全く新しい「命令」 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

全く新しい「命令」
新約単篇
ヨハネによる福音
全く新しい「命令」
ヨハネ 13:31-38
イエスのお言葉は、新共同訳では「新しい掟を」(:34)です。新改訳と
口語訳では、「新しい戒めを」でした。「掟」は、ひとつの社会の人が守る
ように定められた「決まり」という意味が強いですし、「戒め」の方は「叱
責・訓戒」とまで行かずとも、「過ちを犯さないための注意」という匂いが
して、どちらも、主の御趣旨とは食い違うように思うのですが訳者はみな、
適切な訳語がなくて苦心しています。モーセの十戒の一つひとつをこの単語
(エンドリー)で表わす習慣だったことから、それに合わせて、こ
の訳語を選んだのだと思います。本当は、ここは直訳して、「新しい命令を
与える」としておきましょう。
このとき、「新しい」命令と言われたのは、同じ名で呼ばれた“十戒”と
は次元の違う命令―義務で縛られるのでなく、急に自由になって、嬉しく
なって、人を愛してしまう―そんな命令の意味です。イエス様から感動を
受けた瞬間、押え切れずに守らずにはいられなくなる。命令でありながら福
音、朗報でもあるという意味で、「新しい」のです。
では、その「新しい命令」の何が新しく、どう新しいのかを、ヨハネの福
音書から味わってみましょう。この全く新しい命令をお与えになる前に、イ
エスはまず「新しい栄光」について、お話しになります。
31.さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を
受けた……」と過去形で書いてありますけれど、「受けることが決まった」、
「すぐにも受ける」意味の強調になります。預言者の文体です。
-1-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
全く新しい「命令」
「……人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32.神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によっ
て人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
今まで人が「栄光」とは呼ばなかったものです。人はむしろ「悲惨」か「最
低」と呼んだでしょう。でもそれは、イエス御自身には、地上で最高の瞬間
になる。そこに神様の愛の極致も輝き出る。そんな「栄光」が、ユダが部屋
を出て行くのと同時に「幕が上がった」のです。
しかも、こうして神の栄光も同時に現された上、「すぐに」イエスが死人
の中から復活すること……父の栄光の中へ引き上げられることが、息継ぐ間
もなく、引き続いて起こります。それが、天の父が子に与える究極の栄光で
あり、そこまで全部、天の父の意志で事は動いて行きます。
すでに、ユダによる引き渡しと殺しの計画が動き始めていました。祭司長
たちの機動隊が、十二人の今夜の行き先をユダから聞いて、出動準備中です。
住民や巡礼が騒ぐ前に手っ取り早く処刑を済ませる―筋書は決まりました。
イエスが十二人と一緒におられるのは、その夜のゲッセマネまでです。「い
ましばらく」はその緊張を含んでいます。
33.子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがた
はわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができな
い』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言って
おく。
二重引用符のお言葉は、7 章にも(:34)出ましたから、弟子たちには強
烈な印象として残っていたでしょう。
34.あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあな
-2-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
全く新しい「命令」
たがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 35.互いに愛
し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が
知るようになる。」
人の「栄光」とは正反対の「死ぬこと」を栄光だと断言した人が、ここで、
「全く新しい命令を与える」と言われました。十戒も色褪せるほどの、新鮮
とも斬新とも言いようのない、今までに無かった新しい命令をイエスはこの
とき弟子たちに与えたのです。
しかし、今までに無かったと言いましても、「あなたの隣人を愛せよ」と
いう命令は、もともとレビ記の 19 章に古くからあった命令です。それがどう
して「新しい」と言われるのか……不思議なお言葉です。実際、ヨハネが書
いている“new”という形容詞は、単に新しくて時間が経っていないという
“new”ではなくて、「新品」、「未使用」、「サラッピン」(当地の表現
で言えば)という意味の“new”なのです。この愛が「未使用」と言うと変
ですが、まだ、だれも「やってみたことのない」新しさの愛―人間が経験
していない愛を「行なってみよ」という命令です。
その新しさは、「私があなたを愛したように」と言われた、イエスの愛を
経験した人の中に、激しく沸き起こるものです。イエスの「栄光」を仰いで、
死ぬイエスの中にその愛の衝撃を受けた人の中にです。それはあなたや私の
ような、平凡な魂にも点火される「新しい炎」です。
ヒューマンな「愛」ということであれば、人は自分の情とか、恩義とか、
絆とか、道徳律で、立派に「愛する」ことができます。それは美しい詩にも
なり、文字や演技を通して、私たちの魂を動かすことができます。ただ、自
分の中に罪を見た人だけは、その美しい愛の古さと不毛をも知ります。しか
し、シモン・ペトロにはこの時点では、イエスの趣旨は通じなかったようで
す。彼は自分の愛の純粋さに酔っていました。
-3-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
全く新しい「命令」
36.シモン・ペトロがイエスに言った。
「主よ、どこへ行かれるのですか。」
イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはで
きないが、後でついて来ることになる。」 37.ペトロは言った。「主よ、な
ぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 38.イエ
スは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言って
おく。鶏がなくまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
シモンにとってこれは、前のお言葉以上にショックだったでしょう。彼は
福音書の物語では、いつも十二人を代表するようにして、主に質問をする人
でしたが、ここからは、シモンの声が途切れて押し黙ったまま最後の晩餐の
場面でも、一言も口を利きません。ヨハネの記録の中ではトマス、フィリポ、
それにもう一人のユダの順序で、他の弟子が次々に発言します。それだけに
シモンの沈黙は、いっそう目立つのです。
一言シモンの弁護をするなら、彼はゲッセマネでは、死ぬつもりでイエス
のために剣を抜きます。でも、この人の「命を捨てます」という言葉を、主
はなぜ無下に退けなさったのでしょうか?
ヨハネ福音書は、この後シモンが三度まで、イエスへの信義を裏切る場面
の伏線として、この言葉にライトを当てるのですが、これは単にその予告だ
けではありません。シモンが確信をもって誓う「自分の愛」が聖なる神の前
に悲しくも無力であること―どんな犠牲的な愛も人を罪と腐敗から救いは
しないことに、本当の光を当てているのです。シモンはしかし、自分の愛で
イエス様の命を救う……ことしか今は見えません。
「わたしがあなたを愛したように」と言われたイエスの、肝心の意味が見
えるか……という緊張を孕んで、13 章の会話が終わります。34 節と 35 節に
あった「新しい命令」を、平凡な言葉に置き換えてみます。
-4-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
全く新しい「命令」
「まず、私の方からあなたを愛したことを知れ。そしてそれと同じ愛で互
いに愛し合え。それができたら、人はあなたを見て、『あっ、イエスの弟子
がいる!』と言うだろう。私の愛が波紋を起こすのだ。」
私を見て、「あんな愛のない、冷たい人間はない。織田には失望した」と
いう人は何人もいますし、この批評は、悲しいけれども、当たっています。
でも、ごく少数ではあっても、「織田を通してイエス様の愛を知らされた」
という人も、多分いるのです。あなたの場合も同じです。それはイエスが愛
した「オリジナルの愛」が、余って溢れ出たものです。
そんな愛が、たまに、発作的にでも間歇的にでも、キラリと輝くとしたら、
それは自分の中から出ているのではなくて、キリストが言われたあの「全く
新しい命令」にお応えした結果が、私の実力とは別のエネルギーで強力に発
散しているのに違いありません。シモンのような自信と豪語を捨てた人なら
必ず、「新しい愛」が連鎖反応の波紋を起こしている現実に目が開ける可能
性を持っています。我々はみんな、愛の不足したまま、大きな愛に捉えられ
ている、不思議な「混合体」なのですから。
その源に、元々あなたや私はどこで触れたのか……。聖書のお言葉を通し
てイエスという「愛の源」に触れたほかに、個人的には、私が行き詰まった
時に、私を見捨てずに庇ってくれた友人がいました。異国で、孤独と「うつ」
に近かった私を、愛で温めてくれた信仰の家庭がありました。40 年に亘って
手紙を送り続けて、励まして下さった恩人もいました。「新しい愛」の水源
が私の前に、いくつも湧き出ていたのです。
そんな幸運は、あなたには「無かった」とお考えですか。決してそうでは
ありません。温かい笑顔と日常的な言葉の中にも、愛の源は音を立てて流れ
ています。自分の愛を過信せず、受けることに集中できる人なら、「わたし
があなたを愛したように」というお言葉の反響が、一番身近で平凡なところ
-5-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
全く新しい「命令」
に泉となって湧き出ていることに、気づかれるでしょう。
とすれば、今度は、あなたを通しての主の愛の“おこぼれ”が人を温めて、
誰かに限りない勇気を与えることも起こります。「あれはイエスの弟子に違
いない!」というショックと一緒に……。
(2005/01/23)
1.「新しい」という意味のギリシャ語の形容詞は「ネオス」と「キェノス」の二つがあ
りますが、その使い分けは段々無くなり、殆ど同義語として置き換えて使われたよう
です。本来の語義から言うなら「ネオス」の方は、「時間が経っていない」新し
さや若さ、「キェノス」の方は、「質的に新しい」斬新・新鮮さ、未使用の新
品の新しさや、制度の刷新を(廃れたものと対照的に)指して使われたものです。「新
しい」裁量(契約)や「新しい」命令は後者です。
2.「我々はみんな、愛の不足した姿のまま、大きな愛に捉えられている、不思議な『混
合体』だと言えます」という前頁のコメントと関連して:自分の中に純粋な愛を持つ
ことに急で、時にはシモンのように自信に膨れ上がり、時には愛の欠如に絶望する人
は、兄弟を見て、「私の期待どおりの愛の人だ」と尊敬はしますが、実は愛について
「私のイメージに合って、差し当たり『気に入った奴』だ」と自分の愛の規準を投影
するだけで、その尊敬はたちまち失望と嫌悪に変わる確率が高いのです。「失望的な
人だ。『私のタイプ』ではない」と思える相手の中に、「愛の不足」と「愛の泉」の
渾然たる『混合体』を見て驚く人であれば、「わたしが愛したように」と言われたイ
エスの「愛の源」を見ることが可能です。
-6-
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.