近現代の歴史における「事実」と記憶

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2011 年度
文理学部人文科学研究所総合研究 研究報告
近現代の歴史における「事実」と記憶
研究代表者 :
古川 隆久(史学科・教授)
研究分担者 :
初見 基(ドイツ文学科・教授)
土屋 好古(史学科・教授)
松重 充浩(史学科・教授)
森 ありさ(史学科・教授)
粕谷 元(史学科・准教授)
はじめに
アメリカの覇権の絶対性が揺らぎつつある中,世界の諸地域では国家間の懸案解決が当事
者同士の緊張をはらみやすい状況が生まれている。さらに,それと連動する形で,ある国家
内において,周辺の地域や国家との関係を考える上で,歴史認識論争が生じやすい状況も生
まれている。
そもそも,近代国家が,歴史教育,国語教育,国家的イベント,国旗や国歌などの表象な
どを手段として,領域内の住民に国民意識を植え付けることで国家を維持発展させようとし
てきたこと,そして,それがともすれば国家間や地域の紛争発生の背景となってきたことは,
多くの先学によってだけでなく,
本研究の代表者・分担者たちが中心となって昨年度まで行っ
てきた,本研究所における共同研究によっても,各地域や各時代に即して明らかとなってき
た。
そこで考えなければならないのは,
しばしば起こる,
実証的な歴史研究の成果(「事実」
)と,
歴史についての集団的記憶との齟齬という問題である。これは現代にとどまらず,本研究の
代表者・分担者の多くが研究対象としている近現代の世界においても,すでに科学的実証的
な歴史学が成立していたことから,発生していた問題であった。歴史に関する集団的記憶の
中でも,歴史についての記憶の操作による自国・自集団の卓越性認識が国家あるいは政治勢
力の暴走の背景をなすことが少なくないことを考えれば,こうした齟齬をいかに認識し,い
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近現代の歴史における「事実」と記憶
かに対応すべきかは,研究者のみならず,広く人類社会にとっても重要な問題であり,この
問題について,多角的に検討する必要がある。以上のことから,本研究が構想された。
本研究の特色は,近現代の各地域,各時期を対象とする歴史学の研究者と,戦後ドイツを
対象に集団的歴史記憶の心性を研究する現代文化研究者との共同研究であるという点であ
る。ドイツは,加害の歴史についての集団的記憶の形成をめぐって,文学活動や史跡の保存
などの表象活動が最も盛んな国である。しかし,それゆえに国民の間でも議論は絶えず,知
識人の間でも哲学的な論争が行われている。こうした動きからは,歴史研究と集団的記憶の
関係を探る上での手がかりとなる考察の枠組みを得ることができる。
一方で,歴史に関する集団的記憶をめぐる問題は,近代史が始まって以来,多くの国家・
地域で問題となってきており,また,歴史の集団的記憶をめぐる論争においては,不可避的
に事実関係の探求という要素が含まれるだけでなく,ある地域のある時期における歴史の集
団的記憶自体が研究対象あるいはその一部となることもあるので,この問題を考える上で,
歴史研究者による個別研究の成果を踏まえることも必要である。
以上の事情から,本研究は,歴史研究の成果と歴史の集団的記憶との関係について,歴史
学と現代文化研究を協同させることによって,新たな地平を切り開くことをめざした。すな
わち,本研究では,科学的な歴史学の実証研究と,歴史の集団的記憶の表象が近代以降の特
有の問題であることをふまえ,実証的歴史研究の成果と,歴史の集団的記憶の関係について,
歴史上に生起した,あるいは歴史研究の上での史料批判の過程で生起する諸相を,地域や時
期を限定して具体的に明らかにしつつ,そうした諸相がはらむ一般的な問題点を,文化研究
の視点から掘り下げてみることによって,歴史の学問的研究がはらむ様々な問題点を意識化
することをめざしたのである。
研究会は,ミニシンポジウムを含め 5 回開催した。第 1 回研究会は 5 月 19 日午後 6 時半
より史学科会議室(2 号館 9 階)において椎名則明氏(日本大学文理学部人文科学研究所研
究員)の報告「戦中・戦後日本における銅像の撤去」をもとに討論を行い,第 2 回研究会は
6 月 30 日午後 6 時半より同じ会場において粕谷元准教授の報告「アフマド・シャリーフ・アッ
サヌースィーとトルコ独立戦争」をもとに討論を行った。第 3 回研究会は,本研究所総合研
究「東アジアにおける〈文化的統制と抵抗〉の錯綜をめぐる総合的研究」(研究代表者紅野
謙介教授)との共催により,7 月 14 日午後 6 時 20 分から文理学部本館 305 教室において,
古川隆久『昭和天皇』の合評会という形で行った。報告者は佐藤宏治氏(日本大学文理学部
人文科学研究所研究員)であった。第 4 回研究会は 11 月 17 日午後 6 時半から史学科会議室
(2 号館 9 階)において,土屋好古教授の報告「日露戦争における戦地医療と全ゼムストヴォ
組織」をもとに討論を行った。
本年度の課題であったミニシンポジウムは,12 月 10 日(土)13 時 30 分から 17 時まで日
本大学文理学部 3504 教室
(3 号館 5 階)
においてミニシンポジウム
「近現代の歴史をめぐる
「事
実」と記憶―ハルビンを事例として」と題し,私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「東ア
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ジアにおける都市形成プロセスの統合的把握とそのデジタル化をめぐる研究」(研究代表者
加藤直人教授)と共催で開催した。報告者は松重充浩教授と橋本雄一氏(東京外国語大学大
学院総合国際学研究院准教授)
,コメンテーターが土屋好古教授と初見基教授,司会は古川
が行った。告知用チラシに示した開催趣旨は以下のとおりである。
アメリカの覇権の絶対性が揺らぎつつある中,世界の諸地域では国家間の懸案解決が
当事者同士の緊張をはらみやすい状況が生まれ,それと連動する形で,ある国家内にお
いて,周辺の地域や国家との関係を考える上で,歴史認識論争が生じやすい状況も生ま
れている。
そもそも,近代国家は,歴史教育,国語教育,国家的イベント,国旗や国歌などの表
象などを手段として領域内の住民に国民意識を植え付けることによって国家を維持発展
させようとし,それがともすれば国家間や地域における紛争発生の背景となってきた。
そこで考えなければならないのは,しばしば起こる,実証的な歴史研究の成果(
「事
実」)と,歴史についての集団的記憶との齟齬という問題である。歴史に関する集団的
記憶の中でも,歴史についての記憶の操作による自国・自集団の卓越性認識が,国家あ
るいは政治勢力の暴走の背景をなすことが少なくないことを考えれば,こうした齟齬を
いかに認識し,いかに対応すべきかは,人類社会にとって重要な問題である。
この問題を考える上で,地理的歴史的に日本・中国・ロシアが交錯する都市であり,
建築や文学など多様な表象文化にも刺激を与えてきたハルビンは格好の事例となる。
そこで本ミニ・シンポジウムでは,ハルビンを事例に,歴史学・文学・文化・現代思
想など,さまざまな視点から「
「事実」と記憶」の問題について考察を深めたい。
すなわち,本年度の研究テーマである「事実」と記憶という問題を考える上で,地理的歴
史的に日本・中国・ロシアが交錯する都市であり,建築や文学など多様な表象文化にも刺激
を与えてきたハルビンは格好の事例となることから,副題にあるようにハルビンに焦点をあ
て,歴史のみならず文化研究の視点からも考察を深めることを趣旨としたのである。シンポ
ジウムは,二つの報告の後,ロシア近代史の立場から土屋教授が,文化研究の立場から初見
教授がコメントし,それらをふまえて討論するという形で行われた。
第一報告は,松重教授の「満洲事変前ハルビンにおける中国側諸施策‐中国側『記憶』の
生成過程の実相」で,19 世紀末から満州事変前までの中国においてハルビンという都市の
イメージがいかに形成されたかについて,中国側の行政機構の対応や歴史書の編纂,教育な
どの事例を検討し,本来ロシアが建設した都市であるハルビンが,当該地域の歴史の記憶に
組み込まれることによって中国の都市として記憶されるようになったと論じた。第二報告
は,橋本氏の「植民地都市が宿す記憶の地層―ハルビンをめぐる中国側のナラティブ―」で,
1932 年の「満州国」成立後のハルビンについて,中国側がどのように認識し,それがどの
ように「記憶」化されていったのかについて,
「満州国」における中国人の文化活動(文学,
音楽など),現代中国の文学作品における語られ方などを事例に検討し,
歴史事実に対する
「記
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近現代の歴史における「事実」と記憶
憶」の重層性に注意を喚起した。
以上の報告に対して,土屋・初見両教授からは,主に,中国人という概念の多義性について,
報告者への質問や意見が開陳され,それらをふまえてフロアと報告者,コメンテーターの間
で討論が行われた。当日は学内外で関連のテーマによるシンポジウムが数多く行われたこと
もあって,参加者は計 23 名と,決して多いとはいえなかったが,熱心な質疑討論が行われ,
おおむね本ミニシンポジウムの所期の目的は達成できたと考えられる。ご多忙のところ,有
意義な報告や討論を賜った橋本氏には厚くお礼申し上げる。
このように計画通り研究会を開催でき,充実した有意義な報告や討論が行われた。その成
果は以下の各分担者の業績に反映されている。
1,日本近現代史における戦争をめぐる事実と「記憶」
古川 隆久
ここでは,23 年度の成果である著書『ポツダム宣言と軍国日本』(吉川弘文館 平成 24
年 11 月刊行)をもとに,表記のテーマについて考えたい。同書は,
「敗者の日本史」シリー
ズの一巻として,最新の諸研究の成果をとりいれつつ,明治維新以来,太平洋戦争敗戦まで
の日本の軍隊のありかたを振り返ることで太平洋戦争の敗因を探り,敗戦のその後の時代へ
の影響についても検討するという目的で書かれた一般向けの書物であるが,同書において,
本総合研究のテーマとも密接な,事実と「記憶」に関わる叙述,考察を展開したからである。
以下,特に注記する場合以外の事実関係は同書による。
日本近現代史における事実と「記憶」の問題を考える場合,政治や社会全体に関しては戦
争にかかわる「記憶」がとりわけ重要であることはいうまでもない。戦争に関する「記憶」
については,1945 年の敗戦を境にキーワードが二つに分かれる。敗戦までのキーワードは
「勝
利の記憶」であり,敗戦後のキーワードは「敗戦の記憶」である。
日露戦争(1904 ∼ 1905)の勝利の記憶は,大国ロシアを相手とし,しかも動員数も犠牲
者も日清戦争に数倍する(動員数のべ 100 万人,
戦死・戦病死 8 万 4 千人,
戦傷 14 万 3 千人)
,
まさに国民規模の戦争となったため,以後の日本の歴史に大きな影響を及ぼした。
1907(明治 40)年 4 月,軍部は,統帥権の独立を理由に,議会はもとより政府(内閣)
にすら相談せず,秘密裏に帝国国防方針を決定した。陸軍は平時 25 個師団,戦時 50 個師団,
海軍は主力艦 8 隻を中心とする大艦隊の建設を目標とした大軍拡計画である。以後何度か改
訂されるが,すべて軍部が独自に策定し,天皇の認可を受けるだけで,外部には秘密だった。
軍部がこうした大軍拡を主張した理由は,多大の人的犠牲と国民の財政負担によって獲得し
た満州権益の確保というものだった。
既に日露戦争直後から,海軍の広瀬武夫,陸軍の橘周太のように,戦死者の中から軍神と
いう形容詞で報道されて,銅像が建てられたり学校唱歌でとりあげられる軍人や,陸軍の乃
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木希典,海軍の東郷平八郎などの偉人視される軍人が現れ,日露戦争の勝利は国民的記憶と
なりつつあった(山室建徳『軍神』中央公論新社 2007 年)
。こうした状況を背景に,戦争
終結後,軍部の独立性はさらに高まったのである。
なお,のちに,乃木は学習院長,東郷は東宮御学問所の総裁を務めるなど,教育面で重要
な地位に就いたことも,日露戦争の記憶の絶対化にプラスにこそなれ,マイナスになること
はなかったといえる。
軍事技術的には,陸軍の場合は歩兵の銃剣突撃至上主義,海軍は日本海海戦の再現をめざ
す戦術など,日露戦争の戦訓が絶対視されるようになった。第一次世界大戦後,総力戦思想
の波及や軍縮の動きの中でも基本は変わらず,結局は陸海軍ともに昭和の戦争において新兵
器(飛行機,自動車など)を使いこなせず,それが苦戦を強いられた一因と指摘されている。
また,第一次世界大戦後の軍縮の風潮の中で,軍隊や軍人は社会で冷遇視され,軍人や在
郷軍人らが反発する事態が生じたが,反発する際にしばしば用いられたのは日露戦争の記憶
だった。さらに,
1931 年に関東軍参謀の石原莞爾と板垣征四郎の謀略で始まった満州事変は,
国民の圧倒的支持を得たが,その背景に,陸軍が,日露戦争の記憶の喚起を中心に,盛んに
広報宣伝活動を行ったことがあった(加藤陽子『日本人はそれでも「戦争」を選んだ』朝日
出版社 2009 年)。日露戦争の勝利の記憶は,敗戦までの日本における,戦争や軍隊の政治
的社会的正当化に大変大きな役割を果たしたのである。
一方,1945 年の敗戦は,戦争や軍隊に対する日本社会の価値観を一変させた。敗戦を境
に軍部批判が噴出し,軍人は社会的に粗略に扱われるようになった。占領軍の原案に基づく
日本国憲法に関しては,講和前後(1950 年代前半)の世論調査では,再軍備(憲法第九条
改正)賛成は半数を超えたこともあったが,
徴兵制や統帥権の独立への支持はごくわずかだっ
た。しかも 1952 年の総選挙では,憲法改正による再軍備を政策に掲げた民主党は第一党と
はなったが過半数獲得には失敗した。そして 1960 年代以降は再軍備反対が過半数を占める
ようになり,その結果,憲法第 9 条の改正は今に至るまで本格的な政治課題にさえなってい
ない。また,1971 年には沖縄返還協定の国会における批准を期限内に行うための譲歩として,
与党自民党も賛成して非核三原則が国会で決議され,これが以後の日本の外交政策の基本理
念のひとつなった。
こうしたことの背景として占領軍や共産党(日教組)による「洗脳」を指摘する声もある
が,そう考えると,世論調査において,講和前後に再軍備賛成が最も多く,その後再び少数
派となることの説明ができない。知識人の間で,戦争協力への悔悟から,党派にかかわらず
反戦の運動や文学作品の創出などが行われただけでなく,映画など大衆文化の分野でも先の
戦争の悲惨な事実を扱いつつ大ヒットする作品が少なからず生まれ,さらに一般庶民の間で
も,家族間で戦争の記憶を語り継ぐなど,草の根的な記憶の伝達が行われていたことを重視
する必要があるのである。
その背景として,やはりこの戦争が日本社会にもたらした影響の大きさを考えない訳には
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近現代の歴史における「事実」と記憶
いかない。日中戦争勃発から太平洋戦争敗戦まで足かけ 9 年間の日本人の戦死・戦病死者は
230 万人,民間人の犠牲者は 80 万人だった。当時の日本本土の人口は約 7 千万人であるから,
5% もの人が死んだわけで,戦争による被害としては日本史上空前の規模だった。しかも戦
争末期には日本の多くの場所で空襲の危険や実際の被害をうけた。
それに,日本社会にきちんと認識されるのは 1980 年代にいわゆる教科書問題が起きてか
らのことになるが,日本はこの 9 年にわたる戦争で,中国を始めアジア全域に大きな犠牲も
もたらした。これ以後,日本は国際的にも常に先の戦争の加害者としての記憶を呼び起こ
されることとなった。これに対して右翼などの反発の動きもあるが,理性的な対応も国家レ
ベルで行われている。その代表例が,2001 年に開設されたアジア歴史資料センターである。
これは,敗戦までの日本の政府や軍部の公文書をインターネットを使って無料で世界に公開
するシステムであり,
外国語での検索ができないなど課題はあるにしても,
まさに事実をもっ
て記憶の暴走を防ぐために大きな役割を果たしていくことが期待される。
なお,先に見た日露戦争の記憶に関連して,戦後,1970 年前後に新聞の連載小説として
発表された司馬遼太郎の『坂の上の雲』は,日露戦争及びそれに至る時期の日本を舞台とし
た歴史小説で,大きな人気を博し,司馬の代表作の一つとなっている。この小説は,全体と
して,日露戦争の勝利に至る日本を明るく好意的に描いているものの,それが直ちに戦前日
本全体の肯定にとはなっていないことはよく知られている。そのため,この小説の大ヒット
によって,戦争への否定観が減ったという傾向は認められない。あくまで,敗戦による日本
社会全体の戦争認識をふまえた上で構想された小説だったのである。
近代国家において,国民全体が広く動員された大戦争の記憶は,それが負けたにしろ勝っ
たにしろ,その国の政治や社会,文化の形成や対外関係に大きな影響を及ぼす。日本の場合
は,国家制度の不備(統帥権独立など)を背景に,勝利の記憶による暴走が決定的敗北とい
う事実を生み,その敗北の記憶がその後の国家社会のありかたに大きな影響を与えてきたと
いうことができるのである。
2,「戦後」意識と「死者像」の構築
初見 基
研究の概要を以下に記すが , 現在継続中の内容であるため , ごく簡略化した大筋のみにと
どめる。
1980 年代半ばよりドイツ(当時は西ドイツ)において「記憶文化」と称される傾向が盛
んに唱えられるようになった。その際の「記憶」とは , ナチ・ドイツの時代にドイツ国家の
名のもとで行使された暴力行為に象徴される諸「事実」に向けられていた。ただ一般に ,「事
実」が「記憶」において表象されるなかでは ,「事実」に意味づけがされ , さらにその「事実」
を構築する態度にも規範性が要求されるようなメカニズムが働く。そして
「記憶」
もまた「事
,
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実」の具体的な局面に向けられるというよりは , 否定的な過去に思いを馳せること一般に解
消されうるような相も持ちはじめる。
本研究では , これを「戦争の記憶」という問題設定のもとで考察し , ドイツ及び日本にお
ける「戦後文学」「戦後思想」の持った特性の一面に光を当てることを目的とした。
日本語における「戦後」という単語は , 戦争一般の後というよりも ,「アジア太平洋戦争」
の敗戦後 , という意味合いで通常用いられている。そしてさらに ,「戦後文学」「戦後思想」
といった場合には ,「アジア太平洋戦争敗戦の後」に営まれた文学ないし思想的営為のすべ
てを指しているわけでもなかった。
「戦争」及び「敗戦」という否定的現実の体験が , なん
らかのかたちでその営為を規定している ,「戦後文学」
「戦後思想」とはそのような理解のも
とにあったと言える。
ただその際に , そもそもは諸個人が直接にこうむった体験がもとになっているとはいえ ,
この「体験」は個人的な直接性にとどまらなかった。
「体験」が「記憶」のなかで思い返され ,
ある筋道を有した「事件」として構築されてゆくとき ,「戦争」という「共同的な体験」が
仮構され , そのもとで「事件」の性格に意味が充塡されてゆく。つまり , 実際においては個
別で異なる体験が , あたかも「戦争」というある意味を持った「共同体験」であるかのごと
くに構築されるということだ。
「戦後文学」においても「戦後思想」においても , 原初の動機のひとつとして 「
, 戦争の死者」
と向き合うという姿勢がしばしば観察される。この際にも , 初発の段階では一人一人が直接
関係を持っていた , 具体的な顔も名も持った人物が問題となるにしても ,「戦争」という「共
同体験」が扱われるなかでは「死者」もまたより抽象的な , 個別の顔も名も捨象された , 直
接相まみえることもなかったような「死者」がむしろ想定されている。そしてそのような「死
者と向き合う」という姿勢に強い意味づけがなされる。
こうして「死者」という否定性に文学や思想が規定されてゆく , ということは , その実は ,
「死者」という否定性を文学や思想が規範性として構築しているともまた考えられる。
「戦争の死者」への「記憶」が , たとえば「無名戦士の墓」のようなかたちで , 近代「国民国家」
を形成するうえでの力となってきたことについては , つとに指摘されてきている。互いに顔
も名も知らない者同士が「戦争」のもとでひとつの国家に所属しているという構図が ,「無
名戦士」という「見知らぬ他者」を悼む行為において , より強められるということだ。そして ,
その前提としては ,「死者」の選別が行われている点は言うまでもない。
「戦後文学」や「戦
後思想」にしてもある相において , このような動きに与ってきた。しかし潜在的にはここに
とどまるものではない。
「戦争の死者」への「記憶」, より拡張するなら「見知らぬ他者への
想像力」を ,「国民国家」の枠よりも拡張しうる可能性を見逃すべきではない。
現今のドイツにおける「記憶文化」は , 一方において , すでにしばしば論じられているよ
うに , 否定的な「記憶」を国民統合の結集軸とする , いわば「否定的ナショナリズム」と通
ずるとともに , またその反面では , 一般性へと解消されないかたちでの普遍主義への回路も
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近現代の歴史における「事実」と記憶
有している。この後者にドイツにおける「戦後文学」
「戦後思想」のひとつの可能性を見る
ことができる。
3,ヴァリャーグ号について―日露戦争をめぐるある事実と記憶
土屋 好古
社会主義ロシアは,
ロシア帝国 = ロマノフ朝を打倒した革命によって(より正確に言えば,
ロマノフ朝を倒して成立した臨時政府を倒して)成立した。革命によって生まれた新生ロシ
アにとって,旧帝国はマイナスの価値を帯びた存在であった。しかし,革命時にレーニンを
初めとするロシアの革命家たちが思い描いていた世界革命の可能性が潰え,スターリンが権
力の座について一国社会主義路線をとるようになると,国家を統合するためにナショナリズ
ムが動員され,ロシア的なるものが再評価されるようになっていった。このような歴史的経
緯のなかで,ソ連における歴史の「記憶」は,複雑なものとならざるをえなかった。日露戦
争は,マルクス主義の歴史学の立場からは帝国主義戦争であり,戦争当時レーニンはいわゆ
る敗北主義の立場をとって,ロシアの敗北がロシア,ひいてはヨーロッパにおける革命の導
火線となるだろうと考えていた。
革命家レーニンにとって日露戦争におけるロシアの敗北は,
自らの革命構想にとって肯定的な意味を持った。しかし,第二次世界大戦の最末期に日本に
宣戦布告したスターリンは,この戦争を日露戦争の汚点を雪ぐための戦いであったと意義づ
け,日本が降伏文書に調印した 9 月 2 日,
「40 年間,われわれ古い世代はこの日を待った」
(横
手慎二『日露戦争史』中公新書,2005 年)と述べたのである。
ここでは,ロシアにおいてこのようにねじれを伴った記憶をまとった日露戦争における一
つの「悲劇」を取り上げ,それがその後どのような歴史をたどったのかを,「記憶」との関
係から描いてみたい。取り上げるのは,日露戦争開戦時に日本の攻撃を受けて仁川(チェム
ルポ)でコレーエツ号とともに沈没したヴァリャーグ号をめぐる歴史である。
日露戦争時,ロシアでは日本に対する非難の多くは開戦時の奇襲攻撃に由来していたが,
それと表裏をなす形で人々の愛国心を喚起する素材として大いに喧伝されたのが,チェムル
ポで沈没したヴァリャーグ号とコレーエツ号の物語である。これは,ロシアの愛国心を喚起
するために最も多く利用された物語の一つである。
チェムルポの戦闘とは,
次のようなものであった。1904 年 1 月 26 日(西暦 2 月 8 日)チェ
ムルポに瓜生外吉司令官のもと日本艦隊が姿をあらわした。当時ソウルにおけるロシアの利
益擁護のため,巡洋艦ヴァリャーグ号,砲艦コレーエツ号,輸送船スンガリ号がチェムルポ
に碇泊していた。日本艦隊接近の状況を受け,コレーエツ号が偵察のため湾外へ出ようとし
たが,日本側からの砲撃を受け湾内へ戻った。1 月 27 日朝瓜生司令官から 12 時までにチェ
ムルポを退去すること,もしそれが実行されない場合湾内で攻撃を受けることになるとの通
告を受け取ったロシア側司令官ルドネフは,同港に碇泊していた中立国の船の艦長たちに公
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海に出るまでの護衛を依頼した。この依頼は受け入れられなかったが,艦長たちは日本側に
湾内でのロシア船攻撃の威嚇に抗議した。この抗議に回答はなく,ロシア側は抵抗せず降伏
するよりも戦闘を選び,ヴァリャーグ号,コレーエツ号は 11 時ごろ戦闘の準備をして港外
へ向かった。両艦は,チェムルポ出港後,日本艦隊と遭遇し攻撃を受けた。コレーエツ号は
巧妙な操縦で砲撃を一部かわしたが,ヴァリャーグ号は多くの砲弾を受け,結局両艦はチェ
ムルポ港に引き返した。この攻撃で死者 30 名,重傷者 85 名などの人的損害を受けた。ルド
ネフは敵の手に艦船が陥ることを避けるため,自沈することを決意し,中立国の艦船がロシ
アの乗員を受け入れ,武装解除することに同意した。こうしてタルボット号(イギリス)に
242 名,エリバ号(イタリア)に 179 名,パスカル号(フランス)に負傷者全員とスンガリ
号の乗員,そして残りはヴィクスバーグ号(アメリカ)に移された。コレーエツ号は午後 4
時に爆破され,午後 5 時ヴァリャーグ号が炎上しはじめ,日没までに沈没した。夜の間に,
スンガリ号も全焼した。
このようにして救助された乗員たちは,まもなく第三国を経由してロシアに戻るが,母
国では彼らを日本の卑劣な攻撃とその犠牲者として,またロシアの利益を最後まで守ろうと
した英雄として迎えた。各地で歓迎の行事が行われたが,ペテルブルクでは皇族直々に彼
らを歓迎する宴が開催された。皇帝から一般市民にいたるロシアのすべての階層の人びと
が,
「チェムルポの英雄」を暖かく迎え,彼らの行状を称えた。このようなパフォーマンス
は,戦争に立ち向かう国民的一体感を醸成するのに大きな役割を果たすことができた。ヴァ
リャーグとコレーエツをめぐる言説は,ロシアの愛国主義をかきたてると同時に,ヨーロッ
パ世界のなかのロシアというアイデンティティーの確認にも利用されていた。こうしてヴァ
リャーグ号の名前は,ロシアの人々の記憶のなかに刻み込まれることになった。
さて,2004 年にロシアで『ヴァリャーグ 100 年の勲功 1904 − 2004』という書物が出
版された。ここには,上述のチェムルポでの悲劇以降のヴァリャーグ号をめぐる興味深い歴
史が記されている。その一つが,ヴァリャーグ号そのものの運命である。以下,この書物の
内容に沿って,ヴァリャーグ号とその事実と記憶に関して少し述べよう。
日本は,事件から一月後に沈没したヴァリャーグ号の引き上げに着手し,1905 年 8 月に
ついにそれに成功した。日本は,
その状態を見てヴァリャーグ号を修理することを決定した。
そして 1907 年,修理されたヴァリャーグ号は,日本海軍の演習船宗谷丸となったのである。
この船の運命は,そこで終わらなかった。第一次世界大戦中の 1916 年,ロシアは海軍強化
のために,今や同盟国となった日本との合意によって,かつて日露戦争で失ったロシア艦船
を受け取った。この時日本から返還されたのが,宗谷を含む三隻であった。こうして,ヴァ
リャーグは再びロシアの船となった。
しかし,ヴァリャーグは,1917 年 10 月革命直後にイギリスに抑留され,1920 年金属屑と
して売却されるためにドイツに曳航される途中スコットランド沿岸で座礁し,そこから引き
出すことができないまま,1925 年現地で解体された。このヴァリャーグの最後は海軍の文
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近現代の歴史における「事実」と記憶
書に叙述されていたのだが,ソ連では 1960 年代初めまで,同船はイギリスの給炭船として
1918 年ドイツ潜水艦によってアイルランドの海で撃沈された,という公式の見解が存在し
ていた。二人の歴史家が文書を発見して,ヴァリャーグの最後に関する真の歴史を明らかに
したのである。
この「事実」の発見に先立つ 1944 年,
『赤い星』紙の通信員ポノマリョフは,西ウクライ
ナのある村でかつてのヴァリャーグの水兵と出会った。これをきっかけとして,ポノマリョ
フはヴァリャーグの乗組員を探し始め,17 人のかつての水兵たちを探し出すことに成功し
た。1946 年 6 月,彼は『コムソモーリスカヤ・プラヴダ』紙に「ヴァリャーグ号の話」を
掲載し始めた。この記事が,伝説的巡洋艦の過去の栄光をよみがえらせた。この年には,エ
イスイモント監督によって映画「巡洋艦ヴァリャーグ号」が撮影された。ヴァリャーグ号の
役割を担ったのは 10 月革命で有名なアヴローラ号,司令官を演じたのは,モスクワ芸術座
の有名な俳優ボリス・リヴァノフである。1954 年 2 月 8 日,チェムルポの悲劇の 50 周年前
日には,モスクワのソ連軍中央会館でロシア水兵の英雄的武勲を顕彰する大きなパーティー
が開催された。この会には,11 名のかつての水兵が参加した。武勲を記念する集会は,そ
の他の多くの都市でも開催され,
英雄たる水兵たちがゲストに招かれた。さらに 1958 年には,
トゥーラ市のコムソモール広場に,ヴァリャーグの司令官ルドネフの像が建立された。
1954 年には記念の会が開催されたほか,ソ連海軍の巡洋艦の中から一隻をヴァリャーグ
に改名することも決定されたが,
適当な艦船が見つからず,
結局建艦中の巡洋艦をヴァリャー
グと名付けることになった。新生ヴァリャーグは,1956 年進水した。もっとも当時のソ連
指導部の考えで,この船は完成されなかった。それでも,1965 年には,ヴァリャーグの名
を冠したミサイル搭載巡洋艦が就役し,太平洋艦隊に所属した。このヴァリャーグは 25 年
間勤務した。次にヴァリャーグの名を冠された船は数奇な運命をたどった。これは,黒海の
ニコラエフで建造されていた。しかし,ソ連邦が 1991 年に崩壊すると,1992 年には建造資
金が入らなくなった。所有権をめぐる紆余曲折などがあったが,結局ロシアとウクライナの
合意によって,この未完の重航空巡洋艦(空母)は中国に売却されることになった。2000
年夏に出発した中国への回航も,スムーズには進まなかった。これとは別に,ロシアは,ヴァ
リャーグの名をもつ艦船を望み,1995 年太平洋艦隊のミサイル艦載巡洋艦チェルヴォナ・
ウクライナ号をヴァリャーグ号に改名した。この船は,1997 年仁川を訪問し,乗組員たちは,
日露戦争時にヴァリャーグが犠牲になった場所で敬礼を捧げている。このようにして,ヴァ
リャーグをめぐる記憶は,様々な形で確認されてきた。
2005 年筆者がヴラジヴォストークを訪問した際,ヴァリャーグ号はその港に他の軍艦と
ともに係留されていた。2004-2005 年の日露戦争百年には,ロシアでも多くの日露戦争関連
文献が出版され,あらためてその歴史に対する関心が高まった。ヴァリャーグ号をめぐる事
実と記憶にも再び光が当たっている。
『ヴァリャーグ 100 年の勲功 1904 − 2004』の出版
自体が,その一つの証左である。
近現代の歴史における「事実」と記憶
93
4,『榊谷仙次郎日記』にみる中国観
松重 充浩
2011 年度の研究課題と関連して,
「満洲」の土建業界において指導的立場にいた榊谷仙次
郎(1877-1968)が残した日記(1910 年 1 月∼ 46 年 7 月)を検討した。
以下では,その概要を述べることとしたいが,日記分析の詳細に関しては,拙稿「榊谷仙
次郎日記」
〔武内房司編『日記に読む近代日本:5 アジアと日本』
(吉川弘文館,2012 年):184-203
頁〕を参照されたい。
(1)榊谷仙次郎の略歴と日記について
まず,本研究で対象とする榊谷の略歴と『榊谷仙次郎日記』
(以下,
「日記」と略)の位置
づけを一瞥して,研究の前提を確保しておくこととしたい。
「日記」の記主である榊谷仙次郎は,広島県安芸郡下蒲刈島村に生まれ,1904 年に朝鮮に
渡り京釜鉄道工事に従事した後,06 年東京築地工手学校(現工学院大学)に入学,09 年に
同学校土木科を卒業。その後,日本が「満洲」
(以下,「」略)と呼び慣わしていた中国東北
地域で,多くの土木工事に技術者・工事監督者としの手腕を発揮し,21 年独立し榊谷組を
立ち上げ,以後,日本の敗戦に至るまで満洲における土木建築業者の中核的人物として活
躍した人物である。敗戦後の榊谷は,大連で日本人の引き揚げに尽力し,47 年に帰国。49
年外務省在外公館借入金整理準備審査員の依嘱を受け,64 年には勲四等瑞宝章が授与され,
68 年に東京で死去している。
以上の略歴からもわかるように,榊谷は,日露戦後から日本敗戦に至る日本の満洲進出・
支配の時期と重なる形で,その 30 歳代から 60 歳代の働き盛りの約 40 年間を満洲で過ごし
ている。榊谷は,各種インフラの建設を担う土建業者として,言わば常に日本の満洲進出・
支配のフロンティアに常に立ち続けており,その意味で,榊谷はまさに日満関係史と共に歩
む人生を送った人物だったといえよう。
「日記」は,その榊谷の満洲での活動と思いを 1909 年から 46 年の 37 年間にわたり記録し
たものとなっており,満洲で生活を送っていた日本人の活動実態とその満洲観や中国観を知
る上で極めて貴重な事例を提供するものとなっている。また,今回の研究では十分検討でき
なかったが,榊谷の在満活動時期は,
清朝滅亡から中華民国の成立さらには
「満洲国」
(以下,
「」
略)の成立,日中戦争から日本の敗戦と満洲国の崩壊といった,東アジア世界の大きな政治
的な変動とも重なっており,本日記の記述からは,単に日本人の「満洲経験」に止まらない,
いわゆる「外地」在住日本人の「東アジア体験」を知る手がかりも提供する貴重な史料とも
なっているといえよう。
なお,本研究では「日記」の活字版(榊谷仙次郎日記刊行会編『榊谷仙次郎日記』同刊行会,
1966 年)を利用しているが,
同活字版は,
前掲拙稿内の「テキスト紹介」で指摘している通り,
94
近現代の歴史における「事実」と記憶
いくつか大きな問題をはらんでいる。従って,以下で述べる内容は,活字版に限定されたも
のであることを予め付言しておくこととしたい。
(2)榊谷仙次郎における在満洲期中国認識の到達点
前述した通り「日記」の全体的分析に関しては前掲拙稿を参照して頂くとして,
以下では,
榊谷の「満洲国」(以下,
「」略)建国から引き揚げに至る「日記」の内容を一瞥し,彼の在
満洲時期における中国認識の到達点を確認することで,2011 年度研究課題に関する筆者成
果の一つとしておくこととしたい。
満洲国の建国は,同地で長らく懸案となっていた日本側希望事業を一気に着手させさてい
く契機となったが,それは従来にない大量な苦力を,当時「匪賊」を呼ばれた反満抗日運動
が展開する治安の悪い地域も含めた満洲各地に導入せねばならないという課題を惹起させる
ものでもあった。この課題に対して榊谷は,それ以前同様の中国人苦力頭を中心とする募集
活動による乗り切りを図っていた。この方法は,
おおむね三五年あたりまでは順調に機能し,
榊谷も「流石は矢張り崔である。今月中に一万人の約束であるが既に八千八百,後一千二百
は容易である。先づ満洲一の苦力頭だ,云ふ事も云ふが実行もする。腹も太し得難い苦力頭
である」〔三四年三月一〇日 :()内の年月日は「日記」のもの。以下,同様〕と述べ,中国
人苦力頭を中心とする苦力募集に自信を深めていた。しかし,本日記の記述を追いかけてい
くと,日本が華北侵出を強める三六年あたりから苦力募集の難しさを示す記述が登場し,日
中戦争が本格化する三八年には満洲での労働力不足が顕在化,三九年に入ると不足が深刻化
していく様子が読みとれる。崔らの調査により明らかにされているこの苦力募集悪化状況の
背景は,「第一は北支治安の悪き事。第二は彼地に仕事の多い事。第三は北支の賃銀と満洲
の賃銀が大差ない事。第四は蒋介石の謀略による事。其の他色々の原因もあるが,大体一番
の原因は,満洲に出稼ぎするも北支で働くのも彼等の一箇年の収入に大差なく,家族と共に
家庭で働く方が良いと言ふ理由に基づく様である」
(三九年五月一二日)というものだった。
この記述からは,前述した現地中国側官憲の協力がない中での募集の困難さに加えて,日本
の中国での支配圏拡大それ自体が,中国での日本側利益確保を目指す建設の阻害要因となっ
ているパラドックスを窺うことができる。
この状況に対して榊谷がとった主な対策は,榊谷長年の目標でもあった苦力賃金や資材の
統一などの日本側土建業者への統制強化による業者間の過剰競争回避と経営効率化への指導
強化,苦力募集地域への日本軍による「討伐」実施による日本側募集工作を可能とする治
安秩序の回復,満洲国内での労働力募集策の強化だった。しかし,戦局悪化の中で業界から
の当面の協力を急ぎ確保せねばならい状況に陥っていた日本側当局に,榊谷が望んだような
業界全体の近代化と合理化の方向性を含む強力な業者統制策を実施する余裕はなく,
「討伐」
による治安工作も十全な成果を上げることはなかった。
満洲国内での労働力確保に関しても,
その募集を担当させようとした崔本人から「国内労力募集には自信がないから,国内の苦力
近現代の歴史における「事実」と記憶
95
頭を選んでもらひたいと」
(同前)断られた事実に象徴されるように,それまで榊谷が培っ
てきたノウハウが活かされることなく,十分な成果を獲得することができなかった。この状
況の中,四一年には苦力募集が「満洲国政府の大問題」
(四一年四月二七日)となり,四四
年段階では「満洲でも資材労力の関係上,工事進行の容易ならざる事,国外労力の募集甚だ
困難にて当初募集計画八萬人予定の四分の一得難く,加ふるに素質甚だ悪しく募集費は非常
に高く国外募集の全然失敗であった事,これが補充対策として国内労力募集に重点を置いて
ゐる現状であるから,日本よりの募集も甚だ困難ならんと思惟する旨を話し,金は幾ら多く
やっても金のみでは募集出来ない現状にあり,食糧を支給しなければ見込みのない」(四四
年五月三日)というまさに末期的様相を呈し,敗戦を迎えることとなっていた。
しかし,注目すべき点は,
「日記」には,榊谷が自らの経営理念や苦力募集システムが機
能不全に陥る要因として,日本の中国侵略拡大過程の存在があること自覚していたこを明示
する記録がまったく残されていないという点である。この事実は,榊谷が自覚した上で記録
しなかったとするよりも,敗戦後の大連で彼が「今年は是非奉天,新京,場合によっては北
京にも行って中国土建界の為に働いて見度いと思ってゐる。
(中略―筆者註)日本へ帰るな
どと云ふ考えをやめて,長い間の満洲での土建界で鍛へた,その体験を今度は中国の土建界
に協力すると云ふ考えを持って大いに奮闘して貰ひ度い」(四六年一月一日)という発言を
していることからも,彼自身の満洲事変前に獲得した理念やシステムに対する揺るぎのない
自信の現れと解すべきであろう。このことは,榊谷が,日本の中国侵出という事実と自らの
土建業経営者としての高い技術と豊かな経験の蓄積の間にある相互連関性を正面から認識す
る契機を,言い換えれば,日本人の満洲経験の歴史的位置付けを東アジア史規模で行う上で
不可欠な視点を欠落させていたことを意味していた。そしてこの欠落は,おそらく榊谷一人
に限らず,多くの戦前・戦中を生き抜いた「外地」日本人が持った諸特徴でもあった。そし
て,戦後日本のアジア認識は,その彼等が持ち帰った「満洲経験」や「中国経験」を基礎の
一つとして再構成されていくこととなる。その意味で,本日記は戦後日本におけるアジア認
識がその起点において抱えた課題の一端を示すものともなっているのである。
5,再構成されるダブリン蜂起(1916 年)と関連事件の分析
森 ありさ
1916 年 4 月 24 日,アイルランドの首都ダブリンで武装蜂起が決行された。のちにこの事
件は,ブリテンからの独立運動の文脈で,アイルランド近現代史の重要な転機とみなされる
ようになる。
この日,蜂起軍の指揮官でアイルランド共和国臨時政府の大統領を名乗ったパトリック・
ピアース(Patrick Pearse)は,
蜂起軍が占拠した中央郵便局前で『アイルランド共和国宣言』
を読み上げ,あらかじめ印刷された同文書が街中で配布された。アイルランドにおいてはこ
96
近現代の歴史における「事実」と記憶
れが,18 世紀末の北米植民地独立運動の際に発布された『独立宣言』にも相当するものと
みなされるようになるのである。1)
このダブリン蜂起に先立つ 1916 年 3 月 20 日夜,アイルランド中部キングズ・カウンティ
の都市タラモアで,住民とアイルランド義勇軍(通称シン・フェイン義勇軍)の間で,ある
事件が起こった。この「騒動」は,最終段階で警官隊が介入し,うち 1 名が銃撃によって重
傷を負うにいたる。 これを地元紙が大々的に報道したのはもちろんだが,事件第一報はア
イルランドの全国紙にも紙面上段のメインニュースとして取り上げられ,さらにおよそ 1 ヶ
月にわたって続報が報じられたのである。
3 月 22 日に『アイリッシュ・タイムズ』に掲載された事件第一報は,メインニュースが
並ぶページの上段,メソポタミア戦線の戦況と最新の死傷者リストの間に割り付けられてい
る。およそ 1300 語からなる記事は,まず 20 日夜の「騒動」にいたる過程で,事件への伏線
ともいえる 2 件のトラブルがタラモア市内で起こっていたことを以下のように叙述してい
る。
市内で発生していたシン・フェインに敵対する一連の偶発事件が,昨夜の事件にい
たった。数ヶ月の間くすぶり続けてきたこの悪感情は,ウルフ・トーン・メモリアルを
支援して日曜日に行なわれた,ハーリングの競技場で明らかにされた。
・・・観客たち
がひとりのシン・フェインから旗を取り上げようとしたところ,この人物がリボルバー
銃を出してやり返そうとしたとの訴えがある。事件発生にいたるもうひとつの要素と言
われているのは,昨日鉄道駅に居合わせた何人かのシン・フェインに対する,敵対的な
デモンストレーションである。ここではレンスター連隊第 7 大隊に従軍している兵隊の
妻たちが多数,夫を見送っていたのである。こうした小競り合いの頂点が,ウィリアム・
ストリートのシン・フェイン・ホールで,昨夜の銃撃事件となった。2)
この記事中の「シン・フェイン」とは,アイルランド義勇軍を意味している。
1913 年 11 月にアイルランド自治法の早期成立を求めて結成されたアイルランド義勇軍は,
ブリテンの世界大戦参戦を境に分裂した。およそ 16 万名からなる登録義勇兵の圧倒的多数
派は,ブリテン下院でアイルランド自治勢力を代表していたアイルランド国民党党首ジョン・
レドモンド(John Redmond)の指導下,国民義勇軍として戦争協力の立場をとり,この中
から多数の将兵がブリテン陸軍に志願した。これに対して 1 万名あまりの少数派となったア
イルランド義勇軍は,ブリテンの戦争への協力を拒否したのである。
タラモアで敵視されていた「シン・フェイン」はこの戦争協力を拒んでいた少数派のアイ
ルランド義勇軍である。
第一報は,これら二つの小競り合いに続いて,3 月 20 日夜の「騒動」を以下のように報
じている。
ユニオン・ジャックを掲げた若者の一団が通りを行進し,ホール(筆者注 : 義勇軍が
間借りしていた部屋)正面で立ち止まって,シン・フェイナーに言及する歌を次々に歌っ
近現代の歴史における「事実」と記憶
97
た。この出来事は若者の悪ふざけとみなされ,ほとんど注意が払われなかった。しかし
群集はしだいに数を増し,女性たちと玄関口にいた何人かのシン・フェイナーとの間で
口論となった。野次や歓声が盛んに起こり,通りから投げられた石がホールの窓の 1 枚
を割った。現場は騒然とし,警察がホール入り口から群集を排除した。
群集の態度が敵意を増す中,ホール内にいたクマン・ナ・モンのメンバーである女性
たちが,数人のシン・フェインに送られて帰宅したが,彼らも群集の一部によって手荒
い目にあった。その後も投石は続けられ,ホール窓枠のガラスはほとんどすべてが打ち
砕かれた。これに対して,ホール居住者側が窓からリボルバーを発砲し,銃弾の 1 発が
真向かいの服地屋の板ガラスを貫通した。事態は混迷の度を増し,群衆は増え続けた。
通りが暗かった事実も混乱に拍車をかけていた。警官の一団が到着し,クレイン警部,
フィッツジェラルド警部補,スチュアート巡査長,アハーン巡査がホールに入ると,そ
こにいた 14 名の名前を記録し,武器の捜索にとりかかった。激しい抵抗が試みられ,
騒乱が続いた。
シン・フェイナーのなかにはリボルバーを抜くものがおり,他のものはハーリング・
スティックを使った。両者はつかみ合いになり,本格的な乱闘となった。格闘は 10 分
ほど続き,数発の銃弾が発砲された。シン・フェイナーのうち 4 名が打ち負かされ,逮
捕された。何とか通りへ逃れたものは手荒い扱いを受けたが,とりわけジェイムズ・ブ
レナンがひどい目にあわされた。銃撃で負傷したアハーン巡査は,何とか階下に降りた
が,ドア口で倒れ,ホテルに運ばれていき,そこからユニオン病院に転送された。本日
早朝,巡査は自動車で(筆者注 : ダブリンの)スティーブンス病院に運ばれ,手術を受け
ている。
警察が 4 名の逮捕者を連れてホールを去った後,群集が押し入り,家具調度の破壊を
ほしいままにした。四方の壁には銃弾のあとが残されていた。4 名のシン・フェインが
警察の兵舎に連行される間,大勢の群集がその後を追い,シン・フェインに暴行を加え
る試みが何度も繰り返されたが,警察によって阻まれた。3)
この記事からは事件全体を広く世界大戦の文脈の中で叙述する姿勢が読み取れる。しかし
報道のこの段階ではより詳細な事件解釈にまでは踏み込んでいない。
「騒動」には 3 者がか
かわっている。すなわち義勇軍,
これに敵対的な群集,
そして警察である。この記事では,
「騒
動」の中心はホールでの義勇軍と警官隊の乱闘に置かれ,事件性はその結果としての警官負
傷という解釈になっている。
しかし 4 月 24 日にダブリンで同じくアイルランド義勇軍による武装蜂起が決行されると,
タラモアでの「騒動」の意味づけも変化した。
1916 年 8 月 26 日に『週刊アイリッシュ・タイムズ』紙が編集,刊行した『シン・フェイ
ンの反乱全記録』の冒頭部分には,蜂起直前のアイルランド各地の不穏な情勢が列挙されて
いる。そしてタラモア「騒動」の記事もこの中に収録されているのである。ただし記事は第
98
近現代の歴史における「事実」と記憶
一報を編集して,文字数も 4 分の 1 程度となり,『全記録』の記事のみを読むと,事件の印
象が大いに変わるようなものとなっている。
再編集された記事では,事件の夜,タラモアの義勇軍に敵対感情をあらわにした群集の攻
撃性に関する叙述が,随所で弱められている。「騒動」に先立って歌で義勇軍を挑発した群
衆の行為は,巧みな編集で愛国的歌唱だったように印象付けられ,
「騒動」ののちホールに
乱入し破壊行為を行った群衆についても完全に削除されている。
叙述のニュアンスが変わらないのは,トラブルの原因を「シン・フェイン分子」によるブ
リテン国王や帝国への敵対要素に求めることで,挑発行為や暴力の正当化が可能と解釈され
うるエピソードである。最終的に『全記録』の叙述は,重傷を負った警官の首都病院への移
送情報で事件を締めくくることによって,義勇軍による暴力性の余韻を残す構成となってい
るのである。
このように 3 月の地方都市での事件は,首都での武装蜂起を経て再構成され,蜂起を担っ
たアイルランド義勇軍を「悪役」と位置付ける解釈が明確化され,『全記録』に収録された
のである。
第一次世界大戦終結直後から,アイルランドでは対ブリテン独立戦争がはじまり,これが
1922 年のアイルランド自由国成立にいたる。1916 年のダブリン蜂起は,アイルランドにお
ける「建国の物語」の序章に位置付けられ,復活祭が移動祭日であるため,毎年イースター
月曜はこの蜂起をコメモレートする行事が始まる。
1916 年から 50 周年にあたる 1966 年,タラモアでは盛大な祝賀行事が開催された。4) こ
の祝賀行事の背景には「ダブリン蜂起の最初の銃弾は,ここタラモアで放たれた」との解釈
がある。少なくともこの時期までに,タラモアの地方史研究者や自治体関係者,そして地方
紙編集者の中では,これが共通認識となっていたのである。
ある夜の数時間の「騒動」が,首都蜂起を経て義勇軍を「悪役」に仕立て上げ,その後の
独立達成によって,「悪役」は一転,地元の「英雄」となった。事件も「建国の物語」の序
章に関連付けられ,誇りをもって語られるにいたったのである。
6,セイイド・ベイの研究
粕谷 元
1924 年 3 月 3 日,トルコ大国民議会はカリフ制廃止法案を可決した。これは,1300 年近
くものあいだ続いたイスラームの政治的伝統が消滅したという点で,トルコのみならずイス
ラーム世界(ウンマ)全体にとってもきわめて重大な出来事であった。
オスマン帝国の残滓を一掃するというムスタファ・ケマル自身の強い決断によって,カリ
フ制の廃止は既定路線であったとはいえ,カリフ制はイスラームにおける正統な政治体制と
して理論的に確立された伝統である以上,
たんに「時代遅れだから」
「保守派の拠り所になっ
,
近現代の歴史における「事実」と記憶
99
ているから」といった理由で廃止できるものではない。したがって,
その廃止にあたっては,
イスラーム思想的にも正当化することが要求された。その役割を担い,廃止法案投票当日に
カリフ制廃止の正当性をイスラーム法学的に説明して,法案を可決に導く大演説を行ったの
が,時の法務大臣セイイド・ベイ Seyyid Bey であった。
この演説録は,同年に『カリフ制のイスラーム法的性質 : 法務大臣セイイド・ベイが 1340
年 3 月 3 日のトルコ大国民議会の第 2 会議でカリフ制のイスラーム法的性質に関して行っ
た演説』と題してトルコ大国民議会出版局から出版されたが (Seyyid, Hilâfetin Mahiyet-i
Şer’iyesi: Türkiye Büyük Millet Meclisi’nin 3 Mart 1340 Tarihinde Mün’akid İkinci İctimaında
Hilâfetin Mahiyet-i Şer ’iyesi hakkında Adliye Vekili Seyyid Bey tarafından İrad Olunan Nutuk.
Ankara: Türkiye Büyük Millet Meclisi Matbaası, [1924].),その内容は,イスラームにおける
政教分離論としてもきわめてユニークなものである。報告者は,この演説の現代イスラーム
思想上の重要性に鑑み,本年度これを全文訳したが 5),セイイド・ベイの思想の背景を考察
する上で,彼の経歴を明らかにすることがまずは重要であると思われるので,本報告では以
下にそれを記述することとする。
セイイド・ベイ 6)がエーゲ海に面する国際都市イズミルでウラマーの家系に生まれたのは,
1873 年のことである。その 3 年後の 1876 年,オスマン帝国では,帝国史上最初の憲法が発
布され,さらに翌 77 年には,帝国議会がやはり帝国史上初めて召集されている。帝国主義
段階に入った西洋列強に対抗するために,オスマン帝国が西洋風の国家体制を取り入れ,国
家としての生き残りを図っていた時代,その結果,西洋の言語,思想を学んだ新しいタイプ
のエリート層が輩出し始めていた時代,彼が生まれたのはそのような時代であった。セイイ
ド・ベイの前半生については,その詳細は明らかでない。地元イズミルのマドラサで教育を
受けた後,彼はイスタンブルの法律学校に進学する。1904 年に同校を首席で卒業した後,2
年ほど弁護士業を行い,1908 年に法律学校がダーリュル・フュヌーン法学部となると同時
に同学部教授に就任。イスラーム法理論 (usûl-i fikıh) を講義した。以後,長短のブランクを
挟みながらも,亡くなるまでダーリュル・フュヌーン法学部教授職の地位に留まった。オ
スマン帝国では,18 世紀中頃から,伝統的なイスラーム諸学を教授するマドラサとは別に,
西洋の学校制度を範とした洋式学校が設立されていたが,1874 年創立の法律学校はその一
つであった。
「西洋近代の学問・思想に一定の理解を示すマドラサ卒」というセイイド・ベ
イの個性は,彼が受けた教育がつちかったものだろう。
続いてセイイド・ベイは,ダーリュル・フュヌーン教授の職に留まりつつ,政界に進出す
る。第二次立憲政の幕が開いた 1908 年,
「統一と進歩委員会」
からオスマン帝国代議院
(下院)
議員選挙に立候補し当選(イズミル県選挙区から)
。2 立法期連続して代議院議員を務めた
後,3 期目途中の 1916 年に元老院(上院)議員に勅選された。この間,セイイド・ベイは
「統一と進歩委員会」の執行部の一人として要職を歴任した(1910 年に副委員長,1911 年に
100
書記長)
。ここで注目したいのは,イスラーム法の専門知識を生かした彼の議員としての業
績である。1909 年に 30 人からなる憲法改正特別委員会の委員になったほか,1916 年にはメ
ジェッレ(オスマン民法典)の改正のために代議院内に設置された民法委員会の委員となっ
ている。イスラーム法学に通じた議員として,セイイド・ベイがイスラーム法の近代的変容
4
4
というべきメジェッレ(オスマン民法典)の改正(後のトルコ共和国政府が行ったような「廃
止」ではない)に並々ならぬ情熱を傾けていたことはおそらく間違いない。
オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れた後,
旧「統一と進歩委員会」の幹部は戦犯となり,
セイイド・ベイも 1920 年 4 月,連合国によりマルタ島に流刑となった(1921 年 10 月釈放)
。
釈放後,アナトリアの革命政権
(大国民議会政府)
に参加するためにその拠点アンカラに渡り,
一時期ムスタファ・ケマルの法律顧問を務め,1923 年 5 月からは法務大臣所管下の一委員
会の委員長を務めた。1923 年の総選挙に人民党から立候補して当選し,8 月に開会したトル
コ大国民議会第 2 議会(1923-27 年)に加わると(イズミル県選出),アリー ・ フェトヒ内閣
の法務大臣に就任し,共和制施行後に成立した次のイスメト・イノニュ内閣でも法務大臣に
就任した。1924 年 3 月 2 日の人民党議員総会および翌 3 日のトルコ大国民議会本会議にお
けるカリフ制廃止法案審議では,法務大臣としてカリフ制の廃止をイスラーム法学の立場か
ら正当化する大演説を行い,同法案の成立に大きな役割を果たした。その直後,内閣総辞職
にともなって法務大臣を辞職し(3 月 5 日)
,続いて 4 月に新憲法が制定されて,議員職と
政府の官職との兼任が禁じられると,ダーリュル・フュヌーン教授の職にあったセイイド・
ベイは,議員を辞職した。
同年に新設のダーリュル・フュヌーン神学部の初代学部長に就任し,
神学部でイスラーム法学史 (tarihi-i fikıh) を,法学部でイスラーム法理論 (usûl-i fikıh) を教
授した。1925 年 3 月 8 日,肺炎により 52 歳で死去した。
以上の経歴からわかるように,セイイド・ベイは,政治活動を行いつつも,基本的には近
代主義的なイスラーム法学者であり,トルコ共和国の成立後は,その初期の改革 7)を支持
したイスラーム法学者の一人であった。とはいえ,セイイド・ベイは世俗化論者ではなく,
イスラーム法学改革論者であった。一方,カリフ制の廃止という重大な政治的局面で彼を法
務大臣に起用し,その政策をイスラーム法学的に擁護させたムスタファ・ケマルは,その後
まもなくイスラーム法そのものと決別した,ラーイクリキ的文脈での政教分離主義者であっ
た。その両者の関係性の中には,ラーイクリキ的な文脈での政教分離論とイスラーム思想と
の絡み合った関係が見いだされる。我々がイスラーム社会の「政教分離」について論じる際
には,まずその「政」と「教」がそれぞれ何であるのか,否,そもそも何と何との,何の何
からの分離であるのかを整理することが肝要であろう。セイイド・ベイの生涯とその思想は,
その問題を考える上で,多くの示唆に富むものである。
近現代の歴史における「事実」と記憶
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注
1) Liam de Paor, On the Easter Proclamation and other Declarations (Dublin, 1997)
2) The Irish Times, March, 22.1916. 3) Ibid.
4) Midland Tribune, April, 11, 1966.
5) 粕谷元(訳 ・ 解説)『カリフ制のイスラーム法的性質 : 法務大臣セイイド・ベイが 1340 年 3 月 3
日のトルコ大国民議会の第 2 会議でカリフ制のイスラーム法的性質に関して行った演説』
SOIAS Peserch Paper series No.9. [ 近刊 ]
6) セイイド・ベイの「ベイ Bey」は後年の敬称。本名はセイイド・メフメト・エミン Seyyid
Mehmd Emin。
7) 彼がトルコ大国民議会議員在職中に次のような改革的法案が成立した。シャリーア・ワクフ
,
省の廃止にともなうワクフ総務局および宗務局の新設,教育制度の統一(マドラサの廃止)
カリフ制の廃止(いずれも 1924 年 3 月 3 日),シャリーア裁判所の廃止(1924 年 4 月 8 日)。
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