川本 信彦 - 日本自動車殿堂 JAHFA

国際的な自動車産業への近代化を推進
本田技研工業株式会社
元取締役社長 特別顧問
川本 信彦(かわもと のぶひこ)略歴
12
1936(昭和11)年3月 東京都中野区に生まれる
1963(昭和38)年3月 東北大学大学院精密工学研究科卒
1963(昭和38)年4月 株式会社本田技術研究所 入社
四輪発動機設計に配属
1981(昭和56)年5月 本田技研工業株式会社取締役
兼本田技術研究所副社長就任
四輪開発総責任者
1983(昭和58)年 本田技研工業株式会社常務取締役
兼本田技術研究所社長就任
F‐1レース活動総責任者
1986(昭和61)年9月 ウィリアムズホンダコンストラクターズタイトル獲得
1987(昭和62)年11月 ウィリアムズホンダダブルタイトル獲得
1989(昭和64)年6月 本田技研工業株式会社 専務取締役就任
川本 信彦
1990(平成2)年6月 本田技研工業株式会社 取締役社長就任
1990(平成2)年9月 「NSX」発表
1991(平成3)年9月 本田宗一郎最高顧問逝去 「お礼の会」開催
1992(平成4)年6月 「ホンダ環境宣言」制定 同年9月F-1レース活動休止発表
1994(平成6)年10月 「オデッセイ」発表
1995(平成7)年10月 第31回東京モーターショーで「クリエイティブムーバー群」出展
1995(平成7)年12月 米国で小型ターボファンエンジン航空機試験飛行開始
1996(平成8)年12月 自立歩行人間型ロボット「P2」発表
1997(平成9)年4月 97年科学技術庁長官賞受賞
(自動車用ナビゲーションシステムの開発・育成)
1997(平成9)年12月 ビジネスウイーク誌「97年のトップ経営者25人」に選出される
1998(平成10)年6月 本田技研工業株式会社 取締役社長退任 相談役就任
1999(平成11)年12月 英国名誉大英勲章(Knight)受章
2003(平成15)年6月 本田技研工業株式会社 特別顧問就任
川本信彦氏は1936年東京中野区の学者の家庭の
ツカーを発表。翌年からホンダ初の四輪スポーツカーと
長男として生まれる。
63年3月、
東北大学大学院精密
してS500を売り出した。かくしてホンダは4輪のレース
工学研究科を経て、
同年4月本田技術研究所に入社。
に打って出る。
1.5リッターのフォーミュラに対して、
当時
当時、
モーターサイクルビジネスの隆盛と共に、国内
ホンダの持っていたレーシングエンジンの中で最も大き
各社が技術の優位性を証明する場としてレースが盛ん
なストローク・ボリュームの1気筒あたり125ccの12気
に行われていた。ホンダは早くからこうしたレースに参
筒エンジンの計画が立てられ、
そのプロトタイプが250cc
加してその強さを発揮していた。また、
59年からはイギ
60度V型2気筒として設計され、
テストベンチの上でエ
リスのマン島TTレースに参戦、
61年には125ccと250
ンジンの基本特性の研究が行われた。
ccの両クラスのタイトルを手中にするという快挙を達成
する。
入社した川本氏は、
このレーシングエンジンの開発に
ホンダが手がけたレーシングエンジンは、
当時最先端
携わっていく。
S600、
S800のエンジン開発、
N360のエ
といわれた多気筒、
1気筒あたり4バルブ、
ローラーベ
ンジン開発にオーバーラップするように、
F2エンジンの開
アリングや極めて精度の高い組立式クランクシャフトな
発に携わり、
その後の快進撃へとつながる。
どの採用に加え、
巧みな吸排気系のチューニングによっ
66年には2年間の経験を基に、
まったく新しく純粋
て、圧倒的な高回転、高出力を実現し、競争相手を陵
なレーシングエンジンとして、
F2エンジンを設計。初出
駕する技術力を誇っていた。
場のグッドウッドグランプリで1−2フィニッシュを収め、
当時、
国内のモーターサイクルビジネスは極めて厳し
以後12レース中11連勝を成し遂げた。このエンジンで
い競争状態にあり、
当初数十社あった2輪メーカーは、
氏は、
自動車用レーシングエンジンの何たるかを知り、
ま
現在の4メーカーに集約されることになるが、
ホンダはト
たそれを実証するという貴重な経験をする。1リッター
ップメーカーとしての地位を揺るぎないものとした時期で
4気筒、
1気筒あたり4バルブ、
組立式クランクシャフ
もある。
トはこれまでのホンダの公式通りであるが、初めてバル
2輪の次は4輪の分野へ挑戦、
62年には小型の極
ブスプリングをコイルスプリングに換えてトーションバー方
めて高性能なエンジンを搭載したプロトタイプのスポー
式を採用し、1気筒250ccでも110
, 00回転まで回すこ
とに耐えられる高回転エンジンを実現し、
最高出力150
馬力を達成したのである。
自動車では新たな分野への挑戦も大切とともに、技
術の原理原則に則って、
手堅く物をつくり上げることが
いかに大切であるかを改めて悟る。
その後、
H1300空冷エンジンの設計、
Li
f
eのエンジン
設計、
CVCCエンジンの設計を経て、
77年にエンジン開
発全般の総責任者となり、
81年からは本田技術研究
所の副社長となり4輪開発の総責任者となる。この間、
CIVIC、
ACCORD、
PRELUDEなどのヒット車を生み
出し、
ホンダを4輪車の世界企業へと押し上げていく。
1978年には、
休止していた4輪レースへの復帰を目
指し、
V6、
2000ccのF2用エンジンの開発を開始する。
80年のシーズン半ばからヨーロッパF2選手権に、
エン
ジン供給という形で復帰し、翌81年にシリーズチャンピ
オンを獲得する。一方、
F1では、
83年にスピリットホン
1966年F2第7戦 ランス・サーキットにて
サー・ジャック・ブラバム
ダで復帰を果たし、
このシーズン最終戦で、
ウィリアムズ
13
1973年12月発売 CIVIC(CVCC)
1992年 F1活動休止を決定。日本グランプリ
(鈴鹿サーキット)
で、
関係者に感謝の意を表する。
と組み、
チャンピオンを目指す。念願のチャンピオンを86
きく転換を図るために、
大胆な改革に着手した。
年に獲得。
92年末の休止までに、
ウィリアムズ、
ロータス、
成長拡大の過程で生じてきた開発、
生産、
販売間の
マクラーレンらとともに69勝をあげる。
壁を取り払い、
お客様目線でマーケットインに徹した開発
へ転換。シンプル、集中、
スピードをスローガンに個人個
川本氏は1990年6月に社長に就任、
この頃時代は
人の役割・責任を明確にした、
即断即決型の意思決定
大きく変化する。東西冷戦の終結、
日本のバブル経済の
システムへの移行である。
崩壊、
急激な円高の進行、
と激動の時代をむかえる。そ
また、
輸出依存体質からの脱却を目指し、
ホンダの国
して、
91年の創業者本田宗一郎氏の逝去。翌92年、
破
内自立を図るために、
自ら先頭に立ち、
商品競争力、
コス
竹の勢いで頂点を極めた第二期F1プロジェクトからの
ト競争力、
販売・サービス力を中心とした国内四輪強化
撤退。このようなホンダにとっても節目となる時期に経営
策を推し進めた。これらの体質改革が功を奏し、
94年の
の舵取りを任された川本氏は、
それまでの成長拡大を前
「オデッセイ」に続き、
「CR−V」
「ステップワゴン」などの
提とした会社運営から、
経済や社会環境の急激な変化
クリエイティブムーバー群が大ヒットし、
国内4輪の建て
に対応できる効果・効率の高い国際的な企業体質に大
直しのきっかけをつくった。これらのクリエイティブムーバ
ーのヒットに続けとばかりに、
各社が次々と追随し現在登
録乗用車の3割を占めるミニバンブームをつくりだした。
一方、
環境問題でも川本氏は重要な役割を担っている。
1960年代、
大きな社会問題になった、
光化学スモッグな
どの公害問題に対し積極的に環境問題の解決に取り
組み、
72年にはCVCCエンジンを開発、
当時不可能と言
14
1983年 ウィリアムズとエンジン供給契約を締結
1994年10月 オデッセイ発表
生産領域でのCO2排出抑制のため埼玉製作所に導入された、天然ガス・コ−ジェネレーションシステム
われていた米国マスキー法に世界で初めて適合。その
線への方向性づけをしたリーダーシップと先見性、
先進
後も「技術で生じた問題は技術で解決する」との精神
創造への飽くなきチャレンジ、
地球との共生に対するこだ
で環境への取り組みを積極的に進めてきた。社長就任後、
わりなど、
自動車産業の発展につながるさまざまな貢献に
環境を経営の最重要課題の一つと位置づけ、社内の
賛辞をおくるとともに、
日本自動車殿堂に迎えることを、
誇
体制を整備し、
地球環境問題に対する企業姿勢や取り
りに思う。
組みの方向性を明文化した「Honda環境宣言」を92年
(国立科学博物館 理工学研究室 に制定する。
主任研究員 鈴木 一義)
EV(電気自動車)
やULEV(超低公害車)、
CNG車(天
然ガス車)
などのクリーンエアビークル、
2輪車の4スト
ローク化に向けた取り組みなど製品領域のみならず、
生
産領域でも、
エネルギー・資源の使用量削減や廃棄物
のゼロエミッション化を進めた。こうしたホンダの環境へ
の取り組みはグローバルに拡大し、
進化を続ける一方、
こうした地球環境保全に対する企業姿勢、
具体的な取
り組みは、
自動車産業へ多大な貢献をもたらしている。
また、
自立歩行人間型ロボットや航空機など、新たな
分野を切り開く次世代モビリティの研究にも積極的に取
り組む英断は、
現在のASIMOや Hondajetというホンダ
らしい先進創造につながっている。川本氏は、
本田宗一
郎氏のもとで前社長の久米是志氏らと共に技術者とし
て経験を積み、
80年代には本田技術研究所で技術者と
して管理者として次の時代への萌芽・育成に全身全霊
をかたむけ、
90年代は経営者として「真のホンダらしさ」
「グローバル企業ホンダ」への舵取りにあたった。
川本氏の足跡をたどり、
氏の業績に「レーシングスピリ
ット」、
「ホンダイズム」の真髄をみるとともに、
自主自立路
1966年12月に発表された世界初の人間型自律2足歩行ロボット「P2」
15
自動車の衝突安全性の先駆的研究開発
ダイハツ工業株式会社 元取締役副社長 工学博士
古庄 宏輔(ふるしょう ひろすけ)略歴
1932(昭和7)年3月 神戸に生まれる
1954(昭和29)年3月 大阪大学 工学部精密工学科 卒業
1954(昭和29)年3月 ツバサ工業株式会社 入社
1955(昭和30)年4月 ダイハツ工業株式会社 入社
1967(昭和42)年3月 「自動車の操縦性安定の研究」で大阪大学
から工学博士の学位を授与される
1968(昭和43)年3月 同社 研究部 主査
1969(昭和44)年5月 自動車技術会から「自動車衝突時の乗員挙動
に関する研究」で学術賞を受賞する
1978(昭和53)年10月 同社 実験部 部長
1982(昭和57)年9月 同社 取締役 設計部長
16
古庄 宏輔
1988(昭和63)年6月 同社 常務取締役 京都工場長、本社(池田)工場・
滋賀(竜王)工場 担当
1992(平成4)年6月 同社 専務取締役 技術部門・PPセンター・
品質統括本部・生産技術部門・各工場 管掌
1996(平成8)年6月 同社 取締役副社長 社長補佐、生産管理部門・
生産技術部門・安全衛生環境部・汎用エンジン事業部・
海外生産管理部・各工場 管掌
1998(平成10)年6月 同社 相談役
2001(平成13)年7月 同社 社友
2002(平成14)年5月 自動車技術会の名誉会員に推薦される
現在に至る
入社当時の時代背景
形のスペクトル解析手法を安定性・操縦性の研究分野
終戦(昭和20年)後の経済の大混乱から朝鮮動乱
に適用。相関関数を用いた統計的手法による安定性・
による特需景気で一息ついたのも束の間、
動乱の終結
操縦性の解析をおこなっている。
で再び不況が訪れ、
当時は大変な就職難の時代であ
(2)突風の性質と自動車の応答
った。四輪車メーカーは昭和20年代の大争議で不調
自動車の応答解析に適した球形風速・風向計を開発。
な状況であったが、一方、三輪車メーカーの業績は好
これは球に多数の穴をあけて抗力係数を風速に対し
調であるが、
メーカーが乱立していた。当時の日本の自
一定とし、不安定な現象を除去してこれを実証。また、
動車産業は欧米に較べて比較にならない程脆弱で、
当
多入力系スペクトル解析により突風時の操舵応答関数
時の日本銀行の総裁から競争力のない日本の自動車
を求める手法を提案している。
産業の不用論まで出た時代であった。
しかし、
古庄氏をはじめ技術関係者は欧米に追い付
くべく、企業間の壁を乗り越えて技術者同士が協力し
衝突安全性の先駆的な研究・開発
(1)衝突実験
合い、
夜を日に継いで自動車技術の向上に邁進するこ
ダイハツ工業の衝突安全意識と調査研究・実験への
とになる。まさに苦難の時期ではあったが、
それは輝か
取り組みは、
わが国のリーダーとして位置付けられる。
しい時代への始まりでもあった。
衝突実験も比較的早く、
昭和40年代始め頃からおこな
ここに、
当時の古庄氏の研究・開発の一端をやや専
われた。試験設備は古庄氏らが自ら設計し、
社内で製
門的な内容になることをお許し頂いて記述する。
作した設備が殆んどであった。
(2)車体クラッシュ特性と乗員の二次衝突
事故回避安全への先進的取り組み (1)不規則波形のスペクトル解析による周波数応答
乗員傷害の大部分が二次衝突によるもので、
二次衝
突は一次衝突からある時間遅れて車室内の物体と乗
員との衝突が起こるものであるため、
衝突時の車体加
特性
自動車が突風などのような撹乱外力を受けた場合の
速度のみで乗員の衝突を評価することはできない。
応答や人間の操縦特性を解析するために、
不規則波
たとえば、
車が完全に停止してから乗員の二次衝突
阪大工学部精密工学科第5講座〔田中義信研究室〕時代の本人(中央)
:昭和26∼27年頃
17
安全性試験装置
可動障壁
ヒルロール・オーバーテスト
が起こるのであれば、車体加速度がどのような値や波
▲
重直落下式衝突試験装置
(3)追突時の乗員挙動の解析
形になろうとも、
乗員の受ける衝撃は同じで、
車体クラッ
追突時の乗員の力学的モデルを考え、6自由度の
シュ特性が乗員の傷害になんら関係しないことになる。
運動方程式から乗員の挙動を数値計算によるシミュレ
逆に車が完全に停止しないまえに二次衝突を起こ
ーションを試みる。計算値と実測値の対比によると、
かな
すようにすれば、
いわゆるライ
ドダウンが現実できるわけで、
り良好な合致がえられ、
力学的モデルの仮定が実用的
乗員の衝撃緩和が可能となる。
に妥当であり、
追突時の乗員の挙動解析に使用しうる
ことを明かにしている。ただし、
これらの解析から傷害
18
追突時の乗員モデル
各頚椎の力およびモーメント
の可能性を判定することは困難であり、
それは傷害発
生の耐久限界が不明なこと、
およびシミュレーションでの
頸の力学的取扱いが不充分な事に起因する。
そこで、
数名の供試者について、
頭部に前後方向の
外力を加えた場合の各頸椎の動きをX線撮影で測定。
これらの結果を定量的に解析し、
各頸椎のせん断力、
軸力、
モーメントなどの特性を明らかにし、
頸部を「均一
応力はり」の力学的モデルに近似しうることを見出した。
(4)エアバッグ装着時の乗員挙動の解析
開発初期のエアバッグは窒素の高圧ガス小型ボン
ベを使用したものであり、
ガス量の制約、
ガス流出時間
の短縮など、
多くの課題があった。エアバッグを装着し
た場合の乗員モデルを考え、7自由度の運動方程式
から衝突時の乗員挙動についてシミュレーションを試み、
計算値と実測値とを対比し総括的一致を見出す。
3次元計算モデル(各部の荷重系)
当初は乗員に何らの拘束なしにエアバッグのみで衝
突時の衝撃を受止めるエアバッグの開発が進められた
が、
困難をきわめる。その後、
乗員をシートベルトで拘束
環境の整備、運転者への安全思想の徹底、
自動車の
し、
エアバッグを補助的に使用し、
乗員各部の傷害を軽
安全対策などの効果が表われたものといえようが、
こう
減する考え方に変更。その後、急速にエアバッグの採
した道を拓く一翼を担った古庄氏の貢献は大なるもの
用が促進され、
現在では至極当然の装着となっている。
がある。
(5)衝突時の乗員挙動のシミュレーション解析
①2次元モデル
技術指導者そして経営者として 正面衝突やラップ
(2点)ベルトを装着した乗員の場
2007年、
ダイハツ工業は創立100周年を迎える。
合は2次元モデルとして取り扱える。
明治40年3月に発動機製造株式会社として創立され、
そこで古庄氏らは乗員の腕部分を省略し、
頭、
胴、
腰、
日本で最初に内燃機関の国産化に着手した。その後、
大腿、
下腿部の5質点系にわけ、
7自由度の運動方程
自動車の製造に進出し、
ダイハツ工業と名称を変更、
順
式からシミュレーションをおこない、
ラップベルト取付角の
調に発展してきた。
影響を解明する。
「今回の殿堂入りは先輩のご指導、同輩・後輩のご
②3次元モデル
協力によりなし得たものである。折りしも会社100周年
3点ベルト装着時や斜め衝突の場合は左右非対象
の節目に当ることを考えると、
まさに多くの先達の方々の
の3次元モデルが必要になる。そこで5質点系の3
ご努力によるもので、
自動車社会の発展に誠実に取り
次元モデルを考え、
18自由度の運動方程式から3点
組んできた歴史あるダイハツ工業が顕彰されたものと受
ベルトを装着した場合の乗員挙動を数値計算シミュレ
けとめている」
と古庄氏は謙虚に語っている。氏は、
「創
ーションを試みる。正面および斜め衝突についてダミー
造的技術へのこだわり」
「現地現物主義」
「自ら汗を流
を使用した衝撃台車試験から得た実測値と対比、
合致
す大切さ」
「心配りと温かい人間性」など、
さまざまな想
を得ている。
いをもって慕われ、
その偉業は日本の自動車産業の
近年、
交通事故による死傷者数は大幅な減少をみて
DNAとして次代に引き継がれてゆくことであろう。 いるが、
当時は交通事故による死者が増加の一途をた
(ダイハツ工業株式会社 元常務取締役 どり、
自動車が「走る棺」と言われる時代であった。道路
ダイハツ九州株式会社 副社長 魚井和樹)
19
生涯をディーゼルと共に歩んだ先導者
関 敏郎
早稲田大学 名誉教授
20
関 敏郎(せき としろう) 略歴
学・協会活動等
1908(明治41)年8月 東京柏木に生まれる
1933(昭和8)年3月 早稲田大学理工学部機械工学科卒業
同 年 4月 株式会社池貝鉄工所入社
1937(昭和12)年8月 池貝自動車株式会社設立に伴い転社
1940(昭和15)年4月 同 技術部研究課長、
製造部工務課長を経て
1943(昭和18)年7月 同 企画部長に就任後退職
1943(昭和18)年8月 早稲田大学理工学部助教授に就任
1955(昭和30)年4月 同 教授
1979(昭和54)年3月 定年退職 名誉教授
同 年 11月 南極における航空機事故で逝去 享年71才
正五位勲三等瑞宝章を贈られる
(社)自動車技術会排出ガス部会部会長、学生自動車研究会会長、名誉会員
(社)日本機械学会機械力学部門委員会委員長、第四企画部会長ほか
その他:日本国有鉄道中央学園講師、国鉄運転局事故対策委員会委員長、
(社)日本鉄道運転協会研究会委員長、(財)日本自動車研究所理事
(社)日本自動車機械工具協会委員会委員長、国民生活センター自動車技術検討会委員長
論 文
乗用ヂーゼル自動車の使用実績について:日本機械学会誌(1941年2月)
クランク軸系のねじり振動波形のシミュレーション:日本舶用機関学会誌(1976年11月)
伝達マトリクス法による往復内燃機関クランク軸系の振動解析:同(1979年3月)
その他論文、解説、総説等多数 著 書
『乗用ヂーゼル自動車の試作研究』(山海堂)1943年
『自動車工学(1)、
(2)』(コロナ社)1966、1968年
『機械設計製図演習』(オーム社)1967年 他共著等多数 『自動車工学全書』全22巻(山海堂)編集委員長、総監修 1980年
関敏郎教授は1908年、東京の柏木に生まれ、早
関4HSD10を搭載、運行試験を行ったところ、燃料
稲田大学理工学部機械工学科を33年に卒業された。
消費量が6割ですむことを知り、自動車用ディーゼ
在学中、当時ディーゼルエンジン研究の泰斗であっ
ル機関の開発に一層の情熱を傾注することとなった。
た渡部寅次郎教授に師事し、高速ディーゼル機関の
また、当時の燃料事情を考え、このエンジンに魚油、
研究開発をライフワークとすることを決意された。
シェール油、やし油など各種の動植物油を供給して
卒業研究は「ディーゼル機関燃料噴射管内における
試験してみたところ、良く燃焼し性能の低下も僅か
圧力波の振動現象」というテーマで、燃料噴射ポン
であることを認め、ディーゼルこそ国情に合った最
プの燃料噴射率の理論計算とその実証に関する論文
適の原動機であることを実感された。「ディーゼル
であった。
は豚の胃袋」とは正に氏の至言であった。
卒業後、恩師の推薦によって池貝鉄工所に入社、
一方エンジンの高速化と共に、振動が大きくなり
そこで高速ディーゼル機関の設計開発の業務に携わ
その対策が問題となってきた。とくにクランク軸の
った。39年に自動車部門が独立してできた池貝自動
ねじり振動に関しては各種のエンジン設計にあたっ
車に転出、自動車用高速ディーゼル機関の設計開発
て多くの経験を積み、後に氏が大学に戻ってからの
研究に没頭し43年には企画部長に昇進したが、渡部
主要研究課題となった。
教授に招かれて早稲田大学に転職、その後大学にお
池貝鉄工は高速ディーゼル機関を製作するととも
いてディーゼル機関の振動・騒音対策の研究を進め
に次第にトラック、バスなどの車両も設計、製作す
るとともに、実務経験を踏まえた教育を実施し幾多
ることとなり、37年自動車部門を独立させて池貝
の有能な学生を社会に送り出した。1979年3月定
自動車を設立した。関氏は率先して新会社に移り、
年退職、名誉教授を受けられた。
設計課長、工務課長を歴任し、数種の自動車用ディ
同年11月、南極の観測ツアーにご夫妻で参加され、
ーゼル機関の設計、製作に関与している。これらの
搭乗機が南極エレバス山に激突するという事故に合
エンジンは鉄道省の省営バス、観光バス、商用トラ
われご夫妻とも惜しくも亡くなられた。
ックなどに使用された。
一方ディーゼル乗用車に関しては、すでに欧州各
本邦初の乗用車用ディーゼル機関の設計開発
国では研究開発が進み、一部は実用に供されていた。
関氏の入社当時の池貝鉄工所は、内火艇、軍用ト
こうした状況に刺激されて、関研究課長は年来の夢
ラック、戦車などのディーゼル機関を製作していた
であった乗用車用ディーゼル機関の研究開発に意欲
が、次第に車両用として高速化が進められ、燃焼方
を燃やし、38年にこれまでの経験を生かして6HSD9
式は直噴式から過流室式に変更、また空冷とともに
型エンジンを設計製作した。このエンジンは、水冷
水冷エンジンも開発された。この中で米国のトラッ
クのガソリン機関に代えて試作の空冷ディーゼル機
乗用車用ディーゼル機関6HSD9を搭載したビュイック40型車
6HSD9ディーゼル機関の性能曲線
21
卒業設計で学生が製作したスポーツカー(1966∼67年)
スタイルデザイン、構造設計、FRPボデー製作、組付けまで全て学生の
手で行われ、
もの造りを体得する機会が与えられた。
ベースは、
ダットサン フェアレディ1500(SP310)。
WUVの1/10モデル ワゴン仕様(1972)
卒業設計では、学生が自由な発想で製品企画から参画することができ
た。WUVは、
ピックアップをベースにクーペ、
ワゴンにコンヴァートできる
車両で、後に同じコンセプトのフォードプリマ(1976)
日産エクサ(1986)
が発売された。
6気筒、筒径90mm、行程120mm、排気量4.6 、
査したが異常は認められなかった。その後池貝自動
圧縮比15.0、過流室式のディーゼル機関で、最高出
車では筒径80mmというさらに小型のディーゼルエ
力は80HP/3000rpm、最高トルク23kg-mという性能
ンジン6HSD8を製作したが、ディーゼル乗用車と
を得ている。このエンジンにはリングトレーガ入
して日の目を見ることはなかった。
りのローエキスアルミピストン、局部焼入れを施
しかし、戦後1960年になってようやくディーゼ
したニッケルクロム鋼のクランク軸、ケルメット
ル乗用車が量産されるようになったことを思うと関
軸受を採用するなど、当時としては最新の技術を
氏のエンジンはまさに先駆的な技術開発であったと
組み込んだ画期的なものであった。このエンジン
いえよう。
を翌年米国のガソリン乗用車ビュイック40型(5名
22
乗り、車重1,920kg)に搭載し、運行試験を実施し
早稲田大学における研究と教育
ている。平塚の海岸通りを最高90km/hの速度で走
1943年早稲田大学に戻られた関先生は、懸案にさ
り、加速、登坂性能はガソリン車に比して遜色な
れていた高速ディーゼル機関クランク軸のねじり振
いことを確かめている。燃費は20∼40km/h走行時
動の計算簡略化について研究をされた。電算機のな
で12km/ を得、ガソリン車の55%とその経済性に
い時代にあっては大変な時間と労力を要したねじり
優れていることを再認識している。また25,000km
振動の計算を、それまでに得られた豊富なデータを
走行後にエンジンを分解して各部の損傷、摩耗を検
基に、設計段階で固有振動数を計算し、共振回転数
ディーゼル機関を発明したルドルフ・ディーゼル
(Rudolf Diesel、
ドイツ、1858∼1913年)の記
念碑の前で
学生の工場見学引率の途次、鈴鹿サーキットにて(1978年)
関敏郎、
みち様ご夫妻、大隈庭園にて(1977年)
と振幅を短時間に予測する手法をまとめて発表さ
る部品図を画くことを要求された。また卒業計画設
れた。
計では、自動車の設計にも進み、それを実際に作ら
70年代に入って電算機の使用が容易になってか
せるところまで指導された。スポーツカーやWUV
らはその価値は薄れたが、その考え方は振動抑制対
(Wide Utility Vehicle,またWaseda University
策のためには非常に役だち、大型機関の粘性ダンパ
Vehicleとも呼ぶ)など何台かを製作した。こうし
の特性を解明、その最適設計手法を開発した。さら
た実践教育は社会に巣立つ学生に大きな自信を与え、
に後年になって電算機を縦横に駆使した計算手法と
設計技術者として活躍する多くの卒業生を世に送り
して、伝達マトリクス法を導入、複雑な形状のクラ
出すことに貢献された。
ンク軸をそのまま計算に取入れ、しかも共振点以外
一方、自動車技術会には設立当初から活動に参加
での振幅や、曲げ振動も含めた振幅と付加応力を予
され、自動車排出ガス部会長、学生自動車技術会の
測する方法を開発された。このほか先生は大学にお
会長を務めるなどして名誉会員に推されている。そ
ける研究を常に社会に還元されることを心がけ、デ
の他日本機械学会、日本鉄道運転協会、日本自動車
ィーゼル機関の振動・騒音対策に役だつ多数の特許
機械工具協会等における各種委員会の委員長として、
を出願された。 この面でも多くの貢献をされている。
先生は機械力学、内燃機関設計等の講義のほか、
(早稲田大学名誉教授 高学年の機械設計製図の教育に力を入れられ、実際
元日本学術会議会員 斎藤 孟)
のエンジンを教材に、エンジン組立図と十数枚に亘
大学における最終講義、大隈講堂にて(1979年6月)
最終講義の日に大隈講堂前で(1979年6月)
23
自動車の振動・騒音研究の祖
東京大学 名誉教授
日本機械学会 元会長
亘理 厚(わたり あつし) 略歴
24
1917(大正6)年5月 13日 北海道函館に生まれる
1941(昭和16)年3月 東京帝国大学工学部航空学科卒業
1941(昭和16)年4月 中島飛行機株式会社入社(即日休職)
1941(昭和16)年4月 陸軍航空技術学校入校
1941(昭和16)年8月 陸軍航空技術研究所付
1944(昭和19)年1月 東京帝国大学助教授兼任
1946(昭和21)年12月 東京帝国大学助教授(第二工学部)
1952(昭和27)年4月 工学博士(東京大学)
1956(昭和31)年4月 東京大学教授(生産技術研究所)
1960(昭和35)年11月 ばね技術研究会会長
1973(昭和48)年5月 環境庁中央公害対策審議会委員
1976(昭和51)年10月 運輸省運輸技術審議会委員
1978(昭和53)年4月 東京大学停年退職
1978(昭和53)年4月 (財団法人)日本自動車研究所所長
亘理 厚
1978(昭和53)年5月 東京大学名誉教授
1975(昭和50)年10月 (社団法人)自動車技術会副会長
1976(昭和51)年4月 (社団法人)日本機械学会会長
1976(昭和51)年5月 国際自動車技術会連合(FISITA)理事
1983(昭和58)年1月 24日 逝去(享年66歳)
受賞・叙勲
1953(昭和28)年5月 日本繊維機械学会賞
1968(昭和43)年5月 第12回国際自動車技術会議論文賞
1970(昭和45)年4月 日本機械学会賞
1978(昭和53)年11月 交通文化賞(運輸大臣)
1980(昭和55)年5月 自動車技術会斉藤賞
1982(昭和57)年6月 環境保全功労者(環境庁長官)
1983(昭和58)年1月 勲三等旭日中綬章
日本での自動車製造は戦前から行われていたが、
1960年代に急速に進展して今日の自動車大国となるに
到った。この間の自動車技術の研究と開発に携わった
方々の多くは戦前戦中に航空機技術に携わっていたと
いってよい。亘理厚教授もその一人であろう。亘理教授
は大学卒業後中島飛行機に就職するが、即日休職と
なり、
陸軍航空技術候補生に召集され、
その後航技中
尉となり、
陸軍航空技術研究所に移った。
1944( 昭和19)年に、東京大学第二工学部の助教
授を兼任し、
初めは機械要素設計を担当したようである。
敗戦後の身分の変動を経て、
1946( 昭和21)年に改め
て第二工学部の助教授となり、1956( 昭和31)年に教
学生時代(東京帝国大学)
授に昇任した。
亘理教授の発表論文と退官記念講演での回想とを
スピンドル頭部に鏡を取り付け、
そこに光を当てて、
反射
参照すると、
教授は陸軍航空技術研究所時代初め東
光が天井に描く図形からスピンドルの触れ回り運動を
京大学航空研究所の中西不二夫教授の指導を受けて、
測定したとのことであり、研究成果に較べて実験費用
星形エンジンのピストンの運動について研究している。
は極めて安くて済んだそうである。
次いでクランク軸のねじり振動防止のための摩擦ダ
自動車の振動の研究は、
これも回想によれば、
1950(昭
ンパの研究をしている。摩擦振動はその後長く教授の
和25)年に同僚の平尾収教授他数人で文部省の科学
関心の対象であって、
多くの論文を発表している。
研究費補助金を得て始めたものである。当時の乗用車
敗戦後日本は航空機関連の研究を禁止されたため、
は、
現在のトラックよりも乗り心地が悪かったとのことであ
退官記念講演の折りの教授の言を借りれば、
研究の面
る。教授はこの研究で、
自動車の振動を緩和するため
で失業したので、機械力学分野で新たな研究対象を
には、
自動車の振動系を理論的並びに実験的に解析
模索し、
初め紡績用スピンドルの高速回転化を目指して、
して、
懸架ばねやショックアブソーバは如何にあるべきか、
スピンドルの触れ回り運動の研究をした。この研究の成
またエンジンはどのように支持したら良いかなど、
自動車
果を学位論文にまとめて、1952( 昭和27)年に工学博
の振動乗り心地の改善方策を追求した。
士の学位を得た。回想によれば、
当時振動計測に用い
教授が後年1980( 昭和55)年5月に自動車技術会斎
る計測器は研究室に皆無に等しく、
教授は考慮の末、
藤賞を受賞した三枚ばねの構想はこの研究の中から
試験車のハンドルを握って、助教授時代
25
三枚ばね(上)
と重ね板ばね
生まれたものである。
教授が振動乗り心地の研究を始めた当時は、懸架
亘理研究室「騒音試験」風景、
モーターファン誌ロードテスト
(日産村山テストコース・1970年10月)
ばねは大部分が重ね板ばねであったそうである。重ね
26
板ばねは基本的には三角形板を短冊状に切って積み
法であり、
板ばねの設計法として広く用いられるようにな
重ねたものと言えるから、
そのばね定数は三角形板の
った。板端法による設計のための数表も考案している。
片持ち梁の荷重とたわみの関係から求められていたが、
ばねの他にショックアブソーバやエンジンマウントも振
重ね板ばねは板間摩擦が大きく、
そのため実験しても
動の観点から最適化を図った試験車を作り、
更に自動
荷重たわみ曲線は大きなヒステリシス曲線を描いて、
正
車の性能試験のために、第二工学部にあった種々の
確なばね定数が決められない状況であったとのことで
機材を集め、別に知人を通じてドラムを作ってもらい、
ある。そこで教授は実際を観察することとして、
小さなモ
多分日本で初めてのシャシーダイナモを組み立てて種々
デルを作ってもらい、
材料試験機を使って荷重試験をし
の実験を行ったとのことである。この研究の結果、乗り
てみたところ、
板と板の間には隙間があり、
単に接触端
心地は格段に向上したと回想している。おそらくこの
で力を伝えていることが分かったので、板端接触の仮
間に教授はばね業界と密接な関係を持つようになった
定の下に計算式を導いたところ、
ばね定数の計算結果
と思われ、
ばね技術研究会の会長を1960( 昭和35)年
は実験結果とかなりよく合った上、
各板の応力分布も求
から20年間近く勤めている。更にこの頃、
自動車産業
められ、
設計が極めて容易になった。教授としては板間
の発展のために専門分野を対象にして技術指導を行
摩擦を取り除くためには一枚ばねがよいと思ったが、
折
い、
またモーターファン誌(三栄書房)のロードテストで
損の危険も考慮して、
摩擦が許容できる範囲ということ
は振動・騒音性能試験を長年にわたって担当し、
その
で三枚ばねを製作したとのことである。
データは自動車の企画・設計・評価に多大の貢献をも
ちなみに板端接触に基づく設計法がいわゆる板端
たらしている。
亘理研究室「振動乗り心地試験」風景、
モーターファン誌主催のロードテスト
(機械試験所東村山テストコース・1964年6月)
乗り心地の研究が一段落した後、非線形振動の理
紡績用スピンドルの運動や重ね板ばねの研究に見られ
論的な研究も行ったが、
自動車に関する研究に限って
るように先ず現象の実験的観察が先立ったが、
その後
みると、
関心は操縦性安定性の問題に移ったようである。
のスピンドルの運動方程式の解析や板ばね設計公式
自動車の安定性は一時社会問題となったこともあり、
そ
の導出などでは、
複雑な式を綺麗な形にまとめている。
の折り教授は裁判で鑑定人を勤めてもいる。
また自動車の運動解析も主として計算によって理論的
1965( 昭和40)年にはそれまでの研究を東大生研報
に進め、
アナログ計算機やデジタル計算機は研究の後
告「自動車の運動に関する研究」としてまとめている。
期に補助的に使用した程度である。教授の業績は、
没
この方面の研究はその後も続き、
教授の発表論文リス
後門下生によって編集された亘理厚教授論文選集に
トを見ると、
昭和40年頃以降は、
ほとんどが自動車の運
まとめられている。
動に関するものである。1975( 昭和50)年には東大生
教授は公害問題としての振動騒音問題にも関与し、
研報告「Lateral Stability of an Automobile」を発
環境庁の中央公害対策審議会委員を勤め、
自動車単
表している。
体騒音の規制値設定や、
振動規制法の制定に学術的
教授は数式の運用が極めて得意であった。
もちろん
な面から関与した。
また1976( 昭和51)年5月の社団法
人日本騒音制御工学会の設立にも参画した。
1978( 昭和53)年の東京大学停年退官後、
直ちに財
団法人日本自動車研究所所長に就任し、
その運営に
当たっていたが、
1983( 昭和58)年1月24日早朝自宅で
急逝した。その日の午前中に面会の予定があった程の
急な逝去であった。
教授はアイスホッケーの選手であったと聞いている。
中年からはゴルフを好み、
そのためか日焼けして、
また
恰幅も良かったが、
若い頃の写真では長身白皙の人物
として写っている。
(神奈川工科大学教授、東京大学名誉教授
工学博士 大野進一)
振動規制法について自治体関係者に講義(1976年頃)
退官記念講演当日研究室関係者と共に(1978年3月、東京大学生産技術研究所正面玄関前)
27
芸術を愛したエアバッグの考案者
発明家
元株式会社G・I・C 代表取締役社長
小堀 保三郎(こぼり やすさぶろう)略歴
1899(明治32)年 8月25日 栃木県河内郡明治村に生まれる
1924(大正13)年 帝国通信社(大阪)記者
1934(昭和9)年 大阪電気鉄道(現近鉄)嘱託入社
1937(昭和12)年 大阪工機製作所を創設(大阪下尼崎)
1957(昭和32)年 社名を大同輸送機工業に改名
1960(昭和35)年 社名を関西輸送機と改名(石川島重工業系列)
1962(昭和37)年 石川島播磨重工業に経営権を譲度
1962(昭和37)年 株式会社G・I・C創設(東京都品川区伊皿子)
新機種の開発、各種の特許を取得
1975(昭和50)年 8月 逝去 享年76才
28
小堀 保三郎
<エアバッグの主な特許>
「日本」1965(昭和40)年:自動車の安全装置(特許第457678号)1966年:同(特
許第469597号)、1969年:走行車両乗員の保護装置(特許第560195号)、1972
年:エアバッグ安全装置(特許第644962号)、1972年:対歩行者安全装置(特許
第961358号)、1973年:吸込エアバッグ安全装置(特許第677055号)他17件。「イ
ギリス」1966年
(No.1091820)
、1971年
(No.1305848)
。「西ドイツ」1966年
(No.1655887)
。
「ベルギー」1966年(No.689247)、1971年(No.767699)。「オーストラリア」1966
年(No.429818)。「アメリカ」1967年(No.3336045)、1969年(No.3450414)、
1970年(No.3525535)、1972年(No.3645556)。「イタリア」1967年(No.787892)、
1971年
(No.68770‐A/71)
。「フランス」1967年
(No.1503005)
、1971年
(No.2093757)
。
「スイス」1968年(No.445318)。「デンマーク」1969年(No.254‐34)。「カナダ」
1969年(No.830339)。「オーストリア」1970年(No.280070)。「スウェーデン」1970
年(No.321157)、1974年(No.361014)。
「オランダ」1974年(No.140194)。
1899年(明治32年)8月25日、
栃木県河内郡明治村
のエンジン取り付け専用小型クレーンを開発など事業
下多功に父龍英、母タケの三男として生まれる。1912
の発展に励む。戦後、
日本の復興は石炭エネルギーに
年(明治45年)明治小学校を卒業後、
当時の子弟の多
あるとの先見性のもと、
炭鉱の機械化に乗り出すべく、
くがそうであったように、
奉公に出る。高等教育を受ける
大手の企業の参画のもとに炭鉱機械研究会を発足、
自
機会に恵まれなかったが、
小堀氏は終始独学で社会人
らその責任者を務め炭鉱採掘の機械化に腐心した。こ
としての基礎的教養の涵養に励む。それは知識にとど
の時期、
先端的な機械の開発に挑んだことにより、
その
まらず先人の知恵を修得し、
人としての在るべき士道の
後の発明家としての資質が養われ、
日本の炭鉱事業の
哲理を求めつづけていたことが、
氏の遺された記録か
発展に多大なる貢献をすることになる。
ら偲ばれる。自ら求め育んだ人生哲学は、
やがて社会
1957年(昭和32年)事業拡大と経営の安定基盤を
に貢献する数々の発明をもたらすことにつながる。
固めるため、
大同工業(本社石川県大聖寺)の資本参
加を求め、社名を大同輸送機工業と改める。60年、石
1924年(大正13年)頃、
大阪に出て、
帝国通信社の
川島重工業
(現石川島播磨重工業)
の資本参加を求め、
記者として活躍した。1934年頃、
大阪電気鉄道(略称
社名を関西輸送機と改め、
実質的な石川島播磨重工
大鉄、現近鉄)
に嘱託として入社、
当時の財界人との
業の系列会社となる。これが今日の石川島運輸機械
(株)
交流を深めながらの活躍がはじまる。
の母体となる。2年後、関西輸送機の一切の経営権を
1937年(昭和12年)大阪府下尼崎に大阪工機製作
石川島播磨重工に譲る。
所を創設し、
起重機製造工場の経営に乗り出す。41年、
1962年(昭和37年)住居を東京都品川区伊皿子に
事業拡張のため工場を大阪市城東区に移し、
軍用機
移し、
新機種開発を目的とする株式会社G・I・Cを単身
エアバッグの作動実験(於:防衛庁航空医学実験隊、1965年12月)
29
エアバッグの概念図(バックリング弾性体安全装置作動想定図)の例
30
で設立。伊皿子坂の住まいの近くの玉鳳寺の境内に
していた。
あった木造の一軒家を借り受け、
G・I・C(グッドアイデア
また、
乗員のみに留まらず対歩行者安全装置にも拡げ、
センターの略)の仕事場とした。手始めとしてサンドイッ
歩行者のバンパーへの接触を検出し、
ボンネット上に倒
チ自動製造機をはじめ数多くの特許を取得している。
れこむ前にポール状のエアバッグをネットと共に架長して、
1964年(昭和39年)
には独創的なアイデアのもと、
自
歩行者をすくい込む歩行者用エアバッグも考案している。
動車の安全ネットの開発を手始めとしてエアバッグの開
エアバッグはマスコミにも注目され、
NHK科学ドキュメン
発に着手。確たる技術的裏付けを得るために東京大
タリー「安全自動車をめざして」
(1967年)
で取り上げら
学をはじめとして国公私大の教授陣や立川の防衛庁
れている。
航空医学実験隊などの研究機関の協力を求め、
開発
当時の思い出について触れると、
研究開発のお手伝
資金に私財を投じ、
企業家として新たな道を歩む。かく
いに伊皿子坂の仕事場に出入りしていた折、
ニューヨ
してエアバッグ関連の特許は世界14カ国に及ぶ。衝突
ークタイムズの記事を目にした。そこには「ビルの屋上か
時の乗員保護のシステムは、
衝撃加速度検出装置、
エ
ら飛び降りることそれ自体は危険ではないが、
硬い地面
アバッグ
(弾性防御袋)、気化ガス発生装置などをもっ
に衝突することに生命の危機がある。自動車の衝突が
て構成。エアバッグは運転席、
助手席、
後席に設け、
側
生命を奪うのではなく、
人が硬い車内の構造物に激突
面のサイドエアバッグやルーフエアバッグもすでに考案
することが問題なのである」
(1964・11・1)
との提言があ
世界主要国の数多くの特許を取得
16ミリフィルムに収められた実験記録やテレビ放映フィルム
った。まさに車体の衝突安全の原点である。氏のエア
バッグの発明はこれに応えるものであったが、
その時代
の産業界や省庁の安全センスと世界に先駆ける英断
に出会うことなく、
やがて俎上から消え、
これら特許はそ
の期限を終える。エアバッグの実用化を小堀氏はつい
に見ることはなかった。
先進技術の実用化は、
先進であれば在るほど困難を
伴う。
「リスクを恐れて石橋をたたきに叩いて、
叩き割っ
てから渡らなくてよかった、
と皆で顔を見合わせて納得
しあう体質・体制」を日本社会が卒業していれば、
より多
くの尊い命が救われていたことであろう。
ともあれ、
1980
年代に入り米国そして西ドイツの一部の車両に搭載さ
れるようになり、95年頃から急速に普及し、今日では乗
用車にとって至極当然の安全装備になっている。
小堀氏の創造的感性は既に述べた通りであるが、
芸術的感性の豊かさにも天性のものがあった。当時関
西財界人の社交クラブであった清交社短歌会におけ
小堀氏を生涯に亘って支えた奥方と共に
る短歌は、
「慈航集」
と称した自作の和綴じの二冊の歌
の歌曲を愛し、
自らも師匠に付き、
特に「清元」は最も愛
集に自筆でしたためられ遺されている。
していたといわれている。国立劇場や帝国劇場、帝国
また、
書画や陶磁器にもきわめて造詣が深く、
とりわけ
ホテルなどでの発表会に、
その喉を披露する機会を数
民芸には愛着を持っていた。1939年頃から晩年に至る
多く持ったことが記録されている。
まで民芸界には幅広い交友を持ち、
棟方志功が世に出
力強く己が営み拓くべし る下積みの頃から物心両面において良き支援者であり、
貧しくともよし 理解者であった。陶芸においては河井寛次郎の作品
正しくあれば
を愛し、
民芸運動創始者 柳宗悦、
陶芸家浜田庄司と
遺された日記には随所にその人柄が偲ばれる信条
の親交も長きに亘っていた。一方で、
バーナドリーチの
がしたためられている。これはその一つである。
作品なども愛蔵していた。
(芝浦工業大学名誉学長 名誉教授
また、
「清元」
「長唄」
「小唄」に代表される日本古来
工学博士 小口泰平)
師匠を越える弟子と讃えられた「清元」菊寿会の恒例の披露(於:帝国ホテル、昭和34年11月)
31
日本自動車殿堂 歴史車
日本の自動車の歴史に優れた足跡を残した名車を選定し
日本自動車殿堂に登録して永く伝承します
トヨペット・クラウン
トヨペット・クラウンの沿革
クラウンRS型主要諸元(初期モデル)
昭和27年1月 計画を開始
シャシー形式 クラウンRS型 エンジン形式 R型 直列4気筒 昭和27年8月 ボディ図面に着手
全 長 4,285mm
バルブ型式 OHV
昭和28年6月 シャシー第1号を完成
全 幅 1,680mm
ボア×ストローク 77mm×78mm
昭和28年8月
∼10月
全 高 1,525mm
総 排 気 量 1453cc
軸 距 2,530mm
圧 縮 比 6.8:1
昭和28年9月 シャシー第2次試作図(工準図)出図を開始
最低地上高 200mm
変 速 機 3速
昭和29年1月 ボディの工準図を出図開始
車 両 重 量 1,210kg
最 高 出 力 48ps/4,000rpm
昭和29年6月 第2次試作車2台で2万kmの
∼7月 運行試験を実施
乗 車 定 員 6名
最大トルク 10kg‐m/2,400rpm
試作第1号から3号車の3台で
1万kmの耐久運行試験を実施
昭和29年7月
生産用図面を終了
昭和29年9月
生産車ライン・オフ
昭和29年12月
試作第16号、
本格的生産第22号1万km
運行試験を実施
トヨペット・クラウンの内示会
昭和30年1月 東京トヨペット本社ショールームにて発表会
(『トヨタ自動車20年史』より引用)
32
最 高 速 度 100km/h
登 坂 能 力 32.4%
最小回転半径 5.5m
タイヤサイズ 6.40‐15.4P
(前後) 東京 島屋で催されたクラウンの発表会。
〈1955年1月〉
ロンドン─東京間における5万キロドライブに無事成功し、
挙母に到着したクラウン。〈1956年12月29日〉
アメリカ輸出第1陣のトヨペット・クラウン
発売当時のトヨペット・クラウン・デラックスの新聞広告。
第2次世界大戦が終結し、
ようやく日本の工業が再開された頃
「 本格的乗用車開発には時間が必要であったが、
トヨタは
の国産車は、欧・米国車などと違って、性能的にも信頼性も劣り、
1953年(昭和28)1月に自主開発を決め、
自力で開発(クラウン)
さらにまだ商用車と乗用車の多くが共通の部品によってつくら
を進めた。他社は自主開発よりも外国技術の輸入を優先し、外国
れていた。しかし1951年(昭和26)末、
トヨタは国産初の乗用
メーカーと技術提携して乗用車技術を取得する道を選んだ。 」
*
車専用の自動車としてクラウンの開発をスタートした。
トヨタの
開発陣は、
クラウン開発に先立ち全国各地を回り、新型車の対す
それまでのトヨタでは、
シャシーとボディの設計を別に行ない、
るユーザーのリサーチを実施。重要な顧客であったタクシー業
ボディは外部で生産し組み立てることが多かったが、
クラウンか
界の世論調査の3分の2の賛同を得て、観音開きのドアなどの採
らは自社の工場で生産することを決定、開発と同時に工場の生
用が決定された。
産設備などの充実がはかられた。そして3年に及ぶ開発期間を
かけ、1954年(昭和29)末に純国産乗用車のトヨペット・クラウ
「初代クラウンの設計基本方針
ンRS型が完成した。
1.アメリカンスタイルとし、明るく軽快な感じをだす。
翌1955年(昭和30)の発表会においては、外国メーカーと
2.ボディサイズは、
小型車規格一杯とし、
貧弱に見えないこと。
提携をすることなく、
独自の技術と研鑽(けんさん)によって開発・
3.乗り心地がよく、運転性能の優れた車とする。
生産されたクラウンは、高い評価を得て自家用や営業用に広く
4.タクシー用として格安な車とする。
愛用されることになった。
5.丈夫で、悪路に十分耐える車とする。
*
6.最高速度は100キロメートルとする。」
以後、ロンドン→東京間の5万kmに及ぶ距離を走破して国内
外で賞賛を浴び、
またオーストラリア一周モービルガスラリーで
は日本車で初の参戦を果たして完走し、その耐久性を世界に示
この頃はまだ日本の工業全体が脆弱(ぜいじゃく)であり、
日本
した。
の自動車業界でも、自動車の開発・生産技術が進んでいた欧米
さらにクラウンは、アメリカへ輸出したトヨタ最初の自動車と
の自動車メーカーとの提携が、盛んに行なわれていた。しかしト
して大きな礎を築くことになり、時代の変化と共に進化を続けな
ヨタは、時流に流されることなく、
クラウンを自社で開発する道
がら、
日本車の中では異例ともいえる50年以上もの歴史を誇る
を選んだのである。
トヨタの看板車種に成長したのである。 (小林謙一)
*文献 『主査 中村健也』 トヨタ自動車株式会社 技術管理部発行 1999年刊より
33
2007
CAR OF THE YEAR
日本自動車殿堂 カーオブザイヤー
レクサス LS460
Lexus LS460
この年次に発表された国産乗用車のなかで
最も優れた乗用車として
レクサス LS460 が選定されました
ここに表彰します
選 定 理 由
1.高質かつ魅力的な新しい設計理念へのチャレンジ
2.先進の高度な各種安全システムの導入
3.快適室内空間と安全・安心のモビリティを追求
61
2007
IMPORT CAR OF THE YEAR
日本自動車殿堂 インポートカーオブザイヤー
アルファ ロメオ・ブレラ
Alfa Romeo Brera
この年次に発表された輸入乗用車のなかで
最も優れた乗用車として
アルファ ロメオ・ブレラ が選定されました
ここに表彰します
選 定 理 由
1.魅力あるスタイリングによる景観の向上
2.合理的な安全性への配慮とコストパフォーマンス
3.美観と機能性に優れたインテリアデザイン
62
2007
CAR DESIGN OF THE YEAR
日本自動車殿堂 カーデザインオブザイヤー
三菱 i(アイ)
Mitsubishi i
この年次に発表された国産乗用車・輸入乗用車のなかで
最も優れたデザインの車として
三菱 (アイ)
i
が選定されました
ここに表彰します
選 定 理 由
1.軽自動車の新しいパッケージの提案
2.時代性をリードする新鮮なスタイリング
3.実用性と安全性へのきめ細かい配慮
63
2007
CAR TECHNOLOGY OF THE YEAR
日本自動車殿堂 カーテクノロジーオブザイヤー
アウディTT クーペ
Audi TT Coupe
アルミ・スチール併用新開発ASF
(アウディスペースフレーム)
この年次に発表された国産乗用車・輸入乗用車のなかで
最も優れた技術として
アルミ・スチール併用の
アウディスペースフレームが選定されました
ここに表彰します
選 定 理 由
1.車体の軽量化と高剛性の両立
2.衝突安全対策構造の可能性を拡大
3.省資源への新たなアプローチを示唆
64