視点の制御機構 西田谷 1 洋 はじめに 物語表現は、認知主体のスキャニングによる物語世界の構築/把握とその編集行動によって生 成されている。物語世界は、認知主体の眼差し、心的経路によって構成/対象化され、物語られ ( 1 ) る。この事象把握/表象の問題系は、物語世界は、いかなる枠組みを通してどのような角度・程 度によって生成=提示されるのか、という物語における視点論の問題として捉え返すことができ るだろう。 かつてジュネットは、物語世界の情報の再現量の制御を示す焦点化(1a)という概念を提示し ( 2 ) た。焦点化の作中人物がもつ物語世界の情報量に対して語り手が聴き手にどの程度物語世界の ( 3 ) 情報量を伝えるかという観点に類似した概念として、〈情報の縄張り〉理論を支える久野暲『談 話の文法』(大修館書店一九七八・一二)の視点を挙げることができる。久野氏は、人物の共感 度と話し手の共感度の大小関係を視点としている。だが、厳密には、共感度あるいは情報量の大 ( 4 ) 小関係は、パースペクティヴやフレームとは無関係だ。知覚する主体が視点を設定する。視点の 「誰が見ているか」という問題と、共感度の「誰の側に立っているか」という問題とは異なる。 情報・共感の制御と視点とは違う。 (1a)焦点化ゼロ(語り手>作中人物) 内的焦点化(語り手=作中人物) 外的焦点化(語り手<作中人物) ジュネットは焦点化を情報量の関係から三つに区別するが、実際には、物語テクストでは全体 に渡ってあるタイプの焦点化が維持されるのではなく、変動する。そこで、シュミロス・リモン ( 5 ) =キーナンは、焦点化を、(1b)に三分類す る。 (1b)固定焦点化(物語全体に亘って同一の焦点化子が維持されている場合) 移動焦点化(二つの異なる焦点化子が採用されている場合) 多元焦点化(いくつかの異なるタイプの焦点化子が採用されている場合) さて、ジュネットが視点に代えて焦点化を提示したのは、視覚性を排除することで、「だれが 語っているか」という語り手の声と「だれが見ているか」という登場人物の視点というレベル間 の混同を回避しようとしたためだ。だが、等質物語世界の焦点化で、ジュネットは焦点化ゼロと ( 6 ) いうべき表現を「語り手を通しての内的焦点 化」と呼び、語りと視点を混同している。そもそも、 焦点化が「誰が見ているのか」ではなく、厳密には「どのようなコンテクストにおいて、だれが ( 7 ) 見ているものとして提示されているのか」、すなわち「どのように語るのか」という領域に対応 71 する点で、ジュネットにも語りと視点の混同がある。 これに対し、シーモア・チャトマンは、視点を、物語内容レベルの作中人物のフィルターと、 ( 8 ) 物語言説レベルの語り手の視座とに区分す る。チャトマンは、視点概念を維持し、知覚・認識だ けではなく、態度・感情・記憶・イデオロギーを含む心的行為全体にまで視点の対象を拡張する。 フィルターとしての作中人物の視点が帰属する物語内容を語り手が報告するという、チャトマン のモデルでは、声と視点、物語言説と物語内容は厳然と区別され、物語内容が物語言説に先行す るものとして位置づけられている。 だが、視点と声の区別自体再考されねばならない。スキャニングをめぐる検討で明らかになっ たのは、語りと視点の混同としてではなく両者を一体としてとらえるアプローチの必要性だ。そ ( 9 ) (10) れに対し、ミーケ・バルが提示しパトリック・オニ ールが発展させた焦点化子は、こうした物語 (11) (12) における意識の志向性を問題化する契機を与えてくれる。一方で、山 岡實・遠藤 健一両氏の物語 視点論系の仕事の検討等、近年の物語の視点論は、二声仮説や脱構築をめぐる混迷に陥っている。 こうした事態の打開には、物語テクストに対するアプローチを再考する必要がある。物語テクス トに対するアプローチは、①作者重視モデル(作品論)、②テクスト重視モデル(テクスト論)、 ③読者重視モデル(読者論)、④相互作用モデル(カルチュラル・スタディーズ)の四つに区別 できる。認知物語論がとる立場も④だが、カルチュラル・スタディーズがテクストとコンテクス トの関連を重視するのに対し、認知物語論は作者から読者に至る表現・理解プロセスを重視する。 むろん、単純に、スキャニングを物語表現生成にあてはめたならば、発話事象、その参与者(話 者と聞き手)、またそれを取り巻く直接的な環境であるグラウンドと、それを一種の参照点とし た認識的解釈を客体的対象概念に付与することで、その対象概念を物語の認知空間における特定 (13) の場所に位置付ける認知操作であるグラウンディングによっ て、物語テクストが構築されてい ることが軽視され、視点が移動することで相対的に事象を捉えるというかつての視点移動説が浮 上するだろう。だが、厳密には視点自体が移動しているわけではない。本稿では、いわばフレー ム化された参照点の移動と対象の構築/表現を視点が統御するという見解を提示してみたい。 本稿では、第一に視点移動モデルでとらえられがちな焦点化子を参照点モデルで捉え、第二に 受容モデルでは読者側の認知操作と目された視点を相互作用モデルから把握する。物語テクスト において視点とは実際には語り方である限りで、本稿では、話者による語りの統御の問題として 視点を捉え返すことになる。その上で視点の決定不能性・無限後退の問題に対する説明モデルの 提出を試みる。ただし、ここではあくまでモデルの構築が目的であり、実際の物語分析による検 証は別の機会に譲ることにする。 なお、本稿でいう視点とは視覚性に限定されないあらゆる知覚・心理の認識=表現の装置とい う意味であることをことわっておく。一方、参照点は、主体が認知する認知領域内部の基準点と して、視覚レベルでは視点が採用した物語世界のフレーム内で作用する視覚的認知作用の基準点 を指す。心的接触としての眼差しは視点が採用したフレーム内を心的に走査する際の視覚的・知 覚的な動きを意味する。また、認知主体であり物語テクストに内在する話者と、物語世界での作 72 中人物としての語り手を区別する。物語世界に人物として現象し自ら語っているかのように叙述 される存在である語り手と、物語テクストを叙述する操作概念としての話者の混同が視点移動説 を生み出しているからだ。 2 視点移動説としての焦点化子 物語論の知見によれば、物語内容は、二重の媒介性、語る声と見る眼差しを通して提示される。 語る声が語り手に帰属するのに対し、見る視点は焦点化子に帰属する。情報の制御を扱う定義上、 焦点化とは、物理的な視覚に限定されるのではなく、物語事象を語り手から聞き手に伝える過程 の媒介性となる。 バルは、焦点化を、語りテクスト(語り手/聴き手)・物語内容(焦点化子/被焦点化子)・ ファブラ(登場人物)に三分類される審級の一つに独立させ、焦点化の主体と対象、すなわち焦 点化子と被焦点化子を動作主として規定する。この場合、焦点化の機能は、ファブラを整序化し 物語内容に転換することにある。バルの焦点化は、「語りに先立って、物語世界がどのような眼 (14) 差しに切り取られられているの か」という問題意識から、物語における意識の志向性の問題系を 構成する。 例えば、筒井康隆『家族八景』の一節(2a)では、(2b)に整理するように、大まかには登場人物 は七瀬、焦点化子は七瀬、被焦点化子はファイル、新三となる。なお、(2b)では、七瀬の思考の 中での新三の思考・行動を括弧に括って表示した。 (2a)①七瀬は茫然として手にしたカードを眺めた。早まった、と彼女は思った。②ファイル ・ブックの金具をはずす手間を惜しんで引きちぎったため、カードの隅のパンチされた部 分が破れていて、今更もとに戻すことができなかった。③もし新三が七瀬の父のことを思 い出し、④ファイルを見てカードの脱落を発見した場合、⑤だいいちに七瀬を疑うだろう。 あるいは七瀬が何を隠そうとしているか、詮索しはじめるかもしれない。 (2b)語りテクスト:語り手→物語場面(2a)→聴き手 物語内容:①Fr1→Fd1②Fr2→Fd2③Fr2→Fd3(③Fr3→Fd4④Fr3→Fd2⑤Fr3→Fd1) ファブラ:七瀬が新三のカードファイルを壊す Fr=焦点化子 Fr1=語り手、Fr2=七瀬、Fr3=新三 Fd=被焦点化子 Fd1=七瀬、Fd2=ファイル、Fd3=新三、Fd4=七瀬の父 焦点化子は物語テクストの常態としては固定的ではなく変動し、(2b)の焦点化子と被焦点化子 の関係を(2c)に整理したように、被焦点化子が焦点化子となる場合がある。この点で、バルの焦 点化子論は、視点を、事態認知に際してダイクティックな固定的位置を占めると考えるのではな く、事象に際して相対的に移動するものとして捉える視点移動説に対応すると言えよう。 73 (2c)Fr1→Fd1=Fr2→Fd2 ↑ │ ↓ ↑ Fd3=Fr3→Fd4 └────┘ また、オニールの場合、焦点化は語りと共に物語内容が物語言説に変換される際の媒介であ (15) り、語り手や内包された作者が動作主なのに対し、焦点化子とは「選ばれた場所、物語が提示さ れる任意の時点で、任意の時点で、当該物語がどこから見られて提示されているかのその場所の こと」(DF118)とみなす。オニールは、焦点化子の位置(2d)・情報範囲(2e)によって新たに術語 系を組み替え、内的焦点化は、語り手を経由して語られるため、外的焦点化に埋め込まれた二次 的焦点化だとする。この点で、内的焦点化は複合焦点化なのに対し、外的焦点化は単一焦点化と なるという。語り手は対象を直接焦点化することも、登場人物を通して間接的に対象を焦点化す ることも選択でき、オニールは焦点化の関係を(2f)に整理する。 (2d)内的焦点化(焦点化子の位置が物語世界の内部の登場人物の場合) 外的焦点化(焦点化子の位置が物語世界の外部の語り手の場合) (2e)透過(焦点化の対象が内面に及ぶ場合) 不透過(焦点化の対象が外面のみの場合) (2f)F=(EF(CF)) EF=外的焦点化子 CF=内的焦点化子 CO=内的被焦点化子 (2g)では、(2f)の公式に基づいて(2a)を分析した。 (2g)①七瀬は茫然として手にしたカードを眺めた[EF]。早まった、と彼女は思った[EF(CF 七瀬)]。②ファイル・ブックの金具をはずす手間を惜しんで引きちぎったため、カードの 隅のパンチされた部分が破れていて、今更もとに戻すことができなかった[EF]。③もし新 三が七瀬の父のことを思い出し、④ファイルを見てカードの脱落を発見した場合、⑤だい いちに七瀬を疑うだろう。あるいは七瀬が何を隠そうとしているか、詮索しはじめるかも しれない[EF(CF 七瀬→CO 新三)]。 (2h)重畳し交錯する眼差しの多層性ゆえに、「複合」は、こと読者の立場からする限り、「複 雑」ということばにとって代わられるに違いない。(DF136) オニールによれば、焦点化はテクストレベルで作動する。焦点化は語りのレベルに根拠を持ち、 さらには内包された作者のレベルで焦点化が制御される。語る前に認知主体の心的空間で内包さ れた作者は焦点化の時空を同定し、語りと焦点化を決定する。この意味で、焦点化はテクスト外 74 のテクスト性にも関わる。オニールは、厳密には全ての焦点化は(2h)の理由により、複雑焦点化 だという。遠藤氏は、「分析不可能な物語切片を分析不可能なままに、不確定なものは不確定な (16) ままに記述できる 点」をオニールの焦点化論の利点に挙げている。だが、『言説のフィクション』 レベルに基づいた焦点化子の位置・範囲に関わる解読格子に基づく(2g)の記述は、より細分化が 可能かもしれないが、実現された結果としては、意識の志向性の動態を記述することは、バルよ りも後退している面もあるように思われる。しかも、主体の多重化による視点と声の多重拡散化 は、読者側からの解釈のみを重視することによって導かれる帰結であり、有契的に動機づけられ た物語テクストという認知的立場に立つならば、別の帰結がありえよう。 ところで、スキャニングを単純に物語テクストの視点論に接続するならば、バルの焦点化子と 相対的移動・移行という点で骨格を共有する見解が提出される。そうした事例として、樋口万里 (17) 子氏の視点論を以下に整理する。 樋口氏は、語りの時点は物語の展開と共に移動可能であり、日本語表現の視点(3a)は、英語表 現の視点(3b)と異なり、発話時ではなく、事態の見え方だけに関わる操作概念だとする。タ形は、 ある一纏まりの事態の実現・生起全体を後方から見たイメージの、基本形は事態の一纏まりを前 方・内側から眺めるイメージの、方向性を指示するという、視点を誘導する標識となる。日本語 では語り手の位置は言葉には現れず、小説の場合では、物語の中の様々な複雑な時点があり、出 来事を眺める認知主体は語り手の場合も登場人物の場合もある。基本形やタ形が関るのは、ある 視点と事態の相対的な時間的位置関係だけで、その視点がどこにあるかについては、文脈等で補 う仕組みになっている。 (3a)基本形 タ形 発話者・その他 事態 事態 発話者・その他 △ △→ ←△ 時間の流れ (3b) 時間の流れ 過去形 現在形 ● 時間の流れ 発話者(発話時) 落合恵子『パラソル』の冒頭(3c)では、□のタ形は語り手の視点から登場人物の動作や場面状 況が、下線部のタ形は登場人物のまなざしで動作の実現が、下線部の基本形は同時性やその時の 状況が、描かれている。樋口氏は、(3c)に見られるように、「何故語り手から作中人物へと何の 断りもなく視点が移動できるのか」と問い、「日本語では、認知主体が誰であるかやその時間的 位置は言葉で指定されていなくても、コンテクストを考慮して解釈することができる。逆に言え 75 (18) ば、指定されていないから、コンテクストによって解釈す る」と説く。 (3c)六月の、重たく湿った昼下がりだった 。風はなく、澱んだ空気が街から活気を奪って いる。額に吹き出た汗を指先でおさえ、笙子は、眉をひそめて歩いてい た。一歩踏み出す たびに、靴があたる。足の甲に食い込んでずきずきと痛い。ためしに立ち止まってみたが、 痛みはおさまらない。表通りに出たところで空車を探したが、こんな時に限って、どの車 も客を乗せている。 (3d)宴席で、藤沢は、「私にはイデオロギーはない」と言った。 樋口氏の見解は、日本語の時制選択が発話時を軸としている様に見えるのは主節現象だけを見 るからで、基本形/タ形自体は、主節や従属節の別やジャンルを問わず、本質的に認知主体やそ の時間的絶対位置等を意味の中に必要とはしないとする立場だ。一方、ノンフィクション(3d) では時制選択の基準時が通常発話時となるのは、「事態を知覚し描写する主体は、発話時点の発 (19) 話者なのが普 通」とする常識が作用するからだとする。だが、フィクションとノンフィクション の境界は無段階的であり、いかなる日本語表現をも統一的に説明しうる理論構成が必要なのでは ないか。 バル、オニール、樋口氏の説は、①視点移動説(バル、樋口)、②読者側からの解釈の多様性 (オニール)という問題点をかかえている。 本稿で、それに代わって提示しようとするのは、話者の視点の参照点としての焦点化子という 考え方だ。話者は、参照点を移動させることで物語世界の対象の把握の過程を描き、対象の細部 が前景化されたとき対象の連続的変形の過程が描かれる。いわば、参照点からの心的接触の動き によって世界が様々に表現される。静的な参照点からはフレームとしてのパースペクティヴが構 築され、動的な参照点からは対象がフレームに配列され、世界とその表現が構成される。 そもそも、物語世界内/物語世界外、物語言説/物語内容との関係を視点移動説から解決しよ うとするとき、二つの方向性が生まれる。 一つは、物語世界内と物語世界外との間の語り手の移動度を測定するもの。山岡氏は、物語世 界内では作中人物は実際に見ており、物語世界外では語り手が根元的に見ているとし、焦点化は 語りに先行すると位置づける。通常の語りでは情報の流れは〈語り手←登場人物〉であるのに対 し、内的独白では〈語り手=登場人物〉となるという。また、氏は、時制の過去に文法的意味を 見出し、過去時制や三人称代名詞の消滅を語り手が登場人物に移動したと捉え、物語の伝達様式 を英語では三段階、日本語では四段階(4)に整理する。この伝達様式の段階性は、語り手の物語 (20) 世界と人物への移動度によって区別され る。 76 (4)伝達様式(Ⅰ) (ⅰ) 伝達様式(Ⅱ) (ⅱ) S1 Now1 [過去] S2 [未来] [現在] Now2 [現在] 伝達様式(Ⅲ) 伝達様式(Ⅳ) C C Now2 [未来] [現在] Now2 [未来] [現在] S2 Now2 S=語り手 [未来] S1=物語世界外の語り手 Now1 [未来] S2=物語世界内に移行した語り手 C=作中人物 Now=発話時点 Now1=物語世界外 Now2=物語世界内 もう一つは、視点移動現象から物語内容と物語言説の峻別の不可能性を説くもの。例えば、ジ (21) ョイス「姉妹」の一節(5)の傍線部「今度」・「今」などの「作中人物の同時代 化」という技法 は語り手の私とは異なる作中人物の私の「今」を強調するが、遠藤氏はこれを「物語内容と物語 (22) 言説のレヴェルの混同であり、語りの「今」と語られる「今」の溶 融」だとする。語りの「今」 と語られる「今」の溶融は、遠藤氏は、語る声と見る眼差しの融解による自由間接言説に純粋に 見られると主張し、語る主体への知覚・認識する主体の融解という現象として記述する。 (5)今度はもう望みがない。三度目の卒中だったから。・・・彼は「わたしはもう長くはな い」と折につけわたしに言っていたのだが、わたしは本気に考えていなかった。そのこと ばが本当だということを、今、私は知ったのだった。 だが、両者には物語世界と視点を制御する語り手の位置づけが不充分なためにそれぞれ欠陥が ある。山岡氏の場合、小森陽一氏の聴き手論と同じく、物語世界内の実在・先行を主張する点で、 (23) やはり跡上氏の 批判を免れない。遠藤氏の場合、融解は分析の放棄であり、語り手が登場人物を 制御して語るという物語テクストを物語内容と物語言説という二つの枠組みで全て説明しよう とすること自体に無理がある。 ところで、遠近法が観察する主体と二次元の客体の表象の間の位置関係を決定するのに対し、 (24) 生方智子氏は、客体認識に主体が組み込まれるフレームモデルを提示す る。生方氏のモデルは、 位相の異なる情報を組み合わせる編集と、情報をメタレベルの情報によって意味づけるふちどり によって構成される。ただし、生方氏が、新聞・雑誌メディアの誌・紙面を問題としたのに対し、 主体=客体のフレームモデルは物語テクストにも適用される。なぜなら、視点の対象は物語表現 77 の対象であると共に物語表現の配置=配列によって構築され、話者=視点の操作者、語り手=視 点の参照点は、物語表現に組み込まれた主体であり、その主体の事態認知として物語世界/表現 が構築=受容されるからだ。 (6)は物語テクストにおける基本形/過去形混交を図式化した。物語世界の同一の事態に対す る異なる参照点の異なる設定・操作の組み合わせ、(6)でいえば領域1(基本形)と領域2(過 去形)の編集・合成によって基本形/過去形混交の物語表現が制作される。 (6) A B NE A:作者 B:読者 NW R N:話者 E F:焦点化子 F →■ ○ ○ t R:参照点 1 E:事態(ターゲット) NE:物語表現 N NW:物語世界 F ■←○ E t:時間の経過 R :作者の作用域 t :読者の作用域 2 :焦点化子の領域 読者の側からいえば、ある人物・存在の心理・知覚に関わる事象が言及されると、読者はその 知覚・心理主体自身の認識する地点を想定し感情移入する。その主体は物語世界制作=受容の参 照点となる。そして、話者や事態の有り様は、参照点のターゲットとして位置づけられ、受容= 制作される。 3 語りの相互作用モデル もともと、視点の問題はどのように語るのかという語り方とその効果の問題であり、物語制作 の観点からは話者が語り手をいかに設定するのかという問題とも関係する。 従来の語り手の捉え方は、①全ての物語は語り手を持つとするコミュニケーションモデル(ジ 78 ュネット)、②人称・時制等の言語的特性はコミュニケーションでは捉えられないとする半コミ ュニケーションモデル(ヴァインリヒ)、③語り手は全く存在しないという虚構モデル(バンフ ィールド)、に大別される。この②③の見方を批判し、山岡氏は、物語に語り手の不在を見出す 統語論的捉え方に対し語用論的に物語に語り手を設定することを、語りに発話の直示的な場がな いとする見方に対し語り手と書き手を同一視する代案を、歴史的過去の適用に対し語り手を認め ないため適用された、あるいは適用するために語り手を認めないのだと主張する。この山岡氏の 見解は、②③の見解に対する批判としては妥当だが、一方で語り手の存在を自明視している。 なるほど、物語論の定義上、語り手の存在は不可避だが、それは語り手がいるから物語とみな され、物語だから語り手がいると想定されるという、循環的・相補的な関係にある。中村三春氏 (25) は、語り手等の語り論の諸概念は、テクストから読者がフレームによって作成すると指摘する。 ただし、厳密に言えば、語りの諸概念は、読者だけが作成するわけではない。むろん、ロラン・ バルトの規定に従えば、テクストは読者の読解行為によって現動化する概念である以上、作者や 物語内容等といった「起源からテクストへと引かれた矢印の向きを正反対にテクストから起源へ (26) と引き直 す」ことを説く跡上史郎氏の見解はその規定に従ったものといえる。跡上氏は「テクス (27) トを、そのテクストに先行すると想定されるなにものかから根拠づけようとする態度」を戒め、 (28) 「感覚与件としてのテクス ト」に触れて読者が自らの観念を書き込み、あるいは活性化する「様 態が言葉の内容」だとする。跡上氏の試みは、物語テクスト内に他者や言葉の起源を見出そうと したり、全てを根元的な作者に還元したりする誤謬を正し、テクストと読者との相互作用に基づ く物語解釈を全面に打ち出した優れた理論的達成と言えよう。だが、物語テクストは制作され受 容されるという文学現象の実態からするならば、語り手等の語りの諸概念は、送り手からも制作 /設定/操作され、受け手からも制作/設定/操作されると考えねばならない。跡上氏が論の根 拠とする物語テクストの実在、すなわち物語テクストと読者の相互作用自体を可能にする基盤 は、物語テクストを送り手と受け手との相互作用モデルの中に置くことによって初めて確保され る。 物語の相互作用モデルとは、意味はテクストの中にのみ存在するものではないし、送り手・受 け手の一方のみによって説明されるわけではない。意味を明らかにするとは、送り手と受け手の 間の、そして物語の文脈とその物語の選択可能な意味の間の、意味の取り決めにかかわる動的な 過程とする立場だ。 相互作用の中に語りを捉える論者には、相互作用過程点としての語り項を提示するオニールが (29) いる。オニールは、物語テクスト産出の相互作用過程の全容を物語のスケール(7a)で捉える。こ (30) のスケールは双方向的かつ階層的(7b) で、語りの投射過程は作者の位置から読者の位置へと向 かう一方、語りの受容過程は読者の位置から作者の位置へと向かう。 79 (7a)A―A'―N―C―N'―R'―R A=現実の作者 N'=聞き手 (7b A A'=内包された作者 R'=内包された読者 NL1 N=語り手 C=登場人物 R=現実の読者 R NL1=テクスト性 ) A' NL2 N C R' NL2=語り NL3 N' NL3=テクスト NL4 NL4=物語内容 オニールは、語り手とは「内包された作者のレヴェルと登場人物のレヴェルとの間に位置づけ られ、これらと偶々一致したりしなかったりする可能性のある語る声の発話点と見倣し得る「語 りの位置」、語りのスケール上の位置ないし点」(DF106)であり、聞き手は、「登場人物のレヴ ェルと内包された読者のレヴェルとの間に位置づけられ、これらと偶々一致したりしなかったり する可能性のある語る声の受容点,語る声が向かうと思われる語りのスケール上の作用過程点」 (DF106-7)であり、内包された作者は「任意のテクストの権威の場所と見徹せる作用過程点」 (DF107)であり、内包された読者は「その受容の場所と見徹せる作用過程点」(DF107)だとする。 現実の作者(経験的な送り手)と現実の読者(経験的な受け手)とが、物語テクスト、そして相 互作用的に内包された作者・読者の(再)構築に関与する。 構造主義物語論は、物語を記号モデルで捉える。この記号としての物語観は、物語とは記号体 系であり、物語テクストは物語言説と物語内容の合体物であり、物語文法や物語構造も記号的だ とする見方だ。オニールの相互作用過程モデルもまた、記号の二項対立とその脱構築として物語 を捉える限りで、記号モデルの枠内に位置づけられる。また、オニールのアプローチは、物語論 の諸概念を読者側からは厳密に測定不能だということを根拠として脱構築を平板に行ったに過 ぎない。その点では相互作用モデルとしては不充分だ。 そもそも、物語テクストは一瞬に生成されるわけではない。作家からすれば、執筆しているう ちに自らの書いた物語表現に触発されて新たな考えが浮かび、物語内容が変わっていく場合もあ る。書きながら考え、考えながら語っていくのが物語テクスト生成の常態と言えよう。この場合、 物語テクストを、物語内容と物語言説の結合した閉じた記号系ではなく、物語内容制作と物語表 現制作という人の心的かつ身体的な行動の結果として捉え返すことができる。物語内容制作と物 語表現制作とは互いに影響しあっている。物語テクスト生成では、作家の脳裏には自分が語る物 語テクストの今後の大部分、場合には結末までの展開を管理する物語の計画が存在することがあ る。人はこの物語計画に基づき、自己の語る物語内容の細部を具体的に制作していく。物語内容 制作は参照情報の容量が大きく全体的な処理なのに対し、物語表現制作は局所的な処理と言えよ う。物語表現制作は、物語テクストを実体化させる。表現制作の参照領域には、実体化される直 80 前の状態がおさまればよい。物語表現は、話者が、絶えず変容する意識の中で一瞬一瞬行った制 作行動の産物の集積だ。制作された物語表現を説明するには、認知主体とその制作行動が必要に なる。 (31) そこで、定延利 之氏の言語行動モデルをもとに物語生成を説明する。物語行動モデルは、砂時 計のような、両端が拡散し中央は収束するモデル(8)で説明される。この砂時計は運動しており、 時間とともに広がっていた砂は中央のくびれに集まり、次の瞬間にはまた広がるという形態のま ま、移動していく。 (8) 話者 受け手 ↑ 物語テクスト 話者と物語テクストの関係から説明する。意味制作が作り出す、語られる前の物語内容、すな わち物語言説と結合する前の意味は、漠然とし、物語状況に応じて柔軟に変動しうる。テクスト として形式化がなされるとき、物語内容と物語表現が合致し、意味は安定する。一方で、既に語 られた部分は、語りが進行すると共に形式が失われ、意味が記憶の中で朧化していく。物語テク ストにおいて、物語内容の矛盾や、事態認知=表現の有契性が解析困難となる事態が生じる理由 の一つは、ここにある。それをふまえ、視点論的要素を含めて、話者―受け手間での説明を行う。 物語世界は、認知イメージ形成能力によって形成=把握される物語世界の認知イメージの中で、 際立ち認識能力によって際立ちありと認められる部分や、参照点能力によって参照点関係の心的 経路が物語テクスト化される。物語生成時点においては視点とフレーム、参照点は、無意識的に であれ前景的なものほど有契的に、背景的なものは無契的に動機付けられている。だが、解釈の 準拠枠や優先序列が異なる読者の側からは、テクストはその生成=表現過程がそのまま再現され るわけではない。 このように、物語表現と相互関連する心的表象は、誰にも等しい心的接続がされるわけでもな く、三人称的に客観的に定位されるのでもなく、一人称的に実現し得る。物語表現は、人の認知 的活動によって、対応する意味との関係が作られる。人の認知活動によって物語テクストが表現 /伝達/受容される際には、グラウンドとグラウンディングという概念が介在してくる。 改めて規定すれば、物語におけるグラウンドとは、物語のスキーマの中でプロファイルされた (32) 認知主体としての話者、受け手及び両者の間で伝達が成立するための前提的概念であ り、物語に おけるグラウンディングとは、グラウンドを参照点とした認識的解釈を客体的対象概念に付与し 対象概念を物語表現に位置付ける認知操作であり、物語世界における対象を心的に把握するため の関係情報を様々な修辞によって確定することだ。話者は、物語表現で表そうとした対象概念に 対し、心的に与える認知的位置づけにふさわしい形式を持つ表現によって、対象概念への心的ア 81 クセスの可能性を物語への参与者に与える。つまり、物語テクストには、事態に対して話者が語 りの文脈で持つ見立てが反映する。この意味で、グラウンディングは、物語内容という物語表現 の命題的な側面よりも、物語事象の参与者に対して与えられた視点のあり方という主観的な側面 に関係する概念となる。 ところで、グラウンドは、全ての物語表現で等しく現れるのではなく、様々な主体性の段階を もち物語表現に現れる。グラウンドが様々な主体性を持つとは、様々な程度の客体性を持つとい うことに他ならない。主体=客体とは、人の言語運用を可能にする認知能力に基づく。なぜなら、 主体は認識と志向性のありかだが、人は自分自身を一つのモノとして客体的に見る視点を持つこ とが可能であり、客体化された主体が他者に対して投げかける視線のあり方、すなわち主体と客 体の間に結ばれる関係のあり方を認識し、物語表現として実現できる。 主体性のレベルは無段階的に変容するが、図式的に三つに整理する。(9a)は一人称の等質物語 世界の主人公を描く物語表現であり、私小説のように、話者が、語り手と主人公を同一の一人称 主語で表現する。(9b)は三人称の異質物語世界の作中人物の物語表現であり、推理小説の事件時 の報告・推理場面のように、話者が人物を語り手とは異なる三人称主語で描く。(9c)は人物にグ ラウンディングされていない物語表現だ。この場合、(9a)から(9c)に向かうに連れて、グラウン ドの主体性の度合いは高まり、客体性の度合いは低まる。 (9a) G (9b) ○ G ○ G (9c) (9a)は、グラウンドは、話者の志向的意識の中心であり、物語表現の意味がブロファイルをう ける認知領域である客観的場面(破線部)の内側に配置されている。(9b)では、グラウンドは客 体的要素を認知的に位置づける参照点であり、表現の意味を大きく作用する点で、物語表現の最 大叙述領域(実線部)の内側に位置している。(9c)は、客体的場面とグラウンドとは最大叙述領 域の外側に位置しており、話者は見立てが物語表現の意味に反映しているという認識は持たな (33) い。 82 話者は、グラウンディングされた物語表現を語るとき、受け手とともに物語空間という対象認 識の場を共有する。話者は、物語が展開されるための観念的基準点としてのグラウンドは、それ ぞれに独自の認識世界を持つ物語参与者同士が相互作用し、その「間主観性」を乗り越えて発展的 なコミュニケーションを成立させるために利用できる唯一の足がかりとして、ある程度の客体性 を帯びる。 グラウンドは、局面に応じて様々な程度の認知的際立ちを受ける。認知主体が物語という営み に従事し、受け手との間に関係を結ぶ限り、グラウンドは、常に概念構造に内在する。あらゆる 物語表現は、いかに客観的だとしても、認知主体としての話者における主観的な概念構造の外在 化から逃れられない。そして受け手もまた、発せられた音声/記述により意味を再構築する過程 における主体的営みと話者と自分との間に結ばれた物語事象での関係をもつ。物語表現は、話者 の視点を絶対的な基準点にして、意味を織り込まれ、解読される。この意味の織り込みと解読の 作業自体は物語言説に内在する機能でもなく、物語内容とも別物だ。それは作者と読者の意思と 意図に基づく主体的な認知プロセスであり、その作業がグラウンディングだ。この認知プロセス が遂行されることなしに物語が表現/伝達という機能を果たすことはできない。それゆえ、語ら (34) れる物語表現はグラウンディングされ る。 事態認知プロセス、関係、物語形成の参与者としての語り手の存在や語りへの再帰的把握とい ったグラウンディングの連続は、関係概念を一つの客体としてとらえ、複合構造としての関係概 念を内部的複雑性を表面的に隠蔽することで客体化する。そのように客体化されることで単一要 素として扱うことができるようになった関係概念は高次の認知プロセスにおける参与体として 機能できる。ここに、日本語物語表現が重層性を持つことの認知的背景が存在する。たとえ複雑 な概念でも、グラウンディングが遂行されることで現動化すれば、出来事として具象化し、客体 としての扱いを受けることが可能になる。 こうした概念のグループ化・具象化は人の基本的認知能力の一つだ。表面的には日本語の特徴 と思われる表現形成の重層構造も、それを可能にする基本的なメカニズムは英語の構造と同一で あり、認知文法が想定する生得的な基本的認知能力に基づいた概念形成のパターンの一つをたど るものとしてとらえられる。 4 終わりに 本稿では、語り手や登場人物等の焦点化子を物語世界の事態をターゲットとする参照点として 捉え、話者がそれを操作・制御することによって物語表現が生み出されるという立場から、先行 する視点移動説を否定し、脱構築を無意味なものとして退けた。 これは物語テクストに対する説明原理を、読者の受容の側からの多義性・決定不能性に求める のではなく、物語テクストの制作と受容の相互作用に求めることによって可能になる。ここでは、 いわゆる記号モデルから認知的な物語行動モデルへの転回が目指された。そして、物語の相互作 用を示す操作概念として認知主体のグラウンドとグラウンディングを導入した。物語表現の重層 83 ・曖昧性は連続的グラウンディングの結果として説明できるだろう。概念的自律性を持った、よ り小規模な概念から、それを客体化し包み 込んでいくことによってより複雑な内部構造を持った 大規模な概念へ、という表現構造の発展に伴う連続的なグラウンディングがなされる。この連続 的構造は物語表現による意味伝達という本来の目的の達成のためには、認識された事態が認知主 体の意思と意図に基づいて物語形式による記号化を受け、最終的に物語テクストという外部世界 的事実としての発話行為となって現象するレベルで閉じられなければならない。このレベルのグ ラウンディングには必ずしも明示的な形式が与えられるわけではない。あらゆる物語表現は、そ れが物語テクストの中で適切な意味を持つものとして話者によって語られ、受け手によって理解 されるために、明示的にであれ、あるいは非明示的にであれ、事態認知と物語行為のインターフ ェイスとなるこのレベルのグラウンディングを必要とする。 (1) 西田谷洋「パースペクティヴと物語」(日本認知科学会「文学と認知・コンピュータ」 研究分科会大会二〇〇一・一二・一五)参照。 (2) 『物語のディスクール』(水声社一九八五・九)参照。 (3) 神尾昭雄『情報のなわ張り理論』(大修館書店一九九〇・)参照。 (4) 藤井正「「視点」について」(『築島裕博士還暦記念国語学論集』明治書院一九八六・ 三)・「「談話の文法」の視点論」(『山口明穂教授還暦記念国語学論集』明治書院一 九九六・六)等参照。 (5) Rimmon-Kenan, Shlomith. Narrative Fiction. Methuen, 1983, pp.76-7. (6) 後に、ジュネット『物語の詩学』(水声社一九八五・一二)は、予備焦点化と言い換え るが、焦点化とは語り手が物語世界内の人物あるいは場所の知覚・認識上の制限を課す 概念であり、語り手の状況への適用はこれも混同となる。 (7) パトリック・オニール『言説のフィクション』(松柏社二〇〇一・二)一四三頁。以下、 『言説のフィクション』からの引用は(DF 頁数)で示す。 (8) 『小説と映画の修辞学』(水声社一九九八・四)参照。 (9) Narratology. Toronto University Press,1985. (10) 前掲『言説のフィクション』。 (11) 『「語り」の記号論』(松柏社二〇〇一・一)。 (12) 「物語論の臨界」(『近代小説の〈語り〉と〈言説〉』有精堂一九九六・六)・「オニ ールの焦点化論の可能性」(『言説のフィクション』)。 (13) Langacker, Ronald W.は、グラウンドを「発話事象、その参与者(話者と聞き手)、ま たそれを取り巻く直接的な環境」であり、グラウンディングを「その適用がノミナルあ るいは定形節の形成における最終ステップとなる意味関数。特定のモノ概念や関係概念 がノミナルあるいは定形節として機能するために必要な、グラウンドとの関係において 相対的に定められる認知的位置を、基本的で認識様態的な概念(名詞句に関してはその定 84 性と不定性、節に関しては時制やモダリティ)に基づいて特定化する」(Foundations of Cognitive Grammar, vol.2, Stanford University Press, pp.548-49)と規定する。ラ ネカーの認知文法では、モノと関係という概念スキーマを言語表現に定形化するための 認知プロセスとしてグラウンディングが重要な役割を担う。モノは典型的に名詞句によ って言語化され冠詞や数量詞などの働きを受けてグラウンディングされ、関係は法助動 詞や時制の接辞などの働きによってグラウンディングされて定形節を形成する。長谷部 陽一郎「日本語定形表現の形成におけるグラウンディ ング」(『日本認知言語学会論文 集』二〇〇一・九)は、グラウンディングは、冠詞・指示詞・数量詞等のエピステミッ ク・プレディケーションに内在する機能ではなく、話者と受け手という認知主体が、命 題的客体概念とグラウンドとの間に能動的に主観的関係を結ぶその認知プロセスだと し、日本語の定形表現の意味構造形成は命題となる概念の自律性に基づき連続的にグラ ウンディングが繰り返されることでなされ、内的に複雑な概念もグラウンディングの遂 行によって現動化すれば対象として具象化し単一の客体の扱いを受けると主張する。 (14) 「オニールの焦点化論の可能性」二五八頁。 (15) ジュネットの外的焦点化は,オニールの不透過な内的焦点化に該当する。また、ジュネ ットの焦点化ゼロは、内的焦点化と外的焦点化の交替となる。 (16) 「オニールの焦点化論の可能性」二六〇頁。 (17) 「ル/タ、テイルの意味機能試論」(『九州工業大学情報工学部紀要』二〇〇〇・三) ・「日本語の時制表現と事態認知視点」(『九州工業大学情報工学部紀要』二〇〇一・ 三)参照。 (18) 「日本語の時制表現と事態認知視点」七〇頁。 (19) 「日本語の時制表現と事態認知視点」六〇頁。 (20) 『「語り」の記号論』一二二∼三頁参照。 (21) Chatman, Seymour. Story and Discourse, Cornell University Press, 1978, p.7. (22) 「物語論の臨界」二六七頁。 (23) 「『草迷宮』と『吉野葛』をあわせて論ず」(『日本文化研究所研究報告』一九九六・ 三)参照。 (24) 生方智子「まなざしの規則」(日本近代文学会大会レジュメ二〇〇一・一〇・二七)参 照。生方氏のフレームモデルは、ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜 』(十月社一 九九七・一一)・ヴィレム・フルッサー『写真の哲学のために』(勁草書房一九九九・ 二)等でのカメラ・オブスクーラから遠近法へという視覚のパラダイム・シフトに着想 を得て、遠近法とは異なる新たな視覚モデルとしてフレームモデルを提示する。 (25) 「語り論的世界の破壊」(『太宰治』若草書房一九九八・五)一〇〇頁参照。 (26) 「『草迷宮』と『吉野葛』を合わせて論ず」八二頁。 (27) 「『草迷宮』と『吉野葛』を合わせて論ず」八一頁。 85 (28) 注 27 に同じ。 (29) 『言説のフィクション』一〇七頁参照。 (30) 『言説のフィクション』一五四頁参照。 (31) 『認知言語論』(大修館書店二〇〇〇・四)一九六∼七頁参照。定延氏のモデルは縄が 撚られほつれていく過程をイメージしている。 (32) グラウンドは、現実世界の事象ではなく、実在の作者とは異なる。作者は心的表象を知 覚する側の根源的な主体であり、物語のスキーマは物語表現の意味を構築する話者の認 知メカニズムの図式化だ。根源的主体としての実在の作者をグラウンドとすると、スキ ーマの表示領域外のものが強引に導入され、理論的に破綻する。 (33) 厳密には、語 られる点で認知主体の見立ては不可避であり、以上の分類は便宜上行って いる。 (34) 森沢真直「文芸的言説における視点・認識への基礎的考察」(『日本文芸論稿』一九九 九・一一)がいう、言説・発語者・摂語者・視点の無限後退は、対象分析の根拠・基準 が当該の部分言説内にではなく、その上位の部分言説もしくは水平に並置される他の部 分言説に求めるしかないという立場からなされる。文芸学の読者論的傾向がここでも伺 えるが、しかし、本稿では、物語テクストそれ自体にグラウンド/グラウンディングが 内在し、それは送り手と受け手の相互作用によって構築されるという立場を提示した。 86
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