第9号 熊本電波高専図書館だより 1997. 12. 1 第 9 号 1997年12月1日 熊本電波工業高等専門学校 図 書 館 〒861−11 熊本県菊池郡西合志町須屋2659−2 TEL 096−242−2121 〈目 次〉 私の随想・読書雑感 ・21 世紀を生きぬく力............................................... 校長 ・電子図書館について思うこと....................... 図書館長 ・シロ....................................................... 情報通信工学科 ・過ぎ去る時間と郷愁................................... 情報工学科 上 野 文 男 ……………… ( 2 ) 田 辺 正 実 ……………… ( 3 ) 古 賀 広 昭 ……………… ( 3 ) 村 上 純 ……………… ( 5 ) Essay ・私と図書館............................................ ・自分の責任を果たそう........................ 米 山 理恵子 ……………… (10) 小 川 美代子 ……………… (12) 電子工学科 5 年 情報工学科 3 年 第 19 回校内読書感想文コンクール選考結果及び作品紹介 ......................................................... (13) 図書館からのお知らせ ・新着図書・AV ソフト案内................................................................................................................. (29) ・平成 9 年度図書館委員・学生図書委員紹介.................................................................................... (32) ・図書館利用状況報告............................................................................................................................ (34) −1− 熊本電波高専図書館だより 第9号 5 厚いつもりで薄い人情 6 薄いつもりで厚い面皮 7 強いつもりで弱い根性 8 弱いつもりで強い自我 9 多いつもりで少い分別 10 少いつもりで多い無駄 21 世紀を 生きぬく力 校長 上 野 文 男 1997. 12. 1 なかなか面白い、身につまされる 10 ケ条である。 5 年生諸君の就職・大学 3 年次進学等の進路も決ま いかに社会が変化しようとも、自分で課題を見つ り、ほっとしていることでしょう。世の中に出ると け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、 色々な問題に直面して解決を迫られることもあるで 自らを律しつつ他人と共に協調し、他人を思いやる しょう。思いやりのある、心やさしい若者としての 心など、豊かな人間性が必要である。こうした資質 特質を忘れないでもらいたい。 や能力を 生きる力 と称する。# 15 中央教育審議 会レポートの要点を述べると、このようになる。 レオナルド・ディカプリオにあこがれる学生も、 ギルバード・グレープにでてくる心身にハンディ 15 才から 20 才の若者にとって、技術革新、産業 キャップのある人レオナルド役・アーニーへの思い 構造の改革へ世界の生産拠点、1 品種大量生産方式 やりも忘れないでもらいたい。フォーレスト・ガン からの脱却〜環境問題、少子化高齢化問題等を引き プに出てくる Life is Like a box of Choco-late,... つぐ 21 世紀を生きぬくために、自らの力をたより 人生とは箱には入ったチョコレートのようなものだ、 に生きぬく手立てを身につけなければならない。自 口にふくんで味わってみないと、本当の味は分から らの置かれた背景をしっかりと見すえることが大切 ない〜技術者にとっても、大切な教訓が含まれてい である。 Think Globally Act Locally ると思われる。21 世紀はビッグバンを始め大競争時 え、足下から行動する 地球規模で考 こと。 〜 代へ移行し、能力主義、実力主義の社会へとシフト 一人ひとりが宇宙船地球号の乗組員の一員である するでしょう。あるいは就職した企業が競争に破れ という視野を持ち、いかに身近かなところから、具 倒産することもあるかもしれない。このような時こ 体的な行動を進めるかが、極めて重要な課題である。 そ自らは決して潰れない とする中教審の見解は環境に限らず、技術の開発に につけるよう心がけてほしいものである。 も適用できる。教育する側の立場からも、生きる力 をいかに身につけさせるかが問われることになる。 やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめて やらねば、人は動かじ、とは山本五十六の指導理念 である。教育の立場にいる者にとって参考になる。 教育する側、される側両者の息が合わないと成果は 上らない。 ある青年の家にあった つもり 10 ケ条 1 高いつもりで低い教養 2 低いつもりで高い気位 3 深いつもりで浅い知識 4 浅いつもりで深い欲望 を見ると −2− 生きる力 を日頃から身 熊本電波高専図書館だより 第9号 電子図書館に ついて思うこと シロ 情報通信工学科 図書館長 田 辺 1997. 12. 1 正 実 古 賀 広 昭 図書館関係の会議の最近の話題の中心は「電子図 シロは野良犬の名である。昔、スピッツという犬 書館」であるようだ。この言葉はいつごろから聞く 種をよく見かけたが、シロはその犬に良く似た毛の ようになったのか思い出してみた。もう十数年前に 長い白い犬だったので、誰ともなくシロと呼ぶよう なるが高専の研究集会で長岡技科大の先生の講演で、 になった。 情報処理センターは今後図書館と手を結ばなければ その犬が姿を見せたのは、今年の七月初め毎日の ならない、趣旨の講演を聞いたのが初めてだと思う。 ように大雨が降り続いた時である。長い白い毛が雨 文献検索データベースの話だったと思うが記憶は定 に打たれ、土に薄汚れている姿は哀れだった。近所 かでない。次は、5 年ほど前の情報処理教育研究会 の駐車場に雨宿りしていたが、家主がその犬を見つ の講演で、京都大学の長尾先生が「電子図書館」と けるたびに追い出されていた。そして、豪雨の中を いう題で講演をされた。その時は便利になる話だが どこかにさまよって、夜になるとまたその駐車場に データを入力するのが大変なことのように感じた。 戻って寝ているようだった。 最近では、昨年テレビのコマーシャルで老人が、イ 私はその犬を見かけるたびにかわいそうに思い、 ンターネット上の電子図書館を利用して学位を取得 あるとき家に大量に余っているドッグフードをその した話がコマーシャルで流された。電子図書館とい 犬に与えようと思った。餌を皿に入れ犬を呼んだが、 うイメージが身近なものになってきたのは私だけで シロは遠くから眺めるだけであった。ドッグフード ないと思う。 はわが家の犬シュウが贅沢になり、見向きもしなく この 4 月図書館長を仰せ付かったときのキーワー なって余っていたものである。それでも次の日の朝、 ドが電子図書館であった。その時に思い浮かんだの その皿のエサはすっかり無くなっていたので、夜の が前期の三つのことである。現在の大学の付属図書 間に食べたのに違いなかった。 館は、文献検索、図書のデータベース化等、豊富な 一週間経っても駐車場に寝泊りしている犬に耐え 予算とマンパワーで急激に電子図書館化が進んでい かねて、家主は入れないように駐車場のシャッター る。WWW を利用した形でのパソコンからの直接の を厳重に降ろした。そのこともあって、いつの間に 検索も現実のものになってきている。このような状 かシロはわが家の軒下に泊まるようになった。たま 況の中で、熊本電波高専の電子図書館はどうあるべ に私と目があっても、私が追ったりしないためか次 きかを進めるのは少し任が重すぎるが、皆さんの御 第に私のそばに来るようになった。餌を与えると、 意見、御協力を頂いて進めていきたいと思っている。 うれしそうな目を私に見せて食べた。それは古く その手始めとして図書館のホームページを立ち上げ、 なって味が悪くなっていたに違いないが、それでも こ の「く ぬ ぎ の 森」の PDF(Portable Document 一心に食べていた。 Format)化に取り組むつもりである。 私が三、四歳の頃だから、昭和二十四、五年であ る。私は筋向かいの料亭の女主人にとても可愛がら れていて、毎日のようにその家に出入りしていた。 ある日、乞食が玄関に物乞いに来ると、女主人は強 い声で「そこは駄目!裏にまわりなさい」と言った。 料理人や女中さんが出入りする裏口に乞食は立った。 主人は空箱にご飯をたくさん詰め、そばにタクアン −3− 第9号 熊本電波高専図書館だより 1997. 12. 1 などの漬物を入れて乞食に渡しながら、 「玄関はお客 所で馬鹿にしたように見た。どんなに近づいても追 さんが入る所だから、絶対にあそこに来ては駄目よ。 い付けないことを知っていた。そんな様子に私はと 来るならここにしなさい」と厳しく言った。その瞬 きどき怒った。特に、よその人に吠えたり、鎖につ 間の乞食の目を見るとうれしそうな優しい目つきに ながれた飼犬がある距離までしか近づけないことを なり、黙ったまま頭をペコペコと下げ、弁当を受け 知っていて、すぐそばでからかうように吠えるとき 取った様子を私ははっきりと覚えている。 に、私は憎々しく思うようになった。 シロの様子があのときの乞食を思い出させ、私自 二か月が経った。シロは自由自在に近所を出入り 身も良いことをしたようなうれしい気持ちになった。 していた。私の心はシロを憎むようになっていた。 シロは痩せて弱々しかったが、定期的に餌を貰い、 それと共に、これまで自分がしてきたことに対する 逃げ回る必要が無くなったためか、元気になって 心の葛藤があった。野良犬に餌を与え、安らぐ場所 いった。その頃ようやく長く続いた雨もやみ、晴れ を与えるとこうなることは初めから予想できたこと 間が現われるようになった。それからシロは道路に である。餌を与えず追い払っていれば、どこかの場 ながながと寝たり、近所の庭先を眺めたりしていた。 所に移っていっただろう。しかし、私の目の前から 近所の人達も犬好きだったせいか、「シロちゃん」 いなくなればいいということが、何故だかいやだっ と呼んで餌を与えたり、頭をなでたりするのが見ら た。昔から、私はそうやって目の前にあるいやなこ れるようになった。シロは次第にわが家一帯の家々 とを避けていたように思ったからである。その場し をまわり、あちこちで「シロちゃん」と呼ばれ、そ のぎでも、束の間の快楽でもいい。永遠に逃げ惑い、 して、暑い日中や夜には私の庭先の日陰に入って寝 腹をすかせた一生を終えることに対して私は見過ご ていた。私が庭に降りると、尻尾を振って足をなめ せなかった。 た。私は特に頭をなでたり、声をかけることもな 私は次第に、シロを遠くに連れて行こうと思うよ かったが、近所の人達がシロに優しくしていても、 うになった。それは結局目の前から排除するだけで 私を見るとすぐにそばに寄ってきた。 あったが、それしか私には考えられなかった。しか 私がシュウを散歩に連れ出すと、飛んできて一緒 し、妻は決心して動物管理センターに電話した。 についてきた。しかし、散歩コースには犬連れのた 子供の頃、野蛮で情愛のかけらもない目つきの悪 くさん人達がいて、野良犬がそこに入るのは迷惑で い連中が車でやってきて、野犬を取り囲み、針金の あったので、私は強く叱って、ついてくることを禁 輪にすばやく引っかけて捕えていたことを覚えてい じた。シロはある所までくると、その忠告にした る。暴れる犬を棍棒でなぐり、犬が悲鳴をあげてい がって戻っていった。 た。私たちは「犬殺し」といって嫌った人達の仕事 シロは元気になるにつれて、次第にわがままに なっていった。与えるドッグフードもあまり食べな が、今の動物管理センターである。でも電話にでた 動物管理センターの人は大変親切であった。 くなり、回収するゴミ袋を食い破ってもっとうまい 「遠くに捨ててもまた同じことになります。子犬 ものを得るようになった。シュウの散歩コースを乱 の頃に躾がされていない犬はそうなるんです。かわ 暴に走りまわり、私が叱ってもその命令には従わな いそうだけれど、こちらに連れてこられた方がいい くなった。時には足を噛んだり、あちこちの家に でしょう」その優しい親身の言葉に私はシロを動物 入っては被害を与えるようになった。 管理センターに届ける決心ができた。 犬を散歩させている人が通ると、その犬のそばに 最後の日はもう夏が終わる頃であった。私は庭で いって吠えた。近所の人達も少しづつ迷惑そうに感 シロに好物の肉やハムを与えた。シロは体を掴むと じ始めたようである。最初の頃、頭をなでて可愛 手を噛むようになっていたが、それでも私には気持 がっていた人達も、遠ざかるようになった。私には ちを許していたので素早く捕えてカゴに入れてもシ 吠えることは決してなかったが、もはや命令には素 ロは暴れなかった。シロはどこかに連れていってく 知らぬ顔をして従わなかった。私はシロをだんだん れるのだろうと、そのカゴの中で座っていた。妻と 腹立たしく感じてきて、ときには殴ろうとしても、 文絵と私は車で動物管理センターまでシロを運んだ。 私からほんの二、三メートルほど素早く飛び去った 動物管理センターの人は親切に「こちらに運んで −4− 第9号 熊本電波高専図書館だより 1997. 12. 1 下さい」といって、大きなオリの前に案内した。オ リの中は思ったよりずっと清潔であった。そこは数 過ぎ去る時間と 郷愁 ケ所に仕切られていて、二、三匹づつ分けられて十 匹ほどの犬がいた。オリの入口に小さな黒板がか かっていてチョークで日付等が書かれていた。その 情報工学科 日付はオリによって違うようだった。一週間程前の 村 上 純 日付の犬達が今日処分されるのであろう。 私たちが入ると犬が一斉に私たちを見て、うれし そうに吠え、尻尾を振った。どの犬も少しも危険そ 国立西洋美術館長の高階秀爾氏の論文「記憶の遺 うでなく、やっと主人が迎えにきたのだろうとばか 産−無形の文化という日本の伝統」 (中央公論 1996 りに喜びを表わした。その一つのオリにシロを入れ 年 10 月号)の一節に、 「西欧においては、時間は直 た。シロは私たちを見て同じようにうれしそうにオ 線的なものであり、したがって次第にもとの地点か リの中を歩いた。どの犬も優しい顔であった。小さ ら遠ざかり、忘却と破壊をもたらすものと考えられ なかごの中に産まれたばかりの二匹の犬が寝ていた。 ていた」とある。論文自体は、伊勢神宮がユネスコ 動物管理センターの人はつぶやくよう「ここにきた の世界遺産に登録されるかどうかという問題を取り 犬が先日産んだんですよ」と言った。産まれたばか 上げ、日本人には時間は循環するものという考え方 りで、もう死がそこにあった。 があり、物質は滅びやすいものであるという前提に 「人間が悪いんです。犬は何も罪が無い。犬を捨 立った上で、型や儀礼を継承し、反復することに てた人がいけないのです。でも躾をされていない大 よって記憶の継承を確保するやり方を生み出したこ 人の犬はもう人の命令を聞きません。シロは二月の とを述べたものである。しかし、伊勢神宮が世界遺 間おいしいものを食べ、安心して遊んだだけで幸せ 産にはならないように、時間は直線的であるという でしょう」その言葉が私を救った。 考え方が今は一般的な認識であろう。 ドアが閉められた。ほっとした安堵感を抱いた一 この直線的時間という概念から連想される小説で、 方で、ぽっかりと穴が開いたような気持ちになった。 強く感銘を受けた作品がある。クリストフ・バタイ 帰り着いた家の庭には、さっきまでシロが噛んで ユの『安南―愛の王国』 (辻邦生訳、集英社)がそれ いた白いハンカチが残っていた。 である。バタイユは 1973 年にパリ近郊に生まれた 若手の小説家で、1993 年にこの第一作目の小説がベ ストセラーになり、一躍脚光を浴びた。内容は、18 世紀末にルイ 16 世治下のフランスからヴェトナム に派遣された遠征隊の修道士たちの物語で、革命に より祖国から忘れ去られてしまった彼らの末路を美 しく描いたものである。一緒に派遣された兵士たち は、武力でフランスの力を示そうとしたために、農 民たちの反乱により殺されてしまうが、5 人の修道 士と 4 人の修道女は生き残り、次第にヴェトナムに とけ込んでいった。 「修道士たちは、稲作地の近くのこの村での生活 を始めた。村の名は、バ・ジェンといった。ヴェト ナムの人々は、貧しかったが幸福だった。彼らは稲 を栽培していた。カトリーヌ修道女は、色が刻々に 変わってゆく水田を見て飽きることはなかった。朝 には、緑の苗は、陽の昇ったばかりの空を映して赤 みを帯びている。それから、太陽は、この平らな景 −5− 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 色に独特な純粋さを与える。そのあいだも、女たち なわち過去は取り戻すことができない。ある人に は田植えを続けていた。やがて、不安を覚えさせる とって、過去を振り返って、懐かしい人や物あるい ような濃い緑の河を虹色に輝かせながら陽が沈ん は場所の記憶が思い出されるとき、もはやその時点 だ。」 には引き返すことができないという事実は如何とも 村人にも受け入れられ、静かな生活が続いたが、 し難く、再会したい、再現したいという願望は、後 ドミニク修道士はさらに布教を続けるために村を離 ろ髪を引かれるような思いと共に諦めるしかないの れる決心をする。彼とカトリーヌ修道女、ミッシェ である。そのような心持ちは、郷愁あるいは離愁と ル修道士が安南へと向かった数日後、残った修道士 いう言葉で表現できるように思う。 「愁」という文字 たちは、フランスを恨むヴェトナム皇帝グエン・ア 一つを目にしただけでも、時間的に隔たったものに インに居所を知られ、皆殺しにされてしまう。ミッ 対する別離の思いに捕われるような気がする。 シェル修道士も旅の途中病死し、とうとうヴェトナ アメリカで活躍中の女性作家ジャメイカ・キンケ ムに残されたのは二人だけになった。ドミニクとカ イドにとって、郷愁の対象は生まれ育ったカリブ海 トリーヌは、やっとの思いで人里離れた村にたどり の小さな島アンティーガである。エッセイ『小さな 着き、そこでの暮らしが始まった。 場所』 (旦敬介訳、平凡社)の書き出しは次のようで 「数カ月が過ぎ、数年が経った。そして、次第に、 ある。 その祈りは習慣的なものとなっていった。孤独と無 「観光客としてアンティーガを訪れたあなたは、 力感にさいなまれ、生活は質素で、過酷であったか こんなことを目にすることになる。飛行機で来たあ らである。」 なたは、V・C・バード国際空港に着く。ヴィア・ 「とはいえ、ふたりとも、簡素で自由な生活に喜 コーンウォル (V・C) ・バードというのはアンティー びを感じていた。ふたりの魂はむき出しになり、本 ガの総理大臣だ。もしかするとあなたは、どうして 質的なものだけが残された。」 空港なんかに総理大臣は自分の名前をつけたのだろ 「六年後、カトリーヌとドミニクは死んだ。ふた う、と考えてしまうタイプの観光客かもしれない− りは十分に生ききった。ヴェトナム人たちは涙を流 どうして学校とか、病院とか、何かすごいモニュメ した。彼らはふたりのことが好きだったからだ。」 ントとか、そういうものに自分の名前を冠したいと 彼らの布教にもかかわらず、ヴェトナム人たちは 思わなかったのだろう、と。」 古くから伝わる神々を信じ続けた。ヴェトナムの大 地はすべてを昔ながらに保ち、人間は風のようにた 彼女の島は西洋化、観光化が進んで、昔の面影は なくなっている。 だそこを通り過ぎていっただけであった。物語の中 「私の知っていたアンティーガ、私の育ったアン で、フランス大司教がルイ 16 世に言った「陛下、人 テ ィ ー ガ は、観 光 客 で あ る あ な た が 今 見 る ア ン 間にとっては時は過ぎゆくものですが、神の王国は ティーガではない。私のアンティーガはもはや存在 永遠なのです」という言葉が思い起こされる。滔々 しない。 」 と流れる大河メコンの流れを想像させるような味わ い深い小説である。 そのもはや存在しないところとは、終章で述べら れるのであるが、次のようなところであった。 バタイユについて付け加えると、1994 年に出版さ 「アンティーガは美しい。アンティーガは美しす れた第 2 作『アブサン−聖なる幻の酒』 (辻邦生、堀 ぎる。時にはその美しさは本物でないように見える。 内ゆかり訳、集英社)も良い作品である。アブサン 時にはその美しさはまるで芝居の舞台装置のように はニガヨモギを原料にした独特の香りのある蒸留酒 見える。本物の日没があんなふうに見えるはずがな で、神経系に損傷を与え、中毒になるので製造禁止 いからだ。本物の海水が一度にあんなにたくさんの になっている。アブサン造りの不思議な男ジョゼに 種類の青色をたたえるはずがないからだ。本物の空 まつわる話が幻想的に描いてあってとても美しい。 はああいう青の色をしているはずがない−それは ◇ ◇ まったく異なった色合いの青であって、海に見られ さて、直線的時間の特性は、時は過ぎ去るという るどの青色とも完全に違っている。」 ことである。したがって、いったん経過した時、す −6− 「そのすべてはあまりにも美しくて、この世にあ 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 る他の本物のものとは違っていて、どれも本物では それは、泥を満載した貨物列車だった。汽車は海底 ないみたいだ。それはつまり、まるで、美しさ−海 から泥を浚って、町の人が〈森〉と呼んでいる場所 の美しさ、空気の、木々の、市場の、人々の、人々 まで運んでいた。 〈森〉は、大きな池の中の島にあっ の出す音の美しさ−が牢獄となっているかのようで、 て、昔の大名屋敷の庭が 100 年以上も放ったままに その中に入っているすべてのもの、すべての人はそ なっているところで、町からはかなりの距離があっ の中に閉じこめられていて、その中に入っていない た。その池や広大な草原が埋め立てられようとして すべてのもの、すべての人はそこから締め出されて いた。 いるかのようなのだ。」 埋め立ての仕事は何年も続けられた。 〈私〉は、大 100 ページ余りの本であるが、著者の故郷を懐か きくなるにつれてあまり〈森〉へは行かなくなった。 しむ気持ちと、西洋化を憎悪する気持ちが大胆に、 たまに一人で出かけることがあったが、そのころは ストレートに表現されており、とても印象に残った。 もう池はかなりの部分が埋め立てられてしまってい なお、彼女の短編集『川底に』 (管啓次郎訳、平凡社) た。しかし〈森〉はまだ昔の形を留めていた。その が同じシリーズで出ている。 ころ〈私〉は、 〈森〉で幾つか不思議な経験をしてい ◇ ◇ る。枝や木の葉の茂った中に、女の顔を見たような 1990 年に短編集『泥汽車』 (白水社)で泉鏡花賞 気がして、よく見ると白い着物を着て髪を長く垂ら を受賞するまで、日影丈吉という小説家のことを私 した女で、優しい顔をしていて、 〈私〉に微笑みかけ は知らなかった。略歴をみると、1908 年生まれで、 た。女は巻紙と筆を〈私〉に差し出し、 〈私〉はそれ 1991 年に亡くなっている。一般には推理小説の作 を受け取った。そして、ふと見ると女はもういなく 家として知られていたが、幻想的な短編の名手で、 なっていたが、 〈私〉にはそれがムーサイの一人だっ フランス料理の専門家でもあったらしい。没後 3 年 たに違いないと思えた。 経って、彼の短編小説を集めた選集(河出書房新社) その〈森〉には、ムーサイやむかしの幽霊の子孫 が全 5 巻で刊行された。読んでみると、奇妙な味わ やその他諸々の怪しげなものがこっそりと棲んでい いと、どこかしら昔を思い出すような懐かしさのあ るらしかった。しかし、彼らの安住も脅かされ、江 る作品ばかりであった。 戸時代からずっと続いてきた彼らの土地は消え去ろ 「泥汽車」は著者の分身とおぼしき人物の少年の うとしていた。ほかに行くところがなければ、彼ら 頃の話である。東京の端の方に住んでいる〈私〉の は自然に消滅するしかない。そう考えて、 〈森〉のこ 通う小学校は、町の隅にある木造の校舎であったが、 とが頭を去らなくなった〈私〉は、ある月の明るい 町の建物では一番大きかった。その当時の付近の様 晩にまた〈森〉へ出かけた。島に上がると、渦を巻 子が次のように描写されている。 いて燃える火のようなものが見え、それがだんだん 「学校のむこう側には、人の住まぬ空間がどこま でも、ひろがっていて、原っぱと養魚池と薮だたみ のほかには、何もなく、従って家はほとんどない。 そういうところを、しばらく歩いて行くと村があっ て、むかしから名を知られた神社が二つもあった。 原っぱは村のうしろを通って行くのだが、そこはも う東京の市域の外だった。」 〈私〉たちは、海まで続く草原を遊び場にしてい たが、ある日のこと、その草原が泥だらけになって いて、しかも線路が敷かれているのを見付けたので ある。誰がいつ敷いたものか、レールはどこからど こまでつづいているのかもまったくわからない。そ のうちに、ごうごういう音が響いてきて、遠くに 真っ黒な蒸気機関車が現れ、徐々に近づいてきた。 −7− 第9号 熊本電波高専図書館だより 1997. 12. 1 と人の形になってきて、十五、六人の女らしき形と るが、実際はただ変ることなのだ。ただ変ることだ なった。 〈私〉はスダマだと思った。彼女らは踊って けが存在するのだ。」 いたが、ちっとも楽しそうではない。森が次第に毀 「あたりまえのことのように、日日すこしづつ変 されて行き、やがて泥の下に埋められてしまう。彼 わって行って、相当の時間がたってから、あっと驚 女たちのいるところも、そのうちなくなるという くように世の中が変っているのに、気がつくことに 困った状態を、彼女たちにはどうすることもできな なるのである。」 い。森に残されている僅かな自然にも、もう何の能 変わってしまう以前のことを後から懐かしがって 力もなく、彼女たちの力にはなれない。そういう状 も、もう取り返しはつかない。それこそ後の祭りで 況に迫られて、彼女たちは泣きながら、最後の踊り ある。 を踊っているのに違いなかった。 ◇ ◇ その次の月の明るい晩には、前にはそこになかっ 最後に、人との別離による離愁、懐かしい人への た真新しい誇らしげに甍を張った四脚門と、木造の 郷愁を扱った小説を紹介しよう。人が一生のうちに 立派な家を見た。そこの淡い光がかたまってきて、 遭遇する別れのうちで、後々最も郷愁、離愁の念を 人の形になり、女の面をかぶったそれは、扇をかざ 催すのは両親との今生での別れではないだろうか。 して舞を始めた。 〈私〉は天狗かモノノケかと重い恐 誰にも必ず親がある。幼い頃自分が全幅の信頼を寄 くなって逃げ出したが、振り返るともうそこには何 せていた両親は、子供が大人になれば立場は逆転し、 もなかった。 自分を頼りとする側になる。そして、自分が老齢を 中学生になった〈私〉は、草原に遊びに行くこと 迎えるときにはもう親はいないのである。 もなくなった。そして、いつしか〈森〉は見る影も 『異人たちとの夏』(山田太一著、新潮社)につい なく、木という木はことごとくなくなってしまった。 ては、数年前に映画化されたので覚えている人も多 それから何年も経ったある日のこと、大人になった いと思う。妻子と別れてマンションで独り暮らす主 〈私〉が本屋で立ち読みをしていると、ねんねこ絆 人公のシナリオ・ライターが、ふと気まぐれに、生 纏で子供をおぶった子守の女の子を見かけた。何故 まれ育った浅草に行った。彼の父親はもともと寿司 か〈私〉には、それがなくなった森に住んでいた者 職人で、第二次大戦で兵隊にとられたが、戦後復員 の一人だということがわかった。 して浅草に間借りして、仕事に戻った。しかし、両 親が自転車に乗っているときに、車にはねられて二 「お兄さん、知ってるよ、あんたのこと」 人とも即死してしまった。その後、主人公は祖父や 女の子は私を横目で見て、うすら笑いを浮べて いった。 叔父の元から高校まで通い、大学からはずっと東京 で暮らしている。思い出に関わる場所に行くのはた おれも知っている、という意味で、私も苦笑しな めらわれ、事故以来一度も足を向けていなかったに がら子守を見た。本屋の店のおくにいた小母さんは、 もかかわらず、つい何かに誘われるように浅草に来 その子守にきがつかなかった。 てしまったのである。 「みんな、どうしてるんだい」と、私はきいた。 演劇ホールに入り、落語を聞いていると、落語家 「みんな、どこかで生きてるよ」と、頬の赤い女 の子はこたえた。 に掛声をかけた男の後姿が死んだ父親にそっくりで あった。主人公は、世の中には似た人がいるもんだ と思うが、こちらを振り向いた男は、主人公に向 直線的時間とは、時は過ぎ去るということだと先 かって微笑して、小さくうなずいたのである。男は に書いたが、日影はそれを次のように言っている。 父そのもののようであり、遠慮せずに家に来いと言 「人が時をかけてやることの結果というものは、 結果だけ見ると、不思議にしか思えないことがわか う。家までついて行って、上がってみると、そこに 三十五歳で死んだはずの母がいた。 る。時がたつと、すべてが変わる。物がなくなった それからたびたび、その両親の家に行くように り、あらわれたり、死んだり生まれたりするのでは なった。とうに死んでしまった二人がそのころのま なくて、それは同時に生きる者の感じることではあ まの姿形で現れるというのは、幻覚とはわかってい −8− 第9号 熊本電波高専図書館だより たが、実際に訪ねてみるとどうしてもそうとは思え 1997. 12. 1 「あばよ」 なかった。主人公は悩んだ。 「このままその甘えを断 父は見えなかった。 ち切れば、浅草で生きはじめた三十代の両親は消え 涙も出なかった。打ちのめされていた。 るしかないのではないか?私が訪ねてこその二人で 「さよなら」と小さくいった。 あり、いかに私のいない日々を、働き遊び、営々と して過ごしているかに見えても、実は私と接する時 主人公の父親は交通事故で亡くなった。主人公の 間以外は空白であり、二人とも存在していないので 心の中のどこかに、両親とちゃんとした別れをした はないだろうか?ろう人形のように、動きの途中で かったという思いが沈潜していたのであろう。それ 凝固したままでいる両親を想像した。それに生命を が叶った人は幸せである。 吹き込めるのは、私しかいないのではないか?」 主人公は日に日にやつれ、人目につくほどや痩せ ていったが、 「死んだ両親と逢えた人間があまり欲を 出してはいけない」と思い、そのまま自覚なしに、 ある日死んでも仕方がないという気がした。しかし、 同じマンションに住む、ふとしたきっかけで仲良く なったケイという女性(この女性も、この世の人間 ではないことが後で明らかになる)が、心配して介 抱してくれたおかげで、衰弱は回復した。そして、 死んでもいいという気は薄らいでいった。次の日に、 別れを告げるつもりで、両親のもとを訪ねて、雷門 の近くのすき焼き屋にでも行こうと誘ったが、何故 か両親が乗り気でないので、もう来れないというこ とを打ち明けた。これまでのいきさつを話し、この ままでは衰弱して死んでしまうと言うと、両親も納 得し、すき焼き屋に行くことになった。仲居さんが ビールを持って来て、それを飲みながらしんみりと 話をしていると、両親の輪郭が肩のあたりから次第 に頼りなくなっていった。 こういうことなのか。こういう風に行っちゃうの か。激しい衝撃で、口をあけたまま声が出ない。 「なんにもいうな」とその父がいった。「もうなんに もいうな」 「あんたをね」と母がいった。「自慢に思ってるよ」 (途中略) とどめようもなく父の肩も消え、母の顔も薄く なって行く。見逃すまいとした。父が消えて行く。 「ありがとう。どうも、ありがとう。ありがとうご ざいました」 声はおさえていた。この瞬間を誰かに邪魔された くないという気持ちが、無意識に働いていた。 「さよなら」 ほとんど見えない母がいった。 −9− 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 3 度、図書室に通った。多分、私の小学校生活は、 図書室の存在をなくしては語れないだろう。 私と図書館 私と本にまつわるエピソードには、実に様々なも のがあり、全部語ろうとすればきりがない。それで 1 つだけ印象深いエピソードを挙げてみようと思う。 電子工学科 5 年 米 山 3 年生の頃から、私は料理、特にお菓子作りに興味 理恵子 を持つようになった。当然、料理の本に関心が向く わけだが、いつだったか、図書室から借りた料理の 図書館―ここは私が大好きな場所のうちの 1 つで 本をまる一冊、手書きでノートに写したことがあっ ある。ここにいると、なぜかとても落ち着くのだ。 た。しかも、友達がそれを見て欲しいと言い出した きっとこの静かな雰囲気と、そして何よりも私の本 ので、全く同じものをもう一冊、こしらえてしまっ 好きのせいだろう。たった今も、この文章を学校の たわけである。今考えてみれば、それは無駄なこと 図書館で書いているところだ。他の場所には、用事 だったように思えるのだが、当時はそれを結構楽し がなければ近づくことはないが、ここは違う。何も んでいた。深く心に刻まれた忘れられない思い出だ。 用がないのに、知らず知らずのうちに足が向いてい 恐らく、今の私にはできないと思う。 るのだ。いらだちを感じた時、落ちこんでいる時な さらに時が過ぎ、中学校に通うようになった。中 ども、大抵ここで平静を取り戻す。そこらへんにあ 学生ともなると、本ばかり読んではいられない。読 る本をぱらぱらとめくっていると、少しずづ穏やか む量こそは減ったが、長期間図書室に足を踏み入れ な心になっていくのが分かる。私にとって、図書館 ない、ということはなかった。 は静かに物事を考えることのできる空間なのだ。 私にとって図書室は、本を読んだり、借りたりす もちろん、それだけではない。本好きの私にとっ る場所としてだけではなく、気分を転換したり、 ては、図書館はパラダイス空間である。今までどの 様々なことを深く考えたりする大好きな場所となっ くらいの本を読んだのだろう。多分、はっきりとし ていった。 た答えは出てこないだろう。私の本好きは、今に始 そして最近、私は図書館で貴重な新しい体験をす まったものではないのだから。私と本について語る ることになった。毎週土曜日に図書館で仕事をする とすれば、それは十数年前にさかのぼる。両親は、 ということだ。仕事といっても、ここに勤め、毎日 私が幼い頃からよく本を見せたり、レコードを聞か 働いている人々の仕事からすれば、ほんの一部なの せたりしてくれた。そのせいか、三歳頃には私は本 かもしれない。しかし、少しずつ図書館の司書とい を自分ですらすら読むことができるようになってい う仕事に興味を持ち始めていた私にとって、それは た。あまり記憶はないのだが、よく考えてみると、 とても魅力的な仕事だった。ほんの一部ではあるが、 ほとんど毎日のように本を読んでいたような気がす その仕事をすることによって、楽しさと同時に大変 る。もちろん、外で遊ぶのが嫌だったわけではなく、 さも知った。そして、その仕事に対する私の関心も、 むしろ大好きだった。ただ、私が言いたいのは、本 ますます深まった。 がとても大好きだったということなのだ。 将来、図書館で司書として働くということは難し こうして本と共に成長していき、小学校に進んだ。 いかもしれないが、1 つだけ、はっきりと言い切れ 入学して最初に感動したのは、図書室を見た時であ ることがある。私が日常生活の中で る。それから、図書室の本を借りることが私の習慣 ことは、決してないだろう。そして、図書館は私に となった。ほとんど毎日のように、時には 1 日に 2、 とって大好きな空間であり続けるだろう。 − 10 − 本離れ する 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 What is the cause of the reality? Is it that we are not 第 30 回九州地区国立高専英語弁論・暗唱大会が 平成 9 年 7 月 24 日八代高専で行われました 。 暗 唱の部で 2 の 4 林田麻美さん(英語クラブ)が みごと優勝、弁論の部では、情報 3 年の小川美 代子さんの「責任を果たそう」が、惜しくも入 賞はできませんでしたが、外国人審査員から激 賞されました。ご一読ください。 accustomed to speaking and listening? Or is it that we don't know when to speak and when to listen? I think it is both. But what is worse is that the reality is silently approved. Many of us cannot listen to others. Many of us think, I have no problem studying" or I don't care what others do, so I won't take the trouble to say Fulfill Your Responsibility Miyoko Ogawa anything." This attitude of ours has led our schools to Are you satisfied with yourself? Are you proud of become less and less conscious about school life. yourself? Are there any things you want to do at What I have said applies to more than present? I'm sure there are a lot of things you want to communication. do. Fortunately, you can do them in today's Japan. very much", However, isn't it true that many of us students are know some students who think that way. I am afraid our ignorant of our responsibilities? Don't we take it for apathy has weakened not just the group's solidarity but granted that we can do what we like? also our own, individual awareness of and interest in This question always comes to my mind when I think of the communication taking place in school. How many I don't expect the school to benefit us I don't want anything from the school." I things. Now is the time when we should start considering the problem, before it is too late. people are unskillful speakers! How many people are I don't think the students alone are to blame. Blame poor listeners! How many people are just talking must also go to the teachers, who are responsible for without speaking and hearing without listening! For leading the students. The teacher's lack of profession- example, how many of us are attentively listening to the alism and enthusiasm have also contributed to the lessons given by the teachers? Is it only true of my situation. Teachers should take more pride in their way class? No, I don't think so. It seems to me that more and of leading their students, but haven't they really given up more students are involved less and less in the class and adjusted their motivation to the level of the lazy work. students? Shouldn't all of us, students and teachers, And what has allowed us to be able to remain that encourage ourselves to improve school life? way is the compromise that exists between teachers and Have you ever heard the words, Think global, act students. It is because we have a purpose that we sit for local"? If we think globally," how well we will be able a lecture, and it is the teacher's responsibility to live up to improve our surroundings. To think globally is to be to students' expectations. If a teacher fails to fulfil his or broad-minded. Instead of looking at yourself com- her responsibility, we can ask him or her for a better placently, how about looking at yourself as a member in lesson. But, do we still have a right to demand this? your local community as well as in the global I cannot deny that teachers, speakers, tend to be community? ignored by students. This phenomenon may be said to Just as we can only enjoy a game by following its be a collective ignorance or a sort of bullying toward rules and playing fair, we can only enjoy many things in teachers from students. If you have something to say, our daily lives by fulfilling our responsibilities. That's you should express yourself- not behind the teachers' all we have to do. In modern society, fulfilling your back but before the class. According to the rules of responsibilities by observing the rules is one way of proper communication, we have the right to talk with acting locally. In school, this means being good listeners teachers on relatively equal terms. But at the same and also good speakers in the classroom. Just as teachers time,teachers have the right, and the duty, to listen to us must do both well, so must the students. Learning to and try to understand us. However, how many of us in communicate effectively in our schools is a crucial step Japan are really making effective use of this right? toward building a better society. Thank you − 11 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 か。話をすること、そして聴くことに慣れていない からでしょうか。それともただ単にけじめの問題な 自分の責任を 果たそう のでしょうか。私はどちらもあてはまることだと思 情報工学科 3 年 話を聴けない人がたくさんいます。 『自分は学習面で 小 川 います。そして最悪なのは、これらの現実が黙認さ れているということです。私達生徒の中には、人の 美代子 何も問題がない』とか『他人が何をしようと気にし ない、おせっかいはやめとこう』という考え方の者 が多数います。このような私達の態度が学校全体の あなたは自分自身に満足していますか。自分を誇 りに思えますか。今したいことはありますか。やっ 学園生活に対して関心を持たなくなる要因となって いるとは考えられないでしょうか。 てみたいと思うことがたくさんあるはずです。そし この問題は、コミュニケーションに限ったことで て幸運なことに今この日本では自分のやりたいこと はありません。「学校はあまりためになる所ではな ができるのです。それなのに私達学生は、あまりに い」とか「学校には何も期待しない」と考える者も も無責任な態度をとっていないでしょうか。したい います。このような無関心が学校としての連帯意識 と思ったことができるということをあたりまえだと ばかりでなく、個人個人の自覚や物事に対する興味 思ってはいないでしょうか。 を鈍らせてはいないでしょうか。手遅れになる前に、 学校でのコミュニケーションの場について考える この問題を考える必要があるのではないでしょうか。 とき、私はいつもこの疑問を感じます。話をするこ この問題に関しては、学生ばかりが悪いとは考え との下手な人がいかに多いことか。話を聴くことの られません。私達を導く立場にある先生方にも責任 下手な人がいかに多いことか。ただ聞くだけで聴く はあります。先生方のプロ意識や熱意の足りなさが ことができず、ただ喋るだけで話すことのできない この状況を作り出した要因と言えます。先生方は自 人がなんとたくさんいることでしょう。例えば、私達 分の指導的立場にもっと自信と誇りをもっていいは 生徒のうちいったいどれほどの人が先生方の授業に ずなのに、あきらめて、怠惰な生徒のレベルにあわ 真剣に聴きいっているでしょう。これは、私のクラ せてしまってはいないでしょうか。私達は学生も教 スだけのことでしょうか。そうは思えません。私は 師もお互いに啓発し合って学校生活の向上に向けて、 授業に参加しない生徒が増えていると感じています。 努力する必要があるのではないでしょうか。 そして、私達がそうしていることを許してしまう 『Think global, act local』 (広い視野で思考し、身近 妥協が先生方と私達生徒の間に存在しているのです。 なことから行動を)という言葉を聞いたことはあり 私たち生徒は、目的があって授業を受けているので ませんか。もし私達がグローバルな考え方を持つな あって、その要求に応えることが先生方の仕事です。 らば、どんなに私たちの環境を向上させることがで もし、ある先生がその責任を果たしていなければ、 きるでしょうか。自己満足で自分だけをみつめない 私達生徒は、その先生に、より良い授業を要求する で、地球社会の一員としてまた身近な社会集団の一 ことができるはずです。しかし、今の私達にこのよ 員として自分自身を見つめてはどうでしょうか。 うな要求をする権利があるのでしょうか。 スポーツにおいて、ルールを守り、フェアなプ 話をする側である先生方が生徒に無視される傾向 レーをするだけでゲームを楽しめるのと同じように、 にあるということは否定できません。この現状は集 私たちが責任を果たすことで楽しめることが身のま 団的無視とか学生による教師いじめと言えるかもし わりにたくさんあります。それだけでいいのです。 れません。何か言いたいことがあるのなら、先生方 現代社会では規則を守り、責任を果たすということ に隠れてではなくクラス全員の前で意見するべきで が act local の一つの行き方です。これは学校におい す。適切なコミュニケーションのルールに従えば、 ては、授業中は集中して聴き、発言すべきときに発 私達は先生方と対等な立場で話すことができるので 言するということです。先生方もこの両方がうまく す。同時に先生方にだって学生の話を聞き入れ、私 できなければならないのと同じく、私達生徒もけじ 達を理解しようとする義務と、権利があります。し めをつけることができなければなりません。学校で かし、権利を実際に効果的に活用している人がどれ 効果的なコミュニケーションを学ぶということはよ だけいるでしょうか。 り良い社会を築くために欠くことのできない重要な 何がこのような現実を生み出しているのでしょう ステップなのですから。 − 12 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 第19回校内読書感想文コンクール及び作品紹介 優秀賞 3 編、佳作 12 編を決定 本年度の校内読書感想文コンクールは、第1次、第2次、第3次の審査を経て下記 の 15編が入賞と決定されました。 第19回校内読書感想文コンクール選考結果及び作品紹介 区 作 分 最優秀作 優 秀 作 品 名 学科学年 氏 1年1組 末富 真 名 該当作なし 「罪と罰」を読んで 〃 17歳のポケット 1年2組 田端 智尊 〃 死者の奢り 2年2組 中原 征二 友 1年1組 下里惠理奈 佳 作 情 〃 病院で死ぬということ 1年2組 木下 智恵 〃 二十四の瞳 1年2組 楠元 綾子 〃 燃えよ剣 1年2組 中山 智幸 〃 いのちの約束 1年4組 池邉由花子 〃 道しるべの伝説 1年4組 木村 〃 草枕 2年1組 植田百合香 〃 大地に歌は消えない 2年1組 高山 るみ 〃 「女の一生」を読んで 2年1組 永野 恵 悠子 〃 恩讐の彼方に 2年2組 田中 麻子 〃 こころ 2年3組 尾脇 広介 〃 坊ちゃん 2年3組 元村 俊彦 − 13 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 には彼をつきはなし、また時にはやさしく包み、刑 の執行でシベリアの監獄へ彼が渡っても、その監獄 『罪と罰』を読んで 内の彼を、その心を、新しい希望に満ちた美しく素 ドストエフスキー 晴らしいものに少しずつではありますが変えて行き 1年1組 末富 ました。 また、それは、シベリアの地の監獄の囚人たちの 真 言葉にも表れています。 「ソーニャのおっかあ。おめえさんは、おれたちの この本を読んでの感想として、理屈抜きに感動し おふくろだよ。やさしい、情深いおふくろだよ 」 ソーニャとは、なんと素晴らしい女性でしょうか。 た。そうまるで、初めて出会う花に心を奪われた時 の様なあの感動が生まれたということをまずここで 多くの人々の心を清らかで美しいものにし、希望と いっておきたいと思います。僕がこんな気持ちを 勇気に満ちた境涯にさせるのです。心をうるおすの もってこの感想文を書いたということを知っておい です。しかも、その力、魅力というのが彼女の素朴 てもらいたいからです。 な自然体からかもしだされているもの、というのだ さて、本題に入りますが、その前に、この本の印 から、さらに引きつけられるではありませんか。 象として、僕の心に残ったものが、読書中、又、本 話はまったく変わりますが、ラスコリーニコフと を読み終えた後の手応え、余韻というものが、とて いう人物について思ったことを書きたいと思うので も重たい感じがして深く心の奥へのしかかってきた すが、彼は、彼の家族特に妹に迷惑をかけたくない ということがあります。これは、 「罪と罰」という大 という気持ちから殺人を犯すに到るのですが、家族 変深刻なテーマ、また、この内容に対して僕がいろ を思う気持ちが強く、心配をかけさせたくない、こ いろ思いをめぐらせたことなどたくさんの要因から れ以上かけれないという気持ちはわからないではな くるものであろうと思うのですが、この印象と相反 いですが、殺人を犯すという所で明らかに間違いで するイメージ、さわやかな感動が、これと同時に僕 す。 殺人を犯すということにからんで、ナポレオンに の胸中に湧いてきたというのも事実です。 主人公・ラスコリーニコフが一人の聖女ともいう 代表されるある特定の人物にだけ許される行動とい べき少女・ソーニャと出会い、ソーニャの宗教的な うことが書いてあり、まだその思想になぞらえて彼 力ともいうべき、大いなるあたたかさ、優しさを含 は殺人を犯すのですが、この段階で既に、彼に「甘 んだ力によって心から救われるというこのストリー え」というものが見えます。 自らを選ばれた人間だと思い込むことで、そこに で、僕は、 「これほど愛というものは、美しく、暖かく、深く、 自らの存在できる場所を作り、そこへ逃げ込むこと で何をやっても許されるという考えを起こす。そし さらには力をも兼ね備えているものか。」 と、僕は改めて愛の偉大さというものを感じまし て実行。 僕は、このプロセスを追っているうちに、現代の た。と同時に、奥深さ、そこにある何かを垣間見た 犯罪に通じるものを感じ、また、現代の人間に対し 気がしました。 そして、それがさわやかな感動へと転じたのだろ て、あのソーニャがラスコリーニコフを突きはなし た時の様に、自立させ、 「甘え」をなくすことが必要 うと思います。 ここで聖女・ソーニャが登場しますが、このソー だと思いました。 ニャという少女の愛は、著者・ドストエフスキーが この作品で著者ドストエフスキーが伝えたかった 深く愛した「母なるロシア」と何か共通点があるよ 事、そのテーマは、やはり、人間の陥りやすい悪へ うな気がしないでもありません。 の誘惑、そして、当然の報いとして受けなければな この彼女の、そうまるで、広大なロシアの大地に らない罪意識への苦しみ、又、罰ということだろう も似た、力強く、優しく広いその愛というものは、 と思います。僕も小さからず罪を犯したことはあり と き ラスコリーニコフが自首にいたるその瞬間まで、時 ますから、その苦しみもよくわかるし、このテーマ − 14 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 というのは人間の永遠のテーマでもあります。これ の感情が僕の心の中に広がっていくのです。 から挑戦しなければいけないテーマだとも思います。 しかし、未熟な僕には理解しえないものもあるので、 1997. 12. 1 彼の詩で好きな詩は「生きてゆくことは」という 詩で、 今回は、 「愛」というものに着目して、そのことを中 とてもむずかしい 心に感想を述べました。(ここで、「愛」というもの そう は簡単なテーマであると思っていると思われないで とてもむずかしい 下さい、やはり愛というのも難しいものです。) 生きてゆくことはすばらしい 今回は正直、言いたい事、書きたい事が書けず悔 とてもむずかしい しかったので、理解力、想像力等高め、さらにこの 考えなくてはならない 問題に取り組みたいと思います。 深く自分の中に入って とてもむずかしい 生きてゆくことは すばらしい 17 歳のポケット 山田かまちの詩文は、息がつまるようなところも 山田かまち あり、考えさせられました。つくづく思うのですが、 この 10 代で、今の世の中これほどまで考える人が 1年2組 田端 智尊 いるのかと「かまち」を感心し尊敬してしまいまし た。そして、 「僕の気持ちはどうしたらいいのか?」 「山田かまち」に、出会ってなんだか僕のこれま での生き方をもっとこうすれば良かったと思うこと と、問いたくなります。彼は、本当に「生」という ものを考え悩んでいたんだと思います。 が多くありました。 この本を読んでから最近お寺の前に時々書いてあ かまちは 17 歳にエレキギターの練習中に感電死 る 1、2 行の文をよく見るようになりました。これも するという悲惨な最期を遂げましたが、死後、沢山 かまちの影響からか、その文にもやはり考えさせら の絵や日記、そして詩などが部屋から出て同世代の れ、自分を考え直しています。 人や大勢の人に感動を与えています。彼の趣味は多 「自分は善いが、おまえは悪い、果たしてそう言 種多様だったようです。僕もいろいろなことを体験 えるのだろうか。」 し、経験をしましたが、 「あの時こんなことをしてお と書いてあった時は立ち止まって学校に遅刻しそう けばよかった」とか、 「何故、こう言えなかったんだ になりました。このようなものを少しでもふと考え ろう」など、受験という壁を越えた今、心にぐっと させてくれるような、そして感受性を高めてくれた くるものがありました。自分と等身大の「かまち」 のもやはり彼、 「山田かまち」との出会いがあったか の詩を読み、僕と重ね合う点が多くありました。 らでしょう。彼によって大きな感動そして「人とは」 しかし自分にはない心中があります。それは、悩 という重い難題を得ました。 みに対しての心の持ち方という追求でした。かまち これから、この高専という長いようで短い五年間、 の詩には同じような悩みもあるが「これだ」という そして今から進む未来、人生が目の前に待っていま ような僕の深い奥底にある気持ちを解消してくれる す。この道程の中でまだ理解仕切れなかった詩文な ようなことを率直に書いてあるのです。好きな人な どが分かっていき、これが私の「生きる道」という どにもこちらが素直に頷けるほど自分の心をはっき ものが見えかけて迷い、問いながらも進んでいくこ りと言い伝えています。その点、僕は相手に言いそ とと思います。 びれたり、言えなかったりします。けれど、かまち 僕はきれいな眼が好きです。かまちもいい眼、顔 も「佐藤真弓さんへの手紙」や絵では表には、表せ つきをしています。何かを訴えているような、考え ない不安な気持ちもあるようですが・・・そういう 込んでいるような、その眼が正直な気持ちを伝える ところの全体を含めた部分が自分と似て、「かまち」 ことができるのでしょう。僕もこの眼になれなくて − 15 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 も相手の眼を見て、素直に向き合うことができるよ 《物》確かにそういうことなのかもしれない。そう うな人になりたいと思います。それが、僕の中でプ であれば、 「死」というものは、最も不可解なものの ラス思考につながればと思います。 ようで、実は、最も単純なものだった。ということ 最後にかまちは自分にこう言っています。 になるのではなかろうか。この作品は大学の屍体処 「かまち、おまえは生きることを生きろ。」 理室が主な舞台となっていて、主人公はそこで 1 日 ・ ・ ・ (「生きろ」より) だけアルバイトをする、文学部の学生である。屍体 「山田かまち」この人の生きた時間は短いけれど 処理室でのアルバイトといえば、勿論それ専門の医 他の人よりも何倍も自分を好きになり、そして信じ 学部の学生が大半なのだが、なぜわざわざ文学部の ていたのではないでしょうか。 学生という設定にしたのか。おそらく、屍体とは全 現代の社会の中で立ち止まった時、僕はこう思い ます。 くの無縁である文学部の学生にすることで、屍体の 持つ深み、重量感、圧迫感を表現するためではなか 「おまえはおまえしかないのだ。」と ろうか。さらにこの作品では、屍体たちが主人公に ・ ・ ・ 僕も自分自身に向かい合いながらも前に進もうと しています。 語りかけてくるような場面が見受けられる。ここで なぜ、 「ような」という表現を使用したのかというと、 あたりまえの話だが、実際に屍体たちが語りかけて くるのではなく、主人公が「屍体たちはきっと僕に こう語りかけている。」ということを想定して、想 死者の奢り 像の中で屍体が語りかけ、そして自分もそれに答え ているのではなかろうか。こればかりではなく、主 人公はあらゆることについて、自分なりの想定をし 2年2組 中原 征二 ている。例えば、この屍体処理室の管理人である男 のプロフィールだとか、アルコール漬けにされてい る屍体の生前のエピソードなどである。ここはやは 「死」これは生きとし生けるものの最大の敵であ り、文学を専攻する者の成せる技であろうか。ここ り、また最も恐ろしいものである。勿論、人もその に作者の意図が隠れているに違いない。また、この 例外ではない。では、もし自分に「死」というもの 屍体処理室では主人公のほかに、前にも述べたこの が訪れた時、一体その後、私はどうなるのだろう 部屋の管理人と、同じアルバイトの女子学生である。 か?。こんな疑問を誰でも考えたことがあるだろう。 実はこの女子学生は妊娠しているのである。そして、 しかし、考えれば考えるほど、死というものの恐怖 彼女は中絶の費用を稼ぐために、このアルバイトを に飲み込まれ、虚無的になるばかりで、時には錯乱 しているのだという。そんな彼女がこんなことを してしまうことだってありうる。喜びも、悲しみも、 言った。 「私のお腹の皮膚の厚みの下にいる、軟骨と 憎しみも、怒りも、全てが、私の心の中にある全て 粘膜質の肉のかたまり、肉の紐につながって肥って が、まるでテレビの電源を切った時のように「プツ いる小さなかたまりが、この水槽の人たちと似てい ン…。」と消えて行く。だから、人は天国や地獄と るように思えてくるのよ。 」と。本来なら、この 2 つく いった架空の世界を創りあげたり、 「生きるものはた つは全く対照的なはずである。前者はこの世に生を とえ死んだとしても、その魂は生き続け、また次の 受け、これから人生を歩むべきものであり、後者は いきものへと生まれ変わる。」と唱え、死の後に迫 すでに人生を終えたものである。なぜ彼女はこれら る「無」というものから、逃れようとするのだろう。 2つが似ているといったのか。彼女はもう屍体の持 しかし、この『死者の奢り』では、 「死とは《物》に つ虚無感に飲み込まれたのだ。濃褐色の揮発性の臭 なることである。床や水槽や天窓のように硬くて安 気が激しく立ちこめる液に浸り、躰にはかすかな浮 定した《物》である。」と書かれている。一見、単純 腫を持ち、褐色に変色した皮膚、さらには少女の剥 そうな発想ではあるが、なかなかそうは思いつかな き出しにされたセクス、彼女には羞恥のかけらもな い。 い。本当に昔はこの屍体たちが、生きている人間と − 16 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 して存在していたのか、疑いを持つほどの変貌ぶり 後には相手を傷つけてしまったということも少なく である。そんな屍体たちを古い水槽から新しい水槽 はないと思う。この物語に出て来る大宮がそうで へと、移し替えるのが仕事の内容だ。しかし、これ あったように−。 は一筋縄でいくようなものではない。何度かヘマを 大宮は、主人公の野島が杉子と言う 1 人の女性を しながら、なんとか作業は済んだのだが、実は事務 好きだと聞く前から、杉子を好きであった。けれど、 室の手ちがいで、結局徒労に終わってしまう。結局 野島が思うほどひどく好きではないと感じていた。 この作品は虚無に始まり、虚無で終わってしまうの それで、大宮は杉子の価値を出来るだけ低く見よう か?作者はこの作品を通して何を言いたかったの と努力し、冷淡を装うと同時に野島のために尽くし か?。屍体処理室に浮かぶ屍体たちは何を教えてく た。しかし、大宮の杉子に対する思いは次第に深 れたのか?そして「死」とは一体何か?。作者は、 まって行った・・・。 決して人生の虚無さを伝えたかった訳ではない。い 私は、 「大宮は、どうして自分の気持ちを押さえて や、私は全くの逆であると考える。もし、 「死」とい まで野島に応援できたのだろうか。」と思う。そこ うものがこの世に無ければ、我々生きるものは一体、 までして友に幸せになってもらいたかったのだろう 何をするだろうか?。 か。それとも野島が自分のことを頼っているからか。 「死」があるからこそ、我々は試行錯誤しながら、 懸命に生きているのではなかろうか。本当の「虚無」 きっとそれは、彼の野島に対する友情だったのでは ないだろうか。 とは、実は「死」の無い「生」なのかもしれない。 「無」があるから「有」がある、そうなのかもしれな 私が大宮の立場なら、相手に尽くすことなどでき なかったと思う。 い。屍体処理室に浮かぶ彼らは、それを言いたかっ 私は、野島と大宮の友情が、とても深い絆で結ば たに違いない。即ち、屍体といっても全く同じもの れているということがうらやましかった。そして、 は 1 つもない。体格、髪型、顔の形、これこそが、 私にはたくさん友達がいるが、その友達からは本当 彼らの「生」であった証しであり、これから《物》 に自分に友情を持ってくれているのだろうかと思い、 になる権利、即ち「死者の奢り」、「物になるぜいた 考えた。 く」である。 思い起こすと、私が落ち込んでいる時は、 やがて私にも《物》になる時が必ず来る。だが、 「大丈夫?元気ないね。どうしたの?」 何も虚無的になる必要はない。それは、アルコール などと言ってくれる人がいる。又、ある時は、友達 液の上に浮かぶ彼らが、1 番よく知っているはずだ が私に相談したりすることだってある。 から。 「ああ、これが友情なんだ。」 と改めて嬉しく思った。私は、友達が自分のことを 心配してくれること、思いやってくれることなどを あたり前だと感じていたのかもしれない。私は、感 友情 謝の心を持つことを忘れていたのではないかと思う。 武蔵小路実篤 そして、この友情があるからこそ、私はいろんな ことに立ち向かっていけるのだと思った。野島も、 1年1組 下里惠理奈 大宮の友情があったから杉子のことを思い続けて来 れたのだと思う。 野島の思いとは裏腹に、杉子は大宮を好きになり、 私が初めにこの本を読んで思ったことは、「友情」 とは、相手を思いやったり真心を持つことだけでは なく、相手に対して正直に何でも言ったり、嘘のな いように接することでもあると言うことだ。 それを気づいた大宮は、西洋に行ってしまう。大宮 は、 「自分が去れば女は自分のことを忘れるだろう。そ して野島のことを思ってくれないとも限らない。自 これは誰もがあたり前と思うだろう。しかし、あ まりに相手に遠慮しすぎて何も言えなくなって、最 分はまだその女なくとも生きてゆける。」 と書いている。その時の大宮の気持ちは、きっとつ − 17 − 第9号 熊本電波高専図書館だより 1997. 12. 1 らく、苦しかったろうと思う。大宮は、2 人の間に 立ってしまったのだ。それが故に、2 人のもとを離 病院で死ぬということ れてしまった。その手段こそが、大宮の心を 1 番い 山崎章郎 やせたのだろう。 そして、ついに野島は杉子が大宮を好きだという 1年2組 木下 智恵 ことを知る。しかし、野島は大宮は西洋に行ったの で気にならなかった。 それで 1 年後、野島は杉子にプロポーズをした。 が、あっけなく振られ、1 度目の打撃を受ける。 この本は題名のとおり、病院について書かれた本 それと同時に、大宮からの手紙(雑誌)によって、 野島は 2 度目の打撃を受ける。それは、大宮が西洋 です。この本を読んで私は、命というものがどんな に尊いものなのか、再び考えさせられました。 に行っている間、手紙のやりとりによって大宮と杉 子が結ばれたということだった。 この本の 10 人の患者は皆、 「ガン」だと診断され、 入院し、それぞれの道を歩いていきます。しかし、 大宮は、野島にこの手紙を出すことによって、全 皆が皆、自分の生き方を選べたわけではありません てを話した。野島にとっても良かったことと思う。 でした。中には、医者達の判断だけで治療を行った 野島は、これを期に自分は新しい 1 歩を踏み出すこ ため、病気と闘う気力を失なってしまった人もいま とができたのだから。 した。自分の病名さえ知らずに死んでいった人もい 野島は最後に、 たのです。 「自分は淋しさをやっと耐えて来た。今後なお耐え 病気というのは、とても恐しいものですが、もっ なければならないのか、全く 1 人で。神よ助け給 と恐しく問題なことは、病気になってからの過程で え。」 はないでしょうか。治らない病気(不治の病)だと と日記に記している。しかし、大宮も今までずっと わかっていても、1 分 1 秒を大切にしていけば、その 1 人で耐えて来たのだ。だからいつか野島はそのこ 命は意味のあるものだと思います。逆にその真実か とが分かると思う。今まで何もかも分かり合えた 2 ら逃げ出してしまい、ただ生きているだけの人間に 人だから。そして又、たとえ 2 人が遠くに離れてい なってしまったら、なぜ生きているのかもわからな ても心が通じ合えるようになってほしい。 くなってしまいます。 私は、この物語を通して、いろんなことを学ぶこ とができたと思う。 と思います。これから歩いていく人生、時にはつら だから、新しい高校生活に向けて、この「友情」 を持つことを忘れずにして行きたいと思う。 私は、人生についても、これと同じことが言える いことも悲しいことも必ずあるはずです。そのつら く悲しい出来事をどう受け止めるかで、そのまた先 の人生までもが決まってしまうと私は考えます。 それに、いろんな事を投げ出してしまったら、な んでもない人間になってしまいます。それを避ける ために、人は皆、いろんな事を経験するのではない でしょうか。その経験を日常の生活に生かしていく ことこそが本当の人間のあり方だと思います。 この本を読む前までは、 「死」というものを恐いも ののように考えていました。しかし、この本を読ん で、それは間違いだと気付きました。早くとも遅く とも、人間は必ず死をむかえるときはくるけれども、 それが病気であっても、事故であっても、それを受 け止めさえすれば何も恐いものなどないと思いまし た。 − 18 − 第9号 熊本電波高専図書館だより 1997. 12. 1 私は、小学校 6 年生の時、祖父を亡くしてとても、 悲しみました。でも、私の父は、いままで病気と一 二十四の瞳 生懸命闘ってきたのだから安らかに眠れて良かった と言いました。その時は、私には、その言葉が理解 壺井 できませんでした。しかし、この本によって、「死」 栄 1年2組 楠元 綾子 は悲しみだけでなく安らぎも与えてくれるものだと 教えられたのでした。 でも、もし実際に自分が入院して、もう死んでし まうことがわかっていたら、多分、生きる希望も夢 私は何の本にするか悩んでいた時に、この本を友 も失い、新しい未来などはやってこないと思います。 人からすすめられて読み始めました。主な内容は、 でも、病気になることとは、その本人はもちろん、 1 人の若い女の先生とそれをとりまく 12 人の幼い子 つらく厳しいと思うけど、同じくらい周りの人達も 供達が共に成長し、戦争によって心に悲しい傷を受 かかえきれないくらいの不安を抱いていると思いま けるという話です。最初、この若い女の先生(おな す。例えば家族の場合、私がカゼをひいて眠こんで ご先生)は、赴任先の寒村で「洋服を着ている」、 「自 いるときなど、私の体のことを私以上に心配してく 転車に乗っている」からと、村の人達から非難をあ れます。そして、早く元気になりたいと、そこから びて、赴任して 2 日目だというのにもう、帰りたい 頑張りが出て来るような気がします。家族というの と弱音を吐いていました。しかしそれがだんだん村 は、病気と闘っていくのに必要な存在だと私は感じ の人達の先生を見る目が変わり、先生もこの村を好 ました。それは、家族に限らず、友人でも同じです。 きになっていくところがおもしろいです。子供達の 心からわかり合った友人なら、心配してとなりにい 言動を読んでいても 1 人 1 人の顔の表情が想像でき てくれるだけで力が湧いてきます。これから先、私 るほど事細かくかかれています。それぞれの個性が は、いろんな人と接っする中で、心から通じ合う親 よく現れていてそれがなおさら読み手の心を本の世 友をつくっていきたいです。 界へ誘いこんでいきます。先生は 1 度足のケガで学 この本の題名「病院で死ぬということ」という意 校を止めますが、その時の子供達はものすごくさび 味は、本当は「死」だけの話ではなくて、いろんな しそうで、相当信頼されて好かれているんだなと思 意味で私達にうったえかけていると思います。不治 い、おなご先生がうらやましく思えました。場面は の病である「ガン」になった患者のことはもちろん、 変わり、それから 5 年後に時代は社会主義者・共産 物事の受け止め方や、 「死」のあり方、家族や友人が 主義者を国賊とし、刑務所に入れるというような事 いるということのありがたさ、すべてがそうです。 になりました。先生は生徒に戦争はしてはならない その中でもやはり、家族や友人のありがたさに気付 ものだと教えたかったのに教えると「あか」だと言 いたということは、とても大きいことだと思います。 われ「国賊」と言われることに疑問を持っていまし 普段の生活の中で行動を共にするわけだから、もっ た。私も同感です。私は今の時代に生きているので と大切に接していかなければならないと思いました。 戦争はいけない事だとわかっているので当時の人々 このように大切な事をいろいろ見つけ出すことが との考え方がちがっているとは思いますが、なぜ身 できて、本当に良かったと思いました。同時に、こ も心も戦争のためにしばられなくてはならないので の本を勧めてくれた「友人」に感謝したいです。 しょうか。なぜごみのように人の命を簡単に捨てる のでしょうか。こんな事を堂々と言う事ができな かった息苦しさが読みながらよく伝ってきました。 子供達は、あっという間に 6 年生になり、将来の事 を悩んでいました。今だったら義務教育で悩みもせ ずに中学校へ入れるというのに。そんな所からも過 去、日本の古い制度にしばられ自由を失い、好戦的 な空気に包まれて育った子供達と、今の何不自由な − 19 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 く物にあふれた時代を生きている私達を比べると、 1997. 12. 1 物を描いている。 今の方が平和で良いように思われますが、昔の方が 土方歳三。新選組副長。戌辰戦争を最後まで戦っ 大変だったと一言で言えないけれど心の中は家族を た人物。新選組といえば、近藤勇、沖田総司とこの 思いやり、周りへの気配り、優しさが満ちあふれて 人物の名前が上がる。その中でも、百姓の子や浪人 いたと思います。それから子供達はそれぞれの道を の集りをその時代最強の剣客集団に仕立て上げ、そ 歩んでいきます。高等科で勉強する者、仕事をする れを陰で支えるなど 1 番の働きをしたのが土方歳三 者、まったく行方のわからない者もいました。この だった。 年で働きに出るとはすごく大変だろうと、私もがん 土方歳三にとっての正義。生きているかぎり戦い ばって人のためになる事をしようと思いました。そ 続けること。たった 1 つ。それだけで台風のように して、みんなが別れ別れになって 8 年がたち、世の 人を巻き込み、時代を巻き込み大きな影響を与えた。 中はいっそう戦争が激しくなっていました。少年達 また、台風の目のように澄んでいた。どんな思想に は兵隊へ憧れます。本当に読みながら、子供達に、 も染まることがなかった。ただ自分の正義のため生 いや、国民全員に戦争を肯定させる考えを植えつけ きた。 た時代にくやしい思いを感じました。人は死ぬため ただ理想を持っていただけではない。それを支え、 に生まれてくるのではないのに。そして少年達は兵 力となるものがあった。独特の戦術の才、仲間など 隊になり、少女達は家族をつくり、不安と悲しみの を活かし、自分の力を最大に発揮させることができ 果て、戦争は終わった。戦争をして何が残ったとい た。弱さもあった。その弱さを俳句にしたりもした。 うのでしょう。生徒 12 人のうち、残った者はわず 必死に自分を強い人間だと思いまぎらわすこともし か 7 人でした。命や心までもうばった戦争を絶対に た。 繰り返してはいけないと思いました。この本では被 そして死ぬまで 35 年間、自分の正義を貫き通し 害を受けた側から書かれているので、日本もまた外 た。新選組が強い力を持っていたときも、幕府が倒 国へ同じような事をした事を忘れてはいけません。 れ弱い力になったときも。 最後の方は戦争という荒れた時代を生き抜いたおな 土方歳三の強さ。それは誰にも負けない。誰にも ご先生と生徒達でしたが、話全体としては、愛情を 曲げられない正義を持っていたということ。その正 降り注いでいるような優しい感じでまとまっていて、 義が全てであったということ。 次から次へと展開していくので飽きのこない内容で 正義とはどんなものだろう。たぶんこの本を読む した。この本を勧めてくれた友人に感謝したいと思 前の自分だったら「他人のために自分が何かいいこ います。 とをしようという心や行動。」ではないかと考える だろう。でも今は明らかに違う考えを持っている。 「自分が正しいと思うこと。」簡単に言うならこうだ ろう。必ずしも他人のためではない。自分のためで 燃えよ剣 上・下巻 こそ正義だと今は思う。今、法律という規則があっ 司馬遼太郎 て、それでいろいろなことが保たれている。それを 犯すことは他人から見ればとても正義とは言えない。 1年2組 中山 智幸 でもその本人が本当に正しいと思っていれば、本人 の中でだけの法律・正義というものはあるだろう。 しかし正義は、自分勝手な欲とはちがう。自分の 今までかんちがいをしていた。幕末・維新の時代 考えを底で支え、全ての根拠になり、純粋なものが において、維新側を正義だと思っていたのだ。しか 正義だと思う。欲も自分がそれに目標を見つけ出し し、この本を読んで気付いた。あの時代では、争い のびていけるものなら、正義ということができるだ 合ったすべての思想、勢力や個人どれもが正義だっ ろう。 たのではないかと。 自分の中に正義を持つことは、決して難しいこと この本は、幕末・維新時代に勝活躍した 1 人の人 ではない。それを心に持ち続けることが難しい。土 − 20 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 方歳三のように一生、35 年間、自分の中に 1 つの正 段です。そして水間さんは、ロシアのポリオ研究所 義を持ち続け、そのために生きることはどれだけ難 に届けにいったのです。 しいだろう。生きている間、常にたくさんの影響を 私はまず、昭和 36 年の母親達に心をうたれまし 受け続け、自分の正義は曲げられ、変えられていく た。母親が子供を思い、国までをも動かした事に対 からだ。しかし信念があれば違う。影響の中から自 して、すごく大きな力を感じさせられました。覚え 分のためになるものを見つけ出し、逆に正義を進化 てはいませんが、私も幼い頃ワクチンを飲んだそう させることができるはずだ。土方歳三も、戊辰戦争 です。母親達が子供のために行動せず、ポリオをそ では進んで銃や砲の技術を取り入れていった。それ のままにさせておけば、私のこの健康な体はなかっ によって自分の正義を保った。しかし、戦さに勝つ たのかもしれません。今も昔も、母親が子供に対す ことをあきらめ始めていた他の幹部や兵士の影響は る思いは、きっと変わらないと思います。時々、 「お 受けなかった。自分の正義に必要なことか、邪魔な 母さんは私の気持ちをわかっていない。」とか思う ことかを判断していたからだ。ただ染まるのか活か 時もあるけれど、私はどれだけ母に思われているか、 すのか決めるのは自分自身なのだ。 母の気持ちをどれだけわかろうとしたか、もっと考 今の自分の正義。自分に負けないこと。何にでも えなければいけない事に気付かされました。そして このことがあてはまると思う。これからいくらでも、 母に心配かけないように、元気でいなければならな 挑戦したいこと、挑戦しなければいけないこと、不 い、と思いました。 安なこと、乗り越えるべきことがあると思う。この 水間さんは、暗い病棟で親と子が苦しんでいるの 本を読んで、自分の中の正義に土方歳三の生き方と をどうしても増やしたくない、という思いで 8 円基 いうものを取り込んで、プラスにできた。 金を始められました。私は水間さんをすごい人だと これからいつまでも、自分の中に正義を持ち続け 思います。苦しんでいる家族を見て、なかなか行動 ることができたらと思う。自分の中に正義を持たな することは難しいと思います。 「かわいそう」この一 い生き方なんてつまらないだろうし、前を向いてい 言だけで終わらせてしまうこともあります。水間さ たいから。 んあった心に残った部分を紹介しようと思います。 「神様がくれた病気です。なぜ神様が、なんのた めにくれたのか、それもだれも知りません。何万人 に 1 人か、何千人に 1 人かわかりませんが、選ばれ いのちの約束 たのです。選ばれたのなら負けないで明るく生きな 水間摩遊美 ければなりません。そして選ばれた人間しかできな い何かがあることをしなければならないのです。 」 1年4組 池邉由花子 この言葉は、もうすぐ始まる高専生活に不安を 持っている私を励ましてくれました。自分から行き たいと思い、選んでもらえた学校です。きつい事や 著者の水間さんは、幼い頃、ポリオ(小児マヒ) 嫌な事があっても、負けずに頑張らなければと強く にかかり、今でも手や足がマヒしています。そもそ 思わせてくれました。また、これからの人生におい もポリオとは、ポリオ・ウイルスという病原体が原 て、きっと苦しい事があると思いますが、水間さん 因で起こる病気だそうです。昭和 36 年、ポリオは のようにプラスに考えられる人になりたいです。こ 日本中で大流行しました。母親達は、子供の生命を の言葉をかけて励ましてあげたいです。水間さんか 守るために戦い、そして旧ソ連から難しい問題を越 ら教わった沢山の事、いつまでも心の片隅に残して えてウイルスの一生をダメにするワクチンを輸入し おきます。 たのです。ところが今、旧ソ連の生ワクチン工場が 資金不足などのために、生産停止に追いこまれてい るというのです。そこで水間さんが、8 円基金を始 めました。8 円基金の 8 円とは、生ワクチン一口の値 − 21 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 いてみよう、そういう前向きな方向へ私達を導いて くれたではないか。だから、人々はごまかされるの 道しるべの伝説 を望んでいるといった師の言葉には共感される。多 ミヒャエル・エンデ くの人がごまかされてきたからこそ、未来に大きな 希望ができたんだと思う。 1年4組 木村 悠子 この本を読みながら、彼は本当に不安でいっぱい だったんじゃないかな、と思った。奇跡は起こらな いし、真の奇跡の世界も見つからない。平気そうに 私にはとても不思議に思える。行ったことも見た 見えたけれど、彼はたくさんの疑問に悩まされて、 こともないもう一つの世界をなつかしくおもう彼が。 気持ちをおさえきれないときもあったんだと思う。 この本にでてくる主人公のヒエロニムスは、奇跡 もし私が彼の立場にいたら、求めている世界をさが は必ず起こる。真の奇跡の世界こそが自分の世界で すのなんかとっくにやめていたと思う。 あり、故郷であると信じていた。 私は、ヒエロニムスは遂にたどりついた真の奇跡 真の奇跡の世界、私はこの地球がそれに相当して の世界へ通ずる門をくぐると、この世に受けた出発 いるのではないかと思う。いくつもある惑星の中で 点へ戻ったというところを読んでだとき、それがど ただ 1 つ太陽からの距離がちようどよくて、水が豊 ういう意味なのか分からなかった。今でもよく分か 富で、酸素や二酸化炭素のバランスがとれていて。 らない。でもそれが新しい人生のはじまりなのなら すばらしい偶然が重なったものだと思う。もしかす ば、今度は一人で歩かずに、たくさんの仲間と一緒 ると、これらの条件は必然的なものかもしれない。 に喜んだり泣いたり、そしていっぱい楽しいことを どちらにせよ地球は本当にかけがえのないものだと 見つけて、明るい人生を送ってほしいなと思う。真 いうことには変わりがない。 の奇跡の世界を見つける暇もないくらいの人生を。 しかし彼の言う世界とは、地球ではなく、超自然 私はこの本を読んで考えたことがある。彼は何度 なものが日常であり、不思議なことがあたり前のと も名前をかえたが、その中の 1 つに、 「道しるべ」と ころらしい。私には想像がついて、ドラえもんのポ いう名前があった。道しるべはとても役に立つけど、 ケットの中や、ディズニーの世界だ。しかしこれら 人生の道路には道しるべがたってないから、自分で には夢があるし、果てしない希望を秘めているから、 ひとつずつたてていきたいと思う。ひとつたてるご ヒエロニムスが求めているものとは違うだろう。 とに、その道しるべは誰にも動かせない程、がちが 彼は町へ来た手品師の次々と披露される奇跡を見 ちに固まってその方向をまっすぐに指している。道 て弟子入りをする。これこそ本当の奇跡だと思った しるべをたてなおしたいと思うときがでてくるかも が、師は手品芸を含め、芸術はごまかしだ、芸術家 しれない。でも自分の選んだ方向だから、まっすぐ は奇跡を信じていては奇跡をつくり出せない。真の 進みたい。そして私は私の道しるべの伝説をつくる。 芸術家はごまかしの名手でなくてはならぬと同時に、 本当の奇跡が目の前で起こったと確信させなければ ならないなどと言った。本当に芸術がごまかしなの 草枕 だとしたら、ごまかしは文明を築きあげるうえでの 夏目漱石 大黒柱だと思う。そしてそれぞれの芸術へかける思 いこそ、きっと文明の土台になるのだろう。 2年1組 植田百合香 絵描きの場合、1 枚の画布と絵の具と筆でつくり あげられた絵でたくさんのお金をもらうことがごま かしだとしても、誰かがそれに感動し、誰かが涙を 流しただろう。作曲家だって紙にインクでかかれた 「非人情」それは世間の人情や義理にとらわれな 作品を演奏してお金をもらうことがごまかしだとし いことです。では、人は本当に非人情な生活などで ても、何千万人という人が自分も弾いてみたい、弾 きるのでしょうか。 − 22 − 第9号 熊本電波高専図書館だより 1997. 12. 1 この本に書かれているある一人の画工は、俗世間 てくるようにみえます。しかし本当はその逆だと思 を離れて山奥へ行きます。大自然に囲まれて、現実 います。戦争や出稼ぎに行く人がいるという紛れも 世界から切り離されたような、正に桃源郷といえる ない現実しか存在していないのに、桃源郷という画 ような村に滞在します。 工の勝手な思い込みが侵入しているだけなのだと思 そこで画工は、この村にいる間は少しでも現実世 います。桃源郷のはずのこの地も、実は現実世界の 界から離れるために、出来事や出会う人を一つの画 一部にすぎず、やはり桃源郷は飽くまでも理想で に見立てます。そして、それを実際に描こうとしま あって、実際には存在しないものなのだと思いまし すが、いつもうまくいかず、結局、村にいる間は一 た。しかし、存在しないものだからこそ、人は桃源 枚も画を描くことができません。しかし、本当は描 郷を追い求めるのだろうと思います。 けなかったのではなく、描かなかったのではないか 最後に、那美が停車場で、満州へ旅立つ別れた夫 と思います。なぜなら、現実のものでも一つの画と を偶然見かけるという場面が書かれています。その して見れば、想像的なものとして受け取れるかもし 時、今まで一度も「憐れ」の表情を見せなかった那 れません。しかし、それは飽くまでも頭の中でそう 美が、初めて「憐れ」という表情を見せるのです。 仮定した時だけであって、実際に描いてしまったら、 普通なら、ここで話が終わってしまい、何だかしん いくら桃源郷といえるような素晴らしい景色であっ みりとした気持ちが残るのだろうと思います。しか ても、現実のものになると思うからです。せっかく し、この本では、 「憐れ」という表情を見せた那美の 現実世界を離れる旅をしているのだから、自ら現実 姿を、画工が 1 つの画に見立ててしまうのです。 世界に戻るようなことはしたくなかったのではない やっと那美を画にすることが出来たという、画工の かと思います。 喜びすら感じられる終わり方に、私は一瞬戸惑いま その証拠に、画工は村に滞在している間、一度だ した。こんな終わり方ってあるのかなと……。 け村から離れて停車場に行くことがあります。そこ しかし、そんな終わり方に気を取られていたせい では、何のためらいもなく、あっさりと描いてしま か、あまりしんみりとした気持ちになりませんでし うのです。私は驚きました。しかし、よく考えてみ た。でも、もしかしたら、気づかないうちに、私自 ると、この時代で汽車や停車場というのは、最も発 信も那美の姿を一つの画として捉えていたのかもし 達した文明だったと思います。だから画工にとって れません。 は、このようなものがある所こそが、現実世界で あったのだと思います。現実を現実として受け入れ 最後の最後に、この画工にはめられたような気が して、そんな私自身がおかしくなりました。 たから、この時はためらいなく描けたのだと思いま す。 画工は、村にいる間、ある温泉場に滞在していた のですが、そこで那美という女性に出会います。那 大地に歌は消えない 美には「憐れ」という表情が欠けているので、画に W・H・アームストロング ならないと画工は思います。しかし、那美は村人か 2年1組 高山 るみ ら奇人扱いされたり、過去に離婚を経験しているの です。本当はすごくつらい思いをしているのだと思 います。でも精神的に強く武装して、必死に生きて いる人なのだと思います。 作者が少年の頃に出会った、この黒人に心をひか 画工は、滞在する日が経つにつれて、この村にも れたように、この本に出会った私は、作中のモーゼ 召集されて戦争に行かなければならない青年や、破 ズ・ウォーターズに強く心をひかれました。常に神 産したあげく満州に出稼ぎに行かなければならない の御心のままに、自然を愛し、その語る声に耳を傾 那美の別れた夫がいるということを知ります。 け、自らも大地と語らい、体を動かし、道具を使っ 一見すると、桃源郷といえるような所でも結局は て、様々なものをその手から造り出し、そして、道 現実から逃れることができず、徐々に現実が侵入し 具の一つひとつを大切に、命在るものの様に扱う − 23 − 第9号 熊本電波高専図書館だより 1997. 12. 1 モーゼズ。いつも自然に、有りのままに、肩を怒ら が証明している様に思います。ただ、この内容には、 せることなく、深い穏やかな愛を称えて、今ある うっかりすると、私達を「なぜ、モーゼズが殺され 日々を生きるモーゼズ・ウォーターズ。母親を亡く なければならなかったのか。」という問いに向かわ して、父親ともども家の中を蕭々と風が吹き抜ける せるものがあることは確かでしょう。私たちは、飽 のを感じていた子ども達。その生活に投げやりなも くまで、「なぜ、モーゼズは。」と問うべきだと思い のが見えていた子ども達が、そんなモーゼズを迎え ます。黒人のモーゼズを白人よりも優れた人間に描 て、どう変わっていったか。この本は、人が生きる かなければ差別に対する告発に成り得ないとしたら、 というのはどういうことか、人が変わっていくのは それは、やはりおかしいことです。モーゼズは例え、 どういうことか、を改めて考えさせてくれました。 ぐうたらであっても決して、殺されてはならないこ それだけに、物語の後半、畳み掛ける様に幾つかの とを、この本を読んだ私達は、今一度確認しておい 事件が起こり、不正が大手を振って罷り通り、遂に、 た方が良いかもしれません。それでなければ、私達 モーゼズの余りに不条理な死で幕が降ろされる時、 の住むこの大地は、いつか不毛の地となってしまう 私達は、何か遣り切れない思いに、うちひしがれる でしょうから。 のも事実です。なぜモーゼズ・ウォーターズは、殺 されなければならなかったのか。作者は、なぜこの 黒人を生かして置くことができなかったのか。それ 「女の一生」を読んで に対する答えは、恐らく、極めて短い言葉で足りる ギ・ド・モーパッサン でしょう。黒人だったから。これが現実だったから。 それでも尚私達には、モーゼズの死は、恐ろしい 2年1組 永野 までの悲劇としか考えられません。実際、この事は、 救いのない状況を描いて終わっている、と言っても 恵 過言ではないかも知れません。 けれども、ここに在るのは、本当にどうしようも この作品の感じを一言で表わすとするなら「悲観 ない絶望だけでしょうか。読み終え、一旦は重苦し 主義的」という言葉が一番あうように思う。箱入り い気分に見舞われた後で、不思議とほのかな温もり 娘で善良な女性が結婚する前までは愛し信頼してい が伝わってきました。真の希望とは、現実から目を た夫に浮気などという形で裏切られ唯一の希望の綱 背けることなく、真正面から現実を見据え、そこに だった息子にまで裏切られそんな救いようのない暗 ある絶望的な状況までも取り込んだ所に生まれくる い孤独感が支配する、そんな話だからだ。この作品 ものなのではないでしょうか。作者が、この物語を は原題どおりある「女の一生」についての小説だ。 敢えてこのように結んだのは、これこそが少なくと 私がこの本を選んだのはこの原題にひかれたから も当時のアメリカの現実で、一切はここから出発す だった。私が同じ女だからという単純なものであっ るしかないとの思いがあったからだと考えられます。 たが、多分私が男か、まだ今よりも幼かったならこ それにしても、作者の描いたモーゼズ・ウォー の作品を選ばなかったように思う。この作品の著者 ターズなる黒人像には、批判があるかもしれません。 は、ギ・ド・モーパッサンという男性だ。彼は、女 モーゼズは、実は白人にとっての良き黒人ではない の一生の主人公ジャンヌと同じノルマンディ産まれ のか。実際の黒人は、もっと違わなければいけない である。彼について調べてみたが、彼の両親は彼が のではないか。そんな声が起こるだろうと思います。 おさなかったころに離婚しており彼は母親によって そして、実際、その問題は考えてみなければならな 少年時代の大半を「女の一生」の舞台であるノルマ い問題だと思います。けれども、モーゼズその人で ンディで過ごしている。私が思うに彼は「女の一生」 なくても、彼と似た生き方をし、死んでいった黒人 でえがかれている美しい森や庭の様子、窓から見た も事実いたわけで、それはまたそれで、一つの勇気 風景までも彼が少年時代実際毎日のように眺めてい の有り様であり、意図するしないに拘わらず、差別 たものをなつかしみつつ文字におきかえたのだと思 に対する鋭い告発に成り得ていることは、このこと う。この作品のもの悲しさの中、自然の風景などは − 24 − 第9号 熊本電波高専図書館だより 1997. 12. 1 とてもやさしく感じられるからだ。思えばこの作品 うなにかしみじみとした余韻を残しているように思 には他の小説に比べると会話の文章がとても少ない える。こういう読み終えた後にも読者に何か問題を よう感じる。会話以外の小説の大半の部分は情景を 残しているように思わせるような文章の終り方も 表わす文章につかわれている。それはきっとモー モーパッサンの芸術の魅惑力のように思える。 パッサンの心の中の故郷を完璧にちかく言葉にあら 最後に私がこの作品全体から感じたことを述べる わすとやはり大変な量の言葉が必要になるからだと と、この作品は著者のモーパッサンの心の内をよく 思う。私も読んですぐ主人公ジャンヌのすむ家から うつした物語だと思う。彼の母親との楽しかった故 周りの地形、日の光りまでも頭にうかべることがで 郷でのくらしをなつかしむ気持ちと、彼の父親をに きた。あまりにも情景がよく見えるので本というの くむ気持ち、父親の母親と自分を裏切った行動に対 は読むというよりも映画を見るという感じで楽しむ しての悲しみなどが一つの作品にまとめられている ことができるのだと気付いた。これほどまで小説の ように思う。彼のさみしい心が、この「女の一生」 中に読み手を引き込むことができるのは、やはり、 を書いた後残りの人世でいやされたことを願いたい。 モーパッサンが実際に体験してきた事実を話の中に おりまぜて現実感を出しているからだと思う。あく まで私の考えなのだがモーパッサンは自分のくらし ていたノルマンディの景色を小説にとり入れたこと 恩讐の彼方に と同じように、この作品に登場するジャンヌの夫 菊池 ジュリアンを彼の父親とおき物語りをえがいたよう 寛 2年2組 田中 麻子 に思う。自分の良き理解者であり愛していた母親を 苦しめた父親は幼かった彼にとてもにくらしくう つったと思う。だからこの作品中のジュリアンはこ んなにも人間の温かみを感じさせない冷たい人物と この話は恩讐を超えた人間愛の物語である。 してえがかれているのだと思う。けれど私にはとて 市九郎という青年が、罪の意識のため出家し、了 もジュリアンのように自分の妻を苦しめるだけの人 海と名乗って、その罪の贖いのために人が毎年何人 間はいないように思えてならないがモーパッサンに と死んでしまうような難所を取り除くために 21 年 したら、父親をモデルとしてジュリアンという人物 もかけて岩を掘り、洞門を作り上げた話をもとに創 をつくるとしたら、幼い日の記憶から、このような 作した話である。 人物になってしまうのは自然なことで何の不思議も 了海は岩を掘り続ける。330 米ほどの岩を寝食を ないのだろうと思う。そう考えるとジャンヌはモー 忘れ、ただひたすら掘り続ける。 「槌を振って居さへ パッサンの母親とも、また、モーパッサン自身とも すれば、彼の心には何の雑念も起こらなかった。人 言えると思う。つまり彼は自分と自分の肉親を小説 を殺した悔恨も、其処には無かった。極楽に生まれ の中にえがいていたのではないだろうか。だから私 ようと云う欣求も無かった。たゞそこに、晴々した はこの小説はフィクションともノンフィクションと 精進の心があるばかりであった。」とある。この部 もいえると思う。 分を読んだ時、とても胸が苦しかった。この話の終 私がこの作品の中で一番印象が強かったことばは わりを、母から聞いて知っている。結局この洞門は 作品の一番最後の一文の「世の中ってねえ、人が思 完成するのだ。だがそれでも、とてもじれったかっ うほどいいものでも悪いものでもありませんね。」 た。私は飽きっぽいのだ。1 年間で 3 米ほどが掘れた というジャンヌの女中のロザリの言葉だ。あんなに と書いてあった。330 米の内 3 米。単純計算であと百 も悲しい物語りにもかかわらず読み終えた後、いや 九年ほどかかることになる。そんなくだらないこと な気持ちよりもむしろ少しだけさわやかな気分にな を考えながら、 「もうそこであきらめなよ。罪の贖い ることができた。ジャンヌがこれから先幸せになれ なんて他のところでも出来るでしょう?わざわざこ るとはとても思えないが、これから先もしかすると こで実行不可能な事をするより、なんでもっと楽で 彼女に不幸はおとずれないのではないだろうかとい 早く成果が上がることをしないの?」と考えていた。 − 25 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 了海は「晴々した精進の心」かもしれないが、私は 自分を斬るように言ったが、実之助は了海の熱意、 とてもイライラとしていた。感想文が書きやすいと 自分の父を殺した深い悔恨を知り、そしてなにより 言われて、あまり気乗りせずに読んでいたが、先を 自分の手伝った刳貫の大事業により恨みを忘れ、了 知っていてもあきらめることを了海にすすめるくら 海と手をとり合い涙を流して洞門の完成を喜んだの い、この時には物語に引き込まれていたのである。 である。 了海は近郷の人々に「狂人坊主」と嗤われても、 1 年の成果の 3 米ほどの洞窟を見ると 「涙が出るほど この話を読みながら、私は「人間の情熱ってすば らしい」と感じた。実際にこの「青の洞門」が出来 それ 嬉しかった。夫は如何に浅くとも、自分の精進の力 上がったのは奇跡に近いと思う。この洞門の完成を の、如実に現はれて居るものに相違なかった。」と 信じ、熱心に掘り続けた了海の熱意こそ今私が失っ 感動している。 ているものではないだろうか。だから私はこの話に 「千里の道も 1 歩から」ということわざがあるが、 こんなにも引き込まれ、感動するのであろう。しか この場合「330 米の洞門も 3 米から」というところか。 し現実には、心の持ちようひとつかもしれないが、 それから 10 何年という月日がたった。間に 2 回ほ 情熱をかたむけるものがなく、あったとしても学校 ど、村人たちが手伝ったこともあったが、どちらも や勉強などでそんな暇がないのも事実だ。この話は 1 年ほどで中止になった。しかし、そんなことにか 私にとって「いったい私はどのように生きればよい まわず、了海は掘り続けた。 「彼は、たゞ機械の如く のか。どのように生きれば自分の人生に自信をもっ 渾身の力を入れて、槌を挙げ、渾身の力を以て、之 て行動できるのか」 を深く考えさせられた1冊だった。 を振り降ろした。」そうして彼は 18 年で岩壁の 2 分 の 1 を掘り上げた。そのころようやくまわりに住ん でいる人々は了海のしていることを認めて、手伝い こころ 始めるのである。私はもうすぐ終わるだろうと思い 夏目漱石 ながら読み進めていた。この話は、1 人の人間の功 績がまわりに認められ、その作業をまわりの人が手 2年3組 尾脇 広介 伝い、1 つの大事業を終わらせるという話だと勝手 に思いこんでいたのだ。しかしこの話はこれからが クライマックスだったのである。 奇跡のシーンから 1 転、そこにいきなり 1 人の青 『こころ』は「私」と先生との出会い、そして先生 年がでてくる。名を「実之助」といい、父を殺した の友人Kへの思いが描かれた作品だ。私はこの本を かたき 敵として、実は了海を捜し歩いていたのである。し 読んで人の心は何年経っても変わらないものだと かし、実之助は了海に対して父を殺した悪人を求め 思った。変わらない、人の心とは人を強く尊敬し、 ていたのだが、実際の了海は「人間の残骸と云ふべ 一生ついていきたくなるような気持ち、友人に対す き」と書かれているほどボロボロの老僧であった。 る信頼感や嫉妬感、そして愛する人に対する感情の 了海は、父の敵は自分だと認めた上で、自分を斬れ ことだ。昔の人は誰とでもすぐに話せたのだろうか。 と実之助に言ったのである。実之助はかなりとま 冒頭部を読んで私は思った。と言うのは「私」は見 どっただろう。実之助が求めていたのは悪役であっ 覚えある先生を追いかけ、海の上で「愉快ですね。 」 て、罪の意識に苦しみ抜いてきた乞食僧ではない。 と声を掛けた。常識では「すみませんが…。」と一声 まして自分を斬れと言い出すような人間ではけして 掛けて、見覚えのある顔だがどこかで会いましたか、 なかったのだ。実之助はとまどいながらも、まわり というような声を掛ける。またいきなり一声掛けら の人や了海の頼みを受け入れ、敵を取るのは洞門が れた先生も 「もう帰りませんか。」と「私」を誘った。 完成してからにすることにしたのだ。その後了海の 私は不思議だった。私なら声を掛けられた時点で、 洞門に対する並々ならぬ熱意を知り、洞門掘りを手 そそくさとその場を退いたと思う。だからこんな 2 伝うことにするのである。 人のやりとりは意外だった。 「私」は先生と呼ぶこと そしてとうとう洞門が完成した。了海は実之助に について年長者に対する口癖と弁解しているが、こ − 26 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 のときすでに先生と呼べるくらいの感じを彼(先生) しかったと書いてある。私はその気持ちが分かる。 から受けたのだろうと思う。 自分の胸の内を伝えようとしながらも勇気が出ずに 人を尊敬し、ついていきたくなる心はどんなもの いたのは悔しかっただろう。焦った先生は奥さんに だろう。私は自分にある感動を与えた物が急に身近 「御嬢さんを下さい。」と言う。私は卑怯だと思った。 に感じられ、その物を強く思い続ける気持ちだと考 正々堂々勝負すべきだと思った。でもそうした気持 える。異性に限らず友達や歌手、映画等すべての物 ちも分からなくはなかった。自分の愛する人が唯一 が人に感動の一瞬を与え、その人の気持ちをぐっと の友人も愛していたとなると、当然ライバル意識が 向けさせる人は尊敬され信頼されると思う。 湧いてくる。私が先生と同じ立場であっても同じこ 次に友人への心とは何なのか。この本ではKと とをしたと思う。しかも後になって先生のように罪 「私」が房州へ行った時表われていた。「容貌もKの 悪感は感じないと思う。自分を美化することでその 方が女に好かれるように見えました。性質も私のよ ときの考えや悩みを乗り越えると思う。私は最近物 うにこせこせしていないところが、異性には気に入 事を一つひとつ大きく大胆に考えるようになった。 るだろうと思われました。何処か間が抜けていて、 高専に入学してからだ。人は環境によって変わるも しっ それで何処かに確かりした男らしいところのある点 のだと思う。 『こころ』に出てくるKも先生に誘われ も、私よりは優勢に見えました。学力になれば専門 御嬢さんの家に下宿していなければ、人を愛する心 こそ違いますが、私は無論Kの敵でないと自覚して も知らず生活しただろう。 いました。 先生はあまりに卑怯だったかもしれない。でも自 この文章は明らかに自分を不利に置いて物事を見 殺しなくても良かったと思う。 Kも先生にライバル意 る考え方だ。そこから友人に対し強い嫉妬感が生ま 識を持ってもらいたかった。Kにとっては「自殺= れているのだ。実際このような見方は誰でもよくす 負け」 という最悪の方程式が成り立ってしまったのだ。 るだろう。例えば相手はそんなことを何も思ってい 人の心は金や恋に関したら変わるので怖いと述べ ないのに妙に自分の心の中でいろんな面において相 ている。どんな時でも自分を優位に立たせるから恐 手と優劣を比べてみる。するとなぜか自分には劣し ろしいのだろう。でも心はなくてはならない。人が かないと思い相手が嫌になってくる。こんな時に 感動するのも、人を愛するのも心だからだ。自分な 限ってその相手が気さくに話してくる。さっきの思 りのこころをいつまでも大切にしたい。 いが相手への接し方を戸惑わせる。気が付くとその 相手はいない。すぐに感じよい相手の接し方と、暗 い曖昧な自分とを比べる。くだらないことにこだ 坊ちゃん わっていたと馬鹿らしくなる。と同時に今度は自分 夏目漱石 の態度に腹が立ち後悔さえしてしまう。ついには相 手が自分より一回りも二回りも大きく見える。嫉妬 2年3組 元村 俊彦 感を抱いていた自分を反省し、その相手に対して新 たな気持ちが生まれる。このようなことは私は日常 茶飯事のことだ。人間は目先の物に熱くなり過ぎる と冷静を失い、そのことだけ考えてしまうのだろう 「坊ちゃん」の感想を書く前になぜ「坊ちゃん」を か。先のことが見えなくなるのか。少なくとも私に 選んだかというのを書きたい。最初は本当に何でも はこんなことがやけに多い。だから今までたくさん よかったのですがどうせ書くなら自分が読んでてお の人から手を借りてきた筈だ。つまり先が見えず進 もしろいものがいいということで夏目漱石の作品は めない人間に道を照らしてやることが心の一つであ どうだろうと考えました。なぜかと言うと自分は夏 り、その人に感謝し信頼感を持つことも心の一つだ 目漱石の作品は読んだことはありませんが、こんな と思う。 にも長い間多くの人に愛され続けているのだから 最後に愛する人への心を考えてみる。先生はKか ら自分が御嬢さんに恋していると告白された時、苦 よっぽど面白い作品を書くのだろうと推測したから です。ではどの作品がいいだろうと考えてみました。 − 27 − 第9号 熊本電波高専図書館だより 1997. 12. 1 「三四郎」「草枕」「行人」「こころ」「吾輩は猫であ 言えば下から 3 番目なのでいわゆる平教師です。赴 る」など有名な作品は多々ありますが僕は「坊ちゃ 任早々に校長の狸から教員としての建前を説教され ん」を選びました。他の作品はどのような話か分か た坊ちゃんは本気で受け取り、そんな事は自分には らず面白いという保証がなかったからです。別に保 不可能なので帰ると言い出します。坊ちゃんは建前 証がないから読みたくないという事ではないのです の存在すら知らずに生きてきたのではないかと思わ が「坊ちゃん」にはその保証がありました。という せます。この事を身近な問題として考えたとき坊 のも 1 年生の時に国語の授業で「坊ちゃん」の内容 ちゃんのような人は変人あつかいされるのではない に少し触れてみたからです。具体的にはそのリアリ でしょうか。おそらくほとんどの人が坊ちゃんのよ ティーに興味をもちました。この作品で語られてい うな性格は素晴らしいとか、理想のような人だとか る人間の本音と建前のような物は現代の複雑な社会 思うでしょう。しかし実際に自分の学校や会社にこ にも共通していると思われるからです。単純過ぎて んな人がいたらどうでしょう。この複雑な社会では 経験が乏し過ぎて複雑な社会に適応しにくい坊ちゃ 坊ちゃんの様な人は生活しにくいと僕は思います。 んの性格を自分なりに性格診断してみました。性格 この説教事件から作者の建前社会へのメッセージが 診断にはユング心理学の分類法を採用してみました。 込められているような気がします。団子事件やバッ ユング心理学では、まず心(興味)の向かう方向か タ事件で生徒たちからコケにされてしまいます。そ ら「内向的」と「外向的」とに分け、さらに心の機 して坊ちゃんは 能として「思考」 「感情」 「感覚」 「直感」の 4 つを提 「やな奴だ。わざわざ東京から、こんな奴を教え 起し、これらの組み合わせから 8 つの性格に類型分 に来たのかと思ったら情けなくなった。」 類できるそうです。 (自分は心理学に詳しくないので と、つぶやく。坊ちゃんはたしかに口論になるとや 診断結果には何の保証もありません)坊ちゃんは外 り込められることが多い。しかし、心の中ではいつ 向的直感タイプと内向的思考タイプの混合だと思わ でも屈しない。彼は納得するまで屈しないのだ。た れます。外向的直感タイプはカンが良く人の才能の とえ理論でやり込められても誰が悪いかちゃんと分 発見などが得意。全体を素早く見る才能があるが、 かっている。理由もなしに結論を出すのは少々危険 飽きっぽいのでコツコツやる仕事には向かない。論 だが。この単純な坊ちゃんを利用して山嵐に罪をか 理的に見えても、たいていは優れた直感の判断の結 ぶせ、辞任に追い込んだのは言うまでもなく赤シャ 果、坊ちゃんの場合、気の短い江戸っ子で論理的で ツですが、この男は建前と本音を使い分ける悪党と はないためこのタイプではないかと思われる。また、 いう感じの奴で、現在社会においては存外、結構い 内向的思考タイプの人間は、一般的に「理想」や「主 るんじゃないでしょうか。政治家の人達は仕方ない 義」、独創的自分の考えを持つことが多い。頑固な でしょうがやはり多いでしょう。さて、 この赤シャツ 面を持ち、冷淡とか強情、わがままといった印象を という男は表では教頭として位置しているのですが 他人に与えてしまっている人もいる。自己宣伝が下 裏では他人の、しかも同じ職場の婚約者を横取りし 手な人が多い。などで坊ちゃんの場合、独自の考え たり団子事件やバッタ事件を山嵐に罪をかぶせたり、 を持ち頑固で自己宣伝も上手ではないためこのタイ 学校のけんかを利用して山嵐を辞任に追い込んだり プと思われる。親譲りの無鉄砲とかとうてい人に好 とやり放題という感じです。まさに「強者の権利」 かれるたちでないという坊ちゃんの性格からもこの です。しかし、坊ちゃんがこの事実を知って許す訳 2 つのタイプの混合で説明がつきます。このような がなく最後は山嵐と坊ちゃんに鉄拳制裁を加えられ 特殊な人格の形成の過程で忘れてはならない人物が るのですが、多分坊ちゃん達がいなくなればまた悪 います。清です。清は 10 年来召し使っている老婆 事をはたらくでしょう。世の中なんてそんなもので ほ でいつでも坊ちゃんの味方で坊ちゃんを賞めていま 個人が変えるには大きすぎます。だけど鉄拳制裁の した。坊ちゃんは気付かないうちに清の素直な考え 時は非常に気分が良かった。卵をぶつけるというの などに影響されていったのだと思います。その清と も良かった。ぽかりぽかりという表現も良かった。 別れて坊ちゃんは四国辺のある中学校に月給 40 円 ハッピーエンドで良かったと同時に漱石の人生観の で赴任するのですが当時の教職員の月給のランクで ようなものを感じた気がしたのが印象に残りました。 − 28 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 図書館からのお知らせ ☆☆☆ 書 新着図書・AVソフト案内 ☆☆☆ 名 ( : 内容) 000 総記 ・本の未来 ・たのしいUNIX、続 ・文書データ圧縮アルゴリズム入門 ・ホームページにおける著作権問題 ・雑誌新聞総かたろぐ 1997 ・政治ジャーナリズムの罪と罰 100 哲学 ・僕の考えた死の準備 ・不安症の時代 ・村上春樹、河合隼雄に会いにいく ・平気でうそをつく人たち ・「やさしさ」へのレッスン 200 歴史 ・世界の歴史 3、7、17、19 ・完本・太平洋戦争 上、下 ・西洋古代史研究入門 ・私は13歳だった ・女盗賊プーラン 上、下 300 社会科学 ・パソコン犯罪から身を守る ・江沢民時代の大中国 ・新電子立国 4、5 ・ビルゲイツ未来を語る ・日本政治の課題 ・個人情報防衛主義 ・サバイバル・ブック ・法廷のなかの人生 ・能力主義と企業社会 ・10代の性とこころ ・差別と人権 ・同胞 ・教育改革 ・学校で起こっていること ・マサチューセッツ工科大学 ・陽子 16歳 編著者名 富田 坂本 植松 倫生 文 友彦 田勢 康弘 木村 晋介 出版社名 アスキー 〃 CQ出版 毎日コミュニケーションズ メディア・リサーチ・センター 新潮社 村上 春樹 M.S.ペック 海原 純子 法研 日本評論社 岩波 草思社 朝日ソノラマ 伊藤 貞夫 樋口 恵子 P.デヴィ 中央公論社 文芸春秋 東京大学出版会 筑摩書房 草思社 谷岡 康則 朱 建 栄 講談社 朝日新聞社 日本放送出版協会 ビルゲイツ アスキー 山口 二郎 岩波 メディアジャム ジャストシステム 柘植 久慶 集英社 佐木 隆三 岩波 熊沢 誠 岩波 清水 弘司 サイエンス社 全日本同和連合会 同和文献保存会 岩波 藤田 英典 ベネッセコーポレーション F.ハプグッド 新潮社 文芸春秋 大森 陽子 MIT − 29 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 書 名 ( : 内容) 400 自然科学 ・兀のはなし ・脳ミソを哲学する ・胃は悩んでいる ・現代の感染症 1997. 12. 1 編著者名 金田 筒井 伊藤 相川 500 工学 ・インターユニバシティ 1、2、3、4、5、6 ・Java Hot Java を知る ・TCP/IPで学ぶコンピュータ ・はじめてのTCP/IP ・パソコンTCP/IP教科書 ・マスタリングTCP/IP 入門編 ・はやわかりインターネット ・誰にでもできるHTML入門 ・インターネットの虚像 ・インターネット探検記 ・インターネットを使いこなそう ・ゼロから学べるパソコン入門 1、2 康正 康隆 漸 正道 J. ディセンバー 小高 知宏 中西 隆 竹下 隆史 石田 晴久 小林 憲夫 星野 芳郎 C.マラムド 中村正三郎 脇 英世 出版社名 東京図書 講談社 岩波 〃 オーム社 プレンティスホール 森北出版 技術評論社 アスキー オーム社 共立出版 日本実業出版社 技術と人間社 トッパン 岩波 〃 700 芸術 ・芸術のパトロンたち ・世界美術全集 西洋篇 3、5 ・風の谷のナウシカ 5、6、7 ・The Photoshop Book 4.0J ・デニス・ロッドマンの「ワルがままに」 ・TIGER WOODS 伝説の序章 ・ 「武豊」の瞬間 宮崎 駿 野上タカヒロ デニス・ロッドマン T. ロザフォート 島田 明宏 岩波 小学館 徳間書店 エムディエヌコーポレーション 徳間書店 青山出版 集英社 800 語学 ・情報処理技術者のためのコンピュータ英語 ・大学入試 新・英文法で大切なこと ・英文解釈教室 ・ドイツ語学講座 1〜6 青柳 里中 伊藤 有田 忠克 哲彦 和夫 潤 産業図書 研究社 〃 南江堂 村上 村山 龍 由佳 高階 900 文学 ・群像 日本の作家 24、26 ・ラブポップ ・野性の風 ・青のフェルマータ ・則天武后 上・下 ・アンダーグラウンド ・失楽園 上・下 ・元就、そして女たち 秀爾 〃 津本 村上 渡辺 永井 − 30 − 陽 春樹 淳一 路子 小学館 幻冬社 集英社 〃 幻冬社 講談社 〃 中央公論社 熊本電波高専図書館だより 第9号 書 名 ( : 内容) 1997. 12. 1 編著者名 出版社名 ・恋愛道 ・ももこの世界あっちこっちめぐり ・梅桃が実るとき ・渡辺淳一全集 9、11、18 ・漱石全集 26 ・エンデ全集 1、2、4、9 北川悦史子 さくらももこ 吉行あぐり 渡辺 淳一 夏目 漱石 M.エンデ マガジンハウス 集英社 文園社 角川書店 岩波 〃 文 庫 ・猫はソファをかじる ・猫は殺しをかぎつける ・猫はペントハウスに住む ・猫は14の謎をもつ ・破妖の剣 ・クリセニアン年代記 L.J.ブラウン 〃 〃 〃 前田 珠子 ひかわ玲子 早川書房 〃 〃 〃 集英社 小学館 タ イ ト ル 発 行 所 L D ・バック・ビート ・耳をすませば ・TRUE MIND ・バスケットボール ダイアリーズ ・マーズアタック ・SPACE COWBOY SHOW ポニー・キャニオン 徳間書店 日本コロンビア パイオニア 〃 東芝EMI Video ・トイ・ストーリー ・デスペラード ・Love Letter ・イレイザー ・陽のあたる教室 ・8月のメモワール ・ザ・インターネット ・キッズ・リターン ・Shall we ダンス ・学校 II ・(ハル) ・undo[アンドゥ] ・スワロウテイル ・マイ・ルーム ・ディア・フレンズ ブエナ・ビスタ ソニー フジテレビジョン ワーナー 日本ヘラルド CIC ビクター ソニー バンダイ 東宝 松竹ホームビデオ 東宝 ポニー・キャニオン 〃 アミューズ 東宝 − 31 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 タ イ ト 1997. 12. 1 ル 発 C D ・glove ・Concentvation 20 ・PRIDE ・POWER OF DREAMS ・Failbox ・イレブン・グラフィティ ・フローリッシュ ・OUI OUI ・ヘンデル ・マーラー ・ブルックナー 平成9年度 ◆◆◆◆◆◆ 行 所 avex glove 〃 フォーライフ B-Gvam Sony ポニー・キャニオン ポリスター Epic/Sony 同朋舎出版 〃 〃 図書館委員・学生図書委員紹介 平成9年度 図書館委員 ◆◆◆◆◆◆ 図 書 館 長 田 辺 正 実 「図書館だより」 編集 一 般 科 目 塚 本 倬 巳 「図書館だより」 編集 情報通信工学科 葉 山 清 輝 「図書・雑誌」 選定 電 子 工 学 科 中 岡 敏 文 「AVソフト」 選定 電子制御工学科 柴 里 弘 毅 「AVソフト」 選定 情 報 工 学 科 村 上 純 「図書・雑誌」 選定 庶 中 村 市 「図書館だより」 編集 務 課 長 豊 − 32 − 熊本電波高専図書館だより 第9号 ◆◆◆◆◆◆ 1学年 学 級 責任者 1 氏 名 平成9年度 組 大 林 正 尚 2学年 学級 組 北 野 俊 輔 3学年 2 学生図書委員 崎 敬 田 2 中 3 麻 責任者 恵 濃 4 組 松 尾 梨 加 子 3 牧 組 宮 崎 敬 子 組 田 中 麻 子 ◆◆◆◆◆◆ 子 組 中 尾 領 揮 責任者 1 氏名 宮 1997. 12. 1 組 4 酒 井 智 史 組 原 田 浩 一 子 学科 情報通信工学科 電子工学科 電子制御工学科 情報工学科 氏名 稲 垣 貴 浩 西 山 零 士 鍋 島 恵 濃 牧 子 4学年 責任者 中 川 薫 力 学科 情報通信工学科 電子工学科 電子制御工学科 情報工学科 氏名 白 尾 善 生 小 山 典 泰 野 口 欣 吾 中 川 力 志 柿 義 浩 5学年 責任者 渕 崎 尚 良 学科 情報通信工学科 電子工学科 電子制御工学科 情報工学科 氏名 渕 崎 尚 良 米山理恵子 大 津 祐 樹 加 藤 明 章 ・学生図 書 委 員 会 委 員 長 米 山 理恵子 ・学生図書委員会副委員長 恵 濃 牧 − 33 − 子 熊本電波高専図書館だより 第9号 1997. 12. 1 図 書 館 利 用 状 況 報 告 1.入館者数(平成9年1月〜10月) (名)×1,000 15 ,,,, ,,,,,, ,,,, , ,,,,,, ,,,, ,,, ,,,,,,, ,,,, ,,,,,,,,,,,,,,,,,, ,,,,,,,,,,,,,,,,,, ,,,,,,,,,,,,,,,,,, 12,059 12 10,921 10,177 10,272 9,311 9 6,595 7,289 6,200 6 4,135 3,571 3 0 1 月 2 月 3 月 4 月 5 月 6 月 7 月 8 月 9 月 10 月 2.各クラス別貸出冊数(平成9年4月〜10月) , , , , , , , ,,, , , ,, ,, ,,,,, ,,,,,, ,,,,, ,, ,,,,,,,,,,,,,,,, ,,,,, ,, ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, ,,,,, ,, ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,, ,,,,, ,, (冊) 400 367 350 295 300 250 225 198 200 150 196 138 129 100 69 125 65 46 50 150 169 162 137 140 132 82 43 42 0 1 年 1 組 1 年 2 組 1 年 3 組 1 年 4 組 2 年 1 組 2 年 2 組 2 年 3 組 2 年 4 組 通 信 3 年 電 子 3 年 − 34 − 制 御 3 年 情 報 3 年 通 信 4 年 電 子 4 年 制 御 4 年 情 報 4 年 通 信 5 年 電 子 5 年 制 御 5 年 情 報 5 年 熊本電波高専図書館だより 第9号 3. 蔵 書 統 計 区 分 1997. 12. 1 (平成9年10月1日現在)(単位:冊) 総 記 哲 学 歴 史 社会科学 自然科学 工 学 産 業 芸 術 語 学 文 学 図 和 書 4,622 2,440 4,638 4,786 8,405 16,710 書 422 14 48 24 616 1,464 の 洋 書 冊 計 5,044 2,454 4,686 4,810 9,021 18,174 数 雑 和雑誌 誌 の 洋雑誌 種 類 計 数 28 2 5 36 25 101 1 8 13 37 33 114 5 33 2 5 891 2,258 2,289 5 別 数 量 9,938 56,977 339 811 3,763 896 2,278 2,628 10,749 60,740 22 22 4. 視 聴 覚 資 料 種 20 計 21 21 8 3 251 3 2 32 11 5 283 (平成9年10月1日現在) LD (レーザーディスク) CD (コンパクトディスク) 171 ◎視聴覚教育(AV)機器 枚 498 4セット − 35 − 本 ビデオテープ 446 巻 第9号 熊本電波高専図書館だより 「図書館だより」担当編集委員 図書館長 田 辺 正 実 一般科目 塚 本 倬 巳 庶務課長 中 村 豊 市 − 36 − 1997. 12. 1
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