妻の死における私のグリーフワークの歩み

いのちのわかち合い
妻の死における私のグリーフワークの歩み
T.Y
はじめに
「わたし、ここに決めます」
。
定年後の田舎暮らしの場所は、妻のこの一言で決まった。信濃デッサン館の芝生テラスでコーヒーを
飲みながら、じっと無言館を遠望していた妻が落ちついた声でもらした言葉で、やっと別荘地めぐりは
終わった。妻も私の定年後、どこかに“落ちつき場所”を真剣に探していることは確かだったが、その
“落ちつき場所”に対するこだわりの実体が、私にははっきりとは見えなかった。
私達が求めていた家のイメージに、正にぴったりの物件がここ塩田平に見つかった。それに、私の第 2
の仕事も、希望のミッションスクールの教員に採用されることになった。中高年に対するリストラの嵐
が吹き荒れるご時世に、こんなに順調でいいのかとも思えた。
私は、定年 1 ケ月前から会社の配慮で学校に勤務しはじめたが、妻は精神障害者ボランティアの責任
ある役割を担っていて、引き継ぎに時間がかかり、ようやく私より 1 ケ月遅れて引っ越してきた。妻の
ボランティア暦は 25 年におよんでいた。結婚当初の一人暮らしの高齢者へのおかず配達にはじまり、
知的障害者への絵画指導、そして精神障害者地域作業所の立ち上げ、運営などほぼフルタイムにちかい
関わりが続いていた。生来の明るい人柄、責任感が旺盛で前向きな仕事ぶりなので、どんどん忙しくな
っていった。趣味の油絵を描く時間も、パンやお菓子を焼いたりする時間も、ほとんど取れなくなって
いた。
ストレスがきついと言われる精神障害者ボランティアに携わりながら、あまりぐちもこぼさず、むし
ろ楽しげに毎日出掛けてはいたが、私には妻の疲れが時々見えていた。早い段階でしっかり休んだほう
がいいと考えていたので「主人の転勤に同道する」ことを理由にして、少し休みをいただきなさいと助
言したら受け入れてくれた。
私は、新婚以来の妻との 2 人くらしの毎日が新鮮で、なにか良いことが起こるような気がしていた。
しかし、7 ケ月後の 12 月 6 日、初めての野沢菜を収穫して台所に戻って着た時、突然膝から崩れ、ク
モ膜下出血になり、1 月 3 日に神さまの元に行ってしまった。
病院の集中治療室では、2 週間は意識もあり、普通に会話も出来た。担当の医師から病状の説明、治
療方針などの“インフォームドコンセント”がなされたが、妻は殆と逡巡せず「特別の延命治療はしな
いでください」と言った。その言葉の裏に彼女の出生時の臨死体験からくる彼女独特の死生感、そして
子供の出産時の医師の対応への疑問などいのちへの技術的対応"への拒否感がはっきり見て取れた。迫り
来る自分の死を直視しながら、心のゆれをついに見せず、マリア様への全面的委任、いわゆる“フィア
トの心”で生き切った。しかし、同じクリスチャンであっても、私には彼女のような腹のすわった死に
方はできないだろう。
デッサン館の庭から無言館を眺めていた時「わたし、ここに決めます」と言ったのは、もしかしたら、
「わたしの永遠の落ちつき場所はここよ」という直観が働いたのではないかと、最近やっと気がついた。
信濃デッサン館や無言館のあるここ塩田平に住んでみて、ここにはキリスト教の聖地と共通する独特
の空気、香りがあるような気がしてきた。
「生者はつねに死者に導かれて生きる」と言われるが、妻が「わたしここに決めます」と言って選ん
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だこの土地で、このマルタの家で彼女が残した 30 枚の絵と庭の草花と猫のジンジンとこころおだやか
に生きていきたい。
(妻の 1 回忌を前に 02.9.10)
1.妻のプロフィール
妻は 1947 年(昭和 22 年)3 月 11 日仙台市で生まれた。1965 年 12 月、22 歳で私と結婚し、
2002 年 1 月 3 日クモ膜下出血によって 55 歳で帰天した。
私を含め、周囲の人達にとっては、彼女の死はあまりにも突然で早すぎたが、彼女自身は迫り来る自
分の死を冷静に見つめ、こころ乱さず受け入れていった。結婚以来時折語る彼女の死生観はあまりにも
特異であったので、私自身完全には理解しがたかった。
2.妻の死生観の特異性
彼女独特の死生観を形造っているのは、出生時の臨死(仮死)体験と、その時出来た身体中の火傷に
よる劣等感にあることは間違いない。すなわち「自分の命は自分のものではない。生まれた時いただい
た自分の命は失ってしまったのだが、天国(あの世)でどなた(神様?)からか再び不えられたか、借り
てこの世に戻って、いま生きている。だから、いつか返さなければいけない時が必ず来る。かぐや姫の
ように、幸せの絶頂時でも、天国からのお迎えが来たら躊躇なくお迎えの雲に乗って行かなければなら
ない。その時がいつ来るかはわからないが、その時まではやれることを精一杯やろう。それまではいの
ちを不えてくれた方に喜んでもらえるような生き方をしたい。そして楽しく生きたい。」と言っていた。
出生時の臨死(仮死)体験を記憶しているわけでもないのに、幼少期からこのような死生観を確信的
を持つにいたったのは、生き代ることと引換えに体に刻まれた火傷を意識するたび彼女の心には深い傷
が刻まれてしまったからであろう。
心の深い傷によって自己肯定感を育てることができなかったにもかかわらず、家族の深い愛情に包ま
れて育ったことで、いわゆる“いい子”に育った。
ただ年頃になるにつれて、生きづらさを痛感しだし、高校卒業して就職した地方公務員の職場では左
翼的組合活動に傾斜していった。私は彼女からこのようなこころの内を聞くたび、単なる外的な活動の
充実だけでは心の深い傷を癒すことはできないことを、自分の心の深い傷との長い格闘体験をもとに話
し合ったことを思い起こす。私はキリスト教との出会いによって救われたが、彼女は“ファンタジー的
な死生観”を獲得したことによって辛うじて生き続けるエネルギーが得られたようだ。ファンタジー的
死生観と言っても実に宗教的洞察に富んだ死生観であると思った。
私は彼女の生育歴については十分理解していたし、その特異性が彼女の魅力的な個性でもあったので、
心理的トラウマによる深い劣等感に悩んでいた時は、この世的な常識で安易に解決するのではなく、自
分の思いを越えた“深い大いなる計らい”に信頼することを説き、そのための対話は惜しまなかった。
次第に政治的活動への熱中感は覚めだし、だんだん女性的なおだやかさを醸しだすようになった。
彼女は生涯独身のまま生きていくと宣言していたが、周囲の心配に反し、22 歳の若さで全く準備丌足
のまま私と結婚した。23 歳で長女、25 歳で長男を出産した。2 人の子育てと平行し、次々と福祉ボラ
ンティアをこなし、カ丌足を感じると放送大学での再学習でスキルアップし、多くの有能な地域福祉仲
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間のキーパースンに成長していった。いつのまにか、私の狭い会社中心の生き方を越えて地域ネットワ
ークの中心にいた。私は定年後妻のお手伝いをさせてもらうのを楽しみにしていたくらいである。
3.私のグリーフワークの歩み
これまでの私の人生は、大学入試の挫折以外はほぼ順調で、5 歳年下の妻が私よりも早く、突然死ぬ
などということが起こることを全く想定していなかった。それだけに、妻の死による衝撃は、多くの事
例に紹介されているように私自身を打ちのめしてしまった。
しかし、救いは、妻が苦しみをほとんど見せず、むしろ淡々と自ら考え、準備してきたように、ここ
ろ乱さずあの世に旅立ったことである。そのお陰で、私は周囲の皆さまが心配されたようには落ち込み
を引きずらなかった。
妻のあまりにも見事な“死の受容”に遭遇した私は、彼女の死生観を含めた彼女自身の再理解へと向
かわざるを得なくなった。そこで、私はまず妻の友人達との交流の機会をつくり、私の知らない妻に関
するあらゆる情報を収集した。次に妻が残した絵画、CD や本、ボランティア活動記録など全て目を通し、
味わい直した。そして更めて自分は妻のこころの中を含め、いかに知らないことが多かったかを痛感し
た。しかし、この作業を通して妻が生きていた時よりもむしろ逆に妻を身近に感じられるようになった
のは丌思議なことである。特に死生学に関する本が 30 冊近くあり、結婚当初から真剣に読んでいたこ
とを発見し、その地道な学習と思索が最後に実ったのだと納得した。
4.グリーフケアにおける
キリスト教信仰と死への準備教育
妻は結婚以来劣等感に苛まれていた少女期からは考えられないような変身ぶりを示してきた。
「自信を
もって元気に楽しく生きられるようになれたのは、結婚によって、からだとこころの傷から解放され、
マリア様の“なれかしのみこころ”に傲って子供を産むことができたという“福音体験”があったから
です。
」と語っていた。マリア様の“なれかしのみこころ”に自らのいのちを委ねられるようになったの
は、自分のいのちを、人間的な頑張りや、医療技術によるいのちの操作に頼るのではなく、自分では操
作出来ない奥深い宇宙的な“大いなるいのち”の根源に立ち戻ることのほうに決断することが、本質的
なやすらぎに至ること確信していたのだろうと思う。
妻の死の看取りを体験したことによって、私自身も自らの“死”に真剣に向き合わなければならなく
なった。
私が自らを全面的に“おおいなるもの”に委ねる生き方が、どうやら決定的に大切だと感じてきたの
は、私たちが定年後の住処として、ここ塩田平に決定することを決めた妻の一言「わたし、ここに決め
ます」の意味の真意を思索することと重なる。なぜなら、妻の 1 回忌を前に「わたし、ここに決めます」
の真意が気になりだした。
「わたし、ここに決めます」と言ったのは、単に定年後に住む場所を選んだの
ではなく「わたしの死に場所はここです」ということではなかったかということである。
ここ塩田平には、信濃デッサン館と無言館がある。両美術館共、夭折した画家達の作品を収集展示し
ている特異な美術館である。妻は絵画を趣味にしていたせいか、この美術館のあるこの地域の雰囲気を
特に好んで、定年後の住処として塩田平を選んだらしい。
「ここ塩田平はキリスト教の聖地と同じ香りが
する」と言う。私には“聖地の香り”はピンとこないが興味を引くネイミングであった。
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芸術には疎い私だが、体力を酷使するスポーツの面白さを知っているので、教会仲間に誘われたスペ
イン・サンチャゴの徒歩巡礼によって“聖地の香り”を実感してみようと思った。実は巡礼に行くこと
を考えていたと同じ時期に、人間ドックの診察結果に重大なデータが示されていた。とうとう私自身が
死への準備教育を始めなければならないことになった。こころのゆれを感じる自分が情けなく、妻のよ
うなこころの強さを得たいと願う日々が続いた。
2 週間のスペイン・サンチャゴの徒歩巡礼の後、人間ドックで再診察を受けた。実に驚く結果であっ
た。
「データ的には心配ない」ということであった。誤診であったのか、巡礼のご利益なのかは分からな
い。巡礼中に私が心掛けたのは、一歩一歩の歩みにあわせて心のなかで「主よわたしを憐れんでくださ
い」
「わたしのすべてを主にお委ねします」と繰り返すことだけであった。1 日 3 万歩くらい歩き続けた
から、同じ祈りを毎日単調に 1 万回くらい繰り返しただけである。サンチャゴ大聖堂にゴールする頃に
は、ふしぎにこころのゆれはなくなっていた。
私はカトリックの信仰を持っているので、祈りの力を信用はしているが、祈ることがこころのゆれを
正すことを初めて実感した。本当は簡単なことなのに、本質的な悟りを得るにはこのような回り道が必
要なのかも知れない。今回の巡礼体験によって少しは妻のこころの強さに近づけたかもしれない。
幸い、妻は自らの人生の辛い体験から逃げず“マリアのなれかし”の神秘との一体感で自らの“死”
を受容できた。最も身近な存在のひとがこのような“高み”に達することが出来ることを示してくれた
ので、もしかしたら私にも出来るかも知れないという勇気を持つことができた。巡礼という私のフィー
リングにあうやりかたに出会えたことで、私なりの死への準備教育のプログラムが見えてきた。
今日お話した私の 8 年間のグリーフワーク体験は、医師や心理療法家のご指導を受けたわけではない
が、自分なりに、心が欲することを骨身惜しまずに実践した結果、少しは皆様に参考にしていただける
内容になった。幸い私の周囲には、学生時代からお付き合いのあるカトリックの司祭や教会の友人が多
く、いつも心理的なサポートを惜しまないでくれたので、本当にありがたく感じた。
今後の誯題として、誮にでも必ず訪れ、明日にでも遭遇するかもしれない自分の死、身近な人の死を
しっかりと尊厳ある受け止めができるように、更に自分の体験を深めて、この会を通して分かち合って
いきたいと思う。
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1.~4.は「上田・生と死を考える会」1周年記念講演会(2010 年 7 月)のシンポジウムで発表し
たものです
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