな女
性に近付かれると、
﹃心の病﹄からか汗が滲み
出てくるのに、今は気にいった友達同士のよ
うに、平静で居られるのはなぜだろう。
道子さんの熱い涙は、ボクの何かを確実に
溶かしていく。
窓から柔らかい春の陽射しがさし込み、窓
辺に置かれた 水仙の花を包んだ。ボクはボー
ダーラインから、階段を一歩ずつ登り始めて
いるような気がした。
63
64
65