本書に寄せられた書評 「人間の行動を大きく支配するものが、個体保存の欲求か、種の保 存かという問題については、古くから提起されてきており、生物学者 や心理学者がさまざまな視点からこれを論じてきた。 精神分析学者S.フロイドは、性欲という種の保存の欲求を人間行 動の原動力としてとりあげた。また比較行動学者K.ローレンツも、 種に固有に遺伝的に組み込まれた行動様式を解明すると共に、 種の保 存のための行動に着目した。この立場が、進化を種の利益のためとみ なすW.エドワーズの群淘汰説へとつながる。一方個体保存の欲求を 重視する立場は、R.ドーキンスの利己的遺伝子説に引き継がれ、各 個体が自己の遺伝子を少しでも多く残そうとする欲求で、 動物の行動 を説明しようとする。 この二つの理論の対立は、 人間の行動の基本にかかわっているだけ に、大いに考えさせられる。現代社会の中で展開されている人間のさ まざまな行動も、 根本的にはこれらの欲求発現様式にかかわっている ように思われるからである。しかしこの点を分析して、人間の諸行動 の基本的原因を探り出すのは、容易な作業ではない。進化論の研究動 向に精通した学識を踏まえた上で、 あくまで科学的な視座から広い視 野で人間の行動をとらえていく鋭敏なまなざしを不可欠とするからで ある。時には、あえて冒険的ともいうべき仮説を立てて、思索を進め ていくことも必要となるだろう。 そのようにかねがね内心に抱いてい た期待に完全に応えてもらえたのが本書である。 著者の小野盛司氏は、物理学を専攻し、素粒子論の分野では国際的 に高い評価を受けている。 しかし実験室の中に閉じ込もる単なる研究 者ではない。子どもの教育に関心を持ち、その学習指導の方法を研究 したり、パソコンの学習ソフトを開発するなど、きわめて実践的な科 -1- 学者である。しかも広範囲にわたって、関心を寄せ、多方面の書物を 読破していく教養人でもある。本書の執筆に先立って、その構想を聞 かせていただく機会があったが、 その折りに発したわたくしの何げな い発言をヒントに、読書範囲をいっそう広げ、疑問点を解くために専 門家を訪れ、 著者の仮説の理論的裏づけをより確かなものにした行動 力に、わたくしは目を見張った。 また著者は、たいへん独創的な資質にめぐまれている。そのこと は本書の至る所で発揮されていることに、読者は気付かれるだろう。 進化論における二つの立場を徹底的に吟味した上で、著者独自の立 場から、議論を展開しているが、そこではとくに 2 段階淘汰説−ディ スクリミネータ・モデルなどが中心概念にすえられ大胆な仮説を設 定し、一つ一つの問題に説得的に論を進めていく。その過程の至る 所に、豊かな発想がほとばしり出ており、絶えず思いがけない事例 に結びつけて説明されているため、難解な理論も抽象的という感じ がせずにむしろ、議論の興味に魅せられ、その論述の中に思わず引 き込まれてしまう。それだけに、著者の所論を大いに納得いくもの にしている。 このようにして人間の諸行動が新しい視点で見直されていくにつ れ読者も著者といっしょに思索しつつ、人間の行動の理解をいっそ う深めていくこととなるだろう。」 大妻女子大教授 電気通信大学名誉教授 滝沢武久 -2- 「人間の行動に対する決定因が脳にあるのは確かだろうが、著者は そこにコンピュータ・モデルを考える。入力の決定因にも 3 種あり、 書き換えが自由なもの、一回だけ書き込みができるもの、そして書 き換えができないものとがある。書き換えができない究極の決定因 として、人類の種の保存が主張される。この視点から著者は無意識・ 経済・戦争・犯罪・芸術・宗教・道徳・マスコミその他の人間のあ らゆる営みの意味を解き明かす。その説明範囲の広さと合理性はフ ロイト説を上回る印象を与える。もう一つ注目されるのは、文明論 とか人類観がとかく宿命論・虚無主義に傾きやすいのに反して、こ の種保存説は種々の警告は怠らないものの、人間による操作可能性 を残していることである。いわばソフト決定論またはソフト自由論 ではないかと思われる。従来の論説にあきたらない人々に検討をお 願いしたい。」 「御説は、決定論的状況( [動物は人肉を食ってもよい]思想は起 こり得ない)と、行為の選択可能な状況の両者を含んで説明できる 枠組みとして、しかも自然科学的事実と連絡できる理論として、稀 なる理論構成で、貴重なご研究と思います。」 東北大学名誉教授 (財)福来心理学研究所所長 文学博士 黒田 正典 -3- 目次 本書に寄せられた書評 1 プロローグ 8 1 . 行動と進化 化 11 ダーウィン 群淘汰 遺伝子保存・利己的遺伝子 2 段階淘 汰 群淘汰説と利己的遺伝子説 2 . 人の思想と行動を支配するディスクリミネータ 人の思想と行動を支配するディスクリミネータ 17 ディスクリミネータの定義 思想の自由を奪うディスクリミ ネータ ディスクリミネータと種の保存 RAM ROM R 一次ディスクリミネータ 二次ディスクリミネータ 3. 忘却とは何か 忘却とは何か 24 完全忘却、一時忘却、アクティビティー コンピュータとの 比較 4. 知られざる第二の記憶 知られざる第二の記憶 28 ディスクリミネータはプログラムに相当 無意識の世界 2種類の記憶 言い違い 記憶と命令記憶のリンク リン ク情報の書き換え可能性とその進化的理由 記憶と命令記 憶の容量と精度 長期記憶と短期記憶 ディスクリミネー タのアクティビティー 多重人格の意味 5. 芸術の意味 芸術の意味 43 芸術と種の保存 6 . ディスクリミネータの動作の種類 45 ディスクリミネータの動作の種類 空作動と作動抑止 4 種類の作動状態 異常作動の種類 異常作動の例 RAMによる行動の最適化 真性異常作動 空作動と作動抑止の例 ディスクリミネータはどこにあるか -4- 7 . ディスクリミネータの量子力学的モデル 58 ディスクリミネータの量子力学的モデル ローレンツの水力学モデル 不確定性原理 行動を引き起 こすエネルギー 8. なぜ人は自殺するか 64 死の戦略 自殺原因 予想される反論 ディスクリミネー タの判断 広義の自殺 年齢層別自殺者数 9 . 戦争がなぜ起きるのか 戦争がなぜ起きるのか 82 戦争による淘汰 利他的行動の進化 利他行動を助けるも の 自殺の進化 1 0 . 利己的な人間と利他的な人間 利己的な人間と利他的な人間 89 利己と利他 1 1 . ディスクリミネータの解放 ディスクリミネータの解放 92 社会は何に向かって動くのか ディスクリミネータ解放の 例 倫理とディスクリミネータ解放 1 2 . 善悪は何によって決定されるか 善悪は何によって決定されるか 98 善悪の定義 善悪の判断 13. 犯罪はなぜ起こるのか 犯罪はなぜ起こるのか 107 ダーウィンフィンチ 予備軍 ライオンはライオン狩りを しない 殺人 犯罪の分類 1 4 . 経済の原理とディスクリミネータ 経済の原理とディスクリミネータ 115 共産主義の失敗 利己を利他に替えるシステム 財・サー ビスの価値 15. 利他的な人間だけの社会 利他的な人間だけの社会 119 利他的社会の効率 16. 人間を神聖化する思想 125 -5- なぜ人間は神聖なのか 17. 宗教とは何か 宗教とは何か 127 宗教を必要とするとき 宗教と儀式 18. 性欲について 性欲について 131 性解放とディスクリミネータ解放 離婚とディスクリミネー タ解放 性欲ディスクリミネータの空作動 子どもの数の減 少する理由 1 9 . マスコミについて マスコミについて 139 マスコミがもたらしたもの マスコミの報道とその影響 2 0 . 娯楽の意味 146 娯楽と種の保存 ドラマで人が死ぬ理由 「利己的な遺伝 子」がなぜ面白いのか その他の娯楽 21. 人は何のために生きるのか 154 空作動の重要性 ディスクリミネータ解放の流れ 2 2 . 未来の社会制度 ・ 道徳 ・ 倫理の予測 未来の社会制度・ 道徳・ 倫理の予測 159 自由とは何か 2 3 . 理性とは何か 162 理 性 的 と は 2 4 . 催眠とは何か 164 催眠術 暗示 D場 2 5 . 無意識とは何か 169 記憶を妨害するもの 信頼度のディスクリミネータ 夢 ディスクリミネータの作用 優越感と劣等感 夢を支配する ディスクリミネータ 2 6 . 老齢化の問題 -6- 185 少子化と平均寿命の伸び 回想法 2 7 . 人類を脅かすもの 188 人類は滅亡しないか 食料援助と環境破壊 2 8 . 利己的遺伝子説の限界とその改良 192 利己的遺伝子説 文化的伝達手段「ミーム」について 2 9 . 種にとって害になる行動 195 種の保存に反するとは 3 0 . 絶滅に至る進化とその免疫 199 種の病気 病気をくい止めるもの 利己が利他を駆逐するか 利己の定義 種の病気の種類 3 1 . 2段階の自然淘汰 205 個体レベルの淘汰と種レベルの淘汰 同種の個体の保護 連結適応度 タカ・ハトのモデル 利他行動の進化 3 2 . ハヌマンラングールの子殺し 217 種の保存に反しない子殺し 子殺しはなぜ無くならないか 3 3 . 動物は何のために行動するか 222 行動の目的とは 3 4 . 動物におけるディスクリミネータの空作動 動物におけるディスクリミネータの空作動 224 だます行為とは 3 5 . この仮説に関する様々な質問への解答 この仮説に関する様々な質問への解答 226 Q&A あとがき 228 参考文献 229 索引 232 -7- プロローグ 人間が動物から進化したことは一般に広く認められている。そし て人間より、 もっと進化した動物が多くいることも知る人は多いだろ う。少し前まで進化は、種の利益のために起こるとする考えが支配的 であった。しかしその考えに対し様々な矛盾が指摘され、やがて適応 度が高い遺伝子が増えていくことによって、 自然選択が起こり進化を 起こすという考え方が一般的になった。英国の生物学者リチャード・ ドーキンスは 1976 年、 「The Selfish Gene」という本の中で、これ を遺伝子の側からみて、 生物の個体は遺伝子がうまく複製するために 作った一時的な乗り物であるとし、 このことから遺伝子は利己的であ ると表現した。 しかしながらこの利己的遺伝子説を人間に適用しようとすると、 様々な困難に直面する。人間が種の保存を忘れ、自分の遺伝子を持っ た子供を出来るだけ多く残そうとすることに専心していると仮定する なら、とんでもない人間社会を予言してしまう。人が他人の赤ちゃん を平気でパクパク食べてしまう。大震災が起き、多数の人が瓦礫の下 に埋もれても血のつながっていない限り、 その人達を誰も助けようと しない。 離婚訴訟では自分の子どもを引き取ろうとする人は誰もおら ず、あらゆる手段を駆使し相手に子どもを育てさせようとする。国の ために命をかけて守ろうとする兵士など一人もいない。 このように利己的遺伝子説は恐ろしく現実離れした世界を予言す る。我々はこの説の誤りがどこにあるかを指摘し、改良を行い、上記 の矛盾はどのようにして解かれるかを示す。また、ディスクリミネー タという概念を導入することにより「人は何のために生きるのか」とい う問いにすら進化論を使った生物学的な説明が得られることを示す。 -8- さらに芸術、自殺、戦争、犯罪、宗教、娯楽など一見進化論的説明は 不能に思える人間の営みが「ディスクリミネータの空作動」という概 念を導入することで理解できるようになる。 これは利己的遺伝子説で は、とうてい不可能なことである。 人間の脳は2種類の記憶ボードに相当するものを持っていると考え ると理解しやすい。その一つは通常の記憶であり、コンピュータの データに相当する。もう1つはどのような行動をとるべきであるとい う命令を記憶するボードでありコンピュータで言えばプログラム部分 の記録に相当する。これらには書き換え自由な部分(RAM)と一回 だけ書き込みができる部分(R)と書き換えができない部分(ROM) からなる。プログラムに相当する命令記憶は第2の記憶であるが、こ れを詳しく調べることにより、 無意識の世界を含む深層心理の実体や 夢、催眠などの持つ意味が明らかとなり、人間の行動の一つ一つが進 化論においてどのような意味を持つかについての理解が可能となる。 この2種類の記憶ボードの性質には著しい違いがあり、それが人間の 環境への適応能力を高める結果になっている。 このような人間の行動 の意味の理解は、 将来我々の社会をどのように変えて行けばよいのか という問題に関して科学的に明快な解答を与えてくれる。 我々は利己的遺伝子説をどのように改良しようとしているかの概要 は第一章に、詳細は第二十八章以降に述べる。第二章、第三章、第四 章、第六章、第七章は我々が展開しようとしている理論における仮定 の説明であり、 それ以外の章は理論がどのように人間の営みを解明す るかを説明したものである。 -9- 第一章 行動と進化 ダーウィン 1859 年に、チャールズ・ダーウィンは「種の起源」を発表し、そ の中で「自然淘汰」という一つの原理を導入し進化論を提唱した。し かしダーウィンを悩ませた問題があった。 それは社会性昆虫の利他行 動である。雌は子どもを生まないのにせっせと育児に励むのである が、このような利他行動がどのようにして進化したのか、わからな かったのである。なぜならば子どもを生まなければ、他人の子どもを 育てる性質が伝わる方法が無いのではないかと考えたのである。 群淘汰 ノーベル賞を受賞した動物行動学者コンラート・ローレンツは 1935 年に「動物における道徳類似の行動様式」という論文で、動物 たちが同類どうしでは殺し合いをしないと述べ、 多くの動物には殺し 合いを避けるような行動パターンが生得的にそなわっているとした。 さらにあらゆる行動は種の利益にかなっているということを主張し た。それが説得力のある説であったために、ある動物の行動の性質が なぜ存在するのかを問うたときに、 「種の保存のため」と言ってしま えば何となく納得してしまうようになってしまった。 進化が種や集団 の利益のために起こるとする考えを群淘汰といい、 この考えを提唱し た中心人物はV.C.Wynne-Edwards である。動物が種の保存のため に行動するなら利他行動があってもよいという考えであり、1970 年 代までは多くの専門家がこの説を信じていた。 さらに種の保存のため につごうのよいように進化するのであれば、当然種にとって、あるい は群にとってその環境に最適な人口があるはずで、 各個体が人口調節 の機能も持っているはずだと考えたのである。 かつてはネズミの仲間 であるレミングは人口が増えすぎると集団自殺すると考えられてい -11- た。しかしよく調べてみると、なわばり争いに破れたレミングが新し いなわばりを求めて集団移動するときに、 事故で大量死するのを集団 自殺と見間違えたことがわかった。 群汰説に対して様々な批判が上がった。その主なものだけ列挙する。 (1)個体がどれだけ子孫を多く残せるかを適応度とよび、産仔数 ×生存率と表すと、淘汰は適応度の高い遺伝子が増えていく ことによって起こる。つまり遺伝子の複製率の差によって起こ るのであり、それは種の保存とは関係ない。 (2)種の保存のために行動する個体の集団は進化的に不安定であ る。なぜならその中に、利己的な個体が侵入すると瞬く間に広 がるからである。 (3)性比など様々な観測データは利己的な個体の利益を最大にす ると仮定すると説明できるが、種の利益を最大にすると仮定す ると説明できない。 (4)共食いをする種が存在する。例えばある種類のカモメは同種 のヒナを食べる。 (5)子殺しを行う種が存在する。例えば霊長類の中でハヌマンラ ングール等の種では子殺しが行われる。 第十五章においては、 群淘汰によって予言される人間社会とはどの ようなものか、 そしてそれが現実の社会からいかにかけ離れているか を示す。 遺伝子保存・利己的遺伝子 これらの理由から現在では群淘汰説は正しくないとされている。 そして適応度の高い個体(遺伝子)が増えていくことによって進化が 引き起こされるという考え方が広く受け入れられている。 この考え方 は各個体が自分の遺伝子を少しでも多く残し適応度を上げようと努力 するわけだからこの説を遺伝子保存説とよぶことにする。 ドーキンス -12- はこの考えにもとづいて 「生物の個体は遺伝子がうまく複製されるた めに作られた一時的な乗り物である」という説を唱えた。これが利己 的遺伝子説である。 群淘汰説によれば、 動物は集団または種の利益のために行動するの であるが、 利己的遺伝子説または遺伝子保存説では利己的個体の利益 あるいは自分の遺伝子の保存のために行動することになる。 ここで利 己的とは単に自分のためというのではなく、 自分の遺伝子のためとい うことである。 例えば自分の子どもを守ることも自分の遺伝子を守る ということだから利己的ということになる。 しかし自分の遺伝子さえ 守れれば他人の遺伝子などどうなってもよい。 もちろん利己的遺伝子 が種の保存まで考慮に入れて振る舞うのであれば群淘汰説と変わりが 無くなるので、 利己的遺伝子は種の保存は無視するというのが大前提 である。この説に頼ろうとすると、沢山の困難に遭遇する。このこと は以下の章で詳しく論じるのであるが、 ここでいくつか例を挙げてみ よう。 (1)戦争とは集団のために命をかけて戦うのであり、利己的遺伝 子説ではなぜ起きるのかわからない。 (2)阪神大震災でも崩れかかった建物の中に、沢山のボランティ アの人達が血縁関係の無い人達の救助に入った。 (3)赤ん坊を差し出され、これを食べなさいと言われても絶対食 べられないのに、子ブタなら食べられる。 (4)自殺統計を見れば「生活苦」「男女問題」等、自分の遺伝子を 守るためには全く無意味なものも多い。生活苦の一家心中や恋 に破れて自殺、若い男女の心中等遺伝子保存を考えているとは 思えない。 (5)ある種のカモメは同種のヒナをたべる。利己的遺伝子説なら 同種のヒナを多く食べるほど適応度が高いから果てしなく食べ るようになり、この種は絶滅してしまうはずである。 -13- (6)子殺しを行う種がある。子殺しを行う雄ほど適応度が高いの だから、子殺しに歯止めがかからなくなり絶滅するはずである。 (7)人間の場合、他人の子を殺す事件は余り耳にしない替わりに、 せっかんなどで自分の子を殺す事件はよくニュースに登場す る。遺伝子保存に背く例の一つである。 このように群淘汰説も利己的遺伝子説(遺伝子保存説)も多くの問 題が存在する。 次に新しい仮説に基づいてこれらの問題がどのように 解決されるかを述べる。 2段階淘汰 一般には淘汰は2段階で行われるということに注目しよう。群淘汰 説も利己的遺伝子説もこの点を無視したために困難に陥ったのであ る。 第一段階の淘汰はよく知られているように高い適応度の個体が選 ばれることから起きる個体に対する淘汰である。 この時点では種に利 益になろうと、害になろうとお構いなしである。ドーキンスは著書 「利己的な遺伝子」の第十章の終わりで、もしもある集団が、それ自 体を絶滅に追い込むような進化的に安定な戦略に到達してしまえば、 確かに絶滅してしまうであろうと述べている。 第一段階の淘汰によっ て進化した群または種の中から、 種の保存の能力のあるもののみが淘 汰されて残り、そうでないものは絶滅するのである。これが第二段階 の淘汰である。 この第二段階の淘汰によって個体は種の保存の能力を 獲得するのである。 たしかに第二段階の淘汰は時間的には第一段階の 淘汰よりはるかにゆっくり起きるが重要性に関して言えば第二段階は 勝るとも劣らない。第一段階の淘汰が仮に 1 万年かけて進み、第二段 階の淘汰がその百倍時間がかかったとしても僅か100万年であり、動 物の進化にとって長すぎるわけではない。 また第一段階と第二段階の 淘汰で競合関係にあるわけではないことに注意したい。 入学試験で第 一次選考で選ばれた人の中から第二次選考を行うとき、 一次と二次が -14- 競合関係にあるわけではないのと同様である。 この説を2段階淘汰説とよぶことにすると、この説は群淘汰説と利 己的遺伝子説(遺伝子保存説)の両方の長所を持っており、両者の困 難を解決する。この説の詳細は第二十八章∼第三十一章で述べる。こ の仮説を使えば動物も人間も第二段階の淘汰で種の保存に関係した行 動を獲得し、 第一段階の淘汰で主に自己保存と遺伝子保存に関連した 行動を獲得する。 第一段階の淘汰で種に多少害になる行動が進化する ことはあるが、 決して種の保存に重大な害になるような行動は進化で きない。 なぜなら種の保存に反する行動が進化した種はドーキンスの 述べたように絶滅してしまっており、 現在観察することができないの だからである。どのような仕組みで淘汰が行われるかについては、第 三十一章で具体的に数値を使ったモデルで詳しく説明する。 群淘汰説と利己的遺伝子説 群淘汰説と利己的遺伝子説はまるで正反対のように見える。 しかし 次のような見方をしたらどうだろう。 例えば社会性動物であるシロア リのコロニーを考えよう。1対の雄と雌の交配から始まる閉じた空間 で近親結婚が繰り返されるうちに平均近縁係数がどんどん高くなり、 1つのコロニーも遺伝子的に見れば1つの個体と余り変わらなくなる。 そうすると、 このコロニー全体を1つの拡張された個体と近似するこ とができる。 この拡張された個体に対しても利己的遺伝子説は成り立 つであろう。 遺伝子を保存する唯一の方法はこの拡張された個体を保 存することである。 そのためにはコロニーの構成員の一部を犠牲にし てもよいし、外敵に対する自己犠牲的な攻撃も、不妊のワーカーの子 育ても不思議ではない。 このように拡張された利己的遺伝子説こそが 群淘汰説なのである。この意味で群淘汰説は一定の範囲内で正しい。 問題は群がどれだけ隔離されており、 血縁関係が濃いかということだ けである。 -15- 自己保存や遺伝子保存は種の保存の一部としてしまえば、人間の 行動はほとんどが種の保存で説明できてもおかしくないということに なる。拡張された種の保存と言った方がより正確だが、この本の多く の部分において簡単のために種の保存とは利己的な個体の利益のため の行動も「種の保存のための行動」に含めて考えている。かくして芸 術、自殺、戦争、経済の原理、宗教、娯楽、道徳、倫理等、非常に広 い範囲の人間の営みを種の保存で解明することができるようになる。 ただし第一と第二のどちらの段階で獲得されたかは必要に応じそれぞ れの場合で考察することにする。 -16- 第二章 人間の思想と行動を支配する ディスクリミネータ ディスクリミネータの定義 高校のとき二次方程式を習った人は判別式Dのことを思い出してほ しい。二次方程式の解の種類を判別するもので、Dが正か零のとき解 は実数で負のとき解は虚数になる。 人間にもある判別装置が備わっていて、その人の行動が種の保存 (厳密には拡張された種の保存)に好ましいかどうかを判別する。この 判別装置をディスクリミネータとよぶ。 人が種の保存に好ましいこと をすればディスクリミネータがプラスになり、 好ましくないことをす ればマイナスとなる。 人間の行動も考えもこのディスクリミネータに 支配される。 だれもディスクリミネータに逆らって行動をすることが できないのはもちろんだが、 人間の思想も強くディスクリミネータに 拘束されている。戦前の日本では軍隊の批判は許されていなかった。 思想統制である。それでもごく一部に軍の批判をする人がいた。しか しディスクリミネータは人間に種の保存にとって好ましくないような 思想を持つことを厳しく禁じており、 これは戦前の軍隊に対するの批 判を禁じる思想統制の比ではない。このため、実際これを破る人は言 論が自由になった今日でも皆無といってよい。どんな思想家もディス クリミネータに命ぜられるままに論理を展開しているにすぎない。だ からこそ人間という種が保存されるのであり、 ディスクリミネータに 逆らう自由があるとすれば、 人類を滅亡させる思想も自由に唱えるこ とが可能になってしまう。自分はあらゆる拘束から離れ、自由な思想 を展開できると自負する人のために簡単な例を挙げてみよう。 思想の自由を制限するディスクリミネータ 「動物を人間の食料にする」ということは、全く自然に受け入れら -17- れ日常普通に行われていることである。それではその逆はどうだろ う。つまり 「人肉を動物の餌にする」 ということになる。 もちろんあなたはそのような考えを持ったことが ないだろう。またそんな考えを持った人の話は聞いたことがない。数 学者であれば、 どの命題であってもその逆を自由に考えることができ る。 しかしどんなに自由に思想を展開できると思っている人でもこん なぶっそうな思想を持つことはできない。 「人肉を動物の餌にしよう」 という考えはどんな凶悪な殺人犯の心の片隅にすら思いつかないこと である。このことから、いかにディスクリミネータによる思想統制が 強烈であるかがわかる。この強烈さを確認するための数字を述べよ う。平均して一人一食あたり一匹の動物を食べたとして、この十年間 で約1兆匹の動物を日本人は殺して食べたことになる。逆にこの間人 肉を動物の餌として与えたことがあっただろうか。 私が知る限りその ようなニュースは一回も聞いたことがなかった。 ということは逆の起 きる確率は 1 兆分の1 以下ということである。恐ろしいまでに完璧に 種の保存に従って我々が生きていることがわかる。 自由奔放な思想を展開していると思っている人でも、その実態は、 ディスクリミネータに強烈に縛られた中での思想の展開にすぎないの である。そしてこの例は種の保存だから説明可能なのであって、遺伝 子保存説や利己的遺伝子説では説明は不可能である。 我々の思考は川の中でボートを漕ぐことと類似している。 漕いでい る本人はどちらの方向でも自由に進むことができると錯覚している が、 実際は川の流れが速いためにどちらに漕いでも下流の方にしか進 まない。それどころか、下流方向に進んだほうがどんどん進行するの で好んで下流の方向に進んでいく。 我々の思考というものは生まれな がらにして厳格に方向づけられているのである。 ディスクリミネータによる思考の支配は状況によっては強烈にな -18- る。例えば、飢餓に瀕すと強制的に食べ物のことばかり考えるように なるし、 適齢期に好みの異性が現れたときはその異性のことばかり考 えるように命じられるのである。 ディスクリミネータと種の保存 幸福と感ずる時はディスクリミネータが正になるときである。 例え ば恋人ができた、結婚した、子供ができたというとき人は種の保存に 好ましいことをした(あるいはしようとしている)時だから幸福と感 じディスクリミネータは正となる。 逆に不幸と感ずるのはディスクリ ミネータが負になるときである。家族や知人の死、病気にかかったと きなど、 種の保存には好ましくない事態ではディスクリミネータは負 となる。又、ディスクリミネータは種の保存に対する貢献度が大きい ほどプラスが大きくなる。故に結婚・出産などは最大値に近いであろ う。逆に、種の保存に大きな害をもたらすような場合、ディスクリミ ネータは大きな負の値となる。例えば、子供が死んだときの母親は大 きな不幸を感ずる。 同じ死でも老人が老衰で死んだ場合は世代交替な のだからずっと冷静である。 人はディスクリミネータを正にするための行動を行い、 負にするよ うな行動を避けようとする。 またディスクリミネータの負を消すため の行動も行う。 ディスクリミネータは人の行動や思想を支配している のである。 快・不快に対しても同様である。腹が減ってくると不快になり、そ のまま食べないと死に至るから種の保存に有害でディスクリミネータ は負となる。ここで、食べ物を発見するとディスクリミネータが正に 転ずる。 このように快感はディスクリミネータが正で種の保存に好ま しいとき、 不快感はディスクリミネータが負で種の保存に好ましくな いときに感ずるのである。 このようにディスクリミネータが人間の行動を支配しているのだ -19- が、 ディスクリミネータの正負が必ずしも行動に結び付かない場合が ある。 美味しそうなものが目の前にあってもすぐに食べ始めるとは限 らない。まわりに遠慮する場合もあるし、食事時間まで待つ場合もあ るだろうし、食べたくてもお金が足りないときもあるだろう。ディス クリミネータは行動を誘発するだけで即座に行動を起こさせるのでは ない。 人間のディスクリミネータには沢山の種類のものがある。成長の 過程、社会環境の変化に伴いディスクリミネータは変化する。また人 によりディスクリミネータにばらつきがあり、これが、種を構成する 個体の様々な行動をとる原動力となり、 環境の変化に種全体として適 応する能力を高めている。場合によっては対立する2つ、あるいは数 種類のディスクリミネータのバランスの上に行動が支配されることも ある。 RAM ROM R ディスクリミネータは次のように分類できる。 これはCDやDVD 等のコンピュータの記憶装置と比較すると分かりやすい。 これらの主 なものにはデータの読み出しと書き込みの両方できるRAM (random access memory) 、読み出ししか出来ないROM(read only memory) 、 一回だけ書き込みができるR(recordable, WORM= write once read many もよく似た規格)がある。以下ディスクリミネータの記憶 装置としてROM、R、RAMという用語を使うことにする。 一次ディスクリミネータ 一次ディスクリミネータは生得的でROMに格納される。同じ種 に属するすべての個体に共通に認められるもので、 種の保存に直接的 にかかわるものであり、その中に個体保存に関係するものと、子孫を 残そうとするものと、同じ種の個体と助け合おうとするものがある。 -20- [1]個体保存(自己保存)を助けるもので、呼吸、水分補給、食料 補給、排泄、睡眠、休養等に関係したものがある。 [2]子孫を残そうとするもので、性欲、母性愛等がある。 [3]同じ種の個体は傷つけたり、殺したりせずお互いに助け合おう とするもので、正常な社会生活を送るために必要なものである。 これらは人間の行動の基本になるものであり、 正常な個体であれば ほぼすべて共通であり変化しない。 [1] [2] [3]のすべてを種の 保存の定義の中に含めるため、我々が断りなしに「種の保存」という 言葉を使うときは個体保存も含むものとする。 前章で述べた2段階淘汰説で考えると[1] [2]において優れて いる個体が第一段階の淘汰で選ばれる。その中で[3]が優れたもの だけが第二段階の淘汰で選ばれる。 より詳しい内容は第三十章と第三 十一章を参照して頂きたい。 下等な動物ほど一次ディスクリミネータの占める割合が高くなる。 中には一次ディスクリミネータにより、 複雑な行動を引き起こすもの もいる。 知能の高い動物は次に述べる二次ディスクリミネータが発達 している。 二次ディスクリミネータ これはRやRAMに記憶されるディスクリミネータである。 その個 体が生活する社会に適応できるように徐々に形成されていく。 乳児の ディスクリミネータにとってお札も紙切れも同じようなものだが、 成 長するにつれこれが欲しいもの (一次ディスクリミネータにより誘発 される行動)と交換できることを知り、お金に対しプラスを示すよう になる。 ある日突然外国で暮らし始めたとしよう。見たことがないお札を 手にし、これで本当に物が買えるのか心配になる。最初はディスクリ ミネータは、そのお札に対しプラスにはならないが、それを使って買 -21- い物を繰り返しているうちに、価値を見出しプラスになるようにな る。これはディスクリミネータのRAM上での書き換えであり、日常 生活において極めて簡単にしかも頻繁に書き換えられていることがわ かる。 自分の子どもが生まれた瞬間から、 その顔や姿は自分のRに入力さ れ、 それによって子育てのための一連の命令であるディスクリミネー タがアクティブになる。自分の子どもを見てからその世話をするため のディスクリミネータの形成は、一からプログラムを書き込むという よりは、すでにRの中に準備されていたアプリケーションに対し、顔 や姿を入力されるとそのアプリケーションが動きだし、 育児のための 一連の行動が始まるのである。何年かの育児の後、実は病院で赤ん坊 の取り違えがあったために、 その子どもは実は自分の子どもではあり ませんと言われても、簡単にその子を手放せないだろう。それはR上 に書き込まれていて、書き換えができないためである。 このように二次ディスクリミネータも一旦書き込まれるとそれ以後 は変わらないものと、何度でも書き換えが自由なものとがあることが わかる。 同じような例を動物界で求めてみよう。 ガンは最初に見た動物を親 だと思い込み、ずっと付いて行くようになる。ヒナのRに記憶とディ スクリミネータが書き込まれるのである。ヒナの親でなく、人を最初 に見てもその人にずっと付いて行くようになる。 これを発見したコン ラート・ローレンツはこれを刷り込みと呼んだ。 場合によってディスクリミネータの強度が変わることがある。 例え ば自分が生んだ子と継子の場合である。差別しない母親もいるだろう が、一般的には自分の生んだ子の方が可愛い。それは差別せよという ディスクリミネータがROMに書き込まれているからである。 この強 度の違いは種の保存というよりは、第一段階の淘汰に関係している可 能性が高い。その進化論的な意味については後で述べることにする。 -22- 実際ディスクリミネータの書き込みは毎日行われており、 その量は 膨大である。これが一般的な記憶とは独立しているために、多くの場 合はどのようなきっかけでディスクリミネータの書き込みが行われた かが記憶されていない。いやな事は忘れようとする場合があるよう に、 不快な事に関する記憶データはディスクリミネータが思い出さな いようにとアクセスしにくくすることがある。 いやな事でなくてもい つの間にか記憶は消え、ディスクリミネータのみ残ることもある。こ のような場合は自分でも分からない意味不明の行動を取ることにな る。 一次ディスクリミネータの中には学習とよばれるものが含まれてお り、行動主義では条件付け、認知主義では手続き記憶とよばれるも のである。 なおディスクリミネータのプラス・マイナスはドーパミンの分泌量 に関係がある。 -23- 第三章 忘却とは何か 完全忘却、一時忘却、アクティビティー 忘却、つまり記憶を失うということには 2 種類ある。完全忘却は、 完全に記憶が失われていて二度と思い出すことは無い場合である。 一 時忘却は、 記憶は完全に失われていなくて何らかのきっかけで思い出 すことがある場合である。 我々はこれを記憶には活性(アクティビティー)があると仮定して 説明する。神経回路には信号が通りやすい道と通りにくい道がある。 アクティビティーが高い記憶は思い出しやすく、 アクティビティーが ゼロになると思い出すことができない。 つまり一時忘却とは記憶は失 われていないが、アクティビティーがゼロになったために、その記憶 にアクセスできなくなり一時的に思い出せなくなったわけである。 こ の場合何らかの事情でアクティビティーがゼロでなくなったら思い出 せることになる。 記憶には残っているが通常思い出せない記憶(つまり一時忘却)は 記憶全体の90%もあると言われている。 ということは大部分の記憶は アクティビティーがゼロなのだ。コンピュータと違い人間の場合、思 い出せる場合から思い出せない場合までが連続的に変化するわけで、 アクティビティーが連続的に変化することを意味している。 つまり思 い出しにくいが時間をかけてよく考えれば思い出せる記憶も存在す る。沢山の事柄を瞬時に思い出せる人と、そうでない人がいる。 アクティビティーが高い記憶ほど、思考の中へ取り込まれやすい。 記憶のアクティビティー、 つまり思い出しやすさを決定する要因を列 挙してみよう。 (1) 個人差 (2) 呼び出し頻度 (3) ディスクリミネータによる制御 -24- (4) 印象がどれだけ強烈であるか よく知られているように、 頻繁に思い出す必要がある記憶はアクティ ビティーが高くなり簡単に思い出すことができるようになる。 一方古 い記憶で長い間思い出したことのない記憶はアクティビティーが低く なり思い出すのに苦労する。これが(2)の意味である。 ディスクリミネータはそれぞれの記憶のアクティビティーを変化さ せることができる。これをすべて(3)とした。ディスクリミネータ は自分にとって都合が悪い記憶データにはアクティビティーを下げ、 都合が良い記憶データにはアクティビティーを上げる。 「自分のこと は棚に上げて置いて他人の悪口をたらたら述べる」人がいる。同じ動 物の行動を記述する場合でもローレンツは種の保存で説明できること ばかり並べているし、 ドーキンスは種の保存では説明できないことば かり並べようとしている。 このように自分が首尾一貫した議論を展開 しようとする場合ディスクリミネータが、 自分にとって都合の良いか どうかで記憶データのアクティビティーを調節して選別するのであ る。 コンピュータとの比較 コンピュータの仕組みとの比較を図示してみよう。 図3.1はコンピュータの場合で、データをプログラムがディスクに記 憶されており、プログラムがデータを参照しながら演算を行ってい く。これに対して図3.2は人間の場合の記憶データの呼び出しの仕組 みを表したものである。 ディスクリミネータはコンピュータのプログ ラムに相当する。 ディスクリミネータは思考を支配するし、 記憶にも作用し記憶デー タのアクティビティーを変えることにより引用されるべき記憶データ の優先順位を決めている。 短期記憶(STM)の場合は記憶データはどんどん上書きされてい -25- くので短期間しか記録は残らない。長期記憶(LTM)は、長い間上 書きされない。 詳細なしくみは不明であるが、ディスクリミネータは、自分にとっ て不必要な記憶データであると判断した場合、 上書きの許可を与え完 全に、他のデータをその上に書いてしまうか、あるいは取りあえず保 管はしておくが、アクセス禁止にしておく。その結果思考が効率化し 論理が一貫するのである。 消される記憶データはアクティビティーが ゼロになったものから選ばれる。 ディスクリミネータと記憶データとがリンクされることがあると述 べたが、記憶データ同士のリンクもある。これは連想により確かめる ことができる。つまり一つの記憶データがアクセスされると、それと リンクされている記憶データのアクティビティーが高まるのである。 図 3.1 コンピュータのデータ呼び出し データ1 演算 データ2 データ3 プログラム1 プログラム2 -26- 図 3.2 人間の記憶呼び出し 記憶S1 } STM 思考 記憶L1 活性の制御 記憶S2 } LTM 記憶L2 ディスクリミネータ1 行動 ディスクリミネータ2 例えば英語とドイツ語を勉強したとき、 両方の外国語を話そうとする と両方が混じってしまって最初は苦労する。 しかし長い間話している と、両者は混じらなくなる。これは英語とドイツ語でそれぞれの中で 記憶データにリンクが張られるようになるからだ。 -27- 第四章 知られざる第二の記憶 ディスクリミネータはプログラムに相当 第二章の議論で解るように通常の記憶とは違った第二の記憶があ る。コンピュータと比べると分かりやすい。あるプログラムを走らす としよう。例えば人名のリストとその人の年齢、身長、所得等のデー タが入ったデータベースを作る。このデータベースが通常の記憶だ。 これに対してこれらのデータをどう処理するのか、 例えば平均を取っ たり、合計を求めたり、偏差を求めたりするために必要になるのは、 プログラムであり、 これはデータを引用したり演算を行ったりする命 令である。ディスクリミネータはこの命令に相当する。正確に言うと ディスクリミネータは直接命令する場合もあれば、 命令を誘発する場 合もある。その命令を記憶する装置がROMであったり、Rであった り、RAMであったりするということだ。コンピュータで言えばディ スクリミネータはこれらの記憶装置に書き込まれるファイルまたは命 令群に相当する。 ディスクリミネータは命令を記憶しているという意 味で命令記憶とも呼ぶことができる。 重要なことはこの命令記憶自身 は記憶データとして引用することはできず、 必ずしも通常の記憶デー タとリンクされているとは限らないため、 自分がなぜそのようなこと をしたのか解らないといったことが起きる。 無意識の世界 このように自分でも意味不明の行動を行うことがあることをフロイ トは無意識の世界として説明し、RAMにどのようなディスクリミ ネータが書き込まれたかを分析することによる神経症治療を創始し た。フロイトは無意識の世界と性欲が深い関連があるとしたが、これ はディスクリミネータが最終的には種の保存という目的のために作ら れており、 性欲が種の保存にとって極めて重要な位置を占めることに -28- 対応している。ただ、当然ながら性欲が種の保存のすべてではない。 無意識の世界に関しては第二十五章で詳しく述べるので、 ここでは典 型的な例だけを挙げる。 アンナというヒステリー患者の例である。 彼女は催眠状態に陥ると 過去の体験をあれこれ話した。 彼女は暑くて喉が渇いているのにどう しても水が飲めないという症状があったが、 彼女はなぜ水が飲めない かを自分では理解できなかった。アンナは催眠状態で、話し相手とし て雇っていたイギリス人女性が自分の飼っている子犬にコップで水を 飲ませているのを見て嫌悪感を抱いたことを思い出した。 その後催眠 状態から覚めた後は水が飲めるようになった。 このように一度ディスクリミネータとしては記録されたが、記憶 データとしては残っていない場合は、 訳がわからないままディスクリ ミネータの命令にいつまでも従うことになる。 実は完全に記憶が消滅 していたのでなく、 思い出さないようディスクリミネータに命令され ていただけである。 つまりディスクリミネータはその記憶データのア クティビティーをゼロにすることによりアクセスするのを禁止するこ とができるのである。 実際はこの記憶は彼女にとって強烈な印象を与 えたわけで、 その記憶のアクティビティーはもともとは高かったに違 いない。しかしディスクリミネータはそれを強引にゼロにし、アクセ ス禁止にしてしまったのである。 催眠状態に入るとディスクリミネータによる「思い出してはなら ない」という命令が解除され、それを思い出すことができたわけであ る。 催眠状態ではディスクリミネータによる思考の制限が部分的に解 除されるのである。部分的解除が起きるのは、被催眠者が催眠術師を 信頼したからであり、 自分のディスクリミネータによる思考の制限を 解除し催眠術師にすべて任せようとしていて新しいディスクリミネー タの書き込みも可能な状態にするのである。 自分がコップで水が飲めない理由が解った後は自分で簡単にディ -29- スクリミネータの内容を修正するか、 催眠術師に修正してもらうこと ができるわけで、水が飲めるようになる。この例では子犬にコップで 水を飲ませている情景を見てRAMに“コップで水を飲まないよう に”というディスクリミネータの命令を書き込んでしまった。そのよ うな理由で水を飲まないのは馬鹿馬鹿しいことだと気が付いたとた ん、 RAMのディスクリミネータは再び水が飲めるものに書き換えら れてしまった。 このようにRAMのディスクリミネータは状況に応じ て、自由にそして瞬時に書き換え可能なのである。このことが人間そ の他の高等動物の環境への適応能力を高める結果となっている。 それでは子犬にコップで水を飲ませているところを目撃したとき、 なぜ水を飲まないよう命令を出すディスクリミネータが書き込まれた のだろうか。 種の保存という観点からどのような意味があるのだろう か。 それは人類という種を保存しようとするとき、他の種に対する差 別の思想が必要になってくることに関係している。 我々は人間は他の 動物に比べて高等であり崇高であり神聖なものであると信じて疑わな い。この信念こそが人類を守る思想を築く基になっているのである。 人は殺してはならないが、 他の動物は殺して食べても構わないという ことを正当化する思想であり理論武装である。 この思想に従えば人間 と動物は差別されなければならず、 決して同じ食器を使ってはならな いのである。人種差別に関しては様々な議論が交わされているが、動 物に対するこのような差別に関してはディスクリミネータが議論を禁 じているために誰もそのような差別を撤廃しようなどという意見を出 す人はいない。これが差別だと思っている人すらいない。このことか らもディスクリミネータによる我々の思想の束縛の堅さが理解でき る。 黒人が使った食器で食べないと言えば人種差別だと抗議を受ける かもしれないが、 犬が使った食器で食べないと言って誰も差別だと抗 -30- 議しないばかりか当然の事と思っている。 それが衛生的に問題がある というのではないのだ。 なおこの例でも種の保存で説明する代わりに適応度を高めるため、 又は遺伝子保存という言葉で説明することができないのは明らかだ。 自分の遺伝子を残すためだけなら他人と他の動物は同レベルであり、 種に属する個体のすべてが崇高であり、 神聖であると考える必要はな いわけである。 以上の説明に関し、子犬にコップで水を飲ませているところを見 て、 水が飲めなくなったのは種の保存に反しているのではないかとい う質問があったので簡単に答えておく。これは病的なケースであり、 圧倒的多数の正常な人は同じものを見た後も水は飲める。 病的だから 治療して治したのだ。 ここで解明したかったのは人間の行動が引き起 こされるしくみである。車が故障して走らなくなっても、この車は走 るために作られていないと結論できないだろう。 修理すればまた走り 出すのだから。 ディスクリミネータの書き込みは、その人にどのような行動を取 りなさいという命令をたくさん記憶することに相当しているという意 味で命令記憶とも表現することにする。コンピュータではメモリー ボードに記憶される。 記憶のための板と命令記憶のための板が平行し て置かれている状況を想像するとよい。 当然これはコンピュータに例 えているだけで実際に脳の中に板があるのではない。 強烈な印象を持つ思い出等ははっきり両方のボードに書き込まれ ている。例えば交通事故で大けがをしたら、その経験ははっきりと記 憶されるだろうし、 二度と同様な事故に出会わないようにとディスク リミネータが書き込まれ同様な状況が起きるのを避けようとする。 2 種類の記憶 記憶とディスクリミネータの書き込みは同時に行われることが多 -31- い。何かに失敗するとどのようにして失敗したかという記憶と、二度 と失敗を繰り返してはならぬというディスクリミネータが関連して記 憶されるからである。しかし受験勉強で棒暗記したような事柄は記憶 の中だけに書き込まれている。 その反対にディスクリミネータだけに 書き込まれているものもある。 催眠術を使うとディスクリミネータと いう命令記憶が書き込まれるが、その内容は記憶には書き込まれな い。この音楽が始まると踊りだしなさいと暗示をかけておくと、音楽 が始まると同時にその人は踊りだす。どうして踊りだしたのか本人は わからない。 これがディスクリミネータのみが書き込まれ記憶は書き 込まれなかった例である。実際は記憶も書き込まれたが、その記憶は ディスクリミネータがアクセスを禁止していたために思い出せなかっ ただけかもしれない。RAMに書き込まれたディスクリミネータの内 容はその時代により分類されている。催眠術であなたは小学生ですと 言うとその人は小学生の頃書き込まれたディスクリミネータのみを 使って返答しようとする。話し方、考え方、そして記憶内容が小学校 の頃書き込まれたものを使い始める。自分の小学生の頃になりきるの だ。これを年齢退行という。 以上から解るように人間には2種類の記憶があるのだ。一応お互い に独立しているが、 ペアで同時に記憶され両方とも残っていることも 多い。 通常の記憶力が優れた人は命令記憶の記憶力も優れているとい えるかどうかは研究する価値がある。命令記憶も時間が経てば失われ ることがある。このあたりは通常の記憶と同じだ。命令記憶には一次 (生得的)と二次(後天的)のものがある。記憶の場合は二次のもの が主であるが、一次のものも限定的ながら存在する。一次の記憶とし ては生存に必要なもの、 種の保存のために必要なものとして次のよう な例が考えられる。 ○ 赤ちゃんが母乳を飲むために必要な乳房の知識 ○ 水泳教室では乳幼児をプールに入れることを勧めている。 乳幼児で -32- も水中はどのようなものであるかを知っており、水を吸い込まな い術を生得的な知識として持っているからである。 ○ 高い、低いとは何を意味するかに関しては生得的に知識として 持っている。そのため高所から落下すれば危険であることは誰か ら教わらなくても知っている。 ○ 火というものがどういうものであるかは生得的な知識として持っ ていて危険を避ける方法を知っている。 ○ 同種の個体に危害を加えてはならないし、食べてもいけないとい う知識。もちろん同種の個体がどのようなものであるかは、生得 的に記憶として持っているはずである。 このように一次の記憶は一次ディスクリミネータとリンクされて いる。通常の記憶には短期記憶(STM)と長期記憶(LTM)があ るように、命令記憶にも短期記憶(STD)と長期記憶(LTD)が ある。 言い違い 精神分析入門でフロイトは言い違いについて例を沢山挙げている。 あるドイツの衆議院議員が、ある時開会を宣するに当たって、 「諸君、 私は議員諸君のご出席を確認いたしまして、ここに閉会を宣言しま す。 」と言った。開会と言うつもりが閉会と言ってしまったものであ る。実はこの議長何らかの事情があって、早く閉会して欲しいと願い ながらも職務上開会を宣言しなくてはならなかった。 しかしつい本音 がでてしまった。 つまりディスクリミネータが閉会という言葉の記憶 のアクティビティーを高めていたために、 つい口が滑ってしまったの である。 -33- 記憶と命令記憶とのリンク 各々の一次ディスクリミネータに対しては生得的に記憶との関連が ついているわけではない。しかし経験を通じ、記憶との関連が付けら れていく。西瓜を食べてみて美味しかったとなれば、西瓜を見ただけ で快感を感ずるであろう。このように好き嫌いができることは、特定 の記憶と命令記憶がリンクされるということなのである。 好きになっ た理由はその人の味覚に関係したり、 西瓜にまつわる思い出が関連し ていたりするなど人によって様々である。 ROMの中の味覚のディス クリミネータが中心にあり、これは書き換え不可能であるが、その回 りのRにディスクリミネータが食品ごとの記憶とリンクされながら書 き加えられていく。2枚の平行に積まれたメモリーボードに次々書き 込まれていくことに例えることができる。 若い頃に米を食べていたら ずっと米が好きになるし、パンを食べていたらパンが好きになる。つ まりR上に書き込まれていく。 さらにその回りのRAM上に様々な料 理に対する好みがディスクリミネータとして書き加えられることにな る。 余り好きでなかったものも健康に良いと言われれば好きになるこ ともある。 食べ物の好みも変わることがあるのはRAM上に書かれて いるからである。 我々は人生において沢山の人々と接触する。名前や顔を覚えるこ とは記憶に書き込むだけであるが、 しばらくすると積極的に接触を深 めたい人と、 できれば避けたい人の区別がついてくるのは命令記憶と リンクが張られるからだ。 この場合の命令記憶には様々な種類があり どの命令記憶に関連づけるかは相手によるのである。 これは自分の行 動を容易にするための選別である。好き・嫌いで表現できたり、友情 と表現できる場合もあれば、愛情として表す場合もある。愛情も母性 愛、恋愛、夫婦愛等がある。友情と愛情が混じる場合もある。一旦こ れらの命令記憶のどれかに特定の相手が関連づけられれば、 ある一定 の命令群がセットとなって下される。 -34- 図 4.1 記憶とディスクリミネータのリンク 記憶 ディスクリミネータ 山田 友情 上田 愛情 小林 小田 母性愛 鈴木 山口 これはコンピュータではアプリケーション (あるいはライブラリー やサブルーチン)に対応するであろう。つまり、どの命令記憶と関連 づけられるかによって行動パターンが全く異なるのである。 友情や愛 情は沢山のディスクリミネータの総称であるが、 ここでは極めて単純 化して例を挙げてみよう。 ある会社に入り新人として社員に紹介されたとする。 そこで紹介さ れる何人かの人の顔や名前を覚えたとしても、それは記憶の中への データの格納にすぎない。 その後共同作業を行っているうちに友情が 生まれる。それは友情というディスクリミネータに、その人の顔や姿 がリンクされるということである。その人が異性であったとし、友情 が愛情に変わったとする。 それはリンク先が友情のディスクリミネー タから愛情のディスクリミネータへと移る事を意味し、 相手に対する 行動が変化する。非独占的な交際が独占的なものへと変化し、肉体的 接触を求め生殖行動への準備が始まる。友情であれば、単に様々な行 動を共にしよう、協力し合おうというだけであるが、恋愛であれば協 -35- 力して子孫を残そうとするから、はるかに結び付きが強くなり、行動 パターンが一変するのである。このように、人間関係を支配するディ スクリミネータには沢山の種類があり、 それぞれがワンセットの命令 群に対応していて、 そのセットに周りにいる特定の人々が関連づけら れているのである。 リンク情報の書き換え可能性とその進化的理由 そのリンク情報に関しても書き換え可能性はディスクリミネータ により大きく異なる。例えば友情であると、書き換えは自由である。 ある日喧嘩して絶交することもある。 自分が共同作業を行う時は自由 に相手を選んで構わないからだ。 しかし母性愛の場合は書き換えは難 しい。母性愛が簡単に書き換えられるならば、ある日突然気が変わっ て赤ん坊の面倒を見なくなり、 赤ん坊は生きてゆけなって種の保存に 重大な害を及ぼすからだ。 愛情はその中間くらいの書き換えの難しさ である。昔の恋人の事が忘れられなくて、新しい恋人を作れない人も いるし、次々相手を変える人もいる。この書き換えの難易度はディス クリミネータの目的に従って定められている。 友情を引き起こすディスクリミネータはプラスになったりマイナ スになったりする。これはどの人と交際するか、共同作業をするか、 あるいはどの人を避けるか等を命令する。 親友と呼ばれる人がいるよ うにその強度は相手によって異なる。 愛情のディスクリミネータは生 殖活動を行うのが目的であるので本質的にプラスしかない。 母性愛の ディスクリミネータもプラスのみである。 子育ては夫婦で行うのであ るから父性愛もあるわけである。その強度は子どもによって異なる。 特に継子に対しては強度が弱くなりがちである。 これは進化論では血 縁淘汰によって説明される。 ROM上のディスクリミネータが、 既存のアプリケーションに必要 データを入力するだけで動作するようになるのに対し、 RAM上に書 -36- き込むディスクリミネータはプログラムを一から作らなければならな いのである。 例えば信号が赤の時は止まりなさいというディスクリミ ネータを作ろうとすると、 信号機が赤というのはどういう状態かを記 憶させ、 そのときは立ち止まりなさいという命令を記憶させなければ ならないのである。 言語の学習は記憶への書き込みが中心である。母国語に関しては 日常の経験からかなり命令記憶へのリンクが進んでいる。誰かが「殺 してやる」と言えばびっくりして身構えるだろうが、I’ll kill you. と言われた場合、学校で習っただけの英語では即座にはピンと来な い。記憶と命令記憶とのリンクづけが強いか弱いかの違いである。美 しい詩を日本語で書けるのは日本人の詩人であることがほとんどで、 日本語を外国語として学んだ外国人で日本語の詩を書いて有名になっ た人は聞いたことが無い。 母国語だけが特に記憶と命令記憶が強く関 連づけられているという別の例だ。 外国語を勉強すると、単語が一つ一つ記憶に書き込まれていく。何 か外国語で話そうとすれば、 ばらばらに記憶された言葉を様々な場所 から拾ってきて一語一語話すからたどたどしくなるし疲れる。 だんだ ん慣れてくると単語だけでなく文章としても記憶されすらすら喋れる ようになるし、好きな言葉、嫌いな言葉等が出てくることにより、記 憶と命令記憶との関連づけがなされるようになる。 母国語の場合は文 法を間違えた文を読ませると不快感を感じ思わず自分で直してしまっ たりする。外国語の場合は主語、動詞、目的語を考え正しいかどうか を判断するわけで、 文を読み上げるだけで快不快は感じないことから も母国語では記憶と命令記憶の関連づけがなされていることがわか る。 記憶と命令記憶の容量と精度 記憶と命令記憶という二枚のメモリーボードの容量はどうであろう -37- か。記憶力は個人差が大きい事はよく知られている。命令記憶の記憶 力はどうだろう。 味覚で言えば好き嫌いの多い人は命令記憶の容量が 大きい人だ。 膨大な種類の食べ物の一つ一つに好き嫌いの区別が記憶 されている。フルコースのディナーを注文し、その内容を細かく指定 する人がいる。またワインの細かい味の違いを識別できる人もいる。 これらも命令記憶の容量が多いことからくる。 詩人等のように美しい 文章が書ける人は、 言語に関し記憶と命令記憶との関連づけが強く言 語の命令記憶の容量も大きく、 特定の文章に敏感に快不快を感じるこ とができる人達だ。ディスクリミネータの精度が良いとも言える。 例えば優れた音楽家は、 ピアノ演奏を聞いても一般の人が同じよう に感じる演奏でも、はっきりと上手下手の区別ができる。これは音 (音質、メロディー等)に対して記憶容量が大きな命令記憶を持って いるからということができる。 プロの将棋の棋士は何十手先まで読むことができる。 コンピュータ で同じことをやらせようとすると場合の数が多すぎて時間がかかりす ぎる。だからコンピュータはとても人間には勝てない。人間の場合 は、 どの状況ならどういった手から読んでいくというルールができて いる。 そのルールからはみ出すような手は不快を感じ読みから通常は ずされる。 つまりプロ棋士はおびただしい数の命令を命令記憶に書き 込んでいるのだ。しかしルールから一見はずれる手で、実は素晴らし い好手の場合があって人々をあっと驚かせることもある。 王がわざわ ざ危険地帯に入っていくような手とか飛車や角といった重要な駒を一 見無駄にように見える捨て方をする手である。 コンピュータにも人間 の命令記憶の内容を覚えさせ手を読む順番を教えてやると、どんどん 強くなる。 チェスの世界ではコンピュータはすでに世界チャンピオン を破るまでに至った。将棋でもやがてその時代が来るかもしれない。 このように考えると命令記憶の記憶容量は、 非常に個人差が大きく 特殊な能力を持つ人には特定の命令記憶のみが群を抜いて優れている -38- ことが多いこともわかる。 必ずしも通常の記憶力が優れていれば命令 記憶の記憶力も優れているというわけでもない。 心身障害者であって も、すぐれた画家であったり作曲家であったりする。命令記憶だけで も優れていれば立派な芸術作品を残すことができるのである。 長期記憶と短期記憶 記憶には長期記憶(LTM)と短期記憶(STM)がある。すでに 述べたように命令記憶にも長期記憶(LTD)と短期記憶(STD) がある。長期記憶はRに、短期記憶はRAMに保存されるというわけ ではない。なぜならLTDとSTDは長期と短期の分類であり、Rと RAMは書き換えの可能性での分類であるからである。長期記憶も2 種類ある。 自分の子どもの顔や姿は特に可愛いと思うし忘れられない からRに記憶されたタイプである。受験時代覚えた漢字や英単語が、 記憶違いであったら後で正すことができる。 方言でも訓練をすれば直 すことができる。 こちらは書き換え可能だからRAMに記憶されたタ イプである。 ディスクリミネータのアクティビティー 通常の記憶にはアクティビティーがあると述べたが、 命令記憶にも 活性(アクティビティー)がある。例えば自分の体の一部に欠陥があ りそれを気にしているならば、その事に触れられるとひどく怒りだ す。逆に気にしていなければ無関心である。あるいは近くで熊が出没 していると聞くと普段気にしないような小さな物音でも気になるよう になる。 これは関係したディスクリミネータがアクティブになったり アクティブでなくなったりしているのである。 1つのディスクリミネータのアクティビティーが高まれば、他のそ れと関係ないアクティビティーが低くなることがある。 買い物に気を 取られ傘を置き忘れるとか、厄介な問題が舞い込んできたために、人 -39- との約束を忘れたりするのはこのためである。 これが極端になると特定の命令記憶がフォーカスされてしまい、 その命令にすべて従い始めることもある。 「死ぬほど好きな人ができ た。 」 「食料不足で死に直面している。 」 「自分の子供が誘拐され身の代 金を要求されている。 」このような場合は 1 つの事に集中し、他の事 には目もくれないであろう。 ここで定義したディスクリミネータのアクティビティーは第七章 で定義される次のエネルギーの定義式と密接な関係がある。 エネルギー = 行動後のディスクリミネータ ― 行動前のディスクリミネータ これは行動を起こす場合にどれだけ大きくディスクリミネータのプラ スに貢献するかを示す量である。ディスクリミネータのアクティビ ティーが高まれば、そのプラスマイナスの変動幅が拡大し、その行動 を引き起こすエネルギーが大きくなる。 このことは第七章でもう一度 詳しく説明する。 このようにディスクリミネータの活性を変化させる ことにより人間は様々な環境のもとで、 より種の保存に適した行動が 取れるような仕組みになっている。 神経回路には信号が通りやすい道と通りにくい道があることが知 られている。これがこの章で述べた「リンク」や「アクティビティー」 と関連があると思われる。 ディスクリミネータのアクティビティ−が 高まることはカルシウムイオンに関係しており、記憶のアクティビ ティーが高まるとは、その記憶へ信号が伝わりやすくなることであ る。 またアクセス禁止状態とはその記憶からの信号が伝わらなくなる ことである。 アクティビティーがゼロで思い出せなくなった記憶が沢 山あるように、 アクティビティーがゼロで命令が出せなくなったディ スクリミネータはRAMの中に沢山あるだろう。 -40- 多重人格の意味 例えば幼児期に少女が父親の乱暴され続けたような場合、 多重人格 になることがあるという。 通常なら保護してもらえるはずの父親から 乱暴を受けると、大きな心の傷(トラウマ)ができる。これは極めて アクティビティーの高いディスクリミネータであるのだが、 具体的に どのように防御すればよいのかわからない。 しかし24時間中乱暴を 受けているのではなく平和な時もあるのだ。 そのようなときは乱暴を 受けているときのことを忘れようとする。 父親の乱暴を受ける地獄か ら逃れ別世界に入りたいと願うのだ。 このとき父親から乱暴を受けて いるときの記憶のアクティビティーをゼロにし、 それに関係したディ スクリミネータのアクティビティーもゼロにしてしまう。 そこで脳の 中に2組の閉じた領域(A,Bと呼ぶことにする)ができあがる。領 域A, Bの中にはそれぞれ記憶とディスクリミネータがリンクされて 入っているがAとBの間のリンクは完全に消滅する。 一度それが成功 すると第三、第四、あるいはそれ以上の領域(人格)ができることも ある。一つの人格(例えば人格A)に入っているときはAに属する記 憶とディスクリミネータがアクティブになる一方、 それ以外の領域の 記憶とディスクリミネータのアクティビティーはゼロになってしま う。これが多重人格の意味である。性格はディスクリミネータにより 決まる。多重人格の人は各人格で性格はまるで異なるし、記憶もそれ ぞれ別々である。 各領域ごとにディスクリミネータと記憶が別々に納 められているからである。 ここまで極端でなくても環境に応じ性格が変える人はいる。家庭 と職場で性格ががらりと変わるような場合である。 これはディスクリ ミネータと記憶が閉じた領域にぎっしり収まっていて閉じた領域を 作っている場合で、そのような領域が複数ある場合である。 -41- 図 4.2 多重人格 人格A 人格B 人格C 記憶A1 記憶B1 記憶C1 記憶A2 記憶B2 記憶C2 ディスクリミネータA1 ディスクリミネータB1 ディスクリミネータC1 ディスクリミネータA2 ディスクリミネータB2 ディスクリミネータC2 このように区切られた複数の領域のうち特定のもののみが、アク ティブになるという事情は、コンピュータのWindowsの機能に似てい る。特定のWindowsをクリックするとその領域の中にあるプログラム やデータ等のみがアクティブになるからである。 なおコリンズとロスタフの活性化拡散モデルでは、 ここで述べたモ デルとほぼ同様な意味で活性という言葉を使っている。 -42- 第五章 芸術の意味 芸術と種の保存 次に芸術の意味を考えてみよう。芸術は種の保存とは全く無関係で あると考えている人が大部分だろう。しかし人間の行動を支配する ディスクリミネータが種の保存と全く関係の無い行動を起こさせるこ とはない。そもそも美と快感は非常に関連が深い。目で見て快感を感 ずるものを美しいものと定義してよい。つまり美しいものは、求めれ ば種の保存に好都合なものだ。そして「芸術作品=美しいもの」であ るから芸術は種の保存に何らかの関係を持っている。 一般にはその関 係が思いもよらないものであっても・・・。 芸術作品の代表的なものを見てみよう。 ミロのヴィーナスはどうであろう。これは裸体の女性であり性欲を引 き起こすものだから、生殖のための行動を誘発するディスクリミネー タであり、種の保存との関係は明らかだ。実際絵画、彫刻に女性の裸 体は非常に多いことは、女性が男性を引き付けることが極めて種の保 存に重要であることに対応している。ミロのヴィーナスの美に絶対 的・普遍的な意味があるのだろうか。動物はオスとメスの求愛のサイ ンとしてそれぞれ匂い、ジェスチャー、色、形等独特のものを持って いて、 それらは子孫を残すという意味で極めて重要な働きを持ってい る。それらは同じ種に属する個体のみに意味があり、美しい等の快感 を与え引き付ける。ミロのヴィーナスの美しさもその一つであり、人 間以外の動物がそれを美しいと感ずることはないだろう。 各種の動物 はそれぞれ全く別なものに対し美を感じ、その動物に対する「芸術作 品」に相当するものを作成することも可能であろう。 世界一の美女であっても美しいと感じるのは人間だけであって、人 間以外の動物も美しいと感じるわけではない。 どの動物にとっても引 き付けられるのは同じ種の相手なのだから、そちらの方が美しいのだ。 静物画はどうか。 果物などは単純に食欲と関係しているので自己保 -43- 存により種の保存に貢献することに関係する。「ひまわり」 等の花の絵 もその意味は明らかである。 もともと花は受粉を目的に動物を引き寄 せるためにあり、 蜜や果実を提供しようというものであるから人間も それを美しいと感じるのである。 古典絵画は比較的種の保存で説明が 付きやすいものが多いが、写真技術の登場により、現代芸術は意味が 簡単には解らないものが多くなってきた。 美術館員が上下を間違えて 展示することもあるほどである。 多くの人に好かれるのであれば種の 保存に関係しているに違いない。 ビルの立ち並ぶ現代の人間の居住空 間は余りにも人類が住み慣れた古代の生活の場と掛け離れたものに なっているが高層ビルだけでは、何か物足りない。そんなとき芸術作 品がそのビルの玄関脇にあるとなんとなくホッとする。 木を植えるこ とは古代の居住環境に少しでも近づけようとすることを意味すること は明らかだし、 高層ビルの近くの芸術作品も同様の努力の一環と見做 すことができるだろう。 芸術作品の意味を調べることは逆に一次ディスクリミネータの構造 をしらべることにもなる。人間が摂取してはならない物、例えば排泄 物、嘔吐物、 そしてトイレ等は芸術にはなり得ないということである。 逆にこれらに群がるハエなどはこれらを美しいと感じるのであろう。 おいしそうな果物を前にすればディスクリミネータは正になり、 人 にそれを食べるという行動を起こさせ、 これは種の保存にとって有為 に働くが、芸術作品の場合、例えばミロのヴィーナスや静物画を見て ディスクリミネータは正になってもそれでおしまいなので、 種の保存 には何の関係もない。 これは本来ディスクリミネータは人に種の保存 のための行動を起こさせるというはたらきを持っている一方で、 人は 種の保存ということは全く意識せず、 単にディスクリミネータをプラ スにしたいという一心で行動を続ける傾向があるからである。 つまり ディスクリミネータを正にするということが目的化しているのであ る。次の章でこの事に関しもっと詳しく述べる。 -44- 第六章 ディスクリミネータの動作の種類 空作動と作動抑止 前章で述べたディスクリミネータの目的化は悪いことと思ってはな らない。 人は種の保存とは無関係にディスクリミネータをプラスにす る方法を多数発見した。言い換えると「ディスクリミネータを人為的 にプラスにする」方法である。これをディスクリミネータの空作動 (カラサドウ)と呼ぼう。もちろんこの場合はROMの中のディスク リミネータを正にする方法である。RやRAMの中のディスクリミ ネータはそれ自身を環境の変化に合わせて変えていくわけであり空作 動をさせる必要がないのであるが、 ROMにあるものは書き換えるこ とができないために、 今度は人為的にディスクリミネータを正にする ような状況を作り出すわけである。これをもっと一般化し、虹やオー ロラ等のような種の保存とは無関係なものに対しても誤作動を起こし 美しいと感じる場合も空作動と呼ぶことにする。 逆に不必要にマイナ スになったディスクリミネータのマイナスを人為的に消す場合もあ る。 4種類の作動状態 ディスクリミネータの作動状態は次の 4 つに分類できる。 1. 正常作動・・・種の保存にとって益になるときがプラス、害になる ときがマイナスという本来のディスクリミネーター に従った作動をする状態 2. 空作動・・・・・種の保存には益にも害にもならないが、人為的な方法 等によりディスクリミネータをプラスにする状態 3. 作動抑止・・・種の保存にとって害にならないのにマイナスになっ ている場合、それを人為的な方法で消す状態 -45- 4. 異常作動・・・種の保存にとっては害になるのにディスクリミネー タがプラスになるとき、または種の保存に益になっ ているのにディスクリミネータがマイナスになる状 態 異常作動の種類 異常作動にも異環境異常作動と真正異常作動の2種類ある。 異環境 異常作動とは本来ディスクリミネータが作動すべき環境では正常作動 であるのに、異なる環境の下では異常作動になってしまうもので、自 殺・戦争・犯罪等は異環境異常作動が原因になっている。これに対し 真正異常作動はもともとディスクリミネータの機能自身が不十分だと か不完全なために異常作動を起こしてしまう場合である。 これは機械 でいえば故障・不良品に相当し、このような動作をしない方が種の保 存にとって都合がよい。どんな優れた機械でも故障したり、目的に合 わない動作をすることはある。つまりこれは性能の限界に相当する。 この真性異常作動も遺伝子異常により、 生まれつき環境に適応できな い状態である場合もあれば、 精神病等で正常に動作しなくなった場合 や、 正常な人でも特別な場合にディスクリミネータが異常作動をする 場合とがある。これらに関しては後で詳しく述べる。 異常作動についてこのように書くとディスクリミネータはでたら めな動作をするという印象を持つ人がいるかもしれないがそのような ことはない。 ディスクリミネータは人間の行動を種の保存に適したも のにするために見事に動作しているのだが、 ごくまれに例外があるの である。 ジャンボジェットを制御するコンピュータが改良され事故が どんどん減っているのだが、 どんなに減っても事故が皆無ということ は無く、うまく作動しない場合が必ずあるのに似ている。 -46- 異常作動の例 異常作動の例を上げてみよう。ふぐはおいしい。食べるとディスク リミネータはプラスになるが、その毒は中毒を起こす。これは真正異 常作動である。 人間の味覚がふぐの毒を検知できないことからくる誤 作動であり検知器の性能の限界に相当する。 「良薬口に苦し」という 諺がある。これも異環境異常作動の例である。苦いというのはディス クリミネータが負になるのだが、種の保存にとっては飲んだ方が良 い。 我々のディスクリミネータは数千年位の時間ではほとんど変化し ない。ディスクリミネータは古代のままだが、現代医学は出現してせ いぜい 100 年とか 200 年位しか経っていない。また現代医学の出現で 自然淘汰されディスクリミネータが変化したということはありえない のだからディスクリミネータは医学の進歩に合わせて進化をしている わけではない。古代人が現代に住んでいると言ってもよい。ディスク リミネータは現在の環境の変化に完全には対応できない場合があるた め歯医者に行きたくないとか手術はいやだとか、異環境異常作動が 時々起こる。 これに対して麻酔等を利用して異常作動を抑える工夫も なされている。これが作動抑止である。 人間以外でもディスクリミネータは存在するし異常作動は起きる。 「とんで火にいる夏の虫」などは異環境異常作動の例だ。もともとは 月の光等のような明るい光に対し一定角度で飛ぶ昆虫の習性だが、 夜 に人間が燃やしている火の中に飛び込むようにしむけてしまう。 昆虫の場合ディスクリミネータはほとんどROMに書き込まれて おり、RやRAMは発達していない。そのかわりROMの中に多くの ディスクリミネータが書き込まれていて行動を支配する。 ミツバチの ダンスのようにかなり複雑なディスクリミネータがROMに書き込ま れている場合もある。 人間の場合ROMには一定の方向性を示すよう な命令しか書き込まれておらず、 複雑な行動はRAMに細かくディス クリミネータを書き込むことにより臨機応変に対応できるのと対照的 -47- である。例えば子どもに対する愛情であれば、子どもに対する世話、 保護、教育等に関係した多種多様な行動を誘発するのであり、その一 つ一つは状況に合わせてRAMに書き込まれるのである。 昆虫などのような下等動物では、ディスクリミネータの異環境異 常作動はよく起き、そのたびに生命が奪われることも多い。しかし、 そのために種の保存能力が劣るかといえばそうでもない。 大量の個体 の死を補うに充分な個体が新たに生まれくるからである。 種の保存の ためには、個体の数が継続的に減少し絶滅に向かうのを防げばよく、 個体の死を減らさなくてもそれを補うだけの子どもが育てばよいわけ である。 天敵が現れて、ROMディスクリミネータの命令がその天敵に対 応できるものでなくなったとしよう。多数の個体が天敵の犠牲にな る。しかし必ずしも種は絶滅するとは限らない。人間のように新たな ディスクリミネータをRAMの中にすみやかに書き込むことはできな いが種の中の個体のディスクリミネータには多様性があるし、 突然変 異が起きることもあり、この天敵に対応できるものが生き残る。そし てより環境に適したディスクリミネータを持った個体が再び繁殖して 種は守られる。それらは天敵に対する防御をそなえた、より環境に適 したディスクリミネータを持っている。 これは実質的にROMの中の ディスクリミネータの書き換えに相当する。 人間の場合RAMの書き 換えで環境の変化に対応するが、 RAMの発達していない動物では世 代交代をしている間にROMが書き変わり環境に適応するわけであ る。 RAMによる行動の最適化 人間に話を戻すと、人間は知能が発達しておりROMの中のディ スクリミネータによる行動が適応的でないと判断すると行動の修正を 行う。ふぐの毒で死んだ人がいるとする。そのとたん、ふぐに対する -48- 警戒のディスクリミネータがRAMに書き込まれる。 そのディスクリ ミネータは、毒入りのふぐを食べることを阻止し、どうすれば安全に ふぐを食べられるか等考えるよう命ずる。 味覚のディスクリミネータ がプラスになるからといって即食べるという行動に移るのでなく、 ど うすれば身を守ることができるかと考えるのである。 ふぐは美味しいということを知っていると、 ふぐを見ただけでディ スクリミネータはプラスになるが、毒入りという知識があれば、警戒 のディスクリミネータが作られているのでディスクリミネータはマイ ナスになる。知覚、味覚、嗅覚、触覚、性欲等を支配するものは書き 換え不可能なROMの中のディスクリミネータである。 これだけでは 融通がきかず、例えばふぐの毒を防げない。これを補うために様々な 命令を適切に出すためにRやRAMの中に二次ディスクリミネータを 書き込んでいく。このように、一次ディスクリミネータが大まかな行 動の方向性を指定しているのに対し、 二次ディスクリミネータは環境 の様々な変化に対し臨機応変に対応できるよう経験や教育により、 ど ういう場合にはどう対処すべきであるという行動指針を細かく書き込 まれたものとなっている。 一次と二次のディスクリミネータでどちらのディスクリミネータが 優先されるかは人の性格と状況による。ふぐを見て、毒があることを 知りながら自分は大丈夫と言い聞かせて食べてしまう人もいるし絶対 食べない人もいる。強姦は多くの場合性欲という一次ディスクリミ ネータが性欲抑制の二次ディスクリミネータに優先した例である。 こ れらを含め犯罪に関しては第十三章でもっと詳しく説明する。 現代社 会での模範的人間、 知的な人間は二次ディスクリミネータが一次ディ スクリミネータに優先している。 どんな誘惑にも負けず社会のルール に従って生きる。 動物でも知能が高いものであれば一次ディスクリミネータと二次 ディスクリミネータの対立はある。 動物を捕まえる罠を仕掛けたとし -49- よう。 餌を置きそれに近づくとその動物を捕まえる仕掛けをしておく と、最初に一匹は捕まえることができるかもしれないが、二匹目はそ の仕掛けに気づきそれに近づこうとしない。 罠に捕まらないように二 次ディスクリミネータがRAM上にできあがるからだ。 人間の場合はRAMの容量が飛躍的に拡大し二次ディスクリミネー タにより一次ディスクリミネータを強力かつきめ細かく制御すること ができるようになったために環境の変化への適応能力が飛躍的に高 まった。 真正異常作動 異常作動でも病的なものもある。 精神病患者が何の目的もなく突然 人を殺す場合である。これは真正異常作動であり、責任能力が無いと され無罪となり精神病院に送られる。どんな製品にも不良品は発生す る。 また特定のディスクリミネータが強く働きすぎると異常な行動を 引き起こす場合もある。 必要以上に落ち込んで自殺に走るような場合 である。正常な人は種の保存に貢献できないとき、人は落ち込むが、 それを克服しようとする。異常な場合は必要以上に落ち込んで自殺に 至るわけである。一部の人間が適応能力がなくても、その数が少なく て種の保存にとって重大な影響を及ぼすのでなければ、 種の保存は達 成される。 甘い物が好きな人は生まれながらにして、 ROMにその事が書き込 まれていて甘い物に対しディスクリミネータがプラスになる。 これは 正常作動だが、甘い物を摂取しすぎると糖尿病になってしまう。それ でもディスクリミネータは甘い物を食べるという行為を誘発すること を止めない。 しかし甘い物を食べてしまうと血糖値が上がってしまい 結果として死期を早めてしまう。 その意味で今度は真性異常作動とな る。 正常な人のディスクリミネータは、 病気の際にはほとんどの場合悪 -50- い部分を保護するために的確な指示を出す。 痛みはそこを動かしては いけないとか、危険を回避せよいう命令であり、体がだるいとかだと 安静にしてなさいということ、 吐き気がするときは体内に有害物資が 入ったので外に出せということを意味する。 糖尿病の例はディスクリ ミネータが間違えた指示を出す例である。 一次ディスクリミネータも時々間違える。 しかし医者から甘い物を 食べないようにと止められて二次ディスクリミネータが甘い物を食べ るのを制止しようとする。 ここで一次ディスクリミネータと二次ディ スクリミネータの争いになる。どちらが勝つかは、個人によって異な るということになる。 甘い物を食べたいという要求を我慢できる人と できない人がいるということである。 それは二次ディスクリミネータ が一次ディスクリミネータを押さえることができるほど強いかどうか によるのである。 どうして糖尿病の際、 ディスクリミネータは間違えた判断をしてし まうのであろうか。これには次のような事が考えられる。古代人の平 均寿命は 30 歳、長くても 40 歳まではいかなかっただろう。だから糖 尿病のような成人病と呼ばれる病気はほとんど無縁だったのであり、 糖尿病に強かった人がそれ以外の人より適応度が高いわけではなかっ たので自然淘汰はされなかった。 40歳以上生きても種の保存にとって 余り意味は無かった。それに食料事情からして甘い物を食べ過ぎて 太って運動不足で糖尿病になるというパターンは古代人には稀であっ たろう。つまり糖尿病を克服できる人を自然淘汰で選ぶ状況では無 かったのである。 同様な例として現代人が脂肪を取りすぎるために起きる肥満の問題 がある。古代人にとって脂肪は、まれにしか得られない貴重な栄養源 であったために、 取れるときにできるだけ取るようにとディスクリミ ネータが命令する。 一方食べようと思えばいくらでも食べられるあり ふれた食物になった現代でも人は同様な調子で食べてしまうために肥 -51- 満が問題になってきたわけである。 空作動と作動抑止の例 作動抑止はディスクリミネータが不必要にマイナスになるのを阻止 するもので麻酔や鎮痛剤が典型的な例であろう。 不愉快なことがあっ た場合、 憂さ晴らしにスポーツやレジャーを楽しめれば作動抑止にな るが、放火等の犯罪に走れば異常作動でしかない。自殺しそうな人や ひどく落ち込んだ人を励ますのは作動抑止である。 宗教活動にはこう いった事がよく行われている。カウンセリングも作動抑止である。 異常作動は避けなければならないのだが、 空作動や作動抑止は悪く ない。 芸術は空作動の一つであり同様な例はそれ以外にもたくさんあ る。これはそれだけ種の保存に余裕がでてきたことの表れである。人 は 40 年も生きれば十分に子供を生み育てることができる。実際は 80 歳前後まで生きることができるようになった。 人は飢餓に瀕すと食べ 物のことばかり考えるようになる。食欲のディスクリミネータが フォーカスされ大きな負の値を示すようになり、 食糧確保の事のみ考 えるよう命ずるからである。 そのとき食糧確保が種の保存にとって最 重要課題になるから当然である。 一方現代では食糧確保について一般 の人は考えなくても大丈夫だ。 実際単に子供を生んで育てるために行 わなければならない最低限の労働時間は通常の労働時間の何パーセン トであるか考えてみると良い。 生活保護でもホームレスでも餓死を免 れるには十分である。 現代人には最低限の生活をするために行う労働 時間以外に膨大な時間が残されてしまったのである。 種の保存の仕事から解放された人間は、 より快適な人生を追求しよ うとしている。そしてこの「より快適な」という意味は「よりディス クリミネータがプラスになるように」ということと「ディスクリミ ネータがマイナスになるのを避ける」ということである。つまりディ スクリミネータを解放する(正確な定義は第十一章)ことが人生の目 -52- 的になったのであり、 それが種の保存に関係あろうと無かろうとどち らでもよいのである。 もちろん種の保存に害になることはディスクリ ミネータが負になるので決して行うことはできないのであり、 害にな らない範囲でディスクリミネータをプラスにしたりディスクリミネー タのマイナスを除いたりするということである。 芸術以外でも身の周りの意外と思われるような所にも同様な例は沢 山ある。もしもあなたが外国の宝くじで 10 億円を当てたとする。あ なたは大邸宅を建てるだろう。 その大邸宅の中のよく手入れされた庭 には池があり澄んだ水が流れ込んでいて、 その中に大きなコイが泳い でいる。 こんな住居での生活はごくありふれた人のひそかな願望であり、 豪 邸とよばれる家に住むことのできる人のみが持てるものである。 どう してこんな庭が欲しいのであろうか。 現代の豊かな時代にはその意味 が解らなくなっているのだが、人間は太古の時代、狩猟生活をしてい た。古代人は食糧を探して毎日野山を歩き回っていただろう。そのと きこの庭のような場所を発見したときの喜びを想像するとよい。 澄ん だ水は喉の渇きをいやすことができる。 大きなコイの発見は貴重な食 料の発見なのだ。 しかしこのような解釈にあなたは反論するかもしれない。 飲み水は 水道水で十分だし、大きな魚も魚屋かスーパーに行けば十分だ。池の 水は飲料水ではないし、庭のコイは食べるためではない。あくまで観 賞用だと。もちろんあなたは正しい。これは観賞用だ。しかしこれを 見てよい気分になる、つまりディスクリミネータが正になるのは、古 代人が狩猟生活を送っていたころの名残りであり、 ROMにそのよう なディスクリミネータが書き込まれていて生得的なのだ。その頃、自 然選択の原理により種の保存のために作られたディスクリミネータが そのまま残っていて、現代人の生活形態を支配している。すべての人 は無意識のうちに、このディスクリミネータに行動を支配されてい -53- る。無意識と言ったのは、このROMの中にこのような場所を探し 回っていたという記憶が無いからだ。 ROMの中に残っている生得的 な記憶は済んだ水を持つ池の記憶(飲めるから綺麗と感じる)とその 中で動いている生物(食べられるから綺麗と感じる)である。つまり ROMの中に入っている記憶は生きるために最低限必要とするもので ある。 これらのものが目に留まると注意して観察するようにディスク リミネータが命ずるようにできている。 ディスクリミネータに支配された行動を本能と表現することもあ る。 この表現を使い言い換えれば我々の本能は古代に自然選択により 形成されたものであり、 思わぬところでこの本能が現れてきた例がこ の日本式庭園の例である。 数千年前に人類はこのような場所に住みた いという願望をもっていたし、 その願望を現代人は無意識のうちに自 分の家に実現しているのである。 パブロフは条件反射の実験を行った。これは記憶と命令記憶の関 連づけの実験である。最初、パブロフは手の上にパンをのせてイヌに 見せた。イヌはすぐに唾液を出した。しかし、パンをみせて、食べさ せずに引込めるということを繰り返すと唾液を出さなくなる。 パンを 食べて美味しければパンを見ただけでディスクリミネータはプラスに なり唾液を出せと命令する。 しかしパンを食べさせずに引込めている とどうせ食べられないということでディスクリミネータはプラスにな るが唾液を出せと命令を出さなくなる。 このとき犬の様子を観察して みるがよい。パンに興味を示しているはずである。これはディスクリ ミネータに空作動が起きているからだ。 人間が果物などの静物画を見 ていると似ている。美しいと感じるが唾液は出ない。食べられないこ とは学習して知っているからである。 ベルを鳴らしてから肉を与える事を繰り返すと、 ベルを聞いただけ で唾液がでてくる。人間にせよ動物にせよ、こういったたくさんの経 験の積み重ねで、様々なディスクリミネータが書き込まれていく。中 -54- 心にあるのがROMの中の食欲のディスクリミネータである。 ここか ら「唾液を出せ」 、 「食べ物を取って食べろ」等の命令がでる。見かけ 上はよく似ていてもショーウインドウの中の果物と食卓の皿に盛られ た果物とは具体的な命令の内容が違う。 パブロフのイヌの例にあるよ うな沢山の経験の一つ一つがRAMに書き加えられていく。 このよう にして多種多様の状況に適応できるようになる。 ディスクリミネータは様々な行動を誘発する。しかしそれだけで なく、もっと直接的に体に作用する場合もある。おいしそうな食べ物 が目の前に置かれれば、ディスクリミネータがプラスになり、食べる という行動を誘発するだけでなく唾液や胃液の分泌まで始まってしま う。 裸の美女が目の前に現れれば男性の性器が勃起し性交の準備を始 める。 怒ったときは顔が真っ赤になると同時に胃の中まで真っ赤にな る。精神的ショックが原因で身体の一部が麻痺したり、食事が喉を通 らなくなったりするヒステリー症状もディスクリミネータのマイナス が強くなり過ぎた場合、 直接身体的異常を引き起こしてしまう例であ る。 ディスクリミネータはどこにあるか ディスクリミネータがどこにあるかは、難しい問題である。ディ スクリミネータとは欲望、感情、幸不幸、快不快等の総称であり、そ れらは脳の各所に散らばっている。 ごく大まかに言えば一次ディスク リミネータは脳内部の大脳辺縁系にあり、 二次ディスクリミネータは それを覆う大脳新皮質に作られる。脳の内部に、記憶や怒り、恐怖な どの感情(情動)や性行動に関係する大脳辺縁系(へんえんけい)と いうものがあり、大脳の内部でまるく輪になっている。この中の扁桃 核は怒りや恐怖をつかさどっていて、 下等な動物では大脳の大半をし めている。このため大脳旧皮質と呼ばれている。ここには一次ディス クリミネータが多く入っている。これら大脳辺縁系は感情をつかさ -55- どっているが、前頭葉や側頭葉のまわりを覆う皮質は、あまり勝手に 怒ったり、恐れたりしないよう抑制をかけている。このように、大脳 の表面を覆うところは、本能をうまく調節するために、進化して著し く発達したので新皮質と呼ばれている。 これが人間としての理性を生 み出す所であり二次ディスクリミネータがある。 さらに視床下部は体 温の調節、 飲食の調節を行っているので一次ディスクリミネータがあ る。 記憶には短期記憶と長期記憶があるが、大脳辺縁系の海馬(かい ば)という所を除去したら短期記憶が失われたという報告がある。長 期記憶の場所は大脳全体と考えられている。 脳内には多くの神経細胞があり、 そのおのおのが多くの突起を出し てお互いに連絡し、情報を交換している。この突起が相手の細胞に接 触する部分をシナプスと呼ぶ。 記憶の際はこのシナプスのつながりが 強まり、忘却の場合はシナプスのつながりが弱まるとされている。 最も安易にディスクリミネータをプラスにする(快感を感ずる)方 法は麻薬や覚醒剤を使うことである。A10 神経と呼ばれる「快感」を 生み出す神経は中脳がその出発点となり、 視床下部−側座核−前頭連 合野とつながって行き最後に大脳新皮質に到達する。麻薬や覚醒剤 は、最終的には A10 神経に働きかけて快感作用をもたらしている。側 頭葉の内部にある内窩皮質(ないかひしつ)と呼ばれる部分は、人間 が最高の快感を感じる部分だとされている。アメリカの実験によれ ば、ここを含む側頭葉を電気刺激された被験者は、例外なく快感を感 じ、ひとりの少年は男性の調査官に結婚を申し込んだという。 快感や覚醒をもたらす神経伝達物質の一つとしてドーパミンがA10 神経で分泌され脳内での神経細胞の情報伝達に用いられる。 これは覚 醒剤アンフェタミンと、うりふたつの化学構造を持っており、脳内で 作り出されている麻薬ということで「脳内麻薬物質」と呼ばれてい る。つまり人が求めている快感はドーパミンによって得られる。それ -56- と化学的にそっくりの覚醒剤を使えば快感が簡単に得られてしまう。 一見これは最も簡単なディスクリミネータの空作動に見えるのだが、 良く知られているようにこのような薬物の乱用の後には強い副作用が ある。使用を続けていると耐性といって、だんだん量を増やして行か なければ効かなくなってしまう。 また依存症も現れ薬が切れると様々 な禁断症状が現れてくる。 中毒が進むと幻覚が現れ暴力的になり殺人 を犯すこともあれば、中毒で死ぬこともある。これはとても空作動と はいえず、異常作動である。 -57- 第七章 ディスクリミネータの量子力学モデル ローレンツの水力学モデル 行動の仮説上の調節機構としてローレンツは水力学モデルを提唱 した。 これはいわゆる水洗便所モデルで水がタンクに流れ込み一定の 量に達し信号刺激が働いてバルブが開くと水が流れ出すというもので ある。しかし人間や動物の行動が引き起こされるのは、このような古 典力学的メカニズムではなく、 量子力学的メカニズムであることを説 明しよう。 水力学モデルでは例えばライオンはある一定の空腹度以下では全 く狩りで出かけることはなく、空腹度がある閾値に達し、獲物を見つ けると100%補食行動を起こすようになるはずであるが、これは現実 離れしている。量子力学的なモデルでは同じ獲物を見つけた場合、空 腹度が増加すれば補食行動を起こす確率が連続的に増加するわけで、 こちらの方が現実に近いことは明らかである。 ローレンツが量子力学 を熟知していたら当然量子力学モデルを提唱したに違いない。 不確定性原理 これまではディスクリミネータがプラスになったりマイナスに なったりすることを述べた。 この章ではディスクリミネータの単純化 したモデルを量子力学を使い作ってみよう。 ディスクリミネータは行 動を誘発する。 ディスクリミネータの増加幅が大きくなれば行動を起 こす確率がだんだん増えてくるし、 小さくなればだんだん減少するが 0にはならない。これは量子力学の不確定性原理に関係したトンネル 効果という現象に酷似している。 原子核のα崩壊のように壁の中の粒子が壁を通り抜けるような場 合を考えよう。 一般に原子核の内部ではヘリウム原子核に相当する陽 子2個と中性子2個からなる塊が、まとまって運動している。この塊 -58- は周囲に張り巡らされている壁を乗り越えるために十分なエネルギー を持ち合わせていないために、 古典力学に従えば決して外に出ること はない。 しかし量子論においてはハイゼンベルグの不確定性原理によ り、波動関数の一部はこの壁の外側ににじみ出すために、このポテン シャルと呼ばれる壁をするりと通り抜ける確率がゼロでなくなる。 図 7.1 ポテンシャルの中に閉じこめられた粒子 この粒子が壁の外に出てくる確率を単純化すると 確率 = exp(−2(∫dr V(r)−E ) ) (1) となる。ここでV(r)は壁の形に相当するポテンシャルエネルギー、 Eは粒子の持つエネルギーである。 ただしプランク常数や質量等を省 略し単純化してある。これに数値を代入できる段階ではないが、定性 的な議論には役に立つ。 エネルギーレベルが増加すると確率は指数関 数的に増加するのである。ただしエネルギーレベルの定義は E = 行動後のディスクリミネータ −行動前のディスクリミネータ (2) とする。このエネルギーEとは、その行動によってどれだけディスク -59- リミネータをプラスの方向に動かすことができるかを表している。 こ のエネルギーが大きくなると指数関数的に確率が増えてくることがわ かる。ただ空間積分も入っており完全な指数関数ではないが、エネル ギーが小さいと確率は非常に小さいがゼロではなく、 エネルギーが増 大すると確率は急激に増大する。 これはポテンシャルの形によらない 性質でありここではこれを「指数関数的」と呼ぶことにする。これに 相当するような不確定性理論を使った仕組みがディスクリミネータ で、実際使われているのではないかと推測するのである。 量子力学に余り詳しくない人のために、エネルギーが増加したと きになぜ確率が指数関数的に増加するかを説明する。 粒子は軽くて小 さくなると波の性質を示すようになり位置が不確定になってくる。 つ まり広がりを持ってくるわけである。 粒子が膨張するというのではな く、 ある決まった場所に留まることができなくなり電子雲のようにな る。波動関数が確率密度を決定する。この波動関数の一部がポテン シャルの外ににじみでる。 粒子が飛び出す確率はそのにじみ出た部分 つまり確率密度の積分値に比例する。これが(1)式で与えられる。 エネルギーが高くなるとにじみ出る部分がどんどん大きくなるから飛 び出す確率が増加するわけである。 なお古典力学すなわちニュートン 力学ではエネルギーがポテンシャルの頂上に達するまで全く粒子は飛 びでない。ポテンシャルを少しでも超えると100%粒子は外に飛び出 してしまう。 量子論ではポテンシャルを越えなくても少しはにじみ出 ることができるし、エネルギーがポテンシャルを超えても100%粒子 が飛び出すわけではない。 このように行動を引き起こす原理は古典論 より量子論に近い。 行動を引き起こすエネルギー ライオンが獲物を狙う。空腹でないなら、食欲のディスクリミネー タはすでにプラスだから獲物を捕まえてもディスクリミネータを更に -60- プラス押し上げることは出来ず、 この行動を引き起こすエネルギーは ゼロである。 だんだん空腹になると食欲のディスクリミネータはマイ ナスになりアクティブになってくる。 獲物を捕獲すればこれをプラス にすることができるのだからエネルギーは大きくなる。 エネルギーが 増大するに従って行動を起こす確率は指数関数的に増大する。 水力学 モデルでは空腹度が同じで、 同じ獲物であれば必ずライオンは同じ行 動を取る。これが古典力学的な発想である。しかし量子力学的モデル では、捕獲行動を起こす確率が決まるだけで、初期条件を設定しても 行動を起こすかどうかは決まらない。 犬に指を噛みつかれたら痛さのために、 それを逃れようと必死で努 力するであろう。あるいは不治の病に罹ったとき、自殺に走るのもこ の強いマイナスから逃れるためだ。 つまりこの式はディスクリミネー タの正常作動にも空作動にも作動抑止にも使うことができる。(2) 式がプラスになればよいのである。 うっぷんを晴らすという意味を考えてみよう。 これが物理学のエネ ルギーに例えられ、 心にたまったエネルギーの発散であるという説明 がある。この心にたまったエネルギーが(2)式のEに相当すると仮 定すると、様々な事柄がよく理解できることを指摘したい。 東京の新宿に「火曜日の放火魔事件」という連続放火事件が発生し たことがあった(1976 年− 1977 年) 。ついに逮捕された犯人は、母親 に手伝ってもらって小さな理容店を経営している 31 歳の男だった。 彼は「自分でも楽しく遊べた日には放火しませんでした。パチンコに 負けたり、飲んでおもしろくなかったときに、うっぷんを晴らし、ス リルを味わうために火をつけたのです。 」と述べている。彼にはスト レスがたまる理由があった。他の従業員とうまくいかなかったし、結 婚三カ月後に離婚している。 「ストレスがたまる」とはディスクリミ ネータがマイナスになった状態が続きエネルギーEが大きくなるとい うことである。他の従業員とうまくいかなかったことも、ディスクリ -61- ミネータのマイナスを大きくした。このようなとき、ディスクリミ ネータはマイナスをプラスに変えるための行動を起こすように命令す る。従業員とのよりを戻す方法が無いのであれば、パチンコでもス ポーツでも良いのである。 つまり代替ディスクリミネータをプラスに すれば充分ということである。それでも駄目なら放火ということに なった。 ディスクリミネータは報復という命令を出すことがある。 殴られた ら殴り返す。物を取られたら取り返す。被害を受けた時点でディスク リミネータはマイナスとなり報復した時点でプラスに転じる。 これは 第九章で述べるように、 人間を利他的にするためのディスクリミネー タである。特定の相手に報復するのが不可能な場合、報復の相手が不 特定多数つまり社会への報復となってしまうことがある。 ディスクリ ミネータの異常作動といえる。家庭がうまくいかなかったし、職場の 仲間ともうまくいかない。しかし誰に報復をすれば、問題が解決する といった状況でもなくなってきた。 そのため報復の相手が社会全体に なってしまった。 そこで不特定多数に放火という手段で報復をしたの である。 この例で明らかなように、1つのディスクリミネータがマイナスに なったとき、 同じディスクリミネータをプラスにする事が出来ない場 合は全く違ったディスクリミネータをプラスにしてもよい。 このとき 「気が晴れる」ことになる。これは 1 つのことで種の保存に貢献する ことに失敗した場合、 別の方法で種の保存に貢献することを試みよと ディスクリミネータは命令するわけである。 気分転換やレクレーショ ンも、このような意味を持つことがある。 しかしディスクリミネータのマイナスがいつも代替ディスクリミ ネータをプラスにすることで解消されるわけではない。 例えば子ども が重い病気になったとしよう。 そのときは子どもの病気を治すことが 最優先となり、映画を見てもスポーツをやっても「気は晴れない」の -62- である。 子をなくした母ザルが、 他のメスから赤ん坊を盗んで世話をすること がある。 子を無くすことは種の保存に害になるのだからディスクリミ ネータは強くマイナスになる。 このときのエネルギーが他のメスから 赤ん坊を盗ませる。人間の場合も盗む人もいるが、養子をもらう方が 一般的であろう。 子どもの死によってマイナスになった母性愛のディ スクリミネータはたとえ他人の子であっても世話の再開によってプラ スに変えることができる。 種の保存という考えからはごくあたりまえ の事であるが、 利己的遺伝子説にとっては大問題であることをドーキ ンスは「利己的な遺伝子」の中で述べている。他人の赤ん坊を育てる ことは自分の遺伝子を残すために何の役にも立たないからである。 -63- 第八章 なぜ人は自殺するか。 死の戦略 第一章で述べたように人間のすべての行動が種の保存で説明できる とすれば、なぜ人間は自殺するのだろうか。このことを理解するには 「死ぬことはいつも種の保存に害になるわけではない」ということに ついて説明しなければならない。 結論から言うと通常の意味での現代 人の自殺の大部分はディスクリミネータの異環境異常作動の分類に入 る。以下でこのことを詳しく説明しよう。 種の保存とは、一個体が永遠に生き続けるというのでなく、世代交 代をしながら種としてみれば生き残るということであるから、 死も種 の保存には必要なのだ。いわゆる死の戦略である。 「人間には自己保 存と種の保存の本能がある」という表現は必ずしも正しくない。実際 は人間にとって種の保存に必要な時のみ自己保存を行い、 必要で無く なれば自己保存を放棄することもありうる。 このことはすべての動物 にとっても同様である。 タマバエは母親が自分の体を子どもの餌として提供するし、カマ キリのメスは交尾の後、オスを食い殺す。成虫時間が極端に短いカゲ ロウや一部の蛾の仲間には、口もない。数時間の成虫としての命に食 事は必要ない。交尾をし産卵すればもう生きている必要がないのだ。 だから食べる必要がない。 死んでも種の保存は達成されることは解る であろう。ミツバチは外敵を針で刺すが、一度刺すとほぼ確実に自分 も死んでしまうのでこれも自殺の一種である。 このような死は種の保存のためと言ってもよいが、自分の遺伝子 を残すためと言うこともできる。ここでは本題を逸らさないために、 取りあえず種の保存のための自殺と表現しておき、 別の機会にもっと 詳しくこのことを議論する。 ライオンなど野生の肉食動物は、老衰で死ぬことはほとんどない。 -64- 狩りができなくなってきたら群を離れたり、 群についていけなくなっ たりしひっそり死んでいく。 このように食糧確保が簡単でない食物連 鎖の食う食われるの世界においては種の保存にとって役に立たなく なった個体は生存を続ける意味がない。動物の場合、人間のように派 手に自殺をしない。役に立たなくなると群から離れる。そうすると食 糧を充分に得ることができずひっそりと死んでいく。現代人の場合、 どこにでも食糧はある。そうすると我慢できず、つい食べてしまう。 飢えて死ぬということなど苦しすぎて (ディスクリミネータのマイナ スが強すぎて)できない。それよりもっと楽に死ねる方法がある。ビ ルから飛び降りたり睡眠薬を飲んだり人為的にディスクリミネータの マイナスを抑止しながら死ぬ。それが自殺である。動物はそのような トリックができないから自然死に近い形での死しかできない。 そのた めに自殺しないように見えるだけである。もう一つ、人間に自殺が多 く見られる理由は周りの人々に迷惑をかけたくないという願望からも くる。これは人間が利他的になった証拠である。このことについては 第九章と第十章で詳しく述べることにする。 自殺原因 人間の自殺も種の保存によるものとして説明できる。 実際自殺の原 因は必ず「種の保存にとって好ましくない事」が関係しているのであ る。例えば、平成9年の例では自殺の原因は表 8.1 の通りである。し かし果たしてこれらの理由で死んだほうが生き続けるより人間という 種の保存にとって好ましいのだろうか。 必ずしも好ましくないように 思えるかもしれない。 病気の回復の見込がなく種の保存にとって害になるような場合人間 は死を選ぶことがある。 下の表から明らかなように高齢になると急に 自殺が増えるのと関係がある。 種の保存にとって役に立たなくなった 個体は次の世代と交替するような仕組みになっているから、 古代にお -65- いては自殺は合理的であったとも言える。 しかし現代ではこのように 不治の病を患う人でも問題なく養えるだけの経済的なゆとりがあるの だから、 そんなに死を急ぐことはないのにと思うようになったのであ る。 このような死は種の保存のためということもできるが、周りの肉 親に迷惑をかけたくないと思っているのだから利己的遺伝子説でも説 明できる。 つまり第一段階と第二段階の淘汰の両方で獲得した行動と いえる。 表 8.1 自殺の原因と説明可能性 原因 割合 種の保存 利己的遺伝子説 病苦等 37 . 1% 可能 可能 精神障害、アルコール症等 18 . 9% − − 経済生活問題 14 . 6% 可能 不可能 家庭問題 8 . 6% 可能 一部可能 勤務問題 5 . 0% 可能 一部可能 男女問題 2 . 6% 可能 不可能 学校問題 0 . 8% 可能 不可能 次に自殺者が多い精神障害、 アルコール症等はディスクリミネータ の異常作動が原因になっているものが多く含まれるだろう。 精神障害 はディスクリミネータが故障して自殺という異常な命令を出してしま う。 アルコール症はアルコールの飲み過ぎが人体に害を与えることを -66- 示している。精神障害では躁鬱病患者が鬱状態のとき(あるいは鬱状 態から躁状態に向かおうとするとき)自殺することが多い。躁鬱病と はディスクリミネータが故障して理由もなくプラスばかり出したり、 マイナスばかり出したりするようになる病気である。プラスが躁状 態、マイナスが鬱状態に対応している。マイナスが続くとディスクリ ミネータはある確率で自殺命令を出すような仕組みになっている。 た だし躁鬱病のマイナスは強すぎて、 最大限までマイナスがでたときは 自殺する気力さえ無くなってしまうから、 実際に自殺を実行に移すの は鬱状態から脱し始めた頃が多い。このことが意味するのは、いくら ディスクリミネータのマイナスが強くても自殺はできない。 自殺を実 行するにはそれを引き起こすエネルギーが必要ということになり、 行 動を引き起こすもう一つの要素があることを示している。 自殺原因が「生活苦」の場合は、いわゆる口減らしである。食糧が 不足しているときは、 自然選択が行われ生存能力のすぐれたもののみ 生き残り、それ以外の個体は死んでいく。食糧が不足して餓死する場 合もあれば、 他の個体に食糧を残すという意味で自覚した個体は自ら 死を選ぶ。種の保存のための人口調節の意味がある。これは利己的遺 伝子説では説明ができない。一家心中してしまうのは、種のためで あって自分の遺伝子のためではないからである。 「家庭問題」は個々の場合で様々な理由があるであろう。家庭は種 の保存のため、生命維持と子孫を残すための活動を行う場であり、そ れに関係したトラブルが発生した場合は自殺に走る場合がある。 「勤務問題」は職場でのトラブルである。現代人が種の保存のため の仕事を行う場所が職場である。 その場における重大な挫折はその人 に自分は種の保存に貢献できないと思わせてしまうから死を選ぶ。 失恋や心中など「男女問題」は、種の保存のために子孫を残そうと した試みが失敗に終わり、 自分は種の保存のために役に立たないと自 覚し、自己保存を放棄した場合である。種の保存なら説明可能だが、 -67- 適応度を高めるためとか遺伝子保存のためとかという説明は不可能で ある。 学校における問題で自殺することもある。 「いじめ」は他の個体から生命の存続に害になるような行為を受けた ときや精神的苦痛を受けたとき自ら死を選ぶ場合である。 学校も一般 社会の縮図的な面があり様々なトラブルが発生し、 それに伴って確率 は低いが自殺はある。 「受験に失敗」することも受験者が自分は種の 保存に貢献する能力がないと結論されたと判断し死を選ぶ場合であ る。 種の保存のためには、 次の時代を担う子供達が学校問題でむやみに 自殺してもらっては困るのだ。それを裏付けるように、学校問題で自 殺する人数は極めて少なく、 病苦で自殺する人数の50分の1程度に すぎない。しかしこの数字は信じられないと思うかもしれない。なぜ なら病苦で自殺する人の問題がマスコミで話題になることはほとんど なく、 逆にいじめ等の学校問題での自殺が大々的に取り上げられるこ とが極めて多いからである。 人の命が等しく同じ価値を持つなら学校 問題より、病苦で死ぬ人の話題を50倍も取り上げなければならな い。 実際はいじめによる自殺の方が病苦による自殺より数十倍は大き く取り上げられている。 故に子供たちの命は病苦で苦しむ人の命の数 千倍も重要と考えられていることになる。これは種の保存の見地から は合理的だ。 どうせ死んで行く人達の命よりこれからの世界を担う子 供たちの命の方が遥かに重要だというわけだ。 マスコミで取材する人 達も、 テレビの視聴者もこの点で無意識的に一致したからこのような 結果になったのだ。 利己的遺伝子説であれば他人の子のことなどどうでもよいわけだか ら、このようなマスコミの態度は理解できなくなる。 ここでは自殺は必ずしも種の保存に害になるのではないと主張し た。誤解しないで頂きたいが、自殺が現代においても悪いことではな -68- いと言っているのでは決してない。 第十二章では我々は善悪の定義を 明確に行い、その定義によれば自殺は悪いということになるのであ る。 予想される反論 次のような二つの反論があるだろう。 1. 自殺をした人は種の保存とか口減らしのためとか思って自殺して いるのではない。 その通りである。本人はそのつもりではない。自殺とは本能的な もの(つまり生まれながらにしてROMに書き込まれていた)であ り、その真の理由など本人が知るわけがない。これは腹痛のとき医者 から言われなければ本人がその理由(病名)が解らないのと同様であ る。本人は腹痛のため回復するまで動かない(動けない)でいる。そ して結果としては、 動かないでいることが回復するのに役に立つので ある。安静に保つことも治療の一つである。なぜ安静にしておくのか と聞いても、その人は腹痛だからというだけであり、真の理由を本人 は知らないまま静かに横になっているのである。 医者がレントゲン写 真を撮って、あるいは血液検査等をして始めて原因がわかる。 自殺も同様である。本人はその人を自殺に追いやろうとしている 心の奥底に潜むもの(実はディスクリミネータ)がどういう意味を持 つものなのか知る訳がない。本人は「ただ人生がいやになったから」 と答えるだけである。どの種であっても、種の保存の役割を終えた個 体を、 いつまでも生かし続けることは重荷を背負って暮らすようなも のであり種にとって害となる。 種の保存の能力を高めるルールがディ スクリミネータとしてROMの中に書き込まれていたために自殺に走 るの人がいるのである。 2. どの例をとっても死を選ばなければならないような決定的な理由 になっていない。 -69- 例えば「生活苦」から一家心中したとしよう。夫が病気だとか、家 業の不振とか様々な理由があるだろう。しかし生活保護や、親兄弟の 援助の可能性等もあり一家が飢死寸前の状態になっていない場合がほ とんどだ。長年経営してきた会社が倒産したり、借金地獄で自己破産 した場合でも餓死せずに暮らしていけるような社会の仕組みができあ がっている。 この心中が口減らしの目的で種の保存に貢献するといっ たことはありえないという反論があるだろう。 これに対しては次のように答えることができる。 人間の行動を誘発 するのがディスクリミネータである。 種の保存にとって不都合なこと があれば、ディスクリミネータがマイナスになる。周りの人々に迷惑 をかけたくないという利他行動を助けるディスクリミネータもこのマ イナスを大きくする。 マイナスがどんどん大きくなりある閾値以上に なるとその個体は存在しない方が種全体にとって好都合ということで 自殺が一定の確率で誘発されるという仕組みになっている。 誘発して いるのは一次ディスクリミネータであり、 それをコントロールする二 次ディスクリミネータが生活保護とか、 別の稼ぎ口を探すとかで生活 苦をうまく切り抜ける方法に頼りなさいと命令すれば自殺をストップ させることができる。 もちろん個体ごとにこの判断の基準には大きな ばらつきがある。贅沢な暮らししか知らない人だと、急に収入が減る と安アパートに移るということは考えにも及ばなくて死を選んだりす る。この仕組みが現代には適当でないにしても、古代人から引き継い だ我々のディスクリミネータの仕組みがそうなっているのである。 そ の意味で異環境異常作動なのである。 このことに関し第七章の量子力学的モデルを考えると解りやすい。 この場合はディスクリミネータが強いマイナスを示したときそれを消 すために行うのが自殺なのである。マイナスが強くなればなるほど、 それを消すためのエネルギーが大きくなる。 そうすればどんどん自殺 の確率が増加する。自殺の確率を増加させるものとしては -70- (1) 年齢が増加すること ・・・表 8.2 (2) 種の保存に害になるようなことが発生すること ・・・表 8.1 (3) 食糧事情が悪化すること 自殺しやすい人と自殺しにくい人との違いは、各個体によるディ スクリミネータの違いからくる。窮地に追い込まれたとき、あまりR OM中のディスクリミネータが過度にマイナスにならず、 RAM中の ディスクリミネータが的確な窮地打開策を与える人は自殺をしない し、 敏感に反応しディスクリミネータが大きくマイナスになる人に自 殺する人が多いだろう。 (1)∼(3)の理由によりエネルギーレベ ルのEが増加し、自殺を行う確率が指数関数的に増加してくる。年齢 の増加によりEがどのように増加するか、 食糧事情の悪化でどの程度 Eが増加するか等は実際の自殺確率のデータと比較すれば簡単に調べ ることができる。 ディスクリミネータの判断 はっきり自殺と言えなくてもそれに準ずる行為は、はるかに多い だろう。人間が野生動物の一種であった太古の昔、食糧事情が悪化し 餓死者が出始めたら、 老人は子ども達に食べ物を譲ることも多かった だろう。食べなければ死んでしまうと解っていても、自分の子孫が生 き延びてくれれば自分はもういいと思い群から離れ死んでいった人も 多かっただろう。 しかし現代のような派手な自殺は多くなかったこと は想像できる。飛び降りるべき高いビルもなければ、睡眠薬もない。 自分の生活圏の中に高い断崖絶壁がなかったら簡単には死ねない。 我々が食う食われるの食物連鎖の中で常に危険に晒されながら生き ていた状況を考えてみればよい。 必至に食料を確保し外敵から身を守 らなければ生きていけない。 その状況ではほとんどの場合老衰に至る 前に死んでしまう。少し体力が衰えただけで食料の確保ができなく なったり、外敵から身を守れなくなったりするから、生きていけなく -71- なる。子育てが終わった頃には直接自殺をしないまでも、もう自分が これ以上生きていくことはそれほど重要ではないと感じる時があるだ ろう。 そのようなとき食糧不足に陥ったら子どもに優先して食料を与 えただろう。そのために飢えて死んだら広い意味の自殺である。現代 でも生活苦で多くの人が死んでいるくらいだから、当時、事態ははる かに深刻であったたと考えられる。 現代のように食糧が豊富にある状態では、 自殺の確率ははるかに低 くなる。 自分が生きているお陰で子ども達に十分な食糧を与えられな いという状況では無いから自殺の確率は下がるのである。図7.1のエ ネルギーレベルが大きく引き下げられ、 自殺実行確率が小さくなって いる。しかし自殺実行確率が(1)式で表されるということは、指数 関数的に確率が減少してもなおゼロにはならないということだ。 しか も老人になれば自殺確率が増加するということは(1)式から理解で きる。 すでに述べたように自殺する人は、 「人生がいやになった」などと 言って死んでいく。自殺する人自身、自分がなぜ死のうと思うのかと いうことに気が付いていない。 一次ディスクリミネータの本来の意味 は本人も知らないのだ。ここで我々は「口減らし」等の一次ディスク リミネータの命令の本来の意味のことを「ディスクリミネータの判 断」という言葉で表現することにしよう。実際は一次ディスクリミ ネータは命令を出すだけであるから、「口減らし」等の深い意味を 知っている訳はない。しかし進化論を使って説明するならば、口減ら しを効率よく行い重荷から逃れた種が保存され、 仲間を平等に扱って いた種はその効率の悪さゆえ滅びた。 だから現存する種は口減らしを 効率的にできるような一次ディスクリミネータを備えた種である。 子 育てを終えた人間の自殺の場合は種の保存という言葉の替わりに遺伝 子保存と言っても議論は全く同じである。 しかし子育て前の人の自殺 は遺伝子保存では説明不可能であり、 やはり種の保存でしか説明でき -72- ない。このことに関し次の第九章の終わりでもう少し詳しく述べる。 口減らしの方法も種によって多種多様である。人間の場合、他の動 物より利他的であり周りの人達に迷惑がかかるからと思って自殺する 人は多い。動物の場合自分で食物を取れなくなった場合、誰も助けて くれない。だからひっそり死んでいく。あるいはなわばりを確保出来 ない場合、新天地を求めて移動する間に死ぬ場合もある。 ディスクリミネータがマイナスになったときの状態は様々である。 憂鬱な気分になったり、コンプレックスを感じたり、絶望したり、ス トレス、恐怖等を感じたりする。そしてそのマイナスが大きくなって くると、自殺を起こすエネルギーが高まり(エネルギーの定義は第七 章参照) 、自殺を誘発する確率がだんだん増加してくる。自殺が実際 に行われる場合もあるが、誰かの説得で思い止どまったり、他人に阻 止されたり多種多様の進展をたどる。 高いビルや崖から飛び降りる場 合でも衝動的に行為に至ったり、直前で他人に制止されたりする。現 代のように食糧に余裕がある時代、先進国にいれば、自殺の意味は到 底理解できないように思えても、 もし我々が食糧に余裕の無い太古の 時代に戻って生活することができたとすれば、 あるいは飢餓に直面し ている途上国の中でその国の人達と同じ条件で生活すれば、 自殺の意 味はもっとよく理解できるだろう。 姨捨山の物語も口減らしをしなければならないほど、食料が不足 していた事情を反映している。 働けなくなった老婆を山に運び自殺を 助けようとした物語である。 しかしこの物語では最後には老婆を連れ 帰る。 口減らしが必要な時代から不必要な時代への変遷を描写する内 容になっている。 食糧がだんだん豊富になってきたのだからもう口減 らしで老人を捨てるのはやめようと呼びかけているのである。 環境の 変化に合わせRAMに書き込むディスクリミネータの内容をもっと利 他的に変えようと呼びかけるためにこのような物語りは使われてい る。 これは後に述べるディスクリミネータの解放という社会の流れに -73- 関係しているのである。 別の歴史の記録を引用しよう。 食糧が欠乏したときには沢山の老人たちは重荷になり、 人々は感傷を 捨てて老人たちを抹殺した。ビザンチン時代の作家は、ゲルマン民族 の一種族であるヘルル人種は老人たちの希望があればその老人を殺し たと述べている。ユリウス・カエサール(Julius Caesar)によれば、 この習慣はゴール人の中にもあった。フィジー島では 40 歳に達した ときに、 その人たちの力が若い者たちにも伝えられるようにと老人を 食べさえもした。スウェーデンのある地方では「自殺用断崖」とか「殺 し棒」とかが利用されていた。食糧が豊富な現代では、これらの経験 が忘れられ自殺が本来どのような意味を持っていたかが忘れ去られよ うとしている。 もっと昔には、さらに厳しかっただろう。育った植物の量に比例し てそれを食う草食動物の数が決まり、 さらにその量に比例してそれを 食う肉食動物の数が決まる食物連鎖の中に人間が入っていた。 干ばつ などで植物の育ちが悪くなるととたんに、 生存できる人間の数も減ら さざるを得なかったわけで、 そのときには自殺ははっきり意味を持っ ていたのである。 人間がディスクリミネータの異環境異常作動により自殺に走る原 因の一つとして、 第三章で述べたが場合によっては特定のディスクリ ミネータがフォーカスされてしまい、 その命令にすべて従い始めるこ とがあることだ。 「死ぬほど好きな人が出来た。 」 「食料不足で死に直 面している。」「自分の子供が誘拐され身の代金を要求されている。 」 などを例に挙げた。 蝶々夫人の自殺の例やストーカーもこの分類に入 る。近くに天敵がいるような場合等、すべての神経を一点に集中して おいた方がよいわけだから特定のディスクリミネータがフォーカスさ れることがあるという性質は種の保存の能力を高めるのに役立ってい るといえる。しかしもしも間違えた方向にディスクリミネータが -74- フォーカスされた場合は、 「思い詰めた余り」自殺に走る結果になっ てしまうのである。 広義の自殺 自殺の定義を広げてみよう。 生存を続けようと思えばできるのにも かかわらず死を選ぶ場合を広義の自殺と定義してみよう。 広義の自殺 はどこにでもある。例えば老衰で老人が死んだ。もし本当にその老人 が一秒でも長く生存しようとするのであれば、 死の間際に生命維持装 置を付け人工的に心肺機能を維持し続ければ植物状態で2,3日は長く 生きられただろう。そんなことを希望する老人は聞いたことが無い。 生命維持装置を希望しないことは広義の自殺だろう。 そんなことをし てまで生きていてもしょうがないと誰もが思うだろう。 多くの人は種 の保存という観点から最良の死期を自ら選んでいるのであって、 いた ずらに延命のみに専心しているわけではない。自分が食べたために、 他人を餓死させてしまういったことが考えにくい現代の先進国では、 働けなくなったからといってすぐ死を選ぶことが非常に少なくなって いるが、太古の昔、飢餓に直面していた環境では子供を餓死させるよ りは、 働けなくなった自分が死んだ方がましと考える人が多かっただ ろう。 舞台生活をしていた人が癌に犯され手術をしなければ死ぬと宣告さ れる。 手術すれば生き続けられるが体に障害が残り舞台には復帰でき ない。 このようなとき死の直前まで舞台に立ちたいということで手術 を拒否する人の話をよく聞く。これも広義の自殺だ。手術すれば生き られるのに手術が嫌いだから手術を受けないのも広義の自殺だろう。 無意味に死期を引き伸ばすのでなく最小限の治療で安らかな死に至る まで、快適な生活を送らせるホスピスに入ることも広義の自殺だ。 タイタニック号の場合は沈没するまでかなりの時間があった。 救命 ボートには乗客の半分も乗れないことが解っていた。 救命ボートに乗 -75- れなければ極寒の海に投げ出され確実な死が待っていることは誰の目 にも明らかであった。 もし乗客の全員が自分が生きることのみを考え て救命ボートに乗ろうとしたのであれば、 力の強い男たちだけが救命 ボートの席を奪ったであろう。実際は女、子供が優先されしかも乗客 を落ち着かせるためその船専属の楽隊は最後まで演奏を続けたとい う。 つまりこの状況で多くの男たちや楽隊の人達は広義の自殺をした のである。典型的な利他行動である。これらの人々は特別な人達でな くどこにでもいるごく一般の人々であったはずである。 もし貴方が男 性であってこの状況に置かれたとき、女・子供を押しのけても救命 ボートに乗っただろうか。 男性たちの自殺行為は種の保存の観点からは容易に理解できる。 女・子供が生き残れば次の世代に希望を繋ぐことができるからであ る。つまり我々のディスクリミネータには女・子どもの生存は優先さ れるべきという命令が書き込まれている。 この命令は種の保存のため であるが自己の遺伝子保存という意味ではない。 この事件は西洋におけるレディーファーストの文化と関係があっ たかもしれない。このレディーファーストという考え方自体、女・子 どもを守れという種の保存の精神と無関係ということはできない。 「母を尋ねて3000里」という物語りがある。消息の途絶えた母を子 供が遠方から遥々訪ねて行く。苦労の末、母に出会った時母は死の床 にあった。医者から手術を受けるように言われていたがその気力も 残っていなかった。しかし子供が突然訪ねてきて気持ちが変わった。 「手術を受けよう。自分にはこの子がいるのだ。 」子供に会う前は、自 分はもう種の保存には貢献出来ないからこのまま死んでもよいと判断 していた。広義の自殺をしようとしたのである。しかし子供が目の前 に現れると、 自分は種の保存のためにもっとやらなければならない仕 事が残っていたこと、つまり種の保存に貢献できることに気づき、手 術を受けることを決心した。 -76- 危険を伴うスポーツやショーに挑戦し失敗し死ぬことも、広義の 自殺だ。本人は成功させようと思っていたとしても、挑戦しなければ 確実に死を避けられたのだから確率的に死期を早めたのは間違いな い。成功したとしても種の保存には関係ない。しかしこれらの行為に より多くの人を喜ばせる(ディスクリミネータを空作動で正にする) ための行為になっている。 我々のディスクリミネータは他人のディス クリミネータを正にすれば自分のディスクリミネータも正になるよう な仕組みになっている。 同様に自分の周りの人のディスクリミネータ に、自分のディスクリミネータも同様に反応することもある。このこ とを「ディスクリミネータの同調」とよぶことにする。 これは人間を利他的にし、より種の保存を確実にするためのディ スクリミネータの性質であり、 人間には特にこのディスクリミネータ が強くなっていることは、第九章と第十章で詳しく述べる。もちろん ディスクリミネータの同調という性質は利己的遺伝子説では全く説明 不能である。 ディスクリミネータの同調のため、集団の中の人間は同じような 行動を取る傾向がある。様々な流行が起きるのも、何世代にも渡って 文化が伝わっていくのもこのためだ。 群淘汰説が流行しているときは どちらを見ても群淘汰説ばかりだが、 利己的遺伝子説がでれば皆足並 みを揃え180°方向転換する。そのときの流行に逆らう事が何と大変 なことか考えてみるがよい。 心中もディスクリミネータの同調の表れ である。愛し合いながら禁じられた恋に落ちた二人。その片方が結婚 は不可能と結論し、将来を悲観し自殺を決意すると、相手も同調して 二人で自殺する。 何台も並んだ車の上をオートバイで飛び越えたりビルの間に繋が れた一本のロープの上を歩いて渡ったりする危険な行為でなぜディス クリミネータはプラスになるのだろうか。 それは人間が行うことが不 可能を思われてた事に挑戦し可能であることが判明した場合、 種の保 -77- 存によい結果をもたらすことがあることであるからである。 例えば古 代人にとっての天敵であったライオン等に勝てる方法を発見するため に危険を顧みず失敗を重ねながらも何度も挑戦したであろう。 ライオ ンとの戦いが勝率が低く自殺行為に近いものであっても種を守るため には必要としていたわけである。 あるいは危険を承知で新しい土地に 移り住むことが必要なこともあっただろう。 我々のディスクリミネー タの命令の中には、 「危険を承知で新しい事に挑戦する」というもの がある。 現代人には天敵はいなくなったわけだがディスクリミネータ に命ぜられ何かに挑戦をしたいという冒険心は健在なのである。 それ と共にディスクリミネータの同調という性質が関係していることも明 らかである。 仲間と山登りをしている途中遭難する。 仲間を見捨てれば自分は助 かるかもしれないという場合でも、 仲間を置いて去ることが出来ず二 人とも死んでしまうといった遭難事故もある。 また溺れる人を助けよ うとして自分も溺れ死ぬ人も後を絶たない。 溺れている人を見ると自 分も泳げないのに水に飛び込んでしまう。 ディスクリミネータが自己 保存より種の保存を優先したという例でありこれも広義の自殺であ る。 この場合も助ける相手と血縁関係があるとは限らないので遺伝子 保存という考え方では説明不可能である。 最近尊厳死ということが話題になることがある。 回復の見込みがな い患者が死を希望した場合、死ぬのを助けるのかということである。 逆に言えば回復の見込みがなくなると、 ディスクリミネータが強いマ イナスとなり、 自殺をしない人でも早く死にたいと思うようになるこ とである。これは死の時期を自分で決めるということのみならず、ま わりの人が自殺を助けるてやるべきかどうかということが議論されて いるのである。 強いディスクリミネータのマイナスを消そうとしてい るのであり、作動抑止であるから、尊厳死もディスクリミネータの解 放(正確には第十一章で定義)の一つである。 -78- これらの例からしても人間はただ単に長く生きようと望んでいる訳で なく、 自分にとっての最良の死期を自分の意志で選んでいることがわ かる。 すべての個体が限りなく長く生きることが種の保存にとって最 良のことではない。なぜなら「種の保存」という意味は世代交替を繰 り返しながら保存されるという意味であるからである。 つまり子を生 み育てた後は、 老化現象を起こして死んで行く仕組みになっているの である。死期をどこにするかは各自が決めるのだが、それには大きな ばらつきがあり、その中で異常に(又は不必要に思えるほど)早く死 を選んだ人々のみが自殺として扱われているにすぎない。 年齢層別自殺率 「自分が種の保存にもはや必要無いと感じたとき人は自殺を選ぶ 事がある」という説明が正しいことは、表 8.2 で示した年齢層別の自 殺率(10万人当たりの自殺者数)の変化を見ればわかる。年を取るに つれ急激に自殺率が高まる。平成9年の統計によると、19歳以下では 表 8.2 年齢層別自殺者数(平成 9 年) 年齢 自殺者数 0∼14歳 59 15∼19歳 410 20∼24歳 1144 25∼29歳 1390 30∼39歳 2767 40∼49歳 4200 50∼59歳 5422 60歳以上 8747 -79- 自殺率は 1.7 人に過ぎないのに、60 才以上では 31.9 人となっており 実に 20 倍近くにもなっている。子育ても終わり、取り立てて種の保 存のためにできる仕事が無くなったら、 自殺の確率が激増しているこ とに注目すべきである。 これこそディスクリミネータの判断なのであ る。 ただしたとえディスクリミネータがそのような判断をしたとして も、 現代の我々はすべての人々に快適に生きてもらいたいと思ってい るのである。 つまり老人を含むどんな人でもディスクリミネータがい つもマイナスになって死にたいと言い出すのを防ぎたいと思ってい る。これが第六章で述べた作動抑止である。それが許されるゆとりの 時代になったからそういう考えが支配しているのである。 もう少し詳 しく述べるとROMの中のディスクリミネータは自殺を命令するが、 その命令が時代に合わなくなったとして、 RAMの中に修正用のディ スクリミネータが作られており、 その命令を止めようとしているとい うことである。 現代において自殺や尊厳死が問題化されるのは、第十一章で述べ るディスクリミネータ解放と密接に関係がある。 この章の最後に、自殺という行動が第一段階淘汰と第二段階淘汰 のどちらで獲得されたかという問題を考えよう。 自殺原因のトップは 病苦である。自分はもう役に立たないから死ぬというわけである。種 全体への迷惑というより家族に迷惑をかけたくないというのが大きな 理由となるだろう。 とすれば第一段階淘汰で充分であるが第二段階淘 汰でさらに強化されたかもしれない。 となれば両方で獲得したという ことになる。生活苦の場合、口減らしという意味であれば第二段階淘 汰しかない。死んでしまっては自分の遺伝子は残らないからである。 男女問題、学校問題も同様で第二段階淘汰でしか獲得できない。表 1 で説明可能性を書いた。 種の保存と利己的遺伝子説を対比させる形に したが、種の保存を第二段階の淘汰で獲得した行動、利己的遺伝子説 -80- を第一段階の淘汰で獲得した行動と置き換えてもよい。 それでは動物にはなぜ自殺が無いのか(あるいは少ないのか)と いう疑問があるかもしれない。 それは自殺が多分に利他行動と関係が あるからである。 他人に迷惑をかけて申し訳ないと言って死ぬ人は多 い。 なぜ人間は他の動物に比べ利他的かという問題を次の章で考えて みよう。 -81- 第九章 戦争がなぜ起きるのか 戦争による淘汰 対立する大群が死闘を展開するという形に本物の戦争は、 人間と社 会的昆虫にしかみられない(ドーキンス「利己的な遺伝子」第十章) 。 すべての人が種の保存のために生きているのであれば、なぜ人は 戦争をするのであろうか。 戦争とは種を絶滅しようとする悪人たちが 起こす悪業ではないかと思う人がいるだろう。今から 30 億年以上も 前に原始生物が出現して以来、 自然選択が繰り返され生物が進化し人 類が誕生したと考えられる。 その中で原始人の時代の数百万年の間の大半は人間は数十人の群 の中で生きてきた。その群の多くは血縁関係の濃い集団であり、ある 時間が経過するとやがて集団ごとに微妙に形質が異なるようになる。 これらの集団ごとの戦いが戦争であった。 このような戦いは現代の大 規模な戦争と違い、 敗北はその集団の滅亡の可能性を増大させただろ う。全滅でなければ、負けても別な場所へ移動すればよいだけと思う かもしれない。 しかしそれまで暮らしていた場所を放棄しなければな らないハンディは大きい。移動の途中失われる命も少なからずある。 また別の場所に新しい縄張りを作ろうとしても、 そこにはすでに別の 群が縄張りを作っていて、 その群と新たな戦争を行わなければならな くなるかもしれないのである。さらに悪いことにそのような場合、先 住者が侵入者より闘争において有利になるという先住効果が現れるこ とが多い。 縄張りを奪われることは群として大きな危険を伴うことな のである。このようにして戦争に弱い群が淘汰された。 それでは戦争でどのような集団が生き残ったのであろうか。まず 利己的な集団と利他的な集団でどちらが有利であっただろうか。 利己 的な集団は各自バラバラであり、団結して戦うことができない。我先 に逃げてしまうこともあるだろう。 利他的な集団は一致団結しお互い -82- に助け合い、 集団のために命をかけて戦うという闘士が集まり組織的 な戦闘行動を行なうことができる。 となれば明らかに戦争は利他的な 集団に有利である。 好戦的な集団と平和的な集団とでどちらが生き残るだろうか。好 戦的な集団は着々と新たな戦闘のための準備を着々と準備しているか ら、平和的な集団を襲撃すれば勝つことが多いだろう。つまり好戦的 な方が進化に有利となる。 知能が高い集団と知能が低い集団とでは、どちらが有利だろう。高 い知能で様々な武器や戦術の工夫を行えば、 戦争に有利になることは 明らかである。だから戦争により人間は次の3つの性質を獲得した。 ①利他性 ②高い知能 ③好戦性 利他的な行動の進化 通常の進化論であれば適応度の高い個体が進化的に有利である。 利他的な個体が多くなると、 その中では利己的な個体の適応度が高く なるのである。利他的な個体は他人のために多くの仕事をする。利己 的な個体は、 その恩恵を受けるがしかし自分の事ばかり行って他人の ための仕事はしない。 例えば利他的な人は手に入れた食糧を他人に分 け与える。利己的な人はその食糧をもらうが、自分で手に入れたもの は他人に与えない。 つまり利己的な人の方が利他的な人より食糧を多 く手に入れることができるので子孫を多く残す。 となると利己的な個 体が進化的に有利になりやがて利己的な個体ばかりの集団に戻ってし まう。 しかしこの議論では戦争による淘汰は無視されている。現代です ら世界中には数多くの民族紛争がある。 太古の時代にはこれよりはる かに小さな規模の紛争が繰り返されていたに違いない。 小さな濃い血 -83- 縁関係で結ばれた数多くの部族が存在しただろう。 そしてその中で利 他的で団結力の強く知能の高いものが、 連戦錬磨で勢力を拡大しただ ろう。部族間の戦いの結果、勝者が生き残る。これは第一章でのべた 2段階淘汰説においては第二段階の淘汰に相当するものである。 ここ で幾つかの疑問に答えよう。 Q.集団はすぐに混ざり合って、意味がないものにならないか。 A.現在でもアフリカなどには、部族が存在し続けている。だから 過去においても充分長い時間混じり合わない部族が多数存在し たと考えてもよいのではないか。 Q.部族の中で利己的な人間が出現したらやがて、利己的な人間ば かりになるのではないか。 A.利己的な人間ばかりの集団は戦争に弱く利他的な他の部族に滅 ぼされた。そして利他的な部族では、利己的な人間が広まらな いような仕組みができていた。 利他行動を助けるもの 戦争により人間は利他的になると同時に利他行動を助ける様々な手 段を獲得していったのである。豊かな顔の表情はその一つである。利 他行動や集団行動を本格的に行うには、 自分が他人のために行った行 為が本当に相手を喜ばせているのかを知ることが極めて重要になる。 そこで笑顔、不安な表情、驚いた表情、疑いの表情、立腹した表情、 悲痛な表情等により自分がどういう心理状態にあるかを相手に伝えて いる。涙を流したり、声を出して泣いたり笑ったりすることも相手に 伝える手段になる。 これにより利他行動と思って行う行動が本当に相 手の為になっているのかどうかを確認できるようになった。 復讐の念が強いほど戦争を始める確率が高くなっただろう。 やられ たらやりかえせという考え方が戦争の発端となることが多いからであ -84- る。だから復讐の念は戦争を繰り返す間に徐々に強くなっていった。 これが集団内の個体レベルで適用されたときは結果として利己的個体 の適応度を下げるはたらきをした(少なくとも太古の昔には) 。他人 に迷惑をかける利己的な個体は復讐されるからである。 さらに利他行 動を促進するために様々な感情ディスクリミネータも獲得した。 憎し み、憎悪、復讐の念、軽蔑、共感、尊敬の念、感謝の念等がそれであ る。これによって利己的な人間の適応度を下げ、利他的な人間の適応 度を上げることができるようになったのである。例えば、誰かが強盗 殺人という利己的な行動をしたとしよう。 現代ならこの人は拘束され 極端な場合死刑になる。 過去においてもそれに相当するものがあった に違いない。 そうなれば子孫を残すには不利になるのでこのような利 己的な人間の適応度は下がる。 これほど極端でなくとも、利己的な人間の適応度は下がる仕組み になっている。 利己的な人間は自分のための行動ばかり行い他人のた めの行動は行わない。 自己の利益になれば他人に害になることさえす る。そのため自分が危機のときでも誰も助けてくれない。一方利他的 な人間は他人を助けるため、 自分が危機の時は自分が助けた人が逆に 助けてくれる。他人に対する親切行動を行うと、恩返しされる。これ は感謝というディスクリミネータにより引き起こされた行動である。 利己的な人であれば、軽蔑、憎しみ、復讐の念に関連したディスクリ ミネータのおかげで、 周りの人は利己的な人に対して親切行動を行わ ないばかりでなく、 復讐として害になる行動さえ行うことがあるので ある。 このように助け合うことにより適応度を上げることができること を、互恵的利他主義という。利他主義にするための手段を獲得したこ とにより、人間は飛躍的に適応度を高めたのである。人間が単独で暮 らそうとすると、その生存は困難を極める。食糧の確保、どうやって 身の安全を確保するか、 住みかの確保等その問題をとっても難問山積 -85- である。その反面集団となって暮らし、各問題ごとに協力し分業化を 進めれば、高い知能を生かすことができ、適応は極めて容易になる。 つまり人間は利他的になればなるほど適応が容易になることを知った のである。 もっとも現代の先進国において一般的に使われている意味で利他 的な人のほうが利己的な人より適応度の点で有利になっているかどう かといえば微妙である。 客観的に見て利己的な人も利他的な人も多く の子どもを産みたくないと思っている人が多いからである。 沢山の子 どもを産むことが「利益」だと思っている人が生物学者以外にどれだ けいるだろうか。 戦争のお陰でROM上に利他行動を誘発する沢山のディスクリミ ネータが書き込まれるようになった。 人間はこれにより他の哺乳類よ りはるかに利他的な行動を行うようになった。 このことは人間という 種が繁栄するために極めて重要なものであった。 いくら知能が高くて も各人利己的に行動していたら現在の繁栄はなかっただろう。 しかし 現代人は現状よりもっと利他的になった方が都合がよいことを知って いる。だから法律・教育・道徳・倫理・社会制度等を使いもっと利他 的な行動を取らせるよう誘導している。 このことに関しては以下の章 で詳しく述べるとしよう。 それでは戦争は良いことなのだろうか。その答えは2種類ある。 (1) 進化の過程で利他主義と高い知能を獲得できたという意味で は良かったといえる。戦争でなく、通常の個体レベルでの自 然淘汰ではこれは不可能であっただろう。 (2) 現代の戦争はもやは進化という意味を失っているし、善悪の 定義が大きく変わっている。その意味では戦争は悪いという ことになる。現代の善悪の定義に関しては第十二章を参照し て頂きたい。 太古の時代の戦争が数十人規模の小さなものであり、 敗北は絶滅を -86- 意味することが多かったが現代の戦争ははるかに大規模であり敗者も 絶滅しない。 1994年マスコミを賑わしたルワンダ内戦はツチ族と フツ族の戦いであり、大規模な虐殺が行われ、死者は3カ月で80万 人にも達したが一方が他方を完全に滅亡したわけではなかった。 2回 の世界大戦では世界中の国が戦争に巻き込まれたにも拘わらず、 絶滅 した民族はいなかった。 戦争がヒトという種の改良に役立ったという仮説に対し次のように 反論があるだろう。戦場では最も勇敢な兵士が犠牲になっていく。優 秀な個体が失われるのではなかろうか。 しかしこれは現代の戦争だ ろう。 自然選択が行われた頃の戦争は小規模の集団の間の戦争であっ たろうし、食料を得ることが容易でなかった頃戦争での敗北は、なわ ばりを放棄することを意味し、結果として滅亡につながることも多 かっただろう。確かに勇敢な兵士は最初に犠牲になっただろうが、ず る賢い兵士は生き残っただろう。 従って知能の高いものは生き残った 可能性が高い。 このように戦争が人の知能と利他性を高めたため、 人は協力して自 分達の生存にとって都合の良い生物(食糧となる生物等)を増やし、 外敵となるような生物を殺すか、 自分の周りから追い払うことまで可 能になり、飛躍的に種の保存能力が高まったのである。 それでは戦争により人間が獲得した3つの性質のうちの好戦性は、 現代の社会にどのように反映されているのだろうか。 好戦ディスクリ ミネータは、はっきり残っている。例えば街を歩けばすぐにゲームセ ンターが見つかる。そこでやっているのは戦争ゲームだ。テレビゲー ムにせよ、戦争映画にせよ、好戦ディスクリミネータを空作動させて いるわけである。 もちろん現代の戦争は進化という点では何の意味もない。現代で は大量破壊兵器が開発され、 むしろ戦争は種の保存を脅かす存在にさ えなっている。 そういう意味ではROMに書き込まれた好戦ディスク -87- リミネータは、危険極まりない無用の長物と化してしまっている。戦 争ゲームで空作動なら害はないが戦争行動を実行するとなると害は極 めて大きく、その意味で異環境異常作動なのである。 戦争により人類が獲得した利他性、高い知能、好戦性の3つのうち、 利他性と高い知能は人類の繁栄をもたらしてくれた反面、 好戦性は大 きな負の遺産となったわけで、 これをいかにして押さえ込むことがで きるかが、 人類が今後生き続けることが出来るかどうかの鍵となるの である。 自殺の進化 前章で利己的遺伝子説では、自殺が説明できないことを述べた。そ れでは自殺という行動はどのように進化してきたのだろうか。 我々の 見解はやはり戦争が関係しているということである。 戦争は集団の争 いであり、 個人より集団を優先するような考えが浸透している集団に 有利だったのではないだろうか。 「自分の遺伝子を残すために自分は 何にも貢献できないと感じたとき自殺する」 とすると生活苦や男女問 題等による自殺が説明できなくなるが 「集団のために自分は何にも貢 献できないダメな人間だ」 と感じたとき人は自殺するのだと仮定する と、自殺は完全に理解できる。やはり我々のディスクリミネータは自 分の遺伝子を残すことだけでなく、 集団の利益も顧慮に入れて命令を 下していると考えるのが自然である。 -88- 第十章 利己的な人間と利他的な人間 利己と利他 前章では戦争によって利他性が獲得されたことを述べた。しかし これは平均的に言って人間が他の哺乳動物より利他的になったという ことであり、 人間がすべて同じレベルで利他的になったと言っている のではない。当然その中には比較的利己的な人もいれば、比較的利他 的な人もいる。 様々な手段を使って人を利他的な方向に誘導しようと しているために、利己的な人間は悪い人、利他的な人は良い人と見な される傾向が強まった。 しかし人類という種の保存という観点から考えた場合は両方共そ れなりの役割は果たしてきたのである。 例えば食料が不足し飢餓に瀕 したときは、他人に食糧を分け与える人、生活苦には自殺するような 人は、真っ先に死んでいく一方、利己的で貪欲な、卑劣とも思われる 方法さえ駆使して食料を奪い取るような人は最後まで生き残るのであ る。そしてこのような人達が飢餓を耐えて、人類という種を救ったと 考えられる。 つまりこのように飢餓に瀕したときは利己的遺伝子説が 論ずるような素朴な進化論に立ち返るのである。 そこでは利他的な人 より利己的な人の方が適応度が高く、 利他的な人の適応度を高める仕 組みは崩れてしまう。 実際このような飢餓の状況は、 現代の先進国に住んでいる限り滅多 に経験しないが現在でも地球上の広い範囲で存在する。 かつて北極の 観光旅行客を乗せたジェット機が北極に不時着し救助隊を待っていた ことがある。強風と寒さのため救助は難航した。機内には食料が無く 乗客達は飢餓に瀕した。 死の直前一部の乗客達は死んだ他の乗客の肉 を食べて生存を続けていたと報じられ世間を驚かせたことがあった。 現代のような物質の豊富な世界に住む我々は、 飢餓の世界など想像も つかない。 人肉を食べることができる人など自分のまわりにいるはず -89- がないと誰も信じて疑わないだろう。しかし現代に生きる我々でも、 このように突然飢餓に襲われたとき、 我々の日常の生活では考えもつ かなかった事をするようになる。 つまりこのような状況においても生 き残る能力を持っているのである。ここで言う「生き残る」とは全員 が生き残るのでなく、 人肉を食ってでも生き残るものが一部にいるこ とである。他方、他人思いの人達、生活苦から自殺するような人達は、 消えていってしまう。 しかしこのような人達は種を保存するために口 減らしをするという意味で種の保存という目的にかなった行動をした のである。 このことから解るように人間の中のあらゆる意味での多様 性が人類の種の保存の能力を高めている反面、 平時には一部の人間は 自殺などの一見無意味に思える行動を取るのである。 過去数百万年もの間人類の祖先が生き抜くためには、 様々な危機を 乗り越えなくてはならなかっただろう。戦争、飢餓、伝染病等すべて を乗り越えてきたからこそ現在の人類があるのである。 そのためには 様々な性質を持つ人間が必要であったわけであり、 現代では悪人とさ れているようなタイプの人でも、 現代とは全く異なる環境においては 人類を救う役割を果たした可能性があるのである。 労働生産性が上がることと利他的になることが関連あることは容 易にわかる。労働生産性が上がると自分の家族の分だけでなく、他の 家族の分まで生産できるという事だからである。 このことは後でもっ と詳しく述べる。 人間はどこまで利他的でどこまで利己的かを考えてみよう。一般 的に言えば動物の中では非常に利他的な部類に入るだろう。例えば ドーキンスは何のために「利己的な遺伝子」を考え出したのだろう か。 自分の子どもを養うためというより真理追究を行い人類のために 貢献したかったと考える方が自然である。利己ではなく、種の保存の ためだ。我々が仕事と呼んでいる行動の多くの部分、ボランティア活 動、社会奉仕活動等は利他行動である。このように血縁関係の無い他 -90- 人に対する利他行動は進化しにくいとされており、 実際ここまで利他 的な行動を行う動物はまれであり人間が利他的であるいう証拠であ る。 囚人のジレンマというゲームがある。これは2人のプレ−ヤ−でお こなわれ、それぞれ相手に対して協力的(利他的)にふるまうか裏切 る(利己的)かのふたつの行動のどちらかを選べる。そうすると二人 が出会ったときの行動で 4 つの場合がおこりうることになる。 (1)2 人とも利他。 (2)2 人とも利己。 (3)自分は利他、相手は利己。 (4) 相手が利他、自分が利己。それぞれの場合に得点をつけどちらが高得 点を取るかを考え、得点の低い人は勝ち残れないとする。以下詳細は 略すが結論は利他的にふるまう人は得点が低く勝ち残れない。 全員が 利他的なら全員に利益があるのに、 進化の結果利他行動は消えていく ために、利益をみすみす逃してしまうというもの。ただし、ここで考 えている進化とは前述の戦争による進化は考えていない。 経済も囚人のジレンマに似たところがある。戦争のおかげで人間 はここまで利他的になり大きな利益を得た。 何らかの手段でもっと利 他的になることができれば、 我々はもっと豊かになれるのは間違いな い。そのような社会では、盗みは無いだろうから鍵がいらない。商店 もス−パ−も商品の監視はいらない。金が目当てに働くのでなく、ど のように働けば自分がもっとも社会に貢献てきるかと考えるから、 適 材適所で効率はよくなる。商売をやる上でいつも障害になるのが、取 引相手が信頼できるかどうかということである。 実際騙す人達が相当 数混じっているためにいつも警戒してなければならない。 「囚人のジ レンマ」が経済の足を引っ張っている。これらはすべて、人間が充分 利他的になりきってないからだ。 群淘汰説に従って人間のすべての行 動が種の保存のために行われていたならば素晴らしい社会になってい たであろう。もっと詳しくは第十四章で述べる。 -91- 第十一章 ディスクリミネータの解放 社会は何に向かって動くのか 我々の社会はゆとりがでてくるにつれディスクリミネータができる だけプラスになるように、 そしてマイナスを避けるようなものにどん どん変わって行くのは明らかだ。このように、種の保存を達成しなが らディスクリミネータがプラスになりやすくマイナスになりにくくす るよう社会を変えることを「ディスクリミネータの解放」と呼ぼう。 誰も現代の社会がどのような方向に変化しているか気が付いてい ないし、 これからどのような方向に変化するのかということも解って いない。人類は数百万年もの間、ぎりぎりで種の保存が達成できる状 態だった。こういう時代には、ディスクリミネータが強くマイナスに なるような行動も敢えて取らざるを得なくなるのだ。 例えば人口が増 えすぎたり、干ばつ等で食糧が不足したときなど、人は生まれた赤ん 坊や働けない老人を殺したりした。 ところが種の保存が容易に達成できるようになり物があふれゆと りがでてきた現代においては、 ディスクリミネータがマイナスになる ような行動は徹底して排除し、 できるだけディスクリミネータがプラ スになるように工夫し始めたのだ。 これがディスクリミネータの解放 であり、それに合わせて法律を制定し、犯罪や善悪を定義し、道徳・ 倫理を定めた。どのように行動をすべしと法律等を定めるとき、実は 無意識のうちにディスクリミネータ解放の方針で行われていることが ほとんどである。逆に言えば、新しい法律を考えるときはディスクリ ミネータの解放の意味を充分理解しておくべきである。 ディスクリミネータの解放の例 [プラスにする] (空作動が多く混じっている) 奴隷解放 -92- 人種差別撤廃 男女平等 身分制度撤廃 社会福祉の充実 労働時間が短縮され娯楽に使う時間が増える。 強制された労働でなく自分に適した楽しむ労働をするようになる。 レジャー施設の充実 旅行の増加 趣味が多様化し各自自分に合った楽しみ方をする。 性の解放が進む。 風俗産業等の性欲を利用したレジャーが盛んになる。 食を楽しむ。 [マイナスを防ぐ](作動抑止) 医学の発達により病気や手術の痛みを和らげ、 苦しまなくても済むよ うになる。 法律を定め犯罪を防ぐ 公害問題の改善 戦後制定された労働三法は、 労働者の権利を拡大し労働者の苦しみを 和らげる働きをする。 戦後制定された憲法も基本的人権を認め、 個人の苦しみを和らげる働 きをしている。 離婚の増加(結婚生活による行動の制限の解除) カウンセリングが盛んになる 人間全体が利他的になればなるほど、様々な作業の分業化が可能 となり種の保存が容易に、そして生活が快適(ディスクリミネータが プラス)になる。逆に利己的であればあるほど生活は困難になる。つ まりディスクリミネータの解放のためには、 利己を押さえ利他を奨励 することが重要なのである。 -93- 民主主義とは国民どの人のディスクリミネータも大きくマイナスに ならないようにする制度だと言っても良い。 基本的人権の尊重という ことは、まさにこの目的のために行われているのである。 セクハラ訴訟というのがある。昔はあまり聞かなかった。職場で女 性が男性に体を触られる。 女性にとっては好きな男性であれば快感だ が、そうでない場合は不快だ。昔はこういった場合のディスクリミ ネータのマイナスを問題にしなかった。 特に男性上位の社会だったの で女性の不快は無視されがちだった。現代は少しでもディスクリミ ネータのマイナスを見つけると男女に拘わらず改善を試みる。 すなわ ち女性を救う手段を与える。それが裁判であり、加害者は罰を受け る。 昔であっても、ある一定のセクハラで男性は快を感じ、女性は不快 を感じていたところであろうが我慢していて裁判にはならなかった。 ディスクリミネータ解放ということは、 このようにプラスとマイナス があるときは、まずマイナスを消すことが優先される。だんだん我慢 しなくなったのである。 もちろんディスクリミネータの解放を阻もうとする動きは常にあり 古い価値観、道徳観等ゼネレーションギャップは常に存在する。いつ も一本道でディスクリミネータの解放が進むのではなく、 一進一退を 繰り返しながら徐々に進んで行く。 どうして社会がこのような方向に 進むのかと道徳の乱れを嘆く人もいる。 昔は良かったと愚痴をこぼす 人もいる。 結果として進化した社会を調べてみればディスクリミネー タの解放ということになっているということである。 もしも社会を動かしている人々が、 社会がディスクリミネータの解 放の方向に変化しているということに気が付けば、 様々な決定を行う ときにより正しい選択が出来るのである。 逆に全くどちらに進んでい るのか分からないまま社会を動かした場合は、 方向が定まらないまま 船を操縦しているようなもので、暗礁に乗り上げたり暴風雨の中に -94- 入ったりで危険極まりないのである。 倫理とディスクリミネータ解放 例えば尊厳死の問題について考えてみよう。これを認めることは ディスクリミネータの解放であろうか。 この問題に関しては次のように考えれば良い。 (1)種の保存にとってプラスかマイナスか? 答えはどちらでも無いということだろう。現代は老人に食料を やらなかったとしても別の人が救われるという時代ではない。 購入した食料のかなりの部分を無駄にして捨てているのが現状 なのだから。 (2)ディスクリミネータはどうなるか。 回復の見込みが無い末期ガンのような場合で本人が強く死ぬこ とを希望しているとしよう。このような場合は通常、本人は 様々な苦痛を感じているはずである。病気の苦しみ、自分のや りたいことが出来ない苦痛、他人に様々な迷惑をかけてしまう ことの苦痛等から、ディスクリミネータは強いマイナスとなっ てしまう。尊厳死はこの強いマイナスを消すという意味で作動 抑止でありディスクリミネータの解放といえる。 それでは問題点は無いのだろうか。 ある人が財産目的等で尊厳死を 装って病人を死亡させたらどうだろう。 もちろんそのような可能性は 常に存在する。 それを防ぐには尊厳死を認める前に第三者による厳し い審査が必要になるであろうし技術的には尊厳死を装った殺人の可能 性を限りなく小さくすることはできる。 以上の考察より、 尊厳死を認めることはディスクリミネータの解放 につながると結論される。 -95- それでは臓器移植と脳死の問題はどうか。 脳死を人の死と認め脳死 段階で臓器を取り出し移植するというものだ。 問題は脳死は人の死な のかということだ。 (1)種の保存にとってプラスか? もちろんプラスだろう。放置すればどうせ臓器提供者も提供さ れる者も死ぬ運命にある。それが少なくとも片方は生きのびさ せる可能性が出てくるのだから。 (2)ディスクリミネータはプラスになるのか。 もちろんプラスになる場合のみ認めるわけだからプラスにな る。つまり臓器提供者の本人の同意を予め得ておくというのが 前提である。 しかしながら医学が発達し脳死状態の人を蘇生させる技術が開発さ れたらこの議論は成り立たなくなる。 この議論は現在の医学では脳死 を人の死と認めて良いと言っているにすぎない。 代理母の問題はどうであろうか。子供のいない夫婦は養子でなく 自分の子供が欲しいと思う。 なぜ自分の子どもを求めるディスクリミ ネータが発達したか、その理由は2種類考えられる。 (1)自分の適 応度を高めるため(2)自分達と性質が似通った子孫を残したいとい う気持ちを各人が持っていたからこそ、優秀な個体の子孫が優先さ れ、種の保存の能力を高めていったのだからこれは種の保存のため。 この中では単純に自分の適応度を高めるためという理由の方が (2)の理由より重要であると思われる。すなわち2段階淘汰のうち の第一段階の淘汰で獲得したディスクリミネータがより強く関与して いる。 いずれにせよ自分の遺伝子を持った子供を育てたいというディ スクリミネータが存在することは明らかである。 他人の子宮を借りて 自分たちの子供を生んでもらうことができるのなら、 それはディスク リミネータ解放の精神に合っている。 もちろん代理母を務めた女性の -96- ディスクリミネータをうまくコントロールできればという条件がある が。 ホスピスは何のためか。それはむやみに延命を計るのでなく、死 に至るまでの残された時間を快適に過ごさせるためだ。つまり強い ディスクリミネータのマイナスを消すためだからディスクリミネータ の作動抑止であり、ディスクリミネータ解放の流れの一つなのだ。 なぜカウンセリングが盛んになってきたか。 それは人々の様々な悩 みから引き起こされる苦痛を解消させるためだ。 やはりこれもディス クリミネータのマイナスを消すためであり、 ディスクリミネータの作 動抑止であることは明らかで、ディスクリミネータ解放の一つであ る。 上で述べてきた事柄は通常倫理上の問題として扱われてきた。倫 理・道徳は、善悪を決める判断の基準になっていた。しかしここで主 張したいことはこれらの判断の基準が時代に合わなくなったというこ とであり、 新しい基準を作る基礎となるものがディスクリミネータ解 放の精神であるというのが筆者の主張するところのものである。 -97- 第十二章 善悪は何によって決定されるか 善悪の定義 単に視覚・嗅覚・触覚・性欲等に直結した一次ディスクリミネータ のプラス・マイナスのみに頼る行動は単純で原始的で、どんな状況で も最適であるとはとても言えない。その例として一次ディスクリミ ネータの異環境異常作動の例を挙げた。 人間の場合知能が著しく発達 したため、 様々な場合に対して臨機応変に新しいディスクリミネータ を作りだしRAMにどんどん書き込んでいる。 それが人間の種の保存 の能力を著しく高めている。 各個人レベルではどう行動すればよいか分からないような場合、 あ るいは他人との利害が対立する場合には、 社会全体で判断しどのよう に行動すべしという指針を示している。それが善悪の意味である。そ れでは善悪とはどのように定義されているのだろうか。 結論から述べ る。 1.種の保存に好都合な事は善、不都合な事は悪である。 2.環境の変化によって、種の保存のために人間が行わなければな らない行動は常に変化する。だから善悪の基準も常に変化を続け る。どの時代でも善悪の基準は、その時代で種の保存にとって好都 合か好都合でないかで決められる。 3.現代の先進国のように物質があふれ、種の保存が余裕をもって 達成される時代には、人間の行う事のできる行動に幅ができる。こ のようなときは種の保存に害にならない限りディスクリミネータを プラスにすることが目的化する。これをディスクリミネータの空作 動と呼んだ。種の保存には全く関係なくても、種の保存に害を及ぼ さない限りディスクリミネータがプラスなら善、マイナスなら悪と なる。またディスクリミネータのマイナスを消すことも(作動抑 止)やはり善ということである。つまりディスクリミネータの解放 -98- を助ける方向に善悪が定義されている。 4.人間は利己的な行動を制限もしくは禁止し利他的な行動を取っ た方が、より種の保存の達成を容易にし、多くの人のディスクリミ ネータをプラスにできることを知っている。だから利他的行動は 善、利己的行動は悪と定義されることが多い。これは人間の特殊事 情による定義であり、決してどんな動物にも当てはまると思っては ならない。すでに述べたように一般に利他的な行動は進化しづらい し、実際多くの動物は人間より利己的である。なお善悪の定義は、 利己的遺伝子説は全く不可能である。そもそも利己的行動とは悪い 行動と一般に理解されているが、利己的遺伝子説ではこれがなぜか が説明できない。母親が自分の子どもが溺れかけているのを見て水 に飛び込み子どもを助けるが自分は水死したとしよう。これは利己 的行動だというわけだが、これが悪いと思う人は誰もいないだろ う。子どもを救うことが良いことだと結論できる説のみが、人間の 行動を記述できる説である。 善悪の判断 第一章において淘汰は2段階で行われることを述べた。第一段階で は利己的な行動を獲得し、第二段階では種の保存の行動を獲得した。 善悪の判断を表 12.3 にまとめてみた。 表 12.3 善悪の判断 利己的個体の利害 種の保存 善悪の判断 利益 利益 善 利益 害 悪 害 利益 善(強要されぬ場合) 悪(強要された場合) 害 害 悪 -99- この表からわかるように、善悪の判断は利己的個体の利害ではな く、種の保存にとっての利害で決定される傾向が強い。判断が微妙に なるのは利己的個体には害になるが、 種の保存にとって益になる場合 である。 この行為を本人が自主的に行った場合は善とされる傾向があ る。 例えばキュリー夫人は放射性物質が人体にどのような影響を及ぼ すかを調べるために自分の腕に放射性物質を置いた。 その結果彼女は 白血病で死ぬことになるのだが、これは悪でなく善だろう。少なくと も美しいお話ということになる。 しかし独裁者が捕虜に対して同様な 人体実験を行ったら悪だ。 その違いは害を受ける個体のディスクリミ ネータがプラスかマイナスかで善悪の判断が異なるということであ る。ディスクリミネータの解放の流れからして、ディスクリミネータ のマイナスを出来る限り押さえようをしているわけである。 世の中は 変化しており、かつては単純に種の保存に益なら善、害なら悪であっ たが、ディスクリミネータの解放の流れの中で、ディスクリミネータ がマイナスならば種の保存に益でも悪と定義するようになったのであ る。 それぞれについて説明してみよう。 1.例えば車で誰かにケガをさせたとすると、これは種の保存に害に なるから悪でありディスクリミネータは負になる。 ケガをさせた人は ケガの程度にもよるが絶望的な気分にさえなることもある。 一方これ を見た通行人はケガをした人を救おうとするだろう。 医学に少しでも 知識があれば応急処置をするだろうし、救急車も呼ぶだろう。その人 は人助けをしたのだから良いことをしたのでディスクリミネータは正 となる。逆に見て見ぬふりをしてその場を通り過ぎたら悪である。そ の人は後で「あのとき助けてやればよかった」と後悔しディスクリミ ネータは負になる。 正常なディスクリミネータの持ち主はディスクリ ミネータに従って行動すればいつの間にか種の保存に従って行動した ことになるという例だ。これが種の保存に好都合なことは善、不都合 -100- なことは悪という例だ。 このように種の保存に直接的に関係している 場合は、環境の変化によって変化するわけでもなく、善悪の判断の基 準は単に人命救助であるので極めて明快である。 ちなみに利己的遺伝 子説に従うなら、上記の行動は全く説明不可能となる。 2.一方環境の変化で善悪の基準が変化する場合もある。その時代に 適応するには、その時代にあった行動をとることが要求される。この ような場合生得的な一次ディスクリミネータだけで行動を判断するの は無理であり、学習(教育)により、書き換え可能なRAMに二次ディ スクリミネータを書き込み、 一次ディスクリミネータに従うだけでは カバ−しきれないような行動を制御することになる。 例えば性に関して言えば国によっても時代によっても大きく変わ る。旧民法には家督相続をいう制度があった。その家の財産を次ぐべ き子が法的に定められていた。物資の供給に限りがあるときは、個人 よりも物が優先されていた。 子供が生まれたときそれが誰の子かとい うことが極めて重要な意味を持っていた。 女性が一人で子供を育てな がら生きて行くのは非常に難しい時代だった。 このような時代に性解 放(ディスクリミネータ解放)など思いもよらないことであったろ う。 それに比べ現代は物があり余っている時代であり、 女性一人でも問 題なく生活できるようになった。 新民法では家督制度は廃止され個人 中心の社会となった。 その社会の変化に伴い性に対する考え方も開放 的になってきた。ヘアヌードは禁止されていたのに、いつの間にか町 にヘアヌード写真集が氾濫するようになった。 30年前は結婚前は純潔 を守らなければならないといった考え方があったが、 現在はそのよう な考えを持つ人は少なくなった。 性の解放の背景には、避妊法や堕胎手術の進歩があり、万一子供が できてもなんとか育てられるという余裕がでてきたこととも深く関連 している。 性に関しては一次ディスクリミネータをプラスにするため -101- に、 好き放題な事をかなりの程度までやることができるようになり二 次ディスクリミネータによる制御がそれほど重要でなくなっている。 その結果夫婦生活以外で性を楽しむことをタブーとする傾向がだんだ ん薄れてきた。 生得的な一次ディスクリミネータと違って、 二次ディスクリミネー タは社会情勢等の変化で臨機応変に変わることができる。 このため人 間は環境の様々な変化への適応能力を得ることになった。 太平洋戦争 でアメリカに敗れて以来日本女性は、 アメリカ人の特徴である背が高 く鼻が高く足が長い男性に憧れるようになった。 これも二次ディスク リミネータの変化であろう。 この事を第四章で定義した言葉で説明し よう。 戦前戦後を通じ記憶の中にはアメリカ人の特徴は存在し変化は していない。ところが命令記憶との関連づけは大きく変化した。戦前 はアメリカは敵であり、 日本より劣り卑下すべき人種であったのだか らアメリカは「嫌い、悪い」に関連づけられていた。ところがアメリ カが日本に勝った戦後には、 アメリカ人は英雄であり優秀な人種であ るから「好き、格好いい」に関連づけられるようになったのである。 このように記憶と命令記憶との関連づけは時代の変化に応じどんどん 変化していく。それに応じ善悪の基準も変わっていくのである。 3. ディスクリミネータをプラスにすることが目的化してしまうよう な場合(空作動)についてはすでに述べた。人間は種の保存に関係な くディスクリミネータをプラスにしてしまう数々の方法を発見した。 これは人間が種の保存のため以外に多くの時間を割けるようになった 事と対応していて、これからの時代重要性をどんどん増してくる。生 きるために必要な食物の生産等は機械がやってくれるので、 人間はそ れ以外で何をやるかを考える余裕がでてきたのである。 そしてそれが 人間の生きる目的に関連してくる。 このことは後にもっと詳しく触れ ることにしよう。 なんの役に立つかわからないがいい気分にしてくれるものは、 たい -102- ていが第六章で述べたディスクリミネータの空作動である。 飲酒はディスクリミネータの空作動に近いが、 カロリーのある食料 と考えれば正常作動である。 しかし飲み過ぎて肝臓の調子が悪くなれ ば異常作動となる。飲み過ぎない限り異常作動の確率が低いので「適 量の飲酒は良い」と判断されている。 喫煙は気分は良くなるが肺ガンの原因になるので空作動というより 異常作動と言った方がよい。つまり喫煙は悪である。 麻薬は耐性と依存性があり、 幻覚等強い禁断症状を起こすようにな るので異常作動だ。 しかしモルヒネ等はディスクリミネータの強いマ イナスを除くので末期ガンの患者に与えて、 苦しみを和らげて穏やか な死を迎えさせることができる。作動抑止だから善というわけだ。 マスタベ−ションは直接生殖行動に関係があるというわけでもない からディスクリミネータの空作動に近い。おそらく太古の時代から あっただろう。 罪悪感はあったとしても実際に種の保存に害になるわ けではなく善である。 体のどこかの異常のため、 生命の維持が困難となる状態ではディス クリミネータはマイナスになる。第八章では人の死について述べた。 種の保存の意味は一人の人が永遠に生き続けるのでなく世代交替をし ながら種としては保存されるのである。 そういう意味では一定の年齢 になると死ぬことが前提となっている。 人間に限らずどの種でも共通 に言えることだ。 子孫を残すという義務を果たしたらその後は死ぬこ とになっている。そういう意味で役割が終わった後、死ぬことは種の 保存にとってよいことだ。 それならばそれに伴う苦しみはディスクリ ミネータの異常作動と言える。 一次ディスクリミネータはその個体の 生命が危険に曝されたとき多くの場合強い苦しみを与えてしまう。 末 期ガンなどのように強い痛みからなる異常作動を押さえる麻薬はその 使用を良いこととして認められるわけだ。 これがディスクリミネータ の作動抑止だ。 将来起こるかもしれない中毒症状は気にしなくても良 -103- いのだ。ホスピスとか、そこで行われるカウンセリング等も精神的苦 痛を取り除き安らかな死を迎えさせるという意味で作動抑止であり善 ということになる。 麻薬は無害であれば極めて有効なディスクリミネータの空作動の 方法であっただろう。 しかし使用後極めて強い中毒症状を起こすので 異常作動であり、厳しく使用が禁止されている。健康な人が使う薬や 飲み物は全く害があってはならない。 重病人が作動抑止の目的で使う のなら少しくらい副作用があっても許される。 種の保存にとってのメ リット、ディメリット、またディスクリミネータの空作動や作動抑止 にとっての有効性等を天秤にかけて善悪が判断されていることに注意 しよう。 5.利他行動は善、利己行動は悪と定義されることが多いことに注意 しよう。 会社に行く人、自営業を営む人、農業をやる人等は毎日何をやっ ているかを考えてみればよい。 ほとんどが不特定多数のための利他的 行動だ。 我々の一次ディスクリミネータはこのように完璧な利他行動 を取らせる仕組みになっていないのは誰にも分かるだろう。我々の ディスクリミネータが作られた太古の時代には、 これほど完璧な利他 行動をする必要はなかった。数十人の集団全体のためにする仕事も あっただろうが、 自分の家族のための食糧確保を直接自分で行うこと が多かっただろう。労働生産性が低いとそうならざるを得ない。労働 生産性が飛躍的に高くなると農業に従事する人ですら自分が生産する 物のほとんどを赤の他人に配るのである。 極めて利他的な行動を強制 されていると言わざるを得ない。 本当に利己的に行動をしようと思え ば自分の家族の食べる分だけを作るしかないだろうがそれは現代社会 ではできない。つまり他人の分まで作ることを強制される。 我々のディスクリミネータがそこまで利他的になり切れてないた めに、 我々は子どものころからな教育によってすべての人を利他的に -104- しようとするのである。 学校では他の人のために行うことは良いこと であり、自分勝手はいけませんと教えるだろう。利他が善、利己が悪 というのはこのような事情があったのだ。 教育により利他を受け入れ る子どももいるが、 受け入れられない子どももいて非行に走ったりす る。 利己の一次ディスクリミネータが強すぎる人は利他を押しつけら れると苦痛(ディスクリミネータのマイナス)を感じる。 以上の議論は、種の保存だけに注目して行った。第一章で述べた ように淘汰は2段階で行われ、 種の保存に関係したディスクリミネー タは第 2 段階の淘汰で獲得されたが、適応度を上げるための、あるい は利己的個体の利益を守るためのディスクリミネータは第1段階の淘 汰で獲得された。これを利己ディスクリミネータと呼ぶとすると、善 悪の基準が利己ディスクリミネータにより影響を受けたと思われる場 合がある。例えば法の基の平等と言いながら、自分の子どもと他人の 子どもを差別してはならぬと言っているわけではない。 もちろん種の 保存に害になることは悪とされるが、害にならない限り、自分の子ど もを他人の子どもより優遇することは善とされている。これは利己 ディスクリミネータの影響である。しかしこれも限定的な優遇であ り、継子を実子と差別することは悪とされているわけである。やはり この意味で種の保存の方が利己ディスクリミネータより優先されてい ることが確認される。 この章では善悪が決定されるしくみを述べた。実際は人様々であ り善悪の基準もバラバラだから、 善悪の基準はここに述べた事以上に 複雑である。 そこに多くの人が納得できる範囲内でしかも現代の社会 に適応できるように善悪の基準を作ったものが道徳とか倫理とかいっ たものである。もっと強制力のあるものが法律であり、それを犯せば 犯罪として罰する。 しかしながら誰が作ってもこの善悪の基準を作る人の主観がどう しても入ってしまう。 しかも時代の変化に的確に対応できるとは限ら -105- ない。我々はすべてが種の保存ということに帰着させて、善悪の定義 を明確に行った。この定義は、QOL(生活の質)を高めるために、 どのような法律を作るべきか、 新しい道徳とはどうあるべきか等を科 学的に見出すための基礎となるものである。 -106- 第十三章 犯罪はなぜ起こるのか ダーウィンフィンチ ダーウィンフィンチという鳥には様々なくちばしの形をした種が 存在する。くちばしの長さ、高さ、大きさが食べ物をとる効率に影響 することがグラントらによって明らかにされた。あるとき、ダーウィ ンフィンチ類の一種のオオサボテンフィンチがいるガラパゴス島は例 年にない大雨にみまわれた。 その結果この島のサボテンはほとんど枯 れ、 オオサボテンフィンチの食料であったサボテンの種子はほとんど なくなり、 木の皮の下に隠れている昆虫類と腐ったサボテンの葉肉し か食べ物が無くなってしまった。 そうするとくちばしの高い個体の適 応度が高まり、くちばしの高い個体が増えてきた。通常はサボテンの 実が豊富にあるのでくちばしの長い個体が多数いるのだが、 その中に くちばしの高いものも混じっている。 一見するとくちばしの高いもの は無用の長物のように思われるかもしれないが、 大雨でサボテンが枯 れると昆虫を餌にできるよう、予備軍として混じっているわけであ る。 しかしどんな餌も食べられないようなくちばしを持った予備軍が いるわけではない。 予備軍としても役に立たぬ個体は種にとって必要 ないわけである。 予備軍 人がすべて人間という種の保存のために行動しているなら、犯罪 はこの世から無くなっても良いはずだと思うかもしれない。 現実には 殺人事件等の凶悪事件が世の中にあふれている。 一見矛盾しているよ うだが深く調べてみれば犯罪が起こる理由がわかる。 種の保存に害になる行動が犯罪であると定義したいところだが、 絶対的な意味で種の保存に害になる行動は、 すでにディスクリミネー タが厳しく禁じているのでほとんど誰も行えない。例えば「動物を人 -107- 間の食料にする」ことは毎日行っていることであり種の利益になる。 逆に「人肉を動物の餌にする」ということが時々行われるようなら真 に種の保存に害になる行動である。 しかし人間である限りディスクリ ミネータがこのような行動を厳しく禁じているために、 ごく一部の精 神異常者を除けばまずこのような行動を起こす人はいない。 つまり絶 対的な意味で種の保存にとって害になるような人は極めて少ない。 犯 罪と呼ばれている多くの行為は環境によっては種の保存に役に立つの だが、 現代の先進国ではたまたま禁止される行為であるから犯罪なの である。つまりディスクリミネータの異環境異常作動である。犯罪を 含むすべての行動はディスクリミネータによって誘発される。 人はディスクリミネータに支配されて行動している。そしてこの ディスクリミネータは種の保存(あるいは遺伝子保存)に好都合なよ うに最適化してあるのだが、 種を構成するすべての個体がその時に与 えられた環境に最も適しているように最適化されているわけではな い。人類を取り巻く環境は常に大きく変化し続けている。人間という 種がどの環境にも耐え得るにはその時の環境に最適な個体だけでな く、 その時はあまりうまく適応できないが将来環境が変化したときに 適応できるような個体も種の中に含まれていなければならない。 ダー ウィンフィンチの予備軍と状況は似ている。 その時代に最もうまく適応できるような個体は、そのときは尊敬 され、あるいは大富豪となり、あるいは模範とされ快適な生活をおく る。一方その時代にうまく適応できないような個体は、あるときは犯 罪者として追われ、あるときは貧困に苦しみ、あるときは軽蔑され惨 めな生活を余儀なくされる。 その反面別の環境では快適に適応でき重 要な役割を果たすこともある。 例えば強盗殺人を犯す人を考えてみよう。他人を殺してでも自分 が欲しいものを盗みたい、 自分さえよければ他人はどうなってもよい という利己的なディスクリミネータを持った人である。 食糧危機に襲 -108- われ、全員を生存させるだけの食糧が無くなった場合は、このような 個体が他の個体を抹殺し、種として全体の数を減らして生き延び、将 来食糧が十分供給されるようになるのを待つのである。人間の世界、 特に現代は食糧に困らないので人肉など誰も食わない。 同種の個体を 食べることを厳しく禁じるディスクリミネータを我々は持っているの である。 そのようなディスクリミネータが存在するということは種の 保存のためであるということは疑いようもない。 共食いを禁じたディスクリミネータに逆らわなくてもよいという意 味で、強盗殺人のほうが起こりやすい。自己保存は種の保存の中でも 最も重要な要素の一つだ。 そのため自己保存のディスクリミネータは 強弱の違いはあれ全員持っている。 非常に利己的な人はこのディスク リミネータが強く、他人を殺してまで自己を守ろうとする。このよう な利己的な人のディスクリミネータが飢餓に瀕したときに人類を絶滅 の危機から救ったこともあっただろうと思われる。 ライオンはライオン狩りをしない では、人間以外の動物、例えばライオンは他のライオンを殺すのだ ろうかという疑問がわいてくる。 実際は成熟したライオンを殺すこと はまず無い。その理由としては次のようなことが考えられる。 (1) 殺さなければならない理由が乏しい。強盗殺人は金や宝石等 が目当てだろうが、ライオンの場合、殺してもそれほど価値 があるものが得られる可能性は少ない。 食糧のためであれば、 種として考えた場合ディメリットの方がメリットよりはるか に大きい。そのため、人間同様に同種の個体の肉を食べよう とするのはディスクリミネータが厳しく禁じている。 (2) 殺しを促すディスクリミネータがほとんど見あたらない反面、 リスクが大きすぎる。殺そうとすると反撃にあうのは必至で ある。相手は自分と同じくらい強いから勝てる可能性は50% -109- 程度だし、不意打ちをして勝率を上げたとしても、負けて自 分が死んでしまう可能性は大きい。一回の食事にありつくた めにそのリスクは大きすぎるし、しかも同種の個体の肉を食 べるほどいやなことはないという事情は人間と同じだ。 このように考えると強盗殺人は人間独特の行動であることが察せ られる。 殺人によりかなり個体保存にとって価値のある物が入手でき る可能性があること。さらに人間はピストルや刃物等、様々な武器を 使うことができるため充分準備すれば反撃に合うことなしに殺せると いうことだ。同種の子どもを殺す話になると事情は全く異なる。実際 ライオンでも子殺しが行われることがあるが、 論点が逸れてしまうの でここでは省略し第三十一章と第三十二章でこのことに関連した事を 述べることにする。 殺人 殺人はディスクリミネータの異環境異常作動により引き起こされる 場合がほとんどだが希に真性異常作動により引き起こされる場合もあ る。1997年、神戸の14歳の中学生が次々と殺人事件を起こしし かも首を切り取って校門の上に置き世間を驚かせた。 これは真性異常 作動の例である。 生物には種の保存の能力を高めるため必ずばらつきがある。 そのば らつきの中心にはその環境に適した個体がいることが多い。 そしてば らつきの端には少数であるが真性異常作動や異環境異常作動を起こす ディスクリミネータを持ったものがいて環境に適応できないでいる。 マスコミで派手に騒がれてしまうので、 世の中殺人事件だらけと錯 覚してしまうかもしれないが、日本で年間殺人被害者は僅か 755 人 (1995 年)にすぎない。人口割合では僅か 0.0006%であり自殺する人 の 30 分の 1 にすぎないのであり、種の保存の能力を低める役割を果 たしているとは言えない。 むしろ大多数は一次ディスクリミネータの -110- 異常作動を二次ディスクリミネータが見事に押さえ込んでいると言う べきである。 もちろん押さえ込んで何の事件も起こさなかったら事件 として報道されないから、 新聞を見ると世の中悪い事件だらけと錯覚 してしまうだけなのである。 「犯罪者はなんだってやる」と思っている人がいるかもしれない。 しかし犯罪もディスクリミネータにより引き起こされた行動であり、 通常は種の保存の見地からそれぞれ意味を持っている。 異環境異常作 動では、それからはずれる犯罪者はいない。一次ディスクリミネータ の異常作動を抑え込むのは知性であり学習でありこれが二次ディスク リミネータである。そのために次のような工夫がなされている。 (1)徹底した教育により、殺人等のあらゆる犯罪を阻止するような ディスクリミネータをRAMに書き込む。 (2)罪を犯した場合、投獄する。これは身体を拘束し苦痛を与える ことによりRAMに罪を犯してはならないというディスクリミネータ を書き込もうとしているわけである。 人間は生まれながらにして、 沢山のディスクリミネータが書き込ま れたROMを持っている。 これは太古の時代から引き継がれた単純な もので、 コンピュータまで入ってきた現代の高度な社会にとても適応 できるものではない。 従ってきめ細かく現代社会のルールに従って行 動できるように、 RやRAMに現代にあった様々なディスクリミネー タを書き込むことになる。これが教育であり、罪に対する罰も教育的 な意味もあるわけである。 このような工夫により殺人等の犯罪は減少するのではあるが、種 はより厳しい環境変化にも耐え得るようにと、 種の中に広いばらつき を持たせているために、 これらの工夫でも押さえ切れない人達も現代 に生きなければならない。そのため犯罪は後を絶たない。これが犯罪 の起こる主な理由である。 RやRAMに書き込まれた二次ディスクリ ミネータよる制御が十分でなく、 一次ディスクリミネータを押さえ切 -111- れないわけである。 犯罪の分類 この章の結論としては、 すべての犯罪は種の保存という見地からし て何らかの意味を持っているということである。現代では、現代に 合った行動を取らせるために一定のルールを作っておりそれが法律で ある。それは前章で述べたような現代流の善悪の基準に沿ったものに なっている。そしてその法律に反したものが犯罪である。一次ディス クリミネータは仕組みが単純すぎて、いつも的確な判断を下せるとは 限らない。特に 2 つ以上のディスクリミネータが異なる判断を下すこ とがあり、そのうち間違った判断が下されたときに犯罪になることが 多い。そのようなときどちらの行動をすべきであると規定しているの が法律であり、それに反した場合が犯罪である。すべての人は同種の 個体に危害を加えてはならないという同種保護のディスクリミネータ を持っており、それが犯罪にブレーキをかけようとすることが多い。 それぞれの犯罪ごとにどのようなディスクリミネータが絡んでいるか を列挙する。 (1)強盗 自己保存ディスクリミネータと同種保護のディスクリ ミネータの競合。 (2)怨恨による殺人 恨みとは利己的人間の適応度を低めるための ディスクリミネータでありこれに誘導されて行った殺人はまさにその ような人間の適応度を低める行動。同種保護のディスクリミネータと の競合。 (3)放火 社会への報復である。報復とは互恵的利他行動を助ける ために役立つ行動である。報復の相手が適当でないために起きる。 -112- (4)強姦 性欲を押さえるディスクリミネータが性欲ディスクリ ミネータを押さえきれなかったために起きる。 生殖行動は種の保存の ための行動の中で最も重要なものの一つであるために、 性欲ディスク リミネータはどの動物でも極めて強い。 このため命を犠牲にしてまで 性欲ディスクリミネータを満たす動物は多い。交尾の後死ぬ動物や、 乳飲み子を殺し雌が交尾が可能な状態にした後交尾をするもの等その 形態は様々である。 (5)恐喝 脅しとは、相手の自己保存ディスクリミネータをナイ フを突きつけるなどしてマイナスにし、 それを消すには自分に益にな ることをしなければならないことを伝えることにより、利己的行動 (脅されている人にとっては利他的行動)を強要する。 表13.1において各犯罪が遺伝子保存または種の保存にとって益に なるか害になるかをまとめた。 犯罪が利己的な人間によって引き起こ されるとすれば、 遺伝子保存の目的の行動で種の保存に害になるもの が犯罪であると定義したいところだが、 実際はそうではなく加害者の ディスクリミネータが正、 被害者のディスクリミネータが強く負にな る場合が犯罪と定義されている。 ディスクリミネータ解放に逆行する ものが犯罪なのである。 自分の遺伝子をできるだけ多く残そうとする行動(遺伝子保存)が 利己的個体の利益のための行動であると定義したが、 実はこの定義に は大きな問題が潜んでいる。 例えば車に子どもを置いてパチンコをし ていたら、車内の温度が上がり子どもが死んでしまうという事件が 時々発生する。子どもを折檻して殺してしまう場合、あるいはトイレ で出産して、そのまま赤ん坊を捨ててしまう母親。これらは利己的で あるに違いないのだが、 「利己的個体の利益」にはなってないし遺伝 子保存にとっては害である。 ドーキンスによればこれらは利己的な行 -113- 動ではなく、子どもを献身的に世話をしたり、子どものために自分の 命さえ捧げる行為が利己的な行動なのである。 ということはドーキン スの定義した利己的という言葉の定義が、我々が日常使うものとは遠 くかけ離れたものであることがわかる。 従って利己的な行動の善悪を 議論すると単に混乱を招くだけである。 ドーキンスの本を読んで人間 は本来利己的なのだと早合点した人の大部分は利己的という言葉の定 義がすり替わっていることに気が付いていないであろう。 このことに 関しては別の機会に詳しく述べることする。 一方ディスクリミネータ の解放に逆行する行動が犯罪であると定義すれば、 このような犯罪も 問題なく説明できることを指摘しこの章を終わることにする。 表 13.1 犯罪の分類 利己的個体の利益 種の 加害者のディス 被害者のディス (遺伝子保存) 保存 クリミネータ クリミネータ 強盗殺人 利益 害 正 負 怨恨による殺人 − − 正 負 放火 − 害 正 負 盗難 利益 − 正 負 子殺し(実子) 害 害 正 負 子殺し (他人の子) − 害 正 負 -114- 第十四章 経済の原理とディスクリミネータ 共産主義の失敗 第九章でも述べたように、 人間は利他的になったために豊かになっ た。しかしもっと利他的になることができれば、もっと豊かになるこ とができる。 経済がここまで繁栄したのは人間を利他的にしたディス クリミネータのお陰だということができるし、 現在の経済の抱えてい る問題は、 ディスクリミネータが充分利他的になっていないためとい うこともできる。 マルクスの共産主義では「能力に応じて働き、必要に応じて消費す る」ことを理想とした。マルクスの指摘したとおり、現在の資本主義 経済は数々の問題を抱えている。1つの事に優れた能力を持つ者で も、 その能力を使わない職業の方が収入が多いならそちらを選んでし まうため、各自の能力を生かし切れない。また親が金持なら、子はそ れに頼ってろくに働かないこともある。 消費の面も生まれながらにし て金持と貧乏の差が大きく、 必要としているのに消費できない人がい る一方、本当は必要も無いのに湯水のように金を使う人もいる。景気 の変動も大きく、生産設備が使われないで眠ってしまうことも多い。 これらの問題の解決をめざし「能力に応じ働き、必要に応じ消費す る」という理想のもとに、ソ連、東欧諸国、中国等で共産主義経済が 試されたが成功しなかった。 その理由は人間のディスクリミネータがこの理想を実現するほど利 他的でなかったからと結論できる。 人間がこの理想を実現できるほど 利他的であったなら、 全員が人類のために自分の一生を捧げる覚悟で 働いてくれただろう。 それなら自分の能力が最も生かせるところで各 自精一杯働いたに違いない。しかし現実はそうはいかなかった。収入 が同じであるなら、自分はノルマ以上は働かないといった考えが蔓 延った。 そのため逆に恐ろしく効率の悪い社会になってしまったので -115- ある。理想社会どころか、全員に不自由な貧乏生活を強いる経済制度 になった。 マルクスは人間のディスクリミネータが太古の昔に作られ たものであり、 充分利他的になりきっていないということを理解して いなかったのである。 もちろんマルクス自身は利他的な人間であった のだろうが、 一般レベルはそこまで利他的ではないことを彼は理解で きなかったのだろう。 利己を利他に替えるシステム 一見すると現代の社会で人々はほとんど全員が社会の多くの人の ために働いており、非常に利他的な行動を行っているようにみえる。 会社で提供している財サ−ビスは、自分のためでなく、血縁関係の無 い他人のためである。労働生産性が向上し大量生産を行えば、すべて を自分の家族で使用できるわけがなく、 沢山の人のために生産するわ けである。 古代から現代に移ったとき人間は一気に利他的になったの かというとそんなことはない。ディスクリミネータは変わっていな い。 利他的行動を利己的行動にすり替えるシステムができあがってい るだけだ。 大量生産は他人のために行っているわけで明らかに利他行 動だが、多くの人はお金を得るためにそのような行動をする。お金は その後欲しい物に替えるわけだから利己的行動のためだ。 働けば働く ほどお金が多く入る。つまりより自分の利己を満足させる(ディスク リミネータをプラスにすることであって、 必ずしも子どもを残す努力 というわけではない)ことができる。つまり資本主義経済では、利他 行動をすればするほど自分の利己的な要求を満たすことができる仕組 みができあがっている。 そのために充分利他的になりきっていない人 にも、利他的な仕事をさせることができる。共産主義はこのような仕 組みが作られていなかった。 人間の行動を直接取り仕切っているのがディスクリミネータである が、それをうまく誘導しているのがお金である。貨幣制度はディスク -116- リミネータの仕組みをうまく利用している。 財サービスの価値は相手 のディスクリミネータをどれだけプラスの方向へ動かすことができる かによって決まる。 ただし価格は市場原理や生産性等も加味されて決 定される。 食べ物であれば、 それは正常作動でありディスクリミネータをプラ スにするのは明らかである。激痛を伴う病を持つ人であれば、その痛 みが和らげる薬があれば作動抑制でディスクリミネータが大きなマイ ナスから小さなマイナスに変わるから、 プラスの方向に動かしたこと になりその薬が価値を持つ。 種の保存に密接な役割を持てば持つほど 価値は高くなる。例えば癌やエイズの特効薬ができれば、そしてそれ が単に市場原理で値段がつけられれば途方もない値段がつくだろう。 生きた人の肝臓などの臓器を売買できる国がある。 その値段は極めて 高い。正常作動でディスクリミネータをプラスにしなくとも、空作動 でプラスにする場合も同様に価値を持つ。 例えば種の保存に密接にか かわる性欲のディスクリミネータだと、 その空作動でも大きくプラス となり風俗産業が栄えるわけである。 財・サービスの価値 大ざっぱな話、リンゴ1個の価値はそれを食べる人のディスクリミ ネータをどれだけプラスにするかによって決まる。 人気歌手が一回歌 を歌いそれがCDとして 100 万枚販売されたとすると、100 万人の ディスクリミネータをプラスにしたのであるから、単純計算で100万 倍の価値を持つ。もちろんCDの生産コスト、流通コスト、宣伝費、 ライバル会社との競争等様々な要素も加味しなければならないであろ うが、基本的には 財・サービスの価値=[他人のディスクリミネータをどれだけ大き くプラスにしたか]×[プラスにした人数] -117- により価値が決まる。 このようにディスクリミネータの変動をうまく 貨幣価値に置き換えることができたからこそ人間の行動をうまく経済 活動が機能するように向けることができたのである。 おおまかに言え ば人がお金を得るために行動すれば、 ディスクリミネータはプラスに なり、種の保存は達せされる。どれだけ利他を行ったかに比例して利 己が満足されるシステムになっていると言うこともできる。 もちろん人間は充分利他的になりきっていないから例外が発生する 可能性はある。例えば強盗殺人である。お金を得るために人を殺す。 これが頻繁に横行するようになれば、 貨幣制度は種の保存にとって有 害なものとなる。しかしながら1年間に殺人事件で死ぬ人の総人口に 対する割合は僅か0.0006%にすぎないし、 強盗殺人に限ればもっと少 ない。 他人のディスクリミネータをプラスに変えることなしに金や物 を取るのが、窃盗・詐欺・横領・偽造等であるが、これらを合計して も年間 150 万件程度であり、総人口のうち僅か 1%余りの人が 1 年に 1 回だけ犯す勘定になり、年間の商取引の件数の 1 万分の 1 程度であ り、 貨幣制度がディスクリミネータとマッチしてうまく機能している ことを示している。 これがゆとりの生活を生み出す原動力になってい る。 もちろんこれは利己的な行動を押さえる法律等の制度がうまく機 能したことと、 ゆとりの時代に法律に反した行動を敢えてとらなくて も充分自分の欲しいものが手に入るようになったことが関係してい る。物が足りない時代から比べれば随分犯罪は減った。しかし犯罪を 減らす為に人間は非常に高い対価を払っているといえる。 それでは利 他的な人間だけが棲む理想郷とはどんな世界かを考えてみよう。 -118- 第十五章 利他的な人間だけの社会とは 利他的社会の効率 我々は利他的になるよう学校で教わる。実際自分の給料なんてい くらでもよいから、 社会の役に立つことをやりたいと考えている模範 的な人はいる。もしも世の中そのような利他的な人ばかりなら、どの ような社会になるか考えてみよう。 これを利他的社会とよぶことにす る。 これは人間全員がすべて種の保存のために行動した場合どうなる かということであり、 群淘汰が予言する人間社会とも言うことができ る。 利他的な人ばかりだから泥棒も詐欺師もいないから家にも車にも 鍵は不要だ。犯罪が無ければ警官もいらない。争いごとが無いから裁 判所も弁護士も不要である。利他的社会ではお金さえも廃止して良 い。全員が国家公務員となり国から一定額の給料をもらう。ゆりかご から墓場まですべて国が保証しているから保険会社も一切不要であ る。持たなければならぬのは一枚のカ−ドだけ。1ヶ月にこのくらい 使いなさいと言われている。 労働生産性の向上で使える額はずっと増 え、労働時間はずっと減る。事実上無制限に使えるのだが、利他的な 人ばかりなので無茶な使い方をせず、 平均すれば言われたとおりの額 を消費する。店に行ってもレジはない。バ−コ−ドリーダーを使って いくら使ったかを自分で計算し自分のカ−ドに記録するだけでよい。 盗難は考えられない世界である。 給料をもらう際に税金は自動的に引 かれるから税金は新たに納める必要が無く税務署も税理士もいらな い。 このような世界では、労働の生産性は飛躍的に向上する。例えば 流通部門である。消費者が必要としているものを、届けるだけでよい のである。現状では卸を含む複雑な流通経路があり、しかも販売促進 で沢山の人が営業活動に参加し広告に多額の費用がかかる。 気の遠く -119- なるような無駄があふれている。 これが単に届けるだけでしかも流通 のすべての商品に対して全国一括管理が可能だから、 流通コストは10 分の 1 以下になる可能性が高い。 開発部門でも飛躍的に能率が向上する。今は各企業が秘密裏に同 じような研究開発を並行して行い、 特許で固めるといったやりかたで ある。利他的社会では社内秘密は一切必要ない。情報公開された学問 の世界に似ている。 例えばあるコンピュ−タプログラムを会社で開発 すると自動的に一般公開され、 誰でも自由に使ってもよいし改ざんし てもよい。ただし使った場合引用しておく。そして一応使用料という 形で会社間で料金の支払いが行われるのは、現在の社会と同じであ る。 違うのは会社の業績と社員の受け取る給料とが切り離されている ということである。 社員は給料のためでなく社会に貢献するために働 くのであるから、 会社の業績が給料に関係しないからといって手抜き は無いのである。各社が協力し合うことにより開発コストは激減す る。 適材適所に人材を登用する仕組みができるのでさらに効率が上が る。現実は競争させる仕組みを作らないと真面目に働かないが、そう すると同じような製品を幾つも作ることになり無駄が多い。 理想社会 ではそれが必要でなく、 最良の製品を最良の効率で開発できるのであ る。 製品の製造コストも激減するのは間違いない。何社かが競い合っ ていれば無駄が多い。 滅多に使わないものであれ同じような機械を各 社購入するといった無駄は全国の企業が一体となれば消滅する。 戦前 の財閥のようなもので、小さな会社より明らかに能率がよい。財閥は 自己の利益のため、独占が進むと競争が無くなり進歩が止まるが、利 他的社会においては、利他的人間にはそのような弊害はない。 農業も大規模化し機械化が進み労働生産性は飛躍的に向上する。 余剰労働力は品種改良の研究や、 他の職業へと移ることで問題は発生 しない。 -120- 例えば環境破壊や資源の枯渇などの問題が起きたとき、現実社会 では対応が極めて難しい。 利潤を拡大しようとすると環境に悪い方向 に向かうことが多いからである。 また自分の子どもを育てたいという 願望を捨てきれず人口爆発は止まらない。理想社会なら、人類の利益 のために全員が行動するのだから、 環境を守るという目標が定まれば 機敏に方向転換が可能である。 快適な環境を確保するために全員が動 き出せば環境問題など瞬く間に解決する。 自分の子どもを育てたいと いう願望も、節度をもって満たすことにより、人類の将来を救うこと ができる。 お金は利他的社会においては、貨幣・紙幣としては消滅する。し かし数字だけは残る。各個人にとってはどの位消費しているかと、そ の人がどの位社会に貢献しているかの目安となる。 各企業にとっては 企業活動が健全かどうかを表す指標となり、 それに基づき効率の悪い 企業にストップをかけ、 効率の良い企業に多額の出資をして企業規模 を拡大する。ストップをかけられた企業は倒産ということになるが、 その従業員の給料は保証されているから生活に困るわけではない。 そ して解雇された人達は次の職場を冷静に捜すだけである。 どこの会社 がどのような人材を求めているかを簡単に知ることができ、 次の職場 に移るのも容易である。 給料が保証されているからもう働かなくても よいと考えるような利己的な人はいない。 給料の支払いは一生の間続けられるから、老後の心配はいらない。 医療保護も無制限に受けられる。 しかしどれだけの医療保護を受けた かは本人に解るようになっており、 高額すぎる場合は各自自粛しもっ と安い方法に切り替える。 全員が利益を求めて行動しているのではなく、人類全体の利益の ために行動しているのだから経済は決して混乱しないし、 パニックに 陥る恐れもない。お金が余ればインフレ、足りなければデフレになる が、利他的社会では、全国民の給料は政府が一括管理しているわけだ -121- から、 インフレにもデフレにもならないように調整するのは簡単であ る。単に生産力に合わせて調整すればよく、国民全体が生産力アップ に努力するわけだから、 はるかに短い労働ではるかに高い給料がもら えることは間違いない。 例えば誰かがマイホームを買おうとする。無制限供給の利他的社 会では彼は銀行に行って住宅ローンの交渉をする必要はない。 自分の カード一枚持っていけば原則的にどんな家でもすぐに買える。 しかし 彼は自分にはどのような家がふさわしいかを自分で考える。 自分の能 力からしてどれだけ人類に貢献できるか、 それをお金の価値に換算し てどれだけであるかは給料の形で知らされている。 そしてその場合ど の位の値段の家を買うべきか、 あるいは建てるべきかという見積もり を政府からもらっている。それはあくまで参考である。その家庭の事 情によりその見積もりより高い家を買う場合もあればそれより安い家 を買う場合もある。平均するとその見積もりに近くなる。だから政府 も見積もりを出しやすく予算を組みやすい。 それ以外の物の買い物に ついては自分の現在までの労働の価値と、 現在までの出費を照らし合 わせながら自主的に自分の出費額を決める。 あくまで必要に応じて消 費するのが原則なので特別の場合の上限は特にない。 人類が助け合っ て生きるという意味はここにある。 子ども、老人、障害者、病人等働けない人々にも少ないながらも 給料は支払われる。実質的にいくら使ってもよい。無駄を省いて生産 性を上げるのだから、 余裕でこれらの人々への給料の支払いが可能と なる。 住宅の問題で政府は住宅局をつくる。そこに国民の中で住宅に不 満を持つ人全員がどのような住宅に移りたいという希望を出す。 住宅 局はコンピュータ処理する。A町に住んでいるが、B町に転居したい 人がいて、その逆の人もいたとすれば単に交換させればよい。あるい はもっと大きな家に住みたい人もいるだろう。 そのようなデータを集 -122- 計し、 それらの希望を最大限応じられるような住宅建設を行えばよい のである。ただし環境問題、美観の問題等総合的に計画を立てるのは もちろんである。 空港、道路、橋、鉄道、上下水道等公共の事業の推進も極めてス ムーズである。 成田空港のように三十年以上も地主を説得してまだ立 ち退きに応じてもらえないという不能率な状況は考えられない。 全員 が人類のために行動するのだから、 空港建設も理想的な場所に理想的 な広さの場所が確保でき説得は必要ない。 充分な補償がなされるから 全員が喜んで立ち退きに応ずる。 このようにして膨大な無駄な努力を 節約できることがわかる。 全世界の人が人類のために一生を捧げようと考えているから、戦 争はありえないから軍事力を持つ必要がない。 環境問題に取り組む余 力がでるから、資源循環型社会の構築も容易である。 次に利他的社会の問題点を検討してみよう。 [1]全員が国家公務員ならマイクロソフトのビル・ゲイツような 人の才能を潰してしまわないか。 確かに国家公務員としてカ−ドをもらいそれで買い物をする のだが、自分のソフトが沢山の人に使われると、その度に引 用されその使用料が計算される。彼はその数字を見て、自分 が社会に役に立っていることを知る。 そしてその数字を見て 自分の作ったマイクロソフトという会社をどんどん拡大する とよいことに気づきその後の経過は現在のものと似ている。 つまり彼の才能を潰すことにはならない。 [2]労働生産性が飛躍的に高くなると大量の失業者がでるのではな いか。 2種類の対応がある。 第1の対応は一人当たりの労働時間を 短縮すること。第2の対応はサ−ビス業、福祉、研究開発等 -123- にもっと多くの人を投入することである。 おそらく両方併用 するのがよい。 若干話が主題から逸れてしまったけれど、 この章で言いたかったの はなぜ利他的な人が現代において模範とされるのかということであ る。 人間がもっと利他的になることができたら現在よりはるかに快適 な社会が約束されているということが背景にあるのである。 -124- 第十六章 人間を神聖化する思想 なぜ人間は神聖なのか 種の保存と宗教とはどのように関係しているのだろうか。 我々は人 間のすべての行動が何らかの形で種の保存と関係していると主張して いるのだから、もちろん宗教も同様である。宗教に関しては次章で述 べることにし、 この章では人間を神聖化する思想の意味について述べ る。 人間は宗教により人間の存在を絶対化し、 「他の種は殺して良いの に人間という種のみは守らなければならない」 ということに対し理論 武装をしているのである。人間は考える動物である。しかしすべての 事柄を自由に考えられるわけではない。 全く自由なら人類を滅ぼす計 画を立てることも自由であるからである。 実際はディスクリミネータ により我々の思考は厳しく制限されている。 ディスクリミネータがマ イナスになるような考えを持つことは許されない。 逆にディスクリミ ネータが正になるような考えはどんどん湧きでてくる。 ディスクリミ ネータによって我々の思考が強烈に縛られている証拠である。 その結 果は人間を絶対化し神聖化する思想の出現である。 この思想によれば「人間は神様により造られた崇高な生物である。 人間の住む地球は世界の中心であり、 月や太陽がその回りを回ってい る」のであった。一方科学は実験観察を基にするために、人間のディ スクリミネータとは一線を画す。 その結果ディスクリミネータによっ て歪められた人間の思想と衝突することとなった。 人間の住む地球が 世界の中心という思想に対しガリレオ・ガリレイは地球が太陽の回り を回っていると反論したために厳しい批判をあびた。 ガリレオの考え を聞いた周りの人のディスクリミネータは一斉にマイナスになったの である。 「人間は絶対的な生物でない」という思想は「他の生物は殺 しても良いが人間だけは特別で守らなければならない」 という根拠を -125- 危うくすると本能的に感じ種の保存の脅威とみなした。 これがディス クリミネータの判断である。 つまり理論武装が崩れると危ぶんだわけ だ。 しかし宇宙に飛び出すことができる現代では地動説を受け入れざ るをえなくなった。 同様な理由でダーウィンの進化論も厳しい批判をあびた。 人類がサ ルから進化したとすれば人間を絶対化し守らなければならない理由は 何か。 ダーウィンを囲む人のディスクリミネータはマイナスになった に違いない。ダーウィンを批判する人は「あなたのご先祖はサルだと いうことですが、それはおじいさんの側ですか、それともおばあさん の側ですか。 」とダーウィンに言ったという。しかし進化論を支持す る沢山の科学的な証拠があり、人は進化論も受け入れざるをえなく なった。 結論から言うと人間はディスクリミネータが極めて強くマイナス値 を示すような事柄に関しては、 思考にストップがかけられ人間の神聖 化の思想へと流れ去れて行ってしまうのである。 「神の怒りに触れる」 ような事は何人も考えてはならぬというわけである。 地動説や進化論 は人間を神聖化する目的にそぐわないということであった。 ディスク リミネータは「人間という種の保存はなぜ必要なのか」というような 疑いを持つことを強く禁止していた。もちろんそれはディスクリミ ネータが作られた目的であるのだからその禁止はもっともなのであ る。その反面、人間の神聖化とそれに関連した思想のおかげでそれに 関係した科学の発達は阻害されたのは間違いない。一方、科学は種の 保存を確実にするためには多大の貢献をしている。 医学の発展のおか げで平均寿命も大きく伸びた。食糧等も豊富になった。このように科 学の発達した今日でも「人間の神聖化」というベールは人間の行動を 科学的に分析しようというあらゆる試みを阻害している。 そしてディ スクリミネータにより歪められた人間の思想の多くが倫理学、 哲学等 に強く反映されている。 -126- 第十七章 宗教とは何か 宗教を必要とするとき 宗教は国により時代により様々である。現代に話を限定しても、西 洋のようにキリスト教が日常生活に深く根ざしている場合もあれば、 日本のように特定の人々、 あるいは特定の儀式のみに宗教が利用され ている場合もある。 ここでは現代の日本における宗教に話を限定する ことにしよう。 すでに前章にて宗教は人間を神聖化・絶対化し、人間という種の みを守るということに対する理論武装をするのに一役買ったことを述 べた。これ以外にも宗教は様々な意味を持っている。例えばある人が 病気にかかってなかなか治らなかったとする。 ディスクリミネータは マイナスになり、 その人はどうやって治すかということばかり考える ようになる。現代医学で簡単に治る病気なら問題にならないが、そう でないときは藁をもすがる気持ちで宗教にすがるようになる。 病は気 からということもあり、 宗教家にこうすれば治ると言われると一種の 暗示にかかる。それでも治らない人もいるが、一定の確率で治ること もある。そういったことが入信のきっかけになる。いったんそうなる と、その次からその宗教家の言いなりになってしまう。一種の催眠状 態である。 つまりディスクリミネータがマイナスになると、なんとかそれを 消そうと自分で試みるが自分自身ではそれが不可能であると知る。 し かしディスクリミネータは何らかの行動を起こすよう命令する。 そこ で自分が信頼できる人(例えば教祖)に対し自分のRAMにディスク リミネータを自由に書き込むことを許す。 どの範囲まで書き込みを許 すかは状況により大きく異なる。カルトなどになると、ほとんどすべ ての事に関しRAMへの書き込みを許してしまうために、 あたかも教 祖のロボットにでもなったようになる。 -127- これは自分ではどうして良いか解らなくなるタイプの人であり、 自 分の代わりに決断してくれる人(ここでは宗教)を求めたわけであ る。自分で考えて行動するのでなく、他人の言うことに従う傾向は多 かれ少なかれ誰にでもある。 これが人間社会の秩序を維持するのに重 要な役割を果たしている。 「銀行にお金を預けて良いのか」 「道路交通 法に従わねばならぬのか」 「レストランで食事をしても安全か」等い ちいち考えていたら生活などできない。 我々は非常に多くの事を他人 に言われるまま無条件に受け入れる。 そして考えることはごく限られ た範囲に絞る。 考えて行動する範囲は結構広い人もいれば非常に狭い 人もいて、個人差が大きい。宗教を信じる人は自分で考え決断する範 囲が狭い人で他人に判断をまかせたい人だ。 ある場合自分で他人を論 破するだけの自信が無いので仕方なく神様の力を借りて持論を押し通 そうとする場合もある。 「神様のお告げです」と言ってしまえば誰も 反論できないので自分の意見を押し付けるのに最適である。 自分の娘 が、結婚したいといって男を連れてきた。しかしその男が気に入らな い。しかし理由をあげて娘を説得する自信が無い。彼は「神様のお告 げがありました。その男と結婚してはなりません。彼は40歳で死ぬ そうです。 」という。これなら反論の余地はない。神様のお告げを連 発すれば、 普通ならとても通らない無理な主張でも受け入れられる可 能性が出てくるし、 やり方によっては教祖が信者にとてつもない大金 をお布施として収めさせることができる。 カルトという宗教は集団自殺をしたり、 集団で殺人に加担したりす ることもある。カルトの場合信者はほとんど教祖のロボット同然で、 教祖に自殺指向があれば集団自殺をするし、 大量殺人指向があれば集 団で大量殺人に加担したりする。 カルトは自分で考えず誰かに従いた いという指向の強い人達の集まりである。 人が集団生活をするとき各自ばらばらならば、 集団もまとまって行 動することができなくなる。そのような時、ある指導者がいてその指 -128- 導者に他のメンバーが従ってくれるなら大きな仕事をすることができ る。戦争のときは特に重要であり、団体行動において一定の役割を果 たすといえる。 こういった人間の性質を利用してできたのが宗教とい える。この国は神の国だから必ず戦争に勝つと言っておけば、命を賭 けて戦ってくれる。 宗教と儀式 結婚式や葬式のように種の保存にとっての重要な出来事の際に宗教 が利用されることも多い。結婚に関して言えば、一度カップルを組ん だら簡単に離れては困るわけである。ここで神様が登場し、別れては いけません、二人で仲良く子供を育てなさいと命令する。それは誰が 言うより神様が言った方が効果がある。 なぜなら少なくとも表向きは 神の命令は絶対であり、 決して疑うことが許されないとされているか らである。 誰かが死んだ場合、一応家族、親戚、知人はその死者の前で悲しん で見せねばならぬことになっている。 本心は早く死んで欲しかったと 思っていた人もいるだろうがそれは社会のルールだ。 誰かが死んだと きなぜ人は悲しむのだろうか。 死は種の保存にとって好ましくないこ とであるのだからディスクリミネータはマイナスになる。 しかし死を 悲しまないときもある。 寝たきりの親の長年にわたる看病に疲れてい た場合、表情には表さないが内心ほっとするだろう。生命保険に入れ て殺す人にとっては喜びだ。 入り乱れての戦いの続く戦場で敵の兵士 を殺しても悲しむことはない。 悲しみとはディスクリミネータのマイ ナスであり、 種の保存にとってマイナスが大きいほど悲しみは大きく なる。 種の保存にとっての最大のマイナスは親が子供を失うことであり、 悲しみは最大になる。 逆に家に老人がいるために思うように仕事が出 来なかったりする場合や、遺産相続を早くしたいと思っている場合 -129- 等、ディスクリミネータはプラスとマイナスが入り乱れる。しかしな がら誰かが死んだ場合表向きには悲しむ者と喜ぶ者がいてはならない のである。どんな場合でも、人の死を喜ぶ者がいてはならない。万一 それを容認すれば、殺人を容認することに匹敵し、ぶっそうな世の中 になってしまう。そこで宗教が登場する。誰かが死んだ場合、有無を 言わせずその死を弔わせる。 その儀式が葬式であり神による儀式が最 適である。そしてこれは殺人を防ぐ人間の知恵なのである。 -130- 第十八章 性欲について 性解放とディスクリミネータ解放 性欲は生殖行動を誘発するのであり、 種の保存にとって非常に重要 であるが故にそのディスクリミネータも極めて強い。 例えば男性の9 9%までが女性性器を見て興奮する。 男女を問わずほとんどすべての 人間が強い性欲をもつと言ってよい。 これは一次ディスクリミネータ である。 それにもかかわらず所かまわず性行為が行われているわけで はない。 二次ディスクリミネータがこの強大な性欲を制御しているの だ。 抑えなければならない理由は 「子供ができた場合育てられるという はっきりとした見通しが立たない限り子供は作ってはならない」 とい う考えがあるからだ。人間の子供が未熟のまま生まれ、しかも一人立 ちできるまで育て教育するのに時間がかかるということも、 両親が不 明確な子供を避けようとする原因となっている。 財産相続や養育義務 の問題もあり、どれが誰の子かを確認しようとする傾向もある。ただ しこれはRAMに性欲抑制ディスクリミネータが書き込まれただけで あり時代や場所が変わればガラリと変わる。 実際アフリカの中には乱 交が行われている地域もあり、エイズの拡散を止めようがないとい う。性のモラルが将来も現状通り継続されるという保証はない。 食料が十分でなく家で食べるものを賄うのがやっとという封建制度 の時代、妻が家を出て生活するのはとても無理という状況では二次 ディスクリミネータによる押さえ込みの力は極めて大きかったが、 女 性一人でもなんとか子供を養える今日、 二次ディスクリミネータの押 さえ込む力は比べ物にならないほど小さくなり、 それが性解放へと向 かって行くのであり、これはディスクリミネータの解放の一つであ る。 その流れが解らない一部の人々は性道徳の乱れを嘆き元の性道徳 を取り戻そうと無駄な努力をする。 老人の口から決まってでてくるの -131- が「近ごろの若者は」で始まる嘆きの言葉だ。老人たちの若かった頃 と現在では食糧事情がはるかに改善し二次ディスクリミネータがそれ ほど押さえ込まなくても良くなったことが背景にあることなど及びも つかないだろう。 老人達は若いときに教え込まれた性道徳が絶対的に正しいと思って いる。 その時代に正しくても現代は事情が違っているということが理 解できない。 ましてやどの程度の食糧事情にはどの種類の性道徳が適 当だなどとは教えられているのではない。 彼らが教えられた性道徳は ただ一つでありそれがどの時代でも適用すると信じて疑わない。 若者 はまた別の性道徳を持つ。若者から見れば老人達の考えは「古い」の であり、老人から見れば若者の性は乱れているのである。現代のよう に急激に社会が変化をしつつある時代は道徳も、 善悪の基準も大きく 変わる。老人達には退廃的と思われるかもしれないが、結婚する前に 妊娠しようが、同棲しようが、婚前旅行だろうが、若者にとって抵抗 は無くなってしまう。離婚もどんどん増え続ける。昔のように我慢し てまでいやな相手と同居を続けることは無いのだ。 昔なら離婚される と行く場所が無かったが現代は離婚しても女性は一人で暮らせる。 今後を言うなら性の解放は果てしなく続くのは明らかだ。 食うに困 るということはあり得ない社会になってくるのである。 生産性は向上 を続け機械が大量生産をするために、 人はあくせく働かなくても生活 できるようになる。 どのような形で子供が生まれようともちゃんと育 てられる環境が整ってくる。そこで本当に結婚して、お互いを束縛す る必要があるかを疑い始めるようになってくる。 実際未婚の母による 出産は増える傾向にある。 大きな流れとして二次ディスクリミネータによる抑制がだんだん緩 やかになってきて一次ディスクリミネータによる行動の誘発をできる だけ自然に受け入れようということだ。ディスクリミネータ解放に 添ったこの流れだが、性に関して 20 ∼ 30 年前から比べてもこの傾向 -132- は明らかだ。 性行為を意味するエッチという言葉を若い女性ですらた めらう事なく使うようになった。 婚前交渉が当たり前になり初夜とい う言葉が余り意味をなさなくなった。 ディスクリミネータをプラスに する手段として性欲をより積極的に利用するようになった。 もちろん 空作動が多いのだが・・・。性を自由奔放に楽しもうとする人達と、 それを制限しようとする人達の対立は永遠に続くのだが前者がじわじ わ勢いをつけ後者は後退を続ける。 離婚とディスクリミネータ解放 近年各国で離婚が増大している。 見知らぬ者同士が結婚生活を始め る。生まれ育った環境がまるで違う二人である。成長の過程で様々な ディスクリミネータがRに書き込まれる。 これは一度書かれると書き 換えが不可能なのである。 二人のRに書き込まれた内容が余りに違い 過ぎると、 共同生活を行ううちにディスクリミネータが強くマイナス になることがある。 RAMに書き込まれた内容なら二人が合わすよう に書き換えることはできるがRにあるディスクリミネータでは無理で ある。昔はそれでも我慢して結婚生活を維持していた。妻は離婚して も帰るところが無かったのである。現代はゆとりの時代で、離婚して も何とかなるようになった。 それなら強いディスクリミネータのマイ ナスを解消するために離婚すればよいということになった。これは ディスクリミネータの作動抑止であり、 ディスクリミネータ解放の流 れの一つなのである。ただし離婚が増加している日本に対し、アメリ カは離婚率が日本よりはるかに高いのだが、 離婚率自身は逆に減少し ている。 これは結婚せずに子どもを生んで育てる傾向が強まった結果 であり、婚外子出生率の増加がそれを示している。結婚という自分を 束縛する制度からの解放という意味でやはりディスクリミネータ解放 である。 離婚のお陰で自分の子が死ぬのなら離婚しないで我慢するだ ろうが、自分の子を多少肩身の狭い思いをさせるだけですむなら、自 -133- 分が結婚生活をし続ける事からくる苦しみから逃れたってよいだろ う。しかも子どもに与える悪影響はだんだん少なくなりつつある。そ れが離婚が日本で増加する理由だ。アメリカはその段階は通り越し た。離婚はどこにもある。自分はその苦しみはいやだ。子どもは結婚 しなくても生んで育てることができるのだ。 それで良いのではないか と考えて結婚せずに子どもを生む人が増える。 性欲ディスクリミネータの空作動 男性と女性でセックスに対する態度が大きく異なる。 面識のない美 女にセックスを求められた場合、それに応じる男性は多い。しかし面 識のない美男子にセックスを求められた場合に、 それに応じる女性は 少ない。もちろんこれはセックスの後、女性には妊娠の危険があるた めだ。 その結果性欲抑制の二次ディスクリミネータは男性より女性の 方がはるかに強いものになっている。 例えば性欲ディスクリミネータ の空作動を利用した娯楽である、風俗産業、ポルノ等は主に男性用と して広まっている。実際は女性も楽しみたいと思っているが、下手に 性を楽しもうとすると性行為を求めていると勘違いされ周りの男性を 刺激してしまう。それをうまく逃れたのがテレクラ等の商法だ。電話 回線を通じてのセックスなら妊娠の恐れはない。 一方妊娠の危険を顧みず、多数の男性と性交渉を持つ女性がいる。 性欲抑制のディスクリミネータや性病への警戒のディスクリミネータ 等が弱い女性たちである。 妊娠しても中絶すればよいという考えが性 欲抑制ディスクリミネータを弱くする。 このような女性達の目的を知 る手段として次のデータを参考にしよう。1997 年に「補導・保護した 女子の性の逸脱行為の動機別状況」を平成十年警察白書から引用する。 補導された女子の総数は 9402 人でこの動機としては 遊ぶ金が欲 しくて…47.0% 興味(好奇心)から…27.7% 特定の男性が好きで …10% セックスが好きで…3.6% その他…11.7% -134- これを見ると金目的と性欲ディスクリミネータの空作動を目的とする ものがほぼ半数づつということがわかる。 こういった数字はディスク リミネータの大きさを調べるのに役立つ。 このように多数の男性とセックスができる女性達でも剥げのオヤジ とはセックスしたくないという人が多い。その理由は剥げていれば、 すでに老化しているのだから一緒に子供を育てていけないとディスク リミネータが判断(第八章参照)するからだ。もちろん女性達はセッ クスをする男性達と一緒に子供を育てようなどとは全く考えていない というだろう。 これは第八章で述べたようにその女性達の判断ではな く、ディスクリミネータの判断なのだ。 多数の女性と関係を持つ男性達が相手として選ぶ女性の条件はもっ と厳しい。女性が許せる相手の男性の年齢は 35 歳までとか 40 歳まで とかである。何歳でも気にしない人もいる。しかし男性がセックス相 手として選ぶ女性の年齢ははるかに低い。20歳前半までとか、中には 法律に抵触して中学・高校生と関係し逮捕されることすらある。これ もディスクリミネータの判断である。太古の時代においては、女性に とってセックスの相手が余り高齢であると妊娠できない事が多いし、 子供が育つまで世話をしてもらえないと困るわけだが、 そんなに若く なくても良かった。 男性がセックスの相手とする女性は若くて健康で なければ子供が育てられないのは明らかだ。出産・育児は重労働なの だから。 このような事情から男性の性欲ディスクリミネータは若い健 康な女性を求め、 女性の性欲ディスクリミネータはそれほど若い男性 に固執しないことになっている。 ディスクリミネータの判断にはこの ような事情があるのである。 もちろんセックス相手を求める本人達は 全くその事情は理解していない。 ここでもう一度利己的遺伝子説との関係を述べてみる。利己的遺 伝子説が正しければ、人間は(動物と同様に)一人でも多く自分の遺 伝子を持つ子どもを残そうとするはずだ。 つまり多く子どもを残す人 -135- 間の遺伝子はどんどん広まるはずだという考えだ。 しかしそんなディ スクリミネータは存在しないことは明らかだ。 一人の女性が一生の間 に生む子どもの数(合計特殊出生率)は現在の日本では約 1.4 にまで 下がっている。人間には性欲ディスクリミネータと子育てのための ディスクリミネータは存在する。 しかし少なくとも現代人は自分の子 を一人でも多く残そうとしていない。 子どもの数が減少する理由 我々のディスクリミネータがどのようにして作られたかを考える には太古の時代に遡る必要がある。 性欲の強い人の遺伝子と弱い人の 遺伝子ではどちらが進化的に有利だろうか。 単純思考では強い人の方 が有利のように思える。 なぜならどんどん性行為を行いどんどん子ど もが生まれるだろうからである。 同様に妊娠しやすい女性も子どもを 多く残すのでどんどん増えてもよさそうなものである。 しかし生きていくのがやっとという太古の時代である。そんなに 沢山生んだら全員を育てられるわけがないのである。 現代なら避妊を するが、当時なら当然の事として余分な子どもを殺しただろう。つま り性欲が強くても弱くても、 あるいは少々妊娠しやすくてもそうでな くても、必ずしも進化的に有利とは言えないのである。余り知られて いないが子殺しはごく最近まで世界各地で行われていた。 子殺しは種 の保存に反する行動だと言う動物学者がいる。 中絶は世界中で当たり 前のように行われている。これも事実上の子殺しだ。どこの世界でも 親の都合で平然と子殺しを行う。 種の保存から見れば家族計画の一環 だ。お腹の中で殺すのも、外で殺すのも種の保存ということだけを考 えれば大差はない。殺す理由も様々だ。どういう目的であっても、つ まりどのディスクリミネータに命令されたところで、 種の保存に害に なるような殺し方をしないならば、 その種の絶滅の原因になることは ないのだ。 つまり子殺しがすぐに種の保存を無視した行動と考えるべ -136- きではない。 結論から言うと多産であることが進化的に有利とは言えない。 むし ろ食糧を多く確保できるという特技を持っていた方がよほど子どもを 多く残せただろう。 今から10万年から15万年前に我々の種が初め て出現したとき、ヒト科は、霊長類の系譜のなかまでまだごく少数派 の枝葉にすぎなかった。霊長類の中には、数千万匹を越えるものもい たが、初期のヒトはせいぜい500万から800万人というところだった。 自然の資源をより集約的に開発する方法を知って食糧が豊富になり1 万年前には 1000 万人に達したのではないかと思われる。つまりどれ だけ子どもを残せるかは、 どれだけ食糧が確保できるかで決まったと 言っても過言ではない。その後 1 万年間で人口が 500 倍になり現在に 至ったのだが、沢山子どもを生んだという感覚ではない。1 世代が 20 年だとすると1世代あたり僅か1.25%づつ増えただけで1万年後には 500倍の人口になるのだ。そう考えると逆に現在日本女性一人が一生 の間に生む子どもの数が僅か1.4人であるということがいかに劇的な 人口減少をもたらそうとしているかが解る。 人間の種の保存を脅かし ているのは、 殺人や自殺などではなく避妊や人工中絶なのかもしれな いのだ。考えてみるがよい。マスコミでは殺人や自殺を大々的に騒 ぐ。しかし殺人で失われる人口は年間千人にも満たないし、自殺でも 2万人程度だ。 一方避妊や人工中絶により減少した子どもの数はそれ より遙かに多い。 現在の日本の出生数は人口がやっと維持できるだけ の出生数に比べても年間数十万人も少ない。 つまり常識的には種を維 持しようと思えばそれ以上の出生数が必要なのであり、 その意味で避 妊もしくは中絶によって失われた人数は年間数十万よりかなり多いと 推定され、これは死亡率がトップであるガンの年間死亡数 30 万人を 軽く越えるであろう。 しかし人口の急激な増加で環境破壊が騒がれているとき、 人口を増 やせなどと主張するつもりはない。 自殺や殺人が種の保存に害になる -137- 行動だと主張する者がいたら、 それらは避妊や人口中絶の場合の数十 分の 1 から数百分の 1 程度の影響しかないと言いたいだけである。こ こで次のような質問があるかもしれない。 このまま出生率が減少して人類は滅亡に向かうのか。 それはあり得ない。出生率を回復させるのは簡単だ。避妊や中絶を 禁止したり、 子どもを多く生んだ世帯に税の免除等の優遇策を取れば すぐに回復する。 戦後の生めよ増やせよの政策で空前のベビーブーム になったことを思い出せばよい。 日本を始め世界中の先進国で出生率が下がってきたのはなぜか考え てみよう。食糧があれば、それに見合うだけの人口になるというのが 動物一般の傾向である。 出生率の減少の原因は避妊と人工中絶にある のは明らかだ。しかし誰も若い夫婦に避妊や中絶を強制したわけでは ない。 そもそも人間には性欲ディスクリミネータと出産数抑制ディス クリミネータとがあり、そのバランスで生む子どもの数が決まる。出 産数抑制ディスクリミネータとは「子どもはうるさい」とか「子ども の世話は大変だ」と感じるディスクリミネータだ。まだ若いので当分 二人で人生を楽しもうとか、 もう子どもは充分なのでこれ以上子ども はいらないと感じディスクリミネータは子どもを生まないように命じ ていたとしても、 性欲ディスクリミネータが強すぎて我慢できずつい 子どもができてしまう。その場合でも生まれてくると、育ててしまう ことも多い。ディスクリミネータの強度はこのような「ついできてし まう子ども」 の数も考慮に入れて出産数抑制ディスクリミネータをか なり強くしてある。 ところが現在の先進国では避妊技術の向上のため、 欲しくない子は かなり確実に防げるようになった。 そのため両者のバランスが崩れた わけで異常に低い出生率になってしまったのである。一方開発途上国 においては避妊も中絶も完全ではないために、 食糧のある限り増えつ つづけるという通常の動物のパターン通りの結果になっている。 -138- 第十九章 マスコミについて マスコミがもたらしたもの 1993年、 矢が刺さったカモがいることが発見されマスコミで騒がれ 大きな同情がよせられた。誰かがカモに向けて矢を射ったのだろう が、急所を外れたため刺さったまま生き延びてしまったのである。連 日のように報道され結局捕まえて治療して放したのであるが、 この事 件からしても我々のディスクリミネータがいかに単純で現実に即した 動作をしていないかがわかる。 なぜなら我々は毎日数億匹の動物を殺 して食べているのである。その一方、国中で大騒ぎをしてたった一匹 のカモを救った。 この矛盾に満ちた行為も次のように理解できる。 現代のゆとりの時 代の裏には毎日数億匹の動物を殺さなければならぬという現実がある のだが、 それは生活の基盤となっていて誰もそれを問題にしようとし ない。いわばこれは動物虐待でなく、工場での食糧生産のラインに過 ぎないのである。一方我々は現在ゆとりの時代にある。皆が食料を分 け合い、困っている人だけでなく、困っている動物まで助けてしまお うというわけである。人間のディスクリミネータ解放だけでは不満足 で、 動物のディスクリミネータ解放まで気を配る余裕すら一部にでて きている。食糧生産ラインに乗った動物は、ここで言う動物ではなく 物として扱われていて、殺すことに反対する者はいない。それ以外の 動物は愛護すべきと考えている。なぜならゆとりの現代では、例外な くあらゆる動物に対して愛護することがディスクリミネータをプラス にするからである。ヤドカリとイソギンチャク等、多くの種で共生と いうことをする。犬や馬は人間の共生の相手としては都合が良かっ た。それだけではない。食糧が足りているときは周りの動物はできる だけ傷つけないほうが良いのだ。なぜなら将来食糧が不足してきたと きは、生かしておいた周りの動物を殺して食べれば良いのだから。こ -139- のことが「動物愛護」のディスクリミネータの意味である。 そんなことを考えて矢ガモを救おうとしたわけではないと猛反発 を受けること必至であるが、 命令記憶のROMに書き込まれている内 容の意味を我々は知らないだけである。本来「動物愛護」のディスク リミネータが作動すべき動物の対象は自分の近所にいる動物で十分 だ。マスメディアのお陰で、我々は1000kmもの彼方にいる動物の様 子さえも簡単にチェックできるようになった。 そんなに遠くの動物の 様子を気遣っても無意味ではあるのだが(古代人の感覚からすれば)。 実は矢ガモ事件は動物愛護のディスクリミネータをプラスにするた めの一つのショーであったのだ。何千万人という人のディスクリミ ネータがあの救済劇でプラスになったであろう。しかしあのカモを 救ったから、 これら何千万人という人の将来の食糧確保に貢献したか というと、貢献度はほとんどゼロであるという意味で、これはディス クリミネータの空作動と結論できる。 このように考えると矢ガモ事件 は事件の報道というより、娯楽番組に近かったといえる。古代人に とって動物愛護の意味は、 動物を可愛がり大きく育てた後で食べると いう意味もあっただろう。それは現代でも家畜を可愛がり飼育した 後、食料にしているのだから通じるものがある。 もちろん人間は動物を救うことだけに快を感ずるわけではない。 人 間を救う事に関してはさらに大きな快を感じる。 このときのディスク リミネータのプラスは極めて大きい。 危機にさらされている人間を救 うような状況はどんな時であろうか。誘拐事件が一つの例であり、こ の場合のニュースとしての扱いは非常に大きいのは人命救助の意味が あるからである。 しかし誘拐事件での死者の数は日本でのあらゆる原 因の死者の数のせいぜい百万分の1程度であるから、種の保存の見地 から考えればその意味は極めて小さい。 そういう意味で誘拐事件の報 道もディスクリミネータの空作動を起こすだけといってよい。 殺人事件の報道も多い。 こちらの場合は誘拐報道に比べればもう被 -140- 害者を救い出す方法は無い訳だから誘拐報道ほどの派手さはない。 そ れにしても年間の死者の数が僅か750名程度にしては異常に取り扱う 時間が長いのには理由がある。 古代人の頭蓋骨に矢尻が刺さっていた のが見つかっているように古代人にも殺人はあった。 その時代であれ ば、行動範囲が狭かったし入ってくる情報は近所での出来事しかな かっただろうから、それは近所で起こった殺人である。そうであれば 明日は自分が殺されるかもしれないし、 警察も裁判所も無い社会では 自分達で警官の役割を果たさなくてはならなかっただろうし、 裁きを 下さなくてはならなかっただろう。 現代はよほど運が悪くない限り殺 人で命を落とすことは無い。警察も裁判所もしっかりしているので、 それほど殺人に注意しなくてよい。 全国で起こる殺人事件のほとんど は自分が具体的に何か行動を起こさなければならないわけでは無い。 その意味で聞かされても余り意味が無い報道であるが、 ディスクリミ ネータは殺人に注意をするようにと命じている。 マスコミの報道とその影響 1986 年に起きたグリコ森永事件を考えてみよう。金を出さねばグ リコ製品に毒を入れると言い、 実際毒入りチョコレートを店頭に置い た。 この報道が過熱したために同様な事件が次々起こり多数の人が犠 牲になった。いわゆる模倣犯である。報道を最小限にしておけばこの ような犠牲者は出なかったのだ。同様な例はいくらでもある。1998年 の和歌山カレー事件ではお祭りのカレーにヒ素が混入され4人が犠牲 になった。 しかしその後の報道過熱のために次から次へと同様な事件 が起きた。 地下鉄サリン事件の後にも類似する事件が次々起き死者もでた。 こ のような例は数え切れないほどある。 最初に引き金になった事件は別 として、 それに続いて起こった一連の事件は事実上マスコミが引き起 こした事件でありマスコミにその責任がある。 倫理規定が定められて -141- いて誘発しないような配慮がなされていれば起こらなかった犯罪であ る。 グリコ森永事件の意味をもっと詳しく分析しよう。 犯人は金を要求 した。 ディスクリミネータの種類としては物欲であり古代人において は食料を確保したり生活に必要な物資を手に入れたいという欲求が現 代では金が欲しいという要求に置き換わっている。 犯人は他人を殺し てでも物欲を満たしたいと思っている。 このタイプの人間の存在意味 については第九章で述べたとおりである。 現在の環境では厄介者にさ れるが、 種全体が窮地に追い込まれたときしぶとく生き抜くタイプで ある。犯罪としてはどこにでもある典型的なものである。 マスコミの報道の意味はやじ馬とか好奇心を満たすとかというもの に近い。 人のディスクリミネータはこのような事件に興味を持つよう 命じる。 毒入りチョコレートを食べれば自分だって死ぬのだから自分 の防衛のためや、 簡単に金を手に入れる方法があるかもしれないとい うことに対する興味、 あるいは犯人逮捕に協力しようとする気持から である。 幾つかの事件の報道の例を挙げてみたが、 これらの報道が良いか悪 いかは微妙な問題である。 (1)なぜこれらの事件が大きく報道されるか。 それは太古の昔であれ ば古代人にとってこの種の情報は自らの生活に密接に関わるものであ り、ディスクリミネータがこれらの事件に関心を持つよう命ずるのは 当然である。 ほとんど同じディスクリミネータを持つ現代人でもその ような報道に興味を持つし、 人々のディスクリミネータがプラスにな れば、高視聴率となるので、放送局の収入が増えるという仕組みに なっている。しかし現代では、これらの事件は自分たちの生活圏外で 起きた出来事がほとんどであり、 本来のディスクリミネータの目的か ら大きくはずれている。そういう意味では、知らされる必要が無い情 報がほとんどである。 そういう意味でこれはディスクリミネータの空 -142- 作動である。 (2)ディスクリミネータの空作動は良いこととした。つまりこれら の事件をサスペンスドラマを見るように楽しむのであれば、 それでよ い。ただし次のような明らかな弊害がある。 模倣犯がでてくる。 犯罪のヒントを与える。 必要以上に社会不安を起こすことがある。 (3)次のようなプラスの面もある。 犯罪に対する警戒を促すことができる。 犯人逮捕を呼びかけることができる。 犯人を逮捕した後は、刑を科して見せしめをすることができる。 報道の在り方を検討するのであれば、 これらの事柄を定量化しプラ スとマイナスを加え、 適切な報道とはどのようなものかを判断するの がよい。報道がもっと重大な影響を及ぼすこともある。1994 年起き たルワンダ内戦では 3 カ月で 80 万人が虐殺されたという。その虐殺 を煽ったのがあるラジオ放送であったといわれている。 ヒットラーは マスコミをうまく利用して自分の独裁政治を遂行し、 ユダヤ大量虐殺 へと進んだのである。 現代は種の保存が余裕をもって達成できる時代 であるが、 マスコミはその報道次第では世論を一気に動かすことがで き、それによって種の保存が脅かされる可能性もある。 人の死に関しては報道されることは多いが、 自殺は殺人に比べ報道 ははるかに地味であり、滅多に記事を見ることは無い。しかし年間の 死亡者数は殺人が750 名であるのに対し、自殺者は約 30倍もの24000 人もいる。どの人の命も同じ位尊いのであれば、なぜ自殺は注目され ないのだろうか。その理由として考えられることは (1)殺人の場合、続いて次々殺人を繰り返す恐れがあり、それを防 がなければならないが自殺はそれが無い。 (2)殺人の場合、誰が次に殺されるかもしれないし、自分も殺され -143- るかもしれないという警戒心がある。 (3)自殺者の多くは、種の保存ということからはすでに役割を終え た老人が多く、死がむしろ種の保存にとって良い影響をもたらすとい う気持ちが心の奥にあることも多い。 老人の自殺が記事になりにくいというはっきりとした傾向がある。 もちろん三島由紀夫などの有名人は別格である。なぜなら彼は小説を 書くことにより多くの人のディスクリミネータをプラスにできる能力 を持つ人であり、 生き続ければさらに良い小説を書けるのにと惜しま れながら死んだから記事になったのだ。子供がいじめで自殺すれば、 大きな記事になることがあるが、 老人がいじめで自殺しても記事には ならない。 1994 年 12 月 2 日、愛知県尾西市の男子中学生がいじめで自殺した のをきっかけに一斉にマスコミがいじめ問題を集中して報じ始めた。 それをきっかけに日本中がいじめ問題を議論するようになった。それ まで見向きもされなかった小中学生の自殺も脚光を浴び始め、 同様な 自殺あるたびに大きく報道されるようになった。教育現場では誰か自 殺するのではないかと先生がびくびくするようになり、 逆に生徒の方 は自殺をほのめかしただけで、 先生は何でも自分の言いなりになると 思うようになった。 期末試験を中止しなければ自殺するという電話一 本で、学校全体の期末試験が中止するという事態にまで発展した。こ れらの報道合戦の結果いじめやその結果としての自殺は急増した。 い じめが報道されなくなるといじめも減り教育現場にも元の平和が戻っ た。 これもマスコミによって作り出された社会問題であり最初の中学 生のいじめ問題で普通の報道だけしていたら起こり得なかった。いじ め問題が報道されなくなったきっかけは、ある中学校で注意を受けた 中学生が持っていたナイフで女性教師を刺し殺すという事件であっ た。それまでいじめ問題で学校側の非難を繰り返していたマスコミ も、この事件で学校側だけを非難するわけにいかなくなり、いじめ報 -144- 道が激減、その結果学校が再び正常に戻ることとなったわけだ。日本 全国に数万もある学校の中のたった一つの学校のたった一人の生徒の 引き起こした事件で、 全学校の先生が非難の的になること事態異常だ し、その解決がたった一人の先生の死によるものである。報道関係者 が学校全体の把握を全く行っていないことを暴露するものである。 い じめ問題をあのように大々的に報道するのであれば、 (1)報道する ことによって学校側の注意を促すメリットと(2)報道によりいじめ が連鎖的に発生するディメリットを比較しどこまで報道するかを決定 すべきである。 いじめ報道の是非は議論の余地があるところだが、 我々のディスク リミネータは子供のいじめには関心を持つよう命じ、 老人のいじめに は関心を持つようには命じないことだけははっきりしている。 種の保 存から考えても当然だ。19 才以下の自殺率は 60 才以上の自殺率の 30 分の 1 しか無く、自殺する者はほとんどいないのに、たまに自殺する 子供がいると国を挙げて大騒ぎをする。 マスコミはディスクリミネータの空作動に関しても大きな役割を演 じている。 他のどんな娯楽に使う時間よりテレビを見る時間は多いだ ろう。ドラマ、アニメ、スポーツ等典型的なディスクリミネータの空 作動を利用した娯楽だ。映画、演劇、コンサート、各種芸術、旅行、 各種テーマパーク等まで含め一つひとつの意味をディスクリミネータ の見地から詳しく分析すれば逆に我々のディスクリミネータがどのよ うな構造になっているかを知ることができる。 それらのすべてがもと もと種の保存にとってどのような意味をもっていたかが分かるはずで ある。 逆にディスクリミネータの構造が定量的に理解出来るようになりコ ンピュータに入力すれば、 人に最も感動を与えるドラマのストーリー をコンピュータで探せるようになるかもしれない。 次の章では娯楽一 般について述べてみよう。 -145- 第二十章 娯楽の意味 娯楽と種の保存 それではドラマの内容がどのように種の保存の見地から理解される のであろうか。 といっても無数のストーリーがあり個々のドラマを取 り上げるのは不可能であり重要なポイントのみ触れることにする。 ホームドラマであれば、 自分の日常の行動と比較しながら日々に起 こる様々な問題に、 どう対応すればよいのかを考えることに快を感じ ている。いわば井戸端会議の延長のようなものだろう。 サスペンスドラマは殺人が入る。 人間が殺人に強い興味を持ってい ることは、殺人事件が大きく報道されることからもわかる。人は一生 のうちで食糧目的に沢山の動物を殺すのは昔も今も変わっていない。 種の保存のためには動物は殺して良いが、人は殺してはならないの だ。人が集団で生活するとき、殺人はしてはならぬという厳しい規則 を持っておかないと、 仲間同士での殺し合いがあっては種の保存はで きない。その意味でもし殺人がどこかで行われたら、ディスクリミ ネータはその事に関するあらゆる情報を集めよと命令するのは明らか だ。集団を守る意味と自分を守る意味の両方である。つまりサスペン スドラマでは誰かが殺されるといった種の保存にとって最悪の事態か ら出発し、様々な謎を解きながら、犯人を見つけるところまで持って 行く。 殺人者を牢獄へ送ることはもちろん犠牲者を再び出さないとい う意味で種の保存にはプラスである。 つまり悪い状態から良い状態に 持って行くことがディスクリミネータをプラスにする技法である。 殺人が絡まなくても「おしん」のように貧しかった人が努力によっ て裕福になる物語のように、悪い状態から良い状態に持って行くと ディスクリミネータが空作動しプラスになる。 しかしドラマは空想の世界であり空作動は悪い状態から良い状態に 変化したときとは限らない。 「失楽園」では愛し合う不倫の二人が心 -146- 中しておしまいだ。 これが実話であればディスクリミネータの異常作 動であることは間違いない。 それなのになぜディスクリミネータがプ ラスになるのだろうか。 すでに述べたように実生活においては性欲と いう一次ディスクリミネータが二次ディスクリミネータに抑えられき つく縛られた生活を送っている。 例えば隣の若くて美しい奥さんと自 分も駆け落ち出来たらなあと空想する。 一次ディスクリミネータに誘 発され様々な空想が生まれる。しかしできない。実際には空想したく ても思うようにストーリーが作れないという人もいる。 そのようなと きにドラマが役に立つ。 自分に替わってストーリーを作るのがうまい 人がドラマを作ってくれ一時的にでも夢の世界が実現するのだ。 自分 はそれを見ていればその世界に入った錯覚をし一次ディスクリミネー タの空作動ができる。 不倫の二人が直面する様々な問題を解決してい くより空想の世界ではすっきり心中を選んだ方がスマートだ。 最後に 可愛そうだなあという同情を引き起こす、 つまり利他的行動を引き起 こすディスクリミネータをプラスにしておいて終わるのがドラマの典 型的な手法となっている。 ドラマで人が死ぬ理由 ドラマにおける死は特別の意味を持っている。単なる動物の死で なく人間の死だ。ドラマには人の死が頻繁にでてくるが、動物の死が 出てくる事はほとんどない。 つまりディスクリミネータには人の死に 関連して極めて強いプラス、マイナスが点灯する。これは人の死が人 の種の保存にとって極めて重大事であることからも理解できる。 時代 劇と呼ばれる刀による殺し合い、やくざの抗争、ジェームスボンド等 必ず沢山の人々が殺される。しかし少なくとも日本では、死も象徴化 されていて刀をふりまわしたり銃を撃ったらバタバタと倒れるという ジェスチャーで死を表現しているだけであって、首を切り落とし転 がった首から血が流れ出るといった実際の殺人のシーンは避けている -147- ことが多い。 つまりそこまで現実的にしてしまうとディスクリミネー タがはっきりとマイナスを示してしまうのであり、 ここではあくまで 空想の世界なのである。 それにしてもそんなに沢山の人をなぜ殺さね ばならないのだろうか。それは次のように理解できる。我々現代の 様々なルールの下に生活している。 会社にも学校にも家庭にも沢山の 守るべきルールがある。そして様々な所でいやな事にでくわす。会社 の仲間とうまくいかないとか、いじめにあったとか、先生にいやなこ とを言われたとか、家庭内でのトラブルとか・・・。一次ディスクリ ミネータはマイナスになりそこで怒鳴りつけたくなったり、 殴り殺し てやりたいと思ったりすることもあるだろう。 銀行で札束を見ている と奪って逃げたいと思ってしまう人もいるだろう。 しかしほとんどの 人は黙ってじっと耐える。二次ディスクリミネータがそうさせるの だ。だからこそ社会が機能している。こういった状態の時ドラマを見 るとそのドラマで自分が主人公、 殺され役は実は職場の上司であった り、学校の先生だったり、いやな姑であったりする。現実の世界では あり得ないが、彼らをドラマの中で殺してしまうことがディスクリミ ネータをプラスにする方法となるのだ。 「利己的な遺伝子」 がなぜ面白いのか ドーキンスの著書「利己的な遺伝子」は世界13カ国に翻訳された 大ベストセラーになった。この種の本ではめずらしい。専門家以外の 多数の読者を魅了したに違いない。 なぜこれほどまでに人々はこの本 に強い興味を持ったのだろうか。それは現代の教育との関連が強い。 我々は学校時代利他的な人間になるように教育されている。 その理由 は第十五章で述べたように利他的になればなるほど、現代の社会は効 率よく機能するような仕組みになっているのだ。しかし我々のディス クリミネータはそれほど利他的ではない。そのために先生から利他的 であれと言われることに反感を感じてしまう人も多いのだ。 「〇〇さ -148- んを見習いなさい。 」と言われ反発した人も多いだろう。自分のディ スクリミネータに忠実に生きようとすると利己的と言われ、 軽蔑され る人間になってしまう。 ともすれば利己的になろうとする自分の気持 ちを、長い間押さえながらそして罪悪感を感じながら生きてきた。こ のような状況で「利己的な遺伝子」という本に出会うと、救われた気 持ちになる。 「なんだ。悪いのは自分だけではないんだ。人間はみん なそういうふうにできているんだ。罪悪感は感じなくていいんだ。」 と錯覚して読むのである。しかしドーキンスの定義した利己とは、こ の本を買った多くの読者の期待するものとはかなり違う。 例えば働き もせず酒ばかり飲んでいる夫が、 子どもに生命保険を掛けて殺したと しても、彼は利己的ではない。夫に死に別れ、貧乏に耐え必死に働い て子どもを育てた妻は利己的なのだ。 その他の娯楽 それではホラーものはどうだろう。 ある女子大生の寮で一人また一 人と女子大生が殺されていく。殺されるシーンでなぜディスクリミ ネータが空作動するのか。むしろマイナスになるべきではないか。遊 園地には一見すると危険に見えるが、 実は安全な恐怖の乗り物が一杯 だ。バンジージャンプもある。お化け屋敷もある。こわい思いをする のはディスクリミネータをマイナスにすることではないか。 この質問 には次のように答えることができる。 第一にこれらは何れも安全が保 証されていることを強調しよう。つまり異常作動ではない。第二にこ のような恐怖に耐えることは古代人にとって必要なことであったに違 いない。 食う食われるの食物連鎖の中の一動物として古代人は生きて いたのだ。 古代人は猛獣等の天敵に次々と殺される中で冷静さを保ち ながら生き抜く必要があったのである。 女子大生の寮での殺人事件な どのホラー映画やお化け屋敷はその再現だ。 古代人が特に恐怖を感じ たのは夜、獣に襲われたときだ。暗い中では逃げようが無い。暗闇で -149- 獣に仲間が一人また一人と襲われるというような事もあっただろう。 お化け屋敷の中はその再現なので暗くしてあり、 時々お化けに襲われ る。実はあれは獣の化身なのだ。これを耐えたときディスクリミネー タがプラスになる。 利他行動を誘発するディスクリミネータを利用したドラマは多い。 いわゆるメロドラマがそうだ。悲しい人生の物語はよく見られる。一 緒に涙を流し合う。 人間がこのディスクリミネータのおかげで利他的 になっている証拠だ。 人間以外の動物でこのようなことは起こらない だろう。 悲しいということは相手に何か悪いことが起きているから悲 しいのだから、ディスクリミネータはマイナスだ。それを見てもらい 泣きし慰めることは、相手に対する利他行動であり、良いことをして いるのだからディスクリミネータはプラスになるわけだ。 つまり一緒 に同情したり悲しんだりするのはディスクリミネータはプラスにな る。 遊園地での怖い乗り物はどうだろう。 古代人にとっては恐怖に耐え なければ生活は出来なかった。 自分が殺されるかもしれないと思いな がらも獣と戦わなければ食料は確保出来なかっただろうし、 落下覚悟 で高い木に登って木の実を取らなければならないこともあっただろう し、危険な崖を登らなければならなかったこともあっただろう。ゆと りの時代の現代では安全が保証された恐怖を楽しんでいるが、 実は古 代人にとっては安全が保障されていない恐怖を味わわなければならな かったし、それを避けては生きていけなかったし、逆にその恐怖を克 服できた喜びは大変なものであっただろう。古代においても一部の 人々は自分たちの居住地を離れ危険を覚悟で探検し、 犠牲者も多かっ ただろうがより安全で食料の豊富な楽園を発見した者もいただろう。 古代人の危険な冒険は、現代人にはもっと安全な形で引き継がれ、 ディスクリミネータに命ざれるまま南極探検や登山やヨットで太平洋 横断などを行ったりしている。 これらもディスクリミネータの空作動 -150- である。 人間が食うか食われるかという状況で生きていた頃は、 天敵と戦う ことは種の保存のために極めて重要な意味を持っていたので、 闘争本 能に対応するディスクリミネータは強烈なものであった。 今でもそれ は残っており敵と戦いたいという気持ちがある。 しかし人間には敵ら しい敵はいなくなった。 ライオンですら車に乗った人間には手も足も 出ない。殺そうと思えば窓を少し開けて銃を撃てば簡単だ。闘争の ディスクリミネータを満足させるために、 人は様々なもっと手ごわい 敵をドラマの中で登場させる。サメ、キングコング、ゴジラ、恐竜、 宇宙人等である。危機一髪のところで人間が勝つようになっていて、 そこで闘争のディスクリミネータがプラスになって物語りは終わる。 実は最も重要な戦いは、天敵よりも同種の集団であったかもしれな い。第九章で述べたように戦争は人間を大きく変えたのであるから。 スピードカーレース等も元々は速く走りたいという願望からきてい る。古代においては速く走れれば天敵から逃れることもできたし、獲 物も取れたかもしれない。 自分の足では達成できなかった願望を車と いう形で実現している。 極楽をテーマにして描いた絵は少ないが、 地獄をテーマにしたもの は多い。これも同様に逆境からの脱出に快感を感じていると思われ る。 スポーツはどうか、例えば野球。ボールを投げる。これが快感とな るのは古代の人間にとって投石は獲物獲得の一手段だったからだ。 バットを振り回す。これも快感だ。なぜならその頃はこん棒で殴り殺 して獲物を獲得することもできた時代であったからだ。 今は石を投げ たりこん棒を振り回しても、直接食糧の確保になるわけでないが、今 もその頃の名残りでディスクリミネータがプラスになる。 その他殴っ たり蹴ったり速く走ったり獲物を取るためには様々な能力が必要に なってきて、自分の能力を伸ばしたいといつも思っていただろう。そ -151- れは直接食料の確保につながり、身を守る武器になったのだから。当 然ディスクリミネータもそれらの能力を伸ばす方向でプラスとなる。 それに加えて闘争本能も利用している。 その空作動を利用したのがス ポーツの持つ意味である。 性に関するものは種の保存にとって極めて重要であるがために、 ディスクリミネータも大きなプラスになる。 そこに風俗産業なるもの が生まれる。 風俗産業に携わる女性は平均的な女性の何倍も稼ぐとい う。それだけの価値を生むということからも、一次ディスクリミネー タである性欲ディスクリミネータのプラスがいかに大きくなるか推測 できる。 原則としてディスクリミネータのプラスが大きいほど娯楽と しては優れている。 しかし性に関してはすでに述べたように性欲ディ スクリミネータだけでなく二次ディスクリミネータである性欲抑制 ディスクリミネータもあり、話は複雑になる。性欲抑制の働きをする 二次ディスクリミネータの大きい人にとっては、性欲ディスクリミ ネータをプラスにしようとしても、 性欲抑制ディスクリミネータがそ れを上回るほどのマイナスになってしまうため、 空作動でプラスにす るのは無理である。 いわゆるお堅い人は性風俗に眉をひそめるのであ り、 彼らにとってこれを娯楽に使うなどということは出来ないのであ る。 性欲ディスクリミネータはほとんどの人で極めて強力である。一 方、性欲抑制ディスクリミネータの強さは極めて個人差が大きい。か つてはこれが大きい人が世の中を支配したが、 生活にゆとりがでてき た現代では、 性欲抑制ディスクリミネータの小さい人々が性を解放す る方向に引っ張っていく。 これがディスクリミネータ解放の典型的な パターンである。 売春を含むあらゆる風俗産業なるものは、 性欲ディスクリミネータ を空作動させることを目的としたものである。 この是非をめぐり性欲 抑制ディスクリミネータの大きな人と小さな人の意見がぶつかりあ -152- う。しかし性を解放し、性欲ディスクリミネータを人為的に空作動さ せることを利用した娯楽は、 これからもどんどんエスカレートするだ ろう。性欲抑制ディスクリミネータの大きな人は「ここまで性道徳が 乱れては世も終わり」と嘆くに違いない。そのようなときにこそ、 「人 間は何のために生きているのか」 ということを冷静に客観的に考える がよい。 スポーツ、芸術、映画、風俗、演劇、パチンコ、テレビゲーム等、 ディスクリミネータの空作動を利用した娯楽は拡大の一歩をたどる。 そして何を許し何を禁止するかについて果てる事の無い議論が繰り返 されるであろう。 善悪の定義を定めることなしにそのような議論をし ても、水掛け論争に終わるだけだ。第十二章で述べた善悪の定義から 出発して考えディスクリミネータ解放の流れを理解したときのみ意味 ある議論ができる。 -153- 第二十一章 人は何のために生きるのか 空作動の重要性 身の回りの動物を見れば、どれも子孫を残し死んでいく。普通の人 はこれは種の保存だと呼ぶだろうが動物行動学者は自己の遺伝子保存 のための利己的な行動だという。 その問題に関しては第二十八章から 第三十一章でくわしく述べることにする。 人間の場合は行動の目的は種の保存や遺伝子保存などとは全く違う と考えている人も多いだろう。 長い人生の中で人はそれぞれ生き甲斐 を見つける。それが仕事であったり、子育てであったり、趣味であっ たり、人様々である。それだけ人間は種の保存に関係無い行動を取っ ているように見えるために「人は何のために生きるのか」という疑問 が沸いてくるのである。 太古の時代、人間は他の動物と同様、種の保存を行うのが精一杯で あった。 しかし現代は種の保存が機械化等による食糧の生産性の向上 もあり、余りに容易に出来てしまうようになってしまった。生活だけ ならあくせく働かなくてもできる。しかし残った膨大な時間の間も ディスクリミネータはプラスにするよう命じ続ける。 それならばディ スクリミネータを人為的にプラスに、 すなわち空作動させるしかない のである。これが生きる目的の重要な部分となりつつある。それがピ アノの演奏であったり、絵画、写真撮影、山登り、社会奉仕活動、政 治活動、研究、開発等であったり、あるいは家庭を守ることであった りする。また、お金を貯めることばかり考えていた人、競馬競輪等の 賭け事に走った人、女遊びにふけっていた人等、人様々である。一見 するとこれらは多種多様で、 人は何の目的に生きるのかという問いに 対する答は簡単に出そうにないように思われるかもしれない。しか し、 これらの行動はすべてディスクリミネータの正常作動と空作動の どちらかに分類できるのである。従って次のような結論に達する。 -154- 現代における人の生きる目的は次のどちらかの方法でディスクリミ ネータをプラスにすることである。 ①種の保存に貢献すること ・・・正常作動 ②ディスクリミネータを人為的にプラスにすること ・・・空作動 別の言葉で言えば、 人も動物もディスクリミネータのために(ディスクリミ ネータをプラスにするために)生きているのである。 家庭を持ち子どもをりっぱに育てるために生きている人に関して 言えば、種の保存への貢献は明らかであり①に分類される。古代には 種の保存に直接関連した仕事で精一杯で、 ディスクリミネータの空作 動まで手が回らなかっただろう。 しかし現代の先進国では種の保存は ほとんどの人が難無く達成してしまい、 さらにたっぷり余力を残して いるわけだから空作動に多くの時間を使うようになってくる。 次に仕事に生き甲斐を感じている人は①または②のどちらかに分 類される。 職業という観点から言えば農業・漁業・林業のような第一次産業 は、ディスクリミネータの正常作動により誘発された行動といえる。 第二次産業の製造業等は正常作動に相当する部分と空作動に相当する 部分が混ざっている。 第三次産業の中のサービス業等は主にディスク リミネータの空作動に相当する。生産性の向上により、正常作動に対 応する職業に携わる人口はどんどん減少し空作動に対応する職業に就 く人口が増加する。娯楽産業が栄える。そのためには多くの人が娯楽 を楽しむ時間を増やすことになり、 結果としては労働時間の短縮に繋 がる。ただし経済の仕組みから自分だけ楽しむ(ディスクリミネータ をプラスにする)だけの職業は成立しない。他人の為になる仕事をす ればそれだけ多くのお金をもらえる仕組みになっている。 他人のディ -155- スクリミネータを効率よくプラスにすれば良いのであり、 それが正常 作動であろうと、空作動であろうと関係ない。他人の為になる行動は 利他行動であり、お金をもらうことは利己であり、両者がうまく結ば れるような仕組みになっていることは第十四章で述べた。 しかし働く のは単にお金のためではないと言う人は多い。 それは人間が利他行動 を誘発するディスクリミネータを獲得した証拠であり、 利他的な人ほ どお金のことは忘れてでも他人のために働きたいと思う。 そのような 場合は他人の為になる仕事を行うことが生き甲斐となる。 そのような 人生を我々は美しいと感じる。それはそのような行動が、現在の人間 にとって最も種に利益になる行動だからである。反面通常の人間の ディスクリミネータはそこまで利他的でなく容易には真似ができな い。だからこそ模範とされる。 ディスクリミネータ解放の流れ 日本人は働き過ぎと言われる。残業続きの毎日で時は過ぎて行く。 何のために生きているのだろうか。 本当にそんなに働かねばならない のであろうか。我々はどのような社会を求めていけば良いのだろう か。ここで行った議論からそのような疑問に答えることができる。 我々が目指しているのはディスクリミネータの解放だ。 我々はできる だけ多くの人のディスクリミネータをプラスにしようとしている。 そ してディスクリミネータがマイナスになる人ができるだけ少なくなる ような社会をめざしている。 現在働き過ぎといわれる日本人も、かつて女工哀史に見られるよ うな悲惨な労働を強いられているわけではない。 かつては働き過ぎに より結核にかかり命を落とす場合も多かった。今はゆとりの時代だ。 社員が職場でバタバタ病気に倒れるような会社に誰も勤めない。 労働 者のディスクリミネータの解放の流れについていけない会社は淘汰さ れ、快適な職場を提供できた会社のみ生き残る。ここにも淘汰があ -156- る。労働時間は徐々に短くなる。会社や国家より個人の方が優先され ている。 かつては生産機械が満足なものでなく、長時間労働をしなければ 物資が人々に行き渡らなかった。 こういった時代には物を作れば売れ るし、物を作る設備を持っている経営者が少なかったから、使用者側 が圧倒的に強い立場にあった。劣悪な労働条件でも働く人はいた。ゆ とりの時代には物も工場も余るほどある。 それに伴って労働者の方が 会社を選ぶ時代となった。気に入らねば気軽に辞めて次の職を捜す。 というわけでゆとりの時代はどんどん個人が強くなる。 そしてディス クリミネータがプラスになりやすい快適な職場のみ労働者を集めるこ とが出来るようになる。 これもディスクリミネータ解放の流れの一つ である。 もっと以前には一部の国には奴隷制度があったわけで、それがゆ とりの時代へと移行するにつれ奴隷解放となった。 これもディスクリ ミネータの解放の大きな流れの一つである。 「人はパンのみの為に生きるのではない。」という言葉は、単に生き るだけ子供を育てるだけではむなしいではないか、 芸術を楽しんだり するゆとりを持ちたいという意味である。 つまり①の種の保存のみの 仕事だけでは満足できない、 ②のディスクリミネータの空作動する時 間も欲しいと解釈される。 生産性が上がれば労働者が少なくて済むようになる。 企業にとって は有り難い事だが、働く人にとってはどうか。失業者が増えて社会不 安になり、 消費が進まなくなり結局生産は停滞すると錯覚する人がい る。それは違う。極端な話、生産のために全く労働力が必要に無くな り全員が失業者になったとしてみよう。 それでも経済は立派に成り立 つ。なぜならばその失業者全員に適当にお金をばらまけば、生産され た物を消費してもらえるからだ。 生産力に比べお金を与え過ぎるとイ ンフレになり、 お金が少なすぎるとデフレになるので分配するお金の -157- 量に適性値がある。 現実は生産のための労働力はどんどん人から機械 へと移行するが、全く人手が必要無くなることはない。生産性が上が れば給料はそのままにして一人当たりの労働時間を短縮すれば良いの だ。生産力さえ確保されていれば、インフレにはならない。それでは 労働時間が短縮された分、残された時間を我々は何に使えばよいの か。家族と話す時間に使っても良いのだが、人はそれ以上に何かを求 めようとする。余暇の活用だ。そのための設備拡充はどんどん行われ ている。様々なレジャーランド、スポーツ施設、リゾート施設等であ る。すべてディスクリミネータの空作動が目的であるが、それらの施 設には必ず人手がいる。 というわけで人は第一次産業から第三次産業 へと移る。つまり生産性が向上すると、物の生産のためには働かなく ても良くなるが、全く働かなくても良くなるのではなく、他の人を楽 しませるためにある程度の時間働くようになるということである。 レ ジャー産業の生産性の向上には限界がある以上、 どんなにGDPが上 昇しても国民全員が大金持ちになるわけではない。 欲しい物は限りな く手に入り易くなるが、 他人からのサービスをどれだけ受けられ易く なるかについては今後とも余り変化はない。 つまり自分で楽しむため と、他人を楽しませるために使う時間の比重がどんどん高くなり、こ れがだんだん「人生の目的」の重要な要素として、組み入れられるよ うになるということである。 -158- 第二十二章 未来の社会制度 ・ 道徳 ・ 倫理の予測 未来の社会制度・ 道徳・ 自由とは何か 道徳・倫理は社会制度に大きく依存する。全体主義、共産主義等の 下では個人の行動は著しく制限される。 社会の規律を乱すものは容赦 なく処刑された。いずれも一人またはごく少数の支配者のエゴや間 違った理想の実現のために、大多数の人々の自由が厳しく束縛され た。これは食糧事情が悪く、自由を認めるほどの余裕が無かったから だともいえる。 様々な社会制度が試され、結局資本主義は豊かな社会をもたらし、 その結果ゆとりの社会が生まれ、 個人の自由を認めることができるよ うになり、先進国では自由主義社会が広まった。これは他人に害にな らないかぎり、 一次ディスクリミネータにより誘発される行動に出来 るだけ制限をつけないということであり、 そのような社会制度の下で は人は、より多く社会に貢献できるということが証明された。人類は 様々な紆余曲折を経ながらさらに大きな自由を求め、ディスクリミ ネータの解放に向かって社会を変えて行く。 自由な世の中になったと言えば、 行動の自由が増したと思うかもし れないが、世の中は様々な人間の利害が対立しているのであり、自由 が増した人もいれば、減った人もいる。例えば奴隷を持つことができ なくなったし、もっと最近ではセクハラはできなくなった。女中は雇 えなくなったが、お手伝いさんは雇うことができる。つまり雇用者の 自由が制限され、被雇用者の権利・自由が拡大した。これ等の例から わかるように、自由の獲得というより、実質的にはディスクリミネー タの解放と言う方が正確である。 将来どう変化するかは明らかだ。 人間の一次ディスクリミネータは ROMに入っているのだから変化しない。しかし二次ディスクリミ ネータはRAMに入っていて、 時代の変化にあわせ臨機応変に書き換 -159- えが行われるであろうし、 Rに入っているものであっても世代交替が なされた後には、 よりその社会にあったディスクリミネータに変わっ ているであろうという意味で変化する。 結果としてはその社会におい て一次ディスクリミネータが最も正常作動と空作動でプラスになりや すく、誰のディスクリミネータも強く負にならないように社会制度、 道徳観が定着していくのである。 一部の人達はある種の行為に対し「その行為は道徳に反する。 」と して問答無用に悪いこととして決めつけてしまう。 もちろんそれは正 しい事が多いのだが、 道徳そのものがその社会にそぐわなくなってい ることもある。 そのような場合には我々の行動がいかにあるべきかと いう原点に立ち戻って考えてみるべきである。 科学の発達はめざましい。それが新しい倫理観の確立を余儀なく することがある。例えばクローン人間の問題を考えてみよう。最初ク ローン羊が誕生したときは、 世界中一斉にクローン人間を誕生させる ことに反対した。 ところがしばらくすると賛成する学者もでてきて混 乱している。賛成や反対の意見を述べるのはよいのだが、その科学的 な理由を述べる者は全くいない。 しかし現実問題として考えるなら世界のどこかで誰かがクローン 人間を誕生させるのは時間の問題であり、 それを阻止する手段は無い と断言できる。確かに先進国の研究所、大学等では暫くはだれも試み ないだろうが、世界には様々な国があり「毒ガスを作ってはいけな い」といくら言ってもそれに従わない者がでてくるように、クローン 人間を誕生させる試みを阻止する方法は無い。 技術的によほど難しい のであればともかく、 世界各地で次々クローン牛とか誕生しているよ うに、 先進国が手の届かない所でいつか誰かが試みるのは目に見えて いる。意外と先進国でも秘密裏に誰かがやってしまうかもしれない。 どうせ阻止出来ないものであれば、 クローン人間について冷静に客観 的に考えておくべきではなかろうか。 クローン人間に対する反対意見 -160- は人間の尊厳に関わるというのが主な理由となっている。 しかしこの 論理は地動説や進化論を攻撃した理論と似ている。人間の尊厳とは、 ディスクリミネータが我々に対して 「この崇高な人間は宇宙で絶対的 な存在であってそれを疑ってはならない」 と命令しているために出て くる考え方である。 科学的に人間を見るのであればその考え方を排除 することが重要である。 それではクローン人間が出現すればどのような問題が人間の種の保 存にとって出てくるのであろうか。 種の保存にとってクローン人間が 直接害を及ぼすという可能性は思い当たらない。 問題はむしろその技 術の使い方であろう。自分の思いどおりの人間が工場で「生産」でき るのは問題だと考えて反対する人が多いのだろう。 工場での生産なら 不良品は破棄処分だ。しかしその製品はちゃんとした人間だし、その 人の人権もある。ディスクリミネータ解放ということならば、その人 も他の人と同じくらいの権利を持つ。 そのあたりからこの問題に軽々 しい結論が出せない理由がある。 -161- 第二十三章 理性とは何か 理性的とは 理性的とはどのようなことを言うのかは、 これまでの議論でほとん ど明らかであろう。犯罪は理性的でない行動であるから、種の保存に 害になる行動、 あるいは他人のディスクリミネータをマイナスにする 行動が理性的でない行動である。 しかし単に種に利益になる行動が理 性的であるわけではない。 飲んだり食べたり子どもを育てたりするだ けで理性的とは言わない。 理性的であるためには何らかの判断が伴わ なければならない。 ということは一次ディスクリミネータと二次ディ スクリミネータが競合しているような場合で、 二次ディスクリミネー タが一次ディスクリミネータを押さえ第十二章で定義された善と見な される行動を行った場合、理性的というわけだ。次にその例を考え る。 ユ−ゴ−のレ・ミゼラブルの中の一シーンを考えよう。どん底の 状況にあったジャン=バルジャンが教会から銀の食器を盗み、 捕まっ て司祭のところへ連れて来られる。 そこで司祭はその食器は盗まれた のでなく差し上げたのですと言う。 この司祭の言葉は理性的と言える 例だろう。 食器を盗んだことは一次ディスクリミネータによる利己的 行動で理性的ではない。 通常の場合それに対応するには復讐のディス クリミネータ(これも一次ディスクリミネータ)によって、彼に罰を 与えるのである。 もしそうしていたらそれは理性的とはいう行動には 分類されない。しかしそこで司祭は「これは私が差し上げたのです」 と嘘を言った。それには複雑な状況判断が伴っている。つまりこの男 をこのまま投獄するのでなく、 自分が彼を助けたいを思っている気持 ちを伝えれば、 この男はきっと立ち直って社会のルールに従って生き るようになるに違いないという判断である。 利他行動を受ければその 恩返しを、この男はするであろうと期待したわけである。実際、物語 -162- はその事件を契機にその男が立ち直るのである。 司祭は復讐という一次ディスクリミネータを押さえ、的確な判断 の基に一人の男を救った。これが理性である。司祭は2度社会のルー ルを破っている。 第一に犯罪人に対しては罰を与えなければならない というルール。第二は、嘘をついてはならぬというルールである。人 は社会のルールに従うことが常に最善であるとは限らないことを知っ ている。この社会のルールは人間に対し、利己を押さえ利他を促して いるのであるが、ここではそれ以上に利他になったのである。つまり 自分の所有物を盗んだ相手を罰する替わりにその盗品を彼に与えると いうことをした。 その行為により彼が利己的な人間から利他的な人間 に変わることを期待し、それが成功した。それを人間は美しいと感じ る。 満員電車の中で若い女性の体が自分に近づいてくる。触りたいと いう一次ディスクリミネータを、 触ってはならないという二次ディス クリミネータが押さえている。これも理性だ。 第十三章でのべたように、 犯罪はディスクリミネータの異環境異常 作動により起きる。 それを押さえようとする二次ディスクリミネータ の力が弱いからだ。理性的人間はこれを押さえる二次ディスクリミ ネータの力が強いわけだから犯罪には無縁である。 -163- 第二十四章 催眠とは何か 催眠術 催眠術で暗示をかけるとしよう。暗示とは催眠術者が被催眠者の RAMにディスクリミネータを直接書き込むことだ。暗示がかかり やすい人に、歯の治療は痛くないと暗示をかけておけば比較的痛が らない。無痛分娩や手術にも使われている。つまり二次ディスクリ ミネータが痛みを制御しているのである。催眠法をもちいる精神療 法を催眠療法とよぶ。今日様々な種類がある。催眠状態を持続させて おく方法、「痛みがなくなった」というような暗示を与えて症状を消 失させる方法、暗示によって性格を変えていく方法等である。優秀 な催眠術者は誰にでも催眠をかけられるかというと、そうでも無 い。自分は催眠はかからないと思っている人にはかけられない。催 眠はかかろうと努力する人でないとかからない。一人の教祖の言葉 をすべて受け入れ、その宗教を信じた人はもうそれ以外の宗教は受 け入れる余地がなくなるから、他の教祖の言うことは全く受け入れ なくなる。被催眠者はこの催眠術師の催眠にかかろうと思った場合 のみ、自らのRAMを書き込み可能な状態にするのである。その場 合でもその人にとって受け入れられる命令とそうでない命令があ る。その人のROMやRAMは白紙の状態ではなく、すでに沢山の ディスクリミネータが書き込まれているのだからそれと著しく対立 する命令は受け入れないのだ。 催眠中に「催眠中のことは覚醒後に思い出せない」と暗示をかけ ておけば催眠から覚めても、催眠中のことが思い出せなくなる。 ディスクリミネータが催眠中の記憶にアクセスできなくするから、 思い出せなくなる例である。 コンピュータにおいては類似の事は誰もがよく知っている。フ ロッピーのノッチの上げ下げで、書き込み禁止になったり書き込み -164- 可能になったりする。データの属性を替えてアクセス禁止にするこ ともできる。 暗示 痛くないという暗示をかけておけば、指を針で刺したり電気 ショックを与えても「痛くない」という。しかし言葉では痛くないと 言いながら、中には顔をしかめたり呼吸が乱れたりする被験者もい る。 うそ発見器による皮膚に現れる興奮の状況を調べても反射がみら れる。それでも「痛くない」と主張する。痛むか痛まないかは心理的 な問題だから、痛みの電気信号は確かに送られているとしても、ディ スクリミネータが痛みを感じないとセットされていれば (暗示がかけ られていれば)痛まないのだろう。つまり暗示によって同じ痛みの電 気信号でも、ディスクリミネータはマイナスにならないか、マイナス が小さいかである。 このような調節ができる機能をディスクリミネー タは持っている。 別な例として、獣に襲われ負傷しながらも必死で戦っているとき は、痛みは余り感じない。命がかかっているのだから傷をかばってい るどころではない。通常なら負傷すれば痛みが生ずる。それは動かし てはならないとか、治療せよとか、痛みの原因になっているものを取 り除けという命令である。 しかしこのような緊急事態ではそれどころ ではないから、例え同じ痛みの電気信号が脳へ送られて来ていても、 ディスクリミネータはマイナスをカットしてしまう。 これもディスク リミネータの機能の一つである。 ディスクリミネータはそれがどのようにセットされるかで、 人の能 力を伸ばすことも押さえることもできる。催眠中に「能力が増した」 という暗示をかけておくと、実際に能力が増すという報告が多数あ る。例えば図形に対する正確度や弁別力、色の識別などの視覚、純音 の聞き分け、 皮膚上の二点を弁別する能力等で5%から30%上昇す -165- るという。また記憶力もよくなるという報告もある。自信を持つとい うこと自身が自己暗示であり、 ディスクリミネータがこれならできる と判断した事柄には、より能力を発揮できるということである。自信 満々の人であればすでに自己暗示がかかっているのだから、 さらに暗 示をかけても効果は限られているだろうが、自信が無いという人は ディスクリミネータがどうせやってもうまくいかないから、 本気でや らなくてよいと命令しているので、十分実力は出せない。こんな人に 暗示をかければ、能力が増す。 被催眠者は催眠術師のロボットではない。被催眠者にも主義主張 があり、好き嫌いもある。これらは様々なディスクリミネータとして 記憶されているのである。それに反する暗示をかけようとすると、被 催眠者は不愉快になるだけで暗示はかからない。反社会的な行動、例 えば殺人をやらせようとしても、 被催眠術者がもともとそのような反 社会的な行動を起こすような人物でなければそのような暗示はかから ない。これは次のように考えることができる。我々の脳には本能に関 連したディスクリミネータがROMに、 過去の体験を通じて書き込ま れたディスクリミネータがRAMに数多く格納されている。 そのため 大きな方向性はすでに決まっており、 それに背くようなディスクリミ ネータをあらたにRAMに書き込もうとしても、 既成のディスクリミ ネータに拒否されてしまうのである。 D場 磁石に例えてみよう。強い磁石が中心にあり、そのN極の近くに小 さな方位磁針を置くとしよう。 どうやっても方位磁針のS極がこのN 極に引きつけられてしまう。形の違う方位磁針は置くことはできる が、 針の方向はどうやっても中心の磁石によって決められてしまうの である。別の言葉で言えば磁石の周りには磁場が作られていて、その 中では方位磁針の針の方向は決まってしまい、 磁場に逆らうことがで -166- きない。 強い磁石はもともとあったディスクリミネータに相当し、置こう としている方位磁針は書き込もうとしている新しいディスクリミネー タに相当する。つまり既成のディスクリミネータの周りには、場が作 られている。今仮にこれをD場と呼ぶとすると、D場が作られたRA Mの中には、 それに逆らわないディスクリミネータしか書き込むこと ができないのである。 通常であれば、ROMの中に自己保存のディスクリミネータと同 種の個体に危害を加えてはならぬという同種保護のディスクリミネー タがあり、 それが強烈なD場を作っておりそれに逆らうようなディス クリミネータは書き込むことが出来ないのである。 しかしながらオウム真理教の場合は違っていた。催眠と同じメカ ニズムが使われ、 同種保護のディスクリミネータに反する反社会的な 行動を起こすための暗示がかけられ、実行されてしまった。これは単 なる暗示でなく、 組織による犯罪であるのだからむしろ戦争とかゲリ ラ組織とかと比べるべきだろう。 警察に追われても組織が何とかして くれると思いながら行った犯行であるので、全く事情が違う。オウム の信者にとってはオウム自身が社会なのだ。 つまり一般的には反社会 行動であっても、 オウムという社会の中では反社会的な行動と見做し ていなかったのだから暗示をかけることができたのである。 オウムの 中では教祖によってオウム独自の規律を作ってしまった。 これがいか に反社会的であったとしても、 教団内部の人にとってこの規律に背く 方が反社会的であり、自分の生活の場を危うくしてしまうのである。 一般的に言えば被催眠者の生活の破壊に繋がるような暗示はディスク リミネータが厳重に禁止しておりかけられない。しかし集団を作り、 その集団の中でその人を守ればどんな反社会的な暗示でもかけられる ということである。 もっともそのような非合法集団は通常大きくなる 前に警察当局によって解散させられるのだが。 -167- 別の言葉で言えば、同種保護のディスクリミネータがすり替えら れたということである。彼らにとって同種とはオウムの人間であり、 それ以外は異種だから保護しなくても良いという論理を作ってしまっ たのである。戦争も同じような論理で殺し合いを行う。 催眠中は外部に対して精神の扉を閉ざすが、 RAMへ直接ディスク リミネータを書き込むための窓だけが開かれる。 そこで書き込まれた ディスクリミネータの詳細を調べ、 ディスクリミネータをコントロー ルすることによってヒステリー症の治療を行ったのが精神分析であ る。次の章では、これに関連した事柄を述べる。 -168- 第二十五章 無意識とは何か 記憶を妨害するもの 意識と無意識の世界は、 おもに精神分析学派によって一般に知られ るようになった。意識と無意識の関係はしばしば、大海に浮かぶ氷山 にたとえられる。氷山では水面に出ている部分は少なく、大部分は海 の下に隠れているが、 人間の心ではこの水中の部分が無意識に相当す るとされている。 意識は一次ディスクリミネータにも、 二次ディスクリミネータにも 支配されている。 精神分析学派の言う無意識の世界とは二次ディスク リミネータに支配された意識と行動の中で記憶とのリンクが張られて いないものを述べているにすぎない。具体的な例を挙げて説明しよ う。 フロイトは無意識的欲求が記憶を妨害すると主張した。 ある女性が失楽園の著者を忘れた。 この女性にとってこれだけ有名 な人の名前を忘れてしまうとは非常に不可思議な事であった。 その人 の気持ちを詳しく分析したところ、 彼女はミルトンという男性をかつ て愛したことがあるが、 その男性と結婚できない事情がありその男性 のことを忘れようとしていた。 その結果ミルトンという名前が彼女の 記憶から消え去り失楽園の著者の名前も忘れてしまったのだという。 これは単にミルトンという言葉を忘れさせようをする二次ディス クリミネータが彼女に出来上がってしまていたということにすぎな い。一度それが出来上がると、自分でも気が付かないうちにミルトン という名前の記憶がアクセス禁止の状態になるのである。 第三章で述 べたように記憶は 2 種類ある。通常の記憶の他に「∼をしなさい」と か「∼はしてはいけません」とかという命令記憶である。我々の思考 -169- は通常の記憶だけを材料に使って展開され、 命令記憶がその方向性を 決める。記憶と命令記憶とは独立している。この例では「ミルトンと いう名前は忘れなさい」という命令記憶があったために、その男性と 失楽園の作者とが関係が無いのに、 ミルトンという言葉の記憶にアク セスできない状態になってしまっていたのである。 我々はいくら考え てもどの言葉がアクセス禁止になっているかを知ることができないか ら、なぜ忘れたかわからないということになるのである。もしもよく 考えればアクセス禁止状態になっているかどうかがわかるなら、 アク セス禁止にする意味が無くなってしまうからである。 ところが催眠状 態においてはアクセス禁止状態が一部解除されるのである。 どの範囲 までが解除されるかということは催眠術者と被催眠者との信頼関係に 依存する。 通常その人のRAMは簡単にはディスクリミネータは書き 込めない状態になっているが催眠術では催眠術者にRAMを一部解放 し書き込み可能状態にする。 この際記憶へのアクセス禁止状態も一定 の範囲に限り解除される。そのため催眠状態では「心の奥底を知るこ とができる」のである。つまり心の奥底とは実はアクセス禁止になっ た記憶の内容である。 フロイトの精神分析入門の中の例を引用する。仲の悪い夫婦がい た。ある日妻が夫に一冊の本をプレゼントした。夫は必ず読むと言っ て適当な場所にしまった。その後、その本がどこにいったか思い出せ なくなった。約半年後、夫の母親が病気になり妻は不眠不休で看病を した。彼は妻の働きに感激し、感謝の念で帰宅した。そこで本をし まった場所を思い出した。 この場合仲が悪い間は、ディスクリミネータは妻に対する利他行 動の制限を命令し、もらった本も読まないように命令する結果、し まった場所の記憶へのアクセスを禁止する。 そこでどこにしまったか 忘れてしまう。 しかし妻の働きに感激した後はそのディスクリミネー タによる禁止が解かれ記憶が蘇るわけである。 -170- 催眠でなくとも信頼する人に対しては我々は自己のRAMを一定 の範囲で書き込み可能な状態にし、 一定のディスクリミネータを書き 込みを許す。その後信頼しない人に出会って、その人が異なったディ スクリミネータを書き込もうと試みても、今度は書き込みを許さな い。 偉大な政治家ほど多数の人がディスクリミネータの書き込みを許 すようになる。そしてその政治家に従って行動するようになり、それ 以外の人から別のことを言われても全く耳を貸さない状態になる。 信頼度のディスクリミネータ 第四章においては、好き嫌いについて述べた。好き嫌いのディス クリミネータに、特定の人物の記憶がリンク付けられたら、その人は 好きだとか、嫌いだとかという感情を持つようになる。しかし好き嫌 いと信頼性とは相関はあっても同一ではない。 真面目で勤勉で好感を 持てても、未熟でとても信頼して仕事を任せられない人はいる。すな わち好き嫌いのディスクリミネータとは独立に、 信頼度のディスクリ ミネータが存在する。 これがその人の信頼度を判定しランク付けをす る。すべての知人に対し判定が下っており、信頼性が未確認の人は0 で、信頼が持てる人はプラス、持てない人はマイナスになる。そして プラスが大きい人に対しては、RAMを解放し自由にディスクリミ ネータを書き込ませる。逆にマイナスの人にはRAMを閉じ、書き込 ませない。通常信頼度が高い人であっても、自分の主義主張に著しく 食い違うような暗示はかけられない。 例えばあいつを殺してこいと暗 示をかけても通常は従わない。同種保護のディスクリミネータが、阻 止するからである。しかしオーム真理教の教祖は殺人を命令し、それ が実行された。 それほど教祖の信頼度のディスクリミネータのプラス が大きく、 同種保護のディスクリミネータすら超えてしまったわけで ある。 フロイトが引用した仲の悪い夫婦の例では、夫の妻に対する信頼 -171- 度のディスクリミネータがマイナスであったために、 妻の命令に従い たくなかった、つまり本を読みたくなかったわけで、ディスクリミ ネータは本の場所の記憶のアクセスを禁止してしまった。 ところが夫 の母の看病を見て、信頼度のディスクリミネータがプラスに変わり、 ディスクリミネータが本の場所の記憶のアクセスの禁止を解除したの である。 たいていの場合、ある年齢までは子どもの親に対する信頼度の ディスクリミネータは、極めて大きなプラスであり、自分固有のディ スクリミネータはほとんど無視し、 RAMを全面開放しほとんど盲目 的に親に従う。しかしいつまでもこれでは独立できないから、ある程 度自分のディスクリミネータが育った時点で親の信頼度を下げ、 自分 のディスクリミネータで行動しようとする。これが反抗期である。 夢 夢とは何であろうか。レム睡眠のとき我々は夢を見る。レム睡眠時 には電気信号が神経細胞を伝わって、大脳皮質に送られ、刺激が多く なる。 大脳皮質の視覚野が刺激されると何かが見えるようになってい る。その光景は過去の記憶の中の1シーンに関係しているのであろ う。どこが刺激されるかはランダムであるのだろうが、眠る直前に例 えば子供の事故のような大きな事件が発生したのであれば、 電気信号 はその事件に関連した部分に多く送られていて、 それに関連した夢を 多く見る。 これはディスクリミネータや記憶で特にアクティビティー が高いものがあれば、電気信号が受けやすくなっているのであるか ら、夢を見る際に優先的に関与する傾向があるからである。夢物語は その乱数発生的なシーンに適当に筋書きをつけているにすぎず、 支離 滅裂で細かい内容の分析は大きな意味は無い。 しかしこの筋書きは二 次ディスクリミネータの一部の機能が停止した状態での思考である。 上記の例では「ミルトンという名前は忘れなさい」という命令記憶の -172- 機能が停止することがある。 つまり記憶へのアクセスが一時的に回復 するのであり、 その場合だとなぜミルトンという名前が思い出せない かという事に関する手掛かりが得られるというわけだ。そのために、 精神分析では夢を分析し「心の奥底」を探る試みをする。 睡眠状態では脳は外敵の襲来に備え最小限の機能を残したまま休息 に入っている。覚醒状態での思考と夢の中での思考とはかなり異な る。脳の大部分が停止した状態での思考だから、思考力も微弱なもの である。 思考は必ずディスクリミネータに誘導されるままに展開され ているのであるが、 夢の場合は一部のディスクリミネータの誘導がは ずれる場合があるし、 特に二次ディスクリミネータの一部が無視され て思考が展開されることがある。 また通常は思考の結果何かやろうと 思えば体の各部分に命令し実際に体を動かすことができるが、 夢では それが難しく何かやろうとしたとき、実際にその行動を行うのでな く、その行動を頭に描いているだけで体は動いていない。次に例を挙 げる。 私は夢の構造を知ろうと自分で見た夢を詳しく記述するようにして みた。こうすることにより「夢の内容を出来るだけ詳しく記憶せよ」 という二次ディスクリミネータが自分の中にできあがる。 毎日夢の内 容を思い出して書いてみた。何回も夢の内容を書いているうちに、や がて夢の中で今自分が夢を見ているということに気づくようになっ た。このような夢は明晰夢と呼ばれている。かなり浅い眠りの状態に なっていた。そのとき、自分の目の前には自分の部屋の天井が写って いるのだ。しかし今写っているのは本当の天井ではなく、夢の中で描 いているものにすぎないことは理解できた。もう起きようと思った。 そこでどうやれば起きられるのか考えた。 まず単純に体を起こしてみ る。簡単に起きることができた。しかし起きたはずなのにやはり目に は天井が入っていて、体が起きていないのに気が付く。これを何度か 繰り返す。やはりこの方法では起きることが出来ないことに気づく。 -173- それならどうやれが起きることが出来るか考える。 「夢の中なので体 全体を動かすのは無理だ。それなら片方の腕を動かしてみたらどう か。 夢の中だから体を動かすのは無理だとしても腕くらいは動くので はないか。 」腕は実際動かすことが出来た。腕が動いた瞬間目が覚め てしまった。その後 2 ∼ 3 回同じような夢を見て、そのたびに腕を動 かして自分で目を覚ました。 別のある日また同じような夢を見た。また天井が写っている。写っ ている天井はにせものだと解っている。今度は思い切って目を開けて やろうと決意した。目が一瞬開いた。本物の天井が一瞬見えた。まぶ しくそして目を開けるのがとても苦痛だった。 その後は目を開けるこ とを断念し再び眠りに入ってしまった。 このように二次ディスクリミネータに課題を入れておけば夢の中で もりっぱに動作する。しかもこの例だとランダムな電気信号が視覚野 を刺激して作られた像とは明らかに違っている。 なぜなら同じ夢を複 数回見ているわけで乱数発生的ではないからである。 私が何回も見た夢の中に単位が取れなくて留年してしまう夢があ る。私は学生時代長い間病気をし、必須科目である体育の単位が取れ なかった。実際はこれも替わりの単位を取って問題はなかった。その 後長い間入院をした。期末試験が迫ってきて医者に相談した。期末試 験に出ないと留年する。 「病気を治すためなら留年しても良いのです がその必要はありますか。 」と私は医者に聞いた。医者は退院して期 末試験に出て良いと言った。おかげで留年を免れたのであるが、この ときに「留年するのではないか」という不安がディスクリミネータと なって残った。日常生活ではもうそんな事はとっくに忘れてしまった のだが、夢の中だけは何度もでてきてしまう。当時よほど強い不安で あったに違いない。 その不安が留年を免れるためのあらゆる努力へと 導いた。 そのような不安が今でも心の中に残っているとは信じがたい のだが、夢の中では何度も現れる。このディスクリミネータが日常の -174- 行動に何かの影響を及ぼしていたとしても不思議ではない。 許されない場所で許されない相手とセックスをする夢を見る。 実生 活では二次ディスクリミネータがきつく禁じているためにあり得ない ことなのだが、 夢の中では二次ディスクリミネータによる制御ははる かにゆるい。許されないことを行っているという後ろめたさはある。 ということは二次ディスクリミネータによる締め付けは完全に消えて はいない。性欲のディスクリミネータに誘発され思考が引っ張られ て、このような夢をみることになる。ある人に許されない恋心を持っ てしまうとしよう。 社会的制約から堂々と恋愛を行うわけにはいかな いが密かに恋心を持っている。 その恋心は自分も気が付いていない場 合もある。 その相手に対する恋愛感情も一種のディスクリミネータで あり、その相手に関心を持ち近づこうとする。しかし実際の日常生活 では二次ディスクリミネータに押さえられ隠されたままになってい る。 このように日常生活では二次ディスクリミネータの締め付けにより 現れてこない行動でも夢の中では現れてくる。 夢でしかでてこない隠 れた行動も別のディスクリミネータによって誘発された思考なのであ る。 そういう意味で夢は隠されたディスクリミネータの内容を知る方 法を提供してくれる。 これが精神分析学派の主張する無意識の世界で ある。つまり無意識の世界とは上記のような隠されたディスクリミ ネータやディスクリミネータのお陰でアクセス禁止になった記憶であ る。自分では気づいていないが、ディスクリミネータであるが故に、 思ってもいなかったところで現れてくることもある。これを「心のし こり」 (トラウマ)と表現することもある。 我々の意識が無意識の作用によって影響されているという表現を 精神分析学派は使う。この文で「無意識の作用」をディスクリミネー タという言葉に置き換えれば、我々の議論に置き換わる。しかし重大 な違いがある。 ディスクリミネータは隠されたものと隠されていない -175- ものの両方があり、意識はこの両方に影響されていることだ。無意識 という言葉に惑わされるべきでない。 隠されたディスクリミネータと 言ってもそれ以外のディスクリミネータと大きな違いがあるわけでは ない。単に忘れてしまっただけとか、隠さなければならない理由が あったとかであって、その作用、機能等その他のディスクリミネータ と同種のものであるのだから、統一して考えるのが正しい方法であ る。 例えばお母さんから「寝る前に歯を磨きなさい」と言われて就寝 前に歯を磨くようになったときは、 「どうして歯を磨くの」と聞けば、 「お母さんからそう言われたから」と答えるであろう。お母さんから 言われたという記憶と、 そのディスクリミネータがリンクされている わけである。しかし催眠術師に催眠をかけられ「寝る前に歯を磨きな さい」という暗示をかけられたら、自分がどうして歯を磨くように なったのか解らないだろう。 催眠状態ではRAM書き込みのための窓 を開くだけで、記憶への書き込みはない。つまりディスクリミネータ と記憶とがリンクされていないためにどうしてそうするのか自分では 解らない。 夢の場合、思考もディスクリミネータも完全には機能していない。 通常ならディスクリミネータが特定の記憶のアクセスを禁止している ために隠れてしまっている記憶がある。 しかし夢の場合はこの隠す側 のディスクリミネータがちゃんと機能しないために、 ひょっこり隠れ た記憶にアクセスできることがあり、このことが「心の奥底」とか「無 意識の世界」という言葉で表現されているのである。 夢には論理性が欠いている。 登場人物も時間的に無理な仮定に基づ いていたり、自分の姿を上から見たりする。Aという人物のつもりで ストーリーが展開されたのに、実はBだったということもある。論理 性の欠如は思考力の低下である。 脳の大部分が休息中なので思考力が 低下するのは当然である。思考力に関して言えば個人差が大きく、思 -176- 考力がある人は論理的な思考ができる。 通常の状態ですら支離滅裂な 事を言う人もいる。誰でも疲れてきたり、泥酔したり、寝ぼけていた りすると思考力は衰え、論理的でない事を考え始める。この状態から さらに思考力を弱めたのが夢である。 私はかつて風邪をこじらせて長い間咳が止まらなかったことがあ る。神経質な私はこのまま死んでしまうのではないかと悩んだ。不安 な毎日であったがそのうち何度も悪い夢を見るようになった。 この病 気が急に悪化して高熱を出す夢であった。 もうだめだと思った瞬間目 が覚める。体中が汗でびっしょりになっている。しかし目が覚めてみ たら病気が悪化した兆候はなく、ほっとする。こんな事が何回も続い た。 これは風邪が治らないという事実から、 病気に対する不安のディス クリミネータが非常にアクティブになり、 このような夢を見るように なったわけだ。病気が悪化するのではないかという不安から、回復の ためにあらゆる努力をせよというディスクリミネータの命令になる。 毎日の行動に強く影響するし、夢さえも支配するするようになる。そ して体中が汗でびっしょりになるという身体的症状まで引き起こし た。 このような身体の非常事態にディスクリミネータはこの非常事態 から脱する方法だけを考えるように命じているために、 同じ夢を何回 も見ることになる。 ディスクリミネータの作用 徴兵されそうになったとき、 行きたくないという一心から足が動か なくなったりする。 あるいは夫の浮気に対する嫌悪感から夫の声が聞 こえなくなることもある。 これらはヒステリーと呼ばれディスクリミ ネータのマイナスが極端に強くなったとき、 直接身体的症状になって 現れる場合である。 つまりディスクリミネータは単に行動の誘発や特 定の記憶へのアクセス禁止のみに止まらず、 極端な場合は直接身体の -177- 一部の機能を止めて、目的を果たすこともあるということである。 ヒステリーの症状としては、耳が聞こえない、目が見えない、手や 足が動かない、喉につかえたようでものが飲み込めないなどの症状 や、原因不明の高熱が出たり、身体の部分に激しい痛みを感じたりす ることもある。このとき、身体的にはなんら異常は無いのが普通であ る。これらの治療法は、どのようなディスクリミネータが原因になっ ているかを突き止め、 強くなりすぎたディスクリミネータの強度を和 らげるような心理療法が必要である。 RAMは書き換え可能であるわ けだから患者がRAMを書き換え可能な状態にしてくれさえすれば治 療は可能なはずである。 そのためには何らかの形で患者との信頼関係 を築くことが重要になる。 ディスクリミネータは行動を制御しその制御強度は調整できる。 個々のディスクリミネータのアクティビティーは、 常に変化し続ける ことは第三章ですでに述べた。 朝家を出る前に自分の妻につまらない 愚痴をいわれたとする。ディスクリミネータはマイナスとなる。その マイナスに起因されて、様々な事を考え始めるから一日中むしゃく しゃする。だが会社では忙しくて、自分の妻の言った内容など忘れて しまい仕事に追われる。 それでもその間もディスクリミネータのマイ ナスは消えなくてずっと会社の周りの同僚にあたりちらすし機嫌が悪 い。 ディスクリミネータのマイナスは何らかの方法でプラスにせよと いう命令でもあるからである。 休憩時間に同僚と話しているうちにど うして今日は自分がこんなに機嫌が悪いのか気が付く。そうか、そん なこといちいち気にしなくてもいいのだと気づき自分に言い聞かせる とすっきりし機嫌が直る。 これはRAMに書き込まれたディスクリミネータのマイナスが簡単 に消去可能である例である。 妻の愚痴でいったんマイナスが書き込ま れ、 その後納得してマイナスを消去又はそのアクティビティーを弱め たのである。自分でディスクリミネータが理解できるかぎり、ディス -178- クリミネータはこのように制御できるのである。 ただしこれはディス クリミネータの内容が記憶されており、 自分でそれを調節できた場合 であるが、ディスクリミネータの内容を忘れてしまったときは、夢判 断や催眠を使ってディスクリミネータの中身を調べるしか無いのであ る。 ジャングルにおいてはいつ猛獣に襲われるかもしれないのであるか ら、暗闇は怖い。ディスクリミネータは大きなマイナスで、極めて強 い警戒命令を発するようになる。ところが同じ暗闇でも都会の中だ と、そんな猛獣はいるわけないから、気持ちが悪いけれどもディスク リミネータの警戒命令はずっと弱くなる。 ある女性が強姦された。 車の窓から顔を出して道を聞く人がいたの で近寄って教えようとしたら車に引きずり込まれ強姦されたという。 この事件に関してディスクリミネータに警戒命令が書き込まれる。 こ の場合心のしこりは大きくない。なぜなら、警戒命令には「車の窓か ら顔を出して誰かが話しかけたら近づかないこと」 という対処方法が 添えてありこれさえ守れば安全ということで警戒しなければならない のは極めて限られた時であるからである。 これに対し一軒家に一人で住む女性が自宅で睡眠中に窓をこじ開け られ侵入され強姦された場合は深刻である。 ディスクリミネータは警 戒せよと命じているが、有効な対処方法が無い。夜になるとまた襲わ れそうな気がする。 ディスクリミネータによる警戒命令は極めて強い ものになる。 つまりディスクリミネータがアクティブになるわけであ る。心の大きなしこりが残りノイローゼになったり、長い間ショック から立ち直れないという事態になる。 このように同じ強姦でも襲われた状況によりディスクリミネータ の警戒命令の強さが大きく異なることとなる。 このような場合であれ ば、精神的安定を取り戻すには、より安全が確保される家に引っ越す 等、その原因を取り除くしか無いことになる。 -179- 優越感と劣等感 優越感、劣等感というものについて考えてみよう。これは複数の 人間が何か行動を行おうとする場合の優先順位を決めるためのディス クリミネータと言ってよい。 サル等の一部の社会性動物ではこれが極 めて強い場合がある。ボスが決まっていたり、ボスにならなければ雌 と交尾して自分の子どもをつくれないようになっている場合もある。 人間の場合はそれほど極端ではない。しかし食う食われるの食物 連鎖の中に生きていた古代人にとっては、 食料と安全の確保が大きな 関心事であったに違いない。共同生活をしていると、何か行動する際 に誰が優先されるかは決まっていた方がやりやすい。 例えば獲物が見 つかった。 誰が捕まえるかあるいは誰が指揮を執って捕まえるかとい えば、過去の実績から最も捕獲の優れた者が優先されただろう。それ を決めるのが優越感、劣等感を作りだすディスクリミネータである。 何かに成功し他の仲間より優れていると判明すると、 それ以後他人よ り優先されるべしというディスクリミネータが作られる。 逆に他人ほ どうまくいかないと解ると、劣等感ディスクリミネータが作られ、何 事においても控えめにし出来るだけ他人に従って生きるようにという 命令が絶えず出されることになる。ある事柄には劣等感をもつが、別 の事柄には優越感を持つというのであれば、 得意な能力を積極的に伸 ばせば良いのであるが、すべてにおいて劣等感ばかりであると何を やったらよいか解らず、 ディスクリミネータはマイナスばかり出すと いうことになる。これが劣等感コンプレックスである。古代人におけ る優先度を決定するためのメカニズムが現代でも生きている。 古代人 においてはすべてにおいて劣る人間は厄介者であり、 種の保存から考 えれば足手まといになったであろうし、 こういった人達の事を面倒を 見る余裕もなかっただろう。現代は余裕の時代であり、ディスクリミ ネータ解放の精神から言えば、 こういった人達をも苦痛から救ってあ げたいという機運が生まれてくるのである。これが作動抑止であり -180- ディスクリミネータ解放である。 例えば算数ができない子供がいるとする。 教師がお前は算数ができ ないと言うと子供は傷つく。別に得意な教科等あればまだしも、特に そうでなければだんだんディスクリミネータのマイナスが強くなる。 教師の言葉によってはひどく傷つけることもある。 こういったマイナ スが強くなれば、様々な問題を引き起こすことがある。ディスクリミ ネータはマイナスを克服するよう何か行動を起こせと命ずることもあ り、極端な場合これが放火等の犯罪につながることはすでに述べた。 あるいは心身症とよばれるからだの病気を引き起こすこともある。 あ るいは自分は種の保存には役に立たぬということで自殺することもあ る。 このように優越感・劣等感というものは種の保存という観点からは 意味があるが、このような害(異環境異常作動)になってしまうこと もあるということである。 未婚の女性でふとっていると言われたとする。 それが強いディスク リミネータのマイナスの原因となる。 女性にとって結婚の機会をのが すかもしれないということは重大事であるからだ。 ディスクリミネー タのマイナスが直接「精神的食欲喪失」という症状を引き起こす。も とはヒステリー性と呼ばれていて、食欲をなくし、ひどくやせ、月経 もなくなる。このようにディスクリミネータは、単に痩せるための努 力を本人に誘発させるだけでなく、 直接身体のはたらいてしまうこと もある。 心理学やカウンセリングが盛んになってきたのは、 ゆとりの時代の ディスクリミネータ解放の精神からして、 このような強いディスクリ ミネータのマイナスに対応しよう(作動抑止)という機運の現れが原 因となっている。 -181- 夢を支配するディスクリミネータ 夢の解釈に関しては精神分析学派によって様々な試みがなされた。 実際隠れたディスクリミネータを含めディスクリミネータを調べるに は夢の分析は有効である。 夢からどのようなディスクリミネータがそ の夢を支配していたかを知るための例をあげよう。 ある二十歳の独身 の男性の夢である。 海で泳いでいたら、 突然海底から裸の少女の体が浮かび上がってき た。あわてて人工呼吸をしたら息を吹き返した。彼女のために暖かい 着物を探すために帰宅するが、沢山の衣類はどれも小さすぎてだめ。 衣類を探し回っているうちに目が覚めた。 これは次のように解釈される。彼は結婚相手を探したかったのだ。 自分の思いどおりになる女性が現れて欲しいというディスクリミネー タの求めに応じ、溺れかかった少女が登場する。そして自分の手で彼 女を生き返らせ、完全に自分のものにしたいという願望がある。その 後家に帰って彼女の衣類を探したが見つからないというのは、別の ディスクリミネータからくる。折角彼女を手に入れても、本当に自分 が確保しつづけることができるだろうかという不安が頭をよぎるの だ。過去に失恋等の経験があり、それがディスクリミネータとなって あせりを起こしている。 それがこの夢では衣類が見つからないという 形で表現されている。 というわけで、 この夢からは異性を探したいという性欲ディスクリ ミネータと、探した後、彼女を確保し続けることができないのではな いかという不安のディスクリミネータの2種類のディスクリミネータ により作られた夢と解釈できる。 2つのディスクリミネータにより制 御された夢ではあるが、 この2つは実は対となって現れることが多い のである。少なくとも彼女に振られた経験がある人であれば。 私の夢を紹介しよう。ジェットコースターに乗っていた。猛スピー ドで走っている最中右に大きく傾いた。ほとんど 90 度近い。本当に -182- 脱線しないのだろうか。私は車輪に安全装置が付いているか調べた。 付いていない。何ということか。そのうち前方のレールにぶら下がっ ている人がいた。 轢かれなければ良いがと思っているうちに彼の上を 通り過ぎた。 どうしてこのような夢を見るのか、その理由は私には明白なのだ。 私は後楽園の遊園地の近くをよく通る。 あの怖いジェットコースター には乗りたくないといつも思う。 私のディスクリミネータはあれに乗 るなという命令をいつも出している。 夢の中でも出し続けているわけ である。それがジェットコースターに乗る夢になった。不安が夢に現 れたのである。 レールにぶら下がっていた男が何者かを私ははっきり 理解できた。レールは右にほぼ45度傾いていた。それでぶら下がる のであれば、 右のレールにぶら下がらなければならないのに彼は左に ぶら下がっていた(ぶら上がっていた?)のだ。 これは約 20 年前の事故に関連しているのだ。そのとき私は上り電 車に乗っていた。その電車がトラックと衝突し脱線して止まった。衝 撃は少なく私はどうして止まったかが理解出来なかったのだが、 乗客 が窓の外を見ていた。窓から覗くと一人の男(はねられたトラックの 運転手) が線路の上でまるで虫けらのごとく体をくねらせて苦しんで いた。次の瞬間下りの列車が猛スピードで突っ込んできて彼をはね た。即死だった。私にはその光景が忘れられない。彼は私の左にいた から夢の男も私の左にいなければならなかったのだ。 たとえ上にぶら 下がるのは物理的に不可能であったとしても。 夢の中でぶら下がって いる男を見た瞬間私にはこれはあの事故の男だなとすぐ理解できた。 その事故の瞬間もそうであったのだが、 なんとか助かってくれないか と願った。かろうじて線路から離れたような気がした。この夢の例で も2つのディスクリミネータが関与していることが明らかだ。 ジェッ トコースターには乗りたくないという気持ちと、 あの事故の男を助け てやりたかったという気持ちである。 このように夢は幾つかのディス -183- クリミネータが物語りを作り上げるのである。 これらの例で見たように、 比較的アクティブになっているディスク リミネータが夢を支配しやすい。単純素朴に考えればアクティブに なっているディスクリミネータへは、 電気信号が入りやすい仕組みに なっているということである。 -184- 第二十六章 老齢化の問題 少子化と平均寿命の伸び 先進国では子供を沢山生まなくなっている。例えば日本で1人の女 性が一生の間に生む子供の数は 1996 年で 1.43 人である。ある世代が 次の世代によってちょうど再生産されるためにはこの数字が2.1程度 でなければならない。日本は 1.43 であるから、急激に人口が減って よさそうなものだが 1996 年の出生数 120 万人に対し死亡者数は 89 万 人にすぎない。つまりまだ人口は増加している。これは医学の発達で 様々な病気に打ち勝つことができ、 どんどん平均寿命が伸びているこ との関係している。実際1966年から 1996年までの30年間に日本人の 平均寿命は約 10 才も伸びた。生き続けよというディスクリミネータ の命令に押されて医学が進歩したために平均寿命は伸びたからであ る。 これからも平均寿命は伸び続けるわけだから老齢化は急激に進む のである。 老齢化が進めば社会保険料が上がると騒がれている。 しかし本当に それほど大きな問題だろうか。物余りの今日、生産性をさらに上げ て、 老人達に生きていくに充分な物を供給できるだけの生産力を確保 することはできる。それに平均寿命が伸びれば、年を取っても元気と いうことなので、労働可能な年齢の上限も高くなる。それに従って定 年を延長したり社会保険の支給開始年齢を高めれば良いだけである。 しかしながらディスクリミネータ解放の精神とはディスクリミネー タをできるだけプラスにした状態で生きることであり、 単に生きるだ けではいけないのである。 そういう意味で老齢化は様々な問題を含ん でいる。 [1]すでに述べたが自殺する確率は年を取ると急激に増える。人間 のディスクリミネータは高齢になるに従って 「自分は種の保存に役立 たない」と感じ、マイナスのシグナルを出すことが多くなり、特にそ -185- れが強い人が自殺するのである。 そのような高齢者に自分は種の保存 にまだ貢献できると感じさせなければ、本当の意味でディスクリミ ネータ解放にならない。 [2]高齢者が多くなれば介護の問題が出てくる。効率化は難しいか ら結局多くの若い人が巻き込まれるようになる。 誰も口に出さないか もしれないが、 老人の世話をするより子供の世話をした方が楽しいと 感ずる人は多い。老人は死んでいくだけだが、子供にはりっぱに成長 するよう夢を託すことができる。我々のディスクリミネータには、老 人の世話より子供の世話を優先せよと書き込まれている。 老人問題を 前向きに取り組んでいる人達は、問題はないが、老人介護に後ろ向き な人々も快適に介護ができるような仕組みを考えなければならない。 回想法 というわけで我々の未来を快適にするためには、 単に延命を考える のでなく老人たちに生きる喜びを与える工夫をする必要がある。 それ が介護を充実したものにする。 もちろん老人でも何らかの分野で活躍 する人であれば、 ディスクリミネータはマイナスにならないであろう し、その世話をする人達もやりがいを感ずるであろう。しかしそれは 例外である。 高齢者の生活の質(QOL)を高めるには、自殺の急増にみられ るようになぜ高齢者は不幸と感じるようになることが多いのかについ て、考える必要がある。それは能力的に若い人より劣ってきて、かつ てのように働くことができない、 つまり自分は役に立たないと感じる 傾向があることに関係している。 QOLを高める方法の一つとして、バトラ−によって回想法が提 案された。高齢者に回想をさせるのである。これは現在では医療行為 として認められていて、医療現場で広く行われている。回想法は効果 があるのは次の理由からと思われる。 -186- (1) 回想されるのは自分がまだ種の保存に何らかの貢献ができた 時代の出来事であることが多く、その頃作られたディスクリ ミネータの空作動を起こさせることができればQOLを高め ることができる。 (2) 様々な面で劣等感が強くなった高齢者も、遠い過去の知識と いう点では優越感を持つことができる。それによって自分の 価値を再評価し、自分が種の保存にまだ貢献できるというこ とが解ればディスクリミネータをプラスにできる。例えば学 校と老人施設をインターネットで結び、高齢者の過去の知識 を学校の社会の生きた教材として使えるような効率的なシス テムができたとしよう。その場合生徒にとっては生きた教材 と接することができ、学習により興味を持つことができると いうメリットがあるし、高齢者にとっては自分も教育に貢献 できるという喜びを味わうことができるので一石二鳥である 今後世界中の先進国では高齢化が進み、 老人問題が加速度的に重要 度を増す。 重要なのは高齢者の生活の質をどうやって高めるかという ことである。そしてその方法を探るには、生活の質を高めるとは、 ディスクリミネータの解放であり、 ディスクリミネータの空作動を起 こさせることだということを理解し、 その方法を考えなければならな い。 -187- 第二十七章 人類を脅かすもの 人類は滅亡しないか これまでの章で人類は種の保存に関して余裕がでてきたことを述べ た。すでに遠い昔に人類の天敵はいなくなった。それではもう人類を 脅かすものは無いのだろうか。残念ながら答えは否である。人類の滅 亡につながるかもしれないものが 2 つある。 1.兵器の発達 物質文明のおかげで人の生活は著しく改善した反面、 核兵器や化学 兵器、細菌兵器等、人類を全滅させるかもしれない強力な兵器も同時 に発明してしまった。 さらに悪いことに人のディスクリミネータには 戦争を起こそうとする傾向さえある。 しかし強力な武器をもつ先進国 では、恵まれた生活を守ろうとする傾向が強く、徹底した教育により 反戦のディスクリミネータが作られていて、 全面戦争を始めようとす る者は誰もいないのではないかと期待するしかない。 全面戦争になっ てしまえば勝者はいないのだから。 2.資源の枯渇と環境問題 今までは種の保存は数が増えれば増えるほど、より確かなものと なった。世界の人口は 1999 年には 60 億人を越えた。しかも年 1.7% の増加率で増え続け2050年には100億を越えると言われている。この 著しい人口増加が地球環境の悪化と資源の枯渇という問題を引き起こ している。 地球上で使われたフロンのためにオゾン層が破壊され人体 に危険な紫外線が地上に降り注ぐようになろうとしている。 また化石 燃料の燃焼のおかげで二酸化炭素が増加し地球の温暖化をもたらして いる。熱帯雨林の破壊も続いている。アフリカでは人口の急増で砂漠 地帯がどんどん拡大しつつある。 このまま資源を使い過ぎると地球上 の様々な資源が枯渇する恐れがある。急激な環境悪化により、絶滅す る種の数は年間数千種類に上ると言われ、 この数字は恐竜が絶滅した -188- 時代のものに匹敵すると言われている。 食料援助と環境破壊 このように次々と新しい問題が起きつつある。全面戦争の恐怖に 関しては、教育によって教えることができるし、現代戦争の悲惨さを 知れば誰も始めようとしないだろうと期待することができる。 しかし 環境問題と資源の枯渇に関して言えば、 ディスクリミネータは悪い方 向に作動している。地球上には限られた面積しかないし、限られた資 源しかない。このまま人口が増え過ぎたら環境は悪化するし、資源も 使い切ってしまうに違いない。残念ながらディスクリミネータは、人 口を増やすときプラスで人口を減らすときマイナスだ。 人口が急増し ているのは発展途上国だ。途上国は援助を求めている。飢餓に苦しみ 餓死する人が多い。そこに食糧を送りたくさんの人命を救う。そんな 人は必ずや英雄になれるしノーベル賞がもらえるかもしれない。 ディ スクリミネータはもちろんプラスだ。 しかし単なる食料援助だけでは 途上国の人口はどんどん増え続け、環境悪化は進むだけだ。 大きな船に乗っているとしよう。 まわりの海には溺れかかった人が 沢山いる。みんな助けを求めている。無制限にどんどん助けたとす る。自分ではもちろん良いことをしていると思っている。しかし船に は定員があるのだ。助けている人はそれに気づかない。やがて定員オ −バ−で船が沈没したとき、 やっと自分の行っていたことが悪かった と気が付く。船が沈没する直前まで、自分は良いことをしていると信 じて疑わなかったのに。 人口問題を無視して後進国援助をすることは、 この船の話と全く同 じだ。人口増加を助長する結果になってしまう。これは破滅への道を まっしぐらに向かっているようなものだ。資源は確実に枯渇するし、 環境は確実に悪化し取り返しのつかない状態になるのが目に見えてい る。対策はただ一つ。人口を増やさないことである。できれば減らし -189- た方がよい。 インドでは 1976 年強制的な家族計画を政策として実行したが、国 民の不満は一挙に高まり 1977 年の選挙では政府与党が惨敗し、人口 政策は失敗に終わった。中国では 1979 年に一人っ子政策が始まった のにもかかわらず、なおも毎年 1600 万人も増加しているといわれて いる。 現在急激に世界の人口が増加しているのは、 まだ問題がそれほど深 刻化していないからである。 例えば途上国で本格的に食糧が不足した ら先進国からの援助では足りなくなるなるであろう。 途上国の食糧生 産がそれに伴って増加しなかった場合は大量の餓死者を出す。 ただし それで人類が滅亡するわけではない。 イナゴが突然大発生して稲を食 い荒らす。稲を食い尽くすと大部分が死ぬが、一部は生き残って種は 保存される。これが自然の調節作用である。人間だって現在の人口爆 発を放置すれば同じ運命をたどるだけだ。 先進国がいくら援助しても いつか食糧が足りなくなり、大量の餓死者が出て、適正な人口まで戻 る。これが自然の調節作用であり、大量の餓死者がでるからといって 人類が滅びるわけではない。 もちろんそこに至る前に人口増大を防ぐ 方策が功を奏すれば、悲劇は回避できるであろう。そのように考えれ ば、単に食糧を送ることは悲劇の先送りに過ぎない。もっと大きな悲 劇が次に待っていることを覚悟すべきだ。もっと重要なことは、人口 増大をくい止める方法を真剣に考えることであるということになる。 イナゴが大発生したとき、 そろそろ食べ尽くしてバタバタ死に始めた とき可哀想だからといって大量に稲を運んできたらどうなるか。 イナ ゴはさらに数を増すがやがて運ばれてきた稲も食いつくした後にはさ らに多くのバッタが死ぬだけだ。 資源の枯渇の問題もこの自然調節作用を考えれば危機は乗り越えら れる。石油が無くなれば石炭や原子力、太陽光エネルギー、風力等に 置き換えられる。そう考えれば最も恐れなければならないのは、地球 -190- 環境の悪化の問題だろう。フロンがオゾン層を破壊してしまったら、 地球上で人類が生きるのが困難になる。 化石燃料を燃やしたために出 る二酸化炭素が引き起こす温暖化も人類の生活に重大な影響を与え る。こちらは自然調節作用は準備されていない。恐竜などのように地 球環境の変化のために絶滅した種は数限り無くいる。 そういう意味で 環境保護はこれからの人類の最重要課題の一つになるであろう。 -191- 第二十八章 利己的遺伝子説の限界と その改良 利己的遺伝子説 ここからは第一章で簡単に述べた進化の問題に戻ることにする。 こ こまでの議論でお解りのように、 利己的遺伝子説を使って人間の行動 を説明しようとすると、数多くの深刻な問題に遭遇する。しかしそれ らのすべてが、 淘汰が2段階で行われ人間や動物はディスクリミネー タに従って行動していることに気づくと説明が可能になる。 これを2 段階淘汰説とよぶ。利己的遺伝子説では説明不可能だが、2段階淘汰 説では可能になる例を以下に示す。 (1)心中したり、恋愛に失敗して自殺する人がいるのはなぜか。 子どもを残す前に死んでは遺伝子を残せないので、利己的遺 伝子説では説明不可能である。しかし人間のディスクリミネー タは種の保存に役に立たないと判断したら自殺するような仕組 みになっている。 [第八章] (2)せっかんして自分の子どもを殺す親がいるのはなぜか。 自分の子どもを殺しては遺伝子は残せないので利己的遺伝子説 の矛盾となる。人間はディスクリミネータに命令されて行動し ているのであり、異常作動ならこのようなこともありうる。 [第六章] (3)他人の赤ん坊を食べるよう命令されても、食べられる人はい ない。一方子ブタなら問題なく食べられる。利己的遺伝子説な ら他人の赤ん坊を食べられない理由はない。人間は他の動物と 同様に同種保護のディスクリミネータを持っている証拠である。 [第二十九章] (4)大震災の時など、災害時においてボランティアの人達が危険 覚悟で多数救助活動に参加する人がいる。これは自分の遺伝子 -192- を残すことに役立たない。種の保存なら意味がある。 (5)芸術・娯楽・スポ−ツ等は、ディスクリミネータの空作動とい う概念を導入しない限り理解できない。 (6)戦争で人は命をかけて集団のために戦うが、利己的遺伝子説に よれば、集団のために個体が命を捧げることはしないはずであ る。(第九章) 動物の行動に関しても利己的遺伝子説に矛盾する例は数多くある。 ここではその中で次の例を考える。 (7)ある種のカモメは同種のヒナをたべる。利己的遺伝子説によれ ば、同種のヒナを多く食べるほど適応度が高いから、果てしな く食べるようになり、絶滅してしまうはずである。 (8)子殺しを行う種が存在する。他人の子を多く殺す雄ほど適応度 が高いのだから、子殺しに歯止めがかからなくなり、絶滅する はずではないか。 このように利己的遺伝子を持っていたからといっても、 種の保存が 保証されるわけではない。 利己的遺伝子を持ちながら絶滅していった 多くの動物に注目すべきである。 このような議論に対し利己的遺伝子支持者から出されるかもしれ ない反論に対する反論を216頁に述べておく。 以下の章では、利己的遺伝子説はどうしてこれらのことがらが説 明できないか、どのように改良されるべきなのかを述べる。 文化的伝達の手段「ミーム」について 文化は古くから人間と動物の違いであるとされてきた。しかし実 際は文化的な伝達は動物の世界にも存在する。 ニュージーランド沖の 島に住んでいるセアカホアダレムクドリのさえずり方を研究したジェ ンキンスは、さえずりが九種類もあって、そのさえずりは遺伝的に伝 えられているわけではないことを発見した。 若いオスは自分のテリト リーに住んでいる別のオスのさえずりを真似する。また真似しそこ -193- なって別のさえずりを作り出すこともある。 またイギリスでは、一羽のシジュウカラがある時牛乳瓶の蓋を 突っついて開けられるようになると、 それがものすごいスピードで群 の間に広まり、 その数年後にはイギリス中の牛乳瓶がシジュウカラに 狙われるまでに至った。 この他にも、ニホンザルの社会で観察されたイモ洗いやムギ拾い が文化の伝達の例として知られている。 ドーキンスは遺伝的進化と文化的進化との類似性を指摘し、遺伝 子に対し文化的伝達の単位をミームとよんだ。 我々の言葉で表現すれ ば、ミームとはRAMの中に書き込まれるディスクリミネータであ る。これは書き込みが自由にできるから親から子へ、仲間から仲間へ と広がっていく。 ミームもディスクリミネータも名前は違っても実体 は同じようなものと考えるかもしれないが、 実際は決定的な違いがあ る。 ミームにはなぜそのようなものが作られるのかという生物学的な 説明が無いが、ディスクリミネータにはある。それではなぜ特定の ディスクリミネータが個体から個体へと受け継がれていくかを生物学 的に説明しよう。結論から言うと、ROMの中のディスクリミネータ をプラスにするためである。シジュウカラの場合、牛乳瓶の蓋を取れ ば、牛乳が飲め、食欲のディスクリミネータがプラスになる。これは ディスクリミネータの正常作動である。人間の芸術はどうだろう。ミ ロのヴィーナスの場合は性欲のディスクリミネータが空作動でプラス になる。一次ディスクリミネータをプラスにするものであれば、正常 作動でも空作動でも文化となる可能性があるし、 そうでないものは文 化にはなり得ない。 第二十一章で述べたように、人も動物もディスクリミネータのた めに生きているのである。 ディスクリミネータをプラスにするものが 見つかれば何だって取り入れる。 それが種の保存や遺伝子保存に関係 あろうとなかろうと、構わないのである。 -194- 第二十九章 種にとって害になる行動 種の保存に反するとは 動物の行動が個体の利益のための行動なのか、種の保存のための 行動なのかについて多くの議論がなされてきた。 そこで我々は第二章 から第二十七章までに、 人間の行動の多くの部分は個体の利益でも種 の保存でもなく、ディスクリミネータを人為的にプラスにする(空作 動) という概念を導入することにより始めて説明可能になることを述 べた。この本における我々の主張は、個々の行動が何のために行われ ているかを分析するのでなく、 行動を引き起こしているディスクリミ ネータというものが何の目的で作られているかを考えた方が、 はるか に見通しがよくなるということである。 このような立場から考えたと き、人間に備わっている様々なディスクリミネータが、個体の利益の ためでなく種の保存のために作られたと判断できる場合が数多く存在 したことは、すでに述べた通りである。 もちろん、一見すると種の保存に反するような行動も存在する。 しかし、それはそのように見えるだけであって、本当の意味で種の保 存に反する行動とは、 その種に属する個体数の定常的な減少をもたら す行動だけである。 種の保存とは必ずしも種の中の個体が仲良く協力 し合うことを意味するのではないし、 同種の個体が争い合ったり殺し 合ったりすることが直ちに種の保存に反すると言えるわけでもない。 なわばり争いも、 それが行われなかったら場合より各個体が生存しや すい環境を得ることができると考えると、 種にとって益になるのであ る。 カモメにはいろいろ種類があるが、いくつかのものは海辺に集団 で営巣する。一つの巣と隣の巣との距離はきわめて短く、極端な場合 にはカモメが首を伸ばせば隣の巣にとどくほど接近している。 ひなは 少し大きくなるとすぐ歩き回りたがるが、 隣の巣に入り込もうものな -195- ら、すぐに隣の巣の親鳥に食べられてしまう。そこで疑問がわいてく る。 同種の子を食べるという親鳥の行動は種の保存に反するのではな いかと。しかし、このことによってカモメが絶滅の危機に瀕するよう になるのではない。食べた分を補うのに充分な数の子どもが生まれ、 種は確実に保存されている。 カモメにも同種の個体に危害を加えてはならないと命ずるディス クリミネータが存在する。 これを同種保護ディスクリミネータと名付 けることにする。もしもこの同種保護ディスクリミネータが無けれ ば、カモメは同種のヒナを食べてばかりいて、遠方まで餌を探しに行 かない。 なぜならその方がはるかに自己保存のために効率的であるか らである。しかしそうなればたちまちカモメは滅びてしまうだろう。 同種保護ディスクリミネータがヒナを食べる頻度を押さえているから こそ、種の保存が達成されているのである。同種保護ディスクリミ ネータは子どもを多く生む種ほど弱くなる。 子どもが多くいれば少々 食べたり殺したりしても、種の保存には影響が少ないからである。 ヒキガエルは一度にたくさんの卵を生み、それがオタマジャクシ になり栄養分を取りながら子ガエルになっていく。 親ガエルは子ガエ ルをパクパク食べてしまうが、 だからといって一匹残らず食べてしま うわけではないから種の保存に害になるわけではない。 一方人間では同種保護のディスクリミネータは極めて強い。それ は他人の子どもはどんなに空腹でも食べる気がしないことからわか る。人間は同種の子を食べても良いほど多産ではないからだ。カモメ は人間とヒキガエルの中間で、 節度をもって同種の子を食べるのであ る。 同種保護のディスクリミネータの強さはそれぞれの種の固有の事 情により決定される。 同種保護のディスクリミネータの強さを測定す るには、 空腹にさせておいて同種の子と異種の子を餌として与えた場 合どちらを食べるか、 あるいはどれだけ空腹になれば同種の子を食べ 始めるかを観察すればよい。 -196- カモメの場合、同種のヒナを食べない方が、より種の保存が容易に なるのではないかという疑問が生ずる。 これは群淘汰を否定する議論 であり、我々の答は「その通り」ということになる。群淘汰であれば、 種の保存を最適にするような行動が進化する。進化するのは個体で あって種ではないのだから、その結果種の保存が達成される限り、種 にとって最善といえないような行動があるのは当然である。 逆に同種のヒナをどれくらいの頻度で食べることが適応度を上げる 最適戦略なのだろうか。 自分が食べることによって他から報復される ことはないと仮定すれば、 多く食べる方が食糧は豊富に得ることがで き、適応度は高まるだろう。そうすると同種のヒナをどんどん食べて しまう方向へと進化してしまい、 このカモメは絶滅してしまう運命に あるのではないのだろうか。実際はそうではないとすると、何がその 歯どめをかけているのだろうか。また、カモメ以外の動物で同種の子 を食べない種は極めて多いが、 なぜ同種の子を食べるという戦略が進 化しないのか。 また第三十二章で述べるように、ハヌマンラングールという猿は、 群を乗っ取った際に他人の子どもを殺す。 単に雄にとって利益になる (適応度が高まる)からということから、このようなことを行うわけ である。これらが種の絶滅を導く行動ではないと仮定すると、種の保 存に従った行動なのであろう。 それでは子殺しには限度があるだろう か。どの種でも子殺しが発生する可能性がある。雄が子殺しをして、 その代わりに自分の子どもを生ませるのであれば、 種の保存は守られ る。その場合は子殺しをする雄の遺伝子が成功するだろう。それなら ばどんどん子殺しが行われるようになり遂には絶滅するはずだが、 実 際は子殺しをする種は少なく、 また子殺しをする種であっても種が保 存される範囲内で節度を持って行っているように見える。 何が歯止め をかけているのだろうか。 またハヌマンラングール以外の動物で子殺 しを行わない種は極めて多い。 その場合なぜ子殺しを行うという戦略 -197- が進化しないのか。 カモメとハヌマンラング−ルに関するこれらの問題提起に対して、 次の章で答えることにする。 -198- 第三十章 絶滅に至る進化とその免疫 種の病気 現在地球上で絶滅している種の数は年間数千に上ると言われてい る。 ドーキンスは著書「利己的な遺伝子」の第十章において、 「もしも ある集団が、それ自体を絶滅に追い込むような進化的に安定な戦略 (ESS)に到達してしまえば、確かに絶滅してしまうであろう。 」と 述べている。つまり進化には絶滅に向かう進化もあるし、生き残る進 化もある。生物が地球上に出現して以来様々な種が生まれ、その多く は消えて行った。 現存する種よりも絶滅してしまった種の数の方が比 べ物にならないほど多い。現在生き残っている種は、膨大な数の種の 中から選ばれたほんの一握りのエリートということになる。 このような絶滅の運命にある種に属する個体の行動と、 そうでない 種の行動の分析は区別して行うべきである。 個体が種の保存を無視し 利己的になりすぎた場合、 あるいはどんな小さな理由であっても種の 保存に害になるものがあれば、絶滅してしまうであろう。個体レベル の進化においては種の保存など考えていないから当然である。 種の病 理学のような学問があってもよい。 種にとって害になるようなESS に到達した種を、病気にかかった種と定義し、そうでない種を健康な 種と定義する。 種を絶滅に追い込むESSに達したものは致命的な病 気にかかった種である。 人体に増殖するガン細胞を例に取ろう。ガン細胞は増え続け、やが て死を引き起こす。進行の非常に遅いものもあるし、良性のものは進 行しなかったり消滅したりする。 「人体のあらゆる部分は個体保存の ために活動している」という説が唱えられたとすると、 「ガン細胞の 活動はその仮説に反している」という反論が提唱される。 「人体の病 気の部分を除くあらゆる部分は個体保存のために活動している。 」と -199- 訂正すればより正確になる。ガン細胞は異常であり、それ以外の部分 は正常であると見なすのである。 病理学において死因の分類と究明が重要であるように、 種の病理学 でも種の絶滅の原因の究明と分類は進化論の発達に極めて大きく貢献 することは間違いない。その種の持つ進化的に安定な戦略(ESS) の中で、種を絶滅へと導く悪性の病のような戦略が存在するか、もし そうだとすると、それを防ぐようなメカニズム(免疫に相当)を持っ ているかどうか等を調べることができれば、 進化論の進歩に貢献する のである。 ここで前章の終わりに提起された問題に戻ってみよう。 カモメの場 合もハヌマンラング−ルの場合も病気にかかっている可能性が考えら れる。第一の場合は際限なく同種のヒナを食べるカモメ、第二の場合 は際限なく子殺しをする雄である。 このような個体が突然変異で出現 し、それが種全体に広まったら種を絶滅させてしまうが、実際は絶滅 しないのはなぜであろうか。 この疑問に答えるために次のような仮説 を立ててみよう。 個体の病気と同様に種の病気も数限りなく発生し、 そのたびに種は 絶滅した。個体の病気の場合は多くの個体が次々死んでいく中で、や がてその病気に対し免疫を持ったものが残る。 種の病気の場合も同様 である。病気にかかり次々滅びていく中で、その病気に対して免疫を もった種が残り、それが現在生き残った種であるとする仮説である。 病気の感染あるいは進行(進化)をくい止めるメカニズムを持ってい ると仮定すると前述の2つの問題を解明することができる。 病気の進行をくい止めるもの 第一のカモメの場合、同種のヒナを食べ始めることは、種の病気に かかったことを意味する。カモメにもいろいろ種類があり、その中の いくつかがこの病気にかかっている。 その結果絶滅に至ったものもあ -200- るだろうが、生き残っているものもいる。それらは何らかの理由で病 気の進行が止まったに違いない。 結核も死んでしまうまで進行してし まうものもあれば、途中で進行が止まってしまうものもある。その後 には肺に進行の止まった病変が残るのである。 同様なことが種の病気 の場合にも起こってもおかしくない。 病気の進行を止めているのは、同種保護のディスクリミネータで ある。一般的に、動物は子どもを保護しようとする。その存在を環境 の中に埋もれさせてしまう隠蔽色(保護色)にしたり、逆に「子ども の色」をつけて、攻撃をしないための目印にしたりする。カモメがヒ ナを食べるといっても、 守っている親を押しのけても食べるのではな い。天敵による攻撃に比べればずっと控えめだ。もちろん控えめに保 つのは同種保護のディスクリミネータのおかげである。 単独で巣をつ くろうものなら、天敵などの攻撃を受け危険度は増すから、集団営巣 のほうが安全である。 無情にも他人のヒナを食べているように見える が、その頻度は充分低く、実体は保護しあって生きているのである。 同種保護のディスクリミネータが弱い利己的な個体が発生し、そ れが遠慮なしにどんどん仲間のヒナを食べたとする。 その個体の適応 度は高まり、 同様にヒナをどんどん食べるという性質を持つその子孫 も増える。 ヒナを食べる頻度があまりにも増えすぎると同種であって も外敵と変わらなくなるので、近くで営巣ができなくなる。そうする と適応能力は激減し滅びる。 もしもその広がりが局所的に留まったと すれば、 その地域の群が消えるだけで種全体が絶滅するわけではない が、もしそれが種全体に広がったとすれば、その種は絶滅しただろう から、我々はそのような種を観察することはできない。つまり現在観 察されるのは、一定の強さの同種保護ディスクリミネータをキープ し、 それを弱めるような淘汰圧に対して免疫を持っている種だけであ る。 別の例として人間の場合を考えればよい。他人の子どもを食べま -201- くるような人間が突然変異で生まれてきて人類を脅かしているだろう か。世界中のどこにもそんな話は聞いたことがない。実に多種多様な 人間が生まれてきているように見えるが、同種保護のディスクリミ ネータだけは、全員がしっかり持っていて、それを欠くような利己的 な人間は生まれてこないということである。 カモメの場合、ヒナを全く食べないほうが、種にとって利益にな るではないかと思うかもしれない。 しかしどんな機械でも長所短所が あり性能の限界がある。 完璧な機械はこの世に存在しないと同様に完 璧なディスクリミネータも存在しない。良いディスクリミネータを 持っている種もいれば余り良くないディスクリミネータを持っている 種もいる。同種保護のディスクリミネータが完璧に動作しなくて、ヒ ナを時々つまみ食いしてしまうとしても、 それを補うに充分な繁殖力 を持っていれば、種の保存はなされるわけである。 ハヌマンラングールの子殺しも同様に種の病気である。155種類の 霊長類のうちの 20 種類に子殺しが認められている。他人の子を殺し て自分の子どもを育てさせるような雄が出現すれば、 適応度が他の個 体より高いからどんどん広まっていき、やがてその種は絶滅する。原 理的にはこれはどの動物でも起こりうるし、 実際多くの種がこの病気 で死に絶えたであろう。この 20 種類はこの病気の進行が遅いか、止 まってしまった状態にあるかであろう。子殺しは病変にすぎない。ハ ヌマンラング−ルに関する詳細を第三十二章で述べる。 利己が利他を駆逐するか 利他的な集団の中に利己的な個体が出現した場合、くい止める手 段がないから利他的な個体からなる集団は進化的に不安定であると言 われている。 これは利他的な個体は常に集団の利益のために行動する ので、利己的な個体もそれにより利益を得る。また、利己的な個体は 自分の利益のためにのみに行動するから、 結局利他的な個体より大き -202- な利益を得、利己的な個体は増えるからである。このことを利己が利 他を駆逐すると表現することにしよう。 しかし人間社会において利己 による利他の駆逐は起こらないことが多い。 強盗殺人をする人を利己的な人、しない人を利他的な人と定義す ると、 確かに強盗殺人をして生存に必要な物を手に入れればその個体 にとって利益になるかもしれない。しかし、そのような人が増えれば 人類は滅亡するのは必至で、 このような利己的な個体は種の病気の病 原菌のようなものである。 人類が滅亡しないのはこの病原菌が広まら ないようなメカニズム(免疫)を持っているからである。そのメカニ ズムとは逮捕、収監、処刑等その個体適応度を下げるものである。そ れ以外の犯罪に関しても利己的な個体によるものが多い。詳しくは、 第九章の中の「利他行動を助けるもの」の中や第十二章、第十三章等 で述べた。 利己の定義 犯罪とは利己的個体が行う悪行であると誤解されると困るのでコ メントを付け加えたい。 ここで述べている個体の利己とは自分の遺伝 子をできるだけ多く残すということであり、 むしろ遺伝子の利己とい うべきでものである。 通常の意味の利己主義者とは大きく異なること に注意して頂きたい。実際、犯罪の中には種の保存はもちろん、遺伝 子の保存にも反しているものも多い。 例えば自分の子どもを殺す事件 もよく報道される。ここまで使った個体の利己という言葉であるが、 利己的遺伝子説で使われている利己の意味と同様で、 遺伝子の保存と いう意味なのだから、これらは利己的な行動ではない。一方、母親が 溺れる我が子を助け、自らは溺れ死んだら、その行為は遺伝子保存な のだから母親の利己なのである。 犯罪とは自分の子どもまで含め、自分以外の誰かに何らかの害を 及ぼすものである。もちろん遺伝子保存にも害を及ぼすこともある。 -203- これに対しで利己的個体の利益のための行動とは、 自分の遺伝子を残 すための行動と定義されているのだから、 自分と血のつながった子孫 の繁栄への貢献である。子孫繁栄という意味では「種の保存のための 行動」と「遺伝子保存のための行動」とは共通である部分も多く、通 常このような場合は犯罪にはならない。 なお他人の子どもでなく、自分の子どもを殺すのは利己的遺伝子 説では全く説明不可能である。 ディスクリミネータはなぜ自分の子ど もを殺させることがあるのだろうか。 保険金殺人の場合はお金が欲し いのであり、 遺伝子保存を犠牲にして自己保存を行おうとするわけで ある。 折檻して殺す場合は自分の思うとおりに子どもを育てようとし て、従わないから暴力を振るい、それが度を越した場合である。これ は教育が度を越したというべきである。 酒を飲んで乱暴した場合は異 常作動である。 パチンコの場合はディスクリミネータの命令でなく事 故である。 種の病気の種類 種の病気には個体の病気と同様に軽いものと重いものがある。体 力があれば軽い病気は克服できる。体力があるとは、種の病気で失わ れた個体の数を補う能力があるという意味である。 また腫瘍にも良性 と悪性があるように、種の病気も良性と悪性にわけられる。 良性の病気:種に害を与える個体の数、あるいは被害を受ける個体の 数が何らかの理由で一定の限度を超えず、種の滅亡をも たらさない。 悪性の病気:種に害を与える個体の数、あるいは被害を受ける個体の 数が際限なく増加し種が滅亡に至るその他病気の感染の 速度から分類すると、急性と慢性に分けられる。 -204- 第三十一章 2段階の自然淘汰 個体レベルの淘汰と種レベルの淘汰 前章の議論で解るように、自然淘汰は2段階で行われる。第一段 階は個体レベルの淘汰であり適応度が高い個体が増えることが原因と なり、個体の性質が変化し、それが種全体へと広がる。その個体の変 化に伴って、それが属する集団(または種)が、違った性質をもつ集 団(種)へと進化する。第一段階の淘汰は個体レベルの進化を導き、 その進化が種の保存にとって好ましい方向に起こるか、 好ましくない 方向に起こるかはわからない。 進化が好ましい方向に起こった場合種 は生き残る。好ましくない方向に起こった場合種は病気にかかり、最 悪の場合絶滅する。これが第二段階の淘汰である。第一段階の淘汰で は個体の適応度が選択の基準になるのに対し、 第二段階の淘汰では種 の保存の能力が選択の基準になる。 同種の個体の保護 第二段階の淘汰は第一段階の淘汰よりはるかに長い時間を必要と する。一つ例を挙げてみよう。肉食動物は動物を殺し餌とするのであ るから、一生の間他の動物に対し攻撃を続けなければならない。しか し同種の個体を他種の個体と同じ頻度で攻撃していたら、 繁殖能力は 激減する。 この場合種の維持が可能なのは非常に多くの卵を産む動物 で、少々同種の子を食べても大勢に影響しない場合だけである。産仔 数の少ない動物を出現させるには、 同種の個体を食べさせないために 同種保護のディスクリミネータを持つ必要がでてくる。いずれにせ、 どれが餌でどれが餌でないということを識別するディスクリミネータ は持たなければ、種の保存どころか個体保存すらできないわけであ る。餌とすべきでないものの中に「同種の個体」という一項目を追加 するだけで飛躍的に繁殖能力が増大するとなれば、 当然追加されただ -205- ろう。この追加は種の保存には利益になるが、個体の適応度という 面では他の個体より確保できる餌が少ないのだからマイナスである。 2 段階淘汰説も第一段階の淘汰は利己的遺伝子説と同様、適応度 の高い個体の性質が進化する。となれば「同種の個体」という一項 目の追加は不可能なのではないかと思うかもしれない。共食い回 避、あるいは同種殺しの回避の説明は通常メイナード・スミスのタ カ・ハトのモデルを使って行われ結論として動物が同種殺しをしな いのは自分が大けがをしたり殺されたりしたくないからだとされて いる。しかし、同種の子を食べるかどうかについてはこのモデルで は説明されない。 しかしもし餌が十分すぎるほどある環境であったらどうなるであ ろう。この一項目の追加は個体の適応度を下げないだろう。同種の 個体を食べなくても餌は充分なのだから。同種の個体を食べるもの も、食べないものも適応度が同じ場合は、遺伝的浮動により遺伝子 の割合が変化し、最終的にどちらの遺伝子が広まるかは偶然によっ て決まることになる。すべてが同種の個体を食べるものに戻ってし まう確率はあるが、種全体が同種の個体を食べないものになる確率 はゼロではない。このようにして種全体が同種保護のディスクリミ ネータをもつようになる可能性があるのである。 同種保護のディスクリミネータを持つに至った種には、新しい可 能性が大きく開けてくる。魚やヒキガエルのように子どもを多く産 まなくてもよいため、大型で知能が高い動物への進化が許されてく る。確かに同種の個体を食べないために、若干その個体としての適 応度は落ちてくるかもしれない。しかし逆に種としての適応度は高 くなる。産仔数が少ない場合、同種保護のディスクリミネータがあ る場合は無い場合よりはるかに種の繁殖能力が高くなる。同種保護 のディスクリミネータなしでの種の維持は不可能な場合も多い。 同種保護のディスクリミネータがある集団の中に同種保護のディ -206- スクリミネータが無い個体が突然変異で出現したらどうなるか。つ まり利他的な集団の中に利己的な個体が出現した場合である。利己 が利他を駆逐するかもしれないが、共食いを始めた集団は間もなく 絶滅するに違いない。すなわち利己的な個体の出現は、病気の発病 に相当し、免疫を持ち病気にかからなくなった種のみが現在まで生 き延びているわけである。このように、単に個体の適応度の高い遺 伝子が増えるわけではない。淘汰は2段階あるのである。 連結適応度 法則をもっと現実に近づけようとするなら、連結適応度を 連結適応度=個体の適応度×種の適応度 と定義し、連結適応度が高い遺伝子が増えるといったほうがよい。遺 伝子が増えるためには単に個体の適応度が高いだけではだめで、 連結 適応度が高くなければならないのである。淘汰は 2 段階あり、両方の 淘汰で生き延びなければならないからである。 利己的な個体が出現すると、種は病気にかかり絶滅する。人間は なぜ絶滅しないのだろうか。 突然変異で同種保護のディスクリミネー タを持たぬ利己的な人間が現れて、 他人の子どもをパクパク食べてし まい、そのような人が沢山子どもを作って、やがて人類はそのような 人だらけになるだろうか。 そのようなことはないことを我々は知って いる。それを止めるメカニズムが存在するからだ。そのメカニズムは 種の病気に対する免疫であり、その内容は (1)他人の子を食べられるような人間はほとんど生まれてこない。 なぜなら同種保護のディスクリミネータはハ−ドコアを作って いて、失われないようになっているからである。 (2)ごく希にそのような人間が出現しても、すぐに処罰を受けるの -207- で、子どもをどんどん増やすことはできない。 ただし動物の場合は(2)は、ほとんど存在せず(1)だけである。 これを一般化すると、長年生き続けることができた種は、 「利己が利 他を駆逐」してかかる種の病気に対する免疫をもっていることにな る。免疫を持たぬ種は滅んでしまって見ることができないだけだ。そ の免疫とは (1)種の病気の原因となる病原菌に相当する利己的な個体を出現させ ない。 (2)万一発生した場合でも、それが増えなくする。 (3)種の病気にかかった場合でも、その進行を止めその病気を抱え たままでも生き続けるだけの体力を持つ。 第一の淘汰の結果種の病気にかかり種にとって害になるような行 動を始めた場合でも、種の保存を充分余力をもって達成していて、し かも病気の進行が何らかの手段で押さえられる場合にはその病気に耐 えて種が維持されることはあり得る。カモメがヒナを食べることや、 ハヌマンラングールの子殺し等はこの例である。 カモメの場合は同種 保護のディスクリミネータが全く無くなったわけではなく、 やや弱く なっただけであり、 それがどんどん弱くなる方向へ進化しないメカニ ズムを持っているから生き延びることができるのである。 タカ・ハトのモデル 簡単にタカ・ハトのモデルを説明しよう。詳細は行動生態学とし て参考文献で引用した二冊の本を参照して頂きたい。2種類の戦略だ けがあるゲームを考える。 「タカ」は攻撃的で出会った相手を傷つけ たり殺したりしようとする。 「ハト」はディスプレーするだけで危険 な戦いを行わない。この進化ゲームで、勝者には 50 点、敗者には 0点 が与えられるとする。傷ついた場合のコストは− 100 点とし、ディス プレーに時間を使うことのコストを− 10 点とする。この利得は適応 -208- 度への影響を尺度とする。 集団中すべてがハトであったとする。勝つ確率は0.5とするから平 均25点を得るが、ディスプレーのコストを引くと15点の利得となる。 この集団に少数のタカ戦略を取る突然変異が出現すると大変有利であ るからタカ戦略はすぐに集団に広がっていく。 タカはハトに出会うと 必ず 50 点の利得を得るからだ。だから、すべての個体がハト戦略を とることは進化的に安定な戦略(ESS)でない。 しかし、タカが集団全体に広がってしまうわけではない。すべての 個体がタカという集団では平均利得は− 25 点となる。その集団に突 然変異でハトが現れたら、そのハトの平均利得は0点なのでタカより 有利であり、ハト戦略はどんどん広がっていくので、すべての個体が タカ戦略をとるような集団もESSではない。 しかしタカ戦略とハト 戦略が混合しているものはESSになりうる。 タカの平均利得がハト の平均利得に等しくなるときが安定な進化的平衡状態になるときであ る。詳しい計算は省略するが、これはタカが 7/12、ハトが 5/12 のと きである。 ESSは次の 2 つの異なるやり方で実現することができる。 (1)集団は、タカかハトの 1 つの戦略しかとらない個体で構成され ているとすると、7/12 がタカ、5/12 がハトになる。 (2) 集団が両方の戦略を取りうる個体から構成されているとし、各 個体が争いの時にランダムに戦略を選ぶとすると、タカ戦略の 確率が 7/12、ハト戦略の確率が 5/12 の時にESSとなる。 ESSに達した集団は内部から突然変異体が出現したとしても, 進 化の結果ESSに再び導かれるはずである。 このことをドーキンスは 「内部からの裏切りに対して免疫がある」と言った。 このモデルからわかるように、第一段階の淘汰の結果は、集団の 利益を最大にするものではない。 集団の利益の最大は全員がハト戦略 を取ることだからである。しかし淘汰はこれで終わりにならない。こ -209- こで適応度への影響を得点の尺度として設定しているが、 その得点に は多様性がある。 アフリカ人と日本人とは同じ種であっても様々な違 いがあるように実際は同じ種であっても、集団によって、また時間的 経過によって得点は変化し、その結果平均利得の増減がある。平均利 得が一定レベル以下になると、その集団は絶滅してしまい、結果とし て平均利得の高い集団のみが生き残るという結果になる。 これが第二 段階の淘汰であり、 種の保存の能力を獲得するのはこの段階の淘汰で ある。 タカ・ハトのモデルを使い現実の動物の行動を記述することを試 みよう。例えばライオンは成熟したライオンを襲って殺すことをせ ず、全てハト戦略をとる。突然変異でタカが現れたとしても、ライオ ン全体に広がりやがてESSに達するなどということは考えられな い。 そのずっと以前に群が成立しなくなりライオンは絶滅してしまう と思われるからである。 成熟したライオンを襲う目的が補食であると すると、益は僅かで害が大きいので勝者には 1 点、敗者にはマイナス 500点程の差をつけなければならないだろう。そうするとタカとハト が共存するESSでは、もちろん平均利得が低すぎて絶滅してしま う。すなわちライオンが成熟したライオンを襲わない理由は、襲うよ うになればすぐに絶滅してしまうからである。 全員が同種に対してはハト戦略を取り、弱い異種に対してはタカ 戦略を取れば、異種の攻撃により得られる利得は 1 でも、負ける確率 が限りなく 0 に近くなり平均利得は飛躍的に向上するのである。 前者と後者で、ライオンにとっての違いは僅かである。それは同 種の個体を異種の個体と区別し、 同種の個体を攻撃してはならぬとい うディスクリミネータを書き込むだけで良いのである。 僅かこれだけ で平均利得は飛躍的に向上するのである。 百獣の王たるライオンの体 を作り上げるまでには、多くの淘汰を必要としたに違いない。獲物の 習性に応じた機敏な動きに加え、 相手を倒す強力な武器等を獲得する -210- のは容易なことではなかったはずだ。獲物でも、ゾウなどの大型のも のや小さすぎるものは襲わない。どれは襲い、どれは襲わないという ことを沢山ROMやRAMに書き込まなければならなかったに違いな い。 それら多数の形質を獲得するたびに少しずつ平均利得が向上した だろう。 その中で同種の個体を攻撃してはならぬというディスクリミ ネータに書き込むことは、非常に容易なことであり、しかも劇的に平 均利得を向上させ繁殖力を一気に増加させることができたのである。 当然のことであるが平均利得の向上とは種の利益を拡大すること に他ならない。それは第二段階の淘汰によって可能となる。 同種の個体に対する攻撃はもっぱら資源の獲得をめぐるものであ り、資源としては (1)餌 (2)なわばり (3)繁殖相手 等が考えられる。 捕食の場合、産仔数の少ない大型動物になると、敗者のマイナスが 大きすぎて、とても採算が取れない。採算が取れるのは、多産の魚、 ヒキガエル等が自分の子どもを区別できず食べてしまうような場合の みであり、カモメが雛を時折つまみ食いをする程度なら、なんとか採 算割れを免れるのである。 しかしなわばり争いなら話は違う。なわばりを持つ動物であれば、 攻撃を仕掛けない限り、人口が増えすぎて餌の確保が難しくなる。な わばりを持つ種で、 なわばりを主張しない個体が突然変異で現れたら どうなるかを考えよう。なわばりを守ろうとする個体を「堅持派」 、な わばりを無視しようとする個体を「無視派」と呼ぶことにする。モデ ルに自由度を持たすために、 堅持派は自分のなわばりに入ってくる個 体に対し一定のダメージaを与えるとしa=0の場合は、 ディスプレ -211- イのみで相手に害を与えないとする。堅持vs堅持では勝者に10点、 敗者に−a点を与える。堅持vs無視では、必ず堅持が無視を追い出 すから、堅持は 10 点、無視は 0 点を獲得する。無視vs無視の場合 両者とも狭い地域に生活するようになるから−1点を両者に与える。 計算の結果は次のようになる。 堅持派が与えるダメージaが小さいとき(a<10) 、全員が堅持派 であるのがESSとなる。しかしダメージが 10 点を超えると、戦わ ない無視派が入ることを許してしまう。無視派の確率をχとすると χ=(a−10)/(a+12) となり、堅持派と無視派の混在状態がESSとなる。ここまでが第一 段階の淘汰である。 第二段階の淘汰では、平均利得を最大にするように進化が進む。こ のモデルではaの値を変えて、 平均利得が最大にするようなaを選ぶ ことである。 詳しい計算は省略するがa=0場合が平均利得が最大に なり、この場合全員が堅持派である場合がESSとなる。 この結果は現実の動物社会を記述している。 「なわばりは全員で守 る。ただし自分のなわばりに入って来た同種の個体に対する攻撃は、 できるだけ相手に傷を負わせないように行わなければならない。 相手 に深手を負わせる位なら、 なわばり争いは止めたほうがまだましだ。 」 ここでは簡単のためにパラメータをaだけにしたが、実際はなわ ばりの大きさ、その環境における獲物の多さ、獲物を獲るのがどれだ け容易か等、 多数のパラメータがありそれらを変化させ平均利得が最 大になるパラメータの組を求めて進化は進むことになる。 これはコン ピュータで最大値を探す場合のモンテカルロ法に似た方法であり非常 に時間がかかる。環境の急激な変化にはとても対応仕切れず、平均利 得を上げるために時間をかけゆっくりと進化が進んでいくであろう。 次にメスという資源をめぐるオスの戦いの場合を考える。この場 合オスの勝者が一匹だけ残り、 敗者が全員殺されても十分種の利益は -212- 確保されるという点で、なわばり争いとは異なる。なわばり争いの場 合は敗者であっても、 別のなわばりを探すことができれば子孫を残す ことができるかもしれないし、争いの頻度もはるかに高いので、それ だけ相手を傷つけないよう注意が必要となる。 メスという資源をめぐ るオスの争いに対しては、 どのような形であれ負ければ子孫を残す確 率はゼロになる。敗者復活があるとすれば、勝ったオスが病気になっ たり、死んだり、老いてきたりしたときである。しかし一生でただ一 回のチャンスである場合もあるだろう。 それならば負傷あるいは極端 な場合死も覚悟して全力で戦うしかない。 なわばり争いの場合、全個体が十分広いなわばりを確保できる場 合は、争いというより単に割り当ての問題だけかもしれない。それに 反してメスという資源をめぐる争いの場合、 最強の個体を選び出す争 いになる可能性があり、この争いにより、争いに強い個体の遺伝子が 引き継がれていく傾向があるだろう。 種の保存にとって争いに勝つこ とが重要である場合はこの戦略が採用される可能性がある。 ここで述べた平均利得の高さは繁殖力と言ってもよい。平均利得 が高くなると、個体数が増加するから、その種に属する個体の絶対数 は増加する。 利他行動の進化 リカオン、シロアリ、ミツバチなどに見られる他人の子の世話や 自己を犠牲にして集団を守る行動等の利他行動はどのように解釈すべ きであろうか。群淘汰説では説明は簡単である。群にとって最も利益 になる行動であれば自己の犠牲も辞さないということである。 利己的 遺伝子説は自分の遺伝子を残すために役立っていれば、 利他行動も進 化が可能という立場に立つ。 利他行動を行う相手が自分と濃い血縁関 係にあれば、利他行動であっても自分の遺伝子を助けることになり、 自分の遺伝子を残すことに役立つという説明である。 我々はこの問題 -213- に関して全く新しい考え方を示すことにする。 シロアリを考えてみよう。シロアリはコロニーの中で近親結婚的 な交配を繰り返しその子孫は遺伝的にどんどん近く均一になってく る。最初の王アリと女王アリの遺伝子は、どのようなコロニーができ るか、 そしてそのコロニーが生き残る能力を持つかに関し大きな影響 力を持つ。 つまりこのような集団に対しては近似的にコロニー全体を 一つの個体として扱った方がよいということである。 例えば個体には 手・足・内臓・骨・皮等があり、白血球のように体中に入った細菌を 食べて死ぬという利他行動をするものもある。 なぜこのような利他行 動が進化したかを悩む人はいないだろう。体全体が生き延びれば、白 血球は死んでもよいのだ。これと同様に濃い血縁関係にある集団で は、集団全体を一つの個体と見なすことができる。王アリ、女王アリ、 働きアリ、 兵隊アリのすべてで一つの拡張された個体を形成している と考えることができる。 通常の個体でも沢山の遺伝子が体中の細胞に分かれて散在してい る。沢山の遺伝子が一つの個体の中に散在しようと、多数の個体の中 に散在しようと、遺伝子にとっては大差はない。つまり物理的に離れ てはいるが、 これら沢山の個体はそれぞれが拡張された体の一部であ るとみなすことができるわけである。 コロニー全体が拡張された一個体であり、コロニーに散在する遺 伝子の共通部分が、このコロニーの遺伝子であるから、この遺伝子の 共通部分に対して利己的遺伝子説が成立する。 すなわちこのコロニー の遺伝子を保存するような行動は進化するのであり、 当然コロニーを 守るための利他行動は進化する。 これは個体における白血球の死と同 様である。遺伝子の利益とは、このコロニー全体の利益であり、これ はまさに群淘汰にすぎない。 こう考えると利己的遺伝子説と群淘汰説 は等しい。 この考えに従えば世話をする者とされる者との血縁関係な どどうでもよく、コロニー全体の利益がすべてである。コロニーを拡 -214- 張された個体と見なし、コロニーの適応度を定義するとき、淘汰の唯 一の基準はコロニーの適応度の高さであり、 世話をする者と世話をさ れる者との血縁関係は淘汰の基準にならない。 別のコロニーから出てきた新しい王と女王との異系交配によって 新しいコロニーが始まる。これが拡張された個体の子どもである。こ のようにして拡張された個体も通常の個体と同様の進化の過程をたど る。 一つのコロニーに属するすべての個体が完全に同一の遺伝子を持 つなら、この考え方に反対はないだろう。完全に同一でなくても、近 似的に等しい遺伝子を持つならその近似の範囲内でこの考え方は成立 するし、 遺伝子が受け継がれていく様子は通常の個体の生殖と同様で ある。淘汰はコロニーの適応度が高いかどうかにより決まるのであ り、 コロニーの適応度を高めるためにコロニー内の個体の利他行動が 進化する。 どんな群でも血縁関係のある個体の集団であれば、群の共通の遺 伝子が存在し、ある近似で(シロアリの場合より近似は悪くなるが) この群が一つの拡張された個体とみなすことができる。 ここでも遺伝 子が一つの個体の中に散らばろうと、沢山の個体の中に散らばろう と、遺伝子にとっては大差は無いのである。ある近似の範囲で拡張さ れた個体とみなされれば、 その拡張された個体の適応度の差から発生 する淘汰があるはずである。 それが群に対する利益のための進化であ り、シロアリほど強くないにせよ一定の範囲の利他行動が進化し、同 種保護のディスクリミネータがつくられる余地がでてくるわけであ る。 すでに述べたように同種保護のディスクリミネータが失われたと たん、その種あるいは群は滅んでしまう。これは種の病気であり現存 する種ではこのような病気に対する免疫ができている。 つまり第二段 階の淘汰で作られた同種保護のディスクリミネータは、 ハードコアを 形成しており簡単に消えない仕組みになっている。 -215- 利己的遺伝子説では第一段階の淘汰しか考えていないので様々な 矛盾が生じ、 群淘汰説では第二段階の淘汰を第一段階にもってきたた めに矛盾が生じた。 しかし血縁関係の濃い群の中の個体が持つ共通の 遺伝子の利益ということを考えるならば、 利己的遺伝子説と群淘汰説 はドッキングして2段階淘汰説になるのである。つまり第二段階の淘 汰は、 群の中の個体に共通な遺伝子が一つの個体に準じて利己的にふ るまうことからきているのである。 利己的遺伝子説の欠陥は、192、193頁を始め、この本全体 で繰り返し指摘した。 索引の237頁には矛盾点を指摘した頁の一覧 を書いておいた。 利己的遺伝子説の支持者が一つ一つこれらの指摘に 対する反論を作文したとしよう。その作文をよく読むと、単に種の保 存という言葉を恐ろしく複雑な言い回しで言い換えたにすぎないこと が分かるだろう。 これは地動説による天体の運動の説明を天動説で言い換えること に似ている。 地球も太陽も有限の質量を持つ限り天動説も地動説も完 全には正しくなく、実際はその間に真実がある。地球は太陽の回りを 回っているのでなく両者の重心の回りを回っているのである。 重心が 太陽に近いために地動説のほうが天動説より天体運動の記述が容易に なるだけで、天動説でも完全に間違いとは言えない。天動説だと天体 運動の記述が恐ろしく複雑になり、 数値計算に要するコンピュータ使 用時間がはるかに長くなるだけだ。 同様に利己的遺伝子説でも完全に間違いとは言えず、単に2段階 淘汰説による説明を複雑に言い換えただけだ。 第二段階の淘汰は種の 保存に有利な性質が進化すると説明すれば単純明快である。 それを強 引に遺伝子保存で説明しようとすれば説明は恐ろしく複雑になる。 更 にやっかいなことは利己的遺伝子説の支持者は種の保存という言葉を 一言でも言うとその意味を深く考えもせず群淘汰を使っていると誤解 してしまうことだ。 -216- 第三十二章 ハヌマンラングールの子殺し 種の保存に反しない子殺し ハヌマンラングールは1頭の雄と数頭の雌が単雄群とよばれる群れ をつくって暮らしている。 このハヌマンラングールの群れにはなわば りがあるが、なかには群れを作れなかった雄がいる。こうした群れか ら離れた孤独な雄たちは、群れの頭である雄の座を狙っている。 群れを支配している雄を襲って、 うまく乗っ取りに成功したハヌマ ンラングールの雄は、自分のものにした群れの雌と次々交尾して、自 分の子どもを増やそうとする。しかし、群れの多くは、それまでの支 配者だった先代の雄の子どもをかかえている。 特に1歳未満の赤ん坊 がいる雌は、赤ん坊に授乳している最中であるから、ホルモンの作用 によって発情しない状態におかれている。 せっかく群れを奪い取っても、肝心の雌が発情しないのでは、雄は 自分の子どもをつくることができない。そこで、群れを奪い取ったハ ヌマンラングールの雄は、子どもを抱いて逃げる母親を追い詰めて、 赤ん坊を取り上げて咬み殺すのである。こうした行動は、1 歳未満の 赤ん坊をすべて殺すまで行われる。 赤ん坊を殺されたハヌマンラングールの母親たちは、 乳の分泌が行 われなくなり、1 週間から 1 カ月後にはまた発情する。こうして、新 しい群れの支配者である雄は、 群れの雌と交尾することができるよう になる。この結果半年もすると、群れの中のほとんどの雌がニュー リーダーの子どもを産み、新しい群れが形成されるのである。ハヌマ ンラングールの群れの周囲には、必ず群れを狙う雄がいて、こうした 雄による群れの乗っ取りは日常的な出来事だといわれている。 種全体で子殺しが横行するようになれば子殺しを行う性質を持つ 雄は適応度が高いのでその割合は増加するが、 全体でみれば子は減っ て行くので種は滅びる。 種の病気にかかったハヌマンラングールが生 -217- き延びた理由は何であろうか。次に列挙してみよう。 (1)雄が群を乗っ取ったときのみ子殺しが行われる。乗っ取りは3∼ 4 年に一度位しか起こらない。これが個体数の減少を防いでい る。のべつ幕無く子殺しが行われていたら、当然種は滅びてい ただろう。 (2)雄は 1 歳未満の赤ん坊しか殺さない。しらみつぶしの子殺しで あったなら種は滅びていただろうが、限定的な子殺しであった ために種は救われたのである。 (3)子殺しの後ハヌマンラングールの母親たちは、乳の分泌が行わ れなくなって、1週間から1ヶ月後にはまた発情する。こうして、 新しく群に収まった雄は、群の雌と交尾することができるよう になる。この結果半年もすると、群の中のほとんどの雌が新し い雄の子どもを生む。つまり子殺しが個体数の減少に導かない ようになっているのである。 これが種の病気の広がりを押さえ種を保存するしくみである。利 己的な個体がこのようなことを考慮に入れて行動したのかと言えばそ うではない。 前にも述べたように第一段階の淘汰と第二段階の淘汰は 独立である。 利己的個体はこれらの事を無視して様々な社会を作った だろう。その多くは消滅し我々が現在観察できるのは、その中で種の 保存を満たしていたごく限られた種のみである。 つまり第二段階では 種の保存という観点から淘汰が起こったのである。 子殺しは、なぜ無くならないか 我々は動物の行動がディスクリミネータによって支配されている と述べた。ハヌマンラングールがなぜこのような行動を取るように なったのかをもっと詳しく調べてみよう。 雄による単雄群の乗っ取り は、最も強い優秀な雄を選ぶため、あるいは老いた雄から若い雄への 交代の儀式にすぎない。雌という資源をめぐる争いである。優秀でな -218- い雄の子どもを殺し、選ばれた最も優秀な雄の子どもを育てること、 あるいは世代交代をすることは、種にとって利益になるのである。 ハヌマンラング−ルが単雄群を作るようになったのは、群を乗っ 取った雄はその群から他の雄を追い出せというディスクリミネータが ROMに書き込まれたからである。 このようなディスクリミネータが 存在する場合もしない場合も、種の維持は可能であり、ハヌマンラン グ−ルの場合はたまたま存在する場合であったということである。 群の乗っ取りを試みさせるのは、 雌に近づきたいとする性欲のディス クリミネータである。 新しい雄が子殺しを始めたとき、 雌は子どもを連れて逃げ回るが逃 げきれず、結局子どもは雌の意志に反し殺されてしまう。雌はなわば りを捨て群を離れては生活できないから、群を去ることはできない。 その結果子殺しを許してしまうことになる。 結局利益を得たのは群を乗っ取った雄だけであり、 雌の利己に反し て子殺しが行われ、 群に残れなかったすべての雄にとっても利益はな かった。利己的遺伝子説が主張するように、すべての個体が自分の遺 伝子を残すことに最も都合のよい行動を取るように進化するというの であれば、 ハヌマンラング−ルの一連の行動が説明できるのかは疑わ しい。雄による群の乗っ取りやその後に起こる子殺しも、統率の取れ た団体行動のように見える。 このような場合全員が利己的に行動して いたら統率が取れたものになれないのではないだろうか。 2段階淘汰説で子殺しを説明すると次のようになる。現在のハヌマ ンラング−ルの雄は子殺しを行うが、 その中に単雄群を乗っ取っても 子殺しを行わない個体が突然変異として現れたとしよう。 子殺しを行 うことによる適応度の上昇は著しい。 逆に子殺しによって適応度を減 少させる理由は、ほとんど見あたらない。従って子殺しを行わないと いう個体の遺伝子が広まる可能性は無く、 乗っ取った雄は全てが子殺 しを行うという状態がESSである。 -219- 先程述べたように子殺しは個体の減少をもたらさないよう巧妙に 行われている。しかも強い雄の子どもを育てるという意味では、若干 種に利益をもたらす可能性もある。すなわち種の適応度(平均利得) の減少は少ない。前章で定義したように 連結適応度=個体の適応度×種の適応度 であり、連結適応度は大きな値を維持できる。だから子殺しは無くな らないという結論になるのである。 この例では、なぜ種の適応度の減少は少なくて済んだかというと 偶然である。 進化は種のためには起こらないという表現はある意味で 正しい。しかしながら様々な方向に進化し、その中で種の適応度の減 少が少なかったものだけが残り、この例もその一つである。そういう 意味では進化が種のために起こっているともいえる。 第一段階の淘汰 による進化は種のために起こらないが、 第二段階の淘汰による進化は 種のために起こるというのが正確な表現である。 もう少し2段階淘汰説を理解するために、具体的なモデルを考え よう。 ハヌマンラング−ルのような単雄群を持つ動物で子殺しが行わ れたとする。このときa歳以下の子どもをすべて殺すとする。aが増 加すると子殺しを行う雄の適応度は増加する。 簡単のため適応度はa に比例するとする。 しかしaが増加すると種の適応度はそれより速く 減少する。これがexp(−a)で表されるとすると連結適応度は、 a exp(−a)となる。a>0である限り、すべての雄が子殺し を行うというのがESSであり、 このことは第二段階の淘汰で影響を 受けない。 すなわち第一段階の淘汰で種に害になるような進化が起き ることがある。aが大きくなるほど個体の適応度は高くなるが、種の 適応度は急激に減少するために連結適応度a exp(−a)は0に 近づき、絶滅する。ハヌマンラング−ルの場合たまたま1歳未満の子 -220- どもしか殺さないということで、絶滅を免れたのである。幸運だった のは性欲ディスクリミネータが子殺しを行わせたことであったため に、授乳を終えた1歳以上の子どもには手をつけなかったことであ る。 もし群にいる他人の子どもはすべて殺せというディスクリミネー タによる子殺しであったなら、 年齢制限aは上昇し絶滅は免れなかっ ただろう。 第二段階の淘汰で何も起こらなかったかというとそうではない。 第二段階の淘汰では次の2つのことが起きたと思われる。 (1)1歳以上の子どもまで殺す雄を排除 (2)子殺しによる人口減少を補う配慮 第一段階の淘汰によって獲得した子殺しという行動を、 第二段階の 淘汰によって元に戻すことはできない。 このように種の病気にかかっ てしまった種に対し第二段階の淘汰が子殺しを無くすためにやれるこ とがあるとすれば、それは種を絶滅させることである。種の保存に余 力があり、病気をかかえたまま絶滅せずに生き延びる場合では、この 病変による影響を最小限にくい止めるために上記のような対策を施す のである。個体の場合であっても、例えば結核にかかった場合でも病 巣が広がって死んでしまう場合もあれば、その広がりをくい止め、病 変によって失われた機能を様々な方法で補いながら生きていくことに 対応している。 タカ・ハトのモデルで考えた平均利得について言うと、子殺しを 行うことは「強い雄の子どもを優先して育てる」という意味では少し は種に益になるのかもしれないが、害の方が大きいように思われる。 もし害のほうが益より大きいという仮説が正しければ、 子殺しを行わ ない種のほうが行う種より繁殖力が大きく個体数が多いはずである。 -221- 第三十三章 動物は何のために行動するか 行動の目的とは 人間や動物の行動は何のためであるかが数多くの人々により議論さ れてきた。厳密に言えば、自然淘汰の結果特定の行動を取るものが 残った場合、 その行動に何らかの目的があると結論する事自体無理が あると言える。正確に言えば「淘汰の結果として、行動が∼の目的に 合っているものが残った」のであり、最初からその目的に行動を行っ ていたとは言えないが、これを強いて「∼の目的に行動する」という 表現を使うことを許して頂くとして以下の議論を進めることにする。 群淘汰説においては動物は種の保存のために行動するはずだが、 子 殺しは種の利益とは言えない。 利己的遺伝子説では自分の遺伝子を保 存するために行動するはずだが、この乗っ取りで自分の遺伝子を保存 するために利益を得たのは、 単雄群を乗っ取った雄だけでありそれ以 外の個体には害あって益無しである。 しかも種の保存に対して様々な 配慮がされていることも、利己的遺伝子説では説明不可能である。つ まり群淘汰説も利己的遺伝子説もこの子殺しを説明できないのであ る。 一方 2 段階淘汰説にディスクリミネータという概念を導入すれば、 すべての行動が説明できる。それは種の利益を最大にするのであれ ば、 人間の行動も動物の行動も現実のものとは遠くかけ離れたものに なるであろう。 実際は、 人間も動物もディスクリミネータをプラスにするために行 動をしている。別の言葉で言えば、ディスクリミネータに命ぜられた から行動するということになるのである。それでは何のための行動を ディスクリミネータは命ずるために作られたかということになると、 この本の第二章の定義では個体保存も種の保存に含めるということで あったから、種の保存のためということになる。しかしドーキンス流 -222- に種の保存と遺伝子保存を区別するのであれば、 種の保存と遺伝子保 存の両方のためということになる。 しかしディスクリミネータは空作動や異常作動を起こすこともあ るので、人間と動物の行動は種の保存のためのものと、遺伝子保存の ためのものと、 それとは関係なくディスクリミネータが正常でない作 動状態にあるときの行動との3種類あるということになる。 進化は様々なディスクリミネータの強度をチューニングすること によって引き起こされる。 行動を引き起こしているのは遺伝子ではな くディスクリミネータである。 特定のディスクリミネータの強度が変 われば行動様式ががらりと変わる。ハヌマンラング−ルの場合「群を 乗っ取った雄は、その群から他の雄を追い払う」というディスクリミ ネータが作られたため単雄群という形になったし、 子殺しも行われる ようになった。前章の議論で明らかなように、ハヌマンラング−ルの 行動は、遺伝子保存という意味と種の保存という意味の両方がある。 -223- 第三十四章 動物におけるディスクリ ミネータの空作動 だます行為とは 人間におけるディスクリミネータの空作動については、 第六章で定 義されて以降これまで詳しくその例を述べてきた。 その定義は人為的 にディスクリミネータをプラスにするということだけでなく、虹や オーロラなどのように何らかの理由で種の保存に無関係にプラスに なってしまう場合も含む。 動物においてもディスクリミネータの空作 動に相当する行動は数多く観察されている。これらの一部は「だます 行為」と表現されているが、実体はROMに書き込まれたディスクリ ミネータが空作動を起こしているのであり、 もし個体に有害であれば 異常作動を起こしているということになる。 それが他の種の個体の利 益につながっているので「だます」と表現されているのである。その 例をドーキンスの著書「利己的な遺伝子」から引用してみよう。 ハナバチランは、ハナバチを自分の花と交尾させる。というのは、 その花が雌のハナバチにそっくりだからだ。 このランがハナバチをだ まして手に入れるものは受粉である。 二株のランにだまされたハナバ チは、 心ならずも花から花へ花粉を運んでしまうことになるからであ る。 言うまでもなくランはハナバチの性欲ディスクリミネータを空作 動させて受粉をさせてもらっている。 ホタルは光を点滅させて交尾相手をひきつける。 それぞれの種は自 種に特有な点滅のパターンをもっていて、 それによって種間の混乱と その結果おこる有害な雑交を防いでいる。 特定の灯台の点滅パターン を捜す船員のように、 ホタルも自種の信号になっている点滅パターン を捜すのである。フォトゥリス属の雌は。フォティヌス属の雌の点滅 信号をまねれば、フォティヌス属の雄をおびきよせられることを「発 見」した。フォティヌスの雄がこのうそにだまされて近づいていく -224- と、彼はたちどころにフォトゥリスの雌に食べられてしまう。こちら は性欲ディスクリミネータの空作動を利用して、 捕食をするわけであ る。 カッコウは托卵といって他の鳥の巣に卵を産み、その鳥に子ども を育てさせることが知られている。 卵が自分のものであるかどうか識 別ができないために起きるディスクリミネータの空作動である。 このようなディスクリミネータの空作動であるが、托卵のような 場合長時間自分の利益にならない行動を長時間取らなければならず、 自分の卵の世話が手薄になってしまうため、 かなり種の保存を余裕を もって達成している種でない限り絶滅してしまう。 その意味で異常作 動である。 アメリカに棲むコウウチョウという鳥もまた、ツリスドリの巣に 卵を産む托卵鳥である。ある地域のコロニーでは、ツリスドリは自分 の卵とコウウチョウの卵を区別して巣の外に放り出している。 つまり ディスクリミネータの性能を向上させて空作動または異常作動が起き ないように改良したわけである。それに対抗して、そのような地域で はコウウチョウの卵はツリスドリの卵は非常によく似たものとなって いる。さらによく調べてみると、ツリスドリがコウウチョウの卵を区 別しない地域では、 寄生バエがツリスドリのヒナに寄生していること が多い。すると、こうしたツリスドリの巣で生まれたコウウチョウの ヒナは、 周りのツリスドリのヒナに寄生している寄生バエを取り除く 行動をとると言われている。ツリスドリにしてみれば、自分のヒナが 無事育つためには、 コウウチョウのヒナがいたほうがよいかもしれな いため、 そのような地域ではコウウチョウの卵を区別しない行動が進 化したのであろう。 こうして寄生バエのいない地域では改良型ディス クリミネータを持つものが適応度が高くなり進化するが、 寄生バエの いる地域では高くならず進化できないのである。 -225- 第三十五章 この仮説に対する様々な 質問への解答 Q&A この章では、この仮説に対する様々な質問への解答を書いておく。 Q ディスクリミネータはどこにあるのか。 A 脳にある(第六章参照) 。具体的な場所は、例えば性欲がどこ で司られているかが解れば、そこが性欲ディスクリミネータの ある場所である。つまり我々は、性欲を司っているものを性欲 ディスクリミネータと名付けただけである。我々は暗示にかけ られることを知っている。その情報が脳のどこに納められてい ることが解ればそれがその暗示に対するディスクリミネータが ある場所である。メンデルの遺伝の法則でも遺伝子が発見され る前に遺伝子を仮定し、その後遺伝子が発見された。同様に ディスクリミネータもやがてその実体が解ってくる日が来ると 信じる。 Q すべてを種の保存のためと言ってしまうとローレンツの二の舞 でなんとなく解ったような気がするだけで本当は理解できてい ないという結果にならないか。 A 繰り返し述べているように、人間は種の保存の目的とは言えな い行動を数多く行っている。我々はそれをディスクリミネータ の空作動という言葉で表現した。むしろこちらがこの本のキー ポイントになっている。我々は種の保存という言葉を使う前に、 それが適応度を高める行動という言葉でも置き換えることが出 来るかどうか客観的に検討した。その結果この本が取り扱った 範囲内では種の保存で充分という結論を得たのである。 -226- Q 会社はリストラをして生き残ろうとする。これは種の保存とい うより会社保存ではないか。 A 現代の経済のシステムに合うように人間が自然淘汰されたわけ ではないので、会社のリストラを直接進化論で扱うことはでき ない。第十四章と第十五章で述べたように、戦争により人間は 利他的になったが、経済を理想的に機能させることが出来るほ ど利他的にはならなかった。このためリストラ等の問題が発生 する。この質問をした人はリストラが種の保存に害になると考 えているのだろうが、種の保存に害になるとは、定常的に人口 の減少をもたらす行為である。数十万人の人がリストラされ、 それがすべて殺されれば種の保存に害になると言えるかもしれ ない。実は種の保存の意味するところは更に厳しく、リストラ されるような能力の無い人は殺されるのが適者生存の意味する ところであり種の保存に益になるとも言える。リストラされて も失業保険をもらったり生活保護を受けたり、あるいはホーム レスとして生存を続けるのであれば種の保存には益にも害にも ならない。現代のように食糧が有り余っている状態では種の保 存ではなくディスクリミネータの解放の精神でリストラされる 人も生存できるように様々な制度が確立されているわけである。 -227- あとがき 本書が完成するまでに、議論に参加して頂いた非常に多くの方々 に心から感謝いたします。本書のアイディアの骨格部分が完成し、最 初に議論をしていただいたのは宮城音弥氏等であり、それは 1966 年 のことで、そのとき宮城音弥氏には様々なアドバイスを頂きました。 それ以来、この考えには絶対の自信を持ちながらも、印刷物にしない まま 33 年もの年月が流れてしまいました。 1998 年に、本書の出版の準備を始めて以来、非常に多くの専門家 の方々と接触しました。その最初が滝沢武久氏であり、励ましの言葉 と共にこの分野に関連した貴重な参考意見を頂きました。 黒田正典氏 には別の角度から評価をして頂き、 最終的にこの本を出版する決意が できました。 筒井健雄氏には多くの参考になるご意見を頂きました。また心の 科学の基礎論研究会においては、渡辺恒夫氏、石川幹人氏、足立自朗 氏等多くの方々に沢山のご意見、 アドバイス等を頂き感謝しておりま す。最後にC.カルタン氏には動物生態学に関係する多くのアドバイ スと、 本書の丁寧なそして細部にもわたる校正をしていただき厚くお 礼申し上げます。 本書は一貫してドーキンスの利己的遺伝子説に対する批判という 形で議論が進められました。しかしながら「利己的な遺伝子」をよく 読むと本書で示したアイディアに近い表現が随所にみられます。 私が 信じるのは本書の内容の基本的な部分は実はドーキンス自身が 「利己 的な遺伝子」を書く段階ですでに思いついていたことであり、彼は立 場上混乱を避けるために彼の本には書かなかっただけだということで す。 -228- [参考文献] 〇心理学一般 新・心理学入門 宮城音弥 岩波新書 1981 年 夢 宮城音弥 岩波新書 1978 年 心とは何か 宮城音弥 岩波新書 1981 年 ストレス 宮城音弥 講談社現代新書 1981 年 好きと嫌いの心理学 詫摩武俊 講談社現代新書 1981 年 進化論と倫理 内井惣七 世界思想社 1996 年 〇量子力学的モデル 原子核物理学(第3章) エンリコ・フェルミ 小林稔訳 1954 年 〇老化 老化の問題 フォルケ・ヘンシェン 蕨岡子太郎訳 岩波新書 1980年 老いの臨床心理 黒川由紀子 日本評論社 1998 年 回想法への招待 野村豊子、黒川由紀子、矢部久美子 筒井書房 1992年 〇催眠・無意識・夢 精神分析入門上・下 ジグムンド・フロイド 井村恒郎、馬場謙一訳 日本教文社 1994 年 無意識の構造 河合隼雄 中公新書 1977 年 フロイド以後 催眠の科学 鈴木晶著 講談社現代新書 1992 年 成瀬悟策 講談社ブルーバックス 1997 年 夢診断 秋山さと子 講談社現代新書 1981 年 明晰夢 スティ−ヴン・ラバ−ジ 大林雅博訳 春秋社 1998 年 -229- 〇脳のしくみ 脳とこころのしくみ 高田明和 角川選書 1992 年 脳の不思議 伊藤正男 岩波科学ライブラリー 1998 年 麻薬・脳・文明 大木幸介 光文社 1990 年 中国人口超大国のゆくえ 若林敬子 岩波新書 1994 年 〇統計データ 平成 10 年度版警察白書 警視庁編 大蔵省印刷局 1998 年 平成 10 年最近の人口動態 厚生省大臣官房統計情報部人口動態統計 課監修 厚生統計協会編集発行 1998 年 〇ローレンツの動物行動学 攻撃 コンラート・ローレンツ 日高敏隆、久保和彦訳 みすず書房 1970年 ソロモンの指輪 コンラート・ローレンツ 日高敏隆訳 早川書房 1987年 〇進化論・利己的遺伝子説 種の起源(上・中・下) チャールズ・ダーウィン、 C 八杉竜一訳 1968年 利己的な遺伝子 リチャード・ドーキンス、日高敏隆等訳 紀伊國屋 書店 1991 年 延長された表現型 リチャード・ドーキンス、日高敏隆等訳 紀伊國 屋書店 1987 年 雄と雌の数をめぐる不思議 長谷川真理子 NTT出版 1996 年 利己としての死 日高敏隆 弘文堂 1989 年 動物の行動と社会 日高敏隆 放送大学教育振興会 1996 年 利己的遺伝子とは何か 中原英臣・佐川峻 講談社 1991 年 遺伝子のたくらみ 香田康年 PHP文庫 1997 年 -230- 〇群淘汰 Wynne-Edwards, V. C. Animal Dispertion in Relation to Social Behaviour, Oliver & Boyd, Edinburg (1962) Wynne-Edwards, V. C. Evolution Through Group Selection, Blackwell Scientific Publications, Oxford (1986) 〇行動生態学 行動生態学(原書第2版) J.R.クレブス、N.B.デイビス 山岸哲、厳佐庸訳 蒼樹書房 1991 年 動物生態学 伊藤嘉昭、山村則男、嶋田正和 蒼樹書房 1992 年 〇意志の自由 時間と自由 H.ベルグソン 服部紀訳 岩波文庫 1937 年 〇認知心理学 グラフィック認知心理学 森敏昭、井上毅、松井孝雄 サイエンス社 1995 年 Collins,A.M.,& Loftus,F.E.1975. A spreading-activation theory of semantic proceeding, Psychological Review,82,407-428. -231- 索引 あ 愛情 34,35,36 赤ん坊を盗み育てるサル 63 アクセス禁止 24,26,169,170 アクティビティー 24-26,29,32,33,39-42,172 アプリケーション 22 暗示 32,127,164,165-167,171,176 アンナ 29 言い違い 33 異環境異常作動 46-48,64,70,74,88,98,108,110,111,163,181 異環境異常作動の定義 46 異環境異常作動の例 46 異常作動 46 異常作動の定義 46 異常作動の例 46,47 一次記憶 33 一次ディスクリミネータ 49-51,55,56,70,72,98,101-105 一時忘却 24 遺伝子異常 46 遺伝子保存説(利己的遺伝子説) 12-16 ウィン・エドワーズ 11 うっぷんを晴らす 61 姨捨山 73 エネルギー 40,59,60,61,63,67,70-72 か 回想法 186 拡張された個体 15,214,215 カゲロウ 64 カマキリ 64 カモメ(同種の雛を食べる) 12,13,193,195-198,200-202 空作動 45,52,54 空作動の重要性 154 空作動の定義 45 -232- 空作動の例 52,87,88,92,98,103,104,134,135,140,143,145, 149,150,152,153,155,187,193-195,223-226 カルト 127,128,131 ガン 22 完全忘却 24 記憶 9,23-27 記憶の活性 24 記憶のアクティビティー 24-26,29 記憶データ 23,25-29 気が晴れることの意味 62 共産主義の失敗 115 群淘汰 11-15,77,91,119,197,213,222 群淘汰説の矛盾 12 経済の原理とディスクリミネータ 115 芸術の意味 43 血縁淘汰 36 広義の自殺 75 好戦ディスクリミネータ 87 個体保存 20,21,110,199,205 子どもの色 201 娯楽 146 コンピュータ 20,24-26,28,31 コンラート・ローレンツ 11,22,58 さ 財・サービスの価値 116 最適戦略 197 催眠 29,127,164 殺人 85,107-112 作動抑止 45 作動抑止の定義 45 作動抑止の例 47,52,78,80,93,96,97,104 自己保存 15,16,21,64 自殺 64 自殺原因 65 自殺の進化 88 -233- シナプス 56 死の戦略 64 社会性動物 15,180,214 社会は何に向かって動くのか 92 宗教 127 囚人のジレンマ 91 自由とは何か 159 集団営巣 201 種にとって害になる行動 208 種の病気 199-204,207,208,215 種の保存 8,11-22.25.28-32,36,40,43-48,50-53,62-72,74-80 種の保存に反するとは 195 シロアリのコロニー 15,214 神経回路 24,40 人口問題 189 真性異常作動 46,50,110 人類は滅亡しないか 136,188 水力学モデル 58 ストレス 61,73 刷り込み 22 性解放 101,131 正常作動 45,155 精神分析入門 33,170 静物画はなぜ美しいか 43,44,54 性欲 21,28,29,43,93,98,112,113,117,131,133-136,138,224-226 善悪の定義 98 善悪の判断 99 戦争がなぜ起きるのか 82 戦争により獲得したもの 83 尊厳死 78,80,95 た ダーウィンフィンチ 107 第一次産業 155,158 第一段階の淘汰 14,15,22,81,96,205,209,212,216,218,220,221 第三次産業 155 -234- 免疫 119-201.207-209,215,235 第二次産業 155 第二段階の淘汰 14,15,21,66,80,84,205,210,212,215,216, 218,220,221 代替ディスクリミネータ 62 タイタニック号の乗客の行動 75 大脳旧皮質 55 大脳新皮質 56 大脳辺縁系 56 代理母 96 托卵 224 多重人格 41 だます行為とは(動物の場合) 224 タマバエ 64 単雄群 217 短期記憶 25,33,39,56 チャールズ・ダーウィン 11 長期記憶 26,33,39,56 ディスクリミネータ 17 ディスクリミネータがアクティブ 22,29 ディスクリミネータのアクティビティー 22,29 ディスクリミネータの異常作動 46 ディスクリミネータの異常作動の例 47,64,66 ディスクリミネータの解放 73,78 ディスクリミネータの解放(定義) 92 ディスクリミネータの解放の例 92,93-96 ディスクリミネータの空作動 45,46,52 ディスクリミネータの空作動の例 45 ディスクリミネータの作動抑止 45,52 ディスクリミネータの作用 177 ディスクリミネータと種の保存 19 ディスクリミネータの正常作動 45 ディスクリミネータの正負 19 ディスクリミネータの定義 17 ディスクリミネータの同調 77 -235- ディスクリミネータの判断 71 ディスクリミネータのフォーカス 52 データベース 28 適応度 8,12,31,51,68,83,85,86,89 ドーパミン 23 同種保護ディスクリミネータ 196,201 道徳 159 突然変異 48,200,202,206,207,209 な 二次記憶 32 二次ディスクリミネータ 21,22,49-51,56,70 2段階淘汰説 15,192,206,216,219 庭が美しい理由 53 人間を神聖化する思想 125 年齢層別自殺者数 79 脳内麻薬物質 56 は パブロフの反射実験の意味 54 ハヌマンラング−ルの子殺し 217 犯罪はなぜ起こるか 107 犯罪の分類 112 ヒキガエル(子ガエルを食べる) 196,206,211 ヒステリー患者 29 人の生きる目的 154 フォーカス 40,52,74,75 不確定性原理 58-60 ふぐの毒とディスクリミネータ 47,48 フロイド 28,33,169-171 プログラム 9,22,25,28,36 平均近縁係数 15 放火魔 61 忘却 24 母性愛 21,34,36,63 ホスピス 75,97,104 -236- ま マスコミ 139 麻酔 47,52 ミーム 193,194 ミツバチ 47,64,213 ミツバチのダンス 47 ミロのヴィーナスはなぜ美しいか 43,44 無意識 169 明晰夢 173 命令記憶 28 命令記憶の容量 37 や 優越感と劣等感 180 友情 34-36 夢 172 ら ライオンのライオン狩り 109 利己が利他を駆逐するか 202,203,207,208 利己的遺伝子説 12,192 利己的遺伝子説の矛盾 13,192,193,216 利己的遺伝子説では説明不可能 13,18,63,66-68,77,99,101,113, 114,135,192,193,204,219,222 利己的個体の利害 99,114 利己と利他 89 利己の定義 203 理性 162 利他行動 11,70,76,84,104 利他行動の進化 84,91,213 利他行動を助けるもの 84 利他的社会の効率 119 リチャード・ドーキンス 8,12,14,15,25,63,82,90,113,114,148, 149,194,199,209,222,224 量子力学モデル 58 リンク 26-28,34 リンク情報 36 リカオン 213 -237- 倫理 95,159 ルワンダ内戦 87,143 レミングの自殺 11,12 連結適応度 207,220 労働生産性と利他行動の関係 90 ローレンツ 11,22,25,58 老齢化の問題 185 ローマ字 A 10 神経 D場 ESS LTD LTM QOL R Rの定義 RAM 56 166,167 199,200,209,210,212,219,220 33,39 26,33,39 106,186,187 9,20-22,34,39,45,47,49,111,133,160 9,20 9,20-22,28,30,32,36,39,40,45,47-50,55, 71,73,80,101,111,127,131,133,159,164, 166-168,170-172,176,178,194,211 RAMの定義 9,20 ROM 9,20,22,34,36,45,47-50,53-55,69,71,80,86, 87,140,159,164,166,167,194,211,219,224 ROMの定義 9,20 STD 33,39 STM 25,26,33,39 Windows 42 -238- 著者紹介 小野盛司(おの せいじ) 1946 年広島県生まれ。1974 年東大大学院博士課程卒、 理学博士。 1974 年∼ 1984 年カリフォルニア大学、パリ大学、 CERN等にて、素粒子論の研究と教育を行う。ウィー ン大学教授資格試験審査員。1984 年帰国し東大理学部 に属しながら東大英数理教室を設立。現在代表取締役、 学習心理研究所所長。教育ソフト「PC教育シリーズ」 を開発、 学習ソフトとしては記録的ヒットとなる。 1998 年と 1999 年の教育映像祭において優秀作品賞受 賞。 人間の行動と進化論 1999年12月 第1刷発行 著者 小野盛司 発行所 株式会社東大英数理教室 住所 東京都文京区本駒込3−17−2 電話 03 3823 5230 FAX 03 3823 5231 URL http://www.tek.co.jp/ e−mail sono@tek.co.jp 印刷・製本 平河工業社 乱丁本・落丁本はお取り替えいたします。 この本の内容に関するURL http://www.tek.co.jp/president/
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