中級茶芸師養成教材

中級茶芸師養成教材
中国国際茶文化研究会
養成センター
中国茶文化研究会養成センター
中級茶芸師養成教材
目次
一、
二、
三、
四、
中国古代茶事
中国茶区および主な名優茶
中国の飲茶習慣
中国茶-烏龍茶の入れ方
(P1)
龍井茶(浙江省杭州)
碧螺春(江蘇省蘇州)
黄山毛峰(安徽省黄山)
婺源茗眉(江西省婺源)
安吉白茶(浙江省安吉)
南京雨花茶(江蘇省南京)
祁門紅茶(安徽省祁門)
盧山雲霧(江西省盧山)
(P2)
大紅袍(福建省武夷山)
白毫銀針(福建省福鼎)
君山銀針(湖南省岳陽)
仙人掌茶(湖北省当陽)
鉄観音(福建省安渓)
茉莉龍珠(福建省福鼎)
古丈毛尖(湖南省古丈)
恩施玉露(湖北省恩施)
(P3)
鳳凰単樅(広東省潮州) 英徳紅茶(広東省英徳)
横県茉莉花茶(広西チワン自治区横県) 桂平西山茶(広西省桂平)
普洱沱茶と餅茶(雲南省)滇紅工夫(雲南省)
都雲毛尖(貴州省都匀) 梵浄緑峰(貴州省印江)
(P4)
蒙頂寒露(四川省名山)
香山貢茶(重慶市奉節)
紫陽毛尖(陝西省紫陽)
信陽毛尖(河南省信陽)
龍都香茗(四川省栄県)
永川秀芽(重慶市永川)
秦巴霧毫(陝西省鎮巴)
桐柏玉葉(河南省桐柏)
(P5)
海南紅碎茶(海南省)
浮来青(山東省莒県)
碧口龍井(甘粛省文県)
凍頂烏龍(台湾南投)
香蘭緑茶(海南省海口)
日照雪青(山東省日照)
珠峰聖茶(チベット易貢)
白毫烏龍(台湾新竹)
中国古代茶事
姚
国
坤
(中国国際茶文化研究会
教授)
中国は茶のふるさと、茶文化の発祥地である。茶は中国における発見と利用
によって、すでに 4 千年から5千年の歴史を持つ。今では、全世界約 60 カ国
で茶が栽培され、30 億人以上の人間が飲茶の習慣に親しんでいる。誇張せず
とも、世界各国の茶の栽培、および飲茶の習慣は、直接もしくは間接的に全て
中国から伝わったものである。このため、古代の茶事について語る場合、中国
に触れないわけにはいかない。更に多くの人に中国の茶文化を理解してもらう
ためには、中国古代の主な茶事を紹介する必要がある。
以下、いくつかに分けて、簡単に取り上げる。
一、唐代以前の茶事
茶が中華民族によって、発見、利用された後、茶文化たるものも生まれた。
成長期を経て、唐代には、中国の茶文化の基本が形成された。ゆえに、中華茶
文化の形成は、一般的に今から 1300 年前の唐代(793-896 年)とみなされてい
る。
唐および、唐代以前に、中国で生まれた茶事には、主に以下のようなものが
あった。
1、神農-世界で最初に茶を発見、利用した人物
古文書の中に、中国は、
「神農嘗百草,日遇七十二毒,得茶而解」
(「神農が 100 種類の草を食べて、ある日 72 種の毒に冒されたが、茶葉で救
われた」)
という話があったと記されている。神農は、水晶のような腹を持ち、食べ続
けた食べ物は、何かすべてはっきり見て取れたという。その時、神農は、人々
の苦しみを理解するために、目にした植物をすべて食べ、どれに毒があるか、
どれが人の健康に良いかを試そうとした。ある日、彼が中毒になった時、すぐ
に白い小さな花を咲かせた、一年中常緑の木の柔らかい枝と葉を食べたところ、
咀嚼した柔らかい枝が、腹の中で上下左右に動き、有毒な植物をきれいに洗い、
中毒症状を取り除いた。このため、神農はこの小さい白い花の常緑樹を「●」
(上が木で、下が旦:中国語の発音 CHA)と呼び、後の人がこれを「茶」と呼
ぶようになった。茶に解毒作用があることは、ここから知られるようになった。
2、3 千年以上前の周代-茶はすでに貢物
東晋の『華陽国志・巴志』に以下のような記載がある。
「周武王伐紂(紀元前 1066 年)、実得巴蜀之師」
(「周武王が紂を滅ぼし、巴蜀の朝貢(茶等)があった」)
今から 3000 年以上前、茶は古代、朝廷に飲用に献上された貢物になってい
た。唐代、浙江省長興顧渚山の紫筍茶、江蘇省(宜)興の陽羨茶、四川省雅安
の蒙山茶は、皇室指定の貢茶となった。宋代は、福建省建州(今の建欧)の北
苑茶が有名な貢茶の産地であった。元代、貢茶の産地は、北苑から福建省武夷
九曲渓の四曲渓にうつり、そこに御茶園が建設され、貢茶が加工された。明代
には、貢茶の範囲は、拡大し、全国 44 の州で貢茶が生産された。清代には、
西湖龍井、洞庭碧螺春、安渓鉄観音、黄山毛峰、君山銀針、普洱茶等が、主な
貢茶の名品であった。
3、2千年前の前漢時代-人口栽培の茶園が登場
古書の記載によれば、前漢の甘露 3 年(紀元前 53 年)、四川省名山の蒙山に
ある清峰で、呉理真が率先してここに 7 株の茶樹を植えたとある。後の人が、
この 7 株を仙茶と呼んだ。その傍らの甘露石室は、呉理真が茶栽培の休憩に使
用した場所であり、甘露井は、呉理真が茶樹に与え、飲水に利用した井戸水で
あった。この名山の仙茶園は、現存する中国最古の人工栽培の茶園で、呉理真
は、蒙山茶の創始者と言われている。
蒙山茶は、唐代にはすでに有名な貢茶であった。歴史的に、茶人にとって「唯
一の珍品」であった。唐代の詩人、八虚位は、これを「茶中故旧」
(「茶の中の
故旧」)と呼び、黎陽王はこれは「人間第一茶」(「人間界の最初の茶」)、宋代
の文彦博は、これは天上の「醍醐」(「最高の仏法」)に勝った、文同は、これ
は「味独珍」(「味が独特で珍しい」)と言った。清代の趙恒山は、これは「仙
品」である言った。今でも、蒙山仙茶園の遺跡は保存されており、多くの観光
客が訪れている。
4、三国時代-道家・葛玄は不老長寿の薬を求めて茶を栽培
三国時代の道家・葛玄(164‐244 年)は、不老長寿の丹薬を作る葛洪の父
方の祖父であった。彼は 80 歳まで生き、古代では珍しい長寿の星である。葛
玄は、不老長寿の薬を探すために、浙江省天台山の峰の頂上―華頂帰雲洞の前
で、茶を栽培し、丹薬を作り、長寿を得ようとした。1800 年以上前の事だが、
今でも帰雲洞の前には、古い茶樹がそのまま残っており、これは葛玄が当時華
頂で丹薬を作る時に植えた茶樹だと言われいる。人々はこれを「葛玄茗圃」と
呼んでいる。ちなみに道教は、茶は「天人合一」
(「天と人をひとつに合わせる
もの」)、長寿の物としてみなしている。
西晋・東晋の時代には、
『神異記』の中で、華頂の茶は、葛洪が発見した「丹
丘仙茗」とみなされている。
「丹丘」
(※漢代の仙人)とは「神仙」であり、神
仙が植えた茶は当然、「仙茗」である。宋代の詩人、宋祁は、これを「帝苑仙
浆」と言っている。以後、天台山の華頂茶は、道家の「仙茗」であり、それが
「仏茶」になって、東の日本、韓国の茶文化に大きな影響を与えた。
5、東晋時代-茶と仏教が繋がる
陸羽の『茶経』に次のような記載がある。
甘粛省敦煌人の仏教徒、単道開は、7 年の修行後に、冬は自ら暖かくなり、
夏は自ら涼しくし、昼夜眠らなくなった。これは、ただ、茶蘇(茶と紫蘇で調
製した飲料)を飲んでいたからで、後に、単道開は、河北省臨漳昭徳寺に移り、
禅室を設けて座禅を行い、「茶蘇」で眠気を取り除き、100 歳以上生きながら
えた。
ここから、仏教と茶は結びついた。茶には「三徳」、すなわち、眠らずに座
禅させる効果、満腹の腹に消化を助け、空腹の腹に栄養を補給する効果、性欲
を抑制する効果があることが公に認知された。また河北省趙県柏林寺の従諗禅
師は、茶で悟りを開くことができると認識していた。ある日、一人の僧侶が、
最近新しい僧侶が来た、と告げると、従諗は、
「吃茶去」
(「お茶を飲みに行け」)!
といい、まだ着いていなかった、と告げても「吃茶去」といった。他の僧侶た
ちはこれが理解できず、「なぜ着いても着かなくて茶を飲みに行かなければな
らないのか」と聞くと、従諗は、
「吃茶去」と言ったいう。従諗は茶に対して、
すでに「惟茶是求」
(「ただお茶のみを求め」)境地にあったのだ。ここから「吃
茶去」という言葉は、禅林の法語となった。ゆえに、史書には、和尚の家風は
何かと尋ねたたところ、答えが「飯後三碗茶」(「飯の後の三杯の茶」)であっ
た、という記載が残っている。
6、煎茶では水を選択-先駆者は陸羽
唐代、張又新の『煎茶水記』に次のような記述がある。
唐代の浙江省湖州の刺史、李季卿は、江蘇省揚州を通った時、たまたま茶人
の陸羽に出会い、そこで、陸羽に煎茶をお願いしたという。このため、特命を
受けた軍人が、船に乗って、揚子江の中心である南零泉に赴き水を汲んで、桶
いっぱいの水を持ち帰った。しかし陸羽がこの水で試したところ、首を振って
「この水は南零泉の水ではない、おそらく長江の沿岸近くの水だ」と言って、
この軍人はたいそう驚いた。陸羽が次に半分の桶水を捨てて、試したところ、
今度はうなずきながら、
「これこそが、南零泉の水だ!」と言った。李季卿が、
軍人に「これはどういうことだ」と尋ねると、軍人は正直に、風が強く波が高
くて、身体を支えきれず、岸に近づいた時に、桶の水が外に出てしまい、叱ら
れるのが怖く、半分の水をそこで補給するしかなかった、と答えた。これを聞
いて、李季卿は、陸羽を「神」とたたえた。
また、陸羽は自分の調査研究と実践により、茶に適した水を 20 箇所選び、
江西省盧山の谷帘泉を「天下第一泉」と認めたという。上述の話には少し誇張
しすぎの嫌いがあるけれども、しかし彼は飲茶における水選びの先駆者であり、
唐代からこれまで、茶人の飲茶の水選びの気風はその頃と変わりない。
7、『茶経』-中華茶文化の形成を位置づけ
『茶経』は、唐代の「茶聖」である陸羽によって書かれたものである。陸羽
が6、7才の頃に、寺院で積公学から茶の入れ方を勉強し始めてからの 40 年
以上の心血を注いで、780 年に、正式に印刷されて本になった。
『茶経』は、中国だけでなく、世界でも最初の茶葉に関する専門書である。
上、中、下の3巻あり、全部で 7000 字以上、10 章に分かれている。『茶経』
に書かれている内容は、茶の形態や特徴、由来、名前、薬用価値、製茶道具、
製茶方法、茶器、茶を煮る方法、茶を嗜む技術、唐代中期以前の茶事、唐代茶
葉産地と品質状況等で、多岐にわたっている。『茶経』は唐代中期以前のすべ
ての茶事をまとめており、茶学の創始、中国煮茶の典範と言え、飲茶を全国的
に普及させた。『茶経』の中で提示されている多くの論点は、今でも指導的な
価値がある。ゆえに、『茶経』の登場は中華茶文化形成の重要な位置づけとい
え、国内外に重要な影響を与えた。『茶経』は、これまでに国内外で数十種類
のテキストとなって出版、発行されている。
二、宋元代の茶事
中国茶文化は、
「興于唐、盛于宋」
(「唐代に興り、宋代に盛んになった」)と
いう言い方がある。ゆえに、宋、元時代は、中国茶文化の歴史上、意義の大き
い時期である。多くの茶事が、茶文化の歴史上、重要な地位と作用を持ってい
る。現在この時期に誕生した茶事を、以下に簡単に紹介する。
1、「茶馬互市」-辺境の安定、戦争への備え
茶馬互市とは、宋王朝が用いた一種の茶と馬で交易する制度である。唐代に、
「回紇駆馬市茶」(「ウイグルで馬が駆けぬけ、茶が市場にできる」)の記載が
ある。しかし宋初には、政府の制度や政策はなく、宋の太宗の時代、太平興国
8 年(983 年)になって、初めて辺境に「茶馬司」が設けられ、銅銭で馬を買
うことを禁止し、辺境の民族は、馬で内地の茶を買うようになって、「茶馬互
市」の制度が実施された。熙寧 7 年、四川省成都、甘粛省天水で、専門に茶と
馬の交易を管理する茶司と馬司が設置された。宋代、辺境の少数民族の侵攻を
受けた時、彼らの戦い用の馬に宋朝は手を焼いていた。一方で、辺境の少数民
族は生活必需品である茶が足りず、かえって宋王朝は茶を一手に管理していた
が、馬が足りなかった。そこで、宋王朝は、政策と法規で、辺境少数民族は馬
のみで宋王朝と茶を交易することを許した。これが「茶馬互市」の初志であり、
目的は貿易の展開と同時に、辺境を安定させ、戦争に備えることにあった。以
後、この政策は、清代まで 900 年以上続いた。
2、飲茶の普及-城鎮に茶館が登場
中国茶館の出現は、唐代に始まった。唐代、封演の『封氏聞見記』によれば、
唐代開元期間(713-740 年)、北方の都市で、「多開店舗、煎茶売之」(「店舗
が多く開き、煎茶してこれを売っていた」)という。北方がこうであるので、
茶の生産が盛んな南方では、茶館ができたのはもっと早いはずである。しかし
茶館の始まりは、かえって宋代、宋以後のこととなる。孟元老の『東京夢華録』
によれば、北宋の時代、汴京(今の河南省開封)内のにぎやかな場所に、茶坊
(すなわち茶館)がすでにずらりと並んでおり、形式はさまざまで、深夜営業
や、夜遊びを提供するような特殊な茶館も出現したという。茶館のインテリア
もさまざまだった。『夢梁録』によれば、杭州の茶館は、鮮花や有名人の書い
た絵を飾って、内装を施していた、という。ここからみると、宋代の茶館は、
経営方式だけではく、インテリアにおいても、茶文化を新しい段階へ押し上げ
たといえる。
中国の茶館は、唐、宋時代を経て、元明清の各王朝から、今の現代社会にい
たるまで、1300 年近い歴史があるにも関わらず、衰えることなく、茶文化の
風景を今も伝えている。
3、「闘茶」-中国名優茶の発展
「闘茶」は、又の名を茗茶といい、宋代に流行した茶葉の優劣を競う方法一
種の戦闘形式の茶の飲み方で、上は王室から下は一般市民まで流行した。闘茶
の勃興は、中国で行われた貢茶の習慣と関係がある。宋代になってから、宋の
太祖は、まず貢茶を福建省の建安(今の建瓯)に移した。貢茶の製茶の必要性
から、建安での闘茶が最も盛んであった。闘茶は、一般市民に苦難をもたらし
たものの、かえってある程度は、銘茶の開発と茶葉の摘み取り技術を高める役
割を果たした。さらに、この機に乗じて、皇帝に気に入られるもいた。
宋代、鄭可簡は、朝廷に貢茶を献上したので、皇帝の歓心を得て、位が福建
路の転運使にまでになった。後に彼の甥も彼を真似て闘茶の最高品を得た。し
かし鄭可簡はそれを自分の子供の名前で朝廷に進呈したので、子供が位を得た。
このことは、後の人に、次のように風刺された。
「父貴因茶白、児栄為朱草」
(「父が貴ばれるのは白い茶(宋代は白い茶が貴ばれた)のおかげで、子供
は朱草(甥が発見した高級品の茶葉)で栄光を得た」)
闘茶は、他にも多くの笑い話を生み出している。しかし、闘茶のような形式
は、今にいたるまで続けられており、昨今の茶評価の「味」があったといえる。
4、「分茶」―隣国への影響と波及
「分茶」とは、宋代に流行した、一種の茶を入れるゲームである。ゆえに又
の名を「茶百戯」と呼ばれた。ゲームを行うときに、さきにれんが状の茶を粉
末状にし、壺で沸騰した水を注いだ。その後、鉄を沸騰した水にさすと、茶湯
の表面に浮き出るものは、さまざまな図や字に変化し、時には猛獣、虫、魚、
花や草が登場した。これは、王室や仏教の僧侶たちの間、とりわけ仏教界で広
く流行した。言い伝えによれば、古代に、福全という和尚がおり、「分茶」に
長けていたという。彼は 4 つの茶杯の中に、詩を一句ずつ出現させることがで
きた。
「生成茶盞里水丹青、巧画功夫学不成。欲笑当年陸鴻漸、煎茶贏得好名声」
(「茶杯の中の水をきれいにするには、絵を描くように時間がかかる。当時
の陸鴻漸(陸羽のこと)を笑おうと欲すなら、煎茶では名声を勝取らなけ
ればならない」)
それだけでなく、仏教は「分茶」さらに仏教化させ、「分茶」時に出現した
泡の減少を仏教の概念とつなぎ合わせた。最も霊験があるのが浙江省天台山の
方広聖寺で、これは仏の御利益であるとして、
「羅漢供茶」と称した。のちに、
日本の栄西が天台山に仏教を学びに訪れた際、「羅漢供茶」に対して考察した
記録を残している。栄西は帰国後、日本初の茶書『喫茶養生記』を記した。本
の中で、天台山の石梁の「羅漢供茶」について、「茶湯現奇、感異花于盞中」
(「茶に湯を入れれば奇が現れる、杯の中にまるで花が現れるようだ」)と述べ
ている。続いて経典を求めて天台山の万年寺を訪れた日本の高僧、道元は、帰
国時に天台山石梁の「羅漢供茶」の経典を日本の永平寺に持ち帰り、同じよう
に「十六尊羅漢皆現瑞華」(「十六台の羅漢は皆めでたい印が現れる」)を起こ
し、その中で「実是大吉祥也」(「本当にめでたい」)と言っている。
5、唐および、唐以前「煮茶」-点茶法へ
中国で、唐および唐以前、飲茶は「煮茶」を主な方法としていた。宋代には、
飲茶はしだいに点茶にとって変わられた。点茶法を煮茶と比べると、当時はす
べて団餅茶だったので、まずさきに餅茶を粉々にし、ふるいにかけてその粉末
を使用するという点で、似通ったところがあった。しかし、異なる点もあり、
続いて、茶を煮ずに、茶をたてた。点茶時には、瓶で水を沸騰させ、茶杯を温
めて、茶杯に粉末状の茶を入れて、沸騰した湯で茶を調製してから、湯を茶杯
に注いだ。湯を入れるときは、遠くから強く注ぐ必要があり、適当な水量で、
断続的であってはならない。かつ「撃沸」、すなわち特別な茶筅(形は箒状)
を用いて、茶杯を動かしながら、茶湯をまぜ、茶杯の中に「湯花」ができるよ
うに跳ね上がらせる。このように茶筅を動かし、茶湯に花を沸き立たせること
で、点茶はもっとも美しい境地に達する。中国の飲茶の歴史上、異なる時代に
異なる飲茶方法があり、最も代表的なものが、唐代の煮茶法、宋代の点茶法、
明代の泡茶法である。
三、明清茶事
明清時代は、中国最後の封建王朝である。この時代、茶の種類に徹底的な変
革があり、それと密接に関係する飲茶方式、茶具の種類にも相応の変化がおき
た。同時に、欧米資本主義列強の勃興により、中国の鎖国政策も影響を受けて、
茶の輸出貿易が増強された。ゆえに、明清時代の茶事は、複雑化したといえる。
以下のように簡単に紹介する。
1、明の太祖、朱元璋「廃団茶、興散茶」-泡茶法の盛行
明代には宋時代の団餅茶がしだいに淘汰され、若く柔らかい目を摘み取って
散茶を製造することが主流になっていた。しかし正式に「廃団茶、興散茶」
(「団
茶を廃止し、散茶を興す」)を実施したのは、明の太祖、朱元璋であり、彼が
洪武 24 年(1391 年)に次のような勅令を下した。
「罷造龍団、惟採芽茶以進」
(「龍団茶をやめて、芽茶を貢ぐ」)
ここから、散茶が全国的に絶対的な優勢を持つようになり、人々の飲茶はレ
ンガ状の茶から、まず粉末を作り出す、という必要がなくなり、しかも散茶を
つぼや茶杯の中にいれて、直接沸騰水で入れるようになった。この入れ方は、
便利で簡単なだけでなく、かつ茶の新鮮な味わいを保ち、さらに人々の茶への
直接的な観察や鑑賞にも便利であった。これは、中国飲茶の歴史上の初めての
試みと言え、人々に適度に形式を重要視させ、趣もある程度必要とする、飲茶
の条件を生み出した。ゆえに、明代から、人々は日常的でも飲みすぎない飲茶
を提唱し、飲茶用の壺に総合的な芸術性を研究し、茶芸にはさらに高い要求を
もった。茶をたしなみ、壺を遊ぶ、自分で小さい壺でゆっくり啜り、つぐこと
が飲茶の流行となった。この入れ方は、今まにいたるまで用いられ、現代人も
活用している。
2、紫砂茶具の出現
紫砂茶具の出現は、まず北宋時代に見られた。しかし本当の勃興は、明代で
ある。これは紫砂茶具が元々持つ特徴と関係している。一般的に、紫砂茶具は
3 つの特徴がある。それは、茶をいれるても、味を変えず、茶を保存しても色
を変えず、猛暑にも酸っぱくさせない、ことである。
明代の紫砂茶具は、まず江蘇省宜興、供春が製作した紫砂壺が広まった。そ
の後、明の万暦年間に、四大名家の董翰、趙粱、袁錫、時朋が出現した。そし
て、時大彬、李仲芳(李大芳)、徐友泉(徐大泉)などが出現し、人は「三大
壺中妙手」(「壺の三大名手」)と彼らを呼んだ。彼らが製作した壺は、それぞ
れ特色があり、とりわけ時朋の子供、時大彬は、供春を真似て大きい壺を製作
した後は、独自の道を切り開き、小さい壺を製作した。六方紫砂壺、三足圓壺
等数点が現存している。
明代における壺製作名人の輩出と彼らの手によって製造された茶器は、「金
玉」すなわち金と玉器のような価値があった。かつ欧米、その他アジア諸国に
広まり、特に瓜形と球形の紫砂壺は、国外の茶人に人気であった。明末清初、
恵孟臣が製作した孟臣壺は、同様に珍品としてみなされた。
清代、紫砂茶具に新しい発展があった。清の康熙から嘉慶年間、多くの陶芸
家が出現した。中でも陳鳴遠は、時大彬の後で最も有名な陶芸家で、彼が製作
した束柴三友壺、梅干壺などは、いずれも最高級のものである。このほかにも、
楊彭年、楊鳳年、邵大亨、黄玉麟などの作品も世に知られている。
明、清時代は、宜興産の紫砂茶具が有名である以外にも、当時影響力のあっ
た山地に、広西省欽州、四川省栄昌、雲南省建水があり、江蘇省宜興の陶器と
ともに、中国の 4 大名陶、と呼ばれた。そこで生産された陶磁器の茶器は、一
部地域で、茶を嗜む人間に名器として重視された。
3、茶人は家族、茶を三等分することはできない
清の人、鄭板橋は、乾隆年間に進士となった清代の有名な書画家でもあり、
「揚州八怪」の詩も詠んでいる、詩、書、絵にたけた「三絶」と人に呼ばれ、
人々の尊敬を受けていた。彼に関して、次のような記述が残されている。
ある時、鄭板橋が楊州から鎮江の金山寺へ観光に行くと、寺の和尚が、彼の
服装が簡素なのを見て、ほってはおけず、
「座、茶」
(「座って、茶を」)と言っ
た。この和尚は、彼を普通の観光客と思い、最も普通の茶でもてなした。その
後、彼が壁にかかった書画を気に入った様子を見て、彼がただものではないと
思い、少々遠慮がちに「請座、泡茶!」(「座りなさって、お茶をどうぞ」)と
言った。そこで、和尚は、少々良いお茶をいれた。次に名前を尋ねたところ、
この客があの有名な鄭板橋であることを知って、最大限の尊敬をこめて、「請
上座!泡好茶」
(「どうぞお座りくださいませ、良いお茶を召し上がってくださ
い」)というと、すぐに硯を取り出し、鄭板橋に金山寺のために対聯を書いて
もらおうとした。鄭板橋は少し考えて、2 行書いた。1 行目が、
「座、請座、請
上座」、2 行目が、
「茶、泡茶、泡好茶」、横額には、
「因人施茶」
(「人を見て茶
を入れる」)と書いた。
中国の飲茶史上、親戚、友人と会うときに、一杯の普段は惜しくて飲めない
珍しい良質な茶をいれることが、見受けられる。しかし「天下茶人是一家」
(「す
べての茶人は家族」)で、相手を地位などによって差別してはならないのであ
る。
4、黄山毛峰と救命壺
中国の伝統と歴史ある銘茶、安徽省黄山毛峰の生産地である黄山一帯の農村
では、往々にして茶業者の母屋の祭壇に、茶壷がひとつ奉られている。これに
は次のような言い伝えがある。
明代に、徽州府のある県知事が、黄山の雲霧茶は、さわやかな香りと、純粋
な味わいで、しかも茶を入れたときに、世にも珍しいもの、水蒸気がめぐる茶
壷の口に、美しい女性を見ることができるというを話しを聞きつけた。それは
左足を地に跪ずかせ、右手を前に伸ばし、まるで一羽の空を駆ける白鳥のよう
であるという。その県知事は、皇帝の歓心を買うために、いそいで北京へ赴き、
皇帝に報告した。しかし皇帝と面会したとき、思いもよらず、その奇観は現れ
なかった。そこで皇帝は大いに怒り、県知事に、嘘の話を作り上げた人間の追
跡調査を言いつけた。徽州の府知事は、これを聞いて、たいそう驚いた。まさ
か県知事が彼に黙って北京に茶を届け、重大な過失を犯すとは思いもよらなか
った。その失敗は、今では一般市民にも影響しており、そこで、彼は市民にど
うすればよいか、と尋ねた。結果、市民が「谷雨」
(4 月 20 日)前に摘み取っ
た黄山雲霧茶を紫砂壺の中にいれ、栗の木の炭で沸かした山の泉水を注ぐと、
あの奇観が現れる、と彼に告げた。そこで、府知事は、茶を入れる経験が豊富
な老人を連れて、谷雨の茶、紫砂壺、山の泉水、栗の木炭を持って、皇帝の前
へ行き実証した。皇帝は大変満足し、文官、武官誰もが珍しいものだ、とこれ
をたたえた。皇帝は、府知事を褒め、前回の趣旨を撤回し、大災難を免れるこ
とができた。
ここから、黄山の市民は、府知事が北京へ赴き利用した紫砂壺、天秤棒、縄
等の者を珍宝として奉った。特に茶壷を「救命壺」として、母屋の祭壇に供え
て、それは今にまで伝わっている。
5、乾隆帝と西湖龍井
歴史書によれば、清代、乾隆帝は「六下江南」(「6 度江南地方へ下った」)
という。そのうち 4 度、杭州西湖の龍井茶の地域を視察した。
ある時、平民のふりをした皇帝は、西湖龍井の獅峰山のふもとにある宋広福
院の前で、地元の女性が茶を摘む姿を見て、茶摘みを勉強しはじめた。ちょう
どこの時、北京から、「皇后が病気なので、すぐに北京へお戻りなるように」
との達しがあった。そこで、乾隆帝は、自分の手で摘み取った茶葉を布袋に入
れて、北京へ持ち帰った。皇太后は、珍味を食べすぎたことで、食が滞り、消
化不良なだけで、それほど大した病気ではなかった。また皇太子が、うれしそ
うに、「何を持ち帰ってきたの?」と聞くと、乾隆帝は、手で触って、茶葉を
一掴み、取り出した。このときの茶葉は平らで、葉はすでに乾いており、しか
しさわやかな香りが漂っていた。そこで、乾隆帝はこの茶はどれぐらい素晴ら
しく、どれぐらい高級なものかを一通り話した。皇太后は、急いで女官に、茶
を入れるように命じ、その鮮やかな緑、さわやかな香り、純粋な味わいで、数
回口にしただけで、すぐに元気になり、病気もほとんど良くなった。「杭州の
西湖龍井茶は万能薬だ」とこれを称賛した。このため、乾隆帝は命令を出し、
獅峰山のふもとにあった乾隆帝がつみとった 18 本の茶樹を「御茶」とさせ、
西湖龍井茶を、貢茶とした。今でも、この伝説の中の景観は、西湖龍井村の獅
峰茶山麓に残っている。西湖龍井茶は清代の貢茶となって、とりわけ獅峰山の
ふもとの西湖龍井茶は、希少な高級品となった。
6、茶の対外貿易とアヘン戦争
中国茶の対外貿易は、一般的に漢代に始まり、唐代に隆盛になったといわれ
ている。唐以後は落ち着いていった。しかし明、清代になると、欧州で産業革
命の展開にしたがい、資本主義列強が相次いで出現したことと、茶自身の魅力
で、1610 年、オランダ人が直接中国から茶を欧州へ持ち帰り販売を始めた。
1644 年、イギリス人がアモイに、商務機構を設立し、専売的に茶を扱った。
以後、スウェーデン、デンマーク、フランス、スペイン、ドイツ等の商人が、
相次いで中国から茶を購入し、欧米等で売った。1715 年、イギリス東インド
会社が、広州で商館を設立し、ここから大量の茶葉が、英国へ運ばれた。アメ
リカも独立後、1784 年に中国で茶葉 40 万トンを購入し国内へ持ち帰った。ア
メリカは、当時イギリスに続く、中国の茶葉輸出国となった。このように、中
国の茶輸出は急激に増加した。清代、とくに道光 23 年(1843 年)から光緒 12
年(1886 年)の 40 年以上の間で中国茶の対外貿易は急速に増加し、例えば 1866
年には、中国茶の輸出量は 120 万トンだったのが、1879 年には、輸出量は 199
万トン、1886 年には、220 万トンにまで達した。世界の茶輸出量の 80%以上
を占めていた。
中国から最も多く茶葉を輸入した国はイギリスである。彼らは、大量の中国
茶を手にしたあと、高利益を得たものの、同時に大量の銀を中国へ流通させ、
輸入超過に状況に陥った。このため、イギリス人は、有毒のアヘンを中国に輸
出し、中国から身体の健康に良い茶葉を輸入しようとした。これを背景に、ア
ヘン戦争が勃発した。1886 年以後、イギリスがインドとスリランカでの茶の
栽培に成功したのにしたがって、中国から輸入する茶葉の量は減少した。
しかしこの一連の過程で、中国の茶業界はついに近代化へと足を踏み出した
といえる。
中国茶区および主な名優茶
程啓坤
(中国国際茶文化研究会
教授)
中国では、21 の省、市、自治区で茶が生産されている。中国茶の種類は豊
富で、完全ではないが統計によれば、中国の名優茶(※ある程度の知名度を有
する良質の茶)は 1000 種類以上ある。以下に簡単に紹介する。
一、中国茶の生産区域
中国は亜熱帯温暖地区にあり、長江より南の大部分の省区で茶を生産してお
り、長江より北の一部省区でも生産している。台湾を含め、中国では 21 の省
と自治区で茶を生産している。長江より南が、浙江、福建、安徽、江蘇、上海、
江西、湖北、湖南、四川、重慶、貴州、雲南、チベット、広西、広東、海南、
台湾。長江より北が、山東、河南、陝西、甘粛。
上述の茶の生産省、市区は、その地理、生態環境、茶葉生産の特徴によって、
江南、華南、西南、江北の4つの茶区に分類できる。
江南茶区は、わが国で茶葉の生産が最も集中している区域で、長江中下流よ
り南の浙江、安徽省南部、江蘇省南部、上海、江西、湖南と福建省北部地域を
含む。この茶区の年平均気温は、16~18℃、降水量は 1300~1800mm、ほとん
どの地域で、生態環境の条件が比較的整っており、茶を育てるのに適している
地区で、ただ一部地域で夏季に干害、高山地区で冬季に冷害が発生する。江南
茶区は、主に緑茶を生産しているが、紅茶、白茶、緊圧茶、花茶の生産も行わ
れている。
華南茶区は、中国最南の茶区で、嶺南(※五嶺より南の地区)の広東、海南、
広西、福建省南部と台湾等の地域を含む。この茶区の年平均気温は、19~20℃、
降水量は 2000mm 以上で、熱量が豊富であり、一年を通じて茶摘みができ、茶
樹を植えるのに最も適した地区である。華南茶区は、主に紅茶、緑茶を生産し
ている。また、中国の上等な烏龍茶の生産地でもあり、高い生産量を誇ってい
る。
江北茶区は、中国最北の茶区で、長江中下流より北の山東、安徽省北部、蘇
州北部、河南、甘粛南部を含む。この茶区の年平均気温は、14~16℃、降水量
は 800~1100mm で、明らかに気温が低く、降水量も少ない。茶樹は冬季に冷
害に会いやすく、干ばつの季節には、灌漑に頼るのみで、ここは茶樹の成長条
件が比較的悪い区域である。このため、生産量も低い。しかし茶葉の品質は悪
いとはいえない。この区域は主に緑茶を生産している。
中国は、主に緑茶を生産する国家で、近年緑茶の生産量が総生産量の約 70%
を締めており、すべての茶区で緑茶を生産している。しかし品質が比較的良い
緑茶を生産しているのは、江南茶区と江北茶区である。
西南茶区と華南茶区の雲南、海南、広西、広東などの省区は、紅茶の生産
に適しており、品質も比較的良い。
中国烏龍茶は主に、福建、台湾、広東の 3 省で生産されてる。茉莉花茶は主
に福建、広西、湖南、四川等、緊圧茶は、雲南、四川、湖南、湖北、広西等で
生産されている。
二、中国各省区の主な名優茶
1、浙江
浙江省産の名優茶には、数十種類あるが、ここでは重点的に龍井茶と安吉白
茶を紹介する。
龍井茶は、浙江省杭州西湖の山の中で生産される。唐代の陸羽が書いた『茶
経』の仲で、天竺、霊隠寺で茶を生産しているとの記述がある。唐宋代以降、
龍井一帯で摘み取った茶葉を、「龍井茶」と呼ぶようになった。しかし、龍井
茶を扁平形に成形するのが、いつから始まったかに関しては、資料が不足して
おり、明代後期になって生産されたと考える人もいる。
龍井茶の名前は、龍井泉から付けられた。龍井は昔、龍泓とも呼ばれ、伝説
によれば、明代の正徳年間(1506-1521 年)に、井戸を掘っていたとき、井
戸の底から大きな石を掘り出し、その形が、龍に似ていたので、龍井と名づけ
られたという。明代、田芸衡が『煮茶小品』の中で以下のように記述している。
「今武林諸泉、惟龍泓入品、爾茶亦以龍泓為最」
「(今武林(杭州)のもろもろの泉は、ただ龍泓のみ、しかも龍泓を最とす
る)」
清の康熙帝は、杭州で行宮を創設し、龍井茶を「貢茶」とした。後に、乾隆
帝が江南地方を巡り、龍井を訪れた際、龍井そばの 18 本の木を「御茶」とし
て封じ、龍井茶の価値をさらに高めた。
龍井茶の品質の優劣は、第 1 に早く柔らかい若い芽を取るかどうかで決まる。
普通、清明節前後の一芯一、二葉の生葉を原材料とする。第 2 に精巧な釜入り
技術が必要となり、新鮮な葉を摘んだ後、薄く並べて置き、それから鍋で炒て
(炒青鍋)、あぶった茶を広げて冷まし(攤涼)、篩い分け、さらに炒てから完
成する。
龍井茶は炒る過程で、握る、押し開く、振り返す、上下に振る、拓く、軽く
押す、つかむ、強く押し付ける、すり磨く等の「十大手法」を用いている。こ
うすることで、形の美しく、翡翠色、馥郁とした香り、甘みを持つ龍井茶が形
成される。
西湖山区の龍井茶は、産地の生態条件と釜炒技術の違いによって、歴史上
「獅」
「龍」
「雲」
「虎」の 4 種類に分けられる。また、品質は基本的に、特級、
1 から 5 までの合計 6 級に分けられる。近年、中国農科院茶葉研究所が、「龍
井 43」という上質の品種を作り出した。これは、芽が出るのが早く、品質も
よく、生産量も多く、早めに市場に上がるので、茶農家と消費者に人気が高い。
浙江省杭州西湖の周辺の山にある茶園で生産された龍井茶は、長い間「西湖
龍井」と呼ばれていた。また、10 年以上、杭州以外の浙江省のその他茶生産
都市でも龍井茶を真似たものを生産していたので、杭州以外の龍井茶は「浙江
龍井」と呼ばれていた。しかし、2001 年国家質量技術監督局の許可を経て、
龍井茶に対し、原産地域の保護のために、龍井茶の生産地域は、西湖生産区、
銭塘生産区、越州生産区の 3 つであることが規定された。実際には、杭州市と
紹興市が管轄する龍井茶生産区を含んでいる。このため省内の別の地区が生産
した扁形緑茶は「龍井茶」と名乗ることができなくなった。
安吉白茶は、浙江省の安吉県で生産される。この種の白茶は、一種の特殊な
白葉茶品種の白色の芽と葉を加工して作られるものである。ゆえに「白葉茶」
とも呼ばれる。春、低温時(一日平均気温が 19 度以下)に出てくる柔らかい
若い芽が白色で、気温が 19 度を超えると、葉が緑色になる。この白色の若い
葉と芽は、遊離アミノ酸の含量が 6%以上で、10%以上のものもあり、普通の
茶葉の 2~3 倍の量に相当する。すでにアミノ酸の中の茶アミノ酸が人体の各
方面で効果があることが知られており、例えば免疫力や脳細胞伝達物質の活性
の向上などで、疲労回復や記憶力の増強等の効果がある。
この種類の白葉茶は、宋代徽宗皇帝、趙佶の『大観茶論』の中で、次のよう
に論述されている。
「白茶は、茶の一種であるが、普通の茶とは違い、その形は細く、その葉は
薄く、崖と林の間で、偶然に生まれ出るものであり、人の力で作り出すことは
できない。これを持つは、4、5 家にすぎず、生えるのは、1,2 株すぎない…
そこで白茶はいちばんとなった」
浙江省安吉県大渓郷の高山で、数百年前に 2 株の白葉茶が発見された。20
世紀 80 年代までに、挿し木の方法で栽培を拡大し、今では 2 万ムー(約 13
ヘクタール)以上の大規模生産を実施している。
安吉白茶は、普通、春茶の時期に、安吉白茶の茶樹から一芯一、二葉の白色
の芽と葉を摘み取り、殺青、成形、釜炒りで作られる。安吉白茶の見た目は淡
い黄緑色で、細長く蘭の花の形をしており、湯を入れた後は、茶湯は淡く黄色、
香りと味はとりわけみずみずしい。開いた葉と芽の色は、玉のような黄色で、
葉脈は緑色を帯びており、非常に美しい。
浙江省の名優茶は、龍井茶が最大の割合を占めている。名優茶は、龍井茶と
安吉白茶を除くと、他にも独特の品質の名優茶がある。例えば杭州余杭の径山
茶、桐盧の雪水雲緑、開化の開化龍頂、景寧の金奨恵明、長興の顧渚紫笋、江
山の江山緑牡丹、臨海の臨海蟠毫、逐昌の龍都麗人、松陽の銀猴等。すべてが
優れた品質を持つ名優茶である。浙江省の名優茶の多くが、生態環境の比較的
優れた高山で生産されており、環境汚染もないため、多くの名優茶が有機商品
となっている。
2、江蘇
江蘇省で最も有名な名優茶は、碧螺春である。碧螺春は、中国の有名な観光
地である江蘇省蘇州市の呉県洞庭山で生産される。洞庭山はそれぞれ東山と西
山に分かれており、東山は、まるで巨大な船が太湖に進むようなそんな半島で
あり、東山とは相対的に、数キロはなれた西山は湖の中で高く聳え立つ島で、
呉王夫差と西施の避暑地であったとも言われている。山の上には、木、林、果
樹、茶樹が生い茂っている。
洞庭山で生産される茶葉の香りはとりわけ濃厚で、「嚇煞人香」(「人を驚か
せてしまう香り」)と言われた。碧螺春の来歴については、次のような言い伝
えがある。
洞庭東山の碧螺峰の石の壁には、野生の茶が数株あり、毎年地元の人間が、
竹篭を持って茶を摘んでいた。康熙(清代)のある年、茶葉が多く生えたので、
竹篭に摘みきれず、懐に置いたという。すると茶葉は熱気を得て、香りを発し、
茶摘の人間は、それを「嚇煞人香」、人を驚かせてしまう香り、と呼んだ。
「嚇
煞人」は蘇州の方言で、これが茶の名前になった。この時から茶を摘みにくる、
地元の老若男女は必ずシャワーを浴び、服を着替えて、すべてを懐におさめた。
已卯の年(1699 年)、康熙帝が太湖にやってきて、この茶を飲み、茶の名前を
尋ねた。皇帝は、「嚇煞人」という名前を聞いて、美しくないと「碧螺春」と
いう名前をつけた。ここから毎年この茶は摘み取られると皇帝に献上された。
摘み取った茶葉を懐に挟むと、体温の作用で、茶葉の香りを気化させられる。
できあがった茶葉の香りが特に豊かなのにも、理にかなっているといえる。
碧螺春茶は、龍井茶よりもさらに若く柔らかいものを摘む。500gの釜炒り
に、7~8 万の若い葉、芽が必要になり、摘み取った葉と芽は何度も選び抜か
れて、不純物と古くなった葉の茎等を取り除いてから、炒る。
碧螺春の製茶は、殺青、揉捻、産毛が目立つよう揉み解す、乾燥の 4 工程に
分けられる。手は茶を離れない、茶は鍋を離れない、炒ながら揉み、連続操作、
そして乾燥、という工程の特徴がある。
碧螺春は、形が細長く、渦巻いており、毛に覆われていて、銀色にほんのり
緑色で、香りは濃厚で、味もみずみずしく甘みがあり、茶湯の色は、青緑で、
葉底は明るい緑という特徴がある。「一嫩三鮮」(「芽と葉は柔らかく、色香味
がすばらしい」)と称えられている。
碧螺春を味わう時は、ガラスのコップを用いて、
「上投法」、すなわち先に湯
を注いでから、茶をいれる。茶をコップの中に入れると、瞬間に「白い雲が揺
れ動き、雪の花が舞い散る」と言われるような光景が見られ、香りが人を魅了
する。コップの中の茶を眺めると、「雪が舞い、春は底にあり、緑あふれる宮
殿」のような奇観を味わうことができる。その味は、一口目は、色は薄く、香
りがほのかに漂い、新鮮で趣深いが、二口目は、緑で、かぐわしい香りが漂い、
みずみずしい味わいとなる。三口目には、青緑で、濃厚な香りが漂い、甘みを
帯びてくる。本当に珍しく、まるで高級の工芸品のようで、希少価値の高いも
のである。
江蘇省の名優茶は、碧螺春が有名である以外にも、良質の茶葉がある。例え
ば、南京産の雨花茶、無錫産の毫茶、太湖翠竹、宜興の陽羨雪芽等である。
3、安徽
安徽省の名優茶は数多くあり、ここでは重点的に黄山毛峰と祁門紅茶を紹介
する。
黄山毛峰は、観光地として有名な安徽省皖南の黄山で生産される。すばらし
い風景の黄山は、中国東部の最高峰で、力強くさまざまな姿をした奇松や、い
ろんな形をした怪石、変幻自在の雲海、水がきれいな温泉で有名である。黄山
の観光地区の中でも、海抜 700~800mの桃花峰、紫雲峰、雲谷寺、松岩庵、
吊橋庵、慈光閣一帯が、黄山毛峰の主な生産地である。観光地区以外の湯口、
崗村、楊村、芳村も黄山毛峰の主要な生産地である。
黄山の茶の生産の歴史は長く、
『黄山志』には、
「蓮花庵の傍の石の隙間で茶
を育て、香り高い。ここはたいへん寒いところで霧が出る。この茶を黄山雲霧
という」という記述が残されている。考証によれば、黄山雲霧こそ、黄山毛峰
の前身である。黄山毛峰は清代光緒年間に謝裕泰茶庄が作り出したもので、創
始者の名を謝静和といい、心を込めて、白い毛に覆われ、芽は峰のように尖っ
た、良質の茶を作り出し、「黄山毛峰」を名づけた。上海などでの売れ行きは
好調で、さらに黄山毛峰に別の茶を混ぜて花茶にしたものが東北、華北で大変
人気があった。後に、イギリスでの販売にも成功し、ここからその名前は世界
知れ渡るようになった。
高品質の黄山毛峰を作るには、第 1 に生態条件が優れていること、第 2 に茶
樹の品質が良好であること、第 3 にきめ細かくて柔らかい生葉を摘み取り、製
茶工程にこだわることが必要である。特級の黄山毛峰は、一芯一葉初期のもの
を摘む。工程は、殺青、揉捻、乾燥の 3 つ。一般的に、午前中に摘み取り、午
後に製茶、午後に摘み取った場合は、その晩のうちに製茶することが要求され
る。
特級の黄山毛峰は、外見は雀の舌のようで、しっかりしており、峰にあたる
部分には産毛が現れ、色は象牙のようで、芽の下の部分は黄金色を帯びている。
湯を注いだあとの茶湯の色は清らかに澄み切って、さわやかな香りが鼻をつき、
香り高く、その香りは長くたもたれ、味は濃厚、芳醇で甘みがある。葉のそこ
に沈んだ茶葉は、肉付きがよく、淡い黄色をしている。特級の黄山毛峰を識別
するには、第 1 に黄金(茶芽)であるかどうか、第 2 に象牙色(できあがりの茶
葉)であるかどうかを見極める。
黄山毛峰に別の香りをつけた花茶、茉莉毛峰は花茶の中でも最高級で、花の
香りがほのかに漂い、茶の味は濃厚で何度も入れても落ちないため、消費者の
人気を集めている。
祁門は安徽省南部の徽州府にあり、唐代の時点で茶葉の生産が盛んであった。
しかし祁門県は清の光緒以前は、紅茶を生産せず、緑茶を生産していた。光緒
元年(1875 年)、黟県の人、余干臣が「閩紅」(福建省で生産される工夫茶)
の製茶技術を真似て、紅茶を作るのに成功した。以後数十年にわたり、紅茶の
製茶法に力をつくし、生産規模を拡大して、祁門紅茶の端緒を開いた。
祁門が世に出た後、生産技術の改良と向上を経て、唯一無二の品質を持った、
中国でも高級な紅茶となった。世界的にも、インドのダージリン、スリランカ
のウバと並んで、世界三大紅茶と呼ばれている。祁門紅茶は、色がつややかな
黒色で、外形は細長くしまっている。茶湯の色は、明るい赤色で、香りは長く
続き、味は純粋である。何もいれない状態で飲むと、その独特な香りにひきつ
けられ、砂糖やミルクを加えてももちろんおいしく、その香りが減ることはな
い。このため世界中で高い評価を得ている。上流階級のイギリス人は、祁門紅
茶を最も愛し、皇族や貴族も祁門紅茶を最も洒落た飲み物として愛飲した。こ
の紅茶を皇后の誕生日プレゼントとして贈ったところ、最高のものとの誉れを
受けた。かつ「王子茶」「茶の中の英雄」とも呼ばれてる。
祁門紅茶の品質は、次の 3 つの条件によって形成される。
第 1 に、生態条件が優れている。山が高く密林があり、雲や霧が多く、渓流
が一杯になるほど雨量が多く、土壌が肥えており栄養分が高い。さらに茶樹の
成長が激しく、芽が多くて超えていること。
第 2 に、加工技術。まず新鮮な芽を摘み取り、適度に萎凋(水分を飛ばす作
業)し、揉捻を十分に行い、等しく発酵させ、釜炒りの時は、火を高温高速(毛
火)で行う。2 度目は、低温でゆっくり炒る(足火)技術を使って、含有物を
十分に「祁門の香り」にまで転化させる。
祁門紅茶は国内外で人気があり、世界の 50 以上の国家で販売され、100 年
以上市場が安定しており、それは衰える気配がない。
安徽省は、黄山毛峰と祁門紅茶を除いて、他にも六安瓜片、太平猴魁、休寧
松夢、涌渓火青、九華毛峰、黄山緑牡丹、敬亭緑雪等がある。
4、江西省
江西省の茶生産の歴史は長く、名優茶も数多くある。ここでは重点的に、婺
緑と盧山雲霧の 2 種類を紹介する。
婺緑は、江西省婺源県で生産される緑茶で、明清時代には、婺緑緑茶は、浮
梁、九江を経て国内外へと輸送・販売された。婺緑の主要な産品は、眉茶(眉
のような茶葉)で、世界的にも最高品質の緑茶と呼ばれている。イギリス人学
者ウィリアム・ウックス(音訳)著『茶葉全書』には次のような記述がある。
「婺緑茶は、ただ緑茶の上品であるだけでなく、中国緑茶の中で最高品質の
ものである。その特徴は、葉が細く柔らかく、滑らかで、茶湯は透き通ってい
る。少し灰色を帯びているが、特殊な桜草の香りがあり、味はとりわけ濃厚で、
いろんなブランドがあり、頭幇茶(春茶)を最高とする」
婺源の茶生産の歴史は長く、陸羽『茶経』の中に、
「歙州(茶)生婺源山谷」
(「茶は婺源の山谷で生産される」)という記述がある。宋代に生産が始まった
茶の銘茶のひとつでもある。清代、何潤生が『徽属茶務条陳』の中で、次のよ
うに記している。
「徽属産茶以婺源為最……各県中又以婺源北郷所産者為上品」
「(安徽省の茶生産は婺源を最とする……各県の中または婺源より北で生産
されるものを上品とする)」
婺源の緑茶で、歴史的に最も有名なものが、渓頭梨園茶、硯山桂花樹底茶、
大畈霊山茶、済渓上坦源茶で、この 4 つの地方の緑茶が婺源緑茶の「4 大名家」
として知られている。
中華人民共和国の成立後、婺緑は、輸出向け中国緑茶の主要品となり、モロ
ッコ等に輸出された。品質が群を抜いているので、世界的にも手薄となった。
婺源県は、浙江省と安徽省の境界付近にあり、山が高く、木が密集しており、
気候は温暖で、雨と霧が多く、茶樹の成長に適している。茶芽、葉は、肥えて
おり、含有物も豊富である。殺青、揉捻、乾燥でつくられる緑毛茶で、さらに
加工されて「眉茶」になる。形は細長く引き締まっており、茶湯の色は淡い緑
で、熟した栗の香りがし、味はさっぱりしており、何度も煮出すことができる。
輸出用眉茶の主要な種類が「珍眉」で、輸出用緑茶の中でも大きい割合をしめ
ており、婺源緑茶の代表する商品で、国内外で何度も賞を獲得している。婺源
は、自然の生態条件が比較的良く、汚染がないので、近年開発、生産している
自然食品茶や有機茶が、大量に EU 諸国に輸出され好評を得ている。その中で
も「大鄣山茶」は AA クラスの自然食品茶ブランドである。
婺源の「上梅洲」品種の茶葉・茶芽で製茶される銘茶「婺源茗眉」は、婺源
緑茶の中でも最高級で、色、香、味、形、どれをとっても一流で、めったにな
い贈り物向けの茶である。
盧山雲霧茶は、美しい風景で有名な江西省廬山で主に生産される。廬山は九
江市内にあり、長江の南にそびえたち、奇怪な形をした峰が密集し、変化にと
んだ雲海が珍しい光景を生み出し、また至る所に滝と密集した山林がある。
廬山では、後漢の時代から、茶の生産が始まった。歴史は長く、仏教が伝来
してから、寺で多く生産されるようになった。各寺が雲と霧の山間で、茶の生
産、製茶を行ったので、
「雲霧茶」と呼ばれるようになった。現在でも茶園が、
数千ムー(1ムー=6.667 アール)あり、廬山の大小の峰の間に分布している。
中でも、とりわけ五老峰と漢陽峰の間は、一年中雲と霧が漂っており、そこの
茶葉の品質が最高とされた。
廬山は、一年中雲と霧に覆われていて、雨量は十分、大地は肥沃で、気候も
温暖であり、日照時間は短いけれども、昼夜の気温差が大きい。ゆえに、この
ような環境で育った茶樹は、茶芽、葉ともに良く肥えており、白毫も多く、柔
軟性が強く、含有物も豊富であるという特徴がある。廬山雲霧茶は、一芯一葉
初期の生葉を原料とし、殺青、揉捻、炒二青、形を整える、毛を立たせる、乾
燥という過程を経て製茶される。その品質は、外形はふっくらとしており、白
毫が多く、深緑色、蘭のような香りがあり、濃醇で甘味のある味わいという特
徴がある。
廬山雲霧茶は、雲と霧に覆われた気候環境と、山の南にある陸羽に天下第一
泉と言わしめた「谷帘泉」の水、良い茶葉に良い水という組み合わせで、最高
の茶であるのは必然といえる。1959 年朱徳が、廬山で廬山雲霧茶を味わった
後に、次のような詩を読んだ。
「廬山雲霧茶、味は濃く大胆で、もし長く飲めば、長寿の効果があるだろう」
また現代詩人の欧陽勛にかつて次のような詩を読んだ。
「廬山雲霧茶中花、緑潤多毫新嫩芽、形似石松円直里、香高鮮爽蘊精華」
「(廬山雲霧茶の中の花は、潤いのある緑で、白毫も多く、芽は柔らかい。
形は石松ににてふっくらとし、香りは高く新鮮で、濃醇である)
江西省には、婺緑と廬山雲霧以外にも、狗牯脳茶、双井緑、大鄣山雲霧茶、
上饒白眉、井崗翠緑、梁渡銀針、渓頭梨園茶、攢林茶、婺源墨菊等がある。
5、福建省樅
福建の名優茶の種類は大変多く、烏龍茶、紅茶、緑茶、白茶があるが、烏龍
茶が最も有名である。ここでは重点的に、大紅袍と鉄観音について紹介する。
大紅袍は、武夷岩茶の「四大名樅(樹)」のうちのひとつである。武夷岩茶
の品種名で命名され、
「四大名樅(樹)」とは大紅袍、鉄羅漢、白鶏冠、水金亀
の 4 品のことである。これらは品種名であり、茶名でもある。
武夷は、六朝時代から 茶の生産が始まった。武夷岩茶は、烏龍茶の一種で、
起源は、明末清初、清代と民国時期に最も盛んに生産された。武夷山から周囲
60 キロメートルは、かつて「碧水丹山」との呼称があり、三三(9 回曲がった
渓流)、六六(36 の峰)という名所があった。武夷岩茶の多くが武夷山の 36
の峰、72 の洞窟、99 の岩の中に植えられた。大紅袍の原種の茶樹は、数株し
かなく、天心岩九龍窠の岩場にある。両側の岩壁は直立しており、岩の頂上に
は泉が岩谷から滴り落ちており、茶樹を潤している。その水には天然の有機物
が多く含まれており、茶樹周辺の土壌を豊かにしている。数百年来、大紅袍の
茶樹は昔の姿を保ちながら、頑固にその岩場の上で育っている。
大紅袍の品質は群を抜いており、薬効の効果もある。「大紅袍」の茶名の由
来にも、次のような面白い物語が隠れている。
昔、秀才が北京へ科挙の試験を受けに行く途中、武夷山を通った時、病で倒
れてしまった。幸いにも天心寺の和尚が彼に一杯の茶を飲ませたところ、彼は
助かり、後にこの秀才は非常に有名になったという。状元になり、附馬にも招
かれた。二年目の春、この状元は、武夷山へ感謝しに、九龍窠にやってくると、
ただ壁の上に数株の茶樹が、日光に照らされて紫がかった紅い色の光沢を放っ
ているのだけが見えた。和尚は、この数株がどれだけ珍しく特別なものである
か、昔から猿を使って茶を摘み、どんな病でも治してきたことを語った。この
話を聞いた状元は、これを皇帝へ献上したいと申しでた。そこで早速ろうそく
に火をつけて、太鼓をたたき、鐘を鳴らし、お香を炊いて、礼拝し、茶を摘み、
丁寧に製茶し、錫の箱に入れた。そして状元は、茶葉を持って北京へ赴いたと
ころちょうど皇后が腹痛で、病に付していた。状元は茶をすぐに皇后へ献上し、
飲ませたところ、茶は病気を治してしまった。皇帝は大変喜び、大きな紅い大
臣にしか着ることが許された赤い上着(紅袍)を状元に渡し、彼を自分のかわ
りに武夷山へ赴かせた。状元は九龍窠に到着すると、中腹まで上り、紅袍を茶
樹の上にかぶせて、皇帝の感謝の意を示した。なんと奇妙なことに、大紅袍を
かぶせられた後、岩の頂上に太陽に光が降り注ぎ、紅袍を持ち上げた時、茶樹
の上の茶芽、葉が日光の下で赤く光った。人々はこれは皇帝の紅袍が紅く染め
たとのだ、といい、そこでこの数株の茶樹を「大紅袍」と呼ぶようになった。
数株の茶樹の傍にある岩壁にはまだ「大紅袍」という大きな紅い字が 3 文字彫
られている。今では、岩壁の下に茶室が建設され、観光客に大紅袍の珍しい味
を提供している。
大紅袍の製茶法は、細かく、一般には風と日光の良い日を選んで、午前中茶
摘をした後、晒青、涼青、揺青(茶葉を手で軽くこすりながら軽く揺らす作業)
を行う。揺青の技術はとりわけ研究されており、7 回の揺青に 14 時間必要で、
葉が緑で、周辺が赤くなったときに、炒青、揉捻、乾燥の作業が行われる。で
きあがった大紅袍の形は肉付きがよく、色は緑で潤いがあり、入れた後の茶湯
は黄金で、金木犀の香りがする。何度も入れることができ、9 回目でもやはり
香りがある。これはその他の岩茶にはないことで、普通の岩茶は 7 回いれれば
香りは落ちてしまう。大紅袍の茶樹は花を咲かすだけで、種を作らない。この
ため繁殖の拡大は困難を極めたが、後に無性繁殖技術の応用で繁殖に成功した
が、純粋な大紅袍の最高級品はめったに目にかかれない。
鉄観音は茶名でもあり、茶樹の品種名でもある。もともとは福建省安渓県西
坪郷で生産されており、既に数百年以上の歴史がある。鉄観音は、烏龍茶の名
品で、茶湯の味は芳醇で甘みがあり、飲んだ後には、口の中に香りが残り、ほ
のかに甘い後味がある。長く国内外で愛飲され、とくに海外の架橋華人に人気
であった。
鉄観音の由来に関しては、現地に 2 つの伝説がある。一つは、魏萌の伝説で、
もう一つは、王士諒の伝説である。
清の乾隆帝の時代、西坪郷松岩村の茶農家、魏萌(別の名を魏飲)は仏を信
じていた。毎日朝と夕方に、必ず茶を3杯、観音像の前に奉じるなど、十分敬
虔な仏教徒であった。ある晩、魏萌は、山へ登る途中、渓流の傍の石の中に、
枝が十分に生い茂り、蘭の花の香りをかもし出した茶樹に出会う夢を見た。目
覚めた後、次の日、ついでに観音岩にくると、本当に石の間に一株の茶葉を発
見した。やはり蘭の香りが花を刺激し、何度いれても香りがあった。この茶の
重さがまるで鉄のようであり、観音から請け賜った茶であるから、そこで「鉄
観音」と名づけられたという。
乾隆帝の時代、王士諒と友人が南山の麓に集まっていたところ、荒れた場所
の中に人をひきつける香りを放つ一株の茶樹を見つけ、そこで、それを移植し
て栽培し、製茶したところ、非凡な香りを発した。後に、王士諒が北京へ赴い
て、この茶を礼部尚書に託したところ、今度はそれが宮廷へと献上され、皇帝
はこれを飲んで大変喜んだという。そして茶の由来を尋ねると、南の岩からと
れたと知り、「南岩鉄観音」と名づけた。
鉄観音の摘み取り技術は十分厳重で、生葉の摘み取りは、梢が「小開面」も
しくは「中開面」まで開いた時、すなわち茶葉が開ききってから「駐芽」(茶
芽が成長しにくい、もしくは発芽が遅れる、もしくは発芽率が遅い状況で、出
てくる小さく新しい梢)が出たときに、一芯二、三葉で摘む。鉄観音の製茶に
は、晒青(茶葉の裏返しを行い、水分を一部蒸発させる)、涼青(日陰で蒸発
させる)、做青(茶葉を揺らしたり落としたり反転させたりする)、炒青、揉捻、
乾燥、包揉(茶葉を布にくるんで丸く固める)、再焙等の工程がある。中でも、
做青は適度で、包揉はしっかりと、火はゆっくりかけることがポイントである。
鉄観音は、茶葉が渦巻いており、こわもてで、重みがあり、青みがかった緑
で、トンボの頭のような形をしている。色は潤いのある緑で、茶湯は黄金色、
濃葉底は厚く、シルクのような光沢があり、味は芳醇で甘く、柑橘系のような
後味があり、蘭の花の香りで、馥郁として持続し、7 回入れてもまだ香りがあ
る、と言われる。
鉄観音の飲み方としては、現地では、小さい茶壺と茶杯にいれて飲む「功夫
茶」の飲み方が親しまれている。先に沸騰した水で茶具を温め、茶葉を小さい
茶壷の中にいれて、沸騰した水を入れると、蘭の花の香りが鼻を刺激する。そ
れから小さい杯ににいれて、先にその香りをかぎ、引き続きその味を楽しむ。
最近、鉄観音はオークションで驚くような高値が付けられており、もともと
高級品の鉄観音の価値をさらに高めている。
福建省は、武夷岩茶と鉄観音を以外にも、白毫銀針、石亭緑、福寧元霄緑、
黄金桂、八仙茶、武夷肉桂、福州茉莉花茶、正山小種、八角亭龍須茶等がある。
6、湖南省
湖南省で最も有名な銘茶は、君山銀針である。
君山は、洞庭湖にある美しい風景の小島で、春夏には湖の水が蒸発し、雲と
霧が広がり、気候も良いため、湖南省でもかなり有名な観光地である。ここは、
昔から銘茶の産地であり、生産される銘茶を「君山銀針」と呼んだ。考察によ
れば、銀針茶は清代から生産されている。『巴陵県志』には次のような記述が
ある。
「君山の貢茶は、清代から始まり、毎年 18 斤を献上し、谷雨(4 月 20 日ご
ろ)前には、県知事が僧を呼び、一旗一槍(※葉が旗に似て、芽の先が槍のよ
うに尖ったもの)を摘み取らせる。それは、白毫が多く、俗に白毛茶と呼ばれ
ている」
清の江昱 はその著書、
『瀟湘聴雨録』で、
「洞庭君山の尖りは、最高である」
と述べている。このため君山と君山銀針は、長く縁があり、清代の万年淳は、
詩に次のように書いている。
「試把雀泉煮雀舌、烹来長似君山色」
(「まだ新しい生葉を煮ると、君山の色のように美しい」)
君山の美しい風景と君山銀針の美味の双方をたたえた歌である。
君山銀針は、黄茶の中の芽茶に属し、摘み取りはきめ細かく、製茶法も研究
されている。毎年、清明節の前後に、柔らかく肉付きのよい単芽を摘み取り、
不純物が取り除かれる。殺青、初烘(熱を加えて水分を取り除きながら、茶葉
を乾燥)、攤放(香りを出すために、しばらく放置)、初包(茶を包む)、復烘
(再度、熱を加えて乾燥)、安置、復包(再度包む)、乾燥等の工程を経て製茶
される。
君山銀針は、葉のない単芽茶で、芽の先がたくましく伸びており、しっかり
とした直線で、形や大きさは良く整い、全体が白毫に覆われ、芽の先は黄金色
に光っている。
ガラスのコップで、茶を入れると、どの芽の先も、尖ったほうが上を向き、
柄の方が下を向くような動きで水面に浮き、非常に美しい。それから徐々に沈
み、コップの底に沈んだ後も、芽の先はコップの中でたち、まるで筍が土から
出てくるようである。他にも、芽の先が葉先があるものもあり、そこから、泡
が出て、まるで「雀の舌に真珠が隠れている」ような光景が広がる。もしコッ
プに触らなければ、比較的長い時間茶がたちつづける。これが君山銀針の世に
も珍しい様子であり、観光客がこれを見て非常に驚き、楽しんでいる。
君山銀針の茶湯は、黄色で、香りはさわやかで、味はみずみずしい。その抜
群の品質は、消費者の人気を集めており、1956 年ライプチヒ世界博覧会で、
その品質の高さから「金をちりばめた玉」とたたえられ、金賞を獲得した。国
内でも長く消費者の人気を得てきたが、産地が小さいため、生産量が限定され
た高級品として扱われ、茶市場での価格は一向い下がる気配を見せない。
湖南省には、君山銀針以外にも、安化松針、古丈毛尖、五蓋山毛尖、高橋銀
峰、碣灘茶、洞庭春芽、桃江竹叶、南岳雲霧茶等がある。
7、湖北省
湖北省の名優茶は多く、ここでは重点的に仙人掌茶と恩施玉露を紹介する。
仙人掌茶は、唐代、当陽玉泉寺で生まれたもので、別名玉泉仙人掌茶ともい
う。この茶名は、唐代の詩人、李白がつけたといわれている。
『金唐詩』
『当陽
県志』『玉泉寺志』によれば、玉泉寺は、当陽市玉泉山麓の寺で、隋代の開皇
年間に、智凱国師が玉泉寺を創設した。当時、江蘇省南京の棲霞寺、浙江省天
台の国清寺、山東省長青の霊岩寺と並んで、「天下四絶」と呼ばれていた。玉
泉寺の中孚禅師が、蒸青(蒸して発酵を止める製茶法)を応用した扁形散茶を
作り出した。この僧は、俗に名前を李といい、詩人李白の親戚にあたり、金陵
(今の南京)で李白にめぐり合い、この茶を初対面の贈り物とした。李白はこ
れを味わった後、この茶の形が、手のひらににており、肉質がさわやかで、な
めらかに熟しているとして、自分が今まで味わってきた茶とは別格であると思
った。そこで、中孚禅師に尋ねて、初めて玉泉寺が作ったものであることを知
り、そこでこれを「玉泉仙人掌茶」と命名したという。
仙人掌茶は、作り始められてから、今にいたるまで既に 1200 年以上の歴史
がある。宋、明、清の各王朝で同じように良い茶として扱われていた。明代、
李時珍『本草綱目』には、
「楚之茶、則有荊州之仙人掌」
(「楚地方の茶といえば、荊州の仙人掌がある」)
と記されている。
清代、李調元が書いた『井蛙雑記』の中にも、
「品高李白仙人掌」(「品質が高い、李白の仙人掌」)
という賛嘆の記述がある。
仙人掌茶は、自然環境条件が優れており、かつ蒸気殺青の伝統的なつくり方
を用いるため、茶葉の品質は群を抜いており、何度も湖北省の品質優良な銘茶
に選ばれている。
仙人掌茶の外形は、扁平で掌に似て、深い緑色で、白毫がある。茶は入れる
と、柔らかい緑が花びらになったように開き、茶湯の色は透明で明るく、さわ
やかな香りがほんのり漂い、みずみずしい味わいで、甘い後味がある。
恩施玉露は、恩施五峰山の一帯で生産される一種の針形蒸青緑茶のことをい
う。清代の康熙年間に作られたと言われており、当時、恩施の芭蕉黄連渓に、
藍という姓の茶商がいて、彼は自ら釜で茶を蒸し、茶を炒った。出来上がった
茶葉の外形はふっくらとして真っ直ぐで、緑色、まるで玉のようであったこと
から、
「玉緑」と呼ばれるようになった。1936 年になって、湖北省の民生公司
が黄連渓に隣接する宣恩県慶陽の土手に向上を立ち上げ、「玉緑」茶の工芸を
用いて製茶を行ったので、結果できた茶葉の白毫がまるで玉のようで、とりわ
け姿を露出していたので、名前を「玉露」と変えた。
恩施玉露の主な生産地は、五峰山一帯で、山が高く、木が密集しており、朝
晩には、雲霧が立ち込め、土壌は肥沃で、茶葉の天然品質が優れ、加えて唐代
の伝統的な蒸気殺青方法を用いているので、手をかけて製茶され、品質は他に
はない最高級のものとなっている。その特徴としては、外形が、真っ直ぐに伸
びてふっくらしており、なめらか、その細さはまるで針のようで、潤いのある
緑色をしており、緑豆の色にも似ている。茶湯はおだやかな香り、さわやかな
味をしている。
湖北省には、仙人掌茶と恩施玉露以外にも、鄭村雲霧、峡州碧峰、松峰茶、
遠安鹿苑、金水翠峰、神農奇峰、松滋碧澗、江夏碧舫、西碧玉廂簪等がある。
8、広東省
広東省の名優茶も数多く、ここでは重点的に鳳凰単樅と英紅の 2 種類を取り
上げる。
鳳凰単樅は、広東省で最も有名な烏龍茶であり、主に潮州鳳凰山で生産され
る。鳳凰山は、もともと鳳凰水仙茶の生産が盛んであり、古代の鳳凰水仙茶は、
「烏嘴茶」とも呼ばれた。1956 年に「鳳凰水仙」と命名された。鳳凰水仙は、
茶樹の品種でもあり、茶名でもある。鳳凰水仙の中で選びぬかれた品質の優れ
た株を、鳳凰単樅と呼んでいる。鳳凰単樅の芽葉を用いて作られた烏龍茶が「鳳
凰単樅」と呼ばれている。
現在の鳳凰単樅には 80 種類以上の品質系統があり、茶樹の形や、葉型、茶
葉の香り、外形の違い等によって区分されている。香りについて言えば、黄枝
香、肉桂香、芝蘭香、杏仁香、茉莉香、通天香等 10 種類ある。
鳳凰単樅の茶園は、多く広東省の高山地区に分布している。そこは、海抜
1000 メートル以上で、一年の平均気温 17℃、厳しい寒さも暑さもなく、雨量
が多く、環境はとりわけ恵まれている。良い品質に、このような恵まれた自然
環境で、天然の茶葉は自然と良いものが生まれる。
鳳凰単樅の摘み取り技術は非常に研究されており、茶を摘むのは晴れた日の
みで、雨の日は摘まない。若すぎるもの、古すぎるものいずれも摘まない。鳳
凰単樅の製茶には、萎凋、做青(茶葉を揺らしたり落としたり反転させたりし
て発酵させる作業)、殺青、揉捻、乾燥等の工程がある。中でも晒青(日光萎
凋)と做青(碰青)の作業は、重要で、経験豊富な人間が始めて把握できるも
ので、做青をしすぎても茶葉の香りに影響を及ぼす。熟練者は、「二分紅、八
紅緑」の做青の適度を把握しており、全ての做青を基本的には夜中に実施し、
10~12 時間必要とする。だいたい 2 時間に一回做青を行い、全部で、濃厚な
香りが形成されるまで 5 回から 6 回行う。做青が足りなければ、青臭くなり、
做青しすぎれば、香り散らばり、淡白になる。
品質の良い鳳凰単樅茶は、美しい形に、緑色、馥郁とした香り、甘みある後
味がある、と言われる。その品質には、外形が比較的まっすぐで、肥えており、
黄褐色はタウナギの皮の色に似ていて、いれた後の茶湯の色は明るい黄金色で、
天然の濃厚な花の香りがし、さっぱりしており、特別の甘味がある。葉底は、
青く緑色を呈しており、縁は赤みを帯びている。小さい壺と小さい茶杯で鳳凰
単樅茶を入れる方法を「工夫茶法」と呼び、広東、台湾、東南アジアの華人地
区で、非常のこの飲み方が盛んである。これは客が家を訪れたときのもてなし
の茶で、もてなしの重要なスタイルである。鳳凰単樅の烏龍茶は、何度も国内
外で賞を獲得しており、その独特な品質と味は、常に飲茶の愛好者たちの口を
うならせてきた。
「英紅」とは、英徳紅茶の略称である。主に英徳地区で生産されている。そ
こには、巨大な茶場があり、植えられている茶樹のほとんどが雲南大葉の種類
で、一部に鳳凰水仙と育てられた英紅の新シリーズがある。茶樹の品種が適当
であれば、品質の良いところだけをとって、新しいものを作り出すこともでき
る。
茶園の水と肥料の管理は科学的、合理的であり、茶樹は盛んに生長している。
茶葉原料の品質も非常に良い。製茶工場には、大型の紅茶加工機器が設置され、
工夫紅茶の成形も、紅碎茶の粉砕も可能である。海外市場の要求により、主に
紅碎茶の加工を行っている。英徳紅茶の加工技術は、茶樹の品質や季節によっ
て異なり、完璧かつ科学的な加工技術が完成されている。
英徳紅茶(紅碎茶)の品質の特徴は、外形の粒がしっかりしており、つやの
ある黒い炉で、高級茶には黄色の毫(産毛)が、見られ、非常に美しい。入れ
た後の茶の色は鮮やかな赤色で、茶湯の表面には金の輪ができ、純粋で甘い香
りで、芳醇な味わいである。葉底は鮮やかな赤色をしている。英徳紅茶が世に
出てから、たった数十年だけれども、その品質により、長く国内外の消費者の
好評を得て、何度も賞を獲得した。
英徳紅茶は、そのまま飲んでも、砂糖やミルクを加えてもその高級感あふれ
る味わいは変わらない。
広東省には、鳳凰単樅と英徳紅茶以外にも鳳凰推薦、嶺頭単樅、白葉単樅、
石古坪烏龍、大葉奇蘭、古労茶、楽昌白毛茶、清涼山緑茶、菊花普洱茶、広州
茉莉花茶等がある。
9、広西チワン自治区
広西チワン自治区の名優茶も数多くあり、ここでは重点的に横県茉莉花茶と
桂平西山茶を紹介する。
横県茉莉花茶は、主に横県で生産される。横県は、広西の南部にあり、南亜
熱帯気候に属し、気候は温暖で、十分な雨量があり、一年の平均気温は 21.3℃、
一年を通じて霜がなく、茉莉花を植えるには理想的な環境であるといえる。土
が現れた状態で越冬でき、5 月から 10 月にかけての茉莉花の開花時期にも、
日照が十分である、そのため開花時期は長く、生産量も非常に多い。栽培する
茉莉花茶の種類のほとんどが、大きい花と二枚の花びらの品種で、花の香りが
とりわけ強く、品質も良い。一般的に、1 ムーあたり、600 キロの花を生産で
き、量が多いときで 1500 キロ以上にもなる。この 20 年間で、全県の茉莉花の
栽培面積は 5 万ムーにまで発展し、毎年各地の茶商人が横県に集まってくる。
一年に他の花を混ぜて加工される茉莉花茶は 3 万トン以上で、その加工量は全
国茉莉花茶生産量の約半分を占めており、このため横県は「茉莉花茶のふるさ
と」とも呼ばれている。
横県茉莉花茶の加工には以下のような特徴がある。第 1 に、花の量が十分で
あること、第 2 に選びぬかれた良質の花を使用すること、第 3 に、
「三窨一提」
(3 回香り付け)を守り、工程を落ち着いて行うこと、第 4 に全国各地の良質
の茶の半製品を用いること、第 5 に横県茉莉花茶の開花は早く、4 月中旬に花
が咲き、この茉莉花茶が市場に出るのが早いこと。そのため、横県茉莉花茶の
香りは高く、味は芳醇で、何度も入れることができ、何度も国内外で賞を獲得
している。
桂平西山茶は、広西の桂平件付近の西山で生産している。桂平西山は、宋代
に西山寺の僧が江南地方から茶を持ち帰って茶の生産を始めたといわれてい
る。『桂平県志』には、西山茶は「観音岩から出て、碁盤石の下にあり、低木
が生えて、根は石の髄を吸っている、葉は土の方向を向き、味は甘く、香りが
漂い、杭州の龍井茶も及ばない」と記載されている。西山茶は長い間、高い評
価を受けてきた。
桂平西山は、風景が美しく、山も高く、木が密集しており、奇怪な石や泉が
いたるところで見受けられる。茶園は、林の間、石の傍に設けられており、泉
の水がそれを潤い、肥沃な大地で栽培されている。このため西山には「林秀、
石奇、景妙、泉甘、茶香」
(「美しい林、奇怪な石、絶妙な景色、甘い泉、香る
茶」)と言われる五大美があり、昔の人は
「桂林山水甲天下、更有潯城半辺山」
「(桂林の山水は天下一分だが、さらに潯州の半辺山がある)」
(※潯州は桂平、半辺山は西山を指す)
と言った。
西山茶は、昔、生産量が極めて少なかったが、中華人民共和国成立後、西山
洗石庵の年老いた尼、訳寛能法師と訳昌慧法師の手により、西山茶は急速に発
展した。2 名の法師は、かつて 3 度自らの手で上等な西山茶を製茶して、毛沢
東に贈り届けている。西山茶は、曲条形緑茶で、生葉を摘み取り、丹念に加工
するため、その品質はずば抜けて素晴らしい。外形が細くしまっており、黒っ
ぽい深緑で、茶湯の色は明るい緑、香り高い味わいで、長続きし、この茶を飲
むと、口の中に長くその香りが残る、という特徴がある。
よい茶葉は、よい水で入れることが必要である。ちょうど西山には「乳泉」
がある。この乳泉は、西山正閣寺の左下に 70 センチの泉が湧き出る穴があり、
その隣には「深谷乳泉衆試皆甜」
(「深い谷に乳泉があり、みなこれを試すと甘
いといった」)とかかれた石刻がある。乳泉は、一年中水温が 20℃から 22℃で
保たれ、溢れることも枯れることもない。水は非常にきれいで、分析によれば、
人体に有効な成分が微量ながら含まれているという。乳泉を用いていれた西山
茶は、杭州の虎跑茶で入れた龍井茶のように、また一味違う味わいがある。著
者が、桂平の西山へ訪れた時、乳泉の水でいれた西山茶を味わったことがある
が、この香り高く純粋な味わいは、他とは一線を画する。
広西には、横県茉莉花と西山茶以外にも、桂林毛尖、蕈塘毛尖、凌雲白毫、
南山白毛茶、白牛茶、蒼悟六堡茶、百色紅茶等がある。
10、 雲南省
雲南省の名優茶も数が多い。ここでは重点的に普洱茶と滇紅を取り上げる。
普洱は、雲南省シーサバンナ州の県名である。清代雍正 7 年(1729 年)に、
普洱府が設立され、1913 年に普洱県となった。
普洱茶は、歴史的に、雲南省普洱府にある六大茶山周辺 800 里内で生産され
る晒青茶および晒青茶を用いて蒸して圧縮した各種緊圧茶を指す。たとえば普
洱沱茶、普洱方茶、七子餅茶、蔵銷緊茶、団茶、竹筒茶等。集中している場所
が普洱なので、普洱茶と呼ばれるようになった。
普洱茶の生産貿易は、唐代に始まった。明代『滇略』の中には、
「土庶所用、皆普茶也、蒸爾団之」
(「庶民が用いるのは、普洱茶であり、蒸して固める」)
という記述がある。清代の『滇海虞衡志』には、
「西番之用普茶、已自唐時」
(「西で普洱茶が持ちいれられたのは、唐代から」)
という記述がある。
現代の普洱茶は、後発酵茶になり、晒青茶の水分を飛ばし、堆積発酵させて、
葉の色が赤く変わった後に、各種の緊圧茶を製造する。しかし歴史上の普洱茶
は非人工的に発酵させて作り上げられていた。考察によれば、雲南省の雲貴高
原では、過去が交通手段に欠けており、茶葉の輸送販売は、人と馬、らくだに
頼っていた。滇南普洱茶区からチベットや東南アジア、マカオ、香港へ運ぶに
は、少なくとも一年半を要していた。そのため、茶葉は輸送過程で、高温多湿
の条件下、茶ポリフェノール等の含有物が自動的に気化重合し、結果、濃厚な
赤色で、芳醇な味わいな茶が生まれた。交通が発達した現在は、輸送時間が大
幅に短縮された。歴史ある普洱茶の風格を保つために、1973 年から、雲南省
茶葉進出口(輸出入)公司が、昆明の製茶工場で、晒青毛茶を用いて、高温多
湿の環境の下、発酵処理して、雲南普洱茶を作り上げた。
普洱茶の種類は、歴史的に、毛尖、芽茶、女兒茶、緊茶、磚茶等があった。
清代の普洱茶は、貢茶となり、阮福の『普洱茶記』には、「毎年、貢茶をする
ものは、5 斤の重さの団茶、3 斤の重さの団茶、1 斤の重さの団茶、4 両の重さ
の段茶、1 両 5 銭の重さの段茶、瓶に入った茶、さまざまであった」とある。
20 世紀 50 年代、北京の故宮で倉庫の整理が行われ、たくさんの普洱団茶が
発見された。この団茶は大きさはさまざまで、その一部は団茶のサンプルとし
て、今まも農業科学院茶葉研究所に保存されている。
歴史が移り変わり今にいたっても、やはり普洱茶の主要な商品は、普洱散茶、
普洱沱茶、普洱方茶、普洱茶磚、七子餅茶の 5 種類である。
普洱散茶の外形は、ふっくらとして大きく、褐色で、豚の肝の色をしている。
普洱沱茶の外形は、厚い碗状である。普洱方茶は、外形が四角形で、普通「福、
禄、寿、禧」の字が書かれており、吉祥を象徴している。普洱茶磚は、外形が
長方形である。七子餅茶は外形が月に似ており、七つの圓餅茶が1つに包装さ
れて、子孫繁栄、大団円、を象徴している。昔、ここ一帯では、多く結納品や
祝祭日の贈り物として、親戚、友人に贈られた。
普洱茶の、茶湯は濃い赤色である。中国農科院茶葉研究所の清代の普洱団茶
はいまだカビも生えない状態で残っている。
普洱茶は、のどの渇きを潤し、元気を回復させるだけでなく、薬としての効
能もある。清代『本草綱目拾遺』では次のように記述されている。
「普洱茶は漆のように黒く、酔いを醒ます効果が一番にある。緑色であるの
がさらに良いもので、消化を助け、胃腸を整える効果がとりわけ大きい」
「滇紅」は、雲南紅茶の略称で、細長い形状の滇紅工夫茶と砕片された粒状
の滇紅砕茶がある、主に雲南省の鳳慶、臨滄、【孟力】海、思芽等の地で生産
されている。
雲南は歴史的に最も早く晒青普洱茶を生産したところで、紅茶は雲南省の茶
葉でも後出のもので、まだ数十年の歴史しかない。雲南紅茶の生産は 1938 年
に始まり、最初の滇紅約 25 トンは、香港を通じてイギリス、ロンドンで販売
され、人気が出て一気に有名になった。滇紅の黄金のうぶ毛が、とりわけ人を
ひきつけ、イギリスの女王は、それをガラスの器にいれて、鑑賞していたとい
う。
滇紅砕茶は 1958 年から世界市場の要求に合わせて生産されたもので、1964
年には中央 4 部門の専門家が、雲南省【孟力】海と鳳慶の茶工場を訪れ、紅砕
茶に大して科学的なテストを行い、成功後、大量生産が行われるようになった。
滇紅の原料は雲南の大葉種の生葉で、雲南大葉種は、中国で紅茶の製造に適
した大葉の優良品種であり、茶ポリフェノールの含有量が多く、脂型カテキン
の割合も多いという特徴がある。両成分はともに紅茶の色素(茶黄素と茶紅素)
形成の基本物質であり、これが滇紅の茶湯を赤くしている。同時に濃厚かつ爽
やかな滇紅の味を作り出している。特に砂糖やミルクを加えて飲むのに適して
いる。雲南大葉種には、芽葉がふっくらと柔らかく、うぶ毛が多い、というも
う一つ特徴がある。製茶の工程で、発酵し赤く変化してから乾燥させると、芽
葉のうぶ毛は黄金色に輝くのだが、とりわけ目を奪われる点である。
滇紅工夫茶の製造は、萎凋によって柔らかくし、揉捻によって形を整え、発
酵させて赤色を出し、乾燥させて形を定めるこの 4 つの工程で行われる。でき
あがったものの外形は肉付きがよくたくましく、艶があり、茶湯は濃い赤色を
している。
滇紅砕茶の製造は、現在ほとんどが CTC(※ crush;つぶす、tear;裂く、
curl;丸めるの略。紅茶の成分を抽出しやすくするためにカットしてつぶし、
また再度カールさせている)技術を採用している。萎凋、揉切、発酵、乾燥の
4 つの工程で行われる。CTC は高速で粉砕し、粉砕された茶葉を発酵後に緑か
ら赤色へと変化させ、それから乾燥させて形を整えて、そのほとんどを細かく
切った粒状にする。大渡崗 CTC 紅砕茶を代表とする滇紅砕茶は味がたいへんみ
ずみずしく、茶湯の色も濃い赤色で、中国の紅砕茶の中でも最高の品質を誇っ
ている。
滇紅工夫茶は、ヨーロッパで主に販売され、かつてはソ連でも売られていた。
滇紅砕茶は現在欧米市場で売られている。国内のパック入り紅茶の主要原料で
もある。
雲南省は、普洱茶と滇紅紅茶以外にも、竹筒香茶、南糯白毫、宜良宝洪茶、
【孟力】海仏香茶等がある。
11、 貴州省
貴州省には名優茶がたくさんある。ここでは、重点的に都匀毛尖と梵浄翠嶺
の 2 種類を紹介する。
「都匀毛尖」は主に都匀で生産される。都匀は、貴州省黔南武依族、苗族自
治州州政府の所在地である。都匀の茶生産の歴史は長く、都匀毛尖は有名で、
1915 年にはアメリカのパナマ万国博覧会で賞を獲得した。
都匀毛尖茶の外形は釣り針のように曲がっており、又の名を魚鈎茶ともいう。
品質はきわめて良く、消費者の人気を集めている。昔から海外で売られていた。
『都匀春秋』によれば、
「18 世紀末、広東、広西、湖南省等の商人は、物々交
換の方法で、魚鈎茶を手に入れ、広州から海外へ向けて販売した」という。
都匀の山地にある茶園は、一年中雲霧が多く、日光が拡散し、空気中の湿度
が高い環境にあり、茶樹と茶芽の柔軟性を持続させるのに適している。加えて、
茶葉のつみとりや、加工は丁寧に研究されて行われるため、茶葉の品質もとり
わけ優れている。一般的に、一芯一葉初期の芽を摘み取り、殺青、揉捻、団子
状にかためて、産毛を立たせ、乾燥させて作られる。その品質は、外形が曲線
状で釣り針のように曲がっており、潤いのある緑色で、白毫が目立ち、茶湯の
色は爽やかで、新鮮な香りが漂い、純粋な味わいで後に甘みがのこる、という
特徴がある。中国の有名な茶葉専門家庄晩芳教授はかつて詩でこれを次のよう
にたたえた。
「雪のような芽、芳しい香り、都匀で生まれ、龍井や碧螺春にまけず、飲ん
だだけで花が浮かんでいるような新鮮な味がする」
都匀毛尖茶は国内外で何度も賞を獲得している。
「梵浄翠嶺」は、国家の一級自然保護区にある梵浄山で生産される。梵浄山
は、武陵山の主峰である。梵浄山は高く、木が密集しており、天然の緑の公園
と呼ばれている。国家の一級保護動物、金絲猴や漢方薬の天麻、虫草、霊芝等
もある。梵浄山の西側には階段式の茶園が分布し、霧が多い湿潤な気候で、有
機物質を多く含んだ肥沃な土壌、と生態環境は優れており、茶樹の成長にこれ
とない条件を提供している。天然茶葉は質が良く、きめ細かくやわらかい葉を
摘み取るので、出来上がりの茶は非常にすばらしい。
明代、永楽年間、梵浄山は「団龍貢茶」を産出している。1990 年には、印
江梵浄山茶工場で、
「梵浄翠嶺」の製茶に成功し、一芯一葉を摘み取り、殺青、
二炒、乾燥させて作られた。その品質には、外形が扁平形で、矢ににており、
真っ直ぐで滑らか、形は整っており、潤いのある緑で、うぶ毛がみられ、いれ
た後に芽葉は花びらのようになって、蘭の香りが立ち込め、純粋な味がする。
何度も湯を足すことができる。
貴州は、都匀毛尖と梵浄翠嶺以外にも、遵義毛峰、泉都雲霧茶、松桃翠芽、
銀球茶、黄果樹毛峰、羊艾毛峰、貴定雲霧茶、古銭茶等がある。
12、 四川
四川省の名優茶も豊富である。ここでは重点的に、蒙頂茶と龍都香茗の 2
種類を取り上げる。
「揚子江中水、蒙頂山上茶」
(「揚子江には水があり、蒙頂山には茶がある」)
蒙頂茶は昔から有名であった。蒙頂は蒙山の頂上を指し、蒙山は成都平原
の西部に位置し、名山、雅安の両県にまたがり、珍しい峰と古木がいたるとこ
ろで見受けられる。寺院も数多くあり、緑あふれる美しい風景の場所である。
蒙山は、一年中霧雨がぱらつき、昔「漏天常雨、蒙頂半蔵雲」
(「天より常に雨
が漏れ、蒙頂の半分は雲に隠れている」)という言い方があったように、雨、
霧、雲が多いことが、茶樹の成長に非常に適した蒙山の気候の特徴である。蒙
山の茶生産の歴史は、前漢のじだいから始まり、すでに 2000 年以上の歴史が
ある。前漢の甘露年間、普慧禅師、呉理が自ら茶を 7 株植えたという。その品
質が素晴らしいため、
「仙茶」と呼ばれた。時代は移り変わっても、7 株の「仙
茶」の茶樹はいまだに蒙山茶の頂上に保存されており、観光スポットにもなっ
ている。
唐代から、蒙頂茶は、「貢茶」に定められていた。唐代、李肇は『国史補』
で、次のように述べている。
「剣南(※)有蒙頂石花、小方、散茶、列為第一」
(「剣南には蒙頂石花があり、固形茶、散茶、一番に数えられる」)
(※現在の四川省を指す)
清代までの 1000 年以上もの間、蒙頂茶は毎年皇帝へ献上された。貢茶は、
それぞれ「正貢」と「陪茶」の 2 種類に分けられた。
「正貢」は、
「皇茶園」の
中の 7 株の仙茶で作られたもので、「陪茶」は、蒙山五峰の一般の茶樹から作
られたものを指す。毎年、貢茶の茶摘みは、園を開けるのに、礼儀が重要視さ
れ、吉日を選び、断食して身体をきれいにし、茶摘をする僧、製茶を行う僧と
明確に作業が分担される、という厳しい条件があった。蒙頂茶の製茶は研究さ
れており、品質は他のものと違う。歴史的に多くの文人たちが、きわめて高い
評価を蒙頂茶に与えている。唐代の詩人、白居易は詩の中で次のように述べた。
「琴里知聞唯淥水、茶中故旧是蒙山」
(「琴の世界で知られるものは淥水の曲だけであり、お茶の中では、古くか
ら蒙山茶が有名である」)
彼は、蒙山茶と当時最も有名な曲「淥水」を並べて讃え、彼の蒙山茶に対す
る愛情を表現した。唐代の黎陽王も、『蒙山白雲岩茶詩』の中で、蒙山茶に対
して次のような高い評価を行っている。
「若教陸羽持公論、応是人間第一茶」
(「もし陸羽に教えるのならば、これこそ人間第一の茶である」)
歴史的にみて蒙頂茶の種類は豊富だが、現代に復活した蒙頂茶として、「蒙
頂石花」と「蒙頂甘露」の2種類がある。蒙頂石花は、平らでまっすぐな形を
した緑茶で、清明節前の若い単芽を摘み取って作られる。平らで産毛に覆われ、
形は山の石の上に咲く石の花のようで、香り高く甘みがある。蒙頂甘露は、渦
巻き状で、炒青緑茶である。「甘露」という名前がつけられたのには次の2説
が考えられる。
前漢期間、漢の宣帝劉定、紀元前 53 年から 50 年までの年号を「甘露」と
いった。この期間が、まさに呉理真が、蒙山に茶を植えたときで、後の人が、
蒙山に茶を植えた呉理真を記念し、このときの年号「甘露」(甘露は梵語の中
で始祖を思う、という意味がある)をとって、茶名にしたという。もうひとつ、
この茶湯の味が、まるで甘露のようであったとして、最高級の茶葉であること
を象徴するようにこの名前が付けられたという。
蒙頂甘露の品質は、外形が曲形で、毛が多く、潤いある緑色で、香り高く、
味も甘く、芽と葉がまるで花びらになるようである。優れた品質は消費者の歓
迎を受けており、香港大公報はかつて、「昔の皇帝茶が、今は一般市民の家で
親しまれている」と報道した。
「龍都香茗」は、栄県と自貢市で生産される茉莉花茶の一種である。栄県は、
昔、栄州と呼ばれており、恐竜のふるさととしても有名な、自貢市に隣接して
おり、このためこの一帯は「龍都」とも呼ばれている。
栄県は、古くから茶を生産し、
『栄県志』には、
「茶は古よりあり、普以前は、
栽培されていなかったが、ただ蜀のみで盛んであった。唐で大体的に流行した」
と書かれている。これまで、県境西部の金花郷にある帽子山では、野生の茶樹
の分布が確認されている。
1987 年、自貢市仏山の茶工場で、
「龍都香茗」という茉莉花茶が生み出され
た。原料となる茶が柔らかいため、十分良質の茉莉花茶を加え、「四窨一提」
(4 回香り付け)」の工程を行うことで、高品質の茉莉花茶を作り上げた。市
場に出回ってから、消費者の歓迎を受けている。龍都香茗には、高級龍都毛峰、
龍都顆顆と龍都香茗の 3 種類ある。
龍都香茗は、外形が美しく、産毛があり、花の香りが鮮やかで、長持ちし、
茶湯の色は黄色がかった明るい緑で、さわやかな味わい。龍都香茗はかつて供
給が需要に追いつかなくても、質を重視してきたため、長年の間に国内外で何
度も賞を受賞してきた。
四川省には、蒙頂茶と龍都香茗以外にも、峨眉竹葉青、文君緑茶、巴山雀舌、
匡山翠緑等がある。
13、 重慶
重慶市は、昔の巴蜀地区の巴族の居住地を管轄している。陸羽は『茶経』で
次のように述べている。
「茶者、南方之嘉木也……其巴山峡川有両人合抱者」
(「茶は南方の嘉木なり……その巴山と峡川で両人合抱するものあれば」)
『広雅』には、
「荆巴間采茶作餅」
(「荊(湖南省西)巴(四川省東)間で茶を摘み、丸めて餅を作る」
という記述があり、この一帯が古くから茶を生産していることを説明してい
る。ここでは重点的に、香山貢茶と永川秀芽の 2 種類を紹介する。
「香山貢茶」は、奉節県で生産される。奉節県は、昔、夔州と呼ばれていた。
李肇の『国史補』には、次のような記述がある。
「風俗貴茶,茶之名品益衆……夔州有香山」
(「飲茶の風習が流行し、茶の名品は、大衆に広まり……夔州には香山が
あった」)
当時、夔州の香山茶はすでに皇室の貢茶となっていた。
南宋の詩人、範成大は『夔州竹枝歌』で、生き生きと茶農家が香山茶を摘む
光景を描写している。『奉節県志』にも、「香山寺は県東南 30 キロのところに
あり、麝香山の上で、香山茶が生産された」とあり、また「対である渓流は県
から西に 3 キロいった渓流に、冠公井があり、昔、夔州渚水といい、これで入
れた香山茶を最高とする」という記述もある。これは、当時の奉節が、香山茶
の飲み方を研究していたことを示している。
現在の香山貢茶はきめ細かくやわらかい芽葉を摘み取り、殺青、揉捻(造形)、
鍋炒、整形、足火(低温でゆっくり炒る)乾燥等の工程を経て製茶される。香
山貢茶は、細く長いの炒烘緑茶(あぶり窯であぶり、鍋の中で炒り干した緑茶)
で、葉はしまって大きさがそろっており、銀色がかった緑でところどことが濃
く、香り高く長持ちし、味はさっぱりとして甘みが後に残る。
「永川秀芽」は、重慶市永川県で生産され、20 世紀の 60 年代から四川省農
科院茶葉研究所が製茶した一種の針形の半炒烘緑茶である。永川は、重慶市西
部にあり、箕山、陰山などの 5 つの山脈があり、永川秀芽は主に箕山の南麓で
生産されている。箕山は松や竹が生い茂っており、いたるところに茶畑と竹林
がある。雲と霧が立ちこめ、段々茶畑はまるで緑の波のようで、非常に美しい
光景である。
永川秀芽は、四川省の良品質の芽葉を原料としている。毎年春分が過ぎた頃、
きめ細かくやわらかい芽葉を摘み取り、薄く並べ、殺青、初揉、烘二青、復揉、
做形、乾燥などの工程で製茶する。
永川秀芽の外形は針状で、色は深い緑、香りは高く優雅で、味はさっぱりと
している。1989 年に農業部の銘茶の称号を得た。
重慶市は香山貢茶と永川秀芽のほかにも、巴山銀芽、鶏鳴貢茶、縉雲毛峰、
東印雀舌等がある。
14、 陝西省
陝西省南部の気候は温暖で、茶葉の生産が盛んである。名優茶も多く、ここ
では重点的に紫陽毛尖と秦巴霧毫の 2 種類を紹介する。
紫陽毛尖の生産地域は、土壌にある母岩が微量の元素セレン(中国語・硒)
含んでいるので、土壌のセレンの含有量が多く、茶樹や茶芽に含まれる量も多
い。このセレンの豊富な茶葉で製茶された茶葉が「富硒茶」となった。セレン
の抗酸化作用は、体に良く、これを飲むと、人の免疫力を増強し、病気予防や
治療の効果がある。
紫陽毛尖の生葉は、紫陽種と紫陽大葉の茶芽で、ふっくらとしており、産毛
がとりわけ多く、条型の炒青緑茶で、芽は丸くしまって細長く、超えてり、大
きさが均一で、色は深い緑、白毫が顕になっており、やわらかい香りは永く持
続する。茶湯の色もさわやかで、味もさっぱりしている。
秦巴霧毫は、漢中地区の鎮巴県で生産されている。巴茶は秦漢代から始まり、
唐宋時代に盛んになった。今でも、鎮巴県内には、たくさんの茶樹が保存され
ている。雌鶏嶺にある一本の大きな茶樹で作られた茶は、かつて漢の高祖、劉
邦に献上され、劉邦も大臣をひきつれて、しばしば、茶を味わい、茶について
語ったと言われている。
秦巴霧毫のアイデアとその名前には、さまざまな意味が隠れている。「秦」
は陝西省の略称で、
「巴」とは鎮巴県のことである。
「秦巴」は、秦嶺と巴山の
略称でもある。「霧」とはこの茶が高山の霧の多いところで生産されることか
らきている。「毫」とは、産毛が多いその品質からきている。
鎮巴は山の県であり、山が密集し、多くの茶園が約海抜 1000 メートルの高
山の斜面に分布しており、冬は暖かく夏は涼しく、雨と霧が多く、茶樹茶芽の
柔軟性は強く、芽の先は肥えてしっかりしている。
秦巴霧毫は、条形の炒烘緑茶で、香り高く、味は濃い、という高山緑茶の特
徴を備えている。
陝西省には、紫陽毛尖と秦巴霧毫以外にも、午子仙毫、漢水銀梭、八仙雲霧
などがある。
15、 河南省
河南省の南部も茶葉の産地であり、名優茶も多い。ここでは重点的に信陽毛
尖を紹介する。
信陽は河南省南部に位置し、その緯度は安徽省の六安とほぼ同じである。河
南省は、信陽以外にも、その付近の羅山、光山、潢川、固始、商城などの県で
茶を生産している。唐代の陸羽も『茶経』の中で、これらの地方を中国最古の
八大茶区の一つ「准南茶区」分類している。
「准南は光州(今の光山県)には、
義陽郡(今の信陽県)、舒州が…」という記述も残っている。
信陽毛尖は主に東雲山、集雲山、天雲山、雲霧山、震雷山、黒龍潭等の山の
中に分布している。これらの山は高く、雲と霧が多く、湿潤な気候は、茶樹や
茶芽の発育、成長に良好な生態条件を作り出している。
信陽毛尖の芽と葉はきめ細かく柔らかで、峰苗(やわらかい葉で作られた細
く、先のある条索)があり、外形は細く、丸く、まっすぐで、白毫が多く、香
り高く、茶湯は緑色で、江北茶区の有名な茶葉の一つである。
河南省には、信陽毛尖以外にも白銀毫、霊山剣峰、雷沼噴雲、賽山玉蓮等が
ある。
16、 海南省
海南は中国最南端の産茶の省で、省全体が亜熱帯気候に属し、冬季はやはり
あるのように温暖で、このため一年を通じて茶樹が生長状態にある。春茶、夏
茶、秋茶以外にも、冬茶がある。海南省の茶園は、全島にあまねく分布してい
るが、大型の茶畑がいくつか集中しており、栽培面積も比較的大きく、栽培す
る茶樹の品種のほとんどが、雲南大葉と海南大葉の種類で、芽葉はふっくらと
していて、葉の形は大きく、紅碎茶の製造に非常に適している。
海南の瓊中、瓊山、定安、保亭、通甚、白沙等の大型茶農場の多くが、紅碎
茶の CTC 加工の先進設備を設置している。CTC とは英語のつぶす(crush)、裂
く(tear)、丸める(curl)の頭文字で、この加工法の特徴は、茶葉の生葉を
萎凋、初揉をした後、低速と高速の歯車を利用して茶葉を粒状につぶしてから、
発酵させて赤く色を変化させ、乾燥させて作ることである。CTC 紅碎茶の味は
濃厚ながらもさっぱりしており、茶湯の色は鮮やかな赤色で、時に甘い香りや
花の香りを備えており、砂糖やミルクを加えて飲むのに適している。欧米に輸
出され、大変人気がある。
海南省は、CTC 紅碎茶以外にも、白沙農場の「白沙緑茶」、瓊中五指山一帯
の「五指山緑茶」、通甚茶農場の「通甚緑茶」、新偉農場の「新偉緑茶」、瓊中
白馬峰農場の「白馬峰緑茶」、通甚茶農場の「金鼎龍井」、定安黄竹の「龍嶺家
尖」、「海南大白毫」、新偉農場の「五山指仙毫」等がある。このほかにも、海
南で栽培されている香料植物-香莢蘭(バニラ)を発酵させた後に抽出したバ
ニラエキスを加えてできた「香蘭茶」は、チョコレートの香りがあり、新型の
香料茶として、独特の風味がある。
17、 山東省
山東省は茶栽培の歴史は少ない。冬の気候が比較的寒冷で、茶樹の越冬が比
較的困難で、低温とつめたい風が茶樹の地上部文の枝葉をすべて凍死させてし
まう。このため栽培量はきわめて少ない。20 世紀の 70 年代、中国茶葉の専門
家が南方の比較的寒さに強い品種を山東で日照、莒県、臨沂等で試し、同時に
一種の冬を越せるような処置を施したところ、南方の茶を北方でも栽培するこ
とに成功した。
ここでは重点的に、莒県の「浮来青」と日照の「雪青」を取り上げる。
莒県は、山東省の東南部に位置し、浮来青の産地は莒県夏庄一帯で、一種の
直条形もしくは扁平型の炒青緑茶を生産している。夏庄の茶栽培の歴史は長く
はないものの、南茶を北方に率いて以来、茶樹が安全に冬を越して、高品質大
量生産の一連の技術と措置を行い、茶園は基準化された管理システムで、冬季
には保温、藁敷、土寄せ、潅漑、修繕等をセットで行い、最新の注意を払って
栽培し、合理的な形で摘み取り、芽はしっかりとさせ葉をふっくらとし、茶樹
をたくましく成長させている。製造された扁型もしくは曲線型のやわらかく決
めの細かい緑茶が「浮来青」と命名された。栗の香りは濃厚で、茶湯は明るく
緑色で、味はさっぱりとしているが、何度も入れることができる。
日照の雪青は、日照沿岸一帯の茶山で生産される。日照は、「日の出、曙光
が、先に照らす」の意味で、日光が十分であり、水資源も豊富にある。加えて、
温暖で、湿潤な季節風があり、茶樹の成長には良好な環境といえる。日照の雪
青は、上李家庄茶農場が製造したもので、冬季の大雪が茶樹を覆い、春に雪が
解けた後、茶樹の青緑の部分を摘み取る、という意味で、「雪青」の茶名が付
けられた。雪青茶は、色が深い緑色で、葉はしっかりとしてしまっており、白
毫が顕で、香り高く味はさっぱりしている。
山東省は、浮来青と雪青のほかにも、莒県の「臥龍剣」、青島嶗山の「嶗山
鉱泉茶」、胶南海青付近の「海青毛峰」、日照の「鳳眉茶」、臨沐の「玉山茗茶」、
日照東港の「碧緑」等がある。
18、 甘粛省とチベット自治区
西北地区の甘粛省には、寒冷、旱魃、砂漠が多い地区という印象がある。し
かしながら、甘粛省の東南部の四川、陝西省南部と境界を接する武都、文県、
康県は、西に岷山、北に秦嶺があるので、気候や土壌環境が、四川省北部、陝
西省南部と変わらず、茶の生産に適した地区である。そのためここでも緑茶を
中心として、茶葉が生産されている。
甘粛省の武都、文県、康県が生産している緑茶は、昼夜の温度差が大きいの
で、合成する香りの物質が比較的多く、含有量も多い。このため緑茶の香り、
味ともに比較的良好で、しかも何度も入れられる。
甘粛省文県碧口鎮で生産される扁平形の炒青緑茶「碧口緑茶」と直条型緑茶
「碧峰雪芽」も同様に、上述の特徴があり、香り高く味は純粋で、何度も入れ
られる。文県碧口鎮の李子壩では、清代の道光年間に茶の栽培を始めており、
茶園は樹齢 100 年以上の茶樹がある。
康県の直条型緑茶、「龍神翠竹」と「陽壩銀毫」は、きめ細かくやわらかい
ものを摘み取るため、形は細くしまって、毫が顕れ、緑色で、茶湯の色は明る
く香りはさわやかで純粋な味がする。
これら以外にも、武都の「階州毛尖」、
「栗香毛尖」、文県の「碧峰春花」、
「龍
池雲霧」、「龍峪雀舌」、康県の「龍神毛尖」等がある。
チベットは歴史的に茶の栽培が行われいないが、飲茶の歴史は長く、文成公
主が、漢族地区の茶と飲茶の習慣を持ってチベットへ赴いている。現地のチベ
ット人は、バター茶を飲むのを愛し、茶葉は、昔、雲南、四川から茶馬古道の
荷馬、駱駝を通じて、各種のレンガ状の緊圧茶が運ばれた。チベット開放後、
1956 年、雲南省から茶の種を引き入れ、下察で栽培されたもののうち、少量
だけが成長した。波密易貢茶農場で試験栽培に成功した。易貢とは、チベット
語で「美しい場所」という意味で、ここの風景はまるで絵のようで、気候もよ
く、それは高原の雄大さと江南の水郷の風景を一体にしたようで、遠くから、
氷山の景色に目を奪われ、周りは原生林が生い茂り、東側には、エメラルドグ
リーンの湖があり、チベット人は、易貢を「高原江南」と讃えた。
「易貢緑茶」
は、海抜 2200 メートル以上の高山地帯で生産され、本当の「高山茶園」と呼
ぶにふさわしい。茶葉の外形は、渦巻き状で、しっかりしており、色はつやの
ある緑で、香り高く、味は芳醇である。最近、易貢茶農場が開発した烘青緑茶
「珠峰聖茶」は、香り高く、みずみずしく、ビタミン C の含有量がとりわけ高
い。
その他、チベットの紅花、紅景天、人参果と虫草を利用して保健聖茶を製茶
し、これも新しいアイデアを備えている。
19、 台湾
台湾は主に烏龍茶を生産している。ここでは重点的に凍頂烏龍と白毫烏龍の
2 種類を紹介する。
凍頂烏龍は、台湾烏龍茶の中で最も有名であり、主に南投県鹿谷郷鳳凰山一
体で生産される。凍頂山は鳳凰山の分峰で、自然環境はすばらしく、台湾の観
光地ともなっている。
『台湾通史』によれば、凍頂山一体は、過去に野生の茶が発見されたところ
でもある。しかし本当の意味での茶の栽培は、清の道光年間、鹿谷郷の村人、
林鳳池が福建武夷山からもってきた茶の苗を植えるのに成功してからと言わ
れている。当時の鹿谷郷には、林鳳池という青年の伝説が残っている。彼は、
原籍が福建省で、ある年、福建で科挙の試験が行われると聞いて、受けてみた
く思ったが、家が非常に貧しく交通費もなかった。ちょうど困っている時に、
故郷の人々が募金で交通費を集め、「故郷を忘れるな」といって、彼を試験へ
と送り出した。のちに彼は挙人となり、原籍の家に数年すんでから、台湾へ戻
り親戚、友人を訪ねることを決めた。台湾へ戻る前、武夷山を観光していると
き、武夷山の烏龍茶が内外で有名であることを知り、そこで彼は 36 本の烏龍
茶の苗を台湾へ持ち帰った。そして故郷の凍頂山に植えたという。故郷の人々
は心をこめて栽培したので、良く成長し、そこで栽培を拡大したところ、凍頂
山は有名な烏龍茶の茶園へと発展した。製造された烏龍茶の香りはとてもよく、
渇きを止めるだけでなく、暑気払いや利尿作用等の効果があり、飲んだ後には、
「苦が尽きて楽が来る」ような面白みがあった。このため、凍頂茶は、その名
をとどろかす有名な烏龍茶となった。後に、林鳳池は、北京へ赴き、この茶を
道光皇帝に献上した。皇帝はこれを「いい茶だ、いい茶だ」と何度も絶賛した
という。さらに、「この茶はどこで作られたものか」と問い、林鳳池が「台湾
南投鹿谷郷凍頂山で、福建烏龍茶の加工方法で製茶した」と答えると、皇帝は、
「いいだろう、この茶を凍頂烏龍と呼ぼう」といい、ここから凍頂烏龍茶はさ
らに有名になった。
南投県鹿谷郷は烏龍茶の産地で、ほとんどが山地の茶園である。海抜は 300
メートルから 800 メートル、気温は温暖で、十分な雨量があり、一年中雲と霧
が多い。茶樹は、主に青心烏龍で、最近では新しく選択、育成された「金萱」
等の優良品種もある。
凍頂烏龍茶は、包種茶の一種で、半球型の烏龍茶に属し、生葉は、晒青、涼
青、做青、揉捻、鍋炒、包揉、復烘、復炒の工程を経て製茶される。
伝統的な凍頂烏龍茶は、外見の色が黒味がかった緑で、半球型の粒状で、し
まっており、しっかりしていて、いれた後は、新鮮な香りが長持ちし、キャラ
メルのような香りを少々帯びており、茶湯の色は、薄い金色で、味は濃厚かつ
芳醇で、葉底の葉の周りは少し赤みを帯びている。最近では、消費者の口に合
うように、さわやかな花の香りのタイプが求められ、そのため做青が比較的軽
めに行われている。ゆえに、基本的にはふちが赤くなる現象は起きず、葉の色
と茶湯の色も緑茶に近づき、さわやかな香りが濃くなり、台湾高山茶の品質の
風格を備えている。
白毫烏龍は、新竹県北浦一体で生産される一種の重発酵烏龍茶である。きめ
細かくやわらかいものを摘み取るため、できあがりの芽には白毫(白い産毛)
があり、そのため白毫烏龍と呼ばれている。ここの茶区にある茶樹は、夏場に
蝉の一種に葉を食べられる被害にあいやすかった。しかしなんと茶葉はこの刺
激を受けたあと、甘みのあるフルーティーな物質を作り上げた。当時この生葉
で生成された烏龍茶は、イギリスで販売されると、この茶の外形に白毫があり、
褐色との縞模様で、非常に美しいことが見い出された。飲んでも、茶湯は薄い
金色で、芳醇な味わいがあり、他にはない風格があったので、「東方美人茶」
と呼ばれて、イギリス王室への贈り物となった。茶商人は故郷へ帰ると、故郷
の親しい人々に告げたが、誰も信じようとはせず、のちに茶商人を「膨風」(台
湾客家語で、ほらふきの意味)と呼んだ。のちにこの茶は毎年良く売れるよう
になり、ついに「膨風茶」と呼ばれるようになった。欧米人はこの茶湯に少量
のブランデーを加えて飲み、その風味はまるでシャンパンのようであったので、
「シャンパン烏龍茶」とも呼ばれている。
台湾は、凍頂烏龍以外にも、台湾包種、木柵鉄観音、萱金烏龍、阿里烏龍、
阿里山烏龍、海山龍井、日月紅茶等がある。
中国飲茶の習慣
姚国坤
(中国国際茶文化研究会
教授)
中国には次のような言い方がある。
「開門七件事、柴、米、油、塩、醤、醋、茶」
(「生活必需品は、マッチ、米、油、塩、しょうゆ、酢、茶」
中国では、貧富に関係なく、茶と離れることはできない。中国人には、来
客が会ったとき、ご飯をご馳走しないのはかまわないが、茶を出さないのは失
礼、という習慣さえある。そのため、来客に茶を出すことは、中国人の美徳で
ある。しかし、中国は大きく、人口も多い、かつ歴史、文化や地理、環境、民
族風習の影響を受けているので、各地の飲茶の習慣は決して同じではない。
一、まとめ
現在、中国茶はすでにいたる所、あらゆる階層、各方面で浸透している。
中国で、飲茶を「喫茶」(茶を食べる)とも言うようなったのは、飲茶が最
初に「喫茶」から始まったからである。
「喫茶」は、若い男女の恋愛、求婚の代名詞である。かつ今に至るまで、用
いられている。茶と結婚の関係は唐代から始まった。唐の太宗はかつて一族の
女性、文成公主をチベットの王、ソンツェンガムポに嫁がせた時に、茶をもた
せた。茶をもって寄寓を世に示すことは、中国古代の婦女が初めから終わりま
での儒家の道徳概念を反映し、また中国青年男女の夫婦の恩愛を求める、「白
髪まで添い遂げる」という美しい願いを体現している。今日まで、広く農村で、
男性が女性に求婚するときの結納品を「茶礼」と言っている。また女性が嫁ぐ
際に、身につける嫁入り道具を「下茶」とも言った。新婚の夜には、
「交杯茶」
を飲むことも忘れてはいけない!
茶で先祖や神を祭る歴史も長い。梁代の蕭子顕は『南斉書』の中で、南朝の
時、斉の皇帝、世祖は彼の残した詔書の中で、「私の遺体を安置する場所の上
には、生贄を祭らないように。そのかわり、餅や果物、茶や、ご飯、酒等を置
くように」と書いていたことを記している。南朝の劉敬叔が書いた『異苑』の
中では、剡県(今の浙江省嵊州市)人の、陳務の妻が、鬼に茶を飲ませた物語
が書かれてある。この物語は虚構だけれども、しかし中国の東南部が茶で先祖
や神を祭っていた習慣を反映したものといえる。今でも、ここの人民は、「清
茶四果」
(「茶と四つの果実」)、
「三茶六酒」
(「三杯の茶、六杯の酒」)で、天を
祭り、地に感謝し、天のかごが受けられることを願う習慣がある。
このほかにも、茶を副葬品とする習慣もある。
二、漢民族の飲茶習慣
漢民族は中国の主体民族で、全人口の約 94%を占めている。漢民族の飲茶
の方法は多種多様で、スタイルも様々である。以下紹介する。
1、ゆっくり嗜む龍井茶
江蘇省、浙江省、上海等の大都市、中都市では、龍井茶を最も好んで飲んで
いる。龍井茶を飲むのには、以下のことを実行しなければならない。
① 環境が良い
自然環境、内装環境が、茶を飲む環境にふさわしいこと
② 水がきれいであること
茶を入れるのに用いる水を指す。山の泉の水を最高とし、虎跑水で龍
井茶を入れることが、杭州の妙である
③ 選りすぐりの道具を使用
茶を入れるのに使う道具は、白磁の茶杯もしくはガラス杯を最高とす
る。蓋付きの碗で入れる場合は、蓋をする必要はない
④ 技術が巧みであること
茶をいれる技術と茶をたしなむ方法を把握しなければならない
⑤ 感情を整える
優雅で落ち着いた心を持ち、わずらわしいことを忘れて、茶をたしな
むこと
2、小さい茶杯で少しずつ啜る工夫茶
広東、福建省、台湾などでは、小杯で烏龍茶を啜る習慣がある。これを実践
すれば、工夫茶を啜ることの趣を味わうことができる。それは芸術の領域にま
でに達しており、さまざまな条件が必要となってくるが、主に、3 つの前提条
件があげられる。それは、最上の工夫茶、精巧な工夫茶の道具、および文化の
趣を含んだ飲み方、である。
3、技術と芸術が完璧な蓋碗茶
蓋碗茶を飲む習慣は、中国漢民族の居住地で見受けられる。しかしもっとも
普遍的に行われている場所として、西南地区の四川が数えられる。
「中国茶館は四川に数えられる、成都茶館は四川の第一である」という人も
いる。
四川人がいう蓋碗茶を飲むとは、実際は蓋碗で入れた茶を飲むことを指す。
蓋碗で茶をいれ、碗の蓋をかぶせておくと、保温することができる。蓋を開け
たあけると、茶を冷ますことができる。蓋を使って、茶湯表面に浮き上がって
いる葉をよけて、茶湯の濃度を均一にできる。茶托をそえて、茶を飲むと、手
をやけどすることはない。茶碗をテーブルの上におくと、茶托が保護の役目を
果たし、テーブルの表面を傷つけない。蓋碗茶を用いて茶を飲むことは、一種
の伝統的な飲み方でもあり、現代でも情緒を失わない。
4、「一盅両件」(一杯のコップで 2 つの事)―喫早茶
中国南方では、
「喫早茶」
(「早茶を嗜む」)の習慣がある。とくに嶺南(広東、
広西一帯)地域では、この習慣が盛んである。
「喫早茶」は、栄養を補給して、
水分を補いながら喉を潤すこともできる。現在、中国の大中都市では、どこで
も早茶があるが、最も代表的なものが、広州、香港、澳門等の早茶である。
早茶には、「茶飲」、「茶食」、「茶文化」の共通項がある。茶飲といえば、つ
まり飲茶の基本内容で、「喫茶」といえば、飲茶と同時に補助食品を結びつけ
るもので、
「喫早茶」といえば、つまりその地方の人々が、とりわけ午前中に、
茶楼で喫茶することを指す。
5、熱いうちに飲む大碗茶
大碗茶を飲む習慣は、主に中国の北方で流行している。船着場や、道路の両
側、生産現場、農作業の現場、どこでも見ることができる。とくに北京の大碗
茶は、有名である。大碗茶を飲む場所は、比較的簡単で、建物は必要なく、装
飾も簡単である。往々にして、机といす、大きな茶壷、2 つの大きい木の桶、
磁器でできた大碗数点で良い。このため、一般的に門の前の軒下、もしくは簡
単な小屋で、茶用屋台の形式で出現する。主に行きかう客人の寒さを和らげ、
喉の渇きを潤すために茶を提供する。
6、喉の渇きを潤す涼茶
涼茶を飲む習慣は、南方で見受けられる。中国南方地区で、およそ人が大勢
行きかう場所、たとえば公園前や道の途中の東屋、船着場、街中、工場や農作
業場でも、涼茶の販売、提供の場所がある。茶というものは、もともとは寒性
の飲み物だが、涼をとり、喉の渇きを潤し、元気をつける効果がある。南方の
蒸し暑い場所では、一杯の涼茶を飲む。情理を心得ているといえる。南方の人
間が飲む涼茶には、そのまま飲む以外にも、解毒作用のあるそのほかの涼茶用
の飲用植物を入れて飲む場合もある。
7、九道茶
九道茶とは、昆明地区の城鎮の知識人の家柄でよく見られる。彼らは賓客を
迎えた時に、茶を嗜む環境が清潔で美しいことを求めるだけでなく、同時に茶
を入れることに順序と芸術性を求め、その九道の方式を必要とする。すなわち、
選茶、温器(器を温める)、投茶(茶葉を入れる)、冲茶(湯を入れる)、瀹茶
(茶を煎じる)、匀茶(茶をならす)、斟茶(茶をつぐ)、敬茶(茶を出す)、呷
茶(茶をすする)である。
8、桃源郷の中で、擂茶を飲む
湖南省西部で主に流行している擂茶は、別名三生湯と呼ばれ、生葉、生姜、
生米、等の 3 種の生の材料を使用し、混ぜて粉々にして(※中国語で擂)水を
加え、煮て湯(スープ)状にすることから、この名前が付けられた。飢えや喉
の渇きを解消する食べ物で、また邪気と寒さを病気の元を取り除き、寒さを和
らげる良薬でもある。
三、少数民族の習慣
中国は他民族国家である。地理的環境や歴史文化、生活習慣の違いがあるた
め、どの民族の飲茶習慣も違う。以下、代表的な飲茶習慣を紹介していく。
1、蒙古族のミルクティー
蒙古族は牛、羊肉および乳製品が主食で、穀物、野菜は副食である。磚茶は
遊牧民に不可欠な飲料で、磚茶を煮て作ったミルクティーを飲むことは、蒙古
族の人々の伝統的な飲茶習慣である。蒙古族は、青磚茶や黒磚茶をミルクティ
ーの原料にしている。遊牧地域では、「一日三回の茶、一回のごはん」を習慣
としている。ゆえに、これを飲むことは、喉の渇きを解消するだけでなく、人
体の栄養を補充する重要な方法なのである。
2、回族の「罐罐茶」
回族は、「罐罐茶」を飲むことに、元気が出る、消化を助ける、病魔を取り
除く、健康を保つ、これら 4 つの効果があると考えている。「罐罐茶」を煮る
のに使用する茶具は、一般的に一家に一壺(銅壺)、一缶(容量は大きくない
小さいな陶器でできた入れ物)、一杯(とってのある白磁の茶杯)である。一
人につき一缶一杯のところもいある。「罐罐茶」の濃度は高いため、パンチが
効いており、苦味や渋みも感じる。幸いなことに、杯の中にいれる茶湯は毎回
の量がそれほど多くないので、大口で飲みつづけることはありえない。しかし
現地の少数民族に言わせると、代々伝わってきたものなので、これを飲むこと
が習慣づいているという。
3、チベット族のバター茶
チベット族は、チベット自治区に住んでおり、茶はチベット族の生活の中で、
最高のものである。「飯は一日たべなくても、茶を一日飲まないことはできな
い」とさえ言われる。茶と米を同等に見るほど重要なのである。バター茶は、
茶を主な原料として、各種の食料を混ぜて作った液体の茶飲料である。ゆえに
味はさまざまで、飲むとしょっぱさと甘さがあり、体を温め寒さを防ぐことが
できる。
4、ウイグル族の香茶
ウイグル族の人々が最も愛するのが香茶である。香茶を煮るとき、使用する
のは銅製の首の長い茶壷で、茶を飲むときに使用するのが、小茶碗である。こ
れは新疆北部のカザフ族がミルクティーを煮る時に使用する茶具とはまた異
なる。香茶を作るとき、まず磚茶を小さくする。同時に首の長い茶壷の中に水
を 7、8 分までいれて満杯にし、熱を加えて、水がちょうど沸騰したときに、
ひとつ砕いた磚茶を壺の中に入れて、水が再び沸騰して約 5 分間後に、先に準
備しておいた適量の生姜、桂皮、胡椒等の香料を中に入れて、軽くかき混ぜ、
3 分から 5 分後にできあがる。
5、侗族(トン族)
侗族は主に貴州、湖南、広西省に居住している。彼らは一種のおかずに似た
油茶を愛飲している。この油茶を飲むと、体を満たし、病の元を取り除き、蒸
し暑さを解消し、風邪を予防する効果もあると考えている。永く山間部に住む
民族にとって、油茶は実際に健康飲料である。油茶を作る時、まず火をおこし、
鍋底が熱くなるのを待って、適量の茶油(油茶の果実の実を絞った油)を鍋に
入れて、油面が青い煙を出すのを待って、もち米を入れて炒める。茶葉が香り
を出したときに、少量の食塩を加えて、すぐに水をいれて蓋をしめ、3 分から
5 分間煮る。そうして茶葉をろ過させて、油茶の茶湯を茶壷に入れて、碗につ
いで飲む。一般家庭では自分で飲む油茶は、香りがあり、さっぱりもしており、
新鮮であれば、いい茶を作ったということになる。
6、白族(ペー族)の三道茶
白族は、雲南省の大理白族自治州に居住している。大変客好きの民族で、新
年や祭日や、長寿の祝い、男女の結婚、客がやって来た時には、三道茶で客人
をもてなすことが習慣である。白族は「苦味一つ、甘み二つ、後味三つ」で飲
む三道茶について、子女の学問、芸術、勉強、婿入り、嫁入り、および子女が
家庭を持った時の儀礼としている。以後、応用されるする範囲は日増しに拡大
し、白族人民が客をもてなす時の飲茶習慣となった。
7、土家族(トウチャ族)の油茶
土家族の油茶は、まず先に小さい土製の陶器の壺を暖炉の上で加熱した後、
適量の茶油を加えて、さらに茶を加えて炒める。茶の色が黄色くなって、焦げ
た香りが出るのを待って、沸騰した水を加えてつくられる。この油茶の茶湯を
飲むとき、主人は往々にしてピーナッツ、揚げた大豆、ジャガイモ等の茶菓子
を準備しする。また油茶を作るときに、油茶の壺が熱を発するのを待って、先
にピーナッツ、大豆等を入れて、軽く振って、焼いたり揚げたりして、煮上が
った後、さらに自家製の緑茶をいれて、沸騰した水をいれて作る場合もある。
8、苗族(ミャオ族)の八宝油茶湯
苗族のほとんどが貴州省に居住している。八宝油茶湯とは、油茶の茶湯の中
にたくさんの食べ物を入れるという意味である。一般的に入れる食塩やにんに
く、胡椒を除けば、とうもろこし(煮た後に乾燥させたもの)、大豆、ピーナ
ッツ、胡桃、団散(一種の米でできた薄いピザ)、乾燥した豆腐、平たいひも
状の春雨等を油茶で揚げた後、それらの揚げ物を碗の中に入れて、熱茶をかけ
て飲む。
9、ハニ族の土鍋茶
ハニ族は主に、雲南省の紅河地区に居住している。土鍋茶を飲むのは、ハニ
族の嗜みで、一種の歴史ある簡単で便利な飲茶の方法である。ほとんど客が訪
れると、主婦が土鍋(もしくは素焼きの壺)を用いて、水を沸騰させる。すぐ
に沸騰した水の中に適量の茶葉を入れて、鍋の中の茶をさらに 3 分から 5 分沸
騰させた後、茶を竹でできた茶杯にいれて、土鍋茶は完成する。
10、リス族の油塩茶
リス族は、主に雲南省の怒江一帯に居住している。油塩茶の作り方は変わっ
ており、まず小土製の陶器を暖炉の上で暖め、それから中に適量の茶葉を入れ
て、暖炉の上で煮込み、茶葉を均等に焼く。茶葉の色が黄色になって、焦げた
香りを出すのを待って、さらに少量の油と塩を加える。少し待って、さらに適
量の水を加えて、器の中の茶湯を碗の中にいれて飲む。油塩茶は茶湯を作る過
程で、食塩と油を入れるので、「飲むと香りが湧き出て、油っぽく、しょっぱ
く、茶のような芳醇さもあり、新鮮な後味もある!」ようだ。
11、タイ族の竹筒茶
タイ族は、主に雲南省のシーサバンナと徳宏地区に居住している。竹筒茶を
飲むのには、以下 2 つの工程がある。
まず、茶を入れることである。乾燥させた春茶もしくは加工した毛茶を、切
ったばかりの香りのある竹筒の中にいれる。続いて、茶を焼く。茶葉を包む竹
筒を、暖炉の三脚の上において、焼いた後、竹筒の中の茶葉を柔らかくさせる。
このとき、木の棒を用いて竹筒内の茶を圧縮させ、茶で一杯にして、焼き続け
る。竹筒香茶を入れる時、基本的に誰もが、テーブルを囲む。まず、竹筒香茶
を少量に割って、茶碗の中に入れる。沸騰した水を 7、8 分にまで満たしてか
ら、飲みはじめる。この茶は、飲むと茶の芳醇な味わいもあれば、竹の香りも
あり、非常に口にあう。
12、カザフ族の馬乳茶
カザフ族は、主に新疆ウイグル自治区天山より北に居住している。カザフ族
が馬乳茶を煮るのに使用する器具は、一般的にアルミニウムの鍋と銅製の壺で、
茶を飲むのに使用するのは、大きい茶碗である。馬乳茶を煮るとき、まず磚茶
を砕く。同時に、鍋もしくは壺の中に半分の量の水をいれて、加熱、沸騰させ、
一掴みの磚茶を入れる。さらに馬乳を加えて、軽く混ぜ、茶湯とミルクが完全
に混ざったら完成となる。
13、ワー族の苦茶
ワー族は、主に雲南省の滄源、西盟等の地に居住している。ワー族の苦茶の
入れ方は奇抜で、普通はまず茶壷で湯を沸かすことから始まる。これと同時に、
別に清潔な薄い鉄板の上に、適量の茶葉をおいて、それを湯をわかしている暖
炉のそばで焼く。茶葉が均等に熱を持ったら、軽く鉄板を動かす。茶葉が香り
を出し、茶葉が黄色くなるのを待って、壺の中に茶葉を入れて、煮る。沸騰し
てから約 3 分から 5 分後、茶湯を茶杯の中にいれて飲む。
14、ラフ族のあぶり茶
ラフ族は、主に雲南省瀾滄地区に居住している。茶をあぶるとき、まず、小
さい陶器の壺を用いる。暖炉の上において、とろ火で茶葉が黄色くなり、焦げ
た香りを出すまであぶる。次に、沸騰した水を茶を入れた陶器の壺の中に入れ
て、茶湯の表面に泡が浮き出たら、沸騰した水をさらに注いで、3 分から 5 分
待ってから飲む。それから、濃度をみて、湯を足すかどうかを決定する。
15、ナシ族の「龍虎闘」
ナシ族は、主に雲南省の麗江に居住している。ナシ族が飲むのは「龍虎闘」
茶で、それは神秘的な飲茶方式である。まず小さい陶器の壺を選び、適量の茶
葉を入れる。壺に茶を入れたまま火にかけ、茶を煮る。同時に、茶杯を準備し、
半分だけ白酒をつぎ、それから煮終わった茶を白酒の入った茶杯の中に入れる。
このとき、茶杯の中で「パンパン」という音がする。ナシ族は、これを吉祥の
兆候と見る。音が大きければ大きいほど、その場にいる人間は喜ぶ。茶湯の中
に 1,2 本の唐辛子を入れる人もいる。この茶は刺激が強烈であるだけでなく、
「五味」(甘い、すっぱい、塩辛い、苦い、辛い)が完全であり、風邪を治す
良薬でもある。
16、ジンポー族の塩漬け茶
ジンポー族は、主に雲南省の徳宏地区に住んでいる。塩漬け茶は一般的に、
雨季に作られる。使用する茶葉は加工された生葉ではない。さきに水で洗った
あと、生葉の表面についている水をふき取ったものを用いる。茶を塩漬けにす
るとき、まず竹ざるに生葉を置いて、少しもんだ後、さらに適量の唐辛子、食
塩を加えて、まぜ、壺もしくは竹筒の中に入れる。2,3 ヶ月おいた後、茶葉
の色が黄色くなったら、茶の塩漬けは完成する。次に、茶を壺から取り出して
乾燥させ、その後、素焼きの壺に入れて、食べたいとき取り出す。塩漬け茶は、
実際には茶料理といえる。
17、ブーラン族の青竹茶
ブーラン族は、主に雲南省のシーサバンナに居住している。ブーラン族が飲
んでいる青竹茶は、まずふちを粗く竹筒を切り、端を削ることから始まる。そ
れに、きれいな泉の水をいれ、斜めに地にさす。それで水を沸騰させる器とす
る。別に、竹の子を探して、茶杯とする。それから、燃料となる枝や落ち葉を
捜して、竹筒の水を沸騰させる。同時に、茶樹から、きめ細かく柔らかい葉を
摘み取り、竹ではさんで火の上にであぶる。青臭さをなくし、香りを放たせる。
それから茶の枝を竹筒の中にいれて約 3 分間煮る。さわやかな香りの竹筒茶が
完成する。
18、ジーヌオ族の生茶
ジーヌオ族は、主に雲南省のシーサバンナに居住している。生茶は現地で摘
んだ茶樹の新鮮な芽を主材料としている。さらに適量の黄果葉、胡麻の粉、パ
クチー、粉末状の生姜、唐辛子の粉、粉末状のにんにく、食塩などを加えて、
混ぜて完成する。材料の品種と容量は、個人の好みによって決定される。生茶
は一種の飲み物であるが、茶とは言いがたい。これは主にジーヌオ族が食事を
する時におかずとして食べるものである。
19、イ族のあぶり茶
イ族は茶を飲むとき、まず先に土製の陶器の壺を使用する。銅製のもので作
る場合もある。こぶしほどの大きさで、腹部が少々膨れており、手で守ること
ができる。まず茶をこの壺の中にいれて、暖炉の上で焼く。それから、適量の
緑茶を入れて壺を動かしながら焼き、茶葉に均等に火が通り、茶葉の色が黄色
くなり、焦げた香りを出すのを待って、沸騰した水を 8 分目まで入れる。2,3
分沸騰させた後、茶をろ過して、茶くずをろ過させて、茶水を塩、炒めた米、
胡桃、胡麻等の材料を先に入れておいた木製もしくは銅製の茶碗の中に入れて
完成する。
20、シェ族の二道茶
シェ族は主に福建、浙江省に居住している。祝い事があった場合、賓客が訪
れると、人々は、茶をもてなす歌を歌って、歓迎の意を表明する。客が茶を飲
むとき、主人は必ず「二道」を行わなければならない。まず湯を入れる、次に
茶を煮出す。これらを経て客へのもてなしの儀式は完成する。三つ目は、客の
自由、である。
烏龍茶の入れ方
張莉穎
(中国国際茶文化研究会
茶芸教師)
烏龍茶は、半発酵の青茶類に属する。主に福建省、広東省、台湾で生産され
る。烏龍茶の中でも、鉄観音、大紅袍、武夷肉桂、武夷水仙、鳳凰単叢、黄金
桂、凍頂烏龍、文山包種、東方美人等が良く見受けられる。烏龍茶の独特な香
りと味、および多種多様で実用的な茶器により、人々は、茶を入れて、味わう
過程で、精神的な楽しみを得ている。ゆえに、人々に深く愛されている茶であ
る。
烏龍茶を入れ方は、茶葉の形、茶摘の季節、加工の方法によって、やり方や
茶器を選択する。ゆえに、茶を入れる時は、まず茶葉が春茶かそれとも秋茶か、
加工は手で行われたか、それとも機械で行われたか、粒状の鉄観音か線形の大
紅袍を把握しなければならない。同時に、茶を飲む人数も確認しなければなら
ない。こうして、茶具の大きさや、紫砂壺を用いるか蓋碗で入れるかを、決定
することができる。
一、烏龍茶をうまく入れる条件
1、品質のよい烏龍茶を選ぶ
2、良い茶器を準備する。例えば、紫砂壺(もしくは蓋碗)、品茗杯、聞
香茶、茶盒、茶船、茶海、茶道具、公道杯、茶巾、煮水器等
3、水は茶の葉である。天然の泉の水や蒸留水、無味無臭の水道水を選択
4、水を沸騰させるのに温度を調節できる電気ポット等
5、水温を把握するために、水から沸騰させる。粒型や半球型の烏龍茶は
沸騰した水で入れる。散型や長細い烏龍茶の場合は、沸騰水より多少
温度を下げて使用する
6、茶葉の用量や品質と水との比例をみて、茶葉を煮出す時間を把握する
7、茶葉の用量に応じて水をいれる。だいたい茶葉 1 に対し、湯が 30。す
なわち 1 グラムの茶葉に 30 ミリリットルの湯を入れる
二、烏龍茶の実用的な入れ方
1、現代の小壺での入れ方(固形の鉄観音を利用)
① 道具:紫砂壺、品茗杯、聞香茶、茶盒、茶船(茶壷や茶杯を置き、
湯や残り茶を底に棄てる道具)、公道杯、茶道具、茶巾、煮水器、
水盂(水入れ)等
② 湯の準備:沸騰させる
③ 壺を温める:沸騰した水を紫砂壺にいれて、これを温めたあと、
湯を公道杯に入れて、公道杯を温める。さらに公道杯の中に湯を
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
品茗杯に入れる
茶葉を投入する:茶を味わう人間の数によって、壺の大きさを選
び、適量の茶葉を入れる
茶を湿らす:洗茶、ともいう。沸騰した水を高いところから注ぎ、
迅速に茶を洗う、茶葉を壺の中で動かし、茶葉を湿らせて、茶葉
が開く速度を上げる。煮出すのと茶の香りを放つのに役立つ。そ
の後、茶湯を公道杯に入れる
湯を入れる:沸騰水を倒しながら高いところから注ぎ、再度、入
れながら元に戻す方法で、低く注ぎ、湯が壺の口からあふれる出
すのを待って水を入れるのをやめる。かつ壺の蓋で壺の口につい
た泡を脱ぎ取り、蓋をかぶせる。公道杯の中の茶湯で壺の上に残
った泡をぬぐう。
茶杯を洗う:温めた品茗杯の水を次にそなえて捨てる
茶を分ける:約 45 秒から 60 秒煮出した後、茶湯を公道杯に入れ
る。公道杯の中の茶湯を品茗杯の中に分けて入れる。
茶を出す:茶湯の入った品茗杯を茶托の上におき、両手で客に渡
す
2、台湾式小壺での入れ方(固形の高山烏龍茶を利用)
① 道具:紫砂壺、品茗杯、聞香茶、茶盒、茶船、公道杯、茶道具、
茶巾、煮水器、水盂(水入れ)等
② 湯の準備:水を沸騰させる
③ 壺を温める:沸騰した水を紫砂壺にいれて、これを温めたあと、
湯を公道杯に入れて、公道杯を温める。さらに公道杯の中に湯を
品茗杯に入れる
④ 茶葉を投入する:茶を味わう人間の数によって、壺の大きさを選
び、適量の茶葉を入れる(基本的に、壺約 4 分の 1 の量)
⑤ 香りを出す:紫砂壺を 5、6回揺らして、茶葉に十分に壺のエネ
ルギーを吸収させる。茶葉の香りが広がるのに役立つ。
⑥ 茶を湿らす:洗茶、ともいう。沸騰した水を高いところから注ぎ、
迅速に茶を洗う、茶葉を壺の中で動かし、茶葉を湿らせて、茶葉
が開く速度を上げる。煮出すのと茶の香りを放つのに役立つ。そ
の後、茶湯を公道杯に入れて、杯を温める
⑦ 湯を入れる:沸騰水を倒しながら高いところから注ぎ、再度、入
れながら元に戻す方法で、低く注ぎ、湯が壺の口からあふれる出
すのを待って水を入れるのをやめる。かつ壺の蓋で壺の口につい
た泡を脱ぎ取り、蓋をかぶせる。公道杯の中の茶湯で壺の上に残
った泡をぬぐう。
⑧ 茶を洗う:温めた品茗杯の水を次にそなえて捨てる
⑨ 茶を分ける:約 45 秒から 60 秒煮出した後、茶湯を公道杯に入れ
る。公道杯の中の茶湯を品茗杯の中に分けて入れる
⑩ 茶を出す:茶湯の入った品茗杯を茶托の上におき、両手で客に渡
す
3、現代の蓋碗での入れ方(非固形型の大紅袍を利用)
① 道具:蓋碗、品茗杯、聞香茶、茶盒、茶船、公道杯、茶道具、茶
巾、煮水器、水盂(水入れ)等
② 湯の準備:水を沸騰させる
③ 壺を温める:沸騰した水を蓋碗にいれて、これを温めたあと、湯
を公道杯に入れて、公道杯を温める。
④ 茶葉を投入する:茶を味わう人間の数によって、蓋碗の大きさを
選び、適量の茶葉を入れる(基本的に、200 ミリリットルの蓋碗
に約 10 グラムの量)
⑤ 茶を湿らす:洗茶、ともいう。沸騰した水を高いところから注ぎ、
迅速に茶を洗う、茶葉を碗の中で動かし、茶葉を湿らせて、茶葉
が開く速度を上げる。煮出すのと茶の香りを放つのに役立つ。そ
の後、蓋で軽くちゃ湯表面の泡をとり、さらに湯で蓋の上にのこ
った泡をとる。そして蓋を閉める。茶湯を公道杯にいれて、公道
杯を温めた後、茶湯を捨てる
⑥ 湯を入れる:沸騰水の温度を少し下げる。引きながら高いところ
から注ぎ、さらに入れながら低く収めていく方法で、ゆっくり湯
を碗の口まで一杯にさせたところで、水を止める。蓋を茶湯表面
で動かし、泡をとる。さらに湯で蓋の有為に残った泡を取り、蓋
をする
⑦ 茶を洗う:温めた品茗杯の水を次にそなえて捨てる
⑧ 茶を分ける:約 30 秒煮出した後、茶湯を公道杯に入れる。公道杯
の中の茶湯を品茗杯の中に分けて入れる
⑨ 茶を出す:茶湯の入った品茗杯を茶托の上におき、両手で客に渡
す
4、伝統的な蓋碗茶での入れ方(非固形型の鳳凰単叢を利用)
① 道具:蓋碗、品茗杯、茶缶、茶池、煮水器、紙等
② 湯の準備:水を沸騰させる
③ 壺を温める:沸騰した水を蓋碗にいれて、これを温めたあと、湯を
品茗杯に入れて、品茗杯を温める。
④ 茶葉を投入する:茶を味わう人間の数によって、蓋碗の大きさを選
び、適量の茶葉を入れる(基本的に、200 ミリリットルの蓋碗に約
5,6 グラムの量)
⑤ 茶を湿らす:洗茶、ともいう。沸騰した水を高いところから注ぎ、
迅速に茶を洗う、茶葉を碗の中で動かし、茶葉を湿らせて、茶葉が
開く速度を上げる。煮出すのと茶の香りを放つのに役立つ。その後、
蓋で軽く茶湯表面の泡をとり、さらに湯で蓋の上にのこった泡をと
る。そして蓋を閉める。すぐに茶湯を捨てる。
⑥ 湯を入れる:沸騰水の温度を少し下げる。引きながら高いところか
ら注ぎ、さらに入れながら低く収めていく方法で、ゆっくり湯を碗
の口まで一杯にさせたところで、水を止める。蓋を茶湯表面で動か
し、泡をとる。さらに湯で蓋の上に残った泡を取り、蓋をする
⑦ 茶を洗う:温めた品茗杯の水を次にそなえて捨てる
⑧ 茶を分ける:約 45 秒煮出した後、茶湯を左から右にいれ、再び右
から左に等しく品茗杯に入れる。これは茶湯の濃度を均一にするた
めで、この種の入れ方を「関公巡城」と呼ぶ。最後の数滴の茶湯を
品茗杯にいれ、これを「韓信点兵」と言う
⑨ 茶を出す:客人が自ら品茗杯を手に取り、茶湯で一杯になった品茗
杯を少し傾け、茶湯を出す。それから品茗杯を両手で、茶池の淵に
そって、2 度なでつけ、杯のそこの水を拭う。それから 3 口に分け
て飲む。この杯の底の水を拭う方法を「遊山玩水」と言う
4、伝統的な小壺の入れ方(固まりではない、線状の鳳凰単叢を利用)
① 道具:紫砂壺、品茗杯、茶缶、茶池、煮水器、水盂(水入れ)、紙
等
② 湯の準備:水を沸騰させる
③ 壺を温める:沸騰した水を紫砂壺にいれて、これを温めたあと、
湯を品茗杯に入れて、品茗杯を温める
④ 茶葉を投入する:茶を味わう人間の数によって、紫砂壺の大きさ
を選び、適量の茶葉を入れる(基本的に、茶葉を紫砂壺一杯に入
れる)
⑤ 茶を湿らす:洗茶、ともいう。沸騰した水を高いところから注ぎ、
迅速に茶を洗う、茶葉を碗の中で動かし、茶葉を湿らせて、茶葉
が開く速度を上げる。煮出すのと茶の香りを放つのに役立つ。そ
の後、蓋で軽く茶湯表面の泡をとり、さらに湯で蓋の上にのこっ
た泡をとる。そして蓋を閉める。すぐに茶湯を品茗杯に入れる
⑥ 湯を入れる:沸騰水の温度を少し下げる。壺を引きながら高いと
ころから注ぎ、さらに入れながら低く収めていく方法で、ゆっく
り湯を壺の口まで一杯にさせたところで、水を止める。蓋を茶湯
表面で動かし、泡をとる。さらに湯で蓋の上に残った泡を取り、
蓋をする
⑦ 茶を洗う:温めた品茗杯の水を次にそなえて捨てる
⑧ 茶を分ける:約 45 秒煮出した後、紫砂つぼを茶池の淵になでつけ
る。これを「遊山玩水」という。それから、茶湯を左から右にい
れ、再び右から左に等しく品茗杯に入れる。茶湯の濃度を均一に
するためで、この入れ方を「関公巡城」と呼ぶ。最後の数滴の茶
湯を品茗杯にいれ、これを「韓信点兵」と言う
⑩ 茶を出す:茶湯で一杯になった品茗杯を少し傾け、茶湯を出す。そ
れから品茗杯を両手で、茶池の淵にそって、2 度なでつけ、杯のそ
この水を拭う。そして客人に渡す