資料はここ

5
クーベルタン「1896年のオリンピック競技会」の内容
体育史専門分科会
2002年度 春の定例研究会
F.授与式
結論
1.競技の結果
2.メダルの芸術性
B.現代オリンピック競技会創設の経緯
3.叙事詩の朗唱とオリンピック
1.パリ会議での決定事項
4.授与式後のアテネ
2.ギリシャの受容
3.各国体操連盟の抵抗
G.アテネ大会の検証
1.ギリシャへの影響
C.アテネ大会の描写
2.世界への影響
1.開会式
2.競技会
A.導入
1.アテネ大会の現代的特徴
2002.5.11
「昨年のオリムピア競伎」
『世界之日本』(1897年2月)と
クーベルタンのオリンピズム
D.アマチュア規定の問題
1.オリンピック規約作成の難しさ
2.アテネ大会で採用された規定
3.ゲオルギオス皇太子の活躍
和田 浩一(神戸松蔭女子学院大学)
H.結語(オリンピズム)
E.競技以外の様子
1.夜のアテネ
2.ギリシャ語で書かれたプログラム
3.国王主催の祝宴
1.スポーツが堕落する構造
2.民主主義時代の教育におけるス
ポーツの必要性
3.開催地もちまわりの必要性
4.アテネでのナショナリズム昂揚の
克服
5.オリンピックの世界平和への貢献
1
2010/08/06
2010/08/06
◇ 研究の目的 :日本におけるオリンピズム受容の検証(そのルーツ)2
1.誰が § 風流覊客(佐久間秀雄?=英語通の雑誌同人)
用語の定義 オリンピズム
用語
先行研究
クーベルタンのオリンピック思想
= 近代オリンピック競技会を根幹で支える精神的・理論的思想
n
2.どのような情報を、どのように受け止めたのか
§ Coubertin, “The Olympic Games of 1896.”
Century Illustrated Monthly Magazine 53 (Nov. 1896) : 39-53.
§ 主な関心 : オリンピック競技会やアテネの様子の描写
§ 翻訳せず : 近代オリンピック創設の教育学的意図 = オリンピズム
§挿
入 : 古代ギリシャ神、大津事件、俳句、東京大会開催の希望
n
初出
田原 :1921年 ---- 『体育史研究』1993年
§ Müller による。
2. 清水 :1909年 ---- 『体育史研究』1994年
1.
§
3.オリンピズムは(読者に)どのように理解されたのか
§ クーベルタンの意図 =オリンピズム は明確に理解されなかった
§ 「開催国がもちまわりであること」は伝わった
§ オリンピズムを具体化したオリンピック競技会の情景が伝わった
4.オリンピズム理解の背景には何があったのか
§ 実務上の限界
§ アマチュアリズム概念の不在
§ 日清戦争後の政治的思潮
6
目的
3.
「この [外国との]接触を確立することは、とりもなおさずオリンピ
ズムを復興することではないか? この語は私にとって耳慣れた
語だ」 『21年間の闘い』1909年
和田 :1894年
§
「その日、[全米の各都市で開かれていた大学アメリカン・フット
ボールのゲームで]活躍している選手の名前が・・・・・・電報が届
くとすぐに黒板の上に連ねられた。それはまさに、現代のオリンピ
ズムだった」
§
「オリンピズムの40年(1894-1934年)」
『ルヴュー・ドゥ・パリ』 「オリンピック競技会の復活」 1894年6月15日
文献翻訳
2010/08/06
「オリンピック競技会誕生40周年」での演説(1934年6月23日)
2010/08/06
「昨年の
オリムピア競伎」
3
先行研究
目的
7
n 書誌的に貢献
l 木村毅 『日本スポーツ文化史』 1956年(新版:1978年)
l 鈴木良徳・川本信正編著 『オリンピック』 1956年
風流覊客
『世界之日本』
l 伊東明 『オリンピック史』 1959年
l JOA編 『オリンピック事典』 1982年
第12号
l 鈴木良徳 『続オリンピック外史』 1982年
§ 早川武彦 「日本における『クーベルタン像』について」 1977年
1897年2月1日
pp. 46-49.
オリンピックの関連記事(日本)
雑誌と著者
1895.4. 1 北水生「運動会の歴史及種類」 『少年世界』
1896.3.15 碧落外史「オリンピヤ運動會」 『文武叢誌』
1896.4. 6 第1回オリンピック競技会(アテネ) (~4.15.)
1896.4.15
1896.5.13
1896.8.15
1897.2. 1
2010/08/06
碧落外史「オリンピヤ運動會(承前)」 『文武叢誌』
『讀賣新聞』朝刊、1面
K・Y「希臘オリムピヤ闘伎の復興」 『少年世界』
風流覊客「昨年のオリムピア競伎」 『世界之日本』
2010/08/06
4
“The Olympic Games of 1896”
n Coubertin, Pierre de (1863-1937)
他の記事
8
昨年のオリムピア競伎
n 『世界之日本』
言論活動
Century Illustrated Monthly Magazine, No. 53, pp. 39-53. 1896年11月
§ 他のオリンピックの関連記事
雑誌と著者
Century
l 総合時事雑誌(1896.7~1900.3、通巻94号)
l 目的 : 国際的視野の啓発
l 評論活動:挿絵、社説、論説、時事、海外事情、史伝、学術(歴史、教育、
美術、自然科学、医学など)、文芸、婦人・家庭、書誌、雑録、投書
l 陸奥宗光・西園寺公望が支持
§ 約100ページ、約10銭/号
§ 111,861部 /12巻(1897年)
n 風流覊客
l =佐久間秀雄?:編集人(1897.11.1~98.10.29)
l 史伝:「グラント将軍」(97.2)
雑録:「巴里の情交」(96.11)
「伯林人」(96.11)
「昨年のオリムピア競伎」(97.2)
「マルマイソンの別荘」(97.5)
「ルツチエンの役」 (97.6)
2010/08/06
2010/08/06
表1.クーベルタンの言論活動(雑誌別・年度別の記事の数)
1880
1890
9
1896
1900
86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 08
Réforme sociale
2
5
5
1
1
Revue Athlétique
10 9
Sports Athlétiques
9
1
1
Nouvelle Revue
17 20 10 10
5
6
Century Illustrated Monthly Magazine
1
1
1
Review of Reviews
3
3
2
2
1
1
1
2
7
1
2
6
43 14
Fortnightly Review
Indépendance Belge
6
1
Revue Olympique
8
2
1
1
1
1
5
4
2
1
35 42 48
Revue du Pays de Caux
26 24
Figaro
11 18 20 18 12
Revue pour les Français
30 23 3
2010/08/06
Century の系譜
10
1896
Century
Illustrated
Monthly
Magazine
Century
Magazine
(1909-1930)
Form
に合併
(1930- )
(1881-1909)
Scribner’s
Monthly
(1870-81)
Maurras, Charles
1896. 4 “The Old Olympic Games”
Coubertin, Pierre de
1896.11 “The Olympic Games of 1896”
1897. 9 “Royalists and Republicans. Notes of a
Parisian”
1898.11 “Building up a World’s Fair in France”
1901. 5 “Émile Loubet, President of the French
Republic“
Scribner’s Magazine (1887-1939)
2010/08/06
オリンピックの関連記事(アメリカ)1895 - 1896.
1896
1.“Can We Revive the Olympic Games ?” Forum
2. “Revival of the Olympic Games at Athens.” Bachelor of Arts
3. “Revival of the Olympian Games.” North American Review
4. “The New Olympic Games.” Chautauquan
5. “A Day at Olympia.” Scribner’s Magazine
6. “Revival of the Olympic Games.” Scribner’s Magazine
7. “An Example from Olympia.” Scribner’s Magazine
8. “Olympian Games at Athens.” Bachelor of Arts
9. “The Old Olympic Games.” Century Illustrated Monthly Magazine
10. “The New Olympic Games.” Spectator
11. “The Olympian Games.” New England Magazine
12. “The Olympic Games: by a Competitor and Prize Winner.” Fortnightly
13..“The Revival of the Olympian Games.” Cosmopolis
Review
14. “The Recent Olympian Games.” Bostonian
15. “The New Olympian Games.” Scribner’s Magazine
16. “The Olympic Games of 1896.” Century Illustrated Monthly Magazine
11
2010/08/06
クーベルタンのオリンピズムの紹介
12
目的
l 1903.11.10 鳥谷部春汀 「體育界の偉人クベルタン」 『中学世界』
l 1906. 5.25 大森兵蔵 「希臘競技の復興」 『體育』
クーベルタン文献の翻訳
•弘田親輔 「オリムピック秘話」『オリンピック』1933年
•訳者不明 「オリンピズムの四十年(1894-1934)」『オリンピズム』1935年
•鈴木良徳訳 「近代オリンピック主義の哲学的基礎」『オリンピック』1937年
•訳者不明 「スポーツの発達の根拠と限界に就いて」『体育日本』1939年
※ 富田滋訳『オリンピツクの思ひ出』 1937年刊行予定 → ×
2010/08/06
︽A︱1︾
先日アテネで開かれたオリン
ピック競技会は、現代にふさわ
しいものだった。競技会のプロ
グラムが単に、古代の戦闘馬車
競走が自転車に、拳闘という残
忍な行為がフェンシングに置き
換えられたからというだけでは
︽B︱1︾
現代の競技会はまったく別の物
であり、その創設は[ギリシャ
から見て]﹁外国人﹂にあたる
人たちの業績なのだ。この業績
は1894年にパリの会議に集
まった、すべての国の運動競技
連盟の代表者たちに帰すべきで
ある。そのパリで、あらゆる国
がオリンピック競技会を代わる
代わるに挙行すべきだと同意さ
れたのだ。第一の開催国は当然
ギリシャのものであり、これは
全会一致で認められた。制度、
幅広い支持、本質的に世界的な
性格。これらのの永続性を際立
たせるために国際委員会が定め
られ、委員はヨーロッパやアメ
リカといった様々な国を代表す
ることになった。委員たちは、
運動競技を価値あるものと考え
ている。この委員会の会長職は、
競技会が次に開かれることにな
る国があたる。ギリシャ人のビ
ケラス氏はこの2年間、会長職
を務めてきた。現在はフランス
人が会長であり、1900年ま
で務め続ける。次の競技会が
[万国]博覧会の期間に、パリ
で開かれるからである。190
4年の競技会は、どこで開かれ
るのか?おそらくはニューヨー
ク、ベルリン、またはストック
ホルムであろう。懸案は、もう
じき決定されることになってい
る。先日の祝祭が組織されたの
は、パリ会議中に承認された決
議案の効力によるものだった。
成功裏に終わった結果は、ギリ
シャのコンスタンチン皇太子の
意欲的かつ精力的な協力に負う
ところが大きい。
︽B︱2︾
自分たちに期待されたすべ
てのことをはっきりと理解
したとき、アテネの人々は
勇気を失った。人々が感じ
たのは、都市[アテネ]の
資源には祝祭で要求される
と思われるだけのものがな
いということだった。そし
て︵トリクーピス氏が当時
の総理大臣だった︶政府も
また、施設を増やすことに
は同意しないだろうという
ことだった。トリクーピス
氏は、競技会の成功を信じ
なかった。彼は次のように
主張したのだ。アテネの人
々は運動競技についてから
っきし知らない。つまり、
競技に適したグラウンドが
ない、そこに参加させる自
分たちの競技者もいない。
その上、ギリシャの財政状
況は、必然的にかなりの出
費をともなうイベントの準
備に、世界の国々を招待す
ることを許さない。これら
の異議には一理あった。し
かし、一方で、総理大臣は
支出の大きさを大いに誇張
した。これに反して、政府
は競技会の負担を直接的に
負う必要はなかったのだ。
p. 40
現代アテネ、これはたいへ
ん多くの意味で古代のアテ
ネを思い出させるが、その
古代アテネから恩恵を受け
継いでいる。その恩恵は
[古代アテネの]子どもた
ちによって、美しくまた豊
[祖国を]離れて財産を築
いた裕福な市民たちは、母
国への物惜しみのない振る
舞いによって、商業的な成
功の頂点を飾りたいと思っ
ていた。彼らは祖国に、劇
場や体育施設や神殿といっ
た、壮麗な大建築物を寄贈
した。そのうえ現代の都市
[アテネ]は数々の記念碑
で満たされており、このよ
うな寛大な行為に感謝しな
ければならない。したがっ
て、国家が提供できなかっ
たものを、私的な個々人た
ちから得ることは容易かっ
た。ギリシャ人の過去にお
いて、オリンピック競技会
はたいへん鮮やかな光彩を
ともないながら燃え上がっ
ていたので、彼らは競技会
を復活できなかったにせよ、
心の中にはこの復活を秘め
ているのだ。しかも、道徳
的な幸福につながる利益は、
金銭的なすべての犠牲を大
いに埋め合わせることにな
ったのだろう。
皇太子はすぐさまこれを
理解し、自分の影響力を第
1回オリンピック競技会の
かなものになった。現在と
同じように、公的な資金は
それらの時代、いつでも十
分に満たされていたわけで
はなかった。しかし、遠く
組織化に貸し与えることを
決心した。皇太子は一人の
委員を選び、自分が所有す
る宮殿に本部を置いた。つ
まり、前アテネ市長で素晴
D:/wadaco/etudier/etudes/2002printemp/jo1894jp.$$$
53
31
p. 39
﹁1896年のオリンピッ
ク競技会﹂
創始者
ピエール・ド・クーベルタ
ン
現国際委員会会長
︵挿絵:A・カステーニュ︶
ない。競技会はその起源や規則
において国際的かつ世界的なも
のであり、その結果、現代にお
いて各種の運動競技が発展した
という状況に適合したからそう
言えるのだ。古代の競技会は、
もっぱら古代ギリシャ的な性格
をもっていた。競技会は常に同
じ場所で行われ、ギリシャの血
筋であることが参加条件として
必要だった。時を違えず、ギリ
シャ以外の者たちが容認されて
いたことは真実である。しかし、
オリンピアでの参列は、人種的
平等の名前で発動されたひとつ
の権利というよりはむしろ、ギ
リシャ文明の優越性に対して支
払われた貢ぎ物だった。
1
*1
﹃センチュリー・イラスト
レイテッド・マンスリー・
マガジン﹄第 号︵新シリ
ーズ、第 号︶、1896
年 月
11
2002/ 9/27/11:52
︽和田試訳︾
1.ゴチック体は風流が翻訳し
たおよその場所
2.[ ]は和田による挿
入
3. ︵例︶は和田による
脚注
4.︽C︱1︾︵例︶は和
田が便宜上つけたもの。
必ずしも段落の頭を意
味しない。
請け負った仕事に対してま
ったく不十分だった。大理
石が設置できないところで
は、その代わりとして、彩
色が施された木材が急いで
整備された。しかし、利口
な建築家メタクサス氏は、
彫像、円柱、青銅の四頭立
二輪戦車、そして入り口に
は装厳なアクロポリスの前
門というように、修復され
た古代装飾のすべてが目に
映るようにという希望を心
に抱いていた。
これが実現されたとき、
アテネは真に競技スポーツ
の寺院を所有することにな
る。依然として疑わしいの
は、この現代において、こ
のような聖域が人間の活力
と美しさの礼拝にふさわし
い最善のものなのかどうか、
ということである。運動競
技の復活に恩恵を与えたア
ングロ・サクソンの人々は、
草地や緑の中に、自分たち
の競技を喜んで組み入れる。
トラバース・アイランドほ
ど、アテネの競技場と異な
ったものはなかった。それ
はニューヨーク・アスレテ
この緑の構内で、観客たち
は下り勾配に立つ木の下に
座る。そこは小石を踏みつ
ける音から数フィートのと
ころにある。ある者はパリ
で、ある者はサンフランシ
スコで、ある者はギリシャ
の空を思い出させるくらい
のカリフォルニアの空の下
で、またある者はヒメット
スの清純な輪郭と虹色をし
た光の影とをもつ山々の麓
で、いくらか同じ考えに出
会う。
為のおかげで、ギリシャは
今、類いまれなこの種の記
念建造物によって裕福にな
り、訪問者たちは決して忘
れることのできない光景を
としての機能を果たした。
その痕跡は今はもう残され
ていない。数え切れないほ
どの座席の列と、競技場を
各区画に分けながら上段の
の発見物だったが、考古学
的データにはほとんど加え
られなかった。競技場での
作業は完璧というにはほど
遠く、 ヶ月という期間は、
ィック・クラブの夏の家で、
そこでは選手権大会が[催
され、選手権が]決定され
る。そこには自然がそのま
まに残されているのだが、
で焼かれながら座ったり、
陰で体を冷やされながら座
ったりした。
競技場はアテネにとって、
新しいオリンピアードの開
p. 41
︵挿絵:競技場への道︶
p. 42
もし古代の円形競技場[野
外音楽堂﹂がもっと壮大で、
もっと厳粛であったなら、
現代画はより奥深く、より
魅力的なものとなる。木々
の下で音楽が漂うというこ
とは、運動に対してより柔
らかな伴奏を奏でるという
ことである。つまり、観客
たちは親しみのある気楽さ
をもって動きまわれる。と
ころが、古代の人々は大理
石のベンチの上で杓子定規
にきちんと並べられ、太陽
D:/wadaco/etudier/etudes/2002printemp/jo1894jp.$$$
列につながるひとつづきの
階段のおかげで、競技場は
もはや、丘から切り取られ
ていた概観を呈していない。
この膨大な量の石工事を支
えるために、人の手によっ
てそこに設けられたと思わ
れるのが、その丘である。
細部の装飾は、ひとつだけ
が現代的である。はじめは
これに気づかない。埃だら
けだった走路は、今は燃え
殻の細粉を敷きつめた競走
用のトラックである。これ
は、その目的のためにロン
ドンから渡来した専門家が、
現代競技の最新規則にした
がって準備した。中心には、
一種の遊歩道が体操の演技
用のために、真っ直ぐ伸び
ている。遊歩道の先端、つ
まり[トラックの]コーナ
ーの内側に相当するその両
側には、境目をつける二つ
の大きな石材によって、古
代が表現されている。石材
には二人の人物が象られて
いる。この二体の像は[競
技場の]土台が掘りかえさ
れている間に、発掘された
ものだった。これらは唯一
2
見てきた。
2年前、競技場はある架
空の巨人によってつけられ
た、長くて深い切り傷のよ
うだった。丘のある側はイ
リソス川によってにわかに
隆起したものだった。反対
側のリュカベットスとアク
ロポリスは片田舎であり、
絵のように美しいアテネの
地区だった。そのとき目に
映ったすべてのものとは、
二つの高い地上の堤防だっ
た。両者はそれぞれの長辺
を向かい合わせにして並ん
でおり、[その内側が]狭
い競走用の走路となってい
た。堤防は最後に、印象的
な半円形となって出会った。
草が舗装用の丸小石の間で
成長していた。数世紀の間、
古代の観客たちは、これら
の堤防の敷地の上に腰を下
ろしていた。その後、ある
日、大勢の労働者が競技場
を占有しようとして、石と
大理石とでそこを囲んでし
まった。これまで繰り返さ
れてきたのは、この作業で
ある。一番外側の被層はト
ルコが支配する間、採石場
18
2002/ 9/27/11:52
らしい熱意と意気込みとを
もつ男フィレモン氏を事務
総長にして、必要な資金を
寄付するよう国民に訴えた
のだ。寄付金はギリシャか
ら集まり始めたが、それよ
りもとりわけロンドン、マ
ルセイユ、コンスタンチノ
ープルから集まりだした。
そこには裕福で影響力をも
つギリシャ人街があったの
だ。最高の贈り物は、アレ
クサンドリアから来た。こ
の贈り物が、ヘロデス・ア
ッティコス時代の状態にま
で競技場を修復可能にした
のだ。その狙いは最初から、
祭典が正式に挙行された場
所で各競技を開催すること
にあった。しかし、4万の
人々を収容できるといわれ
る大理石の座席を、かつて
の輝かしさまでに復元する
ことができるとは、誰が夢
見ただろうか。その巨大な
[大理石の]囲いが利用さ
れるはずだったが、この囲
いを取り巻く草で覆われた
斜面には、木製の座席が暫
定的に設置された。アヴェ
ロフ氏の物惜しみのない行
書き、パリ会議がなすべき
仕事に対して一致して抵抗
するよう提案したのだ。こ
れらの紛争は、祝祭の失敗
やその延期の可能性を予言
していた悲観論者たちの意
見を固めた。アテネは遠く
離れている、旅には金がか
かる、そしてイースター休
暇は短い。選手たちはその
祭典に努力する価値がある
と確信できないかぎり、長
旅を自ら企てようとはしな
かった。別のいくつかの連
盟は、競技がどれほどの利
益を生みだすのかを知るこ
とができなければ、代表者
を進んで送ろうとはしなか
った。いよいよというとき、
もう少しで非常に残念な出
来事が発生するところだっ
た。ドイツの報道機関がパ
リの新聞紙上に掲載された
記事を解説し、これはフラ
ンスとギリシャの排他的な
事柄であると言い放ったの
だ。つまり、その試みは他
の国々を閉め出させるもの
で、しかもそのうえ、ドイ
ツの各協会は1894年の
パリ会議からわざと距離を
つけられており、ボート小
屋と更衣室が備わっている。
っていた。これらの連盟は、
アテネに赴くようにと送ら
れた招待を断ることに満足
していなかった。ベルギー
の連盟は他の連盟に手紙を
置いていると言うのだ。そ
の主張は間違っていると認
められた。ゲープハルト博
士の下にあるドイツ委員会
の努力をチェックする力に
︽B︱3︾
欠けていたのだ。その間、
ハンガリーではM・ケメニ
ーが、スウェーデンではバ
ルク少佐が、ロシアではド
・ブトンスキー将軍が、ア
メリカ合衆国ではW・M・
スローン教授が、イギリス
ではアンプトヒル卿が、ボ
ヘミアではジリ・グース博
士がこのイベントへの関心
を喚起することに、そして
疑いについてはこれを保証
することに尽力した。彼ら
はつねに成功したわけでは
ない。多くの人々は皮肉な
見方をし、新聞はオリンピ
ック競技会の話題をたいへ
ん気儘に扱った。
︽C︱1︾
復活祭の翌日、4月6日、ア
テネの各通りは驚くべきほどの
活気に溢れていた。公共の建物
はすべて、万国旗で飾られてい
た。色とりどりの吹き流しが風
にただよい、生き生きとした花
輪が家々の玄関を飾っていた。
オリンピック競技会のギリシャ
語の頭文字﹁O・A﹂の二文字
と、紀元前776年と西暦18
96年の二つの年号がいたると
ころで見られ、古代の経緯と今
日の復活とが示されていた。午
後2時、群衆は競技場に押し寄
せ、座席を確保しはじめた。楽
しげで雑多な人々の集まりだっ
た。国民兵のスカートと組みひ
もで装飾した上着は、ヨーロッ
パの地味で格好の悪い服装と対
照をなしていた。日差しから身
を守るため、女性たちは紙でで
きた大きな扇を使っていた。日
傘は視界を遮るということで、
使用を禁じられていた。3時す
こし前、娘のマリー王女とその
婚約者ロシアのジョルジュ大公
にともなわれ、国王夫妻が車で
現れた。
p. 43
︵挿絵:マラソン競技勝利
者の到着︶
p. 44
皇太子とその弟たち、デリヤニ
ス首相、そしてギリシャ委員会
と国際委員会の委員たちが出迎
えた。王妃と王女には花束が贈
られ、従者の行列は半円形に進
み、ギリシャ国歌の旋律と群衆
の歓声とをうながした。宮廷に
仕える女性と役人、各国の外交
官、そして代議士は国王らを待
ちうけていた。国王夫妻には、
大理石の肘掛け椅子二脚が準備
されていた。皇太子はアリーナ
で国王に向かって立ち、ついで
短いスピーチをおこない、この
事業の起源とその実現がもたら
される際に克服された障害につ
いて言及した。皇太子はオリン
D:/wadaco/etudier/etudes/2002printemp/jo1894jp.$$$
このようにギリシャ委員
会が舞台装置に苦心する間
に、国際委員会と各国内委
員会は競技者の募集にとり
かかった。問題は考えたよ
りも、簡単ではなかった。
単に無関心や疑いが克服さ
れねばならなかった、とい
うだけではない。オリンピ
ック競技会の復活は、ある
敵意を刺激してしまった。
世界中で実践されていた身
体運動のあらゆる形式がプ
ログラムの上に置かれるよ
う、パリ会議は注意深く決
定したのだが、体操家たち
は怒ったのだ。彼らは十分
に目立つ位置が与えられな
かったと考えた。ドイツ、
フランス、ベルギーの大部
分の体操連盟は、厳格で排
他的な精神によって煽られ
た。つまり、協会は自分た
ちが実践していない、この
ような運動競技の形式への
出席を黙って許すたちでは
なかったのだ。体操連盟が
﹁イギリス・スポーツ﹂と
軽蔑して呼んでいたものは、
その大衆性により、とりわ
け鼻持ちならない存在とな
3
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始を偲ぶ唯一の永続的な象
徴ではない。そこには、自
転車競走場と射撃場もある
のだ。自転車競走場は現代
のファレロンの平野にあり、
アテネとピレウスをつなぐ
鉄道に沿って位置している。
これはコペンハーゲンにあ
る競走場のモデルとなり、
そのコペンハーゲンでは、
ギリシャ皇太子とその兄弟
たちが祖父のデンマーク王
を訪問中、その便宜に感謝
されるという機会があった。
実際に自転車選手たちが不
平を漏らしてきたように、
走路の長さは不十分でカー
ブもきつすぎる。しかし、
これまでにいつ、自転車選
手が満足していたと言うの
か。テニスコートは自転車
競走場の中心にある。射撃
場には、中世のはざま付き
壁が特徴的な館があり、見
栄えのよい概観をなしてい
る。選手たちは、歴史的な
アーチの下で気分よく立っ
ている。さらには、ボート
選手たちのための大きな附
属建物がある。これは木造
で、何よりもきれいに飾り
16
カトリックだが、ローマ法王の支
配を受けないギリシャ正教
*
2
km
先端に行くほど細くなるロウソク
D:/wadaco/etudier/etudes/2002printemp/jo1894jp.$$$
点では先頭に立っていたが途中
で落後した。ルイスが競技場の
中へ入って来たとき、群衆は6
万人に達し、これが一人の人間
のように立ち上がって、異常な
ほどの興奮で揺れ動いた。セル
ビアの王はこのとき参列してい
たのだが、ご自身が目にしたそ
の日の光景をおそらく忘れない
だろう。白鳩が解き放たれ、女
性たちは扇やハンカチーフを振
り、ルイスにもっとも近かった
観客のいく人かは席を離れ、彼
に手を触れて意気揚々と運ぼう
とした。もし、皇太子とゲオル
ギオス皇子がルイスを体ごと連
れ去らなかったとしたら、彼は
息を詰まらせたことだろう。わ
たしの隣に立っていた婦人は、
真珠をちりばめた金時計を身か
らはずし、それをルイスに送っ
た。ある宿屋の主人は、365
回分の食事無料券を贈った。ま
たある裕福な市民は、1万フラ
ンの小切手に自分の名を署名す
ることを思いとどまるように、
言われなければならなかった。
しかし、ルイス自身はこの気前
のよい申し出が告げられたとき、
これを辞退した。廉恥心はギリ
シャの農夫の中で非常に強く、
このため非職業選手[アマチュ
ア]の精神はたいへん大きな危
険から救われた。
4
シェル・ブレアル氏によって新
たに設けられた賞であり、戦い
のうれしい結果を同郷の市民た
ちに告げるため、古代の兵士が
アテネまでの遠路を走り通した
のを記念したものである。マラ
トンからアテネへの距離は42
で、道はでこぼこの石だらけ
だった。ギリシャ人たちは直前
の1年間、この競走のためにト
レーニングを重ねていた。遠く
離れたテッサリー地方でさえ、
若い農夫たちが競技者として出
場する準備をしていた。若い男
p. 45
たちがその熱意と未熟さとによ
︽C︱2︾
り命を落とした三つの事例があ
初日は疑いの念を飛び越え、競
ったというが、彼らの準備のた
技会成功の地歩を固めた。悪天
めの努力は誇張されていた。最
候にもかかわらず、そののち数
後の審判の日が近づくと、女性
日間もこの事実を確かなものに
たちは教会へ出かけ、勝利者が
した。王室は精を出して参列し
ギリシャ人でありますようにと
た。射撃競技では、王妃が花で
祈り、願掛けの小さなロウソク
包まれたライフル銃で最初の弾
を捧げた。
を撃ちはなった。フェンシング
願いは実現した。マルシ村出
競技は、博覧会の豪華な建物に
身でルイスという名の若い農夫
ある円形の大理石の広間でおこ
が、2時間 分で勝利者となっ
なわれた。これは、ザッピオン
た。ゴールインしたとき、彼は
として知られているザッパス家
生き生きとした表情で、フォー
の人々によって寄贈された部屋
ムも乱れていなかった。彼に続
である。群衆はつぎに、徒競走、 p. 46
いたのは、二人のギリシャ人だ
重量挙げ、円盤投げ、高跳び、 しかし、ひとつの種目だけは、
った。オーストラリア人の秀で
幅跳び、棒高跳び、そして体操 当然至極のようにギリシャ人の
た短距離走者フラックとフラン
のエキジビションのため競技場 ものとなったようだ。すなわち、
ス人レルミュジオは、35 地
に舞い戻った。プリンストン大 マラトンからの長距離走である。
学の学生ロバート・ギャレット これはフランス学士院の会員ミ
55
は、円盤投げで最高点を記録し
た。彼の勝利は予想外だった。
彼は競技の前日、自分がほんの
少ししか練習していなかったこ
の種目に参加を申し込むことが、
馬鹿げたことだと思っていない
かどうか、わたしに尋ねてきた
のだ。星条旗は、すべての月桂
樹を手に入れるように運命づけ
られているようだった。この旗
が﹁勝利者のマスト﹂に掲げら
れたとき、競技場の最上段で一
団となり立っていたサンフラン
シスコの水夫たちはキャップを
振り、その下にいたボストン・
アスレティック協会のメンバー
たちは気が狂ったように声をあ
げた。﹁B・A・A、ラー!、
ラー!、ラー!﹂この叫び声は
ギリシャ人たちをおおいに楽し
ませた。ギリシャ人はアメリカ
人の勝利に拍手を送った。両者
の間には温かな友好の感情があ
る。
ギリシャ人は競技スポーツに
関しては未熟だったので、自分
たちの国に対して多くの成功を
求めてはいなかった。
km
ルボンヌ大学の大階段教室で開
かれた。そこはピュヴィ・ド・
シャバンヌによって装飾が施さ
れていた。会議議長ド・クーベ
ルタン男爵の挨拶のあと、多く
の聴衆が古代の調べの断片、す
なわちデルフィの遺跡で発見さ
れたアポロンへの賛歌を聴いた。
しかしこのときは、芸術と運動
競技の結合がより直接的なもの
だった。オリンピックの叙事詩
が最後の和音を響かせ、競技会
は始まった。
*
2
*
1
の説教で、[自分とは]異なる
宗教を信奉するギリシャに対し
て、感銘的な讃辞を与えたのだ
った。国王が座席に戻られたと
き、ギリシャの作曲家サマラが
このときのために書いたオリン
ピックの叙事詩が、150人の
合唱によって歌われた。以前に
一度、音楽はオリンピック競技
会の復活と一体になったことが
ある。パリ会議の第1セッショ
ンは、1894年6月 日にソ
*
1
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ピック競技会の開会を宣告する
よう、国王に申し入れた。国王
は立ち上がって、競技会の開会
を宣言した。感動的な瞬間だっ
た。1502年前、[ローマの]
テオドシウス皇帝はオリンピッ
ク競技会を禁止した。皇帝はこ
の憎むべき異教徒の名残りを廃
止することで、進歩主義を進め
たと考えていたに違いない。そ
して今、ここにはキリスト教の
君主がいて、ほとんどがキリス
ト教徒からなる群衆の喝采を浴
びながら、[テオドシウス]皇
帝の法令の正式な廃止を宣言し
ていた。そこから数フィートし
か離れていないところに、アテ
ネの大司教と有名なドミニカの
説教者ディドン神父が立ってい
た。神父はその前日、カトリッ
クの大聖堂であったイースター
これらの末広がりのある、
また矛盾する書き言葉をど
のように調停するのか。パ
リ会議はこれらを調停する
︽D︱2︾
その結果、次のように決定
した。徒競走はフランス競
技スポーツ連盟の規則、跳
躍・砲丸投げなどはイギリ
スのアマチュア競技連盟の
規則、自転車競走は国際自
転車連盟の規則など。これ
は困難さから抜け出す最良
の道に見えた。
︽D︱3︾
しかし、もしゲオルギオス皇子
が︵エポロスというギリシャ語
の名前が与えられていた︶審判
団の先頭に立っていなかったと
したら、わたしたちは多くの論
実際は、竹の杖︵﹃讀賣新聞﹄1
891年5月 日付︶
D:/wadaco/etudier/etudes/2002printemp/jo1894jp.$$$
られたもので、重苦しくて品が
なかった。しかしその内部の中
心は、列柱を通して他の部屋へ
p. 48
ことによると、この言葉づ
つながる、非常に高い天井をも
かいはいささか乱用された
った一続きの大部屋で占められ
きらいがあった。
ていた。装飾は質素で堂々とし
︽E︱2︾
ていた。テーブルは一番大きな
アメリカ人たちがフランス語を 部屋に用意された。主賓席には
理解するように強いられたり、 国王、皇子たち、大臣たちが座
ハンガリー人たちがドイツ語を り、ここには委員会の委員たち
話さざるをえなかったりはしな も腰掛けた。競技者たちは国籍
かった。競技会の日々のプログ 別で、他のテーブルについた。
ラムや昼食会への招待状でさえ、 デザートのとき、国王は招待者
ギリシャ語で書かれていたのだ。 にはじめはフランス語で、その
これらのメッセージカードを受 あとギリシャ語で感謝と祝福の
け取り、それらが神秘的な文句 言葉を述べた。アメリカ人たち
で覆われたり、その日付さえが は﹁ホレイ﹂、ドイツ人たちは
はっきりしなかった場合︵ギリ ﹁ホック﹂、ハンガリー人たち
シャの暦はわたしたちのものよ は﹁エリヤン﹂、ギリシャ人た
り 日遅い︶、各人はホテルの ちは﹁ジトー﹂、フランス人た
ちは﹁ヴィーヴ、ル、ロワ﹂と
ポーターにカードを見せ説明を
叫んだ。食事のあと、国王と皇
求めた。
子たちは競技者たちと長い間、
︽E︱3︾
仲良く雑談した。実に魅力的な
多くの祝宴が開かれた。アテ
︽E︱1︾
場面だった。共和国の純真さは、
競技会の期間中、アテネの各 ネ市長は、ペンテリクス山麓の とりわけ、君主制がこのように
通りには毎晩、照明が施された。 ひっそりとした小さな村スフィ 対等な立場で民主主義と触れ合
松明が列をなし、楽隊がさまざ シアで祝宴を催した。ビケラス
う光景にほとんど慣れていない
まな国家を演奏し、大学生たち 氏は、国際委員会の会長の退任
オーストリア人やロシア人には、
は外国人選手団の[宿泊施設の] を間近に控えていたのだが、フ
驚くべきことだった。
窓の下で大喝采を浴びせ、デモ ァレロンで別の宴を催した。国
さらに、アクロポリスで
ステネスの気高い言葉づかいで 王は自ら宮殿の大舞踏会の間で
昼食会を開き、競技者全員と各 も 夜 間 の 催 し が あ り 、 パ ル
委員会の委員たち、総勢300 テ ノ ン 神 殿 が 色 つ き の 光 線
名の客人を迎えた。この建物の で 照 ら さ れ た 。 ピ レ ウ ス の
外観はオト国王によって仕上げ 港 で は 、 並 ん だ ボ ー ト に 日
5
熱のこもった弁舌を長時間にわ
たって振るった。
12
p. 47
いわゆるきちんとした規則
や規定は、もはや一様では
ないのだ。ある国ではあれ
もこれも禁じられるが、他
の国では正しいと認められ
ている。一人でできること
と言えば、大部分の競技者
たちの考え方と慣行にもと
づいて策定されたオリンピ
ック規約ができるまで、今
あるものの中から規約を選
ぶことである。
争を展開せざるを得なかっただ
ろう。皇子は決勝審判の役を務
めたのだ。彼の存在は、必然的
にさまざまな国の代表者たちで
構成されたエポロスの決定に対
して、重みと影響力とを与えた。
皇子は真剣に、また誠実に務め
を果たした。彼はつねに走路に
出て、細かいところまで自ら指
揮した。背が高く運動選手らし
い体格だったため、一目で分か
る姿だった。思い出されるのは、
ゲオルギオス皇子がいとこのロ
シア皇太子︵現、皇帝ニコラス
二世︶と日本を旅行中、皇太子
を暗殺しようとした悪漢を拳で
うち倒したことである。競技場
で重量挙げが行われていたとき、
ゲオルギオス皇子は巨大なダン
ベルを軽々と持ち上げ、邪魔に
ならないところへホイと投げた。
観衆はまるで皇子をその種目の
勝者にしたいかのように、割れ
んばかりの拍手を送った。
*
3
方向で企てられた。しかし、
その決定は規則としてどこ
にも受け容れられず、また、
最良のものとしてあらゆる
ところで採用されるアマチ
ュアシップの定義でもない。
13
言うまでもなく、各種の
競技はアマチュア規定のも
とで行われた。ひとつの例
外がフェンシングの試合に
よって作られた。いくつか
の国では、軍のフェンシン
グ教師が将校の身分をもっ
ていたからである。将校た
ちには、特別試合が手配さ
れた。競技スポーツの他の
すべての部門では、アマチ
ュアだけが許可された。賞
金と結びついたオリンピッ
ク競技会を想像することは
できない。しかし、これら
の規則は十分に単純だと思
われるのだが、実際の適用
場面ではたいへん分かりに
くい。アマチュアの構成要
素とは何なのかという定義
は国家間で、またときには、
クラブ間でさえも異なって
いる事実があるからだ。い
くつかの定義はイギリスで
現在通用しているが、イタ
リア人とオランダ人は次の
ように認めている。あるひ
とつの定義はある点では厳
格すぎるが、他の点では不
正確すぎるように見える。
*
3
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︽D︱1︾
25
︽G︱1︾
授与式後、競技者たちは伝統的
な行進のため、競技場の周りに
整列した。マラソン競走の勝者
ルイスは、ギリシャの国旗を持
って最初に登場した。次にアメ
リカ人、ハンガリー人、フラン
ス人、ドイツ人が続いた。その
うえ、式典は魅力的な出来事に
より、いっそう忘れられないも
のとなった。競技者の一人、オ
ックスフォード大学の学生ロバ
ートソン氏が、競技会を祝して
古代ギリシャ語とピンダロスの
様式で自作した叙事詩を朗唱し
たのだ。音楽は競技会を開演し、
詩はその終わりに姿を見せた。
このようにして、過去において
女神たちと身体的な強さの功績
とを結びつけ、精神とよく訓練
された肉体とを結びつけた絆が、
もう一度とり戻されたのだ。
興味深いことは、ギリシ
ャと世界の他の国々に関し
て、1896年のオリンピ
ック競技会の結果としてふ
さわしいことは何であるの
かと自問することである。
ギリシャについて言えば、
競技会が二重の効果をもた
らしたことに気づくだろう。
ひとつは運動競技の面であ
り、もうひとつは政治の面
である。抑圧された数世紀、
ギリシャ人たちが身体スポ
ーツの嗜好を完全に失って
いたことは、周知の事実で
ある。山の住人の中には足
の達者な者が、海岸沿いに
点在する村々には泳ぎのう
まい者がいた。取っ組み合
ったり上手に踊ったりする
ことは、若い国民兵にとっ
て自慢の種だった。しかし
それは、勇敢さと勇ましい
態度とが周りの者たちに称
賛されていたからだった。
ギリシャのダンスは運動競
技にはほど遠く、農夫たち
のレスリングの試合は、真
のスポーツの性質を少しも
︽F︱4︾
国王は第一オリンピアードが終
わったことを宣言し、競技場を
あとにした。楽隊はギリシャの
国歌を演奏し、群衆は歓声を上
げつづけた。数日後、アテネか
ら客人たちが消え去った。広場
しが見てきたのは、首都
[アテネ]から離れた小さ
な村々で、ほとんどが長い
トルコよりも東にある国々の総称
D:/wadaco/etudier/etudes/2002printemp/jo1894jp.$$$
︽F︱3︾
持ち合わせていない。都会
の男たちは新聞を読むこと
以上の気晴らしがないこと
を知り、カフェのテーブル
のあちこちで政治について
激しく議論した。しかし、
ギリシャの競走には、東洋
人が生まれつきもつ怠惰さ
がない。明らかになったこ
とは、機会が与えられれば、
運動競技の習慣は東洋人た
ちの中で再び、たやすく根
を下ろすということである。
実際、近年になって、いく
つかの体操協会がアテネと
パトラスで、漕艇クラブが
ピレウスで結成され、一般
の人々はそれらの妙技へま
すます大きな関心を示して
いたのである。それゆえ
﹁オリンピック競技会﹂と
いう語を話すには、都合の
よい時期だった。アテネが
オリンピアードの復活を手
助けしなければならないこ
とが明らかにされるとすぐ
に、国の至るところで、筋
肉的活動の完全なる興奮が
発生した。競技会のあとに
何が続いたのか、というこ
ととは関係なかった。わた
6
はちぎられた花輪で散らかり、
通りを陽気に漂っていた垂れ幕
は姿を消した。ただ太陽と風だ
けが、スタジアム通りの大理石
でできた歩道に手を触れていた。
*
4
の隔たりとその経過が、ゼウス
の手に抱かれた勝利者をくっき
りと際立たせているかのようで
ある。印象的かつ独創的な構図
である。
*
4
25
12
15
ル︶、そしてフェンシングのサ
ーブル競技で一つ、自転車競走
︽F︱1︾
あいにく天候が変わり、ボート で一つ賞を得た。ドイツはレス
レースに定められた日は波がた リング、体操競技︵平行棒、鉄
いへん高く、計画は中止された。 棒、跳馬︶、ローンテニスのダ
これは、ファレロンの停泊地で ブルスで勝った。オーストラリ
行われるはずだった。そのうえ、 アは800m・1500mの平
授与式は一日延期となった。4 地競走、ハンガリーは100m
月 日の朝、競技場ではたいへ ・1200mの水泳競技、オー
ん厳かな儀式が行われた。太陽 ストリアは500mの水泳競技
はふたたび光を放ち、将校の軍 と 時間自転車競走、スイスは
服の上できらめいた。勝利者名 体操で賞を得た。
簿が呼ばれたとき、明らかにな
p. 49
ったことはつまり、この[オリ ︵ 挿 絵 : 賞 を 授 け て い る 国
ンピックの]制度の国際的な性 王 ︶
格が各競技の結果によって、し
p. 50
デ
ンマークは両腕重量挙げで勝
っかり護られたことだった。ア
利
した。
メリカは陸上競技だけで九つの
︽
F︱2︾
賞︵100m・400m平地競
走、110m障害競走、走り高 賞は、古代アルティス人が立
跳び、走り幅跳び、棒高跳び、 ったまさにその地、オリンピア
三段跳び、砲丸投げ、円盤投げ︶ で取られたオリーブの枝、ギリ
を、また射撃で二つの賞︵ m シャの芸術家が描いた賞状、そ
して著名なフランス人彫刻家シ
・ mの連発拳銃[リボルバー]︶
を得た。フランスはフェンシン ャプランが彫った銀のメダルだ
グのフルーレ競技と四つの自転 った。メダルの一方の面はパル
車競走で賞を得た。イギリスは テノン神殿とプロピレア[前門]
片腕重量挙げ競技とローンテニ が映えるアクロポリスで、反対
スのシングル戦で最高の勝利を の面は、フェイディアスが創作
収めた。ギリシャはマラトンか した様式にならった、オリンポ
らの競走と二つの体操競技︵吊 ス山に住むゼウスの素晴らしい
り輪、スベスベ縄登り︶で勝利 頭像である。神の頭像は、それ
し、射撃で三つ︵200m・3 が表面にあるとはいえ滲んでい
00mカービン銃、 mピスト た。まるで数世紀におよぶ時間
30
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本の提灯が吊されていた。
*
6
*
5
クーベルタンが1895年にルア
ーブル市主催の﹁現代史大衆講演﹂
で提起した﹁東方問題﹂は、次の通
り。︵ブロンニュ、 p. 467.
︶
﹁1.いつどのようにしてトルコ
はヨーロッパから撤退するか。撤退
の必要性。キリスト教人口に匹敵す
るトルコ人はみずからをキリスト教
に同化することもキリスト教を自分
たちに同化することもできずにキリ
スト教を制圧する﹂
﹁2.トルコに取ってかわるのは
何か。コンスタンチノープルの地理
的重要性と列強の利害対立からして
現状維持となる。最良の解決策は力
関係において希臘に返還することだ
った。ブルガリア発展の現状はかつ
てのギリシャ帝国の再建を難しくし
ている﹂
p. 53
しかし、皇太子に意気込み
と熱意とを与えてきたのは
ギリシャである。慎ましさ
と不屈の精神の幸せな結合
により、皇太子は誰よりも
ギリシャ人を治めることに
順応していく。委員会をう
まくまとめる際に伴った、
申し分のない寛大さが交わ
っている威信。細部にわた
るまでの厳格さ。そしてと
りわけ、周りの者たちが躊
躇ったり意気消沈したりし
そうになったときの、彼の
穏やかな忍耐力。これらが
明らかにしてくれるのは、
皇太子が王位につくことが
実り豊かな統治のひとつに
ギリシャについては、こ
れぐらいにしておこう。世
界全体に対して、オリンピ
ック競技会はもちろん、今
までのところ影響を及ぼし
ていない。しかし、わたし
は心から、そうなることを
確信している。これがオリ
ンピック競技会を創設した
理由だと、言わせてもらえ
るだろうか。
︽H︱1︾
︽H︱2︾
現代の運動競技は統合され、
洗練されなければならない。
今世紀、身体スポーツの復
興を追求してきた人々は、
不協和音がスポーツ全体を
通じてこの上なく羽振りを
利かすことを知っている。
それぞれの国はそれぞれの
わたしの信念は次の通りだ。
教育はとりわけ民主主義の
時代において、運動競技の
助けなしには立派に、そし
て完全になりうることはな
い。しかし、本来の教育的
な役割を果たすために、運
動競技は完全なる公平さと
尊敬の感情に基づかなけれ
規則をもっている。つまり、
ばならない。
︽H︱3︾
ギリシャは1863年、王位継承
問題を解決するためにデンマーク王
位継承者の次男ゲオルギオス一世を
迎え入れた。
もし、われわれが運動競
技を、これらの脅迫的な悪
D:/wadaco/etudier/etudes/2002printemp/jo1894jp.$$$
p. 52
︵挿絵:ピレウスの夜祭り︶
︽G︱2︾
誰がアマチュアで誰がそう
でないかについて、合意に
達することさえ不可能なの
だ。世界のいたる所で、ひ
とつの終わりなき論争があ
り、これは数え切れないほ
どの週刊誌と日刊紙、すな
わち新聞によって、さらに
遠くへ注ぎ込まれている。
この嘆かわしい状況におい
て、プロ精神はたちまち広
がっていく傾向にある。人
々はひとつの特定のスポー
ツに自分のすべてを捧げ、
これを実践することで富を
成す。このようにして、あ
らゆる高貴さからこのスポ
ーツを奪い、心の上で筋肉
の幅を利かせることによっ
て、人間の適切な均衡を打
ち壊す。
7
p. 51
︵挿絵:勝利者たちの行進︶
なり、彼の統治だけが[ギ
リシャ]国を強くし豊かに
してくれるということであ
る。ギリシャの人々は、自
分たちの将来の君主の真価
についてよりすぐれた見識
をもっている。つまり、仕
事に精を出す皇太子を見て、
彼に対する尊敬と信頼の念
を募らせたのだ。
*
8
皇太子が愛国心が強く気高
く清らかであることを知っ
ていたが、彼のその他の素
晴らしくまた堅実な資質に
ついては、何も知らなかっ
た。コンスタンチン皇太子
は透き通った青い目と色白
の肌と金色の髪とを、デン
マーク人の祖先から受け継
いでいる。そして率直で隠
し立てしない態度、冷静さ、
そして知的明晰さも、同じ
源に由来している。
*
8
*
5
*
6
*
7
が東方問題における一要因
になるならば、それは実に
興味深いことになろう。国
民に活力の著しい増大をも
たらすことによって、[東
方問題の一要因たる]運動
競技がこの難題の解決を早
めないと、誰が言えるのか。
これらは仮説なのだが、諸
々の状況は広い範囲にわた
ってこのような推測を軽視
する。しかし、現地におけ
る[オリンピック]競技会
の即時的な結果は、すでに
ギリシャの内政に見てとれ
る。皇太子とその兄弟ゲオ
ルギオス皇子とニコラ皇子
が組織委員会の仕事の中で
引き受けた積極的な役割に
ついて、わたしは述べてき
た。継承者と目される人が
将来の臣民たちと接触する
機会を得たのは、今回が初
めてだった。臣民たちは、
*
7
2002/ 9/27/11:52
服をまとっていない小さな
少年たちが大きな石を投げ
たり、間に合わせで作った
障害物を跳び越えたりした
様子であり、また、二人の
腕白小僧がアテネの通りで
顔を合わせれば必ず競走し
た姿である。各競技の勝利
者たちは故郷の町へ帰った
とき、同郷の市民たちに熱
狂をもって迎えられた。こ
の熱狂を凌ぐものはなかっ
た。市長と市の当局者たち
は勝利者を出迎え、群衆は
野生のオリーブと月桂樹の
枝を持ちながら歓声を上げ
た。古代において、勝利者
は城壁に特別に作られた穴
を通って市内に入った。ギ
リシャの各都市はもはや城
壁で囲まれてはいないが、
運動競技が国の中央に風穴
を空けたと言えるかも知れ
ない。一国の未来と一民族
全体の力に対して身体運動
の実践がもつような影響力
をはっきりと理解したとき、
ギリシャは1896年から
新しい時代の日付を刻むの
ではないかと、思いを巡ら
せたくなる。もし運動競技
と鋭敏さとを友好的に試し
てみること以上にすぐれた
方法は、他にあるのだろう
か。オリンピック競技会は
古代の人々の手に委ねられ、
運動競技を制御し、平和を
推進させた。今後、オリン
ピック競技会に同じような
善行を期待することは、幻
想ではないのだ。
︽H︱5︾
ピエール・ド・クーベルタ
ン
︽H︱4︾
心にこれらの考えがあっ
て、わたしはオリンピック
競技会を蘇らせようとした
のだ。多くの努力を重ねて、
わたしは成功した。[オリ
ンピックの]制度が繁栄す
るならば、︱すべての文明
国家が協力すれば必ずそう
なると、わたしは確信して
いるのだが︱、オリンピッ
クはおそらく世界平和を確
保する、間接的にではある
が、有力な一要因となるだ
ろう。戦争が起きるのは、
国々がお互いに相手を誤解
するからである。異なった
民族同士を切り離している
諸々の偏見を乗り越えてし
まうまで、わたしたちは平
国内の大会で自分たちのク
ラブや大学の勝利の旗を見
たい、という願望で満たさ
れている人がいるかもしれ
和を手にできないだろう。
この終点に到達するため、
あらゆる国の若者が定期的
に一緒になり、筋肉の強さ
D:/wadaco/etudier/etudes/2002printemp/jo1894jp.$$$
ない。しかし、自国の旗色
が危うくなったとき、感情
はいかに強まることだろう。
わたしが十分に確信してい
るのは、アテネの競技場で
の勝利者たちが、自分たち
の偉業が称えられ、自分た
ちの国旗に歓声があがって
いるのを耳にしたとき、そ
れ以外の報酬を望まなかっ
たことである。
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2002/ 9/27/11:52
魔から保護したいと思うな
ら、アマチュアたちの紛争
に決着をつけねばならない。
アマチュアたちは自分たち
の中で一体化するだろうし、
再三にわたる国際的な出会
いの中で、自分たちの技術
を進んで比較するだろう。
しかしどの国が、自分の規
則や習慣を他の国々へ押し
つけることができるという
のか。スウェーデン人はド
イツ人に屈しないし、フラ
ンス人もイギリス人に対し
てそうだろう。国際オリン
ピック競技会よりすぐれた
ものは、それゆえ考案され
得なかったのだ。各国が、
競技会を交代で組織するの
だ。世界中の競技者たちは
競技会に4年ごとに集まる
とき、過去の記憶によって
気高さがますます高められ
ている。それゆえ彼らは、
お互いにいっそう知り合う
ことを、相互に譲り合うこ
とを、そして競技において
も、勝利の栄誉以外には何
の見返りも求めないという
ことを学ぶだろう。