2003年(第14回)福岡アジア文化賞 市民フォーラム

2003年(第14回)福岡アジア文化賞 市民フォーラム
沖縄からアジアへ
「沖縄学の深さと広さ、そして沖縄の未来へ」
外間 守善
【日
【会
時】
場】
2003年9月20日(土) 14:00∼16:00
アクロス福岡イベントホール(福岡市中央区天神)
【プログラム】
趣旨説明・出演者紹介
基調講演
講演
田尻 英三(龍谷大学経済学部教授)
外間 守善(大賞受賞者)
松本 泰丈(千葉大学文学部教授)
又吉 栄喜(作家)※
波照間 永吉(沖縄県立芸術大学付属研究所教授)
※ 又吉栄喜氏は台風の影響により、出席できませんでした。
Ⅰ
基調講演
思えば、昭和25年に國學院大學の卒業論文として金田一京助教授に「琉球方言の動詞研究」を提
出したのが、私が沖縄研究に入る一つのきっかけだった。その時は沖縄研究者になろうとはつゆ思
わなかった。ところが29歳の時、東京大学の服部四郎教授に琉球方言研究を勧められて琉球古語資
料の『おもろさうし』とめぐりあい、それを契機に沖縄研究に目醒めていった。それからの十数年
間は『おもろさうし』に夢中になり、索引を作り、辞典を作り、テキストを作って出版した時には
40代に入っていた。
『おもろさうし』の中には、首里王府の貴族、士族に支えられた宮廷オモロのほかに、地方村落
の庶民による地方のウムイがあることもオモロ研究の視野の広がりの中で知っていった。さらに広
がっては奄美、宮古、八重山のカンフチ(神口)、ニガイフチ(願い口)という神歌群を探訪する十数
年の研究生活に踏み入れさせられることとなった。
南島歌謡の研究は私の学問の2番目の目醒めであった。それからは『おもろさうし』のオモロも
南島歌謡群の一つとして捉えられるようになっていった。
『おもろさうし』は1531年に41首だけが編纂された。私はその41首は国家的な「原おもろさうし」
だと考えている。それから82年経った1613年に46首の地方オモロが編纂された。これが第二巻であ
る。第一巻ができた頃は琉球王国が地理条件を活かし、交易を通じて東アジアと東南アジアの架け
橋になり、国運隆盛の時期であった。ところが、16世紀になって琉球王国の仲継貿易に翳りが見え
始める。第二巻のできた4年前、1609年には、沖縄は島津侵入という未曾有の国難に遭った。その
ような動きの中で1623年に編纂されたのが、第三巻以下二十二巻までである。歴史的動乱の醒めや
らぬ中で第二巻と第三巻以下全二十二巻の編纂事業を行ったわけである。
30代の私の沖縄研究の学問的関心は、言語、文学中心であったが、40代からしだいに歴史、社会
の構造、文明、文化の生成を確かめる方向に広がっていった。
1980年、55歳の時、私は客員教授としてハワイ大学に行く機会に恵まれた。その折、ハワイ大学
東西センターに世界中から集まっていた太平洋文化圏の研究者たちから、沖縄に関する有益な示唆
と刺激を受けた。一つは「アジアの琉球王朝は輝いて見える」ということ、もう一つは「島嶼の歴
史、文化の生成は大陸のそれとは異なる」という考えであった。
「アジアの琉球王朝は輝いて見える」と数人の研究者の口から繰り返し言われるので、私は図書
館に入りびたりでアジアの諸王朝の歴史を調べることにした。東アジアの諸王朝と東南アジアの諸
王朝が、いつ頃、どうして成立し、どうして盛衰したのかということを調べ、それを地図の上にチ
ェックしていく作業から始めた。結果は次の通りである。
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日本
−−1338年
室町幕府の成立
朝鮮
−−1392年
李氏王朝の成立
中国
−−1368年
明王朝の成立
シャム
−−1350年
アユタヤ王朝の成立
マレーシア
−−1405年頃
マラッカ王朝の成立
インドネシア
−−1293年
マジャパイト王朝の成立
琉球
−−1429年
三山対立時代(1314∼1429)を経て琉球王朝成立
14世紀から16世紀にかけてのアジアは、歴史的に激しい動乱をくぐって諸民族が民族的自覚と自
立を作った時代であった。沖縄でもほぼ同じ頃、歴史の胎動が始まり、1429年に初めての統一国家、
琉球王朝をつくったのである。琉球王朝は15世紀から16世紀にかけて、東アジアと東南アジアを交
易で結ぶ重要な役割を果たしていた。小さな琉球王朝は地理的条件の故に、北から、南から、西か
ら入る異民族文化の影響を受け入れながら、琉球の風土に見合う複合文化をつくりあげていった。
そのことがハワイ大学に集まっていた世界の研究者たちの「琉球王朝は輝いて見える」という評価
になり、私を学問的に目醒めさせる大きな刺激になったわけである。それを契機にして私はアジア
の中の琉球王朝を意識するようになり、王朝史の源流の探訪を志した。
私の探訪は沖縄、九州、四国、本州、北海道までの日本国内を隈なく探り、ハワイを足がかりに
してフィジー、ニュージーランド、オーストラリア、インドネシア、タイランド、中国、韓国、台
湾へ、さらに、ギリシャ、エジプト、ヨーロッパ、アメリカに渡ってフィールドワークを広げてい
った。そうしているうちに、アジア、オセアニア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの歴史・文化
の生成の中の特殊性、普遍性が目に映りだした。琉球だけの特殊だと思っていたものがアジアに、
アフリカに、ヨーロッパにつながる普遍である、ということが意外であったし、普遍的な文化が島
嶼に渡って変容し、島社会の特殊になっていくことも自分で確かめることができた。新しい創造の
芽もそこに生まれていた。それらを確かめるために繰り返したフィールドワークは、私にとって沖
縄に、アジアに、世界に目醒める大きな刺激となった。フィールドワークをしながら、世界中に琉
球、沖縄研究をしている研究者が少なくないことを知った私は、研究者たちを一堂に集めて沖縄研
究国際シンポジウムを開き、沖縄研究の諸学問の今までの成果とこれから研究しなければならない
分野を確認し、共有したい、と考えるようになった。私の企画と構想は、各国の研究者、法政大学、
沖縄県、沖縄社会の支援を受けながら、次のような大会となって具体化した。
第1回 −− 1982年(昭和57年)
沖縄文化の源流を考える
・東京大会(法政大学)
・沖縄大会(沖縄県)復帰10周年記念
第2回 −− 1992年(平成4年)
沖縄文化の源流を探る −環太平洋地域の中の沖縄−
・沖縄大会(沖縄県)
・東京大会(朝日新聞社)復帰20周年記念
第3回 −− 1997年(平成9年)
世界につなぐ沖縄研究
・沖縄大会(沖縄県)
・オーストラリア大会(シドニー大学)
国際学会となる
- 2 -
第4回 −− 2001年(平成13年)
世界に拓く沖縄研究
・沖縄大会(沖縄県)
・ヨーロッパ大会(ボン大学)
国際学会
4年に1回となる
大会の学問的収穫は予想以上のものであった。
それらの諸学問の成果は、今改めて実証的な検証と検討をなすべきであるし、事実若手の研究者
たちは次々と新しい成果をあげている。
沖縄研究は20世紀から21世紀にかけて沖縄だけでなく、日本国内に、アジアに、ヨーロッパに、
アメリカに、オーストラリアに大きく広がっていった。人文科学、社会科学、自然科学の学際的な
接近と同時に人間がつくった文明や文化、社会の経済や政治、自然にはぐくまれた生物の原種や亜
種などについて研究対象となるものが南島(奄美、沖縄、宮古、八重山)には数多く見られる。
そのように広がり深められていった沖縄研究は「沖縄学」と呼ばれるようになった。
「沖縄学」と
いう名称を最初に使ったのは、
「沖縄学の父」と言われた伊波普猷先生である。伊波先生が『おもろ
さうし』の研究を始めたのが今からちょうど100年前の明治36年(1903)であった。その時から『おも
ろさうし』の研究、沖縄研究が近代科学の照明を浴びたわけであるから、今年は「沖縄学」100年目
の記念碑的な年にあたる。
『おもろさうし』の研究が諸科学への刺激になって今日的な沖縄学の発展
がアジアにつながり、世界につながっていたことを思えば、明治36年(1903)を沖縄学元年と呼び、
平成15年(2003)を沖縄学100年と呼びたい。
伊波先生の志を継いだ「沖縄学」は新しい学理論と方法論を学び、さらに新たなる創造への踏み
出しをすることだろうと私は信じている。沖縄学100年を記念する2003年が「沖縄学」のルネサンス
(再生)になることを祈りつつ、さらにアジア各国に架橋し、発展につながるであろうことを信じて
いる。
※「Ⅰ 基調講演」は、第14回福岡アジア文化賞大賞受賞者 外間守善氏の基調講演の原稿を掲載しています。
- 3 -
Ⅱ 講演
沖縄は深くて広い。これは物理的な意味ではありません。その深くて広い沖縄からは、日本が見
えます。アジアが見えます。そして世界が見えます。ところが残念ながら、日本からは沖縄が見え
ないのです。
沖縄は日本にとって、いつでも切り離すことのできる地域でした。例えば、昭和21年に日本国憲
法ができて、第9条により日本国民は平和という幸せを受けることができるようになります。とこ
ろが、ものの10年と経たないうちに、講和条約七原則、講和条約、日米安全保障条約、日米地位協
定などが、いかにも予定の行動であったかのように沖縄を呪縛しました。沖縄だけではなく日本が
呪縛されたのです。そして、国際法的に実際に考えることのできない潜在主権があります。潜在主
権というのは法律学的にも極めて曖昧で、だまし飴と同じです。飴をしゃぶらせて、沖縄を基地化
して朝鮮戦争やベトナム戦争が行われましたが、それらは沖縄を守るためではありません。どこを
守るためなのか理由がわからないままです。沖縄は常に日本にとって、そういう存在でしかありま
せんでした。日本から見て、沖縄は見えないのです。しかし、沖縄からは日本が実によく見えます。
沖縄は自然科学、社会科学、人文科学の場で、実に宝の山です。自然科学でいうならば、沖縄の
自然風土の中で、生物、植物、動物などの原種がよく発見されます。しかし、この原種も珍しいけ
れども、沖縄では原種から変化をした亜種がどんどん生まれています。沖縄にある亜種の数の多さ
は、世界でも稀な例です。ダーウィンの進化論を学問的に証明できる場として、沖縄の生態系の中
にある原種と亜種の問題を取り上げることができます。人文科学になると数限りなく出てきます。
まず言語学でいうと、日本語の歴史の中で、ハ行子音が、P音からF音、F音からh音へ変わって
いくのには、一千年以上かかりました。奈良時代以前はP音、平安、鎌倉、室町時代にはF音、そ
して江戸時代になってからh音に変わりました。しかし、現在の沖縄を見てみると、北の方では「鼻」
のことを「パナ」、真ん中の地域では「ファナ」
、南の方では「ハナ」と言います。日本語の歴史で
は1千年以上かかった「P→F→h」という変化のプロセスを、現在の沖縄では同時に見ることが
できます。変化そのものは言語学では簡単な理屈ですが、こういう変化のプロセスが一つの島の中
で同時に見られるということは、言語学の場からは大変稀な珍しい例です。
もう一つの例は、動詞の変化の仕方です。もともと名詞から次第にいろいろな品詞が出てくるの
ですが、動詞の基本語幹だけで十分に用は足りていました。ところが、基本語幹から後になって、
未然形・連用形・終止形・連体形・命令形というパラレルな関係で体系を持った動詞が生まれてき
ます。今の私たちは、これは当たり前だと思っていますが、私は沖縄の『おもろさうし』を見て驚
きました。沖縄の古い言葉には連用形しかないのです。終止形は未熟であり、二つの語例だけしか
ありません。私たち日本人は、動詞は終止形を中心にして、未然形・連用形・連体形・命令形と考
えますが、沖縄の古い言葉は、連用形を中心にして他のものが広がっていきます。私はこれを40歳
のときに発見して論文に書きましたが、当時の日本の国語学界からは問題にされませんでした。こ
れが間もなく問題になったのは、日本の一番優れた日本語学者である大野晋さんが、日本語は連用
形が大切だということを言って、
『万葉集』の中での連用形のことを中心にした論文を書いたときで
した。これは沖縄から見た日本語の一つの例で、他にもたくさん例を挙げることができます。
- 4 -
次に音楽の話をします。沖縄ほど音楽の豊かなところはないと思います。私たちは学校教育で、
バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンなどの系譜から、1オクターブが「ドレミファソ
ラシ」の7音で構成されている音楽と出会います。だから、音階は7音で構成されているものとば
かり思っていました。また、そういうふうに育ちました。しかし、沖縄の音楽は5音階の構造でで
きています。1オクターブのバランスをとるのに、5音階でバランスをとります。このような5音
階構造の音楽というものはアジア全域にあります。例えば、インドネシアのバリ島のガムラン音楽
の中には、1オクターブをほぼ均等に5分割したスレンドロ音階と、1オクターブを不均等に5分
割したペロッグ音階という2種類の5音階構造の音階があります。これを聞いたヨーロッパの人は
非常に驚いたそうです。しかし、優れた音楽家チャイコフスキーはシンフォニーを組み立てるとき
に、7音階のバランスのほかに、初めて5音階を試みました。フランスで演奏しましたが、フラン
ス人が聞いて、
「こんな音楽はない」と言ったそうです。ところが間もなく、5音階の入った音楽に、
美を感じる人間の心が寄せられるようになっていきます。日本の音階も5音階です。日本の音楽は
神楽、催馬楽、長唄、小唄、それから演歌に流れてきます。演歌は日本人の心をくすぐります。音
の美を感じ、ほっとする安らぎを感じます。それが「ドレミソラ」の5音階です。
「ファ」と「シ」
が抜けます。西洋人は「ファ」と「シ」を入れなければ、音階の美を感じません。しかし、日本人
は「ファ」と「シ」が抜けた「ドレミソラ」の5音階のバランスに非常に気持ちが安らぎます。ア
ジア全域にこのような5音階があるのですが、沖縄では5音階にこだわりません。また、沖縄の最
近の音楽家は7音階にもこだわりません。一つの曲の中に、5音階と7音階が混じり合っているの
です。昨日の授賞式で、BEGIN(ビギン)が歌った曲の出だしのところは沖縄的です。学校教育
の音階ではなく、沖縄音階です。優しく入ってきて、いつの間にか7音階になっています。見事な
音のバランスです。
1オクターブの中に音階を入れていくのですが、そのバランスが実に巧みです。
沖縄の人は、本当に国際的な感覚を持っているのではないかと思います。音階にこだわらずに、自
分の音感、皮膚感覚で感じる音、それを美と思ったときにパッと表現します。新しい21世紀の音楽
は、沖縄から生まれる可能性があると思います。
文学の話をします。世界の文学は三大ジャンルと言います。劇文学と叙事文学と抒情文学です。
これは主にヨーロッパの文学のことを言いますが、ヨーロッパには祈りの文学はありません。しか
し、沖縄には祈りの文学があります。大昔の文学ですが文学の原型になるのは、この祈りなのです。
日本文学にもかつてありましたが、なくなってしまいました。ヨーロッパでもなくなってしまいま
した。今、祈りの文学があるのは、アフリカ、パプアニューギニア、沖縄です。奄美、沖縄、宮古、
八重山です。折口信夫さんは「文学の原型は祈りの文学にある。これは文学の原型だ」と言いまし
た。これは理論的仮説として言ったのですが、私はこれを学問的に証明しようと努めました。まさ
に沖縄には祈りの文学があります。世界でも呪祷(祈り)、叙事(ことがら)、抒情(こころ)の3つの
ジャンルを持っているのは非常に珍しい例なのです。作家の又吉栄喜さんが『豚の報い』という小
説を書きました。『豚の報い』は、まさに祈りの文学を深層に敷いて、それが現代に蘇ってきます。
これは大城立裕さんの文学にもしばしば表れます。沖縄の人には、大昔の文学の原型が心の中深く
に流れているから、現代に蘇らせることができるのです。沖縄の文学は、かつての文学が持ってい
た呪祷も、叙事も、抒情も持っています。竹富島という小さな島には、劇も、呪祷も、叙事も、抒
情もあります。世界でも稀な例です。
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このように沖縄にある一つ一つは、もともと日本民族が持っていたものです。九州の福岡を原点
にして生まれました日本文化です。しかしその後、弥生文化が日本文化を覆いました。弥生文化の
特徴である稲作、土器、鉄文化などもまた、この福岡から生まれて、南の沖縄や北の関東へ流れて
いったものです。しかし、非常に古い時代のものは、現在もそのまま沖縄に残っています。また島
社会の新しいものも生まれます。沖縄学というものを学ぶ理由は、
私はそこにあると考えています。
私が沖縄学に入っていったきっかけは、正直に言って「でもしか先生」でした。
「沖縄でもやろう
か、沖縄しかできない」研究者になってしまいました。しかし、沖縄学をやって悔いはありません。
今、胸を張り、誇りを持って沖縄学に取り組んでいます。そもそものきっかけは、私が22歳のとき
の金田一京助先生との出会いでした。金田一先生は、
「沖縄の方言を研究するためには、
『おもろさ
うし』という沖縄の古典がある。外間君、沖縄の方言研究をやってほしい」と私に言いました。私
はそのときは、沖縄研究をやろうとは思っていませんでした。島崎藤村の研究をしたいと思ってい
ましたが、琉球方言の研究に行かされました。
『おもろさうし』の研究です。そして本格的に『おも
ろさうし』の研究を始めたのは、29歳になったときでした。29歳までは、私はスポーツマンでした。
それが29歳になって突然、金田一先生に呼び出されて、
「君は勉強しろ」と言われ、本格的な沖縄学
へ入らせられました。そして、東京大学の服部四郎先生のもとに行き、言語学と『おもろさうし』
を本格的に勉強しました。
同じ本郷の一角で、沖縄学が歩み始めたのは、伊波普猷先生が『おもろさうし』の研究を始めた
明治36年です。これを沖縄学の出発とするならば、沖縄学元年は明治36年(1903年)です。今年、平
成15年(2003年)は、それからちょうど100年目になります。そして、非常に偶然のようですが、私が
『おもろさうし』の研究に入ってから、今年でちょうど50年です。伊波先生の歴史が100年、私の歴
史が50年です。
私は沖縄学を一生懸命アジアに拓きました。世界に拓きました。そして、それを認めてくれたの
が福岡市です。福岡からはアジアが見えるのです。そして福岡市は、私にではなく、沖縄に福岡ア
ジア文化賞をくれたのだと思います。福岡市に本当に感謝し、心を込めてお礼を申し上げたいと思
います。
※「Ⅱ 講演」は、市民フォーラムでの外間守善氏の講演内容をまとめたものです。
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