Évangéline の周辺 1 はじめに きっかけはアニー・ブランシャール(Annie

Évangéline の周辺
1 はじめに
きっかけはアニー・ブランシャール(Annie Blanchard)の歌う「エヴァンジ
ェリーヌ」(Évangéline)でした。
iTunes store ではおせっかいにも、それまでのダウンロード履歴を解析しつ
つオススメ曲なるものを適宜通知してくれます。
「エヴァンジェリーヌ」はその
ようにしてぼくの前に現れ、ぼくを魅惑したのです。CD のジャケット写真に相
当するアートワークのポートレートは憂愁を帯び、若い女性(ブランシャール
自身でしょう)がもの思わしげにに窓辺に佇んでいます。まるでフェルメール
の世界のように。
すぐさまダウンロードしてじっくり聴き入ってみると、これはありきたりの
流行歌ではありません。エヴァンジェリーヌという名の女性を歌ったものよう
だけれど、なにかそこには歴史的な背景があり、実在の人物でもあるかのよう
にも感じられたのです。
さっそく Web 情報を探りわかってきたのは、「エヴァンジェリーヌ」がフラ
ンスのシンガーソングライター、ミシェル・コント(Michel Conte)によって
書かれ(1971 年)、はじめケベック出身の歌手イザベル・ピエール(Isabelle
Pierre)によって歌われたものであること。その内容はロングフェロー(Henry
Wadsworth Longfellow)の長編詩「エヴァンジェリン」(Evangeline)のスト
ーリーに沿うものであること。そして舞台はアカデイ(Acadie)、今のカナダ東
部、ノヴァスコシア、プリンス・エドワード島辺りであること、などでした。
ノヴァスコシア? プリンス・エドワード島? これは、ぼくの愛読する赤
毛のアンの世界ではないか。
思い返せば、モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery)の『赤毛のアン』では、
なぜかフランス人が侮蔑的に扱われていたのでした。
あの、まぬけの半人前のフランス人の小僧どもぐらいじゃないの、雇おうと
思えば。(村岡花子訳『赤毛のアン』新潮文庫、11 頁)
村岡訳では特に触れられていませんが、完訳を謳う松本侑子訳(集英社文庫)
にはさすがに詳細な訳者注が用意され、この点について以下のように解説され
ています。
『アン』シリーズにおいて、フランス系は、ほとんど使用人として描かれる。
島の歴史を見ると、七年戦争下の一七五八年、イギリスがフランス軍の要塞
を破って、プリンスエドワード島は仏領から英領となった。その時、フラン
ス系住民の多くが島を去る。(略)このような事情から、島にはイギリス系
住民によるフランス系住民蔑視の風潮があった。
(松本侑子訳『赤毛のアン』
集英社文庫、452
453 頁)
「フランス系住民の多くが島を去る」? これは、彼らが自主退去をしたと
いうことだろうか? そうではないだろう。それほど単純な話ではないから、
エヴァンジェリーヌが世に生まれ出でたに違いない
。
2 ミシェル・コントの「Évangéline」
「エヴァンジェリーヌ」を作詩作曲したミシェル・コント(1932.7.17 - 2008.1.5)
は、フランス・ガスコーニュ地方に生れています。パリに出てピアノと作曲を
学び、1955 年からカナダ・ケベック州に活動の拠点を移してテレビやステージ
でキャリアを積み重ねました。
ケベック州といえば誰もが知るフランス語圏。けれどもケベックとアカディ
は別の歩を辿っていて、アカディアンの存在を知らないケベック人も多く、コ
ントも生前テレビのインタビューで"Les Québécois ignoraient l'existence de
l'Acadie."と語っているほどです。
「エヴァンジェリーヌ」の発表は 1971 年のことでしたが、その後 90 年代に
は Marie-Jo Thério の歌唱でふたたび世に出、そしてぼくが繰り返し聴くこと
になるアニー・ブランシャールによるバージョンは 2006 年にリリースされ、そ
の年の the 2006 ADISQ award for "Most popular song"(la catégorie Chanson
populaire de l'année au gala de l'ADISQ)に選ばれている──それを 12 年ま
で知らずにいたのだから、なんとも迂闊なことでした。
インターネット情報から推察するに、ミシェル・コントの「エヴァンジェリ
ーヌ」はアカディアンたちの集まりには欠かせない民族の歌として歌われるよ
うになっているようです。このことには、この曲の持つ親しみやすい叙情的な
旋律がヒーリングミュージックとして受け入れられている側面もあるでしょう。
つまり声高なプロテストソングではないのです。しかしだからこそ時代や年代
を超え、立場を超えて歌い継がれ、聞き継がれて来たのでないか、そんな気が
します。
とはいえ、21 世紀の極東に住むぼくが踏みこんでしまったように、この優し
いシャンソンにだってアカディアンたちの過酷な歴史を辿る旅への導火線とし
ての役割は果たせるのです。またそのように現実の上に立っているからこそ、
情感が惻々とせまってくるのかもしれません。
アカディアンの琴線に触れるシャンソンとなった「エヴァンジェリーヌ」。そ
の誕生のきっかけとなったロングフェローの手になる物語詩「エヴァンジェリ
ン」誕生の経緯とは、いかなるものでしょうか。
3 ロングフェローの「Evangeline」
ダンテの「神曲」をアメリカで初めて翻訳した人物でもあるヘンリー・ワズ
ワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow, 1807.2.27 - 1882.3.24)
は、アメリカ合衆国の詩人。メイン州ポートランドで生まれ育ち、後半生の 45
年間はマサチューセッツ州ケンブリッジで過ごしました。
1826 年から 1829 年の間ヨーロッパ(イギリス、フランス、ドイツ、オラン
ダ、イタリア、スペイン)を旅し、帰国するとボードンでは初めての現代言語
学教授に就任。1836 年にはハーバードの教授職に就いています。
ロングフェローが物語詩「エヴァンジェリン」を書くきっかけを作ったのは、
彼のカレッジ時代からの友人 Nathaniel Hawthorne と、その知人の牧師 Horace
L. Conolly でした。
一八四〇年のある日、ホーソーンは知り合いのボストン・セント・マチュ
ー協会付き牧師コノリー師を伴ってロングフェローの家に食事に行き、その
席でコノリー師がある教区民の女性から聞いたとして、次のような逸話を語
る。一七五五年、一組のアカディの若い男女が結婚式を挙げようとしていた
まさにその日、村中の男たちが教会に閉じこめられ、そのまま追放される。
娘は婚約者を捜してニューイングランド中をさまようが果たせず、晩年によ
うやく再会できたとき、男は臨終直前で、彼の死の直後に彼女自身も息絶え
た
というのである。(大矢タカヤス『地図から消えた国、アカディの記
憶』書肆心水、259 頁)
感動したロングフェローは、しばらくノヴァスコシアの歴史を勉強した後
「Evangeline」を書き上げ、1847 年 10 月に刊行しました。直後から反響は大
きく、版を重ね、また各国語に翻訳もされたようです。
詩の内容はおおむねロングフェローがコノリー師から聞いた話に沿っていま
す。1755 年の大騒動(le Grand Dérangement)で故郷のグラン・プレ(Grand
Pré)を追われた若きアカディアンのエヴァンジェリンとガブリエル(Gabriel)。
村人が集う祝宴のさなかに彼らは離れ離れとなり、エヴァンジェリンはガブリ
エルを探してアメリカ中を探しまわるが運命のいたずらもあってどうしても彼
にたどり着くことができない。ようやくフィラデルフィアのホスピスの一室で
再会できたとき、ガブリエルは彼女の腕の中で息絶えた
。
北米東部大西洋岸のアカディ、現在のノヴァスコシア州を中心とする地域の
史実を背景とした酷薄なストーリーを持つ「Evangeline」。ここで留意すべきは、
そのテーマはアカディという地図から消し去られた楽園、そこに住むアカディ
アンたちを襲ったディアスポラの悲劇そのものでは無かったということでしょ
う。
愛は希望し、耐え、待ち続けると信ずる者たちよ、/女の献身の美と力を
信ずる者たちよ、/森の松が今も唄う悲しみの伝説を聞け、/幸せの故郷、
アカディの恋の物語に耳を傾けよ。(ロングフェロー『エヴァンジェリン』
大矢タカヤス訳)
荒木陽子さんも指摘されるように、その狙いははむしろ〈挙式を目前に「追
放」により離れ離れになりながら、婚約者との再会を信じ続けたあるアカディ
ア人女性の「我慢強く」「貞淑」かつ「従順」「敬虔」なあり方に感銘を受
け、彼女個人をモデルにした詩を書くことであり、そのために「エヴァンジェ
リン」と「ガブリエル」( Gabriel)という架空のキャラクターを作り上げた〉
(荒木陽子「ロングフェロー著『エヴァンジェリン』再考 ─マイエ著『エヴァ
ンジェリーヌ二世』とのインターテクスト性をてがかりに─」、「現代社会文化
研究 No.40」、2007 年 12 月、所載)と考えていいのです。
またロングフェローが詩の背景とする、桃源郷のように美しくのどやかなグ
ラン・プレの描写にも注目すべきでしょう。荒木さんは使われる単語の面から
もキリスト教信仰との関連を事細かに指摘されているけれど、牧歌的な情景描
写そのものも〈それが天国のイメージを反映していることを示唆している〉と
言えそうです。
加えて、例えばフランスで画家のカミーユ・コローが田園風景を書き続けた
ように、当時のヨーロッパに広く見られた「田舎への回帰」──産業革命を経
て悪化する都市環境に対比して田園を理想化する──の風潮へのシンパシーも、
そこには投影されていたのではないでしょうか。なにしろロングフェローは外
国語の専門家で、数度のヨーロッパ滞在を経験しているわけですから。
翻訳、特に仏訳について。
『エヴァンジェリン』は発表直後から大きな反響を呼び、版を重ねました。
翻訳も多数出版されたのですが、最初のフランス語訳は 1853 年、シュバリエ・
ド・シャトラン(Chevalier de Chatelain)によるものです。しかしアカディア
ンに広く読まれたのは、ケベックの文学青年パンフィル・ルメ(Pamphile Lemay)
による 1865 年初版の訳の方だと推測されています。
ルメの訳は序言で自身が「Je n'ai jamais prétendu faire une traduction tout
à fait littérale. J'ai un peu suivi mon caprice. Parfois j'ai ajouté, j'ai retranché
parfois; mais plutô dans les paroles que dans les idées」と書いているように、
翻案に近い自由訳、今風に言えば「超訳」でしょうか。
「原詩になかった表現が
いたるところに挿入され、時に動作や場面さえ付け加えられて」
(大矢)いるの
です。
こころみに、グラン・プレのアカディアンたちが監禁されていた教会から列
をなして出てくる場面の描写を、大矢タカヤスさんによる日本語訳と原詩、そ
してルメによる仏訳の三者で比較してみましょう。
彼女は見たのだ、動揺で蒼ざめたガブリエルの顔を。/涙が彼女の眼にあ
ふれ、彼に向かって夢中で走り、/彼の手をしっかと掴んで頭を彼の肩に埋
め、ささやいた、/「ガブリエル! 元気を出して! 互いに愛し合ってい
るなら、/どんな不幸が起こっても、私たちは大丈夫!」/微笑みながらそ
う言った彼女は突然口をつぐんだ、父が/のろのろと歩いてくるのを見たか
らだ。おお! なんという変わりよう!(大矢タカヤス『地図から消えた国、
アカディの記憶』、54-55 頁)
And she beheld the face of Gabriel pale with emotion./Tears then
filled her eyes, and, eagerly running to meet him,/Clasped she his
hands, and laid her head on his shoulder and whispered,─/"Gabriel! be
of good cheer! for if we love one another,/Nothing, in truth, can harm us,
whatever mischances may happen!"/Smiling she spake these words;
then suddenly paused, for her father./Saw she slowly advancing. Alas!
how changed was his aspect!(Henry Wadsworth Longfellow『Evangeline』)
Elle voit Gabriel! qelle étrange pâleur/Sur sa noble figure, hélas!
s'est répandue!/Elle vole vers lui, frissonnante, éperdue!/Presse ses
froides mains:《Gabriel! Gabriel!/《Ne te désole point! soumettons-nous
au ciel:/《Il veillera sur nous! Et que peuvent les hommes,/《Que
peuvent leur desseins contre nous si nous sommes/《L'un et l'autre
toujours unis par l'amitié!》/Sur ces lèvres de rose, à ces mots de pitié,
/Avec gráce voltige un triste et doux sourire;/Mais voici que soudain sa
chaste joie expire./Elle tremble et pâlit. Au milieu des de captifs/Elle
voit un vieillard, dons les regards plaintifs ( Pamphile Le May
『Évangéline』Deuxièm Édition)
原詩に忠実な日本語訳と装飾過多の仏訳との違いが、ほんのわずかな章句の
なかにも読み取れるのではないでしょうか。
市川慎一さんによると当時のアメリカではアカディとその悲史がすでに話題
になっていたようで、1841 年にはロングフェローの友人のホーソーンも『アカ
ディア住民の略奪』を刊行しているし、他の作家も同じテーマを扱った作品を
発表してるらしいのです。エヴァンジェリンがたちまちのうちに話題を攫う条
件は、時代の空気としても既に整っていた、ということなのでしょう。さらに
は翻訳、特に仏訳によって、エヴァンジェリンはおそらく作者も想定しなかっ
たであろう拡がりをみせることになります。
4 アカディの歴史的背景
エヴァンジェリンを理解するのに欠かせないアカディの歴史は、ヨーロッパ
大陸の動きに翻弄され、かなり錯綜しています。幸いぼくの前には大矢さんの
労作『地図から消えた国、アカディの記憶』があり、歴史をかなり詳しく辿る
ことができるのですが、それでも一・二度読んだだけでは整理がつかないほど
動きが激しいのです。ここでは年譜風に、同書と市川慎一さんの『アカディア
ンの過去と現在 ―知られざるフランス語系カナダ人』(彩流社)を参照しなが
ら、植民当初からフランス領カナダ消滅までの歩みを辿ることにしましょう。
1604 年、ピエール・デュ・グワ・ド・モン(Pierre du Gua de Monts、1568-1630
頃)率いるフランス人入植者が、現在のアメリカ合衆国メイン州のサント・ク
ロワ島(Saint Croix Island / Ȋle de Sainte-Croix)に上陸。狙いは北アメリカに
おけるタラ漁、毛皮の交易で、フランス王権が領土獲得をめざして次々と個人
に独占権を与えていた時期。
1605 年。ド・モンは調査の範囲をさらに拡げ、ポール・ロワイヤル(Paul Royal)、
現在のアナポリス・ロワイヤル(Annapolis Royal)へと拠点を移した。ヨーロ
ッパ人によるカナダで最初の町の建設。
1608 年。サミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlain)が後のケ
ベック市を設立。
1654 年 8 月。イギリス軍がポール・ロワイヤルを占拠。9 月には対岸の拠点
も押さえ、アカディの大半がイギリスの支配下に入る。勢力争いの絶えなかっ
たこの時代のアカディの人口はまだ 400 人ほどでしかなくイギリス支配に変わ
ってもフランス系住民への厳しい要求はまだなかった。
1702 年。野心家のルイ 14 世はしばしば周辺国と争っていたが、
「スペイン継
承戦争」に呼応する形でアン女王戦争が北米で勃発。兵力・資金力に劣るフラ
ンス軍は敗戦を重ねる。
1710 年。ポールロワイヤル陥落。2 年間の猶予期間のうちに退去か忠誠宣誓
を選択するという条件で、大部分の住民が残る。
1713 年。スペイン継承戦争、アン女王戦争が終結。ユトレヒト条約により、
フランスはアカディアをイギリスに譲渡。
これにより「ハドソン湾とニューファウンドランド島、ならびにケープ・ブ
レトン島とサン・ジャン島(現在のプリンス・エドワード島)を除くアカディ
が」イギリスに譲渡された。
これ以降主の変わったアカディアンは歴代のノヴァ・スコシア提督から英国
臣民として忠誠宣誓を繰り返し要求される。一方英国の側でも自分たちの糧食
を確保してくれる先住アカディアンの移動を阻む必要があり、支配者と被支配
者との間で綱引きが続いた。
アカディアンの側でも、
〈少なくともイギリス側が宗教や宣誓で寛やかな条件
を示して引きとめようとしている限り、自ら海岸の低地を辛抱強く干拓して農
地を造成し、そこで家族を増やしてアカディアンというアイデンティティを形
成するまでに至った居心地の良い現状に留まろうと〉(大矢)考えた。
1730 年。グラン・プレでアカディアンの忠誠宣誓。時のフィリップス総督が
アカディアンに口頭で中立的立場を了承することで、アカディはつかの間の平
和と繁栄を享受する。人口も増え、アカディアンは土地を求めて入植地をサン・
ジャン島(プリンス・エドワード島)にまで拡げていった。
ロングフェローの『エヴァンジェリン』に描かれる牧歌的で平和な豊かさは、
この頃のアカディとアカディアンたちの暮らしを活写している(当時のイギリ
ス軍大尉の証言)。
1744 年。ヨーロッパで起きたオーストリア継承戦争が北米に波及し、アカデ
ィ奪還を狙うフランスとイギリスとの争いが各地で勃発(ジョージ王戦争)。ア
カディアンの多くは中立を守ったが、なかにはフランス軍と行動を共にするも
のもいて、イギリスはアカディアンを敵視する方針に急速に傾いていった。
オーストリア継承戦争の集結で、ロワイヤル島、サン・ジャン島がフランス
に返還。
1749 年。イギリスによるハリファクス市設立。アイルランド人 800 人、ドイ
ツ人 600 人を受け入れ、アカディアンに取って代わらせる政策を打ち出す。
1754 年。フレンチ・インディアン戦争。
1755 年。イギリスのノヴァ・スコシア総督チャールズ・ローレンスがアカデ
ィアンに強制移住命令(いわゆる「大騒動」le Grand Dérangement)。
「大騒動」で故郷を追われたアカディアンは 7000 人ほどといわれる。彼らは
船に親子の別なしに大わらわで積み込まれ、マサチューセッツへ 2000 人、ヴァ
ージニアへ 1200 人、もっとも南のジョージアへ 400 人等、英領のアメリカ各地
に送り込まれた。
守る者のいなくなった家々は、非番の兵隊や水夫、他所のイギリス植民地か
らやってきたプロテスタントなどの略奪者の群れに襲われた。乗船を待って海
岸で夜を過ごす女性たちも襲われたという。
ようやくアカディを離れた船も皆が皆目的地についたわけではなかった。そ
もそも各植民地当局に詳細な輸送計画が伝えられていたわけではなく、また輸
送船も急きょ駆り集めた、人間をまともに運ぶための設備も準備もない間に合
わせだった。なかには奴隷船のような構造の船まであったらしい。
1758 年。ルイーブル陥落。サンジャン島陥落。フランス領サン=ジャン島(後
のプリンス=エドワード島)が英領となり、島民5千人のうち、アカディアン
三千人が強制移住させられる。
1759 年。ケベック陥落。
1760 年。モンレアル(モントリオール)陥落。ヌーヴェル・フランス=フラ
ンス領カナダの消滅。
1763 年。
「パリ条約」締結(フレンチ・インディアン戦争集結)。フランスは
ケベックなどカナダの領土とミシシッピ川以東アパラチア山脈までのルイジア
ナをイギリスに割譲し、ミシシッピ川以西のルイジアナをスペインに割譲。
こうして北米での国と国との争いは終わりました。条約締結でセント・ロー
レンス川流域はケベック植民地に、アカディの地はノヴァスコシア植民地に組
み入れられ、「アカディという地名は地図上から完全に消滅」(大矢)したので
す。
民族浄化にも等しいアカディアン追討はこの時点では未だ生きていましたが、
翌 1764 年、イギリス植民地省の方針が「アカディアンは宣誓をするならばノヴ
ァスコシアに留まっても良い」に転換し、強制追放はようやく公式に終了しま
した。
しかし彼らが戻っても彼らの農地は既にイギリス人に配分されています。こ
うしてアカディアンはかつての自分たちの土地で、今や日雇い労働者として働
かざるを得ない屈辱の日々を味わうことになる。
『赤毛のアン』の中のフランス
人たちは、まさにそのような姿で登場しているのです。
5 愛される理由
前述したように、ロングフェローの「エヴァンジェリン」のテーマはアカデ
ィの悲劇ではなく、エヴァンジェリンとして創出したひとりの女性の生き方、
その忍耐強く、貞淑かつ敬虔なありようへの賛美でした。
そしてその仏訳が出ると、悲劇性やイギリス軍の蛮行を強調した自由訳の効
果も手伝ってエヴァンジェリーヌはアカディアン社会にたちまち広がり、アカ
ディアン・アイデンティティの醸成に貢献したのです。
たとえばニューブランズウィック州モンクトン(Moncton)郊外にあるメム
ランクック(Memramcook)に創立されたばかりのアカディアン向けカレッジ
で「エヴァンジェリーヌ」が講じられ、またルメ訳の「エヴァンジェリーヌ」
が 1867 年創刊の新聞に掲載されました。
さらには 1887 年、ノヴァスコシャア州でその名も「L'Evangéline」と題する
新聞が発行され、こちらはブリュネル訳の「エヴァンジェリーヌ」を掲載して
います。
じつは 18 世紀末から、アカディアンの地位は少しずつ向上していました。ニ
ューブランズウィックでは 1810 年に選挙権、1830 年には被選挙権が与えられ
ています。そして判事や議員など、社会的地位の高いアカディアンも登場して
いたのです。このような時代状況下に発表されたエヴァンジェリーヌは、アイ
デンティティに目覚めようとする彼らをいっそう刺激し、
「おそらく原作者の意
図を越えた強い力を得て、アカディアンの末裔たちに新しい祖国を創り出すエ
ネルギーを与え、いわば一種の創世神話と」
(大矢)なったのでしょう。ロング
フェローの創作した物語詩「Evangelin」は、アカディの神話「Évangéline」に
昇華したのです。
Évangéline が現れて以降、アカディアンの親たちは生れる娘にその名を付け、
またその名を冠した地名がアカディはもちろん、エヴァンジェリーヌの辿った
道のりの果てにあるルイジアナにまで登場しているのですが、これらの事象は
神話なればこその波及力の証に他なりません。
アカディアン・アイデンティティの象徴として愛されるエヴァンジェリーヌ
は一方、地球の反対側に住むぼくたちを惹きつけて止まない存在でもあります。
いわばエヴァンジェリーヌにおける「愛について」──ひと言触れずには、済
まされないでしょう。
まずはありていに言ってビジュアルが良い。これはなによりも、ゆかりの地
グラン・プレの教会前を始め各地に立てられた像から受ける印象になるのだけ
れど、ピュアで、意思的で、そそる面立ちではありませんか?
十七の夏を迎える娘は見るに心地よし。
瞳は、道端で茨に実を付ける木苺のごとく黒。
その黒が鳶色の前髪の下でいかに柔らかに輝くことか!
つく息は香しく、野で草を食む牝牛の息に似る。(大矢訳)
と詩の中でも描写されるエヴァンジェリーヌはいかにも清純そのもの。ぼくた
ち読者を陶然とさせるに十分だが、ただそのようにあるのではなく、前へ前へ
と歩を止めない、能動的な愛する人としてぼくたちを魅了するのです。
愛の本質は愛されているという状態にではなく、愛するという行為そのもの
にあるのでしょう。それをぼくは、たとえばフーケーの『ウンディーネ』に、
あるいはアンデルセンの『人魚姫』に見いだし、裏切られても報われなくても
愛しつくす、そうして最後は死によって自分の愛を全うする彼女たちの物語に
愛の本質を見て、心を熱くしてきました(熱くしただけで燃やし尽くすことな
く、長く消し炭だけれども)。しかしエヴァンジェリーヌは運命に翻弄されなが
らも愛し続けることを止めません。そうしてわずかにその愛は報われたのです
から、愛は取引きではないと承知しながらその見返りに未練を隠せないぼくた
ち凡人の貧しい心に、優しい救いを齎してくれるエヴァンジェリーヌではあり
ます。
1994 年。記念すべき第一回世界アカディアン会議がニューブランズウィック
州で開催されました。その模様は太田和子さんによるレポート(「『世界アカデ
ィアン会議』とアカディアン・アイデンティティ」、森川眞規雄編『先住民、ア
ジア系、アカディアン』行路社、所収)に詳しいのですが、学術的な討議から
コンサート、同性ファミリーの集い、芸術作品の展示まで幅広いものだったよ
うです。
なかでも注目したいのは、モンクトン大学で開かれた専門家会議での議論で
しょう。太田さんは次のように報告しています。
「神話や象徴によって創り上げ
られた過去の歴史は、集団としてのアイデンティティ形成に重要な役割を果た
してきたが、今では束縛ともなっており、そこからいかに解き放たれうるかと
いうのが問題だという指摘がなされ、会場が騒然となるシーンもあった」。
この問題はいかにも今日的で、このところ過熱気味の日韓、日中の関係でも
指摘できることでしょう。ぼくたちを支えるアイデンティティが一方でぼくた
ちをつらまえ、未来志向を妨げる。声高に叫ぶプチ右翼とも称される人たちが、
しかし社会的にはどちらかといえば弱者に近いケースが多いと分析されるその
裏には、過剰なまでのアイデンティティ志向が貼り付いているはずです。そう
することによってしか自分を支えきれない大きな不安が、そうすることによっ
てしか自分を認めさせられない焦りが、彼らの罵声と怒声の正体なのだとは言
えないでしょうか。
つかの間とはいえ繁栄を築き、悲劇の中にあっても自分たちの文化、自分た
ちの言語を絶やさずに今日まで歩んできたアカディアンの物語は今日、民族の
神話としての役割を終えて、新たな歩みをより広い世界の中で、始めたのかも
しれません。
アカディアンのゴンクール賞作家アントニン・マイエ(Antonine Maillet)は
会議のテーマをこう表現していたと言います。「アカディアは世界に語りかけ、
世界はアカディアに応える」と。