エイズ対策入門 2016 年 1 月改訂 独立行政法人 国際協力機構 青年海外協力隊事務局 目 次 1. はじめに 中村安秀(大阪大学大学院 人間科学研究科)......................................................1 2. 略語集 垣本和宏(厚生労働省 関西空港検疫所検疫課)............... ...................................3 3. エイズ対策とは? 中村安秀(大阪大学大学院 人間科学研究科)......................................................4 4. エイズは我々に何をもたらしたか ①HIV と共に生きる/社会的脆弱性と GIPA 長谷川博史(日本 HIV 陽性者ネットワーク・ジャンププラス)......................6 ②エイズと地域社会 沢田貴志(認定特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会).............11 ③エイズにおける差別と人権 五島真理為(元特定非営利活動法人 HIV と人権・情報センター)...............13 5. エイズを知ろう ①世界のエイズ統計と歴史 沢田貴志(認定特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会)...28 ②簡単な HIV のウイルス学 垣本和宏(厚生労働省 関西空港検疫所検疫課)...................................32 ③HIV 感染と臨床 本田美和子(国立国際医療センター エイズ治療・研究開発センター) 石川尚子(国立国際医療センター 国際医療協力局)........................................ ............... ......................35 ③追記 開発途上国の HIV 医療の現状と課題 沢田貴志(認定特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会)... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ......40 ④エイズとジェンダー 池上千寿子(特定非営利活動法人 ぷれいす東京)...................................................................................44 6. エイズ対策の実際 ①国際的なエイズ対策の最新動向 稲場雅紀(特定非営利活動法人 アフリカ日本協議会)..........48 ②日本のエイズ対策の現状と課題 樽井正義(慶應義塾大学)............................................................55 ③HIV 予防対策 角井信弘(株式会社エッジウェル・インターナショナル)..........60 ④感染者支援 石田裕(国立駿河療養所) 向山ゆみ(佐久総合病院地域ケア科) 小西香子(国立国際医療センター 国際医療協力局) 野崎威功真(国立国際医療センター 国際医療協力局) 石川尚子(国立国際医療センター 国際医療協力局) 帖佐徹(国立国際医療センター 国際医療協力局)......................................................................................81 ④追記「HIV 陽性者へのケアと支援」 李祥任(元認定特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会) 沢田貴志(認定特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会)....................................................89 ⑤HIV カウンセリング・検査 角井信弘(株式会社エッジウェル・インターナショナル)..............99 ⑥母子感染予防対策(PMTCT) 垣本和宏(厚生労働省 関西空港検疫所検疫課)..............................115 ⑦HIV エイズにより過酷な状況にある子どもたちの保護 野崎威功真(国立国際医療センター 国際医療協力局)........ ........ ........ ........ ........ ........ ......................119 ⑧ピア・エデュケーション 浅野円香(特定非営利活動法人 HANDS)........................................124 ⑨ハーム・リダクション 嶋根卓也(国立精神・神経センター 精神保健研究所)................130 ⑩HIV と安全血液対策 宮本英樹(国立国際医療センター 国際協力局)...............................134 ⑪結核と HIV について 村上邦仁子(結核研究所国際協力部)........... ......................................136 ⑫ソーシャル・マーケティング 中谷香(国連合同エイズ計画(UNAIDS) インドネシア事務所)...143 7. エイズ対策支援委員が推薦するその他の勉強資料(図書・ホームページ・インターネットアクセス) 垣本和宏(厚生労働省 関西空港検疫所検疫課)......... ......... .............150 1.はじめに 大阪大学大学院人間科学研究科 教授 中村安秀 (第 3 版) エイズ(AIDS: Acquired Immunodeficiency Syndrome:後天性免疫不全症候群)は、HIV (Human Immunodeficiency Virus:ヒト免疫不全ウイルス)の感染により、比較的長い潜伏 期間を経て発症する免疫不全症候群をいいます。 1981 年にアメリカ合衆国で初めてのエイズ患者が報告され、その後、全世界に急速に感 染が拡大しました。国連合同エイズ計画(以下 UNAIDS)の発表(2014 年)によると、2013 年における世界の HIV 陽性者(people living with HIV)の数は 3,500 万人、HIV 新規感染者 数は 210 万人、エイズによる死亡者数は 150 万人といわれています。そして、抗レトロウ イルス剤による治療(Anti-Retroviral Therapy:ART)を受けている HIV 陽性者は、1,290 万人 にのぼると推定されています。 1996 年に多剤併用療法が確立し、エイズ治療は新たな段階に入りました。しかし、多く の途上国での HIV 感染状況はますます深刻になり、 2000 年の沖縄・九州サミットにおいて、 エイズをはじめとする感染症問題が重要課題として取り上げられ、2001 年には国連エイズ 特 別 総 会 が開 催 さ れまし た 。 2002 年 に発 表 され た ミ レ ニア ム 開 発目標 ( Millennium Development Goals:以下 MDGs)では、8 つの目標のひとつとして「エイズ、マラリア、そ の他の疾病との戦い」が取り上げられ、02 年に「世界エイズ・結核・マラリア対策基金(以 下 GF)」が設置されました。 このような世界の潮流のなかで、エイズに関する国際協力の一環として、青年海外協力 隊では「エイズ対策隊員」という新たな職種を設け、2003 年に募集を開始しました。現在 では、 「感染症・エイズ対策」という職種で募集しています。エイズ対策においてはさまざ まなアプローチが可能で、保健医療の資格をもたない文系の人たちが活動できる場も数多 くあります。 「エイズ対策入門」は、HIV/エイズと関連する分野での国際協力活動を志す人を対象と して、2007 年にホームページ上にアップされました。 「エイズ対策支援委員会」が中心となっ て編集作業を行い、青年海外協力隊の「エイズ対策」を受験する人にとって勉強するため の教材として活用されました。また、文系のバックグランドをもつ方々にとっての基本的 な勉強資料として、あるいはアフリカなどで HIV/エイズ分野で活動する NGO の方々には恰 好の入門書として好評をいただいていました。その後、HIV/エイズに対する新しい知見を 取り入れ、できるだけ最新の情報を提供するために、MDGs の終了年にあたる 2015 年に、 「エイズ対策入門改訂版」を作成し、ホームページ上にアップすることになりました。 エイズ対策を考えるとき、感染症としてのエイズ、社会問題としてのエイズ、国際協力 のなかでのエイズという異なる側面をバランスよく理解しておくことが大切だと思います。 この「エイズ対策入門改訂版」は、エイズという国際社会の巨大な課題をバランスよくま とめた入門書をめざしています。取り上げた課題は多岐にわたります。日本国内と世界各 地の状況、統計と歴史、ウイルス学の基礎から臨床医学、地域社会やジェンダー・人権、 母子感染や安全な血液供給を含む予防対策、カウンセリングやピア・エデュケーション、 1 エイズ遺児やハーム・リダクション、ソーシャル・マーケティングなどなど。 多彩な執筆陣の方々に参加していただき、HIV/エイズに関してこれだけ網羅的に取り上 げた日本語による入門書は類書を見ないのではないかと、密やかに自負しています。ホー ムページ上での公開を前提として企画しているので、ひとつの項目がひとつの読み物とな るように構成されています。従って、全体としてみると、年号の記述も統一しておらず、 記述が重複している部分もあります。ひとりひとりの執筆者のメッセージ性を重視したこ とを、くみ取っていただけると幸いです。この「エイズ対策入門改訂版」を入り口として、 多くの方々が現場での経験を積んで、もっと奥行きの深いものにしていただけると幸いで す。 なお、 「エイズ対策入門改訂版」の内容については、最善を尽くしたつもりですが、誤植 や追加修正、あるいはコメントなどがありましたら、遠慮なく青年海外協力隊事務局まで ご連絡ください。読者の方々と一緒になって、より充実した内容に更新していきたいと考 えています。 最後になりましたが、 「エイズ対策入門改訂版」の企画・編集にあたっては、国際協力機 構青年海外協力隊事務局の上田直子課長をはじめ多くの方々の献身的な努力のおかげで、よ うやく形が整いました。編集担当として活躍いただいた垣本和宏さんの迅速な仕事ぶりと ともに、お忙しいなかご執筆いただいたすべての方々に、この場をお借りして厚く感謝申 しあげます。 ≪連絡先≫ 独立行政法人国際協力機構青年海外協力隊事務局 〒102-8012 東京都千代田区二番町 5-25 TEL: 03-5226-9816 二番町センタービル FAX: 03-5226-6379 海外業務調整課 Email: [email protected] ※執筆者の所属先について 第 2 版(原稿の修正、加筆なし) :執筆当時のままの所属先で記載 (4.①、4.③、5.③、5.④、6.④、6.⑧、6.⑨、6.⑩、6.⑪、6.⑫) 第 3 版(原稿の修正、加筆あり) :現在の所属先で記載 (1.~3.、4.②、5.①、5.②、5.③追記、6.①~6.③、6.④追記、6.⑤~6.⑦、7.) 2 2.略語集 厚生労働省 関西空港検疫所検疫課 垣本和宏 ANC antenatal care ART antiretroviral therapy ARV antiretroviral (drugs) BCC behavior change and communication CBO community based organization CCM country coordinating mechanism CITC client-initiated testing and counselling DOTS directly observed treatment, short-course FBO faith based organization GFATM Global Fund to Fight AIDS, TB and Malaria GIPA Greater Involvement of People living with HIV/AIDS GNP+ Global Network of People living with HIV/AIDS HAART highly active antiretroviral therapy HBC home based care IDU injecting drug user IEC information, education and communication LGBTI lesbian, gay, bisexual, transsexual, transgender, transvestite, and intersex people MDGs Millennium Development Goals MSM men who have sex with men NAC National AIDS commissions, committees, or councils OI opportunistic infection OST opioid substitution therapy OVC orphans and vulnerable children PEP post-exposure prophylaxis PEPFAR the US President’s Emergency Plan for AIDS Relief PITC provider initiated testing and counseling PLHIV people living with HIV PMTCT prevention of mother-to-child transmission PrEP pre-exposure prophylaxis SDH social determinants of health STI sexually transmitted infection TB tuberculosis UNAIDS Joint United Nations Programme on HIV/AIDS VCT voluntary counseling and testing 3 3.エイズ対策とは? 大阪大学大学院人間科学研究科 教授 中村安秀 (第 3 版) UNAIDS の発表(2014 年)によると、2013 年における世界の HIV 陽性者数は 3,500 万人、 HIV 新規感染者数は 210 万人、エイズによる死亡者数は 150 万人といわれています。新規感染 者数は 2001 年に比較して 38%の減少、死亡者数は 2005 年のピーク時に比較して 35%も減少 しています。一方、抗レトロウイルス剤による治療を受けている人は、1,290 万人にのぼると 推定されています。以前に比べると、はるかに多くの HIV 陽性者が治療を受けられる状況に なっていますが、HIV 陽性者の 37%しか治療を受けることができないという厳しい事実があり ます。地域別にみると、HIV 新規感染者の 70%はサブサハラ・アフリカで生じています。 ウイルスは血液、精液、膣分泌液、母乳などに含まれています。HIV の主な感染経路は、性 感染、血液感染、母子感染の 3 つであり、日常的な接触では感染しません。性感染は、異性間 性交渉でも同性間性交渉でも起こります。血液感染では、HIV に感染した血液や血液製剤、血 液の付いた注射針などを介して生じるために、注射器による薬物使用者(Injecting Drug Users: 以下 IDUs)が感染することも少なくありません。HIV 陽性の母親から生まれる子どもは、妊 娠中、分娩中、あるいは授乳中に感染を受けることがあります。 HIV に感染しても、多くの場合はほとんど無症状で長期間経過します。しかし、免疫機能が 低下してくると、普段はかからないような病原体による日和見(ひよりみ)感染や腫瘍などを 生じ、死に至ることもあります。抗レトロウイルス薬(ARV)の投与などの治療を受けること により、長期間にわたり日常生活を送る人も増えています。 エイズは、社会を担う若年・勤労者層に主に発生するため、社会経済開発への打撃、遺児の 増大、平均寿命の低下など社会全体に与える影響が著しいものがあります。HIV 陽性率の高い サブサハラ・アフリカやカリブ海諸国の多くでは、国家政策の重要な柱の一つがエイズ対策で す。また、HIV/エイズ感染の背景として、貧困、女性の低い社会的地位、難民や移民、少数民 族といった政治社会的な問題が根底にあり、その解決のために長期的な展望に立った取り組み が期待されています。 エイズ対策は、感染予防、HIV/エイズと共に生きる人々(people living with HIV/AIDS: PLWHA)に対する治療とケア、エイズによる影響を受けた家族やコミュニティへの支援など があげられます。とくに、コンドームのキャンペーン、若者に対するピア・エデュケーション、 自発的意志に基づく検査とカウンセリングを行う自主的カウンセリング及び検査(voluntary counseling and testing: 以下 VCT)」 、注射器による薬物常用者対策、安全な血液の供給などが積 極的に進められています。 エイズに関する国際協力としては、1996 年に UNAIDS(国連エイズ合同計画)が設立され、 途上国政府のエイズ対策の政策立案やガイドライン作成、国連機関の調査研究、モニタリン グ・評価、人材養成を中心とした技術支援などの調整を行い、総合的なエイズ対策の啓発など を中心に活動を行っています。2000 年 7 月の G8 九州沖縄サミットにおいて、開催国の日本が 積極的にエイズをはじめとする感染症問題を重要課題として取り上げ、感染症対策の追加的資 4 金調達と国際的パートナーシップ強化の必要性が提唱されました。その後、2001 年 6 月には国 連エイズ特別総会が開催され、エイズに対する地球規模でのグローバルな取り組みの基本的な 枠組みができ、ミレニアム開発目標では、8 つの目標のひとつとして「GF」が発足し、各国の 政府や民間財団や企業など国際社会から大規模な資金を調達し、中低所得国が自ら行う疾病の 予防治療、感染者支援、保健システム強化に資金を提供しています。また、 「知的所有権の貿 易関連の側面に関する協定(TRIPs 協定)」において、ドーハ宣言に基づき、エイズ、マラリア、 結核に関してジェネリック薬の製造が許されるようになった成果は大きいものがありました。 これらのさまざまな対策の相乗効果により、2000 年代の初頭と比較すると、予防・治療・社 会啓発の面で飛躍的に状況が改善に向かいつつあります。しかし、一方では、サブサハラ・ア フリカだけでなく世界各地において、まだまだ解決に至らない多くの課題を抱えている現状が あります。一見、事態が好転しつつある時こそ、その流れから取り残されマージナルな環境に ある人びとに対するきめ細やかで温かな取組みが必要になっています。 地域に根ざした活動のなかで、世界的に画一的なエイズ対策ではなく、地域の特色を生かし 地域の自立につながるようなエイズ対策が、世界の各地で実を結ぶことを期待しています。 5 4.エイズは我々に何をもたらしたか ①HIV と共に生きる/社会的脆弱性と GIPA 日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス Asia Pacific Network people Living with HIV/AIDS(APN+) 長谷川博史 (第 2 版) ■HIV陽性者の立場 HIV感染の広がりは特定の人口集団から始まりやがて一般人口集団にひろがっていく。そ の過程においてHIV感染の危険にさらされている人たちの多くは感染リスクを避けるため の十分な情報や能力を持てず、適切な予防や支援にアクセスする機会や自由を損なわれて いる。この脆弱性(Vulnerability)こそが予防、治療、ケア・サポートへの普遍的アクセス を阻害しており、HIV感染症流行の根本的問題であると言える。さらにその実態はそれぞれ の特定人口集団によって異なり、経済、政治、文化、宗教といったさまざまな社会的要因 が影響し、国や地域、コミュニティによって現れ方が異なる。ただ、共通して言えること はエイズにまつわるスティグマ(Stigma=汚名、差別的烙印)がその脆弱性の主要素となっ ていることだ。 そのためにエイズ対策は単一のプログラムでは効果を期待できない。それぞれの対象集 団に対応した複数のプログラムを戦略的に組み合わせて実施する複合的アプローチが行わ れなければ効果を発揮しない。 この本質的問題を理解し、見極めるうえでHIV陽性者の存在は極めて重要となる。彼等は 予防、治療、ケア・サポートというエイズ対策において常に当事者であり続けた。その体 験から導き出された知見にこそ、対象層の感染リスクを低減し有効なエイズ対策を行う鍵 が存在する。そこで提唱されるようになったものがHIV陽性者のエイズ対策への積極的関与 (GIPA: Greater Involvement of People Living with HIV/AIDS)である。 ■脆弱性(Vulnerability)を生みだすもの HIV/エイズとのたたかいの歴史はその病に与えられたスティグマとのたたかいの歴史で もある。 エイズが登場したのはわずか25年前で、アメリカ合衆国の男性同性愛者のコミュニティ から始まった。さらにIDUsへと広がり異性間の性感染が増加した。これら脆弱な特定集団 から感染が始まったことから当時の保守的な政権は「エイズは健全な合衆国市民がかかる 病ではない」として積極的な対策を取らなかった。その結果、数十万人規模で感染が広が った。本来平等であるべき人間を“健全な市民”とそうでない者とに二分する差別的なも のの見方が数多くの命を奪ったのである。そしてその流行は一般人口まで拡大し、アメリ カ社会全般に大きなダメージを被ることになった。 6 しかし、国によって、地域によって、コミュニティによってその脆弱性を生みだす社会 的要因は異なり、それぞれの社会構造によってその現れ方は異なる。たとえば同性愛に対 する偏見や差別がない平等な社会が実現されていれば、それらの人々が予防や治療、ケア・ サポートなどの社会的支援にアクセスすることに抵抗は無くなり、検査をふくむ予防や治 療、サポートへのアクセスは自ずと進み、流行は抑止される。 世界では、男性とセックスをする男性(Men who have sex with men: :以下MSM)、IDUs、 セックスワーカー、移住労働者、女性、若者、孤児、など、社会の主流から外れた人たち がそれぞれ独自の社会的困難にくわえ、HIV/エイズに付与されたスティグマ、さらには感 染や発症による心理的・身体的困難との二重、三重のたたかいを余儀なくされている。 エイズにまつわるスティグマもまた単純な存在ではなく重層的な構造を有している。 1980年代初頭、エイズが原因不明の「死の病」として登場したことは科学の進歩が多く の病を克服できるという幻想を打ち砕き現代社会に恐怖とともに衝撃を与えた。しかも、 その流行がMSMやIDUs、セックスワーカーなどの近代社会においても偏見や差別の対象と なりやすい人口集団であったために、エイズを神罰としてこれらの人々を糾弾した。この ような事からHIVに感染しエイズになることは社会からの排除を意味し、社会的孤立を意味 した。 このようにエイズに与えられたスティグマは“死の恐怖”“道徳的非難”“少数者に追 いやられる不安”といった二重、三重の汚名として構築されていった。この問題は先進諸 国であれ、途上国であれ、21世紀の現代に至っても解決している訳ではない。(図1) 社会には法律、宗教、道徳、文化などによる複数の規範が重層的に存在している。特定 集団の脆弱性はその社会の主流をなすさまざまな規範から逸脱しているとみなされること に起因する。つまり、社会の主流をなす人々の規範や価値観を基準として特定の人々を位 置づけるとき、彼等は逸脱者として位置づけられ、スティグマは強化され、人々の脆弱性 は増大する。(図2) 7 エイズが感染症である現実、特に性感染という人間の本質や尊厳に深くかかわる性行動 が感染機会をもたらすという事実を考えるとき、これらの主観的規範は対策上何の有効性 も持たず、むしろ感染の広がりを促進する。 感染症対策ではその感染メカニズムや重篤性から患者の隔離を要する疾病も存在し、個 人の基本的人権と国家や社会という全体の利益という、相反する二つの利益の衝突が生ま れる。基本的人権の制限を全体の利益とのバランスの中でどこまで許容するべきかが議論 となる。HIVの感染メカニズムが明確であり、その伝染性が隔離政策を採る必要のないもの であることなどが解明されているにもかかわらず、それぞれの立場からあるいは個人的信 条から過度に社会防衛的立場をとる人たちが後を絶たない。エイズ問題の根底にある社会 的要因を考えるとき、社会防衛的視点や保健行政の執行者の立場からではなく、現実に存 在する人々の営みに焦点を当て対策を行うことが有効だということは明らかだ。 ■脆弱な人々へのアプローチ 脆弱性が社会的要因によって生み出されていることを考えるとき、その社会もまた多様 である現実もまた無視することはできない。 たとえば貧困は目の前にある抗HIV薬の使用を不可能にする。幸いにも欧米や日本など政 治的にも安定し、経済的に豊かな国では保険制度も充実し、高価なブランド薬へのアクセ スでHIV感染症は実際に慢性疾患の一種としてとらえることさえ可能になってきた。さらに 日本を含む富裕国では新たに開発される有効な新薬へのアクセスも比較的容易で、治療の 選択肢も広がり、治療現場の関心は患者のQOL(Quality of Life)をいかに高めるか、治療 の継続性をいかに確保するかに移ってきている。しかし、この治療の恩恵を受けることが 出来るHIV陽性者は全体の30%程度にすぎない(2009年UNAIDS報告による)。治療の提供 はエイズにまつわる死のスティグマを低減するためにも無条件に行われるべきだ。 また、薬物使用やセックスワークは多くの国で違法とされながらも現実には歴然と存在 している。これらの当事者の健康を第一に考えるならば法律によって把握できる当事者だ 8 けにアプローチを限定し、法の網にかからない場所に潜んでいる人々を無視することはこ れらの人々の健康機会を奪うことにもなりかねない。 これは性教育においても同様で、現実的、具体的な感染予防の手法を伝えないことで多 くの青少年が感染している現実がある。一部の宗教や性に関する保守的な道徳観をもって 予防介入を行おうとする「禁欲」「貞節」を優先した性教育(A.B.C.approach =Abstinence・ Be Faithful・Use Condom)は継続が困難で、しかも現実的なリスク回避の方法である性交時 のコンドーム使用の習慣を与える機会を失してしてしまう。さらにアイデンティティの発 達途上にあり、多くが親の庇護下にある青少年はこの価値観の押しつけに敏感に反応する。 特定の価値観や立場に偏った視点から個人の尊厳や基本的人権を軽視した対策が強力に 進められるほどにHIV陽性者はその失敗者として位置づけられ、事実がどうであれ社会的文 脈において「不道徳な行いをした者」としての汚名を被ることとなる。このような状況に おいて被差別不安は高まり、治療や予防、検査といったさまざまな局面においてHIV陽性者 (すべてのHIV陽性者が検査によって自らの感染を認識しているとは限らない)は自主規制 をするようになる。特定の価値規範に基づいた施策は社会に存在するエイズにまつわるス ティグマを強化し、脆弱な立場の人びとをより困難な状況へと追いやる結果になる。こう して強化されたスティグマが真っ先に襲うのは社会に存在するスティグマを刷り込まれた HIV陽性者自身である。そして、予防、治療人、ケア・サポートの提供はさらに困難になり、 状況は悪循環の中に陥っていく。 エイズ対策が個々人の健康を増進させることを目的とするならば、対象者を特定の規範の 逸脱者として排除する対応や、その価値観を否定するような予防介入は避ける必要がある。 これらは対象者を健康支援から遠ざける結果とる。つまり、人間の価値観の多様性をいか に受け入れるか、他者に対しいかに受容的になりうるかがその成否を左右し、当事者の視 点に立つことがエイズ問題解決の鍵とも言える。 ■GIPA(Greater Involvement of People Living with HIV/AIDS) HIV陽性者が求める現実的課題はもっとシンプルで、世界中共通している。 その中で最大の問題が治療アクセスであり、偏見・差別の解消である。この二つの課題 はHIV陽性者自身が感じるスティグマによる検査忌避や治療回避とも密接に関係しており、 対策を最も有効にすすめるためにHIV陽性者の積極的な施策参加が必要となる。 病者が必要な治療を受けることは人間の生存権に関わる基本的人権の問題であり、いわ れ無き偏見・差別は、本来、人が等しく享受すべき自由権を侵す。つまり文明社会におい て人が平等に与えられるべき基本的人権が侵されている矛盾を浮き彫りにするのがエイズ 問題であり、その矛盾の影響を直接的に受けているのがHIV陽性者である。逆説的な言い方 をすれば、人がみな平等で自由な社会が実現できればエイズ問題は解消に向かうはずだ。 しかし、世界の現実は未だ厳しい。多くの場合HIV陽性者が自らの感染事実を公表するこ とは難しい。エイズに付与されたスティグマ故にエイズという病の社会的実態が見えない こともある。この実態が見えにくい病について人びとの意識を喚起し、あるいは保健や医 療サービスを有効に提供するためにはエイズ対策全般にHIV陽性者の関与を積極的に進め ていく必要がある。 9 1994年パリで開催されたエイズサミットでは、HIV陽性者のエイズ対策への積極的関与を 提言したGIPA理念が採択された。 ここではスティグマ故にHIV陽性者が社会から孤立し、あるいは被差別不安故に隠れ、そ の深刻さに比較してリアリティが伝わらないエイズ問題に顔を与えようとするものだった。 さらに2001年、国連エイズ特別総会(UNGASS)において採択されたコミットメント宣言 ではパリ宣言のGIPA理念を確認すると共に、二十年にわたりエイズ問題の当事者として取 り組んできたHIV陽性者の経験や知識を重要な資源として活用するという、さらに積極的な 姿勢となっている。事実、HIV陽性者は同じ立場に立つからこそクライアントを理解し、必 要なサービスを過不足なく提供できる。このようなピア・サポート活動の中には、心理的 支援を中心に行うピア・カウンセリング、ワークショップなどを実施しファシリテートす るピア・グループミーティング、情報提供を行うピア・エデュケーション等々、さまざま な手法がある。 これらは25年のエイズとの闘いにおいて、HIV陽性者みずから支援、保健、医療、予防、 教育といった諸分野に参加し確立してきたものである。 近年、世界のHIV陽性者たちは国家レベル、国際レベルにおける政策決定への関与を求め てきた。それは行政機関におけるエイズ対策がさまざまな利害の中で形骸化する傾向が見 られ、エイズ対策に関する専門家育成が立ち遅れた国々も数多く存在したからだった。そ の結果、HIV陽性者を単に人的資源としてだけではなく、国家や国際機関において施策決定 に関与し、実施を担う専門家としてHIV陽性者の参加が大きく進み始めている。HIV陽性者 のおかれた社会的な立場が困難であればあるほどGIPAは重要な理念となる。 10 4.エイズは我々に何をもたらしたか ②エイズと地域社会 (認定)特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会 副代表理事 沢田貴志 (第 2 版) 世界でもっとも HIV の流行が深刻とされる南部アフリカでどうして HIV がこんなに広 がってしまったのでしょうか。架空の女性ジーナの話からその理由を考えてみましょう。 ジーナは南部アフリカの農村で暮らす 20 代前半の利発な女性でした。夫と知り合い子供 が出来るまでの人生は順調で幸せなものでした。しかし、妊婦検診で突然 HIV 陽性である ことを知ってから事態は急速に暗転してしまいました。夫からの感染以外は理由が考えら れなかったジーナは、二人で支えあっていけると信じて夫に打ち明けました。しかし、夫 は彼女を罵り去ってしまいました。この地域の多くの女性達は同じような経験をしていま す。男達は小学校を終えるか終えないかのうちに鉱山などで肉体労働に従事しており、エ イズについて正確な情報を得る機会がありません。そんななか何人かの仲間がエイズで倒 れ亡くなっていくのを見聞きするようになり、エイズに対する恐怖感がとても強いものと なっていたのです。夫は自分が感染しているかもしれないという恐怖感に立ち向かう事が できず自己の感染を否認したまま彼女のもとを去りました。 ジーナは生まれてくる子供を一人で育てて行くことを決意しています。しかし、女性の 仕事が限られている途上国の農村で、子供を育ててくだけの生活費を女性が一人で得る事 はほとんど不可能です。多くのシングルマザー達は結局新しいパートナーを見つけなけれ ば生活が成り立たず、比較的経済力のあるボーイフレンドを得て生活費の援助をもらう立 場になることがしばしばです。なかにはトラックドライバーや商人など移動を繰り返す職 業の男性達のパートナーとなる女性も少なくありません。男女を問わず、職業で移動を繰 り返す人々は一般に感染に晒されるリスクも高く、こうした男性から女性に感染が広がっ て行きます。 逆に夫をエイズで失った女性達から男性に感染が広がることもあるでしょう。 男性たちは、恐怖感から自分のリスクを認めることができず検査に行くことはほとんどあ りません。女性達も、検査をして陽性であった場合にパートナーを失ってしまうリスクが あるのであれば、子育てに必死なさなかに検査に行くこと自体をあきらめてしまうでしょ う。コンドームを使用するべきだということがわかっていても、男性が嫌がれば立場の弱 い女性が主張を通す事などできません。女性の側から性に関する事を口にし難い文化も女 性からの性感染症予防のアプローチの障壁となります。 開発途上国で HIV が広がっている理由は、このような社会経済的な要因が複雑に絡みあ っています。モラルや知識の欠落といった形で単純化して認識し、外部者の教育的な介入 のみにて解決するように考える事は大きな誤解です。パートナーの数が増える背景には、 不安定な生活状況があります。病気に対する差別や恐怖心が強い背景には十分な医療を受 けられず感染した人の多くが亡くなっているという厳しい現実があるのです。 伝統的な農村社会では、情報の伝達を行う上で宗教の果たす役割は重要です。しかし多 くの宗教では、生き方の規範を示そうとすることに力点がおかれて、性はタブーとなって います。多くのエイズ対策のプログラムでは、性的なパートナーが一人とは限らないとい 11 う現実的な前提に基づいてコンドームの推奨を行っています。しかし、こうした現実主義 的な啓発活動は宗教的な規範に抵触してしまい、宗教指導者からの抵抗に合うことがしば しばです。 そんな中でエイズ対策に理解を示す宗教者も増えてきてはいます。タイでは仏教界が早 くからエイズ患者のケアに取り組んでいました。カンボジアで政府機関に先駆けて感染者 へのケア施設を作っていたメリノール会はカトリックの一会派です。また、薬物使用がエ イズ流行の引き金になっている地域ではイスラム教の指導者達もハームリダクションプロ グラム(注射器による薬物使用者が薬物を止めていなくても清潔な針を配ることでまず感 染からの防御を手助けするプログラム)を容認する例が出てきています。宗教者にとって も地域社会が健康である事は重要な事ですから、宗教者にも理解しやすい言葉で対話を繰 り返し、接点を探って行くことが重要です。 有効なエイズへの対応は地域社会が HIV 陽性者に対して受容的に変化すること抜きに は成り立ちません。開発途上国で最もエイズ対策に成功したとされるタイでは 1990 年代に 国をあげた対策を行ったことで地域社会のエイズに対する対応が大きく変わりました。 1990 年代初頭には、多くの住民は差別を恐れて検査を受けたがらず、村の中でエイズにつ いて語る事はタブーでした。そうした中で多くの感染者は重い症状でエイズを発病してか ら病院に行き、診断がついても家族にも村の保健センターの看護師にも打ち明ける事がで きず、周囲の目を避けながら自宅で誰からもケアを受けることなく亡くなる事が多かった のです。こうした悲惨な最期を遂げる現実が更にエイズの否定的なイメージを増幅し悪循 環になっていたわけです。 しかし、病院のエイズ患者に対する治療が改善し、地域の人々に対する差別予防のキャ ンペーンが徹底し始めると村の人々の反応が徐々に変わって行きました。地域の看護師や 村の保健ボランティアが家族に在宅ケアの方法を指導し、知識を得た村人たちの中からエ イズ患者を見舞い励ますような人も出てきます。学校の先生や僧侶達も学校や職場でエイ ズ患者への支援が必要なことを説くようになりました。HIV 陽性者自身が地域の啓発にで かけて、自分達の苦労話を語ったり、自助グループで仲間達を支援するひたむきな様子を 示すことで理解を広げることになりました。こうした活動を経て 1990 年代末頃からタイ北 部では、自分たちが感染している事実を隠さず語りこの病気の予防と仲間達のケアの向上 に貢献しようとする人々が急速に増えていきました。また病院で治療を受けて元気になる エイズ発病者を目の当たりにする事で地域住民のエイズに対する差別が薄らいで行きます。 タイでは 1991 年には年間 14 万人が感染したと推定されていましたが、2008 年の新規感 染者数は一万人台となり生存感染者数は減少を続けています。これは 90 年代から国を挙げ て行った予防教育の効果であることは云うまでもありませんが、こうした差別の軽減によ りエイズについての正しい情報が入手し易くなり、誰もが早期に検査に行けるようになっ たことの影響も大きいと思われます。 エイズは個人の性行動によって広がる感染症ですが、個人の性行動は実は社会の貧困や 人口の移動・情報へのアクセスの偏り・ジェンダーといった多様な背景に影響をされてい ます。社会が HIV を背負った人々の苦難を理解しようとせずに単に個人の責任として押し 付けてしまう状態では HIV の新たな感染を減らす事はできません。地域社会が HIV を理 解し感染した人々を社会の大切な構成員として認めて支えていくようになって初めてエイ ズ対策は大きく前進することが出来ます。 12 4.エイズは我々に何をもたらしたか ③エイズにおける差別と人権~スティグマ(偏見)と差別は HIV 予防の最大の障害~ 元特定非営利活動法人 HIV と人権・情報センター理事長 五島真理為 (第 2 版) UNAIDS が 2009 年から 2011 年の優先課題として掲げた 9 つの項目の一つは、 「効果的な エイズ対策を阻む法、政策、行動、偏見、差別を取り除くことができる」ことである。偏 見や差別が AIDS にどう関わるかについて、2005 年には、「エイズの流行を抑えるには、 社会的な不平等や不公正といった、流行の背景にある要素にも取り組む必要がある。ステ ィグマや差別、女性差別や、その他の人権侵害など、いまだにアクセスの深刻な障害とな っているものを克服しなければならない。また、エイズによる孤児や人的・制度的能力の喪 失など、エイズによって新たに生み出された不公正も克服しなければならない。これは並々 ならぬ対応を必要とする、並々ならぬチャレンジである(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2005)」と延べ、偏見・差別がアクセスの深刻な障害となっていることを指摘している。 疾病に対する差別は、もともとある差別や偏見を助長する。そして、それがさらに厳し い差別や著しい人権問題を生み出しており、予防や治療を阻んでいる。UNAIDS は、「偏 見と差別は、HIV/エイズの世界的な流行の抑制努力を妨害し、さらに、より一層の流行に うってつけの風土を醸成してしまう。これらは相互補完的に、新たな感染の防止、適切な ケア・支援及び治療の提供、そして HIV/エイズの衝撃の緩和などにとって最も大きな障壁 の一つを形成している。(UNAIDS:AIDS epidemic update, 2003)」として、流行の背景につ いて述べている。偏見と差別の除去が重要な課題となるゆえんである。 大谷藤郎(1993)は、ハンセン病・精神病・エイズ・難病の艱難について、それを「現 代のスティグマ」である、と断言している。スティグマとは「烙印」を示す言葉で、古代 社会では奴隷や犯罪人に焼きごてで烙印をつけ、地域社会では許されない異分子として、 何かのときにはスケープゴートとして生け贄に供された。今日では、罪の意識も加害者意 識もないまま、エイズや難病の人々をスティグマ化して、社会から排除するような人権侵 害が生じていることに、多くの人々は気づいていない。 本稿では、エイズにかかわる差別と人権問題について、主に UNAIDS 年報にもとづいて 世界の現況および日本の現状について触れ、HIV 予防の最大の障害となっている課題であ るスティグマと差別について明らかにし、どのように対処すべきかについて考えたい。 ●エイズとスティグマのはじまり ~病名の由来~ 人間は、その多くが、もともと疾病や死への不安や恐怖をもっているが、原因や治療法 がなく、しかも死に至る疾病に関しては、不可知であるがゆえに不安や恐怖が高じる。ま た、時には一部の人々にそれが精神的な異常として、疾病恐怖という心気 神経症 13 Hypochondriasis をもたらす。癌でもないのに癌と思い込むようなのも、そのひとつである が、かつては梅毒、今はエイズのように、とりわけ社会的に忌避される疾患がその対象要 因となる場合が多い。性感染症は、それを婚前・婚外性交渉、セックスワーク、男性間のセ ックス、注射器による薬物使用などの違法であったり、タブー視されている行動と関連付 けることにより、疾病が肉体的な生命だけでなく社会的な生命の危機ともなるがゆえに、 忌避感が増強される。 疾病に対する恐怖は、もともと人々の心の中にある不安、コンプレックスとあいまって、 このような疾病に対して、「かかわりたくない」「自分とは違う」という特別視、排除した いという気持ちを生む。それが、社会にある既存の差別意識と結びつけば、容易に患者を 「排除する」行動へとつながる等、疾病をとおして人が人を排除するという差別、偏見と なりやすい。 このように、特定の人々を集団的に排除する差別には、病気と病を患う人とが切り離さ れることなく同一視されるという非科学的な疾病恐怖が反映しているが、その原因や行為 に対する社会的な制裁が差別や偏見を助長し、さらには、患者自身が自らを差別する自尊 感情の低下をもたらすことにもなる。そのような反応は、心気症に留まらず、マスコミや 医療などの誤った、あるいは過剰な対応により、地域社会全体を巻き込む社会病理ともな っている。 疾病や、その原因を、自分たちとはかかわりのない外部から来たものとして特別視する 願望は、疾病の名前にも反映され、エイズに対しても当初は、 「ハイチ病」という外国の名 前を生み、また国内でもアウトサイダーであるゲイの人たちの病気という「ゲイ症候群」 という呼び名を生んだ。 アメリカの文芸評論家スーザン・ソンタグは、癌や結核、ハンセン病や梅毒、およびエ イズなど、歴史上において人々の恐怖の対象となってきた疾病に対する人々の反応につい て考察する中で、癌が「個人の性格を暴露する病気」とされるのに対して、エイズは「社 会が病気によって裁き」を受ける、あるいは「社会のみだらさに対する報復」にあると指 摘している。そのような人々の病気にたいする見方がエイズに対する社会的な偏見や差別 を助長させているが、最も危険なのは、そのようなスティグマ(烙印)が、 「エイズ撲滅」、 「エイズと闘え」、 「エイズをやっつけろ」というスローガンとともに感染者を社会から排 斥することを合理化させる傾向があるということである、と指摘している。 「私がぜひとも退却してほしいと思うのは - -エイズの出現以来、とくにそう思うのは 軍事的な隠楡である。 (中略)それは病気の人々を排除し、烙印を押すにあたって、過 剰動員をかけ、過剰描写をし、しかも強力に貢献するのである。」とソンタグは述べる。 知識の不足からもスティグマは派生し、特定の人々やグループをスケープゴートにし、 非難し罰したいという衝動から、差別を助長する。そうして、HIV 感染に対してすでによ り弱い立場にある人々をさらに弱い立場へ追いやってしまう。さらに、一般の人々が、安 全なセックスの実践、HIV 検査、などの可能な予防手段を利用することを阻害させる要因 となっている。 14 秘密が漏れることによる差別を怖れることから、HIV 感染者たちには、HIV 予防にとっ て重要な役割を果たす意欲を失わせ、感染していることをパートナーに打ち明けたり、あ るいは治療が可能な場合でさえも、その利用を妨げることになる。その対応策としては、 何よりも社会のあらゆる層の人々に対するエイズに関する啓発が重要であるが、知識だけ ではなく、特にワークショップ等を通じて、自らの死や疾病に対する不安や恐怖などの気 持ちや認識をみつめることや、死生学をも含めた疾病観など、自分の心の中にある偏見や 差別にかかわる教育、普及も欠かせない。 ●差別と偏見が予防を妨げる 疾病および患者に対するスティグマと差別は、地域や職場、医療現場、法廷や刑務所な どあらゆる場所で見られ、感染の拡大を予防するための努力の効果を弱め、流行の拡大を 後押しする環境を醸成している。 差別されることに対する恐れは、人々が、自らが HIV に感染しているかどうかを知るこ とを恐れさせ、VCT 治療を受けることを躊躇させる。また、HIV 感染を認めたと解釈され る可能性がある等のために、コンドームを使用する意欲を失わせる等、予防にも悪影響を 与える。 セックスワーカー、MSM、IDUs、囚人など、社会の周辺部分に追いやられた人々は、特 別な感染リスクに曝されており、さらに貧困、女性や子供にたいする不平等が、これらの 人々を HIV 感染のより大きな危機にさらしている。 女性に対する差別 多くの国で最も高いリスクにあるのは、しばしば、収入がほとんどない、あるいはまっ たくない女性たちであり、政治的、文化的、安全性要因も含めた広範な不平等が、女性や 少女の状況を悪化させている。 サハラ砂漠以南のアフリカ及びアジアからヨーロッパ、ラテンアメリカ、太平洋地域ま で世界中で、HIV に感染した女性の数はふえつづけている。いくつかのアフリカ南部諸国 では HIV と共に生きている全若者の4分の3以上が女性であり(WHO アフリカ地域事務所, 2003 ; 生と生殖に関する健康リサーチユニット及び医療リサーチユニット, 2004)、サハ ラ砂漠以南のアフリカ全体では、15~24 歳の若い女性は、若い男性より HIV 陽性である 可能性が少なくとも 3 倍に達する(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2004)。ボツワナにおい ては、15~24 歳までの妊婦の感染率は横這い状態であるのに、25 歳以上の妊婦では陽性率 が一定のペースで上昇し、2003 年には 43%に達していた。 女性の感染の機会は、多くの場合、セックスワーカーを利用した夫やパートナーからの 感染である。さらに、女性や少女に対する性的およびその他の形態の虐待が、彼女たちが HIV に感染する可能性を高めている。バングラデシュ、ブラジル、エチオピア、ナミビア、 タイなどにおける調査では、1/3 から 1/2 の女性が自らのパートナーにより身体的あるいは 15 性的暴行を加えられたと述べている(WHO,2005)。 セックスワーカー セックスワーカーの感染者も多い。インド、タイ、カンボジア、セネガルなどで、セッ クスワーカーに対する集中的なプログラムの効果が明らかにされているが、グローバルな レベルでは、セックスワーカーを予防対策の対象に含める率は低く、UNAIDS のP.ピオ ットも、2004 年のエイズ国際会議で、これまで国連の予防サービスはセックスワーカーの 16%までしか行き届いていないこと、薬物とセックスの連鎖、などについて指摘している。 薬物とセックスワーカーは軍隊内部のセックス・ネットワークとも通じており、中毒患 者や常習者への注射器交換プログラムや代替薬メサドンの解禁などのハームリダクション が重要である。とりわけ、「アジアでは、セックスワーカーに対する差別や偏見が著しく、 法律は買春者よりもセックスワーカーにより厳しい罰を科している」ことも指摘されてい る。 (UNAIDS: AIDS epidemic update, 2009) MSM MSM も、感染と差別の二重のスティグマに直面している。HIV に感染した MSM は差別 を恐れ、カミングアウトしてエイズ対策への参加も決して活発ではない。MSM の感染率 が高く、MSM が HIV によりきわめて深刻な被害を被っていながら、多くの国々では彼ら の予防ニーズが無視されている。特に、ホモフォビア(同性愛嫌悪)の根強い国では MSM の HIV 感染率が高く、その実例としては、成人一般の HIV 感染率と比較して、グアテマ ラとパナマでは 10 倍、エルサルバドルでは 22 倍、ニカラグアでは 38 倍である(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2007)。 また、アジアでは、同性間のセックスにたいする広範な偏見や差別があり、時には命に かかわることもある。近年の差別の実態を反映するものとして、MSM の 17%が HIV 感染 の有無にかかわらず自殺念慮のあったことを訴えており、ヒジュラの 45%はセクシュアリ ティゆえに差別をうけ、40%が肉体的な嫌がらせ、性的強要を受けている、という報告 (Sheridan ら、2009)がある。(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2009) エイズを男性同性愛者の病気とする情報は、それを誰でもが感染する可能性がある性感 染症であるとはとらえず、同性愛者を偏見や好奇な目でみる意識をつくったが、その一方 で、HIV/エイズが提起した点として、セクシュアリティの多様性に対する社会の関心を大 きくする結果ともなった。 同性愛は異性愛と同じように、一つのセクシュアリティにすぎず、自分の身体や気持ち としての男性・女性・それらを二つに区別することができない性、また、性の対象として 男性・女性・それらを二つに区別することができない性など、セクシュアリティは多様で ある。一人ひとりが自分らしく豊かな性を生きていくためには、それぞれが違っていて当 たり前なのである。現実には、性は男性・女性の二つしかないという認識や、異性愛が正 16 常でそれ以外のあり方を異常とする考え方が、まだまだ私たちの社会に根強くあるが、エ イズは、この社会が隠しつづけ、存在を認めてこなかったセクシュアリティを浮きぼりに した。 セクシュアリティは最も個人的かつ、自由なもので、基本的権利の一つである。この個 人の存在と権利を誰にも侵すことはできない。同性愛者であることを隠し、自分の気持ち をおさえて生きてきた人たちが、感染予防、HIV/エイズが提起する課題に正面から向きあ い、感染者との共生の道を広げてきた。また、親しい人に自分の気持ちを素直に伝える人 たちも増え、そのようなセクシュアリティに対して理解する人が増えてきている。 外国人・移住労働者 エイズはいまだに、多くの面で「外部」からもたらされているというイメージがあり、 移住労働者や外国人に対する差別をも助長させている。 移住労働者人口が世界一を占めるアジア・太平洋地域では、政府が「見て見ぬふりをする」 など政治的意思や構想の欠如が指摘され、移住労働者の権利と健康に関する状況は改善さ れていない。その半分を占める女性は劣悪な労働条件のもとで市民権、国籍、生活を奪わ れるだけでなく性的暴力の対象ともなり、最も脆弱であり、差別・エイズのイメージと重 なっている。 受刑者 全世界では今日、約 1,000 万人の人々が刑務所に収監されているとされている。多くの 国々で、収監されている人々の HIV 感染レベルは、一般国民よりも高い。ロシア連邦では、 刑務所における HIV 陽性率は、一般の国民の間の陽性率よりも少なくとも 4 倍高いと推定 されており、イランでは、収監が HIV 感染の最も大きなリスク要因とされている。また、 ガーナの刑務所では、男性収容者の 3 人に 1 人が刑務所の内外で男性とセックスしたと答 え、薬物注射、刺青などの要因も加わり、「刑務所内の HIV 陽性者の多くが収容後に HIV に感染した」ことを明らかにしている。(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2006) ● 可能な治療を差別が妨げている エイズをめぐる国際的な格差 HIV 感染者が必要な社会的ケアや支援を求めた場合にも、偏見と差別からサービスを受 けることを拒まれることもあり、そのような例は、医療において特に著しい。UNAIDS は、 ラテンアメリカの例をあげ、 「スティグマと差別が、HIV 予防・治療・ケア・サポートへの 普遍的アクセス達成への大きな障害となっている」と警告している(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2007)。 日本や欧米をはじめ、医療保障が整備された国々では抗 HIV 薬の服薬により発症を防ぐ ことができるようになり、一つの慢性疾患として、食事面や生活面の健康管理と併せた療 17 養の効果が期待できるようになった。しかし、世界的には製薬企業の特許権等の障碍のた めに高い価格が維持されており、ジェネリック薬もまだすべての国々にゆきわたったわけ ではない。製剤の利用が極めて少数の国々に制限されていて、いまだ、HIV 感染者が世界 で年間 200 万人以上も亡くなっている。 医療従事者の差別的な姿勢 ナイジェリアで約 1,000 名の医師、看護師、助産婦を対象にした調査(2002)では、1 割 が HIV 感染者/エイズ患者に刻するケアを拒否したり、病院内に入ることを拒絶したこと を認めており、2 割が HIV/AIDS と共に生きる人々は、不道徳な行動を取ったのだから、 自業自得であると感じていた。またフィリピンでは、HIV 感染者/エイズ患者のほぼ 50%が、 医療施設で働く人々から差別された経験があると答えており、タイでも、11%が HIV 陽性 であるために医療を拒絶されたことがあり、9%が治療を遅らされたと答えている。インド では、HIV 感染者/エイズ患者の約 70%が差別を経験したことがあり、差別を受ける場所と して最も一般的なのは、家族内及び医療施設であると回答している。 また、いつ、誰に対して、どのように、自らが HIV に感染していることを告知するかを 選べない状態もある。インドで 29%、インドネシアで 38%、タイで 40%以上の HIV 感染 者が、同意なしに HIV 感染を他人に明かされたと回答している。検査結果が、伴侶または 家族メンバー以外の人々にも知らされることが多く、タイの調査では 9 人中 1 人が、HIV 感染が政府の役人に知らされたと回答している。(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2003) 学校・地域における差別 英国のイングランド南西部の小さな村で、生後 8 か月でエイズと診断された里子が地元 の学校にて、誰かが他の子の親に話したことから、他のすべての親に伝わってパニックが おこり、その地区から引っ越さざるをえなくなった。インドのケララ州では、2 人の孤児が HIV 陽性だったことから学校から追放され、さらにその他の学校への転入も拒否されてし まった。州立学校が 2 人の入学を許可するよう命令したが、PTA 会合を経て生徒たちが授 業のボイコットで応酬し、州政府は 2 人に在宅で学校教育を受けるよう命令し、その他の 子供たちとの社会的な接触を事実上禁じてしまった。インドの大統領、保健大臣などによ る訴えにかかわらず、コミュニティーは断固として、2 人の孤児を拘束し、追い詰めたま まなのである。 (UNAIDS: AIDS epidemic update, 2003) 。 ●日本における人権問題 マスコミが作り出した“エイズパニック” わが国で HIV/エイズが人々の身近な関心となったのは 1986 年に、 「フィリピンから出稼 ぎにきていた 21 歳の女性が、日本にくる前に受けていた HIV の抗体検査で陽性と出た」 というニュースが、女性の実名とともに報道されてからであった。その 2 日後には、その 18 女性が松本市内で働いていたとも伝えられ、マスコミは女性が働いていた店を探そうとし たり、松本市に住んでいる外国人女性たちが銭湯やスーパー、レストランなどに入ること を断られたり、女性の客であったとウワサされた人が村八分になったりした。さらに松本 市民だということだけで旅行先で宿泊を断られたり、松本ナンバーの車を見ると逃げ出す 人すら現れる、などのパニックを引き起こした。 ついで翌年の 1 月には、厚生省が「神戸市で初めて日本人女性のエイズ患者が確認され た」と発表した。それは新聞やテレビのワイドショーで報道され、その女性の葬式にはマ スコミがおしよせて実名や写真を掲載した。その上、この女性と親しかった男性の「客」 を探すなどの騒ぎをひき起こし、不安になった人たちが保健所の HIV 検査や相談に殺到し た。 その同じ年、「高知県で HIV に感染した女性が妊娠、まもなく出産」というニュースが 流された。高知では“神戸事件”のように患者の写真や実名、地名を出すことまではなか ったが、この女性がある血友病の男性との交際を通じて HIV に感染したことや、プライバ シー情報が詳しく報道された。 これらの報道をもとにしたデマや口コミによる“日本のエイズパニック”と呼ばれる反 応が全国のいたるところで起こりはじめ、HIV/エイズが身近なところまで来ているという 恐怖心をあおり、HIV 感染が性行為によって広がっていくという恐怖がつくられた。とり わけ、神戸や高知における日本人女性のエイズ発症に関連した興味本位のニュースは 「HIV/エイズは女性から男性にうつる病気である」というイメージをつくりあげた。HIV 感染者の個人や家族の人権を侵しつつ、恐ろしさばかりを強調した報道の繰り返しが、 HIV/エイズに対する社会の恐怖心に裏付けられた偏見をつくりあげていった。 情報操作による「ハイリスク・グループ」排除の社会意識 人々の疾病や患者に対するイメージは、報道のあり方によって作り上げられるが、その ような側面が利用された例として、厚生省が作り出した「エイズの日本人第1号」報道に よってエイズは特定の同性愛者の病気であるという、 「第一印象」が意図的につくりだされ た。 1985 年 3 月 22 日に、厚生省によってアメリカから一時帰国していたゲイの男性がわが 国におけるエイズの「第 1 号患者」と発表された。実は当時、すでに日本人の血友病患者 で HIV 陽性者の存在は研究者が確認していた。そして上記の報道の前日には「日本にも真 性エイズ、輸入血液製剤で感染、2 患者すでに死亡」との新聞報道があった。在米日本人 の男性同性愛者を「エイズの日本人第 1 号」とする国の発表とそれにもとづくマスコミ報 道は、その前日に報道された事例や、薬害により血友病患者の多くが HIV に感染している 事実から人々の関心をそらしただけでなく、同性愛への偏見を増長させて日本における HIV/エイズを「一部の人、 “特別な人”がかかる病気」という固定したイメージと、それ による差別をつくりあげることとなった。 19 つくりあげられた恐怖感からくる差別 男性同性愛者を「エイズの日本人第 1 号」とする厚生省の発表、そしてその後の「女性 第 1 号」 「日本人女性第 1 号」 「妊婦第 1 号」という報道は、いずれも HIV/エイズを社会の マイノリティとしてのゲイ、外国人、性風俗従事者、女性の問題としつつ、 「あの夜遊んだ フィリピン女性がエイズ患者だったら」 「悪魔の伝染病」 「パニックの神戸」 「ニッポン列島 エイズ大噴火」 「エイズ菌がまかれた街」「死のエイズ」「すぐ隣まできた死病の恐怖」「出 産まぢかエイズ妊婦の『男・家庭・子供』」「全身を覆うカポジ肉腫これがエイズの恐怖の 末期症状だ」などの見出しを通じて、恐怖心と差別が作り上げられていった。 これらの情報が創りあげた疾患に対する恐怖は、患者や感染者への恐怖のイメージとし て、被害者である感染者があたかも社会に対する加害者であるかのようなイメージをつく りあげ、やがて前時代的な社会防衛を目的とするエイズ予防法へとつながっていった。 差別を助長させた医療現場の対応 HIV 感染者に対する差別は、家庭、職場、地域そして医療現場という、社会のあらゆる 側面で拡大されていった。薬害 HIV 訴訟の闘いを実名で始めた赤瀬さんは、身のまわりの 差別を次のように述べられている。 「世の中の厄介者扱い、いやそれ以下の偏見である。人間扱いされない状況である。死 後も秘密裏に、内輪で葬式が行われるのである。こんなことってありますか!病院で、医 療の現場で忌み嫌うのだから、もう日本は何なのだと言いたい。そして無遠慮なマスコミ が平気で人の悲しみを踏みにじるのである。医療現場での差別はひどく、設備がないとか、 スタッフがいないとか、およそ医療関係者の発言とは思えない言い訳で責任を回避する。 マスコミはマスコミで、真実を知らせる責任という錦の御旗で個人の人権やプライバシー を侵す。」 (赤瀬範保『あたりまえに生きたい-あるエイズ感染者の半生』木馬書館) ここに述べられているように、HIV/エイズに対する差別と偏見は、医療現場における差 別を通して拡大されていったといえる。 1991 年に HIV と人権・情報センターを中心とする AIDS/NGO による 36 時間電話相談に おいて、803 名からの相談のうち、感染者からの相談は 8 名であったが、そのうち 3 件が 診療拒否に関する内容であった。同じ頃、輸入血液製剤被害者救援グループの調査でも、 200 通の回答の中で 49 例の診療拒否が報告されている。 感染者や患者が最も頼りとすべき医療の現場で、専門家自身が診療拒否や偏見を顕わに することは、人々に疾病に対する偏見にあたかも科学的な根拠を植え付けることにひとし いといえる。医療を通じた被害として感染した多くの血友病患者にとっては、医療現場か ら拒否されて、社会においても増幅された差別を受けるという、二重、三重の被害を受け てきたわけである。 行政の福祉窓口における差別的な対応 1998 年 4 月から、HIV 感染者が身体障害者に認定され、そのことにより医療費の公費負 20 担を受けられるようになった。これにより、高額の医療費の負担が軽減されることが期待 されるようになった。しかし、感染者の多くは福祉窓口や医療現場におけるプライバシー の漏洩や差別に対する危惧から、今なお身体障害手帳の申請ができない者もいる。 身障手帳の申請ができるようになった 1998 年 4 月から、10 月末までの 7 か月間に、感 染者本人および家族、NGO のメンバーが、実際に申請したり、申請前にあらかじめ電話や 訪問した時の状況をまとめたものがある。その報告には、13 都府県の 53 の福祉事務所、 市・区役所において、56 件の身体障害者手帳の申請時の状況が浮き彫りにされている。申 請の際に制度について「すぐにわかった」という回答は 34%で、 「わからなかった」が 66% であった。窓口の対応が「よかった」のは 70%弱、 「あまりよくなかった」が 20%であり、 悪い対応の例としては、「『エイズの申請が来た』といって課長を呼びに走り、みんなが見 ていた」 、「初めから『エッ、エイズ?』と驚き慌てた」という事例や、外国人の申請に際 して「窓口担当者が『あっ、エイズや』と叫んで、所長を呼びにいった」などの例が報告 されている。また、担当者がプライバシーを守ることについては、 「よく理解していた」が 36%、 「まあまあ理解していた」は 56%、 「軽視していた」が 4%、 「全く理解していなかっ た」が 4%であった。プライバシーに関する対応の事例としては、 「他の職員がいるところ で『HIV』、 『エイズ』と口に出して言った」という例が 33%もあり、説明や申請手続きの 場所としても別室ではなく、 「皆のいる聞こえるところ」が 60%であったという。また、 「住 所、病院などのプライバシーについて聞かれた」という例は 29%に及ぶ。 福祉の窓口だけでなく、警察の窓口で駐車禁止除外指定の申請に際しても、「『若いのに なぜ身障か』といわれた」とか、「 『歩けるのに必要ない』といわれた」という例が報告さ れている。その後は、行政の窓口担当者への研修等も行われ、改善への働きかけがなされ ている。 差別と偏見が感染を潜在化させる 公共の機関における、このような窓口の対応は、感染者の社会保障やサービスの活用を 極端に制限させる結果となるだけでなく、HIV 感染の不安を持つ人々をも社会から孤立さ せる。今日、全国の保健所において HIV 抗体検査が実施されるようになったが保健所等に おける抗体検査の延べ実施数は、2008 年度で約 23 万件という現状である。英国において 検査により陽性であることが判明している数が HIV 陽性者の約 7 割と推測されていること に比べると、わが国の検査の実情から、実数の把握は困難である。 癌健診についても「診断されると怖い」という理由から、リスクの高い人々が受診する ことを忌避する傾向のあることが知られているが、HIV 抗体検査については、疾病に対す る恐れだけでなく、プライバシーが知られることによる差別に対する恐れが、人々を抗体 検査から遠ざけていると思われる。 ハンセン病の元患者との共闘 89 年に施行されたエイズ予防法(98 年に廃止)に対する戦いは、隔離思想と社会的差別 21 の背景となってきた、らい予防法(96 年に廃止)に対する患者の戦いから多くを学び、ま たハンセン病患者団体からも支援を受けて進められた。 「こんな不合理なことを押し付けられてハンセン病患者はなぜ怒らないのか」という手紙 を、赤瀬さん はハンセン病の作家に書いた。不意の手紙を受け取った島比呂志さんはそ の 8 年後、 熊本地裁に 13 人の一人として提訴してハンセン病国家賠償訴訟原告団名誉会長 となった。 これらに共通するものは患者の人権に対する配慮を欠く社会政策と社会のあり方にあ り、患者や感染者自らによる人権を守るためのたたかいによってしか見直しが進まなかっ たところに大きな問題がある。このような人権侵害の背景には、それを生み出す法律や社 会制度があり、それに対する為政者や専門家の認識も薄く、人々の意識も低い。薬害や病 気に対する差別が生まれる土壌は、今もなくなっているとはいえない。それに対して、あ らゆる立場の人々がともに闘うことを通してのみ、共生、共感の意識が育まれ、その結果、 患者の人権や生命も保障されるのではないだろうか。 ● エイズと人権に関する対応策 HIV/エイズに関連する偏見、差別と人権侵害に対しては、さまざまな対処が必要である。 偏見を防ぎ、差別が発生した際にはそれを問題として取り上げ、さらに人権侵害を監視し、 正すための行動を取るために、政治的・社会的リーダーからコミュニティーの構成員、さ らにはあらゆる人々が役割を演じる必要がある。 治療的手段という医学的な対処の普及による、HIV/エイズに対する人々の認識の変化と、 もう一方での地域や国レベルの積極的な取り組みを利用できることが、エイズに対するよ り開放的な姿勢につながり、それが、スティグマや偏見を打破する一助ともなっている。 効果的な予防及び治療を利用しやすくすることは、偏見、差別及び人権侵害の悪循環を打 破するために最も重要なことである。治療を利用できる機会が増えることは、個人がより 長期に、生産的な人生を歩むことができるという展望と希望につながり、地域における HIV との共生の認識、偏見の引きがねとなる不安の緩和にもつながることが指摘されている。 取り組みの成果 偏見、差別、人権侵害を助長させてきた拒絶や無知、恐怖などに正面から取り組み、成 功を収めている例も次第に増えつつある。 南アフリカ共和国のカエリチヤで抗 HIV 療法が導入された後に実施された健康調査で は、調査対象となったその他の抗 HIV 療法が導入されていない 7 ヵ所の地域よりも高いコ ンドーム使用率、エイズクラブへの参加姿勢、HIV 抗体検査の受容などが見られた。 ザンビアでは、地区の首長たちが自ら率先して HIV テストを受けることで、コミュニテ ィーの構成員らも彼らの後に続くよう働き掛けることに成功した。さらに彼らは、感染に対 して弱い立場に追いやる未亡人に不利な相続制度やその他の慣習に対抗する法令を定める 22 など、一歩踏み込んだ活動も展開している。 エジプトでは HIV/エイズホットラインの 3 分の 2 が 18 歳~35 歳までの人々から、さら に 20%が女性からの相談で、エジプト全土、さらにはアラビア語圈の他国からも寄せられ、 正確な情報と匿名でのカウンセリングを提供し、セクシュアリティ及び HIV/エイズを取り 囲む秘密主義や無知を突破する助けとなっている。 南アフリカで放送されているテレビ番組『タルカラニ・セサミ(南ア版セサミストリー ト) 』では、カミという名前の HIV 陽性のマペット(人形)が登場し、彼女が友だちと HIV/ エイズについて話し合うことにより、主に 3~6 歳までの子供の視聴者に、エイズに関連し た偏見や差別の問題を知らしめ、人々がそうした問題に挑む、または対処しうる方法を示 している。 (UNAIDS: AIDS epidemic update, 2003)。 また、フィリピンでは NGO が国営 TV を使って性教育番組を行っている。 最近の成果として UNAIDS は以下のような例を紹介している。ハイチでは 1994 年から 2004 年の間に、妊婦の HIV 感染率が 5.9%から 3.1%へと半減し、とりわけ都市部の新規 感染率が低下しており、それは感染を予防する行動変容によると示唆されている。ブラジ ルでも、ハームリダクション・プログラムや、薬物摂取の方法が吸引にかわったことから、 都市部での IDUs の HIV 感染率低下も指摘されている。ホンジュラスの都市部の調査では、 コンドームの使用率が増え、HIV 感染率の低下傾向が報告されている。ケニア、ハイチで は 1994 年から 2006 年の間に、HIV に感染するリスクが高い性行動が劇的に減少した。ボ ツワナ、コートジボアール、ケニア、マラウイ、ジンバブエの5か国では、都市や農村の 若い妊婦の HIV 感染率が劇的に低下し、HIV の影響が深刻な国で予防対策が効果を発揮し ている。(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2007) 職場における対処 雇用前の HlV テストを要求したり、HIV 陽性の労働者に対する医療手当てを減額または 廃止したり、さらには彼らを解雇するなどして HIV/エイズに関連する負担を他人に転嫁す ることを好む企業も未だに存在するが、その一方で、職場における予防及びケアプログラ ムを実施する事業所も増えつつある。 ブラジルのフォルクスワーゲン社などの企業は、労働者に抗 HIV 療法及びその他のエイ ズ関連の治療を提供し、同社のエイズケアプログラムは、予防教育、コンドームの無料配 布、カウンセリング及び支援、さらに抗 HIV 療法及び治験へのアクセスなどを提供し、HIV に感染している労働者が個人情報を秘匿する権利の保証、強制的な検査及び HIV に感染し た労働者の解雇禁止などの差別対策も採用し、2~3 年で入院患者数が急減し、治療及びケ アコストを大きく削減することができたと報告している(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2003)。 地域における因習の除去 アジアのイスラム社会では、これまで家父長制の中で「よく見えない人たち」、つまり 23 若い女性たちが、無知、偏見、はじらいのもとに、感染との二重の差別を主に受けてきた。 近年では、 「宗教は命をすくうためにあるのか、規則に固執して死を迎えさせるのか」との 問いかけのもと、宗教者への教育とエイズ対策への巻き込みに成功しつつあり、周辺のイ スラム原理主義諸国の対応への影響の兆しもある。 偏見や差別に法で対抗する 法律は偏見や差別と闘う有力な道具ともなりうることは、フィリピンの「HIV/エイズ防 止及び予防法」が HIV 関連の差別との闘いにおいて有効な手段となっていることが示して いる。 ベネズエラでは、1980 年代後半から無料の法律相談の提供、訴訟、雇用、医療、社会サ ービスにおける差別に関する法的訴えを扱って人権侵害と闘ってきた「エイズに対抗する 市民アクション」が、同国の国防省を相手どって起された歴史的にも重要な訴訟において、 4 人の軍人の原告が抗 HIV 療法及びその他の治療、匿名でのケア及び年金を獲得する支援 を行った。この国防省を相手どった訴訟における判決は、すべての軍人の仕事、プライバ シー、非差別、尊厳と心理的及び経済的配慮”、ヘルスケアなどに関する諸権利の前例とな るものとなった。1999 年7月、同国最高裁は、同国保健省に対して、すべてのベネズエラ 在住者の HIV 感染者に対する抗 HIV 療法、日和見感染症に対する治療、診断のための検査 を無料で提供するよう命令を下した。(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2003)。 ● 地域・機関・国内・国際レベルの対応 わが国での対応として、2006 年から施行されているエイズ予防指針では、第一に「普及 啓発及び教育」が掲げられ、次いで「検査・相談体制の充実」 「医療提供体制の再構築」が 挙げられている。 エイズに関する差別や偏見を除去し人権を護るために、われわれが目指すべきなのは、 まず誰でもが感染する可能性のある HIV に対して、感染者を社会で受け入れ、HIV/エイズ との共生を図ることでなければならない。そのためには、地域や国、職場、医療・教育機 関などにおける対処の改善を図ることが重要である。 人権意識の高揚を図るための方策として、第一に重要なのは人権教育の徹底である。学 校教育における総合教育にも人権教育を導入すること、および、社会教育として企業勤労 者教育・地域住民教育の充実を図ることである。もう一点は、人権教育方法の改善である。 その内容としては、A)感動を伝えたり、ワーク、または体験中心の考える教育、B)人権 教育の評価、つまり効果について評価の判定調査を行うこと、C)人権意識の浸透の度合 いについてのチェックを定期的に行うこと、などが考えられる。 地域レベルは、メディアを基盤とする正しい対策を世論に向けることで、HIV/エイズに 対する人々の理解を向上させることが重要である。職場や病院、教育施設などにおいては、 公正な政策と教育プログラムにより、偏見、差別、人権侵害に効果的に立ち向かうことが 24 できる。また、HIV 感染者、エイズ患者の人権を促進し、保護するために、人々が法的権 利及び義務を訴えることも重要である。 人権侵害に対する国レベルの対応 感染症による患者の人権が侵害された場合の被害者の救済のあり方としては、1)法律 の制定、2)法律を実質的にするための機関の創設、3)人権裁判、ならびに、4)国内人権 救済機関の代替機関とその他の社会資源の整備、が必要である。 法律の制定としては、患者の人権を明らかにする法律として、「患者権利法」あるいは 「患者の人権に関する法」のような患者の権利と医療従事者、医療機関の責任と義務を明 らかにする法律を立案し、法的根拠を確立することが重要である。 法律を実質的にするための機関の創設には、①国内人権救済機関、②国内人権委員会、 ③国内人権教育機関、などの整備が必要である。国内人権救済機関としては、人権相談の 窓口が置かれ、人権侵害が起こった場合、調査を行い、警告、勧告等をすることで解決へ の道を示すこと、および、一定の権限を持たせる機関であり、行政に対しても強制力をも っていること、そして、国内人権機関が人権を守るために実質的に機能を持つ機関である ことが必要である。国内人権委員会は、それに加えて、政府、行政にたいして人権問題に 関する提言を行う機関である。国内人権教育機関とは、人権のための啓発活動や教育を行 う機関として整備することが必要である。 これらの機関を機能させるため、国内人権機関の人材の確保が重要である。つまり、① 当事者や今までに実績のある NGO から広く人材を募り、国内人権委員会の助言者である ことが望ましい。また、②人材育成のための教育や研修を十分に行うことが必要である。 人権裁判とは、現在の裁判では弁護士も少なく公開制で、費用もかかり、迅速ではない。 HIV 関連裁判ではプライバシーが守られることが最も重要な点であり、現行のあり方を検 討する必要がある。国内人権救済機関の代替機関とその他の社会資源としては、弁護士会 の人権擁護委員会、AIDS/NGO による相談・救援活動、マスメディアによる人権問題への 社会的影響力が、現在も機能しており、委託等を通じてこれらの機能の活用を図ることで ある。 また、市民参加という裁判制度の変化に伴って、差別など人権侵害犯罪への裁判がどう 変化するのか、注目しておく必要がある。 国際的なイニシアティブ そして、これらすべての面において、国際的な機関の指導的な役割が注目される。2001 年 6 月に開催された国連 HIV/エイズ特別総会において起草された『HIV/エイズに関するコ ミットメント宣言』第 58 条では、 「2003 年までに適宜、HIV/エイズと共に生きる人々や社 会的弱者集団の構成員に対するあらゆる形態の差別を撤廃し、そのあらゆる人権と基本的 事由の完全な享受を確保すること、時に、そのプライバシーと秘密性を尊重しながら、教 育、相続、雇用、ヘルスケア、社会保障サービス、予防、支援、治療、情報および法的保 25 護などに対するこれらの人々のアクセスを確保することを目的とした法規およびその他の 措置を制定、強化あるいは執行するとともに、HIV/エイズに関連する偏見と社会的排除と 闘う戦略を策定すること。」と明記されている。 2001 年に国連は、HIV/エイズに関するコミットメント宣言として「最も被害が大きい国 で、若者の HIV 陽性率を 2005 年までに 25%まで低下させる」という目標を掲げた。しか し、実態としては、ケニア、ハイチ、ザンビアでは「定期的ではないパートナーとセック スする若者の割合」が減ったものの、カメルーン、ウガンダ(女性)では上昇がみられる など、若い人々の行動変容は決して容易ではない。(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2006) UNAIDS(国連エイズ合同計画)の HIV 予防強化政策提言 2005 年 6 月、国連エイズ合同計画の理事会は、HIV 予防、治療、ケアに対するユニバー サルアクセスを達成するという究極の目的を掲げた政策提言を承認した。この政策提言に は、予防措置の不足を埋めるために活用することができる効果が証明されたプログラムや アクションの概要と、ユニバーサルアクセスを保証するために必要となるであろう、以下 に掲げる 12 項目の最も基本的な政策アクションが含まれている。 UNAIDS(国連エイズ合同計画)の HIV 一予防強化政策提言書に示された HIV 予防の ために不可欠な政策行動 1. 人権が促進、擁護及び尊重され、差別を根絶し、スティグマ(偏見)と闘うため の方策が取られること。 政府、影響を受けているコミュニティー、非政府組織、信仰に基づく組織、教育 2. セクター、マスコミ、民間及び労働組合などの社会のあらゆるセクションによるリ ーダーシップを構築し、維持すること。 予防戦略の計画、実施及び評価に HIV と共に生きる人々に参加してもらい、不可 3. 欠な予防ニーズに対応すること。 文化的な規範や信念に、それらが予防努力の支援に果たす重要な役割及び、それら 4. が HIV 感染を拡大させる可能性の双方を認識しながら、取り組むこと。 女性及び少女の感染に対する脆弱性を減らすために、男性や少年もその施策の中 5. に参加させつつ、ジェンダー間の平等性を促進し、ジェンダーに基づく規範に取り 組むこと。 6. HIV がどのように感染するか、感染をどのように防ぐことができるかについての 知識と気付きの普及を促進すること。 7. HIV 予防と性の健康及び生と生殖の健康の結びつきを促進すること。 予防、ケア、治療の連携におけるコミュニティーベースの対応の強化を促進する 8. こと。 主たる影響を受けている集団及び人々の HIV 予防ニーズに的を絞ったプログラム 9. を促進すること。 10. 全セクターにおいて、特に保健及び教育部門などにおいて、財政的・人的・組織 26 的能力を動員し、強化すること, 11. 効果的で証拠に基づく HIV 予防施策に対する障害を除去し、スティグマや差別と 戦い、HIV と共に生きる人々または、HIV 感染に関して弱い立場にある、あるいは、 そのリスクが高い人々の諸権利を擁護するための法的枠組みを検討・改革すること。 12. 新しい予防テクノロジーの研究開発、そのためのアドボカシー活動に対して充分 な投資が行われるよう保証すること。 この中では、「人権擁護と差別の根絶、スティグマ(偏見)との闘い」が冒頭にあげら れ、政府や保健、教育機関などの具体的な責任を示したあと、第 11 項では再び、「スティ グマや差別と戦い、HIV と共に生きる人々または HIV 感染に関して弱い立場にある、ある いは、そのリスクが高い人々の諸権利を擁護するための法的枠組みの検討・改革」の提示、 最後の第 12 項では「そのためのアドボカシー活動に対して充分な投資の保証」が提示され ている。 また、本稿の冒頭にも記したように、UNAIDS の 2009-2011 の優先課題としては、次の 9 点が掲げられている(UNAIDS: AIDS epidemic update, 2009)。 1 HIV の性感染は減少させることができる。 2 母親の死亡と乳児の HIV 感染は予防できる。 3 HIV 陽性者が治療を受けることを確信できる。 4 HIV 陽性者が結核による死亡を予防できる。 5 注射器による薬物濫用者の HIV 感染は予防できる。 6 効果的なエイズ対策を阻む法、政策、行動、偏見、差別を取り除くことができる。 7 女性や女子にたいする暴力を止めることができる。 8 若者が HIV から身を守ることができるようにできる。 9 HIV 陽性者の社会保障を充実させることができる。 27 5.エイズを知ろう ①世界のエイズ統計と歴史 (認定)特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会 副代表理事 沢田貴志 (第 3 版) 1981 年にアメリカで最初の症例報告があってから 30 年あまり人類と HIV への取り組み は順調に進んできたわけではなかった。1983 年に原因ウイルスである HIV が確認され、 1985 年にはジドブジン(AZT)に HIV を押える作用があることが発見されたものの、効果 的な治療法の開発は容易ではなかった。性感染症であることや社会的な少数者での流行が 先行したことから、差別と偏見が対策を困難にする中で流行は特定の人口集団から一般人 口全体へと拡大していった。 結核や HIV のような、ゆっくりと広がる慢性の感染症は、社会の中で立場の弱い人々に より影響を及ぼす傾向があり、1990 年代には多くの開発途上国で流行が拡大した。特に南 部アフリカでは成人人口の 10%を越える人々が感染し、社会基盤に打撃を与える深刻な問 題となっていった。1996 年に効果的な治療法である HAART(Highly Active Antiretoroviral Therapy)が開発され、先進国での医療の状況が良くなる一方で、治療薬が高価であること から開発途上国での治療は進まず流行の拡大は続いていた。予防中心のエイズ対策ではエ イズに対する恐怖やスティグマを克服できず、エイズの流行をしっかりと押さえ込むこと ができなかったのである。 開発途上国でも医療を受ける権利を保障するべきだという声が当事者そして公衆衛生関 係者の中で強くなり、ジェネリック薬を使用して途上国でも治療環境を拡大するべきとい う国際世論が力をつけていった。こうした中で、2002 年に GF が設立され、更に 2003 年 に WHO が「” 3 by 5 ” イニシアチブ」(2005 年までに 300 万人の途上国のエイズ患者に 効果的なエイズ治療薬を届ける計画)を発表するに至った。こうしてようやく世界規模の エイズの流行は頭打ちの兆しを見せ、次第に新規発生やエイズに関連した死亡が減少する ようになった。 効果的なエイズ対策には、予防と治療が車の両輪のように互いに補完し合いながら取り 組まれることが重要である。また、どんなに薬が供給されても適切に持続的に服薬できる ことができなければ薬の効かない薬剤耐性ウイルスが増えてしまい事態はより深刻になっ ていく。そこで、日常的な医療事態を改善し、かかりやすい医療の普及を進めることと連 携していくことも必要である。 長年の取り組みの中で近年ようやく事態を好転することに成功した UNAIDS は、“高速 対応で 2030 年にエイズ流行を終結”という意欲的な標語を出し、2030 年までにエイズの 大規模な流行を終了させることを目標として掲げた。しかし、その道筋が決して平坦なも のではないことはこれまでのエイズをめぐる長い困難な取り組みの歴史が示している。 28 以下は、2014 年の世界エイズデーに UNAIDS が発表したプレスリリース「Close the Gap ギャップをなくそう」の内容である。エイズを巡る現在の世界の状況が端的に表現されて いる。 http://www.unaids.org/en/WAD2014factsheet http://www.unaids.org/en/resources/campaigns/worldaidsday2014 ------ 2014 年世界エイズデー fact sheet より------------------------------------------------------2013 年現在、世界で 3500 万人[3320 万~3720 万人]が HIV と共に生きている。流行が 始まって以来、約 7800 万人[〔7100 万人~8700 万人]が HIV に感染し、このうち 3900 万人[3500 万人~4300 万人]がエイズに関わる病気で死亡している。 新規 HIV 感染ゼロに向けてギャップをなくそう ・2013 年に世界全体で年間 210 万人[190 万~240 万人]が新たに HIV に感染した。 ・2013 年には世界全体で年間 24 万人[21 万~28 万人]の子供が新たに HIV に感染した。 エイズ関連の死亡ゼロに向けてギャップをなくそう ・2013 年には世界で 150 万人[140 万~170 万人]がエイズ関連の病気で死亡した。 治療のギャップをなくそう ・2013 年には約 1290 万人の HIV 陽性者が抗レトロウイルス治療を受けている。 ・これは全ての HIV 陽性者の 37%[35%~39%]に相当するが、HIV 陽性の子どもの間で は命を繋ぐために必要なこの薬にアクセスできているのは、まだ 24%[22%~26%]に すぎない。 HIV と結核の重複感染のためにギャップをなくそう ・結核は今もなお、HIV 陽性者の死因の第一位であり、2012 年には推定 32 万人[30 万 ~34 万人]の HIV 陽性者が結核で死亡している。 アクセスのギャップをなくそう ・HIV は生殖年齢の女性の死因の第 1 位である ・2013 年には低・中所得国の妊娠した女性の 54%は HIV 検査を受けられていない ・2013 年に 15~24 歳の若年層での HIV 感染の約 60%は、思春期の少女と若い女性だ。 ・アフリカでは 10~19 歳の若者の死因の第一位はエイズ関連の病気である ・世界的にみて、ゲイおよび MSM は総人口に比べて HIV 陽性率が 19 倍である。 ・セックスワーカーの HIV 陽性率は総人口に比べて 12 倍である ・トランスジェンダー女性は生殖年齢の全成人人口に比べ、49 倍も HIV 感染を得やす い ・IDUs の HIV 陽性率は総人口に比べて 28 倍高いと推定されている ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 29 表1 世界のエイズの動向(2013 年推計値) HIV 陽性者数 年間新規 HIV 感染 年間のエイズ関連死亡 合計 3500 万人 (3320~3720) 210 万人 (190~240) 150 万人 (140~170) 成人 3180 万人 (30.1~33.7) 190 万人 (170~210) 130 万人 (120~150) うち女性 1600 万人 (15.2~16.9) 子供 320 万人 ( 2.9~ 3.5) 24 万人 (21~28) 19 万人 (17~22) 表 2 地域別にみたエイズの動向(2013 年推計値の中央値のみ) HIV 陽性者数 年間新規感染 (大人・子ども) (大人・子ども) 2470 万人 150 万人 4.7% 110 万人 中東及び北部アフリカ 23 万人 2.5 万人 0.1% 1.5 万人 アジア太平洋 480 万人 35 万人 0.2% 25 万人 ラテンアメリカ 150 万人 9.4 万人 0.4% 4.7 万人 カリブ諸国 25 万人 1.2 万人 1.1% 1.1 万人 東欧及び中央アジア 110 万人 11 万人 0.6% 5.3 万人 西欧・中欧及び北米 230 万人 8.8 万人 0.3% 2.7 万人 合計 3500 万人 210 万人 0.8% 150 万人 サハラ以南アフリカ 成人陽性率 エイズ関連死亡 (大人・子ども) 表3 エイズ流行の推移 1990 1995 2000 2005 2010 2013 HIV 陽性者 850 万人 1870 万人 2860 万人 3210 万人 3380 万人 3500 万人 HIV 新規感染 190 万人 340 万人 350 万人 290 万人 250 万人 210 万人 エイズ関連死 35 万人 97 万人 180 万人 240 万人 190 万人 150 万人 740 万人 1290 万人 ART で治療中 30 図1 WHO の地域事務所毎の成人 HIV 陽性率 国毎の統計資料はこちらから http://www.unaids.org/en/dataanalysis/datatools/aidsinfo 31 5.エイズを知ろう ②簡単な HIV のウイルス学 大阪府立大学看護学部 教授 垣本和宏 (第 2 版) はじめに 1981 年に世界で初めてのエイズ症例が報告され 1983 年にその原因ウイルスであるエイズ ウイルス(HIV)が確認された。その後 HIV は世界中に急速に広がり、エイズ症例の初の 報告から 25 年以上経過した現在でも、HIV を完全に体内から排除する薬剤や有効なワクチ ンは発見されていない。そして、HIV は単なるある疾病の原因ウイルスとしてのみならず、 多くの社会問題までを引き起こし人類に対して数々の挑戦を与え続けている。 本項では公衆衛生や社会学的な観点ではなく、HIV のウイルスとしての特性や検査など について、エイズ対策に従事する際に知っておくと役に立つ「簡単なウイルス学」につい て述べることにする。 そもそもウイルスとは・・ 微生物とは人間の肉眼では見ることができない ほどの生物の総称であり、その中でもウイルスは 普通の光学顕微鏡でも観察できないくらい微小な ものである。ウイルス粒子の基本構造は遺伝情報 を担う核酸(DNA または RNA のどちらか)とそ れを保護する蛋白の殻からできているのが基本構 造であり、HIV についても同様の構造を持ってい る(図 1)。ウイルスの種類によってウイルス粒子の 形や核酸の情報、蛋白の構造が異なり、病原性な ども異なってくる。また、ウイルスの特徴として、 自分自身では増殖できず人間を含めた動物や植物 の細胞内や細菌などのみでしか増殖ができない。 図1 HIVの概略図 内部にウイルス遺伝子(RNA)があり、その周囲に様々 な蛋白の殻が存在する。特に表面の蛋白はリンパ球の CD4蛋白と結合しやすい。 増殖に関しては、例えば、細菌は一つの細胞が二つに、二つの細胞が四つに、と 2 分裂を 起こすが、ウイルスの場合は一つのウイルスが一つの宿主細胞内で数百から数千のウイル スを増殖するのも特徴である。 エイズウイルス(HIV) HIV はヒトの細胞内で増殖する直径約 110nm ウイルスで、ウイルス遺伝子核酸として1 本鎖 RNA を持ちながらも感染した宿主細胞(主にリンパ球)では DNA に逆転写(DNA の 情報を RNA に書き換えることを「転写」、その逆を「逆転写」と言う)され感染細胞の DNA 遺伝子内に DNA として組み込まれる(図 2)。そして増殖の際には再び RNA へと転 写されて宿主細胞の外に出て行く。このような特徴を持つウイルスを総称してレトロウイ ルスと言い、HIV はレトロウイルスの一つに分類される。このウイルスの RNA を DNA に 32 逆転写するときに必要な酵素を逆転写酵素と HIV CD4陽性リンパ球 呼び、いくつかの抗 HIV 薬はこの酵素の働きを 阻害して HIV の増殖を抑える効果を持つ。レト RNA ロウイルスに対しての薬剤による治療が困難 進入 逆転写 2本鎖DNA 組み込み 核 な理由は、HIV がこのように感染後に宿主細胞 の遺伝子にその一部として組み込まれること にあると言われている。 一方で、リンパ球の表面にはその種類によっ て CD4、CD8 などと呼ばれる分子が存在し(数 図2 HIVのRNAはCD4リンパ球に進入し、逆転写酵素によ りDNAとなった後にリンパ球自身の遺伝子の中にその一部と して組み込まれる。 百種類ある)、それぞれのリンパ球の役割に応 じて免疫ネットワークを築いている。HIV の表 面の蛋白はこのうち CD4 分子に結合しやすい ため、HIV は CD4 を表面に持つリンパ球(以下、CD4 陽性リンパ球)を標的として感染し、 これを宿主細胞として増殖する。一つの CD4 陽性リンパ球の中では毎日約 109 個のウイル スが増殖されて再び血液中に出て行くと言われており、最終的には一つの CD4 陽性リンパ 球は HIV の進入後平均 2~3 日で死滅する。CD4 陽性リンパ球の数が減ると細菌やウイルス を攻撃する細胞への指令ネットワークが崩れるために免疫機能が弱まり、健康な時には抑 え込まれていた体内の微生物が暴れ出し、いろいろな感染症をおこしやすくなったりする。 このようにして発生する感染症を日和見感染症と呼ぶ。 感染ルートと HIV HIV はこのように主に CD4 分子を標的にしていることから、例えば CD4 分子を持たない 皮膚表面を介しての HIV 感染は無傷である限りは成立できないことになる。HIV は CD4 陽 性リンパ球や血液の血しょう成分(血液の細胞成分以外の液体部分)に存在することから、 HIV の感染ルートとして血液を介しての感染(HIV を含んだ血液成分の輸注や静脈注射の 使いまわし、出血を伴う性交渉など)が問題となりやすい。また、精液や膣分泌液、母乳 にも多くのリンパ球が存在することから、性交渉や母乳感染が成立する。 しかしながら、HIV が存在すれば必ず感染するとは言えず、例えば唾液には少量のリン パ球が存在し、HIV も存在しうるが感染には至らないなど、HIV の存在が微量であると感 染には結びつかない。 HIV 抗体検査 HIV に感染後約 4~8 週間後に HIV に 表 各種HIV抗体検査の特徴 簡易迅速検査 (凝集法を除く) ELISA法 ウエスタンブロット 法 特徴 対する抗体が検出されるようになり、こ 安価、電気が不要、手技が簡易、 検査結果は10~15分、大量の検 体には不向き 電気が必要、特殊な機器が必要、 大量の検体処理に向く、結果に時 間がかかる 電気が必要、特殊な機器が必要、 確認試験として使用される、高価 で開発途上国では不向き の抗体を検出する検査が HIV 抗体検査 33 となる。抗体検査法は多くの種類の検査 キットが開発され、その特徴(表)や目 的や使用環境に応じて検査キットを選 択する必要がある。中でも簡易迅速抗体 検査(rapid test)は、安価であり、検査 に電気を必要とせず、検査法も極めて簡 単で検査結果も 10~15 分でわかることから、多くの VCT センターや移動 VCT などでも使 用されている。しかしながら、抗体検査はウイルスそのものを検出する検査ではないこと に留意が必要である。例えば、感染後は抗体の検出までに 6~8 週間かかることから、この 間は HIV に感染していても抗体検査では陽性と出てこない。この期間をウインドウ期間 (window period)と呼んでいるが、ウインドウ期間は検査キットの種類などによって多少 異なる。また、HIV 抗体が胎盤を通過することから、例え生まれた子供が HIV に感染して いなくても子供への抗体検査は、胎盤を通過した母親の抗体(移行抗体)に反応するため に陽性となる。この移行抗体が完全に消えるには生後最長で 18 ヶ月かかるとされているこ とから、子供の HIV 抗体検査は生後 18 ヶ月以降に行う必要がある。 また、抗体検査によっては感度(真の陽性を陽性と反応する率)や特異度(真の陰性を 陰性と反応する率)が異なることから偽陽性(本当は陽性でないのに陽性とでる)や偽陰 性(本当は陰性でないのに陰性とでる)が生じ、WHO などでは感染の有無については2つ 以上の検査キットを用いて確認することを推奨しており、各国でも検査アルゴリズムを設 定していることが多い。 ウイルス学的検査 ウイルスそのものを検出しようとする検査で、Polymerase chain reaction (PCR)法と言わ れる方法が代表的である。検査に熟練を要する上に高価であること、電気や特別な検査室 が必要であることなどから、開発途上国でもごく限られた施設においてのみで使用されて いる。開発途上国において HIV の感染の有無を調べる目的には適していないが、HIV 感染 の母親から生まれた子供の早期診断に PCR 法を用いることもある。 PCR は感度が高いため、 わずかでも検体に外部からの HIV 遺伝子が混在されても陽性と判定されるので、手技や検 査環境には細心の注意が必要である。一方で、逆に検出感度にも限度があり、PCR で陰性 でも感度以下にウイルスが存在することもあり結果の解釈には留意が必要である。 また、PCR 法を改変した方法で血中 HIV RNA 量測定法(viral load)があり、HIV 感染者 の血液中のウイルス量や抗 HIV 薬の効果判定などに有用であるが、開発途上国での普及は 進んでいなかった。しかし、治療効果の判定に重要であり WHO は 2013 年のガイドライン で開発途上国でも強く推奨するようになった。 CD4 測定 CD4 陽性リンパ球の数を測定する方法で、大人では通常 1μl 中の CD4 陽性リンパ球の数 を用いて HIV 感染者の免疫状態の評価に使用され、WHO のエイズ治療ガイドラインでも CD4 値に基づいた治療の選択が記載されており、抗 HIV 薬による治療効果の判定にも使用 されている。試薬や器械がやや高価であるが、ここ数年ではエイズ治療の拡大に伴って開 発途上国の病院レベルでも利用が広がってきている。 おわりに HIV のウイルスとしての特徴と関連の検査について簡単に説明した。エイズ対策にはウ イルス学についての詳細な知識は必ずしも必要ではないが、その基礎的知識により活動や 対策の意味の理解に役立つこともあると思われる。 34 5.エイズを知ろう ③HIV 感染と臨床 国立国際医療センター エイズ治療・研究開発センター 本田美和子 国立国際医療センター 国際医療協力局 石川尚子 (第 2 版) HIV 感染症は、初めてその存在が報告された 1981 年から今日に至るまで、 「一度感染し たら、絶対に治らない感染症」であることに残念ながら変わりありません。しかし、世界 中の患者さん、医師、研究者の協力によって、HIV 感染症を「早期に感染が判明し、適切 な時期に治療を導入することができれば、健康な状態をより長く保つことができ、糖尿病 や高血圧と同様に生涯にわたって治療を必要とする慢性疾患である」という状況にまで予 後を改善させることが可能になってきました。それと同時に、この疾患が「適切な予防を 用いることによって、未然に防ぐことができる」という大切な側面もすでに明らかになっ ています。 HIV 感染症はすでに「すぐに死に至る病」ではなくなりましたが、 「一度感染すると絶対 に治らない」側面は変わりません。この項では HIV 感染症が健康にもたらす影響について 紹介していきます。 <HIV 感染症の経路> HIV 感染の経路は 1)性的接触 2)母子感染 3)注射器を用いる麻薬の濫用 4)HIV が混入した血液製剤 5)医療行為を通じて医療従事者が針刺し事故などによって感染する の 5 つに大別できます。国際協力の分野で問題となるのは主に 1)2)3)です。 1) 性的接触による HIV 感染症 HIV 感染症について語る際に、 「性的接触」というのはきわめて広い行為を意味します。 HIV 感染症はヒト免疫不全ウィルス(Human Immunodeficiency Virus)感染症の略ですが、 このウィルスは一旦体内に入ると、血液、粘液などの体液、母乳、臓器など体内の隅々に まですみつきます。ヒトの皮膚はきわめて頑丈にできており、HIV が接触しても体内への 侵入を食い止めることができます。しかし、粘膜はもっと脆弱な構造をしており、粘膜と 粘膜との濃厚な接触があれば、HIV に感染しているヒトの粘液に含まれたウィルスは、粘 膜を通じてヒトからヒトへ感染を成立させます。口腔内も、直腸も、膣も、ペニスの先端 も、粘膜で覆われています。ですから、よく知られている一般的な性交や肛門を用いた性 交だけでなく、いわゆるオーラルセックスも HIV を感染させる危険行為です。 また、口内炎や口腔内・性器周囲のヘルペス感染症などによって粘膜に炎症や潰瘍がで きている場合には、粘膜の防御機能はさらに弱まり、感染の確率はますます高まります。 HIV 感染症は性行為感染症の一つですが、他の性行為感染症と混在することによって、ま 35 すます感染の危険は高まることになります。近年 10 代から 20 代の女性のクラミジア有病 率が問題となっていますが、クラミジアに感染していることは、HIV 感染を含むその他の 性行為感染症の危険にすでに直面しているのと同じです。 2) 母子感染 HIV に感染している母親から生まれる子供は、HIV に感染している可能性があります。 母子感染が起こるタイミングは 3 つです。一つ目は妊娠中に経胎盤による感染、二つ目は 分娩中に産道を通る際に成立する感染、三つめは出産後授乳を通じてうつる感染です。母 親が HIV に感染していれば子供は全例 HIV に感染する、という訳ではありません。母親が HIV の治療を全くしておらず、経腟分娩で子供を産み、母乳を用いて育てた場合に HIV の 母子感染を起こす確率は先進国では約 25%といわれています。さらに、HIV に感染してい る女性が、妊娠前から十分な治療を行い、人工受精によって妊娠し(これはパートナーへ の感染のリスクがあるためです) 、帝王切開によって出産し、母乳を与えないで育てれば、 子への感染の危険性をきわめて低くすることができます。 子供の HIV 感染症に関しては後述します。 3) 注射器を用いる麻薬の濫用 注射器を用いる麻薬の濫用は、 HIV に汚染された注射針の回し打ちによって広がります。 もちろん、HIV のみならず、肝炎や細菌感染症など様々な感染症の原因となります。 <HIV 治療薬> HIV 感染症は一度感染すると完治することはありません。感染した人は「HIV とともに 暮らす生活」を生涯余儀なくされます。HIV 診療の外来を初めて受診する方の多くは、今 後自分が健康を失い、死に直結することを具体的に想定していらっしゃることが多いので すが、わたしたちは、まず、「歩いて外来通院ができるくらいお元気なうちに受診できて、 本当に良かった。今後、定期的に継続して受診していただければ、今の健康をずっと保持 していくことができますよ」とお伝えします。このような、聞きようによってはあまりに 楽観的な発言ができるのは、すべて 1990 年代以降に導入された強力な抗 HIV 治療薬の開発 のおかげです。また、患者さんの予後の劇的な改善がある一方で、治療薬を長期的に服用 することに付随する問題も大きくなってきています。 1) 抗 HIV 治療薬のメカニズム HIV が体の中に侵入すると、まず自己を増殖させるために血液の中のリンパ球、とりわ け CD4 リンパ球と呼ばれる血球成分に入り込みます。ウィルスはこの CD4 リンパ球の中で 自己の遺伝子をヒトのリンパ球の遺伝子に組み込み、増殖を図ります。最終的にリンパ球 は数多くの HIV を誕生させてしまい、リンパ球自体は破壊されます。この A)CD4 リンパ 球への HIV の侵入 B)HIV の遺伝子のヒト遺伝子への組み込み C)リンパ球の中で新た な HIV の誕生、といういくつかのステップを踏んで体内へ広がるという HIV 感染のメカニ ズムが明らかになってから、それぞれのステップに対応する治療薬が開発されています。 以下、代表的な HIV 治療薬を紹介します。 36 2) 逆転写酵素阻害剤 HIV がリンパ球に侵入した後、自分の遺伝子をリンパ球の遺伝子に組み込むために、HIV が持っている RNA に含まれる遺伝情報を鋳型として、DNA を作り出す過程に必要な酵素 を「逆転写酵素」と呼びます。一般に生物では DNA から RNA を作り出すのに比べ、RNA から DNA を作り出すので、生成の向きが逆であることから「逆転写」と呼んでいます。こ の逆転写を止めるための薬が「逆転写酵素阻害剤」です。逆転写酵素阻害剤には、核酸系 と非核酸系という 2 種類があります。前項で説明したステップの B に対応する治療薬です。 核酸系逆転写酵素阻害剤は最も早く開発された薬で、現在まで 8 種類の薬が臨床的に利 用されています。中でも世界で最初に開発されたレトロビル(商品名)、薬剤としてはジドブ ジン(ZDV/AZT)という薬は日本人の研究者の手によるもので、1980 年代に使われるよう になってから今日まで幅広く使われています。 非核酸系逆転写酵素阻害剤には 3 種類の薬があり、薬理学的には核酸系のものよりも強 い作用を持ちます。 3) プロテアーゼ阻害剤 HIV がリンパ球の遺伝子に組み込まれて、新たに HIV を構成するタンパク質を生成する 過程の最後に必要な酵素をプロテアーゼと呼びます。このプロテアーゼを阻害することで、 HIV の増殖を防ぐ薬をプロテアーゼ阻害剤と呼びます。前項のステップの C に対応する治 療薬です。 この薬が開発され、 広く利用されるようになったのは 1990 年代半ば以降ですが、 強力な抗ウィルス作用をもつこの薬の導入で、患者さんの予後は劇的に改善しました。プ ロテアーゼ阻害剤導入以降の HIV 治療法は Highly Active Antiretroviral Treatment(とても強 力な抗 HIV 治療)とされ、頭文字をとって HAART 療法と呼ばれています。 現在推奨されている治療法は、逆転写酵素阻害剤とプロテアーゼ阻害剤を組み合わせ、 少なくとも 3 種類の治療薬を同時に服用する、という方法です。 4) 新たに導入されてきている治療薬 その他にも世界中の研究者がさまざまな立場から新薬の開発を行っています。現在では ステップの A である HIV がリンパ球へ侵入するところを防ぐ薬や、新しいタンパク質を生 み出すステップ C に対応する薬など多くの治療薬が開発中です。しかし、残念なことにど の薬も体内から HIV を根絶させることはできません。また、治療薬を長期にわたって服用 することに伴う問題点もたくさん出てきました。 5)HIV 治療における問題点:耐性ウィルスと長期的副作用 HIV 治療薬はとりわけ過去 10 年でめざましい変化を遂げ、すでに「すぐに死に至る病」 ではなくなりました。しかし、一度治療を開始すればその治療は一生続けることが望まし く、長期的な服用に伴うさまざまな問題が浮上してきています。 まず、規則的な服薬ができなくなった患者さんに起こる「耐性ウィルスの誕生」です。 一般に HIV の治療薬は毎日確実に 1 回または 2 回の服用が必要で、もし 95%以上の薬をき ちんと飲めなければ、薬の効き目を失う耐性ウィルスが出現するといわれています。つま 37 り、1 日 2 回服用する薬であれば、月に 3 回以上薬を飲み忘れると、薬の効き目が失われて しまうということになります。しかもひとつの薬に耐性が生まれると、その薬と同じメカ ニズムをもつその他の薬も効き目を失う、という交叉耐性という現象があり、規則正しい 服薬は HIV 治療にとって最も重要なことです。しかし、HIV 治療薬は同時に、服用によっ て患者さんは多くの副作用も経験することになります。最も多いのは服用に伴う消化器症 状で、服用と同時に起こる吐き気や下痢は患者さんにとってとても辛いものです。また、 長期的に服用することで、脂質代謝の異常や皮下脂肪の分布の異常が起こることも知られ ていますし、しびれなどの末梢神経障害、貧血なども経験することがあります。近年は心 臓血管系の副作用が注目されています。 「HIV って良い薬ができたから、もう大丈夫な病気なんでしょう?」という意見を最近 耳にすることがあります。良い薬はできましたが、未だに完治はできず、放っておけば死 に直結する疾患であることに、今も変わりはありません。しかも継続服用が非常に難しい ことをぜひ知っておいていただきたいと思います。 <子供の HIV 感染> 現在世界中には約 200 万人の HIV に感染している子供がいます。そしてそのほとんどが HIV に感染している母親から生まれた子供といわれています。子供の HIV 感染に対する対 策は、成人への対策とは異なっている部分が多く、また様々な問題も抱えているため、残 念ながらこれまで十分な対策がとられてきませんでした。 まず大きな問題となるのが、HIV に感染した母親から生まれた子供をどのように継続し てフォローアップしていくかという点です。もちろん先ほど触れたように HIV に感染した 母親から生まれた子供全てが HIV に感染するわけではなく、妊娠中何の予防対策もとらず、 生後 6 カ月まで母乳で育てた場合に子供が感染する確率は約 20~35%といわれていますが、 もし HIV に感染していた場合、死亡する確率が一番高いのは、生まれてからわずか 2 カ月 から 3 カ月という最近の報告もあり、いかに早く診断をして必要な治療を開始するかとい うことがとても大切になってきます。ところが多くの国々では、そもそも母親と子供のケ アを行っていく保健システムが脆弱なことが多いため、 生まれて 2 カ月以内に行うべき HIV 検査の実施がうまくいかず、治療を受けることができずに亡くなっていく子供がまだまだ 多くいると考えられています。 また HIV に感染していることがわかり治療が必要となったとしても、子供用の抗 HIV 治 療薬は成人用の治療薬と比べて種類が少なく、また何種類かの治療薬をひとつにまとめ内 服しやすくしたものもこれまでほとんどありませんでした。加えて成人の HIV 感染者を診 ることができる医師はいても、HIV に感染している子供の治療ができる医師がとても少な いという深刻な問題もあります。けれど幸いなことに、状況は次第に改善してきています。 例えば 2009 年半ばには子どもの HIV 感染の治療薬の数も徐々に増え、また何種類かの治療 薬をまとめた混合剤も手に入りやすくなってきました。また子供の患者を治療することが できる医療従事者を増やすため、各国で様々なトレーニングなども行われるようになって きています。 一方、HIV に感染している子供はこれから長期にわたって抗 HIV 治療薬を服用し続けな 38 ければなりません。先にも触れたように治療薬を規則正しく毎日内服することは必ずしも 易しいことではなく、それに付随して副作用の問題もあります。子供が小さい頃は周囲の 大人が責任を持って薬を服用させることが多いため、比較的きちんと治療が行われること が多いと言われています。子供が成長し青年期に入るに従い、病名をきちんと知り自分自 身で薬を内服していく必要が出てきますが、実際には告知がうまく行われなかったり、ま た青年期というそれだけで複雑な年齢期のために、薬の内服が不規則になったり、時には 中断してしまうというケースも少なくないのが現実です。またこの年齢は性行為の開始年 齢とも重なっており、性教育や HIV 予防、パートナーへの告知など、複雑な問題に対処し ていく必要もあります。 このように、小児の HIV 感染は様々な問題を抱えています。今後これらの問題にひとつ ひとつ取り組み、より一層その対策を充実させていく必要があります。 39 5.エイズを知ろう ③追記 開発途上国の HIV 医療の現状と課題 (認定)特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会 副代表理事 沢田貴志 (第 3 版) ◆はじめに エイズに対する治療薬の進歩は、過去 10 数年の間に HIV 陽性者の Quality of life を大き く改善してきました。日本や欧米諸国のエイズ専門医が治療の指針として利用している米 国保健福祉省(DHHS)のエイズ治療ガイドライン1)は毎年書き換えられ、最も推奨され る薬剤の組み合わせも数年ごとに改良が加えられています。しかし、ここで推奨される薬 剤の多くは非常に高価なものであり、医療保険制度の整っている先進国の住民には手に入 っても、多くの開発途上国の住民には手に届かないものとなっている現状があります。開 発途上国の HIV 対策の現場に立つ際にはこうした治療薬の格差について認識しておくこ とが必要です。一方で、開発途上国のエイズ医療が極めて劣悪なものでこの間全く進歩し ていないかのように考えることもまた誤りです。この数年間で治療環境の改善が少しずつ 進んでおり今も大きな変化の途上なのです。 この章では、2013 年に WHO が作成した新しい治療ガイドラインを説明することで、日 本では殆ど知られていない開発途上国のエイズ医療の状況を概観します。これにより、従 来の治療の格差がどの程度解消されたのか、厳しい条件下でどのような取り組みが行われ ているかについて説明します。 ◆医療の南北格差と HIV 陽性者のいのち 1996 年に開発された HAART(Highly Active Anti-Retroviral Treatment)と呼ばれる治療法 は、3 種類の抗レトロウイルス剤(Anti-Retro Viral)を併用することで、血液内の HIV を著 しく減少させ検出感度以下まで減少させられることを示しました。そこで多くの先進国で は抗レトロウイルス剤(ARV)の 3 剤併用療法が急速に普及し多くの HIV 陽性者が健康状 態を回復させることができるようになりました。しかし、こうした薬剤は開発費用が高額 であるとの理由から高い薬価が設定され開発途上国の住民にとっては手が届かない状況が 続いていました。 このため開発途上国では HIV 陽性者は ARV を使えず、日和見感染を生じたときだけそ の治療を受けるといった状況が続いていたのです。 確かに HAART が開発される前の AIDS 医療は、先進国であっても、次々に起きてくる日和見感染症をそのつど一つ一つ対処する といういわばモグラたたきのような治療法だったのです。開発途上国では、HAART の開 発後も、そのような先の見えない治療法しか選択肢がなかったのです。 理屈の上では、どんなに免疫が下がってしまっても、新たに起きた日和見感染症をその 都度治療することができれば病状は回復できることになります。こうした日和見感染症治 療をしっかり行うこと自体はとても重要であり意義深いものですし、それが可能であるは ずです。例えば、開発途上国で生じる日和見感染症の中で頻度が多い結核は、HIV の有無 40 にかかわらず多くの人が感染をしていますので、元々の医療システムの中で無料の治療制 度ができあがっているはずです。また、ニューモシスティス肺炎についても、有効な薬剤 である ST 合剤(商品名バクタ・バクトラミンなど)が、もともと開発途上国でよく使わ れている比較的安価な抗菌剤であることから治療を得ることは経済的にはそれほど難しく ないはずです。免疫が低下していない人でも発症し得る細菌性肺炎や、細菌性の下痢症に ついても、開発途上国でも治療薬は得られるはずです。こうした日和見感染症治療を丹念 に行うことで重い病気から回復することができれば HIV 陽性者にとってエイズと闘って 生きる希望が生まれることになります。しかし、免疫が下がればよりまれな感染症が登場 したり、HIV そのものによる消耗が生じるなどして次第に治療が困難となっていきます。 そこで、開発途上国では多くの HIV 陽性者は免疫が下がり発病が始まるようになると数ヶ 月単位で命を落とすことが多かったのです。陽性者団体のリーダー達ですら抗レトロウイ ルス剤を飲むことができずにあっけなく命を落としてしまうといった事態が続いていまし た。 ◆途上国での ARV 使用の始まり こうした事態に変化が出てきたのが 2000 年代に入ってからです。治療薬が得られず多く の人が亡くなっている状況に対応するために、開発途上国に限定して特許を外したジェネ リック薬の使用を認めるべきではないかとの国際世論が形成されていったのです。2001 年 には WHO と WTO(世界貿易機関)の間で一定の合意も形成され、開発途上国政府が自国 民を対象とした ARV の無償治療に踏み切り始めました。これを後押ししたのが GF の結成 と WHO が打ち出した“ 3 by 5 ”イニシアチブでした。こうして開発途上国でのエイズ医 療の向上の結果、エイズによる死亡、生存 HIV 陽性者数ともに減少に転じることが実現す るようになったのです。 しかし、標準治療として使用された殆どの薬剤が 1996 年(特許に関する国際条約である TRIPS 条約が発効した年)以前に開発された古い薬剤でしたので副作用が出やすいなどの 問題がありました。 もっとも早く普及した薬剤の組み合わせは、スタブジン(d4T)、ラミブジン(3TC)、 ネビラピン(NVP)という 3 種類の薬剤の組み合わせでしたが、このうちスタブジンとネ ビラピンについては重篤な副作用の出現する確率が他の薬剤に比べて高かったため、途中 で治療が受けられなくなる人が少なからず出ることや組み合わせによって耐性ができやす いなどの問題がありました。しかし、他の薬剤が高価であるために開発途上国の政府はこ れらの薬剤を利用しながらエイズ治療を普及するという政策をとらざるを得なかった状況 がありました。 ◆限界が見えてきた治療体制 それでも 2002 年以降急速に拡大した開発途上国での ARV の利用は、エイズによる死亡 を減少さることに成功します。そして、治療薬があるという希望は早期受診を促す効果を 持つことになり、 開発途上国のエイズ対策に大きな役割を果たしてきました。 その一方で、 10 年を経過した 2012 年頃には限界が見えてくることになりました。従来の ARV で治療効 果が見込めない人の割合が次第に増え、現状のガイドラインのままではエイズによる死亡 41 数の減少が数年内に頭打ちになり、増加に転ずるとの推測も出てきたのです。 一方、推奨薬剤を新しいものにする判断を支えるような変化もありました。スタブジン の代替となりうる薬剤として、従来から比較的低価格であったジドブジン(ZDV/AZT)以 外に、新興製薬企業のギリアード社が開発したテノホビル(TDF)という薬剤が途上国に は比較的安価に提供されるようになったのです。また、ネビラピンと同等の役割を果たす ストックリン(エファビレンツ EFV)も開発から時間が経ち途上国での価格を下げる下地 ができていました。こうして WHO は 2013 年に作成した「HIV の予防と治療のためのエイ ズ治療薬使用総合指針」 (Consolidated Guidelines on the use of ARV for treating and preventing HIV infection) 2) の中で、この ARV の問題にはっきりとした判断を下したのです。 ◆新しい治療の指針 2013 年のガイドラインでは、副作用が出やすいスタブジン(d4T)を第 1 選択の治療薬 のリストから外し、テノホビル(TDF)、エピビル(3TC)もしくは FTC、ストックリン (EFV)の組み合わせを第 1 選択薬として採用することを推奨したのです。この組み合わ せは、DHHS ガイドラインでも第 1 選択薬の候補の一つとして取り上げられているもので あり、最新の薬剤ではないものの現在も先進国でも使われている安全性の高い薬剤の組み 合わせの一つなのです。 1996 年から 20 年近くの ARV の歴史が重なる中で、薬に対する信頼性も次第に向上して いきました。そこで、DHHS ガイドラインでは、徐々に治療開始を推奨する CD4 の基準が 高くなっていきました。つまり、薬剤の安全性の向上と治療の遅れによる合併症の知識の 蓄積によってより早期の治療が推奨されるようになっていったのです。そこで 2013 年の WHO ガイドラインは、DHHS ガイドラインに準じて CD4 が 500 以下になった HIV 陽性者 で ARV を開始することを推奨するようになりました。しかし、多くの開発途上国で、こ うした早期に治療開始をすることにはまだ困難が伴うことが予測されます。優先的に治療 をする対象の CD4 が 350 以下になったり、進行した HIV による病状が発現した人である との記載もあり、こうした急を要する人の治療が優先的に取り組まれていくでしょう。ま た、結核を発病した人、B 型肝炎ウイルスのために進行した慢性肝臓病になっている人、 HIV 陽性者の性的パートナーで未感染の人、5 才以下の小児、妊娠中または授乳中の女性 については CD4 に関わらず開始するべきとしています。 この他に、IDUs に対しては、 薬物依存症治療のプログラムと連携して治療を提供することを推奨する記載もされていま す。 ◆予防と治療の統合 今回のガイドラインが予防と治療の総合ガイドラインと銘打たれている理由は、治療方 針の標準を決めているだけでなく、予防対策を進めていくための戦略についても踏み込ん でいるためです。HIV 抗体検査のうち近年普及がめざましい迅速検査キットは、特別な検 査施設がなくとも指先からの採血で短時間に検査を行うことができます。そこで、 Community based testing という名称で、地域の集会場や村のクリニック、在宅といった環境 でも検査ができるようにする取り組みも推奨されています。これによって医療施設をあま 42 り利用しない健康そうな若者や成人などに対しても早期の検査への勧奨を行うことができ ます。しかし、どこでも簡単に検査を推奨できると言うことは、検査への心づもりができ ていない人に検査を勧めてしまう可能性もはらんでおり、十分な説明がなければ被検査者 が差別への不安を感じる懸念があるとの報告もなされています。検査の方法が簡便になっ ても検査を行う前提として従来から推奨している 5 つの C(Consent, Confidentiality, Counseling, Correct test results, Connection/linkage to prevention, care and treatment)に基づき慎 重に実施されるべきものであることが強調されています。 ◆薬が効いているのか評価が大切 より良い薬剤の提供がされても治療開始をした人の多くが途中で中断をしたり、不規則 に内服してしまえば薬剤の効きにくい耐性ウイルスが広がってしまい、より深刻な事態に なってしまいます。2013 年の新しいガイドラインは単に薬が飲めるようになるだけでなく 継続して効果のある状態で服薬ができていることを重視しています。そのために治療効果 を測定するための検査法の推奨にも言及しています。抗レトロウイルス剤の治療効果を判 定する検査方法には、主に二つの検査があります。一つはウイルス量(Viral Load : VL) の定量という血液中の HIV の数そのものを数える検査です。この検査は、治療薬の効果を 直接判定することができますが、検査の費用が高く開発途上国での普及は従来殆ど進んで いませんでした。もう一つの検査が CD4 細胞数の定量です。こちらは、HIV によって CD4 陽性細胞がどの程度減少しているかを調べるものですので、ウイルスを直接見ているわけ ではありません。あくまでも HIV によって免疫系がどの程度壊れているかを見るものであ り、薬の効果の評価としては間接的な指標です。しかし、CD4 測定の費用が VL 測定に比 べれば安価なことから開発途上国では CD4 の測定の方が早く普及していきました。2013 年の WHO ガイドラインは、この間 CD4 測定によって間接的に評価をしていた開発途上国 での ARV の効果測定を VL を導入することで直接的に判定できるようにしようというもの です。このことは、薬の耐性ができていないかどうかをより正確に判定できることにつな がりますが、検査費用が大きく上昇するので政策としては大きな決断と言えるでしょう。 1)http://aidsinfo.nih.gov/guidelines 2)http://www.who.int/hiv/pub/guidelines/arv2013/en/ 43 5.エイズを知ろう ④エイズとジェンダー 特定非営利活動法人ぷれいす東京 代表 池上千寿子 (第 2 版) まずジェンダーという言葉を理解し、それがエイズとどう関わるのかを整理しましょう。 この項で使用するジェンダーとは社会が期待する性別役割分業を指します。社会が男女 に期待する役割は時代によっても社会によっても違ってきますが、性別による役割や期待 は単に異なるだけでなく、そのことが個別の男女の力関係に反映されるし、さらには社会 的な構造にくみこまれ社会の差別的対応や施策にも影響を与えたります。しかも性別役割 期待がちがう理由は、男女の身体的な違いに由来するので宿命的なものだとする態度と結 びつき、社会や文化の根底に横たわる価値観のひとつとなっていたりします。 たとえば、男性は社会的生産を女性は家事育児をになう存在であるとか、性的に男性は 攻撃型であるが女性は受身型であり、男性が性的に活発なのは容認されるが女性の場合は 容認されないとか、社会的・性的に男性は強者であるが女性は弱者とみなされることなど がジェンダーを基にした価値観・態度です。この結果、女性の教育や職業選択の制限など の差別的社会政策を肯定したり、女性を男性のための性的労働者役割と家庭を守る主婦母 親役割に分断してしまったりするのです。これらはジェンダーを基にした偏見(ジェンダ ーバイアス)ともいわれ、このバイアスに気づいていかに修正し公平にするかが国際的に も国内的にも求められているのです。 エイズが登場して約 30 年がたち、21 世紀にもちこされた国際的な大課題となっていま すが、HIV は主に性的に感染するために予防からケアにいたるあらゆる側面でジェンダー と関係しています。 具体的にみていきましょう。 1 感染予防とジェンダー 男性は性的に活発であることが期待されている(性的パワーは男らしさの象徴など)と、 感染予防行為自体が男らしくない、とみなされがちです。「男性なら性感染のひとつやふ たつ経験してあたりまえ」という文化もあります。このことがまず男性を感染リスクに晒 します。男性の性的対象である女性は性関係において感染予防を主導する立場は期待され ていないので、多くの女性が感染リスクを負います。その女性から子どもへと感染は広が ります。日本でも池上らの調査では感染と予防の知識はあっても予防行動をとれない要因 には男女差がありました。女性は「予防を主張したら相手に嫌われる」という意識が予防 行動を阻害していました。男性は「予防行動は負担だ」という負担感でした。これはジェ ンダーを反映しています。エイズにおいてもサハラ以南のアフリカでは女性感染者が男性 感染者より 200 万人多いと報告されていますが、性感染は男女間においては最終的に性的 弱者である女性により大きく影響するのです。 44 2 性感染のイメージとジェンダー さらに予防を困難にする要因として「性感染についての根強いイメージ」があります。 それは、「性感染はまず外国人がやってきて性産業に従事する女性に感染させ、その女性 たちが国内の客である男性たちに感染を広げ、その男性から家庭にいる一般女性と子ども へ広がる」 というイメージです。日本でも 80 年代後半にはエイズ怖さで外国人差別があり、 女性患者を性風俗従事者と一方的に決めつけて報道するという人権侵害やそれに伴うパニ ックがありました(1987)。性産業従事者に感染が広がるのは、性産業従事者は予防する かしないかを自分では決められない弱い立場にあるからです。それを決めるのは客であり 雇用主なのです。しかし、社会は性産業従事者(主に女性)を感染源のようにみなしてし まいます。性感染を性産業とむすびつけるイメージが強固であるほど、性産業以外の「一 般人」は「自分は関係ないはず」と考えてしまいます。性感染が判明すれば性産業の烙印 をおされるという不安が強ければ予防どころか検査への足も遠のくでしょう。ジェンダー バイアスは男性を性産業にかりたてるだけでなく、女性を性産業と家庭とに分断しあたか も敵対関係のようにしてしまいます 3 性感染予防のメッセージとジェンダー 性感染としての HIV 感染予防のメッセージは、性の 2 重基準を反映しています。性の 2 重基準とは男性と女性に対する性的基準が違うことを意味します。これもジェンダーの表 れです。もっとも端的な 2 重基準は、男性は積極的な性欲と性的行動が容認され女性では 容認されないということです。そして HIV 感染予防のメッセージは、男性の基準にあわせ ています。たとえば、結婚するまでは禁欲し、結婚後は夫婦間の性行為だけを守ることが 推奨され、さもなければコンドームをしようしましょう、といういわゆる ABC(Abstinence, Be faithful, Condom)予防キャンペーンは男性の行動変容を狙ったものです。アフリカで感 染している多くの女性は AB を守っている(性行為の相手は生涯夫のみ)結果、夫から感 染しているといわれています。夫婦の性関係において避妊や予防を主導できない立場の妻 は C も自分の意志ではなく夫しだいにならざるをえません。したがって ABC キャンペー ンは男性が実行して初めて相手の女性にも有効になるという、女性の男性依存というジェ ンダーを温存したままなのです。 2009 年にインドネシアのバリで開催された第 9 回アジア太平洋地域エイズ会議では、ア ジアの HIV 陽性女性の 90%は特定の相手である男性からの感染と推定されることが報告 されました。このためアジアでは今後女性の感染が男性以上に広がるとも指摘されていま す。 4 HIV 検査とジェンダー UNAIDS の「HIV と人権ガイドライン」では、無断検査、集団検査、強制検査をするべ きではなく HIV 検査はあくまで VCT が基本である、としています。しかし実際にはそう はいきません。たとえば外国人労働者、性産業従事者、服役者、妊婦などで集団検査は行 われがちです。現在では抗ウイルス剤による治療が可能なので「早期発見は本人のため」 という名目はありますが、集団検査の対象となるのは「ノー」といえない(いいにくい) 弱者集団です。検査の結果陽性であれば解雇、強制退去、地域社会からの排除など本人へ の不利益が予測される場合であっても、強く抗議できない集団が対象になるのです。 45 妊婦の夫は対象にならず妊婦だけが対象になる。性産業の客(主に男性)は対象になら ず従事者(主に女性)だけが対象になる、これもジェンダーバイアスを反映しています。 5 治療アクセスとジェンダー アフリカやアジアでは「夫や恋人がエイズで死んではじめて自分の感染に気づいた」と いう女性が少なくありません。とくに途上国にあって家事育児、家庭内生産労働を専業に する女性は、まずは家族の世話が第一任務です。家事、育児、教育、介護さらには生計を 得るための生産労働です。自分の健康管理をしている余裕はありません。女性は予防しに くいだけでなく発見も治療も遅れがちになるのです。しかも病気で家庭労働ができなくな ると家族から排除される、妊婦検査の結果陽性だと判明したとたん家からおいだされるな どの事例もありますが彼女にはエイズに関する充分な情報も与えられないままです。家庭 労働に従事してきた女性には社会的な経済力がありません。ないままに放置されて社会的 保障もありません。エイズについての社会的差別偏見の影響はこのように弱者により重く のしかかるのです。 6 診断・治療研究とジェンダー 治療アクセスは社会的弱者ほど遠くなるわけですが、診断や治療の基準は成人男性を対 象として作られています。HIV 診断の基準に女性固有の子宮頸がんが加わるのに数年かか っています。治療薬の投与量にしても成人男性を基準にしています。そもそも女性固有の 疾患(乳がんなど)では研究者も研究費も少ないことは国際的にも指摘されていますが、 性別にかかわりない疾患においては女性固有の病態変化などへの研究がおろそかになりが ちです。このような事態に対しては当事者である女性感染者の国際ネットワークが積極的 に指摘し提言しています。子どもの感染にいたっては当事者が声をあげられませんから、 もっとも遅れるといえるでしょう。女性が自分でできる有効な予防対策としてのマイクロ ビサイドの研究もなかなかすすみません。 7 ケアとジェンダー HIV 感染に対して複数の抗ウイルス剤が開発され使用されています。薬剤開発に高額な 投資が必要なために抗ウイルス剤は高価であり、感染者が集中しているアジア・アフリカ では感染者の手に届きにくいという問題があります。このために国連でエイズ特別総会が 開催され、治療のアクセスをより平等にするための政治宣言が採択され、国際的な基金も 創設されました(2002)。5 年後の 2006 年、治療アクセスだけでなくさらに「ケア・サポ ートおよび予防への普遍的アクセス」が政治宣言に加わりました。抗ウイルス剤はあって も決定的な治療の決め手は無い現在、薬を使える豊かな社会も貧しい社会も、まずは予防 そして感染者へのケアが大課題になっています。片親か両親がエイズでなくなったエイズ 孤児(15 歳以下の子ども)の養育・教育も社会的なケアの問題でありすでに国際的な大課 題です。 女性は多くの社会でケアの担い手として期待されています。看護・介護・養育は家庭の中 でも外でも主に女性の仕事とされています。そこに性感染が襲うとどうなるのでしょう。 従来女性の役割とされているケアの分野は社会化が遅れている分野です。たとえばエイズ 孤児をひきとり養育教育を提供する社会政策は乏しくボランティアで民間が細々と提供し 46 ているのが現状です。ケア提供者であることを期待されている女性は、自分が感染しても ケアの受益者にはなりにくいのです。家族や子どものケアが優先です。ケアをする立場が ケアからもっとも遠くなります。ケアを社会的政策としてうちたてずに女性まかせにして いるエイズ対策は中長期的に有効ではありえないでしょう。そしてその結果被害をこうむ るのは当の女性たちであり、その子どもです。 8 エイズの女性化 「貧困の女性化」という言葉があります。社会的格差は社会的弱者により深刻な影響を 及ぼし、その結果、貧困層に女性が集中するという現象を示しています。エイズについて も「女性化」(Feminization)がいわれます。性感染は性的弱者により影響するからです。 しかも感染症は貧しい社会に集約する南北問題という側面をもつので、貧困の女性化との ダブルパンチをうけるわけです。このために「女性のエンパワメント」がエイズ対策の重 要な鍵であるといわれてきました。女性のエンパワメントを実現するには、ジェンダーと いう視点に敏感になりジェンダーのバイアスを修正することが必要です。 UNAIDS は 2001 年のエイズデースローガンとして「Men Make a Difference」とうたいま した。これは「性的強さが男らしさというジェンダーを見直そう」という意味でもありま した。性的強さを男らしさとするジェンダー規範が男性を感染に晒し、より弱者である女 性や子どもにより深刻な影響を与えているという現実に眼をむけて、男性たちの積極的な 予防やケアへの取り組みを訴えたスローガンです。 ジェンダーというと「女性問題」と勘違いする人がいるかもしれませんが、そうではあ りません。ジェンダーを基にした社会の仕組みや政治に敏感になり、その偏りに気づき、 いかに是正するかを考えることがジェンダーへのとりくみです。ジェンダーバイアスは女 性だけでなく男性にも影響しているのです。性別の枠をこえてすべての人に影響している ともいえます。男性がまずジェンダーバイアスのために性感染の危険に晒されると指摘し ましたが、男性同性愛が偏見にみまわれ社会によっては罪とされてしまうのもジェンダー による男性への期待(より多くの子孫を残せ、男性は女性を性の対象とする)を根本的に 裏切っていることと無関係ではありません。 47 6.エイズ対策の実際 ①「2030 年までに HIV を終わらせる」って本気で言ってるの? =現在の国際エイズ対策トレンドとその課題= 特定非営利法人アフリカ日本協議会 稲場雅紀 (第 3 版) 1.2030 年までにエイズを終わらせる? 「2030 年までにエイズ、結核、マラリア、顧みられない熱帯病を終結(end)させ、肝 炎、水に由来する感染症およびその他の感染症と闘う」 これは、2016 年以降 2030 年までの世界の開発目標となる「持続可能な開発目標」 (Sustainable Development Goals: SDGs)のエイズに関わるターゲットです。 ちなみに、ここでいう「終結」 (end)という表現について、国連合同エイズ計画(UNAIDS) は、 「保健衛生上の主要な脅威としてのエイズ」を終結させる(ending AIDS as a major public health threat)という意味であって、天然痘のような「根絶」とは異なる、と説明していま す。しかし、それにしても、エイズを「終結させる」というのは、ずいぶんとすっきりし た物言いのように思えます。特に、今から十数年前、グローバルな開発目標として史上初 めて制定された「ミレニアム開発目標」(MDGs)の文面と比較すると、それは際立ちま す。「エイズの蔓延を 2015 年までに食い止め、その後反転させる」…MDGs のエイズに関 する目標は、いささか煮え切らない、あいまいな表現です。 しかし、国際社会は MDGs のこの表現をベースとして、2001 年「国連エイズ特別総会」 を開催して、エイズとの闘いを真にグローバルなものとしました。2003 年には、途上国に エイズ治療薬を供給するうえで障害となっていた「知的財産権」の課題をなんとか克服し て、2005 年までに途上国で 300 万人にエイズ治療薬を届ける、という「スリー・バイ・フ ァイブ」(3 by 5)イニシアティブを確立。その後のエイズ治療の普及は、MDGs の数多く の課題の中でも、最も進歩がみられたものの一つです。2001 年当時には、途上国でエイズ 治療薬にアクセスできていたのがわずか 15 万人であったのに対し、2013 年末現在では、 1290 万人が治療にアクセスしています。(注1:UNAIDS「The GAP Report」2013) こうした懸命な取り組みの結果、この十数年間で HIV への取り組みは大きく前進しまし た。2013 年の HIV の新規感染数は 210 万人で 2001 年に比べて 38%の減少、エイズによる 死亡は 150 万人で 2005 年に比べて 35%の減少です。母子感染については、2013 年で 24 万 人。2002 年と比較して 58%の減少をみることができました。統計の精度自体は以前よりも 上がっていますから、これらの数字が正しいとすれば、エイズの拡大は頭打ちとなってき ています。 2030 年に「エイズを終結させる」…この大胆な目標設定は、過去十数年間のエイズとの 闘いの着実な歩みを踏まえた「自信」の表れ、と見てよいのでしょうか。 48 2.失われるエイズ克服への国際的意思 ここに、一つのデータがあります。UNAIDS と米国のカイザー家族財団(Kaiser Family Foundation)がまとめた、エイズに関する国際的な支援の金額に関するデータです。これ をみると、エイズに関する支援(誓約ベース)は 2008 年までは順調に増額されてきました が、同年の 87 億ドルを最後に頭打ちとなり、2012 年には 83 億ドルと下がっています。こ こ数年は途上国が自らの予算で行うエイズ対策資金が拡大し、2012 年には全体の 53%と、 初めて国際資金を抜くに至りました。 エイズ対策のための国際資金はどの国が出しているのでしょうか。見てみますと、米国 が全体の 63.9%を拠出し、次が英国(10.2%)、フランス(4.8%)、ドイツ(3.7%)と続 き、日本は 5 位で 2.7%です。これをみると、米国が援助資金の3分の2を占める圧倒的に 巨大な拠出国として君臨していることがわかります。しかも、他国のエイズ支援が伸び悩 む中で、エイズ対策支援に占める米国の拠出割合は年々増加しています。 エイズの拡大は頭打ちになりつつあるといっても、現状の取り組みを続けているだけで エイズが「征圧」できるわけではありません。UNAIDS は、2030 年までに「エイズを終結」 させるための「ファスト・トラック」プランを提示し、目標達成のためには、現時点でエ イズ対策費を急速に増額する必要がある、と述べています。しかし、これに積極的に呼応 しようというのは、2012 年に「エイズから解放された世代」(AIDS Free Generation)の実 現に不可欠な役割を果たすことを誓約し UNAIDS と目的を共有する米国のみで、その他の 援助国はエイズへの関心を薄れさせつつあります。 振り返ってみれば、エイズへの支援が頭打ちになった 2008 年はちょうど、「リーマン・ ショック」により世界金融危機が到来した年でした。それまで国際社会は、エイズやマラ リア、母子保健といった縦割りの課題別対策では不十分として、保健人材や保健財政、情 報、インフラなどの「保健システム」を包括的に強化する戦略を形成し、そこに国際連帯 税といった革新的資金創出メカニズムをドッキングさせよう、といった野心的なプランを 検討していました。この流れは残念ながら世界金融危機で雲散霧消し、「国際保健」のト レンドは大きく変化しました。ゲイツ財団など、資金を持ち、保健に投資する意思のある 民間財団に対して、「いかに自分の課題を売るか」という競争が生じたのです。結果とし て、2008 年以降の国際保健政策は、年ごとに課題が猫の目のように変わるという状況に陥 りました。その中で HIV/エイズは相対的に資金のあるセクターとみなされ、課題として埋 没していきました。さらには、保健セクターの中でも、「アフリカ以外の地域では、エイ ズよりも下痢症や呼吸器疾患対策に投資した方が、効率的に命を救える」「エイズに資金 が行き過ぎた結果、他の保健セクターに金が回らなくなった」といった批判が公然と行わ れるようになり、国際保健における HIV/エイズへの関心は急速に後景化したのです。 このトレンド変化の中で、リーマン・ショック前には「政府・民間・市民社会が連携し た理想的な多国間援助機関」などともてはやされた「グローバルファンド世界エイズ・結 核・マラリア対策基金」(グローバルファンド)も、大きな変革を迫られました。 グローバルファンドは、もともと日米が主導して 2002 年に設立した、途上国のエイズ・ 結核・マラリアの三大感染症対策に資金を出す新しいタイプの国際機関です。これが設立 され軌道に乗ったことにより、UNAIDS が世界レベルおよび国レベルで政策作りと統計に 49 集中し、グローバルファンドが対策資金を出し、各援助国が被援助国と協調しながらエイ ズ対策を進めるという枠組みができ、エイズ対策については、他に先駆けて国際的な援助 協調の体制が整備されたわけです。 グローバルファンドは、国連機関が陥りがちな官僚主義を排するという趣旨から、形式 はスイスの民間財団として設立され、先進国を中心とする援助国や民間財団、民間企業な どからは資金を、途上国からは三大感染症対策のプロポーザルを集めて審査し、適切なプ ロポーザルを選んで資金を投入し、NGO や HIV 陽性者、HIV/エイズの影響を強く受けて いる人々のコミュニティも組織の意思決定に一票を持って参加できる、グローバル民主主 義の理想を体現した 21 世紀型の国際機関として運営されてきました。一方、ジュネーブに 一つだけ事務局を置き、資金拠出に特化して、資金管理・監査については現地に外注する という形をとったことから、 資金拠出先での資金管理にはリスクを抱えていました。また、 やる気のある人々ばかりで構成される民主主義はえてして「船頭多くして船山に上る」と いうことになりがちです。結果として、よかれと思って行った改革が朝令暮改を生み、き わめて複雑な仕組みと、グローバルファンドだけに通用する専門用語の世界を生み出すに 至りました。2011 年、資金拠出先の国での資金流用疑惑を大げさに報じた AP 通信の記事 が、グローバルファンドの抱えていたこの時限爆弾を爆発させることになったのです。 AP 通信の記事は、前年に理事会で採択された資金流用に関する報告書の内容を超える ものではありませんでしたが、それを見た各援助国は、グローバルファンドの根本的な大 改革を求め、資金拠出を凍結。当時のミシェル・カザツキン事務局長(フランス)は辞任 に追い込まれ、代わりに中南米の有力な銀行家であったガブリエル・ハラミージョ氏が「総 支配人」(General Manager)に就任、職員の大多数を配置転換して現場の案件監理に集中 させるなどの大改革を行いました。また、途上国から提出される案件提案書の出来不出来 に大きく左右される資金拠出の方法も再検討され、逆に、グローバルファンドが確保した 資金を、国の開発状況や疾病状況に応じて戦略的に投資する「新規資金拠出モデル」(New Funding Model)が採用されるなど、グローバルファンドの仕組み自体が抜本的に改革され たのです。 世界金融危機後、あまたの国際保健課題の中で埋没の憂き目にあったエイズが、2015 年 を前になんとか息を吹き返したのは、このグローバルファンドの復活劇と、「エイズを終 結させる」というスローガンによってでした。実際、ミレニアム開発目標(MDGs)の次 の目標である「持続可能な開発目標」(SDGs)の形成において、エイズは一時、非常に出 遅れていました。米国政府の「エイズから解放された世代」の実現を誓約は、エイズにと っていわば「天啓」でした。実際のところ、新規感染数や死者数などの数字を見れば、「エ イズの終結」を十数年で実現するというのは、必ずしも現実的なプランとは言えません。 そんな時点で「エイズの終結」という伝家の宝刀を抜いたのは、実際には、「エイズとの 闘いを進めてきた国際社会の自信の表れ」などではありません。むしろ、後景化していく エイズ課題への国際的な注目をもう一度呼び起こすための「賭け」のようなものであった ということができます。 3.進む「エイズの医療化」とそのリスク 2014 年 7 月にオーストラリア・メルボルンで開催された第 20 回国際エイズ会議。開会 式で壇上に立った UNAIDS のミシェル・シディベ事務局長(アフリカ・マリ出身)の前に、 50 大きなプラカードを掲げる世界各地のエイズ活動家たちが数十人、立ちはだかっていまし た。シディベ事務局長は、UNAIDS が最近打ち出した、2030 年に「エイズを終結」させる ために、「90-90-90」と称する、2020 年までに達成すべき中間目標を説明するところでし た。この「90-90-90」は、検査が必要な人々の 90%が検査を受け、陽性と分かった人の 90% が早急に治療につながり、その 90%でウイルス量が低減する、という目標です。これに対 して、エイズ活動家たちは、「80% Undetectable」というスローガンを掲げていました。つ まり、2020 年までに、HIV 陽性者の 80%のウイルス量を、早期からの HIV 治療(抗レト ロウイルス治療)によって検出可能値以下にする、それにより、「エイズの終結」を決定 づけることを目標にせよ、というのです。 2020 年の中間目標を巡る UNAIDS と一部の市民社会の論争から見えてくること、それ は「エイズ対策の医療化」が急速に進み、市民社会も含め、多くの主体が、エイズ問題の 解決をこの「医療化」の加速に求めているということです。 この「エイズの医療化」の傾向を決定づけたのが、2012 年夏、米国で 20 数年ぶりに開 催された「国際エイズ会議」を前に発表されたひとつの研究報告でした。この研究は、4 大陸 13 都市において、一方は陽性者、そのパートナーが陰性者という組み合わせのカップ ルを対象として行われました。その結果、HIV 陽性者は免疫力が低下する前に HIV 治療に アクセスした場合、相手に HIV を感染させる可能性が 96%低下するということが分かった のです。この研究は、「エイズから解放された世代」の実現という米国の政策をデータの 面から後押しするものとして喧伝され、UNAIDS はこれをもとに「検査即治療」(test and treat)、「治療=予防」(treatment as prevention)という戦略を、2030 年までの「エイズの 終結」の柱とすることにしたのです。 データに裏打ちされた「検査即治療」「治療=予防」戦略。話を聞けば、たしかに、こ うした「医療化」によって、「エイズの終結」「エイズから解放された世代の実現」は近 づいたように聞こえます。しかし、現場から、また、エイズ対策への資金ニーズと実際の 資金投入量のギャップから考えれば、この対策の早急な導入には、極めて高いリスクが伴 うことは明らかです。 先進国においてもそうですが、途上国や新興国の現場では、治療中断のリスクは圧倒的 に高くなります。多くの途上国・新興国では、調達能力や流通能力の不足から、多くの治 療スポットにおいて、HIV 治療薬の品切れが生じています。保健医療セクターの腐敗が進 んだ国々では、援助された治療薬を民間の薬局や病院に横流しして利ザヤを稼ぐといった ことも普通に生じており、それが品切れをより頻繁にしています。 もうひとつ重要なことがあります。「検査即治療」の枠組みでは、例えば風邪などで病 院に行って、医療者からすすめられるままに HIV 検査をしたら陽性だった、という人も、 HIV に起因する身体症状が何も出ていないのに HIV 治療を行うことになります。しかし、 体が悪くないのに薬を恒常的に飲み続けることは、最初のうちは良くても、時間がたつに つれて、だんだん難しくなってきます。そもそも、「なぜ元気なのに薬を飲まなければな らないのか」を理解し、なおかつ、服薬を習慣化していかなければならないわけです。 こうしたことについては、コミュニティ・レベルで恒常的に服薬の重要性に関する啓発 活動を欠かさずに行っていくことが必要です。また、服薬を記録し、モニタリングするこ 51 とも不可欠です。現場レベルでこうしたコミュニティ活動がなければ、多くの人々は、体 調が回復した段階で治療をやめてしまったり、より体調の悪い人に薬を分け与えてしまっ たりするでしょう。実際に「検査即治療」「治療=予防」戦略を採用するためには、こう したことを防ぎ、コミュニティ・レベルで服薬アドヒアランスを向上させる活動が不可欠 です。しかし、こうした活動に十分な支援は行くのでしょうか。世界金融危機以降、この あたりへの手当てがどんどん脆弱になっています。というのは、一定の経済成長を遂げて 中所得国になった国々、特に新興経済国として「上位中所得国」(Upper Middle Income Country)になった国々からは、国際資金がどんどん撤退し、これまで国際資金のわずかな 部分に頼って行われていたこうした活動が停滞していく状況が生じているからです。 さらに大きな課題は、特にアフリカ以外の地域で、HIV 感染が集中的に生じてきた、MSM (男性とセックスをする男性:men who have sex with men)、セックスワーカー、IDUs(薬 物使用者:injecting drug users)、移民労働者、獄中者といった社会的に周縁化された人々 の間で、これまで行われてきた HIV 予防啓発活動が、「治療=予防」戦略の導入と「エイ ズ対策の医療化」の文脈の中で後景化しないか、ということです。実際、国際的なエイズ 政策のトレンドの中では、これらのコミュニティでのエイズ対策は、予防啓発や治療リテ ラシーの向上というよりも、むしろ「人権問題」としてくくられる傾向が出てきています。 もちろん、多くの国々でこうしたコミュニティを排除したり、弾圧するような立法が相次 ぎ、それが強化されようとしていること、また、実際に公権力による迫害や社会的迫害が 過酷さを増していることは事実であり、その点でこれは「人権問題」ではあります。しか し、これらのコミュニティにおけるエイズに関わる活動は、「人権問題」という以上に、 効果のある適切な HIV 対策の活動として位置付けられ、コミュニティでの取り組みの努力 と必要な資金の投入がなされるべきです。「エイズ対策の医療化」トレンドの中で、コミ ュニティでのエイズに関わる社会的な活動が軽視されていくのであれば、それは本末転倒 です。 最後に、「エイズ対策の医療化」は膨大な資金がかかります。これは端的に言って「薬 漬け」手法によるエイズの克服、という方向性なわけですから。これを新興国も含め、世 界中で本格的に導入するならば、第2・第3選択薬も含め、途上国製のジェネリック治療 薬を普及して、最新のものも含めてエイズ治療薬の価格を大きく下げていく必要がありま す。しかし、こと知的財産権に関しては、その方向には進んでいないようです。世界貿易 機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定(TRIPs)は、途上国における医薬品の流通につ いてある程度の柔軟性を備えるに至りましたが、その後 WTO ドーハラウンドの停滞と引 き換えに各地で生じた「自由貿易協定」「経済パートナーシップ協定」などにおいて、日 本を含む先進国は、TRIPs よりも厳しい知的財産権保護を要求しています。これは途上国・ 新興国におけるエイズ治療の普及の方向性との間で、政策一貫性を欠いています。 こうした様々なリスクがある中でも、「エイズ対策の医療化」の方向性は、「エイズの 終結」を目指す動きの中でどんどん強められています。本気で「エイズの終結」を掲げる なら、世界は覚悟を決めるべきですが、最大のリスクは、その<覚悟>がどこを見てもあ まり見当たらないことです。 4.ユニバーサル・ヘルス・カバレッジとエイズ 最後に、「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ」(UHC:Universal Health Coverage)の 52 トレンドとエイズについて触れていきます。 リーマン・ショック後、世界金融危機の文脈の中で、国際保健政策のトレンドが細分化、 不安定化したことについては、先に述べました。こうした傾向から決別し、骨太な包括的 保健強化にもう一度軸足を置き直すには、理論の再構築が必要となりました。その文脈の 中で、保健システムの強化について、特に保健財政の観点から光を当て、「すべての人々 が、お金のカベにぶつかることなく、必要な保健・医療を受けるためのシステムをどう作 るか」について追求し、政策に高めたものが、UHC であると言えます。 UHC には二つの側面があります。一つは、特定の国において、できるだけ多くの国民が 衡平かつ安定的に裨益できる保健財政および保健サービス提供システムの構築。もう一つ は、UHC が「ユニバーサル」である以上、どんな人でもそこから零れ落ちることがないよ うにするための、制度作り、サブシステムの構築、実際に「零れ落ちてしまった」人々や それを支援する市民社会・NGO が行うアドボカシー活動、そしてそれを拾い上げ制度に接 続する行政側のアプローチです。前者はどちらかというと国・行政・サービス提供者側の 立場からの UHC、後者は保健サービスを求める国民・市民・利用者側の立場からの UHC になります。この二つがうまくかみ合って初めて、中長期的に、UHC が実現するわけです。 エイズに関わる活動は、広汎流行期にあるサハラ以南アフリカも含めて、HIV 陽性者、 MSM、セックスワーカー、IDUs、移民・移住労働者など、権力、制度、社会から周縁化さ れ、既存のシステムから「零れ落ちた」人々が、HIV を前に、まず自分たちの命や健康を 自分たちで守る予防啓発やケアのサービスを自分たちで構築することから始まり、その後、 保健システムの門戸開放や治療アクセスを行政に要求する権利運動として強化されていき ました。その意味で、エイズに関わる取り組みは、国民・市民・利用者の立場から UHC を作り上げていくプロセスとして位置付けられることになります。 UHC の政策論および政策への導入は、これまでの所、むしろ前者、つまり行政側、サー ビス提供者側の論理によって形成されてきました。特に中所得国以上の国々においては、 保健援助からの自立が要求され、それにこたえる形で各国が国民の一定部分の保健を担う 公的な財政プール制度を、主に公的保険制度によって形成するというパターンが多く見ら れます。 実は、これらの国々においては、エイズに関わるコミュニティの取り組みはこれまで、 グローバルファンドや欧米の二国間ドナーによる NGO 支援スキームによって維持されて きました。こうした新興国が経済成長によってとくに上位中所得国になっていく過程で、 国際資金が撤退し、一方で UHC として整備されたシステムがエイズをカバーしていなか ったり、周縁化されたコミュニティに配慮した制度設計がなされていないことによって、 これらのコミュニティにおけるエイズへの取り組みが立ち枯れていく、ということが生じ つつあります。 フィリピンの国民健康保険制度「フィルヘルス」は、エイズについて特定のパッケージ が設置されています。貧困者の保険料は政府が肩代わりする制度がありますが、そのため には貧困者登録が必要で、差別されてきた HIV 陽性者や MSM、IDUs、セックスワーカー などには活用しにくい制度設計になってしまっています。(2014 年 11 月現在)。また、 インドネシアで導入された国民健康保険は、「依存症」に由来する疾病については適用し 53 ないことになっており、同国の HIV 陽性者の中で最大のグループである薬物使用者は、薬 物を原因とする病気に関して、保険の恩恵を受けられないのが実情です。(2014 年7月現 在) これから、 より多くの国々で UHC を謳った制度が導入されていくものと考えられます。 その中で必要なのは、上記で見たように、UHC を市民・国民・利用者の立場から再定義し、 衡平で零れ落ちる人々がいない UHC を目指した、実施とアドボカシーの取り組みを活性 化することです。こうした取り組みは、中長期的にその国の UHC を強化し、本来の意味 でユニバーサルな保健カバレッジを実現することにつながります。この意味で、エイズ対 策は UHC と対立する「縦割り・課題別」対策なのではなく、真の意味で UHC を実現する ための大きな要素となり得るものなのです。 5.まとめ MDGs がリードする開発トレンドの中でエイズへの取り組みが主要なグローバル課題の 一つと位置づけられてから十数年。その取り組みの位置づけやあり方は、特に世界金融危 機を境に、大きく変わりました。「2030 年までにエイズを終結させる」という SDGs の目 標とは裏腹に、エイズ対策は現在、大きな岐路に立っていると言えます。 厳しい状況にあって、世界はこの岐路をどのように進むのでしょうか。 「エイズの終結」 は本当にあり得るのでしょうか。いま、答えはありません。羅針盤や海図は、あるように 見えて、実は驚くほどあやふやなものです。そこで問われるのは、私たちが「なぜエイズ に取り組むのか」という、その原点です。 大きなトレンドの変化にただ乗るのではなく、また、その変化を見損なって流されてし まうのでもない…。私たちに問われているのは、原点を見失うことなく、いかに体を動か し、頭を使いながら考え、その場その場でベストの回答を見つけていくか、ということで す。実は、それができている人は、政府、援助機関、国連機関、市民社会を見渡しても、 それほどたくさんはいません。これからエイズに携わる皆さんには、80 年代以降のエイズ の 30 余年の歴史をもう一度見つめ直しながら、「なぜエイズに取り組むのか」を、自分の 原点に照らして是非考えていただきたいと思います。そうすることで、難しい状況の中で も展望が開けてくるものと思います。 54 6.エイズ対策の実際 ②日本のエイズ対策の現状と課題 慶應義塾大学 樽井正義 (第 3 版) 流行の現状 2013 年末までに、日本では累計約 2 万 3 千人の HIV 感染者が報告されている。欧米先 進国に比べて、①人数の上では少なく、UNAIDS の 3 段階分類ではまだ第一の低流行期に あると言える。②しかし HIV 感染者報告は一貫して増加傾向にある。新規 HIV 感染者(発 症前に検査で知る)は 2009 年以降、それまでの急増からほぼ横這いになったように見える が、新規エイズ患者(発症してから感染を知る、つまりそれまでは感染を知らない)は増 加を続けている。 2013 年には新規 HIV 感染者は 1,106 名、新規エイズ患者は 484 名、その合計 1,950 名は 過去最高となった(データと図は資料 1 による)。なお 2009 年の新規感染者報告減少は、 保健所が新型インフルエンザ対策に忙殺されて検査件数が減ったことも一因と考えられ る。その後も保健所の検査件数は、2008 年の 14 万 7 千件より 4 万件以上減少し、年間 10 万 3-5 千件にとどまっている。 感染経路はほとんどが性的接触であり、HIV 感染者では 70.5%が同性間、17.5%が異性間、 エイズ患者では 56.4%が同性間、24.0%が異性間と報告されている。つまり、③MSM が流 55 行の主流をなしており、局限流行期(特定集団の陽性率 5%超)に近づいているとの見方 もある。また、HIV 感染者の 3 割近くは発症して初めて感染を知ることから、④未受検の HIV 感染者がかなりおり、それには少なからぬ異性愛者が含まれると推測される。 対策の枠組 流行への国としての最初のまとまった対策は 1989 年制定の「後天性免疫不全症候群の予 防に関する法律」(エイズ予防法)だった。この法律に対しては、HIV 感染者の入国規制 といった科学的根拠と人権への配慮とを欠く差別を含んでおり、偏見をむしろ助長すると いう批判があった。同様に伝染病予防法と性病予防法にも、社会防衛を理由として人権を 不当過度に制限する傾向が指摘されるようになり、99 年にこれらの法に代わって、「感染 症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症新法)が制定された。 新法は感染症を、感染力と必要な対応の相違により 4 つに分類し、HIV 感染症は感染力 がもっとも弱い四類とされている。しかし、総合的施策の推進が必要な「特定感染症」と して、2000 年には「後天性免疫不全症候群に関する特定感染症予防指針」が策定され、そ の規定に従い、2006 年と 2012 年に改訂が行われている(資料 2 参照)。 伝染病予防法とエイズ予防法から感染症新法とエイズ予防指針への移行によって、社会 56 防衛としての感染予防から、感染者と関係者の人権に配慮し、予防のみならず治療と支援 を含む包括的感染症対策へと政策転換がはかられている。指針の新改訂では、「普及啓発 および教育」、「検査・相談体制の充実」、「医療の提供」が三つの柱となっている。こ れに社会生活の支援を加え、さらに対策の策定について、現状と課題を見ることにする。 予防・啓発と検査・相談 感染症とその予防にかかわる知識の啓発は、一つには広く国民全体を対象とするが、重 要なのは性的活動が活発な若い世代であり、学校における健康教育・性教育がその鍵とな る。1990 年代前半にはまだしも共有されていた HIV への関心がその後希薄になり、性教 育では性関係の抑制が強調され、避妊や性感染予防は単なる技術として無視ないし軽視さ れる傾向にある。また地方自治体の対策費も、薬害和解後の 90 年代後半から減額を続け、 予防啓発の予算では、検査と相談を維持するのに手一杯という状況にある。 いま一つには社会のなかには、感染の可能性が懸念されるが、社会的立場が弱く、差別 や偏見が向けられるために、予防や治療のサービスを受けにくい人びとがいる。予防指針 では個別施策層と呼ばれ、青少年、外国人、MSM、セックスワーカーとその顧客が挙げら れていた。 前述のように日本ではわけても MSM の陽性報告が多く、このグループに適した予防啓 発が必要とされる。それを担ってきたのは当事者の NGO だったが、行政との連携により 東京・新宿の akta、大阪・堂島の dista 等のコミュニティセンター(ドロップインセンター) が設置され、研究者の協力もあって、一定の成果を挙げてきた。その活動の継続と展開が、 今後の流行を左右すると言っても過言ではない。さらに指針の新改訂では、個別施策層に 薬物使用者が加えられたが、日本では世界的に問題とされている注射器の共利用による感 染は少ない。むしろ薬物使用が性関係と結びつき、コンドームを用いる予防行動が疎かに なることが憂慮されており、この対策が新たな課題とされる。 感染・未感染を知る方法として、保健所における無料・匿名検査が、早くから全国的に 実施されてきた。VCT という国際基準に沿うこと、検査を拡大することが求められ、2006 年からは 6 月初旬に「HIV 検査普及週間」が設定され、また大都市では近年、受検者の便 宜に配慮して夜間・土日の検査実施や迅速検査も導入されている。しかし前述のように受 検者数は増えず、自発的な検査で陽性が判明するケースは全報告の 3 分の 1 にとどまり、 さらに工夫が求められる。また、商業的な郵送検査も始められているが、医療行為とは見 なされず、指針や規制は検討されていない。 陽性報告の 3 分の 2 は、病院における外科手術等観血性治療前の感染症検査、あるいは 産院における妊婦検診による。しかしその際のインフォームド・コンセントはたいていは 簡略にとどまり、陽性告知の準備が不十分なことも指摘されている。言うまでもなく、検 査には、結果への適切な対応が前提とされる。 治療と生活支援 エイズ診療体制としては、エイズ治療・研究開発センター(ACC、東京・戸山)を頂点 に、全国 8 ブロックに 14 のブロック拠点病院(1997 年)が置かれ、そのもとに 400 近い 拠点病院が厚生労働省により指定されている。これらの病院を中心にして、抗レトロウイ ルス治療や日和見感染治療が提供されており、治療には健康保険が適用されている。 57 さらに、免疫不全は内的障害とされ、障害者認定と障害者手帳交付の制度が、1998 年よ り導入されている。保険診療の自己負担分が軽減されるとともに、社会生活が支援される ことになる。この優れた支援策は、血友病患者グループの尽力により、薬害被害救済の恒 久対策の一環として導入された。 こうした医療サービスは、日本では優れた健康保険制度によって提供されているが、ビ ザが 1 年未満あるいは超過滞在の外国人はこの制度を利用できない。経済的理由で、さら には言葉や文化の違いに阻まれて、必要な診療を受けられずに一命にもかかわるという事 態は、残念ながら後を絶たない。NGO と医療機関が努力を続けているが、それには限りが ある。救急医療、感染症医療を誰もが利用できる制度、医療の場で通訳が利用できる支援 が、人権と公衆衛生の観点から強く求められる。 ともあれ医療環境については、8 割以上の陽性者が「整っている」「まあ整っている」 という肯定的な評価をしている。これとは対照的に社会生活の環境については、陽性者は 否定的な評価をしている。社会における偏見の低減や職場の対応については、9 割前後の 陽性者が「あまり整っていない」「整っていない」と見ている(データと図は資料 3 によ る)。医療が向上し、制約なしに就労を望む陽性者は増えているが、30 歳から 60 歳の就 業率は一般人口を 5-15%下回っている。その背景に、HIV 感染症に対する社会の不寛容、 プライバシー侵害への陽性者の不安があるように思われる。 就労や福祉等、陽性者が社会生活で直面する問題に関しては、NGO が電話と面談による 相談事業を担ってきた。相談内容はさらに、予防や感染不安、検査、治療等多岐にわたる。 陽性者はもとよりその関係者をはじめ、広く一般から相談や問い合わせが寄せられている。 また NGO は、陽性者やその関係者のための各種の集会とともに、地域で HIV への理解を はかる行事を開催している。社会環境を整えていくには、そうした地道な活動が不可欠で あり、その継続が求められる。 対策の立案・実施・評価 エイズ対策は立案・実施・評価の 3 つの段階からなるが、UNAIDS はそれぞれについて 政府が指導力を発揮し、全国的に統一して行うことを奨励している(Three Ones)。第一 の段階については、前述のように予防指針が策定されており、その作業には厚生労働省の 主導のもとに、医療者、研究者、当事者を含む NGO も参加している。これは、陽性者の 参画拡大(GIPA)という国際基準にも適っている。 第三の監視・評価としては、「エイズ動向委員会」が年 4 回、冒頭に示したように HIV 感染者、エイズ患者等の報告等を収集し、流行の分析を行っているが、これは対策自体の 評価ではない。対策が評価されるのは指針が見直されるときだけである。より頻回に、流 行のみならず対策の各課題について、必要とされるデータを収集し、検討することが、個 別具体的な方策を実施するためにも求められる。(2015 年 1 月) 資料 1. 平 成 25 ( 2013 ) 年 エ イ ズ 発 生 動 向 年 報 , 厚 生 労 働 省 エ イ ズ 動 向 委 員 会 , 2009.6. http://api-net.jfap.or.jp/htmls/frameset-03-02.html 2. 厚 生 労 働 省 告 示 , 後 天 性 免 疫 不 全 症 候 群 に 関 す る 特 定 感 染 症 予 防 指 針 , 2012.1. http://api-net.jfap.or.jp/library/MeaRelDoc/03/images/120131sisin.pdf 58 エイズ予防財団編, 新エイズ予防指針と私たち, 連合出版 2012.7. 3. HIV/エイズとともに生きる人々の仕事・くらし・社会, 平成 21 年度厚生労働省科学研究 費補助金(エイズ対策研究事業)地域における HIV 陽性者等支援のための研究, HIV 陽 性 者 の 生 活 と 社 会 参 加 に 関 す る 調 査 報 告 書 , http://www.chiiki-shien.jp/resource.html#a_tool 59 2009.11. 6.エイズ対策の実際 ③HIV 予防対策 株式会社エッジウェル・インターナショナル (元 JICA タンザニア HIV/エイズサービスのための保健システム強化プロジェクト および HIV 予防のための組織強化プロジェクトチーフアドバイザー) 角井信弘 (第 3 版) 1. HIV 予防がどうして大切? 国連合同エイズ計画(UNAIDS)の 2014 年の発表によると、世界の HIV 陽性者の 数は 2013 年末現在で 3,500 万人と推定されています。 2013 年 1 年間で 210 万人が新規 感染し、150 万人がエイズにより死亡していると報告されており、HIV 陽性者の数は まだ増加傾向にあります。ただし、新規感染者の数は 2000 年の 350 万人をピークに減 少してきており、拡大のペースは一部東欧および中央アジアの国以外では落ちてきて います。エイズ治療の進歩により、日和見感染症の治療や予防だけでなく、ウィルス の活動を抑え込む薬(抗 HIV 薬)も次々と開発され、その恩恵を受ける人たちの数も GF や米国大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)など世界的なイニシアチブにより 2003 年以降急増しました。また、エイズワクチンの臨床試験も世界各地で実施されて います。 しかし、HIV を完全に体内から駆逐することは未だ出来ていません。また、一旦抗 HIV 薬治療が始まれば、ウィルスが薬に対する耐性を獲得しないためにも、服薬を継 続していく必要があります。治療にかかる医療費は個人のみならず国や国際社会にと っても大きな負担となっていくと予想されます。ですから、感染を予防し、新規感染 を抑えていくことは最も重要な課題であることは容易に理解できるでしょう。予防が 進まないと、現在行われているエイズ治療の継続さえも危機にさらされることとなる のです。 2010 年のエイズデーに合わせて、国連は大きなビジョンを掲げました。新規 HIV 感染ゼロ、エイズによる死亡ゼロ、差別偏見ゼロという 3 つのゼロ達成です。予防と 治療の拡充・拡大、差別偏見削減に向けた総合的な取り組みが今まさに求められてい ます。 2. 予防対策って具体的にどういう活動があるの? HIV 予防と聞いてどういう活動が直ぐに思い浮かびますか。予防のための啓発教育 活動やコンドーム普及活動ではないでしょうか。しかし、それだけが予防活動ではあ りません。予防を推進するための間接的な活動も含めるとするなら、以下のような広 範囲な活動が含まれます。 60 啓発教育を含むコミュニケーション活動(教材・カリキュラム・その他ツール 開発および人材育成も含む) コンドーム普及と使用促進活動(調達や物流も含む) 注射器による薬物使用者のためのハームリダクション HIV/エイズカウンセリングと検査(データ管理、検査試薬調達や物流も含む) 性感染症(STI)検査と治療 母子感染予防(HIV 陽性女性の望まない妊娠予防も含む) 男性性器包皮切除(男性割礼)の推進 安全な輸血血液供給のための管理 ハイリスク行動代替支援活動(セックスワーカーに対するセックスワーク以外 からの収入創出活動支援など) HIV 暴露後予防(医療事故や性暴力被害直後の抗 HIV 薬内服) 差別・偏見軽減を目指したアドボカシー活動 法的環境整備のためのアドボカシー活動(差別偏見規制、ハームリダクション を可能にするための法整備、コマーシャルセックスにおける 100%コンドーム使 用を実践可能にするための法的整備など) 新たな予防法開発・研究(膣内挿入薬やワクチンなど現在開発中) 調査・研究(性行動調査など) さて、これらの活動はどれも単独実施で効果が上がるというものではなく、包括的 に取り組んでいく必要があります。例えば差別・偏見が強い中で HIV エイズ検査カウ ンセリングや母子感染予防サービスの提供だけを実施してもなかなか実績が上がりま せん。サービス利用促進するような啓発活動やアドボカシー、コミュニティでのコミ ュニケーション活動が重要になります。同時に、予防活動とサポート・ケア・治療が しっかりとリンクしていくことが極めて重要になります。 3. 治療すなわち予防なり 上記の従来の予防対策に加えて、2010 年より新たな予防概念が導入されました。 「治 療すなわち予防なり(Treatment as Prevention)」という概念です。抗 HIV 療法が HIV の感染予防、 特に母子感染予防に効果があることは 1991 年より既に知られており役立 てられてきました。近年、米国の大学を中心としたいくつかの研究グループが、HIV ステータスの異なる異性カップルの間においても予防効果があることを多国にまたが る無作為化臨床試験で証明しました。つまり、HIV 陽性者が早めに抗 HIV 療法を受け ることによって感染していないパートナーへの感染の確立を劇的に減らすことができ るということが分かったのです。この研究の結果によって今日では Treatment as Prevention という概念が一般化し、抗 HIV 療法の開始が早められる傾向にあります。 61 4. 予防活動とケア・治療がリンクするってどういうこと? 予防活動の中でも HIV カ ウンセリング検査は HIV 陽 性者をサポート・ケア・治療 に導くためのエントリーポイ ントとなっています。予防、 カウンセリング検査、そして サポート・ケア・治療が三位一 体となって、人々が必要なサ ービスを必要なタイミングで 受けられるようにすることが 求められています。 図 1 のように、予防啓発活 動によって動機付けられた 人々が、予防行動をとるよう になり、かつ HIV カウンセリ ング検査を受ける。陽性とい 図 1 HIV エイズ対策三位一体8字ループモデル う結果が出た人々に対してはサポート・ケア・治療が提供されるという流れができるこ とが大切となります。サポートは、保健医療分野のみならず、心理的、社会的、法的、 スピリチュアル、経済的なサポート体制があることが望まれます。この予防からカウ ンセリング検査、そしてサポート・ケア治療の流れが淀んだり、どこかで止まってし まったりしないようなネットワークおよびレファーラル体制作りをすることが重要で す。このような流れの中で、HIV 陽性者のポジティブリビングが可能となり、中には 積極的にアドボカシー活動や予防啓発活動に参加する陽性の人々も現れ、それが予防 啓発活動をより強化することとなります。また、検査によって陰性とでた人々が予防 行動へと導かれ、その行動を維持していく支援も大切です。彼らが予防活動に参加し ていくことで予防啓発活動がさらに強化されることになります。上と下の 2 つのルー プ(8 字ループ)の流れを作っていくことが大切です。 それぞれの活動に携わっている人たちは、その活動をこなすことのみに捕らわれが ちですが、自分たちの活動が全体の青写真の中でどこに位置してループの流れを淀ま せないために何が求められているのかを理解しながら活動を進めることが大切です。 さもなければ活動ごとに縦割りの壁を築いてしまい、全体として相乗効果(シナジー) の出ない、それどころか調和のとれないシステムを構築してしまうことになります。 連携することはそれほど簡単なことではありません。ただ、1 つの組織が出来ること が限られていることは、誰もが理解しているはずです。補完しあうことによるシナジ ーを目指すために、お互いが理解し、三位一体のビジョンを共有することがまずは第 一歩です。これができれば連携も比較的にスムーズにいくはずです。 62 5. HIV 予防対策における重要な視点は? 上記の三位一体構想に加えて、予防活動の計画・実施・モニタリング評価には以下 のような視点が大切となります。 それぞれの国・地域における HIV 感染状況の的確な分析と把握 HIV 感染にもっとも影響を受けている人口や地域、グループのニーズの把握と テーラーメイドな活動作り 計画・実施・評価の全てのプロセスにおける当事者の参加 人権の保障・尊重・推進を基本とした活動 宗教・文化的規範や信条への配慮と働きかけ ジェンダー平等の推進による女性の HIV に対する脆弱性の低減と男性参加 これは国際的、国家的レベルで重要な視点ですが、隊員が直接関わるであろう地方 自治体や個々の組織や団体、学校などの予防活動においても重要な視点ですので、ど のような方針で取り組んでいくか、関係者全てに共有されていることが大切でしょう。 6. 啓発教育・コミュニケーション活動 隊員が関わる可能性の高いのは、啓発教育を含むコミュニケーション活動だと思い ますので、これから先はこの活動を中心に述べたいと思います。 6.1. IEC と BCC こ れ ま で 啓 発 教 育 ・ コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 活 動 は Information, Education & Communication (IEC)と呼ばれてきました。ところが、活動としてポスターやパンフレ ット、新聞広告やビルボードなどの広報メディア制作と情報伝達のみが中心となり、 IEC があたかも「情報メディア制作および情報伝達」のみであるかのように捉えられ てしまいました。また、正確な情報を与えさえすれば人は行動を変えるはずであると いう仮説のもと多くの情報伝達活動が IEC と称して行われてきました。しかし、情報 を与えただけでは人の行動は変わらないということが近年ようやく認識されてきまし た。身近な例で言うと、スモーカーの多くがタバコと肺がんとの強い相関性を指摘さ れてもタバコをやめなかったり、コンドームを使用すれば HIV 感染確率を大きく減ら すことができるということが分かっていても、コンドームを使わずにセックスしてし まうということです。それだけでなく、正確な情報を与えても行動を変えないで病気 になったり、感染に至った人を、保健従事者が「自業自得」として非難したり差別し たりしてしまうようなことさえも起きていました。 そこで登場したのが、行動変容に結び付くためのコミュニケーション「Behaviour Change Communication(BCC)」という言葉です。人の行動変容のステージやプロセ スに焦点を当て、それぞれのニーズに合った、しかも行動変容という結果に結び付く 63 ようなコミュニケーションを目指そうということです。IEC という言葉が BCC に取っ て代わったというよりは、コミュニケーション全体の取り組みをもっと行動変容とい う結果を目指したものにしていこう反省が込められているのだと思います。 6.2. 行動変容って? では、「行動変容」って何でしょう。なんか難しそうですが、要はこれまでとって きた行動パターンを変えるということです。保健という観点でいうと、「喫煙者が喫 煙をやめる」や「コンドームを使ったことのない男性がコンドームを使い始める」と いうような変化のことで、個人の健康のためにより望ましい方向に行動を変えるとい うことです。この行動変容を理解する上で重要となる理論はいくつかありますが、こ こでは行動科学や心理学の理論そのものではなく、分かり易い例で人の行動が変わる ステージとプロセスについて考えてみましょう。保健という立場をちょっと離れて、 誰もが経験している「携帯電話を使い始める」という例を使いながら考えてみます。 携帯電話はいまや先進国のみならず開発途上国においても多くの人々が利用するコ ミュニケーションツールとなっていますが、以前は経済的に豊かな一部の人々のもの であったことはご存じの通りです。「携帯電話を使い始める」という今までとは違う 行動に移るためには、 個人の中でいくつかのステージやプロセスを経ているはずです。 まずは、携帯電話の便利さについて全く知らない、知ろうともしない時期があった はずです。そこから、その便利さを知るということが次の段階。そしてこのツールを 使っている人をよく見かけるようになり、興味がわく。マスメディアからの広告にも 注意を払うようになる。使っている人の様子をよく見る。使っている人の携帯を使わ せてもらったりする。そしてこのツールがどんなふうに自分にとって役に立つかを想 像し始める。欲しいと思う。ただし、最初は自分に十分な経済力があるか疑問に思う。 そして、 どのくらいの値段で購入できて、維持費はどのくらいかかるのかを調べたり、 使っている人に聞いたりする。何かを我慢しなければ携帯電話を購入し、使用してい くことはできないと分る。それでも、利用価値の方が高いと思い始める。携帯電話会 社のサービスの内容を調べてできるだけ自分にあったサービスを検討。自分でも維持 していく自信がつき、次の給料日で購入を決断。そしてついに購入。利用開始。便利 さを実感する。使い過ぎに注意しつつ、維持費を確保するための努力をする。携帯電 話の便利さを友人とも共有し、友人に利用を強く勧める。携帯電話なしの生活はもは やありえなくなる。 当然、皆がこれと同じパターンで携帯電話を使い始めるということではありません。 例えば、ある日突然会社から携帯電話を渡されて使うように指示され、使っていくう ちにその便利さが分かってきて、結局手放せなくなるというようなプロセスで行動変 容が起こる場合もあるはずです。また、使ってみたけど結局わずらわしくなって使用 を中止したり、維持できなくて使用を中止したりと元の行動に戻ることも考えられま す。 上記例は、人間の購買行動を例にとって考えてみましたが、自分の健康のために行 64 動パターンを変えるということも基本的には同じで、一般的に思考期、準備期、行動 期、維持期というようないくつかのステージまたは心理的プロセスを経ながら変わっ ていくということがいわれています。また、上記携帯使用の例のような自発的に出て きた行動変容への欲求だけではなく、他人からのアドバイスや要求に応じたり、刑罰 を避けるための受動的な行動変容もあります。自動車のシートベルトの装着などは、 法律施行初期は取締りの強化でやむなくシートベルトを装着していた行動が、そのう ち習慣化していくと同時に安全意識が高まっていったという過程を経た人が多かった のではないかと思います。 自分が求めている、または求められている行動変容が自分にとってどのくらい関連 性が強くかつ自分の生活や健康に影響力をもつか、その行動の難易度、またその行動 をとるにあたっての障害、行動を継続させていく自信、その行動のロールモデルの存 在、行動変容をサポートしてくれる身近な人や物理的・社会的・経済的・法的環境の 存在など多くのことが影響し合って人の行動は変容していきます。 6.3. 効果的な BCC 活動のためのステップ BCC 活動を効果的に行うために、HIV 感染状況と感染拡大を起こしている行動様式 の把握がまず大切です。その上で、その行動様式に関わる人たちの特徴、その行動様 式を支える社会・経済・文化的背景の把握をする必要があります。そしてその問題と なる行動様式がどうなることが良いのか、代替えとなる行動様式の選択肢はあるか、 行動様式が変化するためにはどのようなメッセージを誰がどのタイミングでどのよう にコミュニケーションしていくか、コミュニケーションの障害となるものは何で、ど のように克服していくかの全体戦略を構築することが大切です。その上で個々の活動 を計画、実施し、モニタリング評価を行いつつ微調整または戦略修正を加えていくこ とが重要となります。以下、それぞれのステップについて述べます。 6.3.1. それぞれの国の HIV 流行状況をつかもう まずは、それぞれの国の HIV エイズの流行状況をつかみましょう。どの国も毎年ま たは隔年で保健省が HIV エイズ性感染症サーベイランス報告を出しているはずです。 そこで、年齢層および性別ごとの感染状況、性感染症の蔓延状況、流行地域などの情 報が出ていますので、その国の大まかな状況をつかみましょう。また、国によっては Sexual Behaviour Survey や Health and Demographic Survey、HIV/AIDS Indicator Survey などの大規模な調査も行われているので、それら調査報告書を入手し、感染状況や主 な感染経路などを調べ、感染がどこでどのように起こっているのかを把握しましょう。 これまでの報告書では、HIV 感染率(HIV Prevalence)の現状を知らせることが主な 役割でしたが、感染率だけでは HIV 感染状況の把握には限界があります。それは、感 染率の上昇または下降が必ずしもリスク行動の増加または減少を示すものではないか らです。HIV 感染症がエイズ発症にいたるまでには長いタイムラグが存在しています し、最近の抗 HIV 治療の拡大によっても感染率は大きく影響をうけることとなります。 65 HIV に新規感染した人の割合を示す新規感染率(HIV Incidence)の状況とその感染様 式を知ることが出来れば最も良いわけですが、HIV の性質上、その実数を把握するこ とは極めて困難です。これまで 15-24 歳の若年層の HIV 感染率を新規感染の目安とし て使ってきたりしていましたが、最近は様々なデータから新規感染率を推定算出する 方法が用いられるようになってきています。同時に Mode of Transmission Study なども 実施され、予防ニーズと実際に行われている予防活動やそのための予算配分とのギャ ップを分析し、予防活動の戦略の適切性を判断するとともに見直しを行っている国も 出てきています。例えば、図のように同じ東部南部アフリカであっても国によってか なり感染様式の割合が違うということが分かります。ウガンダ、モザンビーク、スワ ジランドでは、結婚しているカップル間での感染を主とした本来は低リスクと考えら れるグループにおける感染がかなりの割合を占めているということが分かります。ケ ニアでは男性同士の性行為による感染が意外と多いことが分かり、戦略の見直しが行 われました。状況に応じた対策が取られているか、特定の問題行動に沿ったメッセー ジが構築されコミュニケーション活動に結びついているかということが問題となるわ けです。 図 2 東南部アフリカ諸国における感染様式の違い(出典:UNAIDS Outlook Report 2010) 感染ルートとしてよく取り上げられる「異性間性交渉」とひとくくりに言っても、 いくつもの違うパターンが存在します。結婚している夫婦間、特定のパートナー間、 その場限りのカジュアルな関係、金銭のやりとりをベースとした関係などです。これ らの関係が同じ時期に複数存在している場合1もあれば、単数の関係が時間をおいて複 数存在しているような場合もあります。 1 これを concurrent sexual partnership と呼んでおり、HIV 感染リスクの高い性行動の一つとして 認識されています。 66 6.3.2. 国の HIV/エイズに対する方針や戦略を知ろう それぞれの国には、HIV/エイズに対する国家政策があり、その政策に沿った HIV/ エイズ戦略と 5 カ年計画などが立てられています。まずは、その全体像を知ることが 大切です。その上で、自分の所属している機関や団体がどの部分のどの活動を担って いるのかを認識しましょう。自分たちの活動が国のどの目標のために貢献しているの か意識しながら活動することが大切です。 6.3.3. 所属する組織(団体)の活動の全体像を把握しよう 所属する組織または団体が行っている活動の全体像をまずは把握しましょう。政府 組織の場合は、それぞれの組織の役割や管轄が存在しているはずです。その組織が行 う活動は基本的にその枠に収まるように(縦割りに)行われます。それが弊害となっ て幅広い活動ができないこともあり得ますが、配属先の役割や管轄を知っておくこと は大切です。非政府組織(NGO)の場合、各団体はそれぞれ使命(ミッション)を掲 げ、その役割を規定しています。これを最初に理解しておくことが大切です。そして、 自分の活動がその組織においてどういう位置づけなのか理解するように努めましょう。 一つの組織が出来ることには限界があります。その限界を理解しつつ、限界を超える 活動については他組織との連携を図っていくことが大切です。 6.3.4. 自分の活動地域の HIV 流行状況をつかもう 同じ国の中でも地域的な差や特徴がありますので自分の活動地域の特徴をつかむこ ともまた重要です。地域によって HIV/エイズの影響は随分と違うからです。例えば 2011 年から 2012 年にかけてタンザニアで実施された調査2によると、国全体の HIV 感 染率は 5.1%という結果となっていますが、州による差を見てみると、タンザニア本土 で最も感染率の高いのが Njombe 州の 14.8%、最も低いのが Manyara 州の 1.5%で 10 倍近くの大きな差があります。都市部と農村部を比べると都市部が 7.2%で農村部が 4.3%となっています。女性の感染率が 6.2%で男性が 3.8%、どの年齢層でも女性の方 が感染率が高くなっています。 2 Tanzania HIV/AIDS and Malaria Indicator Survey 2011/12 67 伝統・文化、社会規範、宗教、道徳観念、価値観、ジェンダーは、人々の性行動に 大きな影響を与えています。 同じ国においても、エスニ ックグループごとに伝統や 文化が違い、性に関わる風 習なども違います。一夫多 妻の習慣が残るエスニック グループもありますし、同 年齢の男性の間で妻を共有 する習慣があるエスニック グループもあったりします。 夫からセックスを迫られた ら決して断ってはいけない と教えられているグループ もありますし、夫が複数の セックスパートナーを持つ ことに対して社会が寛容で 図 3 タンザニア国の州ごとの HIV 感染率の違い あったり、複数のパートナ ーを持つことが「男らしさ」の象徴であったりするような場合もあります。東部南部 アフリカ地域には、初潮を迎えた少女に対する sexual initiation という儀式が存在し、 その儀式の中でセックスの実践を課すような地域があったり、兄弟が死亡したときは その妻を引き取るという風習があったり、sexual cleansing といって死亡した夫の霊を 体から取り除くための性的浄化儀式が存在したりします。ドライセックス(dry sex) やその他男性本位なセックスが風習として残っている地域も多くあり、ジェンダーの 課題となっています。男性や女性の割礼の伝統があるエスニックグループもあれば、 無いグループもあります。 ちなみに、男性の割礼は、女性から男性への HIV 感染リスクを 60%下げるというこ とが疫学的に証明されており、最近各国で医療介入としての男性性器包皮切除術 (Voluntary Medical Male Circumcision)のプロモーションが重要な予防戦略として位 置づけられています。一方、女性の割礼は、Female Genital Mutilation (FGM)と呼ばれ、 HIV 感染リスクのみならず女性のリプロダクティブヘルスにとって極めて有害な伝統 とされ、その実行を禁じる法律が各国整備されてきています。 また、宗教的道徳規範も人の性行動に大きく影響しています。一神教的性道徳規範 の強い地域もあれば、土着の多神教的な道徳規範の地域、またはその混在地域なども あります。例えば、カトリック教的性規範の強い家庭の少女は、性交渉開始年齢は他 と比較すると高いですが、その時のコンドーム使用率はきわめて低いという研究報告 (ザンビア)もでています。また、男性同士のセックスに対する寛容度も地域によっ て違ったりします。 表 1 はケニアにおける地域ごとの感染様式の特徴を表すものです。地域に共通した 問題もあれば、ある地域に特定の問題もあることがわかります。 68 一方、経済的な活動が HIV 感染拡大に影響している場合もあります。自分の活動地 域に主要幹線道路がある場合、その道路周辺の町と道路から離れた農村地域とでは同 じ地域内であっても人々の性行動も違うでしょうし、感染状況も異なります。また、 道路や橋や港湾などインフラ整備においては、多くの男性労働者が工事現場周辺に一 時的に家族から離れて居住し工事に従事している場合が多く、男性がリスク行動をと る確率が高くなります。また、それらの工事用資材などの運搬のためには多くのトラ ックなどが出入りすることとなり、長距離輸送の場合、その資材運搬のルート周辺に も影響を及ぼします。感染症は人の動きと一緒に拡大していきます。 自分の活動地域の伝統・文化、社会規範、宗教、道徳観念、ジェンダー、経済活動 などがどのように人々の性行動に影響を与えているか情報を集めると共に仲間たちと 共に分析し、HIV 感染リスクを高めてしまっているような行動、または HIV 感染に対 する脆弱性を高めてしまっている社会環境やスポットなどを地域の人々とともに考え ることが大切です。 表 1 ケニアにおける新規感染の感染暴露様式 Percent of New Infections Groups National Nyanza Nairobi 44.1% 38.5% 37.4% 37.9% Casual heterosexual sex 20.3% 30.5% 23.0% 14.9% Sex workers and clients 14.1% 23.1% 14.7% 18.2% 15.2% 6.0% 16.4% 20.5% Injecting drug use (IUD) 3.8% - 5.8% 6.1% Health Facility Related 2.5% 1.9% 2.7% 2.3% 76,315 25,195 10,155 6,656 Heterosexual sex within union/regular partnership Men having sex with men (MSM) and prison Number of New Infections 出典:Kenya HIV Response and Modes of Transmission Analysis (2009) 69 Coast 6.3.5. コミュニケーション戦略と活動計画づくり ① 問題行動や課題のリストアップ 入手した情報を基に、活動地域におけるコミュニケーション活動の対象として挙げ られる具体的問題行動や課題をリストアップしてみましょう。 ② 問題行動の分析 それぞれの問題行動は、誰が(Who)誰に対して(Whom)いつ(When)どこで(Where) どのように(How)なぜ(Why)行っているかを表で整理してみましょう。またそれ ぞれの問題行動に影響力を持つ関係者や状況、環境などの外部要因なども整理してみ ましょう。 ③ コミュニケーションの目的の明確化 次に、整理された表をよく見ながら、それぞれの問題行動/課題をどういう方向に向 かわせたいか(目的)を考えます。 ④ コミュニケーション戦略策定 それぞれの目的に対してコミュニケーション活動を誰が誰に対して、いつ、 どこで、 どのようなメッセージ内容を、どのように発信していくかを考えます。行動変容を促 進するような関係者や環境は存在するか、存在する場合、コミュニケーション活動に 利用できる関係者や環境は何か。行動変容を阻害するような関係者や環境は存在する か、その場合、その阻害要因をどのように克服していくかも合わせて考えましょう。 目的の一つ一つがコミュニケーションプロジェクトとなります。 コミュニケーション活動が単に個人へのアプローチだけでなく、行動変容をサポー トするような社会的な環境整備が必要な場合もあります。例えば、コンドームの使用 率が極めて低い状況がある場合、個人では解決できない理由がある場合があります。 コンドームを入手できる場所が遠い、コンドームが品切れであることが多い、コンド ームの値段が高い、心理的に入手しづらい、コンドームを使うことが社会的・宗教的 に悪いことだとされている、コンドーム使用をパートナーが同意してくれないなどの 場合、個人に対するコミュニケーションのアプローチだけではどうにもなりません。 これら一つ一つのネガティブな要素をポジティブに変えていくための取り組みをして いかねばコンドーム使用率が上がらないことになります。また、コンドーム使用は継 続しなければ意味が小さく、継続使用を可能にするような環境づくりが大切になりま す。そのためには政策決定者に対するアドボカシーが必要になってくることもありま すし、社会的な価値観の変化をおこすことが必要であることもあります。また、調達 や物流の問題も改善せねばコミュニケーション活動の努力が水の泡になってしまうこ ともあります。この場合もアドボカシーが必要になるでしょう。 阻害要因がある場合はその要因をどのように克服していくかの戦略も検討しましょ う。全体の課題をみながらコミュニケーション的に何ができるのかを考えていく必要 があります。 ⑤ 指標の設定 70 コミュニケーションの目的が達成されたかどうかを確認するためには、最初の時点 で指標の設定をしておく必要があります。この指標を使ってモニタリングや評価を行 うことになります。 ⑥ メッセージの構築 同じような内容のメッセージでも誰が誰に対してコミュニケーションをするかによ っても微妙に違ってくるはずです。例えば、若者が HIV 検査を積極的に受けるように なることを目的としたコミュニケーション戦略において、若者が若者に対して伝える メッセージ、親や大人に対して伝えるメッセージ、政策決定者に対して伝えるメッセ ージは目的が同じでも内容が違ってきます。メッセージの発信者が教師になるとまた 違ってくるでしょう。 メッセージには人の理性に訴えかけるメッセージと感情に訴えかけるメッセージが あります。誰が誰に対して何を求めているのかによってこの二通りのメッセージをう まく使い分ける、時には双方を組み合わせていくことが重要です。恋人に愛を伝える のに報告書のような手紙を書く人はいないでしょうし、逆に上司に仕事の報告をする のに情感的な表現の多い報告書を書く人もいないでしょう。 策定したコミュニケーション戦略に沿ったメッセージ構築が必要になってきます。 また、メッセージが全体戦略をとおして一貫性を持っていることも大切です。メッセ ージ同士が矛盾していると受信者に困惑を与えるだけでなく信頼も失ってしまいます。 ⑦ 具体的活動の計画 誰が誰に対してどのようにメッセージを伝えていくか(How)の部分は細かく詰め ていく必要あります。計画策定時に留意しなくてはいけないことは、使用メディアが 先に決まってしまうことのないようにすることです。あくまでも誰が誰に対してどの ようなメッセージを伝えるのかを考慮して、それらの特性に合った最適の伝達媒体 (メ ディア)は何であるかを検討します。また、コミュニケーションの頻度はどうするか も具体的に決定していく必要があります。情報伝達のルートやメディアは複数あった 方がよい場合もあればある特定のルートに絞った方が良い場合もあるかもしれません。 ⑧ 適切なメディアの選択と制作 しつこいようですが、最も確実に対象としている人たちにメッセージが届き、その メッセージが受け入れられやすくするにはどの情報ルートでどのメディアを使用する のがよいかという選択をします。既に適したメディアが存在している場合はそれを有 効利用することがお勧めです。ない場合は、その制作に臨みます。 また、上述したように、人間の理性に訴えかける情報のみならず、感情に訴えかけ る情報の双方をうまく使っていくことが大切です。例えば、HIV 陽性者の手記をコミ ュニケーション活動で使用したり、音楽や演劇や紙芝居などを通して情感的なメッセ ージを流したり、ドキュメンタリー映画やテレビ・ラジオドラマで訴えかけたりと、 いろいろな方法があるでしょう。感情への訴えによって、体験談や物語の中に自分あ るいは身近な人の姿を見出し、問題を一般的なレベルからより個人の内的なレベルに 71 落とし込むことが可能になってきます。また、人気のあるアーティストに歌を通して メッセージを語ってもらったり、スポーツ選手などにマスメディアを通してメッセー ジを語ってもらうということも有効な手段です。 ただし、 注意しなければいけないことは、人の関心を引くことを重要視するあまり、 音楽や演劇のエンターテインメント性にばかりに視点がいき、肝心の伝えるべきメッ セージ構築がおろそかになってしまうことです。コミュニケーション活動は、人々が より健康的で自分に合った行動を選択していけるようにするための支援です。ですか ら、伝えるべきメッセージが大切です。音楽や演劇はあくまでも手段です。元来の目 的を見失うことなくコミュニケーション戦略および活動を策定していくことが大切で す。 また、選択したメディアが最適かどうかは他の要素も考慮しなくては分かりません。 電気の無い場所で、ビデオを使った活動を行おうとすると、発電機など全ての機材を 搭載した車両などが必要となり、運転手やガソリンなども必要になります。このよう な場合、この活動に持続性が必要か、一過性の活動として位置づけてよいかというこ とも配慮しなくてはいけないでしょう。 ⑧ 責任分担 全体の戦略を立てたら、どの行動変容プロジェクトを誰(どの組織)が受け持って いくかを関係者の間で協議し割り振ることが必要になります。できるだけ全体をカバ ーできるようにすることが理想です。割り振られた行動変容プロジェクトを今度は具 体的な活動に落とし込んでいきます。必要な活動を全てリストアップしてその実施時 期や規模、人材動員などの計画を立てていきます。その計画に基づいて予算を積算し ていきます。場合によっては活動を縮小せざるを得ない場合もあるでしょう。予算や 時間や人手との折り合いをつけていく必要があります。 また、 忘れてはいけないのは、 それぞれの具体的活動実施の責任者はどこの誰なのかを明確にしておくことです。 ⑨ 地域参加型での戦略・計画策定作業 できるだけ地域の人々との共同作業でこの作業ができるよう努力してみてください。 計画段階からの地域の人々の参加は、活動のオーナーシップを高め、計画実行段階に 移ったときに威力を発揮します。 6.3.6. コミュニケーション活動実施 活動計画に沿って実施していきます。計画通りに活動が進むこともあれば、進まな いこともあります。開発途上国の現場では計画通りに進まないことの方が多いでしょ う。焦らず、怒らず、かといって多くの妥協をせず、職場やコミュニティでカタリス トとなっていく努力をしましょう。 6.3.7. モニタリング評価 モニタリング評価というと、なんかとても専門的で、専門の知識を持った人がやる 活動というイメージがあるかもしれませんが、そんなことはありません。 72 西瓜割りゲームをイメージしてみてください。ゲームの目的は目隠しをした人に的 確な指示をして西瓜を棒で割ることです。最終的に西瓜をうまく割れたかどうかが評 価の対象となるでしょう。もしかしたらいかに短い時間で効率的に西瓜を割れたかな ども評価の対象となるかもしれません。 さて、目隠しをした人がぐるぐると回され、方向が分からなくなった状態で西瓜の ある方向へと導くことが求められるわけですが、曖昧な指示や不適当な指示だと目隠 しをした人はとんでもない方向に進んで行ったりします。間違った方向に進んだ場合 は、一旦立ち止まらせて方向を修正する必要があります。正しい方向に進んでいる場 合でも、そのことを伝えて元気づける必要があります。でないと目隠しをした人が不 安になります。これがモニタリングの役割です。 モニタリング評価には「基準」が必要となります。西瓜割りゲームで誰が一番かを 決める場合に事前に合意した基準が必要なのと同じことです。基準を設定するにあた っては指標が必要となります。例えば、「一番早く西瓜を割った人」という基準で一 番を決めるとすると、「始めの合図があってから棒を振り下ろすまでの時間」が指標 となります。指標は客観的で分かり易く、達成可能で、測定可能で、かつ比較可能で ある必要があります。何をもってして活動が順調に進んでいるか、そうでないか、成 功したか失敗したかを判断するのかということです。 このようにモニタリング評価は、特別な人たちの活動ではなく、誰もが日ごろの活 動をうまく行っていくために必要な活動であるといえます。モニタリングは自分たち の活動を振り返り方向を確かめる機会となり、評価はその活動が当初の目的をどのく らい達成したか、方法は妥当で有効であったか、活動は効率的に行われたか、目的達 成以上の効果はあったかなどを見ていくことになります。そしてそれらの情報を次の 活動計画に活かしていきます。 6.4. 変革(イノベーション)の普及を早めるには 社会に変革が浸透していくことを理論化したエベレット・ロジャースという人は、 世の中の人を次のような 5 つのカテゴリーに分けています― <Innovators>、<Early Adopters>、<Early Majority>、<Late Majority>、<Laggards>。Innovators とは多少のリス クを負っても革新を実行または革新に飛びつく人たちで、大体 2.5%ぐらいの人々とい われています。Early Adopters とは Innovators の次に革新を初期の段階で採用する少数 派で、13.5%の人がここに属します。その次に少し遅れて革新を採用する多数の人た ちが Early Majority と呼ばれ、34%ぐらいいます。そして革新に対して懐疑的であった ために遅れて革新を採用する多数の人たちが Late Majority とされ、34%ぐらいです。 変革を好まず最後まで採用を渋るタイプの人が Laggards と呼ばれ、16%とされていま す。 このように変革は、最初はゆっくり浸透し、そのうちに急激な普及が始まり、終盤 にまたゆっくり浸透という S 字カーブを描くといわれています。さて、われわれにと って重要なのは、どのつぼを押せば普及が早く進むかということを理解しておくこと 73 です。Early Adopters にはオピニオンリーダーとなるような人が多く、周囲からの信頼 も厚く影響力を持っている人たちが多いと言われています。この人たちを早く見つけ 彼らが変革を採用するようなコミュニケーションを実行し、彼らが自発的に変革を促 進するようになることが普及を早めるつぼといえます。逆に初期の段階で Laggards の 人たちいくらアプローチしても普及は進まないということです。このことを理解して コミュニケーション戦略を構築することが大切だといえます。 6.5. 予防のための ABC アプローチって? ABC アプローチとは感染予防のために「A:Abstain(禁欲)」「B:Be faithful(貞 節)」「C:Use Condom(コンドーム使用)」を推奨するものです。HIV 感染予防の ためには、「セックスをしない」ことで物理的に感染しない状況を作るか、「パート ナーは(感染していない人)一人だけ」にして感染のネットワークから HIV が潜入す る可能性を低くするか、あるいは「コンドームを毎回正しく使用」し HIV に対する人 工バリアを作って感染確率を低減させるかのいずれかを選択しようというメッセージ の簡略版です。感染拡大を抑え込んだ模範国といわれているウガンダで採用されたア プローチで、現在も世界中のいたるところで予防教育の柱として使われています。ち なみにウガンダは 1990 年代初めに成人人口の 15%が感染しているとされていました が、2002 年には 6%まで感染率を下げました。予防のメッセージを単純化し、覚えや すくし、人々への浸透を狙ったものとしては優れたアプローチであるといえます。ま た、いくつかの選択肢を用意し、その中から自分に合った行動を自らの判断で選ぶと いうプロセスにより、自分の選んだ行動にオーナーシップが生まれ、実行する可能性 を高くしたという意味でも優れたものと言えます。 しかし、世界的にみられるジェンダー不平等の現実の中では、特に女性に対する予 防行動を促すアプローチとしては限界も指摘されています。例えば、セックスを拒否 できないでいる多くの女性や少女たちには「Abstain」は不可能ですし、多くの HIV 陽 性の女性たちは「Faithful」であったのに夫から感染してしまっていますし、 「Condom」 使用といっても男性の協力が得られない状況が多い中ではあまり意味を持たないとい うことです3。 そのような状況にもかかわらず、宗教的保守派の影響で ABC に順位付けが行われ、 A と B が特に強調されて伝達されていることも多く見受けられます。これでは、コン ドーム使用に対する罪悪感が人々の心に植えつけられてしまいます。若者に対しては 特に「結婚するまでは Abstinence-only(禁欲のみ)」というメッセージが伝えられて います。しかし、現状はそれほど単純ではありません。ケニアとザンビアで行われた 調査4によると、早婚した少女たちは、結婚していない同年代の性体験のある少女たち より HIV 感染率が高いという結果がでています。少女たちにとって早婚が HIV への 脆弱性を高めているという皮肉な結果になっているのです。 3 UNAIDS, UNFPA, and UNIFEM. (2004) Women and HIV/AIDS: Confronting the Crisis. Clark, S. (2004) Early marriage and HIV risks in sub-Saharan Africa. Studies in Family Planning. 2004; 35 (3): 149-60. 4 74 6.6. コンドームと HIV 予防 コンドームは日本では非常にポピュラーで、避妊といえばまずコンドームが思い浮 かぶと思いますが、実はこれは世界的に見ると特殊な状況であるということを認識し ておきましょう。避妊というと世界的には低用量ピルが非常に一般的に使用されてい ますが、日本では避妊用ピルが 1999 年まで認可されなかったこともあり、コンドーム がもっとも普及している避妊法となっています。 コンドームにも男性用と女性用があります。男性用コンドームが何と言っても主流 です。このコンドームですが、正しく継続的に使用すれば HIV および性感染症の予防 には大きな威力を発揮します。HIV 陽性陰性不一致のカップルにおける経過観察調査 の結果をみても、コンドームの HIV 予防の効果は確認されています5し、HIV がラテ ックスコンドームを透過できないことも実験で明らかになっています 6 。もちろん 100%大丈夫ではありませんが、感染リスクを大きく減らすことが出来るということで す。有名なタイの「100%コンドーム政策」は、セックスワーカーの非合法性は維持し つつも、セックスワーカーが 100%コンドームを使用できるように国が環境を整えた という当時としては画期的なアプローチでした。セックスワーカーの安全確保や人権 侵害上の問題も指摘されましたが、少なくともセックスワーカーや利用者の HIV 感染 予防には効果を発揮し、コンドーム普及による予防効果を実証しました。 UNAIDS、WHO、UNFPA は、合同で 2004 年 7 月に国連としての公式声明7を出し て、コンドーム使用の普及を推奨しています。そこでは、「コンドーム使用は、HIV 予防および治療のための包括的、効果的、持続的なアプローチの重要な要素である」 としています。HIV に対するワクチンや膣内挿入感染予防薬などの新しい予防技術が 現在あちこちの研究機関や製薬会社などで研究開発中ですが、これらの技術が一般に 使用可能になるのはまだ先のことであり、コンドームはこれからも個人が選択できる 科学的に立証された予防方法の中心となります。 しかし、コンドームが必要な人たちに必要な数だけ届いていないのが現状です。今 日、推定 80~100 億個のコンドームが低・中所得国で配布されているとされています が、その数は全需要の半分でしかありません。HIV 感染率が最も高いサハラ以南アフ リカでは、男性は年間平均 10 個のコンドームしか手に入らないというのが現実です。 女性用コンドームは、ジンバブエやマラウイのような感染率の高い国で需要が高まっ ている上に、その配布数自体も増えてはいますが、コンドーム全体では 0.3%を占める に過ぎません8。この状況を「コンドームギャップ」と呼んでいます。また、コンドー ムが入手できるような環境にあっても使わない・使えない状況もあります。特に女性 5 Holmes, K., Levine, R. and Weaver, M. (2004) Effectiveness of condoms in preventing sexually transmitted infections. Bulletin of the World Health Organization. Geneva: WHO. 6 UNAIDS. (2004) Report on the global AIDS epidemic. Geneva: UNAIDS. 7 UNAIDS, WHO, and UNFPA, (2004) Position Statement on Condoms and HIV Prevention. 8 UNFPA 東京事務所. 「第 16 回国際エイズ会議、コンドームに対する注目度は低い - 新 しい予防技術に焦点が置かれ、コンドームに対する議論は蚊帳の外」. 8 月 16 日プレスリ リース.2006.http://www.unfpa.or.jp/3-1past/200608.html#16 75 はコンドーム使用に関しての決定権を持っていないことがほとんどで、恒常的に HIV 感染の危機にさらされています。保守的または宗教的思想からくるコンドームに対す る負のイメージは人々に大きな影響を与えています。ABC アプローチの C に対する支 援をしっかりと確保したいものです。 6.7. HIV/エイズへのスティグマの呪縛 HIV が同性間および異性間性行為によって感染すること、違法行為である注射器に よる薬物使用によって感染することから、これまでエイズは「性に淫らで不道徳な人 たちの病気」「違法行為を行っている犯罪者の病気」というようなレッテル(スティ グマ)が付けられてきました。また、完全に治療する方法がないことから「特別な恐 ろしい病気」としてドクロマークと一緒に描かれ、恐怖心を煽るような広報がされて きたのも事実です。スティグマは他人によって付けられる場合はそれが差別となって 現れます。そして人権侵害があたかも当然のごとく意識的に、または無意識のうちに 行われ、HIV 陽性者が「社会死」へと追い込まれていきます。このような事例が周囲 に存在すると、社会的な制裁を怖れるため、HIV 検査に行くことの動機付けが阻害さ れます。そして HIV 感染が水面下で拡大していくのです。HIV 陽性者自身がスティグ マを自ら付けてしまう事もあります。そうなると、社会からの隔絶を望み、治療や支 援も拒絶するということが起こってきます。このような状況になると予防も治療も進 んでいきません。 赴任国において差別を禁止する法律が整備されているか、どのような政策がとられ どのような活動が行われているか、サポートグループは存在するか、そしてどのよう な活動を行っているかなども調べておくことをお勧めします。サポートグループと何 かしらの連携ができるかもしれません。HIV 陽性者の個人的な証は、人々がより身近 に HIV/エイズを考えるきっかけになり得ますし、それが差別や偏見の軽減につながり ます。差別偏見が軽減し、人々がエイズをオープンにディスカッションし、理解しあ って支えあって生きていけるような社会を作っていけたら良いのではないでしょうか。 7. タンザニア国でのエイズ対策協力隊員の活動例 さて、最後になりましたが、タンザニア国ムトゥワラ州マサシ県に平成 18 年 3 次隊 で派遣された中島佳世子隊員の活動を、エイズ対策活動を計画する上での参考として 紹介しておきたいと思います。中島隊員は県の行政機関のエイズ対策を行っている部 署に配属されました。 ムトワラ州マサシ県はモザンビークとの国境にある県で、当時から、国境への橋や 道路建設が進んでいました。このインフラ整備事業は日本の ODA でも実施されてお り、日本の施工コンサルタントが事業を請け負い、現地男性労働者が多くマサシに集 まっていました。そのため町には多くのゲストハウス(小さな宿泊施設)があり、こ のゲストハウスがカジュアルなセックスの場として用いられているということが問題 となっていました。中島隊員はこのゲストハウスにおける HIV および STI 感染予防の 76 ためのコンドーム使用の促進活動を提案しました。 中島隊員がカウンターパートとともに最初に行った活動は、ゲストハウスのマッピ ングでした。町を歩き回って、町のどこにゲストハウスがあるのかを調査しました。 そして、町の中心地(半径 5km 以内)にはゲストハウスが 52 ヶ所存在することがわかり ました。 また、県行政とゲストハウスとの間に入り活動を実施していくことが可能な NGO の開拓を行いました。現地 NGO を介することで、一時的なコンドーム供給ではなく、 継続したコンドームの提供とプロモーションを行うことが可能ではないかと考えたの です。NGO を調べ、足を運び、協議をし、関係者を取り持ち、効果的な方法の検討を 行ないました。そして以下のような実践を行いました。 ① コンドーム入手経路の確保: コンドームは政府の配給ルートで県病院に配給され、家族計画や HIV/STI 感染予 防のために無償で提供されています。このコンドームを現地 NGO が入手し、ゲス トハウスへ配給するというルートを確立しました。 ② ゲストハウスへの啓発活動: NGO のスタッフと共にゲストハウスを一軒一軒訪問し、HIV/STI 感染予防の必要 性を訴えかけ、協力を依頼すると同時に、コンドームの配給方法の説明と掲示物 の掲示依頼を行いました。 ③ モニタリング: NGO と共に全てのゲストハウスを月一回訪問し、コンドームの使用状況をモニタ リングしました。そして 1 ヶ月で使用されるコンドームの数はゲストハウス 52 ヶ所合計で 6,000~8,000 個であることが分かりました。 ④ ゲストハウスの分類: モニタリング終了後、ひと月のコンドーム使用数によりゲストハウスをコンドー ム消費量に合わせて4つのカテゴリーに分類し、適切な数のコンドームが供給さ れるように調整を行いました。この分類によりコンドームの供給を容易にし、 NGO の作業負担の軽減を図りました。なお、このカテゴリーは 6 ヶ月ごとに見直 すこととしました。 ⑤ 男性労働者への直接の啓発活動: 日本のコンサルタント会社の現地責任者に協力を呼びかけ、男性労働者への直接 の啓発活動の機会を作ってもらい、NGO がその活動をできるように橋渡ししまし た。 このように現地のニーズを見つけ出し、調査を行い、対策を提案し、実施者を開拓 し、関係者の間を取り持ち、実施にこぎつけ、モニタリングにより配給量の適切性を 調整し、さらなる啓発のニーズをみつけアドボカシーをし、関係者間の連携を図って いきました。この活動により、ゲストハウスでのコンドームの使用数は格段に増えた ことは言うまでもありません。 77 日本の他の ODA 事業、特にインフラ案件との連携という点においても大変意義深 い活動であると思われます。 ********************<中島隊員の活動についての追加情報>************************* 角井:ゲストハウスにおける掲示物とはどのようなものでしたか? 中島:ゲストハウスのレセプションに「コンドームを置いていることをアピールする内容」 の掲示をしようと、カウンターパートの発案で、ゲストハウスのレセプションに掲示をし ようということになりましたが、私たちの方から、このような掲示物を配布したのではな く、 各ゲストハウスに訪問した際に、「このような掲示をした方がいいかもしれないで すね」という感じで提案をし、掲示については各ゲストハウスにお任せしました。「コン ドームあります」や「コンドーム無料」という内容の掲示をしているゲストハウスもあり ました。ゲストハウスといっても庶民的なものから、結構高級なものまで様々あり、高級 層では、このような掲示をしたがらなかったので、それぞれのオーナーやスタッフの判断 に任せました。 角井:オーナーの判断に任せたというのは良いアイディアでしたね。ゲスト向けに何かメ ッセージを伝えるようなことはありましたか? 中島:先ほどのものとは別に、私たちが作成した掲示物がありました。それは、使用済み コンドームの処分の方法についてです。何度かモニタリングを続けるうちに、ゲストハウ スの利用客のマナーに関する問題を指摘されました。それは、客が使用済みのコンドーム を床にそのまま捨て去るということでした。ゲストハウスのスタッフがそれらの片付けに 非常に困っているというという苦情でした。ゲストハウスのスタッフからは、掃除用の手 袋の配布とコンドームの捨て方の掲示物の作成の依頼を受けました。手袋については、調 達が難しかったので、ビニール袋などで代用していただくようにお願いし、掲示物のみを 作成しました。掲示物の内容は、「コンドームを使用した後は、ちゃんと縛り、ゴミ箱に 捨てよう」というスワヒリ語のメッセージに挿絵を添えました。 角井:それは中島さんが作成したんですか? 中島:作成はカウンターパートと共に行い、2 つのゲストハウスのスタッフに、内容の相 談をしました。この掲示は、モニタリング時に希望のあったゲストハウスに配布しました が、結局、部屋に掲示をしてくれたゲストハウスはとても少なかったです。 角井:この掲示をしたゲストハウスが極めて少なかったということでしたが、掲示したゲ ストハウスでは客のマナーに何か変化はありましたか? 中島:残念ながら、マナーがどのように変化したかまでは、追跡できていません。 角井:道路工事の工員に対しての啓発活動についてもう少し詳しく教えてください。 中島:この活動は、道路工事工員との勉強会という形で全 5 回計画し、目的を、「HIV/エ イズを自分の問題としてとらえ、コンドームの使用につなげる」こととしました。 角井:どのような内容の勉強会を行ったんですか? 78 中島:具体的な内容の組み立ては、実際に勉強会を行ってくれる地元の NGO に委託しま した。そして、第 1 回目がこれまでのエイズの変遷、第 2 回目が感染経路、第 3 回目がエ イズの症状、第 4 回目がコンドームデモンストレーションを含む予防方法、そして、第 5 回目が HIV 陽性者の体験談、偏見・差別についてという内容で NGO が計画を立ててくれ たので、この内容で実施する計画を立てました。HIV 陽性者への参加の依頼などもこの NGO が進めてくれました。 角井:勉強会のやりかたで工夫した点はなんですか? 中島:私がタンザニアで見てきたセミナーは、フリップチャートにただ文章を書いて一方 的に教えるというもので、この NGO が提案してきた方法も同じようなものでした。しか し、もっと参加者に興味を持ってもらえるよう工夫をしようと、話し合いをもって検討し ました。例えば、感染経路については〇×のクイズ形式にしたり、コンドームの正しい使 い方については、カードを並べ替えて正しい使用方法を完成させるというゲームにしたり などです。ただ、私も今までこのようなことをしたことがなく、技術補完研修で自分たち が行ったグループワークやゲーム、訓練所で他の人たちがやってみせてくれたやり方など を思い出しながら、それらの手法を NGO に提案しました。私自身、教える技術がなく、 何をどうしたらいいのか暗中模索状態でしたが、いろいろと NGO と話合う機会はあった ので、アイディアを出し合うことはできたのですが、結局、任期中には第 1 回目までしか 実施にこぎつけることができませんでした。 角井:活動の途中で任期が切れてしまったのはとても残念でしたね。 中島:私の帰国後のことを考えて、NGO 自身が日本のコンサルタントや私なしでやり取り をして、勉強会を継続できるように努力しましたが、なんだか、いろいろなことが中途半 端のまま帰国となってしまい、NGO にもコンサルタント会社にも、申し訳なく思っていま す。もっと早い段階で、この活動を始められるとよかったと思います。 角井:でも日本のコンサルタント会社を巻き込んでの活動に発展できたことは素晴らしい ことで、とても評価できます。 中島:実は、町の住民への啓発のために月1回ニュースレターを作成し、県庁や学校に掲 示していましたが、これを建設会社のベースキャンプにも掲示していただきました。建設 会社がオフィスの外の掲示板にニュースレターをラミネートして掲示してくれました。内 容は、1)HIV/エイズとは、2)感染経路、3)検査の方法と場所(写真と文章で紹介)、4) 無料コンドームの入手先(コンドーム BOX の紹介)、5)性感染症の種類と症状、6) HIV 陽性者の手記などです。 これらは、 カウンターパートと私が中心となってまとめましたが、 病院の看護師や VCT カウンセラー、HIV 陽性の人たちにも執筆を依頼し、写真なども使 ってカラフルにして配布しました。多くの人の参加を得ることが出来てとても充実した活 動になりました。 角井:たった 2 年間の間にこれだけの活動をやってのけたことは称賛に値しますよ。きっ と他の隊員の参考になると思います。今後の中島さんのご活躍をお祈りしています。あり がとうございました。 ******************************************************************************* 79 6.エイズ対策の実際 ④感染者支援 石田 裕 1,2、向山ゆみ 2,3、小西香子 2、野崎威功真 2、石川尚子 2、 帖佐徹 2 1: 国立駿河療養所 2: 国立国際医療センター国際医療協力局感染症対策グループ 3: 佐久総合病院地域ケア科 (第 2 版) はじめに 世界保健機構による統計では、2008年12月現在全世界で3,340万人[3,110–3,580万人]が HIV/AIDSに感染しており、この内2,240万人[2,080–2,410万人]は、サブサハラアフリカに住 んでいる。すでに2800万人がこの病気とそれに関連した疾患で死亡している。HIV感染に対 する根本的な治療法は確立しておらず、HIVを完全に体内から排除することは今のところ出 来ない。このため一旦感染すると感染者は、生涯に渡ってHIVを体内に持ち続け、HIVと共 に生きていくことになる。しかし、これは、HIVに特別なことではなく他の感染症でも同様 なことが起こっている。例えば、帯状疱疹ウイルスは、幼少時に罹る水痘のウイルスが脊 髄神経節に中に存在し、免疫の低下などをきっかけとして増殖することにより症状を呈し てくる病気であり、結核についても、初期感染時の結核菌は肺門のリンパ節に存在し、数 十年後に活動性の結核を起こすことは稀ではない。HIVは、感染成立直後は、リンパ節の腫 大等の症状を起こすが、程なく軽快し、その後は症状なく数年間は慢性に推移し、未治療 の場合は細胞性免疫の低下と共に様々な症状を呈するようになる。以上のように、HIV感染 は、未治療の場合は、感染成立後長い無症状期と細胞性免疫の低下と共に現れる症状期を 持つ。一方1990年代後半からは、抗レトロウイルス療法が開始され、ウイルスの体内での 増殖を抑制することによって、理論的には無症状期を限りなく伸ばすことが可能になった。 抗レトロウイルス療法を開始することは、感染者にとって致死の病気から解放されるばか りではなく、抗レトロウイルス療法を正しく継続していくことにより健康な生活を維持し ていくことが出来ることを意味し、このためHIVに対する世界の認識は大きく変化した。し かし、抗レトロウイルス療法の価格が高価であったことやHIVの世界的な流行による感染者 の増加により、2000年代初頭までは抗レトロウイルス療法の恩恵に与れる人口は限られて いた。この状況に対応して世界の指導者達は、2003年からは3 by 5 initiative, 2006年からは Universal accessという世界的イニシアチブにより、抗レトロウイルス療法の普及拡大を積極 的に進めている。今後、一層の努力によりすべての抗レトロウイルス療法が必要な人が、 サービスを受けられるように支援を強化する必要がある。一方、抗レトロウイルス療法は、 きわめて厳格な服薬が要求される。 (時間と95%以上の服用率)不規則な服薬や服薬中断は、 感染者自身にとっては薬剤効果の減少による症状の悪化や死亡につながる一方、耐性ウイ ルスの出現を見、この薬剤耐性ウイルスのためにHIV対策全体の進捗の遅れや崩壊につなが る可能性も否定出来ない。抗レトロウイルス療法を服薬中の感染者に対する支援は、個人 81 的な健康の維持ばかりではなく、HIV対策全体に対する責任をも含んでいる。 感染者にとって、HIV は単なる感染症ではない。感染者は、感染したこと自体の精神的 な負担と生涯 HIV と付き合っていかなければならないと言う受容まで過程を経なければな らない。また、感染の進行をモニターするために定期的な医療機関の受診が求められる。 抗レトロウイルス療法にアクセス出来ない開発途上国の大多数人々にとっては、HIV は未 だに致死の病気であり、日和見感染症の早期発見と早期治療のみが生命を数年間長らえる ことが出来る手段である。それにも増してこの感染症に付随した様々な差別、偏見により、 国や地域によっては、多くの社会的・経済的な不利益を受ける可能性が高い。HIV 感染を 理由とした職場解雇、不採用、離婚、排除、絶縁、暴力、追放などが世界中で起こってい る。HIV 感染に対する無知や恐怖の他に、HIV 感染者に対するカウンセリング、ケアと治 療のサービスが確立していないこと、HIV に付随した差別・偏見のために感染者が被る様々 な不利益のために、HIV の検査を受ける人口は増加していない。HIV 感染陽性であること が判らなければサービスを受けることは不可能であり、同時に、第三者に感染させる危険 を知らずに生活していることになる。また、感染陰性であることが判れば、感染しないた めの行動を行うことが出来る。開発途上国の大多数の感染者が、抗レトロウイルス療法に アクセス出来ないままに死亡しており、その社会的な影響は、深刻である。特に、孤児の 問題は大きな社会問題化している。 以上のように、感染者に対する支援は多岐に渡り、かつ身体的、精神的な医学的側面と、 人権、社会的経済的側面を併せ持っており、相補的かつ、相乗的に作用するため非常に複 雑であり、途上国において感染者支援に従事しようとする場合は深い配慮と細心の注意が 要求される。 ART 時代における感染者支援(北タイの事例を通して) 国立国際医療研究センター国際医療協力局感染症グループでは、2005 年 10 月よりタイ北 部パヤオ県における HIV/エイズ対策調査を行っている。タイでは 2003 年より抗レトロウィ ルス薬治療(ART)が本格的に導入され、2005 年から大幅に規模の拡大が行われているが、 HIV/エイズとともに生きる人々(People living with HIV/AIDS、以下 PLWHA)を取りまく社 会的、経済的にも着目しつつ現状での HIV/エイズ対策の調査を継続的に実施している。こ れまでの現地調査における聞き取り調査では、ART が導入されても依然として存在する PLWHA の脆弱性が示唆されている。 以下 2006 年 3 月に、あらかじめ PLWHA グループより推薦された 9 名の PLWHA に対し、 個別対面式インタビュー調査を行った結果を紹介する。タイは、HIV/エイズ対策の先進国 と言ってよいが、ART 普及が現実化したタイでの PLWHA の抱えている問題が、隊員の PLWHA 支援の参考となれば幸いである。 A. PLWHA が抱える問題 PLWHA が抱える問題は、時間的経過を追って変化を続けていた。HIV 陽性と診断された 直後には、死への不安や精神的ストレス、家族への心配など、不安感が大きかった。診断 から ART 開始まででは、不安感もあるものの、経済的問題や健康上の問題を大きくとらえ 82 ているものが多かった。将来的不安を抱えながら生活をいかに生きるかという現実問題が のしかかってきていたものと思われた。挙げられた問題のほとんどは経済的問題と子供の 教育に関する心配であった。とくに、ART にかかる薬剤や検査費用が免除されつつあるタ イでも、通院費が家計の負担となっているという指摘があった。これは、直接的な医療サ ービスではないが ART に必要となる経費負担について検討の余地があることを示唆してい るものと思われる。経済的問題は、ART 開始前後での不変な問題としても上げられており、 HIV/エイズを越えた地域の重要課題であることを伺わせるが、PLWHA は HIV/エイズによ りさらに影響をうけていると思われた。 B. PLWHA が受けている支援 本調査では、ART 開始前後での PLWHA が受けている支援の変化を、健康への支援、社 会的支援、経済的支援、精神的支援に分けて質問しているが、いずれも変化はほとんどみ られなかった。 健康への支援では、ART 開始前後を通じて全員が医療スタッフからのアドバイス等を受 けていた。ART 開始後では、医療スタッフと協力して PLWHA や NGO などが家庭訪問等の 健康支援を行っている所も多く、支援の幅を広げるのに一役かっているようだ。最も必要 とする支援として伝統的医術師などからのカウンセリングや代替ケアを挙げられたことは、 ART が手に入りにくかった時期にひろく行われていた代替ケアを、今も PLWHA が求めて いることを示すものかもしれない。 社会的支援では、約半数の PLWHA が ART 開始前から食糧支援などを受けており、ART 開始後も引き続いて支援を受けていた。支援者は家族、親戚や近所がほとんどであり、家 族や地域での支え合いが日常から行われていることが伺えた。 ART 開始後には全員がなんらかの経済的支援を受けていることが分かった。なかでもタ ンボン行政局、SDHSO などの政府関連機関から HIV 感染者に対する特別手当金や福祉援助 などを受けている者が多かった。子供をもつものの多くが子供への奨学金を得ていたが、 最も必要とする支援はなにかとの質問に、子供への奨学金制度があらためて挙げられてい たことは興味深い。 ART 開始前の時期には、多くの場合家族や友人、PLWHA、近所住民から精神的支援を受 けていると回答があったのに対し、ART 開始後にはカウンセリングなどを通じて医療スタ ッフなどから、と答えるものが多かった。これは医療スタッフの役割が、単なる「医療サ ービスの提供」に留まらず、現場での PLWHA と医療スタッフとの良好な関係を反映してい るものと思われた。 C. ディスクロージャー 今回の調査(PLWHA グループの推薦者を対象とした)の回答では、概してディスクロー ズの程度が大きかった。とくにパートナーや家族には、比較的早期にディスクローズして いた。HIV 感染が分かった後に HIV 陰性の男性と結婚したという女性は、結婚を決める前 にディスクローズしたが、HIV 感染の如何に関わらず結婚しようという強い絆で結ばれた ことを語った。パートナーや家族が自分を許容し、支えてくれる存在であり、またそれを 期待してディスクローズしているものが多いと思われた。 83 一方、友人や近所住民に対しては、HIV に感染しているのではないかと疑いをもたれた ためディスクローズしていたものが多かった。ディスクローズ後の関係に変化はなかった としながらも、ディスクローズに際して差別などの不安感を抱いていたものがほとんどで、 依然として差別偏見が存在しているのではないかとおもわれた。 職場に対しては、HIV 陽性がわかれば解雇されるおそれがあるという声もあり、自発的 で結果の守秘が約束されているはずの HIV 検査が、現実には雇用側が HIV 検査結果の提出 を要求していたり、結果が雇用に影響を及ぼしたりしているらしいことも伺えた。 医療スタッフに対しては全員がディスクロージャーしており、多くの場合 HIV 検査結果 を受けてから早い段階に行っていた。理由のほとんどが健康へのアドバイスや医療サービ スを受けるためであったことから、PLWHA が信頼感をもつような質のあるケア・治療サー ビス提供することが、ディスクロージャーを増加させさらにアクセス向上につながるとい う循環が生じると思われる。従って、ケア・治療へのアクセスを上げるためには、その質 を確保しつつディスクロージャーできる状況を作っていくことが大切だろう。 ディスクローズの相手にもよるが、ディスクロージャーにより周囲からの支援が得られや すくなっているようだ。友人や近所、職場へのディスクローズでは、差別への不安感がた だようが、ディスクローズ後にむしろサポーティブな関係が得られたり、うち明けること で自分のストレス軽減にも繋がったケースもあった。少数ではあったが差別的な態度を経 験したものもあり、一概にディスクロージャーを勧めることには慎重になるべきだが、 PLWHA が多層的な支援が得られるようになるためにもディスクローズしやすい環境整備 に配慮していく必要があろう。 D. PLWHA をとりまく経済状況 インタビュー受験者の家族平均収入は、タイ国における平均的な収入に比して非常に低 かった。 ART により治療前と比較して健康状態が改善し、おおむね仕事への満足感はあるようだが、 健康上の理由で無職のものや労働に支障を来しているというものがいた。健康状態の改善 が収入や仕事のパフォーマンスの改善につながっているようであるが、収入が増加したと いうものも含めて、いまなお十分ではないし、生活に必要程度と答えており、生活費に加 えて通院費を捻出しなければならない現状の厳しさが伺えた。 E. PLWHA をとりまく周囲との関係 PLWHA 同士では、意見、情報の交換や経験の共有などが活発に行われていることが分か った。会合やフォーラムを開催したり、家庭訪問したりと、身体的問題から ART、社会参 加の問題、精神的問題、そして情報のアップデートまで、ピアサポートが非常に広範囲に わたっており、また PLWHA がピアサポートの重要性を認識していることがわかった。病院 に併設されているデイケアセンターなどを拠点として PLWHA 同士がグループを作り、医療 スタッフやタンボン行政局スタッフ、ときには住民をまきこんで HIV/エイズ問題に取り組 んでいるところもあり、ピアサポートの強化や地域レベルでの HIV/エイズ対策のありかた に一石を投じる形態として非常に興味深い。 PLWHA は、彼ら/彼女らが扱った食べ物を嫌う人々がいるため食べ物を扱うことを避け 84 ている、など、社会活動の中で適応できるよう努めていることが分かった。地域での PLWHA への差別偏見は軽減はしているが、根深く残っていることも伺えた。これらの多くは HIV/ エイズに対する知識や情報の十分さに起因するもので、息の長い啓蒙教育の必要だろう。 F. PLWHA 自身 ART 開始後に、全員が自覚的な健康状態が改善し、就労が可能になる、自立した日常生 活が可能になる、社会貢献が可能になる、などの変化をもたらし、自分自身をポジティブ にとらえられるように変化している様子がみられた。ART 開始前には死や差別、子どもの 将来への不安感が多かったが、ART により将来的展望や希望を持ったものが多いようであ る。また、PLWHA の社会参加が活発化されるに従い、PLWHA と地域との接点が増え、差 別や偏見の軽減にもつながっていくというよい循環が生じているようであった。 G. PLWHA のニーズ 回答者の多くが公的機関からの支援を強く望んでいることが分かった。とくに期待の大 きかった職業支援は、ART により社会生活に復帰していく PLWHA による自然な要求と思 われた。投資や保険、ひいては就職にも HIV/エイズ感染が影響している現実もあるようだ が、職業訓練だけではなく、 「HIV 感染」という事実が雇用に与える障壁を取り除く、ない しコントロールするシステム整備も必要となろう。 経済的問題が PLWHA の大きな課題であろうことは前述のとおりだが、タイでは ART が 30 バーツポリシーに組み込まれるなど、薬剤費や検査費用の個人負担が激減した。しかし ながら、通常 1~3 ヶ月に一度の病院通院を行うに当たっては、交通費などが PLWHA の大 きな負担になっている実情が浮かび上がった。これらの費用負担軽減への支援ニーズは高 く、総合的な費用の調査と、それに基づく対応策を考える必要があろう。 サブサハラアフリカにおける感染者支援(ジンバブエ・マシンゴ州 PMTCT プロジェクト におけるサービス利用者に対する調査結果から) WHO によると HIV 感染者の 67%は、サブサハラアフリカに住んでおり、この地域は HIV 感染の最も深刻な地域である。我々は、2008 年 1 月にジンブバブエ・マシンゴ州のマシン ゴ郡において、JICA プロジェクトの活動の一部として母子感染予防プログラムの利用者を 対象にモニタリング調査を行った。この調査の目的は、母子感染予防サービスの質を受益 者側からモニターすること。HIV 陽性の母親から生まれた子供が 18 カ月になった時に行う HIV 抗体検査の受験率を上げるための適切な方法を見つける。出産後の母親の直面する問 題を同定し、それらの解決策を見つけることにあった。 調査に協力したのは、全部で 69 名で、内 42 名が母子感染予防サービスの利用者(HIV 陽 性)であり、27 名は利用しなかった母親、すなわち HIV 検査を受けておらず感染の有無は 不明な母親であった。 1. ディスクロージャー 42 名中 26 名(62%)の母親が、夫やパートナーに HIV 陽性であることを告げており、 この内 17 名(62%)は、支援の増加等の前向きな対応を受けたという。しかし、5 名(19%)は、 85 冷たくなった、喧嘩になった、家庭内暴力を受けたと答え、後ろ向きの対応を受けたと答 えた。 夫やパートナーに HIV 陽性であることを告げることが出来なかった 16 名の母親にその理 由を聞いたところ、すでに夫が死亡していたり、会っていないので言う機会がなかったか らと答えたものが 6 名、離婚、暴力、拒否のような後ろ向きな反応の恐れからと答えたも のが 5 名、 夫が検査の結果を受け入れられないと考えるからと答えたものが 3 名であった。 ディスクロージャーは、すべてが夫かパートナーあるいは近親者に限られており、村社 会に対して公表している母親はいなかった。農村社会では、個々人の HIV 感染の有無につ いては秘密になっており、この種の事が話題になることはないとのことであった。これら の母親は、ディスクロージャーしていないため、どこからも支援を受けることが出来ない でいる。 2.ディスクロージャー以外の問題 ディスクロージャー以外で母親が直面している問題について尋ねたところ以下のような 回答であった。 授乳と子供のケアー(13 名) 、自身の健康の悪化(11 名)、不安(9 名)、 子供の将来(6 名) 、家族の問題(4 名) 一方、母子感染予防サービスを利用しなかった母親 27 名にその理由を尋ねた。 1. 全員が、母子感染予防サービスが子供の HIV 感染の危険を減少させることが出来 ることを知っていた。 2. サービスを利用しなかった主な理由として、HIV 陽性の結果が出ることに対する 恐れと自身と夫やパートナーが陽性の結果に対する受け入れ準備が出来ていないか らが挙げられた。 3. 別の理由としては、母子感染予防サービス供給の停滞(例えば検査キットの不足 や看護師の不十分な対応)が挙げられた。 4. 彼らの夫やパートナーの半数は、陽性の結果が出ることを恐れて HIV 検査を受け ることを望んでいないと答えた。 この調査から明らかになった主な結果を以下に挙げる。 ディスクロージャーについて 多くの HIV 陽性の母親は、彼らの検査結果を家族の中でしか共有していない。家族の中 では、特に夫やパートナーに告げていた。HIV 検査結果は、カップルや家族の中だけで秘 密にされているので、十分な支援を受けることが出来ていない。 HIV の問題は村社会の話の話題となることはない。人々は、男にしろ女にしろ陽性の検査 結果が出ることをただ恐れているため、検査を受けることを嫌がっている。特に、妊娠中 の女性は、検査結果が陽性であった場合、パートナーに告げた時に受け入れてもらえない ことを恐れている。実際は、このような場合は多くはない(5/26)。しかし、離婚や家庭内 暴力に発展する可能性を含んでいる。また、パートナーの態度が「冷たくなった」、「支援 がない」というような反応は、家庭内での日常生活上、乳飲み子を抱えた母親たちにとっ て非常につらいと考えられる。 殆どの母親たちは、経済的にはパートナーに依存しており 86 パートナーとの関係は最も重要である。このため、HIV 陽性の事実をパートナーに告げら れないでいる母親は、問題を独りで抱え込むため様々な別の問題にも直面せざるを得なく なっている。検査結果を夫・パートナーや家族に告げた場合、彼らから理解と必要な物心 両面の支援を受けることが出来れば、母子感染予防サービスがその本来の目的を達するこ とが出来、生まれてくる子供の HIV 感染の危険を減少させることが出来るであろう。 夫・パートナーの HIV 検査について 夫・パートナーが HIV 検査を受けている割合が低い。(10/42) その主な理由は、HIV 陽性の結果が出ることに対する恐れであり、女性パートナーの HIV 検査の結果を以て自分 の感染の有無と考えている答えたパートナーも複数人あった。 ジンバブエにおける母子感染予防プログラム利用者の調査から見えてきたサブサハラアフ リカにおける感染者支援について HIV 感染の一時予防のためには、自身の HIV 感染の有無を知ることが最も大事であるこ とに変わりはない。現状は、男性が検査を受け陽性の結果を知ることを恐れている。母子 感染予防サービスによって検査を受け、陽性の結果を受けた母親の中には、後ろ向きの反 応を恐れて、夫やパートナーにさえも告げることが出来ないでいるものもあった。このた めに、母子感染予防サービスに参加することを望まない母親も多い。夫やパートナーの検 査結果の受け入れが、PLWHA である母親の支援の重要なポイントであり、同時に母子感染 予防プログラムの推進のネックになっている。男性によりアプローチできる職場での啓発 活動はも重要である。少数ではあるが、誰にも HIV 検査の結果を告げていない母親に対し ては、地域保健師による訪問支援が求められている。誰にも HIV 検査の結果を告げておら ずそれ故何の支援も受けていない母親にとっては、HIV 検査の担当をした地域保健師のみ が、これらの母親がこの問題について話が出来る相手だからである。 ディスクロージャーを促進させるためには、ディスクロージャーを容易にする技術の開 発が必要であると思われる。カウンセラーは、個々の母親について、彼らの夫やパートナ ーが HIV 陽性の検査結果に対する潜在的な受け入れ能力があるかどうかを見極め、何時、 どんな形で話をすれば、十分な受け入れと支援が得られるかをアドバイスすべきである。 母親の感染者グループは、彼らの精神的、社会的な経験を共有することにより育児や家 族関係に関する様々なストレスや将来の不安を低減出来ると共に、ケアと支援に対する多 くの情報を得ることが出来る。 現在の母子感染予防サービスの問題点の一つは、児が 18 カ月になった時の HIV 抗体検査 の検査率が極端に低いことである。出産後の母子のフォローアップは、完全母乳栄養によ る育児、児の HIV 感染の有無、母子のケアサービスへのアクセス等があるが、他のプログ ラム、例えば拡大予防接種プログラム(EPI)との連携で促進できる可能性がある。 ユニバーサルアクセスキャンペーンにより ART はより普及しつつある。母親や児が安心 して ART にアクセス出来るためには、さらに多くの支援が必要である。ディスクロージャ ーのための技術支援、感染者グループの促進、家族や村社会からの積極的な受け入れと社 会的支援は、ケアへのアクセスを容易にさせたり、孤独と話せないことによるストレスを 低減させるばかりではなく、感染者自身をピアカウンセラーやケア供給者のような支援者 の立場に変えていく。世界各地でこのような変革が起こっているのは事実である。 87 まとめ 感染者支援には、 まず個々の PLWHA の抱える問題やニーズを十分知らなくてはならない。 それらは、HIV 感染と診断されてから刻々と変化し続けている。HIV 感染を知った直後に は、不安感や精神的ストレスが強く、その時期の精神的支援の重要性は強調してもしすぎ ることはない。現在 ART の拡大が始まって数年が経過したタイの事例からは、ART により PLWHA は社会復帰が進むなど大きな変化がみられている。健康状態の改善や、仕事復帰が 可能になるなど、いわゆるプラスの側面が目立ちがちだが、現実には多くの PLWHA が依然 として日常生活の中で直面している問題があるようである。上述した北タイでの調査では ART 開始後の最大の問題は経済的問題であることが分かった。北タイはタイ国のなかでも 貧しい地域で、HIV 感染の如何にかかわらず経済問題は地域の大きな課題であるが、体調 や雇用側の PLWHA への対応に影響されるなどの就労の不安定さや、通院費等を含めた費用 が大きな負担になっているなど、PLWHA にとってさらに問題が重くのしかかっているよう だ。また ART 開始後は、保健医療従事者からより多くの精神的な支援を受けるようになっ たとの PLWHA の指摘もある。ART 開始前後を通じて、HIV 感染に対する脆弱性があまり 変化していないとすれば、ART 開始後健康を取り戻した PLWHA の社会的生活やリスク行 動への支援はますます重要になってきていると言えるだろう。また、ジンバブエにおける 調査からは、HIV 検査結果への恐れとから、男女とも受験率が低いこと、また、家庭内や 夫・パートナーへのディスクロージャーの問題点がネックになっていることが明らかにな った。 現在 ART へのアクセス拡大が HIV/エイズ対策の指標のごとく注目されているが、医学・ 公衆衛生学的にみても高いアドヒアレンスを保ち一生涯飲み続ける必要があることは周知 の通りである。そのためには、質の高い HIV/エイズケア・治療の提供と、その継続を可能 にする環境整備と、社会経済的、精神的な継続的支援が必要である。感染者支援のニーズ は、個別である一方で、医療や社会福祉サービス提供の程度、社会環境、文化、民族、習 慣の違いによって様々に異なるがゆえに、常に個別の最新のニーズに対応したものでなく てはならないであろう。そのためには、支援者のたゆまない努力が必要とされている。 88 6.エイズ対策の実際 ④ 追記「HIV 陽性者へのケアと支援」 (認定)特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会 元スタッフ 李 祥任 (認定)特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会 副代表理事 沢田 貴志 はじめに 2000 年 代 に 入 り 、 開 発 途 上 国 で も エ イ ズ 治 療 薬 で あ る 抗 レ ト ロ ウ イ ル ス 剤 (Antiretroviral drug: ARV)の普及が徐々に進み、多くの HIV 陽性者の命が救われるように なってきました。これは、ARV の安価なジェネリック薬の生産や国際的な支援の活発化と 各国政府や医療関係者・当事者達の不断の努力によってのエイズ医療体制が整備されてき たことの結果です。しかし、エイズをめぐる課題はまだまだ山積されています。病院に治 療薬があっても、それが必要とする全ての人へ行き渡っているわけでもなく、治療が開始 されてもさまざまな理由で治療の継続が困難になる人々が少なくないためです。本章では、 開発途上国の HIV 陽性者が抱える課題や医療機関への受診を阻む要因に触れ、HIV 陽性者 が健康を回復し維持していくために必要なケアと支援のあり方について説明します。 1. HIV 陽性者のケア・支援の必要性と国際社会 HIV 陽性者が必要な治療・ケア・支援を受け、健康的な生活を送ることは、国際社会の 共通目標です。UNAIDS は、2030 年までにエイズ流行をゼロにするために、新規 HIV 感 染・差別・エイズ関連死をゼロにすることが必要であると説明しています。これを実現す るために「2020 年までに 90-90-90」「2030 年までに 95-95-95」という目標が立てられて います。前者は、「2020 年までに HIV 陽性である人の 90%が自分の感染を知り、そのう ちの 90%が必要な治療を受け、さらにそのうちの 90%が体内のウイルス量を抑えて健康に 生き続けること」を、意味しています 1)。 このためには、HIV 陽性者が「感染を早期発見し・医療機関へ早期受診し・適切な時期 に必要な治療(日和見感染症の治療や抗レトロウイルス剤治療(Antiretroviral Therapy: ART)を開始して ARV のアドヒアランス*を維持して有効な治療を継続する」ことが必要 です(図 1 参照)。 図 1. HIV 陽性者の健康回復・維持のための医療プロセス 早 期 発 見 早 期 受 診 治 療 導 入 適 切 な 時 期 の 有 効 継 な 続 治 療 の * 患者が医師の指示に従い服薬遵守するという考え方ではなく、患者自身が治療を理解し主体的に定 期的な服薬継続すること。 89 HIV 陽性者が健康を回復して、それを維持していけるためには、こうした健康行動が阻 害される原因についてよく把握した上で必要なケアと支援を提供することが重要です。ま た同時に、地域や社会のレベルで支援環境を整備することが不可欠です。 2. HIV 陽性者の健康維持に影響する課題 筆者らはタイやアフリカでのエイズプロジェクト等を通じ、これまでに多くの HIV 陽性 者の支援に関わってきました。こうした HIV 陽性者の抱えている背景を見る中で、健康を 維持していく上で以下のような課題があることに気づかされました。 まず、心理面の理解が大切です。告知を受けた HIV 陽性者の多くが最初に直面すること は、この病気に対する差別や偏見にさらされる事への不安や恐怖であったり、この病気を 抱えながらこの先どう生きていけばいいのかという将来への不安や絶望感です。HIV に対 して極めて否定的で絶望的な情報しか持たない状態で告知を受けた場合に、HIV に感染し たという事実を受け止めることができず、現実から逃避してしまうということが生じがち です。必要なケアや治療を受けることを拒み、医療機関に全く受診しない状態になってし まうという行動を取る人が少なからずいます。こうした場合、HIV について相談する相手 もないまま発病し重篤な状態で医療機関に運び込まれ、命を落としてしまうといったこと が起きてしまいがちです。 身体的健康を維持するためには、エイズという病気や治療・健康管理に関する情報を知 り適切な時期に治療を開始する必要があります。治療を開始していてもその意義と限界、 服薬アドヒアランスの重要性などを理解できていない場合や、小児で保護者に服薬介助を されていない場合など治療が失敗してしまうといったことも起きてしまいます。 社会経済的な問題が、医療機関の利用に影響することにも気をつけましょう。特に開発 途上国の貧困層にとっては、普段から不安定な雇用や住環境、更にアフリカ等では清潔な 水や食料・栄養の不足等といった基本的な生活を営むことが容易でない状況があります。 こうした中で HIV に起因する体力の低下により、仕事や日常生活が一層困難となる場合が あります。HIV 陽性者への差別が深刻な地域においては、感染したことを周囲に打ち明け た結果、配偶者や家族・職場・地域から疎外されることも起こりえます。こうした場合は、 陽性者の療養生活を著しく不安定にさせます。また、交通が不便という地域的課題や、通 院にかかる交通費や付添いをする家族の労働時間が犠牲になる等の経済的負担もかかりま す。 女性の立場が弱い社会状況では、女性が早期に医療機関を受診して HIV 感染を知ること が困難となっています。そこで、夫の体調不良や死という事態になってようやく、自分自 身の HIV 感染を知る女性が多くなりがちです。妊婦健診の一環で HIV 検査を受けた場合 には、比較的早い時期に HIV 陽性であることが判明することが多いでしょう。しかし、こ うした女性達の間にも、自分の感染の事実を夫に伝えることにより、離婚や家から追い出 されるリスクがあります。このことが不安なために、夫や同居する親族に打ち明けられな い女性も多数います。こうした女性の弱い立場は、定期受診を困難にし、母子感染予防に 支障をきたすだけでなく、女性自身の治療開始の遅れや治療の中断につながります。 HIV の影響を受けやすい人達の中には、元々の社会的な立場が国による取り締まりや規 90 制の対象となっている人達がいます。MSM などのセクシャルマイノリティ、セックスワ ーカー、IDUs がこれにあたります。海外からの移住者・難民などが滞在資格・言語・健康 保険の加入・雇用などの面で不利な立場におかれて、HIV 医療・ケア・支援へのアクセス が困難になっていることもあります。 国毎の社会制度や法律によって状況は異なりますが、 HIV 陽性であることに加えて、元々の属性によって社会的に厳しい立場に追いやられてい る人々が少なからずいるのです。こうした人々に対しては、より特有の支援策や人権の視 点や法的な側面からの支援等も必要とされています。 3. HIV 陽性者へのケア・支援の具体像 以下に開発途上国で行われている HIV 陽性者支援の例を具体的に記載します。登場する 順番は、タイや南アフリカでの HIV 陽性者全般へのプログラムの中で私達が経験した流れ に沿っています。これは地域や対象とする人々の特性によって異なりますので全ての地域 で同様に活動が行われているわけではありません。 (1) 陽性告知を受容し乗り越えるための支援 告知後に HIV 陽性であるという結果を受容しその後の人生を積極的な方向へ向けてい くためには、HIV がもはやコントロール可能な病気であることを知り、支援への橋渡しを 受けることがとても重要です。こうした情報を提供するためには、検査時のカウンセリン グが適切に行われる必要があります。特に告知時のカウンセリングに大切なことは、正し い知識を伝えることで誤解や偏見に基づく否定的な考えを排除することです。また、日和 見感染の予防や治療等の身体的支援、個別のカウンセリングやグループによるピアカウン セリングなどの心理的支援、陽性者の自助グループなどによる社会的支援などのサービス が受けられることを具体的に示すことが必要です。感染の事実や通院状況などを含む守秘 が困難であることへの悩みを抱えている陽性者もいるため、プライバシーの保護に十分配 慮する必要があります。 (2) 適切な日和見感染医療への橋渡し HIV への対策が発展途上の地域ではエイズを発症してから HIV 陽性であることを知るこ とが多いでしょう。こうした場合に陽性者本人にとって発病した日和見感染症を適切に治 療してもらうことが最も切迫した課題です。HIV 陽性者への支援には、適切な医療の確保 が大きな割合を占めます。皆さんが活動する地域で HIV 陽性者に対してどのような治療が 行われているのか把握することが大切です。 咳や下痢、胃の痛みといったよくある症状や HIV 陽性者が発病する可能性がある主な日 和見感染症に対するケアの状況を確認しましょう。開発途上国の HIV 陽性者が一番多く経 験する感染症は結核です。幸い結核は世界中で治療薬を政府が無料で提供する責任がある とされています。 自分の健康が改善することを実感できるということは陽性者に希望を与えます。また将 来起きる可能性がある病気についてあらかじめ知識を持ち、その時にどのように医療が受 けられるかを知ることは HIV 陽性者が将来を前向きに計画することを支援する力となり ます。こうした日和見感染症の情報を含めた健康教育を、医療従事者が行うことは効果的 91 ですし、グループ教育の場として後述する自助グループのミーティングを活かすことも有 効な方法です。 (3)母子感染予防と母親達のグループカウンセリング 開発途上国では一般に出産前後の女性達が HIV 陽性を知っている人の大多数を占める ことが多いでしょう。これは、開発途上国でも出産時の母子感染を予防するためのプログ ラムが普及しており、これによって妊娠中に HIV 抗体検査を受けて陽性を知る女性が多い ためです。もちろん MSM や IDUs が HIV 陽性者の大半を占める地域では事情が異なりま す。 HIV 陽性を知った妊婦や母親達は感染を乗り越えて子育てをして行くという課題を共有 しているため、グループを形成する意欲が高い傾向にあります。タイでは、こうした女性 達がグループカウンセリングを受ける中で HIV 陽性者グループが各地の病院で形成され ました。HIV を抱えながら子育てをする女性達の日常の課題は医療機関だけで解決できる ものではありません。周囲の母親達が母乳で育てているなかで自分だけ近所の人々に怪し まれずに粉ミルクで育てるにはどうしたらいいか、体調を崩した夫に代わってどうやって 収入を確保したらいいか、そうした日々の生活の中で生じてくる問題を解決するためにグ ループが役に立ったのです。 (4)HIV 陽性者の自助グループへの支援 一定の数の陽性者が自分達の状況を知る中で様々な自助グループが形成されました。外 来に通院する陽性者達が互いに声を掛け合って形成されたグループがあれば、病院の看護 師や NGO が声をかけて作られたグループもありました。次第に陽性者グループが増えて いくと相互に連携をして団体を作り、2000 年代半ばの南アフリカでは陽性者団体の organizer が各地の病院を回って陽性者グループの組織化をしていました。シェア=国際保 健協力市民の会が活動したタイや南アフリカでは、当事者である HIV 陽性者の自助グルー プが地域や病院などを拠点にして数多く作られており、HIV 陽性者を支えるために様々な 取り組みをしていました。 こうした自助グループの間では、HIV 陽性者が自分達の健康を保つために、健康や医療 の情報を共有し、相互に支援する活動が盛んに行われていました。例えば定例ミーティン グなどの場で、日和見感染症とその治療・自分自身でできるヘルスケアの方法・二次感染 予防のためのセイファーセックスの知識などについてグループでの学習が行われていまし た。グループメンバーが協働で家庭菜園を作り、栄養改善にも取り組む陽性者の活動もあ りました。 こうした活動から進展して HIV 陽性者の家庭を訪問してピアサポートを行うグループ もあります。タイ東北部の幾つかのグループでは、しばらく受診していない陽性者や新た に ARV の服薬が必要となった陽性者、AIDS 遺児とその保護者を対象にした継続的支援の ための家庭訪問を行っていました。陽性者本人や子どもの保護者の同意の元で家庭訪問を して、健康状態の確認や服薬支援に取り組んでいました。家庭訪問では、対象者の医療機 関への受診中断に関する理由が判明する、重症化していることに気づく、服薬上の問題を 発見するなどの機会となり、訪問したグループメンバーがそれらを速やかに医療従事者へ 伝達し相談することで、早期対応が図れる成果を挙げてきました 2)。こうした活動を通じ 92 て、HIV 陽性自助グループのリーダー達は、病院やヘルスセンターの医療従事者と協働し て HIV 陽性者の健康を支える医療チームの重要な一員として、認識されています。このよ うに陽性者グループリーダー達がグループミーティングや家庭訪問を通じて、定期的にグ ループメンバー達と顔を合わせ、自らの経験を踏まえて共感できる存在として励まし合う ことにより、様々な事情を抱える個々の HIV 陽性者の受診の動機や治療の継続の支えにも なったのです。 (5)社会的・経済的支援 HIV 陽性者は、職場の無理解・周囲の偏見などによる失職、家族の誰かが体調を崩しこ れまでの仕事ができないなどの理由で経済的な危機に直面することもしばしばあります。 HIV 陽性者の支援をする中で、こうした経済的な危機や社会的な問題を抱える HIV 陽性者 をどう支えていくのか考えていくことが必要です。 こうした状況の中で地域によっては、地元の行政や福祉機関が母子世帯や結核治療中の 患者など生活に困窮する HIV 陽性者を対象に、金銭・物資の緊急支援を行っている場合が あります。こうした地域に既に存在する支援に関する情報を収集し、陽性者の自助グルー プ活動などを通じてメンバーへ周知するといった支援は比較的容易に行うことができます。 また、 HIV に影響を受ける子どものための就学や生活を支援する取り組みもされています。 国連開発機構 UNDP は、 エイズが貧困を悪化させ貧困が HIV の流行を生むという構造に 注目し貧困地域での HIV 陽性者団体の形成などに力を入れたプログラムも実施してきま した。経済的な自立を支える社会的支援としては、グループでの裁縫・養殖・家畜・菜園 等のスキルを活かした収入向上活動(Income Generation Activities: IGA)があります。こう した活動は持続性があり HIV 陽性者に自信と尊厳を取り戻す大きな効果がありますが、当 事者達の力で長く持続できる活動でなければ意味がありません。材料の確保から市場の開 拓まで見通した実行可能な計画を立てることが求められます。 (6)地域社会への啓発 さらに、地域住民を対象にした講習会等の場で、HIV 陽性者自身が自らの感染の経緯や 療養生活を語り、エイズの知識も提供して、HIV 陽性者への理解を働きかけるといった活 動も行われています。こうした活動は住民の HIV の予防意識を高めることに役立つだけで なく、誤解や偏見・差別の緩和に効果を上げ、住民の中から地域の陽性者への支援に一緒 に取り組み始める動きも生まれています。これらの地域での取り組みは、HIV 陽性者が安 心して地域で生活し、通院しやすい支援的な環境の整備につながるのです。しかし、こう した住民を対象とした啓発で HIV 陽性者がカミングアウトし発言することは極めて勇気 のいることであり一朝一夕にできることではありません。活動の初期には、A 県での啓発 には B 県の陽性者が行き、B 県の啓発には A 県の陽性者が行くといった形で陽性者グルー プ同士が協力し合いながら自分の地域ではカミングアウトせずに実施するという方法もあ るでしょう。地域で陽性者が受けいれられる素地がない中で、陽性者を差別の危険にさら すようなことがあってはいけません。十分な配慮が必要です。 個人の HIV ステイタスに踏み込まずに実施する方法としては、感染を知り苦悩する人と 家族がそれをどう乗り越えていくのかをドラマで演じてみる、小学校で HIV 陽性の子ども 93 とその子を支える友人達の劇をつくってみる、陽性者の手記を朗読するといった方法など もあります。 (7)HIV/エイズに影響を受けた子ども達への支援 HIV への偏見が払拭されていない地域では、差別によって就学や通学ができないでいる HIV 陽性の子どももいました。エイズ遺児の中には、経済的に貧しい環境の中で暮らして いる子どもも多く、親を亡くした喪失感や孤独感の中で、健康上の問題や様々な心理社会 的課題の重圧を受けながら生きる子ども達も多数いるのです。こうした HIV/エイズに影響 を受ける子どもを対象にして、子ども会を行うことで心理的社会的支援を呈上する実践例 もあります。子ども会では、子ども達が日頃抱えている思いを絵や粘土細工にして表現し てもらう活動や、他の友達と連帯感を深めるために歌や踊り・チーム対抗のゲーム活動、 子どもと保護者が親睦を深めるための料理会などの様々な企画がありました。時には遠足 やキャンプなど、外界に目を向け視野を広げられるような機会を企画したり、合同レクリ エーションで子ども達同志や保護者との絆を深められるような活動を行う例などがありま した。 (8)アドボカシー(政策提言) 社会の中で不当な差別を受ける事の多かった HIV 陽性者への支援の歴史はアドボカ シーの歴史と言っても過言ではありません。HIV 陽性者を排除することを目的とした強 制的な検査の禁止、HIV を理由とした解雇の禁止、適切な日和見感染症治療へのアクセ スの保障、守秘の徹底といったルールを国レベルで作成することを求めて HIV 陽性者が 活動し、社会的な支援のネットワークが広がっていきました。特に 1996 年に ARV を組 み合わせた効果的な治療が開発されてからは、治療が受けられない開発途上国の HIV 陽 性者の間では治療アクセスを求める声が大きくなっていきました。 私達が活動をしていたタイや南アフリカでも HIV 陽性者グループが形成され助け合 いのネットワークが作られ ARV を求める声が次第に大きくなっていきました。やがて、 地域の HIV 陽性者グループが州レベルで連携し全国組織を作り政府と交渉するように なり、これを欧米諸国の市民団体などが応援するという構図が作られていきました。こ うした中で 2003 年のタイを皮切りに、開発途上国でも順次公的な医療機関での無料の ARV での治療が開始されていきます。 現在は、薬の選択肢を増やすための国際的なアドボカシーや MSM、IDUs、セックス ワーカーといった HIV に影響を受けやすい個別のグループの人権を守るための政策提 言に課題が移っているところも多いでしょう。 4. HIV 陽性者の視点に立った HIV 診療・ケアの向上 HIV 陽性者にとって切実な課題は、適切な医療を安心して継続的に受けられるかどうか ことです。検査や日和見感染症の治療、そして ARV を使った効果的なエイズ治療を安定 的に受けられる体制を陽性者は切望しています。1990 年代から 2000 年代初頭まで多くの 開発途上国の医療機関は結核の医療には積極的でも、「エイズは治らないから・・・」と 94 積極的な対応をしていない傾向がありました。この数年、GF などの支援を得て開発途上 国でも ARV を使った積極的な治療が始まっていますが、まだまだ全国的にしっかりとし た治療基盤ができているわけではありません。また、HIV 陽性者にとってフレンドリーな 体制になっていない地域も多いかもしれません。陽性者の中には、プライバシーが漏れな いよう大変人目を気にしながら受診している人や、医療機関からの対応に敏感になってい る人もいます。そのため、医療従事者は、プライバシー保護の徹底や、差別的な対応によ って陽性者の尊厳を傷つけないような配慮が必要です。 保健医療機関が HIV 陽性者にとって利用しやすくなり、高い HIV 診療・ケアの質を持 って一人でも多くの陽性者へ適切な診療やケアを届けられるようになるためには、国の中 央から地域レベルにまでのそれぞれの段階での取り組みが必要です。以下に、各レベルで の取り組みの例を紹介します。 (1) 国の中央レベルにおける取り組み 保健省などの保健医療計画の担当省庁が中心となり、該当分野の専門家達と共に、HIV 診療やケアに関する医療整備計画の作成・改定が数年ごとに行われていることと思います。 検査や診療・ケアをユーザーフレンドリーなものにするためには、こうした医療整備計画 の中に、当事者の声を反映することが重要です。国や県レベルのエイズ委員会に陽性者の 代表が参加することや、日頃から各地で医療従事者が陽性者グループと協力して検査・診 療・ケアの向上に取り組むことが必要であり、こうした行動計画を国の方針として推奨す ることも当事者参画の実行を後押しするものとなります。 (2) 医療施設レベルの能力強化 HIV 診療の担当科による診療・ケアを以下のようにアセスメントし、改善に向けた話し 合いにより、計画を立て、実施し、評価による見直しを図ることが必要です。取り組みの 方法には、関係者とのミーティング、能力強化研修、システム開発等があります。 ・患者が理解できる方法で疾病や治療の説明や、健康教育ができているか。 ・患者との診療上のコミュニケーションやカウンセリングを通じて、患者が療養上抱 える課題やニーズを確認し、そのニーズを満たす診療・ケアを提供しているか。 ・HIV に関する診断能力や臨床経過の検査能力等を十分備えているか。 ・HIV 診療・ケアガイドラインが院内関係者に十分周知され、ガイドラインに準じた 診療・ケア・フォローアップ・必要時に治療薬の見直しを含むマネジメントがで きているか。 ・HIV 診療担当科と院内の関連部署(産科、内科、結核診療科、薬剤部、福祉担当科 等)の間で連携がとれているか。 ・薬剤管理や、診療記録等のデータ管理が正確かつ効率的にされているか、等。 国の文化によっては、地位が高い医療従事者に対して患者が対等に会話や質問をするこ とを躊躇してしまい、多くの医療従事者は患者側の視点から医療を考える余裕もないとい った傾向がみられることがあります。こうした状況の中で、JOCV は HIV 陽性者の声を取 95 り入れながら患者の視点に立って上述した点のアセスメントを行い、診療やケアをより良 くしていくきっかけを作っていくこともできるでしょう。 (3) 医療施設間の連携強化 地方の農村部特に遠隔地においては、医療資源が不足し、HIV 診療・ケアの能力にも不 足があることがしばしばです。更に交通が不便であれば HIV 陽性者が別の地域の医療機関 を利用することも困難であり、課題が山積みになります。同時に、HIV 陽性者の中には身 近な医療機関であるほど地元の知人の目を気にして受診がしづらいこともあります。そも そも、HIV 診療だけに限らずヘルスセンターで提供される日常的医療自体が住民の期待応 えられているものでなく利用を阻害する要因となっていることがあります。こうした課題 を克服するために、住民の一番身近にある地域の保健センターやヘルスポストでサービス を改善し利用者の信頼を得るための取り組みも重要です。多くの HIV 陽性者は青壮年層で ありながら医療に対するニーズを明確に持っているために住民が使いやすい医療サービス を提案する上で大きな力になることもしばしばです。 地域の医療の利便性を改善するためには、 こうした最寄りの施設への働きかけと同時に、 その国のヘルスシステムを踏まえて、地域から市・郡レベルの病院、県レベルや高度な専 門病院等の上位医療機関に至り、医療機関の間で上位もしくは下位の医療機関へ患者を紹 介するリファーラル体制の整備や連携を強化することも重要です。 市・郡レベルの病院の HIV 診療の専門性をもった医療従事者が、ヘルスセンターのスタ ッフと一緒に管轄するコミュニティを巡回し、こうした遠隔地に住む HIV 陽性者の治療に 関わる支援やフォローアップを共に支える取り組み等もされています。 (4) 国内外の資源の動員 国内の資源(例:HIV 陽性者自助グループ、保健医療以外の組織、地域組織)や海外か らの支援(例:多国籍ドナー、二か国間協力機関、国際支援団体)等に目を向け、これら を動員あるいは活用できるか検討するために関係者と情報交換や調整を図ることも、新た な支援の可能性につながります。JOCV にとっては、他の JOCV 隊員の活動や、JICA のプ ロジェクト(技術協力プロジェクトや、施設や機材等のハード面の整備に係る無償資金協 力等)の情報を収集し、連携することで自分の所属先や対象地のためにも役立てられるか 検討することも有益です。 5. ケアと支援の「個別性」「包括性」「連続性」とは 前述したように、HIV 陽性者の健康維持に影響する要因は社会的・経済的・心理的要因 など多岐にわたっています。一見 HIV によって生じたと思われる課題が、従来から抱えて いた社会的な問題が HIV 感染によって複雑化し、表出されただけだと言う場合もしばしば あります。そこで、HIV 陽性者に対する支援は「個別性」「包括性」「連続性」といった 3つの視点を常に考えて提供することが重要です。 「個別性」(Client Centered)とは、HIV 陽性者が抱える課題やニーズは人それぞれに異 なるため、各対象者のおかれた現状やニーズを理解し、個別的に HIV 陽性者(Client)本人の 立場に立って必要と感じられるケアと支援を行うことです。Client (Patient) Centered Care 96 「クライアント(患者)中心のケア」とも呼ばれるもので、Client 自身も医療情報を十分 理解し、自分のケアへの「自己決定」や「参画」がなされるケアのあり方です。このため に重要なことは、Client と医療従事者間のコミュニケーションです。さらに、Client が医療 機関の利用をする場合も日常生活を営む上での支援を必要とする場合も、家族や地域住民 との関係性が影響することも多いため、こうした情報もアセスメントすることが大切です。 次に、「包括性(Comprehensive)」とは、対象者の身体的な側面だけを見るのではなく、 各対象者を取り巻く心理的、社会的、人権的、法的等の側面も考慮した「全人的な/全体的 な(Holistic )」ケアと支援を行うことです。その対応のために、あらゆる手段や資源を 導入することが必要となります。 さらに、ケアや支援は切れ目のない「連続性のあるもの(Continuum)」である必要があ ります 3)。HIV 陽性者が生活する地域から、保健センターや病院などの保健医療施設、保 健福祉の行政機関、支援団体、地域組織等にわたり、様々な社会資源によって HIV 陽性者 へのケアや支援が提供されなければなりません。HIV 陽性者が必要とするケアや支援のた めには、必要に応じて対象者をその支援組織から別の支援組織へ紹介(リファーラル)す ることや、支援組織間での連携が求められます。図 2 は、タイの農村での実践例を元に、 この関係性をまとめたものです。 図2 おわりに HIV ケアと支援の連続体 (シェアの活動例より) HIV 陽性者のための紹介・連携 ケア・支援の提供・受領の関係 HIV 陽性者が必要とするケアと支援は多様にあり、「個別性」「包括性」「連続性」を 考慮したケアと支援を提供することが大切です。さらに、こうした取り組みが、派遣国の カウンターパート・保健医療従事者・当事者である HIV 陽性者や地域住民達によって支え られ、持続した活動となることが理想です。そのために多様な社会資源の動員を常に意識 しながら、配属先で取り組まれることを JOCV の皆さんに期待しています。 97 引用文献 1) UNAIDS 2014, Fast Track, -Ending the AIDS Epidemic by 2030-, UNAIDS. 2) Lee S & Asasri S 2004, `The Effectiveness of Home Visits to Ensure the Success of the ART Project -Collaboration Program among `SHARE', an INGO on health, the PLWHA group and Community Hospital in the rural area of Thailand- ’, Presentation at The International Conference `Nursing Science & HIV/AIDS: Global Challenges and Opportunities', Thailand. 3) WHO 2004, National AIDS programmes: a guide to monitoring and evaluating HIV/AIDS care and support, WHO. 参考文献 1. UNAIDS 2010, Getting to zero: 2011-2015 strategy, UNAIDS, Accessed 1 December 2014, < http://www.unaids.org/sites/default/files/sub_landing/files/JC2034_UNAIDS_Strategy_en.pdf>. 2. WHO 2010, Antiretroviral drugs for treating pregnant women and preventing HIV infections in infants. Recommendations for a public health approach. 2010 revision, Geneva, Accessed 18 December 2014, <http://whqlibdoc.who.int/publications/2010/9789241599818_eng.pdf>. 3. シェア=国際保健協力市民の会 2008, すべてのいのちの輝きのために - 国際保健 NGO・シェアの 25 年-, めこん. 98 6.エイズ対策の実際 ⑤ HIV カウンセリング・検査 株式会社エッジウェル・インターナショナル (元 JICA タンザニア HIV/エイズサービスのための保健システム強化プロジェクト および HIV 予防のための組織強化プロジェクトチーフアドバイザー) 角井信弘 (第 3 版) 1. HIV カウンセリング・検査の役割 HIV カウンセリング・検査は、HIV 予防においても、HIV 陽性者のケア・サポートにお いても極めて重要な役割を果たします。カウンセリングは、感染不安をカウンセラーに打 ち明けることによって心理的負荷を軽減させることになり、かつ自分の行動を振り返るこ とによって HIV 感染のリスクを把握し、より適した今後の行動について考えるなど、予防 行動や HIV 検査に導くための絶好の機会となります。HIV 感染症は無症状の期間が長く、 またそれらしき症状が出ても必ずしもそれが HIV 感染によるものであるとは限らないた め、HIV 感染を確認するためには検査をすることが大変重要になります。したがって、人々 を動機付け、検査に導くことは、感染の早期発見につながり、リスク行動回避のきっかけ を作り、性的パートナーへの感染リスクを低減させることに結びついていきます。また、 感染状態が分かると自分の健康についての意識が高まるとともに、陽性の場合、適切な治 療を適切なタイミングで受けることも可能になってきます。それだけでなく、クライアン トを他の様々なサービスにつなげるためのエントリーポイントにもなり、公衆衛生上重要 な戦略として位置づけられています。 99 図 1.HIV 検査カウンセリングと他のサービスとのリンク (参照:Tanzania MOHSW. (2013) National Guidelines for HIV Testing and Counselling. Dar es Salaam: MOHSW.) 2. HIV カウンセリング検査サービスにおける 5C 原則 UNAIDS の 2014 年の発表によると 2013 年末までに、抗 HIV 療法を受けている人の数は 1290 万人に達したとされ、国際的なイニシアチブにより開発途上国でも抗 HIV 療法への アクセスが拡大してきています。抗 HIV 療法を受けていなかった HIV 陽性者の割合は、 2006 年では 90%であったのが 2013 年では 63%まで下がりました。とはいえ、5 人に 3 人 の HIV 陽性者はまだ抗 HIV 療法にアクセスできておらず、76%の HIV 陽性の子どもが未 だ治療を受けることができていないというのが現実です1。また、治療へのアクセスが可能 であっても、スティグマや差別が強い社会においては、検査を受けることすらためらって しまうという現状もあります。サハラ以南アフリカでは半数以上の HIV 陽性者は自分の感 染をまだ知らずにいるということを UNAIDS が報告しています。また、免疫不全がかなり 進行してから HIV 感染を知るケースも多くみられ、HIV カウンセリング検査サービスの強 化が叫ばれています。早めに HIV 感染を知り、適切な治療ケアおよびサポートに結びつく ことが重要です。ただし、サービスを拡大するにあたっては、公衆衛生戦略としての重要 性にのみフォーカスすることなく、人権に配慮したアプローチをとることが重要です。世 界保健機関(WHO)は、HIV 検査を実施する場合「5C 原則」を基本に据えることを提唱 1 UNAIDS. (2014) The Gap Report. Geneva: UNAIDS 100 しています3。 Confidential (個人情報の守秘) Counselling Consent(検査にあたってインフォームド・コンセントを得ること) Correct test results (質の高い検査による正しい検査結果の提供) Connections to prevention, care and treatment services(予防・ケア・治療への連結) 3. (検査にはカウンセリングを伴うこと) VCT と PITC HIV カウンセリング検査にも大きく分けると 2 つのアプローチがあります。一つ目が、 人々が自らの判断で(Client-initiated)自主的カウンセリング及び検査を利用することを目 指したもので、Voluntary Counselling and Testing (VCT)と呼んでいます。VCT はこれ まで HIV カウンセリング検査サービスの中心として重要な役割を担ってきました。カウン セリングを通してリスクアセスメントを行い、クライアントを検査へと導き、検査の結果 を伝えつつクライアントが感染リスク削減のための行動変容計画を立てるのを支援すると 同時に、陽性のクライアントに対してはポジティブリビングの支援を行い、図 1 でも示し たように他の保健サービスのエントリーポイントとしての役割を果たしてきました。しか し一方で、クライアントの自発性を待つアプローチであるため、なんらかの病気の治療で 保健医療施設を訪れていてかつ自分のステータスをまだ知らぬ HIV 陽性者を予防・ケア治 療・サポートサービスへと導く機会を失ってきていました。そこで登場したのが Provider-initiated Testing and Counselling(PITC)と呼ばれるアプローチで、保健医療従 事者の勧めによって検査に導くというものです。このアプローチがいち早く導入されたの は、結核クリニック、STI クリニック、外科病棟、母子保健クリニックなどですが、HIV 感染率の高い国ではその他の保健サービス提供の現場でも積極的に全てのクライアントに 対して HIV 検査を勧めるよう指導している国もあります。このように HIV 検査が保健医 療従事者の勧めで提供される場合も、上記 5C の原則は適用されなければなりません。検 査前に検査を受けることの意味や検査結果の意味、個人情報の保護など最低限の説明と同 時に検査を拒否する権利についても説明し、検査後の個人カウンセリングも最低限保証さ れることが原則です。一方、入念なカウンセリングが必要なクライアントやカップルカウ ンセリングを行うには十分な時間が必要となります。つまり、この二つのアプローチはど ちらが優れているということではなく、ターゲットが違うのでお互いが補完しあうものと して理解されるべきです。WHO も両方のアプローチの採用と展開を勧めています5。 4. Opt-in と Opt-out さて、上記二つのアプローチに加えて知っておくべきことがあります。検査を Opt-in に 3 WHO. (2012) Service delivery approaches to HIV testing and counselling (HTC): A strategic HTC programme framework. Geneva: WHO 5 WHO. (2007) Guidance on Provider-Initiated HIV Testing and Counselling in Health Facilities. Geneva: WHO 101 するか Opt-out にするかという選択です。Opt-in は、検査を受けることを納得して自ら受 けたいと申し出た人のみを取り込む方法で、申し出ない人には検査をしないことになりま す。一方、Opt-out は検査をするということが前提で、拒否した人のみ検査から外すという 方法です。WHO の PITC ガイドラインでは Opt-out が奨励されています。Opt-in よりは、 Opt-out 方がより多くの人を検査へと導くことが出来るという利点があります。妊産婦検診 における HIV 検査は Opt-out 方式がほとんどです。しかし、医療の現場では医療従事者の 方が圧倒的に優位な立場にあり、PITC という衣を着せた強制検査になりかねないという指 摘もあります。 どちらを採用するにせよ、前述の5C原則は適応されるべきです。検査を受けるか否か の決定はクライアントが自発的に行うことであり、拒否することも含めて権利として保障 されねばなりません。また、同意しないことで他のサービス提供が否定されるものでもあ りません。コンセントについては、国によってやり方が違います。クライアントがコンセ ントフォーム(同意書)にサインをすることが必要な国もあれば、口頭でのコンセントで よしとする国もあります。それぞれの国ごとに HIV カウンセリング・検査のガイドライン または標準手順書(Standard Operating Procedures)があると思われますので、それらの資料 を入手し熟読されることをお勧めします。 5. その他の HIV 検査 HIV 検査を義務として行う場合もあります。輸血や血液製剤のための血液採取時、人工 授精のための精液採取時、臓器移植のための臓器採取時などです。また、性暴力の加害者 に対しても HIV 検査を義務付けている国が多いです。これらの個人に対する検査以外に国 内の感染状況を把握するために国全体で行う検査も存在します。これはサーベイランスと 呼ばれています。開発途上国においては、一般的に、国内の指定された保健医療施設にお いて、一定期間妊婦からルーティン検査のために採取した血液を個人を特定しないやり方 で無差別に検体抽出し HIV 検査をしていくという方法がとられています。 6. VCT とその流れ UNAIDS は以下のように VCT を定義づけています6。 “Voluntary HIV counselling and testing (VCT) is the process by which an individual undergoes counselling enabling him or her to make an informed choice about being tested for HIV This decision must be entirely the choice of the individual and he or she must be assured that the process will be confidential.” つまり、個人が HIV 検査を受けることを自主的に判断できるようにするプロセスである ということです。ケニア、タンザニア、トリニダード・ドバゴで行われた調査によると、 6 UNAIDS. (2000) Voluntary Counselling and Testing (VCT). UNAIDS Technical Update. Geneva: UNAIDS. 102 VCT によって HIV 感染リスク行動が有意に減るだけでなく、スティグマや差別の軽減に もつながり、費用対効果も大きいという結果が出ています7。VCT は治療・ケア・サポート のエントリーポイントであるだけでなく、予防行動の誘発と差別軽減にもつながる重要な 戦略となっています。図 2 は VCT の流れを表したものです。基本的な VCT の要素は、検 査前カウンセリング、HIV 抗体検査、検査後カウンセリングです。 図 2.VCT サービスの流れ 7 Sweat ML, et al. (2000) Cost-effectiveness of voluntary HIV-1 counselling and testing in reducing sexual transmission of HIV in Nairobi, Kenya and Dar Es Salaam, Tanzania: the voluntary HIV-1 counselling and testing efficacy study. Lancet. 103 1) 検査前カウンセリング カウンセリングはあくまでもクライアントが自己を振り返り、HIV 検査を受けるとい う決定を自らできることをサポートすることです。一定の価値観の押し付けにならない よう注意が必要です。検査前カウンセリングによって最低限以下のようなことをクライ アントが達成できるようにサポートします。 HIV/エイズを正しく理解することを支援する 自らの行動を振り返り、感染リスクを自己評価できるよう支援する 感染予防のための方法や行動についての理解を深めるよう支援する 感染予防行動をとるにあたっての自分の強みや弱み、内的または外的障害につ いて理解を深め、また自分の予防行動に向かえるよう支援する 感染状態を知ることのメリットを理解できるよう支援する 検査についての理解を深めるよう支援する カウンセリングはカウンセラーとクライアントとの 1 対 1 の対話が基本ですが、カッ プルや家族で行われることもあります。カウンセリングのプロセスを通してクライアン トとの信頼関係を築いていくことが重要です。 個人の性生活や性パートナーに関することなど、かなりプライベートな話題になりま すので、プライバシーが視覚的にも音声的にも確保できる環境を設定しなければなりま せん。(この環境設定については、青年海外協力隊の建築隊員 OV が中心となって大変 ユニークな取り組みをし、「HIV 検査施設改善マニュアル」8を発行していますので、是 非参考にして下さい。) また、グループで検査前の情報提供を行う場合もありますが、その後個人的なカウン セリングを受けることができるようにしておく必要があります。カウンセリングの内容 は個人の状況やニーズに応じて柔軟に対応する必要があります。妊婦、若者、IDUs、同 性愛者、異性愛者、セックスワーカーなどそれぞれの状況によってカウンセリングの内 容は異なってくるでしょう。 2) HIV 検査 検査を実施するに当たっては必ずインフォームド・コンセントを得る必要があります。 コンセントについては、国によってやり方が違います。未成年者(国によって規定が違 います) には親権者の同意や同伴を必要とする国もあります。 コンセントを得たうえで、 その国で定められたガイドラインに沿って抗体検査を行います。検査はカウンセラーが そのまま行う場合と、検査室で検査技師が行う場合があります。検査についてはこの後 の項で詳しく説明します。 3) 検査後カウンセリング 検査後のカウンセリングは必ず提供されるべきです。このカウンセリングにおいてク 8 NPO 法人都市計画・建築関連 OV の会が 2006 年から 2008 年にかけて、ケニア、ガーナ、セ ネガル、マラウイの 4 か国において施設状況の調査および改善活動を実施し、その成果を 2009 年 1 月にマニュアルにまとめました。 104 ライアントに結果を明確に伝え、その結果の意味を理解し受け入れることができるよう に心理的に支援していく必要があります。 結果が陽性とでた場合、次のような支援が大切になります。 クライアントが検査についての疑問がないか、結果を聞ける状態であるかを 確認した上で検査結果を伝達する HIV 抗体検査陽性結果についての疑問を解き、その意味を理解するのを支援 する 陽性結果に対するいろいろな感情を打ち明け、心理的な負担を軽減するのを 支援する 感染予防について再確認し、他人への感染、自分への再感染を防ぐための行 動をとることができるよう支援する 検査結果を打ち明ける相手についての相談をする 栄養、日和見感染症予防、その他生活上の留意点などをシェアしポジティブ リビングができるように支援する ケア治療の必要性の判断をするためのアセスメントへの移行の支援をする。 女性の場合は妊娠しているかどうかの確認も必要で、妊娠している場合は母 子感染予防プログラムへの移行を支援する その他、社会的、心理的、法的、経済的サポートの存在を理解しアクセスを 支援する 支援者の発掘と将来的な計画を立てる支援をする 感染予防のためのコンドームを提供する 結果が陰性とでた場合も、カウンセリングが大切です。 クライアントが検査についての疑問がないか、結果を聞ける状態であるかを 確認した上で検査結果を伝達する 検査結果の意味を理解することを支援する ウィンドーピリオドについても理解し、最近のリスク行動を振り返り再検査 の必要性を検討する 感染リスク軽減のための行動について考え、行動変容の計画を立てるのを支 援する 検査結果を打ち明ける相手について相談する 必要であれば再検査の日取りを決める その他の保健医療サービス(例えば性感染症検査など)への照会が必要か相 談する 7. 感染予防のためのコンドームを提供する PITC の対象 WHO は以下のようなクライアントに対しては PITC を標準サービスとして提供していく 105 ことを奨励しています10。 保健医療施設を訪れる全ての人の中で、HIV 感染を疑わせるような症状が出ていた り、結核など WHO の HIV 感染症臨床ステージ分類(WHO HIV Clinical Staging System)に示されているような病状の患者 HIV 陽性の母親から生まれた乳幼児 HIV エピデミックが一般化している国11における栄養失調児および栄養療法に応答 しない栄養失調児 男性性器包皮切除を求めている男性 HIV エピデミックが一般化している国においては、成人および思春期の若者で保健 医療サービスを受ける全ての者 また、HIV エピデミックが低レベルである国においても以下のような保健サービス提供 の現場ではその国の状況に合わせて PITC の導入を勧めています。 性感染症治療 感染リスクの高いグループ(セックスワーカー、IDUs など) に対する保健サービス 妊産婦ケアサービス 結核治療 8. PITC の流れ 1) 検査前情報提供およびインフォームド・コンセント VCT における検査前カウンセリングを省略化したものです。ただし、HIV の意味と 検査の重要性、検査結果の意味、検査手順、質疑応答など最低限の情報提供を確保し、 その中でクライアントの心理的レディネスを見極めつつコンセントをとることが求め られます。 2) HIV 検査 VCT に同じです。 3) 検査後カウンセリング 基本的には VCT に同じです。ただし、カップルカウンセリングなどじっくりとカウ ンセリングが必要な場合は VCT カウンセラーにその任を委ねた方が良い場合もありま す。 10 WHO. (2007) Guidance on Provider-Initiated Testing and Counselling in Health Facilities. Geneva: WHO. 11 WHO は HIV エピデミックをその拡大の度合いに応じて、低レベルのエピデミック、集中的 なエピデミック、一般化したエピデミックの 3 つに分けています。一般化したエピデミックと は、妊婦の HIV 感染率が 1%を超えているような状況の場合をさします。 106 9. HIV 検査 1) 開発途上国でも普及する HIV 検査 HIV の検査にはいくつか種類があります。これまで先進国を中心に主に実施されてき たのは、 スクリーニング検査としての ELISA 法 (Enzyme Linked Immunosorbent Asseys: 免 疫酵素抗体法)と確認検査としてのウエスタンブロット法でした。ELISA 法は、採血を してその血液の中に HIV に対する抗体があるかどうかを調べる検査(抗体検査)の一種 で、40~90 の検体をまとめて検査するシステムになっています。廉価で多数の検査に適 していますが、検体数がまとまらないとコスト高になってしまうため、検体数がある程 度揃うまで待たねばなりませんでした。ウエスタンブロット法は、信頼できる抗体確認 検査法です。しかし、ELISA 法もウエスタンブロット法も実施するためには、検査試薬 と検査機器を備えた検査室、電気、冷蔵庫が必要であるばかりでなく、熟練した検査技 師が必要でした。このため、開発途上国においては首都の大病院か大学病院、中央レフ ァレンス検査施設でのみ検査が可能という状況で、検査普及には限界がありました。 しかし、1990 年代に HIV 迅速検査(Simple and Rapid Assays:簡易迅速検査)と呼ば れる抗体検査法が開発され、検査キットという比較的廉価でコンパクトな形になって普 及し始めました。検査手順も簡単でエラーも少なく、精度も ELISA 法と同等レベルにな っており、検査技師の資格のない医療スタッフでも実施可能な検査です。採血方法も静 脈採血から、最近では指先を穿刺することで採血する簡易な方法もあります。この方法 だと、医療従事者の針刺し事故などを防ぐことができるなどのメリットもあります。ま た、常温保存(2-30℃)も可能な検査キットも多く開発され、世界中に急激に拡大しま した。 この迅速検査の導入によって即座に結果を知ることが可能となりました。これまで検 査結果を受け取るまでに 1~2 週間かかっていましたので、検査結果を聞きに来ないクラ イアントが、結構な割合存在しましたが、どの迅速検査も 20 分以内に検査結果が出るよ うになっており、結果を聞かないで立ち去ってしまう人の割合は圧倒的に少なくなって います。 2) 検査結果と確認検査 検査はカウンセリングルームでカウンセリングに継続して行われる場合もあれば、検 査室で検査技師が行う場合もあります。血液のサンプルに名前のわからないようコード 番号を付けて検査室に運び、検査結果がカウンセラーに戻されるという仕組みをとって いる場合もあります。いずれの場合も個人情報が外部に漏れないようにすることが大切 です。 それぞれの国でどの検査方法をどのように組み合わせて結果判定をしていくか(アル ゴリズム)は、国で定められたガイドラインに明記してあり、国によって多少バリエー ションがあります。図 3 はアフリカで一般的に使われているアルゴリズムの 2 通りの例 を示しています。シリアルアルゴリズムは 3 種類の検査を検査結果に応じて一定の順番 に組み合わせる方法です。1 番目の迅速検査で陰性と出た場合はそのまま陰性の判定を します。陽性と出た場合は、2 番目の検査を実施します。ここで陽性と出た場合は、そ のまま陽性の判定を出します。陰性と出た場合は、3 番目の検査を行いその結果を最終 107 結果とします。パラレルアルゴリズムはまず 2 つの迅速検査を同時に行います。その結 果が一致していればそれをそのまま判定結果とします。一致していない場合は、第 3 の 検査を行い、その結果を最終結果とします。 図 3.シリアルアルゴリズムとパラレルアルゴリズム このようにいくつかの検査の組み合わせによって検査結果を導いていく作業が必要な のは、1 つの検査で陽性という結果がでても、それが「真の陽性でない場合(偽陽性)」 もあるためです。HIV 迅速検査の精度はかなり高くはなっていますが、偽陽性が 1%前 後の確率で出てしまいます。そのため、違うタイプの検査を組み合わせて確認作業を行 っていきます。各国において蔓延している HIV のタイプやサブタイプが異なるため、そ のタイプにあった検査法・検査キットを選択していく必要があり、各保健医療施設で勝 手に検査法やキットを選択してよいということではありません。各国で定められたアル ゴリズムに従って検査を実施しなければなりません。 最近では第 3 の検査を使用しない国も出てきました。第 1 の検査で陽性、第 2 の検査 で陰性という結果が出た場合、再度 2 つの検査をやり直し、それでも結果が一致しない 場合は結論は持ち越しで 2~4 週間後に再度検査をすることをアドバイスするというパ ターンで、タンザニアなどは 2012 年よりそのアルゴリズムで検査を実施しています。 10. コミュニケーション活動、ケア・サポートとの連携 保健医療施設に HIV カウンセリング・検査サービスを開始して待っていても、クライア ントが期待したほど来ないということが多々あります。検査に人が流れていかない理由と して以下のようなことが考えられます。 HIV/エイズについての正しい認識ができていない 108 感染リスクを自分のこととして認識できてない 検査して HIV ステータスを知ることの意義が理解されていない カウンセリング・検査のアクセスが悪い 「恐ろしい HIV」に感染していることを発見してしまうことの恐怖 個人情報が漏れてしまうことの恐怖 スティグマを付けられ差別されること、時には暴力的な行為に直面することに対す る恐怖 検査精度についての不信感 検査後のケア治療やサポートサービスの存在が確認できない カウンセリング・検査がコミュニケーション活動や HIV 陽性者に対するケア治療・サポ ート活動と三位一体となって流れを構築することが大切です。このことは HIV 予防対策の 項で述べたとおりです。具体的には以下のような活動を考慮する必要があります。 HIV/エイズについての正しい知識の普及活動 人々をカウンセリング・検査へと動機付けるためのコミュニケーション活動(理 性・感情両面からのアプローチ) カウンセリング・検査への地理的アクセスの向上 カウンセリング・検査の質の向上 プライバシー保護の環境づくりと守秘義務の徹底による心理的障壁の低減 ケア治療サービスの「見える化」 ポストテストクラブやサポートグループへの支援 スティグマや差別の軽減のためのアドボカシー スティグマや差別は、未だ根の深い問題です。HIV 感染が宗教的・道徳的な価値観と結 び付けられてしまっている現状があります。この場合、いくら科学的説明をし、理性に訴 えても受け入れられないという状況に陥ります。理性と感情の両面からのコミュニケーシ ョンアプローチが大切です。また、当事者である HIV 陽性者自らが語る言葉には力があり ます。彼らと共にコミュニケーション活動を計画・実施していけるとより効果的な活動と なるでしょう。 11. カウンセリングの質の確保 カウンセリングの質を確保するためには、人材育成と環境整備が必要で、以下のような ことを考慮する必要があります。 1) カウンセラー養成研修の質の向上と標準化 HIV カウンセリング検査サービスがここ 5~6 年で開発途上国においても急激に拡大 したため、質の管理が十分になされていないという現実に直面してきています。カウン セラーの養成研修もいろいろな団体が様々な形で行い、標準化がされないまま統一性の 無い状況になってしまっている場合もあります。従って、1 週間の研修を受けただけの 109 カウンセラーもいれば、実習を含めた数週間の研修を受けたカウンセラーもいれば、大 学などで臨床心理学を専門に勉強したようなカウンセラーもいて、カウンセラーの質の ばらつきが極めて大きい状況です。また、保健医療従事者で研修を受けた人のみをカウ ンセラーとして認めている国もあれば、保健従事者以外の人でも研修を受ければカウン セラーになれるという国もあります。 大切なことは、国としてのガイドラインに沿ってカウンセラーの養成がなされること です。国として研修カリキュラムや教材が標準化されている場合は、必ずそのカリキュ ラムに沿って、標準化された教材を使った研修を実施していくことが大切です。 また、その一環としてカウンセラーを資格制度化している国もあります。国の標準を 満たした研修によって養成されたカウンセラーにのみ資格を与えるという仕組みです。 このような仕組みでカウンセラーの質を国として確保していくという方法です。 カウンセリングの質を標準化するためのツールとして、その他にキューカード(Cue Cards)などの補助教材を準備している国もありますので参考にしてみてください12。キ ューカードとはカウンセラーがクライアントとのカウンセリングにおいて大事な内容が 抜け落ちることのないように補助するカード形式教材で、言ってみれば虎の巻です。こ れを使うことによってカウンセリングがある程度標準化されます。もちろん、カウンセ リングはクライアントごとに内容は全くことなり、柔軟にかつ自然に展開していくこと が大切ですが、誰でも初めからそのように出来るわけではありません。また、ベテラン でも大事な内容が抜け落ちることもありえます。キューカードはカウンセラーの働きを 補助するツールといえます。 リフレッシャー研修や勉強会の機会の提供も大切です。リフレッシャー研修は、新た な知識や技術の習得の機会となりますし、ケーススタディなどを通して他のカウンセラ ーと経験をシェアする機会ともなります。 また、 カウンセラーは困難な状況を抱えた人々 の話を毎日聞くことになり、一生懸命に取り組むほど心理的負担が増加し、燃え尽き (Burnout)状況に陥ってしまうことも多くありますので、同じ悩みを共有する職業人同 士のネットワーク構築の機会との提供という意味でもリフレッシャー研修や勉強会は大 切です。 2) カウンセラーの仕事環境の整備と備品の確保 保健施設の看護師がカウンセラーとして養成され、通常業務に追加してカウンセリン グ業務が加わるというのが開発途上国での一般的な現状です。しかし、ある特定個人に 業務が集中してしまうと、質の良いカウンセリングは困難になります。通常業務の見直 しや責任の再配分が必要になります。また、一人の VCT カウンセラーが一日に対応でき る件数には限界があります。15 件を超えているようだと要注意です。このような場合は カウンセラーの数を増やす必要があるでしょう。 VCT サービス提供のための受付、待合室、カウンセリングルームや検査室の整備、検 12 JICA の支援でタンザニア国エイズ対策プログラム(National AIDS Control Programme)をカ ウンターパートとして実施された「HIV 感染予防組織強化プロジェクト」においては、3 種類 のキューカード(VCT 用、PITC 用、カップルカウンセリング用)の英語・スワヒリ語版が開 発されホームページで公開されています。 http://www.jica.go.jp/project/tanzania/001/materials/index.html 110 査室が別になっている場合はその部屋との無駄のない動線と連携体制、 プライバシー (音 声と視覚)が確保できるような環境、HIV 検査キットやコンドーム、ペニスモデル、ペ ルビックモデル、その他備品の確保などもカウンセラーがカウンセリングに専念できる ための必須条件となります。また、検査を実施する部屋の温度(27℃を常時超えるよう な部屋だと検査キットに影響があります)や有効期限の十分な HIV 検査キットの常備は 絶対条件です。これらのことは全て国の VCT サービスガイドラインや標準手順書(SOP) に記述されているはずですのでそれらのドキュメントに沿って環境整備を行うことが大 切です。 国によっては VCT サービスの認可制度を導入している国もあるようです。ガイドライ ンに記述してある VCT サービス提供のための最低条件を満たしている施設を認可して VCT サービスの質の確保を目指そうという制度です。 12. HIV 迅速検査の質の管理 検査は人が行うものである以上、必ずエラーが起こりえます。検査キット保管上の間違 い、検査キット有効期限のチェックの怠り、検体の取り扱いの間違い、検査手順の間違い、 個人を特定するための検体コードラベルの貼り間違え、検査結果読み取りの間違い、検査 結果記入の間違い、医療廃棄物の処理の仕方の間違いなどいろいろなエラーが想定できま す。また、検査キットそのものがその国に蔓延している HIV タイプに適していないような 場合もあるでしょう。 これらのエラーを少なくするためには、 個人の注意力の問題以上に、 管理やシステムの問題があり、総合的に取り組んでいく必要があります。 1) 検査キットの選定とアルゴリズム 国の保健省が認可した検査を、定められたアルゴリズムに沿って使用します。各保健 医療施設や団体が勝手に選定したり、アルゴリズムをその都度変更したりしてはいけま せん。 2) 検査キットの管理の徹底 室温保存のものと冷蔵保存のものがあります。また直射日光や湿気に注意を要します。 有効期限がありますので、必ず有効期限をチェックし、期限の過ぎたものは廃棄処分に します。また検査キットや試薬、注射器・針、サージカルグラブなどの在庫切れが起こ らないように在庫管理も大切です。 3) 検査結果の確認作業 国のガイドライン(無い場合は WHO のガイドライン)に沿ったやり方をしているこ とが重要です。 4) 検査結果読み取りと記録 コントロールラインと判定ラインをしっかり読み取ることが必要です。コントロール ラインが出てこないものは再検査が必要です。記録は定められたフォームに間違いの無 いよう記入します。また、記録した情報がカウンセリング室から外に漏洩しないように 111 厳重に管理する必要があります。 5) 本人確認 検査結果が他人のものでないよう確認を怠らないようにします。 6) 医療廃棄物管理 医療従事者やクライアント、その他の人々への針刺し事故が起こらないように使用済 みの注射器や針はバイオハザードとしてしっかり管理されなくてはなりません。 7) 緊急対応 万が一針刺し事故が起こった場合やレイプケースに遭遇した時の緊急対応プロトコー ルを国が定めているはずですので、そのプロトコールがカウンセリング室や検査室に常 備されている必要があります。最近では抗 HIV 療法の普及によって Post-Exposure Prophylaxis(PEP)を整えている保健施設も多くなってきていますので、緊急の場合には 速やかな対応ができるように普段からレファーラル体制を整えておく必要があります。 8) 検査のクオリティ管理 インターナルおよびエクスターナルクオリティコントロールを実施していく必要があ ります。インターナルコントロールとしては 2 種類あります。まずは、検査ごとにやる クオリティチェックです。各検査デバイスに組み込まれているコントロールエリアの表 示が正しく現れているかのチェックを毎回しっかり行います。現れない場合は検査をや り直す必要があります。次に、定期的に行う保健医療施設内で行うクオリティチェック です。既に HIV 陽性と陰性の分かっている検体を使って検査現場で検査をしてみて、検 査結果が一致するかどうかのチェックをします。これらの検体は病院の臨床検査室に準 備してもらいます。検査キットの新しいロットの使用開始時や新しいスタッフが検査を 始めた時、1 日の検査件数が多い施設では毎朝 1 番に行うことが勧められています。ま た、一定の割合の陰性検体と陽性検体のサンプルを施設内の検査室に送って再検査して もらうという方法もとられています。 エクスターナルコントロールは、あらかじめ陽性、陰性の分かっている検体が国のレ ファレンス検査施設から定期的に送られ、その検体を用い検査をして、正しい結果が得 られるかどうかをチェックします。検査官がそれぞれの施設に検体と共に出向いてクオ リティコントロール検査をし、質を判定することもあります。 それぞれの検査キットには標準手順書(SOP)がついていますので、その SOP に沿っ てクオリティ管理を実施していきます。保健省のガイドラインにもクオリティコントロ ールの記述があるはずですので、ガイドラインに沿って実施します。 112 患者エリア コントロールエリア 陽性反応 コントロールエリアと 患者エリアに赤線が出現 陰性反応 コントロールエリアの みに赤線が出現 無効検査 コントロールエリアに も患者エリアにも線の出現無し 図 Determine HIV Rapid Test(Alere 社)の検査結果判定 (出典:WHO & CDC, (2005) Determine HIV Rapid Test) 13. サポーティブスーパービジョンとメンタリング ガイドラインに定められたようなサービスを提供していくためには上位組織からの定期 的なサポーティブスーパービジョンが必要となります。ガイドラインと照らし合わせ、サ ービス提供のための環境が整っているか、検査キットやその他の必要備品が常備され適切 に管理されているか、検査は適切に実施されているかなどをチェックします。また、クラ イアントに出口調査を行い、 カウンセリングの内容や満足度などをチェックしたりします。 その結果をもとに、カウンセラーのみならず施設の責任者も一緒に問題解決の糸口を見つ け、その改善計画作りを支援します。またスーパーバイザーが解決できないような技術的 な問題が確認された場合は、現場での実践経験が豊富なカウンセラーや臨床検査技師をメ ンターとして送りこみ、技術支援をしていく(メンタリング)ことも考えられます。メン ターは、クライアントの同意を得て、カウンセリングに同席し、カウンセリングや検査を 評価し、カウンセラーとクライアントの信頼関係をそぐわないように配慮しつつその場で サービス改善のためのアドバイスをしたり、技術的な課題が出てきた場合は改善に向けて の計画作りを支援したりします。 14. インターナルサポーティブスーパービジョンと自己評価 上述のように外部からのサポートだけでなく、施設内部でのスーパービジョンや仕事仲 間同士のスーパービジョンも有効です。また、自分のサービスを自分で評価できるような 自己評価ツールの開発も有効でしょう。外部の人間のチェックだけに頼っていては、サー ビスの質の改善は望めません。ランダムにミステリークライアントを送り込み、カウンセ リングや検査を評価し、その結果をもとに勉強会を行うという取り組みをしている施設も あります。 113 15. モニタリングと評価システムの設置 HIV カウンセリング検査サービスの質を確保するためには、モニタリング・評価システ ムの設置も大切になります。各国の HIV カウンセリング検査のガイドラインに沿ったモニ タリングと評価用の指標が存在するかまずは調べてみましょう。HIV カウンセリング検査 サービスの認可システムなどを導入しているような国は、その認可のための基準が存在し ているはずですので、その基準が常に満たされるよう設定を行うことが大切になります。 114 6.エイズ対策の実際 ⑥母子感染予防対策 (Prevention of mother-to-child transmission of HIV: PMTCT) 厚生労働省 関西空港検疫所検疫課 垣本和宏 (第 3 版) はじめに 大人へのエイズ治療は世界的に拡大しているが、子どもに対する治療やその継続は大人 より困難である。子どもへの HIV 感染のほとんどは HIV を持つ母親からの母子感染であ ると考えられており、母子感染は HIV の主要感染ルートの一つとして重要である。その予 防方法はかなり確立したと思われがちであり、2012 年には約 62%の HIV 陽性妊婦が母子 感染予防のための投薬を受けたとされている 1)が、開発途上国では社会経済学的な相違な どから留意すべき点が多くある。例えば、多くの母親が児の父親との性行為によって HIV に感染した後に母子感染を起こしていることが多く、母子感染予防(PMTCT)と呼ばずに 親子感染予防(prevention of parent to child transmission: PPTCT)と呼んでいることもある。 本稿では PMTCT のための最新投薬方法など医学的な対策についてではなく、母子感染 の意味や PMTCT の考え方、開発途上国では PMTCT は何が問題となりやすいのかについ て述べることにする。 HIV の母子感染 HIV に限らず、ウイルスや細菌などの微生物が母から子どもに子宮内や産道、母乳を通 じて感染することを母子感染(mother-to-child transmission)と言い、垂直感染(vertical transmission)とも呼ぶことがある。HIV の母子感染は次世代となる子どもがキャリアとな り将来その疾患を発症することが主な問題となるが、差別や偏見、エイズ遺児など社会的 な問題とも密接している。 HIV の母子感染率は、特別な対策を取らなかった場合には 15-40%と言われている。HIV は子宮内感染や経産道感染、経母乳感染のいずれの感染ルートも存在し、特に陣痛が開始 してからの子宮内感染と経母乳感染が問題となる。そのため、日本などの先進国では母子 感染を予防するために、1)妊娠初期からの抗 HIV 薬の内服、2)陣痛開始前の帝王切開、 3)人工乳哺育が標準的な対策になっており、母子感染率を 1-5%近くまで低下させるこ とが可能とされている。しかし、開発途上国においては費用や安全面なども勘案した対策 が必要である。 PMTCT の基本的考え 国連などでは PMTCT として表 1 のよ うに 4 つの戦略を掲げている 2)。 つまり、 抗 HIV 薬 な ど を 使 っ た 狭 い 意 味 の PMTCT はこの中の prong 3 として扱われ、 115 prong 1 や 2 のように PMTCT の一次予防として女性への感染予防や HIV を持っている女性 への望まぬ妊娠の予防の重要性を戦略に含み、PMTCT を「HIV 母子感染の機会を減らす ための対策」としてとらえている。そして、さらに prong 4 として HIV 感染妊婦と彼女ら の子ども、家族のケアを PMTCT の戦略としている。 そのため、例えば、妊婦に対する HIV 検査とカウンセリングは prong 3 のみのために単 に HIV に感染した妊婦を見つけ出すことを目的とするのではなく、HIV 陰性者に対しては 予防教育について、HIV 陽性者に対しては他人への予防や本人や家族のケアについてカウ ンセリングを行う場として考えている。そのため PMTCT サービスの対象は HIV 陽性妊婦 のみならず妊婦全般やパートナーも含まれてくる。これらの観点から、カウンセリングと HIV 検査のための人材育成が PMTCT 拡大や改善の一つの鍵となるが、HIV 検査後に続く HIV 陽性者へのケアサービスがないところでの PMTCT サービスの導入は慎重にあるべき である。特に HIV 陽性率の低い地域においては、HIV 陽性者への治療やケアサービスが十 分でないことが多く、サービス間の連携やネットワーク強化が重要になってくる。 最近の話題 妊婦に対する HIV 検査について 妊婦に対する HIV 検査は、すでに述べたように単に HIV 感染妊婦を見つけ出すことの みが目的とならないような留意が必要である。 過去には VCT と同様に HIV 検査を受ける権利と受けない権利を尊重しながら 3)、妊婦 が妊婦健診でエイズや HIV の母子感染について学んだ後に希望者に対して HIV 検査をす る方法(opt-in)が主流であり、そのために男性パートナーの巻き込みなども重要視されてき た 4) 5)。しかしながら、希望者のみに自発的に HIV 検査を実施したのでは受検率も上がら なかったことなどから、現在ではほとんどのプログラムで、HIV 検査を特に拒否しないの であれば HIV 検査を実施する provider-initiated testing and counselling (PITC) (opt-out)の考え 方に転換された。その結果、妊婦の HIV 検査受検率は高くなったが、opt-out は本来の VCT の目的や人権的な観点からも課題が残されている 6)。 WHO ガイドライン“option B+”の導入 “Option B+”とは、WHO ガイドライン 7)に記されて いる PMTCT のための抗 HIV 薬の投薬方法の一つで ある。WHO はこれまで、 妊婦への PMTCT のための 抗 HIV 薬の投与は免疫機 能を示す CD4 の値を一つ の基準とし、CD4 値によっ て免疫機能が悪い妊婦に限 って抗 HIV 薬を投与する方法を標準としてきたが、 “option B+”は妊婦の CD4 値に関係な く、妊婦が HIV 陽性とわかった時点で妊婦への「治療」を開始することで母子感染を予防 する投与方法である。 116 この方法は母子感染率を低くするためには有効性や効率面では優れた方法であるが、妊 婦が免疫機能に関係なく内服を開始し、一生内服する必要があることから、病識のない妊 婦が抗 HIV 薬を正しく飲み続けられないことが問題となっている。 母乳哺育か人工乳哺育か 母乳が HIV 母子感染の一つの重要なルートであることは明確で、母乳哺育を回避した人 工乳哺育が HIV 母子感染率を低下させることは多くの研究などが証明している。しかし、 HIV 感染の有無にかかわらず母乳は安価であるうえに免疫物質を豊富に含み、清潔である ことや母子相互作用の面においても優れており、一方で人工乳哺育は衛生教育や飲用水へ のアクセスなどが問題となり、現実に多くの開発途上国では人工乳哺育児には下痢などの 感染症が多く、人工乳哺育児の死亡率も母乳哺育児より高いことがわかっている。HIV に 感染した母から生まれた子どもへの哺乳方法については HIV 感染予防の観点のみではな く、このように人工乳哺育による感染症や乳児死亡率の観点などから議論となっている。 また、HIV 母子感染率としても混合哺育(母乳も人工乳も与える)での HIV 感染率が母乳 哺育児への感染率よりも高かったとの研究結果 8)もあり、単純に人工乳を配布するだけで はむしろより危険な混合哺育を増やすだけとなるのではないかとの懸念もある。 その他、人工乳のミルク缶の配布により、ミルク缶を持った母親は HIV 感染者であると 差別を受けたり、逆に、ミルク缶の欲しさに HIV 感染を装ったり、また、配布されたミル ク缶を売って現金化したりする問題もこれまでには指摘されており、PMTCT においての 授乳方法については現在でも多くの 議論がなされている。WHO9)では、 表 2 にある条件が満たさない限り は完全母乳哺育であるべきであると 提言したが、これらの条件をどう測 定するのかは難題であり、その場そ の場で慎重に対処していくしかない のが現状である。 母子保健サービスの中の PMTCT HIV 感染の有無がわかっていない妊婦にとって、PMTCT サービスへの入り口は妊婦健 診(antenatal care: ANC)にあり、PMTCT サービスは母子保健サービスの中に統合される べきである。一方で、治療を兼ねた抗 HIV 薬の投与はエイズ対策サービスの一部でもある。 PMTCT のためには、妊婦の妊婦健診の受診率、自宅分娩の問題、TBA を含んだコミュニ ティーの役割などと言った母子保健と、エイズ対策が連携した形で PMTCT サービスを実 施していく必要がある。 HIV 陽性女性に対しての家族計画対策 HIV 陽性女性に対する望まぬ妊娠の防止は、prong 2 にもあるように古くから重要視され ていたが、HIV 陽性女性を対象としたエイズ対策と家族計画プログラムとの連携は多くの 地域において困難であった。しかし、最近になって HIV 陽性妊婦には望まぬ妊娠も多く含 まれていることも問題視されるようになり、HIV 陽性女性に対しての家族計画対策も課題 117 となっている。 多くの HIV 陽性女性は、コンドームの使用が HIV 感染予防や家族計画に有効な手段で あるとの知識はあるが、男性用コンドームの使用にはパートナーである男性の協力が必要 で、さらには男性パートナーへ自身の HIV の感染を開示することの難しさからコンドーム の使用率は必ずしも高くない 10)。そのため、望まぬ妊娠の危険にさらされている HIV 陽性 女性は多い。そのため、二重避妊法(dual method)としてコンドームと他の避妊法との併 用を提言している場合もある。 おわりに 先進国での PMTCT は、 HIV の母子感染ルートを抑えれば感染は防げると考えられるが、 開発途上国では通用しない。また、HIV の母子感染予防ができても下痢症で死亡する子ど もが増えても意味がない。PMTCT は母子保健サービスの一部としてのとらえながらも他 のエイズ対策サービスとの連携も重要である。 一方で、女性を対象とした対策であることから、ジェンダーに関連した社会的文化的な 背景を理解するなど、PMTCT への活動にも広い視野が必要である。 参考資料 1) UNAIDS, Global report: UNAIDS report on the global AIDS epidemic 2013. 2) UNICEF UNAIDS WHO UNFPA HIV and infant feeding, Guidelines for decision-makers 2003 3) Fylkesnes K, et al. HIV counselling and testing: overemphasizing high acceptance rates a threat to confidentiality and the right not to know. AIDS. ;13(17):2469-74. 1999 4) Kakimoto K et al. Influence of the involvement of partners in the mother class with voluntary confidential counselling and testing acceptance for Prevention of Mother to Child Transmission of HIV Programme (PMTCT Programme) in Cambodia. AIDS Care, 19(3): 381-384, 2007 5) Maman S et al. Women's barriers to HIV-1 testing and disclosure: challenges for HIV-1 voluntary counselling and testing. AIDS Care. 13(5): 595-603.2001 6) Kakimoto K et al. Introduction of Provider Initiated Testing & Counseling (PITC) to HIV testing for Pregnant Women in Cambodia. Journal of International Health. 23(3), 199-206, 2008 7) WHO. Consolidated guidelines on the use of antiretroviral drugs for treating and preventing HIV infection. 2013. 8) Coutsoudis A, et al. Method of feeding and transmission of HIV-1 from mothers to children by 15 months of age: prospective cohort study from Durban, South Africa. AIDS; 15: 379-87, 2001 9) WHO. WHO statement, Effect of breastfeeding on mortality among HIV-infected women. 2001. 10) Nakaie N et al. Family planning practice and predictors of risk of inconsistent condom use among HIV-positive women on anti-retroviral therapy in Cambodia. BMC Public Health, 14:170, 2014 118 6.エイズ対策の実際 ⑦ HIV エイズにより過酷な状況にある子どもたちの保護 国立国際医療研究センター 国際医療協力局 野崎威功真 (第 3 版) はじめに HIV 感染症の拡大は、 貧困者、セックスワーカー、MSM、IDUs、非定住者(Mobile population) などの社会的弱者に様々な影響を及ぼしているが、特に子どもは、間接的にも多大な影響 を被っている上に支援が届きにくい。エイズ対策の対象となる子どもは、母子感染などに より HIV に感染した子どものみならず、HIV/エイズにより、家計の担い手が病床に付した り、亡くなったり、さらにはそのために貧困や差別・偏見に直面している子ども達を含ん でいることから、このような子ども達を「エイズ遺児と HIV/エイズにより過酷な状況にあ る子どもたち”Orphans and Vulnerable Children: OVC”」と呼んでいる。以前は、親がエイ ズで死亡した子どもをエイズ孤児(AIDS orphans)と呼んでいたこともあったが、正しく 状況を説明していない言葉として最近では使用されなくなっている。さらに、OVC の中で も、HIV 陽性の母から生まれた子どもの多くは HIV に感染しておらず、HIV に感染してい る子どもも必ずしも遺児でないように、子ども自身の感染の有無、保護者の有無にかかわ らず、HIV/エイズは子どもに対して様々な形で大きな負担を強いている。そこで、ここで はエイズ遺児に留まらず、HIV/エイズにより過酷な状況にある子どもを包括して取り上げ たい。 OVC を取り巻く状況 2012 年の時点で、世界全体で 1,780 万人の子どもたちがエイズのために片親または両親 を亡くしており、そのうち 1,500 万人はアフリカに集中している 1)。一方で、さらに数百 万の子どもがその他の理由で遺児となっていて、47 ヵ国の調査からは、エイズやその他の 理由で遺児となっている子どもの割合は 5%に上るという報告がある。エイズを含む理由 で遺児となった子ども達は、学校に通い続けられなくなったり、食の安全性が脅かされた り、不安や精神的に追い込まれたりするリスクが高く、生活の糧・大人の庇護を得る代わ りに性的関係を強いられたり、不安を解消するために麻薬などに手をだしたりする危険が 高まり、結果として、HIV に感染するリスクも高まる。こうした直接的な影響以外に、親 や教師が死亡するなどして教育の機会が奪われたり、継父母による虐待や暴力にあったり、 若年労働に従事させられたりと、数としてはなかなか現れてこないが多大な影響を被って いる。 OVC 支援の取り組み 当初 OVC の支援は、孤児院やシェルター(一時避難所)のような施設による活動が中 心であった。しかし、OVC の爆発的な増加に伴い、これらの施設のみでは対応しきれなく なったことや、充分な精神的サポートを得たり家庭やコミュニティでの振る舞いを身につ けたりすることが困難なことから、家庭やコミュニティの受容能力の強化に重点が移行し てきている 2)。 これは親族や地域社会による子どもの養育を支援することに留まらず、 119 両親特に母親へのケアなどを通じて遺児となる子どもを減らすことや、兄弟が離散しない ための支援、地域における子どものデイケアといったことも含まれる。このような OVC 支援の変化を受けて関係する国際機関が取りまとめた、OVC 支援における 5 つの戦略を表 1に示した 3)。 多くのリスクを抱える OVC には、こうした社会・心理的サポートの提供、教育、保健、 保護施設、食事と栄養などの確保に加え、虐待、暴力、搾取、差別、人身売買、相続権の 喪失などから守ることも必要としている。 また、OVC のうち、心理社会的理由や経済的困窮により破壊的になったり様々な誘惑に 陥ったりしやすい環境にある子どもに対しては、感染リスクの高い性的行動や薬物の乱用 に走ることも懸念されることから HIV 感染の予防も重要な要素である。例えばザンビアか らは子どものセックスワーカーの 47%が両親を、24%が片親を失っていたという報告もあ る。このため、包括的な性保健教育や感染のリスクを下げるサービスのみでなく、学校や 宗教団体・コミュニティを通じた、充分なケアを提供できる大人との関係の必要性が強調 されている 4)。 これらの支援は、子どものおかれた環境や状況に応じて適切に提供されねばならない。 コミュニティの社会的・文化的背景により”Vulnerable”の定義も異なるため、誰が最も支援 を必要としているのか見極める必要がある。また、一口に HIV/エイズの影響、父親もしく は母親の死の影響と述べた場合にも、児の精神的・肉体的発育段階によりその影響は大き く異なり、支援のあり方も異なってくる。子どもとは成長する存在であり、信頼感や帰属 意識などを獲得するのに必要な良い養育環境の確保に始まり、就学支援や同年代の子ども と遊ぶ機会の確保、さらには技術訓練や職能訓練、良い仲間関係の構築と維持への支援な ど、その成長に応じた対応を必要とする。6) いつでもどこでもある一定以上の均一なサー ビスが受けられることを是とする他の保健サービスと異なり、個別の対応・支援を必要と する点で難しさがあると言える。 GF などの支援を背景に、多くの国で OVC 対策の取り組みを強化してきたが 5)、実際に は何らかの外部からの支援を受けられているエイズで親を亡くした家庭の割合は 11%に 過ぎないという調査報告がある(2005-2009 に実施された 25 ヵ国での世帯調査の分析)6)。 特に南部アフリカなどの高感染国においては、HIV/エイズによる”OVC”を、その他の子ど もと区別する事に疑問が呈されるようになった。子どもの多くが何らかの形で HIV/エイズ の影響を受けている環境下では、エイズ遺児と例えば交通事故による遺児を分ける事に、 どのような意味があるのかという事に人々が気づき始めている。こうしたことから、現在 では OVC に特化したプログラムを展開することよりも、より広い社会保障制度からエイ ズ遺児がこぼれ落ちないようにしていくことが、推奨されるようになってきている 7, 8)。 若者(Youth)の対策強化の必要性 近年、 HIV 対策における若者の巻き込みの重要性が、 広く認識されるようになってきた。 高齢化社会と言われているが、世界で見ると若者の人口は歴史上もっとも増えており、10 才から 19 才の若者の人口は、全人口の 5 分の1にあたる 12 億人に上ると推定されている 9) 。このうちの約 4 分の一がサハラ以南のアフリカに居住しているが、その人口は 2050 年 までに 2 倍に増えるとされている。 現在、約 210 万人の若者が HIV に感染しているとされているが、世界の HIV 新規感染 120 者の 4 割が若年層という報告もあり、この年齢層の感染予防は特に重要視されている 6)。 母子感染プログラムの拡大で 0〜14 才の新規感染が減少してきたが、若年層の新規感染者 数は依然高く(図 1) 、特にアジアの国では、Key population とよばれる IDUs、MSM、セ ックスワーカーが、この年齢層の新規感染の 95%占めており、対策が急務である。 こうしたことから、通常、多くの統計では 0〜14 才をさして「子ども」としているが、 UNICEF 等を中心に、人生の最初の 10 年に必要な支援、次の 10 年に必要な支援がまとめ られ、若年期を含めた包括的・継続的な支援を提供することの重要性が広く認識されるよ うになってきている 8)。 小児の HIV 治療(ART: Anti Retroviral Therapy)の現状 子どもの治療は、近年で大きく進捗した分野の一つである。母子感染が多い小児は、病 気の進行が早いことが知られており、適切な治療が行われなかった場合、約 3 分の 1 が 1 才までに、半分が 2 才までに亡くなる。HIV 検査の機会と適切な治療を子ども達にも提供 することの重要性は広く認識され、努力の結果、15 才未満の治療を必要とする子ども達の 34%に治療が提供できるようになった。成人が治療を必要とする人の 64%に治療を提供で きるようになったことに比べると半分だが、成人に比して小児の治療が難しい(表2)こ とを考慮すると、大きな成果であり、小児のエイズ死亡の減少にも貢献している(図2) 。 しかしながら、まだ 3 分の 2 が治療にアクセス出来ずにいること、根治療法のない現状で は一生涯治療を続けなければならず、大人よりも治療期間が長くなることなどを考えると、 さらなる努力が必要な分野であると言える。 最後に OVC への支援は、乳幼児死亡率の低下といったミレニアム開発目標や “Education for All”, “the Elimination of the Worst Forms of Child Labor”などの他の国際的な取り組みへの貢 献も期待されている。「子ども」という比較的社会の注目をあびやすい分野であるにもか かわらず、その対策が遅れてきていることの要因のひとつに、その難しさがあげられる。 発育段階に応じた細やかな対応は、資源の限られた発展途上国の環境では決して容易では なく、広く政策レベルの支援から、地域に根ざした草の根レベルの支援まで取り組んでい く必要がある。このような支援をいかに継続的に確保していくかなど、子どものエイズ対 策に与えられた課題は大きい。 表 1 OVC 支援の 5 つの戦略 1. 親が健在でいられるような支援や経済的、精神的支援などを通じ、OVC を守り養育する 家族の受容力を伸ばす 2. 地域に根ざした対応を支援する 3. 教育や保健医療、出生記録といった必要なサービスへのアクセスを確かなものにする 4. 政府が政策の改訂や法律の制定、資源の投入などの手段を用い、最も弱い立場にいる子 ども達を守る事を確保する 5. アドボカシーや、HIV/エイズの影響を受ける子どもや家族に優しい環境をつくるための 社会参加促進を通じ、全てのレベルの人の意識を高める 121 表2 小児の ART 治療の難しさ 1) 社会的な面での難しさ ・ 政治的コミットメントの不足 ・ 絶対的な人材不足・予算不足の中、人材効率や費用対効果が低い ・ 大人社会より差別や偏見を受けやすい ・ 告知および病識の問題 -いつ、だれが、どのように病名の告知や病態の告知を行うべきか -病識の有無はアドヒアランスや生活上の感染対策(傷の処置など)にも関係する ・ 母子感染が多く保護者も病気がちで面倒を見切れないことがある 2) 医療の面での難しさ ・ 診断・治療ガイドラインの不足 ・ 18 ヶ月以前の早期診断が困難 ・ 既存の VCT では対象外になっていることがある ・ 採血などの手技的な難しさや、血液検体量の問題、検査室の整備の必要性 ・ 検査値の正常値も年齢により変化する(CD4 の正常値も年齢により大きく異なる) ・ 小児用の抗 HIV 薬は限られており、剤形や味、薬の量などにより、内服が影響される ・ 思春期などアドヒアランスの低下する時期が存在する 図 1, 若年層の HIV 推定新規感染者数の推移(2010-2012) 図 2,若年層の HIV 推定死亡数の推移(2000-2012) 122 参考文献 1) UNICEF Data: Monitoring the Situation of Children and Women, Protection, Care and Support for Children Affected by HIV and AIDS: (http://data.unicef.org/hiv-aids/care-support) 2) Orphans and other vulnerable children support toolkit, USAID, 2004 (www.ovcsupportnet/sw505.asp) 3) The framework for the protection, care and support of orphans and vulnerable children living in a world with HIV and AIDS, July 2004 (http://www.aidsalliance.org/graphics/OVC/documents/0000292e.pdf) 4) UNICEF, A call to action “Children the missing face of AIDS”, UNICEF, 2004 (www.unicef.or.jp/publications /index_29157.html) 5) Zosa-Feranil, I., A. Monahan, A. Kay, and A. Krishna. Review of Orphans and Vulnerable Children (OVC) in HIV/AIDS Grants Awarded by the Global Fund to Fight AIDS, Tuberculosis and Malaria (Rounds 1–7). Washington, DC: Futures Group, Health Policy Initiative, 2010 (http://www.healthpolicyinitiative.com/Publications/Documents/1346_1_OVC_Global_Fund_De sk_Rev_FINAL_August_2010_acc.pdf) 6) UNICEF, Promoting Equity for Children Living in a World with HIV and AIDS, 2012 (www.unicef.org/aids/files/PromotingEquity_Final.pdf) 7) Miller, Elizabeth and Michael Samson (2012) “HIV-sensitive Social Protection: State of the Evidence 2012 in sub- Saharan Africa. Commissioned by UNICEF and produced by the Economic Policy Research Institute, Cape Town. (http://www.unicef-irc.org/files/documents/d-3826-HIV-Sensitive-Social-Prot.pdf) 8) The Global Partners Forum, Protection, Care, and Support for an AIDS-Free Generation: A Call to Action for all Children, 2012 (www.unicef.org/aids/files/GPF_Call_to_Action.pdf) 9) UNICEF, Toward AIDS Free Generation-Children and AIDS: Sixth Stocktaking Report, 2013 (www.childrenandaids.org/files/str6_full_report_interactive_29-11-2013.pdf) 123 6.エイズ対策の実際 ⑧ピア・エデュケーション (Peer Education) 特定非営利活動法人 HANDS 浅野円香 (第 2 版) 1.ピア・エデュケーションとは エイズ対策用語として「ピア(peer)」による活動はよく知られています。 「ピア(peer)」 は、一般的に「社会的、法的に地位の等しいもの; 対等者; 仲間; 同僚」と定義されていま す1。ピア活動は、医療や社会福祉分野において、同じ病気や障害と共に生きる者どうしの 間で実践されてきた経緯があります。本章で紹介するピア・エデュケーションは、HIV や エイズとともに生きる当事者の活動を含めた「価値観や境遇が似た者が中心となって行う 社会活動」という視点から解説していきます。 ピア・エデュケーションでは、「参加者が自分の健康について自分で考える」といっ た当事者意識が重要と考えられています。参加者の間で問題意識が共有され、お互いを仲 間として支え合います。ピア活動が始まる経緯はさまざまですが、第三者が強制的にすす めていくものではなく、当事者の自発的合意のもとで行われます。例えば思春期の若者を 対象に性教育を行う場合は、若者が企画の中心となり、大人は教える側ではなく背後でサ ポートする役割を務めます。 2.ピア・エデュケーションの特徴 1)信頼性、説得性、受容性がある ピア・エデュケーションでは、情報を伝える側と受け取る側が、似たような経験や立 場にあることが特徴です。何故なら自分のセクシュアル・ヘルス2や、身の回りの HIV 感染 に関する経験について他人に対して話しをするのは難しいことであり、性について語るこ とが社会でタブー視されていることも少なくないからです。このような事情から、自分の 年齢や所属している地域や集団、性別、社会的地位に近い立場の者と話をする場や機会を つくることが大切なのです。 2)特定の集団に対して、多様な形での情報提供ができる 地域の中には、性の情報、例えば性感染症などの予防教育を十分に受けられない状況 にある人々がいます。スラムや路上に暮らす若者、移住労働者、10 代の妊産婦、少数民族、 セックスワーカー、難民、少年兵などの、社会的に弱い立場にいる若者達がその例です。 このような場合、ピア・エデュケーションの実践者(ピア・エデュケーター)が彼らのと ころへ出向き、情報提供することができます。各集団のネットワークを通じて、公共の保 健医療サービスが行き届かないこれらの「社会的弱者」と繋がりを持つことができます。 1 大辞林 第二版より セクシュアル・ヘルスとは、セクシュアリティ(性)に関する、身体的、心理的、ならびに社会・文化的ウェルビー ング(良好な状態)の進行中のプロセスの経験である。(WHO, PHAO.2000.「セクシュアルヘルスの推進」より) 2 124 3)参加者の自尊心を高める(エンパワメント) ピア・エデュケーションの実施者であるピア・エデュケーターと、受ける側にある参 加者が互いに話を重ねていく中で、参加者は、「問題を抱えているのは自分一人ではない」 ということで勇気づけられたりします。また、他の人との関係性の中で自分が認められる ことで、自尊心が高まることもあります。HIV 陽性者をはじめ、社会的に差別を受けやす い人々は、同じ問題を抱える仲間達によるピア・エデュケーションがきっかけとなり、「自 分たちの力でエイズに立ち向かおう」という啓発活動を地域で展開することもあります。 ピア・エデュケーションでは、活動の計画段階から、実施、モニタリング評価に至る全て のステージにおいて、当事者が参加していることが成功の秘訣とされています。 3.ピア・エデュケーションの種類 以下表1にあるように、ピア・エデュケーションは、対象者の規模や目的に応じて、 「カウンセリング」「教育」「情報提供」の 3 つに分類できます。状況に応じて、これら の 3 つの活動を組み合わせて、ピア・エデュケーション・プログラムを作ることができま す。 表 1 若者をターゲットにしたピア・エデュケーション活動の分類 説明 目的 対象 カウンセリング 教育 情報提供 同じ価値観を共有する 少人数の若者がキーパーソ メディアやほかの情報媒体 ピア(仲間)どうしが、 ンとなり、HIV/エイズや性に を通じて、一度に大人数の 一緒になって問題解決 関する情報を複数の人に対 若者に対して情報を普及す 方法を考える して普及する る 情報提供、スキルズビル 情報提供、スキルズビルディ 情報提供、 ディング、社会的サポー ング、社会的サポートの提 小さな行動変容 トの提供、態度の変容 供、行動変容 個人 小グループ 集団 HIV/ エ イ ズ や セ ク シ ュ HIV/エイズに対してある程 地域の人々、学校における アル・ヘルスについて相 度関心がある集団、あるいは 全校生徒、一般大衆など。 談やサポート、より個別 あらかじめ絞られたターゲ HIV/エイズに対する無関心 的な情報提供が必要な ットの集団 層をふくむ 人 事例 学校、保健機関、NGO、 学級単位、グループディスカ 演劇、歌、クラブイベント、 そのほか地域の団体で ッション・ワークショップな ポスター・パンフレット3や 行われる、より個別的・ ど、ピアに主導されたグルー コンドームの配布、ラジオ 具体的な問題に対する 番組などのメディアを通じ プによる予防啓発 相談や協力 出典:Fee and Youssef , 1993 3 た情報発信 4 IEC (Information, Education, Communication) Material とも呼ばれている。 4 Fee, N,Youssef, M(1993).Young People, AIDS, and STD Prevention: Experiences of peer approaches in developing countries, WHO/GPA, Geneva. 125 4.ピア・エデュケーションの実践 1)ピア・エデュケーションの実施体制 ピア・エデュケーションは、一般的に、ピア・エデュケーターというファシリテータ ーが、ある特定の人々や集団が必要としている情報を提供します。しかし、ピア・エデュ ケーター自身はその分野の専門家であるとは限りません。例えば HIV/エイズに関連したピ ア・エデュケーションを行う場合、活動の対象者が抱える HIV/エイズや性の問題に、ピア・ エデュケーターが一人で対応できない時には、地域の保健医療施設と連携する必要が出て きます。また、エイズは人々の生活全体に広く影響を与える問題であるため、地元の学校 や宗教施設などの理解と協力を得ることも重要になってきます。 予防 地域の保健医療施設 治療 (NGO の協力が得 られる場合もある) 保健サービスの改善に ピア・ エデュケーター 向けたフィードバック の育成 ピア・エデュケーター 情報提供 ニーズ把握 HIV/エイズに関す 保健医療サービス を受けられるよう ピア・エデュケーションを る知識が向上する 受ける対象者 / 対象集団 HIV 抗体検査 になる を受けに行く ようになる ケア 地域の協力者(学校、教会、村長、 検査 ヘルスボランティアなど):活動の 機会や場所を提供してもらう 図 1 HIV/エイズに関連したピア・エデュケーションを実施するための連携事例 図 1 に示されているように、ピア・エデュケーターは、自らがワークショップを企画・ 運営し、グループのファシリテーションできるようになるまで、専門的な知識や技術を習 得する研修を受けます。例えば、HIV/エイズの感染経路や予防方法、VCT センター5やヘル スセンターの利用方法などの知識を、保健医療従事者や NGO スタッフなどから学びます。 その後、ピア・エデュケーターたちは、自分の仲間が一番受け入れやすい方法を使って情 5 人々が自発的にカウンセリングと HIV 抗体検査を受けて、自分の HIV ステイタス(陽性か陰性か)を調べる場所。病 院やヘルスセンターなどの保健医療機関が運営しており、検査機関によって無料か有料かは異なる。 126 報提供を行い、保健施設や地域の関係者との橋渡しをします。 2)若者によるピア・エデュケーションを事例として HIV/エイズのピア・エデュケーションの一例として、10-20 歳代の子どもや若者によ る活動を紹介します。若者の中で特に HIV に感染するリスクが高いと言われているのは、 ストリートチルドレン、IDUs、セックスワーカー、同性愛者、親を亡くした子ども(遺児)、 10 代の母親、工場労働者、難民などの、社会的に困難な状況にある人々です。彼らに対し て、治療やケア、予防へのアクセスを確保することが重要です。 写真 1、2 は、カンボジアでの HIV/エイズ・ピア・エデュケーターに対する研修の一場 面です。保健医療を専門とする NGO 職員が講師となっています。参加者である若者たちと 同年代の講師であるため、参加者は講師による話に容易に共感することができます。ピア・ エデュケーターは、知識を身に付けるだけでなく、ファシリテーションスキルも習得しま す。参加者は車座になり、講師は、参加者が話し合いやすい環境をつくるよう努めます。 写真 2 に写っている若者は、ゲームを通じて男性・女性の体や、性と生殖について学んで います。その後、性感染症や避妊、HIV/エイズについて学び、地域の保健所や VCT センタ ー、病院を実際に訪問します。 写真 1 ピア・エデュケーターの研修風景 写真 3 ピア・エデュケーション風景 写真 2 男性の体や性と生殖について学ぶ 写真 4 人気アイドルの写真入りのキーホルダー HIV 予防啓発には、パンフレット、ポスター、パソコンソフトなどの教材のほかに、 127 さまざまな IEC ツールが使用されています。ハガキ、キーホルダー、雑誌、T シャツなどの 若者に身近なグッズを、地域の若者が受け入れやすいようにデザインして配布/販売しま す。最近ではインターネットカフェの普及を利用して、IT 教材による教育も検討され始め ています。 写真 5 エイズや性感染症の電話相談の「ホットライン」を宣伝するために、 学校の前にある電話ボックスにホットラインのロゴ入りシールが貼 ってある 写真 6 ダンスを通じたエイズキャンペーン 写真 7 ラジオ番組を通じてエイズを伝える 5.まとめ ピア・エデュケーションは、誰を「ピア」と考え、何を「エデュケーション」として 捉えるのかによってさまざまな解釈があり、幅広い概念であると言えます。そのため、HIV/ エイズに関連したピア・エデュケーションを計画する際には、対象者がどのような経路で HIV に感染しており、そのためにどのような予防対策をとるのが最善であるのかを考える ことが大切です。 本章では、ピア・エデュケーションを HIV 予防対策の一つの方法として紹介しました。 各国、各地域、各コミュニティにおいて、ピア・エデュケーションが効果を発揮するため には、その活動が、個人や集団の個別なニーズに基づいて計画されていることが必要です。 そして、ピア・エデュケーション活動を継続的に行っていくためには、地域の保健医療従 事者や他の関係者、行政や NGO などと連携して、経済的な基盤を確保すると共に、ピア・ エデュケーションのシステムを構築していくことも大きな課題です。ピア・エデュケーシ ョンを支援し、コーディネートする人々の間でも、助け合いのピア精神を忘れてはなりま せん。 128 参考文献 Joint United Nations Program on HIV/AIDS (UNAIDS). 1999. Peer Education and HIV/AIDS: Concepts, Uses, and Challenges. Geneva: UNAIDS. Milburn, K. 1998. A Critical Review of Peer Education with Young People with Special Reference to Sexual Health. Health Education Research. 1995, 10(4); 407-420.Turner G, Shepherd J. A Method in Search of a Theory: Peer Education and Health Promotion. Health Education Research.14 (2): 235-247. 劔陽子.2006.ピア・エデュケーションでエッチ・愛・カラダ.東京:明石書店. 和田知代.2001.途上国における青少年リプロダクティブヘルス・プログラムの計画と実 施-日本援助関係者のためのガイドライン-. 東京:財団法人国際開発高等教育機 構.pp14-46. 129 6.エイズ対策の実際 ⑨ハーム・リダクション 国立精神・神経センター精神保健研究所 薬物依存研究部心理社会研究室 研究員 嶋根卓也 (第 2 版) 1. 注射薬物使用と HIV 感染 注射器/針の共用を行う IDUs は、HIV など血液を媒介とする感染症のリスクが高い集団で あり、世界の HIV 感染者の約 10%は注射薬物使用(Injection drug use、以下 IDU)によると されるi。IDUs 人口は世界 130 カ国で 1,320 万人と推定され、そのうち 25 カ国では IDUs の HIV 感染率が 20%を超えると報告されているii。注射器/針の共用に伴う HIV 感染は、IDUs 間において極めて短期間に感染を拡大し、ひいては彼らのセックス・パートナー等を通じて、 一般人口に感染を拡大させる危険性を有する。HIV 感染のような IDU に伴う健康被害を避 ける最善の方法は、今すぐに薬物乱用を中止することである。しかし現実には、治療を受 けているクライアントの中には再使用を繰り返しているケースも少なくない。では、なぜ 薬物乱用者は簡単に薬物を中止することができないのか? 2.薬物依存症と再使用の現実 程度に差はあれ、乱用される薬物には精神依存性があり、依存性薬物の乱用を繰り返す うちに薬物依存症となる。薬物依存症とは、自らの意志では薬物乱用をコントロールする ことができない慢性的な脳の異常状態である。薬物依存症は精神障害の一つであり、 DSM-Ⅳでは物質使用障害(Substance use disorders)に分類され、耐性(Tolerance:同じ効果 を得るために以前より多くの薬物を必要とすること)、離脱(Withdrawal:薬物の摂取を軽 減あるいは中止した際に不快な身体症状が出現すること)などが 物資依存(Substance dependence)の診断基準となっている。また、基準項目には挙げられていないが、渇望感 (Craving:薬物乱用に対する抑えきれないほどの強い欲求)は、多くの患者に共通する臨 床症状である。薬物乱用者が簡単に薬物を中止できない理由はこの薬物依存症にある。薬 物依存症治療における最終的なゴールは薬物を使わない生活を送ること、つまり断薬であ り、精神科領域、社会福祉領域、司法領域、自助グループなど各分野でさまざまな取り組 みが行われている。 断薬を目指したさまざまな取り組みは、患者がより健康的に生活するための根本的な取 り組みと言えるが、一般的に薬物依存症からの回復には長い時間を要し、その過程におい て再使用を繰り返してしまうケースは少なくない。一方、感染症予防の観点からみれば、 再使用を繰り返している現実を踏まえた上で、IDUs 間での HIV 感染の広がりに対する何ら かの取り組みが求められる。そこで登場するのがハーム・リダクション(Harm reduction) という考え方である。 3.HIV 感染予防におけるハーム・リダクションの役割 1)ハーム・リダクション(Harm reduction)とは何か? ハーム・リダクションとは、ある危険行動によって引き起こされる健康被害を軽減させ ることを目的としたコンセプトを指す言葉である。ハーム・リダクションは、交通事故を 130 例に挙げると理解しやすいかもしれない。車の運転は、交通事故により死亡やケガを引き 起こす恐れがある。交通事故の最も有効な予防方法は、人々が車の運転をやめることであ るが、その実行が現実的に不可能であることは言うまでもない。そこで、交通事故の予防 策としてシートベルトの着用が求められている。当然のことながら、シートベルト自体で は交通事故の発生を予防することはできない。しかし、走行中のシートベルト着用は、交 通事故による死亡やケガの程度を軽減することが可能である。これは、車が道を走り続け る以上、交通事故は常に起こり得るという現実を受け止めた上で、運転者や同乗者の健康 被害を少しでも減らすことを目的とした現実的な取り組みと言えよう。 薬物乱用分野におけるハーム・リダクションの考え方もこれと同様である。薬物乱用に伴 う様々な健康被害(例えば HIV 感染、オーバードーズなど)を軽減することを目指した考 え方である。ハーム・リダクションのコンセプトは様々な分野、様々な文脈で用いられる可 能性があるが、本稿では、IDUs に対する HIV 感染予防を指すものとする。 2)ハーム・リダクションのヒエラルキー ハーム・リダクションによるアプローチは、しばしば断薬を目指すアプローチとは対極な 考え方と捉えられ、時として薬物使用を容認したアプローチと誤解されることもあるが、 ハーム・リダクションは以下のヒエラルキーが存在するiii。 (1) (2) (3) (4) 薬物を使わない(断薬) もし薬物を使うなら、注射しない もし注射をするなら、衛生的な注射器を使う、決して注射器の共用をしない もし不衛生な注射器を使う、誰かと注射器を共用するなら、注射器を消毒する 上記のように、ハーム・リダクションは、断薬を目指す薬物治療アプローチと相反する アプローチではなく、相互補完的なものである。HIV 感染という直面する課題に対応する ため、IDUs に必要な知識や道具を提供しながら、彼らが断薬を実現するまで健康的な生活 が送れるように支援を行うものである。 薬物依存症治療に、ハーム・リダクションのアプローチを取り入れる動きもみられてい る。治療共同体(therapeutic community)は、世界中で実践されている代表的な薬物依存症 治療の実践であり、構造化された小さなコミュニティを作り、そのコミュニティでの生活 を通じて断薬を目指すという取り組みが歴史的にとられてきたiv。しかし、IDUs 間における HIV 感染拡大の問題に直面した治療共同体では、断薬のみをゴールとする従来のアプロー チを再考せざるを得ない状況となった。つまり、断薬は目指すべきゴールとして必要では あるが、ハーム・リダクションによるアプローチも現実的な考え方として必要と判断した のである。実際に、欧州のいくつかの治療共同体では、従来の断薬的なアプローチにハー ム・リダクションを相互補完的に取り入れた統合型モデルを採用しているv。 4.ハーム・リダクションに基づいたプログラム例vi では、ハーム・リダクションに基づくプログラムにはどのようなものがあるか?以下に代 表的なパッケージを示した。 1)注射針・シリンジプログラム(NSP: Needle-Syringe Programming) IDUs を衛生的な注射用具にアクセスさせるためのプログラム。注射用具とは、針やシリ ンジはもちろん、フィルター、クッカー、コンテナ、精製水など注射器による薬物使用に 関連する道具全般を含む。持参した使用済みの針やシリンジを回収し、新しいものと交換 131 する「注射器交換プログラム(NEPs: Needle Exchange Programmes)」が一般的である。通常こ のプログラムは、当事者が利用しやすい場所(例えば、人目に付きにくいような場所)か、 当事者がいるストリートにテントを張って(アウトリーチ)実施される。また、こうした 交換場所は、健康情報やコンドームの提供場所となり、治療につなぐ機会にもなる。なお、 注射器交換プログラムの実施が不可能な場合は、消毒薬の配布を行う。 2)薬物代替療法(Drug Substitution Treatment) 依存性薬物の治療方法の一つ。ヘロイン(アヘンから合成される麻薬)などの麻薬依存 症者の離脱症状(身体依存に基づく禁断症状)を軽減する目的で、代替薬が処方される。 代替薬としては、メタドン(Methadone)やブプレノルフィン(Buprenorphine)が挙げられ る。医師の治療計画に基づき、徐々に服用量を減らしてゆく「メタドン維持療法(MMT: Methadone Maintenance Therapy)」が最も一般なプログラムである。メタドンは、経口で投 与しても注射の場合とほぼ同様の効果が得られるため、錠剤、口腔崩壊錠、経口シロップ の形で販売されている。メタドンの離脱症状は、同量のモルヒネ(ガン疼痛に対する鎮痛 薬)やヘロインに比べ穏やかである。また、適正な使用量においては、ヘロインへの欲求 を減少させる効果があるが、代替薬のメタドンを中止できなくなるケースも多く、依存症 治療としては賛否が分かれている。しかし、注射器から経口摂取へ薬物の摂取方法を変化 させることにより、安全ではない注射器使用を減らし、HIV 感染のリスクを軽減させると いう明らかなエビデンスがある。 3)行動変容のためのコミュニケーション(BCC: Behavior Change Communication) HIV 感 染 予 防 に 関 す る 情 報 提 供 や 健 康 教 育 は 、 こ れ ま で Information, Education, Communication の頭文字を取って、IEC 活動と呼ばれていた。しかし、IEC 活動が、健康教 育資材の製作や、知識の伝達にとどまってしまい、最終目標であるはずの行動変容結びつ いていないという反省の声が出てきた。そこで、近年では目的である行動変容を強調した 行動変容のためのコミュニケーション(BCC: Behavior Change Communication)という言葉 が用いられるようになった。薬物使用者に対する BCC 活動では、当事者性(ピア=peer)を 重視しており、薬物使用者のネットワークを通じて、あるいは回復者(Recovering Staff)が アウトリーチワーカーとして、サービス提供に関わる場合が多い。こうしたアウトリーチ では、当事者に向き合ったコミュニケーションが不可欠である。リスク行動の変容を目的 と し た カ ウ ン セ リ ン グ ( Risk Reduction Counseling ) や 動 機 付 け 面 接 ( Motivational Interviewing)などの手法がとられることが多い。また、HIV や HCV(C 型肝炎ウイルス) の VCT が組み合わされることもある。 5.結び エイズ対策隊員として、薬物使用者に関わるのであれば、まずは薬物使用者に対する理 解を深めることが求められよう。薬物使用者は社会的に弱い立場に置かれやすい集団、い わゆる Vulnerable group であり、保健医療サービスがなかなか届きにくい、Hard-to-reach population でもある。こうした集団に保健医療サービスを提供しようとする側に求められる 姿勢は、薬物使用に対する非審判的(Non-judgmental)な態度ではなかろうか。つまり、薬 物使用自体については中立な立場をとりながら、実行可能な取り組みを模索する姿勢であ る。また、薬物使用者の価値観や視点を取り入れた敷居の低い(Low-threshold)取り組みを 考えて行く必要があろう。 132 6.本稿をより深く理解する上で役に立つ文献 厚生労働省医薬安全局監視指導・麻薬対策課:ご家族の薬物問題でお困りの方へ 2007 http://www.ncnp.go.jp/nimh/yakubutsu/drug-top/booklet.htm 古藤吾郎,嶋根卓也,吉田智子,三砂ちづる:ハームリダクションと注射薬物使用: HIV/AIDS の時代に.国際保健医療.21(3);185-195,2006. i UNAIDS, Health Canada, The Open Society Institute & The Canadian International Development Agency. The Warsaw Declaration: A Framework for Effective Action on HIV/AIDS and Injecting Drug Use. Second International Policy Dialogue on HIV/AIDS, Warsaw (Poland), November 12–14, 2003. ii Aceijas, C., Stimson, G.V., Hickman, M., Rhodes, T., on behalf of the United Nations Reference Group on HIV/AIDS Prevention and Care among IDU in Developing and Transitional Countries. Global overview of injecting drug use and HIV infection among injecting drug users. AIDS, 2004, 18:2295–2303. iii World Health Organization.Harm Reduction - Good Practice in Asia. The Integration of Harm Reduction into Abstinence-based Therapeutic Communities,2006. iv National institute on drug abuse. therapeutic community, Research report series,2002. v Broekhaert, E., Vanderplasschen, W. Towards the integration of treatment systems for substance abusers:Report on the Second International Symposium on Substance Abuse Treatment and Special Target Groups. Journal of Psychoactive Drugs, 2003, 35(2):237–245. vi 古藤吾郎,嶋根卓也,吉田智子,三砂ちづる:ハームリダクションと注射薬物使用:HIV/AIDS の時代に. 国際保健医療.21(3);185-195,2006. 133 6.エイズ対策の実際 ⑩HIV と安全血液対策 国立国際医療センター 国際医療協力局 宮本英樹 (第 2 版) 世界中の HIV 感染のうち、約 5-10%は輸血や血液製剤を通して起こっていると言われ ている。さらに具体的にいえば、安全ではない血液の使用により毎年 8-16 万人の新たな HIV 感染者が発生していると推定されている。 医療資源が乏しい開発途上国では、中央管理された輸血サービス体制を確立することは 容易ではない。したがって、個々の地方病院が献血者を募り、輸血を行っていることが一 般的である。輸血のための血液の安全性を高めるために、病院では以下の 2 つの方法が行 われている。 1.感染リスクの低い献血者の選択 検査によってはある程度の偽陰性(感染していても検査結果が陰性と出る)が起こり うるため、血液検査だけでは 100%HIV 感染を特定できるわけではない。したがって、 血液検査に加え、感染リスクの低い人だけを献血者として選ぶ必要がある。 セックスワーカー、その顧客、麻薬注射の使用者などは、HIV 感染リスクが高いと考 えられるので、献血者から除外されなければならない。また、問診票を用いて、献血者 に対し HIV 感染に関わるリスク行動を質問し、リスクが高そうな献血者を除外する必要 がある。HIV 検査目的で来る献血者も感染リスクが高いと考えられるので、献血者とし ては適当ではない。検査目的の人には輸血サービス部門ではなく、VCT を利用してもら う必要がある。地域によっては感染リスクの少ない自発的な献血者グループが組織化さ れているところもあり、彼らが定期的な献血者になることで血液の安全性を高めること に貢献している。 2.血液のスクリーニング検査 医療資源が限られた病院では、主に HIV 迅速検査キットを用いて血液検査が行われる。 陽性になった血液は輸血には使用されない。前述したように検査では本人が感染してい ても、結果が陰性になることがありうる。その理由としては、1)検査キットが有効期 限を過ぎていたり、保存状態がよくないため、検査結果が正しく出ない。2)検査手技 が間違っている。3)感染から検査までの期間が短すぎるため検査が陽性にならない。 (感染から約 3 カ月でほとんどの検査は陽性結果になる。)4)検査キットによっては、 その特性上、一定の偽陰性がどうしても起こりうる、などがあげられる。 なお、HIV 以外にも開発途上国で問題になる輸血感染症は、B 型肝炎、C 型肝炎、梅毒、 マラリア、シャーガス病などがある。WHO はこれらの感染症がすべての輸血の前に検査さ れることを推奨している。 上記の対策に加え、HIV を含めた輸血感染症の予防のためには、外傷や交通事故の予防、 134 必要時にのみ輸血を行うこと(ガイドラインを用いて不必要な輸血を制限する)などが、 重要である。 135 6.エイズ対策の実際 ⑪結核と HIV について 結核研究所国際協力部 村上邦仁子 (第 2 版) 1.結核について 1-1.世界と日本の結核の状況は? 1993 年、WHO は世界結核緊急事態宣言を発表しました。世界中で、人口の 3 分の 1 にあ たる 20 億人以上の人々が結核菌に感染しており、2008 年には、新規結核患者数が 940 万人、 結核で亡くなった人々は 180 万人と推定されました。患者数の多い 22 カ国が世界の結核患 者の 80%を占めますが、このうちの半分はインド、中国、その他のアジア地域の国々です。 一方、サハラ以南のアフリカ諸国では、1980 年代以降、HIV/エイズの影響を受け、結核患 者数が増加しています。 図:2007 年 国別の推定結核患者 (WHO Report より) 日本では、かつて結核は国民病として恐れられていましたが、国をあげての対策や有効 な治療法が功を奏し、患者数は激減しました。しかし今でも、日本の結核罹患率は人口 10 万人あたり 22 人(2005)で、10 人以下である欧米先進国に比べるとまだ多いのが現状です。 136 グラフ:2005 年世界各国と日本の全結核届出率 (日本結核発生動向調査、WHO Report を参照し、筆者作成) 180 160 (人口10万対) 140 120 100 80 60 40 20 0 アメリカ オランダ 英国 日本 ブラジル 中国 インド フィリピン 1-2.結核は、どうやって感染して進行するの? 結核は、結核菌という長さ 1~4 ミクロン(1 ミクロンは 1000 分の 1 ミリ)の小さな細菌による感染 症です。結核を発病した人の痰の中には、結核菌が大量に含まれていることが多く、その 人がせきやくしゃみをする時、そのしぶきと共に結核菌が飛び散り、それをそばにいる人 が吸い込むことにより感染します。しかし、結核菌を吸い込んでも 100%感染するわけでは なく、多くの場合は体の抵抗力(免疫)により、外に追い出されます。結核菌が肺に入っ て増え始めると、軽い肺炎のような変化が起きますが、そのうち人間の体のほうに結核菌 に対する免疫が出来あがり、結核菌は抑え込まれ、肺の中で冬眠状態に入ります。この状 態を「結核に感染した」といいます。感染してから、全ての人が発病するとは限らず、大 部分の人は、そのまま一生を過ごします。何らかの原因(高齢、過労、栄養不良、エイズ・ 癌など他の病気による体力低下)で人間の免疫が弱くなると、冬眠していた結核菌が目を 覚まし、暴れ出します。この状態を「結核を発病した」といいます。感染した人が発病す る確率は、5~10%です。 1-3.結核の症状は? 結核菌は、主に肺で暴れます(肺結核)。また、肺以外の臓器や全身に拡がって暴れる こともあり(肺外結核)、リンパ節、腎臓、骨、脳、胸膜、咽頭、腸、皮膚、など、体の ほとんどの部分でその可能性があります。肺結核を発病した初期は、カゼと似た、せき、 痰、発熱などの症状がでますが、特徴はこれらの症状が 2~3 週間と長引くことです。全身 症状として体がだるい、食欲が無くなる、体重が減る、夜間に大量の寝汗をかく、なども 認められます。治療せずに放置し、重症になれば、死に至ることもあります。 137 1-4.結核の診断は? 結核菌に「感染」しているかどうか診断するための検査方法は、ツベルクリン反応検査、 クォンティフェロン検査などがあります。ツベルクリン反応検査は、ツベルクリン液とい う結核菌の成分を皮膚の内部に注射して、48 時間後に判定します。結核菌に感染している 人や、過去に BCG 接種を受けた人では、結核菌が侵入したと思って人体がアレルギー反応 を起こし、注射部位の皮膚が硬くなるような反応が起こります。一方クォンティフェロン 検査は、血液検査で結核感染の有無を調べることができますが、高価な検査なので、途上 国での実用化にはいたっていません。 肺結核を「発病」しているかどうか診断するための検査方法は、まず痰を調べる検査が 重要です。痰の一部をプレパラートに塗りつけて染色し、顕微鏡で調べる検査を、喀痰塗 抹検査といいます。1ml の痰のなかに 1 万単位の結核菌がいると、塗抹検査で結核菌が検出 され、「塗抹陽性」という結果になります。結核菌の数が少なく、顕微鏡では見つけられ なかったり、そもそも結核菌がいない場合には、「塗抹陰性」という結果になります。そ の場合は、結核菌の発育に必要な栄養を含む培地に痰を植えつけ、結核菌が生えるかどう か検査する、喀痰培養検査が行われます。同時に、前述の喀痰検査で肺結核と診断されな い場合でも、胸部レントゲン検査では診断されるケースもあります。このような喀痰培養 検査、胸部レントゲン検査は、共に日本では通常の検査として行われていますが、途上国 では、設備・費用・技術の問題があり、まだ一般的ではありません。 1-5.結核の予防は? 結核に感染しないように普通のマスクをしていても、予防できません。「N95」という、 予防のための特殊なマスクもありますが、高価でかつ医療者向けなので、一般的ではあり ません。一方で、患者さんがせきやくしゃみをするときに、マスクやハンカチで口を覆う ことを心がければ、空気中に浮遊する結核菌の数を減少させ、他人への感染のリスクを下 げることができます。また、結核菌は紫外線に弱く、日光に当たると数時間で死滅します。 日光を取り入れる工夫をしたり、空気の入れ替えを定期的に行う、などの基本的なことも、 結核菌の感染拡大の予防には有効です。 予防接種としては BCG があります。特に子供の重症な結核(髄膜炎など)の予防に有効 で、生後できるだけ早い時期の接種が世界中で推進されています。日本では生後 4~6 か月 までに 1 回受けるように勧められています。 1-6.結核の治療は? 現在 10 種類以上の薬剤が、抗結核薬として認められています。以前は 1 年以上の治療期 間が必要でしたが、現在世界的に推奨されている治療は、6 ヶ月間です。強い薬剤である、 リファンピシン(RFP)、ヒドラジド(INH)という 2 種類を軸に、最初の 2 ヶ月間(集中 治療期 Intensive Phase)は 4 剤を服用、続く 4 ヶ月間(維持治療期 Maintenance Phase)は 2-3 剤を服用します。これを短期化学療法(Short Course Chemotherapy)と呼びます。 1-7.多剤耐性結核って何? 結核治療の途中で、せきが止まったからといって勝手に薬の服用を不規則にしたり、止 138 めてしまったりすると、薬が効かなくなる耐性結核菌が出来てしまいます。これは HIV 治 療の原則と同じです。特に結核治療で重要な薬剤である、前述の RFP と INH の両方に耐性 があるものを多剤耐性(MDR)結核と呼びます。MDR 結核に加えて、注射薬 1 剤を含むそ れ以外の薬剤に耐性がある場合を、超多剤耐性(XDR)結核と呼びます。最初に選択され た治療がうまくいかないと、MDR 結核を獲得する可能性が高く、その MDR 結核患者への 治療がうまくいかないと、XDR 結核となる可能性が高く、治療はとても難しくなります。 さらに、このような耐性菌に感染した場合は、はじめから耐性結核になってしまうことに なります。過去 10 年間 100 以上の国から集められたデータに基づくと、結核患者全体の 5% は MDR 結核で、毎年およそ 49 万人の MDR 結核患者が新規に発生し、うち 13 万人以上が 亡くなっていると推定されます。特に旧ソビエト連邦の国々や中国では、MDR 結核の割合 が年々高くなっています。XDR 結核患者は毎年およそ 4 万人発生していると推定され、2008 年 3 月までに世界中すべての地域の 45 カ国以上から報告され、大きな問題となっています。 耐性結核菌にも効く新しい抗結核薬開発は、世界的に進められてはいますが、その前に耐 性菌を作らない努力が必要です。 1-8.世界の結核対策は? 1990 年代初めに、WHO が世界の結核対策の現状を調べた結果、多くの国々で結核患者が 適切な治療を受けておらず、また治癒出来る疾患であるにもかかわらず、治療を途中でや めている中断例が多いこともわかりました。そこで、内服薬の管理を患者以外の誰か(医 療スタッフ、ボランティア、家族など)が行い、患者さんは毎日、その人の目の前で薬を 飲む、という服薬支援の方式を打ち出し、これを DOTS(ドッツ Directly Observed Treatment, Short course)と名付けました。人間がうっかり薬を飲むのを忘れてしまうのはあたりまえ のことで、それがおこらないように誰かが支援してあげるのです。服薬支援のみならず、 一連の流れとして、1.結核対策に対してその国自身がやる気になること、2.結核の診断を適 切に行うこと、3.服薬支援、4.薬の供給が途切れないようにすること、5.治療の経過をきち んと記録して報告すること、の 5 つが総合的に必要で、それが一体となって初めて、その 国全体の結核患者さんを発見し、適切に治療することができるようになります。これら 5 つは「DOTS 戦略」として途上国にも普及し、過去 10 年間で大きな成果をあげています。 さらに 2001 年発表された「世界ストップ結核計画」では、DOTS 戦略よりもより包括的な 取り組みを目指し、MDR 結核や、結核と HIV の重複感染への取り組みも含まれています。 2.結核と HIV の重複感染 2-1.結核と HIV って仲がいい? 結核菌と HIV は非常に仲の良い仲間ですが、患者さんにとっては、両者が手を握ること は、生死にもつながる重要な問題です。HIV 感染者は、非感染者と比べ、生涯で結核を発 症するリスクは、最大で 50 倍大きいと推定されています。HIV 感染後、CD4 数が低下して 日和見感染症を発症するとエイズとなりますが(他章参照)、他の多くの日和見感染症と 異なり、CD4 数がまだ高い状態でも、結核は発症する可能性があります。さらに、HIV 感 染者の CD4 数の低下にしたがって、結核の発症リスクはより増加し、結核は HIV 感染者の 139 主要な死因ともなっています。一方で、結核を発症すると、HIV の進行も早くなるという 報告もあります。まさに、両者にとってうってつけの相手というわけです。 図:結核と HIV は仲良し ©Tomoko Horii 2-2.世界の結核と HIV の重複感染の状況は? HIV 感染が蔓延している地域では、結核の患者報告数が増加しています。なかでもアフ リカ地域には、世界の HIV 合併結核患者のおよそ 85%がいると報告されています。さらに 南部アフリカ地域では深刻で、たとえば南アフリカ共和国は、世界人口の 0.7%を占めるに 過ぎませんが、世界の HIV 合併結核患者の 28%がここで発生しています。またザンビア共 和国では、結核患者における HIV 感染率は、およそ 70%と報告されており、すなわち、10 人の結核患者さんがいれば、そのうち 7 人は HIV にすでに感染しているという状態です。 2-3.HIV 合併結核の特徴は? HIV 感染者では、CD4 数と関連して、結核の検査所見や症状が一般の結核と異なる場合 があります。例えば胸部レントゲン検査では、通常と肺結核と異なる所見がみられること があります。喀痰塗抹検査では、患者さんの状態が悪く、そもそも上手に痰を出せない、 出せても結核菌の全体量が少ない、などの理由で、塗抹陰性の割合が増えます。CD4 数が 下がるにつれて、全身に広がった肺外結核の例が増えたり、肺結核でも、せきなどの明確 な自覚症状が見られない例も増加します。このように、HIV 合併結核では、免疫状態が悪 くなるほど、より診断が難しくなります。 2-4.HIV 合併結核の治療は? HIV 合併結核の患者さんの、結核治療の内容は、HIV を合併しない結核と変わりありま せん。しかし、CD4 数が低下した例では、結核治療中の死亡率が高いので、結核治療だけ でなく、HIV 治療を併用する必要があります。これには、いつ始めるべきか、どのような HIV 薬を使用するか、という二つの課題があります。始める時期は、重症度(症状、CD4 数など)により WHO が推奨方法を示しています。重症例には早期にはじめることで、死亡 率を下げることが期待されますが、免疫が回復することに伴い、結核の症状がむしろわる くなる場合(免疫再構築症候群といいます)もあり、注意が必要です。また使用する薬剤 140 に関しては、結核薬 RFP が、一部の HIV 薬の効き目を下げる作用があることを留意して、 選択します。他には、同時に治療することによる重い副作用の可能性、多くの薬を飲みつ づけることの難しさなどの課題があります。 2-5.HIV 合併結核への対策は? HIV の影響で結核患者が急増している国々においては、既存の保健医療システムのまま では対処しきれず、結核診断の質が落ちたり(塗抹陰性肺結核の診断の信頼性が下がった り、塗抹陽性肺結核が見落とされたりします)、結核治療のモニタリングの質が落ちたり することが予想されます。その結果、結核治療結果も悪くなります。このような事態を考 慮し、それぞれの疾患に対して別々に対策を練るのでなく、結核対策とエイズ対策が協調 しあうことが重要であると認識されるようになりました。 結核患者に対しては、HIV 合併結核の結核治療結果や結核治療終了後の生存率を改善す るために、まず結核患者への HIV 抗体検査を行い、感染の有無を確認する必要があります。 以前からの VCT に加え、 現在は保健医療者側が HIV 感染の疑われる人に検査を進めていく、 PITC(Provider-Initiated Testing and Counseling)が重要視されており、結核患者への HIV 検査は、 まさに PITC の代表例です。また、HIV 検査と同時に HIV 感染予防(他章参照)の重要性も 忘れてはなりません。 一方、既に HIV 感染がわかっている人たちに対しては、HIV ケアの一環として、結核の 早期発見、または結核発症予防などが重要です。HIV 感染者に定期的に結核の検査を行う、 また既に結核に感染しているが発症はしていないと判断される HIV 感染者に対しては、結 核発症の危険性を下げるために、結核の予防内服(INH を 6 から 9 ヶ月間服用)を行う、 などが、世界的に実施されつつあります。但し、結核に感染しているが発症していない人 を探し出すには、まず結核診断自体の質が高いことが必要です。発症しているのを見逃し て、予防のために INH 一剤だけを内服してしまうと、結核の耐性を作ってしまう可能性が あるからです。 3.おわりに 結核は依然世界において重要な感染症のひとつです。HIV 合併結核患者が多数いたとし ても、結核対策の原則は変わりませんが、一方で、HIV 合併結核の特徴を理解し、HIV 対 策と結核対策が協力し合い、”two diseases in one patient(二つの病気であるが、それを抱え ている患者さんは一人)”ということを念頭において、有効な対策を進めることが重要です。 最後に、お忙しい中アドバイスをいただいた山田紀男様、竹中伸一様、石黒洋平様、杉山 栄美子様、入澤巧様、大室直子様、イラストをご提供いただいた堀井智子様に、厚く御礼 を申し上げます。 参考文献: TB/HIV a clinical manual, WHO Global Tuberculosis Control 2009 epidemiology strategy financing, WHO What is DOTS?, WHO Tuberculosis Handbook, WHO 141 青木正和, 医師・看護職のための結核病学 1-6 巻,結核予防会 財団法人結核予防会ホームページ http://www.jatahq.org 142 6.エイズ対策の実際 ⑫ソーシャル・マーケティング 国連合同エイズ計画(UNAIDS)インドネシア事務所 中谷 香 (第 2 版) 1. ソーシャル・マーケティングを理解する (1) ソーシャル・マーケティングとは ソーシャルマーケティング(以下 Smktg)とは、商品やサービスの販売を目的に開発され た商業マーケティングの理論及び技術を、ターゲットグループ(以下対象層)の行動変容 やそれによる健康の増進を達成するために、1970 年代初頭にアメリカで生み出された戦略 及びその技術のことを言います。顧客のニーズをいかに満たし、いかに彼らに近づくかを 追求する商業マーケティングの理論や技術と、社会学、公衆衛生学等の知見を組み合わせ て作られた新たな手法を用い、HIV/エイズやマラリアなどの“社会問題”の解決を目指そうと するのが Smktg であると言えます。 ある商品のマーケティングを例に取って考えてみましょう。その商品を宣伝するために、 企業は対象層の好み(色、形など)を調査した上で、テレビ CM、看板、インターネット等 の媒体を利用して広告します。そうすることで、ある特定の層に商品の種類、名前、利点 などを広く知らせることができるとともに、商品に対する特定のイメージ(多くは前向き で望ましいイメージ)を持たせ、商品に対する購買意欲を高め、販売につなげようとしま す。例えば、コカコーラを考えてみましょう。コカコーラを多く購入するのは、比較的若 い年齢層の人達です。その人達に親近感を持たせ、関心をひきつけるようなキャッチフレ ーズ(過去の例では“オールウェイズ、コカコーラ”など)を使い、彼らの購買意欲を刺激し、 コカコーラの販売を促進しているのです。 Smktg では、そういった広告で使われる技術と健康教育を有機的に組み合わせて、健康関 連消費財1(以下消費財)やサービス2へのアクセスを確保し、消費財への需要を喚起すると ともに、個人の行動変容を促進することを目指します。ソーシャルマーケティングプログ ラム(以下 SMPs)は、そのプログラムによって対象層が自尊心を高め、自分の健康により 責任を持って行動するよう組み立てられています。 もう一つ重要なことは、Smktg が個人の行動変容のみに焦点を当てているのではなく、プ ログラムの計画策定、研究、運営、及び評価を効果的に実施することによって、広い意味 で“社会に変化を起こそう”とする包括的な戦略であるということです3。 1 コンドーム、蚊帳、経口避妊薬、ビタミン A などの商品の総称。 VCT など、消費財ではなくカウンセリングなどサービスそのものの需要を喚起する場合もある。 3 ザンビアのカウンダ元大統領がエイズで亡くなった息子の例を挙げ、国民に HIV 検査を呼びかけるメッセージを流し たが、これも Smktg の一環である。 2 143 実際の現場では、コンドームや VCT サービス等の利用及び行動変容を、マスメディア、 ドラマ(劇)、歌、イベント4、個人的なコミュニケーション5等を通じて促進することを狙 っています。消費財やサービスは、既存の流通システム(小売店)やクリニック、コミュ ニティグループ(セールスエージェント、プロモーター等)を通じて廉価で提供される場 合が多いと言えます。 Smktg の特徴として、富裕層を主な対象とする商業マーケティングと異なり、既存のヘル スシステムの恩恵を受けにくい、貧しく教育レベルの低い対象層に焦点を当てていること が挙げられます。現在では、アジア、アフリカなど開発途上地域における感染症対策等に 多く活用されており、主に非営利団体(NPO)や政府によって実施されています。 2. Smktg の実施機関 ここでは、開発途上地域で活動する主な実施機関について説明します。ここに挙げる以 外の機関でも、Smktg の考え方や手法を用いて活動している機関もあるため、赴任後どのよ うな機関が SMPs を実施しているか確認することも良いでしょう。 (1) Population Services International (PSI) アメリカのワシントンに本部を持つ非営利団体(NPO)で、Smktg の実施機関として代表 的な団体です。スタッフは本部及び事務所を合わせると 8250 名、2008 年度の予算規模は推 定 334 百万ドルとなっています。主なドナーは、米国国際開発庁(USAID)、英国開発庁 (DFID) 、ドイツ技術協力公社(GTZ) 、GF 等となっています。60 カ国以上に事務所を構 え、マラリア対策、HIV/エイズ、安全な水の確保、栄養、家族計画、子供健康等の分野に おいて活動しています。Smktg を行う団体の中でも、プログラムのモニタリングと研究を包 括的に行っている団体として知られています。 (2) DKT International (DKT) アメリカのワシントンに本部を持つ非営利団体(NPO)で、11 カ国6において SMPs を運 営しています。家族計画、HIV 予防などの分野において活動しています。PSI の創業者の一 人が立ち上げた団体であり、Smktg のやり方としては、ほぼ PSI のものを踏襲していると考 えてよいでしょう。 (3) その他 Constella Futures、Family Health International、Academy for Educational Development、 Pathfinder International、PATH、CARE、Project HOPE 等の NGO が SMPs を実施しています。 3. SMPs の実際 4 スポーツイベント、音楽イベント、美人コンテストなど、様々なイベントのスポンサーとなったり、右イベントで予 防啓発活動を実施する。 5 通常対象層に価値観、年齢等が近いスタッフが予防啓発活動を行うためピアエジュケーションと呼ばれる場合もある。 6 インドネシア、エジプト、エチオピア、スーダン、タイ、トルコ、フィリピン、ブラジル、ベトナム、マレーシア、 メキシコ(2009 年 12 月現在)。 144 (1) Population Services International (PSI) この章では、南部アフリカ地域のザンビア国の Society for Family Health(実質的なザンビ ア事務所)によって実施されているコンドームソーシャルマーケティングプログラム(以 下 CSMPs)を例に、CSMPs を実施する際の基本的な流れを説明します7。 1)対象層の区分け プログラムの対象層を居住地域、HIV 感染のリスク、性行動、年齢、経済的状況、教育 レベル、考え方の傾向等の様々な観点から分析し、多くの場合プライマリーターゲット(第 一義的に対象とする層)とセカンダリーターゲット(第二義的に対象とする層)に分類し ます。 2)形成調査(フォーマティブリサーチ)とその分析 対象地域のコンドームの使用率、コンドームの使用を阻害する要因、対象層のニーズ、 プログラムに活用できる既存のヘルスシステム等、プログラムの計画を策定するために必 要な情報を収集し分析します。通常、質的調査と量的調査8を組み合わせて実施される場合 が多く、NGO 等のスタッフによって調査が行われる場合や、欧米のコンサルタントが専門 分野の調査及び分析を行う場合もあります。 3)全体戦略の策定 プログラム目標9は勿論のこと、①消費財(コンドームの販売目標の設定、コンドーム調 達の準備10、コンドーム販売場所の決定11、ブランド名、パッケージデザイン、パッケージ のサイズや色、メッセージの内容、ポスターなど配布用資料や教材) 、②価格(コンドーム の値段12) 、③使用するメディア(ラジオ、テレビ等)や場所(小売店、教会等)、④プロモ ーション(広告内容、イベント、ニューズレター、T シャツ文房具等のグッズ) 、の4つの 視点から、プログラムの骨子を決定します。実施期間やロジスティックスの全体像等に関 する事柄も決定されます。 4)プリテスティング 3)の①で検討したデザインやメッセージなどを、対象層のフォーカスグループディス カッション13やアンケートによって、より彼らが望む消費財になるよう修正をかける一連の 作業をプリテスティング14と言います。少なくとも、1回以上実施され、例えば、パッケー ジの色の案が6色ある場合、対象層がより好むと思われる色を選定します。メッセージが 現地語以外で記載されている場合、その意味を対象層が的確に捉えられているか、またポ 7 蚊帳、ビタミン剤、経口避妊薬など他の消費財についてもほぼ同様の流れを踏んで実施される。なお、SMPs を行う団 体によって、また各プログラムの様々な事情によって、作業の順序や内容が異なる場合もある。 8 質的調査はデータを解釈によって分析し、その結果を数値以外で表現する調査である。一方、量的調査は、得られたデ ータを計量的に処理し、統計学的分析を行って調査結果を数値で表現する調査である。詳しくは、社会調査の文献や資 料で確認することができる。 9 コンドームへのアクセスを阻害する要因を取り除くこと、等通常複数の目標が設定される。 10 ザンビアの場合、アメリカやインドからコンドームを輸入し、パッケージデザイン等はザンビアで行われていた。 11 キヨスク、食料品店、バー等、従来コンドームを扱っていなかった場所でコンドームを販売する。 12 ザンビアの場合、PSI が販売する3個入りコンドームの価格は 200 クワチャ(0.05 US$相当)であった(2001 年当時)。 13 6 名から 12 名の人々がある話題について自由に議論し、その話題に対する考え方などを探る質的調査の一手法。ファ シリテーターがその議論を進める。 14 プリテストとも呼ばれる。 145 スター等に描かれている絵の意味を対象層が正しく認識できているか15なども確認します。 5)プログラムの実施 3)に従ってプログラムを実施します。4)で修正した媒体(ポスターやパンフレット 等)は、コンドームを販売する小売店やバーなどに貼ったり、イベント時に使用したりし て積極的な広告を行います。イベント等でのプロモーションと個人的なコミュニケーショ ンを組み合わせて、予防啓発活動を実施します。 6)モニタリングとそれに基づくプログラムの修正 事業計画どおりに実施されているか、意図した対象層にプログラムがきちんと届いてい るか、販売やサービス等の記録(コンドームの販売実績等)が適切に行われているかなど を管理するとともに、その結果を踏まえてプログラムの修正を行います。 7)評価 コンドームの販売実績等のデータとともに、対象層の行動変容、HIV 感染を避けるため に必要な知識の変化等、プロジェクトの長期的な効果を見るための調査を実施します。一 般的には、KAP16調査といって、対象層の知識、態度、行動等に関するデータを収集し分析 することが多いですが、近年では他の調査も合わせて評価の対象とする場合もあります。 (2) DKT International(DKT) この章では、DKT インドネシア事務所のプログラムを見てみましょう17。 DKT インドネシア事務所では、①HIV 予防プログラム(男性用及び女性用コンドームの 販売・販売促進・BCC18) 、②ハームリダクションプログラム(IDUs のための新しい注射針 の無料配布)、③家族計画プログラム(経口避妊薬-ピル、子宮内避妊用具-IUD、ホルモ ン注射の販売促進・BCC)を実施しています。 1)販売網 上記①のコンドームは、薬局、スーパーマーケット、性産業に関わるコミュニティ、② の注射針は静脈注射常用者を支援している民間団体、③の避妊具は全国の助産師協会等、 を通じて販売・配布等がなされています。DKT では、スーパバイザーを派遣し、販売のモ ニタリングや研修を行っています。 2)販売手法 インドネシアの販売手法として、既存の組織を活用することが特徴として挙げられます。 15 例えば、アフリカで伝統的な治療を行っているウィッチドクター(呪術師)を絵で表現したとしても、住民がそれを 呪術師だと認識しなければ、ポスターで訴えたいメッセージが正解に伝わらないことになる。 16 Knowledge, Attitude, Practice の略。 行動(Behavior)分野の調査も入れて KABP とされる場合がある。現在では、Behavioral Surveillance Survey (BSS)が使われる場合が多い。 17 DKT インドネシア事務所の Tjep Marku 氏(コミュニケーションズマネージャー)からの聞き取りをもとにしている。 (2009 年 11 月 23 日実施)。 18 Behaviour Change Communication とは、行動変容の理論やモデルをもとにした、健康を促進するための戦略的なコミュ ニケーション戦略のこと。http://www.globalhealthcommunication.org/strategies/behavior_change_communication(アクセス 日:2009 年 12 月 6 日) 146 アフリカのように自前のアウトリーチワーカー(この場合は、DKT が雇って現場に BCC 及 び販売促進に出向かせる人のこと)を使うのではなく、助産師協会、性産業を運営してい る業者などを活用して、販売を促進しています。 3)SMPs の流れ ここでは、性産業を運営している業者にコンドームの販売をまかせる場合の流れを見て みましょう。 ① 性産業業者(売春宿)の責任者にプログラムについての研修を行います。 ② その地域で会合を開催し、コンドームを販売する 10 から 20 の業者を選び、プログラム に対する地域のコミットメントを取り付けます。 ③ HIV に対する研修を行い(多くの場合 NGO に委託しそのピアエジュケーターが研修を 実施) 、コンドームのリボルビンファンドプログラム(下記参照)について説明します。 ④ 最初の販売目標を達成した後、3-4 ヶ月の販売契約を結びます。 ⑤ 性産業に従事する業者の責任者と協力して、ポスターやパンフレットなどの BCC 資材 やイベントを通じて支援しつつ、販売を支援します。 リボルビンファンドプログラムとは、最初の 10 グロス分のコンドームを DKT が無料で 提供し、その後は 5%のディスカウントでコンドームを販売することによって、そのコミュ ニティに経済的動機づけを与えつつ、セックスワーカーの感染率低下を目指してコミュニ ティに責任を負わせるという、動機づけと責任をセットにした手法です。DKT は、コミュ ニティと接触を続けながら支援し、BCC 資材などの提供を通じてコミュニティに動機づけ を与えているのです。 4)包括的なプログラム この SMPs は、現場レベルで、①正しい知識の提供(←BCC 資材) 、②関係者のキャパシ ティビルディング(←研修)、③消費財の提供・販売(←コンドーム)の流れを作りつつ、 全国レベルでは、④アドボカシー(←テレビ CM 等)を通じて社会でコンドームを受け入 れやすい流れを作ります。1. (1)で説明したとおり、広い意味での社会変革を目指すこ とが Smktg の一環と言えるでしょう。 5)対象者の区分け インドネシアの CSMPs では、売春宿で仕事をするセックスワーカーは売春宿の責任者に コンドームの販売を任せることでカバーし、売春宿に属さないセックスワーカーを NGO が カバーすることで、様々なセックスワーカーにコンドームが行き渡るように工夫していま す。 6)現在の課題 イスラム国であるインドネシアでは、①コンドームの販売促進は非常に難しいこと、② 対象層が自分の行動にリスクを感じないこと、が大きな課題として挙げられていました。 対象層が自分の行動のリスクを認識できるよう、彼らをどう動機づけできるかが今後の大 147 きな課題と言えるでしょう。 4. SMPs と隊員活動 (1) Smktg を実施している団体への派遣 Smktg を活動の主軸にしている団体への派遣された場合、 OJT19で Smktg の具体的な手法、 適切なアプローチ等を学ぶことができると同時に、Smktg の功罪についても考える良い機会 となるでしょう。配属先が出版する評価報告書や活動報告書は、全体の事業計画における 自分の活動の位置づけを考えるためにも積極的に活用してください。また、マーケティン グの経験がない隊員の場合は、まずマーケティングの基礎を学ぶことも大きな助けになる でしょう。まずは、マーケティングマネージャーや上司から十分なブリーフィングを受け、 Smktg を理解すると同時に、仕事をしながらその特徴を捉えていきましょう。 (2) Smktg の手法を隊員活動に活用する Smktg を実施している団体以外の団体に所属する場合でも、その手法を隊員活動に生かす ことは可能です。例えば、予防啓発のための教材作りを行う際、数度のプリテスティング を実施し、対象層により受け入れられる資料を作ることが重要です20。Smktg を行っている 団体にブリーフィングを受けにいくのも一案です。 5. Smktg を行う際の留意点 (1) 意図しない効果や不正確なメッセージ HIV とエイズの違いなど正確に理解しなければならない知識が、歌や詩に織り込まれる ことによって十分に説明ができなくなり、結果として不正確なメッセージが流されたりす るケースや、メッセージによっては、HIV/エイズに対して否定的なイメージを植え付けた りすることもあることが調査によって指摘されています。メディアを使う際にはさまざま な限界があるものの、こういった Smktg 手法の課題があることも踏まえて立案・実施する 必要があるでしょう。 (2) 商業マーケティング手法と村落住民 Smktg では、需要を喚起するために商業マーケティングの手法を用いると説明しましたが、 商業マーケティングの手法になじみの薄い村落住民にはキャンペーン期間、ディスカウン トイベントなど、理解されにくいコンセプトがあることが見受けられました。例えば、3 ヶ 月間のプロモーション期間を設け、その期間に消費財を購入した人には、1 個の価格で 2 個 の消費財を提供するとしましょう。先進国や途上国の都市部のスーパーではそういったキ ャンペーンは日常的に実施されており、多くの人々はいずれキャンペーン期間が終了すれ ば通常価格で購入することになることを理解しています。しかし、そのような環境に置か れていない村人の中には、なぜ 3 ヶ月後に通常価格にもどってしまうのか、あるいはなぜ プロモーション用のグッズがもらえなくなるのかが理解できずに混乱する人も見られまし た。村落部でマーケティングの手法を活用する際には、その手法が受け入れられるものか 19 On the Job Training の略。仕事をしながら手法等を覚えていくということ。 その際、フォーカスグループディスカッションの進行は自分の同僚に任せるなど、参加者が現地語で話し易い環境作 りをすることが重要である。ただし、既に述べたとおり、包括的な戦略を立て、それを実施してこそ Smktg であり、一 手法を使うことが Smktg そのものを表すことではない、ということを理解しておく必要がある。 20 148 どうか、また適当な手法であるかどうか、事前に十分な検討を加える必要があるでしょう。 参考文献 Agha S, Kusanthan T. 2000. Equity in access to condoms in urban Zambia. Health Policy and Planning; 18(3)299-305. Constella Futures http://www.constellafutures.com(アクセス日 2009 年 12 月 20 日) DKT Indonesia. http://www.dktindonesia.org/ (アクセス日 2009 年 12 月 19 日) Family Health International http://www.fhi.org/en/index.htm (アクセス日 2009 年 12 月 20 日) Lefebvre C. Social Marketing and health promotion. In:Bunton R, Macdonald G. Health Promotion; disciplines and diversity. London: Routledge, 1992:153-181. 永野玲子.予防とマーケティング.2004.日本エイズ学会誌; 6(3)133-137. Price N. 2001. The Performance of social marketing in reaching the poor and vulnerable in AIDS control programmes. Health Policy and Planning; 16(3)231-239. Population Services International. http://www.psi.org/(アクセス日 2009 年 12 月 19 日) 149 2015 年 1 月 感染症対策アドバイザリー・グループが推薦するその他の勉強資料 これから青年海外協力隊に応募する、主に「感染症・エイズ対策」職種隊員をめざす人 のために、受験前の勉強資料として準備しました。また、赴任後、現地で HIV/エイズにつ いて知りたいという青年海外協力隊員にも役に立つと思います。どうぞご活用下さい。 青年海外協力隊事務局 感染症対策アドバイザリー・グループ (文責:厚生労働省 関西空港検疫所検疫課 垣本和宏) ①参考図書など 世界人権問題叢書 エイズをめぐる偏見との闘い―世界各地のコミュニケーション政策 シンガル,アービンド/ロジャーズ,エベレット・M.【著】 明石書店 2011 年 ISBN 9784750334370 国際協力用語集 (第4版) 国際開発ジャーナル社 2014 年 ISBN 9784875390879 エイズ感染爆発と SAFE SEX について話します 本田 美和子 著 朝日出版社 2006 年 ISBN 9784255003238 エイズとの闘い 世界を変えた人々の声 林達雄 著 岩波書店 2005 年 ISBN 9784905055136 「どうする!? NGO の HIV/AIDS プロジェクト:~はじめてのあなたのためのスタート キ ット~」 (2004 年) 外務省 経済協力局 民間援助支援室 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shimin/oda_ngo/shien/pdfs/03_hoken.pdf (3.3MB) ブラックアジア―売春地帯をさまよい歩いた日々〈第1部〉カンボジア・タイ編 ラピュータ 2013 年 ISBN 9784750334370 150 ②インターネットサイト 1)役に立つ統計・資料など API-net エイズ情報ネット(UNAIDS 出版物の和訳などが集約されています) http://api-net.jfap.or.jp/ 財団法人ジョイセフ(家族計画国際協力財団) リプロダクティブ・ヘルス関連の用語集 http://www.joicfp.or.jp/cgi-bin/word/word.cgi UNAIDS Terminology Guidelines (revised version/2010) http://www.unaids.org/sites/default/files/media_asset/JC2118_terminology-guidelines_en_0.pdf (245KB) 日本国際保健医療学会 国際保健医療用語集 http://seesaawiki.jp/w/jaih/ JICA どうなる、どうする、身近なエイズ ~あなたの赴任国と HIV/AIDS~ https://stream.jica-net-library.jica.go.jp/lib2/06PRDM003/japanese/00/00.html 2)国際協力政策など JICA HIV/AIDS 問題に対する効果的アプローチ 2002 年 http://libopac.jica.go.jp/images/report/11685468_03.pdf 外務省 世界エイズ・結核・マラリア対策基金 (随時更新) http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kansen/kikin/index.html 外務省 ODA、ミレミアム開発目標など (日本語) http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/doukou/mdgs.html WHO エイズ対策(英語) http://www.who.int/topics/hiv_aids/en/ 151 ③国際機関・NGO(※一部 NGO では、関連書籍販売等も行っております。また、セミ ナーやイベントの情報もあります。 ) WHO 世界保健機関 http://who.int/hiv/en/ (英語サイト) UNAIDS 国連エイズ合同計画 http://unaids.org/ (英語サイト) UNICEF http://www.unicef.org/ (英語サイト) Save the Children http://www.savethechildren.org (英語サイト) CARE http://www.care.org/ (英語サイト) (財)エイズ予防財団 http://www.jfap.or.jp 特定非営利活動法人 HANDS http://www.hands.or.jp 特定非営利活動法人 ぷれいす東京 http://www.ptokyo.org/ 財団法人ジョイセフ(家族計画国際協力財団) http://www.joicfp.or.jp/jpn/ 特定非営利活動法人 HIV と人権・情報センター http://www.npo-jhc.com/ 特定非営利活動法人 シェア=国際保健協力市民の会 http://share.or.jp/ 特定非営利活動法人 アフリカ日本協議会 http://www.ajf.gr.jp/ 以上 152
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