戦前日本の金融市場と機関投資家

戦間期日本の金融市場と機関投資家 02.jtd, 04/05/15,09:20
戦前日本の金融市場と機関投資家
はじめに
私は、私の論文「戦間期日本の主要企業と企業間関係」 *1 において、戦間期日本の主
要企業の事業活動について、できるだけ詳細な財務情報をもとに検討してきた。
その結果、当時の日本では、資金調達・運用で金融・証券市場の果たした役割は非常に
大きく、戦間期日本のコーポレート・ガバナンスは、今日の米英型に非常に近いものであ
ったこと。たしかに、主要財閥において、持株会社を頂点とした垂直的・統合的な支配・
被支配の関係が形成されたが、その場合ですら市場の役割は小さくなく、さらに、主要財
閥のガバナンス形態が、当時けっして支配的であったとはいえないことを明らかにした。
しかし、そのような状態は、第2次世界大戦への準備と戦争への突入によって失われ、
戦後には、金融・証券市場の縮小と、財閥と持株会社の解体の結果、銀行の役割が不可避
的に高まらざるをえなくなり、いわゆるメインバンク・システムがしだいに確立するよう
になった。
ところで、本論文では、先の論文で取り上げた企業が活動した、戦間期日本の金融・証
券市場全体の特徴と意義を 、Ⅰ では市場全般を概観し 、Ⅱ ではとくに社債市場に注目して 、
検討したい。さらに Ⅲ では、その市場においてその役割を高めた機関投資家、とくに生命
保険会社について包括的に検討したい。最後の Ⅳ では、あらためて、市場の役割をマクロ
データによって確認する。
本論文と先の論文によって、戦間期日本の金融・証券市場と企業活動の特徴、そして現
在の日本のコーポレート・ガバナンスが継続的に発展したものではないこと、また、それ
がさまざまな問題点を顕在化させつつある今、かつてのコーポレート・ガバナンスが見直
されていることが明らかになるはずである。
なお、本論文の作成にあたっても、可能な限り個々の企業のデータを掘り起こし、その
活動の個性的な姿を明らかにしようとする、先の論文の方法を受け継ぎたい。
Ⅰ. 戦前日本の金融・証券市場概観
1)東京株式取引所概観
経済発展は、何よりも活発な競争にもとづく市場の発展によってもたらされる。とくに
金融市場の発展は、市場全体の発展を円滑にする。金融は、経済の潤滑油としての役割を
果たす。金融システムが不安定になれば、経済発展にはさまざまな制約が生まれる。
ところで、日本における株式取引所は、政府が 1878( 明治 11) 年 5 月 4 日に、布告第 8 号
をもって「株式取引所条例」を制定発布し、東京と大阪に相次いで設立された。 50 年後
の 1928 年には、資本金が創立当時の 235 倍、株式売買高は 1926 年に 10,380 倍あまりに増
加したと、東京株式取引所理事長が『東京株式取引所五十年史』で述べている。 *2 この
ような早くからの金融市場整備の動きは、明治維新以降の日本の急速な経済発展をもたら
す要因となった。
上記の文献には、 1878 年以降の市場にかんする詳細な統計資料が掲載されている。本
論文では 、この文献の後に 5 年ごとに刊行された 、
『 東京株式取引所史 第二巻 』(1933 年 ) 、
『東京株式取引所史 第三巻』 (1938 年 ) の三分冊を用いて、戦間期の金融・証券市場の動
*1 新保博彦「戦間期日本の主要企業と企業間関係」
*2 『東京株式取引所五十年史』東京株式取引所、 1928 年、 1-3 ページと序を参照。なお、
この文献は 、『東京証券取引所50年史』株式会社東京証券取引所、 2002 年、 CD-ROM に
も所収されている。
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向をまとめておきたい。
まず 、表1 で東京証券取引所における上場証券の基本データを確認しておこう 。総額は 、
1920 年の 76 億円から 37 年の 308 億円へ、一時的な落ち込みはあるが増加し続け、 17 年
間で 4.0 倍となった。
そのうち、株式は 1920 年には 63.5% を占め、 37 年には 50.0% までしだいに下落したが、
その比重は常に高かった。株式銘柄数は、 1937 年には 1,247 と現在の約 2 分の 1 である。
このデータは資本金で作成されているので、表2のように時価に直すと、一時期を除いて
株式の比重はさらに高くなる場合が多い。
これに対して、債券の中で、もっとも大きな金額となっているのは国債である。この表
の最終年次は 1937 年であるが、いうまでもなく第2次世界大戦開戦直前の 40 年まで延長
すると、その金額はいっそう多くなる。それは、後の表2で改めて確認できる。社債はこ
の期間ほぼいっかんして 10% 台を維持しており、企業の資金調達に重要な役割を果たして
いる。なお、 1933 年以降は、外国債も登場している。
2)株式市場の時価総額と対 GNP 比率
次に 表2 で、表1のほぼ同じ項目を、まず時価で評価し、次にその市場の規模を GNP
で評価する国の経済規模と比較する 。なお 、有価証券時価のデータが得られる期間は 、1928
年 7 月からと短い期間になる。この時点での時価算出は、今とは異なって標本抽出となっ
ている。
この表によると、有価証券時価は、 1937 年に 462 億円と表1の金額のほぼ 1.5 倍となっ
ている。その後の 3 年間の有価証券時価を 、『東京株式取引所統計年報』で追加してみる
と、 1940 年には、とくに国債が 3 年間に約 2.6 倍になり、株式が 1.4 倍になったため、総
額で 765 億円まで増加した。
いうまでもなく 、株式時価は市場での変動が大きい 。1928 年 7 月に 195 億円であったが 、
1930 年と 31 年には世界大恐慌に巻き込まれ、 1931 年 12 月には 98 億円、ほぼ 2 分の 1 ま
で減少した。しかし、すでに 1932 年には全体としては回復過程に入り、 1934 年 12 月には
以前の水準を回復し、毎年時価総額は増加し続けた。
ここで何よりも注目すべきなのは、この株式時価総額の GNP に対する比率である。表
2が示しているように、この数値はいっかんして 100% 前後になっている。もっとも低い
時期が、大恐慌のさなかである 1931 年 12 月の 78.1% 、もっとも高いのが 1936 年 12 月の
127.2% である。
今日の状態については 、以前に検討した通りだが 、この比率が 100% を超えているのは 、
主に 1989 年のいわゆるバブル期である。 *3 株式時価総額の GNP に対する比率の高さは、
戦間期における金融・証券市場の役割の大きさを示す重要な指標となっている。
債券については、現在高を示した。債券の場合には、価格の変動幅が小さいので、表1
とは変化がほぼ同じようになる。ところで。この表で注目されるのは、 1930 年 12 月の時
点では、社債の額が国債を上回っていたことである。その後、国債発行の急増にともなっ
て、国債の額が上回るようになるが、企業の積極的な資金調達の動きとして大いに注目で
きるだろう。
では次に株式市場の時価総額を産業別にみておこう。このような検討は、戦間期日本経
済の産業構造の変化を的確に把握できるひとつの方法である。なお、ここで取り扱われて
いるのは、すべての株式取引ではなく長期取引についてのみのデータである。
*3 新保博彦 、2001 年 、
『 IT 革命と各国のコーポレート・ガバナンス 』、ミネルヴァ書房 、46
ページ。
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産業は、次のように区分されている。 1) 公益企業:電灯・電力、ガス、鉄道・電軌、 2)
金融・保険:金融 、保険 、3) 鉱業:石炭・石油 、金属精錬および鉄鋼 、4) 繊維工業:紡績 、
人絹、雑繊維工業、 5) 製造工業:精糖、食料品工業、機械工作、製紙、肥料、化学工業、
窯業、雑工業、 6) 各種商業:百貨店、土地・建物、興業、雑商業、 7) 海運および雑運輸:
船・造船・船渠、雑運輸および通信、 8) 雑業:漁業、拓殖、ゴム・たばこ、 9) 取引所 *4
表3 では、以上の区分を基礎に、表を長期間連続してみやすいように、掲載順序につい
ては修正した。
まず 、1930 年の最大の産業は公益企業で 、金額は 11.5 億円でその比重は 43.5% に達する 。
この産業には、当時のもっとも重要なインフラストラクチャである、電灯・電力、ガス、
鉄道・電軌が含まれている 。次に位置するのが 、繊維工業を含む製造業で 8.4 億円で 31.8%
である。
この地位が、 1940 年までに逆転する。同年には、製造工業が 49.0 億円で 47.6% 、公益企
業が 34.1 億円で 33.2% である。この期間の繊維工業の比重がほぼいっかんして 10% 台であ
るので、ここでの製造業は、急速に発展してきた重化学工業と考えられるだろう。 1920
年代が主にインフラストラクチャの整備を進めた時代であったとすれば、 1930 年代は重
化学工業化が進んだ時代であった。
次に大きな規模の産業は鉱業である。 1940 年には 12.3 億円で 11.9% を占め、 3 番目に大
きな産業規模となっている。 1933 年以降株価が急上昇しているが、これにはおそらく日
本鉱業の株式公開も影響を与えている。その後、 1937 年には時価総額が一時 17.0% まで上
昇していた。重化学工業化の進展にともなって、さまざまな鉱物資源需要が増大している
のがわかる。以上 3 産業に匹敵する規模の産業はない。
3)株式市場の株価指数
こうした株式時価にもっとも強く影響する要因が、株価の動向である。明治以降の株価
を概観しておこう。
1878 年から 1940 年までの期間に、株価が高騰した時期は、 1896 年、 1906 年、 1919 年の
3度あった。 1920-30 年代を、以上の長い期間の中でとらえると、比較的長い停滞期であ
るとみなせる。 *5
しかしながら、 1920-30 年代に限定してとらえると、 表4 でわかるように、全産業の株
価指数は 、1921 年を 100 とすると 、大恐慌の時期に 53.0 まで低下するが 、1940 年には 189.2
まで上昇する。この指数にかんするかぎり、日本での大恐慌による株価の大幅な下落から
の回復は、現代の失われた 10 年に比較して早かったといえるだろう。
ところで、 3) と 4) では、全産業と産業別の株価の検討にあたって、 1921 年を 100
とする指数とともに、それにもとづいた以下のような指標を用いる。データのばらつきを
はかる尺度としての 標準偏差 と、標準偏差 / 平均値で示す 変動係数 である。また、全産業
での変動と各産業の変動との相関関係を示す 全産業との相関係数 である。
まず、予想されることではあるが、全産業に占める比重の高い製造工業が全産業との相
関係数が、 0.829 ともっとも高くなっている。詳細にみると、製造工業が恐慌で受けた影
響は深刻で、 1929 年には株価指数が他の産業に比較しても下落幅の大きい 29.3 になり、
*4 『東京株式取引所史 第三巻』東京株式取引所、 1938 年、 68-70 ページ。
*5 藤野正三郎・秋山涼子、 1977 年 、『証券価格と利子率 : 1874-1975 年』一橋大学経済研
究所日本経済統計文献センター、第 1.1 図、藤野正三郎・寺西重郎、 2000 年 、『日本金融
の数量分析』東洋経済新報社、図 1-5 を参照。
概観するには 、『詳説 現代日本の証券市場 2002 年版 』、 2002 年、 17 ページ 。『東京証
券取引所 20 年史』などを参照。
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1920 年水準への回復も 1938 年以降のことだった。
次に同様に全産業との相関係数が、公益企業が 0.763 と高くなっている。だが、この産
業の 1920 年に比較した恐慌時点での下落幅は小さく、回復も早くから起こっている。そ
の点では、製造工業とは対照的ではある。
それ以外の産業についていえば 、主要産業で変動係数がもっとも大きいのは鉱業である 。
次に詳しく検討するように、銅を中心とする鉱業製品価格の下落は顕著であった。
また、ほぼすべて期間で 100 を超えている金融・保険、逆にいっかんして 100 以下にな
っている各種商業、海運・雑運輸などが特徴的な動きとなっている。金融・保険は発展す
る産業としての、各種商業、海運・雑運輸は後退するかあるいは再編成を求められている
産業としての特徴を示している。
4)主要な企業の株価
以上の検討をさらに企業ごとにみていくことにしよう。私の論文「戦間期日本の主要企
業と企業間関係」で検討した主要企業のできるだけ多くを、また、株価の長期的な動向を
検討できるような企業を選んだ。 *6
株価データについては、大阪屋商店調査部編纂『株式年鑑』大同書院、昭和16年度
(1936-40 年 ) 、 昭和11年度 (1931-5 年 ) 、 昭和6年度 (1926-30 年 ) 、 大正15年印刷 (1920-5 年 )
の4冊にもとづいた。なお、変遷が多い企業の継続関係については、同書に従った。その
ため例えば、満州重工業開発 (1936-40 年 ) は、久原鉱業 (1920-5 年 ) 、日本産業 (1926-35 年 ) の
データを受け継ぐように表されている 。『東京株式取引所史』三部作にも株価データがあ
り、上記文献のデータに不備がある場合には参照した。
以上の文献で、どのような場合に株価を掲載するかについては説明がない。しかし、株
式を公開していても、その数が非常に少ないか、あるいは特定の株主にのみ限定的に公開
されている場合には、株式市場で価格が正常に形成されていないと判断し、株価を掲載し
ていない場合があると推測される。
まず製造業であるが、 表5 によれば、新しい重化学工業を担う、新興財閥の日立製作所
は 1933 年から *7 、伝統的な財閥に属する三菱重工業( 旧三菱造船が 1934 年に改称 )は 1934
年からデータがある。両社とも期間は短いが、変動係数は小さく株価は安定的に推移して
いる。日立の最高値は 1937 年、三菱は 1940 年となっている。日立製作所の 1940 年上期
の売り上げ(収入金)が 1935 年下期の 6.0 倍、三菱重工業は 1940 年下期の売り上げが 36
年上期の 3.3 倍と、ともに急成長を達成している。 *8
これらの企業群が、 1930 年代後半の製造業の株価回復を担っていたと考えられる。製
造業ではないが、三菱商事もまた同様の役割を果たしたものと思われる。 *9
*6 各企業の一般的な歴史については、各 Web Site や、東洋経済新報社編纂『会社銀行八
十年史 』、 1955 年と東洋経済新報社編『日本会社史総覧 』、 1995 年などを参照。
とくに詳細な事実の確認と検討が必要な場合には、必ず各企業の社史を参照した。社史
は、企業によって内容に大きな差があるが、企業活動だけでなく、経済活動全般を理解す
るための基本資料である。
*7 日立製作所については 、
『 東京株式取引所史 第三巻 』東京株式取引所 、1938 年では 、1934
年から株価が掲載されている。
*8 大阪屋商店調査部編纂『株式年鑑』大同書院、昭和16年度、 1941 年を参照。
*9 三菱商事の株式公開は、主要な三菱系企業ではもっとも遅く 1938 年であった。ちなみ
に 、三菱財閥各社の公開年度は 、1920 年に三菱鉱業 、27 年に三菱信託 、28 年に三菱銀行 、34
年に三菱重工業 、37 年に三菱電機と三菱倉庫である 。
『 三菱商事社史 上巻 』1986 年 、446-7
ページ。
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いっぽう、古くから活動している製造業企業としては、川崎重工業(旧川崎造船、 1939
年に社名変更)と王子製紙がある。 1920 年にはトップクラスの企業であった川崎重工業
は、もっとも変動係数が大きい。 1927 年から金融恐慌の影響を強く受けて、大きな損失
を計上し無配に転落して以降、株価は低迷を極めた。王子製紙は、すでにみたように、多
くの生命保険会社が投資する典型的な優良企業である。この期間の変動係数も著しく小さ
く、安定した投資先とみなすことができる。ただし、株価の最高値は 1928 年で、 1930 年
代にそれを超すことはなかった。
かつての製造業を支えた繊維産業を、みてみよう。日本興業銀行は、恐慌後の経営合理
化、為替の下落にともなう輸出の拡大によって、繊維工業では 、「昭和 12(1937) 年はまさ
に斯業繁栄の最盛時となった 。」と評価している 。既存の繊維工業が繁栄しただけでなく 、
新たに発展してきた人絹糸生産能力では、同年に世界の 28.1% を占めるに至った。 *10
1937 年に東洋紡績は最高の株価 216.1 円を記録し、鐘淵紡績も 1920 年代前半の価格に接
近している。しかし、その後、鐘淵紡績の売り上げは、東洋紡績に比べても伸び悩み、株
価の下落がもたらされた。
次に、公益企業である。日本最大の企業南満州鉄道は、ここに取り上げた金融を除く企
業では、もっとも変動係数が小さく、 1931 年の下落も最高値の 55.3% にすぎなかった。南
満州鉄道は、公益企業群の安定した株価を支え、最大の企業として、また日本政府が株式
の半数を所有する国有企業として、安定した投資先となっていた。
日本の独立系企業の代表格であった電力産業の東京電灯と、東邦電力をみてみよう。こ
れらの企業が広く一般の投資家から、さらには外国の投資家からも広く資金を市場を通じ
て調達していたことは、すでに述べた通りである。新しい時代のインフラストラクチャと
しての電力には、 1920 年代に膨大な投資が行われ、 1930 年代の初頭に電力の過剰供給が
顕著になり、経営悪化と株価の下落をもたらした。しかし、 1930 年代の後半には回復を
早めている。
ここでは鉱業として産業区分されている満州重工業開発は 、新興財閥の中核企業として 、
1937 年以降は満州開発の中心となってきた。この企業の株価の継承関係については先に
述べた通りである。 1930 年の日本産業の持株は、 1929 年に設立された日本鉱業が 4997 万
円で圧倒的に多く *11 、日本産業の株価は、次に検討する日本鉱業の株価に強く影響され
ていたと思われる。
この企業は、すでに検討したように、多くの一般の投資家によって支えられてきた。だ
が、恐慌時の株価下落は激しく、多くの投資家に損害を与えたことが推測できる。その一
方で、 1934 年の暴騰も顕著で、この企業には、かなりの投機的な資金が流出入している
のがわかる。
鉱業については、その日本鉱業(株式公開は 1933 年) *12 と、三菱財閥を代表する三
菱鉱業を取り上げた 。鉱業という産業が巨大企業を中心として成立しているという事実は 、
表3で確認できる。鉱業とその企業は、 1929 年恐慌によって主力商品である銅の価格が
暴落し、経営は一気に悪化し株価も大きく下落する。例えば、 1929 年にニューヨーク市
場では 1 ポンドあたり 20 セントを超えていたのが、 32 年には 6 セントを切るまでに下落
する。しかし、この両社の株価は、産金事業の勃興や、金輸出再禁止による銅価格の上昇
*10 『日本興業銀行五十年史 』、 1957 年、 324-7 ページ。
*11 雄松堂出版『営業報告書集成 』(マイクロフィルム )、 1930 年下期。
企業活動を研究するための基本資料であるこの文献については、新保博彦「戦間期日本
の主要企業と企業間関係」の Ⅰ を参照。
*12 日本鉱業は、 1992 年に共同石油と合併し、日鉱共石となり、その後ジャパンエナジー
に社名変更した。
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などによる、業績の急速な改善などによって、 1934 年を中心として高騰している。 *13
雑業に区分される、東洋拓殖は、 1908 年に「韓国において拓殖事業を営む」ことを目
的に設置されたが 、その後 、
「 内地以外の地域 」に活動を拡大している 。1927 年になって 、
貸付金利息と地所建物山林収入などからなる収入が大幅に落ち込み、株価の低下が進む。
しかし、南満州鉄道とともに戦争の足音が本格化するのにしたがって、株価は再び上昇し
始めている。 *14
最後に、金融産業をみておこう。銀行の何よりも重要な特徴は、変動係数が非常に小さ
く、株価が安定していることである。表4で示されたように、金融・保険産業は、規模は
小さいとはいえ、変動係数が取引所についで低く、 1930-31 年でも株価指数が 100 以下に
ならなかった唯一の産業であった。そして、安田銀行と住友銀行は、 1940 年に最高値を
付け、横浜正金銀行も高い水準で推移している。これらは、銀行の役割の増大を示してい
る。
生命保険会社は 1920 年代後半に利益の急増にともなって高い株価を付けた。その後そ
れを超える株価にならなかったが、保険契約も順調に伸び、ほぼ 20% を超える高い配当率
を維持し続けた。しかしながら、各期の利益の変動に影響されて、株価はかなり不安定な
動き示した。
なお、生命保険会社の資本金は非常に少なく、例えば 1940 年の日本生命の資本金は 300
万円で、日本勧業銀行の 1.18 億円の約 40 分の 1 に過ぎず、金融・保険産業の株価指数に
与える影響は小さい。
Ⅱ. 戦前日本の社債市場
1)2つの産業に集中する社債発行
Ⅰ では、金融・証券市場のうち、株式市場の動向を検討してきた。 Ⅱ では、もうひとつ
の市場である社債市場についてみていきたい。両者の規模の違いについては Ⅰ でに示した
通りである。
社債 は、株式会社が発行する債券であるが、社債発行と銀行借入れを比較した場合、企
業にとって 、 社債発行は 、 (1) 長期・固定の資金が調達できる 、 (2) 信用力が高い企業には 、
低コストの借入れができる、などのメリットがある。
また、株式と社債を比較すると、株式を所有すると、株主としてのさまざまな権利を行
使し、株式会社の経営戦略の決定過程に参加することができるが、社債にはそのような可
能性はない 。しかし 、社債には 、株式のような激しい価格変動がないためリスクが小さく 、
確実な収益が期待できる。
戦間期の主要企業にとって、社債は株式とともに重要な資金調達の手段であり、その比
重の高さについては詳しく検討した通りである。その意味で、独立した章で検討する必要
がある。
表6 は、 1926-40 年の社債(内債)の事業別現在高である。現在高総額は、ほぼいっか
んして増大し続けている。 1926 年の 15.2 億円が 40 年には 58.0 億円である。注目すべきは
産業別構成で、鉄道・軌道と電灯電力ガスが2大産業で、合わせると約 70% に達する。社
債市場は、ほぼこの2つの産業の企業が独占していたといってよいだろう。株式市場で最
*13 『日本鉱業株式会社五十年史 』、 1957 年、 71-3, 81-3 ページ。
*14 『東洋拓殖株式会社三十年誌 』、奥付なし( 1939 年?) 207-18, 264-7 ページ。東洋経済
新報社編纂『会社銀行八十年史 』、 1955 年の 、「戦前における大陸開発主要会社」に関係会
社一覧表がある。
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大の規模を誇っていた製造業は、 1938 年の繊維産業の他の年度にはみられない巨額の発
行を除くと、それほど大きなものではなかった。なお、社債発行額の多い東洋拓殖は「そ
の他(土地・建物 )」に含まれている。 *15
以上から、社債市場は株式市場の場合よりもさらに、非財閥独立系で公益産業の企業が
中心で、財閥系企業の比重が低い市場であったことがわかる。この事実もまた、戦間期日
本のコーポレート・ガバナンスの特徴を示している。
以上の表とは別に集計された外債の現在高は、 1926-33 年については 20 億円を超えてい
た。しかしその後漸減し、 1940 年には 16.8 億円になった。その大部分は外国債である。
外国社債は、 1928-33 年の期間現在高は 4 億円を超え、なかでも電力産業の企業の起債は
活発で 、「電力外債時代」と呼ばれていた。 *16
2)主な発行企業と引き受け会社
以上でかなり社債発行企業が限定されたので、それらの産業を代表する企業 4 社の主な
社債の現在高と引き受け会社の一覧を、 表7 で、 1930 と 38 年の2つの年度について示し
た 。1938 年の上位 3 社は 5 件 、それ以外は 3 件について詳細なデータを掲げた 。*17 なお 、
主要企業の社債発行高については、私の論文「戦間期日本の主要企業と企業間関係」で確
認できる。
1930 年の最大の発行企業は東京電灯であった。総額で 3.9 億円、次に位置する南満州鉄
道の 3.0 億円をはるかに超えていた。内容についても、両者は大きく異なっていた。
東京電灯の最大の発行は 1928 年の 7000 万ドル(表では残高が 1.3 億円)で、この 1 件
だけで社債総額 3 分の 1 を占めている。引き受け会社はギャランティー・カンパニー・オ
ブ・ニューヨーク( Guaranty Co. of New York 、表では 、ガランテイコンパニー )であった 。*18
この発行について、 1929 年 7 月 9 日付けの Wall Street Journal は 、「ニューヨーク市場でか
つて募集された最大の外国証券」と報じた。 *19 あとの 2 件も同じ 1928 年 6 月 15 日の発
行であるが、そのうちの 1 件はやはり外債であった。同産業の東邦電力も、外債の発行が
主であるという特徴を共通してもっていた。
こうした外債の発行は、当時は主要な独立系企業に限られていたが、これらの企業の将
来にわたる成長の可能性が国際的に認められていることを示し、また国際的な市場で活躍
する可能性を広げるという点で、大いに注目すべきものであった。外債の発行や、外国企
業との提携などによる資本の受け入れなどの動きが、日本企業全体に広がっておれば、当
時の日本の経済と政治の発展にも異なった可能性が生まれていただろう。
これに対して、南満州鉄道は、少し古い発行のものにはポンド建てのものがあったが、
主なものはすべて日本興業銀行などの発行によるものであった。東洋拓殖では、電力会社
と同様に外債が上位の 2 件であった。
1938 年になると、満州開発の要請から、南満州鉄道の発行が急増し 8.0 億円に達する。
引き受け会社はやはり日本興業銀行が中心であった。国の影響下にある両者が協力するの
は、当然であった。日本興業銀行などは、東洋拓殖での発行も増大させ、東洋拓殖の発行
*15 大阪屋商店調査部編纂『( 昭和7年度)株式年鑑』大同書院、奥付なし、 204-5 ページ 。
*16 有沢広巳監修 、1995 年 、
『 日本証券史1 』日本経済新聞社( これは 、有沢広巳監修 、1978
年 、『証券百年史』を改題したもの )、 127-32 ページ。
*17 1928 年上期と 1936 年下期の社債発行の企業別の実績については、志村嘉一、 1969 年、
『日本資本市場分析』東京大学出版会、 285 ページを参照。
*18 『東京電燈株式會社開業五十年史 』、 1936 年、 163 ページ。ただし、英文企業名は、営
業報告書( 1928 年下半期)にもなく、次の注 19 の文献を利用した。
*19 『三井銀行八十年史 』、 1957 年、 240 ぺージ。
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形態も大きく変わった。 *20
これに対して、電力 2 社の社債現在高の増加は止まった。また、重要なことは両社のこ
の一覧の範囲での外債の発行がなくなり、南満州鉄道などの場合の日本興業銀行に対抗し
て、民間の三井銀行 *21 や三井信託 *22 など信託会社による新規発行が行われるようにな
った。東邦電力の場合も同様であった。
こうして 、私の論文「 戦間期日本の主要企業と企業間関係 」のⅣで検討したように 、1940
年になって、日本興業銀行や三井銀行の手数料は増加し、銀行全体としても大幅な増額を
もたらしている。
3)社債の保有状況
では、これらの社債の保有状況はどうだったのか。金融機関ごとの保有状況を把握して
みたい。 *23
表8によれば 、社債の現在高は 、1921 年の 17.6 億円から 、30 年の 49.8 億円 、40 年の 93.3
億円へと増加している。もちろん、最大の保有金融機関は、私立・普通銀行で、その比重
も 1940 年の 24.3% まで上昇している。次に大きな保有機関は預金部で、 1940 年に 15.2% で
あるが、その比率はとくに上昇していない。 Ⅲ で検討する生命保険は、私立・普通銀行と
ともに上昇しており、第 3 位の金額に達している。
こうして、金融機関全体の保有比率は、 1921 年の 47.8% 、 30 年の 60.7% 、 40 年の 72.4%
と着実に上昇している。いわゆる機関投資家の影響が増大する 機関化現象 である。これに
対して、それ以外の比率、おそらくそのなかで個人の占める比重は大きいものと推測され
るが、それは年々低下している。
同様の傾向は、こうした全体としての数値ではないが、私の論文「戦間期日本の主要企
業と企業間関係」の表1から4まででの個人投資家の後退の事実で確認できる。機関化現
象は、金融・証券市場全体で例外なしに生じている現象である。
Ⅲ. 機関投資家としての生命保険会社
私の論文「戦間期日本の主要企業と企業間関係」では、主要企業の重要な株主として登
場した生命保険会社の株式保有に限定して検討した。本論文ではすでに社債市場も含めた
金融・証券市場全体の検討に進んだので、生命保険会社の社債保有を論じた上で、機関投
資家としての生命保険会社の役割についてより包括的に考えてみたい。
1)生命保険会社と資産運用の概観
*20 日本興業銀行は、 1902 年に、日本興業銀行法にもとづいて設立された。その設立目的
と成立の経緯は 、『日本興業銀行五十年史 』、 1957 年、 21-8 ページ参照。その株主について
は、私の論文「戦間期日本の主要企業と企業間関係」表4を参照。
日本興業銀行の引受公社債のうち、いかに日満華会社債が多いかについては、同書、第
110 表、第 215 表を参照。
*21 三井銀行の証券引受業務の発展は著しい 。『三井銀行八十年史 』、 1957 年、 446-54 ペー
ジ 。なお 、先の東京電灯等の外債の発行の際に 、三井銀行は受託銀行として重要な役割を果
たしている。
*22 三井信託株式会社は、 1924 年 3 月に、信託業法に基づくわが国最初の信託会社として、
資本金 3000 万円をもって設立された。 1940 年下期の、信託報酬は 196 万円、信託勘定の
公債及び有価証券は 2 億 6891 万円であった。
*23 志村嘉一監修・公社債引受協会『日本公社債市場史』東京大学出版会、 1980 年、巻末
の「公社債基本統計」 28-9 ページを利用した。
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日本の経済発展が進み、人々の生活が豊かになり、個人の金融資産も増えてくると、人
々は将来の生活設計のために生命保険に加入するようになる。我が国の生命保険事業は、
1881 年の明治生命の設立に始まる。その後、 88 年に帝国生命(現朝日生命 )、 89 年に日
本生命が設立されたことについては、すでに述べた。
こうして発展してきた、 1930 年以降の生命保険会社の主な経営指標を、 表9 に一覧に
した。この時期に、契約高は 1920 年の 25.0 億円から 40 年には 303.8 億円に 12.2 倍に達し
た。運用資産も 1920 年の 4.0 億円から 48.6 億円へとこれも 12.1 倍になった。こうして、
巨額の生命保険会社の運用資金が、金融・証券市場に流れ込むようになった。
まず、戦間期の生命保険会社の資金運用の最大の特徴は、有価証券を中心として投資さ
れていたことである。この特徴は、戦後の主に貸し付けを中心にした運用とは大きく異な
っている。
有価証券の内容をみてみると、さらに驚かされる。すべての期間で国債は少なく、資産
は主に株式と社債で構成されていた。 1925 年と 30 年にはかなり社債が多かったが、 1930
年代の後半には、株式の比重が全運用資産の 29.6% にまで上昇し、社債を大幅に上回り、
有価証券の比重全体を一気に高くした。リスクの小さい資産に運用するのが当然の生命保
険が、はじめの時期の 15% 程度の比率でも高いが、 30% にも迫る資金を、現代の株式相互
持ち合いという要請もとくに大きくはないのにもかかわらず、株式市場に投入するとは、
今日からみれば驚きという他はない。 *24
ここで、生命保険会社を、会社ごとにその特徴を検討してみよう。 表10 では、 1930
年と 40 年について、資産の多い生命保険会社を順に掲載した。 1930 年については、資産
が 1 億円を超える 3 社とした。
1940 年の 5 大生命保険会社のうち、日本生命、明治生命と帝国生命が株式会社、第一
生命と千代田生命が相互会社である。 相互会社 は生命保険会社に独特の会社形態で、契約
者が保険加入と同時に会社の持ち分権者である社員になる形態である。 *25 第一生命は、
1902 年、日本最初の相互会社として設立された。株式会社については、株主のデータか
ら、明治生命が三菱財閥の生命保険会社として、帝国生命が古河財閥の企業としての特徴
が明確である。 1930 年の上位 3 社はすべて株式会社ばかりであったが、 40 年には相互会
社の第一生命が第 2 位に躍進している。
各社の資産構成をみておこう。 1930 年の上位 3 社の有価証券の比率は 62.5% と全体に比
べれば高い。しかし、そのうちの約 2 分の 1 は社債で、その比重が非常に高い。
1930 年から 40 年にかけてのもっとも大きな変化は、主要生命保険会社の有価証券保有
の増大である。とくに株式保有が激増し、日本生命を除く 4 社で社債の額を上回った。も
うひとつの特徴は、国債の増加で、社債に迫る額となっている。
資産運用については、会社間の戦略の相違がみられる。日本生命と千代田生命は、貸付
がもっとも多く、株式投資への依存が小さい。とくに、日本生命はそうで、国債よりも少
*24 アメリカとイギリスの生命保険会社の資産運用については、別に検討したい。さしあ
たり 、以下を参照 。アメリカについては 、Goldsmith, Raymond W., 1958, Financial Intermediaries
in the American Economy Since 1900, Princeton: Princeton University Press, Table A-8 、イギリスに
ついては、 Sheppard, David K., 1971, The Growth and Role of UK Financial Institutions 1880-1962,
London: Methuen & Co Ltd, pp.154-5.
*25 たとえば、松岡博司『生保キーワード 140 』金融財政事情研究会、 2002 年、 16 ページ
を参照。
最近になって、内外とも生命保険会社の株式会社化が進められつつある。田中周二編、
2002 年 、
『 生保の株式会社化 』東洋経済新報社 、そのメリットとデメリットについては 、15-21
ページ。
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ない。いっぽう、第一生命、明治生命、帝国生命は、有価証券投資の比重が高く、さらに
有価証券のなかで株式投資が多い。この 3 社の株式投資額は、資産第 1 位の日本生命の株
式投資額を上回っている。
以上の相違は、必ずしも会社形態に対応しているわけでなく、資産の急膨張の過程で、
生命保険会社がさまざまな戦略を模索していることを示していると考えられる。
2)生命保険会社による社債保有
1) の検討では、 1940 年に至る過程での株式所有の激増が注目されるが、その内容に
ついてはすでに検討したので、ここでは、もうひとつの重要な資産運用である社債投資に
ついて調べてみたい。社債投資は 1930 年にはもっとも重要なものであり、 40 年でも相対
的に比重は低下したとはいえ、株式投資に次ぐ金額になっている。
表11 では、 5 社の社債投資相手先の上位 5 社を、社債保有額順に掲げた。表が示すよ
うに、 5 社に投資されている会社は 12 社にすぎず、株式投資の場合と同様に少ない。い
うまでもなく、社債発行が一部の企業に集中しているという事実も反映している。
5 社のうち 4 社が保有しているのが、南満州鉄道 (4200 万円 ) 、朝鮮殖産債券 *26 (3300 万
円 ) で 、3 社が保有しているのが 、東京電灯 (2700 万円 ) 、東洋拓殖 (2200 万円 ) 、日本発送電 (1300
万円 ) である。電力会社が多いというのは株式投資と共通しているが、植民地関連企業と
その債券が多いというのは 、株式保有の場合の優良企業中心の構成と非常に対照的である 。
会社ごとの特徴を見てみると、第一生命の南満州鉄道 (1700 万円 ) をはじめ植民地関係企
業への集中と、上位 5 社への投資の比重が 34.9% とこれも集中が、顕著である。同社のこ
の特徴と、株式投資への集中ぶりは、ハイリスクな投資をあえて選択し、急成長を達成し
ようという戦略が読み取れる。
第一生命は 、当時から「 有価証券中心の投資政策 」に対して 、
「 巷間あらぬ噂を立てられ
たこともあった」ことを認めている。しかし、同社は、総資産利回りが「全年度にわたり
日本生命のそれを凌駕していた。わが社投資政策の輝かしい成果であったと言えよう」と
記述している。 *27
第一生命とは対照的に比較的リスクの低い資産を選択する戦略を選ぶ、最大の社債保有
会社である日本生命は、参宮急行電鉄への投資など地域的な特色も示している。また、上
位 5 社への投資の比重も 25.0% とかなり低い。日本生命は 、「当社に基本である貸付重視
と公共事業優先の運用方針が 、一貫して存続した 」ことと 、こうした方針について 、
「 効率
性の点では劣るものではあったが、安全性と公共性という点においては優れたものであっ
た」ことを認めている。 *28
また、財閥系生命保険会社である帝国生命と明治生命は、社債投資にかんしては、財閥
系企業への投資という特徴を示していない。
生命保険会社の株式投資については、比較的リスクの低い優良企業に集中して投資して
いることを、すでに明らかにした。 *29 それと対比すると、生命保険会社の社債投資は、
電力系企業を除けば植民地関連企業への投資が多く、相対的にリスクが高くなっていると
いわざるをえない。しかし、当時の社債市場の発展水準の制約、つまり発行産業・企業が
*26 朝鮮殖産銀行は、 1918 年に設立された。創業以来 1937 年末までに、朝鮮殖産債券の
発行額は総額 8.99 億円に達した。 1938 年上半期の総資産 6.23 億円の、同行の資金調達は
大部分この方法によって行われ 、大部分が年賦および定期貸付として運用された 。木田秀夫
編纂兼発行『朝鮮殖産銀行二十年志 』、 1938 年、 234-47, 付録 63-4 ページ。
*27 『第一生命八十五年史 』、 1987 年、 169-70 ページ。
*28 『日本生命百年史<上巻>』 1992 年、 638-9 ページ。
*29 私の論文「戦間期日本の主要企業と企業間関係」の Ⅳ を参照。
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集中しているという事情があるとはいえ、生命保険会社はこのリスクの高さを十分に認識
していないようにみえる。
また、生命保険会社は、すでにみたように、株式と社債の両方の投資分野で米英企業な
どへの投資や 、米英国債などへの投資も目立って行ってはいない 。例えば 、日本生命の 1940
年末の外国有価証券保有高は 2376 万円、明治生命は 2237 万円にすぎなかった。 *30 巨額
になる投資リスクの分散を行うには、このような方向も検討されるべきであった。
ともあれ、生命保険会社は、契約増加にともなって巨額の運用を迫られることになった
が、その資金を株式と社債を中心とする有価証券に対して、非常に積極的に運用した。生
命保険会社は、急速に機関化が進む当時の金融・証券市場で、最大の機関投資家として位
置づけられるようになった。
このように生命保険会社の金融・証券市場での役割は大きかったが、生命保険会社が金
融・証券市場とそれを取り巻く経済環境についての比較的十分な情報にもとづいて、経営
に対して積極的に モニタリング機能 を果たしたかどうかについては、今後本格的な研究を
行う必要があるが 、十分とはいえないように思われる 。山中宏氏は 、
「 ・・・その株式所有
は依然『投資』を主眼としたものであり 、『支配権』の確保を意図してはいなかった」 *31
と評価している。
生命保険会社以外に、企業やその集団から独立した立場で、経営に対して積極的にモニ
タリング機能を果たしうる機関や組織は、他には見あたらない。今日のように、海外の投
資家が重要な役割を果たすこともなかった。積極的に市場に投資していた、多数の個人投
資家は、成長力が高いがリスクも高い、満州重工業開発グループなどへの投資を活発に行
い、これらの企業の発展を支えた。しかし、情報収集とその判断の能力で劣位にある個人
であり、主な投資の目的も高いリターンの獲得に限られていた。
以上の検討から、戦間期においては、金融・証券市場の発展が著しく、企業の直接的な
資金調達が進んでいたこと、市場の機関化も発展していて、今日の米英型のコーポレート
・ガバナンスに近い状態が生み出されていたことが明らかである。しかし、戦間期の企業
経営に対して、金融・証券市場の側から何らかの形でモニターし、投資家の立場を擁護す
るような役割を果たす、企業からは独立した機関や組織はきわめて少なかったといえるだ
ろう。そのような条件の生成は、戦後を待たなければならなかった。
Ⅳ. 企業と個人の民間資金移動
以上で戦間期日本において、金融・証券市場が企業活動に果たした役割の大きさとその
多面的な性格については明らかになった。
最後の Ⅳ は、とくに新たな事実を発見しようとするものではなく、以上の事実をあらた
めてマクロ・データで確認しようと思う。
1)企業の産業資金供給状況
すでに何度か利用した 、
『 昭和37年報 本邦経済統計 』と『 明治以降本邦主要経済統計 』
には、企業の産業資金の供給状況にかんするデータがある。ただし、原表では、増減にか
んするデータはあるが 、残高はないので 、それを同資料の各表から可能な限り補ったのが 、
表12 である。
これをみると、 1930-40 年に、企業の資金調達のほぼ半分は株式であった。増減ベース
で 49.3% 、残高ベースで 1940 年に 49.6% となっていて、途中の期間でもそれほど大きな変
*30 雄松堂出版『営業報告書集成 』(マイクロフィルム)による。
*31 山中宏、 1986 年 、『生命保険金融発展史[増補版 ]』東洋経済新報社、 257 ページ。
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化はない。次に事業債が 10% 弱、貸出計が約 40% で、残高ベースで見る限りあまり変わら
ない。主要企業での社債発行への依存はもっと高いので、貸出への依存は、主要企業以外
で多くなっていることには、注意しておかなくてはならない。最後に、資金運用部を通じ
た公的資金については、とくに取り上げるほどの金額ではない。
同様のデータを戦後についてみてみると 、株式の比重は 50, 60, 70 年代と続けて低下し 、
70 年代では 6.4% までになった。そして逆に貸出計は年々上昇し、 70 年代で 89.6% に達し
た。戦前における株式を中心とした 直接金融 、戦後における貸出による 間接金融 と、著し
く異なった特徴を見出せる。 *32
2)個人の資金の流れ
最後に民間の金融貯蓄が、どのような形態で行われたかを、大川一司ほか著『長期経済
統計 推計と分析 5 貯蓄と通貨』でみておこう。 *33 表13 でわかるように、民間金
融貯蓄は 、社内留保と個人貯蓄に区分されるが 、1920 年から 40 年までの増加額合計が 633
億円で、そのうちの 588 億円は個人貯蓄であるので、民間金融貯蓄合計のデータで、個人
貯蓄のおおよその特徴を判断することができるだろう。
民間金融貯蓄は、 1) 預金、 2) 保険、 3) 通貨・預金通貨、 4) 有価証券の4つの形態に区分
される 。預金は 、全国銀行定期性預金 、金銭信託 、郵便定期性預金 、相互銀行定期性預金 、
その他金融機関定期性預金などをさし、通貨・預金通貨は、通貨流通高、全国銀行当座性
預金、その他金融機関当座性預金、郵便貯金当座などをさしている。
表13についても、残高データを作成しようとした。しかし、保険にかんする残高デー
タを得られなかったので、増減データの検討が中心となる。ただし、この表の保険の増減
データ、またこれまでの保険にかんするデータから推測すると、それはおそらく 10% 程度
だと思われるので、残高データについても大きな誤りになることはないだろう。
保険を除く民間金融貯蓄残高合計は、 1920 年の 185 億円から、 30 年の 315 億円、 40 年
の 762 億円へと増加している 。とくに 、1930 年代後半の増加が 424 億円と 、増加額計の約 3
分の 2 となっていて、著しい増加である。
では、構成比をみていこう。まず注目されるのは、通貨・預金通貨の激増である。それ
まで 30% 程度の比重であったものが、 1940 年には 43.6% へ一気に上昇した。戦争が本格的
になり、将来が相対的に確実な資産が少なくなり、いつでも換金可能な流動性の高い資産
に乗り換えようとしたのであろう。
これとは対照的に比重が低下したのが、有価証券である。 1925, 30, 35 の3つの年度で
は、ほぼ 50% 程度であったが、しだいに減少し 1940 年には残高ベースで 35.4% となった。
ただし、この水準でも預金に比較すると相当高い。残念ながら、その内訳はないので、個
人がどのような有価証券を選好したのか明瞭ではない。
戦間期は、表12からわかるように、企業は資金調達を市場を介して直接に行っていた
*32 『完結 昭和国勢総覧 第二巻』東洋経済新報社、 1991 年、 355-6 ページ。
なお 、『 IT 革命と各国のコーポレート・ガバナンス 』、 23 ページでは、日本銀行国際局
『日本経済を中心とする国際比較統計 1999 』にもとづいた、 1990 年代の各国企業の金融
資産・負債残高の比較を行っている。
*33 大川一司・篠原三代平・梅村又次編・江見康一・伊東政吉・江口英一著『長期経済統
計 推計と分析 5 貯蓄と通貨 』、東洋経済新報社、 1968 年、 179 ページ。
なお 、『 IT 革命と各国のコーポレート・ガバナンス 』、 34 ページでは、日本銀行国際局
『日本経済を中心とする国際比較統計 1999 』にもとづいた、各国個人の金融資産残高の
検討を行っている。
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戦間期日本の金融市場と機関投資家 02.jtd, 04/05/15,09:20
が、表13に示したように、機関投資家だけではなく、個人もまたそのような資金を供給
する重要な担い手であったのである。
この表もまた、増減ベースについてのみ、戦後の 1950, 60 年代に延長してみる。そうす
ると、最大の項目は預金で、 1950 年代は 43.4% 、 60 年代は 46.5% となっている。通貨・預
金通貨は約 30% 、有価証券は 15-20% である。この項目についてもまた、戦後とは大きな
相違がある。個人もまた、直接に市場に投資するということは少なくなり、銀行を通じて
の運用が中心となっている。
おわりに
私は、本論文と私の論文「戦間期日本の主要企業と企業間関係」の2つを通じて、戦間
期の日本経済では 、金融・証券市場が非常に重要な役割を果たし続けたこと 、したがって 、
当時のコーポレート・ガバナンスは、市場に基礎を置いたものであったことを多面的に明
らかにしてきた。
ところで、 Takeo Hoshi and Anil K. Kashyap, 2001 は、日本の金融システムの歴史的な変化
について、きわめて適切な表を作成している。 図1 を参照してみよう。
彼らは 、主に戦間期から現在までの日本の金融システムを 、1937 年以前 、1937 年から 1990
年代初期、 21 世紀という3つの時期に区分した。そして、主要な家計金融資産、主要な
企業資金の外部源泉、コーポレート・ガバナンスにおける銀行の関与、規制環境、重要な
特徴という5つの点で、それぞれのシステムを比較している。
そして、 21 世紀の金融システムは、敗戦による経済の解体という歴史的な条件で発展
してきたメインバンク・システムの延長上にではなく、 1937 年以前に日本がすでに発達
させていたものをさらに発展させるものでなければならないことを 、明確に主張している 。
コーポレート・ガバナンスは、経済そのものと同様、もともと市場志向型に向かって段階
的に発展していくものではない。日本についてもそのひとつの事例である。
この優れた研究と主張を、私も基本的に支持し、 IT 革命のひとつの最先端国になろう
としている日本には、それがもっともふさわしい選択肢であることを、とくに強調してお
きたい。
この結論は、実はさらに大きな意味をもっている。日本の戦前の経験は、今日新たな経
済発展を求めようとする多くの発展途上国に、重要な教訓を与えている。日本の経験を生
かすということは、今日のメインバンク・システムの移転という結論に、必ずしも結びつ
くわけではない。むしろ、グローバルな金融・証券市場が発展している現在では、戦間期
日本における、その市場を通じての企業活動の発展と同様の可能性が、いっそう大きくな
っていると考えられる。
なお、あえてこの表にもうひとつの重要な内容を付け加えるとすれば、コーポレート・
ガバナンスにおける銀行の役割だけでなく 、 機関投資家の役割である 。 1937 年以前にも 、
機関投資家の金融的な比重は非常に高かった。しかし、機関投資家が市場と企業の経営に
積極的に関与しようとすることの意義と役割が明確に意識されるようになったのは、今日
の新しい条件である。 21 世紀は、 1937 年以前の繰り返しではなく、 IT 革命という新たな
条件のもとでのいっそうの発展である。
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