フェルナン・ブローデルの『地中海』とその創造性

郵政博物館 研究紀要 第5号
(2014年3月)
巻頭論文
フェルナン・ブローデルの
『地中海』
とその創造性
杉浦 勢之
1.『地中海』という謎
16世紀の地中海世界を描いたアナール派の泰斗フェルナン・ブローデルの代表作『地中海』
は、「環境の役割」、「集団の運命と全体の動き」、「出来事、政治、人間」という3部によって
構成され、自然地理的に現われる環境・構造、社会的現実の変動局面=社会史、そして出来事
の歴史という3層の歴史的時間を描いている。「空間の歴史」として構想されたこの大著が、
その後の歴史学を決定的に転換させたことはよく知られている。ブローデルは、対象としての
時間および空間の分析―総合を通じ、これまでの歴史像を変革するとともに、人文科学的、社
会科学的時間概念、空間概念に大きな反省を求めることとなった。
地中海という海の歴史を描くのに、「私は地中海をこよなく愛した」という美しい序文に始
まりながら、本文冒頭同書は「まず初めに山地」という法外な語り出しで出発している。本来
地理学に属する叙述が、徐々に緻密な環境としての空間分析に展開し、そして構造の歴史へと
移行していくことになる。国境によって組み合わされた地図を見慣れてきた者にはきわめて新
鮮で、膨大な典拠とともに、時間と空間とを巧みに操るその鮮やかな手つきに驚嘆する。この
叙述の順序については、世界システム論の主唱者イマニュエル・ウォーラステインが「もしブ
ローデルが出来事からはじめて、次に構造を扱い、最後に変動局面を論じていたら、この書物
の説得力はもっとずっと大きかったであろう」と述べている(1)。叙述の順序は、著者の方法に
関わり、内的論理構造を示すものであるから、ブローデルのきわめて熱心な弟子でもあるウォー
ラステインの批評の意味は、かなり重要に思われる。
そういうこともあって、地中海世界の第Ⅰ部である「環境の役割」から第Ⅱ部「集団の運命
と全体の動き」への移行部分が以前より気になっていた。同書を紐解いたことのない方もいる
と思われるので、やや煩雑ではあるが第Ⅰ部の各章の題名を掲げよう。第1章「諸半島―山地、
高原、平野」、第2章「地中海の心臓部―海と沿岸地帯」、第3章「地中海の境界、あるいは最
大規模の地中海」、第4章「自然の一体性―気候と歴史」、第5章「人間の一体性―交通路と都
市、都市と交通路」となっている。これに対し、第Ⅱ部は第1章「経済―この世紀の尺度」、
第2章「経済―貴金属、貨幣、物価」、第3章「経済―商業と運輸」、第4章「帝国」、第5章「社
会」、第6章「文明」、第7章「戦争の諸形態」とされている。第Ⅰ部第5章は、自然環境空間
1 イマニュエル・ウォーラステイン「変動局面の人間 ブローデル/『地中海』と日本」、フェルナン・
ブローデル『地中海Ⅰ〈普及版〉』浜名優美訳、藤原書店、2004年、623頁。ウォーラステインのこの
言葉の意味するところについては、例えばブローデルの体験したのとは異なる出来事、変動局面に
あった「1968年」を置いてみる必要があろう。礼節を保ちつつ距離を置き続けたもう一人の構造論者
クロード・レヴィ =ストロースはさておくとしても、いささかのすれ違いを演じながら相互に理解を
示し合ったミシェル・フーコー、さらにはジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリの『アンチ・オイ
ディプス』や『千のプラトー』にその複雑で微妙な打ち返しを感じ取ることはあながち突飛なことと
は言えないであろう。
1
フェルナン・ブローデルの『地中海』とその創造性
として取り上げてきた地中海が、人間によって作られてきたいわば「第二の自然」(これはマ
ルクスの言葉であるが)であることを指摘することから始まり、陸路と海路、航海、都市機能
と論述が進められる。その内容は浩瀚でここで要約することはできないが、その最後にブロー
デルは、都市の歴史をもって、「不変なもの、恒久的なもの、よく知られている、安定した統計、
反復される現象、地中海生活の土台」から始めた第Ⅰ部の主題が終わること、「都市は発動機
であり、回転し、活気づき、息切れし、再び前進する」と述べ、長期持続としての構造の歴史
に移行する(2)。そこで待ち受けているのが第Ⅱ部第1章、2章、3章「経済」なのである。と
はいえ、少なくともブローデルが『地中海』で描く「経済」は、均質な時間・空間概念にもと
づく近代的な「経済学」のモデルによってとらえられる「経済」とはいささか趣が異なる。そ
れは環境として現われる空間的制約の下で長期持続の中に現われる構造としての「経済時空間」
エコノミー ・ モ ン ド
(後の言葉では経済=世界)である。ブローデルの「歴史」は、広義の制度化された学問分野
では「社会経済史」の中に位置付けることができようが、第Ⅰ部から第Ⅱ部への移行の場所に
「経済」を置くことによって、従来の経済史に反省を迫るだけでなく、諸学に大きなインパク
トを与えた。さらに帝国や文明もまた長期持続の空間としてとらえられるとともに、経済=世
界、文明の複数性、都市間関係、文明間の文化流通等が配置されることによって、歴史におけ
る構造安定性の下での変容の在り処が周到に埋め込まれることになった。構造の歴史は、この
安定の下での変容を通じ、「戦争」に媒介され、第Ⅲ部の出来事の歴史に移行していく。したがっ
て「全体史」を目指す第Ⅱ部冒頭の分析―総合は、従来の経済史からみれば意表を突くものと
なる。
第1章「経済―この世紀の尺度」の第一節は、「第一の敵としての空間」と題されている。
ここで最初に取り扱われるのは、なんと手紙、通信である。むろんこの第Ⅱ部冒頭においてブ
ローデルが明らかにしたかったのは、書簡の中身ではない。書簡それ自体が歴史にとって大き
な意味を持つとすれば、ヴォルテールの18世紀、「文芸の共和国」にこそ見なければならない
であろう。ブローデルがここで問題にしているのは、書簡の「速度」、それも平均速度である。
このために、彼は当該時期の膨大な古文書の中から郵便関係資料を渉猟し、ヨーロッパ各地か
らヴェネツィアに届く書簡の往復所要時間を「ニュース弾力性」という表として作成してい
る(3)。このデータを基に、標準的なヨーロッパ地図に等高線ならぬ「等時線」を引き、1500年、
1686年―1700年、1733年―1765年の3つの図を描き出している(4)。きわめて特徴的なことは、
この等時線を引ける外延がおおむねローマ帝国時代を越えていなかったということである。等
時線自体は自然環境に制約され、事件に影響され、かなりの形状の歪みと変容を見せるものの、
ブローデルは、この等時線によって囲まれた範囲=面積はほぼ変わらないであろうと推測して
いる。「地中海世界」の安定性と動きは、このようにして見事に視覚化され、第Ⅱ部で描かれ
る長期持続の空間=構造をリアルなものとして提示しているのである。
『地中海』という大著の中には、現代の我々を刺激してやまない多くの「発見」が見出される。
史料的な新事実の発見というよりは、様々なデータを横断しつつ、それを複数の時間、空間の
中に総合していく過程で、既存の事実を全く異なる視野の中で展開していく鮮やかさが感じら
れる。これはもう一つの代表作でこれも大著の『物質文明・経済・資本主義』には見られない
躍動感である。おそらくこのことは、『地中海』の元々の執筆環境に起因するところが大きい
2 フェルナン・ブローデル『地中海Ⅰ〈普及版〉』浜名優美訳、藤原書店、2004年、594頁。
3 同『地中海Ⅱ〈普及版〉』29頁。
4 同上、30-31頁。
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郵政博物館 研究紀要 第5号
(2014年3月)
のではないかと思えてならない。同書はブローデルの博士論文『フェリーペ二世時代の地中海
と地中海世界』を元としており、その原型は第2次大戦中ドイツ軍の捕虜となり、1940年から
45年までを過ごした捕虜収容所において、手元の資料なしで、ほぼ記憶のみでまとめられた。
おそらくこのことが、通常の歴史研究におけるのとは異なる思考の手続きとあり方を彼に強制
し、すでに準備していた膨大な知識を、純粋に自己の思考を展開する中で再配置させたのでは
ないであろうか。そこに新しい発想が一気に結晶した。その瞬間が、その後の執筆、何回かの
改定の後も、『地中海』という書のそこかしこに息づいているように感じられるのである。そ
の中でもこの等時線の地図は、想像力をかきたててやまない。そこには、16世紀の中核都市ヴェ
ネツィアの人々にとっての「この世界」が、ブローデルの視野展開によって見事に浮き彫りに
されている。それは不可視であるが、当時の人たちにとって確実に存在したであろう、世界の、
あるいは文明の「全体」の感覚であるに違いない。
同時に、この等時線地図は、こちらの思考の底を微妙に揺するところがある。どこか立ち位
置が定まらない、見る側を「他の思考」に誘い込む魅力がある。はじめそれがなんであるかわ
からなかったが、繰り返しこの地図を見直すうちに、近代になって決定的に我々の「思考空間」
を支配=拘束することとなるニュートン的な絶対時間・絶対空間によって作図された測量地図
(=表象空間)上に、16世紀の人々の「生活空間」が投射され、描かれていることによるもの
だということに気づいた。このことに気づくと、当初感じられた「これが16世紀の地中海世界
なのか」という感慨は、この奇妙な地図が20世紀のブローデルと16世紀のヴェネツィア人の「日
常生活」との二つの「時間」を交差させることによって「創造」されたものだという発見と驚
嘆に変わる(5)。たとえばこの等時曲線を同心円にトポロジカルに変換すれば、背景である我々
になじみ深いヨーロッパの図像は大きくゆがみ、伸び縮みするであろう。もしかしたら、その
ような表象世界のほうが、16世紀における不可視の「この世界」に近いのかもしれない。経済
学者、社会学者のフランソワ・ミルケは「フェルナン・ブローデルの方法は、外見はそうでは
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ないが、革命的である。それは、われわれの本来の意味での世界観、すなわちわれわれが描く
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歴 史 の 空 間 と 時 間 の 表 象 の 平 凡 な 枠 組 み を く つ が え す。『地 理 学 的 歴 史 学』histoire
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géographiqueという控えめな野心の下に、空間と時間に対するわれわれの感性の先験的なか
エコノミー
たちが大きく膨らんでひそんでいる。彼が執拗に提起し展開した独自の概念、すなわち「経済
・モンド
=空間」、「長期持続」はまさに空間=時間espace-tempsに関係している。/ブローデルは、新
しい空間=時間を考え出した」と述べている(6)。彼は、『地中海』にブローデルの「重大な直観」
の秘密を見てとり、「わくわく」せざるを得なかったことを告白している。「この歴史家は、空
間と時間の新たな座標軸、感性の新たな先験的形態をつくりながら、同時にまたはからずも因
果関係の新たな形態をつくっているのである。あたかも因果関係の範疇が、目には見えないが、
5 2次元表象空間への幾何学を介した「空間」の投影=地図作成術それ自体は、プトレマイオスの『地
理学』を通じ、すでに 16世紀までにはヨーロッパで知られていた(アルフレッド・W・クロスビー『数
量化革命 ヨーロッパ覇権をもたらした世界観の誕生』、小沢千恵子訳、紀伊国屋書店、2003年)。
しかしそのような均質的な「空間」が無限の延長として認知され、我々の「この世界」ないし「生きら
れた時空」と一致すると理解されるようになるのは、17世紀のデカルト革命、そしてアイザック・
ニュートンによる「絶対時間・空間」の提唱以後のことである。ところで、等時線は速度を表している。
速度は時間と空間の関数として取り出されるが、ここで描出されているのは、速度を通じて見出さ
れた16世紀ヨーロッパの人々の「日常生活」における生きられた「この世界」である。この意味でブロー
デルの空間は、「空間=動き」であるとする地理学者のイヴ・ラコストの指摘は正しい。彼はブロー
デルの描き出す「空間」を、反復しつつも差異化する空間性を交差―重ねあわせた透写図ととらえ、
そこにブローデル作品におけるもっとも良質な「地理学性」を見出している。イヴ・ラコスト「地理
学者ブローデル」、イマニュエル・ウォーラステイン他『開かれた歴史学』浜田道夫・末広菜穂子・中
村美幸訳、藤原書店、2006年、267-270頁。
6 同上、62頁。
3
フェルナン・ブローデルの『地中海』とその創造性
空間と時間の諸形態の内部に宿っているかのごとくである」
(7)。ミルケはそこに、カントの影
を見て取っているのである。
2.傍で、そして手前に
『地中海』成立の特殊な事情についてはすでに触れた。ドイツ軍の捕虜収容所に収容された
ブローデルの第2次大戦時における様々な体験が、どのように『地中海』という作品に影響し
たかを伝記的に詳しく論ずることは差し控えたい。それらについては多くの研究があり、さら
には現在の我々との間には「68年」という「出来事」が存在する。銘記したいのは、孤立した
環境の下で、ブローデルが戦争前に収集した膨大な歴史資料についての「象のような記憶」(ブ
ローデル)と想像力だけを頼りに執筆を進めたという「出来事」それ自体である。これはきわ
めて異常である。幸いそれがいかにして可能であったかについては、妻のポール・ブローデル
が証言している。ポールは、ブローデルのアルジェリア時代の教え子であり、妻であり、生涯
の協働者であった。つまり彼女はブローデルの「無意識な行為」について、本人以上に多面的
に知り得るポジションにあったことになる。そのポールによれば、フェルナンは本を書くこと
にいささかの興味もない人間であった。ブローデルはソルボンヌ大学歴史科を卒業後、アルジェ
リアのコンタンティーヌのリセの教員となる。この時彼ははじめて海を体験し、地中海を北ア
フリカから見ることになる。ポールはその頃のブローデルについて「自由、生きる喜び、自分
が優秀な教師であることを発見した喜び…南の太陽、海、砂漠(ブローデルは駱駝に乗って砂
漠を探検しました)、異文化すなわちイスラム文化の発見、地理的な光景も違っている。そん
なことまで発見したのです。いつもといささか違った視点から、あの人の言葉を借りれば『逆
さまに』
、そしてアフリカの淵から、またサハラ砂漠から眺めた地中海を発見したのでした」
と活き活きと語っている。この美しい回想にあえて付け加えるものがあるとすれば、彼が優秀
な教え子、生涯の伴侶、最大の理解者を発見したということであろう。ブローデルはここでポー
ルを教え子として持つことになった。ちなみにリセでの教え子の中には、このほかにアルベー
ル・カミュがいた。31年アルジェで行われたアンリ・ピレンヌの講演を聴き、主題としての動
く「海」のイメージに感動する。ブローデルは博士論文のテーマに「フェリーペ2世とスペイ
ンと16世紀の地中海世界」を選び、古文書館の世界に没頭していくことになった(8)。
豊饒な北アフリカでの経験の後、いったん本国に帰国しリセの教員を継続するが、1935年サ
ンパウロ大学のフランス教授団の一員としてブラジルに渡る。その時の同僚の一人がレヴィ=
ストロースであったことはよく知られている。37年ブラジルからの帰国途上の船で、一度パリ
ですれ違ったことのあるリュシアン・フェーブルと再会する。フェーブルは、マルク・ブロッ
クと並ぶアナール派の創始者である。この時、アナール派第2世代としてのブローデルの未来
7 同上、66頁。
8 ポール・ブローデル「歴史家ブローデル誕生秘話」、ウォーラステイン他『入門・ブローデル』浜名優
美監修・尾河直哉訳、藤原書店、2003年、184頁。ブローデルは乗馬が得意で、運転手付き自動車を
与えられたブラジルにおいても、馬に乗ってかなりの土地を巡っていたようである。駱駝や馬によ
る旅行は、自動車とも歩行とも異なる行動の範囲と速度を規定し、固有の光景を周囲に展開させる。
それはまた、二つの生体の反応とリズムを合成しながら、大地と接続し、その地形、形状を騎乗者
に伝動する。それは時代を越え、かつての騎乗者の身体にも伝わったものである(もちろんブラジル
のそれは、征服者としてであったにしろ)(ピエール・ショーニェ「『時系列』の歴史学」、I・フラン
ドロワ編『『アナール』とは何か 進化し続ける『アナール』の100年』尾河直哉訳、藤原書店、2003年、
98頁)。浩瀚なブローデルの伝記を著したピエール・デックスも、ブローデルの乗馬好きに注目して
いる。ピエール・デックス『ブローデル伝』浜名優美訳、藤原書店、2003年、70頁。例えばここに、
現代の中沢新一による「アースダイバー」の提唱を並べてみることもできるかもしれない。
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郵政博物館 研究紀要 第5号
(2014年3月)
が決定した。フェーブルは、古文書に耽溺するブローデルに博士論文に着手することを強く勧
め、執筆のため自分の別荘の提供を申し出る。彼はブローデルがドイツの捕虜収容所に収容さ
れてからも、文通によってブローデルの執筆を励まし続けた。このようなフェーブルの手厚い
友誼に促され、ブローデルは博士論文執筆を決意し、これまで渉猟してきた歴史資料について
の文献カードを洗いざらい読み直す。
『地中海』を書く素材は、この時点ですっかり彼の「象
の記憶」に配備されていたのである。しかし、ブローデルがあのような書物の全構想をすでに
準備していたということについては、ポールは否定的である。執筆作業に入って間もなく、彼
はフランス軍に動員され、40年の休戦協定によりドイツ軍の捕虜となった。マインツ、続いて
懲罰的意味を持つ(ということは反抗的な捕虜を収容する)リューベックの将校捕虜収容所に
収容され、45年イギリス軍によって同収容所が解放されるまで捕虜生活を過ごすことになった。
マインツおよびリューベックでは、捕虜のための教育に従事、捕虜収容所の「大学学長」に任
じられ、特にマインツではマインツ大学図書館古文書館のドイツ語文献に自由にアクセスする
権利を得ている。『地中海』の原型はこの時期に成立したのである。
ところでポールは複数の証言の中で、きわめて興味深い指摘をいくつかしている。一つは先
にも述べたブローデルの古文書への情熱である。「主人は古文書人間でした。正確に研究主題
を追及するということはしませんでした。…『遊んでいる』という言葉は使いたくないけれど
も、主人は何年でも古文書館で、言葉の深い意味で『楽しんでいる』ような人なのです。だか
ら私たちはあちこちの古文書館へ旅をしたわけです」
(9)。彼女は、この件で印象的なエピソー
ドを挙げている。
「ある日、バリャードリーであの人が興奮していたことを思い出します。とてつもなく大き
な書類の束をあれこれと机の上に並べていました。十六世紀以来一度も開かれたことのないも
のです。なかなか頁が剥がれなくて、剥がそうとするたびにべりべりとまるで破れるような音
がしましてね。で、ふと見ると、そこにはまだ金色の砂が残っているんです。頁のインクを乾
かすために当時使った砂です。ブローデルはそれをつまむと指のあいだでこすりながらすっか
り夢見心地のようすでした。そして、その金色の砂をいれた小さな袋をその後も何年も大事に
保管していました。…こんなにカードを集めることが好きな人間が、にもかかわらず、ある種
の博学を嫌っていたのはなぜでしょうか。それは、あの人にとって、古文書館とはなによりも
まず生きた博学とでも言うべきもので、想像力の扉を開いてくれる大好きな空間だったからで
す。ブローデルが古文書館を単なる博学と混同することはけっしてありませんでした」
。
(10)
ブローデルは、テクストを通じてではなく、その砂(物質)との出遭いを通じ、自分が16世
紀に接続されたことを感じていたに違いない。彼の古文書への情熱は、ある主題の根拠づけの
ためのデータ収集に向けられたものではなく、自分と異なる時空と出逢うことそのものへと向
けられていたのである。この証言からも、古文書との膨大な出逢いの体験を通じ、ブローデル
の身体、心性がさまざまな時空を行き来していたであろうことは想像に難くない。だがこのよ
うな錯綜とした時間・空間を一つの書物にぴったりと収めることは至難である。こういったブ
ローデルの感応的資質は、『地中海』成立の可能性の条件であるとしても、それと同等にその
制約の条件でもあったに違いない。ポールもそのことを率直に認めている。この点については、
後にまた立ち返って考えてみることとしたい。
ところで、彼女がブローデルの調査方法について、もう一つ非常にこだわっていることがあ
9浜名優美『ブローデル『地中海』入門』藤原書店、2000年、232頁。
10前掲『入門・ブローデル』、185-186頁。
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フェルナン・ブローデルの『地中海』とその創造性
る。それはマイクロ・フィルムというか、その原型のようなものをブローデルが開発したこと
である。アルジェに赴任していた頃、ブローデルは資料の写真撮影をしたいと熱望していたが、
高解像度で一本のフィルムで多くのコマ撮影が可能な高価なカメラを購入することが出来ない
でいた。偶々アルジェを訪れた映画技師から、旧式の映画の試し撮り用カメラを使うことを勧
められ購入することになった。これにより資料の撮影は画期的にスピードアップし、彼は現像
された映画用フィルムの読み取り装置も開発している。こちらは後のマイクロフィルム・リー
ダーと同じ原理である(11)。ポールがこのエピソードにこだわったのは、マイクロ・フィルム
の先駆者としてのブローデルを単純に誇りたかったからなのかもしれない。あるいはこの撮影
と読み取りには、フェルナンとポール、二人のブローデルの息の合った協働=コンビネーショ
ンが不可欠であったから、それらの作業が彼女にとってもっとも想い出深いものであったから
なのかもしれない。彼女は、ブラジルでレヴィ=ストロースがこの機械装置を見てうらやまし
がったと誇らしそうに語っている。
しかしこの回想から我々は、ブローデルが膨大な時間を封じ込めた資料(物質)と自身の身
体との間に、2次元平面から「動き」を作り出す光学機械を編み込んでいたことを知る。たと
えその対象が静止し沈黙した文書であっても、そこにはこれまでとは異なる体験が含まれざる
をえない。焦点を合わせるための長時間の根気のいる作業と一気に進められる撮影。あるいは
フィルムを現像する中で徐々に姿を現わす複製画像。資料収集のためのばらばらな活動が、一
連のフィルム・リール(物質)としてイマココに凝縮してあること。結果は同じであっても、
従来の原資料から資料カードへの筆写であるならば単なるテキストデータの変換に過ぎない
が、原資料の撮影は、ポジからネガへの、そしてテキストデータから画像データへの二重の変
換をおこなうことであり、読み取り装置を使った読解とカードへの筆写は、ネガからポジへの、
画像データからテキストデータへの二重の再変換を意味している。さらに一連の作業には「フィ
ルム編集」という工程も含まれたことであろう。このような作業を経験したことのある者であ
れば、筆写とは異なり、資料の撮影から読み取りまでの間に、さまざまな工程上の時間的、空
間的差異、質料的条件が入り込み、操作性に与える環境制約と技術的決定性が介入してくるこ
センス
とが容易に察せられる。もともとの感覚に加え、高速光学機械装置による一連の作業工程を独
自に開発し、膨大な資料収集を進めたこと―ポールは「濫用」とまで表現している―が、ブロー
デルの時間感覚、空間感覚に影響を及ぼしたことは容易に推察される。
『地中海』における対象(時空間)の移行に、個々のテキストデータを積み重ね、思考を重ね、
論理を遂行するというのとは異なる場面転換、先に指摘した第Ⅰ部から第Ⅱ部への移行におい
て、読む者にこれから進められる一系列のテキスト「全体」を一覧できる視覚データ=地図を
さり気なく置くなどの工夫が施されていることを思い起こすと、このような推論に一定のリア
リティーが生まれる。ポール・リクールは、『記憶・歴史・忘却』において、ブローデルの『地
中海』が歴史における尺度の問題と歴史家による尺度選択の問題をまだ主題化していなかった
としつつ、尺度の変更は、寸法の比例と情報量の不均質を生むことから、尺度の変化にともなっ
て、同じ地政学に不調和な地形学が出現することを指摘し、「光学装置が修得した操作によっ
て引き受ける焦点合わせの手順を、自然、さらには美、露わになった光景が忘れさせてしまう
のであるから、視線の調節に結びついた振舞いは注意をひかない。歴史学もまた、かわるがわ
11 この映画カメラは、当時においても旧式であったらしく、ポールはその本来の目的外の特異な使用
による作業性に驚嘆したアメリカの歴史家アール・ハミルトンが、同じカメラをアメリカ中で探し
たが見つからなかったと回顧している。前掲『ブローデル『地中海』入門』、『地中海 V』に所収、
243-246頁、前掲『入門・ブローデル』186-187頁。
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(2014年3月)
る拡大鏡、さらには顕微鏡、あるいは望遠鏡として機能する」と述べている。ブローデルはこ
のことにナイーヴであり、知らずにそれをなしていたのだと(12)。おそらく、すでに述べた等
時線を前にした立ち位置の定かならざる感覚は、リクールの指摘によって半ば解消される。し
かし付け加えて言うならば、ブローデルの「身体」は確実にそのことを知っていたはずである。
彼は文字通り熟達した光学機械技師であった。
ところで、リクールが光学機械の比喩によって問題にしているのは、あくまで倍率問題であ
る。ここであえて光学的テクノロジーに注意を喚起したのは、そのような尺度問題ということ
にとどまらない、複製技術としての画像や動画の製作行為の意味を確認しておきたかったから
である。ヴィレム・フルッサーは、装置―オペレーター関係が介在する写真にとっての問題は
視点の移動にあり、4つの次元の時間・空間(「対象との距離」・「左右」・「上下」・「露光時間」)
を遊泳するとした。これに対し、動画においてはフィルム自体プレテクストに過ぎず、編集に
よって「オペレーターが意図するのは、同一なるものの永劫回帰を再現することではなく、線
型的な歴史時間をさまざまな次元へ開いてゆくこと、線を輪にするのではなくさまざまな形の
面(三角形・渦巻・迷宮)にすること」であるとする。フルッサーはこの動画=映画によって
はじめてポスト・ヒストリーの意識に身を置くことが出来るとし、端的に「それは、歴史に対
する無関心どころではないのだ。反対に、歴史は、いまはじめて〈つくられる〉」と断じてい
る(13)。ブローデルは、このような「テクノコード」転換の時間的閾において『地中海』を構
想した。この体験が、動きを含まない人類学の「構造」と距離を置く一方、従来の偉大な「出
来事の歴史」を批判していく中で、時間を緩める「空間」を発見する可能性の条件となったと
思われる。ブローデルが「長期持続」という固有の足場を見出したことに、大いなる歓びを感
じたのはそのためだったのではなかろうか。彼が映画フィルムによって撮影していたのは、動
くことのない古文書=歴史資料だったのである(14)。
12 ポール・リクール『記憶・歴史・忘却 上』久米博訳、新曜社、2004年、322-323頁。なお、リクール
は別の著『時間と物語』において、ブローデルおよびアナール派の歴史認識および方法批判を丁寧に
おこなっているが、ここでそれらについて触れることは控える。端的に紙幅の問題によるものであ
るが、それだけではなく、ここでの主題が、ブローデルが何を言っているかの検討にあるのではなく、
またブローデルについての自伝的関心によるものでもないからである。課題は、いかにして『地中海』
は成立し得たのか、そしてそのことによって、いかにしてブローデルは「ブローデル」となったのか
ということの可能性の条件を探ることにある。
13 ヴィレム・フルッサー『テクノコードの誕生 コミュニケーション学序説』村上淳一訳、東京大学出
版会、1997年、246-249頁。
14 ブローデルの下で『アナール』の編集事務をおこない、同誌の編集人となるアナール第3世代のマル
ク・フェローは、先駆的に歴史の映像化を試みている。ブローデル自身は、捕虜収容所の時代から、
歴史ドキュメンタリーは「出来事の歴史」に過ぎず、遠くから眺めた現実は滑稽だと否定的で、フェ
ローの最初の映像作品をほめながら、それでもやはり「出来事の歴史」に過ぎないとコメントしてい
る(ブローデル「三つの定義」『ブローデル歴史集成Ⅱ 歴史学の野心』浜名優美監訳、藤原書店、
2005年、34頁、およびマルク・フェロー「『アナール』での三十年」(前掲『『アナール』とは何か 進
化し続ける『アナール』の 100年』、43頁)。前者は、奇跡的に残されたマインツの収容所「大学」にお
けるブローデルの講演を筆写したノートである。このように考えてみると、ブローデルの『地中海』
というテキストが、映像作家を刺激し、ジャン=ダニエル・ポレの映画『Méditerranée(地中海)』(1963
年)やジャン =リュック・ゴダールの『Film Socialisme(ゴダール・ソシアリスム)』(2009年)に遠く
木霊していることの意味を、20世紀の表現史として、今少し深いところにおいて考えてみる必要が
あるのかもしれない。ピエール・デックスも、フェーブルやマルク・ブロックのアナール派第1世代
とは違い、ブローデルが歴史家としての自己形成期に、コミュニケーション手段の変革による時間
の変化を実際に経験した世代に属する点に注意するよう勧めている(前掲『ブローデル伝』、14頁)。
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フェルナン・ブローデルの『地中海』とその創造性
3.リューベック人ブローデル
だがこれだけでは『地中海』は生まれない。ブローデルに『地中海』を書くことを可能にす
るには、やはり第2次大戦とフランス軍の瓦解、そして5年にわたる捕虜収容所での生活が必
要であった。この点については、本人が明確にそのように述べており、また事実においても認
められている。この過酷な条件が、なぜ『地中海』を生み出したのか、事態は2つある。1つ
は、マインツの捕虜収容所での体験であろう。この収容所にいた期間、ドイツ軍の快進撃が続
いていた。フランスはあまりにも早い敗戦に呆然としたが、占領において常に見られる事態、
絶望、反抗、裏切り、迎合、機会主義などが蔓延した。ヴィシー政権の成立により、ドイツと
の葛藤はフランス自身の内部の軋轢に反転していく。それは将校捕虜収容所であったマインツ
でも同様であった。ブローデルは「ド・ゴール派」としての姿勢を明確にした数少ない一人で、
収容所の将校の多くは「ペタン派」であったという。この時期のことは、フランスの現代史に
おいてもデリケートな部分で、各種の証言には曖昧なところがあるが、事態ははっきりしてい
る。戦争という「事件」、「出来事」が、フランス軍将校を瞬時に飲み込むとともに、彼らの中
に些細な、しかし本人たちにとってだけは大事の諍い=小政治が生まれ、その中でブローデル
が内面的に孤立したということである。歴史家ブローデルは、この時はじめて封鎖された小さ
な「世界」の「出来事」の当事者となったといえよう。この件についてあまり多く語ることの
なかったブローデルであるが、このようなマインツの収容所については「陰険な小フランス」
と表現している(15)。
ブローデルは、当初ドイツ軍に優遇される立場にあったようである。先に述べたように、彼
はマインツの捕虜収容所に捕虜のための「大学」を組織し、そこで「学長」となり、講義を行
うとともに、捕虜用図書室の充実に力を尽くしている。一定額の給与も出されていたようで、
それで文献を購入していた。ブローデルは、10数人の志願者に歴史の学士号を準備させ、10数
人の研究論文を手助けしており、資格のある教授に学士号の試験をしに来てもらえるよう
フェーベルに依頼すらしている(16)。戦時下の捕虜収容所におけるこの活動は、日本人から見
ると驚きである。ドイツに協力的なヴィシー政権が成立した休戦下フランス軍将校用の捕虜収
容所であったという理由を差し引いても、このようなブローデルの教育活動が許容されたのは、
政治的立場とは別に、ドイツ語を解し、ドイツ語文献を読めたことが、ドイツ側にとって
“Bildung”を有するものと認められたためであるらしい。そもそもブローデルはロレーヌの
ドイツ国境近くの農村出身であり、ドイツ文化に対して好意を持っていた。コンスタンティー
ヌのリセで教えていた彼は、1923年兵役に就くこととなり、皮肉にも自ら申し出てドイツのマ
インツに駐屯している。当初博士論文でロレーヌ地方の地理を扱うつもりであったのを、ドイ
ツについての歴史研究に変更することを考えたうえでの判断であった。彼のドイツ語はかなり
のものだった。ところがマインツで彼が見たものは、賠償金の重圧にあえぐドイツの民衆の、
ルール占領軍に対する憎悪、復讐心であった。彼はフランス人の中に閉じこもり、この失敗し
た決断の時を無為に過ごした。そして将来必ず戦争が起こることを確信した。この時の体験で
ブローデルがドイツに敵意を持つことはなかったが、これがきっかけとなり、博士論文をスペ
イン史に移すことを決意し、退役とともにアルジェに戻ったとされる(17)。
15 同上、204頁。収容所時代の事実関係については、同書に多くを依存している。
16 同上、197-198頁。
17 同上、74-77頁。
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郵政博物館 研究紀要 第5号
(2014年3月)
彼が幼少年時代を過ごし、生涯愛した故郷ロレーヌは、変わりない農村の美しい風景を展開
するとともに、軍靴が幾度となく東から西へ、西から東へ、進軍しまた潰走することを繰り返
した場でもあった。そこでは美しい景観に、各世代が体験し記憶した混乱と恐怖が幾重にも堆
積し、地層のようになっていた。ブローデルは、子供のころにロレーヌで普仏戦争の体験を聞
かされていたし、第1次大戦のときは、パリ近郊でこの地に想いを馳せていたはずである。変
わらない、遠く広がった大地と、目に見えない動く国境、それがブローデルの生涯を規定して
いた。そして第2次大戦とともに、ブローデル自身が軍靴に足を通し、かつて自分が同じ軍靴
を履き、占領者であった町マインツに向け、捕虜となった敗残兵として国境を越えていくこと
になった。今度は望んでではなく、フランス人の中に強制的に閉じ込められ、そこでブローデ
ルは「小フランス」からの「内部」への逃亡者となったのである。混乱は続いた。しかし、心
の中には彼が常に秘めていた安定した記憶の地層、営々と繰り返し生きられてきた大地の記憶
が確かなものとして息づいていた。ブローデルはこうして博士論文を書きだすことになったの
である。周囲を海によって囲まれた列島社会で生きていると、国境の感覚はほとんどなく、ま
た領域国家が自然な実体として無理なく形づくられているような錯覚に陥る。しかしこれはあ
くまで時間的「遠近法」の錯覚である。国家の範囲と地域の空間的一体性は必ずしも一致して
いたわけではなく、国民という概念が明確になるのは、近代国民国家の成立によってであった。
リミット
近代にいたってはじめて民衆は国民となり、国家の範囲と生活の範囲とが重なり、その果てに
国境が生まれる。(limiteからfrontièreへ)
。そこはまた「出来事」が逆巻く力の線でもあり、「あ
ちら」と「こちら」が始終反転した。このような場においてアイデンティティとはなんであっ
たろうか。国民国家発生の地ヨーロッパでは、その後も国境は動き続けている。アルザス=ロ
レーヌはヨーロッパの中心に位置し、繰り返される国境変更の主戦場でありつづけたのである。
時間を緩めるものとしての空間、それはロレーヌに育ったブローデルにとって、文字通りの体
感であり、心の逃亡者にとって救いとなる着想であったに違いない(18)。
占領者として、また捕虜として過ごしたマインツで『地中海』は生まれようとしていた。捕
虜収容所としては比較的良好な環境にあって、ブローデルはドイツ語文献を熟読する機会を得、
ドイツ語圏の歴史学、経済史学、地政学、地理学などの知識を蓄積するとともに、「大学」で
18 アルザス =ロレーヌについては、アルフォンス・ドーデの有名な小説『最後の授業』によって日本で
もよく知られている。しかしこの小説はあくまである時点で切り取られた時代の断面を、一方向か
ら強烈な照明を強引に当てたようなところがある。この地域の歴史の持つ陰影は見てとれない。こ
の地域のことを問題とするのであれば、第1次大戦や普仏戦争にとどまることは許されず、少なく
とも、国民国家形成の起点となった 17世紀、三十年戦争におけるブルボンとハプスブルグの(フラン
スとドイツとのではない)覇権争いにまで遡行せざるを得ない。しかしそれをはるか越えて、この
地に人々は暮らしてきたのである。ヨーロッパや国際関係について考えるのであれば、そのくらい
の時間的射程は当然のこととして覚悟しなければならない。このことを知らないととんでもない間
違いを犯す。ブローデルは、ヨーロッパを、地中海の向こう岸であるアルジェリアから見直し、フェー
ベルの勧めも手伝って、「地中海」それ自体を主題にする決意をした。それは彼にとって「もう一つ
のロレーヌ」であったのかもしれない。アナール派を生み出したマルク・ブロックとリュシアン・
フェーベル自身、このヨーロッパでもいわくつきの地域アルザス=ロレーヌの中核都市ストラスブー
ルの大学の同僚であった。ブローデルは「ド・ゴール派」であったが、ドイツ人に対する感情的な敵
愾心を持つことなく戦争を終えている。そのことが戦後になって復讐心沸き立つ周囲を困惑させる
結果となった。彼は学問することにおいて、国籍に無頓着であった。それは彼が「彼の戦争」にフラ
ンス人として、一貫した姿勢で処したことといささかも矛盾しなかった。いずれにしろ長い時間に
とっては、それは「出来事」に過ぎず、それらが彼を掴むことはできなかったのである。同様に、ブ
ローデルの『地中海』が扱っている時代が 16世紀であったことも偶然ではない。彼は時間と空間との
二重の越境者だったのである。1941年2月 15日の手紙でブローデルは、「私は一四五〇年から
一六五〇年という広い範囲で仕事をしていますが、これは私が闘い、生きてゆく方法なのです」と
フェーベルに書き送り、驚かせている。この終りの暦年は、三十年戦争の終り、すなわちウェストファ
リア条約によってアルザスおよびロレーヌの多くが、神聖ローマ帝国からフランス王領に割譲され
た時と重なっている(同上、198頁)。
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フェルナン・ブローデルの『地中海』とその創造性
の講演を通じて自分の思考を整理することが出来た。奔放に展開し、広がっていく視野と好奇
心、旺盛な移動=活動は、ここで次第にフレーミングされていく(19)。(彼の身体はごく狭い範
囲にピン止めされていたのだから)
。編集の時が訪れようとしていた。しかしそれはまた、
(20)
煩わしい小政治の場でもあった。超然としていることは、それだけで危険なことであり、沈黙
は都合よく物語化され、陰謀として読み込まれていく。嫉妬が、正義の名を借りて声高にある
いは密やかに語られ、「愛国」が安売りされる。何らかの事情、明らかにされていない、おそ
らく捕虜同士の確執、密告といった事態が起き、1942年ブローデルは突然バルト海沿岸、北ド
イツのリューベックにあった懲戒目的の将校捕虜収容所に移されることになった。これが2つ
目の事態である。リューベックでは、マインツで許されていたような文献資料へのアクセスは
禁じられた。リューベックの捕虜収容所には、「ドイツの敵」と名指された、フランス人将校、
イギリス人将校、ポーランド人将校、政治犯、ユダヤ人、常習の脱走犯などが収容されていた。
当然環境は一気に劣悪化したが、ブローデルにとっては「リューベックはまさに解放」に感じ
られた。そこに収容されていたのが、陰険な「小フランス人」ではなく、同じような考えの「リュー
ベック人」たちだったからである。そしてそこには、地中海とは異なるが、とにかく海があっ
た(21)。ブローデルはここで記憶を頼りに博士論文の第3稿に向う。
「出来事」を扱った第Ⅲ部は、
すでにマインツで形成されていたから、リューベックで主に手掛けたのは、ブローデルの独創
性を際立たせる第Ⅰ部、第Ⅱ部となった。幸い、この頃のブローデルの姿を傍らで見ていた英
米文学者のマルク・アンドラ・ベレの証言が『ブローデル伝』に再録されている。
「たった一枚の壁の厚みだけが私たちを隔てていました。というのも何回もの引っ越しでの
後、彼は七号室、私は九号室に入れられて、私たちの部屋が三段ベッドが三つで九人なのに対
し、彼の部屋は若干広いのですが、そのなかは十二にわかれていました。…ブローデルは戦争
やコミュニケについては一切話しませんでした。粗末な料理や寒さ、ガス室の恐怖についても
話しませんでした。私は彼が不平を言ったり、ベツレヘムよりも生活が不安定に思えるような
溜まり場(キャラバンサライ)で『有益な者として行動』したりするのを見たことがありませ
んでした。私が彼のことを夢想にふけるヒンズー教の導師と間違うほど、彼は私たちにあまり
似ておらず、剥奪や嫌がらせとは無縁で、当時ずっと創作をしていました。彼はあてどもない
夢を追いかけ、荷物入れのなかにそっと滑り込ませた小学生用のノートの表紙には細い字で『地
中海』と書かれていました」
。
(22)
リューベックでの3年間における戦争局面の転換、希望と恐怖による周囲の大混乱を考えれ
ば、これは驚くべき無関心さである。愚痴も恐怖の吐露もなく、自分を少しでも高く売り込も
うという虚栄も打算もない。しかしヒトラーの第三帝国は崩壊に向けて加速しつつあり、生命
19 同上、205-208頁。デックスは、マインツでの最後の時間に論文の第1稿、第2稿が書き進められた
と推定している。
20 ジル・ドゥルーズは、『対話』で「逃走するとは必ずしも旅をすることではないし、移動することで
さえない。…逃走はその場で、不動の旅のうちでなされ得るということが挙げられる。トインビー
が示すところによれば、厳密な意味での、地理的なノマドとは、移住者でも旅行者でもなく、その
反対に動かない人たちのことであり、草原から離れようとせず、その場での逃走線に沿って、大股
で歩く不動の人たちのことであり、彼らこそ、新しい武器の最も偉大な発明者なのである」と述べ、
さらに『記号と事件』では、端的に「生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけ
なければならない」と述べている。動かないこと、もちろんブローデルの場合、それは強いられて
のことであったのだが(ジル・ドゥルーズ・クレール・パルネ『対話』(江川隆男・増田靖彦訳、河出書
房新社、2008年、63頁、およびジル・ドゥルーズ『記号と事件 1972- 1990年の対話』宮橋寛訳、河
出書房新社、2007年、277頁)。
21 同上、209-210頁。
22 同上、229頁。
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郵政博物館 研究紀要 第5号
(2014年3月)
の危険が迫る状況にあった。彼はそのことに無頓着であったが、戦後になってそれが現実的な
危機であったことを知り、はじめて怒りを覚えている(23)。この頃ブローデルに何かが起きて
いたのだとしか考えられない。ある種の現実感の喪失。他なる時間の侵入。ポールの証言によ
れば、1944年ブローデルは明確に「長期持続」の概念を手にいれた。この年、彼の中で、歴史
の時間は、鮮明に切り詰められ、刈り込まれ、そこに「時間線」が浮かび上がった。この年の
12月、ブローデルはポールに出された手紙で、「ぼくはいまとてつもない恩恵のなかにいる。
ぼくの本の構成においても執筆においても、今ではすべてがシンプルだ」と書く(24)。時を経
て1981年、彼は「もしいま、私が『地中海』を書かなければならないとしたら、実際にかかっ
た時間を越してしまうでしょうね。私は歴史に五十年間費やしましたが、いまやるとすれば
二百年も、三百年にもなることでしょう」と述懐している(25)。ブローデルはリューベックで
の数年間で、対象としての歴史時間を鮮やかに層化し、歴史家ブローデルとなった。それは数
百年という時間の単位(クロノス)で考えれば、ほんのわずかな瞬間(カイロス)であったと
いえよう。
4.創造の「時」
これまでブローデルの『地中海』成立の不思議さについて思考をめぐらし、素描をおこなっ
てきた。それはブローデルの意図にない、あるいは意図に反して、『地中海』という書物の「創
造=出来事」を考えてみたかったからである。そのためには、ブローデルの傍らで彼の研究を
見つめつづけていた人間の証言が、なんといっても必要であった。ブローデルは、マインツや
リューベックでの捕虜生活で、自分の書いたものを次々に破棄している。特権的な(しかしも
ちろん過酷な)空白の時間の中で、記憶だけを武器に、ブローデルはどのように『地中海』を
書き上げることが出来たのか。ポールの証言は、このことに、事後的にいくつかの補助線を与
えてくれている。
「あの人の『知的冒険』とは自分の中に少しずつ吸収してゆく緩慢な蓄積の過程でした。と
はいえそれは個々のアイデアの蓄積ではなく、アイデアの体系的蓄積ではさらになく、無数の
イメージ、歴史の奇想天外な光景を構成し、過去と現在が混じりあっている無数のイメージの
蓄積です。しかもそこには論理的な秩序に対する懸念はいっさいありません。あったのはむし
ろ、なににもましてむしろ発見の喜びでした。…あの人は、観察したことを論理的に、体系立
てて自らに説明する必要など感じていない人でした。観察している間は、それを楽しむことに
没頭しすぎてしまう。まるで詩人さ、そんなおおげさなことまで言っていました」
。
(26)
これはすでに確認したブローデルの感応的な資質を表わしている。とともに、この傍らから
の視線で見えてくるブローデル像は、ブローデルと国境を挟み、フランスですれ違い異なる方
向に駆け抜けていった、同じく歴史主義と鋭く対立した同時代者ヴァルター・ベンヤミンと遠
くから共鳴し合っている。
「形象というものはなによりもある特定の時代においてはじめて解読可能なものとなるとい
うことを意味している。しかも、『解読可能』となるということは、形象の内部で進展する運
動が、特定の危機的な〔Kritisch〕時点に至ったということなのである。そのつどの現在は、
23 ヒトラーにより、収容者の絶滅が指示されていたとされる(同上、232頁)。
24 前掲『入門・ブローデル』、198頁。
25 前掲『ブローデル伝記』、194頁。
26 前掲『入門・ブローデル』、194頁。
11
フェルナン・ブローデルの『地中海』とその創造性
その現在と同時的な〔synchronisch〕様々な形象によって規定されている。そのつどの今〔Jetzt〕
は、ある特定の認識が可能であるような今なのである。この今においてこそ、真理には爆発せ
んばかりに時間という爆薬が装填されている。(他でもなくこの爆発こそが、意図〔Intentio〕
の死なのである。そしてこの死と同時に真に歴史的〔historisch〕な時間、真理の時間が誕生
するのだ。過去が現在に光を照射するのでも、また現在が過去にその光を投げかけるのでもな
い。 そ う で は な く 形 象 の 中 で こ そ、 か つ て あ っ た も の〔das Gewesene〕 は こ の 今〔das
コンステラツイオーン
Jetzt〕と閃光のごとく一瞬に出会い、ひとつの状況を作り上げるのである)」
。
(27)
ベンヤミンのこの文章は、きわめて神秘的に感じられる。周知のごとくジョルジョ・アガン
ベンは『残りの時』において、ここにパウロの「今この時」を読みこむのだが、大貫隆は、パ
ウロ、イエス、ベンヤミンの時間テクストや時制使用を丁寧に読み解くことによって、その流
れの違いを明らかにし、ベンヤミンの「時」がむしろイエスの「時」に近く、Konstellationは、
イエスのイメージ・ネットワーク=「神の国」に似るとしている(28)。今失われようとしてい
る19世紀の夢の形姿の読解に全精力をかけたベンヤミンと、16世紀の地中海世界のイメージか
ら全体を構想したブローデルをここで引き比べることには一見無理があるように見える。しか
し、それにもかかわらず、「創造」ということを考える時、両者に同じような資質が見られる
ことは否定できない。亡命ユダヤ人であったベンヤミンに対し、ブローデルはロレーヌ人であっ
た。(あえてここではドイツ人、フランス人とは呼ばない。ブローデルはフランスを諸文明の
中の一星座と呼んでいたのだから)。過度の適用は危険であるものの、大貫の分析から類推す
ると、ブローデルの「時」はパウロ的な「時」、あるいはもう少し下って、カソリック的な「時」
に近いように感じられる。ベンヤミンは自然史を気にかけながらも、その仕事を都市の形象の
儚さに集中させていく。反対にブローデルは都市に注目しながら、その時間の流れを緩めるも
のとしての自然の不動性に視点を移動させていく。二人は大きく方向性を変えていくのだが、
その方法には意外な近さがあるように思われる。
「文化史的弁証法についての小さな方法的提案。どの時代に関しても、そのさまざまな『領域』
なるものについてある特定の観点から二文法を行うのは簡単である。片方には当該の時代の中
での『実り多き』部分、『未来をはらみ』『生き生きした』『積極的な』部分があり、他方には、
空しい部分、遅れた、死滅した部分があるというわけだ。それどころか、この積極的部分をもっ
とはっきりさせるために、消極的部分と対照させ、その輪郭を浮かび上がらせることもなされ
るであろう。だが、いかなる否定的なもの〔消極的なもの〕もまさに生き生きしたもの、積極
的なものの輪郭を浮かび上がらせる下地となることによって価値を持つのだ。それゆえ、いっ
たん排除された否定的部分にまた新たな二分法を適用することが決定的な重要性を持つ。それ
によって、視覚がずらされ(基準がではない!)、その部分のなかから新たな積極的な部分が、
つまり、先に積極的とされた部分と異なるものが出現してくるようになる。そしてこれを無限
に続けるのである。過去の全体がある歴史的な回帰を遂げて、現代のうちに参入してくるま
で」
(29)。
ベクトルは違うものの、ブローデルが「出来事の歴史」の背景に、あるいはその下地に地形
を見出し、
「構造」=全体の積極的意義を浮かび上がらせたことと、ベンヤミンの実現し得なかっ
27 Konstellationは星座とも訳される。おそらくこちらのほうが文意にそっていると思われるが、翻訳
のままとした(ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論 第3巻』今村仁司・三島憲一他訳、岩波書店、
186頁)。
28 大貫隆『イエスという経験』岩波書店、2003年、254頁、大貫隆『イエスの時』岩波書店、2006年、
263頁。
29 前掲『パサージュ論 第3巻』、176-177頁。
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郵政博物館 研究紀要 第5号
(2014年3月)
たものを拾い上げ、それを今に取り返すことによって過去をすべて取り戻すという後の「歴史
テーゼ」は、細やかな、粗末な、一貫して無視されてきたものへの視点の移動ということにお
いて並行する。おそらくここに、両者を通底する、歴史主義に抗するこの時代の「発見」の仕
方が潜んでいたのである(30)。
それではこのような「時」、「意図」が死んで「真理」が誕生する「時間」はどのようにして
ブローデルに訪れたのであろうか。もう少しポールの証言を追ってみよう。
「しかし、この同じ詩人が同時に教師でもあって、しかもどんな問題であれ他人に説明する
ときには、そして書くときには一点の曇りもあってはならないという要求を持った教師なので
すから矛盾しています。/そしてブローデルは、ドイツの捕虜収容所時代に、他ならぬこの厳
しい要求に出会うことになります。最終的な解決を求めて全体を次々と書き換え、五年間にわ
たって熟考することになりました」
。
(31)
付け加えるならば、それはリューベックでの「時間」であったはずである。すべての典拠と
する書物、資料から切り離された時、ブローデルに残されていたのは記憶、彼の身体と頭脳に
刻まれた記憶、想起することだけであった。「分裂するフランス」すら、そこにはなかった。
ここでもベンヤミンは、ブローデルとシンクロする。
「この仕事はどのようにして書かれたのだろうか。偶然がわずかばかりの足がかりを提供し
てくれるかどうかに左右されながら、一段一段登っていくようにして書かれた。それは、危険
な高所にまで攀じ登る人が、もしも眩暈を起こしたくなかったら一瞬たりとも周りを見てはな
らないのと同じだ(だがそれは彼の周りに広がる眺望の迫力を味わうのを一番最後にとってお
。
くためでもある)」
(32)
どれとも指定されていない「この仕事」に、
『地中海』と置いてみても何の違和感もない。リュー
ベックにおいてブローデルが、自分の運命にも外部にも無頓着であったこと、夢見るようであっ
たことを思い出そう。彼がこの危機的な時期をほとんど空白のまま過ごし、捕虜からの解放後、
戦争に対する感情をほとんど残していなかったことで、周囲をいたく当惑させたことも。周り
を見てはいけない。動いてはいけない。ブローデルが非常なる場所、リューベックの人となっ
た時、『地中海』は「生誕の時」を迎えた。クロノス(暦)が引き裂かれ、カイロス(瞬間)
がアイオーン(永遠)と結ばれたのである(33)。
ポールは、ある視覚認識について書かれた本によって、これまで自分が無意識に感じていた
30 両者は共に「美しきものへの回帰=ロマン主義」と親和する感性を持っていたが、「偉大な物語への
帰属=ナショナリズム」とは異和しつづけた。また、ベンヤミンとカバラ主義との、ブローデルと
カソリックとの微妙な距離の取り方にも相似るものを指摘できよう。
31 前掲『入門・ブローデル』、195-196頁。
32 前掲『パサージュ論 第3巻』、180頁。
33 ベンヤミンは『歴史の概念について』の最後で言う。「時間がその胎内に何を宿しているのかを時間
から聞き出した占師たちは、たしかに、この時間というものを、均質なものとしても空虚なものと
しても経験してはいなかった。このことをありありと脳裏に思い描ける者は、おそらく、過ぎ去っ
た時間が想起の中でどのように経験されたかについても、はっきりわかることだろう。つまりは、まっ
たく同じように経験されたのである。周知のように、未来を探ることはユダヤ人には禁じられていた。
律法と祈祷は、その代わりに、彼らに想起を教えている。占師に予言を求める人びとが囚われてい
る未来の魔力から、想起はユダヤ人を解放した。しかしそれだからといって、未来が均質で空虚な
時間になったわけではやはりなかった。というのも、未来のどの瞬間もメシアがそれを潜り抜けて
やってくる可能性のある、小さな門だったのだ」(ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクショ
ン1 近代の意味』浅井健二郎編訳・久保哲司訳、筑摩書房、1995年、664頁)。ブローデルは、リュー
ベックにおいてほかの誰にも似ていなかった。それは、かれが時間的にも空間的にも零度の「場所」
にいたということである。つまりブローデルもまた、「リューベック人」として「未来の魔力」から
解放され、「意図」からも、「均質で空虚な未来」からも自由となったということではなかったであ
ろうか。
13
フェルナン・ブローデルの『地中海』とその創造性
ブローデルの「方法」を鮮明に意識することになったと述べる。画家が風景を前に、おびただ
しい物質的細部を観察しながら、混乱したマッスを解読し、意味ある線を掴み、強調する。そ
れこそがブローデルの「方法」だったのだと(34)。
「あのとき、ほとんど記憶に頼って同じひとつのテクストの新版を次々といくつも書くこと
によって、悪いところを縮めていったのだと思います。しかも、修正するさいには、前の原稿
に手を入れることすらせず、頭から最後までまるまる書き直していました。ある日あの人に、
あれじゃあ時間と体力の無駄だったんじゃないかしらと言ったら、笑って、ああしかできなかっ
たんだよという返事が返ってきました。そしてこう言うのです。『それに、マティスが同じモ
デルの同じ肖像を毎日毎日新しく描いていた話を教えてくれたのは君自身じゃないか。マティ
スは毎日毎日デッサンをくずかごに放り込んで、最後にやっと本当に気に入る線が見つかった
んだって、批判せずに話してくれただろ。となると、結局ぼくのやってることとそんなに違わ
ないよ』」
(35)。
このようにして、ポールは、ブローデルの仕事を「貫く」方法が、論理学者の方法でも、哲
学者の方法でもなく、肉体を通じて一気に全体に迫ろうとする芸術家の方法だったことを理解
したのである(36)。
5.背景、そして現在
『地中海』を読んでいて長らく疑問に思っていたのは、ブローデルがカントやベルグソンを
ほとんど参照しないことの不思議であった(37)。カントは、ア・プリオリな感性の直観形式と
して時間と空間を取り出し、「世界」を「全体」としてとらえるための予備学として「人間学」
と「地理学」を指定している。『自然地理学』の序文においては歴史と地理とにそれぞれ時間
と空間を割り当てていた。ベルグソンについては言うまでもない。ベルグソンは、持続をメロ
ディーとリズムととらえていたが、人間の歴史は五線譜だと言ったのはブローデルその人では
なかったか。(おそらくそれは比喩以上のものであったはずである)。時間を考える、空間を考
える、持続を考えるというのであれば、ヨーロッパの学的伝統からも、フランスの知的教養か
らも、さすがに、この二人の巨人は逸せないであろう。実際フルケは、『地中海』にカントの
影を見ていなかったであろうか。しかし管見に触れる限りで、ブローデルがこの二人について
参照しているところはほとんどない。これは意図的としか思えない。そこから関心が、ブロー
デルが「何を書いたか」ではなく、「どのようにして書き得たのか」に移行していった。これ
までの叙述によって、ブローデルの『地中海』の誕生が、過酷で異常な環境において、例外的
な「出来事」として訪れたとのだということを見てきた。おそらくブローデルの中にあったカ
ントや、ベルグソンについての参照は、様々なマッスの中に融解し、その中から一つの線へと
紡ぎ取られていったのであろう。このような例としては、第1次大戦下、塹壕の中で紙切れや
手紙に書きつづられたフランツ・ローゼンツヴァイク(彼はタレス以来の哲学と戦った)の『救
34 前掲『入門・ブローデル』180頁。
35 同上、200頁。
36 同上、198頁。違う視点から、フランソワ・フルケもまた同じ結論に達している。「ブローデルは偉
ヴィジオネール
大な学者、思想家だろうか。否、彼は偉大な芸術家、予見者なのである」と(前掲『開かれた歴史学』、
82頁)。
37 ブローデルは、『地中海』の「結論」で、自分は哲学者でないので、自分になされてきた「人間の自由」
についての、あるいはこれからなされるであろう質問について議論する気にはなれないと予め断っ
ているのだが。
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郵政博物館 研究紀要 第5号
(2014年3月)
済の星』、自死によってついに断片に終わったものの、今日にいたるまで大きな影響を及ぼし
ているヴァルター・ベンヤミン(彼は根源の歴史を明らかにしようとした)の『歴史哲学につ
いて』(いわゆる歴史テーゼ)などが浮かぶ。ベンヤミンより10歳若いブローデルは、第2次
大戦後がその活動のほとんどの時期をなしているものの、現代化の起点をなす両大戦間期とい
う時代抜きに、『地中海』も、これらの著作同様あり得なかったであろう。この意味において、
ブローデルの意図とは別に、またその意図と反しようとも、この「出来事」は歴史にとってや
はり何事かであったと認めなければならない。
この稿の最後に、これまでどの証言者も指摘しつつ焦点が当てられることのなかったことに
ついて触れておきたい。おそらくそれは、彼や彼女にとって空気のようにあり、誰も特に取り
上げる必要を感じなかったことである。それはヨーロッパにおける古文書館の存在についてで
ある。極東の島国の研究者にとって、フェルナン・ブローデルや、ヴァルター・ベンヤミン、
ミシェル・フーコーなどの研究に触れるたびに嘆息を禁じ得ないのは、ヨーロッパ各地に存在
する古文書館、資料館などの諸施設の存在である。それだけであれば、歴史の重み、懐の深さ
ということで納得すればいいのだが、数世紀にわたる戦争、そして二度の大戦を通じ、これら
の資料館が守られ、それを守り通した無名の人々が常にいたということは、もって銘記すべき
ことであろう。ブローデルの『地中海』の背景=下地には、そのような無数の文化的営みが控
えていた。ブローデルが確かなものとした「長期持続」の「痕跡」を残していたのも、これら
の資料館であった。ほとんど価値を見出されず、忘れられたままそっと眠っていたそれらの歴
史資料から、「地中海世界」は、ブローデルの手によって甦ったのである。「日常生活」ととも
に、そこには連綿たる「文化の持続」が存在していた。このことを、あの「創造の時」の背景
にきちんと見ることも、ベンヤミンやブローデル以降の歴史家である我々の「使命」である。
付記
本稿の脱稿を目前に、学部の同僚である鈴木博之教授逝去の報がもたらされた。建築史の世
界的大家であるとともに、歴史建築保存のためにまい進してこられた先生の突然の悲報に、茫
然自失となった。穏やかではあるが、文化保存に常に闘志を燃やされていた先生とベンヤミン
についてお話ししたことが、昨日のように思い出される。あのような貴重なお時間をいただく
ことはもはや永遠に失われてしまった。今はただ、この拙い稿を先生のご墓前に捧げ、ご冥福
をお祈りするのみである。
(すぎうら せいし 青山学院大学 総合文化政策学部教授)
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