第12号 - 國學院大學栃木学園

日本人の意識と誇りをもつために
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十五∼二十八
五〇五号までに四十八編掲載したことになる。そのうち
九号からで、七年を経過し、平成十六年十一月号発行の
く若い人たちに、先の大戦について尋ねられ、適切な説明が
的 確 な 言 葉 で 表 現 さ れ て い る の に 驚 い た。 子 や 孫 だ け で な
や経緯、当時の人びとの想いが、実にわかりやすく整然と、
昨年の十二月にこの本が出版された。著者と世代を同じく
する私には当然至極の内容なのだが、しかし先の大戦の背景
木
村
好
成
今春高校を卒業する三年生諸君の入学直前までの十四編
できず歯がゆい思いをした人は少なくないと思うが、読めば
校報﹁無涯談諧﹂の掲載は、平成九年五月発行の第四〇
なお、一から十四までは平成十三年度の太平台春秋第九
︵十五∼二十八︶を掲出して、参考に供することとした。
きっと我が意を得たと思われるに違いない。難しい字には振
た。改めてお人柄を感じた。
してくれた。本が届くと間もなく著者から丁寧な礼状を戴い
会議で紹介した。小林教務主任が希望をまとめ出版社に発注
日本の教育に携わる者は、この本に記述されていることを
認識して、青少年の教育に当たるべきだと思ったので、職員
る。
たいと願っている若い世代に、ぜひとも読ませたい一書であ
ろん、中学生にも読める。心の底では自分の国に誇りを持ち
り仮名が付してあるし、文字も大きめである。高校生はもち
号に既掲出である。
一五
いま日本人の意識と誇りをもつために
│ 中條高徳著﹃孫娘からの質問状・おじいちゃん
戦争のことを教えて﹄を読む │
私が最近深く感銘した本を諸君に奨める。ご父母にもぜひ
読んでいただきたい。
中條高徳著
﹃孫娘からの質問状・おじいちゃん戦争のことを教えて﹄
致知出版社
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じます。この国の現状を考えますとこの本を読んで下さ
前略
致知出版社より尊台のことの報告をいただき貴校
長さんが拙著をおすすめ下さり多数ご注文賜り光栄に存
い。そうした思いで綴った孫娘への回答であった。
くのではないか。近現代史をもたない国は根無し草でしかな
はじめて、それ以前の歴史は文化や伝統となって現在に息づ
は近現代史をほとんど教えない。近現代史にブリッジされて
験したことを、自分史を刻むつもりで書いてみよう。日本で
るだけでも、特に教職の場におられる先生方がお読み下
粋ゆえに、価値観の転換を受け入れ難かったのであろう。
憤慨し、仏間に籠もって鬱々とした日々を過ごした著者、純
ように価値観を転換させて平気で日々を過ごしている世間に
著者は昭和二年生まれ。十代後半の多感な時期に敗戦、後
の価値観の転換を、コペルニクス的転換と感じた。掌を返す
さるのは万人の味方を得たる感じがあります。校長先生
にもよろしく御鳳声の程お願いします。
御礼迄
早々
小林正男様
中條高徳
中條氏の思いと思想
戦争については、戦争が絶対に起こらないという保障がな
いのが現実。だからこそ、公に己れを捧げる使命感こそが戦
尊い以上に崇高と考えるから、著者は毎朝の散歩のおりに靖
生徒であった。
中 條 高 徳 氏 は、 現 在 ア サ ヒ ビ ー ル 特 別 顧 問、 昭 和 二 十
︵一九四五︶年八月十五日の敗戦当時は日本陸軍士官学校の
孫娘の馬場恵子さんは銀行マンである父親の赴任にともな
いアメリカへ渡り、ニューヨークの高校マスターズスクール
国神社の社頭に額づく。国と国とが戦争をするとき、一方が
争を防ぐ力になる、次の世代の幸福のために殉ずる行為は、
で教育を受けた。アメリカ史をウッド女史に学ぶのだが、戦
戦後の日本については、国際化の中で日本人の心を養うこ
との重要さを強調する。人間はまったく誇りなしには生きら
全て悪いということはなく、国益が国家の当然の行動原理で
れない。物質的豊かさを梃子にして、日本人は日本人である
ある。東京裁判は、公平さや客観性に欠けるもので、二十世
孫 娘 か ら の 克 明 な 質 問 状、﹁ お じ い ち ゃ ん が 生 ま れ た こ
ろ の 日 本 は?﹂・﹁ お じ い ち ゃ ん は な ぜ 軍 人 の 学 校 に 進 ん だ
ことの誇りを回復しようとした。神道を宗教ととらえるのは
争を体験した家族や知人から話を聞こうという課題に、かつ
の?﹂・﹁アメリカとの戦争は正しかったと思う?﹂
・﹁終戦直
まちがい。神道は日本人の心だ、というのがもっとも正確。
て太平洋戦争を戦った日本人の当時の様子を教えてと、日本
後の日本の様子を教えて﹂
・﹁極東軍事裁判について、どう思
自然を敬い、畏れ、あがめる。そこからでてくる感謝の念、
紀最大の汚点と断罪する。
う?﹂・﹁天皇について、おじいちゃんの考えは?﹂等々十六
の祖父への質問状となった。
項目を前にして七十歳を超えた著者は考える。あの戦争で体
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心が、神道。日本人から日本の心、精神が失われたとき、天
培われる規範、礼節、道徳。そのトータルとしての日本人の
敬虔で謙虚な心持ち、和を尊ぶあり方。それが土台になって
日本を知っている私には耐え難い、悔しい想いの日々である。
ない国になった。かつての誇り高い、麗しい、勇気に充ちた
優先する思考になり、今日の乱れた姿になり、誇りも節操も
識が指導者層・国民全体に根深くあって、経済発展が全てに
では負けなかったが、アメリカの物の豊かさに負けたとの意
麗しい日本に
皇は存在し得なくなる。それは日本が滅びるとき。私がこれ
て掲揚できる日本人を、一人でも増やしていくこと、と記し
からやるべきこと。それは、日の丸を心の底から誇りを持っ
ている。
教育にたずさわる私には、街を歩いていても、電車に乗っ
ても、豊かなはずの日本人から品性が感じられなくなって久
麗しい日本、そこに住む日本人の美しい心に目覚めよう。私
の低い欲求や自分勝手な行動が国をおおっている。残念だ。
しい。衣食足りて礼節を重んじなければならないのに、程度
か ね て よ り 私 が 思 っ て い る こ と は 、 戦 後 の 日 本 の 教 育 に、
国 を 想 う 心、 国 を 愛 す る 心 を 教 え る こ と が な い た め、 若 者
たちは国に誇りを持とう。
国を想う心、国への誇りを
が誇りを持てなくなったということである。国の教育の根本
︵平成十一年五月︶
は、国を想い国を愛することをまず教えるべきである。そこ
に民族の誇りが芽生え、誇りある生活から国民の道徳律を守
る心が生まれ、国家有為の人材になろうとする思想も生まれ
ると思っている。どこの国でもそうしている。
﹁とちぎ山車会館﹂北隣接地に美術館
一六
蔵の街美術館二〇〇二年に開館
栃木市が整備基本計画公表
体を講明して以って立国の基礎を鞏くし、徳性を涵養して人
幸 い 國 學 院 に は、 有 栖 川 宮 幟 仁 親 王 よ り 賜 っ た 告 諭 が あ
る。﹁凡そ学問の道は本を立つるより大なるはなし、故に国
生の本分を尽くすは百世易うべからざる典則なり﹂。
﹁国体の
見事な彫刻と、金糸銀糸の刺繍を施した人形山車が繰り出
されるのが五年に一度の﹁とちぎ秋まつり﹂。その人形山車
は、案外縁の薄い存在かもしれない。
たすら通って三年間を過ごしているだろう多くの生徒諸君に
栃 木 市 の 中 心 街、 万 町 三 丁 目 に﹁ と ち ぎ 山 車 会 館 ﹂ が あ
るのを知っているだろうか。駅から学校までの通学路を、ひ
講明﹂と﹁徳性の涵養﹂。建学の精神に誇りを持とう。
太平洋戦争に負けた日本が、アメリカを中心とする連合国
の占領下で、それまでの日本の歴史や文化に付する価値観を
全面的に否定・転換させられたことと、戦時中の物量の不足
と戦後の経済の疲弊が深刻であったために、日本は精神文化
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の展示と保存を兼ねて、四年前の平成七年二月にオープンし
江戸時代の蔵を核に新館も
画をまとめたという記事が掲戦されていた。六月九日に公表
﹁とちぎ蔵の街美術館︵仮称︶
﹂を開館するための整備基本計
六 月 十 日︵ 木 ︶ の 下 野 新 聞 の 県 南 版 に、 栃 木 市 が、 江 戸
時代に建てられた商家の土蔵を利用して、市街地中心部に、
館内には県の有形民俗文化財に指定されている六台の山車
が所蔵されており、常時三台が展示され、定期的に入れ替え
たのが﹁とちぎ山車会館﹂である。
が行なわれている。一階の山車展示室では、祭の興奮を何時
マルチスライドを可動式のジャンボスクリーンで上映し、三
︵平成十四︶年度の開館を目指すということである。
十三︶年度に﹁新館﹂などの建築工事が行なわれ、二〇〇二
記事によると、本年度中に専門家を中心とする委員会が組
織され、そこで整備実施計画が策定されて、二〇〇一︵平成
されたことのニュースである。
台の山車のうちの一台が背後のジャンボスクリーンの中から
でも多くの人々に味わってもらおうと、ハイテクを駆使して
現われる仕組みになっている。二階資料展示室では﹁とちぎ
美術館は栃木市街地、蔵の街との調和を図ることを考えな
がら、美術館の性格の大枠を基本計画に盛り込んでいる。作
﹁とちぎ秋まつり﹂を再現している。コンピュータ制御による
秋まつり﹂の歴史と伝統を、実際に祭に用いられる品々と、
写真パネルで紹介し、全国各地の主な﹁山車まつり﹂もビデ
品収集や展示の計画など、美術館の具体的な性格は委員会で
た石像彫刻で、二科会の彫刻部会貞である小林亮介氏の大作
伏 の 獅 子 ﹂ は、 太 平 山 神 社 に 伝 わ る 郷 土 玩 具 を ア レ ン ジ し
設としてはなかなかなものである。会館広場入口に建つ﹁火
本校生徒の多くは栃木市外からの通学者で、市内を散策す
る者も少なくて、山車会館も観ていないのではと思うが、施
とで、栃木市が所有者である善野佐次平氏から借り上げて利
べ床面積は三五七平方メートルで、保存状熊もよいというこ
家の土蔵で、敷地は約五〇〇平方メートル、蔵三棟の合計延
保十四︶年以前に建てられた栃木市内で最も古いとされる商
る蔵は、万町の通称﹁おたすけ蔵﹂と呼ばれる一八四三︵天
今夏以降に検討されることになるという。美術館の中核とな
で、美事なものである。小林氏が本学園短期大学の美術担当
用するということである。
オで紹介している。
の鷲崎直子教授の夫君であることから、二十年余にわたって
氏の展覧会出品作品を見続けてきている私には親しみ深い彫
像である。
計画では、美術館の基本性格を
一 市内外から繰り返し入館者を呼べるもの
二 蔵の街との整合性があり、芸術と文化の薫り高い
蔵の街のシンボルとなるもの
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三
市内の文化施設と連携できるもの
四
市民の誇りになる市民密着の美術館としたい
などを挙げている。
課題になろう。
新設される予定の﹁蔵の街美術館﹂は仮称というが、この
ネーミングはいいと思う。近年栃木市は﹁小京都﹂の呼称に
加えて﹁小江戸﹂と称し、千葉県の佐原市と埼玉県の川越市
め、栃木市が先行取得している蔵南側の隣接地約一八二平方
る。美術館として使えるのは約三〇〇平方メートルと狭いた
であれば、展示を考えるといかにも手狭であることが気にな
に匹敵する良いものを作ってほしい。市民の心の潤い、心の
が協力し合って、多少の無理をしてでも、﹁とちぎ山車会館﹂
る都市でもある。待望久しい美術館の開館であれば、全市民
るといわれる栃木市民である。小なりとはいえ短期大学のあ
これから開館までが大変であると思うが、県名発祥の地で
あり文教都市である。経済面でも県内随一の銀行預金高を誇
と連携して﹁蔵の街﹂小江戸と称しての観光地の宣伝と整備
メートルを﹁新館﹂用地に充て、展示室や収蔵庫、事務室な
遊びの場が美術館である。学生・生徒のためにかねて思って
現在すでに開設されている山車会館の北側隣接地にある
﹁おたすけ蔵﹂
、江戸時代の蔵を公立美術館とする例は全国で
どを配置する計画で、展示・収蔵するのは地域に根差した芸
いた文化施設、市民のためにも大いに期待したい。一流の芸
を行なっているところで、これには短期大学商学科の小倉光
術性の高い絵画や工芸作品を中心にする方針だというが、県
術家が輩出している栃木市および周辺の土地柄でもある。芸
雄教授もかかわっている。
名発祥の地、県内でも由緒の点では人後に落ちない土地であ
術・工芸品は人々の心を養ってくれる。
﹁玩物喪志﹂とはよ
も珍しく、開設までの事務費を節減する一方、文化財として
り、清水登之や菅谷邦敏の油彩画や飯塚琅 斎の竹工芸、田
くいわれる言葉だが、堅苦しく余裕のなさを感じる。
﹁玩物
貴重な蔵を後世に確実に遺す意味合いもあって、建設に最も
中一村の日本画など、すでに市が収蔵している約一〇〇点も
養志﹂は京都に詩仙堂を建てた石川丈山の言葉で、人間の心
ふさわしいとしているが、収蔵のみを目的に建てられた土蔵
含まれるというから、展示品も収蔵品もかなりの数になるで
ろうかんさい
あろう。
事業費の算出も行なうとしている。文人墨客が度々訪れた市
ことが必要と考えて、博物館相当施設としての認定も受けて
得できることもあって、一点でも多く良い参考品を目にする
本学園でも学生・生徒の目を養い、心を養うために参考館
を設けているが、短期大学の日本史学科で学芸員の資格も取
の遊びを知った人の言葉だと思っている。
内には、優れた絵画や工芸品が多く所蔵されているであろう
八月をめどに展示収集と建築の専門家を中心に構成する委
員会を発足させ、運営主体や建築計画などを含めて検討し、
から、展示する美術資料所有者のリストアップなども今後の
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いる。
来年の六月には全国大学の博物館学関係研究者が集まって
の研究大会が本学園で開催されることにもなっている。
︵平成十一年六月︶
一七
法相宗管長・薬師寺住職
故高田好胤師を懐かしむ
を 目 に し て。﹁ 李 登 輝 著﹃ 台 湾 の 主 張 ﹄ PHP
研究所﹂
、中国
国民党総統蒋介石・蒋経国の後を受けて、台湾総統となった
内省人である著者の台湾への想いは、日本の国の政治の在り
方を考えるよすがになるはずと。
﹁白井永二・工藤伊豆・上
田賢治・薗田稔対談﹃日本人のこころと神道﹄蒼洋社﹂
、神
道のことを学ぶため。そして、﹁高田都耶子著﹃父
高田好
胤﹄溝談社﹂、一生をひたすら薬師寺の再興に尽くした故高
田好胤師の名を懐かしく思うとともに、さらに師をよく知り
今 年 六 月 十 四 日 に、 講 談 社 か ら 出 版 さ れ た﹃ 父
高田好
胤﹄の著者は、師のひとり娘都耶子さんである。早速手にし
たいためであった。
てパラパラとページをめくり、ゆかりの人びととの十四ペー
私 の 趣 味 に 読 書 が あ る。 書 店 に 積 ま れ た 本 の 中 か ら、 読
み た い 本 を 探 す の は 楽 し い。 著 者 名 と 題 名 を 見 て す ぐ に 買
う本、新聞などの書評をあらかじめ読んだことで買う本、手
好胤師は、大正十三︵一九二四︶年三月三十日、証券会社
員であった高田貞明と、東大寺の塔頭︵住居︶の一つ龍蔵院
にしてページをめくり興味を誘われて買う本、いろいろであ
の長女で寺の娘であったフジの間に長男として生まれ、好一
ジにわたる掲載写真の姿を懐かしく感じて、師の生前の様子
マヤ文明﹄河出書房新社・ふくろうの本﹂、本学園短大の鷲
と命名された。裕福な家庭の子として育てられていたが昭和
をより多く知りたいと思って購入したのだった。
崎直子教授のメキシコ古代遺跡を探る美術研修旅行の報告書
九年、好一が小学校四年生の時に父貞明が肺を患い、闘病の
る。先月の六月には、東京上野の森美術館でのピカソ展に触
を読んだことで興味を覚えて。久我山の川福基之校長に薦め
すえに他界した。そのため母フジの実家である龍蔵院に母と
発されて、﹁堀田善衛・瀬木慎一・田沼武能他﹃ピカソ美術
られて、﹁宮本輝著﹃草原の椅子上・下﹄毎日新聞出版社﹂。
ともに戻った。そのことを知って薬師寺の橋本凝胤管長が好
館めぐり﹄新潮社・とんぼの本﹂。
﹁寺崎秀一郎著﹃図説古代
人柄をさらに知りたく。他に、﹁呉善花著﹃私はいかにして
か宿命というか、ここに薬師寺再興のための後の名僧好胤師
授かり僧侶となること︶して高田好胤となった。運命という
一少年を引き取ってくれた。昭和十一年、受戒得度︵戒律を
﹁ 画 香 月 泰 男・ 文 香 月 婦 美 子﹃ 夫 の 右 手 ﹄ 求 龍 堂 ﹂、 画 家 の
︵日本信徒︶となったか﹄
研究所﹂
、日韓の問題を考え
PHP
るうえで、﹃スカートの風 ﹄﹃続スカートの風 ﹄﹃ 日 本 嫌 い
の日本人に ﹄﹃ワサビと唐辛子﹄につづく著者の最新の著書
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終戦により復員、大学卒業といろいろあって、将来法相宗の
が生まれたのである。中学卒業、龍谷大学進学、学徒出陣、
着手していた。
完成の一筆をいれることになっていた。さらに講堂の建設に
画伯の大壁画が二十世紀最後の日、二千年十二月三十一日に
りゅうぎ
管長となるべく最も重要な加行である竪義を受け、二十一日
好胤師が亡くなったのは平成十年六月二十二日午前八時、
胆道ガンによるものであった。二十四日に密葬、本山葬は平
間不休不臥の生活をし、問答試験に合格して昭和二十四年に
二十歳で副住職となった。それから住職までの十八年間、修
の 時 に 薬 師 寺 で 若 か り し 日 の 師 か ら、 日 本 人 の 誇 り と 仏 の
高田好胤師の名は懐かしい。昭和二十六年、札幌南高校三
年生になる春三月の修学旅行で大阪・京都・奈良を訪ね、そ
いう。
成十年七月二十六日に行なわれ、四千人の会葬者があったと
そし
学 旅 行 の 生 徒 た ち を 案 内 し、 仏 の 道 を 説 く こ と を 己 れ の 使
命とした。﹁観光坊主 ﹂﹁案内坊主﹂の謗りを受けながらも、
﹁ 薬 師 寺 の 坊 さ ん の 話 は 面 白 い ﹂ と い う 評 判 は、 一 期 一 会 の
縁を大事にして一回一回真心を込めての話が、来訪者の心を
凝胤管長が七十歳で長老となり、好胤師は四十三歳で住職
となったが、奈良の名刹薬師寺の住職としては異例の若さで
した。二年生の担任が多かった私は、その後も何回も薬師寺
修学旅行に生徒を引率して薬師寺を訪れ、師のお話をお聞き
三十二年の秋、大学を卒業して高校教師になっての二年目、
とらえた結果で、やがてテレビへの常時出演となる。
あった。昭和四十二年十一月十八日に、住職の披露式である
道と白鳳文化についての熱誠溢れる説明を受けた。二度目は
晋山式が盛大に行なわれたが、この式に学園理事長・名誉校
で師にお目にかかっている。
恩大師が玄奘三蔵の愛弟子ということから、玄奘三蔵の頂骨
巻を達成して、金堂・西塔・回廊を再建し、法相宗の宗祖慈
いだが、一巻千円で百万巻集めれば十億円、二十年で六百万
画である。計画は無謀なものに思われ、反対する意見が相次
いただき、その納経料で金堂を建てようという途方もない計
て、百万人の人に﹃般若心経﹄二百六十余文字を書き写して
管長になるとすぐに、白鳳時代に建立された当時の大伽藍
の復興をめざして百万巻写経運動を展開した。一人一巻とし
です。明治以来の目覚ましい発展も戦後の復興も千年の歴史
は、大変な日本民族の情熱の発露で、これが日本民族の根性
じめ千三百年前に上代日本文化が数々の仏像をつくったこと
らに世界の歴史がある。平城京の大土木工事と共に大仏をは
語りながら﹁上代日本の文化の背景に東洋の歴史があり、さ
る。法隆寺・薬師寺・東大寺・唐招提寺の四つの寺の歴史を
とであった。久我山の校報第三十二号に要旨が掲載されてい
特に、師と昵懇であった佐々木周二枚長の招きを受けて、
久我山高校に好胤師が見えての講演は昭和三十六年九月のこ
じっこん
長佐々木周二先生は招待され参列している。
の一部の分骨を受けて玄奘三蔵院を建立し、絵殿に平山郁夫
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その中の一冊、正しくは上・下二冊に分冊されている、森
ラーズ、諺・事象・物語・歴史知識等を、一日一日読みつい
ている。我われに厳しい人生の世界を教えてくれるスポーツ
銑 三 著﹃ 偉 人 暦 ﹄ 上・ 下
中公文庫がある。一年三六五日、
日本史を彩る三五○余名の偉人の命日と逸話を、学識豊かな
の後に今もなお生きている日本人の根性によって成し遂げら
に例をとれば、晴れの舞台で栄冠を勝ち取るためには血の出
著者が若く多感な時に綴ったもの。二学期の始業式で話題に
でいく形式の書物がある。私の書棚にも何冊かあって、折お
る基礎訓練が必要で、目に見えないところを大切にし、常に
りに愛読している。
無限の努力を払っている古典と共通するものだ。最小の効果
した、戦国時代の武将山中鹿之助幸盛のこともこの本に出て
れたものです。自由主義時代は自分が自分を鞭打たなければ
のために最大の努力を惜しまない古典の声に耳を傾け、文化
他人は打ってくれないのに、最近の青年にはこの根性が欠け
遺産に直接接して祖先の情熱を学び、明日の日本をつくるこ
とに積極性のある心構えを持ってほしい﹂
。
いる。
︵ ︶内は筆者補註。
◇
◇
◇
七月十七日
山中幸盛
力精進する人をさす。皆もボサッとしているけれども菩薩で
る。﹁如来とは完成された人間像であり、菩薩は目覚めて努
苦に遭わしめ給え﹂と祈ったという彼は、将に滅びんとする
着て、常に三日月を拝して、﹁願わくばわれをして、七難八
山陰の麒麟児山中鹿之助幸盛の一生は、美しい。そして悲
しい詩であった。新月︵三日月︶形の立物︵前立飾︶の甲を
本 枚 校 報 第 七 号︵ 昭 和 三 十 六 年 十 一 月 号 ︶ に、 一 期 生 渡
辺良子さんが修学旅行で好胤師の話を聞いた時の印象記があ
あることを自覚しなさいと訓辞にも冗談にもとれるようなこ
手兵六十人を率いて毛利氏に降った︵敵将に近づき刺し違え
春等と戦って利あらず、策尽きて勝久はついに自尽し、彼は
き ょ う は 鹿 之 助 の 命 日 だ。 彼 出 家 の 身 で あ っ た 尼 子 勝 久
を擁立して、播磨の上月城に拠って再挙を図ったが、毛利元
て起たしむるものがある。
なかったけれど、その不屈不撓の精神は、百世の下惰夫をし
起って、一意専心主家の恢復を図った。彼の志業は遂に成ら
川・小早川︶を向うにまわし、戦っては敗れ、敗れてはまた
尼子氏のために、敗余の残卒を駆り集め、毛利氏の両川︵吉
︵平成十一年七月︶
とを言われて皆を笑わせた﹂と。
一八
日本人、この素晴らしき人びと
森銑三著﹃偉人暦﹄上・下
中公文庫
童 門 冬 二 著﹃ 戦 国 名 将 一 日 一 言 ﹄ 経 営 書 院、 落 合 正 勝 著
﹃七十二候
暦の本・世界で一番おもしろい﹄KK ベストセ
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う、指図されてあったのだ。鹿之助、歳三十四。実に天正六
もあえない最期を遂げた。もともと途中で暗殺してしまうよ
たところを、不意に後から斬りかけられて、さすがの鹿之助
うとして、備中の甲部川の渡に至り、川辺の石にしばし憩う
ようとした︶が、元春を刺さんとして得ず、安芸に送られよ
に功名し、ついには天下に隠れなき勇士となったのだ。
助幼少だったけれど母の言葉を聞きわけ、やや長じて戦う毎
打たれない。此籾を見て、よく合点なさるがよい﹂と。鹿之
の身の上も、何ほどはげしい戦場に出ようと、打たれぬ者は
られるようにしたのに、まだこうした籾がまざっている。侍
御家来の野々口殿に先約がありますれば﹂とて断った。光秀
まいられよ﹂といって来た。鹿之助、
﹁折角の御芳志なれど、
承諾した。するとまた光秀の方からも、
﹁風呂を立てたれば
て、一夕わが家に招いて、もてなそうとした。鹿之助これを
鹿 之 助 の 明 智 光 秀 に 因 っ て、 織 田 氏 に 拠 っ た 時 だ っ た。
光 秀 の 臣 の 野 々 口 丹 波 と い う が、 鹿 之 助 の 人 と な り を 慕 っ
日は五月六日であった。
つけたいと思ったのである。夏の陣で討ち死にした重成の命
血判の薄さを咎め、押し直させた﹂重成のような人柄を身に
に際して秀頼の使いをし、居並ぶ敵の武将たちの中で家康の
まらぬ争いをしない﹂とか﹁勇気⋮⋮大坂冬の陣の後の和睦
た﹁堪忍⋮⋮茶坊主の蔑みに、ならぬ堪忍するが堪忍と、つ
私の名が木村好成、自分と一字違いの名に因んで、木村重
成は憧れの武将であった。小学生の時の修身の教科書にあっ
◇
◇
◇
却って鹿之助の義に篤きに感じ、雁一羽と鮭一尾とを野々口
年七月十七日のことだった。
へ贈って、﹁よく饗応するがよい﹂といいやった。
月六日は、彼が若江に井伊の赤備︵赤色の甲冑に身を固めた
木村長門守重成の名を聞くからに、美にして勇なりしその
面影の目の前に浮かび来る心地がする。元和元年のきょう五
◇
◇
◇
五月六日
木村重成
後藤基次
と 呼 ん で は も て な し た こ と、 鹿 之 助 に 教 訓 し て、
﹁汝に従う
﹃名将
鹿之助の母の賢婦人だったことは物の本にもある。
言 行 録 ﹄ に は、 そ の 母 自 ら は 垢 着 い た 着 物 を 着、 手 ず か ら
人々を夜戦などの折捨て殺しにし給うな。楽しきことは人々
軍団︶と戦って、花々しい最後を遂げた日だ。
布子を拵えて、鹿之助の朋輩達に与え、その者達を五人十人
と共に楽しみ候え﹂などといったことなどがある。いつか古
近きに迫った。われも死後の見苦しからぬよう、食事を慎む
疵口より食事出でて諸人に恥を曝したという。大坂の落城も
い写本を見ていたら、またこんな話が書いてあった。
鹿之助の小さかった頃、食事中に飯の中から籾一つ取り出
して示したら、その母鹿之助に向って、﹁ごらん、米という
重成、五月のはじめから一向に食が進まなかった。その妻
が案じて尋ねると、﹁昔、後三年の役に、瓜割四郎という者、
ものは稲を刈ってから穂をこき、箕や臼にかけ、やっと食べ
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たかせて、﹁江口﹂の曲舞、
﹁紅花の春の旦﹂を謡い、余念な
のだ﹂といった。五日の夜、彼は湯に入り髪を洗い、伽羅を
この本には、もちろん戦国武将だけでなく、著者が懐かし
く慕わしいと思った歴史上の人物、本物の人物、真の人とし
◇
◇
◇
の故事を知ることで、われわれ日本人が憧れる人間像を知る
若者は、永い日本の歴史の上で偉人として仰がれてきた人物
く小鼓を打った。
家康、重成の首を実検するに、冑の忍びの緒の端が切って
あり、そらだきの香が髪に匂う。思わず嘆じて、﹁いつの間
とともに己れの人生の糧とすべきであると思う。
て敬するに足る人びとの逸話が書かれている。現代に生きる
にかくも優しき嗜みを覚えたろう、生き長らえばあっぱれ名
一九
台湾大地震に李登輝総統の心情を想う
︵平成十一年九月︶
将にもなりなんか﹂といった。大坂方の将士で、討死の後そ
の首を家康、秀忠の見たのは、重成一人であったというので
も、如何に彼が敵方にも重視されていたかが解る。重成の首
塚は井伊の旧城下彦根にある。位牌も同所の寺にある。これ
台湾大地震から一月余になる。本校のインターアクト部の
生徒が栃木駅頭で救援の募金活動を行なったことが新聞紙上
は︵井伊︶直孝が彼の志を賞して造ったのだという。
に報じられたが、部員の一人が台湾に縁者がいることから生
の生徒の心情を想い部員たち皆が、自分たちにできることは
同じくこの日、同じ大坂方の猛将であった後藤又兵衛基次
が道明寺の戦いに戦死した。重成が朝日に匂う咲き満ちた若
何かと考えての活動だった。この頃の荒んだ高校生の反社会
木の桜なら、基次は寒風の中に鳴る節くれ立った老松であっ
基次、黒田長政に仕えていた時のこと、長政、父如水の言
を聴かずに戦いをして敗れ、如水の激怒にあい髪を断って寺
的な行動が目立つ中で、健全で良識ある本校生徒の行動が嬉
徒たちが話し合ってのボランティア募金であった。被災地の
に隠れた。家来もこれに倣ったに、又兵衛一人は、髭も払わ
た。
ずしゃあしゃあしている。ある人これを咎めたら、基次笑っ
しく、大いに讃えたいと思った。
笑った。如水これを聞いて、長政を呼び還し、その罪を問わ
といえるか?
負戦の度毎に頭を剃っていたら、一生坊主で
いなくちゃなるまい。わはははは﹂と、またもや揺り上げて
明日は我が身と思わなくてはならない。被災地への同情は他
からにはどこでどんなふうに起こるか予知できないだけに、
地 震 は、 数 年 前 の 阪 神 大 地 震 や、 つ い 先 頃 の ト ル コ 大 地
震、今度の台湾大地震のように、人間が地球上で生活を営む
惨状が日を追って想像を超えたかたちで判明してくると、そ
て、﹁勝敗は兵家の常じゃ。一敗して気を腐らすようで武士
なかったということだ。
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者を思いやる大切な心遣いであるとともに、不慮の災害に対
する心構えを養ううえでも大切なことだと思う。
返還された後の台湾は苦難の時代を迎える。中国大陸での
内戦の結果、大陸本土は毛沢東の率いる共産党軍の支配する
人︵台湾人︶は苛酷な扱いを受けた。
蒋介石総統は武力を以て独裁専制政治を行なったので、内省
に移した国民党は、大陸への反攻を目論んでいた。そのため
して実効支配する現状となった。台湾に渡り、首都を台北市
ポンフー
び福建省沿岸の金門島・馬祖島などの外島を﹁中華民国﹂と
いる国民党軍は、台湾本島と澎湖諸島︵台湾省澎湖県︶およ
ところとなって﹁中華人民共和国﹂となり、蒋介石総統の率
ば か り で あ っ た か ら、 李 登 輝 総 統 の 心 情 を 想 っ て 特 別 の 感
台 湾 大 地 震 が 起 こ る ほ ん の 少 し 前、 私 は 今 年 六 月 に P H
P 研 究 所 か ら 発 行 さ れ た 李 登 輝 著﹃ 台 湾 の 主 張 ﹄ を 読 ん だ
台湾人の夢と現実﹄
―
慨をもった。さらに台湾事情を理解するために、若林正丈著
﹃台湾の台湾語人・中国語人・日本語人
︵朝日選書・朝日新聞社︶も併せ読んだ。
台湾の実情
国家首席であり陸海空軍の最高総帥者である総統の地位につ
台湾に渡った外省人ではなく、台湾生まれの人だったから、
李氏は、蒋介石総統・蒋経国総統の後を受けて中華民国総
統の地位についた人だが、内戦時に蒋介石とともに大陸から
清 戦 争 で 戦 勝 国 と な っ た 日 本 は、 清 国 か ら 戦 後 賠 償 と し て
くにはいい尽くせない労苦を克服し、努力を重ねた人であっ
わ が 国 と 台 湾 と の 係 わ り は 深 い。 東 ア ジ ア に あ る 国 同 志
ということもあるが、明治二十七、
八︵一八九五、
六︶年の日
台 湾 を 割 譲 さ れ た。 明 治 三 十 七、八︵ 一 九 ○ 五、六 ︶ 年 の 日
た。
露 戦 争 の 後 に 併 合 さ れ た 韓 国 も そ う で あ っ た が、 昭 和 二 十
︵一九四五︶年八月まで日本に統治された歴史をもつ。
たらされたといえる。もちろん両国の人びとの努力があって
れぞれのその後の経済発展の基礎力となって現在の繁栄がも
であったので一般に民度は高くなっていた。民度の高さがそ
ど変わらない政治が行なわれ、特に教育行政は全く同じ制度
民地政策とは異なっていた。台湾・朝鮮ともに本土とほとん
での内戦により地方の政情がいろいろに変わる中を、命懸け
メリカのアイオワ州立大学とコーネル大学に留学した。大陸
めて旧台北帝国大学であった新制台湾大学で学び、さらにア
学徒動員で陸軍に入隊、少尉となって終戦を迎えた。戦後改
経て、京都帝国大学農学部農林経済学科で学び、卒業間近に
歩 ん だ。 小 学 校 か ら 旧 制 淡 水 中 学 校、 旧 制 台 北 高 等 学 校 を
李氏は、大正十二︵一九二三︶年に台湾に生まれた。日本
の 統 治 時 代 で あ っ た か ら、 日 本 の オ ー ソ ド ッ ク ス な 学 歴 を
克己努力の人李登輝総統
のことだが、日本統治時代の教育制度が大きく役立っている
日本が太平洋戦争に敗れたことにより台湾は再び中国に返
還されたが、日本の統治は、欧米諸国がアジアで行なった植
ことは紛れもない事実である。
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そして第一回の歴史的な選挙は九六年の三月に行なわれ、
李登輝氏が再び選ばれた。台湾は、経済的には他国に勝って
そのためには独裁専制ではない完全な自由民主制であること
いる。しかし、中国本土から独立できない現状から苦しい立
で生き抜いて台湾の最高指導者になったこの人の生きざまは
対談で、﹁台湾に生まれた悲哀﹂を語った。司馬氏と同じ世
場にある。今の台湾が中国の将来のあるべき形で、その先駆
を国際諸国に認知させる必要があった。
代に生きた自分は台湾に生まれたがゆえに、日本人になった
けとしての実験結果だと大陸向けにコメントしているが、こ
すさまじいものと思うが、現在は中国人特有の大人の風格を
り台湾人、中国人になったりすることを述べたのだった。そ
もっている。李氏はかつて、日本の作家故司馬遼太郎氏との
の李氏が今は、
﹁悲哀の歴史をもつゆえの幸福﹂といってい
の後台湾はどうなるのだろう。
次回の総統選挙は二○○○年の三月である。今度の大地震
は台湾にとって物心両面で大きな痛手となった。心を痛めて
る。台湾に生きたがゆえに、人びとのために自分はこれだけ
のことができたといっている。これは、苦難を克服した自分
の人生に満足と誇りをもつ人の言葉であると思う。
年制定の追加条文で歴史上初の総統選挙が行なわれるように
度開く国民大会により選出されたが、李総統のもとで、九四
た李登輝までは別途選出された﹁国民大会代表﹂が六年に一
陸 海 空 軍 の 最 高 統 帥 者 で あ る。 総 統 は 第 八 代 総 裁 に 就 任 し
には教育こそ重要である。人が知的にも情的にも貧困になっ
の頃の日本人の生き方を考えると心配になる。心配をなくす
大国といわれるゆえんは人的資源にある。その人的資源もこ
た国土の面積や資源では、決して大国ではない。日本が経済
十分以上の心を用いたいとしている。同感である。日本もま
教育こそ国力の基
李 総 統 の﹁ 台 湾 の 主 張 ﹂ は 日 本 を 考 え る う え で も 参 考 に
なった。李氏はここで教育の重要性を説いている。教育には
いるであろう李総統の心情を想うと私の心も痛む。
なり、任期も六年から四年に短縮された。九六年五月二十日
直接選挙による総統選挙
就任の第九代総統から住民の直接選挙で選出されることにし
たら、何を以て国の力を維持するのか。
︵平成十一年十月︶
李氏が総統となった時の政治制度は、﹁中華民国憲法﹂と
その﹁追加条文﹂に定められていて、
﹁総統﹂が国家首席で、
た。独裁専制の特権をもつ外省人を説得し、民主的な手段で
の総統選挙制度に移行させた決断と実行は、李総統の卓越し
た政治手腕によるのだが情理を尽くしての説得があったので
ある。李氏の目指すものは、アメリカを中心とする自由主義
諸 国 に 台 湾 の 安 全 と 国 際 的 地 位 を 認 め さ せ る こ と で あ っ た。
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二〇
浦島のごとく
対 馬 紀 行
今でもはっきり覚えていることは、途中船上から海原遠く
に対馬を見たときの感激である。ああ、あれは対馬だ。日本
の島だ。美しい緑の島。わが祖国日本の国土は、なんと美し
を追われるようにして帰国する途次の引揚げの心細さが、緑
対馬全島を覆っている木々の緑が、何とも美しかった。外
地に生活していた私は、太平洋戦争に日本が敗れて、彼の地
いことかと思った。
は 大 学 の 同 期 生 で、 栃 木 学 園 で 職 場 を 同 じ く し て か ら で も
今年の夏、八月二十七、八、九日と、片山喜八郎図書館長の
案 内 で、 対 馬 を 訪 れ た。 対 馬 は 片 山 先 生 の 郷 里。 私 と 館 長
三 十 四 年 の つ き あ い に な る。 そ の 間 に﹁ 一 度 島 に 案 内 す る
映える美しい島を見て、言い知れぬ懐かしさと安堵感がこも
映子さん。片山館長と私とで一行は十名。学長と片山貞美先
中高校長川福基之先生、中信中学部長と図書館主任司書太田
︵歌人︶、中島久︵元甲陽学院副校長︶の諸先生と、現久我山
さに一飛びであった。空から見た対馬は、山また山の島で、
揃った。昼食休憩の後、対馬空港へは飛行時間二十分の、ま
ここで関西空港から乗り継いだ中島先生が合流して、全員が
出て羽田空港へ。他の先生方と一緒になって、福岡空港へ。
八月二十七日︵金︶。早朝、私と館長・中・太田さんの四
人は中先生の運転する車で小山に行き、東北新幹線で東京に
◇
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◇
ごも交ざって、私の記憶に鮮明に残っているのである。
よ﹂と折りあるごとにいわれていたことが実現したのだった。
他 に も 同 行 者 が あ っ て、 栃 木 短 大 学 長 岡 野 弘 彦 先 生 と お
仲間、國學院大學で同期生であった千勝三喜男︵前久我山中
生は歌人の名が高い方である。貞美先生から学園図書館に短
木々に覆われた緑輝く島であった。
高校長︶、三矢正且︵元國學院大學図書館副館長︶、片山貞美
歌誌や個人歌集等二百冊余の寄贈を受けたお礼の会での話か
◇
◇
◇
空港には館長の弟さん片山清陽氏と甥の拓さん親子が二台
ら、現在栃木短大で創作文芸・短歌を教えておられる。
いにしへの対馬の渡りひととびに
嶺ちらばれる島に降りゆく
千 勝 先 生 の 短 歌 で あ る。 千 勝 先 生 も 若 き 日、 釈 迢 空・ 折
口信夫先生の門下で、短歌会﹁鳥船﹂の同人であったことか
ら、対馬に行こうということになったのである。
◇
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◇
対馬といえば、私には五十四年前のことが思い出される。
昭和二十一年三月某日、私は中学生だった。父と母と六人
の兄弟姉妹、一家八人が、住み慣れた中国河北省天津市を後
タンクー
にして、みぞれ降る塘沽港から引揚船に乗り、玄海灘の荒波
に揉まれて五日目に、山口県仙崎港に上陸したのだった。船
は米海兵隊上陸用舟艇LST。
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氏の車の前席に館長が、学長と私は後部座席に、拓さんのラ
の車で迎えにきてくださっていた。挨拶もそこそこに、清陽
いる。
光客が大勢訪れるらしく道路標識がハングル文字で書かれて
も備え付けの望遠鏡を囲んで和気靄々の一刻。韓国からも観
あいあい
イトバンには他の七人の方たちが乗って、この日の宿泊予定
地となる島の北端比田勝へ向う。途中の名所旧跡案内は、館
比田勝の国民宿舎上対馬荘に宿をとっていただいたが、夕
食は清陽氏の経営するプラザホテルで接待された。鯛や鮑の
殿崎の日本海海戦記念碑を見る。
◇
◇
◇
先ずは万関橋。明治三十三年に四年後の日露戦争を想定し
て開鑿した万関の瀬戸に架かる橋。日本海軍の水雷艇が、遠
刺身に、大きな篭に山と盛られた鮑や栄螺を焼いてもらって
長と清陽氏が携帯無線機で説明をし、要所で下車見学した。
征してくるであろうロシアのバルチック艦隊をウラジオス
こころゆくまでご馳走になった。
◇
◇
◇
さ ざ え
トック港に入れてはならじと、途中迎撃するために竹敷の基
地に待機し、朝鮮海峡へも対馬海峡へも出撃できるようにと
。 朝 食 後、 比 田 勝 の 朝 市 見 物 が て ら 買 物。
二 十 八 日︵ 土 ︶
千俵蒔山への途中、清陽氏入魂の民宿経営者権藤氏宅で生け
守備監視を続けている。鰐浦は、対馬の代表的植物ヒトツバ
鰐浦の韓国展望台に立つ。対馬は国境の島である。入江の
前に浮かぶ海栗島に海上自衛隊のレーダー基地があり海峡の
望台、元寇古戦場・小茂田浜神社参拝。石屋根から豆酘へ廻
司馬遼太郎氏が天を衝くと称した階段を上り参拝。上見坂展
壱岐の狼煙を太宰府が受けとめたという。木坂海神神社で、
千俵蒔山の山頂には烽火台があったという。海上に異変が
発見されると狼煙が揚られ、それが南へ南へと伝えられて、
味このうえなし。
簀の魚を釣り上げ、つくりを見せてもらい馳走になったが美
開鑿したのが万関の瀬戸。結果は対馬海峡での海戦となり日
本海軍が大勝した。
◇
◇
◇
大船越、小船越を経て和多都美神社、鰐浦に至る。
タゴの自生地で、五月の連休の頃には真っ白に降雪を思わせ
るように咲くという。時期を外れた訪問者のための写真が展
り、鮎もどし自然公園、厳原武家屋敷を観て、厳原での宿は
◇
◇
◇
二十九日︵日︶。午前中、宗家廟所万松院、厳原町郷土資
になる。夕食は前夜につづく歓待を受ける。
清陽氏が経営し拓さんが支配人を務めるホテル柿谷でお世話
望台に掲出されている。
対馬と韓国は目と鼻の先、対岸が気になるのであろう、島
の方々に見晴らし台がある。島の人は外来者のもてなしに韓
国を観せようと案内する。昨日はよく見えたが今日はどうか
な、明日またきてみましょう、というぐあいである。私たち
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料館・対馬民俗資料館を観て空港へ。
保坂正康著
﹃きけわだつみのこえ﹄の戦後史
二一
上坂冬子著
汪兆銘の真実
我は苦難の道を行く
上・下
海幸の朝な夕なにみちたりて
浦島のごとく三日を遊びき
上坂冬子著
汪兆銘の真実
﹁我は苦難の道を行く﹂上・下
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再び来て海照らし咲くはるはなの
ヒトツバタゴをわれは見むとす
十月十五日に、講談社から上巻・下巻が同時に発行された。
上巻の帯には、
す
最中、日中両国の平和を希求し﹁一面抵抗、一面交渉﹂
、
﹁日
私が汪兆銘の名を知るのは、中国河北省天津市にあった、
天津大和日本小学校の二年生の頃である。当時は日中戦争の
とある。汪兆銘の名にひかれてこの本を購読した。
◇
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◇
た真実を明らかにした、取材十六年の書き下ろし!
人の子供たちは世界各地に離散!五十年間封印されてい
たちは処刑され、汪兆銘の妻は自ら獄死し、残された五
言!志半ばで日本で病死した汪兆銘。日本の敗戦で腹心
とあり、下巻の帯には、
裏 切 り と 陰 謀、 革 命 と 反 革 命! 生 存 す る 遺 児 た ち が 証
先を駆けた文人政治家のロマン!渾身の書き下ろし!
命の父・孫文の第一の後継者にして、蒋介石・毛沢東の
貼られ、中国革命の歴史から抹殺された汪兆銘。中国革
五十年の沈黙を破って語られた 二つの中国の悲劇、日
本の汚点﹁親日・反共﹂ゆえに﹁売国奴﹂のレッテルを
対馬を去るにあたっての学長の歌。私たちの想いも全く同
じ。
貞美先生の歌二首
対馬嶺の茂り生ひたけふかぶかと
谷々こもるこの見晴らしは
こもごもに思ひなごしく韓くにの
望まるといふめがねをのぞく
び
千勝先生の歌二首
掘り割りし瀬戸に湛ふる潮のいろ
あお
こころに沁みく碧深めつつ
︵万関橋︶
え
わだつみの宮の干潟は恵比須神
しず
いつく三本鳥居立ちて寂けし
︵和多都美神社︶
︵平成十一年十一月︶
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中、 裸 で 抱 き 合 う べ し ﹂ と の 考 え で、 誠 心 誠 意 日 本 と の 和
平に生きた中国人政治家が汪兆銘であった。そして、夫を助
尽くす人柄が十分以上に分かった。
著 者 上 坂 冬 子 氏 は こ の 本 で 繰 り 返 し 述 べ て い る。 誠 意 を
尽くし日本との和平を望んで、愛国心を生涯かけて貫いた人
この時から私は胡先生を師と敬したが今は故人となった。
◇
◇
◇
を、なぜ中国の人は﹁漢奸・売国奴﹂と呼ぶのかと。蒋介石
け共に政治活動をしたのが妻の陳璧君、中国では結婚しても
を取り巻く人々がいて、その中のひとりにいささかの因縁が
が日本との対戦の姿勢をくずさず、汪兆銘が現実問題として
女性は父親の姓を名乗り、名は変わらない。さらにこの二人
あった。そのことは、この連載﹁無涯談諧﹂①を掲載した校
てなかったのかと残念に想う。一度手にした政治権力を守ろ
私も日本の敗戦時に、恨みに報いるに徳を以てせよと説い
た蒋介石が、かつての同志である汪兆銘に、なぜ広い心をも
めたとすれば、どちらも愛国者にちがいないと。
これ以上民衆を戦火の中で犠牲にできないと考えて和平を求
報第四○九号︵平成九年五月三十一日発行︶で、触れた。
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◇
いうべき人に会った。この人は、日中戦争の時の親日政権で
私 が ち ょ う ど 四 十 歳 に な っ た 時、 胡 蘭 成 と い う 中 国 人 の
思想家であり書家としても著名で、祖国愛に燃えた国士とも
あった南京政府の要人で、三十余歳で法制局長官の職に就い
うとするとき、人間は権謀術数を弄するものなのか。
◇
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◇
保坂正康著
﹃きけわだつみのこえ﹄の戦後史
た人であったが、後に日本に亡命したのだった。
﹁ な ぜ 先 生 は、 日 中 戦 争 の 時 に 南 京 政 府 に 係
私は初めに、
わ っ た の で す か ﹂ と 問 う た。 胡 先 生 は、
﹁戦争のゆくへがど
う展開するかわからなかった当時、日本軍の勢いはとどまる
が編み、昭和二十四年十月に東大協同組合出版部から刊行さ
﹃きけわだつみのこえ﹄戦没学徒の静かな叫びを次代にど
う伝えるか
﹃きけわだつみのこえ﹄は、日中戦争・太平洋戦争で若く
して散った学徒兵の遺書を、
﹁日本戦没学生手記編集委員会﹂
十一月二十日に文芸春秋社発行。この本の帯には、
遺族の手から奪い取られ﹁政治の道具﹂となり果てた
要とする心情を聞き、同志として望まれていることに人の世
れて、時代の共感を得て爆発的に売れた本である。その後も
ことを知らない情勢にあり、その支配下にあった中国国民半
の 定 め を 強 く 感 じ て、 熟 慮 の 末 に 汪 首 席 と 行 動 を 共 に し た ﹂
版元を変えて発刊されてきたが変わらぬ売れ行きを示してい
数のことを想い、敢えて己れの名利を捨てて蒋介石と袂を分
とのこと。その後の情勢の変転から亡命に至る経緯を誠実に
だが、汪夫人から再度盟主汪兆銘の決意と、自分の助力を必
かとうとする敬愛する汪兆銘の誘いを受け、一度は断ったの
語ってくださった。私には胡先生の情熱漲る人柄と、誠意を
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結論づけて、従容と死に赴いたということである。その部分
文社版、岩波文庫光文社版、岩波文庫版︶は、戦後日本の文
めている。あとがきで、
﹃きけわだつみのこえ﹄
︵東大版、光
著者はこの本を初めて目にしてから、四十年にわたる後追
い調査で、時代の流れとこの本との係わりを戦後史として纏
と私は想う。
づけてくれて、戦後の復興や経済発展の原動力となったのだ
んでくれたという想いが、生き残った肉親や学友たちを勇気
者は浮かばれないのではないか。彼らが自分たちのために死
たままに死んだと遺された者たちが想っているとしたら、死
る。
化的遺産である。この書がこれまでに三百万部も売れた事実
を削除して、ひたすら私情にこだわりながら、情義に流され
がそれを裏づけている、といっている。私もそのように思う。
合ったかを知ることを通じて、私たちは実に多くの教訓を得
◇
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◇
昭和という時代に日中戦争や太平洋戦争で戦場に赴くこと
を余儀なくされた学徒兵たちが、︿死﹀とどのように向かい
だと私は想う。
世界中から讃えられる日本とすることが彼らの死に報いる道
ないはずである。私たちはその反省の上に精神文化の面でも
彼らの声をそのように聞いていれば、戦後の日本人はもっ
と誇り高く生きられ、少なくとも彼らの死を犬死などと想わ
てきた。知性が、ある状況下でどのように封殺されるかを見
今からでも、彼ら戦没学徒の遺した言葉のままに、正真正
銘の﹃きけわだつみのこえ﹄の完本を読みたい。そして、誰
ることで、戦争の愚かしさを肌身にしみるほど感じることが
できた。この言葉もうなずける。しかし、時代の制約︵占領
にも左右されない形での彼らとの対話を私はしたいと想う。
この本で分かったことは、この時代を生きた学徒たちが、
志 半 ば で 死 を 迎 え る こ と に 万 感 の 想 い を 述 べ た 後 に、 自 分
観たいと思っていて、土牛展の最終日の一月十六日︵日︶に
本橋高島屋での﹁河合寛次郎と棟方志功展﹂であった。ぜひ
た展覧会
昨年から今年の年末年始に、会期がまたがってとい
ぎゅう
が二つあった。東京日本橋三越本店での﹁奥村土牛展﹂と日
二二
﹁奥村土牛展﹂と
﹁河合寛次郎と棟方志功展﹂を観る
︵平成十一年十二月︶
下、連合国軍最高司令部GHQ の検閲を予想しての編集︶に
よる削除などがあったことは仕方のない事実であっただろう
が、遺書を編集委員たちのイデオロギーに合わせて削除し編
集したということは、戦没学徒兵の遺志に反する内容に改竄
したことで、これは肯定できない。
たちの死が後に遺る父母や兄弟姉妹たちのための死であるこ
◇
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◇
と、それが国のためであることを想って、大義に死ぬことと
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東京に出掛けた。
併せて鑑賞した。
明治二十二︵一八八九︶年二月に東京京橋に生まれたが、
虚弱で家にいて絵を描く少年であった。十六歳で梶田半古に
奥村土牛は、平成二︵一九九○︶年九月に百一歳で逝去し
た長命の日本美術院︵院展︶所属の日本画家であった。
たことで、﹁ものの観かた﹂を教えられたことによる。昭和
宗悦・濱田庄司・河合寛次郎らを中心とする民芸運動を知っ
庄 司 師 で あ る。 晩 年 の 濱 田 師 と 知 己 と な っ た 私 は、 こ の 人
河 合 寛 次 郎︵ 一 八 九 ○ | 一 九 六 六 ︶ と 棟 方 志 功︵ 一 九 ○
三|七五︶
、 二 人 の 名 で 思 い 出 さ れ る の は、 益 子 の 陶 匠 濱 田
師事し、半古の没後は兄弟子の小林古径に厳しく指導されて
四 十 四、五 年 頃 の こ と で あ っ た が、 そ れ か ら の 私 の 人 生 に、
﹁奥村土牛展﹂
研鑽し、堅実に才能を開花させて三十八歳で院展に初入選、
多くの潤いと楽しみが与えられることになったのである。寛
日﹂等の作品もあって、的確で軽妙な筆致による鋭い自然描
この展覧会での展示作品は約七十点で、以前にも何度か目
にしたことのある代表作﹁醍醐の桜﹂や﹁鳴門の渦潮﹂
、
﹁遅
その存在は名実ともに日本画壇の精神的支柱となっていた。
会員となり、昭和三十七年七十三歳で文化勲章を受賞した。
る代表作を発表し続け、昭和二十二年五十八歳で日本芸術院
かった。優れた気品ある形と色が、中国の古官窯の作品や朝
彗星﹂﹁窯業界の麒麟児﹂と騒がれたということの所以が分
まだ若い時の作品が展示されているのを観て、当時﹁陶界の
導を受けた後、濱田とともに過ごした京都窯業試験所時代の
あったことをこの展覧会で知った。それ以前に、東京蔵前高
るが、それらは民芸運動に携わるようになってからの作品で
京都市東山区五条坂鐘鋳町に住んで﹁鐘渓窯﹂を営んだ陶
匠河合寛次郎の作品といえば、重厚な形と色彩が印象的であ
むねよし
写と、簡潔で硬質な叙情を表現している奥村芸術の真髄を表
鮮の李朝の白磁や青磁に匹敵する作品となっていて、すでに
しょうけい
を 人 生 の 師 の 一 人 と し て 仰 い で い る。 そ れ は 師 を 通 し て 柳
以来院展一筋に歩み、四十三歳で日本美術院同人に推挙され
次郎・志功の名を知ったのもその頃である。
こ け い
た。以後はまさに雅号﹁土牛﹂の由来となった﹁土牛石田を
していた。画家については多くのことが語られ、晩年には家
完成された一級の陶匠であったことを知って驚かされた。
耕す﹂の詩句の通りに、粘りと奮闘とによって日本画史を飾
族の深い愛情に包まれながら作品発表がなされていた様子を
ゴッホになる﹂といって上京、苦労の末に帝展入選を果たし
棟方志功は、青森市に鍛冶職の子として生まれ、小学生の
頃から独自の絵を描き続けるうちにゴッホに憧れ、
﹁わだは
等工業学校︵現東京工業大学︶で濱田らと学び板谷波山の指
は ざ ん
テレビで観ていたが、その人柄が偲ばれる作品の一点一点が
画を観る者の目を楽しませてくれた。
﹁河合寛次郎と棟方志功展﹂
この日、日本橋高島屋での﹁河合寛次郎と棟方志功展﹂も
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を 志 す こ と に な っ た。 そ し て 、 国 画 展 に 出 品 し た ︿ 瓔 珞 譜 ・
のように観る者を圧倒し、限りなく広がる美の世界を旅する
展覧会場いっぱいに展示されていた二人の作品は、河合と
棟方の個性と個性、力と力がぶつかり合って火花を散らすか
たのだが、川上澄生の版画︿初夏の風﹀を観て感動し版画家
大和し美し版画巻﹀が契機となって柳・濱田・河合らの知遇
喜びを十分に味あわせてくれた。
がら帰路についたのであった。
に 結 実 し た の で あ っ た。 美 の 世 界 に 生 き る 二 人 で あ っ た が 、
チア・ビエンナーレ国際美術展で大賞を受賞するということ
十大弟子﹀︿湧然する女者達々﹀
︿柳緑花紅頌﹀などでヴェネ
エンナーレ国際工芸展でグランプリを受賞し、棟方は︿釈迦
た。その結果は、河合は︿白地草花絵扁壷﹀でミラノ・トリ
にも棟方の我武者羅とも言うべき力を呼び込んだのであっ
B球友会が一つになって、甲子園出場後援会を組織して募金
心両面からの応援に加えて、全校父母会・同窓会・野球部O
た。このことに対して、従来の県・市・関係団体・個人の物
たな野球部の歴史を築こうとの意欲を漲らせての出場であっ
での選抜大会出場であったので、二回戦突破を果たして、新
あったが、今回は昨秋の県大会優勝、関東大会準優勝の戦績
校 野 球 部 は 三 年 ぶ り、 夏 一 回 春 三 回 目 の 甲 子 園 大 会 出 場 で
今春の第七十二回選抜高等学校野球大会は、三月二十五日
から四月四日までの十一日間、甲子園球場で行なわれた。本
二三
全国ベスト4
野球部の快挙を讃える
春の選抜大会で準決勝に進出
︵平成十二年二月︶
二つの展覧会が予期に違わぬものであったことに、言い知
れぬ喜びを感じながら、いいものを観た満足感に満たされな
見事さを、作品を通して知らされ、示された展覧会であった。
そして、人と人との交わりは二人のようでありたいものと
思わせられた。お互いに啓蒙し合い、影響し合ったその結果の
を得るのだが、それまでの棟方は﹁野に生きる一匹狼﹂であ
り﹁野生児・棟方﹂であったものが、三人との交わり、なか
でも特に河合に励まされたことによってそれ以後の作品が大
きく開花するのである。
﹁受け取り方の名人﹂といわれ﹁仕事が暮
二人の交流は、
らし、暮らしが仕事﹂であった真摯な生き方をした河合の影
響を真っ向から受けて、その制作活動に爆発的な創造力を開
花させた棟方と、棟方が作品を生み出すエネルギーに触発さ
れるかのように歳を重ねるごとに旺盛な制作意欲を発揮して
いく河合という形で、共に創作活動に励んだのであった。河
合は棟方を評して、
﹁さらけ出された本能、曇りなき叡智と
畏るべきものを有つ人。人がかつて山野を駆け回っていた時
陶芸と板画︵棟方は自分の版画をこういった︶という別々な
の荒々しい魂を呼び返す人﹂だといって棟方を励まし、自分
分野で、時代を代表する作家となったのである。
Ƚ
ȽȁijĸȁȽ
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ば、大活躍を期待するというほどではなかった。特に目立っ
本校野球部は大会初日、開会式につづく第一試合を優勝候
補 と 見 ら れ て い た 近 畿 大 会 優 勝 の 兵 庫 県 育 英 高 校 と 対 戦 し、
まで登るとは、応援していた多くの人々、関係者ですら予想
力なチームとは思えなかった。その後勝ち進んでベスト4に
人で前半と後半を投げ分けるということだから、投打とも強
活動をしてくださった。有り難いことであった。
見事にこれを十対六で破り、三十日の二回戦を九州代表熊本
た強打者がいるでもなく、ピッチャーは大川君と増茂君の二
県の九州学院に九回表に大逆転し六対五で勝ち、四月二日の
もしなかったことかも知れない。
投げて、打って、捕るという単純な組合せを、情況と心理
と技法を的確に読み選ぶという監督の采配で組み上げた、素
勝利した。
し、優勝候補の一校に挙げられていた兵庫の育英高校に見事
て初回で三点を奪った。意表を衝く攻撃で初期の心理戦を制
最初の試合は開会式直後におこなわれ、先頭バッター柄目
君が、まさかのセーフティバントを成功させ、長短打を連ね
○
三回戦では東北代表福島商業高校を三対一で破り、四日の準
決勝に進出した。惜しくも智弁和歌山高校に二対十で破れは
したが國學院栃木の完全燃焼・全員野球を強く印象付けて、
全国大会ベスト4に輝いたのであった。
時 は、 あ た か も 学 園 創 立 四 十 年、 本 校 創 立 四 十 周 年 の 記
念の年の劈頭を飾る快挙となった。甲子園球場から全国にテ
レビを通じて三度流れた本校校歌は、國學院大學の校歌であ
る。栃木県民・栃木市民や多くの学園関係者だけでなく、全
国の國學院大學の卒業生が喜んでくださった。
人目にも素晴らしいゲームであった。そして、選手達の明る
た。ワンチャンス四点を取っての逆転は無理。シーズンオフ
二 戦 目 は、 離 島︵ 隠 岐 ︶ 航 路 の 船 中 の テ レ ビ で 運 良 く 見
ることができた。二対一で追われていた八回裏、不安が現実
い笑顔が印象的であった。
○
のガランとした船内に、いつの間にか集まった船の乗務員た
そ の 一 例 が、 神 社 新 報 第 二 五 五 一 号 ︵ 四 月 二 十 四 日 発 行 ︶
の﹁主張﹂欄に掲載された國學院大學の茂木栄氏の﹁あきら
﹃あきらめないことの大切さを学んだ。春の選抜高校野球、
國學院大學栃木高校の甲子園での二回戦のこと。奇跡としか
めないことの大切さ﹂と題する寄稿文である。
言 い よ う の な い 九 回 の 大 逆 転 劇、 こ ん な こ と も あ る の か と 、
ちも﹁もうだめだね﹂などと言いながら、持ち場に帰ってい
ていたのである。
く。不思議なことに乗務員たちは皆、國大栃木高の応援をし
となり九州学院に四点も入れられてしまい、終わったと思っ
信じられない思いで呆然としてしまった。
もちろん、國學院大學で禄を食む者として、同校の甲子園
出場を喜び、試合を楽しみにしていた。しかし、正直に言え
Ƚ
ȽȁijĹȁȽ
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○
興奮の余韻を残しながら再び持ち場に戻っていった。
歴史学者たちにフランス革命にも比肩しうる民衆運動と評価
国隠岐の自治政府を樹立するという歴史を有する小国。後に
願運動から倒幕運動に発展し、松江藩の代官を追い出し、神
も、どんなに頑張っても奇跡は起きない。しかし、大袈裟に
で言えることである。しかし、ほとんどの場合、諦めなくて
て し ま う。 教 育 で も、 仕 事 で も、 人 生 で も、 す べ て の 場 面
こんな鮮やかな教育があるだろうか、逆転されても諦めな
ければ、時として奇跡は起きる。諦めた時点で試合は終わっ
○
されるのだが、二カ月足らずで自治体制はつぶされてしまっ
言えば、万分の一の確率で、諦めなければ奇跡が起こり得る
隠岐は神社崇敬の熱い処。幕末には隠岐島出身の国学者、
神職、知識層の影響と指導のもと尊皇攘夷、文武館設置の嘆
たが、その運動の中心に隠岐一宮や隠岐総社の神職たちがい
ことを、高校生のみならず、この試合を見ていた多くの日本
道に近しい気持ちを持つ多くの人々が、テレビの前で同じよ
と桜が散る頃になって理解できるようになった。
たのか。筆者にはこの絶妙な結果こそ、神慮が働いた証拠だ
それにしてもなぜ國大栃木高校に奇跡が起きたのか、神慮
だという声も船の中で聞いたが、ではなぜ決勝に進めなかっ
人が学んだのである。たかが高校野球と言うなかれ!
たのである。
うに応援し、落胆しているに違いないなどと思いを巡らせて
隠 岐 の 人 々 の 神 社 に 寄 せ る 信 頼 が、 國 大 栃 木 高 の 応 援 と
いう形になっているのだろうか、とすると、全国で神社や神
いるうちに、九回表も一死無走者になってしまった。次の高
橋君は左翼に浅いフライを打ち上げて、もう終わりかと思っ
茂木氏の文を感銘深く読んだ。高校生らしく、文に勤しみ
武に励み、グランドに草一本生やさない日頃の野球部員の精
○
進に、神慮は表れた。しかし、何時もというわけにはいかな
國學院大學栃木高校の野球部監督、選手、関係の方々、諦
めないことの大切さを教えてくださり、ありがとう。
﹄
唾を呑んでいる。清水君、関口君が連打して同点。喚声が挙
いだろう。蒙古襲来の文永・弘安の役、元寇の時に神風は吹
たとたん、左翼手の落球で出塁。続いてファールフライを相
がった。筆者は大声を出すのが恥ずかしかったので、感激し
手の落球で救われた増茂君が、イレギュラーバウンドのヒッ
ながら﹁奇跡だ﹂と呟き、意味もなく打者名をノートにメモ
いたが、その後は吹かない。真剣に、地味に、人一倍の努力
ト。振り返れば乗客も乗務員たちもテレビの前に集まって固
した。後の方から、
﹁奇跡だ﹂﹁すごい﹂という声が口々に沸
を重ねていると、時として神慮は表れるということか。
︵平成十二年五月︶
き上がった。結局柄目君がタイムリーを放ち大逆転、九回裏
を守り切って勝利を掴んだ。勝利を見届けると乗務員たちは
Ƚ
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要国首脳会議︵サミット︶の開催地・沖縄県の青い海と白い
砂浜をイメージした装飾が施され、正面に故小淵前首相の遺
影が置かれた。
故小淵恵三前首相は、総理大臣就任中の今年四月一日に脳
梗塞で倒れ、四十三日間の治療の甲斐もなく、
﹁当日であっ
のがあなただった。志半ばで不意の病に倒れ、成果を見られ
本 の 現 状 と 未 来 を 憂 い、 身 命 を 賭 し て 難 局 に 立 ち 向 か っ た
二四
国益に尽くす総理大臣への敬意を
故小淵恵三前首相の葬儀に想う
た か 前 日 か ら で あ っ た か、 だ ん だ ん と 血 圧 が 下 が っ て 五 月
なかったことは無念であったろう。あなたに沖縄サミットの
葬 儀 は、 一 分 間 の 黙 祷 の 後、 生 前 の 前 首 相 の 姿 を 収 め た
ビデオが映し出され、森首相は追悼の辞で、﹁だれよりも日
十四日の午後四時七分に﹂逝去されたと、千鶴子夫人は文芸
議長として采配を振るっていただきたかった。誠に無念の極
リントンアメリカ大統領・金大中韓国大統領ら各国元首・要
者は、皇太子・同妃殿下並びに皇室関係者、首相経験者、ク
て森喜朗内閣総理大臣が葬儀委員長を務めて営まれた。参列
と、なぜ日本国民は普段首相や政府要人たちに敬意を払わな
されるに値する国なのだということである。そのことを想う
中の国から国家元首や要人が弔問に訪れるほどの、礼を尽く
テ レ ビ の 映 像 を 視 な が ら、 小 淵 前 首 相 の 人 柄 を 偲 ぶ と と
もに、日本の国の力を想った。日本は前首相の葬儀に、世界
み﹂と述べた。
春秋七月号掲載の手記に書いている。
人ら八十三ヵ国・三地域・二十二機関から派遣された弔問特
意をはらわないのは、失礼だと思う。
いのだろうか訝しく思う。自国民が国政に携わる人びとに敬
小 淵 前 首 相 の 葬 儀 は、 六 月 八 日 午 後 二 時 か ら 東 京 都 千 代
田 区 北 の 丸 公 園 の 日 本 武 道 館 で、 内 閣・ 自 民 党 合 同 葬 と し
使、在京大使らを含めると一五三ヵ国からの弔問をはじめ、
合同葬に先立ち、長男剛氏に抱かれた遺骨は午後一時二十
分頃、喪主の千鶴子夫人とともに東京都北区王子の私邸を出
か、私には不思議でなりません。
﹂と記しておられる。
﹁総理
に過ぎないものもあり、どうしてそんなものが誌面を飾るの
方的な報道の内容が伝わってきました。なかには無責任な噂
﹁いま主人を看取って、一つだ
千 鶴 子 夫 人 は 文 芸 春 秋 で、
け気にかかっているのは、マスコミの報道です。入院中、看
いぶか
衆参両議院議長ら各界の代表六千人が参列した。献花に訪れ
た一般弔問者も千八百人が故人の冥福を祈ったと、テレビ・
発し、首相官邸、国会、自民党本部を巡り、武道館に到着。
になって一年八ヵ月で、主人の体重は六キロ落ちました。特
新聞は報じていた。
陸 上 自 衛 隊 の 弔 砲 十 九 発 が 轟 く 中、 森 葬 儀 委 員 長 ら が 出 迎
病に専心している私たちの耳にも、事実とまったく反する一
え、式場に安置された。式場は、前首相が出席を念願した主
Ƚ
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広もだんだん詰めていきました。文字通り、身を削るような
て、出来るだけ新しいものを着せるようにしていました。背
に今年の初めからワイシャツの首回りがブカブカになってき
神経をすり減らしたと思います。総理になってからも、冷め
のグラフを出したり、主人は何も言いませんでしたが、相当
れたり、候補者を並べておいて、テレビ画面の隅に人気投票
味だとか、眼鏡が似合わないといった外見上のことで揶揄さ
したり、ミサイルが飛んできたりもしましたし、金融問題で
中に何があるかわかりませんから。北朝鮮の船が領海侵犯を
のですが、公邸に戻ってもワイシャツを脱げないのです。夜
﹁八月に公邸に引っ越しして、総理としての生活が始まった
シングするのか訝しく思ったこともあります。
﹂
たピザ、凡人などなど、どうしてマスコミは主人ばかりバッ
毎日だったと思います。
今から振り返ると、総理になる直前から、すごく厳しい日
程が連なり、息をつく間もなく、ここまで来たという感じが
します。
平 成 十 年 七 月、 外 務 大 臣 と し て の 最 後 の 仕 事 で、 ブ ラ ジ
ルへ建国九十周年の式典に行ったのですが、このときのスケ
ジュールは一泊五日でした。
たサントスで、日本移民の銅像の除幕式に出席して、終わっ
日 も ま た 式 典。 日 本 か ら の 移 民 船、 さ く ら 丸 が 初 め て 着 い
典に出席しました。ホテルに泊まったのはその晩だけで、翌
外に方法があるのだろうか。総理として国政に尽くして殉じ
列できない自国民が、前首相に弔意を表すとしたら、これ以
るが、外国の要人多数の参列を得ておこなわれる葬儀に、参
に言えば、国旗を半旗にして掲げたことに異を唱える人もい
国政を総理する人は、これほどに多忙を極めている。
小淵さんが病気をし、亡くなってはじめてその人柄の真実
が伝わってくるというのでは、国民としても情けない。さら
国会が夜中まで続いた時期もありました。﹂
たのが夜の八時か九時です。そして、十時ごろの飛行機に乗
たに等しい人への国民の当然の礼儀であると思うがどうだろ
まずニューヨークまで十四時間、朝に着いて、夕方まで国
連 の 仕 事 を し ま す。 そ の 夜 に は 飛 行 機 で サ ン パ ウ ロ に 発 つ 。
り、ニューヨーク経由で帰ってきました。
﹂
サンパウロに着くと、朝になっていて、一日中、何ヵ所も式
﹁ 日 本 に 帰 っ て き ま し た ら、 す ぐ に 参 議 院 の 選 挙、 今 度 は
うか。
それがどうだろうか、日本のマスコミは、事毎に国の代表
い出す。そうだと今でも私は想っている。
私が若いときに、著名な作家が﹁一国の総理には、その時
の最も国への想いの深い人がなるものだ﹂といった言葉を思
日本中を駆け回りました。この選挙で自民党は敗れて、総裁
選に出馬することになったのです。やむを得ないことかもし
れませんが、夜中までテレビに引っ張り回されました。その
上、このときの総裁選に限って、何かゲームのような、候補
者をオモチャにするようなこともありました。ネクタイが地
Ƚ
ȽȁĴIJȁȽ
Ƚ
うことが民主主義ではあるまい。日本のマスコミも野党も無
は思えない。国益が守れるとも思えない。無責任にものを言
ばかりさせられる。こんなことで国際的な信用が得られると
かりしている。そんなだから経済援助をいくらしても、謝罪
に直接の責任をもたない野党も、詭弁を弄して国政の邪魔ば
情を、﹁なんとお粗末な国﹂と他国の人は思うだろう。政治
者を蔑み、からかいの対象にしている。そのような日本の国
望む教育の方向に逆行することが正義だとする教師もいる。
児童や生徒に押しつけ、さらに彼らを扇動して国家・社会の
人間形成の途中にあって、ものごとの判断基準が十分でない
教師が、教育現場での問題の解決も十分にできていないの
に、独善的な時代遅れの思想、組合運動のイデオロギーを、
級崩壊﹄や﹃いじめ﹄
、少年の非行問題があとを絶たない。
学問をして自分の身がおさまれば、自然に同志、共鳴者もで
◇
︿朋遠方より来たるあり、亦た楽しからずや。
﹀
いことではないか。
学んだものが真のわが知識となって身につく。なんと悦ばし
して、学んだことを機会あるごとに復習し練習すれば、その
論語最初の一章。
﹁子﹂は先生の意味で孔子を指す。学問を
◇
︿子曰く、学びて時に之れを習う、亦た説ばしからずや。
﹀
ず教えられ、次に人間としての徳を養うことを教えられた。
漢文を習ったが、始めに学習者のこころのもち方、姿勢を先
経から引いてみた。私の世代では、中学校の一年生になると
の聖人、孔子︵西紀前五五二ー四七九年︶の教えを論語・孝
このような世相のなかで、せめて本校の生徒には正しい人
間の道を歩んでほしいと思って、二五○○年前に生きた中国
とのこころを安心させてくれない。
どこもかしこもよくない時代である。そんな風潮だから悪
いことのしほうだい、凶悪な犯罪がつぎつぎに起こって、ひ
駄口を叩かず、実のあることを責任をもって言い、国民を啓
蒙してほしい。まずは私情を離れ、公の精神を尊重し、国益
を第一に考え、自分たちの国の代表者に敬意を払い、政治を
しやすくすべきである。
この機会に、世の中の仕組みを考え直し、若者に希望と誇
りのもてる国にすべきである。
︵平成十二年六月︶
二五
孔子の教えで徳性の涵養を
日本の世相の乱れはどうしたことか。戦後も五十年を過ぎ
て、世の中が平和で豊かになっているのに、世相は悪くなる
ばかりだ。
﹃ 衣 食 足 っ て 礼 節 を 知 る ﹄ と、 漢 文 の 授
む か し 私 た ち は、
業 で も 諺 で も 教 え ら れ た が、 い っ こ う に そ の 傾 向 は 表 れ な
い。政治の世界でも経済の世界でも、人びとのこころは乱れ
ている。せめて教育の世界はと思うのだが、ここもまた﹃学
Ƚ
ȽȁĴijȁȽ
Ƚ
きる。それらの人びとが遠方からやってくるとすれば、これ
にまこごころをつくして、それをしているだろうか。まこと
人のために考えてやり、相談にものる。だがその場合、本当
において欠けるところはなかったろうか。
はまた楽しいことではないか。
ことであり、まごころである。
﹁忠﹂は、口と心を一本につらぬいた形の文字、つまり、ま
人生は必ずしも順路のみではない。学問をして、たとえ自分
◇
︿朋友と交わりて信ならざるか。﹀
◇ いきどお
﹀
︿人知らずして慍らず、亦た君子ならずや。
が立派に行動していても、世間が全部これを認めるとは限ら
うな場合にも、もしその人が分を知り天命に安んじて、天を
うことだ。果たして自分は、その信義に不足するところはな
友だちとの交際で、根本的に大事なことは、信義を守るとい
ない。時には誤解し、曲解することもないではない。そのよ
も怨まず人をもとがめず、信じるところに向かって行動する
いだろうか。
◇
︿父母は唯だ其の疾を之れ憂う。﹀
とすれば、それこそまことに、盛徳の君子人といってよかろ
う。
親に心配をかけない。それが孝である。世の父も母も、いち
ばん心配するのは、わが子の病気。かりそめにも、自分の不
◇
︿本を務む。本立ちて道生ず。
﹀
人はすべて、なにごとについても、末梢のことや、形だけに
注意から病気なることがあってはならない。
らいただいた大切なもの。この身を大切にし、少しも傷つけ
われわれの体は、髪一筋、皮膚の一片にいたるまで、父母か
なり。
﹀
◇
︿身体髪膚之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始
根源となるものである。
親孝行は、すべての道徳の根本であり、同時にまた、教育の
◇
︿孝は徳の本なり。教えの由って生じる所なり。﹀
とらわれないで、根本の把握に努力すべきで、根本に務めれ
ば、あとは自然に道・方法はひらくもの。
◇
︿巧言令色は、鮮ないかな仁。
﹀
巧 言 も 令 色 も、 そ れ 自 身 必 ず し も 非 難 す べ き こ と で は な い 。
し か し、 口 に き れ い ご と を 並 べ、 容 貌、 態 度 を も の や わ ら
かく美しく見せることが主になると、その種の人には、とか
く、人間の根本の道である仁の心が薄くなりがちである。
◇
︿人の為に謀りて忠ならざるか。
﹀
Ƚ
ȽȁĴĴȁȽ
Ƚ
ないことが、親孝行の第一歩である。
あや
︿思いて学ばざれば則ち殆うし。
﹀
考える、思いつめる、それはよいこと。だがそれだけで、学
は孝の終わりなり。
﹀
学ぶことを怠った場合は、的のはずれた剛弓に矢をつがえて
ほしいことば。知識も視野も浅く狭い若者が、思いつめて、
ぶことがなかったら危険。これは、若い人びとの心にとめて
身 の 独 立 を 保 持 し、 道 を 行 な い、 名 を の ち の 世 に ま で 揚 げ
いるようなものだ。
◇
︿身を立て道を行い、名を後世に揚げて、以て父母を顕わす
て、父母の名を世に顕す。これは親孝行の終わりというべき
だ。
◇
︿義を見て為さざるは、勇なきなり﹀
こうするのが、人間として正しい道だと知りながら、自分の
利益のため、保身のために、あえてそうしない。それは勇気
◇
︿故きを温ねて新しきを知る。
﹀
何事にも、過去をたどり、それを十分に消化し、未来に対す
がない者だ。
なものだ。
徳を行なっているかぎり、人は決して孤立するものではな
い。必ず共鳴者が現われる。もし孤立しても、それは一時的
◇
となり
︿徳は孤ならず、必ず鄰あり﹀
る新しい思考、方法を見つけるべきだ。
き◇
︿君子は器ならず﹀
茶わんも器であり、土瓶も器である。とはいえ茶わんは茶わ
んの働きしかなく、土瓶は土瓶の働きしかもたない。立派な
人であるためには、そのように、器であってはならない。か
たよらず、全人的完成をめざすべきだ。
人はいろいろなことを学ぶ。とはいえ、それを深く思い、自
ま だ 子 ど も だ か ら と い っ て、 い つ ま で も 子 供 で い る こ と が
田と為る。﹀
◇
いずく
︿少年安んぞ長く少年たることを得んや。海波尚お変じて桑
分 自 身 に あ て は め、 時 世 に あ て は め て 考 え る こ と が な け れ
で き ょ う か。 世 の 中 は 変 化 す る。 き の う ま で 海 で あ っ た 場
◇
くら
︿学びて思わざれば則ち罔し。
﹀
ば、学んだこともぼんやりとして不安であり、確かな形をと
か。
所も、きょうは桑畠になってしまう移り変りもあるではない
◇
ることができず、真に身についた学問とはならない。
Ƚ
ȽȁĴĵȁȽ
Ƚ
レンツ海での演習中に、八月十二日午前八時五十分の交信を
ある。
し歳々年々人間は同じではない。歳とともに老いゆくもので
︿年年歳歳花相似たり
﹀
歳歳年年人同じからず。
来る年も来る年も花は同じうるわしさに咲いているが、しか
ア艦隊の捜索開始は半日遅れて、十三日午前五時前にようや
載 し た 四 基 の 魚 雷 が 爆 発 し た と い う が、 真 相 は 不 明。 ロ シ
水艦との衝突で、バランスを崩して急降下し海底に激突、搭
んだ。原因は、水深二十m の地点で、演習偵察中の外国の潜
に遭遇、水深一○八m の海底に艦首部が爆発で破壊されて沈
最後に消息を絶ち、約三時間後の午前十一時四十分頃に事故
また、朱熹は
◇
︿少年老い易く学成り難し一寸の光陰軽んずべからず。
﹀
アは﹁救出のための技術を全てもっている﹂と自力解決の姿
十五日、米英仏が乗員救出作戦への支援を申し出たが、ロシ
く﹁クルスク﹂を発見。事故の公式発表は十四日であった。
︵平成十二年七月︶
と言っている。
諸君、今を無駄に過ごすなかれ。
勢をとった。
自国の兵器の戦力を秘めた原潜であれば当然のことといえ
る。さらにまた、極限状態にあった乗員の最後の様子を、他
繰り返しながら、より高く、より深く、より長い時間をと望
人間が空を飛び、水に潜るということは大きな危険をとも
なうもの。しかし、人間はそれをする。何回もの試行錯誤を
チン露大統領も、一転して援助受け入れをクロエドフ海軍総
仰いだ。同日夕にクリントン米大統領と電話で会談したプー
のNATO参謀本部に駆け込み、英国とノルウェーに支援を
自の救出作業は難航を極め、十六日に海軍幹部がブリュセル
二六
ロシア原潜事故と佐久間勉艇長
んで今日の機械文明がある。その結果、さらに大きなものを
司令官に指示した。
国人に知られることの危惧もあっただろう。だがしかし、独
造り、さらに多くの人を乗せようとする。それを人間の福祉
イバー三人が水中ロボットを駆使して最後尾のハッチの開放
という。ノルウェーの潜水チームの救出作戦は二十一日にダ
いて信号を送る﹁音響信号﹂は十四日を最後に途絶えていた
十九日夜、英国潜航艇と専門家二十人、ノルウェーの民間
ダイバー十二人が現場海域に到着したが、乗員が船体をたた
のためにするよりも、新しい兵器開発のためにする。平和を
願い平穏を祈りながら、悲劇は繰り返される。
○
八月十四日、ロシア海軍の原子力潜水艦の事故が報じられ
た。
ロ シ ア 海 軍・ 北 方 艦 隊 の 原 子 力 潜 水 艦﹁ ク ル ス ク ﹂ が バ
Ƚ
ȽȁĴĶȁȽ
Ƚ
された。
いた第九区画を始め艦内全体に海水が入っていたことが確認
に成功したが、空気が残っているかもしれないと期待されて
くしましたが、艇はどうしても浮揚りません。そのうえ悪ガ
ず、部下に命じて応急の手段を取らせ、出来るかぎり力を尽
ちまち海底に沈みました。この時艇長佐久間勉は少しも騒が
べ、十六日にノルウェーや英国に救出支援を要請する以前か
は、﹁十四日の午後の段階で乗員全員が死亡していた﹂と述
乗員一一八名全員死亡ということが二十二日に報じら
れ た の だ が、 ロ シ ア 政 府 事 故 調 査 委 員 長 ク レ バ ノ フ 副 首 相
きつけました。
はいつて来るかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に遺言を書
した。そこで、海面から水をとほして司令塔の小さな覗穴に
やうになつたので、艇長はもうこれまでと最後の決心をしま
スがこもつて、呼吸が困難になり、どうすることも出来ない
ら救出は不可能と認識していたことを明らかにした。
遺書には、第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一
国際間でも同盟国の間では共同訓練が行なわれている。アジ
潜水艦が開発されて以来、事故は時として起こる。そのた
めの救難訓練がそれぞれの国で行なわれているだけでなく、
官・先輩・恩師の名を書連ねて告別の意を表し、最後に十二
す。 次 に 部 下 の 遺 族 が 困 ら ぬ や う に し て 下 さ い と 願 ひ、 上
に沈没の原因や沈んでからの様子をくはしく誌してありま
に潜水艇の発達の勢を挫くやうな事があつてはならぬと、特
同死ぬまでよく職務を守つたことを述べ、又この異変のため
ア海域では旧海軍以来の歴史と技術をもつ日本の海上自衛隊
○
の救難能力に期待が寄せられているというが、その通りだろ
時四十分と書いてあります。
各受持の仕事につとめた様子がまだありありと見えていまし
艇の引揚げられた時には、艇長以下十四人の乗員が最後まで
うと思う。
こ の 事 故 が 報 じ ら れ た と き に 私 は、 小 学 六 年 生 の と き に
修身の教科書にあった﹁佐久間艇長﹂のことを想った。尋常
○
明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜行の演習をするた
あった。
久間勉艇長と乗員の沈着な勇気と行動について述べた文章で
を争った様子が見て取れたという。その惨状を予想しながら
うな状況で、艇外への出入り口であるハッチを目指して、先
○
この当時、佐久間艇の事故が起こる少し前に、外国で同様
の事故が起きていた。その時の乗員の混乱ぶりは目を掩うよ
格言
人事ヲ尽シテ天命ヲ待ツ
た。遺書はその時艇長の上衣の中から出たのです。
め に 山 口 県 新 湊 沖 に 出 ま し た。 午 前 十 時、 演 習 を 始 め る と、
小学修身書巻六の第八課に、
﹁沈勇﹂という題で海軍大尉佐
間もなく艇に故障が生じて海水が侵入し、それがため艇はた
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それぞれが自己の職務を全うするために最後まで尽くした沈
事故の処理に当たった当時の海軍関係者は、艇長以下乗組員
である。
で改めて知らされた。台湾の前総統李登輝氏も、蔡氏もそう
と 思 う。 現 在、 平 和 を 謳 歌 し て い る 日 本 人 で あ る が 、 国 防 ・
も考えておくことは、人間の生きる姿勢として必要なことだ
難への覚悟をもつことも、そのときにとるべき行動について
の回りにも多くの事故が発生している。常日頃から不慮の災
佐久間艇の事故と乗員の行動は、悲劇に遭遇したときの人
間の覚悟と、行動の在り方を教えてくれている。私たちの身
で蔡氏を
〝老台北〟と呼んだ。北京に何代も住み、中国の上流
の真の友好のため東奔西走している。司馬氏は、﹃台湾紀行﹄
界での著名人。日本についで台湾と二つの祖国に生き、両国
る新竹工業団地内にある半導体のデザイン会社会長、台湾財
ギの養殖を手掛け、現在﹁台湾のシリコンバレー﹂と呼ばれ
師 と 定 め た が、 転 じ て 実 業 界 で 航 空 貨 物 の 取 り 扱 い、 ウ ナ
教育隊入校、終戦。翌年、台湾に帰国、第二の人生を体育教
着冷静な行動に、感動したという。
治安・消防・災害予防などを職務とする人びとも多い。当事
文化を身に着けている知識人〝老北京〟
をもじったもの。
蔡氏は、昭和二︵一九二七︶年台湾中部・清水生まれ、商
業学校卒業、二十︵一九四五︶年岐阜陸軍航空整備学校奈良
者はもちろんのこと、国民一般もそのことへの相応の認識と
米諸国のような植民地政策はとらなかった。台湾総督府を設
五十年間であるが、余分な富力を持たない当時の日本が、欧
○
日 本 の 台 湾 統 治 は、 日 清 戦 争 の 戦 後 賠 償 と し て 清 国 か ら
割譲された明治二十八︵一八九五︶年から昭和二十年までの
心掛けをもつことの必要性を強く思うのである。
︵平成十二年九月︶
二七 蔡焜燦 著
日本人よ胸を張りなさい
台湾人と日本精神
を任命したが、いかなる施政も受け容れなかった土匪や蕃地
置し、初代総督に樺山資紀、二代・桂太郎、三代・乃木希典
( いこんさん 著
) ﹁台湾人と日本精神・日本人よ
蔡焜燦 さ
胸を張りなさい﹂︵日本教文社発行︶を読み、涙が流れてし
た。乃木の時代、抵抗運動の平定に努める一方で、統治する
︵原住民を﹁蕃人﹂
、村を﹁蕃社﹂と呼んだ︶対策に明け暮れ
そ の 後、 四 代・ 児 玉 源 太 郎、 七 代・ 明 石 元 太 郎 な ど、 明
清廉潔白な人柄が統治の姿勢にも表れていた。
日本人官吏にも綱紀粛正が厳しく求められ、乃木の実直かつ
かたがなかった。元日本人である台湾人の、二つの祖国を想
○
う心に泣かされた。
台 湾 に は 元 日 本 人 と 称 す る 人 た ち が い る。 司 馬 遼 太 郎 著
﹃街道をゆく・台湾紀行﹄
︵朝日文庫︶で知ったが、蔡氏の本
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同様に、台湾の近代史は日本統治時代を抜きに語ることはで
整 備 さ れ た 産 業 基 盤 と 教 育 に あ る と い っ て も 過 言 で は な い。
後、台湾経済がこれほどに成長した秘密は、日本統治時代に
よう、貧しい家庭には金を与えてまで就学が奨励された。戦
伝染病が一掃された。あらゆる身分の人が教育を受けられる
東京よりも早く整備され、劣悪な衛生状態を改善することで
命に尽くした。台北の鉄筋コンクリート製下水道施設などは
人、台湾総督の任に就いた。そして彼らは台湾の近代化に懸
る国家へ創り上げた一流の人材、偉人たちが五十年間に十九
治維新を成し遂げ新生日本の門出に立ち、日本を世界に冠た
人生こそが上なり﹂の言葉を遺している。
藤は、﹁金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す
である。後藤新平が﹁台湾近代化の父﹂といわれる所以。後
し、主産業として戦後も二十年間は台湾経済を支え続けたの
製糖業殖産に全力を傾けた。その結果、砂糖の生産量は急増
総督府技師となり、サトウキビの品種改良を行ない、台湾の
た。五千円札の肖像となっている新渡戸稲造は後藤の推薦で
産業基盤が整備されると、製糖業をはじめとする産業が育っ
貫鉄道︵基隆ー台北ー高雄︶の着工、高雄・基隆の築港など
し、近代化整備が急速に進められた。幅の広い道路や南北縦
きない。台湾も内地と同じ皇国と皇国の民という統治理念で
などのインフラ整備をし、衛生環境と医療の大改善など数々
規模な土地・人口調査を実施の上、道路・鉄道・水道・港湾
裁、 外 務 大 臣、 東 京 市 長 を 歴 任 し た 後 藤 新 平。 後 藤 は、 大
○
明治三十一︵一八九八︶年、四代総督児玉源太郎を補佐し
た民政長官は医学博士で後の逓信大臣、内務大臣兼鉄道院総
で、日本統治時代の教育の成果である。台湾をこんなにして
﹁日本精神﹂といえば﹁勤勉で正直で約束を守る﹂ということ
勅語に規範をおく道徳が台湾人の心となっていること。いま
教 師 た ち の 教 育 へ の 情 熱 と 教 え 子 た ち へ の 深 い 愛 情、 教 育
土に眠っている。中でも輝かしい業績は、献身的な警察官、
他の事業に着手し、司法制度や教育改革に取り組み、台湾の
あった。
の 大 事 業 を 成 し 遂 げ た。 そ の 結 果、 世 界 有 数 の 伝 染 病 根 源
くれた日本が、なぜ台湾を捨てたのかという嘆きもある。戦
○
烏山頭に大規模ダムを造り、嘉南平野を緑の大地に変えた
八田與一。日露戦争時に欧州各地でレーニンら革命運動家と
地だった台湾からマラリア、ペスト、あらゆる伝染病が消え
接触、後方撹乱に活躍した明石元二郎が、日月潭の水力発電
た。
このような大規模事業を行なうには莫大な資金が必要だっ
た。 年 間 の 国 家 予 算 二 億 二 千 万 円 に 対 し て、 台 湾 開 拓・ 整
の拠点とし、権力で人権を無視した支配の歴史が悲惨であっ
戦で行き場をなくした中華民国政府と軍が、台湾を大陸反攻
後、為政者よりも民度の高い人民と成っていたこと。中国内
備予算六千万円を要求、児玉・後藤の熱意で四千万円を獲得
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た。
○
中国海軍の制海空権内に覆われ、日本経済は大混乱に陥る。
本の安全保障は危機にさらされる。日本のオイル・ロードは
い。万一、台湾が中国に軍事占領される事態が生じたら、日
放棄しない。しかし、この問題は日本にとって他人事ではな
の領土だと主張して譲る気配はなく、
﹁台湾の武力解放﹂を
放棄したが、大陸の中国は統治したことのない台湾を、自国
る こ と を 予 測 し た。 李 前 総 統 は、 非 現 実 的 な 領 土 の 主 張 を
司馬氏は﹃台湾紀行﹄で、いつの日か中華民国という空想
の国家が無理なく消えて、
〝台湾〟
という現実の国家が誕生す
いまこそ学ぶべき正しい日本史がある。台湾に正しい歴史を
か、世界の平和構築の障害となっている。台湾には、日本が
自信喪失国にしている。それはアジアを不安定にするばかり
虚構が自信と誇りを奪い、日本を世界の期待に応えられない
ていくことだろう。ところが日本では、自虐的歴史観という
た。台湾でのこうした教育が、アジアの歴史観を大きく変え
よって、日本統治時代を正しく評価する歴史教育がはじまっ
導の反日教育が改められ、新しい歴史教科書﹃認識台湾﹄に
台湾こそ日本の隣人ではないのか。近年台湾では、国民党主
歴 史 問 題 を 振 り か ざ す 韓 国 だ け が 隣 人 で は な い。 親 日 国 家
い ま も 戦 前 の 台 湾 に 郷 愁 を 感 じ る 年 配 者、 日 本 フ ァ ン の
若 者 が 日 本 を 愛 し 続 け て い る。 反 日 的 な 中 国 や、 な に か と
台湾の周辺海域は日本経済の動脈で、中国の出方で日本は干
学び、自信と誇りをとりもどしてほしい。誇りある日本が、
○
上がる。日本の政治家は、一部を除いて認識がなさすぎる。
︵平成十二年十一月︶
中心でなくてはならないが、部活動もまた重要な学校教育の
私は、学校での部活動・課外活動は、余暇の善用でなくて
はならないと思っている。学校での学びの中心は正課授業が
二八
部活動の在り方
﹁五郎忌﹂に恩師を偲びつつ
う。日本人よ胸を張りなさい。
アジア地域の安定と平和を担う真のリーダーとなることを願
中国への遠慮が自国を破滅させることに気づいてほしい。
愛 日 家 の 私 に は、 昨 今 の 日 本 の 対 外 政 策 が 不 甲 斐 な く 映
る。私は元日本人として、
﹁かつての祖国﹂日本よ永久に栄
えあれ、と願うがゆえに苦言を呈する。かつて半世紀の間、
歴 史 を 共 有 し た 台 湾 で、 い ま だ に﹁ 日 本 精 神 ﹂ が 勤 勉 で 正
直、約束を守るという善いことを表現する言葉として使われ
ている。日本の先人が叡知をしぼり、前近代的社会であった
台 湾 を 近 代 化 さ せ、 愛 を も っ て 民 衆 教 育 に 務 め た 成 果 で あ
ざすフイクションではない。台湾では日本語族の世代が、日
る。これは歴史の真実で、戦後日本の進歩的文化人が振りか
本統治時代の輝かしい歴史を孫子の代に語り継いでいる。
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一環である。本校の部活動のための環境は、他校に例を見な
○
かに重要であるかに留意して活動すること﹂と。
部活動の在り方はこの言葉に尽きると思う。
実習・実験室、体育施設としてのグランド・体育館、生徒会
二 月 十 七 日 は、 私 の 高 校 で の 恩 師、 渡 部 五 郎 先 生 の 命 日
で あ る。 先 生 は 昭 和 四 十 九 年 に 亡 く な ら れ た。 こ の 日 を 私
いような立派な施設・設備を持っている。特別教育館の各種
館の文化部部室・体育部部室、睦会館の四つの茶室等々。そ
が、毎年﹁五郎忌﹂と称して恩師を偲ぶために、札幌と東京
で五郎先生の教えを受けた、今では六十五歳を超える者たち
れは、部活動の重要性を考えているからである。
理事長・名誉校長である佐々木周二先生も、部活動につい
て日ごろ次のようにおっしゃっておられる。
とで集まりをもっている。札幌では十七・八人が、東京では
たち、昭和二十六・七年当時の、北海道立札幌南高校柔道部
﹁中高教育の成果の半ばは校友会活動に負うところ大なりと
十人ほどの者が集まるのが定例である。
○
信じる。上級生下級生が一体となって、それぞれが運動、趣
い、理知的な頭脳を養う授業面を補って人間形成を完遂する
味、 芸 事 を、 相 寄 り 相 扶 け あ い、 切 磋 琢 磨 し て 人 間 性 を 養
のである。
校・東大での先輩作家である太宰治に私淑していたが、太宰
復 員 し て 復 学 し 東 京 大 学 を 卒 業 し て 作 家 を 志 し た。 弘 前 高
した。後に東京大学の英文科に進み、学徒出陣で海軍に応召、
校に学んだが、中学・高校在学中は柔道部の選手として活躍
中学校を開校以来の英才といわれながら卒業し、旧制弘前高
五郎先生は、大正十二年九月一日に滝川市の在にある歌志
内という昔は炭鉱町であった土地に生まれ育った。旧制滝川
頭 の 教 育 で あ る 授 業 に 対 し て 心 の 教 育 で あ る 校 友 会 活 動、
この二つが一体となって幅の広い人格が形成されるのであ
る。そのために、
一、部活動は楽しいものという雰囲気を作れ。
二、譲り合い助け合って、深い友情を培え。
機に退職し、市の職員となり助役まで勤めたが、市長選に敗
に他界したことは、惜しんでも惜しみきれないことであった。
である。後に先生は釧路湖陵高校に転じたが、学校の火災を
校の英語の教員となり、当時の私たちとの邂逅があったわけ
の情死事件があって都落ちし帰郷した。間もなく、札幌南高
三、規律を厳正にすること。厳正な規律の下にのみ真の自
由な活動がある。
四、部活動は学校教育の一環であって、学校教育から逸脱
してはならない。
五、勉学を妨げる部活動はあり得ない。
れて北海道議会議員となった。五十一歳という壮年期の盛り
うな選手制度は採らない。教師も生徒も、部活動がい
六、選手に特別待遇をすることは行きすぎである。そのよ
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○
柔 道 が 大 好 き な 高 校 生 で あ っ た 私 が、 札 幌 南 高 校 で 戦 後
の柔道部を創設したのは二年生の時で、昭和二十五年の秋で
あった。米軍占領下にあって、やっと学校での柔道が解禁に
なったことで、同好の士を募り、柔道部活動を始めたのだっ
た。五郎先生が学生柔道の華やかな時代の高専柔道の選手で
あったことを知って柔道部の顧問になっていただき、楽しく
も思い出深い部活動ができた。
○
翌 二 十 六 年、 戦 後 初 の 全 道 大 会 で 団 体 戦 に 準 優 勝 し た の
だったが、忘れがたくもまた懐かしい。
ともどち
達よ手を取れど
ああ友
もだ
若き血潮は黙し得ず
栄えをば望みつつ
遠むき
す び
結も固く進みゆく
団
見よや吾れ等の柔と道部
三
吾が先人の汲み求めし
清冽の水求めゆかん
吾れ等が決意固ければ
呼び声遠く平原どの
よ
果たてに高く響もしつ
進まん吾れ等の柔道部
私たちは毎日のように部歌を唄った。練習の前に、後に、
汗に濡れて、時には放課後の激しい稽古の後、学校の裏を流
札幌南高校の柔道部に部歌がある。部員たちが部活での稽
古の合間に唄うことで、精神を昂揚させ、士気を鼓舞すると
ともに、合唱することで相互の友情を温め合い、同じ目的、
れる豊平川の堤防に佇んで。特に二番の歌詞を唄うとき、涙
つ﹂とある歌詞は、自分の気持ちを映しだして余りあること
に熱中してしまう己れの現実の姿に、﹁遠き栄えをば望みつ
に支障をきたしてもなお﹁若き血潮は黙し得ず﹂柔道の練習
もだ
し訳なく思いつつ、柔道の魅力に引き付けられて日々の学習
室で教え導いてくださる各教科の先生方に、学習の不足を申
い血の騒ぎを抑えることができずにいる自分。日々熱心に教
めることだと十分承知しているのに、柔道に情熱を燃やす若
校 で の 授 業 を 受 け な が ら、 学 生 の 本 分 が ひ た す ら 勉 学 に 努
とぼそ
同じ思想で、柔道に精進していることを確認し合えるのが部
が込み上げてくるのだった。﹁真理の扉叩かん﹂として、高
へ
歌の効用であった。
と よ ひ ら
一
豊平川の辺に集い来し
吾れ等石狩健児等は
肝胆互いに相照らし
ふ ゆ
な つ
寒の朝も猛暑の日も
厳
溢れ意気に燃え
友び情
ゃくえ
を競うなり
白衣に技
とぼそ
二
真理の扉叩かんと
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に、涙が溢れるのだった。汗を流し、涙を流しながらも和気
藹々、互いの人格を尊重し合いながら、日々の精進を重ねた
毎日であった。私たちの部活動に、絶えて暴力を振るうなど
ということはなかった。
○
私 は そ れ が 学 校 で の 部 活 動 の 真 の 姿 で あ る と 思 う。 十 代
半ばを過ぎたばかりの生徒の間で、暴力が許されるような上
下関係はあり得るはずがない。謙虚な気持ちで、自分たちの
求める道にひたすら手を取り合って精進すること、それが部
活動の基本の精神である。そうだったからこそ六十五歳を過
ぎた老人たちが、今もなお相集って恩師を偲び、互いの消息
を語り合えるのだと思う。諸君も本校を卒業して十年二十年
後、いや生涯を通して語り合える友を在学中に得て、折おり
に互いの友情を温め合えるような部活動をしてほしい。
︵平成十三年二月︶
︵理事長・学校長︶
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││同
窓 会
││
石
透
を 囲 み ク ラ ス 毎 に 別 れ を 惜 し み な が ら、 次 回 の 再 開 を 約 束
み、 瞬 く 間 に 時 は 過 ぎ て い く。 そ し て 最 後 は、 担 任 の 先 生
変わらぬ顔と顔
四 十 年 を 振 り 返 る
卒業三十周年集いの会
と が 最 低 の 条 件 で あ る。 こ れ ら の 条 件 を 満 た し た ホ テ ル で
出来る部屋をいくつか持ち、ある程度の小さな部屋があるこ
ていなければならないこと、クラス単位の会合を開くことの
が一堂に集まって、記念写真を撮ることが出来る広間を持っ
ルの選定がまず最初の難題なのである。二〇〇名以上の人達
毎年、ホテルを貸し切って行われるが、幹事にとってはホテ
て い く 様 は 壮 観 で あ り、 迫 力 さ え も 感 じ る。
﹁集いの会﹂は
めてである。同期生が二〇〇名以上一同に集まり、会を進め
者が全員集まって開く会は、この﹁三十周年集いの会﹂が始
を重ねているクラスだのといろいろであるが、卒業学年次の
よっては、卒業して始めての会合であったり、周期的に会合
ことの出来ない、なんと素晴らしい職業であり、聖職に近い
を 撫 で 下 ろ す 一 時 で も あ る。 そ し て 教 師 と は 金 銭 で は 測 る
分 の 歩 ん で き た 道 が 独 り よ が り で な く、 良 か っ た と 思 い 胸
道修正させた者等様々であるが、会話の中で感謝されると自
を鍛えあった者、若さにものをいわせ強引に自分の方向に軌
め睡魔と戦いながら机にむかっていた者、共に汗を流し身体
動は、嫌でも自然と頭にはいる。げんこつの痛さを逃れるた
を持っている。三年間共に生活していれば、生徒の人柄や行
期生が最初である。それ故にその生徒たちには特別の親しみ
年、 二 年、 三 年 と 持 ち 上 が り、 卒 業 生 を 出 し た の は こ の 五
けて三年の担任を任命され、卒業生を送り出しているが、一
五期生の集いの会からである。私はこの五期生から、数年続
私は、副校長という立場から﹁卒業三十周年集いの会﹂に
は毎年出席しているが、卒業学年の担任として出席したのは
し、二次会、三次会へと流れ解散していく。
開かれるが、友との再開は格別で、飲むほどに酔うほどにコ
本校では、卒業して三十年を一つの節目として同窓会の主
催による﹁卒業三十周年集いの会﹂を催している。クラスに
マーシャルの文句ではないが話はとどまるところを知らず弾
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は、掛け値なしに嬉しいものである。
した新郎・新婦を在校時の姿と重ね合わせながら見つめるの
もあっていささか﹁ウーン﹂という時もあるが、立派に成長
の一つである。しかし、月に三回以上重なると、家計のこと
まるのかも知れない。教師にとって招待状は最も嬉しいもの
に招待してくれた者も多数いる。招待状は、叱った回数で決
みしめ・味わうことは出来ないだろうと思っている。結婚式
職業だと思うと同時にサラリーマン教師では、この喜びをか
題を抱えた生徒は比較的多く私のクラスに集まっていた。私
た。この時私は、生活指導部の副主任の立場にあったので問
の仕事として先生の手によって三年次のクラス編成がなされ
校教師から図書館に次年度は異動することになり、学年最後
には首根っこを抑えられ、グーの音も出なかった。しかし高
と話術で、この学年は完全に掌握されていた。Sも片山先生
は、前図書館長の片山先生である。片山先生の素晴らしい勘
で何かあるということだけは感じていた。二年次の学年主任
は片山先生から、生徒の指導はどうあるべきかのイロハを教
えてもらった。こうしなさいとか、ああしなさいと言う指導
こには﹁S君﹂が、いたのである。Sは、この学年では知る
が、クラスのメンバーを調べればすぐに納得してしまう。こ
がクラスをリードしていた。数の比から見れば不思議である
かし私の受け持ちクラスは、少し異なっていた。三割の男子
子 が 3 割 で も 同 じ で、 ク ラ ス を リ ー ド す る と 言 わ れ る。 し
違いなくすべての面で女子がクラスをリードすると言う。女
倒的に女子の多いクラスであった。男女の比が半々だと、間
クラスは、男子二三名、女子三八名、計六一名のクラスで圧
で、クラスによって男女の構成に差が出た。私が受け持った
学クラス・就職クラスという進路別学級編成を採っていたの
一年、二年、三年と担任を持ち上がり卒業生を送り出した
五期生は、学年全体での男・女の数は大体同数であるが、進
かも知れないが、涙を流しながら叱ることは演技では出来な
とも知った。人間、演技で涙を流すことは私たちにも出来る
た。 時 に は 大 声 を 出 し て 叱 っ た り、 涙 を 流 し な が ら 叱 る こ
出てくるような叱り方でなければ、人は動かないことも知っ
下の指導はないこと。叱られた後、心の底から詫びの言葉が
あり、叱りっぱなしでその後のケアーをせず放って置くほど
ければならないこと。叱ることと誉めることは一体のもので
の基礎を築いてくれたと思っている。教師は猿山のボスでな
決意したものである。そしてこの時の教訓が私の教師として
て い る だ け で、 存 在 感 の あ る 教 師 に な っ て み た い と 秘 か に
をすくめる様は可笑しくもあった。自分も静かに黙って立っ
るうわけでもないのに、暴れん坊や猛者達が逃げ隠れし、首
自分のものにして行った。先生のマジックに掛かると手を振
*存在感のある教師を目指して
人ぞ知る人物なのである。家が茨城県ということもあって学
でなく、片山先生の後ろ姿を見ながら、指導方法をまねし、
校を出てからの行動は少しも分からなかった。唯、教師の勘
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ȽȁĵĵȁȽ
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い言葉だけを掛けて人間として成長していくなら、それにこ
り方は、効果のないまずい叱り方である。叱らないで、優し
らOさんとの愛の炎が灯りだしたのだろう。私の目にもどう
に家業を継ぐ決心をし、心の重しを取り払った。このころか
むか、大学進学をするかの悩みを持っていたが、夏休み前後
もう一方のW君とOさんとのほのかな愛の炎は、三年次に
なって灯りだした。W君は、家業を継いで伝統工芸の道に進
た。何とも寂しい限りである。
したことはない。しかし人間は切磋琢磨し、他者との競争、
かな、というところも見えたが、お互いに分をわきまえて学
い。本気で叱る。真剣に叱る。ここで叱らなければならない
競合の中において磨かれていくのであるから、きれい事で終
ときに叱る。叱った後で親から尻を持ってこられるような叱
わることはない。
業生活に支障もなく、校外生活の乱れもなく、また家庭から
の苦情もなく私は言葉を掛けながら、そっと見守ることにし
後の交際と言うことなので知らなくても致し方ないかとも
あったと言うことは知らなかった。しかしIとWは、成人式
という自負があったが、クラスの中に相思相愛の者が二組も
いた。そのことからクラスの生徒のことは何でも知っている
業の帰りにも教室に行き声を掛けてから職員室にもどって
私 が 担 任 す る ク ラ ス は、 教 室 が 本 館 の 一 階 に あ る と い う
地理的条件もあって、朝・昼・放課後はもちろんのこと、授
を職業とするW君の世界には、昔ながらの風習・習慣が色濃
的には別々の道を歩みださなければならなかった。伝統工芸
し残念ながら、二十年以上の生活環境の違いは大きく、最終
おかれても順調に愛を育み、結婚にこぎつけていった。しか
は銀行員としての道に進んでいった。二人は異なった環境に
すると、W君はお父さんの経営する伝統工芸の道を、Oさん
のが不自然なのかも知れない。W君とOさんは、はれて卒業
性を思う気持ちが生まれてくるのは自然で、むしろ遠ざける
*同級生同士の結婚
思っているが、二人は三年のクラスになってからクラスメー
く残り、共に生活することが出来ず、別の世界に入って行か
た。同じ教室に若い男女が机を並べているので、ほのかに異
トとして行動し、互いに特別な感情は抱かなかったが、心の
一 方、 I 君 とW さ ん は、 幸 せ な 家 庭 を 築 い て い る。 二 人
は育った生活環境が、第二種兼業農家とまったく同じで世帯
奥底には何かがあったのかも知れない。そして成人式が仲人
の異なる者の同居を許し、家庭団欒を造って行けたのであろ
ざるをえなかったのだろう。
な役目を一方で果たしていると言える。しかし、この成人式
う。
となったのである。成人式が仲人というのは、IとWだけで
も、法の改正に伴い各市町村での実施日が異なり、同窓会が
はなく何組ものカップルが誕生しているので、成人式は立派
主催して卒業期毎の会を開くことが出来なくなってしまっ
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ȽȁĵĶȁȽ
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ひたむきな気持ちが職場での信頼につながり、幸せな日々を
救急の仕事に専念している。これもI君の真面目さと誠実な
君は、家庭の評も地域の人達に極めて良く、何の心配もなく
徒の事故などでは学校もお世話になっている一人である。I
I君は、現在栃木消防署に勤務し救急隊員として活躍し、生
郷 は、 S 君 を 温 か く 迎 え 入 れ て く れ た。 特 に 高 校 三 年 間 を
こ と を 尋 ね る と、 さ す が の S 君 も し ん み り と し て く る。 故
故郷に帰るという決断は、大変な思いでしたのだろう。この
が、実家の都合で故郷であるK 市に帰ってきたのだという。
は、 健 康 に も 恵 ま れ ま た 何 の 事 故 も な く、 三 十 年 間 勤 め た
と で、 卒 業 す る と す ぐ 川 崎 に 向 か っ て 行 っ た。 日 本 鋼 管 で
共に過ごしたI君が、物心両面に渉って面倒を見てくれたと
送っているのである。
いう。友達は有り難いものである。まさにお金で買うことの
しか経っていないことと、発起人が﹁三十年の会﹂に欠席し
て見た。しかし日取りよりも、
﹁三十年の会﹂からまだ二年
雑な思いの中、急いで行事予定表をカバンから取り出し調べ
のですがどうですか﹂という電話がS君から入った。私は複
﹁卒業三十周年・集いの会﹂が開催され懐かしい顔が瞼に
残っている中で、春休みのある日﹁秋口に同級会を開きたい
が行動を共にしていたのである。私は二人が仲の良い友達だ
校にきたのである。そして三年間、気もよくあったのだろう
しての通学となった。その自転車をSの家に置き、二人で学
寄りのK駅まで四㎞ほど離れているので、当然自転車を利用
のK駅から電車をつかって栃木駅に来るが、Iは自宅から最
は一年次から常に行動を共にしていた。本校への通学はJ R
かけだという。ふり返って高校時代のSとIをみると、二人
*再びの同級会
ていたS君とI君だと言うことで少し不安もあった。二人は
ということは知っていたが、自転車のことまでは知らなかっ
出来ない財産である。この友情が、今回の同級会開催のきっ
たちの手で開きたいのだという。自分たちは都合が悪くて出
﹁三十年の会﹂には、どうしても出席できなかったので自分
工業団地の計画がなされるとビジネスホテルの建設にも乗り
Iは卒業すると母の経営する食堂の手伝いをはじめ、高度
経済成長の波に乗って店の拡張を図り、更に住まいの近くに
た。
が経営する、茨城県K市の料亭で開きたい。宿泊したい人に
席できなかったが、自分たちと同じ思いをしている者が必ず
は、Iはホテルも経営しているので格安で可能なようにした
出 し 事 業 を 拡 大 し て い っ た。 そ し て 順 調 に 業 績 を 伸 ば し て
いるだろうから、開きたいのだという。そして、場所はI君
いとのことだった。私は二人の熱き思いにふれ、開くことに
I君の経営する割烹料理店やビジネスホテル経営も少しず
いった。しかしバブル経済が崩壊の道を歩み出していくと、
S君は、親戚の人が川崎の日本鋼管に勤めていると言うこ
同意した。
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ȽȁĵķȁȽ
Ƚ
つ苦しくなってきた。この時Sが帰ってきたのである。Iは
温かくSを向かい入れ、自分の店を手伝ってもらうことにし
た。しかし五十の手習いは楽なものではない。商売は真剣勝
負であり、食うか食われるかである。結局Iはホテル客の送
迎を中心に手伝うことにしたが、空き時間には近くにある自
動車教習所の宿泊合宿を推進したり、近くにある高等学校の
食 事 会 を 計 画 し た り と 、 I の 手 伝 い を 積 極 的 に し て い っ た。
この積極的な流れの一つに同級会の開催もあったかも知れな
いが、特別な低料金で、﹁三十周年集いの会﹂の後、再び三
年後には同級会を開会したのである。出席者は十七名と﹁集
いの会﹂よりは少なかったが、長時間にわたって盛り上がり
次回を約束して散会した。
S 君 と I 君、 こ の 二 人、 ど こ ま で 協 力 し あ い な が ら 友 情
を 更 に 深 め て い く の で あ ろ う か。 第 五 期 生、 三 年 六 組 は こ
のS・I君の名コンビの幹事によって、これからも会合を重
ねていくのであろうか。同級会の席上では、五年毎に開こう
という声が多かったが、この話どおりに五年の月日を守れる
かどうか疑問である。早くも次回の同級会の話が、私の耳に
聞こえてくる。しかし悪いことでもなく、その時はその時と
思っている今日この頃である。
︵地歴公民科
中学校長
高校副校長︶
Ƚ
ȽȁĵĸȁȽ
Ƚ
愛
唱
歌
饒
舌
くぬぎ
古
口
敏
夫
二、君のあの人は
今はもういない
だのになぜ
何を探して
そんなにしてまで
だのになぜ
歯をくいしばり
君はゆくのか
一、君の行く道は はてしなく遠い
若 者 た
ち
歌
ザ・ブロード・サイト・フォー
価値観の定まらない状況の中で、生徒とともに歌ったのが
﹁若者たち﹂であった。
社会のルツボの中でもがき苦しんでいた。
若者は不安を隠し切れ
行方のわからない混沌とした時代ぎに
ま ん
ないでいた。怠惰と勤勉、誠実と欺瞞がひしめきあっている
身の丈を知らない言葉をふりかざして自己満足していた。
᭛ɁɛșȾՍᶿȹȗᶿȲаᢝȲȴ ││
││
ひ と よ
汚れた根雪を一夜の雨が濡れた言葉でとかすと、漆黒の闇
から大麦の若葉が顔を出す。昨日まで、関東平野の最北の台
なら
地は、男体おろしの乾いた風に震えていたのに。
楢や栗、そして檪などの落葉樹林に取り囲まれた黄褐色の
ロームの大地が目ざめ一気に春は色めき立つ。
やまあい
大木が銀色の芽の
やがて、雑木林が息吹きはじめる。檪えの
り
マントを羽織るとそこに栗が緑の葉の襟を縫いつける。
この頃、入り日は深紅になって太平山の山間に沈む。時を
同じくして、はるか南に群青の富士山が姿をあらわす。まも
なく背後から輝く月が昇る。しばらくして太平山が青色で縁
激動の中での愛唱歌
取られ早春の一日が終る。
昭和四十年代は、経済成長と公害の時代であった。だれも
が馬車馬のように必死に働いた。社会全体が何かにとりつか
れたように走りまわっていたような気がする。個人も社会も
Ƚ
ȽȁĵĹȁȽ
Ƚ
君は行くのか
あてもないのに
し、くやしい。
﹂
事実、定期試験では常に最下位。校内競技大会では、まと
まりがなく、何をやっても一回戦で敗退してしまう。クラス
も雑然とし、授業にも身が入らない。そればかりでなく、若
なら、
い先生など初手からなめてかかっている。注意をしようもの
﹁お説教は面倒くさいからビンタでかんべんしてくれ。
﹂
こうしたとりとめのない時代に二年生︵七期・昭和四十一
年 入 学 ︶ の ク ラ ス 担 任 を 命 じ ら れ た。 就 職 ク ラ ス で あ っ た。
このクラスの生徒たちは自分のクラスを劣等クラスといって
よいクラスをつくろう
と い っ て せ が む。 つ い つ い 雑 談 が 多 く な っ て し ま う。 お
しゃべり話が好きだからLHRの時間になると目を輝やかせ
﹁何か世に出てためになる話をしてくれ。﹂
た。授業になると
やがて、生徒間に﹁我々は共に殴られた仲間﹂といった奇
妙な連帯感が生れた。しかし一向に勉強には熱が入らなかっ
これでは、教育現場というより、サーカスの調教場である。
﹁ありがとうございました。﹂
などといって粋がっていた。仕方ないから、手心を加えて
殴ると
ない。
﹂
﹁生徒にビンタの一枚もはれない教師はここではやっていけ
いやしない。柔道部の猛者の中には
当時はどの学校でも愛の鞭といって体罰はあたりまえのよ
うに行なわれていたが、生徒を殴って気持ちの良い先生など
卑下していた。周囲の目も冷たかった。原因はスタート時に
あった。
始業式が終った直後の四月上旬、私は悪性の風邪で一日間
学校を休んだ。翌日登校すると職員室の雰囲気がいつもとち
がってピリピリしている。私に対する視線も同情と哀みが交
錯していた。
教室に入って仰天した。三分の一ほどの生徒がいない。ク
ラスの男子生徒が二手に別れて学校の近くの市営火葬場で
喧嘩をしたということで、すでに謹慎処分をいい渡されてい
たのだった。数日後の職員会議では首謀者という理由で四名
が退学処分になった。担任の弁明など一笑に付されてしまっ
た。
この事件に関わった生徒たちは、自分たちの不用意な行動
が原因で退学者を出してしまったという罪悪感にさいなまさ
れていた。
そしていたずらに虚無的な時間がすぎていった。夏休みに
さしかかった頃、関と谷中が私の家に来た。
﹁我々のクラスは劣等クラスと呼ばれている。それが悲しい
Ƚ
ȽȁĵĺȁȽ
Ƚ
食い込むこともしばしばであった。テーマは
る。特に、討論会になると一時間では終らない。次の時間に
一致で全て受け入れられた。
さらに本音で話し合うよう注文をつけた。彼等の提案は満場
た時は絶対に﹁わかりません﹂といわないことを提案した。
﹁このクラスを団結力のあるよいクラスにしよう﹂という
テーマは何度もくりかえされた。特に女子からは男子間の不
﹁なぜ、我々のクラスは劣等クラスと呼ばれなければならな
いのか。﹂
﹁日本の教育はこれで良いのか。
﹂
仲が糾弾された。正義感の強い熊倉は柴が掃除をサボって早
司会は陸上競技部キャプテンの阿部。身体が大きく、大人
の風貌をしている彼は司会が非常にうまい。まとめる力も群
入れてくれた枇杷の種が窓際にころがり落ちた。こんなこと
ある時柴は女子の藤沼のお弁当を食べてしまった。怒った
藤沼は弁当箱を窓の外に投げ捨てた。母親がデザートとして
く帰ることを批判した。
を抜いている。おそらく本校の歴史の中で最も司会のうまい
も批判の的になってしまった。
など種々雑多。不思議なことに勉強は嫌いなのだが教育論
になると一言居士が多くなる。
生徒だったと思う。
だった。そのことで乱暴者で不良というレッテルを貼られて
柴は野球部に入部したのだが、先輩の意地悪に腹を立て三
年生を殴ってしまった。その結果無期停学の処分になったの
柴栄一という生徒
彼 等 が 入 学 し て 間 も な く、 三 年 生 の 一 部 が 中 心 に な っ て
﹁ 長 髪 デ モ ﹂ が あ っ た 。 そ の 影 響 が あ っ た た め か、 ま だ 学 校
しまった。校外では社会人との付き合いもあるという噂さが
おんしゅう
内には不自然な空気が漂っていた。地下の部分でいくつかの
怨讐を越えて
セクトが作られていた。同様に、クラスの中でも熊倉を支持
広まっていた。
やがて無口な柴も口を開くようになった。弁当を食べてし
なかった。
彼はたくみにバランスを取りながら一方的に柴を悪者にさせ
も掃除をサボったことがあるといって、全員にあやまった。
討論会において互の感情がむき出しになるような問題につ
いて阿部の司会は見事であった。ジョークを混えながら自分
するグループと柴を支持するグループがあった。関や谷中や
荒川といった良識派はこの問題を解決しないかぎりクラスは
良くならないと信じていた。またクラス内のセクトは、学校
にはびこる暴力的セクトの縮図でもあると考えていた。
彼等は話し合いを通してすべてを解決すべきだと主張して
いた。やがて熊倉と柴も同調するようになった。実行委員の
関たちはLHRでは﹁若者たち﹂を合唱すること、指名され
Ƚ
ȽȁĶıȁȽ
Ƚ
話し好きな仲間たち
ると三々五々生徒は宇都宮の私の小さな借家に遊びに来るよ
まった藤沼にも素直にあやまれるようになった。しばらくす
うになった。柴と熊倉がつれだって来た。ある日柴が奇妙な
ようになった。熊倉も自分の将来について発言した。
目を感じなくなった。柴はすこしずつ家庭環境について話す
楽しみにしている週一回のLHRの時間になると、二年四
組は急に活気付いた。二年も後半になると優秀クラスにひけ
ことを言い出した。
﹁先生はバナナ好きかい。
﹂
﹁ああ
﹂
好きだよ。
﹁それじゃ来週の月曜日の朝、玄関先にバナナを一籠おいて
子は比較的おとなしいのだが男子には論客がそろっていた。
しかし、勉強には以前と同様興味を示さなかった。それで
も暇さえあれば口角沫を飛ばして論争しているのである。女
先生たちも討論になるとたじたじとなった。時折り、他のク
おくから食ってよ。
﹂
﹁一籠ってどのくらいの。
﹂
梶原は結核で三年間休学し、やっと復学したばかりであっ
た。母一人子一人の梶原もまた家庭は貧しかった。しかし彼
や笠原。一番熱心なのは梶原であった。
ラスの生徒が飛び入りした。熊倉と柔道部の仲間である井上
﹁輸入する時バナナが入っている一トンぐらいの大きなやつ
さ。﹂
柴 が ぼ つ ぼ つ と 話 し 始 め た。 柴 の 家 は 貧 し く、 授 業 料 が
払えない。授業料を稼ぐため築地の青果市場から宇都宮の青
はおおらかで貧しさには無頓着であった。死線を越えた人間
﹁お前、一体何をやっているんだ。
﹂
果市場にバナナを運ぶ、夜間陸送の助手をやっていたのであ
の強さがあった。論客の彼も荒川には勝てなかった。理想主義
者の梶原の意見も現実主義者の荒川には論破されてしまった。
る。
梶原を生徒会長に
これで謎が解けた。私は柴が学年で最下位であることに納
得出来ないでいた。字もうまく、文章もしっかり書ける。そ
れなのに成績は赤点ばかりであった。試験の時も仕事が忙し
い つ も の よ う に 七 組 の 梶 原 が 四 組 の 討 論 会 に 参 加 し た。
テーマは﹁本校をよくするには﹂であった。阿部の司会でい
つものように﹁若者たち﹂の合唱で始まった。討論になると
く勉強をする時間がなかったのである。好き好んで清掃をサ
ボったのではなかった。柴は必死になって家の貧しさを隠し
ていたのだった。
議論百出。収拾がつかなくなった。ところが、それまで言葉
すくなめの荒川が発言した。
Ƚ
ȽȁĶIJȁȽ
Ƚ
﹁この学校をよくするには生徒会を立て直して、生徒の自主
話し合いは連日行なわれた。やがて、﹁市内高校生討論会﹂
をやろうという結論に達した。
によって学校を良くしなければならない。
﹂
彼は言葉を続けた。
﹁生徒会長には理想家の梶原が適任である。
﹂
﹁市内高校生討論会﹂をやろうと意気込んでも、どうすれ
ば良いか、皆目見当がつかなかった。ところが生徒会の役員
いという栃高の体質に不満を持っており、本校生とも交流を
の中に栃高の日下部という生徒と親しい者がいた。彼は栃高
くやしかったら満点とれ
いつも梶原とは意見を衝突させている荒川の発言に教室は
一瞬静まりかえった。せきを切ったように賛成意見が出され
選挙戦になると三年間休学していた梶原にはそれなりの不
利があった。やっと梶原は僅差で会長に当選した。
し て 見 る と 頭 の 良 い、 柔 軟 性 の あ る 生 徒 で あ っ た。 梶 原 や
た。柔道部の井上や笠原も支持を表明した。
﹁市内高校生討論会﹂に向けて
き込み、栃高を味方にすれば﹁市内高校生討論会﹂が実現す
栃高が賛成すれば市内の公立校はすべて賛同する。
*
*
*
第一回目の市内高校生討論会は提案校の本校で行なわれた。
大金先生は本校の提案に飛びついた。日下部を﹁市内高校
生討論会﹂を通して指導しようと考えたらしい。
強く、日下部を本気で指導していた。
たらしいが、東大を卒業して世界史を教えていた。正義感が
いう豪放磊落な先生がいた。公立校においては異端者であっ
らいらく
し か し、 学 校 に 目 を つ け ら れ て い る 日 下 部 が 何 を い お う
と、学校が賛成するはずがない。ところが栃高に大金先生と
るのではないかと言い出した。
関、畑、荒川、後輩の川田や赤木といった連中は日下部をだ
持っていた。彼は学生運動の闘士ということであったが、話
の中では異彩を放つ存在であった。勉強だけやっていれば良
梶 原 の 周 辺 に は 関 や 畑 を 中 心 に 熱 血 漢 が 集 ま っ た。 生 徒
会でもまた話し合いを始めるときには﹁若者たち﹂を合唱し
た。
﹁私立校生はなぜ公立校生に劣等感を持たなければならない
のか﹂
プレハブの生徒会室で久し振りに討論会が行なわれた。
関 ﹁ 長髪デモの根底には、公立校に対する劣等感があっ
たのではないか。すくなからず本校が何らかの形で
市内の高校の中で、リーダーシップをとらないかぎ
り、本校生の公立校に対する劣等感は払拭出来ない。
﹂
司会﹁具体的な提案があるのか。
﹂
関 ﹁何か市内の高校生が合同で出来る行事がないもの
か。そのリーダーシップを我々がとろう。
﹂
Ƚ
ȽȁĶijȁȽ
Ƚ
日本で唯一、三十年以上も継続されている﹁市内高校生討
論会﹂はこうしてスタートした。各校が一分科会を担当し、
助言者の先生がつく方法も本校の提案通りになった。
本校の分科会は﹁若者たち﹂の合唱で始まった。ところが
栃高の分科会は初めから殺気だっていた。日下部は現在の社
会の矛盾点を激しく攻撃した。他校生はそれにたいして意見
を言うのだが、一般の生徒が論破出来る相手ではない。しか
をやろう﹂という要望が出された。公開授業が実現した。
たくさんの先生方の前で討論会がいつもの通り活発に行な
われた。先生方の中から
﹁あのクラスがこんないいクラスになったんだ。﹂
がおもむろに口を開いた。
をはじめた。日下部にいわせるだけいわせてから、大金先生
に達したのだが、日下部は矛先を大金先生にむけ、栃高批判
*
*
*
◦三年後柴は将来を嘱望されながら海難救助隊で活躍してい
かに卒業していった。
建築会社に就職した。そして全員で別れをおしみながら晴や
二年のときは就職希望だった生徒たちもたくさん大学に合
格した。柴も見事念願の航空自衛隊に合格した。関は地元の
というつぶやきが聞えた。
あし
卒業を記念してクラス文集﹁葦﹂を作った。全員がこのク
ラスで良かったと記した。
﹁日下部、お前たいそうなことを言っているが、くやしかっ
た。その年の盂蘭盆に熊倉とつれだって私の家に来た。将来
し荒川は鋭く日下部に食いついた。どうにかテーマの一致点
たら俺の作った問題で満点とってみろ。
﹂
倉は一睡もせず畳二畳ほどもある大きな墓石に﹁柴栄一空士
機が琵琶湖に墜落して非業の死を遂げた。石材店を継いだ熊
たため会えなかった。その帰路、不運にも彼の乗った自衛隊
のことを相談したかったとのことだったが、私が帰省してい
う ら ぼ ん
日下部は何かを悟ったように口をつぐんだ。
こんな会話が成り立つ師弟関係を羨やましいと思った。
まもなく本校の分科会からは最後を飾る﹁若者たち﹂の合唱
が聞えた。
わ
長の墓﹂と刻み建立した。
び
枇杷の木に託された愛唱歌
ンが高圧線に接触して感電し柴の後を追った。
在になった。地域振興にも力を注ぎ、﹁蔵の街栃木﹂を提唱
タウン誌﹁うづま子﹂を主宰し日本のタウン誌の草分け的存
◦梶原は國大を卒業した後、栃木新聞社に入社した。退職後
◦関は豪雨の中、同僚の事故車を救助しようとした際クレー
二年四組は三年になると様子が一変した。栃高の分科会に
参加した荒川が勉強しだした。柴も航空自衛隊を目指して、
勉強を始めた。全員が本気で勉強に取り組んだ。
しばらくすると、一部の生徒から﹁クラスが団結し、よい
クラスになったのだから自分達が自主的にLHRの公開授業
Ƚ
ȽȁĶĴȁȽ
Ƚ
し、その実現に尽力した。しかしガンにおかされ四十代半ば
で早世した。
◦栃木市の経済界をリードし同窓会の副会長として活躍した
柔道部の井上と笠原があいついで急逝した。
*
*
*
忘れ去ることの出来ない思い出だけを残して光陰は移り進
んだ。
そ し て 現 在 残 っ て い る の は、 三 十 数 年 前 に 柴 が 食 べ、 投
げ捨てた種が芽を出し成長した枇杷の木一本だけになってし
まった。
﹁後輩のみなさん﹂
第二職員室南の枇杷の木の前に来たら、そっと耳をすまし
て下さい。本校の早創期を風のように走り去った先輩方の愛
唱した歌を枇杷の木の精が先輩方にかわって歌っているのが
聞えるはずです。
一、君の行く道は
はてしなく遠い
だのになぜ
歯をくいしばり
君はゆくのか
そんなにしてまで
二、君のあの人は 今はもういない
だのになぜ 何を探して
君は行くのか
あてもないのに
︵理科
高校教頭︶
Ƚ
ȽȁĶĵȁȽ
Ƚ
総合的な学習の時間
﹃ 日 本 文 化 理 解 ﹄ ⑹ ∼ ⒂
地 理 歴 史 科
各学校が地域や学校の実体に応じて創意工夫を生かして
特色ある教育活動が展開できるような時間を確保すること
議会答申﹄は、
習の時間﹂の導入である。創設の趣旨について﹃教育課程審
平成十五年度より高等学校は学年進行で新しい教育課程に
移行することになり、その改正の目玉の一つが﹁総合的な学
施を決定した。日頃の日本史の授業とは異なる切り口で、わ
として有効に活用するとの考えから、﹁日本文化理解﹂の実
えなかった。そこで、その代替え措置として、と言うよりは
する教育課程編成とするため、日本史を選択科目にせざるを
大学一次試験︵大学入試センター試験︶五教科七科目に対応
べきであり、事実現在まではそうしてきたが、一類は国公立
である。︵中略︶この時間が、自ら学び、自ら考える力な
が国の歴史を語ることができればと思う。
︵影山 博︶
第六回テーマ
﹁日本神話﹂
⑴﹁神話﹂とは何か。
○神話の意味
﹁神話とは、人類の究極的な疑問に対する民族ごとの答え
平成一五年一一月二九日︵土︶
むしろこれを積極的に捉えて本校建学の精神を理解する時間
どの﹁生きる力﹂をはぐくむことを目指す今回の教育課程
の基準の改善の趣旨を現実化する極めて重要な役割を担う
ものと考えている。
と述べている。
本 校 で は、 そ の 趣 旨 を 尊 重 し つ つ、 且 つ 各 学 科・ コ ー ス
の特色・実状に応じて、普通科一類が﹁日本文化理解﹂、二
類が﹁進路と生き方﹂、国際情報科が﹁国際理解と進路﹂を
もって実施することになった。
本校建学の精神を鑑みるとき、本来日本史は必修科目とす
Ƚ
ȽȁĶĶȁȽ
Ƚ
である﹂と定義することができる。自己の存在に対する疑問
は、人類の存在に対する疑問に繋がる。それに対して、﹁昔
話﹂は興味本位で語られ、信じなくてもよいもので、例えば
は現実の場所・人物・遺物などについて、その由来を語るも
﹁昔々あるところに﹂などで始まるものである。また﹁伝説﹂
ので﹁弘法大師伝説﹂などがその例である。
一方、﹁神話﹂は信仰的なもので、この世の始め、原古の
で き ご と、 人 類、 文 化 な ど の 起 源 を 語 る も の で、 こ れ が 現
伊邪那美命の誕生が語られている。
い ざ な み の み こ と
①天地のはじめ
や五柱の
高天原における神々の誕生
か み よ な な よ
い ざ な ぎ の み こ と
神・ 神 世 七 代 と 続 き、 神 世 七 代 の 最 後 に 伊 邪 那 岐 命・
②国産み
イザナギの命・イザナミの命の二柱の神が高天原
から空中にかかった橋︵天の浮橋︶に立って、天の沼矛を
指し下ろしてかき回し、引き上げると矛の先からしたたり
落ちた塩が固まって﹁おのごろ島﹂ができた。そこで、二
柱 の 神 は 島 に 降 り て き て 結 婚 を し た。 そ の 結 婚 に よ っ て
文字化されたものとは、口承されていたものが文字の発達に
﹁カレワラ﹂﹁ユーカラ﹂がその代表例である。神話の中でも
ら れ て き た も の で、 祭 り の 場 で 語 ら れ た り す る こ と が 多 い 。
﹁ 口 承 に よ る も の ﹂ と﹁ 文 字 化 さ れ
神 話 の 伝 わ り 方 に は、
たもの﹂とがある。前者は文字化せず、人から人へ語り伝え
天照大神が生まれ、右の眼からは月読の命、鼻からはスサ
の時けがれを祓う神々が生まれた。最後に左の眼を洗うと
の日向の阿波岐原で死者の国のけがれを祓い清めたが、そ
帰ってきた。黄泉の国から帰ったイザナギの命は、筑紫国
に出かけるが、そこで蛆がたかっている妻の姿を見て逃げ
た。 イ ザ ナ ギ の 命 は 妻 を 迎 え に 死 者 の 国 で あ る 黄 泉 の 国
﹁大八島国﹂
︵八つの大きな島︶が生まれた。
より記録されたものである。代表的なものとしては﹁日本神
ノオの命が生まれた。イザナギの命はすばらしい子供が生
在の自然・文物ばかりか人間の行動一般に大きな規制力を持
話﹂
︵
﹃古事記﹄は太安万侶により筆録された︶﹁ギリシャ神
まれたのを喜び、天照大神には高天原を、月読の命には夜
ち、その規範となるような信仰的な物語をいう。
話﹂﹁ローマ神話﹂﹁旧約聖書﹂などがある。
③神産み 国を産み終わった後、多くの神々を産むが、火の
神を産んだためイザナミの命は火傷をして死んでしまっ
○日本神話
山幸彦﹂の話はその中にある物語である。その他、
﹁国生み﹂
﹃日本書紀﹄
・﹃風土記﹄及び上代の古典に記載
﹃古事記﹄・
さ れ た 神 々 の 物 語 で よ く 知 ら れ る。
﹁因幡の白兎﹂﹁海幸彦・
︵黄泉の国︶に行きたいと言って、山が枯れ、海が乾くほ
が、スサノオの命は亡き母イザナミの命がいる根の堅州国
の国を、スサノオの命には海の国を治めるように命令する
﹁神生み﹂﹁神々の物語﹂﹁国家統一﹂﹁天皇の事跡﹂などが記
ど泣きわめいたのでイザナギの命に追放されてしまう。
④天の岩屋 スサノオの命は黄泉の国に行く前に姉である天
されている。
Ƚ
ȽȁĶķȁȽ
Ƚ
戸を少し開けたところをアメオタヂカラオの命という力持
は一斉に笑い声を挙げた。天照大神は不思議に思って、岩
を鳴かせた。ついでアメノウズメの命が踊りを踊ると神々
八百万の神々は相談して、天の岩屋の前で常世の長鳴き鳥
真っ暗になってしまい、あらゆる災いがおこった。そこで
陽の女神であるから、女神が隠ってしまったので世の中は
大神はおそれて天の岩屋に隠ってしまった。天照大神は太
サノオの命は誓いに勝った勢いで乱暴を働いたので、天照
明した。この時も海の神を始め多くの神々が生まれた。ス
ために、高天原の天の安の河で誓いをたてて身の潔白を証
た。スサノオの命はやましい気持ちはないことを証明する
スサノオの命が高天原を奪いに来たのではないかと警戒し
照 大 神 の い る 高 天 原 へ 別 れ の 挨 拶 に 行 く が、 天 照 大 神 は
治めた。
にもどった。大国主神はその後、出雲を根拠地にこの国を
蒲の蒲綿にくるまれば良いと教えたところ、兎は元の白兎
く て 泣 い て い る の で す。
﹂ と 言 う の で、 真 水 で 体 を 洗 い、
鰐 は 怒 っ て 私 を 捕 ま え 皮 を は ぎ 取 っ て し ま っ た の で、 痛
まえ達は私にだまされたと、つい言ってしまったところ、
がら渡ってきて、あと少しでこの地に着くと言う時に、お
かけ、隠岐の島からこの地まで鰐を並べてその背を数えな
地に渡ろうと思い、鰐と一族の数の多さを比べようともち
兎に出会った。泣く理由を尋ねると、﹁隠岐の島からこの
⑥稲葉の素兎
スサノオの命の六代後の子孫が大国主神であ
る。大国主神が、出雲から稲葉に行く途中裸で泣いている
ノオの命は、クシナダヒメと結婚し、出雲の国にとどまった。
の即位のしるしである三種の神器のひとつとなった。スサ
髪に差し、八岐の大蛇を退治した。この時、大蛇の尾から
に来るという。スサノオの命はクシナダヒメを櫛に変えて
の頭、八つの尾をもつ八岐の大蛇が娘クシナダヒメを食べ
高天原から降りて来られた方がニニギの命で、これを天孫
供をつけて、高天原からこの国に天下りをさせた。この時
が生まれたので、この子を使わしましょう﹂と言って、お
いつけられたが、アメノオシホミミの命は﹁今、私に子供
⑧天孫降臨
天照大神は大国主神からこの国を譲られたの
で、 ご 自 分 の 子 ア メ ノ オ シ ホ ミ ミ の 命 に 治 め る よ う に 言
がなされた後、大国主神は出雲の国に祭られている。
と相談をして、国を譲ることにした。平和のうちに国譲り
⑦国譲り
天照大神は、この国は本来、自分の子が治める国
であるから譲るようにと使いを送ると、大国主神は子供達
が ま の ほ わ た
ちの神に引き出され、岩屋には注連縄を張られてしまった
ので二度と岩屋に入ることができなくなり、世界は再び明
るさを取り戻した。乱暴を働いたスサノオの命は、高天原
から追放された。
や ま た の お ろ ち
立派な太刀が出てきた。そこでスサノオの命はこの太刀を
⑤八岐の大蛇 高天原を追放されたスサノオの命は出雲の国
に降りてくると、老夫婦が泣いているので訳を聞くと八つ
天照大神に献上した。この太刀は草薙の剣と呼ばれ、天皇
Ƚ
ȽȁĶĸȁȽ
Ƚ
彦である。山幸彦は通称で、ホオリの命、またの名をヒコ
⑨海幸彦・山幸彦
ニニギの命の妃が山の神の娘であるコノ
ハナサクヤヒメで、二人の間に生まれたのが海幸彦と山幸
と︶という。この時、天下った所が日向の高千穂の峰である。
降臨︵天照大神の孫にあたる方が天から降ってこられたこ
きな宗教戦争がなかったのはこのためである。
ある。こうした態度からは宗教戦争は起こらない。日本に大
る。従って仏教の日本化も起こるし、神仏習合も可能なので
える。それぞれの人にそれぞれの祖先があるので、八百万の
結 婚 に よ っ て 生 ま れ た の で、 人 類 は 神 々 の 子 孫 で あ る と 考
る神として祀り、感謝と平和への祈念をしているのである。
たわが国の代表的な宗教なので、国事に殉じた人々を国を護
また靖国神社は、戊辰戦争及びそれ以後の戦争など国事に
殉じた者二五〇万余の霊を祀っている。神道は日本に発生し
その代表例である。
明治天皇を祀る明治天皇、乃木希典の乃木神社、東郷平八
郎の東郷神社、徳川家康の日光東照宮、菅原道真の天満宮は
に神として祀られ、民衆から篤く信仰された。
祀っていた。実在の人物でも特別な事蹟のある人は別に神社
一方、我々は神々の子孫であるので死後は神として祀られ
ることになる。これを祖先神といい、それぞれの家で子孫が
神々の存在は当然で、それ故に他国の人々の信仰も認めてい
ホホデミの命という。ヒコホホデミの命が、海の神の娘で
あるトヨタマヒメを妃として生まれたのがウガヤフキアエ
ズの命で、ウガヤフキアエズの命と海の神の娘タマヨリヒ
か ん や ま と い わ れ び こ の み こ と
メとの間に生まれたのが、神倭伊波礼毘古の命である。
⑩神武天皇 カンヤマトイワレビコの命は日向を出発し、大
和に入り、この地を平定して橿原の宮を建てて、即位し初
代天皇となった。この天皇が神武天皇である。神武天皇か
ら数えると平成天皇は一二五代目にあたる。
⑵日本神話の特徴
○﹁旧約聖書﹂と﹁日本神話﹂
楽︶は神々の物語︵神話︶を再現することによって神々の祝
神話は﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄に語られているだけの遙か
な 存 在 で は な い。 例 え ば、 祭 り の 場 に お け る 里 神 楽︵ お 神
○身近な神話
間と神は作った者と作られた者の関係で、人間を神として祀
人類の祖先も神によって作られたとしていることである。人
ることは絶対にない。創造主は唯一絶対の神であるとする。
福を感謝し、今後の加護を祈る場であった。また太平山の桜
国土の成立及び人類の誕生に関する代表的な神話である
﹁ 旧 約 聖 書 ﹂ と﹁ 日 本 神 話 ﹂ の 伝 承 の 違 い は 、 前 者 が 国 土 も
このような信仰を一神教という。一神教では他の神の存在は
で、その妃はコノハナサクヤヒメである。コノハナサクヤヒ
も神話によるものである。太平山神社の主祭神はニニギの命
そ れ に 対 し、 後 者 で は 日 本 の 国 土 も 人 類 の 祖 先 も 神 々 の
認めないので宗教戦争を起こしやすい。
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メは桜の精とも言われるので、ニニギの命を祀る太平山には
周辺地域に多大な影響をあたえ、朝鮮半島も激動の時代を迎
で滅び、六一八年唐が建国された。強大な統一国家の出現は
伽耶諸国は新羅によって滅ぼされた。
き、新羅・百済の動きに対処することができず、五六二年、
と物部氏、物部氏と蘇我氏が対立するなど不安定な状況が続
那︶へ進出した。これに対し、大和王権は有力豪族の大伴氏
六世紀になると、強大化した高句麗に圧迫された百済・新
羅 が 勢 力 を 南 下 さ せ、 日 本 の 影 響 下 に あ っ た 伽 耶 諸 国︵ 任
えた。
桜が植えられているのである。
また山の麓に集う乙女達をコノハナサクヤヒメに見立てて、
國學院大學栃木短期大学の同窓会を﹁斯花会﹂
、学校祭を﹁斯花
祭﹂というのも、神話に由来しているのである。
︵相
千恵子︶
第七回テーマ
﹁古代国家の形成
平成一六年一月一七日︵土︶
聖徳太子とその前後の時代﹂
―
この間、大和王権は百済との結びつきを強めて軍事的援助
を与える一方、百済からは大陸の新文化が移入された。とく
に仏教は百済の聖明王が五三八年に仏像・経典を送ったこと
卑弥呼の邪馬台国が大和王権につながるのかどうかは現在
のところ明確ではないが、四世紀に入ると近畿地方を中心に
した。
彼らは大和王権の配下として文化の発展に大きな役割を果た
を逃れて多くの渡来人︵帰化人︶がわが国にやってきたが、
○大和王権の成立
⑴大和王権の成立と東アジア
政治的なまとまりが生まれ、勢力を拡大していった。これが
○蘇我氏の台頭
で正式に伝来したものとされる。また中国や朝鮮半島の戦乱
現在の天皇家の祖先を盟主とする国家=大和王権である︵記
スメラミコト
紀で一〇代目の天皇とされる崇神天皇は最初に国を治めた天
皇であることから﹁ハツクニシラス天皇﹂の称号をもつ︶。
たけうちのすくね
蘇我氏は六∼七世紀半ばの大和王権中枢部を占めて勢威を
揮った豪族であるが、その出自については謎も多い。系譜で
は建内宿禰の子孫とされるが、一説では百済からの亡命貴族
の子孫とも云い、はっきりしない。実在が確かとされる蘇我満
その後、大和王権はしばらくの間有力豪族の抗争など国内
の不安定な状況が続いたが、六世紀半ば欽明天皇の時になる
と一応収まり、大和王権の支配体制は整備・強化されていった。
智は雄略朝に三蔵︵斎蔵・内蔵・大蔵︶を監督し、渡来人と
きたしひめ
おあねのきみ
大臣に就任し、娘の堅塩媛と小姉君の二人は欽明天皇の妃と
おおおみ
結んで朝廷の財政担当者として台頭した。その後、稲目の時
いみくら
○六∼七世紀の東アジア
五胡十六国・南北朝の動乱を経て、五八九年、隋が中国を
統一したが、隋は数次にわたる高句麗遠征の失敗などが原因
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用明天皇の死をきっかけに馬子が守屋を滅ぼし、権力を掌握
両者は仏教の受容をめぐり争ったとされるが、結局五八七年
なり敏達天皇が即位すると稲目
五七一年、欽明天皇が亡おく
おむらじ
の 子 馬 子 が 大 臣 と な り、 大 連 で あ っ た 物 部 守 屋 と 対 立 し た。
となり、それを契機に蘇我氏は急速に勢力を伸張していった。
なり、多くの皇子・皇女を儲けたので、稲目は天皇家の外戚
︵任命︶するという外交関係にあったが︵これ以前は、奴国・
秩序は、中国の皇帝が周辺の国々の首長を﹁王﹂に﹁冊封﹂
を黙認されたことである。この時代における東アジアの国際
外交政策で国際的地位の向上を図り、中国からわが国の独立
おり、新羅との対立を有利に運ぼうとしたことが派遣の理由
古朝は任那回復のため朝鮮半島に大軍を送って新羅と戦って
と考えられる。またそれ以上に重要なことは、太子が独自の
した。
はするが中国の冊封体制に入らないという姿勢を貫き、隋も
冊封されている︶、太子は冊封を受けることを拒否し、朝貢
邪馬台国女王卑弥呼・倭の五王など、中国の皇帝から倭王に
○推古天皇と廐戸皇子
た国家としての道を歩みはじめており、わが国の古代外交史
これを認めたのである。これ以後、わが国は中国から独立し
⑵聖徳太子の政治
やまとのあやのこま
五 九 二 年、 崇 峻 天 皇 が 宮 中 で 馬 子 の 命 を 受 け た 東 漢 駒 に
よって殺害された。天皇の暗殺という未曾有の危機の中、敏
上画期的な出来事であったといえる。
ぬかたべのひめみこ
○冠位十二階と憲法十七条
おおきさき
性の天皇として即位した。推古天皇である。
聖徳太子は強大な蘇我氏との対立を避けながら、天皇を頂
点とする中央集権的国家体制を構築する施策として様々な政
達天皇の大后︵皇后︶であった額田部皇女が、前例のない女
うまのつかさ
た推古天皇は兄用明天皇の子であった聖徳太子︵実
即位うし
まやとのみこ
あなほべのはしひとのひめみこ
名は廐戸皇子。出産間近の母穴穂部間人皇女が宮中の諸司を
六〇三年、推古天皇が小墾田宮に遷都すると間もなく、新
たに冠位十二階︵六〇三年︶
、憲法十七条︵六〇四年︶を相
おわりだのみや
次いで制定し、国家統治の基盤を固めた。冠位十二階は、世
治改革を行った。
を皇太子として政治を補佐させることとなった。ここに推古
襲である氏姓制度とは別個に、個人をその能力に応じて地位
とよとみみ
巡察中、馬官に至り、その廐戸で出産したことによる呼称と
女帝のもと、皇太子の聖徳太子と大臣の蘇我馬子が共同して
い う。 ま た 豊 聰 耳 も 太 子 が 聡 明 で あ っ た こ と に 基 づ く 呼 称 ︶
政治を行う体制が出現した。
が昇進していく官吏として位置づけようとしたものである。
あったものの、一定の成果をあげることができた。また憲法
大臣の蘇我氏が冠位を超越する地位に置かれたという例外は
○遣隋使の派遣
六 〇 〇 年、 聖 徳 太 子 は 使 者 を 随 の 都 大 興︵ 長 安 ︶ に 派 遣
し、ほぼ一世紀ぶりに中国との外交を再開した。この年、推
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自覚を求めるとともに、仏教を新しい政治理念として重んじ
○大化改新と壬申の乱
⑶律令国家の成立
十七条も官吏としての守るべき道徳・規律などを説いてその
たものであった。さらに太子は﹃天皇記﹄﹃国記﹄などの歴
よいよ
六二二年、聖徳太子が没すると、蘇我氏の専横はやい
ましろのおおえのおう
強まり、六四三年には有力な皇位継承者であった山背大兄王
史書を編纂したとされるが、これも天皇を中心とした国造り
を目指したものであった。
誇った蘇我本宗家は滅亡した。これが大化改新または乙巳の
い殺害、蝦夷も自邸に火を放ち自殺したので、さしも権勢を
をもった中大兄皇子は中臣鎌足らと謀
それに危機感
いたぶきのみや
おおとの
り、 六 四 五 年 板 蓋 宮 の 大 殿 に お い て 入 鹿︵ 蝦 夷 の 子 ︶ を 襲
鳩宮で妻子とともに自害した。
︵聖徳太子の子︶が、蘇我蝦夷の派遣した軍勢に襲われて斑
ひじり
○聖徳太子の仏教信仰
聖徳太子が仏教信仰に篤く、人々から聖のように仰がれた
ことはよく知られていることである。聖徳太子の呼称もそれ
に基づくものと云われ、既に持統朝には聖徳太子の呼称が成
立していたとされる。
いかるが
事 件 後、 中 大 兄 は 新 た に 即 位 し た 孝 徳 天 皇 の も と で 皇 太
子となり、国政の改革に乗り出した。中国にならって年号を
変と呼ばれるものである。
飛 鳥 寺 の ち の 法 興 寺 を、 秦 河 勝 も 山 背 に 広 隆 寺 を 建 立 し て
たて大化とし、都も飛鳥から難波に遷した。また翌大化二年
太子は斑鳩宮に接して斑鳩寺を創建している。六七〇年に
全焼したが、のち再建されて今日に至っている。現存世界最
いる︶。当時の人々が仏教の説く深遠な教理をどの程度理解
表した。この後、わが国は七世紀の末にかけて、唐を模範と
︵六四六︶正月には改新の詔を発し、新政府の基本方針を発
古の木造建築といわれる法隆寺である︵蘇我馬子も同時期、
していたかは疑問だが︵壮麗な建物や金色の仏像、歌舞・読
る︶
、 聖 徳 太 子 一 人 の み は 深 い 理 解 を 持 っ た 人 で あ り、 仏 教
た。とくに壬申の乱︵六七二年︶で大海人皇子が武力で皇位
した律令による中央集権国家の体制が次第に形成されていっ
こんじき
経など全く異質の文化としての認識であったと考えられてい
の興隆に大きな足跡を残した。中宮寺の﹃天寿国繍帳﹄は、
を奪い天武天皇となると、天皇の権威も確立し、﹁大君は
の死後は、その皇后であった持統天皇が即位し、初の本格的
いらつめ
仏是真﹂の言葉は、仏教を永遠の真理とし、現世を仮のもの
都城制に基づく藤原京を造営し、飛鳥浄御原令を施行するな
け
として否定する精神で、太子の仏教理解の深さをよく物語っ
こ
繍したものとされるが、その中にある太子の﹁世間虚仮、唯
太子の妃橘郎女が天寿国︵浄土︶で暮らす太子を思慕して刺
神にし坐せば
天雲の
雷の上に
廬せるかも﹂︵柿本人麻
呂 ︶ と 謳 わ れ た よ う に、 天 皇 の 神 格 化 が 進 ん だ。 天 武 天 皇
ている。
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ど、中央集権国家の整備はほぼ完成に近づいた。
おいて定められたとされ、最初に天皇号を追贈されたのは天
り、にわかに採ることはできない。一般には飛鳥浄御原令に
信仰、﹁日﹂︵太陽︶を重視する思想が高まった天武・持統朝
とは確かである。おそらく日本の国号の誕生は天照大神への
づる処の天子、書を日没する処の天子に致す﹂に淵源するこ
たと記しており、聖徳太子が遣隋使に持たせた国書の﹁日出
日本の国名は﹁国日出づる所に近し、以て名と為す﹂と語っ
いたことになる。﹃新唐書﹄日本伝に、六七〇年の遣唐使が
国号を用いており、この頃までには日本の国号が使用されて
る。また大宝二年︵七〇二︶の遣唐使粟田真人も﹁日本﹂の
号日本﹂
、﹁開元廿二年﹂︵七三四︶に死去したなど一二行で
安市内で発見され、三九・五㌢の石に、名が﹁井真成﹂
、
﹁国
日本人留学生の墓誌が、かつての唐の都長安のあった中国西
唐 使 の 墓 誌 発 見 ﹂ の 記 事 が 載 っ た。 唐 の 玄 宗 皇 帝 に 仕 え た
︵附記︶
﹃朝日新聞﹄平成一六年一〇月一一日の一面に﹁遣
在位中の年号を追号する慣習がとられるようになっている。
︵ い み な ︶ で あ る 。 明 治 天 皇 以 後 は、 一 世 一 元 の 制 に 基 づ き
によって撰んだものであり、没後に贈る称号、いわゆる諡号
目となる。神武など漢風の天皇名は八世紀末に淡海三船が勅
天 皇 は 国 訓 で は﹁ す め ら み こ と ﹂ で あ る。 皇 統 譜 で は 神
武天皇を第一代とし、現在の天皇はそこから数えて一二五代
武天皇であったといわれる。
○日本の国号と天皇号
の頃、七世紀後半と推定される。天武天皇は伊勢神宮を遙拝
﹃旧唐書﹄倭国
﹁日本﹂の国号が中国の史書に見えるのは、
日 本 伝 に﹁ 日 本 国 者、 倭 国 之 別 種 也 ﹂ と あ る の が 最 初 で あ
し、壬申の乱に勝利したことから伊勢神宮の祭祀を重んじ、
一 七 一 文 字 が 刻 ま れ て い た。 現 存 の 実 物 資 料 と し て は 国 号
平成一六年二月二一日︵土︶
奈良時代の政治・経済﹂
―
大宝元年︵七〇一︶、文武天皇の時、大宝律令が制定され、
○時代の概観
⑴平城京遷都と﹁奈良﹂の由来
第八回テーマ
﹁古代国家の動揺
﹁日本﹂が使用された最古の例ということになる。
︵影山
博︶
し ご う
その祭神天照大神の子孫=日の御子を意識し、日の出の国と
して﹁日本﹂の国号を定めたのであろう。
天皇の称号がいつ頃から用いられるようになったのかはよ
く判っていないが、五∼六世紀の金石文には﹁大王﹂とある
ので、まだ天皇の称号は成立していなかった。
﹁天皇﹂号の
最古の用例は﹃法隆寺金堂薬師如来像光背銘﹄で、七世紀に
入ってからのものである。
﹃日本書紀﹄によると、六〇八年、
小野妹子が持参した国書に﹁東の天皇、敬みて西の皇帝に曰
す﹂とあるので、聖徳太子の時に天皇号を用いた可能性もあ
るが、﹃日本書紀﹄は編纂時に改変がなされたといわれてお
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他、都に通ずる官道︵駅路︶を整備し、天武天皇の富本銭に
城 京 ﹂ が 造 ら れ、 遷 都 し た。 時 の 元 明 天 皇 は、 都 の 整 備 の
の場である内裏、政務・儀礼を行う大極殿・朝堂院・諸官庁
には外京がつくられた。北部中央の平城宮には、天皇の生活
中央を南北に走る朱雀大路により左京と右京にわけられ、東
平 城 京 は、 唐 の 都︵ 長 安 城 ︶ に 倣 い、 東 西・ 南 北 に 走 る
道路で碁盤の目状に整然と区画︵条坊制︶されていた。都は
すれば﹁ふみならした平な都﹂という意味になろうか。
続けて、唐に倣い和同開珎を鋳造した。また蝦夷・隼人を征
などが設けられ、京内には貴族・官人・庶民の住宅が軒を並
わが国の律令国家は名実ともに完成したといわれる。そして
伐して国域を拡大もした。国史の編纂では、天武天皇の﹁帝
和銅三年︵七一〇︶には、律令国家の完成にふさわしい﹁平
記﹂﹁旧辞﹂に続いて﹃古事記﹄
﹃日本書紀﹄を編纂し、天皇
○政争劇の端緒
⑵奈良時代の政争史
あった。
壁という豪壮な建物は、まさに律令国家にふさわしいもので
べていた。その他、南都七大寺と称される大寺院が建立され
み や こ
の権威発揚を押し進めた。これらの事業を助けたのが、鎌足
ら
たり、移建されたりして甍を誇っていた。青瓦・朱塗柱・白
な
かくして﹁青丹よし 寧楽の京師は 咲く花の 薫ふがご
あ お に
の子藤原不比等であった。
とく
︵小野老︶とうたわれた平城京を舞台に
今盛りなり﹂
貴族中心の政治が展開され、また円熟した唐の文化を導入し
て﹁天平文化﹂が花開いた。しかし、この繁栄は前半の約三
〇年に集中しており、天平年間以降は、古代国家の動揺期に
入り、藤原氏の台頭に伴い、旧来の有力諸氏が後退する政争
持統天皇︵天武天皇皇后︶はわが子草壁皇子の生んだ文武
天皇を後継者と定め、藤原不比等の娘宮子を妃とし、その子
聖武天皇に皇位を伝えて、藤原氏との密接な協力関係のもと
の時代を迎えた。さらに土地制度の面でも大きな変革期であ
り、疫病の大流行などとあわせ社会不安が増大した。
に、この系統のみによる皇位継承を図った。しかし、この路
線は天平年間に入ると次第に貴族間に皇位をめぐる対立・抗
○奈良の由来と平城京
安積親王が早世すると、聖武天皇には男子の後継者がいなく
あ さ か
争を生じさせることになった。ことに天平一六年︵七四四︶
、
代の天皇が皇位を継承した。
﹁奈良﹂とは元来﹁ならの都城﹂
なり、光明皇后との間に儲けた女の阿倍内親王︵孝謙・称徳
﹁奈良時代﹂は和銅三年、元明天皇の遷都に始まり、延歴
一 三 年︵ 七 九 四 ︶ の﹁ 平 安 京 ﹂ 遷 都 ま で を い い、 そ の 間 七
の 漢 風 雅 称 で あ り、﹁ な ら ﹂ と は﹁ 平 ﹂ の 意 で あ る。﹁ 那 羅
天皇︶を皇太子に立てたが、それがかえって皇族・貴族間の
抗争に拍車をかけることになった。
坂 ﹂ と か﹁ 乃 楽 山 ﹂ な ど と も 記 さ れ て お り、 地 名 と し て の
﹁なら﹂は﹁ふみならす﹂という意味でもある。従って要約
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○長屋王政権︵七二〇∼七二九︶
元正・聖武朝
高市皇子の子、正室は吉備内親王︵元明天皇の女、元正天
皇の妹︶。神亀元年︵七二四︶、聖武天皇が即位すると、不比
等 の 子 藤 原 四 子︵ 武 智 麻 呂・ 房 前・ 宇 合・ 麻 呂 ︶ と 対 立 し
た。神亀五年︵七二八︶、基皇子︵光明子の子︶が生後二か
あ さ か
月で皇太子になると藤原四子は成長を期待したが、わずか二
歳で死亡。聖武天皇夫人︵県犬養広刀自︶が安積親王を生む
と藤原四子は、光明子を皇后に立てることを計画した。
聖武朝
長屋王の変 天平元年︵七二九︶光明子の立后に関し、長
屋王の反発を予想した藤原四子は、策謀により長屋王を自
殺に追い込んだ。
○藤原四子政権︵七二九∼七三七︶
天 平 元 年︵ 七 二 九 ︶、 光 明 子 を 皇 后 に す る こ と に 成 功 し、
実権を握る。天平九年︵七三七︶、天然痘により相次いで病
聖武朝
死。藤原氏は一時勢力が衰退した。
かつらぎおう
○橘諸兄政権︵七三七∼七四九︶
皇族出身で、葛城王と云った。母は県犬養三千代︵後に藤
原不比等の室︶である。吉備真備・僧玄昉を登用した。天平
一〇年︵七三八︶、藤原広嗣は橘諸兄と対立し、大宰少弐と
して大宰府に左遷された。
、吉備真備・僧玄昉の
藤原広嗣の乱
天平一二年︵七四〇︶
排除を求め、九州︵大宰府︶で兵を挙げたが、鎮圧された。
天平一三年︵七四一︶、国分寺建立の詔を出して、諸国に
国分寺・国分尼寺を建立させる。
開眼供養の儀式が執行された︶
。
孝謙・
天平一五年︵七四三︶、紫香楽宮で大仏造立の詔を発する
︵その後、大仏造立は奈良で続けられ、天平勝宝四年に完成、
天平勝宝八年︵七五六︶、左大臣を辞職。
○藤原仲麻呂︵恵美押勝︶政権︵七四九∼七六四︶
淳仁朝
武智麻呂︵藤原南家︶の子。光明皇太后・孝謙天皇の庇護
を受け、勢力を伸ばした。
橘奈良麻呂の乱 天 平 宝 字 元 年︵ 七 五 七 ︶、 橘 諸 兄 の 子 の
奈良麻呂が仲麻呂を倒そうとしたが、逆に滅ぼされた。
、淳仁天皇が即位、仲麻呂は﹁恵
天 平 宝 字 二 年︵ 七 五 八 ︶
美押勝﹂の名を賜り、権力を独占した。天平宝字四年︵七六
〇︶、太政大臣に就任したが、後ろ盾であった光明皇太后が
崩御すると、僧道鏡を寵愛する孝謙上皇が淳仁天皇と対立、
仲麻呂は危機感を募らせた。
、道鏡の失脚を企
恵美押勝の乱
天 平 宝 字 八 年︵ 七 六 四 ︶
て挙兵したが失敗し、斬られる。淳仁天皇は廃されて淡路
称徳朝
に流され、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となった。
○道鏡政権︵七六四∼七七〇︶
帰 化 系 氏 族 の 弓 削 氏 出 身。 仏 教 政 治 を 展 開 し、 西 大 寺 の
造営など活発に造寺・造仏を行う。天平神護元年︵七六五︶
、
太 政 大 臣 禅 師、 翌 年 法 王 と な っ て 権 力 を 握 り、 仏 教 政 治 を
行った。
宇佐八幡宮神託事件 神 護 景 雲 三 年︵ 七 六 九 ︶、 称 徳 天 皇
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が道鏡に皇位を譲ろうとする事件がおこったが、和気清麻
と、文武百官がしたがい、インド僧菩提を導師に僧一万が集
れた。儀式には、聖武上皇・孝謙天皇・光明皇太后臨席のも
宝 亀 元 年︵ 七 七 〇 ︶、 称 徳 天 皇 が 崩 御 す る と、 後 ろ 盾 を
失った道鏡は退けられ、下野国薬師寺の別当として追放され
○良弁と行基
ものであった。
まって読経し、その様は正に﹁鎮護国家﹂を象徴する荘厳な
呂によって阻止された。清麻呂は大隅国に配流。
た。藤原百川・永手らにより、天智天皇の孫で六二歳の光仁
良弁︵六八九∼七七三︶
百済系の渡来人の子孫。聖武天皇の﹁護持僧﹂として活躍
した。天皇の大仏造立の発願の際、
﹁華厳経﹂との関連から
天皇が擁立され、律令国家の再建に着手した。
⑶聖武天皇の仏教政策
造仏を進言した。天平勝宝四年︵七五二︶の大仏開眼供養の
晩年は近江国の﹁石山寺﹂の創建に尽力した。
後、初代東大寺別当になる。弟子の一人に﹁道鏡﹂がいる。
○国分寺の創建と大仏造立
相次ぐ政争や飢饉・疫病などの社会的不安のもと、仏教を
篤く信仰した聖武天皇は、仏教の﹁鎮護国家﹂の思想に基づ
き国家の安定を図ろうとし、国分寺の建立や東大寺の大仏建
国分寺は、玄昉が、則天武后の﹁大雲寺﹂の例にならい、
諸国に二寺院を建立することを進言したことによる。国ごと
僧行基﹂と非難され布教の禁止を命じられた。その後、大仏
令国家の秩序を乱すものとされ、霊亀三年︵七一七︶年﹁小
仏教の菩薩道を実践し、社会事業に貢献した。その活動が律
行基︵六六八∼七四九 ︶
河内の渡来系の氏族に生まれ、薬師寺で修行した。慶雲元
年︵七〇四︶
、独自の布教を開始し、衆生救済をめざす大乗
に国分寺・国分尼寺を設けて、七重塔をつくり、丈六の釈迦
造立が企画されると天平一五年、大仏鋳造の責任者に抜擢さ
立など多くの事業を行った。
像を安置し、金光明最勝王経と妙法蓮華経を各々一部ずつ写
れ、大僧正の地位を与えられたが、大仏の完成を見ることな
︵黒川
澄夫︶
し備えさせた。国分寺には僧二〇人、尼寺には一〇人づつを
く、天平感宝元年︵七四九︶死去した。
置き、国家の平安を祈らせた。
また、聖武天皇は国分寺の創建とともに、総国分寺を創立
して盧舎那仏を造立することを祈願し、
天平一五年︵七四三︶
に 着 手 し た。 近 江 紫 香 楽 宮 で 実 施 さ れ た 計 画 は 困 難 を 極
め た が、 そ の 後 平 城 京 に 還 御 後 に 再 開、 遂 に 天 平 勝 宝 四 年
︵ 七 五 二 ︶ 東 大 寺 大 仏 と し て 完 成 し、 盛 大 な 開 眼 供 養 が 行 わ
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第九回テーマ
﹁平安貴族と浄土教﹂
⑴貴族の信仰
平成一六年三月六日︵土︶
たた
時代、人々は天変地異や疫病の流行の原因を個人の怨霊やそ
うと願う信仰が御霊信仰であった。そのために行われる法会
の他の神仏の祟りと考え、それを鎮め慰め、災難から逃れよ
が﹁御霊会﹂である。奈良時代末期から平安時代にかけて激
しい権力闘争がくりひろげられたが、敗れて非業の死を遂げ
け な い 天 変 地 異 が 起 こ っ た り、 疫 病 が 流 行 す る と 世 の 人 々
た人々がこの世に恨みを残し、それが怨霊となって天災や疫
は、怨霊を鎮める﹁御霊会﹂を催した。貴族の間でとくにそ
うになった。これが﹁本地垂迹説﹂である。鎌倉時代になる
果であるとする、仏=本地、神=垂迹の考え方が流行するよ
こ う し た 神 仏 習 合 の 風 習 は、 平 安 時 代 に な る と ま す ま す
盛んになり、日本の神は衆生を救うために仏が化身された結
うになった。
で読経や祈祷を僧侶が行ったり、神社の祭祀を仏式で行うよ
の寺として神宮寺を建てることも多く見られた。さらに神前
八幡大神宮寺、伊勢大神宮寺などのように、神社の側に附属
社、延暦寺と日吉神社などがその良い例である。また、宇佐
いで御霊会を行ったが、これが八坂神社の﹁祇園祭﹂のはじ
の国数の六六本の鉾を立てて祀り、洛中の男児らが神輿を担
疫病が流行したとき、八坂の牛頭天王の祟りだとして、全国
大に行われるようになった。貞観一一年︵八六九︶
、全国に
︵八六三︶、早良親王ら六人を祀ったのが最初とされている。
祟りで疫病が流行したため、その霊を鎮めるために貞観五年
なった。朝廷自らがとり行った御霊会は早良親王らの御霊の
以降、貴族の精神生活の中で大きなウェイトを占めるように
た早良親王の怨霊に対する桓武天皇の恐怖からであり、それ
代天皇実録﹄によると、藤原種継暗殺事件に関わって自害し
病などの祟りをなすと広く信じられていた。そのため思いが
﹁神仏習合﹂は日本古来の神祇信仰と仏教が結びついて生
み出された独特のもので、既に奈良時代には、神は仏を守る
れが多かった。貴族の社会に怨霊思想が現れるのは﹃日本三
○神仏習合と本地垂迹説
守 社 ﹂ が 建 て ら れ た。 興 福 寺 と 春 日 神 社、 東 大 寺 と 八 幡 神
﹁護法神﹂とされ、寺院守護の目的で寺域内の神を祭る﹁鎮
と、この理想は理論化されるが、神道の側から﹁反本地垂迹
ま た、 延 喜 三 年︵ 九 〇 三 ︶ に、 菅 原 道 真 が 大 宰 府 で 死 ん
だ後、京都に激しく落雷があり、藤原時平一族が横死したの
以後は、疫病が流行するたびに死者の怨霊を鎮める祭りが盛
さ わ ら
説﹂も説かれるようになった。
まりとされている。
ごりょうえ
○﹁御霊会﹂の流行
貴 族 の 間 で は 怨 霊 や 疫 病 の 災 厄 を 逃 れ よ う と す る﹁ 御 霊
信仰﹂も盛んであった。自然観察やその分析が未熟であった
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は道真の祟りだとして、彼を雷神=天神として恐れる人々に
よって天神信仰が起こり、祭神として祭られたのが北野天神
のはじまりである。このように御霊信仰は貴族や庶民の間に
ものいみ
かたたがい
○物忌と方違
に規定したが、その代
陰陽道の浸透は、貴族の生活を様々
ものいみ
表的なものが物忌や方違である。﹁物忌﹂とは、一般的には
慎むべき日のことで、悪い夢を見たとか、凶兆に出会ったと
﹁物忌﹂と書いた札を門に貼ったりして家の中に籠もり、読
か、占いの結果凶と出たなどといった場合、外出を控えたり
貴族の日々の生活に大きな影響を与えたものの一つに﹁陰
陽道﹂がある。陰陽道とは、中国から伝来した陰陽五行説か
が盛んであった平安時代の貴族は特に盛んに行ったらしく、
深く浸透していった。
ら発展した吉・凶・禍・福を判断する方術のことである。天
藤原道長が書いた﹃御堂関白記﹄をはじめ、当時の貴族の日
○陰陽道と陰陽師
地の間の万物はすべて相反する陰と陽の二種の気によって
記には﹁物忌﹂のことが数多く記されている。
生年の干支によって忌むべき方位︵向︶が定まっていたらし
一方﹁方違﹂は、凶成る方位︵向︶を避けて︵方忌︶
、ほ
かに一旦移り、そこから目的地に行くことを言う。古くは誕
かたたがい
経などを行って﹁吉﹂に転ずるのを待つことをいう。陰陽道
生じており、木・火・土・金・水の五つの要素︵五行︶も、
らの消長によって天地の変異・災祥・人事の吉凶が起こると
いが、平安時代中期以降は、天↓神の遊行する方位、平安末
木・火は陽、金・水は陰、土はその中間に当てはまり、これ
するのが陰陽五行説である。日本に渡来したのは六世紀ごろ
記されていた。
方位は、陰陽寮から毎年頒布される﹁具注暦﹂にあらかじめ
期からは金神の遊行する方位を大凶として避けた。凶となる
とされている。
律令時代になると八省の一つ中務省に陰陽寮が置かれ、天
文・暦数の他に天象によって吉凶を知ることを掌った。平安
時代になると、貴族の社会不安と相まって陰陽道が盛んとな
わざわい
り、歳月・日時・方位などの上に複雑な禁忌︵タブー︶をも
うけて、人生全般を律し、福を招き禍を避けるために、いろ
○末法思想と浄土教
⑵貴族と浄土教
はらい
活躍が顕著となり、陰陽頭賀茂保憲の子光栄や、弟子の安倍
け摂関政治の時期には、陰陽道に通じた陰陽師が現れ、その
ようとする浄土教が流行した。この浄土教が広まるのには末
浸透した。一方、来世での幸福を説いて現世の不安から逃れ
平安時代、貴族の間では天台・真言宗の深秘的な信仰に、
この世での幸福即ち現世利益を祈る信仰が結びついた仏教が
の六曜、鬼門・丙午などは、陰陽道の名残りである。とりわ
ひのえうま
いろな祓の式を行った。今でも行われている大安・友引など
晴明といった優れた陰陽師が現れた。
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法思想の普及が無縁ではない。
かった。藤原道長の法成寺阿弥陀堂、その子頼通の平等院鳳
凰堂はその代表例である。また奥州平泉の中尊寺金色堂や白
○空也と源信
の有力者にも広まっていったことの証である。
水阿弥陀堂、九州豊後の富貴寺大堂などは、浄土信仰が地方
で あ る。 つ ま り 正 法 と は 釈 迦 入 滅 後 も そ の 教 え が よ く 実 践
﹁末法思想﹂とは釈迦入滅後の時を基準とし、仏教が流布
す る 時 代 を 正 法・ 像 法・ 末 法 に 三 区 分 す る 仏 法 上 の 年 代 観
される時代、像法とは、正法がやや薄らぎはするものの、依
空也︵九〇三∼九七二︶
出 自 は 皇 族 と も い わ れ て い る が 不 明 で あ る。 二 〇 歳 前 半
に、尾張国の国分寺で得度し、天暦二年︵九四八︶に延暦寺
然、教えと実践︵行︶は残り、造寺、造仏が盛んに行われる
時代、末法とは、釈迦の教えは全く姿を消し、諸々に災厄が
起こり、闘争がくり返され、この世も仏教も滅んでしまう時
に入山したといわれている。その後下山し、京都市中で遊行
思想は、貴族層のみならず地方民衆の間にも広がり、救いを
日本では後冷泉天皇の永承七年︵一〇五二︶が末法元年と
され、世の中の終焉が来ると信じられていた。こうした末法
出る六体の小仏は﹁南無阿弥陀仏﹂という音声を彫刻化した
同寺の﹁空也像﹂はその特異な形でも知られる。口の中から
寺を建ててここに住んだが、これが後の六波羅蜜寺である。
た。疫病が流行した折、その平癒を祈って賀茂川の東に西光
し、
﹁念仏﹂の教えを説いたので市聖とか阿弥陀聖と言われ
求 め て 阿 弥 陀 仏 へ の 信 仰 が 広 ま っ た。 そ う し た 中 に あ っ て、
代、と経典に説かれている。
民間に浄土信仰を広めていったのが、教団に属さず、諸国遊
し ゃ み
ものであり、一三世紀前半、運慶の四男康勝によって造られ
ひじり
行した聖とか沙弥と呼ばれる僧たちであった。
たものである。
ので﹁恵心僧都﹂と言われた。その後浄土教に傾倒して下山
大 和 国 城 郡 当 麻 郷 に 生 ま れ、 一 三 歳 で 出 家 し て 比 叡 山
横 川 に 入 り、 天 台 宗 を 学 ん だ。 横 川 の ﹁ 恵 心 院 ﹂ に 住 ん だ
源信︵九四二∼一〇一七︶
る。平安時代浄土教を最初に市中で唱えたのは、市聖と呼ば
し、寛和元年︵九八五︶、四四歳の時に﹃往生要集﹄を著し、
﹁ 浄 土 教 ﹂ と は、 阿 弥 陀 仏 の 慈 悲 に よ り そ の 極 楽 で あ る 浄
土に往生することを求めるものであり、﹁南無阿弥陀仏﹂と
れた空也上人であり、その教えを理論体系化したのが﹃往生
ひたすら念仏を唱えればそれが実現できると説く教えであ
要集﹄の著者源信︵恵心僧都︶であった。
浄土教を理論化した。﹁念仏﹂の意味を明解に説いた﹃往生
び、源信在世の時代から、多くの写本が作られ、広く愛読さ
要集﹄は、仏教界のみならず、貴族たちにも大きな反響を呼
○浄土教の広がり
浄 土 教 の 信 仰 の 拡 大 に よ り、 貴 族 の 中 に は 阿 弥 陀 如 来 の
いる極楽浄土を再現しようとして阿弥陀堂を建立する者も多
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○薬子の変
平城天皇の寵愛を受けた藤原薬子とその兄仲成は天皇の
譲位によって勢力が衰えた。そこで、二人は勢力の回復を狙
い、弘仁元年︵八一〇︶都を平城京へ戻し、平城上皇の重祚
を計ろうとしたが失敗し、仲成は射殺された、上皇は平城京
で出家し、薬子は毒を飲んで自殺した。この事件を薬子の変
という。
の秘書官長で、天皇への上奏および命令の下達を担当したの
平成一六年四月一七日︵土︶
︵黒川
澄夫︶
れた。藤原道長もその一人であり、三蹟の一人藤原行成に写
本を作成させている。
第一〇回テーマ
﹁平安時代の政治史﹂
⑴平安時代初期の政治
で大きな権力を有し、冬嗣はこれを利用して北家興隆の基礎
たのが、藤原北家出身の冬嗣であった。蔵人頭はいわば天皇
天応元年︵七八一︶、高齢の父光仁天皇が退位すると、八
年間皇太子の地位にあった桓武天皇が即位した。桓武天皇は
の事件に際し、嵯峨天皇は情報収集と機密保持のため、
くろこ
うどのとう
蔵人頭という新しい官職を設置した。この蔵人頭に任命され
仏 教 政 治 の 弊 害 を 断 ち、 天 皇 権 力 を 強 化 す る た め に、 平 城
を築いた。
○平安遷都と桓武天皇
京から長岡京に遷都した。しかしこの遷都事業は建設の長官
⑵摂関政治
であった藤原種嗣の暗殺などがあって断念した。その後、和
気清麻呂の発議によって平安京遷都が計られて、延暦一三年
○承和の変
位した平城天皇も父帝の政策を受け継ぎ律令体制の再建に努
大将軍坂上田村麻呂の活躍はよく知られている︶。続いて即
方、国土拡大を目指して蝦夷征討にも成果をおさめた︵征夷
都 を 平 安 京 に 遷 し た 桓 武 天 皇 は、 律 令 政 治 の 再 建 に 努 め
た。仏教界の革新、地方政治の刷新、兵制改革などを行う一
脚し、藤原氏が権力を振るうための他氏排斥の先例となる事
た。この変の結果、古代からの有力氏族であった大伴氏が失
こうして、良房は皇太子の外戚という立場を得ることになっ
嗣の子︶の妹順子の子であり、女明子も皇太子妃となった。
に道康親王が皇太子に冊立された。道康親王は藤原良房︵冬
の罪で捕らえられた。これによって恒貞親王は廃され、新た
が幕を開けることになった。
︵ 七 九 四 ︶ に 実 現 し た。 こ こ に 約 四 〇 〇 年 に わ た る 平 安 時 代
めたが、病弱でわずか四年で退位して皇位を弟の嵯峨天皇に
承和九年︵八四二︶、嵯峨上皇の死の直後、伴健岑・橘逸
勢らが、皇太子恒貞親王を即位させようとしたとして、謀反
譲った。
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皇の外戚として権力を握り、天安元年︵八五七︶には人臣で
らに明子の生んだ惟仁親王を皇太子とした。ここに良房は天
は仁明天皇が崩じ、道康親王が即位して文徳天皇となり、さ
件となった。これを承和の変という。嘉祥三年︵八五〇︶に
という。
この天皇親政の時期を、その年号に因んで﹁延喜・天暦の治﹂
醐・村上天皇の治世も摂関を置かず、天皇親政を実行した。
を登用し、摂政・関白を置かずに天皇親政を行った。続く醍
ありながら太政大臣の地位に上った。
この時代は藤原氏にとっては一つの危機であったが、次の
冷泉天皇の時代を迎えると、藤原氏は再び大きな権力を握る
面の正門である応天門が炎上するという事件が起き、大納言
文武天皇が崩御し、惟仁親王が即位して清和天皇となると
良房はその政務を代行した。貞観八年︵八六六︶、朝堂院南
が始まった。
任した。ここに藤原氏の他氏排斥は終了し、摂関常置の時代
共謀者として高明が大宰府に左遷され、藤原実頼が関白に就
妃とする守平親王が皇位を狙っているとの疑いから失脚し、
に至る。すなわち安和二年︵九六九︶
、左大臣源高明の女を
伴善男はこれを左大臣源信の所業として糾弾したが、良房の
○藤原兼家と道長
○応天門の変と摂関政治の出現
弁護によってことは一応落着した。ところが、偶然のきっか
醍醐・村上の治世下のように摂関空白の時代もあって、藤
原氏の地位はまだ不安定なものがあった。この摂関の地位が
けで真犯人が伴善男であることが判明し、善男は放火の罪で
捕らえられ、伊豆に流され、共謀者の紀豊城も安房に配流と
なった。この事件の後、不安定な政局の中で、良房が清和天
安定し、飛躍的に発展するのは藤原兼家の代であった。兼家
即位とともに実質的な関白になり、宇多天皇即位の際には正
良房のあとを継いだ養子の基経は、陽成天皇が即位すると
摂政になり、その後数代の天皇に仕えた。とくに光孝天皇の
の兼家が築き上げた権力を受け継ぎ、摂関政治全盛の時代を
族とは家柄において格段の違いがあることを明確にした。そ
位を一気に引き上げ、廟堂の枢要を独占し、摂関家が他の貴
で摂政に就任すると、その地位を利用して、自分の子弟の地
皇の外戚として、人臣として最初の摂政に就任した。
式に関白に就任し、ここに摂関政治の形が整っていった。こ
創出したのが道長である。
は実頼の弟師輔の子として生まれ、兄兼通の死後、自らの力
うして藤原北家の勢力は急速に強大となっていったが、まだ
天皇を儲けさせた。その繁栄ぶりは﹁此世をば
我が世とぞ
道長は宿敵であった甥伊周の失脚後、政権の座に就き、四
人 の 女 を 天 皇 の 后 妃 に 入 れ、 後 一 条・ 後 朱 雀・ 後 冷 泉 の 三
この段階では決定的に国政を掌握するまでの力を得るまでに
は至っていない。
○延喜・天暦の治と安和の変
基 経 の 死 後、 藤 原 氏 を 外 戚 と し な い 宇 多 天 皇 は 菅 原 道 真
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思ふ
﹃小右記﹄
︶
望月の
かけたることも
無しと思へば﹂︵
という道長が詠んだ和歌に象徴されている。かくして道長は
直系に皇位を継承していこうとする白河天皇の強い意志が、
八六︶天皇自身の子である堀河天皇に皇位を譲った。自らの
皇は、弟の輔仁親王への皇位継承を嫌って、応徳三年︵一〇
法成寺に隠退して﹁御堂関白﹂と呼ばれた。
条天皇が即位した。それにより、摂関の地位は低下し、摂関
天皇の外戚になることが出来ず、藤原氏を外戚としない後三
占した。しかし、頼通はその女が皇子を儲けなかったために
その子の頼通はこの権力基盤をそっくりそのまま受け継
ぎ、三代の天皇の治世下五〇年にわたり摂関として政権を独
態﹁院政﹂が開始されることになった。
直系尊属である院︵上皇・法皇︶が政治を行う新しい政治形
皇が後見役として政治を行うこととなった。こうして天皇の
め、後見役を務めることが出来ず、天皇の父帝である白河上
後見役が必要であったが、摂関家は天皇の外戚でなかったた
河天皇はわずか八歳の幼少の天皇であった。幼少の天皇には
こ の 皇 位 継 承 実 現 の 背 景 に は あ っ た が、 こ の 時 即 位 し た 堀
政治は終焉を迎えることになる。失意の頼通は宇治に建てた
○院政
平等院に隠棲し、
﹁宇治関白﹂と言われた。
⑶天皇親政と院政
園を停止するという法令であったが、この法令が出されたこ
令である。これは、年代の新しい荘園や証拠書類の不備な荘
えるのが、延久元年︵一〇六九︶に出された延久の荘園整理
摂関家を外戚としない後三条天皇は、摂関家に気兼ねする
ことなく、大胆な改革を断行した。その改革の集大成とも言
顕隆は﹁夜の関白﹂といわれるほど絶大な権力を持った。こ
を笠に着て、権力をふるう者も少なくなかった。中でも葉室
を歴任して巨富を蓄える者も多くいて、院に接近しその権威
彼らのなかには上皇の乳母の近親者であったり、諸国の国司
秩序の中では身分はさほど高いものではなかった。しかし、
る院の側近達の多くは中・下流貴族出身者であり、律令制的
員として別当以下の院司を任命した。中でも院近臣と呼ばれ
とによって、最大の荘園領主であった藤原摂関家は少なから
のように院による政治は、従来の官位体系を無視し、院の側
、約一〇〇年間
院政は白河・鳥羽・後白河の三上皇により
いんのちょう
にわたって行われた。院はその在所として院庁を設置し、職
ず打撃を被ることになった。これによって摂関家の権威は低
○後三条天皇の政治
下していくことになり、かわってこの改革を断行した天皇の
近達を中心にして行われたが、こうした政治体制が院近臣の
政権成立の一要因ともなった。
台頭をまねき、天皇や摂関家との不和対立を生じさせ、平氏
権威は著しく上昇していった。
後三条天皇は病気のため、わずか四年半で白河天皇に譲位
し、延久五年︵一〇七三︶に崩御した。あとを継いだ白河天
Ƚ
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に与えられたものであった。中でも桓武天皇の曾孫高望王か
﹁ 平 ﹂ 姓 は 桓 武・ 仁 明・
平 氏 は も と も と 皇 族 出 身 で あ る。
文徳・光孝の各天皇から出た皇族が臣下の身分になったとき
止符を打った。この後、頼朝は鎌倉に幕府を開き、ここに約
年︵一一八五︶
、源頼朝が壇の浦の戦いで平氏を滅ぼし、終
と呼ばれる内乱の時代に突入していった。この内乱は文治元
︵一一八〇︶に後白河の皇子以仁王の令旨が出されると、源
を 契 機 に 平 氏 打 倒 の 動 き が 本 格 化 し て い っ た。 翌 治 承 四 年
らはじまる桓武平氏が最も栄え、歴史上重要な役割を演じて
四〇〇年間にわたる平安時代は幕を閉じるに至った。
○平氏政権
いく。この桓武平氏のうち伊勢地方に土着した一族を伊勢平
2
頼
忠
︵筒井
健介︶
氏を中心に各地で平氏打倒の挙兵があり、治承・寿永の争乱
氏といったが、この伊勢平氏から出た平正盛が院近臣となっ
て政界進出を果たした。続く忠盛も院近臣として海賊平定な
摂関家略系図
実
頼
伊
周
Ƚ
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どに活躍し、また日宋貿易に尽力するなど、平氏発展の基礎
忠
平
隆
家
実
資
頼
通
道
長
10
をつくりあげた。そして、この忠盛のあとを継ぎ平氏政権全
斎
敏
伊
尹
3
盛の時代を築いたのが平清盛であった。
師
輔
兼
通
道
隆
7
平 清 盛 は 保 元 元 年︵ 一 一 五 六 ︶ の 保 元 の 乱、 続 く 平 治 元
年︵ 一 一 五 九 ︶ の 平 治 の 乱 で 対 立 勢 力 を 一 掃 す る と、 仁 安
4
※数字は摂政・関白になった順序
6
5
兼
家
道
兼
8
道
綱
9
二年︵一一六七︶には武家としてはじめて太政大臣に就任し
た。そして自分の女である徳子を高倉天皇に入内させるなど
し、さらには平氏一門で高位高官を独占するなど、権勢を極
めた。その状況は平時忠の﹁此一門︵平氏一門︶にあらざら
む人は皆人非人なるべし﹂
︵
﹃平家物語﹄
︶という一言に集約
されているといってよい。
かくして平氏政権は清盛の代にいたって栄華の絶頂に達
す る が、 政 権 か ら 除 外 さ れ た 院 近 臣 や 源 氏、 藤 原 氏 な ど の
旧 勢 力 が こ れ に 反 発 し、 や が て こ れ ら の 勢 力 を 中 心 に 鹿 ヶ
谷の陰謀事件など平氏打倒の動きが起こった。そして治承三
年︵ 一 一 七 九 ︶
、清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する事件
1
第一一回テーマ
﹁年中行事﹂
⑴日本の年中行事
○年中行事とは何か
平成一六年五月一日︵土︶
毎年一定の時がくると、同じ様式の習慣的な営みが繰り返
されるような伝承的行事をいう。ただし、それは個人的なも
のではなく、ある集団とか地域社会で共通に営まれる行事を
いう。
自然の動きに敏感であった我々の祖先は、一年間をいくつ
かの節に分け、自分たちの生産活動、特に農作業のリズムに
合わせて祭りを行ってきた。
そこへ欽明天皇一四年
︵五五三︶
、
中国から暦法が移入された。その暦をそのまま日本で実行す
る こ と に は 無 理 が あ っ た が、 新 し い 暦 に あ わ せ て 古 来 の 祭
り を 当 て は め た の で あ る。 そ こ に は か な り な 無 理 が あ っ た
が、一方では日本人の工夫の結果であるともいえる。年中行
事は日本人の自然観や農耕儀礼、神観念や世界観などの現れ
であるといえよう。
それは、公家・武家の間で行われてきた﹁公武年中行事﹂
と 庶 民 の 間 で 行 わ れ て き た﹁ 民 間 年 中 行 事 ﹂ と に 大 別 さ れ
る。前者は中国の影響を強く受け、後者は農耕儀礼を基盤に
したものが多いが、両者はともに影響しあい多様な発展をと
げてきた。
立春の前 節分
一五日
七日
一日
小正月
七草
元日
月の満ち欠けを暦にしていた頃は満月
から満月までが一ヶ月であったから一
月 一 五 日︵ 旧 暦 で は 満 月 ︶ は 年 の 始 め
であった。
七草粥を食して祝う
年の初めを祝う
○月別年中行事
一月
二月
大寒の末日冬の節が終わって春の節に
移 る 時、 正 月 行 事 が 節 分 に 移 行 し た も
の が 多 い。 鬼 の 侵 入 を 防 ぐ た め、 柊 や
と べ ら の 枝 を 戸 口 に 挿 し、 悪 臭 の す る
も の を 火 で あ ぶ っ た り す る。 特 に 豆 を
ついな
撒いて鬼を追う追儺の行事は広く行わ
れている。
初午
雛を飾り女子の成長を祈る行事。
二月の最初の午の日に稲荷神社を祭る。
豊作を祈る祭り。
四日
雛祭り
祈年祭
三日
八日
こどもの日︵端午の節句︶
花祭り
三月
四月
五日
七夕
春 分 の お彼岸
日
五月
七日
釈迦の誕生日
七月
短冊に歌や文字を書き技芸の上達を祈
きこうでん
る。 中 国 の 牽 牛・ 織 女 の 伝 説 と 乞 巧 奠
の 風 俗 が 輸 入 さ れ、 我 が 国 固 有 の
たなばたつめ
棚機女に関する信仰が集合したもの。
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七月
九月
一〇月
一五日
お盆
勤労感謝の日
十三夜
秋分の日 お彼岸
十五夜
一一月 二三日
一三日から一六日までを盆の期間とす
る 地 方 が 多 い が、 地 方 に よ っ て こ と な
る。 ま た、 月 遅 れ の 八 月 に 行 う 地 方 も
あ る。 仏 教 の 死 者 を 祭 る 行 事 と、 我 が
国固有の祖先を祭る祖霊祭とが集合し
たもの。
旧 暦 八 月 一 五 日 満 月 の 夜、 す す き や 団
子・ 果 物 な ど を 供 え る 行 事。 芋 名 月 と
も い う。 芋 を 食 す る 風 習 を 残 し て い る
地方もある。
旧 暦 九 月 一 三 日 豆 名 月 と も、 栗 名 月 と
も い う。 月 に す す き や 団 子・ 果 物 な ど
を 供 え る の は 同 じ。 十 五 夜・ 十 三 夜 共
に、 稲 作 を 行 う 以 前 の 縄 文 文 化 の 収 穫
感謝祭の名残
新 嘗 祭︵ に い な め さ い ︶ 新 穀 を 神 に 捧
げ、収穫を感謝する祭り。
一 年 で も っ と も 日 照 時 間 の 短 い 日。 南
瓜 を 食 べ、 柚 子 湯 に 入 る 風 習 は 広 く 行
われている。
人日︵じんじつ︶ 三月三日 上巳︵じょうし︶
端午︵たんご︶ 七月七日 七夕︵たなばた︶
重陽︵ちょうよう︶
一二 月 冬至
○五節供
一月七日
五月五日
九月九日
古く、中国では奇数の重なる日を﹁重日﹂として祭りを行
う風習があり、それが日本に伝えられ、日本古来の年中行事
の中にとりいれられて広まったが、江戸時代になり、幕府は
上記の日を式日として定めた。明治になって廃されたが、民
間の行事としてよく行われ、中でも三・五・七月の節供は今も
盛んである。
○二十四気
一年を太陽の動きに合わせて二四に分けたもの
立春 冬至から数えて四五日目を立春とし立夏までを春
の季節とした。
雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・
夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒路・
霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒
○国民の祝日に関する法律
⑵国民の祝日
昭和二三年に制定、昭和四一年・同四三年・同六〇年・平
成元年・同七年・同一〇年・同一三年に改訂された。
第一条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい
風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあ
げるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は、記
念する日を定め、これを﹁国民の祝日﹂と名付ける。
第二条
元
日
一月一日
年のはじめを祝う。
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成人の日
一月の第二日曜日
おとなになったことを
自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげま
す。
建国記念の日
政令で定める日
建国をしのび、国を愛
する心を養う。
春分の日
春分日
自然をたたえ、生物をいつくしむ。
みどりの日
四月二九日
自然に親しむとともにその恩
恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。
憲法記念日 五月三日 日本国憲法の施行を記念し、国
の成長を期する。
天皇誕生日
一二月二三日
天皇の誕生日を祝う。
第三条
﹁国民の祝日﹂は、休日とする。
2 ﹁国民の祝日﹂が日曜日にあたるときは、その翌日
を休日とする。
3 その前日及び翌日が﹁国民の祝日﹂である日︵日曜
日にあたる日及び前項に規定する休日にあたる日を除
く。
︶は、休日とする。
※建国記念の日となる日を定める政令︵昭和四一年
政令第
三七六号︶
国民の祝日に関する法律第二条に規定する建国記念の日
に、海洋国日本の繁栄を願う。
敬老の日 九月の第三月曜日 多年にわたり社会につく
してきた老人を敬愛し長寿を祝う。
海の日
七月の第三月曜日
海の恩恵に感謝するととも
日と言える。昔から新年を祝う行事は、伝統的に、また地
な決意をする。元日は、老若男女を問わず、一年の出発の
元日
新しい年を新たな決意で迎えることは、どこの国でも
同じ。観念的でなく実生活のなかでの、希望に燃えた新た
○制定の由来
は、二月十一日とする。
秋分の日
秋分日
祖先をうやまい、なくなった人々を
しのぶ。
し、国民生活のなかで育くまれ、うけつがれてきた。した
こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こども
の幸福をはかるとともに、母に感謝する。
体育の日
一〇月の第二月曜日
ス ポ ー ツ に し た し み、
健康な心身をつちかう。
げられた。一般に、正月は一日、二日、三日の三が日を祝
成人の日
青年が一人前の成人として、国家社会の建設に果
い日として国旗をあげて祝う。
がって、祝日制定にあたり、ふさわしい日として、取り上
方色豊かに行われてきた。そのほとんどが国民生活に融和
日 と い う 意 味 で、 祝 日、 年 中 行 事 の 根 本 と も な る 重 要 な
文化の日 一一月三日 自由と平和を愛し、文化をすす
める。
勤労感謝の日 一一月二三日 勤労をたっとび、生産を
祝い、国民たがいに感謝しあう。
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れたのは、古くは正月に元服が行われたことが多かったか
その成長発展を祝福する趣旨で設けられた。一月に決めら
た す 自 覚 を 新 た に し、 国 民 も ま た こ ぞ っ て 青 年 に 期 待 し、
代天皇の皇霊を祀る日で旧制の国祭日の一つであった。
みどりの日
日本は緑豊かな、自然に恵まれた国である。自
然に親しみ、その恩恵に感謝し、豊かな心を育くむことを
ものである。なおこの日は、天皇がみずから皇霊殿で、歴
も、自然と人間生活との関係における季節的意義を含んだ
皇位にあられた昭和天皇の﹁天皇誕生日﹂であり長く国民
願って国民の祝日に決定した。この日は六十余年にわたり
らである。
建国記念の日
二 月 十 一 日 は、 昔、 神 武 天 皇 が 大 和 の 橿 原
の 宮 に お い て 即 位 さ れ た 日 と い わ れ、 紀 元 節 と し て 昭 和
憲法記念日 日本国憲法は、昭和二十一年十一月三日に公布
され、半年後の昭和二十二年五月三日に施行された。憲法
二十三年まで祝われてきた。建国記念の日を制定するにあ
記念日は、その施行された日を記念したものである。昭和
の間に定着していた日である。
け、政令によって﹁建国記念の日は二月十一日とする﹂と
二十二年五月二日、当時の連合国司令長官マッカサー元帥
たり、いつにするかはいろいろ意見があったが、もっとも
定められた。わが国が現在のような繁栄と平和を享受でき
ふさわしい日ということで、建国記念日審議会の答申を受
るのも、幾多の困難を克服し、国の進路を拓いてきた先人
こどもの日
こどもは、家庭のこどもであると同時に、社会
や国家のこどもである。明日の日本の担い手となることを
は、吉田茂首相に書簡を送り、日本国旗の掲揚権を日本国
認識し、国民こぞってこどもの養育に責任を負い、こども
民に返還した。これにより、その都度、申請により許可さ
春分の日
春分は、昼と夜の長さがほとんど同じである。仏
教で言う彼岸七日間の中日と言われる日だが、祝日に制定
の幸福をはかり、こどもを祝福しようとして制定された。
たちの不断の努力によるものである。こうした日本人の特
されたのは、仏教的意義に従ったものではない。この日を
五 月 五 日 は か つ て 五 節 供 の 一 つ で、 男 子 の 誕 生、 成 長 を
質は、長い歴史と伝統のなかで培われたものである。建国
境 に 昼 が 長 く な る 春 分 は、 自 然 の 季 節 的 な 区 切 り で あ り、
祝う行事が多かったが、これは、中古、五日節会︵いつか
れていたのを国会議事堂や首相官邸などの特定の場所で許
自然と人間の関わり方による生活のけじめを付ける意味
のせちえ︶が武徳殿︵ぶとくでん=宮中の建物の一つ︶で
記念の日は、建国の昔をしのび、今日の発展の礎を築いた
がある。春は長い冬ごもりをしてきた生き物が、生気に満
開かれ、近衛府の騎射の行事が行われたことが源流であろ
されるようになり、やがて自由に掲揚できるようになった。
ちて萌えはじめ、動きはじめるように、人間の生活にも新
遠い祖先に感謝する日である。
しい希望と活力がわいてくる季節である。春分の日の意味
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う。武士の時代になってからは、流鏑馬など武力ばった行
てきた。
においても、一般においても彼岸として祖先を祭る日とし
日に制定されたものではないが、古くは皇霊祭として宮中
体育の日
以前は、スポーツ振興法によって十月の第一土曜
日 が﹁ ス ポ ー ツ の 日 ﹂ と さ れ て い た が、 一 般 に は 浸 透 し
事が多く、江戸時代になってからは、五節供の一つとして
な か っ た。 十 月 十 日 は、 昭 和 三 十 九 年 に 開 催 さ れ た オ リ
重んじられた。しかしもっと古くは、五月は田植えの時期
た。今でも五月の節供を女の家と称する地方があることは
ンピック東京大会の輝かしい成果と感激を記念し、これに
で、田植えの前に女性が家に籠もって、神を祀る時であっ
その名残である。こどもの日は、日本の古い伝統による日
設することを願って制定された。
や体力の増進につとめ、ひいては明るく住み良い社会を建
よって体育の重要性について認識を深め、国民が一層健康
でもある。
海の日
わが国は、四面を海に囲まれた海洋国で、古来より
海と深く関わってきた。最近では、海洋開発など海の利用
も多様化し、さらに地球環境の保全という観点からも、海
文化の日
日本の文化の進展を振り返り、将来に向かって新
しい決意で進もうという意味で制定された。この日は、昭
の役割が重用視され﹁海の日﹂が制定された。海の日は、
当初﹁海の記念日﹂であった七月二十日に定められたが、
和二十二年五月三日の日本国憲法施行の日である五月三日
を憲法記念日、昭和二十一年十一月三日の日本国憲法公布
ゆとりある国民生活の実現をはかるため、平成十五年より
敬老の日は、当初﹁老人の日﹂であった九月十五日に定め
健康で、活躍されるよう願う気持ちを込めて定められた。
敬老の日 老人の方々が社会に尽くされてきたことに思いを
いたし、感謝の気持ちを新たにするとともに、これからも
の﹁天長節﹂を残そうと言う運動が起こり、昭和二年﹁明
国家に導かれた明治天皇への国民の思いは篤く、明治天皇
して定着していた。明治天皇の崩御後、激動の日本を近代
明 治 天 皇 の 誕 生 日 で、
﹁天長節﹂として長く国民の祝日と
しかしそれ以前、十一月三日は、四十五年皇位にあられた
﹁七月の第三月曜日﹂に変更になった。
られたが、ゆとりある国民生活の実現をはかるため、平成
治節﹂として定められた。この日が文化の日として制定さ
の日である十一月三日を文化の日ということで決定した。
十五年より﹁九月の第三月曜日﹂に変更になった。それに
勤労感謝の日 勤労を喜び楽しむことは、生活をより広く深
く す る も の で、 国 民 一 人 一 人 が 勤 労 を 尊 重 し あ う 生 活 を
れたのは、このような歴史がふまえられている。
伴い九月十五日は、祝日ではなくなったが、あらためて、
﹁老人の日﹂として老人福祉法に定められた。
秋分の日 春分の日と同じように、昼と夜の長さがほとんど
同じになる。仏教でいう彼岸の中日だが、仏教的意義で祝
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し、お互いにこの貴い人間の営みに対して、また、この日
を迎えることができた生存のありがたさに対して感謝しあ
わなければならない。十一月二十三日としたのは、この日
⑴鎌倉幕府の成立
第一二回テーマ
﹁鎌倉幕府の成立と朝廷﹂
嘗祭︵にいなめさい︶とは、収穫したばかりの新穀を神に
○﹁武士﹂とは何か。
は明治時代から新嘗祭として祝われてきたことによる。新
捧げ、収穫を感謝する祭りである。日本はかって農業国で
はじめ、民間でも広く行われてきた。稲作は、手をかけれ
た。新嘗祭は、万葉集にも詠われており、古くから宮中を
むらい﹂は貴族に近仕し、警護する﹁さぶらう﹂者から生じ
戦闘に用いる器具すなわち武器からの転用である。また﹁さ
軍事をもって大和朝廷に仕えた武人を指し、
﹁つわもの﹂は
﹁つわもの﹂
︵ 兵 ︶﹁ さ む ら い ﹂
一 般 に 武 士 は﹁ も の の ふ ﹂
もののべ
︵侍︶などと同義である。﹁もののふ﹂は古代の物部に通じ、
平成一六年五月二九日︵土︶
ばかけるほど実りがよくなるので、日本人は勤労を喜びと
たものとされる。
あったから、米の収穫は国民にとって最大の関心事であっ
感じてきた︵これは、勤労を罪悪あるいは刑罰と考えた外
一〇世紀以降、各地に成長してきた豪族︵在地領主︶は、
自己の開発地を自衛し、また勢力を拡大するため武装し、弓
国の発想とはまったく違っている︶。この伝統にのっとり、
農 作 業 だ け で な く す べ て の 生 産 に 感 謝 し、 国 民 全 体 が 勤
労を喜び、生産を祝って国民の生活を強力に推進するとい
て明治・大正・昭和とそれぞれの天皇の誕生日が祝日とさ
天皇誕生日 今上天皇︵現在位についておられる天皇のこと
をいう︶の誕生日である。旧憲法下では、﹁天長節﹂とし
使や滝口の武士などに採用されたり、摂関家の従者として活
なった。その代表ともいえる清和源氏・桓武平氏は、検非違
担 い、
﹁武士の棟梁﹂として大きな武士団を形成するように
在庁官人であった。彼らは辺境の地方において一定の声望を
矢 を 持 ち、 馬 に 乗 っ て 戦 う 武 士 と な っ た。 そ の な か で も 中
れてきた。昭和二十一年に制定された日本国憲法第一条に
躍、 ま た 地 方 の 反 乱 な ど を 鎮 圧 し、 や が て 中 央 政 界 に も 進
う、広く新しい意義を持たせようと制定された。
も、﹁天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であ
着させたことでその力をまざまざと見せつけ、国政上の地位
核 を な す 武 士 た ち は、 土 着 し た 受 領 の 末 裔 で あ り、 国 衙 の
る﹂と定められている。国民統合の象徴である天皇の誕生
出、とくに保元・平治の乱という二度の朝廷内部の紛争を決
日を、国民全体で祝う日である。
︵相
千恵子︶
を急速に上昇させた。
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治 承 四 年︵ 一 一 八 〇 ︶ 八 月、 以 仁 王 の 令 旨 に 応 え て 挙 兵
した源頼朝は石橋山の合戦に敗れ安房に逃れたが、やがて関
申請によって、東海・東山二道の荘園・国衙領を元のごと
二道の支配権を承認された。この寿永の宣旨は、①頼朝の
れた︶、同月一四日に、後白河法皇より東海道・東山道の
○治承・寿永の争乱
東の武士団を結集することに成功し、一〇月に富士川の戦い
①寿永二年の宣旨
寿永二年︵一一八三︶一〇月、源頼朝は
謀反人の名を除かれ︵頼朝は平治の乱に敗れ、伊豆に流さ
で平氏の軍勢を撃破すると東国を支配下に置いた。寿永二年
る。それは頼朝が実力で獲得した東海・東山二道の支配権
く国司・領家に返還せよ。②もしこの宣旨に従わない者が
を朝廷に認めさせた画期的なものであった。学者によって
あ っ た 場 合、 頼 朝 の 命 に 従 い 追 討 せ よ、 と い う も の で あ
し、頼朝の派遣した源範頼・義経の軍勢に京を追われた。範
は、鎌倉幕府がこのとき成立したとみるものもいる。
陸道から源義仲が入京した。しかし義仲は後白河法皇と対立
頼・義経はさらに西国の平氏を攻め、文治元年︵一一八五︶
︵一一八三︶、平宗盛が安徳天皇を奉じて西国に落ちると、北
平 氏 は 長 門 の 壇 の 浦 で 滅 亡 し た。
︵ こ の 源 平 の 争 乱 は、 全 国
②守護・地頭の設置
、平氏が滅亡す
文治元年︵一一八五︶
ると、頼朝の強大化を恐れた後白河法皇は頼朝の弟義経に
︵守護︶を設置する権利。
︶守護に付随した兵糧米徴収権︵その軍事力を行使す
るのに必要とする兵糧米として反別五升を徴収する
権利︶
︶荘園・公領︵国衙領︶に対する支配権。この権限に
沿って置かれたのが地頭である。地頭は年貢の徴収・
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規模で行われた最初の戦いであり、それ以前のいかなる戦い
とも異なって大規模であり、動員兵力も大きかった。
︶
頼朝追討を命じた。これに対して、頼朝は軍を京都に送っ
認めさせた。この時頼朝が得た権限については学会に長い
て法皇に迫り、全国に守護・地頭の設置を要求し、これを
論争があり、決着はついていないが、その権限のおおよそ
○鎌倉幕府の成立
源 頼 朝 は 挙 兵 後 ま も な く 父 祖 縁 の 地 鎌 倉 を 根 拠 地 と し て、
関 東 の 武 士 団 を 組 織 し、 彼 ら と の 間 に 主 従 関 係 を 構 築 し て、
は次の通りである。
︶義経などの謀反人を逮捕するために諸国に惣追捕使
新しい政権の形成を目指した。頼朝に臣従した武士は﹁御家
︵
︵
︵
人﹂と呼ばれ、鎌倉殿頼朝に対し、戦時の軍役や平時の警護
役︵京都大番役・鎌倉番役︶などの﹁奉公﹂に励んだ。頼朝
はそれに対し、彼らの本拠地=名字の地の支配の保障︵本領
安堵︶や新たな所領の恩賞給付︵新恩給与︶を行った。この
よ う に 土 地 の 支 配 を 通 じ て 成 立 す る 主 従 関 係 を﹁ 封 建 制 度 ﹂
という。鎌倉幕府は封建制度に基づいて成立した最初の政権
であり、この制度は鎌倉時代以降の武家政権の骨格となるも
のであった。
1
2
3
皇︵後堀河の皇子︶の死去に際して、幕府が京都の意志を無
鎌倉幕府の成立の画期としては以上二つが重要である。①
は頼朝政権の権力を東国を中心に考えた場合、②は西国をも
には後醍醐の倒幕計画を招き、元弘三年︵一三三三︶
、幕府
皇統に皇位継承から外された後醍醐天皇の反発を買い、つい
権威は確立したのである。しかしこのことは、やがて自身の
納入と土地の管理および治安維持を任とした。
含んだ全国政権と考えた場合の違いで、現在も議論のあると
視する形で、後嵯峨天皇の即位を強行すると、ここに幕府の
ころである。また﹁幕府﹂の語源にこだわるなら、その語が
は滅亡するのである。
○北条氏の台頭
⑴執権政治
第一三回テーマ
﹁執権政治﹂
︵影山
博︶
平成一六年六月一九日︵土︶
広汎な統治権を保持していたのである。
このように、鎌倉時代全期を通じ、天皇︵上皇︶を治天の
君に仰ぐ朝廷は、なお大きな権限を有し、主に西国を中心に
近衛大将の居館や軍事遠征中の征夷大将軍の幕舎を指すこと
から、建久元年︵一一九〇︶
・同三年ということになる。
○朝廷と幕府
⑵鎌倉時代の天皇
﹁鎌倉時代﹂の名称そのものに端的に示されているように、
鎌倉幕府の出現はその歴史の主役が﹁武士﹂=鎌倉幕府に移
行 し、 上 皇 な い し 天 皇 を 頂 点 と す る 公 家 政 権 が 政 治 的 力 を
失ったというのが、教科書的常識である。しかし実際は、幕
府の朝廷に対する影響力は徐々に強まったものの、国政機関
としての太政官機構は厳然として存在したし、一二世紀以来
を天皇に立てたからである。治天の君と天皇を幕府が決定す
鳥羽の同母兄︶を治天の君︵上皇︶に推挙し、その子後堀河
流により、幕府は皇位に就いた経験のない行助入道親王︵後
と こ ろ が、 承 久 三 年︵ 一 二 二 一 ︶ に 起 こ っ た 大 乱 に よ っ
て、この状況は一変する。後鳥羽・土御門・順徳三上皇の配
〇三︶に時政が執権に就任したのが始まりである。建保元年
である政所の長官︵別当︶を意味する語で、建仁三年︵一二
を兼ね、執権に就任した。執権とは本来、将軍家の家政機関
大していき、時政の子の義時の時代には、政所と侍所の長官
が、頼朝挙兵以来の勲功から、幕府内での発言力を徐々に拡
た。北条氏は桓武平氏の分流で、伊豆国の在庁官人であった
の院政は依然として継続していたのである。
るという方式はこれが最初で、その後は京都単独で皇位を決
源氏将軍が無力化していくなかで、着実に政治的な力をつ
けていったのが、源頼朝の妻政子の実家である北条氏であっ
められず、幕府の同意が必要になるのである。とくに四条天
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時はこの侍所別当の地位に就任し、以来この政所・侍所の長
︵一二一三︶、侍所別当であった和田義盛が滅ぼされると、義
て幕政の最高施策を決定する方針を定めた。また、貞永元年
には一一名の評定衆を定め、執権・連署・評定衆合議によっ
し、叔父の時房を執権の補佐役である連署に任命し、翌二年
御家人たちに示した。式目は武家社会の道理や先例を基準と
︵一二三二︶には五一カ条からなる﹁御成敗式目﹂を制定し、
官を兼務する者を執権と呼ぶようになった。
○承久の乱
条義時追討の宣旨を発した。上皇方には幕府に連なる人物が
などを設置し挙兵の意思を固め、承久三年︵一二二一︶に北
暗殺後の幕府の混乱を目の当たりにした上皇は、西面の武士
優位な状況に立っていた︵朝廷優位の公武二元支配︶。実朝
権を握っており、文化的にも政治的・経済的にも幕府よりも
こととなった。一方、朝廷では、この時期に後鳥羽上皇が実
たため、北条政子が﹁尼将軍﹂として政治の実権を行使する
で有力御家人の三浦泰村を滅ぼし、北条氏に対抗する勢力を
中することになった。また宝治元年︵一二四七︶の宝治合戦
合 議 制 の 原 則 は 有 名 無 実 化 し、 政 治 的 な 権 限 は 北 条 氏 に 集
例化されるようになった。これによって従来の評定衆による
のことで、公式の制度ではなかったが、元寇の頃になると定
とは北条氏の嫡流︵得宗︶・一門とその側近による秘密会議
合 ﹂ と 呼 ば れ る 秘 密 会 議 で 決 定 す る 方 針 を 定 め た。
﹁寄合﹂
であった前将軍の藤原頼経を京都に送還し、重要政務を﹁寄
泰 時 時 代 に 全 盛 期 を 迎 え た 執 権 政 治 は、 そ の 孫 に 当 た る
五代時頼によって継承・発展した。時頼は反北条勢力の中核
した法典で、武家の最初の体系的法典であった。
多く参加していたが、幕府方は北条氏を中心に結束し、上皇
政界から一掃するなど、北条氏の独裁体制の基盤を築き上げた。
実 朝 暗 殺 後、 幕 府 は 後 鳥 羽 上 皇 の 皇 子 を 将 軍 に 迎 え よ う
としたが、上皇にこれを拒まれたため、摂関家から藤原三寅
方の軍勢を破った。この乱の後、上皇方に与した人々の所領
︵頼経︶を将軍として迎え入れた。しかし、三寅は幼少だっ
は没収され、主に西国にあるそれらの地は幕府の御家人に与
えられ、新補地頭が置かれた。また、朝廷を監視し、西国の
御家人を統括するために、六波羅探題が設置された。これに
○元寇と神国思想
⑵得宗専制政治
︵一二八一︶の二度にわたり日本に兵を派遣した。この二度
た。業を煮やした元は、文永一一年︵一二七四︶と弘安四年
文永五年︵一二六八︶以来、国交と通商を求める使者が元
か ら 度 々 派 遣 さ れ て き て い た が、 幕 府 は こ れ を 無 視 し 続 け
よって、東国中心だった幕府の支配地域は全国に及ぶように
なり、武家優位の公武二元支配が実現することになった。
○北条泰時・時頼時代
元仁元年︵一二二四︶、北条義時が死去すると、その嫡子
泰時が三代執権となった。泰時は有力御家人の合議制を重視
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に対し、御家人の一騎打ち戦法はほとんど役に立たず、幕府
阻止するため、多くの御家人を動員したが、元軍の集団戦法
従来の御家人による合議制の原則は完全に否定され、得宗の
の嫡流=得宗に権限が集中するようになった。これにより、
独裁体制がますます強められ、北条氏一門、とりわけ北条氏
元 寇 後、 北 条 貞 時 は 元 の 再 襲 来 と 国 内 体 制 の 強 化 を 目 的
に、要職を北条一門で固めていった。これにより、北条氏の
府に対する不満も増大した。
側は終始劣勢に立たされた。しかし、二度とも突然の暴風雨
独裁体制が確立した。そして得宗の絶対的勢威のもと得宗の
にわたる来襲を元寇というが、島国である日本は、それまで
に よ っ て 元 軍 は 壊 滅 的 な ダ メ ー ジ を 受 け 撤 退 し た。 そ の た
家臣=御内人が幕政を主導すると、従来の御家人と御内人の
○北条貞時の政治
め、この暴風雨はいつしか﹁神風﹂と呼ばれるようになり、
対立も表面化していくようになり、弘安八年︵一二八五︶に
外国から本格的な侵略を受けるという経験がなかったため、
朝廷を中心に日本は神が護ってくれるという﹁神国思想﹂が
大きな衝撃をうけた。執権北条時宗は、この外からの侵略を
高揚されるようになった。
は有力御家人の安達泰盛が内管領︵御内人の代表者︶の平頼
家人もいた。幸運にも季長の場合は恩賞に預かることが出来
自らの活躍を描いた絵巻物︵
﹃蒙古襲来絵巻﹄
︶を作成した御
中には竹崎季長のように、自分の勲功をアピールするため、
御 家 人 へ の 恩 賞 を ど う 捻 り だ す か が 悩 み の 種 と な っ て い た。
なくなかった。しかし、幕府には与えるべき土地も少なく、
自弁で、中には借金をしてまで、これを用立てた御家人も少
た騒動を鎮めるため、足利高氏を京に派遣したが、高氏はひ
と、地方でも反幕府の機運が高まっていった。幕府はこうし
府とくに北条氏に不満を持つ武士が畿内を中心に立ち上がる
る討幕を計画したが、いずれも失敗に終わった。しかし、幕
れた。この情勢を見た後醍醐天皇は、二度にわたり武力によ
学の大義名分論が流行し、その立場からの幕政批判が展開さ
発が次第に高まっていった。一方、この時期の朝廷では朱子
貞 時 の 後 を 継 い だ 高 時 は 一 四 歳 と 若 年 で あ っ た た め、 内
管 領 の 長 崎 高 資 が 政 治 を 壟 断 し、 こ れ に 対 す る 御 家 人 の 反
○幕府の滅亡
うした体制を得宗専制体制という。
綱に滅ぼされるという事件が発生した。霜月騒動という。こ
○元寇後の幕府の混乱
元寇は御家人の活躍や突然の暴風雨によって、防ぐことが
出来たが、戦後処理の問題が幕府に重くのしかかった。九州
たが、こうした御家人はごく一部で、大部分の御家人は恩賞
そかに天皇側と連絡をとり、幕府を討つ決意を固めた。この
に 動 員 さ れ た 御 家 人 達 が 相 次 い で 訴 訟 を 起 こ し た の で あ る。
にも預かれず残ったのは借金だけという御家人も少なくな
そもそも九州までの遠征費や、食費・武具はすべて御家人の
かった。元寇によって御家人はますます窮乏化していき、幕
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高氏の離反により、形勢を決めかねていた全国の武士が討幕
政
子
貞
時
政
村
泰
時
仏教はすぐに広まったわけではなく、信仰するかしないか
で、蘇我氏と物部氏の間で崇仏論争が起こり、蘇我氏や渡来
人を中心に信仰されることになった。その後、蘇我氏が朝廷
の実権を握ると急速に発展した。
ように仏教を学問的に研究した人物も現れたが、一般民衆に
︵筒井
健介︶
○奈良時代︵国家仏教の時代︶
経
時
は、呪術の一種として信仰された。飛鳥文化は我が国で最初
当 初、 仏 教 は 古 墳 に 代 わ る 豪 族 の 権 威 を 示 す も の と し て
広まり、寺院や仏像が造られた。飛鳥時代には、聖徳太子の
時
頼
の仏教文化である。
八 世 紀 中 頃、 朝 廷 や 豪 族 間 の 争 い に 飢 饉 や 疫 病 が 重 な っ
て、社会の動揺が広がった。聖武天皇は、仏の功徳によって
政治や社会の不安を鎮めようと考え、国ごとに国分寺・国分
尼寺を創建して、都に大仏を造る詔を出した。こうして、仏
教の鎮護国家の思想のもと国家仏教として専ら貴族層に広
まった。
○平安時代︵貴族宗教︶
天台宗・真言宗を興隆させた。両宗は、本来は山中にあって
仏教界の革新を計った。仏教界からも最澄や空海が出現し、
平成一六年七月二日︵土︶
高
時
時
氏
に立ち上がり、激戦の末に元弘三年︵一三三三︶鎌倉幕府は
滅亡した。
北条氏略系図
時
政
義
時
時
宗
第一四回テーマ
﹁鎌倉時代の仏教﹂
⑴古代の仏教
インドに生まれた仏教は、個人が修行によって悟りを開く
ことを目的とする﹁小乗仏教﹂と、多くの人々を救おうとす
奈良時代の末、仏教は政治と結びついて腐敗したため、桓
武天皇は政治と仏教を分離し、僧侶の資格を厳しくするなど
る﹁大乗仏教﹂に発展し、日本には大乗仏教が伝わった。百
厳しい修行をつみ、国家の安泰を祈る山岳仏教であったが、
○仏教伝来
済の聖明王が仏像・経論などを欽明天皇に伝えたのは五三八
て皇族や貴族の間でもてはやされ、仏教界の主流になった。
次第に俗化し、加持祈祷によって現世利益をはかる仏教とし
げ ん ぜ り や く
年で、これを仏教公伝という。しかし、一部の渡来人の間で
か じ き と う
はそれ以前から信仰されていた可能性が高い。
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仏教が広まるにつれて、日本古来の神道との間に融合の動
きがあらわれてきた。これを神仏習合という。また山中での
修行を重んじる天台・真言の教えは、古来からの山岳信仰と
しゅげんどう
結びつき、修験道の源となった。
さで、大きく発展していった。
○鎌倉新仏教
阿弥陀如来の本願を信じて一心に念仏︵南無阿弥陀仏︶を
唱えれば、死後平等に極楽浄土に往生出来ると説いたのが法
えは、わかりやすく誰にでも実行可能であったので、貴族だ
を唱えるという教えは、専修念仏の教えと言われた。彼の教
けでなく武士や庶民の間にも広がった。しかし旧仏教側から
せんじゅねんぶつ
平 安 時 代 中 期 に な る と、 現 世 利 益 を 求 め る 信 仰 と な ら ん
で、来世での幸福を祈り、この世での不安から逃れようとす
然である。彼は、﹁浄土宗﹂の開祖と仰がれ、もっぱら念仏
る 浄 土 教 が 流 行 し 始 め た。 浄 土 教 と は、 阿 弥 陀 仏 を 信 仰 し、
来世は極楽浄土に往生することを願う教えで、空也や源信に
の弾圧により、法然は四国に流された。
親鸞は﹁浄土真宗︵一向宗︶﹂の開祖で、その教えは農民や
の救おうとする相手であるという悪人正機の教えを説いた。
教えを一歩進めて、煩悩の深い人間︵悪人︶こそが阿弥陀仏
東に移り、農村で思索と布教の生活を送った。親鸞は法然の
親鸞は法然の弟子の一人で、法然が四国に流された時越後
に流されたが、越後で布教につとめ、のちに許されてから関
よって広められた。この信仰は、末法思想の流行によって一
層強められた。
⑵鎌倉時代の仏教
○その特色
平 安 時 代 の 末 期 か ら 鎌 倉 時 代 に か け て、 戦 乱 が 続 き、 社
会不安が広がった。現世に希望を持てない人々は、より一層
か信心の有無を問うことなく、すべての人が救われるという
一遍は、親鸞よりやや遅れて活動した僧である。一遍は浄
土宗を学んだが、その教えをさらに発展させ、善人・悪人と
地方武士の間に広まった。
つ、庶民など広い階層を対象とする方向へ変化していった。
教えを説き、踊念仏を広めながら各地を布教して歩いた。彼
来世での救いを求めた。そうした民衆の願いに対して、仏教
祈祷中心の平安仏教では、寺院や仏像を造ったり寺院や僧へ
は 全 国 を 遊 行 し た の で 遊 行 上 人 と 呼 ば れ、 そ の 教 え は﹁ 時
界でも祈祷や学問中心のものから、内面的な深まりを持ちつ
の布施に多くの費用がかかったので、庶民にまで普及するこ
一方、浄土教に刺激されて新しい救いの道を開いたのが日
ていった。
宗﹂と呼ばれた。時宗は地方武士や農民に広くうけいれられ
ゆぎょう
とは難しかった。
こうした傾向に対し、鎌倉時代に始まる新仏教は、台頭し
てきた武士・有力農民・商工業者など従来仏教では救済でき
ないとされた人々の欲求に応え、教理の平易さと修行の容易
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華信仰をもとに、法華経こそ釈迦の正しい教えを伝えるもの
蓮である。日蓮は比叡山で学ぶうち、天台宗の中に伝わる法
である。
ある。そこで、道元は都から離れた越前に本拠地を置いたの
れると説いた。日蓮は、鎌倉を中心に激しい他宗攻撃と国難
の道によってのみ救いにあずかることができると説いたこ
鎌倉新仏教の特徴は、旧仏教のように厳しい戒律や学問を
重要視せず、念仏や題目・禅の中からどれか一つを選び、そ
として、題目︵南無妙法連華経︶を唱えることによって救わ
を予言したため、しばしば幕府から迫害されたが、彼の教え
とである。この教えはわかりやすく誰にでも実行しやすいの
という他力信仰に比べて、自らの修行によって悟りを開こう
で、武士や庶民にも門戸を開くことができた。ただ、同じ鎌
とする自力信仰の禅宗は、武士の気風にあったので、禅宗は
は、関東の武士や商工業者を中心に広まっていった。日蓮の
当 時、 関 東 武 士 の 間 で 広 く 信 仰 さ れ て い た の は 禅 宗 で あ
る。 禅 宗 は 坐 禅 に よ っ て み ず か ら を 鍛 錬 し、 釈 迦 の 境 地 に
教えを﹁日蓮宗︵法華宗︶
﹂という。
近 づ こ う と す る 教 え で、 当 時 の 中 国 で は 盛 ん に 信 仰 さ れ て
武士の間で信仰がより広まった。
宗
派
浄 土 宗
鎌倉新仏教一覧
系
統
浄土真宗
日 蓮 宗
曹 洞 宗
時
宗
臨 済 宗
念仏系
禅
宗
法華宗
栄
西
道
元
日
蓮
法
然
親
鸞
一
遍
開
祖
知恩院
教行信証
撰択本願念仏宗
主要著書
本願寺
正法眼蔵
興禅護国論
立正安国論
一遍上人語録
永平寺
建仁寺
久遠寺
清浄光寺
中心寺院
ちの活躍は、多くの人々に影響をあたえた。 ︵相 千恵子︶
救済や社会事業を行い、南都仏教の復興に力をそそいだ僧た
こうした新仏教の活躍に刺激され、旧仏教側も改革を行う
動きをみせた。従来の戒律を重んじると共に、貧民や病人の
倉仏教でも、念仏を唱え、阿弥陀如来を信仰すれば救われる
いた。日本には宋に留学した栄西や、道元によって伝えられ
た。
栄西は比叡山で修行をし、宋にわたって禅を学び、帰国し
て﹁臨済宗﹂を開いた。栄西は公家や幕府首脳の帰依をうけ
たので、臨済宗は大きく発展した。鎌倉に残る建長寺や円覚
寺などの大寺はこの当時建立された臨済宗の寺である。臨済
宗は、坐禅の時に師からあたえられる公案という問題を解決
していきながら悟ることを主眼としている。
栄 西 の 門 下 に 学 ん だ 道 元 は、 さ ら に 宋 に わ た っ て 禅 を 学
び、 帰 国 し て か ら は 政 治 と の 結 び つ き を 強 め て い る 臨 済 宗
とは違ってひたすら坐禅に徹せよと説いた。道元は、いっさ
い の 余 事 を か え り み ず、 坐 禅 そ の も の を 重 視 し た の で あ る。
し か ん た ざ
道 元 の 教 え を﹁ 曹 洞 宗 ﹂ と い い、 ひ た す ら 坐 禅 す る こ と =
只管打坐によって悟りの境地を体得しようとしたのが特徴で
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平成一六年九月二五日︵土︶
第一五回テーマ
﹁南北朝の動乱と室町幕府の成立﹂
○足利氏とは
⑴建武の新政と南北朝の対立
元 弘 三 年︵ 一 三 三 三 ︶、 足 利 高 氏 が 六 波 羅 探 題 を 攻 略 し、
関東ではその一族新田義貞が鎌倉を攻め落とし、北条高時以
置文を残して切腹した。この遺言が、家時から三代目に当た
る尊氏の行動に大きな影響を与えたとされる。
○新政府の実態
鎌倉幕府が滅亡すると、隠岐に流されていた後醍醐天皇は
京都に戻り、光厳天皇を退けて新しい政治を始めた。院政・
摂関政治や武家政治を否定し、律令国家の再現を目指すもの
で、権力を天皇だけに集中させるというものであった。親政
を行なった平安時代の醍醐天皇を理想とし、みずからを﹁後
醍醐﹂と称したほどである。この政治を﹁建武の新政﹂とい
政権内の亀裂は急激に拡大した。新政に不満を強めた武士の
しかし、天皇専制政治の方針は、武士はもとより公家の反
発を呼び、恩賞や人事をめぐっても公家と武士が対立して、
う。
の分家である足利氏の当主であった。
﹁足利﹂という苗字は、
多くは、新政府に距離を置いていた足利尊氏に幕府の再興を
下 を 滅 ぼ し て、 こ こ に 一 五 〇 年 続 い た 鎌 倉 幕 府 は 滅 亡 し た 。
源 義 家 の 孫 で あ る 義 康 が 下 野 国 足 利 荘︵ 現 在 の 栃 木 県 足 利
討幕で決定的な役割を果たした足利高︵尊︶氏は、清和源氏
市︶に土着したことに由来する。のちの室町幕府は、足利荘
期待するようになった。
の﹁我七代の孫に吾生かはりて天下を取へし﹂という置文が
野の山中に逃れ、正統の皇位にあることを主張した。ここに
足利幕府の開設を宣言した。幽閉されていた後醍醐天皇は吉
、京都を制圧した足利尊氏は、持明
建武三年︵一三三六︶
院 統 の 光 明 天 皇 を た て、
﹁ 建 武 式 目 ﹂ を 発 表 し て、 事 実 上 の
○南北朝の動乱
討伐のため鎌倉に下り、新政府に叛旗を翻した。
建武二年︵一三三五︶、北条高時の子時行が信濃で反乱を
起こし、鎌倉を占領した中先代の乱を機に、足利尊氏はその
を﹁一族発祥の地﹂としてとくに重視し、御料所︵直轄地︶
としたほどである。
歴代の足利氏の当主は、源頼朝と軍事行動を共にし、北条
氏の政治にも協力したことで、鎌倉幕府の有力御家人として
あった。しかし、七代目に当たる足利家時の頃はまだ北条氏
吉野の南朝と京都の北朝が対立して、以後六〇年にわたる全
の地位を保ち続けた。源氏将軍が三代実朝で絶えた後は源氏
の全盛期であり困難であったので、家時は﹁我命つつめて三
本流としての意識を強烈に持ち続けた。足利氏には、源義家
代の中にて天下をとらしめ給へ﹂と八幡大菩薩に祈り、自筆
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代で任命された。地方では、関東八ヶ国と甲斐・伊豆を管理
南朝方は、動乱の初期に楠木正成・新田義貞が戦死するなど
北 朝 側 で は 尊 氏 が 征 夷 大 将 軍 に 任 命 さ れ 軍 事 面 を 担 当 し、
弟 の 直 義 が 行 政 を 担 当 す る 二 頭 政 治 の 体 制 を と っ た。 一 方 、
大きかったので、次第に独立の傾向を示した。また、九州に
杉氏が世襲した。鎌倉府の組織は幕府とほぼ同じで、権限も
以来、その子孫が世襲した。鎌倉公方の補佐役関東管領は上
国的な内乱に突入した。
形勢は不利であったが、北畠親房らが中心となり、抵抗を続
圧迫して、九州の南朝勢力を一掃した。全体として室町幕府
は九州探題が置かれ、今川貞世︵了俊︶が南朝の懐良親王を
する鎌倉府が置かれ、長官である鎌倉公方は尊氏の三男基氏
けた。
て南朝の後亀山天皇を吉野から京都に迎え、三種の神器を北
明徳二年︵一三九一︶、幕府によって九州が平定され、南
北朝の内乱が事実上終息すると、翌年義満は南朝側と交渉し
○南北朝の合一
取れる。
のしくみには、権力をなるべく分散させるという傾向が見て
かねよし
○観応の擾乱
足 利 幕 府 に あ っ て 尊 氏 と 直 義 の 二 頭 政 治 は、 や が て 尊 氏
の執事高師直と直義の対立を生み、ついに観応元年︵一三五
〇︶直義が師直追討の兵をあげ、ここに幕府内を二分する観
形勢﹂︵﹃太平記﹄
︶といわれる中、内乱は全国に波及したが、
朝の後小松天皇に引き渡すことで南北朝の合体を実現しよう
応の擾乱に突入した。南朝方も勢力を挽回して﹁天下三分の
観応三年︵一三五二︶尊氏が降伏した直義を毒殺して擾乱は
の合体が実現した。
︵篠原
慎二︶
朝の後小松天皇に三種の神器を渡したことで、ついに南北朝
とした。これに応えて、南朝の後亀山天皇が京都に帰り、北
終わった。
⑵室町幕府
○幕府の組織
尊氏の孫足利義満が将軍になる頃には、南北朝の動乱は次
第におさまり、幕府はようやく安定の時を迎えた。義満が京
都の室町に壮麗な邸宅﹁花の御所﹂を築いたことから、この
幕府を室町幕府と呼ぶようになった。幕府の機構もこの時代
にはほぼ整った。管領は将軍を補佐し幕府全般を統轄し、細
川・斯波・畠山の三氏が交代で勤めた。管領につぐ重職であ
る侍所の長官︵所司︶も山名・赤松・一色・京極の四氏が交
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甲 斐 の 夏 山
赤
塚
徹
それからは雨の日や用事のない日以外は就寝前に太平山少
年自然の家まで続く山道を、懐中電灯片手にウオーキングす
きた。体重の方も微減してきた。しかしそれでも膝を曲げる
ひび割れ茶碗
とみしみし音がするような感じがするし、上体を捻転すると
私は近年腰・膝痛に悩まされていた。両肩もおかしい、た
めに文字が思うように書けない。整形外科の医師は老化現象
ることを日課とした。そのお陰でだいぶ足腰がしっかりして
で各関節の軟骨が磨り減って、骨と骨とがぶつかり神経を刺
六 月 に な る と さ ら に 体 調 は よ い 方 向 に 向 い て き た。 山 へ
の登高意欲も出てきた。七月最初の日曜日、栃木県山岳連盟
腰がぼきぼきする。両肩もぎこちない感じであった。
つける訓練をして、その筋力で関節を保護するほかないと言
主催恒例の日光白根山清掃登山に息子らと参加することに
激して痛むのだと言われた。勿論通院して治療につとめたが
う。一方体重は年齢に関係なく七十八キログラムを維持し続
した。群馬県側の菅沼から登り弥陀ヶ池 ―
山頂 ―
五色沼 弥
―
はかばかしくない。医師は軟骨の再生はできないから筋力を
けていた。私の体はまるで関節痛のため、ひびの入った茶碗
そのようなわけで趣味の山登りにも出かけていないし、気
持 ち も 山 を 向 か な い。 と こ ろ が 今 年 の 太 平 山 初 詣 の 際、 車
体を労わりながら登山をすれば何とかなると思い、南アルプ
私は、ひび割れ茶碗も大事に使えば壊れないとの理屈から、
菅沼間をのんびりゴミ拾いしながら、久々の山の空
―
気を存分に吸い楽しんだ。この山行でいささか自信を持った
陀ヶ池
の渋滞が予想されたので太平山麓の自宅から徒歩で行くこと
スへ足を伸ばすことにしたのである。
みたいだなと自嘲気味に思っていた。
にした。時々思いだしたように痛みの残る膝をかばいながら
ゆっくり一歩一歩登った。神社に着くまで僅か三十分であっ
たが腰も膝も痛みを感じなかった。
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鳳 凰 三 山
栃木市体育協会山岳部主催の夏山登山教室が、今年の七月
十八日から二十日までの三日間鳳凰三山で実施された。
この種の登山教室を今から十九年前の昭和六十一年、文部
省が主管して生涯教育の分野から助成措置を講じ、市町村単
位に組織がしっかりしていて顕著な活動を展開し成果が期待
できる団体として指定を受けて実施した。初めの頃は山岳教
室の名称であったが数年後、国の助成が打ち切られたのを機
に夏山登山教室と名称を変え以後は栃木市体育協会が直接事
り開山されたことから、仏教的な山名が多い。近代登山では
明治十七年原田豊吉らが初登頂した。
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業費の一部を助成して毎年開かれている。
さて、この鳳凰三山の登山教室には男性十人・女性九人の
受講者と講師いわゆるリーダー五人の計二十四人のパーティ
で開講された。受講者の顔ぶれは毎回参加して山登りの経験
のある中高年者が多かった。私はリーダーの一人として参加
した。
この鳳凰三山は日本歴史地名体系︵平凡社︶によれば、赤
石山脈︵南アルプス︶駒ケ岳︵二九六六メートル︶
・仙丈ヶ
れんこう
岳︵三〇三三メートル︶
・塩見岳︵三〇四二メートル︶
・赤石
岳・ 聖 岳︵ 三 〇 一 一 メ ー ト ル ︶ な ど の 高 峰 が 連 亙 し 、 山 梨 ・
静岡二県と境している。位置は駒ヶ岳の南東に連なる山塊。
地蔵ヶ岳・観音岳・薬師岳の三峰を包括する広大な山域をさ
し、今日では鳳凰三山という呼称が広く用いられていると記
されてある。山岳文献によれば奈良時代真言密教の行者によ
鳳凰三山概念図(日本山岳地図集成・学研)
六時二十分過ぎマイクロバスに乗り登山口の青木鉱泉に向
けて出発した。道路は相変わらず厳しく運転手泣かせの走行
駐車場の側にテント場があり色とりどりの天幕が張られ、
登山者が晩飯の準備をしていた。
国
―道二十号線 林
―道を経て初日の宿である御座石鉱泉に午
後四時に着いた。
にも山梨中央交通︵株︶の定期マイクロバスが乗り入れられ
な驚きの声を上げたが、運転手は仕方ないと半ば諦め顔をし
狭い橋を渡るときバスは大きく右にハンドルを切ったが、回
が続く。鉱泉に近い小武川渓谷沿いの道路に右直角に架かる
国道からこの鉱泉に向かう途中の道路と言うか林道は、山
腹の岩を穿ち沢や谷に沿って作られた狭く曲折の多いでこぼ
ていた。雲は垂れ込めていたが、小雨は殆ど止んでいた。
︶ 午 前 六 時、 真 夏 の 眩 し い 朝 日 を 受 け 栃
七月十八日︵日 木市運動公園をマイクロバスで出発。伊勢崎 ―
佐久 ―
昇仙峡
こ道は大変なものであった。今回チャーターしたマイクロバ
木造二階建てのひっそりした感じの山荘である。
ていた。御座石鉱泉から約三十分で青木鉱泉に着いた。ここ
りきれず車両の左前部を欄干の親柱にぶつけてしまった。み
スは観光用のデラックスのやや大型であったため、道の両側
青木鉱泉はドンドコ沢下流左岸の開けた丘陵地で標高一一
〇〇メートルのところに、カラマツなどの原生林に囲まれた
から伸びた樹木の枝や薄の葉にボディを擦りながらの走行で
駐車場広場に全員が集合、チーフリーダーの加藤栃木市体
育協会山岳部長の挨拶があり、続いてサブリーダー臼井副部
あった。運転手さん曰く﹁マイクロバスが通っていると聞い
たのに・・・﹂とぼやくことしきりであったが、お気の毒と
長の指示でストレッチングが行われた。次いでリーダーとA・
たので引き受けたが、こんな難路とわかっていれば来なかっ
同情するより他ない。実情は山梨中央交通︵株︶が定期マイ
B・C・D各班の紹介及び登山行動の諸注意があり、午前六
この青木鉱泉から今日の宿泊地鳳凰小屋までの登高差は
一二八〇メートル余りである。急登の連続なのでかなりの汗
時五十分出発となった。
クロバスを運行している。
御座石鉱泉は小武川渓谷支流湯沢の左岸標高一〇七〇メー
トル付近の雑木林に囲まれた中に鉄筋三階建ての立派な宿で
ある。この日は明日の登山に備えて、鉱泉に浴し夕食後みな
を覚悟せねばと自分に言い聞かせ先頭のA班の後について登
︶ 夏 の 夜 明 け は 早 い、 午 前 四 時 五 十 分。
七 月 十 九 日︵ 月 朝飯を食べていると小雨がぱらついてきた。身支度を整えて
つけられていた。
登山道は急斜面の原生林の中にドンドコ沢を左下に見ながら
私は久々の歩行だったので足の上げ下げは重く感じられた。
りはじめた。
受講生の足取りはみな軽やかな感じに見えたが、
全員駐車場に集合した。濡れるほどでもない小雨が降り続い
早めに就寝した。
ている。
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いくつもの美しい滝が懸かっている。沢の下方から源流に向
歩行はおよそ一時間登って十五分程度の休憩を取るピッチ
であった。このドンドコ沢は水量が多く急峻な地形のため、
テント場はナナカマドの枝がほどよく伸びた高台で水捌けの
リーダーの担ぎ上げた天幕に彼と一緒に寝かせてもらった。
講 者 か ら は 登 山 教 室 に 相 応 し い と 好 評 で あ っ た。 私 は 古 内
小屋の寝具はシュラーフザック︵登山用寝袋︶であった。受
全員が会してお代わり自由のカレーライスの夕食を摂った。
かって南精進ヶ滝・白糸ノ滝・五色ヶ滝が次々に豪快かつ清
とに造詣の深い古内リーダーから、御座石鉱泉で買い求めた
心地よい気だるさの中、睡魔に襲われるまでの間シュラー
フザックに包まって高山植物に余り詳しくない私は、このこ
が立ち込め閉口した。
良さそうな所で気に入ったが、便所が近く風向き加減で悪臭
冽な飛沫を落下させていた。
リーダーは各班の中に入り、登山技術の基本である歩行テ
クニックや地形・地図の見方読み方等について指導し、植生
の解説をしていた。昼食をはさんで五ピッチでシラビソ・ナ
ナカマド・シラカバなどの原生林の生い茂る鳳凰小屋に午後
わやかに頬を撫ぜていく。
みな達成感に思わず歓声を上げた。
急登に全身大汗し息を弾ませながらの全員無事のフィニッ
シュであった。樹木の間を吹き抜けるそよ風は乾いていてさ
イチヤクソウ・モミジカラマツ・カニコウモリ・ヤマハハコ、
センジュガンピ・ゴゼンタチバナ・ミヤマカラマツ・コバノ
山植物の解説をしてもらった。白色系の花ではカラマツソウ・
一時三十分二分到着した。
上空は晴れていたが時どき夏雲が去来し太陽を隠している。
ミネウスユキソウ黄色系はオトギリソウ・タマガワホトトギ
ポケット図鑑を見ながら、今日登って来る途中で目にした高
小屋の西北の空高く樹木を抜いて地蔵ヶ岳の岩峰オベリスク
ス、紫色系はレンゲショウマ・ソバナ・ヤマトリカブト、緑
私は今日の登りを振り返った。歩き始めはペースが掴めず
辛かった。この時ふとひび割れ茶碗のことが頭の中をよぎっ
のある体力に感服。心技体に力の余裕がなければ登ることに
んなに多くは見ていない。それにしても彼の観察力とゆとり
色系ミヤマバイケイソウ・サルオガセなどであるが、私はこ
が圧倒的な迫力で視界にとびこんできた。
た。高度を上げるにしたがって本来の調子を取り戻し、楽し
精一杯で道端にさりげなく咲いている小さ花などは見落とし
七月二十日︵火︶ 午前四時三十分、シュラーフザックか
ら抜け出し天幕の外に出てみると、上空に少し雲があるもの
いった。
てしまう。そんなことを思っているうちに深い眠りに落ちて
さがジワッと込み上げてきた。
ドンドコ沢源流から引き込んだ小屋前の水場は登山者で混
み合っていた。私も冷たい水を汗を掻いた分息もつかず五臓
六腑に沁み込むまで飲んだ。
夕暮れには間があったが、五時三十分小屋の食堂で宿泊者
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どして出発に備えていた。
よい。小屋の前の水場では宿泊者が洗顔し、広場で見繕いな
のおおむね青空が広がっていた。大気はさわやかで肌に心地
げた。七時三十分私がトップに立ち古内リーダーがラストを
た。加藤チーフリーダーが希望をとったところ十人が手を挙
〇メートル︶へは足腰に自信のある健脚者のみ行くことにし
ずだったがガス︵霧︶が流れてきて周りの山々を見ることは
抜ける観音岳の頂稜に跳びだした。ここから視界が開けるは
さらに三十分ほど登り続けると西よりのやや強い風の吹き
登 る と 汗 が 噴 き 出 て き た。 上 着 の 調 整 で 立 ち 休 み し て か ら 、
た。ダケカンバ等の潅木帯の道は、意外と急傾斜で三十分も
岸に渡り、アルミ製梯子を上って登山道の取り付き点に達し
五十分すぎ出発した。源流に近いドンドコ沢を飛石伝いに対
うな迫力である。この登山教室では岩峰には登頂しない。希
から仰ぐ地蔵ヶ岳の岩峰オベリスクは鋭く天を突き刺さすよ
担ぎ上げた石の地蔵尊一〇〇体余りが安置されていた。ここ
原に九時三十分到着。この鞍部は子宝を願い、授かった人が
に下る。ガスは晴れたが少し強い西風が吹き出した。賽ノ河
次は三山最後の地蔵ヶ岳︵二七六四メートル︶である。観
音岳から北西の尾根伝いにハイマツの中の登山道を賽ノ河原
休みして八時十三分には、取って返し観音岳に戻ってきた。
観音岳を後にざらざらした起伏の少ない尾根筋を走るよう
にして、薬師岳に向かい十二人全員頂上を踏み、数分間立ち
つとめた。
できなかった。小休止してから頂上を目指した。野呂川方面
朝食の後広場で今日の予定などのミーティングがあり、鳳
凰三山の最高峰観音岳︵二八四〇メートル︶に向かって五時
からガスが舞い上がってきた。空は晴れており天気の崩れる
望者にはその基部まで登ることを認めた。
私はオベリスクを眺めていて、ふと今から一世紀余り前の
明治二十一年に来日した英国宣教師ウォルター・ウェストン
心配はないが、山はこのように変化するのも常である。七時
二十分、歓喜の声を上げながら全員元気に観音岳の頂上に到
の山でも全容を見ることはできなかった。それでもはるか南
頂上は、視界を遮るものはなく三百六十度眺望が開けるは
ずであったが、ここでもガスがあちこちから湧き出て、近く
の岩峰オベリスクに登頂している。そのことを著書﹃日本ア
明治三十五年再び来日し、そして明治三十七年この地蔵ヶ岳
して﹃日本アルプス登山と探検﹄の名著を出版し好評を博した。
着した。
東の雲海を突き抜けて富士山が秀麗な姿を、その左手に秩父
のことを思い出した。彼は数多くの日本の山に登り一旦帰国
連峰が望まれた。登山教室参加者全員で記念撮影して休憩に
年夏の、
︿新しい﹀山旅のリストの最初に選んだ。それは山へ
ルプス再訪﹄の中︿第七章南アルプスの探検Ⅲ ―
処女峰、鳳
凰山の登頂﹀から引いてみると、
﹁私はこの鳳凰山を一九〇四
入った。
今日のうちに栃木に帰ることを考慮して、薬師岳︵二七八
Ƚ
ȽȁĺijȁȽ
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地蔵ヶ岳オベリスクを背にして(筆者後列右3人目)
のアプローチが困難なこと、暗い急峻な尾根からそびえ立つ、
略 ―
大きな
―
オ ベ リ ス ク は、 遠 く か ら 見 る と 旅 人 や 幼 い 子 供 た ち を 守 る
尖峰の挑戦的な山容に刺激されたからである。
地蔵に似ているところから、登拝者たちにとっては地蔵仏と
して知られている。その高さは高い方は約二二メートル、低
い方は約三、四メートルあると私は見積もった。成功の唯一
の鍵は、低い方の凸面のアングルを登ることだとわかった。
略 ―
それは大苦闘の中の、楽しいクライマックスであった。
―
下の岩棚から一時間足らずで、個人的にも、また、人間とし
ても初めて、有名な鳳凰山の頂上に立っていた。
頂上は二メー
トル四方もない狭い花崗岩の台で、雲海の中に島のように浮
かんでいる。
﹂ と あ り、 ウ エ ス ト ン の 当 時 日 本 で は 余 り 使 わ
れていないロープを登攀用具に用い垂直に近い屹立した、こ
の地蔵岳オベリスク初登頂にかけた烈々たる思いの丈が偲ば
れた。
受講者らは、それぞれに岩峰の基部まで行く者、写真を撮
る者、行動食を摂る者など山稜のさわやかな陽射しを享け、
寛いだ時を過ごしている。そろそろ下山の時間が近づいてき
た。
十 時 五 分、 加 藤 チ ー フ リ ー ダ ー の 出 発 の 合 図 が あ り、 班
単位のオーダーで下山を開始した。砂礫の急斜面に葛折りの
登山道がつけてある。臼井サブリーダーの山下り技術のアド
バイスがあり、みな安定したバランスで汗をかく暇もなく一
気 に 鳳 凰 小 屋 に 下 り 着 い た。 空 は 抜 け る よ う に 青 く 澄 み 風
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の下山の途にについた。
ながら燕頭山︵二一〇四・五メートル︶を経て御座石鉱泉へ
チェックしてから十一時一〇分、鳳凰小屋の人達に見送られ
装備品等をザックに詰め替え、靴の紐を締め直し身の回りを
は凪いでいた。小屋前の水場で喉を潤し小屋に預けてあった
きをして五十年余りになるが、膝が笑うということは初めて
いた二本のストックを歩行補助にと貸してくれた。私は山歩
声をかけてきた。しばらく一緒に下っていたが、彼は持って
しとも、あるいは私自身のひがみからくる軽蔑?ともつかぬ
ん膝が笑っているんじゃないですか、といたわりともはげま
りした山容で追いかけてくるようだ。左手遠方には八ヶ岳連
繋いでいる。後方からは甲斐駒ヶ岳が上部に雲を纏いどっし
の風情は深山の姿そのものであり、太古からのいのちを今に
尾根道はよく整備されていて道は南側から北側となりコメ
ツガなどの樹林帯が続く、その樹木の枝に掛かるサルオガセ
た。
は原因究明の問答が交わされていた。そして答えはすぐに出
に、えらく時間が経った感じがした。その間、私の頭の中で
トックを握り締めてそんなに長い時が過ぎたわけではないの
て私には無縁と思っていた。しかし現実に起こっている。ス
のことだった。膝がガクガクし腰のコントロールを失うなん
峰が望まれた。ダケカンバの点在する平坦な燕頭山頂に午後
僅か三分間の休憩で先を急ぐことにした。振り返ると樹木の
始めた。筋力をアップしたつもりだったが、六十七歳という
ここ数年膝腰が痛み日常生活での動きを越えた関節を使う
ことが少なかった。ために今年になってからウオーキングを
〇時三二分に着いた。汗を沈めゆっくりしていきたかったが
間から鳳凰三山の稜線がいよいよ高く遠ざかっていく。ガレ
鳳凰小屋前の道標に御座石鉱泉までの所要時間が三時間と
記されてあったものと思い込み、そのくらいの時間なら、露
年齢的老化も加わり、特に山下りに必要な筋力は落ちていた
岩の道や深い段差のある溝道でも両手の補助を使わずに下れ
場を過ぎると、猿田彦を祀る石祠があり立ち止まって拝礼し
鉱泉に着く手前の急な下りに差し掛かると、腰が引けて膝が
るはずであった。しかしガイドブックに四時間とあり、実際
のである。また観音岳から薬師岳間をハイペースで往復した
前に出なくなった。明らかに膝が笑ってきたのである。懸命
に我々二十四人のパーティの快調な下りでも三時間四十五分
ことも足腰が疲労した原因ではないのだろうか。
にバランスを取ろうとしたが元に戻らない。御座石鉱泉の建
を要している。登山は足で登り下ることが基本であることを
た。朝日岳を過ぎた頃から急傾斜となり、ジグザグ道を転ば
物が林間に見え隠れしていたが、他人の足腰のようで思うよ
実感したが、前述の私の身体的諸状況への認識が欠落してい
ないよう足元に注意しながらひたすら下った。私はトップグ
うに前に進まない。後続の受講者にも追い越され、やや間を
ループにいて、後続と少し距離があった。もう少しで御座石
おいて古内リーダーが余裕のステップで近づいてき、赤塚さ
Ƚ
ȽȁĺĵȁȽ
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後遺症?として帰宅後二日ほど両脚太腿の筋肉痛を感じてい
れて鉱泉に帰着した。暫時休むと回復したような気がしたが
て気持ちだけ健常者のままであった。私はストックに助けら
は頭の中で花の名と実物とが一致したものは多く無かった。
リナ・タイツリオウギ・白色系ハクサンシャクナゲなど、私
期の目的である安全で楽しい登山ができた。
のある人達であった。ために一人の落伍者も無く全員無事所
今回の登山教室は中高年者が殆どであった。しかしその人
達は過去の登山教室に参加したか、または何らかの登山経験
た。恥じ入るばかりである。
受講者が揃って御座石鉱泉に到着したのは午後二時十五分
であった。全員の無事を喜び合い、鉱泉で汗を流した後、食
鳳凰三山から帰宅後膝痛が再発して山に行けなくなってし
まうのではないかと気になった。しかし、痛みは起らなかっ
堂に全員が集まって喉越しの旨いビールで乾杯し温かい蕎麦
を食した。登山者誰もが下山後に味わう至福の一時であった。
で鳳凰山では山の姿を全部見せてくれなかった甲斐駒ヶ岳と
を連れて出かけたのである。
仙丈ヶ岳に登ることにした。八月二十三日から三日間、次男
た。しばらくすると山への登高意欲がまた沸いてきた。そこ
加藤チーフリーダーより全員無事に登山教室が終了できた
ことに感謝し、ここで習得したことを今後の登山活動に生か
していただきたいと挨拶された。
甲 斐 駒 ヶ 岳 大したものです。こういう例は余り聞いたことがないと讃辞
宿の主人細田宮子さんからは二十四人の団体さんで一人の
落後者も無く全員元気で無事鳳凰三山の登山ができたことは
を贈られた。このことばに対して私だけは別だなとリーダー
中 央 本 線 の 車 窓 か ら 一 番 見 ご た え の あ る 山 で あ る。 標 高
二九六五・六メートル。全山花崗岩からなり、山容は険峻で
宮田さんの九十三歳になるご母堂が自宅の梅の実を丹精こ
めて漬け込まれた梅干を全員一袋づつおみやげに頂いた。四
の弘幡行者によって開山されたという二説と頂上付近の岩窟
の山で文化十三年信州諏訪の延命行者、また文政年間に諏訪
︶ 私と息子は夏山としては比較的大き
八月二十三日︵月 めのザックを背負い、J R栃木駅を朝の六時三十六分発の電
開かれた山であることは確かである。
斐国史は伝えている。いずれの説かはともかく、信仰登山で
特に山頂付近は円錐形の岩塊状である。古くからの信仰登山
時二十分快晴の御座石鉱泉を後にして、また厳しい林道をマ
の中に駒形権現を安置したとの記述が文化十一年の編纂、甲
として参加したことに内心忸怩たるものがある。
イクロバスに揺られながら一路栃木へと向かった。
バスの中で古内リーダーより主稜線から御座石鉱泉までの
登山道で目にした高山植物を解説してもらった。赤色系コイ
ワカガミ・タカネビランジ・シナノナデシコ・フシグロセン
ノウ・シモツケソウ・ヨツバシオガマ、黄色系ミヤマコオゾ
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ȽȁĺĶȁȽ
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甲斐駒ヶ岳・仙丈ヶ岳概念図(日本山岳地図集成・学研)
車に乗り、小山 ―
新宿を経て甲府駅に十時三十八分に着き、
甲府駅前の南アルプス広河原行きバス停に向かった。バスの
発着所には女子大学のワンダーホーゲル部の学生九名が超大
型のザックを整然と並べ楽しそうに歓談していた。彼女らは
合宿で一週間ほど南アルプス北部の山に入るという。
空はどんよりと曇っていた。お盆を過ぎたせいか私たち親
子と女子学生以外の登山者はいなかった。バスは十一時定刻
に甲府駅前を発車して、見慣れた御勅使川沿いを南アルプス
市︵旧芦安村︶芦倉を抜けて北岳の登山基地広河原へとゆっ
くり登って行った。夜叉神トンネル入り口で休憩した。平成
十四年の台風による豪雨で夜叉神トンネル手前の鷲巣燧道入
り口付近で崩壊があり、その復旧工事のため隧道通行時間の
規制︵一日二時間の午前二回午後一回が通行可能な時間帯︶
がとられていた。この南アルプス・スーパー林道には二十三
のトンネルがあるが最後の赤抜隧道を出て午後一時〇二分
広 河 原 に 着 い た。 し ば ら く 待 っ て 二 時 十 分 北 沢 峠 行 き の マ
イクロバスに乗り換える。ここでも登山者は数名のみで閑散
としていた。夏山シーズンの終わりの感じであった。北沢峠
︵二二三〇メートル︶には午後二時三十分過ぎに着く。私た
ちはバスの発着所に近いテント場で自炊をすることにしてい
た。
峠から北沢沿いの少し下った右岸に、良く整地されたキャ
ンプサイトがある。すぐ近くに南アルプス市営北沢長衛小屋
もある。すでにカラフルなテントが十三張りあった。ここは
全部で八十くらいのテントが張れるというのに、大分少ない
Ƚ
ȽȁĺķȁȽ
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な と 息 子 と 話 な が ら、 我 々 も テ ン ト を ザ ッ ク か ら 取 り 出 し 、
りこんだ。
用を足したものは別である。早々と夕飯を済ませ寝袋にもぐ
ると水が溜まっている感じ、その上に敷いた銀マットの裏も
夜 半 天 幕 を 打 つ 激 し い 雨 音 に 眼 を 覚 ま し た。 物 凄 い 降 り
である。天幕の出入り口はびしょびしょに濡れ、底に手をや
なるべく平らで水捌けの良さそうな場所に設営した。息子と
は何回かテント生活をしながら山に登っているので手際よく
張れた。小屋泊まりの山行と違って寝袋や食料も持参しての
ことなので、ザックはかなり膨らんでいた。
隣の息子は目を覚ましていないようだ。そばを流れる北沢も
しっとりしている。幸いエアーマットまでは湿っていない。
食料は昔のように煮炊きしない。今は目方が軽く簡単に熱
やお湯又は水を加え短時間で調理︵と言えるかどうか?︶で
し か し、 よ く 考 え て 見 る と 地 元 の 人 達 が 長 年 の 経 験 か ら
判断してこの地をテント場にしたのだから災害は無いだろう
水量を増した様子で轟々と濁流の響きをたてている。一瞬恐
と考えると気が楽になった。その実、北沢の源流が甲斐駒ヶ
きて、案外美味いレトルト食品等が一般的に利用されている。
は持ち帰りである。いま何処の山や観光地に行っても、昔の
岳の仙水峠下の仙水池辺りなので流水距離が短いこと、北沢
怖がはしった。
ようにゴミ箱は置いてない。みな自己責任において持ち帰っ
峠が分水嶺となっており峠北側の雨水は全て双子沢に流入す
私たちもそれに倣って献立を考えて調達した。炊事の手間が
て処分することになった。そのことが徹底してきたので特定
省ける分、包装用の空き袋などのゴミがたくさん出る。これ
の地域を除いて自然環境は改善され綺麗になってきた。
るから北沢が氾濫することはあるまいとの結論に達したら寝
然を守り、子々孫々に伝え遺していくためには、山に持ち込
及に意を注いでいる。かけがえのない地球の財産である大自
役に立った。また日本山岳協会では携帯用大小便器の啓蒙普
今は夏山などでも使っているし、今回私たちも持参し大いに
を六時十五分に出発、しばらく登り後ろを振り向くと樹間に
山道がある。今日は三十分ワンピッチの登行とした。北沢峠
要時間十分の道のり、長衛荘右手よりモミの原生林の中に登
だ。朝飯を済ませ午前六時過ぎ天幕を出た。北沢峠までは所
食料・衣類等はビニール袋に入れておいたので濡れずに済ん
︶ 雨 は 止 ん で い た が 曇 り 空 で あ っ た。
八 月 二 十 四 日︵ 火 天幕は乾いたところは無く全体がずぶ濡れであった。
幸い靴・
入ってしまい、眼が覚めた時には夜が明けていた。
んだものは、己の体内から排出した大小便であっても、全て
湧き上がるガスの合間から小仙丈ヶ岳が見えてきた。少し風
冬山など水の無いところでは、
ついでながら食後の食器は、
洗うことが出来ないことから、ロール・トイレットペーパー
自己責任で自宅に持ち帰り然るべく処理することが登山者と
でふき取っていた。
それを山男達は雉ペーパーと呼んでいる。
しての責任義務なのである。ただし、山小屋などのトイレで
Ƚ
ȽȁĺĸȁȽ
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が吹き出した。天気の回復の兆しかなと思ったが、あいかわ
らず雲量が多い。やがて樹肌の真っ白いシラカバが点在して
きた。雲間から青空が見えはじめた。特長ある不動岩︵二五
〇二メートル︶を通過して八時前には双子山︵二六四九メー
トル︶に着ついた。
東南方向には鳳凰三山の一つ地蔵ヶ岳がオベリスクの尖峰
を雲間に覗かせていた。さらに遥か後方に墨絵で仕上げたよ
うな秀峰富士が望まれた。右手の仙水峠から山頂に向かう尾
根筋に列をなして、ゆっくり登っている登山者の姿が見て取
れる。小休止して駒津峰︵二七四〇メートル︶に向かう。少
Ƚ
ȽȁĺĹȁȽ
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し下りになった登山道脇に、遅咲きのミネザクラがひっそり
と花をつけている。駒津峰に八時四〇分着。休憩していると
単独行者が下山してきた。今朝会った初めての登山者だ。右
手には魔利支天の大岩峰がどっしりと構えて、ピラミダルな
山頂を護るような感じで屹立している。花崗岩の白い山頂は
ガスの中から垣間見えた。
六方石を過ぎたところから傾斜が増し後からついてくる息
子の息遣いが聞こえてくる、辛そうだが歩行ピッチ途中なの
で休まず、ただひたすら高度を稼ぐ。私はこの苦しさに耐え
て一歩一歩登ることが登山の教えであると思う。このことは
自分に打ち克ち、生きる喜びを噛み締めることに繋がるもの
と理解している。
ガスが去来し頂上が見えなくなった。足下に眼をやると僅
かな岩の割れ目に根を下ろし可憐な白い花を咲かせているの
甲斐駒ヶ岳山頂で息子と
朝四時北沢長衛小屋を発って仙水峠を経て登ってきたとのこ
石祠の祭神に無事登頂を感謝し賽銭を献じ拝礼した。百名
山を登る中高年のパーティは賑やかに昼食を開いている。今
はイワツメグサだ。厳しい大自然の中での生きる力強さを感
じる。地を這うナナカマドが赤い実を付けている。すでに秋
山頂にいる登山者は、この団体以外に私たち二人だけであ
る。三十分ほど休憩して汗を沈め、登ってきた道を駒津峰ま
の風情だ。頂上直下の岩場で上に抜けるのに苦労している中
で下り、そこから帰るコースを左手の仙水峠にとった。駒津
と、だいぶ時間をかけたなと感じられた。
越すわけにもいかず、私たちはその下で待つことにした。中
高年の女性を中心とした団体登山者に追いついた。そのパー
高年の団体さんは日本一〇〇名山を登る会と称し総勢三十
峰を過ぎた頃からガスがきれて青空となりまぶしい太陽が照
ティのリーダーは、お先へどうぞと言ってくれないから追い
人のパーティーだそうだ。辺りはガスに包まれてきた。岩場
り、仙水峠はさわやかな涼風が吹き抜けていた。振り返ると
駒ケ岳山頂もくっきりとした山容を碧天に映している。私も
を越え白い花崗岩の砂礫の踏み跡を辿ると甲斐駒ケ岳の山頂
︵二九六七メートル︶であった。時に十時に十二分。
沢テント場に帰ってきた。ここからの魔利支天はいかめしい
顔ながらもほほ笑んでいるかのように見えた。
息子も満足感に浸りながら足取りも軽く午後一時四十六分北
この山容と頂上の光景は深田久弥の名著日本百名山から引
用させてもらった。﹁南アルプスの巨峰群が重畳している中
に、この端正な三角錐はその仲間から少し離れて、はなはだ
頂上は、と訊かれても、やはり私は甲斐駒をあげよう。眺望
る威と品をそなえた山容である。日本アルプスで一番綺麗な
︶ 息子が午前三時三十分に起き出しテ
八月二十五日︵水 ントの外へ出た。星空が凄い!としきりに大声で叫んでいる。
仙 丈 ヶ 岳
の豊かなことは言うまでもないとして、花崗岩の白砂を敷き
いでいて、辺りが夜明けを待たずに明るくなったような感じ
個性的な姿勢で立っている。まさしく毅然という形容に値す
つめた頂上の美しさを推したのである。 ―
中略 ―頂上に花
崗石の玉垣をめぐらした祠のほかに、幾つも石碑の立ってい
であった。
続 い た も の だ と い う。
﹂ と 著 し て い る。 あ い か わ ら ず ガ ス に
ルの頂上から南に長ながと塩見岳に伸びる仙塩尾根、西に地
周りに高山が連巓しているからなのである。三〇三三メート
今日は仙丈ヶ岳に登る。この山は甲州側からの平地からも
伊那側からも見えにくい。だからと言って小さな山ではない。
私も眠い目を擦りながら外に出て見ると、満天の星が降り注
るのをみても、古くから信仰のあつかった山々であることが
覆われているが、私はこの甲斐駒ヶ岳によせる久弥の熱い思
察しられる。祭神は大巳貴命で、昔は白衣の信者が登山道に
いがひしひしと伝わってきて感動の極みであった。
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ȽȁĺĺȁȽ
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赤 石 岳 に 次 い で ど っ し り と し た 重 量 感 の あ る 独 立 峰 で あ る。
仙丈尾根を張り出している。
従って南アルプスの中では白峰、
蔵尾根、北に短く馬ノ背尾根、北東の尾根は北沢峠に続く小
高層に刷いたような雲はあるが晴れた無風のおおどかな山
仙丈ヶ岳頂上︵三〇三三メートル︶へ八時五十六分に着いた。
いる。快調なペースで大滝頭から小仙丈ヶ岳を越えて一気に
岩質は硬砂岩、千枚岩、粘板岩等で構成されている。
この山は地質学的に有名な三つのカールを擁しているので
ある。カールは圏谷ともいい、山稜の直下に発達した氷河の
侵食によって作られた半球形の窪地のことをいう。その位置
は頂上から南東方向に流れる三つの沢の上部にそれぞれ小仙
丈カール、藪沢カール、大仙丈カールが形成されている。
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ȽȁIJııȁȽ
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さて仙丈ケ岳への登山記録によると明治三十五年に河田
黙が最初に登っている。さらに古い記録では安永八年高遠の
葛上源五右衛門が登ったとされている。このことは記録の上
でのことだから、猟師や修験者などはそれより以前に頂上に
立っていたかもしれない。
ガイドブックなどではこの仙丈ヶ岳を南アルプスの女王と
紹介しているものもある。山容の優美さと可憐な美しい高山
植物の豊富なことも女王の名を冠している要因の一つかもし
れない。
今日が私たちの下山の日であることから、午前五時十五分
に出発。さわやかな快晴の大気を体一杯に吸い込み、北沢峠
から車道を少し下った仙丈ケ岳登山口の道標に導かれてシラ
ビソ、コメツガの原生林の急傾斜を一歩一歩踏みしめながら
高度を稼ぐ。温度計は摂氏九度を指していた。
登山道は名ガイド竹澤長衛の開いたものでよく整備されて
仙丈ヶ岳頂上
遠近の山々の景観を堪能した。何枚も写真を撮り、行動食で
あった。ほんとうに静かな山旅である。私たちは絶巓に立ち
生パーティと、小仙丈ヶ岳から下山の母娘の二人連れだけで
休憩していた男子六人と女子二人の頂上を目指していた大学
者だけである。山頂にくるまでに会った登山者は森林限界で
上の饗宴に与っているのは私たち親子のほか女性三人の登山
頂であった。眺望は三六〇度ほしいままだ。この大自然の特
びができたと思う。このことは体の安全の確保と登山の楽し
仙丈ヶ岳ではほぼ完全な腰・膝に戻り、リズミカルな足の運
ぎこちない時もあったが、膝が笑うようなことはなかった。
返しが山下りの基本であると思う。甲斐駒ヶ岳の下りは少し
振りで調子をとり、体をバランスよく移動させる動作の繰り
る。腰と膝と足首の関節を調和させながら体重を支え、腕の
オーキングも続けた。そのことが功を奏したことは確かであ
因みにこのひび割れ茶碗のことは、私の父の教えである。
父は若い頃病弱であった。私が小学生の頃は会社を一日も休
みを増幅させるものであった。
下山路を北の方向にとり岩尾根を足元に注意しながら、風
力発電のある仙丈小屋を目指し慎重に下り始める。仙丈小屋
恵まれたが、若い時から御身大切第一主義で、決して無理を
英気を養い喉を潤してから九時二〇分頂上を後にした。
馬の背 馬
―
―の背ヒユッテを経て藪沢に下り、戸台口林道側
の大平山荘に至る。林道を避けて静かな登山道を辿り、十二
しなかった。喜寿︵七十七歳︶を越えた頃から、口癖に﹁ひ
この快適なキャンプサイトで、もう少し寛ぎたかったが、
広河原から甲府行きのバス通過時間規制の関係から、それが
全うしての大往生であった。私もあやかりたいものだが、父
車を運転し、仕事の保険業も現役だった。九十二歳の天寿を
人によって寿命はさまざまであるが、父は八十三歳まで乗用
び の 入 っ た 茶 碗 も 大 事 に 使 え ば 壊 れ な い。
﹂ と 言 っ て い た。
まず勤めた月は数えるくらいであった。晩年は比較的健康に
時十三分にテント場に帰る。
許されず、三日間世話になったテントを撤収し、北沢峠のバ
︵学園理事・幼稚園長︶
がら日々の生活や趣味の山登りを楽しみたいと思っている。
げの人生を、ひび割れ茶碗をあつかうように、体を労わりな
の生きた歳までまだまだ二十五年余もある。これからの仕上
ス発着所へ急いだ。
再びひびわれ茶碗
私にとっても息子にしても前日の甲斐駒ケ岳と今日の仙
丈ヶ岳登山は近年に無い味わい深いものがあった。
夏山登山教室における下りの膝のトラブルが気になり、甲
斐駒ヶ岳と仙丈ヶ岳の登山でそのトラブルを払拭して、次な
る山登りへのステップにしようと思っていた。そのためにウ
Ƚ
ȽȁIJıIJȁȽ
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8月
日︵木︶9
日︵金︶
中
山
富
夫
∼
パルテノン神殿・アテネ市内見学
∼
競泳︵ 女子200M平泳ぎ決勝他︶
フランクフルト発
アテネ着
海外研修﹁アテネオリンピック﹂
研修目的
第1回オリンピックが1896年アテネで行われ、参加し
た の は ヶ 国、8 競 技 種 目 で あ っ た。 以 後、 大 戦 で の 休
止があったものの、年々回数を重ねるごとに競技種目も拡大
8月
∼
ヘリニコ五輪会場見学
∼ 野球 日本対チャイニーズ・タ
イペイ
∼
柔道︵同上決勝まで︶
∼ 柔道︵男子100㎏ ・女子 ㎏
超級予選︶
∼ ハンドボール︵クロアチア対ス
ペイン他︶
78
競技301種目にも
日︵土︶
8月
日︵日︶9
30
し、第 回を迎えた今回のアテネでは
および、名実ともに世界一のスポーツイベントとなった。こ
のオリンピックを実際に生で観戦し、スポーツの素晴らしさ
を知ると同時に、いろいろな人間模様を観察し、授業や部活
日︵7日間︶
動を通じて生徒に伝えていきたい。
研修期間
日∼8月
8月
35
30
00
∼
女子マラソン
Ƚ
ȽȁIJıijȁȽ
Ƚ
40 50
10
19
23 19
16
30
平成 年8月
日程
00 00
20
42
8月 日︵水︶成田発
フランクフルト着
24
00 00
10
00
18
19
14
18
28
18 13
21
22
14
29
16
18
8月 日︵月︶
8月 日︵火︶
ホテル発
20 40 00
成田着
アテネ発
ミラノ発
05
り降り自由のかたちが取られており、待ち時間もあまりなく
れら交通機関は当日のオリンピック入場券があればすべて乗
各会場ごとの行き来は地下鉄とバス・トラムといった交通
機関を利用すれば1時間以内で出来る距離だったと思う。そ
た。
利用するなどそれほどに広くない土地に有効に建てられてい
ボ ー ル な ど ︶ と 大 き く3 会 場 に 分 か れ て お り、 旧 飛 行 場 を
コ ン ド ー︶、 ヘ リ ニ コ︵ バ ス ケ ッ ト ボ ー ル・ 野 球・ ソ フ ト
会場はメイン会場のオアカ︵開閉会式・陸上競技・競泳・
自転車など︶、ファリロ︵ハンドボール・ビーチバレー・テ
会場が新設されていた。
今回のアテネオリンピックでは、5種目を見学した。競技
会場はサッカーを除いてすべてアテネ市内で行われ、殆どの
研修報告
21 16 12
大変便利に利用できた。
Ƚ
ȽȁIJıĴȁȽ
Ƚ
16
詳細は日程に沿って各競技の感想を述べたいと思う。
満員の水泳競技会場
23
24
位であったが、泳ぎ終わったあとの全力を出し切った笑顔が
ものすごく印象に残った。また男子200M個人メドレー決
世 界 が 注 目 し て い た が、 開 会 式 に は ど う に か 間 に 合 わ せ て
現 地 ガ イ ド の 話 に﹁ ぎ り ぎ り の ギ リ シ ャ﹂ と い う 話 が あ
る。 オ リ ン ピ ッ ク が 始 ま る 前 ま で 競 技 施 設 が 完 成 出 来 る か
思い知らされた。すべての競技に言えることだが、この日の
うはたいへんなもので、あらためてオリンピックの偉大さを
あった。そのフェルプス選手でさえ、優勝したときの喜びよ
個獲得︶選手が出場し、その圧倒的な強さは美しく魅力的で
日
午後7時∼︶
いた。それがギリシャ人の気質だそうだ。プールも例外では
ために4年間頑張ってきた成果なのだから、選手がどんなに
泳 ︵8月
なく本当は屋根をつけて完成の予定だったが、間に合わなく
大げさに喜んでもそこに違和感は感じられない。あるのは惜
◎競
なったとたん必要なしに変わり、どうにか完成させ、当日を
しみない拍手と歓声である。それがオリンピックだと初日に
勝 に は ア メ リ カ の マ イ ケ ル・ フ ェ ル プ ス︵ 今 回 金 メ ダ ル5
迎えたそうだ。最近の大会で屋根なしの会場で行うことはほ
∼︶
とんどなく、選手たちもその練習に、かなり気を使って試合
日
して感じさせられた。
道 ︵8月
◎柔
30
日、100㎏ 級の井上康生がまさかの敗退。同じ日
に田中雅美選手がアトランタ・シドニーに続き3度目のオリ
の中で2つ気になる種目があった。女子200M平泳ぎ決勝
団の声も大きく聞こえた。いくつかの決勝種目があったがそ
日 本 選 手 が 前 日 ま で 大 活 躍 し、 北 島 選 手 が 金 メ ダ ル を2
個・他の選手もメダルを獲得しており、気のせいか日本応援
いたはずである。そんな中、順調に予選トーナメントを進ん
いた出発前とは比べられぬほどのプレッシャーが彼を襲って
最後の砦としての重責を担っていた。自然体で望むと言って
びも半減する。その意味で100㎏ 超級の鈴木桂治は重量級
ダルを大量にとっても、男子の重量級が総崩れとあっては喜
団に冷水を浴びせる結果となった。いくら軽量級と女子でメ
日本柔道界の本丸落城は、金メダルラッシュに沸く柔道選手
ンピック決勝進出をはたしたレース。大声援に後押しされ本
に2 度も天井を仰ぎ、メダルにすら手が届かなかったのだ。
場に、
大会初日の谷・野村選手の金メダルにはじまり連日、大活
躍を見せ﹁柔道日本﹂を世界に示し盛り上がっていた柔道会
10
に臨んだそうです。
現地での競泳競技の人気は絶大で、入場券も正規で200
ユーロ︵1ユーロ138円︶と他競技と比べ大変高く、私が
購入したときは日本円で4万円もした。
そんな会場に一歩足を踏み入れると、超満員のスタンドに
夕暮れの低い山並みが迫り、水の影響で涼しさも感じられ絶
20
当に頑張って泳ぎ切り、タッチの差でメダルを逃し、結果4
好の観戦模様がそこにあった。
19
Ƚ
ȽȁIJıĵȁȽ
Ƚ
19
でいたが、4回戦、よもやの﹁技あり﹂を先制された。会場
態 で ど よ め い た。 し か し 残 り 1 分 く ら い で 逆 転 の 一 本 勝 ち 。
のギリシャ戦でも、最後まで満員になることはなく、チケッ
を買うには、長蛇の列を覚悟しなければならなかった。地元
観客席は仮設のスタンドで当然屋根などなく、気温 度近
い暑さは、観客の体力をも奪っていく。売店も少なく飲み物
れない人たちがやけに目立って見えた。
応援に来ていたすべての日本人が立ち上がり歓喜のバンザイ
は昨日の井上選手のことが脳裏をかすめ、一瞬凍り付いた状
をしていた。
のとなった。素人目に見てなにかすごくラッキーに感じたの
声の中、瞬く間に 秒が経過し、悲願の金メダルは塚田のも
げ、いつのまにか後ろ向きのまま袈裟固めにはいった。大歓
万事休すかと思われたが、あきらめず必死に体をひねって逃
刈りをくらい、技ありをうばわれた。そのまま抑え込まれて
人初の金メダルを目指す塚田真希は、キューバの選手に大外
決勝は、大どんでん返しの結末となった。この階級で、日本
昼食休憩後行われた準決勝・決勝は危なげなく一本勝ちを
し歓喜の金メダルへと上り詰めた。女子最重量級の ㎏ 超級
素の多いスポーツと言うことができる。本日先発の上原選手
が非常に高く、試合の行方は投手の調子次第という不確定要
に野球の場合は、投手という一つのポジションが占める役割
いが、強いからといって必ず勝てるというものではない。特
出やすい個人競技に比べて、団体競技は強くなければ勝てな
ンの注目度はかなり上位のものだった。能力差がはっきりと
まるで興味のない人々をも巻き込んで、今大会の長嶋ジャパ
では非常にマイナーな競技であった。一方、日本では普段は
めたツアー会社の幻のチケットだけ。欧州という地域性の中
日
選手の雰囲気と気迫は球場が狭いのでスタンドの私たちまで
いう国民の期待がある以上負けるわけにはいかない。そんな
1敗で宿敵キューバを倒してるとはいえ、全勝で金メダルと
トが完売したのは日本が勝ち進むことを当て込んで、買い占
は私だけではなかったと思う。メインポールに﹁日の丸﹂が
は言わずと知れた巨人のエース。ジャパンはこの日まで4勝
と同様に感激した。
球 ︵8月
ラ ン を 打 た れ3 点 を 先 攻 さ れ た、7 回 裏 に 高 橋 由 伸 選 手 に
◎野
エリニコ・オリンピック・コンプレックスのほぼ北端に位
置する野球場。その第二球場でチャイニーズタイペイ戦を観
同点のツーランが生まれ試合はそのまま延長戦へ。負ける訳
伝わってくる。投手戦のなか3回に台湾4番陳選手にスリー
戦した。観客は日本人と台湾人のみ。目立つのはマスコミ関
回 裏、 高 橋 選
に い か な い 両 チ ー ム は 総 力 戦 に な っ た が、
∼︶
連続して上がり、﹁君が代﹂の斉唱は選手・監督・家族の涙
40
手のヒットから中村選手の送りバントなどでワンアウト満塁
10
Ƚ
ȽȁIJıĶȁȽ
Ƚ
78
係者とそのゲストで出演している芸能人。日本で行えば観客
30
が多く目立たないがここアテネの地ではテレビ等でしか見ら
10
25
21
ハンドボール会場(試合後)
となり、小笠原選手のレフト犠牲フライで、高橋選手がタッ
チアップ。必死のヘッドスライディングで生還、サヨナラ勝
ちとなった。今回初めてオールプロ軍団となり注目度の高い
中、負けられないと言う意識がプレーの中に随所で現れ、見
日
9
∼︶
ていた観客の満足度は100%に近いものだった。
◎ハンドボール ︵8月
はどんなところにあるのかなどたいへん興味深い試合があっ
ていくのか、現世界チャンピオンのクロアチアの強さの秘密
国がヨーロッパの大柄な選手を相手にどのようなゲームをし
予選で韓国と引き分け、得失点差で出場を逃したが、その韓
ア対スペインの2試合を観戦した。残念ながら日本はアジア
フ ァ リ ロ・ オ リ ン ピ ッ ク・ コ ン プ レ ッ ク ス の ス ポ ー ツ パ
ビリオンでハンドボール男子の韓国対スロバキア、クロアチ
30
た。また審判技術や試合の運営方法も興味があり目の離せな
いものになった。
30
22
は何しろ基本がしっかりしてると感じさせられた。当たり前
のプレーを大きな男たちが正確にこなしている。そしてミス
が少ない。私たちが普段生徒に言っている基本の大切さをま
たあらためて思い起こさせてくれた。審判も世界一の審判が
割り振られており、安心してゲームが見られた︵とかく接触
Ƚ
ȽȁIJıķȁȽ
Ƚ
22
試合結果は 対 で韓国が敗れ、 対 でクロアチアが勝
ちました。特に韓国は最後まで接戦し、これからの日本の戦
23
い方を示してくれたいいゲームであった。クロアチアの強さ
26
感じた観戦であった。観客も日本では考えられないくらい多
ムが出ることが多い︶。あらためてハンドボールの面白さを
プレーが多いので小さなミスジャッジでベンチからのクレー
拍手が最後まで続いた。
じく、ゴールまでたどり着いた選手にはそれこそ惜しみない
う。
︵参加選手
うにトラックにうずくまった。それほど過酷であったのだろ
隅で嘔吐していた。
秒差でゴールしたヌデレバも、同じよ
く、応援もさることながら自分自身も楽しむという気持ちを
名が途中棄権︶勝利者への拍手と同
◎アテネ市内の歴史
名、
常に持っており、ビデオを撮っている自分だけがこの場面か
ら浮いているように思えた。
の高橋尚子選手が落選し、選ばれた3名は2時間半後の国民
めに日本での人気は絶大な種目である。前回の金メダリスト
今回のオリンピック最後の観戦が女子マラソン。これも柔
道と同じくたいへん期待され、また過去の結果がよかったた
式 だ が、 内 部 の 柱 な ど 部 分 的 に は イ オ ニ ア 式 を 取 り 入 れ て
をかけて紀元前438年に完成。全体としては重厚なドリス
物 の 周 囲 約1 6 0m に
横 m 、縦 m 、柱の高さ m 、柱の下部の直径は2m 、建
を祀っており、市内のいたるところから見える。大きさは、
∼︶
的ヒーローになるべく、このオリンピックにすべてを掛けて
世界遺産ギリシャのシンボルともいえるアクロポリスの
丘、そこに姿を現すパルテノン神殿はアテネの守護神アテナ
きた。スタジアムの日本からの応援団を見るとその期待度が
いる。曲線と曲面を組み合わせた緻密な設計、見事な彫刻な
日本の野口みずき選手であった。野口選手は歓声に応えるよ
アテネ市内はさほど大きくなく、古い町並みが目につくが
よく整備されている。やはりオリンピックを機に整備された
出した記者たちの質問には答えることができず、トラックの
のまま歓喜のゴールテープを切った。スタンドから身を乗り
地下鉄が縦横に走り、シンタグマ・オモニアの両駅を中心に
15
郊外に線を延ばし世界中のお客様を歓迎していた。特に地下
本 の 柱 が 立 っ て い る。
10
うに、右手を振りながらスタジアムに入ってきた。観衆はす
46
ぐ後ろにいるヌデレバ選手に追いつかれてしまうのではと冷
70
鉄は新しく、駅も車両も快適であった。
31
や冷やしたが、野口選手はあまり気にならなかったらしくそ
年の歳月
良く解った。この日のアテネは 度を超える暑さに見舞われ
ど、古代建築の最高傑作のひとつである。夜はライトアップ
日
12
16
され、世界中の観光客が毎日押し寄せている。
◎女子マラソン ︵8月
82
ていた。五輪史上最も過酷と言われた42.195㎞を走り
00
抜き、第1回近代オリンピックから108年ぶりにマラソン
18
の聖地・パナシナイコ競技場に最初に飛び込んできたのは、
35
Ƚ
ȽȁIJıĸȁȽ
Ƚ
22
全体を振り返って
1 9 6 4 年 月 日。 当 時 小 学 生 だ っ た 私 は 東 京 オ リ ン
ピ ッ ク の 開 会 式 を 新 し く 購 入 し た カ ラ ー テ レ ビ で 見 て い た。
自衛隊機が東京の上空に五輪のマークを描いたときは家を飛
び出し上空に描かれた五色の煙が消えるまで眺めていたのを
思 い 出 す。 東 京 に は 首 都 高 速 が 出 来、 新 幹 線 が 大 阪 ま で 開
通した。日本が高度経済成長期に突入したまさにそのときで
あったと思う。あれから 年経っているがオリンピックがも
れ、感動をたくさん味わうことが出来本当に感謝している。
の競技すべてが感動を与えてくれる。今回その機会を与えら
さに言えばすべてを掛け、この大会にあわせているので、そ
それでも四年に一度しか行われず、そして文字通り世界一
を決める大会である。それこそ全世界が注目し、選手も大げ
前であった。
場になっていた。入場券も人気種目は五倍から十倍が当たり
ルなどは普段は一泊一万円ぐらいが、七万から八万という相
模は回数を重ねるごとに肥大化している。アテネ市内のホテ
今回のアテネも例外ではなく、まさに世界各国の人々が観
戦に訪れ、またテレビ放映権料も膨大にはね上がり、その規
の一大プロジェクトで行われている。
たらす経済効果は計り知れず、誘致活動はまさに国を挙げて
40
ここで得たたくさんの経験と感動と思い出をこれからの授業や
︵保健体育科
教諭︶
Ƚ
ȽȁIJıĹȁȽ
Ƚ
10
部活動に生かして行きたいと思う。
パルテノン神殿(筆者)
10
ଟ
勇気ある敗者
ே
山下
宏
今年の夏休みは日本選手の大活躍も
あり、アテネ五輪一色に染まり、日本列
が歪んだ形でされていたのだ。女子マラ
ソンの野口みずき選手が途中で水分補給
選手の重圧、緊張をよそに、幸せそのも
んどで、勤務時間とは重ならない。代表
たいことに、各競技の生放送は夜がほと
行動を決定するのを日課とした。ありが
ンピック放映予定を詳しく調べて一日の
その筆頭だろう。室伏選手は本校の体育
ハンマー投げ金メダリスト、室伏選手は
て得意種目でない陸上競技フィールドの
いや脅威の目を向けた。たとえば国とし
数 多 く 獲 得 す る 様 子 に 世 界 中 が 驚 異 の、
手達が各種目で入賞、さらにはメダルを
笑してしまった。
それにしても全体的に小柄な日本の選
するたびに、当時と比較しておもわず苦
の、家で冷房をかけ、冷たいものをいた
教諭の坂本嘉史先生の友人である。坂本
֚ĩ➃
だきながら、遙か遠くのアテネから届く
とだったので喜々として実家に五輪マー
があるのだ。田舎者にとっては大変なこ
末端の補助役員をおおせつかった思い出
ピ ッ ク の と き 体 育 大 の 学 生 だ っ た 私 は、
な思いがある。昭和三九年の東京オリン
れた。オリンピックは私にとっては特別
華やかで賑やかな開会式には興奮させら
つかり﹁ケツバット﹂や﹁げんこつ﹂を
か水分補給をしたものである。時には見
たまらずに、指導者の目を盗んでなんと
練 習 中 や 試 合 中 に 体 内 に 水 分 が 不 足 し、
い う こ と が 常 識 と し て 指 導 さ れ て い た。
には運動中は水分を取ってはいけないと
あった。古い話であるが、私の小さい頃
を持っていることが証明された大会でも
導者達がそれぞれ優れたコーチング能力
て欲しい。
スリートを育てて国民に夢と勇気を与え
ングを編み出し、全ての分野でトップア
の指導者が研鑽して日本独特のトレーニ
すごいことだと思う。これからも各競技
つけ世界の頂点に立ったことは、改めて
る。彼が鍛錬の末、爆発的パワーを身に
ハンマー投げの選手としては小柄であ
れ た 磨 き 抜 か れ た 体 で あ っ た。 し か し、
教諭の結婚式で同席したが実に均整のと
各競技の激戦のTV中継を堪能した。
島は熱気につつまれた。オリンピック発 金 メ ダ ル 十 六 個 を と っ た 今 回 の ア テ
ネ五輪では現在の日本のスポーツ界の指
クのついた補助役員ユニホームを持ち
もらったものだ。当時は人体生理の理解
祥の地に世界中の代表選手が勢揃いした
帰り自慢したものだった。今回のアテネ
一方、心のトレーニングについても注
目してみたい。予想どおり大活躍したメ
オリンピックでは、朝のテレビ欄でオリ
Ƚ
ȽȁIJıĺȁȽ
Ƚ
柔 道 の 井 上 康 生 選 手 で あ る。 私 は 彼 に
ダリスの陰に、
﹁偉大なる敗者﹂がいた。
いものであったろう。
撃が襲っていたのだろうか。計りしれな
ンピックではいったいどんなに大きな衝
は、例の﹁賽は投げられた﹂の名言が伝
官だったそうだ。英雄シーザーにとって
フランス︶の部族を束ねていた最高司令
﹁ 心 の 金 メ ダ ル ﹂ を あ げ た い と 思 う。 勝
で 見 た 時、 信 じ ら れ な い と 思 っ た。 何
た。その井上選手の敗戦の瞬間を生放送
も金メダルを確実視していた選手であっ
井上選手は日本選手団の主将を任せら
れ、しかも柔道百キロ級で世界の関係者
立った。それなのに彼は、敗戦を実直に
失礼で、まだ彼を痛めつけるのかと腹が
ですかとマイクを差し出す。あまりにも
ないマスコミが遠慮なしに心境はいかが
けつけている姿がみられた。敗戦直後心
選手団の主将として各競技場の応援にか
さらには多くの他競技の会場にも日本
者あれば敗者あり。勝負ごとの鉄則は変 しかしながら、その後の井上選手は柔
道仲間のメダルを祝福しつづけ、応援し
ある。
う。彼はまだ人々の心に生きているので
彼の銅像が大切に保存されているとい
地 方 で は 英 雄 と し て、 今 も 語 り つ が れ、
マで処刑された史実があるそうだ。その
に、一人でシーザーに投降し、後日ロー
認めて、自分の命と部族の命を引き替え
戦 の 時 に、 そ の 司 令 官 は 自 軍 の 敗 戦 を
ざるべきか苦悩する直前における大決
わ る、 ル ビ コ ン 川 を 渡 る べ き か、 渡 ら
より彼自身がその場から逃げてしまいた
認め﹁これまで注目してもらい、多くの
わらないが、彼の態度に深く心を打たれ
い衝動にかられたことだろう。それほど
ドボールの女子監督として敗戦を何度も
競技者として、また教員になってのハン
あった。私も若い時から、野球や空手の
は敗戦の事実にじっと耐えていた様子で
彼は選手団の主将として、閉会式まで日
というものを井上選手に感じた。そして
と逃げずに責務を果たす姿に敗者の勇気
を気遣って冷静に振る舞っていた。堂々
い気持ちです﹂とこれから競技する選手
たからである。
の衝撃であった。だが試合後、井上選手
経験しているが、優勝候補に挙げられて
本の選手をまとめ続けたのである。
前五二年に戦ったブルゴーニュ地方︵現
れ て い た と い わ れ て い る 好 敵 手 が い た。
︵保健体育科
普通科二類科長︶
語り継がれていくことだろう。
アテネの井上選手も日本男児の責務を
皆さんに支えていただいたのに申し訳な
果たした勇気ある敗者として後年も長く
いた時の敗戦はあまりにも酷だったもの
古 代 ロ ー マ に お い て、 あ の シ ー ザ ー
だ。逃げてしまいたい。泣きたい。夢で
︵ カ エ サ ル ︶ が 恐 れ、 認 め て い た と い わ
りもした。高校レベルの大会においてで
あって欲しい。本当に頬をつねってみた
ある。まして国民の期待を背にしたオリ
Ƚ
ȽȁIJIJıȁȽ
Ƚ
うな気もするが、どうしてそういう設定
い風景というか、今考えるとおかしいよ
バーでバーベキューというのも微笑まし
クールな感じを漂わせ常に客観的に物事
に も 熱 く な る タ イ プ が 多 い 仲 間 の 中 で、
ちらかというと何を語るにも、何をする
囲 気 か ら も ま さ か と 思 っ て し ま う。
︶ど
である佐久間弘展氏に来てもらった。彼
そ の 講 師 の 一 人 と し て、 私 か ら 直 接
お願いし、早稲田大学教育学部の助教授
る。昨年に続き今回で二回目である。
する意識を高めようという目的で行われ
問に対する興味を持たせ、また大学に対
らうものであり、生徒たちに専門的な学
校生相手に実際の大学の講義をしても
先 日、 本 校 で 大 学 出 張 講 座 が 行 わ れ
た。これは大学の先生をお呼びして、高
て お り、
﹁教え子だったという∼がいる
め、
︵そこへは本校からの何人も入学し
に、帰国。最初はある女子大の講師を勤
て再びドイツへ。さらに二年勉強した後
学となった。二年半後に帰国し、結婚し
学金の試験にも合格して、ドイツへの留
語学学校にも通い、難関のバカロレア奨
ドイツ史を専攻し、ドイツを学ぶために
て 大 学 院 に 進 ん だ の で あ る。 そ こ で は
年 で 退 社。 そ の 後、 半 年 間 の 準 備 を し
をさらに学びたいという思いが募り、半
している。しかし、世界史が好きで歴史
彼は元々は政治経済学部の政治学科
卒 業 で あ り、 一 度 は 一 般 の 企 業 に 就 職
には感心させられたものである。
自分の好きな道へ進んだ彼の意志の強さ
も、 ま だ 先 が 見 え て い た 訳 で は な い が、
将来を捨て、結婚してドイツに渡った時
あ っ た。 さ ら に、 企 業 で の 保 証 さ れ た
て野草を摘んでいくというような一面も
遊 び に 来 た 時 も、
﹁娘に見せる﹂と言っ
たが、定期的に手紙をくれたり、栃木に
た時にはそういうタイプには思えなかっ
ることが後になって判った。ドイツにい
かし、そういった態度も一種の照れであ
ろがあるように思えるところもある。し
方によっては、本人曰く﹁ひねた﹂とこ
他 と は 一 線 を 画 す と こ ろ が あ っ た。 見
再
会
は私の大学時代のサークルの仲間であ
ぞ﹂という連絡をもらったこともあっ
を と ら え な が ら、 シ ビ ア な 意 見 を 述 べ、
になったかは覚えていない。
︶
り、ここ数年は年賀状のやりとりをする
青木
一男
だけとなってしまったが、大学時代には
た。︶ そ し て、 早 稲 田 大 学 か ら 就 職 の 話 と こ ろ で、 彼 と は 先 に 述 べ た よ う に、
同じサークル仲間であったが、そのサー
があり、現在に至ったわけである。
留学生向きの新聞であり、取材から写真
い っ て、 英 字 新 聞 を 作 る も の で あ っ た。
ク ル と は﹁ ワ セ ダ・ ガ ー デ ィ ア ン ﹂ と
私の自宅へ泊まりがけで遊びに来たりす
る仲であった。卒業してからも、七年前
出 場 し て い る が、︵ か な り の 細 身 で、 雰
出身は愛媛県で、高校時代は何とサッ
にサークルのメンバーのうち彼を含めた
カ ー の 県 代 表 選 手 に 選 ば れ、 国 体 に も
五名が栃木に集まり、バーベキューをし
た こ と も あ っ た。
︵四十歳を超えたメン
Ƚ
ȽȁIJIJIJȁȽ
Ƚ
撮 影、 原 稿 書 き、 編 集 ま で 行 っ て い た。
言 っ て、 赴 任 先 は 全 て ア ジ ア を 希 望 し、
入 り、
﹁これからはアジアの時代だ﹂と
している。
は翻訳をしたり幼児相手の英会話教師を
る人気劇団のマネージャーになり、現在
合ったものであった。そうした中で私は
最初はインドネシアそして次にインド
い る。 そ し て、 そ れ ぞ れ の 国 に つ い て、
自然に彼らから刺激を受け、自分も負け
まずは紙面をどのようにするかで徹底
しっかりと岩波新書から本を二冊出して
的に話し合い、編集ともなると部室があ
う六畳一間の貸部屋︵一人一泊千円で泊
いる。
に 滞 在 し、 日 本 と の 文 化 交 流 に 努 め て そ ん な 彼 ら と 世 界 情 勢 か ら 映 画・ 音
楽のジャンルに至るまで、毎日毎日語り
まることができ、毛布一枚を貸してくれ
る学生会館のすぐ隣りの﹁木村屋﹂とい
る。︶で徹夜の作業をしたものであった。
あ っ た。 互 い に 表 面 に は 出 さ な く て も、
に朝から晩まで受験生相手に新聞を売ら
向けの受験特集号を作成し、受験期間中
へ広告掲載のお願いに行ったり、新入生
り、不審に思われながらも、様々な企業
新聞の資金調達であった。煙たがられた
に入り、現在は北京支局にいる。
ミ関係に進んだが、九州の地元の新聞社
とめ役であったI氏は、ただ一人マスコ
家業の製袋工場を継いでいる。全体のま
父 さ ん の た め で あ る の だ が ︶ と 言 っ て、
めたが、一国一城の主を選ぶ︵本当はお
ピューターメーカーに入社し、十数年勤
野で頑張っている。
就いている者はいないが、それぞれの分
た。面白いもので一人として同じ職種に
とを張り合っているようなところがあっ
い意識を持っているか、要はどれだけの
ではなく、どれだけの世の中において高
に良い新聞を作るという点でのライバル
バルであったのかもしれない。それは単
に譲らず、同志であるとともに良きライ
う。互いに意見も譲らないところは絶対
何となくそういう雰囲気があったと思
てなるものかという意識が今思うと強く
ま た、 編 集 長 で あ り、 私 の 家 に も 一
さらには取材も結構危ない所へも行かさ
番 よ く 遊 び に 来 た A 氏 は、 大 手 の コ ン
な け れ ば な ら な か っ た。
︵これで精神的
の溜まり場になり、私もよく泊めていた
家が東京大学の近くで下宿屋をやって
経験を共にしてきた仲間たちであった。
いて︵今はやめてしまわれたが︶よく皆
に 鍛 え ら れ た よ う な 気 が す る。
︶そんな
だいたW氏は、編集社に勤め、一番人気
れたが、それより何よりも辛かったのは
佐久間氏以外のそうしたメンバーた
ちも、それぞれが大学時代から自分の道
の漫画雑誌の編集に関わっている。さら
ような気がするが、彼らと共に過ごした
人生を送ろうと頑張っているかというこ
をしっかり見据えていて、今実際にその
一目置かれる英語力、教養を有していた
道を歩んでいる。例えばO氏は︵彼とは
が、企業に就職した後、いつの間にかあ
大学で同じクラスであり、彼の誘いで私
は﹁ガーディアン﹂に入ったのである。
︶
大学生活は彼らのお陰で夢中で過ご
に、紅一点のMさんは、私たちの中でも
し、 あ っ と 言 う 間 に 終 わ っ て し ま っ た
外務省の外郭団体である国際交流基金に
Ƚ
ȽȁIJIJijȁȽ
Ƚ
日 々 は 私 に 大 き な 影 響 を 与 え て く れ た。
いたと思う。しかし翌年、いざ担任にな
しゃるクラス運営は難しく、一筋縄では
先生方が当たり前のようにやっていらっ
意味にやっと気付いた。大橋教諭は﹁諸
り、大橋教諭がおっしゃっていた言葉の
本当の意味での強い人
そして自分はどう生きていったらいいの
だろうかという不安にかられる時期でも
あったが、私は彼らとのこうした交流の
中でその答えを見つけていったのかもし
いかない。だから、比較的時間のある副
病 気 ︶﹂ の ヨ ー ロ ッ パ に 与 え た 影 響、 ま
名いた以外、何の問題もなく部活を終え
原因で、無灯火運転をしている生徒が数
柳橋の袂に立っていた。ライトの故障が
話は戻るが、佐久間氏の講義の内容は 二学期に入って間もない九月のある放
西 洋 史 で、﹁ ペ ス ト︵ 黒 死 病 と 呼 ば れ た
課後、私は下校指導で大橋教諭と共に大
た大ベテランの大橋教諭からもっと何
修学旅行も同行し、職員室の席も隣だっ
を教えて下さっていたのだ。特に一緒に
見 て 勉 強 し て お き な さ い。﹂ と い う こ と
けを始めとする対応、クラス運営をよく
綾川
浩史
たそのことから見えるヨーロッパ人の
た 生 徒 達 は﹁ さ よ う な ら。
﹂と通り過ぎ
担任のうちに、先生方の生徒への言葉か
死生観についてのものであった。大学の
かを掴んでおくべきだったと反省してい
れない。
講義というと淡々と流れていくものだと
て行く。大橋教諭とこうして一緒に仕事
はと期待していた。
に、教員として大切な何かが学べるので
る。だからこそ、今回のこの下校指導中
思いがちであるが、彼は資料を豊富に用
意し、二十名程度の出席していた生徒全
をするのは約二年ぶりであった。
員を指名するなど、熱い講義を展開して
教 員 一 年 目︵ 平 成 十 四 年 度 ︶、 私 は 国
際情報科二年生の副担任をしていた。そ
くれたのである。今また、彼のそうした
る か、 よ く 見 て お き な さ い。
﹂というこ
は、他の先生方が職員室で何をやってい
いていた。その言葉とは﹁時間がある時
諭からはある言葉をよくかけていただ
を強くしてもらったと実感している。で
部活動を通して体力、それ以上に精神面
生 は こ う お っ し ゃ っ た。 私 は 自 分 自 身、
の 連 中 だ け と は 限 ら な い よ ね。﹂ 大 橋 先
強い人﹄って実は、今帰っている部活動
姿を目の当たりにし、ふと気がつくと刺
激を受け、こちらも負けていられないと
とだった。正直その当時の私は、一体何
は大橋先生にとって﹁本当の意味での強
生徒がある程度途切れた 七時二十分
の 時、 二 組 の 担 任 を さ れ て い た 大 橋 教
頃、突然﹁講義﹂が始まった。﹁
﹃本当に
思っている自分がいた。
をどのように見ていればいいのか分から
︵外国語科 教諭︶
ずに、その言葉をただ漠然と受け止めて
Ƚ
ȽȁIJIJĴȁȽ
Ƚ
い人﹂とはどのような人物を指すのであ
強できる人間って強いよね。
﹂
ろうか。
目 か ら 鱗 で あ る。 自 分 の 人 生 観 が 変
わ っ た と 言 っ て も 過 言 で は な い。 私 自
﹁部活っていうのは周りに仲間が一緒
に い る。 そ れ に 顧 問 の 先 生 も い る よ ね。 身、 幼 稚 園 か ら や っ て い る 柔 道 を 通 じ
時、家でお菓子食べながらテレビ見てい
る時、寝ている時、自分一人で机に向か
える心の強さがある素晴らしい生徒だと
思う。
た り、 落 ち 込 ん だ り し た ら 励 ま し て く
し て、 周 り に は、 疲 れ て 動 け な く な っ
てるから、多少やる気なくてもやる。そ
強できる人﹄だぞって。部活は先生が見
て﹃ 家 に 帰 っ て 一 人、 机 に 向 か っ て 勉
中 に は 言 う ん だ よ。 本 当 に 強 い 人 間 っ
人を強くする。しかし、部活動以外でも
て い た か も し れ な い。 部 活 動 は 確 か に
偏った物の見方しかできない教員になっ
ことが出来なかったら、ひょっとすると
は、 今 回 大 橋 教 諭 か ら こ の お 話 を 聞 く
筋肉隆々の運動選手を想像しがちだ。私
か ら、
﹁ 強 い 人 間 ﹂ と 言 わ れ る と、 つ い
け ず に 毎 日 こ の 学 級 通 信 を 出 す よ。
﹂そ
けでは情けないから、私も自分自身に負
分に負けないでほしい。みんなに言うだ
己心。つまり己を克服することだよ。自
と い う 学 級 通 信 を 出 し て 下 さ っ た。
﹁克
生 は、 一 日 も 休 む こ と な く﹁ 負 け ね え ﹂
二、三 年 と 担 任 を し て く だ さ っ た 束 原 先
俺 は よ く 生 徒 に、 特 に 部 活 や っ て る 連
れる仲間もいる。家でやる勉強は違うよ
人は強くなれる。勉強を一人黙々とやれ
﹁克己心﹂。中学時代の担任の束原先生
て﹁強さ﹂を得てきたと思っている。だ
がいつもおっしゃっていた言葉だ。中学
ね。家に帰れば、テレビもある、漫画も
下さった。自分が教員になりいざ自分で
活やってる人間はついつい﹃自分は体動
験以上にやったやらなかったかで合否は
到 達 目 標 試 験 に 毎 回 受 か る 者。 こ れ
ない人間には分からない﹄って思いがち
も強いと思う。到達目標試験は、定期試
かしてるから疲れてるんだ。部活やって
決まる。テストの点数だけで人間の評価
一杯いるもんだ。
省した。そう考えると世の中に強い人は
本当に頭が上がらない。
後 も ず っ と 続 け て い ら っ し ゃ る そ う で、
本当に強い人だ。しかも、私たちの卒業
い、学級通信を毎日作って下さっていた
ではない。先生は朝早く、また授業の合
やろうと思っても、なかなか出来るもの
年の卒業式まで己に負けず、毎日続けて
う お っ し ゃ っ て、 二 年 の 始 業 式 か ら 三
ある、ゲームもある。誘惑するものが一 る 人 も、 れ っ き と し た 強 い 人 間 な の だ。
杯あるよね。そこで、自分に負けず、机 ﹁ 強 さ ﹂ っ て 奧 が 深 い。 自 分 は 本 当 に 狭
い考えで﹁強さ﹂を考えていたのだと反
走ってる時、一人闘っている奴もいるん
は絶対に決まらない。しかし、合格出来
に 向 か う っ て 凄 い エ ネ ル ギ ー だ よ。 部
だよって、そっちも充分疲れるよって事
間を縫って、ただ私たち生徒のことを思
を分かっていて欲しい。やっぱり誰も見
る生徒というのは、みんなが遊んでいる この強さの定義、﹁一人で闘える強さ﹂
だけど、そうじゃない。他にもお前等が
ていない状況で、手を抜かず、一人で勉
Ƚ
ȽȁIJIJĵȁȽ
Ƚ
は自分自身の柔道の経験で考えてみて
は、﹁ 人 よ り 早 く 練 習 に 来 て、 人 よ り 遅
ていた事がある。その中で、一流選手と
も、一人で闘い、勝利している選手も世
は ず は な い。 自 分 と 同 じ よ う な 状 況 で
自 分 に 勝 て な い 人 間 が、 相 手 に 勝 て る
い。家族や、友人など身近な人に励まさ
く 帰 る 選 手 だ。
﹂ と 習 っ た。 つ ま り、 周
れ、 支 え ら れ 生 き て い る の も 事 実 だ が、
も、 当 て は ま る。 私 は 高 校、 大 学 と 部
最終的には自分一人で歩いていくもの
活を一生懸命にやってきた。しかし、確
習 ﹂ を す る。 サ ッ カ ー の 中 田 英 寿 選 手
だ。正直仕事でも、柔道でも妥協をしそ
の中には大勢いる。そう思うと﹁自分っ
が﹁ 人 が い て も い な く て も、 俺 は 俺。﹂
うになる時もあるし、むしろ負けてしま
てやっぱり弱いな。﹂と実感する。
抜くことができたのだ。ただ、やはり試
と言っているように、井上康生選手しか
うことの方が多い自分だ。でも今回大橋
りに人がいなくても自分一人で早く来
合の結果を振り返ると、結果を出した時
り、イチロー選手しかり、周りのサポー
気持ちを新たに進んで行こうと燃えてい
て、 今 日 や る 練 習 の﹁ 予 習 ﹂ を し、 み
は、全体の練習の中でも必ず自分に勝っ
ト は も ち ろ ん あ っ た に せ よ、 結 局 は 自
る。今、弱いことは、決して恥ずかしい
かにそこには先生がいたし、仲間たちが
ていたと思う。負けた時は、どこかで自
分が自分にとって一番のコーチ、トレー
ことではない。でも、弱い自分をそのま
いた。だから、自分から能動的に練習に
分 に 負 け て い た。 集 団 の 中 に あ っ て も、
ナーであるのだと思う。
ま 放 っ て お く こ と は 恥 ず か し い こ と だ。
んなが帰った後、今日やった練習の﹁復 厳 し い 言 葉 か も し れ な い が、 人 生 は
結局、一人で生きていかなくてはいけな
結局練習するのは自分である。みんなが
か な。
﹂ と 疑 問 を 感 じ る。 特 に 柔 道 選 手
この事を現在の自分と照らし合わせて
等の受け身の姿勢で練習をしても何の意
み る と、
﹁自分って本当に強い人間なの
やっているから、先生にやらされている
として高校、大学のように練習、トレー
で は、 強 く な る た め に ど う す れ ば い い
取り組めない気分の日も、何となくやり
うことは、チームとして大前提ではある
ニングの強制がなくなった今、自分の本
として、大勢で同じ場所を共有し、行う
にも述べた様に、運動は部活などを始め
スポーツ界においてもやはり本当に
強 い ア ス リ ー ト は、
﹁ 孤 独 ﹂ に 強 い。 先
肩 脱 臼、 靱 帯 断 裂 と い う 大 怪 我 を し た。
まり自分に負けた状況で試合に出て、右
昨年︵平成十六年︶二月、練習不足、つ
も誰に怒られる訳でもない。そんな中で
やれという人もいないし、さぼっていて
り、一日一日、今日という日を全力で生
に回さない、これに尽きると思う。つま
に、淡々と一つずつこなしていく、明日
とではなく、今日やるべきことを具体的
のか。それは何も肩を張って、頑張るこ
先 生 か ら﹁ 本 当 の 強 さ ﹂ の 定 義 を 学 び、
が、やはりそこに強い﹁個﹂がなくては
当の強さが問われていると思う。練習を
ことが多い。私は大学四年時、東海大学
味もない。部員一丸となって勝利に向か
話にならない。
に通い、メンタルトレーニングを勉強し
Ƚ
ȽȁIJIJĶȁȽ
Ƚ
ききるということだ。今日やるべき事を
日になってやるかと言うと、まずやらな
﹁明日でいいや。
﹂と思ってやらず、次の
いことが多い。不安は動かないことから
生まれる。今の状況で出来るベストは何
かを常に考え、常に動いていけば不安は
姉 の こ と
大塚
信治
二人そして弟の順である。両親は貧乏暇
なしで毎日忙しく働いていた。自然と姉
が弟妹達の面倒をみることになる。
姉は,多くの兄弟姉妹の最年長の自覚
と両親の多忙と家庭の貧困などをバネに
して成長したと思う。狭いながらも楽し
いわが家で、まあまあ順調に育っていっ
消える。そして、動いているということ
﹁アチチアチチ﹂姉の悲鳴が聞こえた。
火 の 粉 が 姉 の 防 空 頭 巾 へ 落 ち、 燃 え だ た。兄弟喧嘩が行き過ぎると、姉が調停
した。父が急いで頭巾をもぎ取ったとい
を出すと、姉に諫められた。私は﹁お姉
役になった。私が妹弟の分の食べ物に手
は 自 分 に 勝 っ て い る 証 拠。 人 が 見 て る、
う。この﹁アチチアチチ﹂の声が、姉へ
頭を刈ってもらったこともある。特に耳
見ていない関係なく、今自分のやるべき
掘りをしてもらうと、身体が姉に密着す
行動をとれる人間が﹁本当の意味での強
ことだ。姉は首の後側に火傷を負い、一
るので何かホッとする気分になり心が安
ちゃん﹂と呼び良く懐いた。耳掘り爪切
大 橋 教 諭 は﹁ 本 当 の 意 味 で の 強 い 人 ﹂
だ か ら 説 得 力 が あ る。 さ っ そ く こ の 話
生傷跡が残ることになる。姉は小学校一
りをよくしてもらった。またバリカンで
を 伺 っ た 次 の 日 に、 強 さ の 定 義 を 生 徒
年生、私は数えで五歳になっていた。普
の私の最も旧い記憶である。東京大空襲
たちに話してみた。しかし、自分が話し
通五歳位のことは、成人すると記憶から らいだ。内風呂がなかったので、銭湯に
去ってしまうものだが、
﹁アチチアチチ﹂ 姉の誘導のもと子供達六人で行ったもの
の中を、親子七人で逃げ回っていた時の
てもなんだか上辺だけで説得力に欠ける
い人﹂だ。
し、 ま だ 私 が 話 す 資 格 は な い と 思 っ た 。
れてもらい、間借り生活が始まった。そ
なった。姉は最年長で、次が兄、私、妹
の後一人弟が生まれ、兄弟姉妹は六人に
入ったこともある。後年私はやがて結婚
も嫌であった。姉が必死になって止めに
生徒を変えたいのなら、まず自分が変わ
の声と猛火の中を逃げ回ったことは不思 で あ る。 幼 い 妹 弟 達 の 体 を 姉 が 洗 っ た。
時には私も洗ってもらったことがある。
ろう。そしていつの日か必ず、自分が本
議と覚えている。
当の意味で強い人になり、自信を持って
幸い家族全員助かり、父の国元である 家庭は相変わらず貧乏で、両親は忙し
く心のゆとりも無かったようで、夫婦喧
﹁強さ﹂について生徒に語れることの出
栃
木
に
戻
り
、
遠
い
親
戚
に
懇
願
し
て
家
に
入
嘩をよくした。それを見るのが私はとて
来る、そんな人に私はなりたい。
︵国語科
教諭︶
Ƚ
ȽȁIJIJķȁȽ
Ƚ
したら、子供達の前では絶対夫婦喧嘩は
もダメであった。それでもしつこく頼ん
さい﹂という返事だった。いくら頼んで
きた。従業員が十人くらいになった。け
に乗り始め、次第に経済的に楽になって
れども父母は相変わらず忙しく働いてい
しまいと思ったものである。
た。なんだか働いている方が安心で、働
てから知った。
あったということは、私がもっと成長し
が通り、父母が折れた。この養女の話が
しながら父母に訴えたという。姉の主張
貧しくても全員一緒にいたいと、涙を流
う だ い は 絶 対 離 れ た く な い、 ど ん な に
しかし姉は頑として反対した。私達きょ
う な 夫 婦 な の で、 父 母 は ほ ぼ 納 得 し た。
にすると再三説得に来た。人柄も良さそ
であった。幸いいただいた薬を飲み続け
いくらいだった。神様に祈りたい気持ち
したら大変で、自分が身代わりになりた
私も心底心配した。お姉ちゃんがどうか
は 担 任 の 先 生 が 支 払 っ て く れ た と 思 う。
者に頼んで往診をしてもらった。医者代
氷を買ってきて冷やしてくれて、次に医
おでこに触りあまりの高熱に驚き、まず
し て、 わ ざ わ ざ 見 舞 い に 来 て 下 さ っ た。
出来ないようだった。担任の先生が心配
寝床に伏せたままになった。喋ることも
いた。いつだったか高熱が続いて幾日も
る 車 で、 温 泉 巡 り を す る よ う に な っ た。
なってきた。時間を作っては父の運転す
を乗り越えているうちに、夫婦仲は良く
は商売という共通の苦労をして、幾山河
き な 酒 を チ ビ チ ビ や っ て い た。 父 と 母
はそんな二人の姿に目を細めながら、好
母と姉がいろいろお喋りをしていた。父
と な ど が 中 心 に 書 い て あ っ た。 あ る 夜、
た。父母の健康のこと、家業の将来のこ
の日記が目にとまり、つい読んでしまっ
両親とは信頼し合っていた。ある時、姉
に も 見 え た。 姉 は 高 校 生 に な っ て い て、
かないでいると悪いことでもしている様
小学校の頃、分数の計算がどうしても
分からないので質問したことがある。姉
だら、ついに怒りだした。
そんな頃、子供に恵まれなく経済的に
豊かな夫婦が妹を養女にしたいと、父母 姉 は 身 体 が 丈 夫 な 方 で は な か っ た。
時々熱を出しては寝込んで学校を休んで
はいつまでも付き合ってくれた。私が自
に申し出てきた。大切に育てて必ず幸せ
分 で 考 え な が ら 答 え を 出 す よ う 導 い た。
全て理解できたとき何とも言えない充
幸せな夫婦の時期だったと思う。
ているうちに、快方に向かった。五十年
さらに何年か経過する。
以上経た今でも忘れられず、思い出すた
私 は 大 学 生 に な っ て い た。 当 時 東 京
で素人下宿屋さんにお世話になってい
私 を 起 こ し、 至 急 電 報 が 届 い た と 渡 し
びに当時の先生に感謝している。
に 来 た。 嫌 な 予 感 が 走 っ た。﹁ チ チ タ オ
実感があり、勉強は面白いと初めて知っ
ここで何年か経過する。
た。厳しい面も姉にはあった。絵の宿題
中 学 生 に な る と、 私 は 姉 か ら 離 れ て
を画いてもらいたいと頼んだ。引き受け
い っ た。 自 立 心 が 芽 生 え る 時 期 だ っ た
た。 あ る 早 朝 下 宿 の お ば さ ん が 大 声 で
のだろう。わが家の自営業は何とか軌道
てくれるものと思っていた。実際は反対
で あ っ た。﹁ 自 分 の 宿 題 は 自 分 で や り な
Ƚ
ȽȁIJIJĸȁȽ
Ƚ
木に向かった。兄は私より早く駆けつけ
レル、スグカエレ﹂であった。急いで栃
ている様子であった。
見なかった。一点を見つめて何かを考え
相手の方は石材商会を営んでいる、跡継
り気になり、お見合いをした。あとはト
知人の方が持ってきてくれた縁談話に乗
生であった。父は身体が頑健で、それま
売を学んでいた。妹弟達は高校生や中学
考えで、住み込みで同業者のところで商
ため、他人の飯を食いなさいという父の
ある兄は、学校卒業後やがて家業を継ぐ
おり家の自営業を手伝っていた。長男で
を持っていた。年下の未婚の娘に指摘さ
いてから、長男である兄に引き継ぐ考え
出しはじめた。ある程度先の見通しが付
達にも是々非々で物言いをして、指示を
く、姉が前面に出た。年上の従業員の人
そ れ か ら は、 亡 き 父 の 役 割 を 果 た す べ
に、石材商会発展のため夫を助けながら
としてやがて母としてやるべきこと以外
思う。結婚後嫁ぎ先では、妻として主婦
から半ば自然に身に付けていったものと
かって努力をした。自分の生い立ちの中
を ど う し た ら 良 い か を 考 え て い た の だ。 姉 は 常 に 目 標 を 設 定 し て、 そ れ に 向
倒産してしまう心配があり、これから何
仕事に打ち込んだ。自らも肉体労働をし
ぎの長男であった。
ントン拍子に話が進み、婚約となった。
葬儀等、一段落した後の姉の行動で理
ていた。すでに父は意識がなく昏睡状態
由が分かってきた。このままでは家業が
で病気知らずであった。商売の方は父が
た。機械を使って石材を移動し、トラッ
であった。その頃、姉は二十歳を越えて
中心となって采配をふっていた。家族は
クに乗せ運転して運んだ。夜は家族が就
寝した後、帳簿付けをした。ごくまれに
れて、プライドが傷ついたのか反発して
いるので、ほとんどの従業員は信頼して
実家に里帰りすると、疲れを癒すため唯
きた人もいた。しかし姉は正論を言って
と、安心して頼りきっていた。
仕事に打ち込んでくれた。
﹁お父さん﹂に任せていれば全て大丈夫
二日間昏睡状態が続いた後、息を引き
取った。今際の時、姉は父の耳元に口を
ひたすら睡眠をとったという。
近づけ、悲鳴のような声で﹁お父さんお またさらに数年が経過する。
父さん﹂と叫び続けた。残された家族は 兄は次第に家業の中心的存在になって 営 業 活 動 に も 努 力 を 重 ね、 広 告 宣 伝
も工夫した。しかし最大の効果は、良心
きた。そして縁談話が持ちあがるように
にお棺に入りたいと悲嘆にくれていた。
涙が流れた。特に母は、葬儀のとき一緒
時間が経過した後、悲しみが迫ってきて
するとは考えてもいなかった。しばらく
たりしていた。そうこうしているうちに
してあちこち姉の縁談を依頼したり探し
る前に家を出るつもりでいた。母は心配
ぎようとしていて、兄がお嫁さんを迎え
なった。姉は世間で言う結婚適齢期を過
た方が、石屋の女将さんとお喋りがした
たまるようになった。時には取引のあっ
に口コミで広まり、注文はかなり先まで
していただくことであった。それがさら
的な仕事をすることによりお客様に満足
放心状態であった。父が五十四歳で急逝
姉だけは違っていた。涙を流す顔を私は
Ƚ
ȽȁIJIJĹȁȽ
Ƚ
折、 さ ら に 将 来 の 構 想 を 語 っ て く れ た。
の土地を手に入れ、展示館を建てた。時
内助に徹した。バイパス通りに約一千坪
振るまい、常に夫を前面に立て、自分は
いと、立ち寄ってくれた。姉は如才なく
きた。容態が急変し、再手術がすでに始
た。翌日、私の職場に電話連絡が入って
残し、我々家族達はいったん自宅に戻っ
しいとのことであった。必要な人数だけ
様子を見たいので、面会は差し控えて欲
終了したむね連絡が入った。しかし暫く
ている。
のち、姉の食膳も揃えて、思い出話をし
だい会﹂を実施している。温泉に入った
出てくるのである。また年一度﹁きよう
姉 は 三 人 の 子 供 に 恵 ま れ た。 長 男 は、
すでに結婚して家業に従事していた。二
医師から説明したいと連絡が来た。手術
い長い手術である。翌早朝、家族全員に
担任代行
設楽
典宏
︵修学旅行の想い出より︶
﹁コーチ﹂雑感
︵情報科
教諭︶
私にも良い刺激となった。
まっているとのことである。勤務時間終
男は大学を終え、娘は大学生になってい
室の隣の処置室の真っ白なベッドに、姉
ここで、さらに数十年が経過する。
る。やっと、これから楽が出来るという
は横たわっていた。意識はなかった。医
了後、すぐ病院に駆けつけた。またも長
頃であった。
師は静かな声で話した後、残念ながら時
ラスに入ったのは、年が明けて二月のこ
を意味していた。実質的に担任としてク
トラリア修学旅行の引率を任されたこと
を受けたのが二学期の後半のことだっ
その年、春先から背中に痛みを感じて
いたという。町医者や市民病院にも診て
分 位 経 っ た で あ ろ う か。 姉 は 息 を 引 き
あった。授業担当者としてクラスに足を
間の問題であると言った。それから三十
﹁今井先生の産休に伴い国際英進クラ
ス の 担 任 を 頼 む。
﹂と山下科長から依頼
もらったがはっきり分からず、また商売
取った。五十七歳であった。
運んではいたが、生徒一人ひとりの掌握
ところにあった。家族は医師を全面的に
と。出発まで残り一ヶ月しかない状況で
た。このことは、延期されていたオース
は、人間どう生きたらよいかヒントを残
姉 は、 常 に 前 を 向 き 活 動 を 続 け、 そ
や子供達が心配して念のためということ
して走り去って行ってしまった。遺族に
の忙しさにかまけて時間が経過した。夫
して。
についてはゼロからやり直し。空き時間
で、 東 京 の 国 立 ガ ン セ ン タ ー に 行 っ た 。
ところが即入院と決まる。検査の結果す
か壁にぶつかると、自然と足が向き姉の
毎年姉の命日には墓前に、家族のこと
であった。患部はとにかく見つけにくい
家業のことを報告している。また私が何
ぐにでも手術をした方が良いということ
墓前で心の対話をする。不思議と答えが
信頼し、そしてお任せした。
手術は十八時間要した。何とか無事に
Ƚ
ȽȁIJIJĺȁȽ
Ƚ
の 度 に 家 庭 調 査 簿 と 睨 め っ こ が つ づ く。
ホームルームは、元気は良いが、どこと
シャイで照れ屋な典型的な日本人の君
達。﹁太平台音頭﹂
﹁書道、折り紙、浴衣
徒を一喝。怒声が教室中に響き渡り、机
この機会を逃してなるものかと、その生
た私にとっては
﹁飛んで火に入る夏の虫﹂
ではないか。指導のきっかけを探してい
然と髪をとかしはじめる女子生徒がいる
朝のホームルームでのこと、鏡を出し平
が欠如していると感じた。担任二日目の
それを叶えるには自ら行動に出なければ
でなくてよいのだ。ちっぽけな望みでも
る。
﹁野心﹂
﹁野望﹂などと大それたもの
主体的とはかけ離れた頼りないものであ
待ちの姿勢があること。
いずれにしても、
ドしてくれるの期待している、どこかに
こと。そのくせ、反面誰かが自分をリー
ーシップを発揮することを好しとしない
今の生徒には、二つの気質が同居して
いると感じる。一つは、自ら強いリーダ
だと私は理解している。見る物・聞くも
し理解し合う心にゆとりがある人のこと
とは色々な価値観を認め、お互いを尊重
価値観が絶対だと思ってしまう。国際人
地域でしか生きていないのに、そこでの
ね。我々は本当にちっぽけな狭い世界・
えそうなのだよ。外国語なら尚のことだ
う。実は日本語での日常生活においてさ
える事が難しい事かを実感したことだろ
り。如何に自分の意志︵思︶を相手に伝
ないことを忘れてはならない。言葉も然
気質
は ひ っ く り 返 る は、 鏡 は 飛 び 散 る は で、
何 も 起 こ り は し な い の だ。
﹁宝くじは買
着付け﹂等々は交流の一つの手段にすぎ
教室は水を打ったような静けさとなっ
わなければ絶対に当たらない。
﹂
なく落ち着きがなく、人の話を聞く態度
た。めそめそ泣き始めた該当生徒に私か
の何でも勉強だ。今回の旅行をきっかけ
ら追い打ちの一言﹁泣きたきゃいつまで
も泣いていろ﹂
︵一部の生徒の間ではこ
に出しゃばりになってどこにでも首を突
修学旅行から得たもの
っ込んで欲しい。少々ずうずうしいくら
いでちょうど良いのだ。
の台詞がブレイクしたらしい︶この日を
﹁君達は日本の代表な
学 校 訪 問 の 際、
のだ﹂と強く意識させられた。緊張感が
さかいに生徒の態度は確実に変わってい
その一
出しゃばりであれ
った。このままでは危なっかしくてたま
ら な い と 感 じ た 私 は﹁ け じ め あ る 行 動 ﹂
明した。皆、異口同音に﹁感動した。す
流が今年も盛会のうちに終ったことを証
ど雨らしい雨が降っていない。そんな訳
ては恵みの雨だった。ここ数年間ほとん
の事を生徒に説きつづけた。こうして一
﹁皆に迷惑を掛けない﹂と言う当たり前
ヶ月は瞬く間に過ぎ去り出発の日を迎え
ごく楽しかった。
﹂と感想を述べている。
走り、
身が引き締まった。終ってみれば、 その二
郷にいっては郷に従え
旅行期間中、残念ながら雨にたたられ
別れ際の君達の名残惜しそうな顔は、交
た日があった。しかし、オージーにとっ
たのである。
Ƚ
ȽȁIJijıȁȽ
Ƚ
が、ほとんどであったに違いない。事前
に使用できる自宅での生活そのままの者
うか。おそらく、何でも好きなだけ自由
ていた者が我々の中にどれだけいただろ
図だと聞いた。そんな中、節水を心掛け
たたんでおけば、交換は必要ないとの合
用 済 み の も の で も、 宿 泊 者 が き ち ん と
テ ル に お い て は、 客 室 の タ オ ル 等 は 使
が課せられているのが現状であった。ホ
で現地では洗車の際シャワー使用は罰金
涙を私は忘れない。
にてんてこ舞い。交流後、彼女の流した
し。企画担当の女性教諭はその後の調整
拶から時間オーバー。後は推して知るべ
である。案の定、交流会は最初の校長挨
なんだか変な自信を持ってしまった次第
らでも心配なく生活出来る。
﹂といわれ、
トした。ガイドさん曰く﹁先生ならこち
生 徒 に 任 せ れ ば 大 丈 夫 で す。
﹂とコメン
は﹁大体の枠組みさえ決めておけば後は
現地での訪問最終打ち合わせの席上、私
童 文 学 の ポ プ ラ 社 か ら﹃ 徳 川 家 康 ﹄
。少
ト ー ヴ ェ ン ﹄﹃ ベ ー ブ ル ー ス ﹄ そ し て 児
れた。漱石の﹃坊ちゃん﹄﹃草枕﹄
、﹃ベー
少年は七つのお祝いにと、叔父から五
冊の児童向けの文学作品と偉人伝を贈ら
年にとって叔父は母の弟であり、少年が
菅又
和彦
少年の七つのお祝いに
のガイダンスを担当した私もそこまでの
母の実家である新潟県の佐渡島に帰省す
れ ば、 幼 か っ た 少 年 を い つ も 可 愛 が り、
だ青い海、ホンダの名車N360の胸を
*この文は
﹁第十一回修学旅行感想文集﹂
﹁ただ あなたのやさしさが こわかった﹂
グ ル ー プ か ぐ や 姫 の﹃ 神 田 川 ﹄ だ っ た。
奮わせるオイルの臭い、そしてフォーク
に掲載されたものを加筆・編集したもの
感謝
感謝。
とを思い出す。
面倒を見てくれた。
こうして、初めてのオーストラリアの 叔 父 が 教 え て く れ た の は、 佐 渡 の 名
旅は数々の想い出を心に刻み無事終了。
峰 金 北 山 の 冷 た い 風、 ち ょ っ と く す ん
き、隣が空席であることにほっとしたこ
涙といえば、帰りの機内で、映画﹃ラ
話が出来なかったことを深く反省してい
ストサムライ﹄に涙する自分自身に気づ
る。私は彼らの生活意識の中に公共性の
高さを感じた。
その三
何事も無くでは終らない
海外では何事も予定どおりにいかない
ことが多い。誰しもこのことは実感した
延期。しかし君達は慌てることなく落ち
はず。まさかのエンジントラブルで帰国
着いて行動してくれた。実は今回の学校
のフレーズがとても不思議で、三歳だっ
レコードをかけてもらった。感性の原点
た少年は何度も何度も叔父に頼み込んで
です。
︵地歴公民科 教諭︶
訪問も実に細かな計画が訪問校から提案
されていた。大雑把な国民だと聞いてい
た の に 日 本 的 だ っ た 事 は 意 外 で あ っ た。
Ƚ
ȽȁIJijIJȁȽ
Ƚ
な か っ た。 そ れ か ら 二、三 か 月 の 後、 午
た世代にとってはとても喜べるものでは
ロースの存在をほんの少しでも信じてい
七 つ の お 祝 い と は い え、 百 ペ ー ジ あ
ま り の 文 章 は あ ま り に 重 く、 サ ン タ ク
なる。児童にも理解しやすい、おなじみ
け、ついには江戸幕府を開いて天下人と
長や豊臣秀吉との関係において実力をつ
両肩に背負うこととなる。その後織田信
に人質として幼いながらも一族の命運を
川・織田の有力大名にはさまれ、それ故
未来の大器を窺わせる家康幼少時の有
のひとつはこの叔父から授かったと言っ
名な逸話である。家康の松平家は当時今
宅にあった百科事典を手にした。少年が
場所はなく、少年のトイレはいつも一時
た。トイレは臭いがこれほど落ち着ける
柱に衝突、自動車と接触することもあっ
していった。読みながら歩いたので電信
や明智小五郎などの推理小説にも手を出
史だけではなく、シャーロックホームズ
曜日の午後、はたまたトイレの中、日本
当たり次第読んでいった。学校帰り、土
市立図書館にある日本史関連の書籍を手
後の激しい秋雨がやみ、夕焼け雲がとぐ
のサクセスストーリーである。
後に教員になった時、その時に吸収した
てもいい。
夕 食 も そ こ そ こ に、 八 時 の 就 寝 時 間
日、少年は部屋の片隅におもちゃと一緒
も 忘 れ て 読 み ふ け っ た。 初 め て 読 了 し
ろを巻いて、それに光が乱反射したあの
た一冊。それまでは本を読むということ
知識が大いに役に立つこととなる。
間だった。読めるものがなくなれば、自
になる。﹃徳川家康﹄。冒頭の一節に心が
など、苦痛以外の何物でもなく、国語の
に積んであった件の一冊を手にとること
躍った。
五十人のグループが勝つといい、結果も
プが勝つと言いあった。しかし竹千代は
五十対百で家臣たちは皆、百人のグルー
している子供たちが居た。お互いの数は
かのような絶頂感に包まれた。この経験
かわらず、何故かしら﹁世界﹂を知った
き様を児童向けのレベルで読んだにもか
た最初であった。たった一人の人物の生
﹁歴史﹂なるもののおもしろさを体験し
だった。
瞬間だった。少年の八つのお祝いは眼鏡
めて幸福感みたいなことが感じられた
た。少々早熟な感じはするけれども、初
史が勉強できて一生を送りたいと願っ
教科書さえもろくに読んだことはなかっ 七 つ の お 祝 い が 少 年 の 人 生 を 変 え た。
た。 読 了 の 達 成 感 も さ る こ と な が ら、 ﹃ 徳 川 家 康 ﹄ を 読 了 し た あ の 瞬 間、 日 本
その通りになった。家臣が訳を聞くと竹
あ る 日、 竹 千 代︵ 家 康 の 幼 名 ︶ が 家
臣達と散歩していると、河原で石合戦を
千代は﹁数が多いとおごりが生まれ、協
な小さな第一歩になった。
のことを話すと、
に、少し髪が薄くなった元少年が今まで
二十年後、七つの少年は高校で世界史
が少年にとって﹁知﹂を追い求める小さ
を教えることとなる。白髪が増えた叔父
力 も し な い。 そ れ に 対 し、 数 が 少 な い
と皆懸命に戦い、統制も取れる﹂と説明 少年は次の日から、偉人伝を始めとし
て、児童向けではあるけれども小学校や
し、家臣達を驚かせた。
Ƚ
ȽȁIJijijȁȽ
Ƚ
と言った。元少年は少し苦笑いした。
たく覚えてないなぁ。
﹂
﹁へえ、そんなことがあったんだ。まっ
で、私が関係している団体の中でも、こ
の同級会から全国規模の障害者の組織ま
る比重も個々さまざまである。小中学校
持っている。その場に付する価値も掛け
さった。今これを書きながら、教育実習
奈川のK 工大付属の仕事を見つけて下
に失敗して落胆していた私のために、神
い。就職に際しても、東京都の二次試験
もてなして下さったりと、感謝に耐えな
に深く恩義を感じている。高校の卒業時
若い時代に対するノスタルジアもある
が、何よりも、自分を育ててくれたこと
くせぬほどの恩幸に与っている。
した。とにかく﹁近研﹂を通して書き尽
タクシーで送って下さったことを思い出
下さり、渋谷から実家のある相模原まで
が終了したのを祝って渋谷で御馳走して
の﹁近研﹂に対する愛着は強い。
︵地歴公民科
教諭︶
人間の集団について
に私の担任は﹁碌々として、授業だけに
係 は 仁 義 を 通 す こ と で 成 り 立 っ て い る。
侠団体と言った体をなしており、人間関
する﹁近研﹂は学術団体というよりも仁
出席した。近代日本文学の研究を目的と
が参集した。本校からもOB五人の方が
された。全国各地から約七十余名のOB
学研究会の創立五十周年の祝賀会が開催
今年︵平成十六年︶八月二十八日、國
學院大學院友会館に於いて、國大近代文
ていただいたり、先生が中国に居られた
だいている。傅馬義澄教授には仲人をし
面接に際して二度も推薦状を書いていた
導を頂き、本校と世田谷のS学園の就職
ている。萩久保泰幸教授には卒論のご指
人の先生には、一方ならぬお世話になっ
で、人生の節目々々でご指導下さった二
ら研究会に参加したが、就職から結婚ま
奨めて下さったのだ。訳あって二年次か
くする仲間と進んで切磋琢磨することも
教 え て く れ た。 良 き 師 を 得 て 志 を 同 じ
と ん ど が 教 員 か 出 版 ジ ャ ー ナ リ ス ト で、
が 教 育 関 係 の 仕 事 に 就 き、﹁ 近 研 ﹂ も ほ
の比ではない。大学のクラスは三分の二
経営状態までが聞けるが、大学の集まり
お り、 都 内 各 校 の 進 路 指 導 や 生 活 指 導、
来る。家内も都内で塾関係の仕事をして
りいて、さまざまな学校の情報が入って
た卒業生にも教職についている者がかな
がある。小中学校の同窓生や、担任をし
国各地の学校の実情が聞けるということ
﹁ 近 研 ﹂ の 集 ま り の 楽 し み の 一 つ に、 全
ん だ。 諸 先 輩 に は 精 緻 な 考 証 を 学 ん だ。
久保田千秋
出 て い る よ う な 凡 庸 な 学 生 に な る な!﹂
と 諭 し た。 驚 い て い る と﹁ こ れ は と 思 萩 久 保 先 生 か ら は 真 の 寛 容 さ を、 傅
馬先生からは筋を通すという生き方を学
後輩を同胞のように面倒を見る、古き良
とき、北京を訪れた私ども夫婦を懇ろに
う 先 生 を 見 つ け て、 師 事 す る の だ。
﹂と
き時代の國學院の学風を留めている。
‫ݪ‬
現代の人間は重層的に生きる場所を
Ƚ
ȽȁIJijĴȁȽ
Ƚ
となっている。
て確信を持ったり、反省したりという場
伝わり、各々が自分の仕事や職場につい
べきか迷う状態のような所までの内実が
育 成 し て い る 学 校 か ら、
﹁学校﹂と呼ぶ
できる。確固とした理念をもって生徒を
全国津々浦々の学校の実情を聞くことが
日成の思想や政治姿勢との関わりを研究
によりその地位を承認された、父親の金
の問題は、一九四六年八月にスターリン
た、伝えられるさまざまな内政、外交上
制的伝統を抜きにしては考えにくい。ま
家の中枢に収まっていられるのも家父長
ある。何の実績もない金正日が世襲で国
元においてとらえるべき問題だと私は考
題であり、未成熟な組織のさまざまな次
安定にしている一因として克服すべき課
の混乱を招き、今まさに、東アジアを不
認識が深まった。一九九〇年以降の東欧
〇 年 代 │ 七 〇 年 代 に、 批 判 が 尖 鋭 化 し、
見て取ることができる。日本では一九六
に直接遭遇した日本人も数多く、作家五
時代の政治の歪︵ひずみ︶や官僚の腐敗
する必要がある。
今年は三重県で教育委員会の仕事をし
ている後輩と、教育や社会の問題を語り 一 九 五 六 年 二 月 の﹁ フ ル シ チ ョ フ 秘
密報告﹂により顕在化したスターリン
判を踏まえ、その対極として﹁学者や芸
の浅羽通明は、埴谷がスターリニズム批
してきた作家に埴谷雄高がいる。評論家
える。一九五六年以前から、体験と感触
と 現 場 の 意 識 の 違 い を 嘆 い て い た。︵ 十
術家の小集団を権力も階級もない未来社
とで意見の一致をみた。その時、私は何
話題が北朝鮮に及んだ時、いまだに払
拭されぬスターリニズムの問題というこ
ま い、 そ の 社 会 で 各 個 人 が い か な る 存
ソ連の為政者と官僚がどのようにふる
いる。一国社会主義に固執したため、旧
であった。ここに必要なのは学問に対す
きに、突然脳裏をかすめたのはこのこと
﹁近研﹂の祝賀会で後輩と話していたと
からではなく、論理的にこの問題を追究
月の園遊会での陛下のお言葉について彼
味川純平の小説やシベリア帰りの詩人石
会の萌芽であるとした。
﹂と述べている。
合った。国旗国歌の問題について、行政
の意見を聞いて見たい。
︶
原吉郎、内村剛介の評論にも影を落して
故この研究会を大切にしてきたのか、そ
る誠実さだけだ。ここで通用するのは人
会でも、最期は選手の熱意と技量だけが
の節︵せつ︶だ。それは、体育会系の部
ものを言うのと似ている。不純な要素は
在であったかはソルジェニーツィンの小
種類の逸脱をもたらし、欠陥を隠して現
通用しない。
説や、フルシチョフの報告の﹁あらゆる
実を美化するという結果を産み出しまし
した。
︵講談社学術文庫204︶
﹂からも
ペテンと欺瞞を専門とする者が出現しま このような会や仲間のあり方こそ、埴
谷が描く人間の未来を先取りした理想の
た。 わ が 国 の 人 民 の 中 に 多 く の 追 従 者、
の真の理由が閃き来たったのだった。
ॿ
国際基督教大学のガバン・マコーマッ
ク 客 員 教 授 は、 北 朝 鮮 の 制 度 化 さ れ た
個人崇拝をスターリン主義と儒教との
融合と分析しているが、私も全く同感で
Ƚ
ȽȁIJijĵȁȽ
Ƚ
職場にいることを自覚した。
あらためて、世間とは価値基準の異なる
と窘められた。わが身を振り返り、私は
と、
﹁私達だって、近い世界にいますよ。
﹂
だったと少し後悔して、後輩にそう語る
だと思った。私ももっと勉強しておくの
関係の中で、人生の大半を過ごされるの
分の仕事や領域が尊重される理想の人間
関係ではあるまいか、私の恩師方はご自
覚に他人を謗り、人の志を奪ったら、ど
な企画を無責任に人に強制したり、無自
魂を卑しめただろうか。あるいは、無謀
況に身を置いていたら、どれほど自分の
を偽り保身のために節を曲げるという状
欺いて不要なものを売り付けたり、自分
晒され生きていたらどうだろうか。人を
モラルの未発達な企業で、激しい競争に
は そ の こ と を よ く 知 っ て い る。 し か し、
かって十数種の仕事を経験したので、私
時の言葉は胸に応えた。私は﹁日常に耐
その言葉を受け流してきた。だが、その
うに﹁親父は旧時代の遺物﹂と、日頃は
ため、漱石の作品の不肖の息子たちのよ
識とは相当隔たりのある人だった。その
医学博士であったが、専門領域と社会認
は国立大学で教鞭をとったこともある
は 毎 日 の 繰 り 返 し に 耐 え る こ と だ。
﹂父
事ばかり言っているけれど、一番強いの
う 言 っ た。﹁ お 前 た ち は 派 手 で 勇 ま し い
時代の序列は、武士が最も商業ブルジョ
業 活 動 も 尊 い。﹁ 士 農 工 商 ﹂ と い う 江 戸
の世界は打算無しで人と関わることがで
渡 り 通 せ る 仕 事 は 貴 重 だ。 ま た、
﹁教育
﹂高校時代
﹁教師の世界には嘘がない。
の恩師の力ある言葉だった。正直で世を
不習乎﹂を戒めとして、仕事に励めば良
い。この言葉とともに論語の三省の﹁伝
るが、教師はもとより人と争う必要がな
法華経に造詣の深かった聖徳太子の
と を 教 え て 下 さ っ た。 私 は 今 そ の 場 に
言 葉 に﹁ 和 を 以 っ て 尊 し と 為 す ﹂ と あ
き る。﹂ と 営 利 と は 無 縁 な 仕 事 で あ る こ
い。
感謝すべきである。
の寛容と自立がある。この幸いは、深く
意を持って互いの仕事を認め合う、精神
に生きることが許されている。相互に敬
しさと愚かな争い。自分はそれらの圏外
れほど人を傷つけただろうか。不信と空
も易ふべからざる、人の交わりの基本で
節、他を侵犯しない心遣いは、いつの世
べき集団の要素を秘めている。信義と礼
え る と、 学 校 と い う 場 も、 未 来 の あ る
徒、教師と教師の絆が何によるのかを考
んだことや、思考したことをいかに伝え
と職場に皆無であるから。今は自分が学
言葉のような悲壮な内実は、日々の仕事
感がある。何故ならば﹁耐える﹂という
た。今、その時の私の決意は些か滑稽な
える﹂ことで自分を鍛えようと意を決し
‫ב‬
ワジーを恐れていたからであって、
﹁商﹂
︵国語科
教諭︶
るかという愉しさだけがある。教師と生
が 武 士 道 の︵ 理 念 の ︶ 対 極 に あ っ た か
あろう。
いる。もちろん、職業に貴賎はない。商
らではない。生産者、流通業者にも、世 若かった頃、一時東京を離れて過ごす
ことになった。父は餞別を渡しながらこ
の 人 に 供 給 す る 者 の 倫 理 と 矜 持 が あ る。
Ƚ
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第六回
ニュージーランドホームステイ語学研修
津
田
恵
美
貫組の生徒たちの成長はこの行事なくして語れない。各家庭
ニュージーランドでのホームステイ語学研修も六回目を迎
えた。中学校ではさまざまな行事が行われているが、中高一
を装っても、慣れてくれば必ずボロが出るわけで、そこでも
は、ホームステイにもつながっており、二週間限定でいい子
ど、いわゆる基本的生活習慣のこと。もちろんこれらのこと
こ と、 言 葉 遣 い、 身 だ し な み、 自 分 の こ と は 自 分 で す る な
たり前でないのか分からなくなるような世の中ではあるが、
三 年 間 通 じ て の 学 年 目 標 で あ っ た。 何 が 当 た り 前 で 何 が 当
に一人きりで泊まりこむという大きなプレッシャーを乗り越
はじめに
え、立派に卒業していった先輩たちのたくましい姿が目に浮
し、ホストファミリーとの関係が崩れてしまったら、辛く苦
こ こ で い う﹁ 当 た り 前 の こ と ﹂ と は あ い さ つ は も ち ろ ん の
かんでくる。
他学年の先生方にお褒めの言葉をいただくこともあったが、
三年生になると違うねぇ。少しは自覚が出てきたかな。
﹂と
下 級 生 の 先 頭 に 立 っ て 活 動 す る 姿 が 見 ら れ、
﹁おっ、やはり
今回この試練に挑むのは、入学当初から﹁甘えん坊﹂の異
名を持つ六期生。三学年に進級した数か月はあらゆる場面で
う。三回行われたガイダンスでは﹁会話の心配よりもお子さ
た。 お そ ら く 日 本 で も そ の よ う な 生 活 を し て い た の で あ ろ
うことが原因でホストファミリーから苦情が出たこともあっ
ない。
﹂とか﹁帰りが遅くなるのに連絡もしてこない。
﹂とい
に参加した時、﹁トイレに雑誌を持ち込んでなかなか出てこ
い思い出しか残らない。一期生、二期生と共にこの語学研修
慣 れ て く る と ま た﹁ 落 ち 着 き が な い ﹂﹁ 人 の 話 が 聞 け な い ﹂
んたちの生活習慣の改善をよろしくお願いします。
﹂と保護
年が明けて一月、ホームルームの時間を使ってニュージー
者の方にお願いした。
という﹁甘えん坊﹂集団に戻り、私の雷が落ちた。
一 組 津 田、 二 組 寺 内 正 行 教 諭 で 三 年 間 指 導 し て き た 六 期
生。﹁当たり前のことを当たり前にできる人間になろう﹂が
Ƚ
ȽȁIJijķȁȽ
Ƚ
トファミリーへの期待を膨らませていった。
いいかなとそれぞれまだ見ぬニュージーランド、そしてホス
の場所を確かめ、さあ、手紙を書かなくちゃ、お土産は何が
に地図の貼ってあるフロアの掲示板に直行。自分のステイ先
決定。私からホストファミリーの情報を受け取ると、一目散
いただきながら準備は進められた。二月、ホームステイ先が
ドを豊富に蓄えている中信中学部長に注意事項などを話して
ランドのビデオを見たり、一期生から五期生までのエピソー
りに来た親に持ち帰ってもらうことに。見送りに来た親と言
認されてしまった。ガス式のドライヤーが入っており、見送
のスーツケースの中に異常物発見!すぐさま係員に中身を確
間過ごせたらどんなにいいことか⋮⋮。と思った矢先、生徒
を左右するパスポート。忘れる者なし。このまま順調に二週
配はないとのこと。体調不良の者なし。出国できるかどうか
嵐。緊張のせいか、昨晩熱を出したという生徒もいたが、心
生徒たちの表情はというと親やこちらの心配をよそに笑顔の
卒業試験であるといってもよい。英検や英会話に代表される
誌に﹁このホームステイは単なる学年行事ではなく、本校の
と念を押し、後は明日の出発を待つのみとなった。かつて本
( 四
) 限目、國學院大學栃木中学校で受け
二月二十七日 金
る 最 後 の 授 業 が 終 了。
﹁パスポートだけは絶対に忘れるな﹂
ついてきていることに気づき驚いたという。見送りに来てく
言ったのだろう。一人でスカイライナーに乗った際、母親が
のは当然の心境だ。が、おそらくI君は見送りはいらないと
国の地でホームステイをするとなれば、見送りしたいと思う
いい息子・娘が二週間も自分たちのそばを離れ、遠い遠い異
えば、例年通り、多くの生徒は親と共に空港に現れた。かわ
豊富な英語教育、自然体験学習や校外学習などの各種行事、
れたことを素直にありがとうと言えたのだろうか。
て 私 た ち は 日 本 の 地 を 飛 び 立 っ た。 機 内 で は 多 少 落 ち 着 か
大勢の父母と石 透校長、鶴見重孝教務部長、鵜澤亜希子
教諭の見送る中、ニュージーランド航空NZ〇三四便に乗っ
厳しい生活指導、これらすべてはこの二週間につながってい
る ﹂ と 語 っ た 先 輩 教 諭 が い た が、 は た し て こ の﹁ 甘 え ん 坊 ﹂
集団が無事に卒業試験に合格できたかどうかは、本稿を書き
終えた後に判断したい。
ない生徒はいたものの大きな問題はなく、二月二十九日 日
(
)
午 前 九 時 二 十 五 分、 ク ラ イ ス ト チ ャ ー チ 空 港 に 無 事 到 着 し
いざ、ニュージーランドへ
た。 到
( 着の際、拍手喝采であったことは六期生を語る上で
記しておかねばなるまい︶
空港到着後、入国審査を受けてゲートをくぐると、語学学
土 午
) 後二時、成田空港第二旅客ターミナ
二月二十八日 (
ルIカウンター前に到着。引率教員の中部長、寺内教諭、金
井裕子教諭、鈴木英範教諭、そして参加生徒七十一名が午後
四 時 の 集 合 時 間 に あ わ せ て 次 々 と 姿 を 見 せ た。 遅 刻 者 な し 。
Ƚ
ȽȁIJijĸȁȽ
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ホストとの対面
校のロブ理事長と私たちのプログラムマネージャーであるデ
イブさんが出迎えてくれた。簡単なあいさつを交わすだけで
その後の会話が続かない。三回目の訪問であるが、またして
も英会話を勉強しておけばよかったと後悔した。クライスト
チャーチは今年はあまり天候がよくないようで、午後から雨
が降りそうだから、傘を用意しておくようにと指示された。
そ の 旨 生 徒 た ち に 連 絡 し た の だ が、 手 荷 物 に 入 っ て い な い
者が多く、昨年と同様、着いた早々空港内のフロアでフリー
マーケット状態になってしまった。その中で一人、うかない
顔のH君。わけを聞くと、スーツケースの鍵を飛行機の中で
落としてしまったというのだ。なんということだ。なければ
力ずくで壊すしかないが、とにかくすぐに連絡を取り返事を
待つことにした。その後も英会話の本やら自己紹介のために
作ってきたアルバムやらを飛行機の中に忘れてきたとの報告
)
があり、これまた確認してもらうことに。 そ
( の後、鍵は確
認がとれ語学学校で受け取ることになったが、その他は確認
がとれなかった
バスに乗り市内見学へと向かう。動物園ではYさんが食事
前に手を洗おうと男子トイレに直行したり、モナベール公園
ではM君がはしゃぎすぎて水たまりで転んだり、大聖堂では
腕時計の時刻をきちんと合わせていなかったためにKさんた
ちが集合時間になかなか現れなかったり。こんな細かいエピ
ソードはあげればきりがない。また大聖堂で集合写真を撮っ
た後、出店で何かを買おうとウロウロしていたA君が何も買
Ƚ
ȽȁIJijĹȁȽ
Ƚ
ぱくぶりを発揮し、学校生活を謳歌しているA君なのに。そ
と﹁外国人に話しかけるのが怖い。﹂と言う。日本ではわん
わずに戻ってきたのを見かけた。﹁どうした?﹂と質問する
置き去りにするのである。
テルに持ち帰ったが、以後、彼女は数回、大切ななぎなたを
り、この存在を忘れてしまったのだ。仕方なく、私たちのホ
語学学校での生活
れを聞いた中部長。
﹁ここまで来て何を言う。
﹂とA君にアイ
スクリームを買ってくるよう指示。勇気を振り絞ったA君の
月 、
語学学校に向かう前に緊急用の携帯電話が
三月一日 ( )
鳴った。
﹁ い き な り な ん だ、 バ ス で も 乗 り 間 違 え た か ﹂ と 慌
ある菅原君でさえ、緊張で言葉に詰まるのだから、他の生徒
くださり、私たちの要望にも応えていただいている。
たちがより快適に語学研修が行えるよういろいろと工夫して
生 徒 た ち が 通 う の は﹁ Christchurch College of English
﹂
と い う 語 学 学 校 で あ る。 毎 年、 前 年 度 の 反 省 を も と に 生 徒
⋮。
﹂やれやれ、彼にとっては緊急だったのだな。
で い い ん で す か? ワ イ シ ャ ツ 二 ∼ 三 枚 と 書 い て あ っ た の で
てて出てみると、あのI 君である。﹁先生、今日からは私服
第一声はなんとか通じたようだった。初めて外国の空気を吸
い、何となく落ち着かず、何となく不安な生徒たち。
そ の 後、 語 学 学 校 へ。 生 徒 た ち の 表 情 が だ ん だ ん と 緊 張
の 面 持 ち へ と 変 わ っ て い く。 待 ち 受 け る 講 堂 に 続 々 と ホ ス
トファミリーが姿を見せる。セレモニーではロブ理事長の挨
たちの緊張の度合いはおのずと察しがつく。さあ、いよいよ
拶、菅原功典君のスピーチが続いた。ホームステイの経験の
である。生徒たちの名前が次々と呼ばれ、一人、また一人と
先輩たちが言っているが、今まさにあの﹁甘えん坊﹂たちが
た と こ ろ だ ろ う か。 毎 年、 最 初 の 車 の 中 が 一 番 緊 張 す る と
生徒たちを連れ去った。セレモニーの時間、約二十分といっ
そんなことはお構いなく、ホストはあふれんばかりの笑顔で
みな熱心に、それぞれの能力に合わせてさまざまな工夫を凝
スが四つ作られた。授業の様子を覗きに行ったが、先生方が
いて、その評価を基準に九名のクラスが三つと十一名のクラ
⋮⋮。﹂という反省に基づき、英会話の先生方に協力いただ
だが、今年は五期生の﹁ある程度英会話の能力が一定の方が
今 年 度 の 変 更 点 は ま ず ク ラ ス 分 け で あ る。 例 年 は ホ ー ム
ステイ先が近い家でクラスのメンバーが構成されていたよう
講堂をあとにする。
﹁先生∼∼﹂と目で訴える生徒もいたが、
その緊張感を体験している。
﹁
﹃甘えん坊﹄諸君、たくましく
徒もよく発言していた。外国の風がそうさせるのか。
く授業を受けており、日本でははっきりとものが言えない生
らして授業を展開していた。生徒たちもみな生き生きと楽し
なって日本に帰ろう!﹂
ま ず は ひ と 安 心 と 私 た ち も 講 堂 を 出 よ う と し た 時、 フ ェ
アウェルパーティーで披露するなぎなたが置き去りにされて
いた。Sさんの物だった。自分の名前が呼ばれ嬉しさのあま
Ƚ
ȽȁIJijĺȁȽ
Ƚ
語学学校、担任の先生と
う こ と に な っ た。 南 極 セ ン タ ー や 博 物 館 見 学、 市 内 見 学 や
A﹂、
﹁ Group
B﹂、
﹁ Group
また、七つのクラスを﹁ Group
C﹂と三つのクラスに分けて午後のアクティビティーを行
ショッピングなどのアクティビティーの中にスポーツがある
のだが、これも体力差を考えて﹁男女別で行ってほしい﹂と
の 要 望 を 聞 き 入 れ て い た だ い た。 一 週 目 は 雨 が 降 っ て し ま
い、残念ながらカヌーがボウリングになったり、インドアス
ポーツ ネ
( ットボール、サッカー、バスケットなど を
) 行っ
たりしたが、男女別になったことで、それぞれが遠慮なく思
いっきりストレス発散しているように見えた。
Group
( の
) ﹁集合
語学学校の話題と言えば、やはり三月三日 水
写 真 ﹂ は は ず せ な い。 今 年 は 誰 が 私 服 で 写 真 に 写 る の か、
少 々 楽 し み に も し て い た の だ が、 生 徒 た ち に は﹁
﹂なるものが配布されており、その中には語学
Escort Guide
学 校 の 施 設 の 地 図 や 使 い 方、 使 用 教 室、 そ し て プ ロ グ ラ ム
な ど が 折 り 込 ま れ て い た。 そ の プ ロ グ ラ ム の 中 に は す で に
﹁ GROUP PHOTO
︲ Wednesday 3rd March 9:30am
Please
﹂と記され、ここまで
be grassed area outside CCE Cafeteria
丁寧に書かれていれば、今年も全員制服で写真が撮れると半
ば 安 心 し て い た。 し か し、 そ れ は 大 き な 間 違 い だ っ た。 現
れるのは私服の生徒たちが一人、二人、三人、⋮⋮。軽く十
人は超えている。﹁ハ∼﹂とため息を一つ。生徒たちに言わ
せてみれば、﹁ GROUP PHOTO
﹂の﹁ GROUP
﹂を午後のアク
Ƚ
ȽȁIJĴıȁȽ
Ƚ
テ ィ ビ テ ィ ー の﹁ Group
A・ B ・ C ﹂ だ と 思 っ て し ま っ た
らしい。ただ前日AとCは最後に先生が言ってくれたようで
め息。ただ幸いにして天が味方をしてくれ、雨のため撮影は
たことなど全く反省していない様子。
﹁ハ∼﹂ともう一つた
自 分 が ス ケ ジ ュ ー ル 表 を 見 て い な か っ た り、 勘 違 い し て い
いんだ﹂の問に、
﹁先生が言ってくれなかった﹂の一点張り。
まま私服で登校というわけである。﹁どうして制服を着てな
言えばそれまでだが⋮⋮。またトランスアルパインツアーで
のひと言もなく平然と﹁僕もです。
﹂ と 返 答。 S 君 ら し い と
思わなかったよ。
﹂と私が言うと、ご迷惑をおかけしました
けられたのだった。﹁四日目にしてバスを乗り間違えるとは
で偶然デイブさんと会うことができ、無事に学校まで送り届
ろで降りるとまた迷うので、もう一周して自宅付近のバス停
たS君はその Green
バスに乗車。仲間にも会えず、一時間ほ
どバスに乗り一周してきたことに気づくが、中途半端なとこ
バスではな
ばならなかったが、この日はいつもの時間に Red
く、 Green
バスが来てしまった。色ではなく時間を優先させ
延期に。﹁先生、次はいつですか?﹂と聞かれたが、
﹁それを
事なきを得たが、情報を得られなかったBの生徒たちがその
私に聞いたら勉強にならないでしょ。担任の先生に聞きなさ
大幅遅刻のNさんを車に乗せてバスを追いかけてきてくれた
のもデイブさんである。デイブさんには本当に感謝してもし
い。﹂と言っておいた。
画で午前中を過ごしていたところに、現地のJ TBスタッフ
( 、
)今日は語学学校に行
こんなこともあった。三月四日 木
くのを控え、午後のアクティビティーを見学しようという計
るくさわやかな笑顔で答えてくれた。本校の語学研修を成功
ざいました。
﹂と何度も頭を下げると﹁気にしないで。
﹂と明
き れ な い。
﹁本当に申し訳ありませんでした。ありがとうご
梅村さんの電話が鳴った。デイブさんからである。もう十一
さ せ よ う と 必 死 で 動 い て く だ さ る﹁ Christchurch College of
﹂のスタッフや先生方に改めて感謝申し上げたい。
English
時だというのにS君が来ていないというのだ。十二時までに
いる途中、S君発見!との連絡あり。実はS君、二時間もバ
探しようがない。とにかく連絡を待とうとホテルへ向かって
のような男の子を見かけなかったかと尋ねてみたところで
スが集まる大聖堂近くのバスエクスチェンジ付近を捜索。こ
いてみると、モナベール公園で水たまりにはまったM君、い
男子たちは果たして耐えきれるのだろうか。初日の様子を聞
込まれる。女子はさほど心配はしていなかったが、内弁慶の
﹁各家庭に一人きりで泊まりこむ﹂
はじめに記したように、
というのはよほどの度胸がないとかなりの精神的苦痛に追い
ホストファミリーとの生活
スに乗っていたのだ。クライストチャーチを走る市内バスは
来なかったら、語学学校側も動くという。私たちも市内のバ
バスに乗らなけれ
Red
車体の色で行き先が区別され、S君は
Ƚ
ȽȁIJĴIJȁȽ
Ƚ
り怖くてなかなか話せないらしい。T君は授業を開始した日
きなり部屋に閉じこもっているらしい。大聖堂のA君、やは
た。
で話してくれた老夫婦を見ながら、愛されているなあと感じ
みには街でホストファミリーと楽しく過ごす生徒たちを多く
ればだんだんと聞き取れるようになり、土曜日、日曜日の休
は耳が慣れずに苦労したに違いない。それでも三、四日もす
問﹁何かホームステイをする前に日本でやっておかなければ
ろと質問してみた。
ホームステイさせているベテランホストだったので、いろい
三軒目はこちらに来てホスト先が変更になったNさんのお
宅。急なことで心配をしたが、このお宅は十五年で十八人も
の二時間目に腹痛で保健室に運ばれた。他の生徒たちも最初
見かけた。
ならないことはありますか?﹂
階のフロアに貼られた地図上には載っていない Rolleston
と
いう街にあった。ここは郊外の自然のあるところで子どもた
学生くらいの子たちは自分の娘のように接しているの
答﹁高校生以上なら洗濯などは自分でやってもらうけど、中
問﹁洗濯などはさせますか?﹂
子三人、女の子一人の部屋はたいへんきれいに整理されてい
宅 だ。 部 屋 の 壁 に は 母 親 の 趣 味 で 絵 が 描 か れ て お り、 男 の
ミュニケーションをとっているし、最初の三日ぐらいは
答﹁ ほ と ん ど ト ラ ブ ル は な い。 会 話 は 辞 書 な ど を 使 っ て コ
問﹁会話のトラブルは?﹂
ので。でも若い子は何枚も重ね着するのは嫌みたいね。
﹂
ちを育てたいと考える人々が移り住む新興住宅地である。敷
で、特にやらせてはいないわ。
﹂
答﹁服装のことは言っておいてほしい。天候が変わりやすい
地面積六〇〇〇平米、庭には野菜園や果物園があり、バーベ
三 軒 の ホ ス ト フ ァ ミ リ ー 宅 を 見 学 さ せ て い た だ い た。 ま
ず は 腹 痛 で 保 健 室 に 運 ば れ た T 君 の お 宅。 彼 の 家 は 校 舎 三
キューなどもできる、T君にはもったいないくらい素敵なお
た。﹁ここよ。
﹂と案内されたT君の部屋。私は顔から火が出
は一言言っている。明るいうちはバスでもいいが、少しでも
﹁ホームステイをしている
このようなやりとりの最後に、
生徒に直接注意していることは何ですか?﹂と質問した。す
大変だけど、その後は問題ないわ。﹂
わ。﹂と笑われてしまった。明日厳重に注意しなければ⋮⋮。
暗くなったらタクシーを使いなさいとも。ホストとしてお世
る思いだった。やりっぱなしぬぎっぱなしの荒れ放題。私が
二軒目のAさんのホストはとても優しそうな老夫婦だっ
た。 娘 さ ん は 独 立 し て お り、 元 気 い っ ぱ い 明 る く 振 る 舞 う
話するということだけでなく、預かった生徒を守らなければ
如何ともし難い顔をしていると、
﹁これは私のせいじゃない
Aさんを娘のように思っているのだろうか。
﹁Aは今まで食
ると、
﹁女の子しか受け入れていないので、帰宅時間のこと
だわ。﹂と笑顔
Big eater
事 を 一 度 も 断 っ た こ と が な い の よ。
Ƚ
ȽȁIJĴijȁȽ
Ƚ
どを見て、とにかく生徒たちが快適に暮らせるところを選ぶ
ホームステイ全般を管理しているシャリーンさんも、ホス
トファミリーを決定するにあたり、家族の人柄、家庭環境な
いけないという気持ちでやっているのよ。
﹂と答えてくれた。
う。
までの日々をふり返り、眠れない生徒たちも多かったであろ
だろうか。今宵はホストファミリーと過ごす最後の夜。今日
ることができたからこそ、ここにいるホストファミリーと打
( 、
)別れの朝はさわやかな朝だった。別れに
三月十一日 木
涙はつきもので、バスに乗る際、シャリーンさんが女子生徒
ち解けあい、大切な人間関係を築くことができたのではない
と言っていた。すべてこのホームステイ語学研修を成功に導
ストファミリーも熱意を持って取り組んでくれていることを
にティッシュを手渡してくれた。お心遣いに感謝。名残惜し
くため、生徒たちのよき思い出となるために、語学学校もホ
改めて実感し、こちらも生徒たちの学ぶ姿勢をしっかりと育
オークランドにて
港へとバスは出発した。
いが行かねばならない。後ろ髪を引かれる思いだったが、空
別れ
てなければならないと痛感した。
美有さんの舞、島田加奈子さんと野崎夏子さんによるなぎな
ちからは感謝の意を込めて中村聡子さんのスピーチ、早乙女
した日々を送っていたということがよく理解できた。生徒た
る。担任の先生方と握手をする生徒たちの顔から、みな充実
ま持ってきてしまったという。過去にも例があり、中部長か
ので問いただすと、ホスト先から借りていた家の鍵をそのま
いたI 君。﹁あっ!﹂という声と同時に不審な動きを見せた
ホストファミリーにもらったお土産をA君に見せびらかして
れない。オークランドに向かう飛行機の中、私の隣の席では
残 り 二 日 間 は オ ー ク ラ ン ド 観 光 で あ る。 緩 み き っ た 生 徒
た ち と の 集 団 行 動。 何 も な い と い う 方 が お か し い の か も し
たの演技、長瀬仁美さんと関根希さんによる書道の実演を行
けてしまっていた。ホテルに着いてすぐさま電話をしたとこ
校 長 が 挨 拶 を 交 わ し た 後、 修 了 証 を 受 け 取
三月十日︵水︶はお世話になった語学学校の先生方やホス
トファミリーと一緒にフェアウェルパーティーを行った。ロ
い、最後に生徒全員で﹁ Day dream believer
﹂と﹁空も飛べ
るはず﹂を歌った。ぐっと込み上げるものがあったのか、数
ろ、
﹁捨ててしまって構わない。﹂との声。英語の苦手なI君
ブ理事長と石
名の生徒は涙を流しながら歌っていた。初めの頃は言葉の壁
だが、とにかくお礼の気持ちを伝えさせた。
今 年 は 忘 れ 物 が 多 く、 そ の 度 に 確 認 を し て 何 と か 戻 っ て
ら注意するよう言われていたが、私の伝達からそのことが抜
にぶつかりながらコミュニケーションがとれずに不安な毎
日を過ごしたに違いない。しかしその不安を各自が乗り越え
Ƚ
ȽȁIJĴĴȁȽ
Ƚ
残 っ て い る と は 限 ら な い。 幸 い コ ピ ー を 持 参 し て い た の で 、
びオークランドに来るのを待つしかないが、そのポケットに
飛行機はクライストチャーチに戻っている。その飛行機が再
に来てパスポートをなくすとは最悪の事態。私たちの乗った
はさみ、飛行機の座席前のポケットに置き忘れたのだ。外国
スポートがないことに気づくNさん。搭乗券をパスポートに
が 発 生 し た。 オ ー ク ラ ン ド に 着 い て シ ョ ッ ピ ン グ の 際、 パ
き た も の も あ っ た が、 こ こ に 来 て 今 回 の 研 修 最 大 の 忘 れ 物
ございました。
ある。この場を借りて御礼申し上げます。本当にありがとう
まざまな場面で生徒たちを支えてくださった方がたのお陰で
り抜いたすべての生徒たちに合格を言い渡したい。これもさ
ることができた。卒業試験は満点とは言わないまでも、頑張
か第六回目のニュージーランドホームステイ語学研修を終え
ていた。私もそれを見てひと安心。いろいろあったが、何と
ていた親たちが我が子の無事の帰国にほっとした表情を見せ
〇九九便に乗り、帰国の途に着いた。成田空港では迎えに来
以下、ある生徒の感想文を載せる。
日 本 に 帰 る こ と は で き る よ う だ が ⋮⋮。 そ ん な 矢 先、 O K
ショップの店員が私にパスポートを手渡した。なぜ?﹁生徒
さんが忘れていきましたよ。﹂こちらが大変なことになって
に。﹁よくならないようだったら明日も来なさい。
﹂と医者に
らって病院へ行くことにした。注射をし、薬をもらって安静
ど ん ど ん 熱 が 上 が っ て い る の で、 金 井 教 諭 に 付 き 添 っ て も
か。今日はオークランド市内を一日観光する予定だったが、
るという。ホームステイの緊張から解き放たれたからだろう
が、そんなことは許されなかった。U君が三十八度の熱があ
運よくNさんのパスポートは確認が取れて戻ってきた。明
日 一 日、 何 も あ り ま せ ん よ う に と 祈 り な が ら 眠 り に つ い た
英語を勉強しないと会話にならない。その場を楽しむことも
自分がものすごく悔しかった。外国へ行きたいならきちんと
くらいだった。三年間英語を勉強しても会話ができなかった
のがすごく恥ずかしかった。できれば﹁一年﹂って言いたい
と聞かれた。その時は﹁三年﹂って答えたけど、そう答える
た。ある時、ホストファザーに﹁何年英語を勉強したの?﹂
らない、リスニングもできない。全然会話が成りたたなかっ
年間何をやってきたのだろう﹂ということだった。単語も知
いる時に全く危機感がなさすぎる。持ち主はI君だった。
言われたが、明日は帰国。だめなら残していかなければなら
できない。ニュージーランドでの生活を本当に楽しむために
率 直 な 感 想 は と に か く 二 週 間 は 短 い! 二 週 間 で は 足 り な
い!まずホームステイをして一番感じたことは、
﹁自分は三
ない。U 君は﹁何としても元気になります。﹂と答えたよう
は、もっともっと語学力が必要であるということを思い知ら
された。もっと語学力があったら、どんなに楽しかっただろ
だ。
( 九
) 時 三 十 分、 ニ ュ ー ジ ー ラ ン ド 航 空 N Z
三月十三日 土
Ƚ
ȽȁIJĴĵȁȽ
Ƚ
う。英語をもっと勉強しなければ、と思った瞬間だった。
﹁自分は日本を知らな過ぎる﹂という
次に思ったことは、
こと。﹁日本の人口は何人?﹂と聞かれた時、私は正確に答
えることができなかった。外国へ行くと自分が日本人である
ことを強く自覚させられる。英語を勉強することにプラスし
て、日本人として恥ずかしくないように、もっともっと日本
のことを勉強していきたい。
他にもたくさん感じたことはあったけれど、ホストファミ
リーはとても親切に対応してくれた。できるだけ簡単な単語
を使ってくれたりした。今、 Dad
と Mon
がしてくれたこと
を考えると、喜びにあふれてくる。二人の優しさに﹁ありが
とう!﹂を何度も言いたい。また必ず訪問します!
最後に﹁甘えん坊﹂諸君よ。君たちの成功の陰には多くの
人たちの協力・支えがあることを忘れないでください。その
人たちに恩返しする意味でも、努力を惜しまず、それぞれの
夢の実現に向け、焦らず一歩一歩前進してください。
︵国語科
教諭︶
Ƚ
ȽȁIJĴĶȁȽ
Ƚ
私のオペラ人生
Ⅱ
峰
茂
樹
二 〇 〇 二 年︵ 平 成 十 四 年 ︶ 十 一 月、 日 生 劇 場 に お い て オ
ペラ﹃羅生門﹄が初演された。
﹃羅生門﹄と言えばまず黒澤
の発想をもとに脚本、台本を手がけ、演劇、狂言、映画化さ
くるような感覚に陥る。これまでこの作品を多くの人が独自
れていくような不思議な作品である。この作品の魅力はそこ
人それぞれ想像力を掻き立てられ、自分なりの映像が連想さ
明監督の映画を連想される方が多いと思う。一九五〇年︵昭
れてきた理由もうなずける。そしてついにオペラ化されたの
日本初演オペラ﹃羅生門﹄
和二十五年︶のこの作品はアカデミー賞最優秀外国映画賞受
である。
にあり原作をもとにイメージが膨らみ新しい発想が生まれて
賞、ヴェネチア国際映画祭グランプリに輝くなど、日本映画
史上歴史に残る作品で黒澤の名を世界に轟かせた。周知のよ
藪
「 の中 で
」 ある。一人の
男の死をめぐって関係者三人の証言の食い違い、誰が殺した
訳台本を書き、さらに日本語とドイツ語の抑揚の違いを入念
本初演に至ったのである。この公演にあたって新しい日本語
ら台本を手がけ、ドイツ語による世界初演で大成功を納め日
作 曲 は ド イ ツ 在 住 の 久 保 摩 耶 子、 す で に 一 九 九 六 年︵ 平
成八年︶オーストリアのグラーツ歌劇場から依嘱され彼女自
のか・・あるいは自殺なのか・・・・果たして真実は・・・・
うに原作は芥川龍之介の短編小説
最後まで真相は明かされず藪の中へ・・・・。
すべての証言者が事実を述べているようにも思えるし、嘘
であるようにも思える。このミステリアスな怪事件は原作の
とんどでかなり複雑である。そして、歌の旋律に関しても器
オーケストレーションも現代音楽独特の無調性的な部分がほ
に検討し、譜面上においてもかなり改作を行なったようだ。
平安時代から時空間を超えて、現代の社会にも通用するよう
んどが語り調に進行していく。はっきり言って我々歌い手に
楽 的 な 跳 躍 音 形 が 目 立 ち、 叙 情 的 な メ ロ デ ィ は 少 な く ほ と
な話である。 火
「 曜サスペンス劇場 に
」 登場してもおかしく
ない。要するにこの原作を読んでいると、活字を追いながら
Ƚ
ȽȁIJĴķȁȽ
Ƚ
たくないものにとっては難曲で精神的にも辛いものがある。
とっては厄介な音楽である。特に私のように絶対音感がまっ
寄せられたのである。
で、その台本、作曲を手掛けた久保磨耶子氏に大きな期待が
とにかく音が正確に取れないため、何度も音楽稽古を重ねな
オペラ﹃羅生門﹄には殺人事件にかかわった三人の主要人
物として、真砂︵ソプラノ︶
、多襄丸︵ヘルデンテノール︶
、
官︵ テ ノ ー ル ︶ の4 人、 さ ら に 原 作 に 書 か れ て い る 検 非 違
ン︶、僧侶︵カウンターテノール︶、真砂の母︵アルト︶
、警
武仁︵テノール︶
、 そ し て 証 言 者 と し て 木 こ り︵ バ ス バ リ ト
( 成六年 に
) シェーンベルク作曲の
か つ て、 一 九 九 四 年 平
オペラ﹃モーゼとアロン﹄︵演奏会形式、日本初演︶に出演
がら感覚で捉えていくしかないのである。
して、十二音技法の複雑怪奇な現代音楽に苦労したことを思
メージの羅生門がそびえ立つ。中央檀上に裁判官が登場し、
使が裁判官︵バス︶として登場して尋問にあたり物語は展開
民衆は傍聴人として羅生門の階上から全体を覗き込むよう
い出す。オペラ﹃羅生門﹄の音楽は我々出演者にとってもか
る人にとっては難
に配置され、中央の舞台で証人喚問が行なわれる。裁判長と
していく。また原作にはない民衆がコーラスとして登場する
しすぎて相応しく
証言者のやり取りやそれに対する民衆の反応など、パーカッ
のもオペラならではである。舞台には老朽化した不気味なイ
ない作品かもしれ
なり忍耐のいる曲であるが、聞き手にとっても相当な覚悟を
ない。しかし、芥
ションアンサンブルや日本の和太鼓などをふんだんに取り入
Ƚ
ȽȁIJĴĸȁȽ
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要する音楽であることは間違いない。初めてオペラを体験す
川龍之介の名作
ンがリアルに再現される。そして、最後はそれぞれの証言の
れた迫力あるオーケストレーションの中で緊張感が高まって
食い違いから、犯人は誰か?真実は何か?ということが浮き
いく。また、真砂、多襄丸、武仁の証言に基づいて回想シー
画化されて脚光を
彫りにされ、法廷は大混乱を招き、民衆の叫びと大合唱のう
生門﹂として映
浴 び、 さ ら に 初 め
ちに幕となる。
者、最初の証人として登場した。裁判官との短いやり取りで
私はこのオペラで木こり役を演じ、第一幕冒頭で裁判官の
〝静粛に、静粛に!開廷!〟の言葉を合図に死体の第一発見
てオペラ化される
創作オペラ史上大
も興味深く、日本
変意義のあるもの
という点ではとて
﹁ 藪 の 中 ﹂ が﹁ 羅
舞台に再現された羅生門
はあるが、歌の中で死体の状態や凶器について克明に説明し
にして、その中から疑問点を投げかけ発展させて全体を作っ
日 本 初 演 の オ ペ ラ﹃ 羅 生 門 ﹄ は 高 い 評 価 を 受 け て、 日
本 の 創 作 オ ペ ラ の 歴 史 に 新 た な 一 ペ ー ジ を 築 い た。 す で に
ていく。彼の鋭い洞察力と的確なアドバイスで自分でも納得
一九七六年︵昭和五十一年︶
、作曲家黛敏郎が三島由紀夫の
のいく演技を行なうことができた。
ん落ち着きを取り戻し確信的に話し始める。そして、死体の
小説﹁金閣寺﹂をドイツ語でオペラ化し、ベルリンで初演し
なければならない。裁判官の次々の詰問に対して、当初は大
傍に女物の櫛と紐を発見したくだりでは自分の手柄として得
勢の傍聴人の視線を浴びて落ち着きがなく動揺しながら答え
意げに、そして死体の辺りの草木が荒れていた状況からかな
た時と同様に、日本の文学作品が翻訳されて外国で初演され
ているが、その時の状況を頭に描き思い出しながら、だんだ
り激しく争った形跡が見られると、自分なりの見解まで主張
大成功を納めたことに大きな驚きと感動を覚える。
なう方で、自分か
りやすい演出を行
より具体的に分か
お 世 話 に な っ た。
の夜の夢﹄で大変
曲のオペラ﹃真夏
ア原作ブリテン作
したシェイクスピ
成十二年︶に公演
遠いもので、もっぱら私の音楽吸収源はテレビ、ラジオ、レ
る。今の若者のように気軽にライブに出かける環境とはほど
なんてものは年に一回あればいい方だったように記憶してい
コ ン サ ー ト、 リ サ イ タ ル な ど も 頻 繁 に は な く、 オ ペ ラ 公 演
かった。首都圏を中心に活躍する演奏家が来ることも稀で、
は東京と違って、いつでも音楽が楽しめるような時代ではな
現在のオペラ人生の糧となっている。とにかくその頃の長崎
業するまでの十八年間に体験したことは大変貴重なもので、
覚えているから不思議だ。私の場合も長崎で生まれ高校を卒
ら感動したことは長い月日が経った今でもはっきりと鮮明に
小さい頃から芸術に親しむことは豊かな心を育て、情操教
育に大きく貢献することは間違いない。小中学校時代に心か
本物の舞台芸術体験事業オペラ﹃夕鶴﹄
ら作ると言うより
コードのみであった。特に高校時代はカセットテープ以前の
も歌い手の自由な
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ȽȁIJĴĹȁȽ
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すると言った具合に、心理状態の微妙な変化を芝居の中に要
求された。
発想や芝居を大切
演出は加藤直氏
で二〇〇〇年︵平
「羅生門」舞台稽古 木こり役(筆者)
送で流れるオペラの録音作業が日課の一つであった。今考え
よなく愛するお友達で、自室に閉じこもり、NHK・FM放
ステレオ録音可能なオープンリールのテープデッキが私のこ
北 高 校 時 代、 体 育 館 で 聴 い た 日 本 一 の 声 量 を 持 つ バ リ ト ン
前 で 演 奏 し て く れ た フ ル ー ト と お 琴 の 合 奏﹁ 春 の 海 ﹂
、長崎
さ れ て し ま っ た。 ま た、 小 学 校 の 恩 師 と そ の 奥 様 が 生 徒 の
智子のトスカの声量豊かな美しいソプラノの響きには魅了
た歌声は忘れられない。現在おねえ系の総本山とも言うべき
とうきび畑﹂
﹁この広い野原いっぱい﹂など、あの澄みきっ
長崎での幼年時代、母は数少ないチャンスに私をよく演奏
会 に 連 れ て 行 っ て く れ た。 森 山 良 子 の コ ン サ ー ト で は、
﹁さ
り、二期会オペラ公演でも数回ご一緒させて頂いた。最近で
とができた。その後、芸大の大学院オペラ科でもお世話にな
年後、大学四年生で憧れの先生のレッスンを初めて受けるこ
くれたと今でも思っている。後日談ではあるが、それから五
に驚嘆!この衝撃が私にオペラ歌手になるきっかけを与えて
歌手栗林義信氏の演奏会。体育館の隅々まで響き轟いた肉声
ればネクラな男の典型だったかも知れない。
で一世を風靡し
る場を親から与えてもらったことには感謝の一言である。
このように私にとって小さい頃のこれらの音楽体験はかけ
がえのないものであった。子供心に鳥肌の立つような感動す
は二〇〇四年︵平成十六年︶九月二日に行なわれた﹃大正時
い。 若 く し て 亡 く
代のボエーム﹄で共演させて頂いたが、その声量はまったく
なった日本の名バ
しかしながら現在学校教育にも携わりながら思うことは、
これだけ大都市東京に近い所に住んでいて、生の音楽を楽し
たあの美声には脱
ス歌手大橋国一の
む機会が数多くあるにもかかわらず、劇場に足を運ぶ生徒が
帽・・・・。マイ
リサイタル。初め
少ないのはもったいない話だ。特にオペラ、バレエ、オーケ
衰えを見せず、七十二歳とは思えぬ立派な声に改めて驚かさ
て見たオペラ﹃ト
ストラなどのクラシック系に関してはほとんど皆無といって
れた。
ス カ ﹄。 あ の 当 時
いいだろう。これは現代の音楽ジャンルの多様化と氾濫があ
クを使わず会場に
日本のオペラ界で
げられる。現代の若者はロック、ニューミュージック、歌謡
朗々と響きわたっ
プリマドンナとし
た声は忘れられな
て活躍した砂原美
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ȽȁIJĴĺȁȽ
Ƚ
三輪明宏、あの当時は丸山明宏と言って﹁ヨイトマケの唄﹂
「夕鶴」男三人衆(左から 与ひょう、惣ど[筆者]、運ず)
の誘惑も多いし、これでは劇場から足が遠のくのも無理はな
音楽が楽しめる。そしてパソコンの普及でテレビゲームなど
た、 わ ざ わ ざ 劇 場 に 行 く ま で も な く C D や D V D で 気 軽 に
が懐かしく響くが、現代の若者にはまったく通用しない。ま
を傾けたこの世代には〝ナツメロ〟や〝流行歌〟という言葉
HK紅白歌合戦﹂を見た時代である。みんなが同じ音楽に耳
はお年寄りから幼児までしっかりテレビにかじりついて﹁N
曲などそれぞれの趣向で好きな音楽に親しむ傾向にある。昔
体歌などその業績は極めて大きい。
楽曲、合唱曲、歌曲、さらには数え切れないほどの校歌、団
﹃ 建・ TAKERU
﹄など次々と超大作を手掛け意欲的な作曲活
動を行った。しかもオパラだけに留まらず、交響曲及び管弦
戔嗚﹄
、 一 九 九 七 年︵ 平 成 九 年 ︶ 新 国 立 劇 場 開 場 記 念 公 演
年︵平成六年︶神奈川県民ホール会館二十周年記念公演﹃素
け﹄
﹃ ち ゃ ん ち き ﹄ な ど の オ ペ ラ を 発 表 し、 晩 年 は 一 九 九 四
品である。團氏は出世作となった﹃夕鶴﹄の後に﹃ひかりご
験事業﹂が文化庁によって企画された。これにはオペラ、バ
こ の よ う な 現 代 の 子 ど も、 青 少 年 を 対 象 に 芸 術 文 化 に 触
れ合う機会を多く与えることを目的に、﹁本物の舞台芸術体
深い姿は未だに忘れられない。
たことがあるが、あの在りし日のパイプをふかす團氏の印象
うことで﹃素戔嗚﹄の公演中に何度かご夫妻と楽しくお話し
しい。前年に他界された和子夫人が私と同郷の長崎出身とい
しかし残念なことに二〇〇一年︵平成十三年︶演奏旅行中
の中国で七十七歳で急死された時のニュースはまだ記憶に新
レ エ、 オ ー ケ ス ト ラ、 ミ ュ ー ジ カ ル、 演 劇、 歌 舞 伎、 寄 席
い。
芸能、人形浄瑠璃など、多くの舞台芸術の分野で活躍する芸
術家が参加している。そして、日本全国にわたり劇場に限ら
この彼の代表作である﹃夕鶴﹄がとても人気が高く、頻繁
に繰り返し上演されてきた理由が二つほどある。一つは物語
美しい雪景色を背景に、大和撫子の典型のような美しく優し
の分かりやすさと簡潔さが挙げられる。御存知のようにこの
い妻つうと、天真爛漫の与ひょうの平和な生活に忍び寄る、
ず、公民館、学校の体育館などでも公演し、日頃舞台を鑑賞
今回この事業の一環として木下順二原作、團伊玖磨作曲の
オペラ﹃夕鶴﹄を上演することとなった。この作品は私が生
人間の欲を剥き出しにした惣どと運ずの暗い影・・・・。ラ
する機会の少ない地方のみなさんも、身近に優れた舞台芸術
まれた一九五二年︵昭和二十七年︶に初演されて以来五十年
ス ト シ ー ン の 悲 し い 別 れ は 日 本 人 の 心 に 深 く 染 み 通 る。 特
物語は日本人にとても親しみやすく馴染みのある民話〝鶴の
の間に、海外公演も含め上演回数が六百五十回以上を記録し
に、与ひょうを悪の世界から必死に守ろうとするつうの悲痛
恩返し〟を題材に木下順二が戯曲化したものである。東北の
ているというから半端な数ではない。日本の創作オペラの中
を体験できるという素晴らしい企画である。
でもダントツであり、日本オペラ界に金字塔を打ち立てた作
Ƚ
ȽȁIJĵıȁȽ
Ƚ
品なのである。
大人達も原点に返って改めて考えさせられるような優れた作
なアリアには胸を打たれ、純粋な子どもの心にはもちろん、
は発声について試行錯誤しながら悩んでいた時期で、高音域
テープを聞きながら勉強した記憶がある。しかし、その当時
三 十 年 前 音 大 の 学 生 の 頃、 ボ ー カ ル ス コ ア を 購 入 し て 録 音
の後もこれだけオペラに出演しても﹃夕鶴﹄の出演依頼はと
が意外に連続するこの役が歌えるはずがなかった。そしてそ
もう一つの理由は他のオペラと比較すると登場人物が四人
と極めて少なく、さらに共演する子供達は現地の合唱団から
うとうなく、楽譜はマッサラのまま本棚の奥で長く眠ったま
ところが大切に保管していた楽譜をいざ取り出してみる
と、 表 紙 は 黄 ば み カ ビ 臭 い で は な い か! や っ ぱ り 三 十 年 の
まの状態であった。ところが今回三十年振りに日の目を見た
月日は長かったと改めて実感した。そして、その古い楽譜を
募りソリストと一緒に同じ舞台に立つことで、市民・町民参
さ て、 オ ペ ラ﹃ 夕 鶴 ﹄ の 惣 ど 役 は 私 に と っ て は 初 役 だ っ
た。二〇〇二年︵平成十四年︶十二月浦和会館で行なわれた
携え音楽稽古にいざ参加してみるとみんなと違うのだ。鶴を
加型のオペラが実現できる点にある。その上舞台装置も大掛
埼玉オペラ﹃椿姫﹄の本番の最中に、顔なじみの日本オペラ
デザイン化した新しい表紙に変わった上に、音符や言葉も数
のである。このように長い間放置されていたオペラスコアを
協会のマネージャーが楽屋に来て、惣ど役に誰かいないかと
箇所書き換えられているのを発見!これだけ上演回数の多い
かりなものを必要としないため移動がしやすく、地方公演に
尋ねられ、是非自分にやらせてくれと頼んだところ即座に交
オペラであるから、公演される度に手が加えられ改訂版が出
取り出す度にいつも思うことがある。〝嗚呼!人生まんざら
渉成立。ひょんなことから出演が決まってしまったのだ。と
回っても不思議ではない。あの当時、虎の子の小遣を叩いて
捨てたもんじゃない!〟
〝﹁私のオペラ人生﹂長くやってりゃ
ころが喜んでばかりもいられない。何せ初めての役だし、し
買ったのに大変ショックである。しかしいいこともあるもの
も支障をきたすことも少ない。もちろんコストが安く済むこ
かも暮れ、正月と休みも続き、正味一ヶ月の短い稽古で本番
で、日本オペラ協会から新しい楽譜を進呈してもらった。
とも大きな魅力だろう。これまでこの﹃夕鶴﹄が日本各地で
に臨まなければならないのだ。その上他の三人の共演者はい
いいこともあるもんだ!〟・・・・。
ずれも﹃夕鶴﹄の舞台は何回も踏んだベテラン揃い。初心者
上演されてきたことがうなずけるのである。
が足を引っ張らないように、信頼を裏切らないようにと、気
ら神奈川県の新百合が丘まで毎日二時間半の旅である。利根
年 が 明 け て い よ い よ 立 ち 稽 古 開 始 で あ る。 日 本 オ ペ ラ 協
会の稽古場は私の行動範囲の中でも一番遠い。栃木の学校か
合を入れて譜読みを開始した。
実 は こ の 役 を 一 度 は や っ て み た い と い う 思 い で、 す で に
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ȽȁIJĵIJȁȽ
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化していったのである。
りを気にしてもいられない。毎日の稽古をあっという間に消
ると変なおじさんに見えるが、時間も差し迫っているので周
ら車内は暗譜に費やす。楽譜を見ながら口をモゴモゴしてい
わけにもいかない。今回は稽古回数も少ないために、もっぱ
くなる。最近つくづく体力がなくなったと思うが弱音を吐く
川、荒川、多摩川と越えて稽古場に着く頃は疲れて声も出な
を間違えて歌ってしまったのだ!舞台ではどのような場面で
ある。宇都宮公演ではいきなり前半で与ひょうと運ずの名前
なり緊張するもので、アクシデントが起こることがしばしば
れた。さすがにこれだけ舞台経験を積んでも初役の初日はか
は現地の合唱団が参加し、前日にリハーサルが入念に行なわ
演者、スタッフ、オーケストラは全員東京から移動。子供達
にダブルキャストで、私は宇都宮と白河公演に参加した。出
まった。彼もかなりの芸達者である。運ずの臆病で気の弱い
の絡みが多く、最初の稽古から盛り上がって意気投合してし
のは今回が初めてである。特にこのオペラの中で運ずと惣ど
の私の後輩にあたるが、お互いに舞台は見ているが共演する
いヴェルディバリトンの第一人者である。牧野氏は国立音大
でも決して引けを取らない美声の持ち主で、日本でも数少な
大舞台で素晴らしい声を聞かせている。外国人歌手との共演
し、すでに新国立劇場の﹃アイーダ﹄﹃ナブッコ﹄﹃椿姫﹄の
この﹃夕鶴﹄の公演でもう一つの楽しみは運ず役の牧野正
人氏と共演できたことである。彼は現在、藤原歌劇団に所属
たことが反省点だ。
果となってしまった。やはり動揺して演技に集中できなかっ
してある。初日はその後も細かなミスが重なり悔いが残る結
が途切れてしまい、相手まで巻き込んでしまう場合が往々に
招くことがあるが舞台もまったく同じである。そこで集中力
をすると次々と連鎖反応で守りにミスが続き、最悪の結果を
だろうと気にしている場合がよくある。野球で野手がエラー
ても、頭のどこかでは何故あんな簡単なところを間違ったの
り替わるものではない。さらに気を取り直して歌い続けてい
しまったら一巻の終わりだ。しかし、頭の中はそう簡単に切
でもないところの失敗は精神的動揺も大きく、浮き足立って
も常に冷静な判断が必要で、落ち着くことが大切である。何
性格を表現するために、彼の巨体を細かく動かしてコミカル
殺風景で狭く昔風の会場である。最近、地方でも大きな立派
い建物で、客席も少なくオーケストラピットもなく、楽屋も
開催されていて町は賑わっていた。白河市民会館はかなり古
二月十二日﹃夕鶴﹄白河公演は仕切り直して臨んだ。宇都
宮と違って白河は小さな町である。ちょうど〝だるま市〟が
な芝居で畳み掛けてくるので、私の方もトコトン悪に徹した
ドスの効いた灰汁の強い声で捲くし立てた。この二人の絶妙
な掛け合いが結構好評で、総監督の大賀寛氏からは至上最強
の悪者コンビと賞されたくらいである。
この文化庁主催による﹃夕鶴﹄の公演は二〇〇三年︵平成
十五年︶二月に関東、東北の五箇所で行なわれた。各配役共
Ƚ
ȽȁIJĵijȁȽ
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なホールに建て変えられている中、このようなホールは大変
スケールの大きさ
ストレーションの
を任命したことに
が副官にカッシオ
れる。総督オテロ
台に繰り広げら
のキプロス島を舞
物語は十五世紀
せる。
は聴き手を圧倒さ
貴重である。やたらと大きなホールと違って、この狭い空間
では舞台と客席との一体感があり、すべての聴衆が臨場感を
味わうことができる。比較的小規模な﹃夕鶴﹄の公演には最
適かもしれない。
この白河公演は前回の名誉挽回!初日の教訓を生かし私と
しても満足のいく出来だった。この惣どという役を自分なり
にものにできたような充実感で一杯だった。そしてまた是非
この役で舞台に立ちたいという思いに駆られた。
腹を立てた部下の
ヤーゴはカッシオ
に 酒 を 飲 ま せ て、
同僚のロデリーゴ
を原作としたこのオペラはイタリアオペラ界の巨匠ジュゼッ
は久しぶりの大舞台であった。シェイクスピアの﹁オセロ﹂
二〇〇三年︵平成十五年︶六月、新国立劇場公演﹃オテロ﹄
たせるように仕組む。そして、決定的な証拠を掴まされたオ
ちをかけ、デズデーモナのハンカチを手に入れカッシオに持
する妻の不貞を信じ込み、悩み苦しむオテロにさらに追い討
ナがカッシオと不貞を犯しているとほのめかす。ヤーゴは愛
め、二人が話している様子をオテロに見せつけ、デズデーモ
Ƚ
ȽȁIJĵĴȁȽ
Ƚ
終演後、この公演を鑑賞してくれた白河市の中学生のみな
さんと出演者・スタッフを囲んで行なわれた交流会では、生
徒さんから素朴な質問が飛び交い、楽しい時間を過ごすこと
ができた。ほとんどの生徒さんがオペラ初体験で、マイクを
をけしかけて乱闘騒ぎを起こさせる。酔っ払ったカッシオは
使用せずオーケストラを突き抜けて会場に響き渡る生の歌声
に驚いた様子だった。この〝本物の舞台芸術体験事業〟の意
仲裁に入った元総督のモンターノを傷つけてしまい、オテロ
から副官を解任されてしまう。さらにヤーゴは総督との取り
ペ・ヴェルディが七十三歳の時の作品で、晩年の傑作として
テロは逆上して気が狂い妻を刺し殺すが、その直後にすべて
成しをオテロの妻のデスデーモナに頼むことをカッシオに勧
名を残している。それぞれの個性的な登場人物の性格描写や
ヴェルディ晩年の傑作オペラ﹃オテロ﹄
内面的心理状態が音楽の中に見事に表現されており、オーケ
義を再確認し幸せな気分に浸ることができた。
ヤーゴ役ホアン・ポンスと楽屋にて
がヤーゴの策略だったと知り、あまりの衝撃の事実に自害し
て果てるといった悲劇である。この劇的な内容からしても壮
絶なシーンの連続で、一時も目を離せない迫力満点のオペラ
合わせてくれる。
このオテロ役はテノールの役としては特殊で、叙情的な柔
らかい響きに加えて、強い声質と豊かな声量さらに幅広い声
域などドラマチック性が強く重視される難役である。かつて
くて私の太ももあたりで、真下を覗くと足がすくむ。かなり
動いただけでもグラグラ状態・・・・。おまけに手すりが低
た。盆踊りのやぐらをさらに高く積み上げたものでちょっと
大砲を備えた見張り台の最上階に板付きでスタンバイとなっ
の前総督モンターノで、緞帳が上がると同時に、舞台中央の
げに待ちわびている。このオペラで私が扮する役はキプロス
勝利を納めたキプロスの総督オテロの帰還を今か今かと不安
の中、舞台上を埋め尽した兵士や民衆が、トルコとの海戦で
このオペラは序曲なしにいきなりオーケストラのインパ
ク ト の 強 い 激 し い 演 奏 か ら 始 ま る。 雷 鳴 と 轟 く 凄 ま じ い 嵐
の檜舞台の歌劇場で活躍している。そしてその相手役にソプ
﹃ カ ル メ ン ﹄ の ド ン・ ホ セ 役 で 新 国 デ ビ ュ ー を 果 た し 、 世 界
ラディーミル・ボガチョフの二人が歌った。二人ともすでに
ス ラ ン ド 出 身 の ク リ ス チ ャ ン・ ヨ ハ ン ソ ン と ロ シ ア 人 の ウ
には無理である。今回の公演ではこのタイトルロールをアイ
歌手は数少ない。はっきり言ってこのような重い役は日本人
一世を風靡したが、世界でもこのオテロ役に適したテノール
くれた三大テナーの一人プラシド・ドミンゴが得意役として
和五十六年︶のスカラ座日本公演で最盛期の美声を披露して
声を聴かせてくれたマリオ・デル・モナコや一九八一年︵昭
リア歌劇団公演で、黄金のトランペットの愛称で衝撃的な歌
は一九五九年︵昭和三十四年︶NHKが招聘した第二回イタ
怖いが結構高い所は好きな微妙な性格の私だ。最初は足がガ
ラノのイタリア出身ルチア・マッツァリーア。大きな野望を
なのだ。
クガクでこの場所で芝居しながら歌っていくのが不安だった
さて舞台は主役オテロの華やかな登場から次の場面と進ん
でいく。ヤーゴがカッシオを陥れるために酒を飲ませあおり
が、慣れてくると劇場全体を隅々まで眺望できて結構居心地
立て、大乱闘を引き起こす。私が演じるモンターノは泥酔し
企むヤーゴにはスペインのバリトン、ホアン・ポンスを配す
第一幕冒頭はこのような嵐の情景の中で、激しいコーラス
とソリストの掛け合いで進行し、いよいよオテロの凱旋帰還
て大騒ぎするカッシオを制するが、カッシオは剣を抜きモン
るなど、新国ならではの豪華歌手競演となった。
で最高潮に達する。オテロの第一声に狂喜乱舞する群衆の大
ターノに斬りかかり傷つけてしまう。フォルテッシモのオー
のよい空間となった。閉所恐怖症と無言恐怖症の私だが、高
合唱はこのオペラの中でも最大の見せ場で、壮大なスケール
所恐怖症でなくて幸いした。
のこの場面はどんな演出を見ても聴衆にオペラの醍醐味を味
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面で特に印象に残る。何とこの殺陣シーンに、十数名の助演
して一分程度のものだが、おそらく一番稽古を重ねてきた場
スト陣の声が交じり合う、迫力あるこの乱闘シーンは時間に
ケストラに、恐怖におののき張り叫ぶ民衆のコーラスとソリ
気分よく終えることが出来た。
た。そして本番は練習の甲斐あって完璧なまでにうまくいき
ような、細かいアドバイスをいただきどうにか様になってき
終段階では渥美氏から立ち振る舞いをもっと恰好よく見せる
シ ャ ツ が 汗 で び っ し ょ り に な る ま で 稽 古 に 稽 古 を 重 ね、 最
ヤーゴの腹黒い性格を剥き出しにしてオテロを自分の思い通
したバリトン歌手ホアン・ポンスのヤーゴの名演も光った。
この公演は開幕の壮絶なシーンはもちろんのこと、二〇〇
〇年︵平成十二年︶に私が同じ新国の舞台﹃トスカ﹄で共演
と一緒に我々歌い手も剣を振り回して参加したのである。
この殺陣の指導に当たったのが演劇、映画、テレビなどで活
稽古初日、稽古場とは別室で殺陣の模範演技を見学。まるで
りに操って洗脳させていく場面では、巧みに声の色を使い分
躍するファイティングディレクターの渥美博氏だった。彼の
て拍手した瞬間、
〝さあ!歌手のみなさんも一緒にやってみ
﹁水戸黄門﹂の殺陣を間近で見るような迫力で思わず興奮し
けながら深みのある美声を聞かせてくれた。その他にもデズ
早 速、 渥 美 氏 が 丁 寧 に 一 つ 一 つ 動 き を つ け て い く が、 ス
ローモーションで何回も繰り返しても覚えが悪くてうまくい
フ︵テノール︶の迫真の演技には同じ舞台に立ちながらも震
使した歌唱力や終幕の山場オテロが自害する場面のボガチョ
デーモナ役マッツァリーア︵ソプラノ︶のピアニッシモを駆
ましょうか〟と渥美氏の一言に唖然・・・・。
かない。何せ助演の若い衆と違ってこの歳になると身体も硬
えを感じた。
楽を十分に堪能できたのではないかと思う。
この﹃オテロ﹄の公演は主役三人の声の競演とダイナミッ
クなコーラスそして豪華な舞台など、聴衆もヴェルディの音
く、頭で理解しても動きが伴わないのである。何回も繰り返
した後音楽に合わせて行なうと、今度はテンポが早すぎてつ
いていけない。少しでもタイミングが遅れると全体が狂って
しまうのだ。渥美氏は失敗した時は何故うまくいかなかった
小劇場オペラ﹃外套﹄
のかを徹底的に追求して解決していく。言うまでもなく剣を
演される機会の少ないオペラなどを演目として取り上げて
手にした立ち回りには常に危険が伴うからだ。渥美氏の鋭い
い る。 二 〇 〇 四 年︵ 平 成 十 六 年 ︶ 二 月 は プ ッ チ ー ニ の﹃ 三
視線の前でまさに真剣勝負となった。
そ し て、 ソ リ ス ト、 コ ー ラ ス、 助 演 す べ て の 出 演 者 が 衣
裳を着けて舞台稽古が開始された。稽古場ではうまく出来て
新国立劇場では本来、大劇場でオペラ公演を行なうが、小
劇 場 オ ペ ラ シ リ ー ズ と い う も の も あ り、 小 作 品 や あ ま り 上
いても、衣裳を着ると重くて動きづらく苦労する。アンダー
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上演されるのが通例である。私にとって新国小劇場はこれが
﹃修道女アンジェリカ﹄﹃ジャンニ・スキッキ﹄と共に一晩で
ように思う。また、
﹃ボエーム﹄のミミのアリアの叙情的な
ルな歌などプッチーニの音楽がふんだんに盛り込まれている
のモノローグ調の悲痛なアリア、そしてフルーゴラのコミカ
ほんの一時間程度の短い作品の中に、官能的なメロドラマ
を感じさせるルイージとジョルジェッタの二重唱やミケーレ
部作﹄の中の一つ﹃外套﹄が上演された。本来このオペラは
デビューで、客席四百名たらずの狭い劇場空間でこのオペラ
今回はこのオペラを小劇場という限られた空間の中でどの
ように演出するかということで、若手の演出家粟国淳氏に大
も対照的で面白く、プッチーニの手腕の凄さを感じる。
ジェッタの冷めきった夫婦の重々しい会話が進行していくの
メロディをオルガン弾きが歌うのを背景にミケーレとジョル
をどのようにして上演するのかとても興味深かった。
この﹃外套﹄はレオンカヴァルロの﹃道化師﹄、マスカー
ニの﹃カヴァレリア・ルスティカーナ﹄、ビゼーの﹃カルメ
ン﹄と同じようなヴェリスモ︵現実主義︶的色彩の濃い作品
である。所謂、人間社会における男女の愛と憎悪、さらに発
展して血なまぐさい人殺しなどを赤裸々に描いた、現実味を
きな期待が寄せられたのである。一番驚いたことはオーケス
このオペラの舞台はパリのセーヌ河に浮かぶ船の上。若き
妻ジョルジェッタ︵ソプラノ︶の不貞を疑う船頭のミケーレ
した舞台を客席に突き出すような形で配置したのである。彼
ある。その分客席との距離を縮めて船の甲板に仕立てた傾斜
トラをピットから外して舞台の背後にセッティングしたので
︵バリトン︶は悩み苦しむが、遂に逢引の現場を抑え相手が
の演出の意図とするところはこの小空間で舞台と客席の隔た
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ȽȁIJĵķȁȽ
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帯びたハードボイルドな題材を作品としている。
自分の船の若い人夫ルイージ︵テノール︶だと知り、逆上し
り を な く す こ と で 演 技 者 の 表 情、
のために数箇所指揮者のモニター
ないとは前代未聞である。歌い手
の間にオーケストラと指揮者がい
しかし、オペラの場合指揮者は
絶対不可欠なもので舞台と客席と
場の演劇のスタイルである。
としたのであろう。要するに小劇
意思をはっきりと聴衆に伝えよう
て彼を絞め殺してしまう。そしてその死体を自分が羽織って
いる外套に包みジョリジェッタをその中に招き入れ、彼女の
顔を死体に押さえつけるといった怖い話である。
こ の 三 人 の 微 妙 な 心 の 葛 藤 を 描 き な が ら、 全 体 を 通 し て
重苦しい緊迫感が走りながらドラマは展開されていく。しか
しその中で、日々の辛い生活であっても、老後は郊外に小さ
な家を建て二人で楽しく暮らすことを夢見ている、私が演じ
た老人夫タルパ︵バス︶とその妻フルーゴラ︵メゾ・ソプラ
ノ︶の老夫婦が唯一のやすらぎを与えてくれる。
老夫婦タルパ(筆者)とフラーゴラ
稽古を重ねるうちに要領よく音楽に合わせられるようになっ
歌い切った。微妙なタイミングが当然ずれることもあるが、
いづらい。結局、私の場合は全くモニターを見ないで本番は
ケーションが取れないため、映像を見ても違和感があって歌
の画面が設置されたが、これまた直接に指揮者とのコミュニ
オペラファンも強く望んでいることは間違いない。
て発展することを、我々オペラ歌手も劇場に足を運ぶ多くの
いずれにしても新国立劇場が世界に通用するオペラ劇場とし
〝二足のわらじ〟を履いた私のオペラ人生には厳しい現状だ。
導入し、稽古においては完全拘束を行なうなど、教員生活と
新聞紙上を賑わした。すべての公演にシングルキャスト制を
新国立劇場ではこれまでに一般公演とは別に多くの高校生
にオペラの楽しさを知ってもらおうと 高
「 校生のためのオペ
ラ鑑賞教室 を
」 行ってきたが、二〇〇四年 平
( 成十六年 八
)月
こどものためのオペラ劇場﹃ジークフリートの冒険﹄
てきたのだ。通常の公演と違って、指揮者を気にしないで自
由な方向を見て歌うことができたのは今までにない面白い経
験だった。また、大劇場でのオペラ特有のオーバーな動き、
あ る い は 無 駄 な 動 き に 慣 れ 過 ぎ た 傾 向 が あ る 中 で、 聴 衆 が
舞台の目の前に接している小空間では日常生活と同じような
自然な動きが要求され芝居の原点に返った気がした。粟国氏
に初めての試みである小中学生を対象とした こ
「 どものため
のオペラ劇場 と
」 称して﹃ジークフリートの冒険
指環をと
りもどせ!﹄を上演した。これは芸術監督のノボラツスキー
のこの点における的確な演技指導は今後の役作りの上で大変
論を招いたが、粟国氏の小劇場における画期的なオペラ演出
氏による新企画で、将来幅広くオペラファンを拡大していく
に取組むことを掲げ、新しいシステムを導入してオペラ制作
パの劇場並みの質の高いオペラ公演を提供するために意欲的
作に携わっていた方で、新国の運営方法を改革し、ヨーロッ
ボラツスキー氏が就任した。ウイーン国立歌劇場でオペラ制
さて、二〇〇三年︵平成十五年︶十月、新国立劇場はこれ
までの五十嵐喜芳氏に代わって新しい芸術監督トーマス・ノ
このオペラの原型はワーグナーのオペラ﹃ニーベルングの指
が誕生したのである。
ような素晴らしい作品としてこの﹃ジークフリートの冒険﹄
心に残るような質の高いもの、また子供達の夢を掻き立てる
オペラ制作を考えたらしい。初めてのオペラ体験なので強く
ンを計ることが大切で、大人と一緒に楽しめるような新しい
親や祖父母と一緒にオペラの舞台を通してコミュニケーショ
参考になった。オーケストラを後ろに配置したことは賛否両
は新聞紙上でも絶賛され、新国の今後の新しい顔となりそう
ためにも若い世代の子供達にオペラの楽しさを体験してもら
に乗り出したのだ。しかし、彼の理想とする劇場構想と日本
おうというものである。ノボラツスキー氏によると子供達が
だ。
のオペラ事情の違いから関係者の間で亀裂が生じその対立が
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トを取り除いて客席と舞台の隔たりをなくして、子供達が臨
子供達の興味を引くために舞台装置と衣装にはかなり力
を 入 れ た よ う だ。 ま ず 客 席 と 舞 台 に あ る オ ー ケ ス ト ラ ピ ッ
月中旬から稽古が開始された。
上げたのだ。原作の内容は世界を支配するために天上の神々
場感を間近で味わえるようにした。また、ライン川に眠る黄
環﹄で、四部構成からなる全曲十六時間にも及ぶ超大作であ
と地上の巨人族そして地下の小人族が指環をめぐって激しい
金の指環を守るワルキューレ達と怪物ファフナーの争い、霊
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るが、この長時間のオペラを分かり易く一時間十分にまとめ
争奪戦を繰り広げるもので、富と権力、愛と憎しみ、呪い、
剣ノートゥングを手にしたジークフリートとドラゴンの戦闘
衣 装 は﹁ 不 思 議 な 森 と 川 ﹂ を 表 現 し た 舞 台 に 合 わ せ て 昆
虫 を イ メ ー ジ し て 制 作 に 当 た っ た ら し い。 我 わ れ 大 人 も 唖
裏切り、強奪、殺人など大人向けの生々しい物語である。し
然とするような斬新なデザインで、よくまあこんな衣装を考
かし﹃ジークフリートの冒険﹄は歌詞をドイツ語から日本語
る が、 そ の 中 に
えついたものだと感心させられた。特に私が演じた怪物ファ
シーンなど、照明効果をふんだんに使って、子供達の目を釘
はワーグナーの音
フナーの衣装は〝あっぱれ!〟の一言に尽きる。立ち稽古の
に置き換えてワーグナーの音楽をそのまま使用し、内容は子
楽が凝縮され、原
最初の段階から背中に直径が一メートルもあるバルーン︵風
付けにするような演出を試みた。中でも開幕直後、トヨタが
作のハイライトを
船︶を背負わされたのだ。これが思ったよりも重くて後ろに
開発した最新鋭のロボットが登場してトランペット片手に
見ているような完
重心がくる為に動きづらく、悪戦苦闘しながら走り回らなけ
供達にも分かり易いように、英雄ジークフリートがお姫様ブ
成度の高い作品と
れ ば な ら な か っ た。 そ し て 本 番 で は こ の バ ル ー ン の 上 か ら
リュンヒルデを救出するといったメルヘンティックな内容
な っ た。 果 た し て
緑色のフロックコートを着て、その上にてんとう虫のような
違いない。
このオペラが子供
斑点がつけられた。コートの下はお腹が前に張り出すような
〝ワルキューレの騎行〟のテーマを演奏したのには驚いたに
達にどう受けられ
肉布団の入ったシャツを着て、袖と足首には水掻きが縫い付
に変更された。ほ
るか、自信と不安
とのオペラであ
が交錯する中で七
んの一時間ちょっ
ロビーで出番を待つファフナー(筆者)
げる始末・・・・。これだと子供達にも受けること間違いな
て訪れた大人のほとんどがこの奇想天外な私の格好に笑い転
も化け物と言ったインパクトのあるメイクで、稽古場を初め
けられた何とも異様な恰好である。ほとんど怪物というより
だいた。まさに私の独壇場でやりがいのある演出ある。
を取りながらアドリブで自由にやってくれとのお許しをいた
る。この場面は演出家から、子供達とのコミュニケーション
退場した後、意表を突いて客席の一番後ろから私の登場であ
ないようにしっかり見張っていてよ!〟と言ってロボットが
ないぞ!〟
〝カタツムリみたい 笑
〝
( 〟
) へんなカッコウ 笑
( 〟)
〝お化けだ!〟など予想通りの反応である。真っ暗な客席で
オ!〟と脅かしてやると、客席からは〝ちっとも怖くなんか
客席に一歩を踏み出した瞬間ざわめきが起こった。みんな
おかしく笑い転げている。客席の子供達に低い声で〝ギャー
し。本番の子供達の反応を楽しみに疲れも忘れて毎日夢中で
稽古に没頭したのである。
今回のこのオペラ公演は大勢の人達に気軽に楽しんでいた
だくためにチケットを一枚二千百円という破格の値段で販売
したため、公演一か月前にすでに完売となった。マスコミ関
係でも多く取り上げられ、テレビでは稽古風景などが紹介さ
が当たり、全員が
私にだけスポット
奇妙な怪物の私の
動きに注目してい
る。 そ こ で 客 席 を
通って舞台前に
辿り着いたところ
で、 大 き な 垂 れ 幕
を下から見上げな
がら〝なるわさ!〟
と叫んだ。客席は
大 爆 笑 で あ る。 も
あるが、日頃から
ちろんアドリブで
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ȽȁIJĵĺȁȽ
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れたため人気が殺到したのだろう。
さて、いよいよ本番初日である。新国立中劇場の客席はら
せ ん 状 に 勾 配 が き つ く 設 計 さ れ て い て 舞 台 が と て も 見 易 い。
緞帳を開けたままの真っ暗な舞台の中央には台上に霊剣ノー
トゥングが置かれてその一点に真上から照明が当たってい
る。そしてその上には子供達が読めるように〝さわるな〟と
書かれた大きな垂れ幕がぶら下がっている。これだけでも子
供達はこれから何が起こるのかと興味津々・・・・。楽屋か
らモニターで客席の様子を見ていると、意外にお母さんと一
緒の五∼八歳くらいの子供達が多く目立つ。私のターゲット
としては申し分ない。かなり反応がいい年齢であると確信し
た。
開幕と同時にいきなりロボットが登場して子供達の視線を
釘づけに・・・・。〝みんな!この魔法の剣が誰にも取られ
指輪を手に入れて喜ぶファフナー
と言ったところだろうか?
そして大きなバルーンを背負っ
て〝ドッコラショ!〟と舞台に登場。辺りを伺いながら剣に
何でも逆さまに呼んで回文にはまっている私だけの成せる技
リュンヒルデは父親ウォータンに炎の中に幽閉されて眠らさ
なく折れてしまう。そして霊剣を持ち出した罪に問われたブ
逃げ惑うファフナーを追い詰めていく。そこへブリュンヒル
しないとな。この剣を取らないとオペラが始まらねえ∼んだ
達 の 凄 ま じ い 叫 び 声。 そ こ で〝 し ∼ ∼ っ! よ い 子 は 静 か に
〝さわるな!〟〝ダメ∼!〟〝あっちへ行け∼!〟などと子供
救い出し二人は結ばれてハッピーエンドとなる。
ルキューレから強奪した指環を取り戻してブリュンヒルデを
霊剣を手にドラゴンに変身したファフナーに敢然と挑み、ワ
れてしまう。そのことを知った英雄ジークフリートは甦った
デも登場し霊剣を手にしてファフナーに挑むが霊剣はあっけ
手をかけようとすると、客席から大ブーイングの嵐・・・・。
よ!〟と叫ぶとさらに大反響・・・・!まさに役者冥利に尽
をすっかり忘れてしまっているのだ!私が剣に触れようとし
がら登場してくる間に、何と子供達はロボットの言ったこと
し か し、 面 白 い も の で す べ て の 公 演 で 子 供 達 が 必 ず し も
同 じ 場 面 で 反 応 す る と は 限 ら な い。 私 が 散 々 笑 い を 取 り な
かしい気持ちにさせられたに違いない。最後のカーテンコー
わってきた。また、大人が見ても幼年時代に戻ったような懐
台上で演技をしていても熱い視線を感じるような緊張感が伝
体験するオペラの中に吸い込まれていったように思える。舞
とにかくすべてのシーンにびっくりするような仕掛けがあ
る見所満載のオペラで、子供達は手に汗を握りながら初めて
てもまったく反応を示さない。そういう時は慌てず〝これを
ルで出演者全員が客席に降りた時は、興奮覚めやらぬ子供達
きる一瞬だった。
取ってもいいのかな?〟とニヤリと笑いながら切り返すと、
このようにしてこどもオペラ﹃ジークフリートの冒険﹄は
子供達の大歓声を受けながら大成功のうちに無事に終了し
から握手を求められて熱狂的な盛り上がりとなった。
た。子供達に夢と感動を与えた新国立劇場の力作オペラとし
客席に大きな笑いが起こり、やっと思い出したみたいに子供
ん達が多いのを意識して、
〝なるわさ〟の後に〝板わさ〟
〝蛸
達が黄色い声で叫び始める。また、日曜日の公演ではお父さ
わさ〟・・・など訳のわからないことをブツブツ唱えるのも
て反響はあまりにも大きく、今回この公演を見る機会を逸し
いったギャグで迫るかな?乞御期待! 笑
( ・)・・・・。
︵芸術科
教諭︶
とが決定された。さて、次回は私、怪物ファフナー様、どう
た子供達のために、二〇〇五年七月の夏休みに再演されるこ
ウケてしまった。
このように子供達の素直な反応に助けられてとてもいい雰
囲気の中で快調にスタートしたのである。怪物ファフナーが
霊剣にさわろうとした瞬間、大きなサイレンが響き渡りオー
ケストラの音楽と共に槍を持ったワルキューレが登場して
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漢文・漢籍・四庫全書
安
塚
孝
昭
二 十 年 ぐ ら い か も し れ な い。 孔 子 は 七 十 四 歳 で 天 命 を 全 う
う。 健 康 に 恵 ま れ、 大 過 な く 通 れ て 三 十 年。 現 役 で 通 れ て
の現代といえども、あと一○○年を生きるのは難しいであろ
にでも自覚されるものである。平均寿命が延びた二十一世紀
的生存の時間があとどれくらいであるかを意識した時に、誰
けが実感できるものとは限らない。自分に残されている肉体
うことになる。この﹁天命を知る﹂実感は、何も孔子一人だ
行なう一生を送るか、それはまさに天からの命令、天命と言
えられたものであるから、その命の力を使ってどんな仕事を
が分かったという意味である。命は人間界を越える天から与
﹁ 五 十 に し て 天 命 を 知 る ﹂ と。 五 十 歳 ま で
孔子は言った、
生きてきて、自分の人生を何に賭けるべきものなのか、それ
とって、それは﹁漢文﹂である。
るものである。それが﹁天命を知る﹂意識である。さて私に
を活かせるのはこの方向だ﹂と思える自覚は自ずと湧いてく
験をもとに、残された人生の行く末を眺め渡した時、
﹁自分
て立派に通用するものがあるはずである。これまでのその経
たものが無能無芸であるわけでは決してない。キャリアとし
たわけだが、その人が四十歳代の終わりまでに築き上げてき
芭蕉は遠慮して、謙虚に、そして多少の諧謔さを込めて言っ
して、ただこの一筋に繋がる﹂という思いである。もっとも
俳人松尾芭蕉の口吻を借りて言うならば﹁つひに無能無芸に
年間で築き上げてきたものが、﹁天命﹂意識を形作りもする。
会人となり、二十歳代・三十歳代そして四十歳代までの三十
で行なってきた事柄が大きく係わってくる。一般的にみて社
したが、戦乱が続き、医療・食生活が現在よりは格段に劣っ
漢文は本で読む
を何に使うかという思いには、切実なものがあったはずであ
漢 文 は 本 で 読 む。 漢 籍 で 読 む。 漢 文 の 勉 強 は 本 を 読 む こ
とで進む。学問としての漢文も、そしてまた中国文学として
ていた二千四百年前の中国にあっては、残された人生の時間
る。
﹁天命﹂を自覚させるよりどころの一つに、自分がそれま
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ȽȁIJĶIJȁȽ
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接、原典に当たってみないと、漢文は分かってこない。それ
釈本などだけを読んでいたのでは、漢文は見えてこない。直
も、本、つまりは漢籍を読むことで進む。現代語訳の本や解
る。それは﹁前赤壁賦﹂を読んだ江戸時代の日本人、あるい
業を受けたわけではない。直接この作品と向き合ったのであ
で 講 読 し た の だ が、 生 徒 達 は 現 代 語 訳 な ど を 頼 り と し て 授
たわけなのである。つまり、訓読法を用いることによって、
は明治・大正の日本人、そしてまた高校時代にこの作品を授
時代を超えていつでも蘇軾の作品世界へ読者一人一人が直接
業で習われた体験をお持ちの年輩の方々と同じ読書体験をし
分な研究が出来ないのと同じことである。外国文学なら当然
ようとする人が、翻訳本だけを頼りに研究しようとしても十
その文学の言語を踏まえて読み込んでいかなければならな
入っていくことが出来るということなのである。
は 例えていうと、外国文学としてシェークスピアを研究し
い。フランス文学しかり、ドイツ文学しかりである。という
の訓読法を用いて、私たちの先達は奈良・平安の上古から漢
の文脈に置き換えて、古文として読み込むのであるから。そ
どの方法である。外国語の文章を、一読して日本の古典文法
した。これは素晴らしい方法である。発明といっても良いほ
漢 文 は 中 国 生 ま れ の 文 章 で あ る。 そ の 中 国 生 ま れ の 文 章
を、 わ が 国 の 先 達 は﹁ 訓 読 ﹂ と い う 方 法 で 読 解 法 を 編 み 出
も﹃唐詩﹄も﹃水滸伝﹄も﹃西遊記﹄も、訓読という方法で
子 ﹄﹃ 荘 子 ﹄ な ど は も ち ろ ん、﹃ 史 記 ﹄﹃ 漢 書 ﹄ も﹃ 三 国 志 ﹄
ものとして享受できるわけなのである。﹃論語﹄﹃孟子﹄
﹃老
書 か れ た 文 章 な ら ば そ の ほ と ん ど を、 私 た ち は 直 接 自 分 の
筆・詩話・書道・戯曲・雑文などなど、およそ漢字を用いて
る。 と い う こ と は、 厖 大 な 中 国 文 学、 あ る い は 歴 史 書・ 随
訓 読 法 を マ ス タ ー し て い け ば、 そ の よ う な こ と が 可 能 で あ
漢 文 訓 読 法 に は こ の よ う な 効 用 が あ る。 ど な た で も、 直
接、その作品世界の中へ入っていくことが出来るのである。
文を通して中国の文化を日本の中に取り入れてきた。そして
ことは、漢文もしかりである。
今、二十一世紀の現在も、
﹁国語﹂の教科の一部として私達
読めないわけではない。
唐宋八大家の一人。左遷された黄州の地で、ある秋の一日、
例えば蘇軾︵蘇東坡︶の﹁前赤壁賦﹂という文章がある。
[蘇軾は十一世紀、北宋時代の政治家。詩文の大家でもある。
のことは伝統的日本文化をないがしろにすることには繋がら
も、二十一世紀の今を生きる私たちの古典としてである。こ
文 化 遺 産 と し て も 摂 取 す る こ と が 出 来 る よ う に な る。 そ れ
こ れ ら の 作 品・ 著 書 は も と も と 中 国 の 文 化 遺 産 と し て
の 古 典 で あ る。 と こ ろ が、 訓 読 に よ っ て、 私 た ち 日 本 人 の
ぜん せき へき のふ
﹃三国志﹄の古戦場で名高い赤壁で遊んだ。その爽快にして
ない。
﹃万葉集﹄﹃源氏物語﹄、和歌や俳句の文化はぜひ継承
そ とう ば
陶然とした遊興の世界を描いたのが﹁前赤壁賦﹂
。名文とし
そ しょく
は漢文を学び、そして享受しつつある。
て名高い。]今年度、特選コースの二年生がこの作品を授業
Ƚ
ȽȁIJĶijȁȽ
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漢文を軽視してはいけない
このように考えてきたとき、私は﹁漢文の復権﹂を提唱し
ようと考えるようになった。
﹁漢文が世界を救う﹂などとは
文を出題してくれていることはありがたい。このセンター試
するわけもない。そう言う中で、センター試験が辛うじて漢
うことがある。入試で出題されなければ、学生が漢文を勉強
していかなければならない。それと並行して広大なる中国文
言わないが、私たち日本人を教養ある骨太の国民にする上で
験のおかげで、全国で五十六万人という若者がとりあえず漢
学の世界が手に入るのであるから、二倍に私たちの文化は豊
は、大いに役立つのではないかと考える。なぜなら、これま
文を勉強してくれるのだから。このセンター試験の漢文出題
かになる。これほどの欣快事はないのではなかろうか。
での日本文化そのものが、漢文から影響を大きく受け、漢文
については、次のような意見があった。面白い意見である。
漢文軽視の現象として、大学入試問題の漢文選択制や、あ
るいは日本文学科でありながら漢文を出題しないなどとい
を摂取・享受することを通して豊かに発展してきているのだ
になる。
入試科目になければ受験生に漢文を勉強する動機づけは
なくなる。遠からず日本人にとって漢文は﹁第二外国語﹂
だろう。
私立大学入試の国語の出題範囲から﹁漢文﹂が消えつつ
ある。センター試験にはまだ残っているが、いづれ消える
﹁漢文消えて失うものは﹂
神戸女学院大学教授
内田
樹
少々引用させていただく。
から。
そのような漢文を中学・高校で学ぶ時間は、そう多くはな
い。国語の領域の中では三番目に追いやられ、扱いは古文よ
りも軽い。文語文法を押さえた上での漢文訓読という方法論
からすれば、古文が先にくる理屈は立つ。しかし、実際は漢
文の扱いは小さく、そして軽い。ともすると日陰の存在であ
る。一時期、私自身も漢文の将来性を考えたとき、あまり発
展性がないかも知れないと思った時期もあった。大学入試試
験の出題範囲に、漢文がはずされる傾向が出てきた時期であ
る。高校生が漢文を学習する当面の目的は、大学入試問題を
克服することにある。その漢文が出題されなくなれば受験生
たちは漢文を学ばなくなる。授業で教える意味もなくなって
くる。少々肩身の狭い思いをしていた時期でもあった。
漢 文 を は ず す 理 由 は﹁ 受 験 生 の 負 担 軽 減 ﹂ で あ る。 だ
が、﹁軽減された負担﹂の代償として、若い日本人がその
あとどれだけのものを失うことになるのか、その損得を計
Ƚ
ȽȁIJĶĴȁȽ
Ƚ
算してみる必要はないのだろうか。
︵神戸女学院大学・
二月十八日付の本紙﹁e メール時評﹂
内 田 樹 教 授 ︶ に は シ ョ ッ ク を 受 け た。
﹁漢文﹂が私立大の
﹂
﹁漢文教育
東アジア共有の知的財産 九州大学大学院生
鎌田厚志
入試から消えつつある。いずれセンター試験からも消え、
いて
屋に来て靴脱がねえ客は食い逃げするかも知れねえから気
高校生が漢文を学ぶ動機がなくなるだろう、と書かれてい
かて
﹁
﹃じかに冠を
志ん生の落語に出てくる半可通の大家は、
かぶらず、おでんに靴を履かず﹄って言ってな、冠みてえ
をつけろ﹂と解釈してみせ、昭和三十年代の客席は爆笑し
な固えもんを、じかにかぶったら痛えじゃねえか。おでん
た。今の寄席では客の半分も笑わないだろうし、あと二十
たからだ。
ん生の時代の客が笑えたのは﹁李下に冠を正さず、瓜
で志
ん
くつ
い
こ げん
田に履を納れず﹂という古諺を、言動に慎むことの必要を
まざまな解釈が列挙され、わかりやすく説明されていた。
一文について、漢代や宋代や日本の江戸期の学者たちのさ
高校時代は漢文が大好きだった。一時間半ほどかかった
通学電車の愛読書は吉川幸次郎氏の﹁論語﹂だった。一文
か
説 く と き に 人 々 が 繰 り 返 し 引 い た か ら で あ る。 私 が 子 ど
異なる解釈のそれぞれが含蓄に富んでいた。深い読みから
か
ものころ、まわりの大人たちはもうこんな漢語は口にしな
新しい思想が紡ぎ出されるということを知って、新鮮な驚
り
年もしたら誰も笑わなくなるだろう。
かった。だから、私がいま志ん生を聴いて笑えるのは、か
きを感じた。
ろうじて受験勉強のおかげである。
﹁負担軽減﹂されなくて、良かった。
こ う し た 体 験 と 知 識 を 得 た こ と は、 と て も 幸 せ な こ と
だった。というのは、日本の受験勉強では、テキストを読
み 込 ん で 自 分 の 考 え を 自 由 に ま と め る と い う 教 育 は、 ほ
とんど行われていないからだ。画一的な受験勉強よりも、
︵ 朝 日 新 聞
平成十五年二月十八日︵火︶朝刊
e メール時評︶
こ の コ ラ ム が 掲 載 さ れ て か ら 十 日 後、 ひ と つ の 反 響 が あ っ
ゆっくりとした古典の精読の方が、山のような情報から自
分に必要なものを取捨選択し、解釈していく力を身につけ
た。
させてくれたと思う。
漢詩漢文の世界は無味乾燥な受験勉強に潤いを与えてく
じん かん
れるものでもあった。
﹁流水落下花去りぬ、天上と人間と﹂
Ƚ
ȽȁIJĶĵȁȽ
Ƚ
といった言葉の数々に、季節のうつろいや人生の哀歓を深
大 学 院 で 研 究 を 深 め て い る だ け あ っ て、 よ く 見 抜 か れ て お
きた。
﹂との見解には賛意を表したい。事実そうなのだから。
漢文は日本文化の太い根となってきた。幕末・明治期の
日本人の驚くべき創造性と方向感覚は、漢籍の教養を通し
品を読むことであろう。受験問題集で設問を解くことばかり
い が、 高 校 の 漢 文 教 育 で 必 要 な こ と は、 も っ と 数 多 く の 作
ら れ る。 受 験 勉 強 が 画 一 的 で あ る か ど う か は 一 概 に 言 え な
く味わうことを教えられた。
て身につけた高度なリテラシーと情操によるところが大き
が漢文の学習ではない。作品の抄物や撰集などで多読をする
漢文は東アジアの人々が共有する知的財産でもある。上
海でも釜山でも、地下鉄を利用するときは駅名の漢字表記
の一つとなっていくだろう。そうなれば大人になってからも
きる。その芽吹いてきた感覚は、生徒たちの精神世界の土壌
世界・中国文学的世界への関心を萌芽させてあげることがで
ことが大切だ。その多読・精読を通して、若い感性に漢文的
かったのではないかと思う。
に助けられた。中国からの留学生たちと、漢詩の話題で盛
普段漢文の書籍など手にする機会のない生徒達に対し、少
漢籍を紹介する
しでも書物を知ってもらおうと思い、授業の中で図書の紹介
いうことで終わってしまうこともないだろう。
るであろう。﹁受験勉強のため、とりあえず覚えました﹂と
﹁教養﹂として漢文の世界を心の中に持ち続けることができ
り上がったことが何度もある。韓国では金大中政権以後、
漢字漢文教育の必要性を再評価しているという。
漢 文 を 学 ぶ こ と で、 我 々 は 中 国 の 古 典 か ら 吸 収 し て き
た長い日本のリテラシーの伝統に連なることができる。古
典の精読を通して、情報社会に振り回されない生き方を確
世紀の日本を左右していくことになるだろう。漢文を遠ざ
立することができる。漢字文化とのつきあい方は、二十一
けるということは、自らの根を断ち切っていくことに等し
中国では和綴じの本を﹁線装本﹂と呼ぶ。ハードカバーの
せん そう ぼん
行されたものであり、いわゆるリ・プリント本である。
のなどが主である。それらは中国本土や台湾の出版社から発
てから揃えてきたもの、教材として使おうと思い購入したも
秘本級のものではない。学生時代に使ったもの、教職に就い
いっても私の手持ちの範囲のものであるから、重要文化財や
に努めている。今年度は特に意識して紹介している。図書と
︵朝日新聞
平成十五年三月一日︵土︶朝刊
ウィークエンド私の視点︶
い。その漢文教育の行方に、強い危機を感じる。
さ て 皆 さ ん 方 は、 ど う お 感 じ に な ら れ る で あ ろ う か。 内
田・ 鎌 田 両 氏 の 言 わ ん と す る こ と に、 大 筋 で 私 も 同 感 で あ
る。 と り わ け 鎌 田 氏 の﹁ 漢 文 は 日 本 文 化 の 太 い 根 と な っ て
Ƚ
ȽȁIJĶĶȁȽ
Ƚ
か ら 千 年 も 前 の 宋 時 代 の 線 装 本 は 紹 介 で き な い が、 そ の 影
本を﹁精装本﹂、薄表紙の本を﹁平装本﹂と言っている。今
学 習 を 重 ね て い く に つ れ 文 面 が 見 え て く る の で あ る。
﹁也﹂
ぐい読み進めていくことにあるだろう。最初は難渋するが、
ぐっと進む。しかし漢文読解の醍醐味は、全くの白文をぐい
やすい。文の切れ目が明示されているのだから、内容理解は
へい そう ぼん
印本は手に入るので紹介している。活字に起こしたものでは
﹁矣﹂などの終尾詞から文の切れ目が見え、
﹁○○曰﹂や﹁以
せい そう ぼん
なく、版面の印象も鮮やかな影印本を紹介するようにしてい
為⋮⋮﹂などから登場人物の口吻や胸中が見えてくるのであ
視 線 が 文 章 の 行 を 上 下 に 行 っ た り 来 た り す る か ら だ。 中 国
私の漢文の読み方には、漢文訓読の文脈で読む方法と、中
国音で読む方法との二つがある。訓読読みは時間がかかる。
ぶ そう
る。その際には、本校に赴任してまもなく購入した﹁四部叢
る。
装 本 で 刊 行 さ れ て い た。 三 刷 ま で 線 装 本 で 発 行 さ れ、 そ の
音読みは早い。頭の奥の方に中国人の朗読が響いてくるよう
し
刊﹂が役立っている。もともとこの叢書は本文が正確で美し
後は見開き四葉、B5版の精装本で出版された。私が持って
な感覚が起こり、視線が次から次へと進んでいく。視覚的な
しょう む いん しょ かん
かん
い版本の漢籍を後世に残そうと言うことで企画され、台湾の
いるのはその精装本である。線装本が持つ特有の手触りと香
い か ら、 ど こ で 句 切 れ る の か す ぐ に は 見 定 め が た い。 そ れ
影印本であるから、全くの白文である。返り点も送りがな
も、何も付いていない。﹁、﹂や﹁。﹂の句読点も付いていな
そ う で な い と と ん だ 間 違 い を 犯 し、 正 し い 理 解 に 至 ら な く
ある。
︵だからといって適当に読んでいいと言うのではない。
だ い た い の 内 容 は 把 握 で き る。 そ れ が 漢 文 の 素 晴 ら し さ で
でくる。細かいところにこだわらなければ、斜め読みだけで
商 務院書館という出版社が発行したものである。最初は線
りこそ無いが、版面の美しさは生徒に味わってもらえたよう
理解も関係しているようだ。漢字は表意・表音を兼ね備えた
でも、往時の中国人は、そしてまた奈良・平安から江戸時代
なってしまう︶。
文字であり、パッパッと瞬間的に見るだけで意味が飛び込ん
だ。
までの教養ある日本人は、これを読んだのである。それに見
初出の文章を一読して全てが分かるなどということはな
い。そんな力はまだまだ私にはない。ただ、思いとしてはそ
習って私たちも漢文が読めなくては恥ずかしいではないか。
そのようなことを感じてもらおうと思い、生徒達に紹介して
の僧が、はたまた江戸時代の学者たちが読んだように、読め
式部だってけっこう漢文は読めたのだから︶
、あるいは五山
いる。
中 国 で 出 版 さ れ る 古 典 の 図 書 に は、 活 字 に 直 し 句 読 点 を
施 し た 書 物 が あ る。 圏 点 本 と か 点 校 本 と か 呼 び、 全 く の 白
うなりたいと志している。平安時代の先達が︵清少納言や紫
文の影印本に比べれば格段に読みやすい。そして意味も取り
Ƚ
ȽȁIJĶķȁȽ
Ƚ
り注もアクセントとして美しい。絵や図などはほとんど掲載
の てつ と
くら いし たけ
たけ うち よし
はやし たい
るようになってみたい。明治以降にしてみても、教養人は皆
か みち よ
されていない。ただただ、漢字が延々と続くだけの版面。圧
う
もろ はし てつ じ
な
倒される漢字の量。その文字のパワー。そこには中国文化が
の きち
たき がわ かめ た ろう
はっ とり う
漢文が読めたのであった。とりわけ名を残している中国文学
いし だ みき の すけ
ない とう こ なん
者たちは漢文が良く読めていたのであった。那珂通世、林泰
あお き まさ る
か のう なお き
生み出した漢字ワールドが躍っている。
すけ
お
き いち ろう
なが さわ き
く
や
に
い
だ のぼる
かい づか しげ き
ばなるまい。その志の高さ、学問に打ち込む真摯な態度、そ
てにしてはいけない。
﹁白川静先生﹂と敬意を込めて呼ばね
クが載らないから白く抜ける。漢籍の場合、文字の部分は黒
た も の で あ っ た。 版 画 は ご 存 知 の 通 り、 彫 っ た 部 分 は イ ン
発明された。その最初のものは版画のように文字を板に彫っ
古い時代、中国の書物は手で書き写されて伝播された。だ
から部数も少ない。同じ書物を大量に作ろうとして印刷術が
と こ ろ で こ の 版 面 が、 活 字 で は な く 版 画 の よ う に 木 版 に
彫ったものだと聞いたならば、驚かれるであろうか。
輔、 狩 野 直 樹、 内 藤 湖 南、 服 部 宇 之 吉、 諸 橋 轍 次、 武 内 義
かん だ
雄、青木正兒、石田幹之助、瀧川亀太郎、宇野哲人、倉石武
し ろう
して成し遂げた業績。その事実を見れば、一面識もない者で
く刷られなければならないのから、文字の周囲を字形を残し
しら かわ しずか
も自然と畏敬の念を抱かざるを得ない。昨年十一月には晴れ
て彫り込むこととなる。素人が考えても、これはちょっその
よし かわ こう じ ろう
四郎、神田喜一郎、長澤規矩也、仁井田陞、貝塚茂樹、そし
て文化勲章を受章された。九十四歳の現在も矍鑠と研究に励
と大変な作業である。実際は版木を彫る専門の職人たちがい
て吉川幸次郎。さらにまた白川静。
︵
﹁白川静﹂などと呼び捨
んで居られる。その姿はまさに学者の鏡。
︶燦然と輝く錚々
を版木に刻んでおくことがある。賃金をもらう際に自分の仕
さん ぜん
かく しゃく
たる漢文学者たちの業績。みな漢文が読めたから成し遂げら
て、書の達者なものが書いた原本を版木に貼り、細心最大の
を広げると、四○○字詰めの原稿用紙の雰囲とどこか似てい
そう そう
れたことである。それらを後世に引き継ぐためにも、漢文は
注意を注いで彫ったものなのである。その彫り師たちのほと
漢籍の紙面は漢字で溢れかえっている。小さな漢字がびっ
しり詰まっている。そのボリュームに思わず驚嘆の声を上げ
る。その中央部に魚の尾っぽのような印が付いている。その
んどは無名の職人である。ところがたまに、その自分の名前
読めなくてはいけない。
てしまいそうだが、見慣れてくると、そこには一種えも言わ
形が似ていると言うところから﹁魚尾﹂と呼ばれている。そ
書物は文化
れぬ美があることを感じるようになる。一字一字均整のとれ
の下の方に職人の名前が刻まれていたりするのだ。
漢籍でとりわけ美しい版面を残しているのが宋の時代のも
ぎょ び
事の証拠とするためであったらしい。二つ折りにされた漢籍
た書体、縦に引かれた罫線と罫線との間に毎行欠けることな
く正確に並んでいる漢字。ところどころ二行に併記される割
Ƚ
ȽȁIJĶĸȁȽ
Ƚ
中国の線装本や影印本
のである。世に﹁宋版﹂として珍重されている。手本として
の原本の書体の美しさもさることながら、彫り師の腕も見事
なのだ。活字以上に美しい字体である。︵現代でもそうだが、
印刷で使う文字の書体は、みな一流の能書家にもとになる文
字を書いてもらっている。それをもとに鉛活字やワープロ文
字などの書体を作っているのである。︶実際のところ、宋版
の書面はほれぼれするほどに美しい。その美しさも﹁漢文﹂
を構成する要素の一つなのだ。そのことは、教科書や問題集
で活字を通して漢文を読んでいたのだけでは分からないこと
である。漢籍で読むということの意味は、そこにあるのだ。
ただ版面の美しさが味わえるばかりではない。実際に線装本
に触れられる機会に恵まれるならば、あの紙の香りと手触り
とそして装釘の美しさも味わえるのである。その線装本が帙
に収められているものならば、なお素晴らしい。漢籍を通し
て漢文を味読する、これも一つの文化の伝承として大事なこ
とだと思われる。書物は文化であり、印刷もまた文化の一つ
なのだから。
﹁四庫全書﹂を手に取る
接手にとってもらおうと思い、本校図書館所蔵
影印し本こをぜ直
ん しょ
の﹁四庫全書﹂を、三年生の漢文演習の授業を履修している
生徒たちに閲覧させたことがある。
本 学 園 の 図 書 館 に は﹃ 四 庫 全 書 ﹄ が 所 蔵 さ れ て い る。 文
字にしてみるとわずか一行で済んでしまう記述であるが、こ
Ƚ
ȽȁIJĶĹȁȽ
Ƚ
期 大 学 で﹃ 四 庫 全 書 ﹄ を 備 え て い る と こ ろ は そ う 多 く は な
の事実はすごいことである。なぜなら、全国数ある大学・短
している役所であった。︵この﹁聚珍版﹂とは、乾隆帝より
趣に欠けるとして﹁聚珍版﹂と称し、実に美しい書物をもの
されていた。
﹁ 活 字 版 ﹂ の こ と を﹁ 活 字 版 ﹂ と 呼 ぶ の で は 雅
﹁四庫全書﹂は全部で八セット作られた。正本が七セット、
予 備 の 副 本 と し て 一 セ ッ ト。 一 セ ッ ト 七 九、 ○ 七 ○ 巻 だ か
賜った呼称である。︶
しゅう ちん ばん
い。まして高校で見るならば稀有のことであろう。その﹃四
庫全書﹄がそろっている。上海古籍跡出版社版、一九八七年
埋めるほどの分量である。まさに、圧巻。國學院大學栃木短
ら、全部で六三二、五六○巻が繕書されたわけだ。厖大な数
印刷・発行、全一五○○冊。書庫棟の書棚三つ分をまるまる
期大学の日本史学科の開設を機に収蔵したとのこと。﹁歴史
である。正本セットが収蔵された場所は内廷四閣と江浙三閣
こう せつ さん かく
を学ぶ上での基本図書。揃えておくのはライブリアンとして
との二つに分けられる。内廷四閣とは宮廷及びその離宮のこ
ない てい よん かく
は当然のこと﹂とは、購入の経緯をお伺いした際に語って下
とである。ここに収められたものはいってみれば限定豪華版
かい か ぼう し
さった片山喜八郎前図書館長先生のお言葉である。
ぶん えん かく
で、開花榜紙と呼ばれた紙を用いたものであった。
﹂ を 設 け、 そ
ま ず 乾 隆 帝 お 膝 元 の 北 京 紫 禁 城 に﹁ 文 淵 閣
ぶん そ かく
こに収蔵した。次いで瀋陽の奉天行宮に﹁文溯閣﹂
、河北省
経・ 史・ 子・ 集 の 主 だ っ た 著 書 は こ の﹃ 四 庫 全 書 ﹄ で 読
める。なにせ今から約二三○年前、中国・清の第六代皇帝乾
隆帝が、後世に残しておきたい価値ある書籍と言うことで編
熱河の避暑山荘には﹁文津閣﹂、北京郊外の離宮円明園には
ぶん しん かく
纂を命じたものである。書物の部数は三四五七種、七九○七
﹁文源閣﹂を設け、それぞれ収蔵した。江浙三閣とは揚州大
ぶん らん かく
ぶん げん かく
○巻。冊数にすると三六○○○余冊にも及ぶ厖大な叢書であ
る﹁文瀾閣﹂をいう。
観堂の﹁文匯閣﹂、鎮江金山寺の﹁文宗閣﹂、杭州の西湖にあ
と 揚 州 の﹁ 文 匯 閣 ﹂ が 焼 き 討 ち に あ っ て し ま っ た。 杭 州 の
六四年に吹き荒れた太平天国の乱の最中、鎮江の﹁文宗閣﹂
と こ ろ で こ れ ら 七 つ の﹁ 四 庫 全 書 ﹂ は、 そ の 後 そ れ ぞ れ
数奇な運命をたどることになる。一八五一年︵咸豊元年︶∼
ぶん そう かく
る。この影印本が本校図書館には揃っている。書架の場所は
ぶん かい かく
書庫棟一階。
﹁ 四 庫 全 書 ﹂ の 景 印 本 を ひ も と い て み て 驚 か さ れ る の は、
正な楷書体の漢字が並んでいる。活字の美しさと思いきや、
﹁ 文 瀾 閣 ﹂ も 散 佚 し て し ま っ た。 次 い で ア ロ ー 戦 争 及 び 義 和
その書面、そしてその書体の美しさである。均整の取れた端
その字は手書きの文字なのである。
﹁四庫全書﹂は全部で八
団事変では、北京に乱入した英仏連合軍により円明園が二度
ぶ えい でん
ぶん かい かく
セットしか作られなかった。その全ては書写生による繕書な
に渡って襲撃された。貴重な文物は掠奪され、火を放ち焼き
ぶん らん かく
のである。﹁四庫全書﹂編纂当時、北京の故宮内には武英殿
ぜん しょ
という建物があり、そこでは武英殿版と呼ばれる書籍が印刷
Ƚ
ȽȁIJĶĺȁȽ
Ƚ
尽くされてしまった。円明園の中にあった﹁文源閣﹂も灰燼
六十五日の戦闘の末、国民党軍が敗れてしまうのだが、この
うとう決戦の火蓋が切られ戦闘が始まってしまった。結果は
こ の よ う に 七 セ ッ ト の う ち 四 セ ッ ト が 消 失・ 散 佚 し て し
ま っ た。 そ の 災 難 を 免 れ た の は 文 淵・ 文 溯・ 文 津 の 三 閣 の
淵閣本はあまたの故宮至宝と共に大陸を離れ、台湾へ渡った
ておいた文物を台湾へ疎開させることになった。こうして文
戦闘の戦火が南京にも及ぶことを危惧し、南京に一時保管し
に帰してしまった。
み。この中でもとりわけドラマチックな運命をたどるのは紫
のである。現在は台湾の故宮博物院の所蔵となっている。
せられることとなった。世に﹁故宮南遷﹂とも言う。移動は
博物院の厖大な文物は四川省や重慶などの中国奥地へ疎開さ
北京に迫り来る戦禍を避けるべく、
﹁四庫全書﹂を含む故宮
一九三一年︵民国二○年・昭和六年︶、満州事変が勃発した。
一九一二年清朝は倒れ、中華民国の成立となった。それに
伴い、紫禁城内の文物は﹁故宮博物院﹂の収蔵品となった。
の所蔵になっているという。
が、甘肅省蘭州にある甘肅省図書館に移管され、現在もそこ
くっていた文化大革命の混乱を恐れてであろうと推量される
われた。その後一九六六年、おそらくは当時中国内を吹きま
内の保和殿に移され、のち瀋陽に戻され、欠巻の補写が行な
ちなみに瀋陽奉天故宮の文溯閣本は、清末の混乱の中で一
部を失ってしまった。一九一四年︵民国三年︶、北京の故宮
ぶん そ かく
禁城文淵閣に収蔵されていた﹁四庫全書﹂である。
一九三三年から始められた。列車で大陸を横断し、船で長江
商務印書館の偉業
かけて文物は四川省の奥地へと運ばれた。そして日中戦争が
﹁ 四 庫 全 書 ﹂ は 天 下 の 至 宝 で あ る。 清 朝 治 下 に あ っ て は
﹁江浙三閣﹂を除いては皇帝個人の専有物であった。庶民が
を遡り、あるいは悪路をトラックに揺られ、三年もの歳月を
終結する一九四五年までの十年近くの歳月を、その地でひっ
終 戦。 疎 開 し て い た 文 物 の 移 動 が 始 ま っ た の は 一 九 四 六
年になってからのことである。南京に集められ、北京の故宮
原本とされたのは故宮の﹁文淵閣本﹂であった。
る。中華民国以降になってその努力は開始される。その際、
書﹂が一般に流布するには影印出版の努力があったお陰によ
そりと送ることになる。
に帰れる日を心待ちにしていた。ところが国家の情勢は急変
お い そ れ と 読 ま せ て い た だ け る も の で は な か っ た。
﹁四庫全
し、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との内戦は共産党有利
本﹂初集として影印された。二三○種、線装本仕立の刊行で
最 初 の 影 印 は 一 九 三 四 年︵ 民 国 二 三 年・ 昭 和 九 年 ︶ か ら
し こ ぜん しょ ちん
翌 年 に か け て、 上 海 に あ っ た 商 務 印 書 館 か ら﹁ 四 庫 全 書 珍
に傾き、北京は共産党の勢力の手中にあった。これでは北京
に戻れるあてもない。一九四八年十一月、南京にほど近い徐
ぽん
州で八十万の共産党軍と四十五万人の国民党軍とが対峙、と
Ƚ
ȽȁIJķıȁȽ
Ƚ
文淵閣「四庫全書」の美しさ
ある。︵﹁四庫全書﹂本来が線装本であるから、この﹁珍本﹂
としての影印は、本格的なものであった。︶この﹁珍本﹂シ
リーズは第二次世界大戦が終結した後も続けられ、こちらは
台湾に移った商務印書館によって継続して影印刊行が行なわ
れた。第二集を一九五九年︵民国四八年・昭和三十四年︶か
ら再開し、一九七七年︵民国六六年・昭和五十二年︶までの
十八年間をかけて、全十二集及び別集として精装本の体裁で
刊行された。これらを合計すると一、八七八種、﹁四庫全書﹂
全体の約半分が影印されたことになる。
さて、影印本の刊行で乾隆帝自身の専有物であった﹁文淵
閣四庫全書﹂を、我々一般庶民も読むことができるようにな
り、また漢文の研究の上にも大きな恩沢を与えるものであっ
た。 し か し 半 分 は 残 さ れ た ま ま で あ る。 半 分 の 図 書 が ま だ
残っているとすると﹁四庫全書﹂全体の影印出版を待ち望む
のは人情のしからしむるところであった。研究者たちの間か
らは、一日も早い全ての影印出版の声が高まった。しかし、
事はそう簡単ではなかった。資金のこと、販路のこと、購読
者数のこと、あるいは製版作業のことなどなど、細かな神経
を払わなければならないことが山積していた。刊行は十期に
分けて行なうこととし、一九八二年︵民国七一年︶十二月よ
り作業を開始し、予定より二年も早く一九八六年︵民国七五
年 ︶ 三 月 に 完 了 し た。 B 5 版、 精 装 本。 全 一 五 ○ ○ 冊。 総
ページ数一、二○○、二○○ページ。堂々たる一大叢書が完
成した。これには台湾商務印書館の社運をかけた努力のドラ
Ƚ
ȽȁIJķIJȁȽ
Ƚ
マ が あ っ た。
﹁文淵閣四庫全書﹂全巻の偉業を成し遂げた台
湾商務印書館の偉業は、高く称賛されるものである。
こ の 影 印 本 は さ っ そ く 中 国 大 陸 に も も た ら さ れ、 上 海 古
籍出版社がこの影印本をもとに同じく一五○○冊の﹁四庫全
書﹂を発行した。本校図書館が所蔵しているのはこの時発行
されたものである。版面はB5より一回り小さいA5版、精
装仕立て。奥付には﹁一九八七年六月一版、一九八七年六月
一次印刷﹂と記されている。これを演習漢文を受講している
三年生に手に取らせたのであった。漢文を学んでいる者なら
ば、一度は手に取っておきたい本であろう。
︵国語科
教諭︶
Ƚ
ȽȁIJķijȁȽ
Ƚ
べ き だ。﹂ と い う 意 味 だ そ う で す。 こ こ
の墳墓の地というのは自分が骨を埋める
場所、死ぬ場所という意味でしょう。転
クラスは卒業です。これからの人生に役
て使ってほしいと思います。今年は私の
す。卒業生もぜひ、自分の座右の銘とし
ますが、その中の先生方の言葉は珠玉で
す。卒業生は﹃心の礎﹄をもらうと思い
ち よ く 生 き ら れ る 場 所、 自 分 の 仕 事 が
青々とした美しい山、つまり、人が気持
で す。 ア オ ヤ マ で は な く セ イ ザ ン で す。
人が住んでいる世界、世の中という意味
読 む の で は な く、 ジ ン カ ン と 読 み ま す。
方を間違えないでください。ニンゲンと
使われるということです。ところで読み
ඵĩ➃
立 ち そ う な も の を 選 ん で み ま す。﹃ 心 の
で き る 場 所 と い う 意 味 で す。
﹁ジンカン
ே
礎﹄の中のいくつかの言葉と重なるかも
ଟ
心にとめておきたい言葉
第十一集
しれませんが、私なりの解釈で紹介した
イタルトコロセイザンアリ﹂ 私にとっ
て は 好 き な 響 き で、 言 い 易 い。 中 国 の
職をするときなどに、自分を励ますのに
小塙
研一
いと思います。
困 っ た と き は、 自 分 に 言 い 聞
かせる言葉を探しなさい 。
諺かなと思ったら、日本の幕末の僧釈月
うと辞書を引いたのが知るきっかけでし
た ぶ ん 何 十 年 も 前 にN H K の ド ラ マ
の題名になっていて、どういう意味だろ
ていますが、この二つの言葉、同じ意味
万事塞翁が馬﹂という言葉が好きで使っ
は何故か小さい頃から中国の諺の﹁人間
人間到る処青山あり
も多いですね。いつも﹁短気は損気﹂と
た。いろいろな座右の銘の本を調べてみ
性の漢詩が出典で純国産のようです。私
自分に言い聞かせておけば、あとの後悔
特に説明は必要ないですね。そのまま
です。短気で怒りっぽい人は損すること
は少なくて済むでしょう。辛いとき、悲
自分の生きる場所は必ずあると信じてい
で使ってもおかしくないような気がしま
ま す。 運 命 だ っ て そ う で す。 何 が 吉 で、
す。 ど こ に 行 っ て も、 何 歳 に な っ て も、
﹁ 故 郷 ば か り が 墳 墓 の 地 で は な い、 人 間
何が凶かなんてないんです。おおげさに
ると大抵出ており、それまで知らなかっ
の活動できる所はどこにでもある。大望
た 自 分 を 恥 じ ま し た。 広 辞 苑 に よ る と、
れます。また、がんばる勇気が湧いてき
を達するために故郷を出て大いに活動す
しいとき、苦しいとき、自分を励ます言
ます。たくさんの人が自分の座右の銘を
葉を持っていると、それだけで心が癒さ
持っており、それぞれすばらしいもので
Ƚ
ȽȁIJķĴȁȽ
Ƚ
味付けの塩みたいなものなのですね。
しょうか。辛いこと苦しいこと、みんな
奮い立たせるために使ってみてはどうで
り、辛い時が続く時など、自分を励まし、
て ま す が、 何 か に く じ け そ う に な っ た
のほうが言いやすいのでマイナスでやっ
絶望なし﹄
。私は﹁人生にマイナスなし﹂
感 動 し た 中 村 久 子 さ ん の 言 葉、
﹃人生に
ぎかもしれませんが、昔、伝記を読んで
むべきですね。さて、ちょっと発展しす
言えばすべて吉。すべて吉なら人生楽し
溜まっている見るからに不快な若者たち。
人、コンビニに行けば、ジベタリアンで
人の迷惑考えず、大声で携帯電話で話す
養のない人が多いことか。電車に乗れば、
の巷には、老若男女を問わず、いかに教
なるほどその通りだと思いました。現代
りのことです。禅の教えだと思いますが、
味がわからず調べました。恕とは思いや
という言葉です。悲しいかな私は恕の意
か っ た の は、
﹁ 教 養 と は 恕 の 心 で あ る。
﹂
教養についての意味付けでとても印象深
なる。
﹂とあります。この定義はともかく、
めに生きているのかわからなくもなりま
かり易くなってしまいます。人生何のた
ス ト レ ス が 溜 ま る 一 方 で、 病 気 に も か
い な 仕 事 を 続 け る の は 大 変 な こ と で す。
多いでしょう。お金のためとはいえ、嫌
強はどちらかと言えばつらいことの方が
ほ と ん ど な い の が 現 状 で す。
。仕事や勉
す。好きにやって生きていけることなど
す。でも、そういう人は少ないと思いま
の好きな仕事に就けた人は本当に幸せで
れば仕事をしなければなりません。自分
が好きなら、学校は極楽。人は大人にな
言えますね。他人に不快感を与えないこ
う自己中心的な考え方や行動も無教養と
もうひとつ、自分さえよければよいとい
りにだけはなってほしくないと思います。
しい。あのみじめな無教養な人達のひと
卒業する皆さんにはぜひ教養を持ってほ
おもしろい。だれかその仕事が好きな人
は存在しません。だれかにとっては必ず
言。世の中につまらない仕事というもの
まらない、好きになれないという人に一
になるように努力することでしょう。つ
ら、やることはひとつ。今の仕事を好き
す。もし、好きでない仕事に就いていた
教養とは人に不快感を与えま
いとする心遣いである。
福沢諭吉は心訓の中でこう言っていま
す。
﹁ 世 の 中 で 一 番 み じ め な こ と は、 人
とを心懸けていきたいものです。
てはどうでしょうか。
心があるだけなのです。心を変えてみて
は必ずいる。つまらないと思うあなたの
間 と し て 教 養 の な い こ と で す。
﹂ここで
仕事が好きなら、この世は天国。勉強
生 き 方 は 二 つ し か な い。 好 き
をするか、好きにするかだ。
ちょっと教養について考えてみようと思
います。広辞苑で意味を調べると﹁単な
る学殖・多識とは異なり、一定の文化理
想を体得し、それによって個人が身につ
けた創造的な理解力や知識。その内容は
時代や民族の文化理念の変遷に応じて異
Ƚ
ȽȁIJķĵȁȽ
Ƚ
﹁できる人﹂より﹁できた人﹂
能 力 の あ る﹁ で き る 人 ﹂ は ど う し て
も能力不足の人を下に見る傾向があり
ます。まあ、下の人が﹁できた人﹂の方
が上だと言えば、負け犬の遠吠えくらい
に思う﹁できる人﹂もいるでしょう。才
と徳がどちらが上かという議論になった
ら、皆さん素直に徳が上と言えるでしょ
う か。 私 は 徳 が 上 と 考 え ま す。 人 の 成
功や幸せは最後にはその人の徳が大きな
かもしれない。でも、徳ある人には絶対
の人。普通の人は才ある人にはなれない
んの少数。私を含めて大多数はごく普通
回 し た こ と を 覚 え て い る だ ろ う か。
﹁谷
手の話をし、その新聞の写真をみんなに
期 課 外 の 初 日、 柔 道 の 谷 選 手 と 野 村 選
オリンピックイヤーの夏でもあった。後
だ。最初の志が到達点を決める。純粋な
あり技あり﹂の見出し、そして、あの顔
なれる。
﹁できた人﹂になりましょう。
︵外国語科
教諭︶
人間ほど、強くなれると思う。簡単に述
べたが、君達は日々の生活のなかで、学
いた﹁善意の衣をまとえば、世間はその
せとかは考えられないでしょう。前に書
来なければ、今の世の中で成功とか、幸
人︶には人がついて来ない。人がついて
と重なりますが、無教養な人︵徳のない
達 の 勇 姿 を 見 な が ら、 こ の 國 學 院 祭 で、
生も生徒研修やひとつの夏を越え、先輩
て、机に向かっていることと思う。一年
床し、通学がない分新聞などに目を通し
ンを走らせている。君達はいつも通り起
日は連休二日目である。私はこうしてペ
二 〇 〇 四 年 九 月 二 十 日、 文 化 祭 も 体
育 祭 も 晴 天 に 恵 ま れ 無 事 に 終 了 し、 今
この中学時代に、教員になろうという進
ま っ た こ と を 今 で も 鮮 明 に 覚 え て い る。
対戦し、確か三対二で惜しくも負けてし
勝し県大会に出場した。宇都宮陽南中と
務めた。最後の夏の大会で足利市内準優
デカのキャッチャーで三番キャプテンを
た。 そ の 後、 文 武 両 道︵?︶、 中 三 で 尻
でレギュラー、九番ライトでデビューし
オリーブの冠
習、 進 路 に お い て よ く 考 え て み て ほ し
い。
人の短所を見たがらない。
﹂と同じです。
路がみえてきたと思う。体育か数学の教
島田
利文
大 人 に な っ た ら、 自 分 や 家 族 だ け の 幸
又ひとまわり元気に成長した感じがして
員になりたい⋮⋮。
私は中学まで野球をやっていた。少年
期には才能が少々あったみたいで、中一
せを考えるだけでなく、世の中に役立つ
いる。主役たる君達は、ここまで来てど
要素を占めるように思います。教養の話
人間になってほしいと思います。役立つ
のように感じているのかな。彩り、私達
巨 人 V 9 時 代 に 育 っ た 私 は、 や は り
王 選 手 や 長 嶋 選 手 に 憧 れ て い た。 ア テ
度合いは大きくても小さくてもいいんで
高校生になって、はじめての夏八月は
の風景は確かにここにあった。
す。できる人でできた人というのが一番
よいに決まってますが、才能ある人はほ
Ƚ
ȽȁIJķĶȁȽ
Ƚ
の末続、為末選手と、それぞれ金メダル
に残念と言えばレスリングの浜口、陸上
が、こちらも銀。もう少しでした。それ
金メダルを獲得してほしいと思いました
かった。こうなったら、チームではぜひ
トで、立花・武田組は銀で、とても惜し
ンクロナイズド・スイミングのデュエッ
しい、残念、というものが多かった。シ
います。なぜか、五輪後半の競技は、惜
ダルは暑さと重圧の中で立派だったと思
うとは⋮⋮。予想外でした。でも、銅メ
ストラリアに準決勝でまたも負けてしま
ま し た が、 一 次 リ ー グ で も 敗 れ た オ ー
た の で、﹁ こ れ は い け る ぞ ﹂ と 思 っ て い
で し た。 野 球 は 宿 敵・ キ ュ ー バ に 勝 っ
⑤女子レスリングのメダルラッシュ。新
かける執念を感じました。
ライディングのホームインには、勝利に
台湾戦で見せた高橋由伸選手のヘッドス
④野球・長嶋ジャパンの銅メダル。特に
メドレーリレーでの銅メダル。
③水泳の北島康介選手の金メダル二つと
連覇。
三連覇。そして同じ日の谷亮子選手の二
②柔道男子の野村忠宏選手の前人未到の
ごかったのひと言。
ンディションが悪い中での金メダルはす
①マラソンの野口みずき選手の激走。コ
ました。
アテネ五輪、感動のベスト5を挙げてみ
りません。そんな中で、私なりに今回の
た。そのことがつくづく残念で仕方があ
私なりの論を展開してみたい。
つ い て 焦 点 を 当 て て 珠 玉 の 言 葉 を 拾 い、
れないよな。
⋮⋮。金メダルを獲る。この夢だけは譲
こ と。 負 け る な。 あ な た の 金 メ ダ ル は、
であきらめずに、必死に課題に取り組む
ネ 五 輪、 そ の 長 嶋 ジ ャ パ ン。 シ ョ ッ ク
が期待されていましたが、銀や銅、もし
時代の幕開けを感じました。
最後に、君達へ。
しているシーンを、やはり生で見たかっ
中 途 半 端 じ ゃ 駄 目 だ ぞ。 最 後 の 最 後 ま
くはあと一歩のところでメダルを逃して
ダルラッシュは、これまでの五輪にはな ついこの間始まったばかりだと思って
いたのに、私たちの夏八月と同時に閉幕
ほど胸に響いたわけではなかったが、何
代 の 頃 に 出 会 っ た も の で、 当 時 は そ れ
レ リ ー︶。 こ の 箴 言 風 の 言 葉 は 私 が 二 十
﹁ 愛 と は、 自 分 の た め の も の で し か な
かったものを、心ならずも他人にゆずっ
さて、今回は人間の生存の根幹を成す
ものとしての道徳と愛のうちの﹁愛﹂に
佐山
洋
言葉の宝︵Ⅳ︶
︵数学科
教諭︶
しまったことです。でも、ここまでのメ
となりました。たくさんの感動を本当に
か今までにない新たな視点より言われて
た と 感 じ る こ と に あ る ﹂︵ ポ ー ル・ ヴ ァ
ありがとうと言いたい。君達のベスト5
かった素晴らしい成果だと思う。
は何ですか。
今回のオリンピックは中継が深夜から
未明だったため、私はほとんど中継を見
ることができなかった。日本選手が活躍
Ƚ
ȽȁIJķķȁȽ
Ƚ
で考えたほうが若い人にとっては分かり
くてもよいわけだが、具体的に男女の愛
である。この言葉は男女の愛と限定しな
も理解の内容度が違って来たというわけ
体験と思考に進歩が加わり、同じ言葉で
と意識させられた。その間の年月は私の
い、愛のエゴというものをよりはっきり
トに載っているこの言葉にたまたま出会
憶している。最近になって私のメモノー
かすかに胸を突き刺すものがあったと記
る。これが友人とか兄弟姉妹とか恋人に 次 に も っ と 広 い 愛、 愛 全 般 に つ い て
言っている詩句を挙げます。
美や無邪気な可愛いらしさに満足してい
は抗うことはない。でも花や小鳥からの
はあらかじめ分かっていて、その約束に
から返される程度ほどには︶ない。それ
や 小 鳥 か ら の 応 答 は 直 接 的 に は︵ 人 間
話をするといった行動として表れる。花
対しては丹精を込めてとか豆まめしく世
の行為は至極自然なものだ。花や小鳥に
の形あるものとして表明したくなり、こ
衷にあるというのは苦痛であり、何らか
ろう。
分への負託として事が処理されることだ
後の進展については自分自身の責任と自
いじらしさを眺める余裕があれば、その
情 を 一 旦 自 分 の 掌 に 乗 せ、 そ の 大 切 さ、
て自分の胸に愛情が湧き出た時のその愛
ん幸せだが、どちらにしても対象に会っ
の愛が相手に受け容れられた人はもちろ
かでエゴ化されているのに気づく。自分
手術的かもしれないが、自分の愛がどこ
人への愛情は自分の反映を望んでいる分
えるものを期待しているはずだ。特に恋
いつも愛するもの
恩恵をあたえるもの
活動するもの
向けられた︵親の子に対してのものは別
易いと思う。ある人に愛情を感じるとい
でも可愛いい小鳥に対してでも愛の念が
痛切である。相手が自分のほうに顔を向
愛
うことは人間だれしものことで非常に大
湧くことは生きがいにも通じることであ
けてくれなかったときは悲劇だ。この悲
決してたんに女への愛ではなく
として︶愛情に対しては知らずのうちに
る。そして愛が起こった状態は相手に届
劇が落着くまでには通常時間の経過とい
炎への憧れである
切 な こ と だ。 愛 が 起 こ る と い う こ と は
かない状況においても愛は私の胸の衷に
う唯一とも思える穏やかな薬が必要であ
人間に対してでなく、一輪の花に対して
存在し、精神的快として本人が意識する
る。
愛
相手からの反応、自分が出した愛情に答
み と
それはめぐみふかく看護るもの
しないを越えている。この状態において
のを、⋮⋮云々﹂を呟いてみると、外科
さすがゲーテである。この人類の教師
さて心が落着いたところで先程の﹁愛 ゲーテ
とは自分のためのものでしかなかったも
本人は幸福感を覚える。まだ相手に届か
なくても、通じなくてもである。
次の段階として本人の思いを外へ、形
として表わそうとする。いつまでも胸の
Ƚ
ȽȁIJķĸȁȽ
Ƚ
とも言える文豪は愛の姿を広く深く捉え
る。
テクトを解除することも違法とみなされ
られる。著作権法の
して忘れ去られてしまうのではないか。
が軌道に乗る数年後には、過去の円盤と
条によれば、プロ
て私達に指し示している。特に私は﹁炎
けることに幸せを、更に浄福を感じる人
を期待しない、いってみれば愛を出し続
ろうし、愛にエゴがなくなったら見返り
トで購入するビジネスが主流になったか
が変化して、音楽データをインターネッ
をCDパッケージで買うという流通形態
コードが倒産申告をしたが、それは音楽
らだ。アメリカでは大手CD販売のTレ
うとしている。一回は録画できるが、そ
ング﹂を不可能にさせることで対処しよ
コピーワンス信号の働きにより﹁孫ダビ
用 の 複 製 機 器 で 複 製︵ 録 画 ︶ す る 際 に、
空から降ってきたデジタル情報を、家庭
神 経 を と が ら せ て い る。 目 下 の と こ ろ、
今、衛星放送業界ではデジタル放送の
高 画 質 と そ の コ ピ ー に ま つ わ る 問 題 に、
への憧れである﹂には心底言葉の比喩と
ともに愛の真髄を突いていて痺れた。愛 著作権が保護されるのは、そこに制作
サイドの利益を護る必要が認められるか
がこの世にいることが信じられるのであ
れを高画質で複製して流布させることは
が非常に強い人は死をも超えているだ
る。﹁ 天 使 は 無 限 の 栄 光 を 絶 え ず 愛 し つ
らと言われている。購入した音声データ
に転送して楽しむのだ。音楽配信ビジネ
メラに切り替わった。スポーツ写真のよ
と こ ろ で、 私 は 校 報 の 写 真 を 担 当 し
ているが、今年から本格的にデジタルカ
禁じるという方向だ。
つ観て浄福である﹂
︵聖書︶
スは、配信側がアーティストにあらかじ
のパソコンにコピーし、携帯オーディオ
︵ ア ー テ ィ ス ト の 新 曲 ︶ は、 自 由 に 自 分
︵保健体育科
教諭︶
デジタル画像のウソ
うな難しい被写体はこれまで通りのフィ
こ の よ う に、 数 年 前 で は 考 え ら れ な
らべて発色が豊かになったことも移行に
にもデジタル画像対応が進み、以前にく
は、完全にデジタルに移行した。印刷側
ルムで撮影するが、顔写真やカット写真
め﹁私的複製保証金﹂を払うことで成立
か っ た よ う な 変 化 が、 デ ジ タ ル コ ン テ
踏み切った理由である。
している。
ンツをめぐって起き続けている。CDと
大月
一男
いう円盤が衰退するなど、一体誰が想像
好法師は﹃徒然草﹄で人間の寿命につい
デジタル音声やデジタル画像には著作
権保護のために複製を禁じるプロテクト
も、地上波デジタル放送の高画質が広く
信号が入っている。コンピュータのプロ
知れ渡り、映像コンテンツ配信ビジネス
グラムなども保護されている。例えば市
販のDVDを違法コピーすると﹁懲役3
校報に限らず、編集作業に携わる者は
しただろうか。現在流通しているDVD
常に締め切りに追い立てられている。兼
年以下、300万円以下の罰金﹂が科せ
Ƚ
ȽȁIJķĹȁȽ
Ƚ
30
ルムの現像を待たなくても良いし、失敗
そんな時、デジタルは大変助かる。フィ
く と 後 ろ か ら 襲 い か か っ て く る も の だ。
う表現をしたが、締め切りもフト気がつ
て﹁死は後ろから忍び寄って襲う﹂とい
危険性が生じるのである。事実を歪めた
き、写真のもつ﹁記録性﹂が冒涜される
ある。そして﹁修正画像﹂が氾濫すると
正﹂が簡単に習得できるという特徴が
ジタル画像では、プロの技であった﹁修
セピアカラー
大垣荘太郎
れ ﹂、 と 言 わ れ た か ら だ っ た。 本 来 な ら
修正写真が正しい記録であるような顔を
結婚して以来二十年間、米を買ったこと
して横行することで﹁写真業界﹂全体へ
そ の 対 策 と し て は、 先 の コ ピ ー ワ ン
ス 信 号 の よ う に、 ユ ー ザ ー の 操 作 で き
のないこのぼくが田植えや稲刈りを手伝
写真はその場で撮り直しがきく。リバー
ない領域でオリジナル画像の拡張子をプ
サ ル フ ィ ル ム の 現 像 は、 都 会 で は プ ロ
ロテクトし、修正画像の拡張子とオリジ
こ の 夏、 久 し 振 り に 田 植 え を 手 伝 っ
た。兄から﹁おふくろももう年だし弱っ
印刷では元がフィルムかデジタルデー
タ か と い う こ と は 関 係 が な い。 読 者 に
うのは当然のことであろうが、ついつい
の信頼性が失墜するのである。
とって適切な写真かどうかが決め手に
ナルの拡張子とを厳然と区別することで
親に言われないことをいいことに甘えて
ラボで3時間だが、地方だと2日がかり
なる。デジタルの利便性を知ってしまう
ある。つまり、修正を加えた画像の拡張
いたのだった。
が、このまま信頼性の乏しいデジタル修
まで、写真を撮ることを趣味としてきた
だけでは足らず、親戚や町から﹁やてさ
大イベントであった。大人も小人も家族
それにしても田植えの風景も隔世の
感 が あ る 。 そ の 昔、 田 植 え は 農 家 の 一
た の で、 種 ま き と 田 植 え を 手 伝 っ て く
と、もうフィルムには戻れないというの
子が強引に変わってしまう仕組みだ。こ
デジタルカメラが 万画素だった時代
を知っているが、当時の画質と今の400
正 画 像 が 氾 濫 し て い っ た ら、
﹁写真をや
Ƚ
ȽȁIJķĺȁȽ
Ƚ
だ。
が、今の正直な実感である。
万画素の画質の差は驚くほどだ。まさか
ま﹂と言われる他人様まで恃んで行なっ
れ は ぜ ひ や っ て も ら い た い。 私 は こ れ
数年でフィルムがデジタルに取って代わ
る人=ウソつき﹂という図式が定着して
ほどまでの労力を尽くして朝から晩まで
とで、送迎ありの三食付きだった。それ
のは農繁期だけの日雇いのおばさんのこ
ろうとは考えてもみなかった。
では困るのである。
たものである。この﹁やてさま﹂という
ただし、DVDの著作権のように、デ
ジタル画像にも問題点はある。写真館の
広告に﹁当館が責任をもって美しく修正
いたします﹂という惹句があったが、デ
︵国語科
教諭︶
しまう。写真を愛する一人として、それ
35
景﹂が北朝鮮とはまったく違う、と言う
来たとき、車窓から見える﹁田植えの風
れていた蓮池さんの子どもたちが日本に
けになっていた。先ごろ北朝鮮に拉致さ
田んぼのなかを歩くのは補植するときだ
のである。それも乗用型の田植機なので
だった。
働いても田植えは一週間もかかったもの
かった。
ている姿をぼくは一度も見たことがな
のような無類の遊び人で、農業を手伝っ
き亡くなった祖父は
﹁フーテンの寅さん﹂
であった。おまけに、ぼくが高校生のと
え﹂るが主軸となって働くのはやはり母
て い た 父 は 日 曜 日 だ け は 農 業 を﹁ 手 伝
さらに母家のなかには馬屋があり、農耕
モちゃん﹂
︶ と い う 馬 方 ま で い た。 ま た
底思えない。
と、あの頃に戻りたいとは、ぼくには到
そんな時代を生きてきた母を見ている
ことがあるけれども、母にすればそれは
古き良き時代などと言って感慨に耽る
︵外国語科
教諭︶
過去を美化した都合のいい言葉でしかな
馬が一頭いっしょに生活していた。
それが田植機が普及したことで、にわ
い。
か百姓のぼくが手伝っただけでも一日で 今にして思えば、よくそんな家へ母が
十 三 人 い た﹁ 家 族 の 風 景 ﹂ が 今 で は
嫁いできたものだと思う。勤め人をやっ
ほぼ七割方の田植えが終わってしまった
た っ た 二 人 に な っ て し ま っ た け れ ど も、
のを聞いて妙に納得したものであった。
それなりの授業料
﹁ 家 族 の 風 景 ﹂ で あ る。 茅 葺 き 屋 根 の 母
業から帰った後ではつらい仕事だったと
まどで毎回一升もの飯を炊くのは農作
三度の食事の支度も母の仕事であっ
そ し て、 も う 一 つ ぼ く の 心 に 残 る 風 た。何しろ炊飯器もない時代である。か
景 が あ る。 そ れ は 昭 和 三 十 四、五 年 頃 の
家 を 背 景 に、 そ こ に は 十 三 人 の 家 族 が
城戸
圭子
写っていた。
こ こ 最 近、 本 当 に 世 の 中 便 利 に な っ
思う。また、同居している父の弟︵ぼく
た も の だ、 と し み じ み 思 う。 携 帯 電 話
衛生兵だったが、妻子を亡くして実家に
人は亡くなった曾祖父の弟で日露戦争で
ん﹂と呼ばれていた伊吉じいさん︵この
れに子どもたちから﹁エーやんおじちゃ
写真のなかには、曾祖母、祖父母、父
母、 父 の 弟 二 人、 ぼ く の 兄 弟 四 人、 そ
手になったり、面倒をみてくれている。
︶
た今でも、少々ボケが入った母の話し相
だったからだ。そのためか父が亡くなっ
も書いたように祖父は当てにならない人
相 談 相 手 も 母 が し て い た。
︵これは前に
な変動の激しい時代に近頃ついてゆけな
じることも多い。いずれにしても、そん
う反面、案外そっけないものだな、と感
ませることが可能になった。便利だと思
をするにも動かず苦労せずに用件を済
にしても、インターネットにしても、何
にとっては叔父さん︶の進学や生活上の
身 を 寄 せ て い た ︶。 そ れ と 保︵ 通 称﹁ タ 時 と し て 人 は﹁ 昔 は 良 か っ た ﹂ と か、
Ƚ
ȽȁIJĸıȁȽ
Ƚ
な ト ラ ブ ル を 起 こ す こ と も 少 な く な い。
楽 そ う に も 思 え る が、 実 は そ れ が 大 き
減 っ て き て い る の も 間 違 い な い。 一 見、
た、 人 と 人 と の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン が
くなってきた自分がちょっと悲しい。ま
る。
情報に疎い母に、その時が訪れたのであ
ずに済んだのだが、私以上にそういった
けてはいた。おかげで何とかひっかから
だくられてはたまらない、と私も気をつ
た。
とひと安心。すると不思議なもので、む
の通話と認められなかったらしい。ほっ
額に収まっていた。どうやら一定の時間
効いたのか、いつもと変わらぬ数千円の
クした生活を送った。結局は母の度胸が
誰にでも、ふっと気が抜け、隙ができる
うにも問題があるのだが、人にはきっと
ができるわけだ。そんな手口にハマるほ
いくらでも好きなように話を進めること
話するものだから、人の感情を無視して
言葉を耳にする。相手の顔を見ないで会
そ こ は さ す が で、 す ぐ に﹁ ま ぁ、 仕 方
の ひ と 言 に 一 瞬 顔 が 暗 く な っ た 母 だ が、
だ ぁ。
﹂ と い う 言 葉 が 出 て し ま っ た。 そ
が 頭 を よ ぎ り、 つ い、
﹁ あ ∼ あ、 十 万 円
れまた笑顔で言われた。すぐに
〝十万円〟
の。
﹂と。
﹁えっ? どこに?﹂私が尋ね
ると、
﹁ワン切りよ。ワン切り。﹂と、こ
﹁ そ う 言 え ば ね、 今 日 電 話 か け ち ゃ っ た
ネットで旅先について調べていると、や
本を発つ前にガイドブックやインター
心がちょっとしたトラブルを招いた。日
ばよかったのだが、私のくだらない好奇
ろが相場であろう。素直にそうしておけ
いた。ホテルや空港の銀行といったとこ
た私は、どこで両替をしようかと考えて
来事だった。現地に着き、飛行機を降り
しろ十万円得をしたような気にさえなっ
ニュースでも嫌というほど〝オレオレ詐 あ る 日 私 が 仕 事 を 終 え て 帰 宅 す る と、
母 が ち ょ っ と 苦 笑 い し て こ う 言 っ た。
こ と が あ る の だ ろ う。﹁ 私 に 限 っ て ま さ
ないじゃない。ちょっと高い授業料よ。
﹂
欺〟だの〝出会い系サイト〟だのという
か ⋮﹂、 と 思 う よ う な こ と が 我 が 家 で も
と言ってのけた。母が言うには、今回例
一時期〝ワン切り〟などというものが
は や っ た こ と が あ っ た。 適 当 な 携 帯 番
ても、これに堪えて同じ目にはもう会わ
え十万円を請求されることになったとし
目にした。読み進めていくと、その国に
た ら と〝 両 替 に は 注 意!〟 と い う 警 告 を
考 え て み れ ば、 私 に も 似 た よ う な こ
とがあった。初めて訪れたある国での出
時どき起こる。
号に一度だけコールして電話を切り、後
ない、と考えれば安いものだ 決
( して安
高く請求する、といったものだ。その請
送されるまでの間、私たち親子はビクビ
言ってもそれから約ひと月、請求書が郵
いとも思えないが 、
)というわけだ。﹁さ
すが大人﹂
、 と 心 の 中 で 思 っ た。 そ う は
と、巧みな両替商にまんまと騙されると
いからといって喜び、うっかりしている
るな、ということであった。レートがよ
る両替レートを表示した看板に惑わされ
は街中に両替商があり、店先に掲げてい
で折り返し電話をかけさせる。そしてそ
求額は一万円とか十何万円などとも聞い
の折り返しの電話の通話料金を驚くほど
ていた。ほんの一瞬でそんな料金をふん
Ƚ
ȽȁIJĸIJȁȽ
Ƚ
に つ い た。 そ れ に は〝 一 度 カ ウ ン タ ー を
ターの窓口近くにある一枚の張り紙が目
を待ち、店内を見回した。するとカウン
び、列に並んだ。ワクワクしながら順番
がいて雰囲気も悪くなさそうな一軒を選
そしていよいよ戦いの時がやってき
た。数多くある店の中から、ある程度客
はらそうと、私は気分をすっかり買い物
私 た ち 家 族 は 気 を 取 り 直 し、 近 く の
書かれていた。その意味を考えたら、先
ス ー パ ー へ 向 か っ た。 先 ほ ど の 屈 辱 を
離れたら、どんな相談にも応じない〟と
モードに切り替えた。店内には日本のよ
えばいいじゃない。
﹂
は 言 っ た。
﹁ ま ぁ、 こ れ も 授 業 料 だ と 思
には戻らない。イライラしている私に母
ろう。いくら悔しがっても、もちろん元
れる、とはまさにあんなことを言うのだ
仕掛けもわかりゃあしない。狐につまま
シャンか!﹂と心の中で叫んだ。タネも
や ら れ て し ま っ た の だ。
﹁おまえはマジ
ない。
だ。 お か げ で 私 た
(ち は
) かなり鍛えら
れ、それ以来同じような目には会ってい
だ っ た ね。
﹂ と。 そ れ に し て も す ご い 国
私 に 母 は 言 っ た。﹁ ち ょ っ と 高 い 授 業 料
いやらでたまらなかったが、泣き寝入り
れ て し ま っ た の だ。 頭 に く る わ、 悔 し
お断り〟
。何 と い う こ と だ。 ま た、 や ら
は 一 枚 の 張 り 紙 が あ っ た。〝 返 品 は 一 切
た。 お そ る お そ る 目 を や る と、 そ こ に
きれた﹂といった顔で近くの壁を指さし
すっぱり言った。すると係の男性は﹁あ
ポテトチップスが千円以上もしていたの
ま っ た。 私 た ち の 番 が 来 た の で、 私 は
うに丁寧に値段が表示されていない商品
いのだ。隣にいた弟が確認してもその事
そっと百ドル札を差し出した。係の女性
が 多 く あ っ た が、
﹁日本より物価が高い
〝 何 事 も 人 生 の 勉 強。 失 敗 は こ れ か ら
生きていくためのハードルである。それ
いうのである。そのことが頭にあった私
は銀行員のように慣れた手つきで現地の
わけがない﹂と高を括り、値段を確かめ
以上大きな過ちを犯さないために与えら
だ!たかがポテトチップス一袋が⋮。あ
紙幣を数え、私に手渡した。受け取ると
ずにヨーグルト、スナック菓子、飲み物
れたチャンスである〟そう思えば、自然
実は変わらなかった。やられたのだ。何
すぐに私は張り紙に倣い、カウンターを
を買い物かごに入れた。意気揚々とレジ
と希望が沸いてくる。もちろんすぐに立
でもないような顔をしたあのお姉さんに
離 れ る 前 に 慎 重 に 確 認 し た。
﹁ よ し、 間
に 並 び、 表 示 さ れ た 金 額 を 見 て 驚 い た。
ち直れず、しばらく悩むこともあるけれ
は、不覚にも﹁勝負したい﹂と思ってし
違いない﹂、﹁心配することなかったじゃ
なんと日本円にして三千円ほどだという
ど、そんなときには母の﹁授業料だと思
まった。
な い ﹂ と 安 心 し て 店 を 出 た。 そ し て 念
のだ。不審に思いながらもすごすごとレ
り 得 な い!
腹を立てた私はサービス
カ ウ ン タ ー へ 急 ぎ、﹁ 返 品 し ま す!﹂ と
のため、店の外でもう一度数え直してみ
ジ を 離 れ、 レ シ ー ト を 見 て 確 認 す る と、
するしかなかった。そんなプンプンした
た。 一 枚、 二 枚 ⋮⋮。 恐 ろ し い 事 っ て
ほどまで浮ついていた私の心も少し静
あるものだ。いくら数えても数枚足りな
Ƚ
ȽȁIJĸijȁȽ
Ƚ
を持ってください。授業料を払った分だ
し た こ と の あ る み な さ ん、 ど う か 自 信
し て 今 ま で に、 私 と 同 じ よ う な 経 験 を
業料。みなさんもどうか惜しまずに。そ
ている。人生という学校に通うための授
い経験ができたことに感謝するようにし
えば⋮﹂という言葉を思い出し、その苦
保 存 に 心 を 配 り、 内 装 に 工 夫 し な が ら、
方、以前歴史と伝統を重視し古い建物の
への配慮が積極的に行なわれていた。一
流れが変わり、古い建物の保存と再利用
は、 歴 史 と 伝 統 の 再 認 識 と 再 発 見 へ と
第一の近代都市を自認していたシドニー
近代化の最先端をゆきオーストラリア
両 都 市 に も 起 こ り つ つ あ る よ う で あ る。
あるように思われた。
人々の生活スタイルは大きく変化しつつ
た そ う で、 今 ま さ に オ ー ス ト ラ リ ア の
ンピック以後顕著に見られるようになっ
だ。このような変化は、シドニー・オリ
に進められている要因になっているよう
両都市とも郊外に宅地造成開発が精力的
う。 そ の よ う な 事 も 住 宅 事 情 に 影 響 し、
ンは、近代化と開発への渦中に飲み込ま
古き時代の景観を維持していたメルボル しかし、人々の家族と共に楽しむこと
を常に生活の中心に考え大切にする生
け、確実に成長しているはずですから。
︵外国語科
教諭︶
活スタイルは変わっていないようであっ
われつつあった。そしてそこには、以前
原が目の当たりに広がったあの景観が失
くまばらに点在し、緩やかな勾配の大平
かつて平屋の家屋が郊外に出るとまもな
見学地へ移動するバスの車窓の郊外の
景 色 も、 前 回 と は 趣 き を 異 に し て い た。
ら家族とゆっくり時間を過ごすのが一般
た、休日や祭日は豊かな自然に触れなが
やらぬ数多くの親子の姿を見かけた。ま
終了時にぶつかり、帰途につく興奮冷め
学旅行のバス移動中、我々は土曜の試合
ラーやシャツを身につけて観戦する。修
で楽しみ、贔屓のチームのカラーのマフ
た。週末はクリケットの試合を家族全員
は郊外ではあまり見かけなかった二階建
れつつあった。
修 学 旅 行 の 3 度 目 の 引 率 で、 久 し ぶ
りに訪れたメルボルンとシドニーの市内
ての家屋が増え、いわゆる団地風の地域
的ライフスタイルであるという。
オーストラリアの
ライフスタイルに思う
と郊外の景観は、以前とはかなり変わっ
が造成されていた。ガイドによると一時
菅原
紀浩
ていた。セブンイレブンと K.F.C.
︵ケン
タ ッ キ ー・ フ ラ イ ド チ キ ン ︶ の 店 が 行
はなかったはずの人々の生活に、ごく自
され、年々移住者の増加傾向にあるとい
芸術関係などの分野の人材を中心に緩和
が、先端技術関係や教育・医療・文化・
また一泳ぎするサーファーたち。我々が
前にサーフィンを楽しみ、仕事が終わり
く先々で目についた。あまり外食の習慣
然にファーストフード店がとけ込んでい
オーストラリアの澄んだ空と海と空気
制限されていた外国人の永住権許可規制
は、人々の生活を楽しむ心を育む。出勤
た。徐々に大都市の国際的平均化現象が
Ƚ
ȽȁIJĸĴȁȽ
Ƚ
ボンダイビーチを訪れたあの三月の上旬
でも波と戯れる数名のサーファーたちの
姿があった。仕事をきちんとこなし、生
活 を 楽 し む。 健 康 的 な ラ イ フ ス タ イ ル
は、ごく自然に人々の日常生活になじん
でいる。訪問校の生徒たちの生命力溢れ
る明るさは、この風土ならではのものと
私は納得させられた。生きる力は自然と
の関わりの深さと質的相関関係にあるよ
うな気がした。周囲と協調し、自己を失
わずにたくましく生きる。オーストラリ
ア の 人 々 の 日 常 的 な ラ イ フ ス タ イ ル は、
︵国語科
教諭︶
私の生活にひとつの示唆を提示している
ように思えた。
Ƚ
ȽȁIJĸĵȁȽ
Ƚ
西
沢
敏
な星雲星団を撮像するには冷却CCDカメラは大変な威力を
冷 却 CCDカメラによる天 体 観 測
1 はじめに
という一種の半
Charge Coupled Dvice
導体で微細な光でも電気信号に変えることのできる素子であ
発揮する。CCDとは
は熱による電流が発生
CCDはきわめて
高感度であるが常温で
る。
ラという武器が必要になってくる。本校でも天体観測に冷却
し、ノイズが発生する
C という
Ƚ
ȽȁIJĸĶȁȽ
Ƚ
CCDカメラは今やデジタルカメラやデジタルビデオカメ
ラに代表されるように家庭でも普及している。しかし天体の
CCDカメラを用い、地学の授業や天文部の活動にその能力
ため数分以上の露出が
画像や顕微鏡を通した学術的目的の撮影には冷却CCDカメ
を発揮させ、有効に利用している。今回は、このカメラを使
不可能である。これを
ンのBJ
受光面を持つビットラ
が140万個結合した
したカメラはその素子
Dとよぶ。本校で使用
いたカメラを冷却CC
防ぐため冷却装置がつ
用した天体観測の例を示し平成十六年十一月関東理科教育研
2 CCDカメラによる撮像
究発表会栃木大会に筆者が発表した内容の一部を紹介する。
天体の撮像には冷却CCDカメラを使用しなくとも下の写
真のように望遠鏡にデジタルカメラを接続すれば簡単に撮像
できる。
し か し、 惑 星 の 微 細 な 模 様 や 画 像 処 理 が 必 要 な 天 体 の 写
真を撮像︵撮影とは言わない︶したり肉眼でも見えないよう
41
−
る。かつては 分以上の露出が必要であった星雲の撮像も5
分程度の露出で可能になったばかりでなくフイルムの現像や
写真にする手間もはぶけるようになった。写した画像をすぐ
に見ることができ失敗すれば直ちにやり直すことができるた
め大変能率的である。また、パソコンに取り込むことができ
るのでその後いろいろな処理が可能であるばかりでなく、撮
像のデータ天体画像の教材もカラープリンターを用い、字を
入れるなど楽しみながら作成できるようになった。冷却CC
物といえる。
3 撮 像 の 例
︵本校天体ドームにて
平成 年度撮影︶
16
機種でカラーの撮像ができるものである。付属しているソフ
トを利用して簡単に画像処理が可能で各補正が自動的にでき
る。もちろんこれらの画像の取り込みにはパソコンが必要で
あり手順を覚えるまでは多少時間がかかるが生徒でも手軽に
使用できる。ステライメージのような天体画像処理のソフト
を用いれば、より高度な画像作成も可能である。
撮 像 に は 必 ず し も 大 口 径 の 望 遠 鏡 は 必 要 な く、 ㎝ の 口
径の望遠鏡でも肉眼では絶対観測できない 等星以上の暗い
10
天体の撮像が手軽にでき、例えば冥王星を捉えることもでき
10
Dカメラ値段は 万円ほどであるが長い目で見れば安い買い
Ƚ
ȽȁIJĸķȁȽ
Ƚ
30
40
4 星の瞬き
星の瞬きの変化率(%)
冷却CCDカメラは、画像の撮像の他に星の光量の測定が
できる。カメラに星を入れるとおよそ1秒ごとにその光量の
相対値が数字で現れる。恒星自体は、頻繁に光量が変化しな
いのでこの変化の原因は主に地上の空気の揺らぎが原因と思
われる。この結果生じる星の瞬きをグラフ化してみた。いつ
もほぼ真北の同じ方向に見える星としてポラリス︵北極星︶
が あ る。 夏 と 冬 で ど れ だ け 明 る さ が 変 化 す る か 測 定 し て み
Ƚ
ȽȁIJĸĸȁȽ
Ƚ
た。
グラフでわかるように冬期二月の瞬きは夏期七月に比べる
と激しいことがわかる。今後、気圧配置や風の影響、星の高
度の影響等、いろいろな要素によって星の輝きがどう変化す
るか今後も測定してみたい。
最も明るい時の値に対して最も暗いときの値の割合を変化
率としてグラフを作ってみた。自ら光を出すのではなく太陽
の光を反射して輝いている惑星である木星は冬の北極星の半
分以下の変化率であることがわかった。いままで惑星は感覚
的に瞬きが小さいとはわかっていたが、そのことをグラフ等
で示すデータは初めてだと思われる。アークツルスはうしか
い座の1等星で冬の北極星と同じ日に測定した。高度は2等
星の北極星と同じぐらいだったが瞬きは小さかった。
ポラリスの瞬き
5 HR図の作成
HR図とはヘルツスプリング・ラッセル図といい夜空に輝
く無数の恒星を3グループに分類することに成功した見事な
図である。縦軸に恒星までの距離を一定にした時の明るさで
ある絶対等級︵数字が小さいつまり上にいくほど明るい︶を
とる。横軸に星のスペクトル型︵色や温度を表す。左に行く
ほど高温で青い星、右に行くほど低温で赤い星を示す。
︶を
Ƚ
ȽȁIJĸĹȁȽ
Ƚ
とる。恒星はその一生を主系列星↓巨星↓白色わい星と進化
M39 の HR図
していく。もちろん億年単位のスケールではあるが。
恒星のHR図(恒星社 現代天文学演習より)
M3 の HR 図
図のようなHR図を作成する方法として一定の距離にある
星団とよばれる天体を用いる方法がある。星団の写真から光
度の測定は天体画像処理ソフトステライメージで可能であ
るが、スペクトル型を調べるのは、分光器という高価な測定
器が必要であった。しかし、今回使用した冷却CCDカメラ
G等級︶が大
は、撮れた写真を瞬時にRGB︵赤緑青︶に分光が可能であ
る。B等級からG等級を引き算しその値︵B
きければ星は低温でスペクトル型はK やM の赤い星に近い。
その値が小さいければ高温の星に近いことになる。差が0で
あればA型の星である。
HR図の作成のため若い星が多いとされる散開星団として
白鳥座のM 、古い星が多いとされる球状星団として猟犬座
個の星についてHR図を作
ターというソフトを使用し標準星の等級をもとにB等級とG
等級を求めエクセルを使用し約
散開星団M は主系列星が多く左上から右下に星が分布し
ている。少し右上にずれ始め巨星に進化を始める転回点の位
た。
成した。撮像から図の作成までほとんど天文部の生徒が行っ
30
球状星団M3はほとんどの星がA型より低温のF型の星が
れる。
置からから星団の年齢が700万年程度ということも推察さ
39
Ƚ
ȽȁIJĸĺȁȽ
Ƚ
−
秒︶を行った。撮像は本校のドーム内の
30
㎝ 屈折望遠鏡を用い、平成十六年一月三日および八月十九
のM3の撮像︵各
39
日 に 行 っ た。 そ の 後 ス テ ラ イ メ ー ジ の 他 に ス テ ラ ナ ビ ゲ ー
10
多く巨星に近づいていることが推察される。
こうした測定が生徒の実習として手軽に可能になったこと
は冷却CCDの機能の素晴らしさを物語ると同時に新しい使
用法を研究することによって天文学の発展にも寄与できるこ
︵理科
教諭︶
とを示している。今後もこのカメラを天体観測の有効な手段
として使っていきたい
Ƚ
ȽȁIJĹıȁȽ
Ƚ
私の発掘体験記 ︵三︶
篠
原
慎
二
遺跡に戻るつもりでいたが、奈良滞在であまりにも長く留守
にしていたため、主任の小林謙一さんから﹁もうお前は来な
県奈良市の平城宮跡第二六五次調査についての話をしたわけ
一四号墳の調査について話をしたいと思う。前回、私は奈良
今 回 は、 國 學 院 と の 出 会 い や 國 學 院 に 移 っ て か ら の 話 に
加えて、茨城県石岡市で行なった遺跡分布調査および舟塚山
しかし、私は古墳を卒業論文の研究テーマにしようと考えて
時代の環濠集落や方形周溝墓の調査に携わることになった。
坐前遺跡というところを紹介して頂き、しばらくの間、弥生
た。仕方がないので、ゼミの先輩から神奈川県川崎市の三荷
はじめに
だが、その調査が終わって東京へ帰って来たところから話を
おり、
﹁どこでもいいから古墳の発掘に参加したい﹂という
くていい﹂と言われ、学生アルバイトをクビになってしまっ
始めよう。
願いが果たせないまま、不満な日々を送っていた。
たちと互いに発表や討論を繰り返しながら、卒業論文をまと
東京へ帰って来ると、私は大学三年生となっていた。すべ
ての学生が必ずどこかのゼミ︵研究会︶に所属し、メンバー
が、古墳調査の最新情報をわかりやすく区民に伝えるという
崎市・世田谷区・大田区の各教育委員会の埋蔵文化財担当者
す る 機 会 を も っ た。 多 摩 川 の 下 流 域 に 位 置 す る 狛 江 市・ 川
一
國學院との出会い
めていかなければならない時期となったのである。私は民族
内容で、古墳の勉強を続けていた私は食い入るようにその話
ちょうどその頃、地元である東京都の大田区教育委員会が
主催した﹁今、古墳がおもしろい﹂という文化財講座に参加
学考古学専攻のうち、鈴木公雄・阿部祥人両先生のゼミに入
を聞いたのを覚えている。そして講座が終わった後、面識も
なく突然ではあったが、大田区の野本孝明さんという学芸員
り、その代表に選ばれた。
考古学を実践する場として、私は再び東京都目黒区の大橋
Ƚ
ȽȁIJĹIJȁȽ
Ƚ
に連絡するよ﹂と快く引き受けて下さった。それを聞いた私
﹁ 今 年 の 秋 に 宝 萊 山 古 墳 の 調 査 を す る か ら、 そ の と き に は 君
参加させて下さい﹂とお願いしてみた。すると幸いなことに
の方に﹁もし近所で古墳の調査をする機会があったら、ぜひ
籍した慶應義塾を去り、國學院に移る決意をしたのである。
がままを押し通した。ここで、高校から大学まで七年間も在
たい思いがあり、苦渋の選択ではあったが、結局は自分のわ
る。それまで世話になった鈴木先生のことを考えると後ろめ
会に来ていっしょに勉強しないか?﹂と誘ってくれたのであ
することとなった。今から振り返ると、國學院と関わること
に、その後輩に当たる院生や学生の方々といっしょに仕事を
になったわけだが、野本さんが國學院大學の出身だったため
ある古墳であった。この古墳の調査にめでたく参加すること
分の専門によって決めるべきものなのである。
というのは偏差値などとは無縁の世界であり、あくまでも自
えると疑問に思う方がおられるかもしれないが、大学院選び
るし、後悔したことは一度もない。大学受験の偏差値から考
進学した。この選択に関しては今でも正しかったと思ってい
入学試験に合格したのを受け、一九九八年四月、私は國學
院大學大学院の文学研究科日本史学専攻︵考古学コース︶に
二
國學院に移ってから
が飛び上がるように喜んだのは言うまでもない。
宝 萊 山 古 墳 と い う の は、 東 京 都 内 で 最 も 有 名 な 多 摩 川 台
古墳群の中にある長さ約九七m の前方後円墳で、私の実家か
になったのは、すべてこの宝萊山古墳の調査が始まりだった
ら自転車で一〇分ほどのところにあり、幼い頃からなじみの
ということになる。人生で何がどういうきっかけになるかと
のではないかと危機感をもつようになった。そんなとき、國
バルもいないという状況であり、自分がダメになってしまう
究をするメンバーがいないし、能力的に競い合うようなライ
待されていたようである。しかし、それでは同じテーマで研
が慶應義塾大学の大学院に進み、ゼミの中心となることを期
そ の 後、 大 学 四 年 生 に な る と、 私 は 進 路 の こ と で 深 刻 に
悩むようになった。指導教授の鈴木先生は、当然のように私
と仰いでいる。ただし、この先生は異常なまでの大酒飲みで
く、本校に就職する際にも推薦状を書いて頂き、生涯の師匠
かわいがって下さり、修士論文の指導をして頂いただけでな
ことができたわけである。吉田先生は外部出身の私をとても
けてきた。私は吉田先生を通じて日本考古学の本流と接する
が創設したもので、全国の考古学界に優秀な人材を輩出し続
研究室というのは、﹁日本考古学の父﹂とされる浜田耕作氏
學教授となったエリートである。ちなみに京都大学の考古学
いうのは、まったくもってわからないものである。
學院大學の院生で古墳時代研究会︵略して古墳研︶という組
まず、新しい指導教授は吉田恵二先生となった。京都大学
を卒業して奈良国立文化財研究所に入り、若くして國學院大
織の代表をしていた新山保和さんという方が﹁こっちの研究
Ƚ
ȽȁIJĹijȁȽ
Ƚ
れており︵あまりにも過激で活字化は不可能︶、優秀な頭脳
でのご乱行については、様々な伝説が教え子の間で語り継が
る飲み会に参加するのは少々きつかった。また、酔った勢い
あり、ほとんど酒の飲めない私にとって、週に何度も開かれ
世界最高水準の卓越した拠点の育成をめざす、文部科学省の
あり、東大などと比べてもまったく遜色ない。だからこそ、
學院大學へ進んでほしいと思う。その内容はまさしく一流で
歴史や文化を本気で勉強したい生徒がいたら、胸を張って國
への進学をめざす傾向にある。しかし、もし日本の伝統的な
に渡って茨城県石岡市で行なった遺跡分布調査である。
國學院大學大学院に在籍していた中で最も印象深いの
は、一九九九年二∼三月と二〇〇〇年二∼三月の約四か月間
三
茨城県石岡市の遺跡分布調査
の客観的な見解である。
お世辞でも誇張でもなく、外部から國學院へ移った者として
二一世紀COE プログラムにも選ばれたのだろう。これは、
とは裏腹にやたらと人間味あふれる方であった。
そ し て、 同 級 生 の 青 木 敬 君 と 出 会 い、 今 で も 友 人 と し て
親しくしてもらっている。発掘をしてから報告書を出すまで
の様々な知識や技術をはじめ、文献を集めてから論文をまと
める思考力に至るまで、まさしく万能の人であり、私は何一
つ彼にかなうものがない。これだけ圧倒的にすごい友人をも
つことで私は大きな刺激を受け、無我夢中で勉強に打ち込む
ことができた。ちなみに彼は、二〇〇三年に二八歳の若さで
歴史学の博士号を授与され、その成果として﹃古墳築造の研
究﹄
︵ 六 一 書 房 ︶ と い う 大 著 を 出 版 し た。 い ず れ は 偉 大 な 考
辺の研究機関で活躍する研究者たちが授業をもっており、直
彦先生、文化人類学者の大林太良先生︵故人︶など、東京周
の井上洋一先生、東京大学の安斎正人先生、宮内庁の福尾正
さ ら に、 國 學 院 に 移 っ て 驚 い た の は、 多 彩 な 講 師 陣 で あ
る。国立歴史民俗博物館の白石太一郎先生、東京国立博物館
分布調査の依頼があり、私の所属していた古墳研が実際にそ
が國學院大學の出身だったことから、吉田先生のもとへ遺跡
とになり、教育委員会の埋蔵文化財担当である安藤敏孝さん
一九八五年以来、約一五年ぶりに遺跡地図の改訂を行なうこ
道路なら常磐自動車道の千代田石岡ICで降りる。この市が
石 岡 市 は、 茨 城 県 最 大 の 舟 塚 山 古 墳 や、 常 陸 国 府・ 国 分
寺 な ど の 有 名 な 遺 跡 を 数 多 く 抱 え、 古 代 に お け る 常 陸 国 の
接その話を聞くことができたのは自分の研究に大きなプラス
の仕事をすることになった。新山さんが調査の責任者である
古学者として学史に名を残すに違いない。
となった。おそらくこれだけの講師をそろえている大学は東
主任調査員になり、私はその補佐役を務めた。
遺跡分布調査とは、考古学最大の武器である発掘調査を行
中心だった場所である。電車ならJ R常磐線の石岡駅、高速
京でもあまりないのではないかと思う。
現在の本校では、成績上位者は国公立大学や難関私立大学
Ƚ
ȽȁIJĹĴȁȽ
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撮影する写真係、採集した土器などを回収する遺物係、班員
を次の拠点へ車で移動させる運転係など、各班員は何らかの
役割をもつ。実際の作業としては主に二つある。一つ目は、
農家の人によって地面が掘り返される田畑や果樹園などの端
を歩くというものである。農作業に邪魔なものは多くの場合
その農地の端に積まれるのが一般的なので、地下に遺跡があ
れば必ず土器などが見つかるのである。もし農家の人がその
場にいれば、じかに話を聞いてみるという手もある。二つ目
は、藪に覆われた荒地の中を歩き回って、古墳や中世∼近世
の塚を探すというものである。見通しが悪く普段は人が入る
す。発掘調査が﹁手術﹂だとすれば、分布調査は﹁診察﹂に
まかな種類・時代・範囲などを特定していく作業のことを指
なわずに、地上の表面的な観察をすることによって遺跡の大
査期間中は参加者全員がいっしょにグリーンパレス石岡とい
ルもあり、なかなか大変でつらいことも多かった。なお、調
へとへとに疲れるし、調査に理解のない地元の人とのトラブ
なく毎日行なわれるのである。一日中ずっと歩き続けるため
こ の よ う な 作 業 が、 昼 食 の 休 憩 を 除 き 朝 か ら 夕 方 ま で ひ
たすら続けられ、しかも雨が降らない限り土日・祝日に関係
Ƚ
ȽȁIJĹĵȁȽ
Ƚ
ことがないため、意外と新たなものを発見することが多く、
新 発 見 の 場 合 は マ ウ ン ド の 長 さ と 高 さ を 略 測 し、﹁ 〇 号 墳 ﹂
当たる。とても地味ではあるが、道路や建物を造るときに地
う公共施設に宿泊していたのだが、一日が終わった後に毎晩
﹁〇号塚﹂というように番号を振っていく。
下に遺跡があるかどうかや、遺跡がある場合に発掘調査を行
やっていた慰労会で、酒を飲みながら互いにその日おこった
とができたように思う。
古墳研のメンバーとは、あの調査を通じてきずなを深めるこ
出来事を話し合うのが唯一の楽しみであった。國學院、特に
なうべきかどうかの判断は、すべてこの分布調査の成果に基
調査は一班当たり四∼五人の体制で、調査の進め方を決め
る班長、遺跡の範囲を地図に記録する図面係、遺跡の現状を
い。
づくのであり、遺跡の運命を左右するといっても過言ではな
石岡市の位置
四
舟塚山一四号墳の調査
茨城県石岡市で行なった遺跡分布調査の終盤になると、日
数と費用に若干の余裕が生まれたため、各班ごとにそれぞれ
の担当区域の中から最も重要だと思う遺跡を一つ選び、補足
調査をすることになった。私は同級生の関根信夫君とともに
第三班を任されていたが、二人で相談した結果、舟塚山古墳
の陪冢である一四号墳を調査対象とすることにした。
舟塚山古墳とは、長さ約一八六m もある巨大な前方後円墳
で、茨城県最大であるばかりでなく、関東地方全体でも第二
Ƚ
ȽȁIJĹĶȁȽ
Ƚ
位の規模を誇り、国から史跡に指定されている。現在までに
測量調査や周濠の発掘調査が行なわれており、採集された埴
輪の特徴から古墳時代中期︵五世紀︶の半ばに築造されたの
ではないかと想定されているが、
﹁国指定史跡は保存を優先
すべし﹂という方針により、肝心な埋葬施設︵被葬者の遺体
がある場所︶を発掘調査することが難しい状況にある。よっ
て、 舟 塚 山 古 墳 が ど の よ う な 埋 葬 施 設 を も つ の か に つ い て
は、陪冢などから間接的に推測するしかない。
陪冢というのは、巨大古墳︵主墳︶の周りに点在する小さ
な円墳や方墳のことで、通常は主墳の被葬者と密接な関係を
もつ人物、例えば家族や家来などが葬られているのではない
かと考えられている。我々が調査した一四号墳は、舟塚山古
墳の周りにいくつか点在する陪冢の一つで、墳丘の残りはか
なり悪いが、分布調査で訪れた際に埋葬施設である石棺の残
舟塚山古墳とその周辺(網かけ部分は周濠の範囲)
舟塚山 14 号墳の石棺
りが非常に良いことがわかり、これを記録に留めようと思い
立ったわけである。
調 査 は ま ず、 墳 丘 を 測 量 調 査 す る と こ ろ か ら 始 め た。 測
量調査とは、地上に古墳や塚が盛り上がっている場合に、そ
の形・大きさ・高さなどを平面的に記録する作業のことを指
す。具体的には、レベルや平板と呼ばれる器材を使って、等
高線と傾斜変換線を図化していくことになる。一四号墳の墳
丘は現状で長さが約一〇m あるが、予想した通りに残りが悪
く、古墳時代当時の姿を留めている部分はほとんどないとい
うことがわかった。
その後、墳丘の頂上に露出した石棺の実測と写真撮影、埋
置状況の発掘調査、および副葬品︵遺体にそえられるもの︶
の残りの有無を確認する作業を行なった。過去に乱掘を受け
た際に石製模造品︵様々な道具を石でかたどったもの︶が出
土したと伝えられているが、我々が調査した時点では副葬品
はまったく残っていなかった。石棺は、片岩と呼ばれる板石
を組み合わせた箱形石棺というタイプであり、茨城県南部か
ら千葉県北部にかけての常総地域︵霞ヶ浦沿岸︶で最も古い
特徴をもつのではないかと考えるに至った。また、この石棺
が長持形石棺の影響を強く受けていることから、舟塚山古墳
の埋葬施設は長持形石棺というタイプではないかと予測する
ことができた。長持形石棺は﹁王者の棺﹂と言われ、日本最
大の古墳である仁徳天皇陵にも採用されているものであり、
まさしく舟塚山古墳にふさわしい。将来的にもし埋葬施設の
Ƚ
ȽȁIJĹķȁȽ
Ƚ
発掘調査が行なわれることがあったら、この予測が当たって
くれることを大いに期待している。
興味をもたれた方がいたら、そちらを参照されたい。
魔になるから﹂という理由で墳丘の雑木?を伐採していたと
車的に調査を始めたのだが、それがまずかった。
﹁調査の邪
育委員会の安藤さんの﹁まあ大丈夫だよ﹂の一言で見切り発
て、許可をもらうべきところである。調査時の上司である教
に特定するのを怠ってしまった。本来ならお宅へ挨拶に行っ
の日本史の授業を受けた生徒の中から考古学を志す者が現れ
ながら一人もそのような生徒は出ていない。いつの日か、私
つもりであるが、二つ目の指令については、今のところ残念
いうものである。一つ目の指令については日々努力している
い生徒がおったら、大事に育ててワシの研究室へ送れ!﹂と
ろ!﹂というもので、二つ目は﹁もし本気で考古学をやりた
私は、師匠の吉田先生から二つの指令を受けて本校へやっ
て 来 た。 一 つ 目 は﹁ 将 来 の 日 本 を 背 負 う 優 秀 な 若 者 を 育 て
おわりに
ころ、遠くから農作業用の鎌を振り回した男性が﹁お前ら、
てくれることを密かに願いつつ、三回に渡ったこの連載を終
何やってんだあ!﹂と怒鳴りながら走って来たのである。正
余談だが、この調査で私は大きな失敗をした。一四号墳は
私有地なので地主がいるはずなのだが、それが誰なのか事前
直なところ、そのときは殺されるかと思ったが、よくよく聞
わらせることにしたい。
︵地歴公民科 教諭︶
いてみると実はその方が地主であり、しかも我々が雑木と間
違えて、せっかく植えたクリの苗木を切ってしまったのだと
言う。ただただ申し訳なく、その場はひたすら謝り続け、苗
木 代 は 弁 償 す る こ と に な っ た。
﹁もう調査をするのは無理だ
⋮﹂と諦めかけたが、地主は非常に人間のできた方で、事の
いきさつを説明すると、﹁まあ学生のやったことだから﹂と
いうことで許して下さり、奇跡的に調査を続行することがで
きた。若気の至りとは言え、自分は本当に世間知らずだった
なあと、今でも深く反省している。
なお、以上の調査成果の詳細については、二〇〇一年に石
岡 市 教 育 委 員 会 か ら 発 行 さ れ た﹃ 石 岡 市 遺 跡 分 布 調 査 報 告 ﹄
および﹃石岡市埋蔵文化財分布地図﹄にまとめてある。もし
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ȽȁIJĹĸȁȽ
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きっかけは﹁現場へ行きたい﹂
佐
藤
晴
彦
この仕事から学んだもの
意外性が必要である﹂ことや﹁クレームこそ商機獲得のチャ
例えば﹁駆け引きの繰り返しで勝負の時を見極める力がつ
く ﹂ こ と や﹁ 人 と 同 じ こ と を し て も だ め ﹂ な こ と、
﹁時には
を与えたことは間違いない。
の店員の時代であり、そこでの経験が今の私に多大なる影響
初めに断っておくが、編集記者時代に学んだものがなかっ
たわけではない。しかし、本当に勉強になったと思うのはこ
との重要性﹂を知ることになる。
﹁カーエレ担当の佐藤です﹂
私は本校の教員になる前、企業人として働いていた。もと
もと教員志望ではあったが教員になる前に世の中を見ておき
たいという願望があった。そして、働くなら自分の好きな道
でと思い、好きなクルマ関係の仕事を選んだのだ。
実際にクルマをいじるという実務経験がないため、原稿を書
そして、自動車雑誌の編集記者となり、念願のクルマ関係
の仕事に就くことが出来た。ところが、大学を出たばかりで
いていても想像の域の、机上の空論を論じているような思い
ンス﹂といった、よく巷で売られているビジネス書に書いて
業種的には売上を立てて利益を生んでナンボの世界だか
ら、売上に結びつくことを優先させ、客がトラブルにあい、
●最終的には﹁人間性﹂
れた印象的な事例を振り返ってみようと思う。
あるようなことも学んだが、その中でも自分を成長させてく
につきまとわれるようになってしまった。
そ こ で、 い つ の 日 か 再 び 編 集 記 者 と し て 戻 れ る 日 を 夢 見
て、実務を積むべく転職を決意。一番身近にクルマを使う人
の声が聞こえるであろう﹁現場﹂
、カー用品店の店員となっ
たのである。配属はカーステレオやカーナビゲーションシス
テムなど、電装品を中心に扱うカーエレクトロニクス部門、
通称﹁カーエレ﹂。ここで﹁現場に出ること、現場を知るこ
Ƚ
ȽȁIJĹĹȁȽ
Ƚ
会社の仲間たちと。クリスマス商戦の時のひとコマ。
そこに同情すべき事情があろうとも、通常そこはビジネスと
して割り切ることを求められる。
しかし、出来る範囲であれば全力を尽くすべきであると私
は考える。こんなことがあった。目の前の光景が熱気でゆら
ゆらと揺れて見えるようなある暑い夏の日、家族旅行で出か
ける予定をしていた家族が立ち寄った。カーナビが調子悪く
なってしまい修理に立ち寄ったのだという。当然カーナビは
修理のために預かりとなり、その間、つまり旅行中は使うこ
とが出来ない。しかも、お盆でメーカーは休みとなり、修理
が完了する頃には夏休みは終わってしまう。
お 決 ま り で﹁ こ う い う 時 の た め に 買 っ た の に 肝 心 な 時 に
使えないのでは意味がないじゃないか。﹂という話になるが、
いつも﹁すみません。﹂の一言で片付ける。
ところが横にいた小学生くらいの姉妹の悲しそうな顔が、
その一言で片付けさせてはくれなかった。
﹁お父さん、旅行に行けなくなっちゃうの。
﹂と繰り返す妹
を、 父 と 姉 が な だ め て い る 姿 を 見 て、 私 は 上 司 に 頼 み こ ん
だ。
﹁あの家族が使っているカーナビは私が使っているもの
と同じ機種のはずです。私のものを貸してあげても構わない
でしょうか。﹂と言い終わる前には手に工具箱を持ってクル
マに向かおうとしていた。﹁そこまでする必要はない。もし
返してもらえなかったらどうするんだ。よく考えろ。
﹂今考
えれば客とはいえ赤の他人に高額なものを貸すというのは無
謀だったかもしれない。しかし﹁それでも構いません。あの
Ƚ
ȽȁIJĹĺȁȽ
Ƚ
族のクルマに取り付けた。こうして一家は無事旅行に行くこ
上司に睨まれながら自分のクルマからカーナビを外しその家
訳のわからないことを口走り、とにかく頼みこんだ。呆れる
よ う に 行 け る か ど う か わ か ら な い じ ゃ な い で す か。
﹂などと
姉妹の今年の夏は、今年しか経験出来ないんです。来年同じ
る。最終的には﹁人﹂なのだ。こういったことがわかったの
しみに満ちたものにもなり、反対に夢を壊すものにもなりう
にもなり、逆に興味を惹かないものにもなる。また、夢や楽
いる。たとえ商品は同じでも、扱う人によって魅力あるもの
実績から少なくとも全てがそうだとは言い切れないと考えて
が、私はこのやり方でその後の売上コンテストで賞を取った
一 週 間 ほ ど 経 ち、 あ の 家 族 が カ ー ナ ビ を 返 し に き た。 気
が付くと、父親のもう片方の手には大きな箱・・・
﹁佐藤さ
らったと思っている。
からに他ならない。私としては、本当にいい経験をさせても
先、そして客といった本当に様々な人々と時を過ごしてきた
も実際に現場に出て、現場を知り、そこに関わる社員や取引
とが出来た。
ん に ケ ー キ を 買 っ て き ま し た。
﹂わざわざ当地のものを買っ
学業、そして教員の仕事との関係
はその係わり合いを左右する﹁人間性﹂がモノをいうのでは
るのは紛れもない﹁人間との関わり合い﹂であり、最終的に
せてしまうことも出来る。しかし、その商品を介して存在す
なければならず、販売担当者は店舗の総売上まで頭の中に入
には担当部門の日割目標や月間目標、年間目標を把握してい
ら﹂と思う人もいるかもしれないが、売上目標について話す
を 全 て の 社 員 の 前 で 話 さ な く て は な ら な い。
﹁そのくらいな
例えば朝礼での話。当番制で司会をして二言三言話すのだ
が、内容は売上目標の確認に始まり達成状況や市場動向など
いのだ。
に決まっている。しかし、現実はそんなに単純なものではな
事をしているのだからクルマについての知識は多い方がいい
クルマ関係の仕事ならばクルマの知識が豊富にあればいい
のではと思う人がいるかもしれない。もちろん、クルマの仕
●クルマ屋に勉強はいらない?
てきてくれたのだという。中を覗くと、ドライアイスの白い
煙がふんわりと立ち昇る中にひとりでは食べきれないほどの
大きさのチョコレートケーキ︵だったと思う︶が収まってい
た。﹁おかげで本当に楽しい家族旅行が出来ました。
﹂という
父親の傍らには、あの姉妹が寄り添っていた。そして⋮﹁お
兄さん、ありがとう。
﹂みんなで食べたあの冷たいケーキの
味は格別だったのは言うまでもない。
確 か に、 扱 っ て い る 商 品 は ど れ も 無 機 質 な も の で、 極 端
な 言 い 方 を す れ ば 単 な る 工 業 製 品 で あ る。 そ し て、 貰 っ た
ないかと思っている。ビジネスにおいて成功するには、人間
ケーキも﹁たかがケーキじゃないか。
﹂と話をそこで終わら
性は二の次で冷酷さがあればいい、などと言う話をよく聞く
Ƚ
ȽȁIJĺıȁȽ
Ƚ
かせない。
ばならず、経済新聞・業界新聞を中心とした情報の入手は欠
れを取り巻く環境はどうなっているのかを把握していなけれ
であれば、業界としてどのような動きがあるのか、また、そ
れておかなければならない。また、市場動向について話すの
ればならないし、逆にカー用品店ごときで︵業界の皆さんゴ
が可能になる。当然、外国人の客がくれば接客は英語でなけ
単語の意味からどのようなものかを推測するなどということ
く使われており、場合によっては商品について知らなくても
必要となる場合もある。そして、クルマの部品には英語が多
メンナサイ!︶英語が話せる店員がいるとなればそれが口コ
ミで広まり、宣伝にもなる。その他、アジア諸国からの経済
そして、学業との関係。生徒の中には自分が将来進む道に
は何の教科はいらないなどと勝手に決めてしまっている者が
コストが安いので使い捨てが当たり前であるが、日本で当た
問われ、返事に困った苦い経験がある。日本ではビンの製造
本ではなぜクルマの芳香剤のビンを再利用しないのか﹂と
●どうして勉強しなければならないの?
い る よ う だ が、 私 は 必 要 の な い 教 科 な ど な い と 思 っ て い る 。
り前のことが国外では当たり前ではないということについて
視察団が来店し、商品の説明したこともあった︵その時﹁日
この業種を例にとってみれば、当然販売であるからには数学
籍しているのかを調べることと同じであり、どのような客層
例えば、分析という作業に関して言えば、どのような商品
を持っているのかを調べることはどのような素質の生徒が在
は違うが仕事で共通することは多いのだ。
現在、私は英語の教員であり全く違う仕事をしているよう
に思われるかもしれないが、実はそうでもない。勿論、職種
● 現在の仕事との関係
に関してはこのように説明がつくのだ。
なものであることは言を待たないが、少なくとも上記のもの
た︶
。勿論、ここには出てきていない他の教科も同じく必要
の勉強がまだまだ足りないということを痛感した出来事だっ
︵というよりは算数か︶は必要。売上の計算からローンの金
利計算などが即座に出来なくてはならない。
また、整備や作業の関係上自動車を登録する陸運局などの
所在地を知っておかなくてはならないし、客から﹁いいドラ
イブコース知らないか。
﹂ と 言 う 話 に な る こ と も あ る。 そ こ
で地理の知識が必要となるし、客に対し商品の情報を簡潔明
瞭に過不足なく説明をするためにはきちんとした国語の力が
必要である︵使う言葉ひとつで僅かな時間で多額の売り上げ
が立ったり、逆に﹁ひと言﹂がとんでもないトラブルの引き
金 に な る と い う の も 紛 れ も な い 事 実。 経 験 者 談 ︶
。業種的に
が必要となり、二酸化炭素や二酸化窒素の化学反応について
は理科的要素も必要とされる。慣性の法則などの物理の知識
の知識やイオン分子の特性などの化学についての知識などが
Ƚ
ȽȁIJĺIJȁȽ
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がどのような商品を望んでいるのかを調べることは、どのよ
うな生徒がどんなことに興味を持っているのかを調べるのと
るが、主に先程の選択でよいかと思われる。
また、原則として使えるオイル︵正確に言うとオイルのグ
レード︶は決まっている。取り扱い説明書に使用可能グレー
ド が 記 載 さ れ て い る は ず な の で 確 認 し て 欲 し い︵
同じである。また、売れ筋商品や長期在庫品の調査は生徒に
いった表記︶
。G やH の 部 分 は ア ル フ ァ ベ ッ ト 順 で あ り 指 定
と
置き換えると頑張っている生徒や頑張らせたい生徒というこ
や
とになり、商品のセールスポイントということになれば生徒
グレードより下のオイルを使わなければよいということにな
が上のグレード︶。
る︵
SG
SH
℃くらいから使用できる。
は高温域でのオイルの
15
15
あれば鉱物油や部分合成油で問題ないし、ターボなどの過給
例えば洗浄成分などの添加剤。通常街乗りメインの国産車で
合成油が一番高い。何が違うかと言えばその中に含まれる、
の期間を目安として欲しい。特にカーナビなどの電装品の多
よりダウンする直前まで異常が現れないことが多いので上記
電を繰り返した回数による。最近のバッテリーは高性能化に
は二年が目安。正確に言えば年数が寿命なのではなく、充放
び割れている可能性があるので注意してほしい。バッテリー
射により硬化するので年数の経ったタイヤは溝があってもひ
要交換である。溝が残っていてもタイヤのゴムは紫外線の照
タイヤ・バッテリーとも使い方にもよるがタイヤは距離的
には三万キロから四万キロ走ってひびや亀裂が入ったものは
●タイヤやバッテリーの寿命は?
∼ のものを使用すればよい。
追従性を示すものだが余程アツい走りをする人でなければ
イナス
ま た﹁ W │ ﹂ の W は 使 用 可 能 温 度 域 を 示 し︵W は
﹁ウインター﹂の意味︶
、国内で使うのであれは で十分。マ
より
の特筆すべき点ということになる。一見全く違う仕事をして
よくある質問
いるようでも、やっていることは同じなのだ。
最後に、店員時代に質問されたことをまとめてみた。この
中にこの文の読者に﹁これをききたかった﹂というものがあ
れば幸いである。中にはきちんと解答出来ていないものもあ
るかもしれないが、その部分は英語教師の書いた一読み物と
して了承していただきたい︵もし間違っていた場合には遠慮
なくご指摘を︶
。
●オイルはどれを使えばいいの?
30
30
いクルマは要注意。
大きく分けてオイルには3つの種類がある。鉱物油・部分
合成油・化学合成油であり、値段は鉱物油が一番安く、化学
SH
15
機付きエンジンや大排気量エンジンには化学合成油を使って
Ƚ
ȽȁIJĺijȁȽ
Ƚ
15
あげてもいいだろう。クルマの使い方や仕様で選び方は異な
30
SG
40
環するので急発進・急加速などを避け、低速で走りながら暖
個人的にはいらないと思う。毎日使うクルマであればエン
ジンをかけてから二十秒から三十秒でオイルがひととおり循
は発電効率のよいオルタネーターを使っているためその必要
消費電力の大きいヘッドライトを消していた。しかし、最近
転の低いアイドリング状態では電気を少しでも節約しようと
これも昔の名残であろう。以前はクルマの電気を発生させ
るダイナモという部品の性能が悪かったため、エンジンの回
●信号待ちでヘッドライトを消す人がいるのはなぜ?
める。なお、エンジンの動力を伝える変速ギヤや駆動系の部
は殆どなくなった。ベテラン運転手の乗るタクシーが信号待
●暖機運転はいらない?
品は止まった状態でいくら暖機運転しても暖まらない︵走っ
くこの名残だろう。
ちでヘッドライトを消している光景をよく見かけるのは恐ら
て初めて暖められる︶。
特に冬はエンジンスタート後かなり濃い目の燃料を噴射し
ているため、長時間の暖気は燃費の悪化の原因にもなる。
ることになる。しかし、これは緊急用と考えるべきで悪天候
結論から言えば本当である。ウーロン茶には油を洗い流す
成分が含まれており、理屈からすれば油膜落としとして使え
●ウーロン茶が油膜落としに使えるって本当?
規定の空気圧は通常国産車であれば運転席のドアを空けた
ところにラベルが貼ってあるのでそれを参考にすればよい。
●空気圧はどのくらい?
なお、低すぎる空気圧は空気の抜けたサッカーボールなどが
の中運転に支障をきたすほどの油膜に悩まされ、カー用品店
す洗剤︶が代用できる。
︵外国語科
教諭︶
る。コンビニがあれば台所用洗剤︵食器などの油汚れをおと
もなく自販機のウーロン茶しか手に入らない場合の手段であ
転がりにくいのと同じで燃費低下の原因になる。
●スタンドで水抜き剤をすすめられるが?
頻繁に入れる必要はない。昔はガソリンのタンクがスチー
ル︵鉄︶製だったため、中に溜まった水が原因となり錆が発
生し穴があくということがあったが、最近のクルマのタンク
はFRP素材や樹脂といった非金属のものを使用しているの
で、入れても冬シーズンの変わり目に入れるくらいでよいと
思う。
Ƚ
ȽȁIJĺĴȁȽ
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就職戦線異状あり
平 成 五 年 六 月、 教 育 実 習 の 行 わ れ る 一 週 間 前 の 日 曜 の 午
後、我々ラグビー部員にとってはいつもと変わらぬ日曜日で
あった。いつもと変わらぬというのは、ラグビーの練習試合
その三
教育実習編
御代 田
誠
右のフランカーのポジションが与えられた。この日も﹁どん
なことをしても、このポジションだけは誰にも渡さないぞ﹂
と意気込んで、試合に臨んだ。
は誰にも渡さないぞ﹂と意気込んでいた。このシーズン︵三
となった時は、
﹁ ど ん な こ と を し て も、 こ の ポ ジ シ ョ ン だ け
私だけみんなに遅れを取っていたので、三年生でレギュラー
ラ グ ビ ー 部 の 仲 間 は、 二 年 生 の 時 か ら レ ギ ュ ラ ー で あ っ た 。
ギュラーである。私と一緒に国栃から國學院大學に進学した
の位置に定着した。回りくどい言い方をしたが、いわゆるレ
昨年︵大学三年時︶は怪我をせず、一年間頑張って最後ま
で練習に参加したこともあり、一年を通して右のフランカー
る。敵陣ゴール前でボールを貰った私は、なんとかトライし
やろう﹂と余計なことを考えたのである。その矢先の事であ
ありえるな、よし、ここでトライでも決めていい所を見せて
を つ け て い る か ら、 俺 の 替 わ り に レ ギ ュ ラ ー に な る こ と も
合からは後輩が出ることになるだろうな。あいつは最近、力
﹁ 来 週 か ら 二 週 間 は 教 育 実 習 に 行 っ て し ま う か ら、 次 の 試
よぎった。
じだろう︶私は試合に集中していたはずだったが、ふと頭を
いっており戦力ダウンが否めない状態であったが、相手も同
試合は拮抗しどちらが勝っても負けてもおかしくない状況
であった。
︵国大はレギュラーメンバーの数人が教育実習に
年 時 ︶ は、 前 回 号 で も 書 い た が、 四 年 生 の 先 輩 と も 仲 が 良
である。この日は立正大学との練習試合の日であった。
かったこともあり。上級生の連携が上手くいってたこともあ
て自分をアピールしようと、タックルを受けながら無理な体
が走った。激痛をかばうように倒れた私は、恥ずかしながら
勢からボールを敵陣へ運ぼうと思ったその瞬間、左膝に激痛
り、リーグ戦三部で全勝優勝した。
そして平成五年六月、いよいよ我々が最上級生となり、毎
年 恒 例 の よ う に 練 習 試 合 が 始 ま っ た 。 私 は 昨 年 に 引 き 続 き、
Ƚ
ȽȁIJĺĵȁȽ
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ボールを前に落とした。いわゆるノックオンの反則を犯して
りました﹂と答えるのみであった。
のズボンを買いなさい﹂との事、私はただただ﹁ハァーわか
別の方向でも的中した。
内心﹃教育実習が始まる前からこの調子じゃ、とんだ教育
実習がはじまるぞ﹄と思った。その思いは少なからず、また
しまったのである。味方の選手からは﹁おいミヨタしっかり
しろ﹂﹁せっかくここまできたのに勘弁してくれよ﹂と叱責
を受けた。悔しい気持ちとみんなに申し訳ない気持ちで痛み
を堪え﹁すまない、取り返すよ﹂と言って立ち上がったが、
覚えた。本来ならばチームの勝利を願うのに、自分のことし
よりも最後までグラウンドにいられなかったことに悔しさを
ンチへと下がった、試合は僅差で負けてしまった。負けた事
交代を申し入れた。歩くこともできず、後輩の肩を借りてベ
実 家 か ら 吉 岡 先 生 の 自 宅 へ と 車 で 向 か っ た。
︵幸い左足の怪
が た い こ と で あ ろ う か、 私 は す ぐ に 支 度 を 整 え て、 埼 玉 の
通えよ、俺も一人で寂しいし﹂と言ってくれた。なんとあり
ちょうど妻も出産で里帰りしているから、俺の家から学校に
ま す ﹂ と、 吉 岡 先 生 は す ぐ さ ま、﹁ 怪 我 し た と 聞 い て る よ。
教 育 実 習 に 行 く 前 日、 恩 師 で あ る 吉 岡 先 生 に 電 話 を 入 れ
た。﹁先生、明日からお世話になります。よろしくお願いし
か考えていない、そんな私だからこの日の怪我を受傷したの
我 で あ っ た の で、 オ ー ト マ チ ッ ク 車 は 辛 う じ て 乗 れ る 状 態
立ち上がるのがやっとでスクラムにつくこともできなかっ
です。チームプレーなんてそんなもので、勝手にプレーする
は す ぐ さ ま﹁ 先 生、 来 週 か ら 教 育 実 習 が あ る の で ギ プ ス は
ようなので固定した方がよい﹂との医者の判断であった。私
まかれ、松葉杖を渡された。﹁腫れもひどいし、痛みもある
るようだった。結局、足首から足のつけ根部分までギプスを
翌朝、自宅近くの病院にタクシーに乗って行った。膝の腫
れはひかず、医者が色々と触診してくれるたびに悲鳴を上げ
どの荷物を運んでくれたのである。嬉しかった、恩師がこん
す ﹂ と 言 う と、
﹁ 何 言 っ て ん だ よ。 お 互 い 様 だ よ ﹂ と ほ と ん
宅玄関に運んでくれたのである。私が﹁先生、自分でできま
と変わらぬ笑顔で言ってくれた。そして私の荷物を次々と自
だったな、大事な教育実習の前に怪我するなんて﹂といつも
の音を聞きつけて、玄関から先生が出てきてくれた。
﹁災難
た。痛みから緊張の糸も切れ、私は初めて自分からベンチに
者がいれば負けるし、怪我もする。
なんとかならないでしょうか?﹂と願い出たが、﹁自分の足
なことしてくれるなんて吉岡先生以外にはいないだろう、そ
であった︶一時間後、吉岡先生の自宅前に車をつけると、そ
も 大 切 に し な さ い。 ギ プ ス は 腿 の つ け ね か ら 足 首 ま で だ か
う思った。
先生は自宅に入ると、私に一階の居間を自由に使えと言っ
ら、杖がなくても歩くことはできる。松葉杖は念のためだか
ら、
・・・・それにスーツだって着られるよ。ちょっと太め
Ƚ
ȽȁIJĺĶȁȽ
Ƚ
日からが私の教育実習の始まりであった。
勉強もするだろ、ここ使えよ﹂そういってくれたのだ。この
てくれた。﹁テレビもあるし、冷蔵庫もあるし、テーブルで
丈夫ですか、無理せず頑張りましょう﹂と暖かい言葉をかけ
と、久保田先生も私の足を気遣って下さいました。
﹁足は大
り、尊敬してやまない先生です︶不安な顔で挨拶を済ませる
と実習に間に合いません﹂と言うと、先生は﹁お前、本気で
か﹂と言うのです。すかさず﹁ギプスなので早く家を出ない
田、ずいぶん早起きだな。どうしたんだ?緊張でもしてるの
ると朝に弱いはずの吉岡先生が二階から起きてきて、
﹁御代
く先生の自宅を出ようと、早起きをして身支度を整えた。す
翌朝、本格的な実習の始まりである。実習生は車やバイク
での通勤は禁止されているため、ギプスを巻いている私は早
ていない私は、同期の誰よりも早く憧れの教壇に立つことに
でしょ 何言ってんだこの先生は。
﹄と思いました。という
のは、初日から授業なんてするわけない、と高をくくってい
て み ま し ょ う ﹂ と 言 う の で す。 私 は 内 心﹃ で き る わ け な い
あ、 一 時 間 僕 の 授 業 を 見 学 し た ら、 次 の 時 間 か ら 授 業 を し
かの間の印象でした。久保田先生はその後続けざまに﹁じゃ
私の久保田先生に対する第一印象でした。しかし、それもつ
てくださったのです。なんと優しい先生なんだろう。これが
言ってるの?
二週間も歩いて通うのか?あの坂登るの大変
だぞ、合理的じゃないよ、俺が送ってやるよ、安心しろ﹂と
なったのです。
メ だ ﹂ と お し え て く れ て い ま し た。 な る ほ ど こ う い う の が
︵ 昨 年 ま で 本 校 の ハ ン ド ボ ー ル 部 講 師、 現 栃 木 商 業 非 常 勤 講
ら落ち着かない様子でした。その様子を察知した、新井教生
そして一時間久保田先生の授業を見学し、いよいよ教壇に
立つことになりました。私は極度の緊張により、休み時間か
たのです。そんな甘さを引きずって、何も授業の用意などし
言 っ て く れ た の で す。 ま た ま た 恩 師 の あ り が た さ が 解 っ た 。
合理的というのだと感じた瞬間でもありました。そして先生
先生は高校時代から、﹁練習も生活も合理的にやらなきゃダ
は、八時二十五分、吉岡邸を出発し八時半の職員打ち合わせ
師︶が﹁御代田、情けないねー私が付き添ってあげる﹂と言
﹁起立 気をつけ 礼!﹂
号令係の声が教室に響きます。
結局、意気地のない私は新井教生に手を引かれ、初めての
の教壇に立つことになったのです。
い出すほど、緊張していたのです。
に間に合うように送ってくれたのです。
こ の 日、 教 育 の 現 場 を 初 め て 体 験 す る、 そ の 瞬 間 で あ っ
た。 私 の 同 期 は 既 に 担 当 教 諭 の 机 の 脇 で、 緊 張 し た 面 持 ち
で 立 っ て い ま し た。 も う 担 当 教 諭 と の 打 ち 合 わ せ も 終 わ っ
ているようでした。私の担当は久保田教諭です。高校時代に
は教わったこともなく、私の先輩の担任であったことしか知
りません。︵現在は色々なことを相談できる、良き先輩であ
Ƚ
ȽȁIJĺķȁȽ
Ƚ
﹁お願いします﹂生徒は一斉に頭をさげ言い放ったのです。
﹃私はそんな人間ではありません。どうか頭を下げないくだ
﹃信頼していない顔である。﹄
うと、いつまでも怯えていられませんでした。とにかく堂々
﹃しかし、生徒諸君にとっては、私もまた先生なのだ﹄と思
してくれ、教科書をとじて。﹂と、教員としてあるまじき発
は教員として教えたくないので明日までに調べてくるから許
﹁みんなごめん。私の予習不足で正確な答えが言えない。嘘
私は、生徒にこう言い放った。
私はとっさに久保田先生の顔を見たが、先生は相変わらず
に顔を下げたままである。いてもたってもいられなくなった
とを、心がけました。
さい﹄これが私の本当の叫びです。
﹃よし、まずは出席の確認だ、堂々と振る舞うんだぞ﹄と自
言であった。
休み時間、久保田先生を訪ね、恥を承知で私の授業の感想
を訪ねた。すると
冷や汗と上辺だけの繕いの授業で初授業は終わった。最低
の授業であった、悪夢である。
える事で精一杯だった。
その後の授業は、私の高校時代の思い出話をするだけしか
なかった。とにかく、この学校のおかげで私があるのだと伝
分に言い聞かせ、カラカラの喉をふりしぼって一人一人の名
前を呼びました。
︵このクラスに、現在理科の遠藤教諭がい
たことは十年経って知ることになるのだが・・・︶
時間稼ぎの出席確認もあっという間に終わり、いよいよ授
業となった。
︵しかし、久保田先生は私を気遣うかのように、
下を向いたまま顔を上げようとしない。︶予習も不十分な私
は半ばやけくそになり、﹁教科書の○○ページを開いて﹂と
言い、指名読みをさせた。
﹁教師はね、なかなか生徒に頭を下げられない、プライドが
に思えた。ところがある生徒が、つまづいてしまったのであ
こ の ク ラ ス は 国 立 理 系 コ ー ス で︵ 担 任 は 岸 先 生 ︶ 優 秀 な
生徒が揃っていたので指名読みは順調に進んでいった。よう
す。頑張って下さい。
﹂ と い う の で す。 久 保 田 先 生 の 心 の 広
男 ら し か っ た で す よ。 明 日 か ら は 私 の 授 業 の 全 て を 任 せ ま
ないのだ、忘れていたことを思い出しました。あの謝罪は、
まうものだが、御代田先生が言ったように嘘を教えてはいけ
高いんだよね。自分が知らないこともね、なんとか繕ってし
る。教科書の読み漢字︻心平らかに︼が読めないと言うので
あの悪夢の始まりである。
ある。︵もちろん、こころたいらかに とよむのである︶予習
さと度量に敬服しました。と同時に、任されることの重大さ
不足の私は、﹁こころたいらかに?﹂﹁こころひららかに?﹂
を知った教育実習初日でした。その後の二週間は語るに語れ
ないズッコケの教育実習でした。これは、久保田先生と私の
と自信なさげに、二つの読み方を言ってしまったのである。
もちろん生徒諸君の反応は手に取るように解った。
Ƚ
ȽȁIJĺĸȁȽ
Ƚ
秘密です。語れる日が来たなら証したいと思います。怪我を
と、同時に仲間のいる心強さと、安心感があった。
で酒を酌み交わし講義を受けた。有意義な一週間であった。
げで無事に実習が終了したお礼の手紙と花束を、我々の生活
我々の教育実習が終わる土曜日、吉岡先生は御長男誕生の
ため福岡に帰省し、学校にはいなかった。我々は先生のおか
験は二度とないだろう。﹂
﹁生涯初めての合宿生活にして最高の一週間。もうこんな経
二人の教生は運動部を経験したことがないので合宿生活を
したことがなかったが、後にこんな事を言った。
したときに感じた、とんだ教育実習でした。
今の私があるのも久保田先生のおかげだと感謝していま
す。
岡邸は男四人暮らしとなった。安蒜教生︵社会科︶と村川教
余談
吉岡先生の家に下宿を初めて一週間が過ぎようとしたこ
ろ、 同 じ 教 育 実 習 生 が 新 た に 二 人 同 居 す る こ と に な り、 吉
生︵社会科︶である。二人は運動部に所属していたわけでも
噂によると吉岡先生は三人の手紙を見て寂しくて泣いたと
か・・・・
していた居間に置き合い鍵で鍵をかけポストに入れて、それ
現在、安蒜教生はアパレル業界に就職、村川教生は実家の
ぞれの家に帰っていった。
である。それを聞きつけた吉岡先生が﹁御代田の友達なら連
整体所を引き継ぎ、整体師になった、﹁いつか吉岡先生にお
なく、吉岡先生に体育を習っていただけの教生であった。安
れてこいよ、旅館に泊まるなら家にとめてやれ。お金がもっ
世話になった分、ラグビー部の選手をマッサージしてあげた
蒜教生は大宮出身、村川教生は草加出身であり、自宅から通
たいないよ、合理的でないだろ、もっと早く誘ってやれば良
うのも困難と言うことで、栃木市内の旅館に泊まっていたの
かったな。﹂と言うのである。合理的が好きな先生らしい提
い﹂と語ってくれている。そして私は念願叶って國學院栃木
︵国語科 教諭︶
就職戦線異状あり。これからが本番である。
まだ前の話である。
教育実習の話であった。國學院栃木の教員になるまでのまだ
の教員になった。國學院栃木の教員になりたくてなった男の
案であった。私は二人からそのような相談を受けていたが、
﹁吉岡先生とあまり接触がないのに、ずうずうしいよ﹂と断
り続けていた所だったので、目から鱗であった。
安蒜教生と村川教生はすぐに荷物をまとめて吉岡先生の家
にやってきた、教育実習吉岡道場の始まりである。
私 を 含 め 三 人 の 教 生 は 勉 強 も し、 お 互 い の 担 当 ク ラ ス の
情報交換もできた。時には吉岡先生の教育談義で先生を囲ん
Ƚ
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ジョン万次郎の生涯
私どもの習俗を一そう健全に批判するためにも、また何
事をも見聞きせずに過した人々がおちいりがちな、私ども
のやり方に反するものはすべて笑うべきもの道理に背くも
のと考えてしまわぬためにも、諸国民の習俗について何も
のかを知るのは善い事である。
デカルト﹃方法序説﹄より
大
島
秀
郎
ることにした。記憶は定かではないが、私が中学三年生のと
きに使用していた英語科の教科書﹁ニュー・プリンス・イン
グリッシュ・コース﹂︵開隆堂出版︶に、 The Story of John
というレッスンがあったような気がする。確か、
﹁不
Manjiro
屈の精神を貫いた土佐の巨星﹂とかいうサブタイトルがつい
ていた。
日米交流百五十周年ということで昨年から今年にかけ
て、九千キロの太平洋をはさんで両岸でいろいろな記念行事
家、福沢諭吉について書かせていただいた。今年度は福沢諭
本の近代化に貢献した人物である。昨年度は本誌に啓蒙思想
の 福 沢 諭 吉 は デ ザ イ ン の 一 部 が 変 更 と な っ た。 い ず れ も 日
昨 秋、 日 本 の 紙 幣 が 一 新 さ れ た。 千 円 札 の 夏 目 漱 石 が 野
口 英 世 に、 五 千 円 札 の 新 渡 戸 稲 造 が 樋 口 一 葉 に、 一 万 円 札
許されていた国から来る人物と書物を通じて。第二は、中国
江戸時代、鎖国日本で海外情報を得る手段は三つあった。
すなわち、第一は、オランダというただ一つの西洋の通商を
三十一日、いまの横浜で日米和親条約を結んだわけである。
き 揚 げ、 翌 年 再 来 日 す る。 そ の 結 果、 陽 暦 一 八 五 四 年 三 月
交を開く条約をまだ結べないというなら﹂と言って一度引
はじめに
が開催された。二〇〇三年はペリー提督が江戸湾に初めて姿
吉と同世代︵生没年がほぼ一致︶で、﹁英学﹂および﹁咸臨
系のもの。中国も長崎に入ることを許されていたし、そのう
丸 ﹂ と い う キ ー ワ ー ド で つ な が る 中 浜 万 次 郎︵ 別 名 ジ ョ ン
を現わしてからちょうど百五十年目にあたる。ペリーは﹁国
万次郎︶の人物像に迫り、文字通りその﹁航跡﹂を追ってみ
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妙なルートとして、第三に、こちらからとあちらからの双方
から、儒者がさかんに西洋事情を紹介している。もう一つ奇
え、漢文は日本のインテリの当時得意とするところであった
の三つだそうである。一、辞書を引かない。二、わからない
︵ 電 気 通 信 大 学 助 教 授 ︶ に よ れ ば、 百 万 語 多 読 の 三 原 則 は 次
の英語多読法、すなわち﹁百万語多読﹂主催者の酒井邦秀氏
である本校講師ティシャー・エリック・サクソン氏に校閲を
私 自 身 英 米 文 学 科 の 出 身 で、 現 在 英 語 科 の 教 員 で は あ る
が、より正確を期するために、英文については英語母語話者
ところは飛ばす。三、進まなくなったらやめる。
日本がまだ鎖国中にアメリカを見てきた漂流民のうちで、
日本文化に貢献した重要な人物が三人いる。一八三三年に漂
の漂流民によるものがあった。
流 し た 尾 張 の 音 吉 と、 一 八 四 一 年 に 漂 流 し た 土 佐 の 万 次 郎 、
お願いした。心より感謝の念を表したい。
一
太平洋の漂流冒険者
One day in the summer of 1841, an American ship was
name was Manjiro. The captain's logbook says, "Sunday,
only fourteen years old was among the five Japanese. His
captain gave them something to eat and drink. A young boy
ship took them all on board. They were very hungry. The
boat wrecked by a heavy wind. The captain of the American
They were Japanese. They were the men from a fishing
island. The men stood calling for help.
The men on board were surprised to see five men on the
sailing near Torishima(the island of Tori) to catch whales.
海の男の波乱万丈のドラマが始まる。
さあ、これより、海難という絶望の淵に差し込んだ一筋の
光明を見据えて、強い意志と忍耐で自らの運命を切り開いた
および一八五〇年に同じ難にあった播磨の彦蔵である。
音吉と彦蔵のことはあまりよく知られていないが、万次郎
については井伏鱒二の﹃ジョン万次郎漂流記﹄︵昭和十二年・
新潮文庫︶という小説がある。土佐沖で遭難後、異人船に救
助され、アメリカ本土で新知識を身につけて幕末の日米交渉
に活躍する少年漁夫の数奇な生涯を描いたものである。私は
中学生時代に、この作品の中に描かれた船長ホイットフィー
ルドをはじめとするアメリカ人のジョン万次郎たちに対する
愛情と信頼関係に深い感銘を受けたことを覚えている。ちな
みに、この作品は第六回直木賞を受賞した。
本稿は﹁米国を発見した日本人﹂あるいは﹁アメリカ社会
を生きた最初の日本人﹂と称されるジョン万次郎の生涯を私
なりにまとめたものである。なお、
﹁英語を理解した最初の
日本人﹂﹁日本人最初の英語教師﹂とも呼ばれる万次郎にあ
やかって、各項の梗概を拙いながらも英文で書いてみた。中
学 生、 高 校 生 の 読 者 は︹ 要 旨 ︺ を 参 考 に し な が ら、 多 読 用
の読み物として英語のリーディングを楽しんでほしい。最新
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June 27. This day light wind from SE. The Isle in sight. At
1 PM, sent in 2 boats to see if there was any turtle. Found
5 poor distressed people on the Isle. Took them off. Could
not understand anything from them more than they were
カツオ船で働くようになったかは、はっきりしない。郷土史
家によると、わんぱくの余り家を飛び出したというのが宇佐
行きの動機らしい。地元には﹁石臼のエピソード﹂として語
り継がれている話がある。家計を助けるために土地の老役・
今津家に雇われた万次郎にとって、年末の米つきは過酷な重
かった。捕鯨船だった。船長は五人の日本人を救助した。彼
︹要旨︺たまたま一隻のアメリカ船が鳥島の近くを通りか
ギ︵炊事係︶として乗り込むことになったという。のどかさ
できずに家を飛び出した。その行き先で出会った漁船にカシ
つかり﹁米の品が下がる﹂ととがめられ、素直に謝ることが
を発見した彼は、得意になってついているところを主人に見
労働であった。石臼に砂を混ぜてつくと早く米がつけること
ら は 難 破 し た 漁 船 の 乗 組 員 で あ っ た。 全 員 腹 を す か せ て い
hungry."
た。
を今にとどめる漁業のまち中ノ浜の海岸沿いの県道から恵比
須神社へと向かう石段を登ったところに建つ万次郎生誕の記
せる粗末な建物だった。現在、この家は取り壊され、土台の
とにあった。わらぶきで、家というより掘っ建て小屋を思わ
りから坂道を百数十メートルばかり上がった右側の丘のふも
の人が親しみを込めて呼ぶ﹁万次郎さん﹂の生家は、海岸通
〇キロ南、太平洋上の絶海の孤島、鳥島に漂着する。東西の
矢の如し﹂とある。さらに六日後、土佐清水市から海上七六
書﹃漂巽紀略﹄には、﹁辰巳の方に押し流され、其疾きこと
流する。船はただ木の葉と化した。万次郎の漂流談聞き書き
バ・スズキ等を求めて漁に出るが、三日後にシケに遭い、漂
一八四一年一月、万次郎十四歳のとき、その年の初漁で、
仲 間 四 人 と と も に 長 さ 八 メ ー ト ル の 小 舟 に 乗 っ て ア ジ・ サ
念碑の手前には、ゆかりのこの石臼が鎮座している。
石垣だけが残っている。長男は病気がちであったため、万次
最大二・七キロメートル、南北同二・四キロメートル、ほぼ円
一八二七年一月一日、万次郎は土佐清水市中浜の貧しい漁
師の家に二男三女の次男として生まれた。現在の住所表示で
郎は幼いころから庄屋の所へ子守や米つきに出かけた。父親
は、高知県土佐清水市中ノ浜谷前二八〇番地にあたる。土地
は万次郎が九歳のときに亡くなり、家の暮らしはさらに苦し
形の面積四・五平方キロメートルの小島である。
黒潮の影響で、鳥島は昔から漂流者が多く、いわゆる﹁漂
流ターミナル﹂であった。一七一九年︵享保四年︶に、遠州
くなった。
子 ど も の こ ろ の 万 次 郎 は、 相 当 な わ ん ぱ く 者 だ っ た よ う
だ。万次郎がどうして宇佐︵高知県土佐市宇佐町︶へ出て、
Ƚ
ȽȁijıIJȁȽ
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︵静岡県︶の船が遭難し、三人が足かけ二十一年も生き抜い
たという記録が残っているほどである。
ボ ー ト が 暗 礁 を 避 け て 止 ま る と、 異 人 た ち が 声 を あ げ て
万次郎たちを呼ぶ。万次郎は崖を滑り降り、海に入って抜き
手を切って泳いだ。ボートに着くと異人たちが手を差し伸べ
て、引きあげてくれた。
﹁おーきに﹂と万次郎は船底にひれ
少しばかり﹂与えられた。空腹を続けた後で、いっぺんにた
﹁ 筒 袖 に 股 引 き ﹂︵ シ ャ ツ に ズ ボ
救 わ れ た 万 次 郎 た ち は、
ン ︶ の 服 に 着 替 え さ せ ら れ、 豚 肉 の 角 煮 と 菜 汁 を﹁ ほ ん の
伏し、感謝の言葉を述べた。仲間たちも続いて泳いできた。
面を利用して助走しないと飛び立てない。したがって、だれ
くさん食べると腹をこわすからである。万次郎がすぐに食べ
鳥 島 漂 流 者 が 生 命 を 永 ら え る こ と が で き た の は、 藤 九 郎
︵アホウドリ/学名 DIOMEDEA-ALBATAUS
︶という白い鳥の
おかげだった。それは、海草、魚、貝類とともに、かけがえ
でも簡単に捕まえることができた。後に羽根布団の羽根を取
尽くして、手を合わせて﹁もっちっと頂戴したいわのーし。
﹂
のない食料源となった。アホウドリは体が重いため、山の斜
るために乱獲されたが、一九六二年に特別天然記念物、国際
二
捕鯨航海、そしてハワイへ
These Japanese did not understand English at all. It was
to America. The captain took the five Japanese to Honolulu.
for catching whales was over. Now the ship was going back
on board liked him very much. In the autumn, the season
Whitfield. It also earned him a place on the crew. Everyone
for working and learning that won the heart of Captain
a youth of 14 named Manjiro, showed an enthusiasm
helped the men on the ship in many ways. The youngest,
all Greek to them. But Manjiro soon learned to speak it. He
那らは、ええ人らや。
﹂と万次郎は敏感に感じ取った。
と 頼 む と、 船 員 た ち は そ の 仕 草 に 笑 い 声 を あ げ た。
﹁この旦
保護鳥に指定され、絶滅のピンチから救われた。
そこで約半年間の、火もなく、穀物もない過酷な無人島生
活を送り、一四三日後、海亀の卵を食料にするためにこの島
にやってきたアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によっ
て発見され、助けられるのであるが、ここから物語は思わぬ
方向に展開していくのである。
そ れ は 一 八 四 一 年 六 月 二 十 七 日 の こ と だ っ た。﹁ 船 じ ゃ、
船がきゆう﹂。仲間の声で洞窟に寝ていた万次郎たちは、は
ね起きた。崖をよじ登り、破れかけたジュバン︵下着︶を脱
いで、懸命に振って叫んだ。
﹁助けてくれえ﹂。
やがて船が近づいてきた。大きな異国の帆船だった。二艘
のボートが降ろされ、浜に漕ぎ寄せてくる。﹁ありゃ、異人
じゃねや﹂﹁逃ぐっがか﹂と、おびえる仲間に万次郎は﹁と
ろいこというちょらんと、助けにきた神さん逃がすんか﹂と
檄を飛ばす。
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ȽȁijıijȁȽ
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Then Manjiro asked the captain to take him to America. In
those days, the Japanese government did not allow anyone
to leave Japan. It did not allow anyone to get into Japan,
either. Sakoku, literally "Chained Country," was a policy of
seclusion from the rest of the world. It was adopted by the
feudal government in the Edo period for security purposes
た牛や豚まで飼育され、船底には鯨油を詰める大樽が六千個
も積み上げられていた。乗組員は三十四名。
鋭い動体視力と一頭地を抜く平衡感覚を持つ万次郎は、鯨
の 群 れ の 優 秀 な 見 張 り 役 と し て 認 め ら れ る よ う に な っ た。
彼の持ち場である見張り籠は大帆柱のてっぺんにあったの
で﹁ カ ラ ス の 巣 ﹂ と 呼 ば れ て い た。 大 海 原 の 八 方 を 注 意 深
と叫ぶのであった。そのう ちに船長に頼ん
blows!-blo-o-ws!)
で、ボートの漕ぎ手となり、さらに銛打ちの練習を必死にし
く見守り、獲物を発見すると﹁潮吹いてるぞー﹂ (There she
て、ついには何頭か自ら鯨をしとめるまでになった。
against threats by the European countries.
︹要旨︺五人の日本人は英語がまったく理解できなかった。
﹁板子一枚下は地獄﹂とは船乗り稼業の危険なことのたと
え だ が、 船 員 た ち は 大 洋 の ま っ た だ 中 で 他 に 頼 る も の も い
しかし、働き者の万次郎は人気者になった。時はめぐって季
節は秋。鯨を捕るシーズンは終わった。当時の幕府は、鎖国
政策によって日本人の海外渡航を禁じていた。さらに、入国
ない運命共同体である。力のある者は日本人少年でも取り立
てられていく。﹁メリケ﹂
︵米国人︶たちは、万次郎を弟のよ
けで命の保障もなかった。実際に、一八三七年に漂流者を助
ある。たとえ帰国したとしても、外国人と接触したというだ
当時の日本は鎖国の時代で、外国船は日本に近づくことさ
え難しく、万次郎たちは日本に帰ることができなかったので
こ の 船 の ウ ィ リ ア ム・ H・ ホ イ ッ ト フ ィ ー ル ド 船 長︵ 当
時三十六歳︶は、五人の漂流者たちを安全なハワイへと連れ
ファベットを習い、単語を一つひとつ頭に刻み込んでいく。
入り、夕食後に読み書きを教えてくれるようになった。アル
することもままならなかった。
けて相模の浦賀と薩摩の山川に入港しようとしたアメリカの
をするのであった。万次郎の申し出を船長は快く了解し、仲
うにかわいがり、やがて船長も万次郎の利発さと胆力を気に
モ リ ソ ン︵ Morrison
︶ 号 が、 異 国 船 打 払 令 の た め 撃 退 さ れ
るという事件があったばかりであった。
前向きな行動力は船長らに認められ、誰言うともなく、ジョ
ン・ハウランド号の船舶名からとった﹁ジョン・マン
(John
間四人をハワイに残して帰途につく。万次郎の鋭い観察力と
ていくのであるが、万次郎はここで一人アメリカへ渡る決心
万 次 郎 た ち を 救 っ た 船 は、 ア メ リ カ 合 衆 国 マ サ チ ュ ー
セ ッ ツ 州 を 根 拠 地 と す る 捕 鯨 船 で、 全 長 五 十 四 メ ー ト
ル、三百七十五トンと捕鯨船の中でも巨大で、食糧用に生き
Ƚ
ȽȁijıĴȁȽ
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﹂という愛称をつけられた。
Mung)
黒人の若者ルイスから、米国では文字が読めないと馬鹿に
されると聞き、ジョン・マンの勉強にはいっそう熱が入った
三
最初の米国留学生
のだった。
The captain found Manjiro very clever. He made up
his mind to take the boy to his hometown in New England.
There the boy was called John Mung, and his new life began.
He was accepted as a member of the community known for
his friendly ways and bright, eager mind. The captain sent
him to school. Mung became a Fairhaven schoolboy. John
studied very hard, and learned science, mathematics, and
many other things in a short time. He was one of the best
pupils in the school. During his stay in America, John always
hoped to go back to his mother's home in Japan. At last he
had a chance to go to Honolulu. There he found three of his
old friends from Torishima. They also wanted to go back to
Japan.
︹要旨︺船長は万次郎の頭のよさに気づいた。彼は万次郎を
手放すまいと心に決めた。船長は彼を自分の故郷にまで連れ
て行った。そこで万次郎の新しい生活が始まった。彼は数学
を勉強した。優等生になった。そんなある日、ついに日本に
帰る機会が到来した。
一 八 四 三 年 初 夏、 万 次 郎 が 救 出 さ れ て か ら 二 年 後、 船 は
アメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州・ニューベッ
ド フ ォ ー ド に 帰 港 し た。 万 次 郎 は 日 本 人 と し て 初 め て ア メ
リカ本土の土を踏んだのであった。時あたかも明治元年より
二十五年前のことである。
万 次 郎 の 訪 れ た ア メ リ カ は 西 部 開 拓 の 時 代 で あ っ た。 ホ
イ ッ ト フ ィ ー ル ド 船 長 は、 誠 実 で た く ま し く 働 き 者 の ジ ョ
ン・マンを我が子のように愛し、ふるさとのフェアーへブン
に連れ帰って、英語、数学、測量、航海術、造船技術などの
教育を受けさせた。日本人留学生第一号の誕生である。
万次郎は隣家の女教師が経営している子どもたちのため
の小さな学校︵オックスフォード・スクール︶に通うことに
なった。午前中は子どもたちと共に、書物で文章を学ぶ。気
だ て が 良 く て 優 し い 万 次 郎 は、 子 ど も た ち に 大 人 気 で、 竹
とんぼなどの日本の遊びを教えて、大流行させた。夜は、隣
家の女教師から、英語の個人教授を受ける。彼女は船大工ア
レンという人の娘で、ジェーンと言う名前だった。万次郎は
教えられたことを何度も反復暗唱して、倦むところがなかっ
た。
﹁わえはパシフィック・アセアン︵太平洋︶で拾われてき
た土佐の貧乏漁師じゃきに、メリケ︵米国人︶の男らの三層
Ƚ
ȽȁijıĵȁȽ
Ƚ
倍もはげまにゃ、この国で生きていけなあ。ほんじゃきに、
いね ﹂ ③﹁いい思いつきだ ﹂ ④﹁最高!ほんとに最高!﹂
⑤﹁ ど ん な ふ う に し て こ ん な 素 晴 ら し い こ と を 考 え た の ﹂
紹介している。
かってたよ﹂ ⑧﹁ついに頂点にきたね ﹂ ⑨﹁答えが見えて
きたよ ﹂ ⑩﹁かつてないことだ ﹂ ⑪﹁不思議なくらい素晴
⑥﹁ 今 日 は 今 ま で よ り ず っ と い い よ ﹂ ⑦﹁ で き る っ て わ
①﹁素晴らしい ﹂ ②﹁いつもの通りすご
―
やったるぜよ。
﹂という鬼気迫る万次郎の日記の文章に、彼
のひたむきさが如実に表われている。
現 地 の 初 等・ 中 等 学 校 の ア メ リ カ 人 教 師 は、 ほ め て 実 力
を 引 き 出 す 名 人 だ っ た と い う。 万 次 郎 の 置 か れ て い る 状 況
を考えながら、さまざまなほめことばを使い分けて、彼のモ
らしいよ﹂ ⑫﹁さえてるね﹂ ⑬﹁完成が楽しみだ ﹂ ⑭﹁そ
こなんだよ!私が、すごいね、というのは ﹂ ⑮﹁今までに
ないほど、ベストだ﹂ ⑯﹁間違ってないぞ﹂ ⑰﹁ずっと練
習してきたことを私は知っているよ ﹂ ⑱﹁そんなふうにや
るといいと思うよ﹂ ⑲﹁偉大なる進歩だ﹂ ⑳﹁君は私に教
師という仕事は楽しいと教えてくれたよ﹂│よりわかりやす
くするために、原文の主旨を変えない範囲で、できるだけ思
い切った現代語に翻訳︵超訳?︶してみた。
当時、机を並べていた友人、ジョッブ・トリップ氏︵後に
市教育委員を務めた人︶は、﹁ジョン・マンはもの静かで驚
くほど読書好き。優等の成績で卒業した。﹂と一九一六年一
月発行の地元新聞に語っている。
万次郎は一体全体どのような英語発音をしていたのだろう
か。ところで、次のカタカナが英語だと言われたとして、何
のことかわかる日本人が何人いるだろう。
ナイ、モヲネン、イヴネン、ウィンダ、コヲル、ウヱシ
ツ、ゲイ、ペエン、ネ、グラオン、ワタ、ロエン、ウイン、
Ƚ
ȽȁijıĶȁȽ
Ƚ
チベーションを引き出そうと努力していることがわかる。万
次郎は漂流記﹃漂巽紀略﹄の中で、二十個ほどのほめ言葉を
万次郎が愛したボストン港で
ペエラン、シャン、オセアン、ネコ、カンユースパーカエン
ン、ヤロ、レエ、ボーシトン、ボヲヤ、ゲロ、コシチャン、
メルナイ、メリカ、ベエロ、ヲヲエラ、ペラ、ニロ、チルレ
が、教えられるところがいろいろある。
の発音ということがわかる。百数十年前の英語のはずである
グを見て機械的にカタカナに直したのではない、本場仕込み
ニア︶に起こったゴールドラッシュ︵エル・ドラド︶であっ
や が て、 学 校 を 卒 業 し た 万 次 郎 は、 捕 鯨 船 に 乗 っ て 七 つ
の 海 を 航 海 す る。 二 度 目 の 航 海 を 経 て フ ェ ア ー へ ブ ン に 寄
これは万次郎が書いた日英辞典のような単語集︵英語の発
音の覚え書き︶から拾ったものである。万次郎が自分の耳だ
た。万次郎は、日本へ帰国するための資金を得ようと西部に
ケレセ、エナイツライ、
・・・
けで聞いて覚えた英語をカタカナ書きしたものである。その
向かい、フォーティナイナーズの一人として六〇〇ドルを稼
四
十一年ぶりの日本
John and his friends got a boat. They and their boat
They hurried back home. They all spent several days with
government allowed them to leave the city and go home.
country. They were imprisoned. Many months later, the
law did not allow anyone to get into Japan from a foreign
to Nagasaki. They had to stay there for a long time. The
they were picked up by a Japanese ship, and were taken
rowed for many hours and reached one of the Islands. Soon
That night, John and his friends got into their boat. They
day in 1851, the ship was sailing near the Ryukyu Islands.
were put on board an American ship sailing for Asia. One
ぐと、直ちに漂流仲間のいるハワイへと向かったのである。
港した万次郎を待っていたのは、アメリカ西部︵カリフォル
意味は次の通り。
夜︵
︶、 朝︵
︶、 宵︵ evening
︶、 冬
night
morning
︵ winter
︶、 寒 い︵ cold
︶、 西︵ west
︶、 門︵ gate
︶、 筆
︵
︶、 網︵ ︶、 地︵
︶、 水︵ water
︶、 雨︵ rain
︶、
pen
net
ground
風︵ wind
︶、 夜 半︵ midnight
︶、 亜 墨 利 加︵ America
︶、 鐘
︵
︶、 油︵ ︶、 枕︵
︶、 針︵
︶、 子 ど も
bell
oil
pillow
needle
︵ children
︶、 黄︵ yellow
︶、 赤︵ red
︶、 ボ ス ト ン︵ Boston
︶、
男 子︵
︶、 女 子︵ ︶、 質 問︵
︶、 親︵ parent
︶、
boy
girl
question
太 陽︵
︶、 海︵
︶、 ニ ッ ケ ル︵ nickel
︶、 英 語 が
sun
ocean
話 せ ま す か︵ Can you speak English?
︶、 合 衆 国︵ United
︶、・・・
States
ど う で あ ろ う か。 ざ っ と 見 た だ け で は 奇 異 な 感 じ も す る
が、よく見るとアメリカン・イングリッシュ︵米音︶を聞き
慣れた耳には納得のいく表記ばかりである。英語のスペリン
Ƚ
ȽȁijıķȁȽ
Ƚ
their family in an exchange of tears and stories.
こ の 時 代 に、 異 例 の 出 世 を 果 た す こ と に な っ た。 激 動 の こ
の時代、幕府も各藩も西欧の情報を必要としていたのであろ
う。このとき、万次郎は名字帯刀を許され、出身地の中浜を
土 佐 城 下 随 一 の 知 識 人 で あ る 絵 師、 河 田 小 龍 と 起 居 を 共
にして、西洋事情を語り、その門下から坂本龍馬が出た。龍
︹要旨︺偶然アジアに向かう船が見つかったのだ。ジョンと
馬はもともと過激な攘夷論者だったが、一転して開国に目覚
とって中浜万次郎信志を名のることになったのである。
漕ぎ続けた。ある島に到着することができた。そこから長崎
昔の漁師仲間はその船に乗せてもらうことができた。日本に
に連行された。生まれ故郷に一刻も早く帰りたかった。しか
めたのは、万次郎から伝えられた海外事情を学んだからだっ
近づいたある日、彼らは小さなボートに乗り移り、何時間も
し、当時は外国から日本に足を踏み入れることはできなかっ
た。
﹁万次郎さんは私の恩人﹂と龍馬は言っていた。さらに、
土佐藩内において吉田東洋、後藤象二郎、岩崎弥太郎らとの
たのだ。
るアルファベットの掛け軸は帰国直後のころ、吉田東洋の求
出会いもあった。高知城天守閣の﹁懐徳館﹂に展示されてい
一八五一年二月、二人の仲間とともに万次郎は琉球︵沖縄
県糸満市摩文仁間切小渡浜︶に上陸した。漂流から十年後の
めに応じて書いたペンマンシップ・テキスト︵毛筆による筆
この後、万次郎は自らの見聞を伝える貴重な働きをする。
薩摩では開明君主として名高い島津斉彬公にアメリカの社会
記体の手本︶である。
事情や科学技術を語り、小型の洋式帆船まで建造した。さら
ことであった。約半年の間、琉球に止められた後、薩摩、長
在であった。一回り体が小さくなった母親のシオ︵汐︶は、
には、薩摩藩からイギリスへ送られる留学生に英語の教授を
崎へと護送されて取り調べ︵白州での尋問十八回︶を受け、
感激にむせんで、目に手ぬぐいを押し当てたままだった。万
行なったりした。
翌年の夏ようやく土佐へ帰ることができた。彼の母はまだ健
次郎は﹁ただ今帰りました。お達者でおめでとう。﹂と言う
五
黒船来航時の通訳
In those days, America wanted to make friends with
Japan. In 1853, Perry arrived at Uraga and asked Japan to
のが精一杯であった。彼はアメリカ土産とともに、母の形見
として大切にしてきた自分の着物をそっと差し出した。万次
郎が夢にまで見た懐かしい我が家でのんびり過ごせた時間は
わずか三日間だけであった。
高 知 に 帰 っ た 万 次 郎 は、 土 佐 藩 よ り 最 下 級 と は い え 士 分
︵ 定 小 者 ︶ と し て 取 り 立 て ら れ、 身 分 制 度 の 特 に 厳 し か っ た
Ƚ
ȽȁijıĸȁȽ
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"open the door" to America. Very few Japanese understood
English then. It was important for Japan to have good
English speakers. Manjiro played a part in making the two
countries friends with each other. The door was opened,
and Japan opened its eyes to the outside world. New ways
of thinking came into Japan from the West very fast. John
Mung became a bold promoter of a progressive America.
Japan might have remained isolated from the world had it
not been for his efforts as an unofficial ambassador. Many
young men wanted Manjiro to teach them English. In
time, he became a man of importance in his home country.
Manjiro wrote many books and became famous as an
English teacher. Manjiro Nakahama spent his later years
as a professor at the University of Tokyo, a post he retained
た。 幕 末 動 乱 の 時 代 の 幕 開 き で あ る。 風 雲 急 を 告 げ る 幕 府
は、 嘉 永 六 年 十 一 月 五 日 付 で 万 次 郎 を 直 参 旗 本 と し て 江 戸
へ呼び寄せる。時を得て、いよいよ万次郎の出番到来となっ
た。このときの辞令こそ、
﹁中浜﹂の名字が付いた最初の公
文書である。中浜万次郎は、開国への思いを込めて老中らの
前でアメリカの事情について語るが、有能さゆえに、水戸藩
など保守的な藩からはアメリカのスパイではないかと恐れら
れ、ペリーの第二回目の来航時の通訳のメンバーからはずさ
れるなど、活躍の場を失うこともあった。
なぜ徳川幕府は、あれほど﹁腰抜け外交﹂と言われながら
も、ペリーの艦隊をすんなり受け入れたのだろうか。一説に
は、ジョン万次郎がペリーの艦隊の目的は捕鯨船の基地を作
るためであって、侵略ではないと幕府の首脳に話していたか
らで、圧倒的な武力の差のある相手に対して無用な争いを避
けるという賢明な判断があったからだというのが実情だとさ
き、再び活躍のチャンスがやってきた。幕府は﹁日米修好通
その後の万次郎は、翻訳、造船、航海、測量、捕鯨などを
主な仕事として勤めるが、一八六〇年、万次郎三十三歳のと
れている。
り、和親条約を結ぼうとした。当時は英語がわかる日本人は
商条約﹂批准のために初の公式海外使節団をアメリカに送る
until his death at 71, in 1898.
ほ と ん ど い な か っ た。 万 次 郎 は 英 語 が た い へ ん う ま か っ た 。
ことになり、このとき、万次郎は随行艦﹁咸臨丸﹂に乗って
︹ 要 旨 ︺ ペ リ ー が 浦 賀 に 来 航 し た。 彼 は 日 本 に 開 国 を せ ま
彼に英語を教えてほしいと願い出る人が多かった。彼は有名
史上重要な人物である勝海舟と福沢諭吉︵当時二十七歳︶の
断は鎖国の終わりを告げる出来事であり、船上には他に、歴
通訳として、また航海士として活躍した。咸臨丸の太平洋横
になった。
アメリカのペリー提督が黒船を率いて現われたの
は、一八五三年六月、万次郎の帰国から二年後のことであっ
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組んだ万次郎の優れた航海術と英語力、そして奉仕の精神が
洋横断である。その成功の陰には教授方通弁主務として乗り
姿 が あ っ た。 総 勢 九 十 六 人 の 日 本 人 乗 組 員 に よ る 初 の 太 平
ターの辞書を一冊ずつ買い求めた。これは日本人が日本に公
らないのであった。彼はまた福沢諭吉とおそろいでウェブス
で、着物を左前に着て、刀を右の腰に差して写さなければな
写真機で写す写真は、現像すると人間の着物が左前に写るの
れは何と言いますか。
﹂ときかれて﹁ベリイ・グット!﹂と
イスクリームを﹁雪﹂﹁氷﹂などと呼んでいた。
﹁日本ではこ
が、私は次の逸話がことのほか気に入っている。勝艦長はア
勝 艦 長 は 航 海 中、 ほ と ん ど 病 気︵ 実 は、 船 酔 い ︶ で 寝 通
し で あ っ た と の 事 は、 福 沢 諭 吉 の﹃ 福 翁 自 伝 ﹄ に も 詳 し い
ター大辞典を一冊贈られている。森山はこの辞書を用いてさ
り 先 に、 ペ リ ー 来 航 の と き、 通 訳 の 森 山 栄 之 助 は ウ ェ ブ ス
ウェブストルという字引の輸入の第一番﹂とあるが、これよ
が日本にもたらされたのは、﹃福翁自伝﹄に、﹁是れが日本に
ブスターは大辞典ではなく、縮約版であった。ウェブスター
然と輸入した英語辞書の最初のものである。このときのウェ
あったのである。
答えていた。実は、私にもこれとよく似た、今でもそれを思
ぞ英語の勉強をしたことであろう。
が、職人を親父に持つ私の家ではそんなものを見たことも聞
らはマシュマロなんて菓子をおやつにもらっていたのだろう
会社の重役をしているブルジョア家庭で、子どものころ、彼
榎本釜次郎︵武揚︶、箕作麟祥、大鳥圭介などがいた。だが
授し、その門下には尺振八、中村敬宇︵正直︶、細川順次郎、
ぐるしく働き続けた。さらに彼は公務の余暇に英語を個人教
京大学の前身︶教授就任、アメリカ・ヨーロッパ渡航とめま
帰 国 後 も 万 次 郎 は、 小 笠 原 の 開 拓 調 査、 捕 鯨 活 動、 薩 摩
藩 開 成 所 の 教 授 就 任、 上 海 渡 航、 明 治 政 府 の 開 成 学 校︵ 東
たのである。
こうして万次郎の学んだアメリカの社会事情と近代技術
は、日本の開国と維新のいろいろな場面で、重要な働きをし
い出すと﹁ワーッ﹂と叫びたくなるような恥辱の記憶がある
のだ。あるとき友人とその妹と小説の話をしていて、Kとい
うその友人が﹁あれはマシュマロのように柔らかい。
﹂と批
いたこともなかった。知っているかのような口調で応じてい
し か し、 四 十 四 歳 で 病 に 倒 れ て 以 来 隠 遁 生 活 を 余 儀 な く さ
判したが、私にはその意味がわからなかった。マシュマロそ
るうちに、私が本当は知らないことが何かのはずみに露呈し
のものを知らなかった。Kの家は親父がどこか九州の方の船
てしまい、Kの妹に﹁大島さんマシュマロ知らないの?﹂と
れ、七十一歳でその生涯を閉じた。往年の活躍に比べて、晩
のは彼の人生にぴったりの言葉である。
年の寂しさにはすこぶる切ないものがある。波乱万丈という
言われたときは、恥辱の淵に沈んだ。
閑話休題。万次郎はサンフランシスコの街でいろいろな文
明品を買い求めた。裁縫用のミシンや写真機も買った。この
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万 次 郎 の 死 は 新 聞 に も 報 道 さ れ な か っ た。 な き が ら は 東
京 都 台 東 区・ 谷 中 の 仏 心 寺 に 埋 葬、 大 正 十 二 年 に 豊 島 区 南
池袋の雑司ヶ谷霊園に改葬された。神式の墓︵寿陵︶は万次
郎が生前に造らせておいたもので、丸に三つの小さい丸が描
かれた家紋が刻んである。三つの丸はオリオン星座の三ツ星
で、万次郎が船に乗っていたころ、船の位置を確かめるため
によく観測した。彼の海へのあこがれを象徴したものだとい
う。
私立土佐高等学校出身の信頼できる友人、今井清史君︵南
国 市 在 住 ︶ の 曰 く、
﹁中浜の生んだ﹃万次郎さん﹄こそ土佐
万次郎十大年表
ブン帰港、オックスフォード学校で学ぶ
一八五〇
嘉永 九月、ゴールドラッシュに湧くカリフォ
ルニアの金鉱で帰国資金をつくり、サン
フランシスコからホノルルへ
一八五一
嘉永 一月、琉球摩文仁海岸に上陸
一八五三
嘉永 六月、米国ペリー提督、浦賀に来航、
開国を要求
十一月、幕府直参に登用される
一八六〇
万延 一月、咸臨丸の通訳として乗船、出帆
三月、サンフランシスコ着
一八六九 明治
三月、明治政府から東京帝大の前身、開
成学校教授に任命される
おわりに
一八九八
明治 十一月、万次郎、東京で死去︵七十一歳︶
は、﹁ 中 浜 万 次 郎 ﹂ の 名 は 索 引 に も 取 り 上 げ ら れ て い な い。
使用した﹃詳説日本史﹄︵山川出版社・昭和五十年発行︶に
万次郎は、近代日本の夜明けとも言える時代に、日米の架
け橋となる幾多の業績を残した。しかし、筆者が高校時代に
五月、米国捕鯨船ジョン・ハウランド号
これほどの人物が、なぜこれまで歴史の中に埋もれてしまっ
と異常潮流で鳥島に漂着
のホイットフィールド船長に救出される
のクーリッジは、﹁万次郎の帰国はアメリカが最初に大使を
アメリカで高く評価されていた。アメリカの第三十代大統領
ていたのかは謎であるが、万次郎の功績は、日本よりも逆に
十一月、ハワイ・ホノルル港に上陸
一八四二 天保
一月、ホノルル滞在の四人と別れ、捕鯨
航海へ
一八四三
天保 五月、米国マサチューセッツ州フェアーヘ
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3
6 4
1
2
31
人の誇りでなくて何だろう﹂と。
一八二七 文政
一月、土佐の国幡多郡中ノ浜の漁師の家
に生まれる
一八四一
天保 一月、五人乗りカツオ船で出漁、あらし
10
12
13
14
の地球上にそんな状況があったのか、嘘
ではないのか、と驚き呆れるような現実
が、今も存在する。時代は再び万次郎を
求めているのかもしれない。
か ら 私 が 学 ん だ こ と は 次 の 三 点 で あ る。
一、冒険︵アドベンチャー︶とは、夢を
形に変える行動力である。忍耐と連帯を
必要とする。二、最大の災難を最大の味
方︵幸運︶に転ずる生き方。つまりどん
な困難に遭っても希望を持ち、決してひ
るんではいけない。三、人間、前が見え
てきたら、後は自分の力で泳ぎ切れ。
日 本 に 送 っ た に 等 し い ﹂ と 語 り、 ア メ リ カ 建 国 二 百 年 の と
けている。
﹁フェアーへブン﹂を見つめながら、今もなお浪漫航海を続
位 置 す る 足 摺 岬 の 入 り 口 に 建 ち、 遠 く 第 二 の 故 郷 ア メ リ カ
勤勉・忍耐・努力の申し子ジョン万次
郎は現在、銅像となって四国の西南端に
き、ワシントンのスミソニアン研究所が催した﹁海外からの
※
※
︵メクダノ︶
McDonald
︵イナネ︶
Internet
く、リピート・アフター・ジョン・マン!
もし仮に万次郎が今生きているとすれば、現代英語を次の
ように発音しているのではなかろうか。さあ皆さん、元気よ
米国訪問者展﹂では、わずか二十九人の中に、
﹃アメリカ見
聞録﹄を著したイギリスのチャールズ・ディケンズらと並ん
で万次郎が選ばれているのである。
国際化時代を迎え、万次郎の波乱に満ちた生涯とともに、
彼の人気はにわかに高まりつつある。日本にばかりいたので
は見えない現実がある。おそらく日本人の大多数が、まだこ
Ƚ
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結論めいたものをあえて急いで書く
つもりはないが、ジョン・マンの生き方
足摺岬に建つジョン万次郎
※
※
※
※
※
※
※
︵スペイシャロ︶
Space Shuttle
︵エリケ︶
etiquette
︵チャノ︶
channel
︵キャリオキ︶
karaoke
︵サキ︶
sake
︵キウィン︶
Kirin
︵サヒ︶
Asahi
本稿の基本構想は、東京六大学野球観戦後、海洋パブレス
トラン﹁ジョン万次郎﹂信濃町店にて食事中に突如として湧
き出てきたものである。なお、本文中で使用した中浜万次郎
像の写真は、高知県土佐清水市足摺岬観光センター内にある
国際交流の館﹁ジョン万ハウス﹂事務局にお願いしてお譲り
いただいたものである。厚く御礼を申し上げたい。
︵外国語科
教諭︶
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創立四十四周年記念講演
安蘇谷
正彦
日露戦争百年に思う
國學院大學学長
今日は﹁日露戦争百年に思う﹂という題でお話をします。
皆さんのなかに﹁戦争が好きな人﹂はいますか? もちろん戦争は人が人を殺しますから、好きな人
がいないのは当たり前です。次に皆さんのなかに、自分のお金が取られたり命が取られそうになったと
きに、黙って差し出す人はいますか?
この﹁自分﹂を﹁自分の国﹂に置き換えるとき、理不尽な﹁他
国﹂に抵抗する姿勢を貫くと、国と国との﹁戦争になって﹂しまいます。そういうときに﹁戦争しな
いため﹂に抵抗しない、と素直に主張できる人はどれだけいるでしょうか?
世界には﹁絶対の平和主
義﹂といって、自分の財産や命が奪われても戦争に反対し続ける人々もいます。キリスト教プロテスタ
ント派の一部には、仮に自分の命が奪われても人の命を奪わないことを主張して、兵役を拒否する人も
いるそうですが、自分の命までもかけた上での主張は、簡単にできるものではありません。まして、口
の上で戦争を﹁拒否する﹂という呪文を唱えるだけでは、
﹁国家間の政治的対立﹂に毅然と対応するこ
とはできそうもありません。
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よく﹁人は集団の中でしか生きられない﹂と言われます。人は、社会・集団の中で、護られながら
育っていくのです。そういうことで子供の側からみれば﹁自分一人で育ったわけではなく、自分の集団
が自分を護り育ててくれた﹂という認識が大切です。すぐに親孝行をしたり大人に感謝する、というわ
けにはいかないかも知れませんが、皆さんなら必ず分かってくれるものと信じます。
現代人が所属するグループの中で大きいものが国家です。どの大国にも規則があってそれを国民が
守って国が成り立っています。国家の使命とは、国民の生命財産︵国益︶を守るところにあります。外
交ひとつ取ってみても、戦争の覚悟すらいる、大変な仕事です。
さて、日露戦争︵明治三十七年︶では日本はどういう立場だったのでしょう。まずは近代戦争の始ま
りという面からお話しします。明治維新は、嘉永六年に黒船がやってきて先進諸国から﹁開国﹂を迫ら
れた所から動き始めました。幕末にアメリカと結んだ不平等条約は、日本側に関税自主権もなければ領
事裁判権もない一方的なもので、明治政府になってからもその条約に苦しめられることになります。
列強は世界各地で植民地化政策を行い、その様子を英国人の歴史学者トインビーは﹁羊のごとく従順
に毛を刈り取らせる﹂と評しました。しかし世界の各地が列強の武力に屈する風潮にあって、日本だけ
が羊のような従順さを示さず、列強に抵抗する姿勢を見せたことは覚えておいてよいでしょう。文久三
年の長州藩による外国船砲撃、同年の薩英戦争などです。西郷、木戸、大久保らは列強に対抗する武力
を得なければ﹁国が滅ぶ﹂と確信しました。天保十一年の﹁阿片戦争﹂では、清国が英国に敗れました
が、そうした事件も日本の危機意識に影響を与えたのだろうと思います。
明治新政府は、関税自主権のない﹁不平等﹂な条約で﹁開国﹂をスタートしましたが、貿易をすれば
する程不利益になる窮状に陥りました。当時の﹁不平等条約﹂を振り返って﹁何をバカな、幕末に条約
を締結する前になぜもっと話し合わなかった﹂と批判するのは簡単ですが、時代の違い、というものが
あります。当時の日本には外交的な力も、軍事的力もなかったので、言うがままの条約を結ばざるを得
なかったのです。
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そ の 後、 新 政 府 は 外 交 手 腕 で
巻 き 返 し を 図 ろ う と し ま し た。 列
強を相手に不平等条約の改正を迫
り ま し た が、 列 強 諸 国 は、 決 し て
利権を手放そうとはしなかったの
で す。 話 し 合 い は 成 立 し な い、 と
悟 っ た 明 治 政 府 は、 改 め て ﹁ 大 砲
を 造 ろ う ﹂ と、 方 針 を 定 め ま す。
そして軍事力を背景に不平等条約
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を巻き返そうと試みたのです。
の手厳しい干渉を受けてしまいま
る 下 関 条 約 の 直 後 に、 日 本 は 列 強
治 二 十 八 年、 日 清 戦 争 を 終 結 さ せ
利 に 終 わ り ま し た。 と こ ろ が、 明
朝 鮮 半 島 を 主 戦 場 と し、 日 本 の 勝
対 立 が 生 じ た の で す。 日 清 戦 争 は
との間に朝鮮半島の利権をめぐる
方 策 と し て 大 陸 進 出 を 図 り、 清 国
強いられた日本が列強と対抗する
等条約下にあって経済的に劣勢を
明治二十七年に日本と清国の
間 で 日 清 戦 争 が 起 こ り ま す。 不 平
講師 安蘇谷正彦先生
す。日本は下関条約において一たび遼東半島を得たにも関わらず、三国干渉によってこれを返還させら
れたのです。日本は未だ列強の圧力に屈せざるを得なかったのでした。
近代国家ロシアの国力は、当時、鉄の生産、軍事力とともに日本の十倍の実力がありました。ロシア
は歴史的にみて、不凍港を求める南下政策を繰り返してきましたが、当時日本はロシアの政策を次のよ
至るまで征服する意図があるとみたのです。こうして日本とロシアは次第に対立していきました。
うに推測していました。不凍港を得て経済の基盤を固めた後は、隙あらば、満州、朝鮮、そして日本に
明治三十三年、清国各地で、宗教団体・義和団が列強支配に対して反乱を起こしました。日本も列
強と歩調を合わせて制圧軍を送りましたが、鎮圧が成って各国が兵を引き上げた後も、なぜかロシア軍
だけは満州に兵を残しました。そればかりか旅順や奉天に要塞まで築いたという知らせも入ってきまし
た。
明治三十七年、ついに両国は日露戦争へと踏み切っていくのでした。当時﹁ロシアが白クマなら日本
は赤サソリ﹂という比喩がありました。小国・日本は大国ロシアの南下政策の脅威に対抗して、宣戦布
告をしたのです。
作家・司馬遼太郎の﹃坂の上の雲﹄は日露戦争をあらゆる角度から描いた名作です。この作品を読む
ことで、国家の存亡をかけて戦う日本の、局地戦勝利から講和︵引き分け︶へと至る﹁戦略﹂がよく分
かります。講和条約締結のときに、ロシア側はまだ国力にゆとりがあったのに対し、日本は全力をし
ぼって講和を迎えました。しかし旅順攻略・日本海海戦といった局地戦を勝ち取った勢いを講和に生か
すことができたため、かつて外交ではどうすることも出来なかった列強諸国の﹁既得権﹂の一角を崩し
て日本のものにすることができたのです。そしてなにより日本が列強の一角と互角に戦ったという事実
が、日本を一等国と認めさせる結果になりました。小国日本が大国ロシアに勝ったという知らせは、東
日 露 戦 争 か ら 百 年 た っ て、 日 本 人 は そ の 後、 数 多 く の こ と を 学 ん で 数 多 く の こ と を 忘 れ て き た よ う
欧諸国をはじめ、大国におびえる人たちに勇気を与えました。
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に思えます。力には力を持って対抗するしかない時代において、軍事力に国力を傾注する選択をした明
治の世の中のことは、その時代のことを深く学んで初めて知ることができるものです。一方、国を護る
人々の知略と気迫は、いつの世のあらゆる民族にもあてはまるものではないかと思えます。
日清戦争と日露戦争は、列強諸国に軍事的経済的に追い込まれた日本がやむなく選択した﹁自衛戦﹂
だと私は認識しています。でも﹁あれは侵略戦争だった﹂と主張する教授もいます。国家間の対立には
いろいろな要素がからむ分、色々な見方があります。しかし私は敢えて付け加えるならば、国を護るた
め、やむなく自衛戦に臨んだ当時の日本人の心情を、立派だと思います。日本に生まれ日本を愛するみ
なさんは、国民として自分の国のために﹁できること﹂は何か、そういうことを考えてみてほしいと思
います。
人間と戦争について、ここまでお話してきました。大切なことは、国家間の立場や力関係によって
対立がおこる様子を見抜く目を養って、これまでの歴史やこれからの政治を正しく認識することなので
す。
最後にもう一つ言っておきます。若い皆さんは、自分が何をしたいのかを、早めに決めて欲しいと
いうことです。大リーガーのイチロー選手は小さなときから野球ひとすじに取り組んで自分を磨いた結
果、国境を超えて賞賛されるプレーヤーになりました。自分のもてる力を一つに集中しさえすれば、で
きないことはない、他人にできて、自分にできないはずはない、この信念こそまさに、かつて小国・日
︵平成十六年十月七日 本校四十周年記念館にて︶
本が国力を傾注して国難を乗り切った姿に重なるのです。
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最終回
岡
本
岱
ますが、たちまちのうちにつぶし、借金をかかえて元の骨董
そういう秦秀雄の風狂ぶりを素材として書かれたのが、井
伏 二の小説﹃珍品堂主人﹄でありました。蘭々女に追い出
屋に戻ります。
される珍品堂加納夏麿という男が秦秀雄なのでしょう。勿論
けん
私説日本篆刻物語
風狂の人
小説ですから嘘もいっぱい入っています。秦は大和古印には
はた
役買っていました。小林秀雄が昭和二十六年に刊行した﹃眞
秀雄は骨董の世界では有名人でした。古伊万里や佐野乾
ざ秦
ん
がん ぶつ
山の贋物にも顔を出しますし、日本の骨董騒ぎにはいつも一
目のない印癖の人でした。
贋 ﹄ の 中 に、 骨 董 仲 間 で 印 に 凝 っ た 男 と し て 登 場 し て い ま
たま家にいる時は書斎にこもって漢詩を作り、後に﹃北越詩
な御仁でした。家にいることはめったにないのですが、たま
たような男で、自分の利益のためには何一つしなかったまれ
をつとめた憲政会の政治家でした。他人様のために生きて来
坂口安吾の父親は本名坂口仁一郎、筆名を阪口五峰と言っ
て、 新 潟 新 聞 の 社 長 で あ り、 新 潟 の 県 会 議 長 や 後 に 代 議 士
す。麗水とある古色蒼然たる古印を見つけ、後生大事にして
いますが、せがまれて推古仏と取り代える場面があります。
実はこの古印、醤油屋の樽に押す焼印で、二束三文の下手物
で、秦はそのことを後になって知りますが、知らん顔をして
しら す
骨董仲間に高い価をつけて売りつけます。
ろ さん じん
白洲正子の随筆﹃遊鬼﹄の中にも、追悼の文章として、白
洲は彼に何回もだまされながらも憎めず、秦秀雄の人となり
きた おお じ
峰は十三人の子持ちで、十二番目の子が安吾︵本名炳吾︶で
を温く描いています。
した。墨をする時以外の父親を知らない、と安吾は言ってい
へい ご
この教師あがりの骨董屋は、北大路魯山人と星ヶ丘茶寮の
割烹を共同経営しますが、魯山人と大喧嘩をして、体よく追
話﹄を残します。書斎での墨すりはきまって安吾でした。五
い出されてしまいます。その後に目黒茶寮や梅茶屋をつくり
Ƚ
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ます。坂口安吾には﹃石の思ひ﹄という作品がありますが、
市島春城はこんな風に語っています。
ものであった。ややもすると、人の秘蔵品を殆ど強奪し
たが、しかし印にかけては往往猛烈な執着ぶりを示した
君は余りに物に執着のない人で、ときに珍蔵のものを
ほしがる人にさっさと与えることもある豪放な人であっ
私の家は昔は大金満家であったようだ。徳川時代は田
地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀野川の水がかれてもあ
て行ったりするほどで⋮⋮私も遂に根気負をして、割愛
その中でこんな風に綴っています。
そこの金はかれないなどと言われたそうだが、父が使い
することになった。
五峰も春城も自ら印を刻すということはありませんでした
が、その蒐集癖は大変なもので、五峰の死後は春城に全ての
果 た し て 私 の 物 心 が つ い た と き は ひ ど い 貧 乏 で あ っ た。
印が寄贈され、春城の集めた千顆の印の大半は、今では早稲
まったくひどい貧乏であった。借金で生活していたので
りの者も多かったが、それだけ貧乏もひどかったので、
あろう。尤も家はひろかった。使用人も多かった。出入
母の苦労は大変であったのだろう。だから母はひどいヒ
田大学會津八一記念博物館に収められています。阪口五峰も
かい しん
山人等、彼等もまた風狂の人と言ってよろしいでしょう。
祖父篠田芥津、父椿所と共
他にも印人として、篠田桃紅せの
き どう
に大正印会を立ち上げた山本碩堂、大正印会の同人北大路魯
印癖で、風狂の人でありました。
ステリイであった。その怒りが私に集中しておった。
田地だけでも三十町歩、米、大豆、麦で年間二千俵の収入
があったと言われる坂口家を、祖父の得三が投機で、父親の
五峰には莫逆の友として春城市島謙吉がおりました。春城
は早稲田大学の創立や経営に当たり、政治家としても名のあ
五峰が政治に費やし、財産をみな失ってしまいました。
る御仁でした。この二人は私利私欲に走るというようなこと
挿話が残されています。越後の医者に三浦桐陰がお
こんこな
う ふ よう
に か
り、高芙蓉の刻した二顆の印がありました。桐陰は一を五峰
り あ げ て 泣 き 出 し た の で す。
﹁おとうちゃん死んじゃった!
鳴らしたものです。そうしますと突然に、ワアッと大声をは
聞こえる、おとうちゃん死ぬかも知れない﹂と言うものです
父椿所も一風変わったところがありました。私が小学校三
かね
年生の頃だったかと思います。酔って帰宅しますが、
﹁鉦が
はまったくなかったのですが、ただ一つ篆刻に対する執着心
に、一を春城に贈ります。五峰の印文は︿鶴鳴于九皐﹀、春
流して泣き続けるのです。母はそこにはなぜか居なかったよ
おとうちゃん死んじゃった
は並みではありませんでした。
城のは︿滄浪﹀でした。五峰は一顆を得ておりますが、春城
ー
﹂と十五分以上も大粒の涙を
から、仏壇から鉦を取り出し、チーン、チーンといたずらに
に向かって、
︿滄浪﹀の印も俺によこせと露骨にせまります。
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め ま し た が、 ほ と ほ と 困 っ た、 そ ん な 思 い 出 が 残 っ て い ま
うに思います。
﹁ウソだよ、おとうちゃんウソだよ﹂となだ
不思議なくらいです。
角形の織部の小皿、瀬戸の豆皿、薩摩の鉢が残っているのが
ま り、 眼 も 上 が っ て し ま っ て い る の で す が、 劉 禹 錫﹃ 陋 室
ばらくして黄泉に旅立ちますが、その前年老人性痴呆症が始
す。
ま た こ ん な こ と も あ り ま し た。 水 虫 が あ っ て 金 盥 に ヨ ー
ドチンキを落として、よく足を治療しておりました。ある時
銘﹄の最後の文﹁何陋之有﹂︵何の陋か之れ有らんと︶の印
父は初世椿所が身罷った後、十五歳の時から第一銀行の印
を一人で作って参りました。八十八歳の米寿の祝いの後、し
陰金田虫に罹ってしまったのでしょう。そうすると殺虫剤の
稿と作品が残されていました。正気であれば﹁こんなものは
かな だらい
アースを振り掛けたものですから、さあ大変、大事な一物も
載せるナ!﹂と一蹴するでしょうが、男の一念で刻したので
ろう しつの
ふぐりもぱんぱんに腫れ上がり、爛れてしまいました。その
しょう。父の生前最後の作物でありますので、印稿とともに
この印をじっと見ていますと、感慨一入ですが、ここまで
己の仕事に執着出来るか、この﹁篆刻物語﹂を書きながら私
りゅう う せき
後赤チンキを全面に塗って、一物を包帯でぐるぐる巻きにし
はそんなことを考えていました。父椿所も風狂の人と言って
めい
たものです。時間がたつと伸縮もあってか、それがまたずる
載せておきます。篆刻歴七十年以上になりましょうか。
いち もつ
ずるとほどけてくるものですから、私は声を出して嗤い出し
りするのですが、叱られれば叱られるほど我慢が出来ず、後
てしまいました。﹁嗤うナ!﹂と痛さもあってか、八つ当た
ろを向いてプウッーと吹き出したことを憶えています。田虫
よろしいでしょう。
木額のこと
てん がく
が殺虫剤で治ると思っていたのでしょうね。父が未だ四十代
の頃のことです。
へん がく
野香雲は扁額と言い、山田正平は篆額
父の友人であったも関
く がく
てん じ
と呼び、父椿所は木額と言っておりました。木に篆字を刻し
し、食器類を手当り次第に投げつけました。いくら食器を取
になっては堕落につながる、とあまり関心を示してはおりま
箔置したものを言います。篆刻家がこういうものを作るよう
年に三回ぐらいは癇癪玉が破裂しました。貧乏に耐えられ
なかったのか、作品が思うように出来ないのか、印刀は飛ぶ
り揃えても欠いてしまいますので、全部アルマイトの椀や皿
に飾られている﹁怎个
乃﹂
︵ナンカチョウダイ︶、それに理
ます。身近かでは学園の図書館の看板、図書館玄関の入り口
せんでしたが、それでも五十面ぐらいは刻しているかと思い
はく おき
に代えたことがあります。
昭 和 十 一 年 に 結 婚 を 記 念 し て、 銀 座 の 陶 雅 堂 の 会 員 に も
なっていたのですが、頭に血が昇ると収まるまでもう無茶苦
茶でした。私の手元に当時の頒布会で購った清水の酒器、五
Ƚ
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事 長 室 に 掲 げ ら れ て い る﹁
直明淨﹂︵たくましく
直く
明るく
さわやかに︶は父の作品です。
近年は篆刻部門に刻字と称して、印よりもこちらの方が先
行しているようにも見受けられます。刻字作家と言っても誰
も不思議がる人もおりません。それほどに当たり前になりま
は 違 う も の だ、 篆 刻 と 刻 字 な ど も 別 々 に 独 立 さ せ て き ち ん
と部門を立てれば良いのに、などとも生前父は言っておりま
した。今では刻字協会が出来て活動しておりますから、或い
は独立しているのかも知れませんが、詳しいことは存じませ
椿 所 は こ ん な 風 に し て 木 額 を 刻 し て 参 り ま し た。 材 は
けや父
き
つや
欅が一番色艶が出るし、出来上りがどっしりとしていいのだ
ん。
したり、気持ちのよいものであれば何の文句のつけようもあ
が、なにしろ硬くて骨が折れる、と言っておりました。ノミ
した。呼び名は何でもよろしいのですが、他人様が見て感心
りませんが、展覧会で見る限り、私は未だ引きつけられるよ
もしょっちゅう研がねばならぬし、ノミの減り具合も馬鹿に
に絵の具で着色した上に、金箔や銀泥で仕上げておりますか
に平面的なのです。それに馬鹿でかく、文字も多く、おまけ
行きます。勿論完全というわけには行きませんが、配篆の筆
文字の配篆を考え、筆法を頭の中で考え、平行してさらって
さらいます。ただ万遍無くさらうというより、その一方では
材 を 求 め た 後、 全 面 和 紙 を 貼 り 付 け ま す。 ほ っ て お き ま
すと反りが出てしまうのです。寝かした後に、表面をノミで
ぐにこぼれてしまいます。
ならぬと口癖にしておりました。なまくらなノミなど刃がす
うな魅力ある作品に出会ったことがありません。
父 の 仕 事 を 見 て 来 た り、 少 し は 手 伝 っ て 参 り ま し た の で 、
今の刻字作家の制作方法とは大分違っていることに気が付き
ら、まるで満艦飾です。こうした制法でないと展覧会では通
法、凹凸をイメージしながらさらって行くのです。ひとわた
ます。なにしろ刻字の類は出来上りが全てと言ってよいほど
用しないのでしょう。真に作品を作る喜び、と言うより、衒
り刻し終わると、ふたたび和紙を貼ってしばらくの間、乾か
ぎん でい
学的で自然を曲解し、素材の木も活かされてはおりません。
します。
きん ぱく
奈良や京都の街を歩いていて、みかける看板の方が余程上等
き づち
まで推敲します。修正は白の絵の具を用います。印稿︵印の
かりと墨で配篆します。文字は小篆を中心として納得の行く
せん。おおよその下書きが出来上ったところに、今度はしっ
完全に乾いた和紙の上に木炭で大体の配篆をします。表
面は凸凹になっているので、すうっと書くわけには参りま
です。
木額はノミと木槌で作りますから、完成した後も手が震え
て力が入らず、一か月は鉄筆が握れません。音楽を聴きなが
こぼ
ら鼻歌まじりで木額は出来るが後がいけない、とよく零して
おりました。
も と も と 書 道 と 篆 刻 だ っ て 一 緒 に な っ て は い る が、 本 来
Ƚ
ȽȁijijIJȁȽ
Ƚ
がなくなりますので、按配を考えて書くことが肝要のようで
くまで配篆します。あまり休んでしまいますと、文字に勢い
草稿︶を作る時と同じ要領で、相当時間をかけて、満足のい
ません。木がはねたり壊れた場合には悲観せずに修正すれば
度にしておく方が無難です。なにしろ失敗すると修正がきき
う。ここで失敗すると全体御釈迦になってしまいます。号程
れば出来ません。初心者には薦めないほうがよろしいでしょ
い。
全面刻し終わっても光の加減などもあって、細部に案外削
り滓が残っているものです。小刀で丁寧に取り除いてくださ
何ということもありません。
いいのです。今は良い接着剤もありますから、それで直せば
お しゃ か
す。
れん
それに木額は目の前に置くものではなく、高く掲げるもの
ですから、そういうことも考慮に入れて配篆されると良いと
思います。柱などに掛ける聯の場合とはまた趣が変わって参
りましょう。ノミは付きノミ、平ノミ、内丸ノミ、外丸ノミ
らっ かん
刀を用意されると良いかと思われます。
等、五、六丁もあれば充分でしょう。落款を入れるために小
次に紙ヤスリを使います。あまり目の荒いものは素材の木
を痛めますから避けた方がよろしいようです。気にかかって
時どき霧吹きで材を湿らせ、彫っていくのも一考かと思われ
すと木ですからすぐに壊れてしまいます。手加減しながら、
いましたが、一、二か月手や腕の感覚が鈍く、指が痺れてお
せん。腰も痛んできます。私もこの擦る仕事をしばしば手伝
いのですが、終わってしばらくすると、手や指に力が入りま
になり過ぎ、肩に力を入れ過ぎると、その場では気にならな
いた文字の筆勢はここで丁寧に修正がききます。あまり真剣
ます。筆勢をつけたいために、文字の上を刻したくなるのは
り、教壇に立っても白墨が握れず、往生したことがありまし
おっかなびっくり、あまり丁寧に刻し過ぎると、文字に勢
いを感ぜず、平板になってしまいます。さりとて強く叩きま
大きな誘惑ですが、その点はあまり気にせず、後でヤスリを
次に布切れで磨きながら、刻した面を拭いて行きます。ヤ
スリの滓が案外付いているものです。拭き終わった後はしば
使う手もありますから、あまりこだわらない方がよろしいで
らくおいておくことが肝心でしょう。制作に当っている時は
た。ゆっくりと適度に力を入れ、全体にヤスリを掛けます。
落 款 は 入 れ て も 入 れ な く と も よ い の で す が、 号 を お 持 ち
なら、入れた方が全体落ち着きます。名前であっても何らさ
気が立っており、夢中ですので、彫り残しや運筆に対し気に
しょう。
しつかえありません。父は篆刻家でありましたので、号の下
なるところが出て来るものなのです。印でいうところの補刀
か つい
に白文・朱文二顆対で落款を入れておりました。全作の半分
です。彫りの最後の場面で、ここできちんとしておきません
に
ぐらいはそのようにして仕上げております。丁寧に関防を入
わざ
かん ぼう
れてあるのも何面かあります。しかしこれは篆刻の技がなけ
Ƚ
ȽȁijijijȁȽ
Ƚ
をします。父は夏以外に木額を刻したことはありませんでし
がたった後に効果が出て来ます。塗り終わった後は日陰干し
上澄みをとって、塗ってやるのもよいでしょう。これは年代
次に着色の下地作りですが、泥を塗ってやるのもよし、木
の葉や草を乾燥させ、燃やし灰状にしたものを煮出し、その
かも知れません。その後は私の知っている限り、膠を使って
たが漆にかぶれたので、そのことがあって余計憶えているの
で箔置したのをかすかに憶えております。学齢前でありまし
うな体質で困るのですが、昭和十七、八年頃、本郷湯島の家
ても平気でしたが、私など漆の木の下を通ってもかぶれるよ
糊は漆を用いるのが一番良いのですが、余程注意しません
と家人がみな漆にかぶれ、始末に悪いのです。父は漆を舐め
うるし
箔置となります。
た。乾燥がこつで、湿気を嫌ったのでしょう。乾くまで大分
おりました。出来合いのものでもよろしいのでしょうが、膠
と後で苦労します。丁寧に隅ずみまで目を通してください。
時間がかかります。その後柿渋を薄く塗ります。私などがや
を溶いて使用しておりました。仕上げは鹿の鞣し皮で磨きあ
にかわ
りますと、たっぷり塗ってしまいますが、一見よさそうに見
なめ
えますものの、これは木目を粗雑に扱う結果になります。な
げます。出来上った後はしばらく晒します。そうすることに
と
る べ く 薄 く 満 遍 無 く 塗 る の が こ つ で す。 木 目 を 鮮 や か に 浮
ほお
い ちょ
よって、踊っていた金箔が落ち着いてくるのです。
今、私の手元にある中から四面の木額を載せておきましょ
う。
何面か刻しています。
素材となる木は欅が圧倒的に多いのですが、他に朴、公孫
う かつら
えのき
樹、桂、姫小松、栃の木、榎、それにラワン材なども用いて
けやき
き出させるためと、もう一つ大事なことは不朽のためなので
す。着色を嫌うのは素材の美を大事にしないことによるので
す。それぞれの木にはそれぞれの命があるのです。火に焼か
れたり、水に流されなければ永久に残ることを心掛けて、木
柿渋を塗って乾燥させた後は、うずくりで磨きあげます。
これも相当に時間をかけて磨きます。全て自然のものを使い
でも読ませるのでしょうか。父が結婚
﹁佳趣﹂趣佳し、とと
おる
した時、父の兄、亨に贈ったものです。小石川の叔父の家は
額も制作しておりました。
ます。そうしますと美しい光沢が木目とともに現われるので
戦災を免れました。これは近年従兄の晃より貰い受けたもの
よ
す。最後に文字は金箔をほどこしますが、家では箔置と呼ん
か しゅ
でいました。金箔は風を嫌いますので、部屋を締め切って気
です。一応昭和十一年頃としておきましょう。父三十三歳の
ちん しょ
ご ふん
あきら
を静めながら箔置をします。純金ですからおろそかには出来
作です。材は朴でしょうか。陰刻、胡粉で仕上げています。
公の字が一顆
あざな
小さな木額ですが関防は竹三昧、号は枕書で
れい こう
ません。息を潜めながらピンセットで一枚一枚置いては脱脂
たけ ざん まい
綿で軽く上を押して行きます。夏場ですので汗をかきかきの
Ƚ
ȽȁijijĴȁȽ
Ƚ
中の木額で現存しているものは、この他に元の第一銀行の寮
刻されております。今から六十八年前の作物です。戦前・戦
而第七﹀に
いものですが、それだけに重厚な感じがします。﹃論語﹄
︿述
ます。相当分厚い板で、もう一枚取れそうな厚味があり、重
の朱文が刻されています。
しょう、自分の建てた生田の家に帰ってしまいました。しか
室を設けて仕事をしていたのですが、水が合わなかったので
はまるのが大嫌いな父でした。母が身罷る前後、栃木に制作
と老人病が出て来たのでしょうか。もともと自由気儘で形に
﹁歸根﹂欅材の陽刻です。随分とほったらかしにしてあり
ま し た が、 七 十 六 歳 の 折 に 仕 上 げ ま し た。 こ の 時 分 に な る
き こん
号は椿 、泰印信の白文と椿
の時の作で、篆刻の経験が充分に活かされておりましょう。
を意匠化したところにこの作物の急所があります。七十一歳
如浮雲。
富且貴。於我
レ
二
一
より採っています。肱の形を思い切って象形に近い小篆の肱
食飲水、曲肱而枕之。樂亦在其中矣。不義而
子曰、飯疏
二
一
レ
レ
レ
二
一
が蓼科にありますが、そこに掲げられている陰刻の﹁蓼科山
莊﹂の二面だけです。他にもあるかも知れませんが、私の知
る限りこれだけです。
さん ぎ そう
湯島の家の玄関に﹁三冝莊﹂の家名の木額が掛っていたこ
とを鮮やかに憶えておりますが、これは昭和二十年三月十日
の東京大空襲で、家ともども焼けてしまいました。
﹁酒中仙﹂ラワン材の陽刻です。昭和四十九年の秋に︿岡
本椿 篆刻小品展﹀を短期大学で開かせて戴いた折、出品し
ていますので、六十歳の後半に作られたものと思われます。
杜甫に﹁飮中八仙歌﹂という李白を憶う詩があります。
李白一斗詩百篇
長安市上酒家眠
が分かりかねたのです。もっとも私も四十代の前半の時で行
たのでしょう。父とはずっと別居しておりましたので、真意
しながら、七十歳を過ぎてから六年あまり、驚くほど精力的
父は一合ぐらいしか酒の飲めない下戸でしたが、酒席の雰
囲気は嫌いではありませんでした。大正印会や遊戲三昧会の
き届かない部分もあったのでしょう。門人の都立高校の教師
に栃木で仕事をしました。私の手助けを干渉ととってしまっ
成員でしたから、若い時分から色里などでも遊んでおったよ
達は、毎月栃木に足を運び、わが家で印会を開いておりまし
天子呼來不上船
自 臣是酒中仙
臣是酒中仙﹂の篆書の墨書が
うです。そんなこともあってこの詩が好きであったのでしょ
う。私の手元には全紙で﹁自
たが、人恋しくなったのでしょうか。
ちん しょ
この﹁歸根﹂は栃木での最後の制作でした。生田に帰って
その後十年以上生き長らえますが、木額はほとんど作りませ
残されています。号の椿 の下には生于甲辰の白文と字の
公の朱文が刻されています。
﹁曲肱樂﹂︵肱を曲げて樂しむ︶は陽刻で欅材に刻してあり
Ƚ
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Ƚ
Ƚ
ȽȁijijĶȁȽ
Ƚ
んでした。ですからこの作物が父の木額の最後と言ってよろ
うが、朱文も白文も同じ要領で印稿を作って、何ら差し支え
を北川博邦が執筆しているものです。大旨は正しいのでしょ
ろく しょう
薄い白の紙に朱で書いておりました。黒い紙の上に朱で印稿
ありません。墨を塗って、朱で書き入れるとありますが、父
しいかと思います。号の椿 は陰刻、緑青で仕上げておりま
を書き入れるなど、神様でなけりゃ出来ない、と言っており
す。
の と こ ろ に 行 っ て い る﹁ 豐 金 堂 ﹂、
こ の 他 外 祖 父 酒 井 敏か一
なり
小 林 喜 美 子 所 有 の﹁ 可 也 ﹂
、 千 勝 神 社 所 収 の﹁ 千 勝 神 社 參 集
ました。朱で書き、修正に修正を重ね、筆で回りを塗りつぶ
有馬一男事務局長の﹁有馬一男﹂﹁溪水﹂の印を作っており
﹁白童﹂の二顆対の依頼
南 原 繁 東 京 大 学 総 長 の﹁ 南 原 繁 ﹂
があったのは、戦後間もない昭和二十一年でした。その後、
よく言っておりました。
てはつぶして行くものと同じで、あれじゃ銭はとれない﹂と
椿所はそのように印稿は書いておりません。ルーズリーフや
殿﹂、義兄大島光所有の﹁千里行始足下﹂、木村好成学園理事
した結果の墨色なのです。墨の厚紙を使うとすれば、修正に
ほう きん どう
長・校長所有の﹁稽古 照 今﹂、片山喜八郎前図書館長所有の
便利であるからでしょうが、これはカモフラージュです。幾
なん か ちょう だい
二
一
﹁孤 舟 樓﹂、益子の陶人故須藤武雄所収の﹁日向窯﹂、東京の
何学的な篆書を朱筆一本で印稿を作るなど、それこそ神技で
けい こ しょう こん
出版社所収の﹁一莖書房﹂
、栃木西ロータリークラブ会長落
レ
ゆう ほう えん らい
ひ なた かま
合藤市所有﹁心如水﹂等々、思い出すままに近年父が刻した
す。
﹁書物になっている印稿の手本など、俺の頭の中で作っ
こ しゅう ろう
木額を挙げておきます。
た折に木額に刻してくれました。この作は四半世紀も過ぎて
レ
レ
、
﹁遊於藝﹂
私 の 手 元 に も 聯 で﹁ 有 朋 遠 來 ﹂﹁ 胡 香 丁 大 ﹂
二
一
﹁思無邪﹂、それに私の坐右銘にしている﹁德不孤﹂を新築し
おりますが、金箔も落ち着き、気持ちの良い作物になってい
ます。
ます。その印と平行してでしょうか、
﹁東京大學﹂
﹁東京大學
印稿について
總長﹂
﹁東京大學事務局長印﹂の三顆の依頼があり、墨で書
は印面と同大で朱を塗り墨で書き入れる︶が、紙に印面
印面に布字する前に作る草稿。普通は厚紙に墨を塗り
印面と同大の輪郭を作り、朱で書き入れる︵白文の場合
らでもよろしいのです。元もと地の紙は白なのですから、そ
大學總長﹂も墨で書かれています。印稿は墨でも朱でもどち
だからと区別する必要はまったくありません。
の時の気分でどちらに書いてもよいのです。朱文だから白文
これは東京堂から出版されている﹃書道辞典﹄の﹁印稿﹂
より大きく書く大雑把なやり方もある。
いた印稿が残っています。別に白文ではありません。
﹁東京
印
稿
Ƚ
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Ƚ
Ƚ
ȽȁijijĸȁȽ
Ƚ
﹁波吉會﹂、これも戦後間もない頃、宝生流家元から依頼の
あったものです。二面の印稿が残されています。父は謡曲を
た。私には残念ながら押印することは出来ません。押しに十
した。二十部だけ押印し、幅にして印はしまってしまいまし
歳 過 ぎ て か ら の 作 品 で、 父 に と っ て﹁ 般 若 心 經 ﹂ は 大 作 で
趣味としており、水道橋の能楽堂の舞台に立ったこともあり
しゅ とくの しょう
年、とよく父は言っておりました。
しゅう も しゅく
す。
あい れん
劉 伯 倫﹁ 酒 德 頌 ﹂ の 表 題 で す。 印 稿 と 印 面 が ほ ぼ 同 じ よ
うに作られています。 派独得の流れるような華麗な印稿で
りゅう はく りん
ます。謡いも篆刻家としての教養の一つだったのでしょう。
ば つね きち
貧しくても気位いだけは人一倍強い男でした。
お
東京美術學校の小場恒吉博士より、父宛に便りが届いてお
りました。昭和二十一年八月二十日の落合長崎の消印が押さ
練っておったのでしょうが、出来上った作物は白文でした。
印面が一変したものです。印稿は朱文で制作しようと草稿を
れています。
拝啓
先便にていろいろ面倒な事の御返信を御願ひ申し
上げましたが猶一ツ御敎示願ひ上げます。
八十歳を過ぎてからの、
蓮說﹂の一説﹁可遠觀而不可褻翫焉﹂
︵遠観す
周茂叔﹁せ愛
つ がん
可 く し て 褻 翫 す べ か ら ざ る を 愛 す ︶ と 読 み ま す が、 印 稿 と
一たい印稿だけ依頼をうけたる時の印稿料なるものは緫
二世岡本椿所の篆刻
血の繋がりがなせる結果なのでしょうか。
去が蘇り、妄想またたくましくなり、鳥肌が立って来るのは
いたのを見たことがありません。この印稿を見ていると、過
﹁何陋立有﹂、先ほど述べた父最後の作品です。意識朦朧と
した中での印稿作りで、後にも先にも父がこういう印稿を書
派の伝統的な印稿の作りです。
そいくばく位のものかこれまた折り返しご敎示のほど御
願ひします。
匆々
八月十九日
頭で描いたような大雑把な印稿では他人様に見せられませ
んし、印稿料も戴けません。この印は東京美術學校と東京音
樂學校が統合され、東京芸術大学となるのですが、その印稿
の依頼の便りなのです。この時は三面の印稿を父は書いてお
ります。﹁東京藝術大學﹂はその時の印稿の一つです。
した。二世椿所は幼少の頃から印会の片隅で分からないなが
父でした。祖父は明治・大正を代表した日本の
初世椿所は中井敬所なき後、日本を代表する篆刻家の一人
でした。同士と図って丁未印社や明治印字会を興したのも祖
つぶし、五回目に完成させています。擦りつぶすなどなかな
らも篆刻家達の話を聞いて育ちます。山田寒山、河 井 廬に
﹁般若心經﹂は白文朱文の二顆全刻の印として仕上げてお
り ま す が、 印 稿 は 両 面 と も 朱 で 書 か れ て い ま す。 四 回 擦 り
か出来ない芸当ですが、大きいものでも小さいものでも気に
かわ い せん ろ
派の印人で
入るまで、いつもそうやって制作に当っておりました。七十
Ƚ
ȽȁijijĹȁȽ
Ƚ
はま むら
は特に可愛いがられていたようです。印会には初世中村
臺
や五世濵村藏六もおりました。この五人が篆刻界の五大家と
呼ばれておったのです。
れほどの違いがあるのです。
祖父椿所の死後は門人達もみな浙派に移ってしまいまし
た。 飯 田 秀 處、 杉 浦 羊 言、 木 村︵ 山 田 ︶ 正 平 も 移 行 し ま し
く寡黙な人になってしまいました。日本での
た印人は野に下ってそのまま朽ち果ててしまったり、まった
派の巨頭は泉下に眠ってしまったのです。浙派を嫌っ
た。そうしなければ印人として生きて行けなかったのでしょ
の仲で、中井敬所の門下であった郡司楳所に学びます。その
う。
一方では先ほど述べましたように、十五歳の時から先代を引
二世椿所だけになってしまったのです。まさに孤塁を守る結
ぐん じ ばい しょ
初世椿所が没した後は、遺言通り、 廬翁に父は学びます
が、浙派風の印にどうしてもなじめず、初世椿所と兄弟以上
き継ぎ第一銀行の印を一人で刻して参りました。見識ある第
な け れ ば 印 壇 に 認 め ら れ な か っ た、 そ ん な 篆 刻 界 の 空 気 も
果になって行きました。多くの印人は河井 廬の教えを受け
派の印人は父
一銀行の仕事を、十五歳の少年にさせたのは、恐らく第一銀
あったのです。
行常務の大叔父大塚磐五郎の支えがあって出来たことでしょ
がい いん
うが、それにしても篆刻の技倆がなければ出来ない相談で、
外印を作らせたら二世椿所が日本を代表する印人だったと思
父椿所は 廬の印を嫌って郡司楳所につきました。河井
廬は昭和二十年、戦災で文具とともに焼死してしまいます。
ら、現代篆刻と言いながら未だに篆刻界は 廬々々と河井
いん ぜん
がるのでしょうか。何雪漁の﹃印選﹄など、観ていて震いつ
か せつ ぎょ
派を認めることは自分たちを否定することにでも繋
きたくなり、現代篆刻などおよびもつきません。男性的なも
です。
そ れ ゆ え か 派 の 篆 刻 は 無 視 さ れ、 認 め よ う と も し ま せ
ん。 近 年 の 書 物 を 見 て も 中 井 敬 所 や 初 世 椿 所 は 評 価 の 埒 外
驚くほど少ないのです。
一番安全ではありますが。博覧強記の御仁でしたが、作品は
東洋に遺された優れた篆刻家の死でありました。しかしなが
大正八年に祖父椿所が逝き、さ岡村梅軒また逝き、昭和九年
に楳所翁がなくなりますと、然しも隆盛を誇った 派は、流
うことなのでしょう。もっとも保身の術にたけるにはそれが
廬一辺倒です。河井 廬だけにしがみついているのはどうい
われます。
派の篆刻から、まったく逆の壊わす篆刻に時代
行の浙派に押されて影が薄くなって行きました。綺麗・華麗
を旨とする
とともに変わって行ったのです。
派は中国安 省から興り、浙派は浙江省から興ったもの
で、これは篆刻のみならず絵にしても書にしても、ことごと
く対立し、思考も手法も評価も異なるものでした。同じ中国
でも風土の違いがそうさせるのでしょうか。篆刻の制法など
もまったく違っており、
派の全ての教えを逆に行くのが浙
派と言ってもよろしいでしょう。あんなに小さな芸ですらそ
Ƚ
ȽȁijijĺȁȽ
Ƚ
のであれ、美しい篆刻こそが芸であって、理屈での芸は美で
はありません。小林秀雄の言葉を借りるならば、美しい花が
通した芙蓉派の趣が溢れている。
のが二世椿所の仕事でした。私の家は椿堅所から始まり、初
椿所であります。孤独と戦いながら伝統の
派を守ってきた
は明治の中井敬所です。その衣鉢を受け継いだのが初世岡本
まります。篆刻を芸術として位置付け、その基礎を作ったの
派が近代篆刻の興りで、文三橋・何雪漁によって篆刻は
どく りゅう
形作られました。日本の篆刻も 派の獨立・心越によって始
は後に山田寒山の養子になりますが、八一は同郷のよしみも
ました。竹香は會津八一の書を最初に認めた御仁です。正平
判屋の主人で、毎月例会には新潟から正平を連れてやってき
はその必要性がないのでしょうか。木村竹香は新潟古町の印
を越えてきちんとしなければいけないのです。それとも篆刻
れていないのではないでしょうか。歴史は文献に当って党派
に知っていてもなぜか書きません。安藤更生の死後は誰も触
に 則 っ た 正 し い 解 説 な の で す が、 今 ま で
この記述は文献
ちく こう
の書物では木村竹香・正平父子が初世椿所の門人であったこ
世・二世椿所と三代続き、私の代で終わりであります。それ
あって山田正平を引き上げます。阪口五峰も市島春城も會津
ぶん さん きょう
あっても、花の美しさなどないのです。
故に篆刻の興りである 派をきちんと検証し、体系付けられ
こう せい
八一も新潟出身です。それゆえみな仲の良い友人関係にあっ
号に転載されています。
たのです。二世椿所は山田正平とも眤懇にしておりました。
松村一德の紹介記事は﹁墨﹂
正十一年に発刊され、号は泰山でした。祖父椿所は既に死ん
ふう いん
でおります。数え年十七歳の時の作物で、今の時代なら高校
ろう せき
二年生でしょう。
石に刻された封印です。平成十二年に短期
﹁魚雁往來﹂蠟
大学で、
﹁初世・二世岡本椿所篆刻作品展﹂を開かせて戴い
Ƚ
ȽȁijĴıȁȽ
Ƚ
となどほとんど書かれておりません。狭い篆刻界のことなの
ることが出来れば、と考えております。
昨年の秋、古河にある篆刻美術館で山田正平展が開催され
ました。松村一德館長はこのように紹介しています。
山田正平にとって篆刻は生活そのものであったと想像
できる。実父木村竹香は印章店を営み、同時代を代表す
二世岡本椿所の作品を何点か紹介しておきましょう。
派の篆刻家岡本椿所に篆刻の指導を受けていた。正
る
派と、山田寒山を
たい ざん
平は幼い頃から 派の篆刻話しを聞いて育つという環境
には、岡本椿所・木村竹香を通した
と山田寒山の題詩を正平自身が刻している。
﹃正気印譜﹄
最初の印譜に﹃正気印譜﹄︵一九一六︶がある。藤田
東湖の正気歌を六十七顆に刻したもので滑川澹如の序
略︶
にあり、満十五歳頃から椿所に指導を受けていた。
︵中
復識矣﹂これは 派の印人が集
﹁曾日月之幾何而江山不可
レ
二
一
い、分刻したもので、﹃蘇賦印譜﹄に収められています。大
171
た 折、 そ の 時 の 一 番 に 人 気 の あ っ た の が こ の 小 さ な 印 で し
すと、
の制作です。﹁愛蓮說﹂の一説で、この印などを見ておりま
を愛す︶印稿と一変した白文の作品で、八十歳を過ぎてから
派だ浙派だなどと枠組みすること自体が笑止なこと
ノ
た。私は以前から見て知っておりますので、昭和の初期ぐら
で、まさに七十年以上の篆刻歴の総決算の作物のように思う
ちゅう どう
いに出来たのかも知れません。初世椿所にも鋳銅で作られた
のですが、二世椿所は恐らく無念無想で刻し、方寸の世界の
と
に載っており、ある割烹店の商標にも使われています。
ノ
症が進行しており、その上眼も見えなくなっているのでしょ
すが、もう文字の体をなしておりません。完全に老人性痴呆
か け た 印 や 中 途 で 終 わ っ て い る 印 稿、 印 文 が 残 さ れ て い ま
︵何の陋か之有らんと︶﹁陋室銘﹂の最後の詩
﹁何陋之有﹂
句 で す。 回 文 法 で 刻 さ れ て い ま す。 こ の 作 以 降、 途 中 彫 り
叱られそうです。
中で遊んでいるのでしょう。お前の批評など無意味だ
│
﹁ 魚 雁 往 來 ﹂ の 印 が あ り ま し て、 こ れ は あ ち ら こ ち ら の 書 物
いん せん
もので、
﹁南原繁﹂戦後間もない昭和二十一年に依頼された
はく し
﹁白童﹂の二顆対の一つです。物資がなにもなく伯紙も手に
入らず印箋を土佐半紙にして南原先生にお渡しした、と父の
言っていたことを憶えています。
有の作で、二世椿所七十四歳の時に作りました。
﹁ 土 屋 氏 ﹂ 青 田 石 に 刻 し た 落 款 印 で、 も う 一 面 の 朱 文 は
﹁ 文 明 老 人 ﹂ で す。 昭 和 五 十 三 年 に 作 ら れ た 歌 人 土 屋 文 明 所
二世岡本椿所の生前最後の作ということになりますと、また
きました。時に数えの十八歳でした。漢学は二松學舍で学び
大 正 十 一 年 の 平 和 記 念 東 京 博 覧 会 に 出 展 し た﹁ 順 逆 境 中
縱 橫 自 在 ﹂ を 始 め、 十 四 顆 の 印 は 全 作 入 賞 し お 買 い 上 げ 戴
う。
。 こ れ は 作 品 と 呼 べ る も の で は あ り ま せ ん。 た だ こ れ が
﹁酒德頌﹂印稿のところでも触れましたが、劉伯倫の表題
﹁酒德頌﹂を刻したものです。印稿を推敲し、 派独得の柔
見方もいささか変わって参りましょう。八十七歳、死の前年
ノ
らかい味のある印に仕上っております。さんずいの水を下に
の作物です。
﹁田園將蕪﹂︵田園将に蕪せんとす︶陶淵明の﹁歸去來辭﹂
の一説です。私はこの印が大好きで、所持していることに歓
ノ
持って来ているところが文字の意匠の工夫でしょうか。
びすら感じております。白文で美しいなあ、と思いますが如
ます。大正末年には山本碩堂等同士と図って大正印会を発足
させ、事務所を湯島新花町の父の元に置き、大正印会同人印
何でしょう。昭和五十年代の作物です。
譜を第十集まで刊行しました。後に印壇と訣別し、野に下っ
て
﹁國學院大學栃木學園圖書館藏﹂昭和四十九年六月に仕上
げ、学校にお納めしております。椿所七十歳の時の作物で、
鮮銀行、台湾銀行、満州興業銀行のものを一人で刻して参り
派の篆刻を守り通しました。銀行印は第一銀行の他、朝
﹁可遠觀而不可褻翫焉﹂
︵遠観す可くして褻翫すべからざる
今でも図書館の本の一冊々々に押印されております。
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ま し た。 戦 中
は材料に乏し
く、 公 吏 生 活
に 入 り ま す。
戦 前、 戦 中 の
作 品・ 印 影 は
全て戦禍にて
焼失してしま
いました。
らい き とう
篆刻作品は﹁般若心經﹂﹁天保﹂﹁秋風辭﹂
﹁歸去來辭﹂﹁酒
德頌﹂﹁醉翁亭記﹂
﹁愛蓮說﹂
﹁陋室銘﹂の全刻があり、外印
えい
さん ぎ さん そう いん ぷ
を含めますと五千顆は下らないと思います。印譜は﹃ 喜刀
影﹄﹃三冝山莊印譜﹄の二冊、自伝に一莖書房より刊行した
てん こく ひと よ がたり
﹃私の篆刻道﹄
、その他に、明治図書から出版された雑誌﹁開
く﹂に﹁篆刻一夕話﹂を五回に亘って連載しました。また國
學院大學栃木短期大学の御好意により、昭和四十九年と平成
し ごう
十二年の二回に亘り椿所作品展を開催させて戴きました。
泰山を名乗り、枕書、椿 を経て椿所の号は諡号として私
が付けました。昨年の十二月十三回忌を営みましたが、生活
はともかくとして、三冝莊を家名とし、篆刻家としては仕合
わせな一生だったと思います。多くの方がたに御支援戴きま
した。ありがたいことだと感謝致しております。
︵前副校長 短期大学国文学科助教授︶
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二世椿所 七十五歳
×åäîåóäáù¬ Áõçõóô ´
É ãáíå âáãë æòïí ôèå óõííåò óãèïïì èåìä éî Èéçáóèéùáíá ïîóåî¬ Æõëõóèéíá Ðòåæåãôõòå® Ôèå óôõäåîôó óôõäéåä öåòù èáòä áîä äéä ôèåéò õôíïóô¬ áîä áô ôèå óáíå ôéíå ôèåù òåáììù åîêïùåä ôèå ðòïçòáí® Ôèåù ôïïë á èïô óðòéîç âáôè¬ èáä çïïä íåáìó¬ áîä åîêïùåä ôáìëéîç ÷éôè ôèåéò æòéåîäó® É ôèéîë ôèå óõííåò óãèïïì æïò ôèå æéòóô­ùåáò óôõäåîôó ÷áó á çòåáô óõããåóó® É êïççåä áòïõîä Ohira-san ôïäáù® É ìéëå ôï êïç¬ åóðåãéáììù éî ôèå óõííåò® Ôèéó íáù óõòðòéóå óïíå ðåïðìå¬ âõô éô éó ôòõå® É áöïéä òõîîéîç ÷èåî éô éó òåáììù èïô¬ ïæ ãïõòóå¬ æïò óáæåôù òåáóïîó® É õóõáììù óôáòô êïççéîç áô áâïõô ´ ð®í® Ãìïõäù äáùó áòå çïïä¬ âõô åöåî éæ ôèå óõî éó óèéîéîç¬ É ãáî áì÷áùó æéîä á óèáäù ðìáãå ôï òõî® É ìïöå âòååúåó ÷èåî É óôáòô ôï çåô èïô® Ôèåù òåáììù æååì çïïä® É ôèéîë ðåïðìå ÷èï èáöå îåöåò òõî ìéëå íå äïî§ô õîäåòóôáîä ôèéó çòåáô æååìéîç® É ôáëå á âáôè áæôåò É òåôõòî èïíå¬ ôèåî åîêïù íù æáöïòéôå óõííåò âåöåòáçåº á ãïìä çìáóó ïæ âáòìåù ôåá® Óõííåò éó¬ æïò ôèéó òåáóïî¬ íù æáöïòéôå óåáóïî æïò êïççéîç®
8月4日(水曜日)
健康のためにジョギングを始めて、かれこれ
10 年になる。もっとも大学生のころもよく走っ
ていたので、正確にいうと再開してから 10 年
ということになる。太平山のマラソンコースを
走ってくるのだが、その景色が実に素晴らしい。
春の桜、夏のあじさい、秋の紅葉、冬に見る
富士山と、1年中飽きることはない。約 13 キ
ロの道程を、1時間 10 分ほどかけて走ってく
る。毎回時間を計っているが、ここ 2 、3 年
はタイムが少し落ちてきた。
ジョギングはもちろん健康には良いが、効用
はそれだけではない。走っているといろいろ
な発想がうかんでくるのだ。これが楽しい。私
は原稿に行き詰まったとき等は、机の前でじっ
としているのではなく、思い切ってジョギング
をすることにしている。すると気分もすっきり
し、 新しい発想が生まれることが多いのだ。
疲れているときでも、走るとリフレッシュできて
仕事もはかどる。
運動をすると血行を促進し、脳に多量の酸
素が供給され、その働きが活性化するという。
このことをよく理解していて、散歩を愛した偉
人は多い。ルソー、ソクラテス、カント、ニー
チェ等がそうである。アリストテレスは、古代
ギリシャの街を歩きながら学生に講義をしてい
たそうだ。
最近では CD 等で音楽を聞きながら勉強し
ている学生が増えているようであるが、これ
は感心しない。何か真剣にものを考えている
ときに、音楽が必要であろうか。人生はそん
なに長いものでもない。学習においても、集
中するために常に効果的な方法を見つけるこ
とが大切である。勉強は、静かできちんと整
理されている落ち着いた場所でするべきであ
ろう。少し疲れたら、走ってみるとよい。音楽
を聞きながら学習するのではなくて、走りなが
ら考えることを諸君にすすめる。そうすれば、
斬新なアイデアがうかぶこともあるはずだ。
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7月 28 日(水曜日)
お茶の水へは中学生の時からよく行くよ
É ÷åîô ôï Ôïëùï ôï äï óïíå óèïððéîç® É ãáî òåìéåöå íù うになった。書店や、スポーツショップ、楽
óôòåóó âù çïéîç óèïððéîç áæôåò 器店等、一日中いても飽きない。さすがに年
÷ïòëéîç® Áô ôèå óáíå ôéíå¬ 齢とともに楽器店には行かなくなってしまっ
É ôòù îïô ôï ÷áóôå íïîåù ïî たが、ジョギングが好きなのでスポーツ用品
õîîåãåóóáòù ôèéîçó¬ ôèïõçè É はよく見て歩く。また、三省堂書店とは学生
óïíåôéíåó âõù óïíåôèéîç ïî の頃からのつきあいで、昼食をはさんで開店
éíðõìóå® から夕方までいることが多い。何も買わずに
Æéòóô¬ É ÷åîô ôï ¢Sansei-do ¢ 出てくることもあるが、いろいろな本を読ん
âïïëóôïòå éî Ïãèáîïíéúõ® É ÷åîô ôï ôèå ôèéòä æìïïò ôï âõù でみるだけでも満足することができる。年に
óïíå âïïëó® É æïõîä á çïïä 5 、6 回は行かないと落ち着かなくなってし
çõéäå âïïë æïò ëååðéîç á äéáòù まう。特に英語の教材は年々いろいろな種類
éî Åîçìéóè¬ óï É âïõçèô éô® のものが出ているので、少しでも遠ざかって
Ôèåî É ÷åîô ôï ¢Mizuno ¢ しまうと時代に遅れてしまう気がして、英語
óðïòôéîç çïïäó óôïòå® É âïõçèô á ðáéò ïæ âìõå ôòõîëó æïò êïççéîç® 関係の書棚は必ず一通り目を通すことにして
Óôòáîçå ôï óáù¬ É òåáìéúåä âìõå éó いる。
学生街はいつも若者があふれ、活気に満ち
íù æáöïòéôå ãïìïò áô ôèáô ôéíå® É ôèïõçèô É ÷áîôåä ôï êïç áó ている。だからこの街が好きでたまらないの
óïïî áó ðïóóéâìå ÷èåî É çïô íù である。ただ私も 40 代に入り、この街との
îå÷ ïõôæéô® つきあい方も変わってきた。若いころはあま
É èáä ìõîãè áô ôèå æáíïõó り気にならなかった古書店や靴店、料理店等
¢Yabu-soba ¢ òåóôáõòáîô æïò ôèå が目に留まるようになったのである。特に食
æéòóô ôéíå® É ÷áó óï éíðòåóóåä べ物は好みも変わってきて、同僚や友人から
âù ôèå ÷áù ôèå ÷áéôòåóóåó¬ ãìáä éî ëéíïîï¬ ÷åìãïíåä ãõóôïíåòó® 話を聞いたりして、今まで行ったことがない
店で昼食をとることも多くなった。
Áó óïïî áó ôèåù óá÷ õó åîôåò ôèå òåóôáõòáîô¬ ôèåù óáéä この日記に出てくるそば店も、いつかは
¢Irasshai-mase ¢ éî á öåòù óðåãéáì 行ってみたいと思っていたのである。その
÷áù® Éô§ó á ëéîä ïæ ãèáîô® Ôèåù 時感じた気持ちを、そのままここに記してみ
öéâòáôå ôèå ìáóô ðáòô ïæ ¢Irasshaiた。やはり、ふだんの生活を英語で書いてみ
mase ¢¬ áîä ôèå óïõîä ÷áó ìéëå ることはとても大切なことであると思う。こ
ôèáô ïæ ôèå ÷éîä âåììó ¨ fuurin ©®
れを繰り返すことによって、自分の言いたい
Ôèïõçè éô ÷áó öåòù èïô¬ ことを英語で自由に表現できるようになるは
ôèåéò öïéãåó çáöå õó á æååìéîç ïæ ずである。
ãïïìîåóó® ×åäîåóäáù¬ Êõìù ²¸
Ïæ ãïõòóå É òåáììù ìéëåä ôèå
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ãïò áîä ôèå áôíïóðèåòå ïæ ôèå ÷ïïäåî òåóôáõòáîô¬ áîä ôèå soba ÷áó çòåáô®
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Óõîäáù¬ Êõîå ²¶ É òåãåéöåä áî å­íáéì æòïí Ëåòóôéî® Óèå ÷áó áî åøãèáîçå óôõäåîô æòïí Ó÷åäåî èåòå áô Ëïëõçáëõéî Ôïãèéçé Èéçè Óãèïïì® Óèå óáéä óèå çòáäõáôåä æòïí èåò èéçè óãèïïì® Óèå áððìéåä ôï á õîéöåòóéôù áîä ÷éìì ìåáòî ôèå òåðìù éî ôåî ÷ååëó® Óèå ãáî ãïîãåîôòáôå ïî ôèéîçó óèå ìéëåó ôï äï¬ óõãè áó óôõäùéîç Êáðáîåóå¬ ðìáùéîç ôèå çõéôáò¬ ôèå koto áîä Igo¬ çåôôéîç á äòéöåò§ó ìéãåîóå áîä óï ïî® Ôèéó ôåî ÷ååëó éó á öåòù ðòåãéïõó ôéíå æïò èåò ôï äï á ìïô ïæ ôèéîçó âåæïòå åîôåòéîç ôèå õîéöåòóéôù® Áô ôèå çòáäõáôéïî ãåòåíïîù¬ óèå ðìáùåä ¢Sakura gensou-kyoku ¢ ïî ôèå koto éî æòïîô ïæ áìì ôèå çòáäõáôåó® Ôèåù áìì óãòåáíåä áîä ÷èéóôìåä ÷èåî óèå ÷åîô ïî ôèå óôáçå® É ãáî ðéãôõòå ôèå óãåîå öéöéäìù®
Âù åøãèáîçéîç å­íáéìó¬ É ãáî ìåáòî íáîù ôèéîçó æòïí Ëåòóôéî®
Ôèéîçó ìéëå òåãåîô âïïëó¬ íïöéåó¬ ðïìéôéãó¬ óïãéáì ôòåîäó¬ èåò óãèïïì ìéæå¬ ôèå ÷áùó ïæ ôèéîëéîç ïæ Åõòïðåáî ðåïðìå­ôèåóå áòå ôèå
ëéîäó ïæ ôïðéãó É òåáììù ìïöå ôï ôáìë
áâïõô® É ÷òéôå áâïõôǽÊáðáîåóå ÷áùó ïæ ôèéîëéîç¬ Êáðáîåóå ãõóôïíó áîä ãïîôåíðïòáòù Êáðáîåóå ãõìôõòå éî òåôõòî® É ôèéîë éô§ó á çïïä ôòáäå âåô÷ååî Ëåòóôéî áîä íå®
Åøãèáîçéîç å­íáéìó ÷éôè ðåïðìå ìéöéîç éî æïòåéçî ãïõîôòéåó éó á ìïô ïæ æõî¡ 6月 26 日(日曜日)
シャスティンはスウェーデンから来た留
学生で、本校で 1 年間学んだ。とても真面
目な学生で、日本語の学習はもちろん、和
太鼓、箏曲、日本の文化研究等何にでも全
力を尽くしていた。金髪でめがねをかけてお
り、いつも分厚い日本語の教科書を持ち歩い
ていた。暇さえあれば、日本語を書く練習を
していた。漢字には手を焼いていた様子だっ
たが、何度も繰り返し書いてはマスターして
しまうのだった。彼女が日本語のスピーチコ
ンテストに参加するのでアドバイザーを務め
たが、本当に何度も何度も発音練習を熱心に
行っていた。彼女の姿勢を見ていて、私も言
語を学ぶ者として多くのことを学んだ。
シャスティンの英語の能力は素晴らしく、
スウェーデンの彼女の高校ではトップクラ
スである。母親は彼女の通っていた高校の英
語の先生で、父親は内科医という、職業柄常
に英語と接している職業に就いていらっしゃ
る。アメリカに留学した兄、オーストラリア
に留学した姉もいて、彼女自身も英国に留学
した経験を持っている。その彼女と英語でE
メールを交換してから 1 年半になる。彼女
は文章を書くのが得意で、いろいろなことを
教えてくれる。スウェーデンの文化、政治、
スポーツ、高校生活、スウェーデンに入って
くる日本のニュース等、話題は豊富である。
彼女は日本から琴を持って帰り、地元ス
ウェーデンで文化祭等の学校行事において何
度も演奏をしている。浴衣に身をつつみ、本
校の箏曲部で鍛えた技術を披露しているの
だ。時どき、演奏を録音した CD も送ってく
れる。昨年の 8 月に彼女から大学に合格し
たという E メールが届いた。彼女は現在大
学で日本語を専攻している。この嬉しい知ら
せを受け取って、私は彼女にすぐお祝いの手
紙を送った。ただ、この時ばかりは心をこめ
て日本語で綴ったのである。
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Æòéäáù¬ Áðòéì ² Ôèéó íïòîéîç É æïõîä áî ïìä ðéãôõòå ïæ íéîå éî íù äåóë® Ôèå ðéãôõòå òåáììù âòïõçèô âáãë íåíïòéåó æïò íå ïæ á ôòéð É íáäå áâïõô ô÷ï äåãáäåó áçï® ×èåî É ÷áó á õîéöåòóéôù óôõäåîô¬ É ÷åîô ôï ôèå Õîéôåä Óôáôåó æïò ôèå æéòóô ôéíå ÷éôè íù åìäåò âòïôèåò®
Æéòóô¬ ÷å ôòáöåìåä áòïõîä Ìïó Áîçåìåó®
×èåî ÷å óôïððåä áô á èáíâõòçåò òåóôáõòáîô¬ É ÷åîô éî ôï ïòäåò ô÷ï èáíâõòçåòó¬ Æòåîãè æòéåó áîä Ãïëåó¬ ÷èéìå íù âòïôèåò ÷áéôåä æïò íå éî ôèå ãáò®
Ôèå æåíáìå óôáææ íåíâåò ôïïë íù ïòäåò áîä óáéä óïíåôèéîç ôï íå¬ ÷èéãè É ãïõìäî§ô õîäåòóôáîä áô áìì®
É áóëåä èåò áçáéî áîä áçáéî¬ âõô éî öáéî® Ðåòèáðó éô§ó âåôôåò æïò íå ôï ðõô ôèéó äï÷î ôï íù ìáãë ïæ ëîï÷ìåäçå ïæ Åîçìéóè® Âåóéäåó¬ óèå óðïëå ôï íå éî á âòïáä Ãáìéæïòîéáî áããåîô® Íáùâå óèå áóëåä íå ÷èåôèåò ÷å ÷ïõìä âå åáôéîç éî ôèå òåóôáõòáîô ïò ôáëéîç ïõò æïïä ïõô® Áîù÷áù¬ óèå çáöå íå ôèå æïïä áîä äòéîëó ÷éôè á óíéìå® É áðïìïçéúåä ôï èåò æïò îïô õîäåòóôáîäéîç èåò áîä ÷å óáéä çïïäâùå®
Åöåî ôïäáù¬ É èáöåî§ô æïòçïôôåî èåò âåáõôéæõì óíéìå áîä èï÷ èáòä óèå ôòéåä ôï íáëå íå õîäåòóôáîä ÷èáô óèå ÷áîôåä ôï óáù®
4月2日(金曜日)
20 歳の時に兄とアメリカ旅行に出かけた。
約 30 日間かけてロサンゼルス、サンフラン
シスコ、ラスベガス、ニューオリンズ、シ
カゴ、ワシントン、メンフィス、フロリダ、
ニューヨーク、カナダ(ナイアガラの滝)と
巡ってハワイに寄って帰って来た。この体験
が今の私のバックボーンになっている。見る
もの聞くものすべてが新鮮で、大変な衝撃を
受けた。兄は当時すでに英語教師で会話では
不自由することはなかったが、私はまだ学生
でコミュニケーションには苦労をした。
ここに書いてあるハンバーガーショップの
ことも今となっては良い思い出であるが、そ
の時は本当にあせってしまった。あとでデビ
ン先生からうかがったことであるが、やはり
カリフォルニアの、特に若い女性のアクセン
トはわかりにくいらしい。それにしても簡単
な英会話ができなかったことに、ずいぶん悔
しい思いをしたものである。
アメリカ旅行から帰って来て、私は英会話
のテープ(リンガフォン)を買って少しずつ
会話の練習を始めた。英語を聴かないことに
は、いつまでたっても話せるものではない。
この旅行はそのことを私に教えてくれたので
ある。今では私の英会話の CD のコレクショ
ンも増えてきて、なるべくいろいろな分野の
ものを聴くように心がけている。
生徒諸君もあせることはない。英会話は高
校卒業後くらいから本格的に始めればよい。
英語を話したいと思うなら、英文付きのリス
ニング用教材を買ってきて CD 等にあわせて
発音練習をしてみよう。すぐに力はつくもの
ではないと思う。10 年かけて鍛える、くら
いの気持ちで楽しみながら気長に学習しても
らいたい。英語は生涯かけて磨くものである
と私は思っている。
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英語で日記をつけてみよう
村 田 真 一
IT 革命の名のもとに情報通信技術等が発展し、経済・社会から個人の生活
においてもグローバル化が急速に進展している。21 世紀を生き抜くためには、
国際的共通語となっている英語のコミュニケーション能力を身に付けることが
不可欠であると言ってよい。そのためにも英会話スクールに通ったり、NHK
教育テレビ・ラジオ等の英会話の講座を利用して英語を「音」で学ぶことは
とても大切なことである。私も日頃からなるべく英語を聴くように心がけてい
る。車の中ではいつも英語( Spoken American English 等 )の MD を流し
ている。何度も聴いているうちに自然と英語のリズムがつかめてきて、MD に
あわせて発音できるようになってくる。英文を読む際にもそのリズム感は活
かされて、リーディングにスピードがついてくるのだ。会話を聴くのに飽きた
ら、英語の歌を聴くのもいいだろう。一緒に歌えば発音の練習にもなり、楽し
く英語の能力を磨くことができる。
ところで今、英会話とともに注目を浴びているのは、英語で日記をつけるこ
とである。毎日の自分の生活を楽しみながら英語で表現すれば、かなりコミュ
ニケーション能力は磨かれるはずである。まず書店に行って自分の気に入った
英語の日記用例集を買ってくるとよい。「英作文は英借文」という言葉がある
ように、用例をうまく自分なりに応用してみるのだ。そのうちにパターンを覚
えることができてきて、英語で考える習慣が身に付くはずだ。わからない単語
は和英辞典や英和辞典、英英辞典で調べて必ず例文を書き写してみよう。書い
た日記はできれば本校の講師のハンス先生、エリック先生、デビン先生に添削
してもらおう。書けば書くほど英語の力はついてくる。継続することがなによ
りも大切である。
今回は英語の日記にコメントをつけてみた。少しでも諸君の参考になれば幸
いである。なお、この英文はデビン先生に添削していただいた。この紙面をお
借りしてここに感謝いたします。
(外国語科 教諭)
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âòáëåó áîä ôõòîåä áîä êõóô íéóóåä ôèå âïù® Èå îåáòìù äéåä¡
Óï¬ ÷èåî ùïõ õóå Êáðáîåóå Åîçìéóè¬ ÷áôãè ïõô¡ Áîä ÷èåî ùïõ èåáò óïíåïîå óáù ¢×áôãè ïõô¡¢¬ ôèåî ×ÁÔÃÈ ÏÕÔ ¡¡¡
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êõóô íéóóåä ȡɝȡɝȺȞɢȪȲ
îåáòìù äéåä
ԲșȢඳȿȻȦɠȳȶȲ
èåòå¿¢ Óï¬ èå óáéä îï¬ âõô ôèáô âéãùãìåó ãïõìä âå òåîôåä éî á îåáòâù ðáòë®
Áô á âéç ðáòôù éî Áíåòéãᬠá Êáðáîåóå íáî óáéä ôèáô éî Êáðáî èå ìéöåä éî á ¢íáîóéï Åöåòùïîå ÷áó óèïãëåä® Á íáîóéïî éó á öåòù âéç¬ öåòù ìõøõòéïõó¬ öåòù åøðåîóéöå èïõóå® Èå óèïõìä èáöå óáéä èå ìéöåä éî á ãïîäïíéîéõí ïò áðáòôíåîô®
Ïîãå¬ á Êáðáîåóå æòéåîä áóëåä íåº ¢Äï ùïõ èáöå íù ãáò¿¢ É ÷áó öåòù óõòðòéóåä® Äéä èå ôèéîë É èáä óôïìåî èéó ãáò¿ Èå óèïõìä èáöå áóëåäº ¢Äï ùïõ èáöå ùïõò ï÷î ãáò¿¢ ¢Íù ãáò¢ íåáîó íù ãáò® Äïî§ô óáùº ¢ É áí óíáòô®¢ Óíáòô õóõáììù íåáîó ãìåöåò¬ îïô ôèéî® Ðåïðìå ÷éìì ôèéîë ùïõ áòå âòáççéîç®
Áìóï¬ äïî§ô ïòäåò ¢ðéîå êõéãå¢ éæ ùïõ ÷áîô ðéîåáððìå êõéãå¬ áîä éæ ùïõ áóë æïò ¢ôáãï¢ ùïõ ÷éìì çåô á ëéîä ïæ Íåøéãáî æïïä¬ îïô ïãôïðõó®
Éî âáóåâáìì¬ ¢æïõò âáìì¢ éó á ¢÷áì묢 á ¢òõîîéîç èïíå òõî¢ éó áî ¢éîóéäå­ôèå­ðáòë èïíå òõ áîä ¢æõìì âáóå¢ éó ¢âáóåó ìïáäå䮢
Ôèåóå Êáðáîåóå Åîçìéóè íéóôáëåó áòå óïíåôéíåó ôòïõâìéîç¬ óïíåôéíåó æõîîù¬ âõô ôèåù áòå îïô õóõáììù äáîçåòïõó®
É ÷ïõìä ìéëå ôï åîä ôèéó ìéôôìå òåðïòô ÷éôè á óôïòù ôèáô ãïõìä óáöå ùïõò ìéæå® Éô§ó îïô Êáðáîåóå Åîçìéóè® Éô§ó òåáì Åîçìéóè Åîçìéóè®
Á Êáðáîåóå èéçè óãèïïì óôõäåîô ÷áó óôáîäéîç áô á âõóù éîôåòóåãôéïî éî Áíåòéãá® Ïæ ãïõòóå¬ éî Êáðáî¬ èå ÷áó õóåä ôï ìïïëéîç ôï ôèå òéçèô æïò ïîãïíéîç ãáòó® Âõô éî Áíåòéãá ÷å íõóô ìïïë ôï ôèå ìåæô® Óï¬ ôèå âïù óôåððåä éîôï ôèå óôòååô áîä á âõó ÷áó ãïíéîç® Æòïí ôèå ïôèåò óéäå ïæ ôèå óôòååô¬ áî Áíåòéãáî íáî ùåììåäº ¢×áôãè ïõô¡ ×áôãè ïõô¡¢ Âõô ôèå Êáðáîåóå âïù äéäî§ô õîäåòóôáîä èéí® Èå êõóô ãïîôéîõåä ÷áìëéîç áãòïóó ôèå óôòååô® Ôèå âõó äòéöåò èéô èéó Ƚ
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Åöåòù äáù¬ É èåáò Êáðáîåóå Åîçìéóè æòïí íù óôõäåîôó áô Ëïëõçáëõéî¬ ïò æòïí íù Êáðáîåóå æòéåîäó¬ ïò æòïí Êáðáîåóå ÔÖ ïò òáäéï® Ôèéó éó õóõáììù îïô á ðòïâìåí æïò íå âåãáõóå É èáöå ìéöåä éî Êáðáî á ìïîç ôéíå® Èï÷åöåò¬ É ÷ïòòù áâïõô ÷èáô èáððåîó ÷èåî Êáðáîåóå ðåïðìå çï áâòïáä® Æïò åøáíðìå¬ É ëîï÷ ôèáô óïíå Ëïëõçáëõéî óôõäåîôó¬ ïî èïíåóôáùó ïò óôõäù áâòïáä¬ èáöå èáä ôòïõâìå ãïííõîéãáôéîç âåãáõóå îáôéöå Åîçìéóè óðåáëåòó äïî§ô õîäåòóôáîä Êáðáîåóå Åîçìéóè®
Óï¬ èåòå éó á ìéôôìå òåðïòô ïî óïíå ôùðéãáì íéóôáëåó ãáõóåä âù Êáðáîåóå Åîçìéóè® Á Êáðáîåóå âõóéîåóóíáî íáäå áî áððïéîôíåîô ôï íååô áî éíðïòôáîô Áíåòéãáî ãìéåîô áô ôèå ¢æòïîô¢ ïæ á èïôåì® Ôèå Êáðáîåóå íáî ÷áéôåä éîóéäå ôèå èïôåì áô ôèå æòïîô äåóë® Ôèå Áíåòéãáî ÷áéôåä ïõôóéäå ôèå èïôåì¬ éî æòïîô® Ôèåù îåöåò íåô®
Á Ëïëõçáëõéî óôõäåîô éî Áõóôòáìéá ÷åîô ôï á òåóôáõòáîô áîä ïòäåòåä ¢éã客 Ôèå ðõúúìåä ÷áéôòåóó çáöå èåò á ãõð æõìì ïæ éãå® Ôèå óôõäåîô ÷áîôåä éãå ãòåáí® Áîïôèåò óôõäåîô áóëåä æïò á ¢óèáòð ðåîãé쮢 Óèå ÷áó çéöåî á óèáòð ðåîãéì® Óèå ÷áîôåä á íåãèáîéãáì ðåîãéì®
Á Êáðáîåóå ìáäù ÷åîô ôï èåò èïôåì§ó æòïîô äåóë áîä áóëåäº ¢Äï ùïõ èáöå ¢Öéëéîç¢ èåòå¿¢ Á öéëéîç ÷áó áî ¸ôè ôï ±°ôè ãåîôõòù Óãáîäéîáöéáî ðéòáôå® Ôèå Êáðáîåóå ìáäù ÷áîôåä ôï áóëº ¢Äï ùïõ èáöå á âõææåô èåòå¿¢ Ôèå èïôåì äåóë ðåòóïî äéäî§ô õîäåòóôáîä ôèå ñõåóôéïî® Èå èáä èåáòäº ¢Äï ùïõ èáöå âéëéîç Ƚ
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ᜭᴷɲʴʍɹˁʐɭʁʭ˂
谷
ひかりの澱
三角ばたけのうしろ
かれ草層の上で
わたくしの見ましたのは
顔いっぱいに赤い点うち
硝子様鋼青のことばをつかって
しきりに歪み合いながら
何か相談をやっていた
三人の妖女たちです
ǽǽǽǽÖáììåù
Ìååó ïæ ìéçèô
Âåèéîä á ôòéáîçìå ïæ çáòäåî
Õðïî ôèå çòáóó óôòáôõí
×èáô É óá÷ ôèåòå ×áó
Æáãåó áìì íáòëåä ÷éôè òåä äïôó
Ôèåéò óðååãè óðéîîéîç ìéëå á óôååì­âìõå çìáóó ôõâå
Éô ÷ïââìåä á ÷áù âåô÷ååî ôèåí¬ æéôôéîç
Óïíåèï÷¬ ôèåù ÷åòå äéóãõóóéîç
Óïíåôèéîç ôèïóå ôèòåå æáéòéåó
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èïîåóôù¬ åîáâìéîç ôèåí ôï ãòåáôå á îå÷ æõôõòå¬ äéææåòåîô æòïí ôèå äåóôòõãôéöå ðáôè ôèáô ÷å áòå ÷áìëéîç îï÷® Á óåãïîä ÷áù ôï ãèáîçå æïò ôèå âåôôåò éó ôï ãèáîçå ôèå âåìéåæ ôèáô ÷å áòå óåðáòáôå æòïí åáãè ïôèåò¬ âåãáõóå ÷å áòå îïô® Ôèå õîéöåòóå éó ïîå áîä ôèéó ðìáîåô éó ïîå® Ãïîóåñõåîôìù áìì ôèáô éó ïî ôèéó ðìáîåô éó ïîå ÷éôè åáãè ïôèåò® Áó óïïî áó ÷å òåáìéúå ôèáô ÷å ÷éìì âå áâìå ôï ôõòî ôèéó ÷ïòìä æïò ôèå âåôôåò éî á íïíåîô® Îï­ïîå ÷èï âåìéåöåó ôèáô èå áîä èéó îåéçèâïò áòå ïîå ÷éìì èáöå ôèå éäåá ôï éîæìéãô ðáéî ïò äáíáç客® Ôèå îåøô äáù É äéä îïô íååô ôèéó óôòáîçåò® Èå èáä îïô óéçîåä ôèå òåçéóôåò óï É äéäî§ô ëîï÷ èéó®
Èå èáä äåðáòôåä åáòìù ìåáöéîç áî åîöåìïðå ÷éôè ôèå íïîåù æïò èéó óôáù ÷éôè áó óíáìì îïôå âåèéîä® Éô óáéäº
¢Ôèáîëó æïò ôèå äéóãõóóéïî® É ôèïõçèô éô íéçèô âå õóåæõì¬ õîìåóó éô§ó îïô¢®
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éó îïô äéææåòåîô® Ãèéìäòåî èáöå ôï çåô ôïçåôèåò éî á öåòù õîîáôõòáì åîöéòïîíåîô áîä èáöå ôï òåðåáô ôèå óáíå ìåóóïîó ôáõçèô ôï ôèå íáîù çåîåòáôéïîó âåæïòå ôèåí ïòäåòåä ôï âå ñõéåô áîä óôõäù ÷èáô ôèåù áòå ôáõçèô âù ôèåéò ôåáãèåòó¢®
¢Ôèå åäõãáôéïîáì óùóôåí éó îïô ôèáô âá䮢 É óáéä® ¢Íáîù çåîéõóåó èáöå âååî ðòïäõãåä éî ôèéó ÷áù áîä èõíáîéôù èáó íáäå çòåáô ðòïçòåóó¬ éóî§ô éô óï ôèáô ÷å èáöå ðòïâáâìù ôèå èéçèåóô ìåöåì ïæ ÷åáìôè éî ïõò èéóôïòù¿¢
¢Éî ôèå æéòóô ðìáãå¬ ôèåòå éó îï òéçèô ïò ÷òïîç® Ìïïë áçáéî ôï ôèå îéçèô óëù® Áó É óáéä áìì éó áó éô éó® Ôèåòå éó îï òéçèô ïò ÷òïîç® Ôèåòå éó îï ¢óèïõìä¢ ïò ¢óèïõìäî§ô¢® Éô éó¬ áîä óï áòå ùïõ® Ùïõ ÷åòå ôáõçèô ôèáô Çïä îååäó ôï âå ðìåáóåä ïò íáäå èáððù áîä ôèáô éó ÷èù ùïõ âåìéåöå ùïõ íõóô äï ãåòôáéî ôèéîçó áîä óèïõìäî§ô äï ïôèåòó® Éô éó ôéíå ôèáô ¢òéçèô¢ áîä ¢÷òïîç¢ áòå òåðìáãåä âù ¢÷èáô ÷ïòëó áîä ÷èáô óèïõìäî§ô ÷ïò뢮
Ôòõå ôèáô ùïõ èáöå ìåáòîåä á ìïô éî óãèïïì¬ âõô áó É óáéä ôèáô á òåðåôéôéïî ïæ ÷èáô éó ïìä® Éî ôåãèîïìïçù âéç óôåðó æïò÷áòä èáöå âååî íáäå¬ åöåî óï æáò ôèáô èõíáî âåéîçó áòå äáîçåòïõóìù ãìïóå ôï äåóôòïùéîç ôèåíóåìöåó áîä áìì ôèáô éó áòïõîä ôèåí® Éæ ùïõ ðáù ãìïóå áôôåîôéïî ôï áìì ôèå ãèáîçåó éî ôèå åîöéòïîíåîô¬ ãìéíáôå áîä ÷åáôèåò ðáôôåòîó áó ÷åìì áó ôèå íáîù ÷áòó ôèáô áòå óôéìì âåéîç æïõçèô¬ ôèå æáãô ôèáô ôïäáù íïòå ôèáî ´°¥ ïæ ôèå ÷ïòìä ðïðõìáôéïî ÷éìì îïô âå áâìå ôï æååä éôóåìæ¬ áîä ôèáô ¶°¥ ïæ ôèå ÷ïòìä ðïðõìáôéïî éóî§ô áâìå ôï íååô âáóéã ìéöéîç óôáîäáòäó¬ ôèåî É ÷ïõìä óáù á ìïô ïæ ÷èáô èõíáîéôù èáó ìåáòîåä ¢éó îïô ÷ïòëéî碮
¢É õîæïòôõîáôåìù èáöå ôï áçòåå ÷éôè ôèáô¬¢ É áîó÷åòåä® Ôïï ïæôåî èáä É óååî ÷éôè íù ï÷î åùåó ÷èáô èå íåáîô® ¢Âõô îïôèéîç ãáî âå äïîå áâïõô éô¢®
¢Èåòå É èáöå ôï äéóáçòåå® Ôèéó ðìáîåô ïææåòó åîïõçè æïò áìì ôèáô ìéöå ïî éô® Éæ ïîå ðåòóïî äïåó îïô èáöå åîïõçè¬ éô óéíðìù íåáîó ôèáô áîïôèåò èáó ôïï íõãè® Ôèå ðòïâìåí éó ôèáô èõíáî èáöå óåô ôèå ÷òïîç çïáìó® Åöåòùâïäù ÷ïõìä áçòåå ôèáô ïõò íáéî çïáì éî ìéæå éó ôï âå èáððù áîä ìéöå éî ðåáãå® Óï ÷èù äïî§ô ùïõ ôèåî¿ Óéíðìù âåãáõóå ÷å èáöå îïô ìåáòîåä ôèáô ùåô® Ôèå íáéî ïâêåãôéöå éî åäõãáôéïî óèïõìä îïô âå ôï çåô ôèå èéçèåóô çòáäåó éî ïòäåò ôï çåô éîôï ôèå âåóô õîéöåòóéôù áîä çåô ôèå èéçèåóô ðáùéîç êï⬠âõô éô óèïõìä âå èï÷ ôï ãòåáôå á âåôôåò ÷ïòìä® Éî óôåáä ïæ æïòãéîç óôõäåîôó ôï íåíïòéúå æáãôó áîä áóëéîç ôèåí ôï òå­ãòåáôå ôèå ðáóô¬ ôèåù óèïõìä âå éîöéôåä ôï åøðìïòå ãïîãåðôó áî éäåáó ­ óõãè áó æáéòîåóó¬ ôïìåòáîãå¬ åñõáìéôù áîä Ƚ
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á÷áòåîåóó® Ôèåù áòå îïô á íáôôåò ïæ ¢ìéæå áîä äåáô袬 óï ôï óáù® Ôèå áìì áòå ïîå ðåòæåãô õîéôù áîä èõíáîó áòå îïô óåðáòáôå æòïí ôèéó õîéôù®
Èõíáîó ôèïõçèô èï÷åöåò ôèáô ôèåù áîä ôèåéò Çïä ÷ïõìä âå óïíåôèéîç ìéëå ÷èáô ôèåù ÷åòå¬ ïîìù íïòå ðï÷åòæõì® Éî ôèåéò òåìéçéïîó ôèåù áìì ðòïæåóó ôèáô Çïä éó áìì­ðï÷åòæõì¬ áìì­ëîï÷éîç áîä áìì­ìïöéîç® Ïî ôèå ïôèåò èáîä óéîãå èõíáîó âåìéåöåä ôèáô Çïä áîä èõíáîó èáä á ìïô ïæ ñõáìéôéåó éî ãïííïî¬ ôèåù ôèïõçèô áìóï ôèáô Çïä ÷ïõìä ôòåáô ôèåí éî áâïõô ôèå óáíå ÷áù áó ôèåù ôòåáô åáãè ïôèåò¬ ÷èéãè éóº ôèå ìåáäåò ìáùó ïõô ãåòôáéî òõìåó áîä èéó óõâêåãôó èáöå ôï æïììï÷ áîä ãïíðìù® Éî ãáóå ïæ áîù öéïìáôéïîó ïæ ôèå òõìåó¬ ðõîéóèíåîôó ÷éìì âå çéöåî äåðåîäéîç ïî ôèå óåöåòéôù ïæ ôèå ¢ãòéí墮 Éîôåòåóôéîçìù åîïõçè ôèéó óùóôåí èáó æïõîä éôó ÷áù éî åöåòù ðáòô ïæ åöåòù óïãéåôù¬ æòïí êõäéãéáì óùóôåíó ôï åãïîïíù áîä åóðåãéáììù åäõãáôéïî¬ îï íáôôåò éæ á ãïõîôòù ãáììó éôóåìæ òåìéçéïõó ïò îïô®
Éô éó íáùâå á ìéôôìå éòïîéã ôèáô ôèå ãïîãåðô ïæ áìóï âåìéåöéîç éî áî áìì­ðï÷åòæõì¬ áìì­ëîï÷éîç áîä áìì­ìïöéîç Çïä íáëåó ôèéó óùóôåí ïæ ãòéíå áîä ðõîéóèíåîô óïõîä óï éììïçéãá좮
¢Óïòòù¬ É äï îïô æïììï÷ ùïõ èåò墬 É óáéä®
¢Éíáçéîå ùïõ áòå áìì­ëîï÷éîç® ×ïõìäî§ô ùïõ ëîï÷ áìì ôèáô èáó èáððåîåä éî ôèå ðáóô áîä íáùâå íïòå éíðïòôáîôìù áìì ôèáô éó çïéîç ôï èáððåî éî ôèå æõôõòå¿ Âåãáõóå éæ ùïõ äïî§ô¬ ùïõ ãïõìä ëîï÷ á ìïô¬ âõô ÷ïõìäî§ô ëîï÷ ¢áì좮 ×ïõìäî§ô éô âå ãòõåì ôèáô éæ ùïõ èáä áìì ëîï÷ìåäçå éî ôèå õîéöåòóå¬ ôèáô ùïõ óôéìì ÷áîôåä ôï ðõîéóè ïôèåòó æïò ôèåéò áãôéïîó¬ áìôèïõçè ùïõ ëîå÷ åøáãôìù ÷èáô ôèåù ÷åòå çïéîç ôï äï âåæïòå ôèå ãòéíå ÷áó ãïííéôôåä¿ Áîä éæ ùïõ ÷èåòå áìì­ðï÷åòæõì¬ ÷ïõìäî§ô éô âå óôòáîçå ôèáô ùïõ ÷ïõìä îååä èõíáî ôï äï óïíåôèéîç æïò ùïõ éî ïòäåò ôï íáëå ùïõ æååì çïïä áîä èáððù¿ Éæ ôèéó ÷åòå ôèå ãáóå ùïõ ãïõìäî§ô âå ãáììåä áìì­ðï÷åòæõì¬ ãïõìä ùïõ¿ Îï÷ éæ ùïõ ãáììåä ùïõòóåìæ áìì­ìïöéîç¬ âõô äåãéäåä ôèáô áîùïîå ÷èï áãôåä áçáéîóô ùïõò ÷éóèåó ÷ïõìä âå ðõîéóèåä¬ åöåî ëéììåä áîä éî íïóô ãáóåó ôèòï÷î éî á ðìáãå ãáììåä èåìì ÷èåòå ôèåù ÷ïõìä âõòî æïòåöåò® Ôèéó éó îïô ÷èáô ïîå ÷ïõìä ãáìì áìì­ìïöéîç® Ôèå Çïäó èõíáîó ãòåáôåä áòå åøáãô ãïðéåó ïæ íïïäù¬ ðï÷åòæõì äéãôáôïòó ïò ôùòáîôó® Ôèåòå éó îïô íõãè çïäìù ïò äéöéîå áâïõô ôèåí¢®
Áæôåò óôòõççìéîç æïò á ÷èéìå ôï áâóïòâ ÷èáô èå èáä óáéä É èáä ôï áäíéô ôèáô èå ÷áó òéçèô® Èå âòïëå ôèå óéìåîãå® ¢Ôèéó óùóôåí éó èï÷åöåò ôèå âáóéó æïò åöåòù óïãéåôù® Ôèå ìåáäåòó ôåìì ôèåéò óõâêåãôó ÷èáô ôï äï¬ ïò éæ ôèåù äïî§ô¬ æáãå ôèå ãïîóåñõåîãåó® Éî åäõãáôéïî éô Ƚ
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¢×åìì¬ É óõððïóå É óèïõìä óáù Çïä¬ áæôåò áìì éî áìì òåìéçéïõó âïïëó óïíåôèéîç ìéëå ôèéó èáó âååî ÷òéôôå
¢Îï÷¬ ìåô§ó óáù ôèáô Çïä ãòåáôåä ôèå õîéöåòóå ÷éôè áìì éôó óôáòó áîä ðìáîåôó áîä ôèáô ôèå ðìáîåô Åáòôè éó êõóô ïîå ïæ âéììéïîó ïæ ðìáîåôó áîä ïî ôèéó ðìáîåô Çïä çáöå ïîå óðåãéåó ôèå òéçèô ôï ôåòòïòéúå ïôèåò óðåãéåó ÷éôèïõô ìéíéô¿ ×èù ÷ïõìä áîù Çïä äï ôèáô¿ ×èáô éî ðáòôéãõìáò èáó ôèå èõíáî óðåãéåó äïîå æïò Çïä ôèáô ôèåù ÷ïõìä äåóåòöå óõãè òéçèôó¿ Áòå ôèåù ïâåäéåîô ôï ãåòôáéî ìá÷ó íáäå âù Çïä¿ Äï ôèåù ãïîôòéâõôå óéçîéæéãáîôìù ôï ãòåáôéïî áîä íáëå ôèåéò ÷ïòìä á âåôôåò ðìáãå áîä áòå ôèåù ðòéäå ïæ éôó ãòåáôïò¿ Áòå èõíáîó óï íõãè íïòå öáìõáâìå éî ôèå çòåáôåò óãèåíå ïæ ôèéîçó¿¢
¢Î É óáéä æáéîôìù® É îååäåä óïíå ôéíå ôï ôèéîë¬ áâïõô ôèáô® Æïò á ÷èéìå ÷å âïôè äéä îïô óðåáë á ÷ïòä¬ áîä ôèåî èå ãïîôéîõåäº ¢Áîéíáìó èáöå âååî ïî ôèéó ðìáîåô íõãè ìïîçåò ôèáî èõíáîó® Éî æáãô¬ áããïòäéîç ôï óãéåîôéóôó¬ ôèå æéòóô èõíáî âåéîçó áððåáòåä áâïõô ²®°°°®°°° ùåáòó áçï® Ôèå áçå ïæ ôèå åáòôè éó åóôéíáôåä áô ´®µµ°®°°°®°°° ùåáòó® Éæ ÷å ãïíðáòåä ôèéó ìéæåóðáî ôï ïîå èïõò ïî ôèå ãìïãë¬ èõíáîó ÷ïõìä èáöå âååî ïî ôèéó ðìáîåô æïò ïîìù áâïõô ô÷ï íéîõôåó¢®
¢Ëîï÷î ÷òéôôåî èéóôïòù éó ìåóó ôèáî ·®°°° ùåáòó ïìä áîä ôèéó èéóôïòù éó íïóôìù áî éîãïòòåãô óôïòù ïæ íáî áîä Çïä ïò ôèå Çïä íáî ãòåáôåä áîä èéó âåìéåæó âáóåä ïî ôèáô¢® ¢Èåù¬ ÷áéô á íïíåîô¡¢ É éîôåòòõðôåä® ¢Ôèáô§ó îïô ÷èáô òåìéçéïîó ôåáãè® ×å ìåáòî ôèáô Çïä ãòåáôåä íáî¬ îïô ôèå ïôèåò ÷áù áòïõî䢮
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¢Ùåó¬ èáòíïîù õð ôèåòå éó åáóù® Óôáòó áîä ðìáîåôó áòå äåáä ôèéîçó¬ âõô ÷å èõíáîó áòå ìéöéîç âåéî碮
¢Îï¬ ìïïë áô ôèå óôáòó áçáéî¬ ôèåù áòå ðáòô ïæ áìì ôèåòå éó áîä óï éó ôèéó åáòôè® Ùïõ ìéöå ïî ôèéó ðìáîåô óï ùïõ áòå á ðáòô ïæ éô¬ áó ÷åìì áó á ðáòô ïæ áìì ôèåòå éó® Åöåòùôèéîç éî ôèå õîéöåòóå éó åîåòçù áîä óï áòå ùïõ® Ôèå ïîìù äéææåòåîãå âåô÷ååî áìì ôèå ðáòôó éó ôèåéò Ƚ
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Õóåæõì¬ õîìåóó éôó îïô
Èáîó Ìååîôöááò
Èå ÷áó óéôôéîç âáãë ìáúéìù éî íù èáííïãë áîä ÷å âïôè ìïïëåä áô ôèå ÷áôåò ïæ ôèå âáù áîä ôèå ïãåáî âåùïîä® Âåèéîä õó ÷åòå ôèå çòååî íïõîôáéîó áîä áâïöå ôèå îéçèôôéíå óëù ÷éôè ðáìí ôòååó óïæôìù ó÷áùéîç éî ôèå âòååúå® Èå èáä ãèåãëåä éî áô ïõò èïôåì êõóô ôèáô áæôåòîïïî áîä ÷å èáä âååî ôáìëéîç åöåò óéîãå®
¢Ùïõ ëîï÷¬ èõíáîó óôéìì äïî§ô õîäåòóôáîä® Ôèå ÷åáôèåò ðáôôåòîó áìì ïöåò ôèå ÷ïòìä áòå ãèáîçéîç áîä ôèåóå ãèáîçåó éîãòåáóå åöåòù ùåáò íïòå® Óôéìì ôèåù ëååð ìïïëéîç áô ôèéó áó ôåíðïòáòù ðèåîïíåîá ôèáô äïåó îïô òåáììù ãïîãåòî ôèåí áô áìì¬ ìåô áìïîå ôèáô ôèåù áóë ôèåíóåìöåó óåòéïõóìù ôèå ñõåóôéïî ÷èåôèåò ôèå èõíáî òáãå éó äåóôòïùéîç éôóåìæ®
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¢Ðéçó¿¢ É áóëåä® ¢Ùåó¬ çïïä ïìä­æáóèéïîåä ðéçó® Ôèåù áòå öåòù éîôåììéçåîô âåéîçó¬ ùïõ ëîï÷¢¬ èå óíéìåä®
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¢Âõô ôèáô éó ãïíðìåôåìù äéææåòåîô® ×å áòå èõíáîó áîä ôèåù áòå áîéíáìó® ×å áòå ôèå òõìåòó ïæ ôèéó ðìáîåô® Ïõò ìåöåì éó äéææåòåîô¢®
¢Ùïõ íåáî ìéëåº ùïõò ìåöåì éó èéçèåò ôèáî ôèåéòó¿ Âù ÷èïóå Ƚ
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太平台
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歳時記
柔道 全国大会
平成十六年度
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第二十六回全国高等学校柔道選手権大
▽三月十九日︵金︶
会が東京武道館で開催され、本校から
男子個人戦に出場した小仁熊料選手が
一回戦、奈良県代表と対戦し、判定の
末、惜しくも敗退した。
▽三月二十日︵土︶∼二十六日︵金︶
第三十五回全国高校バレーボール選
抜優勝大会︵春の高校バレー︶が、国
立代々木競技場で開催され、十七年連
続十九回出場の本校女子チームは、一
回 戦 で 中 部 商 業 高 校︵ 沖 縄 ︶ に 勝 利
春高バレー
し、 二 回 戦 で 城 南 高︵ 徳 島 ︶ と 対 戦。
せたものの惜しくも敗退した。
入 学 式
1 1で迎えた第3セット、粘りをみ
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▽ 四 月 六 日︵ 火 ︶、 午 前 九 時 三 十 分 よ り
四十周年記念館にて平成十六年度第四
十五回高等学校入学式が、六百八十四
名の新入生を迎えて挙行された。また
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午後一時より大ホールにて第九回中学
校入学式が六十三名の新入生を迎えて
新しい学園生活のスタートを切った。
▽ 四 月 七 日︵ 水 ︶、 対 面 式 が 第 二 グ ラ ウ
ンドにて行なわれた。初めに木村好成
学校長が全校生徒に、この学園に集う
ことになった縁を大切にし、学生の本
分である勉学に打ちこむことを諭され
た。その後、生徒会長の加賀谷年彦君
言葉を述べ、それに応えて高校の新入
︵B 三 の 二 ︶ が 新 入 生 に 対 し て 歓 迎 の
生代表谷島千尋さん︵E一組︶また中
学校の新入生代表太田有里奈さん︵二
組︶が、それぞれ抱負を述べた。
対 面 式
−
▽ 四 月 八 日︵ 木 ︶、 新 入 生 オ リ エ ン テ ー
ションが行なわれた。まず、本校の教
育・大学入試や進路・高校生活のあり
方と校則・制服着用に関して・図書館
利用について等を中心に説明され、午
後には、太平山神社参拝が行なわれ神
前において入学の奉告をした。
▽四月二十四日︵土︶より、高大連携授
業がスタートした。
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▽ 四 月 三 十 日︵ 金 ︶
、太平山清掃奉仕活
高大連携授業
動が本校中学校と栃木西中学校の合同
で行なわれた。
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なわれ、各学年のご父母約二百名が熱
▽ 五 月 一 日︵ 土 ︶、 中 学 校 授 業 参 観 が 行
心に参観した。
▽ 五 月 六 日︵ 木 ︶、 四 十 周 年 記 念 館 に て
今年度第一回目となる全校朝礼が行な
われた。木村好成校長の講話に全校生
が真摯な態度で聴き入っていた。
︵月︶高等学校第一学年生徒研修が二
▽ 五 月 二 十 三 日︵ 日 ︶ ∼ 五 月 三 十 一 日
太平山神社参拝
泊三日の日程で、四団に分かれて福島
県の国立磐梯青年の家において実施さ
1年生徒研修(高校)
れた。
体験学習が、一年生は群馬県の赤城に
▽五月二十八日︵金︶より、中学校自然
て、 二 年 生 は 福 島 県 の 那 須 甲 子 に て 、
それぞれ三泊四日の日程で行なわれ
た。 ま た 三 年 生 は 二 泊 三 日 の 日 程 で 、
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尾瀬沼・戦場ヶ原で行なわれた。
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合学習の一環として行なわれた。中学
▽ 六 月 五 日︵ 土 ︶、 中 学 校 稲 作 実 習 が 総
生は平井町・小藤栄さん宅の水田を借
りて、田植え指導の後、一人・八十株
ほどの苗を植えていった。
大 会 が 各 地 で 行 な わ れ た。 本 校 か ら
▽六月四日︵金︶∼十三日︵日︶に関東
はラグビー、野球、柔道、バレーボー
ル、ハンドボール、なぎなた、剣道の
各部と、ウエイトリフティングが県代
表として参加した。
▽ 六 月 五 日︵ 土 ︶、 生 徒 会 館 大 ホ ー ル に
自然体験学習
おいて春季ホームルーム委員研修会
が開かれ、参加者はホームルーム委員
の役割について多くのことを学んでい
た。
▽ 六 月 五 日︵ 土 ︶
、 父 母 会 関 連 行 事︵ 高
校 進 学 講 演 会・ 授 業 参 観 ・ 父 母 会 総
会︶が実施され、ご父母が熱心に参観
した。
いて平成十六年度芸術鑑賞会が実施さ
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▽ 六 月 八 日︵ 火 ︶、 四 十 周 年 記 念 館 に お
芸術鑑賞会「三国志」
れた。演目は﹁人形劇三国志﹂で、生
徒は楽しみながら中国の歴史について
の理解を深めた。
▽六月十六日︵水︶、五・六限目に第三学
年が第二体育館第二アリーナ、第二学
年が四十周年記念館、第一学年が第一
アリーナにて学年別弁論大会が実施さ
れた。今年も各ホームルームの代表の
中から国語科の原稿審査を通った弁士
たちが、熱弁をふるった。
▽ 六 月 二 十 九 日︵ 火 ︶、 中 学 校 前 期 ス
ポーツフェスティバルが行なわれた。
学年別弁論大会
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校内競技大会
内競技大会が行なわれ、各競技の熱戦
▽七月八日︵木︶・九日︵金︶、高校の校
が繰り広げられた。
▽ 七 月 十 六 日︵ 金 ︶ ∼ 七 月 二 十 日︵ 火 ︶
父 母 懇 談 会 が 行 な わ れ た 。 生 活・ 学
習・進路について、二者および三者面
談の形で実施された。
島根を中心に中国地方で行なわれたイ
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▽ 七 月 三 十 一 日︵ 土 ︶ ∼ 八 月 十 日︵ 火 ︶
ンターハイに本校から五部六チームが
県代表として出場した。
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研修が栃木県鹿沼市の古峰神社におい
▽ 八 月 一 日︵ 日 ︶ ∼ 三 日︵ 火 ︶
、生徒会
て行なわれた。
▽ 八 月 七 日︵ 土 ︶
、 八 月 二 十 二 日︵ 日 ︶
カ ム・ オ ン・ イ ン 國 學 院 が 行 な わ れ
た。この催しは、本校の生活を受験希
望 者 や 保 護 者 に 体 験 し て も ら う た め、
インターハイ出場を応援する垂れ幕
オーストラリア修学旅行 学校訪問
数多くの部活動や講座に参加できる構
成になっている。今年も、両日を合わ
せて約千五百名の参加者があった。
際情報科二年オーストラリア修学旅行
▽八月二十日︵金︶∼二十七日︵金︶国
が行われた。
▽ 八 月 三 十 日︵ 月 ︶
、四十周年記念館に
おいて全校弁論大会が行なわれ、落合
真利子さん︵B三の五︶が優勝を飾っ
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た。
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▽ 九 月 十 一 日 ︵ 土 ︶・ 十 二 日 ︵ 日 ︶、
第四十三回國學院祭文化祭が二日間に
亘 っ て、﹁ 彩 り ∼ 私 達 の 風 景 ﹂ の テ ー
マの下に実施された。中学校・高校の
各ホームルームと部活動が入念な準備
をして展示と公演に臨んだ。これまで
の伝統を受け継ぎ質の高い舞台や作品
を披露して、今年も大盛況であった。
▽ 九 月 十 八 日︵ 土 ︶
、第四十三回國學院
祭体育祭が第二グラウンドで実施され
た。中学校・高校の全校生が各学年種
文 化 祭
目や集団演技に全力で取り組み、秋空
のもとさわやかな汗を流した。
▽九月二十八日︵火︶四十周年記念館に
て 中 学 芸 術 鑑 賞 会 が 行 な わ れ、 ク ラ
シックバレエの公演を鑑賞した。
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て 創 立 記 念 講 演 会 が 行 な わ れ た。 今
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▽ 十 月 七 日︵ 木 ︶、 四 十 周 年 記 念 館 に
教育センター
年は安蘇谷正彦國學院大學学長を招
き、﹁ 日 露 戦 争 百 年 に 思 う ﹂ の 演 題 の
下、九十分間講演が行なわれ、生徒は
真剣な態度で聴き入っていた。
▽ 十 月 八 日︵ 金 ︶
、四十周年記念館にお
い て 学 園 創 立 四 十 四 周 年 記 念 式 典 が、
多数のご来賓の列席の下、厳かに挙行
された。
▽十月十二日︵火︶栃木駅前に新しく建
てられた本学園教育センターの利用が
始まった。
▽ 十 月 十 四 日︵ 木 ︶
、中学校では総合学
習の一環として稲刈りが行なわれた。
体育祭担任送り
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国際情報科 教養講座
て、平成十七年度生徒会本部役員選挙
▽ 十 一 月 一 日︵ 月 ︶
、四十周年記念館に
立ち会い演説会ならびに選挙が実施さ
れた。
▽ 十 一 月 十 日︵ 水 ︶
、各ホームルームに
おいて人権教育が実施された。
▽ 十 一 月 十 一 日︵ 木 ︶
、四十周年記念館
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にて第十三回国際情報科教養講座が開
わら
かれた。今年は、ツアーコンダクター
る貴重な体験談を伺った。
の藁郁子さんを迎え、世界各所におけ
▽ 十 一 月 十 三 日︵ 土 ︶
、第八十四回全国
高 校 ラ グ ビ ー 大 会 栃 木 県 予 選 決 勝 が、
栃木市総合運動公園陸上競技場で行
なわれ、本校ラグビー部が優勝を果た
し、五年連続十度目の花園出場を決め
た。
▽ 十 一 月 二 十 二 日︵ 月 ︶、 第 四 十 五 回 全
校マラソン大会が開催された。本校の
伝統行事であるこの大会は、毎年男女
とも太平山を一周する過酷なコースを
マラソン大会(高校)
力 走 す る。 ま た 中 学 校 で は 六 日︵ 土 ︶
に第九回マラソン大会が行なわれた。
▽十一月十八日︵木︶より中学校校外学
校外学習(中学)
習が実施され、三年生は三日間で奈良
を、二年生は二日間で鎌倉を、一年生
は日帰りで日光・足尾を訪れた。
▽ 十 一 月 二 十 四 日︵ 水 ︶、 四 十 周 年 記 念
館において第三学年を対象に大学受験
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者激励会が行なわれた。
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集中学校第一回入学試験が実施され
▽ 十 二 月 十 一 日︵ 土 ︶
、平成十七年度募
た。
父母懇談会が実施された。
▽十二月二十日︵月︶∼二十二日︵水︶、
︵金︶
、第八十四回全国高校ラグビー
▽ 十 二 月 二 十 七 日︵ 月 ︶ ∼ 一 月 七 日
フットボール大会が大阪・近鉄花園ラ
グビー場で開催された。
父母懇談会
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ラグビー部 全国大会
等学校第一回入学試験が実施された。
▽ 一 月 六 日︵ 木 ︶
、平成十七年度募集高
等学校第二回入学試験が実施された。
▽ 一 月 七 日︵ 金 ︶
、平成十七年度募集高
▽ 一 月 九 日︵ 日 ︶
、平成十七年度募集中
学校第二回入学試験が実施された。
▽ 一 月 十 五 日︵ 土 ︶
、中学校百人一首カ
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ルタ大会が、薙刀場において行なわれ
た。
首カルタ大会が、第二体育館において
▽ 一 月 二 十 六 日︵ 水 ︶
、高等学校百人一
行なわれた。
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▽ 二 月 一 日︵ 火 ︶
、平成十七年度募集高
等学校第三回入学試験が実施された。
▽ 二 月 三 日︵ 木 ︶
、図書館大会議室にて
中 学 校 二 年 生 の 立 志 式 が 行 な わ れ た。
こ の 式 は 古 来 の 元 服 の 儀 式 に 由 来 し、
中堅学年である二年生に、自己の﹁こ
カルタ大会(中学)
ころざし﹂を立てる機会として、行な
われている。
▽二月五日︵土︶平成十七年度募集中学
校第三回入学試験が実施された。
▽ 二 月 十 日︵ 木 ︶
、第十三回国際情報科
イングリッシュ・スピーチコンテスト
が大ホールにて行なわれた。
▽ 二 月 十 五 日︵ 火 ︶
、中学校の第九回イ
ングリッシュ・スピーチコンテストが
大ホールにて行なわれた。
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太平台春秋編集委員会
天野寿々子
金井
裕子
編 集 後 記
﹃太平台春秋﹄も今回で 号を迎える。
まずは校務多忙の中、寄稿して戴いた諸
委員長
黒羽
信五
久保田千秋
先生方に感謝の言葉を述べたい。教育活
動に関することや、趣味の世界、学生時
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飯泉
幸子
加藤
正子
大月
一男
代の思い出等テーマは様々であるが、そ
れぞれの先生方の熱い思いが伝わって
来て、爽やかな読後感に浸されるととも
に、日常生活では窺い知れない一端に接
して身の引き締まる思いでもある。
前編集長の岡本岱先生から編集長の大
役を引き継いで二年目、今年も小生の力
不 足 か ら 多 く の 先 生 方 に ご 迷 惑 を 掛 け、
お世話になった。全体的に昨年度よりは
小ぶりなものに仕上がったが、内容的に
はどこに出しても恥ずかしくないものと
自負している。
﹁吾以外皆吾師﹂と記したのは作家の
吉川英治氏であったと思う。この小誌を
読まれる生徒諸君が、この中から、何か
︵信︶
一つでも糧となるものを学んで頂ければ
幸いである。
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