OYS002201 - 天理大学情報ライブラリーOPAC

『天理大学おやさと研究所年報』 第 22 号 2016 年 3 月 26 日発行
論文
伝道におけることばの問題
─天理異文化伝道論の構築にむけて─
森 洋 明
要旨 異なる言語圏に何らかの情報を伝えるには、必ずことばの壁が存在し、それを超
えていかなければならない。植民地統治における言語覇権主義は別として、通常は対
象となる地域で流通する言語への翻訳が必要となる。天理教の二代真柱は教えを外国
に広めるために、海外伝道を担う人材育成の機関として天理外国語学校を設立した。
そして、その卒業生たちは伝道地で話されていることばという手段を得て布教に邁進
した。本論はこうした異なる言語圏における伝道に際し、ことばを置き換えることに
よって生じるさまざまな問題を、言語学や異文化コミュニケーションなどの視点で
考察するものである。日本語という一言語で明かされた教えが、別の言語に翻訳さ
れるときには、選択された表現が果たして原文と同じ言語的、文化的「価値」を有
するのかを考慮する必要がある。あるいは言語的には同等のメッセージであっても、
社会や文化の違いによって受け取り方が異なる可能生もあるだろう。私自身が関わっ
ているフランス語の翻訳やコンゴでの伝道現場のさまざまな事例を基に、海外での
伝道におけることばに関する問題提起をしていく。
【キーワード】天理教、海外伝道、翻訳、異文化コミュニケーション、
社会言語学、意味論
はじめに
神が顕現しその教えを明かすとき、アラム語であったりアラビア語であったり、何
らかの特定した言語を介することになる。1838 年 10 月「我は元の神、実の神」とそ
の第一声を発した天理王命は、中山みきの口を通して、当時話されていた日本語で教
え伝えた。
伝道宗教として教えを広めようとするとき、それが最初に説かれた言語とは異なる
言語圏に流布させるためには、必ずことばの問題が生じる。日本にキリスト教を初め
て伝えたフランシスコ・ザビエルは、本国に向けた書簡のなかで、「もしわれわれが
(1)
言葉を話すことができたら、多くの人がキリスト教になっていただろうに」と述べて
いる。また、1910 年(明治 43)に始められた天理教のロンドン布教の顛末を記す手
(2)
記のなかで、これからの海外伝道をするに際して必要な事項として「語学を十分にマ
スターせねばならぬ」が挙げられている。中国における翻訳の歴史も、仏典を漢訳す
─1─
(3)
るところから始まったと言われている。
「世界一れつたすけるために」という目的を持って啓示された天理教は、世界宗教
として明治 29 年に韓国釜山での布教を開始して以来、中国やアメリカ、ヨーロッパ
や中南米とさまざまな国や地域に布教師が渡り伝道を展開していった。しかし、その
多くは伝道地でことばの壁に当たった。そこで、中山正善二代真柱は 1925 年(大正
14)に天理外国語学校を設立し、布教師にことばという「手段」を身につけることを
後押しした。
ただ、異なる言語圏での伝道にはさまざまな問題も生じてくる。なかでもことばを
置き換える作業である翻訳は重要な点だろう。単に訳語の選出の問題だけでなく、選
出された表現が果たしてその社会や文化的背景に合っているかという問題、あるいは
一つの表現が、異文化圏において本来の意味とは異なるものとして認識される恐れも
ある。
本論では、筆者が関わっているコンゴ共和国での伝道の現場で出会ったことばに関
する事例を基に、天理教の海外伝道におけることばの問題をさまざまな角度から考察
し、伝道におけることばに関して問題提起を行うものである。最初に、教祖が教えを
明かすのに用いたことば、つまり日本語としての教語を検討する。次に、コンゴ伝道
でのことばの問題に関わる実例を紹介し、それらの事例を、意味論や統語論、語用論
といった言語学からの視点で考察し、翻訳における等価について考えていく。さらに
は、天理教の救済観から見る言語の選択の方向性にも触れていきたい。
1.日本語における教語
教えを説くのに使われるさまざまなことばは、一種の専門的な用語だと言えるだろ
う。したがって『〇〇教辞典』といったものが存在し、用語の意味や出典などが解説
される。それはまた、さまざまな学術分野において、その分野特有の使い方を解説す
る用語辞典等が存在するのと同じである。そうした専門用語には、社会にすでに流通
している単語に、その分野に限定された意味を加えられているものが多い。言語学的
に言うなら、たとえ専門用語であったとしても、シニフィアン(意味するもの・能記)
レベルでは既存のものを使っているのであり、いわゆる新語と呼ばれるものではない。
たとえば、一宗教としてもっとも重要な用語である「神」という表現は、古来か
ら「八百万の神」という表現があるように、日本ではさまざまな神が人々の生活に存
在し身近に感じられてきた。1838 年(天保9)10 月、元の約束により「旬刻限」の
(4)
到来まで待って、中山みきの口を通して初めて人間にメッセージを発した神にとって
だ
め
は、これまで明かさなかった最後の教えを明かすという情況にあった。何らかの形容
をつけることによって、それまで知られていた「神」とは異なる存在であることを分
─2─
森洋明 伝道におけることばの問題
からせる必要があったとも考えられる。自らを「元の神」「実の神」と表現したのは、
それまでの神と「区別」する重要な役割を担っていたと言えるだろう。あるいは、神
の守護の具現的なものとして「月日」や「をや」といった表現を使っているが、「月」
や「日」そして「親」も、当然人々が日常生活で親しんできたことばであるからこそ、
比喩的表現として成り立っているのである。
その他に、
「かんろ」(甘露)や「つとめ」(勤め)、
「ふでさき」(筆先)や「かぐら」
(神楽)、「きしん」(寄進)など、教祖が用いたことばの多くは、すでに存在し当時の
人たちにとって親しまれてきたものが多い。そこに「最後の教え」としての新たな意
味を加えることで、教えを説き明かしていった。
(5)
「十のものなら九つまで教え、なを、明かされなかつた最後の一点」を明かすなら、
今まで人類が知り得なかった意味世界があるということになる。言語学的な言い方を
すれば、その意味にアクセスするためのことば、つまり音や表記を持つ「シニフィアン」
が必要となる。それまでに存在しなかった新たなことばを使用するなら新語や造語と
なるが、人類が知らなかった考え方や価値観を存在しなかったことばで説かれても理
解できるものではない。したがって、すでに使われていることばを用いつつも、それ
までとは異なる意味を付加させる手段を取らざるを得なかったのである。
たとえば、天理教における「ようき」(陽気)ということばについて考えてみよう。
「陽気ぐらし」は、神による人間創造の根源的目的に関わるものであり、教えのなか
でも重要なキーワードの一つである。しかし、この「陽気」ということばもすでに存
在していたものであり、『広辞苑』(第六版)を引用するなら、「中国の易学」に関す
ることから、
「気分、雰囲気などがあかるく、はればれしいこと」「気がうわつくこと。
心が落ち着かないこと」「愉快に遊興すること」などすでに多義的である。このこと
ばに教えのなかで説かれる「陽気」の意味世界、つまり「かしもの・かりものを借り
て生きていることを心に深く喜ぶところに生まれる心境」(『改訂天理教事典』)を付
与していかなければならないのである。「教祖は、世界の子供をたすけたい一心から、
貧のどん底に落ち切り、しかも勇んで通り、身を以て陽気ぐらしのひながたを示され
(6)
た。」とある。つまり、陽気ぐらしの「陽気」は、教祖の「ひながた」を通して意味
づけられていったと考えられるのではないだろうか。
2.伝道におけることばに関する事例―コンゴ伝道より―
ここでは、筆者が関わっているコンゴブラザビル教会での伝道活動のなかで、筆者
自身が実際に遭遇した事例を紹介していく。そこから海外伝道においてことばの違い
によってもたらされるさまざまな諸相を、言語学や異文化コミュニケーションの視座
から考察をしていきたい。
─3─
【事例1】
コンゴブラザビル教会で開催された研修会において、ある受講生が「Dieu originel」
(元の神)の説明を聞いたあと大変驚いたように「この世には神は複数あったのか!」
と叫んだ。どういうことか事情を聞くと、その受講生は続けて「私は神は唯一だと思っ
ていた。しかし『Dieu』にもその元となる神があったとは知らなかった」と述べた。
【事例2】
にをいがけの一環でハッピで住宅街を歩いていると、ある女性が近づいてきて、
「私
はこの黒い服を着ているような集団には絶対に属さない。それは悪魔の使いの色であ
る」と叫び、続けて「どうしてわざわざ黒色にしているのだ? 他の色ではどうして
いけないのか?」と聞いてきた。
【事例3】
コンゴブラザビル教会で結成されているコーラス隊のレパートリーには、戦争や饑
餓、自然災害など世の中のさまざまな不幸に対して「神よ、あなただけが人間をそこ
から救うことができる」と、神の絶対的な力にすがったり、こころがほこりまみれで
汚れていることを神に詫びたりする歌が存在する。
【事例4】
コンゴブラザビル教会の会長は、
「会長」の正式なフランス語訳「Chef d’Eglise」と
呼ばれているが、時々「Kaichosan」と日本語で呼ばれることがある。
【事例5】
教会本部のある関係者が、コンゴブラザビル教会の神殿内の挨拶のなかで集まった
信者に対し、「みなさま、次の年祭にはそろっておぢばがえりをいたしましょう」と
述べた。訳者はそれを忠実にフランス語に訳したところ、それを聞いた人たちの多く
が、おぢばがえりに「招待された」と受け止めた。
【事例6】
フランス語のテキストをすらすらと読む人でも、母語であるラリ語やリンガラ語と
いった現地語に翻訳されたテキストを読む際には、極端にスピードが遅くなることが
ある。
─4─
森洋明 伝道におけることばの問題
【事例7】
コンゴ人信者から「みかぐらうたをフランス語でつとめることはできないのか」と
いう質問を受けた。現在、コンゴブラザビル教会では、月次祭や朝づとめのまなびは
すべて日本語の地歌で行われている。
【事例8】
コンゴで開催する教義研修会は通常フランス語で行われているが、受講生のなかに
はフランス語の理解力が十分でない者も少なくない。とくに文章を読んだり書いたり
することが困難な受講生には、彼らの母語であるラリ語やリンガラ語、ムヌクトゥバ
語の説明が必要となってくる。
3.海外伝道の現場におけることばによる問題事例
3.1.翻訳による等価の方向性
翻訳作業とは、もともとのテキストである起点言語から翻訳する目標言語への置き
換えである。そしてその作業には、起点となるテキストと目標としているテキスト
が、どれだけ近い意味になるかということが問われてくる。意味の「等価」が問われ
るのである。等価を目指すためには、二つの方法に分けることができる。一つは起点
言語に重点を置いた「形式的等価」(formal equivalence)、もう一つは目標となる言語
のニーズや文化的な期待に呼応させ、より自然な表現を目指す方法である「動的等価」
(dynamic equivalence)と呼ばれるものである。双方とも等価を志向することには変わ
りないが、起点言語に重点を置くのか、翻訳された目標言語の方に重きを置くのかと
いった違いがある。
天理教の伝道のなかで、どちらの方向性を志向するべきなのか。
『旧約聖書』はヘブライ語で、また『新約聖書』はギリシャ語で書かれているが、
キリスト教伝道の過程で、さまざまな言語に翻訳された。聖書の翻訳は「神のことば」
を訳す作業であり、翻訳者によって翻訳に臨む姿勢が異なっている。
たとえば、宗教改革を推進したマルティン・ルターは旧約・新約聖書をドイツ語に
訳したが、その際には起点テキストと目標テキストを単語レベルで対応させるそれま
での逐語訳から、より分かりやすいドイツ語にする方向性を採用した。そこには聖職
者や知識人のための翻訳というよりも、一般の人たちでも分かりやすいようにという
配慮があったと言われている。その結果聖書は多くの人に読まれるようになった。
これらとは異なる志向性として、翻訳されたテキストの用途に焦点を当てる「機能
主義アプローチ」と呼ばれる方法もある。それはコミュニケーションがどういう目的
で行われるかという面に比重をおいた翻訳志向である。そこには「翻訳を最終的に読
─5─
むのはどのような人たちか、何のために翻訳が使われるのか」といったことが重要と
なり、前述の二つの翻訳より、より目標言語となる社会に踏み込んだ翻訳のあり方だ
と言えるだろう。
天理教の文献翻訳の場合を考えるなら、目標言語を読む人は人類救済の教えを求め
る人であり、それはつまり救いを求める人である。そうした点「読むのはどのような
人たちか」との問いは、天理教の救済観に関わる問題である。
3.2.翻訳における等価の問題:日本語とフランス語の対比より
翻訳は等価を目指す作業である。しかし視点を変えて考えてみれば、日本語と外国
語が2カ国語辞典などに記されているように、訳語として記されている表現がそもそ
も本当に等しい価値を持つのかという問題もある。むしろ、厳密に同等の意味という
のが存在し得るのかどうか疑わしい。たとえば、日本語の「彼」はフランス語では「il」
に当たる。英語の「he」でも同じである。そしてこのことに関しては、誰もが異存が
ない訳語だろう。確かにどちらも文法的に第三人称単数であり、男性に対して使われ
ることばである。その視点から見れば同じ価値、つまり等価といえる。しかし、フラ
ンス語において「il」は、三人称単数というカテゴリーに入るならどのような立場の
人にでも使える表現だ。一方、日本語の「彼」は、たとえば通常目上の人に対して使
うと失礼になる。また「il」は、人だけでなく物や出来事も受けることができる。つ
まり、一つの単語の意味範囲が言語によって異なるのである。
フランス語の語彙の特徴の一つに多義性が挙げられる。日本語は欧米言語と比較す
れば一つの単語に対して一つの意味が基本となっている。たとえば、フランス語の頻
度順上位の約1千語によって、日常会話の7〜8割の単語がまかなわれているが、日
本語で同じようなレベルに達するには5千語が必要であると言われている。それはま
た、フランス語の代表的辞書の『Le Petit Robert』(1993 年)には6万語が収録さ
れている一方で、同じように日本語の代表的な辞書である『広辞苑』(第6版)には
24 万語収録されていることからも言えるだろう。単純計算すれば、フランス語は一
つの語彙には日本語の4倍の意味範囲があるということになる。
したがって、日本語をフランス語に翻訳するには、単語の選択の範囲が限られるの
は不可避であり、選択した訳語はより大きな意味範囲を持つことになる。訳語として
選出した単語の意味範囲が広いということは、教理を伝達する際の説明の重要性が高
まってくる。
たとえば、
「つとめ」は教義において「親神がこの世に現れた目的の一つである『た
すけ』(救済)を実現するために教えられたつとめ」(『改訂天理教事典』)と「人間が
神(親神)に向かって、感謝したりお祈りしたりするために教えられたもの」の二つ
─6─
森洋明 伝道におけることばの問題
の意味があるが、フランス語訳ではこの「つとめ」に対し、
「祈り」に相当する「prière」
ではなく、「Service」という単語を充てている。しかし、実際「Service」の意味世
界と「つとめ」の意味世界は一部しか呼応せず、その大部分は異なるものとなっている。
広辞苑によると、つとめ(勤め・務め)とは、
①つとめること。つとむべきこと。任務。義務。
②仏前で毎日読経すること。勤行。
③仕えて仕事をすることまたその仕事。勤務。役目。奉公。
④遊女などの稼業。
⑤妓楼での勘定。揚代の支払い。
となっている。天理教の「つとめ」は、したがって②の用法に依拠しているのだろう。
一方、フランス語の「Service」とは、フランス語の代表格と言える『le Petit Robert』
によると、「義務」や「仕事」「サービス」「奉仕」などが一般的であり、数ある意味
の一つとして宗教分野においては「Ensemble des devoirs envers la divinité」(直訳:神
聖なものに対するしなければならないことの総体)となっている。
こうしたことから、「月次祭」を「Service mensuel」と置き換えても、それだけで
はなかなか意味は伝わらない。ことばを使ったさらなる説明をしていく必要があるだ
(7)
ろう。これはほんの一例で、実際用語の翻訳だけでは十分に伝えることは難しいかも
しれない。そこで重要になってくるのは、伝道する側がこうした言語による問題意識
を持つかどうかということである。以下では、翻訳されたことばに対して、言語学的
な視点から考察を進めていく。
4.訳語の選択上の問題
4.1.意味論
4.1.1.シニフィアンとシニフィエ
翻訳というのは既に指摘したように、起点言語のテキストにおけるシニフィエ(意
味されるもの)に対して、できるだけ等しくなる目標言語のシニフィアン(意味する
もの)を選出する作業である。ただ前述したように、一つのシニフィアンが持つ意味
世界は言語によって異なっており、その文法などの規則や用途などを加味して考える
と、ぴったり一致するシニフィアンを別のことばで見つけ出すことは不可能に近い。
たとえば、「神」はフランス語で「Dieu」であり、英語では「God」と訳される。
それぞれの二国語の辞書を引いてもそのように書かれている。しかし、果たしてそれ
が日本語における「神」と同じ価値を持つことばなのかといえば決してそうではない。
なぜなら「Dieu」や「God」は、その表現自体すでに「キリスト教における神」を指
しているからだ。「この世には神は複数あったのか!」と叫んだ【事例1】のコンゴ
─7─
人受講性は、「Dieu」と聞いたとたん、キリスト教の神を想起し、その「絶対唯一神」
であるはずの「Dieu」に、さらに「Originel」と形容される「元の」神があったこと
に驚いたのであった。
15 ~ 16 世紀から続く西洋列国によるアフリカのキリスト教化によって、キリス
ト教がコンゴの宗教文化として深く根付いている。そこで説かれる絶対唯一の神は、
コンゴに古来から言い伝えられきた「Nzambi Mpoungou」(サンビ・ンプング)と呼
ばれる万物創造の神とも結びつくことで、よりリアリティをもって受け入れられた。
「Dieu」という単語自体にはすでにそのようなイメージ(心象)が先行しているので、
その単語が持つ心象というフィルターを通して天理教の教えに触れることになる。
かつて、日本にキリスト教が伝わったとき、薩摩藩の下級武士であったアンジロー
は、「神」を「大日」と訳した。ザビエルがそれに気づいたのは、仏教の僧侶が彼の
(8)
説教に対し好意的に受けて止めたことを不思議に思ったからだった。こうしたことも
訳語によって生じた誤解であり、天理教の神が「Dieu」と訳されたことと通底している。
では、それ以外のことばを用いることは可能だろうか。天理教の神の翻訳の可能性
として「Kami」と不翻訳を選択することは考えられるかもしれない。しかし、この
単語はすでにフランス語として定着しており、その意味としては「神道の神」となっ
ている。したがって、「Kami」はしばしば複数系で用いられることがある。いずれに
せよ、すでにある用語を使うことによって異なる意味に解釈される恐れは避けられな
い。それは、当時すでに流通していたことばを使って新たな教えを明かした教祖の姿
と呼応するものでもある。ちなみにザビエルの場合は、「大日」の使用を止め、代わ
りにラテン語の「デウス」(Deus)を用いたという。この場合は不翻訳である。
コンゴ伝道のなかで、よく受ける質問の一つに「天理教はキリスト教と同じか?」
ということがある。「Dieu」という用語を使う以上、こうした質問は避けられない。
そこから問われるのは、いかにしてキリスト教の神という「心象」から、天理教の神
観に転換させるかということだろう。そのためには、より詳細な教理的説明が必要と
なってくる。
「実の神」のフランス語訳の「Dieu véritable」は、直訳すれば「真実(本当)の神」
という意味になる。絶対唯一である「Dieu」に敢えて「真実(本当)の」という形容
を付けることに、違和感を覚えるという声も聞かれる。確かに「私が本当の森です」
と言うと、どこかに「嘘の森」の存在が想起させられる。決して普通の言い方ではない。
「実の神」という表現は、「真実の神という意味に加えて、ただ単に、もとこの世界と
人間を創造した本当の神という意味だけでなく、それ以来現実に守護し働いている神
という意味がこめられている。」(『改訂天理教事典』)とあるが、フランス語の「Dieu
véritable」からは決して出てこない意味世界である。
─8─
森洋明 伝道におけることばの問題
『稿本天理教教祖伝逸話篇』135 のタイトルは「皆丸い心で」である。日本語とし
てはそれほど違和感のない表現であろう。「丸い」という形容詞には「円形である」
という定義以外に、「かどかどしくない。穏やかである。」といった意味も含まれてお
り、「こころ」という名詞の修飾語として結びついても意味的に問題はない。しかし、
それをそのままフランス語に訳して「cœur rond」としても、「rond」にはその意味は
含まれない。したがって、組み合わせとして意味が曖昧になってくる。ちなみにこの
タイトルのフランス語訳は「Le cœur de chacun comme un grain lisse」(直訳すれば「滑
らかな種のようなそれぞれのこころ」)となっている。組み合わせで言うなら、【事例
1】も結局、
「Dieu」とは本来組み合わせられることのない形容詞がついたことによっ
てでてきたことだともいえるだろう。
天理教では頻繁に出てくる表現である「理」は、さまざまな単語と組み合わさって
登場する。「おさしづ」には、15,000 以上の用例があり、「理」と単独で使用されて
いるのもあれば、修飾語句を伴って使用されているものもある。さまざまな組み合わ
せから、「もの」や「こと」だけでなく、「心」「道」「順序」や「道理」「道筋」、さら
(9)
には「さしづ」「実績」などの「理」の意味範囲は多岐にわたる。そのなかで、一つ
の「理」という単語から状況にあった意味翻訳が必要となり、一単語の翻訳は必ずし
も固定できない。
4.1.2.デノテーションとコノテーション
ことばにはいわゆる辞書的な定義と、その表現から喚起される個人的や感情的、状
況的な意味もある。前者はデノテーション(明示)と呼ばれ、後者はコノテーション(暗
示)という。これまでの議論は前者のデノテーションにおける問題であったが、ここ
では後者のコノテーションについて考察をしてみたい。
コノテーションは、個人的な語感もあるが、社会や文化によって形成されることが
多い。そしてそれは地域や時代によって変化する。たとえば色に関して「赤」や「白」
「黒」などは、本来色を言い表すため表現であるが、それぞれに「情熱」や「真実」
「高級」
など、そこから派生して出てくる意味もある。筆者のフランスでの留学先だった南仏
のトゥールーズ市は、街中の建物の色から別名「Ville Rose」、日本語訳で「バラの町」
と呼ばれている。これをもし「ピンクタウン」と訳したら、まったく異なるイメージ
が出てくるだろう。
「私はこの黒い服を着ているような集団には絶対に属さない」と言った通行人の【事
例2】も、天理教におけるハッピや教服の色に対して、この「黒」はアフリカのコン
ゴでは「悪魔の色」というコノテーションがあるからだと解される。黒門(通称)や
赤着、教旗の紫、扇の模様など色や柄に関する解釈は社会や文化によって異なってい
─9─
る。
同じようにことばのコノテーションも文化によって異なる。この点で最も大きな問
題は、やはりここでも宗教として核となるタームでもある「神」だろう。先にも指摘
したように、「神」の訳によってそれが「キリスト教」の神ということが前提になっ
てしまう。そこにコノテーションを加えるなら、「絶対的」や「支配者」といった神、
あるいは「罰を与える」といった神観が生まれてくる。
「絶対的な存在である神」「すべてを支配する神」という神観は、神に対する接し方、
神へのメッセージのあり方にも影響を与える。コンゴブラザビル教会のコーラスのレ
パートリーのなかで、神の力にすがったり、神に人間の愚かさを詫びたりする【事例
3】は、そうした神に対する考え方を象徴する例でもある。「神よ、あなただけが人
間をそこから救うことができる」という歌詞を繰り返し歌い続けていくと、神の守護
によって生かされている現実に感謝をし、そして創造の目的である陽気暮らしに近づ
く努力、換言すればこころのほこりを払うための不断の努力をする人間側の視点が欠
けていくかもしれない。
神はまた目に見える「月日」、あるいは産んでくれた「親」であるとも教えられた。
親なくして人はこの世に生まれることはない。「月日」の自然の働きは世界中に及ん
でいる。神の守護をより具体的に感じさせる比喩的表現である。しかし、それぞれに
コノテーションがあり、たとえば砂漠地域が多いイスラムの世界観では「一年中、砂
漠の中で灼熱の太陽に苦しめられて生活をするという文化を持つ人々にとって、太陽
は日本人が考えるような、恵みを与える生命の源ではなく、まかり間違えば死を意味
(10)
「日」つまり「太陽」に対する考え方はまっ
する呪わしき存在」と指摘されるように、
たく異なる。コンゴでも、太陽が輝いている日は「悪い天気」で、雲で覆われている
日を「良い天気」と言っている。ただ、イスラム文化では、太陽ではなく三日月(新
月)が賞賛されていて、その点では「月」「日」と二つ並べているところにより普遍
性があるとも言える。
日本は四季の区別がはっきりしているので、季節に由来するコノテーションを使っ
た言い方が多い。たとえば、人生を4つに分け「春」は「青年期」、
「夏」は「絶頂期」、
「秋」
は壮年期、そして「冬」は「老年期」といった考え方は、日本の風土と合っている。「冬
来たりなば春遠からじ」は、「今は不幸な状況(冬)でも、じっと耐え忍んでいれば、
いずれ幸せ(春)がおとずれる」といったような意味となり、日本人が持つ季節感と
合致している。しかし、年中暑い熱帯地域や昼間は灼熱の太陽が照りつける砂漠気候
では、このような例え話は決して通じない。10 月の大祭を「秋季大祭」、1月の大祭
を「春季大祭」と呼ぶのは、日本文化と関わっている。
会長を「Kaichosan」と日本語で敢えて呼ぶ【事例4】は、首長制的な考え方が残っ
─ 10 ─
森洋明 伝道におけることばの問題
ている社会において「Chef」と名前の付く人は大きな権力を持つようなコノテーショ
ンがあるからだ。だからそのイメージを少しでも和らげる意味もあって、「kaichosan」
と日本語の表現をそのまま使ったりしている。
現地人教会長に対して「会長らしく」といった助言をすることがある。そして、そ
の時の翻訳には「Chef」という表現を使っている。「会長」という表現が持つ語感を
知らなければ、現地の「Chef」観に近い解釈をされることも考えられる。しかも、コ
ンゴにコンゴブラザビル教会以外に天理教の拠点はない。
つまり、
他に
「Chef d’Eglise」
、
会長のモデルがないという条件も加わってくる。昨今は「Représentant Chef」という
言い方もされており、コンゴにおいて天理教を代表する者との意味が付加されている。
なぜなら、コンゴにおいて天理教の拠点はコンゴブラザビル教会一つしかなく、実質
的にコンゴブラザビル教会の会長がコンゴにおける天理教の代表の役割を果たしてい
るからである。
加えて言うなら、ヨーロッパに唯一である天理教のボルドー教会では、フランス語
の教会に当たる「Eglise」という表現を使わず、敢えて「Bordeaux Kyokai」と命名し
ている。それは、「Eglise」というとき、カトリックの長女と言われるフランス社会に
おいて、まずカトリックの教会というイメージが先行し、そのイメージがフィルター
となって天理教が見られてしまうからである。
コノテーションは言語は同じでも、地域によって、また文化によっても異なる。フ
ランスでは避けられた「Eglise」は、コンゴではむしろ積極的に使用されていると言
えよう。その背景には、確かに両国ともキリスト教文化が深く社会に根付いているこ
とには変わりないが、外国から入ってくる宗教に対する社会の視線が異なっていると
いうことが指摘できる。コンゴでは Eglise を使うことによって、天理教は魔術や呪術
(11)
的なものではなく、まともな「宗教」ということを前面に出す効果がある。天理教が
コンゴでの伝道を開始した当初、よく「あそこに行くと血を抜かれる」「髪の毛が抜
かれる」といった噂が飛び交った。ここにも、現地の宗教文化に対する配慮とことば
が持つコノテーションが絡んできているのである。あるいは、コンゴでは「日本人」
に対して持つステレオタイプによって柔道や空手が想起されるので、ハッピは道着と
勘違いされることが多い。背文字の「TERNIKYO」だけでは宗教だと理解されない
なか、「Eglise」という文字を入れることで宗教性を全面に押し出すことができる。
4.2.語用論:文化的翻訳
翻訳における等価を考えるときには、一つの表現が文字通りとは異なり、話者や会
話の文脈によって別の意味を形成することも考慮しなければならない。それは言語学
でいう語用論の問題である。たとえば、
「ごはんですよ」という表現を「C’est le riz」
(こ
─ 11 ─
れはライスです)と訳しても通じないように、そこにはその本来の意味に置き換える
必要がある。この場合フランス語では「A table!」(直訳すれば「テーブルに!」)が
より近い意味になるだろう。ここでは単語本来が持っている意味ではなく、その組み
合わせや使う状況よって生まれ出す表現の意味解釈が問われてくる。
言語によるコミュニケーションとは、メッセージの創成と解釈の繰り返しである。
言いたいことを言語化する(エンコード)こととそれを理解する(デコード)ことを
瞬時に行っている。それは日常の会話からより高度な議論でも同じで、あらゆる意見
の交換はこのエンコードとデコードの反復作業とも言える。
しかし、そのコードの創成や解釈には、言語以外のさまざまな情報が加わってくる。
それは会話の状況である。いつ、誰が、誰に、どういう状況で、話者間の関係、ある
いは話す口調であったり目線や話す表情もメッセージの意味に変化をもたらす。これ
らの非言語の情報はコードの解釈に影響する。「おぢばがえりしましょう」という挨
拶が「おぢばへの招待」と勘違いされた【事例5】の背景には、それを言った人の立
場や「日本人」だという事実が大きく影響している。コンゴでは、日本人が概して「お
金持ち」とみられてしまう。経済的格差が大きい日本とコンゴとの間で、同じメッセー
ジが異なる解釈をされる恐れはさらに大きくなる。
コンゴブラザビル教会では教会設立当初から無償の診療活動を行っていた。そのな
かで、現地の人から「ありがとう」との感謝の表現がないのに気づいた医師が、何と
かしてそれを言わせるように努力した。しかし「富む側の者が富まざる者に施すのが
当たり前」の世界では、感謝の意を表すためのエンコードのあり方が異なっている。
感謝や謝罪など、言語のストラテジーの形態も考慮していく必要があるだろう。かつ
て、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、欧米の「罪の文化」に対する
日本文化の特徴として「恥の文化」を指摘した。文化の違いは言語活動にも大きな影
響を与えることは言うまでもないだろう。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』104「信心はな」には、「神さんの信心はな、神さんを、
産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。」というメッセージがある。まず「親」
ということばによって表される意味やコノテーション、あるいは社会における一般的
親子関係のあり方によって、その意味が異なってくることもあり、さらにはそれに続
く「そしたら、ほんまの信心が出来ますで。」という表現から、さらに違った信心観
を生みかねないとも考えられるのではないだろうか。
昨今、コンゴ人信者のなかには教祖(おやさま)を呼ぶ時の敬称として、「Mama」
をつけて「Mama-Oyasama」ということがある。「Mama」とは日本語の「母」に相当
する表現であるが、日本語の「おやさま」にはすでに「親」という概念がある。そこ
(12)
にさらに「母」というものを付けているのだから、意味的には重複している。おそら
─ 12 ─
森洋明 伝道におけることばの問題
く、そのように呼んでいるコンゴの人たちは「Oyasama」の日本語の「親」の概念を
意識することなく、単に呼び名として受け取っていると考えられる。時とともに、こ
の呼称が信者のなかで定着していくなら、キリスト教文化が社会に浸透している状況
において、一種のマリア信仰にも相当するような新たな「教祖像」を生みだす恐れが
あるかもしれない。社会のなかに浸透している宗教文化が言語化するなかで出てきた
このような表現はこれからも注意していかなければならない。
4.3.不翻訳
翻訳作業の過程において、不翻訳も選択の一つである。起点言語によって表現され
る物や事象、考え方などが、目標言語のシニフィアンにないことから、そのままの形
(発音の変化はある)で使用するのである。それは目標言語からすれば外来語となる。
たとえば、環境分野では初めてとなるノーベル平和賞を受賞した故ワンガリ・マータ
イ氏が「Mottainai」を日本語の表現のまま使ったが、日本語の「もったいない」精神
の概念に似合うことばがなかったという背景がある。最近では日本語の「kawaii」が
フランス語の語彙として定着しつつある。「かわいい」の訳としてはフランス語にも、
「mignon」や「adorable」などそれ相応の表現がある。しかし、それらの表現では言い
表し切れない概念があり、そのまま使うことによって、それまでのフランス語では見
えてこなかった新たな意味世界を形成している。
不翻訳の選択にはまた、そのままの形を使用することによって何らかの付加価値が
ある場合が考えられる。日本語をそのまま使うことによって、よりインパクトを持た
せたり経済的効果があったりなど、何らかの付加価値も目論まれているとも考えられ
る。フランス語の「kawaii」にも、フランス語に訳すよりも、インパクトがあり経済
的効果があるのかもしれない。
天理教の用語のなかでは、
「Oyagami」
「Oyasama」
「Mitamasama」
「Shimbashira」
「kyoto」
「yoboku」「sazuke」「hinokishin」「Ofudesaki」などが、フランス語に訳された表現は
あるものの、コンゴでは通常不翻訳で使われている。「tanno」や「innen」は、『天理
教教典』では不翻訳である。また、「ittehitotsu」は文脈によってフランス語訳が異な
ることもあるのか、日本語のままで使われていることが多い。
コンゴ人信者のなかには、伝道活動のなかで日本語の語彙を積極的に使っている人
もいる。その理由は、日本語を使った方がその用語の説明を加える機会ができて、よ
り話が進んでいくからだという。また、前述の「Bordeaux Kyokai」や「Kaichosan」といっ
た用法も、不翻訳にすることによって新たな概念として定着させようとしている。コ
ンゴではフランス語の敬称である「Monsieur」の代わりに「Sensei」(先生)を付けて
呼ぶ場合もある。語順もそのままで、「Monsieur MORI」のところを、「Sensei MORI」
─ 13 ─
と呼ぶ。
その一方で不翻訳は、初めて教えに触れる人には馴染みのない表現なので、テキス
トであれば発音しにくいし、すぐに明確な説明がないと理解し難い。現地の言語だと
読むスピードが極端に遅くなる【事例6】の背景には、現地のことばはもともと話し
ことばであり、それをテキストとして読む習慣がなかったという事情がある。読み慣
れていないので、母語であっても文字から音に変えるのが難しいようだ。それは不翻
訳が多い日本語テキストにも当てはまる。教祖伝に登場する固有名詞など、フランス
語をスラスラ読めてもその部分では読むスピードが極端に遅くなる。夕づとめ後に読
まれる『稿本天理教教祖伝逸話篇』では、固有名詞の部分の読み方が極端に遅くなる
ことによって、そうした周辺部分の情報に気を取られてしまい、話の本筋が見えにく
くなることさえある。
さらに、
「~させていただく」
「ありがたい」
「ようこそおかえり」
「さとる」
「さんげ」
「ふ
せこみ」などは、フランス語への翻訳がそもそも難しい用語でもあり、意味を複数の
単語を組み合わせて翻訳してもなかなか伝わりにくい概念でもある。サピア・ウォー
(13)
フの言語相対論ではないが、ことばによって世界の見方が反映しているとすれば、一
つの言語にない考え方、現実の認知のあり方を伝達するのは容易なことではない。
4.4.統語論:文法の違い
翻訳の問題として最後に文法に関することがらに関して触れておきたい。
日本語とフランス語とでは語順の違いが大きいだろう。とくにそれは原典の一つであ
る「みかぐらうた」の翻訳に大きく影響する。
「みかぐらうた」はつとめの地歌でもあり、
テキストに合わせた手振りがある。単語の順序が異なると手振りとことばは合ってこ
ない。実際、現在のフランス語訳は意味的解釈のためのものであり、それで手振りを
するテキストにはなっていない。
現在、コンゴブラザビル教会には常駐の日本人は誰もいない。毎回の月次祭はコン
ゴ人だけでつとめられている。多くのコンゴ人信者は日本語のテキストを丸暗記して
いるものの、その意味を考えながら歌い踊ることはできない。「みかぐらうた」の意
味世界にアクセスするには、翻訳されたテキストで確認しなければならない。つまり、
誰一人として意味を理解しないままコンゴ人だけで月次祭がつとめられているのであ
る。果たしてこれで良いのかという疑問も湧いてくる。「みかぐらうたをフランス語
で勤めることはできないのか」という【事例7】質問には、そのような背景がある。
昨今、月次祭の祭典後、現地のことばで歌われるコーラスの時間帯が長くなりつつあ
る。それは「みかぐらうた」では神のことばの意味にアクセスできない反動かもしれ
ない。
─ 14 ─
森洋明 伝道におけることばの問題
歌って踊れるような翻訳にするには、さまざまな文法的制約を克服する必要がある。
翻訳のアプローチからすれば、文法的には正しくないかもしれないが、全体として意
味は分かるような方法が必要なのかもしれない。ただ、文法の制約を無視した翻訳テ
キストがどこまで許容されるのか、そこが問われている。そして何よりも、翻訳した
(14)
テキストでつとめることの是非自体が議論されなければならない。
文法の違いはまた、主語が必要のない表現が多いが、日本語を必ず主語が必要になっ
てくるフランス語に置き換えることで生じる問題もある。とくに「おふでさき」にお
いて、動作主がはっきりと明記されていないテキストの訳は、本文にはない情報を加
えることになってしまう。
ぢきもつをたれにあたへる事ならば
このよはじめたをやにわたする
(9号 61)
注釈によれば「このよはじめたをやとは、この世をお創めになった親神様の理を受
けておられる教祖様を指して仰せられたもの」と説明されている。またこの歌に続き
として
天よりにあたへをもらうそのをやの
心をたれかしりたものなし
(9号 62)
とあり、注釈では「をやの心は、教祖様のお心で、教祖様のお心は、即ち、月日親神
様のお心そのものである事を、仰せになっている。」と説明されている。主語が明確
に書かれていないので、この歌から教祖と月日親神の心は一緒であるという説明には
それほど違和感はない。しかし、最初の歌のフランス語訳は、
A qui accorderai-je donc l'Aliment céleste?
Je le transmettrai au Parent qui a créé ce monde.
となっておいて、これを日本語に直訳するなら「私は(je)誰に(A qui)じきもつを
(l’Aliment céleste)授けるであろうか(accorderai)。私は(Je)それを(le)この世
を創造した親に(au Parent qui a créé ce monde)譲り渡すだろう(transmettrai)。」となる。
(15)
そこには二つの異なる人称が存在し、別々のものという印象を与えかねない。同じよ
うな歌は、
─ 15 ─
しかときけくちハ月日がみなかりて
心ハ月日みなかしている (12 号 68)
Ecoutez bien! Moi, Tsukihi, je lui emprunte sa bouche
et je lui prête mon cœur.
であり、
「私のことをしっかり聞きなさい(Ecoutez bien! Moi,)月日である私が(Tsukihi,
je)彼女から(lui)彼女の口を(sa bouche)借りている(emprunte)。そして(et)私は(je)
彼女に(lui)私の心を(mon cœur)貸している(prête)」となっていて、月日という
動作主の第一人称と彼女(中山みき)という第三人称の目的格や所有格を表す単語が
存在することによって、別個のものと受け取りやすい。
5.伝道に必要なことば:救済観に則した言語選択の方向性
「翻訳を最終的に読むのはどのような人たちか、何のために翻訳が使われるのか」
という翻訳の問題とは別に、伝道におけることばの問題には、どの言語を選択するの
か、優先するのかといった言語選択も重要な視点である。それは、布教伝道の対象を
どのように考えるのかによって異なってくることであり、言い換えるなら救済の対象
は誰なのかということでもある。
天理教の海外伝道において、どの言語を選択するかという問題は、天理外国語学校
設立の際に選択された言語に如実に表れている。それは、中国語、朝鮮語、ロシア語、
馬来語の4言語であった。設立当時、他の教育機関では英語やフランス語、ドイツ語
といった西洋列強国の言語が主流であったが、創設者はそれらの言語は敢えて選択し
なかった理由として以下のように述べている。
海外布教という事柄においておりまする関係上、大和のぢばに投じられた一つの
石が波紋として広がっていく、その広がっていく順序をたどろうというのが、語
学校を設立当時の採用した言語の種類であったのであります。イギリス語は、な
るほど我々が日常に使っている。しかし読んで字のごとく、言葉はいわゆる欧州
の北の方にある島国である。それへ行くのには、途中にいろいろな言葉を通らな
ければ達することができない。そういうような理想からいたしまして、当時の世
間からの要求のいかんにかかわらず、いわゆる遠心的に、芯からだんだんと遠ざ
かって行くような方法において考えられる周辺の国をやって行ったんです。
(昭和 34 年4月 23 日「天理大学創立三十周年記念式における講話」より)
創設の理念のように伝道に呼応する言語選択を考慮するなら、天理教の伝道のあり
─ 16 ─
森洋明 伝道におけることばの問題
方自体を考える必要があるのではないだろうか。
天理教の伝道対象としては「一に百姓たすけたい」とも言われているように、常に
(16)
弱者に寄り添う救済観であり、それが「谷底せり上げ」の表現に象徴されている。そ
のような救済観を持つ天理教とその伝道を担う人材育成機関である天理外国語学校
だったからこそ、西欧列国の言語を選択せず、当時としては日本の植民地下に置かれ
ていた中国や韓国語の選択となったのだといえるだろう。
しかし、昨今の天理教は東南アジアやインド、ネパール、あるいはアフリカなどい
わゆる発展途上国にまで広がっている。そしてそうした国や地域の言語環境は、日本
のように一国に一つの言語というのではなく、複数の言語が使用される多言語社会で
ある。たとえば、インドではヒンディー語や英語といった公的共通語以外に 22 の指定
言語がある。ケニアでは英語とスワヒリ語が公用語と規定されているが、またエンブ
語やキクユ語、マサイ語など地域や部族によってそれぞれに言語があり、それらの多く
はその人々の母語となっている。コンゴでもフランス語は公用語であるが、リンガラ語
とムヌクトゥバ語が国の国語として憲法で定められており、さらにラリ語など憲法には
規定されていないものの、首都を中心に話されている言語や部族語などが存在する。
こうした多言語使用の問題は、母語や地域の共通語と公用語との間に言語的な格差
が存在することである。そしてこの言語格差は、公用語の運用能力が問題となる。多
くのアフリカでは公用語である英語やフランス語の運用能力がなければ、正職に就く
ことはほぼ不可能に近いだろう。そうした人たちは社会の底辺に置かれ、教育機会も
十分に得られず、したがって貧困のスパイラルから抜け出せない状態が続く。いわゆ
る「谷底」の人たちといえるかもしれない。そして天理教では、その「谷底」こそ救
済すべき対象だと教えられる。
したがって、いわゆるメジャーな言語である英語やフランス語といった言語だけで
なく、国際社会では決して見向きもされないような少数の言語に対しての取り組みが
問われてくるのではないだろうか。少なくとも、外国語学校を設立した当時の理念は
そうしたことが反映されていたのである。
グローバル化が進むにつれて、国際社会における英語の優位性も加速している。日
本での英語公用語化が議論されたり、あるいは小学校からの英語教育の導入はそうし
た国際情勢が反映されていることは言うまでもないだろう。就職の際の英語力が問わ
(17)
れ、また企業によっては英語を社内の公用語とするところもでてきている。グローバ
ル化がますます進んでいくなかで、この流れはさらに加速することになるだろう。
インドやアフリカ、東南アジアなどは、かつて 60 年代までは植民地統治されてい
た国でもある。その植民地統治と言語とは密接に関係しており、そうした地域におけ
る現在の言語使用環境は植民地統治の影響が残っている。植民地統治下で、英語やフ
─ 17 ─
ランス語を学ばせ、言語面で優位に立つ言語帝国主義は、現在もこのような地域で生
き続けているのである。だからと言って、旧宗主国の言語を捨てることは、政治や経
済面において打撃となり、国際的な舞台から遠のく危険性もある。しかも現地の統治
者にとっても植民地体制を維持することは自分たちの有利性を確保できる手段でもあ
るので、言語帝国主義的な体制が崩れる可能生は大変低いだろう。
そうしたなかでの伝道で、公用語である英語やフランス語だけの伝道では伝道にお
ける言語帝国主義の再現となるかもしれない。最も底辺にいる人たちを救い上げるこ
とを考えるなら、国際社会では光の当たることのないような彼らの言語をも、考慮し
ていく必要があるのではないだろうか。
実際、フランス語訳の『おふでさき』や『稿本天理教教祖伝』は、フランス人の一
般レベルの運用能力がないコンゴの人たちにとっては「難しい書物」となってしま
う。【事例8】のように、フランス語の運用能力が十分でないコンゴ人信者にとって、
フランス語に翻訳されている教義書は難解なものとなっている。それでは、誰にでも
分かるようにとの配慮から、敢えて平易な表現で、身近な比喩を使って教えをとかれ
(18)
た教祖のひながたと相反することになりかねない。「ひらかな宗教」を翻訳するなか
でもいかに分かりやすさを維持するのかは、どの言語を優先するのかということと関
わっている。
天理教では 1983 年(昭和 58)から海外布教伝道部内に少数言語翻訳チームが設置
され、世界的には少数の言語に積極的に取り組んできた歴史があるが、そうした姿勢
にこそ天理教の伝道観が現れていると言えるだろう。実際この少数言語翻訳チームが
取り組んできた言語には、ギリシャ語やノルウェー語、スロバキア語、スワヒリ語、
ラリ語、ムヌクトゥバ語などがある。訳者の問題や訳語の選択などの基準が明確では
なかったこともあり、さまざまな問題もあることは事実である。それでも、そうした
マイナー言語、話者数の少ない言語をも視野に入れてきた歴史は天理教の伝道姿勢の
表れであったとも言える。
むすび
コンゴ人の信者のなかには、「おふでさき」の文言をそのまま暗記している人も少
なくない。心の糧、信仰生活の指針となる教祖のことばを暗記することは日本人でも
珍しくないだろう。しかし、その際にはコンゴ人ならフランス語に訳されたテキスト
となる。つまり、一般の信者が信仰生活のなかで触れた用語や教祖のメッセージは、
確かに起点言語、つまり日本語で書かれたオリジナルのテキストがあるとは知ってい
ても、実際はフランス語訳されたテキストでしか触れることはできない。そういう人
たちにとっては、その翻訳されたテキスト自体がすでに「原文」となっていく。
─ 18 ─
森洋明 伝道におけることばの問題
そうした点を考慮するなら、翻訳は常に仮の訳であり、良い訳があれば変わる可能
性があるとしても、一度訳した原文が大幅に変更されるようなことがあっては、混乱
を来すことにもなりかねない。
世界たすけを目指す天理教は伝道宗教である。伝道は今まで知らなかった人たちに
教えを伝えることであり、その新たな情報によってそれまでの生き方、考え方、価値
観、人生観が変わることもありえるのである。その情報をより多くの人に伝える、救
済を必要としている人たちに伝達するのが神意であるなら、テキストの翻訳は決して
欠かせないことでもある。
「原文を読めないと本当の神意は分からない」と言われることがある。確かに「お
ふでさき」や「みかぐらうた」に込められた神の思いは、日本語ということばを介し
て伝えられた以上、それは事実なのかもしれない。しかし、視点を変えて言うなら、
神の壮大な救済の教えが「日本語」あるいは当時の「大和ことば」に言語化されたと
もとらえることができるのではないだろうか。それならば、そのことば一つひとつを
緻密に置き換える作業を通じて、日本語を母語とする者が理解するように、他言語の
人たちが翻訳されたことばで理解できるようにするという努力が問われているのでは
ないだろうか。「日本語が分からないと神の深意は分からない」とするなら、「世界一
れつをたすけるために天降った」人類普遍の教えとは言い難いと私は思う。
本論では、コンゴ伝道の上での事例を基に言語学的視点から話を展開してきたが、
それぞれ一つひとつの項目自体、さらに深く掘り下げて考えていく必要もあるだろう。
また、伝道地が違えばここでは言及しなかった事例も出てくることも大いに考えられ
る。そして、ことばの意味や価値は同じ言語であっても地域や時代によって異なって
くる。したがって、一つの事例が他地域に当てはまるとは決して限らない。海外での
伝道を考えるときには、その地域や時代に応じた柔軟な姿勢が求められる。教えが世
界中に広がっていくにつれて、さらなる伝道の多様性が求められる。そしてそれは「世
界たすけ」の多様性が求められていることでもある。
註
(1)東馬場郁生『きりしたん史再考』12 頁、グローカル新書、2006 年
(2)橋本武『ロンドンの空』船場大教会、1975 年
(3)『よくわかる翻訳通訳学』40 頁
(4)「最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ
帰り、神として拝をさせようと約束」『天理教教典』26 頁
(5)同上書、33 頁
(6)同上書、6頁
─ 19 ─
(7)他の例として:いんねん(「innen」
「Causalité」
「cause」
「prédestination」)や「たんのう」
(「tannô」)
がある。
(8)東馬場、前掲書、16 頁
(9)辻井正和「『理』の用法と多様性」『おさしづ用語の新研究』、おやさと研究所、2010 年
(10)鈴木孝夫『日本語と外国語』48 頁
(11)フランス語の「église」には、教会という意味だけでなく「宗教」という意味も含まれている。
(12)「おやさま」のフランス語訳は「Notre mère bien aimée」(信愛される私たちの母)となっ
ている。
(13)一般に「サピア=ウォーフの仮説」の名で知られている言語相対論。言語が持つ固有の
構造が人の世界観に影響を与えるという仮説。
(14)韓国では韓国語に訳されたテキストでおつとめがなされている。
(15)ちなみに英語訳は「On whom do you think the Food of Heaven is to be bestowed? It is to be
bestowed on the Parent who began this world.」となっている。
(16)「布教の範囲が教祖の在世当時から「谷底せりあげ」とか 「一に百姓たすけたい」などの
ことばにあるように、 社会の底辺にあって困っている人や苦しんでいる人 がまず対象とさ
れていたところから、社会階層的に も地域的にも、このように拡大することを言われた も
のである。 」(「高山布教」『改訂天理教事典』)
(17)ブリヂストンや日産、ファーストリテイリング、楽天などが、英語の社内公用語化を導
入している。
(18)「『おふでさき』が平仮名でしるされ、難解な教語を避けて平易な日常語で親神の真理を
説き明かされたことに著者が着目して名づけたもの」(『ひらがな宗教』松井忠義、柏樹社、
1991 年:「復刊にあたって」より)
参考文献
石井敏・久米秋元・遠山淳編『異文化コミュニケーションの理論 新しいパラダイムを求めて』
有斐閣ブックス、2001 年
おやさと研究所『改訂天理教事典』
宍戸通庸・平賀正子・西川盛雄・菅原勉『表現と理解 ことば学』ミネルヴァ書房、1996 年
鈴木孝夫『日本語と外国語』岩波新書、1995 年
田中春美・田中幸子編『社会言語学への招待』ミネルヴァ書房、2000 年
鳥飼玖美子編『よくわかる翻訳通訳学』ミネルヴァ書房、2013 年
三浦信孝編『多言語主義とは何か』藤原書店、1997 年
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森洋明 伝道におけることばの問題
The Challenge of Language in Missionary Work:
Toward the Establishment of Tenrikyo Intercultural Missiology
MORI Yomei
Communicating information to different cultures invariably entails the presence of language
barrier that must be overcome. Aside from linguistic imperialism under colonial rule, it usually
requires translation into languages used in target regions. Tenrikyo's second Shinbashira
founded Tenri Foreign Language School as a training institute for overseas mission in order
to spread the teachings abroad. The graduates of the school acquired the command of the
language spoken in their destinations as a tool and actively engaged in missionary work.
Word-for-word substitution, however, gives rise to various problems for missionary work in
different linguistic areas. This essay studies these problems from the perspectives of linguistics
and intercultural communication. When the teachings revealed in one language, namely
Japanese, are translated into another language, it is necessary to examine whether the chosen
rendition contains the same linguistic and cultural "value" as the original text. Linguistically
equivalent messages may be differently interpreted due to social and cultural differences.
Issues related to language in overseas mission will be discussed with various examples from
the present author's involvement with French translation and missionary work in the Congo.
Key words: Tenrikyo, overseas mission, translation, intercultural communication,
sociolinguistics, semantics
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