山陰両県 市町村が舞台の、 枚だけの写真集発刊 私は美術の教員をしている。したがっ て美術の専門家といえなくもないが、そ 美しい街 見る高校球児の涙には「きれいな心」を 掃除の行き届いた窓ガラスを見て「き れいなガラス」というし、甲子園中継で の世界のようである。 も「きれい」をも内含してしまうのが「美」 か。つまり「かわいい」も「かっこいい」 美はどこにあるのか 感じることができるのである。 美しい街並みとしてその景色を私たちは き れ い で な い 古 び た 家 並 み で あ っ て も、 も、きれいな色に満たされていなくても、 日本人であれば、はかなくやがて消え ゆく現象を美しいと感じることができる するのである。 て、感じる人によっても美の所在は変化 んど同じ意味で使うこともできるが、「美 えてみると少々複雑である。 の可憐な色合いまでを含み、それに気づ は精神的な壮大な美から慈しむべき草花 目の当たりにしても美を感じるかどうか 広く大きすぎて、具体的な事例の前では していない。きっと「美しい」の世界が 言葉を耳にする場面にここしばらく遭遇 う 言 葉 を 用 い る。 で、「 美 し い 」 と い う いい」「かっこいい」「きれい」などとい るものに出会ったときに私たちは「かわ いいなあ、グッとくるわ、凄い!と思え かっこいい近代的タワーが立ってなくて い。かわいい花が咲き誇っていなくても、 江の街が美しい景色でなくなりはしな で き て い た と し て も、 そ れ ら を 含 む 松 としても、松江城の屋根瓦がかなり傷ん た と え ば 美 し い 景 色 と い う 場 合 で も、 汚れた窓ガラスのある家が何件かあった て存在するもののようである。したがっ としてあるのではなく、感じる人によっ れてはこない。つまり元から美しいもの 素直な気持ちで向き合わなければ立ち現 の 類。 し か し 美 は 感 じ る 人 が 心 を 開 き、 いい車、流れてくるきれいな音色や香り が人生を豊かなものにするための大きな い。その美にいかに気づき感動できるか 美という価値は、こちらが耳を傾けな ければ、向こうからは語りかけてくれな カメラを持って出かけてみれば く目と心を持った者の中に現れる価値な は分からないのである。つまり「美しい」 いることは確かなことである。 しい窓ガラスですね」とはあまりいわな のであろう。 こまで言い切る気分に欠ける。ただ、他 科目担当の同僚よりは日ごろから美術に 感じるという風にきれいと美しいをほと さて、この美術の「美」だが、どのよ うなものであろうか。日常の生活の中で、 い。 きれいやかっこいいは向こうからやっ てくる。きれいな花を持った人、かっこ が、異文化に暮らす人々には同じものを ついて考える時間を生活の中で確保して 美の世界は随分と広そうなのだが、ど こにあるのかということについても、考 38 扱いにくい言葉だからではないだろう 美郷町/島根県 38 鍵であるように感じている。その気づき を得ることに有効なアクションの一つ が、写真を撮ることだと近頃になって気 づいた。 カメラを持ち、町に出ると(自然の中 でもよいのだが)世界がこれまでと違っ て語りかけてくれる。何かを「みる」と いうことをより大切にすることができる あの感覚は読者の皆様も感じられたこと があるだろう。 目の前の世界をよく見て、気づき驚き 感動していく過程で、自分自身の心が目 の前の世界に対して開いていく感覚を覚 える。そのことでさらに深い気づきに出 会えるという繰り返しの中で、様々な美 を知覚するのである。私はその心地よさ にそそのかされて今日もカメラを携えて 戸外を歩く。 山陰の手触り 私は山陰に住んで八年になる。すっか り山陰の景色、季節の移ろいに私の感覚 が馴染み、県外出張から戻るとホッとし さえする。すでに日々の生活の中で山陰 だからという新鮮な驚きを感じることは ない。 しかしどうだろう、この地域に生まれ 育った人たちと同じ感覚で地域風土・文 化を受け止められるかといえば、まだま だよそ者の視点でしかその一つひとつを 受け止められてはいない。地域を見つめ るのは、今しかないと感じた。 起こる全てが輝いて見えてしまう旅人 の視点でもなく、幼いころの思い出や親 戚、守るべき田畑、その全てが風土と一 体として感じられる地域人としての視点 でもない、今の感覚だからこそ見える景 色、感じられる地域の手触りがあるよう に思えた。 今の自分にしか切り取れない山陰があ るように感じられ、いても立ってもいら れなくなった私は新しいカメラと旅行カ バンを買った。 カシャッ 一つひとつの町を訪ね、歩き疲れては 泊まり、スナックで常連客と杯を交わす 中で、これまで気に留められなかったそ れぞれの町の体温を知り、それらは形や 色となり、人々の表情や仕草となって私 に迫ってくる。夢中で五感を凝らし、時 にカシャッとシャッターを押す。すると ま た 生 活 の 手 触 り が 際 立 っ て 感 じ ら れ、 私の中の美的感覚のひだがざわつくのを 感じるのである。 そうして鳥取県一九、島根県一九市町 村全てを自らの肌で感じ、カメラを通し て切り取った。何度訪ねても、自分の感 じた肌触りと切り取った「絵」に宿るも のとが自分の中で一致せず、通った町も 多い。酔狂で始めたこのプロジェクトも 気がつけば丸一年かかり、四万五千枚の 写真が手元に残った。 さんいんびより写真展 一つの町で一〇〇〇回以上のシャッ 51 のんびり雲|第 8 号| 2014 大山町/鳥取県 安来市/島根県 飯南町/島根県 鳥取市/鳥取県 ターを押した計算になるが、その町の一 きさをまちまちにプリントし、地域性や 町の大小にかかわらず空間構成のみを意 識して三八枚の写真による空間作品と 性 格 づ け た。 つ ま り、 展 覧 会 場 に 入 り、 三八枚の写真に囲まれた鑑賞者が空間か ら今の山陰を感じられる「装置」として の空間作品にしたのである。 ま た 展 覧 会 を 両 県 四 会 場 で 巡 回 さ せ、 その空間自体が山陰地域の東西端の約 三〇〇キロを移動していくことに今日的 なアート活動としての成立を目指したの である。 年 月 ■「さんいんびより 福井一尊作品展」 ・島根県芸術文化センター・グラントワ 月 ・ギャラリーそら(鳥取県鳥取市)平成 年 (島根県益田市)平成 月から 枚を選ぶ作業がまた面白い。 年 年 まず一〇〇枚程度を選び、並べて眺め て み る と そ の 町 が 立 体 的 に 見 え て く る。 月 ・民芸画廊(鳥取県倉吉市)平成 年 そして写真集の発刊 山陰両県四会場での個展には幅広い年 代 の 多 く の 来 場 者 を 得 る こ と が で き た。 る。 マスコミ等にも数多く取り上げて頂いた 【会場アンケートから】 こ と か ら 地 域 に お い て 高 い 関 心 を 得 て、 ■益田会場 シャッターを押した瞬間は目の前の世 界との共鳴と対話であるが、選んでいく 術的営みであった。 ( 高 校 生 ) 隠 岐 の 島 に 家 が あ る け ど、 あ 作業は自分の知識や経験との感覚的なや そうして選んだ三八市町村が舞台の 三八枚の写真は空間作品「さんいんびよ 社会的意義を認められたように感じられ り」として展覧会を開催した。作品は大 りとりであり、極めて繊細で個人的な芸 る。 ぎ澄まされていくことを感じるのであ 考が複雑に重なり合い、同時に神経が研 一枚を選び出していく作業では、私の思 シャッターを押した時の気持ちや、人や 3 12 月 25 24 風土との出会いの記憶が蘇ってくる。そ 1 ・島根県立美術館(島根県松江市)平成 25 の中から一〇枚程度に絞り、最終的には 12 3 伯耆町/鳥取県 海士町/島根県 24 25 邑南町/島根県 浜田市/島根県 隠岐の島町/島根県 個展会場(グラントワ/島根県益田市) 「 質 感 」 ―― 素 材 に は 素 材 感 が、 肌 触 りがある。 「 色 彩 」 ―― 色 彩 自 体 の 持 つ 力 の 強 弱 もそれぞれである。 当たっているからこそ見える。 わせによる。そもそも全てのものは光が 「 陰 影 」 ―― 物 が 立 体 的 に 見 え る の は 光が当たる所と陰になるところの組み合 「形と線」――形と形の間にできる線、 面と面との組み合わせ。 そしてもっと自分自身を愛してあげても 人それぞれその歳の今は、当然今しか ないのだからこそ、その美に気づいた自 とに気づくだろう。 も心を揺さぶられる瞬間に出会うであろ るときっと分かる。きっとささやかな美 いんびより」という美を探して歩いてみ (携帯電話のカメラでもよいので)「さん いうことである。えーそうかなあ?と感 中にだけあるのではないのだなと感じま した。 アンケートからは、このように作品と の間に生まれた関係を楽しんだご感想を 代)構図が良い。色が良い。光が良い。 の風景は見たことがなかったので、今度 することへの期待が寄せられたため、写 多数いただき、また写真集として書籍化 見つけに行きたいです。 代)益田の海がこんなにきれいなの かと改めて感じさせられました。 ( 真集「さんいんびより 福井一尊」を平 年度に今井出版より発刊することと ( なる。 成 代 ) 心 が 豊 か に な り ま し た。 写 真 て たものである。 それらによる全体の「画面構成」も大 切である。 いいのだと思う。成熟したこの国を構成 りしました。 作品の芸術的訴求力は、これらによっ て宿るのである。前述で、美とは見る者 する我々は、経済発展や他者との比較だ こんなに感動を与えてもらえるとこの年 で知りました。もっと作品を見てみたい です。 代)普段見ていても気づかない空や、 ■鳥取会場 ( カメラを構え続ける中で気がついたこ と、その一番は山陰は色鮮やかであると の中に立ち現れてくるものだと書いた けが幸福の手がかりではないことを知っ 代)美しい風景は必ずしも古くて歴 が、この写真集を手にした方々が、その ているのだから。 史のある日本の原風景と呼ばれるものの ( 人のその時にしか感じられない美に出 ( 写真の「ネライ」が素晴らしい。 会っていただけたとしたら、制作者とし (ふくい・かずたか/保育学科教員*美術) 浜田市/島根県 分 の 感 覚 を 信 じ、 大 切 に し て あ げ て も、 う。山陰にはその対象がいくつもあるこ の発見に驚き、あなたがいくつであって じ た 人 も、 そ れ ぞ れ が カ メ ラ を 持 っ て 生活や景色、手触りや息づかいの「今」を、 この写真集の作品は、残念ながら本誌 ( の ん び り 雲 ) に は 掲 載 し て い な い が、 てこんなに嬉しいことはない。 53 のんびり雲|第 8 号| 2014 次の五つの絵画的要素によって切り取っ 吉賀町/島根県 写真集「さんいんびより」表紙 空間がとてもきれいに写っていてびっく 美郷町/島根県 40 60 26 50 70 20 この記念事業の総合テーマは「オープ 二三時間かけてアテネに入るコースだ。 ラ ブ 首 長 国 連 邦 の ア ブ ダ ビ を 経 由 し て、 東 を 経 由 す る の が 一 般 的 だ。 今 回 は ア ロッパのどこかの都市を経由するか、中 在、ギリシャへの直行便はないので、ヨー リシャのレフカダをめざす人たちだ。現 後一一〇年記念事業へ参加するため、ギ 島根・広島・熊本の各地から小泉八雲没 名。宮城・神奈川・東京・静岡・富山・ た? これからよろしくね!」といった 会話があちこちから聞こえる。総勢二九 ウ ン タ ー 前 で は、「 久 し ぶ り、 元 気 だ っ 七月一日。黄昏時を迎えるころ、成田 空港第一ターミナルのエティハド航空カ 日本や世界各地からの参加者たち。 ギリシャだより 小泉八雲没後 110 年記念事業「オープン・ マインド・オブ・ラフカディオ・ハーン ――西洋から東洋へ――」を終えて 文 :小 泉 凡 写真:高 嶋 敏 展 ン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハー ン――西洋から東洋へ――」。日本のハー ンゆかりの各地の自治体や研究・顕彰団 体で実行委員会を組織し、三つの事業を 行った。レフカダ文化センター内に「ラ フカディオ・ハーン・ヒストリカル・セ ンター」すなわちヨーロッパ初のハーン・ ミュージアムをオープンすること。国際 シンポジウムを開催し、ハーンの「オー プン・マインド」の意味とその事績の現 代社会への活用の可能性を、日本・ギリ シャ・アイルランド・マルティニーク(フ ランスの海外県)出身の九人のパネリス トにより検証すること。そして松江出身 の佐野史郎さん・山本恭司さんによる朗 ギリシャ記念事業の発案者、タキスさんとともに。 54 (右)レフカダ詩人公園のハーン記念碑前で。(左上)タベルナでの夕食風景。(左下)カラマリのから揚げ。ギリシャでは超ポピュラー。 女」の初のレフカダ公演を行うことだ。 伝わる人形浄瑠璃、清和文楽による「雪 永遠の魂の故郷――」と熊本県山都町に 読ライブ「望郷――失われることのない 方とを結ぶ東西の高速道路は部分的にし 常によく整備されているが、イオニア地 あるマケドニア地方を結ぶ高速道路は非 北に位置する第二の都市テッサロニキが かできていないのだ。 山野で採取したカモミールやファスコミ た よ う で 笑 顔 が 絶 え る こ と が な か っ た。 の実践は不可思議で、かなり刺激的だっ た。ギリシャ人にとって初体験であるこ が行われ、来場者全員がお点前を体験し 寿男氏らによる松江と茶の湯の文化紹介 レッジで、松江の中村茶舗の社長、中村 考古学者が勤めているニューヨーク・カ の間に、友人のヤニス・フィカスという 七月二日午後、無事、アテネに入った 一行は、二日間をアテネで過ごした。そ と切り、オリーブの実を入れ、それに巨 ラダ)は、キューリやトマトをざっくり シャ・スタイルのサラダ(グリーク・サ カラマリ(小型のイカ)のフライ。ギリ ダに鰻の煮つけ、スズキとタコの炭火焼、 特産となる。この日は、グリーク・サラ だ。当然、そうなるとスズキ、鰻などが や中海、あるいは浜名湖などと紛う光景 止められ、潟湖を形成している。宍道湖 かけてできた砂州で海のあちこちがせき 辺りは、西風が強いためか、長い年月を う、珍味・カラスミで有名な町だ。この レフカダへ ロなどのハーブをお茶にして飲む慣習の 四時間ほど走ったところで昼食をと る。イオニア海に面したメソロンギとい あるギリシャ人には、抹茶もその延長線 大なフェタチーズ(山羊のチーズ)を載 る小国でありながら、穀物を若干輸入し 上と捉えるのかもしれない。ギリシャで ているものの、ほぼ食糧は自給できてい せて食べる。ドレッシングは塩・胡椒・ 七月四日朝、三台のバスと一台の車で、 一行はレフカダへ出発する。アテネでは、 る点だ。目の前で獲れた魚を炭火で焼く は、和食がいま、ようやく注目され始め 別便で到着した熊本からの約三〇名の参 か、揚げるかし、それに地元のオリーブ オリーブオイルのみ。きわめてシンプル 加者とギリシャ人の同時通訳者やボラン てきた。時々立ち寄る「風林火山」とい ティア・スタッフ、アメリカからの参加 オイルとレモンをたっぷりかける。そし な調理法だ。 者も加わって総勢は六〇名を超えた。ア て 豊 富 な 地 野 菜 と、 地 元 の ブ ド ウ で つ う日本料理店は、近年、行くたびに忙し テネ・レフカダ間はおよそ三五〇キロの くった白ワインとともに二時間以上かけ さを増している。 道のり。六時間以上かかる。ギリシャと てランチを楽しむ。自然に逆らわないス いつもギリシャで「すごい」と感じる のは、破綻しかけたような経済状況にあ いう国は、南に位置する首都のアテネと 55 のんびり雲|第 8 号| 2014 オープンにはずみがついた。 董』『日本雑記』のギリシャ語訳を出版し、 このたびの記念事業の直前に『怪談』 『骨 テティ・ソローさんもハーンの愛読者で、 プンできなかった。イラストレーターの マリアさんなしではミュージアムはオー 員 で 一 四 歳 か ら ハ ー ン を 愛 読 し て い る。 リューさんは、国立ギリシャ銀行の学芸 ボランティアでアテネから何度も足を 運び、展示を仕上げたマリア・ゲネツェ の写真作品を寄贈した。 ン 皿 の レ プ リ カ( 袖 師 窯 )、 高 嶋 敏 展 氏 を認めつつ彼は常に新しいものや違った 文化的境界の曖昧な地点に立ち位置を置 座長をつとめたアラン・ローゼンさん の 結 び の 言 葉 か ら そ の 要 旨 を 紹 介 す る。 ローチがなされた。 オ ー プ ン・ マ イ ン ド 形 成 の 軌 跡 に ア プ ラー」という多様な切り口からハーンの 化 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ」「 ゴ シ ッ ク・ ホ 教」「エグゾティシズムと文化越境」「文 学の世界性」「トランスナショナル」「仏 て「 教 室 の オ ー プ ン・ マ イ ン ド 」「 流 浪 ショーで示した。その後、二日間にわたっ 識は薄く、昨年エトリコという小さな町 品。天然鰻でさえ、まだ高級魚という認 グルトと蜂蜜も世界から垂涎される絶 ローライフだ。朝食には欠かせないヨー ハーン・ミュージアムである。レフカダ グ が 行 わ れ る。 こ れ は ヨ ー ロ ッ パ 初 の 午後七時から「ラフカディオ・ハーン・ ヒストリカル・センター」のオープニン カダ着。 テーマは「オープン・マインド・オブ・ の 憧 れ を 抱 い て い た。 シ ン ポ ジ ウ ム の 神の回復」と述べるほど古代ギリシャへ ハ ー ン は、「 世 界 が 必 要 を 感 じ て い る のは、古代ギリシャの幸福と優しさの精 シンポジウム くハーン。怒りも偏見もあったが、それ と探求の旅」「想像のギリシャ」「再話文 レフカダ市長、西林日本大使と私のス ピーチに続き、熊本から参加した、人形 浄瑠璃「清和文楽」の人形がテープカッ ト を 行 い、 待 望 の 施 設 が オ ー プ ン す る。 ほとんどボランティアの力で出来上がっ たこの小さな手作りのミュージアムの で注文した時には、一匹焼いてもらって 市が提供した二部屋をリフォームし、壁 オープンは、実に感無量だった。 一二〇〇円ほどだった。まちのタベルナ ラ フ カ デ ィ オ・ ハ ー ン 」。 こ の テ ー マ の 同じテーマで現代アート展を行い、世界 発案者もタキスさんで、二〇〇九年から キス・エフスタシゥさんから寄贈された を巡回させている。 面に解説パネルや写真を展示。展示ケー 初版本や日本のハーンゆかりの地の自治 七 月 五 日 朝、 シ ン ポ ジ ウ ム に 先 立 ち、 私 が ハ ー ン の「 オ ー プ ン・ マ イ ン ド 」 スには、ギリシャ人のハーン愛好家のタ 体や団体、小泉家が提供した遺品や原稿 の熟成過程とその文化背景をスライド ンの場であり、一人暮らしの老人たちの 生存確認の大切な場ともなっている。 のレプリカが陳列された。松江市からは 午後五時に予定より二時間遅れてレフ ラ フ カ デ ィ オ・ ハ ー ン・ ヒ ス ト リ カル・センター 「 耳 な し 芳 一 」 の 草 稿 と 愛 用 の ペ ン、 ペ (食堂)は、地域住民のコミュニケーショ (上)ハーン・ミュージアムのオープニング。(下)シンポジウムの風景。 イオニア海の夕暮れ。 56 デュースに心血を注いだ妻の力に感謝し 大学の長岡真吾さん、そして事業のプロ ネリストとの調整役をしてこられた島根 だいた。半年にわたり、松江で世界のパ 参加できて感動した」という言葉をいた トから「こんな創造的なシンポジウムに 伝えるべきだ。参加した複数のパネリス 可能性があることを現代の子どもたちに マインドの源だ。つねに新しいものへの こうとした。それこそが彼のオープン・ ものに対して興味と好奇心を持って近づ 報告するという思いで臨んだという。 最愛の人、ギリシャ人の母ローザの魂に に紡いだ作品を故郷レフカダとハーンの さんは、ハーンが日本時代の幸せな時間 着しつつある。佐野史郎さんと山本恭司 度を高めながら松江の文化資源として定 に松江で始まり、総合芸術としての完成 る。小泉八雲作品の朗読ライブは八年前 五日の朗読ライブは、イオニア海に陽 が傾く、午後九時半から野外劇場で始ま パフォーマンス はとても共感できる作品だ。英語とギリ る。哲学と芸術が大好きなギリシャ人に 分の肉体とは変わらない存在だと感じ て、ハーンは、この露のひとしずくと自 しずくに映る逆さまになった風景を見 し ず く 」(『 骨 董 』) で 結 ぶ。 朝 露 の ひ と して中期の哲学的エッセー「つゆのひと 編物語から日本文化の機微にせまる。そ 『 心 』・『 日 本 の お 伽 噺 』 に 収 め ら れ た 短 ら』)に始まり、『知られぬ日本の面影』 ・ 顔を出す作品「夏の日の夢」(『東の国か (こいずみ・ぼん/総合文化学科教員) てくれたように感じる。 が人々を平和でポジティブな方向へ導い 「 オ ー プ ン・ マ イ ン ド 」 と い う 言 葉 自 体 記 念 事 業 の 嬉 し い 成 果 だ と 思 っ て い る。 い と 問 い 合 わ せ が 来 て い る。 こ れ こ そ いう。ミシュランガイドからも掲載した 地域の子どもたちもサマー・プログラ ムの一環でミュージアムを訪れていると その後の昼寝 シ ( エスタ と ) 散歩を経て、 後半は夜を迎えてから始まるからだ。 に分けて使うのだ。午後三時過ぎの昼食、 (たかしま・としのぶ/写真家) シャ語の字幕スーパーも観客の理解を助 けた。最後にはスタンディン レフカダ時代のハーンの微かな記憶が グ・ オ ベ イ シ ョ ン と な っ た。 言葉の壁を越えて観客の心に 響いたようだ。レフカダ市の アラバニス市長は、永いレフ カダの歴史の中で、こんな画 期的なイベントは初めてだと 語った。 翌日の清和文楽でも日本文 化の奥深さが観客の心に届い たようだ。朗読ライブは、七 月七日にイオニア諸島最北の 島コルフ島でも行われた。 直近のレフカダからの報告 では、新しいハーン・ミュー ジアムには噂を聞きつけた島 民が次々と訪れ、市は予定を 変更し、一日に二度(午前と 夕方)開館することを決定し た。この国では、一日を二度 レフカダの落日。 たい。 (上)感動を与えた朗読ライブ。佐野史郎氏と山本恭司氏。(下)中村寿男さん・ 万紀子さんによるお茶の文化と松江の紹介。コルフ島アジア博物館。 が見えたことから命名されたらしい。と、 )が説明してくださいました。現在、 朗らかに笑いながら女将の小林圭子さん ( 日の出湯から大山の朝日を拝むことはで きませんが、そこはかとなく想像するこ とができます。 ころだろう。私のように銭湯という言葉 私は「銭湯」というものに入ったこと がありませんでした。銭湯ってどんなと し、料金も高いが~」と女将さんは懐か 返した。今はどこの家にもお風呂がある なると沢山の人がこらいて、人でごった 日下朋子 お風呂が備え付けられていない家庭が 多かった時代には、家族総出で銭湯に出 か け た そ う で す。「 銭 湯 は 社 交 の 場 で い は知っていても、実際に行ったことのな しそうに言われました。今は四百円の入 つもにぎやかだった。お風呂の時間帯に い若者は増加の一途をたどっているので 浴料だけど、圭子さんが嫁いでこられた うさまでした」)。島根に銭湯はないけれ んびり雲』第1号「きらく湯よ、ごちそ 年 五 月 九 日 に 営 業 を 終 了 し ま し た(『 の 松江最後の銭湯「きらく湯」は二〇〇七 りません。もちろん松江にもありません。 の生活に潤いをもたらし、ゆっくりと昇 代でも、まだまだ憩いの場なのです。人々 湯「日の出湯」は生活様式が変わった現 もいます。女将さんが番台から見守る銭 高齢の方などで銭湯を必要としている人 昔に比べると利用するお客さんはうん と減ったそうですが、一人暮らしの方や 昭和四十六年ころは四十円でした。 ど、一度は銭湯に行ってみたい……。 を 紡 い で き た 老 舗 の「 日 の 出 湯 」 で す。 人間情緒・お湯のように暖かい る日の出のようにゆったりとした気持ち にしてくれます。 銭湯は、どんなところなのでしょう。つ いに銭湯デビューです! 「日の出湯」の日の出 「日の出湯」は創業が大正十(一九二一) 年。 か つ て そ こ で「 大 山 か ら 昇 る 朝 日 」 さんにとって一番いいお湯で疲れを癒 よってお湯の温度を変えています。お客 ま す。「 日 の 出 湯 」 で は、 天 候 や 季 節 に たちはお風呂の温度にもこだわりをもち 春・夏・秋・冬、季節は巡ります。気 候の変化によって体感温度も変わり、私 ました。目指すは九十年以上脈々と歴史 ということで、今でも銭湯があるとい う鳥取県の米子に出かけようと思い立ち 銭湯は町にひとつはあってほしい市民 の憩いの場。でも、島根県には銭湯があ はないでしょうか。 日の出湯の日々 (米子市) 70 58 ■(右上)圭子さん。とびきりの笑顔。(上段中)昔懐かしい体重計。(左上)お釜ドライヤー。(左中段)取材風景。(右下)脱衣場。(下段中) 牛乳石鹼。(左下)日の出湯のある通り。 めのお湯、冬は熱めのお湯にします。 し、ほっとしていただくために夏はぬる ます。 番台に座る女将さん。四百円を番台に置 内装。そして、優しげにほほ笑みながら スイッチ一つで機械を操作することは 便利だけれど、一つ間違えると重大なこ たのです。 上げた地下水を廃材を燃やして温めてい れたのは昭和四十六年ですが、昔は汲み いたそうで、女将さんは「価値がわかっ の文字が振られた木製の脱衣箱を使って 受けたもの。それ以前は、各扉に「いろは」 る、何とも言えない色味。脱衣箱は三十 放っていました。使い古された、味のあ 長年、沢山のお客さんの足に踏まれた 板張りの床はつるつるに磨かれて光沢を き、下駄箱に靴をしまい脱衣場へ向かい 今では地下水の汲み上げ・濾過・加温 を 機 械 で し て い る た め、 比 較 的 労 力 は とになります。ある日はお客さんが「変 てなかった。もったいないことしたわー」 減ったそうです。圭子さんが嫁いでこら だ わ ー、 変 だ わ ー」 と 言 っ て き た た め、 ~四十年前に廃業した他の銭湯から譲り 湯 船 に 張 ら れ た お 湯 を 見 て み る と …… とぽつり。 い湯が好きな人、ぬるい湯が好きな人が のんびり包まれてええなあ」と一言。「熱 またある日にはお客さんが「ぼんやり とした湯だった。ぬくもりで熱くもなく、 これが銭湯! 町の人々に愛され、今ま で続いてきたもの。温泉とはひと味違う こ と の な い よ う な も の が 目 を 引 き ま す。 木の机、休憩椅子など、これまでに見た 濁ったお湯が! 濾過スイッチを入れ忘 れていたのです。 いるけれど、この一言がもらえると嬉し 空間に心癒されます。 辺りを見渡すと、がっしりした古い体 重計、大きな古い鏡、おかまドライヤー、 い」と女将さんははにかむ。こんな人間 情緒あふれる銭湯ってすてきです。 の照明看板は先代がデザインしたものだ 「 日 の 出 湯 」 に 到 着 し、 ま ず 迎 え て く れたのが扇形の照明看板。この珍しい形 れが銭湯かー すこしざらざらとした 床と、泡がゴーゴーと出るジャグジーつ いつもとは違う空間。不思議な空間。こ ラリと戸を開ける。するとそこには…… きの浴槽、その奥には淡い光に照らされ まずは桶にお湯を……と思ったら「あ れれ、なんだか勝手が違う。赤と青のボ 59 のんびり雲|第 8 号| 2014 ひとっぷろは極上の味 そうです。左が男湯、右が女湯でそれぞ 祝・銭湯デビュー れの暖簾が入口に掛かっていました。 て花が飾られています。 昭和の空間を堪能した後、いよいよ奥 の浴室へと進む。引き戸に手をかけ、ガ 簡 素 で、 の ん び り と し た 古 い 外 観 は、 町の中でちんまりと存在感を放ってお り、暖簾をくぐるとまるで昭和にタイム スリップしたかのような感覚さえ覚える !! タン? どうやって使うのかな? そう か! 赤 が お 湯 で 青 が 水 な の か 」。 な ん と 温 度 調 節 が 必 要 な 蛇 口 …… 感 激 で す。 ざ! 参ろう。片足を入れ、もう片足を 入れる。とても深い湯船です。足を伸ば とろとしたお湯です。準備は整った。い の温度を確かめる。柔らかですこしとろ 銭湯の醍醐味です。 こ と の 少 な い 私 に と っ て は 新 鮮 で し た。 日 の 光。 日 が 高 い う ち の お 風 呂 は 至 福、 ると天窓があります。天窓から射し込む 極上。家で日の高いうちに湯船をためる して体の芯まで温まります。上を見上げ 「日の出湯」の日々 「 よ い し ょ、 ど っ こ い し ょ」 の 掛 け 声 で 番 台 へ 上 が る 女 将 さ ん。「 ず っ と 番 台 に座っているから足が衰えてねー。上が るのも一苦労」と豪快に笑う。日の出湯 では、日曜日を除いて、毎日、十五時か ら二十一時まで営業していますが、基本 女将さんが番台にいます。 夕飯時にはご飯を作るために夫の道正 さん( )にバトンタッチして家に帰り 寒い冬のある日、酔っぱらったおじさ んが顔を出され、制止したにもかかわら る方もおられるそうです。 の」と、いつも自分好みのタオルを借り タ オ ル が い い 」「 今 日 は あ の タ オ ル な い 来らいて、それからは来られん。靴だけ て い ま す。「 大 事 だ っ た。 あ の 一 回 だ け と言い、救急車に乗って行ってしまった ど、お客さんが「救急車を呼んでほしい」 す。救急車を呼ぶ前に息を吹き返したけ ため、靴がそのまま「日の出湯」に残っ ず湯船に入り、倒れたことがあるそうで る の で す。 常 連 さ ん の な か に は、「 こ の さんのための貸し出し用を当てにしてい もいます。最初からタオルを忘れたお客 銭湯にはタオル持参で行くのが道理で すが、タオルを持たないでくるお客さん の中には色々な人がおられます。 した。そんな日の出湯を訪れるお客さん 湯はゆっくりと流れる時間の中にありま べに帰ります。ふたりで切り盛りする銭 再び番台に上がり、道正さんが夕食を食 ます。そして、夕飯を終えた女将さんが 72 ボタンを押す感触がたまりません。 ゆっくりと湯船へ向かう。まずはお湯 ■(右上)女湯の浴室。(左上)光がふりそそぐ幻想的な天窓。(右中段)牛乳とコーヒー牛乳。(右下)上に長靴 が置いてある下駄箱。(左下)赤と青のボタンが存在感を放つ。 ■(左)にぎやかに会話する圭子さんと道正さん。(右)番台に座る圭子さん。傍らには貸し出し用のタオル。 義方小学校の二年生の子供たちが毎年 社会見学に来ます。ピーチク、パーチク いがー」と少々困り顔。 て。でも、きしゃがわる、じゃまがわる まだ靴箱に置いてある。捨てるのもなあ 歴史をつなぐ 日々はゆっくりと流れていきます。 ん な 騒 動 も あ る け れ ど、「 日 の 出 湯 」 の りに来ることもあるそうです。時々、こ ……」と、残念そうです。 時世で、米子は商売の町なのでよけいに ま す。「 古 い も の が ど ん ど ん な く な る ご らやめたくなる」と女将さんは言われ ほ ど す る そ う で、「 高 価 だ か ら、 壊 れ た 代。機械は、全部買い替えると五百万円 きています。女将さん・旦那さんも七十 良かったと思える。それが続けている理 かい言葉です。そうすると、やっていて てよかった。気持ちよかった』という温 になるのがお客さんの『ありがとう。来 たくなることもあるけど、一番心の支え こかの銭湯が残らないといけない。やめ 車で来られるお客さんもいるんです。ど 女将の圭子さんのご主人、道正さんは 公務員でした。住まいも「日の出湯」と 「 社 会 奉 仕 の よ う な も の。 一 日 を ほ っ としていただけたら……」 てほしいです。 るのは寂しく思います。これからも続い うです。しかし、この渋い銭湯がなくな 越してきたため食事を作りに帰るときな さん、道正さんは銭湯のすぐ裏手に引っ 手に入れたものだそうです。なお、圭子 す。これらの家具は、お酒も賭博もされ の二階で暮らしておられたそうです。こ た。昔、おじいさんとおばあさんは、こ 取 材 の 後、 離 れ の 二 階 に 案 内 し て い た だ き、 お 抹 茶 を ご ち そ う に な り ま し 由」と、圭子さんは静かにほほ笑みなが にぎやかです。社会見学の後、「日の出湯」 創業が大正十年で、九十三年続く銭湯 「日の出湯」。そろそろ機械類にもガタが を気に入った子が家族と一緒に風呂に入 ら話してくださいました。 は離れていたため、銭湯に嫁ぐという意 年々減少し、今では三軒にまで減ったそ 識はありませんでした。まさか自分が番 ど、とても便利です。 きたおばあさん(ご主人のお母さん)も その後、銭湯の仕事を一手に引き受けて ていくうちに、小林さん夫妻の温かさや でき、よい経験になりました。話を聞い 私にとってこの取材は、古き良き日本 の文化と、人と人とのつながりを再認識 なかったおじいさんが骨董集めの趣味で こには台所もあり、立派な家具もありま 台に上がるなんて夢にも思わなかったそ 平成二十年に亡くなられたことから圭子 人情に触れることができました。そして、 うです。しかし、平成十三年におじいさ さんは銭湯の仕事を継ぐことになりまし 「 日 の 出 湯 」 が 人 々 に 愛 さ れ、 こ の 時 代 日の出は町を照らす うにあたたかな人情あふれる人になりた た。私も「日の出湯」のようにゆっくり ん( ご 主 人 の お 父 さ ん ) が 亡 く な ら れ、 た。 「 儲 け に な ら な い 銭 湯 の 商 い で、 も う や め た い と 何 度 も 思 い ま し た よ。 で も、 いです。 まで脈々と続いてきた理由がわかりまし 一人暮らしで風呂掃除ができない高齢者 (くさか・ともこ/文化資源学系二年生) と歴史を刻みながら、小林さん夫妻のよ や、わざわざ銭湯に入るためにバスや電 61 のんびり雲|第 8 号| 2014 「 日 の 出 湯 」 の 存 在 は 貴 重 で す。 以 前 は十五軒くらいもあった米子の銭湯も ■(上段)みんなで記念写真。(下段左)扇風機と戯れる筆者。(下段右)銭湯の離れ。手前は駐車場。 魅力発見! みることにしました。するとそこには素 い機会だと思い、思い切って飛び込んで ことはほとんどありませんでしたが、い す。これまで中町商店街のお店に入った シャッター。それ以前を知らない人間で んでいますが、私の記憶の中にあるのは 戻しつつあります。私はずっと近所に住 ではありますが以前のような活気を取り シ ャ ッ タ ー 街 ―― ま さ に こ の 言 葉 が ぴったりだった中町商店街は、少しずつ か不思議な香りが。そこには「もろふた」 お店の奥にある麴の製造場を見せてい ただきました。中に入ってみるとなんだ ておられました。 はないため「商売にならない」ともらし 比べ、塩麴は百~二百グラムしか必要で 来 し た け ど、 麴 が 一、二 斗 必 要 な 味 噌 に くなってきました。最近塩麴ブームが到 多かったそうです。しかし、徐々に少な を自宅で作っていて麴を買いに来る人が わしたものが置いてあったな。あれが麴 です。そういえば店の前に白くてふわふ もともとは麴屋さんとして始まったそう のごや」さんは創業がなんと明治二年! 樋野泰男さんにお話を伺うと、ここ「ひ 店内に入ってまず目に飛び込んでくる のが駄菓子、そしてお酒。六代目店主の ひのごや 売れ続けたそうで、売れ続けたものだけ その中でも百~二百円くらいのお菓子は か ら 売 れ な く な っ た そ う で す。 し か し、 いたけど、スーパーなどが周りにできて お菓子のほかに果物やパンなどを売って ところで麴屋さんなのになぜ駄菓子 が?という疑問についてですが……昔は んありました。 という見たこともない室の道具がたくさ 敵な出会いと発見がありました。 というものなのか。昔は多くの家が味噌 大峠百花 出雲中町商店街 ■色とりどりの駄菓子が並ぶ「ひのごや」さん。 62 「 字 が 読 め な い ……」 と 私 た ち が 悪 戦 苦闘していたところ、「“ふの”と読むん 布野靴店 たした不思議なお店でした。 た。駄菓子と麴という異色のコラボを果 です」と樋野さんはおっしゃっていまし た。「 お 客 さ ん が 作 り 上 げ て き た 店 な ん を残した結果、今のような形になりまし 頑張ります! に な っ た ら 買 い に 来 て ね 」 と 布 野 さ ん。 いくそうで、高いもので二万円!「大人 ラリ。三十~五十代の奥様方が買われて 店内にはなんだかお高そうな婦人靴がズ 八十年前。レトロでおしゃれな雰囲気の 盛り上がったところで店内へ。創業は約 なのだそうです。しばらく名前トークで れは東京で行いますが東京にはない名前 中に入ってみると古 本が所狭しと並んでい した。 潜入することができま 到来したのでようやく 取材というチャンスが ました。しかし、今回 気が出ず、入れずにい たのですがなかなか勇 の香りがする「すごろ ました。ほかにも昭和 國美喜書店 ですよ」とお店の中から出てきて教えて くださった店主の布野芳江さん。布野の く」など、とにかく古 くてどこかなつかしい 私は以前からこのお店が気になってい 物がたくさん。仮面ラ イダーが大好きな佐々 気。私はよく分らなかったのですが、ほ 木さんが歴代仮面ライ ダーの雑誌を見てとてもうれしそうにし かのメンバーは国鉄時計と船時計にとて ました。奥さん曰く「主人は昔から集め に、三十年前からこつこつ集めてこられ たいと思っていた」そうです。そのため るから楽しい」と本当に楽しそうに話さ と い う 布 の 絣。「 い ろ ん な も の が 出 て く 伺ったところ、若い女性が買われていく ここでアルバイトをされているという 掘江麻理子さんに最近売れているものを も反応していました。 る こ と が 好 き 」。 自 他 と も に 認 め る 収 集 れていたのが印象的でした。 こじまクラフト うな気分になりました。 ど、少しの間だけタイムスリップしたよ 目の当たりにして感動し、思わずくるく は中華料理屋の桃花園に行くことに。中 朝から取材で立ちっぱなし、歩きっぱ なしだったため、お腹を空かせた私たち 桃花園 華料理屋によくある回転式のテーブルを 店の外に古い電動三輪車、たばこの看 板、ラジオ……。店内には古いものがた る回してしまいました。 者として今はなき平凡を見て感動するな 癖の持ち主なのだそうです。元明星の読 店主の桑原明夫さんにお話を伺ったと ころ「自分の手で将来こういう店をやり ていたのが印象的でした。 ■ ( 上)骨董品が並び、レトロな雰囲気の「こじまクラフト」。(左 下)これは船時計だそうです。(右下)店外にも珍しい品が。 くさん並んでおり、とてもレトロな雰囲 63 のんびり雲|第 8 号| 2014 野の字が崩してあったんです。靴の仕入 ■(右上) 「ひのごや」店主の樋野さんに取材中。(中央)初めて目にする麴。(左上) 「ふの」って読めますか?(右下)古本を手に笑顔の香川さん。(左下)國美喜書店 のご主人は貴重な江戸本を見せてくださいました! ■(右上)料理を前にして嬉しそうな筆者。(右下)最後まで笑顔で見送ってくださいました。(上段中)美しい着物にほれぼれ。(左上) これを着て花火を見に行きたいです。(中央)奥にはどんな世界が広がっているのでしょうか。入ってからのお楽しみです。(下段中)かわ いいリボンがいっぱい。(左下)マリメッコのコップを手に。 いただきました。 笑ってしまいました。どちらもおいしく 小さな杏仁豆腐が付いてきて、みんなで と二つ注文したのですが、全部の料理に す。みんなで杏仁豆腐を分けて食べよう くてプリプリでとてもおいしかったで 私は一番人気だという海鮮あんかけ チャーハンを注文しました。エビが大き フランセ いお店です。 ケースなどが揃えてあり、学生には嬉し る そ う で す。 ほ か に も リ ボ ン や 缶 ペ ン ンクール用の衣装を買っていくこともあ ブラスバンド部や合唱部の生徒さんがコ 生の制服を取り扱っています。ほかにも んにお話を伺ったところ、ここでは中高 す。「 塩 味 の 焼 き ビ ー フ ン は ど こ に も 負 気になっていました。なかなか入れずに 少し薄暗くて怪しげな雰囲気を醸し出 しているこのお店は小さい頃からとても 寄ってみました。従業員の山根紀美子さ お店を営んでいる盧政子さんは中国人 の三世。ご主人も二世なのだそうで、本 けない」と盧さん。今度食べに行きたい いましたが、今回思い切って入ってみま 格的な中華料理を味わうことができま と思います。 く入学式用にも買っていかれるそうで た。着物は嫁入り道具としてだけではな りにも美しくてほれぼれしてしまいまし 白い生地に花があしらわれた着物。あま いただきました。見せていただいたのは 私は着物を間近で見たことがなかった ので、従業員の石橋ゆかりさんに見せて 衣、綺麗な浴衣がズラリ。 ズンということもあり、かわいらしい浴 ることにしました。ちょうど夏祭りシー 創業百二十九年の歴史ある呉服店だと どこかで伺ったことがあるので入ってみ 石橋呉服店 中町商店街に歩けないほどの人が集 まっていた時代、このお店は喫茶店がメ です。 いて奥さんを少し困らせておられたよう しかし片岡さんは、城と石畳ばかり見て スイスに行った」と店主の片岡靖雄さん。 ん と の 新 婚 旅 行 は「 ド イ ツ、 フ ラ ン ス、 早速『のんびり雲』をお渡ししたとこ ろ、小泉先生が書かれた海外紀行に興味 ました。 して、優しそうな店主さんが迎えてくれ 配は消え去りました。おしゃれな服や雑 した。実際に店内に入ってみるとその心 す。知識が増えて少しだけ大人になれた イ ン だ っ た そ う で す。 目 玉 料 理 は ス パ 津津の様子でした。それを見ながら奥さ 貨。アクセサリーや輸入品のお菓子。そ ような気がしました。 学生専科やまね わかした片岡さんですが、お話がユニー 腹が空いてしまいました。見た目はほん ゲッティミートソースです。なんだかお 制服が懐かしくなってふらっと立ち 64 てしまいます。 クで楽しくて時間があっという間に過ぎ 世代で通われているそうです。すごい! んの中で最年長は九十四歳。なんと、三 主の槙野功さんによると、常連のお客さ すね。知りませんでした。 なのでしょうか。ミュージシャンなんで れるそうです。エルビスさんってどなた 彼女は以前はお酒造りにまったく興味 がなく、京都でお茶屋さんに勤めておら る愛情が伝わってきました。 ただいたり、私の持っているカメラに興 知 っ た か ら 」。 酒 米 の 生 産 地 に 行 っ て 草 り出すもので色々な人と繋がれることを は ま っ て し ま っ た そ う で す。「 自 分 が 作 てほしいと言われて帰ったところ、急に れました。しかし、ご両親に少し手伝っ 味を持たれた三男の桂三さんにカメラを ブ ラ ジ ル 人 の お 客 さ ん も 来 ら れ、「 エ ル 貸して撮影会(おもに愛犬のココア)が 刈りの手伝いをしたり、逆に農家の方が 理容室槙野 始まったりと、本当に楽しい時間を過ご 酒 造 り の 体 験 に 来 ら れ た り し ま す。「 住 即興でヘアカットシーンを披露してい ただいたり、パーマ台の前に座らせてい させていただきました。最後には自宅で 民同士が横で繋がれば力になる。繋がれ ビス・プレスリーにしてくれ」と注文さ 育てておられるトマトとシシトウまでい ば自然と人が集まってくる」と寺田さん 酒造さんのお酒はやや辛口で味はしっか 十代目当主の佐藤誠一さんによると旭日 杉玉がぶら下がっている店内に入ると 沢 山 の お 酒 が 目 に 飛 び 込 ん で き ま し た。 には隠れた文化資源がたくさん埋まって う……」と強く感じました。中町商店街 んで今まで魅力に気づかなかったのだろ 実際に中町商店街のお店に飛び込んで みると、どこも素敵なお店ばかりで「な は言います。 ただいてしまいました。 り。そして後味がさっぱりしているそう います。その資源を中町商店街に合った 旭日酒造 です。よく見てみるとお酒が置いてある きると思います。可能性は無限大です。 の で す が、 日 本 酒 の 香 り が ふ ん わ り と の時期はお酒の生産を行っていなかった ていたのかと感動してしまいました。今 くり。お店の奥にはこんな世界が広がっ 寺田さんに酒蔵を見せていただきまし た。奥の方まで酒蔵が広がっていてびっ そうに語っておられました。 中町商店街の革命に少しでも貢献でき るよう、これから学びを深めていこうと されました。 い人たちの力を貸してほしい」とお願い だそうです。ですから「昔を知らない若 そのためには昔を知らないほうがいいの 旭日酒造の寺田さんが「昔に戻ろうと するのではなく、今をどうしていくかと やり方で生かしていけば変わることがで 台は何かの蓋? 副杜氏の寺田栄里子さ ん( 佐 藤 さ ん の 娘 さ ん ) 曰 く、「 仕 込 み 漂っていました。酒蔵は建て替えられな 思います。 桶の蓋です。味があって大好き」と幸せ い そ う で す。「 住 み 着 い て い る 酵 母 が い (おおとうげ・ももか/文化資源学系一年生) いうことが大事」と言っておられました。 たずらしている」からです。酵母に対す 65 のんびり雲|第 8 号| 2014 昭和三年に創業された理容室槙野。店 ■(右上)旭日の酒樽。(左上)副杜氏の寺田さんはとても熱く語ってくださいました。 (左下)大きな酒タンク。(右 中段)一度はパーマをかけてみたいものです。(右下)愛犬のココアちゃんがとてもかわいかったです。 ■「ホタルと神楽の夕べ」。「国譲」での餅まきの様子。 人々をつなぐ伝統神楽 雲南市大東町小河内社中を訪ねて 伊藤瑳紀 日本で古くから続く伝統芸能の一つ に、神楽があります。 私は山口県の出身ですが、初めて神楽 を見たのは保育園の頃。地元のお祭りで 神楽を見ている人々の姿はとても楽しそ うで、大人たちの笑顔と砕けた雰囲気が とても印象的でした。 地域の伝統芸能を続けることはとても 難しいことだと思いますが、神楽を継承 されている方々は何を感じていらっしゃ るのか聞いてみたい。また神楽のことを もっと知りたい。そんな思いから、島根 県 出 雲 地 方 の 中 で も 神 楽 が 盛 ん な 地 域、 雲 南 市 大 東 町 を 訪 ね る こ と に し ま し た。 大東町には五つの神楽社中があります が、今回お世話になったのは小河内社中 のみなさんです。 ホタルと神楽の夕べ 六月十四日、大東町小河内で「ホタル と神楽の夕べ」という催しがあり、私も 縁あって参加することができました。出 雲神楽とはどんなものなのだろうとワク ワクしながら会場の「なごやか会館」に 向かいました。 開演は午後七時三〇分、客席は野外で す。外はどんどん薄暗くなっていき雰囲 気は最高。会場にはたくさんのお客さん が来られますが、全員におにぎりが配ら れ、また屋台も出ていて、とても楽しく 神楽を見ることができます。着いてすぐ に私たち取材班は小河内社中のみなさん に挨拶に行きました。そこで、代表の松 66 舞台裏には多くの関係者の方々がい ら っ し ゃ い ま し た。 そ こ で な ん と、「 簸 目のスタートです。 ました。計三回にわたる取材の、第一回 本廣志さんと少しお話をさせていただき ば地元の海潮中学校には神楽部というも きました。しかし、彼女たちの話によれ しているのは初めて見たので、最初は驚 子供神楽なら見たことがあるのです が、若い人が大人に交じって神楽に参加 いました。 大蛇が足を踏みしめたままジリジリと動 きて、体全体を震わします。スサノオや 楽の笛や太鼓の音も腹の深くまで響いて 近くで見た神楽はすごい迫力で、キレ や躍動感がビシビシ伝わってきます。奏 ができました。 七月十七日、午後七時三〇分、再び小 河内社中を訪ねました。二日後に行われ 小河内社中の歩み 的でした。 ている人々のとても楽しそうな姿が印象 は、私たちをとても温かく迎えてくださ の川大蛇」に登場する奇稲田姫の役が男 いました。 る海潮幼稚園と夜神楽大会での公演の打 んのこれぞ神楽!というような迫力ある 最初に見せていただいたのが、神楽の 台本です。本の扉には「神能記」と書い 合せにお邪魔しました。社中のみなさん 演舞に引き込まれてしまいました。 てありました。とても古いもので、紙が か す 動 作 か ら は 念 力 を 感 じ、 力 強 く て、 私は今回初めて演舞中の大蛇が舞台下 に降りてくることを知りました。写真を 傷んでいるため、裏打ちの補強がされて 大変かっこよかったです。小河内社中さ 撮ることに集中していたので、舞台下の います。 のもあるようで、若者の神楽への参加は 私の真横に飛び降りてきた大蛇に不意打 小河内社中は文化八(一八一一)年の 須 我 神 社 の 古 文 書 に 記 載 さ れ て い ま す。 そう珍しいことでもないようです。 ちを食らい大変驚いてしまいました。 二百年前のものですが、少なくてもさら 子高校生だということを発見。もう何度 地域の中の神楽 ま た、「 国 譲 」 と い う 演 目 で は 力 比 べ で岩に見立てた座布団を投げるシーンが に百年さかのぼり、三百年前ぐらいから も出演しているそうです。姫役には背格 とが多いのだとか。ほかにも笛や合調子 あります。岩が舞台から客席に飛んだり 好的にすらっと背の高い若い人がなるこ に、地元の女子高校生の方が参加されて 私たちは一番前の席で演舞を見ること して会場は盛り上がります。重そうに投 小河内社中はあったのではないかといわ は会場に笑い声が上がりました。 67 のんびり雲|第 8 号| 2014 いつの間にか、周りを見れば舞台の近 く に 子 供 た ち が 集 ま っ て き て い ま し た。 不思議に思っていたら、なんと餅まきが 始まるではありませんか。神楽で餅まき をするなんて、とても嬉しいサプライズ です。子供たちが餅まきのタイミングを 見計らって近寄ってくる姿がとてもかわ いらしかったです。本当にここの神楽は 地域の中に根ざしているのだなと感じた 光景でした。 ま た、 大 蛇 が 怖 く て 子 供 が 泣 い た り、 それを見て観客が笑ったりと、神楽を見 ■ 7 月 17 日、小河内社中の打合せにお邪魔したと きの様子。 げていた岩を子供がキャッチしたときに ■(右上)笛・合調子担当の女子高校生。(左上)準備中の姫役の男子高校生。(右下) 「簸 の川大蛇」の一場面。(左下)「国譲」での力比べの場面。 ミュンヘンやデュッセルドルフ、ゾーリ ン ゲ ン な ど で 公 演 を さ れ た こ と が あ り、 そのときもアンコールがあり大変好評 だったそうです。 ちなみに、小河内社中では神楽公演の 出 演 料 は 決 め て い な い そ う で す。「 な ん ぼもらっても一緒。汗かく量は同じだか ら」と言う社中のみなさんの、からっと した笑顔が印象的でした。いつでも、神 楽を一生懸命されていることが伝わって きました。 衣装を着けて神楽を体験! 舞中の刀の使い方を実演してくださいま 危ないものです。その刀で松本さんが演 そついていませんが本物の武器のように 使っている刀は、なんと金属製で、刃こ わ ざ わ ざ 出 し て 見 せ て い た だ き ま し た。 とても楽しい時間でした。そのとき、笛 り き り 体 験 を さ せ て い た だ い た 気 分 で、 をかけて下さったりと、本当に神楽のな した。笛を吹いてくださったり、掛け声 採物を持って舞の指南をしていただきま 付けをしてもらったあと、榊や扇などの また、取材班の学生三人がそれぞれ選 んだ衣装を着させてくださいました。着 社中の皆さんのご好意で、次の公演の ために荷造りしてあった衣装や面などを した。コツは体の周りによせて動かすこ の音が鳴ると空間がピンと張ることに気 小河内社中は今からおよそ一〇〇年前 に 出 雲 大 社 教 の 神 楽 に 指 定 さ れ ま し た。 ていたそうです。 すが、最も多かったときは六十回もされ 近頃では一年間に三十七~四十回ほどで 来 て い た だ い て い ま す。 神 楽 の 公 演 は、 地元の中高生や周りの社中から手伝いに 神楽の活動は現在、女性を一名含め十 名でされており、人手が足りないときは れています。 ていました。 のみなさんも舞っていて楽しいと話され りするなど大変賑やかです。小河内社中 太鼓をたたいたり、子供も一緒に踊った がステージに上がってきて一緒に鼕や小 奥出雲では、演じている途中にお客さん もあります。二十年来の付き合いがある 松江や奥出雲、遠くは広島まで行くこと このほか、さまざまな催しに呼ばれて 公 演 さ れ て お り、 そ れ も 地 元 に 限 ら ず、 ます。 て、大蛇の役は大変です。 激しい動きをしなくてはいけないなん く見えません。その上蛇胴を着て、あの 頭の内側からの視界は狭くて、周りはよ えるのがやっとという感じです。しかも の頭は木製で、予想以上に重く、頭で支 や蛇胴を着させていただきました。大蛇 きいので迫力があります。私は大蛇の頭 大蛇や鬼の面も出して見せてください ました。どちらも険しい顔で、しかも大 自然とわかるのは、昔から耳で覚えるほ しあっているのだそうです。音の違いが がよかった、悪かったということを評価 る人と舞手の人は、お互いに今日は調子 の方は話されます。また、楽をやってい 神楽は奏楽が大事です。音に力強さが あると舞にも力強さが出てくる、と社中 心躍る神楽の音楽 とりもの と で、 刀 の 向 き、 回 し 方 に も 注 意 し て、 ■着付けをしていただいているところ。 けがをしないようにします。 そのため、地元の神社の秋祭りだけでは 海 外 公 演 に も 行 き ま し た。 ド イ ツ の づきました。 なく、出雲大社での奉納神楽もされてい ■(右上)社中の方と鬼の面を見る倉上さん。(右中段)大蛇の衣装を着せても らう筆者。(右下)大蛇の頭を被る筆者。(左上)刀の使い方を実演する松本さん。 (左中段)「神能記」。(左下)面や採物を見せていただいているところ。 68 ■(右)衣装を着け、社中の方に舞を習う取材班。(左上)夜神楽大会での小河内社中の奏楽の様子。(左下)海潮幼稚園での公演の様子。 子供がスサノオの動きを真似している。 といった感じです。神楽の楽は、いろん 動きだすのだそうです。まさに血が騒ぐ、 ムが好きで、笛の音を聞くと自然と体が きなことが伝わってきます。神楽のリズ と笑顔で話されます。神楽がほんとに好 また、社中のみなさんは、神楽の話を すると、農業で疲れていても元気になる、 あったのだと思います。 成長してきて、いつも近くに神楽の音が とっては、それだけ地域の神楽と一緒に ま で あ る よ う で す。 そ の ご 老 人 た ち に うです。実際、神楽の奏楽を聴く治療法 た人が話すようになったことがあったそ に行ったとき、まったくしゃべらなかっ で、小河内社中が老人ホームに神楽公演 神楽の楽は人々の心に根付いている音 楽でもあります。笛の音は不思議なもの きたからだといいます。 ど聞いてきたし、それだけ身近に感じて ノオ役がまだ中学生なが ら毎週集まって練習してきました。スサ レーや剣道、いろんな部活を兼部しなが 海潮中学校神楽部は「陰陽」と「簸の 川大蛇退治」の二演目を演じました。バ て綺麗でした。 側だけがまるで別世界のように光ってい ます。夜の神楽ということもあり、舞台 れる神楽はより一層厳かな雰囲気があり れました。風情あふれる茅葺民家で行わ 会場である「神楽の宿」は、大東町須 賀に築百年以上の民家を移築して建てら が二十三回目だそうです。 勢ぞろいし、神楽を演じる催しで、今年 神楽大会は五社中と海潮中学校神楽部が 中のうち四つが海潮地区にあります。夜 小河内周辺の海潮地区は、神楽が盛ん なところで、大東町にある五つの神楽社 の「神楽の宿」に移動しました。 があります。それに合わせ私たちも会場 (いとう・さき/文化資源学系一年生) ぜひ参加してみたいと思っています。 した。嬉しさ半面、戸惑いもありますが、 余談ですが、小河内社中のみなさんに 神楽に出てみないかと誘っていただきま 続けることを願っています。 楽の伝統と思い出が、後世まで継承され まっているはずです。このままずっと神 歩 ん で き た 年 月 の 分 だ け、 思 い 出 が 詰 ます。人々の心の中には、神楽とともに にとって地域のつながりを保つものであ せなことだと感じました。神楽は、人々 取材を通し、自分たちが暮らしている 地域に昔からの伝統芸能があることは幸 るそうです。 くれたら、という思いを込めて演じてい を見た子供たちがやってみたいと思って ティーです。私たちも社中のみなさんと じ ま し た。 公 演 が 終 わ る と カ レ ー パ ー り、興味を持っている子が多いように感 したが、じっと見たり、動きを真似した 大 蛇 」。 泣 き そ う に な っ て い る 子 も い ま 社中の神楽もあります。演目は「簸の川 日は幼稚園の「なつまつり」で、小河内 七 月 十 九 日。 三 回 目 の 取 材 の 日 で す。 まずは海潮幼稚園に向かいました。この 次の世代につなげたい え て い る と 話 さ れ ま す。 残していくか、いつも考 さんも後世へ神楽をどう ため、小河内社中のみな なくなるからです。その 雰囲気を知ることができ 伝わってきたそのままの いいます。楽や舞の代々 神楽は一度中断すると 復活がなかなか難しいと いてしまいました。 り、また大きな娯楽の一つにもなってい な人の思い出の音楽になっています。 一緒にいただきました。 神楽をするときは、それ らすごく迫力があって驚 こ の 日 は、 夜 七 時 か ら「 夜 神 楽 大 会 」 ■(上)夜神楽大会の会場「神楽 の宿」。 (下) 「ホタルと神楽の夕べ」 でのスサノオの演舞。
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