世界怪談名作集05クラリモンド

世界怪談名作集
クラリモンド
ゴーチェ Theophile
Gautier
岡本綺堂訳
一
わたしがかつて恋をしたことが
たず
あるかとお訊ねになるのですか。
あります。わたしの話はよほど変
わっていて、しかも怖ろしい話で
す。わたしは六十六歳になります
が、いまだにその記憶の灰をかき
乱したくないのです。
わたしはごく若い少年の頃から、
僧侶の務めを自分の天職のように
思っていましたので、すべて私の
勉強はその方面のことに向けてい
ました。二十四のころまでのわた
しの生活は、長い初学者としての
お
生活でした。神学の課程を卒えま
しゅ
すと、つづいて種じゅの雑務に従
事しましたが、牧師長の人たちは
わたしがまだ若いにもかかわらず、
わたしを認めてくれまして、最後
に聖職につくことを許してくれま
した。そうして、その僧職の授与
式は復活祭の週間のうちに行なわ
れることに決まりました。
わたしはその頃まで、世間に出
たことがありませんでした。わた
しの世界は、学校の壁と、神学校
関係の社会だけに限られていまし
た。それで、わたしは世間でいう
女というものには、極めて漠然と
した考えしか持っていませんでし
たし、また、そんな問題において
考えたりすることは決してありま
せんでしたので、全く無邪気のま
まに生活していたのでした。私は
一年にたった二度、わたしの年老
いた虚弱な母に逢いに行くばかり
かか
で、私とほかの世間との関り合い
というものは、全くこれだけのこ
としかなかったのであります。
わたしはこの生活になんの不足
もありませんでした。わたしは自
分が二度と替えられない終身の職
に就いたことに対しては、なんの
ためらい
躊躇も感じていませんでした。私
おど
はただ心の喜びと、胸の躍りを感
じていました。どんな婚約をした
恋人でも、わたしほどの夢中の喜
びをもって、ゆるやかな時刻の過
ぎるのをかぞえたことはあります
せいさん
まい。わたしは寝る時には、聖餐
しき
式でわたしが説教する時のことを
とこ
夢みながら床につくのです。わた
しはこの世に、僧侶になるという
ほどの喜びは、他に何もないもの
だと信じていました。詩人になれ
ても、帝王になれても、わたしは
それを断わりたいほどで、わたし
の野心はもうこの僧侶以上に何も
思っていませんでした。
とうとう私にとって大事の日が
参りました。私はまるで自分の肩
はね
に羽でも生えているように、浮き
うきした心持ちで、教会の方へ軽
く歩んでいました。まるで自分を
エンジェル
天使のように思うくらいでした。
おおぜい
そうして、大勢の友達のうちには
暗いような物思わしげな顔をして
いる者があるのを、不思議に思う
きと
くらいでありました。わたしは祈
う
祷にその一夜を過ごして、まった
ほうえつ
く法悦の状態にあったのです。慈
愛ぶかい司教さまは永遠にいます
父︱︱神のごとくに見え、教会の
まるてんじょう
円天井のあなたに天国を見ていた
のであります。
この儀式をくわしくご存じでしょ
ベネゼクション
うが、まず浄祓式がおこなわれ、
コ ミ ュ ニ オ ン
それから、両種の聖餐拝受式、そ
れから、てのひらに洗礼者の油を
まつゆしき
塗る抹油式、それが済んでから、
司教と声をそろえて勤める神聖な
る献身の式が終わるのであります。
ああ、しかしヨブ︵旧約ヨブ記
の主人公︶が、﹁眼をもて誓約せ
ざるものは愚かなる人間なり﹂と
言ったのは、よく真理を説いてい
ます。わたしがその時まで垂れて
いた頭を偶然にあげると、わたし
の眼の前にまるでさわれるぐらい
に近く思われて、実際は自分のと
ころからかなり離れた聖壇の手す
りのはしに、非常に美しい若い女
が目ざむるばかりの高貴の服装を
しているのを見ました。
それはわたしの眼には、世界が
変わったように思われました。私
はまるで盲目の眼が再びあいたよ
うに感じたのです。つい今の瞬間
までは栄光に輝いていた司教の姿
はたちまちに消え去って、黄金の
燭台に燃えていた蝋燭はあかつき
くら
の星のように薄らいで、一面の暗
やみ
闇がお堂の内に拡がったように思
われました。かの愛らしい女はそ
の暗闇を背景にして、天使の出現
のようにきわだって浮き出してい
たのです。彼女は輝いていました。
実際、輝いて見えるというだけで
なく、光りを放っていました。
と
わたしは他のことに気を奪られ
てはならないと思って、二度と眼
をあくまいと決心してまぶたを伏
せました。なぜといって、わたし
こう
の煩悶はだんだんに嵩じてきて、
自分はいま何をしているか分から
ないくらいになったからでした。
それにもかかわらず、次の瞬間に
まつげ
はまたもや眼をあげて、睫毛のあ
いだから彼女を見ました。すると、
誰しも太陽を見つめる時、むらさ
き色の半陰影が輪を描くように、
にじいろ
彼女はすべて虹色にかがやいてい
ました。
ああ、なんという美しさであろ
う。偉大なる画家は、理想の美を
天界に求めて、地上に聖女の真像
を描きますが、今わたしの眼前に
ある自然のほんとうの美しさに近
い描写はまだ見いだされません。
いかなる詩句といえども、画像の
パ レ ッ ト
絵具面といえども、彼女の美を写
してはいませんでした。彼女はや
せ
い
や脊丈の高い、女神のような形と
態度とを有していました。やわら
こんじき
かい金色な髪をまん中で二つに分
け、それが金の波を打つ二つの河
こめかみ
になって両方の顳※に流れている
ところは、王冠をいただく女王の
ひたい
ように見えました。額は透き通っ
た青みのある白さで、二つのアー
チ形をした睫毛の上にのび、おの
ずからなる快活な輝きを持つ海緑
ひとみ
きわだ
色の瞳をたくみに際立たしている
のでした。ただ不思議に見えたの
は、その眉がほとんど黒いことで
した。それにしても、なんという
眼でしょう。ただ一度のまたたき
だけでも、一人の男の運命を決め
ることのできる眼です。今までわ
たしが人間に見たことのない、清
く澄んだ、熱情のある、うるんだ
光りを持つ、生きいきした眼であ
りました。
二つの眼は矢のように光りを放
ちました。それがわたしの心臓に
透るのをはっきりと見たのです。
わたしはその輝いている眼の火が、
天国より来たものか、あるいは地
獄から来たものかを知りませんが、
デモン
いずれかから来ているに相違あり
エンジェル
ません。彼女は天使か、悪魔かで
ありました。おそらく両方であっ
たろうと思います。たしかに彼女
は普通の女から︱︱すなわちイヴ
や
の腹から生まれたのではありませ
つ
んでした。光沢のある真珠の歯は、
愛らしい微笑のときに光りました。
くちびる
ら
彼女が少しでも口唇を動かすとき
ば
に、小さなえくぼが輝く薔薇色の
頬に現われました。優しい整った
鼻は、高貴の生まれであることを
物語っていました。
なめ
半分ほどあらわに出した滑らか
めのう
な光沢のある二つの肩には、瑪瑙
と大きい真珠の首飾りが首すじの
色と同じ美しさで光っていて、そ
れが胸の方に垂れていました。時
どきに彼女があふれるばかりの笑
くじゃく
いを帯びて、驚いた蛇か孔雀のよ
うに顔を上げると、それらの宝石
をつつんだ銀格子のような高貴な
ひだえり
襞襟が、それにつれて揺れるので
した。彼女は赤いオレンジ色のビ
ロードのゆるやかな着物をつけて
てん
いました。貂の皮でふちを取った
そで
広い袖からは、光りも透き通るほ
どのあけぼのの女神の指のような、
まったく理想的に透明な、限りな
く優しい貴族風の手を出していま
した。
これらの細かいことは、その時
わたしが非常に煩悶していたのに
の
かかわらず、何ひとつ逃がさずに、
あたかもきのうのことのように明
あご
白に思い出します。顎のところと
口唇の隅にあった極めてわずかな
影、額の上のビロードのようなう
ぶ毛、頬にうつる睫毛のふるえた
影、すべてのものが、驚くほどに
はっきりと語ることができるので
す。
それを見つめていると、わたし
と
は自分のうちに今まで閉じられて
いた門がひらくのを感じました。
長い間さえぎられていた口があい
て、すべてのものが明らかになり、
今まで知らなかった内部のものが
見えるようになったのです。人生
そのものがわたしに対して新奇な
局面をひらきました。わたしは新
しい別の世界、いっさいが変わっ
ているところに生まれて来たと思っ
や
たのです。恐ろしい苦悩が赤く灼
はさみ
けた鋏をもって、わたしの心臓を
苦しめ始めました。絶え間なく続
いている時刻がただ一秒のあいだ
かと思われると、また一世紀のよ
うに長くも思われます。
そのうちに儀式は進んでゆく。
わたしはその時、山でも根こぎに
するほどの強い意志の力を出して、
わたしは僧侶などになりたくない
と叫び出そうとしましたが、どう
してもそれが言えないのです。わ
うわあご
・
たしは自分の舌が上顎に釘づけに
・
でもなったくらいで、いやだとい
・
ういの字も言うことができなかっ
たのです。それはちょうど夢にお
そわれた人が命がけのことのため
に、なんとかひと声叫ぼうとあせっ
ても、それができ得ないのと同じ
ことで、わたしは現在目ざめてい
ながらも叫ぶことが出来なかった
のです。
め
彼女はわたしが殉道に身を投じ
は
てゆく破目になるのを知って、い
かにも私に勇気づけるように、力
強い頼みがいのある顔を見せまし
た。その眼は詩のように、眼の動
きは歌のように思われたのです。
彼女はその眼でわたしに言いま
した。
・
・
﹁もしあなたがわたしのものになっ
て下さるなら、神が天国にいます
よりも、もっと幸福にしてあげま
す。天使たちがあなたに嫉妬を感
じるほどにしてあげます。あなた
自身を包もうとしている、あの喪
服を引っぱがしておしまいなさい。
わたしは美しいのです。わたしは
若いのです。わたしには命がある
のです。わたしのところへ来て下
さい。お互いに愛します。エホバ
の神は何をあなたに上げるのでしょ
う。なんにもくれますまい。わた
せっ
したちのいのちは、ただ一度の接
ぷん
吻のあいだに夢のように過ぎてし
チャリース
まいます。あの聖餐盃を投げ出し
ておしまいなさい。そうして、自
由におなりなさい。わたしはあな
たを遠い島へお連れ申します。あ
なたは、銀の屋根の建物の下で、
おうごん
大きい黄金の寝台の上で、わたし
のふところで寝られます。わたし
はあなたを愛しております。わた
しはあなたを神様より奪ってしま
いたいのです。これまでどれだけ
の尊い人たちが愛の血をそそいだ
かもしれませんが、誰も神様のそ
ばにも近寄った者はないのではご
ざいませんか﹂
これらの言葉が、無限の優しい
リズムをもってわたしの耳に流れ
込みました。彼女の顔はまったく
歌のようで、その眼で物を言って
います。そうして、それが本当の
も
くちびるから漏れ出るようにわた
しの胸の奥にひびくのでした。
わたしはもう神様にむかって、
僧侶となることを断わりたい心持
ちが胸いっぱいでしたが、それで
どういうものか、わたしの舌は儀
式通りに言ってしまうのです。美
しいひとは更にまた、わたしの胸
しらは
を刺し通す鋭い白刃のような絶望
の顔や、歎願するような顔を見せ
るのです。それは﹁悲しみの聖母﹂
のどれよりも、もっと強い刃でつ
らぬくような顔つきでありました。
そのうちにすべての儀式はとど
こおりなく終わって、わたしは一
個の僧侶になったのであります。
くも
この時ほど、彼女の顔に深い苦
ん
悶の色が描かれたのを見たことは
ありませんでした。婚約した愛人
ま
の死を目のあたり見ている少女も、
から
死んだ子を悲しんで空の乳母車を
のぞき込んでいる母も、天界の楽
園を追われてその門に立つイヴも、
りんしょく
吝嗇な男が自分の宝と置き換えら
れた石をながめている時でも、詩
人がたましいをこめた、ただひと
や
つの原稿を何かのために火に焚こ
うとしている時でも、この時にお
ける彼女ほどには、あきらめ切れ
ないような絶望の顔を見せないで
あろうと思われました。彼女の愛
らしい顔にすっかり血の色が失せ
て、大理石よりも白くなりました。
美しい二つの腕は筋肉のゆるんだ
ように、体の両方に力なく垂れて
すなお
しまいました。柔順な足も今は自
由にならなくなって、彼女は何か
力と頼むべき柱をさがしていまし
た。
わたしはといえば、これも死人
のような青白い色をして、教会の
ドアの方へよろめいて行きました
はりつけ
が、あのクリストの磔刑の像より
も更に血の汗を浴びて、まるで首
し
を絞められている人のように感じ
ました。円天井はわたしの肩の上
へひら押しに落ちかかって来て、
わたしの頭だけでこの円天井のす
ささ
べての重みを支えているようであ
りました。
しきい
ちょうど、わたしが教会の閾を
またごうとする時でした。突然に
一つの手がわたしの手を握ったの
です。それは女の手です。わたし
はこれまでに女の手などにふれた
ことはありませんでしたが、その
時わたしに感じたのは蛇の肌にさ
わったような冷たい感じで、その
て
時の感じはいまだに掌の上に、熱
やきいん
鉄の烙印を押したように残ってい
ます。それは彼女の手であったの
です。
﹁不幸なかたね。ほんとうに不幸
なかた⋮⋮。どうしたということ
です﹂と、彼女は低い声を強めて
言って、すぐに人込みのなかに消
えて行ってしまいました。
老年の司教がわたしのそばを通
りかかりました。彼は何かわたし
を冷笑するようなけわしい眼を向
けて行きました。わたしはよほど
取りみだした顔つきをしていたら
しく、顔を赤くしたり、青くした
りして、まぶしい光りが眼の前に
きらめくように感じました。その
うちに、一人の友達がわたしに同
情して、わたしの腕をとって連れ
出してくれました。わたしはもう
たす
誰かに扶けられないでは、学寮へ
帰ることが出来ないくらいでした。
町の角で、わたしの若い友達が
何かよその方へ気をとられて振り
せつな
むいている刹那に、風変わりの服
ページ
装をした黒人の召仕がわたしに近
づいて来て、歩きながらに金色の
ふちの小さい手帳をそっと渡して、
それをかくせという合図をして行
きました。わたしはそれを袖のな
かに入れて、わたしの居間でただ
ひとりになるまで隠しておきまし
た。
ひと
独りになってから、その手帳の
止めを外すと、中には一枚の紙が
はいっていて、﹁コンティニ宮に
て、⋮⋮クラリモンド﹂と、わず
かに書いてありました。
二
わたしはその当時、世間のこと
はなんにも知りませんでした。名
高いクラリモンドのことなども知っ
ていません。コンティニ宮がどこ
けんとう
にあるかさえも、まったく見当が
つきませんでした。わたしはいろ
いろに想像をたくましくしてみま
したが、実のところ、もう一度逢
うことが出来れば、彼女が高貴な
女であろうと、または娼婦のたぐ
いであろうと、わたしはそんなこ
とを気にかけてはいないのでした。
わたしの恋はわずかいっときの
あいだに生まれたのですが、もう
打ち消すことの出来ないほどに根
が深くなってゆきました。わたし
はもう、まったく取りみだしてし
まって、彼女が触れたわたしの手
に接吻したり、幾時間ものあいだ
に繰り返して彼女の名を呼んだり
しました。わたしは彼女の姿を目
のあたりにはっきりと認めたいが
ために、眼をとじてみたりしまし
た。
わたしは教会の門のところで、
わたしの耳にささやいた彼女の言
葉を繰り返しました。﹁不幸なか
たね。ほんとうに不幸なかた⋮⋮
どうしたということです﹂
︱︱わたしはそうしているうち
に、とうとう自分の地位の恐ろし
さがわかるようになりました。暗
いま
い忌わしい束縛︱︱その生活のう
ちに、自分がはいっていったとい
うことがわかるようになりました。
僧侶の生活︱︱それは純潔にし
て身を慎んでいること、恋をして
はならないこと、男女の性別や老
若の区別をしてはならないこと、
すべて美しいものから眼をそむけ
ること、人間の眼を抜き取ること、
そうぼう
一生のあいだ教会や僧房の冷たい
日影に身をかがめていること、死
人の家以外を訪問してはならない
こと、見知らない死骸のそばに番
をしていること、いつも喪服にひ
ころも
としい法衣を自分ひとりで着て、
最後にはその喪服がその人自身の
おお
棺の掩いになるということであり
ます。
もう一度クラリモンドに逢うに
は、どうしたらいいかと思いまし
た。町には誰も知っている人がな
いので、学寮を出る口実がなかっ
たのです。わたしはもうこんな所
にいっときもじっとしてはいられ
ないと思いました。そこにいたと
ころが、ただわたしはこれから職
に就く新しい任命を待っているば
かりです。
かんぬき
窓をあけようと思って、貫木に
手をかけましたが、それは地面か
ら非常に高い所にありますので、
はしご
別に梯子を見つけない限りは、こ
の方法で逃げ出すことは無駄であ
ることが分かりました。その上に、
どうしても夜ででもなければ、そ
こから降りられそうもないのです。
それからまた、あの迷宮のように
複雑な街の様子も分かりかねるの
でありました。これらの困難は、
他人にとってはさほどむずかしい
とは思われないのでしょうが、わ
たしにとっては非常に困難の仕事
であったのです。それというのは、
わたしはつい前の日に、生まれて
初めて恋に落ちたばかりの学徒で、
経験もなければ金も持たない、衣
服も持たない、あわれな身の上で
あったからです。
わたしは盲目にひとしい自分に
むかって、ひとりごとを言いまし
た。
﹁ああ、もし自分が僧侶でなかっ
ひと
たなら、毎日でもあの女に逢うこ
とも出来る。そうして、あの女の
恋人となり、あの女の夫になって
いられるのだが⋮⋮。こんな陰気
な喪服の代りに、絹やビロードの
着物を身にまとって、金のくさり
や剣をつけて、ほかの若い騎士た
ちのように美しい羽毛をつけてい
られるのに⋮⋮。髪もこんなぶざ
トンシュア
まな剃髪などにしていないで、襟
まで垂れている髪を波のようにち
あごひげ
ぢらせて、立派に伸びた頤鬚まで
もたくわえて、優雅な風采でいら
れるのに⋮⋮﹂
しかも、かの聖壇の前における
めいせき
一時間、その時のわずかな明晰な
言葉が、永久にわたしをこの世の
人のかずから引き離してしまって、
いし
わたしは自分の手で自分の墓の石
ぶた
蓋をとじ、自分の手で自分の牢獄
の門をとじたのでありました。
わたしはまた窓へ行って見ると、
空はうららかに青く晴れて、すべ
ての樹木はみな春のよそおいをし
て、自然は皮肉な歓楽の行進をつ
づけています。そこには、多くの
人びとが往来して、姿のよい若い
紳士や、美しい淑女たちが二人連
れで、森や花園の方へそぞろ歩き
をしています。元気のいい青年が
おもしろそうに酔って歌っていま
す。すべてが快活、生命、躍動の
一幅の絵画で、わたしの悲哀と孤
独とくらべると実にひどい対照を
なしているのです。門の階段のと
ころには、若い母が、自分の子供
ら
と遊んでいます。母はまだ乳のし
ば
ずくの残っている可愛らしい薔薇
色の口に接吻をしたり、子供を喜
ばせるためにいろいろあやしてみ
たり、母だけしか知らないような
しぐさ
種じゅ様ざまな尊い仕科をしてい
ます。その子供の父は腕を組んで
ほほえ
にこやかに微笑みながら、少し離
れたところに立ってその可愛らし
い仲間をながめています。
わたしはもうこんな楽しい景色
た
を見るに堪えられなくなって、手
あらく窓をしめきって、急いで床
のなかに飛び込んでしまいました。
わたしのこころは、はげしい嫉妬
けんお
と嫌悪でいっぱいになって、十日
も飢えている虎のように、わが指
を噛みました。
こうして私はいつまで寝台にい
たか、自分でも覚えませんでした
もだ
が、床のなかで発作的に苦しみ悶
えている間に、突然この部屋のま
んなかに僧院長のセラピオン師が
まっすぐに突っ立って、注意ぶか
くわたしを見つめているのに気が
つきました。
わたしは非常に恥かしくなって、
おのずと胸の方へ首を垂れて、両
手で顔を掩いかくしたのです。セ
ラピオン師はしばらく無言で立っ
ていましたが、やがて私に言いま
した。
﹁ロミュオー君。何か非常に変わっ
たことがあなたの身の上に起こっ
ているようですな。あなたの様子
すなお
はどうも理解できない。あなたは
けいけん
いつも沈着で敬虔な温順な人物で
あるのに、どうしてそんなに、野
獣などのように怒り狂っているの
です。気をおつけなさい。悪魔の
声に耳を傾けてはならない。恐れ
てはならない。勇気を失ってはな
りませんぞ。そんな誘惑に出逢っ
た場合には、何よりも確固たる信
念と注意とに頼らなくてはいけま
せん。さあ、しっかりしてよくお
考えなさい。そうすれば悪魔の霊
はきっとあなたから退散してしま
います﹂
セラピオン師の言葉で、わたし
は我れにかえって、いくぶんか心
が落ちついて来ました。彼は更に
言いました。
﹁あなたはCという所の司祭に就
くことになったので、それを知ら
せに来たのです。そこの僧侶が死
んだので、あなたがそこへ就職す
るように司教さまから命ぜられま
した。明日すぐに出発できるよう
に用意してもらいたいのです﹂
彼女に再び逢うことなしに、明
日ここを離れて行き、今まで二人
さわ
のあいだを隔てる障りある上に、
さらに二人の仲をさくべき関所を
置くことになったら、奇蹟でもな
い限りは彼女に逢うことは永遠に
できなくなるのです。手紙を書い
しょせん
てやることは所詮できないことで
す。誰にたのんでその手紙を渡し
ていいか、それさえも分からない。
僧職にある身が誰にこんなことを
打ち明けていいか、誰を信じてい
た
いか。それが私にはまったく堪え
られないほどの苦労でありました。
翌あさ、セラピオン師はわたし
を連れに来たのです。旅行用の貧
ば
しい手鞄などを乗せている二匹の
ら
騾馬が門前に待っていました。セ
ラピオン師は一方の騾馬に乗り、
わたしは型のごとくに他の騾馬に
乗りました。
みち
町の路みちを通るとき、わたし
はもしやクラリモンドに逢いはし
ないかと、家いえの窓や露台に気
をつけて見ました。朝が早かった
まち
ので、街もまだほとんど起きては
いませんでした。わたしは自分の
通りかかった邸宅という邸宅の窓
よろいど
の鎧戸やカーテンを見透すように
眼をくばりました。
セラピオン師はわたしの態度を
別に疑いもせず、ただ私がそれら
の邸宅の建築を珍らしがっている
のだと思って、わたしがなお十分
に見ることが出来るように、わざ
と自分の馬の歩みをゆるやかにし
てくれました。わたしたちはつい
に町の門を過ぎて、前方にある丘
をのぼり始めました。その丘の頂
上にのぼりつめた時、わたしはク
いちべつ
ラリモンドの住む町に最後の一瞥
を送るために見返りました。
町の上には、大きい雲の影がお
おい拡がっておりました。その雲
の青い色と赤い屋根との二つの異っ
と
た色が一つの色に溶け合って、新
ちまた
しく立ち昇る巷の煙りが白い泡の
ように光りながら、あちらこちら
にただよっています。ただ眼に見
えるものは一つの大きい建物で、
しの
周囲の建物を凌いで高くそびえな
あわ
がら、水蒸気に包まれて淡く霞ん
でいましたが、その塔は高く清ら
かな日光を浴びて美しく輝いてい
ました。それは三マイル以上も離
れているのに、気のせいか、かな
こと
りに近く見えるのでした。殊にそ
の建物は、塔といい、歩廊といい、
窓の枠飾りといい、つばめの尾の
かざみ
形をした風見にいたるまで、すべ
ていちじるしい特長を示していま
した。
﹁あの日に照りかがやいている建
物は、なんでございます﹂
わたしはセラピオン師にたずね
ました。彼は手をかざして眼の上
をおおいながら、わたしの指さす
方を見て答えました。
﹁あれはコンティニ公が、娼婦の
クラリモンドにあたえられた昔の
宮殿です。あすこでは恐ろしいこ
とが行なわれているのです﹂
その瞬間でした。それはわたし
の幻想であったか、それとも事実
であったか分かりませんが、かの
建物の敷石の上に、白い人の影の
ようなものがすべってゆくのを見
たような気がしたのです。ほんの
いっとき、光るように通り過ぎて、
間もなく消えたのですが、それは
確かにクラリモンドであったので
す。
ああ、実にそのとき、遠く離れ
たけわしい道の頂上︱︱もう二度
とここからは降りて来ないであろ
うと思われる所から、落ちつかな
い興奮した心持ちで彼女の住む宮
殿の方へ眼をやりながら、雲のせ
いかその邸宅が間近く見えて、わ
たしをそこの王として住むように
差し招いているかとも思う。︱︱
その時のわたしの心持ちを彼女は
知っていたでしょうか。
彼女は知っていたに違いないと
すき
思うのです。それはわたしと彼女
わず
とのこころは、僅かの隙もないほ
どに深く結ばれていて、その清い
彼女の愛が︱︱寝巻のままではあ
りましたが︱︱まだ朝露の冷たい
なかをあの敷石の高いところに彼
女を立たせたに相違ないのです。
雲の影は宮殿をおおいました。
はふう
いっさいの景色は家の屋根と破風
との海のように見えて、そのなか
に一つの山のような起伏がはっき
りと現われていました。
セラピオン師は騾馬を進めまし
た。わたしも同じくらいの足どり
で馬を進めて行くと、そのうちに
道の急な曲がり角があって、とう
とうSの町は、もうそこへ帰るこ
とのできない運命とともに、永遠
にわたしの眼から見えなくなって
しまいました。
田舎のうす暗い野原ばかりを過
う
ぎて、三日間の倦み疲れた旅行の
のち、わたしが預かることになっ
おんどり
ている、牡鶏の飾りのついている
き
ぎ
教会の尖塔が樹樹の間から見えま
かや
した。それから、茅ぶきの家と小
さい庭のある曲がりくねった道を
通ったのち、あまり立派でもない
教会の玄関の前に着いたのです。
入り口には、いくらかの彫刻が
あらぼ
施してあるが、荒彫りの砂岩石の
柱が二、三本と、またその柱と同
じ石の控え壁をもっている瓦ぶき
の屋根があるばかり、ただそれだ
けのことでした。左の方には墓所
があって、雑草がいっぱいに生い
しげり、まん中あたりに鉄の十字
架が建っています。右の方に司祭
館が立っていて、あたかも教会の
蔭になっているのです。それがま
た極端に単純素朴なもので、囲い
のうちにはいってみると、二、三
とり
羽の鶏がそこらに散らばっている
穀物をついばんでいます。鶏は僧
侶の陰気な習慣になれていると見
えて、わたしたちが出て来ても別
な
に逃げて行こうともしません。ど
か
こかで嗄れたような啼き声がきこ
えたかと思うと、老いさらばえた
一匹の犬が近づいて来るのでした。
ぜん
それは前の司祭の犬で、ただれ
た眼、灰色の毛、これ以上の年を
とった犬はあるまいと思われるほ
どの衰えを見せていました。わた
しは犬を軽くたたいてやりますと、
何か満足らしい様子で、すぐにわ
たしのそばを通って行ってしまい
ました。そのうちに前の司祭の時
代からここの留守番であったとい
うひどい婆さんが出て来ました。
老婆はうしろの小さい客間へわた
したちを案内して、今後もやはり
自分を置いてもらえるかというこ
たず
とを尋ねるのです。彼女も、犬も
鶏も、前の司祭が残したものはな
んでも皆そのままに世話をしてや
ると答えますと、彼女は非常に喜
びました。セラピオン師はこれだ
けの小さい世帯を保ってゆくため
に、彼女の望むだけの金をすぐに
出してやったのであります。
さて、それからまる一年のあい
だ、わたしは自分の職務について、
十分に行き届いた忠実な勤めをい
たしました。祈祷と精進はもちろ
ん、病める者はわが身の痩せるよ
うな思いをしても救済し、その他
の施しなどについても、わたし自
くらし
身の生計に困るほどまでに尽力し
ました。しかもわたしは自分のう
み
ちに、大きい充たされないものが
ありました。神の恵みは、わたし
には与えられないように思われま
した。この神聖な布教の職にある
ものに湧きでるはずの幸福という
ものが、一向に分からなくなりま
した。わたしの心は遠い外に行っ
ていたのです。クラリモンドの言
くちびる
葉が今もわたしの口唇に繰り返さ
れていたのでした。
ああ、皆さん。このことをよく
考えてみて下さい。わたしがただ
にょにん
の一度、眼をあげて一人の女人を
見て、その後何年かのあいだ、最
もみじめな苦悩をつづけて、わた
しの一生の幸福が永遠に破壊され
たことを考えてみてください。し
かし私はこの敗北状態について、
また霊的には勝利のごとく見えな
がら、更におそろしい破滅におち
いったことについて、くどくどと
申し上げますまい。それからすぐ
に事実のお話に移りたいと思いま
す。
三
ある晩のことでした。わたしの
ベル
司祭館のドアの鈴が長くはげしく
鳴りだしたのです。老婆が立って
ドアをあけると、一つの男の影が
立っていました。その男の顔色は
あかがねいろ
まったく銅色をしておりまして、
身には高価な外国の衣服をつけ、
お
帯には短剣を佩びているのが、老
婆のバルバラの提灯で見えました。
老婆も一度は驚いて怖れましたが、
男は彼女を押し鎮めて、わたしの
神聖な仕事についてお願いに来た
のであるから、わたしに会わせて
もらいたいというのです。
わたしが二階から降りようとし
た時に、老婆は彼を案内して来ま
した。この男はわたしに向かって、
非常に高貴な彼の女主人が重病に
かかっていて、臨終のきわに僧侶
に逢いたがっていることを話した
ので、わたしはすぐに一緒に行く
からと答えて、臨終塗油式に必要
な聖具をたずさえて、大急ぎで二
階を降りて行きました。
わかち
夜の暗さと区別がないほどに黒
い二頭の馬が門外に待っていまし
た。馬はあせってあがいていて、
鼻から大きい息をすると、白い煙
あぶみ
りのような水蒸気が胸のあたりを
おお
掩っていました。男は鐙をとって、
わたしをまず馬の上にのせてくれ
ましたが、彼は鞍の上に手をかけ
たちま
たかと思うと忽ちほかの馬に乗り
たづ
移って、膝で馬の両腹を押して手
な
綱をゆるめました。
馬は勇んで、矢のように走り出
しました。わたしの馬は、かの男
が手綱を持っていてくれましたの
で、彼の馬と押し並んで駈けまし
た。全くわたしたちはまっしぐら
に駈けました。地面はまるで青黒
い長い線としか見えないようにう
ぎ
しろへ流れて行き、わたしたちの
き
駈け通る両側の黒い樹樹の影は混
乱した軍勢のようにざわめきます。
真っ暗な森を駈け抜ける時などは、
そう
一種の迷信的の恐怖のために、総
み
身に寒さを覚えました。またある
てってい
時は馬の鉄蹄が石を蹴って、そこ
ま
らに撒き散らす火花の光りが、あ
たかも火の路を作ったかと疑われ
ました。
誰でも、夜なかのこの時刻に、
しっく
わたしたちふたりがこんなに疾駆
の
するのを見たらば、悪魔に騎った
二つの妖怪と間違えたに相違あり
ますまい。時どきにわれわれの行
く手には怪しい火がちらちらと飛
びめぐり、遠い森には夜の鳥が人
をおびやかすように叫び、また折
りおりは燐光のような野猫の眼の
輝くのを見ました。
たてがみ
馬は鬣をだんだんにかき乱して、
脇腹には汗をしたたらせ、鼻息も
ひどくあらあらしくなってきます。
それでも馬の走りがゆるやかになっ
たりすると、案内者は一種奇怪な
叫び声をあげて、またもや馬を激
おど
しく跳らせるのでした。
つむじかぜ
旋風のような疾走がようやく終
わると、多くの黒い人の群れがお
びただしい灯に照らされながら、
たちまち私たちの前に立ち現われ
て来ました。わたしたちは大きい
木の吊り橋を音を立てて渡ったか
と思うと、二つの巨大な塔のあい
だに黒い大きい口をあいている、
まる
円屋根ふうのおおいのある門のう
ちに乗り入れました。わたしたち
がはいると、城のなかは急にどよ
たいまつ
めきました。松明をかかげた家来
どもが各方面から出て来まして、
その松明の火はあちらこちらに高
く低く揺れています。わたしの眼
とまど
はただこの広大な建物に戸惑いし
ているばかりであります。幾多の
そう
円柱、歩廊、階段の交錯、その荘
ごん
厳なる豪奢、その幻想的なる壮麗、
とぎばなし
すべてお伽噺にでもありそうな造
りでした。
ページ
そのうち黒ん坊の召仕、いつか
クラリモンドからの手紙をわたし
に渡した召仕が眼に入りました。
彼はわたしを馬から降ろそうとし
くび
て近寄ると、頸に金のくさりをか
けた黒いビロードの衣服をつけた
ぞうげ
執事らしい男が、象牙の杖をつい
て私に挨拶するために出て来まし
た。見ると、涙が眼から頬を流れ
ひげ
て、彼の白い髯をしめらせていま
かしら
す。彼は行儀よく頭をふりながら、
悲しそうに叫びました。
﹁遅すぎました、神父さま。遅す
ぎましてございます。あなたが遅
うございましたので、あなたに霊
魂のお救いを願うことは出来ませ
んでした。せめてはあのお気の毒
な御遺骸にお通夜を願います﹂
かの老人はわたしの腕をとって、
へや
死骸の置いてある室へ案内しまし
はげ
た。わたしは彼より烈しく泣きま
よじん
した。死人というのは余人でなく、
わたしがこれほどに深く、また烈
しく恋していたクラリモンドであっ
たからです。
寝台の下に祈祷台が設けられて
ありました。銅製の燭台に輝いて
ほのお
いる青白い火焔は、あるかなきか
の薄い光りを暗い室内に投げて、
その光りはあちらこちらに家具や
じゃばら
蛇腹の壁などを見せていました。
ら
机の上にある彫刻した壺の中に
ば
は、あせた白薔薇がただ一枚の葉
を残しているだけで、花も葉もす
め
べて香りのある涙のように花瓶の
こわ
下に散っています。毀れた黒い仮
ん
面や扇、それからいろいろの変わっ
た仮装服が腕椅子の上に置いたま
まになっているのを見ると、死が
なんの知らせもなしに、突然にこ
の豪奢な住宅に入り込んで来たこ
とを思わせました。
わたしは寝台の上に眼をあげる
勇気もなく、ひざまずいて亡き人
の冥福を熱心に祈り始めました。
神が彼女の霊と私とのあいだに墳
のち
墓を置いて、この後わたしの祈祷
きよ
のときに、死によって永遠に聖め
られた彼女の名を自由に呼ぶこと
が出来るようにして下されたこと
について、わたしはあつく感謝し
ました。
しかし私のこの熱情はだんだん
へや
に弱くなって来て、いつの間にか
お
空想に墜ちていました。この室に
は、すこしも死人の室とは思われ
ないところがあったのです。私は
これまでに死人の通夜にしばしば
い
出向きまして、その時にはいつも
め
気が滅入るような匂いに慣れてい
たものですが、この室では︱︱実
なま
はわたしは女の媚めかしい香りと
いうものを知らないのですが︱︱
なんとなくなま温かい、東洋ふう
な、だらけたような香りが柔らか
くただよっているのです。それに
あの青白い灯の光りは、もちろん
つ
歓楽のために点けられていたので
しょうが、死骸のかたわらに置か
れる通夜の黄いろい蝋燭の代りを
たそがれ
なしているだけに、そこには黄昏
と思わせるような光りを投げてい
るのです。
クラリモンドが死んで、永遠に
まぎわ
わたしから離れる間際になって、
わたしが再び彼女に逢うことが出
来たという不思議な運命について、
わたしは考えました。そうして、
苦しく愛惜の溜め息をつきました。
うしろ
すると、誰かわたしの後の方で、
同じように溜め息をついているの
を感じたのです。驚いて振り返っ
て見ましたが、誰もいません。自
分の溜め息の声が、そう思わせる
ように反響したのでした。わたし
は見まいとして、その時までは心
を押さえていたのですが、とうと
う死の床の上に眼を落としてしま
ふち
いました。縁に大きい花模様があっ
ふさ
て、金糸銀糸の総を垂れている真っ
どんす
紅な緞子の窓掛けをかかげて私は
美しい死人をうかがうと、彼女は
手を胸の上に組み合わせて、十分
にからだを伸ばして寝ていました。
あさぬの
彼女はきらきら光る白い麻布で
おおわれていましたが、それが壁
掛けの濃い紫色とまことにいい対
照をなして、その白麻は彼女の優
美なからだの形をちっとも隠さず
に見せている綺麗な地質の物であ
りました。彼女のからだのゆるや
かな線は白鳥の首のようで、実に
死といえどもその美を奪うことは
出来ないのでした。彼女の寝てい
る姿は、巧みな彫刻家が女王の墓
の上に置くために彫りあげた雪花
石膏の像のようでもあり、または
静かに降る雪に隈なくおおわれな
がら睡っている少女のようでもあ
りました。
いのり
わたしはもう祈祷をささげに来
た人としての謹慎の態度を持ちつ
づけていられなくなりました。床
のあいだにある薔薇は半ばしぼん
でいるのですが、その強烈な匂い
はわたしの頭に沁み透って酔った
なにぶん
ような心持ちになったので、何分
じっとしていられなくなって、室
内をあちらこちらと歩きはじめま
い
した。そうして、行きかえりに寝
し
台の前に立ちどまって、その屍衣
を透して見える美しい死骸のこと
とほう
を考えているうちに、途方もない
空想が私の頭のなかに浮かんで来
ました。
︱︱彼女はほんとうに死んだの
ではないかもしれない。あるいは
自分をこの城内に連れ出して、恋
を打ち明ける目的のために、わざ
と死んだふりをしているのではな
いかとも思いました。またある時
おお
は、あの白い掩いの下で彼女が足
シーツ
を動かして、波打った長い敷布の
かす
ひだを幽かに崩したようにさえ思
われました。
き
わたしは自分自身に訊いたので
す。
﹁これはほんとうにクラリモンド
であろうか。これが彼女だという
証拠はどこにある。あの黒ん坊の
ページ
召仕は、あの時ほかの婦人の使い
で通ったのではなかったか。実際、
自分はひとりぎめで、こんな気違
いじみた苦しみをしているのでは
あるまいか﹂
それでも、わたしの胸は烈しい
動悸をもって答えるのです。
﹁いや、これはやっぱり彼女だ。
彼女に相違ない﹂
わたしは再び寝台に近づいて、
疑問の死骸に注意ぶかい眼をそそ
ぎました。ああ、こうなったら正
直に申さなければなりますまい。
彼女の実によく整ったからだの形、
きよ
それは死の影によって更に浄めら
れ、さらに神聖になっていたとは
いえ、世に在りし時よりも更に肉
感的になって、誰が見てもただ睡っ
ているとしか思われないのでした。
わたしはもう、葬式のためにここ
へ来たことを忘れてしまって、あ
たかも花婿が花嫁の室にはいって
はず
来て、花嫁は羞かしさのために顔
をかくし、さらに自分全体を包み
ベール
隠してくれる紗をさがしていると
いうような場面を想像しました。
わたしは悲歎に暮れていたとは
いえ、なお一つの希望にかられて、
悲しさと嬉しさとにふるえながら、
彼女の上に身をかがめて、掩いの
はしをそっとつかんで、彼女に眼
を醒まさせないように息をつめて
その掩いをはがしました。わたし
は烈しい動悸を感じ、こめかみに
血ののぼるのを覚え、重い大理石
の板をもたげた時のように、ひた
いに汗の流れるのを知りました。
そこに横たわっているのは、ま
さしくクラリモンドでした。わた
しが前にわたしの僧職授与式の日
に教会で見た時と少しも違わない、
愛すべき彼女でありました。死に
よって、彼女はさらに最後の魅力
や
を示していました。青白い彼女の
つ
頬、やや光沢のあせた肉色のくち
びる、下に垂れた長いまつげ、白
い皮膚にきわだって見えるふさふ
さした金色の髪、それは静かな純
潔と、精神の苦難とを示して、な
こわく
んともいえない蠱惑の一面を現わ
と
しています。彼女はたけ長い解け
た髪に小さい青白い花をさして、
あら
それを光りある枕の代りとし、豊
ま
かな捲き毛はさらに露わなる肩を
包んでいます。彼女の美しい二つ
エンジェル
の手は天使の手よりも透き通って、
けいけん
敬虔な休息と静粛な祈りの姿を示
していましたが、その手にはまだ
真珠の腕環がそのままに残ってい
て、象牙のようななめらかな肌や、
その美しい形の丸みは、死の後ま
でも一種の妖艶をとどめていまし
た。
わたしはそれから言葉に尽くせ
ふけ
ない長い思索に耽りましたが、彼
女の姿を見守っていればいるほど、
どうしても彼女はこの美しいから
だを永久に捨てたとは思えないの
でした。見つめていると、それは
気のせいか、それともランプの光
りのせいかわかりませんが、血の
気のない顔の色に血がめぐり始め
たように思われました。わたしは
そっと軽く彼女の腕に手をあてま
すと、冷たくは感じましたが、い
つか教会の門でわたしの手にふれ
た時ほどには冷たくないような気
がしました。わたしは再び元の位
置にかえって、彼女の上に身をか
がめましたが、わたしの熱い涙は
彼女の頬をぬらしました。
ああ、なんという絶望と無力の
悲しさでありましょう。なんとも
言いようのない苦しみを続けなが
ら、わたしはいつまでも彼女を見
つめていたことでしょう。わたし
は自分の全生涯の生命をあつめて
彼女にあたえたい。わたしの全身
ほのお
に燃えている火焔を彼女の冷たい
なきがら
亡骸にそそぎ入れたいと、無駄な
願いを起こしたりしました。
ふ
夜は更けてゆきました。いよい
よ彼女と永遠のわかれが近づいた
と思った時、わたしはただひとり
の恋人であった彼女に、最後の悲
せっ
しい心をこめた、たった一度の接
ぷん
吻をしないではいられませんでし
た︱︱。
おお、奇蹟です。熱烈に押しつ
けた私のくちびるに、わたしの息
とまじって、かすかな息がクラリ
モンドの口から感じられたのです。
彼女の眼があいて来ました。それ
は以前のような光りを持っていま
した。それから深い溜め息をつい
て、二つの腕をのばして、なんと
もいわれない喜びの顔色をみせな
くび
がら私の頸を抱いたのです。
ね
﹁ああ、あなたはロミュオーさま
⋮⋮﹂
たてごと
彼女は竪琴の音の消えるような
優しい声で、ゆるやかにささやき
ました。
﹁どこかお悪かったのですか。わ
たしは長い間お待ち申していたの
ですが、あなたが来て下さらない
ので死にました。でも、もう今は
結婚のお約束をしました。わたし
はあなたに逢うことも出来ます。
お訪ね申すことも出来ます。さよ
うなら、ロミュオーさま、さよう
なら。私はあなたを愛しています。
わたしが申し上げたかったのは、
ただこれだけです。わたしは今あ
なたが接吻をして下すったからだ
を生かして、あなたにお戻し申し
ます。わたしたちはすぐにまたお
逢い申すことが出来ましょう﹂
かしら
彼女の頭はうしろに倒れました
が、その腕はまだわたしを引き止
めるかのように巻きついていまし
つむじかぜ
た。突然に烈しい旋風が窓のあた
へや
りに起こって、室のなかへ吹き込
んで来ました。
白薔薇に残っていた、ただ一枚
ちょう
の葉はちっとの間、枝のさきで蝶
のようにふるえていましたが、や
がてその葉は枝から離れて、クラ
リモンドの霊を乗せて、窓から飛
んで行ってしまいました。ランプ
の灯は消えました。私はおぼえず
うつぶ
死骸の胸の上に俯伏しました。
四
わたしがわれに返った時、わた
しは司祭館の小さな部屋のなかに
寝ていました。前の司祭の時から
飼ってあるかの犬が、掛け蒲団の
外に垂れているわたしの手をなめ
ていました。あとになって知った
のですが、わたしはそのままで三
き
日も寝つづけていたので、その間
い
に少しの呼吸もせず、生きている
様子はちっともなかったそうです。
老婆のバルバラの話によると、わ
たしが司祭館を出発した晩にたず
あかがねいろ
ねて来たかの銅色の男が、翌あさ
かつ
無言でわたしを担いで来て、すぐ
に帰って行ったということです。
しかし私がクラリモンドを再び見
たかの城のことについて、この近
所では誰もその話を知っている者
はありませんでした。
ある朝、セラピオン師はわたし
の部屋へたずねて来ました。彼は
ライ
わたしの健康のことを偽善的な優
き
しい声で訊きながら、しきりに獅
オン
子のような大きい黄いろい眼を据
えて、測量鉛のように私のこころ
のうちへ探りを入れていましたが、
突然に澄んだはっきりした声で話
しました。それはわたしの耳には
ラッパ
最後の審判の日の喇叭のようにひ
びいたのです。
﹁かの有名な娼婦のクラリモンド
が、二、三日前に八日八夜もつづ
いた酒宴の果てに死にました。そ
れは魔界ともいうべき大饗宴で、
バルタザールやクレオパトラの饗
宴をそのままの乱行が再びそこに
繰り返されたのです。ああ、われ
われはなんという時世に生まれ合
わせたのでしょう。言葉は何を言っ
ているのか分からないような黒ん
坊の奴隷が客の給仕をしましたが、
どうしても私にはこの世の悪魔と
しか見えませんでした。そのうち
ぎ
のある人びとの着ている晴れ衣な
どは、帝王の晴れ衣にも間に合い
そうな立派なものでした。かのク
ラリモンドについては、いろいろ
の不思議な話が伝えられています
が、その愛人はみな怖ろしい悲惨
ー
ル
な終わりを遂げているようです。
グ
世間ではあの女のことを発塚鬼だ
ヴァンパイヤ
とか、女の吸血鬼だとか言ってい
るようですが、わたしはやはり悪
魔であると思っています﹂
セラピオン師はここで話をやめ
て、その話が私にどういう効果を
あたえたかということを、以前よ
りもいっそう深く注意し始めまし
た。わたしはクラリモンドの名を
聞いて、驚かずにはいられません
でした。それは彼女が死んだとい
う知らせの上に、さらに私を苦し
めたのは、その事件がさきの夜に
私が見た光景と寸分たがわない偶
然の暗合であります。わたしはそ
はんもん
の煩悶や恐怖を出来るだけ平気に
よそお
粧おうとしましたが、どうしても
顔には現われずにはいませんでし
けわ
た。セラピオン師は不安らしい嶮
しい眼をして私を見つめていまし
たが、また、こう言いました。
﹁わたしはあなたに警告しますが、
ならく
あなたは今や奈落のふちに足をの
せて立っているのです。悪魔の爪
は長い。そうして、かれらの墓は
ほんとうの墓ではない場合があり
ます。クラリモンドの墓石は三重
ふた
にも蓋をしておかなければなりま
せん。なぜというに、もし世間の
話が本当であるとすれば、彼女が
死んだのは今度が初めてでないの
です。ロミュオー君、どうかあな
たの上に神様のお守りがあるよう
に祈ります﹂
こう言って、セラピオン師は静
かに戸口の方へ出て行きました。
間もなく彼はSの町へ帰りました
が、わたしはそれを見送りもしま
せんでした。
わたしはそののち健康を回復し
て、型のごとくに職務を始めまし
た。クラリモンドの記憶と、セラ
ピオン師の言葉とは絶えず私の心
に残っていたのですが、セラピオ
ン師の言った不吉な予言が真実と
して現われるような、特別の事件
も別に知らなかったのでした。そ
こでわたしは、セラピオン師やわ
たしの恐怖にはやはり誇張があっ
たのだと思うようになりました。
ところがある夜、不思議な夢を見
たのです。
わたしはその夜まだ本当に寝入
らないとき、寝室のカーテンのあ
く音を聞きました。わたしはその
環がカーテンの横棒の上を烈しく
すべったのに気がついて、急いで
ひじ
肘で起き上がると、わたしの前に
一人の女がまっすぐに立っている
のを見たのです。
彼女はその手に、墓場でよく見
る小さいランプを持っていました
が、その指は薔薇色に透き通って
いて、指さきから腕にかけてだん
だんに暗くほの白く見えているの
です。彼女の身につけているもの
は、ただ一つ、死の床に横たわっ
ている時におおわれていた白い麻
布でありました。彼女はそんな貧
しいふうをしているのが恥かしそ
うに、胸のあたりを掩おうとしま
したが、優しい手には充分にそれ
が出来ませんでした。ランプの青
白い灯に照らされて、彼女のから
だの色も、身にまとっているもの
も、すべて一つの真っ白な色に見
えていましたが、一つの色に包ま
れているだけに、彼女のからだの
すべての輪郭はよくあらわれて、
ゆあ
生きている人というよりは、浴み
している昔の美女の大理石像を思
わせました。
死生を問わず、彫像であろうと、
生きた女であろうと、彼女の美に
は変わりはありませんが、ただ多
少その緑の眼に光りがないのと、
しんく
かつては真紅の色をなしていた口
が、頬の色と同じように弱い薔薇
色をしているだけの相違でありま
した。彼女はその髪に小さい青い
花をさしていましたが、ほとんど
その葉を振るい落として花も枯れ
しぼんでいました。しかし、それ
は少しも彼女の優しさをさまたげ
ず、こんな冒険をあえてして、不
みなり
思議な身装でこの部屋にはいって
来ても、ちっとも私を恐れさせな
いほどの美しい魅力をそなえてい
るのでした。
彼女はランプを机の上に置いて、
わたしの寝台の下に坐って私の方
かしら
へ頭を下げました。そうして、ほ
かの女からはまだ一度も聞いたこ
とのないような愛らしい柔らかな、
しかし時には銀のような冴えた声
で言いました。
﹁ロミュオーさま。わたしは長い
間あなたをお待ち申しておりまし
た。あなたのほうでは、わたしが
あなたをお忘れ申していたとでも、
思っていらっしゃるに相違ないと
思います。それでもわたしは、遠
い、たいへんに遠い、誰も二度と
ところ
は帰って来られないような処から
参ったのです。そこには太陽もな
ければ、月もないのです。そこに
はただ空間と影とがあるばかりで、
通り路もなく、地面もなく、羽で
飛ぶ空気もない処です。それでも
私は来たのでございます。愛は死
よりも強いもので、しまいには死
をも征服しなければならないもの
ですから⋮⋮。ああ、ここまで参
るのにどんなに悲しい顔や、怖ろ
しいものに出逢ったか知れません。
わたしの霊魂が、ただ意志の力だ
けでこの地上に帰って来て、わた
しの元のからだを探し求めて、そ
のなかに帰るまでにはどんなに難
儀をしたでしょう。わたしは自分
の上に掩いかぶさっている重い石
の蓋を引き上げるには、恐ろしい
ほどの努力を要しました。わたし
て
の掌を見て下さい。こんなに傷だ
らけになってしまったのです。こ
の上に接吻をして下さい。これが
なお
癒りますように⋮⋮﹂
彼女は冷たい手を交るがわるに
私の口へあてたのです。わたしは
全くいくたびも接吻しました。彼
女はその間に、なんとも言われな
い愛情をもってわたしを見ていま
した。
恥かしいことですが、わたしは
セラピオン師の忠告も、また、わ
たしの神聖なる職業に任ぜられて
いることも、全く忘れていました。
わたしは彼女が最初の来襲に対し
てなんの拒絶もなしに服従し、そ
の誘惑をしりぞけるために僅かの
努力さえもしませんでした。クラ
リモンドの皮膚の冷たさが沁み透っ
て、わたしの全身はぞっとするよ
ふる
あわ
うに顫えました。憐れなことには、
わたしはその後にもいろいろのこ
とを見ているにもかかわらず、い
まだに彼女を悪魔だと信じること
ができません。すくなくとも彼女
は悪魔らしい様子を持っていない
ばかりでなく、悪魔がそれほど巧
妙にその爪や角を隠すことが出来
るはずがないと思っていたからで
す。
彼女はうしろの方に身を引くと、
だる
いかにも倦そうな魅惑を見せなが
ら長椅子のはしに腰をおろしまし
た。彼女はそれからだんだんに私
の髪のなかへ小さい手を差し入れ
て、髪の毛をくねらしたりして、
新しい型が私の顔に似合うかどう
かを試みたりしました。
わたしはこの罪深い歓楽に酔っ
まか
て彼女のなすがままに委せていま
したが、その間も彼女は何かと優
しい子供らしい無駄話などをして
いたのです。何より不思議なのは、
こんな普通でないことをしていて、
わたし自身が少しも驚かなかった
ことです。それはあたかも夢をみ
ているとき、非常に幻想的な事柄
がおこっても、それは当たり前の
こととして別に不思議に思わない
ようなもので、今のすべての場合
もわたし自身には全く自然なこと
のように思われたのです。
﹁ロミュオーさま。わたしはあな
たをお見かけ申した前から愛して
いました。そうして、あなたを捜
していたのです。あなたは私の夢
にえがいていたかたです。教会の
なかで、しかもあの運命的な瀬戸
ぎわにあなたを初めてお見かけ申
したのです。わたしはその時すぐ
に︿あの方だ﹀と自分に言いまし
た。わたしは今までに持っていた
すべての愛、あなたのために持つ
未来のすべての愛、それは司教の
運命も変え、帝王もわたしの足も
とにひざまずかせるほどの愛をこ
めてあなたを見つめたのです。そ
れをあなたは、わたしには来て下
さらないで、神様をお選びになっ
たのです⋮⋮。ああ、わたしは神
様がねたましい。あなたは私より
も神様を愛していらっしゃるので
す。考えると詰まりません、わた
しは不幸な女です。わたしはあな
たの心をわたし一人のものにする
ことが出来ないのです。あなたは
一度の接吻でわたしをこの世によ
みがえらせて下さいました。この
死んだクラリモンドを⋮⋮。その
クラリモンドは今あなたのために
墓の戸を打ち開いて来たのです。
わたしはあなたに生の喜びを捧げ
たい、あなたを幸福にしてあげた
いと思って来たのです﹂
それらの熱情的の愛の言葉は、
げんわく
わたしの感情や理性を眩惑させま
した。わたしは彼女を慰めるため
に、平気で彼女にむかって﹁神を
愛するほどに愛する﹂などと、恐
るべき不敬なことを言ってしまい
ました。
彼女の眼はふたたび燃えはじめ
て、緑玉のように光りました。
﹁本当でございますか。神様を愛
するほどにわたしを愛して下さる
の﹂と、彼女は美しい手を私に巻
きつけながら叫びました。﹁そん
なら、わたしと来て下さるでしょ
う。わたしの行きたい所へ来て下
いや
さるでしょう。もう忌な陰気な商
売はやめておしまいなさい。あな
たを騎士のうちでもいちばん偉い、
まと
みんなの羨望の的になるような人
にしてあげます。あなたは私の恋
びとです。クラリモンドの気に入っ
た恋びと︱︱ローマ法王さえ撥ね
つけたほどの私の恋びと︱︱それ
なら男の誇りになるはずです。あ
あ、わたしの人⋮⋮。わたしたち
しあわせ
はなんともいえないほどに幸福で
とも
す。これから美しい黄金生活を倶
にしましょう。わたしたちはいつ
出発しましょうか﹂
﹁あした、あした⋮⋮﹂と、わた
しは夢中になって叫びました。
﹁あした⋮⋮。では、そうしましょ
う。その間にわたしはお化粧する
暇があります。このままではあま
りお粗末で、旅行するには困りま
す。わたしはすぐにこれから行っ
て、わたしが死んだと思って大変
に悲しんでいるお友達に知らせて
やります。お金も、着物も、馬車
も、何もかも用意して、今夜とお
なじ時間にまいります。さような
ら﹂
彼女は軽く私のひたいに接吻し
ました。それから彼女の持つラン
プが行ってしまうと、カーテンは
元の通りにとじられて、あたりは
真っ暗になりました。わたしは熟
睡して、翌朝まで何も覚えません
でした。
五
わたしはいつもより遅く起きま
したが、この不思議な出来事が思
い出されて、わたしは終日悩みま
した。わたしは結局、ゆうべの出
来事は自分の熱心なる想像から湧
き出した空想に過ぎないと思った
のです。それにもかかわらず、そ
のときの感激があまりに生まなま
しいので、ゆうべのことがどうも
そらごと
空事ではないようにも思われ、今
度また何か起こって来るのではな
いかという予感を除くことが出来
ないので、わたしは悪魔的の考え
をいっさい追い出して下さること
を神に祈って、寝床についたので
あります。
わたしはすぐに深い眠りに落ち
ました。するとまた、かの夢がつ
づきました。カーテンがふたたび
い
開くと、クラリモンドが以前とは
し
違って、屍衣に包まれて青白い色
をしていたり、頬に死のむらさき
色を現わしていたりすることなく、
華やかな陽気な、快活な顔色をし
こんじき
てはいって来ました。彼女は金色
のふちを取って絹の下袴の見える
くく
ほどに括ってある緑色のビロード
こんじき
の旅行服を着ていました。金色の
髪はひろい黒色のフェルト帽の下
ふさ
に深ぶかとした房をみせ、その帽
子の上には白い羽が物好きのよう
にいろいろの形に取り付けてあり
ました。彼女は片手に金の笛をつ
むち
けた小さい馬の鞭を持っていまし
たが、その笛で軽くわたしを叩い
て言いました。
﹁まあ、お寝坊さんね。これがあ
なたのご用意なのですか。もう起
きて、着物をきていらっしゃると
思っていましたのに⋮⋮。早く起
きて頂戴よ。もう時間がありませ
んわ﹂
わたしはすぐ寝台から飛びあが
りました。
﹁さあ、ご自分で着物をお着なさ
い。行きましょうよ﹂と、彼女は
自分が持って来た小さい荷造りを
見せながら言いました。﹁ぐずぐ
ずしているから馬がじれて、戸を
ぼりぼりと噛みはじめましたわ。
もう今までに三十マイルも遠く行
けましたのに⋮⋮﹂
わたしは急いで服をつけにかか
りますと、彼女は一つ一つに服を
渡して、わたしの不器用な手つき
を見ては笑いこけたり、わたしが
間違うと、その着方を教えてくれ
たりしました。彼女はさらに私の
髪を急いでととのえてくれて、ふ
ところからふちに金銀線の細工が
してある、ヴェニスふうの小さい
水晶の鏡を出して、芝居気たっぷ
りに、﹁お気に召しましたでしょ
こしもと
うか。あなたの侍女にして下さり
ませ﹂などと訊いたりしました。
わたしはもう以前と同じ人間で
はなく、自分ではないくらいに変
わり果てました。立派に出来あがっ
た石像とただの石ころほどに変わっ
てしまいました。わたしはまった
く美男子になり済まして、なんだ
くすぐ
か擽ったいような心持ちになりま
した。上品な服装、贅沢にふちを
取った胸着は、まるでわたしを違っ
た人間にしてしまい、縞柄のつい
た二、三ヤードの布でこしらえた
だけのものが、こんなにも人の姿
を変えるものかと驚きました。衣
服が変わると、わたしの皮膚の色
まで変わって、わずか十分という
だ て し ゃ
あいだに相当の伊達者のようになっ
たのです。
わたしはこの新しい服を着馴ら
すために室内を歩き廻りました。
クラリモンドは母のような喜びを
もって私をながめて、自分の仕事
に満足したように見えました。
﹁さあ、このくらいにして出かけ
ましょうよ。遠い所へ行かなけれ
ばなりませんから⋮⋮。さもない
と時間通りに行き着きませんわ﹂
彼女はわたしの手を取って出ま
した。すべてのドアは、彼女が手
を触れると開きました。わたした
ちは犬のそばを眼を醒まさせない
で通りぬけたのです。門のところ
にマルグリトーヌが待っていまし
た。さきに私を迎えに来た浅黒い
男です。彼は三頭の馬の手綱をとっ
ていましたが、馬はいずれもさき
に城中へ行った時と同じ黒馬で、
一頭はわたし、一頭は彼、他の一
頭はクラリモンドが乗るためでし
めす
た。それらの馬は西風によって牝
うま
じゃこうねこ
馬から生まれたスペインの麝香猫
にちがいないと思うくらいに、風
はや
のように疾く走りました。出発の
時にちょうど昇ったばかりの月は
われわれのゆく手を照らして、戦
車の片輪が車を離れた時のように
大空をころがって行きました。わ
れわれの右にはクラリモンドが飛
ぶように馬を走らせ、わたしたち
におくれまいとして息が切れるほ
どに努力しているのを見ました。
間もなくわれわれは平坦な野原に
出ましたが、その立ち木の深いと
ころに、四頭の大きい馬をつけた
一台の馬車がわれわれを待ってい
ました。
わたしたちはその馬車に乗ると、
馭者は馬を励まして狂奔させるの
でした。わたしは一方の腕をクラ
リモンドの胸に廻しましたが、彼
女もまた一方の腕をわたしに廻し
て、その頭をわたしの肩にもたせ
かけました。わたしは彼女の半ば
あらわな胸が軽くわたしの腕を押
し付けているのを感じました。わ
たしはこんな熱烈な幸福を覚えた
ことはありませんでした。わたし
は一切のことを忘れました。母の
胎内にいた時のことを忘れたよう
に、自分が僧侶の身であることを
みい
忘れて、まったく悪魔に魅られる
ほどの恍惚たる心持ちになったの
でした。
その夜からわたしの性質はなん
だか半分半分になったようで、わ
たしの内におたがいに知らない同
士の二人の人間がいるように思わ
れました。ある時は、自分は僧侶
で紳士になっている夢を見ている
ようにも思われ、またある時は、
自分は紳士で僧侶になっているよ
うな気もしたのです。わたしはも
はや現実と夢との境を判別するこ
とが出来ず、どこからが事実で、
どこで夢が終わったのか分からな
くなって、高貴な若い貴族や放蕩
ののし
者は僧侶を罵り、僧侶は若い貴族
い
の放埒な生活を忌み嫌いました。
こういうわけで、わたしはこの
二つの異った生活を認めていなが
ら、あくまでも強烈にそれを持続
していました。ただ自分にわから
ない不合理なことは、一つの同じ
人間の意識が性格の相反した二つ
の人間のうちに存在していること
でありました。わたしは小さいC
の村の司祭であるか、またはクラ
リモンドの肩書つきの愛人ロミュ
オー君であるか、この変則がどう
しても分かりませんでした。
それはどうでもいいとして、と
にかくに私はヴェニスで暮らして
いました。少なくとも私はそう信
じていました。わたしのこの幻想
的な旅行は、どれだけが現実の世
界で、どれだけが幻影であるか、
確かには分かりかねますが、わた
したちふたりはカナレイオ河岸の
大邸宅に住んでいました。邸内は
壁画や彫像をもって満たされ、大
家の名作のうちにはティチアーノ
︵十五世紀より十六世紀にわたる
ヴェニスの画家︶の二つの作品も
へや
クラリモンドの室に掛けてありま
した。そこは全く王宮とひとしき
所でありました。ふたりともに、
めいめいゴンドラをそなえていて、
家風の定服を着た船頭が付いてお
り、さらに音楽室もあり、特別に
お抱えの詩人もありました。
クラリモンドはいつも豪奢な生
ふう
活をして自然にクレオパトラの風
があり、わたしはまた公爵の子息
を小姓にして、あたかも十二使徒
のうちの一族であり、あるいはこ
の静かな共和国︵ヴェニス︶の四
人の布教師の家族であるかのごと
くに尊敬され、ヴェニスの総督と
よ
くだ
いえども道を避けるくらいであり
サタン
ました。実に悪魔がこの世に降っ
て以来、わたしほど傲慢無礼の動
物はありますまい。わたしは更に
ちまた
リドへ行って賭博を試みましたが、
あ し ゅ ら
そこは全く阿修羅の巷ともいうべ
きものでした。わたしはあらゆる
階級︱︱零落した旧家の子弟、劇
場の女たち、狡猾な悪漢、幇間、
威張り散らす乱暴者のたぐいを招
いて遊びました。
こんな放蕩生活をしているにも
かかわ
拘らず、わたしはクラリモンドに
対しては忠実であり、また熱烈に
彼女を愛していました。クラリモ
ンドも大いに満足して愛のかわる
ことはありませんでした。クラリ
モンドを持っていることは、二十
いな
人の女、否、すべての女を持って
いるようなものでした。彼女は実
に感じ易い性質といろいろの変わっ
た風貌と、新しい生きいきとした
魅力とをすべて身に備えて、かの
カメレオンのごとき女でありまし
た。人がもしほかの女の美に酔う
て淫蕩の心を起こした場合には、
ただ
彼女は直ちにその美女の性格や魅
力や容姿を完全に身にまとって、
その人に同じ淫蕩の念を起こさせ
る女でありました。
彼女はわたしの愛を百倍にして
返してくれたのです。この地の若
はな
い貴公子や十法官からも華ばなし
い結婚の申し込みがありましたが、
それはみな失敗に終わりました。
フォスカリ家︵ヴェニスの総督た
りしフォスカリ・フランセソの一
家︶の人からも申し込みがありま
したが、彼女はそれをも拒絶しま
した。金は十分に持っているので、
彼女は愛のほかには何物をも望ん
でいませんでした。ただこの愛︱
︱青春の愛、純真の愛、それは自
分のこころから燃え出した愛、そ
うして、それが最初であり、また
最後であるところの熱情のほかに
は、なんにも望んでいなかったの
です。わたしは全く幸福であると
ただ
いえたかもしれません。しかし唯
ひとつの苦しみは、毎夜呪わしい
夢魔におそわれることで、貧しい
村の司祭として終日自分の乱行を
ざんげ
くぎょう
懺悔し、また滅罪の苦行をしてい
る有様を夢みるのでした。
いつも彼女と一緒にいるために
安心して、わたしはクラリモンド
の変わった様子について別に考え
もしませんでしたが、セラピオン
師が彼女について語った言葉は時
よ
どきにわたしの記憶を喚び起こし
て、不安な心持ちを去るというわ
けにはゆきませんでした。
どうかすると、クラリモンドの
健康が以前のようによくないこと
がありました。彼女の皮膚は日に
あお
日に蒼ざめて、呼ばれて来た医者
たちにもその病症がわからず、ど
うにも療治のしようがないことが
わけ
ありました。医者たちはみな訳の
わからない薬をくれましたが、ど
れも無効で二度と呼ばれた者はあ
りませんでした。彼女の色の蒼さ
は眼に見えるほどにいや増して、
からだはだんだんに冷たく、さき
の夜、かの見知らぬ城の中にあっ
たように、白く死んでゆくのでし
た。わたしはその枯れ死んでゆく
姿を見て、言うに言われない苦悶
を感じました。彼女はわたしの苦
しみに感動して、死ななければな
らない人間の感ずるような、運命
的な微笑を美しく、また悲しそう
に浮かべていました。
ある朝のことでした。わたしは
彼女の寝台のそばの小さい食卓で
朝食をすませた後、わずかの間も
離れてはならないと彼女のそばに
腰をかけていました。その時に果
物の皮をむいていると、誤まって
自分の指に深く切り込んだのです。
小さい紫色の血がすぐにほとばし
り出て、いくらかクラリモンドに
もかかったかと思うと、その顔色
は急に変わって、今までの彼女に
かつて見たことのない野蛮な、残
忍な喜びの表情を帯びて来ました。
彼女は動物のような身軽さ︱︱あ
たかも猿か猫のように軽く飛び降
りて、わたしの傷口に飛びついて、
いかにも嬉しそうな様子でその血
を吸い始めたのです。
彼女は小さい口いっぱいに︱︱
あたかも酒好きの人間がクセレス
かシラクサの酒を味わっているよ
うに、ゆっくりと注意ぶかく飲む
ひとみ
ひと
のでした。その瞳はだんだんに半
まる
ばとじられて、緑色の眼の円い瞳
み
孔が楕円形にかわって来ました。
彼女は時どきにわたしの手に接物
するために、血を吸うことをやめ
ましたが、さらに赤い血のにじみ
くちびる
出るのを待って、傷に口唇を持っ
ていくのでした。血がもう出ない
みず
のを知ると、彼女の眼は瑞みずし
く輝いて、五月の夜明けよりも薔
た
薇色になって起ち上がりました。
顔の色も生きいきとして、手にも
温かいうるみが出て、今までより
もさらに美しく、まったく健康体
のようになっているのです。
﹁わたしは死なないわ、死なない
わ﹂と、彼女は半気ちがいのよう
くび
になって、わたしの頸にかじりつ
いて叫びました。
﹁わたしはまだ長い間あなたを愛
いの
することが出来るわ。わたしの生
ち
命はあなたのものです。わたしの
からだはすべてあなたから貰った
のです。あなたの尊い、高価な、
この世界にあるどの霊薬よりも優
れて高価な血のいく滴が、わたし
の生命を元の通りにしてくれたの
ですわ﹂
この光景は永く私をおびやかし
て、クラリモンドについては不思
議な疑問を起こさせました。その
夜、わたしが寝床にはいると、睡
眠は私を誘い出して、むかしの司
祭館に連れ戻しました。わたしは
セラピオン師が今までよりもいっ
そう厳粛な不安らしい顔をしてい
るのを見ました。彼は私をじっと
見つめていましたが、やがて悲し
そうに叫びました。
﹁あなたは魂を失うばかりではな
い、今はその身をも失おうとして
いる。堕落した若い人は、実に恐
ろしいことになっている﹂
その言葉の調子は私を強く動か
しました。しかしその時の印象が
まざまざとしていたにもかかわら
ず、それもすぐに私から消えていっ
て、ほかのさまざまな考えも皆わ
たしの心から去ってしまいました。
六
とうとうある晩のことでした。
わたしが鏡を見ていると、その鏡
さと
に彼女の姿が映っていることを覚
らずに、クラリモンドはいつも二
人の食卓のあとで使うことにして
やくみ
いる、薬味を入れた葡萄酒の盃の
なかに、何かの粉を入れているの
です。それが鏡に映ったので、わ
たしは盃を手にとって、口のとこ
ろに持ってゆく真似をして、そば
にある器物の上に置きました。彼
女がうしろを向いたときに、私は
その盃のものをテーブルの下にそっ
とこぼして、それから自分の部屋
に帰って寝床についたのですが、
今夜はけっして睡るまい、そうし
て、このすべての不思議なことに
ついて何かの発見をしようと決心
しました。
間もなくクラリモンドは夜の服
を着てはいって来ましたが、服を
ぬぐとわたしの寝台に這い上がっ
て来て、私のそばに横になりまし
た。彼女はわたしが寝ていること
を確かめると、やがてわたしの腕
をまくりました。そうして、髪か
ら黄金のピンを抜き取ると、低い
声で言いました。
﹁一滴⋮⋮ほんの一滴よ。この針
ルビー
のさきへ紅玉ほど⋮⋮あなたがま
だ愛して下さるなら、わたしは死
んではならないわ。⋮⋮ああ、悲
しい恋⋮⋮。あなたの美しい、紫
色の輝いた血をわたしは飲まなけ
やす
ればならない。お寝みなさい、わ
たしの貴い宝⋮⋮。お寝みなさい、
わたしの神様、わたしの坊ちゃん
⋮⋮。わたしはあなたに悪いこと
をするのではないのよ。わたしは
な
永久に失くならないように、あな
いのち
たの生命を吸わなければならない
のよ。わたしはあなたをたいへん
に愛していたので、ほかの恋びと
の血を吸うことに決めていたの。
しかし、あなたを知ってからは、
いや
ほかの人たちは忌になったわ⋮⋮。
ああ、綺麗な腕⋮⋮。なんという
まる
円い、なんという白い腕でしょう。
どうしたらこんなに綺麗な青い血
管が刺せるでしょう﹂
彼女は独りごとを言いながらさ
めざめと泣くのです。わたしはそ
の涙がわたしの腕を濡らすのを覚
え、彼女がその手でしがみつくの
を感じました。そのうちに彼女は
とうとう決心して、ピンでわたし
し
の腕を軽く刺して、そこから滲み
出る血を吸いはじめました。二、
三滴しか飲まないのに、彼女はも
うわたしが眼を醒ますのを怖れて、
傷口をこすって膏薬を貼って、注
意深くわたしの腕に小さい繃帯を
巻きつけたので、その痛みはすぐ
に去りました。
もう疑う余地はなくなりました。
セラピオン師の言葉は間違っては
いませんでした。この明らかな事
実を知ったにもかかわらず、わた
しはまだクラリモンドを愛さずに
はいられませんでした。私はみず
から進んで、彼女の不自然な健康
を保持させるために、欲しがるだ
けの生き血をあたえました。そう
してまた、彼女を恐れてもいませ
ヴァンパイア
んでした。彼女も自分を吸血鬼と
思ってくれるなと歎願するようで
した。わたしも今まで見聞したと
ころによって、さらにそれを疑い
ませんでしたので、一滴ずつの血
をそれほどに惜しくも思いません
でした。私はむしろ自分から腕の
血管をひらいて、﹁さあ、飲むが
いい。わたしの愛がわたしの血と
一緒におまえの血に沁み込んでゆ
けば何よりだ﹂と言ったのです。
それでも私は、彼女に麻酔するほ
ど飲ませたり、またはピンを刺さ
せたりすることは、常に注意して
避けていたので、二人はまったく
調和した生活を保っていたのです。
それでも僧侶として、わたしの
かしゃく
良心の呵責は今まで以上にわたし
を苦しめ始めました。わたしはい
かなる方法で自分の肉体を抑制し、
浄化することが出来るかについて、
とほう
まったく途方に暮れたのです。か
の多くの幻覚が無意識の間に起こっ
たにもせよ、直接に私がそれを行
なわなかったにもせよ、それが夢
であるにせよ、事実であるにせよ、
よご
かくのごとき淫蕩に汚れた心と汚
れたる手をもって、クリストの身
に触れることは出来ませんでした。
わたしはこの不快な幻覚に誘わ
れない手段として、睡眠におちい
らないことに努めました。わたし
まぶた
は指で自分の眼瞼をおさえ、壁に
よ
まっすぐに倚りかかって何時間も
ねむけ
立ちつづけ、出来る限り睡気と闘
いました。しかし睡気は相変わら
ずわたしの眼を襲って来て我慢が
つかず、絶望的な不快のうちに両
腕はおのずとおろされて、睡りの
波は再びわたしを不誠実の岸へ運
んでゆくのでした。
セラピオン師は最もはげしい訓
告をあたえて、わたしの柔弱と、
熱意の不足をきびしく責めました。
ついにある日、わたしが例よりも
更に悩んでいる時に、彼は言いま
した。
﹁あなたがこの絶えざる苦悩から
逃がれ得るただひとつの道は、非
常手段によらなければなりません。
おお
大いなる病苦は大いなる療治を要
する。わたしはクラリモンドが埋
められている場所を知っている。
なきがら
わたしたちは彼女の亡骸を発掘し
て見る必要がある。そうして、あ
なたの愛人がどんな憐れな姿をし
ているかをご覧なさい。さすれば、
あの虫ばんだ不浄の死体︱︱土に
なるばかりになっている死体のた
めに、あなたの魂を失うようなこ
とはありますまい。かならずあな
たを元へ引き戻すに相違ないと思
います﹂
いちじ
わたしとしても、たとい一時は
満足したとはいえ、二重の生活に
はもうあきました。自分は空想の
犠牲になっている紳士であるか、
または僧侶であるか、ということ
をはっきり確かめたいと思いまし
た。わたしは自分のうちにあるこ
の二人に対して、どちらかを殺し
て他を生かすか、あるいは両方と
もに殺すか、とても現在の恐ろし
てこ
い状態には長く堪えられないと決
心したのであります。
つるはし
セラピオン師は鶴嘴と梃と、提
灯とを用意して来ました。そうし
て夜なかに、わたしたちは︱︱墓
道を進みました。その付近や墓場
の勝手を僧院長はよく心得ていま
した。たくさんの墓の碑銘をほの
暗い提灯に照らし見た末に、二人
こけ
は長い雑草にかくされて、苔がむ
して、寄生植物の生えている石板
のあるところに行き着きました。
碑銘の前文を判読すると、こうあ
りました。
ここにクラリモンド埋めらる
在りし日に
最も美しき女として聞こえあ
りし。
﹁ここに相違ない﹂と、セラピオ
ン師はつぶやきながら提灯を地面
におろしました。
彼は梃を石板の端から下へ押し
入れて、それをもたげ始めました。
石があげられると、さらに鶴嘴で
掘りました。夜よりも暗い沈黙の
うちに、わたしは彼のなすがまま
に眺めていると、彼は暗い仕事の
上に身をかがめて、汗を流して掘っ
き
ています。彼は死に瀕した人のよ
い
うに、絶えだえの呼吸をはずませ
ています。実に怪しい物すごい光
景で、もし人にこれを見せたらば、
わるもの
し
い
確かに神に仕うる僧侶とは思われ
けが
ず、何か涜れたる悪漢か、屍衣の
ぬすびと
盗人と、思い違えられたであろう
と察せられました。
熱心なセラピオン師の厳峻と乱
暴とは、使徒とか天使とかいうよ
りも、むしろ一種の悪魔のふうが
ありました。その鷲のような顔を
そうぼう
始めとして、すべて厳酷な相貌が
灯のひかりにいっそう強められて、
この場合における不愉快な想像力
をいよいよ高めました。わたしの
額には氷のような汗が大きいしず
くとなって流れ、髪の毛は怖ろし
とくしん
さに逆立ちました。苛酷なセラピ
にく
オン師は実に悪むべき涜神の行為
を働いているように感じられ、わ
れわれの上に重く渦巻いている黒
雲のうちから雷火がひらめき来たっ
て、彼を灰にしてしまえと、わた
ふくろう
しは心ひそかに祈りました。
サイプレス
糸杉の梢に巣をくむ梟は灯の光
りにおどろいて飛び立ち、灰色の
つばさを提灯のガラスに打ち当て
ながら悲しく叫びます。野狐も闇
な
のなかに遠く啼いています。その
ほかにも数知れない無気味な音が
しじま
この沈黙のうちに響いて来ました。
最後にセラピオン師の鶴嘴が棺を
撃つと、棺は激しい音を立てまし
ふた
た。彼はそれをねじ廻して、蓋を
引きのけました。さてかのクラリ
モンドは︱︱と見ると、彼女は大
理石像のような青白い姿で、両手
い
を組みあわせ、頭から足へかけて
し
白い屍衣一枚をかけてあるだけで
した。彼女の色もない口の片はし
に、小さい真っ紅な一滴が露のよ
うに光っていました。セラピオン
師はそれを見ると、大いに怒りを
発しました。
けが
﹁おお、悪魔がここにいる。汚れ
こがね
たる娼婦! 血と黄金を吸うや
つ!﹂
それから彼は死骸と棺の上に聖
水をふりかけて、その上に聖水の
は
け
刷毛をもって十字を切りました。
哀れなるクラリモンド︱︱彼女は
聖水のしぶきが振りかかるやいな
や、美しい五体は土となって、た
だの灰と、なかば石灰に化した骨
かたまり
と、ほとんど形もないような塊に
なってしまいました。
冷静なセラピオン師は、いたま
しい死灰を指さして叫びました。
﹁ロミュオー卿、あなたの情人を
ご覧なさい。こうなっても、あな
たはまだこの美人とともに、リド
の河畔やフュジナを散歩しますか﹂
わたしは両手で顔をおおって、
大いなる破滅の感に打たれました。
わたしは司祭館に帰りました。
クラリモンドの愛人として身分
の高いロミュオー卿は、長いあい
だ不思議な道連れであった僧侶の
身から離れてしまったのです。し
かもただ一度、それは前の墓ほり
事件の翌晩でしたが、わたしはク
ラリモンドの姿を見ました。彼女
は初めて教会の入り口でわたしに
言ったと同じことを言いました。
﹁不幸なかた、ほんとうに不幸な
かた⋮⋮。どうしてあなたは、あ
き
んな馬鹿な坊さんの言うことを肯
きなすったのです。あなたは不幸
でありませんか。わたしのみじめ
な墓を侮辱されたり、うつろな物
をさらけ出されたりするような悪
いことを、わたしはあなたに仕向
けたでしょうか。あなたとわたし
との間の霊魂や肉体の交通は、も
う永遠に破壊されてしまいました。
さようなら。あなたはきっと私の
ことを後悔なさるでしょう﹂
彼女は煙りのように消えて、二
度とその姿を見せませんでした。
ああ、彼女の言葉は真実となり
ました。わたしは彼女のことをい
なげ
くたび歎いたか分かりません。い
まだに彼女のことを後悔していま
す。わたしの心はそのご落ちつい
て来ましたが、神様の愛も彼女の
愛に換えるほどに大きくはありま
せんでした。
皆さん。これはわたしの若い時
と
の話です。けっして女を見るもの
そ
ではありません。戸外を歩く時は、
いつでも地の上に眼をしっかりと
据えて歩かなければなりません。
どんなに清く注意ぶかく自分を保っ
ていても、一瞬間のあやまちが永
遠に取りかえしのつかないことに
なってしまうものです。
底本:﹁世界怪談名作集 上﹂河
出文庫、河出書房新社
1987︵昭和62︶年9
月4日初版発行
2002︵平成14︶年6
ヴァンパイア
月20日新装版初版発行
ヴァンパイヤ
※﹁吸血鬼﹂と﹁吸血鬼﹂の混在
は底本通りにしました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
2005年11月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネット
の図書館、青空文庫︵http:
//www.aozora.gr.
jp/︶で作られました。入力、
校正、制作にあたったのは、ボラ
ンティアの皆さんです。