エジプトのプロジェクトを振り返って

温
前回の市電プロジェクトにつづき、今回は1990年代以
降、当社が三菱商事のもと、取組んできたカイロ地下鉄プ
ロジェクトを振り返ります。
4.5 カイロ地下鉄1号線
カイロ地下鉄1号線は、ENRヘルワン線がカイロ中心
部を地下でくぐり北へ延伸されて1980年に運転が開始
されました。1980年と1987年の2回の発注でアルスト
ムが300両納入しました。
1990年に3次車の発注の際、アルストムはTGVの大量
受注を抱えており、実質的に三菱商事の単独オファーで、
故
エジプトのプロジェクトを振返って【後編】
曲折はあったが受注にこぎ着けました。この発注はセマ
フ(カイロの車両メーカー)がENRの委託を受け、すべて
の入札業務を行いました。このときは25ユニット(1ユニ
ットはMc+T+Mcの3両)中、プロトタイプの1ユニット
のみが日本で、残り24ユニットは日本の技術支援でセマ
フで製作するという条件でした。
以前のCTA
(カイロ市交通局)市電では、すべての素材
をふくむ材料、部品を日本から供給しましたが、今回はセ
マフでの工数発生を最大限にするため、構体、台車の構
造材、配管素材および鋳鋼品の一部をセマフが調達する
知
櫻井
ことになりました。そこで、部材供給だけではなく、素材
賢一
調達のためのスペックを当社が準備しなければなりませ
車両事業本部 海外事業室
んでした。セマフで製作のためのプロセスシート、工作図
の作成は、市電の比ではなく多大の労力を要しました。
新
当初、ENR(エジプト国鉄)のカイロ地下鉄部門、
現在はCMO
(Cairo Metro Organization)が運営
● 51●
今回は当社でのトレーニングは限定されていた一方、
降りられないので乗り込んでくる客を押し戻して降りなけ
セマフでの技術指導のために現図、製造部、品証部から
ればなりません。乗客はこうしたことを知っていて、自分
製作段階に応じて多数の人々が現地で活躍しました。
の降りる駅の一つ手前の駅を列車が発車すると、出口に
製造部、品証部の人々のよき指導の結果、
93年、
94年
向かって移動しはじめます。出口側にいる乗客の肩をた
にわたって逐次CMOへ納入されました。日本で製作され
たいて次の駅で降りるかを確かめます。もし降りないとの
た1ユニットとセマフ製作の2ユニットが連結され、
1993
返事なら場所を変わってもらいながら出口に近づきます。
年にメトワリ運輸大臣出席のもとで開業式が行われ運転
乗降の途中で、ドアが閉まり始めます。当然無理に乗り
が開始されました。
込もうとする人達がおり、すでに乗り込んでいる人達が
その後、緊急調達として5ユニットが1994年に、中間
閉まりだしたドアを無理にこじ開けて助けます。この結果、
増備車として2000年に9ユニット、
2004年に21ユニット
ドアの戸先ゴムがちぎれたり、脱線止めローラが壊れる
が納入されました。これら中間ユニットのM車は日本か
原因となっています。
ら、T車はセマフ製作でした。
当局もこうした状況を改善すべく、車両の4ドアのうち、
1995年からアルストムに代わり、1号線車両のメンテ
内側2か所を乗車用、外側2か所を降車用とドアの上に書
ナンスを受注し、三菱商事、アエデコ、東芝、近車の4社
きました。プラットホームにも乗車、降車の位置を緑と赤
共同で設立したメンテナンス会社MJCで車両および工場
の矢印で印してありますが、乗客にはまったく無視されて
設備のメンテナンスをはじめました。メンテナンスを手
います。しかし見習わなければならないマナーがありま
がけた本当の理由は、恒常的にカイロの情報を入手し、将
す。カイロでは年配で100kg級のおばさん達を多く見か
来の車両受注を有利にするための方策の1つでした。
けます。彼女達が乗り込んでくると、若い人はサッと立ち
メンテナンスを行うなかで運転中に発生する事故、技
あがって席を譲ります。もちろん老人に対しても。
術トラブルも当局に認知される前に処置できました。あ
るいは容易に改修工事を施工できました。運転中に発生
4.6 カイロ地下鉄2号線
する思いもよらぬトラブルも多く、継続的にメンテナンス
の現場にいて、はじめて分かる設計問題も多数明らかに
なりました。それらはカイロの乗客マナーやいたずらの
程度が大いに違うこと、運転や軌道条件の違いによる設
計負荷の過少が原因で発生した台車のき裂(台車端ハリ、
軸箱体、排障器受部)
、ベアリングの破損等、途上国向け
車両で配慮しなければならない事柄に多くの知見を得ま
した。
MJCで指揮を執っていただいた皆さんそれぞれに尽力
いただき、メンテナンスの契約切れで終了した2005年ま
で年々車両故障が減少してCMOから良い評価をもらいま
NAT(地下鉄公団)
1992年はじめに入札が行われ、フランスは全カテゴリ
した。
ー(トンネル、軌道、信号通信、電力/工場設備、車両)を
走行中の列車の前面ガラスが子供の投石で割られる、
陸橋の上から鉄パイプを投げられパンタグラフが壊れた
り、デッドアースして屋根に穴が開いたり、想像できない
書類を提出しました。
一方、三菱が提出したのは薄っぺらな書類でした。当
時アルストムはTGVの大量の受注を抱え、カイロには力
いたずらが日常茶飯事のごとく発生しました。
駅での乗降も尋常ではありません。列車が駅に着いて
ドアが開くと、いっせいに乗り込んでくる。待っていると
近畿車輌技報 第15号 2008.11
独占受注すべく大勢力をつぎ込んでトラック一杯の応札
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が入っておらず、値引きにも前向きではなかったようです。
最終的にアルストムとの競争に打ち勝ち1993年1月に
NTPが発行され、プロジェクトがスタートしました。三菱
現地に長期滞在することで当局やコンサルタントとフ
が受注できた裏にはNATの強い意向が働いたと後日聞き
ェース ツウ フェースの関係を築くことで当局が求めてい
ました。
スペックはフランスのコンサルタント会社・ソフレツ社
ることをいち早く察知し、また、当方のいうことも理解し
(現シストラ社)で準備されたパリメトロをモデルとした
てもらえる双方向の関係が構築できたと考えます。プロ
ジェクトがスムーズに行くかどうかはひとえに発注側と
車両で、数百ページの分厚いスペックでした。
契約者側の当事者間の人間関係がキーであると思います。
プロジェクト遂行のNAT側コンサルタントはGCMC
(グ
レータ・カイロ・メトロ・コンサルタント=主体はアメリカ
このことはボストンのMBTAプロジェクトでも同じで
のコンサルタント会社PBIで、スイスのエレクトロワット、
した。プロジェクトが始まった当初、承認を得るためのデ
エジプトのゼネコンの連合体)
。
ータを出せども出せども「Disapproved(不認可)
」とな
われわれは当局コンサルタントの構成を考え、アメリ
って返却され、やっと承認を得られるようになったのが
カでの経験からアメリカ流プロジェクトの進め方で対応
半年後位からでした。後で「Disapproved」にした理由を
することとしました。
聞くと、
「新参者の会社は何をしでかすか分らないので、
まずはプロジェクト完工までの非常に詳細なエンジニ
さらなるデータを提出させて様子をうかがっていた」と。
アリング計画(設計、各種試験、RAMS、製作工程、搬入、
プロジェクトがかなり進行した時、連絡に使っていたFA
タイプテスト、コミッショニングとそれぞれの書類の提出
Xが壊れ、代わりに車でMBTAのエバレット工場へ日参し
時期を明示した計画書)を承認提出して、その後、月ごと
て書類を届けました。おかげで秘書のクレーアさんから
の計画と前月の達成%をマンスリー・レポートで報告しま
『Mr. Fax Machine』と、ありがたいあだ名を頂戴しまし
した。もし計画どおり進捗していないと、マンスリー・ミ
た。あるとき書類審査している担当者のボブ・ソーントン
ーティングの席上でその原因を追求され、リカバリー・プ
氏が提出した書類と図面を拡げて首をかしげていました。
ログラムを要求されました。ミーティングには懸案項目
提出した中身が理解しづらかったらしく、口で当方の意
が事前に配布されてそれに対する回答を準備し報告を義
図を説明するとすぐに分って承認をくれました。要は当
務付けられていました。
局の人達と密に接触することで互いの理解が深まりスム
ーズに仕事が進むということが良く理解でき、フェース
車両のプロジェクトマネージャーとして、実設計がはじ
ツウ
フェースの関係が仕事をスムーズに進める方法で
まってから開業までほとんどカイロに滞在して、マンスリ
あることに気づきました。誠意を持って対すれば、誠意を
ー・ミーティングへ出席はもちろん、信号通信、軌道、ト
もって返してくれることは万国共通でしょうか。
ンネル、E&M
(エレクトリッ&メカニカル)のインターフ
ェイス・ミーティングにも出ました。公式のミーティング
しかし、われわれの英語力では英米の人達の行間まで
のほか、コンサルタントでの部内ミーティングによばれた
は読取れません。2号線プロジェクトの途中、
1994年末
り、提出データの審査の状況をチェックしにコンサルタン
に、GCMCのプロジェクトマネージャーのボブ・マクドナ
トや当局に日参し、忙しい日々を過ごしました。現地で滞
ルドさんから、彼らの思いがなかなか理解されない、意思
在していて、やらねばならないことや思いが、なかなか日
疎通をはかるためイギリス人かアメリカ人を雇うように
本側に分ってもらえず、結果としてデータの提出遅れに
と要求されました。そのときMBTAで当方のコンサルタ
なりました。いらいらがつのって辞表をたたき付けて辞め
ントをしてくれたボブ・アーチボルトさんに電話して助け
ようと思ったことは2度、3度。後日の検診で医者から胃
を請いました。
かいようのあとがあるといわれました。1997年8月にA
型肝炎にかかり、一時カイロを離れていました。回復して
最終的にアーチボルトさんが三菱側のコンサルタント
についてくれて仕事がごくスムーズにはかどりました。
カイロへ復帰後、マンスリー・ミーティングではいつも議
長のDr. カッタブが会議の冒頭、
「体は大丈夫か?」と聞
さて本題に戻って、開業前の試験期間中の1996年6月
いてくださいました。Dr. カッタブには彼の在任中、よくし
7日(金;イスラム圏では休日)の朝10時、電話が鳴りま
てもらったことに感謝しています。
した。工場内試験線でアルストムがATO試験中に、車両
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が試験線の端にある建屋に突っ込んだのですぐ来いと。
路線の延長とともに駅周辺にミニバスのターミナルが
急いで現場に駆けつけると無残な惨状。けが人が出なか
整備され、郊外からの乗客を地下鉄に乗換えて市中心部
ったことは不幸中の幸いでした。ATO試験の際は当社が
へ運ぶ交通網の改善も合わせて行われています。
添乗することと約束していたにもかかわらず、アルストム
カイロは住宅地が砂漠に向かって爆発的に広がって、人
が単独で試験し、ブレーキを確かめずいきなり走らせた
口が急増中です。しかし、市内交通システムの整備が遅々
ことが直接の原因。システムの不備も判明し改修を行い、
として進まず、地下鉄も日増しに混雑がひどくなっていま
その後はルールにしたがって安全に試験が進められまし
す。数年前にJ
ICAの支援(実質はPCIの都市計画専門家
た。この事故ではからずも前頭部の衝突解析/破壊試験
のチーム)で大カイロ圏の交通網整備のマスタープラン
の正しさが証明されましたが、非常に高い勉強代を払い
(地下鉄4線、スーパー・トラム・ライン3線)が策定され
ましたが、実現はいつになることか、22世紀か?
ました。
本線で6か月にわたりATOをふくむ運転試験を実施し
4.7 2号線の車両メンテナンス
ました。試験期間中に時々進捗状況を確認のために運輸
大臣やNAT総裁が試乗に来られました。
200mR曲線ではフランジのキシリ音がするので、防止
車両の本契約中に車両受取り後2年の保証期間をふく
のために早朝から刷毛でレールの肩に油を塗ることにな
む5年間のメンテナンスが義務づけられていました。将
りました。
来のメンテナンスでキーパーソンとなる優秀なエンジニ
アをあらかじめ雇い、車両整備の段階から車両と車両シ
ステムを勉強させました。合わせて日本でのトレーニン
グも行いました。彼らはまたメンテナンス要員のトレーニ
ングでの理解を深めるため、アラビア語で解説してくれ
て大変役立ちました。車両の工場への搬入後、18名のエ
ンジニアとフォアマン、45名のテクニシャンに対し、教
室での座学、現車での実地トレーニングを1996年2月か
ら6か月間実施しました。使った教科書はメンテナンス
マニュアルから抜粋して作成。英語が分らない人達のた
めに重要部分のアラビック版も合わせて作りました。
式典後運転室に乗り込んだムバラク大統領
一連の試験が完了し、ものものしい警戒のなか、ムバ
実際のメンテナンスに入るに当たり、
JR西日本殿吹田
ラク大統領の臨席のもと、1996年10月2日に開業され
工場や近鉄殿五位堂検修車庫で実施されているメンテナ
ました。もともと10月6日の開業が予告されていました
ンス要領を参考に、3日、3か月定期点検、3年、6年定期
が、過激派のテロを警戒して突如10月2日に早められま
検査の周期に合わせた詳細なメンテナンス要領書を作成
した。当日、駅周辺は交通しゃ断、ムバラク駅に乗り入れ
し、これを使ってOJTで定期点検からはじめました。実
ている1号線の運転も運休。式典の後、試乗に移り大統
際のメンテナンスにあたり、JR西日本、近鉄から専門家
領は運転台に、ほかの大臣、高官は夫人ともども乗車さ
(JR西日本の田畑さん、近鉄の佐藤さんと染川さん)の派
れ、一連の開業セレモニーは無事に終わりました。
遣を仰ぎ、エジプト人メンテナンス要員を指導してもらいま
した。5年を過ぎてメンテナンス契約が更新され、
2004
開業当初は、ショブラ・エル・へイマ〜ムバラク間、7
年6月末までメンテナンスにあたりました。その期間中、
kmを15本(90両)の列車で運転。運転ヘッドはラッシュ
近鉄から新家さん、山田さん、柴田さん、当社内からは鯖
時3分、閑散時5分。
戸さんをメンテナンスのスーパーバイザーとしてそれぞ
その後逐次延伸され運転区間20駅22kmに延びまし
れ2年間工場で指導にあたってもらった結果、何とかメン
た。
テナンスが軌道に乗り出しました。2004年7月のメンテ
ナンス契約切れに伴いCMOは自前でメンテナンスをや
近畿車輌技報 第15号 2008.11
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温
ると決め、現在に至っています。ところがその実態は予備
品と交換するのみで、取外した故障品は修理せず倉庫に
積んでいます。その結末は、現在では取替えの予備品は
故
底を尽き、オーバーホールで工場入場する車両から生き
ている部品を予備品代わりに使う自転車操業でやり繰り
している始末です。
知
こうした鉄道では保守費予算が常に不足して、海外部
品メーカーへ部品修理の手当てができず、予備品不足で
車両の運行に支障を来たします。もちろん、こうした事態
が予想されたので、われわれがメンテナンスしている時
新
から、できる限りローカルの部品に置き換えるべく、サン
プルを取寄せて試用してみて、または工場で試作して可
か!」といいたくもなります。
能なものから置き換えていました。規格品や機械部品は
比較的容易に置き換えができ、寿命は半減して取替え頻
度が増えてもトータルコストは比較にならないほど安く
しかしメンテナンスを実施することで、従来おざなりに
なりました。問題はローカル化できないハイテクの予備
なっていた運転開始以降に発生するトラブルの原因が継
品調達でした。
続的に追跡でき、その究明と改修対策、設計へのフィード
バックに大いに役立ちました。トラブルは車両メーカーの
設計する車体、台車、ぎ装よりもサブシステムの機器故
以上のようにメンテナンス上で問題は多いが、メーカ
障が大部分を占めました。
ーが車両のメンテナンスをすることで得るところも多く
具体例については、頁数の制約もあり、残念ながら本
あります。
稿で詳細を述べることができませんが、機器の選定や車
われわれ日本の車両メーカーは日本での使用実績をも
両システムへの組み入れ方に多くの知見が得られました。
とにプルーブン・デザインとしてお客様に提案し、承認を
得てきました。われわれの設計はおとなしい日本の乗客、
また鉄道工場での徹底した予防保全体制下での十分なメ
5. おわりに
ンテナンスで保持されている車両の運行が根底にありま
以上のような色々な問題に対して関係者皆様の協力を
す。こうした理想的な状況は望ましい姿かもしれません
が、他国と比べればむしろ異状です。
メンテナンス上で、風土、国情、技術水準の違いで、日
本では考えられないようなトラブルが発生しました。
得てようやく解消できましたが、2号線の開業から早くも
10年を経過していました。振り返ってみると、日本の常
識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識といった
1号線のところでも述べたように、子供の投石や陸橋か
面が多々あります。日本での「プルーブン・デザイン」が
ら鉄パイプを投げる、内倒しの窓にぶら下がる、合かぎ
必ずしも外国で通用しないことに注意し、次のカイロ地
を使って運転室に侵入しスイッチ類を壊す。無理にドア
下鉄3号線では「失敗」を繰り返さないように今後の奮闘
をこじ開けて乗り込むので戸先ゴムが引きちぎられる。故
を期待するものです。
障すると運転士がパニックになってスイッチ類を押しま
くり故障を大きくしてしまう。乗客も気が短いせいか、駅
での停車が長引くと放送を聞かずに保護ガラスを割って
非常スイッチを押し、ドアを開け外へ出る。ほどんどの非
常スイッチが押される結果、復帰に時間がかかり本線が
ストップすることもしばしば発生。すると「三菱の車両が
故障して本線が数時間止まった」と次の日の新聞でたた
かれる。
「こんなところでメンテナンスなんかやっとれる
● 55●