「見られる女」と「見る女」 ―ジェンダーの視点から見た 19 世紀フランス文学と絵画― 村田京子(大阪府立大学) フランスの文学作品(とりわけ人物描写)において、絵画が参照されるようになるのは、フラ ンス革命を経て「芸術の大衆化」が実現された 19 世紀に入ってからである。その人物像には「男 らしさ」「女らしさ」に関する当時の社会的通念が投影されている。本発表では、19 世紀フラン ス文学の中でも「近代小説の祖」バルザックの作品(『人間喜劇』)を中心に、ジェンダーの観点 から文学と絵画の相関性を探る。 『人間喜劇』に登場する女性の描写において、最も言及されるのがイタリア・ルネサンスの巨 匠ラファエロである。ラファエロ(およびジロデ)の聖母像に喩えられる女性の登場人物は、セ クシャリティを伴わない純潔さ、非物質性で特徴づけられる。こうした女性たちは、「窓辺の娘」 の構図とも関連づけられ、 「窓」は「家庭と社会を分ける境界」として機能し、「窓辺の娘」は家 庭空間に閉じ込められた女性のメタファーとなっている。彼女たちが 17 世紀オランダ絵画に特徴 的な褐色の色調を背景に立ち現われているように、 「窓辺の娘」は父権制の枠にはめられた女性で、 「純潔」や「慎み深さ」を尊ぶ当時のブルジョワ社会の理想の女性像であった。ドイツ・ロマン 派の画家フリードリッヒの二つの絵( 《雲上の旅人》 《窓辺の女性》)に象徴されるように、深淵に 立ち向かう男性像は「力」 「支配欲」 「行動力」 「崇高」を表し、 「窓辺の娘」は「休息」 「静止」 「無 為」および「受動性」「消極性」を表わす。「窓辺の娘」は「見られる」立場にあり、男の「欲望 の眼差し」=「ファルス的な眼差し」の対象となっている。要するに、近代の語りにおいて「視 覚は基本的に男の特権であり、その視覚を魅了する対象は女の肉体」 (ブルックス)であった。 しかし『人間喜劇』には視線の主体となる「見る女」も登場する。その視線の対象となるのは、 ジロデの絵画に描かれた男性像に喩えられる男たちで、女性化された肉体の持ち主であった。と りわけジロデの《エンデュミオンの眠り》のエンデュミオン像は「女の裸体像の法則に基づいて」 造形されたもので、 「月の光」となって彼の肉体を刺し貫く「女の視線」は「ファルス的な眼差し」 と言える。 『ラ・ヴェンデッタ』のジネヴラが眠れる青年ルイジを覗き見る場面は、ジロデの《エ ンデュミオン》をバルザックが同時代に置き換え、再現したもので、ジネヴラはルイジに「ファ ルス的な眼差し」を投げかけている。それは男女の役割の逆転に他ならず、 「見る女」は父権的な 枠を越えた女性として立ち現われている。一方、ジロデの男性像に喩えられる男性は「男らしさ の危機」を表し、彼らはすべて死ぬ運命にあった。 「見る女」の方も、家父長的な社会ではジェン ダー規範への背反とみなされ、 「危険な存在」として社会から排除される傾向にある。 こうした女性観は、必ずしも 19 世紀フランスという特定の時代と場所に限られず、21 世紀の 日本にも根強く残っている。文学を通じて私たちの社会を再考するきっかけとなれば幸いである。
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