芥子園画伝 - 勉誠出版

勉誠通信
北斎は 芥子園画伝 を見たか?
芥子園画伝 の和刻を巡って
絵本・画譜研究の現状を想う
村 木 敬 子
佐々木守俊
仲 町 啓 子
中 野 三 敏
・
﹃美術家書誌の書誌﹄
・
﹃中国故事受容論考﹄
・
﹃清明上河図をよむ﹄
・
﹃日本古典博物事典 動物篇﹄
・
﹃ 古代史から解く 伴大納言絵巻の謎﹄
・
﹃吉備大臣入唐絵巻﹄
新刊・好評書籍
第十四号
Bensey Newsletter
伝「えゆく典籍の至宝 展」と
芥子園画伝﹄
志 賀 秀 孝
▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪ ▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪▪
・
﹃ 狩野山雪画 長恨歌画巻﹄
http://www.bensey.co.jp/mm.html
勉誠通信 バックナンバー
特集・﹃芥子園画伝﹄を巡って
日本の近代洋画と 芥子園画伝
芥子園画伝 の編著者・王概の人物画 小 林 宏 光
村木敬子・岡﨑久司
小林宏光・西上 実
小論・研究余滴・随想など本誌にお寄せ願います︒
座談会︼世界が待望する
芥子園画伝﹄の複製
1
2009.11.2
メールマガジンの登録申し込み・取り消しはこちらから
初刷り本から後刷り・明治刷りに至る
迄︑文字通り一堂に会して︑たちどこ
ろに書誌研究が完了することも決して
少なくない︒
いってよいほど目の覚めるような美本
ションのある美術館へ行けば︑必ずと
狂歌絵本など︑海外で浮世絵のコレク
しまった︒例えば歌麿や北斎の色刷り
館にたよる以外は無い所まで片寄って
のの大半は︑今や海外の図書館︑美術
そ の 為 に︑ そ の 尤 品 と 目 さ れ る も
はなかろうか︒
は余りに余計物扱いが過ぎていたので
画譜類の版本の存在は︑我国において
るには違いないが︑それにしても絵本・
するのは︑きわめて真っ当なことであ
世界で所謂〝本絵〟の肉筆画を中心と
年のことではなかろうか︒無論︑その
近
除けば︑絵本や画譜の版本が採り上げ
美術史学の研究において︑浮世絵を
状態の良いものや︑元袋つきなどが多
か︒しかも︑これだけあれば同一本の
ち出来る施設が︑国内のどこにあろう
える集書を擁している︒これに太刀討
軽く二千点 ︵冊ではなくて点である︶を越
など︑何れも絵本・画譜に限定しても
博物館の東洋美術部やボストン美術館
一転して海外に目を向ければ︑大英
たことは誰の目にも明らかであろう︒
本・画譜に関しては︑多分遅きに失し
の 近 々 二︑三 十 年 来 の 設 立 で あ り︑ 絵
名を挙げる人もあろうが︑何れも戦後
田の国際版画美術館や千葉市美術館の
来る名前があるだろうか︒それでも町
と言われて︑たち所に自信を以て出て
譜のコレクションを図った所を挙げよ
図書館や美術館で︑意図的に絵本・画
の 一︑二 点 は 存 在 す る︒ 翻 っ て 国 内 の
し︑ 特 に 尤 品 を と い う わ け で は な く︑
に会することを願わずにはいられない
夢のような経験までさせて貰った︒
改題本迄の三部が揃うという︑何とも
物語﹄と題した色刷り二冊本は︑その
風流伊 勢
年 の 板 本 ま で が 現 れ︑ 更 に﹃ 錦
絵
た﹃列国怪談聞書帖﹄と題する享和二
て︑一例ごとに一九がその縁起を書い
ば か り か︑ 更 に そ れ を 墨 刷 り に し
刷り妖怪絵本 ︵寛政二年板︶に一驚した
話 武 可 誌 ﹄︵ い ま は む か し ︶と 題 す る 色
文 に も 触 れ ら れ た こ と の な い︑﹃ 異 魔
上︑これまで国内のいかなる目録︑論
来︑複製本の不備も確認出来た︒その
その刷りの段階を如実に追うことが出
揃 っ て︑ 初 刷 り か ら 大 正 の 複 製 ま で︑
本舞台扇﹄が︑端本迄入れると五組も
章に限っての閲覧を試みたのだが︑﹃絵
かりの米国某美術館では︑一応勝川春
︵九州大学名誉教授︶
またもう一つの図書館では︑若冲の
く︑一瞬︑国内で見馴れた本と同一本
ともかく同一本の版種を揃えることを
現に︑私自身︑つい先日見て来たば
﹃乗興舟﹄の元題簽完備の原装の一巻
とは思えないような経験をすることも
られるようになったのは︑極く
く
を見ることも出来た︒この珠玉のよう
意図的に行う館の出現することを︑心
ル化した今日のこと︑その在り場所だ
ン氏収蔵の軸物およそ三万点︑書籍類
去年の暮には︑故リチャード・レイ
から待ち望むものである︒
しばしばであった︒
するものが多かったが︑原装は意外に
けを云々しても余り建設的とも思われ
必要以上の改装を施して極太の一巻と
スリムな仕立であった︒かく言えばと
れ又我国を離れてホノルゝ美術館に
移される現場に立ち会うことにもなっ
︵ 特 に 十 七 世 紀 の 絵 入 り 本 ︶が 数 千 冊︑ こ
は 有 難 い こ と と 言 わ ざ る を 得 な い し︑
た︒残念といえば残念だが︑良い落着
ぬのも確かである︒とにかく何処であ
既にきちんと整理され報告されている
特に色刷りの絵本・画譜の場合は︑重
ぬと思えば︑また以て瞑すべしという
き所を見つけたことになるのかもしれ
れ︑一ヶ所に纏められてあること自体
ものであるのは言う迄もない︒ともか
状態の良い同一本の諸本が同一ヶ所に
複をいとわず︑初刷りから明治刷り迄︑
く︑ 何 れ も そ の 所 蔵 さ れ る 美 術 館 で︑
く在外の絵本・画譜はこのレベルなの
ある事の意義は︑何がしかでも書誌的
ことでもあろうか︒
勿論︑そうはいっても本家の我国の
近年︑相見香雨︑漆山天童両氏の﹃絵
を踏まえ乍らも猶︑仲田勝之助氏の﹃絵
調査を試みた事のある人であれば︑ど
本の研究﹄に感じていた技癢は︑漸く
こと︑一館に限らなければ︑板本ゆえ
今度の﹃芥子園画伝﹄にしても︑そ
にして癒される秋を迎えんとして︑今
本年表﹄が相ついで公刊され︑戦前の
の原刻の尤品が大東急記念文庫に収蔵
後一層の展開を俟つこと頻りである︒
脇本楽之軒︑戦後の鈴木重三氏の業績
これまでの軽視を如実に反映して︑改
されていたことの好運を噛みしめつゝ
は御わかり戴けよう︒
装 や 手 摺 れ な ど︑ か な り 状 態 の 悪 い
も︑ 出 来 得 れ ば 更 に そ の 中 国 刊 本 や
れほど強調してもしすぎではないこと
本が多い︒一方で海外のそれは︑初め
なお残る量は多かろうが︑これ又残念
から美術品として購入されているから
和刻本の出来るだけ多くの版種が一堂
小論・研究余滴・随想など本誌にお寄せ願います︒詳細については﹁投稿募集﹂をご覧ください︒
だろうが︑極く普通本でも︑初刷りの
な こ と に 国 内 で 見 る 絵 本・ 画 譜 類 は︑
である︒
て強ちに新発見などと力むつもりはな
さはさりながら︑何であれグローバ
な 一 巻 は︑ こ れ 迄 に 見 得 た も の は 皆︑
中野三敏
絵本・画譜研究の現状を想う
2
絵本・画譜研究の現状を想う
目次に戻る
絵本・画譜研究の現状を想う
3
メールマガジンの登録申し込み・取り消しはこちらから
仲町啓子
中国の﹁文人文化﹂への憧憬は︑流
派やジャンルを横断して見られる江戸
時 代 美 術 の 重 要 な 特 色 の 一 つ で あ る︒
﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ の 受 容 も︑ そ の 文 脈 の
け る 文 人 趣 味 の 研 究 一︑二 ﹂﹃ 実 践 女 子 大 学 美
中 で 展 開 し た︒︵ 拙 稿﹁ 日 本 近 世 美 術 に お
学美術史学﹄所載︶
清 初 に 出 さ れ た﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ は︑
和刻本の刊行
刊 行 後 ︵ 初 集 五 冊 は 一 六 七 九 年︑ 二 集 四 冊
と三集四冊は一七〇一年︶程経ずして日本
へも舶載されたものと推定されてい
る︒﹁ 立 翁 画 伝 ﹂ の 名 を 引 用 書 目 の ひ
と つ と し て 挙 げ る︑ 林 守 篤 の﹃ 画 筌 ﹄
︵ 一 七 一 一 年 序 ︶な ど は︑ 文 献 上 知 り う
る﹃芥子園画伝﹄受容の早い例である︒
︵実践女子大学︶
こ と は︑﹃ 舶 載 書 目 ﹄ な ど が 示 す と お
りであるが︑ただ輸入唐本は︑柳澤淇
園 ︵一七〇四 ―
五 八 ︶旧 蔵 本 の よ う な 良
質なものから粗悪な普及本まで︑かな
り幅広いものであった︒中でも良質な
唐本は入手困難な貴重本であったはず
である︒
そのような状況下で︑一七四八年︵寛
延 元 ︶京 の 書 肆・ 河 南 楼 か ら 和 刻 本 が
出版されることとなった︒河南楼の初
版本は︑唐本に近い縦長の外形で︑康
煕綴じとし︑唐本初集のそれを復刻し
た封面を有するとともに︑独自の魁星
印を捺している︒薄手で光沢のある白
色の紙質は︑比較的上質の唐本の紙を
意識したものと思われる︒総じてそれ
は版型や紙質まで︑良好の唐本の可能
な限りの再現を目指した豪華本で︑も
ちろん上質な唐本には及ばないとは言
え︑粗悪な唐本よりはむしろ品格のあ
る優れたものであった︒
八
は︑﹃文会雑記﹄
︵一七八一
―一︶
岡山藩士であった儒者の湯浅常山
︵一七九八
年︶に﹁ 芥 子 園 画 伝 六 冊︑ 至 極 ノ 好 本
ナリ﹂と記している︒唐本は︑初集五
冊︑二集四冊︑三集四冊だから︑この﹁至
極ノ好本﹂と言われた六冊本とは︑河
南楼から出た寛延元年版の和刻本と思
われる︒右の言は江戸に出た常山が出
版早々の和刻本を手にした時の驚きを
語 っ た も の と 受 け 取 る こ と が で き る︒
寛延元年版の河南楼本は︑大名家など
相応の人々のコレクションにも入って
いて︑日本における﹃芥子園画伝﹄の
普及に重要な役割を担った︒
和刻本・﹃明朝紫硯﹄・﹃絵本鶯宿梅﹄
ところで︑寛延元年 ︵一七四八︶に和
から任意に図柄が選ばれた ︵実はけっ
集 の﹃ 翎 毛 花 卉 譜 ﹄ と﹃ 草 虫 花 卉 譜 ﹄
版・類版等の事件を扱った﹃済判帳﹄の標目︶
の延享四年︵一七四六︶の﹃済帳標目﹄
︵重
たことを想像させるのは︑出版二年前
出版に至るまでに何らかの事情があっ
﹃明朝紫硯﹄についての新論として︑クリスト
図として上梓した︒︵拙稿の脱稿後に出た
を足して︑巻三を二四図︑巻四を一七
譜﹄から三八図を選んで︑重複分一図
花 卉 譜 ﹄ か ら 二 図 を 選 び︑﹃ 翎 毛 花 卉
い︒﹃明朝紫硯﹄の図を避けて︑﹃草虫
して偶然の選択ではない︶四冊と︑初集の
フ・ マ ル ケ﹁ フ ラ ン ス 国 立 図 書 館 所 蔵 の 大 岡
変 則 的 な 編 成 で あ る こ と に 加 え て︑
あった︒
第四巻の一部 ︵人物屋宇︶を和刻した二
の記事である︒それによって︑和刻本
冊を組み合わせて全六冊としたもので
︑二〇〇八年︶
春 卜﹃ 明 朝 紫 硯 ﹄ を め ぐ っ て ﹂﹃ ア ジ ア 遊 学 ﹄
版・類版等に関わる何らかのトラブル
﹃ 絵 本 鶯 宿 梅 ﹄ に つ い て も︑ 図 の 重
宝暦三年 ︵一七五三︶冬に同じく河南楼
複 を 回 避 す る 細 か な 工 夫 が 見 ら れ る︒
詳しくは︑拙論﹁芥子園画伝の河南
から出された︑残りの初集の和刻でも︑
版 に 神 経 を 尖 ら せ な が ら も︑ 新 し く
のような一連の係争と出版からは︑類
ほぼ前回に準ずる措置が採られた︒右
述べているので︑ここでは結論のみを
中国から舶載された画譜をいち早く紹
︑二〇〇六︶で
述べるが︑要するにその事件とは︑大
介・出版しようとする︑一八世紀半ば
垣間見える︒
の書肆や絵師たちの壮絶な先陣争いが
図を除いていっさい取り上げていな
上げた﹃芥子園画伝﹄三集の図を︑一
河 南 楼 本 で は︑﹃ 明 朝 紫 硯 ﹄ が 取 り
との類版問題であったと思われる︒
び橘守國の﹃絵本鶯宿梅﹄︵一七四〇年︶
文芸資料研究所別冊年報﹄
楼本の和刻をめぐって﹂︵﹃実践女子大学
が生じていたことが判明する︒
109
岡 春 卜 の﹃ 明 朝 紫 硯 ﹄︵ 一 七 四 五 年 ︶及
10
小論・研究余滴・随想など本誌にお寄せ願います︒詳細については﹁投稿募集﹂をご覧ください︒
和刻本﹃芥子園画伝﹄︵実践女子大学蔵︶
には完成していたこと︑その時点で重
の草稿は遅くとも延享四年初め頃まで
のまま復元したものではなく︑実は三
刻された﹃芥子園画伝﹄は︑唐本をそ
以後も唐本が継続的にもたらされた
﹃芥子園画伝﹄の和刻を巡って
4
『芥子園画伝』の和刻を巡って
目次に戻る
『芥子園画伝』の和刻を巡って
5
メールマガジンの登録申し込み・取り消しはこちらから
版を重ねるに従い︑多色刷りの精巧さ
の﹃ 書 籍 目 録 ﹄ か ら︑ 二 集 の﹃ 梅 譜 ﹄
能 性 は 高 い︒ ま た 宝 暦 四 年 ︵一七五四︶
の記事から推測するに︑京都の西村市
はしだいに衰え︑色感にも変化が見ら
も和刻されていたことが判明する︒
わりした後︑吉田勘兵衛が加わった第
の初集を取り上げる寛延元年系のもの
れる︒紙質も薄く光沢のあるものから
郎右衛門から﹃芥子園画伝﹄二集のう
と︑残りの初集を取り上げる宝暦三年
そうでないものへと変わるので︑一冊
ち﹃蘭譜﹄と﹃竹譜﹄が出版された可
系のものの二種類あった︒二系統の出
様の画譜が出されるとともに︑俳諧や
年系も宝暦三年系も出版された︒なお︑
版は︑その後それぞれ新しく版元を加
あ た り の 制 作 費 も だ ん だ ん 下 が っ て︑
狂歌の多色刷り摺物や絵本の出版も重
三版が出版される︒この時には寛延元
え︑いくつかの版が重ねられて行く︒
しだいに普及版的要素を増していった
第二版が出版される︒この時︑寛延元
れた︒その後︑植村藤右衛門が加わり︑
伝 ﹄︵ 残 り の 初 集︑ 宝 暦 三 年 系 ︶が 出 版 さ
年 ︵一七五三︶同じ版元から﹃芥子園画
延 元 年 系 ︶が 出 さ れ︑ 引 き 続 き 宝 暦 三
た﹃芥子園画伝﹄︵三集と初集の一部︑寛
の出版は︑昭和期にも及び︑二百年に
の 後︑ 画 法 書 と し て の﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄
を踏襲した芸艸堂版も同様となる︒そ
集 + 三 集 + 四 集 と い う 順 で は な い ︶菱 屋 版
裁を採っている︒︵つまり唐本の初集+二
系+二集+寛延元年系+四集という体
楼版以来の形態は踏襲され︑宝暦三年
も加えて出版されるが︑そこでも河南
割を担ったと言えよう︒
も︑いわば触媒的ともいえる重要な役
戸時代後半の都市文化の隆盛にとって
る︒その意味で﹃芥子園画伝﹄は︑江
子園画伝﹄の和刻であったと考えてい
れを生み出した契機のひとつこそ﹃芥
なわないが︑そうした大きな時代の流
一八世紀も後半になると︑多くの唐
出版の順に簡略に述べると︑寛延元
ねられる︒ここでは詳述することはか
年系が出版されたことは確かだが︑宝
以後︑版は菱屋孫兵衛に移り︑四集
暦三年系も出版されたかどうかは不明
かったが︑京都書林行事の﹃済帳標目﹄
なお︑河南楼から二集は出版されな
も及ぶ大ロングセラーとなった︒
やがて安永元年 ︵一七七二︶頃︑河南
四郎右衛門が病死し︑四郎兵衛に代替
﹃諸国滝廻り﹄︒北斎はここで︑さまざ
まな滝を描いている︒いっぽう﹃芥子
園画伝﹄には﹁流泉瀑布石梁法﹂と称
京 都 堀 川 通 仏 光 寺 下 ル 町 の 書 肆・ 河
収蔵されている︒宝暦三年 ︵一七五三︶
︑
術 館 に は︑﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ の 和 刻 本 が
筆者の勤務する町田市立国際版画美
画学習の裾野を広げた点において︑河
かったのではないだろうか︒中国文人
して﹃芥子園画伝﹄の普及はありえな
ごく限られていただろう︒和刻本なく
そういったチャンスに恵まれた画家は
れたことは確実視されている︒ただし︑
いだのが︑北斎による﹁滝廻り﹂とい
瀑布石梁法﹂の精神をそっくり受け継
法のヴァリエーションを集める﹁流泉
図に仕立て直している︒だが︑滝の描
︵ 脇 村 奨 学 会 蔵 ︶の 中 で 美 麗 な 青 緑 山 水
口分泉法﹂を︑高橋草坪は﹃山水悟帖﹄
すでに知られるように︑この中の﹁山
︵町田市立国際版画美術館学芸員︶
北斎は﹃芥子園画伝﹄を見たか?
佐々木守俊
南 四 郎 兵 衛 ︵ 河 南 楼 ︶が 刊 行 し た 十 一
南版の功績はもっと評価されなくては
し︑滝の描法を十二例集めた項がある︒
冊本で︑﹁河南版﹂の通称で知られる︒
う枠組みであるように筆者には感じら
成 十 九 年 ︶の 二 回 に わ た り︑ 展 示 を 通
本と日本絵画﹂
︵平成二年﹁
︶中国憧憬﹂
︵平
ある絵画情報を摂取する貪欲さでは他
に限定されただろうか︒身のまわりに
が普及したとき︑その享受者は南画家
図1﹃芥子園画伝﹄︵河南版︶垂石隠泉法
町田市立国際版画美術館蔵
れる︒
ならない︒
子園画伝﹄がはたした役割の大きさは︑
諸先学が論ずるとおりである︒それら
じて﹃芥子園画伝﹄と南画の関係をあ
のジャンルの画家を凌駕する︑浮世絵
で は︑ 和 刻 に よ っ て﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄
きらかにする試みをおこなってきた︒
師の目に留まることはなかっただろう
か︒
小論・研究余滴・随想など本誌にお寄せ願います︒詳細については﹁投稿募集﹂をご覧ください︒
園 が︑﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ の 舶 載 原 本 に 触
初期南画家である祗園南海や柳沢淇
の知見に学び︑当館でも﹁画譜・絵手
北斎と﹃芥子園画伝﹄
我が国で南画が成立するにあたり︑﹃芥
﹃芥子園画伝﹄と日本人画家
たとえば︑葛飾北斎の風景画の揃物︑
である︒
心に西村源六と大野木市兵衛が加わっ
年 ︵一七四八︶冬︑河南四郎右衛門を中
ものと思われる︒
された﹃芥子園画伝﹄は︑三集と一部
右 に 述 べ た よ う に︑ 河 南 楼 か ら 出
和刻本﹃芥子園画伝﹄の諸本
6
『芥子園画伝』の和刻を巡って
目次に戻る
北斎は『芥子園画伝』を見たか?
7
める︒そのうち﹁画江海波濤法﹂には
法﹂中の﹁垂石隠泉法﹂︵図1︶や﹁雲
や樹木で隠れる描写が﹁流泉瀑布石梁
下清滝くわんおん﹂は︑滝の一部が崖
る﹁平遠﹂の概念は︑水の表現にも適
強 調 し て い る︒﹁ 三 遠 ﹂ の ひ と つ で あ
山岳と水の描法に類似性があることを
水︑また平遠あり︒﹂と解説が付され︑
﹁画渓澗漣漪法﹂には﹁山︑平遠あり︒
﹁山︑奇峰あり︒水︑また奇峰あり︒﹂︑
に は﹁ 摩 詰 ︵ 王 維 ︶謂 く︑ 画 泉 は そ の
き な 滝 を し ば し ば 描 い た︒﹁ 流 泉 瀑 布
﹃ 諸 国 滝 廻 り ﹄ で︑ 北 斎 は 落 差 の 大
のである︒
う﹁断ちて断たざる﹂滝を描いている
くさまを︑北斎は見事にとらえている︒
も︑大海原が沖に向かって広がってゆ
描く︒海面のごく一部を切り取りつつ
の波は逆に左肩上がりの斜線によって
斜線を集積して近景の波を描き︑遠景
州銚子﹂である︒北斎は右肩上がりの
を追求した揃物﹃千絵の海﹄の一図︑﹁総
国滝廻り﹄とおなじく北斎が水の表現
ル感のある﹁総州銚子﹂は︑そんなこ
ではないだろうか︒小品ながらスケー
こまでも続く海面を描こうと試みたの
の概念を﹁総州銚子﹂にとりいれ︑ど
書として意識し︑﹁水︑また平遠あり﹂
を図取りの種本としてのみでなく画論
お か し く な い︒ 北 斎 は﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄
﹁画渓澗漣漪法﹂に目を向けていても
法﹂を参照していたなら︑二丁あとの
銚子﹂の作画において北斎が﹁画平泉
用されるというのである︒もし﹁総州
石 梁 法 ﹂ も 同 様 の 図 を 含 む が︑﹁ 画 平
斜線の多用と︑水平方向を意識した遠
とを想像させてくれる︒
付されている︒北斎はまさに王維のい
泉法 ﹂︵図2︶は趣きを異にする︒これ
格と一致し︑ここにも北斎画と﹁流泉
近 表 現 は︑﹁ 画 平 泉 法 ﹂ の 基 本 的 な 骨
瀑布石梁法﹂の類似点が見出される︒
﹁平遠﹂の理解
はなだらかな傾斜の平地を水流がジ
方向を水平に見はるかす構図がとられ
﹃芥子園画伝﹄は﹁流泉瀑布石梁法﹂
最後に︑こういった小文に﹁私﹂が
初集 二集 三集
芥子園画伝
芥子園画伝
二集
草虫花卉譜
蘭譜・竹譜・梅譜・菊譜
初集 巻一〜巻五
上冊・下冊
三集
上冊・下冊
小論・研究余滴・随想など本誌にお寄せ願います︒詳細については﹁投稿募集﹂をご覧ください︒
解題 中国画譜の集大成 ﹃
―芥子園画伝﹄初集・
二集・三集の全貌 /
―小林宏光
﹃芥子園画伝﹄ 迷
―宮と伝説と /
―岡﨑久司
石濤と﹃芥子園画伝﹄/西上 実
毛花卉譜
芥子園画伝
大東急記念文庫の六十年と﹃芥子園画伝﹄
財団法人大東急記念文庫
◆内容構成◆
最先端の論考を添えて︑原寸原色で再現︒
理論の両面で絶大な影響を残した大ベストセラーの国内最善本を︑
画論︑絵画史︑技法を説き︑実作例を豊富に示して︑制作の実践と
東アジア絵画史を決定的に変えた多色刷りの一大画譜
大東急記念文庫 編
菊倍判変型・クロス装・函入・三冊組分売不可・
定価一五一︑二〇〇円︵税込︶
芥子園画伝
大東急記念文庫蔵
の 十 二 図 に 続 き︑﹁ 水 雲 法 ﹂ 四 図 を 収
る︒
﹁画平泉法﹂から想起されるのが︑﹃諸
つ︑私的な思い出話をひとつ︒筆者は
顔を出すことは戒めるべきと知りつ
卒業論文で歌川国芳の中国版画学習に
ついてとりあげ︑国芳が私淑した北斎
MIHO MUSEUM
にもおのずと筆が及んだ︒口頭試問の
お り︑ 辻 惟 雄 先 生 ︵ 現
館 長 ︶に﹁ 北 斎 は﹃ 明 画 ﹄ を 学 ん だ︑
との説がある︒そういうことも考えて
みては﹂とのご指導を賜ったことを覚
えている︒北斎の見た﹁明画﹂に︑﹃芥
子園画伝﹄をはじめとする版本類を
加えて考えることは可能ではないだろ
うか︒機会があれば掘り下げてみたい
テーマである︒
北斎の見た﹁中国﹂
グザグと蛇行するさまを描き︑上流の
断 ち て 断 た ざ る を 欲 す︒﹂ と の 解 説 が
流 泉 断 法 ﹂ と 通 じ る︒﹁ 垂 石 隠 泉 法 ﹂
図2﹃芥子園画伝﹄︵河南版︶画平泉法
町田市立国際版画美術館蔵
メールマガジンの登録申し込み・取り消しはこちらから
造 型 的 に も︑﹃ 諸 国 滝 廻 り ﹄ の﹁ 木
曾路ノ奥阿弥陀ヶ池﹂や﹁東海道坂ノ
8
北斎は『芥子園画伝』を見たか?
目次に戻る
北斎は『芥子園画伝』を見たか?
9
メールマガジンの登録申し込み・取り消しはこちらから
の高いものである︒しかし恐らく一般
の人には﹃源氏物語﹄といえば平安時
代に書かれたもの︑という強い印象が
あって︑江戸時代に書写された写本か
ら平安を体感するのは意外に難しいの
ではないか︒特に仮名の読めない人に
とってはある意味で感覚上の混乱を招
くのではないかと考え︑あえて展示は
しなかった︒もちろん︑後半の版本の
コーナーには︑おなじみの文学作品が
満載である︒印刷されたもので古典を
読む︑という習慣は現代の我々にも親
しく︑かえってなじみやすいとも思わ
れた︒偏向的な方法かもしれないけれ
ども︑とにかくこうした基準で選定し
た結果︑前半のコーナーは自ずと仏書
や仏教関係の辞書︑類書に占められ非
常に地味かつ重たいものとなっている
が︑これがわが国の時代ごとの書物の
比率を反映しているのではないかと考
えている︒
するかが実はこのたびのもう一つの悩
に つ い て で あ る︒ こ れ を ど こ に 展 示
で色を重ねて色数を増やし︑そのため
同じ明和の出版物だが二度刷りの技法
た 優 品﹃ 彩 画 職 人 部 類 ﹄︵ 明 和 七 年 刊 ︶
︑
ている印象を受ける︒
﹃芥子園画伝﹄の
それぞれ異なる意図のもとに製作され
てみると︑直接の影響関係というより︑
の色刷り本と﹃芥子園画伝﹄とを並べ
前置きが長くなったが﹃芥子園画伝﹄
みであった︒写本の代替物としての版
に生ずる独特の不透明な混色が魅力的
れ る 資 料 が︑ 一 体 ど の﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄
から︑一歩すすんで版というものの固
を参照したのかを︑ひとつひとつ検証
影響云々について安易に言及できない
所蔵している︒
する必要があることを改めて考えさせ
のは︑このたびの複製の解題に述べら
﹃芥子園画伝﹄はこれら近世の多色刷
な﹃絵本千歳春﹄︵明和九年刊︶
︑あらゆ
り﹂に意を用いて作られるようになる︒
り印刷に影響を与えた一書と考えられ
る高度な刷りの技術の見本帳のような
本文庫には近世の多色刷りの発展を
られた︒大東急本の澄んだ色彩と繊細
有の味わいを人々が自覚するようにな
洩れなく跡づけられる資料が揃ってい
ることに異論はないであろうから︑こ
な表現をぜひ一度実際にご覧いただき︑
るのは嵯峨本の刊行以降であると思わ
ない憾みはあるけれども︑本格的な多
のたびはやや先行する中国の色刷り本
﹃芥子園画伝﹄研究のこれからを展望し
れるとおりであり︑影響を受けたとさ
色刷りの画期をなす﹃御馬印﹄︵寛永頃
に収めたが︑しかし改めてそれら日本
﹃十竹斎箋譜﹄とともにこのコーナー
﹃風俗狂歌摺物帖﹄︵江戸後期成︶などを
刊︶を筆頭に︑柔らかで透明感のある
伝えゆく典籍の至宝
大東急記念文庫創立六十周年記念特別展
二〇〇九年十月二十四日︵土︶ 十
―一月二十九日︵日︶
主
催=財団法人大東急記念文庫
/財団法人五島美術館
休 館 日=毎月曜日︵但し︑十一月二十三日は
開館︶︑十一月二十四日︵火︶
開館時間=午前十時 午
―後五時
︵但し︑入館は四時三十分まで︶
入 館 料=一般一〇〇〇円/高・大学生七〇〇円
/中学生以下無料
小論・研究余滴・随想など本誌にお寄せ願います︒詳細については﹁投稿募集﹂をご覧ください︒
日本・東洋の古典籍約三万点を収蔵する﹁大
東急記念文庫﹂のコレクションの中から国宝・
重要文化財三十余点を含む優品約百五十点を
選んで一堂に展示し︵期間中︑一部展示替が
あります︒︶︑書物や絵画が織りなす豊饒な古
典籍の世界を広く紹介︒
ていただければと思っている︒
色彩を用い︑ぼかしの技法も取り入れ
れ︑その後の版本は﹁挿絵﹂と﹁色刷
近世の写本があり︑これは資料的価値
たとえば本文庫にも﹃源氏物語﹄の
版本で伝わっている︒
うな作品の多くは近世の写本もしくは
も︑研究者には自明のごとく︑そのよ
品を並べればよさそうなものだけれど
科書などで知名度の高い中世の文学作
でいただくには︑とりあえず古典の教
者も多い︒そのような方々にも楽しん
ろん変体仮名に対する知識のない来館
古典籍にまったくなじみがなく︑もち
となった︒美術館という性格上︑普段
本のコーナーにおける選定が悩みの種
こだわったため︑作品の選定︑特に写
うような仕組みを作りあげることに
こ の 時 代 感 覚 体 験 装 置︑ と で も い
仕組みになっている︒
︵大東急記念文庫学芸員︶
﹁伝えゆく典籍の至宝﹂展と﹃芥子園画伝﹄
村木敬子
こ の 十 月 二 十 四 日 ︵ 土 ︶か ら 五 島 美
ちょっとしたタイムトンネルのような
ら 歴 史 を 旅 す る こ と が で き る と い う︑
から立ち上る時代の空気を呼吸しなが
類を並べ︑会場内を一巡すれば︑書物
古版本と近世以降の版本及び自筆本の
主として中古・中世の写本︑左半分に
を挟み︑入り口から向かって右半分に
示は正面の美術作品を飾ったコーナー
ど多くの研究者がご参会下さった︒展
は国語・国文学︑歴史学︑美術史学な
介する展覧会である︒前日の内覧会に
﹃門﹄までの名品をいわば総花的に紹
時代の古文書から︑近くは夏目漱石の
至宝﹂は︑本文庫所蔵の︑遠くは奈良
立六十周記念特別展 伝えゆく典籍の
術 館 で 開 催 中 の﹁ 大 東 急 記 念 文 庫 創
「伝えゆく典籍の至宝」展と『芥子園画伝』 10
目次に戻る
11 「伝えゆく典籍の至宝」展と『芥子園画伝』
メールマガジンの登録申し込み・取り消しはこちらから
て日本的な画題に平面的な幻想性を追
求する︒同様に熊谷守一も︑洋画にお
ける日本画的な平面性の追求に没頭し
た︒フランスでセザンヌ研究に心血を
注いでいた森田恒友は︑滞欧経験を境
に洋画家としては筆を折り︑南画家に
転向してしまう︒正宗も前述のように
マティスに傾倒し︑実際に本人と親交
を結んでいながら︑帰国後は南画的な
そ も そ も グ ル ー プ の 中 心 青 木 繁 は︑
画風に転換しているのである︒
上 京 し て ま ず 不 同 舎 ︵ 旧 派 ︶に 学 び︑
ついで東京美術学校の黒田清輝 ︵新派︶
にも教えを受けた学生であった︒この
ように新旧の狭間に揺れた若い画家た
ちの典型が﹁青木グループ﹂といって
よく︑しかも彼らはことごとく結局は
衆知のように青木自身︑モチーフとし
日 本 や 東 洋 の 古 典 へ 回 帰 し て い っ た︒
て神話や天平時代など︑古典に取材し
た作品を描いている︒この古典への回
庵もまた︑油彩画から日本画へ転向し
れる︒正宗の不同舎での先輩︑小杉放
されたのが東洋の画論の再検討であっ
るかということであり︑そこに見いだ
日本の絵画のスタイルを如何に確立す
眺めていた﹃芥子園画伝﹄がどのよう
いものであるし︑実際に正宗が飽かず
中の秘にあたるこの部分の解明は難し
筆者はこのことを予感した︒画家の秘
帰は﹁青木グループ﹂以外にも認めら
た一人である︒青木は幼少の頃︑日々
たと考えられる︒いわば洋画の和風化
刷物も加えると夥しい刊行数に上るこ
縁 側 に 正 座 を さ せ ら れ︑ 大 声 で﹃ 論
正宗は晩年︑万巻の書を読破した富
の書物の中から同定するのは︑一層困
なものであったのかを︑明治以降の印
岡鐵斎を渾身の力で研究し︑不朽の大
難なことであろう︒ともあれ︑このほ
をめざしたものといえる︒
江戸時代以来の一般教養が︑洋学を志
著﹃鐵斎﹄を上梓するとその日のうち
れども︑こうした明治の人々を育んだ
すか否かを問わず︑心の中に深く浸透
ど初版に近接すると思われる﹃芥子園
加えられることの意味は︑日本近代洋
画伝﹄の複製が刊行され︑研究資料に
二人の油彩画家が等しく鐵斎の南画に
画史を再考する上でも極めて重要だと
に病没した︒梅原龍三郎もまた鐵斎の
精神の支柱を求めたのも︑それを東洋
いえよう︒
信奉者であったといわれている︒この
由を︑続く大正期にはドイツ表現主義
の画論の具体化と見たからではあるま
ろう︒印象派との接触により視覚の自
の洗礼により心象表現の自由を得た洋
いか︒冒頭の﹁カイシエン﹂の会話で︑
講演会
画 家 達 に と り︑ 次 の 課 題 は 日 本 ︵ 私 ︶
伝えゆく典籍の至宝
出陳書﹃遊子方言﹄に因んで﹂
﹁書肆丹波屋理兵衛の生涯
岡﨑久司氏︵早稲田大学客員教授︶
十月三十一日︵土︶ ﹁文庫で出会った巨星たち﹂
︻終了︼
十一月三日︵祝︶
︵人数により入場を制限する場合があります︶
●ギャラリートーク︵展示解説︶
十一月十八日︵水︶午後二時より︵開場・受付は午後一時︶
於五島美術館講堂 当日入館者聴講無料
椅子席一〇〇名先着順
小論・研究余滴・随想など本誌にお寄せ願います︒詳細については﹁投稿募集﹂をご覧ください︒
中野三敏氏 ︵九州大学名誉教授︶
十一月二十二日︵日︶
﹁延慶本平家物語の世界﹂
佐伯真一氏 ︵青山学院大学教授︶
*各日午後二時より ︵開場・受付は午後一時︶
*於五島美術館講堂 当日入館者聴講無料
椅子席一〇〇名先着順
*午後一時より聴講整理券を発行します︒
へ向けた視線 ︵内面性︶をどう表現し︑
し回帰や転向を容易にしたといえるだ
語﹄を読まされたと述懐しているけ
面 シ リ ー ズ ﹂ や︑﹁ 牛 ﹂ な ど︑ き わ め
を取り入れた坂本繁二郎は︑留学後﹁能
出来るのである︒まず︑印象派の技法
後の画業に一つの共通点を見ることが
いずれも欧米に留学を果たすが︑その
注目するとあることに気づく︒彼らは
と呼ばれる集団である︒この顔ぶれに
恒友︑村上為俊︑一名﹁青木グループ﹂
は正宗︑坂本繁二郎︑熊谷守一︑森田
繁を囲むグループに参加した︒構成員
正宗は︑東京美術学校に入学し︑青木
ともあれ西洋画を学ばんと上京した
なくらいである︒
西洋絵画を志したことのほうが不思議
け親しい存在だったといえる︒むしろ
たのであるから︑古典や漢文にとりわ
う蔵書の集積を今に伝える環境に育っ
︵府中市美術館学芸員係長︶
日本の近代洋画と﹃芥子園画伝﹄
志賀秀孝
﹁ カ イ シ エ ン ガ デ ン ﹂ に つ い て︑ ふ
に国文学者敦夫をもち︑正宗文庫とい
郎は︑長兄に正宗白鳥を︑すぐ上の兄
どころか岡山の名家の出身である得三
を知らないとはいえない︒否︑知らぬ
あるからといって︑東洋の画伝や画論
ある︒無論︑西洋絵画を学んだ画家で
モネやマティスに傾倒した油彩画家で
正宗得三郎とは︑フランスに留学し
て﹃芥子園画伝﹄を眺めていた﹂という︒
と︑師の正宗は制作の合間﹁折に触れ
助手を勤めていたその人の証言による
語は唐突であり新鮮であった︒正宗の
状況で耳にしたこの﹁カイシエン﹂の
品について調査中のことである︒その
宗得三郎という明治生まれの画家の作
いに小さく耳元で問いかけられた︒正
日本の近代洋画と『芥子園画伝』 12
目次に戻る
日本の近代洋画と『芥子園画伝』
13
メールマガジンの登録申し込み・取り消しはこちらから
た淡い色彩と濃淡の墨色を巧みに使い
糎︑横一七糎の小画面で︑抑制の効い
︵上智大学教授︶
﹃芥子園画伝﹄初集の編著者として
けた︒一方で︑繊細な感覚の人物︑花
あるいはときに淡彩の山水画を描き続
人 と し て︑ 巨 幅 を ふ く む 墨 色 豊 か な︑
は︑ 金 陵 派 ︵ 南 京 派 ︶の 有 力 画 家 の 一
の画冊から九年後に上梓される﹃芥子
王概作である︒水仙と梅花の方は︑こ
の 童 子 を 描 い た 人 物 図 の 合 計 四 図 が︑
点に水仙と梅花の花卉図︑高士と二人
内の六図が紹介され︑瀟洒な山水図二
四 十 七 期 ︵ 一 九 九 四 年 三 月 ︶に は︑ そ の
は︑一六二五年頃に陳洪綬が︑当時大
人 物 像 を 応 用 し て い る︒﹃ 水 滸 葉 子 ﹄
て 評 判 と な っ た﹃ 水 滸 葉 子 ﹄ 版 画 の
分 け た 七 図 か ら な る︒﹃ 藝 苑 掇 英 ﹄ 第
鳥 画 も 描 い て い た︒﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ の
園画伝﹄三集の花卉図に受け渡される
つくした王概 ︵一六四五
作図では︑すくなからず明末の山水版
流行の小説﹃水滸伝﹄から四十人の豪
図1 王概﹁雑画冊﹂より人物図
出典 ﹃藝苑掇英﹄第四十七期︵一九九四年三月︶
画や画譜から構図を転用し︑創作のヒ
構図とモティーフを示している︒
本の﹁雑画冊﹂︵常熟博物館蔵︶がある︒
康煕三十一年 ︵一六九二︶に合作した紙
晩年の陳洪綬と親しく︑青年期の王
陳洪綬 ︵一五九九 ―
一 六 五 二 ︶が 作 画 し
風 で も て は や さ れ た 明 末 の 人 気 画 家︑
である︒作図にあたり︑奇古の人物画
画﹁聖賢図﹂石刻である ︵図3︶
︒孔子
に一度ならず模写した杭州の伝李公麟
いモデルがある︒陳洪綬が︑少年時代
た︒
滸伝﹄の英雄を気取った出版であっ
うたい文句があり︑弱きを助ける﹃水
傑を選んで一組四十枚のゲーム・カー
こ の 画 冊 は︑ 各 図 い ず れ も 縦 一 六・五
概を知る周亮工︵一六一二 一
は︑
―六七二︶
逆 に︑ 構 図 の 手 本 を お も し ろ く 辿
王概が利用したのは︑書生のような
すぐれた絵画の鑑識眼を持ち︑画家達
と七十二人の弟子が彫られていて︑万
知人一家を救うために描いたという
いでたちの梁山泊の軍師︑呉用像であ
のパトロンとなり︑王概のよき理解者
暦年間 ︵一五七三 ―
一 六 一 九 ︶に は︑ こ
の石刻をもとにした﹃聖賢像賛﹄も出
ドのデザインとしたもので︑貧窮する
る ︵図2︶
︒呉用とは﹁かつて万巻の経
でもあった︒その著﹃印人伝﹄で︑ま
士と二人の童子を描いた人物図の方
書を読む﹂と小説中の詩にうたわれる
だ二十歳を過ぎたばかりの王概を︑十
れ る の が︑ 鬚 を た く わ え た 策 杖 の 高
の鎖を武器に腕も立つ︑もとは寺子屋
眉目秀麗なインテリ豪傑で︑二本の銅
そ の 一 例 に︑ 王 概 が︑ 弟 の 王 蓍 と
着想を得ている︒
肉筆画制作にあたっても明末の版画に
ントとしたが︑人物や花鳥ジャンルの
一七〇五以降︶
―
名高く︑同二集︑三集の出版にも力を
小林宏光
﹃芥子園画伝﹄の編著者・王概の人物画
14
『芥子園画伝』の編著者・王概の人物画
を写し︑振り向いた呉用の顔を元に戻
の教師︒王概は︑版画の陳洪綬の筆意
ほどの芸術家になるだろうとほめそや
年 後 に は︑ 徐 渭 が 忘 れ ら れ て し ま う
文章は︑想い起こせば︑随所に彼の過
﹃芥子園画伝﹄初集に書いた王概の
ズを写して︑陳洪綬は呉用像にした︒
版されている︒孔子の弟子樊須のポー
剰なまでの自尊心の高さをうかがわせ
分が︑周亮工によって比べられたこと
を心に刻んでいたからか︒しかし︑﹁雑
るものであった︒石刻と版画の関係を
す︒すり替えたのは︑かつて徐渭と自
に倣う﹂と書き添え︑陳洪綬の名をふ
画冊﹂の高士像は︑徐渭の画題︑画風
に使う︒しかし︑画中に﹁徐渭の筆意
せて︑なぜか︑別の明代著名画家の一
知らなかったものか︑陳洪綬と徐渭を
個人蔵
働かなかったようである︒
﹁李公麟の筆意に倣う﹂とする知恵は
名高い︑北宋の大画家にさかのぼって
飛び越え︑中国人物画史上にもっとも
とはまったく結びつかない︒
える︒
図3 伝李公麟﹁聖賢図﹂石刻拓本
小論・研究余滴・随想など本誌にお寄せ願います︒詳細については﹁投稿募集﹂をご覧ください︒
図2 陳洪綬﹃水滸葉子﹄呉用像
出典 ﹁明陳洪綬水滸叶子﹂
︑上海人民出版社︑一九七九
実は﹃水滸葉子﹄の呉用像には︑古
人徐渭 ︵一五二一 ―
一 五 九 三 ︶に す り 替
し︑右手に杖を持たせて画冊の人物図
目次に戻る
15 『芥子園画伝』の編著者・王概の人物画
六十周年を記念して秘蔵本を公開
16
の展覧会で展示してはどうかという声
加購入されたコレクション中の一本で
蔵書の本体である久原文庫とは別に追
は︑半ば秘蔵という状態でした︒文庫
でもあるので︑この機会に実現できれ
に設立され︑今年で六十周年になりま
があがりました︒そうした折に︑勉誠
したから︑追加書目 ︵﹃第二書目﹄︶が公
の名品図録﹃典籍逍遥﹄です︒それを
す︒この秋にはいろいろと記念行事を
版として﹃芥子園画伝﹄の複製を出し
出版の池嶋社長から六十周年の記念出
ばということになった次第です︒
予定しております︒五島美術館では特
刊されるまでの︑二十年くらいは未公
岡﨑 大東急記念文庫の﹃芥子園画伝﹄
別展を開催する予定ですし︑機関誌﹁か
て 欲 し い と い う ご 提 案 が あ り ま し た︒
開でした︒しかし知る人ぞ知るで︑私
がいろいろあるのなら︑六十周年記念
がみ﹂でも特集号を考えております︒
実は前々から複製の話はあったのです
刊行したところ︑こんなに面白いもの
展覧会のきっかけの一つとなったの
するほかないと思っていました︒その
伝﹄の所在リストを作って悉皆調査を
ようでした︒私も早くから﹃芥子園画
ずれも刊行の系譜は明らかに出来ない
甚だ複雑かつ錯綜した版種があり︑い
画 期 的 な 多 色 刷 り の 出 版 物 で す か ら︑
でも日本でも厖大な読者に迎えられた
あ り ま し た が︑﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ は 中 国
の在任中にも三つのグループの調査が
調査比較検証のためには﹁物差し﹂に
本は役に立つのではないかと思います
な る も の が 欲 し い︒ そ の 点 で 大 東 急
が︑いかがでしょう︒
﹁初集﹂﹁二集﹂﹁三集﹂の善本の揃い
ま ず︑﹁ 初 集 ﹂ か ら﹁ 三 集 ﹂ ま
るということ︑まずその点が大変良い
東急本は︑初期の版が全部そろってい
いう印象をもっています︒ですから大
す︒﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ の 全 体 像 と い う も
画伝﹄の持つ意味がわかると思うので
と 全 部 を 見 る こ と に よ っ て︑﹃ 芥 子 園
を す る と き︑﹁ 初 集 ﹂ に 関 す る 議 論 が
また︑今まで﹃芥子園画伝﹄の議論
と は 大 変 意 味 が あ る と 思 っ て い ま す︒
全図とテクストをカラーで出版するこ
るので︑それを明らかにする意味でも︑
のが実は語られていないような気がす
一番多く︑﹁二集﹂﹁三集﹂に関しては
旧蔵者が陶湘という近代中国の著名な
と思います︒
案 外 き ち ん と 考 察 さ れ て き て い な い︒
所蔵家であることも注目されます︒
るでしょう︒
を含めた国際的な悉皆調査が必要にな
本だけではできない︒外国のスタッフ
く人手も時間もかかることですから日
ね︒すべてを調査するのは︑ものすご
と大きな課題なんだろうと思うのです
査が世界に広がっていく︒これがきっ
少しずつ掘り起こされていますし︑調
それから︑最近︑中国国内のものが
だ け ど 本 当 は﹁ 初 集 ﹂﹁ 二 集 ﹂﹁ 三 集 ﹂
小林宏光氏(上智大学教授)
小林
で揃っているものはきわめて少ないと
西上実氏(京都国立博物館学芸員)
村 木 敬 子 ︵大東急記念文庫学芸員︶
・岡 﨑 久 司 ︵九州大学客員教授︶
西上
実 ︵京都国立博物館学芸部長︶
・小 林 宏 光 ︵上智大学教授︶
︻座談会︼ 世界が待望する
﹃芥子園画伝﹄の複製
岡﨑久司氏(九州大学客員教授)
けれども︑文庫開設六十年の節目の年
村木敬子氏(大東急記念文庫学芸員)
は︑勉誠出版で作っていただいた文庫
村木 大東急記念文庫は昭和二十四年
【座談会】 世界が待望する『芥子園画伝』の複製
17 【座談会】 世界が待望する『芥子園画伝』の複製
よく言われている十数種類の中で︑か
の終わりから乾隆の始めぐらいの︑今
いずれにしても︑大東急本は︑康煕
とが言われますけれども︑絵を学ぶ一
ら不備な点があるとか︑いろいろなこ
とです︒今の美術史の観点から言った
鳥画譜﹂の集大成が続く︒画期的なこ
何を引き継いでいて︑そして何が新し
れをそれまでの画譜と比較して見ると
画譜としては一番重要なものだし︑こ
あったわけですから︒
なり早いところに位置付けられるので
種のシステムを非常にわかりやすく示
版画史におけるポジションは︑単にた
る時に︑出版者・出資者の沈因伯がい
非常に重要です︒﹁二集﹂﹁三集﹂を作
伝統をうまく画譜に活かしている点が
ことです︒それは﹃十竹斎書画譜﹄の
刷りの套版技術が使われているという
版画の技法の問題では︑明末の多色
集﹂の反省に基づいていて︑オリジナ
ころがあります︒﹁二集﹂
﹁三集﹂は﹁初
とか︑明末の他の画譜も使っていると
す け れ ど も︑ ほ か に も﹃ 十 竹 斎 箋 譜 ﹄
図﹄の利用が一番よくわかるところで
寄せ集めというか︑山水は﹃太平山水
く わ か り ま す︒﹁ 初 集 ﹂ は 古 い も の の
い ず れ に し て も﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ は︑
はないかとみています︒
くなっているのかというのが非常によ
くさん売れた作品というだけではなく
ろいろな工人を集めるのに大変苦労し
が良くなっている︒
ルな構図を使って画譜としてはより形
われてきたこの﹃芥子園画伝﹄の中国
て︑ある画期性もあったのでしょう︒
て︑やっとそろったので始めます︑み
岡﨑
絵画教本であり傑出した総合画譜
たいなことを言っているわけですね︒
て 数 例 見 せ ら れ た こ と が あ り ま し た︒
子園画伝﹄の影響を受けた作品だとし
てね︒以前︑西上さんから︑これが﹃芥
思います︒色刷りの技術の問題も含め
れた︒そこに﹁二集﹂
﹁三集﹂という﹁花
総合的な画譜︑つまり﹁初集﹂が作ら
すが︑それを受けて︑山水画で最初の
ば総合化してくる一つの流れがありま
ていると書いてあるのです︒ですから
の画冊で﹃芥子園画伝﹄の構図を使っ
て見ましたら︑石濤がボストン美術館
ていなかったのですが︑あとで入手し
いました︒発表の段階ではその本を見
ジョナサン・ヘイが石濤の本を出して
いは詩画集として鑑賞されるものでも
いかもよくわかります︒複製画集ある
く︑刻工︑刷り師の役割がいかに大き
小林
と言って良いものがそろっている︒こ
﹁ 初 集 ﹂﹁ 二 集 ﹂﹁ 三 集 ﹂ と ま ず 初 版 本
話は戻りますけど︑特に大東急本は
持っていたと思います︒
ても︑やはりものすごく大きな影響を
の画家だけでなく中国の画家に対し
で す か ら﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ は︑ 日 本
でいく動きも︑非常に重要な問題だと
翫されて実際の絵画史の中に溶け込ん
本にやってきて︑それが複刻され︑賞
岡﨑
影響は東アジア全域
小林 ありますね︒それは︑画譜史上
るでしょう︒
まず︑絵画教本としての画譜の歴史
影 響 と い っ て も 単 に 構 図 が 同 じ︑ 色
れはめずらしいと思います︒私は小林
伝﹄と比べていくと︑モチーフとして
画冊が入りました︒それを﹃芥子園画
に石濤が康煕二十七年に描いた山水の
と︒自然にも学ぶけれども︑それから
身を中心として︑そこから自由である
対して従属するんじゃなくて︑自分自
り方なのです︒石濤は基本的に古画に
京のものは落ちるなという印象を受け
の彫り方︑刷り方を比べてみると︑北
を比較してみました︒いろいろな部分
本と大東急本が並んでいるので﹁二集﹂
で北京図書館︵現在の中国国家図書館︶
も う 一 つ︒﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ が 日
彩が同じというのではなく︑いったん
石 濤 が︑﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ の 影 響 を 受 け
さんの意見と同じかどうかわかりませ
﹃芥子園﹄のここの部分を使っている︑
も自由であると︒版本についても︑そ
ました︒時代的にも︑多分下るだろう
画家の王概三兄弟だけではな
解体されて作品のなかに溶け込んでい
ていると言えるということも確認した
んが︑町田市立国際版画美術館の図録
から見ると︑明末にかけて画譜が言わ
る︒よくよく観察しないとわからない
の取り込み方というのは石濤なりのや
んですけど︑ただ石濤の﹃芥子園画伝﹄
あるいはそれをまた組み合わせて変え
のまま取り込むんじゃなく自分なりに
十年ほど前に︑京都国立博物館
ていると思うところがありました︒
という︑そういう結論に達しました︒
いていると思うんです︒そういうこと
岡﨑
込んでいくという︑そういう姿勢を貫
は︑従来はあまり言われていないけれ
り本を見てきたのですが︑注意深く子
それをこなして︑自分の絵の中に取り
コレクターの中国書画展覧会が台北の
ども︑京博の画冊を見るとはっきり言
そ れ か ら し ば ら く し て︑ 平 成 十 三
鴻禧美術館でありまして︑私は︑その
えると思います︒
悉皆調査の尺度
ことを講演会でしゃべったんです︒た
なるほど︒私も随分長いこと刷
だその年に︑既にニューヨーク大学の
年の夏︑台湾の陳啓徳さんという個人
西上
ということでした︒
画家・刻工・刷り師の技術の高さ
の位置と刷りの技術ということで言え
そ れ か ら︑﹃ 笠 翁 画 伝 ﹄ と も 言
していると思っています︒
18
【座談会】 世界が待望する『芥子園画伝』の複製
19 【座談会】 世界が待望する『芥子園画伝』の複製
複雑な五山版や嵯峨本︑そして日本出
わかることが多い︒ところが︑版種の
細に見ていくと︑前後関係親子関係が
そういうもので﹃十竹斎﹄と﹃芥子園﹄
が︑ 南 京 で の サ ー ク ル と 言 い ま す か︑
徹底して調べたわけではありません
と こ ろ が あ る ん じ ゃ な い か な と い う︒
を 選 ば れ て 出 さ れ て い る ん で す け ど︑
ではある程度一番良いと思われるもの
西上
初めて本来の姿を復元
版史上ベストセラーの﹃塵劫記﹄など
のつながり︑系譜を追えるんじゃない
例えば大部分がモノクロで︑しかも版
筋縄ではいかない︒どうしても悉皆調
合がある︒どうも版と刷りの問題は一
中国絵画史では︑実際の作品との比
の間にもいろいろありそうなんです︒
りますが︑ただ康煕の初版本と乾隆版
には清末の石印本に至るまでずっとあ
煕版があって︑乾隆版︑嘉慶版︑さら
わからないものですから︒
子園画伝﹄を見て言っているのかよく
それを言っている人が︑どういう﹃芥
い う こ と が よ く 言 わ れ る ん で す け ど︑
美 術 史 で︑﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ の 影 響 と
ところがあります︒
ようにも基本的なデータにはならない
心を省いていたりしますので︑比較し
複製ということでは︑筑摩書房
にもみられますが︑海賊版とか覆刻と
かなという気がしています︒
査による比較検討が大事で慎重を要す
較という場合には︑本当に石濤はどう
岡﨑
見えるほうがかえって後の版という場
る ゆ え ん で す︒﹃ 芥 子 園 画 伝 ﹄ の 成 立
いうものを見たのかということをある
京での文人サークルの中心的存在なん
文という人で︑あの人が明末清初の南
すなわち王安節の義父に当たる人が方
譜﹄や多色刷りとの関係で︑私は王概
ものであったのか︑をまず知る必要が
あろう﹃芥子園﹄というのはどういう
なおさらその元︑本当に石濤が見たで
く て い ろ い ろ 変 え て 描 い て い る の で︑
ない︒石濤がそのまま写すだけじゃな
康煕十八年や四十年のものを自由に見
か︒大概は和刻本だったのではないか︒
ンパクトが違うはずの初版本を見たの
か言われてもね︑一体︑大雅は断然イ
子園画伝﹄が投げかけた影は深いと
についてはいかがでしょう︒
西上 私も突き詰めたわけではないん
程度確定してからでないと比較ができ
です︒それで胡正言と何か関係があっ
ることができたんだろうかという︑そ
うんです︒長崎から︒例えば︑田能村
言ってもどんどん入ってきていたと思
は日本に中国の版本が︑当時鎖国とは
西上
山鹿素行は平戸の城主・松浦鎮信に手
岡﨑 ただ︑例えば元和八年生まれの
西上
本を見ていたんでしょうか︒
集﹂も︑初版の比較的初刷りに近い刊
岡﨑
大であるはずといわれるばかりで︑ど
不明︒歴史のなかで果たした役割も多
親しまれ知られているのに︑実は正体
議な本です︒こんなに人々に迎えられ
ういう素朴な疑問があります︒
あると思っています︒
を娘婿の王概が引き継いでいるような
竹田は︑長崎に行って︑﹃芥子園画伝﹄
紙 を 出 し て︑﹁ 今 回 の 船 で 舶 載 さ れ た
うも具体性に欠ける︒チラッと背鰭を
国際的・学際的研究を期待
などを探して︑実際手に入れています︒
本を教えてください﹂と書いています︒
のようで︑何とか正体が見たいもので
見せて雨上がりの大河を泳ぎ回る巨魚
そ れ に つ い て で す け れ ど︑ 私
それで長崎で手に入れたという手紙を
そして彼は︑自分でも買ったと思われ
いるのは︑実は﹁初集﹂﹁二集﹂﹁三集﹂で︑
中国から入ってくる漢籍をお金を貯め
転写している︒ですから︑江戸後期に
カメラであることを期待します︒
す︒この複製出版が︑精度のよい水中
岡﨑 とにかく﹃芥子園画伝﹄は不思
書いているんですけれども︑﹃芥子園﹄
ますが︑何しろ高価ですからせっせと
﹃人物譜﹄というのは︑﹃芥子園画伝四
りません︒けれども﹁初集﹂の初版本
がどれだけ入ってきているかは︑きち
て買うということは︑何ら不思議もあ
でなく︑嘉慶になって蘇州で全然別の
んと調べないとなかなか言えない︒
の仮託作です︒南京で出版されたわけ
版元によって刊行されたことがはっき
異版を比較したりしていたようで︒
に は 大 い に 関 心 が あ っ た よ う で す ね︒
吉宗なんかも
﹃図絵宝鑑﹄
と
﹃芥子園画伝﹄
さかのぼって︑徳川八代将軍の
小林
竹田はそうした違いを認識して
認識して︑自分で良いものを手に
ことをはっきり言えるのだと思います︒
入れて︑ずっと見ているから︑そういう
西上
いた?
岡﨑
りわかっています︒
集﹄です︒この﹃人物譜﹄はまったく
それは確定はできないですけど︒
て い る ん で す よ︒﹃ 芥 子 園 ﹄ と 言 っ て
﹃人物譜﹄の四集を手に入れたと言っ
なるほど︒﹁初集﹂も﹁二集﹂も﹁三
たと思うんですけれど︑そういうもの
例 え ば 日 本 の 近 世 絵 画 に︑﹃ 芥
ように︑やっぱり南京での﹃十竹斎箋
ですけど︑小林さんが最初に話された
結局﹃芥子園画伝﹄というのは︑康
いう問題があり︑刷りがシャープだと
20
【座談会】 世界が待望する『芥子園画伝』の複製
21 【座談会】 世界が待望する『芥子園画伝』の複製
目次に戻る
◇◆ Web ページのご案内 ◆◇ http://www.bensey.co.jp/
近刊を含む書籍の内容紹介から、新刊・既刊書籍のご購入、最新ニュース・書評掲載情報など。
◇◆ ご注文方法 ◆◇
① web ページによるご注文 http://www.bensey.co.jp/howtobuy.html
等がご利用いただけます。
**
銀行振込・郵便振替・代金引換払 ・ クレジットカード
(いずれの場合も、送料が別途 300 円かかります)
*
◇◆ お支払い方法 ◆◇
FAX:03-5215-9025
② 電話・FAX によるご注文 電話:03-5215-9021
①銀行振込の場合
三菱東京 UFJ 銀行麹町支店普通 3848245 ベンセイシュッパン(カ
②郵便振替の場合
00120-3-41856 勉誠出版株式会社
*
代金引換払の場合、さらに 315 円かかります。(ご注文が 3,000 円未満の場合のみ)
** クレジットカードのご利用は、当社サイトにてのご注文に限ります。
編集後記
藝術の秋だから⁝というわけではありませんが︑先月︑青梅の玉堂美術館に行っ
て参りました︒美術館は︑多摩川の清流と御岳山を眺めながら五分ほど歩いたと
ころにひっそりと佇んでいます︒
館内には日本画家・川合玉堂の十五歳頃の写生から絶筆までが展示されている
のですが︑とりわけ花や果物を描いた十五歳の写生に目を奪われました︒その描
写力たるや︑さすが日本画や水墨画を学ぶ人のお手本とされるだけある!と︑し
ばし眺め入りました︒同時に︑画家にとっては︑デッサンや写生で基礎的な技術
を学ぶことが大事なんだと改めて思いました︒
その時︑ふと﹃芥子園画伝﹄のことが頭をよぎりました︒
﹃芥子園画伝﹄は︑
絵画の基本となる構図や筆遣いなどを学ぶための絵手本として刊行されたもので
すが︑その完成度の高さから︑日本の画家たちにも多大な影響を与えたと言われ
ています︒
大東急記念文庫で初めて﹃芥子園画伝﹄を拝見させていただいた時に技巧の数々
と豊穣な色彩世界の広がりに驚いたことを思い出します︒きっと舶載原本を見る
ことができた日本人画家たちも同じように驚き︑感動を覚えたことでしょう︒
現在︑初版本とされている﹃芥子園画伝﹄を大東急記念文庫で見ることができ
ますので︑ぜひ一度その美しさをご覧になってください︒
さて︑今回は﹃大東急記念文庫蔵 芥子園画伝 初集 二集 三集﹄の刊行にあわ
せて︑小特集﹁
﹃芥子園画伝﹄を巡って﹂を組ませていただきました︒
﹁日本の浮
世絵や近代洋画に与えた影響﹂
﹁和刻本の出版﹂
﹁編纂者王概﹂に焦点を当てた興
味深いエッセイをお楽しみ下さい︒
投稿募集
﹁勉誠通信﹂へのご寄稿を募集いたしております︒
現在のご研究内容の紹介や︑ご興味をもたれていることなど︑ご自由にお書きい
ただければと存じます︒
◆ お問合せおよび送付先
[email protected]
メールタイトルに﹁勉誠通信用原稿﹂と明記してください︒