スキーツアーの古典的舞台

設されたのは、一九一一(明治
)年の
温泉があります。ここにスキー場が開
板谷駅の対岸、吾妻連峰の中腹に五色
一 八 九 九( 明 治 )年 に 鉄 道( 現 在 の
奥 羽 本 線 )が 開 通 し た 福 島 ~ 米 沢 間 の
五色温泉と吾妻登山の黄金時代
いいと思う」と記しています。
は羽前の五色温泉付近の山を歩くのが
どこでしたらいいだろうか」
「それに
注:北アルプスのこと)へ入る練習は
五色と吾妻を描き、「信飛の山(引用者
キ ー 日 記 」( 一 九 一 八 年 )や「 冬 の 信 飛
米沢出身の海軍軍人黒井悌次郎らに
より、一九二四(大正 )年五色温泉宗
黄金時代を象徴する
六華倶楽部と吾妻小屋
連山とスキー」
(一九二一年)等で度々
ことでした。日本のスキー発祥の地は
新潟県上越市高田で、一九一一年1月
にオーストリア人レルヒによって、帝
国陸軍の将校たちがスキーの指導を受
けました。一方、横浜のフレモランス
月
ろっ か
く
ら
ぶ
川旅館の傍らに会員制のクラブハウス
色が吾妻スキー登山の入山口となり、
いた言葉です。奥羽本線が開通して五
書『 六 〇 歳 の 記 念 に 登 っ た 山 山 』に 書
リストの本多勝一氏が、いみじくも著
が、一九三四(昭和9)年に旧鉄道省仙
ヤーたちによる山小屋建設運動の結実
ン ペ ー ン を は じ め ま す。 地 元 ス キ ー
ある旧鉄道省が、吾妻の山岳観光キャ
の日本国有鉄道や現在のJRの前身で
鉄道を利用した吾妻登山が盛んにな
るにつれて、一九三〇年代には、戦後
☎0238 - 22 - 5111 / 印刷:㈱青葉堂印刷
広報よねざわ 昭和27年4月28日創刊 No.1435
発行:米沢市 編集:企画調整部秘書広報課 〠992-8501 米沢市金池5丁目2番25号 商会に勤めていたクラッツァーらが、
それから約2か月後の同年3月、
の 経 緯 は、 槇 有 恒『 わ た し の 山 旅 』に
と相次いで五色を訪れました。それ以 「 六 華 倶 楽 部 」が 建 て ら れ ま し た。 そ
降、多くの外国人スキーヤーが五色で
記されています。老朽化した六華倶楽
部は、二〇〇〇年に解体されて、仙台
スキーを楽しむようになったといいま
す(山崎安治『新稿日本登山史』)。
一九一〇年代から三〇年代にかけて五
台鉄道局により浄土平近く(現・福島
市内に移築されました。
色を拠点とする吾妻登山は、いわば「黄
市 )に 建 て ら れ た「 吾 妻 小 屋 」で す。
「 吾 妻 連 峰 は 日 本 の ス キ ー ツ ア ー の
古典的舞台」とは、登山家でジャーナ
金時代」を迎えます。そのことは、こ
まきゆうこう
の時期に五色と吾妻を訪れた槇有恒、
代半ば
くし だ まごいち
)年
年近い時を経て、現在で
吾妻小屋は
ふか た きゅうや
板倉勝宣、深田久弥、串田孫一らの山
も登山者たちに愛されています。
いたくらかつのぶ
岳紀行文から伺うことができます。例
え ば、 一 九 二 三( 大 正
吾妻連峰は、その麓を走る奥羽本線
とともに、近代日本史の一ページを飾
80
にして早逝した板倉は、遺稿集『山と
説
12
る山だといえるでしょう。
解
10月6日、次第に暮れゆく空の下、平成の大改修を終えた羽黒神社が美しくライトアッ
プされました。その幽玄な雰囲気の中、津軽三味線の若き獅子・山口晃司さんが奏でる三
味線の音色に、集まった観客約320人は酔いしれました。
紙
幽玄!羽黒神社 ~米沢敬師のこころライトアップコンサート~
表
13
44
20
(文:粟野 宏 さん )
近代米沢の産業遺産 第6話
板谷から五色へ
「スキーツアーの古典的舞台」吾妻連峰
31
●
32
雪 の 日 記 』に 収 録 さ れ た「 五 色 温 泉 ス
12
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六華倶楽部(2000年2月撮影)
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板谷峠付近から見た五色温泉
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旧鉄道省が開設した吾妻小屋のポスター
人の足跡をたどる ~
~ 先
(写真提供:二階堂匡一朗氏)