アメリカの世界戦略展開の一構成要素として の日本の対米

論稿
アメリカの世界戦略展開の一構成要素として
の日本の対米軍事技術供与
―レーガン政権・ブッシュシ二ア政権下での日本の対米軍事技術供与始動への視点―
広 田 秀 樹
長岡大学教授 ―目次―
はじめに
1.軍事テクノロジーの重要性
2.アメリカの対日軍事技術政策の始動
2.1. ―1981 年―
2.2.―1982 年―
2.3.―1983 年―
2.4.―1984 年―
2.5.―1985 年―
2.6.―1986 年―
2.7.―1987 年―
2.8.―1988 年―
2.9.―1989 年―
2.10.―1990 年―
2.11.―1991 年―
2.12.―1992 年―
おわりに
註
主要参考資料等
はじめに
アメリカはその変化の影響力を自国内だけにとどめることがなく一貫して国際政治を変える動きを有してきた。
1980年代のレーガン政権のリーダーシップを中心として変化したアメリカは冷戦を終結させ世界を変えた。1981年
に誕生したレーガン政権は、それ以前の政権の中心的国際政治戦略の一つでもあったデタント戦略を否定し、
「力に
よる平和」
(Peace through Strength)という国際政治戦略を構築し、軍事力・同盟力・外交力・経済力等の国家の力
を強化することによって世界を変えることを指向した。当時おそらく圧倒的多数の世界の人々が半永久的に固定さ
れた世界体制と考えていた<西側(自由主義・資本主義圏)VS東側
(社会主義・計画経済圏)>という構図の中で、ア
メリカは強化した力で一挙に東側に攻勢をかけ、ソビエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連)を中心とした社会主義・
計画経済圏の崩壊を目指した。レーガン政権の国際政治戦略、
「力による平和」戦略は当初、大規模戦争をも引き起
こすのではないかという危惧すら持たれ世界に衝撃を与えた。しかし現実は、レーガン政権の国際政治戦略は第2
次世界大戦後40年以上続いた冷戦体制を終結させ世界を劇的に変えた。それまで地球上の約3分の1を占有してい
た社会主義・共産主義・計画経済体制の大半を消滅させ、世界を自由主義・民主主義・資本主義・市場経済体制に
全面的に移行させる契機を創り、本格的に世界が一体化し行くグローバル化(Globalization)への突破口を開いていっ
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た。レーガン政権の国際政治戦略展開が一大契機となって人類史におけるグローバル資本主義を土台にしたグロー
バル化へのステージが拓かれ行くことになったのである。長期の歴史的視点からすれば、レーガン政権の国際政治
戦略展開は本格的に世界が一体化し行くグローバリゼーションの地平を拓いたという点で歴史的意義が極めて大き
いと考える。
(1)
レーガンの国際政治戦略遂行の後ろ盾としての力には、軍事力・諜報力・技術力・外交力・経済力・教育力等あ
らゆる構成要素がある。それらの多数の構成要素の一つに軍事技術力がある。そして米国の軍事技術力を支えるも
のとして「日本の軍事テクノロジー」が1980年代以降機能し始めた。即ち1980年代初頭アメリカは自国の軍事テク
ノロジーを強化する上で日本の軍事テクノロジーを必須のものと考え、強力に日本の軍事テクノロジー(実体は民
間企業が開発生産する民間経済でも利用されるいわゆる両用技術が多数)について、レーガン政権は発足直後から
強い関心を示し、その米国へのトランスファーを模索していたのであった。
アメリカはレーガン政権とそれに続くブッシュシニア政権の時代に日本の軍事テクノロジーも吸収しその軍事的
総合力を強化して行った。そしてソ連が崩壊する年の1991年に展開された湾岸戦争において、アメリカ・米軍は圧
倒的な高度化ハイテク化した軍事テクノロジー、軍事力、力量を世界に見せつけた。それらハイテク兵器の複数の
ものには日本の軍事テクノロジーが必須の構成要素として使われていたのであった。その意味で日本の軍事テクノ
ロジーは冷戦崩壊へのレーガン政権の国際政治戦略の力の一つとして機能したと言える。それは多数の変数の中の
一つであったし限定された寄与であったかもしれないが、しかし「必須の構成要素」であった。
(2)
レーガン政権の圧倒的な軍事力・国力を背景に世界の変革を指向する「力による平和」戦略は、アメリカの国際
政治戦略の一つの成功モデルになって行く。レーガン政権以降、共和党・民主党のどちらの政権にあっても、
「力の
重要性への認識」は決定的となり、「力による平和」戦略の正当性・有効性への認識が強く定着した。レーガン政権
以降、アメリカは、圧倒的な軍事力・国力を背景に外交対象国と対峙し、場合によっては軍事力行使も躊躇しない
というスタンスをとりつつ、世界の自由主義化・民主主義化・市場経済化・人権・国際安全保障等といった、米国
の国際政治戦略課題を達成して行く戦略をとっている。
レーガン政権の対ソ連外交を中心とした国際政治戦略展開、ブッシュシ二ア政権での第1次湾岸戦争での圧勝の
経験から、軍事テクノロジーの重要性が再確認された。軍事テクノロジーの背景があって軍事力が強化され他国を
圧倒しそれが国際政治での交渉力となることが確認された。アメリカはレーガン政権以降、本格的に同盟国の軍事
テクノロジーにも注目し、場合によってはそれらを吸収して自国の力にする戦略を開始した。レーガン政権の時代
に日本の対米軍事テクノロジー供与の始動があり世界覇権を握るアメリカとの同盟強化の点での日本の役割の一つ
が対米軍事技術交流にあることも明確になってきた。
(3)
本稿では、1980年代のレーガン政権の時代に、米国はどんな日本の軍事テクノロジーを必要としたのか?なぜそ
れが必要だったのか?防衛庁・自衛隊・民間企業・外務省・政権のリーダー達等、日本はどのように対応したのか?
日本の軍事テクノロジーの対米供与の意味とは?日米同盟の強化なのか?収奪なのか?アメリカとの共闘による国
益を考えた場合の戦略的メリットなのか?といった視点で、日本の軍事テクノロジーの立ち位置を分析して行きたい。
日本の対米軍事技術関係の研究としては、松村昌廣氏の『日本同盟と軍事技術』と山崎文徳氏の論文「対日『依存』
問題と米国の技術収奪−FSX開発における対米技術供与を事例に−」が優れている。本稿においても参考にさせて
頂いた。
1.軍事テクノロジーの重要性
1.1. 軍事技術
アメリカは国際政治にあって、国際安全保障の維持、世界的な秩序・制度・ルール形成への影響力、世界覇権の維持・
拡大を目的として、軍事力の誇示・威嚇・場合によっては行使等の手法を使ってきているように、軍事力を国際政
治力の起動力として利用している。
中長期的に軍事力を規定する最重要な要因は軍事力の質的向上をもたらすものとしての「軍事テクノロジー(軍
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事技術)」である。
「軍事テクノロジー⇒軍事力⇒外交力・国際政治力⇒世界での覇権・世界秩序の構築力」
というシェー
マがある。
軍事テクノロジーの開発力の維持・強化には、その開発政策、兵器調達政策とも関係して、長期的視点からの包
括的政策が必要となる。
一般的に技術は最終使用目的から、軍事技術・民需技術・軍事民需の両用技術に分類できる。即ち、軍事技術は
軍が使用する武器・その他に利用される技術で、特に、その時代の軍事的スタンダードを変化させるような新型軍
事技術のインパクトは非常に大きい。民需技術は民間経済で使用される商品等に利用される技術である。軍事民需
の両用技術は本来民需技術として生産されたものであっても性能・機能等の改善等によって軍事にも利用可能な技
術である。民需技術が実際に軍事に利用されれば両用技術となる。
資本主義経済の中では軍事技術・両用技術共に民間企業で研究開発・生産されるものが大半である。実際、兵器
生産は広範な産業分野の多数の民間企業が生産する部品が統合されて成立している。
日本の軍事テクノロジー・軍事関連製品に関するキープレイヤーは、防衛省技術研究本部・民間防衛産業企業で
ある。防衛省技術研究本部は多大な予算を統括し、民間防衛産業企業(三菱重工・川崎重工・IHI・日立・日本電気
等)へその予算を使い委託・発注をして軍事テクノロジー・軍事製品の生産を展開している。日本の軍事テクノロジー
の中枢は防衛省技術研究本部と民間防衛産業企業と言える。経済産業省は防衛産業の担当官庁であるし軍事テクノ
ロジー・軍事製品の展開にも一定の影響力を有している。
1.2. アメリカにとっての日本の軍事技術の必要性
1980年代初頭アメリカのレーガン政権は対ソ連外交でソ連を力で圧倒しようと軍事力等を徹底して強化する戦略
を展開していった。当時アメリカは中枢の戦略兵器の開発・生産等の分野では潜在的に十分な力を持っていても、
両用技術を背景とした国防産業基盤の競争力低下に直面していた。即ち、米国は長期にわたって軍事用の製品設計
技術を重視していた反面、両用技術の製品製造技術の強化が遅れ、米国の一般製造業部門における競争力が低下し
ていた。軍事力の維持に欠くことができない兵器・装備に利用するための自国の一般産業基盤を弱体化させていた。
実際、米国は兵器システムの部品の調達で次第に海外の供給者に依存するようになっていた。特に海外供給者へ
の依存が高い製品・部品としては、以下のようなものがあった。
①高速データ処理のための次世代ガリウム砒素合成半導体
②ガリウム砒素を使用したレーザー半導体による送信機など多様なファイバー・オプティクス
③ランダム・アクセス用の半導体
④コンピュータ端末
⑤電算機デジタル読みだし装置のための液晶ディスプレイ板
⑥精密ガラス
⑦高電圧スイッチ切り替え装置のための特別なシリコン
出所:松村昌廣(1999)
総じて1980年代は、米国の両用技術をベースとする国防産業基盤は国際比較の上で高くはなかった。対照的に日
本においては、1960年代・70年代、民間製造部門で継続的な投資があり、一般製造技術が発展し、その結果、両用
技術も発展した。1980年代には、素材・部品・サブシステム機器等の分野で、性能・価格の面で、米国製品より優
れたものも生産し始めていた。また、日本の防衛産業界は米国の技術に依存しつつ最新鋭のノウハウを吸収するこ
とにより発展していた。例えば、軍事航空機の分野では、米国のF−4ファントム・F−15等のライセンス生産を
通じてエンジン生産・機体生産・その他工学的技術・航空力学的技術等の研究開発資源を蓄積して行き、それは後
に日本が FSX(次期支援戦闘機)国産化を追求するところまで到達していった。日本の巨大な企業グループ等は、
民需技術を開発・生産する過程で、軍事技術との間で積極的に相乗効果を引き出すことにもなり実質的に両用技術
ないし軍事技術の開発を行っていった。その結果、
日本は民間製造業部門に実質的な「軍事産業基盤」を形成して行っ
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たのである。
別の見方で言えば、急速に精密化する軍事製品生産体系が無数のハイテク部品を必要とし、それら全てを米国内
だけの企業等によって担うのが不可能な状況になってきていたとも言える。その中で、日本の両用技術等の軍事テ
クノロジーを、米軍がとりこむことで、米国の軍事産業基盤の欠落した部分を補完するという潮流が形成されつつ
あったと考える。特に、「光学・エレクトロニクス」等を含む一部のハイテクノロジーの分野において、米国より優
れたものを日本が有するようになっていることに注目しその分野でのものを米国は自国に導入したいと考えるよう
になっていった。その流れの中で、軍事テクノロジーをめぐる日米のやりとり、またFSX(次期支援戦闘機)の共
同開発問題等が現出することになる。
1980年9月、
「第1回日米装備・技術定期協議(S&TF:Systems & Technology Forum)
」がワシントンで開催された。
「日米装備・技術定期協議」は、当時の防衛事務次官と国防総省ペリー次官(技術開発・調達担当)が中心となり設
立されたもので、軍事装備・軍事技術の両国の意志疎通を緊密化するための制度で、両国の軍事装備・軍事技術の
責任者が定期的に意見交換の会合を開くことになった。その後、「日米装備・技術定期協議」という制度を背景に、
携行SAM関連技術、米海軍の艦艇建造・改造のための技術、FSX関連技術、P−3C搭載用デジタルフライトコント
ロールシステム関連技術等の多数の日本の技術が対米供与された。さらに、この制度を背景に、タグテッド・ロケッ
トエンジン、ミリ波・赤外線複合シーカ、アイセーフ・レーザー等に関する日米共同研究が展開されることになる。
2.アメリカの対日軍事技術政策の始動
2.1. ―1981年―
1980年11月の大統領選挙で勝利したレーガンは1981年1月にレーガン政権を発足させた。レーガンはキャスパー
=ワインバーガーを国防長官に任命しアメリカの軍事的総合力の強化を断行した。同時に対日軍事技術政策も加速
することになる。レーガン政権で実質的に対日外交を担当した上級実務者は、リチャード=アーミテージ国防総省
国際安全保障問題担当次官補、ジェイムズ=アウアー国防総省日本担当部長、ガストン=シグール国家安全保障会
議(NSC)アジア担当大統領特別補佐官、ポール=ウォルフォヴィッツ国務省東アジア太平洋担当次官捕などであっ
た。レーガン政権は発足当初より、「アメリカは日本に武器・武器技術を供与しているのに、日本が同盟国であるア
メリカに武器技術まで供与しないのはおかしい」と、武器技術供与を求めてきた。
「日本の技術
1981年6月、ワインバーガー・大村日米国防首脳会談が開催された。 そこで、ワインバーガーは、
(4)
の中には、特に電子・通信技術等の分野で最先端に位置するものが相当あるので、日米安保条約の目的(相互協力)
を達成する点で有益なものであれば、日本の軍事テクノロジーの対米供与を考えてほしいし、その際、日本の対米
武器技術供与を、日本の武器輸出三原則の枠外、例外にしてほしい」と、依頼した。
この時点で、アメリカが特に注目した日本の技術は、電子・通信・セラミック・素材・航空機操縦関連技術等であっ
た。総じてアメリカは、日本の先端技術を軍事兵器高度化のために必要としていた。具体的にはアメリカは日本の
先端技術が米軍の兵器をより小型化、消音化、高性能化するのに寄与すると評価していた。特に、アメリカは日本
の高度な電子技術、航空機操縦装置技術の研究開発に注目していた。例えば、日本の電子技術、半導体等はアメリ
カの兵器・ミサイルシステムの精度を高いものにし、さらにその他の通常兵器の精密照準攻撃の技術進展等にも寄
与すると考えていた。
1981年6月、ハワイで日米安全保障事務レベル協議が開催された。アメリカ側から、周辺海・空域の防衛と1000
カイリのシーレーン防衛、特にソ連潜水艦およびバックファイアー爆撃機への対処能力を早急に整備することが要
求された。園田外務大臣は、「平屋建てを、いきなり十階建てにしろというものだ」と語り対応できなかった。
基本的に1981年時点の日本の鈴木政権は、レーガン政権の対ソ連への強硬な国際政治戦略に同意しつつも、国際
安全保障の個別の分野での具体的な対応になると、十分にアメリカの要求を受け入れる姿勢にはなっていなかった。
よって、日本の対米武器技術供与についても拒否し続ける状態が続いた。
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「第2回日米装備・技術定期協議」が開催され、
アメリカは以下のような技術等の供与を検討してほしいと要求した。
①日本政府保有(防衛庁技術研究本部)の技術(試験評価技術等)
②米国が提供してきた技術を、政府、民間で改良した技術(生産現場での工程管理や溶接要領等の生産技術)
③民間が開発した技術(弱電レーザー・光学電子技術等の通信技術、赤外線暗視技術、高密度集積回路[超LSI]
や超小型計算機等の電子技術、ロボット技術等の精密機械技術)
日本側は、軍需・民需両用技術は武器輸出三原則に抵触せず、輸出可能と言明。
1981年12月、「第3回日米装備・技術定期協議」が開催された。そこで、米国側は以下のように兵器の研究開発資源
の交流や制度設備について要求した。
①技術者の相互交流
②研究施設の相互開設
③次期開発装備品に関する情報交換・技術交換
④軍事技術、兵器の全面的共同研究・開発
⑤武器輸出三原則の早期撤廃
2.2. ―1982年―
1982年6月、米国政府は、日米間の防衛分野における技術のさらなる相互交流の要請をしてきた。1982年7月、
日本の国防会議(1986年以降は安全保障会議となる)で、F−1戦闘機の後継機としてのFSX(Fighter Support-X:
次期支援戦闘機)という表現を含めた「五六中期業務見積り」が了承された。
1982年11月、日本で中曽根康弘が首相に就任した。中曽根はアメリカ・レーガン政権の壮大な世界戦略、日本の
地政学的立ち位置を深く理解したリーダーであった。中曽根は1960年代に日米関係を緊密化させていった佐藤政権
時代に防衛庁長官を経験し、それはワインバーガー国防長官にとっては、日本側のカウンターパートの機関のトッ
プを経験していることを意味し、国防の専門家、国際政治の専門家として見られ評価されて行くことにも通じた。
ワインバーガーは、中曽根について、次のように述べている。
「中曽根康弘氏は独創的な人物で、彼は従来の日本の
固定観念にこだわらず、新しく積極的な政策を取り上げるだけの強さと決断力を持っていた。このような面では、
中曽根首相は彼が非常に尊敬しているというレーガン大統領に似ていた。
」
(
『平和への戦い』220P)
中曽根は就任後、「1981年のレーガン・鈴木の共同声明」によって示された防衛目標を達成するよう努力すると約
束した。そして直ちに、防衛費(防衛庁予算)を当時の緊縮財政の例外扱いとし、大蔵省原案が他省庁予算と同列
の5.1%増であったのを、6.5%増とするよう指示した。さらに対米武器技術供与に関して、日米安全保障条約の観点
から、米軍向けの武器技術供与を「武器輸出三原則」との関係でも調整した。そして、
「技術供与の範囲にとどまる
なら、通常業務における技術知識の交換であって、生産された武器自体の移転ではない。同盟国たるアメリカに対
し技術供与することは何ら問題ない」と指示し、アメリカのみを防衛技術輸出禁止の枠から外すという対米武器技
術供与を決断したのであった。
(5)
武器輸出三原則とは、1967年佐藤政権によって明確にされたもので、以下のような国・地域への武器輸出を禁止
した。共産主義諸国向け・国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向け・国際紛争の当事国又はそのおそ
れにある国向けである。実際、武器輸出三原則は、アメリカが日本から軍事技術・関連部品等を調達する際の最大
の障害であった。その後も、武器輸出三原則は、アメリカに対してのみ緩和ないし形骸化して行くことになる。
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―「武器輸出三原則(1967年4月21日:佐藤政権)
」の要旨―
外国為替及び外国貿易管理法及び輸出貿易管理令についての政府の運用方針として、次の場合は、武器輸出
は認めないものとする。
1)共産国向けの場合
2)国連決議により武器等の輸出を禁止されている国向けの場合
3)国際紛争の当時国又はそのおそれのある国向けの場合
―「武器輸出に関する政府統一見解」(1976年2月27日:三木政権)―
(1)政府の方針
「武器」の輸出については、平和国家としての我が国の立場からそれによって国際紛争等を助長することを
回避するため、政府としては、従来から慎重に対処しており、今後とも、次の方針により処理するものとし、
その輸出を促進することはしない。
1)三原則対象地域については、「武器」の輸出を認めない。
2)三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」
の輸出を慎むものとする。
3)武器製造関連設備(輸出貿易管理令別表第一の第109の項など)の輸出については、
「武器」に準じて取り扱
うものとする。
(2)武器の定義
「武器」という用語は、種々の法令又は運用の上において用いられており、その定義については、それぞれ
の法令等の趣旨によって解釈すべきものであるが、
1)武器輸出三原則における「武器」とは、
「軍隊が使用するものであって、
直接戦闘の用に供されるもの」をいい、
具体的には、輸出貿易管理令別表第一の第197の項から第205の項までに揚げるもののうちこの定義に相当す
るものが「武器」である。
2)自衛隊法上の「武器」については、「火器、火薬類、刀剣類その他直接人を殺傷し、又は、武力闘争の手段
として物を破壊することを目的とする機械、器具、装置等」であると解している。なお、本来的に、火器等
を搭載し、そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段として物の破壊を目的として行動する護衛艦、
戦闘機、戦車のようなものは、右の「武器」に当たると考える。
(注)平成3年11月の輸出貿易管理令の一部改正により、
(1)
3)の「第109の項」及び(2)
1)の「第197の項か
ら第205の項」は、「第1項」に変わっている。
2.3. ―1983年―
1983年1月14日に、政府は「対米武器技術供与」を閣議決定し、同日以下のような「対米武器技術供与について
の内閣官房長官談話」を発表した。
―「対米武器技術供与についての内閣官房長官談話」―
昨年6月以来米国政府から日米間の防衛分野における技術の相互交流の要請があり、その一環としての対米
武器技術供与の問題について政府部内で慎重に検討を重ねてきた結果、この度、次の結論に達し、本日の閣議に
おいて了承を得た。
1.日米安保体制の下において日米両国は相互に協力してそれぞれの防衛力を維持し、発展させることとされて
おり、これまで我が国は米国から防衛力整備のため、技術の供与を含め各種の協力を得てきている。近年
100
我が国の技術水準が向上してきたこと等の新たな状況を考慮すれば、我が国としても、防衛分野における
米国との技術の相互交流を図ることが、日米安保体制の効果的運用を確保する上で極めて重要となってい
る。これは、防衛分野における日米間の相互協力を定めた日米安保条約及び関連取極の趣旨に沿うゆえん
であり、また、我が国及び極東の平和と安全に資するものである。
2.政府は、これまで武器等の輸出については武器輸出三原則(昭和51年2月27日の武器輸出に関する政府方針
等を含む。)によって対処してきたところであるが、上記にかんがみ、米国の要請に応じ、相互交流の一環
として米国に武器技術(その供与を実効あらしめるため必要な物品であって武器に該当するものを含む。
)
を供与する途を開くこととし、その供与に当たっては、武器輸出三原則によらないこととする。この場合、
本件供与は日米相互防衛援助協定の関連規定に基づく枠組みの下で実施することとし、これにより国際紛
争等を助長することを回避するという武器輸出三原則のよって立つ平和国家としての基本理念は確保され
ることとなる。
なお、政府としては、今後とも、基本的には武器輸出三原則を堅持し、昭和56年3月の武器輸出問題等に
関する国会決議の趣旨を尊重していく考えであることは言うまでもない。
ここにおいて、第2次世界大戦後海外への武器輸出を実質的に禁止してきた日本は、明確な武器自体の輸出では
ないが、日米安全保障条約第3条で定められた相互援助の実施という理論によって、アメリカに対しての軍事技術
を供与する道を開くことになった。
1983年1月の対米武器技術供与の決定は、実質的には、「武器輸出三原則」の例外として、その道が開かれて行く
ことになった。実際、この時から供与が開始された日本の軍事テクノロジーは、米軍の先端技術・先端兵器の水準
を上げることに貢献し、それは1991年の湾岸戦争でも使用され、米国の対ソ連崩壊への国際戦略遂行に寄与する一
因ともなって行く。同時に、「米国の軍事テクノロジー・グローバルスケールの兵器生産の壮大な生産体系」の中に、
日本の企業が意識せずとも組み込まれて行く流れが、スタートする契機にもなって行くのであった。
1983年1月18日・19日、中曽根は「日本の防衛費6.5%増・対米武器技術供与」という「対米支援政策」を持って、
ワシントンでの日米首脳会談に臨んだ。中曽根はレーガンに対して、「日米は運命共同体として、太平洋を隔てて、
世界平和、特にアジア太平洋の繁栄と安定に協力すべき」と語った。1月19日のレーガン大統領夫妻主催の朝食会で、
レーガンは、「これからは私をロンと呼んでくれ。あなたをヤスと呼んでもよいか」と言った。レーガンと中曽根の
個人的信頼関係・「ロン=ヤス関係」の始まりであった。
1983年7月、「第4回日米装備・技術定期協議」で、米国側は対米軍事技術供与について、相互性、包括的枠組み
による手続きの簡素化を要求した。日本の民間企業がもっている技術がスムーズに米国に流れるように、日米企業
間の協力の緊密化と秘密保持、軍事技術の全面的な相互交流の円滑な実施を要求した。
1983年10月29日~ 11月6日(約1週間)、アメリカはカリー調査団を日本に派遣した。目的は、日本の技術が米国
の国際安全保障に具体的に利用可能であるかの分析にあった。カリー調査団は、外務省・通商産業省・防衛庁(当時)
等の政府幹部、防衛・外務・科学・通産・技術委員会等に所属する政治家、富士通・日立・三菱電機・日本電気・東芝・
石川島播磨・川崎重工・三菱重工等の民間企業及び経団連のスタッフ等をヒアリングした。その結果、日本の先端
技術分野16分野に注目した。特にその中でも、ガリウムヒ素化合物装置・セラミックスとその他の複合材料や耐熱
材等を高く評価し、米国の防衛に寄与するものと考えた。
中曽根政権が決断した「対米武器技術供与」はその後以下のように進んだ。即ち、1983年11月、米国に対しては、
武器輸出三原則等によらず武器技術を供与することとし、対米武器技術供与を日米相互防衛援助協定の関連規定の
下で行うという基本的枠組みを定めた「日本国とアメリカ合衆国との間の相互援助協定に基づくアメリカ合衆国に
対する武器技術の供与に関する交換公文」(対米武器技術供与に関する交換公文)を締結した。米国への武器技術供
与の制度整備が進んだ。
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―「対米武器技術供与に関する交換公文」(1983年11月)の概要―
1.日本国政府は、この了解の実施のために締結される細目取極に従い、米国の防衛能力を向上させるために必
要な武器技術であって2により決定されるものの米国政府等に対する供与を、関係法令に従って承認する。
2.この了解の実施に関する日米両政府間の協議機関として、日米の国別委員部からなる武器技術共同委員会
(JMTC)を設置する。日本国側委員部は、米国側委員部から受領した情報及びJMTCにおける討議に基づき、
日本国政府が供与の承認を行うことが適当である武器技術を決定する。
3.この了解の実施のための細目取極は、両政府の権限のある当局の間で締結される。
4.この了解は、供与される援助につき、(イ)国連憲章と矛盾する使用の禁止、
(ロ)目的外使用の禁止、
(ハ)
事前の同意なく第三国政府等に移転することの禁止等を規定する相互防衛援助協定等に従って実施される。
5.米国政府は、日本国において定められている秘密保護の等級と同等のものを確保する秘密保持の措置をとる
ことに同意するとともに、武器技術の供与に関連して米国において課されることのある租税等を免除する。
交換公文によって、以下のことが明確になった。
第1に、
対米供与される武器技術の意味は、
①武器専用の生産技術や設計図、
②「武器」の試作品ということになった。
第2に、「武器技術以外の防衛分野における技術」即ち、電子部品などの汎用品や汎用の生産技術等、武器にも転
用可能な技術の、供与も促進されることになった。
第3に、武器技術供与を伴うような日米間での武器技術の共同研究開発を行うベースが形成されていった。
第4に、日米共同で開発された武器は、日本の自衛隊で使用されることは認められた。米国で使用されることも
当然だった。しかし、対米供与された武器技術やそれによって製造された兵器がアメリカによって「第3国移転」
される可能性があったが、当初は、日本側は、日米相互防衛援助協定(1954年5月1日)の1条4項を背景に、
「第
3国移転では供与国の同意が必要」として、米国が同意を求めたときに日本政府が拒否できるとしたが、それも、
1992年8月には、米国は第3国移転の「事前の同意」という条件の削除を日本政府に要求するのであった。
1983年を起点とする日本の対米武器技術供与は、2006年の「対米武器・武器技術供与取極」・「日本国とアメリカ
合衆国との間の相互防衛援助協定に基づくアメリカ合衆国に対する武器及び武器技術の供与に関する書簡の交換」
等に発展して行く。中曽根政権時代の日米関係は日本の対米武器技術供与のベースをつくっていったとも言える。
2.4. ―1984年―
1984年7月、マッカラム調査団が来日した。光電子工学・ミリ波マイクロ波の2分野に注目し、開発、生産状況
を視察した。この調査結果にもとづき、1984年8月の米国側は「第6回日米装備・技術定期協議」で、関心をもつ
技術分野を示した。その後も、米国は毎年調査団を送ることになる。
1984年11月、対米武器技術供与を進めるため、日米両国政府の協議機関として武器技術共同委員会(JMTC:Joint
Military Technology Commission)が発足した。
2.5. ―1985年―
1985年初めワインバーガーは、当時のINF問題を中心とした米ソ間交渉におけるアメリカ側の最大のカードでも
あった、「SDI(Strategic Defense Initiative:戦略防衛構想)
」の研究開発への日本の参加を呼びかけた。
1985年2月6日「国会決議の「平和目的」と自衛隊による衛星利用についての政府見解」が出された。
1985年4月にもマッカラム調査団が来日した。
102
1985年5月、「第7回日米装備・技術定期協議」が開催された。
1985年9月、日本の国防会議及び閣議は、それまで防衛庁内部の参考プランでしかなかった「中期業務見積もり」
を廃止し発展させ、政府の正式な計画としての「中期防衛力整備計画」を策定することを決定し、最初の「中期防
衛力整備計画」(1986年版)の策定を進めた。これは中曽根首相の協力を得ながら栗原裕幸防衛庁長官が指揮をとり
まとめていったものだった。
振り返れば、1978年(昭和53年)に初めて、防衛整備の3年程の中期での計画が策定され、
「五三中期業務見積り」
(1980年以降対象)とされた。その後も、3年で見直しの流れになり、1981年(昭和56年)に「五六中期業務見積り」、
1984年(昭和59年)に「五九中期業務見積り」が策定された。
「中期防衛力整備計画」は5カ年単位で進められ3年目に見直しを行うものとされた。
これまで、1986年版・1991年版・1996年版・2001年版・2005年版・2011年版の、合計6回策定されている。
1985年12月、
「対米武器技術供与を実施するための細目取り決め」
(
「対米武器技術供与取極」
)
が締結された。この「細
目取り決め」において、日米間の武器技術供与は、技術および技術供与に必要な物品に限定され、日本の当該技術
を利用して米国が生産した兵器を日本が輸出することは禁止された。
2.6. ―1986年―
1986年7月の日本の選挙で中曽根政権下の自民党が圧勝し衆参両院で完全な優位を確立した。衆議院では512中
300議席を獲得した。中曽根は自民党規定の総裁任期を超過してさらに1年間政権を担当することになった。選挙結
果を受けて、中曽根政権は米国の要請でもあった日本の防衛費のGNP比1%枠の撤廃と、SDI研究開発への参加を決
定したのであった。1986年9月、対米武器技術供与の第1号が正式に政府決定された。
中曽根政権は当初、FSXに関して、①国産機開発、②自衛隊の当時の主力戦闘機F−4EJの支援戦闘機への改良、
③外国機導入の選択肢を考え、国産化へ傾斜するようにもなっていた。なお当時の防衛産業政策担当の通産省と国
防担当の防衛庁はFSX国産化推進派で、日米同盟維持優先の外務省と防衛産業政策への支出を抑制したい大蔵省は
FSX日米共同開発推進派だった。しかし、1986年12月に、レーガン政権は日本のFSXについて、米国側のスタンス
を明確にし始めた。即ち、ワインバーガー国防長官、アーミテージ国防次官補が米国機購入を示唆し始めた。その際、
日本の対米貿易黒字問題をもリンクさせた。しかし、不必要な政治的摩擦は回避された。それは対ソ連戦略の日本
共闘体制や、レーガン・中曽根の個人的な信頼関係のおかげであった。
実際、FSX問題をめぐる日米間の初期段階では日米双方とも限定された数の政策担当者しかこの問題には関与し
ておらず、日本の新聞やマスコミにもFSX問題が政治問題として取り上げることもなかった。本質的に、日米同盟は、
米国政権側に優位で、アメリカは日米同盟の枠組みの中で影響力を行使することで、次期支援戦闘機を米国から直
接購入することによって、米国の軍事覇権を維持することを考えた。
1986年の日本の新聞記者とのインタビューで、ワインバーガーは、
「アジアにおけるソ連に対するアメリカの抑止
力を高めるためには、アメリカと日本の技術協力が不可欠である」と、述べている。
2.7. ―1987年―
1987年、中曽根は日本の防衛費のGNP比1%枠の撤廃を進めた。6月、ソ連潜水艦の能力向上に対抗するために、
対潜水艦対応(ASW)向上のための協力を行うことになり、双胴型音響測定船の建造、ASWセンターの整備等が進
められることになった。
7月、日本政府はワシントンにおいて、米国の戦略防衛構想(SDI)に日本企業が研究参加するための「日本の
SDI研究計画参加に関する協定(SDI研究参加協定、Agreement on Japanese Participation in the SDI Research
Program)」を締結した。なお、日本では1969年に「宇宙空間のいかなる軍事的利用も禁止する国会決議」が採択さ
れていたが、日米のSDI協定はそれを破ることになった。
1987年は、レーガン政権にとって、1986年のレイキャビック会談後の対ソ連戦略の最大の山場の時だった。その
103
時に、ソ連側を圧倒するためにアメリカはあらゆるシグナルを発する必要があった。米国政府と日本政府によるSDI
協定締結も含めた日米の軍事技術協力等の日米共闘の演出はソ連への圧力・脅威となったと考える。対米武器技術
供与は多様な日米共闘の分野の演出、外交戦の一構成要素、必須の構成要素だったとも言える。
なおレーガン時代のSDIから後のTMDにかけて、
米国は330億ドルの研究開発費を投入した。SDI・TMDに対しては、
同盟諸国は資金面ではほとんど貢献しなかった。1994年にアスピン国防長官が、正式にSDIプログラムの停止を発表
した。しかし1980年代のSDIの研究開発で獲得した技術はTMDに生かされて行く。なお、諜報、監視、偵察、早期警戒、
弾道ミサイル発見、兵器誘導、位置確認、コミュニケーション等、重要な軍事作戦機能は、宇宙空間でなされるよ
うになって行く。
1987年10月、ワインバーガー・栗原日米防衛首脳会談で、米国のF−16をベースに日本の次期支援戦闘機(FSX)
を日米間で共同開発することが決定された。自民党国防関係合同部会でも了承された。
FSX共同開発でアメリカ側が必要とした日本の技術は特に複合素材技術とレーダー技術だった。
複合素材技術(CFRP : Carbon-Fiber Restrengthened Plastic)は、東レ㈱等の民間企業が、ゴルフクラブ・釣り
竿等の需要拡大からその製造を通じて複合素材の応用技術を獲得し、世界最高水準の技術レベルとなり、やがて複
合素材技術は、戦闘機の主翼全体を炭素繊維とエポキシ系樹脂で造り、桁と外板を一体形成する日本の独自技術に
発展した。その技術は耐熱、耐振動、耐衝撃等の点で兵器へ転用するために必要な厳しい諸条件を満たし始めていた。
レーダー技術の用途は、ミサイル・機関砲等の搭載兵器を用いて効率的に敵を撃滅するため、目標に反射した電
波を受信することで敵を捜索することにある。アメリカが注目した日本のレーダー技術とは、アクティブ・フェー
ズド・アレイ・レーダー技術(APAR: Active Phased Array Radar:能動位相走査型レーダー)であった。アクティ
ブ・フェイズド・アレイ・レーダー(APAR)の特徴は、円形のアンテナを機械的に動かすことなく、電子的な走
査により電波の向きを変えることができる点にあった。
松村昌廣(1999)はAPARの詳細について次のように述べている。フェーズド・レーダー技術はアンテナ面に多
数の小型送受信エレメントを並べた形式のレーダーで、一つ一つのエレメントをコンピュータで制御することで電
波のビームを自在にコントロールする技術である。この技術を使えば、空中での複数目標の捜索や照準、洋上での
目標捜索などのいくつもの機能を同時に遂行でき、敵の電子的妨害(ECM : Electronic Counter-Measures)にも対
抗できた。フェーズド・レーダー技術は索敵能力、ひいては空中接近戦の能力を相当高めると考えられていた。
APARは、日本では防衛庁の技術研究本部を中心に1970年代から開発が始まり、1981年度には技術研究本部は、
三菱電機に開発委託し、1986年に試作品が完成した。フェーズド・レーダー技術の構成の最重要技術・部品は、レー
ダーのアンテナ部分にある送受信用のモジュールを製造する日本の製造技術にあった。フェーズド・レーダーのア
ンテナは直径3フィート(約90センチメートル)の円形構造をしており、戦闘機の先端部分にすっぽり入る。アン
テナは約2,000個のモジュール(構成単位)からできていた。個々のモジュールは非常に小さく、長さも6インチ(15
センチメートル)以下である。APARの中心的技術は、APARを構成する送受信モジュールだった。
1980年代半ば以降、米国の調査団が富士通や住友電工、技術研究本部、三菱電機などを何度も訪問したが、その
目的はAPARを構成する送受信モジュールにあった。
さらに、中でも、送受信モジュールの素子アンテナとして使用されたガリウムヒ素化合物半導体(ガリウムヒ素
化合物FET(電界効果トランジスタ))が重要であった。山崎文徳(2006)は次のように分析している。ガリウムヒ
素化合物半導体の市場は、1989年の時点で日本電気、富士通、三菱電機の3社によって50%以上が占有され、約3分
の2が日本企業により占められていた。特に、ガリウムヒ素化合物半導体の原料であるガリウムヒ素化合物結晶に
おいても、日本のメーカーがシェアを独占していた。1985年における西側へのガリウムヒ素化合物の供給は住友電
気工業1社で75%を占めていた。
FSX共同開発で日本側が必要としたアメリカの技術は、システム統合化に必要なソフトウェア技術やデータを自
国の優越する製造技術であった。
米国機購入路線から共同開発路線で決着させたことを「対米従属」とみるか、
「最強国との同盟強化による世界で
の勝ち残りのための国際政治戦略」とみるかは、見方の問題にしかすぎない。
なお、1987年12月、アメリカは対ソ連外交の戦略的課題であったINF交渉においてアメリカ側が当初のゼロオプショ
104
ンをソ連に飲ませる形でINFを全廃させることで決着させたのであった。
2.8. ―1988年―
日本に対する防衛目的のための技術上の知識の供与がより促進されることが期待されたが、対米武器技術供与の
制度には、日米防衛特許協定の機能の健全化が必要であった。「日米防衛特許協定」とは、1956年締結の「防衛目的
のためにする特許権及び技術上の知識の交流を容易にするための日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」
(Agreement between the Government of the United States of America and the Government of Japan to Facilitate
Interchange of Patent Rights and Technical Information for Purposes of Defense:略称は日米防衛特許協定・日米
技術協定)で、軍事関連特許の秘密保持に関する条約であった。一方の国で非公開とされた防衛関連の特許
(秘密特許)
については他方の国でも非公開とすること等を定めたものだった。この協定は、
「実施のための手続細則」も設定さ
れず、長期に渡って事実上実施されることもなかった。
「日米防衛特許協定」の「実施のための手続細則」の整備が
進められることになった。
米国政府の要請があり、1988年3月31日に日米防衛特許協定の第6条で設置が定められた技術財産委員会が開か
れることになった。この委員会を契機にして、第3条を活性化させる「手続き細目」が決定された。この整備によっ
て、日米共同開発による技術を含めて、米国で秘密特許とされている技術に関しては、日本で特許出願された場合
でも秘密が保持されることが保証された。この背景には、米国企業の有する軍事・両用の技術が日本企業によって
利用されることを防ぐ狙いがあったと考えられる。さらに、1987年締結の「SDI協定」から始動するSDI共同開発に
おける米国技術の秘密保持の必要性もあったと考えられる。
なお米国は同様の協定を、イギリス・ドイツ・イタリア・オーストラリア・スペイン・オランダ・ベルギー等複
数の国家と締結している。
1988年、在日米軍に対する日本の資金援助は25億ドル、アメリカ人要員一人当たり換算4万5千ドルに達し世界
に駐留する米軍の中でも最高の援助を日本は支給することになった。
1988年11月28日、アメリカ政府と日本政府は、「FSXの共同開発に関する交換公文と了解覚書」を締結した。レー
ガン政権の最終段階の時期であった。ここでは明確に日本側の開発成果を適切に対米供与することが定められた。
(6)
FSX共同開発計画を通じても日本の技術はアメリカに供与される。例えば、三菱重工の主翼の一体成形技術はGD
(General Dynamics)社に供与され、三菱電機のレーダー技術が米国防総省に供与されそれはやがてウエスチング・
ハウスなどの技術開発を強化することになり、米国の軍事技術力の強化になっていった。
2.9. ―1989年―
1989年は1981年以来のレーガン政権の「力による平和」戦略が、ついに全世界の急速な自由主義化・民主化の潮
流をつくり、なお1989年1月にアメリカではレーガン政権の国際政治戦略を引き継ぐ形でブッシュシニア政権がス
タートした。さらにソ連支配圏・ソ連の覇権の終焉、冷戦終結を現出させて行く年となる。
1月、ハンガリーで複数政党制が導入され民主化が進められ、示威行動や言論の自由も認められていった。エス
トニアは自国民族語を公用語にした。
2月、チェコスロバキアで、共産党政府が反体制派のバクラブ=ハル等の複数のリーダーを共産党統治反対ラリー
に参加したとして投獄した。ゴルバチョフは、1988年5月のソ連軍のアフガ二スタン撤退開始以来のさらなる軍の
撤退を進めアフガニスタン撤退を完了させた。
米ソ間では3月から、それまでの中距離核戦力全廃に続いて、通常戦力の削減交渉が開始された。ゴルバチョフは、
500発の戦術核兵器の一方的撤去を発表した。
4月、グルジアのトビリシでゴルバチョフ政権は、非武装デモ隊を軍事的に鎮圧した。20人の死者が出た。
5月、ゴルバチョフはソ連がNATO正面配備の24万も含め各地で合計50万人の軍を撤退させると宣言した。こ
の宣言自体がソ連の東側衛星諸国への軍事介入・軍事的圧力の大幅な緩和とも解釈され同年の東ヨーロッパ・世界
105
の自由化民主化促進の契機の一つにもなって行く。ハンガリー・オーストリアでは、その2国間にあった国境が開
放された。このハンガリーのオーストリアとの鉄柵排除以降、東ドイツからハンガリーに入りオーストリアに行き
ウィーンの西ドイツ大使館に亡命申請するというパターンで、西ドイツに亡命する東ドイツ人が大量に発生して行
くことになる。
6月、中国で天安門事件が勃発した。天安門広場で学生・市民による民主化を要求した運動が起きた。ポーラン
ドでは、レフ=ワレサ率いる自主管理労働組合「連帯」の活動が進展し、ついに体制側の共産党と自主管理労働組
合「連帯」による新政権形成のための円卓会議が開催され自由選挙が実施された。
7月、ゴルバチョフはストラスブールの欧州議会で、「ヨーロッパ共同の家」(「欧州共通の家」)の創造という構
想を提案した。また反政府活動鎮圧のためにソ連が東欧諸国に軍事力を行使するようなことはないと明言した。ゴ
ルバチョフはブカレストのワルシャワ条約機構首脳会議で、従来のソ連外交の支柱的方針であった社会主義国の主
権は制限されるという主旨のブレジネフドクトリン(制限主権論)を、
「1988年3月の新ベオグラード宣言」に続き、
再度明確に否定・廃止するコミュニケを採択した。ソ連の国際政治戦略における「制限主権論」の撤廃の衝撃は大
きかった。これをもって、東欧諸国においていかなる民主化運動が起きてもソ連軍が介入することがないというこ
とが明確になったのである。
8月、開放されたハンガリー・オーストリア国境線を約1000人の東ドイツ市民が越え、オーストリア経由で西ド
イツに入り亡命するという事件が起きた。
9月、東ドイツ人がハンガリーに移動していったとき、ハンガリーは彼らに「より良い生活のために、そこにと
どまることないし西ドイツに行くこと、どこか他の自由主義の国に行くこと」を許可した。
10月、ゴルバチョフは東ドイツ建国40周年記念式典の行事の際、ホーネッカー第一書記・書記長と会談し退陣を
示唆した。そしてその直後、東ドイツ中央委員会の定例会議で18年間共産党第一書記だったエーリッヒ=ホーネッ
カーは解任され、クレンツが書記長になった。権勢を誇ったホーネッカーの退任を受け、30万人以上の東ドイツ人
が民主化をもとめてデモを始め、ベルリンでの100万人規模のデモに拡大していった。この大規模なデモの中で、東
ドイツから西側への亡命者が急増し、ついには東ドイツ市民がベルリンの壁を突破する事態にまでなっていった。
11月、東ドイツ政府が総辞職し、旅行規制が全面的に解かれ人々がベルリンの壁を越え自由を求めて西側に向かっ
た。東ドイツ政府は、東ドイツ市民の旅行の自由化を発表した。
(この決定・発表自体は東ドイツ政府内部の激しい
混乱の中でなされたものであった)この発表後ベルリンの壁の破壊が始まり、東西分断の象徴だったベルリンの壁
がついに崩壊した。
民主化・自由化の潮流は東欧だけにとどまらず、世界的潮流になっていった。アパルトヘイトの続いていた南ア
フリカ共和国では、F・W・デクラーク大統領が政治犯を釈放し言論の自由を認め、それまで禁止していたアフリ
カ国民会議を合法化しアパルトヘイト撤廃を開始した。
南米のチリでもピノチェト独裁政権に対して大統領選挙・議会選挙で民主派が勝利した。
12月2日・3日、ゴルバチョフはマルタにおいて、ブッシュ大統領と米ソ首脳会談に臨んだ。マルタ会談におい
て米ソ両国は東欧の民主化を承認し、また第2次世界大戦末期1945年2月のヤルタ会談から事実上始まり44年間続
いた東西冷戦の終結を宣言した。
2.10. ―1990年―
1990年2月、武器技術共同委員会(Joint Military Technology Commission:JMTC)が開催された。そこで基本
的に「日本のFSX関連武器技術」は米国に対して一括で供与されることが決められた。そして、APARは、一体形
成技術とは異なり日本側に帰属する「独自技術」として認められた。
1990年3月30日、FSXの日米共同開発チームが発足し、12月にGE製エンジンの採用が決定した。1995年10月に初
飛行が行われることになる。特に、「FSXの日米共同開発」で米国が注目した「主翼の一体成形技術」と「レーダー
技術」の対米供与はアメリカの軍事技術力を強化したと言える。
106
2.11. ―1991年―
1月16日、中東では米軍を中心とした多国籍軍がイラクへの集中空撃を開始した。当時イラクへの支援国家はソ
連で、イラクは多くのソ連製武器を使用していた。例えば、イラクが使用していたスカッド・ミサイル等がソ連製で、
湾岸戦争当時もソ連の武器指導者・助言者がイラクにいたのであった。湾岸戦争でアメリカは再編成・強化された
先端的軍事力を、ソ連や世界にみせつけることになった。
米国は偵察衛星・レーダーで対戦国等の情報を把握し、巡航ミサイルによってピン・ポイントでイラクの戦略拠
点を破壊した。レーダーに映らないステルス爆撃機や、闇夜でも見える赤外線機器も使用された。民間経済でも発
展していたコンピュータ・情報革命の成果が、各兵器に組み込まれた結果でもあった。多様な高度化した兵器体系
が効果的に統合化され米軍の総合力を伸ばした。RMA(The Revolution in Military Affairs:軍事ハイテク革命)で
あった。このハイテク戦の準備は1980年代から始まっており、そこには日本の軍事テクノロジーの寄与もあった。
米軍の力量についての情報はCNN等のグローバルメディアで世界に発信され、それらは世界の人々の心、思考に
入り、世界世論を形成することにもなった。
2月、ソ連がバルト三国を弾圧していることに抗議して、アメリカはサミットを延期した。それに対抗して、ソ
連の新任外務大臣アレクサンダー=ベススメルトヌイフは、アメリカが湾岸戦争でイラクをクウェートから追放す
ること以上のこと、つまり国連から委任されたこと以上のことをするのではといった懸念を表明したのだった。
8月、ソ連において共産党内守旧派を中心とした「ソ連8月クーデター」が失敗し、ソ連共産党が消滅し、連邦
内共和国の連邦からの離脱が加速した。1991年12月、ソ連は崩壊し、冷戦はアメリカの勝利に終わった。
冷戦の経験から明確になったことは、軍備・兵力の規模、量的スケールも一定の水準まで必要であるが、それ以
上に先端軍事技術の継続的高度化が重要であるということだった。米国はソ連に、ハイテク軍事競争で勝ったから、
ソ連を打倒できたとも言える。「軍事技術戦」の勝利であった。
湾岸戦争で米国の軍・軍事産業(企業)は、技術的卓越性を世界に示した。米国は兵器の技術水準、技術開発力、
生産力の点で他国を圧倒し、国際兵器市場での独占的地位を確立して行くことになる。
2.12. -1992年-
1992年6月22日には商務省と国防総省が主催するシンポジウムがワシントンで開かれた。シンポジウムには150人
以上の米国の産業および政府関係者が出席し、三菱電機によりAPARの概略が説明された。
8月には、国防総省が三菱電機から技術データや技術に付随する試作品としての送受信モジュール5個を購入し
た。契約価格は送受信モジュール1個4,800ドル、技術データや付属品が70,000ドルであった。
1992年までに供与が決定された技術には以下のようなものがあった。
①個人携帯用地対地ミサイルに使う追尾誘導技術
②補給艦建造技術
③空母改修技術
④FSX関連技術
⑤対潜哨戒機P−3Cの飛行制御技術
出所:『日本経済新聞』(1992年4月20日)
おわりに
世界的覇権とは、世界秩序・世界制度・世界的ルール・世界体制の形成への対外的影響力である。その力を有す
る国家は、軍事力・経済力・その背景としての科学技術力・教育力、そして文化的メディア的パワーがなくてはな
らない。第2次世界大戦後、米国が世界的覇権を有し続け冷戦を終結させたからこそ、自由主義・民主主義・市場
107
経済・資本主義が基幹制度となっていると言える。もし、ソ連が世界覇権を握っていたら、別の形になっていたと
も考えれる。どこの国家が世界覇権を握るかが国際政治総体を決める。
米国が世界的覇権を維持するための必須要素が軍事力であるが、そのためには自国の軍事産業が規模、技術力、
生産力のすべての点で他を圧倒する必要があった。そして、中枢要件の一つである軍事テクノロジーの点で日本は
レーガン政権期、一定の役割を果たした。1980年代、日本の企業、その製品・技術は米国防衛産業の壮大な体系に
組み込まれていき、結果として、米国のソ連打倒に貢献した。また、米国のグローバルスケールでの軍事生産体系
への日本のビルトインが1980年代のレーガン政権期に始動したと考える。当時の両政府の思惑は、別の所にあった
り流転したとしても、上記の現実が形成されることになった。
1980年代の米国企業は多国籍化し生産自体のグローバリゼーションが進んでいった。中枢の軍事技術以外にも、
非常に裾野が広いのが軍事技術・生産で、グローバル化もあり、軍事技術・生産を米国内のみで行うのは非効率で
もあるので、非中枢(非中枢でも極めて必須の重要な技術・部品は多数ある)のものを日本が担うようになった。
グローバル化したボーダレスワールドにおいては、軍事技術・生産においても、基幹部分は米国本土の米国企業が
担うにしても、膨大な数になる部品について米国本土の米国企業のみで担うのは、コスト的にも、部品技術自体の
進歩の流れを考えても、非合理的であり、海外発注するのが妥当となっていった。
米国の軍事製品総体において、3次・4次以下のサブコントラクターが扱うような汎用性の高い部品は、世界市
場を通じて海外企業からも調達されるようになり、日本製品は、品質だけでなく価格や納期などをも含めた点でウェ
イトを拡大させていった。
圧倒的な規模を持つ世界的な米国軍事産業構造の体系での下請、部品供給、技術開発部門等の地位として日本の
軍事産業企業は組み込まれていった。事実上の中枢機能は米国が握り、部品、技術等の広範なサブコントラクター
機能は、グローバル化・ボーダレス化の中で日本や米国の他の同盟諸国が担うようになっていた。
この現実への見方は個々の価値観をベースにして多様である。
「対米従属」という見方もあるし、日本が世界国家
アメリカと共闘する戦略で生き延び安定と豊かさを維持する国家戦略であって、
「日本によるアメリカの軍事技術の
補完⇒日米同盟深化」という見方もできる。
日本の技術はその研究能力において潜在的に卓越性を有しており、米国防衛産業に寄与することは今後も継続す
るものと考える。1980年代のレーガン政権期から始動した米国の国際政治戦略への寄与、その基底部である軍事の
根幹を支える軍事テクノロジーの面での寄与は続いて行くものと思われる。
実際、日本は1995年度には、防衛費(軍事費)が名目で世界第3位となった。軍事テクノロジーでも高い能力を
有するまでになった。しかし、注意しなければならないのは、米国が許容する日本の軍事テクノロジーの発展は、
あくまで、米国の戦略的な兵器体系自体に決して脅威を与えない水準・範囲での発展であって、米国に脅威を与え
ないから許容されるのが日本の軍事技術開発で、脅威を与えるほどになったらつぶされるということである。同じ
資本主義体制・自由主義体制・民主主義体制であっても、国家的脅威となる勢力には、米国は断固として対抗する
という冷厳な米国の国際政治戦略展開の歴史・現実を忘れてはならない。数十年や百年のスパンで考えた時、日本
は過去の誤った戦略決定を忘れてはならない。 国際政治という大局の視点から先ずみることが重要である。日米の
(7)
軍事的基本は、日本が米国に協力するにしても、その質や技術の総体等において、米国の優越を脅かすことがない
ということである。米国の軍事的優越性に挑戦することがあれば、米国は日本を叩くと考える。
1997年1月、「日米安全保障産業フォーラム(IFSEC)」が、日米の軍事産業どうしの対話と、政府への提言を目
的に設立され共同会合がもたれた。日本側事務局は日本経団連の防衛生産委員会に置かれた。委員企業には、三菱
重工・石川島播磨重工業・川崎重工等12社が入り、米国側委員企業には、ボーイング社・ゼネラルエレクトリック
社(GE)・ロッキードマーティン社等8社が入っている。
同年10月には、
「日米安全保障産業フォーラム(IFSEC)
」は、
政府等への要求等を含めた最初の「共同宣言」を策定し、
それが、1998年の「日米装備・技術定期協議」で示された。また、
2002年12月にも「共同宣言」が策定され、
2003年の「日
米装備・技術定期協議」で報告された。
108
註
(1)レーガン政権の国際政治戦略については、拙著「レーガン政権の対ソ連外交とグローバライゼーションの地平
-アメリカ国際政治戦略「力による平和(Peace through Strength)戦略」の軌跡と成功要因」長岡大学『研究
論叢』第9号2011年・「ワインバーガーの国際政治戦略−その構想と展開−:―レーガン政権のバックボーン・
リーダーの戦略構想・戦略展開の視点からの1980年代アメリカ世界戦略の分析―」長岡大学『研究論叢』第10
号2012年が詳しい。
(2)日本の軍事技術政策は軍産複合体から多額の研究費を獲得して安全保障政策・軍事技術政策を得意としている
MITで研究されている。リチャード=サミュエルズ博士が発表した、“Rich Nation, Strong Army” : National
Security and the Technological Transformation of Japan は有名な研究成果である。
(3)1980年代のレーガン政権の時代、日本は防衛費増・対米武器技術供与・ウィリアムズバーグ・サミットでのア
メリカを援護する外交戦等、日米共闘的な国際政治戦略を展開し、
「日米同盟」が一般化されるまでに日米関係
を高度化し、さらにそれが国際政治における日本のプレゼンスを高めることを経験した。レーガン時代の日米
関係は多様な点で、国際政治における日本の戦略上いくつかの重要な教訓を与えるものとなったと考える。レー
ガン政権時代の日米同盟については、拙著「レーガン政権の国際政治戦略と日米関係-1980年代アメリカ世界
戦略における「日米同盟」の形成と展開-長岡大学『地域研究』第12号(通巻22号)2012年が詳しい。
(4)レーガン政権の時代、日本の防衛庁長官は以下のように交替した。大村襄治(1980年7月~ 81年11月)・伊藤宗
一郎(81年11月~ 82年11月)
・谷川和穂(82年11月~ 83年12月)
・栗原祐幸(83年12月~ 84年11月)
・加藤紘一(84
年11月~ 86年7月)・栗原祐幸(86年7月~ 87年11月)
・瓦力(87年11月~ 88月8月)
・田澤吉郎(88年8月~
89年6月)。ワインバーガーの国防長官在任中(1981年1月~ 1987年11月)、日本は7回内閣改造を行い閣僚を
入れかえ、日本の防衛庁長官は5回替った。ワインバーガーはその中で特に、
加藤紘一・栗原祐幸を評価している。
ワインバーガーは、栗原祐幸防衛庁長官については、
「私の日本訪問のたびに誠実にもてなしてくれた。趣味に
応じて日本人一流ピアニストによる演奏会を催してくれたり、私邸に招待してくれた。親友になれた。
」と言及
している。日本はワインバーガーに、国防長官退任の数カ月後、1988年に、
「勲一等旭日大綬章」を外国人とし
てはじめて授与した。ワインバーガーはその時来日して勲章を拝受している。
「一流の対応・レベルの高い対応」
が人の心をつかみ、一つ一つの誠実な対応が「強い日米関係」をつくることの証明である。人間の心をつかむ
ことが外交戦の根本であると言える。
(5)1982年当時、80%以上の日本人(世論)は日本の軍事技術の外国への移転に反対だった。
(6)1988年11月、アメリカ政府と日本政府は「FSXの共同開発に関する交換公文と了解覚書」を締結し日本側の研
究開発成果の対米供与が定められたが、一方で、アメリカ側では、米国議会が技術の対日供与に一時強硬に反
対したので調整を要して、結局、1989年9月になってようやく米国政府が対日技術供与に関して制限を加えた
上で対日技術供与が認められることになった。
(7)経済的にも米国の優越に挑戦したから、日本は叩かれた。ソ連も米国の優越に挑戦してつぶされた。では、中
国に対してはどうなのかというのが国際政治の最大のテーマの一つである。国家としての中国は経済的にも世
界的影響力の点でも米国に挑戦するように予想されるが、米国は叩きにかかるのか?米国は根幹の分野で、つ
まり軍事技術の中枢等で自国に脅威を与えるものに対しては、その台頭を許さないのではないだろうか?
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広田秀樹 「レーガン政権の国際政治戦略と日米関係-1980年代アメリカ世界戦略における「日米同盟」の形成と展
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(レー
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