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パリの桜と『人間喜劇』

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パリの桜と『人間喜劇』
澤田肇
桜は、花の都パリでも美しい。今わたしは、パ
リ第五区のエコール・ポリテクニック(理工科大
学校)通りに住んでいる。シテ島に近い五区の西
北部は別名カルチエ・ラタン(ラテン区)とも呼
ばれるが、それはソルボンヌ大学をはじめとする
数多くの教育研究機関が中世からこの界隈に集中
し、そこでは 18 世紀末のフランス大革命の時ま
でラテン語で講義が行われていたからだ。エコー
ル・ポリテクニックは革命後ナヴァール学寮があ
った区画に創設されたのだが、正門前に小さな広
場があり、そこに二本の木がたっている。 それは
桜である。私がこの通りのアパルトマンに住み始
めた四月の初頭にはまだ六分咲きだったが、中旬
にかけてゆっくりと満開となっていった。 広場の周辺には、切石を積み上げて
五、六階までの高さにし、仕切りや補強に使われた太い木の柱がむきだしにな
った室内をもつ、間口の狭い、少しだけ傾いたような、16 あるいは 17 世紀に
築造された建物が並んでいる。日本の桜は、そうした小さいけれど高さのある
古いパリの街並みに不思議と似合うのだった。
パリのところどころに日本を象徴する木が植えられているが、この目にも鮮
やかな花を咲かせる木がフランスの人々に身近なものとなりだしたのは十年ほ
ど前からのことだそうだ。私の住まいからシテ島にあるノートル=ダム寺院を
見上げるセーヌ左岸まで、ゆっくりと歩いて六、七分だろうか。そこの河岸に
面したヴィヴィアニ公園にも桜が咲いている。この公園にそうフアール(長め
の藁)通りの名は、ここにあった中世の学寮が床に藁を敷いて椅子代わりにし
ていたことによる。ヨーロッパ中から学生が集まる由緒ある場所であったのだ
が、その周辺同様に古くて狭い街区がたもたれていたからこそ 19 世紀の初頭
にはパリの暗部のような地帯の一端となる。そこには、都市の発展と繁栄から
取り残された貧民がちりのようにたまってくるのだ。バルザックの小説『禁治
産』では、篤実な予審判事ポピノがフアール通りに住んでおり、その慈善活動
のおかげでたくさんの飢えや病に苦しむ貧しい人々が救われる情景を通して、
1816 年当時のこの地区の姿が伝わってくる。
フランス近代小説を確立した 19 世紀の作家バルザックは、執筆した九十篇
あまりの作品全体に『人間喜劇』という総題をつけた。『禁治産』もそのうち
の一篇をなす小説である。バルザックの作品には、歴史的な広がりのなかに現
代社会の観察を組み入れ、未知と不安の時代に夢や欲望をおう人間の不思議と
愛おしさを描いたものが数多くある。事件を担当してポピノがその人生を知る
ことになるのは、別居中の妻から心神喪失の状態であるとして財産の管理権を
取り上げる訴えをおこされるデスパール侯爵という名門貴族である。財産を散
逸しているように見えるのは、彼が自分も関係する歴史の歪みに苦しむ人を助
けようとしたからに他ならない。16 世紀後半のフランスは、カトリックとユグ
ノー(プロテスタント)との間の宗教戦争によって大きな混乱にあった。国王
アンリ 4 世は、1598 年にユグノーの存在を認め、彼らに権利を与えるナントの
王令を発し、平和を回復する。寛容の時代が続くが、1685 年にルイ 14 世がこ
の王令を撤回する。小説では、デスパール侯爵の祖父が没収されたあるユグノ
ーの広大な領地を国王からもらい受けたことになっている。19 世紀の王政復古
時代に生きる侯爵は、そのユグノーの末裔がパリで悲惨な状況にあることを知
り、財産を返還しようとするのである。高徳で学者肌の侯爵の仮の住まいは、
モンターニュ・サント=ジュヌヴィエーヴ通りにある。パリの守護聖女サント
=ジュヌヴィエーヴをまつる同名の教会がたつ丘にむかう坂道である。
パリの起源は、シテ島にケルト民族系のパリシイ人によって紀元前 3 世紀に
作られた集落である。これが紀元前 50 年代にカエサルによって征服される
と、その後ローマ帝国による北方支配の拠点となる。当時のローマへいたる道
はパリの中心地での名前や外観は変わっても、その路線自体は当時と変わって
いない。第五区のほぼ中央を東南に向けて北端から南端につながっていく三つ
の通り、モンターニュ・サント=ジュヌヴィエーヴ通り、デカルト通り、ムフ
タール通りはローマ街道の道筋の上にあるのだ。中世になると、サント=ジュ
ヌヴィエーヴの丘の上に、数多くの大学、学寮、寄宿舎、教会、修道院が立ち
並び、丘の下には、民衆の居住区が広がる。中世の面影を残す通りは今でもあ
る。その一つは、バルザックの小説『ゴリオ爺さん』で主人公のラスチニャッ
クが住む下宿館があるとされるトゥルヌフォール通りである。パリ大学で法律
を学ぶため 1819 年に地方から出てきたラスチニャックは、希望と欲望にあふ
れ、生活を楽しみ、社会で成功したいと願う、人生の門出にある若者だ。彼が
植物園に散歩に行くときは、ムフタール通りの周辺にある狭く汚い横丁を抜け
るしかなかっただろう。この通りはかつてサン=マルソー通りと呼ばれていた
が、『ゴリオ爺さん』のなかでサン=マルソー街はパリで最も貧しい地区の一
つだと言われる。
中世のような迷宮都市が一変して近代的な街並みのパリが誕生するのは、19世
紀後半のナポレオン3世下のセーヌ県知事オースマンによる都市大改造による
とされる。パリのあちこちで広い大通りが開通され、並木のある歩道に沿って
均整の取れた建物が築造される。ヨーロッパの首都として賛嘆されるにふさわ
しい整備が行われたのだ。しかしサント=ジュヌヴィエーヴの丘の周辺は、地
形が急峻なため手つかずのままにされた場所が多かった。そのおかげで昔なが
らの雰囲気があるヴィラージュ(村)と呼ばれる街区の一画、共同体的なまと
まりのある小さなハりや広場が、カルチエ・ラタンにはいくつも残ったのだ。
ムフタール通りが狭苦しいのは以前と同様だが、その古くて趣のある風情が評
価されて今では観光客に人気の散策路だ。通りを上っていくと、デカルト通り
に入る手前に、コントレスカルプ広場があるが、ここは中世から今日まで変わ
らない学生たちのたまり場になっている。デカルト通りがモンターニュ・サン
ト=ジュヌヴィエーヴ通りにかわるところに、エコール・ポリテクニックの正
門がある。わたしの住まいは、古代にローマ人たちが行き来し、中世に学生た
ちが議論と酒盛りで足を止めていた街に、そしてまた『人間喜劇』のなかで何
人もの登場人物がさまざまな思想や感情を抱きながら歩を進めていた街路を目
にするところにあるのだ。
エコール・ポリテクニック前の広場のまわりには、カフェ、居酒屋、バー、レ
ストランが立ち並び、人々が集まる時間帯にはストリートミュージシャンが種
々の音楽をなかなか見事に奏でる。みなが人生を楽しもうと寄り集まる、小さ
な村の広場のような光景が、毎日のように見られる。『人間喜劇』には三千人
ほどの登場人物が現れ、人間のさまざまなあり方を万華鏡のように示してくれ
る。『ソーの舞踏会』において、美貌と才知に恵まれた貴族の娘エミリーに慕
われながら拒絶された、価値転換期の時代の不運な申し子マクシミリアン・ド
・ロングヴィル、『絶対の探求』において、天才と狂気のはざまで化学の世界
に精通し、大発見にいたる研究を完遂させるため子供たちの財産まで使い果た
そうとするバルタザール・クラースの子ガブリエル、この二人ともエコール・
ポリテクニックの学生だった。勉学にあけくれたと想像できる彼らも、たまに
は友と正門前に並ぶ店の一軒に腰をおろしたにちがいない。書物のなかであれ
、現実世界であれ、多くの人々にとって、この広場が彼らにとっての懐かしい
村となるのは、今も昔も変わらない。
中世のパリは決まった時刻に町中の鐘が響き合い、天国から音楽の奔流が落ち
てくるのかと思われたようだ。わたしのアパルトマンのすぐ近くにも五、六の
教会があるが、そのうちの二つの教会は今でも朝順番に鐘を鳴らし合う。この
鐘の音で目が覚めることが多いのだが、中世に生きていた人と同じように一日
が自分にも始まるのだ。しかし中世のパリの市民は、二本の桜の木を見ること
はなかったはずだ。見せてあげられたらと、ふと思うことがある。
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