これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および

これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および
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多摩美術大学大学院
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圏外からの舞踊 並木 誠
現象学や心理学を通過して現われてきた空間に関する哲学。舞踊美学、建築美学の問題系列の俎
上として、ヨハン・フォルケルトやデーター・イエーニッヒとの空間論は示唆的である。情報美
学(M.ペンゼ)メディア美学の問題としても考えられる。建築の内部経験といった受容美学的
な側面に着目し、アロイス・リーグルの触覚性という概念を敷衍する。ヴォイドの輪郭をなぞる
かのような、「ユダヤ博物館」の動線であり、又は、アルヴァ・アアルトの器の輪郭のような勅
使川原三郎の透明な動きの連鎖が見られる。「HERE to HERE」(1997年)や「BORN IN
PAGES」(1991年)の舞台での勅使川原の空気や物や観客との交感、「HERE to HERE」のホ
ワイト・キューブ的に象嵌された舞台は、ロシア構成主義のシュプレマティズムのような密度の
濃い空間の感受性の指向と、「BORN to PAGES」の空間と身体を架橋する意識を布置すること
から始める。テオドール・リップスの感情移入といった概念である。
伊東豊雄「仙台メディアテーク」(2001年)
「仙台メディアテーク」と類稀なる空間性を持ったイヴ・クライン「空気建築」は、圧縮空気
で屋根をつくり火やガスで壁をつくるといった構想を、ドイツ人ベルナール・ルーナウ建築家と
創案したが皮膜としての透過性と身体の現前といった存在性にかんする感性と論理の関係を示し
た計画といえる。
例えば、伊東豊雄の「仙台メディアテーク」(2001)のガラスのエンヴェロープの透明性、ル
・コルビジエのドミノを中心とした構成でありながら、細い柱で全体を海草のような構造体をチ
ューブ構造体で支えている。ちなみに「仙台メディアテーク」は磯崎新の命名である。モダニズ
ムやロマン派的な夢想からシュアーバルトの「ガラス建築」などがそうきされる。またはブルー
ノ・タウトの「アルピス建築」などを豊かに文脈上に上げている。前世紀と今世紀における建築
の美的側面である「透明性」と「軽さ」、「光」を象徴的に取り入れることの出来た象徴的建築
といえよう。「メディアテーク」とはギリシャ語のビブリオテーク(図書館)から派生した言葉で
ある。ITの情報の透過性を受けて、情報のバリアフリーとしてのサーキュレーションを表象した
建築であり、情報の接続性と情報の循環に則った建築であるといえる。
例えば、藤本壮介は、「メディアテーク」を「関係性の建築」を次の様に評した。「せんだいメ
ディアテーク」のプログラムが典型で、図書館、アートギャラリー、情報センター、映像メディ
アセンターなどが、ワークショップを介して複合するという新しい関係性が設定された。伊東豊
雄案が秀逸だったのは、その設定に空間をあたえるだけではなく、関係性の建築とでも呼べる新
しい建築のあり方を垣間見せてくれた点である。メディアテークはプログラムから出発したが、
それはプログラムを抜きにしても成立し得る「透明な関係性の網目」としての建築のあり方を示
唆している。それは極端にいうと関係性だけが存在することで成立する建築である」。『建築M
AP東京・2』(TOTO出版 2003年)P.236.
関係性に関して勅使川原三郎は述べている。「時にダンスなど手遅れと思われ、いつも間に合わ
ないほど悠長な身振りの連続であろうと、それを続ける意義はあるのではと救いの手をダンスの
方から差し出してくれるものである。それを諦めることもないし、しかし、同時に遅れてはなら
ない瞬時の生命の傾きでもある」。勅使川原三郎「骨と空気」(白水社 1994年)p.187.勅
使川原三郎の世界観のひとつであろう「ホロコーストの遺品として瞬時の生命の傾きをとらえる
ことができる。「ダンスは存在しない「もの」だ。不在の物質的出来事、あるいは作業であり、
精神の形という別の言い方にすると「生命」という手によって掴むことの出来ない振動をおこさ
せようとするものである」。同書p.187.盲目のダンサーのスチュアート・ジャクソンの触覚的
な意味でも生命という手によって掴むことの出来ない振動といいかえられる。