講演要旨1

講演題目
黎明期の河川技術者に学ぶ防災・減災
「台湾を愛した日本人」 土木技師八田與一の生涯 著者
古川 勝三
第一部 台湾大地を潤した土木技師 八田與一の生涯
国軍によって日本人の銅像や墓が壊され、日本
1 八田技師との出会い
色が一掃されていった時期である。そのようなと
3人の子供たちの教育のために、ヨットで3年
きに八田夫妻の墓は造られていた。
かけて世界一周をしようと考え、両親に相談した
が大反対に遭い、仕方なく国外に出るために海
いったい八田與一と言う日本人は、戦前この
外日本人学校の教師になるため受験し幸い合
台湾で何をしたのか知りたくなった。週末になる
格した。文部官僚との面接で希望する赴任地
と、高雄駅から汽車で台南駅に行き、さらに烏山
(都市名)を聞かれた。
頭ダムまで車を走らせて、調査し八田技師夫妻の行
戦後教育で「日本人はアジアで悪いことばかりし
動記録を調べた。タマネギの皮を一皮ずつ剥がす
てきた」と教えられてきた私は、日本の軍隊が足を
ように、八田技師の業績が分かってくるにつれて、
踏み入れていない国に赴任したく、ケニアのナイロ
「日本人はアジア各地で悪いことばかりしてきた」と
ビを第一希望にした。ところが赴任したのは、日本
教育されてきた私は、私が受けた教育が実に偏っ
が 50 年間統治した台湾の高雄日本人学校であった。
た歴史教育だった事に気づくと共に、台湾に駐在す
1980 年、36 歳の時である。
る報道各社は「このような日本人がいたことをなぜ取
赴任して 1 年あまり経った頃、台湾の友人が台南
り上げないのか」という義憤がわき、せめて台湾に
市を案内した帰りに、烏山頭ダムに連れて行ってく
駐在する日本人にだけは八田夫妻のことを知って
れた。そこで私は一人の日本人土木技師の銅像に
欲しくなり「台湾を愛した日本人」の題目で「高雄日
出逢った。台湾に日本人の銅像があることにも驚い
僑会報誌」に1年半にわたり掲載した。帰国後はさら
たが、その後ろに日本人夫妻の墓が造られているこ
に調査を行い銅像に出会って 10 年後に単行本とし
とにはもっと驚かされた。
て世に送り出した。平成元年のことである。
2 土木技師八田與一の誕生
八田與一は金沢市の出身で豪農八田屋の5男と
して生まれた。加賀の地は「仏の前では誰もが平等
である」と説く親鸞の教えが強い土地柄であり、八田
少年もその影響を受けて育った。やがて第四高等
学校に入学した與一は、西田幾多郎に出会い西田
哲学に興味を持つが、数学が好きであった與一は、
東京帝大工科大学土木工学科へ入学し、広井 勇
教授の薫陶を受ける。
写真 1 烏山頭ダムの八田墓園
広井 勇教授は高知県佐川町の出身で、官費内
墓碑銘を見ると八田與一・外代樹之墓と彫ら
地留学生として札幌農学校に入学、第 2 期生として
れていて、側面には「中華民国三十五年十二月
ホォイラー教頭から土木工学を学び、後に単身アメ
十五日嘉南大圳農田水利協会建之」とある。中
リカに渡りミシシピー開発計画に参画し、ニューヨー
華民国三十五年と言えば日本敗戦の翌年のこと
クで論文を英語で出版し、大きな評価を得ている。
であり、大陸から台湾接収にやって来た中華民
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していない水の力を利用するセミハイドロリックフィ
ル工法を取り入れていた。
写真 2 広井勇東京帝大工科大学教授
帰国後は 32 歳で札幌農学校の工学部教授と北海
道庁の技師を兼任し、日本で最初の外洋防波堤とし
て小樽港の北防波堤を築いた。この防波堤は、今日
も当時のままで使われている。38 歳の時に工学博
士になった広井は東京帝大工科大学教授になり、
その後20 年間に 500 人に及ぶ土木界のキラ星を育
て世に送り出した。その中には青山 士、宮本武之
図 1 與一が考えた嘉南大・ の位置
輔、久保田 豊それに八田與一等の超キラ星がい
たのである。
この工法は、コンクリートを全体のわずか0.5%し
学生時代の八田與一は、言うことが大きく、他の
か使用せず、大部分を玉石、栗石、砂利、小砂、
学生が考えつかないようなことを言うので、何時しか、
シルト、粘土だけで造るというもので、日本では誰
「八田の大風呂敷」と渾名を付けられる。
も造ったことも見たこともない工法であり、アメリカで
スケールの大きな與一は、就職先に海外に行くこ
小さいダムが数例有るだけであった。與一はこの
とを決意し、当時、土木の新天地であった台湾を選
工法が烏山頭の土地には最も適していると判断し
び、総督府技師として渡台した。
ていた。
3 嘉南平原への挑戦
32 歳の時、台湾全島をくまなく調査した八田技師
は、台湾最大の嘉南平原が旱魃と洪水と塩害の三
重苦が支配する不毛の大地であることを知り、緑野
にすべく一大灌漑計画を立案し総督府に提出する。
その計画たるやまさに「八田の大風呂敷」であった。
灌漑面積は香川県に匹敵する 15 万㌶におよび、
水源に貯水量1 億5000 万トンの烏山頭ダムを造り、1
万 6000kmの給排水路を張り巡らせて灌漑すると言
うもので、途方もない工事内容であった。しかも、東
図 2 セミハイドロリックフィル工法によるダム断面図
洋一の烏山頭ダムの構築には、東洋では誰も経験
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また、台湾には皆無、日本内地にも数台しかない
大型土木機械を大量に購入すると共に烏山頭出張
所には測量室、写真室、土壌分析室、機関庫、テニ
スコートを造ると共に、当時としては考えられなかっ
た従業員のための宿舎や病院、学校、娯楽施設、購
買施設等々も建設するなど、これまでの常識を覆す
独創的な方法を取り入れていた。「良い仕事は、安
心して働ける環境でしか、成し遂げることが出来な
い」というのが八田技師の考え方であった。
写真 5 堰堤工事に使用されたエアーダンプカー
写真 3 烏山頭に造られた200余の職員住宅
この工事は下村 宏民政長官の英断と明石元二
郎総督の決断によって、国会で承認され 1920 年に
工事が開始された。八田技師 34 歳の時である。
4 東洋一の巨大工事
工事は、烏山嶺隧道での石油ガス爆発事故によ
って50余名の犠牲者を出したことや、関東大震災に
対する台湾からの大量の義援金によって工事予算
写真 6 土堰堤構築での巨大なジャイアントポンプ
が半減され、半数の従業員を解雇しなくてはいけな
いなど困難を極めた。
写真 4 工事に使用されたドラグラインショベル
写真 7 エキスカベーター掘削機
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写真 12 大内庄での土砂採取風景
写真 8 威力を発揮したプレスタッカー
写真 13 エアーダンプカーの積み下ろし作業
写真 9 中心コンクリート埋め戻し作業
写真 14 土堰堤の射水作業
写真 10 中心コンクリートマンホール写真
写真 11 曽文渓にかかる水路橋
写真 15 排水隧道内部工事
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15 万㌶の大地を潤す水を目にした嘉南の農民
は「神の恵みだ。神の与え賜うた水だ」と歓喜の声
を上げた。この時から八田技師は「嘉南大圳の父」
として農民の心に永遠に刻み込まれることになる。
この通水によって不毛の大地だった嘉南平原は、
わずか3年で台湾最大の穀倉地帯へと変貌し、農
民は豊かになり生活は一変する。
写真16 送水管の鋲打ち工事風景
写真19 導水路を流れる豊かな水
写真17 放水口工事風景
写真20 灌漑によって生育が著しい甘藷
写真18 完成し導水路に流れ込む水
工事に携わった人々は、工事の記念碑として八
10 年の歳月と今日の金額で 7000 億円以上とも言
田技師の銅像を造ることにして浄財を募り、いつも
われる巨費を飲み込んで完成した灌漑施設は、そ
八田技師が工事現場でしていた格好の銅像を造る
の巨大さゆえに「嘉南大圳」と命名され 1930 年に
ことにした。金沢出身の都賀田勇馬氏に制作を依頼
完成した。5 月 15 日に通水式が行われ、烏山頭ダ
し、翌昭和 6 年 6 月に銅像が到着した。設置場所は
ムから嘉南の大地に水が流れ込んだ。
烏山頭ダムを見下ろす丘の上に決め、昭和 6 年 7
月 31 日に贈呈除幕式を行った。しかし、この銅像は
全水路に水が行き渡るのに 3 日間を要したとい
昭和19 年の金属供出令により、烏山頭から姿を消し、
う。
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人が永遠に烏山頭に眠って貰う事を願い、御影石を
その後、数奇な運命をたどることになる。
探し出し、日本式の墓を造り、台北の本願寺に安置
されていた八田技師の遺骨と共に外代樹の遺骨を、
ダムを見下ろす丘のほとりに埋葬した。昭和21年12
月 15 日のことである。
6 飲水思源
一方、金属供出令によって持ち去られていた八
田技師の銅像を、偶然台南市の闇市場で発見した
嘉南の人々は、直ちに買い戻し、組合の倉庫に
隠した。
やがて世情が落ち着き日本がタブーでなくなっ
た頃、銅像が壊されても再び造れるように雌型を取
写真21 烏山頭に届いた八田技師の銅像
り、台座を新しく作り元の場所に設置した。
嘉南の人々は昭和 21 年に墓を設置して以来、八
5 大洋丸の悲劇
田技師の命日である 5 月8 日になると毎年八田墓園
総督府に帰った八田技師は、やがて始まった大
に集まり、「飲水思源」を実行し続けている。来年の 5
東亜戦争の渦中に巻き込まれてゆくことになる。
月 8 日にも 65 回目の八田夫妻を偲ぶ墓前祭が、盛
昭和 17 年 4 月に、陸軍から台湾総督府あてに電
大に行われるはずである。
文が届いた。その電文は八田技師に対して、フィリ
ピン棉作灌漑の調査を依頼するものであった。
3人の部下と共に広島県宇品港で大洋丸に乗り
込んだ八田技師は、東シナ海を航行していた。昭和
17 年 5 月 8 日夕刻、五島列島沖を航行中の大洋丸
は、米国潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没し、八田技
師も運命を共にした。享年 56 歳であった。
写真23 台湾人による八田夫妻の追悼法要
写真22 八田技師が運命を共にした大洋丸
日本がポツダム宣言を受諾した 2 週間後、子供と
共に烏山頭に疎開していた外代樹は、9 月1 日未明
に遺書を残し、八田技師が精魂込めて造り上げたダ
ムの放水路に身を投げて自死した。享年 45 歳であ
写真24 銅像を囲み八田技師を偲ぶ嘉南の農民
った。八田夫妻の死に慟哭した嘉南の人々は、二
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図 1 嘉南大圳平面図 灌漑面積 15 万㌶、給排水路 16,000km
7 八田技師の考えや生き方から学ぶ
(1)八田技師の言葉
◎1000 人を超える職員の健康と安心して働ける環境なくして、大きな仕事はできない。
◎人間は皆同じ、差別からは何も生まれない
◎他利即自利(他人が利益になることは、自分の利益にもなる)
◎大きな仕事は、少数の優秀な者より平凡な多数がなす。
◎大きな仕事は、若くて経験と気力があるうちにすべき。
◎技術者を大切にしない国は滅びる。
◎リストラは優秀な者から、優秀な者は就職が可能。
◎遊びの中から新しい発想が生まれる。
(2)八田技師はなぜ成功したのか
(ア)34 歳の若さで 7000 億円もの巨大工事がなぜできたのか?
☆八田技師の才能と信念を信じる上司がいた。
(イ)なぜ、異民族から恩人として尊敬されるのか?
☆考え方の中心に、いつも庶民(嘉南の農民)がいた。
(ウ)なぜ、東洋一の規模を誇る嘉南大圳は成功したのか?
☆たゆまぬ研究が自信を生み、決断したことを実践した。
☆良き部下を持った
(エ)なぜ、独創的で他の人が考えつかないような発想ができたのか?
☆多くの優れた師に出会い、その師から知識だけでなく物事の考え方を学んだ。
7
8 歴史から何を学ぶか
戦前、日本人が悪いことだけでなく、良いことも行ってきたことを八田技師が証明している。日本の50年間に及
ぶ台湾統治におけるインフラ整備には、莫大な資金と優秀な人材が多く投入されている。当然、嘉南大圳もその
一つに過ぎない。進歩的文化人と自称する人たちは、嘉南大圳を「日本の利益のために造ったのであって、台湾
人のためではない。八田技師は資本家のために働いた技師であり評価することはない」言う。しかし、嘉南大圳の
恩恵や八田技師その人を最もよく知っているのは、進歩的文化人と自称する人たちではなく、現地で生活し水の
恩恵を受けている台湾人その人たちである。
また、この他にも満州や朝鮮で地域のインフラ整備に資本と技術力をつぎ込んだ例はいくらでもある。戦前の満
州で貯水量125 億トン琵琶湖に匹敵する人造湖を持つ豊満ダムを造り、中国東北地方の治水と電力供給に寄与し
一大工業地帯に変貌させた事実。朝鮮の鴨緑江に貯水量76億トン、発電量 70 万キロワットの当時世界最大の発
電量を誇る水豊ダムをつくり、北朝鮮の工業化に寄与せしめた事実。また文化面ではフィリピンのマニラ郊外にあ
るラス・ピニャス教会に現存する世界で唯一のバンブーパイプオルガンが、大東亜戦争中、日本軍によって戦果
から守られ、昭和17年には日本軍政部が費用を出して分解修理し、今日でも現地人に感謝されて使われている
事実。しかしこれらの光の部分が正しく報道され、日本国民に知らされることはほとんどない。
影の部分を直視し正確に知ることも大切なことであると同時に、光の部分も同じように知る必要がある。偏った歴
史教育、いわゆる影の部分ばかりを強調する自虐史観教育や報道からは、心豊かで世界に貢献する誇り有る日
本人は育たない。公に奉仕し、人類のために尽くす人材を育成することが、これからの日本にとっては急務である。
八田技師の考え方や生き方に学び、21 世紀を担う若人の中から、現地の人々から慕われる第二、第三の八田技
師が育つことを願ってやまない。
※21 世紀に生きる若人に望みたいこと
(1)損得中心の価値観から善悪で判断する価値観へ
※損か得かでなく、何が善で何が悪かで判断できる人間づくり。
(2)正しい自国の文化や歴史を理解して国際人に
※日本の文化をきちんと身につけた人間づくり。
(3)身につけて欲しい自己選択・自己決定・自己責任
※自分の失敗を他人のせいにしない人間づくり。
(4)自国に誇りを持ち、公に奉仕する精神を培う
※民族や国を愛し、先祖や家族を大切にする人間づくり。
(5)長幼の序を大切にする若者になろう。
※現在の日本の豊かさは、若者ではなく老人が作り出した。
年長者を敬う人間づくり。
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