意識、言葉、時間 —時間の章— 脇本佑紀 ∗@第二土曜会 平成 28 年 5 月 14 日 目次 はじめに 2 なぜ問うのか . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2 時間 4 2.1 時間のない世界—万葉集における時間— . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4 2.2 時間のある世界—物理学における時間— . . . . . . . . . . . . . . . . . . 6 2.3 時の彼方へ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 14 引用/参考箇所一覧 17 A.1 『プリンシピア』における時間 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 17 A.2 『純粋理性批判』における時間 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 19 A.3 アインシュタインの時間 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 23 A.4 ベルグソンの問題意識 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 28 人物年覧 29 1 1.1 2 付録 A 付録 B ∗ y.wakimoto @ kiso.phys.se.tmu.ac.jp 1 1 はじめに かつて次のように述べたことがあった [1]。 時間はおそらく人間に属するものだ。欠けた月に満月を思い重ねたとき僕の心は 少し変質してそしてその変質をこう言い表す——時が経った——と。それは事実 の描写 «ϕύσις» ではなく一つの小さな詩 «ποίεσις» である。 フュシス «ϕύσις» は物理学 physics の語源で「自然」を意味し、ポイエーシス «ποίεσις» は創造や詩作を意味するギリシャ語である。ここで表したかったことは、意識の発生、言 葉の発生、そして時間の発生の機微であり、またあるいは科学の科学になる以前の芸術と 強く交錯する姿であった。心の変質を言い表す、それはまさに詩の原型ではないか。単な る観察事実の描写と取れるこれを詩とも言えるならば、あるいはもっと謙虚に、未分化の 「小さな詩の萌芽」とでも言えるならば、私が意識・言葉・時間について問うとき、そこ ではなぜこのような詩が発生/成立しうるのか、を問いたいのである。 本題に入る前にまず考えたいのは「なぜ問うのか」である。すなわち「問いに何を期す るのか」である。 1.1 なぜ問うのか 私という河を 上してみれば意識・言葉・時間へと至る源流が見られる。そのことにつ いてここで語るのはよそう。変化や忘却への抵抗心を持ち、読み書きを好み、気持ちや知 識の持ち様によって世界の見え方が変わることに関心のある若者であったと要約すればそ れに尽きるからである。それらの特性が意識・言葉・時間というキーワードに収斂したと いうだけだ。しかも、問いの起源やテーマの必然性を強調するのでは、 「なぜ問うのか」に 答えたことにはならない。 最終的には科学の形式としたいと思っていることは確かである。すなわち時間の発生を 数式化するということで、それは物質世界の境界の科学としうるその限界に挑むことだと 2 言ったら大げさだろうか。意識の発生、言葉の発生、そして時間の発生は互いに非独立な 同時的事象であり、この場合の時間とは言うなれば心理的時間とでも言うべきものであろ うが、心理的時間と物理学的時間も易く分断してしまってはそれぞれの根を失うと感じ、 この探求がやがて科学に繋がるものと信じ、あえて科学的ではない側面からのアプローチ を試みているわけである。またこの目標は同時に生命の問題をも解くと信ずる。生命とは 本質的に時間性を内包するものだと感じるからである。言語もまた然り。だが、先ほどと 同様に、答えに期待することを答えても、「なぜ問うのか」への返答にはやはりならない。 私はもっと私の深層へ降りていかなければならない。 ——ここで、私がある愚を犯していることをひとは看破するであろう。それは問いに答 えようとしているという愚である。問いは答えを伴うと考えるのは自然なことであるが、 必ずしもすべての発問が答えを期すものだとは限らない。例として私はかつて「時間とい う河の流れ着く先の海はどのような処だろうか」という問いを考えてみたのであった。そ れは人の思考の個性や自己の時間観を推し量らんとせん問いであった。私はなぜ私になぜ 問うのかと問うたのであろうか。それは皆様と考える上での基盤の共有を欲したからに他 ならない。それについてここで解決を目指すのはやめよう。場の共有が自ずとそれを解決 してくれるように思われる。 私が問いと向き合う際の傾向について念のため明文化しておく。 1. 結論にたどりつくことを第一目的とはしない 2. あえて否定する必要のないものは放っておく 3. 説明力の強すぎる仮定は避ける 4. 正しさ、には従わない ヒ ラ ニ ア・ガ ル バ この世界は黄金の胎児の見ている夢である 孔子暗 と言ってしまえばすべて解決するわけで 黒伝 あるが、3. によってこれを避けるのである。もちろん五十六億七千万年後に超越者が現れ によってこれ て 百億の昼と あらゆる道のりが空しく粉塵と化す可能性も無ではない 2. が、それ 千億の夜 を否定しない と私がこうして考えていることとはまた別である。生命が生命であるとはめぐりめぐる時 に生涯を浮かべ流浪の民として止むことのない旅を余儀なくされることであり、たどりつ 3 モチーフ くことは旅の本質ではなく、それはむしろ旅を続ける動機の一つに過ぎないと気づけば、 1. も何ら逆説的ではない。 「正しさ」は必ず何らかの(それ自体曖昧である可能性を持った)基準に準拠しており、 それが明らかでない以上はこれを避けるというのが 4. の方針である。またいかにも正し そうな推定/断定を避ける目的もある。 2 時間 私が時間に興味を示す理由は至って単純で、それが最も能くかつ普遍的に人の心を変質 せしめるからである より詳しくは意識 。まずは時間そのものではなく時間のない世界について の章を待たれよ 考えてみたい。 2.1 時間のない世界—万葉集における時間— 予め定められた時に厳密に従って行動することを強いられる現代社会に馴染む我々に とって時計の同期は至上命題であって、生活を支配する強固な時の存在を意識せざるを得 ず、またそれによっていかなる矛盾/問題に直面することもない。従って時間の無い世 界、を想像するのも多少の困難を伴うかもしれないが、古来の日本人にとっては馴染み深 い概念であった。時間の無い世界とはすなわち常世のことである。 思索に形を与える依代とするために、あるいは議論の苗床とするために少し古文に寄 り道してみることにする。以下、〈万・漢数字〉は万葉集内の番号を意味する。奈良時代 八世紀 ごろ に成立した古事記や万葉集を参照するのは、単に私の趣味ということのみならず、そ れらがまだ哲学に汚染されていない素朴な時観を反映しており、かつ、中国との活発な交 流の影響か哲学的思索の萌芽が見られる稀有な時期だからである、としておこう。 古事記には次のような橘の起源神話がある。 みやけのむらじら た ぢ ま も り とこよ ときじく かく の また天皇、三宅連等の祖、名は多遅摩毛理を常世の國に遣はして、非時の香の木實を求め かげやかげ ほこやほこ も したまひき。故、多遅摩毛理、遂にその國に到りて、その木實を採りて縵八縵、矛八矛を將 き かむあが かげよかげ ほこよほこ ち来たりし間に、天皇既に 崩 りましき。ここに多遅摩毛理、縵四縵、矛四矛を分けて、大 かげよかげ ほこよほこ の 后に献り、縵四縵、矛四矛を天皇の御陵の戸に献り置きて、その木實を捧げて、叫び哭きて 4 さもら 白ししく、「常世國の非時の香りの木の実を持ちて参上りて 侍 ふ。」とまをして、遂に叫び の 哭きて死にき。その非時の香の木實は、これ今の橘なり。 とこ 時じ、とは時に否定の助動詞じが付いた形で、常、すなわち変わらないということである。 非時の香の木實とは「いつもよい香りのする木の実」ということで、また例えば「時じく そ 雪は降りける」 〈万・三一七〉とは「常に雪が降っている」ということである。「時なく そ 雪は降りける」〈万・二五〉という言い方もあった。また万葉集には上の物語を歌った ものもある〈万・四一一一、四一一二〉。 かしこ す め ろ き お ほ み よ た ぢ ま も り とこよ やほこ ま ゐ で こ かけまくも あやに 恐 し 皇神祖の 神の大御代に 田道間守 常世に渡り 八矛持ち 参出来し ひこえ 時 時じくの 香の木の実を 恐くも 遺したまへれ 国も狭に 生い立ち栄え 春されば 孫枝萌い さつき はつはな た をとめ つつ ほととぎす 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて 少女らに つとにも遣りみ 白たへの 袖 こ き にも扱入れ かぐはしみ 置きて枯らしみ あゆる実は 玉に貫きつつ 手に巻きて 見れども飽か しぐれ こぬれ くれなゐ ず 秋づけば 時雨の雨降り あしひきの 山の木末は 紅 に にほひ散れども 橘の 成れるその ひたて ときは 実は 直照りに いや見が欲しく み雪降る 冬に到れば 霜置けども その葉も枯れず 常磐なす さかは いや栄映えに 然れこそ 神の御代より 宜しなへ この橘を 時じくの 香の木の実と 名付けけ らしも 反歌 橘は花にも実にも見つれどもいや時じくになほし見が欲し 常磐とは永久不変の象徴としての石のことで、常葉として常緑樹のことをも指すという。 ポケットモンスターに登場する街トキワシティの紹介掲示板で ここは トキワシティ トキワは みどり えいえんのいろ と表示される所以である [6]。また反歌の「時じくになほし見が欲し」は「いつでも見てい たい」ということである。「いつ」は何時とも書き、 「何時でも」とは anytime= ∀time と いうことで、「時に依らず」が「時じ = 非時」で表現されている。 とこ 上の例では慣用的に「時じ」を常の意で用いてるが、時そのものへの意識を感じさせる 歌もある。上の橘の歌も併せて、いずれも大伴家持の作である〈万・四四八三、四四八四、 四四八五〉。 5 移り行く時見るごとに心いたく昔の人し思ほゆるかも やますが 咲く花は移ろふ時ありあしひきの山菅の根し長くはありけり め あきら 時の花いやめづらしもかくしこそ見し 明 めめ秋立つごとに 三つめの「時の花」は、 「彼は一躍時の人となった」の「時の」であり、三者とも現代でも 一般に使われる時の用法である。この「時の」は説明が難しい。ある期間、季節の象徴的 表象とでもいえようか。あえて曲解して何か抽象的で神秘的な花と解釈してみたくもなる 語である。 うつし 常世に対する人の世を 現 世という。人の死や季節の移ろい——私は時を渡季と書きた い——と常世から齎されたという時じき橘の対比、この感性が既に奈良時代の古事記や万 と き とこ 葉集に見られるということは それでも人類史からいえ 、渡季あるいは常なるものを想像する機構 ばつい最近のことである や望郷の如く時の彼方を思う感情が人間に何らかの形で内在していることを意味している ように思われる。 と き だがこの季を渡る渡季という論述は季を前提に置いていることに注意せねばならない。 季ということが無ければ渡季ということもなく、事実、時間概念を伴わずに生活を営む、 アモンダワ族の存在が知られている [20]。ただし時間概念が無いというわけではなく、習 得は容易であるが、伝統的生活上では使わず、従って抽象化もしないということのようで ある [21]。 一方で西洋社会においては時間の対象化が活発に行われてきた。洋の東をみたのでせっ かくなので西にも立ち寄ることにする。 2.2 時間のある世界—物理学における時間— 時間については様々な思惟研究があるが、ここでは主に物理学における時間についてま とめることにする。私の「時間の発生の数式化」なる目標が達成された場合、以下に述べ られる時間が再現されなければならない。 6 2.2.1 ニュートン力学における時間 ニュートン力学とは物体の運動を対象とする数学的体系であり、物体そのものには言及 せず、その運動の軌道の予知分析を主だった目的とする。ここではニュートン自身が語る 時間については後回しにして、その数学的に洗練/敷衍された形式であるラグランジュ力 学的な時間について先に述べることにする。 現実の物体の運動はこの三次元空間で為される。従って運動する点の位置は三つの変数 x, y, z で与えられる。二つの点の運動を考える場合は六つの変数 x1 , y1 , z1 , x2 , y2 , z2 が必 要である。振り子の運動を考えるならば、紐が変形しないと考えられる場合において、そ の振り子の振れ角を表す二つの変数 θ, ϕ があればその位置を指定できる。大きさを持っ た物体についても同様である。例えば棒の運動を考えるならば、棒の中心と片方の端点を それぞれ指定する五つの変数 x, y, z, θ, ϕ があればよい。このように運動する物体の位置 を指定する変数の組を一般化座標と呼び、変数の持つ日常的意味を捨象して q0 , q1 , ..., qn などと書く。一般化座標の成す空間を配位空間という。従って、物体の運動は、それがい くつであれ、形を成すものであれ、配位空間上の一つの連続的な軌道を示す。この軌道を 考察の対象とするのがラグランジュ力学である。そしてこの軌道に付されたラベルがこの 文脈における時間となる。 配位空間を CS と書くことにすれば、 q : R → CS (1) t 7→ q1 (t), q2 (t), ..., qn (t) (2) なる図式が運動の軌跡を定め、t が時間を意味する。ここでラベルの空間として実数全体 R をとっているのは、物体が生成消滅しない以上は物体の運動はいくらでも外延可能であ り、また今力学においてはそのような物体の性質は考慮しないからである。 ではニュートンに立ち返ろう。ニュートン自身はその著書「プリンシピア」において 時間,空間,場所,および運動などには,万人周知のものとして,その定義を与え ることはしない。 7 と述べながらも、その後、絶対的時間 Tempus absolutum の説明を試みている。なお原 文における該当個所については A.1 に引用したので適時参照されたい。そこで絶対的時 間とは 別の名では持続と呼ばれる。 としている この「時間とは持続 (duratio) である」という考え 。この持続の意味合いは自然に対応する 方はのちのベルグソンの持続 durée にも見られる 日本語が無いからか み取り難い。イギリス人ニュートンがこのラテン語単語をどのよう なつもりで用いたのかもはや知る術はないが、ラテン語の近縁のフランス語を参考にすべ く時間 temps を仏仏辞典 [19] を引くと、 Durée globale. とあるので、示す範囲が多少異なるだけで概ね同義のようである。 物の存在の持続性あるいは耐久性は,運動が速くあれ,遅くあれ,あるいは皆無で あれ,いつまでも同一である。 がキーワードとなりそうだが、「定義を与えることはしない」と断言していることもあり、 ニュートンの絶対的時間 Tempus absolutum についてここから「相対的ではない一様な もの」以上に掘り下げるのは困難なように思われる。これはある意味では当然かもしれな い。ラグランジュ力学を含めても、ニュートン力学における時間は「自発的に流れる」と いう機構を備えておらず、そのことに言及することもできなければ、感覚的時間と乖離す ることも避けられないからである。 ただし、物体の運動を扱うという動機と、ニュートンが度々言及してる天文学における 時計合わせの例からイメージを膨らませることはできる。そうしてみると、何かを測定す る際には参照する現象や測定方法に由来する誤差が付きものであるが、言い換えれば、誤 差無しの理想的測度というものが仮想されており、測定精度の向上はこれに漸近していく ことを意味することから、ニュートンはこのことを念頭に置き、この漸近の先の極限とし て見出される時間を絶対的時間と呼んでいると解釈することができるかもしれない。それ 8 はあらゆる相対的補正の結果として測定に付随する具体的現象をすべて捨象した形で得ら れる理想的な参照時間だからである。 補足ということではないが、引き合いに出されることの多いカント「純粋理性批判」に おける時間についてもここで言及しておくことにする。原文における該当個所については A.2 に引用した。表象 Vorstellung という単語が幾度か登場するが、これは日用語として は英語の idea や image と同義で、哲学語としてはフランス語の représentation と同義ら しい。 我々の興味から要約すれば、 時間とは先験的 a priori に与えられているものであるが、絶対的先験的実在性を有 すものではなく、経験的実在性を持つものである。 となろうか。時間が先験的 a priori であるが故に我々は至る事物にその表象としての時間 性を見出すことができるが、その表象のみを知覚しうるという意味で、その実在性は絶対 的先験的なものではなく、経験的なものである。ということであろう。 当時の歴史的文脈は未調査であるが、絶対的先験的実在性、すなわち時間のナイーヴな 実在性を否定し、 つまり時間は、対象そのものに付属するものではなくて、対象を直観するところの 主観に属するのである。 としているところにカントの主張の要点/新規性があるように思われる。 2.2.2 特殊相対性理論における時間 アインシュタインが提唱した特殊相対性理論とは等速で運動するどの観測者から見ても 光速度が等しくなるようにニュートン力学を修正した理論である。その結果として時間概 念に変革を齎した。 ある観測者 O0 から見て一定の速度 v で運動する別の観測者 Ov を考えよう。時間に関 する結果だけ言えば、O0 にとっての時間間隔 ∆t0 と Ov にとっての時間間隔 ∆tv の間に 9 次の関係式が成り立つ。 ∆t0 = √ 1 v2 1− 2 c ∆tv = γ∆tv (3) 定義より γ ≥ 1 である。ここで、観測者 O0 から見たときに、∆t0 の間に 1 回起こる周期 的現象を考えよう。この現象の周期 T は T = ∆t0 /1 である。観測者 Ov から見れば、こ れは T = ∆t0 = γ∆t1 であるから、この現象は γ 倍だけ時間を掛けて起こっているよう に見える。O0 を基準に見れば Ov の時間の進み方は O0 よりも γ 倍だけ遅れているとい うことである。逆に見ても同様である。逆に見れば片方の観測者が速度 −v で進んでいる ように見えるが、やはり速度を持っている方の時間の進み方が γ 倍だけ遅くなる。相対性 ということである。 また特殊相対性理論においては同時性の概念も観測者に依存する。上の時間間隔につい ての式はローレンツ変換の式 これが光速度の不 変性から導かれる v t′ + 2 x′ vt′ + x′ t= √ c , x= √ v2 v2 1− 2 1− 2 c c (4) から導かれる。ここで tv = t′ , xv = x′ とし、簡明のため空間一次元のみを示した。 t = const. が観測者 O0 にとっての同時刻を、t′ = const. が観測者 Ov にとっての同時刻 を表すが、これらが互いに異なることは式から明らかである。const. は適当な定数を表 す。ある観測者にとって同時に起こった事象が別の観測者にとっては時間差を持って生じ た事象となる。と、「同時」にはどの観測者にとっての同時かを併記しなければならない。 これらが特殊相対性理論における時間である。ここでニュートンによる絶対時間 Tempus absolutum を振り返ってみよう。「プリンシピア」を参照すればニュートンによ る絶対/相対とアインシュタインの相対が異なる問題意識に根ざした異なる概念であるこ とは明らかである。ニュートン流に云うならば、各々の観測者 O, O′ にとって、各々の 時間間隔 ∆t, ∆t′ が絶対時間(間隔)であり、別の物体の運動を通して知られる ∆t, ∆t′ に関する感覚的/測定的時間情報が相対的時間である。上で周期的現象を照合すること で時間の遅れについて論じたが、これはアインシュタインが定める時間そのものであり A.3 においてアインシュタインが時計を用い て時間を定義しているのを見ることができる 、かつニュートンの意味での相対的時間に他ならない。そ 10 のようなニュートンの意味での相対性に依存しないという意味で、(3) 式はニュートンの 意味での絶対的時間の関係式なのである。 ニュートン、カント、アインシュタインそれぞれによる時間の論述はそれぞれ異なった 観点からなされており、それぞれ整合していると思われる。 なお、特殊相対性理論は光速 c → ∞ の極限で通常のニュートン力学を再現する。一般 にそれまでに成立した命題が極限でも成立するとは限らないが、光速を無限大とするとい う極限の物理的意味は時間や空間の形而上学的意味を変容せしめるほどのものではないよ うに思われる。このこともニュートンとアインシュタインそれぞれの時間観が対立するも のではないという主張の根拠となろう。(これとは独立して、数学的極限操作に伴う対象 の形而上学的意味の変化、は興味深い題材である。) また、余談であるが、(ニュートンの意味ではない)素朴な絶対的時間についても、「否 定」されたわけではないと主張しておこう。素朴な絶対的時間を仮定しても、すなわち神 の系を仮定してもなお特殊相対性理論は可能である。ただそれを他の系から区別する絶対 性が特殊相対性理論の中にはないだけである。だから、もちろん、神の系を仮定しなくて も特殊相対性理論は展開できる。従ってオッカムの剃刀を振るうのならばこれによって神 の系は削ぎ落とされる。ただし、オッカムの剃刀によって削ぎ落とされることと、論理的 に否定されることとは別だということに注意せねばならない。私はこの言明を私が素朴な 絶対時間支持者であることを示唆するためにするのではなく、科学者の思考の傾向と、何 かを否定する難しさを提示するためにするのである。 ニュートン力学の節でカントについて触れたので、ここではベルグソンに触れるべきか もしれない。ベルグソンは哲学と科学の融和を図る目的で著書「持続と同時性」[11, 18] にて哲学の立場から相対性理論を検分・解説し、 アインシュタインの提題は、もはや、たんに唯一普遍の時間にたいする人々の自然 な信念に矛盾するようなものでないばかりか、それを確証し、それに一応の証拠を 伴わせるものであった。 と結論した人である。ここでは時間の都合上ベルグソンの時間観に関わる持続 Durée の 11 哲学を紹介することはできなかったので、A.4 にて彼の問題提起を紹介するに止めること にする。 2.2.3 一般相対性理論における時間 一般相対性理論においては時空そのものの運動が取り扱われ、空間間隔、時間間隔はそ れ自体運動/静止する物理量である。惑星などの質量エネルギーによって歪められた時空 を考えれば、惑星中心からの半径 r の地点と重力の及ばない無限遠点 r∞ のそれぞれの位 置に応じた時間間隔 ∆t, ∆t∞ の間には次の関係式が成り立つ。 √ ∆t∞ = 1− M rsch. √ ∆t = g00 ∆t r (5) M ここで rsch. はシュヴァルツシルト半径と呼ばれ、重力の元となる物体の質量 M によって M 決まる量である。また r > rsch. と仮定している。これは重力源がブラックホールを成し ておらず、また成していたとしてもシュヴァルツシルト半径の外側を考えるということで √ ある。 g00 < 1 である。 上式を基にして時間の伸縮を考えるわけであるが、先ほどの特殊相対性理論においては 二人の観測者が同一の事象を扱っていたのに対して、今回は一人の観測者が異なる二空間 点上の二つの事象を扱っていることに注意せねばならない。先ほどと同様にこの観測者か ら見たときに ∆t の間に 1 回起こる周期的現象を考えよう。この現象は r の地点では ∆t の間に 1 回起き、また r∞ の地点では ∆t∞ の間に 1 回起きる。r∞ の地点で 1 回起きて √ √ g00 回起きる。すなわち、 g00 < 1 より、重力の影響が強いほ √ M ど、時間の進みが遅くなることを上式は意味している。r が rsch. に漸近するとき、 g00 いる間に、r の地点では は 0 に近づく。これはシュヴァルツシルト半径付近は時間が止まって見えるということ で、ブラックホールに落ちゆく物体はブラックホールの外に静止する観測者にとってはこ の物体はシュヴァルツシルト半径に漸近するだけで永遠にブラックホールには到達しな い。ただし、これはそう見えるというだけで、シュヴァルツシルト半径上にはなんら物理 的な障害は存在しないので、ブラックホールへ落ちゆく物体は有限時間でシュヴァルツシ ルト半径を通過する。ここでは触れないが数式でこれを確かめることができる。一般相対 性理論が扱う時間現象の一例である。 12 上では時間のみに着目したが、空間についても同様に伸縮が起こり、これらが動的に伝 播していくのが重力波である。この純粋な物理学的対象としての運動する時空という科学 的事実は、 つまり時間は、対象そのものに付属するものではなくて、対象を直観するところの 主観に属するのである。 と説明されるカント的時間観を否定しているように思われる。実際、アインシュタインは 哲学者たちは,ある種の基本的な概念を,それを制御しうる経験領域から,“先験的 必然” という捉え難い高所へ運ぶことによって,科学的思考の進歩に対して 1 つの 有害な影響を与えたと私は信じる.(中略)物理学者たちは,これらを修理し,ふ たたび使用可能な状態におくために,これらを “先験的必然” の神殿からひきずり 下ろすことを,事実によって余儀なくされてきたのである. と仮借ない批判を加えている(原文における該当個所は A.3 に引用した)。一方で時空の 伸縮は計算の直接的対象であるが、観測の直接的対象にはならない。観測の可否と実在性 には当然隔たりがあるが、時空とは計算の中間形式に過ぎず、時空の理論はその中間形式 以前を忘却した近似/簡便化理論に過ぎぬという視点も可能である。現段階ではいかなる 視点も否定せずに放っておくのが得策ではないかと思われる。 ところで、この科学や哲学における否定肯定の殺伐とした論争を傍目に初めの万葉集を 思い出してみれば、いかなる哲学も科学もそれを否定できない——否定の目的語とするこ とがナンセンスである——ことに気づく。事実、いずれの立場に立ってもこれらの詩は成 立する。科学、哲学、詩を同等に並べるのは愚かかもしれないが、私はここに詩という形 式の強靭さや普遍的真理性を見るのである。 2.2.4 宇宙論における時間 今日では前節の一般相対性理論の時空観に矛盾しない形で宇宙の膨張を示唆する証拠が 多く提出されている。すなわち宇宙そのものが運動しており、一般相対性理論における力 学的対象となっているのである。この宇宙そのものの運動を扱う理論を宇宙論という。宇 13 宙論においては宇宙全体を統べる素朴な絶対的時間を仮定しているが、そこで特徴的なの は、膨張しゆく宇宙を逆に ることでその開闢の瞬間が推定されることである。これは数 式的には時間のみの世界から空間が生まれるように見えるが、物理学 (physics) 的にも形 而上学 (metaphysics) 的にも未だ理解されていない領域だと思われる。 2.2.5 その他物理分野における時間 物質は本質的に確率を内在しているとする量子力学は興味深いテーマを孕む分野である が時間に関して言えばニュートン力学の域を越えていない。ただ確率論に常につきまとう 「未然の記述と未来の選択」というイメージは時間との関連を強く想起させる。素粒子理 論においては素粒子の生成消滅過程やその頻度が主だった問題となっており素粒子世界に おける時間は鑑みられていないのが現状のようである。 熱力学やその数学的洗練/敷衍である統計力学においては、系にエントロピーという量 が定義される。このエントロピーの増大則は系の非可逆性を象徴し、時間を想起させる が、系の非可逆性は系の性質であって、どれほど時間構成力があるかは不明である。ただ 熱力学はブラックホールを通して時空の理論と密接に関わる。 2.3 時の彼方へ 時間を巡る歴史的文脈を時折私見を挟みながらも取り留めもなく眺めて来た。そもそも なぜそうしたのかと言うと、2.1 節の初めで述べたように、時についてのイマジネーショ ンの契機とするためにそうしたのであった。ただ、それは万葉集で済ませて、物理学にお ける時間は寄り道程度にするはずだったのが、思ったよりも長引いた。結果的にはそれで よかったのかもしれない。歴史的文脈の引力に飲まれぬように気をつけながら、それらに 自己を相対化するのは歴史の発現としての人間の義務ですらある。もちろん、程度の違い はあれど人の営みは意識せずともそうならざるを得ない——時には煩わしくも愛すべき 鎖である。付録 A における引用は、引用とはそれが切り取られたものであるが故に切り 取る者の思惑を反映しがちであるが、そうならないように気をつけてかなり長めに取っ た。興味のある方は時間を巡る先哲らの思惟を味わってみて欲しい。 14 私は時間をテーマに自分がこれまでにしたことがない見方を構築してみたいと思ってい るわけであるが、何か手がかりはあっただろうか。あるいは皆様は。 色々と想像を巡らせてみると、例えばブラックホールの性質から、「外側の人はある時 点で死を確認するけれど、死にゆく観測者は死に漸近し人は永遠を生きる。」などといっ た妄想にも至りうる。これは奇想の類で問いの副産物ではあるが、そこから何か物語や世 界観を発展させてみても面白いかもしれないと思わせる奇想である。 また私に一つ浮かび上がった視点は、形而上学的 (metaphysical) にも物理学的 (physi- cal) にも、人が考察しているのは何か変化を伴う時間 あるいは時間 であり、ある程度の幅を を伴う変化 持った持続であるが、むしろ人が詩において見ているのは、 「時じ」ということであり、永 遠だということである。だからこそ「時の彼方」なる表現は疑念なく受け入れられ、 はてしない空と 永遠の時を 超えておとずれた つかの間の出 い といった歌詞 [13] が成立しうる。また洋をまたげば Elle est retrouvée! 見つけた! Quoi? l’éternité. 何を? 永遠を。 C’est la mer mêlée 太陽と融け合った海を。 Au soleil. など [22] 枚挙に暇ない。とすれば、人は変化よりもむしろ、永遠を知覚しているのかも しれぬ。人は、あるいはそれを表象とするこの宇宙は、永遠の落伍者であり、それ故に、 そこへ帰ることを願って止まないのかもしれない。これは決して奇を衒った考え方ではな い。その確かな証拠は神話をみたまえ、神話はおしなべて人の有限性を説明する。ここ では永遠の用法に注意をする必要がある。字義を見ればある時間的持続の外延的極限と 解釈されるかもしれない。事実、「この時が永遠に続けばよいのに」などと嘆息するとき の永遠はそのような意味である。ついで、この「時」は状況や状態を指す「時」である。 ここにもイマジネーショ ンの契機がありそうだ だがここでは時間概念そのものをある意味で超えているものとして永遠 とこ と は と こ と は を捉えている。一語として常あるいは永久を用いた方がよかったかもしれない。常永久で 15 永久不変ということである。それはさておき、人はなぜ永遠をすんなりと知覚し、「見つ ける」ことができるのであろうか?これはあらゆる観点から不思議なことである。アイン シュタインの言明 われわれは違った個人に共通な感覚,したがって多少とも超個人的な感覚を現実の ものと見なすのが普通である.自然科学,そしてとくに,そのうちで最も基本的な 物理学は,このような感覚を取り扱う. の威を借りれば、これは永遠を物理学で取扱いうるということであろう? 常の対象化はイメージにふくらみを齎してくれる。はからずも議論は円環を成した。 「時間のない世界」、それは常̇世であり、ついさきほど「時間概念そのものを超えている」 と言った処である。常と時はどう関わるのだろうか?「無常 = 時」で「時じ (非時)= 常」 だが、「永遠の時」という表現は両者の間の単なる否定関係ならざる絆を表している。常 と時の交わりの考察にあたっては意識について言及してみなければならないように思われ るので、この議論は後に予定されている—意識の章—に継ぐことにする。だがここで推し 量れるところは進めてみよう。 人間が永遠を知覚しうることはいくつかの観点から見れば自然なことのようにも思われ る。何か素晴らしい風景に、「太陽と融け合った海」に心打たれるとき、その風景は超時 間的である。泰然と流れゆく雲、風にたなびく草原、雲の落とす影に満ち引きを繰り返す 光、...... そのような動的な風景であっても、私の精神は一個の美しい対象としてそれをと らえる。一個の対象として捉えられたその風景は、現実には時間性を持っているにも関わ らず、対応する心象風景は超時間的なのである。そしてそれに心打たれなかった人の精神 には、同じ風景を見ていても、この超時間性は生まれていないであろう。とすれば芸術と は永遠を発見することに他ならないのかもしれない。音楽や活写であっても、それを一個 の永遠と捉えられるような、超時間的なものが存在する。能はその極致である。演者と聴 者の調和が乱れると、永遠はそこで死ぬ。 永遠の時を超えることは、おそらく想像上はたやすい。考えつきうるあらゆる事象をそ こに含めなければよい。すなわち永遠は無に近い。感覚は研ぎ澄ましたまま、心静かにた 16 たずんでいれば、そこに見えるのが永遠である。(そこに帰ることを願って止まないあ̇の̇ 永遠である。)これはおそらく座禅などの実践によって感得されてきたのであろう。そし て、動物がふと虚空を見つめるとき、そこに見ているのも、この永遠だといえよう。 だから、これらの意味で、時間とは永遠の死であり、永遠からの目覚めである。そして、 まさにこれが意識の発生と密接に関係していると考えることは自然であろう。 ここで述べている時間はきわめて観想的な時間であり、アインシュタインの時計による 時間に象徴されるような物理学的/測定的時間からはまだ遠い。ただ、周期的現象が永遠 からの目覚めを能く引き起こすというのは確かである。これには人間の記憶と意識のメカ ニズムが関係しているのであろう。であるから、周期的現象が時間を生み定めるという点 では一致している。 思考は何処となくさまよいつづけるが、ひとまず、ここで筆を置くことにする。 付録 A 引用/参考箇所一覧 本文で引用あるいは参考にした文献の該当箇所を抜粋してここに掲載する。 A.1 『プリンシピア』における時間 原文は [15]、訳文は [8] を引用した。 17 注 Scholium. Hactenus voces minus notas, quo in sensu in sequentibus accipiendæ sunt, explicare visum est. Nam tempus, spatium, locum et motum ut omnibus notissima non definio. Dicam tamen quod vulgus quantitates hasce non aliter quam ex relatione ad sensibilia concipit. Et inde oriuntur præjudicia quædam, quibus tollendis convenit easdem in absolutas & relativas, veras & apparentes, Mathematicas et vulgares distingui. 以上において,まだはっきりと知られていな い言葉に定義をくだし,以下の講述において 理解してほしいそれらの言葉の意味を説明し た。時間,空間,場所,および運動などには, 万人周知のものとして,その定義を与えるこ とはしない。ただ注意したいことは,普通一 般の人々は,これらの諸量を,それらが感覚 的対象に対してもっている関係だけからの観 念で理解しているということである。そして, それゆえに,ある種の偏見をひき起こすので あるが,それを除去するために,それらを絶 対的なものと相対的なもの,真なるものと見 かけ上のもの,数学的なものと通常のものと に区別するのが便利であろう。 I. 絶対的な,真の,そして数学的な時間は、 I. Tempus absolutum verum & Mathematicum, in se & natura sua absq; relatione ad externum quodvis, æquabiliter fluit, alioq; nomine dicitur Duratio; relativum apparens & vulgare est sensibilis & externa quævis Durationis per motum mensura, (seu accurata seu inæquabilis) qua vulgus vice veri temporis utitur; ut Hora, Dies, Mensis, Annus. おのずから,またそれ自身の本性から,他の 何者にもかかわりなく,一様に流れるもので, 別の名では持続と呼ばれる。相対的な,見か け上の,そして通常の時間は,運動というも のによって測られる持続の,ある感覚的な, また外的な(正確であれ,あるいは不均一な ものであれ)測度であり,普通には真の時間 の代わりに用いられる。すなわち,1 時間,1 日,1 か月,1 年といったたぐいである。 (中略) 18 絶対時間は,天文学においては,見かけの時 Tempus absolutum a relativo distinguitur in Astronomia per Æquationem Temporis vulgi. Inæquales enim sunt dies Naturales, qui vulgo tanquam æquales pro Mensura Temporis habentur. Hanc inæqualitatem corrigunt Astronomi ut ex veriore Tempore mensurent motus cælestes. Possibile est ut nullus sit motus æquabilis quo Tempus accurate mensuretur. Accelerari & retardari possunt motus omnes, sed fluxus Temporis absoluti mutari nequit. Eadem est duratio seu perseverantia existentiæ rerum, sive motus sint celeres, sive tardi, sive nulli; proinde hæc a mensuris suis sensibilibus merito distinguitur, & ex ijsdem colligitur per Æquationem Astronomicam. Hujus autem æquationis in determinandis Phænomenis necessitas, tum per experimentum Horologii oscillatorii, tum etiam per Eclipses Satellitum Jovis evincitur. 間の均時差または補正により,相対時間と区 別される。というのは,自然日は俗に均等と 考えられ,時間の測度として用いられてはい るが,ほんとうは不均等だからである。天文 学者らは,いっそう正確な時により天体の運 動を測りうるようにこの不等を補正する。正 確な時の測定に利用されうる均一な運動とい うようなものは,あるいは存在しないのかも しれない。すべての運動が加速や減速を行う が,しかし絶対時間の流れというようなもの はいかなる変化をも受けない。物の存在の持 続性あるいは耐久性は,運動が速くあれ,遅 くあれ,あるいは皆無であれ,いつまでも同 一である。そしてそれゆえに,この持続時間 は,単にそれの感覚的な尺度にすぎないよう なものとは区別されねばならない。そしてそ のことから,天文学上の式によってそれを演 繹するのである。現象の時刻の決定のために この式が必要であることは,振子時計の実験 からも,また木星の衛星の によってもはっ きりと示されている。 A.2 『純粋理性批判』における時間 原文は [14]、訳文は [7] を引用した。 先験的感性論 Der transzendentalen Ästhetik Zweiter Abschnitt Von der Zeit 第二節 時間について 4 時間の形而上学的解明 §4 Metaphysische Erörterung des Begriffs der Zeit 19 時間は、 (一)なんらかの経験から抽象された Die Zeit ist 1. kein empirischer Begriff, der irgend von einer Erfahrung abgezogen worden. Denn das Zugleichsein oder Aufeinanderfolgen würde selbst nicht in die Wahrnehmung kommen, wenn die Vorstellung der Zeit nicht a priori zum Grunde läge. Nur unter deren Voraussetzung kann man sich vorstellen, daß einiges zu einer und derselben Zeit (zugleich) oder in verschiedenen Zeiten (nacheinander) sei. 経験的概念ではない。時間表象がア・プリオ リに根底に存しないならば、同時的存在もま た継時的存在も、知覚されることすら不可能 であろう。我々は、かかる時間表象を前提し てのみ、いくつかの物が同一時に(同時に)存 在したり、或は異なる時に(継時的に)存在 することを表象し得るのである。 (二)時間は一切の直観の根底に存する必然 2. Die Zeit ist eine notwendige Vorstellung, die allen Anschauungen zum Grunde liegt. Man kann in Ansehung der Erscheinungen überhaupt die Zeit selbst nicht aufheben, ob man zwar ganz wohl die Erscheinungen aus der Zeit wegnehmen kann. Die Zeit ist also a priori gegeben. In ihr allein ist alle Wirklichkeit der Erscheinungen möglich. Diese können insgesamt wegfallen, aber sie selbst (als die allgemeine Bedingung ihrer Möglichkeit,) kann nicht aufgehoben werden. 的表象である。現象を時間から除き去ること は格別むつかしいことではないが、しかし現 象一般に関して時間そのものを除き去ること は不可能である。それだから時間は,ア・プ リオリに与えられているものである。現象の 現実性はまったく時間においてのみ可能であ る。現象はすべて除去せられ得るが、時間そ のものは(現象を可能ならしめる普遍的条件 として)除去せられ得るものではない。 20 (三)時間関係を規定する必然的原則や、時 3. Auf diese Notwendigkeit a priori gründet sich auch die Möglichkeit apodiktischer Grundsätze von den Verhältnissen der Zeit, oder Axiomen von der Zeit überhaupt. Sie hat nur Eine Dimension: verschiedene Zeiten sind nicht zugleich, sondern nacheinander (so wie verschiedene Räume nicht nacheinander, sondern zugleich sind). Diese Grundsätze können aus der Erfahrung nicht gezogen werden, denn diese würde weder strenge Allgemeinheit, noch apodiktische Gewißheit geben. Wir würden nur sagen können: so lehrt es die gemeine Wahrnehmung; nicht aber: so muß es sich verhalten. Diese Grundsätze gelten als Regeln, unter denen überhaupt Erfahrungen möglich sind, und belehren uns vor derselben, und nicht durch dieselbe. 間一般に関する公理が可能であることは、か かるア・プリオリな必然性に基づくのである。 時間は、一次元のみをもつ、従って多くの異 なる時間は、同時的ではなくて継時的である (それは多くの異なる空間が、継時的ではなく て同時的であるのと同様である)。これらの 原則は、経験から導来せられたものではない、 経験は厳密な普遍性をも、また必然的な確実 性をも与えないからである。それだから我々 はこう言い得るだけであろう、——通常の知 覚は、或るものがこれこれであるということ を教えはするが、これこれでなければならな いということを教えるものではない、と。こ れらの原則は、一般に経験を可能ならしめる 規則と見なされるものである、そしてかかる 原則は、このことを経験よりも前に我々に教 えるのであって、経験によって教えるのでは ない。 (四)時間は論証的概念でもなければ、或は 4. Die Zeit ist kein diskursiver, oder, wie man ihn nennt, allgemeiner Begriff, sondern eine reine Form der sinnlichen Anschauung. Verschiedene Zeiten sind nur Teile eben derselben Zeit. Die Vorstellung, die nur durch einen einzigen Gegenstand gegeben werden kann, ist aber Anschauung. Auch würde sich der Satz, daß verschiedene Zeiten nicht zugleich sein können, aus einem allgemeinen Begriff nicht herleiten lassen. Der Satz ist synthetisch, und kann aus Begriffen allein nicht entspringen. Er ist also in der Anschauung und Vorstellung der Zeit unmittelbar enthalten. また一般的概念と呼ばれているようなもので もなくて、感性的直観の純粋形式である。多 くの異なる時間は、唯一の時間のそれぞれの 部分に他ならない。 『多くの異なる時間は同時 的に存在し得ない』という命題は、一般的概 念からは導来せられ得ないだろう。この命題 は綜合的命題であり、概念だけから生じ得る ものではない。それだからこの命題は、時間 直観即ち時間表象のうちに直接に含まれてい るのである。 21 (五)時間が無限であるというのは、或る一定 5. Die Unendlichkeit der Zeit bedeutet nichts weiter, als daß alle bestimmte Größe der Zeit nur durch Einschränkungen einer einigen zum Grunde liegenden Zeit möglich sei. Daher muß die ursprüngliche Vorstellung Zeit als uneingeschränkt gegeben sein. Wovon aber die Teile selbst, und jede Größe eines Gegenstandes, nur durch Einschränkung bestimmt vorgestellt werden können, da muß die ganze Vorstellung nicht durch Begriffe gegeben sein, (denn die enthalten nur Teilvorstellungen,) sondern es muß ihnen unmittelbare Anschauung zum Grunde liegen. の長さをもつ時間は、いずれもその根底に存 する唯一の時間を制限することによってのみ 可能である、という意味にほかならない。そ れだからこの根源的な時̇間̇表象は、もともと 無限定なものとして与えられていなければな らない。そして部分的時間そのものと、或る 対象のもつそれぞれの時間的量とは、かかる 制限によって規定せられたものとしてのみ、 表象せられ得るのである。そうすると全体的 な時間表象は、概念(概念は部分的な時間表 象を含むだけであるから)によって与えられ たものではなくて、直接的な直観としてこれ らの部分的表象の根底に存しなければならな いということになる。 7 説明 §7 Erliäuterung Wider diese Theorie, welche der Zeit empirische Realitiät zugesteht, aber die absolute und transzendentale bestreitet, habe ich von einsehenden Miännern einen Einwurf so einstimmig vernommen, daß ich daraus abnehme, er müsse sich natürlicherweise bei jedem Leser, dem diese Betrachtungen ungewohnt sind, vorfinden. Er lautet also: Veriänderungen sind wirklich (dies beweist der Wechsel unserer eigenen Vorstellungen, wenn man gleich alle iäußeren Erscheinungen, samt deren Veriänderungen, leugnen wollte). Nun sind Veriänderungen nur in der Zeit miöglich, folglich ist die Zeit etwas Wirkliches. Die Beantwortung hat keine Schwierigkeit. Ich gebe das ganze Argument zu. Die Zeit ist allerdings etwas Wirkliches, niämlich die wirkliche Form der inneren Anschauung. Sie hat also subjektive Realitiät in Ansehung der inneren Erfahrung, d.i. ich habe wirklich die Vorstellung von der Zeit und meinen Bestimmungen in ihr. 私は、時間に経験的実在性を認めながら、絶対 的先験的実在性を拒むという私の理論に対し て、学者の側から一斉に非難の声のあがるの を聞いた、してみるとこういう考察に不慣れ な読者からも、当然これと同じ非難が起きる に違いないと思われる。つまり変化は現実に 存在する(我々が一切の外的現象ならびにそ の変化をいくら否定しようとしても、我々自 身の表象の変化がこれを証明している) 、とこ ろで変化は時間においてのみ可能である、そ れだから時間は現実的なものである、という のである。しかしこの非難に答えることは容 易である。私はかかる議論をすべて承認する。 時間は確かに、何か或る現実的なものである、 要するに時間は内的直観の現実的形式なので ある。従ってまた時間は内的直観に関して主 観的実在性を持つ、——換言すれば、私は実 際に時間的表象と、私自身が時間において規 定されているという表象とをもっている。そ れだから時間は現実的である、 22 しかし対象そのものとして現実的なのではな Sie ist also wirklich nicht als Objekt, sondern als die Vorstellungsart meiner selbst als Objekts anzusehen. Wenn aber ich selbst, oder ein ander Wesen mich, ohne diese Bedingung der Sinnlichkeit, anschauen kiönnte, so würden eben dieselben Bestimmungen, die wir uns jetzt als Veriänderungen vorstellen, eine Erkenntnis geben, in welcher die Vorstellung der Zeit, mithin auch der Veriänderung, gar nicht vorkiäme. Es bleibt also ihre empirische Realitiät als Bedingung aller unserer Erfahrungen. Nur die absolute Realitiät kann ihr nach dem oben Angeführten nicht zugestanden werden. Sie ist nichts, als die Form unserer inneren Anschauung*. Wenn man von ihr die besondere Bedingung unserer Sinnlichkeit wegnimmt, so verschwindet auch der Begriff der Zeit, und sie hiängt nicht an den Gegenstiänden selbst, sondern bloß am Subjekte, welches sie anschaut. くて、私自身を対象として表象する仕方とし て現実的なものと見なさねばならない。もし 仮りに私自身なり或はほかの存在者なりが、 感性というこの主観的条件を度外視して私を 直観し得るとすれば、我々がいま自分自身の 変化として表象しているところのこの同じ規 定は或る種の認識——即ちそこでは時間表象 も、従ってまた変化の表象もまったく現れな いような認識を生じることになるだろう。し てみると時間の経験的実在性は、やはり我々 の一切の経験を可能にする条件である。た だ——上に述べた通り、——時間に絶対的実 在性を認めることはまったく不可能である。 時間は、我々の内的直観 ∗ の形式にほかなら ない。もし時間から、我々の感性に特殊なこ の条件が除去されるならば、時間の概念もま た消失する。つまり時間は、対象そのものに 付属するものではなくて、対象を直観すると ころの主観に属するのである。 ∗ ∗ 私は確かにこう言うことができる、——『私 Ich kann zwar sagen: meine Vorstellungen folgen einander; aber das heißt nur, wir sind uns ihrer, als in einer Zeitfolge, d.i. nach der Form des inneren Sinnes, bewußt. Die Zeit ist darum nicht etwas an sich selbst, auch keine den Dingen objektiv anhiängende Bestimmung. の表象は相ついで継起する』 、と。しかしそれ は、私が私の表象を時間的に継起するものと して、換言すれば内感の形式に従うものとし て意識しているというだけのことでしかない。 それだから時間は、何か或るものそれ自体で はないし、またものに客観的に付属している ような規定でもない。 A.3 アインシュタインの時間 「特集相対性理論」原論文 原文は [16]、訳文は [9] を引用した。 動いている物体の電気力学 Zur Electrodynamik bewegter Körper I. Kinematischer Teil. §1. Definition der Gleichezeitigkeit I. 運動学の部 §1. 同時刻の定義 23 (前略) ところで,われわれの判断のうち,そこで時 Wir haben zu berücksichtigen, daßalle unsere Urteile, in welchen die Zeit eine Rolle spielt, immer Urteile über gleichzeitige Ereignisse sind. Wenn ich z. B. sage: „Jener Zug kommt hier um 7 Uhr an,“ so heißt dies etwa: „Das Zeigen des kleinen Zeigers meiner Uhr auf 7 und das Ankommen des Zuges sind gleichzeitige Ereignisse.“ 1 ) 間が役割をになう場合には,そのような判断 はすべて,いくつかの出来事が同時刻に起き たか否かに対する判断であるということを念 頭におかねばならない。たとえば,私が “あの 列車は 7 時にここに到着する” と言ったとき, それは “私の時計の短針が 7 を指すというこ とと,列車の到着とは同時刻に起きる出来事 である” ということを意味する ∗ . * 原著者注:同一(あるいはほとんど同一)の 1) Die Ungenauigkeit, welche in dem Begriffe der Gleichzeitigkeit zweier Ereignisse an (annähernd) demselben Orte steckt und gleichfalls durch eine Abstraktion überbrückt werden muß, soll hier nicht erörtert werden. 場所で起きた二つの事件の間の同時刻という 概念の中にひそんでいる不精確さ,そしてこ れもまた,抽象化という方法で解決されねば ならないものであるが,これについては,こ こでは深く議論しないことにする. (中略) そこでわれわれは,次に述べるような考え方 Zu einer weit praktischeren Festsetzung gelangen wir durch folgende Betrachtung. によって,より現実的な時間の定義法に到達 できる事を示そう. 24 いま空間の中の点 A にひとつの時計があると Befindet sich im Punkte A des Raumes eine Uhr, so kann ein in A befindlicher Beobachter die Ereignisse in der unmittelbaren Umgebung von A zeitlich werten durch Aufsuchen der mit diesen Ereignissen gleichzeitigen Uhrzeigerstellungen. Befindet sich auch im Punkte B des Raumes eine Uhr — wir wollen hinzufügen, „eine Uhr von genau derselben Beschaffenheit wie die in A befindliche“ — so ist auch eine zeitliche Wertung der Ereignisse in der unmittelbaren Umgebung von B durch einen in B befindlichen Beobachter Möglich. Es ist aber ohne weitere Festsetzung nicht möglich, ein Ereignis in A mit einem Ereignis in B zeitlich zu vergleichen; wir haben bisher nur eine „A-Zeit“ und eine „B-Zeit“, aber keine für A und B gemeinsame „Zeit“ definiert. Die letztere Zeit kann nun definiert werden, indem man durch Definition festsetzt, daßdie „Zeit“, welche das Licht braucht, um von A nach B zu gelangen, gleich ist der „Zeit“, welche es braucht, um von B nach A zu gelangen. Es gehe nämlich ein Lichtstrahl zur „A-Zeit“ tA von A nach B ab, werde zur “ B-Zeit„tB in B gegen A zu reflektiert und gelange zur „AZeit“ t′A nach A zurück. Die beiden Uhren laufen definitionsgemäßsynchron, wenn する.A にいる観測者は,A のすぐ近くに起 こる事件に大して,それらの事件が起きた瞬 間に,A にある時計の針が示す数値を用いて, それらに時間的な数値を与えることができる. また空間の他の点 B にも,ひとつの時計が あるとしよう.——この時計は “A にある時 計とまったく同じ性能をもった時計” である という前提を付け加えることにする.——こ のときは B にいる観測者もまた,同様にして B のすぐ近くに起こる事件に時間的な数値を 貼りつけることができる.しかし A に起きた 事件と,B に起きた事件を時間的に比較する ことができるためには,これだけでは不可能 で,さらに他の規則を定める必要ある.われ われがいままでに定義したものは,ひとつの “A 時間”,およびもうひとつの “B 時間” だけ であり,A と B に共通な “時間” については 何の定義も与えていない.A,B に共通な時 間は,次のようにして定義される.すなわち, 光が A から B に到達するのに要する “時間” は,逆に B から A に立ち戻るのに必要な “時 間” に等しいという要請を定義として前提に おくことである.この前提のもとに,ひとつ の光線が,“A 時間” の tA という瞬間に A を 出発して B に向かい,“B 時間” の tB という 瞬間に B で反射され,“A 時間” の t′A という 瞬間に,A に立ち戻ったとする.もし tB − tA = t′A − tB tB − tA = t′A − tB . という関係が成立すれば,これら二つの時計 は(定義により)合っている(等しい時間を 表している)ということにする. 25 ここで述べた,“時計が合っている” という定 Wir nehmen an, daßdiese Definition des Synchronismus in widerspruchsfreier Weise möglich sei, und zwar für beliebig viele Punkte, daßalso allgemein die Beziehungen gelten: 1. Wenn die Uhr in B synchron mit der Uhr in A läuft, so läuft die Uhr in A synchron mit der Uhr in B. 2. Wenn die Uhr in A sowohl mit der Uhr in B als auch mit der Uhr in C synchron läuft, so laufen auch die Uhren in B und C synchron relativ zueinander. 義は,矛盾することなく成りたち,またいく らでも多くの異なる場所のそれぞれに置かれ た時計に対しても適用できるものと仮定する. それゆえ,一般に次の関係が成りたつものと 仮定する: 1. もし B の時計が,A にある時計と合っ ていれば,逆に A の時計は,B の時 計と合っている. 2. A の時計が,B にある時計ばかりでな く,さらに C にある時計とも合って いるならば,B ,C にある時計は互い に合っている. 種々の場所に静かに置かれたそれぞれの系が Wir haben so unter Zuhilfenahme gewisser (gedachter) physikalischer Erfahrungen festgelegt, was unter synchron laufenden, an verschiedenen Orten befindlichen, ruhenden Uhren zu verstehen ist und damit offenbar eine Definition von „gleichzeitig“ und „Zeit“ gewonnen. Die „Zeit“ eines Ereignisses ist die mit dem Ereignis gleichzeitige Angabe einer am Orte des Ereignisses befindlichen, ruhenden Uhr, welche mit einer bestimmten, ruhenden Uhr, und zwar für alle Zeitbestimmungen mit der nämlichen Uhr, synchron läuft. 互いに合っている〔等しい時間を表している〕 とは何を意味するのか,また “同時刻”,さら に “時間” とは何かといった問いに対して,い まや,われわれは,これまで述べてきたよう な(思考上の)物理学的経験の助けをかりて, その定義を明確に与えたことになる.すなわ ち,ひとつの事件の発生の “時刻” とはその事 件の起きた場所に静かに置かれている時計の 針が,事件発生の瞬間に示す数値のことであ る.ただし,この時計は,それを用いて行わ れるすべての時間測定において,ある特定の 場所(例えば座標系の原点)に静かに置かれ ている特別な時計〔親時計と呼ぼう〕と常に 等しい時間を示す(合っている)ように調整 されているものとする. なおここで,経験に従って(A,B の間の距 Wir setzen noch der Erfahrung gemäßfest, daßdie größe 離を AB と書くとき), 2AB =c − tA 2AB =V − tA t′A t′A という量が,ひとつの普遍定数(真空中の光 eine universelle Konstante (die Lichtgeschwindigkeit im leeren Raume) sei. の速さ)であると仮定しよう. 26 静止系に静止している時計を用いて時間を定 Wesentlich ist, daßwir die Zeit mittels im ruhenden System ruhender Uhren Definiert haben; wir nennen die eben definierte Zeit wegen dieser Zugehörigkeit zum ruhenden System „die Zeit des ruhenden Systems“. 義したということは,非常に重要なことであ る.このように定義された時間を,それが静 止系に依存しているという理由から “静止系 の時間” と呼ぶことにする. プリンストン大学における講義 原文は [17]、訳文は [10] を引用した。 相対論以前の物理学における空間と時間 SPACE AND TIME RELATIVITY PHYSICS IN PRE- (前略) 言葉の助けをかりることによって,違った個 By the aid of language different individuals can, to a certain extent, compare their experiences. Then it turns out that certain sense perceptions of different individuals correspond to each other, while for other sense perceptions no such correspondence can be established. We are accustomed to regard as real those sense perceptions which are common to different individuals, and which therefore are, in a measure, impersonal. The natural sciences, and in paticular, the most fundamental of them, physics, deal with such sense perceptions. The conception of physical bodies, in particular of rigid bodies, is a relatively constant complex of such sense perceptions. A clock is also a body, or a system, in the same sense, with the additional property that the series of events which it counts is formed of elements all of which can be regarded as equal. 人が,ある程度まで彼らの経験を比較するこ とができる.こうして,違った個人のある種 の感覚は互いに対応がつき,その他の感覚に 対しては,このような対応がつけられないこ とが示される.われわれは違った個人に共通 な感覚,したがって多少とも超個人的な感覚 を現実のものと見なすのが普通である.自然 科学,そしてとくに,そのうちで最も基本的 な物理学は,このような感覚を取り扱う.物 理学的物体,とくに剛体の概念は,このよう な感覚の相当確固たる集成である.時計もま た同じ意味で 1 つの物体または 1 つの体系で あるが,それは,それの数える事象の列が,す べて同じと見なしうるような要素からできて いるという付加的な性質を持っている. 27 われわれの概念,および概念の体系が妥当で The only justification for our concepts and system of concepts is that they serve to represent the complex of our experiences; beyond this they have no legitimacy. I am convinced that the philosophers have had a harmful effect upon the progress of scientific thinking in removing certain fundamental concepts from the domain of empiricism, where they are under our control, to the intangible heights of the a priori. For even if it should appear that the universe of ideas cannnot be deduced from experience by logical means, but is, in a sense, a creation fo the human mind, without which no science is possible, nevertheless this universe of ideas just as little independent of the nature of our experiences as clothes are of the form of the human body. This is particularly true of our concepts of time and space, which physicists have been obliged by the facts to bring down from the Olympus of the a priori in order to adjust them and put then in a serviceable condition. あるという唯一の理由は,それらがわれわれ の経験の集成を表現するのに役立つという点 にある.これ以上には,概念や概念の体系は 何らの妥当性を持ちえない.哲学者たちは, ある種の基本的な概念を,それを制御しうる 経験領域から,“先験的必然” という捉え難い 高所へ運ぶことによって,科学的思考の進歩 に対して 1 つの有害な影響を与えたと私は信 じる.なぜなら,概念の世界は,経験から論 理的方法によっては導きえられず,ただ,あ る意味で,人間精神——それなくして科学は ありえない——の 1 つの創造物に過ぎないと 思われるとしても,それにもかかわらず,こ の概念の世界は,ちょうど着物の形が人間の 形をしているのと同様,われわれの経験の性 質と密接な関係にある.このことは,とくに われわれの空間と時間の概念に対してもほん とうであって,物理学者たちは,これらを修 理し,ふたたび使用可能な状態におくために, これらを “先験的必然” の神殿からひきずり下 ろすことを,事実によって余儀なくされてき たのである. A.4 ベルグソンの問題意識 原文は [18]、訳文は [11] を引用した。 28 時間の問題ほど哲学者によって無視されたも Aucune question n’a été plus négligée par les philosophes que celle du temps ; et pourtant tous s’accordent à la déclarer capitale. C’est qu’ils commencent par mettre espace et temps sur la même ligne : alors, ayant approfondi l’un (et c’est généralement l’espace), ils s’en remettent à nous du soin de traiter semblablement l’autre. Mais nous n’aboutirons ainsi à rien. L’analogie entre le temps et l’espace est en effet tout extérieure et superficielle. Elle tient à ce que nous nous servons de l’espace pour mesurer et symboliser le temps. Si donc nous nous guidons sur elle, si nous allons chercher au temps des caractères comme ceux de l’espace, c’est à l’espace que nous nous arrêterons, à l’espace qui recouvre le temps et qui le représente à nos yeux commodément : nous n’aurons pas poussé jusqu’au temps lui-même. Que ne gagnerions-nous pas, cependant, à le ressaisir ! La clef des plus gros problèmes philosophiques est là. のはなかった。しかも、みなそれを主要問題 と宣言することでは一致している。というの は、かれらは空間と時間を同一水準におくこ とから始めるのである。その時、かれらはそ の一方(しかもそれは一般に空間である)を 深くきわめて、他を同様に扱う心づかいをわ れわれにまかせるのである。しかし、これで は何ものにも達しないであろう。時間と空間 との類比は実にまったく外的であり表面的で ある。それは、時間を計り記号で表すのに空 間が用いられることに由来している。それゆ え、空間を目当てに進み、時間に空間と同じ ような特徴をさがしにいくならば、止まると ころは空間、すなわち時間をおおい隠し時間 をわれわれの目に便利に表すところの空間で ある。時間そのものまではいきつかないであ ろう。だが、それを取り戻すならばなんと益 があることであろう。哲学の最大の諸問題を 解く はそこにある。 付録 B 人物年覧 生没年については [12] を参照した。 氏名 生年 没年 大伴家持 718 - 785 Newton, Issac 1642 - 1727 Kant, Immanuel 1724 - 1804 Lagrange, Joseph-Louis 1736 - 1813 Bergson, Henri-Louis 1859 - 1941 Einstein, Albert 1879 - 1955 29 参考文献 [1] ,「双対性とは何か∼人間の復活を目指して∼」,第 38 回第二土曜会 [2] ,「私芸術とは何か」,第 25 回第二土曜会 [3] 中西進,「万葉集 全訳注 (一、二、三、四、別巻)」,講談社文庫 原文付 [4] 倉野憲司,「古事記」,岩波文庫 [5] 豊田国夫,「日本の言霊思想」,講談社学術文庫 [6] GAME FREAK Inc. ,「ポケットモンスター ピカチュウ」,任天堂 [7] 篠田英雄 訳,「純粋理性批判」,岩波文庫 [8] 中野猿人 訳,「プリンシピア」,講談社 [9] 内山達雄 訳,「相対性理論」,岩波文庫 [10] 矢野健太郎 訳,「相対論の意味」,岩波文庫 [11]「ベルグソン全集第 3 巻」,白水社 [12] ブリタニカ・ジャパン,「ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版」,2011 [13] 劇団四季ミュージカル「夢から醒めた夢」『二人の世界』より [14] Kant, I,Kritik der reinnen Vernunft,from: Project Gutenberg, www.gutenberg.org [15] Newton, I,PhilosophiæNaturalis Principia Mathematica,from: Project Gutenberg,www.gutenberg.org [16] Einstein, A. (1905), Zur Elektrodynamik bewegter Körper. Ann. Phys., 322: 891–921. doi: 10.1002/andp.19053221004, from: Wiley Online Library, onlinelibrary.wiley.com [17] Einstein, A,The Meaning of Relativity,from: Wikisource, en.wikisource.org [18] Bergson, H,Durée et simultanéité,from: Les Classiques des sciences sociales, Université du Québec à Chicoutimi,classiques.uquac.ca [19] Le Nouveau Petit Robert de la langue française,2008 nouvelle édition [20] Chris Sinha, Vera Da Silva Sinha, Jörg Zinken and Wany Sampaio (2011). When 30 time is not space: The social and linguistic construction of time intervals and temporal event relations in an Amazonian culture . Language and Cognition, 3, pp 137-169. doi:10.1515/langcog.2011.006. [21] BBC news,Amondawa tribe lacks abstract idea of time, study says,www.bbc.com [22] Rimbaud, A,Poésies. Une saison en enfer. Illuminations,NRF Poésie (GALLIMARD) 31
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