公益財団法人豊郷病院附属 臨床精神医学研究所年報 第5巻 Bulletin Toyosato Institute of Clinical Psychiatry Vol. 5 2014年(平成26年度版) 公益財団法人豊郷病院附属 臨床精神医学研究所 Toyosato Institute of Clinical Psychiatry 目 次 巻頭言 焦らず、慌てず、諦めず(林 拓二)………………………………………………………………………… 1 ごあいさつ(友吉 唯夫) ………………………………………………………………………………………… 3 公益財団法人豊郷病院基本理念・公益財団法人豊郷病院精神科沿革………………………………………… 4 原著論文・総説など 1.非定型精神病こそが精神病研究の突破口となり得る(林 拓二)…………………………………… 7 2.身体合併症を有する昏迷状態の高齢者に対し修正型電気けいれん療法が奏効した一例(白井隆光) …… 25 3.心理療法を通じてパチンコに費やす金額が減った事例(木津賢太)………………………………… 28 4.患者の家族や医療・福祉関係職員の父性的・男性的対応が不充分であるために、 患者の状態改善が遅れたと思われる 5 症例(堀川健志)……………………………………………… 35 講演記録 5.摂食障害の臨床 −見立て・治療・社会支援−(野間俊一) ………………………………………… 42 6.知っていますか?認知症のこと(成田 実)…………………………………………………………… 51 看護研究 7.閉鎖病棟におけるおやつ摂取に関する実態調査(能美峰子、中村祥子、西川由希子)…………… 62 8.認知症患者との関わりを通した再構成からの気付き −ウィーデンバック・ユマニチュードを用いて−(藤野恵子)……………………………………… 66 9.長期入院の終末期患者を支える医療従事者の役割(仮屋隆史)……………………………………… 74 精神鑑定 10.万引き緘黙事件 −ヒステリーか潜伏性統合失調症か(林 拓二) ………………………………… 77 11.常習万引き幻聴事件 −統合失調症および摂食障害(林 拓二) …………………………………… 84 12.傷害事件 −抑うつ神経症(白井隆光) ………………………………………………………………… 88 13.公務執行妨害事件 −統合失調症(林 拓二) ………………………………………………………… 91 14.保佐開始の審判 −自閉症スペクトラム障害(白井隆光) …………………………………………… 96 15.暴行傷害緘黙事件 −統合失調症(林 拓二) ………………………………………………………… 100 16.後見開始の審判 −脳血管性認知症(白井隆光) ……………………………………………………… 109 17.万引き幻聴事件 −統合失調症(林 拓二) …………………………………………………………… 113 18.睡眠剤傷害事件 −アルコール依存症(林 拓二) …………………………………………………… 118 症例報告 19.感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例(林 拓二) ………………………………………… 123 研究業績(平成26年度)…………………………………………………………………………………………… 135 公益財団法人豊郷病院附属臨床精神医学研究所所員…………………………………………………………… 139 編集後記……………………………………………………………………………………………………………… 140 表紙写真:炎天下に咲く百日紅(サルスベリ) 巻 頭 言 巻頭言 焦らず、慌てず、諦めず 公益財団法人豊郷病院附属 臨床精神医学研究所長 林 拓二 もう4 0年くらい前になるだろうか、私が精神科医になって少しは自信も出来始めた頃のことである。「自 分は死ななければならない宿命である」と言う強固な妄想に囚われていた女性患者がいた。私の同僚が、 もちろん薬物療法をつづけながらも、濃密な精神療法的な治療を行なっていたのであるが、体系的な血統 妄想は揺らぐことなく、頻回に自殺企図を繰り返したことから、私が主治医を引き継ぐことになった。 当時、私が勤めていた病院の女性入院病棟には保護室がなかった。そこで、自殺企図を繰り返す患者 はベッドに拘束し、薬物を静脈点滴あるいは筋肉注射するしかなかった。他の手段としては電気けいれん 療法の選択があったくらいである(インシュリンショック療法は看護の負担が重く、現実的な選択にはなら なかった)。電気けいれん療法が抑うつ状態による自殺念慮に劇的に奏功することを経験上知っていたが、 頑固な妄想による自殺企図にどのような効果が見られるのかは分からなかった。しかし、主治医としては、 長期の拘束を避けるために、電気けいれん療法の選択を考えざるを得なかった。 電気けいれん療法(ECT)を施行した後、妄想が減弱したようには見えなかったが、自殺企図(病棟の 高所から、頭を下に向けて飛び落ちる)は無くなった。しかし、1−2週間後に、再び自殺企図が試みられ、 その都度、ECTを施行していた。このようにして、患者をベッドに拘束することはなくなったものの、頻回 のECTを施行するしかなかった。そして、この患者に対するECTは行動療法的な意味しかないのではない か、あるいはまた、私はECTに別の効果を期待しているのではないのかとも考えて、私自身、精神科にお ける治療とは何かを深く考えざるを得なかった。 このような話をするのも、最近「死ね、死ね」という声がするからと自分の首に着衣(下着)を巻きつ け窒息しようと試みる女性患者がいるからである。「幻聴がうるさくて何とかして下さい」と自ら希望して入 院して以来9カ月になるが、病状は改善するどころかますます増悪し、任意入院から医療保護入院に変更 するしかなかった。そして最近では幻聴に支配されて頻繁に自殺企図を繰り返している。もちろん、近年、 発売された新薬を一つ一つと試みたものの(当院ではまだクロザピンが採用されていない)、病状は悪化す れども軽快する兆しは認められない。 製薬会社の宣伝を信じるとすれば、精神科薬物療法は劇的に進歩しているのであろうが、この4 0年の 時を隔てて私が感じるのは、精神医療をめぐる状況、すなわち、精神医療状況が大きくは変わった点(精 神科病院での精神障害者の処遇など)を認めるにしても、精神医学に大きな進展があったとは思い難い。 精神障害の病因はなお不明であり、精神科診断学はなお混迷を極めていると言わざるを得ないのは、近年 アメリカ精神医学会が改訂発表したDSM−5を見ても明らかである。昔も今も、精神療法あるいは薬物療 法などの身体療法によって寛解する患者は多いが、また再発する患者も少なくない。家族に支えられて辛う −1− じて外来通院を続ける患者や、あらゆる治療に抵抗して長期の入院治療を余儀なくされる患者はなお多い。 そのような患者さんの診療には、今なお多くの困難を感じざるを得ないのが現状である。家族によっては、 「先生、早く治してやってよ。先生は精神医学研究所の所長さんでしょ!」と皮肉る?者もいて、私としては 「焦っては駄目、時間をかけて治してゆこう」と、何十年来の決まり文句で応答するしかない。 先ほど紹介した幻聴によって自殺企図を繰り返す患者には、4 0年前と同様、現在でもベッドに拘束して 薬物の点滴静注、あるいは着衣に十分注意しながら隔離室を使用するか、あるいは修正型ECTを選択す るしかない、のかもしれない。 ただ、現今の精神医療では、患者家族と多くの情報を共有しながら治療を進めていかなければならない ために、治療者にとっては以前とははるかに面倒な配慮が求められている。インターネットには様々な情報 があふれているようで、家族はそのような情報に基づいて治療者に訴える。「精神医療は開放的に行うべき」 というのは、我々の世代の精神科医師が繰り返し唱えたスローガンであるが、病識が全くない患者を開放 病棟で看護し治療するのは極めて困難であることは、臨床の現場を知る者にとっては常識であろう。しかし、 家族は時として次のように訴える。「保護室などに入れられたら、私でもおかしくなりますよ。閉鎖ではます ます悪くなるばかりです。何とかならんのですか」と。残念ながら、我々はこのような場合「出来るだけ開 放で診るようにしたいが、今の病状では保護室でしか診れない。不満であるなら自宅で看護しなさい」と 言うしかない。また、家族は時に「精神病のクスリで突然死することがあると書いてありました。そんな恐 ろしいのは使わんで下さい。カウンセリングや漢方薬では治らんのですか」と言う。たしかに、患者・家族 の疑問に一つ一つ丁寧に説明しても納得してもらえず腹立たしくなる時もあるが、その苛立ちの対象は、患 者・家族ではなく、自分、あるいは現在の精神医学の状況に向けられるものであろう。現在では、書面で 充分なインフォームド・コンセントを得ることが必要不可欠となっており、医療者にとっては面倒ではあるに しても、精神医療の進歩と言わざるを得ない。修正型ECTなどの治療においても、現在では「ECTでの 治療による死亡の確率は1万人に一人です」などと説明する。患者は「その一人に私がなることもありですね」 とは言うが、病状による場合もあろうが、何となく了承してもらえることが多い。 精神医療の要諦は「1に我慢で、2に我慢、3・4がなくて5に我慢」であるのは、今も昔も変わらない。 そして、精神病に対処するには、 「焦らず、慌てず、諦めず」と唱えざるを得ないのは、患者・家族はもと より医療者自身にとっても同様である。診察の場面で、私が最も重宝している言葉である。 紫蘭の剣葉にとまる赤蜻蛉(アキアカネ) −2− ごあいさつ 公益財団法人 豊郷病院 代表理事・名誉院長 介護老人保健施設パストラールとよさと 施設長 附属准看護学院 学院長 友吉 唯夫 私たちの公益財団法人 豊郷病院は、ことし(2 0 1 5)創立(開院)9 0周年を迎えております。先輩 たちが努力を重ねて維持してきた結果として、今日の(公財)豊郷病院が存在しております。縁あって この節目の年に(公財)豊郷病院の職員である私たちは、この先人たち、そして、この病院を支えてく ださった多くの人びとに感謝することにより、9 0年の伝統を誇る資格が与えられるものと理解してお ります。 伝統はともすれば発展のさまたげになることがあります。伝統の上に安住し、外部の人びとが信頼を 寄せてくれて当然という幻想に陥るのです。しかし、患者さんは単に歴史のある病院だからということ だけでは受診されません。自分を心身の苦痛から解放してほしい、その力がその病院にはあるだろうと 期待するからこそ訪れていただけるのです。その期待に応えてくれないとわかれば、引き続いて受診す ることはなくなり、他院へ移ったりすることになります。 医療領域の技術面の進歩は、IT関係をはじめ、最近めざましいものがあります。伝統だけで病院が 評価されることはなく、つねに病院力の向上が求められております。さらに、2025年を見据えた医療・ 介護の変革が国家的規模ではじまりつつあります。人口動態と連動した病床数再編などの計画も具体化 されようとしております。そのような時期の(公財)豊郷病院附属臨床精神医学研究所の一年の歩みが 記録された年報となりました。今後とも(公財)豊郷病院へのご支援をよろしくお願いいたします。 2 0 1 5(平成2 7)0 8.3 1 −3− 公益財団法人豊郷病院 基本理念 豊かな郷で心と体の健康を 家族のように 1. 郷土愛と博愛の創立精神に基づき、地域の医療・保健・福祉を支える。 2. 医学の進歩に同調し、わかりやすく信頼される医療を行う。 3. 温もりと心をこめたサービスで、快適な療養環境を築く。 4. 患者さまの権利を尊重し人権をまもる。 5. 職員の労働環境に配慮し、効率よい安定した病院経営を行う。 日本医療機能評価機構認定病院 一般病棟・精神科病棟・長期療養型病棟の複合病院 創立 1925 年(大正 14 年)4 月 豊郷病院は大正1 4年に当地の篤志家、伊藤長兵衛翁の浄財で開院しました。丸紅株式会社の前身で ある丸紅商店の初代社長として経営に成功した伊藤長兵衛翁でしたが、幼少で仏教に帰依するほど信仰 心が深く、純農村、過疎であったこの地で、多くの人が貧困のため医療をまともに受けられないことを 憂えていました。当時は結核症、伝染病など感染症で亡くなる人が多く、お産は常に危険を伴い、生ま れた乳幼児が亡くなることも少なくない時代でした。当初、内科、外科、耳鼻科、レントゲン科および 避病舎(隔離病舎)から始まった診療でしたが、当時としては医療設備が整っていたため、湖東はもと より県内から広く患者が訪れ、生活困窮者には無料で診療が行われたそうです。間もなく産婦人科、眼 科が加わり、昭和2 7年には整形外科、呼吸器科が開設されて、以来、感染症、産科、救急を含めた総 合病院としてこの地の医療を支えました。昭和3 2年には社会的弱者、身体的弱者であった精神疾患患 者のために精神・神経科が開設されました。精神科開設にご尽力を賜った京都大学名誉教授、三浦百重 先生は、「精神医療はむやみに利潤を求めてはならぬ」「よくなったらできるだけ早く退院させる」と指 導され、その高潔な教えは現在まで脈々と受け継がれています。 近年、疾患の多様化、医療の高度化、医療制度改革、介護保険制度の発足、超高齢時代など急激に医 療を取り巻く環境が変化しました。私たちは医療環境の変化や地域のニーズに応えるべく介護事業を展 開、病院近代化の一端として、平成1 4年1 0月に新館を竣工しました。なかでも、新館5・6階に精神 病棟を移転し、総合病院精神医療の特徴を最大限に発揮できるようになったことは豊郷病院の誇りです。 病院には医学の発展、医療環境の変化に追随できるように、人材、医療機器、設備を整える責任があ −4− ります。私たちは医療安全管理体制、医療情報の中央化、密接な地域の医療・介護連携を推進してき ました。その結果、平成1 8年9月、日本病院機能評価機構から三複合病院(一般、療養、精神)とし て認定されております。また平成2 2年4月には、豊郷病院の中に臨床精神医学研究所を設立しました。 豊郷病院に培われてきた精神科医療の真髄を再発掘して、これからの精神医学の発展に寄与すると同時 に、優秀な精神科医を育成することを目的にしています。 良い医療は治療を受ける側と医療する側が心を通じ合い、安心、安全、かつ安価でなくてはなりませ ん。そのために、私たちは個人の資質を高めること、チーム医療の確立を重要な目標と設定しておりま す。同時に患者・家族の方にも治療に参加していただき、医療事故のない、家庭のぬくもりと悲しみや 喜びを共感できる病院作りを目指します。このような気持ちから職員一同が一層切磋琢磨して、地域の 皆さまから信頼されるよう努力してまいります。 公益財団法人 豊郷病院 公益財団法人豊郷病院精神科沿革 ■ 昭和 32 年(1957) 4 月 1 日 精神科・神経科新設(精神科病床 110 床) (京都大学名誉教授三浦百重先生指導) ■ 昭和 42 年(1967) 8 月 30 日 精神科病棟増築(精神科病床 209 床) ■ 平成 7 年(1995) 6 月 1 日 老人性認知症疾患センター開設 ■ 平成 12 年(2000) 7 月 1 日 精神科デイケア開始 ■ 平成 14 年(2002)10 月 1 日 新館5・6階に精神科病棟移動(精神科病床 120 床) ■ 平成 22 年(2010) 4 月 1 日 臨床精神医学研究所設立 伊藤忠兵衛旧宅(豊郷町) −5− 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 公益財団法人豊郷病院附属臨床精神医学研究所 林 拓二 1.はじめに 私が精神科医となったのはいわゆる大学紛争の直後であり、大学の先生からは「自分達が教えること は何もない、精神病院で患者さんと格闘しながら、自分で新しい精神医学を創り上げるのだね」との助 言もあって、私は同僚とともに私立の精神病院に就職し、全く先入見なしに患者を診ることから始めま した。そして、出来れば自分の「精神医学」をと思っていたのですが、ずぶずぶの臨床の中で数年間を 過ごした後、抜き差しならぬ深い泥沼に嵌ってしまったように感じた私は、大阪医大の精神科教授をし ていた満田久敏先生の論文1)を読んで感動し、自分の一生をこの研究に賭けてみたい思うほどのイン パクトを受けました。そこで、満田先生にお頼みして週に2日、大阪医大に通うこととなり、越賀一雄 先生や福田哲雄先生の教えを受けながら、私は現在まで一貫して、満田精神医学とも言うべき非定型精 神病を中心にした内因性精神病の分類と診断についての研究を行なってきました。 私が満田の精神医学に魅かれたのは、そこでは精神医学研究の方向性がしっかりと示されていたため であり、内因性精神病が多くの疾患によって構成されていること(すなわち異種性の問題)を踏まえ て、遺伝と臨床とをつなぐ病因(Etiology)や病態発生(Pathogenesis)の研究を促していることでし た。すなわち、病因や病態発生の異なるAという疾患とBという疾患を分類せずに一緒にして研究すると、 言うまでもなく、AとBの疾患のデータは平均化され、AあるいはBというそれぞれの疾患の特徴的な所 見は見出されません。内因性精神病の研究は出来る限り純粋な病型に細分することから始まります。満 田もまた、病棟での患者を終日観察することから始め、病像からいくつかのグループを取り出し、結局 のところ、精神分裂病は大きく定型分裂病群と非定型分裂病群の2つに分けられることを示唆しました 2) 。そして、アンリ・エーの考えを取り入れて定型分裂病群が性格の病理と考えられるのに対し、非定 型分裂病(精神病)群は意識の病理が症状の基盤にあること、しかしながら、なお、両群とも単一の精 神病ではなく、いくつかの精神病に細分されるであろうと考えていました3)。このことは、極めて重要 なことであり、非定型精神病もまた病因を異にする疾患の集合体であり、症状もまた多様であると考え られていました。この点で、満田精神医学は内因性精神病に大きな2つの枠を設定しただけであり、定 型分裂病群と較べて非定型精神病群に家族負因が多く、なんらかの意識障害を想起させる症状や痙攣発 作もまた見られ易いことから、非定型精神病群こそがまず最初に生物学的研究によって成果が得られる 可能性の高いものであり、少なくともこの領域での研究が内因性精神病の病因解明の突破口になり得る 可能性が示唆されていると考えられます。 このように、非定型精神病は内因性精神病研究のための暫定的な概念であると私は考えており、疾患 として単一の非定型精神病が存在するとは思いません。そこで、DSMの如き診断基準を用いて非定型 精神病の輪郭を確定させる必要はなく、そのような試みはかえって今後の生物学的な研究を阻害するも のと思われます。非定型精神病の概念は、今後もなお行われるべき詳細な臨床および経過研究による更 −7− 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る なる細分化により、病因を同じくする疾患を取り出すために必要な生物学的な研究の最初の一里塚であ る、と私は考えております。 ここで、私が4 0数年にわたり研究を続けた非定型精神病について、大阪での精神病院勤務における 臨床経験をもとに、愛知医科大学や京都大学で行ってきた生物学的研究や現在勤務している豊郷病院の 臨床データを少し詳しく紹介しながら、今後の課題を検討してみたいと思っております。 2.非定型精神病の概念 4 0年をはるかに過ぎた前のことになります。当時、私はまだ駆け出しの医者であったのですが、先 輩医師達が同じような症状を有する症例であるにもかかわらず、異なった診断を下すことに戸惑った経 験がございます。たとえば、急性に幻覚妄想状態となったり、あるいは昏迷や興奮をきたす症例を「非 定型」と診断する医師がいる一方で、 「リアクチオン」と言う医師もいました。私はこの「リアクチオ ン=心因反応」という用語に多少の胡散臭さ、あるいは違和感を感じていたのですが、それぞれの精神 科医の見方によっては、このような解釈も可能なのであろうと考え、理屈はともかくとして、臨床的に 「非定型」と「リアクチオン」はほとんど同じであると理解していました。 当時は、精神医学的な診断を重視せずに反精神医学の立場を堅持する者を除いて、臨床精神科医は伝 統的な精神医学に則り、病気の原因を想定した診断を行い、精神病を内因性、外因性、心因性に分類し ていました。当然のことながら、統合失調症や躁うつ病などの内因性精神病はあくまでも暫定的な名称 であり、医学的研究の進展によって身体的基盤が解明されれば消滅するものと考えられていたわけです。 事実、てんかん性疾患は脳波検査が実用化されることによって内因性から外因性に分類されるようにな りました。我々もまたこれまでに、長期間、非定型精神病あるいは躁うつ病と診断されていた症例のな かに、稀ではあるがけいれん発作を生じたり、なんらかの意識障害が疑われたりする症例を丹念に検索 し、特発性副甲状腺機能低下症4)や、ハンチントン舞踏病、ウィルソン病5)、さらにはクラインフェルター 病などを見出してきました。しかし、これらは通常の内因性精神病とは微妙に異なると感じる臨床的直 観が働くものであって、内因性精神病のすべてにこのような特異的所見が見出されるわけではありません。 そもそも非定型精神病は、満田の臨床遺伝学的な研究によって、定型の分裂病とは異なることが示唆 されており、遺伝負因の多さ、なんらかの意識障害やてんかんとの関係、精神的反応を起こし易い自律 神経の不安定性などから、もっとも身体的な基盤が解明される可能性が高いものではありますが、その 後の満田門下によるさまざまな研究にもかかわらず、それらしい所見が見出されるものの、いまだに十 分な成果は得られていません。 我々のように、内因性精神病を生物学的方法によって解明しようとする一方、心因による発症を考え たり、家庭や職場環境、あるいは社会状況によるストレスによって精神病が発症する(心因性精神病あ るいは反応性精神病)と考える研究者もいます。しかし、なんらかの心的なストレスを契機に発症する 精神病は、定型の分裂病とは異なり、我々の言う非定型精神病が多いようで、我々の調査でも、非定型 精神病の発症には、契機と見なし得る要因を容易に見出すことが出来ます。スカンジナビアの精神科医 が好んで使用していた心因性精神病は、我々が考える非定型精神病と臨床的に重なる部分が多く、本日 の話の冒頭に述べた「リアクチオン」は、このような意味合いで使用されていたと思われます。我々は 心因のみで精神病が発症するとは考えず、その基盤には反応しやすい素因あるいは脆弱性が存在すると 考え、心因性精神病と言う用語を使用しませんが、それぞれの医師の拠って立つ位置の相違によって、 −8− 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 「心因性」という言葉が使用される場合も珍しいことではありませんでした。 3.病因(Etiology)や病態発生(Pathogenesis)による診断は? このように、身体的基盤が明らかな外因性精神病はともかくとして、臨床診断を病因に基づいて行う ことは難しく、 「内因性」や「心因性」概念の曖昧さが臨床の現場で相当な混乱を引き起こしてきたの は確かであろうと思われます。私は精神病院での勤務を続けるかたわら、大阪医科大学に通い、非定型 精神病を中心とした満田流の診断に親しむようになりましたが、間もなく、満田先生から「最近アメリ カでは、シュナイダーの一級症状についての論文が多くなり、診断を見直そうとする動きが出てきてい る。一級症状は分裂病に特異的なものではなく、むしろ非定型精神病に多いものであり、われわれの立 場からの反論を準備する必要がある」と言われ、カーペンターの論文などを手渡されたことがありま す。その当時、すでに満田は、病態発生(Pathogenesis)や病因(Etiology)を抜きにした疾患分類の 登場を危惧しており、精神医学的診断と分類に関するWHOセミナー(1 9 7 1)で、満田なら非定型精神 病と診断するであろうと思われた症例に、あえて間脳症(Diencephalosis)という診断を下し、たとえ 仮説であるにしても、病因・病態による診断の重要性を主張していました6)。そこで、私も少しずつ資 料を集めてはいたのですが、時代は我々の予想を超えたスピードで変動し、その後まもなく発表された DSM-Ⅲ(1 9 8 0)は瞬く間に全世界を席巻し、非定型精神病の概念などのいわゆる伝統的な精神医学の ほとんどが駆逐されてしまったことは、皆さんもよく御存じのことであろうと思われます7)。 我々は、DSM-Ⅲの登場時から、DSMの分類が精神症状による類型学的分類(Typology)であって、 疾病学的診断(Nosology)ではないことを指摘し、あくまでも疾患学の中での病因的分類を追求すべ きであると主張してきました。そして、そのためには、意識障害やプレコックス感などの、客観的には 評価しがたいが重要な症状を等閑にするべきではなく、詳細な症状把握と長期の経過研究が重要である ことを主張しました。すなわち、疾患の本質を検討することなく、診断の一致、すなわち、信頼性を重 視するDSMの姿勢を批判してきたわけです。 DSMの流行に伴い、近年では、一人の患者に一つの病名ではなく、複数の病名を付けることが認め られるようになり、疾病併存(Comobidity)と称されていますが、私には、これが精神医学の進歩で あるとは到底思えず、精神医学の退歩ではなかろうかと思っております。例えば、ある強迫症状を呈し ていた患者に、躁症状とうつ状態が繰り返し出現し、次第に幻覚妄想状態に陥った場合、強迫性障害、 −9− 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 双極性障害、それに統合失調症の併存と考えることが可能です。しかし、我々はこのような患者に対し て、ひとつの疾患による多様な症状の出現と捉え、症状の出現時期やその程度を考慮しながら、単一の 病名を求めようと努力してきました。この症例の場合では、強迫症状や感情症状の出現を統合失調症の 前駆期と捉えることも出来ます。そして、それぞれの症状の基盤として、心的緊張の低下などを仮定し て理解しようとしました。確かにこのような概念による理解は単なる仮説であって、なんら証明された ものではありませんし、今後もなお、解明されなければならない多くのハードルがあることは確かです。 しかし、このような症例を、3疾患の併存と考えてしまうのは最も容易であるにしても、思考の停止と 考えられても仕方ありません。近年では症状ごとに疾病を羅列するかのごとき傾向が精神科医の間に蔓 延しており、DSM-Ⅲの登場によって精神医学が陥った単純化・浅薄化を端的に示す、憂うるべき事態 であろうと思われてなりません。 クレペリンによる近代的な精神医学が始まる以前には、それぞれの症状に対して、一つの病名が対応 していました。すなわち、幻覚や妄想がそれぞれ「ひとつの」病であり、さらに多くの症状に対して、 それぞれ、ポリオマニア(徘徊)、ピロマニア(放火)、ミトマニア(虚言)などの病名が付けられてい ました。精神医学はこのような時代を経て、精神医学の体系的理解への努力に向かい、共通の病因によ る精神疾患が模索され、そして、早発性痴呆や躁うつ病という幅広い疾患概念へと収斂してきたという 経緯があります。しかし、DSMは事態を1 9世紀の症状学に引き戻したかのように思われます。 4.階層仮説 ここに図示するように、ヤスパースもまたその著書8)において1人の患者には原則的にひとつの診断 が要請されるとし、上位にある疾病が下位に位置する疾病に対して優位に立つというヒエラルヒーを認 めております。すなわち、分裂病症状が見られたとしても、脳の器質的な変化が証明されれば、診断は 脳の疾患に伴う精神症状と考えられ、不安症状があったとしても躁うつ病と診断されれば、それは躁う つ病の一症状と判断される。このように、脳疾患が最上位にあって、次に内因性精神病が位置し、最下 位に神経症や異常人格が布置される。このような階層理論は、DSM世代の精神科医にはもはや馴染みが なくなったかと思われますが、我々の世代は、どこまで一元的に理解できるかを考え、一元的に理解で きない場合にのみ、二元的に考えるという原則を守ってきました。精神疾患の原因がいまなお究明され ない現在、この姿勢はなお、われわれ臨床精神科医が等閑にすべきではない原則であろうと思われます。 − 10 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 私はDSM-Ⅲが登場した時、たかだか5年程度の流行りものであろうと思っていました。そして、こ こまで長期に、日本の精神医学に大きな影響を与えるとは思ってもいませんでした。しかし、今日、時 代は明らかにDSMの反省期に入っております。考えれば、精神医学の長い歴史に較べれば、操作的診 断の流行はいまだに3 0年に過ぎません。われわれは、精神医学の歴史から多くを学び、自らの立場を 確立して、時代の流れに左右されないようにするべきであろうと思います。 近年では、DSM-Ⅲの作成にかかわった米国の著名な精神科医9) でさえも、彼らが意図しなかった DSMの影の部分を指摘しています。すなわち、彼女によれば、アメリカでは、DSMによって精神症状 の把握がなおざりとなり、チェックリストなどの使用で精神科臨床が浅薄になったと言います。さらに は、信頼性を得るため妥当性を犠牲にしたことにより、DSMは研究にも有用であるとは言えないとも 言っていますが、このような事態はすでに我々が予想し、批判してきたことでございます。DSM-Ⅲの 登場から3 0数年が経ちましたが、DSM-Ⅲ-R、DSM-Ⅳと次々に改訂を繰り返し、診断基準のたび重な る変更は時代によって疾病の呼称が変わる事態となり、DSM本来の統計的な研究にも利用できなくなっ てきていました。そして、近年発表されたDSM-5は、精神医学の研究のためではなく、アメリカ精神 医学会の経済的な苦境を改善させるために改訂され、出版されたとも揶揄される状況1 0)であり、DSM は目的地を見失い漂流を続けていると言っても良い状況であろうと思われます。 数年前になるかと思いますが、精神科診断学はどこに向かうのかというテーマで、原田憲一先生が、 「シュナイダーに帰れ」という主張をしていました1 1)が、私も全く同感です。DSMによる精神医学の将 来を見通せなくなった今日、我々はもう一度、臨床的経験の原点に戻り、精神医学の基本に立ちかえる 必要があると思っております。 5.シュナイダーの精神医学仮説 DSM-Ⅲは仮説を廃することで精神医学の変革をなそうと試みました。しかし、そもそも精神障害は 原因が不明であり、研究には仮説を立て、それを検証し、検証に失敗すればそれを廃棄するという作業 を行なわなければならないものです。臨床に忠実であり、自らの臨床経験から極めて控えめにしか述べ なかったシュナイダー12)もまた、内因性精神病がいまだに原因不明ではあるものの将来には身体的基 盤が見いだされるものであるとの仮説を彼の精神学体系の中心に据えております。シュナイダーの取り 出した一級症状もまた、分裂病の診断に特殊な位置を占めると考えているのですが、確認されたもので はなく仮説に過ぎません。しかし、このような仮説もなお、多くの臨床医の臨床経験に照らしてきわめ て自然に理解されるものと言えます。 彼は、神経症や性格異常などの「正常からの偏倚」群と、統合失調症や循環病などの「内因性」精神 病群、および「身体に基盤のある」精神病群との間には、質的に異なった差があって、量的な程度の差 ではないと主張し、「内因性」精神病には、今なお確認されてはいないものの、身体に基盤のある精神 病と同様に、生物学的な所見が見出されるに違いないと考えていました。しかし、残念ながら、精神医 学は今なお「身体に基盤のある精神病」を除いて、統合失調症や循環病(躁うつ病)に明確な生物学的 所見を見出せてはおりません。近年の目覚しいテクノロジーの発展によって、画像研究などの生物学的 研究は格段に進歩したものの、統合失調症と躁うつ病とが異なる疾患であるとする証拠はいまだに見出 されず、現在もなお、これらの疾病の間にあるのは、 「鑑別診断学ではなく、鑑別類型学である」とい う状況は、シュナイダーの時代と大きく変わってはおりません。 − 11 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る しかしながら、我々もまたシュナイダーと同じく、臨床の現場での経験から、 「精神病」にはなんら かの生物学的な所見があるに違いないと確信しております。慢性の精神病患者に見られるそのような確 信は、 「施設化」の影響であるとする意見もありましたが、我々は、そのすべてが、患者を取り巻く環 境に起因すると考えることは出来ませんでした。近年、盛んに行われている社会復帰活動の限界を見ま しても、患者個人の、おそらくは脳の研究が必要であろうと考えるのは、臨床精神医学をなりわいとす るものの共通な認識であろうかと思います。精神病の研究は、まず臨床現場での経験から始まり、そこ で、仮説を立て、そして、それを証明しようと努力するものだと思います。 この図は、私なりに、シュナイダーの精神医学体系を示したものです。 発達障害などの新しい概念は、一部は脳の器質性疾患に含まれるものがあるのかもしれませんが、性 格の異常や知的障害と同じような位置にあり、個々の症例について「正常からの偏倚なのか、それとも 疾患による結果なのか」を厳密に考慮すべきものと考えられます。 シュナイダーの弟子であるフーバー13)は、ある種の分裂病(体感症性分裂病)患者に気脳写を行い、 第三脳室の拡大所見を見出しています。この所見は、シュナイダーの主著である「臨床精神病理学」に も「最近、フーバーによって、分裂病の生物学的な所見について、かなり有望な肯定的手がかりが得ら れた」と記載されていますが、「その所見の解釈は、いまだに不確実である」と、慎重な姿勢を崩して はおりません1 2)。フーバーはそのあと、分裂病の経過研究を行ない、欠陥症状の生物学的な解釈や、前 駆症状と一級症状との関連を研究し、シュナイダーの後継者としての役割を担っておりました。 満田もまた、精神病理学者であるシュナイダーのところでさえ、「フーバーが気脳写の研究を行なっ た」として、弟子たちを急かしてほぼ同様な結果1 4)を発表しました。 フーバーは若い時にこのような研究を行なっておりますが、彼もまた循環病と分裂病の間には鑑別診 断学はなく、あるのは類型学のみであると言い、シュナイダーと同様に控えめな臨床的立場を貫いてお ります。しかしながら、分裂病性精神病が類型学的に予後良好群と予後不良群の2群に分けられること を認めております15)。この予後良好群と予後不良群との差異が、多少の相違はあるものの、我々がいう 非定型精神病群と定型分裂病群との差異にほかなりません。 6.伝統的な精神医学仮説 ここで、あらためて述べることも無いかとも思われますが、伝統的な精神医学における代表的な立場 をまとめておきます。 − 12 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 私がここでお話ししようと思っている満田の非定型精神病は、精神医学史的に見れば、クレペリン16) による疾患単位の模索を、さらに第三の疾患を考えることによって発展させようとするものであり、シュ ナイダーや、シュナイダーを一部取り入れたDSMの類型学的な立場とは対極に位置するものと考えら れます。単一精神病は、最も先鋭な類型学であって、満田と同様に疾患単位を考えるレオンハルト17) とは対極に位置すると考えて良いかと思われます。ここで取り上げたクレッチマーの立場は、基本的に は疾患単位を考えながら、躁うつ病と分裂病の遺伝的な混合によって混合精神病が生じると考えるので すが、満田やレオンハルトは、臨床遺伝学的研究により、このような考えを否定しております。 ここで、クレペリン、シュナイダー、そしてDSMにおける感情病圏の範囲に注目してもらいたいと 思います。敢えて簡単にまとめるとすれば、クレペリンは予後不良なものを早発性痴呆としたために 躁うつ病が広がり、シュナイダーは一級症状を重視したために、躁うつ病が縮小し、DSMは一級症状 よりも感情症状を重視して、感情病圏が拡大することになったと言えるかと思います。我々は、分裂病 性精神病を細分して定型分裂病と非定型精神病とに類別したとき、非定型精神病は定型分裂病よりも躁 うつ病に近いと考えてはおりますが、これらの症例は、躁うつ病とは異なるものであり、同一のカテゴ リーに分類することは新たな混乱を招くことになるのではないかと考えています。ここに、満田やレオ ンハルトのように、臨床遺伝学的調査によって、分裂病と躁うつ病の間に第3の疾患群を想定する立場 が、ある程度の説得力を持って登場することになります。 上図は、単一精神病と非定型精神病との概念的な関係を考えてみたものです。 非定型精神病を中心に置いたとき、周辺のてんかん、分裂病、躁うつ病とは症状的に連続的な移行が 見られるようにも見え、単一精神病という魅力的な考えにも惹かれます。しかし、それぞれの疾病群の − 13 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 間に明確な断点が見られ、生物学的な差異が存在し、明確な病因が発見されうる可能性も充分にありま す。このどちらの考えが正しいのか、 軍配を上げるには、 まだまだ多くの研究が必要であろうと思われます。 今まで述べてきたように、我々は、シュナイダーの精神医学体系を概ね妥当なものと認め、その枠内 で、内因性精神病の分類と診断を考えてきたのですが、シュナイダーの慎重で控えめな態度から一歩踏 み出し、類型学から疾病学へと向かわねばならないと考えております。 もちろん、そこでは何らかの根拠が必要ですが、そのようなものとしては、臨床症状の精緻な観察と 臨床経過研究、そして臨床遺伝学の知見などが挙げられるかと思います。周知のように、レオンハルト はこれらの所見に基づいて、内因性精神病を病相性精神病、類循環性精神病、非系統性分裂病、それに 系統性分裂病の4つに分類し、さらにそれぞれを細分して、それぞれが独立した精神疾患であると主張 しておりますが、満田もまた臨床遺伝学的研究を行ない、内因性精神病の「自然な」分類を試み、その 中で「非定型精神病」と称する疾患群を取り出しました。 7.満田による精神病仮説 満田はまず、 「分裂病」概念をいったん解体した上で、分裂病性精神病の個々の症例を詳細に観察し ながら、特徴的な臨床症状や経過の類似した症例を集め、いくつかのグループに纏めあげました1)。さ らに、これらのグループを順次再編・整理しながら、結局、分裂病を中核群と周辺群とに分類した後、 周辺群を非定型群と中間型、それにパラフレニーとに分類しました。中間型は、再発を繰り返しながら、 何らかの欠陥状態に至る緊張病と考えられますが、その所属を保留にしたまま臨床遺伝学的な検討を加 えました。パラフレニーは、高揚性ないし作話性の妄想性疾患であり、クライストのファンタジオフレ ニーにほぼ相当しております(情動負荷パラフレニー:遺伝負因の強いタイプ?)。 満田は、このような病像による分類を行なうとともに、同時に詳細な遺伝学的研究を行っています。 彼の家系内精神病の調査によると、定型分裂病の家系に非定型分裂病は全く見られません。一方、非定 型分裂病の家系内には定型分裂病が認められませんでした。そこで、彼はこれらの両疾患が遺伝的には 互いに独立した疾患であろうと考えています。また、定型分裂病や躁うつ病に較べて、非定型分裂病で はその家系内にてんかんの出現する頻度が高いことや、てんかん性異常脳波の出現、さらに、その症状 の特徴としてあげられる意識障害などから、非定型分裂病とてんかんとの密接な関係が強調されました。 なお中間型は、非定型分裂病の遺伝様式ときわめて類似していたために、満田は最終的にこれを非定型 分裂病に含めております。 − 14 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 東京大学の井上18)も一卵性双生児の研究を行なっておりますが、彼もまた分裂病性精神病を慢性進 行型、再発型、それに慢性軽症・一過性型に分類しており、前2群はそれぞれ満田の定型分裂病、非定 型精神病に対応しているように思われます。そして、最後の群はいわゆる「リアクチオン」と考えられ ていたグループと見なされるかと思われます。この結果を見ますと、「非定型精神病」という呼称はと もかくとして、分裂病性精神病を遺伝的にいくつかのグループに分けようとする満田の主張が、関東の 研究者によっても支持されているように思われます。 分裂病性精神病に続いて、満田はさらに躁うつ病とてんかんについても定型と非定型に分類し、躁う つ病であるにしろ意識障害を伴うようなものや、てんかんにしても精神症状を伴うようなものを非定 型群とし、これらが同じ遺伝圏に認められる傾向を明らかにして、「非定型精神病」と総称しました2)。 そして、この非定型精神病が、てんかんを含む3大内因性精神病の交錯する領域に位置すると主張した ことは、皆様もよくご存じのことと思います。 上図は、鳩谷先生が纏めた非定型精神病の症状学的理解、いわゆる「鳩谷シェーマ」と言われるもの19) です。躁うつ病から非定型精神病に至る領域を「周期性精神病」としており、中間に、いわゆる「錯乱 躁病」と呼称される状態が配置されると考えられます。 このシェーマによって、非定型精神病の症状学は極めて理解しやすく完成されたものになりましたが、 各疾病圏との間に本当に疾患学的な差異があるのか否かが、今後もなお、生物学的な方法を用いて検討 されなければならない課題であろうと思われます。 − 15 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る ここで、満田がまとめた、定型分裂病群と非定型精神病群との臨床的な相違を示しておきます2 0)。す なわち、定型分裂病群は、 「概ね」慢性かつ推進性に経過し、思考、感情、意欲など人格全般の障害を示し、 症状は単調で変化に乏しく自閉的な生活態度を示し、その基盤には人格の退行過程が考えられます。一 方、非定型精神病群は急性に発症し、挿間性ないし周期性の経過をとり、予後は「一般に」良好である とされています。とりわけ、その病像は、躁うつ病にみられるような情動障害がまれならず前景を占め、 活発な幻覚や妄想体験をともなった錯乱ないし夢幻様状態が見られ、なんらかの意識障害が疑われるこ とも多いとされます。このように、満田は精神分裂病の背後に人格の病理を考え、非定型精神病の背後 に意識の病理を見て、これが両疾患の基本的な差であると考えています。 ここで注目すべき点は、非定型精神病の転帰が、時には変動しながら、多かれ少なかれ重篤な状態に 至ることもあるとされることです。このような症例は、他の診断基準では問題なく分裂病と診断されま す。そこで、これらを非定型精神病に含めることによって、その概念は確かにある意味であいまいとなり、 信頼性に欠けるとの批判がなされてきました。しかし、満田は、このような再発と寛解を繰り返しながら、 ある種の欠陥像を呈する症例を、遺伝様式の類似性から、非定型精神病群に含めてきました。すなわち、 我々の診断は単に類型学的な分類(Typology)ではなく、疾病学的な診断、すなわち疾病学(Nosology) を目指しているということを押さえておく必要があります。なお、電気痙攣療法(EST)や抗てんかん 剤(テグレトール)などはとりわけ非定型精神病に有効であることを補足しておきました。 8.我々の研究(画像−1) 非定型精神病に関する研究は、満田の臨床遺伝学的研究に始まりますが、それは遺伝型(genotype) と現象型(phenotype)、いわば疾患の始まりと終わりとを対象に研究をおこなったもので、この genotypeとphenotype とを結ぶ病態・現象発生(patho-phenogenesis)に関する研究は、その後も様々 な研究者により、さまざまな方法を用いて行なわれてきました。ここには、大阪医大の先生方による多 くの研究と共に、三重大学の鳩谷先生らによる周期性精神病の研究があげられると思います。そこでは、 その素質として、間脳−下垂体系の機能的低格性が推測されてきました。我々もまた、定型分裂病と非 定型精神病とが異なった生物学的な基盤を持っていることを明らかにしようとさまざまな方法を用いて 研究を続けて参りました。 − 16 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 我々はこの4 0年間、分裂病性精神病の研究を行ない、発症年齢と性差2 1)、遺伝と誘因2 2)、症状と経 過2 3)についての統計的な研究をはじめ、CT 2 4, 2 5)、SPECT 2 6)、MRI 2 7)などの画像研究、さらには事象 関連電位2 8)や探索眼球運動29, 30, 31)などの精神生理学的研究を行ない、いわゆる統合失調症とされる症 例は、少なくとも定型の分裂病群と非定型精神病群の2つのグループに分けられることを示しました。 そして、それぞれのグループもさらに細分される可能性を指摘してきました。 非定型精神病を細分した時、それぞれの病型はどのような特徴を示すのでしょうか。ここに紹介する のは、我々が愛知医科大学で行った研究で、ICD-10によって分類した急性精神病の各亜型と定型分裂 病との性差、誘因、家族負因、そして精神症状を比較したものです。なお、ここで急性精神病の遷延型 と我々が呼称したものは、ICD-1 0では精神病症状が3ヶ月、あるいは分裂病症状が1ヶ月以上持続し て分裂病に診断が変更されたものの、周期性の経過を示すために、定型の分裂病とは異なると判断され たものです。ここでは、遷延型を含む5つの急性精神病群を一括して非定型精神病群と呼称しました。 満田が纏めているように、非定型精神病は女性に多く、誘因がしばしば認められ、一級親族には負因 が多く認められます。そして、一級症状の出現頻度は非定型精神病と定型分裂病との間に有意の差異は 無く、定型分裂病に特異的な症状とは言えませんでした。ここで、非定型精神病の各亜型を検討しますと、 「分裂病症状を伴わない急性多形性精神病(F2 3.0)」は、誘因がきわめて多く認められる一方で、家族 負因はあまり認めませんでした。この傾向は、 「急性分裂病様精神病(F23.2)」と類似しており、これ らの病型は、環境の影響を受けて発症しやすく、従来から一般に心因反応あるいは反応性精神病と呼 ばれている一群なのかも知れません。一方で、 「分裂病症状を伴う急性多形性精神病(F2 3.1)」は、急 − 17 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 性錯乱(bouffées délirantes)や類循環性精神病(Zykloide Psychosen)などの概念に近いものであり、 負因が極めて多い一方で、誘因は比較的少なく、これらは非定型精神病の中核群と言ってよいのではな いかと思われます。 次に紹介する研究は、CTによって分裂病性精神病がどのように分類されるかを示したものです。こ れも、愛知医大で行われた研究ですが、われわれは、脳の各部位を測定した後、相互の関連を調べました。 そして、前大脳縦裂、側脳室、右シルビウス裂の3指標の間に、それぞれ相関を認めませんでした。す なわち、この結果は、これらの部位が、独立に障害されている可能性を示していると考えられます。そ こで、分裂病性精神病は、病因を異にする3つの病型に分けられるかも知れない、と考えました。 すなわち、この図で示すように、分裂病性精神病は、前大脳縦裂、側脳室、右シルビウス裂の3つの 部位を主たる病巣とする疾患から構成されている、と考えられます。それぞれの症例を検討してみます と、 前大脳縦裂開大グループと側脳室拡大グループとには定型分裂病が多く、右シルビウス裂開大グルー プには非定型精神病が多く認められました。 同時に行ったCT研究では、定型分裂病と非定型精神病の罹病期間とCTスキャンの各指数との相関 関係を調べました。その結果、定型分裂病は、発症時よりすでに脳の萎縮が認められるのですが、非定 型精神病の脳所見は進行性である可能性が示されました。すなわち、非定型精神病の一部には、神経変 性疾患と考えられる症例も含まれているのかも知れないと考えられました。しかしながら、残念ながら、 − 18 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る MRIを用いた研究では、同様な所見は認められませんでした。この結果は、同一の患者の経過を長期に 追求した研究が必要であることを示しています。 9.我々の研究(画像−2) 非定型精神病についてのこれまでの多くの研究では、まず、定型分裂病と非定型精神病とを臨床的に 分類し、両疾患群の生物学的な所見に相違がみられるかどうかが検討されてきました。 そこでは、当 然のことながら、診断が主観的になされているのではないかとしばしば批判されてきました。これらの 批判に答えるためには、生物学的なデータのみを用いて、すべての症例を機械的に分類して、我々の臨 床診断とどの程度対応しているかをみる必要があります。そこで、我々は主成分分析やクラスター分析 を用いた検討を行なってきました。私が行った研究に何か新しいことがあるとすれば、このような統計 学的手法を用いた検討だろうと思います。 このスライドは、CT所見のみを用いて行ったクラスター分析2 5)です。ここで得られた5つのグルー プには、確かに分裂病と非定型精神病とが異なった分布を示しており、我々の臨床診断の妥当性が生物 学的データによって裏付けられたといえるかと思います。すなわち、1群と2群はCTに特異な所見は なくここには主として非定型精神病が含まれていましたが、3群は右シルビウス裂の開大が特徴的で主 として非定型精神病と妄想型分裂病が含まれ、遺伝負因の強い症例が集積しているように思われました。 − 19 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 4群と5群はほとんどが分裂病によって構成され、4群は大脳縦裂の開大、5群は側脳室の拡大が特徴 的な所見でした。そこで、我々は分裂病性精神病が少なくとも定型分裂病と非定型精神病に分けられる こと、そしてこれらの精神病もいくつかのグループに分類される可能性を指摘しました。 クラスター分析を用いたこのような検討は、その後、SPECT、MRI、事象関連電位や探索眼球運動 の研究でも行われ、ほぼ同様な結果が得られています。 われわれがこれまでに行った研究は、一冊の本にまとめられ、出版されております3 2, 3 3)。もし、興味 がございましたらお読みいただければと思っております。 10.我々の研究(経過) 精神疾患の本質を捉えるためには、満田が常々述べていたように、 「動くものに惑わされず、動かな いものに注目する」必要があります。精神病の経過を長期に観察してみると、うつ状態から始まって時々 躁状態に陥り、その後幻覚妄想状態となるが、次第に意欲・自発性が乏しくなる、そして年齢を重ねる につれ、いわゆる「認知症」となる症例が少なくないように思われます。一方で、思春期・青年期に幻 覚妄想状態で発症したまま、症状に大きな変化なく経過し、「認知症」とはなり難い症例がみられるよ うにも思われます。最近、我々はこのような長期経過の差異から疾患の本質を捉えようと、4 0年以上 の罹病期間を有する症例の経過と家族負因の調査を行ないました3 4)。 対象は、豊郷病院に入院あるいは外来通院中の1 0 2症例であり、平均発症年齢は 2 2歳で、平均罹病 期間は 4 6年でした。初診時に「いわゆる」統合失調症圏と診断された症例は6 5例あり、主として精神 分裂病や破瓜病と診断されていました。また、初診時に急性精神病圏とされる症例は1 9例で、そのう ち非定型精神病とされた症例は1 4例でした。感情病圏では、初診時にうつ病とされた症例が12例、躁 病が5例などあり、総数は1 8名でした。 これらの初診時診断が、その後の経過によってどのように変わったかを調べてみましたが、初診時に 統合失調症圏とされた 6 5名の経過は、ほとんどの症例において診断の変更はありませんでした。しかし、 6例が非定型精神病や分裂感情病、あるいは躁うつ病へと診断の変更がなされています。これらの症例 は、3−4ヶ月の周期で興奮と制止を繰り返したり、緊張病症状の出現や、躁病としても「なんらかの 意識の障害」を疑いうる錯乱躁病の病相を呈しており、経過から判断すると、これらは定型の分裂病と も、また純粋な躁うつ病とも言えず、いずれも非定型精神病と考えたほうが妥当な症例でした。上図で は、我々が最終的に非定型精神病と考えた症例を青字で表示しました。なお、これらの症例のうち、3 例に、痙攣発作が認められました。 − 20 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 次に、急性精神病圏の症例では、初診時に付けられた非定型精神病が、そのまま変更なく経過した症 例は2例に過ぎず、3例が躁うつ病などの感情病圏の診断に変更され、また2例は最終的に元の非定型 精神病に診断が戻されていました。そこで、これらの症例は、分裂病症状や感情病症状の強弱の程度に よって診断が揺れるものの、同一のグループに属すると考えられ、「症状の変わり易いこと」がこのグ ループの特徴であると思われました。また、初診時の非定型精神病が、その後分裂病へと変更された症 例が7例見られましたが、そのうちの6例は、周期性に精神病相を繰り返した後、急速に人格水準の解 体をきたしたものであり、我々が「非定型崩れ」と呼称してきた病像に一致し、一般には欠陥分裂病と 見なされている症例でした。しかし、これらの症例は、レオンハルトが 「非系統性分裂病」 と呼び、類 循環精神病の悪性の親戚と呼んだように、定型の分裂病とは明らかに異なる疾患であり、疾病学的には 非定型精神病と捉えるべきものであろうと思われました。しかしながら、初診時に非定型精神病とされ たものの、その後に分裂病へと診断の変更がなされた症例のうちの1例は、全経過をみても周期性の経 過を示さず、慢性持続性の身体幻覚を有することから、妄想型の分裂病と考えました。 さらに、心因 反応から分裂病に診断が変更された症例のうちの1例も、その後の経過から、無為・自閉・好褥を主症 状とする破瓜型分裂病と考えるのが適当と考えられています。変質性精神病、産褥性精神病および心因 反応の2例は、最終的に非定型精神病とされていました。結局、初診時に急性精神病圏の診断がなされ た1 9名は、長期の経過を見ても、2例の分裂病を除いて、ほとんどの症例が非定型精神病と診断して よいだろうと考えられました。 最後に、初診時に感情病圏と診断された1 8名の中で、その後も感情病圏の疾病とされたのは、うつ 病で発症した2例、躁病の2例、そして初診時に神経症とされていた1例に過ぎませんでした。 その 他の症例は、非定型精神病あるいは分裂病へと診断の変更がなされています。これらの症例は、病初に − 21 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る は抑うつ気分や自殺念慮からうつ病が疑われたが、次第に分裂病症状が認められ、周期性の経過を示す ようになっています。このことから、これらを定型の分裂病とは考えがたく、非定型精神病、あるいは レオンハルトが記載する「類循環精神病」や「非系統性分裂病」と考えてよいかと思われます。ただ、 分裂病とされた症例のうちの1例は、自殺企図の後に周期性の経過を示さず、慢性持続性の幻覚妄想状 態を示すことから、定型の分裂病とするのが妥当であろうと考えられました。 我々は、この長期観察の結果を踏まえて診断を再検討しながら、ある程度客観的な生物学的指標とし ての遺伝負因の調査を行ないました。家族負因の調査は、親族に見られる精神病者と自殺者をカルテ の記載から調べただけのものであって、厳密な遺伝研究とは言えませんが、おおよその傾向を知るこ とは出来ると思われます。結果は、非定型精神病群に見られる家族負因は5 7%と高く、定型分裂病群 の2 6%との間に大きな差異が認められ、一級親族に限りますと、非定型精神病群の5 1%に対し定型分 裂病群は1 3%と明らかに少ない家族負因を認め、定型分裂病と非定型精神病とは生物学的にも異なる 疾患であろうと考えられました。ただ、感情病群の家族負因は40%と比較的多いように思われますが、 症例数が少ないことからさらなる調査・検討が必要であろうと思われました。なお、感情病群の症例に 認められた負因は、自殺者2名とうつ病者1名であり、非定型群に認められる多様な遺伝負因とは若干 異なっています。 なお、上図において、レオンハルトの分類による家族負因の差異を併記しておきました。満田の非定 型精神病は、レオンハルトの類循環精神病と非系統性分裂病にほぼ相応すると考えられるものの若干の 相違があり、満田の定型分裂病のうちの3例が、レオンハルトの非系統性分裂病に分類されました。し − 22 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る かし、その結果に大きな相違はなく、類循環精神病と非系統性分裂病とに高い遺伝負因を認め、系統性 分裂病との間に明らかな相違が認められております。この結果は、レオンハルト学派による双生児研究 の結果ともきわめて類似したものであり、今後の生物学的研究を進めるためには、きわめて興味深い結 果であろうと思われます。 11.おわりに 言うまでもなく、生物学的研究では、均質なグループによる検討が必要であり、そのためには、 DSMなどのような、診断の一致を優先させた類型診断ではなく、さらに精緻な症状記載や長期経過な どによる分類と診断が求められています。現在、内外の多くの研究機関から発表されるデータは統合失 調症と躁うつ病との間の差異を認めず、躁うつ病から統合失調症への連続的な移行を示唆するものが多 くなっているが、DSMの診断による双極性障害には伝統的な診断で統合失調症とされる障害(我々が 非定型精神病群と呼ぶグループ)を多く含んでおり、統合失調症との差異が見られなくなるのは当然な 結果であろう。DSMを用いた研究によって予期した結果が得られなかったとしても、それはDSMの診 断が妥当性を欠いたものであったからであり、その結果は率直に受け入れられるものではないであろう。 内因性精神病はもちろんのこと、非定型精神病もまた均質な疾患とは考えられず、この中から、病因・ 病態を異にする疾患が今後究明されてくるに違いありません。これまで我々が行ってきた研究が示唆す るように、定型分裂病群は性格構造が深く関わっていることが疑われ、その病因の解明にはなお多くの 困難が予想されますが、非定型精神病とされる疾患群は、はるかに病因を解明し得る可能性が高く、非 定型精神病は生物学的な研究を進めるのに有用な概念であると言えます。レオンハルトの病型分類およ び我々の研究の成果は、内因性精神病の研究にとって決して無視し得るものではなく、今後の生物学的 研究の突破口になるであろうと、私は確信しております。 参考文献 1. 満田久敏 : 精神分裂病の遺伝臨床的研究.精神神経学雑誌, 4 6 : 2 98-362, 1 9 4 2 2. 満田久敏 : 内因性精神病の遺伝臨床的研究.精神神経学雑誌, 5 5 : 1 95-216, 1 9 5 4 3. 満田久敏 : 非定型精神病の概念.精神医学, 3 : 9 6 7-9 6 9, 1 9 6 1 4. 林拓二:類循環精神病の病像を呈した特発性副甲状腺機能低下症の一例. 臨床精神医学、9: 1 0 7-1 1 5, 1 9 8 0 5. 林拓二、鈴木滋:高年齢に躁うつ病像で発症したWilson病の1例.臨床精神医学、1 5: 6 3 7-6 4 4, 1 9 8 6 6. Mitsuda H : Clinical-genetic view on the biology of the schizophrenias. In : Fukuda T and Mitsuda H(Eds): World issues in the problems of schizophrenic psychoses. Igaku-Shoin, Tokyo, pp 1 2 1-1 2 4, 1 9 7 9 7. American Psychiatric Association: Diagnostic and statistical manual of mental disorders, 3rd ed. Washington DC, APA, 1 9 8 0 8. 内村祐之、西丸四方、島崎俊樹、岡田敬蔵(訳):精神病理学総論(下) (Jaspers K: Allgemeine Psychopathologie. 5. Aufl., Springer, Berlin, 1 9 4 8) .岩波書店、東京、1 9 5 6 9. Andreasen, NC: DSM and the Death of Phenomenology in America, An Example of Unintended Consequences. Schizophr Bull, 3 3: 1 0 8‒1 1 2, 2 0 0 7 1 0. 大野 裕:DSM-5の背景と作成過程.精神医学 5 7:6 0 0-6 0 3, 2 0 1 5 1 1. 原田 憲一:精神科診断学はどこに向かうのか−開いた診断学を求めて.専門医のための精神科臨床リュミエール 3: 操作的診断vs従来診断(林拓二・米田博 編).pp3 6-4 7, 中山書店, 東京、2 0 0 8 1 2. 針間博彦(訳):新版臨床精神病理学(Schneider K: Klinische Psychopathologie) .文光堂、東京、2 0 0 7 1 3. Huber, G.: Pneumoenzephalographische und psychopathologische Bilder bei endogenen Psychosen. SpringerVerlag, Berlin, 1 9 5 7 1 4. Asano, N.: Pneumoencephalographic study of schizophrenia.Clinical genetics in psychiatry(ed. by Mitsuda, H.) pp. 2 0 9-2 1 9, Igaku Shoin, Tokyo, 1 9 6 7 − 23 − 非定型精神病こそが 精神病研究の突破口となり得る 1 5. 林拓二(訳):精神病とは何か−臨床精神医学の基本構造(G. Huber: Psychiatrie, Systematischer Lehrtext für Studenten und Ärzte).新曜社、東京、2 0 0 5 1 6. 西丸四方、西丸甫夫(訳) :精神分裂病(Kraepelin E: Psychiatry, Ein Lehrbuch für Studierende und Ärzte). みすず書房、東京、1 9 8 6 1 7. 福田哲雄・岩波明・林拓二(監訳) :内因性精神病の分類(Leonhard K: Classification of endogenous psychoses and their differentiated etiology) .医学書院、東京、2 0 0 2 1 8. 井上英二:井上英二:遺伝学と精神分裂病の解明.分裂病の生物学的研究(台弘・井上英二 編).pp1-1 4 , 東京 大学出版会、東京、1 9 7 3 1 9. 鳩谷龍:非定型精神病.精神医学(村上仁、満田久敏 監修)、医学書院、pp 5 8 7-6 0 4, 1 9 6 3 2 0. Mitsuda H : Clinical-genetic view on the biology of the schizophrenias. In : Fukuda T and Mitsuda H(Eds): World issues in the problems of schizophrenic psychoses. Igaku-Shoin, Tokyo, pp 1 2 1-1 2 4, 1 9 7 9 2 1. 林 拓二、須賀英道、安藤啄弥、松岡尚子: 分裂病と非定型精神病(満田)の発症年齢と性差について. 精神医学、 3 7: 1 2 5 5-1 2 6 3, 1 9 9 5 2 2. 林 拓二、安藤啄弥、松岡尚子、須賀英道: 分裂病と非定型精神病(満田)の負因と誘因の相違について. 愛知医 大誌、2 3: 3 2 1-3 3 1, 1 9 9 5 2 3. 林 拓二、安藤琢弥、松岡尚子、須賀英道: 分裂病と非定型精神病(満田)の精神症状と経過について. 精神医学、 3 8: 2 7-3 5, 1 9 9 6 2 4. 林 拓二,渡辺豊信,鬼頭 宏,他:精神分裂病と非定型精神病の頭部CT研究.愛知医大誌,1 6: 1 7 1-1 8 6, 1 9 88 2 5. 林 拓二: 非定型精神病のCT所見−多変量解析法による検討−.愛知医大誌 1 7: 6 0 9-6 2 5, 1 9 8 9 2 6. Suga H, Hayashi T, Ohara M : Single photon emission computed tomography(SPECT)findings using N-isopropyl-p-[1 2 3I]iodoamphetamine(1 2 3I-IMP)in schizophrenia and atypical psychosis. Jpn J Psychiatr Neurol 4 8: 8 3 3-8 4 8, 1 9 9 4 2 7. 堀田典裕:精神分裂病と非定型精神病のMRI所見の相違について.愛知医大誌、2 7: 7 3-8 3, 1 9 9 9 2 8. Sekine T, Tachibana K, Fukatsu N, Fukatsu E, Hayashi T: Differences in P3 0 0 between Schizophrenia and Atypical Psychoses(Mitsuda). Neurol Psychiatr Brain Res, 8(4): 1 6 5-1 7 0, 2 0 0 0 2 9. 深津尚史、深津栄子、関根建夫、山下功一、新井啓之、林拓二: 非定型精神病の探索眼球運動所見. 精神医学、4 3: 1 2 9 7-1 3 0 4, 2 0 0 1 3 0. 深津栄子、深津尚史、関根健夫、立花憲一郎、須賀英道、林拓二:分裂病性精神病の精神生理学的所見に基づく 多変量解析. 精神医学、4 4: 3 9-4 7, 2 0 0 2 3 1. 深津尚史、和田信、山岸洋、中東功一、林拓二:探索眼球運動を用いた非定型精神病の臨床単位の検討―急性精 神病遷延型の疾病分類について―.脳と精神の医学、1 4: 4 1-50. 2 003 3 2. 林拓二(編):非定型精神病―内因性精神病の分類と診断を考える、新興医学出版社、東京、2 0 0 8 3 3. Hayashi T.(ed):Neurobiology of Atypical Psychoses. Kyoto University Press, Kyoto, 2 0 0 9 3 4. 林拓二、成田実、世一市郎、中江尊保、上原美奈子、義村さや香、壁下康信:内因性精神病の長期経過について(抄). 精神神経学雑誌 1 1 3: 7 2 0、2 0 1 1 3 5. Franzek E & Beckmann H: Die genetische Heterogenität der Schizophrenie. Nervenarzt 6 7: 5 8 3-5 9 4, 1 9 9 6 菜の花咲く四国を巡礼中の筆者(徳島・吉野川堤にて) − 24 − 身体合併症を有する昏迷状態の高齢者に対し 修正型電気けいれん療法が奏効した一例 公益財団法人豊郷病院精神科 白井 隆光 1.はじめに 修正型電気けいれん療法(以下、m-ECT)は昏迷状態や緊張病状態の患者に対して著効することが 知られている。今回、我々は高齢者で喘息や高血圧など複数の合併症を有し、強い昏迷を示す緊張病状 態にあるが、向精神薬には少量でも副作用の出現があるために薬剤治療が難渋した症例にm-ECTを施 行し、予想される副作用の出現には適宜対応して良好な結果が得られたために、ここに報告したいと思 います。 2.症例 78歳、女性。喘息、糖尿病などの合併症を有しております。病前性格としては明るく社交的、遺伝 負因などの家族歴はありません。過去の薬剤による副作用としては、clomipramineで嘔吐、risperidone で筋強剛が出現したとの報告がありました。又、詳細不明ですが、一部の抗生物質でもアレルギー症状 が出現したとの報告があります。 3.現病歴 X-1 0年、詐欺にあったことを契機に抑うつ状態を呈して入院加療、一旦症状は軽快しました。とこ ろが、X-3年に誘因なく不安、発語量の減少をきたし、A病院精神科に入院。以後同院に入退院を繰 り返しておりました。X年1 0月に意欲低下、疎通不良を認め、再度A病院に入院しております。入院 後、昏迷状態にあり摂食困難の為、中心静脈栄養が開始されました。また同時期に、喘息発作が出現し、 procaterolの頓用が開始されました。さらに、X年1 1月にはD-dimerの値が3.5μg/mLを示したために深 部静脈血栓症が疑われ、heparinの1 0,0 00units/day投与が開始されております。その後、A病院主治医 からm-ECTについての説明を受けたところ、家族が希望したため、X年12月に当科へ転院し、同日医 療保護入院となりました。 4.入院時現症 ストレッチャーに臥床し、四肢の筋強剛は顕著で、表情は硬く、問いかけに対し視線を合せ、首を若 干縦に動かすのみでした。又、中心静脈カテーテル、経鼻胃チューブ、経尿道留置バルーンカテーテル を使用しておりました。 5.入院後検査 採血では、電解質、血球数などに異常は認めませんでした。但し、HbA1cは7.1%と高値、IgEも 1 1 5 5Unit/mlと高値でした。D-dimerも正常閾値より上回っております。しかし、心電図では特に異 − 25 − 身体合併症を有する昏迷状態の高齢者に対し 修正型電気けいれん療法が奏効した一例 常は認めませんでした。頭部MRI・MRAでは、陳旧性梗塞が認められましたが、動脈瘤、占拠性病変、 頭蓋内出血などはいずれも認められませんでした。体幹造影CTも気管肥厚は認めましたが、粗大な動 脈瘤や血栓などは認めませんでした。また、心エコーでの異常は指摘されておりません。その他、眼科 的には、狭隅角はあるものの、網膜剥離は認めず、歯科的に顕著な動揺歯は認めず、体幹造影CTでそ の他腫瘍などの異常は指摘されませんでした。 6.診断と院内症例カンファレンス これまでの経緯や入院時現症から精神病症状を伴う重症うつ病エピソードと診断され、m-ECTの適 応であると判断されました。また、喘息による麻酔施行時の有害事象リスクが指摘されましたが、後述 するような対応によってリスクの軽減は可能と判断しました。本人・家族に対し、対象者は高齢であり 有害事象出現の頻度が高くなること、喘息再燃による重篤な呼吸器症状悪化の有害事象が高いことを含 めて説明し、同意を得ました。ちなみに、本人は病状的に書面での同意が困難であったため、口頭での 同意のみとしております。 7.向精神薬 入院前の処方はsertraline 5 0mg、diazepam 5mg、brotizolam 0.2 5mgでしたが、入院後に sertraline を100mgま で 漸 増 し、mECTで の 有 効 な 発 作 を 誘 発 さ せ る た め に、diazepam、brotizolamな ど の benzodiazepine系薬剤は中止しました。 8.m-ECT施行に際して心掛けた点 喘息再発のリスクを軽減する為、麻酔導入前にprocaterolの吸入を行うとともに、静脈麻酔薬は喘息 惹起の危険性が有るため、sevoflurane吸入麻酔を使用しました。又、有効な発作を誘発させるために 、 筋弛緩作用が長時間で通電タイミングを合わせやすい非脱分極性筋弛緩剤rocuroniumを使用し、低二 酸化炭素血症時にはmECT発作持続時間が伸びるとの報告が有るため、低二酸化炭素血症においても充 分な換気を行えるlaryngeal maskを使用しました。 9.m-ECT施行条件および結果 使用機材はThymatron® System IV(SomaticsLLC)を用い、刺激用量は初回のみ40%、2回目以降 は6 0%で施行しました。両側性刺激で合計1 0回施行し、全て一回の刺激で有効な発作が誘発され、発作 後抑制も良好でした。連続性かつ規則性のある高振幅徐波も初回は不十分でしたが、2回目以降は得ら れております。 10.経過 m-ECT開始日をDay0としてカウントしますと、Day2で「おはよう」と発語出現、Day6で「私、 リハビリしてるの」と文章を話しております。その後、徐々に表情が豊かになり、発語量も増加しました。 ところが、Day3 1頃から、stridor様の吸気性喘鳴が出現しました。Day35であるm-ECT7回目、吸気 性喘鳴が増悪したため、気管支鏡検査を施行すると喉頭浮腫が認められ、ステロイド点滴を翌日まで断 続的に行いました。その際、意識レベルの変動及び「石畳を降りてくるときに大勢の人が見える」等の − 26 − 身体合併症を有する昏迷状態の高齢者に対し 修正型電気けいれん療法が奏効した一例 発言を認めました。そこで、ステロイド使用や処置に対するストレスを主因としたせん妄状態にあると 考え、少量の抗精神病薬を開始したところ、幻覚や妄想的発言は徐々に減少しました。その後、身体的 にも、精神的にも症状は改善し、m-ECT10回終了後の、Day54に紹介元に転院となりました。一過性 せん妄が出現し、一旦は症状の悪化が見られましたが、全体としては、mECTによって症状の改善が得 られたと考えられました。 11.考察 喘 息 患 者 に 対 し て は、 一 般 的 に バ ル ビ ツ ー ル 系 麻 酔 を 避 けpropofolを 用 い る 事 が 多 い の で す が、propofol静脈麻酔も喘息既往患者に対して気管閉塞のリスクがあるとの報告もあり、今回我々 は、麻酔科医と相談の上、sevoflurane吸入麻酔を用いました。これまで、m-ECT施行時の麻酔薬と して、propofolとsevofluraneのいずれが良好な発作を誘発するかについては一致した知見はないのが 現状ですが、そうした中で、今回、我々は麻酔深度の調節を精密にして有効な発作を誘発させるため、 sevoflurane吸入麻酔と非脱分極性筋弛緩剤の両方の長所を活かしてmECTを施行し、その結果、有効 な発作の出現を認めました。 12.結語 今回、喘息発作の既往とD-dimer高値を有し、昏迷状態にある高齢者にm-ECTを施行するにあたり、 適切な吸入麻酔薬を選択することや、定期的に検査を行い、適宜薬剤調整することで、リスクを軽減、 精神状態の改善に至った症例を経験しました。今回の症例を、今後の治療に活かしたいと考えております。 (本稿は2 0 1 4年7月2 6日に第1 1 5回近畿精神神経学会で発表した原稿をもとに作成した) − 27 − 心理療法を通じてパチンコに費やす金額が減った事例 公益財団法人豊郷病院医療技術部 臨床心理士 木津 賢太 1.報告の目的 パチンコに収入額以上の金額を費やすうつ病男性患者に心理療法を実施した。主として日常活動表の 記録を通して、パチンコに費やした金額と日々の出来事を振り返る方法を取り入れた。その結果、収入 額以内の金額で生活できるようになった。この事例は現在も継続しているが、その過程を振り返りたい と思い、報告することにした。 2.事例紹介 A氏:6 0代男性。診断はうつ病。不眠症で投薬治療を受けている。 1)問題・主訴 ギャンブル依存。Aは当初の面接目標として、「パチンコも楽しみの一つだから、パチンコを週に 2日程度に抑えていきたい」と訴えた。 2)家族関係 Aは現在、独居である。原家族は、父親(X-11年前に他界) 、母親(X-14年前に他界) 、A、次男、 三男の5人家族であった。幼少期にAは甘やかされて育ち、両親の言う事を聞かなかった。17歳ご ろから好奇心と現実逃避の手段として違法薬物を使用し始め、2 0代前半まで使用していた。その間、 母親に1 0 0万円近い金を要求する、部屋を暗くして過ごす、「おかしい人が来る」と言って刃物を振 りまわすなどの行動が見られ、警察に数回捕まり、保護観察処分されている。高校卒業後、Aは工場 に勤務するが数ヶ月で辞めてしまい、その後も職を転々とする生活を送っていた。その頃から競艇や 競馬、麻雀などのギャンブルに金を費やす生活が始まった。3 0代後半に抑うつ症状と不眠、ギャン ブルが辞められないことでB病院に数回入院している。40歳時に生活保護受給となり、当院に継続的 に通院し始める。兄弟とは父親の遺産相続でもめて以来、疎遠となっている。 3)来談に至る経緯 Aが5 0代前半の時に父親が他界し、莫大な遺産を巡って兄弟間でもめて、数百万円の遺産を手に 入れてからは独居となった。そのころより、Aは再びギャンブルに多くの金額を費やすようになった。 次第に父親の遺産がなくなり、生活に困窮するようになったAは依存症の専門医師のいるC病院で診 てもらうが、その医師に「ギャンブル依存は治らない。忙しく暮らすように」と告げられた。そんな 中、X年1 2月に主治医より前任の心理士に心理療法の処方が出された。X+1年4月より筆者がAを 引き継ぐこととなった。 3.見立てと面接方針 面接を開始した時、Aは週に4回、月に1 0万円近い金をパチンコに費やしており、貯金を崩して生活 − 28 − 心理療法を通じてパチンコに費やす金額が減った事例 していた。Aは幼少期より欲求不満状態を処理できず、現実の問題から逃避する生活を続けてきた。面 接開始時もAはパチンコに金を使い過ぎることに困っている一方で、「ギャンブル依存は治らないと言 われたからしょうがない」、「パチンコのほかにすることといっても、ウォーキングはしんどい。支援 センターはおもしろくないし、釣りは飽きた。」と述べ、現実的な解決策を考えることが出来なかった。 このことから、面接では、日常活動表を通して、欲求不満状態を自己モニタリングし、欲求不満状態 に対処する習慣を身につけていくことを目的とした。また、どのような事柄にAが逃避しているのかに ついて検討していく必要があると考えた。緊急性が無く、長期的な関わりが必要と考え、面接構造は 月1回5 0分で行った(X+3年1月より月2回に変更)。なお、本事例の発表については、Aに同意を 得ている。 − 29 − 心理療法を通じてパチンコに費やす金額が減った事例 4.面接過程 (Aの発言を「」で、 Th(筆者)の発言を<>で示す) 第1期:パチンコで大負けを繰り返し、試行錯誤する時期(X+1年4月∼1 2月、#1∼9) #1:AはThと挨拶を済ますと、5日ほど前からうつ状態となったことを話し始める。漠然とした不 安を矢継ぎ早に話していくので、Thが<Thの交代が突然のことで気が動転しているのではないか>と 返すと、次第にAは落ち着きを取り戻していった。そして、パチンコとの付き合い方、生活の仕方につ いて考えていくことを合意して終わる。 #2、#3:初回とは異なり、Aは大きな声で、年の離れたThに対して、礼節をわきまえながらも、ざっ くばらんに話す。前任者から継続して取り組んできた日常活動表を確認しながら、現在の生活を確認し ていった。パチンコの代わりにウォーキング、魚釣りは長続きがしなかった。一方で、友人と会うこと、 支援センターに通所すること、保健所に相談することは長続きしており、Aは対人関係を求めているよ うに感じられた。 #4:Aは「パチンコで大負けしてしまった」と話し出すが、いくら金を使ったのかはThには教えて くれない。そして、Aは「パチンコを一切断つ」と突然宣言する。以前にもパチンコを断ったことがあっ たが、2ヵ月半で諦めたようだ。「続かないことはわかっているけど、もう一度だけ試したい。」という。 しかし、#5ではAは何事も無かったようにパチンコを再開している。Thは、<Aの行動を見ると、な んでも集中的に取り組んで、長続きしないパターンを繰り返している>ことを共有し、少しずつパチン コに行く回数を減らしていくことが大切であると伝えた。そして、パチンコに費やせる金額を1ヶ月に 3万円までに設定してはどうかと提案した。Aも納得したようでこの制限を実施することとなった。 2ヶ月の間は、3万円以内に抑えられたが、3ヶ月目でAは3万円の制限以上の金額を使ってしまう。 「本当は負けたことを言わないでおこうかなと思った。けど、嘘をついても意味がない。」と正直に話す。 日常活動表を見ると、6日連続でパチンコに通っている箇所があった。パチンコでも大負けするまでの めり込むパターンがあることを再び共有し、そのパターンから脱するための手立てとして、土・日曜日 はパチンコには行かないという制限を新たに提案した。しかし、Aは「好きなときに行って、好きな時 に休む。そうじゃないとやってられない。ずっとそうして生きてきた。いつでも休める仕事を選んでき た。 」と述べて抵抗を示すが、渋々了承する。さらにパチンコに代わる活動として、月に友人と5回会 うことも制限に付け加えることとなった(#9、#1 0)。 第2期:内面を語り始める時期(X+2年1月∼1 2月、#1 0∼#2 4) #1 0:Aは4月にある車検の費用が払えないかもしれない不安がストレスになっていると訴えた。Th はAの内面に抱える不安をさらに引き出す手立てとして、日常活動表にストレスを%で記入していくこ とを提案した。すると、家で何もしないときにストレスが高くなるというパターンが認められた(#1 1)。 次第に、Aは膝の痛み、歯の痛み、聞こえてくる音が高く聞こえること(違法薬物による後遺症状)を 話し、将来の生活の不安を語り始める(#1 2)。また、過去にC病院の依存症専門外来に受診したにもか かわらず、その医師は『ギャンブル依存は治らない』と診てもらえなかったことがショックであった 事も振り返る。Thは<Aさんはもしかして家にいるとそういった不安に押しつぶされそうになるから、 パチンコに行って考えないようにしているのかな。>と投げかけると、Aは「悩みなんて無い。悩んで − 30 − 心理療法を通じてパチンコに費やす金額が減った事例 もしょうがないから考えないようにしている」とThの解釈を否認しながらも認める(#1 3)。また、 「家 にいるとしんどい、Thと話しているとマシだ。支援員はこんな話は聞いてくれない。」「あんな母親だっ たけど、いてくれたらご飯を作ってくれる。1人だと皆やらんといけんし、寂しい。金があったら何も 悩まなくていい」と一人で不安を抱えることのしんどさを語るようになっていく(#15)。「家にいると 将来の不安を考えてしまう。膝がわるく、痛み止めを飲んでいるけど、2 0 0mも歩けなくなった。家は 山奥なので、車に乗れなくなったら暮らしていけない。元気付けるためにパチンコに行くしかない」と 経済的な不安、将来の不安を語る(#1 8、19)。パチンコで大負けするたびにAは面接室で今まで抱え ていた不安を言葉にして直面しようとする姿勢が感じられた。この頃からAは4年後の車検に向けて貯 金を始めていく。 #2 4:「灯油や炊飯器を買って5万円使った。それを取り戻そうとして、パチンコで1 2万円負けた。 冷静になって考えたらパチンコで金儲けが出来るわけがない。金を使ったらテンションが上がって、魔 がさした。」と金が無くなることの不安をパチンコで埋め合わせようとした事を振り返り、「テンション が上がるとここでの約束を忘れてしまうので、タンスに張り紙をしておこうと思う。」「パチンコ屋も商 売、負けるようになっている。2円パチンコを1円パチンコにして長く遊ぶようにした。」と、新たな 制限をAが自ら考える。将来が不安なのでそれを考えないようにしてパチンコに行くが、パチンコに行 くことで生活費が無くなり、余計自分の首を絞めている事になっているとAは体験を通して実感するよ うになっていく。 第3期:貯金が無くなり、現実の問題に直面しなければいけなくなる時期(X+3年1月∼X+4年4月、 #2 5∼#5 2) 「貯金がなくなってきたので、病院に2年ぐらい入院させてもらおうと思う。入院したら他の人と話 せるし、将棋や麻雀をしてなんとか過ごせるだろう。」と今の生活から逃避する案を考えたが(#27)、 「ど この病院も3ヶ月しか入院させてくれない。」とAの案は叶わなかった(#28)。その後、Aは1ヶ月に 何にいくら使うのか計画を立てることにした(#29)。今までは千円単位の計算しかしてこなかったA は、百円単位まで勘定するようになる。年金から生活費と来年の車検費用の積み立て3,0 0 0円を差し引 いた1 0,9 0 0円が1ヶ月にパチンコに使えるお金となることを確認し、それ以上はパチンコに使わないと いう制限を自ら課した。しかし、その後もAは10,900円以上の金をパチンコに使い込んでしまい(#31、 3 2、3 3) 、とうとう父親の遺産である貯金は底をついてしまった。Aは唯一の収入源である障害年金と 生活保護費だけで生活していかなければいけなくなった。それは同時に、パチンコに行かずに過ごす方 法を考えなければいけない事を意味した。Aはいつも1 2時ぐらいからパチンコに行きたくなり、14時を 過ぎると行きたい気持ちが納まってくるという。Aはその時間に昼寝をすると、パチンコをした後ほど ではないが、スッキリするというので、パチンコに行きたくなったときの対処法として取り入れること にした。また、面接時間を1 0時から1 2時に変更し、面接頻度も月に1回から、月2回に変更すること にした(#3 3)。すると、Aのパチンコに費やす費用は少なくなっていった(#34、#35、#36)。しかし、 それだけではAのストレスは抑えきれず、車検の積立貯金を降ろしてパチンコに75,000円使ってしまう (#3 7)。このままではX+4年5月の車検費用が払えなくなり、車を手放すことになってしまう。Aは 車を手放して介護タクシーを利用するか、銀行から金を借りて車検費用を分割払いしていくかを選択し なければならなくなった。車はいつでも外に出て気分転換が出来るが、介護タクシーはそれが出来ない。 − 31 − 心理療法を通じてパチンコに費やす金額が減った事例 ThはAに介護タクシーを選んだ時の支出と、銀行に借金をして返済していく時の支出を表にして、Aに 比べてもらった。8ヶ月もの間、多角的な視点から考えた結果、Aは銀行から金を借りて車検を通すこ とにした(#5 2)。 第4期:パチンコに行きつつも何とか生活できる時期(X+4年5月∼8月、#5 3∼#6 0) 銀行から借りた金で車検を通したAは、車という今まで知らないうちに用いていたストレス対処法を 発見する(#5 4、#5 5) 。しかし、その後もAは収入以上の金をパチンコに使ってしまう。Aは食費や電 話代を節約し、何とか生活していく(#5 6∼58)。Aはパチンコに行きたくなるきっかけとして、「パチ ンコ友だちが電話でパチンコの話をしてくることがストレスになっている」と振り返る。「パチンコの 話をしないように頼むと何を話せばいいか分からないし、相手が気を悪くするかもしれない。」と初め て、対人関係の悩みを語る。Thは、今後はAの対人関係の持ち方に焦点が当たっていくことを予想し た(#5 9、#6 0)。 5.考察 1)Aのギャンブル依存の精神力動 生育歴を概観すると、Aは現実的な問題を避けてきた人物であると考えられる。幼少期は両親の言う 事に反抗することによって避け、青年期は違法薬物によって避け、壮年期はギャンブルを興じることに よって避けてきた。そこには否認のメカニズムが働いているといえる。否認とは、ある体験(抑うつ不 安、罪悪感、喪失体験など)があったと認めるのを拒絶する防衛機制である(N. McWilliams、2 0 0 5) 。 診療記録を見ると、Aのギャンブル依存には常に抑うつ症状が伴っており、抑うつ症状はギャンブル依 存と表裏一体のように感じられた。ギャンブル依存と抑うつ症状は大きく関係しており、ギャンブルの 持つ抗うつ効果を指摘する報告は多い(松沢、1 9 9 6) 。松沢によると、「ギャンブル依存に関係する抑 うつは、内因性のうつ病にみられるような悲哀感を伴った抑うつ気分、意欲の減退、精神運動制止、罪 悪感、あるいは焦燥感ではなく、空虚感や疎隔感が中心で、 『自信がない、頼りが無い、無気力、何を しても充実感が得られない、惨めな気持ち』といった形で語られる性質のもので、O. Kernbergが空虚 な抑うつ(empty depression)と表現した病像に近い」と指摘している。Aの場合も独居の寂しさ、将 来の不安を解消しようとパチンコに金銭を投じることによって、そうした空虚感や抑うつから抜け出し、 現実を否認し、万能的世界に没頭することが出来たと考えられる。 − 32 − 心理療法を通じてパチンコに費やす金額が減った事例 2)症状緩和の過程について 面接過程をみると、Aの否認の防衛機制が少しずつ軽減していく様子がうかがえる。第1期は、パチ ンコに行くという自らの行動を、日常活動表を通して見つめていく過程である。当初は、Aは否認しよ うとする言動が多かった。使った金額をThに内緒にして、大負けした事をなかったことにしようとし ていた。また、Aは「好きなときに行って、好きな時に休む。そうじゃないとやってられない。ずっと そうして生きてきた。」と制限を軽くしようと抵抗していた。しかし、Aは大負けをするたびに、現実 を見る必要性に迫られ、次第に制限を受け入れていった。第2期は、パチンコに行く時の自らの心理 状態を見つめていく過程である。これまでAは家での体験を ストレス と一言で片付けていた。しかし、 喪失体験による抑うつ(身体的な衰え、家族の不在、専門外来で見放されたこと)や漠然とした不安を 言葉にすることで、否認していた内容を自ら抱えることが出来るようになっていった。第3期は、貯金 がなくなり障害年金と生活保護費だけで、暮らしていかなければいけない現実を受け入れる過程である。 Aは病院に入院することでその状況から逃れようとするが、Aの思いは叶わなかった。そして、Aは金 銭計画を立てることで現在の状況で生活していこうとしている。このようにAは否認していたものを見 つめていった結果、第4期では少しずつであるが限られた金額で生活が送れることが出来てきたのであ る。 このような結果に至った要因としては、2つ考えられる。1つ目の要因としては、Aの否認できる状 況が崩れて、現実を見つめなおす必要性が出てきたことである。具体的には、Aが還暦迎えたことで、 今までの人生を振り返るきっかけができたということだ。それと同時に、父親の遺産が無くなること で、パチンコに行く金がなくなり、限られた金で生活する状況に追い込まれたことである。もう1つの 要因は、受容・共感するような治療者の関わり、すなわち、holding environment(抱える環境)があっ たことである。holding environment(抱える環境)は、面接状況における安心感を患者に保証し、自 我の成長を促進させる(鑢、1 9 9 8)。Aはこのような共感的環境に支えられて、空虚感や傷付きを癒し、 つらい経験に注意を向けることが可能となり、自己探求をやり抜いていくことが出来たのだと考えられ る。 Aは何とかパチンコに頼りすぎずに生活できているが、Aの課題はまだ存在する。空虚感を治療者と ともに抱えていくのではなく、Aが生活の中で今後はそれを抱えていく必要がある。そのためには、A が周囲と親密な関係を継続して保てるようになっていく必要があるといえる。 参考文献 1) N、McWilliams(著) 、成田善弘(監訳). パーソナリティ障害の診断と治療. 創元社. 2 0 0 5. 2) 松沢信彦. 病的借金. 臨床精神医学vol.2 5. 国際医書出版、8 4 1-8 4 6、1 9 9 6. 3) 鑢幹八郎(監修)、一丸藤太郎、名島潤慈、山本力(編著). 精神分析的心理療法の手引き. 誠信書房. 1 9 9 8 − 33 − 心理療法を通じてパチンコに費やす金額が減った事例 心理カウンセリング室での著者 デイケアでの太極拳練習風景 − 34 − 患者の家族や医療・福祉関係職員の父性的・男性的対応が 不充分であるために、患者の状態改善が遅れたと思われる5症例 公益財団法人豊郷病院精神科 堀川 健志 1.はじめに かつての医療にみられたパターナリズムが批判され、患者主体の医療、医療・福祉関連職員の傾聴・ 受容的対応が評価される流れは現在も続いている。これはもちろん否定されるものではないが、特に精 神科医療に従事した者ならば誰もが思い当たることだが「その場その場で患者の気持ちを受けとめ、そ の立場に身を置いて考え、できる限り本人の苦痛を和らげる」対応だけを単純に追求すると、一部の患 者は健全な自立心を失うし、より良い生活への到達が妨げられ、精神症状の増悪に繋がることさえあろう。 傾聴・受容・共感といったものは本来母性的・女性的であり、かつてはそれが不充分だったのかもし れない。しかし、精神科医療・福祉にごく最近、2 0 1 3年から関わり始めた者の1人としては、逆に患 者に対して父性的・男性的対応が不充分なためバランスを失している状況の方が多いのではと感じてい る。そして、患者に接する際の考え方が父性的・男性的態度を欠いたまま母性的・女性的な感性に偏っ ている現在の状況は 「違和感を覚える」 などという個人の印象に止まらず、具体的な問題を惹起してお り、患者家族及び医療・福祉関係職員にも注意を呼びかけるべく、筆者が主治医として担当した以下5 症例を提示して検討を加えたい。 2.症例提示 事例1 ○部○治 4 2歳男性 統合失調症 【現病歴】 平成3年1 0月(1 9歳時)、通学中の電車内で 「舌が喉に入り込む」 感覚から途中下車するという最初 の精神科的エピソードが現れ、その後すぐに心気症状、強迫症状、社会不安症状等も出現し、同年1 1 月に精神科を初診した。本人は後で、当時から幻聴があったと言う。 その後通院加療が行われたが、無為・自閉的な生活を送り、強迫症状が長く持続することになった。 そこで、専門学校を中退したが正規の就職はできず2∼3ヶ月ほどのアルバイト勤務がせいぜいであっ た。トラクターのような農業機械を用いて農作業をしたこともあり、農家として生計を立てることを期 待されたこともあったが、3 0歳代後半からはそれもしなくなった。 日中、自宅でTVを見たり音楽を聴いたりして過ごし、夕方6時過ぎには内服薬を飲んで寝る。一人 での外出は近くのコンビニエンスストアなどに買い物に行くのみで、自閉的な生活を続け、食事は市販 の弁当などを食べ、風呂にはほとんど入らず、着替えは家人に注意されて週に1回程度は行う。強迫症 状として、便失禁を恐れて尿取りパッドを使用し、タバコの火の延焼を恐れて着火時に腕まくりをして いたが、家人に大きな迷惑をかけることはなかった。 しかし、平成2 5年1 0月頃(3 1歳)に実父が入院したのを契機に、自宅の各所に多量の食料品を貯め 込むようになった。それらが腐るために注意されるも改まらず、家人の生活にも支障が出るようになっ − 35 − 患者の家族や医療・福祉関係職員の父性的・男性的対応が 不充分であるために、患者の状態改善が遅れたと思われる5症例 たため、平成2 6年2月に当院受診し、同日医療保護入院となる。 入院後は、投薬を調整し大きく減薬を行ったが陽性症状は出現せず、入院生活に慣れて安心感を得た こともあってか強迫症状もみられなくなった。その後、多くの職員らによる生活指導的関わりによって、 当初は陰性症状として止むを得ないと思われた無為・自閉的生活態度も大きく改善した。日常生活に必 要な動作・作業がある程度、自発的に行えるようになったため、平日の日中に通所する施設の手配がな され、平成2 6年1 0月に自宅へ退院した。 【その後の経過】 入院治療では、薬物療法よりも、多くの職員による生活習慣の改善を目指した毎日の取り組みが効果 的であったと思われ、今後も入院中に得られた生活習慣を維持し、休まないで施設通所を継続し、規則 正しく生活することで現状維持を図ろうと説明した。事実、しばらくはその通りの生活ができており、 入浴やその他の身だしなみも適切にできるようになり、清潔感のある姿を見て家人からも 「見違えるよ うになった」 とのコメントが得られていた。通所先でも作業内容に意欲的で、よりハイレベルな活動を 目指す姿勢がみられていた。 しかし、平成2 7年2月(退院後4か月)頃より、施設を休むようになり、睡眠薬を朝に内服するといっ た不適切な内服がみられるようになった。父親に確かめると、内服薬は全て実父が管理しているが、本 人の求めに応じやむなく薬を手渡していたとのことである。施設を休むことについても、父親はよほど の理由がない限り休んではいけないと指導することはなかったと言う。この間、患者が父親に粗暴な行 為を行なうことはなかった。患者は、陽性症状が出現した時に服用するための頓服を 「1日1回飲まな いと不安」 という理由で毎日内服していたが、毎回の診察時に主治医が注意・指導していたものの、こ の点を父親は本人に確認することなく、毎日1回分の頓服薬を漫然と渡していた。 患者が通所を渋る際に訴える症状について、主治医は患者の精神症状が軽微であり、身体症状につい ても内科を受診した上で、通所を休む理由とはならないことを確認した。しかし、父親はそれでもなお 「施設に行きたがらない時にはどう言ってやればいいのかわからない」 と弱々しく話し続けるため、主 治医は 「言うべき言葉は『あかん!』です。『ダメだ。行け』です。42歳の男性が重大な理由もなく仕 事を休むのはありえない。一喝するのです」 といった説明を粘り強く繰り返した。やがて患者は父親の 強い指導に従うようになり、適切な服薬、施設に休まずに行くといった規則正しい生活が出来るように なり、現在に至るまで特に精神症状の増悪なく経過している。 【本症例の考察】 父親に父性的態度が欠けており、服薬・作業所通所・適切な生活習慣の維持について厳しく指導する ことができず、一旦改善した状況が逆戻りしかけたが、主治医が父親に対して、患者への接し方を改め るよう強く指導した結果、状況が改善した。担当の支援者らは、父親の強い指導は難しいと考え、再度 の入院加療により生活態度を改めさせるといった対処(金銭的・時間的・エネルギー的コストがより大 きい)を提案していた。 父親は知的能力に大きな問題なく、患者はこれまで多くの面で父の世話になってきたことを理解してお り、父の決定に不満があったとしても最終的には従うであろうことは予想されていた。実父の影響力の 大きさの一方、息子の不適切な要求を断れない甘さが状況の悪化を招いていたことは明らかであり、主 治医が父親の男性的・父性的対応を繰り返し求めた結果、状況の改善が得られた症例である。 − 36 − 患者の家族や医療・福祉関係職員の父性的・男性的対応が 不充分であるために、患者の状態改善が遅れたと思われる5症例 事例2 ○賀○男 4 7歳男性 統合失調症 【概要】 患者本人は 「他者との関わりが出来るだけ少ない環境」 を希望していたが、他患との交流の機会が多 く自由度の高い施設に移ったことで、積極的・活動的な生活態度が得られるようになった症例である。 他の患者から依存されるという程に頼られてしまうために、精神的負荷が心配されたが、そのことで特 別な症状の増悪はなかった。それまでの保護的環境は結果として過度であったとみられる。それまで中 心となっていた支援者は患者の相談に親身に応じており、当時主治医が主張していた保護の少ない環境 での生活に反対していた。 なお、金銭管理について話し合った際、当時の主治医は 「生活費を管理されないことでお金が尽きて しまい丸2日程何も食べられないといった状況でも、そのピンチをしのぎ切った時の安堵感が見られる。 そして、反省してお金は計画的に使わなければと決意する。しかし、次も足りなくなって後悔し、自己 嫌悪する。そういう日々の中にこそ生きている実感があり、生きている楽しさがあり、人間に活力が出 てくるのだ」 と主張していた。今、振り返ってみると、当時の患者には過度な期待であって、当該支援 者の反対にはもっともな部分もあったと反省している。 事例3 ○田○子 5 0歳女性 強迫性障害/境界性パーソナリティ障害 【現病歴】 若い頃から、必ず朝1回排便がなければ落ち着かなかった。 平成2 7年5月末にそれまでのパート勤務を辞めたことを契機に、食事を摂った回数分排便がないと 気が済まなくなった(1日3食なら、排便が3回なければ落ち着かない) 。その後、排便を得るための 不適切な下剤使用がみられるようになり、更には腹部膨満感をしばしば訴え、夫を伴い近隣の内科受診 を繰り返すようになった。しかし、いずれも内科的に明らかな異常は指摘されず、同年6月末に当院消 化器内科を受診した際、精神科的症状を疑われて当科に初診となった。 以後、通院加療が行われるも、思うような排便が得られないことや腹部膨満感に不安に感じて食思不 振となり、体重減少が続いていた。そこで、夫から入院が要請され、同年7月に任意入院となった。 【その後の経過】 当患者の夫は毎日のように面会に訪れていた。そこで、身体的には問題がないことは既に複数の内科 医によって確認されているため、主治医は、夫からも患者の訴えが精神症状であることを自覚させるよ うに接してほしい、と要請した。しかし、夫は身体的問題による症状だという患者の考えを否定する態 度をとれず、共感・受容的態度に終始し、更には患者の求める身体的症状としての対応(下剤使用など) を医療者側が行わないことを、患者と一緒になって病院側を非難するといった態度がみられた。主治医 は、夫同伴の場で長時間の面談を複数回行ったが、その場では夫も主治医の考えに同意すると答えるも のの、その状況に大きな変化はみられなかった。入院後4 1日目に、患者・夫の両者から 「婦人科的な 原因の検索・治療をしたい」 という希望があって、退院となった。 【本症例の考察】 夫に父性的・男性的態度が欠けていた症例である。共依存とも言えよう。夫が患者に対して、一貫し て理性的・客観的な態度で接していけば治療はよりスムーズに行うことができたと思われる。なお、こ の症例に関しては、患者が退院後に精神科外来への通院を再開したため、境界性パーソナリティ障害の − 37 − 患者の家族や医療・福祉関係職員の父性的・男性的対応が 不充分であるために、患者の状態改善が遅れたと思われる5症例 診断基準を確認したところ、9項目のうち6つを満たした。入院当初はパーソナリティ障害の可能性を 疑っていなかったため、対応について適切な方針を提示し職員全体で共有することができず、「入院患 者が受けるべき当然の対応」 として様々な要求・非難をする患者にたいし、看護職員らにも相当な混乱 を招くこととなった。 事例4 ○井○次 4 7歳男性 適応障害 【概要】 父親が患者との仲が悪いのみならず、患者とは接しようとしないために、問題が改善しない状況が続 いた症例である。患者は母・父・妻と共に生活していたが、時々激しく苛立った時に過量服薬を行なう ことが問題となっていた。母は認知症で服薬管理ができず、父親は不仲のため患者に関わろうとせず、 体の弱い妻が服薬管理をする状況であった。そして、時々怒り出しては体の弱い妻から内服薬を強引に 奪い過量服薬に至っていた。 父親は知的にも肉体的にもしっかりしているため、父親に対して主治医は、状況の改善のために内服 薬を患者に少量ずつ渡すように約束したのだが、その約束は守られなかった。本人の周囲には時々様子 を見に来る姉を含め、本人の苦しみを受容し、苛立ちをなだめる女性ばかりという父性欠如の状況が続 いていた。その結果、その後も過量服薬の問題は続いた。 事例5 ○木○子 3 8歳女性 軽度知的障害/吃音 [WAIS-Ⅲ:全検査IQ6 2、言語性IQ6 6・動作性IQ6 2 (2011年施行)] 【現病歴】 言語発達の遅れから特殊学級を経て八日市女子高校を卒業。その後、最初の就職(一般就労)にて研 修期間中に適応困難となり自宅への放火未遂を起こしたことを契機に精神科初診(初診時19歳) 。以後 通院加療・施設通所を継続中であったが、物事が自分の思い通りにならないことや周囲から充分に構っ てもらえないという理由で不満を感じると家人への粗暴行為、通所施設でのトイレへの立て篭もりや物 品持ち出し等の迷惑行為、衝動的に自傷行為を起こすといった問題が続いていた。平成2 5年4月、母 への粗暴な行為から医療保護入院(入院1 5回目)となり、これ以後、私が主治医として担当している。 【その後の経過】 当患者と初めて話した際、以前の診療記録等から得た情報及び患者をよく知る職員の話から受けてい た印象に比べて知的レベルが高く、成熟した考え方が出来るように感じた。1 0数年に及ぶ通院歴があり、 長年患者に関わってこられた多くの支援者が集まった会議に初めて出席した際、これまでの経過を直接 知らない者としては、患者の能力・成熟度を本来よりもかなり低く、幼く想定して議論されているよう に感じられた。 診療を重ねるにつれ、患者は最大限にポジティブな形で表現しても 「周囲を困らせており、指導して もらうべき存在」 として自分自身を捉え、これまでの入院加療を 「おしおき」 のように捉えていること が分かった。知的なものをはじめ自身の能力を実際よりも低く評価し、社会的成熟度の面でも自分を子 供のように評価していた。 しかし、じっくりと話してみると、患者は論理的な話し振りが特徴的で、こちらの話を最後まで聞こ うとする集中力があり、理解できなかった部分は曖昧なままにせずに何度も聞き返して確認し、こちら − 38 − 患者の家族や医療・福祉関係職員の父性的・男性的対応が 不充分であるために、患者の状態改善が遅れたと思われる5症例 もそれに応じて可能な限りの表現を用いて説明すると、理解できた場合には話の内容を自分の言葉で言 い換え、確かに理解していることをこちらに伝えようとする様子があり、主治医の懸命な姿勢に応じよ うとする態度が感じられた。その他にも様々な場面の発言内容から主治医に対する自然な気遣いを感じ た。 このような点から、①おそらく吃音により言語性IQまで低い得点となってしまったが、少なくとも 言語理解に関しては数値から一般的に想定されるよりも高いレベルにあるのではないか、②それなりに 成熟した人格を持ち、少なくとも児童に対してのような接し方は明らかに不適切である、という考えに 基づいて診療を進めた。 自身の能力への低い評価を改めさせること、及び人格面での成熟を自覚させることが第一の取り組み となり、診療の機会を持つ度にこれらを促すような話を思いつく限り行った。 例えば、以下に記すような話(要旨)である。 ★ 「会話が流暢でないことで自分の頭が悪く、流暢に話せる人は頭が良いと思えてしまうのかもしれ ないが、それは勘違いだ。スティーブン・ホーキング博士は○子様と同様に病気のため自然な会話 ができず、○子様の方が流暢なくらいだ。彼の風貌を写真で見たら、○子様も彼は一見知的能力が 低いのではと思うだろう。しかし、彼は天才と言われるほど頭の良いひとだ」 ★ 「車を運転しているような人はしっかりした大人だと思っているだろう。しかし車でお酒を飲みに 来て、店で腹を立てて帰りに表のゴミ箱を蹴り倒し、中身をぶちまけたまま帰って行った人を僕は 前に見たことがある。通所先で不当な扱いをされたと思いながらも我慢して家まで帰ってきた○子 様の方が明らかに優れている」 そして能力的にも人格的にも大人として行動すべき水準に達していながら、周囲からの児童に対して のような扱われ方に甘え、成熟した女性としてふさわしくない振る舞いを未だに続けている見苦しさを 指摘した。 さらに、主治医は「約束を破ることは絶対に許さない、本当に許さない」と伝えた。問題行動を防ぐ べく関係者との打ち合わせの上、守らなければいけない事項につき、患者の能力を踏まえてムリのない 「16の約束」 を設定していたが、これに関し本人は約束に反した場合に入院させられるのではと恐れて おり、「守らなければどうなるのか」 とこちらに何度も質問し、反応を伺う場面があった。これに対し て主治医は 「大人として許されない最低限のことを守ればいいだけだ」 と話しつつ、約束に反した場合 については、医学的に必要がない場合に精神科病棟に入院にさせたり、その他のばあいでも懲罰的な処 置は決して行えず、脅しとして言うこともできないため言葉を濁していたところ、患者はこの主治医の 態度を見て安心した様子をみせたため、主治医が猛烈に怒り、そのような卑劣な患者の姿を見て失望し た旨を怒鳴りながら伝えることとなった。これは一時的に大きな精神的負荷をかける場面であったが、 その他の接し方を含めて総合的にみれば適切な父性的・男性的態度であったと考える。それ以後、状況 から幾分止むを得ないと思われる場面での約束違反が一度みられたものの、他には明らかな約束違反は なく、その他の面でも順調な経過を辿っている。なお前述の経過中には投薬の変更を行っていない。 【本症例の考察】 IQ値に応じた 「○才○ヶ月相当」 といった感覚が多くの支援者の意識にあり、またこれまでの問題 行動による幼さの印象が強かったため、実際には10数年の経過で患者なりの成長があったにも関わら ず、子供に対するような接し方のままになっていたのではないか、と思った。これは本人に甘えを招き、 − 39 − 患者の家族や医療・福祉関係職員の父性的・男性的対応が 不充分であるために、患者の状態改善が遅れたと思われる5症例 社会的発達を妨げていたと考える。なお、前述の 「幾分止むを得ないと思われる場面での約束違反」 が あった際、患者の母親が、本人が主治医からの厳しい叱責を受けることとなっては 「かわいそう」 と考 え、診察時に本人を庇うため事実と異なる報告をしていた。これについては、 「これからは本当のこと だけを話して欲しい」と母親へ伝えた。患者への対応につき、家族からの信頼が不充分であったからか もしれないが、患者家族に父性的・男性的態度が欠けていることが伺われるエピソードであり、この点 もまた、これまで患者の社会的発達を妨げていた要因と思われる。 3.考察とまとめ かつての厳しい父親像が家庭から失われたと言われて久しく、学校教育では生徒に対して強く出るこ とが難しい状況がよく聞かれ、社会全体から父性的・男性的な部分が失われてきている。強い態度での 生活指導が不可欠となることがしばしばみられる精神科患者に対し、家族や支援者・医療関係者が父性 的・男性的態度を欠いているならば、事例に挙げたように患者の活力を削ぎ、自立心を損ない、依存を 助長する結果を招く。それは生活習慣の乱れ、服薬及びそれ以外の治療の失敗を招き、総合的な生活の 質や、更には精神症状をも悪化させることに繋がる。 父性的・男性的態度で接するべき主たる人物としては、言うまでもなく患者の父親あるいはそれに近 い立場の親族が最も適任であるが、これがかなわないならば、精神症状の経過の良し悪しに大きく関わ る以上、少なくとも医療・福祉関係職員のうち誰かがその役を担わなければならないだろう。 しかし、父性的・男性的対応として患者に厳しく接することはリスクを伴う。行き過ぎ或いは不適切 な形であった場合は、患者への精神的負荷の強まりから状態の悪化を招きうるほか、患者からの信頼を 失い治療関係の継続が困難となる可能性や、患者側からのクレームや更には訴訟の可能性さえ否定しき れない。そこで、医療・福祉関係職員にとっては、傾聴・受容・共感的態度で接したほうが 「安全」 と 考えられる(もちろんいずれの接し方にも技量は必要である)のかも知れない。 このようなリスクから、父性的・男性的に対応する際には非常にしっかりしたバランス感覚が必要で ある。過度の父性的・男性的態度としてありそうなパターンは、生活習慣の改善のためという名目で、 必要以上に患者を自分の思い通りに生活させて負担をかけている場合である。もとより、患者に対して 高圧的・権威的に接し、批判的な言葉を受けると怒り出すといった態度は論外であろう。 逆に母性的・女性的態度の履き違えとして、先に触れたように、少しでも患者に負担のない環境整備 を目指して傾聴・受容・共感に多大な時間を割き、しかしそれが結果として患者の活力を削ぎ自立を妨 げているパターンである。熱心に患者の世話をすることで自身の存在意義を確認しようとする気持ちも あるのかも知れないが、過剰な保護的態度は必ずしも患者の利益にはならないことも知っておく必要が ある。 適切な父性的・男性的役割を担う人物を欠いた環境にある患者に対し、これを補いつつ治療を進める ことで予後が大きく改善すると思われる症例は、上記5症例以外にも多数ある。しかし、それを実践す るには、バランスのとれた父性的・男性的役割とはどのようなものかを考え、父性的・男性的役割を担 うべき家人に対し、適切な、決して過度とはならない接し方を指導していかなければならない。このこ とは治療者自身にとっても重要であり、自らの性格傾向や精神状態・置かれている状況などを常に自省 しながら、この役割を果たすことが出来るように、心しておかなければならないと思う。 − 40 − 患者の家族や医療・福祉関係職員の父性的・男性的対応が 不充分であるために、患者の状態改善が遅れたと思われる5症例 (本報告ではプライバシーに配慮し、内容と関係がない範囲で、データの一部を改変している) 臨床精神医学研究所での筆者 − 41 − 摂食障害の臨床 ∼ 見立て・治療・社会支援 ∼ 京都大学大学院精神医学 野間 俊一 1.はじめに 摂食障害の臨床は、一般に難しいといわれる。事実、患者はなかなか治療に積極的になれないし、身 体管理もしなければいけない。しかし、若い女性の数人に1人は摂食障害といわれる現代において、い ろいろな医療機関がそれぞれの工夫をしながら摂食障害に対応していくことが求められている。本稿で は、摂食障害の専門ではない医療機関で摂食障害患者を診ていく際のポイントについて、順に説明をさ せていただく。 2.摂食障害研究の歴史 極端な食事制限とるいそうについては、古代西欧では宗教的意味合いを伴った絶食としてさまざまな 報告がある。しかし、現代的な意味での摂食障害は、1 6 9 4年のイギリスのモートンの報告が最初とさ れている。ここですでに、食事制限が心因性であることや過活動という特徴があることが指摘されてい る。日本でも1 8世紀後半に香川修徳が、ほとんどが女性に見られて無理に食べさせようとしてもはい てしまう「不食の証(病)」を報告しているが、彼の「しいて治さざるをもってすなわち真の治法とな す」の言葉は現在もなお深い意味をもっているといえるだろう。1 8 6 8年にはイギリスのガルが、1 8 7 3 年にはフランスのラセーグがこの病気を報告し、医学領域において摂食障害が疾患単位として認知され るようになった。2 0世紀前半には内分泌疾患であるシモンズ病との混乱がみられたが、その後心因性 疾患と再認識され、1 9 9 4年のDSM-IVで疾患概念の大枠が作られた。 1 9 7 0年代には欧米で摂食障害の増加が認められたが、わが国では1 9 8 0年代に神経性やせ症が、1 9 9 0 年代に神経性過食症が増加した。2 0 0 0年代には欧米で過食性障害(後述)の増加が報告されているが、 わが国ではまだこの病態の増加については指摘されていない。 3.摂食障害の診断 まず、わが国での摂食障害下位分類の呼称について触れておこう。2 0 1 3年にDSM-5策定され翌年に はその日本語訳が出版されたが、それを機にそれぞれの日本語表記が、従来の「神経性食欲不振症」「神 経性無食欲症」を「神経性やせ症」に、「神経性大食症」を「神経性過食症」に、「むちゃ食い障害」を 「過食性障害」にと改変された。 「神経性やせ症(anorexia nervosa; AN)」は、①BMI(体格指数:体重[kg]÷身長[m]÷身長[m]) が1 8.5kg/m2以下の低体重、②肥満恐怖、③ボディイメージの障害(やせているということを正しく認 識できない)、の特徴によって診断される。DSM-IVの「無月経」の基準は削除された。食事を制限す る「摂食制限型」と過食嘔吐が認められる「過食/排出型」に大別される。 「神経性過食症(bulimia nervosa; BN)」の診断基準は、①過食(短時間に大量の食料を摂取、コン − 42 − 摂食障害の臨床 トロール困難)、②体重増加を防ぐための代償行動(自己誘発嘔吐、下剤・浣腸・利尿剤の乱用、過剰 な運動、拒食)、③過食の頻度が週1回以上、④やせ願望、である。「排出型」「非排出型」といったさ らなる下位分類は撤廃された。 「過食性障害(binge eating disorder; BED)」の診断基準は、①過食、②過食時の以下の特徴;速く 食べる;苦しくなるまで食べる;空腹でなくても大量に食べる;一人で食べる;後悔する、③苦痛があ る、④過食の頻度は週1回以上、3ヶ月以上持続、⑤代償行動がない、である。結果として肥満傾向に なる。欧米では増加傾向にあるが、日本ではまだそのような報告はない。 4.摂食障害の疫学 有病率については、欧米と日本とではそれほど差は見られない(表1)。 男女にはどの文化圏でも、1対1 0と圧倒的に女性に多い。 わが国の摂食障害有病率の変化としては、2000年以降、ANとBNはほぼ横ばいだが、不全型(DSM-IV なら「特定不能の摂食障害」)は増加し、女子学生の5人に1人はいると推定されている。 5.摂食障害の症状 1)食事をめぐる問題 ANとBNの中核症状は、ほかならぬ「やせ願望/肥満恐怖」である。やせたときの達成感がこれま での不全感を満たしてくれる稀有な充実感として体験され、そこから抜け出られなくなる。その結果、 食への過度のこだわりが生じ、不自然な食べ方は隠れ食い、食料の溜め込みといった異常な食行動へ と発展する。意図的嘔吐、下剤乱用、チューイング(食べたものを飲み込まずに吐き出す)といった 体内の食物を体外に出す行為を「パージング(排出行為)」という。 2)精神症状・行動上の問題 精神面では、多くの患者において対人緊張や対人恐怖が強く、他者による自分についての評価への 過敏さに由来すると考えられる。 完璧主義も多数の患者が幼少期からもちあわしており、二分法(全か無か)思考やコントロール欲 求が認められる。 嘘をつく(多くは食行動異常に関連)、万引き(食料品以外も)、自傷行為・自殺企図も認められる。 嘘や万引きは、人知れず自分だけの世界でなんらかの行動に及ぶという意味では、万能感と関連し、 コントロール欲求に由来するとも理解できるが、その病理構造についてはまだまだ解明されていない。 3)神経性やせ症の身体症状 やせに伴う身体症状は多岐に渡るため、表2に概略をまとめる。 4)習慣性嘔吐に伴う身体症状 嘔吐に伴う身体症状は、表3に示す。 − 43 − 摂食障害の臨床 6.摂食障害の病理構造 1)摂食障害の要因 かつては、摂食障害は「母原病」「愛情不足」などといわれたことがあるし、逆に単なる「ダイエッ トの失敗」と軽く考えられることもあった。しかし実際は、さまざまな要因が複雑に絡み合って病態 が形成されていることがわかる。 元来の頑固な性格や遺伝性についても若干の報告がみられるようになり、生得的な素因がいくらか は関与しているようである。そこに生育環境の影響から自信欠如あるいは自己愛的なパーソナリティが 形成される。きっかけとしてはダイエットが多いのは事実だが、学業不振や外傷体験が契機となること もある。食行動の問題が始まってから、それを維持させる要因があってはじめて摂食障害が成立する。 重要なのは、従来の神経症モデルを当てはめ、生育歴を過度に重視したり、心的葛藤の解消によっ て回復すると考えたりはしないということである。摂食障害は発症後症状が自律的に進行し、特有の パーソナリティを形成することから、治療では食行動や認知の修正を意識的に行っていく必要がある。 2)摂食障害の二側面 摂食障害を理解するうえで、「自己愛性」と「嗜癖性」という二側面に留意する必要がある。「自己 愛性」とは、自己愛性パーソナリティのように過度な自己顕示を行うとは限らない。摂食障害者のも つ自己愛性とは、他者からの評価を過度に気にして傷つきやすく、つねに思考の中心に「周囲の人に とっての自分」というものがある「脆弱性自己愛」である。自己愛傾向が強いと、他者との共感性が 乏しくなる。 − 44 − 摂食障害の臨床 拒食や過食が続けば、社会的不安を歪んだ食行動へと置き換えてしまい、病的な食行動が苦痛回避 手段になってしまっているため嗜癖化してしまい、修正は容易ではない。症状形成を図1に示す。元 来自信を欠いていた人が、やせることによって達成感や万能感を獲得して拒食になり、身体的心理的 な反動によって過食が続けば、拒食・過食・嘔吐といった病的な食行動の際には思考が停止して苦痛 を逃れられるため習慣化していく、というプロセスを辿る。この経過の中では、当初は自己愛性の病 理が前景に出ていたのだが、症状が習慣化する中で嗜癖問題へと比重がシフトしていく。 3)摂食障害のステージ 患者を見立てる上で、ステージを考えることも重要である。 発症2年まで(年数については筆者の臨床感覚によるもので実証されているわけではない)を仮に 「急性期」とする。さまざまな誘因によって一過性に食行動が乱れている例もあり、適切な治療を行 うことで比較的短期に回復することが期待される。 発症2∼1 0年くらいを「亜急性期」と呼ぶ。食行動問題はあるていど習慣化しつつあるがまだま だ回復可能であり、積極的治療で大幅な改善が認められる。 発 症1 0年 を 過 ぎ る と「 慢 性 期 」 と 呼 ぶ。 「 重 度 遷 延 性 摂 食 障 害(severe and enduring eating disorder; SEED)」を含み、根治よりも社会適応を促す治療方針ととる。 4)パーソナリティ分類 患者の治療方針を決めるうえで、病気のステージだけではなく、その患者の特性、すなわちパーソ ナリティによる特徴も把握しておく必要がある(表4)。 − 45 − 摂食障害の臨床 7.摂食障害の治療 1)摂食障害治療の全体像 摂食障害の治療法でしっかりと実証されているものは限られている。それは、過食に対する薬物療 法と認知行動療法(CBT) 、そして拒食の思春期症例に対する家族療法だけである。それはけっして、 摂食障害が治療困難な疾患だからということではなく、摂食障害という病態が複数の要因が絡み合っ て形成され、個人差が大きいからである。治療は、個々の患者に適したものを組み合わせて行うこと になる。 発症後1,2年まで(すなわち、急性期)であり、年齢が比較的若く(2 0代前半まで)、背景にあ る心理的葛藤が明らかな場合は、外来でCBTの枠組みを提示しつつ洞察的なアプローチを併行する ことで改善が認められることがある。一方で、亜急性期の固執型(中核群)の場合には、外来なら CBT、入院なら体重増加を目的とした行動療法をしっかり行うべきである。これらの精神療法と併 行して、作業療法、集団療法、家族療法を行うことは有効であるし(とくに2 0代前半までなら家族 療法は不可欠)、地域での自助グループや作業所、家族会など利用できるものはできるだけ利用する。 発症後1 0年以上の慢性例であれば、病気の治癒よりも社会適応を当面の目標とし、今の症状を抱 えながら社会で活動する方法を模索していく。これは、治癒が不可能という意味ではなく、治癒に対 して強迫的になればなかなか改善しない場合の自己否定が強くなり、ますます回復のきっかけを失う ことになりかねないからである。社会で活動する場が見つかり自己評価が上がれば、結果として病気 も改善することが期待できる。 2)思春期やせ症の治療の流れ 低体重期は脳への栄養も不十分なため、洞察的な精神療法は避ける。栄養療法を中心にCBTの枠 組みを設定する。ある程度栄養状態が回復してきたら、CBT的アプローチをベースに洞察的精神療 法に徐々に移行する。最終的には、他の人がどう思うかではなく、自分自身で自律的な判断や行動が できることを目指す。 治療はできるだけ納得してもらいながら進め、強く抵抗する治療法はできるだけ避ける。ただし、 命に関わるような全身状態のAN患者が治療を拒否した場合、強制治療に踏み切らざるを得ない場合 も少なくはない。その場合、家族と十分相談のうえ方針を決定する。 3)再栄養症候群 ANの治療開始の際に注意すべきなのは、再栄養症候群(refeeding syndrome)である。低栄養の 患者に食事提供や強制栄養(経鼻腔栄養や中心静脈栄養)を行う場合、急激な糖質の摂取によって肝 機能の悪化や電解質異常が生じることがある(表5)。治療開始当初は、毎日のように採血して全身 状態を把握しておかなければならない。 これまで食べていた食事量がかなり少ないようならば、1日8 00kcal程度の食事から開始し、毎日 採血をして再栄養症候群が生じていないことを確認して、2,3日に100kcalのペースで緩徐にカロ リーアップをしていく。入院直後はビタミン剤を投与する。再栄養症候群のため血清リンが低値になっ た場合、リンを補充してもよいが、まずは投与カロリーを少し下げて経過を見るのがいいだろう。1 日1,6 0 0kcalの食事が可能になり血液データに大きな問題がなければ、もう再栄養症候群の危険はな いと考えていいだろう。 − 46 − 摂食障害の臨床 4)体重増加のための行動療法 ANの入院治療を行う場合は、目標を具体的に設定した行動療法を施行すべきだろう。行動療法は オペラント条件づけに基づいて食行動の修正を行う技法であり、最初は個室内で安静保持を指示した うえで今後の具体的な治療法を提示する。そして、体重が増えれば病棟内の行動を許可したり面会を 増やしたりすることで、治療へのモチベーションを維持し、食行動の改善を図る。目標体重は、BMI =1 5∼17.5kg/m2 を目安に設定する。一度決めた治療計画は原則として変更しないことは重要である。 入院治療では、さまざまな逸脱行動がみられる。例えば、輸液や経鼻腔栄養の廃棄、食物の廃棄、 残飯漁り、体重測定での不正、(食べ物あるいはその他のものの)盗み、などである。家族が禁止物 品をこっそり本人に渡すこともある。逸脱行動そのものが患者の病的思考に基づくものであるから、 トラブルが起こったときに患者にその動機を確認したり内省を促したりしても無効なことが多い。 「摂 食障害患者であるなら逸脱行動が生じて当然」という認識をもち、入院時に患者にもそれを伝えた上 で、できるだけ逸脱行動が生じにくいルールをあらかじめ作っておくことが大事である。デイルーム で他患といっしょに食事をとる、体重測定はそのつどスタッフの前で病衣に着替える、家族から患者 に直接物品を渡さず必ずスタッフを通す、などである。厳しいルールの理由について、本人や家族に 説明しておくことも大事である。 5)外来での認知行動療法(主に過食に対して) 外来では食事日誌を介したCBTを行う。それは、元来の目的は、摂食障害患者特有の認知パターン、 すなわち「全か無かの思考」(例:少しでも太ったら絶望的だ)、「自己関係づけ」(例:友達の機嫌が 悪いのは私が愛想よく振舞わなかったからだ)、「 すべし 思考」 (例:すべての人からよく思われな ければならない)を修正するためである。しかし実際には、認知の修正よりも、まずは食行動を記録 することで食行動問題を摂食障害の症状として外在化することの意味合いが大きい。摂食障害患者は 概して、アレキシサイミア(失感情症)傾向のため、自分自身の感情を自分で感じ取ったり言葉で人 に伝えたりすることが苦手であり、そのためにも食事日誌の余白に思ったこと感じたことを自由に書 いてもらうことは自己感情の気づきを促すことが期待される。 食事日誌の一例を表6に示す。 − 47 − 摂食障害の臨床 6)その他の治療 摂食障害は、個々の患者の個別の事情から発症するが、一旦発症すれば患者のもつ病理性の多くは 共通している。治療を進めていくうえで、今の患者の苦悩が個人の事情から生じたものか病気そのも のに由来しているのかを明確にすべきであり、患者本人や家族が病気のことを十分に理解することが 不可欠である。そのため、疾病教育をしっかりと行うことが重要である。 また、摂食障害とは、結果主義的、効率主義的な思考パターンに苦しむ病態である。そのため、結 果や効率と無縁でただ創作の楽しみを体験する作業療法は、摂食障害患者の硬直的な認知を豊かにす ることが目的として行われる。自己愛的欲求の昇華や自己評価向上も期待できる。 集団精神療法もまた、病的な自己の世界に閉じこもっている摂食障害患者が共感性や社会性を獲得し、 治療意欲を促進するために有効である。 同居家族がいる場合や年齢が若い場合には、家族へのアプローチも重要になる。家族に対する疾病 教育に加えて、本人との合同面接によって家族力動を把握し、そのことと患者の病気の関係について の洞察を促す。 7)薬物療法 神経性やせ症については、有効性が実証されている向精神薬はない。ただし経験的には、強迫傾向 には少量のSSRI(例:セルトラリン2 5∼50mg/day)、病的な固執傾向に対しては少量の抗精神病薬 (例:オランザピン2.5∼5mg/day)が有効なことがある。 神経性過食症の過食衝動に対して、SSRIやSNRIの効果は実証されている(例:デュロキセチン 6 0mg/day、フルボキサミン1 5 0mg/day)。 8.摂食障害患者への社会的支援 摂食障害は社会性の病であることから、病院の中でいわゆる治療モデルに則った治療にこだわるので はなく、社会の対人関係の中で治そうとする動きは以前からあった。摂食障害の自助グループは1 9 6 0 年代にアメリカで誕生し、1 9 8 0年代に日本でも導入された。しかし、彼らの対人過敏性によって互い にライバル視をしてしまい、集団活動が困難になる状況もしばしば生じた。 専門家の監督のもと患者が集団活動を行うことができれば、患者の集団での主体性を育むことができ るかもしれない。わが国ではまだまだそのような試みは少なく、横浜の「ミモザ」は日本唯一の摂食障 害専門の認可施設である。京都では「SEEDきょうと」が本人や家族の活動を続けている。摂食障害患 − 48 − 摂食障害の臨床 者が自分に合った活動を見つけることが大事であり、そのためにもさまざまな形態の支援が存在するこ とが理想である。 9.日々の臨床での留意点 摂食障害患者は、社会的な苦痛を食行動の問題に置き換えてしまう病気であり、それだけに病気を手 放す恐怖は大きく、治療に対してもつねにアンビバレントである。したがって、治療は本人の治療意欲 をいかに引き出すかにかかっている。家族同伴であっても、本人と一対一の診察時間をもち、本人のた めの治療であることをわかってもらうよう働きかける。過食症の場合、けっして軽い病気ととらえず、 受診をねぎらい定期通院を促すことになる。 外来は2週∼3週ごとの通院が標準的である。毎回体重を測定し、数ヶ月ごとに血液検査も行う。治 療は食事日誌をうまく活用する。 身体的に危険な場合、「精神科医は身体面の責任を負わない」という方針を徹底させて、安心して治 療に望むことが重要である。急変した場合は最寄りの救急科を受診いただき、ふだんから内科かかりつ け医を作ってもらうことが望ましい。 10.おわりに 摂食障害は、患者特有の自己愛性と病気の嗜癖性のために、治療そのものがなかなか困難である。と にかく、 「治療が続けば成功」というくらいに考え、最初から早期回復を目指すような対応をすべきで はない。香川修徳の「しいて治さざるをもってすなわち真の治法となす」の理念は、現代においても十 分に当てはまる。 焦らない、目標を下げる、いい加減にすごす、がんばらない、を合言葉に、患者の成長につきそうの が治療者の役目といっていいだろう。 参考文献 個々の文献は割愛する。摂食障害治療を考えるうえで参考にしていただくために、筆者の執筆したい くつかの総説を紹介する。 1) 野間俊一:摂食障害に対し、さまざまな心理的治療をどう選択するか.精神科治療学、27(11):1435-1439, 2012 2) 野間俊一:摂食障害治療の過去・現在・未来.臨床精神医学、4 2(5):5 1 3-5 1 7, 2 0 1 3 3) 野間俊一:「食」のアディクション.臨床心理学、1 4(3):4 3 2-4 3 8、2 0 1 4 4) 野間俊一:総合病院における摂食障害の治療と工夫.臨床精神医学、4 3(6):8 4 1-8 4 5、2 0 1 4 5) 野間俊一:摂食障害治療の難しさ−よりよい工夫のために.総合病院精神医学、2 6(2):1 2 2-1 2 9、2 0 1 5 (本稿は平成2 7年1月2 9日に豊郷病院9病棟2階ホールで行われた臨床精神医学研究所「新春学術講演 会」での講演の原稿である) − 49 − 摂食障害の臨床 豊郷病院周辺に咲く紫陽花 − 50 − 知っていますか? 認知症のこと 公益財団法人豊郷病院認知症疾患医療センター 成田 実 1.はじめに 高齢になるに従い、認知症にかかる方の割合が増えているということは広く認知されてきていると思 います。80歳以上の方の4人に1人は認知症であるとされています。現在のところ認知症の根本的な 治療法はなく、薬物療法は特定の認知症の原因疾患に対して「認知症の進行を遅らせる」事を目的に使 用されているに過ぎません。認知症になりにくい生活が望まれます。認知症は早期に対応すれば進行を 遅らせることができると考えられています。本日は、認知症の理解と、早期の気づきについて話を進め ていきます。 2.認知症の有病率 まずは、平成1 8年度における認知症高齢者の有病率ですが、ここのグラフにあげるとおり8 0歳以上、 特に8 5歳以上では認知症と診断される方の割合は急激に伸びています。 − 51 − 知っていますか? 認知症のこと 3.認知症の主な原因疾患の頻度 アルツハイマー型認知症の頻度が多いのですが、認知症の原因疾患の診断に脳血管性疾患、脳血管性 認知症と合併があるということに注目してください。 4.認知症の症状について 原因となる疾患によって症状の出現の様式が異なります。さらに認知症の場合は病気と共に生活する 本人の日常生活への不適応に配慮する視点が必要です。 5.認知症の原因による中核症状の特徴 主要認知症として4つの認知症の型が知られています。まずは記銘力障害、失見当識、判断力の障害、 などの症状があるアルツハイマー型認知症が全体の5 0∼6 0%を占めます。次に、脳梗塞などの後遺症 としての認知機能障害によって引き起こされる脳血管性認知症が全体の2 0∼3 0%を占めます。時に歩 行障害や嚥下障害が合併します。また、認知障害と歩行障害を伴う型で幻覚症状を伴うことが多いレビー 小体型認知症があります。良い時と悪い時の変動が大きく、パーキンソン症状による歩行障害から転倒 しやすい事で注意が必要です。アルツハイマー型認知症と誤りやすく、実際は2割ほどあるといわれま す。また、割合は少ないのですが、物忘れから始まるのではなく、自分の思うとおりに行動を起こして しまい、結果的に周囲への配慮ができなくなる、前頭側頭型認知症という原因疾患があります。 − 52 − 知っていますか? 認知症のこと 6.アルツハイマー型認知症と脳血管性認知症で障害されやすい場所 障害される場所により症状の特徴があります。障害される場所が違うことで症状の現れ方や経過に違 いがあります。原因となる疾患を知るということが必要という理由の一つです。 7.生活習慣病と認知症との関係 生活習慣病と認知症との関係を示します。生活習慣病が血管性障害とアルツハイマー型認知症の発病 に影響していることが考えられています。 − 53 − 知っていますか? 認知症のこと 8.認知機能障害と大脳機能との関係 次に、認知症疾患の症状の特徴である中核症状について考えます。大脳の働きはこの図に示すように 分かれています。大脳の後方部は見たり聞いたりした事を整理して知るという役割を、前方部は計画し て行動を起こすという役割を担います。一連の働きに誤りがあると不適当な日常生活行動になります。 9.認知症の認知機能障害 結果的に日常生活が困難になるということが認知症の定義になりますが、認知症で障害される認知機 能障害は、大きく分けると次のように整理されます。 1)記憶障害 経験したことをすぐに忘れてしまい思い出せない 覚えていたはずの記憶が失われる 2)見当識障害 時間・季節・場所等の感覚が分からなくなる 道順などが分からなくなる 3)実行機能障害 前もって計画をたてることができない 家電や自販機などが使いこなせない 4)理解・判断力の障害 考えるスピードが遅くなる いつもと違う体験で混乱しやすくなる 5)社会性の障害 相手の気持ちがわからない、気にしない 周りの様子がわからない、気にしない ここにあげた社会性の障害により集団生活に支障を来すところが、介護上の課題としてあげられます。 − 54 − 知っていますか? 認知症のこと 10.アルツハイマー型認知症の症状と経過 最も研究と治療が進んでいるアルツハイマー型認知症の症状と経過を提示します。時間経過と重症度 により出現する症状を示しています。全経過は1 0年以上にわたりますが、軽度症状としてうつ症状な どの心理症状があり、また重症になると身辺のことができなくなってきます。 11.家庭生活の中で現れる症状 アルツハイマー型認知症の重症度によって家庭生活の中で現れる症状の例を具体的に示しました。認 知症の重症度と併せてこのような日常生活の障害が現れます。確認してください。 − 55 − 知っていますか? 認知症のこと 12.認知症の中核症状と各疾患で頻度の高い行動・心理的症状 認知症の中核症状と各疾患で頻度の高い行動・心理的症状は介護負担を強める症状として次に挙げる ような症状でBPSDと表現されます。 BPSDは認知症の原因疾患により頻度が異なり、BPSDと呼ばれる症状が認知症の原因疾患の中核症 状として出現している事があります。アルツハイマー型認知症の診断でこのような症状が顕著に出現し ているときには、対応の方法が異なることもあり、認知症の原因疾患の特定が改めて必要になることが あります。 13.脳の働きと日常生活能力との関連 脳の働きと日常生活能力との関連を、次のような図で説明することもできます。適切な日常生活を送 るという事は、適切な脳機能の働きの上に成立しています。認知機能が損なわれることによりその上に 成り立っていた日常生活や、他の人との関係を意識することにより成り立つ社会的役割は果たせなく なってきます。社会的な課題として、約束を忘れるといった出来事、日常生活で置き忘れにつながりま す。認知症が重症になるにつれてこの図で示している上位の働きから影響を受けるようになります。 心理、社会的問題に関しては軽症の時期に出現しやすく、重症になるに従い身辺の話題が障害される ようになります。 − 56 − 知っていますか? 認知症のこと 14.主な行動・心理症状(BPSD) 主な行動・心理症状(BPSD)を提示し簡単に説明します。 ◆幻覚:現実にはいない人が見える、声が聴こえる ◆妄想:ものを盗られたと訴える ◆徘徊:記憶障害などの要因により歩き回る ◆うつ:気が沈む ◆暴言・暴力:大きな声をあげる暴力をふるう ◆不穏・興奮:落ち着かないイライラしやすい ◆不安・焦燥:不安感、日常の些細なことを心配する ◆拒絶:介護者に反抗的な態度を示し拒否する このような症状を起こす日常には、一般的には、本人の受け止め方によるもので理解できる原因があ るといわれています。本人の置かれている介護環境や本人の行動様式や人柄が関係します。対応によっ ては介護する周囲への影響も高まります。病気の治療とは別に病気に罹患した本人の日常生活の不自由 さや生活のしにくさとの関連を考える必要があります。 15.認知症とのつきあい方 認知症となった方は当然ですが認知症になるつもりのない方も、関わり合う機会があるはずですので、 知っておく必要のある内容と考えています。 まずは、病気に罹患してしまった方に対しての接し方を考えていきます。 16.認知症の治療と介護の目標 認知症と治療と介護は、日常生活がうまく送れないという状態に対して実施していると考えられます。 医学的な視点では、病気の診断と病気の症状やできなくなっている状態を知り、病期の進行を抑える治 療を行うということで、薬物療法やリハビリテーションが上げられます。 一方、認知症を患っている方の日常生活の不自由さを援助するという視点で介護が行われています。 本人が、不安を感じないで安心して自分らしく過ごせる、事を目標に本人にとって居心地の良い介護環 境を本人の立場に立って考えていくということです。 この時、医学的視点と介護とのバランスをうまく保つことが必要になります。 できにくくなっているところを悪くならないようにリハビリテーションを実施しますが、本人にはつ らく感じることがあります。この場面で「辛いことはしたくない」と反発することは考えられます。「リ ハビリしたいけれども抵抗がある」という事実は介護する側からはBPSDと解釈されてしまいます。 BPSDの症状とされる場面には、日常生活の支援の方法により強まるものがあるということです。そ れではどのように気づいていくことができるかということを考えていきます。 17.認知症の人の生活に影響を及ぼす要因 日常生活を支援する為には、本人の立場をどのように酌み取るかが重要になります。多くの認知症の 方は自分が認知症であることの理解ができず、どのように生活していっていいかわかりません。 − 57 − 知っていますか? 認知症のこと 病気によりできなくなったところ、本人の生活環境や本人の体調とその様の場面をどのように本人が 受け止めているかに耳を傾けながら接していくことが必要になります。 18.症状の正確な評価 本人の訴えている内容や症状を本人の立場で整理し解釈することで、BPSDの内容を緩和することが できる可能性があります。BPSDがどのように介護負担につながっているかの手順を整理して解決の きっかけとします。 まずは、手間がかかることですが、いつどのような事柄で現れるのかを正確にまとめて整理します。 急激に起こったものなのか、徐々に強くなったものなのか、いつの時間帯に起きるのか、どのように起 こるのかなどをまとめます。 もしかしたら、同じ場面で同じ事が起こっている、あるいは場所が変わると起こっていないというこ とがあるかもしれません。病気の中核症状の影響によるものか、置かれている環境によるものなのかに 気づくことができ対応の方法が気づける可能性があります。 19. 「認知症になりそうな方…」について 高齢になると苦手なことやできにくくなったことは避けて、無理をしないという生活を送る事が多く なります。体調がすぐれないと休みがちにもなります。このような生活が続くと、脳の働きにも影響を 与えてくる可能性があります。「慣れた生活の中で 頭の寝たきり になっていませんか?」という問い かけでもあります。 − 58 − 知っていますか? 認知症のこと 20.発症初期の症状は何か? 認知症、特にアルツハイマー型認知症の症状について考えていきます。発症の初期症状としては、物 忘れを自覚するということが上げられます。 これは周囲が気づかず、自分自身が自覚するものです。物忘れが多くなった、あるいはうまくいかな いことが多くなってきたということがきっかけに不安感が現れます。「順序立てて考えられない」など を意識し、焦りを感じます。時には、緊張感などからちょっとした体調の不調を自覚する方もあるかも しれません。何をするにも自信がなくなり、出かける機会や人と接する場面を避けることがあります。 一方、同じ出来事を周りはどのように気づくことができるでしょうか?最初は短時間の出来事である が,徐々に頻度が増してくる出来事に注意してください。ここに上げた場面で気づかれることがありま す。慣れた仕事や場面では覆い隠されているものが、いつもと違う出来事に出くわしたときに要領の悪 さとして明らかになることがあります。健忘症状があり、行為、行動に支障が出てくる。あるいは「意 欲はあるが,中途半端になる事が多くなる」「いくつかのことを同時にやろうとするが,結局どれもで きない」などがあります。 21.認知症の初期症状をチェックするための質問票 22.認知症の予防、頭の寝たきりを防ぐには? 認知症の予防について確実な方法は見つかっていませんが、早い時期に見つけて意識的にリハビリ テーションなどを実行するという考え方です。これは、私たちの普段の生活の延長です。病気になる前 から運動や知的作業を行う習慣をつけることが大事になります。 運動をすることや、人前に出て行動するということが勧められています。脳リハビリといわれている 場面に参加して実行することも良いでしょう。そのときには飽きが来ない、続けられることが勧められ ます。自分が認知症かなと気づけるうちにリハビリテーションを始めることは、病気の自覚がなくても 本人が取り組む習慣を身につける為に有効で、介護負担軽減の可能性があります。 自分に合った内容で、頭をひねる様な少しだけ難しい内容のものを継続する事が有効ですが一人では なかなか続きません。みんなで集まる機会を作り継続することが必要です。 − 59 − 知っていますか? 認知症のこと 23.認知症になるつもりのない方は、どのような生活を送ることが有効なのか−明日は我が身− 実は、認知症を完全に予防する方法はわかっていません。それにもかかわらず認知症の進行を防ぐよ うな日常生活を組み立てていくことが必要となっている現状があります。 認知症にならないと頑張ることも有効ですが、「明日は我が身」という心持ちで認知症の人と接して、 認知症の方の介護の方法を考えながらの毎日を送る事が「認知症になっても地元で生活したい」という 認知症の人、もしかしたら自分のための希望にかなう体制作りにつながることになると考えます。 □ 認知症になっても地元で生活したいので見守る体制を作る。 □ 認知症の人と早く気付いて援助するということで互助の関係作りが望まれます。認知症の人との つきあいに慣れることは、認知症の理解、認知症の人の理解を深める事になります。 □ 第三者として、本人の能力に合ったつきあい方を普段から学ぶことは、自分が認知症になったと きに不足していることを知ることができ、自分が認知症にならなくても、認知症の人が自宅で生 活することを支援できます。 認知症になることはきついことではありますが、負い目なく生活できるのではないでしょうか。 24.認知症になったときの心配 認知症になったときに心配になることとして、以前に認知症の人の家族会の報告によるものを提示し ます。ここには上位五項目を挙げました。 ① 病気になることで、「自分らしさが失われる」。 ② 病気になることで、「他人に迷惑をかける」。 ③ 仲間はずれにされる。 ④ 変に見られる。 ⑤ 社会からのつながりが薄れる。 などがあります。この五項目の心配は実は認知症のになった人の心配事でもあるのです。従ってこの五 項目を参考にした認知症の人との接し方としては、 ① 自分らしく生きていく事を尊重する。 ② 病気になっても迷惑と思わせない、思わない ③ 仲間はずれにしない ④ 変な目で見ない。 ⑤ 社会につながるのを支援する。 ということが挙げられます。 25.認知症とつきあう、認知症の人(自分)とつきあう 同じ内容になりますが、認知症とつきあう、認知症の人とつきあうということを通じて、いつかはわ たしも認知症になるかもしれないという考え方を意識していただきたいと考えます。 認知症になりにくい生活を送るように努める事が必要です。認知症になりにくい生活の詳細を今回は 紹介しませんが、この方法が良いという考え方を実際に普段の生活にうまく取り入れていくということ は、一人一人で異なります。運動と食生活ということが基本で生活習慣病の予防が一つの目安になるの ではないかと考えます。試行錯誤することも「頭を使って考える」という点では、脳の活性化になりま − 60 − 知っていますか? 認知症のこと すので、テレビ、雑誌などを読んで自分に合った方法を見つけていただくことを勧めます。 認知症についての知識を集める、身近な人間関係や地域での生活の中で頭や身体の健康について気づ くことが増えてくるでしょう。いつもと違う目線で普段の生活を見回すと、もう一工夫するところが見 つかるかもしれません。 また、普段の社会生活で早期の自覚にもつながり、認知症になるまでに気づいて体制を整えていく時 間的余裕が生まれます。 認知症では独りで生活することが困難となります。認知症を抱えて生活していく際には支援する体制 と支援されるという受け入れの発想が必要になります。認知症を抱えながら生活する、認知症を抱えな がら生活することを援助する事の学びとなると考えます。進行を遅らせる治療や障害の程度に合わせた 日常生活の援助は、年をとっても地元で生活するということができるという地域の活動に広げていくこ とができるかもしれません。 26.まとめ −認知症の人と共に暮らす、生活しづらさにたいして孤立化させない 今回の講演のまとめとなります。まず、高齢者の精神疾患として認知症などの病気が現れます。認知 症になりやすい背景や、孤立化した生活を送ることがあります。病気の有無にかかわらず、人間関係や 環境の変化が少なくなることで、生き甲斐がなくなり考えることをやめてしまう事が認知症の引き金に なる可能性になります。また、近所づきあいがなくなることで認知症と気づかれずに支援が遅れる可能 性があります。 普段からほどよい人間関係を保つことを意識して生活していると、自分の病気に気づいてもらえると いうところと、隣人のたまの不調や認知症の兆しの発見につながります。普段から集まりに参加するよ うに心がけることや、声をかけて参加を促すという関係を作り上げましょう。 さらに、独りでの生活であっても安心感を抱けることで妄想などのBPSDの出現を減らす事が出来る 可能性があります。BPSDがあると自宅での生活の維持が困難になりますが、日常生活の生きにくさを 軽くして、気づき気づかれという関係の維持に努めてください。 (本稿は、平成2 7年3月2 8日に行われた豊郷病院公開セミナーで発表した講演原稿である) 精神科入院病棟での筆者 − 61 − 閉鎖病棟におけるおやつ摂取に関する実態調査 ∼ スナック菓子とチョコレートの唾液アミラーゼ値の変化から ∼ 公益財団法人豊郷病院(3−6病棟) 能美 峰子、中村 祥子、西川 由希子 はじめに 精神科に入院中の患者は精神保健福祉法により生活環境、行動制限など多くの制限を受ける。その中 で入院生活を送っている患者にとって、おやつは楽しみのひとつであると考え、当病棟では1 5時に決 まった場所でのおやつの時間を設けている。病棟で提供しているおやつとして、加工されたスナック菓 子やジュース、プリンがあり、患者の希望・嚥下状態に応じて選択し摂取している。しかし、スナック 菓子を摂取し続けることで、イライラが増強するといわれている。そこで、少しでも脳に良い食べ物は ないかと考え、一般的にストレス軽減によいとされるチョコレートの摂取で、唾液アミラーゼ値の変化 を知る事が出来たため、今後の課題と併せて報告する。 Ⅰ.目的 閉鎖病棟に入院している患者のおやつに、 チョコレートを導入して唾液アミラーゼ値の変化を把握する。 Ⅱ.研究方法 1.対 象:実施期間中に入院しており、研究の参加に同意が得られた2 0∼8 0代の患者1 6名。スナッ ク菓子群8名、チョコレート(ミルクチョコレート1箱4 2g)群8名。 2.期 間:2 0 1 4年8月∼2週間 3.方 法:病棟でおやつの時間に看護師がおやつ前(1 4:30)、おやつ後(15:30)で唾液を採取。 場所はおやつを提供しているデイルームで行う。 4.測定方法:唾液アミラーゼモニター(酵素分析装置)を使用。おやつ摂取前後、計4回の唾液アミ ラーゼ値を測定しその差を比較する。 5.倫理的配慮 当病棟に入院している患者に、研究の趣旨・目的・発表することを書面と口頭にて説明し同意を得た。 また、研究の途中で中断・拒否をしても不利益はないことを合わせて説明した。当院看護倫理委員会に おいて承認を得た。 − 62 − 閉鎖病棟におけるおやつ摂取に関する実態調査 Ⅲ.結果 4回の実施で測定出来たのは1 6名で、うち1名は当日拒否、2名はエラー表示のため測定出来なかっ た。1回目の測定は従来のおやつでスナック菓子かプリン、自分の好きな物を摂取してもらい、唾液ア ミラーゼ値を採取し前後の値を測定。スナック菓子を摂取した人1 0名の内、数値が低下した人は8名。 変化なしが1名。上昇した人が1名。プリンを摂取した3名のうち、数値が低下した人は2名。上昇し た人が1名。摂取前の唾液アミラーゼ値の平均は1 4 6KU/Lで、摂取後は1 0 9KU/Lであった。 2回目の測定では、チョコレートの効果を検証するため、1回目にプリンを摂取した人は除外とし、 1回目にスナック菓子を摂取した1 0名の内、スナック菓子群5名、チョコレート群5名に分け測定を 行った。スナック菓子群で数値が低下した人3名。変化なしが1名。上昇した人は1名。摂取前の唾 液アミラーゼ値の平均は1 5 8KU/Lで、摂取後は1 1 1KU/Lであった。チョコレート群で数値が低下した 人は2名、上昇した人は3名あり、摂取前の唾液アミラーゼ値の平均は1 4 5KU/Lで、摂取後の平均は 1 3 0KU/Lであった。 図1. 1回目スナック菓子かプリン摂取前後の測定値 図2. 1、2回目共にスナック菓子摂取前後の測定値 − 63 − 閉鎖病棟におけるおやつ摂取に関する実態調査 図3. 1回目スナック菓子、2回目チョコレート摂取前後の測定値 Ⅳ.考察 稲垣は、精神症状が重症なほど唾液アミラーゼ値が高く、唾液アミラーゼ値の平均は統合失調症群 8 9.7 0±7 1.1 6、健常者群は3 8.9 1±2 4.1 7 1) と述べている。当病棟に入院中の患者の唾液アミラーゼ値も、 一般基準値をはるかに上回る高値を示した。このことより、ストレスが多いと言える。多くの抗精神病 薬を服用している患者は、副作用として口渇があり、また多くの制限の中で入院・治療を受けている事 や、研究に対しての不安緊張があり、唾液分泌量の低下があった為ではないかと考える。 おやつに対しての聞き取り調査は行っていないが、おやつを待つ患者を見ていると楽しみにしている 事が伺えた。厚生労働省のヘルスネットでは、「おやつの時間は栄養補給の他に気分転換や、生活に潤 いを与える等の役割がある」2)とうたっているが、本研究結果からおやつ摂取後の唾液アミラーゼ値 の低下が1 3名中1 0名みられたことで、多くの患者でストレス軽減の効果があるように思われる。そこで、 患者にとっておやつという時間そのものが楽しみで、気分転換の場に繋がっていると考えられる。また、 決められたおやつの中から患者が好きな物を選択出来る事を楽しみにしているのであれば、それを叶え ていけるようにする工夫が必要である。 2回目の測定では、チョコレート摂取でストレス値の低下はみられたが、スナック菓子との数値の差 に変化がみられなかった。よって1回目と違い、患者が自分でおやつを選択出来なかった事、おやつの 量としてみるとスナック菓子よりもチョコレートの量が少なく、満足感が得られなかったのではないか と考える。 一般的に、ストレス軽減に効果があるといわれているチョコレートは、カカオ70%以上のものであ るが、甘みが抑えられている為、患者の味覚に合わないのではないかと考えた。患者の味覚に合うもの、 馴染みのあるものとして、今回摂取してもらったチョコレートはミルクチョコレートであった。今後は、 カカオの多く含んだチョコレートも摂取してもらい、ストレス値がどのように変化するのかを知ること も重要であると考える。 − 64 − 閉鎖病棟におけるおやつ摂取に関する実態調査 Ⅴ.結論 楽しみであるおやつを食べるという行動はストレス軽減に大いに役立っているということがわかった。 今後は、データーだけでなく、書面と口頭でおやつに対する思いを聞き、おやつの時間が患者にとって より良い時間になるよう、提供する物、環境の調整を行っていく事が今後の課題と言える。 引用・参考文献 1) 稲垣卓司:統合失調症患者では唾液アミラーゼ値が高い,大日本住友製薬,医療情報サイト 2) 厚生労働省:e-ヘルスネット,情報提供、http://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/food/e-0 3-0 1 3.html 3−6病棟カンファレンスの打ち合わせ ドイツ・アーヘン大学からの客人(Prof.F.Schneider)を迎えて (3−6病棟) − 65 − 認知症患者との関わりを通した再構成からの気付き − ウィーデンバック・ユマニチュードを用いて − 公益財団法人豊郷病院 3−6病棟 藤野 恵子 はじめに 超高齢化社会である現代において、厚生労働省は認知症高齢者の日常生活自立度Ⅱ以上の高齢者数が 20 1 0年には2 8 0万人であり、6 5歳高齢者の9.5%にあたると報告している。また2 0 2 5年には6 5歳以上の 高齢者の8人に1人が認知症高齢者になると予測している。医学的な認知症の定義は、 「脳の障害によっ て生ずる持続的な認知機能の障害であり、それが社会的あるいは日常的な生活を行っていく上で、明ら かな障害をきたすもの」とされている。症状は、認知症の一次要因である中核症状としての記憶障害、 見当識障害、理解・判断力の障害、実行機能障害、失認、失行を背景に、周辺症状である徘徊、暴言・ 暴力、幻覚・妄想等の症状が出現すると考えられている。認知症の人のケアとその難しさは、認知症高 齢者の増加に伴って、近年様々なメディアでとりあげられているが、ユマニチュードはそのケアの1つ である。私自身も認知症の患者と関わっているが、かなり困惑することが多い。特に印象的な場面とし て、当患者が大声で言い騒ぐ言動によって業務が遂行できなくなり、苛立たしく思うことが再三であっ た。その反面、自分の気持ちに余裕がないことの自省と患者に対して申し訳ないと思う気持ちもあり、 罪悪感が芽生え、自分自身の心の中に葛藤が生じたものである。井出1)は認知症の攻撃的な症状の一 要因として「一般に認知症の攻撃性は不適切なケアの結果として出現することが多い。認知症の人が攻 撃的行為を示すようになった時は、そこで行われているケアの方法について再検討することが必要にな る」と述べている。ウィーデンバック2)は「看護婦が看護しているときに感じたり考えたりしている ことは重要であり、それは看護婦が何をするかということだけでなく、それをどのように行うかという ことと密接な関係がある」と言い、また「考えたり感じたりすることは、もし看護婦がそれを重んじる ならば重要な手段として役立てることができる」と再構成の重要性を述べている。そこで、きっかけと なった場面を再構成し、考察を加えて気付いたことをまとめてみたい。 Ⅰ.目的(方法) 看護実践の2場面を取り上げ、ウィーデンバックの評価項目(再構成の形式に関する質問)に合わせ て振り返り、自分の看護実践のあり方を明確にする。それをウィーデンバックの理論、すなわち「加齢 によってさまざま機能が低下していく高齢者が最後の日まで尊厳をもって暮らしていけるように、ケア をする人がケアの対象者に『私はあなたのことを大切におもっています』というメッセージを常に発信 し、その人の『人間らしさ』を尊重する状況をユマニチュードの状態」と定義し、そのユマニチュード の概念や哲学を参考にして、気付いたことをまとめてみる。 Ⅱ.倫理的配慮 本事例を記載するにあたり、対象患者が特定されないように実名やそれを推測できる内容は表記しな − 66 − 認知症患者との関わりを通した再構成からの気付き かった。また患者情報が記載された資料、書類等は鍵のかかる場所で保管することを徹底した。個人の プライバシーに努め、作成にあたり個人の尊厳を尊重するため患者には通常通りの生活を確保し、患者 の不利益となることや困惑を招くような言動や態度に注意しながら倫理的配慮に努めた。 Ⅲ.結果 1 患者紹介 A氏:7 0歳台、女性。脳血管性認知症。日常生活動作は自立して行うこともできるが、適切には行えな いために介助を要することがある。言語障害や聴力障害はないため、会話には問題はない。数時 間前のことを覚えている時もあるが、5分前のことを忘れることがある。また病院に入院してい るという認識に欠け、記憶障害、物忘れ、見当識障害がある。行動・心理状態では家に帰りたい との希望のほかに、他者の物を「私のもの」と言い、「私を騙そうとしている」と発言するなど 被害関係妄想が見られ、スタッフに対する暴言や暴力的行為が見られる。しかし、これらの症状 も顕著に見られる時と見られない時があり、一日の内にも極端に変化する。 2 看護の実際 1)看護上の問題 ①認知症の症状に関連した慢性混乱 ②認知機能の低下に関連した排泄、更衣・整容、入浴・清潔セルフケア不足(テーマと関連がない ため省略する) 2)看護計画、目標 ①目標:不安、混乱による症状を最小限にとどめることができる。 計画:症状の変調を理解し、想いや訴えを傾聴する時間を持つ。またその訴えや想い、状況に応 じた適切な環境を整える。 ②目標:看護師等他者との関わりを通して自分が尊重され支持されていることを感じ表現すること ができる。 計画:関わりの際、尊重した言葉使いや態度で接する。 3) 看護実践 今回きっかけとなった攻撃的な場面と、患者が易怒的となった後の静穏な場面とを、プロセス・ レコードに取り上げ評価する(別紙参照) 評価項目 1.なぜこの(特定)出来事を再構成のために選んだのか 2.患者の〈援助を求めるニード〉を見極めたり、患者の必要としている援助を与えるために 自分の知覚したこと、考えたこと、感じたことを、どのように活用したか 3.自分がおこなったことを通して、どんな成果を得ようとしていたのか 4.自分が実際に得たような成果を得るために、とくに自分が言ったりおこなったりしたこと はなにか 5.この再構成を書き、ふりかえってみることによって、自分のやり方に対してどんな洞察を 得たか ウィーデンバック, E4) − 67 − 認知症患者との関わりを通した再構成からの気付き 場面1 1.自分の苛立つ感情により、気持ちに余裕を持つことができず患者と関わったことの自省。また患者 の理解に努めず業務を遂行させたことに対して、申し訳ないという思いから罪悪感を抱いたことが 自分にとって課題となり残った。 2.患者に誤薬せずに薬剤を投与することを重要視し、患者が必要として求める援助に対しての見極め や考慮に至らなかった。 3.4.無事に配薬を終えて業務に影響を及ぼさないことや、他患者への影響が気がかりとなり、患者 の言動が悪化しないことを望んで刺激を与えないように、A氏に対して自分の言動を抑えることを 意図した。 5.プロセス・レコード⑥で患者は薬を飲んでないことを主張している。これに対して看護師はその言 葉通りに受け止め、認知症の短期記憶障害であると認識した反応をしている。患者は日頃から「自 分を騙そうとしている」とか「自分は蔑ろにされている」などの想いを発言している。井出は「認 知症の人は物忘れや見当識障害、判断力障害などによって自分の中に多くの問題や課題を抱えてい る。これらのことが認知症の人のストレス耐性を低下させていくことになる。私たちでもストレス 耐性が低下している時は、周囲の人のちょっとした言動が障ったり、ふだんは何でもないことが無 性に腹が立ったりする。認知症の人は興奮しやすいとか、大声を出すなど言われたりするが、それ は認知症という病気が原因でおこるわけではなく、認知症という病気がその個人のストレスを増長 させる結果として二次的に起こっている行動と理解することが大切である」と述べている。このこ とから、患者は薬を飲んだか否かという事実より「自分だけ薬を貰えないのではないか」という不 安感を訴えていたと考えられる4)。しかし看護師が⑤⑧⑪にわたって記憶障害の出現のみに反応し た安易な返答により、患者は腹立たしい気持ちになり興奮したのではないか。患者の想いを理解せ ず、患者と向き合うことを避けた関わりであったかと考えられる。また井出は、認知症の人の記憶 障害や見当識障害は、喪失体験として捉えられるとし、「今まで何をしていたのか思い出せないと いうことは記憶に関する喪失体験であり、自分の周囲の人が知らない人と思えた時は喪失体験とし て感じられるだろう。このように認知症の人は一般の高齢者よりもはるかに多くの喪失体験を経験 していることが予想される」と、認知症の人が経験する喪失体験4)は、老年期に経験する喪失体 験に加え多大であることを語っている。そして認知症の人が常に実感している不安感や、焦燥感に ついて「知らない場所で知らない人たちの中にいると私たちでも不安になる。また、どこに行けば いいのか、どうすればいいのか分からないときにも不安になるように、分からないことが不安なこ とになる。自分自身を取り巻く状況、自分自身に関する様々な事柄が分からなくなったとしたら非 常に不安になるだろう。このように認知症の人は様々な不安を抱えながら生活していることを理解 しなければならない」と述べている4)。認知症のA氏が常に不安や焦燥感を抱く状況に置かれてい ることを認識して関わったならば、業務が重なった状態であったとしても、A氏の思いが理解され、 少しでもA氏の不満が緩和できたのではないかと考えられる。 − 68 − 認知症患者との関わりを通した再構成からの気付き 患者に対して知覚したこと 患者について考えたこと、感じ たこと 患者に対して言ったこと、行っ たこと ①「Aさん夕食後のお薬飲みま しょう」 ②「はい」と返答後内服する ―――――――― 多数の患者の配薬にて数分間経 過 ―――――――― ④さっき飲んだのに忘れている… ⑤「もう飲みましたよ」 ⑦「……」 ⑧「さっき飲んだので飲まなく ても大丈夫です」 ⑩喧しいなぁ… ⑪他の患者の配薬しながら「A さんは先程お薬飲んだのでも うありません」 ⑫「飲んでません。なんで私だ けくれへんの!」と私の腕を 叩く ⑬イライラを実感 ⑭他患者の配薬を行う ⑮「薬ちょうだい。このままじゃ すまへんで!」と口調、荒くな り私の手に爪を立て握る ⑯更に苛立ちが募る ⑰「やめてくれません!?」私 の逆の手でAさんの手を持ち 離す ⑲イライラするけど誤薬は避け たい ⑳他患者の配薬を継続する ③「私も薬ちょうだいな」 ⑥「飲んでません。早う薬ちょ うだいな」と大声になる ⑨「はよ、薬ちょうだいな。お くれーな」と連呼する ⑱「あんたが薬くれへんから や。このドアぶちこわしたろ か!」と詰所の方へ行き詰所 のドアを叩きはじめる 暫く大声を出しドアを叩く。 時間の経過と共に易怒的な言 動は軽減する 場面1 − 69 − 認知症患者との関わりを通した再構成からの気付き 場面2 1.患者の穏やかな状態、且つ看護師の時間に余裕のある時の場面を取り上げることで、対照的な2つ の場面の再構成から総体的な気付きを得る。 2. 3. 4.それまで易怒的であった患者が排泄援助を受けることにより、穏やかになったことを実感し た。それを機に、患者の事をもっと知りたいという思いをもった。また、それ以上に、患者の良い 状態を認識することで、攻撃的な状態の時でも余裕をもって対応が出来、この患者に対して自分が 好意的に取り組みたい気持ちから、患者の理解を得られるように患者と向き合って会話をした。 5.患者の攻撃的な状態と静穏な状態が変動する中、攻撃的な態度に対しては私自身、極度に反応し困 惑した。しかし、静穏な状態では災いがないかの如く放置しがちであった。プロセス・レコードより、 患者は排泄の援助を受けている時は礼節をもって返答している。これは、患者が心咎める気持ちか らくるものであるといえる。そして、不安や妄想が出現していない時に向き合った会話では、敬語 が使われていないことから、排泄援助の時と比べて、看護師へ気を許すことができているのではな いかと考えた。そして、看護師に合わせるような言葉で返答してくれている。これは、患者の長年 の経験や元々備えている器量が伺え、尊敬すべきことである。 患者に対して知覚したこと 患者について考えたこと、感じ たこと ①「おしっこ連れてって。おしっ こしたいの。はよ連れてって」 と繰り返し言う 患者に対して言ったこと、行っ たこと ②他患者対応中 ③、②のため気にはなるが待っ て貰おう(数分経過) ⑤「はい。お願いします。」 ④「トイレいきましょうか」 ⑥トイレ介助行う。 「少しお通 じが漏れてますので拭いとき ましょね」 ⑦「そうですか。すみません。 ⑧ さっき(①)と全然違う… 恥ずかしいことです。」 ⑩「はい。汚いことさせてごめ ん。 」 ⑨「誰でも行き遅れることはあり ますので気にしなくていいです よ」と 介助する ⑪「いつもこうだといいのに。 ⑫「大丈夫ですよ。」介助終了 そしたらここにはいないか。」 − 70 − ⑬「終わりましたよ。私は後片付 けするので、もう出てもらって いいですよ。」 認知症患者との関わりを通した再構成からの気付き 患者に対して知覚したこと 患者について考えたこと、感じ たこと ⑭「はい…私はどこにいったら いいんですか?」 患者に対して言ったこと、行っ たこと ⑮「一緒に行きましょ。」後片づ け後手を繋ぎ「ここ(デールー ム)で座って休みましょ。 」 ⑯「はい。ここに座ったらええの か?」と椅子に座る。 ⑰「はい」 ⑱少し話をしてみよう ⑲「Aさん時々、めちゃくちゃ 怒りますね。覚えてます?」 ⑳「あーそうか。そーいうことも あるなー。 」 「そやな。ぐずぐずするのは 嫌いやな。 」 この変化凄いなぁー! そんな感じ… 「Aさんはもともと短気な方 ですか?」 「そっかぁ。ではAさんが何か してほしい時はなるべくぐずぐ ずせずにするようにしますね。 でも遅くなった時は余り怒らな いでくださいね。私もAさんに 怒られると参りますもん。 」 「そーしてくれるか。ほな私も 怒らんようにするわ。 」 この穏やかな状態が続くとい いのに… 場面2 Ⅳ.評価 場面1では、患者の訴えや思いは理解されないまま経過したことで、患者のもつ不安や混乱を最小限 に留めることは出来なかった。また、患者を避ける行動により、患者には支持され尊重される状況とは 考えられず、そのような実感を得ることが出来なかった。場面2では、患者の静穏な状態で、患者を理 解したいとの思いをもって対話をしたことにより、患者の敬うべき一面を感じ取ることができた。患者 のこの表現は、尊重されていると思う気持ちと関係していると評価され、このような試みを継続する必 要があると考える。 Ⅴ.考察 2つの場面のプロセス・レコードによる自己評価を通して、患者のニードを見極めることが出来な かったことの背景に、業務が重なり患者と向き合う時間の余裕がなかったこと、認知症の人の特徴の理 解に欠けていたこと、看護師の経験の浅さや力量の低さから、瞬時に患者の思いを汲み取って対応する − 71 − 認知症患者との関わりを通した再構成からの気付き ことができず、現状に流されて反応したことがあると考えられる。E.ウィーデンバックは看護師に重要 な熟慮された動作は、「看護婦は自分の考えや感情にどれだけ重きをおいているか、自分の考えや感情 をどれだけ熟慮して活用できるかどうかである」 と述べている4)。そして、看護師にとって重要な知識 と技能について、「患者のその時の状態や環境あるいは状況などからくるところのさまざまな欲求に巧 みに反応すること」 とし4)、そうするために 「患者の反応がどのような特性をもっているのかを評価す る能力が必要であるし、患者の欲求の底にある患者の状態や環境あるいは状況や気分などを理解するだ けでなく、その欲求がどのような特性をもっているのかを評価する能力が必要となってくる」 と言う4)。 そして、看護師が能力を身につけるために知識を得ることが重要であると述べている。今回、患者の攻 撃的な態度に対して自身がとった行動から、自分の感情や思い、対応の未熟さを自省することが出来た。 看護師が患者に対してもつさまざまな思いやそこでの反応は、看護師が患者を理解するきっかけとなる。 そこに意識をむけ、自分の感情や思考を効果的に活用するためには、思考の材料となる知識がもとにな る。その知識は幅広い程、いろいろな側面から考えることが出来、偏った思考を避けることが出来るの ではないかと思う。患者との有効な関わりにより、患者を理解することや患者のもつニードを察知する ためには、自分の感情や思考を認識し、さまざまな知識を得ていくことで、アセスメント力や評価能力 を向上させることが求められる。E.ウィーデンバックはまた、看護実務の限界についても次のように述 べている。「臨床看護実務に関する『個人的限界』は、看護婦ひとりひとりの独自のものであり、それ は自分に課する性質のものである。この限界は、ある一定の瞬間における看護婦の感情や知識や理解に 応じて拡大されたり縮小されたりする、いわば弾力性のあるもので、それは、べつの面から見れば看護 婦が機能を発揮できる潜在能力によって、またその時の状況の知覚によって、あるいはまたその知覚し たことに対する情動的な反応の仕方によって、影響されるものである」 とし、 「その『限界』が自分で 自分に課する性質のものであるということは、また同時に看護婦は自分で自分の『限界』を打ち破るこ とが出来るということである」と言う。 臨床看護の現場では、さまざまな状況に対面する。時や場合、その時の状況により適切な行動がとれ ないことが、これからも起こりうると思われる。それは、その時に自分が出来る最大限の行動ではあろ うが、今後、自分自身の課題とされるものであり、修正や改善していく努力により乗り越えられるもの であろう。 次に2場面を中心に、患者と向き合って関わり、患者が不安を感じることなく過ごすことが出来たこ とについて考察する。 ユマニチュードの考案者であるイヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティは、ユマニチュードの哲 学について「重い病に侵されたり、認知症や昏睡状態に陥ったりすると、人間同士が本来持っている関 係性の絆が切れてしまいます。症状がどうであろうとも人間を人間として感じていられるように絆を再 び確立します」と語っている5)。また、支援を要する者のもつ不安は、「自ら属する社会が、自らをど う扱い、どう考えるかに関する不安である(すなわち、障害を負っても援助してもらえないのではない かという不安、自律性のある人と同じように尊重してもらえないのではないかという不安、自由を奪わ れているのではないかという不安、見捨てられているのではないかという不安など)」と、述べている5)。 看護者側からすれば、患者を1人の人間として対応しているため、人間関係の絆は保たれていると思い 込みがちである。しかし、患者の立場はその思い込みとは裏腹に、人としての存在に対する思いや不安 を抱えている。看護は、患者の存在を尊重することを根底において、実践されなければならない。また − 72 − 認知症患者との関わりを通した再構成からの気付き 患者が尊重されていることを認識してもらえるような姿勢や態度で関わっていかなければいけない、と 考える。最後に、E.ウィーデンバックは「臨床看護は、熟慮された動作によって実施されてはじめて、 個人の尊厳が保全され、有能さが回復されたり拡大されたりするものであり、看護婦もそのような方向 で努力することによって、患者が『援助を要するニード』を満たされたことを知り、心打たれる感情を 体験できるであろう」と伝えている5)。臨床の現場で『心打たれる感情』を体験できることを願い、今 回の考察を今後の自身の成長に活かしていきたいと思う。 結論 1.知識を得ることで思考を豊かにし、自身の限界を認識することはよりよい看護実践に向けての改善 の必要を意味し、有効な看護実践に繋がっていく 2.患者は人としての存在に関連する想いや不安をもっているため看護は患者の存在を尊重することを 根底に実践する 引用文献 1. 井出 訓:認知症と生きる.般財団法人放送大学教育振興会、東京、2 015 2. ウィーデンバック, E.:臨床看護の本質−患者援助の技術.外口玉子、池田明子(訳)現代社、東京、1 96 9 3. イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ、ジェローム・ペリシェ:Humanitude.辻谷真一郎(訳) 、株式会 社トライアリスト、東京、2 0 1 4 4. ウィーデンバック, E.:臨床実習指導の本質−看護学生援助の技術.都留伸子、武山満智子、池田明子(訳) 、 現代社、東京、1 9 7 2 5. 望月 健:ユマニチュード−認知症ケア最前線.KADOKAWA、東京、2 014 急性期(3−6)病棟での筆者 − 73 − 長期入院の終末期患者を支える医療従事者の役割 公益財団法人豊郷病院(3−5病棟) 仮屋 隆史 1.はじめに 近年、精神科長期入院患者の年齢層が高齢化してきている。精神科入院患者全体の5 0%が6 5歳以上 で5年以上精神科に入院し、退院していく患者の2 8.6%がそのまま病院で最期の時を迎えている現状に ある(平成2 4年度精神・障害保健課調べ)。 精神疾患患者の治療には、理解力・判断力の低下により本人の意思決定が難しく明確な告知を行った としても治療を拒むことが多い。 今回、豊郷病院精神科療養病棟で終末期を迎えた患者で、精神症状があっても点滴治療を拒み、未告 知ではあるものの自分の意思をはっきりと示したことで、主治医・看護師が協力して、本人の希望する 食べ物を摂取できる環境や状況を整えた。治療だけでなく環境を整えていくことでその人らしい終末期 を迎えることが出来たのではないかと考え、その1事例をここに報告する。 2.患者紹介 A氏:統合失調症、1 8歳で発症。被害妄想のため43歳時に当院に入院している。元来、自身の思いや 考えを表出する事を苦手とする性格であり、関わりを持とうとすると「結構です」「大丈夫です」と断 りの発言が目立つ。 2 0XX 年4月、進行性胃癌・癌性腹膜炎が発見され、親族(妹夫婦)の意向により本人へは告知せず、 「お腹に水がたまる病気」との説明をしていた。 2 0XX年4月28日、当病棟にてターミナル・ケアの体制を開始とした。 3.経過及び考察 ターミナル・ケア開始後の1∼2週間、食事はゆっくりと全量を摂取し、嘔気・嘔吐の症状もなく経 過する。また、A氏の好きなコーヒーを付き添いにて購入し飲用していた。腹部膨満が著明になるとと もに、徐々に食事摂取量が減って副食を残すことが多くなり、コーヒーを飲用することも少なくなって いった。2 0XX年5月1 1日に腹水穿刺にて2 3 00ccの血性漿液を排出。その後食欲は回復し、全量近くを 摂取するようになるがすぐに摂取量は低下。5月1 3日より貧血食で毎食メイバランス・アイソカルゼ リーの栄養補助食を開始するが、摂取量は変わらず、主食のみを摂取することが多かった。飲水に関し てはしっかりと摂っていた。活動量も減少し、食事とトイレ以外は自床で端座位となるかデイルームで 座り続けることが多く、腹部膨満・全身倦怠感も著明となった。その頃よりトイレに籠ることが多くな り、努責もかけづらく排便困難な状況が続く。下剤や浣腸で対応するも、排便量は少なかった。 6月初旬より、内服の錠剤を服用することが困難となり、吐き出すようになる。散剤に変更すること で服用は可能となる。同年6月8日2度目の腹水穿刺を実施し、血性漿液1900cc排出。腹部膨満が軽 − 74 − 長期入院の終末期患者を支える医療従事者の役割 度となり、食欲は一時的に戻るもすぐに腹水は貯留し食欲は次第に低下する。 同年6月2 5日、血性噴水様嘔吐が頻回となり消化器科にコンサルトし、絶食で2000ml/日の持続点 滴が開始となる。当初、A氏は点滴を受け入れるも「もうやめてください。点滴は怖いです」と拒否的 な反応が強くなり、その後自ら抜去するようになる。主治医や看護師より点滴の必要性、今苦しい状況 を少しでも和らげるためにも必要であることなどを伝えるも、拒否的姿勢は変わらずに続き、一時、持 続点滴は中断となる。再三、主治医、看護師でカンファレンスを行い、A氏の点滴への不安・恐怖感が 強いために、このまま持続点滴を継続するよりも、嘔気・嘔吐の可能性は高いものの本人の欲しいもの を摂取してもらってはどうかと話し合った結果、その旨を家人に説明し、確認することとなった。6月 2 9日に、妹夫婦に主治医より現状を伝え、家族の意向を確認したが、妹夫婦は持続点滴の継続を希望 した。そのため、持続点滴を施行する場合、身体抑制が必要な状況であることも説明してその承諾も得 て、同日に上肢抑制で持続点滴が再開となった。しかし、 「これを外してください。点滴やめてください。 もう勘弁してください」など、患者本人は点滴時の抑制の苦痛を何度も訴えた。また、点滴の抵抗から か体動が激しくなり、点滴の滴下の不良が頻回にあり点滴の漏れも何度かあった。看護師の声かけにも 反応は少なく、拒否的・緘黙症状が続いた。そこで、今のA氏への最も望ましい看護はどのようなもの で、何が出来るのだろうかを、病棟看護師全員で考え、主治医を交えたデス・カンファレンスを行った。 翌6月3 0日、妹夫婦が面会のために来棟した。そして、A氏が上肢を拘束している状態で持続点滴中 のA氏と面会した後、主治医より、デス・カンファレンスの内容を踏まえ、以下の如く再度の現状説明 を行った。 1)点滴をするにあたり、血管が脆くすぐに点滴漏れを起こして注射針を何度も刺すことが多くなっ ている。A氏は、注射に対し非常な抵抗感を持っている。 2)身体拘束では、痒みがあっても自分で掻けない、身体が自由に動かせないことに苦痛を感じている。 3)輸液をしない場合、あと1週間の生存かもしれない。輸液を続けたとしても長期の生存は困難 である。 4)歩行できる体力はまだあるので、喫茶やレクレーションなどで好きな物を食べれば、A氏がなお 充分な生活を楽しむことが出来るかも知れない。 5)身体拘束での看取りは、医療者に対して敵意を招き、臨終が周囲への不信感に満ちたものとなる 可能性がある。 6)最期までその人らしく生きて欲しく、本人の意思を尊重したい。 医療者側より、このような説明をした結果、妹夫婦より身体拘束・持続点滴の中止が希望された。そ こで、今後の方針について下記の如き内容を説明した。 1)現在使用しているルートが使用不可となった時点で輸液は終了する。 2)身体拘束は終了し、原則として今後は行わない。 3)摂取出来るもの・摂取したいものはすべて保証する。 4)過ごし易い環境を整える手間は可能な限り惜しまない。 医療者側よりの上記の説明内容もまた、妹夫婦より承諾を得た。そして、消化器内科担当医にも主治 医から上記の内容を報告し、賛同を得た。 翌日には、点滴ルートが患者自ら抜去されたため、持続点滴を終了とした。それ以降の栄養補給は、 − 75 − 長期入院の終末期患者を支える医療従事者の役割 A氏の望むコーヒーや付加食など、ゼリーやオヤツ類などとなった。その後、時間の経過とともに嚥下 状態は不良となっていったが、コーヒーを凍らしたものなどで対応した。それに伴い、声かけ時のA氏 の反応も穏やかなものとなった。身体拘束・持続点滴が終了したことにより、A氏の安堵感が戻り、本 人の従来の生活スタイルが確保できたことで、病棟スタッフへの敵意・不信感が消失していったものと 考えられた。身体の状態が悪化する中でも、本人への声掛けを継続し、最期の時まで声掛けを止めるこ とをせず接していった。他界する前日まで、意識ははっきりとしており「氷欲しいです」としっかりと 希望していた。その時も、「ありがとうございます。」と対応した看護師に穏やかにお礼の言葉を述べて いた。 4.おわりに 今回、治療を拒否する患者の意思を尊重することや、家人の思いもまた聞きながら対処しなければな らないなど、ターミナル・ケアの難しさ・ジレンマを体験した。そして、医師の協力の下に、数多くの ことを学びながら病棟全体で取り組んだ結果、ケアの質の向上につながったのではないかと考える。個 人個人でかなり異なるとは思われるが、その人らしい生活を守り、維持していくことを保証するために、 人生最期のプロセスもまた、患者本人の意思を尊重しながら、家族の意見をも汲み、医療関係者が調整し、 決断して行かなければならなくなる。本症例は、余命未告知の患者のターミナル・ケアに携わり、どう いった治療方針・関わりを行っていくべきかを、改めて考えさせられた事例であった。 慢性期療養(3−5)病棟でのスタッフと筆者 − 76 − 精神衛生診断書: 万引き緘黙事件−ヒステリーか潜伏性統合失調症か 平成2 6年4月2 8日 医師 林 拓二 被疑者氏名: ○上 ○仁 男性 生 年 月 日: 昭和○○年○月○○日生(3○歳) 被疑者は、平成2 6年○月○日午後2時5 7分ころ、○○県○○市○○町○○番地に所在の株式会社○ ○の○○店食料品売り場において、同店店長○橋○雄管理にかかる発泡酒2缶他4点(販売価格合計 7 0 0円相当)を窃取したものである。その際、同店警備員が「清算されてない商品はございませんか」 と呼び止めたところ、被疑者は無言で逃走を企てようとしたことから、同店店長代理なども加勢して逮 捕されたのであるが、被疑者は、その後の取り調べに対しほとんど言葉を発せず、取調官の問いかけに は、渋々、筆談で応じるのみであった。しかるに、被疑者は携帯電話機を2台所持し、発着信履歴によ れば逮捕される前日の○月○日にも父親などに対して繰り返し発信し、また過去1カ月の間に43件も の発着信があったことから、被疑者は逮捕後も会話が可能である可能性が疑われている。 そこで、私は、○○地検○○支部の求めにより、平成2 6年4月2 2日午後1時から午後2時1 5分まで の間、○○地方検察庁○○支部庁舎内で被疑者を診察したので、その結果を以下に報告する。 1 現在の状況 まず、鑑定時における状況について記載する。 警察官による逮捕当日(○月○日)の犯罪捜査報告書によれば、口数は少なかったものの、職業を「○ ○○○」 (注、パチンコ店の名称)と答え、○○店か○○店かを聞くと小声で「○○」と返答、さらに 窃盗の事実に関する質問には、蚊の鳴くような小さな声で「知らない、関係ない」と供述し、 (窃取した) 発泡酒やパンをどこから持ってきたかとの質問には「家から」と答えて万引きを否定した、と記載され ている。取り調べの警官に対しても、小声で「名前」と質問し、姓を答えると、さらに「下」と問うて 名前を聞いている。このように、被疑者は質問の意味を十分に理解しており、言葉数は少ないものの喋 ることは可能であると判断されたが、その後の取り調べには全く発語することなく、質問には筆談で応 じるのみであった。 そこで、私が鑑定するに当たり、被疑者にとって喋り易い話題として、5年ほど前に被疑者がなんら かの身体的・精神的な不調を訴えて医療機関を訪れたことから質問をはじめた。しかし、警察官による 取り調べと同様、被疑者は私に対しても全く喋らず、身振りで筆記用具を要求したために鉛筆と紙を与 えた。その後も、被疑者に対して言葉で返答するように再三促したものの、質問への回答は頷いたり首 を振る他には、紙に記載するだけであった。 最初に尋ねた質問は、これまで、市立○○病院脳神経外科、○○市立病院脳神経外科、○○医科大学 脳神経外科、○○神経内科クリニックおよび○○医大脳神経外科、○○医療センター脳神経外科に通院 − 77 − 精神衛生診断書: 万引き緘黙事件−ヒステリーか潜伏性統合失調症か したことについて、<受診の理由は?>、<どのようなことで困っていたのか>などであるが、この質 問に対する返答は全くなかった。そこで<頭が痛かったのか?>と問うと頷く。<ふらつくとか意識が なくなる?吐気がある?>などと問うと首を振る。そして、右人差し指で右側頭部を指して顔をしかめ る。触ると痛そうな表情をして私の手を避けようとする。<誰かに殴られた?事故?自分で頭をぶつけ た?鉄砲で撃たれた?>などと質問するといずれも首を振って否定する。<○○医大に「側頭動脈がズ レている」と言って受診したのでは?>と聞くと、否定するそぶりが見られる。<頭に光とかレーザー を当てられて頭が痛むと訴える人もいるが?>と水を向けると、 「ケガをしたので」と紙に記載し、時 間をおいて「2−3年前」と書く。 この間、表情なく、眉間にしわを寄せ、顔を俯けたまま両手で頭を抱えていることが多い。時々、被 疑者の気分を害するような質問をしたが、腹を立てることはなく、焦燥感を示すこともなかった。 怪我をしたのが2−3年前とのことなので、<今も痛いのか>と確認すると、首をふって否定する。 市立○○病院には「頭痛、ふらつき、意識がなくなる」との訴えで通院、起立性低血圧と診断されたこ とや、被疑者の父親の供述調書による車での事故、他家に突っ込んだり、ダンプと正面衝突したことと の関係を尋ねると、「あとはかんけいしてない、知りません、かんけいない」と書く。 続けて、所持していた手帳に、 ①警察に何を聞かれても、ゆわれてもあいずち以外するな うんかええだけ ②家の話やら#(判読不能)根の事情を一切話すな ③警察を信じるな ④うつむき加減での姿勢 などのメモが残されていたことから、<誰かが教えてくれたのか?>、<実際に誰かに聞いてメモした のか?>、<部屋に一人でいるときに、誰かが教えてくれたのか?>などと質問してみたが、「しりあ いに」、 「誰に聞いたかは、ちょっと気憶(ママ)にないです」、「しりません」などと答える。ここでは、 幻聴の存在の有無を問うてみたのであるが、幻聴による命令でメモをしたと思われる回答は認められな かった。 また、父親の供述書によれば、被疑者の金遣いは荒かったが、被疑者の借金は両親が常に補填してお り、小遣いには不自由していなかったとのことであり、不法薬物などの購入の可能性も考えられ、この 点についても質問した。しかし、薬物の嗜癖を疑うべき返答は得られなかった。 なお、今回の万引きについての質問には、犯行の事実を認め、 「お金がなかったから」「会計を通さず」 帰ろうとしたと返答している。 最後に、今困っていることは何かと尋ねると、<しゃべれない、しんけいがじょうちょ不安>と記載 した。 以下に、鑑定に際し回答を求められた各項目についてまとめておく。 (1)身体: 身長は約180cm位でがっちりした体格であるが、 やや肥満傾向を示す。鑑定時には一言も発しなかっ たが、質問に対しては少し時間がかかるも、頷いたり首を振ったり、また紙に鉛筆で回答し、質問の 意味は正しく理解しており、難聴は認めない。父親の供述によれば、これまでに何度か車での事故を 起こしたとされるが、平成○○年2月から平成○○年1月までの間に神経内科あるいは5か所の脳神 経外科を受診し、また平成○○年6月から8月まで○○日赤にも通院しているが特別な所見は認めら − 78 − 精神衛生診断書: 万引き緘黙事件−ヒステリーか潜伏性統合失調症か れておらず、鑑定時にも粗大な神経学的異常は認められなかった。最近、CTあるいはMRIなどの脳 画像検査は行っていないものの、脳の器質的疾患などを疑う必要はないと考えられる。鑑定時、酒 は嗜む程度と答えているが、万引きの対象が発泡酒やビールであり、父親の供述でも「飲みに行く から」と金を要求すると記載されていることから、酒量および肝機能のチェックはしておく必要が ある。不法薬物の嗜癖の可能性もまだ確実に否定しきれず、再度の確認が必要である。 (2)知能: 被疑者の父親の供述によれば、中学校時代の成績は悪く、県立○○高校に進学するも1年で中退し ているが、その後は通信制の高校を卒業し、被疑者に生来性の知的障害はなかったとのことである。 しかし、書面での回答はひらがなが多用されたやや稚拙なものであり、知的レベルは平均よりやや劣 ると考えられた。残念ながら、鑑定時には喋れない、あるいは喋らないために、IQなどのテストを 施行することは出来なかったが、長谷川式簡易知能評価スケールに基づく簡単な質問によれば、知的 レベルでの粗大な欠陥は認められなかった。すなわち、意識は清明であり、見当識に問題はなく、簡 単な計算問題には速やかな回答が可能であった。 (3)性格: 被疑者の性格に関する情報は父親による供述調書と、被疑者が平成○○年から2年間勤務したラー メン店の関係者からの情報に限られる。父親の供述調書によれば、被疑者の幼少時には両親が仕事に 忙しく、育児に時間を割くことが出来なかったため、誰にもかまわれずに我儘に育ったように思われ る。被疑者は旧家である広壮な自宅に住んでおり、両親の経営する商売も繁盛していたことから、金 銭の感覚に乏しく、通信販売で自分の好きな服や靴、あるいはレコードなどを大量に買い込んだり、 親に無断で自動車を購入したりしては代金を両親に支払わせ、また車で他人の家に突っ込んだり、ダ ンプと正面衝突するなどの交通事故を起こしても、事故の後始末はすべて両親が行っていたとのこと である。供述書に見られるこのような記載からは、被疑者は世間知らずなお金持ちのお坊ちゃんだっ たと考えられるが、3 0歳近くになっても定職に就かず、親のスネかじりを続けられるはずもなかっ た。そこで、時々は自立しようと就職活動をしたもののうまくゆかず、「何をやってもうまくいかな い」のは親の責任だと言い、「今のおれの不幸はお前らのせいや」、「お前らが、俺をこんな風に産ん だからや」と両親を責め、すぐに激昂し、気に入らないと興奮して怒鳴り散らしていたとのことであ る。このような記載を見れば、被疑者は自己中心的、身勝手、わがまま、未熟と言わざるを得ず、万 引きで逮捕された後の取り調べで虚言が多い事実を見ても、シュナイダーが示す性格異常の10の類 型のうち、顕示者(Geltungsbedürftige)の中に含めてもよいものであろう。顕示者は一般にヒステ リー性格とも言われるものである。 一方、5年ほど前に勤めていたラーメン店関係者の報告は、被疑者がはきはきと返事するしっかり した真面目な好青年であり、勤務態度や接客態度も良く、無断欠勤も無く、トラブルを起こしたこと は一度もない模範的な従業員であったとされる。そして、「やりたいことがあり、学校に行きたい」 と言って辞職したとのことであり、父親によるネガティブな供述とは異なっている。被疑者は、約2 年間と短期間ではあったが、自立した生活を目指して努力していた時期があったということには、注 目しておいてよいであろう。 (4)精神障害の有無: 被疑者は逮捕された後、警察官による取り調べにほとんど喋らず、筆記でのみ応じている。○月○ − 79 − 精神衛生診断書: 万引き緘黙事件−ヒステリーか潜伏性統合失調症か ○日付の検察官による弁解録取書によれば、概要以下のように筆記している。すなわち、「私は声を 出すことが出来ません、しかし、私は、人が話をした内容は分かりますし、人と筆談をすることが出 来ます」と。この状態を如何に考えるべきかが、今回の精神科医である私に求められた課題である。 そこで、私は鑑定時に再三、被疑者に言葉での返答を促したが、被疑者は一言も発せず、ただ、筆記 による回答を得ただけであった。 しかし、被疑者は、万引きを疑われて現行犯逮捕された直後、言葉数は少ないものの、取り調べた 警官に犯行を否定する発言をしており、言葉を全く発しなくなったのは、その後まもなく、突然であ り、医学的に理解することは困難である。逮捕前までは、父親や兄も被疑者が言葉を発していたと供 述しており、被疑者が万引きしたコンビニの保安員もまた被疑者が低い声で独り言を言っていたと供 述している。従って、素直に考えてみて、被疑者が嘘を言っている(詐病)と考えるのが妥当である が、意識的に他者を欺こうとする意志はなく、逮捕という精神的なストレスによって無意識的な機制 が働き、喋れなくなったと考えられないこともない。そのような場合、精神医学的には「ヒステリー 性の失声」と呼称される。臨床的には、詐病とヒステリーとの鑑別は思いのほか難しく、本件におい ても被疑者がいずれであるかを断定することは出来ないが、印象的には「限りなく詐病に近い」ヒス テリーと考えるのが妥当であろう。 このような判断をする理由として、今回の万引き以前の、平成○○年3月○○日に○○堂○○店で ドリンク剤を万引きして現行犯逮捕された際、逮捕後は黙り続けるものの筆談には応じるなど、今回 と同様な態度が見られたからである。その時には、自分の姓名を「○田○政」と記載し、盗んだ商品 は「昨日、セブンイレブンで買った」と返答して犯行を否認し、弁解できなくなると「身体に問題が あり生活に困っています、障害者」と記載し、 「すみません」、 「かんべんして下さい」、 「帰して下さい」 と書き綴っている。なお、被疑者は事件当時に現金で約9500円を所持していたが、逮捕されそうになっ た時には黙って財布から1 0 0 0円札を出して商品の代金を支払おうとしており、盗みが悪いことであ り、商品は買うものであることは十分に理解していたと考えられる。前回の事件で逮捕された際の取 り調べ調書を読むと、被疑者は犯行がばれて狼狽し、取りあえず出まかせの嘘を並べ、逃げられなく なると、意識的であれ無意識的であれ、障害者として罪の軽減を企画する様子が明らかに認められる。 さらに、被疑者の手帳にメモされた「警察に何を聞かれても、ゆわれてもあいずち以外するな うん かええだけ」などの文言は、万引きが意図的なものであり、逮捕時にいかなる方法で対処するかをあ らかじめ想定し、実行されたと考えられる。ここで、喋れなくなると言うことは、逮捕された時の予 定通りの行動であり、罪を逃れることが出来るかもしれない行動(「疾病利得」あるいは「疾病への 逃避」)とも考えられよう。 被疑者が万引きで逮捕されたのは、○月○日の○○屋○○店と3月1 3日の○○堂○○店での万引 きの2回であるが、その他にも○月○日のスーパー○○店における万引き被害の有力な容疑者として 捜査中であり、万引きの常習者と考えられている。精神医学では、万引きなどの窃盗を繰り返す者を クレプトマニア(窃盗癖:kleptmania)と呼んで人格障害の中に含めている。彼らは盗品を個人的に 使ったりお金に換えたりしようとする意図はなく、ただ、盗みたいと言う衝動に抵抗できず、「いつ の間にやら」とか「他のことは考えられずに」盗みを繰り返す。盗む前には緊張感が高まり、盗んで いる最中や直後には快感を生じるために、癖になってしまうと考えられている。そこで、クレプトマ ニアと考え得るかどうかは、盗む動機が問題となる。被疑者が逮捕された直後の供述調書(○月○日 − 80 − 精神衛生診断書: 万引き緘黙事件−ヒステリーか潜伏性統合失調症か 付供述調書)によれば、被疑者は2軒ほどアルバイトしていて、1軒の給料日が○月1 0日、もう1 軒が○月1 5日だったため(○月○○日付供述調書では、嘘言であると訂正している) 、犯行日の○月 8日にはお金がなかったと答え、実際に所持する現金が約4 0 0円しかなかったことを踏まえれば、 「お なかがすいたのでパンを万引きした」と言う理由は単純ながらも妥当であり、了解しやすいものであ る。しかし、1万円近くの現金を所持しているにもかかわらず、2 8 0円のドリンク剤を万引きした○ ○堂○○店での万引きは、盗ること自体が目的であったと考えられなくもなく、○月○○日付供述調 書では、何度か万引きして成功していることを認めているために、他の余罪などを含めてさらに詳し く検討する必要があろう。 このように、被疑者は「クレプトマニア」と呼んでもよいのかも知れないが、逮捕された後は「詐 病」あるいは「ヒステリー性失声」と考えられ、人格障害の範疇で考えるのが適当と思われる。しか し、精神医学的にはなお検討しておかねばならないいくつかの要点が存在する。 すなわち、被疑者が平成○○年○○月に神経内科を受診し、精神疾患的な内容の診察を希望したた めに、他の病院を受診することを勧められたとする報告があり、詳細は不明であるも、なんらかの精 神疾患に罹患している可能性を疑っておく必要があるかも知れない。また、平成○○年から平成○○ 年にかけて、再三、脳外科を受診していることも、幻覚や妄想などの顕著な異常体験は認められない にしても、身体的・精神的な違和感があり、体感異常に類似した症状があったのかも知れない。 さらに、被疑者が最近、夜中にぶつぶつと独り言を言うことが多くなったという父親や実兄の供述 は、被疑者が統合失調症に罹患し、幻聴などの病的体験が存在する可能性が疑われる。被疑者を万引 きで捕まえたスーパー保安員もまた、被疑者が以前からぶつぶつと独り言を言っているのを聞いてい たと述べており、被疑者がなんらかの精神疾患に罹患している可能性も否定できない。 さらに最近では、取り調べの最中に、興奮するような状況でないにもかかわらず、足を揺する、手 指を動かす、身体を椅子に縛られた状態のまま立ち上がって机を叩いたり、机を蹴ったりするなどの 奇異な行動が見られ、注意すると手をあわせ、頭を下げて謝罪の意を示すという奇妙な行動が見られ (○月○○日・○○日付、捜査報告書)、精神疾患の有無を検討する必要があろう。 そこで、鑑定時においては統合失調症の症状の有無について詳しく質問したが、幻覚や妄想などの、 統合失調症の診断に大きな意味を持つシュナイダーの一級症状は認められなかった。また、鑑定時に 独り言は見られず、警察官の取り調べ中に見られたとされる奇異な行動異常も認められなかった。独 り言や奇異な行動の異常があれば、われわれ精神科医は、その背後に幻聴などの病的体験が存在する 可能性を疑うのであるが、今回の鑑定時にそのような体験を確認出来なかった。しかし、被疑者は鑑 定中も眉間にしわを寄せ、統合失調症患者に見られる独特の表情(Praecox-Gefühl)が窺われたため に、被疑者が潜伏性の統合失調症に罹患している可能性を排除することは出来なかった。ただ、奇異 な行動異常が一過性に出現し、持続的に見られるものではないとすれば、疾病を装う意図的な行動、 あるいは逮捕・拘留に伴う拘禁反応様の行動の可能性が疑われ、またアルコールや不法薬物による影 響をも考える必要がある。まず、これらの可能性を除外しておく必要があろう。 2 本件犯行時の精神状況 (1)本件犯行時の精神状態: 被疑者は株式会社○○の○○店で万引きをして呼び止められた際には、制止を振り切って逃走しよ − 81 − 精神衛生診断書: 万引き緘黙事件−ヒステリーか潜伏性統合失調症か うと試み、逮捕されると犯行を否認し、現行犯逮捕であり状況的に弁解が出来ないと判断すると、全 く喋らなくなっている。そして、「声が出せません」と述べ、筆談でのみ取り調べに応じている。こ の一連の経過を見れば、声が出ずに喋れない状態は「詐病」、あるいは「ヒステリー性の失声」と考 えられる。本件犯行はばれないように行われ、犯行が露見した際には逃走しようとし、逮捕された後 は緘黙することを企図、実行しているために、犯行時の意識は清明であったと考えられる。万引きで 逮捕された後の状態を如何に理解するかは、精神科医の間で議論となるであろうが、 「限りなく詐病 に近いヒステリー性失声」と考えてよいであろう。 ただ、被疑者が罹患している可能性を排除できない潜伏性統合失調症や、アルコールや不法薬物に よる影響も考え、今回の鑑定において、私は被疑者が幻覚や妄想に支配されて犯行を行った可能性に ついて質問したが、そのような内容の回答は得られなかった。警察官による供述調書と同様に、被疑 者は万引きが悪いことであることを理解し、商品をショルダーバッグの中に隠し入れ、細心の注意を しながら犯行を実行していることに間違いはない。 (2)本件犯行時の自己の行動の是非善悪を判断し、それに従って行動する能力の有無: 犯行当日である○月○日の供述調書を見れば、本件犯行時に善悪の判断をする能力に障害はなく、 悪いことを自覚しながらもばれることはないだろうと判断し、犯行が実行されている。従って、制御 能力が低下しているがゆえに犯行が実行されたとしても、今回の犯行に責任能力がないと判断するこ とは出来ない。また、責任能力が減弱していると判断することも出来ない。 3 精神障害と本件犯罪発生の機序との関係 既に述べたように、今回の窃盗(万引き)において被疑者は善悪の判断に障害なく、悪いことを自覚 しながら行われたものである。潜伏性の統合失調症に罹患していたり、あるいはアルコールや不法薬物 の嗜癖によって、制御能力に若干の低下が見られたと仮定しても、その影響はさほど大きくはないと考 えられる。 4 今後の処置に関する意見、その他参考事項 (1)本鑑定の要否 被疑者は犯行時に、万引きが悪いことであり犯罪であることを理解し、罪を犯せば罰を受けなけれ ばならないことを知りながら、なお犯行を制御できずに実行したものであり、被疑者の責任能力に関 する判断に議論の余地はない。たとえ、現在、精神病症状が明確ではない潜伏性統合失調症に罹患し ているにしても、犯行時の責任能力の判断に影響することはない。したがって、本鑑定の必要性を認 めない。 (2)精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第2 5条による通報の要否 被疑者は、現在、統合失調症に罹患していると断定できず、緊急に対応しなければならない状態と は考えられない。したがって、通報の必要を認めない。 (3)その他:なし − 82 − 精神衛生診断書: 万引き緘黙事件−ヒステリーか潜伏性統合失調症か 5 備考 鑑定時に、被疑者が<しゃべれない、しんけいがじょうちょ不安>と記載しているように、現在も被 疑者自身が何らかの身体的・精神的違和感を抱いているように思われ、明確な統合失調症と判断できな いものの、今後、幻覚や妄想などの明確な精神病症状が出現する可能性も存在する。そこで、本件の処 理が終了したあと、精神医学的な関与を考慮する必要があると考える。 (本診断書を掲載するにあたり、プライバシー保護の観点から内容の大幅な改変を行なっている) 花瓜草(デイケア棟裏庭) − 83 − 精神衛生診断書:常習万引き幻聴事件 ― 統合失調症および摂食障害 平成2 6年6月9日 医師 林 拓二 受診者氏名: ○東 ○子 女性 生 年 月 日: 昭和○○年○月○日生(満4○歳) 被疑者は、平成2 6年○月○○日午前9時4 0分頃、○○県○○市○○町○○番地に所在のスーパー○ ○店において、同店店長○井○夫管理にかかるラーメン5袋ほか7点(販売価格合計2 0 6 8円)を窃取 したものである。 被疑者は平成○○年から平成○○年までの4年間に1 0回の窃盗(万引き)により逮捕され、平成○ ○年には○○地方裁判所で懲役2年執行猶予4年の判決を受けているにもかかわらず、平成○○年○○ 月○○日にも万引きで現行犯逮捕されている。さらに○○月○日にも万引きし、被疑者はその際「空の 方から男の人の声で盗め、盗めという声が聞こえた」と供述したこと、また、被疑者は以前よりアルコー ル依存症、摂食障害により○○赤十字病院精神科に通院、あるいは入院治療を受けていたことから、精 神疾患の有無および犯行への影響を検討する必要があると考えられたものである。 そこで、私は○○地検○○支部の求めにより、平成2 6年6月3日午後2時1 0分から午後3時2 0分ま での間、○○地方検察庁○○支部庁舎内で被疑者を診察した。以下に、その結果を報告する。 1 現在の状況 (1)身体: 被疑者の身長は1 5 7cm、体重は4 3kgである。これまでも過食・嘔吐など摂食障害のために体重 の増減があり、5−6年前は6 8kgあったが、現在は顔の色艶や張りはなく、やや痩せ気味と言える。 しかし、黄疸など肝障害を思わせる徴候は認めない。アルコール嗜癖で入院治療の既往があるものの、 現在、酒は全く呑まず、ただ、タバコは1日1 0本位を嗜むだけとのことである。 (2)知能: 被疑者は、○○市立○○中学校を卒業したあと、2 1歳で結婚するまで2ヶ所のスーパーでレジを 担当し、計5年間勤務している。成績は下位であったと言うが、仕事に支障をきたすことはなく、転 職は給料への不満と妊娠・結婚を契機にするものであった。 診察時、被疑者への簡単な質問に対しては速やかに返答し、知能面に大きな問題はないと判断され た。改訂長谷川式簡易痴呆評価スケール(HDS-R)に基づく質問では、30点満点のうち27点であっ たが、3点の減点は診察日の日付の日と曜日が分からないと回答したことであり、これは拘留中であ ることが影響していると考えられる。その他には暗算問題で(9 3−7)を分からないと答えている。 このことはやさしい課題にも簡単に諦めてしまう傾向があると考えられるのかもしれないが、暗算は 若干苦手なのかもしれない。これらの結果をまとめると、被疑者の意識は清明であり、見当識におお − 84 − 精神衛生診断書:常習万引き幻聴事件 ― 統合失調症および摂食障害 むね問題はなく、記銘・想起に関わる障害は認められず、粗大な知的障害はない、と判断される。 (3)性格: 診察において特徴的であったのは、私の質問に対し被疑者の陳述が変わり易いことであった。たと えば、平成○○年○○月に被疑者が万引きで逮捕された時「盗め、盗めという声が聞こえた」と述べ たことに関し、私が<精神科の臨床経験からは、幻聴は持続するはずであり、捕まった時にだけ聞こ えたということは信じられない>と尋ねると、「他の時にも聞こえた」とか「その前に逮捕された時 にも聞こえた、1回だけではない」と答え、<このような場合、一般に幻聴はなく、幻視があるはず だが>と尋ねると、「そう言えばぼんやりと男の人の顔が見えた」と答える。さらに<一般に、幻視 とか幻聴が見られるのは身体が極度に疲弊した時だけであるが、見えたり聞こえたりした時、あなた はガリガリに痩せていたのか>と尋ねると、 「ガリガリではなかった」と言い、幻視や幻聴が何回もあっ たという主張はしなくなっている。このような応答をみると、被疑者は他人の話に誘導され易いと言っ てよいであろう。このことから、被疑者は被影響性が高く、他人や環境によって容易に自分の意志を 変えてしまう、いわゆる「風にそよぐ葦」のような性格と考えられ、シュナイダーの言う人格障害の 中の「意志薄弱者」に近いと言えなくもない。 被疑者の病歴を見れば、平成○年(2○歳)頃からアルコールの乱用があり、平成○年には精神科 病院で入院治療を行なっている。お酒を飲みだすと止まらないというアルコール嗜癖者には意志薄弱 者が多いとされるが、その後お酒は呑まなくなったものの、ご飯を食べ出すと止まらなくなり、一回 に3合位の米飯を食べて無理やり吐くことを繰り返すようになっている。すなわち、アルコール嗜癖 が過食症に代わっただけであり、被疑者は今なお嗜癖者と言ってよく、もともとの「意志薄弱」な性 格傾向を有することに変わりはないと言える。 (4)精神障害の有無: 被疑者は年齢より老けた感じで、色艶に乏しく覇気に欠け、一見アルコール嗜癖者の顔貌に近いが、 統合失調症に特異的な分裂病臭さは見受けられなかった。 ○○赤十字病院精神科○○医師によれば、被疑者は平成元年頃からアルコールの乱用があり、平成 6年に○○県○○病院(精神科病院)で入院治療を行なっている。そして、○○病院からの紹介で○ ○赤十字病院での治療が継続され、平成○○年頃から過食・自己誘発性嘔吐が顕著となったとされる。 ○○赤十字病院では、過食・嘔吐を主症状とする摂食障害により計4回の入院歴があり、現在もなお 外来通院中で、過食・嘔吐が一日1回程度みられている。そこで、精神医学的には神経性食思不振症 (むちゃ食い排出型) 、いわゆる過食症と診断され、統合失調症などの内因性精神病の診断は考えられ ていない。現在処方されている薬物は、内因性精神病にも使用されることが多いジプレキサ5mgと サインバルタ6 0mg(1日量)であるが、これらの薬物は過食症に見られる気分の安定の目的に使用 されていると思われる。 私の診察時、被疑者に抑うつ気分は認められず、また幻覚や妄想などの精神病症状も認められなかっ た。それ故に、被疑者が統合失調症などの内因性精神病に罹患しているとは考えられない。 ただ問題となるのは、被疑者が平成2 5年1 1月8日に万引きした時に「盗め、盗めという声が聞こ えた」と供述した点である。1 1月1 1日に被疑者を診察した○○赤十字病院の○○医師は、診察時に 幻聴はなく、血液に異常所見は認められなかったと述べている。そして、万引き時に幻聴の存在を訴 えたことについて考えられることは、1)一過性の精神病状態、2)過食衝動による行動化、あるい − 85 − 精神衛生診断書:常習万引き幻聴事件 ― 統合失調症および摂食障害 は3)詐病である可能性、の3点であるとしている(平成○○年○○月○○日付、捜査関係事項照会 書への回答書)。この点について、私も診察時に幻聴の存在に対して疑問を抱き、かなり詳しく質問 したが、被疑者の回答が二転三転したことは既に述べたとおりである。結局、被疑者は「一度だけ聞 こえてきた」 「盗ったら聞こえなくなった」と主張したが、幻聴の存在に対する私の疑問はますます 大きくなったと言える。 「悪魔のささやき」が聞こえたというのは、日常語でも一般に使用される用 法であるが、精神医学における「精神病に見られる真正の幻聴体験」ではない。そのような体験をも とに、被疑者は衝動的・無意識的に、あるいは意図的・意識的(詐病)に幻聴の存在を主張した可能 性が高いと言えよう。いずれにしても、これらが精神病性の幻聴体験ではないことは明らかである。 精神医学では、万引きなどの窃盗を繰り返す者をクレプトマニア(窃盗癖:kleptomania)と呼ん で人格障害の中に含めている。彼らは盗品を個人的に使ったりお金に換えたりしようとする意図はな く、ただ、盗みたいと言う衝動に抵抗できず、「いつの間にやら」とか「他のことは考えられずに」 盗みを繰り返すという。盗む前には緊張感が高まり、盗んでいる最中や直後には快感を生じるために、 癖になってしまうとのことである。そこで、被疑者に盗みの動機や快感の有無を尋ねてみたが、ただ お金を節約するためにと言い、盗った後の快感はなく、被疑者をクレプトマニアと呼ぶことは出来ない。 上記の結論として、被疑者の精神医学的診断は摂食障害(過食症)であり、性格異常として意志薄 弱者と分類するのが妥当であろう。 2 犯行時の精神状況 被疑者は5月2 2日の犯行時のことを詳しく覚えており、犯行時の意識は清明であったと考えられる。 また、犯行時に幻覚や妄想はなかった。犯行の動機は生活費を少しでも浮かすためであり、レジで商品 の一部の代金を支払えば、その他の商品はレジを通さずに持ち帰ってもバレることはないと考えていた と言う。被疑者はこれまでも同様な方法で何回も万引きを行って常に成功していたために、今回も衝動 的に躊躇なく実行したと言い、計画的な犯行ではないと述べている。このことは、○○警察署や○○区 検察庁での調書の内容と変わることはなかった。 3 精神障害と本件犯罪発生の機序との関係(責任能力) 被疑者の罹患する精神障害は摂食障害である。摂食障害はおおきく神経性食思不振症と神経性大食症、 いわゆる過食症とに分類される(摂食障害を神経性食思不振症で代表し、その中に大食症を含める教科 書もある)。その病因としてはいずれも肥満への恐れが存在するとされ、自らには厳しい体重制限を課 すとも言われている。神経性大食症(過食症)では、過食と嘔吐の繰り返しによって電解質異常を来た したり、また身体的な合併症からより高度な体重減少を来たすこともある。また、精神的に不安定とな り、衝動のコントロールが悪くなり、食料品の万引きなどを繰り返す者も少なくないとされている。 被疑者は現在過食症であるが、20歳過ぎよりアルコールを乱用し、精神科病院での入院治療を行なっ たことがあり、もともとの性格として飲酒衝動をコントロールし難い意志薄弱者であったと考えられる。 その後、飲酒をしなくなったものの引き続き過食症に移行しており、衝動を自己制御できないという基 本的な性格傾向に大きな変化はなかったと言える。このような性格傾向の者には窃盗や詐欺の累犯者が 多く見られるとされる。 被疑者は本件犯行の1 0日前に○○赤十字病院を受診して血液検査を受けているが、主治医の○○医 − 86 − 精神衛生診断書:常習万引き幻聴事件 ― 統合失調症および摂食障害 師の報告では意識障害を来たすような低栄養や電解質異常は認められていない。被疑者自身も今回の犯 行時に幻覚や妄想などの精神病症状はなかったと述べており、意識は清明であったと判断される。そし て、万引きが犯罪であることを自覚し、善悪を判断する能力に障害はなかった。さらに、現在の自己が 置かれた状況が執行猶予中であることもよく自覚していた。それにもかかわらず、一部の商品の代金を レジで払えば、万引きはバレないと確信して犯行を重ねており、有責の判断に疑問の余地はない。 4 今後の処置に関する意見、その他参考事項 (1)正式鑑定の要・否 現時点での精神医学的判断は上記に述べる如きものであり、さらに正式鑑定を行なうにしても新し い情報が得られるとは考えられず、その必要性を認めない。 (2)精神障害者等通報の要・否 現在、摂食障害として○○赤十字病院精神科に通院し治療中であり、自傷他害のおそれはないため、 通報の要を認めない。 (3)その他:なし 5 備考 なし (本診断書を掲載するにあたり、プライバシー保護の観点から内容を一部改変している) デイケア裏庭に咲くイヌタデ − 87 − 精神衛生診断書: 傷害事件−抑うつ神経症 平成2 6年9月1 1日 医師 白井 隆光 受診者氏名: ○中 ○男 男性 生 年 月 日: 昭和○○年○月○○日生(満4○歳) 受診者は、平成2 6年○月○○日午前1 0時頃、○○県○○市○○町○○番○○号 ○中 ○郎方居間 において、受診者の父、○中○郎(当時8○歳)に対し、腰部を数発足蹴りする等の暴行を加え、よっ て同人に約○週間程度の加療を要する腰部打撲傷の傷害を負わせたものであり、私は、○○区検察庁 の求めにより平成2 6年9月5日午後2時3 0分から約1時間、○○区検察庁庁舎内で受診者を診察した。 その結果を以下に報告する。 1 現在の状況 (1)身体: 受診者は中背のやや肥満な男性である。顔色はよく、黄疸などの所見は認めない。着衣のままでは あるが外観や歩行の状態を視診したところ、身体上、顕著な異常は認めない。現在、身体的に特記す べき異常は指摘されていない。飲酒はせず、タバコは1日1箱程度嗜むようである。 (2)知能: 受診者は診察時、質問に対してほぼ適切に応答した。又、受診者は○○県立○○高校普通科を卒業 後、私立○○短期大学○○○コースを2年で卒業している。然し、捜査関係事項照会の報告書(平成 2 6年8月2 4日、○○地域包括支援センター)によると受診者の母の説明では、受診者は成績があま り良くなかったとのことである。診察時、ウェクスラー成人知能検査(WAIS-Ⅲ)の一部を実施した ところ年齢を勘案した評価点は、行列推理○点、知識○点でIQは80前後と推定できる。知的水準は 平均より低いが、精神遅滞という診断になる程度までは低くないと思われる。 (3)性格: 診察時、受診者は質問に対し、礼節を保ち、受診者の父の話に及んでも特に語気を荒立てることな く回答を行っていた。受診者の父への暴行のことについて、受診者は、「暴力がいいこととは思いま せん、でも根底に父親が今迄してきたことがあって突発的にしてしまうんです」と自己の行為を正当 化するような発言を複数回行っている。又、犯罪捜査報告書(平成2 6年8月2 2日、○○県○○警察 署)、受診者の供述調書(平成2 6年8月2 2日、○○県○○警察署) 、捜査関係事項照会の報告書(平 成2 6年8月2 4日、○○地域包括支援センター)等から、受診者は30歳代後半から、両親、特に父に 対し、注意されると度々暴力を振るっていたことがうかがえ、父のせいで精神的に不安定になってし まった等の発言を繰り返していることがうかがえる。更に親に金銭的に依存し、パチンコ代を頻回に せびることに対して詫びる様子もない。これらより、受診者は未熟な性格や行動傾向を有していると − 88 − 精神衛生診断書: 傷害事件−抑うつ神経症 思われるが、パーソナリティー障害の診断基準を満たす程の特徴的な要素や重症度は認めない。 (4)精神障害の有無: 幻覚、妄想等に支配されている精神病患者に特有の印象を精神科用語では、プレコックス感という 言葉で表すが、診察時、受診者からプレコックス感は認められなかった。受診者との問診において も、幻覚、妄想、考想伝播等の精神病症状をうかがわせる発言は認められていない。診察時、受診者 は「父からDVをうけた」と語り、受診者の供述調書(平成2 6年8月2 2日及び平成2 6年8月2 7日、○ ○県○○警察署)の中でも、「父親は私が小さい時から嫌がらせをしてきた」と幾つかの例を挙げて いる。然し、前述の供述調書の中で「味噌汁をこぼしただけで怒鳴るだけでなく平手打ちをしまし た」と言ったかと思えば、「味噌汁をこぼしたぐらいで、夜中に私を木にくくりつけたこともありま した」と言う等と、発言に一貫性がなく、少年時代の記憶が曖昧な可能性もある。又、「私が勉強す れば『勉強したって成績なんてあがらんやろ丁稚にいけ』といってきたりした」「大学に合格した時 も入学金をださない等といったり私の人生の邪魔ばかりしてきました」との発言もあったが、受診者 は最終的に受診者の両親の経済的支援があって短大に入学し卒業もできている。これら状況から判断 するに、親の躾や教育の中での言動であって、常軌を逸する家庭内暴力があったとは言い難い。受診 者は受診者の父に対し被害的にはなっているが、被害妄想等、精神病の範疇に入るとは言えない。受 診者が平成1 5年から通院している精神科からの捜査回答書(平成2 6年8月2 5日、○○病院)及び○ ○区検察庁への回答書(平成2 6年8月2 5日、○○病院)の中でも、受診者が精神病症状を有してい たと認められる形跡は見当たらない。以上から、受診者が過去からも含め、現在、幻覚、妄想等の精 神病状態にはないと考えるのが妥当であろう。又、これら一連の言動から、心的外傷後ストレス障害 (PTSD)の診断基準も満たさない。更に、前述の捜査回答書及び検察庁への回答書によると、受診 者は平成1 0年頃から上半身の熱感、動悸などが出現し、○○病院心療内科へ通院、平成1 2年頃から ○○クリニックへ通院、就労不能状態が続いた為、平成15年に○○病院を受診、以後、通院加療を行っ ており、適応障害の診断であるとのことである。診察時も、受診者から全身倦怠感、抑うつ、意欲低 下、不眠で2 0歳台後半から精神科通院しており現在も改善を認めていないとの主旨の発言がある一 方、パチンコには大体週に2−3回程度いっていたとの発言もあり、うつ病の診断基準を満たすほど に重症な症状ではないと判断する。上記のような症状や経過を敢えてICD-10にあてはめると、適応 障害(F4 3.2)の状態に一番近いと思われる。確かに、ICD-10では、気分変調症(F34.1)の診断も 可能であるが、その場合にしても、従来診断によれば、受診者の病態は抑うつ神経症という神経症圏 に分類されよう。 2 犯行時の精神状況 受診者は犯行当時のことを克明に記憶しており、それは、受診者の父の供述調書(平成2 6年8月22 日)と大きな齟齬はなく、犯行時に意識障害があったとは考え難い。又、受診者が過去から現在迄、幻覚、 妄想等の精神病状態に陥ったことはないのは前述の通りである。診察時、受診者に犯行時のことを尋ね たところ、「暴力がいいこととは思いません、でも根底に父親が今迄してきたことがあって突発的にし てしまうんです」と自分の行動を正当化した発言を行っている。又、受診者の供述調書(平成26年8 月27日、○○県○○警察署)でも、「今回、私が父を蹴ったのは、単に父に無視されたことだけが原因 ではなく、これまで話したとおり、父が私の人生を無茶苦茶にしてきたのに責任を取らないから怒りが − 89 − 精神衛生診断書: 傷害事件−抑うつ神経症 爆発して蹴ったのです」と語っている。このような発言は他責的な思考過程で生じるものであり、確固 たる妄想に基づいて生じるものではない。従って、犯行時、精神病症状が原因で正常な判断を失って犯 行に及んだとは考え難い。 3 精神障害と本件犯罪発生の機序との関係(責任能力) 前述した通り、受診者は、過去から現在に至るまで、犯罪発生時も含め、幻覚妄想等の精神病状態や 症状は認めていない。適応障害、及び可能性として気分変調症(従来診断では抑うつ神経症) 、の診断 はあるが、何れにしても、それらにより、自己の行動の是非善悪を判断し、その判断に従って行動する 能力は減退していたとは考え難い。 4 今後の処置に対する意見 (1)正式鑑定の要・否 身体疾患や脳器質性疾患の可能性を除外するために、採血、検尿、脳画像検査や脳波などが必要で あるかもしれない。しかし、精神障害の存在とその影響に関して大きく異なる判断が下されるとは思 われない。 (2)精神障害者等通報の要・否 受診者の父に対する発言を鑑みるに、今後、受診者の父への暴行を繰り返す可能性はある。然し、 診察をした時点において、その行為は、精神病症状に基づくとは言い難いのは前述の通りである。従っ て、精神障害者等通報の必要はないと判断する。但し、受診者の認知や行動に対し、今後とも、精神 療法等の精神科医の関与は望まれる。 (3)その他:なし 5 備考 なし (本診断書を掲載するにあたり、プライバシー保護の観点から内容の一部を変更している) 姫風露草(デイケア裏庭にて) − 90 − 精神衛生診断書: 公務執行妨害事件 ― 統合失調症 平成2 6年6月3 0日 医師 林 拓二 受診者氏名: ○南 ○太 男性 生 年 月 日: 昭和○○年○月○○日生(4○歳) 被疑者は、平成2 6年○月○○日午前6時30分ころ、○○県○○市○○町751番地の○南○夫方前路上 において、同人の伯母で隣に住む○南○子氏を殴り怪我をさせたとの通報により傷害現場に臨場した○ ○県警察署地域課1係勤務の巡査部長○山○郎(5 0歳)から職務質問を受けた際に、矢庭に同巡査部 長の右頬を左平手打ちで1回殴打する等の暴行を加え、もって、同巡査部長の職務の執行を妨害したも のである。 被疑者は○南○子氏を殴って怪我をさせたあと自宅に帰ったが、再び現場に現れ、警察官らに「お前 らは関係ない、ここのババアが悪いんや、これから話をしに行く」と言い、制止する警察官らに大声で「ツ バメが死んだんや、ここのババアから話を聞けや、このハンガーも調べろ」と喚き散らしながら歩き回 り、さらに「アカバ知っているか、知らんのやったら関係ないわ」と喚くなどの奇矯な言動が見られた ため、精神疾患の有無および犯行への影響が検討されねばならないと考えられた。 そこで、私は○○地検○○支部の求めにより、平成2 6年6月2 4日午後3時から午後4時3 0分までの間、 ○○県○○警察署内で被疑者を診察したので、その結果を以下に報告する。 1 現在の状況 (1)身体: 被疑者の身長は1 7 0cm、体重は8 5kg位である。田畑の仕事により日焼けして血色も良い。体格も 頑強そうで身体状況に問題はないと思われる。酒はほとんど呑まず、タバコを1日3 0本位嗜むだけ とのことである。 (2)知能: 診察時、意識は清明で見当識に問題はなく、計算問題などの質問には速やかに返答する。知能面で の問題はないと考えられる。 (3)性格: 被疑者の母親である○南○江氏の供述によれば、被疑者は「本当に思いやりがあって心優しい子」 なのであるが、「神経質で、だんだんと被害妄想を抱くようになった」と言う。被疑者は「小さい頃 からカーとなると親にでも手を出していた」と述べるが、大人になってからは頻繁に暴力をふるうよ うなことはなかった。4年前と今回の伯母(○南○子氏)への傷害や警官への暴力は、2 8歳頃に発 症した統合失調症による被害妄想に基づくものであって、衝動性、易興奮性を示す性格傾向に基づく ものではない。 − 91 − 精神衛生診断書: 公務執行妨害事件 ― 統合失調症 (4)精神障害の有無: 被疑者は○○市内の公立高校を卒業した後、経理の専門学校に進学、卒業後に○○にあるプリンター 製造工場で約5年間働いているが、「人の輪の中に入れない」と言って退職、その後、8−9か所の 会社に勤めるもいずれも1−2ヶ月で辞め、平成1 1年頃からは町内の営農組合で田畑のアルバイト をしながらもひきこもりがちな生活を続けていた。 被疑者は診察時に、小学校時から人の嫌がることを考えてしまう傾向があったと言うが、人の声が 聞こえるようになって「おかしいな」と思ったのは高校生の時であると言う。しかし、高校時には異 常な言動を認めず、部活では3年間アメリカンフットボールをしており、その後進学した専門学校も 卒業していることから、精神病性の幻聴が継続して存在していたとは考えられない。ただ、この頃か ら潜伏性の統合失調症を発病していた可能性を否定することはできず、統合失調症の発病年齢は10 代後半にさかのぼるのかも知れない。 被疑者に明らかな精神的変調が見られるようになったのは、平成1 2年7月(2 8歳)頃で、幻聴・ 被害妄想のために○○クリニックを受診している。その後、平成1 3年1 2月2 1日に○○赤十字病院を 受診、平成1 7年1 0月2 0日から平成2 3年1 2月1 6日まで断続的ではあるが南○○クリニックに通院して いる。この間、平成2 0年4月3 0日から8月3 0日までの4カ月間、今回と同様な被害妄想による伯母 への暴力行為により○○病院での入院治療を受けている。 発病以来、被疑者の精神症状は持続し、病状の大きな変化はないようである。○○警察署からの照 会に対する○○赤十字病院精神科医師藤○俊○氏の回答書(平成2 6年○月○○日)によれば、 「バカ にされた幻聴に対し大声を挙げ、独語・空笑も認める。<アカバと言うヨルダンに本部のある組織 が悪さをしている。本の中に暗号で書いてある>と図書館に通いその内容を警視庁に送り続けてい る。時に直接警視庁に電話をし、<相手にしてくれない>と激昂することあり。病識が欠如しており、 定期的な内服・受診の継続が難しい」と記載され、薬物治療として抗精神病薬のジプレキサが1日 2 0mg処方されていた。 被疑者の○○警察署における供述調書(平成2 6年○月○○日)によれば、被疑者は平成1 7−1 8年 頃から伯母の○南○子氏から嫌がらせを受けていると思うようになったと言い、そのきっかけを次の ように述べている。すなわち、ある時、○南○吉氏(被疑者の父親の兄、○南○子氏の夫)から「ひ き殺されたんやぞ」と言われたが、身内に誰も交通事故で亡くなったものがいないために、最初はそ の意味がわからなかった。しかし、「ひく」と言うのは、計画を「ひく」と言う意味ではないかと思 うようになり、新聞を読んでいるとヨルダンのアカバという言葉が頭に飛び込んできて、アカバと言 うのは「赤場」であり「火」を意味し、それは単なる「火」ではなく、 「アスベスト」を意味すると 考え、伯母が自分や家族にアスベストをのませようとしているのではないかと考えるようになった、 と言う。それから、伯母が悪い人で、何気ない言動がなんらかの犯罪をほのめかす暗号であると考え るようになり、嫌なことが頭に浮かぶと伯母が「念」を送ってきたからだ、と確信するようになった と言う。この様な被疑者の陳述には幻聴の存在が窺われ、奇異な意味づけから被害妄想へと発展する 基盤に、 「妄想着想」から「妄想知覚」に至る病的体験が存在すると言える。さらには、伯母の「念」 によって嫌なことを思い出させられると言う体験は、他者からの「作為体験」と考えられ、精神医学 的には「シュナイダーの一級症状」とされて、統合失調症に特異的な症状と考えられている。このよ うな体験は、被疑者が平成2 0年に精神病院に入院した時も存在し、我慢も限界に達して伯母に暴力 − 92 − 精神衛生診断書: 公務執行妨害事件 ― 統合失調症 をふるったと言う。 これらの内容は、平成2 6年○月○○日に私が診察をした時の被疑者の供述とおおむね同じであり、 伯母に対する被害妄想は確信的で揺るぎはなかった。すなわち、○南○吉氏が「ひき殺されたんや ぞ」と言った意味は、「犯罪をひく」、「計画をひく」という意味で、「自分がアカバと言う犯罪空間で 死んでいる」と言う意味だと言う。そして、「アカバ」はピーター・オトールの映画に出てきた町で、 伯母らと一緒に食事した際、伯母が突然箸を止めて「アカバ」と言ったので、「ひき殺された」こと と関係があると思ったとのことである。そして、 「アカバ」は「赤場」で「火」を意味し、アスベス トのことであり、「自分が夜寝ている時に、伯母がアスベストを注射針で口にのませている」と述べ る。○南○吉氏が「夜寝たらわからんぞ」と喋っていたので、夜に何かされているに違いないと考え、 盗聴器や隠しカメラが仕掛けられているかと思い、天井裏をこじ開けてたり、壁をバールで壊したり、 またテレビを分解してスピーカーやブラウン管を調べまわったりしたこともあると言う。悪さをする のは伯母の○南○子氏だけではないと言い、伯父の○吉氏とその娘の○香氏もグルになっていると供 述する。 被疑者は「朝日新聞を読むと世界で起きている全ての事件・犯罪は伯母が行っていることがわかる。 ドイツのヒトラー、ルーマニアのチャウシェスク、それに○南○子の3人は世界で最も悪い人だと、 新聞には直接には書いていないが、全体的に読むとわかる、自分には解釈ができるのだ」と言う。さ らに、 「アカバと言う犯罪空間に属する容疑者は、それには北朝鮮の拉致事件や日航機の墜落事件な どが関係しているが、全員が<赤報隊>ということなのです。朝日新聞は、僕に<赤報隊>事件を解 決せよ、と遠まわしに書いているのです」と言う。 被疑者はしばしば「通念」と言う言葉を用いるが、これは「頭の中に入ってきて」相手に不快感を 与える「念」と同じで、 「幻聴のことです」と言う。伯母の他にも村の人の声で、けなすように、あ るいは諭すように、頭の中へ喋ってくるが、その時に脳みそがつながって会話が成立する、と言う。 このように、被疑者の用いる言葉は独特で、話にまとまりがなく理解し難いことも少なくないが、被 疑者の陳述からは、明らかな幻聴が認められ、被害・関係妄想、被毒妄想、影響妄想もまた強固に存 在し、朝日新聞から犯罪集団に対決するように要請されているかのような発言も見られ、新たな妄想 体系に発展する可能性も否定できない。 こ れらの結果をまとめれば、被疑者を妄想型統合失調症と診断することに疑問の余地はなく、診察 時においてもなお活発な病的体験が存在している。 なお、被疑者の妹も精神疾患に罹患し、○○赤十字病院精神科に通院していると言う。 2 犯行時の精神状況 本件の公務執行妨害・警察官への殴打事件は、直前の○南○子氏への傷害事件と一体であり、どちら も統合失調症に罹患する被疑者の被害妄想によって引き起こされたものである。 被疑者は以前から統合失調症に罹患し、幻聴および被害妄想を主とする妄想体験を有していた。事件 前日の○月○○日、玄関に巣をつくっていたツバメが玄関の扉を閉めた時に衝突して落ちたため、被疑 者は虫カゴやエサを用意して世話をしていたツバメが翌朝には死んだことから、かねてから被害妄想の 対象としていた伯母が「ツバメを殺した」と確信し、伯母に殴る蹴るなどの暴行・傷害を与えたのが最 初の傷害事件である。ただ、被疑者は伯母を殴ったあと伯母の容態が心配になり自ら警察を呼ぶように − 93 − 精神衛生診断書: 公務執行妨害事件 ― 統合失調症 言っており、被疑者には伯母を殺そうとする意図がなかったのは確かである。しかし、警察を呼んで伯 母の悪事を証明しようとしたことは、犯行当時もなお妄想に囚われていたことを示している。 被疑者は、伯母への暴行のあとズボンが破れたためいったん自宅に帰ったが、警察官が到着したため に話を聞いてもらおうと、伯母がツバメを殺した証拠と考えたハンガーをもって再び伯母宅に戻ってい る。このハンガーは伯母宅から持ち帰ったもので、このハンガーにゴム手袋を干していたために、 「伯 母が弟の子供にアスベストをのませようとしていることの暗示」だと考えたと言う。このように、ゴム 手袋を見て「伯母が自分の甥を害しようとしている」と考え着くのは「妄想知覚」体験であり、被疑者 が犯行時においても活発な幻覚妄想状態にあったと考えられる。被疑者は警官にハンガーを調べるよう 要請したが受け入れられず、カッとなって警官を殴ってしまったと言う。しかし、自分が手を出したの は警官に誘導されたようにも思うと述べ、あるいはこの行為もまた、精神病性の症状である作為体験が 影響しているのかも知れない。 これらの一連の経過を見れば、被疑者は現在もなお活発な幻覚妄想状態の中で、このような事件を引 き起こしたと考えられる。 3 精神障害と本件犯罪発生の機序との関係(責任能力) 被疑者が伯母への傷害事件を起こした後に、証拠と称するハンガーを持って再び犯行現場に戻り、伯 母への傷害の正当性を主張しようとしたことは、物事の理非善悪の判断が全く出来ていなかったことを 示している。犯行後も、伯母が世界の3大悪人の一人であるとの被疑者の確信はなんら疑いを抱かれる ことなく持続している。伯母への傷害は、警察官による調書によるとカッとして行ったと供述している ものの、ツバメが伯母に殺されたという被害妄想に基づく確信的な犯行であり、引き続いて生じた警察 官への暴行もカッとなってというよりも、被疑者の心理の根底にある被害妄想から生じたものであり、 このような妄想体験がなければ公務執行妨害が引き起こされた警察官に対する暴行事件はなかったと言 える。また、被疑者が述べたように、警察官への暴行事件が誰かに誘導されて行ったものであるならば、 この事件もまた統合失調症における特異的な症状によるもので、作為体験と考えられるのかもしれない。 すなわち、被疑者は、犯行時に正常な判断力が失われ、制御能力もまた失っていたと考えてよいであろう。 4 今後の処置に関する意見、その他参考事項 (1)正式鑑定の要・否 現時点での精神医学的判断は上記に述べる如きものであり、さらに正式鑑定を行なうにしても新し い情報が得られるとは考えられず、その必要性を認めない。 (2)精神障害者等通報の要・否 被疑者は○○赤十字病院精神科に通院・治療中であるが、現在もなお活発な幻覚や妄想によって伯 母への傷害および警官への公務執行妨害を引き起こしており、充分な病識はみられず、傷害事件が再 発する惧れは否定できない。そこで、措置入院などの強制的な入院による治療の継続が必要かと思わ れる。それ故、県知事への通報が必要と考えられる。 (3)その他 被疑者は妄想型統合失調症に罹患しており、刑罰よりも治療を優先させるべきと考えられる。 − 94 − 精神衛生診断書: 公務執行妨害事件 ― 統合失調症 5 備考 なし (本診断書を掲載するにあたり、プライバシー保護の観点から内容の一部を改変している) − 95 − 精神鑑定書: 保佐開始の審判 ― 自閉症スペクトラム障害 1.事件の表示: ○○家庭裁判所○○支部 平成2 6年(家) 第○○○○号 保佐開始の審判申立事件 2.本 人: 氏 名: ○上 ○雄 男性 生年月日: 平成○年○○月○○日生(満2○歳) 住 所: ○○県○○市○○町○○番地 3.鑑定事項及び鑑定主文: 鑑定事項 ①精神上の障害の有無、内容及び障害の程度 ②自己の財産を管理・処分する能力 ③回復の可能性 鑑定主文 ①自閉症スペクトラム障害 ②自己の財産を管理・処分するには、常に援助が必要である ③著明な回復は見込まれない 4.鑑定経過: [受命日]平成2 6年6月1 2日 [作成日]平成2 6年7月4日 所要日数 2 3日 [本人の診察・参考資料] 平成2 6年6月2 7日午前1 0時3 0分から午後5時3 0分まで途中休憩をはさんで公益財団法人豊郷病院 精神科外来にて問診、心理テスト、頭部CT検査、脳波並びに血液・尿検査を行った。併せて、同日、 本人付添いの○方祖父○○○○及び○○地域○○○○支援センター○○相談部支援員○○○○より本 人の生活状況及び生活歴について面談聴取した。更に、○○○○及び○○○の各々が予め作成し、当 日持参した本人の生活状況及び生活歴についての記録も参考にした。 − 96 − 精神鑑定書: 保佐開始の審判 ― 自閉症スペクトラム障害 5.家族歴及び生活歴: 同胞○人中、第○子、○男。○○県出身。詳細不明なるも○歳検診及び幼稚園で発達の異常を指摘さ れるが、両親は気に留めることなく経過観察していた。その後、小学校入学。小学2年3学期、いじめ があるということで○方祖父が学校に行ったところ、自分の名前が書けないこと等が判明した為、小学 校3年から特別学級に入ると同時に、学校から帰宅後、祖父が毎日、読み書き計算などを教える学習指 導を開始した。小学校卒業後、中学校も特別学級に進学した。本人、中学○年(平成○年)の時、○ ○の○○小児科医院を受診し、「自閉症」の診断を受けている。中学卒業後、○○学園で寮生活を開始。 1 8歳の時に、障害者枠で○○関係の仕事に就職でき、以後、自宅から通勤することとなる。平成2 4年 から平成25年初めにかけての勤務態度としては、週に一回程度遅刻をする、作業にむらがあるなどの 評価であった。遅刻の理由としては、1つのことに集中すると周りが見えなくなり、例えばテレビやラ ジオに集中すると夜更かしをしてしまうからというものだった。平成25年○月に○○市福祉事務所か ら障害程度区分3の認定をうけ、同月からグループホームにて単身生活を開始した。尚、精神科疾患の 家族歴についての詳細は不明である。 6.既往歴及び現病歴: 既往歴として、特記すべき異常を指摘されていない。 現病歴は生活歴に併せて記載する。 7.生活の状況及び現在の心身の状態: 日常生活の状況 1 8歳から現在に至るまで障害者枠で○○関係の職に日中従事されている。日常生活については、現 在グループホームで暮らしているが、食事、洗濯、掃除などの家事遂行能力が低く、介助や援助が不可 欠である。不潔の概念に乏しく、清潔保持、例えば髭剃りや入浴、は成人してから習慣化させることで 何とか保てている状態とのことである。又、1つのことに集中すると周りが見えなくなり、例えばテレ ビやラジオに集中すると夜更かしをして、翌日定時出勤ができないことがかつてはしばしばあった様子 である。更に、排泄後、毎回5−1 0分かけて手を何度も洗う、入浴前に一度に大量の牛乳やヤクルト を飲むなど生活の中で強いこだわりがあり、改善が難しいとのことである。因みに本人は障害者の○○ チームに所属しており、休日は○○の練習をしている。職場と家、○○練習場と家など決まったルート については公共の交通機関を用いて単独で移動することは可能なるも、初めての場所に一人で行くこと はできないという。対人関係が苦手で、 友人は殆どいないという。金銭管理は権利擁護職員が週1回6,000 ∼8,0 0 0円を渡して近くのコンビニでヨーグルトやジュースなど決まった食料品を買う程度で、洋服や 靴、家電などは一人で買うよう促しても買うことができず、付添いとともに行っているとのことである。 平成2 5年から小遣い帳を付けるようにしているが、一週間単位で実際の支出と帳簿が合ったことはこ れまで一度もないという。 身体の状態 ①理学的検査: 平成2 6年6月2 7日に神経学的検査を中心に身体検査するも、特記すべき異常は認めなかった。 ②臨床検査(尿・血液など): − 97 − 精神鑑定書: 保佐開始の審判 ― 自閉症スペクトラム障害 平成2 6年6月2 7日の採血、採尿にて著明な異常は認めなかった。 ③その他: 平成2 6年6月2 7日に脳波及び頭部CTを施行するも明らかな異常は認めなかった。 精神の状態 ①意識/疎通性: 意識レベルは清明で、鑑定に当たって拒否的な態度はなく、鑑定人からの質問に穏やかに答えていた。 多少ぎこちなさはあったが、日常会話に必要な言語は有しており、視線を合わせ回答されており、疎 通性も良好であった。 ②記憶力: 生年月日、氏名、本人の年齢について全て正答された。 ③見当識: 場所の見当識(豊郷病院) 、時間の見当識(平成2 6年6月2 7日) 、対人の見当識(鑑定人の職業は精 神科医師)はともに保たれていた。 ④計算力: 1 0 0から7を順番に引くよう指示したら「72」迄正答でき、問題なきものと判断して終了とした。「4 0 0 万円持っていてその内7 5万円使ったら幾ら残ってますか?」「一人7 0 0円の入場料を9人から回収し たら併せて幾らですか?」「1,6 0 0円を4人で等分に分けたら一人幾ら?」などの文章問題も全て正答 した。 ⑤理解・判断力: 言葉を通じての理解は可能であった。最近気になるニュースは何か?と問うと、「○○○○さんのこ と」と応え、どう思うか?と尋ねると、「責任のなすりあいではなく、関係者とかが一丸となって解 決してほしい」と、自分の考えか報道解説の引用かは不明なるも、述べられた。但し、例えば「猫 に小判」など一部の諺の意味を理解出来ていなかった。又、不動産登記が何を意味するのか説明で きず、土地建物の権利証の重要性についての認識に乏しかった。更に、利子の概念などは全く理解 されていなかった。全体を通じ、過去の学習により体得した知識を問う問題や興味のある時事問題 については即答できるが、それ以外の内容については回答に時間が掛かったり、「判りません」と回 答されることが多かった。 ⑥現在の性格の特徴: 問診時、終始穏やかに対応され、興奮や易怒性を認めなかった。元々、大人しくまじめ、こころやさ しい、人と争わない性格であるとのこと。 ⑦その他: 問診中、幻覚・妄想や異常行動などは認めなかった。 ⑧知能検査、心理学的検査: WAIS-Ⅲを臨床心理士の下、平成2 6年6月2 7日に施行したところ、全検査知能指数(FIQ) = 80、言 語性知能指数(VIQ) =9○、動作性知能指数(PIQ)=6○であった。制限時間がある問題で処理速度は 遅いが正答率は高いという傾向を認めた。又、具体性のある問題については時間をかければ正解を導 けるが、抽象的な問題については、推理することが困難という傾向も認めた。 − 98 − 精神鑑定書: 保佐開始の審判 ― 自閉症スペクトラム障害 8.説明: 本人は○歳検診で発達の遅れを指摘されていること、対人関係の障害があり感情表出が苦手であるこ と、生活上のこだわりを有すること、興味の範囲が限局されていることなどから自閉症スペクトラム障 害が本人の症状を表す最も近い診断といえよう。心理検査においても能力にばらつきが顕著で同診断を 支持する所見といえる。 日常的な生活は一応自立しており、意思疎通も可能であるが、買い物をはじめとする生活や行動範囲 が極めて限定的であること、心理検査でも知能指数が全検査知能指数(FIQ)= 8 0と低いこと、過去に 5年分の給料を殆ど、親に勝手に使われてしまったこと、登記や権利証などの意味や重要性を理解して いないことなどを鑑みるに、自己の財産を管理・処分するには常に援助が必要であると考える。 本人の年齢からすると将来状態の著明な回復は見込まれないと考える。 以上の通り鑑定する。 住 所: 滋賀県犬上郡豊郷町八目1 2 所属・診療科: 公益財団法人豊郷病院 精神科 氏 名: 白井 隆光 (本鑑定書を掲載するにあたり、プライバシー保護の観点から内容の一部を改変している) デイケア裏庭の源平小菊 − 99 − 精神鑑定書: 暴行傷害緘黙事件 ― 統合失調症 平成2 6年1 2月8日 医師 林 拓二 被疑者氏名: ⃝上 ⃝仁 男性 生 年 月 日: 昭和⃝⃝年⃝月⃝⃝日生(3⃝歳) 被疑者は、平成2 6年⃝月⃝⃝日午前1 1時5 5分頃、⃝⃝県⃝⃝市⃝⃝町⃝⃝番「⃝⃝フォトスタジオ」 前通路において、全く面識のない⃝山⃝郎(当時3 6歳)に対し、突然その顔面を手拳及びメリケンサッ クで数回殴打するなどの暴行を加え、同人に約2週間の加療を要する顔面打撲、頭部打撲、右前腕打撲、 右上眼瞼挫滅創、上口唇上顔面挫滅創、頭部挫滅創の傷害を負わせたものである。被疑者は通報により 駆けつけた警察官に1 2時1分頃逮捕されたが、うなずくなどして犯行を認めるものの、住所氏名など の聴取には首を横に振るなどして全く答えなかった。さらに、その後の取り調べにおいても、顔を伏せ たり、顔を手で覆ったりして喋らず、僅かに筆談に応じるものの首を横に振って犯行を否認したり、右 手を振り挙げて威嚇するなどの態度を示している。 被疑者には前歴があり、今年に入ってからも、3月1 3日にドリンク剤を万引き、4月8日には発泡 酒を万引き、7月2 6日には缶ビールを万引きといずれも窃盗で計3回の逮捕歴があり、逮捕されると 筆談には応じるものの喋らなくなるために、これまで2回の簡易精神鑑定を受けている。4月8日の事 件の簡易鑑定を行ったのは私であるが、所持するメモに「まず警察に何をゆわれても、下を向いてあい づち以外するな うんかええだけ」と記載しており、詐病やヒステリー性失声について検討し、犯行時 における善悪の判断は保たれており責任能力に問題はないと判断した。しかし、奇異な表情やしぐさか ら「現在もなんらかの身体的・精神的違和感を抱いているように思われ、明確な統合失調症と判断でき ないものの、潜伏性統合失調症の可能性は排除できず、今後、幻覚や妄想などの明確な精神症状が出現 する可能性が存在する」と記載しておいた。7月2 6日の事件で簡易鑑定を行なった精神科医師⃝下氏は、 病状が顕在化して幻覚妄想状態である可能性が高く、「破瓜型統合失調症の疑い」と診断し、部分的な 責任能力しか問えないとしている。 今回の事件は、これまでに引き起こした飲食物窃盗事件とは全く異なり、被害者との面識が全くない 通り魔的な傷害事件であり、犯行の動機が不明で不可解と言わざるを得ず、なんらかの精神障害が関与 する可能性を疑わざるを得ないものである。しかし、被疑者は任意での精神科医の診察を拒否するため、 ⃝⃝区検察庁からの依頼で、私が再度被疑者の精神鑑定を嘱託された。鑑定事項は以下の4項である。 1)犯行当時の精神障害の有無及び病名 2)現在の精神障害の有無および病名 3)犯行当時に精神障害が存在するならば、犯行にいかなる影響を与えたか 4)犯行当時に精神障害が存在するならば、被疑者の善悪の判断能力及びその判断に従って行動する 能力の有無及び程度 − 100 − 精神鑑定書: 暴行傷害緘黙事件 ― 統合失調症 そこで、私は⃝⃝病院精神科の⃝川医師を助手として伴い、平成⃝⃝年⃝⃝月21日、⃝⃝月2 8日、 ⃝⃝月4日の3回、鑑定留置先の⃝⃝県⃝⃝市⃝⃝町⃝丁目⃝⃝番地の⃝⃝刑務所に赴き、それぞれ午 後2時3 0分から1 5−3 0分間の診察を行なった。また、平成⃝⃝年⃝⃝月⃝⃝日の午後1時から約1時 間3 0分の間、⃝⃝県⃝⃝郡⃝⃝町⃝⃝番地の⃝⃝病院において被疑者の両親と面談し、被疑者の家庭 での生活状況を聴取した。さらに平成⃝⃝年⃝⃝月⃝⃝日午後1時から⃝⃝病院において被疑者の脳波 検査及び血液一般検査を施行し、頭部MRI検査を試みた。このようにして得られた結果を踏まえ、被疑 者の精神鑑定書を作成したので以下に報告する。 1 現在の状況 まず、鑑定時における状況について記載する。 ⃝⃝刑務所での鑑定留置は、平成⃝⃝年⃝⃝月⃝日から⃝⃝月⃝日までであり、入所時に測定された 被疑者の身長・体重はそれぞれ1 7 7cm、79kgであり、食事は完食、睡眠は良好で体重の減少は見られ なかった。刑務所職員の報告によれば、入所期間中は一言も喋らず、ただ一度だけ独り言を言っている のが聞かれている。この間、入浴を勧めても一度も入らず、シャワーを使用したことが1回あるだけで あった。ただ、身体の清拭には応じたとのことである。 平成⃝⃝年⃝⃝月⃝⃝日に⃝⃝病院で行われた身体的検査では、被疑者は極めて不機嫌で拒否的であ り、最初に行った脳波検査では指示に従わず、再三にわたり頭部の電極をはずそうとし、制止しても椅 子から立ちあがり、また、座ったままで「止めてくれ」との仕草をし、しばしば検査に関わる職員を両 方の足で蹴飛ばした。そこで脳波のほとんどにアーチファクトが見られたものの、判読可能な脳波部分 では基礎律動が1 0Hzのα波であり、左右差は見られず、粗大な脳の器質性病変を疑う所見は得られな かった。引き続き行う予定であった頭部MRI検査は、被疑者が強く拒否し頭部を固定するための鎮静薬 の投与にも困難が予想されたために中止とした。 血液の検査でも被疑者は強く抵抗したために時間を要したものの、説得により採血を行なった。その 結果はほぼ正常所見であり、アルコールや薬物による影響が考えられる肝臓などに異常所見は見出され なかった。すなわち、脳の器質性疾患や症状性精神病の可能性は否定してよいと考えられる。 ⃝⃝刑務所での診察は計3回行われたが、常に刑務所職員に促されて仕方なく渋々入室してくるとい う格好であり、猜疑的な表情で、診察者の視線を避けるように顔を両手で覆い、手指の隙間から診察者 の様子を窺った。また、眉をひそめ、眉間にしわを寄せるなどの奇異な表情・仕草が見られ、いわゆる 分裂病臭さ (Praecox-Gefühl)が窺われた。これは、精神科医が統合失調症者に対面した時に直観的に 感じる印象であって、DSMなどの操作的診断が隆盛な現在でもなお、その診断に重要な意義があると する精神科医は多い。 私は被疑者にまず挨拶し、自己紹介をして話しかけたが、被疑者は一言も発しない。ただ、質問の 内容は理解しているようで、首を振るとかうなずくために、意識障害や昏迷状態とは考えられなかっ た。被疑者の身体的診察を開始しようとすると、私の手を振り払って自分の身体を触らせようとはしな い。そして刑務所内の自室の方向を指さし、両手を顔の前で合わせて頭を下げて懇願するかのような仕 草をする。そして身振りで筆記用具を要求するため、紙と鉛筆を与えると「戻してもらっていいでしょ うか?」と記載する。<今日は鑑定の診察でありもう少し話を聞きたい>と説得するも、 「帰って頂い ていいでしょうか?」 、 「話す事は特にありません」と紙に書いて立ち上がり、部屋を出ようとする。そ − 101 − 精神鑑定書: 暴行傷害緘黙事件 ― 統合失調症 のたびに制止して椅子に座ってもらうが、次第に険悪な表情となり、自室の方向を指さしながら、今に も殴りかかりそうになる。そこで、これ以上の診察を続行することは困難と考え、初回の面談は約3 0 分で終了とした。 その後2回の面談も基本的にほとんど変わりはなかった。筆記用具をあらかじめ用意して、質問項目 を読みあげるが反応はほとんどない。同じ質問に頷いたり、また首を振ったりすることもあって真剣に 対応しているようには見られなかった。そして、自室に帰らせてほしいと自室の方向を指さして立ちあ がり、制止すると手を振り上げて威嚇する。ともかくも椅子に座るように促すと、険しい表情のまま椅 子に座り「帰ってください」、 「今、罪をつぐなって服えき(ママ)中なので話はありません」と紙に記 載する。時には、制止を振り切って面談室から出ようとし、刑務所職員の応援を求めねばならなくなっ たこともある。ただ一度だけ、ほとんど聞き取り難い低い声ではあるも、 「話はありません」とつぶや いたことがあり、声が全く出ないわけではない。 このような被疑者の情況から、精神病症状の有無や犯行時の状況について詳しく聴取することが出来 ないまま、これ以上の面談を続けても新しい情報は得られないと判断し、鑑定による面談は3回で終了 とした。 両親との面談は平成⃝⃝年⃝⃝月⃝⃝日に行い、被疑者の成育歴や家庭での生活状況を聴取した。今 回聴取された内容は、これまで警察署において両親や友人が語った供述調書と大きく異なるものではな いが、精神症状と考えられる内容や出現の時期について若干の新しい情報が得られた。以下に、被疑者 の成育歴をまとめながら、精神障害の有無及び精神障害があればその発症の時期について検討していこ うと思う。 被疑者は、昔から土地で酒造などを行っていた旧家に生まれ、1 0 0 0坪の敷地に建てられた2 0 0坪の自 宅で両親と居住する。父親は⃝⃝販売と⃝⃝貸付を業とする会社を経営しており、一見してなに不自由 のない家庭の次男である。他に姉と兄がいるが、姉(3 6歳)は独身で東京に居住し、会社員として独 立している。兄(3 4歳)は結婚して1児を儲け、両親の敷地の裏に新居を建てて生活をしている。 被疑者は生来性の知的あるいは身体的障害はなく、小学校時代は活発で、サッカーチームに入ってキャ プテンをつとめ、フォワードとして⃝⃝市の選抜チームに選ばれ、姉妹都市があるドイツやイタリアへ の海外遠征にも参加している。ただ、中学校では、両親の仕事が忙しくなったため試合への送迎が出来 なくなり選抜チームから外され、また、悪いグループの連中にいじめられることもあったようで成績も 下がっている。そこで、意に沿わない高校に入学したが、その高校には中学の時に自分をいじめたグルー プの連中がいたことから不登校になったようである。そのために、2年次には進級できずに自主退学と なったが、その後、音楽が好きであるとのことで音楽関係の専門学校である通信制の高校に編入して卒 業する。卒業後は飲食店関係のアルバイトをするも長く続かず、仕事が見つからずにぶらぶらすること が多かった。 しかし、被疑者は旧家である広壮な自宅に住んでおり、両親の経営する商売も繁盛していたことから、 被疑者の金銭感覚は乏しく、親に無断で自動車を購入しては代金を両親に支払わせ、購入した高級外車 を他人の家に突っ込んだり、あるいはホンダの新車をダンプと正面衝突させるなどの交通事故を起こし ている。その後始末は、すべて両親が行っていたと言う。また、通信販売で自分の好きなレコードや服、 それに靴などを大量に買い込むが、それを並べておくだけで履くことは無く、売り払うことが多かった とのことである。この頃から(2 3歳頃)潔癖症や洗浄強迫などの強迫症状が見られるようになり、何 − 102 − 精神鑑定書: 暴行傷害緘黙事件 ― 統合失調症 度も手を洗い、シャワーは何時間も流しっぱなしにする。自分が関係している物は他人に決して触らせ ず、物はきっちりと並べておかなければ気になるが、自分の部屋は汚いままで片付けはせず、服は汚い まま、洗おうともしなかった、と母親は言う。 被疑者は2 2歳から2 4歳にかけて、⃝⃝駅前のラーメン屋で働いている。関係者による報告では、被 疑者がはきはきと返事するしっかりした真面目な好青年であり、勤務態度や接客態度も良く、無断欠勤 も無く、トラブルを起こしたことは一度もない模範的な従業員であったとされている。この頃のことを 母親に尋ねると、被疑者は挨拶が出来ないから接客は無理で、洗い場での仕事をしていたと思うが、茶 碗を洗うにしても水は出し過ぎるし、洗いは雑なためによく使ってもらえた、とネガティブな印象を語っ ている。しかしながら、たとえ強迫症状があったとしても、この頃の被疑者は自立した生活を目指して 努力していたようであり、強迫症状が日常生活全般にわたって影響するほど重篤なものではなかったよ うである。 小学校や中学校時代にサッカーの関係で友人であった⃝畑氏が語るところでは、5−6年前(本人 2 4歳頃?)に被疑者と会った時、知っている者とは普通に話をするのに、知らない人には身振り手振 りで応対して言葉を発しないことに気付いており、中学時代とは変わっていたと述べ、心の病があるの ではないかと感じたと述懐している。 父親が被疑者の言動の変化に気付き、おかしいと感じたのは本人が2 5歳の頃と言う。その頃、被疑 者は「頭の血管が切れた」と言っていろいろな病院に通うようになり、頭に異常はないと言われても「血 管が切れている、手術をしてほしい」と訴え続けている。警察の捜査照会によれば、本人が2 4歳時の 2月に⃝⃝市立病院脳神経外科を受診した後、4月には⃝⃝市民病院脳神経外科で「友人に投げ飛ばさ れたり、耳元(右)で大声を出されて右の側頭部がへこんだ」と言い、5月には⃝⃝市立病院脳神経外 科で「頭部の痛み、頭皮の血管がずれる」と訴え、6月には⃝⃝医科大学脳神経外科を受診し「脳の血 管の位置がおかしいので直してほしい」と訴え、1 1月には⃝⃝病院を訪ね「頭の表面の血管が切れて 引っ張られる。頭を切ってほしい」と訴えている。1 2月には⃝⃝医大脳神経外科を訪れ「側頭部に衝 撃を受けて側頭動脈がずれた。元にもどして欲しい」と言って受診し、翌年の1月には⃝⃝医療センター 脳神経外科を訪れ、「昨年の5月に鍼治療を受けた後に調子が悪くなった。右側頭に鍼を刺された瞬間、 胸部にツッパリ感が出た。その後もツッパリ感が続いて、震え、左下部肋骨あたりに痛みがある。めまい、 ふらつきがある。鍼治療の後に、頭の動脈の位置関係がおかしくなって、症状が出てくる」と言う。そ して、 「血管をもとの位置に戻す手術をしてほしい」と訴えた。各医療機関では、CT、MRI、MRAな どの検査を施行しているが、特別な所見は認めなかった。そのために精神科的な疾患が疑われたり、心 療内科の受診を勧められたりしたが、被疑者がそれを受け入れることはなかった。 本人が27歳の頃、被疑者が仕事をせずに収入もないため、父親は自分の会社の役員として月給を渡 していたと言う。この金額では、普段の生活費や食費、携帯電話の通信費などでほぼ無くなるようで、 被疑者は時々お金を無心し、父親はその都度5千円から1万円の現金を渡していたとのことである。 父親が、被疑者の言動でさらに変わったと感じたのは、本人が2 8歳時の1 1月に祖母が亡くなってか らと言う。両親が仕事で忙しく被疑者の相手をすることが出来ない時も、祖母は必ず家にいて被疑者の 話し相手になっていて、頼めば小遣いも貰える特別なつながりがあったようである。祖母の死後、被疑 者は家族以外のものとはほとんど会話をしなくなり、生活の乱れがとりわけ顕著になったと言う。被疑 者は、朝からふらっと行き先も言わずに外出しては夜遅く帰宅する。寝るのは玄関横の部屋のソファー − 103 − 精神鑑定書: 暴行傷害緘黙事件 ― 統合失調症 のことが多くなり、家でいる時にはソファーに座ったり、急に立ち上がって意味もなく家の中を歩き 回ったりして落ち着かない。両親を恨むようなことを言い出したのもこの頃であり、「何をやってもう まくいかない」のは親の責任だと言い、「今のおれの不幸はお前らのせいや」、「お前らが、俺をこんな 風に産んだからや」と両親を責め、すぐに激昂し、気に入らないと興奮して怒鳴り散らしていたとの ことである。 被疑者は、自動車での事故を数回起こしたために、外出するときは主として自転車を使用していたが、 2 4歳時に自転車泥棒で捕まったことがある。父親の陳述によれば、その後逮捕されることは無かったが、 27歳時頃から毎日違う自転車に乗って帰ることが多くなったと言う。自転車のキーを沢山持っていて、 メリケンサックは自転車の鍵を壊すために使っていたのではないかとのことである。 万引きで逮捕されるようになったのもこの頃からであり、平成⃝⃝年3月、4月、7月と間をおかず 逮捕され、4月の事件で4 0万円の罰金との判決があった後も、反省は見られなかった。平成⃝⃝年8 月に被疑者は警察署から釈放されたが、両親が車で迎えに行くと、留置されている時は全く喋らなかっ たにもかかわらず、車に乗った途端に喋り出したと言う。しかし、一方的に話すだけで会話にはならな かった。その後も、他人と話はせず両親とは話をするものの、脈絡なく突然に「自分はおわりや」、「自 殺する」、 「寂しい」などと漏らすことがあったと言う。そして、自宅では独り言が多くなり、夜中の真っ 暗やみの中で奇妙な笑い声を出すようにもなっている。 このような経過を見れば、被疑者が小学校時代に活発なサッカー少年であったとは信じ難い変化を来 たしており、生来性の性格異常とは異なるなんらかの内因性の病的な変化を考えるのが適当かと思われ る。ただ、被疑者本人の陳述がないために詳細は不明であるものの、幻覚や妄想などの病的な体験が存 在する可能性は大きく、被疑者が潜行性に発症した統合失調症(破瓜型)に罹患している疑いは極めて 大きい。このような疾患は、発症がそもそも潜行性であり、急性発症の病型とは明確に異なることから、 発症時期に言及することは困難であるが、強迫症状が出現した頃を前駆期と考え、体感異常(セネスト パティー)の出現した2 5歳頃を統合失調症の初発期と考え、さらに明きらかな症状が出現して、明確 に統合失調症と考え得るようになったのが本年に入って以降であると考えてよいのかも知れない。これ らは、被疑者が明らかに変ったと父親が感じた時期に一致している。 2 現在の精神障害の有無および病名 平成⃝⃝年4月8日の万引き事件では、逮捕されると喋らず筆談には応じることから、ヒステリー性 失声、あるいは詐病を検討しなければならなかったが、被疑者の友人の陳述によると、すでに本人の 24歳時頃から親しい人以外とは喋らず、身振り手振りで応対していたことが明らかとなっている。そ こで、今回の病態に関しては、意図的に病気を装うとか、あるいはストレスが多い時に無意識的に声が 出なくなるといった詐病やヒステリーの可能性を考慮する必要はないであろう。病因的な議論は別にし て、症状的には選択性緘黙症に近いと考えられる。 ⃝⃝刑務所では、被疑者の拒絶的な態度によってそれぞれ数1 0分位しか診察出来なかったが、私の 質問に対して応答は無いものの、その意味は理解していると判断され、いわゆる意識障害はないと言っ てよいであろう。自動車事故の既往や頭の血管が切れたとの体感異常と考えられる訴えも見られたこと から、脳の器質性疾患の検索が必要であり、鑑定でも脳波と頭部MRI検査を予定し、脳波所見に問題は なかった。しかし、MRIは被疑者の拒絶が強く撮影することが出来なかった。しかし、捜査関係の照会 − 104 − 精神鑑定書: 暴行傷害緘黙事件 ― 統合失調症 によって得られた本人2 4歳時に市立病院で施行した脳MRI画像では特別な異常所見は無く、その後に 神経学的な症状の出現もなかったことから、脳の器質的な病変は無いと推測してよいと考えられる。覚 醒剤や不法薬物の使用による精神障害の可能性も、被疑者が音楽関係の専門学校を卒業し、バンドの活 動をしてボーカルを務めていたことから(友人の供述)考えられるが、両親に何度か尋ねてみたものの、 両親はこれらの薬物の使用を強く否定した。ただ、被疑者に見られる症状は、意識障害を伴うような急 性の精神病症状ではなく、症状学的に薬物による精神障害を考える必要はないと考えられる。このよう なことから、被疑者が脳の器質性疾患や薬物などによる症状性精神病などに罹患している可能性を考え る必要はないと思われる。 私が被疑者と対面した時に、まず感じたのはなによりも 分裂病臭さ (Praecox-Gefühl)であった。前 回の簡易鑑定の時にも、このような感じを抱いたために潜伏性統合失調症の可能性を示唆しておいたが、 7月の万引き事件で簡易鑑定を行なった精神科医もまた、この 分裂病臭さ を認めて「破瓜型統合失調 症の疑い」と診断している。問題は、被疑者が自らの体験を全く語らないために、幻覚や妄想などの統 合失調症に特有な症状を確認出来ないことである。しかしながら、幻覚や妄想などの主観症状を確認す ることが出来なくとも、表情や動作、行動の異常などの客観症状から、患者が体験する主観症状の存在 を類推することは可能である。 被疑者は2 3歳頃より潔癖症で洗手強迫が見られ、部屋を片付けず、風呂には入らず、何時間もシャワー を流しっぱなしにし、汚い服を洗おうともしなかった。2 5歳頃からは「頭の血管が切れている」と訴え、 数か所の脳外科で診察を希望し、MRIなどの検査で異常はないとされても納得せず、精神疾患が疑われ たり、心療内科を紹介されたりしたが、 「手術をしてもとに戻してほしい」 との訴えが続いていた。そして、 平成⃝⃝年⃝月に簡易鑑定で私が診察した際も「しんけいがじょうちょ(ママ)不安」と言い、何らか の身体的・精神的違和感が持続しているように思われた。このような強迫症状や体感異常は統合失調症 の前駆症状としてしばしば見られるものであり、とりわけ体感異常は、統合失調症の特徴的な症状であ る体感幻覚へと発展する可能性が強い症状である。現在、本人の陳述がないために詳細は不明であるが、 あるいは幻覚や妄想が存在しており、この体感異常もすでに作為体験を伴った体感幻覚へと発展してい るのかも知れない。また、鑑定時に見られる奇妙な仕草、すなわち両手で顔を覆い、交差する指の間か ら窺うように覗く格好は、視線恐怖あるいは注察妄想や、被害・関係妄想の存在を示唆するものかも知 れない。 さらに、被疑者が夜中にぶつぶつと独り言を言うことが多く、真っ暗やみの中で奇妙な笑い声を出す ようにもなったと言う両親の供述は、被疑者の罹患しているのが潜伏性の統合失調症と言うより、幻聴 などの一級症状が存在する明確な統合失調症である可能性が極めて強い。 これまでに、被疑者が明確な統合失調症に罹患している可能性を考える根拠をいくつか挙げてきたが、 全く面識のない被害者に対しメリケンサックを着用して執拗に殴り続けた今回の犯行を見れば、被疑者 が幻覚や妄想などのなんらかの病的体験を有し、明らかな統合失調症に罹患していると考えるしかない。 これまでの万引き事件とは全く異なり、本件の犯行が正常心理学的に全く了解不可能であると言わざる を得ないからである。 3 犯行当時の精神障害の有無及び病名 本年4月8日の万引き事件で、私は被疑者の簡易鑑定に携わったが、そこでは、基礎疾患に何がある − 105 − 精神鑑定書: 暴行傷害緘黙事件 ― 統合失調症 にせよ、被疑者が逮捕された後に喋らなくなったことについて、意図的に疾病を装う詐病、あるいは逮 捕や拘留などの大きなストレスによって無意識的に声が出なくなったヒステリー性失声であろうとして、 善悪の判断は可能であり、責任能力はあると報告しておいた。しかし、被疑者の奇妙な仕草や表情や身 体的・精神的違和感、すなわち体感異常の存在などから潜伏性統合失調症を疑い、今後、幻覚や妄想な どの明確な精神病症状が出現する可能性も存在するとし、精神医学的な関与が必要であることを指摘し た。 その後まもなく、7月2 6日に発生した万引き事件では、簡易鑑定を行なった精神科医は被疑者を「破 瓜型統合失調症の疑い」としたが、明確な統合失調症の症状を認めたわけではなく、幻覚妄想の存在す る可能性が極めて高いとしているに過ぎなかった。すなわち、精神症状の捉え方には大きな相違は無く、 幻覚妄想が存在する可能性の判断に差があったと言える。 しかし、本年3月の万引き事件から9月の本傷害事件までの6ヶ月間に発生した4件の犯行を見ると、 被疑者が示す態度の変化が大きいことに気付かされる。 すなわち、本年3月の万引き事件では、逮捕されると一言も喋らず、筆談でうその氏名を書き、盗ん だものは別の店で買ったと記載する。しかし、問い詰められると千円札を出し、盗みが悪いことである と理解していた。4月の万引き事件でも、犯行はばれないように細心の注意をしながら実行され、ばれ ると制止を振り切って逃走しようと試み、逮捕されると犯行を否認するものの、弁解が出来ないと判断 すると全く喋らなくなって筆談での取り調べに応じている。この時も、万引きが悪いことであると認識 していたことは間違いない。 しかし、7月の万引き事件で被疑者が示した行動は、これまでとは若干の相違が認められている。警 備員に声を掛けられた時に小声で独語しながら逃げようとし、連行されてからは無言のまま事務所内で 激しく暴れ、拒絶的、易刺激的であったとされる。また、これまでの逮捕歴や犯行の否認を続けたために、 この事件の鑑定医は統合失調症の病状が進行し、症状が顕在化しているとの疑いを強く抱いたのである。 今回の事件でも、被疑者が傷害事件を起こす前の1 1時4 5分ごろに、事件現場から5 0m北にある⃝⃝ フォト体験教室に立ち寄り、教室に備え付けの黒縁の老眼鏡をかけ、そのまま店外に出ようとしている。 そこで従業員が注意したのであるが、男は何も語らず、身振り手振りで老眼鏡は自分のものだというそ ぶりをし、かけたまま出ていったと報告されている。窃盗事件とはなっていないものの、警察から被疑 者に証拠品として眼鏡の任意提出を求められた際、「返してほしい」と記載しており、犯罪であるとの 認識に無関心、あるいは欠如していると考えざるを得ない。本件の傷害事件についても、被疑者が逮捕 された後は全く喋らず、目撃者が多く犯罪事実に疑うところは全く無いにもかかわらず、筆談でも犯行 を否認し続けている。私が簡易鑑定を行なった4月の万引き事件と大きく異なるところは、この点にある。 本件である傷害事件は、上記の⃝⃝写真体験教室で老眼鏡を持ち去った約1 0分後の1 1時5 5分頃に発 生している。 「⃝⃝フォトスタジオ」従業員の供述調書によれば、事件直前、ニット帽を被ってマスク をつけた、服装もきれいとは言えない怪しい感じの男性が、写真立ての製作と販売をしている「⃝⃝ フォトスタジオ」の2階に上ってきて、身振り、手振りでペンと紙を要求し「先生おられますか」と記 載したため、先生と言われるのは後に被害者となる⃝山さんしか思い浮かばないため、「⃝山さんです か」と尋ねると小さくうなずいたと言う。そこで、休憩中でここにはいないと伝えると、「今日は 自 分 病院予約してるんで 急いでるんです。聞いてもらえます?」と記載した。そこで、他の従業員と 対応を考えていると、男は、 「ちょっと、ちょっと」と小さな声で喋り、身振り、手振りで「もういい − 106 − 精神鑑定書: 暴行傷害緘黙事件 ― 統合失調症 わ、帰る」というような仕草をして出ていったとのことである。このような供述から、被疑者と被害者 との間になんらかの接点があったのかとも考えられる。被害者の⃝山氏の供述調書では、被疑者とは全 く面識がないと述べるが、今年の春頃(他の従業員の供述では6月頃)、無言で筆談する少し変わった 人が⃝山さんに興味があり、会いたいとのことで、スタジオ⃝⃝で仕事中に訪ねてきたことがあると言 う。メモに「興味あります」と書くだけで無言、突然、持ってきたミスタードーナツの紙袋に入ったドー ナツを渡してそのまま帰ったため、被害者は気味悪くドーナツはすぐに捨ててしまったと言う。被害者 は、被疑者がこの男性と同一人物であるかどうか分からないと述べるも、他の従業員は、被疑者によく 似ており、同一人物であろうと供述している。 このようなことから、被害者は被疑者を面識していなかったと言える。両親と面談した際、被疑者と 被害者との間になんらかの関係がなかったかと尋ねてみたが、そのような人は全く知らないと言うこと であった。 本件の犯行は、 「⃝⃝フォトスタジオ」から被疑者が立ち去った直後に起こっている。被疑者は、昼 飯のおにぎりなどを買って「⃝⃝フォトスタジオ」に戻ってきた被害者と玄関前の路上で遭遇し、被害 者に突然、無言のまま右手拳で殴りつけ、さらには右手にメリケンサックを着用して頭や顔、右腕を殴 り続けたため、被害者が必死で逃げるも執拗に追いかけ、被害者が近くの「⃝⃝ギャラリー」という店 舗内に避難し、店員や観光客が間に割って入るまで暴行が続いている。目撃者は、ニット帽の男が若い 男性を殴り続け、喧嘩ではないと認識して止めに入ったが、それはすさまじかったと供述している。 このように、被疑者は被害者を特定し、躊躇することなく執拗に暴行を加え、さらにメリケンサック という器具を使用して確実な打撃を与えようとしている。すなわち、犯行は確信的で逡巡することなく 行われ、犯行後も逃げようとはしていない。本件の犯行は「誰でもよかった、人を殺して死刑になりた かった」と語る通り魔的な犯行とは思われない。被害者にたいする何らかの被害関係妄想の存在、ある いは幻覚などの精神病症状の存在さえも推測せざるを得ないが、被疑者は何も語らず拒否的で、犯行さ えも否認しており、精神鑑定においても精神症状についての新たな情報を得ることは出来なかった。 今回の犯行を正常心理学的に理解することは出来ない。精神医学的にはなんらかの病的体験の存在を 強く疑うしかなく、なによりも奇異な表情・仕草から、いわゆる 分裂病臭さ (Praecox-Gefühl)を感じ ることから、被疑者が統合失調症(破瓜型)に罹患していると判断することに問題は無いと思われる。 4 犯行当時に精神障害が存在するならば、犯行にいかなる影響を与えたか 既に述べたように、今回の犯行は、その基盤に統合失調症を仮定することによってしか理解できない。 すなわち、被疑者が統合失調症に罹患していなければ、今回の犯行は行われていなかったと言える。 5 犯行当時に精神障害が存在するならば、被疑者の善悪の判断能力及びその判断に従って行動す る能力の有無及び程度 被疑者は統合失調症に罹患していると判断され、詳細は不明ながらもなんらかの幻覚、あるいは被害 関係妄想によって、何ら特別な関係のない被害者を特定して犯行におよんでいる。被疑者は被害者の仕 事先を訪れ、不在のため引き返す途中に被害者と遭遇したことから、躊躇、逡巡することなく暴行を加 えている。この点で、被疑者は冷静に対象をとらえ犯行の判断をしており、意識障害は認められない。 被疑者は、被害者を執拗に追いかけて危害を加え続け、居合わせた観光客や店の従業員らが被害者との − 107 − 精神鑑定書: 暴行傷害緘黙事件 ― 統合失調症 間に割って入り、警官が到着するまでの間、暴行を止めようとはしなかった。また、犯行後も警官によ る逮捕を避けるために逃走しようと試みることはなかった。このことは、本犯行が確信的に実行されて いることを示している。本犯行の直前に行われた窃盗(老眼鏡)の件にしても、同様に犯行の認識は乏 しい。すなわち、被疑者は、統合失調症によって是非善悪の弁別能力が障害され、それに従って制御す る能力も全く損なわれていたと言える。従って、被疑者には、本犯行の責任を問うことは出来ないと判 断する。 6 備考 被疑者は、現在、統合失調症に罹患しており、速やかな治療が必要であると判断される。ただ、被疑 者は現在もなお病識がなく、治療には拒否的で強い抵抗が予想されることから、治療体制が充分に整っ た施設での濃厚な治療が必要であると考える。 (プライバシー保護の観点から、本鑑定書は精神医学的な内容を除いた大幅な改変が行なわれている) − 108 − 精神鑑定書: 後見開始の審判 ― 脳血管性認知症 1.事件の表示: ○○家庭裁判所○○支部 平成2 6年(家) 第○○○○号 後見開始の審判申立事件 2.本 人: 氏 名: ○下 ○子 女性 生年月日: 昭和○○年○○月○○日生(満8○歳) 住 所: ○○県○○市○○町○○番地 3.鑑定事項及び鑑定主文: 鑑定事項 ①精神上の障害の有無、内容及び障害の程度 ②自己の財産を管理・処分する能力 ③回復の可能性 鑑定主文 ①脳血管性認知症の軽症ないし中等症程度であり知的能力に著しい障害がある。 ②自己の財産を管理・処分するには常に援助が必要。 ③回復の可能性は低い。 4.鑑定経過: [受 命 日]平成2 6年1 1月 1 2日 [作 成 日]平成2 6年1 2月2 5日 [所要日数] 4 4日 [本人の診察・参考資料] 平成2 6年1 2月2 1日午後1時から午後5時まで公益財団法人豊郷病院精神科外来にて問診、心理テ スト、頭部CT検査、並びに血液検査を行った。併せて、同日、本人付添いの社会福祉法人○○会特 別養護老人ホーム ○○園 生活支援課 介護支援専門員 ○○○○より本人の生活状況について面談聴 取した。又、○○○○が当日持参したフェイスシート(平成2 3年○月○○日作成)、施設利用面談記 録(平成2 4年○月○日調査)及び介護保険居宅サービス用健康診断書(平成24年○月○日診断)も 参考にした。 − 109 − 精神鑑定書: 後見開始の審判 ― 脳血管性認知症 5.家族歴及び生活歴: 同胞○人中、第○子。○○県○○出身。出生・発育の詳細は不明。中学卒業後、実家で農業を手伝うが、 その後、○○市○○近辺の料理屋で手伝いをした。2 0歳代で結婚したが夫の暴力が原因で半年内に離婚。 平成9年、○○県に転居。平成1 9年○月脳梗塞後、○不全片麻痺にて自宅での生活が困難となり、老 健施設やショートステイを利用。平成2 4年○月改訂長谷川式簡易知能評価スケール(以後HDS-Rと略 す)は2 1点、同年3月で2 6点であった。平成2 4年○月現施設の○○園に入所された。入所当初から車 いすなるも立位保持は可能だった。然し、徐々に身体機能が低下し立位が保てず、車いすからの移乗も 介助が必要となった。又、携行している数千円の小遣いを時折紛失したり、時間の感覚が曖昧で施設内 での生活に困難をきたしたりすることもあった。 6.既往歴及び現病歴: 既往歴として、2 0歳代の時に虫垂炎、平成19年○月脳梗塞にて○不全麻痺、平成○年○月○○骨○ ○骨折にて手術、平成○年○月けいれん発作、平成○年○月に心臓ペースメーカーを植え込む。又、発 症時期不明なるも高血圧症、大球性貧血を指摘されている。現病歴は、生活歴に併せて記載する。 7.生活の状況及び現在の心身の状態: 日常生活の状況 本人は平成2 4年○月から現在の施設に入所中である。入所時から車いすで過ごされているが、当初 可能だった姿勢保持や立位が出来なくなったとのこと。食事や洗面は介助なく遂行することはできるが、 車いすの移乗や排泄行為は常に介助が必要な状態とのことである。外出は半年に1回程度しかなく、殆 どを施設内で過ごされる。時折、テレビや新聞をみることはあるが、日中から臥床がちである。時間の 感覚が曖昧で施設内で予定に合せて生活することが難しい場面もある。金銭管理は自らすることなく専 ら施設で行っている。但し数千円程度の小遣いは自分で所有し、施設職員に菓子等の買い物を依頼する 際使用している。然し時折それを紛失することがある。 身体の状態 ①理学的検査: 歩行不能で車いすを使用。○手握力が弱く、○口角下がっているが、開口した際、軟口蓋の麻痺や舌 の偏位・萎縮は何れも認めず、発語に不明瞭さはない。やや難聴で接近し明瞭に話さないと理解でき ない。 ②臨床検査(尿・血液等) : 鑑定時の血液検査で軽度の異常は認められたが精神症状に著明な影響を与える程度のものではない。 尿意を催さず尿検査は不能であった。 ③その他: 鑑定時の頭部CT検査では前・側頭葉の委縮及び陳旧性梗塞を示唆する低吸収領域が見られた。 − 110 − 精神鑑定書: 後見開始の審判 ― 脳血管性認知症 精神の状態 ①意識/疎通性: 問診時、意識レベルは清明で、鑑定に当たって拒否的な態度はなく、鑑定人からのあいさつや質問に 穏やかに答えていた。疎通性は概ね良好であった。 ②記憶力: 本人の生年月日は正答され、年齢については満8○歳と2歳の誤差がある回答をされた。 ③見当識: 場所の見当識(滋賀県豊郷町)及び時間の見当識、月・日(1 2月2 1日)は保たれていたが、年につ いては、複数回尋ねるも平成4年や平成8年と回答され正答を得られなかった。 ④計算力: 「400円持っていてその内7 5円使ったら幾ら残ってますか?」の問いには正答されたが、「15個のケー キを3人で等分に分けたら一人何個?」の問いには答えられなかった。1 0 0から7を順番に引くよう 指示したら「9 3」と正答した後、 「7 7」と回答され正答には至らなかった。 「月6万円必要だったら 年間幾ら必要か」の質問に対し「大体80万いや90万かしら」とか「月8万円必要だったら年間幾ら 必要か」の問いに「1 0 0万はいかないでしょう」と概算はできる様子であった。 ⑤理解・判断力: 言葉を通じての理解は表面的には可能であった。最近気になるニュースは何か?と問うと、一応回答 された。但し続けてその内容について質問したら、複数の内容を混同して詳細理解していない様子で あった。後見の鑑定の為に診察に行く旨、事前に説明があったにもかかわらず、問診時、本日の診察 目的について問うても理解出来なかった。更に現在の生活費についても過去に説明があったにも拘ら ず、殆ど理解していなかった。 ⑥現在の性格の特徴: 問診時、終始穏やかに対応され、興奮や易怒性を認めなかった。施設でも周囲に対して問題行動なく 過ごしている様子であった。 ⑦その他(気分・感情状態・幻覚・妄想・異常行動等): 施設内で日中、特に何もせずに若干無為に過ごしているというが、問診及び介護支援専門員の話から は抑うつや著明な意欲低下、幻覚・妄想、異常行動等何れも認めなかった。 ⑧知能検査、心理学的検査: HDS-Rは2 2点、Mini-Mental State Examinationは22点であった。見当識や即時記憶、短期記憶等は 殆ど正答できた。野菜語想起の失点から前頭葉機能低下を、図形模写や時計描写の失点から空間認知 機能低下を疑う所見が得られた。 8.説明: 本人は平成1 9年○月に脳梗塞発作を起こしている。その後の経過及び問診、鑑定時の頭部CTの所見 等から判断すると、本人は脳血管性認知症に罹患していると診断される。但し、認知機能について見当 識や短期記憶等一部保持されている部分もあり、その程度は軽症ないし中等症であると診断される。 本人は少額の買い物の依頼は単独で可能であるが、毎月の生活費等については過去に説明しても殆ど 理解していない状態である。又、日常生活において必要な判断力や論理的思考が低下していることが伺 − 111 − 精神鑑定書: 後見開始の審判 ― 脳血管性認知症 える。これらより金銭管理は自分で行えず、自己の財産を管理・処分するには常に援助が必要であると 考える。 脳血管性認知症の症状は現在のところ急激な悪化はないが、遂行能力低下等、低位で固定されており、 不可逆的な状態であると判断される。今後、更に進行する可能性はあるが、回復する見込みは低いと言 わざるを得ない。 以上の通り鑑定する。 住 所: 滋賀県犬上郡豊郷町八目1 2 所属・診療科: 公益財団法人豊郷病院 精神科 氏 名: 白井 隆光 (本鑑定書を掲載するにあたり、プライバシー保護の観点から内容の一部を改変した) デイケア裏庭に咲く露草 − 112 − 精神衛生診断書: 万引き幻聴事件 ― 統合失調症 平成2 7年2月3日 医師 林 拓二 受診者氏名: ○山 ○子 女性 生 年 月 日: ○○年○月○○日生(満5○歳) 被疑者は、平成2 7年○月○○日午後3時5 0分頃、○○県○○市○○町○○番地に所在の株式会社○ ○堂○○店において、同店店長○川○雄管理にかかる牛乳1パック他1 7点(販売価格合計4 2 7 9円)を 窃取したものである。 被疑者は平成○○年○○月○○日に窃盗(万引き)で検挙されて以降、平成○○年○月○日に窃盗(賽 銭ねらい)、平成○○年○月○日にも窃盗(万引き)で逮捕されて、○○簡易裁判所で罰金3 0万円の判 決を受け、平成○○年○月○○日には窃盗(侵入窃盗)で逮捕されて、○○地方裁判所で懲役1年、執 行猶予2年の判決を受けている。しかし、執行猶予中であるにもかかわらず、その後も万引きを繰り返 しており、平成○○年○○月○○日に窃盗(万引き) 、平成○○年○月○○日にも窃盗(万引き)で逮 捕され、被疑者の逮捕歴は合計6回に及んでいる。さらに、被疑者は平成○○年○月○○日より○○赤 十字病院精神科に通院していることから、精神疾患の有無および犯行への影響を検討する必要があると 考えられる。 そこで、精神科医である私は○○地検○○支部の求めにより、平成2 7年1月2 9日午後1時から午後 2時2 0分までの間、大津地方検察庁長浜支部庁舎内で被疑者を診察した。以下に、その結果を報告する。 1 現在の状況 (1)身体: 被疑者の陳述によれば、3歳頃に○○大学附属病院小児科で甲状腺機能低下症と診断されて以降、 2 2歳頃まで同院甲状腺内科に通院、その後○○市立病院に転院、2 5歳頃から現在までは○○赤十字 病院内科に通院し、チラージンSを1日2−3錠の服用で安定している。また、低血圧のため薬物を 服用しており、現在は1 1 0/9 0と問題は無い。 被疑者はやや小柄とは言えるが、甲状腺機能低下症が幼少時に発症する場合に時として認められる 低身長は認められない。顔はやや浅黒く、色艶や張りはない。やや痩せ気味と言えるが、黄疸など肝 障害を思わせる徴候は認めない。なお、酒は嗜まないが、タバコは1日に1 0本位吸っている。 (2)知能: 被疑者は、市立○○高等学校普通科を卒業後、○○市内のブラウン管製造会社で工員として9年 と6ヶ月間働き、結婚を機に退職している。このような経歴から、知的なレベルがとりわけ低い精神 発達遅滞とは考えられない。 診察時でも、被疑者への簡単な質問に対しては速やかに返答する。すなわち、被疑者の意識は清明 − 113 − 精神衛生診断書: 万引き幻聴事件 ― 統合失調症 であり、見当識障害は見られない。しかし、改訂長谷川式簡易痴呆評価スケール(HDS-R)に基づく 質問では、3 0点満点のうち2 6点であった。この4点の減点は、5個の物品の想起が2個出来なかっ たことと、暗算問題(9 3−7)に時間がかかり、結局、誤答を繰り返したためであるが、この結果は、 被疑者が集中力に欠け、課題の遂行を簡単に断念する傾向にあると言えるのかもしれない。もちろん、 WAIS-Rあるいは鈴木ビネーなどの知能テストを施行して正確なIQを判定すべきであろうが、私の診 察結果から判断する限り、粗大な知的障害はないと判断される。 (3)性格: 被疑者の病歴を見れば、幼少時より甲状腺機能低下症を患い甲状腺剤の服用を続け、病状は概ね安 定していたようで、高校卒業後に就職したあと、結婚を機に仕事を辞めて夫の仕事の手伝いをしてい た時までは、精神的・身体的な面でさほどの問題はなかったと考える。 しかし、夫の会社の経営が悪化し、家計を助けるためにスーパーや工場でパート勤務を始めると仕 事中にミスがあったり、いじめにもあったりして、人間関係が嫌になり、仕事は長続きしなかったと 言う。平成○○年○月に、夫が借金を苦に自殺する前後は、体調のみならず精神症状も出現し、○○ 赤十字病院精神科に通院し治療を受けている。その後もパートの仕事は動作が遅いということでクビ になり、平成○○年から始めたホテルの洗い場での仕事も平成○○年○月にクビになっている。それ 以降、仕事には就いていない。 被疑者は○○赤十字病院の内科に通院して甲状腺剤を服用しているが、一般に、甲状腺機能低下症 の場合は元気がなくなり、疲れやすく、動作が緩慢となり、抑うつ症状が認められることもあるとさ れる。さらに、記憶力の低下や集中力の低下によって、一見、知的なレベルが低下しているがごとき 印象を受けることもありうる。そこで、夫が死亡する前後から、被疑者の態度や行動が明らかに変化 していることや、夫の死後に実家で「家のものを勝手に盗み、嘘をつく」ようになったとされるのが、 甲状腺機能低下症による影響と考えられなくもないが、次項で述べるように、統合失調症に罹患して いることが何よりも大きく影響していると考えるべきであろう。 (4)精神障害の有無: 被疑者が、平成○○年○月と○○月の2回逮捕された際、それぞれの時点で捜査関係事項の照会が 行われているが、主治医である精神科医師○村氏は、 「○○赤十字病院精神科の初診は平成○○年○ 月であり、幻聴と不眠を訴えて来院、持病の甲状腺機能低下症のためにホルモンのバランスを崩して 精神的に不安定となっている。そこで、症状性精神病として外来通院治療を行なっている」と回答し ている。また、平成○○年○月に逮捕された際の捜査関係事項の照会に対し、○村氏は○月○○日付 で回答し、 「病名は妄想型統合失調症で入院歴は無く、不眠と倦怠感の訴えがあるものの、幻聴はほ ぼ消失しており、現実検討能力は保たれている」としている。さらに、今回の事件によって、平成○ ○年○月○○日付で回答された○村氏の回答書では、病名として妄想型統合失調症と甲状腺機能低 下症が挙げられ、「平成○○年○月の初診以後、薬物療法によって幻聴は軽減していたが、平成○○ 年○○月頃より服薬通院が不規則となり、幻覚妄想の訴えが目立っていた」とし、「不眠、幻聴の他、 物を盗られるといった被害妄想が見られる」としている。そして、 「幻覚妄想に影響された行動が出 現している可能性は否定できず、是非弁別能力は低下しているかも知れない」と記載している。 今回の診察に際し、私が明らかにしたかったのは被疑者に見られる精神病症状がいつ頃から始まり、 どのような内容であるのか、という点である。 − 114 − 精神衛生診断書: 万引き幻聴事件 ― 統合失調症 私の質問に対して被疑者が述べるところでは、幻聴は本人が3 8歳時に、突然耳から人の声がした とのことである。そこで、盗聴器が仕掛けられているのではと思い、耳鼻科で診てもらったという。 これは夫が自殺するより前のことであり、夫が亡くなったのは本人が4 0歳の時であると言う。しかし、 被疑者は夫が亡くなって2−3ヵ月後に旧姓に戻した(平成○○年○○月、戸籍で確認)とも語って いることから、夫の死亡は平成○○年○月頃(本人4 5歳)とも推測される。兄の○夫氏の調書によ れば、被疑者の夫が死亡したのは平成○○年○月頃と言い、被疑者は夫が亡くなったショックで精神 科に通うようになったと言う。ただ、○夫氏による別の調書では、被疑者の夫が亡くなったのは1 3 年前であるとも述べており、どちらが正しいのか判断できない。何年前と言う曖昧な陳述よりは、平 成何年と言う表現の方が信頼できそうであるが、いずれにしても、被疑者は○○赤十字病院精神科を 初診した平成○○年○月(本人4 5歳)以前に精神病症状が発現していたことは間違いなく、発症年 齢は3 8歳から4 5歳の間とするのが妥当であろう。 発症年齢に関する被疑者の返答と異なり、被疑者は幻聴や病的な体験に関してかなり詳細、具体的 にその内容を語っている。すなわち、幻聴の主は、キムラ・ヒロアキという○○赤十字病院の整形外 科医であり、椎間板ヘルニアで1ヵ月ほど入院した際の主治医であったと言う。 「ゆっくり歩きたい のに、<早く歩け>と指図される」、 「いやらしい話をしてくる」、「声がするだけで、姿が見えること は無い」、 「身体を機械で押さえつけられる」、 「誰かが、後ろからピッピッピッとクラクションを鳴らし、 私を慌てさせる」、 「<死ね>と書いた紙を、藁人形に張り付けている」など、奇異な幻覚妄想や被影 響体験が述べられているが、これらの症状は、統合失調症に認められる特徴的な症状であって、シュ ナイダーが統合失調症の一級症状と呼んだものである。 主治医の○○氏によれば、被疑者は初診後、薬物療法によって幻聴などの病的体験は消失、あるい は軽減していたものの、平成○○年○○月頃より通院・服薬が不規則となり、幻覚・妄想の訴えが目 立っていたとのことであるが、私の診察時に被疑者は、平成○○年○月○○日からキムラ先生の声が 耳の中に聞こえるようになったと言う。その日はしんどくて、甲状腺外来で点滴をして貰ったが、キ ムラ先生の声で直接「歯も盗った、ボロボロにした」と聞こえ、声は小さくなることもなく、続いて いると言う。さらに「腰に釘なんか・・・機械で触られる、目や耳や口や頬も喉もあっちこっちやら れて痛い」、 「鍵を落として、誰かに拾われた。拾ったのはキムラ先生」、 「私のいない時にアパートに 入ってお金を盗る。お米も盗られた。レトルトのごはんも盗られた。貯金していたお金もなくなった。 犯人はキムラ先生。自分が盗ったと言ってくる」、「<○ヤマ、死ね>、<僕と一緒に死ね>と言う声 が聞こえる」と言い、幻聴のほか、被害関係妄想や身体幻覚などが認められる。 精神病でない者がいくら精神病を装おうとしても、このように多彩な精神病症状を次々に訴える ことは出来ない。すなわち、被疑者が精神病を装っていると考えることは出来ず、発症年齢が3 8− 4 5歳とやや遅いものの、統合失調症に罹患していることは間違いない。ICD-1 0の診断基準に従えば、 妄想型の統合失調症(F20.0)と診断するのが妥当であろう。 2 犯行時の精神状況 被疑者は○月○○日の犯行時のことを詳しく覚えており、体調がすぐれず昼過ぎまで寝ていたが、3 時ころから軽自動車を運転して外出しており、意識は清明であったと考えられる。ただ、○月に入って 所持金が少なくなり、食費を節約するために近くのコンビニで2−3回飲食物の万引きを行なったがバ − 115 − 精神衛生診断書: 万引き幻聴事件 ― 統合失調症 レなかったことから、○月○○日の犯行日にも、万引きしようと考えて出かけたと述べている。しかし、 最初に入ったコンビニでは店員に注意されたために諦め、すぐ近くの○○堂に行き、万引きして逮捕さ れることとなる。 犯行の動機は単純で、生活費が足りなかったからと言い、これまでに何回も逮捕されていることから 万引きは悪いことだとは分かっており、もう絶対にしませんとも繰り返し謝っているにもかかわらず、 「バレなければ大丈夫だと思っていた」と言う。今年になって数回万引きしているものの、捕まらなかっ たという成功体験があって今回もまた同様な行為を繰り返しているのであろう。現在、以前の万引き事 件の裁判中であり、また執行猶予中でもあるが、「バレなければ良い」と思っていたと言う。 ただ、今回の犯行が特異な点は、万引きした商品の種類の多さであり、計画的とは言い難く、盗みが バレないようにする配慮に欠けていることである。万引きした商品を見れば、一見、手当たりしだいに 盗ったとの印象があり、フリースのベスト、エプロン、靴下などの衣料品から、ゴミ袋、髪止め、芳香剤、 歯ブラシ、ウェットティッシュなどの衛生用品、牛乳、チョコパイ、ポテトスナック、菓子パン、和菓 子、鍋焼きうどん、ツナ缶、カップライスなどの食料品まで、さまざまな物品がポケットか手提げカバ ンに入れられていた。これでは、確実にバレることになろうが、当然ながら、店員に声を掛けられている。 しかし、逃げようとすることもなく、「商品を返すので許して下さい」と素直に謝っている点に、犯行 の単純・素朴さが窺える。 被疑者は甲状腺機能低下症の影響もあって最近体調が悪かったと言うが、精神的にも「キムラ先生の 声が聞こえ」、 「うるさく言ってくるのでシーと言うけど、おとなしくしてくれない」のでストレスがた まってイライラすると言う。そのため、頓服で処方されている安定薬「デパス」を飲むが、イライラは 止まらなかったとのことである。このように、統合失調症の病状の悪化に伴って幻聴などの病的体験が 生じ、集中力、判断力が低下していたと考えられる。さらに、幻聴は買い物の最中にも存在し、無視し ようとするが「あれを買え、これも買え」と聞こえ、牛乳などは「身体に良いから買え」とも命令して きたと言う。ここでは、「買え」という指示であって、「盗れ」と言う命令ではない点に注目すべきであ ろうが、統合失調症による幻聴などの病的体験が本件犯行に大きく影響していることは確かである。 3 精神障害と本件犯罪発生の機序との関係(責任能力) 被疑者は万引きが犯罪であり、悪いことであることは自覚していたと思われる。ただ、被疑者は「家 に帰ってもお米がないんです、お金があれば盗らないけど」、「止めようと思ってはいるんですけど、捕 まると思っても止められなくて、捕まらないだろうとも思って」と述べている。犯行の動機は了解でき なくもないが、違法性を認識していながらもその判断に従って行動を制御することが出来なかったと言 える。一般に、常習の万引きはこのような心理的な過程によって行われるのであろうが、今回の犯行が 特異的であるのは、被疑者が統合失調症の急性増悪の状態にあり、幻聴による指示・命令が行動を制御 することを極めて困難にさせていることである。すなわち、被疑者は統合失調症の罹患によって弁識能 力はともかく、とりわけ制御能力が著しく障害されていたと考えられる。従って、被疑者の犯行時には、 責任能力が著しく減弱した状態(心神耗弱)であったと判断される。 − 116 − 精神衛生診断書: 万引き幻聴事件 ― 統合失調症 4 今後の処置に関する意見、その他参考事項 (1)正式鑑定の要・否 精神医学的判断は上記に述べる如きものであり、さらに正式鑑定を行なうにしても新しい情報が得 られるとは考えられない。 (2)精神障害者等通報の要・否 現在、統合失調症として○○赤十字病院精神科に通院、治療中であり、通報の要を認めない。 (3)その他:なし。 5 備考 なし。 (本診断書を掲載するにあたり、プライバシー保護の観点から内容の一部を改変している) 台湾連翹(豊郷町) − 117 − 精神衛生診断書: 睡眠剤傷害事件 ― アルコール依存症 平成2 7年3月8日 医師 林 拓二 受診者氏名: ○竹 ○恵 女性 生 年 月 日: ○○年○月○○日生(満4○歳) 被疑者は、平成2 7年○月○○日午後2時3 0分頃、○○県○○市○○町○○番地のアパート○○荘○ ○号室において、自身の長女○竹○子(当時6歳)に歯痛の薬と偽って睡眠薬を飲ませ、よって同女に 加療1日を要する急性薬物中毒の傷害を負わせたものである。 被疑者はこれまで、覚醒剤取締法違反や飲酒後の傷害事件により逮捕歴があり、またうつ病として精 神科クリニックに通院中であることから、精神障害の有無および本件犯行との関連を検討する必要が あった。そこで、私は○○区検察庁の求めにより、平成27年3月3日午後2時から午後3時45分まで の間、○○県○○市の○○区検察庁内で被疑者を診察したので、ここにその結果を報告する。 1 現在の状況 (1)身体: 被疑者は身長1 5 9cm、体重5 0kgの中肉・中背の女性であり、肝障害や腎障害を疑う黄疸や浮腫な どを認めない。なお、4か月前の平成○○年○○月○日に○○クリニックで施行した血液検査所見に おいても、肝・腎機能に顕著な異常を認めていない。γ-GTPの値も正常範囲内であり、この時期に おいてアルコール乱用を示唆する所見は見られていない。 (2)知能: 診察時、医師の質問には速やかに返答し、なお且つ、積極的に自分の過去および犯行の状況を説 明する。被疑者の「もの忘れがひどくなった」との訴えで、長谷川式簡易知能評価スケール改訂版 (HDS-R)を用いた検査を行なったが、3か所で簡単な間違いがあったもののすぐに訂正し、減点し 得るミスではなかった。当然ながら、被疑者が危惧する「若年性認知症」を疑う必要はない。 (3)性格: ○○警察署での本人供述調書(○月○○日)によれば、自分の性格を神経質と言い、些細なことに 拘り、確認強迫や潔癖症的な傾向があると述べている。そして、基本的には人付き合いが苦手である ものの、相手の出方を見て接し、好き嫌いの感情が極端である。確かに、両親に対して激しい憎悪の 感情を示す一方で、ママ友や市役所の関係職員、あるいは主治医である精神科医師に対しては依存的 で良好な関係を維持している。両親に対する憎悪は、中学時より素行が悪く、雄琴でのソープ勤務や そこで知り合った男性に貢いで7 0 0万円からの借金をしていたことなどを両親から口うるさく注意さ れてきたことに対する逆恨みとも考えられるが、被疑者は父がアルコール依存症で幼時から虐待を受 けてきたからであると主張する。しかし、同様に父親から殴られたとする妹は、被疑者とは異なり、 − 118 − 精神衛生診断書: 睡眠剤傷害事件 ― アルコール依存症 両親を怨んでいるとの報告はみられない。 被疑者の性格で特徴的なのは極めて不安定な対人関係である。すなわち、これまでは依存的で良好 な関係にあったものが、一転して見捨てられたと感じたり、憎悪にまで移行することもあり得る。被 疑者が離婚して実家にいた時、子供の風邪の対処から父母と口論になったが、その時「今から、元の 夫に頼んで包丁で両親を殺して貰う」と妹にメールした(母の供述) 。それを、妹が両親に告げ口し たために実家から追いだされてしまったと妹を怨むようになる。そして、両親だけでなく妹も「殺し たい」とのメールを元夫に送っている(メール履歴)。また、主治医に「早く働きたい」と言ったと ころ、「社会復帰したら親子でつぶれてしまう」といわれ、「もう二度と働くことが出来ないような絶 望感」に襲われたと言い、さらに、生活保護の担当者にも同様なことを言われ、週に2−3日は働け ると思っていたのにとショックを受け、「もう終わった、死にたい」とのメールが元夫のもとに送ら れている。 元夫によれば、被疑者が自殺を仄めかすことはこれまで何度もあったとのことであるが、本気だっ たかどうかは分からないと言う。しかし、その後も「殺したい、死にたい、2つの気持ちが交差して るねん」とのメールが送られてきている。確かに、その多くは自らの責任に帰すべきものであろうが、 恥ずべき生活を清算し、幼児を抱えながら健気に生きる姿を見せようとしたものの、ソープ時代の借 金などもあって現実の生活を大きく変えることが難しく、自責感情とともに、幼時からの虐待を理由 に父母への強い他責感情が生じる情況になったのであろう。 母親や妹の話(母や親戚の供述)によれば、被疑者は「外面(そとづら)はいいが、嘘つき」と言 う。私の診察時にも、「子どもの時から父親に虐待を受けた。役所でも医者にも虐待の事実を訴えて おいたから、お前らは逮捕されるはずだと、両親に言っておいた」と喋るが、当然ながら、母親は「主 人は子供に暴力を振るってはいない」、「口うるさく言って、喧嘩になっていたのは私」と言い、被疑 者が主張する虐待を否定している。私は、診察時に何度も確認してみたが、虐待についての真偽は不 明であると言わざるを得ない。しかし、被疑者の発言にはかなりの嘘(覚醒剤使用の回数など)があ り、あるいは誇張(虐待とは言い難い内容もすべて虐待と主張)が混じっていることは確かである。 (4)精神障害の有無: 被疑者は1 5歳頃にグループでの窃盗により保護観察処分となっているが、シンナーなどの有機溶 媒を使用したことはない。高校卒業後の4−5年間、いくつかの会社に勤務した後、被疑者は雄琴 でソープ嬢として働いている。そこで、2 7−8歳頃に肉体関係のある主任に誘われてシャブを経験、 覚醒剤取締法違反にて逮捕される(懲役1年6ヶ月、執行猶予3年6ヶ月) 。その際に精神症状が見 られ、「自衛隊が追いかけてくる」、「爆弾が落ちる」などと口走り、母親に「(琵琶湖遊覧船の)ミシ ガンに乗って近江八幡まで迎えに来て」と連絡している。このような精神病症状は覚醒剤依存に基づ く精神病に特徴的なものと言える。ただ、私が診察した際、繰り返し尋ねたにもかかわらず、シャブ は一回、炙りで使用しただけと述べ、複数回の使用を認めた警察署での陳述とは大きく異なっている。 被疑者が何故、シャブは1回しか使っていないと主張し続けるのかは理解し難いが、過去に犯した罪 を出来る限り軽減しようとする願望と考えてもよいのかも知れない。 この頃、被疑者は覚醒剤だけでなく睡眠薬も常用しており、3−4か所の医院をまわってハルシオ ン(睡眠薬)を集め、1日8錠と多量の錠剤を服用していた。すなわち、被疑者は当時、睡眠薬依存 でもあったと言える。 − 119 − 精神衛生診断書: 睡眠剤傷害事件 ― アルコール依存症 被疑者はまた、アルコール依存症でもあった。被疑者は3 0歳頃まで水商売に関わっていたが、そ の後はガソリンスタンドなどでアルバイトをしたり看護助手などをして働いていたが、4 5歳時に結 婚した○重○夫氏の供述によれば、被疑者は毎晩のように飲酒しては暴れていたとのことである。平 成○○年○月には、酒を「いやになるほど飲んで(被疑者の供述)」夫の腕を包丁で刺し、○○署に 傷害で逮捕されている。そこで、アルコール中毒として○○の○○病院に通院し、酒害やアルコー ル依存症の治療・教育を受けている。○○病院では、平成2 6年6月まで外来治療を行い、酒は飲ま なくなったものの、代わりにうつ病が始まり、抗うつ薬が処方されたとのことである。この時、パキ シル(抗うつ剤)を飲むと自殺する危険があると友人から聞いていたため、「まだ死にたくないから、 パキシルだけは出さないでくれ」と担当医に頼んだと言う。そこで、私は<今でも死にたくないのな ら、安易に「死にたい、死にたい」とは口走るな>と注意すると、被疑者はすなおに「はい」とうな ずいて苦笑していた。 今回の鑑定で最も検討すべき点は、被疑者がうつ病に罹患している(いた)かどうかの判断であろ う。私の診察時、被疑者には抑うつ的な表情は見られず、むしろ快活と言ってもよいほどで、医師の 質問にも積極的に答えている。しかし、「うつ病にかかっている」と述べるため、<現在、あなたの うつ病は10点満点としたら、何点と考えるか?>と尋ねると、「5点」と答える。そこで、<どのよ うな症状が見られるのか?>と問うと、「頭がざわざわする」、「ぞろぞろと頭の中にヤスやムシが歩 く感じがする」、 「電流が走る感じがする」など、体感症あるいは皮膚の感覚異常と考えられる症状を 述べ、さらに「過呼吸が出てくる」、 「体温調整がうまくいかない」、「真冬でも顔から汗が出る」など の自律神経症状を訴える。そして「このような症状は、○○病院に通院していた時からある」と述べ ている。すなわち、これらの症状から判断すると、「内因性のうつ病」と言うよりは、いわゆる神経 症圏の「自律神経失調症」とする方が適当であろう。被疑者は、このような症状が出現するようになっ た原因として、アルコール中毒の父親が母親に暴力をふるうドメスティック・バイオレンスの家庭で 育ったためであると言う。そして、「小さい頃に父に殴られた時、母は笑っていた。その顔が離れな い(忘れられない)」ため、 「両親は嫌い」と言い、悪口ばかり言われて育ったために、 「母をみると 手がしびれ、 耳鳴りがし、声を聞くだけで吐き気がする」と述べ、 「父が乗っている車と同じ車種が走っ ていると、しゃがんで隠れてしまう」と言う。<幼児虐待か教育的指導かの判断は難しい。やんちゃ をしたり、盗みなどの悪いことをしたら、それなりの指導をするのが親の務めではないか>と私がコ メントすると、 「殴られたのは悪さをした時だけではない、そこまでするかと言うほど限度なく殴ら れた」と反論する。被疑者の妹もまた、同じような父親の暴力により顔面が腫れあがり、その時の血 しぶきが今でも自宅の襖にこびり付いているとも言う。 主治医である○○医師は、被疑者を「不安神経症、うつ病」と診断している(○月○○日付回答書) が、この診断書の意味するところは「内因性うつ病」ではなく、最初に挙げられた「神経症」に重点 があると推測され、従来の診断で言えば「抑うつ神経症」と考えるのが妥当であろう。ICD-10を使 用すれば「身体表現性障害自律神経機能不全(F45.3)」となる。 ○○クリニックへの初診は平成○○年○○月○日である。当時、被疑者は平成○○年○月に離婚し て実家に戻って両親と生活していた頃であり、○○クリニックでの診療録には両親に対する不平・不 満、虐待などの他責的な訴えで埋められている。実家は地獄と言い、両親からいじめられ、怒鳴られ る夢を毎日見るために熟睡感がなく、母を見ると不安や吐気、耳鳴りや左手のしびれ感などが出現し、 − 120 − 精神衛生診断書: 睡眠剤傷害事件 ― アルコール依存症 母が作った煮物などは見ると吐き気がすると言って食べなかったと言う。被疑者が激やせして45kg に減っていたのもこの頃であるが、両親とりわけ母親に対する恨みつらみと葛藤による反発が大きく 影響していると考えられる。 上記の結果をまとめると、被疑者の診断は「抑うつ神経症」が妥当であり、現在の症状は自律神経 症状であって、抑うつ症状は認めない。なお、被疑者は覚醒剤や精神薬物の依存になり易い性格であ り、現在はアルコール依存の状態と考えられる。性格的には情緒不安定性人格障害(F60.31)に分 類されよう。 2 犯行時の精神状況 被疑者が娘に睡眠薬を飲ませた2月12日午後2時3 0分頃、被疑者は飲酒しており、犯行直後の午後 2時45分頃、被疑者より電話を受けた○○市役所社会福祉課保護係の○○氏によれば、「今から死にま す。 (担当の)○○さんにお世話になりました」と一方的に言うも、呂律が回っておらず、他の言葉は 聞き取り難かったと言う。午後○時○○分頃に○○県○○警察署で施行された呼気中のアルコール濃度 検査では、0.7 0mg/Lの値を検出し、酒気帯び状態と判定され、被疑者は犯行時、酩酊状態にあったと 考えられる。 しかし、同日に行われた○○警察署における取り調べでの供述では、自己の経歴などを詳しく正確に 述べており、犯行の動機についても、「子育てから逃れたい、嫌なことから開放されて無になりたい」 、 「○子(子供)の首を絞める勇気がなかった。○子にクスリを渡す手が震えていた。怖くて涙が出た」、 「○子が死んだら、自分も死のうと思っていた」と言い、「○子の姿をみていると、このままではアカン、 助けないと」と思って福祉課の○○氏に電話したと言う。ここでは、子供に対する殺意を窺わせる内容 であるが、同日に行われた別の調書では、「生理中で体調が悪かった」 、「○子がはしゃいでいて静かに してくれなかった」 、 「(睡眠)薬を飲ませれば、眠たくなって寝てくれるだろう」と思って、子供に睡 眠薬を飲ませたが、子供は睡眠薬による酩酊状態(ハイな状態)になり、心配になって○○氏に電話を したと陳述し、子供に対する殺意は否定し、自己本位、身勝手としか思われない犯行理由に変わっている。 このように、被疑者の陳述が短時間に変遷していることは、被疑者になおアルコールの影響が残って いて、意識清明とは言い難い状態にあったと考えられなくもないが、一方で、自己の供述が今後の審理 に及ぼす影響を考慮した上で、陳述を変えている可能性も否定しえない。 しかし、鑑定時に被疑者は「すみません、酒を飲んでしまって。○○病院でも、また酒に手を出した らズルズルいってしまう、といつも言われていました」、「酒飲んでやったことは、責任とらんといかん のは知ってます」と述べ、アルコールによる影響下での犯行であることを率直に認めている。 3 精神障害と本件犯罪発生の機序との関係(責任能力) 被疑者は、アルコール中毒で○○病院に通院した経験があり、アルコールによる影響についても良く 理解し、酒を飲み出したら止められなくなる、その結果としていかなる事態が起こるかを承知してい た。しかし、2月に入ってからアルコールを摂取し続け、ついにはアルコールの酩酊状態(呼気濃度: 0.7mg/L)により、善悪の判断や行動を制御する能力に若干の減弱を来たし、子供を眠らせて静かにさ せようとする自己本位且つ短絡的な思考から自身の子供に睡眠薬を投与したものである。 このように、本件犯行にアルコール依存症が大きく影響していることは確かであるが、飲酒によって − 121 − 精神衛生診断書: 睡眠剤傷害事件 ― アルコール依存症 生じる結果を充分に理解しながら、自らの意志によってアルコールに手を出しており、飲酒開始時には 自己の意志に従って行動できる状態にあったと考えられるために、本件犯行の責任は問われるべきであ る。酩酊状態においても、強い意識障害と激しい興奮を特徴とする病的酩酊では責任能力の減免が認め られるが、本件の犯行は単純酩酊であって、責任能力を減免すべき病態ではない。 4 今後の処置に関する意見、その他参考事項 (1)正式鑑定の要・否 本犯行は、アルコール摂取下の酩酊状態において実行されたものであり、アルコールの影響を否定 することは出来ないが、他の精神疾患の影響を考慮する必要はない。被疑者が強く主張するような両 親による虐待の結果、身体的な不調が生じていたとしても、存在するのは神経症症状であって精神病 症状ではなく、責任能力の判断に影響するものではない。それ故に、さらに正式鑑定を行なうにして も、新しい情報によって異なる判断がなされるとは思われず、その必要性を認めない。 (2)精神障害者等通報の要・否 被疑者は現在も○○クリニックに通院・治療中であるが、幻覚や妄想の精神症状や希死念慮などの 抑うつ症状は存在せず、自傷、他害の惧れは認められない。従って、通報の必要を認めない。なお、 本人の訴えによれば、現在も自律神経症状があり、引き続き通院治療の継続は必要と考える。 (3)その他:なし。 5 備考 なし (本稿はプライバシー保護のために、精神医学的な内容を除いて一部を改変している) マルバルコウソウ(JR稲枝駅) − 122 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 公益財団法人豊郷病院附属臨床精神医学研究所 林 拓二 1.はじめに ここに提示するのは、患者の7 5歳時から私が主治医となった症例である。患者の発症は2 8歳であるが、 その後、頻回に幻覚妄想状態となって入院している。発症当初は精神分裂症と診断されていたが、おお むね2−3ヶ月で寛解することが多いことから非定型精神病の診断に変更されていた。しかし、18回 目の入院が7年5か月と長期になり、68歳時に退院した際には、DSM世代の医師によって再び「慢性、 未分化型」の統合失調症との診断が記載されている。私が初めて患者を診た第一印象は慢性の緊張型分 裂病であり、詳細な病歴を知らなければ、私もまた患者を潜行性に発症した定型分裂病と考えたであろ う。病像の前面に緊張病症状が目立つとはいえ、無為、自閉、好褥と記載されるいわゆる「欠陥状態」 に陥っているとしか思われなかった患者が、長期の経過を経る間にこれほど激しく病像が揺れ動いてい たとは想像だに出来なかった。確かに、非定型精神病とされる患者の中には病相を繰り返すにつれ人格 水準の低下する症例は少なからず見られ、我々はそれらの症例をいわゆる「非定型崩れ」と呼び、レオ ンハルト1)はこれらを「非系統性分裂病」と呼称して、類循環精神病とも系統性分裂病とも病因が異 なるに違いない疾患と見なしてきた。そこで、内因性精神病の分類を考える時、症状とともに経過が極 めて重要であることを再確認するためにも、本症例は貴重であろうと考え、ここに報告しておきたいと 思う。 本稿では、これまでに主治医として治療に携わってきた多くの医師の記載に基づき、疾病の経過を詳 細に辿りながら、精神科診断の問題点を検討する。症例記述の冗長さは勘弁していただき、以下に出来 る限り詳しい病歴を紹介しよう。なお、患者の年齢は満年齢ではなく、数え年齢で記載している。 2.症例報告 ○里○子、8 1歳、女性 昭和1 0年生まれ、2人姉妹の妹。姉は軽うつ状態で精神科病院に通院歴あり。しかし、幻覚妄想な どの病的体験が出現したことはなく、入院歴もない。 父親は、母親と離婚後に再婚するもその女性も病没したため、その後は独身生活を続ける。母親は本 人が5歳時に父親と離婚する。その後も数回の結婚歴がある。 患者は、5−6歳時にひきつけが2回見られたとのことであるが詳細は不明である。 新制中学を卒業直後に心臓脚気を患う。その後3年ほど洋裁を習い、自宅で注文を受けていた。患者 2 7歳時の1 1月に、同じ郷里出身で大阪に出て衣料品店を経営している人の所へ商売の見習いに行った が、1 2月末に年末年始の休暇を貰って彦根に帰ってきた。翌年の1月3日に、先方から「客扱いが下 手である、商品を覚える知識に欠けている」と言う理由で、婉曲に引き取りを申し入れてきた。それに もかかわらず、患者は同郷出身で同店に勤務する人の誘いもあり、一緒に大阪の勤務先に戻っている。 − 123 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 翌年、患者2 8歳時の2月に、父方の祖父の年忌が営まれるので帰郷した。その時に様子がおかしかっ た。親戚の人に挨拶せず、もう大阪へは2度と帰らないと言う。その2週間後には状況はさらに悪化し、 政治関係のことをしきりに口にするようになり、同郷で開業する医師が7月の参議員選挙で民社党から 立候補すると言う。また、ラジオをかけっぱなしにしていて、政治関係のラジオ放送がみな自分のこと を話ししていると言い、犬が吠えると、「あれは自民党の・・・」、猫が鳴くと、 「あれは社会党の・・・」 などと言う。父親の言うことは全く聞かなくなる。4月中旬頃の早朝4時半ころ、5町ほど離れた父親 の弟の家に出かけ、数日後の夜にもまた叔父の家に出かけている。何か説教されたのか2回とも素直に 帰宅した。大阪に帰りたくない理由としては、一度帰郷して大阪に戻った時に、主人の妻が「主人と本 人が温泉旅行に行っていた」とみんなに言いふらしたので、店には居づらいと言う。また、大阪から彦 根に帰る途中、梅田駅から赤と黒のチェックのボストンバッグを持った人が乗った。京都駅から乗り込 んだ人が大阪の店(患者が勤める店)のことについて話し合っていたので、それが私へのあてこすりに 思われた。彦根で電車を降りると、先に大阪から赤と黒のボストンバッグを持っていた人が自動車で先 回りをしていて、彼女をじろじろ見ながら、4−5人の人とともに何か話をしていたと言う。このよう な被害・関係妄想、注察・追跡妄想などを述べるため、入院治療が必要と判断され、初回入院となった。 初回入院(患者2 8歳時4月2 1日から7月2日まで):精神分裂症 患者は痩せ型、礼儀正しく、柔らかい微笑を交えて応答するが、全般的に児戯的で子供っぽい印象で あった。質問には、最初あまり答えなかったが、一旦喋り始めるとむしろ多弁となった。内容は、「私 鉄スト」、 「料金値上げ」や「炭鉱失業者」問題などを、参議院議員に立候補するはずの近隣の開業医に 伝えてほしいとのことである。幻聴は否定するものの、「私はただ言われるままに動いていた」などと 幻聴の存在も窺われる。入院したことに関しては、「叔父に何か理由があったのでしょう」と言ってニ ヤニヤする。入院後は、覇気に乏しい、気まま、子供っぽいとのカルテの記載が続き、陳旧性の分裂病 を思わせる、とされていた。約2ヶ月間の入院治療の後に退院したが、身体は疲れると言うものの、洋 裁や家事をしながら生活をしていた。 しかし、患者2 9歳時の2月中旬頃にラジオを聴いていて、あれは自分の悪口を言っているのだと言っ て突然スイッチを切る。その数日後には、夜が眠れない。何か聞こえてくるように感じると言い、更に 数日の後には、おずおずとした、何となく頼りない様子となり、患者は自発的に入院を希望して来院した。 第2回目入院(患者2 9歳時2月2 5日より3月2 4日まで):精神分裂病 礼節は保たれ挨拶をするものの子供っぽい印象がある。表情・行動は活発で、話しぶりはきちんとし ていて、不眠を訴えるものの病的体験は否定したが、その後、 「悪口では無いが、何か聞こえるようだっ た」と言うようになる。その後、外泊したが問題なく、1ヶ月後に退院する。 退院後は洋裁などをしながら外来通院していたが、近所の老婆が行方不明になったことがあり、それ から眠れなくなったと言う。食事が出来ないとの訴えも見られ、幻聴が無いわけではないとも言い、精 神的に落ち着きがないために来院する。 第3回目入院(患者2 9歳時9月2日より1 0月2日):精神分裂病 幻聴は持続的に存在していたが、約1か月後に退院する。退院後は、自宅でぼつぼつ洋裁しながら − 124 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 外来通院する。3 0歳時の4月1日から茶道の稽古を始める。その後、31歳時の1月下旬に腹痛のため、 外科に入院したが、 「お世話になりました」と言ってあいさつに回り、雪が降っているにもかかわらず 無断離院したため、精神科に転科となった。 第4回目入院(患者3 2歳時1月2 5日から2月2 6日まで):精神分裂病 入院時に、幻聴の存在を質問すると「聞こえるような、聞こえないような」などとの曖昧な返答があり、 少し子供っぽく、甘えた喋り方であった。元気がなく、表情は乏しいままで「退屈です」と訴え、家人 の要請によって退院となる。 退院後も幻聴様の体験は残り、耳に聞こえる時と咽喉から聞こえる時がある、と言う。 その後、3 3歳時の3月には昼間から門にカギをかけ「若い男が2人やってきて、生活保護を受けて いたら、いつ売り飛ばされるかわからんよ、と言って帰った」と言う。食事の支度や後始末、洗濯・掃 除などはするが、その他は何もせずに布団をかぶって寝ていることが多くなる。幻聴は否定するも表情 は乏しく、おそらく幻覚体験および被害・関係妄想が存在すると疑われ、第5回目の入院となった。 第5回目入院(患者3 3歳時3月1 7日から7月9日まで):精神分裂病 入院後は、大声を出し、「声がひとりでに出る」と言う。「聞こえるようなことは無い」とは言うが、 泣いたり、歌ったり、大声の独語が認められた。また、衝動的にドアを叩き、気まま、奇妙な言動が見 られた。入院後3日目には、幻聴は「もう治りました」と言うが、いつ頃から幻聴があったのかと問う も、曖昧な返答を繰り返すのみである。幻聴の内容は、噂話や雑談であって、干渉してくる声ではない と言い、男とも女ともつかぬ声であると答える。約3カ月後におとなしくなったため、幻聴の存否は不 明であるものの、家人の希望により退院となった。 退院後は外来に通院したが、患者3 4歳時の1月になり、家中の物を取りだしたり、国旗を出して玄 関に飾ったり、また父親にも乱暴するようになって、入院となる。 第6回目入院(患者3 4歳時1月1 0日より4月2 4日まで):精神分裂病 気分が変わり易く、大声で歌を歌い、落ち着きなく独語しながら徘徊する。紙をほしいと言って色ん な内容を書き散らす。そこに記載された内容は「私は皇室の使いでここの病院に6年間お世話になりま したが、あまり皆様がたが病人あつかいして下さるので悲しい次第でございます」、「父とは口げんかば かりしておりましたが、これも難しい難題ばかりで私の生年月日の因数分解、素数(中学生時代のおさ らい)のむずかしさ。一日、一日、精算表、進歩(60、24、12)等すべての多く事柄に直面して」な どとまとまりなく、滅裂とも言い得るものであった。EEG検査は正常範囲内であった。約3ヵ月後に、 軽快退院したが、一方的に「生保を打ち切ってください」と希望することもあったが、洋裁をしながら 生活していた。この頃、幻聴を否定していた。 退院後、裁縫を1 1月ぐらいまでしていたが、急に仕事をしなくなり、家の中のものを何彼となく引っ 張り出し、父親がしまおうとすると怒りだす。また、大声で歌を歌うようになったために再入院となった。 第7回目入院(患者3 4歳時1 1月1 5日より翌年の1月1 4日まで):精神分裂病 入院時には幻聴を否定するも、絶えず身体を震わせる。不穏であり病棟を絶えず徘徊し、大げさにゲー − 125 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 ゲーと嘔吐する。他の患者とは何かと衝突し、拒否的、拒薬、拒食の傾向が強く、保護室への隔離が必 要となった。放恣な態度で多弁、放歌、落ち着きのない状態が続き、頭髪の手入れはせず、風呂には入 らず、気ままな状態が続いたが、約2ヶ月間の入院治療により軽快して退院する。 退院後は外来治療を続けた。しかし、3 4歳時の4月末日には、自分でもよくなったと思うと言って いたが、8月にはまた病状が悪化して入院となる。 第8回目入院(患者3 5歳時8月1 3日から1 1月3 0日まで):精神分裂病 入院時には、多弁で多動な状態であり、大きな声で歌い、笑い、落ち着きなく廊下を徘徊していた。また、 他の患者の布団をめくって歩いたり、お茶を廊下に撒き散らすなど、不穏・興奮状態が続いたが、約3 カ月後に軽快して退院となった。 翌年の1 0下旬に、隣に便所を貸してくれと行き、自分の家の便所は怖いと言う。隣の奥さんが「殺 したろか」と言い、姿が見えたと言う。その際、首を前後に動かすなど奇妙な行動がある。また、眠れ ないとの訴えもあり、1 0月末に入院となった。 第9回目入院(患者3 6歳時1 0月2 7日から翌年の1月1 2日まで):精神分裂病 入院当初は落ち着きなく、訴えが多かったが次第に軽快し、翌年1月に退院する。 退院後は、編み物会社に就職して1年近く勤務するも、2週間ほど風邪の症状があり、その後もあま り喋らず、ポカーンと佇んだり、後ろ向きに歩いたりと奇異な行動の異常が見られるようになり、1 0 回目の入院となった。 第1 0回目入院(患者3 8歳時3月2 2日から6月2日まで):精神分裂症 入院時は、不機嫌、気ままな行動が見られたが、幻聴は否定していた。ただ、治療者に反抗的であり、 呆然と佇んでいたり、また多弁となることもあり、感情の波が見られ、訴えも多かった。しかし、約2ヶ 月間で軽快、退院した。 退院後は外来通院を続けたが、まとまりなく喋るようになり、羽目を外した行動が目立つようになり、 「さよなら」と友達に電話をかけたため、病院より主治医が往診のうえ入院となる。 第1 1回目入院(患者3 8歳時1 0月2 3日から翌年の2月5日まで):精神分裂症 入院時には、「頭にひらめきます。先生は録音テープを持っているでしょ」とまとまりなく喋り、「○ 里家は、私の研究によりますれば、こうしつママ関係だそうです」などと紙に記載する。しかし、病状 は約3カ月で軽快して退院となった。 退院後は、外来に通院し「ぼつぼつ洋裁をやっています」と述べ、3 8歳時の4月からはまた会社に 勤めるようになり、残業もするようになっていた。しかし、6月には慰安旅行先で課長と女性職員が一 緒に外出した後、その女性職員が自分に「泣け、泣け、泣きさらせ」と喋ると言う。また、会社では男 の精の臭いがするが、それは自分へのあてつけだと言い、腹が立つと言って泣き出す。さらに、翌年の 1月には、まとまりなく喋り続け、隣近所にも迷惑をかけるようになったため、長浜日赤病院に入院と なった。 − 126 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 第1 2回目入院(患者4 0歳時の1月1 2日から6月2 9日まで):非定型精神病 長浜日赤病院では5ヶ月間の入院で軽快退院した。 その後、当院での外来通院を希望して来院する。4 1歳時の8月には会社の慰安旅行にも参加し、特 に問題はなかった。4 3歳時の9月には、会社を辞めて洋裁一筋で生活するようになる。 しかし、4 4歳時の8月には一人笑いがみられ、落ち着かなくなったために入院となった。 第1 3回目入院(患者4 4歳時8月1 1日より1 1月3 0日まで):非定型精神病 病棟では「声なんか聞こえん!」、 「先生、旅行にいこか」、 「先生は清水先生と親戚か?」、 「(頭に)パッ ときて、パッときて、パッパッパッや」などとまとまりなく喋り続け、 「先生はうちのお父ちゃんと一 緒か?」 、 「先生、トシオさんと結婚させて!」、「(トシオさんて誰?)分からん」、「皇太子さまが入院 してはった」、「皇后陛下は、あの患者やと思えた」とも言い、多弁、多動の状態であった。そして、一 人で笑い、「声は自分の咽喉で喋るような感じであって、聞こえるのではない」と言い、「看護師さんが 天皇陛下に思えて、看護婦さんが皇后陛下に思えた」と言う。また、 「隣の人が願をかけて自分を殺し そうに思えた」とも言っていた。このような状態も、4カ月で軽快して退院となった。 退院後は、家で内職していたが、退屈であるとは言うも、気分の憂鬱さを訴えることはなかった。 しかし、患者4 5歳時の3月下旬になると、一人笑いが見られるようになり、方々に電話した。そこで、 幻聴は否定するものの経過観察入院を勧め、入院となった。 第1 4回目入院(患者4 5歳時の3月3 0日から6月2日まで):非定型精神病 入院中に、突然、 「自転車泥棒!」と言って看護師を殴ったことがあるが、おおむね平静に過ごし、約2ヶ 月で退院した。その後は、洋裁の内職を続けた。時に気分の変動が見られたが、主として抑うつに傾く。 幻覚・妄想体験は時々見られることがあった。 患者46歳の4月下旬になると、「笑えて、笑えて止まらん」、「想い出して笑える、どんなと言われて もわからん」と言うようになる。幻聴は否定する。5月下旬にはお金が無いのに買物をし、内職はして いるが、仕事の能率は上がらんと言い落ち着かない。5月下旬になると、早朝に来院して医局を覗き、 「山 本先生はおらんやろか」、「山根先生はおらんやろか」、「野村さんはおらんやろか」と捜し回るため、入 院となった。 第1 5回目入院(患者4 6歳時5月2 3日から翌年2月2 8日まで):非定型精神病 入院後は、 「山本先生は田辺先生が化けている」と言い、人物誤認(Capgras)が見られる。話にま とまりなく、態度も横柄であった。EEG検査では境界域の所見が見られている。 患者4 6歳時の1 0月頃よりやや落ち着き、翌年になると人物誤認もなくなり、約9カ月後に寛解状態 となって退院した。 その後、4 8歳時の7月頃からレストランに勤めるようになったが、頻繁に電話し、喋りに喋るよう になる。自分から言い出して同窓会を企画するなど気分が高揚し、幻覚妄想体験も見られたため入院と なった。 − 127 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 第1 6回目入院(患者4 8歳時7月2 6日から1 0月3 0日まで):非定型精神病 入院後は「なんでかわからんけど、神武天皇の子供が自分のお腹にいる」、「同じ病棟の男性患者の子 供がお腹にいる、その患者の考えが自分の頭に伝わってくる、それを私が色々な人に伝える」と言う。 また「私は神武天皇の鉾の上にとまった金のカササギと思う。そして、院長の落とし子で、○田さん(同 室の患者)は大正天皇である」と誇大的な内容を語る。入院によりセレネースを増量したところ症状は 軽快し、約3カ月で退院となった。寛解後に幻聴の体験を述べ、 「歩き回ったのは<豆彦>のオジサン が「あっち行け、こっち行け」と命令するのでそのとおりに歩き回った」と言う。 1 0月末日に退院したあと、自宅でミシン作業をして生計を立て、外来は2週に一回、きっちりと受 診して内服を続けた。 翌年の2月になると、またあちこちに電話しまくったり濫買をするようになる。そこで、主治医が勧 めて入院となる。 第1 7回目入院(患者4 9歳時2月4日から翌年7月6日まで):非定型精神病 入院時、ナースとは馴れ馴れしく対応、多弁、気分高揚気味であった。他患には命令口調で話をする。 「1月3 1日天皇がお隠れになった。3 0日の晩には私の家にとまったんです」と言い、皇室に関する妄想 が見られる。「天皇はお隠れになったけど全国を回っている、うちにも来はった。うちは天智天皇の< 時の間>なんや」とも言う。「神武天皇の弓にとまった金のカラスが私、神武天皇のその上の天皇が酒 屋の旦那さん。そこのおばあさんが清水先生のお嫁さんになると思う。山本先生は本当の山本先生か? 外勤している人が化けているみたい」と、人物誤認をまじえながら、誇大的な内容を喋る。また、元同 級生の男性のところへ押し掛けたり、電話して食事に誘うこともあり、笑えてかなわんと話すこともあっ た。なお、入院時の検査で軽度異常脳波が認められ(2月25日)、49歳時の12月よりテグレトールが使 用されている。この回の入院は1年5か月に及んだが、症状は寛解して退院となっている。退院時には、 「入院中におかしなことを考えていたが、なぜかようわからん」と言う。退院後、ワンピースを縫製す る内職を始めている。 その後、患者5 0歳の9月末日に家の近くで自動車と衝突。左下肢の骨折で整形外科に入院したが、 整形外科病棟では怒りっぽく、他の患者の部屋に入り込むなどの迷惑行為が見られた。そして、咽喉が 喋ると言い、「野村さんは天皇陛下でえらい人や」「本当に山本先生か、錦織先生と違うのか」などと話 すため、下肢をギブスで固定したまま精神科に転科した。 第1 8回目入院(患者5 0歳時の1 0月2 9日より5 8歳時の3月3 0日まで):非定型精神病 入院時には、咽喉が喋ると言い、「山本先生は高瀬さんか、坂本先生に思える」「川島さんや西田さん は清水先生に化けているのに、山本先生はとぼけてはるんや」と喋る。「誰かが誰かに思えることがあっ ても、一日で消える」とも言う。放歌したり大声で怒鳴ったりして落ち着かず、男子病棟にも出入りし て苦情が多くなり、時々保護室を使用する。 患者5 1歳の4月には「なんで野村さんが天皇陛下に思えるんやろ」と言う。5 5歳の7月には易怒的 となり、保護室を使用する。また9月には、ぼそぼそと呟く訴えが多くなり、喋る内容は千宗室や秩父 宮に関することが多かった。1 0月1 7日に行った知能テスト(WAIS)ではIQの結果が9 4となり、知的 の低下は認められなかった。 − 128 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 58歳時の3月末日には、病識はないが話の内容は現実的となって退院する。退院時にはDSM世代の 医師により「慢性、未分化型統合失調症」と診断されていた。 退院後の4月中旬には「幻聴は消えたが、咽喉の声が治らん。咽喉の声が本当のことかうそのことか わからん」、「表の鍵かけとけとか指図してくる。いろんな人が指図してくる」と言う。そして、5月に 入ると低い声で曖昧な内容を独語様に喋り続ける。そして、「咽喉が喋るのでこれが独り言になる」と 言う。また「郵便局長さんの亡霊が見えてかなわん」とも訴え、自ら希望して1 9回目の入院(任意入院) となった。 第1 9回目入院(患者5 8歳時5.1 3より8 0歳の現在まで入院中):統合失調症 入院時には「山本先生がお父ちゃんに思えて仕方ない」、「今の家は6月に退去せなあかん。滋賀バン クを調べてください」、 「世一先生が…滋賀バンクが…、試験管ベイビー…本館に私の兄ちゃんがいて…、 大和証券に勤めてはるで」などと喋り続け、まとまりなく喋ると言うより滅裂と言ってよい内容となる。 8月にはベッドに寝そべる、拒否的、何かと話しかけてくるが支離滅裂である。9月には「お父さんは 松下幸之助」と言う。また、咽喉が喋らせる、だれが喋らすのかわからんけど、いろんなことを喋らせ られると言う。1 1月には、「面会に来たのは本当の妹ではなかった」と言う。 患者は、妄想以外の話は機嫌良く喋るが、妄想を訂正しようとすると怒りだす。病棟内で妄想による 血縁関係を作り上げている。「お父さんは三上修、話で分かる、心でわかる」と言う。6 2歳時の6月に は口をへの字にして黙って下を見つめ、「退院させてください、偽の先生は消えて!」と言う。 6 4歳時の1 1月になると、 退院要求が強く、 「あんたなんや、幽霊やな、祇園の幽霊や!」と怒鳴り、スタッ フへの敵意が強くて病識がないため、任意入院から医療保護入院に切り替えざるを得なかった。 65歳時の4月には、「私は神谷先生と夫婦でした、大昔です」と、独特の節をつけて喋る。その後も、 詰め所の扉を叩き、落ち着かず、制止しても聞かない。易怒的な状態が続くため保護室を約1ヵ月使用 した。その後も、時々拒食、拒薬が見られた。そして、その年の12月頃は質問にも答えず、布団をかぶっ て横になり、自閉、拒絶的と記載されている。 6 6歳になると、拒食・拒薬が目立ち、3月末頃には首を垂れ、ベッドサイドに座っていることが多い。 4月になると意欲なく、自閉、感情鈍麻が目立つ。6月には視線を固定し、首に奇妙な動きが見られる。 そして、「お兄ちゃんとお父ちゃんが来てな、もう退院したいねん。父は居てる、母は祇園のユーシー」 などと喋る。この頃は「私ね、催眠術の仕事もしてたんよ」と言い、「毎月1 5日には、裏千家のお茶会 があるの、それに行きたいの」と言う。9月になると不機嫌となり、 「あんたなんか嫌い、どっかいって!」 と怒る。10月になると髪はボサボサのまま硬い表情で直立したまま緘黙する。その後も終日布団をか ぶり、昏迷様となる。1 1月になると喋り出し、「私ね、退院したいの、一戸建ての家があるのよ」、「も う入院して長いのよ」と話す。また、「院長先生な、私のオジサンなの」と言い、「うちの妹な、祇園の な、オバケやの」とも言う。 翌年、6 7歳時になると、にこにこして機嫌が良いかと思うと、急に不機嫌になる。そして「美智子 妃の子供が…、平成は1 5年で終わってしまって…」と天皇家の話をするほか、 「京都の裏千家や膳所高 校の通信教育を受けた」と言い、「1 0 0万円を滋賀銀行に貯金しているんよ」、「郵便局にもあるんよ」 と誇大的な話をするが、声が低くて内容がほとんど理解出来ないことも多い。時には「お兄ちゃんは 1 2歳上、本館の庶務課で働いてる、名前は○里や」と言い、 「もう用事が済んだから、退院したいの」 − 129 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 とも言い、患者は誇大的な妄想世界の中で生きていることが窺われる。 68歳時になると患者はベッドに臥床し、無為・自閉的に過ごすことが多い。妄想的な話は変わらず、 時々拒食が見られる。機嫌のいい時には、 「膳所高校に籍がある、東京の早稲田大学にも籍があって勉 強してるんよ」と言う。患者の6 8歳時、妹が死亡している。 6 9歳時、誇大妄想、血統妄想は不変であるが自ら喋ることは少なくなる。無為・自閉的な生活を送り、 時に多幸的、時に不機嫌である。 7 1歳時、 「私早く帰りたいの!私は自分の意志で入院してますので!」と言って看護者に攻撃的とな るが、まもなく抑うつ的となって喋らなくなる。 7 2歳時には、新任の医師に対して「私には夫も子供もいるのよ!、何も喋りたくない、帰って頂戴!」 と怒鳴る。妄想を否定された時には、激しく反発する。しかし、当たり障りのない対応をしている限り、 特別な問題は生じない。 7 3歳時の9月中旬から、誘因なく「なんじゃ!お前は!あほんだらが!」、 「だまされるもんかー」と、 興奮、スタッフが話しかけると余計に怒りだす。その後も突然興奮して暴力行為が見られたり、拒食・ 拒薬も続くために、9月下旬から保護室に隔離し、拘束の上持続点滴を約1ヵ月間続けざるを得なかっ た。その後も、声をかけても微動だにせず、自発語はなく、臥床することが多かった。7 4歳時の1月には、 「不自然に両手を挙上して、固まっている」状態が見られ、カルテにも緊張病症状が見られると記載さ れている。 筆者は、患者が7 5歳時に主治医となった。患者から妄想を聞き出そうとしない限り、患者が激しく 興奮することはなかったが、奇異な恰好のままベッドに横たわっていることが多かった。また、話しか けても全く反応せず、主治医を睨みかえすだけである。患者の手を取って持ち上げると、そのまま、手 の位置を崩そうとはしない(カタレプシー)。主治医が手を差し出すと必ずつかみにくる(握り返し) 。 食事はデイルームでとるが、時々、奇声としか言えない大きな叫び声を挙げている。よく聞くと「せん せー、あのなー、タカミヤにかえらしてーな」などと叫んでいることがわかる。主治医がその要求に返 答しても、反応は期待してないかの如く無関心である。反響言語や反響運動の有無を確認してみたが、 反響動作と考えられる「握り返し」以外に、顕著な症状は認められなかった。 頭部CT検査は、患者が7 3歳、7 7歳、そして7 8歳時に行っている。 上図は7 8歳時のものであり、CT画像所見に変化はない。 シルビウス裂の足側の開大、脳室形の拡大が認められ、高位円蓋部での脳溝開大所見は認めず、正常 圧水頭症が疑われる所見ではあるが、臨床症状は認めず、神経学的所見もない。 − 130 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 現在、8 1歳になるが病状の変化は全くない。年齢からして認知症の合併・進行も疑われるところで あるが、認知症に見られる多幸的な気分は見られず、話しかけると、今なお鋭い眼光で睨みかえされる ことから、精神内界はいまだに大きく壊れてはいないと考えられる。 なお、この間の治療で電気けいれん療法は一度も施行されていない。病初期にはコントミン1 5 0mg あるいはPZC1 0mgなどにより治療されていたが、4 0歳頃よりセレネースが処方され、寛解時には4 −6mg、増悪時には最大2 0mgが処方され、興奮時にはセレネース5mgが朝夕2回、筋注されていた。 最近では、リスパダールやジプレキサなど主として用いられている。 3.症例のまとめ まず、本症例の病像および経過を簡単にまとめておこう。 患者は幼少時に2回ひきつけが見られたとの記載があるも詳細は不明である。しかし、その後にてん かん性のけいれん発作は認めていない。精神症状の発症後に、脳波検査がたびたび行われているが、顕 著な異常を認めないものの、境界域 ‐ 軽度異常とされる所見が記載されている。 精神病症状の発症は2 8歳であり、一般的な分裂病の発症年齢と較べて若干遅いと言える。初発の症 状は被害・関係妄想、注察・追跡妄想であり、妄想の出現様式は一次性の妄想知覚と考えられる。その 後の主たる症状は誇大・血統妄想であり、命令性の幻聴も存在する。これらの精神病症状とともに気分 の高揚も見られ、多弁・多動・濫買などに人物誤認、カプグラ症状などが加わる多彩な病相が出没する。 経過を見れば、躁−うつ、興奮−制止、あるいは多動−無動の両極性の変化が本症例の症状の基盤となっ ていて、増悪と寛解を繰り返す周期性の経過が認められる。このような症状と経過を見れば、本症例を 非定型精神病群(満田)の枠内で考えることは極めて自然な判断であろう。 しかし、本症例に特徴的なのは、寛解と増悪を繰り返しながらも、第1 8回入院時、すなわち患者が 5 0歳頃から無為・自閉的な傾向が強くなり、いわゆる分裂病性欠陥と称される状態が顕著となったこ とである。そして、6 5歳時頃よりカルテにも拒食・拒薬、拒絶、昏迷様との記載が見られるようになり、 7 4歳時からはICD-1 0による緊張型分裂病の診断に挙げられるすべての症状(昏迷、興奮、保持、拒絶症、 硬直、蝋屈症、命令自動症)が認められるようになっている3)。8 1歳になる現在においては、蝋屈症や カタレプシー、握り返しなどの顕著な緊張病症状がしばしば認められるために、全経過を見ずに近年の 病像だけを見れば、DSM世代の精神科医ならずとも、本症例を緊張型分裂病と診断する精神科医は多 いに違いない。私が患者の7 5歳時に感じた第一印象もまた、疑うことのない緊張型分裂病であった。 しかしながら、精神科診断はその患者が如何なる疾患に罹患しているかを判断することにあり、ある 時点で患者が示す症状や状態像を単純に分類するだけのものではない。 4.非定型精神病(満田)について 周知のように、満田が臨床遺伝学的研究に基づいて呼称した非定型精神病の概念4,5)は、内因性精神 病を構成する3大疾患(精神分裂病、躁うつ病、てんかん)の遺伝圏が交差する領域に位置する独立し た疾患群とされていて、病因的な診断が意図されたものである。それ故に、精神症状としては分裂病症 状や感情病症状が重畳ないし混在し、時になんらかの意識障害を疑わせるような一過性の精神症状を示 し、周期性の経過を示して増悪と寛解を繰り返すとされ、脳波では軽度異常所見が見られることもあり、 時にはなんらかのけいれん様発作が認められることもある。一般的には、非定型精神病は良好な経過を − 131 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 示し、いわゆる欠陥状態や荒廃状態に陥ることはない。しかし、臨床的には周期性の経過をとりながら も急激に分裂病性欠陥状態に至る症例もまれではなく、これらを我々はいわゆる「非定型崩れ」と称し てきた。ちなみに、満田の初期の研究ではこのような症例を中間型と呼称していたが、臨床遺伝学的研 究の結果、満田は中間型を非定型精神病の中に包含したのである。そのため、満田の非定型精神病は必 ずしも常に寛解状態となるとは限らず、欠陥状態に陥る症例もまた含まれ得る。満田と同様に、臨床遺 伝学的な研究を行なったレオンハルトは、満田が中間型と考えたような症例を非系統性分裂病と呼称し、 病相性精神病群(いわゆる躁うつ病)と系統性分裂病群(満田の定型分裂病)との間に、類循環性精神 病(満田による非定型精神病)と非系統性分裂病とを布置している。そして、類循環性精神病と非系統 性分裂病とは、それぞれ明確に病因を異にする疾患であって、類循環性精神病が常に予後良好であるの に対し、非系統性分裂病は病相性あるいはシュープ様に経過しながら様々な欠陥状態に陥るとしている。 それ故、レオンハルトは非系統性分裂病を類循環性精神病の「悪性の親戚」と記載している。 5.感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)について このように、本症例は長期の経過のあとに分裂病性欠陥状態が認められるにしても、満田の非定型精 神病群の枠内に包含されるものであり、レオンハルトによる非系統性分裂病群に類別されるものである。 レオンハルトの分類は、過剰分類とも批判されるほどに内因性精神病が細分されているが、非系統性分 裂病もまた感情負荷パラフレニー(Affektvolle Paraphrenie) 、カタファジー(Kataphasie) 、周期性緊 張病(Periodische Katatonie)の3群に分類され、それぞれが病因的(遺伝的)に異なる疾患であると される。そして、これらの3病型はそれぞれに、主として感情、思考、それに意欲の障害が見られると されている。しかし、レオンハルトの分類は、知、情、意という精神機能の3側面から精神障害を類別 しようとした、かなり図式的・観念的なものであって、臨床的には症状の重複が見られることも少なく ない。それ故に、彼もまたこれら3群の鑑別診断が困難な場合もあることを率直に認めている。私もま た、顕著な思考障害で滅裂な言語を主症状とするカタファジーや、多動や無動などの緊張病症状を主と する病相が繰り返される周期性緊張病、妄想症状に感情が大きく関与する感情負荷パラフレニーが典型 的な症例として存在することを認めるものの、実際の臨床場面ではしばしば症状の混在・重複によって 類別が困難な場合が多いことを経験している。このことは、類循環性精神病の3型、すなわち不安−恍 惚性精神病(Angst-Glückspsychose) 、錯乱性精神病(Erregt-Verwirrtheitspsychose) 、運動性精神病 (Motilitätspsychose)の鑑別に際しても同様である。 確かに、本症例の症状記載を見た時、周期性精神病の主症状である緊張病症状が前面に認められるも のの、カタファジーの主症状である滅裂言語と考えられる症状が認められる病相も存在する。しかし、 本症例では、2 8歳の発症から8 1歳の現在に至るまでの5 3年間、その生活史全体を支配する症状は増悪、 寛解を繰り返しつつ、なお精神内界の深層に固着しながら、時に感情的爆発を惹起させる誇大・血統妄 想であると言ってよい。レオンハルトは、感情負荷パラフレニーの初期には不安や恍惚といった感情の 動揺がみられ、誇大妄想、記憶錯誤、人物誤認などのほか、あらゆる領域の幻覚が認められるとしてい るが、その特徴的な症状として妄想に対する感情の関与を挙げ、患者が欠陥状態に陥っているとしても、 妄想を否定してみさえすれば、彼らの感情がたちまちに激しく揺さぶられ興奮状態になると言う。本症 例でも、患者は妄想以外の話は機嫌良く喋るが、妄想を訂正しようとすると怒りだすと記載され、6 0 歳を過ぎてもなお、妄想に触れられ、否定された時にはしばしば激烈に反応して興奮状態に陥っている。 − 132 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 このことが、 「感情負荷(Affektvolle)パラフレニー」と呼称される所以であり、本症例をレオンハル トに従って診断するならば、感情負荷パラフレニーとなるであろう。 クレぺリンやブロイラー以来、欠陥状態に至る内因性精神病がすべて精神分裂病(現在では統合失調 症)としてまとめられてきたことから、感情負荷パラフレニーなどの非系統性分裂病もまた、現在でも 一般には精神分裂病とされるであろう。しかし、非系統性分裂病と系統性分裂病とをあえて類別するの は、その経過に大きな相違があるだけではなく、最も重要な点は病因が異なる可能性が考えられるから である。すなわち、非系統性分裂病と系統性分裂病における家族負因の差異を検討した時、後者と較べ て前者にはるかに多くの負因が認められ、近年のFranzek, E2)らや林ら6)の研究を見ても明らかなよ うに、両グループが病因を異にする疾患であることは明白と言ってよい。 精神科診断は、DSMの如く統計学的な比較に役立つものも必要ではあるが、本来、病因による分類 を目指すべきであり、病因研究に資するものが必要とされている。この点で、非系統性分裂病の概念は 極めて重要であると、私は考えている。 6.おわりに 研究所年報3号に症例報告として「カタファジー」の1例を記載したが、本年度は「感情負荷パラフ レニー」と考えられる症例を報告した。このような報告を続けるのは、現在なお精神科診断の主流とさ れるDSMなどによって、病因を異にする多くの症例が「統合失調症」や「躁うつ病」という同一の診 断名のもとにまとめられ、あたかもそれが同一の原因を有する疾患の如く考えられていることを危惧す るからである。そこでは、共通の病因を探ろうとする努力が、当然のこととして失敗に終わるしかな い。私は精神分裂病群と躁うつ病群とを明確に分類し、さらに分裂病性精神病(統合失調症圏の精神病 群)をさらに細分し、少なくとも定型分裂病群と非定型精神病群とに分けたうえで、それぞれの病因を 探求するべきであると考えている4,5)が、レオンハルト学派の如く、躁うつ病と系統性分裂病との間に、 類循環精神病と非系統性分裂病を加えて、内因性精神病を大きく4つに分類しようとする試みも、臨床 的にはなお多くの問題を抱えているにしても、意義あるものと考えている。今回報告した「感情負荷パ ラフレニー」は、「カタファジー」や「周期性緊張病」と同じく、周期性経過を取りながら分裂病性の 荒廃状態に陥るとされている非系統性分裂病群の1型であり、常に寛解するとされる類循環性精神病の 「悪性の親戚」とされている。今回の報告でかなり詳しく経過を記載したのは、疾患の姿・形を見極め るには、転帰とともに経過観察が極めて重要であると考えているからである。本症例では2 8歳の発症 で増悪と寛解を繰り返し、誇大・血統妄想を基調にしながらも緊張病症状が出現、8 1歳の現在、分裂 病性欠陥状態にあるとされる症例であり、その病像と経過は、類循環性精神病とも系統性精神病とも明 らかに異なるものである。 我々は今後もなお、個々の症例を詳細に観察し、その経過と転帰を検討するという息の長い研究が必 要と考えている。そのような研究の上に、出来る限り均質な症例を選択した上で生物学的研究を行なわ なければ、内因性精神病の研究はこれまでと同様に、充分な成果を上げることは出来ないであろう。 − 133 − 症例報告 感情負荷パラフレニー(Leonhard, K)の一例 参考文献 1) Leonhard K: Aufteilung der endogenen Psychosen und ihre differenzierte Ätiologie. 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Tanaka Y, Fujino J, Ideno T, Okubo S, Takemura K, Miyata J, Kawada R, Fujimoto S, Kubota M, Sasamoto A, Hirose K, Takeuchi H, Fukuyama H, Murai T, Takahashi: Are ambiguity aversion and ambiguity intolerance identical? A neuroeconomics investigation. Front Psychol 2014, 5:1550. 2 2. Tei S, Becker C, Kawada R, Fujino J, Jankowski K, Sugihara G, Murai T, Takahashi H. 2014. Can we predict burnout severity from empathy-related brain activity? Transl Psychiatry 4: e3 93 2 3. Koelkebeck K, Miyata J, Kubota M, Kohl W, Son S, Fukuyama H, Sawamoto N, Takahashi H, Murai T. 2 0 1 4 The contribution of cortical thickness and surface area to gray matter asymmetries in the healthy human brain. Hum Brain Mapp. 2 014, 35:6 0 1 1-6 0 2 2. 2 4. Hirose K, Miyata J, Sugihara G, Kubota M, Sasamoto A, Aso T, Fukuyama H, Murai T, Takahashi H. 2 0 1 4 Fiber tract associated with autistic traits in healthy adults. J Psychiatr Res. 2 0 1 4, 5 9:1 1 7-1 2 4. 2 5. Tsurumi K, Kawada R, Yokoyama N, Sugihara G, Sawamoto N, Aso T, Fukuyama H, Murai T, Takahashi H. 2 0 1 4. Insular activation during reward anticipation reflects duration of illness in abstinent pathological gamblers Front Psychol 5:1 013 2 6. 義村さや香、佐藤弥、魚野翔太、十一元三. 自閉症スペクトラム障害の対人相互性障害とfacial mimicry障害の関係について. 第5 5回日本児童青年精神医学会総会. 浜松. 2 0 1 4 2 7. Yoshimura, S. & Toichi, M. A lack of self-consciousness in Asperger s disorder but not in PDDNOS: Implication for the clinical importance of ASD subtypes. Research in Autism Spectrum Disorders 8: 2 3 7-4 3, 2 0 1 4 2 8. 義村さや香. 自閉症スペクトラム障害を持つ児童が性非行に至った背景に関する検討. 第110回日本 精神神経学会総会. 横浜. 2 0 1 4 学会発表など 1. 林 拓二:精神医療の過去と現在、そして未来(1) .看護と医師のためのやさしい精神医学講座、 豊郷病院、2 0 1 4.5.2 2、豊郷 2. 成田 実:認知症の課題を振り返る−1 0数年の通院経過から−.第9回彦根認知症ケア・ネット ワークを考える会、彦根市文化プラザ、2 0 1 4.5.2 2、彦根 3. 林 拓二:精神医療の過去と現在、そして未来(2) .看護と医師のためのやさしい精神医学講座、 豊郷病院、2 0 1 4.5.2 9、豊郷 4. 林 拓二:治療と矯正、そして共生−精神医療の基本−.看護と医師のためのやさしい精神医学 講座、豊郷病院、2 0 1 4.6.5、豊郷 5. 成田 実:豊郷病院認知症疾患センターの取り組み.認知症の地域連携を考える会、琵琶湖ホテル、 2 0 1 4.6.1 6、大津 6. 白井隆光:電気けいれん療法−その歴史と現状.看護と医師のためのやさしい精神医学講座、豊 − 136 − 郷病院、2 0 1 4.6.1 2、豊郷 7. 林 拓二:統合失調症と躁うつ病の中間領域.看護と医師のためのやさしい精神医学講座、豊郷 病院、2 0 1 4.6.1 9、豊郷 8. 林 拓二:詐病とヒステリーについて.看護と医師のためのやさしい精神医学講座、豊郷病院、 2 0 1 4.7.3、豊郷 9. 成田 実:老年期の認知症−早期診断と治療について−.看護と医師のためのやさしい精神医学 講座、豊郷病院、2 0 1 4.7.1 7、豊郷 1 0. 林 拓二:精神鑑定について−法と精神医学−.看護と医師のためのやさしい精神医学講座、豊 郷病院、2 0 1 4.7.2 4、豊郷 1 1. 白井隆光、堀川健志、小林恭子、中江尊保、成田 実、諏訪太朗、小島 修、林 拓二:身体合 併症を有する昏迷状態の高齢患者に修正型電気けいれん療法が奏功した一例.第115回近畿精神神 経学会、大阪市立大学、2 0 1 4.7.2 6、大阪 1 2. 林 拓二:一級症状について−精神科症状学−.看護と医師のためのやさしい精神医学講座、豊 郷病院、2 0 1 4.8.7、豊郷 1 3. 堀川健志:救急受診、その前に! 電話応対で過呼吸発作をストップせよ.愛知犬上医師連絡会、 パストラール、2 0 1 4.9.1 2、豊郷 1 4. 成田 実:認知症治療・介護における医療の役割.彦根キャッスルホテル、2014.9.20、彦根 1 5. 林 拓二:反骨と異端−反骨と異端−京都大学精神医学教室.第18回日本精神医学史学会、京都 大学百周年時計台記念館、2 0 1 4. 1 1.8、京都 1 6. 林 拓二:反骨と異端−反骨と異端−京都大学精神医学教室.第18回日本精神医学史学会、京都 大学百周年時計台記念館、2 0 1 4. 1 1.8、京都 1 7. 野間俊一:摂食障害とその臨床.豊郷精神医学研究所新春学術講演会、豊郷病院、2 015.1.2 9、豊郷 1 8. 成田 実:大切な人と自分自身のために−知っておいてほしい認知症の話.総合福祉保健セン ター・ふれあいの郷、2 0 1 5.2.2 1、多賀 1 9. 成田 実:知っていますか?認知症のこと.豊郷病院公開セミナー、豊郷病院、2014.3.28、豊郷 随想など 1. 林 拓二:あまりにも遅い!豊郷精神医学研究所年報、第4巻、1-2, 2 0 1 3 2. 木村千江:精神科の現場で考えること.豊郷精神医学研究所年報、第4巻、5 7-5 8, 2 0 1 4 3. 堀尾素子:私の看護観−看護実践の振り返りから.豊郷精神医学研究所年報、第4巻、70-71, 2013 4. 白井隆光:精神科修正型電気治療について.医心伝心、No.38、2 0 1 3 著書 なし − 137 − 精神鑑定 1. 林 拓二:万引き緘黙事件−ヒステリーか潜伏性統合失調症か 2 0 1 4 2. 林 拓二:常習万引き幻聴事件−統合失調症および摂食障害 2 0 1 4 3. 白井隆光:傷害事件−抑うつ神経症 2 01 4 4. 林 拓二:公務執行妨害事件−統合失調症 2 0 1 4 5. 白井隆光:保佐開始の審判−自閉症スペクトラム障害 2 0 1 4 6. 林 拓二:暴行傷害緘黙事件−統合失調症 2 0 1 4 7. 白井隆光:後見開始の審判−脳血管性認知症 2 0 1 4 8. 林 拓二:万引き幻聴事件−統合失調症 2 0 1 4 9. 林 拓二:幼女睡眠剤傷害事件−アルコール依存症 2 0 1 4 彦根城の夜桜 − 138 − 公益財団法人豊郷病院附属 臨床精神医学研究所 所員 (平成2 7年3月1日現在) 所長 林 拓二(京都大学名誉教授) 所員 白井 光 顧問 山田 尚登(滋賀医科大学精神科教授) 所員 堀川 健志 顧問 村井 俊哉(京都大学精神医学教授) 所員 小林 恭子 所員 成田 実 所員 木村 千江 所員 中江 尊保 所員 古田 成年 所員 世一 市郎 所員 岩田 夏彦 所員 上原美奈子 所員 木津 賢太 所員 高橋 英彦 所員 上野 志保 所員 義村さや香 秘書 森 香織 旧豊郷小学校校舎群 ― ヴォーリズ設計 − 139 − 編集後記 ここに豊郷臨床精神医学研究所年報第5号をお届けいたします。 今年もまた、各職域の皆さんから多くの原稿をいただきました。今回は臨床心理士から パチンコ嗜癖の治療に関与した実践報告があり、病棟の看護師からはおやつ摂取とストレス 軽減の関係を考える実験結果と、認知症患者を巡る看護の基本について考察した2件ととも に昨年からの宿題であった「看取りの看護」についての論考が寄せられました。「看取り」 に対して看護者がいかに対処すべきかについては、患者さんの状況も大きく異なりますので、 それぞれ大変悩ましく、簡単には割り切れないことが少なくありません。今回の報告が何ら かのご参考になればと思います。 臨床精神医学研究所として、長年取り組んでいる精神病の長期経過研究は、膨大な患者の 病歴をまとめるのに多大な時間を要しましたが、やっと格好がついたかなと思える状態にま でになりました。今後は少しずつ学会などで発表しながら、本年報で報告出来ればと思って おります。本研究所の若い先生方も少しずつ力をつけてきておりますので、研究成果が次々 に発表されるものと期待しております。 最後になりましたが、本年も本誌出版には豊郷病院法人統括本部長種村氏に大変お世話に なりました。ここに厚くお礼を申し上げます。 (H2 7.1 0.9 編集委員 林 拓二・堀川健志・小林恭子・森 香織) 豊郷駅(近江鉄道)プラットホーム グループ 施設 公益財団法人 豊郷病院 内科、循環器内科、消化器内科、心療内科、呼吸器内科、 呼吸器外科、外科、泌尿器科、皮膚科、脳神経外科、整形外科、 婦人科、耳鼻咽喉科、眼科、小児科、精神科、歯科、歯科口腔外科、 リハビリテーション科、放射線科、麻酔科、血液浄化センター 〒529-1168 滋 賀 県 犬 上 郡 豊 郷 町 八 目 1 2 TEL.0749(35)3001 FAX.0749(35)2159 認知症疾患医療センター TEL.0749(35)5345 TEL.0749(35)3003(夜間・日曜・祝日) 居宅介護支援センター 〒529-1169 滋 賀 県 犬 上 郡 豊 郷 町 石 畑 2 1 2 TEL.0749(35)0151 FAX.0749(35)3122 (パストラールとよさと内) 居宅介護支援センター 〒522-0086 滋 賀 県 彦 根 市 後 三 条 町 5 2 0 - 1 TEL.0749(21)4800 FAX.0749(21)2810 (レインボウひこね内) ヘルパーステーション 〒529-1169 滋 賀 県 犬 上 郡 豊 郷 町 石 畑 2 1 2 TEL.0749(35)0150 FAX.0749(35)3122 支援センター (パストラールとよさと内) 訪問看護ステーション 〒529-1169 滋賀県犬上郡豊郷町石畑199-7 TEL.0749(35)3035 FAX.0749(35)4799 訪問看護ステーション 湖 東 三 山 ス マ ー ト I.C. 〒529-1234 滋賀県愛知郡愛荘町安孫子1216-1 TEL.0749(37)8181 FAX.0749(37)8182 訪問看護ステーション 〒522-0086 滋 賀 県 彦 根 市 後 三 条 町 5 2 0 - 1 TEL.0749(21)2855 FAX.0749(21)2810 訪問看護ステーション TEL.0749(37)8181 FAX.0749(37)8182 訪問リハビリテーション 〒529-1168 滋 賀 県 犬 上 郡 豊 郷 町 八 目 1 2 TEL.0749(35)3001 FAX.0749(35)2159 (豊郷病院内) 交通 アクセス 彦根市地域包括支援センター 〒522-0223 滋賀県彦根市川瀬馬場町1015番地1 ■ 電車利用の場合 JR河瀬駅または稲枝駅から車で10分 JR彦根駅から車で20分 近江鉄道 豊郷駅から徒歩1分 ■ 車利用の場合 〒522-0244 滋賀県犬上郡甲良町在士625番地 名神彦根I.C.から20分、湖東三山スマートI.C.から10分 国道8号線 高野瀬交差点を東へ5分 2 0 1 4(平成26年度版) 公益財団法人豊郷病院附属 臨床精神医学研究所年報 vol.5 発 行 公益財団法人 豊郷病院 〒529-1168 滋賀県犬上郡豊郷町八目12 TEL(0749)35-3001 FAX(0749)35-2159 編 集 公益財団法人豊郷病院附属 臨床精神医学研究所 編集委員会 印 刷 近江印刷株式会社 滋賀県愛知郡愛荘町川原771-1 TEL(0749)42-8400(代)
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