東ヨーロ ッパ家族法の諸相

〔東京家政大学研究紀要 第44集(1),2004,pp.15∼22〕
東ヨーロッパ家族法の諸相
大橋 憲広
(平成15年10月2日受理)
Familienrecht in Osteuropa
OHAsHI, Norihiro
(Am 2. Oktober 2003)
キーワード:家族法,東ヨーロッパ,婚姻,親子関係
Schlagworte:Familienrecht, Osteuropa, Ehe, Kindschaft
はじめに
ラブ人に属するチェコ人,スロヴァキア人,ウラル系に
属するといわれるハンガリー人,南スラブ人に属するス
小論は,東ヨーロッパにおける家族法の歴史・現在と
ロヴェニア人が居住民族である.宗教的にはこの地域は
その特質を括出し比較法的に探るものである.10年程
宗教改革によってプロテスタントが多くなったが,後に
前の社会主義の劇的崩壊とその前後においては,この地
は反宗教改革の影響によりカトリックが優勢になってい
域は遠い日本においても報道をはじめとしてジャーナリ
る.北部は旧東ドイッを除くとポーランドであり,「地
スティックな関心も高まったが,最近の日本においては,
の海」と称するのがふさわしい平原が広がる.カトリッ
積極的関心の対象ではない.しかし,民主化後の一時の
クが社会主義時代においても影響力をもった.南部はド
混乱を経て,経済の復活も軌道に乗り始め,以前におい
ナウ河からバルカン半島を望む地域である.旧ユーゴス
てはおよそ予想もできなかったこれらの国々のEU加盟
ラビア構成諸国は,その名のとおり南スラブ人の国家で
も現実のものとなっているこの時期に,東ヨーロッパの
ある.旧ユーゴスラビア,アルバニアにはイスラム教徒
国々の家族法に焦点を当てることは,日本の家族法を考
が多い.ルーマニアは,Romaniaでありローマ人の国
える際にもあながち意味のないこととはいえないであろ
を意味し,東ヨーロッパにおいて唯一一一一一ラテン系民族の国
う.
家で言語的にもイタリア語に近い.インド系といわれる
ここで東ヨーロッパとは,ハンガリー,ポーランド,
ロマ・シンティ(ジプシー)もこの地域を本拠とする.
ブルガリア,アルバニア,ルーマニア,チェコ,スロヴァ
さらにルーマニアには,プラショフ(ドイツ名;クロー
キア,そして旧ユーゴスラビアを構成したセルビアとモ
ンシュタット)のようにドイッ人が建設した都市もある.
ンテネグロ(ツルナ・ゴーラ),クロアチア,ボスニア=
当地のドイッ人は東西統一後ドイッに帰国するものも多
ヘルツェゴビナ,マケドニア,スロヴェニアを指す.地
い.このように東ヨーロッパは地理的,民族的,宗教的に
理的にいえば,バルト三国なども入れることが可能かも
多様性と複雑さをもち,これが法文化にも影響を与えて
しれないが,これらは除かれる.さらにドイツ連邦共和
いる。
国に吸収され,消滅したかってのドイッ民主共和国も除
地理的,民族的,宗教的要素に加えて,第二次世界大戦
かれる.
後の社会主義が,国家と家族関係法を大きく変貌させた。
東ヨーロッパの国々の地理的,民族的,宗教的状況を
この地域では,戦前すでにドイツ,フランス,ロシアな
少しく見てみよう.これらの地域の中央部は,モラビア
ど周辺大国の影響を受けた家族法が存在していたが,ソ
高地とカルパチア山脈に囲まれたドナウ盆地を中心とし
ヴェトによる「解放」で人民民主主義体制が創設され,
たハプスブルク帝国の中心地域である.民族的にも西ス
社会主義イデオロギーによる家族法が制定された.ハン
ガリーを例に取れば,19世紀までは,家族関係はカノン
教養部 法学研究室
法によっていたが1894年には西欧を志向した近代的な
(15)
大橋 憲広
家族法が成立し,離婚が法認されている.さらに第2次
義憲法が制定された.地理的に対岸にあるイタリア及び
大戦後には,社会主義イデオロギーによる家族法が制定
フランスの法律を模範とする民法典がっくられ,義務的
された.ここでは「家族は国家の礎石である」という位
民事婚の導入,一夫多妻制度の禁止などイスラム婚姻法
置づけが与えられることになる。本家族法は,1970年代
の否定が行われたが,旧来の慣習を尊重する勢力の存在
にいくっかの改正を経て婚姻の際の熟慮期間や,女性の
のより,その実現は困難であった.すなわち,イスラム
婚姻年齢に改正が加えられている.第二次大戦後の立法
法聖職者の学説に基づくシャリア法による婚姻と家族関
過程できわめて異例のことが行われたのは,ポーランド
係の規律が依然として行われていた.シャリア法では,
とチェコスロヴァキアの立法協力である.両国は「司法
婚姻は社会を代表するものとしてのイスラム法聖職者が
協力条約」を締結し共同で家族法草案を起草した.草案
行い,夫から妻へと婚資が送られ,一夫多妻も許される.
は,それぞれ修正されてチェコスロヴァキアの1949年
アルバニアにおいては,1952年刑法で民事婚の実質
家族法および1950年のポーランド家族法となった.家
化をはかるために売買婚や略奪婚の禁止規定を置かざる
族法における立法協力は,きわめて異例であるが,これ
を得なかった.1960年代まではシャリア法による一夫
も社会主義インターナショナリズムに基づく.その後こ
多妻は行われていたといわれる.ここで示された民事婚
のような立法協力による法律制定は行われていない.
と宗教婚の関係は法社会学的に言えば,「国家法」と
1980年代末から1990年代初めにかけての東ヨーロッ
「生ける法」との関係として捉えられる.すなわち,国
パ民主化の過程では,多くの国では当初これに対応する
家法が外部から輸入され,近代化されても人々の日常生
本格的憲法は制定されず,暫定的性格の強い憲法的法律
活を規律する団体的秩序である「生ける法」は,そのま
が制定されている.憲法的法律の「市民の基本的権利義
ま存続するのである.この問題はすでに川島武宜が『日
務」に関する条項には,家族に関連する規定が見られる.
本人の法意識』のなかで近代化論の文脈で明らかにした
これらは,1.民事婚 2.婚姻と家族の国家による保護
ところである.離婚は,イスラム法では禁止されている
3.子の養育に対する親と国家の保護 4.婚内子と婚外
わけではないが「好ましくないこと」とされ,夫からの
子の平等の地位 5.子の出生の前後における親(母)に
妻への離婚の宣言として行われる.宣言は2度目までは
対する特別の保護と援助などが規定されている.諸規定
修復可能であるが,3度目は許されないとされる.これ
は社会主義時代の原則を引き継ぐものである.
は夫から妻への宣言が原則であって,妻から夫への宣言
東ヨーロッパ諸国の法体系は,大陸法系に属しパンデ
も可能である.興味深いのは離婚の際には,夫側と妻側
クテン方式をとるが,家族関係法,すなわち家族法,婚
の親族が調停を試みることである.日本民法が,調停前・
姻法,親子法は,民法典の一部を構成するのではなく,
置主義をとり,協議離婚を別にして裁判離婚の前に家庭
単行法として民法とは別個の法律である.このような纂
裁判所の手続として調停と審判を置いていることと類似
別方法には,家族法を財産法とは異なった原理に基づく
的である.
法領域と捉える観念が強く働いている.わが国において
これに対して「生ける法」たる宗教婚と「国家法」で
も,財産法を合理的打算的な選択的意思に基礎をおく法
ある民事婚の関係のもう一つのあり方を示しているポー
とするのに対し,家族法は非合理的,性情的意思に基づ
ランドの例を取り上げよう.第1次大戦前のポーランド
くという解釈論的立場がある.この点にっいては,民主
では,ロシアの占領分割地域では,婚姻は宗教的儀式で
化後のチェコにおいて,家族法は民法典中の一部として
行われ宗教代表者が実質的に民事登録機関の役割を担っ
再構成されるべきではないかという議論が起こっている
ていた.ポーランド中央地域では,民事登録の前に宗教
点は興味深い.
的儀式が行われ,また,キリスト教徒と非キリスト教徒
との間の婚姻は禁止されていた.婚姻関係裁判もキリス
1.婚姻
ト教徒はカノン法による裁判,非キリスト教徒は通常の
・民事婚と宗教婚
裁判権に服していた.南部地域では公認キリスト教徒間
東ヨーロッパにおいては,宗教と婚姻の関係は無視し
の婚姻は宗教婚であり,これ以外の宗教信者と無宗教者
得ない.人口の約75パーセントがイスラム教徒であっ
の間の婚姻は,民事婚であった.このように宗教婚と民
たアルバニアでは1928年に王政国家が成立し,自由主
事婚が混在していた.1929年の家族法では,原則は民
(16)
東ヨーロッパ家族法の諸相
事婚であるが,宗教婚をも認める選択的民事婚であった.
備手続があることである.例えば,ブルガリアにおいて
社会主義時代を経て,民主化後のポーランドでは,1993
は,婚姻の30日前に予約的届出を行わなければならな
年のバチカンとの間のコンコルダートによって一定の
い.離婚率の高いハンガリーにおいては,婚姻に関して
要件を満たせば民事婚前の宗教婚を認めることとなった.
両当事者に婚姻前の「助言」が行われる.これらの措置
すなわち,婚姻しようとするものは,婚姻がポーランド
は,安易な離婚を防止させることを目的としている,婚
法によること,および婚姻の意思を信教団体の聖職者に
姻の具体的手続としては,身分証明書,出生証明書,必
表示し,民事登録機関の長がこれを認証することによっ
要な場合には婚姻の無効または解消の証明書,婚姻障害
ても婚姻を行えるとしたのである.ポーランドの例は,
のないことを示す証明書を民事登録官に提示し,登録官
国家法が宗教による婚姻をその内部化しようとするもの
は婚姻の意味と婚姻姓(家族名)と子の名にっいて述べ,
と捉えることができる.つまり,宗教的儀式のみでは法
婚姻の意思を確認する.宗教婚の場合には,聖職者は,
的効果のある婚姻は成立しないのである.実質的に同様
宗教法によって婚姻が行われたことを示し,聖職者,当
の内容をもっ規定はブルガリア法でも見ることができる.
事者,証人の署名した証明書を民事登録官に送達する.
なお,宗教婚といってもあらゆる宗教団体に対してこれ
婚姻姓(家族名)で一般的であるのは,次の3っの選
が認められているわけではない.国家公認宗教のみであ
択肢である.1.婚姻前のどちらかの姓を称する 2.両
る.アルバニアにおいても1948年法では民事婚の後の
者の姓を付加して使う複合姓(二重姓)3.別姓.複合
宗教的儀式婚を認めている.以上は「国家法」が宗教婚
姓であっても3っ以上の部分から構成されるものは,例
をみずからの内に包摂する関係といえる.
えばポーランドでは行うことはできない.アルバニアの
なお,婚姻と同様の非婚姻の生活共同体的パートナー
1928年法では夫の姓が婚姻姓となるとされたが,1948年
関係(事実婚)および一方が予約完結権を有しない一種
法では複合姓が可能となり,1965年法では,夫または
の予約としての「婚約」に対する法規定は見当たらない.
妻の姓が婚姻姓となることが可能となり,現行法では別
当然に,正当な事由のない婚約不履行に対しては損害賠
姓も選択できる.子の姓は両親が,共通の姓を称してい
償請求ができると解せられる.
るときにはこれを称し,共通でないときには合意で定め,
合意のないときには父の姓を称することになっている.
・婚姻の要件と効果
妻の姓の選択肢は広がってきているが十分とはいえない.
婚姻の要件として「性を異にするもの」を挙げるのは,
婚姻における夫と妻の同権という原則からすれば両親が
セルビアとモンテネグロ,クロアチア,ボスニア=ヘル
合意しない場合の子の姓にっき母の姓を称することも考
ッェゴビナなどである.これら以外の国では,日本法と
慮されるべきであろう.
同様に婚姻は性を異にするものの間で行われることが,
民族的起源はアジア系ともいわれるハンガリー人の姓
当然のことと予定されている.同性婚や多様化した家族
名は,日本と同じく「姓一名」の順で表記する.ハンガ
のあり方への対応は,例えば,アメリカ合衆国バーモン
リーにおいては,妻の姓名には次4っの選択肢がある.
ト州や一部の西ヨーロッパ諸国では,年金や税金を異性
男;甲(姓)乙(名)と女;丙(姓)丁(名)が婚姻する
間の夫婦と同じに扱う法律が施行されていることなどを
と,1.甲乙neとなる.意味としては,甲乙夫人であ
見ると事実としての婚姻関係は異性間によるとは必ずし
る.2.甲=丙丁であり,複合姓である.3.甲丁,4.
も当然のこととはいえなくなってきている.婚姻年齢は,
丙丁(別姓).1.のような形の姓名の形を認めるのは他
男女ともに成人年齢の18歳であるが,アルバニアでは,
の東ヨーロッパにはないものである。
女性16歳,男性18歳である.なお,18歳を婚姻年齢と
姓名には次のような機能がある.1.血統に基づく所
する国であっても正当な事由のある場合には,それ未満
有権的性格,2.国家が個人を識別する機能,3.家族
(通常は16歳以上)でも裁判所の許可で婚姻することが
の秩序維持の機能,4.個人の人格権的機能.東ヨーロッ
可能である。かかる場合にあっては両親もしくは後見人
パにおける多様な婚姻姓(名)のあり方を見るとき,や
の公正証書による同意が必要となる.実務では女性が妊
はり日本における「夫婦同氏原則」は1,と3.に偏って
娠している場合に許可が行われるという.
おり硬直的に過ぎる.日本では,明治期まで姓を持っも
婚姻の手続として注目されるのは,婚姻の前に予約準
のは数パーセントであり,しかも夫婦別姓であった.徴
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大橋 憲広
兵令の必要からすべての国民が姓を持っことになったと
ような規定を置く必要はなかった.
いわれる.選択別姓を提案する1996年の法制審議会の
一般に夫婦の財産関係をどのように捉えるべきかにっ
婚姻法改正要綱すら未だに実現に到っていないのは,多
いては,それぞれの個人としての性格を重視する個人主
様化した家族の実態とは齪酷を見せている.
義的家族観と夫婦を一種の団体(組合)と捉える団体論
夫婦の財産関係は,法定財産制では,特有財産(ハン
労働して自らの所得で自立することが妻(女性)のあり
的家族観が対立する.社会主義イデオロギーにおいて,
ガリー・ポーランド),個人財産(ブルガリアなど)と共
方であるとすれば,東ヨーロッパ家族法における財産規
同財産である.特有財産(個人財産)とは,1。婚姻前
定は個人主義的家族観に親和性がある。日本民法では,
に夫または妻が所有していた財産,2.婚姻中に相続ま
第762条1項が「夫婦の一方が婚姻前から有する財産及
たは遺贈によって得た財産,3.夫または妻が通常の個
び婚姻中自己の名で得た財産は,その特有財産とする」
人的に使用するもの,3.個人の職業的使用に供するも
と述べるにとどまるのに対し,東ヨーロッパ法では,前
の,4,個人にかかる請求権,知的財産権である.共同
述のように特有財産にっき具体的例示を挙げ,その範囲
財産は,婚姻中に夫婦の共同の貢献によって得た財産で
を明示しているのはこれを示している.民主化後,経済
ある。夫婦財産契約による法定財産制の排除も可能であ
的自由化,資本主義が進行するときこの規定はどうなる
るが,この場合でもすべての財産を共同財産としないと
であろうか.ちなみに,ハンガリーにおいては,1980
いう内容の契約は行えず(ハンガリー),また,1,一身
年代より私的セクターの増加により家族内の財産関係は
専属的権利,2,個人的権利侵害の補償,3,労働対価,
私的契約により規制されるほうが望ましいという考え方
にっき法定財産制と異なる内容を契約することはできな
が広まっているという.
い(ポーランド).制度はあるもののわが国ではほとん
ど行われず,フランスにおいても20パーセント程度とい
・離婚
われる夫婦財産契約が東ヨーロッパにおいてどの程度利
東ヨーロッパにおける離婚法は,有責主義ではなく破
用されているのかは,資料からは不明である.
綻主義を採ることが共通である.すなわち婚姻が破綻し
夫婦財産関係は,死亡,離婚,婚姻の無効確認など婚姻
ているときに離婚が認められる.文言では,「婚姻の完
の解消によって当然に終了するが,ハンガリー法とポー
全かっ継続的破綻」(ポーランド),「重大かつ回復不可
ランド法では取り扱いが異なる.すなわちハンガリーで
能な婚姻の破綻」(ブルガリア),「重大かっ継続的に婚
は,「婚姻共同体が一時的に行われなくなったときにお
姻が破綻し,婚姻の目的を実現し得なくなったとき」
いても夫婦財産関係は終了しない」とされている.具体
(セルビァとモンテネグロ),「重大かっ深刻に破綻して
的には,別居中でも夫婦財産関係は継続する.他方,ポー
いるとき」(ボスニア=ヘルツェゴビナ),などである.
ランドにおいては,一方配偶者の請求で「重大な事由」
具体的な破綻の例示としては,アルバニア法では,1.
により婚姻共同体が継続している間でも,裁判所は夫婦
継続的な争い(不仲),2.虐待,3.重大な侮辱,4.誠
財産関係を終了させることができるとしている.夫婦財
実義務違反(不貞行為),5.回復の見込みのない精神疾
産関係の両国での異なる取り扱いは,離婚に対する姿勢
患,6.国家に対する反逆罪など刑法上の重大な犯罪に
の相違に基づくように思われる.ハンガリーにおいては,
より有罪の判決を受けること,7.その他の事由,となっ
早婚の傾向があり1960年代から女性の約40パーセント
ている.「その他の事由」で,具体的には悪意の遺棄,
が20歳前半で婚姻し,25歳までには約80パーセントが
親としての義務違反,性格の不一致が実務上認められて
婚姻し,しかも離婚は早婚のものに多いという傾向があっ
いる.一方,ポーランド法では離婚原因は具体的には規
た,これに対しては,前述した婚姻の前の「助言」によっ
定されていない.学説では「愛情,信頼関係及び婚姻共
て対応してきたが,安易な離婚を防止するために別居を
同体を形成する感情の欠如」などとされるが,判例では,
直ちに離婚に至らないように,別居と夫婦財産関係の解
暴行,不貞行為などとしている.そのなかで,「配偶者
消を結びっけないという方策としてこのような規定となっ
間のイデオロギーの相違」が離婚原因となっているのは
たと考えられる.ポーランドでは,カトリックが離婚に
興味深いところである.もっとも破綻主義をとる東ヨー
対して抑制的に働いており,あえてハンガリーにおける
ロッパ家族法においても一定の歯止めをおいている.す
(18)
東ヨーロッパ家族法の諸相
なわち,1。未成年の子の福祉に反するとき(ポーラン
∬.親子
ド),2.妻が妊娠しているか子が1歳未満のとき(セル
ビアとモンテネグロ)3.子が12歳未満のときで,妻の
・実子
同意がないとき(ブルガリア),には夫から離婚の訴を
実親子関係は,出生の事実に基づき,婚姻中に生まれ
提起することができない.東ヨーロッパにおいては,離
た子,婚姻の終了後300日以内に生まれた子は母の夫が
婚請求者の有責性よりも,子の利益を考慮した離婚制限
父であると推定され,また,再婚した母にっいても300
が行われている.なお,ポーランドとブルガリアでは,
日以内に生まれた子は前婚の夫が父と推定される(チェ
有責配偶者からの離婚請求は相手方が同意しない限り認
コ).認知の訴は,出生後6ヶ月以内(ポーランド,チェ
められない(消極的破綻主義).
コ)であり,認知能力は16歳以上(ポーランド,チェ
ちなみに日本民法第770条1項では,一般的破綻主義
コ),18歳以上(1965年以前のアルバニア)などとなっ
をとっていると解されるが,裁判所は長らく有責配偶者
ている.ボスニア=ヘルツェゴビナ,ポーランドでは,
からの離婚請求を認めてこなかった(いわゆる「踏んだ
認知は胎児に対しても行うことができ,子が生存して生
り蹴ったり判決」).すなわち,妻以外の女性と生活して
まれた場合に効果は遡及する.これには母の同意が必要
いる夫からの「追い出し離婚」が多く,離婚後の妻あ生
である.子が死亡している場合の認知は,子が卑属を残
活のための財産分与や慰謝料支払いが十分に行われない
している場合に可能である.
ことを配慮している.1987年9月2日,最高裁は判例変
日本法に見られない規定として,「医療技術によって
更を行い,有責配偶者からの離婚請求であっても認めら
生まれた子」に関する規定(83条一84条)が,クロア
れる場合があると判示した(最大判昭和62年9月2日).
チア法に見られる.医療技術とは,人工生殖を意味して
本件は,1.別居が相当の期間(36年)にわたっていた
いるが,AID,AHDなど特定はされていない.すな
こと,2.未成熟児がいないこと,3,離婚によって過酷
わち.医療技術によって生まれた子の母子関および父子
な状況におかれるなど著しく社会正義に反することがな
関係は裁判では,取り消しまたは確認できないとされる.
いことが理由として挙げられた.積極的破綻主義への道
ただし,他の男性の精子を使用することにっき文書によ
を開いたといわれる判決である.
る同意のないときには,取り消し可能である.
科学技術を家族(親子)に応用するときには,慎重で
離婚手続には裁判所が関与する.わが国における協議
あらなければならない.クロアチア法では科学的生殖医
離婚のような制度は東ヨーロッパにはない.大別すると
療に全幅の信頼を置き,これを法律の事実とするもので
2種類の手続が存在する.1っは,離婚後の財産分与,子
あるが,このことが必ずしも納得のゆく結果を生むとは
の養育,面接交渉にっいて当事者で合意して裁判所がこ
限らない.わが国において知られているのは,次のよう
れを許可するものである.他は,当事者が裁判所に対し
な例である.すなわち,DNA鑑定でほぼ100パーセン
て訴を提起して行うものである.前者の型としては,チェ
ト父子関係が存在しないと確認されたにもかかわらず,
コの「協議離婚(届出のみで行われるわが国における協
法(裁判所)が父子関係の存在を求めた例である(大分
議離婚とは同義ではない)」がある.ここでは,1.婚姻
地判平成9年11月12日).本件でに,婚姻前に婚姻した
が1年以上継続していること,2.別居が6ヶ月以上継
夫とは別の男性の子を出生し,子を一度その女性の両親
続すること,が要件となる,ブルガリアでも同様の制度
の子として届出を出し,夫と婚姻し,女性の両親とその
があるが実際にはあまり利用されていないという.後者
子の親子関係不存在を確認した後に,夫の子として嫡出
の裁判による離婚においては,裁判所は,証拠に基づい
子として出生届を出したものである.その後,夫婦は不
て重大で,深刻あるいは回復可能な婚姻の破綻を確認し
貞により不仲となり,協議離婚した.夫は妻とその不貞
なければならない.要件が満たされると離婚判決が出さ
の相手方に対して損害賠償の訴訟を行ったが,このなか
れる.実務では有責配偶者からの離婚請求に対して消極
で妻は,子は夫の子ではないとの主張を行った.そこで
的であったり,過酷条項を取り入れる場合もある.
夫は子に対して親子関係不存在の確認に訴訟を提起して
その過程でDNA鑑定が行われたというものである.結
果は,親子関係が不存在であった.この結果に子は精神
(19)
大橋 憲広
的に大きな衝撃を受けた.判決は親子関係の存在を肯定
出生による親族関係を創設するものである.モンテネグ
した.っまり,生物学的事実,そしてそれを証明する科
ロにおける「完全養子」は,養親となる夫婦の年齢30歳
学技術よりも,父子としての社会的営みに価値を置いた
から60歳と規定する.養子縁組の手続としては,裁判
のである.本判決の根拠づけの評価は分かれるものの,
所が関与し,監護委託契約による試験養育期間が考慮さ
かかる例から見れば,医療技術によって生まれた子の親
れる。養子となるものが一定以上の年齢であるときには,
子関係を法律が余地なく一律に断定してしまうことには,
本人の意見が聴取される.
子の利益を重視する立場にたてば疑問の余地があるとい
東ヨーロッパにおける養子制度は,強い効果をもっ類
わざるを得ない.
型と弱い効果のある類型が存在するが,いずれも子の福
祉を目的として制度設計されており,わが国における普
・養子
通養子縁組が,先述のように年齢要件として,きわめて
養子縁組には,2類型ある。これらは日本法の「普通
緩やかなものとしているのとは対照的である.普通養子
養子」と「特別養子」に必ずしもで対応しない.養子の
縁組が,かつて,相続税の免税基準をクリアするたあ方
縁組時点での年齢要件は,18歳未満(ブルガリア,セ
策として祖父母が孫を養子にしたり,越境入学の方便と
ルビアとモンテネグロ,クロアチアにおける「親養子」),
して養子縁組を使うこととは無縁である.
10歳未満(クロアチアにおける「親族養子」),15歳未
Literatur
満(セルビァとモンテネグロにおける「完全養子」)な
どとなっている.養親となることができるのは,成年で
1.
あって養親として養子を保護し,養育できるものである.
Thomas H. Reynolds and Arturo A. Flores
Foreign Law Current Sources and Basic
親権を剥奪されたり,精神疾患をもっもの,養子の生命
Legislation in Jurisdiction of the World
と健康を危うくするようなものは,当然に養親となるこ
2.
Internationales Ehe−und Kindschaftsrecht
3.
Familienkodex der Sozialistischen Volksre−
とができない.クロアチアでは,養親となれるものの年
(Standesamtswesen)
齢制限は21歳以上35歳以下となっている。ブルガリア
では,直系親族間の養子縁組は禁止されるが,孫が婚外
publik Albanien Gesetz Nr.6599 vom 29. Juni
子のとき,もしくは両親が死亡している場合には,曾祖
1982(WGO 1983)
父母が孫を養子とすることができる.
4.
日本法が,普通養子にっき年長者養子と尊属養子を禁
Albanien Motivenbericht zum Familienkodex
1965(WGO 1965)
止するのみで年齢差を考慮せず,特別養子にっき縁組時点
5.
で養子6歳未満,養親となるものを25歳以上と規定する
Robert Schwanke
Das Erbrecht in der Volksrepublik Albanien
のに対して東ヨーロッパ養子法においては,養子制度の
(Ost Eur R 1964)
趣旨をいわゆる「子のための養子」として徹底させてお
6.
Irene Sagel−Grande und Szofia Ottovay
り,養親子間の年齢差を規定している.具体的には,18
Ehe, Familie und Partnerschaften in Ungarn
歳以上(セルビァとモンテネグロ・クロアチア・アルバ
Familienrechtlichen Entwicklungen 1985−1995
ニア),15歳以上(ブルガリア),である.ポーランド
(ROW 1997)
の場合は,「適当な年齢差」を規定するのみで具体的な
7.
例示はない.なお,クロアチアでは,例外規定として35
Peter Gyertyanfy
Zum Ungarischen Kindschaftsrecht
歳以上のもの養親となるときには40歳を超えない年齢
(Ost Eur R 1973)
差としている.
8.
先述の2っの類型をみることする。ブルガリアにおけ
Tibor Pap
Zur Ungarischen Familienrechtsnovelle 1974
る「不完全養子」では養方と実方の権利義務が存続し,
(WGO 1974)
実親の親権と相続権が消滅するもので協議による離縁が
9.
1.aszlo RUPP
可能である,これに対して「完全養子」は,主として両
Das ungarische Unterhaltsrecht
親のない子を養子とするもので,養子と養方親族との間に
(JOR 1983)
(20)
東ヨーロッパ家族法の諸相
10.
The Family Law(Beograd 1962)
11.
The International Survey of Family Law 2001
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大橋 憲広
Zusammenfassung
Die Geschichte des Familienrechts in Osteuropa kam grob in vier Perioden unterteilt werden. Die
erste Periode ist die Zeit der Staatsgriindungen nach dem Ersten Weltkrieg. In dieser Periode
wurde die Familiengesetzgebung, die in ein und demselben Staat ofしverschiedene und
komplizierte Auspragungen hatte, vereinheitlicht. Es wurde ein modemes Familienrecht erlassen,
das sich an Westeuropa orientie貢e, aber’wenn auch vor Gericht nun die obligatorische Zivilehe
galt, so beeinnussten in Wirklichkeit Si枕en, Gebrauche und Religion die Institutionen Ehe und
Familie. In Albanien皿m Beispiel, einem Land mit einer grossen muslimischen Bev61kerung,
wurde weiterhin auch die Vielehe praktiziert.
Die zweite Periode ist die Zeit, in der das Familienrecht durch die sozialistische Ideologie im
System der Volksdemokratie gepragt war. Ehe und Familie wurden als Eckpfeiler der Nation
eingestuft und sowohl die Gleichberechtigung von Mam und Frau sowie von ehelichen und nicht
ehelichen Kindern als auch der Schutz der Frau vor und nach der Geburt wurden als Grundsatze
fbstgelegt.
Die dritte Periode erstreckt sich uber die 60er und 70er Jahre, in denen ein zweites Familienrecht
erlassen wurde, weil der Ubergang vom System der Volksdemokratie zum Sozialismus vollzogen
sei. Allerdings wurde das Familienrecht aus dem Zeitalter der Volksdemokratie ohne substanzielle
Revisionen Ubemommen.
Die vierte Periode ist die Zeit nach der Demokratisierung. Hier wird debattiert, ob das
Familienrecht ein Teil des BUrgerlichen Gesetzbuches werden oder wie bisher ein Sondergesetz
bleiben solle. Den Hintergnlnd dieser Debatte bilden Uberlegungen, die wegen der Belebung der
wirtschaftlichen Aktivitaten und der daraus entstandenen Folgen einem engen Zusamme血ang von
Familienrecht mit Gebieten des Eigentumsrechts Bedeutung beimessen. Zur Verbindung des
Familienrechts mit Religion sei erwahnt, dass in Polen durch das Konkordat mit dem Vatikan bei
ErfUllung der vereinbarten Voraussetzungen die fhiher praktizierte kirchliche Eheschliessung die
gleiche RechtsgUltigkeit wie die Zivilehe erhalten hat。
(22)