アメリカン・ポップスの創始者たち 04. 04.ボブ・ディ ボブ・ディラン 2015.8.08 中野 101 1941 年、ミネソタ州で生まれたディランはハイスクール時代、ロックンロールの誕生という歴史的な転問を経 験している。50 年代半ば、エルヴィス・プレスリーの本格的デビューを象徴的な発火点に全米を巻き込んで炸裂 した新種の若者音楽ロックンロールは、ミネソタの片田舎に暮らすディラン少年(当時はロバート・ジママンという 名前だったのだが)の心も震撼させた。自分でもエレクトリック・ギターやピアノを担当してロックンロール・バンド を結成し、シャウトしていた。アイドルはチャック・べリー。ハイスクールの卒業アルバムには“リトル・リチャードの 仲間になることが夢”と書かれていた。一時期、セミ・プロのミュージシヤンとしてボビー・ヴィーのバック・バンドで 仕事をしたこともある。ロックンロール・シンガーとしてスターになりたい。それがディラン少年の夢だった。 が、50年代末、ロックンロールにとって不幸な出来事が相次いで起こった。エルヴィス・プレスリーが徴兵された。 チャック・ベリーが少女を州境を超えて連れ出した罪で告発された。幼い従姉妹と結婚したことでジェリー・リー・ ルイスが全米のラジオ局から“倫理的な理由”によって締め出された。エディ・コクランが悲劇の事故死を遂げた。 リトル・リチヤードが宗教の道に入った。ロックンロールの名付け親でもある DJ、アラン・フリードが収賄で有罪を 言い渡されキャリアに終止符を打たれた。この激動の時期を境に荒々しく粗野な初期型ロックンロールは鳴りを ひそめ、フランキー・アヴァロンやアネットに代表される、より穏やかなティーンエイジ・アイドル・ポップスがヒットチ ャートの主流を占めるようになった。 ロックンロール冬の時代の到来だ。 一方、下火になっていったロックンロールに代わるヒップな音楽として、静かに注目を集め始めたのがフォー クだった。フォーク音楽の興隆について細かい経緯を説明し始めると長くなりそうなので別の機会に譲るが。 とにかく時代はロックンロールからフォークへ。こうした時代の流れを敏感に受け止めたのか、ミネソタ大学の芸術学 部へと進学したディランの憧れの対象はチャック・べリーからフォークの偉人ウディ・ガスリーへと変わっていった。 やがて 61 年 1 月、大学をドロップアウトしたディランは初めてフォーク・ムーヴメントの中心地ニューヨークへ。 到着後ほどなく、大胆にもウディ・ガスリーを訪ねている。大恐慌の時代、自ら放浪しながら貧困や差別に若しめ られる民衆の声を代弁するかのような、たくましく、反骨心あふれる、しかし根底にどうにもならない悲しみと切な さをたたえた傑作フォーク・ソングを数多く残したガスリーだが、40年代半ばから健康が悪化。遺伝性の神経障 害に冒され、ディランが会いに行ったころも入退院を繰り返していた。すでに再起不能状態だったガスリーとの 会見で特に深い話が交わされたわけではなかったようだが、少なくともディランにとっては、これが旧世代から新 世代へと何かが継承された運命的瞬間だったのだろう。 そのままニューヨークに定住し、グリニッチ・ヴィレッジ周辺のフォーク・サーキットでアーティスト活動をスタート させたディランは、ある種の決意のもと、様々な形で“ウディ・ガスリー”という文化を受け継ぎ始めた。歌い方、ギ ターの構え方、服装、身のこなし、しゃべり方、笑い方まで熱心に真似していたと言われている。もちろん音楽そ のものへの興味がいちばんだった。ガスリーの楽曲はもちろん、その周辺に埋もれる膨大なトラディショナル・フ ォークやブルースを若きディランは貪欲に吸収していった。先輩フォーク・シンガーにあたるデイヴ・ヴァン・ロン クやランプリング・ジャック・エリオット、エリック・フォン・シュミットらのレパートリーから多くを学んだり、イジー・ヤン グが運営していた米国ルーツ音楽の宝庫《フォークロア・センター》に入り浸り多くのトラディショナル曲をあさりま くったり、ハリー・スミスが編纂した LP ボックス・セット 『アンソロジー・オヴ・アメリカン・フォーク・ミュージック』を聞 きまくったり、ジョン・ハモンドがちょうど編纂中だったロバート・ジョンソンの再発 LP を発売前に手に入れいち早 く聞き込んだり・・・・。 そんなふうにして自分のものにしたレパートリーの中からセレクトされたのが、1962 年 3 月、“米国フォーク音楽 にとって重要な新人” と銘打たれ、米コロムビア・レコードからデビュー・アルバム『ボブ・デイラン』の収録曲だっ た。プロデュースを手がけたのはどリー・ホリデイ、チャーリー・クリスチャン、アレサ・フランクリンらを見出したこと で知られる伝説の A&R マン、ジョン・ハモンド。その後、多くの素晴らしい自作幽をポップ・ヒストリーに残したデ ィランだが、このデビュー・アルバムにはオリジナルが2曲しか収められていない。残りはすべてブルース、あるい はフォークのカヴァー。そのせいか、まともに顧みられることが少ない作品ではある。が、デビューに際してディラ ンがどうありたかったのか、どう見てもらいたかったのか、そのあたりの心情を探るには格好の作品集だ。 ジェシ“ローン・キャット”フラーの「彼女はよくないよ(You’re No Good)」、ブラインド・ウィリー・ジョンソンの「死 1 にかけて(In My Time Of Dyin’)」、ブッカ・ホワイトの「死をみつめて(Fixin’ To Die)」、トミー・マクレナンの「ハイ ウェイ 51」、ブラインド・レモン・ジェフアーソンの「僕の墓をきれいにして(See That My Grave Is Kept CIean)」と いったブルースのカヴァーをはじめ、アパラチア系マウンテン・ソング「いつも悲しむ男(Man Of Constant Sorrow)」、もともとはスコットランドの古謡だった「プリテイ・ペギー・オウ」、スピリチェアル助「ゴスペル・プラウ」、 フォン・シュミット作の「連れてってよ(Baby,Let Me Follow You Down)」、ヴァン・ロンクから学んだというトラディ ショナル「朝日のあたる家(House Of The Risin’Sun)」、カントリーの大御所ロイ・エイカフの当たり曲「貨物列車 のブルース(Freight Train Blues)」という11曲のカヴァーに、ディラン作の「ニューヨークを語る(Talk in’ New York)」と「ウディに捧げる歌〈Song To Woody)」を加えた全 13 曲。 オリジナルとはいえ、最後に挙げた 2 曲とも明らかにウディ・ガスリーからの影響が色濃く刻み込まれた仕上が りだった。「ウディに捧げる歌」のほうはガスリーのレパートリー「1913 年の大虐殺(1913Massacre)」のメロディを そのまま流用し、そこにガスリー、シスコ・ヒューストン、サニー・テリー、レッドベリーら先達フォーク・アーティスト たちの名前を織り込んだディラン作の新たな歌詞を乗せたものだった。「ニューヨークを語る」もガスリー流のトー キング・ブルース・スタイルを摸した 1 曲。ただのパクリじゃないか、と思う方がいらっしゃるかもしれない。ぼくも高 校生のころ、はじめてガスリーの「1913 年の大虐殺」を聞いたときは驚いた。ディランに対してちょっとした疑念を 抱いたりもしたものだ。 が、この方法論もまたディラン流のガスリー継承のひとつだった。04年、『ロサンゼルス・タイムズ』紙に掲載さ れたインタビューで、ディランは自作の代表曲のひとつ「風に吹かれて(B10Win,In The Wind)」に関してこんな 発言をしている。ちなみに「風に吹かれて」も、奴隷の競り市を題材にした古いスピリチュアル「競売はたくさんだ (No More Auction Block)」を下敷きに生まれた楽曲だった。 “「風に吹かれて」は 10 分で書き上げた。たぶんカーター・ファミリーのレコードで覚えた古いスピリチュアルに新 しい歌詞を乗せただけ。それがフォーク音楽の伝統だ。先人が手渡してくれたものを使うということなんだ……” 事実、ガスリーもよく古くから伝わるフォーク/カントリーのメロディに独自の歌詞を乗せて自らのレパートリー へと作り替えている。誰もが一度は耳にしたことがあるだろう彼の代表作「我が祖国(This Land Is Your Land)」 でさえ、カーター・ファミリーの「リトル・ダーリング・パル・オヴ・マイン」と「ホエン・ザ・ワールズ・オン・フアイア」に 共通するメロディをそのまま借用したものだった。たぶんそのカーター・ファミリーの楽削こしても、どこかに原型 が存在しているはずだ。倫理的にどうとか、著作権的にどうとか、そういう問題ではない。ポイントは、この草の根 的なやり方こそが伝統であり、ディランはデビューの時点でその伝統を、憧れも含めて継承しようと決意していた ということだ。デビュー・アルバムを制作した段階から、ディランが伝統の継承という作業に対していかに意識的 だったかがわかる。 同時に、ディランは彼が憧れていたフォークニシンガーやブルースマンの音楽に、後続世代ならではの新たな グルーヴを持ち込んでみせた。この点も見逃せない。生ギター1本の弾きギターアルバムではあるけれど、ディラ ンがかき鳴らすギターやスピーディに吹きまくるハーモニカには確実にロックンロール/ロカビリーの感覚が息づ いている。独特のしやがれた歌声も、まだ青臭さを残してはいるものの、先達のそれとは大きく違う、どこか皮肉気 な、クールなブルース感覚をたたえており、その後開花する持ち味への可敵性を存分に感じさせてくれるものだ。 アルバムに収録しようと考えていた解釈/アレンジをそのまま無断で拝借し、ヴァン・ロンクに先駆けてレコーデ ィングしてしまったものだった。この、ある種冷酷で不敵な判断もまたディランらしさの重要な一要素。処女作に はそのクリエイターの可敵性のすべてが詰め込まれているとよく言われるが、まさにその通りだ。 ■The Freewheel in’Bob Dylan(1963) レコード会社の期待もむなしく、デビュー・アルバムは当時 5000 枚ほどしか売れなかったという。が、このアル バムでの決意表明を背景に、ディランは次なる大きなステップへと向かった。前作がデビュー盤にもかかわらず やけに“死”のイメージを強く漂わせていたのも意味深だ。録音前に出会ったウディ・ガスリーの様子が大きく影 響していたのかもしれないが、むしろあのアルバムを録音することでディランは何かにきっぱりと決着をつけたか ったのではないか。決着をつけて、次へ。ディランはいよいよ本格的にその才能を開花させていくことになる。デ ビュー・アルバムの制作後、それまで以上に熱心に新曲を書くようになったディランはついに大半をオリジナル 曲で埋め尽くした新作『フリーホイーリン・ボブ・デイラン』をリリースした。63年5月のことだ。もちろん、前述した 2 「風に吹かれて」を筆頭に、相変わらず多くの要素をトラディショナル曲から引用しながら作詞作曲しているのだ が、やり口がかなり複雑になってきた。 たとえば「はげしい雨が降る(A Hard Rain’s A-Gonna Fall)」。 下敷きにしたのは英国のチャイルド・バラッド 「ロード・ランドール」だ。若者と母親との対話形式で問いと答えとが繰り返される歌だが、やがてその若者が毒 に冒され死に直面していることが明かされる。ディランはこの悲劇的な曲のメロディではなく、構造を受け継いだ。 息子への問いかけーどこへ行っていたのか、何を見たのか、何を聞いたのか、誰に会ったのか、これからどうす るのか-と、それに対する答えとを交錯させ、公民権運動、キューバ危機などで大きく揺らぐ 60 年代初頭のアメ リカに暮らす者ならではの切実な思いを綴っていったディランは、キューバ危機がそのまま米ソの核戦争へと発 展することを真剣に危惧していたという。.・そこで、不穏な現状と核の惨事のあとの悪夢のような近未来を、古い トラディショナル曲の構造を忠実に継承しながら黙示録的に描きあげてみせたわけだ。アルバムのリリース前に フォーク・クラブ《ガスライト》で初演されたとたん、リッチー・ヘイヴンズ、ビートシーガー、ハミルトン・キャンプらフ ォーク仲間がこぞってカヴァー。あっという間にスタンダード化したという。もちろんそのころは、目前のキューバ 危機に対サるプロテスト・ソングとしてストレートな効力を発揮していたわけだが、けっして直哉な表現に堕するこ とのないディランの歌詞は危機が去って以降もまったく色あせることなく深い洞察をわれわれ聞き手に届け続け てくれている。 他にも、英国フォーク・リヴァイヴァルの立役者でもあったイーワン・マッコールが収集したトラディショナル曲の ひとつ「スカーポロウ・フェア」の歌詞フレーズや郷愁に満ちたコード感をディランなりに発展させた「北国の少女 (Girl from the North Country)」、やはり英国トラッド「ノッタマン・タウン(ノッティンガム・タウン)」の陰鬱なメロディ をそのまま流用した「戦争の親玉(Masters Of War)」、ポール・クレイトンがトラディショナル曲をもとに作った「フ ーズ・ゴーイング・トウリ 1 イ・ユー・リボンズ」の歌詞の一部とメロディを素材にした「くよくよするなよ(Don’t Think lt Twice,It’s All Right)」、テレビ番組の撮影で渡英した際に知り合ったイギリスのフォーク・シンガー、マーティ ン・カーシーに教わった 19 世糸己の曲「ロード・フランクリン」のメロディを下敷きにした「ボブ・ディランの夢(Bob Dylan’s Dream)」など、ディランはデビュー・アルバムで明示した方向性をより多彩な形で実践。昨今のフォー ク・ソングは“ティン・パン・アリー’’と呼ばれる音楽出版社が密集したアップタウン地区で作られている。でも、こ の曲は違う。アメリカのどこか、もっと南のほうで作られたものだ‥… という威勢の良い語りで始まるトーキング・ ブルース「ボブ・ディランのブルース(Bob Dylan’s Blues)」など、若きディランの熱い心意気の現れだろう。前作 同様のジョン・ハモンドに加え、サン・ラやセシル・ティラーらと仕事をしていたトム・ウイルソンがプロデューサーと して関与。フォークという狭い枠を超えたディランの奔放な感覚をすくい上げる大きな助けとなった。 さらにもう一人、この時期のディランに大きな影響を与えた人物といえば。アルバム・ジャケットで仲むつまじく 腕を組む当時の恋人、スージー・ロトロだ。イタリア系移民で共産党貝という家庭に育った彼女は 17 歳のとき、 20 歳だったディランと出会った。アーティスティックで感性豊かなニューヨーカーである彼女がディランにもたらし た影響は、ライフスタイル的にも、カルチャー的にも、人脈的にも、政治理念的にも、計り知れない。 アルチエール・ランボーやベルトルト・プレヒトをディランに教えたのも彼女だと言われている。ディランが自らの 表現を深めていくうえでスージーの存在は重要だった。さらに、スージーがヨーロッパに行ってしまったときの淋 しさと切なさをウディ・ガスリー的に吐露した「ダウン・ザ・ハイウェイ」や、ポール・クレイトンの曲に触発されて生ま れた“座り込んで考えていたって意味がない/どっちにしろ 仕方ないことなんだ” という歌詞に、スージーとの 関係がうまくいかなくなり始めた時期の諦観や後悔を託した「くよくよするなよ」など、恋愛をめぐる心情描写がデ ィランの表現に加わったのも彼女の功績のひとつだろう。 ■The Times They Are A-Changin’(1964) スージーと寄り添いながら、雪が残るニューヨークの街を歩く微笑ましいアルバム・ジャケットは大いに評判にな った。「風に吹かれて」や「くよくよするなよ」が、ディランのマネージャーをつとめるアルパート・グロスマンが並行 して手がけていたピーター・ポール&マリーのカヴァー・ヴァージョンで大ヒットを記録したこともあり、ディランへ の注目度も一気に上昇。様々な要素がうまい具合に相乗効果を生み、おかげで『フリーホイーリン‥‥‥』は全 米アルバム・チャートで 22 位に達するヒット作となった。 ピーター・ポール&マリー版「風に吹かれて」が全米チャート2位まで上昇していたちょうどそのころ、ディランは 3 ニューポート・フォーク祭に出演。詰めかけた大観衆から熱く迎えられた。すでにディランの活動の場はグリニッ チヴィレッジの小さなフォーク・クラブではなく、大会場へと移っていた。と同時に、ミシシッピ州グリーンウッド選 挙人登録集会で歌ったり、ワシントン大行進に参加したり。公民権運動が高まりを見せるアメリカにおいて、ディ ランは“プロテスト・フォークの旗手”というイメージのもと、反抗する世代の代弁者的な役割を課せられることとな った。 『フリーホイーリン‥‥』の収録曲で言えば、「戦争の親玉」や「第3次世界大戦を語るブルース(Talkin’ World War III Blues)」のような真っ向からのプロテスト・ソングだけでなく、より幅広い解釈が可能なはずの「風に 吹かれて」まで、狭義に、公民権運動のテーマ曲としてもてはやされた。「はげしい雨が降る」の“雨”は放射性 降下物のことだと誰もが受け止めた。 そんな中、64 年 2 月にリリースされ全米アルバム・チャートで最高 20 位にランクしたのが 3 作目のアルバム『時 代は変る(The Times They Are A-Changin’)』だった。全収録曲がディランの自作。ここでのディランは世間の 彼への評価をそのまま受け入れ、期待に応えているかのようにも見える。生活苫にあえぐサウス・ダコタの貧しい 白人農民一家 7 人が、残された最後の 1 ドルで買った 7 発の銃弾で心中したという実話を、20 年代に活躍した 白人ブルースマン、ドック・ボッグズの「プリテイ・ポリー」のメロディに乗せて淡々と綴る「ホリス・ブラウンのバラッ ド(Ballad Of Hollis Brown)」や、ウイリアム・ザンジンガーという白人青年が、10人の子供を養うためにメイドとし て働いていた黒人女性ハツテイ・キヤロルを、単に頼んだ飲み物を持ってくるのが遅いという理由で殴り殺した にもかかわらず、懲役6カ月という軽い刑ですまされてしまった事件を扱った「ハツテイ・キャロルの寂しい死 (The Lonesome Death Of Hattie Carrol)」は、どちらもディランが新聞で読んだ記事に触発されて作った楽曲だ った。公民権運動の指導者的存在だった黒人運動家メドガー・W・エヴァーズの殺人事件を扱った「しがない歩 兵(Only A Pawn In Their Game)」も同様。 これらは実名で誰かを指弾する、いわゆるフィンガー・ポインティング・ソングとしてフォーク・ファンに受け入れ られたわけだが。しかし、実際ディランはこれらの曲で事件の当事者をありがちな形で弾劾したわけではなかっ た。たとえば「ホリス・ブラウン…」の場合、ディランは事件のあらましを淡々と歌い綴るだけだ。「ハツテイ・キャロ ル‥・」では、涙を流すべき対象はキャロルでもザンジンガーでもない、本当の悲劇はこのあまりにも愚かしい判 決にこそあると結ぶ。「しがない歩兵」でも、ディランは殺されたエヴアースではなく、運動を面白く思わない大き な力のもとで単なる駒として使われた殺人者のほうを犠牲者として哀れむ。 グリニツチ・ヴイレッジでクランシー・プラザーズがよく取り上げていた「ザ・ペイトリオットゲーム」をもとに作られ たという反戦ソング「神が味方(With God On Our Side)」も、本アルバムのハイライト曲のひとつとして人気を博し たが、ここでもディランはやみくもにアンチを唱えるのではなく、絶えることなく繰り返される様々な戦争に思いを 馳せながら、聖書の教えや神の存在そのものに行き場のない疑念を投げかけてみせる。デビューしてほんの数 年だというのに、ディランの歌詞表現は急速に深まっていった。この勢いには圧倒されるしかない。本アルバム には『11のあらましな墓碑銘(11 0utlined Epitaphs)』という散文詩が添えられていた。明らかにアレン・ギンズバ ーグを筆頭とするビート詩人たちに影響されたものだが、この手触りが歌詞のほうにもより強く表れ始めたのがこ の時期だった。 そして、アルバム表題曲だ。“Come gather’round people…” というトラッド・ソングの伝統的な歌い出しから始 まる楽曲だが、内容はタイトル通り、時代は若い世代のものだと強く訴えるものだった。この曲はさすがに文字通 りの意味だけを持つものかと思ったが、2010 年 2 月 9 日、公民権運動時代に歌われた歌をフィーチャーした記 念コンサートがホワイトハウスで開催されたとき、出演者のひとりとしてステージに立ったディランは「時代は変る」 を歌った。もちろん歌詞はそのままだ。素晴らしいパフォーマンスだった。世紀まで変わったにもかかわらず、今 の時代の状況は64年当時と何ひとつ変わっていないのだという事実を思い知らされた。ディランはあの時代の 政治や権威に対して“ノー’’を突きつけていただけではなかった。これは普遍の歌だった。世の母親、父親に 対し、自分の子供を支配しようとするな、理解できないことを論じようとするな・・・ とメッセージする個所がある。 若者から目上の者に対する強烈な一撃として、かつてのぼくはとらえていたのだが。今、68 歳のディランが、より 凄みを増したしゃがれ声でこの歌詞を歌い放ったとき、それが単に新世代から旧世代へ向かうだけのものでは なかったことにも気づいた。理解できないことを論じるな、という一節は、旧世代から新世代に対するメッセージ でもある。ぼくの耳にはそう届いた。さらに言えば、俺のことをわかったような気になって論じても何の意味もない、 とディランから改めて釘をさされた気分にもなった。ディランの曲は、こんなふうに時を超えていく。 4 この時期、ディランはフォークの女王と呼ばれていたジョーン・バェズと急速に接近していた。バェズは積極的 に自らのステージにディランをゲストとして招き、彼の才能を世に広めるうえで大きな力となった。プライベートで も二人の仲は親密に。当然、恋人だったスージー・ロトロとの間には大きな感情のすれ違いが生まれた。スージ ーとディランはその後もつかず離れずの状態でしばらく交流を続けたようだが、心は確実に離れていった。 それだけに、別離の予感が漂う「いつもの朝に(One Too Many Mornings)」や「スペイン革のブーツ(Boots Of Spanish Leather)」、「哀しい別れ(Restless Farewell)」あたり、胸の傷みを託された楽曲たちも見逃せない。メッ セージ色濃い楽曲群が強い存在感を放つ本アルバムの収録曲として、当時これらがどう受け止められたのかぼ くにはわからないが、時代を経て接してみるとその真価がよりヴイヴィッドに伝わってくる気もする。 ■Another Side Of Bob Dylan(1964) アルバム『時代は変る』は 63 年の 8 月から 10 月にかけてレコーディングされた。その直後、11 月 22 日に全 米に衝撃が走った。ジョン・トケネディ大統領の暗殺事件。多くのアメリカ人同様、ディランも大きな無力感を覚え たはずだ。08 年にスージー・ロトロが出版した自伝 『グリニッチヴィレッジの青春』には、その数日後、暗殺犯と 見られるリー・ハ-ヴェイ・オズワルドが連行中に射殺された瞬間をディランとともにテレビの生中継で目撃した 様子が描かれている。ディランも言葉を失っていたという。 このころまでには、公民権運動も反戦運動も次第に過激さを増し、それに対してもディランは戸惑いを感じて いたらしい。そんな中、ケネディ暗殺はひとつの引き金となったのではないだろうか。プロテスト・フォークの担い 手として時代のヒーローに祭り上げられた自らのイメージもすでに重荷でしかなかった。自分は何に向かって歌 うべきなのか。様々な疑念がディランの中に渦巻いディラン違いない。憧れのウディ・ガスリーですら到達しえな かったフォーク・シンガーとしての高みにまで登り詰めたかに見えたディランだが、 世間が彼に期待するプロテスト色を前面に押し立てた『時代は変る』をリリースしたころには、すでに政治や社会 の問題と直裁に関わることを敬遠し始めていた。 64 年初頭から、ビートルズを初めとする英国ビート・バンド勢が全米チャートめがけて一気に侵攻し、ポップ・シ ーンの情勢を大きく変えてしまったこともデイランディラン刺激した。彼らイギリスの若いバンドたちは、前述した ‘‘ロックンロール冬の時代’’の中で誰もがふと忘れかけていたロックンロールや R&B の初期衝動を思い出させ るうえで大きな役割を果たしたわけだが。これはディランがブルースやフォークというルーツ音楽に対して果たし た役割と同じだった。少々うがった見方をすれば、もともとロックンロールにぞっこんだった自分を変えてフォーク に道へと向かったディランだけに、彼はこのムーヴメントに対して少なからぬジェラシーを覚えていたのではない か、とも思う。 こうした彼の心情の変化がくっきりと刻み込まれたのが 64 年 8 月にリリースされたアルバム『アナザー・サイド・ オヴ・ボブ・デイラン』だった。収録曲すべて、たった1日のレコーディング・セッションで録音されている。スタジ オに居合わせた評論家ナット・ヘントフに対してプロデューサーのトム・ウイルソンは、どの曲もこめ数カ月の間に ディランが新たに書き下ろしたものだと話したという。ディラン自身も、「ここにはもうフィンガー・ポインティング・ソ ングは1曲もない。今では誰もがフィンガー・ポインティング・ソングを歌っている。ぼくはといえば、もう人々のた めに曲を書きたくない。スポークスマンにはなりたくない」と語ったそうだ。 その言葉通り、『アナザー・サイド‥‥‥』はまさにディランの“別の一面”を凝縮した 1 枚に仕上がっていた。も ちろん、大きく変わったのは歌詞の面だ。もうディランはトピカルな実話を綴ることもなく、誰か別の人格になりき ることもなく、自らの内面から沸き上がる声だけを歌詞に託して歌っていた。もともとプロテスト・ソングと受け止め られた彼の作品にしても、それは単なる抗議の歌ではなく、より思索的、懐疑的、内省的なものであることが多か った。鋭い切り口と、詩的な比喩、暗喩、ひらめきに満ちた押韻などがちりばめられていた。ディランはそうした作 詞手法を政治や社会問題と切り離した地平で駆使するようになったわけだ。サウンド的には、ピアノ弾き語り曲 「黒いカラスのブルース(Black Crow Blues)」以外、それまで同様、自ら奏でる生ギターとハーモニカだけをバッ クに録音されており一見大きな変化はないようにも思えるのだが、細かく演奏を聞き込んでいくと随所に巧みなリ フ作りや周到なコード・アレンジが見え隠れしており、ディランが音楽的に新たな地平に足を踏み入れつつある ことがわかる。 偉大なカントリー・アーティスト、ハンク・ウイリアムス流のウィットとジミー・ロジャーズばりのヨーデル唱法が 5 印象的な「オール・アイ・リアリー・ウォント(All I Really Want To Do)」、“Sometimes I’m thinkin’Ⅰ’m too high to fall”と初めてドラッグの使用を匂わす表現が盛り込まれた「黒いカラスのブルース」、全編にわたってなまめかし くイメージ豊かな言葉が抽象的に渦巻く「スパニッシュ・ハーレム・インシデント」、深い愛情と残酷な拒絶との狭 間で揺れる究極のラヴ・ソング「ラモーナへ(To Ramona)」、“あのころはうんと年老いていた。今のぼくはあのこ ろよりずっと若い’’というリフレインがプロテスト・フォークへの決別宣言とも聞こえる「マイ・ノヾック l ペイジズ」、生 ギター1 本の演奏からすでにバンド・アレンジが聞こえてくるかのような「アイ・ドント・どリーグ・ユー」、“ぼくは君 が求めているような男じやない。君が必要としている男じゃない’’という歌詞が象徴的に響く「悲しきペイブ(It A in’t Me Babe)」など、ポップ・ソングライターとしてのディランの才能が存分に楽しめる楽曲ぞろい。唯一、前作ま での彼に通じる曲といえば、先輩世代のフォーク・シンガー、トム・グレイザーのレパートリー「ビコーズ・オール・ メン・アー・プラザーズ」に含まれる“自由の鐘が鳴るところに私の祖国がある”という歌詞の一節からイメ M ジを 広げたと言われる「自由の鐘(Chimes Of Freedom)」くらいか。が、ランボーあたりのフランス象徴詩からの影響も あらわに、鮮烈に描き出されているのは、もはや現実の世界の光景ではなく、ディランの内省に存在するサイケ デリックなパラレル・ワールドのそれだった。評論家のポール・ウィリアムスはこの曲を‘ディラン版「山上の垂訓」” と評した。 オリジナル・リリース時のファンは、ディランの急激な変身ぶりに戸惑いを隠せなかったようで、全米チャートで は 43 位どまり。ディランが作った初めての駄作と評する者も少なくなかった。過渡期ならではの混乱ということか。 しかし、その後のディランの歩みをすでに知るぼくたちにとって、本盤は間違いなく“次への予感”に満ちた大傑 作だ。 ■Bringing It All Back Home(1965) 『アナザー・サイド‥』 リリース直後の 64 年 8 月 28 日、ディランは渡米中だったビートルズのメンバーとニュ ーヨークのデルモニコ・ホテルで会うことになった。ロックンロールを生んだ国であるはずのアメリカの聴衆がふと 忘れかけていたロックンロール本来のシンプルでワイルドな魅力を、憧れもこめて無邪気によみがえらせたイギリ スの若者たちとの初顔合わせごディランは大いに刺激を受けたはずだ。まだビートルズの音がアメリカに入りた てだったころ、ディランは「ただのバブルガム音楽じゃないか」‘と友人に語っていたそうだが、64年にはすっかり 考えを改めていた。「彼らは他の誰にもできないことをやっていた。彼らのサウンドは素晴らしかった。他のミュー ジシヤンと一緒に、つまりグループで演奏しなければ出せないサウンドだった。彼らを聞いて、ぼくは他のミエー ジシヤンと一緒に演奏することを考えるようになった」と語っている。 この日のホテルでの顔合わせは、ディランがビートルズに初めてマリファナをすすめた歴史的な瞬間として音 楽ファンに記憶されているが。もちろん、創作面での刺激のやりとりもあった。すでにディランの歌詞の世界観に ぞっこんだったジョン・レノンは、この日の対話を受けて、以降ますますディテン的な曲作りを聞かせるようになっ ていった。ジョージ・ハリスンもこの日を契機に生涯を通じてディランとの親交を深めていくことになる。 一方ディランも従来の弾き語り形式に見切りをつけ、ついに自らの音楽にビートルズのようなリズム・セクションと エレクトリック楽器を導入することを決意した。自らデビュー・アルバムで取り上げていたトラディショナル助「朝日 のあたる家」を、やはり英国バンド勢のひとつ、アニマルズがロックンロールにリアレンジして歌っているのを耳に したこともディランを大いに触発したらしい。 その最初の成果が 65 年 3 月にリリースされ全米チャート 6 位まで上昇したアルバム 『プリンギング・イット l オ ールーバック・ホーム』だった。冒頭を飾る「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」からしてパワー全開だ。ブ ルース・ラングホーン(ギター)、ジョン・ハモンド・ジュニア(ギター)、ウイリアム・E・リー(ベース)、ボビー・グレッ グ(ドラム)をバックに従え、リハーサルなしの仙一発勝負で録音されたのだとか。チャック・べリーが2ビートのグ ルーヴに乗って皮肉な歌詞を阜口でまくし立てるロックンロール「トウー・マッチ・モンキー・ビジネス」のスタイル を借りつつ、ディランも刺激的な押韻とミステリアスな暗喩が渦巻く言葉の大群をチャック・べリー以上の勢いとス ピード感で連射していく。ウディ・ガスリーの「ティキン・イット・イージー」をはじめ、フォーク/トラッド曲からの歌 詞の引用も見受けられる。ロックンロールに触発され音楽をはじめたディランは、その後身を投じたフォーク・ム} ヴメントの渦中で磨きをかけた彼独自の鋭い視点と詩的な表現を、この瞬間、再度ロックンロールの世界へと持 ち帰ったみせたわけだ。 “すべて故郷に持ち帰る”というアルバム・タイトルがやけに象徴的に思える。ついにデ 6 ィラン流のフォーク・ロックが誕生した。シングル・カットもされ全米チャート 39 位まで上昇。ディランにとって初の 全米ヒット・シングルとなった。 ラングホーン、グレッグに加えてアル・ゴーゴニ(ギター)、ケニー・ランキン(ギター)、ポール l グリフイン(ピア ノ)、ジョゼフ・マッチョ・ジュニア(ベース)という顔ぶれがバックアップした「マギーズ・ファーム」もごきげん。狭い、 退屈な世界を飛び出したいという切迫した気分を託した楽曲だが、まさにこの時期のディランの心境そのものだ ったのだろう。 やはりチャック・べリーの「メンフイス」調のギター・リフに乗っ七展開するアップテンポ・ブルース「アウトロー・ブ ルース」もやばさ全開。歌詞の中にサニー・ボーイ・ウイリアムソンの「ナイン l ビロウ・ゼロ」のタイトルが織り込まれ ているのも興味深い。 「オン・ザ・ロード・アゲイン」と「ボブ・デイランの 115 番目の夢(Bob Dylan’s 115th Dream)」はフォーク期とこれ からやってくる本格的フォーク・ロック期の作風との中間を行くような仕上がり。特に後者。アメリカ建国以来の歴 史をディラン流の奔放なイメージのもとでたどり直した歌詞を貫くなんとも冷笑的なまなざしが印象的だ。 こうしたノリのいい楽曲だけでなく、生ギターとハーモニカを伴ったディランの弾き語りにバックの面々が寄り添 うように着実な演奏を聞かせるタイプの「シー・ビロングズ・トウ・ミー」や「ラヴ・マイナス・ゼロ/ノー・リミット」には 甘くポップな楽曲を生み出すソングライターとしてのディランの才能がしっかり刻み込まれている。 今あげた曲はすべてアナログ LP 盤 A 面の収録曲。対して、B 面の収録曲はどれもバック・バンドを伴わず、デ ビュー以来の生ギター弾き語りスタイルを基調にレコーディングされていた。といっても別に後ろ向きな仕上がり じやない。確かに「エデンの門(Gates Of Eden)」と「イッツ・オール・ライト・マ」はディランひとりによる完全弾き語 り曲だったが、次々とイメージ豊かな言葉を交錯させながら、ほんの 1 年ほど前までの楽曲とはまるで違う世界 観を現出させている。いや、ぼく個人的には今なおまったく歌詞の真意がつかめていないので確かなことは言 えないのだが。しかし、どちらの曲もかき鳴らされるギターや凄みを増した歌声から聞こえてくるグルーヴは間違 いなくロックだ。 ザ・バーズのロック・アレンジによるカヴァー・ヴァージョンが全米 1 位に輝いたことでも知られる「ミスター・タン プリンマン」も離れがたい魅力を放つ 1 曲だ。西海岸きってのセッション・プレイヤーたちの助けを借りてよりビー トを強調し、浮遊するようなスリー・パート・ハーモニーをあしらったザ・ノヾ-ズのヴァージョンは、“ビートルズに 対するアメリカから回答”とも評されるほどキャッチーな仕上がりだったが、作者であるディランのヴァージョンの ほうは、彼の生ギターとハーモニカ、そしてブルース・ラングホーンが控えめに添えるエレクトリック・ギターのアル ペジオのみがバックアップ。非常にパーソナルな、謎めいたムードをたたえていた。ここで歌われているタンプリ ン、日本語的に言えばタンバリンはラングホ∵ンが所有していたトルコのフレイム・ドラムのことらしい。 その形が大きなタンバリンに見えたことから、ディランはラングホーンのことを“ミスター・タンバリン・マン”と呼んで いたのだとか。そのイメージに加えて、ツアーで立ち寄ったニューオーリンズで出くわしたマルディ・グラの光景 や、フェデリコ・フェリーニ監督の映画『道』を見て得た印象などを交錯させながら書き上げた楽曲だった。にもか かわらず、この曲はドラッグ絡みの作品だとか、詩の神に霊感を与えてほしいと祈っている歌だとか、様々な解 釈が聞く者によってなされ、それぞれが一人歩きしていった。 B 面ラストを飾る「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ペイビー・ブルー」は、やはりディランの弾き語りにジョゼ フ・マッチョ・ジュニアがリリカルなべース・ラインを添えたもの。ハイスクールのころ愛聴し、自らも歌っていたとい うジーン・ヴィンセントのブルージーなロックンロール「ペイビー・ブルー」がインスピレーションの源だとか。これも 聞く者それぞれで受け取るメッセージがまるで違う楽曲だろう。何がすべて終わったのか、ペイビー・ブルーとは いったい誰なのか……。ともに南部をツアーして回ったときに仲違いしたポール・クレイトンのことを歌っていると する説もあれば、この時期に共演ツアーが予定されていたジョーン・バェズとの間の悪い破局を描いたものだと する説もある。 様々な謎が今なおデイラン・マニアの間で論議され続けている名曲だ。いわばすべての解釈が正解であり、す べてが間違い。このスリリングで謎に満ちた象徴性こそ、この時期のディラン最大の魅力だ。 ■Like A Ro11ing Stone(single)/Positively 4th Street(single)(1965) 65年4月から5月にかけて、ディランはのちにドキュメント映画 『ドントルック・バック』(D・A・ペネッベイカー監 7 督)としてまとめられることになるイギリス・ツアーに出た。アルバム『プリンギング・イット・・・・』はイギリスでも話題と なり、見事全英アルバム・チャート1位の座に輝いたが、このツアーはすべて生ギターの弾き語り形式で行われ た。バックステージにはビートルズ、ローリング・ストーンズ、ドノヴァン、マリアンヌ・フェイスフルなど多くの英国人 アーティストが駆けつけた。コンサートの合間にはエリック・クラプトンを含むジョン・メイオール&ザ・ブルース・プ レイカーズやアニマルズらとの非公式なセッションが行われたりもした。さらに、ディランの新恋人サラ・ラウンズ の存在が明らかになったのもこのツアーでのことだった。ツアーに同行しながらもまったく出番を与えてもらえな かったジョーン・バェズも、ツアー中盤になってサラの存在を初めて知り、怒りに震えながらツアーを離脱した。 ツアー後、ディランはサラとポルトガルで休暇を楽しみ、6月になって帰国。ポップ・シーンの新時代をリードす る英国人ミエージシヤンとの交流や、新たな恋愛を満喫したディランはリフレッシュした気分で 6 月 15 日と 16 日、 ニューヨークのコロムビア・スタジオに向かった。シングル「ライク・ア・ローリング・ストーン」のレコーディング・セッ ションだ。バックをつとめたのはポール・グリフイン(ピアノ)、ジョー・マッチョ・ジュニア(ベース)、ボビー・グレッグ (ドラム)、そしてディランと同じアルパート・グロスマンがマネージメントを手がけていたバタフィールド・ブルース・ バンドの一員だったマイケル・ブルームフィールド(ギター)という顔ぶれ。特筆すべきはブルームフィールドの参 加だろう。レコーディングに取りかかる前、ディランはウッドストックの自宅にブルームフィールドを招待。待ち合わ せたバス停留所にディランが迎えに行くと、ブルームフィールドは愛機テレキャスターをむき出しで抱えて立って いたそうだ。自宅でディランはニュー・アルバムに収録予定の曲をいくつかブルームフィールドに聞かせた。そ の中に「ライク・ア・ローリング・ストーン」もあった。そして、こう言ったという。「B’・Bl キングのような普通のブルー ス l ギター←を弾いてもらいたいわけじゃない。何か普通とは違うものを弾いてほしいんだ」と。二人は試行錯誤 を繰り返し、やがてブルームフィールドはディランが望むプレイをつかんだ。 15 日のセッションは不調に終わり、16 日。スタジオには新たに新進気鋭のセッション・プレイヤーだったアル・ク ーパーも姿をみせた。もともとはギターを弾くつもりで、半ば押しかけのようにスタジオへとやってきたクーパーだ ったが、ブルームフィールドのプレイに恐れをなし、いったんはコントロール・ルームに退いていた。が、グリフイ ンがそれまで弾いていたハモンド・オルガンからピアノに楽器を変えるようプロデューサーのトム・ウイルソンに指 示された隙に、空いたハモンド・オルガンの席につき、あの印象的なプレイを聞かせることになった。綿密な準備 と、予期せぬまったくの偶然とが絶妙に絡み合う形で伝説のレコーディング・セッションが実を結んだわけだ。 こうして完成した「ライク・ア・ローリング・ストーン」は全長6分。シングル盤としては長すぎたうえ、従来のディラ ンのイメージをくつがえすヘヴィなエレクトリック・サウンドに仕上がっていたため、コロムビア・レコードは発売を 躊躇した。が、音源が流出し影響力を持つラジオ DJ たちがこぞってこの楽曲を支持したことからようやくリリース が実現。かつては上流社会でお高くとまっていた“ミス・ロンリー”の転落を描き、彼女に対して“どんな気分 だ?’’と鋭い問いかけを突きつける、ある意味当時のディラン作品にしては明解な内容だったことも功を奏した か、8 月には全米チャート 2 位まで上昇する特大ヒットとなった。 「ランク・ア・ローリング・ストーン」がチャート上位めがけて上昇しているさなか、7 月末に開催されたニューポー ト・フォーク・フェステイヴァルにディランは出演した。24 日は単独での生ギター弾き語りライヴだったが、ナフェス 最終日の 25 日にはマイケル・ブルームフィールド(ギター)、サム・レイ(ドラム)、ジェローム・アーノルド(ベース) というバタフィールド・ブルース l バンドのメンバーを核に、アル・クーパー(オルガン)、バリー・ゴールドバーグ (ピアノ)を加えた顔ぶれからなるバック・バンドを率いて登場。ディラン自らもエレクトリック・ギターを抱え、黒の モッズ・ファッションに身を包んで「マギーズ・ファーム」と[ライク・ア・ローリング・ストーン」、そしてのちに「悲しみ は果てしなく(It Take saLot‘to Laugh,It Takesa Train to Cry)へと発展することになる「ファントム・エンジニア」 の 3 曲を演奏した。かつて生ギターをバックに歌っていた“フォーク・シンガー’’としてのディランを愛したファン は、この“ロック・シンガー”への変貌に度肝をぬかれた。観客の半分はステージに向かって罵声を投げかけた。 PA の状態が悪くディランのヴオーカルがほとんど聞こえなかったことも影響したようだ。フェスの運営もつとめて いたビートシーガーが斧で電源ケーブルを切断しようとした、という凄まじいエビシードまで伝えられている。 が、残る半数の観客は新たなディランの画期的なステージを大歓迎した。ブーイングと声援が入り乱れ、会場 は大混乱に陥った。混乱の中、3 助を演奏し終えたディランは退場。 が、他のアーティストがみんな 45 分ほどの ステージをつとめていたにもかかわらず、その夜のヘッドライナー的な扱いだったディランがほんの 15 分で引っ 込んでしまったことで、また新たな不満が会場で爆発した。事態を収拾しようと、当夜の司会をつとめていたピー 8 ター・ヤーロウがディランを説得し、彼は再び舞台上へ。今度はエレクトリック・ギターではなく、その場でジョニ ー・キャッシュから借りた生ギターを抱えひとりで再登場。さらに観客からハーモニカを借り、「ミスター・タンプリン l マン」と「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ペイビー・ブルー」l を歌った。このときデイランは何を思ってこれらの 曲を選んだのか。特に、最後に歌われた「……ペイビー・ブルー」にまたひとつの謎が加わった瞬間だった。 その直後、ディランはレコーディングを再開。プロデューサーにナッシュヴィル系のボブ・ジョンストンを迎え、ニ ュー・アルバム『追憶のハイウェイ 61(Highway61Revisited)』の制作にとりかかった。その中でレコーディングされ たオリジナル・アルバム未収録のシングル曲「寂しき 4 番街(Positively4thStreet)」は、明らかにニューポートでの 惨めなまでの意識のすれ違いに対するディランからの返答だった。“図々しいにもほどがある。 ぼくを友だち呼ばわりするなんで’という歌い出しから“一度でいいからあんたがぼくの身になってくれればと願 う”というエンディングまで、ニューポート以降ディランがふつふつと脳内につのらせていた不満がポップなフォー ク・ロック・サウンドに乗せてぶちまけられている。「寂しき 4 番街」は 65 年 10 月に全米チャート入りし最高 7 位ま で上昇。その後、67 年 3 月り・リースの初ベスト・アルバム『ボブ・ディランのグレーテスト・ヒッツ(BobDylan’s Greatest Hits)』に収録された。 ■Highway 61Revisited(1965) ディランにとって 6 作日のオリジナル・アルバムにあたる『追憶のハイウェイ 61』は、65 年 8 月にリリースされた。 A 面 1 幽目に収められた「ライク l ア・ローリング・ストーン」の冒頭、アルバム全体の躍動を予言するかのように炸 裂するスネア・ドラムの一撃から、B 面ラストの大作「廃墟の街(Desolation Row)」まで、一部の隙もない圧倒的な 仕上がり。折からのディラン旋風に後押しされながら全米アルバム・チャート 3 位に達する大ヒットを記録した。こ こに至ってディランは確実にビートルズと並ぶ革新的ポップ・アーティストとしての名声を手に入れた。 とはいえ、ディランはやみくもに新しいものを模索しようとしていたわけではない。「ライク・ア・ローリング・ストー ン」にしても、その発想の根底にはハンク・ウイリアムスの代表曲「ロスト・ハィウェイ」の“俺は転がる石だ‥‥” と いう歌い出しの歌詞や、ブルースの巨人らディ・ウォーターズの「ローリング・ストーン」があった。コード進行も 50 年代のロックンロール・ヒ}ロー、リッチー・ヴァレンスがメキシ±の伝統音楽の要素を取り入れて作り上げた・「ラ・ バンバ」の影響を強くたたえている。 法の抑止力など無意味なワイルド・ウエストの神話と現代の無法な街の風景とが二重写しにされているかのよう な歌詞がマイケル・ブルームフィールドの強烈なブルース・ギターをバックにスピーディに投下される「トウームス トーン・ブルース」も、音像の奥底には確実にシカゴ・ブルースの伝統が息づいている。 ゆったりしたシャツフル l ビートでグルーヴする「悲しみは果てしなく」は、木立からもれる月明かりのイメージを ブルースの始祖のひとり、チャーリー・バットンの 30 年代の作品「プア・ミー」から借りている。 「ビュイック 6 型の想い出(From A Buick6)」もコンテンポラリーなエレクトリック・サウンドで演奏されてはいるが、 楽曲自体の構造はスリーピー・ジョン・エスティスが 30 年に録音した「ミルク・カウ・ブルース」そのものだった。 「ライク・ア・ローリング・ストーン」と対を成すように、大きく動いている現実に対して鈍感な者への苛立ちを爆発 させた「やせっぽちのバラード(Ballad Of A Thin Man)」は、トラディショナル・フォークの語り口とレイ・チャールズ のブルージーな R&B を合体させたような仕上がりだった。 ディラン自身は「曲の主人公は男性だ」と発言しているものの、これはジョーン・バェズのことを歌ったものに違 いないと多くのファンが信じている「クィーン・ジェーン(Queen Jane Approximately)」のタイトルも、ヘンリー八世 の 3 番目の王妃ジェーン・シーモアのことを歌った英国のトラディショナル・バラッド 170 番「ザ・デス・オヴ・クィー ン・ジェーン」に基づいている。 アルバム表題曲「追憶のハイウェイ 61」で歌われているハイウェイ61号線はニューオーリンズからカナダ国境 まで続く伝説の路線だ。ロバート・ジョンノンは 61 号線と 49 号線が交わるクロスロードで悪魔に魂を売り渡し、凄 絶なギター・テクニックを身につけたと言われている。ベッシー・スミスはこのハイウェイで自動車事故死した。マ ーティン・ルーサー・キングが殺害されたのも 61 号線沿いのモーテルだった。この伝説のハイウェイを題材に、 ディランは乱雑に、暴力的に、聞き手に向けて混沌の極みを投げっける。歴史あるハイウェイ61号線がその混 沌へと続く道であるかのように。 テキサス=メキシコ国境付近のムードをたたえた「親指トムのブルースのように 〈Just Like Tom Thumb’s 9 Blues)」はアルチュール・ランボーに触発された作品だと言われている。訳によって細部は異なるが、ランボーの 「わが放浪」の“まるで夢見る親指トムみたいさ。歩きながらぼくは詩に韻を踏ませた”という一節から、ディランは このどこか超常的なロード・ソングを紡ぎ出したのだろうか。 11分半近い「廃墟の街」は、本アルバムの他のどの曲とも違うアコースティカルな仕上がり。ディランとチャーリ ー・マッコイがシンプルで軽やかな生ギターのアンサンブルを聴かせる。が、詞の内容はフェリーニの映画を思 わせる鮮烈なカーニヴァノレの光景のもと、シンデレラ、ロミオ、カインとアベル、オフイーリア、アインシュタイン、 カサノヴァなど様々な登場人物がうごめくイマジネイティヴかつサイケデリックなものだ。ディラン自身はリリース 当時、メキシコのどこかの街の光景だと説明したようだが、アル・クーパーはニューヨークの 8 番街のことだと語っ ている。歌詞の中にも登場するト S・エリオットが聖書や神曲からの引用を散りばめながら第一次世界大戦後の 荒廃した世界の姿を描き出した詩「荒地」をディラン流によみがえらせたものなのだろう。曲のタイトルは、ジャッ ク・ケルアックの『荒涼天使たち(Desolation Angels)』とジョン・スタインべックの『キャナリー・ロウ』を組み合わせ たものだとする説もある。 かなり大ざっぱかつ図式的な説明になってしまったが、ロック音楽を新たな局面へと導いたと評されることが多 い本アルバムもまた、ディランならではの伝統へのこだわりと継承の上に編み上げられていた、と。そういうことだ。 とともに、ぼくが個人的に興味深く感じているのは、本盤を覆いつくす、車、あるいはハイウェイのイメージだ。20 世紀初頭にフォード社が設立されて以来、車はアメリカ人の必需品。だから、ブルーグラスの王様として知られ るビル・モンローの「へヴイ・トラフイツク・アヘッド」、カントリーのハンク・ウイリアムス「ロストハイウェイ」、ブルース のサニー・ボーイ・ウイリアムソン「ボンティアック・ブルース」、R&B のジャッキー・プレストン「ロケット 88」、ロック ンロールのチャック・べリー「ユー・キャント・キャッチ・ミー」など、車をテーマに据えたアメリカ音楽は様々なジャ ンルに古くから数多く存在した。いわゆるホットロツド・ソングというやつだ。ディランが破竹の快進撃を開始する 直前にも、ビーチ・ボーイズがサニー・カリフォルニアで青春を謳歌するティーンエイジャーのありのままのカーl ライフを爽快なハーモニーに乗せて歌い大当たりをとっていた。 が、冷酷にも時代は変わっていった。ビーチ・ボーイズの全盛期ごろまで、アメリカは経済も強く、ガソリンも安く、 最高にヒップなスポットはドライブインだった。が、アメリカン l ドリームに彩られた世界最強の国アメリカは、やがて ベトナム戦争という厄介者を抱え込み、混迷の一途をたどっていくことになる。とともに、音楽も変わった。車絡み の曲の手触りも大きく変化した。その象徴のひとつが本アルバム『追憶のハイウェイ 61』だったのではないかと思 う。 かつて ティーンエイジャーが青春を謳歌するための晴れ舞台だったはずのハイウェイやストリートは消え失せ た。その後も多くのアーティストが車やハイウェイを題材に曲を発表してきたけれど。たとえば、束縛や侮蔑とい った世に蔓延する重い苦悩を振り払うためにハイウェイを疾走し、“気楽にいこう、思い詰めるな”と自らに必死に 言い聞かせるイーグルスの「テイク・イット・イージー」にせよ、ハイウェイ・パトロールも恐れず、フォードのアクセ ルをめいっぱい踏み込みながら“もう止まれない/動き続けていなければ頭がおかしくならちまう”とシャウトする ドウービー・プラザーズの「ロメキン・ダウン・ザり、イウェイ」にせよ、“昼、つかむことのできないアメリカの夢のヌト リートで汗水たらして働き/夜、自殺マシーンで栄光の館を走り抜ける”と歌われるブルース・スプリングステイー ンの「明日なき暴走」にせよ。ハイウェイやストリートはもはや希望に満ちた目的地としてではなく、厳しい現実か ら“どこか別の場所”へ逃げ出すための手段として描かれるばかりだった。そんな変化の予兆をいち早く盤面に 刻み込んだ作品としても、本アルバムは忘れてはならない名盤だろう。 ■Blonde On Blonde (1966) アルバム『追憶のハイウェイ 61』 リリース直後、ディランはパーマネントなバック・バンドを探し始めた。様々な バンドを見て回ったようだが、最終的にはアルパート・グロスマンの秘書をつとめていたメアリー・マーティンが推 薦したザ・ホークスというバンドに白羽の矢が立った。 ホークスの歴史がスタートしたのは 50 年代後半。アメリカ南部出身のロカビリー・シンガー、ロニー・ホーキンス のバック・バンドとして結成された。が、ホーキンスは本国アメリカでは 2 曲の小ヒットを放っただけでたいした評価 を得ることができず、新たな活動の場を求めてバック・バンドともどもカナダに向かった。アメリカでは売れないシ ンガーでしかなかったホーキンスも、その種のエネルギッシュなロックンロール・シンガーがまだ珍しかったカナ 10 ダでは、そこそこ大物顔ができたらしい。彼らはカナダ各地のクラブを中心にハードな演奏活動を続けていた。 が、そうこうするうちにメンバーたちは次々ホームシックにかかり、一人また一人と帰郷。結局、残ったのはアメリ カ南部アーカンソー出身のドラマー、レヴオン・ヘルムだけ。他はすべてカナダ出身のミュージシャンにとって代 わられた。こうして集まったのがギタリストのロビー・ロバートソン、ベースのリック・ダンコ、ピアノのリチヤード・マ ニュエル、オルガンとサックスのガース・ハドソンという顔触れ。彼らはやがて 64 年、親分であるホーキンスの元 を離れ、独自にバンド活動をするようになった。秘書マーティンの進言によってディランがホークスのライヴを見 たのは、その約 1 年後のことだった。 今さら説明の必要などないだろうが、ホークスはやがてザ・バンドへと改名しロック界を代表するスーパー・グル プへと成長していくことになる男たちだ。彼らの最大の武器はある種の“等距離感覚”。メンバー5 人のうち 4 人ま でがカナダ人だったこともあり、彼らはブルース、ゴスペル、ロックンロール、カントリー、ニューオーリンズ R&B、 ジャズなどアメリカが生んだ素晴らしいルーツ音楽に対して等距離に限りない愛を注ぐことができた。流行だの 最新サウンドだの、曖昧な価値観に惑わされることなく、本場の人間にはむしろ見えにくい“根っこ’’の部分を ぴたりと押さえることができた。彼らにとってはメンフイスのソウル・レヴユーも憧れであり、同時にナッシュヴィル のグランド・オール・オープリーも憧れだった。ただ、それだけでは地に足付かぬ観念的な音楽になってしまう危 険性もあるのだが、ホークスには正真正銘、多くのルーツ音楽を生み出したアメリカ南部出身のレヴオン・へル ムがいた。4 人のカナダ人の憧れに端を発する情熱的な理念に、この生粋の南部野郎が具体的な手触りを与え ていた。 もちろん、こうした彼らの持ち味はザりマンドとして本格デビューを飾って以降、露わになったものなのだが。た ぶんディランは、まだホークスと名乗って活動していたころの彼らにも何かその萌芽を感じ取ったのではないだ ろうか。南部系チキン・ピッキング・ギターの伝統を、ディランいわく“数学的”に継承したロバートソン。カントリー 的な粘り腰の泥臭さと、ブルーグラス的な白さと、R&B 的な黒っぽさとが軋みをあげて混ざり合うダンコ。熱いソ ウル感覚とジャジーな甘さが交錯するマニュエル。楽理に基づく緻密さとァヴァンギャルドな冒険心とをあわせ持 つハドソン。南部人ならではの土臭いグルーヴを繰り出すへルム。そんなホークスの演奏を気に入ったディラン は、まずロバートソンをバック・バンドの一員に抜擢。数回のライヴののち、今度はロバートソンの進言でヘルムを スカウト。ほどなく残る 3 人も合流。こうしてボブ・デイラン&ザ・ホークスという伝説のコンビネーションが誕生した。 65 年 9 月のことだった。 翌月、ディランとホークスはニューヨークのコロムビア・スタジオ入りし、年末にリリースされ全米 58 位にランクす ることになるシングル曲「窓からはい出せ(Can You PleaseCraw10ut Your Window?)」をレコーディングした。こ れを皮切りに、彼らは翌年1月にかけて次なるディランの新作アルバム『ブロンド・オン・ブロンド』のための様々 な試行錯誤を繰り返した。が、結局たいした成果も残せずじまい。並行して行われていたライヴでは、いまだエ レクトリック楽器に持ち替えたディランの変身ぶりに対して保守的な観客からの激しいブーイングが繰り返されて おり、罵声の中で演奏しなければならない状況に我慢できなくなったレヴォン・ヘルムがバンドからの一時的脱 退を決意したことも混乱を引き起こした。アル・クーパー、ブルース・ラングホーン、ボビー・グレッグらおなじみの セッション・ミュージシャンたちもスタジオに呼ばれ作業を続けたが、アルバム収録予定曲のうちニューヨークで 完成に至ったのは「スーナー・オア・レイター(One Of Us Must Know)」だけだった。 プロデューサーのボブ・ジョンストンはこの停滞状況を打開するため、優れたセッション・ミュージシャンの宝庫、 テネシー州ナッシュヴィルでのレコーディングを提案。ディランもロビー・ロバートソンとウル・クーパーの同行を 条件にナッシュヴィル行きを承諾したため、2月、場所をニューヨークからナッシュヴィルのコロムビア・ミュージッ ク・ロウ・スタジオへと移して 『ブロンド・オン・ブロンド』のレコーディングが再開された。 ジョンストンが現地で集めたミュージシヤンは、チャーリー・マッコイ(ギター、ハーモニカ)、ウェイン・モス(ギタ ー)、ジェリー・ケネディ(ギター)、ジョー・サウス(ベース)、ハーガス・ロビンソン(ピアノ)、ケニー・バットリー(ドラ ム)といった当地の気鋭ミュージシキンたちだった。音楽監督の役割はロバートソンとクーパーに任されていたよ うだが、のちにロバートソンが述懐したところによると、ナッシュヴィル勢はロバートソンたちの言うことをまるで聞こ うともせず、休憩時間はトランプ遊びに夢中になっていたらしい。もちろんナッシュヴィル勢にも言い分はあった。 新鮮な演奏をするためには事前の打ち合わせをしすぎない状態で先入観なしにスタジオ入りしたほうがいい、 それがナッシュヴイル流のやり方だ、と。 11 現場には両者の意識のすれ違いからくる緊張感が少なからず漂っていた。が、考えてみればこの構図、ホー クスの在り方と同じなのだ。人々の山っ気と欲望が渦巻く大都会を拠点に、遥かアメリカ南部に埋もれるブルー スやフォークといった宝に熱いまなざしを投げかけていたディラン、ロバートソン、クーバーと、そうした宝を生み 出した南部の土壌で日々昔ながらのやり方で音楽を作り続けるカントリー・ボーイたちとの共演。こと音楽面だけ を見れば、生ギター1 本の弾き語りではなく、バンドを従えてレコーディングするようになってから初めて、ともす れば観念的な方向に寄りがちだったディランのアルバムに、それをきっちり根っこの部分で支える具体的な手触 りが明解な形でもたらされたわけだ。 もちろん、過去素晴らしいカントリーや R&B、ブルース、ロックンロールなどを数多く生み出してきたナッシュヴィ ルという土地そのものが放つ魔力も大きかったのだろう。 アル・クーパーは後に、“ふたつの異なる要素を試験管に流し込んだら、見事、大爆発したのさ”と語っていた。 まさに予想以上の化学反応によってロック・ヒストリーに燦然と輝く傑作アルバムが完成した。『ブロンド・オン・ブ ロンド』は 66 年 5 月、当時としては珍しかった LP2 枚組でリリースされ全米アルバム・チャート 9 位に達するヒット を記録した。 シングル・ヒットも多数誕生している。管楽器を導入し、ミュージシヤンそれぞれの担当楽器をあえ て入れ替え、調子っぱずれのハーモニカを吹き鳴らし、まるでラリった救世軍のマーチング・バンドのようなサウ ンドを聞かせる「雨の日の女(Rainy Day Women#12&35)」のシングル・エディット・ヴァージョンが全米 2 位にラ ンクしたのを筆頭に、ウェイン・モスの軽快なギャロツピング・ギターとケニー・バットリーがワイヤー・ブラシを操り ながら表情豊かに繰り出すスネア・ドラムのグルーヴをフィーチャーしたポップな「アイ・ウォント・ユー」が全米 20 位、アンディー・ウォーホールが主宰するクリエイター集団《ファクトリー〉に所属していたモデルのイーディ・セジ ウイツクのことをイメージしながら、疑いなくファッションの囚われ人でいられる者に対するシニカルな思いを綴っ た艶めかしい「女の如く(Just Like A Woman)」が全米 33 位、そして強烈なブルース・チューン「ヒョウ皮のふちな し帽(Leopard-Skin Pill-Box Hat)」が全米 81 位。1 作から 4 枚のシングル・ヒットを生んだディランのアルバムは 『ブロンド・オン・ブロンド』だけだ。 2枚組だけに、実に多彩な楽曲群が収められている。どの曲も注目に値するが、ただ前述の「ヒョウ皮・・・」を はじめ、「プレッジング・マイ・タイム」、「時にはアキレスのように(Temporary Like Achilles)」、「5 人の信者達 (Obviously 5 Believers)」といったあたりは、ナッシュヴイルというよりはシカゴっぽい仕上がり。「フォース・タイム・ アラウンド」はジョン・レノン作のビートルズ・ナンバー「ノルウェイの森(Norwegian Wood)」からの影響が強い。 このあたりより、さすがはナッシュヴィルというミュージシヤンの力量を感じさせてくれる楽曲のほうがやはり存在 感を発揮している。ロックと散文詩の融合という面でこれまで以上に素晴らしい成果を上げた「ジョアンナのヴィ ジョン(Visions Of Johanna)」や、LP の片面に1曲だけ収められていた長尺曲「ローランドの悲しい目の乙女(Sad Eyed Lady Of The Law lands)」など、ディランが次にどう出るか、先が読めない状況での一発レコーディングだっ たという。とりあえず渡されたコード譜だけが頼り。それでもナッシュヴィルの連中は見事な集中力を発揮し、ほ ぼワンテイクでディランの世界観をバックアップしてみせた。 そして、「メンフィス・ブルース・アゲイン(Stuck Inside Of Mobile with The Memphis Blues Again)」だ。これもま るで映画のようにスピーディにイメージが展開していく長尺曲だが、ここで聞くことができるタイトで骨太なグルー ヴもまたナッシュヴィルのミエージシヤンならではのものだ。アル・クーパーのオルガンとの絡み具合も理想的。 前述した予期せぬ化学反応がいい形で記録された名演だろう。ちなみに、“メンフイス・ブルースとともに再び車 にこもる” というタイトルの意味はいまだ判然としない。この“モビール”のは車のことではなく、アラバマ州の都市 の名前だとする解釈もある。だとすれば、フォークの象徴としてのアラバマ州モビールと、ロックンロールの象徴 であるテネシー州メンフィスと。その両者をともに抱え込むディランの姿を表現したものととらえることもできそうだ が‥‥‥。 『ブロンド・オン・ブロンド』の発売日は 66 年 5 月 16 日。それをまたぐような形で、4 月 28 日から 5 月 27 日まで、 ディランはヨーロッパ・ツアーに出た。バック・バンドをつとめたのはホークス。一時脱退していたレヴォン・ヘルム に代わってミッキー・ジョーンズがドラマーをつとめた。 このツアーは、前半が生ギターの弾き語りセット。後半がホークスを従えたエレクトリック・セットという構成になっ ていた。が、相変わらずフォーク時代のディランを求める旧来のファンは後半のステいジをヒステリックなまでに 忌み嫌った。聞く耳を持たなかった。そうしたファンたちは各地で前半のステージを堪能し、後半はディランとホ 12 ークスに罵声を浴びせ続けた。これがひとつのお定まりのパターンになっていた。 そんな張り詰めた状況下、ロック史上もっとも有名な、というか、なんともやりきれないアーティストと観客とのや りとりが交わされた。5月17日、イギリスのマンチェスター、フリー・トレード・ホールでのステージ。終盤、観客の ひとりがディランに向かって「ユダ!」と声を上げたのだ。裏切り者呼ばわりされたディランは「お前の言うことなど 信じない」と答える。間を置いて「お前は嘘つきだ」と、さらなる一言。くるりと客席に背を向け、バンドに向かって 「プレイ・イット・フアツキン・ラウド!」と声をかけると「ライク・ア・ロニリング・ストーン」を演奏し始める。そのときの 演奏のテンションの高さといったら‥‥‥。 半世紀近く前の出来事にもかかわらず、このシーンはいまだにぼくたちを震撼させる。かつては海賊盤などで しか追体験できなかったが、今は 『ロイヤル・アルパート・ホール(The Bootleg Series,Vo1.4/Live1966:The “Royal Albert Hall” concert)』というタイトルの CD2 枚組としてこの夜のステージの音源まるごとが公式リリースさ れている。ロンドンにあるロイヤル・アルパート・ホールの名前がタイトルに冠されているが、これは海賊盤時代の タイトルにあえてならったためだ。 06年に公開されたマーティン・スコセッシ監督によるドキュメント映画『ノー・ デイレクション l ホーム』にも、そのときの模様がカラー映像で収められている。 アルバム『ブロンド・オン・ブロンド』がリリースされるころには、もはやディランの緊張は極限に達していた。 そんな折り、7 月 29 日に自宅があったニューヨーク郊外のウッドストック付近でディランはオートバイ事故を起こし た。負傷がどの程度のものだったのか、正確なところは発表されていないのだが。ディランは怪我を理由に休養 を宣言。マネージャーのアルパート・グロスマンはすでに63本に及ぶ過酷な全米ツアーを発表していたが、そ のスケジュールはすべてキャンセルされた。ディランはウッドストックに引きこもり、しばらくの問、表舞台から姿を 消した。 01.Song To Woody 02.Blowin’In The Wind ―――― (風に吹かれて) 03.A Hard Rain’s A-Gonna Fall 04.Don’t Think Twice,It’s All Right 05.The Time’s They Are A-Changin’ 06.The Lonesome Death Of Hattie Carrol 07.All I Really Want To Do 08.My Back Pages 09.Subterranean Homesick Blues 10.Maggie’s Farm 11.Mr. Tambourine Man 12.Like A Rolling Stone 13.Ballad Of A Thin Man 14.I Want You 15.Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again 16.Just Like A Woman 13
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