(聞き手:佐藤まいみ) ちょうど、上海eARTSフェスティバル(上海電子

2008.8.29
撮影:Bengt Wanselius
1986年、バニョレ国際振付コンクールで衝撃的なデビューを果たした勅使川
原三郎。「崩れては起き上がる」という動きをモチーフにした作品『風の尖
端』で、勅使川原が従来の形式的なテクニックによらない新たな身体表現の
勅使川原三郎(てしがわら・さぶろう)
あり方を世界に認めさせて以来、日本では自らの身体に向き合うコンテンポ
クラシックバレエを学んだ後、1981年より
ラリーダンスが大きなムーブメントになっている。振り付けだけでなく、音
独自の創作活動を開始。85年、宮田佳と共
にKARASを結成し、既存のダンスの枠組み
楽・照明・美術など五感に入るものすべてを自らプランニングする作品は世
ではとらえられない新しい表現を追及。類
界で高く評価され、主宰するKARASで各国フェスティバル公演等を行うほ
まれな造形感覚を持って舞台美術、照明デ
か、近年では、盲目の青年とのワークショップによりつくりあげた
ザイン、衣装、音楽構成も自ら手掛ける。
光・音・空気・身体によって空間を質的に
『LUMINOUS』、日本の中高校生とのワークショップによりつくりあげた
変化させ創造される、かつてない独創的な
『空気のダンス』や映像インスタレーション作品を発表するなど、その自在
舞台作品は、ダンス界にとどまらず、あら
さは目を見張るばかりだ。「芸術は保守的に停滞してはならない」という勅
ゆるアートシーンに衝撃を与えるとともに
使川原に、これまでの歩みを含めて近況を聞いた。
高く評価され、国内のみならず欧米他、諸
外国の主要なフェスティバルおよび劇場の
(聞き手:佐藤まいみ)
招きにより多数の公演を行う。
■
自身のソロ作品、KARASとのグループ作品
創作の他にも、パリオペラ座バレエ団、フ
ランクフルトバレエ団、ネザーランド・ダ
ンス・シアター I 、バイエルン国立歌劇場バ
レエ団、ジュネーブバレエなどヨーロッパ
の一流バレエ団からの依頼で作品を創作。
──近年は映像作品や大学での指導など、勅使川原さんの活動の幅は大きく広がっ
ています。まずは、現在、行っているプロジェクトについてお聞かせください。
ちょうど、上海eARTSフェスティバル(上海電子芸術祭)で展示する3Dの映像
インスタレーション作品のための映像をシドニーで撮影して帰ってきたばかりで
造形美術家としても、日本、ドイツ、フラ
ンス、オーストリアでインスタレーション
す。スクリーンを6角形に組んで、6方向から同時撮影した3D映像を流します。通
作品が紹介され、93~94年には映像作品
常、僕らは客席に対してパフォーマンスしますが、この映像インスタレーションで
『T­CITY』、『KESHIOKO』、『N­EVER
は、観客はダンサーの周囲をぐるっと回りながら全方向から観ることができる。し
PARA­DICE』を製作。2006年には『A Tale
かも3Dなので、別の意味でリアルな世界を体験することができます。ちなみに、今
Of』がロンドンのICA(Institute of
Contemporary Arts)において上映され、好
年の横浜トリエンナーレにはこれとは別のインスタレーションで参加します。
評を得た。
それから、もちろんKARASの公演もやっていて、6月のモンペリエのフェスティ
ダンス教育に関しても独自の理念をもち、
KARAS創設以前より継続してワークショッ
バルでは、現在世界ツアー中の『MIROKU』を上演しました。その後すぐにス
ウェーデンに飛び、映像作品を撮影しました。2007年に亡くなった映画監督のイン
プを行い、現在に至るまで国内外で若手ダ
グマール・ベルイマンが住んでいた小さな島に行ったのですが、カメラマンのBengt
ンサーの育成に力を注ぐ。1995年にロンド
Wanseliusさんが、ベルイマンがこの島の光を気に入っていたから一度おいでよと
ンで1年間におよぶ若者のための教育プロ
ジェクトS.T.E.P.(Saburo Teshigawara
誘ってくださったんです。本当に光が素晴らしくて、ここで佐東利穂子が踊ったの
Education Project)を設立。1999~2000
を撮影しました。これは自主製作で、Wanseliusさんが撮影を担当し、僕は監督を
年にはS.T.E.P.2000を発足しロンドンとヘ
しました。
ルシンキの共同企画公演『Flower Eyes』へ
と展開した。その他、ローレックス メン
フェスティバルでは、ミラノ市内の数カ所の劇場で1カ月にわたって行
トー&プロトジェ アートプログラムのメン
われる「ミラネジアーナ(La Milanesiana)」にも昨年に続き参加しました。これ
トー(指導者)を委託され、1年間(04~
は、小説家の朗読と音楽とか、映像と音楽とかがコラボレーションしたりする文
05年)にわたり若手芸術家育成支援事業に
関わる(www.rolexmentorprotege.com)。
学、映像、音楽のフェスティバルです。フィリップ・グラス、ローリー・アンダー
1
ソン、ウンベルト・エーコ、ルー・リードら、実に多彩なメンバーが集まります。
昨年はミラノのスカラ座で『Black Water』を上演しました。『The Blackwater
Lightship』という作品を発表しているアイルランドの作家のコルム・トビン(Colm
Toibin)と一緒で、彼は僕の公演の前に朗読をしました。
──2008年8月9、10日には、勅使川原さんのスタジオがある東京・亀戸で初めて
06年度からは立教大学 現代心理学部 映像身
の公演『36のダンス変奏曲集~正しい姿勢』を行いました。
体学科の専任教授に就任。08年4月に、新
一度地元でやりたいと思っていました。これは僕も出ましたし、『空気のダン
国立劇場・富山市オーバードホール・まつ
ス』に出ていた少年少女も出演しました。位置付けとしては勉強会に近いですね。
もと市民芸術館の3館で10代のダンサー達
これからこれとは別にスタジオ・パフォーマンスをもっとやっていきたいと思って
と共に創作した『空気のダンス』を上演。
教育現場における新世代との創造活動にも
います。実験的なことをやりたくて、その出発点になります。
意欲を注いでいる。
KARAS
http://www.st­karas.com/index1.html
──立教大学で指導されるようになりましたが、どのような授業をされているので
すか?
大学では現代心理学部映像身体学科の専任教授として講義を行なっています。僕
佐藤まいみ
の経験からくる理論を話したり、ワークショップをしたりしています。講義には、
ダンス/舞台芸術プロデューサー。1993年
映像に興味をもっている学生と、演劇やダンスに興味をもっている学生の両方がい
より2005年まで神奈川芸術文化財団/コン
ますが、どちらかというと映像系が多いですね。
テンポラリー アーツ シリーズ プロデュー
例えば「身体表現史」という授業では、自分の身体とは何か? 自分の身体が何
サーを務める。05年4月より埼玉県芸術文
化振興財団ダンス部門プロデューサーに就
任、現在に至る。
を感じているか? など「身体」について考えさせています。考えることも、身体
も一生付き合うものです。つまり表現以前のこととして、「身体」を研究するわけ
です。身体への向かい方や僕がいつも言っている「呼吸」について徹底的に考察し
『空気のダンス』
ます。身体という視点から映像を見ようとか、身体という視点からビジュアルに対
撮影:鹿摩隆司/新国立劇場/2008年
しての感覚を養おうとか。最終的な表現方法を何にするかというのは、具体的な技
術の問題であり、技術の習得には時間が掛かるので、若い人たちには「慌てるな、
まずは自分の感覚を磨こう、視点をもとう」と話しています。少なくともその時々
で自分の意見は自分の言葉ではっきり言おうとも話します。なので、レポートはか
なり書かせていますね。
──振付家、美術家という区別なく、勅使川原さんは作品をトータルにクリエイト
されています。
あくまで僕の個性だと思います。経験的に言うと、ある表現に辿り着く方法、本
来自分が興味をもっていた目的・対象に近づくための方法を発見する仕方や、その
ための視点を得るには、一直線に進むだけじゃなくて、違うアプローチがあっても
いいのではないかと思っています。
僕のことでいえば、バレエを真剣にやっているうちに、本来最も興味があった視
覚表現について自覚できるようになったとか。でもそれは、「視覚的な欲求」を通
してその向こう側にある、自分が欲している何かしらの感覚、人間のもっと深い部
分に関して探究心をもっていたということが後になってわかったのですが。いずれ
にしても、身体的なものも映像的なものも、人間のもっと深い部分への関わり方を
追求し、それを強く鮮明に感じられるということは僕にとって大きな喜びです。
──勅使川原さんは、1995年からイギリスで教育プロジェクト「S.T.E.P.(Saburo
Teshigawara Education Project)」にも取り組まれています。最近、日本でもダン
スの教育活動に注目が集まっていますが、その先駆けでもあります。
ロンドン・インターナショナル・フェスティバル・オブ・シアター(LIFT)とい
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うところにさまざまなエデュケーション・プロジェクトがあり、そのなかではじめ
てこうしたプロジェクトに関わりました。最初にやったのが身障者の子どもたちと
のプロジェクトで、次にロンドンの3つの区域の中高生とのプロジェクトをやり、
ICA(Institute of Contemporary Arts)のスペースの壁も床も強烈な色に全部塗り替
えて『Invisible Room』という公演をやりました。
僕はダンスをすることによって何かを成し遂げることを彼らに知ってもらいた
『LUMINOUS』(2001年)
かった。そして、彼らがやりたいことに基づいて作品をつくってみたかった。ダン
撮影:Dominik Mentzos
スすることは彼らにとってはそんなに必要ではなかったかもれしれないですが、集
まって練習するうちにしだいに変わってきました。自殺願望をもった子もいたし、
楽屋裏で殴り合いの喧嘩になることもあった。思春期の一番難しい世代で、家庭環
境の悪い子どもたちもいて、彼らの個人的な問題と付き合わざるをえなかったの
は、僕にとっても興味深いことでした。
その次に関わったのが、盲目の人たちです。ロンドンのザ・プレイス(The
Place)の企画でしたが、そのプロジェクトに盲目の人が参加していたんです。そ
こで、時間をかけてワークショップを行い、僕が行けない時はビデオを渡して指示
をして『Flower Eyes』をつくりました。これはヘルシンキとの交流プロジェクト
だったので、ヘルシンキのダンサー志望の人たちも加わっていました。
──そこで『LUMINOUS』(2000年)に出演した盲目の青年、スチュワート・
ジャクソンに出会ったんですね。
そうです。彼のケアテーカーをしている女性が、ダンスを経験させたほうがよい
と考えて、連れて来ました。盲目の人にとって、見えないけど何かを見に行く=感
じに行く、しかも誰かと一緒に何かをやるということはとても大事なことなんで
す。
彼のほかにもうひとり、弱視の、盲学校の先生がいました。身体の各部分と呼吸
との関係をワークショップでやりますが、スチュワートは男の子だからジャンプや
回転といった強い表現、強い音楽に反応する。一方、彼女の動きは、とても滑らか
で美しかった。ワークショップでそれぞれの個性がより強調され、純度の高さを感
じました。僕は、彼らの姿を見て、僕らは僕らの能力をもっと高めることができる
し、自分がもっているものをもっと生き生きと使うことができると強く感じまし
た。
スチュワートは、生来の全盲で全く見えないし、ひとりでは何もできないので、
躊躇する気持ちとか、恐怖心が強い。だから日常生活では自分を押さえ込んでしま
うことが多いのですが、それが取り払われるととても強い表現になる。彼がもって
いる、潜在的な、精神的な強さがストレートに出るんです。
2001年には、彼とイギリスの俳優エヴロイ・ディアに参加してらった
『LUMINOUS』をシアタコクーンで発表し、その後、世界を回りました。今では、
スチュワートは自分の作品をつくるまでになっています。
──それはどのような作品ですか?
『Angel's Journey』というタイトルで、とても素晴らしい作品でした。テーマは
彼が好きなエンジェル。ときどき、やっぱり激しい動きが出てくるのですが、彼に
とっての激しさというのは、求めるものに近づく表現なんだと思います。彼は目が
見えないだけではなくて、いわゆる学習困難児というか、記憶を順番に辿ることが
できない問題もありました。記憶はあるけど構築されていないので、話が支離滅裂
になる。最初は、作品の稽古をしている時も、順番がわからなくなるし、言葉もほ
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とんど出てこなかったんです。ところが身体運動をしていくうちに、次第にものご
とが組み立てられるようになっていった。身体的な動作を記憶することが、言語情
報を組み立てるきっかけになり、言葉を喋れるようになってきたんです。これには
驚いたし、身体運動の可能性について改めて考えましたね。
──これまでとは全く違う感受性の人たちと作業をするのは、勅使川原さんの表現
をやってもらうことではなく、相手の感受性を引き出して形にするということです
か。
そうです。僕が教育者じゃないと言っているのはそういうことです。他人の身体
と関わる面白さ、僕の知らないことを発見する面白さがある。彼らに障害があるか
らということではなく、隠れていたことを引き出す、掘り下げていく。僕にとって
は、自分の中を知りたいということと、他人を知るということは何か似ているんで
すね。
だから、『空気のダンス』で中高生に対して僕が伝えたいのは、「自分自身で何
を発見したいと思っているんだろう?」という疑問形。彼らの中にあることは彼ら
にとって大事であることは確かだし、何かをもっているに決まっている。ただ、彼
らがどのようにそれを出せばいいのかわからないのなら、「こうしてみたら?」と
いうことは伝えられる。技術はそのためにあるのだから、本当の基礎的な動きがど
うやって出てくるのかだけ、そのことばかりをやるんです。
むしろ、中に何があるのか?ということは、大学生もそうですが、急いで表現させ
ようとはしません。
──少し遡ってお話を伺いたいのですが、勅使川原さんがアーティストとして活動
を始めた頃はどのようなことをされていたのですか。
僕のキャリアの中ではバレエを習っていた期間が一番長いですね。その後、イベ
ントに出たり、渋谷の「アンテナ21」というスペースで、3カ月に一度、ビデオの
アーティストやロック系でノイズをやっている人とかと作品をつくったりしていま
した。1984年頃のことです。
──当時は「コンテンポラリーダンス」という言葉も存在しませんでしたが、何と
称していましたか?
「ムービング・ワーク」と言っていました。モダンダンスという言葉は嫌いでし
たし、舞踏は違うと思っていたので。演劇も好きで、工場を劇場にした本当に小さ
な旧真空鑑劇場というところに出入りしていました。そこの裸電球が灯った土間で
踊ったのが、僕の初舞台だったかもしれない。
──勅使川原さんが「僕の身体には内臓はない」とインタビューで答えていたのが
印象に残っています。それは舞踏が提示した身体観でもなく、クラシックバレエや
モダンダンスの身体観でもなかった。
「肉体的」という言葉はいまだに嫌いです。当時は、自分の身体を発見し、それ
を表現にしていきたいというのでとにかく必死でした。「空気」「物質」「非物
質」といった言葉を自分の身体で感じて表現していきたかった。僕にとっては「空
気」という言葉にも、ある種の虚しさというか、何かと決裂する感覚がありまし
た。なので、音楽も当然ノイズに向かい、スティーヴ・ライヒのようなポストモダ
ンと言われているミニマルな発想ではなくて、「演奏していない音が音楽だ」と考
えていました。
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──それが、オリジナルな表現のために音楽も照明も美術も、全部自分でプランす
る勅使川原さんの個性に繋がっていった。
僕のような感覚をもつ人は、舞台関係者やダンス関係者にはいなかったんです。
むしろ映画やノイズをやっていた人のほうが自分の感覚に近かったかもしれない。
僕はずっと、先生なんかいらない、僕は誰からも教わりたくない、と思っていた。
けれども、実は何かは習っているし、身に付いている。なぜこんなことをやらなけ
ればいけないのか、絶対に自分の身体には合わないと思いながら、バレエをやって
いた。その違和感から出発しています。とても重要な経験でした。
──決まった形の中で表現することに収まりきらず、名付けがたいものを抱えてい
た勅使川原さんは、1986年、『風の尖端』という作品でバニョレ国際振付コンクー
ルに参加し、世界から注目されます。あの作品は、崩れては起き上がるという動き
をモチーフにしていて、衝撃的でした。というのも、バランスをとることが課題の
ダンスでは、クラシックにしてもモダンにしても、転んではいけなかった。私は、
崩れては起き上がる動きを見て、それまで見たことがなかったもの、ダンスの新し
い言語のようなものを感じました。あの動きはどのように生まれたのですか?
やはり、宮田佳との出会いが大きかったと思います。僕らは、1つの動作を何時
間もかけてやるようなワークショップを延々続けていました。宮田はダンスが嫌い
で、その経験もない。でも身体表現をしたいという強い思いがある。けど技術がゼ
ロで動けない。その時、身体を空っぽにして、「身体の中で感じる」ということ
を、動く前にやってみようと思った。身体の中でいろいろなものが動く。「呼吸」
だとか、「空気の流れ」だとか。自分たちが感覚的に広がるために、「ある」と思
わないで「ない」ところから出発しよう、そう思ったのが原点です。
人は、元々自分が何かをもっていると思いたいし、外側からの視点や外圧から自
分を守ろうとする自己防衛本能があります。だけど、表現者というのは、日常生活
で当たり前である自己防衛本能をどうすればもたないでいられるかが勝負になる。
それには自分がまず空っぽになり、そこから出発する。
「すると、空っぽの身体は崩れてしまうでしょう?」そう言うと、宮田はすぐに
感覚的に理解して、ファーっとなって、足からじゃなく、頭から崩れていくんで
す。それが何とも美しい。彼女の身体は実になめらかに美しく、まるで巨大なビル
がスローモーションで崩れて、煙がわき起こるような質感が出る。それで僕は、
「これは動きではなくて質感だ」と思ったんです。
僕にとって、宮田はあらゆる想像力の源であり、僕らの表現の技術は、宮田と僕
によって、宮田の身体を通してできたものです。「質感」という言葉や「呼吸」
「空気」、それから「倒れる」「崩れる」、あるいは急に「凝固する」、それがま
た「溶ける」、あるいは「粉末」になるように、「気体」になるように空間に溶け
ていく……。それは「動き」ではない。まず感覚が変わり、そうすると質感が変
わった身体になって、それが動きになる。そしてある身体の線が出てくる。宮田が
崩れたとき、そういうプロセスが…まあその過程というか旅というか、それがき
ちっと見えて、美しいと思ったんです。
いわゆるモダンダンスやバレエは、ごく当たり前に動きます。ステップが次から
次へと上手に出るように練習し、そのうちに、何も考えなくても、感覚をもたなく
ても動けるようになる。機械みたいに。でも僕は、それに疑問をもっています。動
いちゃえば動けるのなら、何のために稽古の時間があるのか?
作品を発表することが一番重要なら、作品の稽古だけをすればいい。ヨーロッパ
でもレパートリーの練習ばかりしているグループが多いですが、どういうふうに情
5
報をもらうと動けるかということばかりが頭の中にこびりついているので、身体が
そういう身体にしかなっていない。日本でモダンをやっていた人たちは、カニンガ
ムかマーサ・グラハムの生徒でみんな同じことをやっていたし、80年代の後半、フ
ランスのコンテンポラリーダンスを観たときにも、全部形でしかない、ああ、みん
な同じだとわかってしまった。
つまり、音に合わせる、建築に合わせる、舞台状況に合わせる、作曲家に合わせ
『ガラスノ牙』
撮影:鹿摩隆司/新国立劇場/2006年
る…そういうカップリングでつくっている限り、やっぱりそれはある形式になって
いく。形式になっていくことを僕は否定しませんし、好き嫌いの問題かもしれない
けども、オリジナルとして成り立つためには、大量生産のようなダンスは必要ない
でしょう? (ダンスは)情報を伝えるのではなくて、生きているか生きていない
か、ということだ。80年代に宮田と会った時にそう感じて、僕は形をやりたくない
と思いました。
そういう稽古をいっぱいしている時に、バニョレに参加することを決めました。
参加条件が3人以上のグループだったので、初めてグループ作品をつくった。それ
で上演してみたら、何か伝わった感じがしたんです。
──伝わった以上に、熱く迎え入れられましたね。
反響はものすごかった。「振付コンクール」だったので、即興が多すぎるという
声はありましたが。でも、今では、振り付けられている、いないというコレオグラ
フについての考え方も、その捉え方も大きく変化している。僕があの時に壊したの
かもしれません。
──バニョレの後、1位になったカンパニーよりも勅使川原さんのほうにいくつも
オファーがきた。それで、ボルドーのシグマ・フェスティバル(Le Festival Sigma
De Bordeaux)で『星座』という作品を上演しました。私が、その時に軽くショッ
クを受けたのは、舞台を半分に仕切ってしまったことです。舞台というのは全体を
思い切り使うものだと思い込んでいたら、勅使川原さんはそれをブリキの塀で仕切
り、ブリキという質感の中で踊った。
そうでしたね。鉄の箱をみんなで叩きながら行進したり、わけのわかんないこと
をやりました。
バニョレに出たことで、7~8カ月先のスケジュールがあっという間に埋まってし
まった。新作、新作で、帰ったらすぐ次の作品を準備するという状態でした。ボル
ドーの後、池袋西武のスタジオ200でやり、その後ウィーンにワークショップの講
師として行きましたが、あれが実はすごく大きな経験でした。受講生が世界中から
来ていて、1カ月毎日朝から夕方までみっちりワークショップをする。そのなか
で、自分が何を考えているのか、何を言いたいのか、僕にとっての表現というもの
が明確になりました。
──その後、パリのポンピドゥー・センターでやり、青山のスパイラルホールで公
演をしました。そこでは針金やガラスなど、質感として硬質なものを舞台装置とし
て使いました。
この頃ようやくグループとしての方向性が定まってきたのではという気がしま
す。日本とヨーロッパで公演をするようになり、ある時期からヨーロッパでの上演
回数のほうが多くなっていった。最初はフランスを拠点にしていましたが、僕はフ
ランスのコンテンポラリーダンスが好きじゃなかったのと、フランクフルトのテア
ター・アム・トゥルムで公演したのが決定的になって、それからはフランクフルト
を拠点にしました。
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──ちょうどヨーロッパのフェスティバルに活気があり、ディレクターたちの新作
制作意欲も高くて、非常に良い時代でしたね。個性的なフェスティバルがたくさん
ありました。
劇場もきちんとした考え方をもっていて、ディレクターもしっかりしていまし
た。最初にTATに呼ばれた時、彼らが言ったのは、短い付き合い方はしない、僕ら
が呼ぶと決めたら6、7年、最低でもそのぐらいは続けてお願いする。つまみ食いみ
『HERE TO HERE』(1995年)
撮影:Dominik Mentzos
たいなことはしたくないと。素晴らしいと思いましたね。それなら安心して挑戦で
きる、力をぶつけられると思いました。
──勅使川原さんはパリ・オペラ座付属バレエ団の振付を依頼されるなど、その方
法論は普遍的なものとしてヨーロッパで認識されているように思います。
空気のこと、重力と浮力の感覚、身体を崩すとか組み立てるとかいうことを、僕
らは延々と研究していますが、そうしたものの普遍性を感じてくれているのかなと
思っています。その普遍的なものを、実際の身体の使い方として、常に発見し、技
術として身につけ、継続していくことが必要なのですが、海外でやることによって
自分たちのやっていることが間違いないことをより強く感じることができました。
カナダの「フェスティバル・インターナショナル・ド・ヌーベルダンス・モント
リオール」でも、シャイヨー劇場でも、観客のはっきりした反応がありました。面
撮影:Bengt Wanselius
白かったのは、シャイヨーの人が「ここで何年も働いているけども、これが一番自
分に感じました」と言ったこと。ダンスとして今これが良いのか? ということで
はなくて、自分が「感じた」ことが基準になる。それが、僕が最初から目指してい
る、ダンスという表現にある「力」です。
──勅使川原さんのワークショップとはどのようなものか、具体的な内容について
ご説明いただけますか。
僕らは「呼吸」をしないと生きていられない。呼吸は回りの「空気」がなければ
成立しない。ということは、周りの空気まで含めてすべてが「身体」であると。そ
して身体には「重力」が働いている。その重力と身体を感じる「意識」と「呼吸」
がある──それだけをたっぷり感じるところから始めます。身体の中にどういう記
憶があるかとか、どういう思いがあるかとか、この音楽をどのように理解すると
か、そういうことは一切必要ない。ただ、自分の身体を感じましょうと。「理解す
る」以前に「感じる」がある、そして意識化した理解に向かう。
具体的には、まず、呼吸だけやります。「吸って」「吐いて」「吸って」「吐い
て」……と。呼吸に集中してと言うと、だいたい目をつむりたがりますが、そうす
ると身体のバランスが悪くなるし、音のほうに気がいってしまうので、目は開けた
ままやる。でもやっているうちにだんだんつまらなくなるでしょ。呼吸だけやれっ
てどういうことよ? みたいな(笑)。そうやって苛ついてくると、何かやりたく
なるのが情なので、段々味がでてきてそれがオモシロいんです。
そうなったら、「吸って~、もっと吸って~、もっと吸えるはずだ~」と指示す
る。で、今度はゆっくり、ゆっくり吐かせる。そうして自分の「呼吸の幅」を意識
するようにさせます。ゆっくり吐ききってもうこれ以上吐けないところまで吐いた
ら、ゆっくり吸い始める。ちょうどボールを上に投げ上げると放物線を描いて止ま
ることなく落ちてくるように、呼吸は基本的に止まらないサイクルをつくっている
から無意識にできるわけですが、その吸い始める時と、吐き始める時を意識的にや
ろうと。そうすると、つまりそれがリズムになっていく。もっと言うとそれが動作
になっていく。その呼吸をガイドにして手を伸ばすことと呼吸を一緒にやる。
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バレエではステップバックしてからやることをプリパレーションと言いますが、
動作には全部そういう仕組みがあって、吸うんだったらまずちょっと吐く、吐くん
だったらまずちょっと吸う、それを動作といっしょにやると、「緩む」というそこ
に特有の劇的なセンセーションが生まれます。
ワークショップでは、そういう呼吸と動作だけをやります。吐ききった後の「も
ういいじゃん」という表現的な心理を抜いて、最初は呼吸だけ、次は呼吸と動作を
『HERE TO HERE』(1995年)
一致させて、調和させていく。スチュワートがなぜひとりで歩けるようになったか
撮影:Bengt Wanselius
というと、呼吸と、踵、足の裏、指が順に床から離れるという動作を、呼吸のサイ
クルでやる練習をしたからです。だから呼吸がなかったら、杖や手すりがないのと
同じことで、彼にとって呼吸は調和のもとになっているんです。僕らは、そうした
ことを全部組み立てているわけではなくて、自動的にできるオートマティズムを
もっています。呼吸を意識してコントロールできるようになれば、あとは係数とい
うか、条件を自分で加えていく方法を編み出せばいいんです。
身体には、何かを微分していって最後に残るような感覚が潜んでいると思ってい
ます。僕はそれを発見するのが楽しいし、若い人たちとやっていると、発見できる
ことがまだまだあります。時間が足りないけど、これまでのダンスとは別の言語感
覚(僕のメソッド)を持てるだろうと思っているし、求め続けていきたいと思って
います。バレエも能も、ひとりの人がつくったわけではなく、長い時間の中で形作
られたものだから。このことを『リベラシオン』紙の記者に話したら、「まるでド
ン・キホーテだね」(笑)と言われました。見果てぬ夢に向かって歩いていると。
でもそれは僕にとってはとてもポジティブなことなんです。
──今後の予定をお聞かせください。
9月に彩の国さいたま芸術劇場で『HERE TO HERE』を上演し、12月には東京・
両国のシアターXで新作演劇をやります。ロベルト・ムージルというオーストリア
の作家のテキストで、僕は主演・演出です。ムージルはヨーロッパでは誰でも知っ
ている思想家・小説家で、その人の『特性のない男(Der Mann ohne
Eigenschaften)』という作品を取り上げます。僕は別にお芝居をやりたいわけで
はなく、声と身体だけで何ができるか、実験したいと思っています。身体の使い方
が、今までとは全く違うものになると思います。
今はあまりダンスの振付をやりたくなくて。自分が作家としてできることはこれ
からも個人的な発想でつくっていくと思いますが、そういうことのみではなく、個
人じゃない部分、個人には負えない部分にどう取り組めるか、ということに今一番
興味があります。以前、「一千年かかる革命には参加したい」と書いたんですが、
それは大げさじゃなく、まあ大げさな言葉なんだけど(笑)、そういうことに興味
がありますね。
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