メルラーナ街の怖るべき混乱 Quer Pasticciaccio Brutto De Via Merulana カルロ・エミリオ・ガッダ*1 著 2011 年 7 月 5 日 *1 *2 c ⃝1957 Carlo Emilio Gadda c ⃝1970 千種堅訳*2 3 目次 第1章 5 第2章 37 第3章 53 第4章 65 第5章 95 第6章 111 第7章 129 第8章 151 第9章 175 第 10 章 203 カルロ・エミリオ・ガッダ――人と作品」 225 10.1 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 225 10.2 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 227 10.3 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 230 10.4 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 233 10.5 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 234 5 第1章 いまでは誰もが彼のことをドン・チッチョと呼ぶようになっていた。機動捜査班に配属 されているフランチェスコ・イングラヴァッロがその当人で、若手のひとりであり、また、 どういうわけか、捜査課でも何かにつけうらやましく思われている係官のひとりであっ た。事件が起ればどこにでもやってくるし、やっかいな事態というと必ずその場にいあわ せるのである。中背で、どちらかといえば丸みをおびた身体つき、というよりややずんぐ りした感じであり、頭髪は黒くふさふさと縮れて額のなかほどまで垂れさがり、形而上的 な両頬のふたつのこぶに明るいイタリアの太陽があたらないよう、ふせいでやっていた。 いまにも眠ってしまいそうな様子で、歩きぶりは重々しく、ぎごちなく、消化不良を相手 に悪戦苦闘している人のように、どこか気のぬけた感じがする。服装は国からもらうとぽ しい給料で着れる程度のものであり、襟のところにオリーヴ油の小さなしみがひとつかふ たつついていたが、それも故郷のモリーゼの丘の記憶と同じで、ほとんど注意をひかない ものであった。世間、それも「ラテン的」と呼ばれるわれわれの世間について、若いなが らも (三十五歳) 何がしか実さい的な経験を、きちんと身につけているようで、男たちに ついてある程度の知識をもっていたし、女たちについても同じである。下宿の女主人は彼 のことを崇拝とまではいかないにせよ、ともかく尊敬していた。ベルが鳴るたび、前ぶれ もなく黄色い封筒の電報がまいこむたび、また夜おそく呼び出されたり、落ちつきのない 時間をおくるなど、ぞっとするような彼の日常を構成しているそのふつうではない混乱ぶ りのためというか、いや、それにもかかわらず尊敬していたのである。「時間割なんかお 持ちじゃないんですよ、一日中、はたらいておいでです。きのうなど、お帰りが夜あけで すからね」彼女にしてみれば、長い間、夢にまで見た「国のおえらがた」なのだ。メッサ ジェーロ紙に案内広告を出したところ、「女性おことわり」と最後に厳重な決まりがある のにもかかわらず「美麗、日あたりよし」の好餌にひかれて数えつくせない役人たちが姿 を見せたが、そのなかから吸いあげた人物である。もっとも、この決まりがメッサジェー ロの広告用語によると二様に解釈できることはよく知られている。そのうえ、この人はあ あいう取るに足らない事件については、警察に目をつぶらせることもできた……そう、貸 間業の許可を販っていないため、罰金を取られるところだったのである……その罰金を知 事と警察で山わけしたところで何になろう。「わたしだってれっきとした婦人ですからね。 コメンダトーレ 勲三等者アントニーニの未亡人ですのよ。ローマじゅうがあの人を知っていましたわ。そ して、知っているかぎりの人たちがみんな、あの人を手ばなしで賞めていました。別にわ たしの夫だからそういうわけではございません。御霊よ安らかに。それなのに、わたしの ことを貸間商売だなんて。わたしが、ただの貸間商売でしょうか。ああマリアさま、それ ぐらいなら、わたし川にとびこみますわ」 その聡明さとモリーゼ的貧困のなかでイングラヴァッロ警部はアスファルトのように黒 6 第1章 い光沢があって、アストラカンの子羊のようなもじゃもじゃ頭の黒いジャングルの下で沈 黙と眠りを生きているようにみえたが、いったん聡明さがはたらくと、男たち、女たちの ことについて何やら理論的な考え (もちろん一般的な考え) を口にしては、その眠りと沈 黙を破ることがよくあった。はじめて見たとき、つまり、はじめて聞いたときには陳腐に 思える。だが、それは陳腐などではなかった。こうしてまくしたてられた言葉はマッチで 火をともしたときのように、突然、口先きでパチパチと音を立てるのだが、それが口にさ れた数時間後、数ヵ月後になってやっと、人びとの鼓膜によみがえるのであった。あの神 秘な孵化期間が終ったあとに似ている。「そうだったな。イングラヴァッロ警部はやっば りそういってたんだ」と、話をされた当の相手はやっと気がついたものである。とりわけ 彼が主張していたのは、予想外の破局というものはいわば唯一の動機とか、単一の原凶が もたらす影響、結果などではなく、収斂性の原因が重なりあってはたらきかけているこの 世界の意識のなかの旋風のようなもの、熱帯性低気圧の一点のようなものだということで ある。彼はまた結び目、もつれ、紛糾、ニョムメーロといった言葉を使っていたが、この 最後の言葉はローマ方言で糸玉という意味である。もっとも「動機、諸動機」といった法 律用語は好んで口にしながらも、その実、自分の気持ちにそぐわないものであるらしい。 哲学者たち、つまりアリストテレスやイマヌエル・カントから受けついでいる「原因の範 ちゅうの意味をわれわれのなかで変える」必要があるとか、ひとつの原因を幾つかの原因 に変える必要があるとかという意見は彼の場合、中心的な、動かしようのない意見だった のであろ。むしろ固定観念といったところで、それが厚ぽったい、どちらかといえば白っ ぽい感じの唇からもれ、その同じ口の片隅から消えたたばこのすいさしがぶら下がってい て、眠そうなまなざしと、なかば無慈悲、なかば懐疑的な感じの嘲笑にいかにもふさわし くみえた。額とまぶたの眠たげな感じや、アスファルトを思わす黒々とした頭髪の下にあ る顔の下半分は、「昔からの」習慣でそういう表情を帯びていたのである。このようにし て、まさにこのようにして「彼の」犯罪が起るのであった。 「おれが呼ばれるときにゃあ……そうなんだ。おれが呼ばれりゃあ、きっと……やっか いなことなんだ。リュオムメロってやつだ……脱帽もんさ……」ナポリ方言、モリーゼ方 言、それに標準イタリア語をまぜあわせて、そういうのであった。 明白な動機、主たる動機はもちろんひとつあった。しかし、こういう愚行は (ちょうど、 熱帯性低気圧の大旋風に巻きこまれた一連の風のうち十六の風のように) 突如として背後 から吹きつけてきた一連の動機の結果であり、犯罪の渦のなかで、あの衰弱した「世間の 理性」を粉砕して終るのであった。鶏の首をひねるようなものである。そのあとは決まっ て次のようにいうのであったが、ただし、少々くたびれ気味の口調である。「まさかって シニルシエ・ラ・ファム 思うとこに、かならず女がいるもんだて」これは古臭い「 女 を 探 せ 」の時代遅れなイ タリア式改訂版である。そういってしまったあとになって、婦人を中傷してわるかったと 後悔し、今後は頭を切りかえるつもりだと、しおらしそうにした。だが、そんなことをし た日には、かえってめんどうになってしまうだろう。そこでおしゃべりが過ぎて困ったと いうように、考えこんで黙りこくるのであった。彼が口にしたかったのは、ある種の愛情 の衝動、なにがしかのというよりも、今日的にいえば、一定の愛情のはたらき、ある程度 の「好色の色あい」といったものが、「利害関係の事件」にも、また見るからに愛欲の嵐 とはほど遠い犯罪にも入りこんでいるということである。彼のやり口を少々やっかんでい る何人かの同僚や、俗人以上に現代の多くの罪悪に通じている僧侶たち、部下のあるも の、守衛たちの一部、上司たちなどは彼が変った本を読んでいるとあげつらっていた。そ 7 うした本から、あの何の意味もないというか、ほとんど意味がないようでいて、そのくせ ほかのどの言葉にもまして不注意な人びと、無知な人びとの口を封じるような言葉をそっ くり引用しているというのである。いってみれば精神病院にでもふさわしい問題で、その 用語は狂人相手の医者のものであった。しかし、実さい行勤にあたっては、ちがったふう にしなければ。煙のようなうたかた言葉や哲学をならべたてるのは評論家にまかせておけ ばよい。警察と機動捜査班の実さい行動は全く別のもので、そこに必要なのは並々ならぬ 忍耐心であり、深い思いやりであり、なんといっても頑健な胃袋であろう。そしてイタリ ア人のバラック全体がゆれていないとぎには、責任感とゆるがない決意、市民としての穏 健さ、そう、そう、それに整い手首も必要なのではないか。ところが、こうした適切な異 議に対して、彼、ドン・チッチョはまったく耳をかさなかった。あいかわらず立ったまま 眠り、からっぽの胃袋で哲学を談じ、いつも消えている吸いさしのたばこをくわえては、 本当に吸っているようなふりをしつづけるのであった。 二月二十日、日曜日、聖エレウテリオ祭の日、バルドゥッチ家では「ご都合がよろしけ れば、十三峙半に」と彼を食宴に招待していた。夫人によれば「レモの誕生日」で、レモ は出生登録にはレモ・エレウテリオと記載され、その後、この誕生日を記念してモソテイ の聖マルティーノ教会でその洗礼名をもって洗礼をうけたのであった。「この名前たけど、 ふたつとも、ある連中の耳には歓迎されないんじゃないかな」と、ドン・チッチョは考え た。「前のも、後のも*1 」しかし、バルドゥッチのようにものごとにこだわらない性質の 者にとっては、そういう思案は全く無用であった。この招待は前のときと同様、二日ま えに電話で、コレッジョ・ロマーノ署、地名でいえぱサント・ステーファノ・デル・カッ コに「外線から」かかってぎたのである。最初は夫人が歌うような声で「こちら、リリア ナ・バルドゥッチでこざいます」といい、そのあと身代わりの牡山羊よろしく、主人のバ ルドゥッチが助け舟を出すように交代した。ドン・チッチョは床屋でこの祭日を祝ったあ と、オリーヴ油を一びんぶら下げて夫人のところへ行った。すばらしい午後の光を満喫し て、日曜日の食事はたのしかった。歩道にはまだ紙ふぶきやかわいい感じの仮面、おも ちゃ、のラッパ、空色のシンデレラ人形や黒ビロードの小悪魔人形といったものが棄てら れたままになっていた。話題にのぼったのは狩りのこと、獲物の狩り出しと猟犬のこと、 銃のこと、それからコメディアノのペトロリーニのこと、それからヴェンティミーリヤか らリリーベオ岬にいたるティレニアの海べに棲むボラにつけられたさまざまな呼び名のこ と、それから当時のスキャンダルのこと、つまり伯爵夫人パッパロードリがあるヴァイオ リニストと駈け落ちをしたことなどである。相手の男はもちろんポーランド人。十七歳に すぎない。話はいつはてるともなかった。 彼が入って行ったとき、ルルウという糸玉のような牝の狆が吠えたてた。それも大へん な腹の立てようであった。だが、いったん吠えるのをやめると、長々と靴の匂いをかいだ ものである。こういう小怪物の生命力たるや信じ難いばかりだ。うんとかわいがったあ と、打ちのめしてやりたくもなろう。食卓についていたのは四人、彼ドン・チッチョと夫 妻と姪である。だが、その姪はこのまえ、つまり聖フランチェスコ祭日のときのとはち がって、もっとずっと若く、やっと幼年期を脱したばかりというところであった。このま *1 訳注:レモはローマの創始者ロムルスに通じ、ファシストから見れば畏れ多いきわみであり、エレウテリ オはギリシャ語の『自由』を意味する。 8 第1章 えの、つまり聖フランチェスコのときは、話しぶりからやっと姪だとわかった。いなか の内儀さんふうで、黒い編んだ髪を冠のように頭に巻きつけ、丈夫で大柄で、ひとりで もベッドを占領してしまうだろう。それに、その目はどうだろう。正面の姿は、うしろ姿 は。夜、夢に出てきそうである。ところが、ここにいるこの姪の方は、編んだ髪をたらし ていて、修道女の学校に通っていた。 ドン・チッチョは眠そうな様子こそしていたが、鋭い、いや、正確な記憶力の持ち主で あった。実さい的な記憶力、自分ではそう呼んでいた。女中はどことなく最初の姪に似 ていたが、これまた新顔であった。ティーナと呼ばれていた。給仕をしている間に、水を 切ったホウレンソウの小さな固まりを、楕円形の皿から清潔なテーブル・クロスの真白な ところへ落してしまった。「アッスンタ」と夫人がきっばりといった。アッスンタは夫人 の方を見た。その瞬間、召使いと女主人の両方とも、チッチョの目にはぞっとするほど美 しく思えた。とげとげした感じの召使いはきびしい、自信のある蓑情で、両方の目がちょ うどふたつの宝石のように、きらきらと明るく動かずにいて、額から鼻筋が一本とおって いる。クレリア時代のローマの「処女」である。夫人は非常にねんごろな態度で、声の調 子は非常に高く、非常に上品ななかにも情熱的であり、それでいて、すっかりふさぎこん でいるのだ、魅惑的なその肌。お客の方を見ている深いまなざしは古代の優雅さの光をた ドットーレ たえて、この「 お 方 」のまずしい容姿の背後にある人生のまずしい威厳のすべてを見ぬ いているかにみえた。だいたい、彼女はというと金持ちだった。大金持ちといわれてい た。夫君も羽ぶりがよく、一年に十三カ月も旅行しているというほどで、いつもあのヴィ チェンツァに住む人びとと親しくしていた。だが、彼女は人の力を借りずともちゃんと裕 福だったのである。だいたい、この二一九番地の大きな建物にはひとかどの人物たち、裕 福な家族しか入っていなかったが、特にさいきん実業界に入った人たち、つまりほんの数 サ メ 年まえには、まだ金持ちという名で呼ばれていた人たちがいたのである。 そしてこの建物だが、町の人びとは黄金の館と呼んでいた。というのも、この大きな屋 きん 敷全体の天井にいたるまでぎっしりと、金がつめこまれているように思えたからである。 それから内部だが、A、B ふたつの階段があり、どちらの階段も六階まであって、ひとつ の階段を十二家族が使う、つまり一階にそれそれ二家族入っている。だが、何といっても 壮観なのは A 階段を上った四階で、ここには文句なしの上流階級であるバルドゥッチ家 が入っているし、バルドゥッチ家の向かいには婦人がひとり入っていた。伯爵夫人だが、 これまた大へんな金持ちで、未亡人のメネカッチ夫人である。手をのぱして、触れたとこ ろならどこからでも金、真珠、ダイヤが出てくる。そこにあるのはすべて、最高の価値を もつものばかりである。それから蝶のような千リラ札がある。というのは銀行にあずける つもりがないためだが、それでいてまず大丈夫とは思うものの、火がつきやすい難点もあ る。そこで、彼女はタンスを二重底にしていた。 これはいわば神話になっていた。黒いもじゃもじゃ頭の下で、春の生命力に息づいてい るイングラヴァッロ警部の耳は、ちょうど春の枝から枝へと羽音を立てるたびに聞こえる 黒ツグミ、メルラーナの言葉でいえばメルーレの鳴き声のように、その話を風の噂に聞い ていた。みんなの口にのぽり、またそのうえ、人びとのどの頭にも巣くっていたが、これ は集団の想像力のおかげで、いつかみなが持たなければいけない必須の観念になってし ま)、そういう観念のひとつなのであった。 食事の間、パルドゥッチはジーナに対して父親のようにふるまっていた。「ジネッタ、 ワインを少し頼むよ……」 「ジーナ、気をつけて、お客さまにおつぎするんだよ」 「ジーナ、 9 頼む、灰皿を……」まさに、よきパパというところで、彼女の方もきちょうめんに「はい、 おじさま」と返事をしていた。リリアナ夫人はそういうとき、満足して、いかにもいたわ るように彼女を見ていた。それはまだ閉じたままの一輪の花が、明け方の寒さに凍えぎみ だったのに、日光の奇蹟にさそわれ、彼女の目の前でばっと開き、輝いているのを見てい るような風情であった。その日光というのがバルドゥッチの男性的なバリトンの声、つま り「父親」の声であった。とすれば、このパパの妻であり嫁御である彼女はママというこ とになる。グラスにワインを注ぐさい、まだ何やらためらいがちな被後見人のかわいい手 を、非常な心づかいと、ある種の不安をもってじっとながめていた。トク、トク、その音 きん からすると、このワイノはフラスカーティの金だ。カットグラスのびんは重かった。きゃ しゃな細い腕ではそのびんを支えていられそうになかった。イングラヴァッロ警部はいつ もと同じで、淡々と食べ、そして飲んでいたが、食欲も旺盛なら、飲む方も結構すすんで いた。 何もいまのいま、新しい姪のことだとか、新しい召使いのことだとかいう、つまらない ことをきいてみようという気にならなかったし、適当とも思わなかった。アッスンタを見 て、自分の心にわきあがってきた賛美の気持をおさえようと努めてみた。このまえ会った まばゆいほど美しい姪のあの奇妙な魅力に通じるものがあるのだ。魅力があり、完全にラ テン的、サベリ*2 的威光があり、そのため彼女にはあの古代の雄々しいラテンの娘たちや、 パン神の祭りに暴力で奪われながら、それほどわるい気もしなかったあの女房どもの古代 風の名前がびったりくるのであった。その女房どもは丘やぶどう畑や荒けずりな造りの館 を心に描ぎ、祭や四輪馬車にのった法王のこと、カノデローラの祝いやろうそくの祝いの 日に、アゴーネの聖アニェーゼやポルタ・バラディージのサンタ・マリアで見られる細い ろうそくのことなどの話をきいて、そんな気になったのであった。その昔、天文暦と教会 の暦が栄え、高位の王侯たちが明るい紫のころもをまとって威勢をきわめていたころ、ビ ラネージの廃虚でピネッリの娘たちが胸に吸いこんだ、あのフラスカーティとテヴェレの 晴れやかな遠い日日の空気の感じ、それがアッスンタにはあった。王侯たちは、豪華なイ セエビといったところである。聖ローマ・カトリック教会の王侯たちである。そして、中 央にはアッスンタのあの目、あの高慢さ、まるで食事の給仕をしてもらって、ありがたく 思えとでもいうようなところがあった。あらゆる体系の……中心には……トレミの天動 説、そう、トレミの天動説がある。ところが、はばかりながら、その中心には、ねんねの 青二才がいたのである。 彼としてはこらえにこらえる必要があった。必要とはいえ、つらいことだったが、リリ アナ夫人の優雅な物さびしさがせめてもの救いであった。彼女のまなざしは、それぞれの 心のなかに、音楽ともいえる調和のとれた訓戒をほどこす、つまり、官能のあいまいな堕 落の上に想像上の建築物をはりめぐらすことによって、いっさいの不当な幻影を奇蹟的に はらいのけるかにみえた。 そして彼、イングラヴァッロはかわいいジーナに対しては非常にいんぎんで、どちらか といえば、ほかでもない、あのやさしくお相手をしてくれるおじさまというところであっ た。編んだ髪のかげに、まだ幾分長く見える彼女の首からは、はいといいえだけを口にす る小さな声が、木管楽器の小さな嘆きの調べのように出てくるのであった。マカロニが出 たあとはアッスンタを無視した、というか、無視しようとした。それが教養人でもある客 *2 訳注:古代中部イタリアの住民 10 第1章 という立場にとってふさわしいからである。リリアナ夫人は時に、ため息をついているよ うだった。イングラヴァッロには二、三度、彼女が小声で「けれど」といったのに気づい た。「けれど」という人は内心、満足していないものである。彼女が口をきかなかったり、 同席している人に目を向けないとき、奇妙なさびしさがその顔を充たすのであった。考え ごと、心配ごとにとらわれていたのだろうか? 微笑ややさしい親切心のカーテンにかく れて? また、自分では別に望みもしなければ注意もはらってはいないが、それでもやは り非常に気に入っており、お客さまをもてなす手だてにもしているあのおしゃべりにかく れて? イングラヴァッロにはこうしたため息や、お皿の出し方、時おり悲しそうにさま よいながら、彼女ひとりしか予知のできない非現実的な空間や時間に触れているようなそ の目つきを見ているうちに、しだいしだいに事態がのみこめてきた。そういうふうにいえ たかもしれない。おそらく彼女の生まれながらの気質ではなく、そのときの気分、しだい に深まっていく落胆ぶりについて、それなりの徴候をつかんだめであった。そのあと、さ りげない言葉の数々が聞こえてくる。これは主人のバルドゥッチその人で、この血色のよ い夫は、仕事とウサギに心をうばわれ、ぶどう酒のおかげでにぎやかに浮かれたち、そう ぞうしくおしゃベりをしていた。 この夫婦には子供ができないだろう、彼は直感でそういうような気がしていたのだ。そ の後、あるとき、フーミ警部と話をしていて、広く知られている現象学や、みんなが共有 している動かしようのない体験をほのめかすようにして「その他、その他」とつけ加え たことがある。彼はバルドゥッチを猟師として、それも幸運な猟師として知っていた。in utroque*3 の猟師である。だが、内心では彼の荒っぼい乱暴さや自慢話、本当はやさしい のかもしれないが、少々、やかましすぎる笑い声、こんな奥さんがありながら、七面鳥の ような女たらしにでもふさわしい利己主義、自己中心癖などがあるのをとりあげて、彼 を非難していた。空想をほしいままにしたげれば、人はこうもいったであろう。彼、バル ドゥッチは、彼女の美全体、彼女のなかにある上品なもの、隠れたものを大事にしてもい なければ、それを見ぬいてもいない、だから……子供もできないのだと。あたかも、ふた りの精神の有性相反性によるのだといっているようである。子供は両親の理想的な浸透の 結果、出てくる。とはいえ、彼女は彼を愛していた。それは想像上の父親であり、能力の 上での男性であり、父親であった。事実はともかく能力の上で、行為はともかく可能性の 上でそうであった。望ましい子供たちの父親となり得る存在であった。彼が信頼できるか どうか、おそらく彼女の方も確信がなかったのではないか。それに関連して、自分の母性 としての機能が不十分だということが理由になって、狩猟に対する夫の過度の打ちこみ ようとか、すべての男性同様、何ごとにも欲ばりなこの男性兼未来の父親の好奇心とか、 不摂生とかのうち、あるものを正当化するのではないか、彼女にはそう思えたのである。 「ほかの人とやってごらんになったら」自分ではとても想像することさえできないような こと (婚姻とは秘蹟であり、われらの神があたえたもうた七つの秘蹟のひとつである)、そ れを彼にのぞむわけがない。そんなはずはない。ドン・コルピさえもが、そういうのはク リスチャンである夫の立場からして、よくないことだといっていたではないか。だが、結 局……万事、忍耐が必要なのだ、分別が、分別が必要なのだ。ドン・ロレンツォ・コルピ は心から信頼のできる人物であった。それに「分別」は四つの基本道徳のひとつだったの である。 *3 訳注:両刀づかい。女と鳥獣の両方のことか? 11 こうしたことをすべて、イングラヴァッロ警部は一部は直感で感じ取り、一部はバル ドゥッチのほのめかしの言葉や、彼女の悲しみの甘い「瞬間」を手がかりにつなぎあわせ たのである. ドン・コルピ、ドン・ロレンツォ、ドン・ロレンツォ・コルピ、四聖人のド ン・コルピ・ロレンツォ、これもまたしばしばリリアナ夫人の話のなかできらきらしてい た。ドン・ロレンツォもまたくそくらえである。彼女は大人物なら誰でもうやまうと、そ んなふうに人からいわれていたかもしれない……名誉職の押父、有力な神父、そして、ド ン・ロレンツォまでも。そうなのだ。黒い僧服にもかかわらず、また、たがいに相容れな いあの……ふたつの秘蹟にかんする秘蹟上の相反性にもかかわらず。 ドン・ロレンツォまでも。このらばは結構、たよりになる男にちがいなかった。彼女が ほのめかしているところから判断すると、ドアをくぐるたびに頭をかしげなければならな い。そういう男たちのひとりであるらしい。少なくとも、神父のδυναμιζはもって いるにちがいなかった。こういうこととなると、ドン・チッチョはなかなかの素養があっ た。生き生きした直感、それも成人になったころからもっているのである。のちに「仕事 には実り多く、武器をとれば大胆な」民族と通俗的な接触をするにおよんで、それが花開 いたのである。体系的に読書をかさねた結果というより、もって生まれた天才なのだ。各 世代がぎっしりと寄りあつまったところから。警察の留置場から、ラツィオとマルシカ、 ピチェーノとサノニオをへて、さらには故郷のモリーゼの丘にいたるまで、無情な山々、 無情な首、悪魔も無情である。さらに、子宮の聖なる、そして記億にのこることのない効 力。子供たちにめぐまれた人びとのなかにあって、彼は生殖の事実と非生殖のそれが別個 にあることを知り得たのである。しかし、彼をおどろかすようになたのは、バルドゥッチ の姪の貯蔵器が実りたくましい姪たちや、実にやさしい姪たちであふれんばかりになって いるということだった。つまり、いまここにいるのはやさしいが、ほかのはただただ、巨 大なのばかりである。この夫婦のところに出入りするようになってから、すでに三、四人 の姪を見知っている。それに、もうひとつ、こういう事情もある。つまり、いったん姿が 見えなくなると、その姪はもう死んだ女も同然になってしまう。そして、どうやってみて も、二度と表面へ浮きあがってこないのだ。ちょうど、任期の切れた領事か共和国大統領 のようなものである。 カーリチエ ドン・チッチョが最後の、いわゆる聖餐杯の底をながめようとした――入っているのは 五年ものの白、非常な辛ロ、アルバーノ・ラツィアーレのカヴァリエーレ・ガッビオー ニ・エムペドクレ親子会社製、警察のなかでも酒、グラス、父なる神、神の子、ラツィオ と夢にまでみたもの――そのとき、人間の行動の愛情面の (彼はエロチックとまで呼んで いた) 共通因にかんし自分なりの意見をもっている以上、いやおうなしに、はっきりと次 のように考えざるを得なかった。つまり、こういう状態の姪というのは通常の姪ではな い。ルチアーナにせよ、アドリアーナにせよ、きょう町のおじ、おばのところへやってき て、それから出て行き、それからもどってきて、それから電報を打って、それから出発し て、それから自分の家に着いて、それから、たくさんのキスをおくりますと葉書に書いて よこし、それからまた、歯医者のところへもう一度、通わなければならないのでヴィテル ボとかツァガローロヘ着く、こうしたくりかえしをつづけるのだと考えるほかなかった。 「ここにこうしているのは、もっと厄介な種類の姪だな」あの白の辛口を、あいかわらず 軟口蓋をくすぐる天国の門に入れたまま、ひとりで考えこんだ。そうだ。そうなのだ。あ の「姪」という名前のうしろには、もつれ……糸のもつれと、ごく稀に見るような……デ リケートな感情のクモの巣がそっくり隠されているにちがいない。彼女。彼。彼を尊敬し 12 第1章 ていない彼女。彼女を無視している彼。そこで彼女は数年たって、この姪をつりあげてき た。苦痛、涙、夜、そして日中はローマ中の教会で聖アントニオにささげるろうそく。希 望、その場で、あるいは住居でできるサルソマッジョーレの治療、そしてベルトラメッリ 教授とマッキオーロ教授の診察。新しいろうそく一本ごとにひとつの希望。新しい希望が 現われるたびに新しい教授がひとり。 彼女がこのジーナを、あわれなジネッタをとりあげてきたのだ。だが、ジネッタより以 前には、この話は全く別の方向に向かい、全く別の越きがあった。本当に奇妙なことだ。 イングラヴァッロはそう思った。ヴィルジーニアがいたっけ (その姿は栄光のきらめきで あり、闇をつらぬく一瞬の輝きであった)。ヴィルジーニアの前にはモソテレオーネから 来た別の娘。何という名前だったかな。それに女中たちもいるぞ。浮気心の衣ずれの音が したとたん、スズメのように羽ばたいて飛び立つのももっともさ、ほんと、バルドゥッチ 家は実に、ひと月にひとり女中を変えるんじゃないかな。と、ある考えが浮かび、不謹慎 な言葉が口をついて出た。酒のせいである。 リリアナ夫人はおなかを大きくすることができないまま……こうして毎年、姪が変えら れるのを、無意識のうちに、おなかが大きくならないその埋めあわせの象微として考えて いるにちがいなかった。子供を八人生んだ母親にいわせれば、子供らしい子供は春が到 来するたびに生まれる。五月に生まれるのは八月の子供だ。「いい月だな」とドン・チッ チョは思った。「ネコにとっても。夜になると、追っかけっこをやってるじゃないか」 年々……新しい姪、まるで、彼女の心のなかで、相次ぐ子供たちの誕生を象徴するかの ように。Jedes Jahr ein Kind, Jedes Jahr ein Kind……毎年、子供がひとり、毎年、子 供がひとりと、アンツィオでドイツ人がうたってくれた。アザラシに似た人だった。 ところで、彼、彼、狩猟家 (イングラヴァッロは彼の方を見た)。彼は、姪が、入れかわ りに姪が彼の家にやってくるとき、内心、どんな経験をし、どんな感じを味わうのであろ う。姪たち……さまざまな姪たちについて、彼はどんなことを考えてきたのであろうか。 彼女にしてみれば、テヴェレを下ったそのあたり、崩れ行く古城の向う、黄金色のぶど う畑のうしろにあたる、丘の上、山の上、そ、してイタリアのせまい平原に、ちょうど大 きな多産系の子宮のように、そしておびただしい細かい粒が縞模襟にならんだ二本のふと いエウスタキー管のように、人びとが粒状で油性のすばらしいキャビアとなっていたので オヴァリオ ある。時々、大きな 卵 巣 から熟れた濾胞が、ザクロの実の薄膜のように口を開く。そし て愛の確信に狂った赤い粒が都会へと下りて来て、男のはげまし、精力的な刺戟、そして 十八世紀のオヴァリストたちが作り話に描いたあの精液の発気に出会うのであった。そし てメルラーナ街二一九番地、A 階段、四階では、この黄金の館のなかでも、最高の結球と もいうべき場所で、姪が花ひらいていたのである。 姪よ。アルバーノの姪、永遠なるサベリ人の花。略奪者のはげまし。そうだ。あのサビ ヌの女たち*4 はもう補える必要もなかった……あのように深みのある女たち。仲立ちの夜 を待つ。明け方の生あたたかい肉。アルバーノの女たちも近ごろは、みずから河に下りよ うと考えるようになった。そして河は海辺で完全無欠な永遠の待機に到達しようと、さわ ぎをのりこえて、流れ、そして流れて行った。 だが、彼はどうか、バルドゥッチ氏は。この狩猟家はアルバーノの姪のこと、ティヴォ リの女のことをどう考えているのであろう。 *4 ジョヴァンニ・ダ・ボローニャ 1524-1608 の彫刻「サビヌの女略奪」のことか。 13 ベルが鳴った。犬のルルウがさわぎたてた。アッスンタがドアを開けに行った。向うで ぽそぽそと話し声が聞こえたあと、灰色一色のスマートな服を着た青年が部屋に入ってき た。席をすすめられた。「もう一杯、たのむよ、ティーナ、ジュリアーノ君のをな」すぐ に紹介され、自分でも自己紹介をした。「ヴァルダレーナです」「イングラヴァッロ警部で す」イングラヴァッロは椅子から立ち上がるとすぐ、そして、差し出された手をいかにも 不承不承に握るとすぐ、ぶっぶつといった。「ヴァルダレーナさん……」リリアナがコー ヒーやコーヒー茶碗と格闘をしながらいった。「妻のいとこでしてな」と血色のいいバル ドゥッチが説明した。 いいにくいことだが、ドン・チッチョには、若い人びと、とりわけ美青年、それが金持 ちの息子となるとなおさらだが、そういう連中に対して悪意のある嫉妬ともいうべき、何 かしら冷たいところがあった。もっとも、この感情は内面的現象という許された制約を越 えるものではなく、したがって、万が一にも警察官としての職務に影響をあたえるような ことはなかった。とにかくちかう、彼は全然ちがうのである、《美男子》ではなかったの だ。そのうえ、ミラノでオーケ通りの予防施療所にいる女の子から、「本当の男はだいた い美男子よ」という言葉を聞かされたとあっては、自分をなぐさめようがなかった。 内心、すでに失望を感じ、ある声を聞いていた、ちょっとまえは声だった……それがい まや身体の内部でわき立っていた。内部といっても、頭のなかか、心のなかか、本人の彼 にもわからなかったが、おそらく、やや神経質な感じのするあのワイン、ガッビオーニの 辛口の白のせいであろう。ちょうど、こめかみにおそいかかってくる、ある種の頭痛の、 あのおそろしいずきずきという音にも似て「こちらボーイフレンドです」と呪いのように 彼にささやきかける声が聞こえるのであった。 なぜかは知らなかが、この青年も何が何でも思いをとげたがる、そういう連中のひと りではないかと思えた、というかそう想像された。そして、そうだったのである。彼はま た、古銭について、いわゆる「どん欲」な、つまり、古銭に誘惑されたひとりであったが、 何といわれようと、何がしか、人さまの役には立っているのである。部屋に入って来る と、家具や装飾贔、美しい茶碗、銀のティーポット、ウムベルト時代の古い華麗さの遺物 で七頭の肥った雌牛を記念するあの銀の砂糖入れなどをじっと見たが、そのふたには金の どんぐりがひとつと、銀の葉っばが二枚ついていた。そう、それをもって、ふたを持ちあ げるのだ。ふっくらと中身のつまったたばこをバルドゥッチ (あごの下のところで、いき なりパチンと音を立てて、金のシガレット・ケースを開いた) から受け取り、それをいま、 よろこびをじっと押さえるように、しかも上品な自然さをもってふかしていた。 そのとき、イングラヴァッロは毒でものんだように、奇妙な考えにとらわれたが、のん だのはガッビオーニの辛口のワインであった。つまり、「いとこ」はリリアナ夫人の、ご 機嫌をとっているのではないかという考えがうかんだのである……それはもちろん……お 金にあやかるためだ。考えただけで、いらだたしい思いがした。ひそかな、姿の見えない いらだちであり、もちろんかんぐってみただけである。しかし、両のこめかみが痛くなる ような……やっかいなかんぐりである。もっともイングラヴァッロ的な、もっともドン・ チッチョ的なかんぐりである。 たばこをゆらゆら動かしている、紳土らしく指の長い白い手の、右の薬指にこの貴公子 は指輪をひとつはめていた。時代ものの金製で、非常に黄色く、すばらしいできで、指輪 の台は血紅色の碧玉、組合わせ文字を彫りこんだ碧玉である。おそらく家の印章であろ う。どうやら、言葉と気品のヴェールにかくされてはいるけれど、彼とバルドゥッチの間 14 第1章 には冷ややかなものがあるのではないか、ドン・チッチョにはそう思えた……「いとこの 夫人を見るとき、ジュリアーノは全身これ耳と注意ってとこだな」とイングラヴァッロは 考えた。「紳士にはちがいないけれど」ジーナの方にはというと、義務的な握手をしたあ とは、ちらりとも目をくれなかった。小犬は乱暴にひとつ叩いてやっただけである。小犬 の方も怒って何度か吠えたてた。始末におえない奴め。だが、やがておさまって行く嵐の ように、尻つぼみのうなり声に変り、ついにだまりこくってしまった。 リリアナ夫人はとびすぎて行く悲哀の雲の下で、(時として) うまく押さえきれずに、た め息をつくことがあったが、それでもやはり好ましい女性であった。道行くときなど、誰 もがその姿に目をとめたのである。夕暮れどき、夢があふれてこぼれるようなローマの夜 がいまはじめて下りてきたとき、彼女が家路を急ぐと……建物や歩道の角々から、ひとり あるいは数人がかたまって、尊敬のまなざしを投げては彼女をかざり立てる、若い視線の 稲妻と輝き。ときおり、夕暮れどきの情熱的なささやきにも似て、つぶやく声が彼女をか すめる。十月になると、ときどき、紅葉のなかから、壁のぬくもりのなかから、思いもか けない尾行者、あの神秘の短い翼を持ったヘルメス*5 がとび出すのであった。あるいは、 エ ン ボ ス 不思議な墓地の暗黒界から、人びとのなかへ、町のなかへと迷い出たのかもしれない。誰 よりも女たらしなのが。そして、知恵の足りないのが……ローマはローマである。一方、 彼女の方は、耳の帆を高高とかかげ、ほこらしげに幸連めがけて風にのってきたこのろば 君をあわれんでいるかにみえた。軽蔑するようでいながら惰けぶかく、感謝と憤慨がな かばしたような目つきで「で、なんですの」とたずねているようであった。激しい惰熱に ヴェールをかけた感じ、甘く深いひびきのある女性、かがやくばかりの皮膚、時おり夢に とりつかれた様子で、みごとな栗色の髪がひとふさ額からこぼれ薄ちている。それにほれ ぼれとした着こなしである……燃えるような、慈悲深い、いわば物さびしい隣人愛の光が さす (あるいは影のやどる) 目であった……「ジュリアーノさまでございます」と、アッ スンタがどこか響きのよい、羊餌いを思わす声で報告したとき、彼女がぎくりとしたよ うに、あるいは赤くなったようにイングラヴァッロには思えた。それは「皮下」の紅潮で あった。ほとんどそれどは分らないものであった。 ふたりの警官が「メルラーナ街で発砲事件がありました。一二九番地の階段の上です。 例の金持ちたちが住んでいる建物です……」といったとき好奇のというより、おそらくは 不安な思いの血が波となって彼の右の心室にどっと流れこんだ。「二一九番地だな」と聞 きかえさずにはいられなかったが、それも、うわのそらの口調であった。そしてすぐに例 の、彼特有のお役所ふうの仮面である放心したような眠気に再び落ちていった。そうこう していると、捜査班長が彼の部屋に入ってきた。まだ目を通していないメッサジェーロ紙 を手にもち、花びら、それも白い花びらを一枚だけボタン穴にさしていた。「きっとアー モンドの花だ」イングラヴァッロは班長に口で問いかけるように考えた。「シーズソの先 きがけか。班長も花を買うゆとりがあるわけだな」「行ってもらえるな、イングラヴァッ ロ、メルラーナ街だよ。見てきてくれたまえ。大したことはないってさ。何しろ、けさは リエージ通りの侯爵夫人のとこでほかの事件があるし……それから、この近くのボッテー ゲ・オスクレ街で面倒なことが起ったし、それとは別に義理の姉妹ふたりに甥が三人と、 花束がひと固まりあるんだ。おまけに、そうしたことをさしおいても、われわれはまず、 *5 霊魂を冥界に導く神。 15 自分たちの仕事を整理しなければならないときている。それから、それから……」と片手 を額にあてた。「こうなると、荷物になってもいいから、秘書役がほしいところさ。もう うんざりしたよ。そういうわけだ。助けると思って、な、行ってきてくれ」 「いいです、まいりましょう」とイングラヴァッロはいったが、そのあと、ぶつぶつとつ ぶやいた。「行きますとも」そして、釘にかかっている帽子をとった。しっかりと打ちこ んでないくさびがぐらぐらになって、毎度のことながら床に落ち、それから少しばかり転 がった。ひろいあげると、ぐにゃぐにゃになった先っちょをもう一度、穴にはめこみ、腕 の先の部分をブラシのように使って、黒い帽子のリボンを軽くこすった。警官がふたり、 まるで警視総監からそれとなく命令をうけたように、彼のあとからついてきた。暗黒街で 金髪という名で通っているガウデンツィオと、一名、つかまえ屋というポムペオである。 PV 線のバスにのり、ヴィミナーレで下りたところでサン・ジョヴァンニ行きの市電に のった。それで、およそ二十分後には二一九番地についたのである。 サ メ 黄金の館、あるいは金持ちの館といってもよいが、そこにあった。六階だてで、それに 中二階がついている。古くさい灰色の建物だ。すっかり黒ずんだその住居や、ずらリ並ん サ メ だ窓から判断すると、ここにいた金持ちは無数だったにちがいない。食べる方にはがっが つとした小ザメたちだったろう。それはたしかだが、美的な面となると、うるさいことも いわず、たわいもなくよろこぶ方であった。もっばら水中で食欲と一般的にいって食べる 興奮を生きがいとしているだけに、日中、水面に見える灰色と、ある種のオパール色だけ が彼らにとっては光であった。そのわずかの光こそ、彼らが必要としたものなのだ。黄金 についていうなら、そう、おそらく黄金や銀はおそらくもっていたことだろう。ひと目見 ただけで、いや気をさそい、カナリヤ化した*6 痛恨を呼びさます今世紀初頭の大きな建物 のひとつであり、たしかにローマの色、ローマの空や光り輝く太腸とは正反対であった。 イングラヴアッロは心の底からそれを知っていた、といってもよい。そして、事実、いま、 それこそ絶対的ともいえる権力をもち、ふたりの警官をともなって、このよく承知してい る建物に近づくにつれて、軽い動悸にとらわれていた。 シラミ色の、兵舎にも使えるほど大きな建物の前には人がたかっていて、自転車が保護 網のようにぐるりとそれを取りまいていた。女たち、買物籠、セロリ。白いエプロンをか けた向かいのお店のご主人か誰か。《重労働をする人》、この方は縞模様のエプロンをか け、見かけも色も、りっばなトウガラシそっくりの赤鼻をしている。女の管理人たち、女 中たち、「ペッピイによ」と鋭い声で叫んでいる管理人たちのところの娘たち、フープを もった男の子たち、大きな網袋にオレンジをつめこんで、山とかかえこみ、そのてっべん ウイキョウ に 茴 香 二本と包みをとさかのようにのせている従卒。高い地位にふさわしくいまの時間 にやっと帆をひろげ、めいめいの役所に出かけようとしている二、三人の高官たち。そし て、どこへ出かけようにもあてのない、十二人から十五人ほどの、失業者か浮浪者か、さ まざまな人たち。いってみれば妊娠何ヵ月、いまにも破裂しそうな恰好の郵便配達が誰よ りも好奇心が強く、ぎっしりつまったカバソをみんなの尻にぶつけていた。そして、カバ ンが次々とみんなの後ろにあたるたびに、ちくしょうとぶつぶついう声が起り、そして、 また、ちくしょうというぐあいに、順おくりにつづいていった。いたずら小僧がひとり、 き ん テヴェレふうにまじめくさって、「この建物のなかにはね、銭より黄金の方がたくさんあ るんだぜ」といった。そのまわりにずらりと並ぶ自転庫の車輪の列は、わざわざ貼りつけ *6 色か何かカナリヤの属性に関連した概念であろう 16 第1章 た皮膚のように、なかの群衆という肉を見えなくしていた。 ふたりの警官に助けられ、案内されるようにして、イングラヴァッロは人ごみをかきわ けて行った。「警察だ」と誰かがいった。「つかまえ屋さんを通してさしあげるんた。坊主 ども……やあ、. どうもボムペオさん。どうだね、もうつかまえたかね、泥棒は……今度 は金髪さんかい……」半開きの玄関はサン・ジョヴァンニ署の公安係が見張っていた。女 の管埋人が彼の「通過する」のを見て、助けてほしいと呼びとめたのである。事件の少し 後、そして捜査班のふたり、つまリガウンデンツィオとポムペオの到着する少し前のこと だった。居住者の借家契約と登録簿を提出する関係で、以前からその警官を知っていたの である。事件が起ったのは一時間まえながら十時ちょっとすぎになる。とても信じられな い時間ではないか。玄関のホールと管埋人事務所には、また別の人だかりがしていた、こ の建物の居住者たちである。そして、女どもの井戸端会議。イングラヴァッロは女管理人 とあのふたり、それにみんなが口々に「警察だ、警察」というのをあとにして、A 階段を 被害者の婦人が住む四階へ上っていった。階下ではにぎやかなおしゃべりがつづいてい た。女たちの大声というか、いきのよい声が、何やらトロンボーンのような男の声と張り あっていたが、時々、その男の声にすっかり圧倒されることもあった。雄牛の大きな角の せいで、雌牛の首がたわむようなものである。群衆は頭のなかで、最初の証言や「ちかっ ていいよ、見たんだから」という言葉などいろいろとごちゃまぜになっているのをあつめ てきて、それをひとつの叙事詩に織りあげるようになっていた。それは窃盗より正確にい えば武器を手にした押しこみ強盗だというのである。 だが、実のところ、かなり重要な問題であった。メネガッツィ夫人はびっくりしたあ と、気を失ったぐらいである。リリアナ夫人は風呂から出た直後、こんどは自分の番とば かりに「気分がわるく」なった。ドン・チッチョは最初の証言から、どっとあふれ出たも のを、収集できるかぎりひろいあげて、その場で調書をとった。管理人から始めて、メネ ガッツィには髪の手入れをし、ちょっと着かざるだけの余裕をあたえた。つまり、敬意 を表したといえよう。紙と万年筆をもっていたが、「イエスさま、イエスさま、あなたさ ま。警部さん」という文句やそのほか、マヌエーラ・ペッタッキオーニ「丈人」がドラマ チックな物語、つまり自分の報告に必ずはさむ、間投詞=祈りの類いははぶいたのであっ た。「フォンタネッリ中央乳業社」の使い走りをしている管理人の夫は十六時には帰って こよう。 「ああ、神さま。はじめはリリアナの奥さまのベルを鳴らしたのでございますよ……」 「誰がですか」「誰がって、殺人犯が……」「というと、殺人ってわけですか、でも死人な んかいやしませんよ」リリアナ夫人は (イングラヴァッロはぎくりとした) ひとりで家に いて、ドアをあけなかった。「彼女は風呂にいたのだ……そうだ-…風呂に入っていたん だ」ドン・チッチョは思わず知らず、あまりに強烈な輝きを避けようというのか、片手を 目にあてた。女中のアッスンタは数日まえ、家に帰っていた。女中たちはよくそういうの だが、父親が病気だという.「近ごろではすますそうなのだ」ジーナは一日中、学校に行っ ていた。修道女の行くサクロ・コーレ学院である。そこで食事をしていたし、時にはおや つまでいただくのであった。で、「いいですな」といったが、誰も答えないまま、悪漢が メネガッツィのベルを押したのは「明らかです……たしかですよ」そう、そこなんだ。同 じ階で、バルドゥッチのちょうどまんまえなのだ。向かいのドアだ。そうだ。ドン・チッ チョはその階も、その反対側のドアもよく知っていたのである。 メネガッツィ夫人は髪をととのえたうえで、軽く咳ばらいをしながら、ふたたびこの 17 場に登場した。前から見ると、いかにもやせて、ひからびた感じの首に、大きな薄紫色の スカーフを巻きつけていた。すっかり痛手をおった人らしい弱々しい口調である。日本 のとも、マドリッドのともつかず、スペインの小型マントとキモノのあいのこのような、 ちょっと意表をついた部屋着を着ていた。しおれた感じの顔に生えている青みがかった口 ひげ、粉をまぶしたヤモリのように青ざめた肌の色、ハートをふたつ結びつけて、その上 にいちばんどぎつい感じのイチゴの赤を塗ったくちびる、そうしたものが、幾らか落ち目 になった売春宿の主人か、昔そこに通った人にふさわしい面影とその場かぎりの形の上だ けの威厳を彼女にあたえていた。それにしても、あの生娘らしい、近より難い感じと、こ れまで人に触れられていない処女特有の心づかい、献身ぶりが、あまりにも本当らしくみ えて、そのため、前もって疑ってかかることもなく、彼女をりっばな女性としてばかり か、年ごろの娘たちのロマンチックなリストにまでのせてしまったのはどうであろう。彼 女は未亡人だったのである。スペイン・マントふうの部屋着はスカーフに重なり、それも 一枚ではなく、二枚のスカーフに重なり、そのスカーフまでがおしろいをかぶって、色の 調子がぽんやりと変ってしまい、部屋着はスカーフと一休になり、スカーフはこの少々カ スティリヤふうの着物の薄い花弁、あるいは薄い蝶と一休になっていた。彼女は管理人の 報告を訂正し、正確にしながら、その上に自分の報告をかさねていった。その声、まずし い声をふるわせ、目には期持をうかべて話をしていた。いや、おそらくそれは、向分の黄 金が取りもどせるという期待ではなく、確信、つまり……現実にイングラヴァッロという 人間の形をとっている法津の保護にあずかれるという確信であろう。ベルが鳴るのを聞い たとき、メネガッツィはいつものように「どなた」と口に出し、心配そうな、あわれっぼ いその言葉をくりかえしたが、これはベルが最初に鳴ったとき、いつもやることである。 それから開けてみた。人殺しは背の高い青年で、帽子をかぶり、職工用の灰色の作業ズボ ンをはいていた。少くとも彼女にはそうみえたし、顔色は黒ずんで、緑色がかった茶の ウールのショールをかけていた。好青年で、そう、感じのいいほうである。だが、会うと すぐ、これはおそろしいという感じを起させるタイプである。「どういう帽子でしたかな」 とドン・チッチョは書きつづけながらたずねた。「それがでございます……ほんとうのと ころ、どういうのだったか、どうしても思い出せませんのです。申しあげることもできま せんわ」「では、あなたはどうです」と、管理人にむかってたずねた。「奴が逃げるとき、 あなたの前を走って行ったんでしょ。見なかったのですか、あなたは。どんな奴だったか 話してもらえんですかな、その帽子のことですが……」 「でも、警部さん……わたくし、何 が何やら訳が分りませんでしたの。それにああいうときには、帽子のことなんぞ注意しや しません。ねえ、警部さん、どんなもんでしょ……おっしゃってくださいましな、ああし てどんどん鉄砲を射っているさいちゅうに、帽子のことなど気にする女がいるもんでしょ うか……」 「奴はひとりでしたか」「ひとりでした。ひとりでしたわ」とふたりの女が声をそろえて いった。「ああ、警部さん」とメネガッツィが頼みこんだ。「わたくしたちを助けてくださ いませ。助けられるのはあなただけでございます。助けてくださいませ、ごしょうです。 ああ、聖処女マリアさま。わたくしは夫をなくした女でございます。家ではひとりきり、 ああ、聖処女マリアさま。なんとひどい世界でございましょう、この世界は。このような のは人間とは申せません、悪魔でございます。地獄がらもどってきました非道な悪魔の霊 でございます……」 メネガッツィは家にひとりきりでいる女たちすべての例にもれず、不安な気分という 18 第1章 か、少なくとも、疑心暗鬼の悩ましい期待のうちに時をすごしていた。少しまえから、ベ ルを聞いたときに決まっておぼえるあの恐怖感が、理知的なものとなり、イメージと妄想 のコムプレックスに変っていた。マスクをかぶった男たちがクロース・アップされ、それ がフェルト底の靴をはいている。押しだまったまま、しかし瞬間的な早業でホールに入り こんでくる。頭にハンマーで一撃をくらうか、あるいは手や適当な紐をつかって首をしめ られるだろう。その前にひょっとして「儀式」があるかもしれない。この考えというか言 葉、とくにさいごのものが、彼女っを言葉ではあらわせないオルガスムスで充たしたので ある。善悶と幻想のまじりあい。どうやらそれに、強めに木材を乾燥させてある幾つかの 家具が、闇のなかで、突然、みしりといったためであろうか、突然、動悸がはげしくなる というおそえものがついたのである。いずれにせよ、その苦悶と幻想がわがもの顔に事件 に先行していた。事件の方としても、これだけさわがれたあととあっては、結局、起らざ るをえなかったのであろう、長い間、住居不法侵人をしてもらいたいと望んでいたのが、 いまや、それを強制する要因となったとイングラヴァッロは考えた。それは彼女とか、す でに身を投げ出してかかった犠牲者としての彼女の行為、思考に対する強制ではなく、運 命に対する、運命の「力の場」に対する強制であった。この災難の予感は歴史的な傾向に まで発展するほかなかった。そして、そのとおりに作用した。強奪され、のどをしめら れ、さいなまれた女性の霊魂の上だけではなく、環境の場、外的な心霊の緊張の場にも作 用した。というのも、イングラヴァッロには現代のある種の哲学者たちと同じで、魂、と いうより下劣な魂というしろものは、実は人間各自を取りかこみ、ふつう運命と呼ばれて いる可能性と力に属するものだと考えているからである。ひとことでいえば、大きな恐怖 がかえって彼女、つまリメネガッツィに不幸をもたらしたのだ。ベルが鳴るたびに彼女を 支配した考えはあの「どなたでしょうか」という言葉に凝結されるのであったが、これは 家庭の守護神もとうてい守りに来てくれそうもない、そういう悲しそうな、閉じこもった 女性たちがめいめい習慣のように口にする羊の鳴き声であり、あるいはろばの鳴き声だっ たのである。彼女の場合はそれがベルの音に対する、それももっとも日常的なベルの呼び アンティーフォナ 出しに対する哀調をおびた応答頒歌なのであった。 その結果はというと、テレジーナ夫人がチェーンをはずそうと決意して、ドアを開けた とたん、くだんの若い男が、自分はこのビルの管理事務所から頼まれ、暖房装置を見てま わっている、ひとつひとつ調べなければいけないというのである。たしかに、数日まえ に、暖房装置のことが問題になったのは事実である。つまり暖房を必要とする公式の冬季 は終るころではあったが、入居者の方では費用をいくらでも出すというのに、いっこうに なまぬるいまま (むしろ寒いぐらい) であったのだ。 イ テ ス ローマでは、およそ暖房器具を入れた場合、その火は三月の十五日に消されることに ノーネ カレンデ なっていたが、時には七日になったり、あるいはちょうど一日のこともあった。二十七年 の場合のように、エピローグが引きのばされて、冬がふたつ重なったような場合には、ま るまるひと月、燃やしつづけ、けだるさを引きのばしながら、自然に消えて行くのにまか せるが、そのさいかならず一家言ある入居者たちの間では、事態の程度に応じて議論や酷 評が声高にひびいたのである。賛成側と反対側、文無しと金持ち、けちでこまかい人たち と、気らくで栄光と快楽にうつつをぬかす人たち、こうした人びとの間で議論がかわされ た。二一九番地の上の階の部屋についていえば、どれもうたがいなく、ローマのなかで も、もっともローマらしい、陽のあたる場所であった。それだけに、早春のこの時期、雪 19 まじりの雨がふっているとあって、人びとは寒さにふるえていたのである。 その機械工は鞄も包みももっていなかった。仕事に使う道具もいまのところはいらな かった。単に調べるだけだったからである。さらにテレジーナ夫人はあることをつけくわ えたが、ドン・チッチョは調書にはとらなかった。それは、たしかにあの青年は……そう、 結局は人殺しの機械工なのだが……たしかに、そう、法廷で証言してもいいのだが、まち がいなく彼女に催眠術をかげた (ドン・チッチョはいかにも眠そうな様子で、口を開いた ままでいた)、というのは控えの間にいたとき、一瞬、彼女の方をじっと見たからだ。そラ いうふうに話した。「じっとですよ」その視線がまっすぐ、自分に注がれていたのに心を うばわれてか、まるで叫ぶようにくりかえした。「執念ぶかい目つきで、しっかりと動か ず」帽子の下からのぞいたところは「ヘビのようでした」で、そのとき彼女は全身のカが ぬけて行くのを感じたのであった。あの瞬間だったら、青年からどんなことを頼まれ、ど んなことを強制されても、その通りにしただろう、きっと、「ロボットのように」(彼女は この通りの言葉をつかった) いいなりになっただろうといったのである。 「聖処女マリアさま。わたくしは催眠術をかけられたのでございます……」ドン・チッ チョは心のなかで、こう調書に書きこんだのである。「この女どもってやつは」 このようにして、機械工はアパート中をひとまわりすることができたというわけであ る。寝室でタンスの上の、大理石の板にのっている金製品を目にすると、片手をさっと動 かし、一方の手をバケツのようにひろげて下でうけとめ、作業ズボンの脇の、自由に使え るポケットにと放りこんだ。「あなた、何をしているの」催眠状態でも完全に自由をうば われていたわけではないので、メネガッツィは青年を非難していった。男はふりかえる と、ピストルを彼女の顔めがけてつきつけた。「静かにしてもらおうか、おいぼれ婆さん、 でないと、黒焦げにしちまうぜ」彼女のおどろきぶりを見てとったうえで、ひき出しを、 それも鍵の入れてある上のひき出しをあけた……まったく、よく見ぬいたものである。黄 金や宝石はぜんぶ、皮製の宝石箱に入れてあった。現金もあった。「いくらですか」イン グラヴァッロがたずねた。「正確には分りませんの。四千六百リラでございましょうか」 その現金は男ものの、かさかさの古い財布に入れてあった。今は亡き夫の財布である (彼 女の目が濡れた)。男は一瞬のためらいもみせず、その宝石箱をよごれたハンカチのよう なもの、あるいはぼろ切れかもしれない、そう、そうだ、それにちがいない、そのなかに 包みこんでしまったが、指がふるえていた。財布の方はあっというまに、実にあざやかに ポケットにすべりこませた。聖処女、マリアさま。「ここのところのポケットにです……」 といって、夫人は片手で自分の腿を叩いたのであった。「悪魔のしわざですわ、どうして こんなことを、私にはわかりません、悪魔のしわざです。悪魔ですわ」 「だまるんだ、な」青年はもう一度、彼女をにらみつけ、いまにもくっつきそうになるま で顔を近づけてくると、相手をおどすような口調でそういった。その目が虎のように思え てきた。悪魔の魂が獲物をとらえていた。もうどんなことがあっても、手ばなさないだろ う。そして、影のようにやすやすと、逃げて行った。「黙っているんだぞ」それはおそろ しい捨てぜりふであった。だが、彼が出て行くのを見たとたん、さっそく窓のところへと んで行った。そう、そこにある窓だ、ちょうど中庭に而した窓である。それを開けると、 叫んだ、叫んだ、いや同じ建物の人の話だと、むしろ絶望してきいきいと声をあげていた そうである。「泥棒よ、泥捧よ、助けて、泥棒」それから……彼女は、すぐにでも追いか けていきたかったのだが、気分がわるくなった、さっきより、ずっと気分がわるくなった のである。で、自分のベッドに倒れた、というか、身を投げた、そこにあるベッドに。そ 20 第1章 ういって彼女はベッドを指さした。 二一九番地、道路から見ると五階あり、それに屋根裏部屋がついていて、階段は A と B のふたつ、B の中二階には事務所も幾つかあるため、まるで雑踏の中といった感じであ る。階段はふたつともゆったりと幅をとり、ひとつの方がもう片方よりも薄晴い。A 階段 の方が相棒の階段よりも静かで、ちゃんとした人びとはみんなこちら側にいた。du cote chez madame (奥さまの家の方に) である。 イングラヴァッロがまず最初、調書もとらずに外で問いただし、そのあと、はじめは公 安係が、あとになって警官が見張りをした大きなドアと小さなドアの内側にあたる玄関で 彼が聞き得た管理人や、そのほか作り話はお手のものという女の入居者たちの話を総合 し、重ねあわせてみた結果、最後には事件の全ぼうを組み立てることができた、さらに、 かなり興味のあるもうひとつの事実をたしかめることもできた。つまり、大たんにも犯人 の追跡が行なわれていたのである。「ああ」とイングラヴァッロがいった。「なるほど」ど うも大たんすぎるようである、というのも、階段を下りて、玄関の部屋へと追いかけて いった、というか追いかけたつもりでいるのだが、そのさい、これまた拳銃を手に追跡に くわわった五階のボッタファーヴィ氏よりまえに、つまり、いちばん先頭に若い男がいた のだ。「そうだ、若い男だ」 「いや、若い男なんてものじゃない、坊やだ……」 「何が坊やだ、 あんなに背が高かったのに」どうやら食料品店の店員のようで、すっかりよれよれのエプ ロンを腰のまわりにまきつけ、トレーニング・パンツをはき、そのうえに大きな緑色のス トッキングまではいていた。「何だってまた、緑色なんかを」階段の上で銃声がふたつ、 ピストルの銃声がふたつ聞こえた直後、玄関を通ってとび出して行ったという。その後は 誰も彼を見ていない。「わたくし見ました。歩道でです。サンタ・マリア・マッジョーレ から来たのです。すると、あの男が逃げて行きました……」証言をしなければという心痛 がみんなの心に火をつけ、それが燃えあがって叙事詩となった。女たちが一度にしゃべっ ブ ロ ッ コ リ ていた。言葉と事件の光景が混乱する。下女、女主人、うすのろ女がしゃべる。ブロッコ リーの大きな葉っばが、ふくらんで、腫れあがった買物かごからはみ出していた。鋭い声 や、子供じみた声が否定や肯定の言粟をつけくわえていた。白いプードルが一匹、ぐるぐ るまわりながら、興奮したように尾をふり、時々、みんなといっしょになって、できるだ け権威をこめて吠えたてるのであった。 イングラヴァッロは口々に報告する女たちや報告の内容そのものに押しつぶされて、自 分が窒息するのではないかと感じていた。 メネガッツィ夫人の叫び声のあと、階上のボッタファーヴィ夫妻がふたりして、バリト ンとソプラノできれいな夫婦のデュエットをひびかせながら「泥棒、泥棒」と、同じよう に叫んで、スリッパをっっかけ、階段に出てきていた。そのふたりがいま、自分たちの勇 気、自分たちの落ちつきぶりを正当に認めてもらわなければと要求している。そればかり か、ボッタファーヴィは大きなリボルバーをもっていて、刑事に見せ、そのあと、いあわ せたみんなにみせびらかした。女たちは心もちあとずさりした。「まあ、今度はわたくし たちの番だなんていって、射たないでくださいましよ」子供たちはすっかり気をのまれ、 ボ ッ タ フ ァ ー バ ー 首をのばして見つめていた。このときからというもの、ガマガエルに豆と呼びなれていた この人物を高く評価するようになった。彼は拳銃を手に話しつづけていたが、弾はちゃん とはずしてあった。銃身を宙にふりかざしていた。事件を実に細かいところまで思い起し ていた。あのとき、いくらやってみても、発砲できなかったという。というのも安全装置 がかかっていたからで、銃身の七番目の穴にピンが入っていたのである。そして、彼はこ 21 のとび道具を長年の間、ぜんぜん使わないでいたため、自分のもそうだが、大体、本物の 拳銃には、この安全装置という厄介物がついていること、それが下に下りているかぎり、 射撃ができないことなどを忘れていた。そのため、いざという肝心のときになって、泥棒 は全速力で逃げてしまったのである。「しかし、あなたは拳銃で二発、射ったのでしょう」 とイングラヴァッロがたずねた。「これはまた、どういうおつもりなんですか、刑事さん。 まさか、わたしを子供だとお考えじの、ないでしょうね……そんな、でまかせに発砲する ような」「しかし、射とうとなさったでしょう」「やろうとはしました。けれど、やろうと したのとやったりとではちがいます。わたしの拳銃は犯人がもっているようなものとは ちがいます……本当に射つようなのとはですね。これはですよ、警部さん、紳士の拳銃で す。わたしは……若いころガードマンをやっていました。武器のあつかいについては、誰 にも負けないつもりです。それに……冷静そのものでしたし……」泥棒は逃げてしまって いた。きわどいところで。「でも、こんど来たら、こんなぐあいにはいかせませんよ」 「では、店員についてはどうですか」「店員といいますと」「食料品店の店員のことです よ」と女たちが口を出した。「その話でもちきりだったのですよ、このご婦人がたは。お 耳に入りませんでしたか。もう一時間も、そのことで話をしているんですがね……」とイ ングラヴァッロがいった。「さよう、食料品店には用がありませんのでな。そういうこと でしたら……妻の領分です」と威厳をこめて答えた。いかにも、豚肉屋の店員など、自分 の拳銃の相手とするに足りないといいたげである。してみると、この男は店員など全然、 見ていないことになる、食料品であろうが、ほかの店であろうが、あるいは肉屋だろうが、 パン屋だろうが、店員には会っていないのだ。 ところが、マヌエーラ夫人はその店員が泥俸のあとを追いかけて、玄関から走って出て 行くのを見ていた、はっきり見ていたという。「そんたことありませんわ」ボッタファー ヴィ夫人が夫の肩をもっていった。「まあ、そんなことありませんですって。とんでもご ざいませんわ、テレーザさん。このわたくしの目が節穴だとでもおっしゃるんですか…… もしそうなら、大ごとでございますよ……この建物にはこれだけ出入りする人があるので すから……」こんどは教授をしているベルトーラ夫人がボッタファーヴイ夫妻の否定を打 ち消し、同時に管理人夫人の主張を訂正した。あのときベルトーラ夫人は帰宅するところ であった。水曜日は八時から九時まで、一時間しか授業がないのだ。玄関に入ろうとした ちょうどそのとき、ざんばら髪もいいところ、ぽさぼさ頭の、おびえた熾天使が出てくる のを見たが、あやうくぶつかるところだった。取り乱した顔で、紫色の唇……その唇はふ るえていた、それにまちがいない。だが、その男を見うしなってしまった。というのは、 すぐあとから「例の若いの」つまり、灰色のズボン、それも異様にふくれあがったズボン をはき、包みをもった機械工が出てくるのを見たからだ。「これが、つまり、人殺しの当 人でしょうね……」「で、帽子はいかがでしたか」とイングラヴァッロがたずねた。「帽子 ですか……実は……帽子は……」「どうでしたか。その話をおねがいします」「実はわかり ませんの、それは申しあげられませんの、警部さん」そのちょっとまえに、そう、そうな のだ、これはもうたしかなのだが、彼女もまた二発の銃声、玄関から外へ聞こえてきたズ ドンという音を二回、聞いていたのである。 管理人は今度は自分の番だと、ふたたび話しはじめた。銃声が二発、そう何よりも銃声 が二発したのだ……それにはみんな同意している。それから玄関で一筋の灰色のもの、ネ ズミが逃げて行くようなのを見た……「わたしには、逃げて行くときのネズミのように見 えたけどね、ほうきで追っかけられたときみたいにね……」で、そのあとから、例の店貞 22 第1章 が来た。それは誓ってもいいという。ズボンをのぞくと、全身、白ずくめの店員が通った ときには、そう、もちろん、人殺しはすでに行ってしまったあとだった、拳銃の銃声のこ とは。そう、たしかに聞こえた……その少しまえになんの取り得もないのが二発射った のだ。階段の上ではそのときもまだ、爆弾のようにひびきわたっていた。「ドカーン、ド カーンですよ、本当なんですったら、警部さん、わたしなんかそれこそ心臓がどきどきし ちゃって……」 ベルトーラ夫人がいいかえそうとした。ふたりの女の間で、口争いに火がついた。その 間、リリアナ夫人の姿は目につかなかった。ドン・チッチョはそのことでやれやれと思っ た。あの女までこのさわぎに巻きこまれようものなら、大へんなことになる。 彼としては、飛び道具というか、飛び道具の痕跡をもとめるあまり時間を無駄にする など、筋道の通ったこととは思えなかった。それがベレッタの六・五であろうと、グリセ ンティ銃の七・六五であろうと、大した問題ではない。ピストルのことはいまからでもい い、しばらくは、考えないことにすべきだ、彼はそれを経験から知っていた。同僚に、友 人にまかせておけば充分だ。 男女の入居者たち、下女たち、それに買物籠も解散させた。そのとき、うっかワして ブードルの足をふんだため、犬はヴァチカンの教皇にも聞こえよとばかりに、物すごい声 できゃんきゃんとなきはじめた。大きな方のドアは完全にしめさせ、小さな方のドアの護 衛には、公安係と交代した例の警官を配置しておいた。そして、メネガッツィ夫人の部屋 をもう一度、簡単に調べようと、のぼっていった。ずっといっしょだったポムペオがあと について行った。ガウデンツィオは最初から階下へ下りようともしなかった。犯人の痕 跡、さらにいえば指紋をさがすよう指示し、自分もさがした。ドアの販っ手、タンスの大 理石板、ぴかぴかの床といったぐあいに。 リリアナ夫人がやっと、自分の番だというように現われたが、非常に襲しかった。わた くし推理は駄目ですからと、まず断わった。メネガッツィ夫人をおだてあげ、おもてなし したいとさそいをかけた。そして、質問に答えて、ピストルの銃声が二発聞こえる少しま えに、犯人はびくびくしながらではあるが、彼女の部屋のベルもならしたことを確認し た。彼女は風呂に入っていたので、開けることができなかった、いや、おそらくどんなこ とがあっても開けなかったであろう。その時分、新開はヴァラディエール街の「暗い」犯 罪のことをしきりに報じていたし、また、それとは別に、モンテベッロ街の、よりいっそ う「陰惨な」事件についても報じていた。彼女は自分の読んだ記事を頭からぬぐいさるこ とができずにいた。それに……婦人がひとりきりでは……こわがってドアを開けないのが ふつうである。彼女はこれで失礼させていただきますといった。イングラヴァッロはその ときはじめて、自分の黄緑色のネクタイ (黒い三つ葉のクローバが五の目形についていた) と、三十六時間から三十八時間そらないでいるモリーゼふうのひげに気がついた。しか し、彼女の姿を見たとあって、全身、祝福された感じである。 ふたたび、メネガッツィ未亡人、つまリザバラ夫人にむかって、よくよく考えてごらん になれば、誰かについて、ひょっとして何らかの考え、何らかの疑惑がおありになるので はないかとたずねてみた。手がかりをあたえていただけないだろうか。親しくしている人 びとはどうだろうか。犯人の落ちつきぶりから判断して、彼女の日常や家について詳しい ことはまず確かなようだ。そして、もう一度、痕跡とか……指紋とか何か……人殺しのそ うしたものが残ってはいないだろうかとたずねてみた (作り話好きの群衆が使っているこ の人殺しという用語が、いまでは彼の鼓膜にも定着してしまい、舌までが過ちをよぎなく 23 されたのである)。それがだめなのだ、痕跡は何ひとつない。 ポムペオとガウデンツィオにタンスを移動させた。ほこり。ほうきの黄色いわらが一 本。小さくまるめた空色の電車の切符。かがみこんで、切符をひろいあげ、非常に注意ぶ かくひろげると、大きな顔をちっぽけな研符にかぶせるようにした。見たところ、ほとん どすり切れている。カステッリ線の切符である。前日の日付けのところにハサミが入れて あった。ハサミを入れたのはおそらく (そこが破れていた)、駅名が……ええと……「ト ル……トル……ちくしょう。ひとつ前の駅だ……ドゥエ・サンティの」「トッラッチョだ な」ドン・チッチョの背後から首をのばしていたガウデンツィオがそのときいった。「あ なたのですか」とドン・チッチョが、びっくり顔のメネガッツィにたずねた。「いいえ、わ たくしのではございません」いや、それはちがうぞ、そのまえの日、彼女のところにはお 客などなかった。家政婦のチェンチアは少し猫背の老婆で、二時にパートタイムで来るだ けであった。それが彼女には残念であった (彼女というのは、つまり、メネガッツィのこ とである)。それで、自分の寝室は自分でかたづけるのであった……神経がまいっている というのに、ああ、警部さん。で、あのときも、もう片づけがすんだとき、とつぜん静け さを破るようにして「あのおそろしいベル」が思いがけなく、聞こえたのである。それに 寝室へなんか、とんでもない、どうしてそんなことが考えられよう。この思い出の聖なる 場所へ、いやいやとんでもない、誰もむかえ入れるわけがない、ぜったいに誰もだ。 ドン・チッチョにはそれがよくわかっていた。ところが、彼女には反対にうたがわれ てもしかたがないというようなところ、「とんでもないことをやりかねないところがあっ た。とにかく、ちがうのだ、あの家政婦はマリーノの人間でもなければ、カステッリ・ロ マッニの人間でもない……実はずっと昔から、クエルチェーティ通りを半分ほど行き、サ ンティ・クットロの背後を下ったところにある不潔なあばら家に、自分より少し小柄な、 それはそれは小さなふたごの妹といっしょに住んでいた。そのほかについては信じてもよ かった。信心ぶかい女たちなのだ。家政婦は砂糖が好きである、それは事実だった。それ からコーヒーも、それもうんと甘いのが好きだった。しかし、手を出すなんて……いや、 とんでもない……許しをえないで手を出すことなんかないはずだ。両手両足が霜やけにか かっていた、たしかにそうである。時には皿を洗うこともできなかった、それほどに手が ひりひりした。非常に痛んだ、それも事実である。だが、なるほど、現につらい思いはし ているかもしれないが、その冬のことではなかった、それはちがう、前の冬のことであっ ロザリオ た。非常に非常に信心ぶかく、一日中、数珠を手にして、特にサン・ジュゼッベに傾倒し ていた。ドン・コルピも情報を知らせてくれることができるかもしれない、ドン・ロレン ツォ、彼のことは知らなかったのだろうか……そう、坊さんだ、例のサンティ・クワトロ・ コロナーティの。そうだ、彼女はその坊さんのところへ告白に行っていたものだし、時に はそこで掃除もやったことがある。そこの担当をしている家政婦のローザの手助けをした のだ。 イングラヴァッロは口をあけたまま聞きいっていた。「すると、どうなのです。この切 符。この切符は。落して行くとすれば、誰ですかな。おしえていただきましょう。あの人 殺しですか……」メネガッツィはふりかえってみるいとわしさをさけたが、その姿勢ば訊 問の入念さ、頑固さをはねつけているように思われた、全身をおののかせ、苦難が自分を かすめることはあっても、まともにひっかぶりたくはないと、夢にみ、神の恵みをねがっ たのが、結局は空頼みであったかと涙にくれていた。色とりどりの軽率さが彼女の薄紫 色のスカーフから、青い口ひげから、鳥のさえずりそのものといったキモノから (その模 24 第1章 様は花びらではなく、小鳥と蝶の間の奇妙な鳥類であった)、もじゃもじゃ頭のテイツィ アーノ的なおもむきのある黄色っぽい髪の毛から、その髪の毛をちょうど栄光の茂みのよ うにたばねているリポンから発散されていた。そして、胃の上部と、おとろえた容色がど ことなくだらけた感じになっているそのうえの方に、また、身体を暴行されることはまぬ がれたが、黄金はぬすまれてしまったという溜息のうえに、その軽率さがただよっている のであった。彼女はふりかえってみたくなかったし、思い出したくもなかった。それでい て、思い出すのだったらむしろ、起らないようにと避けていたことを思い出したかったの である。おどろきと、「災難」が彼女の脳、もしくは脳という名前をとり得る彼女の身体 の部分を混乱させてしまっていた。五十歳にみえたが、実は四十九歳であった。災難は二 重の形でやってきた。黄金についていえば、完全無欠なものだ……というまれに見る評判 があったのに、彼女自身についていえば、老魔女という呼び名にくわえて、筒……ピスト ルの筒が現われたのであった。「むかしはこんなよた者ではなかったでしょうに」と、自 分の守護天使のことを、そんなふうに考えたい気持ちに駆られるのであった。だが、ちが うのである。彼女は知らなかったし、望んでもいなかった。気が転倒していたのだ。正常 な状態にはなかったのである。にもかかわらず、その彼女に話をさせていたのはイングラ ヴァッロであり、ちょうど、じゅうじゅう音を立て、ぽんとはじけ、煙を出し、涙を出さ せる燃えかすを、ちゃんとした火ばしでつかむのに似ていた。そして消耗したあげくに、 彼に次のとおり確認して話を終えたのである。つまりあの若僧が、そう、もちろんあのな らず者のことだが、ピストルをポケットかどこか、それを入れてあった揚所から取り出し た、そう、ちょうどあのタンスのまえである。それから、あの汚れたハンケチというか、 機械工の使うボロ切れを取り出したが、それはおそらく、引き出しから取り出すと同時 に、皮の箱……宝石を入れる皮の箱を包むためだったのであろう。ピストルといっしょに 何かほかのものも出てきたけれど、ハンケチか何かまるめたもので、ひょっとすると紙か もしれない。いや、いや、おぼえてはいなかった、あまりのおそろしさに、聖処女マリア さま、おぼえてなどいられなかった……紙だろうか。あの若僧はそうだ、これはあり得る ことだが、その紙をひろおうとしてかがみこんだ。その光景を彼女は混乱のうちに思いう かべていた。何をひろおうとしたのか。ハンケチだろうか……それがハンケチだったとし よう。だが、どうしておぽえていられよう……そんなこまかいところまで……恐怖にとら われている最中に。 イングラヴァッロはその切符を財布のなかへ、ゆっくりしまいこむと、ふたたび下へ下 りて行ったが、まだやっと、十五分ほどたったばかりである。階段は暗い。下の方、玄関 は明るい。大きなドアはさっきのまましまっているのだが、中庭に面した窓から光りが 入っていた。ガウデンツィオとポムペオが彼についてきた。もう一度、管理人をさがす と、そこにいた。誰やらと口論をしているところだった。 男女の入居者のうち九十パーセントは彼の勧告で引きあげていたものの、ほんの数歩し かはなれておらず、また、聞き耳を立てているところだったので、すでにすました訊問に、 例の正体不明の店員にかんする補充の訊問をつけくわえるのはさして難かしくもなかっ た。すでに解散してしまった人間や野菜 (青物) の群やかたまりを玄関にそっと再召集し、 そのなかから事実にかんするニュースと、関係者にかんする報告をしぽり出す必要があっ た。その結果、A 階段にせよ B 階段にせよ、この建物の入居者の誰ひとりとして、その 朝、およそローマのどの食料品店からも、何ひとつ受け取っていなかったし、受け取るこ とになっていなかった。その時間、誰ひとりとして、白いエプロンをした店員にドアを開 25 けてはいなかった。「何もかも筋書きどおりでしてよ」とボッタファーヴィ夫人の友人で ある女の人が興奮してほのめかしたが、この人は別にメネガッツィの友人というほどでも なく、六階の住人であった。「泥棒をしようというときには、外で誰かが見張りに立つも のでござんしょ……あのふたりはですね、警部さん、わたくしのいうことをよくお聞きに なってくださいませ、あのふたりは……しめしあわせておりましたのよ……」 「出入り商入のところの店員をですな、この建物では一度もごらんになったことがない のですか」いかにも自分に権威のあることを意識した、それでいて面倒くさそうなロ調で イングラヴァッロがいった。日ごろのたいくつさ、重々しさを忘れて、まぶたを開いた。 そのとき、目は光りをおび、すべてを見ぬく確信がやどった。「そんなことはありません よ」とペッタッキオーニ夫人がいった。「いろんな人が大勢出入りするんですからね…… ここには超一流の人ばかり、実業家が入っているんですのよ。そうでしょう、警部さん」 ・・・・ みんながにっこりした。「きくじさなんかあんまり食べない人たちですわ」「では、誰のと モツァレッラ ころへ来ていたのですかな。おぼえておられませんか……生チーズを各戸にもってきたの は誰ですか」「そうですね、警部さん、大体みんなのところに来るけど……」そして、う つ向くど、左の人さし指を口の端のところへもって行った。「ちょっと考えさせてもらい モツァレッラ ますよ」いまや、みんなが生チーズをもってくる店員のことをぼんやり考えこんでいた。 とつぜん、熱をおびてきた仮説、討論、記憶、コリヤナギの籠と白いエプロン。「そうそ う……ここにおいでのフィリッポさんだわ」と目でさがし、紹介するようにこういった。 コメンダトーレ 「 勲 三 等のアンジェローニさん。国民経済省におつとめの」そういって、群衆のなかの その人物を指さした。そこで、ほかの人たちがよけると、当の指さされた人物が軽く会釈 コメンダトーレ して、「 勲 三 等のアンジェローニです」と、はっきり自己紹介した。「イングラヴァッロ カヴァリエーン です」まだ 勲 五 等にもなっていないイングラヴァッロは二本の指を帽予の脇にあてなが らいった。経済省に敬意を表したのである。 フィリッポ氏は背が高く、黒っぼいオーバーを着て、おなかは何やら梨を思わせ、背中 は曲って、やや傾斜し、びっくりしたような、それでいて憂うつな顔つきで、その中央に は、ひと吹きふけば、最後の審判の大きなラッパとなることまちがいない坊さんなみ、魚 なみの舵状の大きな鼻がついており、勲三等であり、役所づとめであるにもかかわらず、 相手の警部を、警部のイングラヴァッロ氏をちらりと見るとき、そう、いや、何にもまし て、何というべきか……悲しみというか、不安というか、それと同時にいわば遠慮といっ たものが、目のなかにあり、内閣がこの次につぶれるまでは……自分のしがみついている 地位を失うのがこわい、そういう感じであった。もっとも一九四三年七月二十五日まで は、内閣は倒れないのである。あのオーバーのえりと哀れをさそうスカーフにすっぼり埋 まって、悪漢然とした奇妙な大ベニハガラスであり、また、好んでサン・ルイージ・デ・ フランチェーズィと、ミネルヴァの間に巣くうあの黒ずくめの連中の台帳にのっている 聖職者というところである。この人たちはうっかりした通行人や道をいそぐ人からは気 づかれないまま、暇な時間に一歩一歩足をはこびながら、聖アゴスティーノのアーチか ら、また、スクローファからコッベッレ街やコルナッキエ泉を通って、サンタ・マリア・ イン・アックイーロにまでのぽって行く彼ら好みの道を散歩するのが常である。ごくま れなことであるが、ゆっくりとコロンナ街に冒険をこころみたり、広場恐怖症よろしく 玉石を敷いたピエトラ広場にと入って行くが、もちろん半パイントのワインやナポリふ うのきざなピッツァを軽蔑していないわけではない。そのあと、ピエトラ街のあのせま い道を通って、おそらくコルソに出ることとなろうが、しかし、エンチクロベディア・ト 26 第1章 レッカーニの向かいに出て、カテッラーニ宝石店の最も魅惑的な時計にひかれて行くのは サ ー バ ト・グ ラ ッ ソ 謝肉祭の最後の土曜日にかぎる。四句節には、悲しそうに無気力に、ふたつのホテルのふ たつのまんまるな街灯の下を通り、象の像のところまで、あのやさしいオベリスクのとこ ろまで、そして数珠と聖母像をならべたウィンドウのところまでとサンタ・キアーラに そって歩くのに甘んじていた。ゆっくりゆっくりと進んで行った。というか、ふたたび下 りるときも、ゆっくりゆっくりであった。あやうく自転車にぶつかりそうになりながら、 パロムメッラにさしかかり、パンテオンの背後をかすめて行ったが、それはすでに帰りみ ちであり、もうたそがれが来たのかと、当てがはずれた様子である。 勲三等のアンジェローニ氏はバルラメント=カムポ・マルツィオ街の廃虚にいたあと、 数年まえにメルラーナ街に移ってきた。あちらにはずっと昔から住んでいたのである。包 みやフランス松露だけからみても美食家にちがいなかった……包みは例によって自分で もって帰ってきたのだが、いかにも慎重に、敬意をこめたふうで、水平に胸に押しつけて いるところは、まるで乳をのませているようである。それは高級豚肉店の包みで、ガラ ンティン*7 やパイがつまっていて、空色の紐がかかっていた。また時おりは二一九番地の てっべんにある自宅まで店員が配達してくることもあった。フィレンツェふうにいえば差 し出しにくるのであった (朝鮮アザミの油漬け、マグロの煮汁をかけた子牛の肉)。 「さあさあフィリッポさん」とマヌエーラ夫人がくりかえした。「お宅は何度も配達にこ させてらっしゃいますわね、もちろん、包みをかかえて白エブロソをした男の子ですよ。 まともに顔を見たことはありませんわ、ですから、どういう顔つきだったか、そんなこと は思い出せませんよ。でもね、大体のところ間ちがいないばずだわ、けさのはきっとお宅 に来た子ですよ。いつかの晩も、わたくしがあとを追っかけたら、階段の上から、お宅の 都屋へ上って行くところなんだ、ハムをとどけなければいけないんだ、そうどなってまし たよ」 みんなの視線が勲三等のアンジェローニ氏に向けられた。 名前をいわれた当人はとまどった。 「わたしのことですか。店員ですって……どういうハムのことでしょうか」 「まあまあ、あなたさまとしたことが」マヌエーラ夫人はおがむようにいった、「まさか 警部さんのまえで、そんなの嘘だなんておっしゃって、わたくしに恥をかかせるんじゃな いでしょうね……あなたはおひとりの身でらっしゃるし……」 「ひとりですって」とフィリッボ氏は、まるでひとり暮らしが罪ででもあるようにいい かえした。 「おや、じゃあ、誰かごいっしょに住んでるんでしょうか。ネコもいないというのに……」 「わたしがひとりだから、どうだとおっしゃるんです」 「ですから、誰かが食べ物をとどけることがあるんじゃございませんか、雨のふってい るときとか、晩とか。そうじゃないでしょうか……ちがいますか……どうなんです」まる で目くばせでもするように、相手をなだめたいという口調であった、《どこまでわたしを 引きずりこむんですよ、この間ぬけ》とばかりに。 見たところ、これはやっかいなことになったものだ。フィリッポ氏のあわてぶりは明白 であった、そのどもりよう、その顔色の変りよう。そして、何が何やらわからないという 気持がその目にあふれ、苦痛の色もかくれるほどである。 *7 肉の骨を抜き、香味をつけて詰め物をし、煮た料理。冷やして出す。 27 何やら面白そうだという雰囲気がみんなのなかにあった。入居者全員が口をぼかんと開 けて見つめていた。彼を、女の管理人を、警部を。 確かな事実は、管理人が今度もまた、店員の顔を見なかったことだ、イングラヴァッロ は自分にいいきかせた。それが店員だったとしてのことだが。彼女が見たのは、踵と、そ れからあれも……背中と呼んでおこうか、これはそのとおりである。一方、教授をしてい るベルトーラ夫人の方は、たしかに顔を見ていた。青白かった。唇も紫色だった。だが、 それ以前には会ったことがない。つまり、彼女もまた、決定的なことは何もいえないので ある。 人殺しについてもまた同しである――マヌエーラ夫人はその男も、今度会って分るわけ がないと、ついに認めざるをえなかった. だめなのだ。それより前に一度だって会ったこ とがないのだから。一度だって、落雷のようなものだったのだ。 それから、あの階段の暗がりで聞こえた拳銃二発、あれだって、どこでずどんと射った ものやら誰にもわかるわけがない。 イングラヴァッロ警部は先をいそいだ。管理人のマヌエーラ・ペッタッキオーニ夫人と メネガッツィ未亡人のテレジーナ・ザバラ夫人か、警寮へ呼び出されたが、これは万一、 新しい証言があれば調書にとるためであり、とりわけ後者は事件を告訴するために呼ばれ た。損害はかなり大きく、事件はかなり重大であった。悪質な強盗事件であり、金額は別 としても、なみなみならぬ値打ちのものであった。黄金や貴金属 (そのなかでも真珠を一 本につなぎ合わせたもの、大きなトパーズがめぼしいものである) で、三万リラ前後、そ れに古い財布に入った現金が約四干七百リラあった。「かわいそうなエジディオの財布」 メネガッツィ夫人ば呼び出しをうげたとき涙にむせんでいた。 勲三等のアンジェローニ氏は充分礼儀をつくされたうえで、今後、事態を解明して行く ためにも警察のいうとおりにしていただきたいと要請された。これまた実に碗曲ないいま わしである。「いうとおりにする」とば実さいには、ドン・チッチョに同行して、サント・ ステーファノ・デル・カッコまで、電車やバスで何度も乗り降りをするという意味であっ た。そればかりか、食事もぬくはめとなった。「どうもその気にな札ませんので」サンド イッチでも食べて心の動揺をはらいのけたらとすすめてくれたポムペオに、彼は悲しそう にいった。「食欲がありませんし、こんなときには食べられないものです」「それはともか くですよ、あなた。ひとつ、食欲が出たらですな、このジェズー街のマカビー店が打って つけです。ぼくらのことはみんな知っててくれます、上得意ですからな。そのペッピーと いう店は生焼きのロースト・ビーフが、看板料理でしてね」マヌエーラ夫人はドン・チッ チョの机で、マヌエーラ・ペッタッキオーニとうやうやしいサインをしたためる、そのお そろしい、はてしない面倒ごとに片をつけたあと、冴えない待合室を通りぬけ、ぬくぬく とあたたかそうにしている勲三等の紳士に声をかけて別れて行こうとした。そして、これ までになく庶民的な、ひびきのよい調子で、たのしそうに声をかけた。「おさきにどうも、 だんなさん、だんなさん……」みんなが勲三等氏を見つめた。「勇気をお出しになってね、 何でもありませんわ……あっという間に、すみますよ」そして、PV1 番線のバスにのろう と大いそぎで出ていったが、お尻をウズラのようにふり、トラムポリンにも似たみごとな 靴でどうにか平衡を保ちながら靴音を立てているところは、まさに人さまの木靴をはいた 牝豚というところである*8 「きょうみたいに、あんなさわぎがあったんでは、いくらあの *8 訳注:木靴とひづめはイタリア語ではともにツォッコロ。 28 第1章 人でもチョウセンアザミを食べる気にはとてもなれないわね……食べたって、おなかもふ くれっこないし、がわいそうなフィリッポさん……サント・ステーファノ・デル・カッコ なんてもう結構だわ。ほんとに嫌なところ」 勲三等氏は落ちつかなかった、部屋にあるいまいましい時訂のチクタクいう音、ひとっ チクといって、次にタクというたびに、目の穴がくりぬかれるようで、墓から掘り出した 死体のそれに似ていた。昼すぎに訊問にあたったのはイングラヴァッロ自身で、いろいろ なお世辞やいんぎんさと、どこかきびしい感じのする顔つきをつかいわけていたが、とき どき例の「役所のまどろみ」のとりことなり、いやおうなしにまぶたが重くなるのであっ た。活発さと皮肉の瞬間、ふってわいた短気の爆発、用紙のなかに埋もれた退くつさ、容 赦のない挿入句。あとになってデヴィーティ、つまガウデンツィオが話したところでは、 彼は訊問の間じゅうずっと、隅の机でその日の書類に大きな頭をのせて、無関心に話を聞 いていたのだが、何でもこの二重唱の最初の数小節のところで、苦しみぬきおどかされた アンジェローニが早くも怒り心頭に発したというこどである。これは紳士とか、きちんと した人びと、また自分からそういう人物だと自認してやまない人びとが、およそ自分たち にふさわしくない事態に直面したときに起りがちなことである。勲三等氏は信じがたいほ どの苦悶にのみこまれてしまったようである。そのあげくに涙をかくそうと鼻をかみ、目 を赤くはらして、未亡人のようにラッパを吹きまくった。問題の店員については何も知ら ない、何も信じられない、想像することもできない、そういいはった。そして、およそ、 慣用というものに反して、苦しそうに店員という言葉をロにのせるのであった。イングラ ピッツィカローロ ヴァッロがテヴェレやビフェルノの民俗学的な護にふけり、また、食料品店や店員の話を ピッツィカーレ して相手を 刺 戟 すればするほど、相手はそれだけお役所用語の横柄さという殻のなか にカタツムリのように引きこもるのであった。だが、そういう殻も、ゼリーで固めたウナ ギや油漬けの朝鮮アザミにもたとえられる警察の一般的不信という雰囲気のなかにあって は、まったく通用しなかった。あの走り使いの連中や、門番たちをひっくるめてヴェン ティ・セッテムブレ街というものが、この仮借ない瞬間に、これまでになくおぼつかない 楽園と映ったにちがいない。軍神クイリヌスというか、大官によって見おろされている遠 い昔のオリンポス、だが、とても自分を助けに来てくれそうもない。どうなるのだろう。 お役所的な甘い空虚の魔法の紙ともおさらばか。中央政治のぬるま湯とも。漁獲高……イ ワシの漁獲高を表わすグラフの「かなり」の上昇とも。塩漬けに対する免税とも。大蔵省 の嵐のような、好んで口にする不平、会計検査院の神聖な反響音とも。みんなおさらば であろうか。警察の椅子にひとりきりで腰かげ、機動捜査班の並べたてる屁理屈 (と彼に は思えた) を背にしている間に目がくらんでしまった。人から見られたくないと願うあわ れっぼい人間に特有の、そのかわいそうな顔、見ているだげで話し相乎がどうしても意見 を口にせずにはいられないような鼻が、でんとまんなかに構えている彼の顔、それがイン グラヴァッロには、あらゆる組織的訊問の非人間性、残酷さをのろう沈黙の絶望的な抗議 とみえたのである。 たしかに、時として、ハムを家にとどけてもらうこともあった。それは誰なのか。誰だ ろう。ひと言でいったら、無理ですなあ、誰だかはっきりさせることはできない。おそら く、思い出せないだろう、これだけ時間が経っていたのでは。彼は……ひとりであった、 特定の商人が相手ではなかった。あちらこちらで買っていた。きょう一軒の店で買えば、 あしたはちがう店という具合にである。ローマじゅうのあらゆる店で買っていたともいえ るぐらいだった。それも、一回の量はわすかなものであったろう。そういう調子である。 29 そのとき、足の向いた店で買うのだ。また手ごろなものがあったり、上等なものがあるの な見かけたときなど。おそらく、ほんの少量であったろうが、回数が多かった。めいった 気分を引き立たせる、それだけのためということもあった……アナゴ少々、あるいは、ガ ランティン少々といったふうに。だが、何よりもといって鼻をかみ、罐詰を買いこむので すといった。家に何がしかのストックを置いておくためである。家に予備がいくらかある と便利なのだ。そして、そういう品をとどけに来るのはもちろん、お店一のお使いたちで あった…… 肩をすくめ、屑をひらいたが、それは「これ以上、明瞭なことがありますか」とでもい うようであった。 「あなたは以前、管理人におっしゃったことがありますね」(ドン・チッチョはあくびを した)「何でも赤身のハムをバニスペルナ街で買っておられたとか」 「ああ、そうでした、おかげで思い出しました、わたしもおぼえていますよ、一度――そ うです、小さなハムをまるごと買いました。山のハムで、ほんの数キロあっただけです」 まるで、ハムの目方が少ないという、それだけのことで情状酌量をしてもらいたがってい る、そのようにみえた。「たしかに家へとどけてもらいました。パニスペルナ街の豚肉屋 です、そう、つきあたって、セルベンティ街と交差するあたりです……ボローニヤの出身 です」 訊問されているこのかわいそうな男は暇をもぐもぐさせていた。ガウデンツィオがパニ スペルナ街へとひとっばしりさせられた。 五時四十五分、二回目の訊問、マヌエーラ夫人がメネガッツィ夫人といっしょに、緊急 の呼び出しをうけてふたたび姿を見せたが、そのほかに教授のベルトーラ夫人もいて、青 白い顔色で、全身が何となくふるえていた。ガウデンツィオがセルベソティ街で見つけて きた若者が紹介される番だった。むしろ率直な感じだが、顔つきはすっかり晴れやかとは いえず、髪は黒く、油をぬりたくって、べとべとで、目で刑事にうかがいを丸てるように すると、こんどはいそいで、その場にいる人たちを見やった。 「これですか、あなたの男っていうのは」とドン・チッチョがベルトーラにたずねた。 「何ですって」婦人教授は「あなたの男」などといわれて憤既し、とびあがらんぼかり にしていった。ドン・チッチ調一は管理人の方を向いた。「おわかりですか。今朝の男で すかな」 「いいえ、この人ではありません。今朝のは……わたくし顔を見なかったものですから、 でも、何度、同じことを申しあげなければなりませんの、警部さん。今朝のは子供でした わ、この人にくらべると」 そこでドン・チッチョはアンジェローニ氏の方を向いた。「おたくにハムをとどけたの はこの男でしょうか」 「はい、そうです」 「では、君だけど」と若者にいった。「何かいうことがあるかね」 「おれがですかい」若者は肩をすくめて、ひとわたり、その場の人たちの顔を見わたし た。「わかんねえな、おれ、どうしろってんですか」ドン・チッチョはきつく、眉をひそ めた。 「もっとていねいに口をききたまえ、お若いの、君は法津によって、出頭するよう呼ば れているんだからな」まるで歌うような口調でいった。「刑事訴訟法第二二九条だ。こち らにみえている方を存じあげていると認めるかね」といって、あごでアンジェローニ氏の 30 第1章 方をしゃくった。 「去年、店にみえたですよ、何回か。それ以来、お見かけしませんね。そうそう、山の ハムをお宅にとどけたことがあるなあ、メルラーナ街のてっべんでした。すごい雨でね、 ずぶ濡れになったですよ」 「君が行ったのは一回だげかね、それとも何度か行ったのかね。家はわかっているん だな」 「おれがですか……あの家ですか、二、三回行きましたよ、何かおとどけするときにね」 打てぱ響く答えだが、同時に当惑した感じもあった。ある種の不安が心の奥底にまで達し ていたのだ。 「で、あなたはいかがですか」 「認めましょう、事実、二、三回来てくれました」アンジェローニは努力をしていっ た。それは明らかだった。もっと平静にうけとられたかったのだ。「チッブもわたしまし た……」 「ほう、チップもおわたしになりましたか」ドン・チッチョは晴れやかな顔になっ た。チップをやったという事実を祝っているかのようにみえた。それでいて、説明しがた い皮肉をこめているのだ。じっと考えこんだ。調書の上に頭をおろして行った。少しそれ をかきまぜてみた。それから, 店員の方を指さして、もう一度、ペッタッキオーニに質問 した。「前にあなたに向かってどなったと、おっしゃってましたが、この青年ですか…… 階段の上からどなったというのは?」 「いいえ、いいえ、ちがいます。まちがいっこありません。あの男と今朝の男だったら 同じ人物かもしれませんけどね……だってふたりとも、ここにいるこの人よりは子供っぽ い感じでした。それに、警部さん、もっとやさしい声でしたわ、やっばりショート・バン ツをはいていました、同じものじゃないでしょうけどね……」 「こいつもショート・パンツをはいてますぞ」 「でも、警部さん……これはスポーツ用のでしょ。あのときのはもっと子供っぽくて、そ うですとも、第一、この人だったら軍隊へ入ってもおかしくないでしょ。それに、それに この人はいつ来たっていうんですか、このメルラーナ街へは。一年まえじゃないですか。 わたくしのはね、せいぜい、二、三カ月まえの話ですもん。万霊節の少しあとでしたわ」 イングラヴァッロは結論を出そうというのか、息を吸いこんだ。 「きょうのところは帰ってよろしい」と若者をじっと見っめた。「だが、おぽえておいて もらおうか……』ここではだな……妙な真似をしてもらっては困る……」ゆっくりと、執 ような警部の視線におくられて、若者は出て行った。書類をまとめ、同時に一連の結果を まとめながら、イングラヴァヅロは話しはじめた。 「ここにおみえのペッタッキオーニ夫人はですな、わたしの解釈が正しいとすると、も うひとり別の店員がハムをもってあなたのところに来た、それを見たことがあると証言な さっておられます……それも一度にとどまらない、外見はもっと若いようで、どうやら今 朝の店員に似ているらしい……そして、今朝の店員の方は先生が」と婦人教授を指さし た。「顔をごらんになった、ということは、今度会えばおわかりになるわけですね。そう いうことですな、ベルトーラ先生」相手はうなずいた。 アンジェローニ氏がひと息ついた、一瞬、風俗記述者のようなポーズをとった。 「とにかく、マヌエーラ夫人が管理人なのです。で、彼女が……」 「わたくしがどうだとおっしゃるんですか」管理人の職にある当の相手が、おどかすよ うに口をはさんだ。アンジニローニはカタツムリのようにぷたたび殻のなかにと引きこも 31 り、鼻だけを外へ出していた。心の貝殻の外へと。彼のいいたかったのはおそらく、彼女 が管理人である以上、その使命はほかでもない、そこを通る人たちに注意することではな いかというのであろう。 「わたしがいいたいのは……」彼はとまどってしまい、紙のラッパのような、鼻にかかっ た口調で話していた。「要するにです、すでにお話ししたとおりなのです、警部さん。わ たしは行きあたりばったりに買うほうです。きっと管理人のいうとおりでしょう。おとと いも、家に何かとどけてもらいました。経済省に勤めている同僚の女中がとどけてきま した」 「女中ですって。うるわしの召使い、ついに登場ですか」とイングラヴァッロがつぶや いた。調書を整頓しなおすと、もう一度、ちょっとつぶやいた。三人の婦人に行ってもよ いと許したのである。 「とおっしゃると、帰らしていただけますのかしら」青白い顔のベルトーラがそのとき、 たずねた。 「ええ、そうですとも。ご遠慮なく」 マヌエーラ夫人はブラウスのはちきれそうな胸をふるわせ、こぽれるようなメルラーナ ふうの微笑をうかべた。 「それでは失礼します、警部さん。私どものフィリッポさんをこちらにおあずけします わ。わたくしにかわって、よく面倒を見てさしあげてくださいな」 ドン・チッチョは黙って、立ちつくし、調書を机に置いたまま、相手に面と向かってい た。それは翼を半分ひらきながら、まだ獲物を爪でつかんでいない黒いハヤブサのようで あった。 それでも、黒のプードルの毛皮を頭からかぶって、たじろぐ様子はなく、主任にふさわ しいきびしさがあった。 勲三等氏は「この世の体験」というバリケードのなかに閉じこもった。 「あの女たちには」と泣き言をいった。「言葉づかいに気をつけるようにいってもだめで す」呼吸困難なのか、ときどき息を切らしていた。ふたつの洞窟のような眼孔は疲れはて ていた。 「何のお話ですかな。言葉づかいのことを気に病んでおられるようだが。上品な言葉づ かいというのは、どんなものですか。聞かしていただきましょう。何をそうして苦にして おいでですか。話してください。さあ、打ちわったところを……」 「わたしのような立場で何ができましょう、警部さん。ハムをかかえてローマじゅうを ひとまわりできますか。わたしにはこう思えるのです、ピストルを射ったのが店員だと か、店員でないとか、あるいは、もうひとりのために見張りをやったとか、いやそうでは ないとか、そういうこじつけ論をやろうとするは、これはまごうかたない不正である、そ う思えるのです、わたしが何を知っていましょう。どうお考えですか。わたしと同じ立場 になってみてください。勲三等のアンジェローニ氏がチーズをかかえてバニスペルナ街を よたよた歩いているのを見たなどと、人がいうのを聞いて、なんともありませんか。酒び んを一本ずつ両腕にかかえていたとか。それが子守りのかかえた双子のようだったとか、 そんなふうにいわれて、平気ですか……」 イングラヴァッロは調書に目を釘づけにしたまま、頭を上下にゆすっていた。かんしゃ くを起しているようにみえた。声を高めると、単語を、そして音節を区切っていった。 「管理人の話では、もうひとり別の店員がやはり何度か、お宅へ来ているそうですな、 32 第1章 ずっと子供らしいのが、これは確かでしょうか。二、三カ月まえのことですから、なんと おっしゃろうと、永遠の昔とはいえませんぞ。それに、わたしはこの小僧に興味がありま すし、誓ってもいいそうですが、その小僧はもうひとりのに、つまり今朝の男に似. てい るといいますからね。そのとおりなんでしょうな。とすれば、よろしかったら……」 「わかっています、わかっていますとも」と、勲三等氏は泣き言をいった。 「ほう、それではもっと誠意をみせていただきたいですなあ……わたしとしては、ぜひ ともその坊主を知りたいと思っておりますから」 メルラーナ街二一九番地、黄金の館、あるいは金持ちたちの館といってもよいが、それ については書かれてきた。つまり、そこにもまた、この地上のほかの多くの建物と同様 に、美しい花が咲きほこるにちがいないと書かれてきた。「ちょっとごらんなさい、何と いうことでしょう」という真紅のカーネーションの花が。マヌエーラ夫人についてはいわ ずもがな、入居者たちや経済省の同僚たちの声高なざわめきのなかで、勲三等のアンジェ ローニ氏は夜の九時までとめられたのである。 ふたりの警官、特に金髪の. 冴えない無分別のせいで、つまりふた言、み言もらしたた めに、マヌエーラ=メネガッツィ=ボッタファーヴィ=アルダ・ベルネッティ兄弟 (A 階 段)、あるいはマヌエーラ=オレスティーノ・ボッツィ=エローディア夫人=エネア・クッ コ (B 階段) というルートで、勲三等のアンジェローニ氏がもちろん不本意なから引きう けてしまった間接的な (そのうえ、なかなか証明のしにくい) 貴任、つまり彼が塩漬け肉 の配達人を住居に往来させた第一の原動力だという点に警察が疑惑をはさんでいるらしい と噂がひろまり、事実そのように感じられたのであった。「あの人は話したがらないのに、 向うの方は熱中しているそうだ」警察としては、どこの家のベルもならさず、「ピストル の音が聞こえたとたん、ただもう大いそぎで階段を下りて行った」豚肉屋の店員を勲三等 氏が必ずや知っているはずである、それなのに、彼独自の、理解をこえた理由があって、 いかにも雲から落ちたように、気が転倒したふりをしているのだ、そういうふうに思いこ んでいた。アンジェローニの態度全体、何の結論にもいたらず、しきにぽんやりした、ま わりくどいものになってしまう混乱した言葉を使うだけで、あとはもっばら陰気な強情っ ぱりよろしく黙りこくっている彼の無口ぶり、多少とも人をからかうような、計算された 彼のはにかみ、鼻みずをたらした鼻が突如として赤くなるその様子、最初は嘆願するよう な、落ちくぼんだ目、そして、そのあとは恐怖のふたつの洞窟に落ちこんだふたつのあわ れなのぞき穴、時には本ものの、時には異常なまでに不明瞭な混乱、こうしたものがさい ごにはふたりの役人、イングラヴァッロと捜査班長のフーミ警部を不快にしたのであっ た。彼らはこの国民経済省の六級職というちゃんとした地位の職員を相手にして、事態の 重要さというか、まったくあやふやな根拠にもとづく自分たちの……警戒心が決して妥当 だとはいいきれないことを、われながら実感していたのである。徳性の点で疑いようがな く、潔臼で名の通っている六級職。「ままよ」とドン・チッチョは自分をなぐさめるよう に考えた。「あたりまえに生まれついたものなら誰だって、初恋をするまでは純潔なもの さ……警察との初恋をするまではな」 それに、この問題で別にうたがいをかけているわけではない、断じてちがうのだ。相手 はただ自分の気持ちをはっきりしてくれればよい、自分の考えているところを述べ、歌 い、小声で歌うべきなのだ。もし何か考えているのなら、なぜそれを歌わないのか。はっ きりしているのは、強盗がまちがってバルドゥッチのベルを鳴らしたことで、それはおそ 33 らく興奮していたせいか、また、おそらくは誰か第三者の教えてくれた揚所、それも言葉 たらずに教えてくれた場所を誤解したか、記憶ちがいをしたのである。ドアをまちがえた のではないかというこの考えを、イングラヴァッロはどうしてもふっ切ることができな かった。ふたつのドアは似かよっていたし、両方とも二一九番地特有の茶色であり、高い ところについている番号は見にくかったが、これは (階段が) 暗かったせいもある。自分 の過ちに気づいたし、返答がないこともあって、向かいのドア、つまり正しい方のドアの ベルを鳴らしたのだ。ところが、フーミ警部の考えにょると、男は中に誰もいないのをた しかめようとして、バルドゥッチの家のベルを鳴らしたという。つまり、リリアナ夫人 はいつもその時間、十時ごろには外出していたし、アッスンティーナ*9 も留守で、故郷に 帰っていた、つまり死にかかっている「年おいた父親」のところにいたのである。もっと も、あのお乳の大きさ、尻の張りぐあいからすればアッスントーナ*10 と呼んだ方がずっ とふさわしい。ジーナは修道女たちのところ、つまり学校に行っている、バルドゥッチ氏 は事務所にというより、いつもそうなのだが、ヴィチェンツァかミラノヘ出張旅行中であ る。リリアナ夫人も訊問ずみである――それも訊問にあたったのはドン・チッチョで、夕 方、彼女の自宅で、きちんと敬意をはらったうえでのことだった――そして、何も出てこ なかった。彼女はジネッタとふたりっきりになってしまうと考えただけで身ぶるいしてい た。そして夫のところで走り使いをしているクリストーフォロにたのんで、夕飯に来ても らい、そのまま、ひと晩泊ってもらうことにしていた。ちょうど留守の女中の部屋に泊め るようになっていた。そして、再三、毛布か掛けぶとんをすすめるのだった。「……風邪 でもひかれては困りますもの……」ほんのひと息つくだけで、泥棒などには一目おかせる ような大男であった。犬、ウサギ、猟銃には非常に精通していた。 メネガッツィ伯爵夫人は一階上に行っていた。ボッタファーヴィ家でお客になっていた のだ、この家はバッキンガム宮殿の表門にもふさわしいような、八回鍵をまわす《英国製 の》かんぬきをドアにつけていた。そればかりか、主人のボッタファーヴィ氏はミネスト ラ・スープを何ばいかがぶのみしたときなど、夜中にその夢を見るのであった。つまり、 胃袋にかんぬきのかかっている夢を見るのであった。眠っている最中に彼が「助けて、助 けてくれ」と叫ぶのが聞こえれば、それはこういうときであった、そして、自分の叫ひ声 で夢からさめるのである。拳銃はみがきなおしておいた。ワセリノをぬり、銃身の安全装 置ははずした。これで、いまや糸車のように回転するのである。いつでも、ほんのちょっ としたきっかけがありさえすれば、筒から火を吹くようになっていた。 イングラヴァッロは、ルルウの吠えるのが聞こえないのでびっくりし、どうかしたの かとたずねた。リリアナ・バルドゥッチの顔は心もち非ゆしそうになった。いなくなった という。もう二週闘以上になる。土躍日のことだった、どんなふうにしてか。どんなふう にしてやら。たぶん、誰かがポケットにでも入れていったのではなかろうか。アッスン ティーナが散歩につれ出して行ったサン・ジョヴァンニの庭でのことだろう、あのぽんや り女が。そして、犬に注意を向けるどころではなかった。逆に彼女、つまりアッスンタに 注意を向ける暇な男たちがわんさといたのだ。「それはもう、人の目につく娘でございま すからねえ……それに、あれが今日ふうなのでございましょう」動物の死体置場をさがし たり、メッサジェーロ紙に二回、広告をのせたり、アッスンティーナにたずねたり、小言 *9 *10 小さなアッスンタ 大きなアッスンタ 34 第1章 をいったり、ほとんど会う人ごとに訴えたりしたものの、もどってこさせる役には立たな かった。ああ、なんて、なんてかわいそうなルルウだろう。 ドン・チッチョはその翌日、気分が冴えなかった。雨がふり、風が吹いていた。坊さん たちの法衣や、びしょ濡れの犬をはじめ、ありとあらゆるものをきりきり舞いさせるはげ しい、気むずかしい北東の風であった。傘など役に立たなかった。ビルの屋根についてい る雨どいも同じことである。ボムペオが報告してくれたところでは、メネガッツィ伯爵夫 人の宝石が近所一帯の評判になっていたのはまちがいないようである。女たち、少年た ちの嫉妬から、空想から、その話は叙事詩化され、欲望をそそり、折りさえあれば話の種 とされた。これについては、もう何年もまえから作り話ができていた。花嫁たちは「わた し、これがほしいわ」 「あれがほしいわ」といっては、指で首飾りをもてあそぶように、真 珠の粒をいつくしむように、自分たちの首や胸や耳たぶにふれ、「メニカッチ夫人のよう に」「メネカッチ伯爵夫人のように」とっけくわえるのであった。というのも、彼女は本 ものの伯爵夫人だったからである。 そのヴェネチア名前が彼女たちのうっとりするような唇にのせられると、がぜん語源へ とさかのほり出し、流れにぶつかって行く、つまり、長い年月が作用した風化にさからっ て行った。アナフォネーズィ*11 はウナギその他ある種の遡河性の魚たちの現象と同じで、 穴を開ける力をふるい起して底流をつらぬいて行ったが、その魚たちは上流へ向かって何 キロも上へ上へとのぼって行き、ついには故郷の清流*12 をふたたびのみ、ユコン、アッ ダ、アンデスのリオ・ネグロなどの水源である山地にまでさかのぼることができるのであ る。最近の字訳法で教区の戸籍簿を書きなおすと、そもそもの最初の弱い喉頭音にもどっ て行き、メネガッツョからメーネゴ、メーニコ、ドメーニコ、ドミニクス、さらには「す べてが持っているもの」にまでいたるのだった。教会の名簿の判読になれていない娘たち は、サベリふうの、あるいはティヴォリふうのぎごちなさでたじろいでしまい、二、三回 はやってみるのだが、メネガッチまで来ると、それで終りにしたものだし*13 、男の子たち はあそんでいるとき、それを大声で叫んでふざけまわっていたし、機動捜査班のふたりの 警官もフーミ警部のいるまえで、これまた機会ををとらえてははっきりと口に出していた が、まったく見あげた図々しさである。 二一九番地、四階 (A 階段であることをはっきりさせておいていただきたい、B 階段と なると話が全く別になる) の「伯爵夫人」のその名前のこと、また「真偽のほどは別とし ても、その宝石のこと、山なすその黄金のことがメルラーナ街やラッビカーナ街一帯はも ちろん、聖アントニオ・デ・パドーヴァや聖クレメンテ、さらにはサンティ・クアットロ にいたるまで、いまではすっかり叙事詩にまでのしあがり、ちょうど油紙のめらめら燃え る炎のようにひらめきや輝きを発散しているのであった。こうなってから、かなりの時 間がたっている。数ヵ月来、いや、数年来かもしれない。あるときトパーズ、あるいはト ト パ ッ チ ョ パーツォ (人によってはいつも敬意をこめて、どぶネズミと発音していた) の指輸が紛失 した、つまり、メネガッツィというか、もっと清潔ないい方をすればメネカッチが、ひと えにうぬぽれ屋のガチョウのようにぼんやりし、頭がからっぼだったために指輪を便所に 忘れてきた、もっとくわしくいうと、よく知られているあのパラッツォ・ルスポーリにほ ど近い、ルチナのナノ・ロレンツォにめるコビアソキのふろ屋に置いてきたのである。そ *11 一定の子音を従える強調された母音が別のより強い母音に移る現象。 胎のリンパ液の意味もある。 *13 メネカッチはカッツォとかカカとかいった性的な用語につながる。 *12 35 のときのこと、まったく奇蹟的な話だが、洗面台の鏡の下にあるガラスの棚の上で見つ かった。ところが、それよりまえ、サン・シルヴェストロにまでわざわざお灯明をあげに 出かけて行き、聖アントニオにろうそくをおそなえし、その火をともしたあと、やっと失 せ物をさがしにもどったのであった。この話を聞いたニ一七番地と二二一番地の女たちが 何人もこれを機会にと、その同じ日、宝くじの数字をえらんでナポリの分に賭けてみた。 これは奇蹟などの縁起をかつぐ人がよく当るということで知られている。その結果、ふた つの数の組みあわせが出たが、これがまた、そのものずばりと、いい組みあわせなのであ る。ただし、数字は合ってもバーリの分なので無効であった*14 。これは彼女の黄金の評 判がどれほど大きいかをおしえてくれる。「名声はとぶ」とフーミ警部は赤い書類の山に 両手をのせて、ため息をついた。「名声はとぶ」きっと、例の泥棒の耳にまで、帆に風う けてとんで行ったのであろう。 もちろん、警察の第一の関心、とりわけ、サツまわりの記者たちが大っびらに「慎重居 士」という称号をたてまつっているイングラヴァッロ警部のそれは、人殺し、つまり「灰 色の服装で帽子をかぶり、緑茶色のスカーフをしている責年」の正休を見破り、つかまえ ることであった。窃盗部門で最も信用のできる聞きこみの連中がすっかりやる気を起し て、めいめい例のとおりに、ひとっ走りしては、あちらこちらでグラスを干し、その結県、 得た意見を吐いてくれたか、もちろん、各人、意見はひとつずつである。そして、正確な 回答をしてくれたが、それは女予言者がよく口にするのと同じふうであった。浮浪者をあ つかう部門……いや、部門などというものではない、まさに大洋であるが、 「開きこみの連 中を放せ」といっていた。街娼とその紐の連中の方は……役に立たなかった。聞きこみな どということは考えてもいなかった。どうも犯人は、メネガッツィ夫人の描写によると、 市外の悪党、つまり、いなか者にちがいないようだ。やっと水曜日の九時になって、フー ミ警部はいかにもしぶしぶと、気のぬけたあくびをしながらリスト (前の日の売春婦たち のである) をざっと見ているうちに、チェリオで保護された女の身もとに目をとめた。そ れは住所不定のお針女……とされ、出身地は……トッラッチョである。これは「風紀」の バトロールが暗くなってから、いっせいに網に引っかけた女たちのリストで、参考のため に回付されてきたのである。トッラッチョというその地名が右目の端をちらりとかすめた 瞬間、彼は考えるところがあるという様子をみせた。カードをもってこさせた。カードに も同じようなことが記されていた。チョニーニ・イネス、二十歳、トッラッチョ出身、未 婚。「住所不定」の欄には×印がついていた、そうだという意味で、全く住所がないのだ。 「職業」お針女 pant・出張家政婦、 「証明書類」ペンで横に一本引いてある、つまりないの だ。警官たちをどん百姓と呼んで、侮辱している。「パトロール チェリオ=サント・ス テーファノ、サン・ジョヴァンニ警察署」 「この Pant っていうのは何だろう」「ズボンであります、警部。この女はズボンを専門 に縫っているのであります」警宮たちは彼女を規行犯でとらえたのである。その犯罪と いうのは一種のたかりで、四リラ (といっても、当時の金額である) を通行人にせがんで、 せしめた。その通行人とは一分半、闇とサント・ステーファノ・ロトンドをいいことに、 立ったままおしゃべりをしていたが、ポリさんたちが近づいたと見るや、さっと離れてし まった。一方、なさけぶかい紳士の方はおりよく (彼女の視野から) 消えていた。 フーミ警部は首をふって、さいごにひとつあくびをすると、カードは警官に返し、リス *14 イタリアの宝くじは数字のほかに地名も選ぶ。 36 第1章 トの方は机の上の、もとあった書類の山にもどしておいた。実のところ、大した収穫では ない。「いつもの場所で」行きあたりばったりに二、三、逮捕しただけであり、その場所 とはこの場合、薄暗いミルク・ホールであり、フランジパーネ街の五流どころのクラブで あり、サンタ・クローチェの公園のベンチである。帽子をかぶった三人の男を次々と、処 埋して行った。三番目の男は帽子のほかに、禿頭病までのっけていた。 37 第2章 その朝、木躍日になっていたがイングラヴァッロは思いきってマリーノまでぶらりと出 かけるだけのゆとりがあった。ガウデンツィオをおともにつれて行ったが、途中で思いな おし、ほかのちょっとした仕事をいいつけて帰してしてしまった。 すばらしい日和、うっとりするようなローマ晴れとあって、八級職、といっても、これ から奮発して七級職にのしあがろうかというお役人までが、実にそういう人までが、何か わからないなりにも心をふくらませ、幸福に似た思いをかみしめていた。神さまの食物を 鼻からすいこんで、肺のなかにのみこんでいる、本当にそんな気がしたのである。教会の の 正面という正面の石灰萃石灰質の沈殿物で、イタリアでは建築材料になる。上に、あるい は胡椒石の上に、また、早くもハエたちがとびまわっている円柱という円柱のてっべんの 上に、黄金色の太陽が輝いている。それに、彼は彼なりに計画をすっかり頭にたたきこん であった。マリーノに行ったら、神さまの食物などといったなまやさしいものではすまな いぞ。ピッポさんの酒蔵に行けば性悪のぶどう酒、四年ものの弱虫野郎が入ったびんだっ てあるんだ。これが五年まえで、かりにファクタの一党か自分たちの政権のあぶないのに 気づくだけの能力があったとしてのことだが、この弱虫野郎の酒さえ入ればファクタ内閣 もびりりと電気かかかったようにふるい立ったかもしれない。この酒が警部のモリーゼ的 神経には、コーヒーの作用をしたのである。そればかりか、一流の酒としてのニュアンス をあまさずたたえながら、この酒ならではの絶妙な味わいなもたらしてくれるのであっ た。いわばディオニソス的導人を舌=口蓋=咽頭=食道の各段階に応じて確認し、証明す るものである。もっとも、そのグラスが一個あるいは二個と、気管に入っているかどう か、それは誰にもわからない。 この日までの二日悶、いろいろとやることかあったほかに――なにせ、この世はメル ラーナ街だけではないのである――カステッリ鉄道の本社に二度まで出向いていた。彼と しては部下たちの提出してくれる面倒な、ややこしい報告などにわずらわされ、気分や耳 を混乱させるぐらいならば、十一時ごろ、ひとりでさっさと回ってくる方がよかったので ある。ガウデンツィオとポムペオはよそに仕事かあった。「行きたい奴は行けばいい、行 きたくない奴は行かせてやれ」切符のつづき番号と系統、十三日という日付けのところに 開いている死、そして下車駅トッラッチョの字を破いた跡などから、うまいぐあいに切 符を発行した日付け、時間、車両などをつきとめることかできたし、そのうえ、二度目の 訪問のおり、切符を売った車掌を運転士ともども、本社に呼ぴ出して事情聴取ができた。 ドゥニ・サンティ、トッラッチョ、フラットッキエなどの駅では日曜日の昼さがりという ので、大勢の人たちが乗車した。それこそ雑踏であった。ぜんぶの人を思い出すのは無理 だったが、何人かは思い出せたし、そのなかでも、はっきりそれと分る数人の客の名前を あげた。もっとも運転士と車掌の間で意見の食いちがいがなかったわけではないし、前の 38 第2章 日や後の日と混同することもあった。車掌のメルラーニ・アルフレッドはジュゼッベと いったが、空色にせよ、灰色にせよ、とにかく作業服を着た青年など見たおぼえはないと 否定した。「帽子をまぶかにかぶってたんだがね」ぜんぜん見ません。「首にスカーフをま いていたんだがね……スカーフを」ええ……それなら見ました……。「スカーフというか、 緑のウールのマフラーのようなものだね……」ええ、そうです。「黒っぽい草のような緑 でした」車掌はその通り、その通りと話にのり気になってきた。切符をわたしたとき、そ のスカーフが相手のお客の顔半分をすっかり包んでいる事実に気づいて、ぎくりとしたと いうのである、まるで三月十三日のトッラッチョが、とんでもなく寒いとでもいうように 「あごをうずめていた」という。ちがう点はというと、帳子はかぶっていなかった、むき 出しの頭だった、そうなのだ。もっとも、こちらの顔はまともに見ないで、うなだれてい た。もじゃもじゃの頭髪、それだけで、あとは何もなかった。それが何者なのか知ってい るわけがなかった。こんど会っても、おそらく、見わげることすらできないだろう。話は それだけであった。 そして、いまは十一時である。イングラヴァッロ警部はダツェーリョ街の町角で電車に のるところであった。警察の自由になる数少ない白動車は七つの丘でさまよったり、広 場、台地、ピンチョ、ジャンニコロなどでお客をはこんだりしてうろついていた。こうし て、おそらくは、回教紀元の紳士方や、トルコ帽をかぶった権力者たちを楽しませている のだろう。あるいは広場に巣くうたくさんの貸馬車とおなじようにコレッジョ・ロマーノ あたりで居眠りをむさぼっているのかもしれないが、それでも、いつでもとび出せる用 意かできていることはもちろんである。ちょうどこのころは、イラクの全権委員団とか、 ヴェネズエラの参謀本部の幹部たちとかいうふうに、きら星をならべた人たちの往来がは げしく、しゃがれ声をあげる汽船のタラッブから、ペヴェレッロ*1 の堤防へと群をなして 吐き出されていた。 そのさわぎは一年半にわたる見習僧の期間が終ったあと、僧服や朝着姿の『死人の 頭』*2 が、館ではじめて経験する轟音であり、戦慄であった。はやくもうんざりする眺め が展開し、まぬけな言葉の嘔吐が見られた。山高帽とキジバト色のゲートルの時代は今や 終ろうとしている、そうもいえようか。ヒキガエルのような短い短い腕、バナナのふさ や、手袋をはめた黒人よろしく両脇に垂れさがっている十本の大きな指とともに。この国 の明るい運命も、のちにはさんぜんと光り輝くのだが、いまはまだその姿を見せるまでに ニンフ いたっていない。棄てられたディドーネ*3 にまで堕した妖精のエジェリアともいうべきマ ルゲリータ*4 はまだここれから、Novecento (二十世紀) noeuf-cént*5 を、つまり当時のミ ラノっ子たちの悪夢を手がげたばかりであった。展覧会に、宣伝美術に、油絵に、水彩に、 スケッチにと、やさしいマルゲリータは出席できるかぎりのところに姿を見せていた。相 手の彼の方は山形帽*6 をかぶってみた。山形帽を五つ。それがまたびったりと合うのであ る。自分でも梅毒なせおいこんできたが、もともと遺伝性の梅毒患者であるその悪霊にと りつかれたような目、先端肥大症のくる病にかかっている文盲の人夫にもふさわしいその イラストラーダ 下あごなどが、もうイタリア 画 報 を埋めつくしていたし、イタリア中のマリア・バル *1 *2 *3 *4 *5 *6 ナポリの浅瀬地帯。小鳥用の水入れの意味もある。 蛾の一種。髑髏の模様がついていることからこの名がある。 カルタゴの女王。 一時、ムッソリーニ夫人であったマルゲリータ・サルファッティのこと。 モダンアートの一種 海軍将校がかぶる。 39 ビーザたちは聖油式で油な識ったとたんに、もう、彼に恋心をおぼえはじめていたし、ま た、イタリア中のマグダ、ミレーナ、フィロメーナといった女たちも祭壇から下りてきた とたん、すでに彼な陰門にはさみはじめていて、華やかさや、教育の棍棒を堂堂とふりま わすところを夢に描きなから、白いヴェールをかぶり、オレソジの白い花で頭をかざっ て、拝廊から出るところをカメラマンにとられていた。マイアーノやチェルノッビオの女 たちは、このイタリアの権力者を相手に性交時のような鳴咽にむせんでいた。イテカクワ ンの新聞記者は彼とインタビューするためキージ宮殿*7 に出かけ、彼がめったに口にしな い意見を、ほんのひと言も聞きもらすまいと貪欲に、大いそぎでメモ帳に書きとめていっ デ ズ デ・イ タ リ ア た。この下あごの張った彼の意見は海をわたり、朝の八時にはイタリア発の外電として伝 ブレンサ えられ、開拓者たち、ベルモット業者たちの新聞にのっていた。「艦隊がコルフ島*8 を占 領したそうな。あの方はイタリアの救い王だぞ」ところが、翌朝になると、それが否定さ デズデ・ラ・ミズマ・イタリア れた。同じ イ タ リ ア 発 なのに。旗をまいて引きあげたとか。そして、マグダレーナた バ リ マ オ ? ? ちがせっせと張リきり、祖国のためにファシスト少年団員を用意していた。警察の車はコ レッジョ・ロマーノに「駐車していた」。 三月十七日の十一時、イングラヴァッロ警部はダツエリョ街で片足をステップにかけ、 そのまま電車にのりこもうと、右手で真鍮の取っ手をつかんだところであった。そこヘ ポルケッティーニが想を切らせて追いかけてきた。「イングラヴァッロ警部、イングラ ヴァッロ警部」 「どうした。何ごとだね」 「イングラヴァッロ警部、実はですね。班長の警部どのの命令でまいりました」そして、 声をいっそう落した。「メルラーナ街で……たいへんなことになりましたね……今朝、早 くですか。電話がかかってきたのは十時半でした。警部が出られるとすぐにです。フー ミ警部かさがしておられました。一方、自分はすぐに、警官をふたりつれて、現場を見に 行けっていわれました。あちらに行けば、お会いできるものと、そう思いこんでました よ……そのあと、警部をさがしにお宅へ行ってこいっていわれたのです」 「わかった。で、どうしたのかね」 「あれっ、ご存じじゃなかったのですか」 「知ってるわけがないだろう。これから気ばらしに出かけようっていうんだからな……」 「のどを切りつけたのですが、いや、失礼しました……お身内だということは存してお ります」 「身内って、誰のだね……」と、イングラヴァッロ相手が誰にせよ、自分と血のつなが りがあるなどまっぴらだというように、眉をひそめていった。 「お友だちというつもりだったので……」 「友だちっていうと、何の友だちかね、誰の友たちだい」右手の五本の指をくっつけて チューリッブの形にすると、アプリア地方の人ぴとかよくやるように、指を使ってたずね イポアイポージ る 活 写 の方法で、その花をブラソコのようにゆすった。 「夫人だったのであります……パルドゥッチ夫人で……」 「バルドゥッチ夫人だって」イングラヴァッロは青ざめ、ポムペオの腕をにぎった。「お い、気は確かだろうな」というと、いっそう強くにぎりしめ、おかげでこの「つかまえ屋」 *7 1927 年ムッソリーニは外務大臣を兼ね、キージ宮殿を事務所としていた。 *8 イオニア諸島の島 40 第2章 は万力か何かの機械ですりつふされるような思いをしたほどである。 「実は、夫人を発見したのは、夫人のいとこにあたるヴァッラレーナ氏.…:というかヴァ ルダッセーナ氏です。すぐに署に電話をかけてきたんです。当人もいま、メルラーナ街に います。自分が指示しときました。何でも、警部を存じあげているとかいってるんで」と いって、肩をすくめ、「夫人に会いに来たとかいっていますが。ジェノヴァに行かなけれ ばならないので、そのあいさつだとか。こんな時間にあいさつかね、と自分が聞いてやっ たんです。すると、夫人が血の海に倒れているのを見つけたというんです。いや、ひどい もので、自分たちも見てきましたが、食堂の寄せ木細工の床の上です、スカートをですな、 そのう、何というかバンティが見えるぐらいにまくりあげ、不自然な姿勢でたおれてるん ですな。頭はがっくりと横に向けて……のどは鋸で引いたようで、片側はすっかり切れて いました。とにかく、その切れぐあいを見てもらわないことには」おがむように両手をあ わせ、右手を額のところへもって行った。「そして、あの顔、自分なんか、よくまあ気を 失わなかったもんです。警部もすぐにごらんになるわけですが。いや、その切り口ときた ら、肉屋でもちょっと真似できないなあ。まったく、おそろしいとしかいいようがありま せん。それに、あの目、食器だなをじっとにらんでましたっけ。顔は、ぴんと引きつって 洗濯したての布のように、まっ白でした……あれですか、夫人は結核だったんですか…… 死ぬときは大へん苦しんだようです……」 イングラヴァッロは青ざめ、奇妙なうめき声をあげ、ため息をつき、あるいは怪我をし た人特有の悲痛な言葉を口にした。まるで、自分が痛みをおぼえているようである。弾九 が体内に入っているいのししである。 「バルドゥッチ夫人、リリアナ……」 「つかまえ屋」の目をじっと見ながら、つぶやいた。 帽子をぬいだ。額の、黒いちぢれた頭髪が固まっているそのはじの方に、水滴がひと筋の びている。突然ふき出た汗である。恐怖と苦悩の冠のように。ふだんでもオリーヴを思わ す白いその顔に、不安の白い粉がふりかけられた。「じゃあ行こうか、さあ」ぐっしょり 汗をかいていた、疲れきっているようにみえた。 メルラーナ街に着くと、人だかりである。正面のドアの前には黒々と群衆がむらがり、 それを自転車の車輪がぐるりと取りかこんでいた。「道をあけてください。警察です」み んなあとずさりした。正面の、ドアはしめられた。警官がひとり見張りに立ち、交通巡査 ふたりと憲兵がひとり協力していた。女たちがあれこれ問いただしても警官たちの方は 「道を開けてください」というだけだった。女たちは知りたがっていた。そのうちの三、 四人は早くも、宝くじの番号を話しており、その声が聞こえた。十七番では一致していた が、十三番のことでもめていたのである。 ふたりはバルドゥッチの家へと上って行った。イングラヴァッロが目をつむっていても 分るぐらいなじみの、あの客あしらいの良い家へと上っていった。階段の上では影と影と がぼそほそ話しあい、入居者の婦人たちがささやきあっていた。赤ん坊が泣いていた。入 口の部屋は……押しだまって、指示を待っているふたりの警官のほかは、特に目立っもの はなかった (いつもどおりのワックスのにおい、それに、いつに変らぬ整頓ぶりである)。 椅子には若者がひとり、頭を両手でかかえて坐っていた。立ちあがった。ヴァルダレーナ 氏であった。そのあと、管理人夫人が廊下の暗がりから、陰気な顔で、丸々と肥った身体 を現わし、姿をみせた。別にこれといった話の出るわけもなかったが、いっしょに食堂に 入ったとたん、寄せ木細工の床の、テーブルと小さな食器棚の間に、それがころがってい た……その見るからにぞっとするようなものが。 41 あわれな夫人の身体はあおむけに、目もあてられない恰好で横たわり、灰色のウールの スカートと白いペチコートはずっとうしろの方、胸のあたりまでまくりあげられていた。 それはちょうど、誰かが服の内側の部分のうっとりするような純白ぶりを白日にさらし、 清純さのほどを吟味しようとしたのではないか、ともいえるぐらいであった。非常に上品 で、作りのていねいな、ジャージーの自いパンティをはいていて、その先は腿のなかほど で、デリケートな縁取り模様をみせていた。その縁取りと絹の落ちついた輝きをみせてい るストッキングにはさまれて、萎寅病の蒼白さに似た、肉の極端な白さがのぞいていた。 その少し開きかげんの二本の腿は薄紫といった感じの二個の靴下どめのせいで、特にきわ だって目につくが、早くもあのなまあたたかい感じを失って、冷たさに慣れてしまってい た。それは石棺の冷たさであり、静かな死の住まいの冷たさであった。ジャージーのひと 縫いひと縫いの精巧なできは、女中たちしか相手としないような人びとの目に、げんなり するような悦楽のさそいをかきたてたが、それは無駄というものであり、悦楽の情熱もお ののきも、その丘の甘いやわらかさや、神秘の肉欲の印しであるあのひと筋の線……ミケ ランジェロ(ドン・チッチョは聖ロレンツォの労作をいま思いうかべていた) も省略した 方が適当と考えたあの線を見たとたん、いっきょに蒸発してしまうかに思えた。こまかす ぎる。いいかげんにしておこう。 びんと張ったガーターは縁のところでいきなり波打ち、レタスのようなはっきりした波 形を描いてみせている。それは薄紫色の絹の靴下どめで、匂いを出しているように見える 色調であるし、また同時に、女性として階級としてのもろいやさしさ、衣服や態度の生気 のない優雅さ、さらには今や物体というか、みにくいマネキンの不動性に姿を変えた従順 さの秘密な趣きといったもの、そうしたものを意味しているような色調であった。ストッ キソグはぴんと張って新しい皮膚といってもよいぐらいに、ブロンド色の優雅さをみせて いるが、この優雅さは (作り出されたなまぬるさの上に) 新しい時代と悪罵の声をあげる 編み機との寓話が彼女にあたえたものである。このストッキソグが両足、とすばらしい両 膝の形を、その明るいヴェールで包んでいた。両足は身の毛のよだつ世界へ招き入れるよ うに、軽く開かれていた。ああ、その目、どこを、誰を見つめていたのか。その顔も…… ああ、かわいそうに、引っかかれていた。片目の下と鼻の上が……。ああ、その顔つき。 どんなにか疲れたことだろう。かわいそうなリリアナ、慈悲の心でつむがれた糸ともいう べき、その髪の毛の雲に包まれた彼女の頭は、どんなにか疲れたことだろう。青自く、と ぎすまされたその顔。死の兇暴な吸引力に衰弱し、やせ細っていた。 深く、おそろしい、まっかな切りロが、のどの中をのコ、かせ、残忍というほかない。 切りロは正面から右へと首の半分におよぶが、彼女から見れば左であり、彼女を見ている 人びとからすれば右である。傷口の両端は刃かきっさきでくりかえし刺したためだろう、 ぎざぎざになっていて、見るからにおそろしかった。傷口の内部は、早くも凝固した血の 黒い泡の間に、赤いくず糸のようなものが見えていたが、中央でまだ泡が吹いているとこ ろは、目もあてられない。それでも警官にとっては興味ぶかい形をしていた。初心者に は、それが赤やビンクのマカロニの穴とみえたのである。「気管」とイングラヴァッロが かがみこんでつぶやいた。「頸動脈だ、頸……ああ、神さま」 その血が首のあたり一側と、シャツの胸の部分、袖、手などをよごしていた。ファイ ティやチェンジォ*9 の黒みをおびた赤血のぞっとすろような濾過である。(ドン・チッチョ *9 第一次大戦中イタリア軍の血が流された。 42 第2章 は心に浮かんだ遠い悲哀とともに、あわれな母親を思い出していたのた) 床の上と、ブラ ウスのふたつの乳房の間で血が凝固し、スカートのへりや、上にまくりあげられたその ウールの裏側のひだ、それに片方の肩が血にそまっていたが、その身休は見るからに一瞬 のうちにしわだらけになったようで、凝固のぐあいも黒ブディング*10 のように、うんと ねばねばしたものになっているにちがいなかった。 鼻と顔、こうしてかえりみられることなく、横向きかげんで、もはや闘う力をなくした 人のような、死の意思に屈したようなその顔、それはどうやら、引っかかれ爪をたてられ たふしがあり、柑手の人非人はこんなふうに彼女を傷つけることに楽しみをおぽえていた らしい。人殺しめが。 その目は一カ所に注がれていたが、ぞっとするばかりである。では、一体、何を見つめ ていたのか。じっと、じっと見つめていたその方向は、何を見ていたかはわかるまいが、 大きな食器棚の上の上の方、でなければ天井だった。パンティに血がついていなかった が、そのパンティと先の方のブロンドに輝くストッキングとにはさまれて、ちょうど二個 の輪のような、二本の腿の一部がむき出しになっていた。性の溝……夏のオスティアか ヴィアレッジョのフォルテ・デ・マルモにいて、娘たちが砂浜で甲羅干しをし、見せたい ものなら何でも見せてくれる、そういった情景を思わせた。このびったり身につく今日ふ うのジャージーを着ているところが。 イングラヴァッロまでが脱帽すると幽霊のようにみえた。「動かさなかったですか」と たずねた。「ええ、警部さん」とみんなは答えた。「さわったかね」「いいえ」だが、何が しかの血が誰かれのかかと、靴底について、あたりの木の床一面にはこばれているとこ ろを見れぱ、その恐怖の沼地に足をふみこんだ人がいるのは容易に見てとれる。イング ラヴァッロは立腹した。「そろいもそろって、いなか者だな」とおどかした.「ズルグゴー ラ*11 の困ったた山羊飼いめが」 廊下へ出て、ひかえの間へと入って行った、そして台所用の椅子のひとつにかけて、意 気消沈ぎみのヴァルダレーナの方へ行ったが、そのそばにはポムペオがいた。母親からは なれない息子といった様子である。管理人の姿はもう見えなかったが、おそらく詰所に下 りて行ったのだろう。彼女を呼びにやった。 「さてと、どうしてあんたはここにいるのですかな」 「警部さん」とヴァルダレーナは訊問されるのは初めから分っているというように、相 手の目を見つめながら、まじめで、おだやかな、それでいて祈るような口調でいった。「わ たしはいとこにあいさつにまいりました、かわいそうなリリアナ……わたしが出発するま えにどうしても会いたいというものですから。あさってジェノヴァにむかって出発しま す。ジェノヴァに落ちつくつもりだということは、それとなくいったはずなのですが、例 の日曜日、あなたも食事にいらしていたときにですね。もう、部屋を出ることにしてある のです」 「ジェノヴァヘね」ドン・チッチョは考えこんた様子で叫ぶようにいった。「部屋という と、どういう……」 「いま入っている部屋のことです。ニコラーラ街二十一番地の」 「最初に来たのがこの人です」警官のサントマーノがいった。「とにかく、ここに入っ *10 *11 ブタの血と脂肪でできたソーセージ。 ローマ近郊の貧農の村 43 てきた最初の人物です」とポルケッティーニか確認した。「それから警察に電話がありま した……」 「誰が電話をしたのかな」 「それが……みんないっしょにです」とヴァルダレーナが答えた。「自分がどこにいるの かも分りませんでした。自分と、上の階に入っている人と、女の人たちぜんぶでした。管 理人はみえませんでした。詰所はしまったままでした」 「あなたですか……急を知らせたのは」 「自分が上っていきますと、ドアはわずかですが開いていました。で、入ってもいいで すか、いいですかとたずねてみました。返事はありません」 「管理人はどこでしたか。つまり、彼女にお会いにならなかったのですか。むこうはあ なたを見たですかな」 「いやいや。そんなことはないでしょう……」 ペッタッキオーニがもどってきて、そのとおりだと確認した。管理人は B 階段にいて、 毎日の仕事である掃除をしていたのだ。もちろん、上の階からはじめていた。そして、事 実、最初は踊り場で、B 階段六階のクッコ夫人と話をしていた。ペポーリのカスティリオ カ ロ ロ ン出身のボレンフィ未亡人、エリア・クッコという名で、愚にもつかないおしゃべりを舌 にのせていた。それからほうきとバケツをもって上にあがって行った。「ほんの一刻だけ」 最上階にいる将軍、騎士爵の大官バルベッツィのところへ入って行ったが、これは片づけ ものをするためであった。バケツに外へおいておき、ほうきをもって入っていった。 ボッタファーヴィのところへ上って行った少女はフェリチェッティの娘で毎朝、ボッタ ファーヴィのところへ「おはようございます」といいに行き、キャラメルをもらうので あったが、マヌエーラ夫人は娘を控えの間に呼ぴ入れて真偽のほどを問いただした。する と娘は間ぬけ者にふさわしい声で、本当です、ふたりの女が階段を下りてくるのにしか会 いませんでしたとうけあった。どちらも買物に行くように、めいめい買物かごをさげてい た。「どうやら、いなか女のようねえ」とベヅタッキオーニ夫人が知識をひけらかせて、つ けくわえた。 「どういう女たちかね」イングラヴァッロはぼんやりとたずねた。「手を見せていただき ましょう」とヴァルダレーナ氏にいった。「明るいところへ来てください」青年の手は清 潔そのものに見えた。白く健康であたたかみがあり、うっすらと血管がすいてみえる。青 春のあたたかさが走っている。認印のついている指輸は黄色の金製で豪華な碧玉をはめこ み、碧玉のなかに頭文宇がきざまれている。指輪はこれみよがしに右の薬指に突き立って いて、いまにも捺印というか秘密の供述でもやりそうである。ところがシャツの右のカフ スが……血に染まっているではないか。隅のところが。カフスボタンの金のところから外 側にかけて。 「この血は」とイングラヴアッロは恐怖に口をゆがめながらたずねたが、それでも、指 先でつかんでいる相手の手は放さなかった。ジュリアーノ・ヴァルダレーナは青くなっ た。「警部さん、信じてください、何もかもお話ししますから。わたしはリリアナがかわ いそうで顔にさわりました。彼女の上にかがみこんで、それから片膝をつきました。撫で てやろうと思って、冷たくなっていました……。そうです。別れをいいたかったのです。 がまんがなりませんでした。あのスカートをおろしてやりたかったのです。かわいそうな いとこ、何という恰好をさせられて、でも、もうそれだけの勇気がありませんでした…… 二度とさわるだけの勇気が。冷たかったのです。だめでした。だめでした……で、それ 44 第2章 から……」 「それから、どうしたのです」 「それから考えてみてですね。自分には何ひとつ触れる権利がないのだと悟りました。 外へとび出して、呼びました、向かいのお宅のベルを鳴らしたのです。どなたですか、ど なたですかといわれました。女の人の声です。しかし、なかなかあけてくれません」 「当然でしょうね。それで、どうしましたか」 「それで……もう一度、叫び声をあげました。ほかの方々が下りてこられたり……上っ てこられたりしました。大勢がみえましたが、わたしの知ったことではありません。その 方々も自分たちの目で見ようとされました。悲鳴があがりました。警察に電話をしまし た。ほかにどうすればよかったでしょう」 ドン・チッチョはじっと相手に目をすえて手を放してやった。その顔はしばらく恐怖に ゆがんだままで、鼻を片側だけ見ると、わずかながら縮んだ感じである。なおも、しつこ く相手の顔を見つめながら、一瞬考えてみた。「そんなに落着いていられるのは、どうい うわけかな」 「落着いてるですって。わたしは泣けないたちなのです。もう何年も、泣いたことがあ りません。母が何したときもです。母は再婚してトリノヘ行ってしまいました。カフスの 端が首の傷口にかすったようですね、しかたありません、そうでしょう……あのとおり血 たらけですから。あさっては出発しなければなりません。もう命令をうけているのです。 家族はおいて行くつもりです。血縁の連中をです。別れをいおうと思って来ました。あい さつをしにです。かわいそうな、かわいそうなリリアナ。かわいそうな……絶望しながら 気高いところのある人でした」ほかの人はだまっていた。ドン・チッチョはきびしく探り をいれた。「撫でてやりたかったのです。イエスさま。でも、キスをする気力もありませ んでした、冷たかったので、それから離れて行きました、走って行ったといってもいいで しょう。死がこわかったのです。本当です。人を呼ぴました。ドアは開いたままでした。 幽霊がそこを通って消えてしまったようです。リリアナ、かわいいリリアナ」 イングラヴァッロはかがみこんで、相手のズボンの脛のなかほどと、膝のあたりを見 た。左にほんのわずかだが、ほこりがついていた。 「どこにひざまずいたのです。どちらの膝てすか」 「ええと、食器戸棚のところです。小さい方の。それからと。考えさせてください、そ うだ、左の膝です。あの血の海に入らないようにしてですね」 ドン・チッチョは犬のように相手を見つめた。 「よろしいですか、ありのままにお話しいただかなくてはなりません。ありもしないこ とを作り話するのはですな……時が時だけに……場所が場所だけに、あなたもよくおわか りとは思いますが、不利になるばかりです」 「警部さん、何をおっしゃりたいのですか。すべてあるがままにお話ししております。 その点を納得していただいて……」 「納得せよとおっしゃるが、どういうことをですかな。おっしゃってごらんなさい。話 していただこう。うかがいますとも。何しろ、われわれの取り調べに道をつけていただか なけりゃなりませんからな、あなたには。それがあなたのためにもなることだし」 ちょうどそのとき、被後見人のジーナがサクロ・コーレ学院からもどってきたとイング ラヴァッロのところへ報告がきた。木曜日は食事のため一時に帰宅するのである。主人の バルドゥッチ氏は翌日ミラノからもどってくるはずだった……ひょっとするとヴェロナか 45 ら。イングラヴァッロは泣いている少女にたずねてみたが、何ひとつ得るところはなかっ た。彼女はコーヒー牛乳をのんで、八時まえに「ママ」にいってまいりますをいい、いつ もどおり朝のキスをしてもらい、いつもどおり「予習はできているんでしょうね……」と 聞かれたそうである。娘ははいと返事をして出かけて行った。修道尼たちのところにはあ とで連れて行くとして、とりあえず入居者にあずけることにし、上の階のボッタファー ヴィにたのんだ。メネガッツィ夫人はすっかり混乱し、気が転倒していて、とうていこの 少女のカにはなれなかったのである。夫人の黄色いロひげはそりかえって鼻にとどいてい た。髪に櫛を人れている暇もなかったため、トウモロコシの毛をリボンでゆわえたかつら が頭にのっているという感じである。この建物は内部にたたりが宿っているといってい た。充血し、くぼみ、おしつぶされたような目で、処女マリアさまと祈りつづけていた。 「十七というのは最悪の数字です」といい、それをくりかえしていた。一方、階段でふた りの女に会ったというあの少女は、別に役に立つような情報はもたらしてくれなかった。 このかわいそうなサナギはばっちり見開いた大きな目で「ええ」とか「いいえ」とかいっ ていたが、その唇はイノグラヴァッロの黒い大きな頭を見てぎくりとし、茫然としてい た。少女にいわせれぱ、イングラヴァッロは、どうしても泣きやまない子を連れて行って しまう人さらいにちがいないという。結局、問題のふたりの女は弁護土のカンマロータ氏 (五階)、ということはその夫人のところへ、新しいチーズをふたつとどけに上って行った。 つまり、一週闘おきにチーズをくばる配達人だということが明らかになった。 こんどは、バルドゥッチのところではたらいているクリストーフォロに捜査の目が向け られた。落雷に押しつぶされたという様子であった。後はリリアナ夫人か親切心から無理 にすすめてくれたワイン入りのコーヒーをのんだあと七時半に外出した。彼はミルクがの めなかった。胃によくないのである。そう、八時にサクロ・コーレ学院に出かけたジーナ よりも少し早かった。じっとその光景をながめているのはいやだった。「とても見てはい られません」十字を切る仕草をした。何か打ちしおれた感じのする、大きな顔の皮膚の上 を涙がこばれ落ちた。リリアナ夫人にたのまれて、いくつかお使いを引きうけていたの に、かわいそうな夫人。あるところの勘定をはらい、ほうきをほうき屋で貰い、お・米と 寄木細工の床に塗るワックスをもとめ、包みを仕立屋にもって行くことになっていた。だ が、そのまえに事務所に行かなければならなかった。事務所を開けて、テーブルのほこり をはたくのだ。イングラヴァッロ警部は彼をかえさなかった。そして、「つかまえ屋」に つっこんだ話をするようにさせ、一方で、ジュリアーノ・ヴァルダレーナには警察の指示 どおりにするよういいつけた。 捜査は昼さがりに現場で続行された。正面のドアをしめ、出入口をしめ、警宮たちが増 派されていた。科学警察のヴァリアーニ巡査部長が立ちあい、指紋班も装備をととのえて 参加していた。入居者たちはもちろん、管理人までが、「捜査に行動の自由をより多くあ たえるため」階段をうろうろしないよう、と同時にできるだけ警察の「手のとどくところ」 にいるよう要請されていた。予審判事がくわわったのは五時半をまわっていた。検察当局 が種々の手つづきをへ、フーミ警部や署長の申請をうけて、犯罪事実の確認に踏みきった のは四時少し前であった。善人のクリストーフォロ、色どりのゆたかなメネガッツィ夫 人、少女のジーナ、砲兵のボッタファーヴィ、美男子のヴァルダレーナ氏などが交互に、 あるいは同時に事情を聴取された。しかし、この事件をスクープし、それを歌い文句にウ ムベルト通りで立ち売りをしているある新聞は、その夜の最終版で「謎めいた色を濃くし てヴェールが事件を覆っている」と書いていた。新聞記者たちはあれこれ立ちまわっては 46 第2章 みたものり、結局、バルドゥッチ家のドアから中へは入れなかった。だが、この建物の小 さな出入口で B 階段のエロディア夫人をまるめこんだ。彼女はこの騒ぎとは裏腹に木曜 や日曜と同じように陽気になっていた。そして警官たちにながし目をくれると、警官たち の方も彼女の顔に笑いかけるのであった。 この建物の入居者の誰ひとりとして、一体この兇行の犯人、あるいは共犯か何者なのか、 その手がかりとなるようなものを提供できないことが明らかになった。マッダレーナ・ フェリチェッティという、あの少女をのぞいては誰も階段で人影を見たものはなかった。 ヴァルダレーナについても同じで、彼を見かけた人はひとりもいなかった。この男が経済 学の学士号をもっていることはイングラヴァッロもよく知っていたが、彼はスタンダー ド・オイルに勤めていた。しばらくヴァード・リグーレに動務したあと、ローマに来たの だ。これからジェノヴァに移って、その上、結婚しようと準備をしていた。ジェノヴァの 美しいブルーネットの女の子と婚約していて、その写真をみせびらかした。ランティー ニ・レナータとかいった。良家の娘であることはもちろんだ。その良家の人たちにいわせ ると、彼はぞっこんほれこんでいる」という、このヴァルダレーナ氏が、ジュリアーノ君 が。バルドゥッチはカンティノーネで会ったとき、イングラヴァッロにその話をし、生活 の資にこと欠いて困っているほか、色恋に熱中する時期にも来ているのでしょうと冗談ま じりにほのめかしたが、その生活の糧といったものは金部とはいわないまでも手もとから 放さないようにしておくべきなのだ。ところが、入る先からアポロの指からとび立つ蝶の ように、ひらひらと定期的にお金がとんでなくなるのであった。アポロといっても、あの 庭園にある大理石像のことである。バルドゥッチ氏ば彼のことを「好青年」と定義づけて いた (これにっいては言及するまでもなかった)、「経済学で学位な得て」それも満点をと り、優等の成績まであげていながら、ひとさまに……経済をどうあつかうか教えたがる人 にありがちなことだが、いつも無一文の状態であった。っまり、ジェノヴァの義父にな る人はさておき、ローマのいとこがねがう以上に……お金にはめぐまれない力であった。 「ため、だめですな。借金で家を支えるなんて、それこそだめです。が、とにかくあの若さ でしょう。周囲は誘惑たらけです。いいですか、ああいう子は……お金に困るのでなけれ ば、ほかに非常に困ることなどありませんからな」イングラヴァッロはその晩、アルバー ノのカンティノーネで暗い表情をしていた。バルドゥッチ氏の頬を赤らめた寛大さや男性 特有の連帯感といったもの、さらには歯に爪揚枝をくわえたご亭主ぶりを見るにつけ、こ れは少々ききすぎたのではないか……おそらくガッビオーニ・エムベドルチェ親子商会の 酒がきいたのではないかと思えた。食事を終えた商用旅行者、新しい靴をはいた猟師にふ さわしいその血色のよい浅薄さは、結局、彼を怒らせることになってしまった、彼、つま り貧しい、つらい歳月をへて、あのやせこけたマテーゼの山から身を起し、訴訟手つづき と法の用箋にたどりつき、法にしたがって事件や魂を調べるみじめで強情な係官にのしあ がった彼を怒らせたのである。バルドゥッチ氏をちらりと見た。「あんたの頭には生えて くるぞ」と考えた。「環の形なした珊瑚島が頭に出てくるぞ」だが、実さいには「女なん てわからんもんです」とつぶやいただけである。アストラカンの羊なみの頭髪の下から、 かつてないきびしい表情を見せて。そのジュリアーノがいまりっぱな客間にいる。ふたり の警官に相手をさせて。 美男子のジュリアーノ君がそこにいた。女のことになると、どちらかといえば幸運な方 である。どちらかといえば。そう。女たちは群をなし、ぶつかりあうようにして飛びまわ り、彼を追いかけて来た。それから、たくさんの蜂が蜜にむらかるように、急降下をして 47 いっせいに彼の背中めがけてとび下りた。彼はというとすることにそつがなかった。たく みな手をこころえているし、相手を催眠に引きこむ回転鏡をもっているのと同じで、彼な りの非常に白然な、非常に奇妙なやりかたを身につけていたため……たちまちのうちに人 を魅するのであった。彼はその女たちを無視しているような、あるいはどうやらうんざり しているようなふりをしていた、それほど女の数が多いし、それほど近づきやすいのた。 ほかにもっといいものをもっている、そんな様子であった。無遠慮な若者のふりをした り、時には「君にはうんざりさせられるよ」という態度をみせたり、尊大ぶったりする。 また、バンキ・ヴェッキ街といったあたりに住む良家の坊やや、おしゃべりなどしている 暇のない実業家といったふりもする。そういうことだ。そうなのである。そのときの回り あわせであった。着ている服に調子をあわせていた。そのときの気分しだいである。金の 吸口のついたたばこをもっているか、何ももっていないか、あるいは、たったいま売った ばかりでそれが嫌な臭いにおいのするナッイオナーレがどうか、そういう事情で決まって くる。甘ったれ坊主よろしくきめこんでいた。時には風見のように気が変りやすい。つま り、そういうときには彼女たちを無視する、もちろん尻軽女どもをである、女たちが気が くるったようになるのは、まさにそういうときである。長い間自分が不本意な思いをした あととか、相手である犠牲者が無限にあえぎ、卒倒したあとになって、彼はやっと折れて 出るのであった。その結果ははげしい自暴自棄をもたらすか、あるいはイエスかノーか、 対照的なものの間を行き来する偽の徴候 (実さいには暗示) の配分を通じて強情な高慢さ を弱めることとなった。愛してくれる、愛してくれない。あなたがほしい、ほしくない。 でも結局はそのように運命づけられている、ごくまれな、そして神秘的な熟考のはてに 選ばれた女たち、ジャンセニオのサルーテ・エテルナ*12 のような女たちに譲歩するので あった。時として、その反対に、思いがけない暴力沙汰で処することもあり、それらしい ものをすべて混同してしまうのであった。各人が星うらないを別々の方角に向けた、ちょ うどその場所である。バーン。あらゆる鳥小屋のなかで最も頑丈な小屋の上に、トビと同 しやり方でまっさかさまに落ちた。その目もくらむような騒ぎで相手の女を罰してやろう (あるいはねぎらってやろう) というようでもあるし、彼女という存在にかくれている虚弱 さから、あるいは不名誉から……かけてもらうということにつきものの不名誉から彼女を 救ってやろうというのであろう。この場合、目をかけられた女の感謝は星にもとどくので はないか。その恐怖も、また、あわよくばもう一度という希望も。 充分考えられることだが、イングラヴァッロは予審判事がつかないうちに、いちおうの 事実聞係から判断してヴァルダレーナの留置を決めていた。だが実さいにはもっとあとに なって、つまり翌朝になって、検察当局は留置を一時的逮捕に切りかえた。そして逮捕状 を手配したが、これで逮捕が突現すると同時に、令状の当人はレジーナ・コエリ刑務所に 送られることになる。その晩おそくまで、刑事局の資任者格の職員とふたりの専門家は規 則の照合と被害者の写真撮影をつづけ、いっかな止めようとはしなかった。必要なものは すべてはこびこんであった。パルドゥッチ氏にはぜひとも帰ってもらわなけれぱならない が、だからといって電報を打ってもしかたがなかった。同氏のあとを追うとなったらミラ ノ、パドヴァ、ひょっとしてボローニャなどの各警察に電報を打たなけれぼならなかっ た。何しろ同氏はパドヴァにまで行く用があったからだ。クリストーフォロ、こんどの災 難でめそめそした気持ちがいっこうに晴れないメネガッツィ夫人、ボッタファーヴィ氏、 *12 永遠の健康 48 第2章 ペッタッキオーニ夫人と乳業会社に行っているそのご主人などが、いっしょに駅へむかえ に行ってはと申し出た。バルドゥッチ氏にショックをあたえないようにし、何らかの形で 気持ちの準備をさせる必要があるからだ。親類にはどうしよう。正午に電話が一本…… 親類には晩がた、おそくなってから公式に「通告」されたが、イングラヴァッロは朝か ら、その人たちが入ってくるのを禁じてあった。現場の責任者であるドン・チッチョと ヴァリアーニ巡査部長による再度の捜査も、現場検証にかんする細部にわたる論争もさ よう、実は大した成果をあげなかった。とはいえ、もちろん、窃盗の痕跡は何がしかあっ た。兇器はまったく見つからなかった。たが、あれこれと引き出しをのぞいているうち に、何か見のがしにできない点があるぞと感じられた。外から眺める分には、おつにすま しているようだが、よくよく見ればそれほど無垢とは思えない。兇器はない。また、床に 落ちている赤いしたたりと、あの……靴のかかとの跡がついている血の海をのぞけば、何 ひとつ手がかりがない。台所の流し台のそばの、タイル張りの床は水にぬれていた。「と てもよく切れて」いまここにないナイフ、それこそあのために使われたのではないかと、 最も疑いをかけ得るものであった。あのしたたりは人殺しの手からというよりも、ナイフ から落ちたもののように思われる。いまでは黒くなっていた。ナイフの刃の思いがけない 光沢、とがったきっさき、見るからに鋭利な感じ。彼女のおどろきよう。敵はきっと、い きなり襲いかかってきたのだ。そのあと、残忍な自信をもってのどへ、気管へとせまって きたのだろう。「格闘」がかりに本当にあったとしても、そればせいぜい犠牲者の側から するみじめなあがきであり、恐怖にみちた、そしてたちまち祈るような色合いになったま なざしであり、動作といっても、それは真似ごとにすぎなかったであろう。白い手をほん の少しさしあげて、恐怖をさけようとしたり、人殺しの毛むくじぐらの手首、執念ぶかい 黒い手をつかもうとした。一方、男の左手はすでに彼女の顔をつかみ、頭をうしろへのけ ぞらせ、ナイフの刃の輝きを前にして、のどを完全にむき出しに、無防備にし、自由に料 埋できるようにしていた。ナイフは右手ですでに引き出してあり、これから彼女を傷つけ よう、殺そうとしていた。 ろうのような蒼白の手は力がぬけて、下へ落ちて行った……そのときにはもうリリアナ の首にはナイフがささり、気管を引き裂き、ずたずたにしていた。血は勢いを得て肺へ向 かってどくどく流れ落ちていた。息はその責苦のなかで咳となってゴボゴボと外へ流れ出 し、赤いシャボンの泡のようになった。頸動脈と頸静脈は半メートルはなれたところで、 井戸のふたつのポンプのように、ぶくぶく音を立てていた。最後の息は横道にそれて泡と なり、彼女の生命のぞっとするような紫色のなかに入っていた。そして口のなかに血を感 じ、傷の上にもはや人間のものとはいえないあの目があるのを見ていた。まだまだ、やる ことがあるぞといいたげである、もう一撃だと、骨のずいから野獣であることを示す目で あらた。これまで思いもよらなかった残忍な事態……それが突如として彼女のまえに現わ れたのだ……それほどの年にもなっていないというのに。だが、もう発作が彼女の感覚を うばい、記憶力と生命力をなきものとしていた。甘ったるく、なまぬるい夜の気配。 あのやさしそうな爪の生えた真白な手が、いま赤みがかった青になり、どこにも傷はみ えなかった。切りかかってくる相手を押さえることはおろか、残酷な男の決意をはばむこ ともできなかったし、また、あえてそうするだけの気持ちもなかった。そして、残酷な男 のいいなりになったのである。顔面と鼻は憔悴と死の蒼白のなかであちこちと引っかかれ たようで、それを見ると、憎しみは死など物ともせぬほどに強かったらしい。指には指輪 がついていなかった、結婚指輸も消えていた。指輪がなくなっているのを祖国のせいに 49 する*13 など、そのときは誰もまだ思いつかなかった。ナイフは自分の任務を果していた。 リリアナ。ああ、リリアナ。ドン・チッチョには世界中の形あるすぺてのものが恩恵のす べてが、真暗になったように思えた。 刑事局の責任者はカミソリは度外視した。カミソリはもっとすっばり切れるかわりに、 ずっと浅いところしか切れない、そう考えたうえで、大体、傷がもっとたくさんになるは ずだといった。事実、カミソリではきっさきを使うことができないし、こんなふうに乱 暴なやり方もできない。乱暴だろうか。そうだ、傷はものすごく深く、ぞっとするほどで ある。こともなく首を半分、切ってしまっている。食堂中をさがしても、だめだ、手がか りはまったくない――血のほかには。ほかの部屋もまわってみたが、何ひとつない。やは り、血をのぞけば何もないのだ。台所の流しのなかにある明白な血痕。カエルの血かと思 うほどに希薄である。それに床の上には、深紅の、あるいはすでに黒くなったしたたりが たくきん落ちているが、ちょうど血を床に落したときのように丸く、放射状になっていて、 ヒトデの断面図のようである。そのおそろしいしたたりははっきりとひとつの道順をしめ していた。迷信的な気分を起させるあの死体の邪魔物から、また、死んだ彼女――リリア ナの生あたたかい形跡から、台所の洗し、冷たさ、浴室にいたる道順である。それは一切 の記憶をわれわれに忘れさせるような、そういう冷たさである。食堂にはごらんのとおり たくさんの血のしたたりがあるが、そのうち五つかそこらは別の血、つまり、あのさわぎ、 あの汚れ、あの大きな血の池のものであり、それないまいましい山羊飼いどもが靴につけ て、ここまで引きずってきたのである。廊下にもたくさんあり、それからやや小さめなの が台所にもたくさんあった。そして、あるものは六角形のタイルの上で見えないようにし ようと、靴底で消されたのか、こすりつけられていた。家具をあたってみたが、十一の引 き出し、くぐり戸、たんす、食器棚はあけることができなかった。客間のジュリアーノは ふたりの警官に見張られていた。クリストーフォロがパンをふたつとオレンジをふたつ 持ってきた。この大男たちがそろって、家中をうろついたり、足音を立てて歩きまわった りしつづけていた。おかげで、神経がいらいらしてくる。ドン・チッチョは疲れきって、 入口の部屋に腰をおろし、判事の到着を待った。そのあと、現場にふたたびもどってみ た。いとま乞いでもする気持で不運な女性を見やると、彼女を見おろすようにしてカメラ マンたちが小声でいいあいをしていたが、それでも自分たちの身体はもちろん、ライト、 フィルター、コード、三脚、蛇腹の大型カメラといった道具一式は汚さないように注意を していた。連中はふたつの肘掛け椅子の背後に電気のさしこみをふたつ見つけてあり、し かもアバートのなかのこの家の三つあるヒューズのうちひとつを、もう二度もとばしてい た。マグネシウムをたくことに決めていたのだ。あのおそろしい疲労や、いまや世界の不 正の冷たい、あわれな遺物となったものを前において、それらから何とかのがれたいとい う希望でいっぱいの、ふたりの悪魔のように何とはなしに動きまわっていた。大バエのよ うなその動き、そのコート、絞りの調整、建物全休に火がついたりしないようにと小声で 意見の一致を見ている様子……これは彼女というか、すでに慎しみも記憶もなくなった女 の肉体の、不透明な感覚に対する永遠の最初のざわめきである。ふたりは当の「犠牲者」 の苦しみを考慮することなく、また彼女の不名誉を取りのぞくこともできないまま、作業 をつづけていた。リリアナの美しさ、衣類、熱気の消えた肉がそこにあった。甘い肉体、 それは視線をさけて、いまなお服につつまれたままである。その無理やりとらされたボー *13 後にムッソリーニは金の結婚指輪を提出するように呼びかけた。 50 第2章 ズの醜態のなかで――その目的は確かに、凌辱しようとスカートをまくりあげたことであ り、両脚はもちろんのこと、どんなひ弱な人間でもふるい立たせるような悦楽の隆起と溝 をあらわにすることであった。一方目はくぼんでいるが、虚空に向かってぞっとするほど に見ひらかれ、食器だなの上のむなしい目標に注がれていた――その醜態のなかで、死は 彼、ドン・チッチョにとっては可能性の極端な分解とみえ、すでにひとりの人物のなかで 調和されている相互依存の思想の解体とみえたのである。諸種の関係や、現実の組織との 関係一切が突如として瓦解した結果、もはや一個の単位として存在することも、行動する こともできなくなった、そういう単位の分解に似ている。 彼女の顔の甘い青白さは、夕べのオパール色の夢のなかのように白いが、それが葬式の 調べのせいでチアノーゼふうの調子に、ぐったりと赤みがかった青にあせてしまった。い かにも、にくしみと侮辱はこの人柄とこの魂という可れんな花にとって耐え難いほどつら いとでもいうようである。悪寒が背筋を走りぬけた。思いかえそうとしてみた。汗をかい ていた。 機械的にポケットから切符を引き出した。上衣の右のポケットからで、切符は今朝そこ にしまいこみ、この日一日、あれこれと辛いことがあったあとも、あいかわらずそこに あった。半分吸った紙巻たぱこや、パン屑などといっしょであった。丸めてあったのを平 らにのばした切符は緑がかった空色でカステッリ鉄道のもの、十三日という日付けにハサ ミの孔がついていて、トッラッチョという駅名にももうひとつ孔か、あるいは破いた跡が ついていた。それをひっくりかえし、もう一度、ひっくりかえしてみた。入口の部屋へ通 り、寝室に入って行った。疲れ切って、腰かけにがっくりと腰をおろした。 考えこみ、つながりのつけようのない証拠をまとめてみようとやってみたし、また、各 瞬間、つまり事件の発生過程や、きれぎれで死んでしまった時間のうんざりするような各 瞬間をつきあわせようとやってみた。何よりもまず、ふたつの「ふらちな行為」はつなが りがつけ得るか、否かということである。メネガッツィ夫人というあわれな緑色のオウム というか、あの……ホウレンソウの汁にひたしたようなあの婦人を被害者とする例の信じ られない盗難事件、そしていまここにある、この戦慄。同じ建物で同じ階。にもかかわら ず……こんなことがあり得るたろうか。三日の間をおいただけで。 推理した結果……このふたつの事件には何ら共通点がないと彼は思った。最初のは、 「そう、大たん不敵な」強盗事件で、二一九番地 A 階段の利用具合や習慣について、実地 にはともかく、かなり詳しい知識をもったならず者の仕業ではないだろうか。「A 階段、 A 会談」と、ちぢれた黒い頭を何とはなしにゆらしながら、ひとりでぶつぶついっていた が、その目は床の一点をにらみ、手を組みあわせ、両肘は膝にのせていた。「まったく押 しこみ強盗とはよくいったものだ」 あの正体不明の食料品店の小僧を情報係りにして、いや、ひょっとすると見張りにした のだろうか。見張りの方かもしれない、というのも、あの間抜けなメネガッツィ夫人は小 僧のことなど、まるで知らないのだ。要するに共犯だなどとはこれっぽっちも考えていな い。それからフランス松露を自宅にとどけさせていたあの経済省の勲三等氏という耳ざわ りな紙のラッバがある。「やれやれ、勲三等のアンジェローニ氏か」彼は大げさな感じでた め息をついた。「朝鮮アザミに目がないんだな。これは調べてみる必要がある。パネスペ ルナ街で買う山のハムにも目がなかった。セルペンティ街と交叉するあの町角だったな」 それから、バルドゥッチ家のベルの音はどうだろう。まちがいだな、きっと。それと も、どちらかひとつをやるつもりだったのか。あるいは用心してのことか。その結果、静 51 寂がはねかえってきたのか。それはともかく、はっきりしているのは、泥棒だったという ことだ。武器を手にした強盗、住居不法侵人か…… そして、ここにもうひとつ、ああマリアさま、まったく十字でも切りたい思いだった。 こんな事件が今までにあったろうか。それに、窃盗の動機であるが、これまた、せめてバ ルドゥッチ氏の帰宅までは、無視するわけにいかない。それから、それから、何があるだ ろう、引き出しが教えてくれたではないか。そうだ、しかし結局のところ……それとこれ では問題がちがう。犯罪の手口、ごろりと横になってあわれな姿をさらしている死体、あ の目、ぞっとするような傷、動機はおそらく、とても計り知れないものではないか。あの スカート……あんなふうに……一陣の風で、まくりあげられたように見える。それも地獄 から力いっばい吹きつけられた熱い、すさまじい熱風によってか。それは激怒がまねき、 この種の軽蔑がまねいた熱風てあり、その吹きぬける口は地獄の門だけのはずであった。 この虐殺には「痴情による犯行のあらゆる様相かそなわっていた」陵辱か。欲望か。復 讐か。 推理の結果はふたつの事件は別個に検討した方がいい、根本から「探りを入れる」がそ れも両者別々の方がいいと教えてくれた。宝くじのふたつの数字の組みあわせはナポリや バーりの分はもちろん、ローマのそれでも、稀にしか出ないというものではなく、ここメ ルラーナ街でも、黄金のつまった二一九播地のみみっちい共同住宅でも、彼の前にちゃ んとした数字の組み合わせが出ないことはないのである。それが、このあまりおめでた いとはいえない犯罪の組み合わせとなって出た。ポン、ポンとふたつ。汎論、つまりあの サ メ 金持ちと呼ばれる魚の高い名声と彼らがもっている悪魔の黄金という外面的な動機のほ かには、何らつながりがないのである。いまや、そののあまねく名声はサン・ジョヴァン ニ一帯にひろがり、ボルタ・マッジョーレからチェリオや、古代の魔窟スプッラにまでい たっていたが、このあたりでは夏場になるとぶどう酒がひんやりとしている。そこで切符 をながめてみた。裏がえし、もう一度、裏がえしてみた。そして、右手の手のひらをこち らへ向けると、その親指の爪で (口を球根の形にひろげながら) 鼻をほんの軽くかいてみ た。彼の場合、これは習慣的な仕草で、ほかに例を見ないような上品さであった。 53 第3章 翌朝、各紙がこの事件を報道した。金曜日であった。夜っぴて新聞記者と電話になやま されたが、それはメルラーナ街でもサンテ・ステーフェネでも同しことである。そのた め、朝が来たときには、廃虚よろしくというありさまであった。「さあさあメルラーナ街 でたいへんな事件だよ」と売り子たちは十一時四十五分まで、新聞の束を膝の間にはさん でわめきたてていた。では、ニュースそのものの中身はどうかというと、二欄にまたがる 太い活字の見出しのわりには、記事はひかえめで、かなり冷静だった。片方の欄は無味乾 燥、そのままとなりの欄に十行ほどつづいて「捜査は積極的に続行されている」とあリ、 それにおまけの言葉が数言つけくわえてある。これが新イタリア式有料マークなのだ。良 き時代は遠い昔になっていた……ヴィットリオ広場で女中のマンドリン*1 を一度つまんだ というだけで、半ぺージ大に引きのばした薄い久ーブのような記事ののったこともある。 ロ ー マ 永遠の都と全イタリアをひとつにしたお説教主義、市民としていっそう厳格であれという 概念、そうしたものが当時は大手をふっていた。歩調をとって行進していたといってもよ い。古代アウソニア以来連綿たるこの大地から犯罪や低級な物語が永遠に消えたところ は、こっそりと消えてなくなるあの悪夢を思わせる。窃盗、刃傷沙汰、女郎買い、女衒、 ア ヌ・ア バ マ ー タ?? 強盗、コカイン、硫酸塩、ネズミ捕りにつかう砒素の毒薬、武器をもった堕胎、ポンびき とペテン師の自慢、ベルモットの代金を女に払わせる若者たち、諸君にはどうみえよう と、アウソニアの聖なる大地はこんな言葉を並べたてられても、それが一体、何であるの か、思い出そうにも思いだせないぐらいになっていた。 当時のくだらないこと、「きまり文句」、そしてコンドーム、フリーメーソンの鍋といっ たものともども無に帰してしまった一時代の遺物なのである。ナイフ、それも当時の下層 民たちや、しろうとっぽいギャングたち――あるいは罪人かもしれないし、裏切り者かも しれないが――そういう連中のもっていた古いナイフ、曲りくねった横町や小便くさい路 地裏で使われるこの武器は本当に表舞台から消え失せて、二度と帰ってこないかに思え た。ただし、葬式の主人公たちの腹部にのせられる場台は別で、そういうときはニッケル メッキ、銀メッキの生殖器よろしく、栄光のうちに狩り立てられ、展、那ふ.G れるので マッシェローネ あった。いまでは大顎野郎の新しい精力、山高帽の髑髏、ぞれからトルコ帽をかぶり羽根 をかざったエミーロ、男爵夫人マラチァンカ・ファズッリの新しい純潔、ファッショふう の新しいむちのおきてなどが大手をふっていた。いまやローマに泥棒がいるなどと考えら れようか。狂信的な顔立ちの七面鳥がキージ宮殿におさまりかえっているではないか。テ ヴェレ河畔でからみあっている者同士をそっくり強制的に投獄しようとフェデルツォーニ ががんばっている。いや、それだけではない、映画館でもキスにふけっているのを現行犯 *1 お尻のこと 54 第3章 で投獄してしまう。そして、ルンガーラのさかりのついた犬までそっくり放りこんでしま うともいっているぐらいだ。この背景にはミラノの法王がいて、二年まえに聖なる年が カ ヴ ェ ー ジ・ノ ヴ ェ マ ッ リ あったばかウだという事情もちる。そのうえ、新婚の花嫁花婿がいるではないか。ローマ ボッリ・ノヴェーリ 中をまわろうという 若 鶏 もいることである。 黒衣の女たちが、儀式用の黒いヴェールをボルゴ・ピオ、ルスティクッチ広場、ボルゴ・ ヴェッキオで借りてきて、長い列を作り、柱廊の下にあつまり、ポルタ・アンジェリカで 卒倒し、そのあと、ラッティ法王から使徒の祝福をうけに行くべく、聖アソナの鉄格子を 通って行った。この法正はサロンノ出身で、家柄の良いミラノっ子であり、大たんにも建 物の数をつぎつぎとふやしていった。待つほどに、やがて彼女たちもまた一列に並ばさ れ、四十段の階段を上って、玉座の間へ、登山家である大法王のもとへと導かれる。これ ロ ー マ はつまり、永遠の都がいまや、まったく疑いをはさむ余地なく、七つの徳の七つの燭台の 都市そのものとなったことを意味するもので、何千年にもわたってローマの詩人のすべて が、そして審問官、道徳家、ユートピア主義者のすべてが、また吊るされたコーラ (肥っ ちょではあったが) がのぞんできたものてある*2 ローマの街頭には、たとえ免許をもった ものにせよ、売春婦がうろつくとこるは見られなくなっていた。聖なる年と、徴妙なとこ ろまで考えおよんだフェデルツォーニが彼女たちをそっくり収監してしまっていた。侯爵 夫人ラップチェッリはカプリ、コルティナをまわって、日本へ旅立って行った。 * * * 「フランス人の羽根なんかつかって……」とドン・チッチョは歯ぎしりをしながらつぶ やいた。ブルドッグのような歯で、にんにくを常用しているため真白になっていた。彼の 手のうちの剛の者たちが次から次へとくわえさられて行くのがみえたが、これは捜査班を ふくらますため送られて行くのだ、政治犯関係の捜査班を。その一方、彼はというと書類 の山をほじくりかえしていた。 さて、そろそろ、あの美男子で変った青年のことを考える時期だ、それも少々、真剣に。 美男子で変った青年、そうだ、美男子だ、まさに美男子である。銭はなかりけりである。 彼はバルドゥッチの言葉を思い出しているようであった。ある晩、「アルパーノの酒蔵」 で、いかにも鷹揚な寛大さをみせながら、あの血色のよい顔で口にした言葉である。それ はある従姉妹のことであった。「女というのはですな、ご存じのとおり、恋をしていると きには……」といって、シガレット・ケースを放り出した。「ある種のつまらんことには 目もくれません。視野がひらけてくるのですな」イングラヴァッロに火をつけてやり自分 のにも火をつけた。「それはもう、惜しげもなくふるまうですな」その場では特に気にも とめなかった。食後の高尚な意見である。ところが、彼イングラヴァッロ、すなわちフラ ンチェスコ警部の場合は、実をいうと、惜しげもなくふるまってくれる女など、かつてな かったのである。おそらく、そう、そうだ、あのかわいそうな夫人をのぞいては。善良さ の点で、やさしさの点で、おとなしいなかにもはげましとなってくれるあの夫人は別で あった。彼女のためにと、一度 (顔が赤くなった) だが……ソネットを書いてみたことが ある。しかし、韻がそっくりうまくそろうところまでは行かなかった。とはいえ、詩句の *2 コーラは中性の革命かコーラ・ディ・リエンツォ、1312-54 のこと。 55 方はカムマルータ教授までが完ぺきなものと認めてくれた。「それはもう、惜しげもなく ふるまうですな」いま彼はあのやや漢然としたほのめかしを確認しなくてはいけないよう に思えた、おそらく、そうだ、女はそうなのだ。「ドン・チッチョよ、かりにわずかなり と別の相手にとっておいたうえで、その残りを借しげもなくふるまっているとしたらどう だろう」という考えがひらめくと、激怒が、復讐の恨みが先に立った。「ほかのものはと もかく、お金まで惜しみなく出してしまうのだろうか」いや、いや。この仮説はしりぞけ たい気持ちがした。ありすぎるぐらいの徴候からしても、そんなはずはない、まさかリリ アナ・バルドゥッチが……いや、いや。ちがう、あの従兄弟に恋をしていたわけがない。 恋をしていた? 何ていうことを、そんな。そう、あの時はたしかに、満足そうに彼を見 つめていた、にこやかに。だが……それはちょうど家族のなかの出世株に対するものでは ないか、兄弟に笑いかけるような。この男は、そうだ、いまになって分ってきたが、この 男はみんなのほまれになるような人物なのだ。ともに同じ祖父をいただく、というか、彼 にしてみれば同し曾祖父をいただいているのである。彼女、あのかわいそうな女は、実に 彼の父の従姉妹にあたっていた。彼女にはもう父も母もいなかった。わずかに夫だけがの こっている、何ともはや。そしてジュリアーノは……全く同じ切り株から、あっという間 に突き出てきて真直ぐ、真直ぐ伸びている芽である。おそらく……うん、そうだ、子供の ころは、いとこ同士としておたがいに行き来していたのだ。系図 (ドン・チッチョは書類 を調べてみた) はポムペオが手に入れてくれたのである。「彼女のおばさん、マリエッタお ばさんはチェーザレおじさんの妻君で、これがジュリアーノの祖母になる。ふたりはいっ しょに大きくなったともいえるな。つまり、彼女は彼ジュリアーノに向かって姉妹のよう に口をきいていたわけだ。姉さんのように」 「すると、彼女も少女時代にヴァルダレーナを名のっていますが、これはどういうわけ でしょう……」 「どういうわけかというんだな。だが、それはだね、彼女の父親と、ジュリアーノの祖 父にあたるチェーザレおじさんとが兄弟だという事実を考えてごらん、ちゃんと説明がつ くんじゃないかな」 「では、どういうわけでマリエッタおばさんが出てくるんですか。かりにふたりが親類の 関係にあるとしても、それは男の方、つまりふたりの父の関係でそうなるんでしょう……」 「そのとおりさ」 「そのとおりだなんて、頭が変になりますよ。マリエッタおばさんなんていうのを引っ ばり出しておいて、こんどはお払い箱ですか」 「しかし、母親の死んだあと彼女をそだてたのはあの人だからな」 イングラヴンッロは事実、バルドゥッチがそういうふうに話してくれたことを思い出し たのである。リリアナはまだほんの小さいころ、母親をなくしていた。二回目のお産のお り、急性の病気を併発したためである。そして、赤ん坊も同じ運命に会った。そして、そ して……それから、あの晩……それから、あの晩、相手を尊敬するあまり触れなば落ちん といった態度で、そしてまた、美しい女が美しい青年……それもライバルの女たちにつけ まわされているような青年を見るとき、決まって浮かぺる嫉妬の気持ちもあらわに、従兄 弟に話しかげたのであった。それで、すべてである。 「まったく、女どもっていうのは」 一時になっていた。記録や報告書の類いをかきあつめて、書類ばさみにつめこんだ。打 ちしおれて立ちあがると、出て行った。 56 第3章 「それでも」と考えこんだ。「あのヴァルダレーナ、従兄弟だが……あれが急を知らせた 本人じゃないか。これは証明になるんじゃないかな……れっきとした証明に……無実だと いう。少なくとも意識が平静だという証明にはなろう。意識か。だが、シャツのカフスは どうだ。だめだ、なかなかはっきりと見えてこない」あの愛撫をしたという話だが、彼に は作りものとみえた。死んだ女を愛撫する、か。それとも……時間の、それも青春という 時間のゆっくりしたしたたりのなかには、はっきりしない瞬間があるものだ。悪は思いが けないときに、断片となって、おそろしい断片となって包皮の下から、むだ口の皮の下か ら顔がのぞく。経理士のりっばな免状、そして学位の免状の下から。きちんとした外見 の下から、ちょうど石のようにのぞいていたが、とうてい、目に入らないものであった。 ちょうど、草原のなかに、山の黒っぽい堅さがのぞいているようである。 美男子のジュリアーノ。すっかり思い悩んでいるようにみえた。極端に神経質で、同時 に、ふさぎこんでいた。どうにも、しょうがなくなっていた。体裁をつくることもできな かった。「よくまあ、そんなふうに落着いていられますなあ」とたずねてやったが、これ は罠だったのである。落着いてるなんて、とんでもない。「それはもう、惜しげもなくふ るまうですな。やれやれ」 リリアナ・バルドゥッチは大へんな金持ちであった、のちにバルドゥッチとなったこの リリアナ・ヴァルダレーナは。彼女は自分のカネをもっており、また、ある程度までそれ を自由に使っていた。ひとり娘であった。それに、父親は金の貯め方を知っていた。フー ミ警部もまた、シンフォニイさながらの広範な叫び声のなかから、「伝導の動囚」という テーマを感じとっていた。 「あの父親は仕事のやり口をこころえていたんだ。戦時中も戦後もな。ああいうのが本 サ メ ものの金持ちというんだろう。あれも死んだが、二年まえのこと、彼女が結婚してしばら くたってからのことだ。メルラーナ街のアパートは彼の持ちものだった。事業、事業上の 権益棄、各方面の経営参加。ある企業の所有者であり、別の企業の共同所有者でもある。 抵当権を設定するために貸し、のっとるために抵当権を設定する。どうにも大へんな奴 だったにちがいない」これだけの口上に、右手をぐるぐる渦巻きのように振りまわした。 リリアナは聖フランチェスコの祭りの日に、本当にたのしかったあの食事の間じゅう、父 親の財産について、それとなく触れていた。 そう、ヴァルダレーナの親類についてはフーミ警部が片づけておいた。まず、ポムペオ が家に出かけて行き、七つの教会を通ってローマ中をひとまわりしたが、収穫はなかっ た。それから巡査部長が出かけて行ったが、何もない。むこうからフーミのところへやっ て来た。そこで、しかるべく応待をしたうえで、詩でも朗読しているように頭をふりふ り、思いきり優しい態度をみせて、ここを少し、あそこを少しと、彼独自のやり方で探り を入れたのである。あの目で、あの声で。フーミはその気になれば、刑事担当の弁護士に もなれたであろう。情に訴える手で行くのだ。 ジュリアーノの母親はローマを出て暮らしていた。美しい女という話であった。ポムペ オが戸籍上に現われている母系の姻戚闘係を要約しておいてくれた。もともと天賦の才が あったのだが、それが技術の実さい面での活用によって洗練され、また、時間を節約した り、訴訟上の一連の長長とした推論をちぢめる必要上からすっかり洗練され、それにくわ えて日、耳、鼻などが、ロースト・ビーフをはさんだパンに力を得て何がしかの思慮分別 にひと役買った結果、ポムペオを名人にまで仕立てあげたのである。つまり、最も教訓的 な細目までおりこんだ、全登場人物が入り組んでいる樹木式系図をほんのわずかな言葉 57 で、あるいは上首尾まちがいなしと自信のある、味もそっけもないふた言、み言のあてこ すりで描き出す名人にしたてあげたのである。 女たちのこと、それから女たちのひもの類に、恋愛沙汰、恋人たち、本当の結婚といつ わりの結婚、妻の不貞とそれに対する対抗策といったことになると、彼の右に出るものは ないほどである。重婚をしている人たち、あるいは多婚をしている人たちのなだらかな曲 線、それに口論や反論、何とはなく好意をいだいている、あるいは好意をいだいていない 個々の少年たちの面倒ごとなどをくわえたそのぬかるみのなかを、彼は広場の運転手よろ しく、しぶきをあげて出たり入ったりしているのであった。職務がら犯罪社会に出入りし なければいけない事情、「家庭の情況」にかんして簡単に取り調べをすます要領な直観か らまなんでいたこと、そうしたものを活用して、彼はたちまちのうちに、いっさいの「同 居生活」を並べあげることができた。それよカーポ・ダフリカ街やフランジパーニ街か ら、ツィンガリ広場、カポッチ街、チァンカレオーニ小路におよび、さらに下って、モン タナーラ広場を通ったことはいうにおよばず、モンテ・カプリーノ街、ブチマッツァ街、 フィエニーリ街にいたっているが、このあたりは誰ひとり知らぬ者のないところであり、 あるいはこれまた欲ばりなあのパラッツォ・ピオのまわりから、ヴァッレの聖アンドレア の背後のあの狭い道全体をへて、グロッタ・ピンタ広場、フエッロ街・グロッテ・デル・テ アトロの小路にまで達したし、ひょっとするとポッラローラ広場にも及んでいたろうが、 ここの人たちはそろって育ちがよい方だったにもかかわらず、何やら混成集団めいたとこ ろがあり、また、機動捜査班とはあまりそりのあわない人物もいた。そして、ほかでもな いこのあたりでこそ、ポムペオの名人わざともいうべき策謀が発揮されるのであった。そ こでは、あらゆる男女闊係はもとより、その親類関係のすべて、さらには、替になって頭 のなかや頭の下の方に突き出てくる分技のすべてをそらんじていたのである。二重、三重 のカップル、ローヤル・フラッシュ、それにともなうあらゆる組みあわせ、つまり誕生、 生涯、死、そして奇跡をそらんじていた。彼らが借りている穴蔵同然の部屋を知っていた し、また、ここからあそこへと移って行った場合にも、夫婦の寝室、便所、時間貸しの部 屋、ソファー、寝椅子にいたるまで、その家に巣くうノミというノミともども知っていた のである。 そういう次第で、ヴァルダレーナの一族も彼にしてみれば子供相手のおあそびであっ た。ジュリアーノの母親はローマ以外で暮らすべく出て行ってしまっていた。モーダ・イ タリアーナ社のカルロ・リッコとかいう経埋係と再婚し、その男とトリノに住んでいた。 子供たちは母親の消息に通じていた。学校へ勉強に通っていた。彼女はというと、むこの 親類たちから「何となく、よそよそしくされていた」。別にトリノからローマヘなんらか の働きかけがあったというのではない。だが息子をおばあさんにあずけたままにしている ということで、彼女は「しゅうとめとの間がまずくなっていた」というか、みんなをひっ くるめて、しゅうとめたちと呼んでいたので、 「そのしゅうとめたち」との間がまずくなっ ていた。だが、とどのつまり、憤慨したり、涙を流したりしたあげくに、みんなは満足し た。というのは、およそ未亡人が文無しになったとき見つけられる最良の仕事といえば、 自分と結婚してくれるような別の男を見つけることである。ジュリアーノはおそらく、母 親をねたんだのだろう、どことなくゆううつそうであった。そして、しばらくの間は誰に 対しても仏頂面を見せていた。目その後、成長し、分別がつくにつれて、きげんをなおし、 事情がのみこめるようになった。つまり、母親は美しく、若かったのである。それに、彼 のような青年のゆううつというものは……。まもなく彼は、そんなことを忘れさせてくれ 58 第3章 るような人びとと知りあいにもなった。 おばあさんが彼を駄目にしていた。そのおばあさんとはリリアナのマリエッタおばさん である。 さて、それから何が起ったか。悪魔が姿を現わしたときのように……ジュリアーノの母 親は七カ月、八ヵ月とボローニヤの病院に収容され、ボスコのサン・ミケーレのベッドで 寝たきりであった。肉親に会うためローマに出かけてくる途中、自動車事故にあったので ある。本当はあれほど会いたくなかった肉親に会うために。かわいそうな女だ、本当に。 事故の相手はミラノを回ってきたのである。両足とも折ってしまったが、奇蹟的に皮膚は 無傷ですんだ。重みと、それに釣りあう重みが片足に少々反対の足に少々かかったのであ る。それもあらゆるタイプ、あらゆる種類の自動車に匹敵する力で。おそらく、このため であろう、ジュリアーノ君はしばらくの間、ただ茫然とするばかりであった。母親のこと な気にしていたからである。そして、女たちはみんなして、なぐさめようと集まった、か わいそうな坊やだこと。何とかなぐさめられないものかと、躍起になっていた。 サ メ そこへ出てきたリリアナ・バルドゥッチは大へんな金持ちであった。金持ちの娘であっ た。そして、こういう次第となったのである。 彼、つまり従兄弟くん、彼氏の手くだは遊び人のもの、美男子の手くだであった。いま 掌中にしている女、あるいは今後、彼のものとなる女は、かぞえきれないほどいる。それ でも、必ずや心の底に自分なりの考えをもっているだろう、その点はたしかなのだ。内 心、ひとつの目標があらかじめ設けられていた。それはつまり」彼女に好きになってほし かったのだ。いま、イングラヴァッロの目に、その様子がはっきりと見えていた。ジュリ アーノは自分が求められることを求めていた。わが身をゆだねるために、恩をきせてやる ために、高い値段で肖分を売りつけてやるために。できるだけ高い値段で。いかにも無邪 気にみせかけようと、慎重にふるまってやろうと心がけていた。すべての女性に対しそう なのだ。彼女に対してもそうであった。もちろんのことである。彼女だけ特別あつかいを することのないようにしていた。 その後、ある種のかわいそうな人びとが、ある種の交尾期の動物 (イングラヴァッロは 歯ぎしりをした) や、レジーナ・コエリ刑務所がふさわしいような連巾を追って狂おしく なるのと同じように、彼女までが狂おしい思いにとらわれたとき、そのとき、悪漢の登場 である。そのとき、ひらひらひらと千リラ札の雨。まったく大きな雨だれではある。 「ここで要約をしておこう」彼は、そうだ、彼はジェノヴァに行かなければならなかっ た。転勤はすでに決まっていた。さしせまっていたといってもよい。今日、明日にでもと いう問題であった。 ニコテーラ街二十一番地のきれいな部屋は、アマリア・バッツ……いや、ブッツィケッ リ夫人の確認したところでは、たしかに月末で解約されていた。(またまた、ここにパイ ブラインのいんちき話がある。なんでも石油をフェッラニアまでパイプ輸送するという のである。*3 もはや妖術をはたらかすまでもないというようであった。では、どうなのか。 乱暴なゆすりは。リリアナの拒絶は、手もとのおカネがなくなっているのは。あるいは、 黄金や宝石が狙われたのは、汕だらけのひと握りの紙に入る……あの恐ろしいものは。そ して、宝石は。 *3 ムッソリーニは差ヴォ奈均衡の小さな街フェッラニアへパイプラインを建設しようとして果たさなかっ た。 59 逮捕後、すぐに所持品検査をうけたヴァルダレーナ氏は、別に、何も身につけていな かった。疑うべき筋あいのものは何もなかった。しかし、九時から十時二十分までの間に は、外出して盗品を安全な所にかくし、あらためて戻ってくるだけの時間があった (だが、 しかし、これは少々、大たんな考えではないか、全くの話が)……つまり、クリストーフォ ロとジーナが通勤、通学で出かけてしまったあと、十時二十分に彼が人びとを呼びよせ るまでの間である……そうだ、とにかく、少くとも一時間以上は経過していた。管理人の ペッタッキオーニ夫人は階上の高い高い雲の間で、いそがしくしていた。ほうきとバケツ をもって、それに舌も持ちあわせていたのはいうまでもない。ポムペオの報告によれば、 その時間、彼女は B 階段に下りて行くのを楽しみにしていた。そこで何よりも一番、あて にしていたのがボレンフィ、というかズボレンフィという、その時間、まだスリッパをは いている婦人であった。イングラヴァッロは手で書類をかきまわしてみた。「ボレンフィ 未亡人エネア・クッコ」と、はっきりした口調で読みあげるようにいった。 クッコ夫人のもうひとつ上、屋根裏の階にはバルベッツォ将軍がいた。イングラヴァッ ロはさっそく、真黒な牝鶏がコッコ、コッコと大きな虫をつまみ出すように、その書類の 乱雑な山のなかから、彼のを引っばり出した。堆肥の山のなかでも決してしくじることの ない、くちばしのひと突きでもって。そしてもう一度、読みあげた。「騎士爵の大官で将 軍、貴族のオットリーノ・バルベッツィ=ガッロ、軍の命により退役とされる。年齢は? ヘえっ。カサルプステルレンゴ出身か。けっこうなことでございます」 これまた貴族だったのである。「つかまえ屋」が小声で歌うように、耳もとでささいた ところでは、高名そのものの紳士で、男やもめであり、ひげをふたつに分けたところは高 級ブラシの感じがする。だが、足痛風を病んでいるそうで (管理人の話であるが)、地獄の 苦しみをなめなければならなかった。医者たちは彼の足が床にふれるのを禁じた。つま り、いまの最高天の高みにとどまるよう強制したのであった。無聯をなぐさめてくれる、 でんとしたコレクションをもっていた。最も権威ありとされているのが十四、五本で、ひ と口のんだだけで、たちまちのどが焼けてしまう。そのうえ、完全な紳士で、足にはス リッパをはいていたが、それが象の足のようにみえた。紳士である。マヌエーラ夫人は管 理人の仕事から解放されるわずかな暇をぬすんでは、珂かとこの紳士の家事の面倒をみて やるのであった。また、こまごました世話もしてやっていたが……それは家政婦が来るの を待っている朝の間のことで、家政婦はというとゆっくり、お昼ごろに現われるのだが、 もう、とうに買物がすましてあったりした。ひとり暮らしの男で、身寄りもないというの に。もっとも、夫人としては自分のしていることを入居者には知られたくなかったが、あ いにくとみんなちゃんと知っていたのである。夫人は上でやらなければいけないことがあ り、それでバルコニーに行くのだと称していた。バルコニーはいうまでもなく、洗濯物を 干す領分となっている。そう、北風の吹いている朝など、ちょうど航空母艦の滑走路から 流星のような飛行機がとびたつのと同じで、彼女の身体までとんで行ってしまうぞと思え るときもあった。前と後ろに、四つの爆弾をかかえて。「あたしはここまで来ましてね、干 し物をするんですよ」と、まだ眠っている人びとに向かって叫ぶのであった。十八歳の娘 のように歌っていた。時には子供たちが下から、中庭にある伝説にまでなった井戸のとこ ろから、夫人に呼びかけるのであった。「マヌエおばさん、お客さんだよお。下りてこい よお」もちろん、学校へ行かないときの話である。ご主人はフォンタネッリ中央乳業会社 で、大いそがしであった。夫人はえっちら、おっちらと、類を赤くして下りて来た、あの 北風のせいである、一二九段を。アニスの香りのする息をはすませて。そよ風の香りだ。 60 第3章 文字どおり、楽園から下りて来るのであった。アニス酒の楽園から。「まあ、ドン・チッ チョさん」イングラヴァッロはここでぺージをくった。二一九番地にまつわる多くの、妙 なるメロディのささやきを、 「つかまえ屋」はそれこそ素早くつかんでくるのたが、そのな バ ル ベ ッ ツ ィ・バ ッ ロ かでも最も当てになるのによると、どうやら……そう、要するに彼女と雄鶏バルベッツィ は時々例のバルバガッロ酒を高々とかかげて飢み干したあと、しごく当然の話かもしれな いが、グラスを手におたがいに祝福しあう必要を感じていたのである。その手にしている のは古い年代もののアニス酒。ひとびん四分の三リットル入りで一二〇リラする正真正銘 のメレッティである。この酒あればこそ、ナポレオンもイタリア軍をひきいて、ゆうゆう と見張り所を通過できたのだ。見張り所には、ちょうどその呪われた木曜日には子供たち が学校へ行ってしまったあとのように、人っ子ひとりいなかった。 イタリア社会であの根本的な改革――それは古代の峻厳さというか、少なくともリクト ル*4 のまじめくさった体裁をよそおってはいたものの、実は棒叩きを見まわれてとび出し てきたというのが本当である (斧のとってのまわりに細い枝を巻きつけて、それで打たれ たのであり、単に象微的にそういう真似ごとをしたというのではない)――その改革なる ものを押し進めてきた新しい勢力は、別に primium vivere (生存第一) 哲学談義に浮き身 をやつさずとも、自分たちが冗舌な提案をならべたてたそのあげく、明らかに地獄へ通じ るほかない道を舗装していることに気づいていたのである。その後、気化して、葬式をほ のめかすおどしとなり、言葉となり、風となったこの新しい勢力は、空気とほこりの渦の なかで突如として共同謀議をはかり、権力と、あの祖国と呼ばれることになっている生物 との間の、いっさいの分割に反対し、いわゆる「三権」の分離に反対する雲たちのお尻に キスをしようと、みずから天空高くあがって行くことに決めた。この三権の分離は、櫛を 入れた目だたないかつら姿の社会学の大先生かローマ人たちの理想的な公共団体と、英国 史のなかで最も的確かつ最新のそれを研究した結果、すっきりした主張にまとめ、きわだ たせたものである。イタリアの新しいよみがえりは、自然という見地からしても、また絵 画的、詩的な見地からしても、あまりきちんと皮をかぶっており、そのために世界中がこ のよみがえりを不名誉にして同時に抜きんでたものと指摘したのであった。そして、い リソルジメント かにも良いものだと結諭づけるように、少しばかり鷹揚すぎる国家統一にびったりついて いた。その鷹揚ぶりたるや、長髪か、ひげが濃いか、ぜいたくに口ひげをたくわえている か、あるいは大小の頬ひげに威厳をみせた吟遊詩人たちの毛のなかから、ぺーソスを解放 するほどのものであったが、それでもやはり、こうした毛のたぐいはわれわれの好みか フ ィ ー ガ ロ らいって、すごい大ばさみをふるった床屋さんの手で根本的治療をしてもらう必要があっ た。権力によって意のままにされる意向のすべてを最終的に意のままにできたらと、発情 したようにねがいながら、いま問題になっているこのよみがえりが、自分の内臓から引き 出した結果、それはいつでも見ることのできる結末であった。いつでもというのはつま り、権力が完全に力を行使するときはいつでもという歯ことであり、あの三つの権限―― シャルル・ルイ・ド・スコンダ・ド・モンテスキューが法の精神をめぐる八百ぺージの論 文の第十一巻第六章で、はっきりと日に見えるように明瞭にのべている――を凝集させた とき、すなわち、その三つをすべて、単一の三位一体の、よそからはうかがい知れない、 確固たるカモラ党 (ナポリの秘密結社) に凝集させたときということである、このような 出来事の場合は、”le même corps de magistrature a, comme exécuteur des lois, toute *4 古代ローマで、権威標章の棒を手に大官の露払いをつとめた役人。 61 la puissance qu’il s’est donnée comme législateur. Il peut ravager l’État” (おわかり ラ ヴ ァ ジ ェ・レ タ だおうか、国家を荒廃させるというのである) ”par ses volontés générales et, comme il a encore la puissance de junger, il peut detreuire chaque citoyen par ses volontés パルティクリエール particulières” ここで 特 殊 の というのは彼、つまり賛美された肉体にとってということ である*5 われわれの場合、つまり、古代の杖 (よしんばそれが棒叩きに使われたとしても、 法津の感覚からなされたのであって、無頼漢の感覚によるものではない) に対する異常と いえるほどの追憶によってもたらされた新しい荒廃の場合、三権をもつあのカモラ党の結 社では、スパイ係りの役人の熱意と過敏な耳の監視のもと連絡係りの役人がりっばに職務 を果せるよう、そのための電話がわざわざ開設されたのである。官僚的な進言はとかくそ ういう調子をとるし、さらにきびしい命令的な性格、あるいは全く威圧的な性格をとり得 るものであるが、この性格はいままさに料理中という新帝国の「homines consulares」(領 事人間)「homines praetorii」(執政官人間) にこそふさわしいものであった。権力の座に あって自分の正しさを信じこんでいるものは、まさか自分が法律的に過ちをおかし得よう など考えてもみない。自分が天才であり、人類の光明だと思いこんでいる人は、まさか自 分が消えかけたろうそくであり、四つ足の馬鹿なろばなどと思うわけがない。この改革さ れた真理の受託者、代表者についていえば、毎朝、目をさますたびに、口を開けて話を聞 こうとしている人のその口のなかへ、新しいたわごとを排尿するなど考えられないことで ヒエラルキイ ある。よろしい。階級序列の電話の滝は、尊敬をあつめている滝のすべてがそうであるよ うに、ある決定的な力の場、それは妊娠・重力の場であったり、敬けんな態度=罪のなす りつけごっこといった場でもあるが、逆流させ得なかったし、いまもなお、逆流させ得な いのである。また、鼻の上に前髪を二房たらし、ピストルと短剣がぶらぶらしているぴか ぴかのつるし皮を二本、身につけたふたりの悪漢を、いまさら動員するまでもなかったと いうのは、尻もちをついたその下っぱ役人が、電話線の向うの端でたちまちのうちに、自 分はどう答えた方がよいのか、どう処置する必要があるのかを気づいたからである。「そ うするつもりです……いつでも、おっしゃるとおりにするつもりでおります」カチャリ。 同じことが、メルラーナ街二一九番地の最初の事件のおりにも起ったのであり、その後、 間もなく、第二の、つまり、あのぞっとする犯罪が発生したのであった。「申しひらきので きない捜査のおくれ」は「もっと簡潔なリズムをとる」べきであったし、休む間ももどか しく、たえずひづめで地面をひっかくぐらいのかまえがなければいけなかったのだ。それ も舟尾などではなくて舟首を、しかもいっそやるからには四つのひづめ全部を使ってやる べきだった。勲三等の統計係官で、暇なときにはフランス松露が何より好きだというあの 男が、月曜日の夜の九時からかぞえて八十六時間後に、ふたたびサント・ステーファノに 出頭するよう呼ばれた。生きた心地もない九十二時間のあと、ルンガラヘ送ってもらい、 鼻をかんだ。彼のもっているなかでも一番大きな、ちょっと想像もつかないようなハンケ チをつかって。 * 入居者たちが一致して申したてたところによると、かわいそうなバルドゥッチ夫人はあ の時間、つまり死ぬまえの最後の二時間、誰にも会っていないようであった。誰にも。当 *5 フランス語の部分の意味は次の通り:この司法機関は、法の執行者でもあるので、自己付与した立法権を 充分に行使することができる。それ故、一般的意志から国家を荒廃させ、特殊な意志によって市民を破滅 させうるのである。 62 第3章 の死刑執行人を別にすれば。 さけび声はおろか、さわぎも物音も聞こえなかった。髪をといていたメネガッツィ夫 人も、ふたりのボッタファーヴィ、つまり夫妻も何ひとつ聞いていなかった。「イングラ ヴァッロ警部が個人的に行なった」スタンダード・オイル社ローマ支店の調査で、かなり 以前に決まっていたジュリアーノ・ヴァルダレーナ氏の、ジェノヴァ転勤の事情が確認で きた。一日ぐらい前後することはあろうが、三月二十一日、月曜日に出発するよう決めら れていた。会社の人たちにいわせると、この青年の仕事ぶりは申し分ないの一語につき た。機敏さが取りえであるうえ、いざとなれば口も達者で、見た目にきわだった感じを 与えた。さらに本質的には、そう、意欲的でもあった。ひと言たのめば、もうそれでタク シーをひろい、お客さんや技師を追いかけるという調子で、いっときの暇もなく走りまわ り、動きまわり、汽車で国中を行ったり来たりする、そういうタイプの人間にふさわし い仕事ぶりである。朝っばらから、あるいはむし暑い午後にも……年齢のせい、そうなの シ ロ ッ コ だ。もちろん時として、それも東南風の日などには、どことなく無気力なこともある、そ れがまた事務所の空気というものなのだ。ところが、お客さんが相手となったら、まず、 とちったりすることはなかった。 「そんなの、大したことではあるまい」ドン・チッチョは聞こえないようにぶつぶついっ た。「油を買いにどこへ行くっていうんだ。まさか、ブロッコリー屋へ行くわけがないだ ろう」 的を得ていた、それはそうなのだ。競争の場合、とりわけ変圧器用のオイルの場合、量 が物をいうだけに、いちおうカルテルの協定価格の範囲内ではあるが、値をくずして、 クインターレ ちょっとした利ざや……百キロあたり十リラという利ざやをかせごうという傾向があっ た。そして、彼はやり方をこころえていたのである。何と形容したものか、一種ひとの目 を引く態度が見られるし、条理をわきまえた人物、貸すに時をもってするといった人物の 気配が感じられた。 「よろしいですか、警部さん、ご信用なさらないかもしれませんが、お客というのはど こか女のようなところがあります。冗談に聞こえるかもしれません、しかしです……お客 のとらえ方を知るのが必要です。時には忍耐が必要です。待つ必要にせまられて、はじめ て待つということが分ります。そのまま、石の腰掛けの下にいるのです、眠そうな目をし て、それでいて、さかりのついたネコのように、いっでもとびかかれる身がまえで。その 一方、操縦が必要な揚合があります……相手が着く一歩さきに着くよう操縦する必要が あります、いわば競争ですね。おてんば娘を相手にしたようなものです、まったく。よろ しいですか、相手がこちらにほれこむところまで引っばって行くのが肝心です、ほんの レ ス パ ー ヌ・ダ ア ン・マ タ ン ちょっとでいい、半日でいい、朝のうちだけでも。また、おばさんをおともにつれている 場合もありますが、これがえてして大きな権限をもっており、ひたすら編みものをしてい るようなふりをして、実は計算書をじろじろ見ているのです。そういう場合でもおそらく 弱昧があるはずです、彼女なりの弱抹が。彼女もまたある種の老婆や姑たち同様に自分な りの好き嫌いがあります……娘に気に入られるには、まず母親に気に入られよとか。まっ たくそのとおりです。プラトニックなのがいます、よろしいですか、ロマンチストです ね、月光の輝きを夢み、十リラのことでこだわり、希望をいだき、信頼し、長々とながび かせるのです。全くじらされますね。ところが、彼女らにとっては、そうです、そういう やり方がいいんです、二月の牝猫というところです。手のくだしようがありません。で、 我慢するのです。それとは別に決断力のある人、すぐにポイントをついてくる人たちもあ 63 ります。こういう人たちのことなのです、警部さん、とらえ方を知らなければいけないと いうのは。めいめいが自分なりの行き方をしています。しかし、よろしいですか、わたく しどもがしかるべくふるまうためには、まず相手の方が恋をしてくれなければなりませ ん。といっても、このわたくしども、つつましい代理人であるわたくしどもとではありま せん、それはもちろん……かわいい娘が私どもを見むきもしないってことはありませんが ね、そんなばかなことはありません、ともかくわたくしどもが相手ではなくて、そうでは なくて……そうスタンダード一般です。スタンダードを相手に恋をしてもらい、スタン ダード・オイルに盲目的な信頼をよせるようになってもらい、当社のおわたしするものを うけとっていただく、そういうふうにならなければいけないのです。なぜかといえば、何 をおわたしするべきかはわたくしどもの方が知っていますし、各人に必要なビスケットが どれか、どれがどの人に向いていて、ほかの人にはいけないかも知っているからです。わ たくしどもはなにせ世界的な組織でありますし。いかがお思いですか。ヨーロッパだけを とってみても、年間に数万ガロンの最優秀な油を供給しております。この一事だけを見て も、スタンダード・オイルがどういうタイプの会社か、お分りになると思いますが、いか がでしょう。冗談だとお思いですか。 わが社の大きな秘密はですね、よろしいですか、みなさんに話してまわりたいような秘 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 密なのです。つまり一定のタイプの油それぞれの品質の不変性ということです。その一例 として、当社の一流の変圧器用オイル B、エクストラ 11 マークを見ていただきましょう。 このオイルについては、市内でも評判をお聞きになれますよ。アングロ・ロマーナ社のカ ザリス技師とか、テルニ社のボッチャレッリ技師のところですね」そういうと、左手の指 を動員して、親指、人さし指、中指と、11 マークの長所をかぞえあげながらひとつひとつ 開いて行き、小指のところまで来ると、ひと息ついた。「絶対的な無水性、これが基本的 シーネ・クワ・ノン な要件です。よろしいですね。 必 要 条 件です。凍結温度は……大へん低くなっておりま す。粘着度は……せいぜい二・四ウェイン度です。酸味の度合いは放置しておいてもかま わない程度です。不伝導性の力にはおどろくべきものがあります。引火点はいえば……ア メリカのあらゆる工業用オイルのなかで最も高いのです。 変圧器用のオイルに、これ以上、何が求められるでしょう、おうかがいしたいものです。 それにしてもやはり、これはくりかえしになりますが、いちばん問題になるのは、どんな ・・・・・・・・・・・・・ タイプのオイルでも、品質の不変性ということです。一定のオイルの値打ちをそっくり 見せてくれるような品質……もちろん当社の変圧器用オイル B の話ですがね。いつでも、 常に同じ品質、時と所を問わず、どこで荷積みした場合でも同質です」そういうと、声を フェニックス 高めた。「それも長い年月にわたって。世界は崩れ去ることもありましょう、不死鳥はよ みがえるかしれません、コロッセォに火がつくこともあるでしょう……だが、わがスタン ダード・オイルの変圧器用オイル B、エクストラ 11 マークはのこります、いまあるがま まです。お客さまは悠々自適していただけます、ご安心なさってください。私どもはちゃ んと存じあげております、お客さまにとって何が必要であるかを。そして、お客さまの多 くは最後にはそれが分っていただけます。わたくしどもを信用なさらない。なるほど、そ の方がてまひまはかかりませんでしょう。だが、それからあとを、どうなさいます。あな たのお手もとに、かりに百万もする変圧器があるとしてですね、ある朝起きて気がついた ところ、油のかわりにトマト・ソースを入れていたということになったら。そして、その 変圧器が最初のあらしで焼けたら、どうなさいますか。経営経済学に別れのあいさつをお くりますか。十五年、十年の原価償却にさようならですか……そう、八カ月かもしれませ 64 第3章 ん。いけませんね、私の話を信じてください、警部さん、取り引きで決定的なのは価格だ けではありません、いってみれば価格というひばりの罠ですね……数字の無法ぶりとい クインターレ うか、百キロあたり四ー九ー六です。これがちがうのです。価格というのは……ご存じで しょうね。時計についても、グレーチ街の小さな店では十四リラから五十リラのものがあ るでしょうが、カテッラーニの店となると、二千リラはします。それではと、パテック・ フィリップ、ロンジン、ヴァケロン・コンスタンチン……といった有名品を十四リラ、五 十リラで買ってくださるとしましょう。でも、そんな値段で売る者がどこにいますか。か りにそういう売り手を見つけてくださったら、そのとき、こんどは私の方から、変圧器用 オイル B の 11 マークを割り引いて……市場に氾濫している粗悪品の値段でおゆずりしま すよ」 そして、ため息をついた。「まあ、そんなところですね」イングラヴァッロは頭がぽっ としてきた。ふたつの窓にかかるふたつの日除けのように、まぶたが下へ下へと落ちて行 きはじめた。大祭典に出た権力者を思わす態度で、それぞれの目の眼球のなかほどへと落 ちていった。そしてそのとき、役所の例の眠りぐせが愚鈍さでもって……予言的といって も差しつかえないような愚鈍さでもって彼の頭をかざった。もっとも、予言の力をあらわ す機会がやってくるのは、彼が最も愚鈍ぶりをしめしたときである。油か。アプリアの地 では、人は油で生きている。だが、この別の油のこととなると……彼は本当のところ、ど こから手がけていいのか分らなかった。 「お客を恋に落すこと。それがすべてですね。頭のなかに真理がおさまるようにしてあ げることです、真理という大きな釘をですね。それ以外にはありません。ヴァルダレーナ さんはその釘という段になると、りっばな素質な発輝されました。そして、恋に目がくら み、変圧器用の B をためすようになった日には、もう、そのお客に道を踏みはずさせた り、わたくしどもに不信感をいだかせるのは困難そのものです。それからは、不信感はよ そへ向けられ、わたくしどもを愛する方々がわたくしどもについて来られます、そうし て……たばこはいかがですか」「ありがとう」「それから、おそらく、そう払ってください ます。ぶつぶついわずに、払ってくださいます」 「払ってくださいます、払ってくださいます」ドン・チッチョは心のなかの自分の広場 でひとりぼっちになると、そうつぶやいた。 65 第4章 みんなが一様に不安感をいだいていた二十二時間後の十八日、バルドゥッチが帰着し た。予定外の仕事があってというのがその言い分である。その間に、ミラノ、ボローニャ、 ヴィチェンツァ、パドヴァの各警察署に手配が要請されていた。これで、イングラヴァッ ロとフーミ警部は本当に気の休まる思いがした。万一、当人にあちらこちらと飛びまわら れた日には、例の電話電報ののんびりしたモンスーンに吹かれながら、捜査の手を半島の 半分にまで及ぼさなければいけなくなる。 それでなくても、いいかげんもつれているこのごたごたのこと、へたをすれば完全な混 乱状態に落ちこんでしまったかもしれない。バルドゥッチは奇蹟的に何も知らず、八時に 汽車を下りたが、外套のえりを立て、顔色はそのときにかぎって、お世辞にも血色がいい とはいえず、むしろ黒ずんだ感じさえあった。ネクタイはゆるんでいた。そして寝心地は わるいうえ、いつ果てるともなくゆさぶられてきたはずなのに、そのわりにはぐっすり 眠ったという様子であった。彼も汽車も電報の指示に忠実にしてきたつもりであるが、い テールミニ かんせん、電報そのものがあいまいな内容であった。しかし、終着駅に八時に着く急行は サルザーナ発のものだけであった。天井や口を開けて彼を持ちかまえている通路にかかっ ている時計は、天から栄光のうちにあたえられた新しい指示にしたがって動いているが、 その時計によると、汽車が最後にきしる音をあげ、それにつれてブレーキがかかったの は、定刻に一分とちがっていなかった。おそろしい知らせは、しかるべき考慮をはらい、 適当に調子をやわらげたうえで、さっそくプラットフォームで当人に告げられた。その間 も乗客たちは車窓でなおも赤帽たちを相手に、威たけ高な、あるいは拝みたおすような口 調でやりあっていたし、赤帽は赤帽でスイスやミラノのお客が身になる手荷物をもって来 ているとあって、この機をのがすまいとばかりの口調でしゃべっていた。イングラヴァッ ロの招きでやってきた妻君の親類たちの口から、彼に話があったわけだが、親類のある者 は喪服を着ていたし、ただの黒っぼい感じの服を着ているだけのものもあつた。先頭に 立っているのはマリエッタおばさんで、マンドリルひひのたて髪に似た感じの黒いヴェー ルをかぶって肩まで垂らし、首のまわりには黒いビーズの首かざりを下げ、教育学の女教 師にふさわしい帽子をかぶり、検察官のような顔をしていた。そのあとにはエルヴィルッ チャおばさんが息子のオレスティーノをつれていたが、この息子というのが、大きな黄色 い歯を二本はやし、あのかわいそうなペッピイおじさんそっくりの大きな子供で、ペッペ おじさんその人といってもよいくらいであった。これまた、お葬式の顔である。制服姿の 巡査部長もいた。ディ・ピエトラントニオである。これまでに起ったことを彼、レーモお じさんに少しずつ話して聞かせてやったところ、当のかわいそうな人物は何よりもまず、 地面に鞄をおいた。ほかの重い方のは、赤帽が先きに持って行ったのだ。知らせを聞いて も彼はそれほど動揺した様子もなかった。汽車で幾晩も眠ったためだろうし、疲労したた 66 第4章 めでもあろう。どうも頭がぼっとしていた。何をいわれているのかもわからない。そんな 様子であった。 そうしている間に遺体は動かされ、警察病院にはこびこまれると、検死の処置がられた。 何も出てこなかった。もとどおりに服を着せて横たえると、白い包帯でのどをくるんだ。 死んで横になっているカルメル会修道女のようである。頭には赤十字の篤志看護婦用のず きん帽に似たものをかぶせられていた。ただし、赤十字のマークはついていなかった。こ うして白く、汚れない婆の彼女を見ると、みんなはすぐに脱帽した。女たちは十字を切る 仕草をした。裁判所関係では予審判事をしているムチェッラート騎士爵が代表になって、 法の定めるところにしたがい、メルラーナ街でも、そのあとの警察病院でも同席してい た。また検察官代理の勲三等マッキオーロ氏もいわば儀礼的に彼女を訪問した。キッジ宮 殿に住むあの男までが、誰よりも強い口調で「凶暴な殺人犯は六時間まえに射殺されるべ きであった」といったというのは、どうも怪しい感じである。 ところが、バルドゥッチは新聞を読んでいなかった。 死体にはあのナイフの跡と、引っかき傷、爪跡のほかには何もなかった。 家にもどるとさっそく、このかわいそうなレーモ氏は引き出しや、なかなか開かない戸 棚を開けてほしいと頼まれた。そのうちのあるものは、鍵がなかなか見つからなかった。 また、たまたま見つかった鍵も、いったい何に使うものやら見当がつかなかった。それで も、その鍵を試してみた、あそこで、ここでと試してみたが無駄であった。彼の書斎には 誰ひとり入ってもみなかった.、「マレンゴ・ウニヴェルサール」の鍵がかかっているデス クには手がつけられた様子もない。デスクは彼が開けてみたが、なかはきちんとしてい た。書類をいくらかしまいこんである鉄製のファイリング・ケースも同様で、これは火で あぶった感じの暗緑色の小タンスに似ていて、清潔そのものであり、それが、半分はか らっぽ、半分はばらばらになりかけの汚ない本がおさまった木製の本棚とうまく釣りあっ ていて、その様子は、たとえていえば、ちょうど床屋から帰ったばかりの若い経理士が、 自分がやとい、搾取し、しかも自分にほれこんでいる小金持ちの、鼻水をたらした老女に 似つかわしいのと同じである。無言のうちに行なわれた現場検証には、終始、ふたりの婦 人、つまりふたりのおばさんと、オレステ、警察の巡査部長というより、実さいには係長 待遇のディ・ピエトラントニオ、ロドリコとかいう巡査、それにもちろんマヌエーラ夫人 も立ちあっていた。ほんの少しおくれて、 「金髪」も登場した。デ・ポムペオとこのテッラ チーナ出身の「金髪」に、イングラヴァッロ警部は信頼をよせていた。ほかの連中ときた ら、図々しいだけのうすのろばかりで、何はさておき、心理学から叩きこんでやらないこ とにはと思うことがよくあったのだ。このふたりは鋭い嗅覚をもち、ほんのちらりと顔を 見ただけで、しかも、そんなふりはちらりとも見せずに相手を見ぬくことができた。彼、 イングラヴァッロにとって何より重要なのは、ドラマの観客や主役たち、すなわちこの世 を埋めつくす無頼漢やマムシの末たち、そのおばさんたちや雌豚なみの女たち、そうした ・・・・・・・ 一群の連中の顔であり、態度であり、さらに彼のいいぐざを借りるならば精神および人相 ・・・・・・・・・・・ にあらわれる直接的反応であった。 ロドリコが二、三、無駄な努力をかさねたあと、ボッタファーヴィの力を借りようとい うことになった。このロドリコときたら、ポタンひとつ、はじきとばすのがせいぜいで、 しかもそれがどこへとんで行ったのやら分らなかった。当の武器の専門家氏は四角い取っ 手のついた大工用の小箱を片腕にひょいと引っかけて下りてきた。箱のなかには、ねじま わし、糸鋸、のみ、ハンマー、釘ぬき、ペンチなどの道県一式に自在スパナも入っていた。 67 それとは別に自在釘のまっすぐなのや、曲がったのがたっぷりとあった。最後に鍛冶屋が 呼ばれたが、これが錠前が相手となると文字どおリドン・ジョヴァンニで、先端のねじく れた小鈎をひと束もっていて、それをあれこれ取り出してくすぐるだけで、相手の錠前は もうこらえられなくなるのであった。操の固い婦人が快感に気を失うのにも似ていた。バ ルドゥッチはすぐにいちぱん大事なものがなくなっているのを認めた。夫人がタンスの二 番目の引き出しの鉄の小箱にしまっておいた現金と宝石である。その小箱が中身ともども 消えていた。鍵までが見つからなかった。本当だったら、忘れな草のししゅうがついた黒 いビロードの古い財布に人れて、鏡つきのタンスに入っているはずだし、また、きれいな 空色のリボンをつかって、仲間の上品な、チリンチリンと音を立てているエリートの鍵た ちといっしょくたにくくられているはずであった。「財布はですね。あったんですよ…… 前はここにあったのです。ちょっと見させてください」そして、絹やありとあらゆる下着 類、ブラウス、ししゅうのついたハンケチといったものが山をなし、よい香りを放ってい るそのなかで、手を上へ下へと動かしながらさがしまわっていた。そうだ、やっばりそう だった。財布も消えていた。そのうえ貯金通帳二通も点呼にこたえなかった。「やれやれ。 あれもなくなってるのか」「何ですか」「リリアナの貯金通帳です」「何色ですか」「色の方 コムメルチアーレ はどうも。とにかく、サント・スピリト銀行が一通、商業銀行が一通です」 「名義人は…… 奥さんですか…」「ええ、リリアナです」「通帳は持参人払いですか」「当人払いです」 お宝の減少が (だいたい、当人払いの通帳なのだから、危険はないはずなのだが) レー ・・・・・・・・・・ モ氏をがっかりさせたらしい。つまり、外見から、ということは、精神および人相にあら テールミニ ・・・・・・・・ われる直接的反応から判断したかぎり、終着駅で知らされた恐ろしいニュースよりも、ど うやらその方がショッグであったらしい。そういう印象は全く根拠がないし、嘘っばちだ といわれるかもしれない。しかし、誰ひとりその印象をぬぐい去ることができなかった、 巡査部長もそうなら、オレスティーノもそうである。ましてや、マリエッタおばさんやエ ルヴィルッチャおばさんは、すっかり苦境に立たされたその大きな男をながめては、「え え、どうぞ、狩りにいらしてください。ウサギが逃げ出してしまいましてよ」と苦々しく 思い、敵意までいただいていた。家のなかを行ったり来たりしては、家具の引き出しとい う引き出しをそっくり引っばり出し、まるでピンが一本ぬすまれたとでもいうように…… そんなふうにのぞきまわっている大男を見ては渋い顔をするのであった。あの信じられな い夜の時間、悩みぬいた話しあいの時間、それも前日の電話のさわぎで警察のいろいろな お国なまりまる出しの声や、明らかにローマ弁とわかるマヌエーラ夫人の声を聞いたあと のその時間に、ヴァルダレーナの親族全体に共通の潜在的強欲が作り出したあの大きな醸 酵作用のおかげで、陰気な、欲張りな気分になっていたのだが、いまではマリエッタおば さんもエルヴィラおばさんも一瞬、失望そのものに失望していた。リリアナったら、変 ね、どうしたんでしょ。形見ひとつ、いとこたちに残していかなかったのかしら、おばさ んたちにも残さなかったのかしら。母親が亡くなって以来、抱きかかえて育ててくれたと もいえるマリエッタおばさんにも。聖母マリアのメダル一枚、残さなかったのかしら。金 銀細工店一軒分ほどの品に鍵をかけたままにしておいて。遺言をのこすなど、考えもしな かったのだ。かわいそうな娘。あんなふうに死ななければいけないとしたら、そんなこと 前もって分るはずがないし、予見することなどできはしない。ああ、マリアさま、気が変 になりそうだった。何という世界、何という世界だろう。 それに、みんなはジュリアーノのことが頭にあった。彼の逮捕を一種の侮辱と考えてい た。彼ら、つまり《あらゆる家族のなかで、ほかにまたと例を見ないような家族》、男も 68 第4章 女も子供も、この地上で最も花やかな、最も健全な、このヴァルダレーナという最高の上 流家族に対してなされた一種の挑戦とみなしていた。あの娘が想い出の品ひとつ、別れの 言葉ひとつ残さすに、最高の結納である黄金や宝石をそっくりかかえて、悪魔の腕にと びこんで行ったなど、考えるだにぞっとする。かわいそうなおばさんたちにしてみれば、 そうした考えが苦痛に、心痛にとなって行くのであった。あのような殺しぶり。恨み、戦 ヘンテス 傑、恐怖、闇のなかの叫び声。人隅の親族関係、つまり一門は、民衆とか教区民といった 身分をしめす二つ折りの身分証明書や、長い間にわたって多くの目で見られてきた生活の 保証といったものが決定的な形で引きさかれる、あの悪魔的な緊張がぶつりと切れる瞬 間、そういうときに、一門の人びとは実さいには成果をあげられないまでも、貸したもの は覚々と返済を求めるのである。Cmmodatam repetunt rem. 暗闇のなかから貸したも のに戻って来るよう呼びかけるのである。ふたたび望むのだ、花をふたたび望むのだ。根 こぎにしたものでも、生命がなくなったのでもよい、磁石の上のヤスリ屑のように、彼ら の内臓の微細な繊維は復帰の緊張へと帰極作用をおこす。そして排除された有性の単位を 吸いあげなければと感じる。それは生物学上の単位であり、かつて生き、永遠に生き、秘 蹟によって、どこにでも転がっていそうな連中のところへ片づいていった人物のことであ る。彼らとしては他人や花むこ (この場合)、さらには民衆から差し出された義理の兄弟や 婿、そういう人びとに提供される結婚の数価、可能性といったものを、できれぱふたたび 自分のものとしたかったのである。これこそ自分たちのものと主張している有性の単位 には経済的な分前もふくまれている。こんどの場合は、美しい娘であり、宝石箱であっ た。どちらも年月をへて、ゆっくりと静かな年月をへて熟したものである。小箱をもった ひとりの娘、その鍵を彼らヴァルダレーナ家の人びとは夫君にゆだねてあった。カチャ、 サ ン テ ィ・ク ワ ト ロ カチャとその錠を使う権利を、その聖なる用益権を。そして四聖人教会で、キリストの補 イン・ノミーネ・ドミーニ 佐役がこの取り決めを祝福したのであった。念入りに神の名による灌水式をおこなった が、それほど水をはねとばすことはなかった。彼女はオレソジの白い花の冠をいただき、 ヴェールをかぶり、顔をふせていた。そういうわけだから、この猟師の大ばか者には、繊 り物を旅して売り歩くこの男には、返してもらおう、まちがって手に入れたものを返して もらおう。あの美しさを何に利用したのか。どのように濫費したのか、あのようにやさし い美しさを、パオロ銀貨を、それなりに美しいあの小銭の類いを。どこにしまいこんだの か、あのパオロ銀貨を。それに、醜い顔の、粋ぶった王たちの肖像がついているマレンゴ 金貨を。バルコニイから古着屋よろしく叫んでいる。あのキッジ宮殿のあやつり人形がま だ出てきていないころの、黄色い黄色い、まるいまるいマレンゴ金貨をどこにしまいこん だのか。四十四枚あったのだ。リリアナはきっかり四十四枚もっていて、おばあさんが結 婚式のアーモンド菓子を入れてくれたピンクの絹の袋のなかで、チャラチャラと音を立て ていた。クリスマスの腎臓料理二個分よりも、もっと目方があった。「それにしても、ど こへ行ってしまったのだろう」とみんなは考えていた。「この猟師さんはどれほどのこと マ ネ・ス プ・ヨ ー ヴ ェ・フ リ ジ ド を知っているのやら」冷たいジュピターの下に仕かけた建網。いったいこの花嫁、つまり 自分の妻の肉欲と持参金の力を、どういう結婚生活にふり向けるつもりでいたのだろう。 この卒中病みのセールスマンは、あの柔らかい肉から、そして彼女の分身ともいうべき蓄 財から、何を作りあげることができたろう。そう、そう、あの財産の山から何を作ること ができたろう、時間の執拗な反芻と、卓越した人びとの経済力が彼女にのこしたあの財産 の山から。それはちょうど、苦しい毎朝をむかえるごとに蓄積されてきた各世代の熱烈さ が、あの生ぬるい肉を彼女にもたらしたのに似ていた。リリアナの身内は次のように語っ 69 ているようだった。「ああ、かわいい花嫁さんだ、きれいなルスポ金貨をつめこんで、多 年にわたる財宝をつめこんで。思いもかけなかった昼夜平分時の確認。返してもらおう、 あきんど つまり、吐き出してもらおう、どさまわりの商人さん。対決を余儀なくされたというだけ のことで、われらが株のすばらしい芽、ジュリアーノを責めるなどということのないよう に」彼女らの頭、つまりマリエッタおばさんとエルヴィーラおばさんというふたりの醜女 の頭は空想を追っていた。「ジュリアーノ、ヴァルダレーナの花よ。青春の日の力よ。生 命のつぼみよ」 およそ恨みごとにはひとつの劇的な領域というものがあり、たとえば、脾臓から、そし ラ ー リ て肝臓の痛みのなかにある胆嚢から、家庭の守護神が祭ってある家具のうしろの半陰影に いたるまでといったぐあいであり、その守護神は祭器棚の死んだナフタリンの匂いをかぎ ながら、じっと見つめ、黙りこくったままでいるが、はじめて刃物が現われたときには、 叫ぶこともできないまま、ふるえていた。そして今、この部屋の薄暗い広がりのなかで、 犠牲者たちの神経を神経としておびえ、泣いていたのである。そうだ。そのあたり、巡査 都長と錠前屋の足の闘、マヌエーラの地球儀がわきに押しやってあるあたりに、あの毒殺 された亡霊かそろってさまよっていた。きびしい表情で立ちつくしながら、おばさんたち は宣告が下るのを待っていた。オレステはオレステで、どう身を処したものかと分らずに いた。 当のヴァルダレーナはコレッジョ・ロマーノで再三にわたる訊問をうけていた。彼の主 張するアリバイ (事務所や事務の使い走りのこと) は九時二十分までは有効とみなされた が、それからあとは利き目がなかった、町へ散歩に出かけていたといった。では、どこへ 散歩に行ったのか、誰のところへ、お客さんか、女たちか、タバコ屋か。二、三度、赤く なったが、嘘をついたときにやるあれである。散髪屋のことももち出したが、この主張は さっそく撤回した。ちがったのだ。散髪屋へ行ったのはその前日のことだった。事実、同 居人の誰ひとりとして、その時間に彼に会っていなかったのだ。彼がひとを呼んだのは やっと十時三十五分になってからであった。フェリチェッティという女の子は彼のまえに 立たされると、階段で出会ったおぼえがないといった。例のボッタファーヴィのところ こんにち へ今日はをいいに行き、チーズ売りの女たちに会ったあの娘なのだが、「いい……え」と いかにもいいにくそうに口にし、「この人は……いませんでした……」とまではいいきれ なかった。そして、だまりこくった。そのあと新たにくりかえされる質問と、あらゆる種 類の勧告に屈して、涙ながらに頭をたれた。いまにも、そうですといおうとしたが、決心 がつかないまま、口を開かなかった。そして、大粒の涙が類を流れるのを見て、ちがうと いうつもりなのだなと、みんなは思った。母親はその場にひざまずいて、顔と顔をつき あわせ、証言の出てくる娘の頭をなでてやり、キスをしながら耳もとでささやいた。「さ あ、おっしゃい、本当のことをおっしゃい、おまえ、そうなんでしょう、この方を階段で 見たのは本当なんでしょう、ごらんなさい。あの金髪を、天使のようにみえるでしょう。 さあ、おっしゃいな、おまえ。泣かないでね。そばにいるのはおまえのお母さんよ、おま えが好きで好きでたまらないお母さんよ」そういって、二度、キスをした。「あの警部さ んをこわがらないでね。イングラヴァッロ警部さんはほかの悪い警部さんたちのように、 意地がわるくて、乱暴で、いやなことばかりいうのとはちがってよ。黒い服は着てらして も、とてもいい方なのよ」そして、お洋服の下のおぽんぽんにさわってみた。乾いている か濡れているかをたしかめようというようであった。この種の証拠物件は時として、適当 な排尿をもたらす証言をともなうこと、なきにしもあらずである。「さあ、おっしゃい、話 70 第4章 してごらん、さあさあ、いい子だから、イングラヴァッロ警部さんがね、口が動いて、青 い花のついたビノクのエブロンのあやっり人形を下さるわよ、わかるでしょ。さあ、お母 さんの耳もとで話しておしまい」そこで娘はうなずくと、「はい」といった。ジュリアー ノは真青になった。「で、あのおじさんは何をしていたの。おまえに何といったの」娘は わっと泣き出し、涙ながらに、やけになったように大声をあげていた。「行きましょ、行 きましょうよ」そのあと母親が鼻をかんでやった。万事休す、もう何も聞き出せない。や はり、お母さんである、「だから申しあげましたでしょ」と、この娘が年のわりに、おそ ろしく敏感なことを申し立てていた。「よろしゅうござい家すか…と子供を相手にしたと きは、あつかい方をこころえていただきませんと」しかし、イングラヴァッロの目には、 まさに母親に似つかわしい白痴娘と映ったのであった。 ロ ー マ ピッロフィコーニ事件は永遠の都の話題をさらうまでにはいたっていなかった。それ に、山高帽をかぶった髑髏は被疑者のクジャクの羽根を渇望していたが、これは悪臭のす るつぶしたクジャクやニワトリの羽根のさしてあるところに、かわりに差しこめるように するためである。 とはいえ、すでにその当時でも、充分慎重にことをはこぶにこしたことはなかった。な にせ、世論つまり集団的な神経過敏がこの事実に勘づいているだけに、ドン・チッチョは 鼻をきかせていたし、フーミ警部にしても同じだった。 現実に芝居じみたところが日立ち、不潔な意味で劇的な感じのする、独特の偽倫理的活 動をほめそやすため、この事件を利用するということは――それが雲の上をしろしめす 悪漢ジュピター神が鼻さきでひそひそとささやきかけたような事件であってもかまわな いのだ――つまりは宣伝にも魚釣りにも、道徳的活動の次元と重みをあたえたいという、 組織、個人を問わない欲求から生まれた遊びである。どこから見ても歴然たる政治狂 (偽 倫理的な点にかけてナルシストである) の精神は現実のものにせよ、作りものにせよ無関 係な犯罪に爪を立て、おろかで兇暴な野獣がろばのあごの上で冷たく吠えるように、吠 プラグマ えたてるのであった。このようにして、刑罰の神話のむなしい事件のなかで、彼を実用へ と駆り立てる不潔な緊張を消耗すべく (やわらげるべく) ふるまっていた。それはどんな プラグマ プラグマ ものであっても実用でさえあればよかった、ぜひとも実用でなければならなかった。そう した無関係な犯罪は頭髪の一本、一本が蛇になっているメガイラ (復讐の女神) と狂気の 大衆をなだめるために利用されるが、なかなかちょっとやそっとではなだめようがない。 そして、ヤギや小鹿をずたずたに引き裂くよウにして、もじゃもじゃ頭の女神たちに捧 げられるが、この女神たちは金切声をあげてさわぎ立て、責め苦や血であかね色に染ま る酒神騒ぎのなかで、いけにえを八つ裂きとし、軽妙にはねまわり、乳房をあらわにし、 貧欲なところをみせるのであった。このようにして、偽の正義、偽のきびしさ、あるいは 指の偽の能力などが正当なものとして通ることになるわけだが、その明白な現われは軽 率な指図の横柄さであり、予期される決定の犬を思わすオルガスムスである。「戟争と平 和」第三部弟三篇第二十五章の悲しくも痛ましい物語を再読されたい。そして、無実なの にスパイとされた不運なヴェレシチャーギンの死刑の概要を理解していただきたい。モ スクワ総督ラスドプチン伯爵は、暗い表情で待ちかまえる群衆をまえに、宮殿の段に立 ち、芝居気たっぶりに竜騎兵に命じ、群衆の面前でサーベルで彼を殺させることとした。 キ ル・ル ー ル・フ ォ ー・ユ ン ス・ヴ ィ ク テ ィ ム 「彼らにはひとりの犠牲者が必要である」という内面的な、聖母マリアの教えにふさわし い根拠にもとづいてである。朝の十時のことであった。「午後四彫、ミュラーの軍がモス 71 クワに入ってきた」 シ ェ・ヌ ー フ ァ ッ チ ャ・フ ェ ロ ー チ ェ 一方、わが国の場合、帽子に羽根をつけたあのこわもて氏の方が比較にならないほど低 級で、芝居がかっていて、ラストプチンの場合とはちがい、(自分がリンチされるのではな いかという) 恐怖や、苦悶、慣怒、(群衆の集団的精神錆乱という) 大混乱、(ボロジノの) 容赦ない砲撃や, 大虐殺につづく敵の襲来といった差しせまった情状酌量を認めるわけに はいかない。 へまをやったピッロフィコーニはそういった種類のイタリア人から一撃くらって、あや うく一命を失うところだった。それというのも、彼が少女たちな何人か犯したのは事実だ ということを、「保安係の都屋」でなんとしても彼の口からいわせたかったからである。 彼は雲から落ちたようにびっくりして、そんなことはない。そんな中傷はまったくのでた らめだと申したてたが、結局、さんざんに叩かれたのである。ああ、ベッカリアの寛大な 手よ。*1 ロ ー マ 永遠の都は、ちょうど良風美俗が栄え、警察力をもったフェデルツォーニ*2 が勢力をふ るっていた時代であるが、定期的に少女が絞殺される事件にぶつかったのである。(1926エ ス ト ラ・ム ー ロ ス 27)。遺骸と破壊と悲惨と消えた無邪気さが草原にのこされた。そこは郊外にあたり、 エピグラフ 司教座のある教会の裏手、古い大理石の 碑 銘 と礼拝堂があった。Consule Federsonio, ツ イ コ ー ニ Rosamaltonio enixa: Maledito Merdonio dictatore impestatissimo. *3 お世辞屋ピッ ロ*4 はみすぼらしい男で、そのときはというと、熟れ切っているとはいわないまでも、脂 肪分たっぶりな貴婦人を相手に尻を追いかけていたものの、なかなか思いのほどはとげら れなかった。六階建てのウムベルトふうのビルディング、管理人は、正面のドアのところ にいた。夫もいあわせて、どうにでも動ける状態にあったのだが……スリッパをはいてい ア ド・リ ビ ト ウ ム た。ひとにぎりの入居者たちも思い思いのことをしており、自然の注解者たちはイルネリ オ*5 をしのぐものがあった。ここから、つまり、こうした事実の前提から出てくるのが、 ひとりのかわいい少女 (十三歳) を手当したさい明らかになったさまざまな運筆法による 悲壮な感じの字の上り下りであり、彼女は何がしかの慎重さと、それと同じ動悸をもっ て、それらの字体に本来の意義をあたえたのであった。つまり、身ぶりや指のさまざまな 運び具合をつかって窓から通りへと話しかける対話であり、その逆の場合もあった。この はにかみ屋の、指を使って話をしていた色男が歩道で逮捕されたのは、ちょうど六本か七 本の指で (六時か七時の愛の時間に) 六階の窓に向けて (警察の考えではこれこそ「戦略上 の偽装」だという) 幾つかの合図を発信したその瞬闘である。さらに、第二の策略として 婦人あての伝言を、彼女のかわいがっている伝令の娘にゆだねたその瞬間であり、娘は自 分の大へんな責任にすっかりおびえてしまい、顔じゅう真赤にしていた。ピッロフィコー ニはいつものように娘に何かと愛撫の手をそえたが、その動作と、相手の赤面が彼の命取 りになった。このれっきとした手がかりをもとに、羽根をつけた髑髏は「ローマ警察は四 十八時間以内には云々」と大みえをきったのであった。そこで、党首の権威ありげな言葉 に元気づけられたおまわりさんが、彼に一撃くらわしたというわけである。ある正直な役 *1 *2 *3 *4 *5 チェーザレ・ベッカリア 一七三八? 一七九四イタリアの改革家、人道主義者。「犯罪と刑罰について」 の著者。ピッロフィコーニ事件は実在の事件でこの作品の契機となる。 ムッソリーニ時代の内務大臣 ファシストがイタリア全土の建物にラテン語名を与えたペダンチックぶりをもじったおの。ローザマル トーニは、ムッソリーニの母の娘時代の名前。 ピッロフィコーニの名前を前後に入れかえた遊び。 1965-1125 ローマ法の注解者。 72 第4章 人が、これはおかしいと分けて入ったおかげで、フィコーニの骨はたすかったものの、か なりの傷はまぬがれなかった。 こんどはバルドゥッチが訊問される番であった。同じ日、っまり三月十八日の午後、サ ント・ステーファノ・デル・カッコで数時間におよび、捜査班長の調べをうけたが、予審 プロ・フォルマ 判事も 形 式 上、その場に立ちあった。「取り調べのイニシアチブは依然として署がにぎっ ている」というわけである。イングラヴァッロも本当の話、こんどだけはやる気がしな かった。友人なのだ。何といっても。その場に居あわせるのさえいやだった。そのうえ、 厄介な事態になるのは目に見えていた。ごたごたした訊問のあげく、取り調べに特有の誕 弁に巻きこまれて終るか、でなければ、混乱のはてに、うんざりするほどの粗雑さ、お粗 末きわまる販り調べに終るかであった。ふたりの仲……バルドゥッチと妻君の仲。精神状 態。ふたたび表面に浮かびあがってきたのは、ちょっと信じられようもないあの姪、子、 姪の物語であり、何としてでも娘をもちたいというあの被害者の奇妙な「マニア」ぶりで みる。しかたがないから、カムポ・デ・フィオーリでお古をも買いかねない様子であった。 金銭面についていうと、フーミ警部はすぐさま、夫婦はふたりとも、夫も妻も他人からう バラスト らやまれるような経済状態にあるのを納得した。船倉に底荷がある以上……海をこわがる こともなく、インフレーションのおそれもなかった。 男やもめとなった夫は、債権の権利証書をある程度、記憶をたよりに並べあげていっ たが、自分のもあれば、リリアナ名義のものもある。これは、たとえ髪の毛ひと筋でも、 いっさい疑惑をまねかねないよう、その証明を容易にするためだといっていた。「私がで すって。私のリリアナがですか。でも、どういうわけですか。まさか冗談ではないんで しょうね」彼のくちびるはぴくぴく震えだし、いきなり泣きじゃくり、そのせいでネクタ イもゆがんだ。涙がかわくと、ふたたび記億を取りもどしはじめ、皮の、ワニ皮のメモ帳 をめくっていたが、それはまさに紳士にふさわしい品で、いつも身につけていたのであ る。ふたりの財産が記入してあった。リリアナは銀行に個人用金庫をもっていた。それは セ ヅ ォ ー コムメルチアーレ 最新式の小地下室で金庫のサービスもしている商業銀行の第十一支店で、ヴィットリオ広 場のちょうど市場の向かい、アーケードの下という地の利を得、カルロ・アルベルト街の 角にあたっていた。だが、それだけではなく、ウムベルト通りにももうひとつ、サント・ スピリト銀行があった。「リリアナの父、つまり私の義父にあたるかわいそうな人物です が、これがまっとうな人間です。鼻のきく人ですな。革命なるものはあまり信用していな くて、当分は起るまいといっていました。それから株式会社というものですが、これは決 して信用してはいけないそうです。とりわけ……匿名であるだけにですね。何と呼んだも のやら分らないし、何をしているか、どこにあるかもわからないからというのです。おそ らく万が一ということでしょうが、あの惰報屋は嘘だったのさといわれたときを想像した 場合、君だったらどうする、というわけです。ためしに、ミラノあたりまで探しに出かけ て、『株式会社さん、わたしのカネを返してもらいに来ましたよ』といってごらんなさい。 これはようこそ。それだけでおしまいです。五年ものの債券にするようにいっていまし きん きん た。その方が金よりも安全だというのです。金だと今日は上っても、明日は下るかもしれ ない。ちょっとした長期公債だったら五%ぐらいでしょうが、枕を高くして眠れるという ものです。元本は国が保証してくれるんですからね、イタリア国家が。花崗岩の建物です よ、国というのは、わたしの言葉にまちがいはありません。あそこには嘘をつくようなも のは誰もいないんですから。そんなことをして、どんな利益がありましょう。それに、こ 73 れは本気でやるつもりだという話ですよ」義父の言葉を引用し、フーミ警部の悲しそうな 笑顔を前にして、バルドゥッチは……詳細で正確な表を作るのはあとにのばした。自分の と、リリアナのと。 取引き面、銀行、面での「非の打ちどころのない」参考事項や、そのほか布地関係の代 理店としての地位にかんするさまざまな説明や、北都の生産者たちのことなどを申したて た。金銭にかんするかぎり、彼と妻君の間には何ひとつ問題はなかったともいえる、「別 に足りないものはありませんでした。私にしてもリリアナにしても。面倒ごとも、現金で つまることも、きょう借りて、あした返すというような貸付け金もありません……何で すって。約束手形ですって」この家庭では、そんなものは知るわけもなかった。「商業用 の約束手形でしたら、わたしか仕事をつづけている以上は、それはもう……手形がなけれ ばやって行けませんがね」 これだけの資産をもちながら、いったいどういうわけで、白癬やみの商人や、引退した 実業家、月千五百リラの勲三等氏にまじって暮らしたりしているのか。 「そうですね、引っこしと考えただけで、おっくうになるんです。義父はアパートをひ とつ買ってありましてね、リリアナの娘時代には自分もそこに住んでいました。わたしが 彼女に会ったのもそこなのです」そういうと、このあわれな男は今度もまた、涙をおさえ ることができなかった。投げやりな声かふるえた。「そこで結婚したんですよ、あのリリ アナと」フーミ警部までが涙で咽喉をしめられる思いをした。井戸の水位が上って行く感 じであった。厳密にいえば、リリアナの父親を思い出したのである。商売にかんするかぎ り、きびしい目の持ち主だった。「さあ、どうしますか、あなたは」という調子である。も う何年も知りあっている仲だった。仕事の関係である。で、あのとき……彼女はひとり娘 で、母を亡くしていた。光り輝いていた。ああ、あの良き時代。 その家で婚約し、結婚をした。その後、いったん夫となり妻となってからというもの は……たがいに愛しあい、ふたりの夫婦仲はよかった。好みはひかえめかげんである。ど ちらかといえば慎しみぶかかった。「阿呆のために苦労をかさねるなんて、願いさげです。 そうですよ。いずれは死ななければいけない身だし、子供はないときている。別に意地悪 されそうになったというのでもないでしょうがね。で、それから……戦争は休戦となる。 その後は今や落ちついてしまい、慣れっこになりました。大してあたたかくはならないけ れど、それでもちゃんと暖房装置がありますしね。けっこう我慢できます、浴室だってあ りました……われたお皿も、はんぱな椅子もあります。それに、誰のところにだってそれ ぐらいはありますからね。リリアナは人に取りまかれるのが、それほど好きではありませ んでした。もっとも近ごろでは、なんとしてでも女の子をひとり養子にするんだと、すっ かり決めこんでいましたがね……それから、あのかわいそうな犬のルルウ、どうあっても 動こうとはしませんでした。彼女もそうですがね。あのかわいそうな奴、どこへ消えてし まったものやら。あれはさいさきがよくなかったですな」 戦争か。兵役免除のことしか頭になかったのだ。あの書類という書類。それに仕事のこ と。もっとも、ちゃんと切り抜けてきている。でも、結局は、兵役免除はだめだった。皮 のベルトにピストル一丁。「わたしを見ただけで、ぞっとしたでしょうな」と首をふった。 「そういうわけで、メルラーナ街にやってきました……さっそく婚約をした二年後、つまり 一九一七年のことですが、そう感嘆には片がつかないぞ、そんなふうに思えたものです。 よし、そうとなったら元気を出せです。いざやるからにけ、覚悟をしなければ。当時、ア パートがどんな状態だったか、おぽえておいででしょう、あの避難民の群ですからね。義 74 第4章 あ 父のところには、空きがありました、ほかのところでは見つかるわけがありません。で、 入りこんだわけです……義父の家にですね、ほかにはやりようがなかったのです。あの家 はわれわれの家同然でした。つまりわたしの家でありリリアナの家というわけで」 「あなた方の愛の巣だったのですた、なるほど」 「おわかりいただけますね、つまり、その気になりさえすれば、上衣をぬいでのんびりし ていられたのです」仕事のあと、汽車旅行のあとは静かにしていたい、自分の好きなこと をやっていたい、近所のごたごたに巻きこまれるべきではない、そういう強い希望があっ たのだ。 そして、リリアナのあの憂うつな気分。あの一種の妄想。それも、すぐとなりのサン ティ・クワトロ教会に取りつかれたようであった。「何ということでしょう。あのリリア ナが、やれやれ。もうサンティ・クワトロからつれもどそうにも、いうことをきいてくれ ないんですからね」 どうやら、あらゆる事情がかさなりあった結果、それまでにいた場所、つまり一二九番 地のあの呪われた建物にとどまることとなったようである、いまではそれが後悔の種で あった……ほかの誰にせよ、彼らと同じ立場に立ったら、もっとよい道をえらんだはずで ある。いまになって、それが分ったものの、すでにおそすぎた。プラーティの高級住宅街 とか、テヴェレ河畔の小さな別荘とか……ため息が出た。 「で……ほかのことはどうなんです……」 「ほかのこととおっしゃるんですね。そうですね、なにしろ、男ですから、われわれは。 旅行をしていれば……あれこれ余計な気まぐれも起るもんですよ、ね……」フーミ警部は 彼を見つめていた。だが、その方角を見ているうちに……一瞬のためらいが認められた。 自然の顔色がわずかではあるが、やや赤みをましたのである。 * * * ジュリアーノ・ヴァルダレーナは一日で三回の訊問をうけたが、これには犯罪現場の、 いわば犠牲者の証拠となる死休のころかっているところで行なわれた木曜日の最初の訊 問はふくまれていない。三人の係官が取調べの過程を追っていたが、いうなれば三匹の 「警察犬」というところで、そのなかには、最も狂暴なドン・チッチョも入っていた。そ れからフーミと巡査部長のディ・ピエトラントニオ、というか係長もいた。貴重な時間と ひにち 日日をかけ、想像、推理、仮説を動員したものの、なんの役にも立たなかった。ヴァルダ レーナどバルドゥッチ、従兄弟と夫が相対峙させられた。十九日の朝、士曜日のことで、 バルドゥッチはダツェーリョ・ホテルヘ泊りに行っていた。重々しく、深刻なのが夫君の 方で、ずっと動揺し、悩んでいるのがヴァルダレーナで、神経過敏ぎみになっていた。顔 を見つめあい、話しあい、何年ぶりかに、悲しいできごとの引きあわせで対面したという 感じで、おたがいの顔にこんどの不幸の恐ろしい動機を読みとろうとしながら、それでい て、相手にその責めを帰するということはなかった。イングラヴァッロとフーミ警部は いっときもふたりから目を放さなかった。別にうらみはなかった。ジュリアーノは恐怖の 発作におそわれたように、時として不安な様子であった。ふたりのいい分に食いちがいが 出るようなことはなかった。すでに分っている内容に対して、全然とまではいかないにし 75 ても、大して付けくわえるところはなかった。 フーミ警部がふたりを帰そうとしたとき、「お坊さんの」来訪が告げられた。ドン・ロ レンツォ・コルピが「メルラーナ街の悲しい出来事にかんする」緊急の連絡について、話 を聞いてほしいといってきたのである。当番の巡査部長に話をしたあとだった。フーミは 手ぶりでふたりを退出させた。ヴァルダレーナには護衛をつけさせた。バルドゥッチには 署にのこってもらえないだろうかと頼んだ。 ドン・コルピが案内されてきて、ゆっくりと帽子をぬいだ。聖職者にふさわしい仕草で ある。 背の高いたくましい坊さんで、真黙な髪の間にうっすらと白いものがみえがくれし、フ クロウのように大きなふたつの目は思いきり鼻に近く、その鼻が目の間にあるところは、 いかにもクチバシに似つかわしい感じがした。上品に僧服を着こみ、左手に新しい帽子と いっしょに黒皮のケースをもっていたが、これは坊さんたちがよく、弁護士のところへど ちらの側に立ったらいいか説明をしにもって行く、あのケースである。真黒で、ぴかぴか 光る長い、丈夫な靴、チェリオはおろかアヴェンティーノまで歩いて行けるほどで、二重 底になっている。人目を引く顔立ちの人物である。また、身のこなしや歩きぶり、フーミ 警部にさしのべた握手のぐあい、僧服の上の方がふくらみ、それから下に行って胴のあた りもふくらんでいるぐあい、さらには裁判の旗を思わせる丈夫な布の僧衣の裾にあたる下 の部分が、ひらひらはためいていろ様子などから判断すると、まれに見る頑丈な人物のよ うであった。 いささかとまどい気味な、あるいは慎重そのものといった前口上のあと、フーミ警部の 物静かなまなざしにさそわれて、こんなふうに話したのである。つまり、マンノ山の山頂 にあるロッカフリンゴリの友人たちを訪ねようとローマを出たという。そこはパレスト リーナからろばで行くよなところだが、「あの恐ろしい事件を耳にするとすぐ」、二十時間 もたたないうちにもどってきて、「今は亡き」バルドゥッチ夫人手ずから渡された自筆の 遺言状を急遽、さがし出したそうである。そして前の晩には警察病院へ彼女に「無言の対 面をしに行き」、 「御霊安かれ」と祈ったという。 「何よりもまず」と、まだあいかわらず興奮し、「事態」におびえたまま申し立てたが、 それなりに恐れるだけのことはあった……つまりその書類がぬすまれたらしいのである。 書斎の引き出しという引き出しから、書類をぜんぶひっくりかえしては、すみからすみま で探しまわったが、どうしても見つけ出すところまではいかなかった。ところが、夜に なってふと思い出したのだが、ほかの封筒やある種の……個人的な思い出の品といっしょ にサント・スピリト銀行にあずけてあったのである。そこで、その朝、六時のミサをあげ たあと、銀行が開くのを待って出かけて行った。しばらくは動悸がはげしかった。 そして、黒い小牛の皮のケースから取り出してフーミ警部にわたし、警部は真白な手で 受けとったが、ぞれは公文書に使うのと同じ形の白い封筒で、深紅の封蝋のシールが五つ 貼ってあった。封筒とシールはどこまでも正規のとおりである。「リリアナ・バルドゥッ チの自筆遺言状」 三人の係官、というよりむしろ、フーミ警部とイングラヴァッロは直ちに封筒を開き、 「あわれな夫人の遺言」を読みあげることに決めたが、そのさい、呼びもどされたバル ドゥッチのほか、ドン・コルピと四人の証人を前に供述をとることとした。遺言とはいっ てもニカ月まえにさかのぽるものだが、変更されていない以上、それが最終的なもので ある。 76 第4章 それに先き立ち、王室公証人であるミラノ街のガエターノ・デ・マリーニ、二九二・七 八四に電話で相談をしたが、ドン・ロレンツォの話によると、この人物は「きっと事情に 通じていらっしゃるにちがいありません」。電話を一度、二度とかけて、やっと通じた。 耳が遠かった。ナポリ出身の秘書が電話口で当人を助けた。ふたりとも仰天した。バル ドゥッチはデ・マリーニを知っていて、リリアナの父親も彼自身も再三、この人物の力を 借りたことがあるが、それでも、まさかリリアナが自分の遺言のことで、この当りがよく 老獪でこそあれ、権威という城塞の中でおそろしいほど耳の遠い年老いたピンハネのとこ ろへ出かけて行くなど、「まずあり得ないとして無視してもよいように思えた」のである。 証人として書記がふたりと警官がふたりえらばれた。儀式はすぐに終った。ほぼ正午で あった。何の結論も得ないまま、また午前が消えて行った。 その遺言をフーミ警部は高い声で、アクセントをはっきりつけて、次々に読みあげて いったが、ナポリふうの声が天井の四隅にひびきわたり、いつか、およそ予想もしていな かった展開が明らかになってきた。ちょうど、精神機能がそこなわれたわけではないが、 とにかく、特別な興奮状態で作成されたもののようであった。湾頭の海の精よろしく最も 調和のある口調で効果的に読みあげられた、そのやわらかい、熱っぽい、説得力のある朗 読を聞いているうちに、その場にいる人びとは好奇心の高まりと、おどろきの高まりのう きん ちに、あわれなバルドゥッチ夫人が何がしかの金と宝石をふくめた自分の財産の一部にか んして、夫を相続人としているのを理解した。いわば遺留分で、ほぼ半額にあたっていた のである。その一方、かなりの部分が「故ポムピリオとイレーネ・スピナッチの娘で、一 九一四年四月十五日にザガローロで生まれた通称ジーナという最愛のルイージア・ザン ケッティに」のこされたのである。彼女に、かわいそうな娘に「神の計り知れない意志が、 私に母となるよろこびを認めたまわなかかったが故に」 バルドゥッチは息をのんだ。いかにも自分に罪があるというような顔をしていた。とい うか、かなりの額がそっくり (ああ、それにしても何ということだろう) ザガローロのとこ ろに行くと考えたためではないか、そう解釈する方が容易であろう。この後見人つきの娘 が成人するまで、遺産は管理の必要上から、誠実な人間でもあるふたりの管理人にゆだね られることになっていたが、そのひとりがバルドゥッチ、「私の夫のレーモ。エレウテリ オ・バルドゥッチ、血縁の上ではともかくも、精神的には、この孤独なルイッジャの父親」 であった。ルイージアの母親は、遺書によれば《許しがたい病気にかかっていて》(結核に プリアポマニア おそらくは 男 根 狂がまざったものだろう)、時々、愛人の肉屋ともどもティヴォリヘ飲み に出かけた。そこで、憲兵が「自己の資産により生活する能力なし」とか、世間的スキャ ンダルに類いする事件とかを理由に、強制的な退去命令をふりかざして彼女をザガローロ に追いかえすことのないようにするためには、通りいっぺんではすまされなかった。とこ ろで、その肉屋がどのようにしてか、はっきりとは分らないが、いつでも相手の憲兵をう まいぐあいに黙らせるのであった。それはきっと《一等のヒレ肉》(第一級品) という反ば くのしようのない議論をもってしたのであろう。つまり、かわいそうな病身の女性にはザ うつ ガローロの稀薄な空気や、それにともなう空ろな食欲よりも、むしろ自分のところのロー ストビーフをやるにしくはないというのである。また、じゅうたんのように彼女を叩くこ ともあり、そのたびに咳をしたり、かわいそうなことにエゾイチゴのゼリーとまではいか ないにしても、血を吐くのであった。「いったい、あたしが何をしたというんでしょう」滝 へつく少し前にヴィッラ・デステでスミレをつんだり、ヴィッラ・グレゴリアーナで三月 77 バ ッ フ ォ・ベ ル バ ヒナギクをつんだりしていた。ツァイスのレンズを装備した口ひげ野獣の未来の下臣は双 眼鏡のあの完全さを活かして、身なリのくずれたヴィーナスの丘のすべてを、チュートン ふうのやり方で少しずつ、草の葉の一枚一枚を見て行くように調べるうちに、突如として、 息をすったり吐いたりしているある種のクモが、太陽のもとに姿を浮かびあがらせている のをうまく見つけた。それはベデッケ*6 によればティヴォリのあらゆる茂みのなかでもと りわけグレゴリオ的な月桂樹の大きな茂みの影の異様な紛糾であった。ある種の工兵の上 着を着こんだある種の背中である。ただし、四本の脚と四本の足がついていたが、そのふ たつは逆になっていた。そして、その頑丈そのものの背中はみるからに、メトロノームど おりのリズムを刻んで交互に動いている抑えようのない刺戟のとりこになっていた。双眼 フェルヴァルトゥング 鏡をもったアザラシはそのとき、これは本部に報告しなければと考えた――「 本 フェルヴァルトゥング 、 本 ヴォー・イスト・デン・ディー・フェルヴァルトゥング ドリューベン・リンクス ア ッ ゾ 部 ー 部 、……本部はいったいどこなんだ、左翼の向うか、ああ、そうだ……」そし て長い時間をかけ、汗を流して、やっと見つけたのである。ところが、そこには人っ子ひ とりいなかった、というのも食事に家へ帰り、そのうえ、食後にひと眠りしていたからで ある。ドメニコ神父は次の日曜日の九時に、サン・フランチェスコの説教壇から大声でわ めいた。大した肺である。それは総じていえば、恥知らずな女たちを相手に述べたてたの であり、そういう連中には地獄こそ、それも下の下の地獄こそ似つかわしいと保証した。 これこそ最適の整理法というのである。そして三つ折りの絵ではないが、そこここで頭を ふりまわすかと思うと、こぶしを突きあげるといったふうで、ちょうどマルタにひと言、 マッダレーナにひと言、ピエトロにひと言、パオロにもひと言と万遍なしに話しているよ うであった。だが、最初のどなり声か口をついて出たそのときから、どういう効果をね らったものか誰にもわかっていた。出目金のような口をし、憤りもあらわであったが、そ れが最初は何者かを一刀両断とするにちがいないとみえながら、のちには静かに、静かに おさまりかえったのである。そして、いきなり、悪魔の頭をなぐりに行き、それでうっぶ んをぶちまけるのにはとどめをうった。悪魔の方はおどかされたあまり、ひっそりとし、 潜行して黙りこくってしまった。で、それからというものは、「神の至高の摂理によって、 汝らこのティブールにありあまるほどにめぐまれた自然の美」へと向かって、やさしくや さしく上って行ったが、もちろん「あの一八二六年の地球を覆う大洪水とわがアニエーネ 河のおそるべき出水以降、ローマ教皇グレゴリオ十六世の用心ぶかい手によってこの古来 の地にかくも用心ぶかくほどこされた芸術と祖国愛の驚異」を目ざしたことはいうまでも ない。水源地からさして離れておらず、海抜一、〇六ニメートルのフィレッティーノ生ま れだということで、アニエーネ河の出水について誇らしい気持ちをいだいていた。「どこ にでも待機していて、ご存じのとおりどこででも生物を破減させ、救済から魂をうばい取 り得る、そうした闇の有毒な悪臭を放つ吐息によって」、例の驚異にしても、あの美にし ても「残念ながら、今日では汚される運命にあり」、ヴィッラ・グレゴリアーナですらも その例外ではない。 救いようのない事態に至ったとあって、フーミ警部はまごつき、咳をしたが、それはパ ン粉か何かが気管の変な所へ入りかけたときのようである。熱中して読んでいたため、あ の箇所で唾を少し、わきの方へのみこんでしまったからだ。さあ、それからというもの、 咳の発作が肺の蝶番をはずしたがっているのではないかと思えるほどであった。 顔はせいぜい紅潮気味というところであったが、額の血管はふくらみ、身体の仕組み全 *6 ベデカーの案内書のことか。 78 第4章 体も体内の火薬の爆燃によって腫れあがっていたものの、本人を爆破してしまうところま ではいっていなかった。どうにか持ちなおしたが、これは背中を叩いてもらったおかげで ある。しだいに正常に復していったばかりか、声などは澄んだぐらいである。いま、彼の 話を聞いていると、弁護の結論を読みあげるあの陰気な口調に沈み、表面は落ちついた感 じをただよわせながら、実はもっと悪い事態を覚悟している、つまり、悪魔的な心の高ぶ りとともに、「孤独なルイッジャ」の気持ちが爆発するのを待っているというふうであっ た。ロモロとマティルデ・ラビッティの子、生まれは……という従兄弟のジュリアーノ・ ヴァルダレーナには四万八千リラというまずまずの金額をのこします。次にダイヤの指輪 「これは祖父の騎士爵である官吏ルティリオ・ヴァルダレーナから遺産としてわたしに残 シ ツ タ されたものです。さらに宝石の鎖飾りをつけた時計の金鎖」(文字どおりでは、nec aliter) きん 「これ ((それ以外にありようがない)) また同じ人物のものであります」 。次に「金の飾りの ついたベッコウの嗅ぎたばこ入れ」、さいごに縞メノウのどんぐりや青金石の球、これま た父方の親類から伝わったものであり、「私のことを常に、天井から祈る姉として思い出 しては、ヴァルダレーナ祖父母や、忘れ難いペッペおじさんの輝かしい鑑に従ってもらう よう」(事実、ペッペおじさんはノメンターナ街のファシストに強制的に寄付をさせられ ていたが、レジーナ通り三二六番地で一九二五年にもなおベッコウからたばこを喚いでい たのである)「そして、生にあっても死にあっても、神の許しになじみ得るような善の道、 唯一の道を常に歩むよう心がけていただきたいと思います」さらにサン・カミッロ養老院 に中風の身を横たえる年老いた元の女中ローザ・タッディのことも忘れなければ、アルバ ノの処女で、中風なんか糞くらえと、高い沈黙の冠をいただき、目を稲妻のように輝かし ているアッスンタ・クロッキァパイーニ (実はクロッキァパーニで、肉筆であるための読 みちがえか、あるいはフーミ警部が見落したのであろう) のことも忘れていなかった。「そ の花咲く青春の故にこれからさき、わたくしの女としての心のすべてをあげて、キリスト のひとりの末商である彼女の至福をねがい、祈ります」特にアッスンタにはダブルベッド 用のシーツ六枚、枕カバー十八枚、それにひとつひとつ区別のつくように縁どりをつけた タオルを十二枚のこしてあった。それにつづいてさまざまな遺産がのこされたが、婦人た ちの運動や組織にあてたもので、決してないがしろにはできないものばかりであった。ま た、. 何がしかの遺産が聖オルソーラの修道女たちや、知人、友人、さらには幼女や娘た ちにのこされたが、その子たちは「今日は無邪気な柔らかい花でも、明日は天なる父の保 護をうけて、わがイタリアにとって祝福すべき母となることでしょう」。 さいごに、二万リラ入りの財布が、同じくこの場に居あわせて、聞き耳を立てながら、 そうしたふりはみじんも見せないドン・コルピに、黒檀の十字架がついた象牙の受難像と もども贈られてあった。「このイバラの谷にあって親身な忠告と、教会の教理をもってわ たくしを助けてきてくださったように、天の希望にいたる浄化の道すじでも、その良き祈 りによってわたくしに力を貸してくださいますよう」 「これだけの婦人はそうそうはいないぜ」とフーミ警部は右手のふたつの関節でその悲 しい書類をたたきながら叫んだが、その書類の上を虐殺された女の優しい手が、かつては なぞっていたのである (そうしている間、彼は左手にその書類をもっていた)。 みんな、だまりこくっていた。バルドゥヅチはさきほどの分配額に異論をとなえるでも なく、まっさきに目に涙をうかべたようにみえた。もっとも、実さいにはそれほどのこと はなかったのだが、やはり心を打たれたような様子はみせていた。熱っぼく演繹的な声と 79 言葉のひびきが全員を納得させたといってもよいようで、ある者は受諾し、ある者はあき らめたが、それは神の意思というマントの下に、狼狽した魂を呼び集めたところを思わせ た。男性的でナポリふうの美声が演繹の澄んだ水底から浮きあがってくるところは、海の 乳白色のなかからガヨーラの月光の下に現わ セイレーン れる海の精の清らかな裸体にも似て、解放感にあふれながら、コンマのある箇所に来る たびに、猛り狂って決めつける口調となるため、北国のある種の野獣や、妻をめとって兇 暴になった傭兵隊長さながらという風情もあった(ガソリンのかがり火をたいて)。たと えば谷に向う流れや、深みの呼びかける方へ向う流れの質い水路に翻弄されるコルクのよ うな、そういうしあわせな議論に聞き入るのは、われわれの耳にそれはそれは快いもので ある。響きの流暢さは論理の流暢さのシンボルにほかならない。エレア学派の陳述の水準 は形を変えて流れ出し、精神の分裂や二分のなかで、あるいは可能性の盲日的な交替のな かで沸きかえりながら、緊急性、好奇心、熱望、予期、疑惑、苦悶、弁証法的期待といっ たものにあふれたドラマチックなヘラクレス的流出πανγα δε πσλεμοζ のう ちに永続して行くのである。聞き手はどんな方角ででも考えることができるようになる。 反対意見の側からする. 要求はその音楽的な悦楽のうち跡形もなくなり、ちょうどジャー ノ神*7 を正面から眺め、すぐそのあとを後ろから見るように、新らしい鼻をひとつ、ちゃ んとつけているのであった。 みんなが黙りこくった。 実のところ少々常軌を逸していると思われるその原文を、こうして、多大の関心をこめ て読んだり、読むのを聞いているうちに、誰もがこんなふうに考えたかもしれない。つま り、自筆の遺言状をしたためるにあたって、一種の狂気というか、予言者的な幻想のとり こになっていたあわれなリリアナは、あらかじめ自殺をはかってやろうと、その気になっ ていなかったとすると、すでに自分の最後を予知していたことになる。遺言状にはニヵ月 まえの一月十二日の日付けがついていたが、夫君の話によると彼女の誕生日にあ ベツアーナ たり、顕現日の少しあとであった。「のぽせあがった女のたわごとさ」と、ひそかに考え るものもあった。その筆跡にしても、バルドゥッチやドン・チッチョ、ド・ロレンツォの 見たところ、何やら支離滅裂で、興奮した様子がみとめられ、筆跡学者だったらその鑑定 でかせがせてもらうところだ。現実の事態やその名称、シソボルから逃れて覚える異様な 恍惚感。人に知られることなく自殺をしようと考えるよりも英雄意識の方が容易にみてと れるその別離の快感。これは人が旅に足をふみ出して、それほどたたないうちに早くも、 自分が水べに、闇の岸べに立たされているのに気づいたときのものである。 イングラヴァッロは考えていた。降誕祭が、ご降誕の絵の類いが、顕現節が……幼児た ちの姿や、プレゼント、目束方の三博士たちの姿によって……幼な児イエスの下に輝く黄 金色の光線や……馬小屋の藁、聖なる泉の光などによって……ちょうど頭のなかの黒雲の ように、夫人のある種の憂うつな固定観念を固めたこともあり得るのではないか。あの一 月十二日に。彼はそこまで考えたのであった。あわれな遺言者はあの時点では、一切の感 情がまっとうであるはずはなかった。しかたがあるまい。ところが……ところが、決めた 条項はそのままにしてきたのである。何ひとつ変えなかった、その後になっても、二月に なっても、三月になっても変えなかった。一字一句も変えなかったのである。そういうわ けで、ドン・コルピには「隠しておくよう、忘れてしまうよう」にいいふくめて、その遺 *7 古代イタリアの神。人口の守備をつかさどり、頭の前と後ろの両方に顔がある。 80 第4章 言状をゆだねた。 自分の生命のあるかぎりは忘れていようというのだから、いわばあの不名誉な財産のリ ストが、一刻も早く埋められるのを見たいというのと同しで、謎めいたいい方である。と はいえ、ドン・チッチョには明白そのものであった。この財産というのは、自分自身が最 終的に消減したとき、はじめて分散することが許されるものである。それは来る日日ごと に彼女を義務へ、あるいは生きるということのむなしい道理へとひきもどすのであり、そ の間、魂はすでに、用のなくなった国から母国の静寂へと一種の退去 (いとしい魂よ) を しかけていたのである。町と人びとはひょっとすると行く手を知っていたかもしれない。 彼女、リリアナは……。陳列台や呼び声のことは忘れ、オパールの短い翼をつけると、別 れの言葉が次々とささやかれ、すでになまあたたかい壁が夜にと色をかえているその甘い 頃あいに、ヘルメスは彼本来の姿を彼女のまえに現わし、最後に沈黙の. 威厳をこめて、 ドアを見やったかもしれない。このドアを通って人は他界して行き、そのたびに群衆は語 らいながら都市へ向かって下りて行く、まだまだ許せる余地のある虚栄へと下りて行く。 《Evasi, effugi: spes et fortuna valete: nil nihi vobiscum est: ludificate alios》とラテラ ノ博物館に記してあった。石棺である。リリアナはその言葉をおぼえていた。それを訳し てほしいと彼に頼んだのである。 あのようにして他人にやってしまい、贈ってしまい、分げてやるとは、とイングラヴァッ ロは考えた。これはつまり、彼なりの見方をすれば、肉欲とはおよそ無縁のやり口であ り、ということは女性 (彼はある程度までブルジョアの女たちのことを考えていた) の精 神から離れたやり口である。女性の精神というものは反対に、現金化したり、贈り物をさ そい出したり、蓄積したり、自分や子供たちのために白や黒や乳白色のをとっておいたり する傾向がある。ところが、それでいて、自分自身や自分の首、自分の鼻、耳たぶや唇を 飾り立てるだんになると、十万リラのお札を煙にしてでも、他人にはやらずに浪費した り、ばらまいたりする。ただし――そして、ドン・チッチョはあらかじめそうなるつもり だったというような錯乱状態になって憤激するのだが――ただし、競争相手のためには決 してそのようなことはしてやらない、まして、相手が自分より若いライバルならばなおさ らのことである。最も貴重なものをすべて、鍵をかけておかなければいけないようなも の、そしてシーツといったものを、人間の心の法則に反してまで、風に舞う花びらのよう に、小川に浮かぶ花のようにああして投げすて、ばらまいてしまうということは、たとえ それが贈り物であっても、口先きだけの贈り物であっても、自分のではないものを贈るの であっても、結局、彼、ドン・チッチョの目には、あの犠牲者である夫人の感情の変化と も、欲求不満な女たちとか心に痛手をうけた女たちの典型的な精神錯乱とも映ったのであ パ ニ ッ ク る。それはまさに牧神的な性質の分離、混沌への傾き、つまり、最初から、原初的なもの から改めてやりなおしたいという渇望であり、「不明瞭なものへの回帰」である。それと いうのも、不明瞭なものだけが、つまり深刻とか暗黒とかいったものだけが、一連の決心 にあたって新しい法悦を、すなわち新たにされた形式、新たにされた運命を開くことがで きるからである。信仰の抑制的な力、さらにいえば共制的な力*8 、つまり教義の公式な表 明といったものがリリアナにとって、依然として効力があるということもこれまた事実で あり、象徴は光として、確信として作用していたのである。魂のなかが照り輝いていた。 レンマ イングラヴァッロはこのように思いめぐらしていた。十二の補説が結果として彼女の精神 *8 『強制的』をもじった形容詞。 81 錯乱に道を通じて、完全に合法的な自筆遺言状という漏斗にまで行きつかせたのであっ た。死のバランスシートは最後の一銭にいたるまできちんとけりがつけられていた。聴聞 司祭と公証人のむこうにはミセリコルディア会*9 の透明な空間がある。あるいは、ほかの 人びとにとっては、存在しないという自由、自由の時代がある。 女性の人格というものは――イングラヴァッロはいかにも自分自身にいいきかすよう に、頭のなかでつぶやいた――いったい、どういうことなのだろう……卵巣の上へ典型的 な形で重力が集中してのしかかっている女性の人格は、皮質のはたらきそのものが女性の 大脳の場合、男性的要素の推論、もしそれが推論と呼べるとしてのことであるが、その推 論の習得と改作に現われたり、さらに率直にいえば女性が尊敬してきた人物、つまり教授 とか、勲三等者とか、婦人科医とか、金のかかる弁護士とか、キッジュ宮殿のバルコニイ にいる悪臭ふんぶんたる男とか、そういう連中によって広められた言葉の反響言語的再編 集に現われたりするという点で男性の人格との見分けがつくのである。女性の道徳性・個 性は愛情の凝縮や凝塊を夫とか、それに代る人物に向けて行くのであり、暗黙のうちに了 解される忠告の日々の託宣は自分の偶像の唇に求める。それというのも、自分なデルポイ の礼拝堂のアポロになぞらえないような男性はいないからである. 女性の魂 (マコンティ アクム*10 の宗教会議は五八九年に、女性に魂を許した。一票差の多数決である) のきわ だった反響言語的特質に引きずられるまま、女性は結婚という軸のまわりでひらひらと蝶 のように軽くたわむれたのである。それは柔らかい蝋のようなもので、封印から痕跡を求 め、夫には言葉と愛情、エトスとバトスを求めるのである。そこから、つまり夫から出て くるのが、あの子供たちのゆっくりしたきびしい成熟ぶりであり、悲しい転落ぶりであ る。そして、イングラヴァッロはこんなふうに判決を下した。子供たちがいない以上、あ の五十八歳の夫は自分に落度があるわけではないにせよ、よき友、といっても石膏細工の よき友に堕し、さらには家の心地よい飾りもの、室内アクセサリイ連盟の代議員で書記 長、夫の単なるイメージあるいはマネキン、そういっだものに堕してしまう。つまり、男 性は一般的にいって (女性の無意識な習得のなかで) あやつり人形、つまり、カーニバル 用の作りものの大きな頭をつけた無駄な動物にまで、格が下げられてしまう。役に立たな い道具、溝がすリヘってしまったねじ錐である。 すでに盛りをすぎ、花びらを風に返した花や花冠のように、そのあわれなひとが目己分 解を起すのはそういうときである。甘く疲れた魂は赤十字へととんで行き、無意識のうち に「夫をすて」、有性の要素にかんするかぎり、いっさいの男をすてるのである。機能的 に雄をねたましく思い、わずかに子供だけをなぐさめとする彼女の人格は、その肝心の子 供がないとあっては、どうしても一種の絶望な嫉妬心にとらわれるし、同時に、性のこと にかんしていえば、いやおうなしに姉妹のようなσυμπατιαをおびることになる。 昇華された同性愛、という形式、つまり形而上的な父性をおびることも考えられ得る。 神に忘れられた彼女は――そしてイングラヴァッロはいま、悲しみと恨みに逆上していた ――夢のなかで尼たちの多産の子宮を愛撫し接吻する。庭の花々にかこまれて、よその女 たちの子供たちをながめ、泣く。「自分の」子供をもつためとあれば、そして彼女もまた 自分の赤子を「作る」ためとあれば、修道女のところにも、孤児院にも出かけて行く。そ うしている間に、歳月はその暗い洞窟のなかから呼びかける。教育者的な慈愛が年々、愛 *9 *10 あわれみの意味 ドイツの都市マインツの古名。宗教都市。 82 第4章 の甘い酒びんを取りかえてきた。 * * * そうこうするうちに、ヴァルダレーナの家で綿密な (当然なことではあろうが) 家宅捜 索を行なう命令が下り、実行された結果、別の事態がひとつ起ったのである。ヴァルダ レーナはプラーティに住んでいた。ニコテーラ街のきれいな、寝室兼書斎のある小さな屋 敷である。いまは彼のかわりに、その若者用のベッドで、家族にまざり、あるいはおばあ さん (リリアナのおばさんのマリエッタ) のところで、こたつは取りのけ、足温器はそのま まに、ロミルダおばさんの小柄な骨の塊りがうずくまり、眠っていた。これはあの忘れよ うに忘れられないペッペおじさんの未亡人である。そのニコテーラ街のタンスの大理石板 の上でリリアナの肖像写真が「発見された」。タンスのなかはというと、いちばん上の引 き出しに、ダイヤのついた男物の金の指輪があり、また、非常に重く、非常に長い時計用 の金鎖もあった。「こいつは船にも使える鎖ですなあ」とバルドゥッチにそれを見せなが らイングラヴァッロがいった。バルドウッチはそのふたつの品物がかつては妻の「宝物」 に入っていたことを認めた. 別に恨みがましい様子もなければ、格別、おどろいたふうも なかった。 その鎖の一端は例のバネつきの止め金という仕組み (時計の鎖目につける) になってい て、反対側の先端はチョッキのボタソ穴に通るよう、先こそとがっていないが、金のピン の形になっていた。ボタソ穴は当時は十二あって、上 ア ド・リ ビ ト ウ ム の方の九つのうち、どれにつけてもよかった。(ボタン穴のえらび方で「人柄がうかが われる」) それから、ベンダントのホックがあった。 バルドゥッチはすぐに、この大きなぶらぶら揺れているペンダントの石か変っているの に気づいた。それは一種の遺物箱といってもよかった。卵型である。金側で、同じく金の あぶみのようなものに吊るされたごく小さなブレート、目に見えないぐらい小さな二木の 軸で両脇を突けば、ぶらぶらゆれるし、また弧を描いてくるくる回るようにもなってい きん る。金、金である。すべてが金であった。完全な金、純金、美しい金、赤い金、黄色い金、 それがおじいさんたちの節くれだった指や、かさかさの腕につけられていた。ところが、 今日では不幸や悪疫にあふれた不快な反故紙、あるいは風に舞ううつろな無価値なものに なりさがっている。飢餓のなまぐさい風が、キロあたり三百リラの石鹸とともに吹いてく る。枠のなかに非常に美しい碧玉がはめこまれていて、指で引っくりかえすと、裏側は金 の薄板でおおわれている。形はといえば楕円だが、これは当然である。血のような碧玉、 沼地の葉っばそのものといったつやつやした感じの暗緑色の石で、フォルリ風、あるいは マンテーニャ風の建築様式の宮殿や、壁にカスターニョのアンドレアの四角い大理、石が はめこんである宮殿などに住んでいる秘密の紳土向けに上品なカットをしたり、角をつけ たり、アーチのような弓形にされたりする。サンゴの縞のように、赤土と同じ朱色の細い 筋がついていて、まさに夢に出てくる緑の肉*11 のなかに凝固した血というところである。 GV というふたつの文字の組みあわせが、いわゆるゴチックふうの書体を使い、宝石彫刻 の技術でからみあわせ、織りあわせて描かれている。裏側はすべすべし、精密な感じで、 *11 新しい肉。 83 明るい金の坂になっている。 こうしたものはすべて、バルドゥッチが以前にそこで見かけた青灰色のオパールにかわ る新しいものである。以前のは表と裏と両面のある石で、実に美しいものでしたと、イ ングラヴァッロに説明してくれたが、しかし月下の石、悲しげな石、北国の空のような ニ ュ イ・ド・サ ン・ペ テ ル ブ ル グ (聖ベテルブルグの夜)、あるいはまた、緯度六十度の黄昏=払暁に冷たい光の下に置かれ、 徐々に凍結されて行く珪土の接着剤のように、ミルク色が甘く、一面にひろがっている。 一面にはルティリオ・ヴァルダレーナの RV の組み合わせ文字が刻まれ、裏側の面はすべ すべだった。これはヴァルダレーナ家全員の原型であるおじいさんの名前で、この人物は 幼少のころはブロンドの髪をしていた、赤いブロンドだったという話である。そのおじい さんが死んだあと、鎖は (鎖飾りともども) ペッペおじさんの手にわたり、黄色い斑点の ついた黒ビロードのチョッキに数カ月間、月曜日とそのほか掟に定められた祭日ごと、ぶ ら下げられたのである。おじいさんがリリアナにそれを遺すつもろだったことは確かであ る。リリアナにである。だが、ルティリオおじいさんは一種の有効な介立遺贈という形 で、暫定的にペッペおじさんに遺したのである、ペッペおじさんについていえば、このオ パールの鎖飾りは時をうつさず効を奏した。といっても、あらゆる鎖飾りや、あらゆる大 小の角のなかでとりわけ情けぶかく、恩恵をほどこすような生あたたかさのある鎖飾りと してではなく、宝石の上品で憂うつな冷ややかさを ab aeterno (永続的) に充たしている 不吉な発癌的傾向のあるものとしてである。おじいさんの死後七ヶ月半、例の玩具を付録 とする父の遺言にのっとって、あの金鎖の所有権をリリアナに移譲するという、それこそ オバールのような義務からのがれられない破目となった。というのは、暗い表情のバル ドゥッチが、あのおじさんもついに忘れられない存在になられたと告げたのは、そのとき だからである。 「かわいそうな、愛するペッペおじさん」生きのこった人びとは涙を流していた。バル ドゥッチはいままた、故人の姪の夫として、心のなかの記憶の鏡に彼の顔かたちをながめ ていた。その鏡の中で肘掛椅予に落ちつき、クッションのスフレのなかに沈み、彼の話に 聞きいっている親族にかこまれてみると、アザラシなみの二本のきれいな灰色の口ひげ と、馬のような二本の大きな黄色い歯がおのずとさびしげな微笑をさそうのであった。そ れはキアンチアーノ浴場の元の賓客である「古いタイブの年おいた伊達男」にふさわし い、色あせた黄色を思わす善良な微笑であった。一方、ベッカーリ博士の意見にすっかり 身をまかせたという感じの姿勢をとっていることや、口ひげと、やや蒙古人的な感しのす る頬骨のせいもあって、家族のなかでは家族としてはもとより、ヴァルダレーナ一門とし ても挙げて誇りとするところであり、あの主の時代のものである青みをおびた鎖飾りは、 彼の黒いチョッキの、ちょうど十二指腸=肝臓のあたりに鎮座していたものである。介立 遺贈をうけた姪のほっそりした、蝋のような指でつまぐられながら、宝石は十二指腸と肝 臓の両方の上に、おそらくは、ほんの少しずつ、とどまっていたのであり、ふたりの愛人 に同時に気のある娘のようであった。そのオパールを身につけていた彼が病いに倒れたの は、厳密にいえば肝臓癌のせいであり、十二指腸にも仲間の癌がおともをして転移してい たのである。 むりやり引き出された二酸化物の強力な発散ぶりはどうだろう、それは下腹部にかかえ こんだお荷物のせいであり、汚ない話だが、ペッペの臓物の半分にも責任があるはずだ。 エレジイ 目に見えない光が証人として存在していたが、これは真似ごとではない哀歌の息子、裏を かえした護符であった。つまり、九月の遠い黎明の旗手であり、極地の半年の乳青色の 84 第4章 寡黙に仕える小姓であった。その高貴さからいえば、心に七つの窓をいだき、ロンチズ ヴァッレで眠りこけたある城主の伯爵、あるいは九月の牢獄のなかで突如として蒼白に なった子爵などの指を飾るにもふさわしい宝石である。二重のたたりをおびたものには二 重の顔があるのではないか、イングラヴァッロはそう推察していた。死体がふたつという 事態は二酸化物に由来したものにちがいない。十二指腸=肝臓をつなぐ癌は、癌医学をく じにたとえていえば、ヨーロッパにせよ、それ以外の地方にせよ、現代の癌医学というく じ占いをもってしても、そうめったには当りくじの出ない組合わせである。 みんなはたちまちのうちに恐怖にとらわれたようで、めいめいがその場、その場で鉄に さわりはじめた。「リリアナの場合はですな、さよう、わたしの見ところ、警部さん……」 と、こんどは、かわいそうなバルドゥッチまでが鳴咽をあげ、声をふるわせたのであった。 泣いていた。サント・ステーファノ・デル・カッコには、毎日といってもよいぐらい、呼 び出されていた。 ニコテーラ街では、バルコニーのそばの小さなデスクをさがしているうちに、ディ・ピ エトラントニオ巡査部長が一等巡査パオリッロの助けをかりて、一万リラも発見した。真 新しい千リラ札が十枚である。身うちの人びとはリリアナの死と、そのあとの、彼らにい かね わせれば独断的なやり方だという青年の逮捕とで、愕然とするばかりで、その金の由来 など説明のつけようがなかった。スタンダード・オイルは、二月末の通常の給料のあとに は、金を払ったおぼえはないといった。二万リラといえば大金である。ジュリアーノが一 年やそこらで、給料のなかからこれだけの貯蓄をするとは、まず考えられない。学校を出 たてで地位は下の方だし、代理店員といっても小僧である、美男子ではあるが。それに、 まぢかに追った結婚式の費用のこともある。まぢかだけに、もうある程度は便ってしまっ たともいえるわけだ。 俸給は確かにいいものであったし、ほかに手がけた仕事から来る余得もあって、マニ キュアやたばこを別にし、おばあさんのフェットウッチーネ*12 は別にしても、ローマで 食べて着て、洗って、アマリア夫人のきれいなバスつきの部屋代を払うことはできた。ド ン・チッチョにとっては全くうらやましいかぎりであったが、若者独得の魅力のおかげ で、女の方はそれほど金をかけなくてもすんだようである。「招待が多うございました」 というのが肉親の話であるが、この家の女主人、といってもこの屋敷の持ち主ではない が、この人も同じようなことをいっていた。「お部屋に連れておいででしたわ、ええ、い いえ、あの写真のご婦人ではありません。相当な家柄のご婦人がたでした……」(震える 声でこういった)。イングラヴァッロは非常に慎重に「頭のなかで」ひと息ついた。部屋 は出入りが自由だった。部屋にどんな特徴があるか、かぞえあげるにあたって、彼女、つ まりこの家の主人は、ちょうど建築の請負師が「眺めのいい場所で、バスも三つついてお ります」というときのように、まじめな、威厳のある声でいった。 「とりわけ、大がかりな招待がございました。というのも、みんな、あの方が好きでし たので」 「というよりも、女がみんなだろう」と、ドン・チッチョはアマリア夫人の大きな 目をじっと見つめながら、心のなかでぶつぶついった。その大きな目は青いふたつの三日 きん 月にかこまれ、その三日月は耳のところについている金のふたつの三日月と好一対をなし ており、耳の方のは頭をぐるりとまわしたとたんに. チンチンと音を立てそうに思えた。 ちょうど、サルタンの女奴隷の場合のように。 *12 ひも状のスパゲッティ。 85 イングラヴァッロは、その日すでに事情を聴取したヴァルダレーナに対し、何度目かの 訊問をくわえていた。夜になっていて、七時と半である。もうひとつ明るぐしてル、ろう と、机の上にまで下りてきている「特別の」電灯もともしてあった。そして、いきなり「犯 罪物件」を彼に見せつけた。つまり、例の鎖、ダイヤモソドの指輸、千リラ札十枚、本当 はこれらの物件のなかにリリアナの写真を入れるつもりはなかったのだが、それでも、結 局、いっしょに、その場に放り出した。ヴァルダレーナはリリアナの写真といっしょに机 かね の上にあったそのお金や品物を見ろと、さっと赤くなった。ドン・チッチョはそれらをか くしてあった新聞をとりのけて見せたのである。青年は腰をおろした。それから、ゆっく りともう一度、立ちあがって、額の汗をぬぐうと、落ちつきを取りもどし、獲物をうかが う相手の目を見つめた。首も頭もいっしょにいきなりゆさぶると、長髪がひとゆれした。 もうどうにでもなれと、思い決めたもののようである。ところが、そうではなくて、自分 の辛抱強いところを見せてやろう、自分も弁明をさせてもらわなくてはとばかりに、大胆 な、むしろ雄弁ともいえるぐらいの姿勢に出た。そして、半分間、黙りこくったあと、 「警 部さん」と声高にいったが、そこには、何といっても自分に聞係のある事実や、それに関 連した他人の感情の正当さを自分から訴えようとする人の自尊心がみとめられた。「人間 尊重の気持ちや、死んだ女性、かわいそうにも殺されたあの女性に対する尊敬の気持ち、 あるいはまた自分自身に対する恥ずかしさ、そういうところから沈黙を守っていました が、今となってはもう無駄です。リリアナ、かわいそうな従姉妹、そうです、わたしが好 きでした。それだけのことです。おそりく、愛してくれてはいなかったでしょう……。愛 してはくれませんでした。それはつまり……ほかの女が彼女の立場にあった場台、愛して くれるようには、という意味です。ああ、リリアナ。でも、もし女としての良心が」(発言 どおり)「許すならば、また彼女が生まれ育った宗教が許すならば……そうです、まちが いなくわたしにほれこんだはずです、狂ったようにわたしを愛してくれたはずです」イン グラヴァッロは青ざめた。「すべての女たちと同しようにね」 「そうです、すべての女たちと同じにです」 ヴァルダレーナは話が通じなかったようである。「彼女にとって、生涯で最大の夢は男 と結びつくことでした」と、陰うっな顔のドン・チッチョを見っめた.、 「男と、いやひょっ とすると蛇でもよかったかもしれません、待ちこがれていた子供を持たせてくれるのなら ですね。『彼女の』チ供、赤ん坊……でも、その後も長いこと無駄に待たされました、泣 きながら。泣いて、そして祈っていました。そして、歳月は誰もこれをとどめることがで きないと悟りはじめたとき、別れが来たのです。かわいそうなリリアナ。興奮状態のなか で目分の不能を認めたがりませんでした。認めなかったのです、ええ。言葉にして、唇に こそのせませんでしたが、ほかの相手とならばあるいはと想像そていました……よろしい ですか、警部さん、肉休的な自負というものがあるのです、人間の、内蔵の虚栄ですよ。 申しあげるまでもなく、われわれ男どもはひとによって多少の差はあっても、本質的には コ ル ソ みんな一群の……さよう、気どった七面鳥にすぎないのです。目抜き通リヘ散歩に行くの が好きなんですね。 しかし、女は女でやはり彼女らなりの頑固さがあります、肉体的頑固さと申しましょう か。このことは、わたしよりもあなたの方がよくご存じでしょう」イングラヴァッロは嵐 のように蔭気な顔色になり、胸が張りさける思いであった。「彼女、つまりリリアナとは、 いとこ同士でよくやるように、何度かさしむかいで話しあったものですから、よく分って 86 第4章 いもたが……彼女はいうなれば幻想に生きていました、ほかの男が相手ならという……ほ かの男ですよ!もっとも口先きだけのことですがね、自分なりの宗教をもっていて、それ に従っていたのです。そういうわけで、彼女は夢のなかで、心底、信じこみ、分っている つもりでいたのでしょうね……その他人が、その相手の男がこのわたしである場合もあり 得るというふうに……」 「なるほど」とドン・チッチョはいった。「心からおめでとうをいわせてもらいましょ」 ぞっとする渋面、タールでできた顔。 「笑わないでください、警部さん」留置人はその幼い蒼白な顔を百ワットの「特別な」 明りのなかで輝かしながら、大げさに叫んだ。「いけません、笑わないでください。リリ アナが何度もわたしに話してくれおです。そのたびに、レーモを愛していた……真剣に愛 していたと話してくれました。何というか、鵞鳥なみに間の抜けたところがあったのです ね、かわいそうに」イングラヴァッロも心のなかでは、それを認めないわけにはいかな かった。「ひとり娘ですからね。母親はいないし、経験はなし……」彼を愛していたのだ、 「彼に会った最初の日から」、当然でしょう。「いまだに愛し、尊敬していたのです、かわ いそうなリリアナ」その声にためらいが感じられたが、船を離礁させるように、思いなお して話しつづけた。「宗教を別にすれば、この世の何を以てしても、彼を裏切るなど、彼 女には考えもつかないことでした。でも、歳月が……そんなふうに、美しい歳月が愛の結 実をもてるという……そういう希望もなしに過ぎて行くのを見るのは……彼女にしてみれ ば拷問にもひとしい幻滅でした。子供ができなかったと知ったとき、女がみんな感じるよ うに、彼女も侮辱された思いだったのです。ほかの女たちが勝利をおさめ、自分たちは駄 目だったと考えれば、不快というより以上に、いらだちをおぽえるものです。人生のあら にが ゆる幻滅のなかで最も苦いものです。そういう次第で、彼女にとって、この世は倦怠以外 の何ものでもなく、また、悲嘆以外の何ものでもありませんでした。慰めなど、まったく 与えてくれない涙。倦怠、倦怠、倦怠。倦怠の沼。考えただけで、頭がおかしくなってし まいます」 「それはもういいでしょう、倦怠は倦怠で……。それより、鎖はどうですか、ダイヤモン ドはどうなのです。事実を話題にしましょう、ヴァルダレーナさん。どうも時間を無駄に しているように思えてならんのです。そのへんにしておきましょう、翼でとぶのは……ロ マンチックにとぶのはそれぐらいにするんですな」そういって、鳥を放ってやるような、 タカを青空へととばせてやるような仕草をしてみせた。「炉に吊るしたらよさそうな、こ の鎖のことでちょっとばかり話しあいましょう」そして、一端をもつと、鼻の下でぶらぶ らさせた。そして陰気そうに相手の目をじっと見つめていた。「この飾りものについてね」 そして、別の手で重さをはかっていた.「まったく、ちっぽけなもんですな」大いに興味を いだき、ちょうど、呼びこが手に落ちてきた大猿のように、仔細にながめてやろうという 様子であった。縮れ毛で真黒な、瀝青のような大きな頭を、指と、それから誰もが喉から 手の出るような金属の上に思いきりかがめたところは、混沌とした先入主な発散させるか に思えた。そして、この部屋の訴訟関係にふさわしい明るさは、そうした先入主が現われ るやいなや、いま見るようなぐあいに縮れ毛にしてしまい、きらきら輝く炭のような毛皮 さながらに、頭蓋骨の上にそのままの姿をとどめさせたかのようである。「リリアナ夫人 の遺書を読みました、御霊に平安あれ、気の毒な婦人でしたな。で、こういうものをあな たに残していったわけです」そういうと、鎖をおいて、テーブルから指輸を取りあげ、手 のひらに入れて重さをはかりはじめた。「というのはですな、バルドゥッチさんの話です 87 と、おじいさんのロミリオ老人が、ええと何という名前でしたか、ロミリオですか、同違 いありませんな、ああ、ルティリオでしたか。そのルティリオじいさんがですな、自分と 血のつながりのある孫たちに残したいと希んだわけです……家族のものにですな、ええ、 ええ分っていますとも、それはつまりあなたなんですよ、なにしろ一家のホープだから。 それにしても、どういう次第で、こうした品物をお宅で見つけることになったんでしょう オ ー ニ チ エ ぎょく な。オパールがどうして縞メノウに化けたんですかな。 玉 に……つまりです……碧玉に 化けたのでしょう……」 ジュリアーノは右手をさしあげたが、見るからに白く、生き生きしていて、ほんの微か に青い筋がついていたが、これは青春のしなやかな血管である。薬指には碧玉かはめて あったが、これは留置場でも別に販りあげることはしなかった。この指輪は二月二十日の 食事のあとコーヒーをのんでいる間、バルドッッチの指にはまっていたのを、イングラ ヴァッロはたしかに見た記憶があった。「こんなふうにつけていてほしいと、彼女がいっ ていたものですから」と答えた。「結婚をしてほしい、赤ちゃんを作ってほしいといって いました。あなたならきっとできるわ、いつもそういっていました。泣いていましたね。 実は結婚するつもりなんだ (最初は信じたがりませんでしたね)、ジェノアに引っこしする つもりなんだと話しまして、さっそく、レナータの写真を見せてやったわけです。そうで すね、ほかの女とはちがいますから、焼きもちをやいていたとはいえません……それどこ かた ろか、とってもきれいな方ね、などといっていました。もっとも、歯ぎしりはしていたよ うですが、少しばかり。ブルーネットじゃないの。きれいなお嬢さんね、あなたにぴった りよ、だって、あなたは天使のようなブロンドですもの。そんなふうにいって、泣き出し ました。さて、結婚のことを納得し、わたしが口先きだけでいっているのではないと知る と、いきなりです……警部さん、あなたには信じていただけないでしょうが……わたしは 自分の頭がおかしくなるんではないかと思うんですが……いきなりわたしに誓いを立てさ せるのです、早く早く、できるだけ早く赤ちゃんを作れというのです、ヴァルダレーナ坊 やをですね。ヴァルダレーナちゃんをと、涙ながらにいっていました、誓ってちょうだ い、大事な、大事な人というふうに。狂っていました、かわいそうなリリアナ、彼女と同 じ立場に立てば、女はみんなああなろでしょうね。かわいそうなリリアナ。で、彼女か引 きとるというのです、その生まれた子をです。というのはわたしとレナータは彼女の話で すと、すぐに館二、第三、第四と生んで行くので、そうした子供たちが生まれたら、その ときわたしたちのものにすればよい。とにかく、第一子に対する権利は自分にある、こん なふうに彼女はいっておりました。神さまはわたしたちふたり、つまり、レナータとわた しに、好きなだけの子供をめぐんでくださるそうです。というのも、主はある人にはすべ かた てをあたえても、ある人には何もあたえない、そういうお方だと彼女はいっておりまし た」事実、主の神秘的な完全さが現われるのは、まさにこういった形においてである。「あ なたは若いのだから、そういっていました、健康なのだからと……(サンゴのこぶしのよ うにね、とわたしならいいたいところです)……ヴァルダレーナ家の人にふさわしく。結 婚したら、とたんに子供ができますよ、わたしにはその姿が見えるよう、その声が聞こえ るようです……子供ができる、その途中にまでも、まだ行ってないかもしれないけれど。 そういって、笑い、泣いていました。とにかく、その子を私にくれると誓っていただかな くてはなりませんわ。で、結局、その子を引きとらせることにしました、彼女の子供とし てですね。 で、ぼくの子供をあげたとして、ぽくには何をくれるつもりかと、わたしは一度聞いて 88 第4章 みました。クリスマスは終っていました、新年かな……顕現節もすんでいました。そうそ う、一月もなかばをすぎていましたっけ。わたしは冗談をいっていたのです。彼女はうな だれました。どうやら考えはじめたようです……疲れて、悲しそうに。交換でわたしにく れようにも何ももっておらず、お慈悲をこわなくてはならない、そんなあわれな女のよう にみえました。愛ですって。いやいや、そんなものはいりませんでした、愛を口にするつ もりなんかありません、冗談をいっていたのです。彼女は真青になって、椅子に身を投げ たところは、いかにも絶望したという様子でした」イングラヴァッロもまた青くなった。 「祈るようにして、ふたつの目でわたしを見つめました。その目がくらみました。わたし の指をとりました、右手のです。そして、母の指輪を見つめました、ここにあるこれです。 そして、抜きとりはじめました、数日間、貸してほしいというのてす、なぜか聞いてみま した。なぜかっていうと、そうね、なぜかっていうと、あなたにさしあげる贈り物と台わ せてみなくてはならないから。それで、わたしてやりました。で、その次ぎ出かけて行っ たとき――レーモは旅に出ていて、パドヴァにいました。私はそれと知らないまま、会い に行ったのです――その次ぎのとき……わたしを見るとすぐ、指輪を返してくれて、その あと、別に話もせず、わたしに向かって合図をしました……坊やたちにしてみせるよう に微笑みかけてきたのです。さあ、といって、わたしを見つめていました、さあ。わたし の手をとり、薬指に霊のを、おじいさんの指輪をはめてくれました。で、母のはごらんの ように中指にはめているわけです。さあ、ジュリアーノ、注意してね、おじいさんの指輪 ですよ、わたしのおじいさんで、あなたのおじいさん、というより、ひいおじいさんね、 あなたにとっては。何てきれいで、人が好くて、強い人だったでしょう。本当の男だった わ、あなたのように、あなたのように」(その、あなたのように、あなたのようにという言 葉がブルドッグに歯ぎしりをさせた)。「で、これがおじいさんの鎖です……それから、あ れも (というのが、ニコテーラ街でわたしの家から押収されたここにあるこれです) わた しに見せてくれて、目を写真の方に向けました、ご存じですね、あの楕円形をしていて、 金の枠に入り、、ツタの葉がついているあれです」 「ツタの葉ですって」 「そうです、今にあったあの濃い緑の葉です。おじいさん、ルティリオおじいさんの大 きな肖像です。そのおなかの上には、まだこの鎖がのっかっています。ほかでもない、こ れがそうです」悲しそうに片手をテーブルに伸ばして、それに触れた。「鎖飾りもつい て……」と頭をふった。「それからいうのです、リリアナは、かわいそうなリリアナは…… わたしにいいました、あなたジェノヴァに行かなくてはならないとおっしゃったわね。で も、結婚をするまえに家の用意をする必要があるわ、アルバーロの岸べでしょ。ジェノ ヴァっ子相手では冗談半分というわけにはまいりません。わたしには分かります。ごら んになって。わたしは見ました、いけませんといいました、いや、それはいけない、リリ アナ。何をするんです……これしきのことで、さわがないでください、あなたのような、 れっきとした男が何ですか、といいだすのです。男の人の必需品、結婚する人に何が必要 かぐらい分っておりますわ。さあ受けとって、とにかく、受けとってください。受けとっ てくださるよう申しあげてますのよ。受けとってください。どうぞ、わたくしをよろこ ばせてください、おねがいです、女をこんなふうに疲れさせないで。いいですわね、疲れ て面白いわけがないでしょう。さあ、わたしはよけました、いやだったのです、逃げ出す ような素振りもみせました、間に椅子を置いたりして……。さあ。わたしの腕をとらえる と、ポケットに封筒を押しこみました。あれです……」そして、机の上のお札の方を、あ 89 ごでしゃくってみせた。「一万リラ……もうじきニヵ月になります、一月二十五日のこと でした、おぼえています。それから、鎖もくれようとしました。何が何でもというふうで す。しかたがありませんでした、信じてください」イングラヴァッロはすべてに強い疑念 をいだいた。「わたしたちは居間にいたのです」それから、考えぶかげにつづけた。 「しかし、鎖には何もついていませんでした、つまり、その縁起でもない鎮飾りという しろもののことですがね。そして、明日にもチェッケレッリのところに寄ってくださいと いラのです、金細工師のことです。ほんの二、三分でいい、その間に石をつけてくれます から、お分りね……何がお分りねでしょう、まあ、とにかく出かけました。あなたもよく ご存じのはずね、あの石がついていたのを、ほら何度もお見せしたでしょ。でも、あれは 変えてしまったの、そんなふうに彼女はいっていました。オパールを碧玉にかえました の。あなたの指輪についている、ほら、こちらのとあわせなければいけなかったものです から。だからこそ、前の週に自分の手もとに置いておきたがったのですね。それから、わ たしの手をとって見つめました。そして、いうのです。何てすてきなんでしょ、両方とも きん 何てよくあなたに合うんでしょ、金もいいわ、純金のように見えるわ、昔は実にいい金を 侮っていたものですね、戦前は。でも、これは母から記念にもらったものですよとわたし がいいました……あなたも知ってのとおり、母が技師と結婚してしばらくあとにね。あ づら ら、わたくしそういうお話存じませんわ、彼女は顔をしかめ、仏頂面をしていいました。 碧玉はわたしが入れてもらったものです。血色のまじった碧玉で、緑色に輝き、ルリハコ ベのように黒っぽく静まりかえリ、サンゴのような筋が二本入っています……赤いのが。 それは心臓の二本の血管のようです、一本はあなたのもの、一本はわたしのもの。カム ポ・マルツィオで自分がえらんたのですと彼女はいっていました。いまごろはもう刻んで しまったでしょうね、今朝はしあげることになっていますのよ、あなたの指輪のと同じ頭 文字かついているはずです。なぜって、もうあのオパールをわが家で見たくなかったんで すもの。さあ、厄払いをしましょう、そしてテーブルについている鍵にさわりました、お 分りですね。わたしにもさわらせました、にこにこしていました。ああ、実にきれいだっ たなあ」イングラヴァッロは陰気な顔で、その惰景を心に描いてみた。「もうこれ以上、家 のなかであのオパールを見たくありませんの。みんなのところに不運をもってくるように 思えるので。いいえ、いいえ、結構です、要りません。いまごろは、チェッケレッリがき ちんと仕上げていることでしょう。あのオパールは、そうですわ、そう、もうないのです (そして、もう一度、鍵にさわりました)。 もうないというのは、このわたしもほしくないからです、たとえ、おじいさんのもので あっても。あれは不幸を運んでくるということです。そして、事実、あのかわいそうな ペッペおじさんのことがありました……そうですね。癌でした。そのあと、また、つづけ て不幸が。誰が想像したでしょう、あんなふうになると。あんなに人が好かったのに、か わいそうなペッピーノおじさん。おねがいです、信じてください、警部さん。ひと言、ひ と言がわたしの心に焼きついているのです。あの顔はとうてい忘れることができません。 よく笑い、よく泣いていました。それに、あの贈り物の数々。いとこ同士の仲の良いシー ンもありました。ひょっとしたらラブシーンになっていたかもしれません。いや、ちが う、愛ということはありません、どう考えてもあり得ないことです」どうやら、気を取り なおしてきたよりだ。「まったく、おかしくて、ふき出したくなるようなところもありま した、かわいそうなリリアナ。それじゃあ、明日にも行ってね、いいえ、今日がいい、い ま行って、そんなふうにいっていました。約束してくださいな。そう、そう、カムポ・マ 90 第4章 ルツィオね、そう、チェッケレッリです、忘れないでください、あのピッツァ料理屋があ るルチナに着く少しまえです。そう、そう、ルチナのサン・ロレンツォです。そんなとぽ けたふりをしないで、よくご存じのくせして。でも、右側ですのよ」 イングラヴァッロはこの話を信用したくなかったし、そうすべきでもなかった。だが、 しだいしだいに、信じ難いと信じていたはずのことを、いつか本当だと信じるような気持 ちになって行くのが、自分にも分っていた。 「警部さん、わたしの話を聞いてください」とジュリアーノがおがむようにいった。「お そらく、彼女は頭がおかしかったのです。といっても、死人を、あのかわいそうな死人を 侮辱しようなどという気持ちはありません。ああいう死に方をしているだけに。でも、わ たしのいうことを聞いてください、警部さん。わたしは、彼女にとって、わたしは……わ たしには分っていたのです。わたしは……」 「あなたが……どうしたというのです」 「わたしは」ジュリアーノはややとまどいぎみで、神経質に笑い、自分自身をあざわらっ た。「わたしは彼女にしてみれば一族のチャンピオンのようなものでした。この名門ヴァ ルダレーナ家のですね。真面目な話、そうなのです。もし彼女にできれば、また、もし自 由だったら……。しかし、彼女の良心がありますし、それに……宗教もありますね。い や、ちがいます、彼女はそんな堕落した女ではありません」(発言どおり)「おおかたの女 とはちがいます」(発言どおり)「すベてはあの考えのせいでした、赤ん坊というあの考え に取りつかれていたせいです、わたしの話を信じてくたさい、あれは妄想だったのです、 強迫観念です、誰でもそれぐらいは分ったはずです。それが、彼女に筋道の通らないこと をさせていたのです。その観念の方が彼女より強かったのですね、信じてください、警部 さん」 ヴァルダレーナの主張には真実のひぴきと、真実のみのもつ明白な熱っぼさがあった。 「それでは鉄の小箱が消えたのはどう説明されますか、それに貯金通帳が二通消えたのは」 「わたしに分るわけがないでしょう」と青年はいった。「誰のしわざか、どうしてわたし に分るでしょう」そして警部を見つめた。「わたしに分っていれぱ、その人でなしこそ、 わたしのかわりにここへ入っているはずです。小箱ですって。そんなもの. 見たこともあ りません。鎖と指輪は一万リラともども、彼女がわたしにくれたものです。むりやり、わ たしにつかませたものです。その封筒をここへ隠してくれたのは、彼女当人だったのです よ」そして、手で腰を叩いた。「それに……レーモだって、そのことは知っているはずで す、ええ、そうですとも」 「いや、彼は何も知りませんでしたよ」イングラヴァッロはきびしい口調でいいかえし た。「いとこ同士のないしょごとでしょう」髪の毛が瀝青のように黒くなっているだけに、 顔色は土気色であった。「それに、あなたは」と、人さし指をつきつけて詰問した。「あな たは彼が知らないことをご存じだったのでしょう」ジュリアーノは赤面して、肩をすくめ た。「ですから、くりかえし申しあげますが、一万リラをくれたのは彼女だったのです。 上衣のここのところへ、そっと入れてくれたんですよ」そういって脇腹のところに触れ た。「あの封筒をですね、わたしの机からみなさんがもって行かれたあれをです」ドン・ チッチョは顔をしかめた。「そのとき、わたしは逃げたのです、走りましたね。食堂へか げこんで、冗談半分に中へ閉じこもってしまいました、カチリと鍵をかけたのです。わた しがなかへ入るとそのとたんに、彼女はノックをしました……そこで、開けてやると、食 雑棚の方に行きました……ビュッフェの方へですね」 91 「ほう、食堂ですか、食器だなのそばね。彼女ののどを切った、ちょうどその場所です な」イングラヴァッロの顔は今や蒼白で、狂暴でさえあった。ふたつの目は、まさに敵の 目であった。 「のどを切ったですって、でもね、警部さん、ニヵ月まえの話をしているんですよ、ま だ一月のことです、一月二十五目ですよ、前に申しあげたとおり。私たちがはじめてお会 いしたときからいっても……ほぼ二十日ほど前になりますか。そうだ、ひと月ほど前にな りますが、あなたもあそこの食事にみえてましたが、あの日曜日をおぼえておいでです か。そうだ、あの食事の日より二十日ほど前になります。そうそう、それからすぐのこと だったのだ、やれやれ。どうして、そこまで思いつかなかったのかな。チェッケレッリに ちょっとたずねてみてください、カムポ・マルツィオの金細工師にです。例の厄ばらいの 碧玉をとりに、自分で行ってきましたからし彼に証言してもらえますよ。彼はリリアナか らわたしに、直接、わたしに手わたすよう指示をうけてました、あの古いのにかえて、わ たしのイニシァルの入った新しい石がついている鎖飾りをですね。それも、おじいさんの 金鎖に直接、彼の手でつけるよういわれていたのです」そして、机の上にあるのを、あご でしゃくってみせた。「それもわたしが、このわたしが自分で持って行くといってあった のです。リリアナはきちんきちんとした人だけに、何もかもあらかじめ取り決めてあり ました。わたしの写真を前もって彼に見せてあったぐらいです。それでも、彼、チェッケ レッリは私が姿を現わすと身分証明書か何かの書類を見せてほしいというのです。身許を 証明する書類、そんないい方をしていました。それから、失礼を許してほしいといいまし た。しかし、あとで例の鎖をとり出したんですからね。これにまさる証明書はないでしょ うに……」 「二月二十目より二十日まえということですな、つまり。二十五日まえかもしれない、ま あいいでしょう。それでは、誰にも何ひとつ話されなかったというのは、どう説明したら いいでしょう。おばあさんに、あなたのおばさんに話されなかったのは。何ひとつ家の方 にお見せにならなかったというのは。あなたのいい方にしたがえば、結婚の贈り物でしょ きん うに。家宝の金でしょう。おじいさんたちの古い金、とあれば当然、孫たちの手に帰する べきもの。それを、どういうわけで、隠されたのです。また、バルドゥッチさんは今朝、 すっかりおどろいておられたが、これはどういうことでしょう。自分の……ひいおじいさ んの形見の品だったら……おばあさんに見せてさしあげるのが当然ではありませんか、た しか、ひいおじいさんの娘ですね」 「それをいうなら嫁でしょう、警部さん。ヴァルダレーナじいさん、つまリルティリオ じいさんは父の祖父です、つまり、手みじかにいえば、おじいさんの父親ですか」ドン・ チッチョは狂暴な目で相手を見つめた。こいつ、この期にのぞんで、人の首をしめる真似 をするつもりかと、そんな疑念にとらわれた。「ですから、わたしもまたヴァルダレーナ と呼ばれるのです。おばあさん、わたしをそだててくれたマリエッタおばあさんはルティ ・・・・ リオじいさんの息子の嫁だったのです」 「嫁さんね、嫁さん、分りましたとも。えっ。何ですって。嫁さんですって。あなたの お父さんのおじいさん、そうおっしゃいましたね。すると、リリアナ夫人は……あなたの おばさんにあたるわけですか」 「ちがいます。あのかわいそうなリリアナは、またいとこにあたるのです。一代さかの ぼることになります。たぶん、そのせいでしょうね、こんなにまで彼女が好きなのは。あ れだけ美しいのもそのためでしょう」ドン・チッチョは陰気な、アスファルトのような感 92 第4章 じで、相手の話を聞いていた。「彼女はフェリーチェおじさんの娘でした、フェリーチェ・ ヴァルダレーナおじさんで、この人は父のおじにあたり、父の父の兄弟でした。つまり、 リリアナと私の父は……ふつうのいとこ同士でした」 「わかりました、わかりましたとも。それで、いっさいを隠しておいたのですか。うん と注意ぶかくですか。おそらく、分けなければいけなくなるのが、心配なんでしょうな。 金鎖を分配する……貧しい人たちに分配するようになるのが、心配なんですな。アメデオ ニ世がアンヌンツィアータ勲章を分けてやったようにするのがね」 「ヴィットーリオ・アメデオですか……」 「ヴィットーリオ、ヴィットーリオね、分ってますとも。とにかく、貧しい親族に分け るのがいやなんでしょう、従兄弟の、そのまた従兄弟に分けるのがね」 「新しく生まれてきた、ひよっこ連中にはですね」詰問されている当人が冷たく笑った。 「それとも、バルドゥッチさんが、汽車から下りたとたん、ああした贈り物やお金をで すね……自分のものとして、おなかを少しでもふくらますのがこわかったのですか……」 「いや、いや、ちがいます」詰問されている男は、祈るような声でいった。「彼女はかわ いそうでした、彼女は。実はわたしも隠そうなどという気はなかったのです。彼女の方か らわたしにいい出したのです、注意してね、ジュリアーノ、わたくしたちだけのことにし ておかなくてはいけないの。わたくしたちだけの罪のない秘密にしましょうね、いとこ同 土の秘密……小説に出てくるみたい。美の秘密、わたくしたちふたりとも羨しくはないこ と? それから、期待しながら、得られなかった幸福の秘密。ああ、わたくし、何をいっ ているのでしょう。そういうと両手で顔をおおってしまいました。あなたは幸福を手に入 れられるようになるわ。そして、そのときこそ、いまの秘密が……ちょっと考えさせてく ださい、ふたつの善良な魂の秘密が、いまここにあるこの世界よりもよい世界でなら…… そうです、もっとちがった魂を形成していることでしょう。ところが、. いまここにある ようなこの世界では (ああ、警部さんが彼女に会っていてくださったらなあ、あのときの 彼女に)、ひとりはこちら、ひとりはあちらと、風に木の葉が引きちぎられるように、ち がった道を行かなければなりません.・まあ、何ということでしょう、今日という日は、ま た何とおろかな言葉が口をついて出ることかしら、と彼女はいっていました。わたくしと しては、こういうふうにすることで、あなたに幸福をお祈りしていますのよ。そして、あ なたがしなければいけないこと、それは赤ちゃんを作ることです、ジュリアーノ。ごめん なさいね、ごめんなさい。彼女は泣いていました。それから泣き笑いをし、今度は本当に 笑い出したほどです。楽しそうな、美しい表情で、赤ちゃんを作らなければいけないとい うのです。それもブロンドの子をね、おねがいよ。ちいちゃかった時のあなたのようなの をね、いつもにこにこしていて、おしっこをするときも、後ろ向きになったりせず、みん なに面と向かってやりたがったようなね」ドン・チッチョは机の上を少しかきまわしてや る必要があるんではないかと感じた。 「彼女はにこにこしていました。そして、レーモが帰ってきたら、何というかしらなど とわたしにいうのです。このわたくしが若い男に贈り物をしているなんていうことを知っ たら、どうでしょう。たとえ相手が従兄弟だとしても、これから結婚をする美男子の従兄 弟だとしても。ほかの娘と結婚するなんて、かわいそうなわたくし、そういって笑って いました。いいえ、だめだわ、おばあさんにも話してはいけないわ、かわいそうなお年寄 り。そう、お母さまにも話してはいけないわ、あなたがボローニヤに行かれるそのとき になってもね。誰にも話してはいげないことよ。誓ってちょうだい、わたくしは誓った 93 のよ……」 ドン・チッチョは冷や汗をかいた。物語り全体は理論的ないい方をすれば、作り話くさ かりた。しかし、青年の声やそのアクセント、その身ぶりは真実の声であった、いわゆる 真理の世界は作り話や悪夢をはりめぐらしたものにすぎない、と哲学者ぶって説明をつけ てもみた。そうなると、夢とおとぎ話の霧だけが真理の名に価いするわけである。そし て、あわれな木の葉の上に、光りの愛撫があるのだ。 歯の欠けた口に嘲笑をうかべ、何よりの特徴である黒い非戸の底から息をはいているそ の常識なるものが、早くもいまの物語りによってさんざんに愚弄されたあげくに、こんど はドン・チッチョの顔の不潔さを笑ってやろう、まだ騎士爵にもなっていないこのおまわ りさんのぼさぽさ頭に、狡猜な人びと特有の円満な NO という否定の言葉を投げつけて やろう、そんなふうに考えていた。しかし、思想は妨げることができない。思想がまっさ きにやってくる。人は夜からアイディアのひらめきを消し去ることはできない、少し汚れ たアイディアかもしれないが、のちになれば……笑い声が人びとの口から、魂からたのし く、卑猥に立ちのぽって行くとき、人は古代のみだらさを抑えたり、昔の地から寓話や不 滅のアテラナエの笑劇*13 を放逐したりすることはできない。それは、タチジャコウ草や、 メ ン ド ス ト ロ 野生のハッカや花ハッカなどから、それぞれ本来の芳香を取り去れないのと同じである。 それは風にのっている大地の、やせた山地の聖なる香りである。人ごみの都会から、人び とから、あらゆる町角から、あらゆる橋のてすりから、褐色の山肌から、そして山を上っ て生えているオリーヴ畑の、身体をたわめ、銀メッキをしたような民衆から立ちのぽって 行く。頂きの上の青みをおびた空気が、家々に、そして人びとのすべての屋根にふれて、 軽くゆらめくとき。熱い掃きだめが、冷たい、よみがえってくる期待の上に、真理のおと ぎ話のような期待の上に煙りをあげるとき。すべての畝が、煙の立ちのぼる耕地のなかに 溶けて行くとき。刈り込み刃のひと振りがオリーヴに実を結ばせ、欺瞞を剪定するとき。 と、もっと諭理的なやり方のほうが、はるかに自然で、はるかに単純ではないかという考 えが、悲しみと侮蔑の間に、イングラヴァッロの頭にひらめいたのである。というのも、 リリアナが本気になって、赤ん坊のことを真剣に考えているからには、例の美男子のごろ つき (それが今、自分の前にいるのだ) に故人の鎖を贈ったりしないで……金鎖から赤ん 坊など出てくるはずのないことは分りきっているではないか……そんなことをするかわり に、少しなりともその目的に似つかわしい、何かほかのおもちゃを彼に贈った方が、ずっ とてっとり早いのではなかったろうか。とすれば、いまの話は本当に作りものめいてく る。おろかというほかなく、喜劇と呼ぶほかない。 それに、本当らしさがない、これっぼっちもないのである。夫のバルドゥッチ氏は何と いっても夫である、あんまりみっともよくない夫だけれど。赤ん坊が出てこないとすれ ぷおとこ ば、彼の方が悪いのだ。あの醜男の方が、ほかの男たちのせいなどではない。歯ぎしりを すると、血の気のない顔色で、用箋類を赤表紙の紙ばさみにはさんだ。そして、ヴァルダ レーナを留置場へ引きあげさせた。 *13 ローマ演劇の原始形態。 95 第5章 ところが、チェッケレッリの供述にしても、「店の若い衆」、とはいっても眼鏡なかけて うんと痩せこけ、年寄りじみた感じのガッローネという色男や、アマルディとかアマル ディーニとかいう職人の供述にしても、ジュリアーノにとっては申し分なく有利なもの であった。チェッケレッリはふたりの供述に助けられながら、ニヵ月以上もまえこの哀 れなご婦入から頼まれた仕事や、鎖飾りを作るさまざまな工程についてこまごまと述べ 立てた。「結婚する身内の者にやりますの、あなたにお願いしたらいいと聞いて参りまし た」といったそうだ。婦人は騎士爵夫人にふさわしい金の指輪を見せてくれたが、それは それは大きく、山吹色で、目もさめるばかりの血の色の碧玉がついていて、G V と組合 せ文字が彫りこんであったが、それはいわゆるゴチック式の文字だったという。「鎖につ ける碧玉がいただきたいの、これに合うようなのが」といってその指輸を置いて行った。 彼は蝋でその型をとっておいた、まず組合せ文字を、それから、指輪の台に盛りあがっ ている石をそっくり型にとったのである。リリアナ・バルドゥッチはその後二度、店へ来 て、宝石を見せてもらい、五個のなかから一個をえらんでいた。この宝石は卸売りのディ ジェリーニ=コッチーニ社からわざわざ彼女のために取りよせたものであるが、何しろ同 社と彼のつきあいは長年にわたっており、そのため、宝石の貸し出しにも異議は出なかっ た。同じようにみんなが一致して認めたところにょると、結局その宝石、つまり、すべて のオパールにつきもののたたりを負いながら、それでも美しい点で変りのないそのオパー ルは、チェッケレッリが引き取らなければならなくなった、いや事実、RV などという字 が軽く彫ってあるにもかかわらず、値段を手加減してもらったうえで、引き取ったのであ る。「でもね、なにしろ且那、あたしはこれでもはばかりながら、世間の迷信というものは 全くいいかげんだと思っとります。まるで、そうそう、中世にでもいるみたいじやないで すか。ところが、あたしは実を申しますと仕事に目がありませんので、それもできるだけ きれいにやろうというのです。店を張って、もう四十年になりますが、よろしいですか、 旦那、これまで指一本さされたことはありません。それはとにかくとして、わざわざ用意 した引き出しにさっそく放りこみました。それから指輸の台から外すにしてもですね、ペ ンチを使うです、つまり指でさわらないようにというわけで。そのペンチですが、向かい の床屋にすっとんで行って、アルコール消毒ですわ。で、例の奴ですが、引き出しに仕舞 いこみました、便所に行く端にぽつんとあるあれにです、なあ、アルフレッド、おまえは 知ってるよな、それからペッピー、おまえもな。それが、サンゴの枝をぎっしりつめこん だなかに入れてあるものだから、店を呪おうと思っても、なんにもなりやしません、なん にも……あたしを呪うですって? いいでしょ、注意してやってもらいましょ。どうなる か見たいんだろうけど、でも無駄だな、かわいそうに。いってみれば雄鶏の群のなかに去 勢鶏を入れたようなもんでさあ……でも、さきっちょはちゃんとしてますぜ、それだけは 96 第5章 いっておきましょ」 指輪の方は二日ほどして婦人に返したという、「あたしの記憶に間違いないとして、碧 玉を見に店へ二度目にいらしたときですな」。鎖飾りの方は手ずからジュリアーノに渡さ なければならなかった。彼の方から引き取りに来て、鎖を持って行くはずだった。「そう、 それですよ」はっきりとそれを認めた。「その鎖ですけれど」とリリアナはいっていた。 「ご存じでしょ、チェッケレッリさん、よくご存じですわね、おぼえてらしてて? 二千リ ラになるとか話してくださったんでしょ……。贈り物にしたあれです。それから、おじさ まの指輪、ダイヤのついたの、おぼえてらっしゃる? 九千五百リラと値ぶみしてくださ いましたわね」イングラヴァッロはその指輪も彼にみせた。「これですよ、疑いなし、十ニ グレーン、十ニカラット半のダイヤ、少くともね。たいしたもんですて」それを手にとっ て、ぐるりと回し、眺め入り、光にかざして見た。「始終、わたくしにお話になっていま したわ、おじさまが。忘れないでおくれ、リリアナ、これはわが家に置いておかなければ いかんのだ、わかっておるな、わしが誰に残すつもりでおるか」祖父のこの言葉は時とし て彼女にとって聖なる法則であることは明らかだった。さよう、店で二度もくりかえし口 にしたのである。「そうだったよな」ガッローネが立ちあい、ジュゼッペ・アマルディが 立ちあっていて、ふたりともそうだとうなずいてみせた。アマルディに対してはリリアナ みずからひとつひとつ説明しようとした。組合せ文字を二文字彫りこむわけだが、どうい うふうにすべきか、碧玉を卵形の粋から少し浮き土ったようにはめこみたいが、どうした らいいかなど口を出したのである。チェッケレッリは小指の爪を緑の宝石の堅い輪郭にす べらせていたが、この宝石は印鑑にふさわしく盛り上っていた。つまり、宝石台の上に軽 く突出していた。その裏側は未加工の皿を隠し、ふさいでしまおうと金側にしてあった。 朝のうち事情聴取をうけた宝石細工師たちのほかにも、ヴァルダレーナ家と同家につな がる人びと、つまりジュリアーノの祖母、バルドゥッチ自身、バンキ・ヴェッキに住むお ばさんふたり、カルロおじさん、エルヴィラおじさんなど、親類全部がといってもいいだ ろう、もうここ三日というもの、あるものはここ、あるものはあそこと、救いの糸口を見 つけよう、かわいそうに罪も咎もないのに混乱に巻きこまれた彼ジュリアーノを連れもど そうと右往左往していたことも、触れておかなければならない。もっとも、これは口でい うほど簡単なことではなかった。だが、宝石細工師三人が弁明の供述をし、それ自体有利 な供述であったが、そのあとすぐに、銀行の出納係長がもっと有利な供述をした。銀行と いうのはサント・スピリト銀行である。勘定の原簿 (預金通帳の) から分ったのだが、一 万リラを引き出したのはやはりリリアナで、一月二十三日、贈り物の二日まえのことだっ た。贈り物は二十五日に家でやったのであり、その日、色男が同家を訪れたところ、彼女 ひとり家にいただけである。さて、出納係長のデル・ボー会計士はリリアナの知りあい で、そのとき、彼女の指示どおりにやったのが彼だった。ちょうど八番の窓口にいて、あ たたかい笑みを満面に浮かべていた。もうじき正午になるところだった。そう、そうなの だ、すっかりおぼえていた。ガラスの上に十枚の紙幣――パッソ・フォルトゥーナの羊飼 いのアコーディオンのような財布の中に入っていそうな、あるいはカステッリの食堂の酒 で湿ったカウンターにでも置いてありそうな癩病やみにもふさわしい、ごわごわして、し みだらけの十枚の毛布――をのせて彼女にわたしたとき、彼女はとっても柔らかい、それ はそれは深い口つきでこういったという。「あのねえ、おねがいがありますの、カヴァッ リさん、もしございましたら、きれいな、新しいのをいただけるようにしてくださいませ んこと。ご存じでらっしゃいましょ、わたくし、もう少し清潔なものが好きでございます 97 の……」とにかく、デル・ボーというかわりにカヴァッリと相手を呼んでいたのである。 「こうでございますか」と、手にしていた汚れたのを引っこめていったあと、新しい札束を 光にかざすように、二木指で隅の方をつかんで持ちあげ、振ってみせた。「ぴかぴか光っ ていること、いかがです、ごらんください……。きのうイタリア銀行から届いたばっかり です、印刷機から吐き出されて間もないものです。いい匂いですよ、ちょっと嗅いでごら んなさい。なにしろ、おとといの朝はまだヴェルディ広場にあったのですから*1 。なんで ございますか。黴菌がこわくてらっしゃる? ごもっともですとも……。奥さまのように 上品なご婦人はさようでございましょうとも」 「いいえ、ちがいますのよ、カヴァッリさん、わたくし贈り物にしなければなりません の」とリリアナはいったのである。「ご新婚さんでらっしゃいますか」「ええ、新婚の人た ちに贈りますの」 「千リラ札十枚といえば、どんな場合でも結構な贈り物でございます、新 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 婚さまにさしあげるにいたしましても」「従兄弟ですの、兄弟同様にしておリました。お ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 分りいただけるかしら。わたくし母親がわりのようなものでしたの、あのひとがちっちゃ ・・・・・ なときには」まちがいなく、このとおりにしゃべったという。そっくりおぼえていたの だ。福音書にかけて誓ってもよかった。「ご新婚さんにおめでとうをいわせていただきま しょう、それから、あなたさまにも、奥さま」ふたりは握手をした。 * * * 二十日の日曜日、午前中、バルドゥッチにかんするその後の情報がふたりの警官につ たえられ、そのあとフーミ警部にだけ報告された。おりからドン・チッチョは十二時半ご ろ「ほかの用件を見る」ことになり、「ちょっと外出」する気になったのだ。まったくそ の机上を見ると「ほかの任務」にこと欠かなかった。なにせ、とにかく机の上はいっばい で本棚にまでつづいているし、本棚は本棚でそのまま書類の保管所につながっているの だ。上ってくる人あり、下りてくる人あり、おもてで待っている人もある。人によっては たばこを吸ったり、たばこを投げすてたり、壁に痰を吐きつけたりしている。全体に重苦 しく煙って、カッコの落ちついたこの一帯も、いってみれば兵舎のような、ヨヴィネッリ 劇場の天井桟敷のようなあれこれまざりあったにおいで充たされていた。腋の下と足のに おいがまざりあい、そのほかに発散するいろいろなにおいといかにも三月らしい芳香がま ざりあったもので、嗅いでいるうちに歓喜にさそわれるのであった。「任務」といえば浮 かれさわいだり、泳ぎまわるのにびったりというものがあり、待台室には人びとがたむろ する。いや、そのさわがしいこと、バベルの搭の下だってこれほどのことはあるまい。バ ルドゥッチが送ってよこした人たちというのは「人づきあいのよい性格の」徴候 (いや微 候以上のもの) を見せていた。なかには自然に、さらにいえば台がすべるようにして、旅 の狩人が談論風発に時を忘れるというのがあり、そういう態度には、苦しい思いをしてい る魂は手もなく呑まれてしまうというか、心がなごむ状態になるや否や、おそらくは自分 たちの過去の過ちを悔いることになる。これは打ち身があざになった、つまり外傷はうけ たけど治癒したということで、こういうとき、キリストと人びとの許しに自分たちもあず かったのだと感じるのである。また、それとは反対にうんと柔らかい口の糸に引かれると *1 イタリア造幣局はローマのヴェルディ広場にある。 98 第5章 いうものもあるが、これはていねいな弁証法、熱のこもった弁舌、生き生きした視線、本 質をえぐり出すソクラテスの産婆術、それに言葉・身ぶり・湾・鋤骨などの慈愛のこもっ たケシのヒロインのおかげであるが、そのさい、愛想のよい歯医者さんにもふさわしく、 物静かなと同時に説得力のある手が打たれる。そしてここに歯が出てくるのだ。リリアナ ももう観念していた、つまりこの夫では……赤ん坊はめぐまれないというのだ。もちろん 「どんな点から見ても」りっばなご亭主であることは分っていた。だが、赤子を連れてく る段になると、やれやれ、その気配もない。もうやがて結婚して十年になるというのに、 なんということだろう、この問題ではどうしたらいいか何ひとつ考えも浮かんでこないの だ、それも二十一歳で結婚したのに。医者たちははっきりといってくれた、彼女か彼か、 どちらかが悪いと。それとも両方がいけないのだろうか。彼女かな、だったら、責任は彼 女にあるという説をつっばねるためにも、ほかの男と試してみなければならない。ダント レーア教授までがそういってくれたぐらいだ。そういうわけで、もとをただせば、こうい う不断の失望、この十年の歳月、というか、悲しみ、屈辱、絶望、嘆きといったものが苦 悩の根をおろしたその歳月、彼女の美しさが無にされた歳月にまでさかのぼってこの溜息 が生まれ、この「やれやれまあ」が生まれ、こうして長々と眺め入る習慣が生まれたので ある、つまり女をひとりひとり、おなかのふくれている女たち、それに……よくいうこと だが、心のみたされぬままに……小さな子供たちを眺め、朝、ヴィットリオ広場から帰っ てくるとき、買物籠をセロリやホウレンソウでいっばいにした美しい下女たちを長々と眺 めていたのである。その下女たちといえば、子供たちの鼻をかんでやろう、ひょっとし てお漏らしをしてやしないかさわって見てやろうと屈みこみ、地球儀*2 を宙に向けていた が、これこそ下女の健康さかげんのすべてを、腿のすべてをうしろから、とくと拝見でき る最上のチャンスであった。なにせ、それはそれは短いパンティをはくのが流行だったか らである、もっともパンティをはくとしてのことだけど。こうして彼女は娘たちを眺めて いたし、また、深い憂いをこめた調子で管年たちの燃えるような眼差しにちらりちらりと 答えていた。いつくしみと優しい大たんさ、将来、暮らしの面倒を見てくれる人に、気持 ちだげでもこちらから面倒を見ておこうというのか。もっとも、安心感、原初的真実、秘 密の生長力の核心といったものを自分にもたらしてくれるように思えるものなら、相手の 如何にかかわらず、尽そうとしていた。生活の設計をしてくれる人には、友愛の気持を示 そうという様子がありありとみえていた。だが、歳月は年々、その暗い汚れた揚所から無 の中へとどんどん落ちて行った。そうした歳月のなかから、彼女の習性が働いた結果、は じめに孤独の妄想が現われ、それが次第に悪化していった。「女には珍らしいことだなあ」 とフーミ警部が静かに口をはさんだ。「ローマの女の場合はなおさらだよ……」「みんな、 同じ仲間ですからね、わたしたちローマっ子は」とバルドゥッチが同意した。ところが、 それとは反対に他人の肉体的特徴、庶民や貧乏人にまざまざと現われる生き生きした遺伝 素質を心から頼りにしなければならないその必要、下女たちに二重のシーツを贈ったり、 強引に持参金をもたしてやったりして、期待をもっていなかった相手と結婚するよう励ま してやるという……その性癖、それでいて本当に結婚してしまったら思いっきり泣いてや りたい、そして、かわいそうに、何日もつまっていた鼻をかみたいというリリアナのその 願い。それはいってみれば、事が実規したとたん、嫉妬におそわれるようなものだった。 肝臓にくらいついてくる嫉妬である。いってみれば、結婚したあと、「ちょっと見て、も *2 尻の丸みを指す。 99 う四ヵ月よ、子供ができて。うちの坊やったら四キロあるの、月に一キロね」などといっ ては彼女に嫌な思いをさせるわけだ、だから、朝、顔をあわすたびに女友だちが「見てよ、 クレメンティーナのあのおなか」といえば、もうそれだけで目が赤くなるのだった。「あ るときなんか、チミーノのソリアーノから来た女のことでさわぎ立てましてね、夫である 私のいる前でですよ。その女っていうのがヴィテルボのバスでローマヘやってきた百姓 女でして、結婚式の菓子をもってきてくれたのです。ところが、『あんなのには会いたく もない』ってわめく始末でした。かわいそうに、その嫁御どの、花むこさんといっしょに やってきましたが、聖ジョヴァンニ祭の気球のように、あの火をつける奴ですな、あれみ たいにおなかを突き出してました。お菓子をとどけに参りましたというのです。でも、お 分りでしょうが、ちょっとばかり、とまどってましたね。で、わたしは笑いながらいって やりましたよ、チミーノのあたりは空気がよさそうじゃないかと。と、相手は真赤になっ て、おなかに視線を落しました、天使が事情を説明に来た受胎告知よろしくです。でも、 そのあと勇気を出して答えましたね、けど、どうしろとおっしゃいますの、バルドゥッチ さん。あたくしたち若いんですもの。前進あるのみでしたわ……。いつ赤ちゃんができた ものやら、誰もおぽえているわけがありませんし、祝福をしてくれるお坊さんがいたの か、いなかったのかもおぼえてやしませんでしょ。でも、ご安心なすってください、あた くしども三人、今ではちゃんと祝福をいただいておりますから、ということでした」歳月 という奴は、散って行くバラと同じで、花びらが一枚一枚落ちて行くように……無へと落 ちて行く。 さて、イングラヴァッロ警部が顔を土気色にして、任務があるので失礼させてほしい といったのはこのときである。部下の情報と報告、口頭と文書による用件、指令の伝達、 電話。フーミ警部がずっと目で追っている間、相手はうなだれ、背をまるめ、いかにも疲 れた、物思いに沈んでいるといった様子でドアに向かって行った. 見ているとたばこのマ チェドニアの袋をポケットから販り出し、最後の一本を抜き取り、何か知らぬが考えごと にふけっているようであった。ドアはしまった。 ドン・チッチョは今みたいな話ならもうずいぶん前から知っているような気がしてい た。リリアナの従兄弟と夫君が、もうおそろしい過去となってしまった彼女の在世のころ について、なんというか苦悩のように追憶しながら引き出していた印象や思い出話を聞く たびに、彼はあいまいな、不安定な形ではあるが、自分なりに感じてきたことを確認して いった。 赤ん坊ができなければ死んでしまいたいというその考え方にしてからが、ドン・チッ チョがとうに「想像」していたことではないのか、あるいは、リリアナ夫人を知っている だけにそう思いこんでいたのではないか。それが従兄弟が認めたことによって、そして 今、夫君が話してくれたことによって表面に出てきたのである。こんどの不幸な出来事 と、夫君みずからみんなの関心と同情の的になりたいという気持から (夫君は狩人気どり でいたのだ、ウサギを獲物に、銃を肩にかつぎ、長靴を泥で汚し、くたくたの犬をつれて 帰ってきたつもりでいた) おしゃべりの種にしていたし、また、一発射ったあととあって、 肩の荷をおろす必要もあった。そして自由な立場から女性の魂のデリカシーについて、さ らに一般的にいえば女の感受性の鋭さについて語ろうというのである。彼女たち、つま セーコロ り哀れな女たちには、何か普遍的なものがある。「普遍的な」というのはミラノの「世紀」 セーコロ の誌上で、マロックス……「世紀」の主であるあのうんとやせた男の記事で読んだことが あった。 100 第5章 リリアナの死後のカルテば彼女の女友だちや恩恵をうけた人びとの慈悲心のおかげで完 全なものとされていった。すすり泣く孤児の娘たち、サクロ・コーレの尼さんたち、尼さ んたちは彼女が今ごろはもう天国に行っているものと確信し、誓ってもいいというぐらい の気持だったので、別に泣きもしなかった。それから喪服を着ているマリエッタおぱさ んとエルヴィラおばさん、それにバンキ・ヴェッキから来ている別のおばさんふたり、こ ちらも黒っぽい服装だった。さらにさまざまな知りあいがいて、テレーザ伯爵夫人 (メネ カッチ)、マヌエーラ・ペッタッキオーニ夫人のほかにも、二一九番地に住む親切な同居 人たちがいたが、この方は対立するふたつの三人ずつのグルーブに分れていた。ひとつは エローディア、エネア・クッコ、ジュリエッタ・フリゾーニ (B 階段) で、もうひとつはカ ムマロタ、ボッタファーヴィ、アルダ・ペルネッティ (A 階段) で、ペルネッティには弟 ・・・・・・・ もいたが、これも六人のうちにみなされていた。つまりみんな女で普遍的な感受性がある わけだが、ただし、それはリリアナが……遠ざけていた種類のものであった。普遍的でデ リケートな子房がいうなれば魂の花柄に浸透していた。土の中やマルシカの牧草地の昔な がらのエキスがそれこそ花の花柄に浸透するのと同じで、長い間押えられていたあと、花 冠の甘い香りにつれて発散される。一方、彼女たちの花冠はといえば鼻であり、これはと いうとき、いつでもかんで散らすことができた、みんな女であり、記憶でも希望において でも、また口をつぐんだ堅く、片意地な蒼白さにおいても、告白の祈りでもないのに紫色 になるその顔色という点でもそうである。これはフーミ警部がその日々、注目すべき分析 によって明らかにしたもので、そのさい、困難な仕事を通して終始、彼の特徴である力倆 と上品さをしめし (そのためにこそ今日の彼があるのであり、まさに賞を受けるに価いす マドスエンテ る、ガスペロ*3 側 近 のルクナロ副知事がいいだろう、いや、もっといいところ、フィル ロッカがいい、彼の素質がそっくり評価してもらえるような便宜のいっさいそなわった快 適なところだ)、例のあたたかい声で話しかけたものである……彼が役所に足をふみ入れ たとたん、その声が警官や泥捧の耳に聞こえれば、もうベル (四号室) を鳴らすまでもな く、すぐに彼の存在がそれと分るのであった。 さて葬式を出してみたものの、警察側の期待というか、ささやかな願いに反して、なに ひとつ捜査をすすめる役には立たず、ただ、おしゃべりをかきたてるだけで終ってしまっ た。新聞は筆を休めようとしないし、無数の同情から出た憶測話が、十月の切株を焼き払 う炎のようにはぜかえった音を立てながら、それでいてひとつの考えに到達するというこ となどなかった。葬列が総合病院を出たのは三月二十一日、月曜日、八時で、春に入った にしては寒さのきつい日であり、上天気とも悪天候ともいえないが、曇り空であった。葬 儀は荘厳な形でとり行なわれたが、それでも内輪だけのものだった。だからといって、当 局の希望どおりてっとり早くとはいかなかった。とにかく、当局はもうこうしたごたごた にうんざりしていたのだ。少数の坊さんが先に立ち、少女や尼さんたちもわずかだった が、新聞によると「おびただしい数の群衆をしたがえ」、特に女性が多くて、いっ果てる ともない行列を作り、延長されてまだ一年ぐらいにしかならないレジーナ・マルゲリータ 通りに出る近道を埋めつくし、タールを敷いてないため、といってもタールの入った桶は とうに置いてあるのだが、たっぷりと埃を巻きあげたあと、八時半か八時四十五分ごろ、 ヴェラノのサン・ロレンツォに着いた。警察当局としてはローマで日中に、それも同じ建 物でこういうふたつの事件が起ったなど、考えるだにうんざりしていた。しかも第二の事 *3 本書が書かれた当時のデ・ガスペリ首相を指す。 101 件は最初のよりも兇悪だったのである。それから、それからヴァルダレーナの逮捕は事態 の成り行きからするかぎり何の役にも立たなかったし、勲三等のアンジェローニ氏の逮捕 は……これまた、この気の毒な勲三等氏がこうしたことには場違いだという点からして、 なんら得るところが r なかった。警察当局と、倫理的により高度な立場にあるもうひとつ の当局の仕事を正当化するため、さらに次のことを述べておかなければならない。つま り、その前日、三月二十日の日曜日、十一時か十一時半ごろ、ナポリのベヴェレッロ波止 場にシェルプーレ君侯が下船あそばしたのだ。同君侯はプラマプトゥラの岸辺から、祖国 の新しい運命を開く人物を訪問しよう、ついでにその両親の墓と当人の生家、といって も、ほんの貧しいあばら家なのだが、そこを訪れるためにみえたのである。そのうしろに は、チョコレート色の顔をし、白い絹のズボンをはいたぼんやりした感じの男たちが六、 七人ついていたが、そのズボンときたら、足を入れたところはぶかぶかの感じだった。彼 らだけが持っているとというその天国に達するために、その国では時時、何ヶ月も断食の 苦行をするというのに、それでも人びとは肥っていたが、にもかかわらず、ズボンはやは りぶかぶかであった。このシェルブーレ君侯はひたいのあたり、ターバンの真中へんに、 きらきら光るダイヤをふたつ縫いつけ、アジアとヨーロッパを通じて最も長い羽恨を刺し ていたが、われらが政府の長のもっている方が、それよりもまだ長かった。そして、彼、 つまリインドの君侯は何年も前からわが方の領事を通じ、正常な外交ルートを経由して、 というのもわれらが政府の長はインドにも領事を派遣していたからだが、総合病院とミル ク・センターを見学できたらという希望をつたえてきていたのである。ミルク・センター はその当時まだできていなかったし、十五年*4 のチフスの流行もまだ見られなかった。総 合病院についていうと、彼もせめて生まれ故郷ブラマブトゥラの岸辺にあるシェルプーレ に病院を建てるつもりだった. わが国のよワも少しは小さいかもしれないが、それほど見 マンモン おとりのしないものを作るというのだ、二十年前に肉分が生まれ、国の財貨の神、つまり 国庫の所在地であるシェルプーレ市をえらんで。さてこの訪問はきちんとスケジュールが 組んであり、三月二十一日、月曜日、十一時に予定されていた、例のかわいそうな婦人の 葬儀がもうそろそろ終るとされていろあの時間である。したがって警察当局かあせり気 味なのも無理はなく、十時ごろにはたちまち大急ぎで飛んで行った。ドン・チッチョはサ ン・ロレンツォに着くと、教会に入って行く群衆の中に耳をそば立てて割りこみ、配下の 私服たちも同じようにした。そして同じように半時間後には出口にいた。収穫はたいして なかった。レモ氏は帽子を手に疲れきった衷情で、ほとんど全員そろっているおばさんた ちや、うんと近しい親類たちにまじって枢車について行った。ミサがすみ、棺に免罪の祈 りが捧げられたあと、ヴェラーノ墓地内で墓穴に祝福が与えられ、「さようなら、リリア ナ、さようなら」と痛ましい鳴咽のなかで白いユリとカーネーションが投げこまれたが、 その間、黒い服のイングラヴァッロがドン・ロレンツォにびったりと寄りそったところ は、きちんと装ったキリンの脇にボクサーがつきそっているのにも似ていて、聖具室に入 るまで目をはなさなかった。そして僧服を脱がすと、自分の車 (ボロ缶と呼んでもいいよ うなものだが) にのせて、サント・ステーファノまで連れて行った。 そこでフーミにあわせると、フーミはこんなふうな考えを述べた……すぐれたお坊さん なら、亡き婦人の情況について……精神的な情況について、何がしか参考になることを お話しいただけるのではないか、公安警察当局が本事件をもっと詳しく知り、「いうなれ *4 ファシスト紀元で、西暦に直すと一九三七年になる。 102 第5章 ば、心理的報告書」を最終的に作製するのを容易にしてもらえるのではないか、というわ けである。ドン・コルピの悲しい細心さのせいで、コムマが幾つかと、i の上の黒点が幾 つかつけ伽えられた、総括報告書につけ加えられたのだ。空模様がいいというか、それほ どさみしい感じがしない季節にバルドゥッチ夫人はサンティ・クワトロ教会に出向いて、 祈りをあげていたが、これは毎日のことだったといってもよい。告白室に行くときも、マ ドンナの祭壇におもむくときもあったろう。あるいは回廊ぞいの僧侶たちの住居のことも あろうし、「十三世紀の美しい修道院」をぐるりと回ったこともある。四角い空は全体に 光にあふれ、まるで聴罪司祭が永遠の存在をしめすようで、その数は四人、四方にひとり ずついることになる。あわれ魂はおのれの悩みに救いを求めていた、希望の甘い言葉、慈 悲の情けぶかい言葉を。信仰心は誰よりも厚かった。ドン・ロレンツォは聖なる定めにま ごつくということもなく、もっばら秘蹟をこえた親しみや、おのれの苦悩を記するものと して自分をえらんでくれた故人の析願にもとづきながら、上にのぺられたことがらはその ・・・・・ まま確認できると申し立てた。つまり、時がたって健忘症のためあいまいになってしまっ たが、確かだ、間違いないと警察からも保証され、それに従兄弟や、当然引きあいに出し て然るべきご主人の直観、全き聡明さという点からも太鼓判を押された内容にかんして、 そのとおりだと申し立てたのである。まず最初の、あの当惑も今はしずまって、権威を 取りもどし、堂々とした態度を見せ (ロッカフリンゴリに旅をしていたため、心ならずも 「当局に出頭し」「故人である夫人の遺言を明らかにする」のが遅れたという)、ざんぎり 頭で、まっとうな判断を秘めた明晰さを示すような透徹した慈悲心そのものといった口調 で、ちょうど誓いでも立てるようにして、あの気の毒な故人は最も清純、最も純潔な魂で あったと、ことさらに主張したのである……。「いったい、何をおっしゃろうというので す?」とフーミ警部がたずねた。相手は話しつづけた。黒いぴかぴかにみがきあげた靴は 遺言に価値をそえるかにみえた。やたらと靴墨を塗りたくり、精力的に (誰のものとも知 れぬ肘を割りこませてきなから、嘘とか出たらめという感じをことさら強めることもな かった。離婚にせよ結婚の取り消しにせよ、教会法のうえからも難しかったが、彼女にし てみれば考えるだに許しがたいことであった。とんでもない、リリアナはそんなことは考 えるのもいやがったという。彼女は自分でもえらび、ある日、神からさずかった男でもあ る夫を、愛しすぎるほど「愛し」、尊敬していた。彼女の絶望と希望 (むなしい希望) がひ とつに凝固して、憂うつな狂気になっていた (ドン・チッチョにはすぐそれと分ったが、 フーミ警部の方は納得するまでに少し時間がかかり、それもおおよそのところしか分らな かった。そのかわり自分の計画や愚にもつかぬ考え (と彼は口走ってしまった)、養子をと ろう、それも法津にしたがって女の子を養子にとろうという分別などに救いを求めていた のだ。だが、そのくせ、待っていた、待っているようだった、いつの日か事態は好転する のではないかと期待しているようだった。来る日も来る日も赤ちゃんを待っていた、来る 年も来る年も。でも誰の子なのだ。未来の赤ん坊、未来の息子は。いま彼、ドン・コルピ は彼女がどこから、誰から子種を. 得てくるのか合点がいかなかった。 「従兄弟だな」とフーミ警部は叫んだ。 ・・・・・・・・・・・・ ところが、絶望をまぎらそうというように、養子を取っていたのである。「暫定的」に 養子を取っていた。名目だけのことだが、養子を取っていた。口先だけで養子を取ってい た。もっとも、すでにある遺言状を別のと変えてあったが。あの封蝋で五箇所も封をした 黄色い封筒を、彼女は三回も手もとに戻しているのだ。三回も封をはがして、字模様を作 り直していた。「リリアナ・バルドゥッチ自筆遺言状」心情を吐露し、本気で夢を託しな 103 がらも、口先だけで養子を取っているといっていた。そして、新しく会うたびに心をはず ませ、話がこわれるたびにあざむかれた思いを味わっていた。暫定的に、少しずつ娘たち を養子にむかえていたが、一列にならんだというか、今いえば、真珠を一筋つないだよう なものであった。次々と前にもましていい娘が来た。あのかわいそうな娘ジーナもふくめ て、ここ三年の間に次々と家へ連れこんだ数は四人になっていた。「君の考えるとおりに やるんだね。思うとおりにやりなさい」といって、レーモ氏が親切に許してくれたこと も、あって、そのたびに、ちょっとの間ではあるが、家庭にわずかな平和がよみがえるの であった。それでも、家のなかに女たちがなにがしかいるのを知ると、その間、彼の方は クリストーフォロをともない、チミーノで犬の能力を試してやろうと、ウサギ狩りに出か けていた。そのたびごとにドン・コルピの差し金があった。その彼だが、まわりに大勢の 人びとをしたがえ、教会でもあれこれとやらなければいけないことがあり、彼女たち、つ まりそういう娘たちをぜんぜん知らないまま (どういう娘たちで、どこから来たかも知ら ずにいた)、結局、毎度のことながら、慎重に、慎重にした方がいいとすすめるだけにとど めていた。彼女に警告し (「わたくしの申すことを聞いてください」といっていたが、彼 女の方はいっこうに耳をかす様子がなかった)、そんな束の間の感情の遊びで、才能を…… たしかに神がさずけ給うた女の大きな使命である神聖な意識という財宝を……そんなふう に無駄にしてはいけないと忠告するのにとどめていたが、とにかく、彼がそういうと、事 実、それが正しいことのように思えた。ともあれ四人である。三年間に。「大いなる心で す。あわれなリリアナ夫人ですが」 そして、女中たちを大事にし、皿を割っても許してやっていた。彼女たちをなぐさめ、 しゅ 主に希望をつなぐようにとすすめるのだった。ところが反対に、彼女たちか抱いているの しゅ は希望よりもむしろ恐怖であった。主は生命を望む者に生命を与えずに放っておかれると いうことはないし、絶えざる生命の復活も与えたもうと彼女は話していたが、これは全く そのとおりであった。「多くの女たちが抱いている希望だ」とフーミは考えた。 ドン・ロレンツォは生者に対し、気の毒な「故人」に対し心からの尊敬をこめたうえ で、リリアナ・バルドゥッチがいったんは養女として受け入れながら、あとになって追い 出してしまった三人の娘たちに触れ、また、ひるがえって、孤児になりそこなった三人の 娘たちの追い出し策はわりと容易に、わりと自然にできたのだが、それを決定づけたさま ざまな鋤機にも言及したのである。さて、四番日のツァガローロのジーナであるが、これ が現在の姪で、みんなにかわって恩恵にあずかっていた。ティヴォリの憲兵隊ばすでに 母親と、そして肉醗も訊問ずみであった。イレーネ・スピナチはローマに来るつもりでい た。だが、ジーナがサクロ・コーレにいるということを聞くと、黙ってしまった。だいた かね い……何をしに行くというのだ。金を棄てにか? 汽車の金にもこと欠いているのではな かったのか? ドン・ロレンツォはあれやこれやとためらう気持をふっ切って、慈悲深い慎重さ……と いう袋を開いたのであった。そのまえに、膝の上で、帽子を二度ほどゆっくりと回した。 サン・クリストーフォロを思わすその手で (そして、その足で)。僧侶ではあったが、フー ミ警部の鋭く暗い目つきにひかれて (かつては舌よりもその目の方が物をいったのであ る)、非常に優しい感じで回っているその眼球の磁力に屈していた。ふたつの球のどれも が、それぞれの宝石台というか、まぶたが重なりあうそのなかで平行して動いていた。黒 い虹彩は深々としたビロードでできたようであり、まつげのビロード状の、少しめいった トルマリン 感じの影の下に置かれた電気石の球二個というところである。あるいはまた、その白い、 104 第5章 父親を思わす、考え深い、さそうような、そして罠のように近より安い顔の, 中で見ると、 悲しみをそそりながら、それでいて説得力と滑らかな弁証法に輝く炎であった。それが額 縁に入れて壁に吊るしてあるプレダッピオ帽子*5 をかぶった鼻面の下にあったが、その鼻 面というのがお化けのような目を向かい側の壁の乾いたハエに注いでいた。唇をぐっと結 んで、間の抜けたふくれっ面をしている様子は、三年日のマカロニよろしくといったとこ バ ル ビ ジ ア ろで、イタリア中のマリア・おまんちょちゃんをそっくり、ほれぽれとさせていた。これ 見よがしに例のファシスト帽をかぶり、酋長の羽根などをくっつけて。でぶのサーバ人の 酋長なみのを。 若い女三人。最初のはミレーナ、そばかすだらけの娘で、バルドゥッチ家のあのごちそ うを食べるようになって一ヵ月とたたないうちに、そして、ベッドではウールの敷ぶとん を下に、掛けぶとんを上にかけているうちにたちまち肉づきがよくなり始めていた。ブラ ウスの下に円い小さなメロンがふたつ、うしろには、まずまずの半球体。だが、小牛のよ うに肉づきがよくなってくるとともに、盗みをはたらいてやろう、そしてそれに応じて嘘 をついてやろうという気持も強まってきた。食器棚から盗み、たんすの財布から盗み、そ して口では嘘をついていた。舌の方が何の考えもなしに爪のあとを追っていたが、それは 馬にたとえれば、尾が尻をはって行くのと同じである。 それである日のこと、夫人は彼女のベッドをはがして燭台を見つけた。トリノのミー ラ=ランツァの品物、当時流行していたずんぐりした燭台で、これはきっと台所の新しい 包装に入っているのを出してきたのだろう。よく停電することがあるので、そのときにそ なえて食器棚にとってあったのだ、すると彼女は待っていたように答えていうのに、自分 はマドンナに願をかけていることがあったので、それでマドンナにお灯明をあげるつもり だったという。ところがうまくいかなかった。で燭台をベッドに持ちこんで眠るように なってしまったのだそうだ。ギアンダ先生がこの娘を診察してシトロン水を飲ませたが、 これは神経性のある種の妄想によく利く鎮静剤で、そのほかに一日三回数滴ずつボロー ニヤのサンタ・マリア・ノヴェッラのヒステリーに利く水で、坊さんたちが特別なフィル ターを使って滴らせたものを飲ませた。(この点は後ほどペッタッキオーニ夫人の響きの よいメルラーナ言葉によって確認された) そのくせ、間ちがいが起るのを避けようと、ふ たたび先生が呼ばれて、助言がほしいとリリアナから頼まれたのである。先生は子供たち に接したときによくみせる厳しく、やさしい父親にもふさわしい微笑をそれとなく浮かべ て彼女を見つめながら、一瞬、額に繊を寄せた。抜群の小児科医だったのである。二本指 でチョッキの上の金鎖の飾りをぶらぶらさせていた。そして、しばらくじっとしていた が、晴れやかな顔になると、長い溜息をひとつついたあと、この娘さんは両親のもとに返 すのが、 「いちばんよいと思います」といった。ところがその両親というのが、どちらもい なかったのである。そういうわけで、しばらく、ちゃんと納得の行く口実を考えるべく時 間をかけたあと、娘は「おじさんたち」のところへ帰された。一方、おしさんたちは、娘が コ ミ ッ ト 戻って来るのを引きうければ、われらが愛すべきイタリア商業銀行発行になる、心理的に 絶大な効果をもたらすあの海緑色の銀行為替がもらえるからと、あらかじめ鼻薬をかがさ れていた。「イタリア商業銀行は……ええと、ええとですな、この海緑色の美男におわす 紙片さえあれば、総額何リラかを払うわけで……」その額は多ければ多いほどいいのだ。 ドン・コルピは脚を伸ばし、楯でも腹にのせたように帽子を前腕でかかえこみ、両手の *5 プレダッピオはムッソリーニの生地。したがって、これはファシスト党の制帽を指す。 105 大きな指を組みあわせていたが、それが膝に落ちていた。二番目の孤児の娘、これはもう 二十歳か二十一歳でイネスといい、しばらくしてから結婚したが、申し分なくきちんとし た結婚式であった。相手はリエテイの立派な青年で、大地主の息子であり、法津の学生で 八年生だった。全コースは十年で終ることになっていた。彼女はある日、つまりリリア ナの優しい言葉があふれるようにそそがれたちょうどそのとき、とつぜん「自分の天命 に従いたい」と出て行ったのだ。そして、従った結果は大成功だった. いかにも子供らし い、都会っ子らしい大たんな行為に踏み切り、持参金を少し割り引きして、嫁入り仕度の 品はその辺から掻き集めてきた。レース飾りの下着が入った大きなスーツケースが二個だ けだったのである。彼女は古典的な形の女らしい明察さにめぐまれていたので、といって も、前の娘のように盗みを働くといったタイプではなく、そのおかげで、このいかにも母 親じみて、姉妹のように甘ったるいところのある代母 (リリアナは彼女より八歳か九歳上 であった) の心をすっかりとらえてしまい、そして一刻も休むことなく、断固たる決意の うちに、また、個々の動作、微笑、言葉、むら気、眼差し、キスなどの体系化された熟考 のうちに粘り強い精進を以て行動してきたのであり、それは女性が「性格」を持っている ときの沈黙の希望を特徴づけるものである。つまり、言葉で輪郭を描き出さずとも、ちゃ んとある考えをほのめかすことのできる名人で、暗示とか、客観的な反対証明とか、沈黙 の待機にょってそうしたのであり、これによって発電機の固定子のように推理を始めるこ とができた。幼な児の初めてのよちよち歩き、その最初の一歩一歩を見守り、助ける (そ してよい方へと導く)、あれと同じ技術によった。もっとも、その場合、彼女の望むとおり の場所で、つまり、いちぼん楽におしっこをさせることができ、ゆうゆうとおしっこを飛 ばせるような場所へと導いて行く、あれであった。 イネス。都会っ子らしい大たんな行為。聖ヨハネ寺院の職務と神秘が、そして呪詛の緑 色をした陽気さが城壁の内部に信心ぶかい十字架の印を帯びた田舎者を受け入れ、おろか 者をいっとき引きとめる、あのガリレイ*6 の朝の輝きから、そしてまた、晩祷時の金色や ルビー色にひかる破風から、そして、聖母マリアをたたえて不滅の賛歌が二度と帰ること なく何世紀にもわたってアーチから流れ出ているあのマデルノ*7 の、あふれるような歌い ぶりから、P V から、BM から、電話のダイヤル十個の穴から、さらには、もう四回も 使えなくしてしまったラジオの大きな箱から、この冥想的な悲劇役者である彼女は家にも どってきて、礼装用の靴下を早いところ直さなくてはとこれみよがしにあわててみせるの である。つまり、針と糸で靴下の穴をぐるりと大きくかがるわけである。こうして、遍歴 を重ねてきたあと、彼女もやっと安堵の息をついて、やおら歯をつかい糸を切るのであっ た。一流の繕いではないか。クロティルデ王女でもこうはいくまい。まるまるとふくれあ がり、小銃の弾をかかとにふんで、こうしていると祭りのつづいている間じゅう、気持の なぐさめられる思いがした。円錐形の山、つまり雲をつらぬき通し、そのあと神の靴下と なるああした円錐形の山の頂きへ向かって、造山作用で多くのひだができているのに似て いた。 学生である夫君のもとにもたらしたのは魂と魂が触れあい、舌と舌がもつれあう晴れや かな日々と甘い夜だけではない。そのほかにもきちんと……ふつう娘が実さいに持参して 最もよろこばれるものも、学生である夫君のところにもってきた。パルドゥッチ家で六本 *6 *7 アレッサンドロ・ガリレイ 一六九一−一七三二。聖ヨハネ寺院を建てた建築家。 カルロ・マデルノ 一五五六−一六九二か。寺院建築で知られるイタリアの建築家。 106 第5章 も七本も焦がしたとあって、今はゆうゆうと落ちついてズボンにアイロンをかける腕を もってきたのである。いわばこれこそ、彼女の教訓であり、gradus ad Parnassum *8 で あった。虎穴に入らずんば虎子を得ず。失敗は成功のもと。 三人目の娘、ヴィルジニア、ドン・ロレンツォはおとなのくせして、地面を見ながら目 を伏せ、それからほんのちらりと空を見あげたが、わたしにしゃべらせないでくださいと でもいうようであった。信心ぶかげな大きな手を鼻の下のあたり、ひげの前で軽く振って 組みあわせたが、いかにもイタリア的に「口をきかぬにこしたことはない」というように、 針が方位盤を行ったり来たりするのに似ていたが、なんというかフーミ警部に許しを求め ているようなところがあった。だが、話さなければならなかった。なにしろ警部がふたり 待っているのだ。イングラヴァッロなどは立ちつくし、陰気な様子で、神経質に片脚をゆ すっていた。巨人のような十本の太い指がだらりと膝に垂れ、一木一本がしっかりと組み なげし あわされていた。櫛と櫛が噛みあっている形だ。ちょうど聖ヨハネ寺院の長押の上の方、 らんかんの上に立っているあれと同じ、灰革でできた使徒の像というところである。クル ミでも割れそうな重さ十キロにおよぶ太い指の骨が法衣の黒いひだの中に見える。そのひ だのなかを、僧侶のボタンが一隊のキャラバンよろしく次々と下って行った。それは世紀 のカタログと同じで初めもなければ終りもなかった、休めの姿勢にある一足の靴はぴかぴ かと光って、墓掘人夫にふさわしい色をしていたが、ほかのものと似ても似つかぬという のではなく、衣服の下から、何やら禁断の二個の物体の上から顔をのぞかせ、フーミ警部 の靴のすぐそばに座を占めていたが、それはちょうど書類の棚の下にあたり、テーブルの 四本の脚の間にあった。そのなかにはもちろんサン・クリストーフォロの石像にも似た二 倍の大きさの足が一対あった。 「それで、ヴィルジニアはどうです」しだいしだいに彼女の性格が明らかになっていっ た。図々しいぐらい生活力があり、生意気なタイプだという。この魅惑的な娘がふたりの 男を魅惑したことも明らかになったが、そのふたりというのが全く別の方面の人間であっ た。また、女たちの話では彼女はふたりの男を魔法にかけたそうで、女たちはそのことで 賭けまでやっていた。象牙色の肌にかくれたサンゴの悪魔にふさわしくその放縦な美しさ とその健康ぶり、それに彼女の目、そこには本当に夫と妻を魅了しさったと信じたくなる ようなものがあった。「その横柄なまでの物腰」、なんとなく田舎じみたその気配、とは いっても「真剣な大きな心」を現わしているし (ベッタッキオーニ)、あるいは、にこにこ しながら、それと同時に職業的な筋肉痙攣から眉をひそめているギアンダ先生によると 「魅惑的なバラの青春である」。ところがこのギアンダ先生に向かって、別に頼まれたわけ でもないのに、ヴィルジニアは舌をちらりと見せては、それをさっと引っこめ、もとの場 所にしまいこむのだが、それこそ自動的に舌の先端を突き出すところは彼女の特許のよう なものである。目に悪意の輝きをちらりと見せながら、顔全体を冷静に堂々とかまえて、 いきりたった硫黄を思わす先生の口に立ち向かって行くのである。怒りとタールの蒸気の 立ちこめる先生の目に。ところで、この先生が A 階段の奥さん方ぜんぶはもちろんのこ ピ エ ト ダ ラ ピ エ ダ ス ト ロ と、B 階段のある奥さんからも非常な尊敬の念をこめて小児科医とか子供の先生とか呼ば れているのを聞いて、ヴィルジニアはてっきり、この墓掘人みたいなコートを着て、子供 を追っかけながらアパートの階段を上り下りしているのをよく見かける名医先生は、あの お坊さま、つまりドン・ロレンツォのウオノメの先生もしているのではないか、いやこれ *8 詩歌文芸の象徴たるパルナックス山に至る道程。 107 こそ、このコートを召した先生の本職ではないかと考えていた。*9 。そして、いったんある 考えが彼女の脳裡に巣食うと、もうなんとしても取りのけることができなかった。ドン・ ロレンツォの肉づきの様子からして、こういう足にはやはりあれだけの足の医者がいると 考えるのは当然なことである、そう自信をもっていた。そればかりじゃない、やれやれ、 彼女は見るもみごとなふたつの尻と大理石のふたつの乳房、ノミでも持ってこなければ割 れないような乳首をふたつそなえていたし、何かといえば横柄に肩をすくめてみせ、あん たたちなんか糞くらえとでもいうように唇に軽蔑の色を浮かべていた。そう、そうなので す。何時間も黙っていたあど、奇妙な尊大さと残酷な笑い声、まるで誰かの心臓を食いち ぎら歳くてはいけないというように、サメを思わす三角の白い歯をのぞかせて。それに、 まつ毛の黒い房の下からのぞいたあの目はどうだ、いきなり黒い、繊細な、みるからに残 酷な光彩のなかに一瞬、燃えあがる。それは鋭角的に曲りながら走って行く細い稲妻であ り、いまだ口にされないまでもすでに唇の上で消えようとしている真理の密告者たる嘘に 似ていた。「気まぐれな女だったけど、情は深かったです」と一時間後、鶏屋は出頭を求め られて、意見をのべた。「そりゃあ、いい娘ですとも、ええ。大きな顔をするのが好きでし てねえ」とヴィッラリ街の肉屋のお内儀が請けあった。「ああ、四階のヴィルジニアのこ と? とっても感じがいいわ」「あの娘? あの娘だったらじっとしてやしないわ」など と、友人たちはいっていた。「身体のなかにタンポポでも入っているような具合よ」とこ ろが、ひとりパートリカの山地から出て来た女は口をすべらせて、みんなとし、何かとは 全く違うことをいった。「タンポポが入っているとしたら、彼女のお尻よ」とたんに真赤 になった。レジーナ・コエリ刑務所から一時間だけ出してもらった勲三等のアンジェロー ニはというと、一時間とはいっても、この気の毒な人物にしてみればせめてひと口、新鮮 な空気を吸い、サント・ステーファノ・デル・カッコでくすぐったい思いをするだけのこ とだったが、まるで怖じ気づいたカタツムリのように、たちまち首をすくめてしまい、機 嫌のわるい雄牛よろしく陰気な目を見せて「そう」とうめくようにいっただけである。そ の目にはほんの数日、ルンガラ*10 にいただけで、もう本当に黄色くなってしまっていた。 「階段で二度ばかり出会った覚えはありますけど、ぜんぜん知りません。だいたい、知 りもしない人のことについては」と決めつけるようにいった。「ひと言も申しあげられま せんな。バルドゥッチさんのお宅の姪ごさんだっていうふうに聞いてるけど」 一度、いや何度も (と、ドン・ロレンツォはさらに話をつづけた)、こうした点で、リリ アナ・バルドゥッチが自ら取ろうとしている母としての「ありかた」 「立場」がよく飲みこ めなかったせいでもあろう、彼女、つまりヴィルジニアはメルラーナ街の家にいて、旦那 さまが汽車にのって逃げるように出かけてしまい、女中も留守のときなど、奥さまを抱き しめ、キスをしたものである。「何か衝……動に駆られたような時にですな」ドン・ロレ ンツォは衝という言葉をうまいぐあいにはっきりと口にした。それから慈愛に充ちた落ち ついた声でいったものである、つまり、そのときの彼女は次のふたつのうちどちらかだっ た。そのとき、頭がぽっとしていたか、それとも、お芝居をしなくてはいけないと思いこ んでいたかのどちらかだという。それはともかく、彼女が女主人な抱きしめて、キスをし ていたのは確かである。 *9 小児科医はペディアトラであるg、それをピエダトラとし、ピェディが脚であるところから、「脚の医者」 つまり「ウオノメの先生」ということになった訳である。もちろんヴィルジニアのメンタリティの程を指 すガッダの言葉の遊びの一つ。 *10 レジーナ・コエリ刑務所の所在地。 108 第5章 「女主人だって?」とフーミ警部が眉をひそめて口を出した。 「女主人でも代母でも同じことです」そしてヒョウでもこれぐらいのキスはできるだろ うという具合に、「ああ、美しいリリアナ、あなたは私の女神です」などといってキスを し、それから声をうんと低めて、いまにも窒息しそうなといった方がいいぐらいの、熱の こもった口調で「あなたが好きです、とっても好き、でもいつか取って食べてしまいます よ」といいながら、相手の手首をつかみ、じっと顔を見つめながら、その手首をよじって いた。おたがいに相手の息が吸いこめるぐらいに口と口を近づけ、乳首と乳首を近づけ、 万力でも使ったように相手の手首をよじっていたという。だが、ドン・コルピがいいなお した、当然のことである。「つまりですね、胸と顔を彼女に近づけたというこってす」だ が、イングラヴァッロにしてもフーミ警部にしても、最初の話でちゃんと分っていたのだ。 あの日、娘としての愛情がこうじて、本当に耳に噛みついてしまい、さすがにリリアナ も今度だけはおどろいた。かわいそうに、さぞかし痛かったことだろう。クワトロ・サン ティ教会までひた走りに走って来た。真青で、はあはああえぎながら、耳たぶと呼ばれる 部分な見せたが、まだ丸く点々と痕がのこっていた……あの歯の痕が。やれやれ。まあ、 遊び半分だろうけど……。でも、冗談にしても、たちが悪い。いくら遊び半分だからと いって。 そこで、みんなして彼女を教会堂に引きこもうとした。「ちゃんとした祈りの言葉を少 しでも唱えさせようというんでね。知ってるかぎりの祈りをですね。祈りっていうのは、 ありゃあ天国行きの切符です。天国が駄目でも、少なくとも煉獄には行けますが、大きな 荷物を持った人は天国の税関が通しちゃくれません……最初はですね。祈りですか? そ れが何ともいやはや。平手打ちでもするみたいに、鼻先で歌っていたんですから、ストル ネッロ民謡と同じです。ギターにあわせて歌うあの口ーマ民謡……鼻と咽喉の間で陰気に 歌うあれです。ひっきりなしに頭をゆすって、日は靴の先を見たまま、マリアさま、マリ アさま、静脈に恵みがいっばいだなんて、聖母さままで引きこんで私たちみんなを笑いも のにするっちゅうんでしょうか。聖母さまをです。わたしもはっきり申しましょう。あれ では泣き言です。子供たちなら眠らせることもできるけんど。はずかしいことですわ。と にかく、この世で私どもをお救いくださる方があるとすれば、それはあの方だけです。な のに、私ども主にむかってときたら衝……撃を与えてさしあげようと、そればかりやって いるみたいで」今度もまた、衝という言葉だけはっきりと口にした。 あるいはひょっとするとヴェールをかぶっていたかもしれないが、とにかく幸福そうな 静まりかえった空気のなかで、あるいは退くつな祈りのくりかえしのなかで、大ミサの間 中、彼女は顔をもたげていた。リリアナから贈られた真珠母の珠数をつまぐっては気をま ぎらしていた。祈りの木はさかさまに持っていたので、何かしら理解はできたかもしれな いが、読むことはできなかった。Corpus Domini の祭日に……聖ヨハネ寺院の修道士た ちが事務所でやっているような振舞いを真似するだけの勇気が彼女にはなかったというの だろうか例の男の声でもって、そのとき悪魔だけが彼女に与えることのできた男の声で もって。なんと聖壇に居ならぶ聖人たちまでが、絵に描かれただけの存在にもかかわら ず、彼女のおかげで勘忍袋の諸を切らされたと、みんなに抗議しているようにみえた。彼 はというと、ヴェラーニ枢機卿の右手に坐って……歌うのも止め、じっと彼女を見つめて いた。それからミサのあと、みんなが彼と彼女、そしてリリアナのところに挨拶に来たと き、柱廊の下のその場で、二言三言、彼女に声をかけた。ところが、彼女ときたら、申し わけないという印に肩をすくめただけだった、この女は。「一発なぐってやりたくなりま 109 したよ」。そして、彼は手を上げて机の上で開いてみせたが、その勢いにフーミもイング ラヴァッロもついに腰をぬかしたほどである。 111 第6章 同じ二十二日、火曜日の午後、四号室で例の三人のおしゃべり、とはいってもその後、 「バルドゥッチの四番目の訊問」として記録に残るものだが、そのおしゃべりがつづいて いるとき、「メネガッティ事件」の捜索にかんするマリーノ地区憲兵隊の電話連絡がサン ト・ステーファノ (コレッジョ・ロマーノにある) に入ってきた。この連絡はディ・ピエト ラントニオ巡査部長が受けた。通話相手の憲兵隊が非公式に、唯の注意として伝えてくれ たところによると、例の緑のショール (といっても今ではそれほど濃い緑ではなくなって いた) の持ち主はレタッリ・エネア、別名ルイジニオといい十九歳で、アンキーゼとヴェ ネーレ・プロカッチの息子であり、フラットッキエから程遠からぬ「トッラッチョ」とい う場所に生まれ住んでいるという。ルイ・ジニオですな。そうですよ、そう、そう、ルイ・ ジニオです……いまのところは所在がつかめませんが。そうです……いや……もう……完 全ですな。いや、ちがいます……トッラッチョでは見つかりませんでした。つまり失踪人 です。ディ・ピエトラントニオがそれこそ耳をすまして、まさに難破船同様の相手の話か らやっとのことで聞きとったところによると (送話器のばちばちいう音とインダクタンス のせいで相手の話ががんがんとひびき、それに市内電話がいろいろに混信して通話を混乱 させ妨害していた)、どうやらその不用心なエネア・レタッリというかリタッリ、っまり ルイジニオ (といっても、明らかにルイジーノなのだが) がショールを染めに出したもの たれ らしい……三千六百キロのパルメザン、もすもす、誰が話すてるかね、きのうレッジョ・ エミリアから送られてきた……。こちら戦艦ラカーチェの中尉です。もすもす。こちらマ リーノ地区憲兵隊。年期を入れたパルメザンです、もすもす……モンデグッゴリ提督のお 宅にかね。パルマのバヴァテッリ社がだな、はい、はい、トラックでだね……マリーノ地 区憲兵隊の方が優先するぞ。三千六百キロか、分った、トラック三台、明日の十時に出発 はくさく びょうにん びょうにん だな。ちがうのよ、伯爵夫人は 病 院 に入ってみえるの……。提督の 病 院 よ……オラツィ オ通り、オラツィオだったら。そう、そうですわ。いいえ、ちがいますわ、あなた、わた くしから聞いてみます。警察の職務が優先します、こちらローマ警察署。レッジョ・エミ リアから三千六百キロがとどきます、パルマ・タイプ、絶対に第一級の品質です。提督は すずつ すずつ 月曜日に手術をなさいました、胆嚢の手術です、胆ー嚢です。そう、そうです。いいえ、 ちがいますったら。 こういう混線状態から引き出し得たことといえば結局、レタッリがアッピア街のドゥ エ・サンティのある女、パーコリ、パーコリ・ザミーラとかいう女のところヘショールを 染めに持って行ったという事実であろ。ザミーラ。ザーラの Z、アンコーナの A。ザミー ラ……そう、そう、ザ・ミーラ。マリーノやアルバーノのあた) で、その全部の功績とま ではいかないにしても、多くの功績の故に、全部の人とはいわないまでも多くの人に知ら れた女だ。それから通話は切れた、至高の階級組織のため、そしてその利益のために、あ 112 第6章 るいはそのようにみえる。ほぼとっぶりと日が暮れたころ、ペスタロッツィ、もしくはペ スタロッシ軍曹がオートバイでサント・ステーファノにやってきた。この軍曹は文書に記 した報告書を一通と、憲兵隊、つまリサンタレッラ准尉の口頭による連絡事項を何件か 伝えに来たのである。准尉はここのところ隊が休暇中だし、専任の中尉の事情もあって、 もっばら憲兵隊を代表する立場にあった。八時、もうそろそろ胃袋とスブーンの時間であ る。バルドゥッチはもう放免されたあとだし、勲三等のアンジェロー二は礼をつくして送 られ、帰されていた。この時間にはもうきっと床に入っているはずで、これまでになく鼻 水を垂らしながら、ストッキングのような帽子を目探に首のところまで引きおろし、おば あさんのベッドのなかで丸々としているはずだ。うんと肉のある掛けぶとん、厚みこそあ るが荒涼どした感じの羽根ぶとん、こういうタイプのミートボールのような男に最もふさ わしく、最も欲しいと思う夜共はこれである。フーミの声。「ペスタロッツィ君に入って もらってください」カッコの用箋を相手にしているうちに、いちばんしっかりしている連 中までが、そろそろうんざりしかけていた……。だが、その骨ばった、憲兵らしい名前を 聞くど、みんなぴりっとした。ショールをさがすのにもってこいといった感じのペスタ ロッツィはさっそく四号室に通されて、フーミから事情を聞かれた。同席したのはイング ラヴァッロ、ディ・ピエトラントニオ、パオリッロ、それに「つかまえ屋」である。この 「つかまえ屋」は火の消えた、とあるストーブの影にうまく隠れて、・スートビーフのサン ドイッチを口に放りこみ、大急ぎで噛み砕いたが、あらかじめ廊下にいるときに、パンの 大部分はこまかく千切ってあった。ほんの少し行ったところにあるジェズー街のマッケロ ナーロさんはいざとなると時を移さず友情の発露を示してくれる。つまり、ヒレ肉を三 枚、中にはさんでくれるのだが、その並べ方となると、彼などちらりと見たとたん、サム ピエルダレーナの屋根をふいた三枚のスレートと見まごう思いがする。それほどに一枚、 一枚をそっと並べて、細長いパンをふたつに割った、いわば小さな小さな梁で支えたとい う形だが、このパンというのが聖女さま、たっぶりスリッパ一枚はあるという大きさで、 お国が首をつっこむようになったきょう日では、もうそれがどんなものだったか、思い出 すこともならずである。その空っぽの胃にとっては、ミネストラ・スープが速効療法中の 速効療法であるが、やがてご馳走にありつけると思っただけでよだれの分泌が始まり、い つでも蠕動運動の用意ができているという調子だった。カウンターにいる客たちはこうい う奇蹟を見ても、もう慣れっこになっていた。当然のことさ、人の胸にあることが分って たまるかというのだ。「おおい、ポムペオ、そんな、ストーブの後ろで何やってんだ…… こっち来い」とフーミ警部が命令口調でいった。「おまえさんにも聞いてもらわんとな」そ して、陽気な音楽家のように大きな声を張りあけて、マリーノ地区憲兵隊の報告を読み始 め、読み続けた。さて、読むのが終ると、今度はペスタロッツィとディ・ピエトラントニ オに交互に質問をあびせ始めたが、そのさい、自分のきらきら光る目を大いに活かしてあ まり明るくないその部屋の中で順順にみんなの顔を眺めていった。そして、ますます生気 を加え、ますます言葉に油ののってきた調子で、ふたりを相手に質問を平行して続けたが (となりあって流れる小川のように)、それが一方の憲兵隊にふさわしい、きりっとした規 律のほどと、もうひとりの抜け目なく、執拗に食いさがって行く態度をやわらげていた。 憲兵のこの規律というのは、ライバル関係にある警察組織と相対し、押しだまったまま、 ゆるがぬ、慎重な抵抗を見せるときはっきりと現われるのがふつうだし、またその威力を 113 発揮するのもこういうときである。*1 だが、事実はこうである。つまり、フーミ警部の優 しくさそいこむようなその目つき、とても暗く、とても明るく、青白い顔のせいで憂うつ にも映るその目つきを前にすると――、また夜にしても、弱いろうそくの明りが薄っすら と灯るとき――そういう夜に、オートバイから下りた瞬間など、彼のすばらしい声音を耳 にしたりすると、どんなにこちこちの憲兵さんでもひとたまりもなかった。それにペスタ ロッツィとしては、まだまだこれから例のレタッリをつかまえなければいげないとある。 なにせ憲兵どのの手もとにはショールがひとつ残っているきりだったのだ。それだけに彼 としてもカッコのこの五人のエキスパートから頂けるかぎりのものは頂きたいという気持 があった。サント・ステーファノ・デル・カッコの都会ふうの雨水だめから、いちばんい いところを汲み出そうというのだ、事実の資料、推論あれこれ、嫌疑の動機、根拠のある 仮説、疑惑、忠告、新鮮なニュースなどなど、最後にはてにおはの使いわけ、そして秀れ た推理能力のおすそわけにもあずかろうというのだ。それにくわえて探偵趣味がある、フ ラスカーティからヴェッレトリにいたる民衆のすべてが口にし、全イタリアが最高の抽鐡 器、つまり当時でいえばレッジョ抽籔器、今でいえば共和国抽籔器を使ってこぞって賭け をするような、それほどの大犯罪の捜査に参加しているというプライドもある。こうして 警察=憲兵隊の一種の浸透作用が始まり、この四号室で、それもこんなに遅い時間に、相 互不信とか職業的嫉妬心とか団体精神とかいうろばの皮にも似た皮膜を通して、その作用 が営まれつづけた。どちらとも解釈のできるあいまいな情報を流したり、馬鹿ていねいな 態度で do vt des とやりあったり、かと思うと、ただ訳もないおしゃべりに堕したりする のであった。 ディ・ピエトラントニオはサンタレッラ准尉を個人的に知っていた。イングラヴァッロ については触れるまでもない。彼は老女たち、おばさんとか代母たちを通じて、母方の遠 い従兄弟にあたっていた。時代とともに険しいアペニンの、その山脈づたいに打ちこまれ て行った母系親族であり、ヴィンキアトゥーロからオヴィンドリヘと長靴の険しい縫目を 上へ上へとさかのぽってきたのである。それにサンタレッラは例の規律とローマ的な義務 の燦然たる代名詞でもあった。ディ・ピエトラントニオは彼なりにパーコリというその女 を知っていたし、つかまえ屋も彼女を知っていた。というのも九月にそのカウンターで一 杯やりに立ちよったことがあろからだ。ザミーラ、その名前とその行動は、あらわなもの にせよ隠されたものにせよ、秘密だとか輝かしいとはいわないまでも、ひとつの神話に なっていて、マリーノからアルバーノ、カステル・ガンドルフォからアリッチァにいたる 一帯で発見者とか吟遊詩人とかいわれ、後には宣伝屋、ラッパ吹きとされていた。 一方、アンキーゼとヴェネレ・プロカッチの息子である十九歳のレタッリ・エネアはイ ジニオという芸名でルイジニオではないことが明らかになった。が、「そんなの意味ない な、意味ないよ」と異口同音にしりぞけられてしまった。「全くそのとおりだ」と、そろっ て認めた。インダクタンスと混信のいたずらだぞ。サービス不備だ。工事中のせいじゃな いか。管理部門で異動があったのさ。 ところで、染め直さなければいけないぼろ、生地、セーター、穴だらけの肌着が山とあ り、これを片づけるのはただごとでない、いろいろと心配をしてくれるところを見るとど うやら何がしかの騎士道精神を秘めているらしい代父ベルゼブーの大鍋を使うほかあるま いと気がめいってしまい、染め直しの品は緑の帯もふくめてマリーノのチュルラーニ社に *1 イタリアのいわゆる警察力に、一般警察と憲兵隊の双方にあり、したがって両者はライバル関係にある。 114 第6章 下請けに出していたが、同社は二日前、雨がななめに吹きつけるすさまじい彼岸あらしの 荒れ狂うなかを、その古着を運ぽうと二輪馬車をよこしたのである。で、馬はかわいそう にびしょ濡れになり、憔悼した姿で到着したとあって、馬車から外し、馬小舎で乾してや らなけれぱならなかったが、その馬小舎がまた雨もりがしていたので、馬の尻を叩いて大 事にしてやり、あたためたワインをふるまってやった。ペスタロッツィの出向いて行った 先というのがそこ、つまリマリーノであった。テーブルにはすでに染め終った品物が山と 積んであり、これから消毒するものや染めるものを二つの袋に入れて壁にもたせかけ、床 に置いてあった。だが、マーラ夫人は巡査部長に注意なさってと教えてくれた、用心にし くはないというのだ。「いったん、くっつきますとね、もうどうにもなりませんの……」 肝っ玉の坐ったペスタロッツィだが、じっと凝視すると、さっと足を引っこめた「二歩、 後退」さっ、さっ、まさに軍隊式に活発に動いた、小隊で訓練をしているのと同じだ。こ のチュルラーニ社の代表者 (ということはとりもなおさずマーラ夫人その人である) がす でに水で処理をすまし、そのときどきに登場する四つ足の耐圧罐を適当に使って清めた机 の上の衣類の山を引っかきまわしたあと、たまたま帯が出て来た、先端をつまんで飾り帯 を引っばり出したのだが、いっかな切れない長い帯で、穴から尾をつかんで蛇を引き出す のと同じだった。それは以前は緑色だった、そう、緑と黒が点々としていた。ところがも う緑ではなくなっていたが、だからといってまだ新しい色にもなっていなかった。予定で は茶色になるはずだ。というのも茶色を出すにばもう一度、染料にひたす必要があった。 チュルラーニの夫人の話である。 それにしてもとエキスパートたちが疑問に思ったのは、ドゥエ・サンティのズボン屋の ザミーラがよくまあ密告をしたものだということだった。 ペスタロッツィは、彼女のところへ赴こうという考えはまず自分にひらめき、「やっと そのあとになって」サンタレッラ准尉もその気になったというふうにみんなに思わせた。 地区憲兵隊でオートバイに乗れるのはこのふたりであった。そして、ふたりして結構、厄 介な問題にかんし、いろいろ意見を交換して行くうちに、彼の方が議論を思うとおりに進 めて行った。すなわち、全く何の効果もないというようなものではなく、むしろ、口数が 少ないという大きな欠陥に対してもちゃんと説得力のある議論であり (ディ・ピエトラン トニオはすでに頭のなかでズボンのベルトのことに注意を向けていた)、場合によっては、 疑い深い心や顧迷な百姓たちのなかにある反抗の懸念や個人的報復の恐怖まで相殺し、つ いには克服するまでに至るような、そういう可能性のある議論である。だが、ザミーラと いうしたたかな女性が相手だと……そこまで進展する必要はなかった。そうじゃないか。 なんといっても女なのだ。それもああいう性質で、ああいうタイプの女である。わざわざ ad audiendum verbum (話を聞くよう) 兵営まで彼女を呼び出すこともなく、それをしよ うにもその機会がなかった。もっとも、そうした方が「いうなれば」彼女を楽しませこそ すれ、おびえさすことはなかったであろう。サンタレッラ准尉、ということは総じていえ ふ ば……地区憲兵隊であるが、そう、地区憲兵隊にはちゃんと勇敢な歩があって、あそこに 少し、ここに少しという具合に「チェス盤の隅々」にまで置いてあった。で、ディ・ピエ トラントニオは敵味方から言葉を借りてきては、カッコでいちばん聡明だという顔なして みせた。「作戦地区のまっただ中にいるみたいだな」とフーミは真剣な表情で書類をくり ながら、おだやかな落ちついた口調でつけ加えた。姪……バーコリのところで働いている 女。准尉さんに桜草の小さな花束をひとつ。いちばん小さなお嬢ちゃん、ルチアーナに編 目のストッキソグを二足と、それに挨拶の言集を二言三言そえて。短いけれど、いい言 115 葉を。 そのとき、フーミは思い出したのだが、娘がひとり、あのイネスだ、イネスだ……―― そして、花びんに入れたきれいな花のなつかしい香りのように、ずっとテーブルにとっ ておいた美女たちのファイルを手でさぐっていた――イネスだ……チャムピーニ、そう、 トッラッチョかトッラッキオで、アッピア街のフラットッキエの次の停留所で、何日か前 の晩、サン・ジョヴァンニ署のパトロールの手でつかまったのだ。あの事件の前の晩だっ た。放浪と書類が足りないことを理由につかまったのだ。公的な場所 (サント・・ステー ファノ・ロトンド) で売春をしていた。つまり免許を受けずに (ということは全くの素人 として) 取引きをしたという根拠のある嫌疑にもとづいてつかまったのである。警察官の ひとりを「あたしのうすのろちゃん」などと呼んで警察宮全体を侮辱していた噂そして罰 を受けていた。「もっとも、われわれの認めるところ特発性の行為であり、あの晩は全く 偶然な形で行なわれたのであるが、とにかく、長靴体制*2 下の都市の歩道浄化にかんする ときべち フェデルツォーニ政令違反の現行犯として逮捕されたので、それは「内務省の特別布告に よったのです、二月十四日のですな、知っておいででしょ、イングラヴァッロ、七百と十 八条でしたかな、ちょっと力をかしてください、イングラヴヅッロ、あなたの記憶力で ずん もってーほわ、首都の道徳化のあれに准じたわけでして」イングラヴァッロは口を開かな かった。「それに窃盗の共犯容疑もあって留められました」とディ・ピエトラントニオが 主任警部に告げた。「何の窃盗かね」「鶏です」「どこで盗んだね」「ヴィットリオ広場で す」十六日の水曜日の朝、女たちを一網打尽にしたあと、サン・ジョヴァンニ署のユッバ リエッロ巡査部長は、三日前に盗みに入られたふたりの女に彼女を引きあわせた。ひとり は鶏屋で、ひとりははきもの屋の女であった、はきもの屋の露店で半端ものの靴が一足ぬ すまれ、その近所の別の露店で鶏が一羽ぬすまれたというわけだが、その鶏というのがも う毛もむしられ、首もついていず、その埋めあわせだろうか、お尻に三本、羽根がついて いた。また、靴と鶏と両方を煙にしたのは青年と金髪娘の二人組で、「あの混雑する時間 に並木道をしばらくの間うろつき、それから離ればなれになって、奇蹟のように品物を 持って見えなくなった」、鶏屋のお内儀というのが、誰よりもわめき立てていたが、「最初 の間」イネス、トッラッチョのチォニーニ・イネスを見て、例の鳥をこすった、というよ り羽をむしったと思われるあのプロンド娘ではないかと思った。だが、「そのあとになっ て」ためらいの色がみえてきた。警察の人に説明をするためにと見本の鶏をサン・ジョヴ アンニまで運んで行ったが、これがあらゆる点で三日前、十三日の日曜日に行方不明に なった仲間にそっくりであった。靴も同じようなのを持って行った。結局、被告と原告は サント・ステーファノまで運ばれ、靴行商人の女も彼女たちに同行した、警察で訊問をう けると、イネスは「もし本当じゃなかったら井戸にとびこむわ」というほどの勢いで、ま ず何より鳥類については何も知らない、いまでこそ仕事ばないけれど、ちゃんとお針子だ し、フラットッキエのうしろのドゥ・サンティではズボンを縫う仕譲をしたことだってあ るといいはったし、誓いもした。「で、それからは?」それからは仕事をさがしにローマヘ 戻ってきたのだ。「働き口をさがすというのは恥ずかしいことではありません」鶏はどう にも我慢のならない悪臭を放っていた。これも左ばかりの二個の靴といっしょに署へ運ば れてきたのだが、サント・ステーファノ・デル・カッコに入ったとたん、どうやら恐怖の とりこになったようで、もう死んでいるくせ、パオリッロの汚ないテーブルに糞をした。 *2 ファシスト体制を指す。 116 第6章 といっても実のところ、ほんの少量である。 「イネスの話を聞こうや」 フーミは腰掛けに坐ったまま身もだえすると、ボタンを押して、ピシティエッロを呼び 出し、パオリッロにいいつけて彼女をピシティエッロからこちらに移させることにした。 まだレジーナ・コエリに送られてないとしてのことである。しばらくしてパオリッロは結 構、造作のいい娘を連れこんできた、顔に輝くふたつの目は明るく、きらきらとしていた が、とうてい信じられないぐらい不潔で、髪も乱れていたうえ、その靴がまたどうだろう、 半分破れた布製の靴からは指が一本はみ出ていた。決して悪くはない原始林を思わす一陣 の風が都屋をさわやかに吹き抜けたが、その匂いたるや。「やれやれ、ひどいもんだなあ」 と、みんながみんな、心の中でいったものである。 身もとにかんして数言、前口上があったあと、イネス……イネス・チォニーニはまず フーミ警部とドン・チッチョが少しずつ訊問をし、ペスタロッツィ軍曹とディ・ピエトラ ントニオ巡査部長、パオリッロ、そしてその少しうしろからつかまえ屋が頭のてっぺんか ら足の先まで吟味する様子を見て、連中が自分に何な望んでいるのか、とっさに理解し た。彼女の声を聞きたがっていたのだ。そこで歌って聞かせた。別に頼まれもしなかった のに、ひょっとして、パーコリのところで働いていたんじゃあるまいね。ええ、そのとお りです、パーコリのところですわ、ザミーラのところ。ザミーラだって? ええ、彼女の 名前はそうでしたけれど。それでさ……どんなふうだったね。そう……いっのことだね。 で……どれぐらいの期間? そうですね、一年以上でした。それで……ザミーラは何を やっていたんだい。客種はどうだった? そうですね、ありとあらゆる種類ですわ。男 も女る、たいていの人が来てましたわ、免許を取っていましたもの。で、とくに地下室だ が、何を置いてあったかね。そう、要するに地下の階にだな。そうですね、油の入ったガ ラスびんです。ああ、それから羊乳のチーズもありました。ほう、なるほどね。そうだろ う、そうだろう。で、作業場には女たちが何人ぐらいいたかね。その年齢は? 十六歳以 上かね。そうねえ、でも十五歳の人も何人かいましたわ。で、御者たちはどうだった? 馬は? それはもう馬小屋ですわ……もちろんでしょ。 で、ほかにどんな動物がいたかね。すると、その世話をしていたのは誰? ほう、そ うかい。それでスコポーネ*3 をやってたわけかい。ええ、でも土曜日だけですわ。なるほ ど、そうだろうとも。当然だよな。土曜日の夜です。たいていの人が来ましたわ。ワイン はおいしいのが出ました。ええ、彼女、免許を持っていました、アルコール類を売る免許 も。その他、その他。その結果、金曜日と火曜日には憲兵隊も、王室憲兵隊も彼女のとこ ろを訪ねてきていたのが明らかになった。ペスタロッツィとしてはできれば抗議をした かった、いや、このさいだ、抗議をしなければならなかった。だが、彼としても、こうい う気前のよい蛇口から新鮮な水をわずかでも流しておく方が望ましかったし、きわどい話 になってもせいぜい肩をすくめ、首をふって「作りごとだ、でまかせだ」というだけにし ていた。ところが、みんな、この話を信じていたのである。警察は憲兵隊と競争状態にあ るとき、ほかでもない、こういう作り話を養分にしていたのだ。ふたつの組織のどちらも が話を独占したがっていた、いや歴史まで独占しようとしていた。だが、歴史はたったひ とつしかなかった。でもそれを真二つにする能力があった。ふた子に分けたり、アミー バー式に分割する過程でおたがいに分け持ったのである。半分おれで、半分おまえという *3 トランプゲームの一種。四人で遊び札を一回で全部に分けてしまう。 117 ように。歴史の単一性は二重の史料編集の中に廃棄され、詩篇と交唱聖歌に流れこみ、ふ たつの相対立する確かさに取りつかれる。つまり警察の報告と憲兵隊の報告である。一方 はイエスといい、他方はノーという、一方は白といい、他方は黒という。犬と猫がどうし てなかなかうまくやって行くという図だ。 このイネス・チオニーニにはダンディーな友だちがいた、彼女もみとめる美男子で、 もったいないぐらいの色男である。そして、みんなが考えたことなのだが、この男は彼女 に会っているにちがいない、それもおそらく……そうだ、間ちがいなく、なにやら優しい 態度で彼女に接したのではないか……最近、彼女が入浴したのと、そう変らない時期に。 部屋が荒涼とし、煉瓦の床にはかび臭い光が射しているにもかかわらず、彼女は見れば見 るほど美しいというほかなかった。それに、汗に汚れた顔やごみがぶら下っているそのた だなかで、顔も咽喉も白くみえ、腫れあがった赤い唇をしていて、無邪気な少女を思わす ぐらいだったが、同時に早くも、思春期という自分の年頃にうんざりしているというふう でもあった。そして身体を向け、かがみこむたびにかなり苦しそうであり、自分の重量に 泣いているところは (なんとはなしにある種の聖女さまたちや、スペイン人とみられる修 道尼たちを思わせた)、耐え難い重みをかけられ、重い、永遠の負担をかけられたようだ、 自然の古風な気まぐれのせいである。真の、核心をなす重量をなぞったその外観がくりか えし彼女を包みこんでいるところは、ちょうど、水に投げられた石を水の輪が包みこみ、 「その場にいる人の考え」に応じて、つまり男の精神錯乱に応じて、おどろくべき示唆を 拡張していった。つまり、すでに述べた芳香とともに、内臓、空腹感、それに動物の体温 といった真の、深みのある生命感が彼女から発散されていたのである。これは家畜小舎や 乾草の山にこそふさわしい観念であって、わがもの顔の勅令をもってきてもどうにもなら ない。子供を思わすその宝石のような目は、少ししか夕飯を食べていない男たちみんなに 向かって、まだこれからでも手に入るような幸福の名前、つまり彼らの書類やわびしい壁 や天井の干からびたハエや糞の尚像画といったものをしのぐ歓喜、希望、真理の名前を発 散していた。糞の肖像画とはつまり、悪臭ふんぶんたるうぬぼれ屋の肖像閥のことであ る*4 気の毒な話だが、あの垂れ流しのマルトーニの倅*5 にもってこいの形容詞をひょっと すると、彼女にも当てはめなくてはいけなかったのだろうか。いや、そんなことはない、 空腹、美、青春、不潔、厚顔さ、放棄といったことは別にして、彼女は病気などにはみえ なかった。おそらく、眠いし、疲労していたのだろう。相手の色男が彼女をなびかせてお いて窃盗にと引きこんだのだ、つまり、夜ふけの甘いささやきは「なんとかやれよ」とい うことになりかねないからだ。彼女の女主人からして以前にこうした考えをおしえておい てくれた、というか、自分で理解できるようその機会を与えてくれていたのだ。愛は彼女 を堕落させたあと、腹を空かしていなければならない運命にと彼女をゆだねた。いまや警 察のみんなは、前からぜひにと望んでやまなかったあの女スパイの役割を彼女が果してく れたらと願っていた。彼女にもそれは分っていた、知っていた、そして、何も遠慮するこ とはなかった。幼い日々に押しつけられた悪の数々、いまこそそれをあの保護者だった人 たちにおかえししなければならない。そこで、しゃべりまくったのである。先生役の女主 人について。「お裁縫の先生の方? それとも、洋裁店のご主人?」洋裁店の女主人でも あれば、洋裁店でないものの女主人でもある。パーコリのこと、そう、ザミーラのことだ。 *4 *5 ムッソリーニのことか。 ムッソリーニは、ローザ・マルトーニの息子。 118 第6章 ペスタロッツィとディ・ピエトラントニオがすでに同じ趣旨の報告をしていた。イングラ ヴァッロもまた、大きな顔をふった。三回、四回と。 ザミーラのこと、そうね、マリーノとアリッチァの間では誰だって知ってます、前歯が 八本欠げてるので (彼女の歯並びは犬歯からしかなかった。イネスは口を開くと、指で美 しい唇をゆがめ、例証として自分のを見せた)、上が四本、下が四本ね。で、その口はねば ねばし、つばきだらけで、熱でもめるように赤みをおびていて、うまくあかないのです、 そう、いってみれば穴のようです。もっと悪いことに、口が裂けるようにして笑うんです けど、それが暗い感じで、助平ったらしくて、ぶざまなんです、もちろん不本意なことで リ ク ト ウ ス しょうけど不格好な笑いね。にもかかわらず、もっばらの噂話ではその口の開き具合、そ の空ろさというものが、ある種の国家的、あるいは非国家約人物にとっては不倫へのいざ ないになったという。時として午後のことだが、大きな目をちょうど水ぶくれのように柔 く、ふくらみかげんにしていたが、それでもきらきらと輝き、ぞっとするような、何とな くどんよりした悪意に充ちていた。酔っばらっていたのだ。見てそれと分ったし、息もく テアヴォニオ さかったそういうとき、顔の皺は 西 風 の吐息でも受けたようになめらかになっていた。 別の祈りにもっとずっと彼女らしくみえるときもあった。彼女、つまりザミーラらしくで ある。そういうときには、魔法使いの細君よろしくといった妖術の炎が顔に降り注ぐよう に、光が耐え難いぐらい激しく照らしていたにちがいない。見るからに荒っぽく、嵐に翻 弄されて乱れたような髪の毛、木のように茶っぼく、くすんだ顔全体に平行に刻まれてい る深い皺、さらに貪欲に婉曲に何かいいたげなその祝線などがそのとき、彼女の外観を いっそう目立たせていた。いってみれば憎むべき魔法をつかさどる古代の魔法使いを思わ せたし、また草木の根、とりわけ、ルカノやオヴィディオの魂がもつれこんでいるような 調理した根っ子の姿を思わせるのであった。 彼女の活動の分野は公式には修繕屋、編み直し屋、ズボン作り、染物屋であり、時には 小間物屋で、草の秘法により座骨神経痛を直した経験もあり、手相見やトランプ占いもや れば、ドゥ・サンティにワイン、アルコール類の売店を持ち、東洋風の魔法使いとして第 一級の免状も持っていた。彼女の仕事場兼飲屋にはアッピアの御者たちが一杯やりに立ち よっていた。ほかでもないドゥエ・サンティという土地柄である。彼女はまた悪魔ばらい という面でも、妖術を始めたり解いたり、ベビー帽をかぶった赤ちゃんや知恵の遅れた子 供たちを悪魔の目から守ってやったり、前以て悪魔ばらいの祈りをあげてやるなど、いろ いろと相談にのっていた。また、シラミを駆除するため頭を洗ってやったり、神経的なも のやその他、よく知られているとおりおびただしい数の障害が原因で娘たちの月のもの が止まったときなども腕をふるっていた。聖墓の大バルコニー(一九二二年十月二十八 ヒドラ 日*6 のおかげでイタリアがボリシェヴィキという 蛇 から解放されて以来といってもいい クラッキング ほど経験ゆたかな、まれに見る能力にめぐまれた免疫学者でもあり、悪魔の目の分解蒸溜 は彼女がこれまでの病症を完全に掌中のものとしているだけに、誰もがもっばら彼女の腕 に頼るほかないと、いよいよ大方の関心をあつめていた。とはいっても、みんながみんな 関心をよせたわけではない。sic e sipli citer これを端的にいえば、生まれついての器用と いうことで、仲よくさせたり、時として反発させるような煎じ薬も作れば、ほとんどあら ゆる種類の媚薬や、積極、消極の両方に使える愛の薬まで作っていた。血統書つきの牝犬 が雑種の野犬にはらまされたりすると、おろしてやっていた。相応の報酬を得て、疑いぶ *6 ムッソリーニのローマ進軍を指す。 119 かい人びと、自信のない人びとに何がしかの、ということはかなりの運動エネルギーを教 えこみ、pragma(実用) で彼らをなぐさめ、行為で彼らを強めることができた。十リラ出 せば彼女の薬で意欲の働きが買えた。あと十リラで能力の働きが買えた。また、地方のペ テン師たちを相手に、最近の当惑や、最近の恐怖から彼らの魂を清めてやり、都会で、つ まり首都で「働ける」ように、彼らを非キェルケゴール化してやっていた。勇気ある人び とには道を示してやり、か弱い女性たちはこの時代には誰かに頼ったり、何かにしがみつ くほかないとか、彼女たちと束の間のオルガスムや生活の甘い苦痛をともにするのもよい ことだとかおしえてやり、すでに同じ名前の団体ができているが、それと競争してでも若 い女を守ってやるようにと説き伏せていた。そして、内弟子たちは彼女のことを先生とた てまつってはいたが、もっとも、安酒を一杯二杯とあおり、もちろん彼女に聞かれる心配 がないと思ったときにかぎるが、やれ古スリッパだの、みっともないばばあだのと陰口を きいていたが、これはこの時代の無分別さのせいでもあれば、彼らひとりひとりが下品な せいでもある。ひょっとすると、ザミーラ・パーコリのような人を雌豚とまで呼んだかも しれないし、おいぽれのぽん引きとさえ呼んでいた、彼女のようなひとかどのデザイナー を、第一級の免状をもった東洋の女魔法使のことを。感謝の気持なんかあったものではな い。そして、贋をひそめて、こんなふうにもいうのだ、ドゥ・サンティ (二聖人) ってのは 「どうにも説明のつかない」奴らだ、そして、カッコつきではあるか、このふたりの聖人 ・・・・・・・・・・ 自身が使った厚かましい手つきによる叙述補助というやり方でその主張をおぎなったので ある。厚かましい、そう、そのとおり、ただし、当時としては珍しいことではなく、人び との間ではやっていた。中傷。汚れた口。夜中に鶏泥棒をするいなか者の愚連隊。 ああ、時間の、アルバーノと彼女の時間の輝く糸が占いの糸車からほぐれて行く、真実 が神託の応答からほぐれるように。漠としているにせよ、澄み切っているにせよ、彼女の ひにち 予言の中に動員されたものはすべてが、日日も事件もすべてが彼女の周囲に軌道を描き、 姿を現わし、彼女のもとから消えて行くように思えた。それに、彼女にしてみれば、大衆 がこんなにも小心翼々と待ちこがれているところからも、信者たちの長々とした研究をは げまし、いっさいの助雷からわずかな金でもいいから引き出し、奇蹟にとまどうたびに信 仰の増大をかちとり、秘密そのものの魔法の煙からあり得べくもない蓋然性へと回帰を求 める北風のオーロラを引き出すのは、やはり何といっても、よいことであった。なるほ ど、全くそのとおり、だが、誰かそんなことを考えようか。ふつう彼女を取り巻くおびえ た敬服と感謝の念――集団的な希望と宗教性、民衆の偉大な心のなかにある神秘と超越の オルフェウス的感覚――にもかかわらず、東洋と西洋にまたがる免状と称号にもかかわら ず、それもいつ果てるともない会の席についていたあと、そしてテーブルに髑髏をのせ、 ちちんぷいぷいのぷいをさんざんに唱えたあと、しかも十年以上にもわたって名誉ある針 仕事をし、自分のところの女の子たち、貧相な身体の娘たちを車座にして縫いものをさ せ、編みものをさせ、あるいはまたボタンをずらりとつけさせる、なるほどそのとおり、 全くりっばなものだけど、そんなこと誰に想像できようか。悪い目にあう覚悟のないかぎ り、良いことをしてはいけない。ザミーラにとっても同じことである。憲兵隊は心にひ そむ懐疑心から例によって相手に無作法な嫌疑をかけたが、そのしつこいことといった ら……これまでにも何度か女占師たちの生活をそこない、カード占師たちや一流の服飾家 たちの心を踏みにじっできたのである。そういう次第で彼女のことを売春婦あがりではな いか (この考えは彼らとしてはもう何としても撤回できないまでになっていた)、年年顔ぶ れを変えた十五人あまりにのぽる退役中の元補充大尉たちの未亡人を勤めてきたのではな 120 第6章 いかと考えてきた、というより、そう信じこんでいた。もっともマリーノからアリッチァ にかけて残っているその同棲の痕跡は年々、秋が来るごとに薄れてきていた。たしかに歳 月がすぎ、門歯が脱け落ちて行くその間にも、彼女はほかでもないドゥエ・サンティを震 源地に、仕事揚兼飲み屋の下にある一種の地下室で、というか東側の菜園から光を取り、 おそらくは太陽も射す地下室もしくは半地下室で、ただただ狡猾に大胆になって行く一方 のぽん引きといった立陽にあったのだ。菜園――とはいっても、彼女と同じようにもじゃ シ ロ ッ コ もじゃ頭の砂糖だいこんが少々と、東南風に葉をむしられたキャベツがいくつかあるだけ で、それも白蛾に食われていたし、また結び目ばかり並んだごつごつの紐につながれて、 ペ ン テ コ ス テ 時に羽ばたきしながら飛び上っているやぶにらみの雌鶏も一羽いたが、これは聖霊降臨祭 に卵を生むのである――この菜園はアッピア街道の標準の道路標高よりも低い水準にあっ た。地下室もしくは半地下室には便器がそなえてあり、そのうえ汚ないベッドもおいて あったが、このおちんこ野郎のベッドが用もないのにぎいぎいきしんで、色あせた緑の 「ベッド・カヴァー」を包皮がわりにし、何とも判別のできない傷あとがダマスコ織りの 模様になっていて、それがいかにも当然のことのように神秘性を発揮し、バロックふうの 気配をただよわせていた。どうせ後になればこのカヴァーも洗われて菜園に干されるのだ が、ともかく、真先に噴き出た豊かな華麗なバロックであり、時代おくれの色あせた新古 典主義などはもう仮説にも取り入れまいというようにみえた。ベッドの一方の側の壁に非 オ リ オ グ ラ フ ィ ア 常にきれいな油絵風石版画のかかっているのがみえた。裸かの娘たちが大勢群がって検診 をうけている絵で、黒いあごひげの医者は娘たちを次々と眺めているところだが、古代 ローマの服装で眼鏡はかけず、そのかわりにサンダルをはいていた。親指を小さな板片に あいた穴にさしこみ、同じ手の別の指で一束の刷子をにぎり、どの娘でもいいから吹出物 を見つけしだい、皮膚の部分がどこであろうと、チンキを勢いよく塗ってやろうと身がま えていた。この客間というか面接室は南京錠のついたドアによって礼拝堂あるいは文字ど おり神託を聞く集会室に通じていた。例の巫子跡服飾家の予言と神託はここで花と咲くの だ。だが、裁縫やおしゃべりの時間でみんなが階上にいるとき、さよう、そういうときに は、この魔法の道具一式をめざし、肥ったネズミが何匹か用心に用心をかさねながらやっ て来るのであった。腕の半分はあろうという大きなネズ公がぬき足さし足、鼻をひくひく さぜて近よってくる、この出来そこない連中め、ひげなどくっつけ、幽霊のシーツなら暗 闇でも手のひらふたつほどのところから嗅ぎわけられるし、チーズの匂いだったら、貸間 で家族を養っているゴミ屋の家から一キロ離れていてもちゃんと分るのだ。だが、この 天の恵みも、嗅覚を以て近づくほかない以上、ちらりと嗅ぐだけで満足するほかなかっ イデア フォルマッジョ フォルマ た。その観念と、口には児えない チ ー ズ という形体の存在を嗅いでいた。山の上等な羊 のチーズ、皇帝がまだわれわれの上に、さようわれわれの背中に落ちていないころのチー パ ー ジ ー ナ ズ。暗闇の中に脚立がひとつ。鋳物の小さなストーブ、とろとろ燃やすストーブ。田舎風 の媛炉、その暖炉の上に鎖で吊るしてある湯沸し、そして隅の方のボロが散らばっている 真中にきれいな水瓶がひとつ。一種の銅のかめだが、あと数年とたたないうちに厄病神や 尊敬おくあたわざる魔神の合図ひとつで、ドイチュ人と肩を組みあい聖なる血を流そうと いう不滅の祖国の餌食となるはずだったが、祖国とはいうものの、英国で戦うことを口実 にすべての人びとから鍋やシチュー鍋を盗むていのいい泥棒であった。 要るものは何でもそろっていた、要するにこのザミーラの仕事場というのは、永遠に禁 じられたあるいは永遠にあり得べくもないような蓋然性を一滴、その貴重な雫を唯の一滴 でもしたたらせるうえで他に例を見ない絶好の場所であった。染め変えの肌着、縫い直し 121 し み のズボン、衣魚はふくろうを喰いちらしていたが、まだ残骸はのこっていて、ふくろうの 目は夜の中、時間の中で意識的な不動のトパーズとして生きていたし、時間の廃虚の中で 生きながらえていた。並列的に存在可能な重要なものの接触点、つまり魔術、肌着屋、仕 立屋、ズボン屋、カステッリとさらにはビトントのワイン (樽が一個とその栓、瓶が二本 とゴムのサイフォン)、四月のチーズと、蚕豆、頭蓋骨の中で地下室で、つまり「染物部 屋」の中でふざけまわろうというネズ公のボスの孫などの接触点だが、頭蓋骨には目を 通って出入りする、もちろん底のない眼窩を通ってである。テーブルにはカードが何組も のっかっているが、これは占星術の切札であり、このほか砂時計、くじを当てる占い、お 守り、ミイラのふくろうなどがあり、ふくろうには目がちゃんとふたつついていた。さら に、大きな食器棚には革のチーズと油の瓶が並んでいるが……ネズ公も歯が立たないよう に、しっかりと閉めてある。そうなのだ、ザミーラにとっては大事なものぱかり。こうい う宝がほしさに、死ぬものだっているかもしれなかった。ちちんぷいぷいのぷい。 極楽のように楽しく糾合された甘い影、並列的に存在可能なものの呼びかけ、喚起。気 の毒で可愛いザミーラ。アッピア街道の御商たち、巡察中の憲兵たちにワインを注いで やったものである。夏からずっと来ていた彼らは立ったままで、短銃を背負っていた。ほ こりにまみれ、上気し、周囲の広大さに目がくらみ、いつ果てるともないセミの鳴き声で 耳ががんがんしていた。頭と軍帽をおびただしいハエの雲の中に突き出していたが、ハエ は上へ上へとあがりながら、時々、幽霊の指骨がつまびく目に見えないギターのように捻 りをあげていた。さて彼女は飲みものを出したあとふたたび腰かけに坐り、同じように針 仕事や編み仕箏をしようと席についた優しいお弟子さんたちにぐるりと囲まれ、歯 (前歯) のないその顔で編物を始めるのであった。みんなうつむいて仕事をしているのだが、時々 ひとりひとり、隣りの真似でもするように、一瞬、その顔をあおむけては、もううんざり だというよラに、落ちてくる髪のもつれを片手で払っていた。だが、その瞬間、献体から 来る黒い輝く目がきらりと光り、それからボタン、短銃の銃床、憲兵隊の伝令のピストル、 その少し上、その少し下、その少し右、その少し左といった具合に、何にせよ目にとまっ た物体の無関心な姿の上に退くつそうに注がれるのであった。短いスカートをはいた田舎 女の匂い。ああ、あわれな肉どもよ、われらが祖国、われらが愛するイタリアの永遠の春 にとって、これこそ希望というものであり、これこそ人口統計学的な夢ではないか。その 膝の具合、ああ聖母さま、そのゆたかなる膝…:。靴下のことなど考えてもいなかった。パ ンティはというと、まあまあ。(例の雄牛*7 が演壇で吠えたのを聞くと、山の女はパンティ をたくさんはいていたという) むっちりした両脚は卵か宝物でもかかえているようにしっ かりと閉じていた。でなければ、まったくその反対だった。つまり椅子の下についている 板に足をのせていたので、眺める場所さえよければ、これはそれこそ見ものであった、い わずもがなだろう。その腿の具合といったら……。 まず視線は簿暗がりに、それから闇の中にと落ちて行き、ちょうど洞窟探検家や煙突掃 除人がまず低いところへ下りて行ってそれからよじのぼって行くように、低くしみこんで から希望の喉の間によじのぽって行った。憲兵隊についてはいわずもがなである。職務 上、無表情な顔をしているが、その目はいっこうに輝きを失わない。一方、それをにらみ かえす側の目。視線というか、ひそかに投げる矢というか。立ちつくしているところにと んでこられてはさしもの憲兵隊の胸の心臓も止まる思いだったが、そのとき、服飾家は *7 フランス革命の政治家ダントンを指す。 122 第6章 リビアの話をしてやっていた。第四の岸辺*8 のこと、そこで取れるおいしいナツメヤシの こと、同地で知りあいになり、自分にうまく「取り入った」将校たちのことなどを話して やった。こんなふうに大尉殿や大佐殿が取り入ったという思い出話は、ひらの兵隊さんに とっては誘惑の誘い水となった。と、額にきざまれた幾重一もの溝の下で、またマンドリ ルひひの毛にも似た灰色で堅い乱れ髪がパーゴラのように突き出たその下で、小さく鋭 く、黒くてよく動く彼女の目がきらきら輝いていた。なにがしかの唾液が神を呼ぶにせよ 神託を告げるにせよ言葉が流れ出るのをなめらかにし、また乾いているか、粘っているか は別にして歯ぐきのように熱を帯びて、喉が乾いているといった感じの唇にうるおいをあ たえていたが、この唇には古代の象牙のあの切口がなく、今では愛の魔術の入口、自由に 出入りのできる玄関のようになっていた。そこではもちろん舌が主たる道具であった。 エンケテ、ペンケテ、プーフェテ、イネ、アーベレ、ファーベレ、ドンミ・ネ…… 悪魔はこの呼びかけにはさからえなかった。 そうそう、ザミーラは姪のお弟子さんをたっぶりとかかえていたし、そのうえ、アッピ ア街道やアルデアティーナ、アンツィアーテ、その他その他、一キロごとに予備の裁縫師 を配置してあり、いったん事あるときには、ああでもないこうでもないとおしゃべりをし たあげくに手をかすことができるようになっていた。たとえば第四狙撃兵団の夏季演習の さいなど、事実、手をかしたのである。とはいってもパトロール隊や憲兵隊、果てしない 夏にじっと耐える兵隊たちが相手ではそれほどの人数は要らなかった。直属の使用人と姪 を使えば充分だった。そして、全部とはいわないまでもほとんどを姪で固めたが、それと いうのも短銃を背負ってほこりだらけ汗だらけになった兵隊たちが何キロも、ほこりばか り白一色の何キロもの道のりをえんえん歩いたあととあって、酷暑の苦しみから救ってや り、一杯かたむけて一息つく休憩時間をできるだけ魅力的な、できるだけ心を打つものに したかったからである。パトロールについていえば、大小さまざまな道を短銃に歩ませた あと、あるいは弾丸をそっくり内蔵した太鼓のような重いピストルや弾薬筒に入れたマガ ジンを一対俳徊させたあとだけに、任務に忠実な軍人たちはぽかぽかと暖かい影を作り、 しんと静まりかえったザミーラのそのハレムに一瞬でも涼を求めたいと思った。このハレ ムはどんな達人が見ても幸福な仮説の玄関であり、相談をかわしアルバーノの慰めにあず かる聖なる内奥と映ったのである。甘い苦悩の瞬間はみるみるうちに去ってしまった、だ が、ああ、瞬間はほかに何ができるというのか。ただ次の瞬間がそれにつづいただけであ る。去って行く瞬閥を続合したもの、それが一時間である。ほかに例を見ない独特の一時 間、そこでは盗み見る視線、沈黙の不和、沈黙の同意といった識り物を織るさい思いきっ たように稜が動き出すのと同じで、正確を旨とする思考がしりぞき、希望と苦悩に遠慮 する。 事実はこうである、つまり憲兵たちは彼女のところ、パーコリのところ、服飾家のとこ ろに立ち寄っていた。中尉も規則も別に反対を唱えなかったため、しばしば彼女のところ に出向いていたのである。用件というのはちょっとした縫い直しなどで、ボタンが取れそ うになっているときなら、縫いつけてある箇所を強くしなければいけない。ある朝、こう した若者たちのひとりが顔を赤くし、破いたところを直してもらおうと上着を脱いだが、 *8 かつての植民地リビアを指すと同時に、そこを奪回しようというイタリアの戦闘的愛国者たちのスローガ ン。 123 いったいどこで破いたのか、野バラでやったものやらハマナツメでで善」たものやら自分 でも思い出せずにいた。別のときには別の若者がズボンを脱いだと人びとは話していた。 それも全く別の理由からだとつけ加えていった。ザミーラはズボンを脱ぐようにと、彼を 地下室へ行かせた。そのズボンを受け取り、修理をしに仕事へとどけるよう、クレイラを 彼について行かせた、ほかの人の話ではカミッラを行かせたという。この忠勇な兵士の剥 奪にはかなりの時間がかかった、長い長い甘い時間が。そういうわけで、上にいた娘たち がやがて咳払いをしたり、薄笑いを浮かべたり、ぶつぶついい始めたりした。なかでも 図々しいエムマの態度が目立った。とうとうザミーラは我慢がならなくなって、腹を立 て、どなり出した。そして、穴からぶくぶく泡を吹きながら、何やら訳の分らない言葉を あぴせたのである。 それから准尉も、そう、アルバーノの中尉のところにいるオートバイ乗りのケンタウ ロス*9 ふたりのひとりで、この方が階級は上なのだが、そのファブリツィオ・サンタレッ ロ准尉までが魔術師=染物屋のところへ、直染めしをしてもらおうと肌着の類をもって きた。それが大きな包みである。はるばるとトッラッチョから、フラットッキエから、か つてのロビーネ・ヴェッキエから、あるいは聖イニャツィオの高楼から、あるいはディ ヴィーノ・アモーレから先ぶれをして、にぎやかな音を巻きちらしながら近づき、ブブブ ブという音をひびかせて到着した。オートバイは入口で静かになった。その包みというの が女性の肌着であった、というのも、お日柄もよいある日、女性をひとり (さしてふとっ た女性ではなかったが) 祭壇へともなったサンタレッラ准尉は九人の女どもと暮していた からだ。それは妻とその盲目の老母、少し足りないところがある妻の妹、自分の妹、これ は純潔さが修道尼たちに与えるあの精神的な飾りをことごとくそなえた純潔そのものの女 であり、それから純潔を失うほどの年鈴にはまだ達していない娘が三人と部屋をまた貸し してやっている女がふたりいるが、これは双子で、以前に純潔を失いかけたときもあった が、今では (純潔を散らしてほしいと思うような男もいたのに、その男はこれぞと思い決 めることもできないまま、手ひとつ……そう手ひとつ大事なところに触れないうちに娘 たちを棄ててしまい、ふたりの前から同時に姿を消してしまったあととあって) いまでは すっかり純潔にもどっていた。ある日、暮らしや便利さ、給料などを考えあわせて、カビ が南の方に向いている余分な奥の部屋をまた貸ししようと決めたとき、もちろんいちば ん売れている新聞のことを考えた。そして広告のことをメッサジェーロ紙に伝えたさい、 「女子おことわり」とか、イングラヴァッロの女家主のあの冷酷な「上だよ」という言葉の ことなど読者に知らせたらいいなどとは考えもしなかった。おっとと違う、自分の家だっ け……それにまるっきり話が違う、だって女たちがちゃんといたのだし、それに女たちが 入ってくるのではないか。 彼の家にある男性的なものといえば彼をおいてほかにないが、ただしシャワーの突き出 た口だけは別で、時々、鼓室に音をひびかせては抑揚のある共鳴音を立て、千二百万のイ タリア人同様、彼の頭も元気づけてくれる、なんといっても彼のは准尉の頭なのである、 狡猾かもしれないが。目覚時計を巻き直すように時々。また優しい声も聞こえてきたが、 それはいうまでもなくラジオのキャビネットから出てきたもので、ラジオはファブリツィ オ・サァタレッラが同じサルヴァトーレという名のふたりの紳士の跡を尾けて「特命」で ミラノに出かけたとき買いもとめたのであり、ふたりのサルヴァトーレを連れてミラノか *9 上半身は人、下半身は馬の怪物。 124 第6章 ら帰ってきたが、そのさい真空管二本入りのラジオももってきた。これはまさに異常な文 明の異常な発明である。もうひとつ男の声が聞こえたが、これまたバリトンの思慮ぶかい 声で、これは折から男の声をかけていた畜音器の柔らかで思いっきり甘い声であった。お そらくその直後思いがけず女の声に変ったので蓄音機の声と分ったのであろう。つまりこ インパスト のおどろくべき道具は完全無欠の落ちつきを以て男から女へ女から男へと、 彩 色 を激し く交代させながら変って行った、マントーヴァ公からジルダ嬢へ、ロドルフォからミミー へというように。ともあれ、サンタレッラ准尉の家には女たちがいたのであり、また女た ちが来るはずであった。意地の悪い男たちが、さらには意地の悪い女たちがいっていたこ とだが、彼には九人の女たちがいて、そのうえ家庭の守護神たち――消えた媛炉の上に のっかった石膏の美しい狼で、このあわれな雄猫はルッカの雄猫から生まれたという―― のみそなわす部屋……の中では家事の……暇な時間になると彼のまわりで十八個の女物の ヒールがついた十八のかわいい女物の靴かきゅうきゅう音を立てるにもかかわらず、そし てそうそう、ザナルデッリ街の蓄音機が二十三時間というものぶっつづけに彼とその近所 の人びとの胸に凍った乎をさしのべているというのに、噂では、そう噂では、なんでも ドゥエ・サンティの染物屋ザミーラの姪でありお弟子さんである誰かに目がなかったとい う。いいじゃないか。要するに女好きの大蟻だったのだ、このサンタレッラ准尉は。准尉 がみんなそうであるように。 熟練した腕の持主だ。理詰めである。これはというときに、ちゃんと目を閉じることが できた。あるいはその反対に両目とも開けることができた。 顔の色つやはよく、ふっくらした造作で類と鼻が赤銅色に輝き、ひげの剃りあとが顔全 体を男性的に引きしめて、青々と濃かった。七月に麦を打っ陽をあび、収穫物が焼けるな かに浮かび出る古代イタリア人のあの優しい皮膚、カルドゥッチ*10 の言葉を借りれば陽 にあぶられて、ということになる。田舎の仲買人にふさわしい健康体。ぴんと立てたカイ ゼルひげ。三キロも目方がある左の尻の大型ピストル。それを見ていると気持が浮き浮き してくる。娘たちは満月の夜など准尉に思いを馳せるのだ。せっばつまった帝国の貧困を 一身に背おったある種の浮浪人たち、死にそうなほど腹をすかした自転車泥棒、昼間は道 路や飲み屋をぶらぶらして夜に入ると稼ぎに出かける間抜けども、こうした連中はどうも 納得の行かないことだったが、准尉に手錠をかけられたり、彼の手で「ほうりこまれ」た りすると感激して、されるがままになっていた。まったくおどろくほかない、彼がやって 来ると一様にほっと溜息をつき、不安も危険も終ってしまうのだ。汗を流したり、地面を ほじくりかえしたり、そわそわとしたり、格子がちょっときしんだ音や、何か遠くできし んだような音を聞いてもびくびくしたりすることはなくなっていた。びっくり仰天してド アを破ってしまうこともなくなるのだ。つまり、いっさいの悩みごとがこれで終りとな り、心のなかはふたたび浮き立ってくる、ああ、気の毒な連中だ。明日に望みを託す気持 ちがよみがえっていた。彼を一目見るだけですっかり満足したあまり、自分たちの悲しい 義務のことは忘れていた、ボスなんかくそくらえである。盗品をもって逃げまわる義務、 それも悪いことには金具の類いをよせばいいのに山とかついでである。さんざんに苦労し たあげくに、なおも走って逃げなければいけないなんて。なんとも仕方のないことだ。彼 の方をちらりと見やり、いかにも「ぼくらは仲間同士だから……」といいたげな何もかも 了解しているといった感じの徴笑な送ってあいさつなし、錠破り一式、かなてこ一そろい *10 ジョズエ・カルドゥッチ一八三五−一九〇七、イタリアの詩人、評論家。 125 をごく自然に贈り物がわりに提出するのであった。ていねいに最後のマッチを一本もら いたいと頼んでいた、うまそうに最後の吸いがらで一服つけようというのだ。ハハ、ハ ハ、喉に悦楽を秘めて息を吐き出すと笑っていた。あるいは鼻から煙を吐き出していた。 「さあ、これでよしと、旦那、分ってくれますね」といったりした。そして手首をさし出 した。彼らのなかには手錠をほしがる瞬間的な色欲が芽生えるのだが、これはぐったり疲 れ果てた人がベッドをこよなく好むのと同じである。指先の器用な両手を彼の方にさし出 し、さあ何でも好きなとおりにやってもらって結構というのである。彼のその暗い顔、そ の動かない黒い刺すような目、ズボンのその赤い筋、袖口の銀モール、調べ追求し手錠を はめる当局の旗といってもよい雌牛のなめし皮の白い負い革、制帽についている銀の手榴 弾をかたどった VE の字、その腹部、その尻などを見ると彼らは目がくらんでしまうの であった。そうなのだ、尻が馬鹿にならない。なぜかというと彼はふりかえると、長々と しゃべって、かんかんに怒り出し、それからまた突然ぐるりと向きを変え、その両目でみ んなの、そしてひとりひとりの顔をにらみつけ、二本の釘のように突き出て黒々とびんと はねた口ひげをにらみつけた、そして身体を動かし、じっくり考えこむと電話をかけ、ペ チャクチャと送話器に言葉を注ぎこみ、本部から二人兵士な応援によこすよう依頼し、命 令をつたえた。この命令にはみんながしたがい、これはこれで確かにいいことではあるの アルゴラニカ だが、そこには一種の苦痛催淫的熱中とマゾヒステイックな淫楽があった。それは VE の 魔法の輪と、エネルギーの核の引力作用にょる楕円で捕らえられるものであり、そのエネ ルギーは全く幸いなことに周囲にいる衛星のような悪党に向かって発散され、そのあとは 全部まとめてあらゆる盗賊に向かい発散されるのであった。相手の悪漢たちはといえぱ彼 を見たとたんにそういう目にあうことをのぞんだのだし、監獄で彼ににらまれて動転する ことをのぞんだ。そして万事が終ったようにみえ、女たちがパパパパパとおしゃべりを始 めると、またまたわなわなとふるえるグッツィ車の怒りが爆発し栄光に栄光をそえ、生命 に生命をそえたのであった。そしてほこりの雲に入って行き、あとにはぶつぶつ不平をい いながら娘たち、夫婦たち、ザミーラのはだしの姪たちが残されたし、赤い筋の入った憲 兵隊というその場かぎりの悪魔もいたが、これは崩れた城塞から煙と消えるのだ。そこで は夜が自分のとは違う時間におどろいて、悪魔を洞窟に封じこめておくのを忘れたのだ。 そのかわり、すべての搭の廃跡にあるふくろうのふたつの黄色い輪を消して行く。時代お くれの翼は暗いビロードの残り地のように影と砂利の巣で弱くなって行く。きづたの壁掛 けが新しい日の訪れを防いでいる、ところが彼は全く反対で、空がばら色に黄金色にな ると動き出す。下の方はロッカ・ディ・パーバからカステル・サヴェッリまで、上の方は ロッカ・オルシーナからモンテ・ヌンクパーレまで。なにしろぶどう園でもオリーヴ園で ももうつるはしやのこぎりが使われているのだ。うー、うー、うーと、あらためて目をさ ましたように膝の間でがたがたモーターをふるわせながら全速力でとんで行く。あるいは 不平をおさえながら朝のなかに躍り出て行く、そこは小道がはずかしそうにイバラの茂み を走っていたり、あるいは山をのぼって行きながら固い地面に出て、とげのある草むらに 迷いこむ。あるいはまた、ネーミの近くではイチゴとマムシが茂みの下にかくれている。 偵察係として行動していた。魔術に呼ばれたフキタンポポのように消えたり現われたり し、カシの幹にとまってじっと動かず、彼も雌馬*11 のグッツィも片脚だけ地面について いるようだ。そしてもう少し先へ行くと選抜兵士が柱のように立っていた。赤い筋が入 *11 もちろんオートバイのこと。 126 第6章 り、負い草には白い雌牛のなめし革をつかい、制帽にば銀の手榴弾の形で VE の字をつけ て、いかにも幽霊のように姿をみせていた。弾薬箱に手錠を入れておくのはアルバーノの 憲兵隊の飾りのようなもので、四つの手首用に手錠をふたつ、安たばこを二箱、予備の弾 を十二発用意して、アルデアティーナ街道やさらにアッピア街道を欠のようにケンタウロ スよろしくとんで行った。そして何キロもの距離を何日もの間すっとばし、おかげさまで なんとかランチアに追いついた。そのあとにはすぐ踏み切りがあった。これもうまく通り こした。こうして連れだって行くとどんどん道をあけてもらえた。ただしフランチェス コ・メッシーナの赤いランチアにはまだ会わなかった。というのはこの彫刻家も当時はま だママにキスをしにシチリアまで飛んで行くということがなかったからである、チェッ キーナ駅の面倒なカーヴをゆっくりとまわると、サンタ・パロムバ駅、カムポレオーネ駅 でエンジンを止め、車を止めたが、これはそうするだけの理由があったからだ。つまりそ こはアルデアティーナであり、アンツィオ街道と、突如出現したローマ=ナポリ街道が十 字に交差していた。見張りの雌鶏がおどろいたことに、鉋のような電気機関車がパンタグ ラフやスプリング、継ぎ口といったところに青白い火花を散らしながら現われた。そのあ とから急行の車輔がつづき、大音響がくりかえしくりかえし聞こえたが、これは車輔がポ イントを根こぎにしようとするたびにひびいてきた。で、その雌鶏たちはずっと羽はたき をつづけ、引き裂くような声をあげて鳴きちらしながらとび上り、羽根や白い羽毛を渦巻 くように散らしていた。事実、そんな光景を見たらこわくならない方がおかしいので、ガ チョウでもとび立つだろう。あるいはまたフラットッキェの途中で止まらなければならな かった。アッピアの交弟点とかカ・フランチェーズイ、トル・セル・バオロ、チャムビー ノ駅といったところでもそうである。これがほかの時だったら「曲り角、危険」「踏切」 「下水」などといった独断的な主張や、ミラノから仕入れたその標識などに関心もないの だが。ルイージ・ヴィットリオを初めとするミラノの連中はイタリア中に自分たちのお説 教や「道路標識」という種をばらばらと播いたのである。*12 彼らの熱狂的な信号趣味はあ る日、古靴を新しい信号機に仕立てあげたものである。人びとに警告してやろう、下手な 自転車のりに交通規則な守るよう、スピードは出さないようおしえこんでやろう、世の中 はどう処して行くべきか隣人におしえてやろう、イタリア全土に鉄の杭を立てて、エナメ ル塗りの「道路標識」をみんなの寄付で杭の上に取りつけてやろう、そんな願いを抱いた とたん唾のあふれて来るような感じがした。何の闇題もないのんびりした交差点や、カー ヴ、二岐路、それに下水というか彼らにいわせると溝なのだが、そのひとつひとつが標識 を立てる場所に数えられた。これはベルタレッリ家のヴィトーリ、りュイスが当時残して 行った技術的形見であり、それに、村のどの入口にもある白く塗り直された壁には全体主 義政治家のウンコ野郎の顔が見られる (「あぜを掘るのは鋤だけれど、剣では……何も守 トゥーリング れない」)。ファブリツィオ騎士爵サンタレッラ准尉は 観 光 クラブの「心酔者」で「終身 トゥーリング 会員」としてその賛歌をそらんじていたが、この「 観 光 賛歌」はジョヴァンニ・ベルタ ヅキのカルドゥッチまがい=サフォまがいの詩才によってヴァルテッリーナで生まれたも ので、ラ・マルセーエーズやおよそすべての賛歌がそうであるように、リフレンの大たん な烈しさで上品に句切りをつけた賛歌であるが、この反覆はオートバイ終身会員のすべて の心に強く訴えかけるものである。 *12 ガッダはこれが腹立たしくてならなかった。 127 進め、進め、いざ。 これは見れば分るとおり、あと戻りする可能性をそっくりこばんでいる。 サンタレッラはその生命力をかき立てるような七音綴をメロディーらしきものにつつみ こむと、一瞬ふくらんだ思いのなかで、梯形になったほこりっぽい道路二十キロにわたる 車の轟音と疾走に身をゆだねながら――ちょうど食後に爪揚枝を噛むように――長々とそ の歌を口ずさみ、心のなかで味わっていた。その後、チアムピーノやパロムバのあたりで かみ 目を上げた、上へ上へと。白い雲のキャラバンが三月なかばの空を別にお上から追われる こともなく走って行ったが、彼らにもやっばり自分たちをつかまえる命を帯びた追手がい たのである。つまり馬櫛の先端が詰物に食いこんだようになっているアンテナの銀色の先 端がそれで、一瞬現われ、雪のように白い群をなす羊毛のなかにほころびができて絶えず 形を変えて行くが、その後は風が強まり、空が青く冷たい裂け目を見せるとともに、手の とどかない所で前兆が変るように裂け目がふさがるのであった。 129 第7章 「イネス。チオニーニのことだが……」 「はっ、なんでありますか、警部どの」とバオリッロがいった。 「いつでも呼び出せるようにしておいてくれ……」かわいそうな娘、留置場の木のベッ ドで明け方をむかえることになるのか、シラミの卵がついた灰色の軍隊毛布をかぶり、パ ゴカイ ト・ールが海でとってきたほかの沙蚕と仲間づきあいをし、似たようなビクーニャの毛布 にくるまって、同じような虫の仲間に苦しめられ、眠りながら時々ため息をついたり、そ のものずばりのおしゃべりをする、それも片隅に蓋もしていない便器が置いてあるところ で。そう、これを勲三等氏と呼ぶ、なぜって大使の会計係であるからには、事実、権威の ある存在ではないか。それは人の魂をローマふうに華やかに柔軟に生活し行動する方向へ とみちびき、いうなれば前四八年 (あるいは前四九年) やグレゴリオ教皇のお尻ではない ワジール・ド・シェージュ が「 厨 の 余 暇 」へとみちびくのであった*1 。 かわいそうな娘、でもそういう命令が出た以上、パオリヅロ氏は彼女を呼びに十時にま た姿を見せたのであった。 ペスタロッツィについていえば折りを見てフーミ警部に許可を求め、決して完ぺきと はいえない長い一日だったが、しぱらく息抜きをさせてもらえないだろうかと申し出た。 フーミにしてもこれはいい考えだと思った。健康に最適の丘々をめぐって下りてきたこの 憲兵隊の上級軍曹は全員の希望を代弁したようなものである。そこで九時十五分から九時 半にかけて集まることにした。ただし出て行く前に論理的なことだが、ペスタロッツィは 結果を確認しておこうとした。きょう一日のきまりをつけておくためだ。そして廊下や階 段に足音をひびかせて参会者たちは散って行った。 やがてランツア街のシモネッティ・ビルにのぼって行ったイングラヴァッロは、マッパ モンノ宮殿の玉座に坐りこんだ暴君が下の階級のものに向かって……与うべき指令と呼ん でいるものが何かをじっくり考えてみた。つまり、次次に積み重ねた瀬戸物のびんがその 階級にあたるわけで、それぞれの尻から尻へと垂れ落ちてくる排泄物を滝の水でも飲むよ うにごくごくと飲んでいるのだ。もう遅かった。小雨が降っていた。夜だというのにすべ てがまだざわついていた。ドン・チッチョは水っぽいスープを口にはこんだが、やたらに 水っぼいというのではなく、蛋白質やペプトン成分のとぼしさが水をふやしたためきわ だったというところである。それにもううんざりしていて、まあまあ何とか食えるじゃな いかというように何口か噛んでは飲み下し、一言も口をきかずに皿に頭をくっつけるよう にして、もっばらゴムのような肉のこまぎれな相手にしていた、かわいそうなドン・チッ チョ、ある人びとからは同情の的として見られ、 「まあ、警部さん、今夜は何を召しあがっ *1 四八年というのは一八四八年のイタリア革命、四九年は翌年のローマ共和国を指す。 130 第7章 てらっしゃいますの」などとすっかり心配してくれている世話好きの身分ちがいのご婦人 からいわれるのだったが、この婦人というのがそのまわりを、つまり彼とその食器のまわ りをぐるぐるまわりながらいっこうに止めようとしなかった。 「ストラッキーノ・チーズを少しおあがりになったら? コルティチェッリのがお気に 召しましてよミ警部さん」彼がふくれっ面をしてみせると、「ほんの少しでようござんす の、警部さん。おためしになって、それはおいしゅうございましてよ……身体に悪いって ことは決してありません……」サラダのように白と緑のちぢれた布やひだ飾りで縁どりを したライトに照らされてみると彼の脳天はふだんよりも黒みがかり、いっそうちぢれて みえた。車はなかった。場所を変えようにも不便である。車はあることはあった、ただし 「政治関係のうるさい連中しか使えない」いうなれば政治分隊用であった。本当ならこの 種の連中といっしょしなければいけなかったのだ、おそろしい木曜日の常として。「十七 日か、最悪の数字だな」とため息をついた。「悪臭ふんぷん、このうえなしだ……」と歯 をくいしばってはぶつぶついった。 今や功績はあげてマリーノ憲兵隊のものとされている。 「あの役者気どりの提灯野郎ども」ペスタロッツィは大理石のテーブルに向かいもりも りと食べていた。ジェズー街のマッケロナーロの店で、ここはポムペオ、人呼んで「つか まえ屋」に連れられて来たのだが、この「つかまえ屋」氏、サント・ステーファノの署で は時に応じて儀典長なみにもふるまっていた。 ポムペオはポムペオで七時に食べた靴のようなパンをまた出そうとしている気配にどん な異議をとなえて反対したらいいのか分らずにいた。しかもこんどはソファーのような細 長いパンの上にマッケロナーロの熟練した丸ぽちゃの指で交互に薄く切ったローストビー フとソーセージをふんわりと瓦をふくように積み重ねてあった。マッケロナーロは最後に ちらっと眺めてこれでよし、出してもよいというように、あらかじめ切って仕分けをして おいた屋根というか蓋 (パンの上半分) を覆いとしてのせてやったが、下唇を突き出しな がらで、それもせいぜい一ミリメートルというところだった一方、押えつけられたという か、いわばカラー、それもカラーだと思う人があるとしてのことだが、そのカラーのせい でひらたくなってしまった垂れあごが、緑の地にエンドウ豆を置いた模様の春らしい蝶ネ クタイをそっくり隠していた。 その場にいた客たちはねたましそうに青ざめた。沖合にいる水雷艇というか、これは例 外的なことがらである。外から見ると……それこそ乙にすましているが、中身はぎっしり やたらに詰めこんである。マッケロナーロ氏はその賞品を手わたす瞬間、そして行為その ものの過程において真面目くさって目を上げ、それでいて唇を一ミリメートル突き出しな がら、一言もいわずに大事なお客を見つめていた。「これですか、それとも違いますか」と その目はいっているようにみえた。ボムペオは見つめられるままになっていた。歯は当然 ふた 置いてしかるべき場所に置いた。騎士爵にふさわしく二口ほど噛んだあと、その口は石う すに似ていた、変形の石うすに。誰かが何かたずねたとしても、返事はできなかった。両 目を大きく大きく開くと、いかにも分りましたというように相手の方にその目を向げるの であった。十時半には全員がフーミ警部のところに集まっていた。パオリッロはイネスを 連れもどしてきた。あの青年は何者でどこにいたのか。それから女友だちのその女友だち は? ばあ、どの女友だちでしょう。あれだよ……あれだ、マットナーリが、カミッラが 話していたのさ。「そうだ、ぼくが間違ってなけりゃな」とフーミ警部がいった。「あんた とザミーラのところで働いていた女友だちさ」あのドゥエ・サンティの。 131 するとイネスがうなずいていうには、カミッラ・マットナーりは女の友だちのことを話 してくれたが、ローマで奉公をしているものの、一日中女中仕事をしているわけではない そうだ。 「つまり、半日の勤めということかね」 「そうですねえ、半日かどうかは知りません、結納をおさめた殿方が何人もみえました から、その方がたのために働いてましたわ、だから今ごろはきっと結婚をしてるんじゃあ りませんこと」 「誰と結婚したのかね」 「そうした殿方です、実業家と結婚しました、ほらトリノで自動車を作ってるような方 がいるでしょ、ああいう方です、彼女に真珠をふたつプレゼントしてました。本当です、 聖燭節にはその真珠を耳につけてましたから。みんなが見てることですわ」で、彼女もあ る晩、顔をあわしたという……そのふたつの目! 「目がねえ」とフーミはうんざりして肩をすくめた。 「ええそうですとも、ふたつの目です」とイネスがいいかえした。でもそれが違ってい るのです。あたしたちみんなのとは違っています。魔女のように、ジプシーのように。地 獄のふたつの黒い星です。ああマリアさま、日が暮れるころなど、悪魔が女の服を着た感 じでした、あの日を見るとぞっとしてきます、まるで何か企みごとをかくしているみたい でした。誰かに復讐をしてやろうというのでしょうか」 「つまり彼女を知ってるんたね」 「ちがいます、一度見ただけです……夕方」 「どこで」 「そう……田舎道でしたわ」 「田舎ってどこのだい……。なあ、娘さん、おれをだませるなんて考えないことだな……。 うまいこといいくるめるつもりのようだけど」 まる 「それはひどい道でした、草地があって……お坊さんのいない教会があるんです。丸な んとかって呼んでますわ」 嘘つき女で、自分の嘘に動きがとれなくなっていた。フーミはもう前からこいつは気ち がいか何かそういったとこだろうと疑ってかかっていた。嘘つきの百姓女があれこれと申 し立て、わけの分らないまでに、ごたごたしてしまっている。四匹の犬が雌鹿一匹を相手 にするように四人がかりで女にくらいつき、簡単ではあるが次々と新しい反論をつきつけ てさんざんに痛めつけ、ああでもないこうでもないと女を翻弄したあげくに、とうとうそ の口からわりと控えめな嘘、もっともらしい嘘を引き出したが、これはそれまでの嘘を そっくりくつがえしたり、意味のないものにしているところからして、どうやらやっと本 音を吐いたように思えた。この「田舎道」というのは最後に分ったことだが、静かな傘松 やチョウセンアザミの畑、幾つかの家畜小舎、崩れた壁や、ひとつふたつとある丸天井、 陽が落ちる頃おい孤独のすばらしい足が踏みしめる、あの恋人たちにとってかけがえの ない小道など、そうした間を走りぬけているチェリオの道路 (といっても当時は人里はな れた野中の一本道であった) にほかならなかった。おそらくサン・パオロ・デラ・クロー チェ街か、もっとあり得ることだが、ナヴィチェッラ街か、それともサント・ステーファ ノ・ロトンドだったかもしれない。丸天井はサンタ・マリア・イン・ドムニカの側にある チェリモンタナ別荘のアーチでないとしたら、サン・パオロの丸天井である。「もう坊さ まる んの入っていない」丸なにがしというのはアグリッパ寺院ではなかったし、そんなはずも 132 第7章 なかった。頭の中で警察犬を走りまわらせてみたものの、 「田舎に」ないということで、こ の考えはすぐに退けられた。そのかわりにサント・ステーファノ・ロトンドだということ にされたが、そこは当時、あれこれと修復工事をしていたため、信者に対しては門がとざ されていた。 こういう裏話をいろいろと聞かされているうちにフーミ警部はジプシー女や、トリノの 実業家の花嫁のイメージがなにやら消えてしまった。警察犬は泥にはまってしまったみた いだ。 「それよりイヤリソグの話をしてもらえないかな」 「あたし見たことないんです。でもみんな知ってますよ。馬鹿みたいに大きなので…… 奥さまにでもなったみたいに」そして単調な声で区切り区切りこうくりかえした。「フィ アンセが彼女にプレゼントしたんです。トリノの実業家でしたわ、車を買ったり売ったり する人です。これだけはっきりしていればいいでしょ……」 「はっきりしてるか、ぼんやりしてるかは君の知ったことじゃない……はっきりしてる かどうかはぼくらの方で考えるから」とフーミ警部は腹立ちまぎれに眠くてたまらないと いう目でそう非難した。その女は何者なんだ。そうですね、魔女で、ジブシー女で……。 どこに住んでいたんだ。家はどこだったんだ。「ですから家は……」とイネスはまた口ご もった。そう、パヴォナのあたりにいたらしい、マットナーリは彼女にそう話していた。 こ また、みんなもそういっていた。ドゥ・サンティでは。「あの娘ったらついてるわ、ロー こ マに出てくると娘たちはおちぶれるものなのに、あの娘ったら貰いものまでしちゃって、 受け取って。だから今でもその気になれぱ、ちゃんとした殿方と結婚できるのよ」 係官たち、フーミ警部、イングラヴァッロ、ディ・ピエトラントニオ巡査部長、それに 例の軍曹など、みんなが目を見かわした。「つかまえ屋」は鋭敏な若者にふさわしく、そ うした目つきの中にある考えを読みとった。「この女はおれたちを丸めこんでいる。おれ たちを盲目だぐらい考えて、だまそうとしているんだ」 イングラヴァッロは疲れて面倒になり、うんざりしたというようだった。それからあれ やこれやの考えに取りつかれた。ほかの人には理解の行かない奇妙な類推がいまその頭脳 で働いているのではないか、「つかまえ屋」はそんな疑いを抱いた。別に筋道だった考え があるわげではないが、ひょっとしたらという人物はいないのではないか、黙りこくり沈 みきって考えをめぐらしているイングラヴァッロだが、見当がつかないのではないか、だ いたい前掛けの店員にせよ、作業衣姿の泥棒にせよ、また正体不明の人殺しにせよ、ジプ シー女の大きな目を以てしても痕跡ひとつつかめなかったのだ。 「では、あの青年は?」 「どの青年ですか」 「あなたの坊やというか、あのあんちゃん、それとも悪党か、何と呼んだらいい?」フー ミ警部は彼女を勇気づけ、自分の過失に気づくようにさせ、しゃべらせようとしているふ うだった。するとイネスはぎくりとした。突然、そのくずれた魅力のなかに疲労がのぞい たようだった。恥ずかしさのあまり引きこもり、悲しみをかくしているのか、落ちくぼん だ影のある目、プロンドの髪の下で痛ましさを刻みこんだ白いひたい、その髪ばあまりに こわいため、おしめり程度の雨にあたり、ほこりが立って油気がなくなると硬くなってし まうし (みんなが考えたことだが、陽の照っているとき緑のセルロイドの櫛を使うと髪の 毛から金が脱け出るような感じがした)、唇はふくらみかげんで三月に夕方の風が吹くた びにひびでも入りそうだった。 133 「ディオメデっていってました、あの人。でもどこに住んでるのか知りません。いっ だってぶらぶらしていて」 「ぶらぶらしているって、どんなふうに?」 「ぶらぶらしているという言葉にはとても良い意味がふたつあるけど、それです。つま り、都屋というか寝ぐら、でなければベッドを転々と変え、朝から晩までローマをぶらつ くんです、何のためかそれは誰にも分らないけど。トラフォロで顔をあわせたのが最後。 あそこにしばらく、ここにしばらくですもん。でも、どこにいるかは話してくれません。 ベッドは親類のところからもってきて、部屋は裁縫師のところで借りて。前の週に亡く から なった伯父さんの空のベッドにいました……伯父さんを亡くした友人のその伯父さんで す。その後、部屋代を払おうにも、身動きがとれないので、そこで気分を一新しなければ いけなかったというわけ。お分りですか」 「分るとも」フーミ警部は小声で認めた。市内をあてどもなく、あるいはみちみちゆっ くりと、おそらく考えこみながらさまよっていたのであり、一歩一歩町角から町角へと 移って行ったのだ、十時にはモンテ、四時にはトレステヴェリノ、コロンナ広場やエゼド ラに出たときには灯がともり、夕方の、そして夜の赤や緑のネオンがまねいていた。土地 柄のいいところだな。ええ。 「ヴネト街、ルドヴィズイ街もよく歩いていたんだな、女たちが出没するんで少し暗め になっているとこさ」 娘は真赤になって頭をあげると、声をふるわせていらいらした。「歩きに歩いたという とこです。で、毎月のように靴の底を張りかえてもらう始末でした。歩いて、消えて、も う今ではどこへ行ってしまったものやら分りません」 美女たちのあとを追っていたか、あるいは美女たちから逃れようとしていたかは知らな いが、少くともイングラヴァッロが理解できたかぎりでば彼にあこがれる女たちが何人か いて、彼を見つけてやろう、また物にしてやろうと、車の洪水のなかから、あるいは歩道 から向い側の歩道にかけて、あるいはテーブルやベンチにあふれ、無関心をよそおいなが ら注意ぶかく青白いストローから飲んだり吸ったりしている紳土淑女たちがあらわれてい る歩道ぞいに長々と目を光らせているのであった。 「あの人をさがすためだったら、みんな世界の涯にでも行くでしょうね」じっと動かぬ 静かな目で彼女は断言した。 「奴もか、奴もそうなんだな」とイングラヴァッロはそんなふうに感じて悲しい思いを した。「運のいい、しあわせな連中の数は多いけど、奴もそのなかにいるんだな」彼の表 情は晴くなった。「奴もか。やっばり女どもに追いかけられてるんだな」 「そういうわけで転々としているのです、あたしのいうこと分っていただけますわ ね……」そして何かためらい、どこかどぎまぎした口調になってこういった。「自分をさ がしている女たちに、家にいるところを見つからないようにするためです、一歩足をはこ ぶたびに女の子にぶつからなくてもすむようにしようというのです」 癖のわるい長い髪を片手でもう一度うしろへなでると、口を閉じた。 「なるほど」といって警部があらためて話し出した。「じゃあ今度はそのティオメデって いうのがどういう奴か、どんな顔をしてるか話してくれないか。ところで、ディオメデだ けど、苗字は?」 「あの人の苗字……」イネスはうなだれて、真赤になった. もじもじしたあげくに七十三 番日の嘘をつくことになるのだ。 134 第7章 「苗字か」とイングラヴァッロが口を出して助けてやった。「そうだな。どうやら奴もつ かまえなくちゃいけないらしいから」 「奴からも何か聞かないと」とフーミ警部かつけくわえた. 「でも、苗字はいいたがらなかったのです」 「けど、君にはいってるはずだよ」とイングラヴァッロが口を出した。「苗字じゃないか もしれないけど」 「いいかい、かわい子ちゃん。おれたちについた方が得だぜ……どうせおれたちだって 奴の力を借りなくちゃいけないんでね」 「でもねえ警部さん、あの人にいったいどんな必要があるっていうの? 誰にも悪いこ となんかしてないのよ」 「でも君にはしてるじゃないか……なにしろパトロールにひろわれたんだからな、君は」 「そうかしら、これ、あたしたちだけのもめごとよ。警察には責任のないことだわ。あ たしたちの問題だもの」 「ほう、警察には責任のないことだっていうのか。だけどなあ、かわい子ちゃん、君は 間違ってるよ。警察が何をすべきかは、こちらでちゃんと分っているんだから」 「あの人、何もしてないわ」 「だったら、なんて名か話してみろ」 「あたしだって何もやってないつもりよ」というと、その目がうるんできた。「あたしも 帰らしてよ」 「ディオメデか、それではと……」フーミ警部の視線にはどうしても書類を調べてやろ う、必要なカードを取りよせるぞという様子がみえた。 「分ったわよ、あたしが聞いたところだと、あの人の名前は……ディオメデ、ランチアー ニ・ディオメデっていうの」そしていきなり押さえきれなくなってむせび始めた。 「何も心配することはないって。奴のことを知りたいのは……あれこれと話を聞きたい からさ。何かと面白いのをな。だから探してるんだ」 つら 「てっとり早く話してもらおうか、このランチャンティだが、どんな、面をしてんだい」 とイングラヴァッロがきびしい口調で追い討ちをかけた。「でっかいのか? ちっこいの か? ブロンドか、黒っぽい髪かい?」 不信と高慢、両方の気持にさいなまれた思いで、イネスは手の甲で目をぬぐった。「そ のランチアーニですけど電気技師をやってるのよ」と自慢するようにいい、どんな顔つき をしているか大体のところを説明し始めた。最初の間はこわがったり、疑ったり、それに 今さら用心しても始らないのだがとにかく用心を重ねたうえで納得するといったふうに手 間どっていたが、やがてその声もすっかり活気をおびて、向うみずなほど陽気になり、歓 喜といってもいいぐらいになった。イングラヴァッロの言葉づかいには腹を立てた、「そ つら の面のことですけど」と、ふたりの主だった取調官のうち優しそうなフーミの方を向い つら て話をつづけた。「あの面には何か人がうらやむようなものがあるんです。そうなんです つら よ、警部さん、あなただってああいう面だったらいいなあって思うでしょうね」そうだろ う、そうだろうとも。「とっても背の高い青年です」といって、ふつうよくやるように片 手を持ちあげ、その手を水平にした。そして、手のひらが下からよく見えるよう首をかし げた、高さの示し方がそれで正しいかどうか、下からあおいで見さだめようというのだ。 「美男子よ、ええ、美男子です。だからどうだというの? まさか禁止されてるわけじゃ ないでしょ。颯爽とした若者なんです。ええ、ブロンドですわ。母親がブロンドに生んで 135 くれたからといって、あの人がわるいわけじゃないわ。なんですって? ブロンドを作ろ うと思ったってのは、黒ん坊を生むつもりだったですって?」バッグには彼氏の写真まで 入れていた。パオリッロはがらくたのなかからそのみじめなバッグを引っばり出そうと、 保管してある部屋へ入って行った。一方、逮捕されたときにはパトロールに向かってそん なもの持っているわけがないといいはった、このあわれな女の身分証明証がいまフーミ警 部の机の上にあり、明りをうけて開かれ、しわくちゃになっていた。パオリッロは宿無し 女の「バッグ」を持ち片手には若者の写真を持ってきたが、それには斜めになぐり書きの 署名が読みにくい書体で記してあった。「ルミアイ・ディオ……」と歩きながら、そして 写真をさし出しながら、声を出して読み取ろうとしていた。「こっちへよこせ」フーミ警 部は引ったくった。「ルンチ・ア・チ、ディオ……。なあんだ、こんな字じゃ分るわけな いよ。ディオメデって書いてあるんだ」と勝ち誇ったように大声でいった。それにしても 男前だ、写真の主は。十五年後にファシストの半月刊誌「民族防衛」に飾大なアーリア人 種、つまリラテン人、サベリ人の典型として掲載された連中がいるが、そういう顔をして いた。実物見本というところ、そのとおりだ。もちろんブロンドだった。写冥がはっきり と示していた、男らしい顔に前髪。口は真一文字に結んでいる。生々した頬や首の上の方 には、しっかりと動かない図々しい口がふたつあり、それが娘たち、女中たちには楽しい 思いを約束していたが、彼女たちが頼りにしている貯えにとっては不吉なものであった。 高慢なタイブの男で、人に販り巻かれ、争われ、人についてこられて追いつかれ、そのあ とみんなからそれぞれの能力に応じて贈物をおくられるような人物だった。その美しさ においてラツィオを、フォーロ・イタリコ*2 に跡をとどめるその青春を一代表する人物で あった。 イネスの説明によると、この写真のために彼女は信じられないぐらいさんざんになぐら れたそうで、それというのもある日、彼が写真を返すようにいったためである。そうなの だ、彼はなんとしてでも取りかえそうとした。いまにも夜になるところだった。彼女がこ ばむと、かんかんに怒り、まるで狂人沙汰であった。面と向かって彼女にどなりつけ、あ あでもない、こうでもないと悪態をつき、彼女を叩こうという気になったぐらいで、それ でも足りないのか、脅迫の言葉をあびせた。ふたつの堺にはさまれたふたウっきりで、騎 士たちのいる*3 ロッカ・サヴェッラのプブリチ丘のこわれた街灯の下にいた。だんだん暗 くなっていった。だが、彼女は平手打ちをくっても、まばたきひとつせずにこらえてい た。しっかりとしがみついていた。せめて、あんなに愛しあったという記憶ぐらいはのが すまいと。そして今でも愛していた、彼女は。ひょっとすると……自分がスパイにされか ねないこのときにも。 「だって、調べるような秘密はなくってよ」と大声でいった。「そりゃあ、あたしのこと を二度たたいたわ、でもね、あれはあたしたちふたりのことよ。そんなことであの人を牢 屋に入れたりできないわ」 「二度たたいたのか」といってフーミ警部は首をふりながら彼女を見つめた。「さっきと は話がちがうな、まあ大したことはないが」そして首を両肩の間に埋めた。もう一度、彼 女にむかってこわがることはないといおうとした。こちらは彼にただ質問をしたいだけ で、逮捕するつもりはないし、まして留置などするわけがないと。「でもやっばり、うま *2 ラツィオ、つまり古代ローマの威光をしのんで、ムッソリーニ時代にローマの北に作られた記念碑的建築 群。 *3 マルタ騎士修道院があったことを指す。 136 第7章 く行くはずがないと思うわ、とても見つかりっこないもん、あの人は」首をかしげ、考え こんでしゃべっていた。「それに見つかったら見つかったで、そうね、あたしは満足だわ。 きりがつくんですもの……あのアメリカ女とのことが」女はまるで自分自信をなだめてい るようだった。 ディオメデの写真はみんなの手をひと回りした。イングラヴァッロもななめに明りにか ざしてみたが、いやいややっているようなところがあり、事実、何か腹立たしい思いがす るのを隠していたのだ。不注意な仕種で写真をフーミにわたしたが、これはわずらわし さ、疲労、帰って眠りたい気持などをしめしていた。事実、もう寝る時間だった。「どこ にでもいる男だな」最後にまた何度か、そうだとか、へえとか、「うん、前に会ってるよ」 とかいう言葉が出たあと、結局、いまの鮫後の言葉を口にしたポムペオに写真がわたさ れ、彼はそれをまがいもののワニ皮の財布におさめ、その財布を胸もとに入れると、高い よく透る声で同感だとばかりにいった。「よおし、できるだけのことをしようや」それに 対して主任警部が右手の四本指の熊手で「こっちへ来い」と合図をしたので、彼はとなり ヘ行き、腰をかがめて、坐っている警部がささやくのに耳をかたむけ、くりかえしうなず いてみせては、ずっと遠くの方、つまり窓に紙を貼ったのや、曇りガラスのところをなが めていたが、同じその窓を外では夜の視線がびくびく、遠慮がちにのぞいていた。その耳 はいっもながらの熱心さで聞いていたし、警部はそのささやきをいかにも貴重なヒヨスの 毒でも注ぐようにしたたらせていた。一方、唇の動きは生きのよい運指法そのままで、閉 じたチューリップになったり、分離振動する人さし指と親指になったりした。 愛人の写莫がつかまえ屋の胸におさまるのを見て、イネスはかわいそうに真青になっ た。悲嘆にくれた眉が小さな鼻の上の方で濃さを増し、心の痛みは憤りにみえたが、実は 憤りなどではなかった。長い長い金色のまつ毛 (昔、子供の目で見たとき、その櫛の目を 通して光が、アルバーノの目もくらむような光が朝ごとに砕け、虹色になっていた) の下 で、涙が思いがけないときにきらめきながら光っていた。涙はそのまま両の頬をつたって 流れ落ち、白い二本の水路をのこしたというか、そのようにみえていた。そして口まで流 れこんだ。屈辱と失望の小道である。鼻をかもうにも涙をふこうにも何も持っていないの で、片手をさしあげ、その動作だけで、生気を欠いた孤独な表情から湧き出てきそうなも のを押さえようとしたが、結局はその瞬間の残酷さ、冷たさ、今や最高頂に達しているそ の時間の嘲弄を完全なものにしていた。彼女は汚辱の裸体を吟味する技能をそなえた人物 の前に、自分が何のそなえもないまま、はだかで立たされたような気持でいたが、相手 は彼女を嘲弄しないまでも、批判の日で見ていた。なにしろ裸体で、何のそなえもない。 ちょうど、地球という野獣にもふさわしい競技場に、隠れ家も援助の手もないまま引き出 された息子、娘というところである。ストーヴは冷えていた。大部屋は寒くて、白い息が 見えた。捜査班の電球は政府の電球だった。彼女はぞっとするような男どもの視線が自分 に注がれているのを感じていたし、自分がほころび、ぽろ、みじめなまんまく、薄汚ない 貧相な服、あるいはまた宿無し女にふさわしい肌着などを身にまとっているところをひし ひしと感じていた。こんな格好をしていたのではとうてい神にすがることもならない。名 前で、それも洗礼名で三度もイネス、イネス、イネスと、まるで三位一体の人物のように 呼ばれたとき……カシの木は強い風が吹きまくるのを予感してたわんでしまい、若者が慎 重に歩いて行ったそのあとに、灌木林を抜ける道を開いてくれた。神が夕方の黄金色の光 線を視線としてクローチェ・ドミニの丸窓からふたたび声をかけてきたとき、彼女は神に どんな返事をするつもりだったのか。「あたし愛人といっしょに参ります」と、あの限差 137 しであの声で返事をしたのであった。つまり神は今や圏外に立つほかなかった。 彼女がうなだれると、ぼさぼさに固った髪の毛が顔にかかって、顔を影にし、今にも隠 してしまいそうになった。彼女の肩は沈黙のむせび泣きにおののきながら、やせ細って、 まるで骸のようにみえた。顔と鼻を紬でふいた。片腕を上げた、涙をかくそう、失望と羞 恥をごまかそうというのだ。袖のつけ根のほころびと、もうひとつその下の肌着のほころ びのせいで、肩の白いところがむき出しになった。彼女としてはその身を隠そうにも、貧 しい女にふさわしいぼろぽろで色あせた布切のほかには何も身につけていなかった。 ところが男たち、その男たちはもっばら彼女をにらみつけて脅迫していたが、そのにら みというのが不快な貧欲を示す合図や目くばせを断続的に点滅させている感じで、実さい の利き目のほどは疑問であった。男たちは彼女から話を聞いて情報を得ようとしていた。 彼らの背後には法があった、一種の機械である。責苦である、法というのは。いつそのこ と腹をすかしている方が、道をとぼとぼと歩きながら、髪の毛が雨に濡れているのを感じ る方がよかった。プラーティのテヴェレ川沿いのベンチで眠りこける方がよかった。男た ちは知りたがっていた。つまり? このディオメデがなんの商究をやっていたかだ。と ころが彼女は黙っている。で彼らの方は、さあ、さあ、話しちまいな、吐いちゃいなとく る。別に誰かに害を及ぼしてくれなどとは頼んでいない、ただ真実を話してほしいと拝み たおしていた。ちゃんとした真実を、人びとを牢屋にほうりこめるような。人びとは…… なんとかして無理にもやりくりをして行く必要があった、どんなふうにやって行くかは知 らないが。話しちまいな、吐いちゃいな。それも手っとりばやく。とにかく、悪いことな んか何もないのだから。でないと彼女に対する心証は悪くなる。警察としては法の建前か らいっても彼が必要だった、とにかくありとあらゆる新聞にのるような大きな犯罪が起き たのだ。そうした新聞の幾つかを彼女に見せた。屑紙みたいなものだ。彼女の鼻先につき つけて、ほらここに出ているだろうといわんばかりに、新聞で手を叩いてみせた。(彼女 は顔をのけぞらせた) 法の建前からである。「君はもちろんのこと、誰にだって迷惑をか けるつもりはないんだ」とつかまえ屋は説得するような口調で、文字どおり心の底から出 た深い声で静かにいいそえた。安らかな死の仲間に入っていた、このつかまえ屋は。死人 につきそいに行くとき頭にずきんをかぶるあの仲間であるし、また未亡人をなぐさめる段 になると、彼ほどに腕をふるう人物はほかにいなかった。「ディオメデはね」と娘はひと り言をいった。「きっと無実よ。そりゃあ顔をなぐるなんて卑怯なことだけど、だからっ て、女をナイフで殺すことにはならないわ」慎重だった。ためらっていた。「でも、相手 が相手だからどんなことになるか分ったもんじゃない」ひょっとすると連中を満足させて やった方がよかったのではないかと考えてみた。ディオメデにとってもよければ、彼女自 身にとってもよいことだ。少くとも、それできりがつくのだから。彼らにしても、不平を 並べるのはおしまいにするだろう。ポムペオは彼女を寝室に連れて行ってくれるだろう。 木のベッドに身な投げることになる。ずいぶんと固いことだろうが、とにかく眠れさえす れば。家の者だって眠っていないんではないかな、かわいそうに。彼女は死ぬほどに疲れ ていた。たあいがなくなり、気が遠くなった。 「ディオメデは何をやってたんだ」彼女はとび上った。「まわりにいたあの女どもはなん だったのだ。どういう種類の女たちだね」 彼女はどうにもならない嫉妬心におそわれたあまり腹が立つやら恥ずかしいやらだった が、それでも顔は肘を曲げたなかに埋めたままで、髪の毛はかさかさに、それこそかさ かさに乾いて肘の向うへと垂れ下り、額をそっくり隠して……やっとのことで、そう、あ 138 第7章 の性悪女たちを連れて行こうと思えばできたんじゃないの、でも、それにはねえ……と いった。 「でも、それにはっていうと?」 まあいいだろう、うん、いわなくても。別に女をいじめることはないんだ、なにせ大事 なご仁だから。とにかく……男は自分だげの都合しか頭になかった、そうだろう、ニカ月 も仕事がなかった、仕事が見つからなかったのだ。なんとかやって行けるよう、もう少し ましな仕事をと思ったが見つからなかった。 「どんな仕事をやるかな」とフーミ警部はおとなしくたずねた。「つまり、ぶらぶらして いないとしたら、どんな仕事をやるんだろう」と、取締官の隅の方がやや黄色いかげんの 大きな目がかっと見開かれ、曲がった肘の外へ噴水のようにあふれ出ている娘のばさばさ の乱れ髪へと悲しそうに注がれたのである。「電気技師さん」と彼女はすすり泣いたが、 思いきってその頭を振りあおぐこともなく、わずかに腕と肘の防壁からちょっとばかりの ぞかせて、声を蒸発させたのである。そして今、だんだんと静まってきた涙で袖を濡らし ていたが、その骨の出張ったあたりにふたたび穴が現われ、さらにシャツと肌着のほころ び、肩のあたりの肌の白さがのぞいた。「今ごろはイギリス女が相手ね」と濡れそぼった ようにまたまた鼻声になり、泣きじゃくった声でこう決めつけた。「みっともないアメリ カ女がいるのよ、でも、あたしは何も知ってるわけないでしょ。そうね、ただ、年はとっ てないわ、その女、髪は麻くずみたいだけど」鼻を手首でぬぐった。「お金は持ってたわ、 持ってたわよ。持ってたのはそれぐらい」そしてまたしくしくと泣き出したのである。 「すると誰のことかね。あんた知っとるんだろ、何者かぐらい。どこにいるんだ。話し てもらえるんだろな。さあ、いってごらんなさい、いってごらん。そのアメリカ女のこ と、そのイギリス女のこと……」 「なんてこと考えてんの、おまわりさんたち。あたしを何様だと思ってんでしょ。あん な女のことだから、どうせ紳士方がお出入りあそばす一流ホテルかどこかにいるんでしょ うよ、あの辺にね……」 「どこだね、あの辺っていうと」 「あの辺よ、にぎやかなあたり、ボンコムパーニ街とか、ヴェネト街とか。あたしが知っ てるわ廿ないでしょ。知ってるっていえぱ、そこがブルジェルだったこと……ボルジェス といったかしら……」 「分りました、下宿屋のベルジェッス館であります」とポムペオが彼一流の発音のしか たでいった。 「ポムペー」とフーミ警部が彼の方を向いて声をかけた。「今晩中にホテルのリストを 作っておいてくれないか」 ポムペオは腕時計に目をやった。イングラヴァッロはデスクをはなれると冷たい床を ゆっくりと行ったり来たりし始めた。例によってうなだれて、ふくれっ面をし、この厄介 な事態を前にあれこれと考えふけっているかに見えた。 「外事課に行くんだぞ、ポムペー、リストの綴りを見にな。ベルジェッス館か。結構な 大魚だぜ。手がかりの見つかり次第、さっそく門番のとこへ出かけて話を聞かなくちゃ。 参考人として! 門番! 情報! でもないことにはあの門番連中、何のためにいるんだ い、ホテルに」一瞬ためらった。「それから下宿の力にも寄るんだぞ、ポムペー。イング ラヴァッロ、君もちょっとのぞいてきてくれ……アメリカ女が一枚かんでるとこをな」ド ン・チッチョはうなずいた、その大頭を十分のニミリメートルほど動かして。 139 「それからポムペー、明日は朝のうちにヴェネト街をぶらついてもらおうか。ひょっとし たら、そのイギリス女に会うだろうから、分ったな? そのあとどうするか、いいな……」 大きな目をポムペオに向けた。「女について行く、尾行するんだ、で、相手の坊やと いっしょのとこをつかまえろ」と深淵を指さした。「あいびきがすんでからだぞ」勝利の 口調だ。「男といっしょに連行しろよ、ことのすんだあとだ」歌うような口調。「ふたりが 会ったあとってことだぞ。ぼくのいう意味が分ってるな、ボムペー。麻くずのような髪だ ペ ン シ マ マ イ ン デ ィ ン グ とさ」額にしわをよせた。「イギリス女、イギリス女と」考えぶかく、注意ぶかく「いや マ イ ン デ ィ ン グ ひょっとして……充分あり得るそ」注意ぶかく「スコットランド女かアメリカ女かな」短 い沈黙。「とにかく、あいびきがすんだあとだ」 「分りました。主任警部どの。ただ……」 「麻くずのような髪だ」眉毛とまつ毛を無情に星の方に向け、控訴棄却という調子で正 当であると不当であるとを問わずいっさいの異議はお断りと、はねつけるように掌を突き 出していたが、その指は聖体顕示台の後光のように放射状に開いていた。 「それに男の写真はあるし. このあたりで撮ったのがね」と大仰に悲愴な様子で片手で胸 を叩いてみせた。あの美男子のだ、あいつの……写真、ディオメデ・ルチ=アーニ……」 「ランチ=アーニだ」とイングラヴァッロが訂正した。 「いいよ、いいよ、イングラヴァッロ、ランチアーニだろうが、ランチ=エーレだろう が」それからその場に居あわせた一同の方を向くと、ぐるりと輪になっているのをひと わたり見まわし、de moribus, de temporibus と祈りを唱える人にふさわしい平静な口調 で「あの女どもは百五十人ぐらいそろってイムマコラテツラに下りるんだ。ベヴェレッロ コンテ・ヴェルデ 堤にな。 『緑の伯爵』号から」ときっばりいった。そして眉毛を. 額のなかほどにあげてみ せ、堂々とした仕種で人差指と親指をあわせてボタン穴のような形にした。「つまりカウ くいな ンス・ライン会社最大の大西洋航路の船だな」女たちは水鶏が鳥かごからぞろぞろ出てく るように群をつくって、文字どおり伯爵のおなかから飛び出してくるのであった。長い世 界周路を終って、いまやっと着岸し、出入口が開いたわけで、バッグを手に、なかには眼 鏡をかけたのもいて、タラップを下ウるとベヴェレッロに散って行った。いたるところに トランクがあったり、帽子に金糸で社名を縫い取りしたクック・トラベル・サービスとホ テルの客引きたち、ポーター連中、口をぽかんと開けている待合客、アイスクリームやサ ンゴの角の売り子たち、手つだいましょう案内しましょうと寄ってくる連中、用もないの に用を見つけ出す人たち、世話焼き、ありとあらゆる物見高い人たち、女たちがたむろし ていたが、そのなかに散って行くのだ。 きん 「とにかくだな……」とフーミ警部は二本指のボタン穴を動かして、小指を見せた。金の 卵を農む雌鶏なんだ、いったん産むとなったら。彼女たちの父さん、母さんたちはシカゴ あたりで、娘はてっきり美術館の絵を見に行ったものと思ってるんだぜ、マドンナがどん な服を着ていて、どんなにきれいか、サン・ジェンナーロがどんなに美男子か、それを調 べに出かけたと思ってるんだな」そして、父親たち母親たちはきっとそう思っているとい うように首をふっていた。「ベアート・アンジェリコ会堂だとか。それにラッファエッロ の部屋もあるじゃないか。ピントゥリッキヨの壁画もあることだ」ため息をついた。「と ころが、あのさえすり女どもときたら、ちゃんとお目当ての部屋があるんだ」とつぶやい た。「聖母の被昇天だ」と叫んだ。「ティツィアーノ・ヴェチェッリーノのだ」この警察署 の汚ない部屋でこの苗字を口にすると、名前に何か飾りをそえた感じだ。まるで書類がき ちんと整っていて、被疑者など触れることもできない人物だといいたげである。「まぎれ 140 第7章 もないマドンナの肖像だよ、上の方に蝋でできたあの七人の天使をつれてな……」 フラーリの警部補時代にジョヴァン・ベッリーノ (アッカデミア) の玉座についた六人 のマドンナのうちひとりのお供をする五人の深紅の天使堂子が彼の記憶に、その官僚的で はあるが優しい記憶に焼きついたが、それは鉛色の空に浮かぶ黙示録の七つの封印に等し かった。で、その中に「聖母の被昇天」をくわえたか、この方は頭のまわつでぐるりと童 子が踊り、童子は鳩の羽をつけていたりいなかったりした。ひとりば羽かなかったかわり にタンバリンを持ち、ホザンナと賛美していた。 「両親たちはボストンやブルックリンでこんなふうに考えてるんだ」人差指で額をとん とん叩いた。そういう肉親たちの狡知のほどを再現しようと、ずるい目つきや小利口な顔 を作ってみせた。「娘たちが寄宿学校の女生徒よろしく、百人百人と群を作ってイタリア を旅してるぐらいに考えてるんだな。百人は美術館、百人は劇場、百人は水族館、知って るな、あそこじゃ水中に魚を飼ってるんだ、百人はカラカッラ浴場、百人はサン・カリス トでろうそくを持った修道士について行く、ろうそくは消えてしまうがね。なあ、イング ラヴァッロ、君は分ってるだろうけど、娘たちは抜け目がないからな」そして部下たちの 方に顔を向けた。「イングラヴァッロ、君なら分るだろうけど、娘たちは波止場に下りた とたんに、ふわりふわりと」と両手ではばたいてみせ、雷神のような口で、その手を雷の ようにあちこちにぶつけたものだ、 「ひとりはここへ、ひとりはあそこへってわけさ、ぽくのいうこと分るだろう?」悲嘆 に輝くその目にぐるりの同情が寄せられた。「めいめいが自分のことしか考えない、神は みんなのことを考え給うって奴さ。タオルミナ、チェルノッビォ、ポシタノ、パヴェーノ しかり」断固とした口調になった。「カプリ、フィエーゾレ、サンタ・マルゲリータ、ヴェ ネツィアしかり」調子が強まり、ひときわ厳しさを増し、額の中央に縦皺がきざまれた。 「コルティナ・ダムピエッツォしかり」 「ダムペッツォだろ」とイングラヴァッロがつぶやいた。「ダムペッツォ、ダムペッツォ だ、そのとおりさ、イングラヴァッロ、いやまったく君は哲学の教授が似あいだよ」眉を ひそめた。「コルティナしかり、ポシタノしかりか。じゃあ、また会おうや」片手を雷に あげ、その場にいない誰かに向かってくりかえし挨拶をした。机から顔を上げた。「ここ でまた会おう、六ヵ月したらな」人差指を下に向けた。「二こだ、ここでだ、波止揚だ。 ベヴェレッロの。きっかり六カ月たったら」黙りこくった。わざとらしく溜息をついた。 「何がラッファエッロだ」とあらためて飛び上ると、ふたたび軽蔑の口調にもどって叫ん だが、その軽蔑もちょうど雷鳴が嵐の去って行くその向うに消えて行くのと同じで、前に 口にした話の向うにころがって行き、やわらいでいった。「部屋が何だ」そして興奮して いた。「何がピントゥリッキョだ、あの娘たちが行きたがっている部屋は別にあるんだ、 ポムペー。その部屋をさがしてもらわなくちゃ、ひと晩がかりでも」やっと落ちついてわ れにもどった。「ピントゥリッキョにしたって……彼女たちのは別人なんだ……」 娘たちは伯爵の暗いおなかからベヴェレッロに吐き出されたとたん、内心で感じるとこ ろがあった、なにせ娘たちだって、することなすこと仕損じばかりということはない。そ して、たちまちのうちにこの美術の国、腕の立つ職人のいる国に来たからには何も亡く なったピントゥリッキョのおつきあいなんかしなくても、現存の画家の方がいいと分りて いたし、直観もしていた。それにイングラヴァッロはローレンスのほかにノーマン・ダグ ラスを読んでいたこともあり、効能あらたかなエリキシル剤のびんからしたたらすように カラブリア、サルデーニヤと口にしていた (うなるようにして)。彼はこのふたりの大エロ 141 トロジストのひとりが、といってもどちらのことかはっきりしないのだが、ある日、測地 学者に姿を変えて、そろそろ男性の等高線図を作ってはどうか、それを地球の全表面に及 ぽして行ってはなどと考えたところを想像してみた。そしてサーシー*4 の領域まで測量に あたって三角にしてしまい、サーシーはその技術、つまり若者たちを眠らす技術をふるう うえで、それほど悪くない場所にいたということを書類の上で確かめたのであった。この 得るところの多い眠りの領域、つまり男性として至高の水準にあるその能力の領域はノー マノ・ダグラスによると、あるいはローレンスによると、球面の、さらにいえば測量上の 三角形だという。そしてこの類いまれな三角形の頂点とか、両端の測量の土台について いえば、彼、ノーマン・ダグラスや、彼、ローレンスはレッジョ (カラブリア)、サッサー リ、チヴィタヴェッキアの三つの都市からそれらが生まれてくるものと見なしていたが、 これはパレルモ市民にとっては耐え難いことであった。「もっと北の方に持って行っても よかったのに、あの風刺……学者先生」とイングラヴァッロは腹立ちまぎれに歯ぎしりし て黙々と考えた。「もう少し東の方へ進めれぼなあ」内心、そういう気になった。「マテー ゼの山頂まで」肩をすくめた。「どっちみち、奴の問題さ」そして歯をくいしばりながら 結論に達した。おそらく正しいとはいえない結論だろうが、とにかくこの報告にはまった く関係のないことである。 * * * とぎれとぎれだが明快な娘の告白はぽつりぽつりと、おおよそ十時ごろまでつづいた。 彼女の心のそこにある軽蔑というか怒りが愛に打ち克ち、燃えるような肉の思い出に打ち 克つかにみえた。ディオメデという男は最初のうち毎日のように彼女に会いにザミーラの ところへ来ていた。燃えたぎっている若者にしてみれば何時間も彼女の目の前から遠去 かっていたり、貪欲な愛の営みをこらえているなど、とても耐えられないことのようで あった。あるいは時として身を焦がしながら震えながら、かなりの道のりを、あるいは畑 で行きどまりになるさびしい小道を一歩一歩、心も身休も、そして官能もたじろぎがち に、二列に伸びるいばらの叢の間を彼女に連れそって行ったりした。樫の密生地帯に沿っ た小路をトル・セル・パオロの方角に向かったり、カーザ・デル・プティロに出る健康の泉 の道を行ったりした。イネスも今や考えこんでいるようにみえた。彼女は新しい言葉を一 言一言くきって口にするつもりだというように、唇をひらいた。「ザミーラはあの人がと ても好きだったわ、彼女なりのやり方で。まるで親友でも相手にするみたいに尽していた わ」そのとおり、彼に身をよせて何やら長い話をささやいていたが、その間まじまじと相 手の顔を見つめながら、その目で今にも相手を取って食いそうな様子だった。そういう彼 女自身も同じじゃないのか、え、どうだい、違うのか? とにかく告白室でやるのと同じ で、ぼそぼそ声でこっそり話しかけていたのである。これが内緒話という奴で、祈りの言 葉でもかけてやるような、為になる忠告を与えてやるようなもので、もつばら彼の為にな るのであった、なにせ魂の健康のためにもとりわけ彼には必要だったのである。いっこう にそのおしゃべりを止めようとしなかった……ぺちゃぺちゃぺちゃ。ときには慎重の上に も慎重にと、ぐるりとあたりを見わたし、時には爪先立ちになり、背伸びをすると若者の *4 オデュッセーの部下を豚に買えた魔女。 142 第7章 耳にまで口をもっていった、えりぬきの秘密となればやはり鼻なんぞではもったいない、 鼓膜の秘められた内奥にまで届かないことには、「お祈りでも口にしてるみたいだったわ、 いつまでたっても終りそうにないあれね、聞いてるとひどい胃下垂を起しそうになるのが あるでしょ。クリスマス・イヴの、ふつうより倍も長居ロザリオの祈りだってあんなこと はなくってよ……」いかにも秘密めかして報告しようという様子だ、そう、事業やら行為 やら義務やら機会やら倦怠やら方便やらといろいろのことを……何分もかかって。ザミー ラがそのとき彼、つまりディオメデに語りかけていたその態度は、礼装こそ新しいが知識 は古参なみという外務大臣がお気に入りの大使をわざわざ「別に」呼んで、小声で新しい 話を聞かせるときと同じで、目をきょろきょろさせ、唇をすばやく動かしていた*5 。で、 その間もちゃんと監視の目は怠りなく、ほかの連中にはしかるべき距離を置き、しかるべ き敬意を払わせていたが、この連中というのが熟練した手腕をふるって、キツネのような 静かな落ちつきのうちに、わずかに目の動きだけで大臣を馬鹿にしているところを見せて いた。いうなればこのキツネは細い鼻面を鋭敏な独創力で充たし、その尾は思慮ぶかい経 験にあふれ、背中にはさんざんに棒で打たれた忘れ難い思い出があった。歯のない口で、 黒い穴で。その穴から言葉の間に少々湿った何やらピーピーいう音を吸いこんでは、すで に分泌されている唾とまぜあわせ、それをこんどは逆方向に流していたが、ちょうど波に さらわれた人が寄せ披で引きもどされるのと同じだった。こうして元どおりの状態にもど るさい、それに付随して、小さな甘ったるい感じの泡がしばらくの間、唇にのこってい た。そのあとほんの少しして、とがった赤い舌の先が責任を以て元の状態にもどしてくれ たのである。そうだ、彼のこと、その青年のこと、ディオメデのことを口にしたとたん、 彼女の顔の眼がきらきらと輝き出した。そうだ、眼窩にはまった水ぶくれの中に黒い点が ふたつ、目だ、ピンの先端だ。やっとのことでベルリッケの悪魔が地下に眠る室物や、人 の目につきにくい金貨、ダブロン金貨の山、さらには恋を取りもどしてくれる惚れ薬など の隠し場所をおしえてくれたといってもよい。青白い微笑で口が片側へゆがみ口腔が絞ら れる。顔の半面の肌は不健康な炎やフルッラのダニのせいか、ぞっとするような黄色い光 を反映した感じ。 「つまり、彼が好きだったのよ、ディオメデがね、あの汚らしい鬼婆ったら」フーミは 何やらうっとりしたように、あごを落し、舌をだらりと垂れて彼女の顔を見つめた、イネ スの顔を。「だから彼は婆さんの相談相手でもあったというわけ。で、時には地下室にま で引っばりこんだわ、話がしやすいようにって。でも、どんな大切な話をしたものやら、 それぐらいはお分りでしょ。本当、恥ずかしい女ったらありゃしない、あの年で。女の子 たちときたらみんなして……あたしのことを間抜けあつかい。あたし、神経がどうにか なっちゃったぐらいです。でも、おゼゼがなくては食べられないでしょ。ええ、そうなん です、あたしの家・じゃ、刑務、所帰りの父親がいて、なかなかやって行けないんです。 だから嫌でもじっと我慢してなくちゃ」ザミーラとディオメデは次々と小さな階段の下に 消えて行った。どういう話題でぼそぽそと謎めいた話をしたものやら「誰も知らないわ、 あたしだって知りません」 「話せよ、話してごらん、さあさあ。なんだい、あんなにさわいだりして」とイングラ ヴァヅロがきつい口調でいった。「めそめそするのはもうやめにしてくれ」かわいそうに この女はいろいろと訊かれて、いったんは認めながら、あとで打ち消したり、首をひねっ *5 この外務大臣はもちろんムッソリーニのことを皮肉っている。 143 たりしたものの、どうやらそのふたりの話というのは「ほかの娘たちの心を彼に引きつけ ておきながら、彼の心はどの娘にもうばわれないようにする」よう、その指示やら注意や らを延々とつづけたのではないかと想像してみたが、これは大いに的を得た推察のようで ある。狡狙な愛の法規というか規範というか、あるいはまた、利益のある色恋沙汰ではな いにしても、統御され、計算された色恋沙汰に取りかかるというわけだ。利益のある色恋 沙汰ありとすれば、それはふたりのどちらにも「彼にとっても彼女にとっても」利益があ るということで、彼女とはつまリザミーラである。ペスタロッツィは時々笑顔をうかべて は、ほんの心持ち肩をすくめていたが、それはいかにも「こっちは前から分っております、 当然でしょ、そうですとも」 署員たちは時間を見て、この色男のディオメデというのは――ザミーラから申しつけら れたのだろうか――美人たちのなぐさみものの射的用の土鳩か、おとりのふくろうのかわ りを勤めていたにちがいないと思いきめた。美人たちといっても、田舎のあわれなヴィー ナスだ。頑として二本足でしっかりと立った女たち、その身にまとう粗末な衣裳のひとつ ひとつが夢見ることである。乾いたなかで、昼間のきびしい明りのなかで、イバラと刈 り株の間で夏の太陽を浴びながら夢見ることである。「粗末な衣裳のひとつひとつは」と フーミは考えた。「謎のめぐんだ優雅さというものか」そして考えたのだが、それはこの 都会の金めっきをされ、煙の出ている謎であった。衣裳、首かざり、香りがびんから……。 金の薄板が夜半に明るい光を放つ、シンボルのように、オルフェウスの神秘的な儀式に向 かう旅券のように。生命がこれを最後に成就されるあの場所へ入るために。秘伝なくして は知ることができないが、夕暮どきに心で予感し、夢見る陶酔感 (徹風にただようニンニ クの香りをかぎながら)。さっさと熊手でわらをさらったあと、口には出さずに「君は生 きる、生きるだろう」。夕方の燃える雲から、暑い地平線の約束から。 「この世の嫌わしい謎って奴だな」イングラヴァッロの方はこんなふうに考えた。相手 はブロンドかもしれないが、とにかくこのごろつきを心の中ではとうに憎むようになって いた。その姿が現われてすぐには消えやらずにいると、たちまち例によって歯ぎしりやら 顎をよじるのやらが始まった。脳天が閃緑岩でできたぞっとする姿だ。なにがダンディ だ、汚ない、卑しい奴、あのヒモ野郎が。「そうか」と考えこんだ。「つまリディオメデは 口説き役、いい出し役だったんだな、きっと。チチンプイプイの儀式をやるとき。勢子っ くいな てわけか。丘のウズラやシャコをうかがうポインターなんだ、沼の水鶏を狩り出す若い鳥 猟犬だったんだ」この場にいあわせたかぎりの人びとは少なくともこんなふうに理解した ものだ。この揚とはつまり、電球の梨の実の下に吐く息がみえ、シャコの鼓動のまわりに びっしり円を描いてえらいおまわりさんや顔なじみのおまわりさん連中があつまっている この部屋のことで、フーミ警部、イングラヴァッロ、ディ・ピエトラントニオ巡査部長、 ポムペオ、パオリッロ、またの名をパオリーノ……、それに例の「オートバイ乗り」のペ スタロッツィ軍曹が顔をそろえている。イネスは別にはっきりと口にしたわけではない が、でも彼らにしてみれば、深い洞窟に下りて行くという楽しい物語 (クマエの女占師に おとらぬ相手を連れてブ・ソドのしたたか者が下りて行く話) や、ためらいながら後悔し ながら何度もくりかえし「知りません、お話できるわけありません」と申し立てるところ ランチ・エーレ から察しがつくように思えた、つまり、 広 告 屋のディオメデ・ランチ=アーニはやっば り、あの女ざかりの酒屋兼裁縫師兼染物屋兼制服私服のシミ抜きに衝動的な慰めをあたえ ていた (娘の話を聞いていると彼の慰めはそういうものであるかに感じとれるのだ) と調 書に書きこむことができそうだった。 144 第7章 そうなのだ、慰めをあたえたのだ、内気なヴィーナスがいるにもかかわらず、またおし ろいをはたいたキューピッドたちがとびまわっているのにも平気で。「年老いて歯も欠け ウン たる雌牛の生まれかわりよ」とペスタロッツィは自分なりの美文調で考えたが、実をいう と少々北のなまりが入っていた。いまになってみれば明らかなことだが、ブロンドは自分 の知恵と値打ちをくりかえし彼女、つまり老女に実証してみせてきたのた。誘惑やその手 順は歴然としていて、あれこれ考えてみるに昔からこれぐらいのことは知られているし、 このようにして幾多の世代を経てきたのは本当なのだが、それにしてもプロンドの知恵の 示し方はどうも誇張があるし、値打ちにしても必要な度合を越えているように思えた。自 分に不利な事態が起って肘鉄砲をくらってもびくともしない、その程度の値打ちである。 よきにつけ、あしきにつけ彼なりの進取の気性というものを彼女に植えつけてきた。そ う、今はもう明白なことだが、進取の気性である……-それを大胆にも吹きこんできたの だ、あの女魔法使に。おそうく、いや確かに、適当な報酬を得たうえで。「だって、前は 持ってなかったんですもの、おアシをね」とイネスはうっかり口をすべらした。「それな のに、あとになって持つようになったの」 一方ペスタロッツィ軍曹はディオメデのおとなしい姿なら難なく思い出せそうな気がし た、ドゥ・サンティの酒屋で会ったおぽえがあるのだ。顔をしかめた。とたんに、顔を見 れぱ分るのではないかという気がした。何だって? できるだろうか。できるとも。だ が、その日にかぎってのことだろう? 予想もしなかったことだが、ひっそりと彼が階段 から現われたのだ。とりわけ優しいところのある若者で、たしかに大天使のようなブロン ドだったが、大天使とは違って剣はもっていなかった、槍を深淵に突き立ててきた帰り だ。そのときは深淵も一発くらったに相違なかった。慶賀すべき一発だ。彼の顔を見てい ると、しっかりした、青白い、ほんの少し頻骨の突き出た感じの顔であり、明るく、確か に青いその視線にはあのマルケの画家*6 に見るような尊大でヒステリックといってもよい 決意が見られたが、画家の方は空の鳥たちに少々厄介な使命な負わせたうえで、その自然 な外的特徴を完成させようとレ研究した (そして楽しんだのである)。そういう決意を印刷 するとなればあの有名な用語を以て表すことになろう、「すべてはそれなりの道を行かな ければならないが『それなりの道』であるまえにわたしの道なのだ、なにせわたしは大天 使なのだから。それに誰かが反対意見のようだったら、わたしがすぐに手直しをしてやろ う、ここにあるこの棍棒を以て」 彼自身、いっぷう変った存在ではあったが、憲兵隊の軍曹どのに面と向かっても、あま りぴんと来ない気持であった。あまり赤と黒が強すぎて、どうも彼にはしっくりこないで くの棒だったし、情況のいかんにもよるが、だいたいがまずおおかたの人にとってそれほ どしっくりこない存在である。だが、目ざとい彼はさっそく、軍曹がレモンスカッシュを 喉に流しこんでいるのを見てとった。よし。まんざら悪くないじゃないか。 彼は電気技師として働くためにローマヘ来たというのがイネスの申し立てで、週六十リ ラである店で働くことになったが「くびになってしまったわ」そういう次第でそれからと いうものはあちらこちらで働いていたが、一匹狼だった。「コードが駄目になったのを直 しに家々をまわったり、部屋や新しいアパートの配線をしに行ったりしてました。どう せ、もうろく婆さん連中のとこにも行ってたんでしょ」と当てつけるようにいうと、かっ かとし出した。「ヒューズを変えに行くことだってあるし、ベルがこわれて鳴らなければ、 *6 ラファエロ。 145 直して鳴るようにもします。だって、そんなものにさわるのは考えただけでぞっとするっ ていう殿方がいるんですもの、それから特に奥さんがたですね、電気のヒューズのことで す。おどろいちゃうわ、ひょっとしてショックをうけたら大へんっていうんでしょ。それ に考えてもみてください、はしごのてっぺんにまでよじのぽって、頭を天井にぶっつけて やろうだなんて、そんなつもりになる人あるかしら。そんなふうにして食べて行かなく ちゃいけない人は別ですけど。そういうはしごに何時間ものっかってる人なんてあります か? 結局、コードをよりあわすためでしょ、それなんです、あたしがいってるのは。だ いたい、そんなことをあたしたち女がやってごらんなさい、みんなまる見えですわ……そ うでしょ。靴下留も何もかもね」そのりっぱなふたつの目をくるりと回した、ふたつの宝 石を。「でも、そんな仕事をやろうなんて誰も考えるわけありません」一瞬ためらったよ うにみえた。何ごとだろうとみんな息をのんだ。「ミラノの人たちは分りませんわ、ね。 かえって面白がるんじゃないかしら。そろって技術屋さんばっかりでしょ」きっと例の若 者のいった言葉を受け売りしているのだ、そんなふうにみえた。 イングラヴァッロは黒い羊毛のようなもじゃもじゃ頭をほんの少し、ごしごしと親指の 裏側でこすった。「つまり、手間仕事をやってたんだ、どこで仕事をしたか、あんたに話 したりしなかったかい」 「どこで働いたか知りません、おしえてくれなかったんですもの。でも、ちゃんとした 方々のお宅へ仕事に行ってました。ときには伯爵夫人のところにも行ったとかいう話で す。ヴェネツィア言葉を話す夫人ですって」といって、いらいらした顔をしてみせた。か わいい女じゃないか。「で、その夫人も相手にしたと思うんです……いいえ、あたしの勘 ちがいでしょうね」そして口を閉した。 「どうしたと思うんだね? さあ思いきっていってごらん」とポムペオが善良そのもの の口調でいった。 「うまいことをやったんじゃないかしら……そんな気がします。はしこい男ですものね。 よくないことがあると、たちまち突きとめるんですよ。それにローマではまず生活費をか せがなくては。ほかにどうにもなりようがないでしょ」 フーミはその目をぐるりとイングラヴァッロの方に向けたが、それはちょうどイングラ ヴァッロの方でも彼を見つめようと、ぽうっとした目を上げたときだった。それから娘の 方を見た。 「で、その伯爵夫人だけど。どこにいるんだ。おしえてくれないか」と唇を噛んだ。「そ の家はどこなんだ」 「駅の方ですよ、だと思うんだけど。ただ、ヴィットリオ広揚は越えて行かないと。と いっても、あたしは別に……あのあたりのこと詳しくないんです」こころもち赤い顔に なった。その声は緊張がとけ、ためらいがちになり、いまにもわっと泣き出しそうな気配 である。「あたし……これどういうことですか? スパイをさせようっていうんですか。 あたし……」 「そっくり吐いちゃうんだな、おい、おねえちゃん。放りこまれるか、ここから出して もらうか、まあ自分で決めとくれ、好きなように……」イングラヴァッロはお世辞にも愛 想がいいとはいえない態度でおどかすと立ち上った、黒々とした姿で。 「広い長い通りです」と恥ずかしさと後悔のあまりためらいがちに彼女はいった。「まっ すぐ、まっすぐです……最後にサン・ジョヴァンニに出ます」 「これで分ったぞ」とフーミ警部がいった。 146 第7章 「これで何もかも分った」もう一度同僚を見やると、相手は相手で彼の方を見やった。 かね ディオメデは金がいりようだった。持っていても使ってしまった。あらたに手に入ると それも使っていた、カフェ、たばこ、ネクタイ、フットボール見物、映画、電車、それに 宝くじもやっていた。 アペリチフ 「食前酒もやりたがってました、カルバーノです」(こんなふうにアクセントをつけた) 「アーケードにあるピッカロッツィの店でです。食事に出かける前にです、出かける前に」 だが、そういったときの彼女は「上等の絹のシャツです、もちろん」とでもいいたげなく らいに高慢な口調だった。 「で、どこに食いに行くんだね」とフーミがたずねた。「そのとき次第です。ひとりのと きはパンですましてます。噴水の管にしがみつくぐらい平気ですよ、スクロファ街のマル チアの水をひと飲みしたり、ボルゲーゼの小さな噴水でごくりとやったり。それがお嬢さ んたちや派手な方々といっしょのときとなると……」 「つまり、あんたひとりの彼ではなかったというわけかい」ポムペオが皮肉な笑いをみ せてちくりと刺した。そして、彼女の肩にふれて「さあさあ、くよくよしないことだな、 お嬢ちゃん」彼女はというと、さわられてぞっとしたのか、めいわくそうに飛びさがっ た。「ええ、分ってます」としくしくやりながらいうのだ。「ええ、くよくよしないように します」 だが濡れた顔を手でふき、しゃくりあけると、思いなおした様子である。「だけど、あた しのことをどう思ってらっしゃるんですか。もう、くよくよなんかしていませんわ」とい うと、またまたしゃくりあげて、ハンカチをさがすような素ぶりをみせた。顔と鼻をふこ うというのだ。だが結局、袖にこすりつけてしまった。かわいそうに。肘には穴のあいて いるのがみえたし、袖にはつぎがあたり、ぼろがのぞいていた。いたいたしい手首、腕、 肩が絶望したすすり泣きのうちにびくびくふるえていた。それでも頭をあげると、濡れた 顔でいま一度みんなの方を見つめた。 「そう、誰かを見つけたとしましょうね、つまり、ああいう種類の女たちです……面倒に さわぎ立てたりしないような、だってそれが狙いでやってくるんですもの、そういう女に ぶつかると一流のレストランに連れこみます、そうですね、リペッタの散歩道のボッター ロとか、クワトロ・カソトーニ. アリチアーロといったサン・カルロの裏手のお店、でな ければヴィーテにまで出かけますのよ、それでもひょっとして相手が鴨だと分ったら大へ んです……ローマ以外から来たとか、遠くから来た旅の女だとか、上流の女だとか分った らですね。彼はまたそういうことにかけては目がきくんです。聖イニャツィオのブーコに も何度か行ってましたが、なんでもトスカナの人たちがいるんだそうです、トスカナ出身 の入たちですね。で、そこへ行くとトスカナのお酒をのまされます、うんと高くつくんで すよ、だって高級品で通っているんですもの」 「これで分ったぞ」とフーミが大きな頭を机にのせてつぶやいた。 「トスカナの連中です」と彼女はくりかえした。そして頭をあおむけにすると、片手で 髪の毛をうしろにやったが、房になってかたまっているブロンドで、鞭打ち用のなわを何 本か打ちおろした感しである。それから、うんざりしたようにつぶやいた。「鼻持ちのな らないことといったら、嘘をつくのなんか平気の平左」そうした呪いの言葉も小声のうえ に、不定詞の尾音節省略のせいもあって、とだえがちだったが、舌や唇をもぐもぐさせて いるその様子を見ると優しさは薄れて行く一方だった。 「鼻もちならないっていうと? 君を相手に何をやらかしたっていうんだね」と、つか 147 まえ屋はお返しだとばかりに彼女をせっついたが、小説家ならば口もとに笑みを浮かべて とでもいうところだろう。だが、彼の喉をとおると反対にトロンボーンの音さながらにひ びきわたったのである。 「別にあたくしには何もしませんでした。ただ、あの人たちが鼻もちならないってこと は知ってるんです。それだけのことですわ」 「まあまあ落ちつけよ、ポムペー、そっとしとくんだ」とフーミ警部は鼻にしわをよせ ていった。それから娘に向かって「で、話のつづきは?」 「そういう女たちが相手だと、さっさと引っかけてしまうんです、そういう話でしたわ ね、女の気持をつかむのなんか、それこそなんでもないんです。すみませんけど、ボル ゲーゼ公園はどう行ったものでしょう。そう訊かれた場所はヴェネト街なんですよ。公園 のそばのピンチアナ門のアーチのとこにいるんです、ばかみたい。それなのに、ここから 遠くはありません、だなんて。あたしだったら、そんないい方はしません。通りをわたれ ばいいんですもの。たばこの火でもつけてあげるんでしょ、たぶん。よろしけれぱご案内 しましょうだぐらいいって。相手が断わるわけありませんわ。それが、あたしといっしょ だと違うんです、こんなぽろを着てるでしょ……自分でも寒さで死ぬかと思うぐらいです もの。そして、あたしといっしょでは歩くのもいやなんですって、馬鹿だとか、貧乏くさ くみえるとかいって。そのくせ、あの女たちとはいっしょするんだから。ピンチアナ門 から湖の庭園やピンチオ見晴台までだったら足が痛むような道のりじゃないでしょうに。 道々、ちょっとおしゃべりをしては、おたがいにふりかえって顔を見つめあい、目の奥ま でのぞくんです。分ってるんです、あたしには分ってます、どんなふうにやるか」 「で、あんたは?」 「あたしにですか。そうですね、さんざんいじめられてきたんです、パンひとつどこへ 食べに行ったらいいか分らないぐらいで、すんでに川へ身投げするとこでしたわ。あの女 たちが相手だと、すすんであたたかい正餐を食べに急いで行くのに。どんなに悪くても夜 食ぐらいは食べてましたわ」 「じゃあ、おぜぜは?」 「おぜぜっていうと?」 かね 「金のことだよ、出すのは誰だい」親指を人差指にこすりつけながら、ポムペオがまた また口を出した。 「黙ってるんだ、ポムペー、まったくお前にはいらいらさせられるよ」とフーミが注意し た。それから彼女にいった。「で、その正餐なんだが、夜食でもいいよ、誰が払うのかね」 「払うのはあの人ですわ。もちろん」娘は倣慢さと悲しい羨望の気持からいいかえした。 「でも、お金は女が彼にわたしておくんです。ナプキンの下から、でなければボッターロの かね 入口で」(金の出所である恋敵をうらやむ)「ウインドを眺めているときなんかにです…… その日の料理が書いてありますでしょ。鶏はあるかな、子羊はあるかなって見るわけで す。とにかく途中で何もかも話を決めてきてるんです。あの人、無免許のガイドで、試験 はちゃんと受けてるんですけど。ただパニスペルナ街に免許証を取りに行ってないだけで す。ほかにも書類や印紙がなにかと要るんですね。で、ローマの宿屋となれば全部、そら かね で覚えているぐらいです。それにしても、お金を出すのが女の方だと分ったんでは、女に しても具合がわるい、とまあそんなことはあの人たちの間で了解ずみなんですよ、ここは パリとは訳がちがうといって。なにせ教皇さまがいらっしゃるんですから」みんなが笑っ た。彼女は疲れ果て涙ながらに最後まで大部屋のかび臭い光の中に立ちつくし、目を輝か 148 第7章 せながらしゃべってきたのだ。ブロンドのまつ毛を上に向け、視線の明るい落ちつきのう えに光をそえていたし、涙は黒茶の虹彩と、それを包みこんだ二個のトルコ石を洗ってい た。その顔はほこりだらけで疲れたようにみえていた。 「おばさんにだってそうですよ、本当におばさんだとしてのことですけど、百リラも出 させるんです。以前、彼がどこかへ急いで行こうとしていました。その場所がどこかは覚 えていませんけど。で、そのおばさんというひとですけど、もう二度とお目にかからな かったんじゃないかしら、その百リラ紙幣に。顔じゅう傷だらけだという男の奥さんで、 旦那はパン屋をやってたんだけど、家にはぜんぜん寄りつかないんですって」 ザミーラとは喧嘩をしたことがある。「たぶん、あたしを口説いて逃がそうとしたから じゃないですか、で、彼女かんかんに怒ってしまったんです。いまに後侮することになる よ、あたしにそういってました、あの魔女が。よくお聞きよ、あんたは後侮するようにな るよ、べっびんさん、ですって。欲張り女独得のあの口でもって。そのとき、彼ったら魔 つの 除けの角にさわらせてくれました、自分もさわりましたよ。そうなんです、あたしを口説 いたのはあの人だったんです。で、喧嘩になりました。たぶんそのためだと思うんです、 ひょっとすると、よく分らないけど、もう共通の利益がなくなっていたのかもしれませ ん。彼女ときたら魔女でしょ、どさまわりの売春婦というとこですもん。アフリカにまで かね 行ったんですよ、春をひさぎにね。十五年前のことです。そういう調子でお金のこととな ると、自分の父親でもナイフで殺っちゃいますね。で、彼があたしを連れ出してくれたん です」 「そういうことで奴らは喧嘩をしたというのかね」フーミはあまり納得できない様子で たずねた。娘はその質問には注意していなかった。「でもやっばり違うのね、あの人は、 分ってもらえると思うんだけど。ああいうタイプの男でしょ。ただではね、やっばり…… ただ同然ではね。ほかを探しに行けなんていってたわ。名誉のために働くなんて、そん な夢みたいなことは考えてないですって。だいたい、あんたたち女は何もやることはな い、忍耐心さえちょっびりあればそれでいいんだたんて。二分間黙っている、それで充分 ですって。何度か溜息をついて。で、そのうちに……domino vobisco あばよ、アルフレ、 また会う日まで。だが、おれたちはおれたちだ。そんなふうにいうんですよ。おなかいっ ばいに詰めこんで、おれたちは違うんだ、ですって」 「あんたはそれを聞いたってわけだね」とフーミ警部はちょうど、思いもかけなかった 嘲弄や魚雷によって、人間性の善良さにかんする最も健全な、最も根を張った意見がすっ とばされ、笑いとばされたのを聞いたり見たりした人のようにすっかり打ちのめされたと いう口調でいった。その場でいっしょに訊問にあたっている人たちの援助を頼もうという ように、悲しそうにその目をぐるりと周囲に向けた、首が両肩の間にめりこんだところ は、まさに機嫌の悪い使徒が彼の頭にかかとをのっけた図である。イネスの口をついて出 たあの若僧の台詞の皮肉な厚かましさはどうやらこの話に終止符を打つかに思えた。 そろそろ彼女を帰そうかというところで、パオリッロなどはもう動きかけていたのだ が、思わず知らず大あくびが出て、あごがいっとき動かなくなった。このあごときたらも う一時間も全く別のことにかかずらおうとしてきたのだ。と、そのときである。涙をふい て彼女が二言三言、さきほどまでの言葉につけくわえるようにして口をきいたが、その声 は静かで響きがよく、聴衆がひっそり静まりかえったところで、あらかじめ聞いてもらっ ておいた「アリヤ」ないまふたたび歌い出した感じである。「アスカニオという名前の弟 もいたんですけど、この弟がまた例のヴェネツィアの伯爵夫人が住んでいる建物に出入 149 りしてましたよ。それが美男子ですの、真似のできないぐらいずるがしこくて、いつも、 ひょっとして何かうまくいかないと困るというようにびくびくしてるんです。下から人を 見上げるんだけれど、そのあとすぐにまぶたを閉じてしまう、そういうタイプです。あた しなんか猫に思えてくるんです。猫が本当は自分が眠いところを知ってほしいけど、あい にくといつもより身体を汚くしてしまい、自分でもそれがちゃんと分っていて汚いところ を人には見られたくない、それと同じに思えるんですよ。兄さんと同じで機転のきく青年 ね、でも人間としては別種というのかしら、教会の伴僧と出前持ちの中間っていうところ です。あのパン屋さんのですね」 「すると、例のはその弟かもしれないな、そのちっこい方のアスカニオ・ランチアーニ さ」とフーミは考えこんで、鎌をかけるようにいったが、その名は珍しいことだがランチ アーニのチアという音にとりわけ力を入れた。だが、もうアンズのかごは空になってい た。秘密めかしたつもりだが、それはもう無用だったのである。 「ええ、アスカニオです」そういうこととは露知らず彼女は歌うようにいった。「アスカ ニオ」 イングラヴァッロは内心でうなり出したいぐらいなのを抑えるように、ぶるぶるとふる えた。それば職業的な疑いぶかさが身についたまま居眠りしていたマスティフ犬が夜中に 泥捧のような、泥棒ではないような、そんなやわらかな足音に目をさますところに似て いた。 「お店で働いてました、豚肉屋か何かで。……兄さんと同じでやっばり、あちこち鞍変 えをしてましたわ。その後はたしか行商人といっしょにあちこちまわったはずですの。つ いこの間の日曜日に見かけました。今月の十三日です。おばあさんと焼肉を売ってると こを……」 「どこで」 「……ヴィットリオ広揚でした。すきを見て、さっと前掛けの下からパンをひとつくれ たんですよ。手品みたいなことが上手なんです。例の目で。おばあざんに見つかりはしま いかと心配でおどおどしながら、髪を垂らして。で、あたしにいうんです、ここで会った ことは誰にも知られないようにしてくれって。本当にどういうことでしょうね。やれや れってとこだわ。いつだってそれこそ謎めいていて。ローズマリーをつけて豚肉を』切れ のっけた丸パンをくれました。二日がかりで食べるようなのを。でも、おばあさんに見ら れずにすんだんですからね。ああいう意地悪ばあさんのことですもん、気がつこうものな ら、拳骨の雨でしようね。なにしろ、あたしがその子と小声で口をきいているのを見ただ けで、ぞっとするような目でにらみつけるんですもの……」 「それは何時だった?」 「たぶん十一時です。おなかがすいてメモ見えませんでした。サンタ・マリア・マッ ジョーレの大きな鐘がいつまでもいつまでも鳴りやまなくて……聖ジュゼッペのお恵みに ありつけるようにっていうんです。とても霊験あらたかだそうですね。土曜日がその聖人 の日だというんだけれど、あたしはこんなところに連れて来られていいとこなしだわ。で もやっぱりアスカニオに会わせてくれたし、おかげでパンをめぐまれたと思えば。あの鐘 が鳴るのを聞いていると、おばあさんがぐらぐら揺れているように感じるのです。上へ下 へ、下へ上へ、ブルルル、ブルルル、機会みたいに一突きくれるたびに、いくつか言葉が 出てきます。うしろからもブルルル、ブルルル、ブルルル、フルルル、フルルル、フルル ル……。おなかが空いてきました。あたし、ちゃんとはっきりいったんです。おなかが空 150 第7章 いているし、いくらでも入るわって。でも彼の方はずっと叫びつづけてるんですね、焼豚 はいかが、焼豚はいかが(誰も買おうとしません、あんな値段じゃ)こんがり焼けた豚肉 はいやがって。やっと、あたしのいうことを分かってくれました、でもあたしの顔を見た とき、もう分かってたんです。近ごろ食べたもののなかで最高です。おなかの中に入って しまうまでに、たしかに食べごたえがあるという実感があったんですもの。悪くなかっ たわ」 ところが、偶然なことっだが、 (non datur casus, non datur saltus) その晩、困りはて た人たちに救いの手を伸ばし、取調べを軌道にのせ、それまでの風向きを変えてくれたの はほかでもない、この男だったのだ。取調べ方法の巧みさとかこまごまとした弁証法など よりもむしろ、偶然なこと、運、網の目、パトロールのちょっとしたほつれ目、ちょっと すり切れた箇所などの方が効果があったのである。イングラヴァッロはデヴィティを呼ば せ(こんどはちゃんといた) 、朝になったらそのアスカニオ・ランチアーニという若僧を探 すようにいいつけた。その男の人相書は……イネスがすぐにわたしてくれた、ほかでもな い彼女がもらった肖像写真である。それから屋台とおばあさんに会える場所、焼肉を売っ ている場所も説明してやらなければなちなかった。そう、ヴィットリオ広場だ、そう、屋 台が集まるところだ。ペスタロッツィにはタイブで打ったトルコ石とトパーズのリストの オー オッキオ・デイ・ガット スピネッロ 写しがわたされたが O という文字が全部 ( ネ コ 目 石 、クロソベリッロ、尖晶石など) そ オー れこそ O という文字そのままにまるく、半透明の用紙にその数だけの穴というか破れ目を 開けていた、予算をとってきちんと直そうにも直らない几帳面さと事務処理の細心さが生 んだ潰瘍である。あるものはアッチェント・チルコンフレッソの符号こそついていない が、それでも間ちがいなくトパーズと読みとれたが、トポ=ジイというのもあった。家宅 侵入の被害を受けトパーズをぬすまれたメネカッツィの宝石がそれだが、こんどは権利の 点でも自分なりの Z をちゃんと手に入れ、充分に活用するようになった。それにポー河流 域のカという音を中部イタリアふうのガに変えているところもご愛嬌である。同じような ことだが融通の利かない役所では生きて行くのに必要だという書類や印を持ち歩く名誉と よろこびを役所は与えてくれているわけだが、あのカンネの偉大な死者*7 の名前について いたのをとって、あやまってパオロ・マリアとされてしまい、やっとカルロ・エミリオに 直してもらったのだが、いかんせん、後にガドーラなどとつけられて帳消しになったこと がある、この名前はしばらくの間、ガッダという名にかわって世間の呪いをうけながらさ んぜんと輝いていたものだ。このリストの紙片にメネカッツィはもう一枚のリストをくわ えたが (イングラヴァッロは留守役の軍顧目のペスタロッツィに二番目のリストをわたし ながら、それに目を落した)、この方が何やらずっとおそろしくもあれば豪華でもあった。 つまり、たんすの一番上の引き出しにある鉄の小箱の中にリリアナ夫人がしまいこんでお いた、これはまた別の宝石だったのである。 *7 パウルス・エミリウスのことで、ヴァッロにハンニバルとは闘うなと忠告する。結局、ヴァッロは闘って 破れ、パウルスも殺される。 151 第8章 太陽はまだ地平線に現われようなどという気には毛頭なれないでいるのに、ペスタロッ ツィ軍曹の方はもうマリーノのエッレ・エッレ・チー・チー*1 の兵営を出て (オートバイ にのって) 例の店舗兼作業場へととんで行ったが、あちらでは彼がやって来ようとは想像 もしていなかった。少なくとも留守役軍曹としての彼になど来てもらいたいがっているわ けがなかった。娘たち、特に例の女魔法使は周囲の気配から何ともいえぬ興味を感じとっ たが、それは憲兵たち (ちょうど田舎で何か新しい出来事の匂いがすると、汚ないハエた ちがむらがってくるが、それと同じで)、巡査部長、そして特に軍曹殿が布地屋の甘い香 りがするあたりをぶんぶんうなりをあげてとびまわり、飲み屋の敷居をまたぎ、中のカウ ンターにまで入ってくるという事態からすれば当然だろう。ふつう人目を引くようなもの とは違って、十七日から十八日、木曜日から金曜日にかけて二十四時間の間、緑のウール のショール一枚が問題となったのである。そう、確かではないが、おそらく盗まれたの だ。だからこそ、所有権の移動にともなう受益者のためにも、早急に染め直す必要があっ てザミーラのところに持ちこまれたのだ。灰緑色や赤と黒の制服を着た巨漢たちが新たに やってきて、そしてどうやら少々緊張した様子でぶんぶんうなっているのは、その場合に かぎっていえば、これは個人的な衝動によるものではなかった。つまり、訓練訓練で押え られたあげくに永遠のリンパ液があふれ出てきたというものではなかった。そうだ、ちが うのだ。仕事場というか、さらにいえばそうした場所をおさめてあるこの随屋は入念に、 しかも次第に範囲をせばめながらここ二日間というもの包闘されてきたが、これはどうや ら一定の盗難事件に由来する王室憲兵隊の巡回、つまり当然なさるべき巡回によるものと 解釈されたのである。それで彼女たちはどうしたのか? じっと黙りこくって口を閉して いるが。縫いあわせ、裁断し、針を使ってきた、ミシソをがたがたと踏んで。モールの飾 りものをつけた巡査都長と軍曹のふたりは相前後して、まるで競争でもしているように やってきて、いかにもちょっとした好気心から聞きたいんだというように、上手に何気な い態度をよぞおって、例のショールにかんし、とってつけたような質問をし、そのあと考 えぬいた取っておきの質問をあびせてきたのであった、どんなふうだったか、何色だった か、ふつうの布だったか、編んであったか、それも機械編みよりも手編みではなかったか というふうに。なんでも彼らの話だと、ある老女がそれを無くしたという……電車から下 りるときに。ザミーラは口から小さな唾の泡を吹き出し、それで唇の両端は玉なす汗のよ うになった。彼女は胸がどきどきしたり、自分に関係のあることにぶつかったりするとそ うなるのだ。何というか、まぶたで人を招くというか、思いきり薄く、思いきり甘く薄め た形で mil careme *1 *2 *2 はいらっしやいなと招くようなところがあった。ところが別の若い 王室憲兵隊の略。 四月齋三週目の木曜日。 152 第8章 娘、というより人妻といった方がいいぐらいだが、巡査部長の父性愛的心惰の前には無拓 で蕾の閉じた花束の中に咲く満開で真赤なバラとも映る女で、それが「自分の」目を彼の 目に投げてよこしたのである。奥義をきわめたような彼女のすばやい明るい視線、知性の 露にしっとり濡れたようなちらりとした限差しは巡査部長にとって必要以上の効力があっ た。宵の明星にでも出会ったような偶然の、偶然も偶然、人っこひとりいない時開にアビ タコロのサンタ・マルゲリータの小道で偶然にぶつかったようなこの出会いに処するに、 その場かぎりの言語錯誤症という手に出た。とたんにショールがもどってきた (といって も思い出したことである)。濃い緑。ささやき声がわき上ってくるその中で二輪馬車、三 月、地平線の雨、新月、三月の強風がそっくり、さらにかわいそうに馬の水桶に注がれた 熱いワイン、そして何よりも重要なのだがマリーノのチュルラーニ社が浮かび出てきたの である。そしてさいごにさる男というか《男友だち》にふれて、その名前、苗字、仇名、 住居にくわえて、あれこれと情報も分り、顔つき、性格、タイプ、態度、容姿、靴ひもな どについてあれこれヒントがのべられた。だが帽子はおろか仕事ズボンもその肖像写冥に は出ていなかったし、巡査部長の細かい質問はいっこうにはかどらなかった。ドゥ・サン ティの仕事場兼居酒屋では娘たちはいつでもみんなそうなのだが、さらにはザミーラまで が夢うつつの無邪気な気分になってしまい、ものを訊かれても、かえって訊いた相手に視 線で問いかえすというふうにして黙っているか、でなけれぱ肩をすくめるか、知らないと いうしるしに口をすぼめてみせるかだった。 その後、月曜日ごろになると、どこかあくどい感じがした憲兵たちの熱心さもすっか り静まった。と、軍人らしいのがひとり、これは本当の話だが自転車を下りて、レモンス カッシュを注文しに入ってきた。ガラス戸 (色つき) のとってが動いて、お客が来たこと がはっきりと分った。その軍人が現われたのだ。通りがかりの憲兵だった。レモンスカッ シュを飲みほし、こういうものを飲んだときの例で鼻をぬけるクリプトン=げっぶの一種 となってそのガスが逆に蒸発して上っていったとき、憲兵はさーてというように上着のボ タンを外し、楽になるよう、息がしやすいようにと前を開くと、肉まんじゅうを取り出し たが、包紙のせいでサラミを詰めたパンよりもふくらんでみえたし、それからくたぴれた 財布、つまり額に汗して働く人、貧しい人で飲料の支払をきちんとすますにはぜひとも欠 かせない手段である財布を取り出した。こうしてボタン穴に指が触れることで、制服の尊 大そのものといったポタンにも自由な輝きが取りもどされたわけだが、この動作を見て、 女主人の服飾家はともかくとして娘たちの方は、ちらりと目を走らせるだけなのに、ちゃ んと万事をのみこんだ目つきで彼の胸のあたりの生き生きした輪郭を見てとることができ たし、また喉のかわいたこの男の精神状態、つまり平和、生気、拡がり、抑制、誇りといっ たものを評価できたし、さらにはこの精神状態を人間性の一般的な遺産の積極的な面に登 録することもできたのである。ただし、実さいにあたっては、すべての義蕩的な使命、任 務のいっさいの原因とか理由は排除されたのである。 そこで三月二十三日はマリーノの憲兵隊兵舎となる。夜なかに起き出し、明け方に営庭 に下り立った兵隊がじっと待っていた。ペスタロッツィが闇のなかから、アーチの下か ら真黒な姿を現してオートバイの方に歩いて行った。白い負い革がきわ立って見えたが,、 それは当局という優雅な仕組の中でどんなに機敏に行動するかをしめしていた。目下の兵 士に二言三言、声をかけ、鼻面まで泥で汚れた動物然たるオートバイをざっと調べてみ た。サドルに腰をおろして片足を地面につき、左足である、それからモーターに一発くれ た、右足を使って。歩哨はバチカンのプリンス、マリーノの公爵といった人物の大きな公 153 式馬卓が出て行くときのように、とびらを広く開けた。ペスタロッツィは何か思いつめて いるようにもみえた。水曜日、二十三日、というようなことを考えたのだ。そうなのだ。 目を塔の方に上げると、覆いをかけた電燈から流れ出る黄色がかった一筋の光がずっと上 の方、破風に残る蛇腹の荒涼としたその直ぐ下のところを帯状に照らし出していた。塔の 時計では六時二十五分、彼のもちょうどその時間だった。例の丘隊には同乗するよう命令 してあり、その丘隊はすでにうしろの席にやわらかい部分をのっけて、いままさに両足を 上げようとしていたが、両手で上官の腰にしがみつき、モーターの始動を待っているとこ ろだった。彼は右足を踏み下しては、スタートさせようとくりかえしていた。やっとのこ とでシリンダーが音を立て湿し、オートバイ全体がゆれてきて、羽ばたき始めた。歩哨が 気をつけの姿勢で見送り、出口を越えた。曲り角でもころがるごとはなかった。だがふた りの重量はタイヤにかかっていた。敷石道はすべりやすく急勾配になっていたが、ある距 離にわたって泥がうっすらとかぶっていて、道を危険にしていた。騎手をふたり乗せた ひんば 牝馬は速さを押さえ、不平たらしいうめきをあげながら、どんどん下に下りて行き、右に 曲って左に曲り、町外れの門の方へと向かって行ったが、それは黒い胡椒石の塀と影の間 で、ちょうど闇を閉じこめるために蜻びた鉄の柵をつけた四角い窓の下にあった。田舎の ように薄暗く石ころの多いそのあたりを行くこの逃亡者たちに向かって、街灯が幾つかゆ れながら挨拶を送った。まるで城壁のように斜めに後退している塀や苔から腕木がつき出 ていた。意欲的な予算のおかげでできた花のような電灯、夜明け前の道路のさびしさに市 の助役の腹の底か洩れる最後の鳴咽か、その道路から北風が夜、ぴゅっと吹きぬけ、ある シ ロ ッ コ いは東南風が弱まって三日後には静まる。ふたりは町外れの門まで来て下りた。アーチを ぬけると道はどんどんアッピア街道の方へと伸びて行き、明け方の光に銀色になりかけた オリーヴ園と、ぶどう園のひれ伏した骸骨のようなぶどうの間を走っていた。そのあとは しっとり濡れた山の背をストールのようにくねって行った。最初の曲り角では視界も回っ た。ペスタロッツィはふと振りあおぐとモーターを止め、ブレーキをかけ、なにやら用心 ぶかそうにオートバイを止めた。その朝を占うように二分ほど止まったのである。 明け方だった、いや、もっと時間はたっていた。思いがけなく姿を見せたアルジード、 カルセオラーニ、ヴェリー二の頂きは灰色である。手のうちを見せない魔術のように現わ れたソラッテは鉛と灰の塊りを思わす。サビーナの山頂のむこうは、ひとつらなりの尾根 を寸断して開いている小さなロや門戸などのくぽみを通して空かふたたび姿を現していた が、それははるか遠くで緋色の細い縞模様になり、さらに遠くでは硫黄の黄色や朱色をま じえた燃えるような点になったり輝きになったりしていた。ふつうとは違ったラッカーで あり、高貴な感しのする照り返しで、いかにも深いるつぼから湧き出ているようだった。 前の日の北風は静まり、前兆をくつがえすように肌と顔をなまあたたかい風がなでていた が、これは東南風が疲れて力を失ったあと、意味もなく吹いている微風である。さらにむ こうのティヴォリとカールソリの彼方では、巻雲ですっかりちぢれた地平線の雲の小艦隊 がサフランの房のように次々と海戦の場へ飛んで行き、嬉々として疾走して行っては切れ ぎれになっていた。だが、どこへ、どこで? 誰も知るものはない。ただ、われわれが命 令に従うように、雲たちの小艦隊もその提督の命令に従って全ての帆が風の吹くのにまか せて自滅の道を歩んでいるのは確かだった。はかなく、うつろいやすい帆船の軍艦は、明 け方に目ざめたあと知覚するあの転倒したある種の夢の中と同じで、およそ非現実的な高 みを風にさからって右に左にと進んで行った。エクイの山々の灰色の暗礁を、ヴェリーノ の夜明けの裸形を、マルシカの防波堤を風にさからって進んで行った。オートバイはふた 154 第8章 たび走り出し、運転する彼は道路の走るとおりに走らせ、車体はカーブのところで、ふた りの男をのせて傾いたまま曲って行った。空の反対側半分、つまりフュミチーノとラディ スポリの海岸の空模様は栗色をした羊の群れを思わせ、いってみれば鉛色にかげり、安 スープにふさわしいような羊がぎゅうぎゅう詰めこまれ、押しこまれ、犬と尻を噛みあう の図といったところだ。風も吹いていた。空を叩いて雨槙様にするような風が。ごろごろ と雷鳴が聞こえた。やれやれ、いまにもいやというほどがなり立てるぞといいたげだ。三 月二十三日。 軍曹は片脚で一踏みするとフォンタナの方に向かって速力をあげた。平地一帯に住居が ぎっしり立ちならび川に向って傾斜して行くこの右手のあたりから見ると、ローマは地図 や模型地図に横たわっているようにみえ、サン・パオロ門のところではわすかに煙が上っ ていた。その近隣には無限の思想と建物がはっきりと見てとれ、それを北風が洗浄し、生 シ ロ ッ コ ぬるい東南風がわき上って数時間後には例によって例のごときだらしなさで、平易なイ メージに変えてしまい、甘く洗い流すのであった。真珠母の丸屋根、塔、黒々とした松の 密生地。灰色のところもあれば、ぜんたいに桃色と白のところもある。聖油式のヴェール だ。上等のパンに入り、シャロイアの朝の日課に出てくる砂糖だ。地面で踏みつぶされ た巨大な時計に似ている、延々と伸びるクラウディウスの水道が紳秘的な夢の泉に結び つけ……つなぎとめた……あの時計に似ている。そこには軍の総司令部があった。そこで は、そこでは何度も夢にまで見たあの手つづきがもう何ヵ月も待っていた、待っていたの だ。梨やマルメロと同じで、手つづきが熟するまでには、完璧を目ざして元の王国の首都 が書類に付与したあの苦行に耐えるだけの力がそなわるものだし、また次々と流れて行く ことこそないが、書類やそれに関連した印章類にしてみれば内在的な時制、つまり熟して ローマふうにやわらかくなるまでの期間を経てきているのである。記録保管所の書類つづ り、伝票つづりは全部が物いわぬほこりにおおわれていたし、ありとあらゆる時間、潜伏 ロ ー マ・ド ー マ する時間の箱はくもの巣でひどかった。ローマは飼いならす。ローマは巣につく。自分の 出した条令が、麦わらのように山なすその上に。そしてついにその日がやってくる、待ち こがれた公表の卵が腹のなかから、教令の洪水を廃棄する排水路からほとばしり出る日が やってくる。その件にかんする回答書、つまりやせ細った請願人に例の卵を攪拌させ、残 りの一生を通じて攪拌させるような回答書が送りつけられてくるのだ。聖油がいっしょ にとどくことも一再ならずである、昏睡状態に落ちた当の相手に (手に何か書いたものを 待っていると落ちつくのたとえではないが) あの催眠術を実行させるのだ、そのときまで、 聖油式の時まで秘かに行なってきたあのいびつな行為をやらせるのだ。そうすれば、それ からあとは、de jure decreto 地獄に行っても永遠が与えてくれた気安さでもって、一度 に少しずつだが実さいにやってみようと努力することだろう。軍曹はドウ・サンティに向 う下り坂を急いで行った。ぐったりする日、まるで沼の水を空気が飲みこんでしまったよ うな蒸し暑さだった。だが、吹きぬける風や、小銃の弾のように時おり顔に水滴があたる のを感じるにつれて、調べは早急に片がつきそうだ。朝のすっきりした時間に実リ多い訊 問ができるのではないかと感じた。道の真中でもたもたと尻の上げ下げをやっている鷲鳥 のうしろからクラクソンを鳴らしながら、口をついて出かけた悪口をあやうく噛みころし た。と、そのとき、早く起きたためぽっとしている頭に、前の晩に途中でさめた夢がふた たび現れ、ふたたびきらめいたのである。 夢の中で目にした、というか夢に見た……それにしても、まったく見るにこと欠い パ ッ ツ ォ トパッツォ て……人間がおかしいのだ。とんまなのだ。ねず公なのだ。トパーズを夢で見るなんて、 155 いったいトパーズって何なのだ。切子に刻んだガラス、うんと黄色い一種の照明灯で、そ れが刻一刻、大きくなり拡がり、たちまちヒマワリにかわり、有害な円板となり、ぐるぐ る回りながら彼のそばを離れて前方へ飛んで行き、沈黙の魔術によってオートバイの車輪 で踏みつけるところだった。そして候爵夫人が欲しがったのだ、そのトパーズを。彼女は 酔っていて大きな声をあげ、おどかし、地だんだを踏み、うわずって真青になり、ヴェネ ツィァ弁というか、スペイン語の方言といった方が近いかもしれないが、乱暴な言葉を口 にしていた。レバウデンゴ将軍のことをあしざまにいい、将軍の部下の憲兵たちが間抜け でどこを探しても見つけてくれないとこぽしていた。あの呪われたトパーズを、あの黄 色がかったのを見つけてくれないというのだ。で、カサール・ブルチャートの踏切に来る ト バ ッ ネ ロ と、ガラスのヒマワリが……右側を行くじゃないか。しかもどぶねずみに姿を変えて線路 ト ー ポ・ト ー ポ・ト ー ポ づたいにどんどん逃げて行き、くすくすくすくすと笑い声なあげていた。一方、ローマ= サーシー ナポリ急行は黄昏を追うようにして全速力で走るうちに、はや夜になってしまい、妖婦の 闇をついてパンタグラフを稲妻や幽霊のひらめきで飾りながら、充電したルカニアの雄鹿 よろしく飛んでいった。だが、そのときまでには、こんなふうに延々と伸びる平行線に ト ー ポ そって狂ったように転がって行くだけでは助からないと気づいたのか、ねずみ=トパーズ カ ン ポ・モ ル ト はレールからはなれ、夜の田園にとびこんで死の原っばの出口のない沼や黄み、海岸の小 さな果樹園の木のもつれなどに逃げこんで行った。監視所の女たちは悲鳴をあげて、気が 狂ってるわ、止めて、手錠をかけてと叫んでいた。機関が車沼地の中まで追いかけて行っ て、黄色いふたつの目を光らしながらそのあたりの芦の茂みや闇の中をさがしまわった。 サーシー 妖婦伯爵夫人の山のふもとにあたる、呼び名もさだかではない一帯がそれで、海岸の見晴 ネレイデス 台の上の方では夕方の海の吐息にイルミネーションや飾りがゆれていた。そのとき海の精 たちがちょうど波浪の間から現れたところで、白衣の給仕たちや冷えたサイフォン、管な どが行き来するなかで、さっそく海草と泡の衣裳を脱ぎ、例によってポルカノ城の魅惑的 な夜をたのしませていた。伯爵夫人はものうい哀歌のあいまに、眠れるよう忘れられるよ うにと一瓶たのしんでいた。うつろな渦巻模様を見てやろう、夢のなかで気を失おうとい カステル・ポリチーノ うのだ。自分が存在していないという夢のなかで。 豚 公 の 城 ではニワットの黄色い電球 と、一吹きしてメロディがひとつ終るたびにふくらんで行く風船が花のように飾られた下 の方で、女魔法使が (いつも) 開けっばなしの嗅ぎたばこ入れから一嗅ぎしてはせわしそ うないのししを誘い出していたが、それがフィルターを通り、芳香の中を通ると、学校で やるように耳の大きなろばにされたあと、こんどは大鼻の豚にもどることになるのだ、あ のマッキアヴェッリふうの棍棒でたたかれて。すでに女生徒たちは父親たちのきびしい拒 絶をくらって、三角形の茂みのほかはぜんぶ真白なその身体をおののかせ、黙々と供えも のをしながらもがいていたが、最初はゆっくりと抑えたサラバンダふうのムーア人の踊り だったのがしだいにエスタムピーダの長短格のリズム、つまり足を思いきり打ちつけ、床 フ ィ ニ ー レ・ア ル ン フ ィ ニ ー レ・ア ル シ に向かって激しい拍子という乾いた贈りものをするリズムにまで高まって行き、その一方 では、首と頭をいきなりもたげたりふったりして髪の毛をさっとうしろの奈落にふり落 していたが、これはえり首と魂のおさえようの. ない高ぶりを示すもので、それがカスタ タ ラ タ タ ネットの背徳的なタラタタという音で強められていた。そのとき、このコーラスのなかに 裸の男たちの一隊が押しかけ、割りこんできたため (といっても、まだやらかしたわけで はなく)、エスタムピーダはディオニソスをたたえたサテュロスの踊りになり下ると同時 サテュロス 鵜、黙魔ばらいの踊りともなったのであり、おそれおののく乳房の一隊はいかにも色情狂 156 第8章 は嫌いだという様子をみせ、危険を避け、身休をかくそうとして手を使ったり、紅潮して 湯気を立てているバッカスの権なみの逸物から逃れようとしたが、正直いってその杖はあ まりお勤めが過ぎたせいで、もうなかば馬鹿になっていた。それから鼻も使って相手を避 けていた。と、脚の間のあの箇所に向かって、せき立てられたように、黒い突発事件のよ うに黒い落雷さながらの急襲をくわえたのがあの狂ったねず公で、たちまち美女たちを動 転させた。破裂した心臓の破片があらゆる方向に隅なく飛び散り、悪魔につかれたような どぶねずみを一目見たとたん、その場のお尻と乳房の祭典はぴたりと止まってしまった。 そして叫び声と鋭い悲鳴が起ったが、これはあのひげ男が石弓の矢のように黒いとがった 肉だんごをあちこちと投げ散らしているときには、口にもしなかったものである。女たち の多くは自分が裸かであることも忘れて、無防備なデリケートな部分を守ろうと、スカー トを膝まで下ろすような仕種をしたが、スカートはやっぱり夢の中のものだった。そして デリケートな箇所もまた同じである。 こうして狂乱状態のなかで、彼女たちは飛んで逃げたいといいはった、鏡のような小さ 歳沼地へ、燈心草の影へ、夜の闇へ、銀色に輝く樫の林と浜辺の松林へ、湧き立つうねり サーシー に支配された海岸の自由な洗い場へ。また、それとは別に月光を浴びた妖婦の暗礁からと びこんだ女詩人や海の精たちは砕け散る波の泡に看まれて行った。ところが酔っばらった サーシー 妖婦伯爵夫人は夜のけだるい生あたたかさのなかで頭を後方に投げるようにしては、湿っ た髪の毛をだらりと垂らしていたが (その間に黄色い風船が笑いかけ、中国ふうにゆれて いた)、湿っているのはホワイト・ラベルのシャンプーのせいであり、口の割れ目は瀬戸 物の貯金箱に見るように両耳にとどくまでに不様に湾曲して、ひびが入ったばかりのスイ カのように顔を割っていた、叩いてふたつに割ったように、スリッパの踵が二枚並んだよ うになっていたし、また、悪魔の手にもどったテレーザではないが、虹彩の下から白眼が のぞいてみえる、ぎょろっと開いた目からはエチールの涙か青い水滴か知らないが顔をし たたり落ちていて、密輸品のぶどう酒ペルノーがオパール色の真珠のようにしたたって いるところを思わせた。シェリー・ブランデーのびんを頼み、パパやらぺぺやら偉大なア レッポやらの助けを求め、目に見えない遍在神の助けを求めたが、これが逆に悪臭ふんぶ んたるどこにでも見える存在であり、栄誉あるイタリアの救済者で、くすぐることにかけ ては、何をくすぐっても全能であった。ということは、つまり何にせよ作りあげる能力に から は欠けているわけで、べらべらしゃべりまくる空いばりだけは別であった。青々とした真 きゃら 珠の粒をこぽし、伽羅とテレピン油とウォッカを涙と流し、頭をのげぞらして夜に髪を乱 れさせ、親指と人差指の二本の指で黄色いトパーズをつまみながら、めいめいにスカート の前の方をたぐりあげて、ちゃんとパンティをはいているところをみんなに見せつけたの にょしょう である。ちゃんとパンティを身につけていた、聖なる 女 性 も、そう、そう、そのとおり、 ちゃんとちゃんと身につけていたのである。悪魔にとりつかれたねずみが今まで通ってき たのは、自分にとっても、異臭を放つその恐怖にとっても歩まなければいけない道であっ たが、こんどは肥えふとって恐怖にふるえるその身体で木蔦のように太腿をはいのぽり、 相手の女をさんざんに、それこそ間のぬけた滝のようにいつまでもいつまでも笑わせ、く すぐり責めにあわせたのであった。そうなのだ、それというのもそのとき彼女は紙のパン ティを、石膏のパンティをはいていたのである。以前に生まれて初めての経験だが、だま されてギプスをはめられたことがあるからだ。 軍曹は兵隊を腰にしがみつかせ、ドゥ・サンティめざして乾いた音をたてながら進んで 行ったが、兵隊の方はほこりに音をあげ、風をまともにくらって、まぶたをしっかり閉じ 157 ていた。こんな目にあって彼はたちまちがっかりした。いわゆる夢が展開して行くという 時間は案に相違してライカのシャッターをかちりと切った絞りの速さぐらい短いもので、 稲妻がきらめく程度の極く微細な時間の単位や、一般に太陽時と呼ばれる地球の軌道時 間、シーザーとグレゴリオの時間の四次の無限によって測られる。さて、いま、束の暗礁 を縫ってさかのぽって行く雲の小艦隊の向うではオパールがピンクになり、ピンクが濃さ を増し、幾重にも層をなして淡紅色となり、北の方では現れた陽光がそこでもここでも鉛 色だったが、その後ついに尾根は輝くばかりの眉になり、エルニチャシムブルイニの尾根 の頂上に見えた一点の火は耐え難いひとみになり、美丈夫と燈台を思わす眼差しが矢のよ うに真直ぐにつらぬいてくるのであった。古代ラツィオ国の灰色の緯度線を明白に、地図 の上で目立つようにし、緋色に塗ってきわ立たせたが、それはいわば崩れた時間の里程標 であり、名もない塔の破片であった。 * * * いそいでブレーキをかけて、オートバイを止めたものの、ちょっとの間、車輪を引きず るようにし、ドゥエ・サンティでぶぶぶぶという音が止まったところで、兵隊はすっくと 地面に立ったが、いかにもその場に放り出されたという感じがして、山出しの熊さながら に、両方の手をこもごも使って軍服の上着の下についたひだをあちこちと伸ばしていた が、その上着も彼の九々と肥えた人類学的タイプに着せてみると、どう見ても服としては 短かすぎた。アルバーノに向かって行く人から見ればアッピア街道の右手に当るが、そこ にとある小さな店の曇リガラスか色ガラスの入口があり、外から見ると崩れた感じがする 灰色の胡淑石の敷居はまだ濡れたアスファルトと同じ高さだった、その入口の向かい側 で、ゆっくりと上り坂になっている直線道路の左手の力、彼らが兵営から、例の町はずれ からやってきた道路とそれに平行した道路のふたつの入口の間に菜園かぶどう園、あるい はそれに似たものの小さな塀があった。そこからはじっとりした朝のしずくをあびなが ら、乾いた筆芦の先端がばらばらに乱れてのぞいていた。その塀の途中に食いこむように 立っているのがひさしの二枚ついた高い聖壇で、正面には自っぽい石膏の渦巻模様がつい ていた。グラスが二個、その中には桜草と蔓日々草が何本か信仰のしるしに捧げられ、花 を咲かせ、いってみれば一種の窓のような、その前の窓敷居を虹色に染めていたが、そこ から少々頭がぽっとなりかげんの聖なるものが貴賓席から見下すように顔を出して、アッ ピア街道の混雑ぶりを眺めていた。両脇の柱と、月が六分の一に欠けたようなアーチとに 囲まれ、額に入った形のその古い絵は色があせ、石灰の色こそしていたものの、それでも 注意を引くことろがあった。ファーラ・フィリオルム・ペトリ出身のこの憲兵軍曹は眠く てぽっとし、ドライブで目新しいものに出くわしてあっけにとられながらも、そちらに視 線を向けた。資料に即していえば、両方とも確かに聖人である。つまり人間が身につける 上衣にズボンというのとは別の服装をしているし、脳天には後光がついていて、ひとりの 方はひげがなく、ずっと小柄で黒く禿げているのに対し、もうひとりはごっつく骨太で、 ちょうど一さじの漆喰よろしくあごに白いポレンタ料理*3 のしみをつけ、非常に濃い髪の 毛は額の中ほどまで垂れていて白く、あるいはかつて白かったのかもしれないが、それが *3 トウモロコシの粉を煮た料理。 158 第8章 後光のあせた黄色の環におさまっていた。そのふたつのマントを、こちらのふたり連れの 左肩から下げている負革のようにぶざまにひっかけていたが、その下の方の向う脛はむき 出しのままだし、向う脛よりさらに下の改めて描き直したくるぶしもあらわになってい た。つまり最初の画家、「創造主」は間ちがいなく四本足を描きましたと主張したければ できるようになっていた。右側の足二本は巨大で突如として彼の方にやってきた感しで、 足指は見るもみごとな触手というところ、歩くたびにそれを伸ばして前景に穴をぶつぶつ と開けていったが、その前景というのが理想的な紙片で (垂直で透明で) 目を上げるたび にそこへ行ってしまう。一種特別の表現力をもって、何世紀にもわたって鍛えられた熟練 の腕をふるい描かれたのがその足の親指である。このふたつの親指のどちらにも、それと は目に見えないはきものの革ひもがついていて、神聖な威厳をおびたその節くれだった親 指だけを別個に、きわだたせているが、この神聖た威厳というのが実はほかにはないも の、親指のもの、親指独得のものであって、この威厳があるからこそ、あまり上等でもな ければ栄光の日にもふさわしくないほかの指の群と親指が区別されるのだ。とばいえ、ほ かの指といっても、やはり、同じ足の指であるからには骨格学の図譜にもちゃんと載って いれば、イタリア絵画の傑作にも描かれている。堂々として、本来、高い座にあるその二 本の太い指が前の方に突き出され、前進させられ、勝手に旅をするといった越きで、一対 になってたちまちこちらの目にとびこむのだった。それもこちらの両目に。そして見る目 に高貴と映ったのはこのフレスコ壁画の、あるいはアフレスコ壁画の中心的な悲愴なモ アフレスコーネ チーフのせいであり、それというのももともと 愚 者 をあつかっていたからだ、空の輝 き、さいなまれた時間の光が指を白く見せていたが、その光というのが下から当てられて いるせいで、地下から湧き上ってくるように思えた。風が止んで、鈴のりんりんという音 とともに遠くからろばのいななきが聞こえた。栄光あるわが絵画史はその栄誉の一部をさ ルーチエ アールチエ いて、親指に賛辞を呈している。 光 と 親 指 はおよそ絵画が生きようと願い、みずから いわんとするところがあり、物語り、説き伏せ、教育する、つまりわれわれの感覚を征服 し、悪魔の心を克ちとり、さらには八百年間にわたって自分の好みの表現を追求してきた かぎり、その絵画にとって欠かすことのできない第一の要素である。それでなくても神の 授り物をたっぶり身につけている聖者たちのこと、彼らが足という欠くべからざる授り物 に恵まれないわけはなく、アッピアか移動をバビロン*4 に至るまで、打ち首やさかさのは りつけに向かって歩いて行ったこのふたりもまた例外ではない。それどころか彼らは足に 巡回使徒なみの肉休的手段をもち、エノバルボなうんざりさせてしまった。ところが、こ れがなかなか人には納得してもらえないことなのだ。それでも聖者たちが当然持つべき親 指を久いているなどあり得ない、兵隊たちが給養品の肉罐を必ず携帯しているのと同じで ある。そういうわけで十六世紀か十七世紀、あるいは十八世紀かそれより落ちる時代のイ タリアの画家が彼らの前にひざますいて、下から足医者の魂で描き出すということも少な ルーチエ アールチエ くない。イタリアでは 光 は 親 指 の母親であり、マニエローニがドゥ・サンティでは冗 談をいわないように、イタリア人の画家であるかぎり、光はもちろん親指のことでも冗談 はいわないのである。サン・ジュゼッペの足の裏の骨はパラティナのミケランジェロふう の丸味を帯びた、ほかに類を見ないような親指をそなえていて (聖家族)、その指は実をい うと極く小部分が尼さんの小さな指を借りてきて、上に描きくわえてある。青白く、超現 実的ともいえるような、おそらくは終末論的な光を「親指観念」は提起しているわけで、 *4 この場合はローマを指す。 159 そのさい、偶発事という前景でその光を肉付けする、つまり骨を与えるのだが、すぐにま たその光を氷遠の形而上的な鉛色に戻すのだ。今日ではプレラにあるこのウルビノ出身の 巨匠の「聖なる結婚式」を見ると、同じ足の裏の骨かミケランジェロふう、パラティナふ ミ ツ コ ロ うとは違った形の足の親指を突起させている (これは男性の純潔さの目に見える驚きを意 ア ウ デ ィ コ ロ 味する、というより耳に聞こえる驚きといった方がよいかもしれない)。孤独で肉のない 親指がほかの小さな指の群と別個になっている様子は、きれいな石だたみのつなぎ目が遠 近法によって優雅に描かれているせいもあって、くっきりと見えていたが、その石だたみ フォーリヤ フォーリス には粟の殻やみか んの皮はおろか葉っぱ一枚なく、紙きれも落ちていなければ、人間や 犬が小便をした様子もない。その親指だがほかの指とは放れていても、根もとのところに 蹴爪がついて節くれだち、それが痛風のためか、たまたま脱いではいるがいつもはいて いるはきもののせいでいつか習慣的にうしろへそるようになっていたし、さらにいえば domim relapsa で、結婚式の時間だというのに嫌な臭いがしすぎていたようだ、それでも ほかの指とは分れているため堂々としたところがあり、細い茎というか杖が高々と立った ときのエクスタシーにこたえている、そう、ちゃんとこたえていて、夜の間にお決まりの カーネーションよりも、百合が三本、白々と咲きほこり、職人の無心さと職人の貧しさを 結ぶどちらかというと珍しいつなぎ目のなかから、いかにも職人的な特徴を示す要素をの ぞかせている。同じような格好をした裸足の大工の親指以上にそういう要素をのぞかせて いるのだ。 イコノグラフィア このふたりの聖者や神聖そのものの使徒一般の肖像研究についてだが、そうそう、あの マニエローニは当年とって四十歳をむかえたビロードのようなひげの主にふさわしく、無 限のエネルギーをこの問題についやしたのではなかったか。信者としての熱意ばかりか、 天才の悲劇的な特質、鉄の健康、あるいはスポーツ選手の体格、予言者の食欲、さらに時 折りは奇蹟を行うようにと責任をゆだねてくれた当人の意思に反して押しつけて行くなに がしかのお金、そういうものを渡し板にして、あるいは橋渡しにして打ちこんできたの だ。乳白色の石膏が花と咲き、渦巻模様を呈しているドゥ・サンティの小礼拝堂で彼は結 局、才能を動員してきてそれを制作に当てたが、それは入門してから絵をまなび、たえず 鍛えられてきた二十年と、ひげをたくわえ巨匠とあがめられた次の二十年の間に、しだい に画筆をふくらませてきた才能をすべて動員したのである。とっさに、しかも大まかに、 フ レ ス コ フレスコ まだ濡れているしっくいを汚した、つまり壁画として親指二本、ペテロとパオロのを描い たわけで、それが欠かすことのできない……創造、強制的な刺戟による……表現などの生 気と緊急性をあらわにするのである。水源地や泉から水がはねかえるように……《高き地 みなもと の水源の押し出す》。《創造主》はもうとうていこれ以上は……創作をおさえることができ なかった。《Fiat lux!》と、もう親指かできていた。ぴしゃ、ぴしゃ。 さらに画家ゼウクシス*5 についても、馬の口に泡をたっぶりつけて山を作ったという噂 かあるが、実はそれもスポンジ――その種類はともかくとして――を馬の鼻面めがけてぶ つけながら、それを受けとめたのが少々下過ぎたというだけなのだ。しかも噂としては 上々であった。ペスタロッツィがかがみこみ、熱心にオートバイの具合を見にかかると、 服が短い方の例の青年は道を横切り、祈祷か祈願でもするように小礼拝堂の下に入って行 き、親指だけで十字を切った真似をすると、ぽかんと口を開けて上を眺め、それから、歩 いている人がふたり、服の裾を片手でたくしあげているのに気づいた。そうしないと歩い *5 ギリシャの画家。 160 第8章 ているうちに泥がはね上るからだ。事実、平野の沼地に行くにつれて泥だらけで、彼らが これから行く道路というか道筋もそうであり、おそらくファラフィリオペトリ出身の憲兵 がフラットッキェに下りて行くあのあたりで今日、見るのと同じなのではないか。昔は一 筋の光が上から照らしていなのだろう、だが歳月がたち、何十年も何世紀もへてみると、 いつか白壁のわびしさと同じになっていた、地下から来る光に敗れたのだ。こめかみに黒 い髪を生やした小人であるその禿の聖者は結構なにかと心得ているようで読み書きは弁護 士のように、いや、ひょっとするとそれ以上に達者にみえたが、いまは歩みを落している ようで、それも連れを先に立たせるためであり、いやいやながらというようなものではな かった。一種の長官としての権利がもうひとりの方のえり首に後光をそえ、そのためひと みが燃え鋭くなった。そしてごわごわのひげのようにそのしかめ面を物欲しそうに伸ばし て品定めをするところは、まさに釣人が自分の垂らしている垂直線をにらんでいるのと同 じで、課題を前にして鼻をこわばらせていた。そして公などという称号をたてまつられ て、白髪ではあるが羊毛のような感じの髪も石のように固く見える始末だし、額もぐんと 小さくなって、ずっと固い感じがした。このふたりの姿の下の方に、貨幣の場合と同じく、 波打つ渦巻模様が重ねて刻んであるのを見ているうちに、ファラフィリオベルティ出身の このずんぐりした男は黙々と唇を開いたり閉じたりしながら人に聞こえなかったけれど、 次のような言葉を読みとって口のなかでぼそぼそといったものである。「Crescı̀te ve-ro in gratia et in co...co... cococcione Dò-m-ini Preti Sec Ep. *6 まこと主のめぐみと主を 知る知識とに進め。ペテロ後書第三草第十八節)」一方、軍曹の方は当てにしていた楽し みはそっくり犠牲にして、すぐにもオートバイを直したいとそれしか念頭になく、オート バイの油だらけの心臓部にかがみこんでいた。何か分らないが熱くなっている突起物、こ ぶといった感じのものをしつこくさわりつづけては、まわしてその指を引っこめ、そのた びに小声で「畜生」 「えい、くそ」などといいながら、火傷しないようにというのか、しき りと指を振りまわしていた。一方、ファラフィリオ野郎の方はこんなふうに読んでいた。 「Saépe proposùi venire ad vos et pro-hi-bı̀tus」 (さらに口には出さずに)「sum usque ad kuc Paul ad Rom *7 しばしば汝らに行かんとしたけれど、今に至りてなお妨げらる。 ロマ書第一章十三節)」これでも結構、自分では免状だけのことはあるぐらいに思いこん でいたにちがいない。ごく初歩程度の免状だが。それを頂戴したのは前の年で、洗礼主義 者たちが二十歳をすぎると洗礼をうけるのと同じであり、さっそく、以前からある資格や すでに認められている資格にそれをくわえたのであった。やれ頭髪は栗色で目は灰色だと か、鼻筋は通り、背丈は一メートル六十四、胸囲は九十一、尻まわりは……いや、そこま でいうこともあるまい。そして今やついに槍をかかえた槍兵隊に長々と守られたあと、読 み方の女神パラスの光をさんさんと浴びながら今ここに「学問の称号」を得たのである。 免状だ、そう、そうなのだ。ええあなた、そうですとも、初歩程度のですがね。 * * * ザミーラはまさに彼女にふさわしくというところで、髪もすっかり乱れ、服の着方もだ *6 *7 Crèscı̀te vero in gratia et in cognitione Domini. Petri Secunda, Epistula. : III-18. Saépe proposùi venire ad vos et pro-hi-bı̀tus sum usque adnuc Pauli ad Romanos. 1-13. 161 らしなく、片手に箒をもち――かなりの量の自家製の羊毛やわら屑や正体不明のごみがあ るところからこれは当然のことなのだが――商売柄、唾でぬるぬるするような笑いを浮か べ、百姓のような誠意のない目つきでふたりの男をむかえた。そのあげくにしかめ面をし たのだが、それがお天気のはっきりしない白っぽさを映す窓ガラスのせいで青白くなり、 今度は不意に照りつけた太陽光線のために赤く燃え、本当は迷惑しごくなこの訪問だが、 いかにも大歓迎というような作り顔になった。「さあ、さあ、お入りになって」果して覚悟 していたのだろうか、その訪問を。それともその場で理由を感じとったのだろうか、目的 は別にしても。堅物の軍曹はオートバイをなかに引き入れようとした。とにかく路上に放 り出しておけないぐらい誰もが知りすぎているオートバイである。なかなかいうことをき かない馬でも相手にしたように車輪をふたつともかかえこんで階段を下し、なかに入れる と、やっとのことで編み機のそばに置いた。そして女丈夫を、女魔法使を見やった。まだ 髪に櫛も入れてなかった。長い髪がもつれにもつれているところは、イバラと木イチゴが からみあって灰色になっているのを思わせた。額のこぶと眼窩の二木のアーチの樋の下に は黒かそれに近い色をした虹彩の鋭い輝きが目についたが、これは文字どおりの恐怖とか 疑惑、遠慮、あざけり、策謀といったものをしめしている。まだ残っている四本の犬歯に 支えられている九天井、それもみだらな丸天井で、唇は両端が不快な泡を吹き、それを中 心に千本の皺が放射線状に散っていたが、その繊はまだクリームで伸ばしていないし、散 らしていなかった。まるでその丸天井というか悪のドアから、思いもかけなかった策略、 田舎のぽん引き女のいいのがれといったものが蛇のようにまず最初に頭を、それから首全 体を外に出して黒ずんでくるようにみえた。サラミのようなでくのぽうふたりは彼女の微 かな吐息とともに湧き上ってくる妖術を感じて狼狽したものだが、それは果して決闘の経 験があるや否やも分らないヤモリか竜の吐息そのものであった。ペスタロッツィはじっと 自分を押えなければならなかったし、またそうしたかった。片手で両目を、というのはつ まりひさしの下のまぶたをふいたようだし、取り調べをするよう命じられている魂と感覚 の働きをとぎすましたようだった。「このろくでなしめが」と心の中で叫んだ。と、その 簡単な言葉とともに自分が軍曹であることをあらためて思い出した。「次に名前をあげる 者たちだが、ポッツォフォンド出身のアキッレのファルチョーニ・クレリア、パヴォーナ に任むロモロのマットナーリ・カミッラのふたりはここで働いているな。どこにいる」一 方、ファラフィリオルム出身の憲兵の方は気持よさそうにのんびりと尻をかいていた、と いうか、ひょっとするとあんまり下ってしまったパンツをちゃんと直していたのかもしれ ない。両手を使い、平行したシンメトリックなふたつの動作で尻のへんに来ている上衣を 伸ばし始めた。彼は下着がどうも短かすぎるように思えた。恥ずかしかった。そういう ふうに不充分な点のあるということが、彼の一日をつらいものにしていた。「さあ、おら くになさって、軍曹さん。じきに来させますから。で、誰にお会いにたるんでしょう」ザ ミーラは遠まわしに、横柄な口調で問いかえした。ゴボウといった方が早いような、その 汚れた箒の柄をいま両手でにぎりしめていた。ほっとひと休みして、相手の話を聞いてや ろうともたれかかっている感じである。やっと本来の落ちついた気分を取りもどしたペ スタロッツィはこの醜女をじろりとひと目、にらみつけた。「ぽん引き女め」一文字に引 き結んだ唇は目にこそ出さなかったが、こんなふうにいっていた。「誰のことかぐらい、 ちゃんと分っているくせに」彼女はしだいに警戒心をのぞかせてきたようで、ごみはでき るだけ食器棚のそばに寄せ、それから掃きよせたものを守るようにして箒を立てかけたの である。「呼びに行ってきますわ、店を見てていただけるんでしょ。あたくし、あなた方 162 第8章 を信頼してるんですのよ」ぼろ同然のショールを取って、ふりかえりながら笑いかけ、憲 兵たちの押えた欲望をくすぐるように尻をふりふり出かけて行こうとした。怒りが歯の 間から洩れた、ペスタロッツィの怒りが。たちまち、彼女を片腕で引きとめた。絞りあけ るようにして。当の彼女は尾を踏まれた蛇よろしく、とたんにきりきりまいをした。「こ れからやってくるというのなら、ここで持てばいい。動くことはない。おかけなさい」そ して彼女を椅子のところに引きずって行くと、その場におさえつけた。「さあ、ここでい い。でも、もし来ないようだったら……そのときはぽくらがあんたをお連れしますよ」気 丈な染物屋でも、さすがに真青になったが、一方、彼の方は昇進のため特に学校に通って いたものの、やはり山から下りて来ただけに荒っぽさはなかなかどうして並たいていでは なかった。そうなのだ、サンタ・マリア・ノヴェッラも余計な上品さまでめぐむほどの奇 蹟は起していなかった。ということは、尊敬の念を持つなどという腺は生徒にしてみれば 先に行って身につければいいといった程度のものだ、ならず者の胸中にあるよりよき明日 への期待、せいぜいその当時よりはましな明日への期待といった程皮のものである。荒っ ぼさというのも当時ではいってみれば行動要領であり、「人間関係のコース」といった課 目はまだ設けられていなかった。ちょうど猫が粗末な餌のおあずけをくっているのと同じ で、約束ばかり長々と鼻先きにぶら下っている准尉の地位だが、その袖章は聡明さと剛健 さはもちろんのこと、必要に応じて荒っぼさも要求していた。なにしろいったん准尉と なったら、あとは、もう新人として、話の分る……もったいぶった偽善者として通すこと ができるのだ。つまり荒っぽさとはいっても、そうなれば軽蔑も加味されて、かえって重 みをますのであった。女魔法使のその吐息、その嘲笑的な目、その好色的な暗示などか ら、魔法を追い散らし、催眠にさそう輪をこわしてしまう必要があった。「君は窓から離 れていてくれたまえ」とコクッロに命令した。「そこに隠れてるんだ」オートバイは好奇 の目や雨を避けて、いまは覆いがしてあった。だが、トッラッチョを下りたあと、州道を がたがたと音を立ててきているので、まずみんなに聞かれているはずだし、便所の窓から のぞいた人もあるのではないかと考えたりした。起床時間とあって、ずぽんははいている のだが、ずぼん吊りはくるぶしのところに引きずって家のなかをぐるぐるまわりながら流 しの方へ行ってあくびをし、一面のいばらのように真黒な髪の毛が突っ立っている頭をひ と掻きし、あごの外れそうな大あくびはこれで九回目というところで、慎重な関節や指骨 をつかってまぶたをこする。と、朝のあんなにも甘い眠気が散って、まるで自分の意に反 するのだがといいたげに、ゆっくりゆっくりと蒸発して行く。そのとき、意識が自分自身 に目ざめ、本来の皮膚を身につけ、シミだらけのガウンを引っかける。明りが灯っていた ときの自分の馬鹿さかげんや、おろかな出来事をふたたび数えあげにかかる。道にオート バイ。軍曹は思いかえしたようだ。「彼女らだけどここのところ、ずっと働いていたのか な、それとも病欠届を出してますかな」 「働いてましたけど……」小利口な女らしくためらってみせた。「出血届って? 出血 届っていいますと?」と時間かせぎに口ごもった。だが駄目だ、実をいって裁判官の使う ような言葉は口にできるわけがなかったし、したがって、あえて知ったかぶりをしょうと いう気持もなかった。彼女はひたむきな女性で、やさしい心にあふれ、口数は少なく、む しろ仕事だ行動だという方で……魂の救済、彼女を必要とする心の救済を仕事としてい た。つまり面白くもない忠告を求めて……彼女のところへ訴えてくる心のである。そして 心というのは知ってのとおり本来的に……むつみあう傾向がある。ふたりずつで。いくら 憲兵軍曹でも彼女に法津的な形式を求めることはできなかった。あの巧妙さ、七面倒臭 163 さ、言いのがれなどを弁護士の舌でころがして事態を混乱させながら、そういう形式を彼 女に求めるだけの理由がないのはもちろん、その能力もなかった。ああ、あの弁護士の先 生方。実に感じのいい方がただわ。第一、上得意のお客さまだ。彼女は一瞬、また夢見る 想いだった。だが、彼女の方が弁護士のお客になるのは困る、自分でそう思った。 「転居届ですのね、誰がです……?」 「とぼけるのはやめてもらいましょう、知らんぷりはしないで、あんたはちゃんと承知 の上なんでしょうから。さっき名前をあげたあのふたり。誰かと聞かれるのですか。ファ ルチョーニとマットナーティ、そうマットナーリです。たしかこの前の火曜日、十五日 だったと思うんだけど、たしか……病欠届を出したはずです。病気だったといってたんだ から」「いってた」というのは文字どおり鎌をかけたのである。ふたりの女には会ったこ ともなければ探したこともなく、また土曜日というところを火曜日にしたのは彼女にそれ は違うといわせ、あらためて本当のところをいわせようという腹があったからだ。ザミー ラは思い出せなくて困っているようだった。 「さあ、それでは話してもらいましょうか、すぐに返事をしていただかないと、さあマ ダム。一世紀も考えるなんてのは駄目ですよ。あんまり考えこむようだと、これはきっと 嘘だということになるな。ふたりはずっと働いていたのか。これがあなたに訊いているこ とです。それとも、いつか朝のうち自宅にいたままだったということがありますか。それ をあんたからうかがいたい。あんなの口からですな。こっちはもう分っている、疑っても 駄目です、憲兵隊はなんでも知ってるんですから」 「だから何をご存じなんですか。だいたい、なぜあたしなんかにお訊きになるんです。 ご存じだったら」 「ちゃんと申しあげたでしょう、あんたがどんなふうに考えているのか、どんなことをい うか、それをあんたから、あんた自身の口から聞きたいからですよ。そうなんです、パー コリ夫人、ザミーラさん、あんただって占師の免状を持っておられる身分でしょ」といい ながら壁を目で探した、測量技師のスタジオにある技師の免状のように壁にかかっている はずなのだ。だが、どうやらそれは階下の相談室の、羊乳チーズまで入れてある南京錠の かかった食器棚のそばに、髑髏といっしょに置いてあるようだった。 彼女はまた笑おうとした、彼女の笑いのなかでもいちばん好色な笑いである。よだれが また湧き出てきたので、せっかく中央が丸天井になって、たっぶりゆとりがあるというの に両脇から吸いこんだ。唇を乾かすと、鎌でなで切りでもするように舌を持って行き、そ れから一瞬、無作法というか、方言詩人のベッリなら娼婦性というだろうが、そういうき わどい感じで舌を動かしてみせた。例によってねばねばした赤黒い汚い舌で、どうも舌に まで鉛筆をもって行く癖があるようだが、そのときはうまいぐあいにすっぽりと犬歯の間 に落ちつき、いかにも待機しているというか、ひょっとするとこれから飛び立つぞとい う構えをみせていた。門歯の柵はといえばすでに堕落を始めたあのころから崩れていた のだ。 「いいですわ、准尉さん、何を申しあげればいいのかしら。あなたの方からおしえてく ださいましな……」そしてあちらこちらへと首を向けているところは愛らしい幼虫であ り、その一方では一時間前に上手とはいえないにせよ、とにかく包装をすました仕上げ 品を山と抱えて、まるで自分が釘づけにされているような椅子をぎいぎいきしませては、 しきりと身体を動かすように心がけていた。「あなたの方からおしえてくださいましな、 だって、あなたも知っておいでだとは思うんですけど、くくくく、あたしら女っていうの 164 第8章 は、くくくく、女だからということで、くくくく、あたしらだけの厄介ごとを負わされて まして……ときどきなんですけど、これも神さまのおぽしめしですか、くくくく、忍耐心 をおためしになるためでしょうね、あわれなのは女ですわ。あたしたちがあなた方と違う からといって、なにもあたしたちの罪ではありません、くくくく、あなた方のようにいつ も立っていないからといって」 不快なことに今度は彼、つまり軍曹がとぽける番となった。 「厄介ごとがなんだというんです。ほっときなさい、そんな厄介ごとなんて」 すると彼女が横柄にこういうのだ。 「いいこと、准尉さん、少しは考えていただきたいのです、おやさしいお心で。厄介ご とが嘘だとはおっしゃらないんでしょうけど。でも、かわいそうだわ、うちの娘たち、か わいそうに」それから拝むようにして「なんですか、奥さまいらっしゃらないんですか、 あなた」などと訊くのだ、救いようのない女め。「でも、好きな方のひとりやふたりは? き ょ う び それもおありじゃ、ない?……でも、今日日はみんながみんな好きな娘ぐらいはいる、 そういえるんじゃありませんこと、今日このごろでは、これだけいる男たちを探したっ て、結婚相手もなしにうろうろしている人はちょっといないんじゃありませんこと。あの 愛国的な大詩人にだっていましたでしょ、みんなを泣かせた人ですわ、クリスマスに、リ ビアで、アイン・ザラで第六狙撃隊員たちを連れて……なんという名前でしたか、なにせ もう亡くなってますし、かわいそうに、なんといいましたか? ジョヴァンニだったかし ら……ご存じですか、あの草が生えていたところを」そして片手で額から名前を引き出し ていた。「ジョヴァンニ、ジョヴァンニ・プラティだわ、いいえ、ジョヴァンニ・プラティ ではなくって、待って」それから手を動かしつづけた。「あたしがおぼえていないなんて、 そんなことあるかしら? いろいろ難儀な目に会わなければいけなかったせいだわ……こ んなふうに記憶をなくしたのは。そうだ、ジョヴァンニ・パスコリだったわ。やっといま になって思い出せた、なにか乾草をこしらえる場所に関係した名前だってことは知ってま したのよ*8 」 「草だとか乾草だとか、草原だとか牧場だとか、もういいかげんにしてもらいましょう。 だいたい亡くなった人はそっとしておいてあげるものです。それより私の訊くのに答えて くださいな」 「ねえ、准尉さん、このまま話をつづけさせてくださいな、でないと、どうやってお答 えしたらいいかも分りませんでしょ。今日このごろでは、好きな娘のいない人なんていま すかしら、そんな話でしたわね。そういう人がいたらお目にかかりたいものですわ。とに ひと かく、あなたの大切な女にだって、ちゃんとそういう日が来るんです、かわいそうな娘さ ん、でも来るんですのよ、少しばかり頭の痛くなる日がね。頭が痛くなります、あたした ち女っていうのは、ここのところに頭痛が来るんですよ、くくくく」そして旋のあたりに さわると、いまにも撫でさするような様子をみせた。その目は酔ったように不気味に輝い ていた。門歯の間は黒い天火の口になっていた。舌は今、かじかんでしまい、さげすみが 喉の奥でがぼがぼと音を立てているおうむのようである。髪の毛はというと電気の力で上 に引っばりあげられたというのか、乾ききった野辺でいばらに火花がとんだときのよう に、いざ燃え上り、ばちばちとはぜかえろうという感じであった。 「そう、それは分るな、あんた方が頭痛がするのも無理はないでしょう、編み物をやって *8 プラティは草原、パスコリは牧場、そしてどちらも十九世紀から二十世紀にかけての詩人の苗字でもある。 165 いるんだから。でも、もう頭が痛いなどと訴えて、こっちの気持をこわさないようにして もらわないと。話は短い方がいい、もうおしゃべりはごめんです。ひとつ話していただか ないことには、そのふたりの娘ですがいつ家にいたのですか、そのマットナーリとファル チョーニのふたりです。こっちではもうちゃんと分ってるんです。ただ、あなたを前にし て調べてみたいんだな、本当のことをいっておられるのか、嘘をいっておられるのか。嘘 をついたり、捜査の妨げになるようなことをなさるなら、ここにちゃんともっていますか らな、あんたとあのふたりにかける手錠があるんです」そしてポケットから取り出すと、 彼女の鼻先で、その悪名高い金属製品の実物をひとつぶらぶら揺らした。魔女の方は坐っ たまま、まばたきひとつしなかった。あいにくそんな不粋な腕輪は彼女の関心をそそらな かった。「さあどうですか」 「ですから、いま申しあげますけど……たぶん先月でしたでしょう、今度の前ね。いま 思うと、やがて新月のころでしたわ」がんこな女だ、まだそんな話にこだわっている。「で も、あたしに全部おぼえられるわけありませんでしょ、……うちの女の子たちの月のもの のことを。それは無理な注文というもんじゃありませんこと……」 「注文だって? 月のものだって? やれやれ、ねえ、ザミーラ・パーコリさん。あん た、頭がどうかなったんじゃないかな。自分が誰と話してるかぐらい、分ってるんでしょ」 「でも、先月……」 「何が先月なんだろうな。いいですか、自分のいうことに注意してもらわなくちゃあ、 先月だなんて、やれやれ。ぼくが訊いているのはね、火曜日の十五日、いや金曜日かな、 とにかく病欠届を出したかどうかってこと、ふたりのうちのどちらかがですね」(さすがに 土曜日だなどとふざけるようなことはしなかった)「それを訊いてるんです。だから、答 えてもらわなくちゃいけないのはそのことだけなんだ、なにしろあんたはよくご存じなの だから」 そのとき、闇の中から呼び出されたようにして、店に通じる小さな階段 (若者たちはそ ういうものがあるだろうぐらいは空想し、また伝説話にしていた人たちもあるが、手相を 見てもらおうと実さいにこの階段を通った人もひとりやふたりではなかった) の半開きの 小さなドアからぴょこんと顔を出し、冷たい床に足をのっけると、お得意のコ、コ、コ、コ という鳴き声をあげて、肌着の山がふたつある間をあちらこちらと歩き始めたのは、やぶ にらみで半分毛がぬけた雌鶏であり、片目がなくて、右脚には結び目が幾つもあるごつご つした紐がつないであったが、この紐のおかげで外へ出たり上へ行ったりすることができ ずにいた。いってみれば海から引き揚げた、水深を測るやたらと長い測鉛緑のようなもの で、舟尾の巻上棲が舟上に引き上げるわけだが、時としてひげぽうぽうの飾りがくっつい てとれないことがある、つまり深海にあるかび臭い緑色の海草がついてくるのだ。あちら こちらと一度ならず足を上げてみて、そのたびごとに自分がどこに行ったらいいかは充分 わかっているのだが、運命がそんなことはするなと禁令を出して邪魔しているため動けず にいるのだとでもいいたげに、いろいろやってみたものの、結局、このよちよち歩きのや ぶにらみ鶏はすっかり考えを変えたのである、翼を身体から放し (たっぶり空気を吸いこ むため肋骨をむき出すところを思わせる)、その間に押えきれなかった怒りが喉の奥で早 くもごろごろとうなっていた、カタル性の威嚇というところである。すでに毒された喉を ふるわせて金切声で鳴き始め、ぽろの山のてっべんに立って悪魔に販りつかれたように羽 ばたきし、そこから宇宙の事物や現象に飛びきり上等の鳴き声をまき散らしたのである、 まるでその場に卵でも生み落したように。だが、時を置かずにとび下りて、また新しい鋭 166 第8章 い発作をみせながら床に下り立ったが、それはみごとな滑空ぶりで、まさにレコードとい うところだが、あいかわらずうしろに紐を引きずっていた。その紐と平行し、結び目や節 くれの一列縦隊と平行しているのが灰色のウールの糸で、それが片脚にまつわりついてい チャルパーナ チ ャ ル パ たが、その糸はこうして見ると、染め直した ぼ ろ の下にある淡黄色のショールからほど けて出たものらしい。さて、いったん下におりてしまうと、さらにおまけにコ、コ、コ、 コと声をあげたあと、癒し難い怒りのせいか、それとも平和を達したためか、友情の現れ のせいか、そのへんはよくは分らないながらも、おびえている軍曹の靴の前にしっかりと 足をすえて、狙撃兵の帽子の羽とはあまり似ていない尾の羽を彼の方に向け、その尾の根 もとを持ち上げると、なんともみごとなお尻の形をそっくりそのままむき出しにして、絞 りは最少にしながら、バラのような括約筋は全開にして、一発ぷすっと、たちまち糞が落 ちたものの、これは何も軽蔑などではなく、むしろおそらくは鶉鶏目のエチケットにした がって勇敢な下士官に敬意を表したもので、まことに世間を屁とも思わぬ現われであり、 緑色のチューブ入りのチョコを、アルブレ水のコロイド硫黄の塊りよろしくボッロミーニ ふうにひねって落し、てっぺんのてっぺんに石灰の痰をこれまたコロイド状にのせ、これ が当時すでに使われていた低温殺菌法の蒼白な牛乳で作られた明るい色のクリームを思わ せたのである。 こうして航空力学をそっくり利用したのはもちろんのこと、その結果である水っぽい チョコレートというかモカまでもザミーラは返事をしない口実として利用したのである。 その間、幼ない驚鳥の羽のように白っぼいのや黒いのをまじえた縮れた羽があいもかわら ず中空に浮きながらやわらかく波打っているところは、たばこの煙でできた輪が分解して 行くおもむきであった。この新しい奇蹟を前にしてはペスタロッツィの命令口調も影が薄 かった。彼女は青いお尻をそっくり持ちあげていそいで椅子から立ち上ると、やぶにらみ の鶏を追うようにしてスリッパを引きすり、エプロンがないのでスカートであおり立てな がら叫んでいた。「さあ、さあ、行っちまうんだよ。いやな鶏だねえ。こんなにとんでも ない鶏なんてほかにいやしないよ、准尉さんがいらっしゃるってのに」 そういうわけでいま問題になっているとんでもない鶏だけど、四回もコ、コ、コ、コと うがいをし、ちじめていえばケ、ケ、ケ、ケと天井に向かって痰を吐いたわけだが、紐と 糸で二重にしばりつけられているくせして、ひと飛びで食器棚の棚に飛び上り、そこで すっかり窮屈そうにしながら、ふたたび威厳を取りもどし、しろめのお盆の上にもうひと つ糞を垂らしたが、これはさっきのよりもちっちゃかった、ぷすっ。どうやらこれで出せ るものは出してしまったようだ。こわいことがあると (憲兵たちがこわかったのだ)、まさ かということまでやってしまうものである。 さて、ガラスのドアだが、こちらでは真鍮の取っ手までが不安げな様子を見せ始めた。 ドアは締まっていなかった。若い女がひとり三月の戸外から烈風のように大きな部屋に舞 いこんできた。黒っぽいショールを首に巻き、手には傘を持っていたが、あらかじめ閉じ てあった。きれいな栗色の髪が顔からうしろの方ヘショールの上を滝のように波打ち、三 月が狂人のように気まぐれな調子でそのなかに落ちて行った。階段を下りかけたが、灰色 がかった緑の軍服を見ると、当惑したように唇をぼかんと開けて立ちどまった。兵隊ふた りとザミーラの三人は三人ながら突然のことでうろたえ気味だったが、娘はというと同じ 感じが子宮からリンパ腺と迷走神経をつたって上昇し、ゆたかな胸にまで届いたのであ り、呼吸の乱れこそ軽かったが、動悸はたしかにはげしかった。顔色が変ったというかそ ういうふうにみえた。それまでは好ましい娘にみられる少々ヒステリックな白だったの 167 だ。口をぽかんと開いたままだったが、やがて「おはようございます、軍曹さん」といい、 こんどは左舷のもうひとりに視線を投げると、この方は店に入ってきて、階段を下りると きに気づいていたものの、ちゃんと見るのはいまが初めてで、ひかえめで影になった自分 の一隅に引きこもっているその様子を見れは、どう考えてもペスタロッツィの金モールの 輝きの方が冴えている、つまりペスタロッツィの方が階級は上だったのだ。そのでくの棒 をじろじろと見やったあと、どこへ傘を置いたものかとあちらこちら探すようなふりをし たが、先に名前をあげた軍曹の山猫の目 (みずからこんなふうに呼んでいた) を逃れるこ とはできなかった……そうだ、彼女の左手の動きも彼の目をのがれることはできなかった ので (楽指と小指で傘のお化けを支えていた)、もう片方の手をにぎっていたというか、何 かしてやっていた、つまり下からは親指を使い、外側は人差指と中指を使って、右手の長 い真中へんの指を掻いてみるというか、マッサージのようなことをしていたが、どうやら これから仕事だというので指をあたためているらしい。見たところなんでもなさそうな仕 種だが、なにやらこだわっているような、あらかじめ計算づくのようなところがあった。 それは躍起になって指輪をぬきとろうとしながら、同時に、こういう厄介な作業をその揚 の人たちに知られまいと意図している人ならではの、ただの偶然とはいえない仕種であっ た。軍曹は娘をじっと見つめると、おいっちにと二歩調で彼女のそばへ行き、やさしく、 だがしっかりと右手の指の先をにぎったが、これは相手の拒否を認めない舞踊への招待で ある。それらの指を一本ずつ、次々と触れたり握ったりしてはいぽがないか、たこがない かと調べているようだったが、そうしながらも、催眠術のショーで舞台上の魔術師がやる ように彼女の目をじっと、とまどったようにのぞきこんでいた。さいごに裏がえすと、と いっても手のことだが、その手にじっと見入って、運命を読み取ろうとしていた、とま あ、見る人はそういうだろう。みごとな黄色の石、トパーズだろうか、彼女が人目をしの ぶように身体を半分まわしたとき、その指、薬指の内側で切り子の面がいっせいに光り、 汽車のライトのように輝いたのである。三月の雲の間を太陽が交互に現れたり消えたりす る下で、その石から色ガラスの時として尊大な、時としておろかな快活さが発散されてい たが、その太陽自体からして子宮のけだるさにとらわれていたのである。なにせ初めての 月に、毛の生えた穴の匂いを天で嗅がされたとたん、太陽までがぽっと霞のかかったよう な気持になり、胸がどきどきするものなのだ。まさにあの美丈夫さながらである。 「君は……君は誰だね」とペスタロッツィは晴ればれとした口調でたずねたが、相手の 顔や目、優しそうな人柄を見ているうちに身もとをぜひ知りたいという気持に駆られた、 あいにくと彼の頭の分類箱には肝心の名前が入っていなかったのだ。「クレリア、それと もファルチョーニかい。マットナーリかな、カミッラ?」 「軍曹さん、何をおっしゃってるんですか。ええ、あたしマットナーリですわ、でもカ ミッラじゃありません。あたし」とためらってからいった。「マットナーリ・ラヴィニア と申します」 きょうだい 「じゃあ、カミッラはどこにいるんだ。何者かね。君の 姉 妹 ?」 「姉妹ですって?」と不快そうに口をすぽめた。 「あたしには姉妹なんかいませんわ」と、 そんな身内がいるなどどいうかんぐりを馬鹿にしたように答えた。 「でも、知ってはいるんだな、ここで働いてるんだろ。料はちゃんと名前を口にしてる じゃないか、カミッラって。つまり友だち同士か」その間も彼女の手をとっていた。彼女 はやっと傘を下におろして、眉をひそめた。「あたしが何といったとおっしゃるのですか。 カミッラですって? でも、あなたがおっしゃったとおりの名前をくりかえしただけです 168 第8章 わ、軍曹さん」ペスタロッツィは相手もトスカナ式に、ロムバルディア式に名前に冠詞を つけたのではないか、そんなふうに聞こえたつもりでいたが、彼女は冠詞など全くつけて いなかった。 「友だちですって? あたし、友だちなんかいませんわ」その否定の口調の乱暴なこと、 二度目だ、まさに軍曹の期待していたとおりであった。「いいだろう、君に友だちがいな けれはそれにこしたことはない。だったら、ありのままにしゃべれるものな。手みじかに 頼むよ、なにしろ時間がないんだから。カミッラってのは誰だい」なおも彼女の手を、指 の先をにぎりつづけていた。 「ええ……彼女も働きに出ています、編みものの見習いですから……」 「ここで働いているのかね……」 「ええ、そうです」とうなだれて認めた。 「従姉妹ですよ、遠い従姉妹ですの……」とザミーラが落ちつい口調でいったが、それ はまさにゴータ名鑑が断言する調子であり、コブルゴのカルロッタ・エリザベッタがメク レムブルゴのアマリアの第四等の従姉妹だといわれれば、みんながそうだと思いこむあれ である。 「で、どこにいるんだね。なぜここにいないんだろう、きょうは仕事に来ないのかな」 「そんなこと分りません」娘は肩をすくめてこういった。「来るかもしれません」 「あなただってこれぐらいのことは分っていただけると思うんですけど、准尉さん」と ザミーラは横柄な態度をいっそう強めた。「あたしたちは田舎住まいですのよ。何かある ときだけ働きます……作るとか、直すとか、つまり必要があるときにですね。だいたい、 一日、仕事があれぱ、次の日はありません。ところが、冬の、こういう天気のときには」 と、ガラスごしに太陽がかげって行くのをいいことに、頭を戸外の方に向けてそれとなく 暗示しながらいったものだ。「こんなにひどいお天気では今日も昨日もあったものではあ りませんでしょ……そうです、春だろうが、一月だろうが、こんなお天気では仕事がある のは一日で、あとの四日は駄目。あなたはあたしなんかよりずっとよくご存じでしょう、 准尉さん、月のことや温度のことなどなんでも勉強なさったんですから、手相見の免状を とろうと、あたしが勉強をしたのと同じようにですね」そういうと、もったいぶってこん なふうに暗唱したのである。 「聖燭節、聖燭節となれば 冬はもうすぎた。 でも雨が降り風の吹く間は やはり冬だ というのが三週間まえのこと、おぼえておいででしょうね、ちょうど今日と同じ日で、 本当に嫌な日でしたわ、お店には雨がもるし、あのいいかげんな鶏ときたら」といって オートふイのうしろのあたりを目で探した。「卵を生むのも止めてしまったんですのよ。 今日は何もないけれど、明日になれば山と積まれるんでしょうね」 「でも、こう見たところ、たっぶり山のようにあるじゃないですか、一カ月分の仕事が」 といって、山と積んである品物の方にあごをしゃくってみせたが、その山というのが大 ざっばにふたつのこぶのように分けてあり、結果としてらくだの背中のようになってい た。そして、あいかわらず若い女の手をにぎったまま、よちよち歩きの雌鶏と橇のような 糸と紐、それにくっついているごつごつなどは彼女がいぶかしむのにまかせていた。 169 「さてと……少し話してもらおうかな、ここにあるこれだけど、誰にもらったんだね」ど きどきしているラヴィ. ニアの片手を差し上げ、今度はその手首をにぎると、その手の内 例に向いたトパーズをのぞきこんだが、彼女はいちはやく指の表側に向けてあった。 「誰にもらったかとおっしゃるの?」というと、微妙な秘密に触れられたように、努め てぽっと頬を染めようとしていた。 「さあさあ、お嬢さん、早いとこしてもらわないと、その指輪を外しなさい、没収せにゃ ならんのでな。そして、誰にもらったか話しなさい。いってくれればいい、いわないとあ れば……」と、ポゲットから例の安っぼい道具を取り出して、彼女に突きつけた。 ラヴィニアは顔が青ざめた。「軍曹さん……」 「その軍暫さん、ってのは止めてもらおう。さっそく指輪を外してぼくに渡すんだ、い そいで、理由か分らないというのたら教えてやろう、これは盗品なんでね。メルラーナ街 の伯爵夫人のところで盗まれた金製品や腕輪類のリストに入ってるんだ、メネガッツィ伯 爵夫人のな。ここにあるんだ、この宝石のメモのなかに」つまり、どう考えても、われな がら傲慢な感じがしたので、手錠をもとに戻したうえで、自分の要求が正当なものである ・・・ ことを見せようと、別のポケットからイングラヴァッロの書類を一取り出した。理髪師の ちから 中でファのシャープで「 力 」と名付けられているものの手つづき上の億劫さは一九二七 年にはまだ今日のような大滝の深みにはまりこむまでには至っていなかったが、それでも 当時ですら今日的な感覚のある種の表現はこころえていたのである。最もかたくなで、田 舎でただひとろ民衆のなかにぽつんと置かれたものでもそれには従っていた、現在みんな が従っているように。そこでリストを取り出すと、令状でも読むように、二枚の紙を聞い てからペスタロッツィはそのなかに……起訴するに足る法的な根拠をさがすようなふりを した。「ううむ……」とうなりながら上の方の行に目を通して行くうちに、すぐと自分が 探していたものにぶつかった。「トパーズのついている金の指輪だ」それは勝利の声だっ た。見出しのついている一枚目の紙をひらひらさせて、それを彼女、つまり例の娘の目の 前につき出した。だが、彼女、つまりラヴィニアは字が読めなかった。 「ローマ警察のだぞ」と彼女の面前でおしえてやったが、その口調には重々しさと同時 に、ライバルの組織に対する皮肉をこめたへだたりが感しられた。なにせこのライバルと きたら、タイブで書類が二枚叩けるというだけで気取っているのだ。「ローマ警察のだぞ」 娘がさし出す指輪をうけとったが、娘は怒りに顔色が変っていた、かわいそうに田舎の娘 である彼女は身を守る術もないまま、どうしてこんな理不尽な目にあわなければいけない のかと真青になっていた。ザミーラは黙ったまま成り行きを見守り、耳をかたむけてい つう た。 「へ、へ、へ、へ、まさしくこいつだぞ」とペスタロッツィはいかにも通ぶった目で指 輪な眺め、ひっくりかえしたり、調べたりしながら、思いきってそう断言したが、それは ゴッボ街の盗品買いに見られるような態度であり、今すぐにも押収しそうな勢いであった が、その間も例の二枚の紙片は片方の手の小指と手のひらの間に持ち、「このトパーズな んだ、二日間さがしてるのは、まさしくこいつだ」と口にしているところは、いかにも専 門的な聡明さが ab aeterno(永続的に)に頭蓋の中で働いたからこそ、そのおかげで直ち に正体をつきとめ得たといっているようであった。実をいうと彼がそのトパーズを見たの はこれが初めてであり、それが本当にトパーズであり、それも例のトパーズで、グラスの 底などでないとしてのことだが、そしておそらく間違いはないだろうが、それを探してい たのはせいぜいここ二時間のことだったのだ。「君にこれをくれたってのは誰かね、本当 かね のことをいいたまえ、奴にもらったのだろう、レタッリに。君にはだな、買うだけの金は 170 第8章 とても君にはない、これだけの物を買う金は。君にくれたのはエネア・レタッリだ、本人 がもう准尉殿にゆうべ白状したんだぞ」(そのレタッリだがまだ行方が知れなかった)「君 は恋をしてるんだろ、分ってるんだ。で奴は君にトパーズを贈ったってわけだ」これはま た少々単純な意見である。「あたし、誰とも恋なんかしていませんし、ニネア・レタッリ だってよそで仕事をしてるはずです、どこかは知りませんけど。第一、彼をゆうべつかま えたなんていうのは全然でたらめでしょ、それから白状したなんてこともあるわけありま せん」 「だとすると、ますます君の立場はまずいな。さあ行くんだ、来たまえ」といって例の ファラフィリオペトリに合図をし、彼女の片腕をつかんだ。 「軍曹さん、あたしのいうこと信じていただかないと困るんです」と娘はつかまえられ ている腕をふりほどこうとしながら抗議した。「友だちの女の人から受け取ったんです、 その人はある女性から買ったっていってましたわ。あたしには二日間だけ貸してくれまし た、だって今日は……今日はあたしの誕生日なんです、また歳を加えるんですけど。あた しには二日間かぎりということで貸してくれました」「ほう、で、いくつになったんだね」 「それが十九歳です」 「間違いないのか?」 「十九歳になったのです、ちょうどゆうべで」 「つまり夜、生まれたってわけかい。で、指輪だけど誰が君に貸してくれたんだね、君 の誕生日に。聞かせてもらおうか」 「軍曹さん、あたしが知ってるわけないでしょう……ローマで殺された伯爵夫人のもの ではないかとか、誰のだろうかなんて。あちらの町からこちらの町へと馬でわたり歩いて いる行商人だったらどうでしょう、たぶん誰の物かとか、売ってる品を作ったのが誰かぐ らい知ってるんじゃありませんか」 「おしゃべりはもうけっこうだ」というなり、さっきから手にとり押さえていた腕を強 くしめつけた。 「痛い」と彼女はいった。「こんなやり方は権力の濫用じゃないかしら」 「誰にもらったんだ? さあ来たまえ。准尉殿の前で吐かしてやるぞ。あちらなら親切 なやり方で口を割らすだろうけど」彼女をドアの方に引っばって行った。ファラという憲 兵もそれに応じて動き出す様子を見せ、今までいたところから重い腰をあげた、つまり自 分の一角を後にしたわけだ。雌鶏はどこか分らないがしゃがみこんだ。 「ねえ、軍曹さん、あたしに貸してくれたのはここで働いている女の子なんです。前か ら首につける珊瑚だとか、耳に下げる何か適当なもののことを話しあってました。で、あ たしはいつも自分の誕生日に身につけるものが何もないと話してたんです」 「だったらいうのよ、知ってるんなら」とザミーラが青くなってせっついた。 「カミッラなんです」と彼女がザミーラに答えた。 「やっばり。つまりカミッラ・マットナーリだな。マットナーリ・カミッラの名前を出 すだけでこれだけしゃべらなくちゃいけないのか、君の従姉妹じゃないか、泥捧と、いや ひょっとすると殺人犯と恋仲になってるんだぞ。さあ行こう、彼女のところに連れてって もらおう」 「じゃあ、オートバイは?」とザミーラがぼそぼそいったが、仕事場に主のない車が置い てあると考えただけで、もう口にするのも嫌なほどうんざりしたのだ。椅子から立ち上っ た。両手を腹の上で組みあわせていたが、その腹というのが、ちょっとしたボールのよう 171 で妊娠三カ月を思わせ、ベルトの下あたりが汚れていた、つまり洗いものの汚れ水かコー ヒーのしみが点々と見えていたのだ。エプロンはしていなかった。唇を固く結び、今や呼 びこみも、ウイソクもいっさい忘れてしまい、ほんのちょっとした動きだけで役者の動機 も意図も見抜く力のある女性を思わす、またそういう女性にふさわしい眼差しをみせ、き らきら光る真剣な目を動かしながら、食器棚とオートバイの間、オートバイとテーブル、 カウンターと椅子、編みものの山とドア、このドアは道路に面しているのだが、そうした 間を何かとまどいがちな足どりで歩いて行くふたりの男の一挙手一投足を追っていた。た ちまち、彼女の目の光が変って、険悪になり、縁起の悪い感じで、凶悪とすらいえる目の 色になった。積荷がゆれるように魂の緊張もゆれているように思え、自分で納得のできな い行為や事実の続発を止めてやろう、あの憲兵の奇蹟的ともいえる手続の有効性を破壊し てやろうと意図しているようだった。それはある一点で真の光を浴び、いやおうなしに認 識を求めるある種の意味を帯びて彼女の前に現われた奇蹟であり、悪魔の皇子の灰色で 緋色のたくらみであったが、この皇子というのは准慰の袖章をつけ、どう見ても何度か ドゥ・サンティで不倶戴天の敵として顔なあわせたことがあったはずであり、夜、マリー ノで山を越える風かさわぐとき、堀壁に隠れひそみ、灯心の青白い環を前にしてその日の 犯罪に思いふけるのだが、地上のいたるところ、変打ち場で卓原で、山で野で目を光らせ 餌食を晃つけ出すタカの日と同じで、だいたい太陽の照り輝く日盛りにはいたるところに 姿を見せているのだ。赤く黒く、銀色でモールを飾りたて、九月の夜のように千百の記弁 のしつこさを詰めこんだような犯罪、そのしつこさは日々ますぎっしりと一点に集中し、 ひょっとすると正直に働いている人の周囲や、とりあえず手近かな手段をたよりに、生き ることの煩悶から何とか逃れようとしている人の周囲に寄って来るのである。中身がなく 悪意ばかりのお役所であるが、肥満や赤味な帯びた健康、年金などといったものを評価す るばかりか正当化するのにも向いており、いってみれば魔術とか単純な手相見などの個人 的な仕事のなかに勝手気ままに、しかし非合法的に介入しては、すべてをふいにしてしま うし、第一、真直ぐな角の生えたアスタロッテ大王を引きあいに出したばかりか、まさに 彼女的な、つまりザミーラ的なタイブの占師然とした目つきについても、いかにももっと もらしく、いろいろあげつらったのである。そのアスタロッテ大王こそほかでもない、彼 女ザミーラがその口で呼び出していた存在なのである。というわけで今や大理石のカウン ターに向かっている薬屋よろしくおなかの袋の上で指をいろいろに動かしたり、回転させ たり、ふつうの頭では判断のつかないような冗談を指で書いてみたりするのに打ちこんで いたが、それはちょうど目に見えないえんどう豆のさやなむいたり、これまた目に見えな い丸薬を丸めては、ぽんやりしているペスタロッツィに向けて放り投げたりしているよう な様子だったが、彼の方は相手に背を向けたまま、まだ何をしたらいいのか決めかねてい た。彼女の頬は少しずつぴくぴくと動き出し、おののき、頬はふるえ、何とはない軽蔑の うちにおのずと悪寒が走り始めたようだったが、その軽蔑というのがタンガニカの聖職者 兼話術師やアフリカのカフィル人やニャム=ニャム人など、鼻ぺちゃで毛がこわく、頭は すっかり縮れ毛で炭の粉をかぶったところを思わせ、金の輪を鼻にぶら下げ、お尻はまる でテラスのようにつき出ている、そんな連中の法津にのっとった話のしめくくりで鋭さを 増すのであり、そういうとき彼らは単音節の膠着語や、同族語的でやや鼻にかかった単調 な言葉をくりかえしながら自分たちの動物神に向かって、あるいは動物神のために願い ごとをしたり、呪ったりするのである。「ニェム・ニェム。チェプ・チェプ・イティ・イ ティ、この宣教師野郎のせむしを切りとって、少しはしゃんとさせてみよ」などと。もち 172 第8章 ろんメノ派の宣教師である。そして、その間にヤシの実の皿に入れてヤシの汁でかきまわ した彼らの唾を飲んでほしいと差し出すのだが、これに亜熱帯地方では名誉の印である し、タンガニカでは相手に尊敬を示すことになる。 「さあ奥さん、指はそのままにして動かないでいてください」とフィリオルムが軽蔑し たように彼女に命令した。頬骨のあたりが赤くなったが、ソースのような赤さであり、頬 の下の方の部分はチーズのように白くなった。彼の中にある思弁力の客観的な明快さは闇 の非理性より優位に立っていたが、いかにも彼の初級の免状はほかでもないフィランジェ リ、つまり王国の大臣を勤めているアリアネッロ公爵家のドン・ガエタノ・フィランジェ リその人じきじきの署名によって保証されているとひけらしたがっているようであった。 彼としては過去数世紀にわたる「迷信」がまたまた魔術で目覚めたり、隣人――というの はこの場合、憲兵だが――のせむしをさらに進めるよう魔女が指を使う技術などで目覚め るなど認められなかったし、許せるわけがなかった。子宮というものは必ずわれわれの中 にある、理性的な子宮が。ところがこれがウインクや合図をされたり、指先でこねられた りするとどうにもならなくなる、そういう目に会おうものなら、王国の新しい光や大きな 紙に書いた免状などまったく糞くらえで、最も教養のある確かさまでが毒されてしまうの だ。「行こうか」とペスタロッツィ軍曹が決心をしたようにくりかえしいった。「車はここ に置いとくよ」とふりかえった。「注意しててくださいな、椅子を前に置いといて、誰に もさわらせないように」 パーコリ夫人は笑いがひとりでにこみあげてきたので彼に微笑みかけたもののそれは内 に暗いものを秘めた笑いで、うんと乾いて、すっかりしぼんだ感じであり、気分がふさい でいるときでも仕事上の習慣というか、たばこを吸っている人を見なれた店員なみの習慣 でカウンターから微笑みかけてしまうのだ。もちろんいつでも焦げた穴を見つけるが、ど うにもしようのないことであった。と、彼女はまるで悦楽を予知したように一瞬、まぶた をふたたび閉じた、それは義務的に、職業上の必要から予知したのである。その小さな目 は瞬間的にきらめいて、いつもどおりに許可を与えたことを意味した、いいわよ、でも誰 のところへ? 何をしに? だが、彼女の顔に宿るうらみがふたつの瘤に、いまだに悪魔 が陣取っているふたつの砦に蝋をぬったようにして磨きをかけていた。 「レタッリはどこなんだ」と軍曹が娘に訊いていた。 「軍曹さん、あたし知らないんです」と取り乱した顔で答えていた。「それじゃあ君の従 姉妹は、あんたの従姉妹はどこだね、そこへ連れて行ってもらおう。さあ」どんなことが あっても誰かをつかまえるんだ、手ぶらで兵舎へ帰るようなことはしないぞ、まさにそう いう執念に取りつかれたように見えた。指輪はちゃんとある、それも何という指輪だろ う! いいぞ、だが今度は被疑者や共犯者が要るな、男でも女でもいい、犯人そのもので なくていいから。 「でも、あたしは……」娘は傘をどこへ置いたかも忘れてふたたび泣きじゃくった。 「さあさあ、もういいから、従姉妹のいるところをおしえてもらおうか」といってドアを 開き、この階段と出口を使おうと片手で彼女を招いた。ラヴィニアが最初に出て行った。 「踏切のとこですよ」そのときザミーラが彼の耳もとでささやいた。だが、兵士にも聞 こえてしまった。彼女の腹立たしげな顔の下で不吉な眼光がまだ消えずにいた。「鉄道監 視人の姪なんですよ、踏切のとこに住んでます」 「どこの踏切だね」 「カステル・デ・レーヴァの道を行くんです、橋まで。それから左に折れて、カサール・ 173 ブルチャートの踏切まで」と聾唖者を思わせるように指を使い、声は出さずに唇を動かす だけでおしえてくれた。通りにいるラヴィニアに聞かれたくなかったのだ。ファラフィリ オが階段でつまずいた。「注意してくださいな」と彼女が母親のようにいって、こうくり かえした。「ディヴィノ・アモーレの通りの方ですよ。橋のあたりまで行って。それから 左ですからね」 こんなふうに軽くつついてやり、弁当ももたしてやったりしたうえでこのふたり連れ と、その軍靴を四つうまいこと船出させてやった。だが、どうせ口に入るのは埃ばかりだ ろう。悪魔のフォーク騎士爵は彼女が祈祷をぶつぶつ唱えているのを耳にし、何度もくり かえす析りや願いを聞きとどけてくれたのだ。 「車を見張っててくださいな」と軍曹がまた外から声をかけてきたが、その間に彼女の 目つきは悪事を前に鋭さをました。 「ディヴィノ・アモーレの橋のとこですよ」と、負けチームの後衛に叩きこむように叫 んだ。このあとどういう爆薬を彼の背に向かって投げつけ、どんな祈りをささげるのだろ う、だが、ガラス戸が出て行った人たちの背後で開いたままになっているかぎり、生存の 主人たる歴史はそれを記録にとどめようとは考えもしなかった。 175 第9章 ディヴィノ・アモーレ橋ですよか、口でいうのは何でもないが、二キロと半、いやそれ 以上もあって、歩いて四十分、それも女の子を連れてるし、その彼女が歩きにくい靴をは いているとあっては。何度か太陽が姿を見せ、円板になったり、表面から蒸気が膜のよう に立ちのぼるはかない、色あせた球になったりし、卵の白身の中に黄身がみえているよう で、なまあたたかいやら、やたらとやわらかいやらで、それからたてつづけに昼間のあく びをいくつかすると、東南風のギャロップにのっかり、去来する雲の間でふたたび目覚め ると、力をとりもどして騒ぎ立てたが、そのとき海原の方からはむくむくと湧き上った雲 量が逃れて来て旅をし、その端のほうがアペニンの岩山に触れていた。道は最初の部分、 つまり国道、アッピア街道、それに州道が直角に折れてファルコニャーナに向かうのをの ぞけば、さいわいにして一本道であった。直角に折れたのをいい機会だとばかりに、小道 が一本、対角線を田舎の方に走っていたが、あいにくと休閑地を通るためひどい泥んこ道 になっていて、この休閑地は露に濡れて湿っぼく水々しい緑色に映り、霜が下りて砂糖 をまいたような箇所がそこここに見えていた。ラヴィニアがいうには、カミッラ・マット ナーりが来れぱ当然出あうはずだそうで、彼女はアスファルト道を、というか少なくとも 乾いた道を、つまり厳密にいえばフブルコニャーナの道を歩くはずなのだ。一行がその道 に曲ったところで後から追いついてきた二輪馬車に頼んで、軍曹はラヴィニアをのせても らい、そのあと兵卒ものせてやった。花むこ、花嫁が馬車におさまると、彼は角の宿屋の 方にとってかえした、誰かに自転車を借りようというのだ。もしなければザミーラのとこ ろまで戻って行って自分の馬を取りもどさなければならない、敵もお尻も仰々しく丸々と したファラフィリオであるが、上司の思いつきに、不満でしかたがないというようには見 えなかった、たしかに歩くというのは身体にいいかもしれないが、それでも歩かずにすん でほっどしたし、しかも、娘の腿のあたたかい感触を楽しむこともできたのだが、ああ、 カ イ ネ・ロ ー ゼ・オ ー ネ・ド ル ネ ン いかんせん、とげのないバラはない、反対側にいて、彼女の向う側の腿に触れている御者 と車外の寒気を左右両端で分けあう破目となった。女らしい生気の香かたちまち鼻をさ し、それをよしとはしたものの、そして二輸の荷馬車にこんなにも「おとなしい」「やさ しい」お嬢さんと隣りあわせて気もそぞろだったのだが、彼の名誉のためにもいっておこ う、堅物のこの兵卒は、いま目覚めつつある三月のカステッリの、全憲兵隊のなかでも、 法津的にも軍事的にも最も無頓着な憲兵として、あるいは少なくともそういうふうに見ら れようとしてかたくなになっていた、そう、かたくなになっていたのである。下り坂はゆ るやかで、草地の中に食いこんでいる新しく植えたぶどうの木々の間を縫っていた。馬を 走らせて角まで来ると、もうディヴィノ・アモーレの例の橋も見えていたが、そのあたり ディヴィノ・アモーレ で先に述べた州道がヴェッレトリ鉄道の上をわたっている。 神 の 愛 とはよくいったも ので、あちらこちらと何度もしっくいを塗り直した昔ながらの小さな教会がひとつと、諸 176 第9章 公が保護者であった古代ローマの時代から太陽に貸しつけてある陋屋がふたつ、それにカ ステル・ディ・レヴァがあるだけだが、この城がこれらの建物と並んで、その上にのしか かり、大きな塔のうつろな目で周囲を見わたし、これらの建物を自分の塀でかこんでやっ ているのだ、いや、かこんでやってきたが、これらは橋から五キロ半もはなれたところに ある。その角のところで、ペスタロッツィは前に出発させてあった一行に自転車で追いつ き、伸ばした腕から袖章をのぞかせ、それがこういうあまり快適には走らない乗物用に、 特に彼のために発行された免状というか、運転免許のように見えた。自転車は車輪の中央 部がきいきい音を立てて、まるで蓄音器であった。ヌガーをかじる歯の欠けた器械という 趣もあったが、あいにくとこのあたりではヌガーなどあるわけがない。御者はそのあわれ な馬に声をかけて、少し歩みを落そうとし、そうしながら右に身体をかたむけてブレーキ をつかむと、しだいにブレーキの木片が車輸のわくをこするようになり、ついにきしる音 がし始めた。馬は下り道を行きながら、できるだけ抵抗し、結局、尻帯がぐいぐいと引か れるのをやせた尻でこらえていたが、こんどは海が砂の無邪気さを叩くようにして、尻 帯が尻の肉をひとつふたつと打つようになり、そして道の堅い箇所をじっと見つめなが らも、もはや速歩でも前脚を上げるということがなく、すっかり静まりかえった感じで、 ちょっとの間、四本の脚を引きずるようにして立ちどまり、手綱がびんと張ってある方に 頭を向けたところは、こういっているようだった、「あんたが車を引っばるとこを見たい もんだよ、いまのうちにおれを押えておかなくちゃ、こんなにうまくいっている今のうち にな」とたんに乗っていた三人の頭が、ラヴィニアのこぼれるように揺れている乳房が、 見るからに好ましい喉が、顔が、少々ヒステリックな青自さがちょうど嘔吐の発作のよう にして前につんのめったのだが、こういう、ことはきちんと包装もしていないのに然るべ く行李詰めにされ、釘を打ちつけられた荷物によく起るのであって、それでも自分なり に、なかば風の向くまま旅をつづける。ペスタロッツィは自転車を下りた。何百メートル か下ったところでディヴィノ・アモーレ橋とともに半分堀のようになっている鉄道をわた るファルコニャーナの通りがあり、ちょうどその地点でカサール・ブルチャート村道が通 りから分れるが、この村道は今日でもなお、大きなカーブを描いで、同じ高さにある同じ 鉄道をわたるべく下って行く。黄色い保線係の小屋の屋根には煙がぼんやりと切れ切れに なってのしかかっており、はたして煙突から出たかどうかは誰にも分らないが、やっとの ことでというように三月の中に散って行く様子は、自分が存在しないことを探ろうと昇っ て行く過程で自ら生み出した貧しさを描こうとしているようでもあれば、口々足りなくて 苦しんでいる痛み――それを実さいに味わっている人は飢えと呼びなれている――を田舎 キ ュ ー の孤独の中で解消しているようでもあった。ふくろうという永続的、固執的な名称、絶望 的な二重母音は夜になって静まり、明け方とともに消えていった。目に見えないニレの木 から、そして今、おそらくは田舎の空虚さの中で斧の下を生きのびてきたカシの木から、 実現の望みのない断続的な訴えが聞こえてくる、ククーという嘆願するような弱強格が聞 こえてくる。地上で新しい枝葉の出てくるのを予知するとき、そこには永遠で失われた季 節の回願と春を悲しむ思いが入ってくる。 ラヴィニアは軍曹にむかって「外で」待たせてくれないかと頼んだ。「外ってどこだ い?」そこである、つまり「ここです、でないと、かんぐられるに決まってますもん…… あたしが従姉妹を探ってたんじゃないかって」 しばらくやりとりをしたあと軍曹はいやいやながら承知し、その場にふさわしくふた言 み言つけくわえたが、取り決めさえはっきりさせておけば友情は長つづきするものであ 177 る。帰りも乗せてほしいと馬車を予約し、自転車を土手にたてかけたが、溝をこえたその あたりには草の生えた地面がふたたび隆起していた。自転車の番は御者に頼んでおいた。 ファラ・フィリ・ドロ 忠実なファラフィリオロ、というか 金 の 息 子 を作るだろうこの男といっしょに二〇・二 五キロの線路監視所に着いたところ、ふたりをむかえたのは雑種の犬で狂ったように吠え たて、その目はほとんど見えなかったものの、まばらでいかにも犬らしい歯が恐怖のう ス ピ ー ノ ネ マ レ ム マ ノ ちに目に入り、それこそ牙をむき出しにした毛深い奴で、半分猟犬、半分羊のムマノ番犬 、そして半分沼地あさり (これはコクッロの作った言葉だ) という血がまざっていた。さ いわい鎖につないであった。およそ散文的な鉄道というパノラマのなかで、とにかく考え つくだけのいっさいの仮説に反して老女がひとり現われ、犬をなだめよう、静めようと やってみたあと、横にわたしてある棒のそばへ近よって来たのだが、道をさえぎっている この棒は特に切迫したものではないにしても、やはり何か異常な現象を期持させるところ があって、それはつまり列車の黒々とした通過であり、目を見はる流れるような蒸気が下 に吹き出し、上に吹き出す様子であり、特に蒸気の様子は坂を上る貨物列車にまで機関車 なみの力と姿勢をあたえ、同じことが混成列車一八一号についてもいえた。一八一号は事 実もうすでにあえいでいて、ファットッキエからクランクがシュシュシュシュとなめらか に動き、遠くから聞こえるカッコーの訴えるような鳴き声もかき消し、二〇・二五キロの 監視所でも同じように勾配に打ち克つはずだ。技術の奇跡といおうか無限の勾配四%なの だが、ただし全休が十九世紀後半のカーブと反カーブばかりという勾配である。カサー ル・プルチャートとも呼ばれるこの線路監視所では毎日、日に一度は代数的な正確さと魂 のおののきをおぼえながらこの列車を待っていたが、それは七十五年ごとにハーレー彗星 が出現するのを待っているアルチェトリの天体観測所やパロマ山天文台なみである。老女 は耄碌していたが、それでも灰色がかった緑や黒の制服姿のご入来が……どうやらわが家 を狙ったものらしいと悟ったにちがいない、血の気の失せた唇の両端はもはや開くことな く縫いあわせたままで、縮れた毛が二本垂れて、あごを動かすたびに飾る場所を変えてい た。そして爪をとがらした彼ら兄弟の方から先に挨拶するのを待った、特にふたりのうち 年輩で階級の上の方のが。だが、その実、表面では目立たないようにしながら、この出来 事、つまり彼女が最も恐れ、腹が煮えくりかえすほどに嫌な思いをしたこの三人の人物の 到着という事態を甘んじて受けとめようと努力していたのであり、われわれ一同にあまね く奇跡をほどこしてくださるパドヴァの聖アントニオに取り急ぎ祈りをあげたし、また、 それとは別だが中間痔静脈叢 plexsus haemorroidalis medii についても何かひとつ手を 打ってほしいと祈ったものである。事実彼女は年のせいでおとろえてはいるが、なおかつ 最も効果があると考えられている直腸の輪を慎重に締めるようにした。つまりいわゆる ヒューストンの弁と呼ばれているもの、なかでもコールラウシュのスーパー弁や、さらに はモルガーニの半月柱が次第に弱って行くにもかかわらず、全く使用不能というのではな かったということである。膨脹部を閉ざしておこうという絶望的な試み――それでなくて も我慢ができないぐらいで、ひいひい悲鳴をあげているところへ、灰色・緑色・黒・銀色 の外傷性症状が現われ、いままさに到着しようという蒸気機関車の強烈なひゅうひゅうと いう汽笛といっしょになって、いっそうきつい目にあわされかけていた――は結局、なん とも気味の悪い滴りを、液体をカサール・プルチャートの土手に落すということで落着を 見た。つまり木船わたしならぬ、土手わたし、FOB ならぬ FAB カサール・プルチャート である、人によっては CIF つまり保険料運賃込値段という、いや、書いているようだし、 ジ ャ ー またそのものずばりCIAFと流したという向きもある。神の摂理で老女の股にはわが最も 178 第9章 鋭敏なリポーターが今日「最も身近な外被」と呼びなれている例の一対の裸かの管状調整 手段が欠げているため、この出来事がプラットホームで起ったのに、爪をとがらしたふた りの目にはとまらなかった。脇の方の人道から棒が横にわたしてあるのをくぐってひとり ひとり入りこむと、憲兵たちはホームの上を重い、針を打ちこんだような足どりで黙々と 監視所のドアの方へ進んで行き、女の姿を見かけたが、てっきり公務についているのだろ う、これから汽車を見張るのだろうぐらいに考えて、ほとんど無視してしまった。だがそ れはちがっていた。ふたりがそこで出くわしたのはじゃがいものように白い顔であり、一 目散にとび出てきた娘だったのだ。彼女は麺類を作るのに使うようなのし棒状のものを腰 掛けから持ち上げた. が、これが赤と緑の布に包まれていて、このときは赤というよりも むしろ緑であった。 一方、しゅっしゅ、しゅっしゅと全速力をあげて本当に列車が入って来たが、まだ明る い時間でも、次々とトンネルをくぐるとなればそのたびに明りをともしていた。その方向 に走る列草は朝はこれっきりであった。チャムピーノから真黒になって到着した列車で、 たちの悪い消防夫がやるように煙突から茶色の煙を空に向かって吹きあげ、そのあと突然 白い蒸気を次々と何やら滑稽にしゅっしゅと吐き出しているところは銃撃そっくりで、こ れを見た人は「どうしたんだ、何か起ったんだろう」というかもしれないが、この白い蒸気 はひとつはここ、ひとつはあそこというように一階にひげが生えたようなふたつの円筒形 の容器から出たものである。ネグロー二技師の勾配を悲愴な面持で昇りながら、連桿と、 それに正気を失った研摩工の道具と呼んでもよいクランクが、燃えた油の匂いをふりまい て、旋回し宙返りし、光り輝き油ぎっていた。ちょうど人の前にとび出してきて、その面 前で畜生呼ばわりをしたがり、そのくせ痛風で走り去ることができないまま、内心に押え た怒りを鼻から叩きつけ、それと同時に足から相手に叩きつける、そういうてあいを思わ せた。線路監視所を越えると、こんどは砂利がどんどん飛んで行くその脇の灰色の小道を 二、三羽の雌鶏がすっかりたまげながら、それでも more insolito 普通とは違ったふうに じっと黙りこくって足どりをどんどん速めながらレールを進んで行こうとし、自分たち種 族の特徴である自殺をちゃんと予知したうえで、時機を見て羽ばたき、レールにとびこん バ ン パ ー バ ン パ ー で緩衝器の下敷きになってやろうとしたものだ、そして緩衝器の上を見たらライトが輝い マレムマーノ スピノーネ ていたということになるのだろう。例のマレムモーネ犬、つまり羊の番犬と 猟 犬 の雑種 がこちらにとびかかろうとし、見ているとその首輪で、というか、たけり狂ったあまりそ のあたりの毛がごちゃごちゃにからまっている細い鉄の輪で自分の首をしめるか、それと も自分でギロチンにかかりたがっているようだった。そして鎖をぴんと張ると、ふたたび 歯をむき出しにしてうなり、ほえ出し、くりかえし狂的な発作を爆発させていた。いって みれば、フォスコロの衝動的な詩句を意味も分らずに、いや意味がないことも分らずに叫 び立てて聴衆が夢うつつにならないようにしてやろう、つまりとくと考えたうえでのこと だが、みんなを目ざめさせ、罪障消滅を祈り、徹夜のお勤めをしようと呼びかけ、さいご までうたた寝は許すまいとしている、そんなところを思わせた。悪魔にみいられたこの愚 かな犬はこういったことをしながら、まばらでゆがんだ門歯と犬歯の残忍さの間でわれを 忘れてしまい、頭を新しく上げるたびに白い毛屠を散らすようにして、ベシャメル・ソー ス*1 を思わすねばねばしたよだれを唇から吐き出し、すっかり露をいただいた怒りの張音 部で野獣のような血走った目を天に向ってふりあおぎ、自分たちの種族の神である至高の *1 バター、粉、ミルクを混ぜ合わせたフランス料理の古風なソース。 179 非道神の同意を祈願するようでもあれば、その異端の神々をなだめ、愚劣そのものの十一 音節の詩に対する共感をうながしているようでもあった。そして、馬鹿は馬鹿なりに、こ ういうふうにすることこそ、憲兵隊の靴とゲートルの間にあっては欠かすことのできない お勤めと考えていたのである。恨みという怒りっぽいかんしゃく玉が彼の呪われた喉を苦 しめていたが、その喉は時おり、軍人のためらいはあったけれど洞窟のような赤みをのぞ かせていた、まきに地獄の岩窟である。と、空に煙を吐いて行く黒い怪物の前を鶏が走る のを見たとたん、彼の激情は倍化されて発作症状を呈し、いまにもその悪魔につかれたソ ポニスバ王妃たちを一目散に追いかけなければ気がすまないのではないかと思えたが、鎖 の堅固さと紐の、というより糸切れの慈愛のおかげで、いざというときになんとか彼を引 きとめたのであった。そういうわけで、喉を裂かんばかりにして吠えはするものの、別に 何の考えもなければ、自分はおろか他人にとっても何の得るところもないまま、ただた だ、その狂った頭を上下にふるばかりだ。休暇をもらって地上に丘の上に出てきた地獄の 番犬ケルベロスがその揚に坐りこみ、もったいないぐらいの光や、広々と開けた空の甘 い微風な吸いこんで仕事にかかるところはこうでもあろうか、coeli jucundum lumen et aurus. しゅっしゅ、しゅっしゅという音が今まさに「通過する」ところであった。沼地 から上っていた風は疲れたようで、翼が陽ざしの中に落ちてきた。それでもまだ、茂みか ら錆びた樋にかけてミソサザイの羽音がしたが、あるいはもっと高いところを休み休み飛 んでいるのかもしれない、そして、それにこたえるように巣のない二羽のカケスの夫婦ら しい鳴き声が聞こえた。じゃがいものような顔をした娘はあまり大卒ではないカードでも あつかうふうに片手でふたりの男を遠ざけ、下品な声でもかけられた娘のようにかたくな に頚をそむけて顔をしかめると、例の麺をのばす道具をもってホームに出て行った。そし て頑丈な手で道具をにぎり、いつでも始める用意はできているという様子で、その道具を 腹の上に四十五度の角度でしっかりと据えつけた。緑の皮をかぶった麺類用の延べ棒は今 や彼女と一体になって生き生きとし、ざらざらの幹から新しい生気のこもった若い枝が突 き出した感じだが、そうした姿を見る人がいようがいまいが、彼女にとってはどうでもよ かった、別にその棒がトレード・マークというわけではないのだ。機関士の真黒な顔がそ の枝の色を見きわめてやろうというように車内からにゅっと出ていた。劇場の黒人役、黒 いスキー帽をかぶったオセロ。しゅっしゅというのは混成列車で、午前中に上ってくる唯 一の列車であり、作られた時代と構造を異にする貨車が三輌、客車が二輌つないであっ て、無遠慮で陽気な人びとや、普段よりふんぞりかえった馬鹿な男の顔や長髪、光る目や 口などが車窓からこぽれかけたり、くすくす笑いながら輝いたりしていた。また、ある人 たちは胸を半分のり出したり、腕を差し出したりし、上品ぶって別れのしるしに片手をひ らひら振っていた。それぞれつややかな物欲しそうな口から、さっと消えて行く恋歌が娘 に投げられ、どういう内容かよくは分らなかったが、みだらな言葉であることは確かで、 それはこの時代、つまりこの年代に除隊になった兵の一団であり、たとえ年代が変っても 事態は同じだったろう。「畜生、ぴんと立てやがって」と、もうすでに通りすぎて行く列車 の轟音のなかで、ちょっと間をおいてコクッロは思いついたように口にすると、軽蔑のあ まり真青になり、頬とあごの間を上も下も紅潮させながら歯ぎしりした。ふたりにしたっ て、すっかり息切れした感じのその汽車があんなにゆっくり走っているのでなければ、憲 兵仲間のふざけた歌でも投げかけたかもしれないのだ。今は下り坂でブレーキが働いてき いきいと音を立て、油をあまりよく塗ってないねじのきしる音が聞こえたが、これはホー ムが水平面をある距離だけ伸びたあとネグローニ勾配七十一号が逆勾配の七十三号に変っ 180 第9章 たせいで、もっとも同じネグローニ勾配だという点では変りがなかった。今度の勾配はす すんで身を売ったハレムの女奴隷と同じで、機械の仕組が堰を切ったようにさわがしく動 き出すのに一役買っている点で知られており、そのためしゅっしゅという音もあの難行苦 行から解放され、今や汽笛もピストンも唖のように黙りこくり、機酬も働かさずに惰性で 走って行ってしまい、ひょっとして、万が一にもブレーキがついていないなどということ になったら、ムッソリー二的栄光に身をゆだねることになりかねなかった、つまり、法則 どおりに転覆し、そのあげくに自分たちはおろか、他人まで見るも無残な姿となりかねな かったのである。空気はうとうととまどろみ、下の方は淀んで動かなくなった。ちっちゃ な汽車はだんだん消えて行き、小さくなり、雲の高いキャラバンの方に向かい、自分の 世界とは違う歴史の名残りの面影、破片、くずれた塀などの間に入って行った。橋 (ディ ヴィノ・アモーレの橋) を過ぎ、線路監視所に来るまえに列単がのこしていった白煙は、 ほぼイワツバメがとぶあたりの高さで元の場所を離れてただよい出し、今は休閑明けの耕 地の湿った緑の上に白々と、用もないのに垂れこめていた。例の雌鶏たちだが、毎日同じ ことで、今日もドラマを生きのびた。ここ数年来、メルポメネ詩神*2 の教え子である雌鶏 ヘペソレニア たちは破爪病がこうじて何でもないことにも羽ばたいたり、ココココと鳴いたりする初歩 ア ル ゴ ラ ニ ア 的で幼い誤りのなかでも、すぐに予知ができて、予防できるような誤りを苦痛淫楽症的儀 式に仕立てあげ、「北国の観光客のための景」として芝居にしてあったが、それでも、充 分想を練った詩論に立って、もっばら神秘の沈黙と迷走神経的蒼日さを旨としていた。そ オルペウス もそもは 神 秘 教の駆けだしだったのがいつのまにか奥儀にまで完成されたのであり、自 分たちが思春期独得の現象で音響学的に無理していることなど忘れて、絵画的聡明さのク ライマックスにまで達していた。半分消えたよう、というか眠ったようでいながら、それ でいてあいかわらずいつでも利用できるし、よみがえってもくる悦楽は、混成列車がえっ ちらおっちら上ってきて、汽笛を鳴らすとともに、いつもながらのフィクションヘと雌鶏 たちを日ざませるのであった、いつもながらのフィクション、それは脅している人が誰も いない犠牲者の技巧的オルガスムス、レールと砂利の道を衝動的に歩いたりゲリラ的行 動に出る行為、飛び上ろうという試み (ドゥラグランジュの飛行機はとぶだろうか?*3 )、 しゅっしゅが通りすぎたとき、ライトを背にし、それと共にポンポンをふたつ排泄して自 殺とみせかける偽装などである。バッカス祭のような衝動は偽りかもしれないが、小さな 贈り物に偽りのあるわけがなかった、同しようにして、芝居のなかの偽りの情欲は偽りな コ キ ュ ー らざるキスをもたらすのが常であるし、舞台の寝とられ男は多くの場合、本物のコキュー のようである。毎日、毎朝そうなのだ。そして、機関車という実体がその姿を消し、蒸気 の音を消したとたん、義務的な恐怖のローラーをまわすことを止め、何ごともなかったよ うにふたたび足で引っかいたり、地面を上からついばんだりし始めたが、それは頭や首を 下へ沈めたり、すぐ持ち上げたりしてよくない草を根こぎにし、ごくまれにしかいない小 さな虫をついばんでいるところを思わせた。 まさに鉄道ならではの、太鼓を叩いて追い立てているような短いキャラバソが通過した あと、また今に見てろよ、今に見てろと、相手をさんざんおどかすようにうなり声をあげ、 腹立ちまぎれに歯ぎしりしてはその歯をむき出しに狂い立っていた獣性がどうにかおさ まったとき、ペスタロッツィはもう老女のことも忘れていた。はき方が下手で、くず糸が *2 *3 ギリシャ神話、悲劇の女神。 ドゥラグランジュの試験飛行の宣伝文句。 181 ぶら下ったぽろぽろな感じのする空っぽのスカートの中か後ろで、女の悪魔か何かがぶつ ぶつつぶやき、カエルか何かがうがいをしているのが聞こえるような、そんな感じが彼に はしたのであった。女魔法使の店のような呪文はなかったが、ひょっとすると呪いはあっ たかもしれない、結果過重というわけだ。そうだ。そこで直接、娘にいかめしくたずねて みた。「マットナーリ・カミッラというのはあんたかね」彼女を見てドゥエ・サンティの お針娘だと分ったが、名前は知らなかった、それほど目立つわけでもなければ、それほど 「感じがよく」もなかった。ポケットから四つに折ったのを取り出し、職務にふさわしい 威厳を以て書類をゆっくりと開いたが、これは訊問を法的に正当化するだけが狙いだっ た。というのもトパーズなどののっているリストは店にもちゃんと張り出してあったから だ。「はい」と娘が答えた。中背でずんぐりし、灰色を思わす青ざめた皮膚は油紙のよう で、顔は何やらじゃがいものように平べったく、目は小さく、文字どおりの灰色で、ぶく ぶくした脂肋ぶとりの顔の中に埋まっていた。「これだけど、分るかな?」と鼻先に指輪 をつきつけた。 「知ってるわけないでしょ。分らなくちゃ、いけないってことないだろうし」と肩をす くめてみせた。 が 「従姉妹のマットナーリ・カミッララヴィニアの勘違いであろう。いってるんだ……あん たから借りたってな」 「ちがうわ、ちがうわ、彼女、嘘つきよ。あたしなんか関係ありません」 「選んだっていう話じゃ、ないか」と突然、思いつきを口にした。「あんたのとこに幾つ もある中から」 「嘘つきねえ。恥知らずよ。きっと、色男からもらったんでしょ。こんな指輪、あたし なんか一度もはめたことないわ……」 「こんな、っていうのはどういうことだね。つまりほかの種類ならあるってことかな、 別のをひとつ、というか幾つか、これとは違ったのを。見たいもんだな。置いてある場所 を見せてくれないか。それから彼女の色男だけど、何者だね」だが、ありふれたものに決 まっている色男の人相などにかかずらわってはいられなかった、今はただ、このずんぐり した娘が嘘をついているのではないか、どこかの穴に入っているアーモンドか何かが彼女 の返事を邪魔しているのではないか、それで頭がいっばいだったからである。「それに、 ついでだけど、今朝はなぜ仕事に出なかったのかね」娘は唇の色もあせ、ロボットのよう な仕種で二重に被いをした例の棒をさしあげ、貧弱なあごをそちらに向けながら、軍曹の 目にちらりと一瞥をくれて「こうしてこんなとこに出ているのいいことかしら、それとも 悪いことかしら」といいたげな様子であった。 「そりゃあもちろん見てるよ、君の手に旗があるのは分ってる。でも……まさか、自分 のことを保線係だなんていうんじゃないだろね、ぼくにそんなふうに思いこませようとし てるのかね」 「ちがうんです。おじさんがチャムピーノの上役のところへ行かなければいけなかった ので。ここはおじさんが駅長です。だから留守のときはあたしが代りを勤めることになっ てます」 彼女が駅長というのはつまり保線係のことである。 「ほかに指輪があれば見せてほしいな、瑚瑚も。君の持ってる宝石類は全部、パーティ 用のイヤリングもな」 「パーティ用のですって? 珊瑚だとかなんだどか、そんなものあるわけありません。 182 第9章 いったいどんなこと考えてらっしゃるんです? 年がら年じゅうおなかをすかしてるんで すよ」 「おじさんは国家公務員だし、あんただって働き口はある、編物の仕事がね。時間の無 駄使は止めよう。持っているものを見せてもらおうか。あんたのものだったら、誰もさわ りゃしない。そうでなければ、捜索令状がある。で、探し始めて、そのあと、何か問題と なるようなものが出て来た場合には……。求めよ、さらば見出さん、で、見つけたものは 上司に報告しなければならない。さあて、分ってもらえたかな。あんたに規定が分ってる かどうか知らないけれど……」 「キレイですって?そんなもの分るわけないでしょ」 「キテイだよ」と彼は大声をあげた。「法の規定だ、つまり法によって決められたこ とさ……」 「ごめんなさいね、軍曹さん、話がよく分らなくて」 「法津というものがある、分るね、法規だ、手つづきの規則で、どんなふうにふるまう べきか、手つづきをすべきかが印刷してあるんだ。われわれは規則に従わなければならな い、法津にのっとって手つづきを進めなければならない。だから注意をしなくちゃ駄目だ よ。ぼくが家宅捜索をしなければならなくなる、そんなことのないようにな」家宅だなん てとんでもない、線路監視所にすぎない。「あるいは品物が置いてある部屋をだね……あ んたの品物がだ。そうなると、あんたにとっていっそうまずいことになるんだ、七八八条 で」(七八八条なんてあるわけがない、とっさに思いついたことなのだ)「はっきり規定し てある条項なんだ」娘はちらりと彼の方を見たが、今ではわずかながら答えるだけの自信 もついたようで、脂ぎったまぶたに埋まっている感じの灰色の目には、恐怖と疑惑にはさ まれて口を開くのもはばかっているといった百姓特有の貧欲なためらいがあった。老女は いかにも菜園に用がありげに、小さな鍬をもって下りて行ったが、それが断続的に地面を 叩いている音が聞こえていた。犬もうなるのだけは止めたものの、白痴特有の熱にうかさ れた態度で目を光らせていた。 「ぼくらが探すというようなことになるとだね」とベスタロッツィがさらにつけ加えて いった。「あんたにとってはいっそうまずいことになるんだぜ。すでに話したとおり、求 めよ、さらぱ見出さんだ。分るかね?」ずんぐりした娘はまるで軍曹の手で顔にピストル がつきつけられでもしたように、びっくりして向きを変え、夢遊病者よろしく歩み去っ て、家に入った、というより線路監視所に入って行った。ふたりはそのあとについて行っ た。その電話室兼台所が一階の部屋にあたっていて、そこから胡椒色といった感じの灰色 の階段ぞいに二階にのぽって行ったが、ここがまたひと回り小さな部屋で、階段のてっぺ んという場所がら、一風変った造りになっていた。三つのベッドが占領していて、残りの スペースには大したものは置いてなかった。娘のあとから行ったので、ペスタロッツィと コクッロは身体を入れるのがやっとだった。衣類の匂い、といっても、要するに貧しい人 リ ボ イ ド びとの衣類にしみこんでいる類脂肪質、アミノ酸、尿素、それに汗といったものを衣類と 呼べるとしてのことだが。格子と虫よけのスクリーソが張ってある窓。三匹の犬の寝床と いった方がいい粗末なベッドが三つと、鏡がずっと前に割れたまま、不等辺の破片となっ てついているごく小さな食器棚がひとつあるほかは、家具は何もなかった。ひとつのベッ ドの頭の先にあたる壁には、葉っばのしなびたオリーヴの小さな枝とならんで、隅の方が オ レ オ グ ラ フ ィ ア 黄色くなったニリラ程度の油絵風の石版画が暗い感じの額におさまって掛かっていて、ペ スタロッツィはすぐにそれと気づいた。ディヴィノ・アモーレのマドンナの像で、カステ 183 ル・ディ・レヴァの裏門のところで、夜中に道に迷って困っている男のそばに立った図だ。 残忍な犬たちがその男に吠えかかって追いかけ、噛みついて引き裂こうとしたとき、マド ンナが現われ、その姿を見て犬たちは散りぢりになり、男は城壁の中に入れてもらったの である。 半分たんすで半分ナイト・テーブルといった飾り棚は三番目のベッドの向うから姿を見 せているが、それはラベンダーの香りなどとんでもない、むしろほかのふたつのベッドと ともにきわめて「人間的な」ぬくもりのするマットレスの端と、ちょっと前にしっくいを 塗ったばかりの壁の間にあった。見たところ無用なものとか、丸めた縫糸、ちぎれたボタ ン、菱形のぽろ布といったものを輸送用荷物よろしくいっしょくたに集めたというところ で、郊外を初め、この運命的な半島のあらゆるほかの地域の有能な女性たちはそれらの品 を非常に慎重に集めている収集家であるし、明日という日にどんな必要が起るやも知れな いとあって気むずかしく保存しているのだったが、あいにくとその明日には、別に何も包 装するものがなく、従って縫い糸も紐も要らないというわけだ。ペスタロッツィはお粗末 な家具の方をちらりと見たが、これといった関心もなかった。「なるほどそれで?」 「あそこです」とじゃがいも娘はつぶやいた。ほとんどあごがないため、唇を動かすよ りむしろ頭を上げてベッドの下だと合図をした、二番目のベッドである。ベッドの向うに 回って宝石箱をさがすと、すぐに見つかった、木の箱で、角のところが黒っぽい鉄板で縁 取られていた。娘はそのとき魔法で用意をしたように鍵を持っていて、かがみこむとベッ ドの下から箱にとどくよう両手を伸ばした。ひざまずいてあおむいている顔と胸のふくら んだ部分が毛布にさわりそうな姿勢のまま、平行六面体をうまく動かすまではじっと前方 を見ながら、盲目のように、だが事惰はよく分っているというように手さぐりをするうち に、やがて、思いがけずつまらない物にさわったとでもいいたげな仕種をしたが、それは 目は見えないながらもピアノの正しいキーをちゃんと叩き、盲目を歌った悲しい調べを 次々と鍵盤から叩き出す盲目のピアニストが何か探っていて、ふといい当てたというとこ ろである。箱を取り出して、開いた。「さあ、どうぞ探してくださいな、軍曹さん、でも 何もありませんわよ」それから、軍曹があまりのあばら家にうんざりして、鼻もひん曲が りそうだという気色を顔にあらわに浮かべて動こうともしないのを見ると、彼女は箱の 蓋を開き、何枚ものシャツ、ショール一枚、かかとのところが白くなっている黒い靴下、 ボール箱、男もののシャツなどをかきまわしたが、最後のシャツは上等だった。「で、指 ・・ 輸は? 君の指輪はどこだね」「つまり別に持ってるんじゃないのか」と軍曹が自分の推 理に固執しているのにうんざりした彼女は重曹の入っていた小箱を彼の面前で開けて、ま るで詰め物をしてある巣から取り出したというように金製と思われるちゃちな鎖を出して みせたが、それにはこれまた金でできたと思われる軽い十字架がついていた。まがいもの の珊瑚をはめこんだブローチがひとつと、もうひとつ、エナメルの四つ葉のクローバがつ いた金属製の安っぽいブローチもあった。 軍曹は二本指で鎖をつまみあげ、その鎖をぶら下げるため指をひろげて、十字架をゆら したままにしておいた。それから緑のエメラルドがついたブローチを手にしたが、ちょう どこれから飛ぶ力をたくわえようと、翼を閉じてサンザシの生垣に止まっている蝶をとら えるのに似ていた。「つまり別に持ってるんじゃないのか」彼女はすでに持っていないと 答えてあった。そして、今はもう前言をひるがえしたり、ノーといったのを引っこめるの はまずいと考えるようになった。さいわい、その表情をうまく作れば、ねっとりと動か ず、頑固な彫像のようなおもむきがあったため、舌を動かさずに放っておいてもよかっ 184 第9章 た。青ざめた顔、脂ぎった顔、じゃがいものような顔、ふっくらしたパンの卵のような白 い箇所に打ちこんだ釘の頭ふたつ、拳骨をふたつ食らってふくらんだようなまるい頬骨ふ たつ、要するに、ひと言でいえばその人相全体がさいわいして、彼女は唖のように黙りこ くっていればいいし、ひと言も口にしないとあってぽんやりしていればよく、ただ、心配 そうなふりだけはしていたが、おそらく彼女自身だんだんと気になっていたのだ。軍曹は 飾り棚に目を向けていた。「マットレスを引っくりかえしてもらおうか、マットレスの下 を見せてくれないかな」というつもりでいた。ところが実さいにはベッドのまわりを航 海するようにして通り、厄介な周航の果てに最後のベッドと壁の間で、いまにもナイト・ テーブルを訊問するような恰好で立ちつくしたのであった。テーブルについている開き戸 を引っばってみて、鍵がかかっているのに気づいたが、ナイト・テーブルに鍵とは、信じ られないことだ。 sui generis 特殊なナイト・テーブルだった。鍵を出すようにいった。 マットナーリの娘はマットレスの下をさがして、鍵を見つけ、専制政治にうんざりした市 民よろしく、顔に油のような悲しみを浮かぺて飾り棚を開いた。またまた出てきたのはぽ ろだとか婦人用の品、チョッキ、すり切れたズボンなどで、それが床にくずれ落ちた、下 士官の認識をあざ笑うように。とにかく、それらは節り棚にどうにかしまってあった、と いうより、やたらに押しこんであったのだ。彼は編んだ短い上着、うさぎの皮、リゾール で白くなった箇所が点々とある明るい空色のペチコートなどを片手で取り出した。クルミ が二個、三個ところがり出た。と、ぼろの中から、はき古した靴下で飾り立てたしびんが 出てきた。クルミがつめてあり、エナメル塗りの凸面にあるくぽみがひとつだけではない ところから、これがカーポディモンテのはずはないし、ジノーリでもないということがす ぐに分った。「まあ、どうしましょう、おばあさんのクルミだわ」とマットナーリは叫ん だが、いかにも困ったなという表現によって、その宝の価値を高めようという感じであっ た。これは秋が通りがてらに、いかにも手ごろな容器があるので入れて行ったのだ。巡礼 が親切にもてなしてもらったお礼にと、夜明けまえに、わざわざ声をかけることもなく、 ちゃんと払いをすまして行くのと同じである。一方、彼女は立っている軍曹のそばでかが みこみ、その容器を取りあげてわきへどけようとしたが、いかにもいいことを思いついた と生き生きした様子を見せていた。そうした動作によって請求、負担、苦しい十字架、法 津へと通じる道を平らにしようと意図していた。だが、警察犬の凶悪な粘液はみごとに隠 し場所を嗅ぎあてていた。「持て、おい、おまえが持つんだ」とコクッロに命じた。娘は 立ち上った。忠実なファラフィリオがしゃがみこんだ。飾り棚に両手を入れた。片手で、 いっばいに入ったしびんの取っ手をつかみ、もう一方の手のひらで反対側を注意ぶかくだ きかかえこんだが、向う側がまるみがあり、取っ手のついている方が半球状になっている 善意そのものといった容器をなでさすらんばかりにしていた。そして神殿から引き出すと ころは (それがまためったにないぐらい重かった) 便用者、いやすばり持ち主そっくりの 恰好であった、夜分にあまりぱっとしない目的のために利用しようとするあの持ち主の姿 勢であった、八個目と九個目のクルミがころがり出た。この勇敢な兵士のどこか少年じみ た丸々とした身体つきにくらべると、ちょっと貧弱すぎるといった感じの、灰色がかった 緑色の兵隊外套がばらりと開いて、お尻の九みをありありと見せたが、そのお尻は同じ色 の布で然るべく覆われていた。しゃがんだ姿勢のためにそれがいっそう誇張されて、花瓶 のつやつやした全体の丸みに、匹敵し、それをしのぐばかりで、自転車屋に置いてある三 脚のついたあのポンプでふくらませたようにみえた。信じられないほどはち切れそうに なっているため、ズボンのうしろの真中の縫い目がもうさっきから、うっかりしていると 185 今にもびりびりと破れそうになっていたが、服地の灰色よりはずっと晴く、青みを帯びた 緑で、さして縫いやすいとはいえない糸がびんと張ったジグザグ模様にそってゆっくりと ほどけて行くだけのようであった。だがこの縫い目というのが注文以上にしっかり縫いつ けておくようにいわれていたため、負担に耐えられなくなってほつれてしまうまでには 至らなかった。そのかわり、乾いた銃声が一発、部屋にとどろいた。いや違う、銃声では なかった。かわいそうにファラフィリオ君、きっと真赤になったことだろう、彼持ちま コモド えの、あの善良なきびしい頭をまだらに赤く染めるというふうにして。だが便所というか コ モ ド 整理だんすに顔を向け、腕にしびんをもってしゃがんでいるというその格好では、顔の赤 さがそれ以上、広がりようもなかった。つつましいお務めがおのれの存在を誇示したとい う、ただそれだけのことだ。ある姿勢はある命名法をよしとする、ちょうど同じ物体でも 源泉そのものにさかのぼって音だけ引き出してくるのと同じである、娘は黙っていた、無 定形に。軍曹の顔に雲がかかった、沈黙のうちに。それでなくてもあふれるほどなのに、 ヴェルトゥムノ 庭園の神の乾いた贈り物ひとつひとつでそれだけ重くなっているしびんが (たんすの) 上 の段に上げてもらうという光栄に浴し、鏡のきらきらした破片が少しわきへ移された。操 縦者はこちらをふり向かずに立ち上った。「馬鹿もん、ベッドにあけるんだ」と軍曹は思 いきりきびしい口調でいった。操縦者はいわれるとおりにした。なかばこちらを向いたと ころでは、半分だけ見えているその顔は交互に、赤い鳥と青白い島というように染めわけ て壁紙を貼った感じであり、赤は司教の赤、青白さはカチョッタ・チーズ*4 のそれだった。 同じようにして、善良でやさしく正直な人たちに特有の性質を持っているのがかなり明確 に見てとれた、首のつけ根まで真赤になっていたぐらいだ。そしてゆっくりと、それから あたふたと大急ぎで容器をいわれたとおりの場所に置き、その手をぐるりと回していって うつわ 大事そうに 器 を包みこんだ。一方、クルミの宝物のうち最も間抜けなのはまだけしかけ られていなかったが、ひょっとすると何皮もぴょんぴょんはねながら、にぎやかにころこ ろ転がり、白痴のように訳も分らないまま、ひとつはあそこ、ひとつはここといったふう に、どこかは分らないがベッドの下のあちらこちらに散らばって行って隠れたかもしれな い。といっても、そのベッドの上に穴が、つまり身体の作ったくぼみがなかったとしての ことだが。そして実さいにはみんないっしょくたになって、こすれあっていた。ぜんぶか たまってシチュー鍋にでも入れるように放りこまれ、盛り上って山になっていた。その てっぺんには紙で小さく包んだものがあった。青い紙で、薬局で見かけるあれだ。きっと 砂糖だろう、おばあさんが内緒にとっておいたものである。ベッドの反対側に陣どったま ま、いらいらしながら指先を使って軍曹はそれを開いた、そのちっぼけな紙包みを。する とごつごつした布の小さな袋が出てきた。かなりの目方で底の方はいろいろごつごつと 出っばっているのだが、それほどふくらんではいなかった。そのごつごつした底の方に品 物が入っているようで、ひょっとするとハシバミか、あるいはボタンを集めてあるのか、 それともロザリオだろうか。袋の口のあたりは紐を幾重にもしっかりとまわして閉じてあ り、それを結んだうえに、もう一回、結んであった。ペスタロッツィは手でさぐってみた。 と、その顔が明るく輝いた、ほらあったぞという夜明けの明りだ。頭の中で弟分に罰をく わえようと思っていたのだが、そのような意図も霧消した。人を馬鹿にしたような渋面を 作って、唇を半分上に向けてゆがめ、皮肉さ、つまり彼なりに皮肉な人相をことさらにあ らわにしてみせた。たくさんごつごつがついて節くれ立った感しの結び目だが、執拗な爪 *4 中部イタリア特産の柔らかいチーズ。 186 第9章 の動きでほどかれて行った。紐がきつく巻きつけてあるのがゆるめられて自由に動くよう になった。そしてそれこそていねいに横にした、といっても真中にあったおばあさん用の 小さなベッドに横にしたのだが、その開いた口から、思いもかけずに出ることができ、落 ちることができたとあって、交互に威勢をあげながら緑の小さな玉、メダル、ブローチと ひしの実、金色の安い飾りもの、小さな鎖、小さな十字架、透かし細工のネックレスなど といったものがからみあい、そして指輪と珊瑚のたぐいが出てきた、宝石をかざりつけた 指輪もあれば、石がひとつだけ輝いているもの、あるいは時として目のさめるような色の がふたつもついているのなどが、コクッロのぽかんと開いた口や、軍曹の胸の鼓動の前に 姿を見せ、軍曹はもう金モールの袖章が袖にはいあがってきて、前からあるのを追い出し ているような気がした。これでは准尉殿の金モールである。おびえた小さな動物のよう に、人に見られまいと賛困の痛ましい胸に羽根をたたみこむてんとうむしのように品物は 動きを止めた。ところが見えてしまった。白日にさらけ出されて嘘が見えてしまった。盗 まれたのが見つかったあと、鉤鼻の宝石屋の店先でそれと分った、ありとあらゆる面白い 色、あらゆる形をした貴重品だと。濃緑色の固い石の小さな十字架、未来の准尉の指先は ついつい我慢がならず、それを賞味している感じだ、ひっくりかえし、またひっくりかえ して。つややかな緑と黒の美しい円筒形、それはピタゴラスか西を向いて長々としゃべ り、焼けたピラミッドの頂きを眺めながら五角形の遠心距から引き出した狂乱というより も、聖職者のウンコ野郎どもがエジプトで占断を引き出した道具という方がふさわしく、 また世堺の古い腹の中に隠され、世界の腹から盗まれ、あるとき魔法で幾何学的な形にさ れた神秘的なキャラメルであった。明るい空色と乳白色の間の貧弱な小さな卵はこれから ごみのなかに棄ててしまう死んだ鳩の腺というところだし、ふたつのイヤリングには頂点 が丸みをおびた二等辺三角形の真青な空色のペンダントがふたつ下っていて、ぶらぶら揺 フ ェ リ チ タ ファチリタ れながら重そうであり、目を見張るようなしあわせ=気軽さといった感じがし、空色の服 を着たおっぱいの大きな陽気な女の耳たぶにふさわしかったが、それがいってみれば縞の 入った透明さといったなかで贋揚にほほえみかけているところは、まるで凍らすためには めこんだ金の小片がくすぐったいとでもいいたげであった。それから金で円筒状にぐるり と包んだような大きな指輪、エノバルボの親指かエラガーバロの足の親指にはまっていた もので、卵形の片眼鏡のようなものがついていたが、これがオレンジがかった緑から、次 の瞬間にはむしろレモン色にまでなり、いわば昼夜平分時の朝の光線がそっくり突き刺 さっていて、百九十本の四角な矢尻をくらった殉教者の明るい肌色のようになった。そし て明け方の海面の、あの明るい緑の光を浴びて火打石の輝きとまでなったのである。これ を見てふたりはたちまちうっとりし、十二時にガリバルディ広場で飲む薄荷の入ったシト ロンソーダを思い浮かべた。それから金の針金の小さな指輸、これには鶏でもついばみそ うなざくろの種のような赤い粒がひとつついている。そして最後にペンダント、子供だま しの飾りが、洗濯物の黄色を取るメチール青の粒のようであり、そのあとから金色の半球 形のものと木の実がひとつ出てきた。こうしたものを通じて、金の鎖をたどって行くうち に飾りのなかでも高級であるばかりか重要な働きもしているものにぶつかる。いうなれば それは盛り上った胸のこぽれる美しさを飾るかもしれないし、その魅力的な胸の保護者、 つまり管理者、訓育者、そして配偶者ということになり、ペスタロッツィは歯ぎしりして 「くそっ、間ぬけめが」と思うのだが、そうした連中のコートのえりの男性らしい折りかえ しとか、腹をつき出し金時計をひけらかす権威主義を飾るものにまで考え及ぶのだった。 ざくろ石の十字架、家族という影の赤黒い瞬間。指輪、ブローチ、信じられない驚き。そ 187 してルビーとエメラルドがネズミの皮を敷いた汚いベッドのくぼみできらきら輝き、ころ がっていたが、これは老婆の寝床のすり切れて、見るからにみすぽらしい覆いの上に陣 取っている真珠のつつましい遠慮ぶりとは対照的ながら、このひととき恰好の伴侶という きん ところで、あの、ひとみと網膜のあと頭にも火をつけるという金の高価な輝きと、うねっ たり、多角形を描いたりしているさまざまな形の金製品の間に位置していた。ブローチと イヤリングは鎖に包まれてしまったというか、尼さんがふたり脚を向かいあわせにしてい るなかに双子のサクランボがまぎれこんだようにもつれあっていて、ペンダントをさっと 滝のように流すと指輪もついてくるのだった。ルビーとかエメラルドとかいう言葉が布地 というかボロ切れというか、その灰色の貧しい雰囲気で、閉ざされた沈黙の輝きのなかで 口にされたわけであるが、この輝きというのがある種の存在の自律的な動きにとっては生 来のものであり、例外性と自然で内的な威厳とを示している。また鉱物学的価値というの は偽りのひびきやウインクを通じてカーニバルなみのラッパのさわぎのうちにグラスの尻 を叩いて賞揚されたものだが、さて、影にまわっての話だと、そんな価値はぜんぜんない そうだ。鋼玉、多色性の水晶はセイロンとかビルマ、あるいはシャムから来た感じのネズ ミ色=灰色といった雰囲気のなかで本当にそれらしく映るし、指輪の場合もそうだがまば ゆい線、まぱゆい赤、あるいは夜の青といったように神の結晶学的示唆を得た構造で高貴 に見える。記億、個々の宝石、そして遠い記憶の中と神の働きの中にある個人的な労作。 まごうかたなき三二酸化物 Al2 O3 が神のあらかじめ考えたもうたその階級の不等辺三角 タフアーノ 形の十二面体という様式によりまごうかたなく配置されていた、 虻 蔵相の価値ある労 働説などどこ吹く風と。これから一時間、腰掛けにじっと坐っていようとしたレヴェッロ タフアーノ デ イ ン ド の 虻 先生は七面鳥のリーダー格の経済学者であり、間違いだらけの自分なりの非財政 を唱える鶏大臣で、チーズ殿の目くばせひとつでイタリア国民の前にびん詰めにできるよ うな価値の新しい空を開いてみせたが、それは信用と貨幣流通の黄道帯の中で、いずれは 地獄に落ちて無くなる金本位制にかえて、決して消えることのないべてんの蝋を用いたの である。そして伊太公はそのびんからごくごくと飲んだのであった。 ペスタロッツィは、いや、とんでもない、イタリアの大蔵大臣などではなかったし、メ ネガッツィにしても同じだ。価値とか非価値についてはふたりとも彼らなりにある種の意 識をもっていた。彼女はというとほかでもない、トイレに価値 (トパーズ) を忘れてみた いという欲望をみたすためで、なにしろいかな彼女でも、グラスのお尻といった非価値を トイレに忘れてみたところで、そのバッカスを賛えてぶるぶる震える肉体のどの部分にも 何ひとつ楽しみを味わうことができなかったからである。そのぴかぴか光るルビーは宝石 で、見れば分ることだが、世界の生まれる一千年の間、卵が抱かれるようにあたためら れ、生まれてきたのである。目の利く人ならば調べてみて、たとえ切り口があっても、こ れは大丈夫と保証したはずである、なにせ切り口とはつまり宝石の切る面であり、人工的 に. 屠きあげてあるのだ。もちろん系統立てられた原則にしたがって三二酸化物の溶液で 結晶化された宝石であり、便器のように光の当り方によって、偽りの栄光のうちに結晶し ているように見えるというのではない。こうして魂の激しさ、悲しみが叫び声ひとつで凍 りつき、凝固して記号となるが、それも思考の正式な原則にのっとってのことである。凍 りついた叫ぴ声ひとつで! それ自体の叫び声であって、ほかのもののわめきでもなし、 ましてや人びとがわめき散らしている市場のものでもない。軍曹はいかにもお米をお鉢に 入れるまえに分けている人のような指の運びや動作を見せてばらばらとまいていた、つま り大小の石、金の腕輪、夢のような片眼鏡、インドの君侯のぴかぴかの宝石といったもの 188 第9章 を、見るも無惨な毛布のくぼみの中へとまき散らした。そうした景観の中で布地の茶の色 をバックに金色のかけらやきらきら光る粒が点々と描き出され、ちょうどリヴィエラを旋 回するときに見える一連の電球 (といっても上の方や遠くから、山や飛行機から晃えるも ののことだが) のようで、ボタフォゴのイルミネーションがバナナ祭りの夜ごと、根拠地 の Pao de Azucar の周囲一帯の海岸線や海岸道路をずらりと真珠のように飾り立てるの にも似ていた。それらの歓喜はその瞬間、いろいろ取りまぜて山と積んだ盗難の事件のな かからその粗末なベッドの上に降って湧いたようにみえた。だが、ぺスタロッツィはまず 何よりもある種の彼独得のためらいを見せながら、その後は楽しそうな自信を以て、その 散乱したきらめきの中に、いま問題となっている物件をいつか見つけられるのではないか と判断したが、なんといっても真珠のネックレス、安びかもの二、三箇、アメジスト、ざ ケッソウツウ くろ石の十字架、結晶粒(と書いてあった)、珊瑚、宝石、それにマルティナッツィという ぎょう か、もっと正確にいえばマンテガッツィのリストの一枚目、二枚目の最初の 行 からずっ と下の方にかけて、トパーズの仲間、親戚ということで記してある名称や特微をそなえた 物件などを特に疑っていた。そうした名前や称号をそなえた物件というのは、なかなか分 りにくい場合が多かった。真珠のふたつついたルビー「の」指輪、黒真珠とエメラルドが ふたつついたブローチ、平らに伸ばした練り粉といった方がいいようなダイヤで「取り囲 カ ル カ ン んだ」サファイア「の」ペンダント、古風な (sic) ざくろ石の頭飾り、その字がタイプで カルカネとなり、それをごていねいにカルカンコと直してあるし、白真珠 (嘘もいいとこ フィーラ フィーロ オー ろだ) の 線 というか 糸 というか、もちろん O の字は穴が開いていたが、その他その他、 小さな指輪その他、縞瑪瑙の石がついた大きなブローチ、その他その他。士官候補生コー スの読み方の試験じゃないかと、ペスタロッツィは考えた。 一方、時間は迫っていて、その朝、昼前にもポケットにトパーズを入れてマリーノに出 かけなけれぱならず、そのさい今朝ほどの放浪で見つけたものも持って行くことにしてい きん たが、それにしても意外に実りのある放浪で、宝石、金、模造真珠、美しいのも醜いのも いるが一様に嘘つきの娘たちという収穫があった。取りもどしたものと、見つけたものや 見つからなかったものについてリストを手に准尉に報告しなければならなかった。とにか く変った難しい名称であり、何か魔術的な、神秘的な、イノド的なところかえロあって、 オー リストの O の字のところはすべて鉄道の切符のように穴だらけになっていた。もうひとつ のノートは紙が一枚欠けているため不完全だが、最初のに比べて穴が少ないということは なかった。とはいっても軍曹にはただの厄介物にすぎなかった、自分にはぜんぜん関係の ない厄介物で、他人にまかされていた。つまり例のイングラヴァッロ警部、チックのかわ りにタールを使うあの大頭の男が「明白に」自分からこの仕事を引きうけると宣言してい たからだ。つまりドンチッチョの役目であった。まるでタイプのリボンを血の中につけた のではないかと思えるぐらい真赤なリボンでタイプを打ってあるため、この「バルドゥッ チ盗難事件」というノートは悪夢でつづられたように彼には思えた。つまりこんなにも前 兆にみちあふれたその昼夜平分時の狂った朝、とうてい、そう、とうてい憲兵の管轄とは いえないような秘密の恐怖によってノートが作られ、ページ、ぺージに言葉が盛りこまれ ていた。だめなのだ、ひっそりとした田舎は外が風雨で濡れそぼち、時々顔を出す太陽を かろうじておがめるだけ、それだけにまたまたあの恐怖に見まわれるのは嫌だった、ごめ んだった。ナイフが一瞬ひらめいたあと、野獣の手で容赦なく生命を絶たれて、葬儀を飾 る遣物のひっそりしたたたずまいをその恐怖が包んでいたのだ。管埋人夫人や刑事たち 189 (まだ法的に確認されるまえのこと)、さらには自分では知らずに入ってきたという、ぞっ とした顔つきの従兄弟の目にふれ、その後はあらゆる男たち、女たちのスリッパの間にこ ろがっていた死の蝋人形の家にもふさわしい青ざめた幻影、そしてそれから数日というも の死休安置所の臭気のなかで首の傷口からあのくさった膿がしたたっていた。彼が見つけ きん きん たものといえば「向かいのドアの」金と宝石、とにかくブロンドの伯爵夫人の金であり、 その後次々と夢に見た (実さいに見たのではない) 姿がひらめくなかで軍曹はためいきを ついた。そして早くも発見者=救済者の服装をし、准尉の袖章をつけて彼女の前に現われ たところを想像しながら、あらゆる疑惑の蛇から解放されようとしていた。「……でも、 誰かほかの人も、あの殺された夫人の鉄の小箱から、ひょっとすると」彼は調べるのをた めらってはいなかった。今や急いでいた。バルドゥッチのものと思われる宝石類は半分が リストにのっているわけなのだが、まだこの仮説のあいまいさというのは残っていて、そ れを確かめて、ひとつひとつ区別して行くのはマリーノの兵舎か、ひょっとするとローマ のサント・ステーファノ・デル・カッコで行なわれるはずだったが、一方、そのノートに はっきり示されているマンテガッツァ伯爵夫人の宝石はそれぞれに自分がその盗まれた宝 石なんだとその場で証拠をあげて訴えるのだった。それに実をいうと、あと残っている可 能性はどれぐらいあるのかと理性が計算していたのだ。なにしろ一時間半で指先にトパー ズを持ち、トパーズの入ったしびんが手に入ったというこのまぐれあたりは、けちを重ね て富を積むという連命から見たかぎり、どうもつきすぎているという感じである。頭の中 で燃え立ちながらもはにかみ、いぶかっている予知能力の統計からすると、どうも第三の 事件が起るとは考えられなかった。娘とコクッロはじっと動かず、まるで人について行く 機能が空っぼになったように相手の出かたを待っているばかりだった。軍曹は目がさめた ように口をきいた。 「誰からもらったんだ? こんなものをここへ持ってきたのは誰だい? まさか、あん たにくれたわけじゃあるまい、あんたなんかにな」 「あたし知りません。いま初めて見るんですもん。知りません。誰がこんなとこに置い たのかしら」 「さあ、誰から受け取ったかいうんだ、知ってるだろ、それともおぱさんとか……おじ さんにこれを置いていったのが誰か。たんすはしまってた。鍵をかけたりしてな。しかも その鍵をあんたはすぐに見つけたじゃないか」 「鍵はいつだってここにあります。何かとたんすに入れてあるんですもん」 「何かと、たいしたものをな、誰が持ってきたかいうんだ、分ってるんだろ。こっちは ちゃんと知ってるんだから、ここに来た奴のことは前から分ってる。ローマでも警部さん には分ってるんだ、もう前から。話すんだ、白状しなくちゃ、いけない、本当のことをい わなくちゃあ、時間がないんだぞ。ここで話をしようと決めないと、准尉殿の前で話さな くちゃいけないことになる、マリーノでな」 娘はじっと考えこんで、目をうつろにし、黙りこくっていた。じゃがいもの顔、虹彩の 灰色のガラス玉二個、色のない唇を見ていると、どうも何か口をききそうな気配は出てい なかった。いくら前もって献金をしてもなかなか返事をしてくれない田舎の巫子とか町の 法律屋といったところだ。戸外の田野、孤独な田野の沈黙にあわせて彼女も押し黙り、か たくなな拒否の姿勢を見せていた。石のようなヒステリーでどんなに嘘を話しかけても真 実として通るし、熱いやっとこを押しつけられても動じることはないだろう。「それじゃ あ、兵舎に来てもらおうか。あそこなら、いやおうなしに吐かされるぞ。どんな目にあう 190 第9章 か聞いてみたいか? 准尉殿があんたに吐かすのさ」 宝石類はふたたび袋に入れることになったが、たっぷりひとにぎり分あり、それをどう にもならないもの、遠心的なもの、円周的なものというふうにひとつひとつ落して行っ た。軍曹は手を使い、それから指を使って作業をすすめ、全部の「盗品」のなかから、た とえ一粒といえども毛布に落ちることのないよう、よくよく注意していた。与えられた使 命に軽く唇を開き、カタルの膜を通して大きな息をしながら、ファルフィリオは腰部の切 開に立ちあってぶるぶるふるえる羊のように、丈夫な布でできたその袋を支えていたが、 宝石頚がきちんと入るようにと、婦人科医さながらに二本の親指を袋の口に入れていた。 ベッドや毛布、シーツのたぐいまで乱雑にしようというのか羽根枕を宙に放り上げたり したが、そのシーツは純白などというものではなく、ジョヴァンニ・パスコリふうにいえ ば、さしてラベンダーの香りもしていなかった。彼女はくるみをしびんから販り出してい たが、ボートの底から水をかい出すというか、溝の水をくみ出すのに似ていた。ベッドの 下にも注意を向け、彼女にマットレスをひっくりかえさせ (「さあ頑張るんだ、お嬢さん、 頑張って。空気だよ、空気に当てなくちゃ」) ズボンとよれよれのソックスの入った飾り 棚も小箱もそっくり空っぽにしたり、動かしたりさせた。マットレスはベッドの網の目の 上に立てて行き、最初のはふつうなら長々-と乗っているはずの床几二個の上に立てて手 さぐりをしてみたし、小指を使ってパイプの中を調べ、親指と中指で裂け目をあたってみ た。大富豪クロイソス王のしびんはベッドからベッドヘと移されたが、産後間もない婦人 といった趣きで、ついさっきまでめんなにはちきれそうになっていたのがすっかりおとろ え小さくなっていた。壁には神秘が緑や赤になって、痕をとどめ、まくれあがり枯れた葉 が去年の枝についたまま残っていて、あるものは灰色、銀色、またあるものは灰色か緑色 カ リ ス マ や褐色、あるいはずばりハバナ葉巻の色で葉っばにひそんでいた神秘な力が年が変るとと もに蒸発してしまったともいえよう。ずっと下って最後に、絶望的な知識の、あるいは誤 解の光が射したのはプラットホームである。灰色の衣をまとった*5 ふたりには悪が存在し ひにち ているように思えた。日日と事件を熟させるために、ずっと前から。沈黙の力が、あるい は存在が田野と大地の伏魔殿の中に、空とそして、眺めたり逃げるほかには何もできない ような雲の下にあるように思えた。それは外に出たとき彼らの心なしめつけるあのいっさ いの正しいつながりに対する失望や、そうした意識の弛緩という感覚のなかにふと現れる のだった。一瞬、町がまた現れてみたり、空を雲雷が走ったりというときに。悪魔は娘に とって雌鶏に姿を変えてしまっている。菜園では知らんぶりをして、はにかみながら片足 を上げ、こんどはそれを下してついばんだり糞をしたりする。三羽いるうちの一羽なん だが、さて、どれだろう。というようなことで家のそばの刈り株の間で、一日に卵をひと つ生んでは誘惑をしていた (三羽のうちどれなのか、どれがその揖に生んだのか、これは 絶対誰にも分らなかった)、荘園もない田舎の貧困と孤独の中で人びとの心を誘惑してい た。そのうえで准尉や神に通告する人びとに向かってその人たちのことを告発するのだっ た。その悪魔である彼、というか雌鶏である彼女はいつも、地面を引っかいたり、虫をさ がしているようなふりをしていた。みみずやうじ虫などをあれこれと。そして汽車の汽笛 が聞こえたとたん、悪魔か自分にとりついているのではないか、いや、ほかの女の子たち もそういう目にあっているのだろうという恐怖や希望にとらわれたものだが、さて、悪魔 だとしたところで、三羽のうちのどれで、誰がそうなのかは誰にも分らないままであっ *5 「神曲」浄罪界、第二〇歌、五十四行。 191 た。悪魔だという点には疑いようがなかったし、それにスパイかもしれないと、娘は角が 二本生えた片手を鶏たちの方に向けて考えた。スパイだ、スパイだわ。あんなふうに変装 しちゃって、住居のある方ヘしのびこんできたのだ、いかにも田舎じみた鉄道の住居へ、 ほら行く、ほら行く。それこそ鶏らしい態度で鶏然として散歩に出たというところ、そう だ、片目にガラスを入れ、白い花をボタン穴にさして、ヴェネト街を黄色い手袋で歩く紳 士である。すっかり横柄にかまえて、くちぱしで片方の肩についている虫をとり、今度は 別の肩のをとる。そしてまったくなんでもないことのように糞をしたが、でもちゃんと鶏 としての便宜はあますところなく利用して、よく鶏がやるとおりに脇の方をながめ、ド アが開いていればこれぞ自分の勤めだというように台所をのぞいて見に行くのであった。 ひょっとすると入って行ったかもしれない。それを追い出す人はいない。おじさんは無 線機の前に坐りこんで、トン・ツー、トン・ツーとチャムピーノかチェッキーナに電信を 送っているところだった。そこでゆうゆうとスバイを働くことができた。必死のひとみで 記録し、網膜にのこす。鶏たちに特有のあの脇についている、ピカソでも考え出したよう なあの目、トイレの舷窓、左舷にせよ右舷にせよスバイをしてやろうという意図も態度も 全くないトイレの舷窓。ところが、あにはからんや、そこから見ているのだ。そう、悪魔 だった、うまく計略をつかって台所や、貧しい住居のためむき出しになっている床の上に ペ ネ ト ラ ー ト ペ ネ ト ラ ー タ 入りこみやがった、というか、雌鶏に化けてきていればお人りあそばしたわけだし、ある いは罠にかかって茎を並べた垣根に入りこんだのだろうが、その茎というのがそれぞれ反 対力向へ斜めに地面にさしこんであって菱形になってはいたものの、土砂ぶりの雨や風に 痛めつけられ、長い冬がすぎた今ではなかばこわれ、なかばくさって疲れ果てた垣根にな り下り、二〇・二五キロのところにあるこの家の困窮状態に田舎の気配がどんどん入って くるのを阻む役には立たなかった。雌鶏や切り株の間にいるおばあさんの姿は菜園に立つ 曲った小さな木というか、死に見まわれて骸骨に化したナナカマド、あるいはかつてはカ ガシだったのが、北風に吹かれて黒いぼろ切れになったところに似ていた。地面に向かっ て小さな鋤をふるっていたが、疲れて放り出し、腰をかがめたままでいた。軍曹は大また に彼女に歩み寄った。「さがしてたものは見つかったですよ」と彼女にいった。「隠したの があんただったら、説明をしてもらわなくちゃならないけど……」老女は顔を上げたが、 それはバラの根に刻みこんだような顔だった。何のことか分らず、また聞こうともしない で相手を見つめた。 「つんぼなんです」とカミッラが注意した。おじさんに電話をかけた、おじさんに報告 しようというのだ。カミッラがサンタレッラ准尉さんに「召集をかけられた」というよう ないい方をし、証言のためマリーノに「出頭」しなけれぱならない。鉄道監視所は番をす る人がいなくなるというようなことを知らせた。それに対し別に意見もなければ、電話で 抗議をするというようなこともなかった、相手の老人は。聞かされた話の内容について、 別にとやかくいうでもなかった。これからまたカサール・プルチャートまで上ってくると ころだった。十二時十四分のチャムピーノ・アルミニ行き混成列車までは、もう汽車が来 ないことをカミッラはちゃんと知っていた。 実は老人は知らない声が聞こえてきたので仰天したのだった。娘が固い表情で説明した ところでは、おじさんは電話で話すとき、呼び出しとか職務連絡以外は、決って声門の基 都に麻痺症状が起る。つまり、彼女にいわせると舌が止まってしまうのたそうで、たとえ ば、運算にかけては天下一品なのに、言葉となると、あまりよくない知らせをペトラルカ ふうに持ってまわっていうのに必要なイタリア語とはいわないまでも、「充分にして適当 192 第9章 な単語」をあやつることすらできない、そういう雄弁術には不向きな技師に似ていた。典 型的な aphasia coram telephono 電話の前の失語症、尊敬、軽蔑、言葉による自己表現 力の無さ、第三者や未知の悪漢に聞かれているのではないか、そしてもちろん恥をかかさ れるかもしれないという疑惑、というより妄想的な確信、そして決定的なことだが自己の 人格の喪失と、赤面しどもったあげくにロゴスがしどろもどろになる現象、こうしたもの テレフォン・アヴニック・ラ・マニーヴェル が当時の ハ ン ド ル 電 話 時 代 のヨーロッパを、したがってイタリア半島を蛇行し、疫病 のようによどんでいたのだった。郊外でも、それから田舎でも。おじさんは鉄道員じゃな いか。ルケリーノ*6 のお父ちゃんと同じさ。それに田舎の男やもめはレールぞいに小屋を 持つようになるまえ、顔つきこそ檸猛だったが、やはり意気消沈していた。彼もわれわれ みんなと同じで生まれたときは文盲だった、されど精神一到何事か成らざらん、意思の力 で文字を物にし、リボンに出てくるのをすらすらと読むし、キイでどんどん字を打ち出し ていた。すっかり知識を身につけると、腹のあたりからいろいろと模様のちがった旗を突 パリオ トウレ タルトゥカ き出したが、それはあのシェーナの競馬で優雅な騎手がそれぞれの町を表す 塔 、 亀 、 オーカ 鷲鳥といった旗を取り出すのに似ていた。そう生まれつき神経質な方で、エボナイトのあ の壷とは、おれおまえの親しいつきあいで、その日の騒々しいおしゃべりを吐きすてるよ りも、その唾をごくりと飲んでしまう方だった。そして用心に用心を重ねた単音節を口に していた。というか、単音節よりも短い音である。おぱあさんはひとり残されて彼を待つ ことになった。犬も雌鶏のことも計算に入れないから、ひとりというのだ。だが、たとえ ひとりでも、公的な義務は山とかかえているし、とりわけ、十二時にヴェッレトリから来 る小さな汽車に進行よおしと知らせる緑の棒の操作をゆだねられていた。今や娘までがお ばあさんと変らず唖になったかと思えるほどで、黙りこくったままあの町角まで連れてこ られたが、ここでは二輪馬車が憲兵たちの帰りを待って止まっていたし、その上にうずく まるようにして坐っているラヴィニアは喉と頬を両手にゆだね、両肘は同じように膝にの せて、あごを突き出し、唇を結んで、その口はいかにも人を馬鹿にしたところがあった。 そういう姿勢でいると腕の下にたっぷりとゆとりができて、そこのところに、ちょうどい ま腹が立っていて人に見られるのに耐えられないからと、なまあたたかい胸の重みを宿ら せ、隠すこともできたほどである。にもかかわらず、そんな気もなしに目を向けただけ で、腕の下のアーチ形のところから、ちらりとのぞけるのであった。事実、ファラフィリ オなどは二輪馬車のそばへ寄ったとたんに鼓動を感じ始めた。 馬の持ち主はというと溝の向う側の、今でも道がえぐったように走っている草地が少し 高くなっ左端れの方に坐って、考えぶかげに地面を眺め、口を開き、乾いたどぶに靴を入 れていた。人間の運命について、先き行きについて思いふけっているようにみえ、夢想家 や幻灯技師が空虚さを生み出しながらよくやっているように、自分の瞳を無限の無の分野 にさすらわせていた。空虚さ、すなわちあの揺れ動く蒸気や昼夜平分時の朝のもやのせ いで、こともあろうに精神生活に欠かせない条件へと高められたあの甘いトッリチェッ リ*7 の気圧計の真空である。兵隊たちといっしょにいるラヴィニアを見てさっそく好奇心 が彼を突っつき、そのあと、彼女と馬とだけになったとき (といっても馬は一度にあれこ れしゃべられるとよくは分らなかったのだが)、事件について彼女にたずねて、初めてほっ とし、落ちついたのだった。愛想の悪いラヴィニアは取りつくしまもなかったが、こうい *6 *7 エリオ・ヴィットリーニのことだと言われている。 1608-47. イタリアの物理学者、数学者。気圧の存在を発見した。 193 う態度が売物のような彼女であり、前述のような姿勢でうずくまってしまった。という次 第で、彼はぽんやり口を開け、なんとなしに草を眺めながら、平和な気分のうちにぼんや りしていた、一筋の唾液があまりしまりのない管の隅から、無気力な舌の下を通って流れ なが、小石の上に滴ろうと、いまにもこぼれそうにしていた。もっこの小石の上に靴を両 方のせて、両脚を離し、膝に両肘をのせ、ざるのような十本の指から鞭を突き出し、それ をなんとなしに持っていたが、バルコニーの受け口から伸びている旗竿のようでもあれ ば、湖の沈黙の上に出された釣り人の押し黙った竿のようでもあった。しかもその柄は地 面にさしてあるわけではなく、地面のかわりに、ズボンがしわになったところに、ぱっく り口を開けたひだ (皮のチョッキのすぐ下に当たる) にさしこんであったので、そのため、 下の方の股のつけ根から突き出たように見え、ファウヌス*8 の茎が少しずつ伸びて行って しなやかな若枝となり、細く垂れる鞭の細紐になっているところを思わせたし、特許を得 た装置、彼ひとりが個人的に使う器具、さらにはアンテナとか竿とか、つまリアマチュア 無電を使う釣人、車掌といった連中の、取り外しのきく属性といってもよかった。そして 鞭の細紐 (脈が打つ通りにゆれてい為) がぶらぶらと垂れているその周囲では、大バエが 一匹、習慣どおり、ひたすら行ったり来たり繰りかえしていたが、それはたえず目ざめて いる、というかくりかえし目覚める食物への欲求と、その食物をついに見つけた、つまり 嗅ぎあてたという成果を示すものであった。金属的なヴァイブレーションでやかましくぶ んぶんうなりながら、一オクターブ上ったり下ったりしているうちに最高の音にまで達し たのであったが、特殊の重力の領域という新しい運命に引かれて、いやおうなしにそこま で連れてこられたのがうれしくてうっとりしていた。若い大バエたちの Pippo が薪しい 歴史のために思いついた領域であり、そこでは均分円がニュートンの軌道の楕円にとって 変わっていた。それは鋼鉄の研摩を思わすような緑色=灰色の羽をつけた美しい緑色のハ エの仲間で、自分のためにごちそうが出たとたん、というのは何者か糞をしてくれたとた ん、さっそくとびついてぜいたくな休養をとる、つまり牧場の道や、このあたりのそれほ ど人里離れていない一角、du vieux terroir (昔ながらの郷土)で口ではいい表せないよ うな大饗宴をほしいままにするのであった。予感させるような (つまり春の施肥を予感さ せるような) その宇宙にあって、蒸し暑さの中の早熟な青春や、昼夜平分時の年ごろの鼻 におそれをなしたとき、ふと思い起したのである。鞭の端のことを。しかし、こんな粗野 な男が何を考えようと知ったことではない。 ふたりの従姉妹は遠くからでもおたがいにそれと分った。三人、つまりレジーナ・コエ リの新しいホープと、その少しあとからといってもほとんどその両脇をかためるようにし たふたりの大天使が固まってやって来た。馬車に近づいたところで、御者は立ち上り、ボ ラが餌にくいついたようにいきなり鞭をふりあげた。カミッラは青白い顔になった。「あ んただったのね」とラヴィニアに小声でいったが、そのとき爪をとぎすますふたりの兄弟 をそばに置いたまま、ナイフで刺せるぐらいの距離にいた。御者は馬を目覚めさせよう と、鞭な宙でひと振りすると、カミヅラのあとから乗ウこもうとしたが、この彼女の顔に いきなリヒステリックなねたみの色が走って、さまざまのヴォリュームでいま見るように ふくれ上った顔、その empûtée から空気を抜いてしまった、油を塗ったような頬のふた つの風船が頗骨のクッショソとひとつになろうと、青春にふさわしく、腫れもののような かたくなさをもってふくらんでいたのだったが。ジャガイモのような卵に刻みこまれた目 *8 イタリアの森の精。性行為が神の名になったもの。 194 第9章 が白い空をバックに思いきり輝きながら自分の存在を示そうと反応を見せ始めた。腹を立 てて彼女をにらむと、相手に向かって顔をつきつけた。「あたしだって?」とラヴィニア がいった。「いやだなあ、あんた頭が変になったんじゃないの」憎悪、軽蔑、恐怖といった ものがその声にその言葉に感じられ、ペスタロッツイ軍曹は理解しよう、聞きとろうとし たが、これは無駄だった。口をきくときの軽い呼吸困難、はにかんだ言葉の区切り。これ 以上は望めないというぐらいに、両極にはさまれた金属板と同じで、その胸がぴくびくと 動いていたが、これはマックスウェルの磁気などというものではなく、乳色で、臆病で、 かわいい肌の板であった。「あたしが?」といって肩をすくめた。「あたしだってつかまっ たのよ。あたしたち証言をしにマリーノヘ連れてかれるんですって」そして、ほこらかに 首を上げた。「どうしてこうなったか話すわ、この人、ここにいる人ね。軍曹さんだけど、 あたしのこと、婚約してると思ったの、指輪をしてたものだから」鞭が破裂して全く楽し そうに黙るべきとき、蹟発するべきときをあらためて告げるのであった。それからしばら くして、草地の高い端れのあたりで、口を開いた娘がふたり、長いパンツをはき、兄貴に もふさわしい靴紐のついていない靴をはいて眺めていた。頑丈そうな男、百姓が、インガ ンニの描いた庶民のように首をねじって、半分になった葉巻の半分に火をつけ、一服つけ させてもらいますよといいたげであった。「さあ、乗って」と軍曹がカミッラにいった。 「それから、おしゃべりは止めるんだな、ふたりで口うらを合わせたりしないこと、なんの 役にもたたないんだから。何もかも、もうちゃんと分っとるんだ、どんなふうにやったか も、宝石をあんたらに渡したのが誰かも」腰のあたり、右側の上衣のポケットがふくらん でみえ、ピストル入れと好一対になっていたが、それは邪魔物も左右釣りあわさなくては といいたげであった。「さあさあ、乗って」とくりかえした。カミッラはいわれたとおり にした。御者はそのあと、反対側から乗りこんだ。馬車のばねはご主人の権威を感じとっ たようで、もう一回きしったが、こんどはいつもながらの熱意をこめていた。それから音 がしなくなり、すっかリヘこむと、つぶされたようになった。軍曹は自転車を引っばりな がら馬車のあとからっいて行くことにした。馬車は右にがっくり傾いたようにみえたか、 コーヒーひきの取っ手のようにブレーキをしかるべく回したあと、鞭を最後にひと振り し、御者がひと声かけ声をかけ、馬は馬で耳を立て、足をふんぱり、尾で尻の間をぴしゃ りと叩くと、そのあとはもう動き出すほかなかった。人間と同じ足どりで、ということは つまり三人をのせて上り坂を行く老馬の足どりで。そしてまさに道は上り坂で、自転車は ペスタロッツィが奇蹟劇を展開し出すのを待っていたように、ふたたびがたがたとヌガー をかじるような音を立て始めた。忠実なファラフィリオも徒歩で道をかじるような音を立 てるはずたった。持って生まれたものをあまさずたずさえて、籠のような馬車に乗りこん だとあって、ふたりの娘はどうしてもぎゅうぎゅう詰めこまれた形であり、そのためおた がいに肩やそれぞれの腿をびったりくっつけていたが、それは二羽の肥えたウズラが皿に わたした細い棒の上にとまって、左右の均衝をとっているのに似ていた。彼女たちをささ えて御者が一番端にいたが、反対側の端にはカミッラがいて、座席のわきの鉄棒にしがみ つき、外へころげ落ちないかしら、道に真逆さまに落ちないかしらと心配していた。つま り、その鉄棒こそ唯ひとつ頼りになる碇泊地だった、 「そうだったの、あんたなのね、汚いスパイだわ」と顔色よりも膏ざめた怒りの色で、 声を殺していった。「あんたって、いちゃっくのがお手のものだったわね、知ってんのよ。 どうせ今だってそうなんでしょ、あんたのいい人も、いつだっていっしょにいたがってた もん、よっぽどよろこばせたのね」 195 「あたしのフィアンセのことかしら」とラヴィニアは蛇のようなすばやい動作で思い 切って顔をあげ、いっしょに乗りあわせた相手の姿など見るのもいやだというように、 重っすぐ前方をにらんでいたが、その相手のにくにくしい体温や体臭から逃れることはで きなかった。軽蔑の色もあらわに、口をゆがめている感じだ。 「フィアンセだなんて、とんでもない、だめだめ、あんたとなんか結婚するわけないわ、 それは絶対よ」 かね 「お金であの人を取ろうって腹ね、あさましいわ、蛇だわ、いやらしいこと。男の味が みたけりや、買うほかに手がないんでしょ、マダムみたいに。でも、あたしからあの人を ぬすもうとしたって無駄よ。ひどい顔してるもん、じゃがいもみたいなその顔じゃあね。 それに、しまり屋さんのあんたでしょ、ちょっとやそっと持っているからって、まさかそ かね んなわずかなお金であの人を取ろうなんていうんじゃないでしょうね」 「あたしが駄目でも、誰かに取られるわよ、きっと」 「ほかの人には関係ないわ。あんただってそうよ。あたし、誓いを立てさせてやったの。 そのことでいいあいをしたわ。こんなふうにいってたのよ、あんな女とだって? おれ だって気は確かだぞって。さあ、やってごらんなさいよ、じゃがいもさん。地面を掘りに 行ったらどうなの、さあ、醜い魔女さん」馬車の持ち主は口出しなどしなかった。時々、 体裁だけでもとばかりに、ノミのような色をした粗末な上着のくせして、正式の馬車の御 者席に坐りゆったりしたマントでもはおった気になって、天高く鞭をふりあげ、どうどう と声を出して馬なはげますように気を使っていた。そのくせ、鞭をふり上げるたびにび くっとしているようで、精神薄弱者か子供、つまり両親のいいあうていを見ながら、理由 の分らない何かおそろしい嫌悪、憎悪のほかは全然納得が行かないまま黙りこくってしま う子供にどこか似ていた。彼は女性のことになるとあまりよく分らなかった。女とは大き な謎だというようなことを、日曜日など、フラットッキエやマリーノ人のところで半身に かまえてベンチに坐り、夏には木陰、葉陰でテーブルに肘をつき、小量のお酒を置いて しゃべるのだった。女に手をつけるまえによく調べてかからなけれぱいけないと、ドゥ・ サンティで動物の水飲場よろしくといった縞の入った大理石のカウンターの前でグラスを 半分ほど空けて証言したものである、というのも女は謎だからだ、一方、ザミーラは大理 石の向う側で黒々とした口をのぞかせ、上から見下しながら大目に見ていたが、半分うん ざり、半分あわれみといったところで、汚れてはいるけど時につけるエプロンで両手をふ きふき相手をするのだった。あるときなど、こんなふうに答えたぐらいだ。「そんなのす ぐに分る謎でしょ、想像力さえ働かせればいいんだから」彼の方はよく分らないなどと いっていた。そう、おそらくどんなことでもあまりよく分らなかったのだ。でもそういう 女たちと、少くともそのひとりとは幼いころに遊んだにちがいないのだが、それがどんな 子だったかは覚えていなかった。そして、そうやって遊んだときでさえ、なんにもならな かった。その場でしょんぽりして、何かそれとなくいってくれるのを待っている方だっ た。今でも道で女たちに会うと頼まれろままに乗せてやることが時々あったが、自分から いい出すということは全くなかった。 「あんたって鬼みたいな女ね」とカミッラが喧嘩を終らせたくないとばかりに、またしゃ べりだした。裏切られた愛も辛いが、なんといっても差し押えられた宝のことで憤慨し た。「私の結婚式用の宝石」と呼んでいたが、愛情の担保ともいうべきもので、それが今 や憲兵の手に落ちていた。「こんなことをして、いまいましいったらない」と歯ぎしりし て悪態をついたのである。 196 第9章 「スパイの豚娘だよ、あんたは、嫌らしい牝だわぢ不愉快よ」ちぢんだ上着の御者は鞭 を高々とふりあげ、その口論を自分の声で消そうというように「どう、どう」と叫んだ。 「話が聞かれちゃうぞ」とふりかえりもせず、できるだけ声を小さくして注意してやった が、カタルの肉芽のせいで声を小さくするのはお手のものだった。何がこわいといってカ タルぐらいこわいものはなかったのだから。ちょうどファインダーの、といっても二重の ファインダーになるけれど、その役目を果していた馬の耳の先端を通して、道路に目を向 けたままでいた。軍曹の視線が自分の後頭部に向けられ、ひりひりする熱さを感じたから だ。そう、目も耳もこちらに向けられていた。 老馬は一発くらうたびに、速足をしているように見せなくてはと一生けんめいになった が、それが活発につづくのはほんの数歩だけで、あとは歩みが遅くなるのだった。娘たち は黙りこくった。ラヴィニアはしまいには泣いていた。その美しさ、その横柄さがついえ てしまったのだ。愛するということ、いやそれより愛を求められるということを誇りと し、あれほど達者でもあったのに。指輪を、あのキンポウゲが昇華したような全体にきら きら光る石を彼女にプレゼンとしてくれた青年はどこにいったのか、あの青年はその時 間、どこだったのか。食糧袋は負い革に、ナイフはポケットに入れて、一瞬のきらめき、 明るい髪の毛が風になびいた。櫛の目が入ったことのないひとにぎりの麻屑のように。こ うして彼女を裏切り、軽蔑して行ったあとだが、当の彼女は気の毒に (そして涙は何とい おうか、甘かった) カサール・プルチャートの鉄道監視所でくすぶることとなり、貴金属 はとんでもない女のおかげでいいようにされてしまった、 「私の腿をあたためているこの女に」 ああ、イジニオ、憲兵たちは彼のショールをつかんだが、敏捷な彼のことである、する りとその手なのがれた。ピストルにしても射ってやろうというような気持ちは毛頭もなく て、護身のために身につけていただけである。ところが、そういうだけでは足りないとい うように、わざわざ隠し、埋めてしまったのである。りっばなものだ。だが、もう今では 埋められていない。たいしたものだ。伯爵夫人をおどろかすには充分じゃないか。帽子? ああ、あれは袋のような上着にいれていた。裁判だって駄目だ、緑のショール、帽子、 半分錆びた古ビストルなどでは彼を三年、放りこむわけにはいかなかった。ナイフだなん て……ああ神さま、あんなものを使うなんて間違いだ。夫人を相手に……それも彼女の家 で、やったのが本当に彼だとしてのことだが。そんなことを考えただけで汗は凍りつき、 悪寒と苦悶にふるえた、おそろしくて。そして湿ったぼろ布で頬と目をふいた。マリーノ の肥った准尉だけど、と考えて彼女は小さな鼻をふいて、どうやって彼は分ったのかな、 どんなことでもいい当てるけど、どうやってするのかなといぶかった。 ショールのせいかな、それもあるだろう。でもショールはしゃべらない。また、あの黄 色い石のついた指輸だけど、あれを彼女に渡したのがイジーだったというのを、どうして 知ったのだろう、それも、こんなにいきなり。それから彼女とイジーは一年ぐらいも相談 したあげく、やっと三日前に婚約をし、それで指輪も、ほかでもない彼の手で彼女の指に はめたわけだが、そんなことまでどうやって知ったのだろう。「なんだって? この指輪 がおれのじゃないっていうのか? じゃ、おまえもそうか? おれの女じゃないってわけ か?」といって、物すごい勢いでキスをした彼だった……ほんとにおそろしくなるような 勢いで。それにしても准尉だけど、どうやって推埋をしたんだろう。そうか。ふたりがお たがいに婚約を承知したあの場で、木陰か、いばらの茂みのかげに隠れていたということ もあり得るんしゃないかな。それとも誰かがふたりを見かけて、それを報告したのかな。 197 あるいはイジーがしゃべって歩いたのだろうか、男たちがよく自饅たらたらやるように (と彼女の心は誇らかな思いで高鳴った)。だけど、そんなおしゃべりをして困るのは当人 じゃないの。第一、彼はそんなに話し好きな人間ではない。あの口やあのぞっとするよう な顔からは、 「へえ」とか「ほう」ぐらいしか出てこなかった。とすると? 女の勤め先の 同僚だろうか。いまザミーラのところでお針娘をしているのは三人だった。彼女は毎日出 てるといえるし、カミッラとクレリアはどうやら来る日もあれば来ない日もある。カミッ きん ラは、ありったけの金や宝石ともども品物を隠したというやましい意識があるからには、 他人に話すわけがなかった。しゃべるぐらいなら汽車にとびこむ方がどれだけましか分ら ない。クレリアは? クレリアは憲兵たちの太くて長いのが好きだった。あんな連中が彼 女にはたのもしく見えて、誰とでも平気で踊れたし、月にひとりには承諾の返事をするの だった。これはもう明日なことで、めくらだって気がついていた。だが、友人を、それも 仕事の同僚を裏切って兵隊に通報するなどということはできるはずがない。「それとも、 ひょっとすると、またあの汚いでまかせかしら」と、さわがしい楽器さながらのオートバ イを相手に難渋しているペスタロッツィをじろじろ見た。「この嫌らしいピエモンテ男と きたら、准尉になるためには、どんなことでもやるんじゃないかしら。とにかくクレリア ということはない、自分がスパイをやれるなんて考えるわけもないんだから。夕方になる と、ほんのわずかなミネストラ・スープをなめ、ベッドに横たわるためはるばるサンタ・ リタ・インヴィターコロまで、時間をかけて歩いて帰るのだ。とにかく遠すぎるし、すっ かりお見とおしというような所にいた。家に帰れぱ真暗だった。で、それから、それから 何をするというのか。何をするにしても、危険をおかさなければならない。これは仮定の ことだけど、もしイジーが、そう、もしイジーが知ったらどうなるだろう。彼女がスパイ だったなんていうことを知ったら。骨をへし折られているかもしれない」そんなふうに何 やら眠気におそわれているところを稲妻で照らされたような気持で思い出しているうち に、血が上り出し、血の音がどくどくと耳に聞こえ出して、そういえばあの肥った准尉の オートバイが大小の通りのいたるところで轟音を上げ、道がふさがっていようものなら、 腹を立てていらいらしながら止まるというふうにして、トッラッチョ、ポソテ、そして無 電用のアンテナが立っているサンタ・パロムバ、さらに時には、そう、サンタ・リタ・イ ンヴィターコロまで出かけているのを耳にしたっけ、と思い出したのである。 だが、それをいって何になるというのか。それこそ彼の任務ではないか、昼も夜もオー トバイをのりまわして、管区の貧しい連中のところへ出かけ、調子はどうだと聞いて歩 く……受け持ちの鶏たちのところを。そのためにこそ、銀の筋が二本入った袖章をつけて いるのだから。「一日じゅうオートバイでとびまわることしか考えられないんだわ、あの 男、きっとそうよ、で遊びつかれて横になり、ラジオをつけさせる。そのラジオを聞く七 人の女がいるんだわ。あの男のほかに」 もちろんスパイにこと欠くわけはないのだが、スパイとはいっても結論として頭や感覚 が麻痺している連中のようで、サンタ・リタなどはすでに蒸発していた。彼女の話による と、准尉は前日にいろいろと知り得たところから、通称イジニオというレタッリ・エネア なる人物がきわめつきの美人のラヴィニアと婚約し、約束の言葉を延々と並べたて、相手 をおどすぐらい恐ろしい顔をつくってみせては何度となく前払金を取り立てていたという ことを聞き出すにいたったのである (と今では想像していた)。「前払金だって?」「ええ、 何枚も」と答えたスパイは顔こそ見えなかったが、ショールやスカートをはいていると あって、どう見ても間違いなく女性である。「そんなことよりなにより……こういう話、 198 第9章 あたしにさせないでください。あたしよりずっとよくご存じなんでしょ。准尉さんの方 が」問題の指輪だが、これから旅にでも出る人のように奇妙なときにこの斐人のラヴィニ アにわたしたのはほかでもない、彼、レタッリ・エネアなのであり、そのとき彼女をしっ かりと抱きよせると、口に目に、荒々しいキスを押しつけたのである。あるいはまたその 顔のないお化げが、それもおよそ人間的ではない声をあげていうことには、ひょっとする と、いろいろ厄介事が起っている今だけに、持ち歩くにはあまりにも危険なこういう飾り ものは、いつか手の空いたときにでもあらためて取りもどすことを前提に、いちおう処分 をしておこうとして、彼女にわたすことになったらしい。 「それにしても、どこで連中を見かけたんだね」 「あたしが見たのは」とさびしい通りの幽霊が答えていった。「あたしが見たのはトッ ラッチョから来たところにあるあのあいまい屋です。あたしもときどきあそこには仕事・ があって行くもんですから」「でも、君は建物の中に入って行ったんだろ、ところが…… 連中は表ての小路ですましてたんだぞ。駄目だ、話があわないな」「でも准尉さん、あた しは小窓から見たんですよ」「どういう小窓だね」「トイレの小窓です」ところがラヴィニ アについては記憶がうすれていた。疲れてはいるものの目だけはさとい昏睡状態の中で本 当のイメージが変形してしまっていた。「ご自分で見てきていただきたいわ。ほらあのト イレです。なにもかも見えるでしょ。オートバイも、仲間うちだけで働いているぶどう園 の労働者も、ろばもなにもかも……」「で、トイレじゃ何をしていたんだい」「また、准尉 さんたら」こんどは彼女の手をとった。「ちゃんと請けあってくれるか?」「誓ってもいい わ、安心してください」今度はそんなふうにいったが、この気持の悪いマネキン人形がど の口でそんなことをいったのやら誰にも分らなかった。とにかくショールで包み、スカー トをぶら下げたマネキン人形なのだ。つまり娘だった。顔は卵形で、ソックスの修繕に使 う卵形の木型のようである。例のトパーズは二日まえ、ラヴィニアの (右手の) 楽指をか ざって、みんなをおどろかしたものである。「うわっ、すごい。大へんなもの、指につけ てるじゃない」と、そんなふうに聞かれ、「さあ話して」とせかされると、彼女は晴れば れとした表情になり、「そんなに知りたいの、そんなに」といって、何やらうるさそうに、 それでいて、あからさまな羨望の声や賞め言葉がうれしくて頬を赤らめながら、肩をすく めたものである。「そんなにひけらかすもんじゃないよ」とザミーラが注意した。「このご ろはハエ坊主たちがうろついてるんだから、たばこを買いに来てはね」 ペスタロッツィはその朝、直属の上官の命令ばかりか、婚約指輪だぞといったあの仮 説、それにもちろん、これは相手がいないときのいい方だが、ローマの役人連中のリスト にも一目おいていた。上官は慎重そのもので「報告をうけた」というようなことはいわな かった。短い明快な仮説を打ち出すにとどめただけで、どれをとってもそれなりに筋が 通っていた。彼は今、ばりばり音を立てて道を行きながら、そうした仮説のひとつ、つま りトパーズを婚約指輪にするという説を、これまで予想もつかなかった結果、というより 新しい結果という光に当ててみなければいけない立場にあった。トパーズはマットナー リ・ラヴィニアがもっている。これはこれでよろしい、「レタッリが彼女にわたしたと考 えよう」だが、なぜ、どのようにして残り全部がじゃがいも娘の手にわたったのか、あの マットナーリ・カミッラの手に。ひょっとすると抵当かな? おそらく愛の証しなどとい うよりも、いつも必要にせまられていた金の貸し借りの抵当ではないのか?「これはもう 絶対に失業老のやり口だ……これ以外の仕事はとうてい見つけられないだろう」と自称 社会学者にふさわしく、そして実際の身分である憲兵にもふさわしく、乱暴な考え方を 199 した。「それから、それから大急ぎで逃げて行くというわけさ」これもまた准尉が仮説と して立てたことである。前の日の朝、出かけたはずだ。きっと田舎に隠れこんだのだろ う。それとも、街道づたいにローマヘ直行したのだろうか。だいたい准尉はレタッリがそ の日、高とびをしたことをどうやって知ったのか。その晩、彼、ペスタロッツィがオート バイで戻ってきたのは真夜中近かったが、そのとき彼らは兵舎で話していたのだ。やれ ふ やれ、抜け目のない准尉だ、いたるところに歩が置いてある。嗅覚か。鼻か、彼、ペスタ ロッツィもまた、いつの日か、これぐらいの鼻を持つようにならないと。「さてと」地面に 目を向け、二羽のウズラのことなど忘れてひとり考えこんだ。「さて、よく考えないとな。 今こそテストをパスする瞬間だぞ、グエルリーノ、張りきるんだ。グエルリーノ。正しく 推理を働かして、きちんとやれば、こんどはおまえの番だ。銀が袖にうんと降り注いで袖 章がきらきらするぞ。栄転だ。これは間違いない。ジェラーチェか……マリーナもあり得 るな。マリーノよりもオルタからの方が少し距離がある……ラツィアーレ、でも話に聞く と、それも断言していっているけど、あそこも空気はいいらしい、第一、いちじくがある、 バ ル バ リ いちじくサボテンもあるし。いいだろう。とにかくイタリア中をまわることになるのだ。 シ ロ ッ コ いいか。ちゃんと推理を働かすんだぞ」そしてえっちらおっちら進んで行った。東南風と 放浪性の雨が静まるとともに、いま岸辺からカステッリヘ、人びとの住む家へと曇りない 透明さでしのびこんできた三月のすっかり荒れ果てた田園の姿が、いきなり魔法で現れた ように彼を魅惑した。家々の立方体が二面体がその頂きを冠のようにかざっていたのだ、 修道院や塔のあたりを。一瞬、孤独の蜃気楼の荒野。だが、見上げれば彼の前方には人口 稠密な地帯もあれば、電車も通っている。執政官の道にそって。彼も知っていたが粘土地 帯の向う側では鞭で叩くように風雨が砂丘を痛めつけていて、そこに恐怖があった。小さ な谷間の閉ざされた地. 平線があり、疲れた沼地があり、泥があって、そこではさえぎる ものもないまま冷たく、凍るような線色をした籐の茂みが厚く茂っていた。時々、思いも かけないときに丘のお尻のあたりに大きな、古びた塔が忽然と現れて目を光らせ、ここ何 か月も通らなかったけど今日にかぎって通った男がいると認めていた。帽子をまぶかにか リベッチョ ぶったように屋根が一方にだけ傾斜していて、壁は去りやらぬ夏の陽に焼かれ、南西風の スープが塗りたくってあった。それを乾したのが孤独である。軍曹は自転車に乗りながら 考えたが、ついさっきたっぷりと収穫のあった鉄道監視所はほんの一瞬かもしれないけれ ど、例の通称イジニオというレタッリ・エネアが、まずまず不可能と思われる逃避行の最 初の行程で、逃げ道とも隠れ家ともしていたのではないか。アッピア街道、アンツィオ街 道といった幹線道路には監視の目が光り、オートバイの警官や、ひょっとするとよその憲 兵隊のパトロールがいるかもしれないし、それに赤く塗った荷馬車も行き来し、このごろ だと新酒の桶を山とつんで (脇から見た目にはそう見える) 下ったり上ったりしているこ とだ。それから朝の早い野菜づくり、陽気に鈴を鳴らしながらロバの背で売り歩くリコッ タ (チーズの粕汁) 売り、それに泥や昨夜の雨ですっかり汚れたまま時おり走って行くト ラックには舵手よろしく、運転席のフロントガラスを前にして肥った運転手たちが陣取 り、防水をした黒い油布の上着を着て、酒やけした顔を狐の皮のえりに埋めていたが、こ うしたてあいは見ていないようでいながら、誰が道を通って行くかちゃんとお見通しだっ た。しかもみんなが今では例のふたつの犯罪がのっている全部の新聞を読んでいたのであ る。その一方では、イジニオがほんのちょっとにせよ鉄道監視所で休んだあと、カサー ル・プルチャートまで達し、アルデアティーナを越えたか越えないかはともかく、砂岩で できたゆるい傾斜の影を人に見られずにこっそり逃げたことも考えられるが、この傾斜と 200 第9章 いうのがアルデアの目に見えない防壁になっているし、山羊の神、牧神のための洞窟とも 避難所ともなっていて、さらにまたまた別の仮説では、なんとかローマ=ナポリ線のサ ンタ・パロムバ駅までたどりつき、ここで職を探している日やといよろしく、列車を待っ ていたともいう。この駅に止るふたつの列車のうちおそまつな方の「直行」列車を。ある いは……と、最後にペスタロッツィは両刀論法の角を二重に使って、敵が息切れし、汽車 賃を持っていない場合はやはり田園にとびこんで、ソルフォラータやプラティカ・ディ・ マーレの方角にある公爵の大灌木林に入って行ったのではないかと疑ってみた。そこから 海岸に出て、あとは小屋でパンをねだりながら、休み休みオスティアまで行ったか……ア ンツィオまで足を伸ばしたのではないか。となったら、もう見つかるわけがなかった。本 当だ。だが、そうではなくて、ローマ行きの列車に、乗ったというのはあり得ないだろう かね か。とすれば、出札口で出す金はあったのか。金をやったのがいるとすれば誰なのか、金 をやったのは……。ラヴィニアか……。それからカミッラはちがうだろうか。あのぶす女 が金をやったという方が、ずっとあり得ることだ」 そんなふうにぽんやり考えているうちに、やっと道路のことに気づいた。もうアンツィ オ街道のところまで出ていたのだ。いまあげたような疑点は何ひとつしめくくりのつかな いまま、これは准尉の任官試験になるのだぞ、兵営で何もかも決着がつくんだと自分の一 身上のこととして一応のしめくくりはつけた。だが、「事実の再構成」という精神もしく は悪霊が彼のこめかみをハンマーのように叩いていた。レタッリか……さあ、なぜ盗品を 鉄道監視所に置いていったかだ。あそこなら……誰も、そうだ、サンタレッラ准尉でもと うてい考えつかないだろうし、あの監視所には醜いフィアンセがいる、醜いがしっかりも ののフィアンセが。しかもあたりの田野には住む人もない。逃げることに決めたのは、人 びとの世間話のなかから聞きかじったとか、みんなの読んでいる新聞の見出しを読んだ直 後のことにちがいない。宝石は……だめだめ、家になんか置いておけるわけがなかった (「潜伏」したあとほんの数時間で、家宅捜索が行なわれたぐらいだ)。当然見つかったは ずである。証拠となり、懲役というはこびになったろう。つかまった場合を考えると、身 につけて歩くというのは引き出しにしまいこんでおくのに劣らず危険だった。で、こうい うことになったのだ。だが、逃げるにしても、人目をしのんでいるにしても金は必要だっ た。それに汽車に乗るにしても。で、おそらくはカミッラが結構持っていて、それをやっ たのかもしれない。やっだのがもじれないど……おガネをずごじ、で、抵当としてサファ イア、トパーズを少々置いていったのだが、これはもうやったも同然であった。 ところが、そのカミッラは自分は貧乏だと泣いて訴えていたじゃないか? 軍曹の頭は 混乱してしまった。どの仮説もどの推理も実によく組み立てられているくせして、ほどけ た網のように弱点のあることが明らかになった。つまり、小魚は……はいちゃである。非 の打ちどころのない「再構成」という小魚は。レタッリはずっといかがわしいやり方だと は思うが、イネスのところのあの金髪野郎のように、またサント・ステーファノの金髪で 目には見えない訊問の神さまがガニメデ・ランチャーニのような役割を演じてきたにちが いない。だが、こうしてかなりくたびれた残り滓のようなところまで話が来たところで、 いろいろ調べてやろうという貧欲さもしぽんでしまった。ガニメデというのは彼の記憶の 資料保管所のなかでも、いちばん分類の容易な人名であるが、ディオメデとなると話はち がった。 二輪馬車の娘たちはふたたび口争いをしているようで、事実、小声で聞くに耐えない言 葉をやりとりし、悪魔やヒステリックな魔女よろしくふくれっ面をしていたが、今のとこ 201 ろ勝目はどうも目つきが狂暴で、口もとに軽蔑の色を浮かべたきれいな方の女にあるよう だった。この争いに、死んでもいいぐらいの好奇心をよせた真面目なペスタロッツィは せっかく耳をそばだてながら聞こえなかった。スプリングのきしむ音、自分の自転車がご とごという音、馬車を引いている馬の尻から出る何発もの破裂などが邪魔して、見たとこ ろ、そして事実もそうなのだか、いかにも心をくすぐるこの口争いをじっくり賞味するこ とができなかった。かててくわえて、邪魔な鞭が降りおろされるし、とんまな御者が運転 する人特有の眠気からはっと覚めるたびに、声を出そうとして、あああとやってみるのだ が、全然うまく行かなかった。なにしろ馬はかわいそうに、もうこれ以上は速く動けない し、優しい尻がこれ以上破裂することもなかった。とにかくだめだった、軍曹には聞こえ なかった。 「それっていうのもね、あんたが少しばっかのお金を通帳に書きこんでるからよ」とい うのが突然聞こえたものだから、片足を地面についた。「だからなのよ、あんたみたいな みっともない女なのに、イジーがフィアンセだなんていっていたのは。さあ、どうなの かね よ、あんたなんか、男の子がほしくなると金を出して買うような女たちの仲間でしょ」そ して、べっと痰を吐きすてると、それがとんで御者の臆病そうな膝にあたり、御者はああ あと叫んだものの、もう時すでにおそしで無駄だった。それに、せっかく叫んだところ で、馬は止まっていて、(自分の主人の) 目にふれないよう用を足すため、両足を開いてふ んばっていて、動くどころではなかったのだ。軍暫の顔はのびのびとして、気持もなごや んだ。 かね 「そうなんだわ」と頭に来ているラヴィニアは叫びつづけた。「あんた、お金をやるのが いやになったんだわ。で、かなり渡してからいやになったもんだから、彼の方で担保がわ りにこれぐらい置いてこうと考えたのよ。つまり二干リラで買ったってわけね、自分でも そういってたじゃない」 「嘘つき、恥知らずり魔女、スパイぐらいやらかそうっていうあんただもの、どう本当の ところをいったら、だってね、あんたみたいな嘘つきスパイは誰の役にも立たないのよ、 かね もちろん、お金を払ってくれるやとい主にだってね」 「おいおい、君たち」ペスタロッツィはマットナーリ従姉妹が自分にあまり尊敬の念を 持っていないのにむかっ腹を立てて、こういった。「こんどはなんだい。いいたいことが あるなら、兵営にいってからやってくれよ。ふたりしていっしょにさえずるのを、准尉さ んがうっとりと聞いてくださるぜ、夜中まででも、そのあとだって口嘘嘩ぐらいさせても らえる、それはもう確実さ。鶏小屋に入ったら、好きなだけ突っつきあうんだな。さしあ く に たり結構だ。しずまってもらおうか」彼の故郷では今というかわりにさしあたり、さしあ たってなどといういい方をしていた。それはローマでも同じだった。こうして怒れる女ど もふたりの争いは静まり消えていったが、ちょうどヴィニアのすばらしい唇の上を逃げな がらおとろえて行く雷鳴に似ていた。ファラフィリオは徒歩で興奮し、チーズ色のしみの ほかは顔を紅潮させて追いついて来たが、そのしみが遅ればせの堅信式のようにあごを 白っぽくしていた、首のすぐ上のところである。上り坂は何かとこたえるとあって、あと ずさり気味にやってくるこの風船野郎だが、その上衣の短いこと、昼夜平分時の償慨を覚 悟しきっている様子ときたら、いやおうなしにあの火で堅信礼をうけた (洗礼をうけたの ではない) 連隊の古い話が思い起される。 Le bon vieux grenadier pui veveuait des Flandres... était si court-vétu puón lvi 202 第9章 voyait son tendre... (フランドルから帰って来た 古参でのっぼの精兵 あんまり短い服なので 大事なところが見えちゃった) 一方、馬はやっと落ちつきを販りもどし、勇敢な兵士が小休止の原因を知るようになる より早く、どうどうどうと決めつけるかけ声とともに、元どおり引っばり出し、仕事にか かったのであったが、その小休止が遠くから見ていると上官の思いやりから御者に命じら れた待機、つまり彼ファラフィリオ、彼自身に与えられた寛大さと完全な許しの現われと いうふうにみえたのであった。だが、馬の小便でできた水たまりを見つめ、そこから湧き 上る甘ったるい、まだ生温い蒸気を嗅ぐと、首や顔の特別な部分の赤い肌に彼なりの叱責 と彼なりの軽蔑が現われていた。この馬の小休止はあまり上品ではないが、押えようのな い性質のものであった。しかし、ひと鞭くれてやれば、あるいはまだ避け得たかもしれな い。とにかくご婦人がふたり乗りあわせていたのを考えなくちゃ。 203 第 10 章 その同じ日の朝の同じ時刻、つまり三月二十三日、水曜日、通称イジニオことエネア・ レタッリが住んでいた (そのときはそこに住んでいたのだ) トッラッチョでの捜査が不調 に終ったとあって、サンタレッラの准尉ファブリツィオ騎士爵はオートバイでマリーノか らアルバーノに至る州道を走らせていたが、この道はやたうと木が茂っていたというか、 丘一帯を埋めつくした庭園、公園の木々が両側に並んでいた。三月になって見るとニレ、 プラタナス、カシなどの一部が裸かになったり、ぼろぼろになったりしているが、木に よってはサン・ビアジョやサン・ルチオのお祭りにはちゃんと緑色の葉をつけていて、イ タリア松、ヒイラギなどがそれで、屋敷の中には月桂樹の清澄な家庭的ともいえる友情が ただよい、この月桂樹を使ってよそではアカデミー会員の頭に冠をのせていたり、場合に よっては詩人が冠を戴くこともある。ひとつだけの示唆やひとつだけの手がかりではな く、もっと多くの点からして、手配中の青年は (大ざっばなところ) パヴォナとパラッツォ に向かい、いわゆる表街道がそれなりに危険だと思えたのだろう、裏道や小道を下りて 行った模様で、この説には信じるに足る、というか少くとも拒否できない根拠があった。 彼もまたうしろに兵隊をのせていたが、なかなかできた准尉で、ちゃんと短銃で武装して いた、自分でとまどうというようなこともなく。 Turing の賛美歌作者の七音節を何とな くあいまいに示唆するだけのメロディに変えたうえで、彼の考えは逃亡者のあとを追った が、この相手というのが彼よりはある程度優位に立って、今や大股に「発見不能の状態」 という表現を越えて進み、ロマンティックな「行け」という表現を利用していた。その言 葉、その刺戟にせっつかれたようにして鬼の准尉どのは鼻と口の間で歌いながら、倣慢 な (そしてまたそのように想像される) リズムをモーターの爆発音に結びつけていた。カ ステッロの駐屯地にいるふたりの兵隊にハンドル電話で手を貸すように頼み、ふたりが車 と、といっても自転車だが、とにかく車を用意しているのを知ると、パヴォナに行くよう 命じた。 それにしてもこの金髪男の行動領域というのが全く変っていて、人間がごろごろし、下 司な連中はかりいてふつうとはちがう生き方が通り、別の地名で登録したり、別の名前で 知られたりする界隈で、神聖な遺跡、五階建の家々が立ちならぶウンベルトふうの灰色の 雰囲気、電車があえぎ、それでも鈴を鳴らしながら循環しているその一角であり、いわば 仕事と余暇、終業時と残業時の場になっていて、ここではぶらぶらしたり、時にはじっと 見つめたりふざけ半分や気まぐれから鼻をつきあわせたりしながら、どうやって何もしな いで放心したように (彼の話ではそうなのだ) したらいいかという技術をひけらかすし、 また、樋の上を歩く夢遊病者のようにいっさいの仮説、いっさいの距離感というものが沈 黙したところにおのれの身をゆだねるあの教会の暇人のしあわせな知恵がくりひろげられ るのだが、さて、彼はというと思いっきり行動的になり、人びとが道を行きながらやるよ 204 第 10 章 うに、ひっきりなしに次々とぶつかって行くのであった。バーのあとは靴屋、ソーダや石 鹸の売店などだが、それらが庭園の鉄柵にそって並び、その内側に斜めに生えたシュロの 木が見えたが、これが黄ばんで冬に痛めつけられ、乾いた空の下で、うつろいやすい時間 はもちろんのこと、北風の確実そのものの三日祈祷にもやられて衰弱していた。噴水、サ ンタ・マリア・デラ・ネーヴェ大寺院、城壁の残骸のアーチと円蓋、胡椒石と砂岩の立方 体、そして、トゥッリオとガッリエーノ、リベリオ教会などをしのばすものが、かまどに 黒い指を置き、商売で皺くちゃになったきびしい、すすだらけの顔をした栗売りの呼び声 に感しられたし、また、ガラスの告白室の中に顔を埋めた順番待ちのタクシー運転手のだ ア ウ ト メ ド ン テ んまりにも感じられたが、大体このアキレス戦車の御者については、その静かないびきが 彼を駆っておよそ待つなどという意識を忘れたはるかはるか彼方へと漂流させてくれるま では (呼びかけを、命令を) 待っているといえるかもしれない。 サノタ・マリア・マッジョーレの鐘がアスカニオの窃盗事件に与えた祝福について、 ゆったりしたカンタータがあって、そのあと、イネスのしめくくりのアリアがあってか ら、そいつはこのおれさまが明日の朝にも見つけてやるからなと金髪男はひとり言をい い、そして檻のライオンのように二時間も喉のあたりをうろうろしていた大あくびを、出 口のところで吐き出したのだが、そのとたん、手であくびを押さえてしまったのは、フー ミ警部か彼に向かってこういったからだ。「この若僧のことだけど、君にまかそう。エス クイリーノをぐるりと回るんだな、それからカルロ、アルベルト街、ひとりで行くんだ、 ファラリヨーニ きっとヴィットリオ広場でつかまるよ、例の絶壁遺跡の向うでな」イングラヴァッロは押 し黙ってうなずいた、別に行くまでもないとしても、彼が行くのが本筋だ、ましてや行っ た方がいいのは目に見えている。「間ちがいなくつかまるよ。娘の話は疑う余地がない」 翌日、十時きっかりに金髪男は所定の場所にいたが (シュロの木の間をひとまわりした あと)、ちょうど女たちが買物に出かける時間、夕飯だけではなく、それよりむしろ差し せまって用意をしなければいけない昼食が気がかりで、いわばモッツァレッラ・チーズ、 ふつうのチーズ、虫下しのたまねぎ、雪の下で辛抱づよく冬ごもりしていたちょうせんあ ざみ、香料、上等なサラダ、子羊などといったものの時間である。その朝、広揚の屋台で 焼豚を売っている人びとのまわりにはお客がむらがっていた。サン・ジュゼッペ祭からあ とは、いうなれば焼豚のシーズソである。たちじやこうや、まんねんろうのみじん切りを 入れ、にんにくについては今さらいうまでもないことで、そえものをつけたり、砕いた青 物をまぜてじゃがいもを詰めたものもあった。だが金髪男の方は頭をふりふり、ぎごちな くのんびりしたところを見せて、わめき声と赤いオレンジの間をどんどん進んで行った が、その間ずっとこっそり口笛を吹いてみたり、それとなく唇をゆがめてみたり、ふと黙 りこくって、さも偶然にしたように目を上げてあちらこちらと見るのであった。でなけれ ば、じっと黙って立ち止まり、中折帽を額の中ほどまでまぶかにかぶり、両手をボケット に入れ、寒気のする背中を明るい色の薄手の外套に包んで、軽くはおり、両方の袖をだら りと下げたところは燕尾服の尾を思わせた。それはまがいもののスプリングコートで、毛 深く、やわらかそうだったが、あちらこちらがすりきれていて、いかにも眠たげな伊達者 が、吸えるような吸いがらはないかと探している、そういうイメージを作る上で役立って いた。呼び声や、さあ買った買ったというさそいの声の渦、それにチーズのようなこのお 祭るさわぎで墓前の儀式さながらに名前が乱れとぶなかに巻きこまれながら。ゆっくり ゆっくりと安売りの屋台の前を通り、さらに人参や栗、それと並んで山と積みあげた白と 青のひげの生えたういきょう、白羊宮のまんまるな使節たちのところを通りすぎて行った 205 わけだが、これは要するに植物共和国の全景であり、そこでは値段や品物の競争のなか で、新しいセロリがすでに優位に立っていたし、さいごに、わずかがけ残っているかまど から漂ってくる焼き粟の匂いは去り行く冬そのものの匂いに思えた。多くの屋台では今や 時間も季節も超越して、ピラミッド型に積んだオレンジやくるみだ黄ばみ、籠の中では黒 く、タールを塗ったように光っているプロヴァンスのすももやカリフォルニアのすももま で黄ばんでいて、それを見ただけでデヴィティなどは喉のあたりからよだれが湧いてくる のだった。人声や叫び声、それに鑑札をもった女の売り子たちがいっせいに甲高く威嚇す る声に圧倒されて、ついにトゥッリウス王とアンコ王の古代の永遠の王国にまで着いた が、そこではまな板の上でうつぶせになったり、たまにはあおむけになったりしてゆうゆ うと横になり、あるいは時々、横を向いて眠りこけながら黄金色の肌をした焼豚がまんね んろう、たちじゃこうの入った内臓だとか、白っぼい柔い肉の中のそこここにある黒ずん だ緑のこぶ、胡板の粒を入れて薄い脂肉のように押しこんである辛い薄荷の葉っば一枚な どをのぞかせていたが、その胡椒のことを騒ぎの中で一番高い叫びをあげてこう宣伝して いた。「さあさあ、台所はもちろんだけど、ほかのマーケットでも、どこか知らないよそ いち の市でもこんど新しくつけることになった腺がこれだよ」さいわい、楽天主義が尻に帆を かけた形で、いっばいに品物の入った網袋や買物籠をかかえ、カリフラワーを枝葉のよう に抱きこんだ婦人たちの渦の中へ彼を追いこんでくれたおかげで、そんなにむずかしくは なくてすんだ、つまり、イネスのおしえてくれた人相風態をもとに、数歩離れていたにも かかわらず、問題の相手を見つけるのはむずかしくなかった、おとなしそうなラッパ吹き で、もってこいの相手である。屋台のうしろに立ったところはすらりとしていて、その瞬 間の感じではイネスがしきりにいっていた恐怖、臆病さとは裏腹で、ちゃんと目もある し、髪の毛は濃い目の長髪で、油をつけすぎた感じであり、それを片方にだけ硫いてい た。おばあさんといっしょにいた。てっぺんを見ると、少しひたいにふりかかった髪の毛 が、気ままに櫛を入れたあとサラダのように、あるいはまた小さなうねりが刃のようにく るりと巻いて、いまさっき沸きかえっていたのに、今はもつれて沖へと引いて行き、つい には砂浜から消えて行くのにも似て、うねった感じになっていた。白い前掛けをさらりと 掛けて、大声をあげながらナイフを概いでいるところで、一本は長く一本は短く、その間 にも彼、金髪男の方を見たが、別にことさら見たという様子もなく、あのくすんだ金髪の 頭でかっちめ、歯を抜くことしか知らない大道歯医者なみの中折れ糧を面のところまでか ぶりやがって、両手をポケットに人の前に突ったってるだけで、あれはきっと豚が食いた かね くてたまらないってとこだな、いざとなって金がなけりゃあ、かわいそうに奴さん、欲し くて焦がれ死にでもするんじゃないかな。「豚だよ、豚はいかが。ちょいとした豚ですぜ、 お客さん。腹のなかにゃまんねんろうの木がまるまる一本入ってるんだ、アリッチャから じかに取りよせた上等の豚だからね。シーズンもののじゃがいもも入ってますよ」(この シーズンというのは彼が夢に見たことであって、実は古いじゃがいもをこまかに切って、 パセリのこま切れといっしょに豚の脂のところへ詰めこむわけで、じゃがいもは尊厳を失 うのである)「シーズンのじゃがいもですよ、紳士や議員の皆さま方、お美しい奥さま方、 サラダに入れる固い卵なんかよりはおいしいですよ。雄鶏の卵よりおいしいんですから ね、このじゃがいもは。なにしろこのあたしがいうだからねえ、とにかく味をみてごらん なさいよ」ひと息つこうとちょっと休んだ。それから突然に「百グラム一リラと九十、豚 ですよ。これこそ出血だ、みなさん恥ずかしいと思っていただかなくちゃあ、みなさん、 ここへ来て、こんなに安い買物をしたんじゃね、百グラム一リラと九十だなんて、口では 206 第 10 章 かね いえても、なかなかやれないことですぜ。さあ、手に金をにぎって来てくださいよ、さあ 奥さん。食べないようじゃ、稼げませんぜ。百グラム一リラと九十、豚肉ですよ。上品で デリケートな肉ですよ、みなさん方にぴったりだ。味を見てくださいな、食べてごらんな さい、このあたしがいってるんだぜ、ねえ奥さん方、上品でおいしい肉だよ。食べれば食 べるほど、また食べたくなる、どうも得するのはみんなお客さんだね。カステッリの上等 の豚だよ。灌木地帯の乳母のとこへ連れてったぐらいだから、ガッローロの灌木地帯へ連 れてってね、カリグラ帝のどんぐりを食わせたんだ、コロンナ王子のどんぐりをね。マ リーノとアルバーノのえらい王子だよ、悪漢のトルコをやっつけたんだからね、海はもち ろん、足で歩いたレヴァティの大会戦で地上でも勝ったんだ。いまでもマリーノの会堂に 行くと額があるでしょ、トルコの半月形のついたのが。おいしい豚だよ、みなさん、まん ねんろうの入った焼豚だ、シーズンのじゃがいももついてるし」そして、これだけどなり 立てたあととあって、ひと休みすると、悲劇役者があらためてポーズを取るように、それ こそ深刻な様子でまたまたナイフを研ぎにかかった。だが、ナイフをふたつ片づけると、 また炎がもどってきて、戦慄が身体をゆるがした。これはさっきとは別の変化が突如、燃 え出したのだ、というかそのように警官には思えた。目を落して「ためしてごらんなさ い、お客さん、味をみてくださいな、百グラム一リラと九十で豚が食べられるんですよ、 奥さま方によろこばれること請けあいです」それからちょっとかわいい女に、声の調子を 落して「いかがでございましょうか、美しいお嬢さん」娘の方はそのもったいぶったいい まわしについつい笑い出してしまった。「焼豚半ポンドでしょうか」そして小声で娘に話 しかけながら、その日は文無しの大道歯医者からはなさなかった、「お客さんには一番お いしいところをさしあげますよ、ええ、ちかってもいいですよ。あたしゃすっかりお客さ んが好きになっちゃってね。なにしろきれいだもんなあ。わざわざお客さんのために焼い たのをさしあげましょ. う、じゃがいもをふたつつけてね」それからまた、あいもかわら ずがなりたて、今度は目を空に向け、軽薄に秘密をもらす人のように顛をふくらませて 「さあいらっしゃい、豚を買ってらっしゃい、お客さん。さあさあ、おぜぜをさがし出し て、こいつはまたとないチャンスですぜ、豚をいつまでも屋台にさらしとくなんて恥ずか サッコッチャ サッコ しい謡だね、いつ雨が降るか分んないんだよ、お客さんのポケットに財布のあることぐら い分ってんだから、現なまのあるぐらい。けちけちしててはみっともないよ、お客さん。 現なまさえ出してもらえば、豚はもうお客さんのものですぜ」 こんどはおばあさんが、そう彼女がおばあさんだとしてのことだが、はかりやおしゃべ りで相手をごまかしながら、それでいて結構、その赤い顔の下女をすっかりよろこばせて いた。一方、彼の方は「百グラム一リラと九十ですよ、黄金色の豚だよ」だが、その同、 金髪男の大道歯医者はあいかわらず彼の方を見つめつづけていたが、帽子をうしろにやっ たとあって、そのせいで額がむき出しになったのを見ると、本当のブロンドと栗色の間 の、もじゃもじゃに逆立った麻屑のような髪の毛のせいで、すっかり炎に包まれたような 感じだった。その両脇にふたつの人影が現われたが、最初からいるのよりは暗い感じの手 ごわそうな男たちで、ひとりはこちら、ひとりはあちらと黙りこくった警官のよう譲なれ て立ったが、こちらのプルチネッラ*1 君、少したってそれに気づき、たちまち大あわてを したものの、行動に出る段となると、もたついた。そして当人のこの若僧はしだいに「お 客さん、お客さん、百グラム一リラと九十だよ、豚だよ、豚、そうなんだ、豚なんだ、あ *1 ナポリの仮面芝居に出てくるおどけた移り気な人物。 207 たしには分ってるんだ」とまるでひとり言をいうようになる一方、声はますます低くして 行って「ブ・タ」と力なく音節に切って「ブ……」というようになり、微かな息は喉で消 えてしまうかに思えたが、それはろうそくが流れてすっかり熔けて、臭い水たまりみたい になってしまい、その真中から焦げた尻尾が顔を出しているときの明りと同じで、ますま すうらぶれ、黄ばんで行くのであった。そこを突如として三倍の明るさになったライトで 照らし出されたようなものだ。というわけで、察しがつかれることと思うが、相手が何者 か分ったときはもう遅くて逃げるどころではなかった。ナイフを台に置いておばあさんに 「おれに用があんだってさ」とささやきかけ、もう前掛けを外していた。脚ががくがくふ るえていた。それでも金髪男にはちゃんと挨拶をしなけれぱならなかったし、相手は他人 には気づかれないよう一枚の紙片、つまり身分証朋書を出してみせると、例のきれいなお 守りを鼻先につきつけて小声でいった。 「ちょっと署に来てもらおうか、おとなしくしていれば誰にも気づかれないですむ。こ ちらのふたりも私服警官だけど、よかったら自分が連行したい、ふたりに護衛の手間をか けずにだな。君はランチャーニだな、ランチャーニ・アスカニオ、こっちが間違っていな ければ」そこで彼としても騒ぎにならないようにと、焼豚とナイフを置いて、全部おばさ んに……おばあさんにまかさなければならなかった。彼女はその場にきつい表情で立ちつ くし、不安でいっばいの片目を群衆の方に向けていたが、群衆はそんなこととは露知らず 通りすぎて行った。自分は警察に連行するようにという命をうけてきたのだと、金髪男は 手短かに彼女に知らせ、もう一度、書類を販り出して見せると、 「ランチアーニ・アスカニ オ」とつけくわえていった。おばあさん、この店の女主人、中年の百姓女といった彼女は この商売のわりには髪もまだ黒々として、うんとやせぎすであり、木のように干からびた 皺くちゃな顔をしていたが、これからどんな態度を取ったらいいのだろうか不安げで、そ んな馬鹿なことと愕然としながらも抵抗した。「この子は何も悪いことしてませんよ、罪 になるようなことは」といった。「それなのに、なぜ連れて行くんですか」金髪から小声 でたずねられて自分の名前、苗字、住所を告げ、屋台を出す免許証も見せた。そして、別 に興奮した様子もなく、自分はアスカニオの母親の叔母だとつけくわえた。金髪はこの資 料をちびた鉛筆で紙片になぐり書きすると、ポケットにしまいこんだ。まるでいとこ同士 が話しあっているようなもので、誰も見とがめるものはいなかった。グロッタフェルラー タの出身だということは、おばあさんが不承不承認めた。グロッタフェルラータの町で、 フラットッキエの名をとってトッラッチョと呼ばれる一画の出身だが、ローマに出てきて もう八年になり、そう、ポルタニフティーナの外にあたる、いうなれば野菜のどまんなか で、ポポロニア街と書かれた標識がいちおう出ている田舎道で「そこなんですよ、野菜作 りが掘立小屋に住んでいるのは。あたしたちもそこでしてね、鉄道の前です、すぐそこの ところにね」とジェスチュアをしてみせ「葦の間を下りてくとカッファレッラの沼地まで 出るんですよ」 「カリフラワーの真中に掘立小屋があって、だいたいチョーセンアザミを作ってます」 アスカニオはそこでみんなと寝ていた。広場で何かと手つだいをするのと引きかえに、お 情けで泊めてもらっていたのだ。父親は……まあいいだろう、父親のことは。兄はもう ニカ月も仕事がない。「どうしているのか消息がないんです」アスカニオのことはという と……みんなして助けようとしてきた、この子を「あたしらにできるだけのことで」そし て、あとできっと帰してくれるという保証を取ったうえで、すっかりしょんぽりしながら も、若僧が連行されて行くのを認めた。ふたりの色黒の保護天使にしても、お客たちはも 208 第 10 章 ちろん、自分たちにも騒ぎがふりかかってほしくないと、屋台から離れたずっと向うで待 ちうけていた。若者はあれだけ客寄せで声を使ったあととあって顔も青ざめてしまい、屋 台をぐるりとまわって、脇にいる新しくできた従兄弟の方に行った。そこで金髪が名演技 を披露した。頭をふりこのようにぶらぶらさせ、肩をつき出して群衆の間を縫って行きな ・・・ がら、偶然にしたようにこの男にぶつかった。自分の男である。 「おい、おい、どこを見てんだよ、こんなとこで何をぐずぐずやってるんでい」(小声 で)「女中たちの尻をなでてるのか、男の財布でも狙ってるのか? ポケットのボタンが 破れてたらお前の仕業だぞ、本当のことをいうんだな」それからきっばりした口調で「さ あ、警部殿が用があるとさ、何かお前に話があるんだそうだ」それからうつむいたまま彼 の腋の下をかかえこんでいったが、何やら大切な話をしなければいけないというようにみ えた。 雑踏をぬけ出てマミアニ街やリカソリ街に入って行くと、そこは魚売りや鶏屋の屋台の 間が通路になっていて、イカ、ヤリイカ、ウナギ、ありとあらゆる海に住む種類のダツな どを売っていたが、もちろんカラス貝があったことはいうまでもない。若い男と彼、つ まり金髪自身はイカの明るい銀色というか真珠貝の色をしたやわらかい肉をちらりと見 て (内側の脈のところが念入りにみがいてあった)、別に自分から望んだわけではないのだ が、それこそ新鮮な湿気をおびた海草の匂いを嗅ぎ、空の感覚、塩素=臭素=沃素的自由 の感覚、ドックの生き生きした朝の感覚と、腹の底から湧き上ってきた空腹感をいやすべ く揚げた銀を皿にもって出すという約束を感じとったのである。牛の胃袋を煮て丸めたも のが、巻き上げた絨毯のように一枚一枚積み重ねてあり、皮をむいたヤギの子のおとなし い解剖図もあれば、霜降り、それにとんがりながら、先っちょが房のようになっている 尻尾もあり、それらはみなまごつかなく高貴さを意識していた。「四リラで何もかも売っ ちゃうよ」と投売屋で宙にさしあげながらいっていたが、その全部というのがどれも半分 しかなくて、ローマのレタスの白い束やすっかりちぢみあがった緑色のサラダ、目がそれ ぞれ片側だけに向いていて、片方だけはこの世の出来事の四分の一しか見えない生き生き した鶏、鳥籠に黙々と詰めこまれている生き生きした雌鶏、黒いのあり、ベルギーのあり、 象牙色=麦わら色のパドヴァ種のありで、さらに黄緑色、赤緑色の乾いた胡椒などがあ くるみ り、ほんのちらりと見ただけで舌がひりひりし、口に唾がこみあげてきたし、胡桃、ソル レソトのくるみ、ヴィニャネッロのはしばみ、それに山と積んだ栗もあった。さらばだ、 さらば。女たち、肉づきのよい内儀さんたち、暗いというか草のような緑のショール、先 が開いたままの乳母用のピン、つまり安全ピン、やれやれ、その時、となりにいた女の乳 コ ス イ・フ ァ ン・ト ゥ ッ テ 首をチクリか、まあ、女はみんながこうやるものさ。ふわりふわりと動いて行く蛸と同じ で、売り揚やパラソルの影を次から次へと移っては、セロリから干したいちじくへとやっ とのことで移動して行き、ふりかえったり、おたがいに尻を押しつけあい、袋を買物で いっばいにして腕をふりまわしながら道を開いたり、息をつまらせ、口をもぐもぐさせた りで、ちょうど水が少しずつ減って行く罠の養魚場に入っている大きな雌の鯉というとこ ろ、いっばいになり、もみくちゃになり、この大食料品市の渦の中に肉塊もろとも一生を 通じてわなにかかってしまった。 * * * 209 その間、ドン・チッチョの方だが、彼も彼で時間を無駄にはしていなかった。夜中を半 時間まわったところで帰宅すると「三月二十一日、月曜日、ベネデット・ダ・ノルチャ 祭」と釘に掛かったカレンダー (向かいのパン屋が年末の挨拶にくれたものだ) がおしえ てくれたが、あいにくとマルゲリータさんがめくり忘れたものだから二日前のがまだつ いたままだった。熔けた金属の大きな滴りがひとつ、午前一時、サンタ・マリア・デラ・ ネーヴェの時計が知らせた。いっさいの推理は朝まで伸ばして、横になり、眠りこみ、大 きないびきをかいた。怒ったような震えるようなその音が突然、眠りこんだ家の静寂の中 に遠去かったとき、思いもかけず、(テーブルの) 大理石の上にあった目覚時計用の懐中時 計が鳴り出して、また一日の怠倦が始まるよと告げたとたん、ドアに女主人の慎重なノッ クの音が二回聞こえて、大ばか者の時計の狂ったような警告に裏づけを与え、その結果は 寝がえりを打とう、このまま眠りつづけようと頭の中で精一杯ねがっていたにもかかわら ず、六時にベッドから引き出される始末となった。ごっついお尻からすべり出て、ベッド の縁からどすんと転がり落ち、百姓のようにしゃがみこむのであった。たくましい身体、 太い脚、夜に着る赤い平行のしまの入った藁のように黄色いフランネルのバジャマからは み出ているので分るが、膝から下は毛深そうに見えていて、その彼が覚めた顔で考えるよ り先に、とにかく落っこちたという事実そのものを ipso facto 後悔するのが常で、ベッ トの脇に虫食いだらけの敷物が敷いてあるにもかかわらず、床にひびきわたって、まこと に積極的な起床を階下の神経質な技師さんに知らせ、たちまち目ざめさせてしまうのだっ た。夜、家に帰ってくるときの北風にしても、いったんベッドに入ってしまってから夢で 吹く突風にしても、なかなか、その子羊の毛のような頭髪を乱すまでには行かなかった。 黒く、それもタールをぬったように黒くてちぢれて、びっしりと生えていて、新しい日の 明りにきらきら輝くところを見ると、ペスタロッツィがどう考えていたかは別として、整 髪剤の必要はなかった。ごっごつした脚はその一部を見ると皮膚の表面に、これまた黒い 電気が飽和状態にあるような毛を垂直に立たせていた、というか弓で射込んだようになっ ていたが、ニュートンやクーロンの場の力の線のようであった。まだ目を閉じたまま、と いうか、ほぼそんな状態のままスリッパをはいたが、それは二匹の小さな動物さながらに パ ル ク 嵌め木の床にうずくまって彼を待っていたようだ、それぞれに自分の足を。カモラ党*2 員 にふさわしい無法者が意識を取りもどしたように伸びをすると次々とあくびを八回も九回 もくりかえし、丈夫な下あごが外れるのではないかと思えたぐらいである。そのたびにう うむ! という言葉で終ったが、それできりがついたのかと思うとそうではなくて、全く の話、すぐに、そのあとすぐにまた始まるのだった。左の目から涙がこぽれ、そのあと右 からもゆっくり、ゆっくりと、次々にあくびを重ねてはしぽり出して行く、牡蠣売りが 次々とレモンを半分に切ったふたつをしぼって行くのと同しだ。頭をやたらに掻き、後頭 部のジャングルに爪をぼりぼりぼりと三本立てたところは猿のよう、夢遊病者なみの足ど バ ス りで「風呂場に」向かって行った。そこまで着くと、かんぬきをかけてドアをしめ、それ こそ急進的な迅速なやり方であの今にも洩らしそうなたまらない気持を静めることができ たが、この気持が毎朝、膀胱に (といっても膀胱の方はぴちぴちと若々しいのであるが) 持 ち主が直ぐに目ざめることを伝えるのである。 こうしたことが、よくしまっていない、ということはっまりよくしまらない窓から入っ てくる三月の透き間風といっしょになって頭のもやもやを吹き払うのに役立ったが、この *2 ナポリの秘密結社。 210 第 10 章 シ ロ ッ コ 透き間風というのは東南風が吹きこんできたものである。ベッドと眠りのせいでまだあた たかいパジャマを釘にぶら下げてから、あらためてその自分自身の夜の皮膚がうつろに、 汚れなく下っているのをながめた。明るくなっていった。眠っているとき、それこぞ下手 な歌を歌って、いわぱマルシアだったのが、こんどはアポロになったみたいである*3 。と いっても、もう二十代ではないし、髪の毛がびっしり生えたアポロである。大きな頭をも う一度かきむしると、洗面台のところへ行き、リンパを自由に動かしたあと、まず鼻、そ れから顔、首、耳というふうに石鹸をつけていった。洗面台の高い蛇口の下で長髪のも じゃもじゃ頭をゆさぶり、ラッパのような鼻息をたてているところは、水中をぐるぐる まわって水面に出てきたあざらしなみで、そのぐるぐるまわるというのが彼の場合は毎 朝、「占領された」バスルームで行なわれるわけで、彼の派手な沐浴がどんなものかは充 分に察しがつく。かんぬきひとつでへだてられたドアの向う側では甘いオルガスムスとデ リケートなおののきが、その瞬間、例によって親切な家主マルゲリータ夫人をとらえて いたが、このひとは勲三等のアノトニーニ氏の未亡人、マルゲリータ・チェッリ、貸間商 売だなんて、いやいやとんでもない、れっきとしたご婦人でバルラーニ閣下、ピエール・ カルメーロ・バルラーニ総裁の義姉妹、だが総裁といっても、ちがうかな……いや、そう だ……何の総裁だったのか記憶はないが、とにかくかわいそうにその御仁が亡くなっても う数年になり、死囚は敗血症の化膿にともなう肺気腫で、彼はいわゆる家族全体の大黒柱 だったのだ。この建物のタイル張りの、それにふさわしい香り (猫のおしっことか燈油) がする廊下の持つ永遠性を、彼女はまずふつうでは考えられない奇蹟のような羽をひろげ て、ふわりふわりと静かに通って行きながら無にしたのだが、彼女が通って行く様子は、 今や消え去って、完全に機能を失った重力の場で、いってみれば磁力を失った磁石のよう に儀式をいとなんでいる感じだった。こうして流れるような小刻みの足どりで台所まで、 湯わかしのところまで行ったが、その足どりのひとつひとつはピンクのフランネルの長い 部屋着のせいで他人の目にはふれず、廊下に残されたのは、あとを引く裳裾のように言葉 のうんと厳密な意味におげる継続の観念そのものであった。綿にくるまって震えている幽 霊を思わすその流れるような足どりと軽快さは、もともと亡き「わたくしのガスパーレ」 の涙に濡れた手にささげられるべきものだが、(本当の話) ドン・チッチョがいつも没頭し ている沐浴と、それと同時に行なわれる鼻の気管のつまりを取り除く儀式、それが反覆の 詩節のようにくりかえされて行く流れを少しでも妨げることがないようにするためにも利 用される。貸間商売だなんて、いやいやとんでもない、ちゃんとした女主人として、しか も堅信式にのぞむ娘のようにほんのりと頬を染め、ふたたび胸の鼓動を高鳴らしながら、 一日で最初のお勤めに気をくばっていた。つまり起きるとすぐ、まず何よりも教会のさだ めに従ってミルク・コーヒーを出すわけだが、これはもう前の晩に用意してあった、マル ゲリータ夫人独得の、あの有名なダブルのミルク・コーヒーだ。だが、これは全くの狂気 の沙汰で、あらゆる婦人たちからこぞって非難されていて、なかでも貸間商売の女の下 宿人がうるさかった、さよう、こういう女たちこそまさに貸間商売というにぷさわしい。 まったくそうだ。「おかわいそうですわ」と彼女はいっていた。「おなかをすかしたままあ の方をサント・ステーファノにお送りしますのは」ちゃんと「カッコの」という言葉はつ け加えなかった。おそらくカッコという表現から脱線しては大へんという恐れがあったの *3 笛の名人である森の神マルシアはアポロとの演奏合戦に敗れて皮をはがれた。 211 だろう*4 。しろめ細工のお盆にうやうやしく出してあるのを見ると、鋼製か錫製かよく分 らない湯沸かしに入ったコーヒー、取っての取れたやかんに入れてあるミルク、砂糖はペ プトンの瓶が空いているので、それを利用し、丈の低いコーヒーポットのそばには油じみ た円筒型の茶碗がひとつ、揚げパンとバターを波状に置いてある小皿などがあり、黙って 見ているとふくれっ面のわれらが紳士は毎朝のように野牛さながらそれにとびかかって行 き、急いでいるのを口実にもぐもぐと一気に片づけるのであった。お皿までも。その朝は いまさらいうまでもなく、カレンダーによると三月二十三日水曜日、土掘る人サン・ベネ デットの日で、「あわれな魂の陣痛を体内に抱きて」とチェック夫人は十字身切る仕種を オ ー ラ・エ・ラ ボ ー ラ・プ ロ・ノ ビ ス し、「われらのために祈り働きたまえ」とマルゲリータ一流のいい方で祈った。「陣痛じゃ ない、心痛でしょう」とドン・チッチョはスープを口にふくみ、すっかり心を傷つけられ フ ロ・ノ ビ ス たようにぶつぶつ不平をいった。「それにわれらのためには余計ですよ」と、喉をしめつ けられた感じで顔を紫色にした。バン屑が気管につかえ、いまにも窒息しそうになった が、すぐにパンの皮もミルク・コーヒーも何もかも鼻から吐き出した。「陣痛でございま しょ、陣痛です」と女主人側が震え声でいった。「いかがでしょう。同じではgpざいま せんの? あなたは本当に教育がおありですのね、警部さん。学校の先生のように思えま してよ」そういいながらも二度、背中を叩いたが、いかにも実さい的な女性というか、ま るで妹のように、やれやれどうも、優しい態度は救いの神で、しかも彼女、どうやら叩き の専門になったようだ (ドアの固い板もそうだが)。警部さんの方はもう一度口をぬぐう と、立ち上った。すでに前の日の朝に細工をしておいたし、その後は夜、署を出るまえに 車の手配をした。電話で交換に頼み、車を出す責任者のところへ直接出かけて行って話を し、もう一度電話をかけたが、今度は夜の十一時になるというのにパンタネッラ次長がこ のことで勲三等のアマービレ氏と話しているところで、そのかわいそうな御仁の耳もとに 口を寄せて、たっぶり風を送っていたが、それは怒れる電子の雹というにふさわしく、ト ルコ人でも相手に話すように声を大きくしていた (耳が遠かったのである、アマービレ氏 は)。自動車ですね? はいはい承知いたしております。もう頼ませました。はい。来て ほしいと頼んでおきましたです。 そして信じ難いことだが、ちゃんと手に入れたのである、同僚の政治畑の主任警部か ら。相手は前の日からトルコ帽の二、三人とおつきあいしなくてはいけないため、どうせ 一日、何もできないとあきらめていたので、「P」連絡用の一二〇〇を都合してくれたが、 とおくべつ ただしあまり乗り気ではなく、 特 別 なお恵みだ。めったにないおごりなんだぞと大いに もったいぶってみせ、 「なにしろ君だもんな、ドン・チッチョ、分ってくれよ……イングラ ヴァッロ」という具合で、いつの日かお返しをしてもらうよ、そこのところを忘れないで ほしいといいたげであった。これがほかの人だったら、こういう優雅なことはするまい。 だめだ、「とんでもない。ごめんだよ」となるだろう。車といっても古靴なみで、恥ずか しくて乗って行けないほどの代物だ。がたがた消耗していて、でこぽこの泥除けに使って ある二枚の金属板は刷毛で黒く塗ってあり、でこぼこに波打っていて、ニスのこぼれたと ころがごつごつし、動き出すとそれがはためき、がたつくところは召使の半分空いた買物 籠からカリフラワーの葉が二枚のぞいているようだし、片方のドアはどうしても開かず、 ハンドルが変な具合についているせいでもう片方のドアはしめようにもしまらす、ガラス は一枚が上らないし、ライトがひとつこわれていて、文字どおりの片目、くたびれたタイ *4 カッコは陰部を指す言葉に酷似している。 212 第 10 章 ヤは古靴のよう、ひらひらがたくさん出ていて鼠蹊ヘルニアに似ていた。ところが、 illis temporibus これこそほかでもないローマ警察署長の栄えある乗用車だったのだ。マーチ の直後にギャングの手に落ち、そのあとすぐ時間や事件、それに自分が全速力で乗せて やった若者たちの教育などに比例してどんどん評判を落して行き、今ではてらうこともな く自分のことを、自分がどの程度使えるかということをあけすけに示していた。中に乗り こむと感じられるし、匂いがするのだが、きっとここで飲んだり、がぶ飲みしたり、モル タデッラのソーセージをかじったり、オレーヴァノ*5 で唇をぬっては、 「ひどい、このロー マの品、塗ってると油みたいで」「そう、そう、油さ」といったり、安たばこを吸い、く しゃみをし、痰を吐き、オレーヴァノやらソーセージを吐き出したことだろう。 というわけで、いまこの車に乗る人は政治関係であるとないとを問わず、みんないやい や頭をつっこみ、頭のあとから気おくれ気味の靴が入るが、片方の長靴がまだ地面につけ たままであり、疑わしそうな、盗み見るような目で、鼻の穴もまた同じだが、それという のもそうした汚物のなかから異臭といっしょに三ヵ月の死児の亡霊の青白さを帯びた蒸気 が湧き上りそうで、その死児にはらせん状に巻き上った尻尾とろばの小さな頭がついてい る。用心しながら、眉をひそめ、不安げに。誰もがよく知っているような種類の有機的排 泄物か何かが布地 (シートの) に残っているのではないかという考えが、利用者みんなを びくびくさせていて、慎重居士を不安に落すことはもちろん、向う見ずで無遠慮な人たち を慎重にするのだった、そういう人たちがいるとしてのことだが。みんながおそれおのの きながら、めいめい、自分の飾りもののことで少々ためらっていた。たとえばそれぞれの ズボン、毎月、毎月、月給から差し引かれ、分割払いをしているなんともみごとなズボン、 ちゃんとそれにあったベルトがついていた、いったんその床に突っこもうものなら、さっ そくあまりありがたくない汚れが輝きを台無しにしてしまう、それはセッキ神父の評判の しみが光球の明るい丸みをそこなったのと同じである。 そしてガソリンまで入れてもらったイングラヴァッロはいってみればカードを叩きこ すっているうちに、エースの入っている手をえらんだようなもので、あるかぎりのものを 絞り坂ってしまい、ベネヴェントに行って帰ってくるだけの分を詰めた。乗りこんだ三人 の警富は武装していて、ふたりは短銃をもっていたが、ブルジェスの下宿へ調べに行っ たつかまえ屋もいないし、ヴィットリオ・マヌエレ広揚に行かされた金髪. 男もいなかっ た。それでも三人ともいかにもたのもしく口ひげをぴんと立て、それに准尉のディ・ピエ シャフェール トラントニオが加わって四人になり、彼イングラヴァッ旦で五人、そして六人目は運転手 、まだ、イタリア本来のアウティスタといわなければいけないということもなく、使うこ とを認められている二十七のフランス語の単語に入っていた*6 。というようなことで機関 車になぞらえるようなことはするまい。いわぱふらりと漕ぎ出したスペイン広場の小ボー トだ。腸のようなタイヤをふくらませて、といってもそれはそれはやわらかいのだが、ど んどん走って行き、ひょっとして石にぶつかろうものなら、破裂しかねない状態で、道の 曲り角に出るたび、犬が道を横切るたびにブレーキをきいっとかけるのだった。ジョヴァ ピッチング ローリング ンニ・ランツァ街は工事中とあって百メートル以上にわたるくぼみのため縦揺れ、横揺れ をくりかえし、歩道を行く人の脚にまで泥をはねあげ、ぬかるみにつかった車体の放物線 状の金属板はだんだん曇って行く朝のピンクの光をうけてオパール色となり、沈んだり、 *5 *6 口紅の商品名か。 ファシズムの時代、外来語は禁じられた。 213 浮き上ったりするそのたびに絵具ぬりたてという感じで、はしばみ色の浴漕のようになっ ていた、ラルゴ・ブランカッチョでは、サン・ジョヴァンニ広場の方向へとメルラーナ街 を曲って行くとき、イングラヴァッロは階い表情で左の方に目を向け、窓ガラスを下ろし て見るとサンタ・マリア・マッジョーレで、拝廊の上にある回廊の暗い三つのアーチが見 え、貧しい民衆の慈愛の目が見送るなかで、自分の内臓から出てきた棺桶を追っているよ うにみえた。何世紀もの遠い昔、「山」であったと思われるものの頂きにわざわざ設計さ れて建てられたひとつの意思表示であるヴィミナーレ、つまり十七世紀ふうの寺院建築 は、思想の豪勢な住居のようなもので、その根もとの部分はいま影の中に、下り坂の一本 道の暗がりの中に、ありとあらゆる枝がもつれている中に入っていた。そしてこれは枝が からみあい、並木がずらりと並んだ向うに先のとがった鐘棲のあることをほのめかしてい る。だが、そのロマネスクふうの小さな塔の煉瓦の上では火もまた装飾に一役買うつもり でいた。ドン・チッチョは今の天気はどうなるだろうかと頭を突き出し、雲を見ようと振 りあおいだ。雲という雲が走ってみえ、馬の敗走というところで、二本の並行にならんだ 雨樋の間にのぞく明るく、時には青い空の空間を横切っていった。メルラーナのプラタナ スと木々の枝は道を曲るときには森のようにみえたが、電車を走らせる二本の線路の下り て行くあたりでちらりと見るとただ乱雑にもつれているというだけで、いかにも三月なり に裸かの木々で、樹皮という樹皮にはけだるさまで出ていたが、うろこと継ぎ当てで出来 た幹の皮の明るい、都会的な明るさのなかには一種のむずがゆさがあり、かさかさの革、 口と銀の雌牛のなめし革といおうか、あるいはまた人びとの行き来、車と自転車の往来の 中にさらされたやわらかい豆のさやの色をした下着でもあった。とそのとき、枝の間から 姿を現し、深紅色の気配に早くも目ざめた「九世紀の」鐘棲は光線をあびてあたたまった らしく、そのあたたかみで、今は眠りこけていてもいつでも勤行をあいつとめましょうと いったブロンズを目ざめさせたようである。生徒たちに呼びかける大きな鐘は罠にかかっ て艦に入れられたという格好であるが、こんどは自分の番だとゆっくりゆっくり、最初は ほとんど聞こえないぐらい震える音で鳴り出し、それが金属の翼でも生やしたように空に 浮いて轟音をひびかせるまでになった。その音の波が思想の上に、テラスの上にしあわせ そうにひろがって行き、家々のしまったガラスをふるわせたが、どの窓も眠りこけたまま だった。かなりの年のおばあさんがひと叩きしてはリズミカルに深呼吸をしたが、甘い息 を吐き出す、そのたびごとにかなりの水っ気をとばしていて、知らない人はどんなギター を鳴らしているのかと思うだろう。だが、これはルチアーノやマリア・マッダレニーナた ちに勉強に行くんですよと呼びかけているのだ。編み毛を垂らした子供たちに。そして事 実、それからほんの少しすると辞書の包みをかかえて走っていたし、とうに着いているも のもあった。歩いて行ったり、電車で行ったり、そう、この連中は金があるのだろう、ひ とりのもいれば群がって行くのもあり、雄や雌のすずめの集団で、誰もが大急ぎで耳をふ いてきていた。形ばかりでも洗ってきたのもいた。そう、耳だ、勉強するものにとっては 欠かすことのできない器官である。カーン、カーン、カーン、カーン。老婆はこの鐘を鳴 らすたびに、その鐘の舌からスズメバチにふさわしい合図をひろめようと全身全霊、お尻 の力までこめて叩いていた。そして少しずつそのたびごとに、音がとぶのを誇張し、音の 波を大袈裟にしたため、警告はいよいよ実のあるものとなっていった。もっとも彼女、つ まりおばあさんも相手によっては少しひかえめにおとなしいものとするだろう。ナンニー ナとか、もじゃもじゃ頭のロモレッティといった小さい子たちをあんまりはりきらせない ために。この子たちときたら、すっかり怒ったように震えて鳴っている目ざまし時計のう 214 第 10 章 つろな音を聞いただけで、猩紅熱にもなりかねない。だがよく聞けば心の中はやさしいの だ、このいい年のおばあちゃん。その雄弁な慎重さはおさえた抑揚でもって次第に悪を近 づけてきた。といっても、油ですべるようにではない。目が覚めて知る悪、日々の真実を 認識して、それをふたたび生きるという悪である。つまり冷たい水を使ったあとにひかえ ている学校、悪い点をつけようと先生が待ちうけている学校がそれである。彼女、つまり みんなのおばあさんは落ちついた優しい態度で小さな男の子、女の子の小さな頭を、黒い 縮れ毛をむき出しにし、まぶたをほんのちょっと開けてやると、かけぶとんの清潔なへり を使って逃げて行く夢のヴェールをはいでやるのだった。彼女の場合、ゆっくりと鐘のと こまで上って行くのに半時間かかり、下りるのに半時間かかった。少しずつ静かな落ちつ きへと下りて行った。事務所や事務所の仕事が始まるときの静けさであり、習字をする手 にできているしもやけの静けさである、壁には例の人物の大肖像画が飾ってあるが、生ま れついての馬鹿なので、みんなに報復をしてやろうとふくれっ面をしている。 * * * 両手をボケットに入れ、黒々と探るような目つきの下に口を三つぽかりと開けて、うろ うろしている二、三人の男の興味しんしんといった顔が車に気づき、マリーノのところで この「ローマ警察の」車を取りかこんだが、そのとき車の方は要塞の門の前でぶー、ぶー と二度、警笛を鳴らした。高いところにある四角い窓の、錆びた鉄格子の向うに若い男の 顔が現れたが、灰色のあらい布地の襟には星がふたつついていて、ひとつはこちら、ひと つはあちらと、はなれぱなれだった。その顔が消えた。数分して、ドアが開いた。気力充 分ながら瘤だらけの一二〇〇はすごい勢いで前進したかと思うと、うしろへ戻り、反転し て前に進むというような動きをしたあと、今度は当の車でさえも予想していなかったこと だが、やたらにはね上ったり急停車をして、やっとのことで、さきほど田畑を突走りなが ら目標にしてきたあの凱旋門をくぐったのである。これが要塞の道であって、狭い上り道 になっており、ぎっしりと砂利が敷き詰められ、支柱のついた壁の間を走っていたが、こ の壁というのが日陰で、古い胡椒石の上を地衣がはって、緑色がかった青や黄色の奇妙な しみと模様になっていた。すべりやすい舗装道路。曲り角に金属板の道路標識、マッシ モ・ダッツェーリオ。イングラヴァッロが車を下りると、残りの者もそれにつづいた。兵 隊がこういった。「准尉殿は捜索とパトロールに出ておられますし、軍曹殿はドゥエ・サ ンティに出かけるよう命令を受けられました。例の事件の用であります」そこへもうひと り、別のが現れた。階級が上か、さもなければ年輩者だろう、あわてた様子もなく、むし ろおとなしく踵と踵をあわせ (なにしろ警察から見えたのだから、この紳士方は)、顔を高 く上げたが、その様子は何よりも明白に優雅に不動の姿勢を取っているのを示していて、 イングラヴァッロに青っぽい封筒をさし出した。封を切ると四つに折った紙片か出てき た。それはサンタレッラがベスタロッツィに兵隊をひとりつけ、さらに新しい事実を確認 するべくパーコリに派遣したということを通告したもので、彼はもうひとりといっしょ に、潜伏者エネア、通称イジニオというふうに呼ぱれていたレタッリの跡を追っていった という。いちおう彼に追いつく、ということはつまり彼をつかまえて手錠をかけ、手錠を かけたまま兵営に引っばってこれるのではないかといり希望かあったが、ただし、それか 確実ということはなかった。イングラヴァッロは困惑ぎみで、頭に少し空気をあてようと 215 帽子をぬぐと、歯ぎしりしたが、両側のあごの上、耳まで行かないところにそれぞれ固い こぶがひとつずつついていて、そのため一種、ブルドッグの鼻面のようにみえたが、これ についてはすでに何度も描写してきたとおりである。だが、ふたりの憲兵はそんなことは 別に気にもとめなかった。憲兵たちは平和な祈りに、修道女たちは年がら年じゅう、その 訓練のおかげで、いつまでも根気強くしていることができるものであり、そういう状態の ときには、歴史の動揺というような大事はもちろんのこと、ただ事件が起ったというよう なことにも無感覚で、事件にせよ、あるいは歴史にしても勝手に歩ませておけばいい、事 件がどんなに重要であろうと自分には関係のないことだ、まして歴史はそうだ、つまり愚 にもつかないことだと考える。「二十日に連絡したクロッキァバーニ・アッスンタのこと ですが、自宅で訊問を受けたかどうか、ご存じありませんか」とイングラヴァッロがたず ねた。 「存じません、警部殿」 「それはまた、どうしてです。どこにいるかご存じですか。つまり、場所をご存じかと うかがっているのです」 「トル・ディ・ゲッピオと准尉殿はおっしゃいました」 「そこまで行くのにどれぐらいかかりますか」 「車ですと、警部殿、四十分ばかり……いや、それほどかかりません」 「よおし、そこから始めるか。さあ、行こう」 憲兵隊の下士官はひとりの男を呼んでくれたが、そのへんの地理に明るいのだろう、や せた小男でイングラヴァッロと同じで黒い服装だった。車にのせてやった。車が要塞の中 庭から解放されて、お尻をうしろに、狭い上り坂を行き、そのあとダッツェリオのそり並 みにすべって前進するためには、とにかく先ほど描写したのとは正反対の方に向かって何 度も頑張らなければならなかった。黒い姿のイソグラヴァッロはあごが砕け歯がきしる思 ファッショーネ いだった。頭の中でゴムのこと、 タ イ ヤのこと、ファシストのことを呪っていた。パン クしたらどうなるんだ、こんな奴を乗せたばっかりに。憲兵隊があげて三十年も笑いつづ けるのではないか、なんといってもローマ警察署の車なのだ、いざというときにヘルニア のゴムが破裂しては困る、せめて橋から転げ落ちないことをよろこびとしなくては。だ が、車は進んだ、進んで行った。風にさからい、時々、小粒な雨がガラスを打つなかを進 トゥーリング んで行ったが、思いもかけぬところで揺リかごのように、旅行会社もまだ書いていない排 水溝でとびはねるのだった。オリーヴの木といぶし銀のような木の葉はそれでもあまり揺 れていなかったし、夜の雨で玉なし、日の出に乾かされながら、遠い青春と臼羊宮の苫悩 の歳月が厳として継続していることを語っていたが、その一方ぶどう園や、小山や丘の褐 色の大地ではほんのり肥料の匂いがしていた。小麦やうっすらと草の生えた草原の上を雲 がとんで行き、小麦や草原には冬になるとまた消えなくてはいけないのかという一瞬の恐 怖がよぎり、どうにもしようがないまま、その飛んで行く恐ろしい影に調子をあわせ、絶 シ ロ ッ コ 望に凍りついているようだった。だが、東南風の翼は全く反対で、その日の青ざめた湿り 気のなかで責褐色を呈し、なまあたたかく、牛小屋の子牛の息をしのいでいた。蒸し暑い 天候は小麦が取れる兆しだったが、小麦闘争やとうもろこし、雄ろばがぴんと立つことな どは問題にしていなかった。だが三月末の霜はイングラヴァッロが考えるところ、神の意 には反するけれど、そうした予言をくつがえすはずで、八百万トンの収穫が三百八十万卜 ンに減る見とおしだった。自給自足主義の大あご政治家だが、四千四百万人の……臣下、 さよう、忠実な臣下のためにはトロントで小麦を積みこまざるを得なくなった、いいだろ 216 第 10 章 う、フランス人がイギリス人になるカナダのことだ。それからマカロニはアメリカ・イン ディアンにお恵みくださいと頼むわけである。そしてイングラヴァッロは怒りと不満が いっしょくたになって歯がみし、歯ぎしりしたのである。トッラッチョで下りたときに シ ロ ッ コ は、東南風もおさまるところで、なまあたたかくなっていた、というか、そんな感じがし た。ドゥエ・サンティでアッピア街道に入り、このあとはローマ方面に向かい、ファルコ ニャーナの脇道まで、たっぶり一キロがほど反対方向に走らなければならない。この脇道 を少し走るとアンツィオ街道に出て、ふたたび向きを変えた。風はおさまった。あの憲兵 の話ではサンタレッラ准尉殿の車のグッツィや、ペスタロッツィのオートバイに会うこと もあり得ないわけではない、いや、まず間違いなく会えるだろうということだったが、影 も形もなかった。そのかわりにロバが一匹、木をつんで、尻には百姓がまたがり、片手を 尾に当てていた。あるいはまた十五匹ほどの羊と、緑色の傘をすばめて手にした羊飼い。 ただし犬はいなかった、高くつきすぎるのだ。二輪馬車、 「アルバーノの獣医さんです」と 小男がおしえてくれた。静かに走らせていたが、その顔は紅潮し、トスカナたばこの消え た吸いさしを唇にくわえ、すり切れた手袋をはめていた。アンツィオ街道をニキロちょっ と行ったあと、右手に折れなければならなかった。「ここです、ここのところからです、 サンタ・フミアヘ行くのは」とお客さんがいった。サンタ・フミアの橋をわたるとトル・ ディ・ゲッピオヘ、それからカザーレ・アップルシャートヘと向かった。泥でやわらかい 道が低くなって行き、こんどは固くなった。わだちが水たまりを避けて左右に広がった が、その水たまりというのが満々と水をたたえ、逆光を浴びてきらめき、銀色と青の熔け た鉛を思わす色で、そこでは水鳥や道に迷ったカケスの翼が黒々と見えていた。これ以上 行ったら車は地中に、泥の中に埋まってしまうかもしれない。さいわい、ある踏切りで (ヴェッレトリ鉄這の) レールを横断したが、この踏切りというのがニキロほど北にある ディヴィノ・アモーレの橋のそばのにそっくりだった。二本のレールにはさまれた (樫の) 枕木と枕木の間の割れ目から、あちこちと草の葉が生え出ているところは、もう一年間も ピオ九世のためにご奉公してきたのだから、これ以上、鉄道を使うこともないといってい るようだった。それでいて、煙の塊りがまだ空中に重くのしかかり、魔術で固められたよ うにじっと動かずにいたが、これはついさっき現われて消えて行ったものの名残りで、綿 の詰め物のように、というか蒸気のうたかたの白のように白かった。その小さな汽車の 煙った姿が、いまこの瞬間、遠くのアーチの方へ消えて行くところで、自分の姿、自分が 消えて行く様子を見せることによって、二本のレールが一点に収斂して行く透視画法的な 動きを自ら確認した形であり、闇の人物にふさわしく、最後尾の車輌の見張り台に当る尻 尾がいま魔法使から解放されて、しゅうしゅう音を立てながらアーチの方へ、黒い丸天井 の下へ、山の中へと消えて行った。そして、田園の静寂の中、事物の、それも山羊の足跡 の沈黙した驚きの中で、土には封印が残り、空にはわずかの硫黄分が残っていた。 「トル・ ディ・ゲッピオはあちらです」と意欲的な小男が指さしながらいった。「パラッツォの農 園の方です。クロッキァバーニが住んでいるのはあそこです、ごらんになれるでしょう、 あそこにある家の中の一軒です、左側にかたまっている」そのとき、休閑地がときどき緑 色になっていて、住む人もないその粘土地帯の波状の地形から姿を見せたのが搭の鋭い突 端で、それが世界という古代のあごの古代の歯の破片のように空に浮き立ってみえた。こ こに暮らしている人びとの家は耕作地のはるか彼方に押し黙るようにして、その塔の前に 立っているが、ここからはまだ少しある。一同は車を駆って坂を下って行った。 「で、パヴォナだけど、駅は?」とイングラヴァッロがたずねた。 217 「パヴォナの町はあそこです」と客がまた指をさした。 「下のあそこです、ごらんになれますか? あれが駅です、草地を横断すれば二十五分 でしょう、急いで行ってですね。でも、びしょ濡れになりますよ」 「で、ローマ=ナポリ線は?」 「あちらです」というとふりかえった。「三キロ半か四キロもあるでしょう、車で行く ほかありません。それから帰りみちですが、トル・デル・ゲッビオのあとパヴォナにもい らっしゃるんでしたら、カサール・プルチャートまで下りればよろしいでしょう、そこか らすぐアルデア街道に入りますから。その街道をアルデアの方角に向かいますと、せいぜ いニキロも行けば、すぐにサンタ・パロムバに出ます、例のアンテナ (と指さした) がどこ からでも、マリーノからでも見えるところです。そこで、もしよろしかったら、ソルフォ ラータとブラティカ・デ・マーレの道を通って行きます。つまリパラッツォヘ行くには、 まっすぐパヴォナまで行けばいいわけで、その距離はカサール・プルチャートからせいぜ い六キロか七キロです。車で行けば十五分ぐらいでしょう」「まあいいだろう」とイング ラヴァッロはいったものの、地名学でもあるまいに、さんざん地名を並べられ、うんざり して、あごにしわができていた。「今のところはトル・ディ・ゲッピオ行きだ」そこで乗 りこんで出発したが、水をはねかえしたり、何度も急停車をしたあと、小男のいった場所 で車を下りた。運転手は車にのこして来たのだが、その運転手も自分だけぽつんと離れて しばらく歩いた。真直ぐつづくそれほど泥んこではない小道を三軒の家の方に歩いて行っ た。いわゆるインド式行列で一列になって進んで行き、先頭が部長刑事のルンツァート、 次がディ・ピエトラントニオ、次が外套のポケットに両手を入れたドン・チッチョで、昼 間の開放的な明るさの中をこんなふうに黒づくめのいで立ちで行くところを見ると、これ から死体を引き取りに行く死体運びの一団というところで、おまけにどこか気が進まな いというふりまでしていた。「クロッキァパーニのあの馬鹿娘、もうおれたちが着いたの を感じ取ってるんだろうな」とイングラヴァッロは考えた。「そしてこっちの様子をうか がってるんだ、きっと」事実、あとになって確かめるようになったのだが、自動車の音に さそわれ半開きの窓のところまで来て、そこから一行を眺めていたのだ。イングラヴァッ ロが顔をあげ、ルンツァートが口笛を吹いて、「こちらは警察。入れてもらいたい。出て きて開けなさい」と叫んだとき、その家、つまりとっつきの一番小さな家は四隅に警官が 配置されていた。子供たち、鶏たち、ふたりの女、それに尻尾が司教杖のようにくるくる と上に巻き上って、大事なところをすっかり見せてしまって二匹の雑種の犬はいっかな見 るのを止めようとしないし、吠えるのを止めようとしなかった。警官たちの方も目を黒々 と光らせ、ここの人たちの顔に浮かんだ驚きの色や、着ているものがぼろといってもいい ぐらい貧しいのにびっくりしていた。「ここには誰がいるのかね」とディ・ピエトラント ニオが慎重にたずねた。「何人かね。男たちはいるかな」「女の人がひとり、父親といるだ けです」と、まるで子供たちや、すっかり危険にさらされた雌鶏を助けようというように そばへ寄ってきた農婦のなかで、一番近くにいたのが返事をした。ティーナ・クロッキァ バーニのこの家は小さく真四角で、ほかの家からは少し離れていて、一階のしまっている ドアには 3 という番号が打ってあった。敷居の前には石の板が何枚か敷いてあり、そこ を歩いたり靴で踏んだり釘で叩いたりしたため、くぼんでいた。なかからは人声が聞こえ なかった。新築当時ばピンクに塗ってあった壁だが、その後、冴えない、眠気をさそう歳 月がつづいて、壁に色あせた無気味さを加え、特に北側は陰気な錆がついて、影になって いたが、この紳士諸公の最初に来たのがここの一角であった。軒には雨樋もついていなけ 218 第 10 章 れば、マントヴァふうという破風造りの木の飾りもなく、そのため、ぐるりと取りかこむ 瓦が彼つまりドン・チッチョの目には切株とも、断片的に描いた模様とも映っていて、屋 根の端れにそって波形のひだができているところは田舎ふうの装飾になっていた。風に運 ばれて瓦のあちこちに積まれた腐蝕土から何本も草が生えていた。歳月をへて黒ずんだ瓦 からしずくが数滴したたったが、それが落ちた瞬間に虹色と歳り、まるで水銀でできてい るように重々しい落ち方で、そのあたり一面の湿った、ぎっしり詰まった地面をさらに傷 つけ、しみこんで行った、窓がひとつ開いて、またしまり、分別ななくした雌鶏がこここ ことさわぎたてた。屋根の傾斜はなだらかすぎるというか、不格好というか、波を打ちな がら下りて行くようにみえ、それが雨に濡れてやわらかになり、その後また熱をうけて焼 き固められ、今にもふくれ上りそうな感じで大工たちの腕の不確さを責めていたし、ある いは屋根裏部屋で梁のかわりをしていた木の幹が折れたりしていた。考えてみると、そう いう屋根に泥が重きをおいたりすると、びしょぬれになって腐った道具立てがいつかある 日、もろくも支える力を失って崩れ落ち、破滅の中に砕けてしまうかもしれないし、ある リベッチョ いは屋根全体が南西風のひと吹きでとび去ってしまうかもしれない、ちょうど突風がぼろ 切れを徴発したとたんのように。小さな窓のどれにもついている木の板は一枚がしまって いて、一枚がばたばた音を立てていたが、およそ絵などというものは描いてないし、時間 や、歳月の蒸発のなかですでにくさり、くだけていた。窓枠のガラスや油紙のかわりに、 あるいは錆びた小さな金属板のかわりに。 小さなドアが開いた。それがすっかり開いたとき、イングラヴァッロは自分が面と向 かっているのに気づいた……ある顔に、ふたつの目に、それが薄暗がりの中で輝いてい た、ティーナ・クロッキァパー二ではないか。「ほら、彼女だ、彼女だぞ」と考えると、い やおうなしに復雑な思いで胸がときめくのであった.、バルドゥッチ家の目もさめるよう な召使、アルバーノの光を引きこんだように真黒なまつげの下の黒いひらめきを輝かせ、 屈折して虹色になり (白いテーブルクロス、ほうれんそう)、サンツィオの仕事といっても いいような感じで、額に黒いもつれた髪の毛がかかり、耳たぶと頬に青みがさし、イヤリ ングが揺れているうえ、その乳房の具合ときたら、フォスコロもこぽれるような乳房とい マルパドーレ う免状を出すことだろう、叙情詩人=マンドリルひひ的発作で。それでも、このおかげで 彼はブリアンツァで不滅の存在とされたのだ*7 。バルドゥッチ家で、リリアナ夫人のとこ ろでしたためた夕飯のとき! 黒い沈黙の女神の場なのだ、彼女にとっては、こんなにも 残酷に事物から、光から、世界の現象からへだてられている彼女にとっては。そうだ、彼 女だ、彼女こそあの娘だ (時間の小路が混乱してしまった)、持ち方が下手でお皿の中身を こぼしたりしたが、そのお皿の広びろとした卵形の中にまるまる一本腿を入れたり、小山 羊、小羊の腎臓をいろいろに混ぜあわせた (細かく切ったのも入っていよう) のを入れた りして彼に出してくれた娘だ、銀製やガラスのさかすき、いやコップとか、ほうれんそう の固まワといったもののかもし出す無垢な雰囲気の中に姿を現わしたものだ、リリアナ夫 人から悲しそうに目配せされたり、「アッスンタ」という名前で呼ばれたりして。ティー ナは以前と同じようにきびしい、少し青ざめた顔だったが、目には当惑の色を浮かべてい た。にもかかわらず傲然とした態度でこちらをにらんでいるのな見て、どうやら元どおり の落ちっきをとりもどしたなと彼は思った。陰気なきらめきがふたつ、ひとみが暗がりの *7 ウーゴ・フォスコロ、一七七八−一八二七。ロマンチックな詩人で国家統一時代の人々から巨匠とあおが れた。 219 中でふたたび光ったのだ、ドアをしめ切った家の匂いの中で。「まあ、警部さん」と精一 杯の声でいい、さらに何かいい足そうとした。だが、ディ・ピエトラントニオの姿にぎく りとした、もっとも、一列縦隊の外套を引率しているとおぽしい警官のあとにこの男がい たことは窓から見てちゃんと知っていたのだ。背が高くて無口、ひげの感じが警官らしい この男はつまり、自分がおそれていた罰をもたらすのではないのか、法津が自分に押しつ けてきた罰ではないのか。だが、どんな悪事があって、どんな罪があって、この自分を罰 するというのだろうと、彼女はひとりで考えてみた。あれこれ欲しいとやたらに頼み、リ リアナ夫人からそうしたものをせしめたせいだろうか。 「イングラヴァッリ警部さん、なんのご用でしょうか」 「お宅にはどなたがみえるのかな」とイングラヴァッロは固い口調でたずねた、「別人」 のような彼の心がそのとき、そういう固い態度を取らせたのだ。その別人のような彼に向 かってリリアナは自分の闇の海から絶望的に彼の名前を口にしながら呼びかけたのではな いか、疲れた青ざめた顔で、恐怖に見開いた目をいつまでもナイフのおそろしいひらめき に向かって釘づけにしながら。「通してくれませんか、誰がいるか見せてもらわなくちゃ ならない」 「父がいますの、警部さん、病気なんです、とっても悪いんです、かわいそうに」そし てとても美しい青ざめた表情で軽くあえぎながらいった。「もうじき死ぬんでしょうね」 「それじゃあ、お父さんのほかには誰がいるんです?」 「誰もいません、イングラヴァッリ警部さん。一体、誰がいるとおっしゃるんですか、 ご存じならおっしゃってください。女の人はひとりいますけど、トル・デ・ゲッピオの人 で、あたしを手つだって病人の世話をしてくれています…それに、近所の女の人たちもい ます、外でお会いになってますわね」 「誰ですか、なんという名前です P」 ティーナはちょっと考えた。「ヴェロニカです、ミリアリーニ。このへんではヴェロニ カと呼んでます」 「とにかく通してください。入りましょう。さあ。家宅捜索をしなければならんのです」 そして嘘の仮面をはいでやろうという人独得のあのじっと動かない、きびしい視線で相手 の顔色をさぐった。「家宅捜索ですって?」ティーナは眉をひそめた。思いがけない侮辱 にあって、憤りのあまり目が顔が白んだ。「そう、家宅捜索ですよ、家宅捜索」そして彼 女を押しのけるようにして暗がりのなかを木の階段の方に向かって行った、娘がそのあと につづき、ディ・ピエトラントニオが彼女のあとから行った。と、そのとき、ある考えが ひらめいた、リリアナを殺した犯人はティーナから役に立つ示唆を得たばかりか、「いや、 欠かせない示唆といおう、なんで役に立つなんていったのかな?」ほかでもない彼女に宝 石をあずけたこともあり得る……「フィアンセか?」階段を上っていった。段々がきしん だ。この家の外はぐるりと見張られていた。ここまで案内してくれた例の小男を別にして も、警官が三人いる、イングラヴアッロはティーナのその黒い狂暴な眼差しが良分の頭皮 に打ちこまれるような気がした、首に突き刺さるような気がした。彼は彼で懸命だった、 なんとか理屈にあったまとめ方をしょう、いうなれば蓋然性というあやつり人形の糸をた ぐろうと懸命だった。「どうしてローマヘとんで行かなかったのかなあ。別にそんな義務 感はないのかな」いまや手痛く傷ついた心からいやおうなしに生じた考えがこれである。 「せめて葬式ぐらいは……、とすると、あれだけ恩をうけながら、彼女には魂も心もない わけか」いや、ちがう、おそらくひかえめな、素朴な態度から、こうした方がいいという 220 第 10 章 悲しい計算が働いたのだろう。あるいはこの恐しい知らせがトル・ディ・ゲッピオに着い たのが遅すぎたのかもしれないし、それに、この孤独な生活では……恐怖がこの小娘を麻 痺させてしまったのだ。いやちがう、れっきとした女だ。このニュースはジャングルまで 届いている、アフリカの草原にまで。クリスチャンらしい心の持ち主なら、反応はもっと 違っているはずだ。たとえ父親がいまわのきわにあっても……。 階段の木は三人の重量が上って行くにつれて、いやましにきしりつづけた。イングラ ヴァッロは階段を上りきると、ドアに身体ごとぶつけるようにしたが、いたわりのこもっ た慎重さは忘れていない。ティーナとディ・ピエトラントニオをしたがえて広い部屋に 入った、そこはひどい悪臭がした、つまり汚れた衣類、病気のためあまり身体が洗えない し、事実、洗っていない人たち、あるいは天候の変り目にどうしても田畑の仕事をしなけ ればならず、そのため汗をかいた人たち、それにもまして病人のそばに放りっばなしに なっている糞便などが異臭を放っていたが、病人はもっと手厚くしてやる必要があった。 歳月を越えた色彩伝統によって青、赤、黄金と生き生きした色を塗った細長いろうそくが 二本の釘にかけてあり、ペッドの両脇の壁からぶら下っていたし、乾いたオリーヴもあ り、油絵ふうの石版画は金の冠をいただいた青いマドンナ像で、木の黒い粋に入ってい た。わらを詰めた椅子が数脚。真赤なリボンを首に巻いた石膏の猫が、たんすの上に、び んと鉢にかこまれて置いてあった。病人のそばには老婆がひとり坐りこみ、脛のなかほど まである縞模様のスカートをはいていて、靴ひものついていない布靴をはき (そして、な かには足が入っている)、それを椅子の横木にもたせかけ、スリッバのようにつっかける だけにしていた。広々としたベッドを見ると、すり切れて、緑色がかった何枚ものベッ ドカヴァーにくるまれ、その中の一枚だけはいいカヴァーだったが (あたたかく明るい色 で、リリアナの贈り物だなとイングラヴァッロは推理した)、小さな身体がのんびりと横 たわっていて、それは石膏の猫が麻袋に入れられ、球にのびのびと放り出されたというと ころだった。骨ばった、悪液症の顔をじっと動かさずに、エジプトの博物館にも似つかわ しい黄みをおびた茶色の遺物といった感じがする枕に埋めていた。ただ、あいにくとガラ スを思わすひげのあの白さがあるため、実はエジブトの博物館のカタログとは無縁で、不 幸にも現代に近い人間の歴史の一時期のものの、そしてイングラヴァッロにしてみれぼ、 ほかでもない現実の、ずばり今日のものだということを示していた。万事が静まりかえっ た。いったい生きているのか死んでいるのか、男なのか女なのかも分うず、金婚式へと向 かって渦巻く蚊の群のなかを、子供たちと鋤のなぐさめにかこまれて進んで行きながら、 ひげをのぞかせたが、あの五年王国の創始者などは女のひげでも男のひげだと呼んでいた ものだ。こちらとあちらの二木のろうそくは、しかるべき燭台に立ててもらい、慈悲ぶか い手のつかさどるマッチで火をともされるのを待っているようであった。死にかけた父親 というようなこの新しい面倒な事態にいらいらしながら、それでもひかえめで憐れみぶか いイングラヴァッロの想像力は足蹴をするほどにはやり立ち、ギャロップでとんで行きか ねない勢いで、耳をすまし、口をこらす、その目は覆いのかかっていない棺おけを見てい るうちに、ほらほらもう、しりぞけてかえりみない、それはポプラの板の棺おけで、蔓日 日草と桜草が花と咲き、免罪のつぶやきやお唱えがあたり一面にまきちらされていたが、 そのお唱えの文句は女たちがささやきかわし、もったいぶって香炉の揺れるなかから撒か れて行く (con cuidado) 香の良いかおりの間で歌われたり、あるいはひょっとすると鼻 声ででもとなえられる。これは棺おけが閉ざされ、釘を当てられ、充分に叩かれたあとに なって、死者のあじわった大きな恐怖と悔恨、生きのこった人びとをぐるりと取りかこん 221 だ懇願を希望を示すものであり、結局は木を花を眺めるうちにすべての人の心にある種の 納得した晴れやかさがわいてくる……灌水式でくりかえし水を撒く合図がある、靴底をこ すり合わせ、火打石に鉄を打ちつけながら、ただし火打石があるとしてのことだが。しか し現実はなお夢想とは違っていて錯乱状態にも近いこの焦燥感の生んだ幻影は未米にかか わるものだ、たとえその未来が近いものにせよ。ドン・チッチョは逆上のギャップをおさ え、あがいている怒りの手綱を引いた。すっかり干からびた患者はいよいよ死水をもらう ときに近づいてきて、永遠という、腕の確かな医者がもうその上にのしかかっていた、愛 情をこめて 見つめていたが (そして唾をごくりと飲んでいた)、その目は死体愛好症気味 の赤十字の篤志看護婦やふつうの看護婦のようにあわれみぶかく、どん欲なところがあっ たが、もっばら、得意でない方の手で、軽く愛撫するように患者の顔をふいてやり、もう 片方の手なれた方の手は掛けぶとんの下、それも身体の下の仙腸関節と床ずれよけのクッ ションの間をさぐりながら、永遠の免投という灌腸用のエボナイトの管の口をさしこむべ き場所をやっと見つけた。 掛けぶとんの下で聞こえる異様な腸の音は昏睡状態とは矛盾していたし、もっと奇妙な 形で死と矛盾していて、奇跡が迫っているのだという感じがし、シーツも掛けぶとんも爆 発するのではないか、ふくれ上るのではないか、発酵し、死によって重力が消え空高く舞 い上るのではないか、今にもそんなことになりそうに思えた。例の老婦人、ミリアリー ニ・ヴェロニカは椅子の上でせむしになり、非記憶の中に溶けこんだ時代の記憶にひたっ て石化していて、両手を組みあわせ、いわゆるポントルモ*8 の肖像に見る pater patriae 国父コシモ*9 を思わせ、顔を見るとトカゲの乾いた皮慮と化石のしなびた不動感。膝のと ころには懐炉がなかったが、彼女にはやっばり必要な品だ。灰色のゼラチンのような、ガ ラスのような目を上げたが、彼女にしてみれぱ影としか映らないはずのこの人びと、娘に も男たちにも何ひとつ訊ねなかった。彼女の目つきの生気を失った静けさたるや、古生物 学的な過去にさかのぽる大地の記憶なき記憶といったところで、現在の事態にそぐわな かった。百九十歳になるアステカ人の顔を、その種族の成果からそむけさせた、つまり、 さいきん、まるでさかりでもついたようにアステカがイタリア人の秋波を勝ちとったとい う事実があるが、それから目なそむけさせたのである。 第一級の病院から持ってきたようなマヨリカ陶器の病人用便器が煉瓦の床に置かれてい たが、壁の近くではなかった。例の竪さ、色、匂い、粘り、特別な重みといった正体不明 の中身がないわけではなく、これについてはイングラヴァッロの山猫のような目、警察犬 のような嗅覚を以てしたかぎり、何かしっくり分析しなければいけないとは思えなかっ た。鼻はもちろん自然な働き、つまり機能というか、より的確にいえば乳頭状の受身をま ぬがれることができなかったが、これは鼻にしてみれば本来的なものであり、禁制という ような間奏曲はもちろん、いっさいの義務から逃れることは認められなかった。 「あなたのお父さん?」とチッチョはターナを見つめながら、自分の周囲を見まわしな がら、そして帽子を脱ぎながらいった。 「警部さん、どういうことになっているか、お分りいただけたでしょう。あたしだって 信じたくありません。でもやっばり、警部さんにも信じていただかなければ」と、うらみ がましい口調で、泣きぬれたというような目で叫んだのである、べっびんさんが。「もう *8 *9 一四九四−一五五七、肖像画を得意とする画家。 コシモ・デ・メディチ 一三八九−一四六四のこと。 222 第 10 章 あたし夢なんかありません。死んでくれた方が父にしてもあたしにしてもいいんです。こ んなふうに苦しむなんて、お金をかせぐあてもなくて。こんなことをいって悪いんですけ ど、お尻がそれこそ傷みたいになってしまって、ええ、そうなんです。屠殺場です。かわ いそうな父ですわ」懸命なんだな、とイングラヴァッ目は冷たく考えた、苦しみながら、 パパの使いものにならないお尻にもかかわらず、そのパパを価値づけようと懸命なのだな と。「で、ゴムのクッショソまで入れてありますの」とため息をついた。「そうでもしない ことには床ずれがくさってきますもの。今朝も八時には具合がわるかったのです。とても 辛いといってました。十分もじっとしていられなかった、というところです。もう三時間 も動いていませんし、ひと言もしゃべっていません。でももう苦しくないと思うんです。 もう苦しむこともできないんじゃありませんか」と目をふき、鼻をかんだ。「だって、も う、なんにも感じる力がないんです。いいことも悪いことも感じられないんです。かわい そうな父……。お坊さんは一時まえには来られません。そう連絡がありました。ああ、あ たしたちって不幸なんですね」といってイングラヴァッロを見た。「あの奥さまがいらっ しゃらなかったら、どんなだったでしょう」そのせりふはうつろに、遠くでひびいた。リ リアナがその奥さまの名前だ。ドン・チッチョが思うに娘はその名を口にするのをはば かったのではないか。「たしかにね」と疲れたような口調でこたえた。「クッションまで」 そしてパルドゥッチの打明話を思い出した。「分ってるんだ、分ってるとも、こっちには。 誰にもらったかぐらい。あの花瓶だってそうじゃないか」と頭とあごをその方に向けた。 「それから掛けぶとんだってそうだ」とベッドの上の掛けぶとんを見た。「みんなもらっ たんだろ……せっかく好意を見せながら、さっそくあんなお返ししかもらえないなんて、 ひと あの女も。悪い目に会いたくなければ、いいこともするなって諺があるけど、そのとおり だ。どうしたんです、話してくれないの? おぽえてないのかね」 「警部さん、あたしが何を覚えてるっておっしゃるんですか」 「あんたの方じゃそれだけのこともしてないのに、いろいろと助けてくれた方がいるは ずだ、それぐらい覚てるでしょ」 「ええ、あたしが奉公していた先のご主人方ですね。でも、どうして、あたしがそれだ けのことをしてないなんておっしゃいますの?」 「ご主人方だなんて。リリアナ夫人といえばいいじゃないですか。殺人犯に喉を切られ て殺されたんですよ」といってにらみつけたが、その勢いに今度はティーナも蒼白になっ た。「殺人犯の手で」とくりかえし、「もう分ってるのです」と威厳をこめていった。「名 前も苗字も……どこに住んで、何をしているかも……」娘は青くなって、ひと言もいえな かった。 「その名前をいってしまいなさい」とドン・チッチョが叫んだ。「警察にはもう分ってる んだ、その名前も。今すぐいってしまえば」と、その声は重々しく、説得力をおびてきた。 「それだけ、あんたも得になるんだから」 「警部さん」とティーナはためらいがちに、時間をかけてくりかえした。「何も知らない んですもの、どう申しあげたらいいんでしょう」 「とんでもない、知りすぎてるぐらいじゃないか、嘘もいいかげんにしろ」とイングラ ヴァッロは顔をつきつけて、またどなった。ディ・ピエトラントニオはおびえてしまっ た。「吐いちまうんだな、その名前を、ここにいる奴の名を。さもないと、マリーノの兵 舎で軍曹の手で吐かされるぞ、ペスタロッツィ軍曹だ」 「ちがいます、警部さん、ちがうんです、ちがうんですったら、あたしじゃありません」 223 と娘は拝むようにいったが、その様子は義務としておそろしがっている、いやひょっとす ると、それを楽しんでいるといったふうで、小さな顔が少し青ざめながら、それでいて、 おどしには抵抗していた。彼女の日々を生み出してくれたいま死に行くその作者をかたわ らに、目をうばうような彼女の生気、そして彼女の日々そのものも目を、うばうばかり だったはずなのだ。自分の肌がもつ力に対する大胆なまでの信仰、それを彼女は瞬間の怒 りにまかせ、しかめ面を作って堂々と敵に投げつけているというところだ。「ちがいます、 あたしじゃありません」信じられないぐらいのその叫び声は、妄想につかれていた男の狂 暴さを封じてしまった。自分の魂が今まさに何を理解しようとしているのか、自分でもす ぐには納得がいかなかった。娘の真白な顔の、眉毛二本の間に縦に刻まれた怒りの黒い雛 が彼を麻痺させ、反省にみちびいた、いやむしろ後悔といった方がよい。 225 カルロ・エミリオ・ガッダ――人と 作品」 10.1 『メルラーナ街の怖るべき混乱』(Quer pasticciaccio brutto de via Merulana) とはま たなんとおそるべき書名であろう。それも邦訳の書名だけではない。イタリア語の原題か らして、まことにおそるべき表現なのである。標準イタリア語しか知らないひとはこの原 題を見て、「はたしてこれがイタリア語だろうか」といぶかしむことになる。これはガッ ダの小説作品、なかでも『悲しみの認識』を読んで「はたしてこれが小説だろうか」とい ぶかしむのに通じるところである。 おそるべき書名におそれをなした読者は、おそらくそのおそるべき内容にまたまたおそ れをなすことであろう。それはストーリーだけについていっているのではない。新聞の犯 罪記事にヒントを得て書かれたこの作品はローマのメルラーナ街二一九番地のアバートで 起った宝石盗難事件と、それから数日後、盗難事件が起ったそのまんまえの部屋で発生し た殺人事件をあつかった犯罪小説であり、その意味でもおそろしい内容を盛りこんでい る。ローマ警察と憲兵隊の手で犯人の追求がつづくが、事件の解決がつかないまま小説は 未完に終っている、いや、作者のガッダは未完のまま突っぱねている。ふつうの小説なら ともかくストーリーの展開・結末が身上のはずの犯罪小説であえてしめくくりを放棄して いる作者の態度もおそるべきことだ。そして、この物語を描き出して行く表現手段が尋常 でないのもおそるべきことである。技師出身の作家だけに技術用語を駆使するのはもちろ んとしても、医学用語、生物学用語などの学術用語から卑猥としかいいようのない俗語、 ギリシャ、ラテンから英独仏西にいたるおびただしい外国語群、それにくわえてガッダ以 外の誰にも分らない造語、そうした厄介な単語をことさらにひねった構文や古今の名文章 をもじった「作文」に仕立てあげている。こうした表現手段はおのずから物語の運びにも 影響を与えずにはおかない。言葉の遊びに興じながら作者のガッダは、さなきだに筋があ るやなしやの小説のなかで、ことさらに脱線をくりかえし、物語の本筋を離れて行ってし まう。この異様な雰囲気は邦訳からも感じとっていただけよう。 ところがイタリア語の原文ではこれにくわえて方言の問題が出てくるのである。先にも 触れた書名から受けるおどろき、つまり「はたしてこれがイタリア語だろうか」というお どろきは原文を読みすすむにつれて高まってくる。もちろんガッダ語ともいうべき造語や 専門外の者には全然意味のとれない特殊な学術用語もこのおどろきに一役買っているもの の、やはリガッダの文章のつまずきの石は方言である。都市国家の例を持ち出すまでもな く、歴史的にイタリアは地方主義が幅をきかす国柄で、地方地方による方言の差は並たい ていのものではない。そういう特殊な方言を、それも一地方のだけではなく、ローマ、ナ 226 カルロ・エミリオ・ガッダ――人と作品」 ・・・・ ・・・・・・ ポリ、アブルッツィなど各地の方言をごっちゃまぜ (むちゃくちゃといってもよい。日本 語のこの音は本書の書名 pasticciaccio パスティッチャッチョの音に通じるのである) に し、それを標準イタリア語でつないである。一般にガッダは翻訳不可能だといわれている が、それはもっばらこの方言のことを指すと思う。たとえば東北弁、名古屋弁、大阪弁と いったものを駆使しなければならない理属になる。訳者もそういう試みをやってみたが、 テレビの吹き替えでインディアンが関西弁を使うのを聞き、おぞけをふるって、この試み は遠ざけた。それにしても、原文の描写に出てくる標準語と方言の違いのニュアンスを出 してみたいという気持は棄てようがない。そこで、あるときなど狂言のいいまわしはどう だろうかと考えた。「太郎冠者……」というあれである。別に「狂った言葉」という発想で はないが、あのこっけいな荘重さとリズム感がガッダにふさわしいのではないかと直感し たからだ。だがこれも実現を見なかった。下手に凝ると「軽業」になってしまい、原文の 持つ重厚味を失う危険があるからだ。それに、ただでさえ難解な物語に、かててくわえて セロファンのオブラートを持ち出すこともあるまいと考えたのである。そのかわりに原文 で方言にあたるような箇所は前後の関係で混同を来たすおそれのない場合にかぎって、東 京での話し言葉を当てる、つまり、書き言葉と話し言葉だけの差で我慢することにした。 それ以外は原文を尊重する建前をとり、地名や人名など登場人物によって、かなり呼び方 がちがっているのだが、あえてひとつの呼称に統一することなく、原文どおりとした。 ところでこうした物語の運びやその表現形式はいまさら改めて指摘するまでもなく、伝 統的小説に対置されるいわゆる新しい小説の属性である。思いつくままに名前をあげれば プルースト、ジョイス、カフカ、ムシール、ダレル、ロブ=グリエ、ビュトール、ノサック といった作家群が浮かび上ってくるが、この作家たちの手法が、いや存在そのものがガッ ダの次元とかかわってくる。つまり伝統的な行儀のよい小説作法をこばんで、このように 異様な、晦渋なグロテスクな手法をとっているのも実は作家個人個人の芸術観に由来する 必然的な結果であり、ガッダについてこの点をさぐって行くと二十世紀小説の精神像の一 面を語ることにもなる。そして煎じ詰めれば広い意味での新しい芸術観に包含されるだろ うが、部分的に拡大してみた場合、どうしても無視することのできないガッダ独自の必然 性、こういう小説形式をとらざるを得なかったという必然性が現れてくる。それはいうま でもなくファシズムに対する彼の憤りであり、その発露としての調剃である。 この『メルラーナ』(イタリアではこの長い題名を省略して Pasticciaccio とだけ呼ぶ) は戦後間もない一九四四年からフィレンツェの雑誌「レッテラトゥーラ」に掲載され始 め、一九五七年に単行本としてガルザンティ社から刊行されたものだが、あつかってい る時代は一九二七年の春、つまりムッソリーニがファシストの独裁体制を固めた翌年で、 ガッダは呪詛とも呼べる憤怒のメスをふるってこの体制のシンボルであるムッソリーニに 執拗にいどみかかる。犯人たちを追ってローマの下町をとびまわる警部たちの活動の模様 をそれこそ入念に描きこみながら、しばしば脱線してムッソリーニに対する怨嗟となる。 いや、怨嗟の言葉をあげるため、わざわざ脱線し、したがって誇張しゆがめ、迷路にまよ いこんで行くという感じだ。そして、すべての悪はムッソリーニに帰せられるが、その遠 慮がちな、それでいて容赦することのない呪いを口にするのが体制のポディ・ガードたる べき警官であり、憲兵だというあたりは皮肉である。そしてキージ宮殿を根城とするファ マッシェローニ シスト党の頭領は名前と人相をもじって大顎野郎というあだ名で呼ばれ、侮蔑と恐怖をこ めて「髑髏」と呼びつけにされる。こうして見れば分るように、ムッソリーニに象徴され 10.2 227 るファシズムヘの痛罵がごく自然な形で前衛的手法につながったのであるが、すでに触れ たとおり、実はこれもガッダの本来的な性向と芸術観そのものに出発している。 彼の芸術観については後ほどイタリアのガッダ研究家たちの文章に語ってもらうことに するが、かいつまんでいうと笑いの精神を根底に置いた怒りの芸術的形象化ということに ・・・ なろう。そして現実を考察するのではなく、現実を忠実に再現する。これはガッダがイタ リア批評家からバロックだと揶揄されたのに対し「G がバロックなのは世界がバロックだ からだ」と反論したのに端的に示されているとおりで、彼は社会を怪物とみなす以上、そ の社会を描いた小説は内容、形式ともに社会を反映してグロテスクにならざるを得ない。 とすれば、『メルラーナ』も『悲しみの認識』も未完で終っているが、現実というものが 終わりのない連続である以上、現実に忠実な態度を取れば作品が「未完」となるのは当然 という論理になる。 ともあれ、この小説形式は決して奇をてらったものではなく、なるべくしてなったもの である。そして、ひとつ間違えれば社会風刺のざれ言、言葉の遊び、衒学者のひとりよが りなどに堕しかねないこの素材、形式を時代の記念碑的芸術作品にまで高め得たところに ガッダの作家としての力倆がある。 * * * 翻訳についてさらに一言させてもらうと、ガッグの翻訳はちょうど詩を訳すようなもの で、最初から絶望感がつきまとう。私見では外国語の詩の翻訳は、原文の単語の音、文章 のリズムなど詩の生命のひとつである表現形式を殺し、意味内容を伝えるだけで我慢する ほかない。ガッダの小説の場合、特に方言の操作についてそれがいえるわけで、忠実な翻 訳はまず不可能というほかない。さいわい、ガッダのこの作品が詩ではないという点、つ まり、意味内容の比重が詩より若干重いのではないかという点が多少とも救いとなる。 10.2 イタリア文学界に占めるガッダの地位は一八九三年生れという年齢からいっても、業績 からいっても重鎮というにふさわしく、イタリアで最も畏敬されている作家のひとりであ り、世界の文学界では、ボルヘス、ゴンブロヴィチとならぶ前衛文学の大立者という評価 が一般的である。 イタリアでの一評価を研究書に即して見て行くと、ガルザソティ社版『イタリア文学 史』第九巻はパラッツェスキ、モレッティ、マラバルテ、ブッツァーティ、シローネ、モ ランテ、パヴェーゼなどオールド・ジェネレーションの時代にガッダを置いて、モラヴィ ア、ヴィットリーニ、プラトリーニ、バッサーニ、カッソーラなど「新しい文学」のグ ルーブの先駆けをなすものとしているが、この分類には多少の問題点なしとしないものの ガッダが元老的存在であることはうかがわれる。つぎに、サンソーニ社版『統一イタリア の文学一八六一ー一九六八年』の分類を見ると、エルメティズモ派以降の章は「トスカナ 派」 「ネオレアリスト」 「十九世紀の方言詩人」 「カルロ・エミリオ・ガッダ」 「アントニオ・ ピッツート」というふうにわざわざガッダに一章をさいている。モラヴィア、パヴェー ゼ、カルヴィーノ、プラトリーニ、パゾリーニなどが「ネオレアリスト」の章に、パラッ 228 カルロ・エミリオ・ガッダ――人と作品」 ツェスキ、カッソーラが「トスカナ派」の章にそれぞれまとめこまれているのから見ると 破格のあつかいだが、これは編者がジャンフラソコ・コンティーニというガッダの信奉者 だという事実を割り引きしても注目すべきことである。フェルトリネッリ社版『焦燥の二 十年――四六年から今日までのイタリア小説アンソロジー』は全篇を「リアリズムの間 題」 「C・E・ガッダと実験主義たち」 「誤刺作家乏ユーモア作家」の三項目に大きく分けて いるほどである。この本もガッグのファンであるアンジェロ・グリエルミの編集であり、 サングイネティ、ヴォルポーニ、モラヴィアをガッダを頂点とするグループに分類した り、「識刺作家とユーモア作家」からガッダを除いているなど、公平を欠く嫌いはあるが、 ガッダの重要さを認識させる点では参考になろう。最も無難なのはモンダドーリ社版『二 十世紀の作家たち』で、これは「伝統的作家」 「ヴォーチェ派」 「ロンダ派」 「さまざまな傾 向」「ネオレアリズモ派」の五つに大きく分けられている。ガッダはもちろん「さまざま な傾向」に入るわけで、この中にはモレッティ、マラパルテ、シローネ、ブッツアーティ などが入っている点ガルザンティ版の『イタリア文学史』に似ている。そしてストゥディ ウム文庫の『現代文学者の詩と小説』(ヴァレリオ・ヴォルピーニ)はガッダをパラッツェ スキ、ザヴァッティーニとならべて「認刺、ユーモア、シュルレアリズム」の分類に入れ ているが、訳者の見るところこの位置づけが最も妥当なようである。またペンギン・ブッ クの『イタリア短篇集』は最終的にブラトリー二、パヴェーゼ、カッソーラ、カルヴィー ノ、ジンズブルグ、モラヴィア、ソルダーティそれにガッダの八人を選び出し、ガッダは イタリアでもユニークな作家であり、非常な尊敬をあつめているが、翻訳不可能だという ように紹介している。これなどは外国でのガッダの評価を知る手がかりとなろう。 そこでこの章では最も客観的と思われる前述のヴァレリオ・ヴォルピーニの『現代文学 者の詩と小説』のなかから、ガッダにかんする部分を要約しておく。 「ガッダにはパラッツェスキのような思いやりはなく、一切の感傷的な関係に押さえが たい嫌悪をいだいているようである、その作品はすべて、ひたすら恨みの物語を作り出す ための手がかりにすぎない。事実、題材と作者の間のモラリスト的関係などは目につか ず、もっばら、こっけいなものを作り出そう、パロディを組み立てよう、世間を、周囲の 世界を一種のリアリズムで、つまり絶え間ない腐食作用が現実を変形して行くというリア リズムで描こうという趣向が目立つ。 ガッダが創作に立ち向かう態度、それは自分の考えを変えてくれるような証明を待ちな がら、そんなものが来るわけのないことを知っている人間に似ているが、かといって、現 実参加の手段をいっさい放棄してカリカチュアに走るような、そういう貴族的な逃避もな い。むしろ現実に対する皮肉な反擾は単語に、構文に、文章の構想に現われ、それは言語 的というまえに精神的なフォレンゴ主義 (註=テオフィロ・フォレンゴ一四九一ー一五四 マ ッ ケ ロ ネ ー ア 四、混交体狂詩という言葉の遊びを駆使した作品で知られる詩人) にのっとっている。些 細な外観の描写そのものまでが一切の規則や異議を無視した変形作用を受けるが、それは インスピレーションの緊張が絶えず予測し得ない変化を蒙っているところからきている (コンティーニによると、ガッダの唯一の財産は現在であり、現実のおごり高ぶる外殻で あり、彼はそれを粉砕し、表現手段の万華鏡の中で動かしてみせる。そのさい地平線上の あらゆる地帯から有益な題材を集めてくるが、それは調子ではなく、色である――『悲し みの認識』の序文から)……。 その嘲罵の激しさを逃れるものは何ひとつない。おさえようがないままあらゆる方角に 10.2 229 あふれ出し、既成の小説の論理を焼き払い、それに変るものとして、失望し、ふざけ切っ た作者の異常な行動力が出てくる。この場合、作品のいかんを問わず、全体的な結果より も細部にわたる鮮やかな表現が歓迎される。その結果、言葉に詳しい人や、洗練された読 者を喜ばすことはできよう。だが一方で、ガッダはそのリアリズムにもかかわらず、幸運 な批評を得ているにもかかわらず、いつまでも読者の少い作家のままでいるのではないか と思う。ふつうの読者だったらページをくるごとに古語や廃語、特有の語法、引用と註、 方言(ミラノ方言やローマ方言にプリア方言やナポリ方言が加味されていっそう複雑にな る。断続的に発表され、推稿に推稿を重ねて一九五七年に刊行された『メルラーナ街の怖 るべき混乱』に見られるとおりである)、技術用語や単語の長々とした羅列、暗示、比喩、 隠喩、誇張などがバロックふうに、グロテスクに、うんざりするほど次々と、しかも魅力 ある安定感をもって並ぺられているのにとまどってしまうだろう。ガッダのこの、いわば 十七世紀ふうともいうべき「趣味」について多くのことが書かれてきているが、そのいず れもがちがっている。というのはこの構成は単に知的な理由からではなく、強烈に感じら れた人間的な怒り、ますますひからびた辛らつな魂の所産なのである……。 現実に対するこの独自の反応の仕方を明確に定義づけているのはほかでもないガッダ自 身である。「バロック風なものとグロテスクなものは既に事物のなかに、われわれを取り まく現象学の個々の手段のなかに、風俗の表現そのものの中に、少数者からも多数者から も受け入れられた観念の中に、人間的なものにせよ非人間的なものにせよ文学のなかに、 まえまえからすでに宿っているのである。グロテスクなものとバロックふうなものは熟考 された意思とか作者の表現傾向に帰せられるべきものではなく、自然と歴史に結びついた ものである……《Gはバロックだ》ふうのさわがしい声はもっと合理的で平静な《世界は バロックであり、Gはそれを感じとってその状態を反映したのである》という表現に変え られるべきだ」(『悲しみの認識』の締言から)……。 ボローニャの雑誌『オッフィチーナ』(一九五五年五月、パゾリーニたちの手で創刊) は スペラメンタリズモ 実 験 主 義を標榜し、いわゆる文学の枠をのりこえて社会学から人類学、哲学から心理学 にいたる広範な領域を網羅しようとして、論争が起った。この論争の時期と一致するのが ガッダの再発見であり、彼の運命の新しい一章である。これには言語にかんするガッダの 所説が大きく寄与した。つまり、言語の問題は「現実的な」改革の力点となっていたので ある。つまりガッダ主義は新しいスタイルにとって模範としての役割を果すばかりか、い わゆる戦後リアリズムのイデオロギーで武装した観念を完全に葬るのに貢献した。ガッ ダのページの混乱ぶりは作家の主体的自由を例証するようにみえるし (engagement とい ネオスカピリオトゥーラ う政治的動機から作家を救い出し)、またパゾリーニたち新蓬髪主義者の標準語拒否の例 証ともなった。(新語をふざけて作ってみたり、構文をばらばらにしてみたり、方言の借 用を広く利用する点に、標準語に対する暗黙の嘲笑が感じられる)。要するに疑いもなく ガッダの作品は実験的なパゾリーニ・グループ、前衛グループと呼ばれる人びとの内的弁 明に欠かせないポイントである……。 ガッダの場合、表面的には整然としながら神経的にはラジカルな枠のなかで起ったこと がパゾリーニの場合もくりかえされる。だが、ガッダの場合、精神力を高度に集中した結 果、拒否が腐食作用で現れたのに対し、パゾリーニの場合は世界を変革するという必要か ら来ている……」 230 カルロ・エミリオ・ガッダ――人と作品」 10.3 前章では文学史家の立場に立つヴォルピーニの記述から引用してみたが、こんどは自他 ともに許すガッダ研究家、ジャンフランコ・コンティーニのガッダ論を紹介しよう。この 人は『メルラーナ』と並びながら、『メルラーナ』とはまた全く趣きを異にしたガッダの 代表作『悲しみの認識』の冒頭に長文の解説を寄せている。次の一文はすでに触れたコン ティーニ自身の編集になるサンソーニ社版『統一イタリアの文学一八六一――一九六八 年』一一○○べージ余という彪大なアソソロジーから引用したものである。 「激しくも洗練されたこの作家は過去二十年、三十年にわたって前衛派の一部少 数者の間で読まれ賛美されてきたが、今ではポピュラーとはいえないにせよ最も名 声のある作家で、海外でも同じような評価を得ている (大胆な翻訳者たちは『メル ラーナ街』をフランス語やドイツ語にしてしまった。(訳註:今では英語や日本語 にもしてしまった)。これは読者の好みの高さと歓迎すべきではあろうが、部分的 には第二次大戦後、しきりと方言を使った青白い (イデオロギーにしばられた) ネ オレアリズモの (無意識の) 先駆者と説明されたせいである。また、その一方、十 九世紀のポルタやベッリに比すべきコミック小説の大家という評判が読者に影響し たのであろう。 ガッダはテオフィロ・フォレンゴ (一名、メルリソ・コカイ) とその同時代人で あるフランスのラブレーと同じで『マケロニコ』(イタリア語にラテン語尾をつけ るといったように、さまざまな言語を網羅してきて混交体で文章を書く一派) に属 する。現代における決定的な始祖は Ulysses や Finnegan’s Wake に見るジェイム ス・ジョイスである。だが、これは明らかにガッダの『源』ではなくて、いうなれ ば表現主義的マニエリズムを共有する大型の同僚といってよい。 全く異なるさまざまな言語の『怪物的な混乱 (ラブレーについてラ・ブルイエー ルが述べた言葉)』がおびただしい知識によって操作され、巨大なグ・テスクの効果 と低俗下・叩にわたらないリアリズム的勇敢さによって、危機にある文化と世界の 混沌そのものを示している。同じようなことは、それほど大きな比重を占めていた わけではないにせよ、十九世紀後半、二十世紀前半のイタリア文学、ロムバルディ ア文学にも見られたのである。その最も重要な名前はカルロ・ドッシ (その伝統は 彼の賛美者であるジャン・ピエトロ・ルチーニ、カルロ・リナーティに至ってすっ かり弱まってしまう) だが、ロムバルディア以外ではジョヴァンニ・ファルデッラ とヴィットリオ・イムブリアー二を重視すべきだ。 ロムバルディアの市民の風俗や神話にかんする時として善意の、時として残忍な 訊刺が初期のガッダを育てた。そして家庭環境から来る幼少時の不幸にくわえて、 残酷な戦争体験から受けた神経症が高まっていた。技術者としての資質、高踏的な 教養 (人文関係の教養があらわである)、その他、高度に専門的な学識といったもの がロムバルディアの香りゆたかな言語にこれまでにない新しい光をともしたので あった。 ミラノ的な語法に、もっと辛らつで論争好きの、いってみればフィレンツェ的な 面がくわわってくる。最も精彩に富み、詩的なのは『メルラーナ街』のローマの言 10.3 231 葉である。そこへ加うるに長い間、抑圧されてきたファシズムヘの嫌悪からする戦 闘的なニュアンスがにじみ出てくる。 非常に意義ぶかいのは、ブリアンツアの田舎生活を南米に置きかえた自伝的要素 のある『悲しみの認讃』にしても、未完に終った推理小説仕立ての『メルラーナ街』 にしても、のんびりと断片的に描写して行くという同じような手法を通じて、彼の 『出生地』である雑誌『ソラリア』の断片主義、抒情性が見てとれることである。 すでに何度も論じられているため、簡単に割り切ろうと思えばできなくはない問 題なのだが、いったいガッダ式のスタイルの極端な誇張は革命的な、意義をもつも のなのか、あるいは一部の人びとがいみじくも指摘しているように反動的、保守的 意昧あいを持つものなのか。フォレンゴとラブレーの場合は慎重な態度でオーソ ドックスな考えの限界を示し、保守的文化をエネルギッシュに笑いとばしている、 ジョイスの場合は深奥都にメスを入れる結果、ヴィクトリア王朝の道徳律やアイル ランドのカトリシズムの禁制を宙にはねあげる。以上のことを前提に次のように認 めなければならない。つまり、現代の文体上の『反抗者』は根本的には個人主義者 で無政府的である。そこで、ある点でガッダに似通った同時代人 (ほんのわずかな 詩的傾向だけでもいい) のうちひとり、たとえばフランス人のセリーヌについてみ ると、この人はユダヤ排斥主義者、対独協力者に終ったし、もうひとり、ドイッ人 のギュンター・グラスは明らかに左翼民主主義の限界内に落ちついている。ガッダ はといえば多かれ少かれ個人的な無用な説明を並べ立てるところからいっても、彼 が意図しているのは疑いもなく『個人的な問題』である。だが、不安な世界に拡大 されたその声がひろがって行くと、これはガッダの否定的で苦しい面なのだが、安 定への悲しいノスタルジア、自分を初めすぺての人びとの歴史にあざむかれた絶望 の証しとなっている」 前章に引用したコンティーニは地道なガッダ研究家であるが (もっとも引用した文章は 短いものであるだけに、かなり熱っぼくガッダを語ってしまっているが)、次にあげるの はガッダ狂、ガッダ・ブァソという表現がびったりしている評論家のアンジェロ・グリエ ルミの作品論である。グリエルミのアンソロジー『焦燥の二十年』については第二草でも 触れておいたが、同じフェルトリネッリ社の「文学資料」シリーズのなかに『真実と虚偽』 という評論集があり、ここでも一作家一章の原則を破って、ガッダには「傭大なる老人た ち」という部で三章もさいていろ。ちなみにこの偉大なる老人にあげられたのはガッダの ほかではパラヅツェスキ、ピッツート、デルフィニである。 まず『焦燥の二十年』から引用してみる。 「一九六三年,『悲しみの認識』が出版されたことにより、ガッダはヨーロッパの 代表的作家という王冠をさずけられたが、これは意義ぶかいことである。この王冠 は一九五八年に『メルラーナ街の怖るべき混乱』が刊行され、イタリア現代文学に 恨本的な変革をくわえて、もはや無用となった形式からイタリア文学を解放し、か つてなく自由で多様な探究へとみちびいたそのときから続いている過程の結論であ る。カッソーラ、パゾリーニ、カルヴィーノも体質改善のために力をつくしてきた が、 『メルラーナ街』のもたら. した解放は全く異質であった。それは本質的な解放 であり、既成の小説は現在という鷹史的時点で現実の支配力を描けないと告発し、 小説の概念を危機にまで追いつめたほどである……。 232 カルロ・エミリオ・ガッダ――人と作品」 歴史は行動の領域であり、文学は存在の領域である。そして麗史的な制約、日常 的な因習をのりこえて、自由に無限に現代を映し出すような人工的で非現実的な登 場人物が必要となってくる。 ガッダの登場人物はゴンサロにせよ、チッチョ・イングラヴァッロにせよ、イデ オロギー的人物ではない。したがって、そこに説教者のような点、訓戒する者のよ うな点が顔を出しても「奇異」ではない。別に彼は何ごとにせよ、われわれに教え るようなことはしないのだ。創作にあたって、ほかの作家なら芸術的目的とするよ うな説明的題材もガッダにあっては手段となるのである……。 ガッダの巨大な憤り、その深い悲しみ、知的な不平を知らない人があろうか。そ れを現わすため方言を使った結果、言語的に混乱し、幾多の要素がたすけあって腐 食用の酸をしたたらせる。それが小説の題材を燃焼させ、乳化させ、変形し、醸酵 させてふくらみをもたせる……。 ガッダが現実にこのように零に還元したのはなぜであろうか。その理由は事物を 意味から解放する、つまり神秘姓を取りさるためである-…」 次は評論集『真実と虚偽』のなかから「ガッダの仕事場」の引用である。 「C・E・ガッダは現代イタリア文学の鳥瞰図のなかできわめて例外的な存在に思 える。ほかの作家との違いは現実に対する理解、態度の違いである。他の作家は現 実とは道徳的な原則、イデオロギー的結論を当てはめる素材であり、現実に体系と 秩序をあてはめるつもりでいる。だが、多くの場含、この原則、結論といったもの が実は意識のあせり、感受性の悪さ、知的虚無といったものを内容とし、現実をあ ざむくのがふつうである。 ガッダは全く反対である。もちろんユーモアもこころえていれば、頽廃的な作家 の属性もそなえているし、現代に対するイデオ・ギー的、政治的判断を排している わけではない。ただし、ほかの作家とちがって、個人的な気まぐれな客観性にまで 高めるとか、鳴咽や意識の行きづまりを現笑の解釈、評価の確実な物指しにすると いう誤まりは犯していない。そうした気まぐれ、鳴咽は彼の場合、刺激剤として のみ価値がある。そして『メルラーナ街』以上に刺激的な、あふれるような、みな ぎった本があろうか-…。 ガッダの場合、現実よりも現実の断片について語らなければならない。というの は彼の本からは判断、体系化、メッセージよりも、むしろ現実そのものが踊り出て くる。それは一切の道徳的意図・色あいを拒否する、イデオロギーの手垢のつかな い現実であり、社会的になんらかの意味を帯びた現実ではない。もっばら物理的 な、中立状態にある現実である。 『メルラーナ街』のガッダは心理的様相、悲劇的手がかり、感情的実体といったも のをいかにも特権めかして描き出し、あとからそれらを破壊して、記憶のおよばな い、本原的、前知性的な領域へと引っこめているようにみえる。ガッダのリアリズ ムは『創造的』リアリズムであり、現実をよみがえらせるものであって、現実を考 察するものではない。調査、詮索、判断といったことはガッダの興味をひかない。 たとえば、サント・ステファーノ・デル・カッコの警察署にしてもずいぶんと悪く、 汚なく書かれているが、それは決して政治的・祉会的立場から全イタリアの、ロー マの警察署を象徴的に語ったのではない。サント・ステーファノ・デル・カッコは 10.4 233 恐しい場所で、一般にイタリアでは、刑務所、病院、警察に特有の恐怖を秘めたも のとして描かれている。だが、ガッダの場合、その恐怖にも別に責め非難すべき点 はない。そうした恐怖のたぐいは、イメージ、象徴、現実を確実に再現できるとい うときだけ利用されるのである。現実はどんなものにせよ、彼にとっては中立的状 態にある。だから、リリアナの死体の描写にしても、道を聞かれた警官が説明する 言葉と思えばよい。 現実を歴史からはぎ取った点で、ガッダはアングロサクソンの作家と同じくらい 強力である (もちろん両者は異質のものだが)。どちらも伝統的な枠から現実を取 りはずそうという同じ傾向がある。もっともアングロサクソンの場合はこの解体が 新しい『人間』の可能性の再建という機能を果しているのに対し、ガッダは非歴史 的、前人間的、中立的な記述の手段とするにとどめている。 そして多くのイタリアの作家とちがって、ガッダはアングロサクソンの作家のよ うに言語に対する関心、言葉の優雅な構成に対する閨心が熾烈であるが、これは叙 述の対象にえらばれた素材を根本的にゆがめて、それを沸とうさせ、望ましい強烈 さにまでみちびく有効な手段である。ガッダは言葉について経験的な概念をもって いる。つまり言葉は事物の尺度ではないし、魂でも精神でもない。いってみれば火 とは無縁 (肉と、それを料理するさいのガスが無縁なように) のものが入っている 鍋の下の火である。食物はほとんどが火を必要とし、火の強さばかりか、質も問題 になってくる、薪の火、炭の火、ガスの火といったように。そして食品によっては、 それぞれぴったりの火がひとつしかない場合もある。ガッダの方言がそれで、すぐ れたコックと同じように、食物の味は香料の配慮よりも、煮たり焼いたりする具合 で決まることをガッダは知っている。ジョイスがさまざまな時代の言葉をこねあわ せているのに対し、ガッダは同時代のローマ、ナポリ、アブルッツィといったさま ざまな地方の方言を組みあわせる。その差はジョイスが世紀、歴史という網で可能 な『人間像』を作るのに対し、ガッダは個人の習横、心理という網で現実のありよ うというよりも、現実存在ののっびきならない局面をとらえようとする点にある」 10.4 カルロ・エミリオ・ガッダ Carlo Emilio Gadda は一八九三年、彼自身にいわせると 「第一次ジョリッティ内閣が崩壊する十四日まえに」ミラノで生まれた。この巨匠が寡黙 だということもあって、生いたち、経歴についてはほとんど明らかにされていないが、幼 年時代、少年時代、ともに辛い日々であったらしい。それが後日、作品のなかで、何を対 象としたのかも判然としないような悲しみ、憤りとなって現れるであろう。 第一次世界大戦が始まると、一九一五年に当時すでにミラノの理工科大学の学生であっ たガッダは自ら志願して戦場に向かう。正義感の若者として、すすんで出生して行く青年 ガッダにはもちろん愛国者としての自負があったことだろう。だがそれ以上にガッダには 科学技術に対する情熱があった。今も昔も変りのないことだし、また悲しいことでもある のだが、その時代の科学技術の粋は武器のなかに端的に現れるといってもいいすぎではな い。とすれば、およそ科学技術に関心あるものがそれこそ実験室にでも行くように戦地に おもむいたところで、これは無理からぬところである。おそらくガッダに制服を着せたの 234 カルロ・エミリオ・ガッダ――人と作品」 はこの実験室に対する期待であろうし、そして、制服を脱ぐよう、いや制服をまとう遠因 となった科学技術を遠去かるようにさせたのは、この「実験室」に対する絶望であろう。 戦争というのはあまりにも無惨な実験室であった、特に感受性の強いガッダにとっては。 そして、この大戦で愛する弟のエンリーコを失ったガッダにとっては。あれから五十年余 をへた今日でも十月になるとガッダは喪に服する。つまり第一次大戦の終った一九一八年 十月はガッダにとっては苦悩の記念日なのだ。しかも彼の座右の書は二冊の第一次大戦の 「戦記もの」であるし、愛舖する詩は同じくこの大戦を歌ったモンターレの作品だという。 この大戦でガッダはアダメッロ、セッテ・コムー二高地、カルソ、イゾンツオで戦闘に 参加し、一九一八年にドイツでの戦闘で捕虜となる。このときの記録は「戦争と捕虜生活 の日誌」という作品になって残っている。 戦後、除隊して大学にもどったガッダは一九二〇年に卒業し、イタリア、フランス、ド イツ、アルゼンチンなどで技師として働くが、もちろん、この間に大戦で得た痛手をいや す一方、文学に移向する基礎がためがなされて行く。 この技師生活は一九三五年までつづくが、その問、一九二六年から雑誌「ソラリァ」に 短篇の執筆を始め、それらの短篇をまとめて『哲人たちのマドンナ』という単行本をあら わし、さらに一九三四年に『ウディネの城』を発表し、それを契機にガッダは文筆生活に 入って行く。しかし技術者としての経歴はいつまでもガッダから離れることがない。 難解な技術用語、専門用語を正確に駆使して技法に色をそえるという、仕事の上での影 響についてはいわずもがな、彼のあだ名にまでなっている以上、これはとうてい拭い去れ ないのである。「あの技師出身のひと」、これがガッダのあだ名である。 国外を点々と変って行ったのと同じように、国内でもミラノ、フィレソツェ、ローマと 住居を変えている。一九五〇年以降はずっとローマに住んでいて、ガッダ自身の言葉を借 りると「ローマの中心部から十四キロ離れた郊外に住み、外へ出ることがほとんどない」 そうで、夜になると狼の吠えるのに耳を傾けるという。外出するとすれば、弟子といえる ような「前衛派の人びと」にさそわれたときぐらいで、あとは新聞「コッリエーレ. デッ ラ・セーラ」を隅から隅まで読んでから仕事をする。原稿は方限紙に手書きである。 こうしたガッグの暮らしぶりはなにか隠者を思わすが、それもそのはず、彼はローマの エレミティ 作家たちのなかではガット、シローネ、プラトリーニ、ラウレソツィなど「 隠 者 グルー プ」の始祖とされているのである。 そしてローマに落ちついてからのガッダはそれまでのごく限られた一部の愛好者しかい なかったときにくらべて、なにかと身辺が多忙になってきている。特に「メルラーナ街」 が出て、ガッダの読者が一躍ふえた一九五七年以降、そして『悲しみの認識』が国際文学 賞 (フォルメソトール賞) を取った一九六三年以降はとりわけジャーナリズムがガッダを 追うようになり、新聞、雑誌にガッダの談話ののることが多くなったが、その発言は常に 少数者の立場に立ち、警世的な、妥協を許さない調子がいよいよ強くなっている。 10.5 ガッダの主な作品と刊行年次をかかげると次のようになる。 1.『哲人たちのマドンナ』(La Madonna dei filosofi) 一九一三年 2.『ウディネの城』(Il castello di Udine) 一九三四年 10.5 235 3.『イタリアの驚異』(Le meraviglie d’Italia) 一九三九年 4.『歳月』(Gli anni) 一九三九年 5.『アダルジーサ』(L’ Adalgisa) 一九四四年 6.『はじめての寓話の本』(Il primo libro delle favole) 一九五二年 7.『燃える公国の物語』(Novelle del Ducato in flamme) 一九五三年 8.『戦争と捕虜生活の日誌』(Giornale di guerra e di prigionia) 一九五五年 9.『夢の稲妻』(I sogni e la folgore) 一九五五年 10.『メルラーナ街の怖るべき混乱』(Quer pasticciaccio brutto de via Merulana) 一 九五七年 11.『旅・死』(I viaggi - La morte) 一九五八年 12.『チェールトザの方へ』(Verso la Certosa) 一九六一年 13.『分別のある結びつき』(Accoppiamenti giudiziosi) 一九六三年 14.『悲しみの認識』(La cognizione del dolore) 一九六三年 国際文学賞 (フォルメン トール賞) 受賞 15.『フランスのルイ王朝』(I Luigi di Francia) 一九六四年 16.『短篇集』(Racconti) 一九六五年 17.『エロスとブリアポ』(Eros e Priapo) 一九六七年 18. 戯 曲『 フ ォ ス コ ロ の 不 減 の 詩 句 に 見 る 勇 士 、女 勇 士 、詩 の 心 』(Il Guerriero, I’Amazzone, lo Spirito della poesia nel verso immortale del Foscolo) 一九六 七年 おわりに翻訳にあたってご教示いただいた東京外語大の Franco Mazzei 先生にお礼を 申しあげる。 一九七〇年一月 千種堅 236 カルロ・エミリオ・ガッダ――人と作品」 (検印廃止) 1970 年 2 月 10 日初版印刷 1970 年 2 月 15 日初版発行 発行者 早川清 東京都千代田区神田多町 2∼2 発行所 株式会社早川書房 東京都千代田区神田多町 2∼2 電話 東京 (254) 1551∼8 振替東京 47799 印刷所・東洋印刷株式会社 製本所・株式会社明光社 本文用紙・本州製紙株式会社 製函所・株式会社佐藤製函所 表紙クロス・日木クロス工業株式会社 ビニールカバー・北沢化学工業株式会社 定価 980 円 (乱丁本・落丁本は本社にてお取り替えします)0397-8040 王 0-6942
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