環境と経営 - 静岡産業大学

ISSNI1341-5174
kankyō to keiei
環境と経営
第20巻 第 2 号
論 文
静岡産業大学論集
目 次
イノベーション再考
─ 持続的競争優位の基礎概念 ─
永山 庸男
1
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
青木 優
15
母親は子どもの気持ちをどのように
理解しているのか
菊野 春雄
41
“Typhoon” における他者の構造
後藤 隆浩
47
オッド・マン・アウト方式を活用した
英語語彙力増強の試み
須部 宗生
57
内水面漁業の資源管理
谷口 昭彦
69
精神障がい者の再就職支援のための音楽療法の効果
─ Aさんの事例を通して ─
大日方 重利・福田 ゆみ
83
ガザ戦争とハマス
森戸 幸次
93
シンガポールにおける華人会館の変容と新たな役割
合田 美穂
99
研究ノート
免疫グロブリンスーパーファミリーのドメイン2
大堀 兼男 111
翻 訳
ジョン・ノックスによる宗教改革文書(1)
― 1556年に神の御言葉の牧者であるジョン・ノックスからスコットランドの
摂政メアリへ差し出した書簡と1558年著者によって補足説明された文書(2)―
静岡産業大学経営研究所
伊勢田奈緒 121
第20巻 第 2 号
2 0 1 4 年 1 2月
環境と経営
静岡産業大学論集
第20巻 第2号
静岡産業大学経営研究所
イノベーション再考
─ 持続的競争優位の基礎概念 ─
Rethink of Innovation; The Fundamental Concept of Sustained
Competitive Advantages
永 山 庸 男
1. はじめに
2. 原点としてのシュンペーター
2-1. 新結合による新機軸の形成
2-2. 遂行者としての企業者
3. 破壊的イノベーション;クリステンセンの概念装置
3-1. 持続的技術変化と破壊的技術変化
3-2. 破壊的イノベーションの利活用
4. イノベーション主体の多様性
4-1.与件としてのイノベーション
4-2.主体逆転のイノベーション
5. むすび
1.はじめに
この四半世紀急速に進展したグローバリ
ゼーションを背景として、かつての先進国と
発展途上国という二分法的色分けは消滅し、
いわゆる「富の攻防」が展開している。経済
成長を国家政策の中核に据えた世界中の新興
工業国家群が、様々な優遇措置を講じて多国
籍企業(TNC)を始めとするグローバル企業を
誘致し、そのことを梃子とした自国の産業発
展を積極的に進めている。こうした状況を創
出した大きな要因は、アメリカ主導で展開さ
れた1990年代の情報通信産業の飛躍的発展に
ある。
情報通信産業の特徴は、その製品アーキテ
クチャーが典型的なモジュラー型となってい
ることである。世界的規模でのデジタル・イ
ンフラを前提とした要素技術を活用してコア
部品を標準化し、このコア部品を中核に据え
汎用部品とで構成される様々なモジュール化
された製品が産業の特徴となっていった。し
かも、それらの製品は情報通信のソフトウェ
アと一体化し、そのソフトウェアに大きく依
存して機能性を発揮するものである。このた
め、製品のコモディティ化が進展し、従来の
完成品レベルの競争による先進国優位から、
新興工業国家群への生産シフトによる、いわ
ゆる「富の分散」が進展していった。現在、
このような動きは、情報通信産業に留まらず
多くの産業分野で進展している。
こうした状況下にあって、近年、先進諸国
企業群並びに国家群の国際競争力回復を狙っ
た新たな主導的産業の模索のシンボルとし
て、
「イノベーション」という用語が前にも増
して頻繁に用いられている。しかしながら、
そこでのイノベーションの考え方は極めて多
元的に捉えられ、安易なキャッチフレーズ的
使われ方から企業経営の根幹の変換を主張す
るものまで多様である。
本稿は、上述の基本認識に従って、イノベー
ション概念そのものを改めて再考し、企業が
動態的な経営環境に適応し、持続的な競争優
位を創出しうる基礎的概念としてのイノベー
ション概念を考察することを目的としたもの
である。
2.原点としてのシュンペーター
2-1.新結合による新機軸の形成
ローゼンバーグ(Rosenberg,N.,1982)の指
─ 1 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
1)
摘を待つまでもなく 、すべてのイノベーショ
ン概念のエッセンスはシュンペーターにあ
る。あまた引用されている「新結合」
、
「企業
者」
「
、創造的破壊」という3つの概念である。
今井(2007)は、
シュンペーター(Schumpeter,
Joseph A.,1926)の現代的意義として以下の3
点を指摘している2)。
1.「新結合」という明快かつ鋭い用語をもっ
て、技術革新を軸とする経済転換の諸相
に動態的に道筋をつけていること。
2. その新結合を遂行する経済主体としての
「企業家」の機能を明確にし、かつそれ
が指導者機能(リーダーシップ)と結び
ついたときに、創造的破壊ともいうべき
変革が起こることを解明していること。
3. 常に歴史的事実と理論との関係を考え、
巧みなレトリックを多用することに
よって、複雑な問題に関する自己のビ
ジョンを他者に伝達することに成功し
ていること。
このような指摘は、シュンペーター(1926)
邦訳版の訳者のひとりである東畑による邦訳
書「訳者あとがき」での指摘でもみられる。
東畑は、シュムペーターの立場は、経済的範
疇の胎内から生まれている動因によって経済
自らが主導的に自らを変革していくとなす点
にある、として以下のように解説している3)。
あらゆる経済活動が諸生産用役の結合に
あるとするならば、発展においては循環に
おけるとは異なる「新しい結合」が行われ
る。この新機軸(イノベーション)を実現
していくのが発展の核心である。…(中略)
…平均的な合理主義的経済人とは異なって
1)
ローゼンバーグ(1982)は,経済学では与件とし
てしか扱われない技術(technology)を経済発展の
重要な要素として取り込んだ先駆的研究者とし
てシュンペーター,クズネッツ(Kuznets,Simon
S.,),マルクス(Marx,Karl)の3名を高く評価して
いるが,とりわけシュンペーターの技術的イノ
ベーションの概念は普遍的なものであるという
考えを示している。
2) 周知のように,創造的破壊という用語は,シュ
ンペーター (1926)では用いられておらず,今井
はシュンペーター (1942)との包括的把握で述べ
ている。今井(2008)を参照されたい。
3) シュンペーター (1926),訳書,下巻p.271.
いる新しい類の経済人たる「企業者」の活
動こそが、発展現象の根本動因となるので
ある。その活動を含めて一切の過程を企業
者活動(Unternehmertum ; entrepreneurship)
と呼ぶのである。
これらの指摘が示すように、シュンペー
ターは、企業者による内生的活動である諸生
産用役の新結合によって生まれる新機軸の実
現こそが発展をもたらす、という動態的変化
の重要性を提示した。ここでいう変化とは、
「経済体系の内部から生ずるものであり、そ
れはその体系の均衡点を動かすものであっ
て、しかも新しい均衡点は古い均衡点からの
微分的な歩みによっては到達しえないような
ものである」4)。また、
「生産をするというこ
とは、われわれの利用しうるいろいろな物や
力を結合することである。生産物および生産
方法の変更とは、これらの物や力の結合を変
更することである。…(中略)…新結合が
非連続的にのみ現われることができ、また
事実そのように現われる限り、発展に特有
な現象が成立する」5)として、新結合の遂行
(Durchsetzung neuer Kombinationen)こそが発
展をもたらすと主張する。
この新結合の遂行については以下の5つの
類型を挙げている6)ことは周知である。
①新しい財貨、すなわち消費者の間でまだ
知られていない財貨、あるいは新しい品
質の財貨の生産。
②新しい生産方法、すなわち当該産業部門
において実際上未知な生産方法の導入。
これはけっして科学的に新しい発見に基
づく必要はなく、また商品の商業的取扱
いに関する新しい方法をも含んでいる。
③新しい販路の開拓、すなわち当該国の当
該産業部門が従来参加していなかった市
場の開拓。ただしこの市場が既存のもの
であるかどうかは問わない。
④原料あるいは半製品の新しい供給源の獲
得。この場合においても、この供給源が
既存のものであるか――単に見逃されて
4)
訳書,上巻p.180.
同p.182.
6) 同pp.182-183.
5)
─ 2 ─
イノベーション再考
いたのか、その獲得が不可能とみなされ
ていたのかを問わず――あるいははじめ
てつくり出されねばならないかは問わな
い。
⑤新しい組織の実現、すなわち独占的地位
(たとえばトラスト化による)の形成あ
るいは独占の打破。
そして、このような新結合の遂行にとって
重要な点として2点を強調している7)。第一に、
新結合を具現する企業や生産工場などは、単
に旧いものにとって代わるのではなく、これ
と並んで現われること。第二に、新結合の遂
行およびそれを具体化するものの成立は、原
則として決して利用されていない生産手段を
結合して行われるものではないこと。
新結合に関してこの2つの強調点が意味す
る意義は大きい。すなわち、
新機軸の形成(=
イノベーション)をもたらす新結合は8)、現
行の活動のなかから生まれ、現行の活動と同
時進行していくものである、ということであ
る。この現行活動中の組織内の内生的要因と
して、しかも現行活動との非連続性として捉
えられる新機軸の形成をもたらす新結合こそ
が、既存の構造を揺り動かし、
「創造」の過程
を始動させ、新結合が旧結合を破壊するとい
う過程を登場させる9)、という「創造的破壊」
を伴う“イノベーション”に他ならない。だ
からこそ、新結合遂行の担い手である企業者
が重要となってくるのである。ただし、シュ
ンペーターのいう企業者については若干の整
理が必要である。
2-2.遂行者としての企業者
シュンペーターが経済発展の本来的根本現
象と名づけた「企業者機能とその担当者であ
る経済主体の行動との本質」10)とは、以下の
ように定義付けされている11)。
われわれが企業(Unternehmung)と呼ぶも
のは、新結合の遂行およびそれを経営体な
どに具現化したもののことであり、企業者
(Unternehmer)と呼ぶものは、新結合の遂行
をみずからの機能とし、その遂行に当って
能動的要素となるような経済主体のことであ
る。
上述のことを極めて雑把な表現をすれば、
イノベーションが起こせない企業は企業とは
言えず、イノベーションを積極的に興すこと
を自らの職務としない者は企業者とは呼べな
い、ということであろう。シュンペーターは、
静態理論では企業者は利潤も得なければ損失
も蒙らなく、そこでは何ら特殊な機能ももた
ず、それゆえこうした経営管理者には企業者
という言葉を使わない12)、と述べ、更に、
「だ
れでも『新結合を遂行する』場合にのみ基本
的に企業者であって、したがって彼が一度創
造された企業を単に循環的に経営していくよ
うになると、企業者としての性格を喪失する
のである」13)と述べている。今井(2007)は、
この点に企業者活動の特徴を他の活動から区
別し、これを特殊な現象と考えるべき本質的
な理由がある、と指摘し、それまでの慣行を
破り、経済問題の場合に特に激しい革新への
抵抗を押し切り、与件自体を変えてゆく動的
な企業家像を明らかにした14)、と述べ、既述
のように、それが指導者機能(リーダーシッ
プ)と結びついたときに、創造的破壊とも
いうべき変革が起こると主張しているのであ
る。
塩 野 谷(1995) も ま た シ ュ ン ペ ー タ ー
(1926)の最も光彩を放っているのは企業者
像の叙述であると主張している15)。塩野谷
は、シュンペーターの企業者概念は特定の
人間や階級を指すのではなく、企業者精神
(entrepreneurship)
、あるいは一般的に言えば
7)
10)前掲訳書,上巻p.198.
8)
11)同pp.198-199.
訳書,上巻pp.183-187.
周知のように,シュンペーター (1926)ではイノ
ベーションという言葉は使われていない。しか
し,塩野谷(1995)によれば,そこではイノベー
ションと同義として「新結合の遂行」という言
葉が使われている,と述べている(p.197及び
p.392)
。
9) 今井(2008),p.10.
12)同p.202.
13)同p.207.
14)今井(2007),
連載第5回「企業家と指導者」
。なお,
今井(2007,2008)はシュンペーターの企業者を
企業家=アントレプレナーと表現している。
15)塩野谷(1995),pp.201-211.
─ 3 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
指導者精神(leadership)という機能を指して
いるとして、動態的人間である企業者の行う
活動として、
「現存する可能性を新しく組み替
えることが指導者活動である」16)、と述べて
いる。
しかし、既に述べたように、現行活動中の
組織内の内生的要因として、しかも現行活動
との非連続性として捉えられる新機軸の形成
をもたらす新結合の中核的遂行者である企業
者について、塩野谷は、
「企業者は経済領域に
属するという意味では内生的要因といってよ
いけれども、それ以上に経済の領域において
遡ることのできない究極的な要因であるとい
う意味では、外生的要因といわなければなら
ない。企業者はいわば経済体系内部における
外生的要因である」17)、と述べたうえで、シュ
ンペーターが「内部からの経済発展」を明ら
かにするために究極的に到達した企業者概念
は、シュンペーター特有のレトリックから離
れていえば、外生的要因である18)、と主張し
ている。この点からして、米倉(2001、一橋
大学イノベーション研究センター)の「発展
のメカニズムだけにあえて企業者を登用する
という自己矛盾をおかしていた」19)という指
摘は正鵠を射たものである。
しかしながら、シュンペーターの提示した
新結合の遂行者である企業者という概念の意
義は、以下の伊東/根井(1993)の叙述に的
確に示されている20)。
留意しなければならないのは、シュン
ペーターが新しい可能性に対してのみ特殊
16)塩野谷(1995),p.205.
17)同書,p.205.
18)塩野谷はこの主張の根拠として,シュンペー
ター (1926)の以下の叙述を引用している。
「二つ
の現象の間に一定の因果関係を見出すことに成
功した場合,この因果関係において『原因』の
役割を演ずる現象がもはや経済現象でない場合
には,われわれの任務は果たされたのである。
…(中略)これに反して,この『原因』自体が
さらに経済的性質のものであるならば,われわ
れはさらに非経済的原因に到達するまで説明
の努力を続けなければならない。
」
(訳書,上巻
p.28.)
19)一橋大学イノベーション研究センター (2001),
p.56.
20)伊東/根井(1993),p.135.
─ 4 ─
な指導者類型が出現すると主張しているこ
とである。しかも、経済の分野における指
導者としての企業者自身は、新しい可能性
を「発見」したり「創造」したりする必要
はない。新しい可能性はいつでも存在して
いるのだが、指導者機能とは、
「これらのも
のを生きたもの、実在的なものにし、これ
を遂行すること」であるという。そして、
指導者機能を特徴づけるものとして、シュ
ンペーターは、
「まず事物を見る特殊な方
法」
、
「ひとりで衆に先んじて進み、不確定
なことや抵抗のあることを反対理由と感じ
ない能力」
、
「権威」
・
「圧力」
「人を服従させ
る力」といった言葉で表わすことのできる
他人への影響力などを挙げるのである。こ
こでも、企業者を単なる経営管理者から明
確に区別するというシュンペーターの立場
が一貫しているのが分かるであろう。
多くの先行研究が、シュンペーターの提示
した企業者概念の論理的矛盾を認めつつもそ
の意義を強調するのは、現在活動中の組織内
から、従来の視点に囚われない新しい視点を
もって、旧来的機軸に代わる新たな機軸を率
先して創り出そうとする「新結合の遂行者」
という発展にとって不可欠な存在をシュン
ペーターが提示したからである。既存の生産
手段の効率的な「結合」によって「循環的」
経営を行う単なる経営管理者でなく、新たな
効率的な結合を生み出す非連続的な「新結合」
を導く人間の重要性を「企業者」という特殊
な存在として位置づけたことの意義は極めて
「シュンペーターが意図し
大きい21)。つまり、
ていた企業家像は均衡破壊の先駆的イノベー
ションの遂行者」22)であるという理解である。
これまでみてきたように、シュンペーター
が提示した新結合という概念とその遂行者と
しての企業者概念、そして新結合を遂行する
ことによって生じる創造的な破壊という概念
21)経営史の観点からこうした「企業者」の優れた
考察を行っている米倉(1999,2011)を参照され
たい。また,今井(2008)のアントレプレナーに
関する見解も参照とされたい(同書,pp.29-33.)。
22)一橋大学イノベーション研究センター,前掲書,
p.56.
イノベーション再考
は、
「依然としてわれわれが立脚しうる土台で
あり」23)、創造的破壊プロセスを伴う新結合
の遂行というイノベーションの基本的な捉え
方はしっかりと認識されなければならない。
さらに、そのイノベーションの遂行者として
の企業家の存在が不可欠であることも基本と
して捉えられねばならない。こうした基本の
うえに立って、企業者の強力なリーダーシッ
プのもとでの新結合遂行のプロセスについて
検討する必要がある。
しかしながら、この新結合遂行のプロセス
に関しては、多くの先行研究が新たな科学的
発見や技術開発に焦点を当て、それとの連動
によってもたらされる新たな製品開発とその
商品化のプロセスを論じている。それはシュ
ンペーターの提示した新結合の5つの類型の
一部でしかない。だが、科学や技術の発展が
もたらす社会の変化、そのコンテクストのな
かで生まれてくる企業活動や生活・生活様式
の変化・変質という視点に立てば、技術発展
を新結合遂行のプロセスの中核に据えること
は当然かもしれない。この点からして、企業
者を“Innovator”として「技術変化」の観点
から実践論を展開しているクリステンセン
(Christensen, Clayton M.)はひとつの有益な
示唆を提供している。
3.破壊的イノベーション;
クリステンセンの概念装置
3-1.持続的技術変化と破壊的技術変化
クリステンセン(2000)が提示したのは、
「破
壊的イノベーションの法則」と自らが名付け
た概念装置である。イノベーションの成功と
失敗についての調査、分析を通じて、認知さ
23)今井(2007),連載第4回「創造的破壊の多面性」
。
一方で,技術革新のプロセスにおいて新しい秩
序が生まれるという視点に立てば,破壊あって
の創造という表現でなく,創造あっての破壊,
言うならば破壊的創造という表現でなければ
ならない,と伊丹(2009)は主張している(pp167169.)。しかしながら,シュンペーター自身も破
壊を目的とした新結合を主張したのではなく,
静的均衡状態から新たな均衡を生み出すプロセ
スを踏むことの意義を提示したのであって,伊
丹の主張は破壊という用語への違和感を示して
いるに過ぎないと考えられる。
─ 5 ─
れている優良経営の原則に従う場合と他の原
則に適する場合とを判断するための法則であ
るとする。経営者は、破壊的イノベーション
の法則を理解し、それと調和するように経営
努力を行えば、最も難しいイノベーションを
導けるという主張である。
クリステンセンが定義する「技術」は、組
織が労働力、資本、原材料、情報を、価値の
高い製品やサービスに変えるプロセスとして
おり、エンジニアリングと製造に止まらず、
マーケティング、投資、マネジメントなどの
プロセスも包括するものである、と主張して
いる。そして、
「イノベーション」とは、これ
らの技術の変化を意味する、と定義づけてい
る。24)
このクリステンセンによるイノベーション
の捉え方は、さきに引いたシュンペーターの
5つの新結合の類型を「技術(technology)の
活かし型」という視点で再構築したものであ
る。それは、経営者が、技術変化をマネジメ
ント・プロセス、マーケティング・プロセス、
投資プロセス等にどのように有機的に組み込
んでいくかが、イノベーションとして新たな
成長や競争優位の創出の鍵を握っており、と
りわけ優良企業といわれた企業の経営上の失
敗の検証を通じて得られる含意であるとい
う、クリステンセンの基本的な問題意識に他
ならないからである。そのことは、シュン
ペーターの主張した企業者による新結合の遂
行と同一線上に位置づけられるものである。
こうしたクリステンセンの考え方が、
「持続的
技術(sustaining technologies)」と「破壊的技術
(disruptive technologies)」という概念装置とし
て登場するのである。25)
「持続的技術」とは、製品の性能を高める
ものであり、新技術のほとんどを占める。あ
らゆる持続的技術に共通するのは、主要市場
のメインの顧客が今まで評価してきた性能指
標に従って、既存製品の性能を向上させる点
であり、個々の業界における技術的進歩は、
持続的な性質のものがほとんどである。一方、
24)Christensen(2000),p.xv(訳書,p.6).
25)Ibid.,pp.xvii-xx.(訳書,pp.8-11.)
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
図1.持続的技術変化と破壊的技術変化の影響
持続的技術による進歩
市場のハイエンドで求められる
パフォーマンス
持続的技術による進歩
破壊的イノベーション
市場のローエンドで求められる
パフォーマンス
時 間
(出所)Christensen (2000) p.xixより引用。
従来とは全く異なる価値基準を市場にもたら
し、
短期的には製品性能を低下させるのが「破
壊的技術」である。このため、持続的技術と
破壊的技術との間には戦略的に重要な違いが
あり、それは既存研究で使われる漸進的変化
と抜本的変化との区別とは全く異なるもので
ある、とクリステンセンは述べている。ただ
し、クリステンセン/レイナー(Christensen
& Raynor、2003)では、この「破壊は相対的
概念である」と説明している26)。ある製品な
いし事業に関するアイデアが、一部の既存
企業にとっては破壊的イノベーションである
ように思えるが、一部にとっては持続的イノ
ベーションである場合、それは破壊的イノ
ベーションとは言えない。標的市場領域すべ
ての既存企業にとって破壊的イノベーション
となる機会を明確にすることが必要である、
と主張する。
破壊的イノベーションの基盤として据えら
れているのが、優れた経営が失敗に繋がる3
つの理由(彼はこれを「失敗の理論」と呼ん
でいる)である。第一が、上述の持続的技術
と破壊的技術との間の戦略的違いであり、第
二が、技術進歩のペースが市場ニーズより速
26)Christensen
& Raynor(2003),訳書,pp.51-53.
─ 6 ─
く進む場合が多いということ。そして第三が、
成功企業の顧客構造と財務構造は、あるタイ
プの新規参入企業と比較して、当該企業の投
資魅力に重大な影響を与えるということ、の
3つである。
図1は上記の第二の失敗の理論を示したも
のである。技術が市場需要より速く進歩する
という意味は、企業が競合企業より優れた製
品を準備し、より高価格でより高い利益を得
ようとする努力においては、供給業者は時と
して自らの市場を「飛び越す(overshoot)」と
いうことである。つまり、顧客が必要とする、
あるいは究極的に支払い意欲以上のものを顧
客に提供することになる。そしてより重要な
のは、市場需要におけるユーザーに関して、
今日は十分な成果を生まない破壊的技術が、
明日には同じ市場で十分な競争上の成果を生
むかもしれないということを意味しているこ
とである。
第三の失敗の理論である安定企業が破壊的
技術への投資を非合理的であるとする根拠と
して以下の3つを挙げている。
①通常、破壊的製品のほうが単純で低価格、
利益率も低い。
②破壊的技術は典型的に新市場ないし取る
に足らない市場で先ず商品化される。
イノベーション再考
③一般的に、リーダー企業の最も収益性を
有する顧客は、破壊的技術を基盤とした
製品を欲せずまた最初の使用者になるこ
とはない。
概して、破壊的技術は、市場における最も
収益性のない顧客に最初に受け入れられる。
そのため、企業にとってベストの顧客の声を
聴き、より大きな収益性と成長性をもたらす
新製品を追求することを原則として実践して
いるほとんどの企業は、破壊的技術に投資す
るころにはすでに手遅れである場合がほとん
どである。
このようにクリステンセンは、3つの失敗の
理論を提示することで、顧客ニーズに適応し
た持続的技術による商品提供を通じて高度な
収益性を確保しうる優良企業が、その経営行
動に従えば従うほど失敗の危険性を増し、破
壊的技術による明日の競争優位を導く商品提
供を行う企業との競争に敗れるという「イノ
ベーション・ジレンマ」を示している。そし
て、それは優れた経営者による健全な決定が
企業を失敗へと導くというイノベーター・ジ
レンマでもある。破壊的技術に直面した経営
者は、以下に示す破壊的技術の5つの原則を
理解したうえで、破壊的イノベーションの法
則を利用・活用する(harness)ことによって27)、
個々の状況に応じた最適解を導くことができ
る、というのがクリステンセンの主張の中核
をなしている。
3-2.破壊的イノベーションの利活用
彼が破壊的技術の原則として示しているの
は、
原則1:企業は顧客と投資家に資源を依存
している
企業が破壊的技術で成功するには、経
営者が資源依存の力を無視したり、戦っ
たりせずに、その力と組織を調和させる
必要がある。
27)訳書では「調和」という用語が用いられている
が,文脈上,破壊的技術を巧みにコントロール
しながら利用・活用するという本源的な意味の
方が適切であると考えられるので,
本稿では「利
活用」という用語を用いる。
破壊的技術の特徴である低利益率で収
益性を達成するためのコスト構造をもっ
た独立組織を設立することが唯一の有効
手段。
原則2:小規模な市場では大企業の成長
ニーズを解決できない
目標とする市場の大きさに見合った規
模の組織に、破壊的技術を商品化する任
務を与える。小規模な組織の方が小規模
な市場での好機に容易に対応できる。
原則3:存在しない市場は分析できない
強力な先行有利があるのは、市場につ
いてあまり知らない破壊的イノベーショ
ンであり、これがイノベーターのジレン
マである。
原則4:組織の能力はその無能力の決定的
要因となる
組織の能力は、そこで働く人材の能力
とは無関係であり、組織の能力は2つの
要素で決まる。
①プロセス;組織構成員が習得した労
働力、エネルギー、原材料、情報、
資金、技術といった「インプット」
を価値の向上という「アウトプット」
に変える方法。
②組織の価値基準;組織の経営者や従
業員が優先事項を決定するときに拠
り所とする基準
原則5:技術の供給は市場の需要と等しい
とは限らない
競合する複数の製品の性能が市場の需
要を超えると、顧客は性能の差によって
製品を選択しなくなる。製品選択の基準
は、性能から信頼性へ、さらに利便性か
ら価格へと進化することが多い。
製品の性能が市場の需要を追い抜く現
象が、製品ライフサイクルの段階を移行
させる最大のメカニズム。
の5つである28)。クリステンセンは、これら
の5つの原則について事例を用いて検証した
後、電気自動車を事例として破壊的イノベー
28)Ibid.,pp.xxiii-xxviii
and pp.111-115 (訳書,pp.1420.及びpp.143-146.).
─ 7 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
ションの法則の利用・活用の適用マネジメン
ト策を示している。つまり、破壊的イノベー
ションを企業のコア・コンピテンスへと取り
込む経営資源の活かし方、市場の捉え方、組
織のあり方、製品アーキテクチャーの考え方
そしてマーケティングといったマネジメント
実践論を展開させている。
クリステンセン(2000)のpart twoで展開
されている破壊的イノベーションの5原則の
利用・活用に関する議論は、イノベーション
に関する多くの先行研究と同様にイノベー
ションをいかにマネジメントし、相対的な
競争優位性へと結びつけていくかというもの
である。この点については多くの先行研究が
様々な論を展開させているし、ある意味「も
のづくり」という視点からのイノベーション
議論の中核をなしていると言っても良いであ
ろう29)。しかし、本稿での議論で重要な点は、
クリステンセンが提示した破壊的イノベー
ションの5原則が、技術の活かし方という視
点であるにしても、経営資源の利活用、機動
的組織の構築、市場の創造、組織能力の利活
用、技術力を活かした製品開発といった、ま
さに、シュンペーターが提示した内生的に新
たな効率的な結合を生み出す非連続的な「新
結合」を導くことの重要性を示唆しているこ
とであり、その主導者たるイノベーターとし
ての企業者的トップマネジメントのリーダー
シップ必須性の再確認である30)。ただし、こ
こで留意すべきは、このようなイノベーター
たる企業者的トップマネジメントの役割であ
る。クリステンセン/レイナーでは、この役
割を3点指摘している。第1に、破壊的成長
事業と主流事業のインターフェースを直接監
督し、企業の資源とプロセスのうち、どれを
29)例えばChristensen
& Raynor(2003)はこの点を深
めたものであり,Tidd,Bessant & Pvitt(2001),一
橋 大 学 イ ノ ベ ー シ ョ ン 研 究 セ ン タ ー (2001),
Burgelman,Christensen & Wheelwright (2004), 榊
原(2005) ,榊原/香山(2006)なども同様の議論
である。
30)Christensen & Raynor(2003),前掲訳書第10章及
びHaour(2004),訳書第2章並びに第6章を参照さ
れたい。ただし,両者ともイノベーションをマ
ネジメントするという視点からのリーダーシッ
プの必須性を強調している点は留意されたい。
─ 8 ─
新事業に適用すべきか、すべきでないかを
判断、決定すること(短期的課題)
。第2は、
彼らが「破壊的成長エンジン」と呼ぶ、利益
ある成長事業を繰り返し巧みに立ち上げるた
めの反復可能なプロセスを作り出すこと(長
期的な責任)
。そして第3は、状況の変化を
察知し、変化の徴候を見分ける方法を教える
こと(永久に続く責務)
。これらの3つの役
割を果たすトップマネジメントこそが、破壊
的イノベーションを通じて成長事業を生み出
す能力の源泉である経営資源の中核である、
というのがクリステンセン/レイナーの主張
である31)。とりわけ第2の「破壊的成長エン
ジン」と名付けられた利益ある破壊的成長事
業を生み出す能力を組織内の効率的な結合の
プロセスとして経営資源化することの重要性
を力説する。ただし、このようなエンジンを
作り上げた企業は存在しないが、図2に示す
4つの重要なステップを踏めば可能であると
述べている。
このようにクリステンセン及びクリステン
セン/レイナーでは、破壊的イノベーショ
ンにより企業の画期的な成長事業を生み出
し、そこから利益ある成長事業を繰り返し
立ち上げる持続的イノベーションへと繋げる
プロセスを構築するというトップマネジメン
トの使命を提示している。しかしながら、破
壊的イノベーションを持続的イノベーション
へとプロセスとして構築した企業はないとし
て、その試行をトップマネジメントへ働き掛
けているに止まっている。イノベーティヴな
破壊的企業の創業者たちは、正しい初期条件
でスタートし、正しい事業構造をつくり出し
たことによって、さまざまな潮流や力を取り
込めるようになり、その力を借りて利益ある
成長に向けて邁進することができた、と主張
し、それは企業のシステムとして構築するこ
とが可能であり、そうしなければ企業は衰退
の道をたどることになる。従って、適切な経
営資源の蓄積と配分、マネジメント・プロセ
ス、価値基準を有するビジネスモデルの構築
をトップマネジメントがしっかりとした状況
31)Christensen
321.
& Raynor(2003),前掲訳書,pp.319-
イノベーション再考
図2.破壊的成長エンジン
必要になる前に
・ 投資するのに最適な時期は,企業がまだ成長している間である
始める
・ 急成長へのプレッシャーは,新事業に多くの誤った決定を下させる
破
壊
的
・ 上級役員が資源配分プロセスを監督する
上級役員による監督
成
・ 企業のプロセスのうち,どれが適当か適当でないかを判断する
・ 破壊的事業と持続的事業との間の意思疎通を図る
長
エ
ン
専門家チーム
「始動者と形成者」
・ アイデアを破壊のリトマス試験に適合するように形成する責任を負う
・ 理論を用いて状況に即した行動が取られていることを確認する
ジ
ン
・ 市場のニーズに最も近いところにいるエンジニアと営業部隊が,何を
部隊の訓練
探すべきかを理解していなければならない
・ 適切に訓練された部隊は,適切なアイデアを適切なプロセスへ送り
込める
(出所)Christensen & Raynor (2003),訳書,p.335.より引用。
え方を市場との関係に焦点を当てて概念化を
図る研究である。以下ではこの点を概説して
みよう。
の変化の判断と適切な意思決定のもとで行う
ことこそがイノベーションの「ジレンマ」へ
の「解」となる、という示唆であり、その根
底にあるのは、繰り返しになるが、シュンペー
ターの企業家による内生的に新たな効率的な
結合を生み出す非連続的な「新結合」を導く
ことの重要性である。この意味で、楠木(2013)
の「破壊的イノベーションは、概念それ自体
としてはイノベーションの古典的な議論に立
ち戻るものである」32)という指摘は正鵠を得
たものである。
イノベーションの非連続性という観点から
すれば、クリステンセンのいう破壊的イノ
ベーションが持続的イノベーションへとプロ
セス化され、そこから新たな破壊的イノベー
ションが生み出される連鎖というのは理想的
な理論であろう。しかし、それは企業の立場
であって、市場を構成する消費者をそこに介
在させることでイノベーションそのものの捉
32)楠木
4.イノベーション主体の多様性
4-1.与件としてのイノベーション
イノベーションの「新規性」に着目して議
論を展開させたのがロジャーズ(Rogers,E.M.,
1962,2003)の普及理論であることは周知であ
る。ロジャーズは、イノベーションと技術を
同義語として使うことを明言したうえで、
イノベーションとは、個人あるいは他の
採用単位によって新しいと知覚されたアイ
デア、習慣、あるいは対象物である。…(中
略)…あるアイデアが個人にとって新しい
ものと映れば、それはイノベーションであ
る。
と定義し、イノベーションが「新規」である
かどうかは、知識、説得、あるいは採用決定
という観点から判断されるとしている33)。た
だし、イノベーションと同義語として用いら
建(2013),p.52.
─ 9 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
図3.ロジャーズのイノベーション決定過程における5段階モデル
事前の状況
1... それまでの習慣 2... 切実なニーズや問題 3... 革新性 4... 社会システムの規範
コミュニケーション ・ チャネル
Ⅰ... 知識
意思決定単位の
特性
Ⅱ... 説得
Ⅲ... 決定
イノベーションの
知覚特性
Ⅳ... 導入
1... 採用
Ⅴ... 確認
採用の継続
後の採用
1... 社会経済的特性
1... 相対的優位性
2... 人格的変数
2... 両立可能性
3... コミュニケーション行動 3... 複雑性
4... 試行可能性
5... 観察可能性
中断
2... 拒絶
拒絶の継続
イノベーション決定過程とは、 個人 (あるいはその他の意思決定単位) が初めてイノベーションに関する知識を獲得して
から、 イノベーションに対する態度を形成して、 採用するか拒絶するかの意思決定を行い、 新しいアイデアを導入・使用
し、そしてその意思決定を確認するに至る過程のことである。
(出所)Rogers(2003)、訳書、p.85より引用。
れる技術には、①物質あるいは物体であって、
技術を具現化する道具よりなるハードウェア
としての側面、②道具を利用するための情報
基盤からなるソフトウェアとしての側面とい
う2つの側面があると指摘し、この2つは混
在物であると述べている。その結果、人が新
しいアイデアについて問題とするのは、
「その
イノベーションは何か?」
「そのイノベーショ
ンはどのように作用するのか?」
「そのイノ
ベーションはなぜ作用するのか?」
「そのイノ
ベーションの結果はどうか?」
「私にとって、
そのイノベーションがもたらす優位性と劣位
性は何か?」といった情報探索活動と情報処
理活動によって「新規性」を判断することに
なる34)。
このようにロジャーズにとってのイノベー
ションは、企業が市場に投入する製品の新規
33)Rogers(2003),訳書,第1章。
34)ザルトマン/ダンカン/ホルベック(Zaltman,
G.,R.Duncan and J.Holbek, 1973)もまた、イノベー
ション概念の先行研究を整理したうえで,ロ
ジャーズと同様な定義付けを行っている。
─ 10 ─
性を受け手であるユーザーが情報をもとに主
観的に判断する結果であり、市場投入された
技術(製品)を新規性=イノベーションと判
断するか否かでしかない。そのため、企業に
とって重要となるのが、新規と判断させるた
めの情報であり、互いに情報を創造し分かち
合う過程であるコミュニケーションの重要性
が強調される。このコミュニケーションが行
われる過程には、
①イノベーション
②イノベーションについての知識や経験を
持った個人(あるいは社会システムの構
成単位)
③イノベーションについての知識や経験を
持っていない個人(あるいは社会システ
ムの構成単位)
④これらの個人(ないし構成単位)を結び
つけるコミュニケーション・チャネル
が含まれるという(図3参照)
。ロジャーズが
半世紀も前に示したこのコミュニケーショ
ン・チャネルによる情報探索活動と情報処理
活動を通じた「新規性」の創出は、現在のイ
イノベーション再考
ンターネット社会で正に的を射た指摘となっ
ている。
さらに、イノベーションの機能的源泉と
いう変数を用いてイノベーションの多様性
を主張しているのがフォン・ヒッペル(von
Hippel, Eric A., 1988)である。イノベーショ
ンとの機能的関係、
つまりイノベーション(製
品、サービス、工程の革新)からどのような
形で便益を得るかによって企業や個人を分類
する概念である機能的源泉によって、
①イノベーションを使用することによって
便益を得るユーザー
②革新的なモノをつくることから便益を得
るメーカー
③革新的なモノをつくるのに必要な部品や
材料を供給することで便益を得るサプラ
イヤー
という主要なイノベーションとイノベーター
との間の機能的関係を示している。この機能
的関係のなかで、とりわけフォン・ヒッペル
が強く提示するのが、新奇な製品やプロセス
のニーズについて現実世界での経験を持って
いるユーザーであるリード・ユーザーの存在
である。彼は、リード・ユーザーを次の2つ
の特徴を同時に兼ね備えている人々と定義す
る。
①リード・ユーザーとは、市場で今後一般
的になるであろうニーズに現在直面して
いるユーザーである。すなわち、市場の
大部分がそのニーズに出くわす数ヶ月か
ら数年早く、彼らはそれらのニーズに直
面している。
②リード・ユーザーとは、それらのニーズ
を解決することによって、多大な利益を
得ることができる状況にいるユーザーで
ある。
フォン・ヒッペルは、少数の先進的ユーザー
が製品やサービスの革新性、工程の革新性と
いう彼の言うイノベーションを革新的である
と判断する方向に誘導できる可能性、つまり
イノベーションたり得るものへ導く可能性を
提示している。これは、先のロジャーズが示
した採用者カテゴリー(イノベーター、初期
採用者、初期多数派、後期多数派、ラガード
(採用の最も遅い人々)
)のイノベーターに近
い概念である。
ロジャーズしてもフォン・ヒッペルにして
も、イノベーションの捉え方は、導入される
製品なりサービスないし生産工程等が、その
受け手である市場の構成要素によって「新規」
ないし「新奇」と判断されるか否かでイノベー
ションと認識されるというもので、非連続性
とか新結合というシュンペーターやクリステ
ンセンの概念とは異なる。こうした考えは、
イノベーションの主体が企業から顧客・消費
者へとシフトしたという研究へと繋がってい
る。
4-2.主体逆転のイノベーション
小川(2000、2006、2013)は、イノベーショ
ンの源泉(イノベーションの発生場所)につ
いて、フォン・ヒッペルの研究(1988、2001、
2005)である「情報の粘着性仮説」という考
えを援用してユーザー起点のイノベーション
を主張している。イノベーション関わる多く
の情報の生成に局所性がある限り、それらの
情報はどの場所にも均等に生成・分布してい
るわけでなく、また情報の移転(情報の発見・
収集・理解・操作)にはコストがかかるので、
それらの情報の分布はイノベーション場所の
分布に影響を与えることになる。つまり、移
転困難な情報の所在地で活動するプレーヤー
がその情報に関わるイノベーションを行うこ
とになる、という仮説である。小川(2000)は、
イノベーションを「顧客がもつ問題解決のた
めの新しい情報の利用」であると定義したう
えで、製品開発という目標を達成するには、
ユーザーの活動場所で生成・保有されるニー
ズ情報とメーカーの活動場所で生成・保有さ
れる技術情報という情報とを結合させて最終
製品へと結実することが必要である。しかし、
ニーズ情報であっても技術情報であってもそ
れがもともと生成・存在しない場所にいる者
にとってはその情報を入手し活用することは
困難である。そこで情報の移転問題こそがイ
ノベーターの分布を説明することになり、イ
ノベーションの源泉(発生場所)を示すこと
になる、という考えを提示している。
─ 11 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
5.むすび
以上、イノベーション概念について、原点
であるシュンペーター、破壊的イノベーショ
ンという概念を用いて原点に立ち戻りつつ経
営戦略のコンテクストからイノベーションの
本質論を展開させたクリステンセン、そして
イノベーション主体の多様性を示すロジャー
ズやフォン・ヒッペルの研究を概略的に考察
してきた。そこでの議論は、シュンペーター
が提示した内生的に新たな効率的な結合を生
み出す非連続的な「新結合」を導くこととい
うイノベーションの本質とその主体である企
業家=経営者の重要な役割、そして、クリス
テンセンによるシュンペーター概念を基盤と
した現代の経営における経営資源の利活用、
機動的組織の構築、市場の創造、組織能力の
利活用、技術力を活かした製品開発といった
イノベーションを創出する方策を積極的に行
う責務をもつトップマネジメントの重要性、
というそもそも論であった。さらに、
イノベー
ションをイノベーションたらしめるのは受け
手である市場=顧客・消費者であるという視
点で展開される普及理論やユーザーイノベー
ション概念というイノベーション主体に多様
性があるという事実に注目した研究の概要を
考察してきた。
時代が閉塞感を覚えると登場する「イノ
ベーション」という言葉。企業にとっては新
たな収益を生み出す分野開拓の必要性が喫緊
の課題となり、社会の成熟化とともに「新し
い」モノの創出や受容が難しくなっている現
状を打破する合い言葉のようにイノベーショ
ンが語られる。楠木(2013)は、世間一般で語
られている「イノベーション」のうち9割以
上は技術進歩として理解されるべきであると
指摘し、顧客の価値に劇的な変化を起こし、
社会生活に大きな変化をもたらすインパクト
があってこそのイノベーションであって、そ
れは技術進歩とは異なり、必ずしも高度な技
術開発がなくとも非連続性や価値次元の転換
は起こりうると主張している。この点から、
ユーザーイノベーションという価値次元の転
換をインターネット社会でのユーザーが起こ
すことは可能である。しかし、逆にこのこと
プ ラ ハ ラ ー ド / ラ マ ス ワ ミ(Prahalad,C.
K.&V.Ramaswamy、2004)やプラハラード/ク
リシュナン(Prahalad & S.Krishnan、2008)の示
したイノベーション概念もまたイノベーショ
ンの主体を顧客に据えて展開されている。顧
客をイノベーションの主体的なプレーヤーに
位置づけ、顧客との価値共創こそ企業競争優
位の源泉であると位置づけている。企業同士
の連携も含めて、イノベーションを企業と顧
客が一体となって実現すること(コ・イノベー
ション)が企業の競争優位獲得にとって不可
欠であると主張している35)。必須要件である
顧客ニーズの把握という従来の顧客の副次的
役割から企業と顧客とが一体となったイノ
ベーションを創出するという考えである。
「企
業が主体となって価値を創造する」から「顧
客を主体にして価値を共創する」への転換を
求めているのである。
このように、企業主体のイノベーションと
いう考え方から消費者・顧客との協働的イノ
ベーション、更には顧客主体のイノベーショ
ンというようにイノベーションの主体は多様
化し、ユーザーイノベーション研究として大
きな流れを形成している36)。こうした動向の
背景には、ICT(Information and Communication
Technology)の飛躍的発展があることは周知で
ある。しかし、こうしたユーザーイノベー
ションが、マーケティング研究における「対
話型マーケティング」
、
「ダイアログ・マーケ
ティング」
、
「関係性マーケティング」という
市場を構成するあらゆる要素の情報を、まさ
にICTを駆使して、企業が収集するばかりで
なく発信を行うという双方向型のマーケティ
ング行動によって市場創造を行っている点と
どう異なるのか、曖昧さは払拭できない。こ
の点については改めての論に譲ることとした
い。
35)Von
Hippel(1988)でも,技術ノウハウの非公式取
引という視点で競合企業間の協調というイノ
ベーションの源泉での役割を主張している。訳
書,第6章を参照されたい。
36)一小路(2013)を参照されたい。
─ 12 ─
イノベーション再考
が安易なイノベーション議論を引き起こして
いることも事実である。インターネットが顧
客の社会的価値形成に極めて重要な役割を果
たすことはすでにマーケティング領域で多く
の優れた研究が蓄積されている。それが、企
業と顧客との双方向的情報処理を通じた「ト
レンド形成」なのか「イノベーション発生の
源泉」なのか議論が分かれる。しかしながら、
本稿で検討した「非連続的な新結合」を創出
することを基本とした企業経営は、そのこと
で必須とされる経営資源の利活用、機動的組
織の構築、市場の創造、組織能力の利活用、
技術力を活かした製品開発によって、動態的
な経営環境に適応し、持続的な競争優位を創
出しうるのではないだろうか。
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─ 14 ─
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
Progress and Future Trends in High-Performance Computer Technology
青 木 優
Ⅰ.
Ⅱ.
Ⅲ.
Ⅳ.
Ⅴ.
Ⅵ.
はじめに
高性能コンピュータ技術の変遷
各国の高性能コンピュータ事情
次世代スーパーコンピュータ・プロジェクト
高性能コンピュータ技術の今後の動向
まとめ
Ⅰ.はじめに
近年、高性能コンピュータ技術の進歩に伴
い、科学技術計算やコンピュータ・シミュレー
ションが、自動車、船舶、航空機、高層ビル、
原子力、材料開発、生命科学研究、医療など
の様々な産業分野の発展に寄与している。こ
れらの科学技術計算やコンピュータ・シミュ
レーションは、理論や実験と並ぶ第3の研究
開発手法として、今や企業の国際競争力を強
化する為に必要不可欠となっている。
大規模な科学技術計算やコンピュータ・シ
ミュレーション等に用いられる超高性能コン
ピュータを「スーパーコンピュータ」
(略して
「スパコン」
)と呼ぶが、コンピュータの性能
が年々向上する為、それを定義することは難
しい。そこで、一般的に使用される家庭用コ
ンピュータよりも演算速度が少なくとも1000
倍以上速いコンピュータを「スーパーコン
ピュータ」と呼んでいる1)。国家プロジェク
トとして開発されたスパコン「京(けい)
」が、
2011年に世界最速のコンピュータとして認定
されたことは未だ記憶に新しいが、その後、
スパコン「京」を用いて、創薬、地震・津波、
気象、宇宙、ものづくり、材料開発など幅広
い分野で成果が出ている。
近年、製造業に於いては、CAD(Computer
Ai ded D es i gn)、C AE(C om puter Ai ded
1)
辛木哲夫『次世代スパコン「エクサ」が日本を
変える!「京」は凄い、
“その次”は100倍凄い』,
小学館,(2014年), pp.17.
─ 15 ─
E n g i n e e r i n g )、 C A M ( C o m p u t e r A i d e d
Manufacture)
、NC (Numerical Control) 旋 盤、
マシニングセンタ、3Dプリンタ等を用いた製
造業に於ける製造プロセスのデジタル化が進
んでおり、
これを「デジタルファブリケーショ
ン」
、
または「デジタル製造革命」と呼ぶ。様々
な製造工程をデジタル化し、コンピュータで
設計・管理することにより、更にコスト削減
が可能となり、国際競争力強化に繋がる。製
品の設計段階で高性能コンピュータによる科
学技術計算やコンピュータ・シミュレーショ
ンを用いることにより、更なるスピードアッ
プやコストダウンが期待できる。また、日本
企業が築き上げてきた垂直統合型の製造形態
は、現在では国際競争力を失ってしまってい
るが、デジタル製造革命では垂直統合型の製
造が向いているとも言われており、デジタル
製造革命の発展次第では、日本の製造業が復
活する可能性もある。
高性能コンピュータ技術の進歩が様々な産
業分野の発展に寄与している具体的な事例と
して、自動車産業を取り上げてみる。従来、
自動車の開発は、自動車のボディや部品の形
状を変え、試作品を作り、風洞実験を行うこ
とにより製品開発を進めてきた。しかし、こ
の作業を何パターンも繰り返すのは、非常に
時間とコストが掛かる。これらの作業を全て
コンピュータ・シミュレーションで行い、最
終的に選ばれたものをだけを試作し、風洞実
験をおこなえば、製品開発の時間短縮とコス
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
トダウンに繋がり、延いては国際競争力強化
に繋がる。
具体的な事例の二つ目として、医薬品産業
を取り上げる。一般的に、薬を開発するとは、
まず病気の原因となっているタンパク質を見
つけ出し、その構造をX線回折によって原子
レベルで明らかにする。そして、そのタンパ
ク質の機能を阻害する為、それに結合する化
合物を探索する。しかし、化合物は1060種類
以上もあり、すべての化合物について薬とし
ての効果を実験的に調べることは不可能であ
る。しかも、化合物の形状が合うだけでなく、
タンパク質との結合の強さを正確に求めるこ
とは容易ではない。そこで、コンピュータを
用いた量子化学計算2)によって電子レベルの
する確率は、
男性53%、
女性41%である。今後、
更にスパコンの処理速度が向上すれば、副作
用の少ないがんの特効薬が開発される可能性
が高まる。
量子化学計算は、スパコンを利用すること
により、医薬品開発だけではなく、様々な材
料開発にも適用可能であり、非常に大きな成
果をもたらすことができる。コンピュータや
ナノテクノロジーの進歩と共に、量子化学計
算で物質設計をおこない、ナノテクノロジー
で思い通りの物質を開発可能となってきた。
計算を行うことにより、病気の原因となるタ
ンパク質と薬の候補となる化合物の結合の強
さを高精度で求め、薬の候補として最も有力
な化合物を探し出すのである。これは、コン
ピュータ内での創薬方法であることから、
「イ
ンシリコ創薬」と呼ばれている。実際、イン
フルエンザの薬として知られるタミフルも、
こうして設計されている。それでもまだ、新
しい薬を創るには何年もの時間を要してい
る。
人間の体の60%は水であり、タンパク質は
水の中で働いている。したがって、タンパ
ク質の周りに多くの水分子を配置してコン
ピュータ・シミュレーションを行うことによ
り、より現実に近い創薬が可能となる。この
方法は、スパコン「京」が登場する以前に国
内最速だったスパコン「地球シミュレータ」
でも数ヶ月を要する計算であり、これまでは
現実的ではなかった。しかし、スパコン「京」
の登場により、数日で計算結果を得られるよ
うになった。実際、スパコン「京」によって、
薬の開発期間2年~ 3年が1年~ 1.5年と半分
になり、成功確率も2500分の1が10分の1 ~
100分の1と数十倍から数百倍になり、開発費
については約200億円が数億円~数十億円と
なっている3)。現代では、生涯でがんに罹患
今後は、更なるコンピュータの発展と共に、
様々な産業分野での活用が広がると予想され
る。例えば、今後のエネルギー問題や地球環
境問題を考える時、太陽光発電などの再生可
能エネルギー技術、蓄電技術、送電技術など
の進歩は非常に重要である。これら技術の進
歩は、材料の進歩に依存するところが非常に
大きい。しかし、これら材料の開発は、非常
に時間とコストが掛かる。そこで、量子化学
計算によって、時間短縮とコストダウンをし、
さらに技術の進歩を加速するのである。
量子化学計算分野では、今までに次の二つ
のノーベル化学賞が授与されており、量子化
学計算が人類の発展に寄与していることを示
している。最初の受賞は、1998年、ジョン・
ポープルとウォルター・コーンの「化学物質
の性質や反応過程の量子化学理論(第一原理
計算理論)の構築への貢献」である。二つ目
の受賞は、2013年、マーティン・カープラス、
マイケル・レビット、アリー・ワーシェル
の「複雑化学系を計算する為のマルチスケー
ル・ モ デ ル(QM/MM(Quantum Mechanics/
Molecular Mechanics)法)の開発への貢献」
である。このQM/MM法は、コンピュータに
よってタンパク質などの複雑な分子の化学現
象を解明する為の量子化学計算的手法の一つ
として広く用いられており、今後、生体反応
メカニズムの解明や創薬の分野で更なる応用
が期待されている。
コンピュータ産業の発展は、どの国に於い
2)
3)
量子化学計算とは、物理学や化学の第一原理か
ら物質の構造や性質を計算によって求める手法
である。
─ 16 ─
奥野恭史,「スパコン「京」が拓く医薬品開発の
未来 ~速い安い旨い薬づくり~」, K computer
Symposium 2013,(2013年).
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
ても重要である。コンピュータ産業の発展の
レベルが、その国の様々な分野の発展のレベ
ルと言っても過言ではない。このようにコン
ピュータ産業は社会、経済、学術など様々な
分野に大きな影響を与えている。コンピュー
タは研究者や技術者の独創的なアイディアを
現実のものにする可能性を秘めており、企業
の国際競争力の強化に繋がるのである。
本論文では、今までの高性能コンピュータ
技術の進歩、及び各国の高性能コンピュータ
事情について述べると共に、現在の高性能コ
ンピュータ開発の現状と課題、そして今後の
動向について様々な情報を基に考察を行う。
Ⅱ.高性能コンピュータ技術の変遷
高性能コンピュータ技術の変遷について考
える時、
「TOP500」4)に蓄積されたデータは、
最も重要なデータの一つである。
「TOP500」
は、スパコンの処理性能の高い順に500位ま
でを、毎年6月と11月に2回公表している。こ
の処理性能を調べるベンチマーク・ソフト
ウェアには、米国アルゴンヌ国立研究所に
於いて、当初はFORTRANライブラリとして
開発されたLINPACK5),6) が用いられ、線型方
程式を解く速度を測定することにより、浮
動小数点演算性能を評価している。また、
「TOP500」には、処理性能だけでなく、様々
なデータが掲載されている。
最初にスパコンのアーキテクチャの変遷に
ついて述べる。図1は、1993年から2014年ま
での「TOP500」に於けるスパコンのアーキ
テクチャ別シェアの変遷を示す。スパコン
が登場してから1980年代まではシングルプロ
セッサの時代であったが、徐々にマルチプロ
セッサのスパコンが現れ、1996年頃までには、
「TOP500」に入るスパコンは全てマルチプロ
セ ッ サ と な っ てい る。Constellationsは、Sun
Microsystems社製であったが、同社は、2010
4)
TOP500, http://www.top500.org
Linpack, http://www.netlib.org/linpack/
6) HPL - A Portable Implementation of the HighPerformance Linpack Benchmark for DistributedMemory Computers, http://www.netlib.org/
benchmark/ hpl/
5)
年にオラクルに吸収合併された為、その後
「TOP500」からは消えている。SMP(symmetric
multi-processing:対称型マルチプロセッシン
グ)型 は、1台のコンピュータ内に於いて、
CPU を並列に並べ、一つのメモリ、一つの
OS、一つのアプリケーションを共有する方式
である。しかし、このSMP型スパコンも2002
年頃には消えている。現在ではMPP
(massively
parallel processor:超並列コンピュータ)型
とクラスタ型のスパコンが主流となってい
る。MPP型は、
1台のコンピュータ内に於いて、
CPU を並列に並べ、各CPUに、メモリ、OS、
アプリケーションソフトを搭載する方式であ
る。また、クラスタ型は、複数台のコンピュー
タを、多数、並列に結合させる方式である。
次 に、 図2に1993年 か ら2014年 ま で の
「TOP500」に於けるスパコンの半導体メー
カー別シェアの変遷を示す。以前は各スパコ
ンメーカーが半導体も製造していたが、現
在では必ずしもそうではなく、Intel、AMD、
IBMの米国3社でシェアのほぼ全てを占めてい
る。また、図1と比較すると、Intel社のシェ
アが広がった時期とクラスタ型スパコンの
シェアが広がった時期がほぼ一致している。
これは、クラスタ型スパコンに使用されてい
る半導体の多くがIntel社製であることを示し
ている。
図3は、1993年から2014年までの「TOP500」
に於けるスパコンの施設別シェアの変遷であ
る。研究機関や教育機関に於ける利用はやや
減少傾向にあるが、産業に於ける利用は1994
年と比較して2014年には2倍近くに拡大して
いる。これは、スパコンによるコンピュータ・
シミュレーションや高精度科学技術計算が、
産業の発展に寄与している証である。今後も
更に広い産業分野での利用が予測される。
図4は、1994年から2012年までの「TOP500」
に於けるスパコンのOS(Operating System:
基本ソフト)別シェアの変遷を示す。1998年
頃までは、大型コンピュータ向けOSのUnix
が主流であったが、それ以降は家庭用コン
ピュータにも使用可能なLinuxが主流となっ
て い る。 ま た、 図1と 比 較 す る と、Linuxの
シェアが広がった時期とクラスタ型スパコン
─ 17 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
図1 「TOP500」に於けるスパコンのアーキテクチャ別シェアの変遷
(出所)
「TOP500」 http://www.top500.org
図2 「TOP500」に於けるスパコンの半導体メーカー別シェアの変遷
(出所)
「TOP500」 http://www.top500.org
─ 18 ─
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
図3 「TOP500」に於けるスパコンの施設別シェアの変遷
(出所)
「TOP500」 http://www.top500.org
図4 「TOP500」に於けるスパコンOS別シェアの変遷
(出所)
「TOP500」 http://www.top500.org
─ 19 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
のシェアが広がった時期がほぼ等しくなって
いる。これは、クラスタ型スパコンに使用さ
れているOSがLinuxであることを示している。
この理由としては、PCクラスタを構築する
為に必要なソフトウェアが、Linuxではオー
プンソースで提供されていることが挙げられ
る。
図5は、1993年から2014年までの「TOP500」
に於けるスパコンの処理速度の推移を示す。
縦 軸 の 単 位FLOPS(Floating-point Operations
Per Second)7)はコンピュータの処理速度をあ
らわす単位であり、1FLOPSのコンピュータ
は、1秒間に1回の浮動小数点演算(実数計算)
ができることを意味する。また、図中で「#1」
は1位のスパコンの処理速度の推移を表し、
同様に「#500」は500位のスパコンの処理速
度の推移を、そして、
「Sum」は1位から500位
までのスパコンの処理速度の総和の推移を表
す。図5より、スパコンの処理速度は、10年
間で約1000倍になっていることがわかる。こ
のまま処理速度が向上していくと、2020年頃
にはペタ(1015)の1000倍であるエクサスケー
ルのスパコンが登場することになる。一方、
本論文の第Ⅰ章に於いて、
「一般的に使用され
る家庭用コンピュータよりも演算が少なくと
も1000倍以上速いコンピュータを『スーパー
コンピュータ』と呼んでいる」と書いたが、
スパコンの処理速度を家庭用コンピュータの
1000倍とすれば、10年前のスパコンの処理速
度は、現在の家庭用コンピュータのそれに
ほぼ等しいことになる。実際に、2013年に発
売されたパソコン向けのIntel社製CPU「Core
i7-4770K」のLINPACK性能は 177 GFLOPSで
あるが、これは、図5を見ると2003年の500位
のスパコンの処理速度とほぼ等しい。つま
り、数億円も費やしたスパコンも10年経てば
数十万円の卓上パソコンに取って代わられて
しまうということである。
「TOP500」に於ける1位と500位の処理速度
の差は100倍程度である。100倍の差があると、
500位のスパコンはとても1位のスパコンに太
7)
一般的には「FLOP/S」ではなく、
「FLOPS」と
標記する。
刀打ちできない。なぜならば、1位のスパコ
ンが1日で終わる計算を、500位のスパコンで
は100日かかるからである。100日は不可能な
計算時間ではないが、あまり現実的ではない。
実は、100倍どころか、10倍違ってもその差
はかなり大きい。なぜならば、1位のスパコ
ンが10日で終わる計算を、500位のスパコン
では100日かかるからである。10日ならば可
能な時間だが、100日は厳しい。そのような
意味では、10倍違ってもその差は大きい。し
かし、そのように考えてみると、処理速度だ
けで考えれば、トップと数倍程度の差であれ
ば、まだ同じ計算が可能であると考えられる。
何れにせよ、多額の資金を投入して購入した
スパコンであるから、そのスパコンでなけれ
ば不可能な計算にチャレンジした方がよい。
図6は、
「TOP500」に於けるスパコンの順位
と処理速度の関係を散布図にして、2005年6
月と2014年6月のデータを比較している。上
位のスパコンに注目する為、敢えてヒストグ
ラムでの描画を避けている。2014年と2005年
のスパコンの順位と処理速度の関係は非常に
似ている。1位と500位の速度比は100倍以上
あるが、注目すべきは、1位と10位の速度比
だけで10倍近くあることである。つまり、先
程の議論からすると、1位と10位以降のスパ
コンは全くの別物と考えたほうが良い。要
するに、世界最速レベルのスパコンとは、
「TOP500」に於いて精々 5位以内のスパコン
というところであろう。したがって、国際競
争力強化に寄与するというのであれば、単に
「TOP500」にランクインすることを目指すの
ではなく、5位以内を目指すことが重要であ
る。
これらのスパコンの処理速度向上には、半
導体の微細加工技術の発展が不可欠である。
単純にトランジスタの集積数を増やすと、ダ
イ(集積回路が作り込まれたシリコンの土台)
のサイズが大きくなり、1枚のシリコンウエ
ハから製造できるCPUの数が少なくなり、製
造コストが上がってしまう。したがって、ダ
イの大きさをあまり変えずに、集積密度を上
げることによりトランジスタの集積数を増や
すしかない。例えば、回路の線幅を0.7倍に
─ 20 ─
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
図5 「TOP500」に於けるスパコンの処理速度の推移
(出所)
「TOP500」 http://www.top500.org
図6 「TOP500」に於けるスパコンの順位と処理速度の関係
1.E+08
処理速度(GFLOPS)
1.E+07
2014年
1.E+06
1.E+05
2005年
1.E+04
1.E+03
1.E+00
1.E+01
1.E+02
順位
(出所)
「TOP500」
(http://www.top500.org)のデータを元に著者が作成
─ 21 ─
1.E+03
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
2
して同じ回路を作成すれば、0.7 ≒0.5なので、
面積は約半分で済む。その為、回路を2倍に
しても、以前のダイと同じサイズで製造が可
能である。
また、CPUの動作周波数を上げることも処
理速度向上に繋がる。動作周波数を上げるに
は電圧を上げる必要があるが、電圧を上げる
と消費電力が上がり、発熱量が増加し、誤動
作などを起こす。しかし、
回路の細線化によっ
て抵抗が下がり、消費電力を下げることがで
きるので、その下がった分で動作周波数を上
げることが可能である。
Intel社 の 創 設 者 の 一 人 で あ る ゴ ー ド ン・
ムーアが、1965年に「半導体の集積密度は18
~ 24 ヶ月で倍増する」という経験則(ムー
アの法則)を提唱したが、実際には集積密度
の向上ペースはこれより鈍化しており、
「集積
密度」を「性能向上」に置き換えれば、この
法則は現在でもある程度成立しているとされ
ている。スパコンの場合、
210=1024であるから、
処理速度は12か月で倍増することになり、ス
パコンの性能向上は、ムーアの法則よりも速
い速度で進歩していることになる。
しかし、ムーアの法則は半導体の微細加工
技術の発展を根拠としているため、いずれは
微細化が原子レベルにまで到達してしまい、
ムーアの法則は通用しなくなると予想され
る。現在、Intel社のHaswell世代のCPUでは微
細化が22nmまで進み、今後、14nm、10nmと
さらに細くなっていくと予想されている(図
7)
。しかし微細化が進み、7nmから5nm程度
(シリコン原子数十個分の幅)になると、熱
によってチップが溶ける、または量子論的な
効果で集積回路の動作が困難になるなどの理
由により、限界に近付いていると言える。
その為、2000 年代後半より、微細加工に
よる動作周波数の向上が困難になり、マルチ
コア化による性能向上を図った製品が登場す
るようになった。2005年に1CPU当たり2コア
の「デュアルコアCPU」が登場、2006年、4
コアの「クアッドコアCPU」が登場、2010年、
6コアの「ヘキサコアCPU」が登場、2014年
には18コアのCPUが登場している。そして、
現在のスパコンは、これらマルチコアCPUの
─ 22 ─
コンピュータを更にクラスタ化して高速化を
図っている。
またその一方で、2010年頃からスパコンを
高速化する為にアクセラレータやコプロセッ
サを搭載するなどの新しい動きがあるが、こ
れについては第Ⅴ章で詳しく述べる。
Ⅲ.各国の高性能コンピュータ事情
世界の国々の中で、長年に渡り世界最速ス
パコンの座を競いながらスパコン界をリード
してきたのは、米国と日本である。実際、表
1にあるように、過去20年間に「TOP500」の
1位になったスパコンは16台あるが、そのう
ち米国の施設が所有していたスパコンは9台
でトップであり、次いで日本は5台である。
近年は、中国のスパコン2台が1位になってお
り、現在では、この3か国がスパコンの処理
速度世界一を競っている。中国に於いては、
ここ10年程の間に急速にスパコン開発が進歩
している。これにはやはり、中国経済と深い
関係がある。その他、欧州に於いても以前か
ら研究利用でのスパコン需要がある。以下、
各国のスパコン事情について、詳しく述べる。
1.米国の高性能コンピュータ事情
スパコン以前に、最初のコンピュータを開
発し、その後のコンピュータ技術の発展を牽
引してきたのは米国である。どのコンピュー
タを最初のコンピュータと見なすかについ
ては、様々な意見があるが、1946 年にペン
シルバニア大学で真空管を約18000本使って
開 発 さ れ た「ENIAC」8) を 最 初 の 電 子 計 算
機、つまり最初のコンピュータと見なすのが
一般的である。この頃のコンピュータは、主
に軍事目的や研究目的に利用されていたが、
1951 年に米国レミントンランド社(現Unisys
社)が世界初の商用コンピュータ「UNIVAC
Ⅰ」を開発した。この時代の真空管を用い
たコンピュータは、
「第1世代コンピュータ」
( ~ 1959年)と呼ばれる。その後、米国で発明
されたトランジスタを用いた「第2世代コン
8)
Penn Engineering - ENIAC: Celebrating Penn
Engineering History, http://www.seas.upenn.edu/
about-seas/eniac/
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
図7 Intel社製CPUのプロセスルールの推移
プロセスルール(ナノメートル)
10000
1000
100
10
1
1970
1980
1990
2000
2010
2020
2030
(出所)CPUDB(http://cpudb.stanford.edu/)のデータを元に著者が作成
表1 過去20年間に「TOP500」の1位になったスパコンとその所有機関、国
スパコンの名称
所有機関
国
CM-5
Los Alamos National Lab
米国
Numerical Wind Tunnel
National Aerospace Laboratory of Japan
日本
Intel XP/S 140 Paragon
Sandia National Labs
米国
Hitachi SR2201
University of Tokyo
日本
CP-PACS
University of Tsukuba
日本
ASCI Red
Sandia National Laboratory
米国
ASCI White
Lawrence Livermore National Laboratory
米国
The Earth Simulator
Earth Simulator Center
日本
BlueGene/L
Lawrence Livermore National Laboratory
米国
Roadrunner
Los Alamos National Laboratory
米国
Jaguar
Oak Ridge National Laboratory
米国
Tianhe-1A
National Supercomputing Center in Tianjin
中国
K Computer
RIKEN Advanced Institute for Computational Science
日本
Sequoia
Lawrence Livermore National Laboratory
米国
Titan
Oak Ridge National Laboratory
米国
Tianhe-2
National Super Computer Center in Guangzhou
中国
(出所)
「TOP500」
(http://www.top500.org)のデータを元に著者が作成
─ 23 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
ピュータ」(1959年~ 1964年)やIC(Integrated
Circuit: 集 積 回 路 ) を 用 い た「 第3世 代 コ
ン ピ ュ ー タ 」(1965年 ~ 1979年)が 次 々 と 開
発された。その中でもICを用いたIBM社 の
IBM/360 が代表的である。このコンピュータ
は世界初の汎用コンピュータであり、これに
よってIBM社は世界制覇を成し遂げた。1980
年以降には、LSI(Large Scale Integration:集積
度が1000 ~ 10万個程度の大規模集積回路)や
VLSI(Very Large Scale Integration:素子集積度
が10万~ 1000万個程度の大規模集積回路)を
用いた「第4世代コンピュータ」(1980年~ )
が開発され、コンピュータの高性能化が進む
一方で、コンピュータのコンパクト化が進み、
Apple社やIBM社に代表されるようにオフィス
や家庭向けのパーソナル・コンピュータが普
及した。
一般的なコンピュータ同様、最初のスパコ
ンを特定するにも様々な意見があるが、1964
年 に 発 表 さ れ たCDC社 の「CDC6600」 を
最初のスパコンとするのが一般的である9)。
した。その結果、1997年 にIntel社のスパコン
「ASCI Red」
、
2000年に IBM社のスパコン「ASCI
White」 が「TOP500」 に 於 い て 世 界 最 速 と
なった。その後も米国はスパコン開発に注力
し、2010年のスパコン関連予算は18億8300万
ドル、2020年にはエクサスケール・スパコン
の稼働を目指している。
図8は、1993年から2014年までの「TOP500」
に於ける国別システムシェアを100%積み上げ
折れ線グラフで示している。海外製のスパコ
ンであっても、所有している国にカウント
している。これを見ると、米国は常に50%近
いシェアを維持しており、スパコンの利用
率が非常に高いことがわかる。また、2014年
6月現在の「TOP500」のトップテンには、2
位「Titan」
、3位「Sequoia」
、5位「Mira」
、7位
「Stampede」
、9位「Vulcan」
、10位( 米 国 政 府
のスパコン)と、米国製のスパコンが5台も
ランクインしている。
「CDC6600」は、
「スパコンの父」と呼ばれる
シーモア・クレイによる設計であり、世界初
の商用スパコンである。その後、クレイは
CDC 7600を開発、1972年にクレイ・リサー
チ社を設立し、1976年にCray-1を発表した。
Cray-1は大規模科学技術計算用に広く普及
し、成功を収めている。その後クレイ・リサー
チ 社 は、Cray X-MP、Cray-2、Cray Y-MPな
どを次々と開発し、スパコン業界をリードし
た。
しかし、1980年代後半~ 1990年代には日
本企業の優勢時代が続き、軍事面や産業面で
の競争優位のためにスパコンを重視してきた
米国との間で「日米スパコン貿易摩擦」が
生 じ た。 そ こ で 米 国 は、1991年 に「HPC法
(High-Performance Computing Act)
」 を 制 定、
1995年 か ら は「ASCI(Accelerated Strategic
Computing Initiative)プロジェクト」を推進
して国内コンピュータ関連産業の発展に注力
2.日本の高性能コンピュータ事情
米国同様、日本に於いてもスパコンが登場
する以前からコンピュータに関する研究開発
が盛んであった。コンピュータの研究開発は、
米国より少し遅れて第二次世界大戦後開始さ
れている。1950年頃から大学や企業に於いて
真空管を用いた第1世代コンピュータの開発
が始まったが、トランジスタコンピュータの
登場により、1950年後半に第2世代コンピュー
タへと移行し、1960年代半ばからはICを用い
た第3世代コンピュータに移行した。その後、
国内メーカーが次々とオフィス用コンピュー
タを発売している。ちょうどコンピュータが
大きく発展していく時期に日本もコンピュー
タ開発を始めている。
日本に於ける本格的なスパコンの歴史は、
1980年 代 に 遡 る。1981年、 通 商 産 業 省( 現
経済産業省)は、1989年までに10GFLOPSの
スパコンを製作、運転、評価を行い、その技
10)中村吉明,
9)
山田昭彦,「コンピュータ開発史概要と資料保存
状況― 第3世代・第3.5世代コンピュータおよ
びスーパーコンピュータについて ―」,『国立
科学博物館技術の系統化調査報告』
, 第2集
(2002年)
.
─ 24 ─
渡辺千匁,「通産省の研究開発プロ
ジェクトのマネジメントと効果 スーバーコン
ピュータプロジエクトのケースタディ」, 研
究・技術計画学会, 年次学術大会講演要旨集,
14: (1999年) pp.75-80,
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
図8 「TOP500」に於ける国別システムシェアの推移
(出所)
「TOP500」http://www.top500.org
─ 25 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
術を確立することを目標とし、
「科学技術用高
速計算システムプロジェクト(スーパーコン
ピュータ・プロジェクト)
」をスタートした10)。
当時の日本のコンピュータメーカーは既に
国際的競争力をもっていただけでなく、スパ
コンの研究開発からスピンオフして得られ
る技術は通常の商用コンピュータの開発にも
重要だと認識しており、既にスパコン開発を
進めていた。そして1982年以降、日本のコン
ピュータメーカーはスパコン市場に本格的
に参入し、1982年には富士通「FACOM VP100/200」
、日立「HITAC S-810」
、1983年には
NEC「SX-1、SX-2」が開発された。これらが
日本での本格的なスパコンの最初といえる。
1980年代後半~ 1990年代には日本のコン
ピュータメーカーの優勢時代が続き、1980年
代後半になると、国産スパコンは、世界最高
水準に達した。このころ開発されたスパコン
が、1987年 日 立「HITAC S-820」
、1988年 富 士 通「FUJITSU VP2000」
、1989年 NEC
「SX-3」である。そして、1990年代中頃まで
の世界最速スパコンは日本のほぼ独壇場と
なった。
しかしその後、
「日米スパコン貿易摩擦」が
生じ、さらに追い打ちを掛けるように、バブ
ル崩壊による国内スパコン市場縮小により、
日本のスパコン産業は衰退してしまう。
過去に世界最速となった日本製スパコン
は、航空宇宙技術研究所(現 独立行政法人
宇宙航空研究開発機構(JAXA)
)の「数値風
洞(NWT)」
(1993年~ 1995年、富士通との共同
開発)
、東京大学の「SR2201」(1996年、日立
製作所製)、筑波大学の「CP-PACS」
(1996年、
日立製作所との共同開発)
、独立行政法人海
洋研究開発機構の「地球シミュレータ」
(2002
~ 2004年、NEC製)
、独立行政法人理化学研
究所計算科学研究機構の「京」
(2011年、富士
通製)の5台である。このことから、1990年
代以降、日本では世界最高水準のスパコン開
発には力を入れていることがわかる。
しかし、
「TOP500」にランクインする我が
国のスパコン台数は減少傾向にある。図8を
見 る と、1993年 に は「TOP500」 の 内 で115
台が日本国内で稼働中であったが、2014年
には30台となり、1993年と比較して約1/4程
度にまで減少している。また、1993年には、
「TOP500」に入るスパコン保有台数の1位は
米国、2位は日本、3位はドイツ、4位はフラ
ンス、5位は英国となっていたが、2009年には、
1位米国、2位イギリス、3位ドイツ、4位フラ
ンス、5位フランスとなり、日本は6位となっ
た。
その後、第Ⅳ章で詳しく述べる国家プロ
ジェクト「次世代スーパーコンピュータ・プ
ロジェクト」によって、スパコン「京」を開
発し、2011年6月、中国のスパコン「Tianhe1A(天河1A号)
」を抜き、世界一を達成した。
2014年には、1位米国、2位中国、3位日本と
イギリス、5位フランスとなっている。
3.中国の高性能コンピュータ事情
1990年代以降、中国経済の飛躍的な成長
に伴い、1999年、中国のスパコンが初めて
「TOP500」にランクインし、2010年には国立
国防技術大学(NUDT)の「Tianhe-1A(天河
1A号)
」が「TOP500」に於いて1位となった。
その後も「Tianhe-2(天河2号)
」が1位となる
など、近年の中国に於けるスパコン開発の進
歩は目覚ましいものがある。
日本ではあまり知られていないが、中国に
於けるコンピュータ産業は1950年代の第1世
代コンピュータからスタートしており、その
歴史は米国や日本と同様に長い11)。1978年か
らは国の開放政策が始められ、コンピュータ
産業も徐々に発展し、1980年代以降大きく発
展した。
2014年6月 現 在、
「TOP500」 に 於 い て
「Tianhe-2(天河2号)
」が1位となっているが、
中国は今後の計画で、2020年までにエクサス
ケール・スパコンを開発するとみられている。
各国が、スパコンを国家プロジェクトとして
莫大な予算をつぎ込んで開発するのは、高精
度シミュレーションによって、防衛や防災に
有益となるのに加え、製造業などに於いて国
─ 26 ─
11)玄
光均,「現代中国 コンピュータ産業の現状
と展望」, 京都コンピュータ学院校友会機関誌
『アキューム』, vol.2 (1990年).
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
際競争力を強化する為の基盤となるからであ
る。宇宙開発と同様、スピンオフした技術が、
様々な産業に波及する効果も期待している。
図8に於いては、1999年、中国のスパコン
が初めて「TOP500」にランクインし、2009
年にはトップ500台の中に21台、2014年には
トップ500台の中に76台がランクインしてい
る。これは、日本の30台と比較して2倍以上
となっている。
ンピュータシステム等の研究を進めるという
ものである。
図8を見ると、欧州でスパコンを保有して
いる主な国はイギリス、フランス、ドイツ
の3か国であるが、ドイツが減少傾向であり、
一方、イギリスは増加傾向である。3か国の
合計は、1993年に105台であったが、2014年
には79台と減少している。日本と同様、中国
の台頭が影響していると考えられる。
また、2014年6月現在、
「TOP500」に於いて、
スイスのスパコン「Piz Daint」が6位、ドイ
4.欧州の高性能コンピュータ事情
欧州各国は、これまで米国や日本などの外
国製スパコンを調達してきた。その戦略は、
導入したスパコンを利用して、ソフトウェア
面で優位性を確保することである。しかし、
最近、フランスのBull 社は、スパコンの自主
開発を積極的に進めている。Bull 社のスパコ
ンは、2014年6月現在、
「TOP500」リスト中に
合計17台がランクインしており、欧州の国々
が導入している。
欧 州 の 研 究 共 同 体 で あ るPRACE
(Partnership for Advanced Computing in
Europe)12)は、
「全てのためのスパコン」とい
うビジョンの下に、2020年頃にエクサスケー
ル・スパコンを開発することを目標に、欧州
の競争力を強化する為の包括的なアプローチ
を開始した13)。科学分野だけでなく産業分野
にもスパコン利用のメリットを浸透させ、経
済的機会をもたらす狙いがある。
また、スパコン「Tianhe-1A(天河1A号)
」
をベースとする中国・欧州のスパコン戦略協
力プロジェクトが発足し、中国、イギリス、
ノルウェー、スペイン、ブルガリア、スイ
スの研究機関が共同で申請したEU第7次研究
枠組み計画(FP7)の国際協力プロジェクト
「SCC-Computing (Strategic collaboration with
China on super-computing based on Tianhe-1A)」
14)
がスタートした。このプロジェクトは、
様々
な分野で中国と欧州の強者連合をつくり、コ
12)PRACE,
http://www.prace-ri.eu/
ツのスパコン「JUQUEEN」が8位にランクイ
ンしている。
Ⅳ.次世代スーパーコンピュータ・プロジェクト
1.スパコン「京」
2000年以降、
「TOP500」にランクインする
日本国内のスパコンが減少していく中で、
2005年、文部科学省は以下の3つの目的を達
成する為、世界最先端・最高性能の次世代ス
パコンを開発・整備する「次世代スーパーコ
ンピュータ・プロジェクト」を立ち上げた15)。
・計算科学技術を更に発展させ、広範な分野
の研究及び産業における幅広い利用のため
の基盤を提供することにより、我が国の競
争力の強化に資すること。
・ライフサイエンス、物質材料、防災・減災
など多様な分野で社会に貢献する研究成果
を挙げること。
・我が国において、継続的にスパコンを開発
していくための技術力を維持及び強化する
こと。
この国家プロジェクトは、2006年~ 2012
年の間に、総額約1150億円をかけて10PFlops
(1秒間に1京回の演算が可能)のスパコンを
開発しようとするものであった。
「京」とい
う名前は、これに由来している。開発は、理
化学研究所を中心として富士通、NEC、日立
製作所の民間3社との共同プロジェクトだっ
13)野 村 稔,「 欧 州 の ハ イ パ フ ォ ー マ ン ス・ コ ン
15)文部科学省,「革新的ハイパフォーマンス・コン
ピューティング戦略とその実現に向けた動き」,
科学技術動向, 140 号, (2013年).
14)SCC-Computing, http://www.scc-computing.eu/
en/
ピューティング・インフラ(HPCI)の構築につ
いて」, http:// www. mext.go.jp/a_menu/kaihatu/
jouhou/hpci/ 1307375.htm
─ 27 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
たが、2009年5月にNECと日立製作所の2社が
撤退し、ベクトル型を担当していた2社が抜
けたことからシステム構成の見直しを迫ら
れ、ベクトル・スカラー複合型からスカラー
型へと変更した。その後、このプロジェク
トは、2009年11月の政府の事業仕分けによ
り、同年12月、引き続き世界最高水準を目指
しつつ、利用者側の視点に立った多様なユー
ザーニーズに応える「革新的ハイパフォーマ
ンス・コンピューティング・インフラ」を
構 築 す るHPCI (High Performance Computing
Infrastructure)計画へと変化し、処理速度だけ
でなく利用者の使い勝手にも更に配慮するこ
ととなった。
「京」の完成は2012年6月であっ
たが、2011年6月の性能評価で、中国のスパ
コン「Tianhe-1A(天河1A号)
」を抜いて世界
最速を達成し、同年11月にも2度続けて世界
最速となった。
ス パ コ ン「 京 」 に は 富 士 通 製 のCPU
「SPARC64VIIIfx」が搭載されている。図2の半
導体メーカー別シェアに於ける3大メーカー
(Intel社、AMD社、IBM社)以外であり、珍し
い存在となっている。人によっては、携帯電
話同様、
「ガラパゴス」という言葉を使う人も
居るが、コンピュータ産業に於ける技術の継
承という目的を考えると、これで目的は達成
されていると考えられる。ただし、今後も引
続き、技術が継承されることが重要である。
「SPARC64VIIIfx」は、45nm半導体プロセス
ルールで製造され、約7億6000万個のトラン
ジスタを集積している。1CPU当たり8コア
が搭載され、128GFLOPSの性能がある。ま
た、メモリは1CPU当たり16GB(1コア当た
り2GB)である。1枚のシステムボード(マ
ザーボード)には4つのCPUが搭載され、1台
のラックに24枚のシステムボードが収納さ
れている。つまり、このラック1台だけでも
96個のCPU(768個のコア)が搭載されてい
る。
「京」は、このラックを更に864台繋げて
並列計算をおこなうシステムとなっている。
したがって、82944個のCPU(7962624個のコ
ア)の並列計算が可能であり、10PFLOPSと
いう処理速度を実現できる。最大消費電力は、
1CPU当たり58Wであり、
「京」のシステム全
─ 28 ─
体で3000万Wである。これは、72000世帯分
の電力に相当する。
CPUの冷却方式は、近年には珍しい水冷式
を採用している。一般的にコンピュータの演
算性能は、CPUの温度を1℃下げれば性能が
0.2%向上し、10℃下げれば故障率は半減す
ると言われている16)。水冷方式によって十分
に冷却することによって、システムを安定的
に稼働させることが可能になっている。
また、
「TOFU(Torus Fusion)インターコネ
クト」と呼ばれる8万個以上のCPUを約20万
本のケーブルを用いて接続し、高速に協調動
作させるネットワーク技術も独自に開発して
いる。
「TOFUインターコネクト」では、12
個のCPUをメッシュ接続した各ブロック同士
を3次元トーラス接続している。これを、6次
元トーラス接続と呼ぶ。トーラスを構成する
一つのブロックにおいて通信機能が失われて
も、ブロック中の別のノードが通信機能を
バックアップすることで、トーラス接続を維
持可能である。
ここまで、スパコン「京」のハードウェア
について説明したが、このプロジェクトの目
的は、単に世界最速のスパコンを開発するこ
とではない。総額約1150億円を費やしている
わけだから、それに見合う成果が得られない
といけない。そこで、文部科学省は、スパコ
ン「京」の利用枠を非公募制の「戦略プログ
ラム利用枠」と公募制の「一般利用枠」の二
つに大きく分け、計算資源の効率的な利用を
図っている17)。その利用内訳は、
「戦略プログ
ラム利用枠」が「京」の計算資源の約50%、
「一
般利用枠」が約30%としている。残りの計算
資源は、
「京」のシステム調整等に利用されて
いる。
「戦略プログラム」とは「京」を用いて戦
略的・重点的に研究を推進していくプログラ
ムであり、
「京」の性能を最大限に活用し、科
16)日本経済新聞電子版,「スパコン「京」で復活し
た「忘れかけられた技術」 スパコンは再び「水
冷」へ」, 2012年7月27日.
17)高度情報科学技術研究機構, 「スーパーコン
ピュータ「京」及びHPCI共用計算資源 平成 26
年度利用研究課題募集の選定結果について -
「京」の産業利用枠を1.6倍に-」,(2014年2月)
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
表2 戦略プログラム分野配分枠における平成26年度選定課題一覧
細胞内分子ダイナミクスのシミュレーション
分野1
創薬応用シミュレーション
予測医療に向けた階層統合シミュレーション
大規模生命データ解析
相関の強い量子系の新量子相探求とダイナミックスの解明
電子状態・動力学・熱揺らぎの融和と分子理論の新展開
密度汎関数法によるナノ構造時空場での電子機能予測とその実現
分野2
全原子シミュレーションによるウイルスの分子科学の展開
エネルギー変換の界面科学
水素・メタンハイドレートの生成、融解機構と熱力学的安定性
金属系構造材料の高性能化のためのマルチスケール組織設計・評価手法の開発
地球規模の気候・環境変動予測に関する研究
超高精度メソスケール気象予測の実証
分野3
地震の予測精度の高度化に関する研究
津波の予測精度の高度化に関する研究
都市全域の地震等自然災害シミュレーションに関する研究
輸送機器・流体機器の流体制御による革新的高効率・低騒音化に関する研究開発
次世代半導体集積素子におけるカーボン系ナノ構造プロセスシミュレーションに関する研究開発
分野4
乱流の直接計算に基づく次世代流体設計システムの研究開発
多目的設計探査による設計手法の革新に関する研究開発
原子力施設等の大型プラントの次世代耐震シミュレーションに関する研究開発
格子QCDによる物理点でのバリオン間相互作用の決定
分野5
大規模量子多体計算による核物性解明とその応用
超新星爆発およびブラックホール誕生過程の解明
ダークマター密度ゆらぎから生まれる第1世代天体形成
(出所)高度情報科学技術研究機構, 「スーパーコンピュータ「京」の戦略プログラム利用枠で実施される平成
26年度重点 課題・一般課題の選定について」,(2014年).
学技術のブレイクスルーに挑む以下の5つの
分野から成る18)。
HPCI戦略プログラム:
【戦略分野1】予測する生命科学・医療および
創薬基盤 (実施機関:理化学研究所)
【戦略分野2】新物質・エネルギーの創成(実
施機関:東京大学物性研究所、分子科学
研究所、東北大学金属材料研究所)
【戦略分野3】防災・減災に資する地球変動予
測 (実施機関:海洋研究開発機構)
【戦略分野4】次世代ものづくり(実施機関:
東京大学生産技術研究所、宇宙航空研究
開発機構、日本原子力研究開発機構)
【戦略分野5】物質と宇宙の起源と構造(実施
機関:筑波大学、高エネルギー加速器研
究機構、国立天文台)
これら戦略分野に於いては、平成26年度
は、表2に示すような合計29件の研究課題(表
2以外に計算科学推進体制構築4件を含む)が、
HPCI戦略プログラム推進委員会に於いて選
定されている。
また、スパコン「京」の2014年度一般利用
枠には144 件の応募があり、69件の課題が選
18)姫野龍太郎『絵でわかるスーパーコンピュー
タ』, 講談社,(2012年), p.102.
─ 29 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
19)
ばれている 。このうち、産業利用について
は、35件の課題が選ばれている。分野別に
は、数理科学2件、物理・素粒子・宇宙4件、
物質・材料・化学21件、工学・ものづくり21
件、バイオ・ライフ11件、環境・防災・減災
8件、原子力・核融合2件である。この中で、
産業利用には、物質・材料・化学8件、工学・
ものづくり18件、バイオ・ライフ6件、環境・
防災・減災3件となっており、工学・ものづ
くり、バイオ・ライフの分野は、産業利用が
多いことがわかる。
2014年4月現在、スパコン「京」が実現し
たシミュレーションには、例として、以下の
ようなものが挙げられる20)。
・創薬・・・10種類以上の抗がん剤候補、リー
ド化合物を発見
・10兆個の結合の世界最大の脳神経シミュ
レーション(小型霊長類の全脳規模)パー
キンソン病のモデル確立へ
・人の心臓を精緻に再現、肥大型心筋症の病
態を蛋白質レベルの変異から解析、仮想手
術、心臓に埋め込むペースメーカーの電極
の位置を最適化
・血流シミュレータ+心臓シミュレータで心
筋梗塞のシミュレーション
・ウイルスの営みを分子レベルで解明-抗ウ
イルス剤やワクチン開発への道を拓く-
・シリコンナノワイヤー等の次世代半導体設
計手法を開発、世界初でナノ領域に流れる
電子分布
・高温超電導、量子スピン液体の機構解明に
向けてのシミュレーション
・リチウムイオン電池の電解液反応を分子レ
ベルで解明、充電時間を1/3に減らす電解
液の開発 磁性材料の材料設計に活用でき
る新たなシミュレーション技術を開発
・メタンハイドレートの融解機構を解明、よ
り効率的なメタンの回収 全球雲解像モデ
ル(NICAM)に よ る 気 候 研 究、 一 月 先 ま で
MJOの予測可能性 台風発生の10日程度前
から60%の確率で台風の発生を予測
・世界初の1km以下解像度で地球全体での積
乱雲の描像を明らかに
・発生の半日~ 1日前からの計算で高い確率
で2012年7月の九州北部豪雨を予測
・2012年5月6日のつくば竜巻のアンサンブル
予報実験
・南海トラフ巨大地震 広域詳細な高精度地
震動・津波シミュレーション
・ものづくり 自動車の空力、船体の推進抵
抗、ファンの性能と騒音、超高精度シミュ
レーション
・超新星爆発のシミュレーションに成功
このようにスパコン「京」は、様々な分野
で成果を挙げつつある。LINPACKによるスパ
コンの処理速度を競う「TOP500」ばかりが
クローズアップされがちであるが、本来の目
的からすれば、そのスパコンで挙げた成果も
考慮して総合的に評価すべきである。2014年
6月現在、
「TOP500」に於いて、スパコン「京」
は第4位であるが、成果も含めて総合的に評
価すれば、更に上の順位に位置すると考えら
れる。
2.FOCUSスパコン
「FOCUSスパコン」とは、2011年4月、企業
の国際競争力強化に向けたスパコン「京」の
産業利用に於けるエントリーマシンとして、
兵庫県、神戸市、神戸商工会議所が設立した
計算科学振興財団21)の高度計算科学研究支援
センター内に設置されたスパコンである。公
的機関所有のスパコンでは国内唯一の企業向
け貸し出し専用である。2014年1月現在、処
理速度は272TFLOPSである。また、2014年6
月の「TOP500」に於いて450位である。
「FOCUSスパコン」では、2014年8月15日現
在、合計80本(内商用アプリケーション57本)
のアプリケーション・ソフトウェアが動作検
19)高度情報科学技術研究機構, 「スーパーコン
ピュータ「京」及びHPCI共用計算資源 平成 26
年度利用研究課題募集の選定結果について -
「京」の産業利用枠を1.6倍に-」,(2014年).
20)平尾公彦「ポスト「京」プロジェクトについて」,
文部科学省「ポスト「京」で重点的に取り組む
べき社会的・科学的課題についての検討委員会
(第1回)配付資料3」
(2014年).
21)FOCUS,
─ 30 ─
http://www.j-focus.or.jp/
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
証済みであり、流体解析、構造解析、計算化
学など、一企業の計算機では手におえないく
らい計算規模が大きくなりがちな分野のソフ
トウェアが使用可能である。
「FOCUSス パ コ ン 」 を 製 品 開 発 な ど に 利
用 す る 企 業 は、 年 々 増 加 し て い る。 ま た、
「FOCUSスパコン」を利用した企業の43%は、
その後、より高速なスパコン「京」を使って
いる22)。表3に、平成26年度のFOCUSスパコ
ン利用企業等一覧を示す。利用企業は製造業
が多く、医薬品メーカーや材料メーカー等が
目立つ。
「FOCUSスパコン」に関する取り組みは、
地元にとっても大きな利点がある。現在、神
戸市が推進している「神戸医療産業都市」プ
ロジェクトに於いては、スパコン「京」と兵
庫県播磨にあるSPring-8やSACLA等の研究施
設と連携して、創薬等ライフサイエンスの分
野で更なる研究の加速が期待されている。ま
たこれ以外にも、イノベーションと新産業の
創出による神戸経済の成長、国内外の企業の
誘致、優秀な研究者・技術者の確保、神戸空
港など交通インフラの利用拡大、神戸市のイ
メージアップ等が挙げられる。
スパコンは、神戸市の計算科学研究機構内に
設置するとしている。目標とする処理速度は
1エクサフロップス級(1秒間に1018回の演
算性能)
、開発主体は独立行政法人理化学研
究所、総事業費は約1,400億円(国費分:約
1,100億円、関係企業分:約300億円)であり、
2020年度からの運用を予定している。
もはや抜けられない競争に日本も参加して
いるわけだが、エクサスケールのスパコン
開発にはいくつかのハードルが待ち構えて
いる。前述の通り、半導体の微細加工技術
は限界に達して、ムーアの法則も通用しなく
なろうとしている。その為、マルチコア化に
よって並列性を上げて、処理速度向上を図っ
ている。しかし、これ以上の並列化には、消
費電力の問題が生じてくる。2011年11月の
「TOP500」に於けるベンチマークテスト時
の「京」の消費電力は、12.65989MWである
Ⅴ.高性能コンピュータ技術の今後の動向
現在、米国をはじめ、中国や欧州の国々が、
国際競争力を高める為、エクサスケールのス
パコン開発を、2020年頃の完成を目標に進め
ている。我が国でも、文部科学省が推進す
る「エクサスケール・スーパーコンピュータ
開発プロジェクト」23)に基づき、2013年、
「国
家基幹技術としての世界最高性能のスパコン
の開発をする」と発表した。それによると、
2020年の完成を目指し、
「京」の100倍の処理
速度をもつエクサスケールのスパコン(ポス
ト「京」
)
、及びその性能を最大限に引き出す
アプリケーション・ソフトウェアの開発に着
手するとしている。また、エクサスケール・
22)産経新聞,「
「京」より役立つ!? スパコン「F
OCUS」が人気」, 2014年8月20日.
24)
。一般家庭での平均電力使用量を400Wと
すると、
「京」の消費電力は約30000世帯分に
相当する。日本では1MWが年間約1億円なの
で、電気料金だけでも年間約12億円になって
いる。現在の技術でエクサスケールのスパコ
ンの消費電力を考えると、さらに一桁消費電
力が増えてしまい、あまり現実的ではない。
このことから、スパコンの処理速度向上に
は、省エネルギー化が重要である。そこで、
電力1W当たりの演算回数(MFLOPS /W)を
評価尺度として、2007年から「Green500」25)
がスタートした。表4に2014年6月現在に於け
る「Green500」の10位以内のスパコンを示す。
これら全てのスパコンがNVIDIA社製のアク
セラレータGPGPU (General Purpose Graphics
Processing Unit)を使用していることがわかる。
つまり、スパコンの処理速度向上に重要な省
エネルギー化には、今のところNVIDIA社製の
アクセラレータGPGPUが有力であることが
わかる。また国別にみると、日本の東京工業
大学のスパコンが1位と8位に、筑波大学のス
パコンが3位に入っている。また欧州各国も
健闘している。米国のスパコンは10位のみで
23)文部科学省, 「エクサスケール・スーパーコ
24)FUJITSU,
ン ピ ュ ー タ 開 発 プ ロ ジ ェ ク ト 」, http://www.
mext.go.jp/component/ b_menu/other/__icsFiles/
afieldfile/2013/12/05/1342054_1.pdf
http://jp.fujitsu.com/about/tech/k/qa/
k04.html
25)GREEN500, http://www.green500.org/
─ 31 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
表3 平成26年度FOCUSスパコン利用企業等一覧(2014年8月15日現在)
㈱アイ・アール・ディー
神戸大学・水ing㈱
㈱トヨタプロダクションエンジニアリング
アイクラフト㈱
光洋サーモシステム㈱
㈱酉島製作所
㈱IDAJ
㈱コベルコ科研
ナブテスコ㈱
味の素㈱
㈱小松製作所
㈱ニコン
㈱アスムス
サイエンス ソリューションズ㈱
日機装技研㈱
アルプス電気㈱
サイバネットシステム㈱
㈱日産アーク
いであ㈱
佐藤製薬㈱
日本精工㈱
伊藤忠テクノソリューションズ㈱
㈱CAEソリューションズ
㈱日本製鋼所
今治造船㈱
JFEスチール㈱
NUMECAジャパン㈱
㈱ヴァイナス
JFEテクノリサーチ㈱
パイオニア㈱
AGCセラミックス㈱
㈱ジェイテクト
㈱バイオモデリングリサーチ
AGCプライブリコ㈱
シスメックス㈱
㈱爆発研究所
Exelis VIS ㈱
㈱島津製作所
パシフィックコンサルタンツ㈱
NECソリューションイノベータ㈱
新日鐵住金㈱
パナソニック㈱
NSプラント設計㈱
㈱数値フローデザイン
㈱ヒューリンクス
FsTech㈱
住友化学㈱
兵庫県立大学 産学連携・研究推進機構
㈱MCHC R&Dシナジーセンター
住友ゴム工業㈱
㈱フォーラムエイト
MPM数値解析センター㈱
住友電気工業㈱
㈱フォトン
㈱エンプラス研究所
住友ベークライト㈱
富士ゼロックス㈱
大阪ガス㈱
㈱精研
富士電機㈱
㈱大林組
セイコーインスツル㈱
㈱ブリヂストン
オムロン㈱
西菱エンジニアリング㈱
みずほ情報総研㈱
海洋エネルギーエンジニアリング㈱
㈱先端力学シミュレーション研究所
三井造船㈱
花王㈱
ソニー㈱
㈱三井造船昭島研究所
鹿島建設㈱
ソニーイーエムシーエス㈱
三菱電機㈱
㈱風工学研究所
㈱ソフトウェアクレイドル
三菱日立パワーシステムズエンジニアリング㈱
㈱カネカ
ダイキン工業㈱
三ツ星ベルト㈱
川崎重工業㈱
㈱大真空
ミネベア㈱
川重テクノロジー㈱
大日本スクリーン製造㈱
㈱明電舎
㈱気象工学研究所
千代田化工建設㈱
㈱森村設計
キッセイ薬品工業㈱
筑波大学・住友化学㈱・法政大学
森六テクノロジー㈱
京セラ㈱
帝人㈱
㈱ヤマナカゴーキン
クボタシステム開発㈱
㈱デンソー
ヤンマー㈱
㈱クロスアビリティ
東京大学生産技術研究所
㈱ユタカ技研
㈱計算力学研究センター
東京ニュークリア・サービス㈱
㈱リコー
㈱構造計画研究所
東洋紡㈱
㈱菱友システム技術
㈱神戸製鋼所
東レ㈱
リョービ㈱
(出所)
「FOCUS」
http://www.j-focus.or.jp/
─ 32 ─
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
表4 「Green500」の10位以内のスパコン(2014年6月)
Green500
Rank
MFLOPS/W
Site
Computer
1
4,389.82
GSIC Center, Tokyo
Institute of Technology
(日本)
2
3,631.70
Cambridge University
(イギリス)
3
3,517.84
Total Power
(kW)
TSUBAME-KFC - LX
1U-4GPU/104Re-1G Cluster, Intel
Xeon E5-2620v2 6C 2.100GHz,
Infiniband FDR, NVIDIA K20x
34.58
Wilkes - Dell T620 Cluster, Intel
Xeon E5-2630v2 6C 2.600GHz,
Infiniband FDR, NVIDIA K20
52.62
HA-PACS TCA - Cray 3623G4Center for Computational
SM Cluster, Intel Xeon E5-2680v2
Sciences, University of
10C 2.800GHz, Infiniband QDR,
Tsukuba(日本)
NVIDIA K20x
78.77
3,459.46
SURFsara
(オランダ)
Cartesius Accelerator Island - Bullx
B515 cluster, Intel Xeon E5-2450v2
8C 2.5GHz, InfiniBand 4× FDR,
Nvidia K40m
5
3,185.91
Swiss National
Supercomputing Centre
(CSCS)
(スイス)
Piz Daint - Cray XC30, Xeon
E5-2670 8C 2.600GHz, Aries
interconnect , NVIDIA K20x Level
3 measurement data available
6
3,131.06
ROMEO HPC Center Champagne-Ardenne
(フランス)
romeo - Bull R421-E3 Cluster, Intel
Xeon E5-2650v2 8C 2.600GHz,
Infiniband FDR, NVIDIA K20x
7
3,019.72
CSIRO
(オーストラリア)
CSIRO GPU Cluster - Nitro G16
3GPU, Xeon E5-2650 8C 2GHz,
Infiniband FDR, Nvidia K20m
8
2,951.95
GSIC Center, Tokyo
Institute of Technology
(日本)
TSUBAME 2.5 - Cluster Platform
SL390s G7, Xeon X5670 6C
2.93GHz, Infiniband QDR, NVIDIA
K20x
927.86
9
2,813.14
Exploration & Production
- Eni S.p.A.
(イタリア)
HPC2 - iDataPlex DX360M4, Intel
Xeon E5-2680v2 10C 2.8GHz,
Infiniband FDR, NVIDIA K20x
1,067.49
10
2,678.41
Financial Institution
(米国)
iDataPlex DX360M4, Intel Xeon
E5-2680v2 10C 2.800GHz,
Infiniband, NVIDIA K20x
4
(出所)
「Green 500」http://www.green500.org/
─ 33 ─
44.4
1,753.66
81.41
86.2
54.6
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
あり、中国のスパコンは上位10位に入ってい
ない。このように、
「TOP500」とは全く異な
る競争の構図が現れている。
図9に、2006年から2014年までの「TOP500」
に於けるスパコン高速化の為に搭載されてい
るアクセラレータ/コプロセッサの変遷を示
す。現在、スパコンに最も多く搭載されてい
るアクセラレータ/コプロセッサは、NVIDIA
社製のGPGPUというアクセラレータである。
GPU(Graphics Processing Unit)とは、
主にゲー
ムの画像処理用に発展してきたコンピュー
タ・グラフィックス向け画像処理装置のこと
であり、3次元画像などを高速で処理する為
に、多数の演算コアが搭載されている。これ
を数値計算用に汎用化したものがGPGPUで
ある。GPGPU上での計算は、CUDA(Compute
Unified Device Architecture)26)というNVIDIA社
が無償で提供するGPGPUコンピューティン
グ向け統合開発環境によって実現される。プ
ログラム言語はC言語をベースにしており、
コンパイラ、ライブラリ、デバッガなどから
構成されている。また、科学技術計算に用い
られているFortran言語にも対応している27)。
2009年に長崎大の濱田等が、GPUを760個
並列に動作させることにより、わずか3800万
円で158TFLOPSという処理速度を実現し、
「ス
パコンのノーベル賞」とも言われる ゴード
ン・ベル賞を受賞した。それまでの国内最速
記録は、海洋研究機構の「地球シミュレータ
システム」
(数百億円)が持つ122.4 TFLOPSで
あった為、非常にコストパフォーマンスが良
いスパコンであると話題になった。実は、著
者等もこの頃に量子化学計算をGPGPUによっ
て高速化する研究をおこなっている28),29)。
26)NVIDIA
Corp., CUDA ZONE, http://www.nvidia.
co.jp/ object/cuda-jp.html
27)PGI CUDA Fortran Compiler, http://www.pgroup.
com/ resources/cudafortran.htm
28)青木優、伴野秀和、飯高敏晃、円谷和雄,「GPU
によるOrbital-Free第一原理分子動力学シミュ
レーションの高速化」, 日本シミュレーション
学会「研究賞」
(2010年)
29)Aoki,M., Tomono,H., Iitaka,T., and Tsumuraya,K.,
‘Acceleration of orbital-free first principles
calculation with graphics processing unit GPU’, J.
Phys. Conf. Ser. 215 (2010) 012121.
2010年、中国天津スパコンセンターのスパ
コン「Tianhe-1A(天河1A号)
」がLINPACK性
能で2.566PFLOPS となり、中国のスパコンと
して初めて「TOP500」に於いて世界最速と
なったが、この時のシステムは、CPU (Xeon
X5670 2.93GHz) :14336 個、GPGPU (NVIDIA
Tesla 2050):7168個という構成であった。
2014年6月現在、
「TOP500」にランクインし
ているスパコンの内、NVIDIA社製GPGPUを
搭載しているスパコンが46台あり、15位以内
には5台もある。2位の米国オークリッジ国
立研究所が所有するスパコン「Titan」には、
「NVIDIA Tesla K20x」というGPGPUが搭載さ
れており、1台当たりのコア数は2688個であ
る。このGPGPUが、
「Titan」には約100台搭載
されており、コア数の合計は、GPGPUだけ
で261632個、CPUのコア数も含めると560640
個となっている。また、東京工業大学のスパ
コ ン「TSUBAME2.5」 もGPGPUを「NVIDIA
Tesla M2050」 か ら「NVIDIA Tesla K20x」 に
アップグレードした結果、2014年6月現在、
「TOP500」に於いて13位となり、国内ではス
パコン「京」に続く性能となった。
また近年、Intel社が「Xeon Phi」というコ
プロセッサを発売し、これを搭載するスパコ
ンが現れてきた。このコプロセッサは、通
常のIntel社製のプロセッサと親和性が良く、
GPGPUよりもソフトウェアの移植が容易で
あるという利点がある。
2014年6月現在、
「TOP500」に於いて中国
の「Tianhe-2(天河2号)
」が1位となってい
るが、これには「Intel Xeon Phi 31S1P」
(1コア
当たり最大4スレッド、倍精度ピーク性能:
約1TFLOPS)というコプロセッサが搭載さ
れている。コプロセッサ1台当たりのコア数
は57個である。
「Tianhe-2(天河2号)
」には、
このコプロセッサが約48000台搭載されてお
り、コア数の合計は、コプロセッサだけで
2736000個、CPUのコア数も含めると3120000
個となっている。
表5に、 最 新 のGPGPUア ク セ ラ レ ー タ
「NVIDIA Tesla K40」 と コ プ ロ セ ッ サ「Intel
Xeon Phi 7120P」の性能比較表を示す。倍精
度浮動小数点性能では、両者に大きな違いは
─ 34 ─
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
図9 「TOP500」のスパコンに搭載されているアクセラレータ/コプロセッサの変遷
(出所)
「TOP500」 http://www.top500.org
表5 GPGPUアクセラレータ「NVIDIA Tesla K40」とコプロセッサ「Intel Xeon Phi 7120P」の性能比較
機 種 名
NVIDIA Tesla
K40
Intel Xeon Phi
7120P
倍精度浮動小数点性能(TFLOPS)
1.43
1.208
単精度浮動小数点性能(TFLOPS)
4.29
2.416
メモリバンド幅(GB/秒)
288
352
12
16
2880
61
235
300
メモリサイズ(GB)
コア数
最大消費電力(W)
(出所)以下のサイトのデータを元に著者が作成
NVIDIA, http://www.nvidia.co.jp/object/tesla-servers-jp.html
Intel, http://www.intel.co.jp/content/www/jp/ja/processors/xeon/xeon-phi-coprocessor.html
HPC, http://www.hpc.co.jp/HPC5000-XIGPU4TS-KPL_features.html
HPC, http://www.hpc.co.jp/xeon_phi_product.html
─ 35 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
見られないが、単精度浮動小数点性能に於い
ては、K40の方が2倍近い性能が出ている。メ
モリバンド幅とメモリサイズは7120Pの方が
大きいが、最大消費電力はK40の方が小さく
なっている。
エクサスケールのスパコン開発には、消費
電力の問題以外に開発費の問題もある。政府
の事業仕分けでも問題になったように、次世
代スパコンの開発には多額の費用が必要とな
る。一度はスパコン貿易摩擦によって劣勢に
なり、グローバル市場での競争力を失った国
産スパコンであるが、最近、NECがコストパ
フォーマンスの優れたスパコン開発し、富士
通が約10年ぶりにスパコン輸出を再開するな
ど、グローバル展開を始めた。しかし、コン
ピュータのダウンサイジング化の流れは止ま
らず、スパコン市場は小さくなる一方である。
例えば、2010年のスパコン市場は、100億ド
ル(約1兆円)程の規模しかない30)。
そこでNVIDIA社では、スパコン市場よりも
大きな市場を持つコンピュータ・ゲーム等の
3D処理やHD(High Definition)映像の再生支
援に用いられてきたコンシューマ向けGPUを
複数搭載してスパコン並の処理速度を持つコ
ンピュータを開発することを可能にし、開発
費を大幅に下げることに成功した。ちなみに、
2013 年の世界ゲームコンテンツ市場は、推
定6兆3,269億円である31)。我が国に於いても、
コンピュータ・ゲーム機、自動車、家電、携
帯端末、ロボットなどの組込み用コンピュー
タも視野に入れつつ、スパコンの開発を進め
た方が良いのかもしれない。そして近い将来、
数万台の自動車や家庭用ロボットを高速ネッ
トワークで接続したスパコンが登場する日が
来るかも知れない。また、巨額の費用がかか
る大型科学プロジェクトは、国際協力が一般
的である。大型望遠鏡や大型加速器の開発同
30)大河原克行「スパコンからx86サーバへ
- コモ
ディティ化が進むHPC市場におけるデルの戦略」
マ イ ナ ビ ニ ュ ー ス(2009年12月7日 ). http://
news.mynavi.jp/ articles/2009/12/07/dellhpc/index.
html
31)KADOKAWAエンターブレイン『ファミ通ゲー
ム 白 書2014』KADOKAWAエ ン タ ー ブ レ イ ン
(2014).
様、スパコンの世界でも国際協力が広がって
きている。
問題はこれだけではない。シリコン半導体
を用いたコンピュータの性能向上に限界が来
ている。IBM社は、2014年7月、今後5年間で
半導体の微細化(7nm)
、そして、ポストシリ
コン半導体の開発やニューロコンピュータ、
量子コンピュータなどの研究に30億ドルを投
資すると発表した32)。そろそろ、過去50年間
の経験や知識に囚われずに、今までとは全く
異なる考え方でコンピュータを開発する時期
に来ている。今後のコンピュータ技術開発に
於いては、現在のような米国企業の独り勝ち
状態となったコンピュータ業界の勢力図を大
きく変えるような発明が出てくるかもしれな
い。そのような意味では、日本企業もこの競
争から抜けるわけにはいかないであろう。
ハードウェアだけでなく、ソフトウェアの
開発も非常に重要である。アプリケーション・
ソフトウェアを高速化するには、そのハード
ウェアに合ったチューニングが必要である。
また、ハードウェアによっては新たなアルゴ
リズムの開発も必要である。エクサスケール
のスパコンOSについても、今後、日米で共
同開発することが決まっている33)。
その他、
「TOP500」や「Green500」のよう
なハードウェア性能の評価ランキング以外
に、そのスパコンを用いた研究開発の成果を
評価したランキングや、それらを含む様々な
評価を総合評価したランキングも必要であ
る。それが、今後の国際的なスパコン開発競
争を、より正しい方向に導いてくれるものと
考える。
Ⅵ.まとめ
1946年、 米 国 で 最 初 の コ ン ピ ュ ー タ
「ENIAC」が産声を上げてから、トランジス
タや集積回路を用いたコンピュータが次々と
登場し、1960年代には早くもスパコンが登場
─ 36 ─
31)KADOKAWAエンターブレイン『ファミ通ゲーム
白書2014』KADOKAWAエンターブレイン(2014).
News releases, http://www-03.ibm.com/press/
us/en/pressrelease/44357.wss
33)日本経済新聞電子版,「スパコンOS開発、日米
が連携 東大や富士通参加」, 2013年6月25日.
32)IBM
高性能コンピュータ技術の発展と今後の動向
した。我が国も米国に若干遅れてコンピュー
タ開発をスタートし、1980年以降、スパコン
市場は米国と日本のほぼ独占状態となった。
その後、1980年代後半~ 1990年代は日本企業
の優勢時代となったが、日米スパコン貿易摩
擦やバブル崩壊による国内スパコン市場縮小
により、日本のスパコンメーカーは衰退して
しまった。
しかしその一方で、コンピュータ技術の向
上により、その処理速度は格段に速くなり、
現実に近いコンピュータ・シミュレーション
が可能となった。そこで製造業各社は、国際
競争力強化の為、設計段階でスパコンを積
極的に利用するようになった。文部科学省
も、我が国のコンピュータ開発技術の更なる
発展と様々な分野の研究、及び産業の国際競
争力の強化を目的として、世界最先端の次世
代スパコンを開発する「次世代スーパーコン
ピュータ・プロジェクト」を立ち上げた。そ
の後、参加企業の撤退によるシステム構成の
変更や、政府の事業仕分けによる計画の変更
も あ っ た が、2011年6月 と11月 の「TOP500」
に於ける性能評価で2度続けてスパコン「京」
が世界最速となり、その後、様々な分野で成
果を挙げ始めている。
現在、米国、中国、欧州の各国が、国際競
争力強化の為、エクサスケール・スパコンの
開発に向けて準備を進めている。我が国で
も、文部科学省が2020年度からの運用を目指
し、約1,400億円を掛けて「エクサスケール・
スーパーコンピュータ開発プロジェクト」を
スタートさせた。
しかし、エクサスケールのスパコン開発に
はいくつかのハードルが待ち構えている。一
つ目は、消費電力問題である。
「京」の消費
電力は約12.7MWであり、その電気料金は、
年間12億円に上る。現状のシステムでエクサ
スケールのスパコンを開発しようとすると、
その電気料金は、更に一桁高くなることが予
測される。したがって、今後のスパコン開発
には省エネルギー化が重要となる。この解決
策には、今のところNVIDIA社のGPGPUアク
セラレータやIntel 社のコプロセッサの搭載が
有力であるが、
「京」も国産メーカーで開発し
─ 37 ─
ているので、おそらくアクセラレータも独自
開発をすると思われる。
二つ目は、開発費の問題である。2010年の
スパコン市場は、約1兆円規模しかない。そ
こ でNVIDIA社 がGPGPUで 成 功 し た よ う に、
コンピュータ・ゲーム機、自動車、家電、携
帯端末、ロボットなどの組込み用コンピュー
タも視野に入れつつ、スパコンの開発を進め
た方が良いのかもしれない。また、巨額の費
用を必要とする大型科学プロジェクトは、国
際協力が一般的である。海外では、大型望遠
鏡や大型加速器の開発同様、スパコン開発に
於いても既に国際協力が始まっている。
それから、今後のコンピュータ技術の発展
を考えるとき問題となるのは、シリコン半導
体を用いたコンピュータ性能向上の限界であ
る。ポストシリコン半導体の開発やニューロ
コンピュータ、量子コンピュータなどの研究
分野で現実的な成果を早期に挙げなければな
らない。そろそろ我々は、過去50年間の経験
や知識に囚われずに、今までとは全く異なる
考え方でコンピュータを開発する時期に来て
いる。今後のスパコン開発では、米国のほぼ
独り勝ち状態となっているコンピュータ産業
分野の勢力図を大きく変えるような発明が出
てくるかもしれない。そのような意味では、
日本もこの競争から抜けるわけにはいかな
い。
それから、
「TOP500」や「Green500」のよ
うなハードウェア性能の評価ランキング以外
に、そのスパコンを用いた研究開発の成果を
評価したランキングや、それらを含む様々な
評価を総合評価したランキングも必要であ
る。それが、今後の国際的なスパコン開発競
争を、より正しい方向に導いてくれるものと
考える。
スパコン「京」によって、原子数10万個の
量子化学計算が可能となった。しかし、夢は
原子数がアボガドロ数(6×1023)以上の量子
化学計算である。これが可能となれば、臓器
や脳、延いては一個の生命体をまるごと、第
一原理的にシミュレートできる。それらを実
現するためには、もっともっと高性能なコン
ピュータが必要である。
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
ガリレオは、1608年にオランダで10倍の望
遠鏡が発明されると、すぐにその望遠鏡を入
手して20倍に改良した。そして、それを使っ
て、木星の衛星、金星の満ち欠けや太陽の黒
点を発見し、地動説を裏付けた。スパコンは、
しばしば望遠鏡に例えられる。高精度の科学
技術計算やコンピュータ・シミュレーション
によって、今まで見ることができなかった世
界が詳細に見えるようになるのである。スパ
コンは、人類の未来を切り拓いてくれる望遠
鏡と言える。
参考文献
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─ 39 ─
Do mothers with good theory of mind understand
children’s mind easily?
Haruo KIKUNO, Yuichiro KIKUNO, & Qi LI
Introduction
Method
Results and Discussion
Reference
Acknowledgments
Introduction
Mothers care their children and guess children’s mind every day. How do mothers understand their children’s
mind? Many studies have assumed that theory of mind is used to understand other’s mind (Gopnik & Astington,
1988; Mitchell, 1995; Perner et al., 1987; Wimmer & Perner, 1983). These studies suggest that mothers use
theory of mind to understand their children’s mind.
Is it easy for mothers to understand their children’s mind? It can seem that it is easy for mothers to guess
the feeling of their child, as mothers contact a child every day and child’s mind is very simple. However, some
studies report that it is difficult for adults to understand their children’s mind (Keating & Heltzman, 1994;
Lewis, Stranger, & Sullivan, 1989). These studies suggest that it is difficult even for mothers to guess their
child’s mind.
Is there any individual difference in mothers’ understanding of their children’s mind? Several studies proposed
that there are individual differences in theory of mind (Keating & Heltzman, 1994; Kyo, 1997; Wellman, Cross
& Watson, 2001). Kyo (1997) showed that the number of sibling influence ability of theory of mind. Wellman,
Cross & Watson (2001) indicated that there is a culture difference in such ability. This implies that as for the
Japanese children, acquisition of theory of mind ability is slow for one or two years. Keating & Heltzman (1994)
showed that children with high leadership have elaborative theory of mind ability. These studies suggest that
there is a difference in mother’s theory of mind. It is assumed that a difference in mother’s theory of mind is
one of the most important factors for understanding children’s mind. Therefore, it is expected that some mothers
guess their child’s mind easily, while another mothers do not guess their child’s mind easily.
Some studies propose that mothers have child-rearing anxiety (Muto & Ando, 2008). Some study suggest
that anxiety influence cognitive processing (Deffenbacher, 1991). It is assumed that mother’s child-rearing
anxiety influences their cognitive processing including theory of mind and interferes their understanding of their
children’s mind.
In this study, the effects of mother’s theory of mind and child-rearing anxiety on understanding their children’s
mind were examined. It was anticipated that mothers with high ToM (theory of mind) understand their children’s
mind better than mothers with low ToM, as mothers with high ToM would understand their children’s mind by
elaborated theory of mind more exactly with insight than mothers with low ToM. It was also anticipated that
mothers with low child-rearing anxiety understand their children’s mind better than mothers with high childrearing anxiety, as mothers with low child-rearing anxiety would have more space of information processing of
theory of mind than mothers with high child-rearing anxiety.
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環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
Method
Participants: Seventy mothers participated in this research. They are protectors of the children who are into the
kindergarten.
Design and Procedure: A 2 × 2 × 4 mixed design was employed, with between-participant factors of
mother’s ToM (high or low)and child-rearing anxiety (high or low), and within-participant factor of parts of
children’s face (eye, nose, mouth, and ear). The score of UCM (Understanding of Children’s Mind) test was an
independent variable, while the levels of ToM, child-rearing anxiety and part of face are dependent variables.
Mothers took three tests including UCM (Understanding of Children’s Mind) test, ToM (Theory of mind) test
and CAT (Child-rearing Anxiety) test. Mother filled in answers in each test.
In the UCM test, mothers were asked to grade according to four ranks (from 1 to 4) how mothers understand
their child’s mind from each part of face that are eye, nose, mouth, and ear when child lies to mother and other.
There are five items including “Can you understand your child mind by looking at just child’s eye” and so on.
In the ToM test, mothers were asked to grade according to four ranks (from 1 to 4) how they understand
other’s mind (Kikuno, 2013). The ToM test is a questionnaire test consisting of ten questions- “Can you lie, if
you have to lie? Can you understand other’s joke?” and so on. Table 1 shows items on the ToM test.
Table 1 Questions of ToM test
No.
Questions
(1) It is difficult to suppose the feeling of the person from an action.
(2) Even if a joke is said, it is incomprehensible.
(3) I am not good at saying a joke.
(4) Even if it is necessary to deceive it, I cannot deceive it well.
(5) During a conversation, a story does not often engage with a partner.
(6) It is said that I am good at ordering a person.
(7) I can suppose the feeling of the partner just to look at the expression of the partner.
(8) It is hard to read the other side of the feeling of the partner.
(9) A feeling is reflected on an expression.
(10) I may mishear the contents of the story.
In the CAT, mothers were asked to grade scale according to four ranks (from 1 to 4) how they have stress or
anxiety on child rearing. The CAT is a questionnaire test consisting of ten questions- “Are you happy with a
baby?”, “Do you like child care?” and so on. Table2 is items of CAT.
Table 2 Questions of CAT (Child-rearing Anxiety Test)
No.
Questions
(1) I want to be separated from child care.
(2) I feel good when with a child.
(3) It is pleasant to bring up a child.
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Do mothers with good theory of mind understand children’s mind easily?
(4) It may become hard that I bring up a child.
(5) I do not want to see the face of the child.
(6) It becomes the panic what I should do if a child cries.
(7) I afraid whether my child care is all right.
(8) A child is troublesome and is irritated.
(9) I cannot do anything by child care and get impatient.
(10) I do not have confidence as mother.
Results and Discussion
Figure 1 depicts the mean UMC scores as functions of mother’s ToM, child-rearing anxiety and their
children’s parts of face. A three-way mixed ANOVA for mother’s ToM, mother’s child-rearing anxiety, and
parts of children’s face. This revealed a significant main effect for parts of children’s face (F (3, 198) = 80.20, p
< .01). Figure 2 shows the mean UMC score as a function of part of children’s face. Multiple comparisons by
LSD revealed that to understand children’s mind mothers looked eye more than mouth, ear and nose (respectively,
ps < .05), and they looked mouth more than ear and nose (respectively , ps < .05) significantly, although they
did not look ear than nose significantly.
Figure1. The mean UMC scores as functions of mother's ToM, child-rearing anxiety and their children's
parts of face
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環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
Figure2. The mean UMC score as a function of part of children's face.
The main effect of mother’s ToM was not significant (F < 1.00). It indicated that mothers with high ToM
did not understand their children’s mind more than mothers with low ToM. The main effect of mother’s childrearing was also not significant (F < 1.00). It indicates that mothers with low child-rearing anxiety understand
their children’s mind more than mothers with high child-rearing anxiety. In addition, the interactions were not
significant (Fs < 1.00).
The main effect for parts of children’s face was significant. This result suggests that mothers would guess
their children’s mind based on the moving parts of children’s face including eye and mouth rather than the nonmoving parts ear and nose. It is assumed that moving parts have many cues to guess child’s mind.
One purpose of this study was to determine if mothers with high ToM understand their children’s mind
more than mothers with low ToM do. The result did not support this assumption. Why does mother’s ToM not
influence to guess their child’s mind? One possibility is that ToM test does not examine mother’s theory of
mind enough. Theory of mind would have more complicate structures. This ToM test can only measure general
theory of mind. In order to understand child’s mind, we have to specify the areas of theory of mind.
The other purpose of this study was to determine if mother with high child-rearing anxiety understand
children’s mind more than mother with low child-rearing anxiety. The result suggest that mother’s child-rearing
anxiety does not have effect on understanding of their children’s mind. Why does mother’s child-rearing anxiety
influence to understand their child’s mind. The offset effect may be one of main reason. It is easy for mother
to understand their child’s mind by low child-rearing anxiety due to mother’s big cognitive space. On the other
hand, mother with high child-rearing anxiety become nervous about their child and child-rearing. They become
sensitive to child’s mind so that they make great attention to the face of their child. By each factor, the effect of
child-rearing anxiety on understanding of child’s mind would be disappeared.
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Do mothers with good theory of mind understand children’s mind easily?
Reference
Deffenbacher,K.A. (1991) A maturing research on the behavior of eyewitness. Applied Cognitive Psychology, 5,
377-402.
Gopnik,A. & Astington,J.W. (1988) Children's Understanding of Representational Change and Its Relation to
the Understanding of False Belief and the Appearance-Reality Distinction, Child Development, 59, 26-37.
Keating,C.F. & Heltzman,K.K. (1994) Dominance and deception in children and adults: Are leaders the best
misleaders? Personality and Social Psychology Bulletin, 20, 312-321.
Lewis,M., Stranger,C. & Sullivan,M.W. (1989) Deception in 3-year-olds. Developmental Psychology, 25, 439443.
Mitchell.P (1997) Introduction to theory of mind: Children, autism and apes. Arnold.
Muto, T. and Ando,T. (2008) Psychology of Child Care Support, Yuhikaku.
Perner,J. Frith,U., Leslie,A.M. (1987) Exploration of the autistic child’s theory of mind: Knowledge, belief and
communication, Child Development, 60, 689-700.
Wellman,H.M. Cross,D. & Watson,J. (2001) Meta-Analysis of Theory-of-Mind Development: The truth about
false belief. Child Development, 72, 655-684
Wimmer,H. & Perner,J. (1983) Beliefs about beliefs: Representation and constraining function of wrong beliefs
in young children’s understanding of deception. Cognition, 13, 103-128.
Acknowledgments
We would like to thanks to teachers and mothers who participate this research. This work was supported by
JSPS KAKENHI Grant Number 25380905.
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“Typhoon”における他者の構造
The Structure of Others in “Typhoon”
後 藤 隆 浩
1
Joseph Conrad の“Typhoon”(1902) のテキストの読解過程においては、中国人クーリー達の存在が、
物語内容レベルにおける最大の問題点として読者の意識に浮上してくるだろう。汽船ナン・シャン
号という小さな共同体内部に、クーリー達は完全な他者として存在している。テキスト内に、共同
体と他者との関係性という一般的レベルの問題が、生成しているのである。物語言説のレベルにお
いては、他者としてのクーリー達が、いかに語られているかという具体的な問題について考察する
必要があるだろう。本論においては、テキストの語りの主体の言説におけるクーリー達の語られ方
およびテキスト内の登場人物達の言説におけるクーリー達の語られ方に着目して分析を進めていく
ことにする。これらの分析によって、
“Typhoon”というテキスト全体が内包するところの他者に対
する視線、思考と認識の型を取り出すことができるだろう。テキストの語りの主体は、どのような
原理に基づいて他者を表象していくのであろうか。そして意識的な読者は、テキストの批評的読解
において、どのような他者の構造を認識するのか。作品構造と読者の意識との相互作用的関係性が、
分析の基盤となるだろう。
物語内容の舞台となる汽船ナン・シャン号は、船主の意向により船籍が英国からシャムへと変更
されているが、その共同体としての基盤は、英国である1)。実質的英国船ナン・シャン号は、物語
内の現在、熱帯地方の植民地での労働を終えて帰国する二百人の中国人クーリー達を乗せて航行し
ている2)。物語内における船の動きの起点を、テキストの語りの主体は次のように語り始める。
The Nan-Shan was on her way from the southward to the treaty port of Fu-chau, with some cargo in her
lower holds, and two hundred Chinese coolies returning to their village homes in the province of Fo-kien,
after a few years of work in various tropical colonies. The morning was fine, the oily sea heaved without a
sparkle, and there was a queer white misty patch in the sky like a halo of the sun.3)
ここまでの語りは読者に客観的な状況を提示しており、機能的な言説であるといえよう。この後に
続く語りの言説においては、次のようにクーリー達の様子が描写されていく。
1)
組織における労働のメカニズムという観点において、ナン・シャン号は有機的な小さな共同体であると言
えよう。ただし、乗組員は全員男性であることに留意する必要がある。作品内に登場する女性は全員乗組員
の家族であり、陸上の家庭での生活者である。
2) クーリーという語の表記に関して、
『世界大百科事典』
(平凡社、1988年)の「クーリー」の項においては、
次のように説明されている。
「語源については必ずしも明らかでないが、一般的にはタミル語の雇用という言
葉を英語で coolie, cooly と表示し、それを漢字で苦力とあてたとされる。中国人は外来語を、意訳でなく音
で表示する場合に、音が相似していて意味内容が適切な漢字をあてる。苦力はその典型例で、苦しい力役に
従事する労働者という意味を出している。
」
3)
Joseph Conrad,“Typhoon,”The Nigger of the “Narcissus” and Typhoon and Other Stories (“Collected Edition of
the Works of Joseph Conrad”; London: J. M. Dent and Sons, 1950), p.6. 以下引用はすべてこの版により、本文
の括弧内に頁数を示す。具体的箇所へ言及する場合も同様に本文の括弧内に頁数を示す。
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環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
The fore-deck, packed with Chinamen, was full of sombre clothing, yellow faces, and pigtails, sprinkled over
with a good many naked shoulders, for there was no wind, and the heat was close. The coolies lounged, talked,
smoked, or stared over the rail; some, drawing water over the side, sluiced each other; a few slept on hatches,
while several small parties of six sat on their heels surrounding iron trays with plates of rice and tiny teacups;
(pp. 6-7)
このような詳細な描写の基層に、多くの読者は、他者に対する観察者としての視線の動きを感じ取
るであろう。語りの主体にとってクーリー達は、視線の対象となり得る強い異質性を示す存在なの
である。
さらに語りが続くと、語りの主体の意識の基層に存在するところの認識構造、価値判断基準といっ
た要素が、テキスト表層に浮上して言語化されるのである。先の引用部分の後、テキストは次のよ
うに続いていく。
and every single Celestial of them was carrying with him all he had in the world―a wooden chest with a
ringing lock and brass on the corners, containing the savings of his labours: some clothes of ceremony, sticks
of incense, a little opium maybe, bits of nameless rubbish of conventional value, and a small hoard of silver
dollars, toiled for in coal lighters, won in gambling-houses or in petty trading, grubbed out of earth, sweated
out in mines, on railway lines, in deadly jungle, under heavy burdens―amassed patiently, guarded with care,
cherished fiercely. (p. 7)
以上の語りの言説の形態から語りの主体を具体化して物語内の語り手という概念を設定してみるな
らば、この語り手は、少なくとも中国人ではないと読者に判断されるだろう。語り手は読者の自然
な意識に基づいて、ナン・シャン号の乗組員達と同質性のある英国人として認識され得る可能性が
最も高いと思われる。一般にテキストの語り手の特性について考えてみることは、テキストの読み
の可能性を拡大する上で、重要な着眼点の一つである。語り手の特性を推定する作業においては、
民族、言語、国籍、階層、年齢、性別といった要素について具体的に検討する必要がある。
テキストの語り手は、細部に注意を払いながら、詳しくクーリー達の状況を描き出していく。ま
たクーリー達がどのような労働に従事してきたのかという情報についても、具体的に読者に伝達し
ている。そしてクーリー達の文化的背景、価値基準に対しては、自己のそれとの差異を認識しなが
ら語っているといえよう。なぜ語り手はクーリー達に関して、このように詳細に語るのであろうか。
ここに語りという行為それ自体の動機として、未知なる東洋というイメージに基づく他者的なるも
の全般に対する強度の関心というものを、想定することも可能となるだろう。さらにこの語りの動
機を読者の意識の側に転換してみるならば、読者自身の珍しい物語内容に対する期待値の高さを示
すことになるだろう。
テキストの語り手がクーリー達各自の所持している金銭に言及していることには、充分に留意す
る必要がある。この金銭が、後にクーリー達の間に発生する騒乱の原因となるのである。ナン・シャ
ン号は、船外における暴風雨、船内における騒乱という二重の危機にさらされる。このような意味
において物語内における船の動きの起点の語りは、テキスト内に発生する事件の生成条件を、読者
に予告的に指し示しているといえよう。
このようにテキストの語りの主体としての語り手の言説を精査していくと、読者には語り手の思
考的位置が見えてくるだろう。そして、当然のことながら、この語り手のクーリー達に対する視線、
認識の構造は、現代の批評的読者の思考によって、対象化、相対化される必要がある。テキスト内
での共同体と他者という形での異文化接触状況の読解において、読者は物語内当時の社会的背景と
して、民族間の階層的差異性に注意する必要がある。
─ 48 ─
“Typhoon”における他者の構造
テキストの語りの主体の言説によって、ナン・シャン号は現在の航海において、この民族間の階
層的差異性を内包する空間となっていることが読者に提示されている。テキストの読解過程におい
ては、船という閉ざされた空間での共同体に内在する差異の意識が構造化されていく。ナン・シャ
ン号は、異民族という他者を運んでいる。この他者性がテキストの語りの主体および登場人物達の
語り口に影響を与え、テキスト読解における問題点を生成していくのである。
テキストの語りに「植民地」というキーワードが出現することにより、読者はこの“Typhoon”と
いうテキストの位置する歴史的状況を、的確に認識することになるだろう。また「クーリー」とい
う言葉は、異民族という他者それ自身の共同体内部構造に内在する階層的差異性を、最も先鋭的に
指し示す記号であると考えられる。このようなテキストの語りの主体の言説の基調は、登場人物達
の語り口、視線の基調とも連動するものであり、テキスト内においてクーリー達は、完全には理解
され得ない他者として表象されていくのである。
“Typhoon”のテキストは、全体で六章から構成されている。汽船での航海が物語内容の基軸となっ
ているため、物語内の時間の流れに関しては、基本的に複雑な移動操作は施されていない。ただし
第一章に関しては、テキストの語りの主体が物語内の現在の時間の流れから離れて過去に遡り、マッ
クワー船長に関する多くの情報をテキスト化して読者に伝達している。第一章の語りにおいては、
マックワー船長の両親、マックワー夫人と娘と息子、ナン・シャン号を建造した造船所の経営者、
一等航海士ジュークス、機関長ソロモン・ラウト、ラウト夫人といった人物達が登場して、マックワー
船長の人物像に関する様々なエピソードが読者に紹介されていく。テキストの語り手の視点も含め
て各人物の視点から、マックワー船長の人物像が読者の意識に素描されていくのである。
このような読解過程において、読者は変わり者マックワーというイメージを得ることになるだろ
う。周囲の人々から風変わりな人物と見なされているマックワー船長自身が、共同体内部において
他者性を帯びていると考えることも可能であるだろう。ここで他者性という観点から、
“Typhoon”
のテキストの構造を整理しておこう。ナン・シャン号という英国的共同体に、異民族である中国人
クーリー達が他者として組み込まれている。これがテキストの表層レベルの構造である。ナン・シャ
ン号を中心とした英国的共同体内部の人間集団のレベルにおいては、マックワー船長自身の共同体
に対する他者性が浮上してくる。マックワー船長の周囲の人々との関係性についての語りは、彼の
言動が、社会的一般性、標準性の範疇から逸脱する傾向にあることを読者に提示している4)。さら
にこの共同体の内部構造を掘り下げていくならば、読者は様々なる他者性の発見という段階に至る
であろう。共同体内部における同質性および他者性といったものは、どのような条件によって確定
し認識されるのであろうか。そしてこのような思考を進めていくと、最終的には「自己と他者」と
いう一般的問題に到達するはずである5)。本論においては、物語構造内における他者クーリー達の
存在を、テキスト内における他者性に関して思考することの出発点と位置付けて、読解を進めてい
くことにする。
4)
物語内レベルにおけるマックワー船長の風変わりな性格は、多くの読者の注目するところである。本稿に
おいては、
マックワーの性格を文芸作品内の人物像の問題として考えている。
この性格を一つのケースとして、
心理学、精神病理学の観点からテキスト外部の一般的問題へと発展させることも可能であろう。
5) 『コンサイス20世紀思想事典』
(第2版、三省堂、1997年)の「他者」の項(執筆者、豊崎光一)においては、
次のように説明されている。
「一般的には、
〈同一者〉がその反対概念であり、
〈差異〉
〈違うこと〉もその一形態
であると考えられるが、差異=違うことが他者性を認める知的操作にかかわるのに対し、
〈他者〉のほうはと
りわけ、同一者たる主体と区別され対立する客体的な存在そのものをさすであろう。しかし、この古典的定
義は、現代における〈他者〉という概念の含蓄を尽くすことができない。なぜならば〈他者〉は、一方の極
において自己ないし同一者にとって根源的に異質な、
外在的・超越的存在(例えば神)をさすものでありつつ、
他方の極においては、自分のまだ知らないもう一つの自分をもさしうるからである。すなわち、それは同一
者と無限に遠くかつ無限に近いという二重のありようをはらんでいるのである。
」
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環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
2
テキストの第一章においては、主要な登場人物達の人物像、経歴、生活状況等に関する情報が、
象徴的エピソードの組み合わせという効果的な方法によって印象深く読者に伝達される。読者はテ
キスト第一章の読解過程において、ナン・シャン号がどのような人間集団によって成立している空
間なのかを理解する。船という小さな社会集団の質のイメージが、読者の意識に形成されるのであ
る。そしてテキストの第二章からは、物語内容の時間が、船の航行に沿う形で直線的に流れ始める。
テキストの第二章において語り手は、第一章で一度提示された「気圧計の値の低下」の場面を受
けて、不快な蒸し暑さに包まれたナン・シャン号内部の状況を語り始める。テキストの語りは、クー
リー達の様子を次のように詳細に描写していく。
The sun, pale and without rays, poured down leaden heat in a strangely indecisive light, and the Chinamen
were lying prostrate about the decks. Their bloodless, pinched, yellow faces were like the faces of bilious
invalids. Captain MacWhirr noticed two of them especially, stretched out on their backs below the bridge.
As soon as they had closed their eyes they seemed dead. Three others, however, were quarrelling barbarously
away forward; and one big fellow, half naked, with herculean shoulders, was hanging limply over a winch;
another, sitting on the deck, his knees up and his head drooping sideways in a girlish attitude, was plaiting his
pigtail with infinite languor depicted in his whole person and in the very movement of his fingers. ( pp. 20-21 )
この引用部分の直前にマックワー船長は、海図室から船橋へと移動している。そして船長は、甲板
にいるクーリー達に眼を向ける。ここでの語り手の視線は、マックワー船長の視線とほぼ重なって
いると考えてよいだろう。語り手は観察者として、
クーリー達の様子を精細に描写していく。読者は、
語り手の使用している比喩的表現の効果にも充分に留意する必要があるだろう。これによって、
クー
リー達のイメージが強化されている。このような語り手によるクーリー表象においては、色彩、雰
囲気、感覚、感触といった要素の言語化において、読者の意識にクーリー達の存在それ自体の意味
が付与され、全般的印象が形成されるのである。語り手および船長は視る者であり、クーリー達は
一方的に視られる対象である。視る側の語りの言説は、基本的には客観性に基づいて表出されたも
のであろうが、それと同時にある程度の主観性および先入観を帯びてもいるだろう。語りにおいて
口論しているクーリー達の様子は、
“barbarously”と修飾されている。これは、
語る側の聴覚において、
クーリー達の声がどのようなイメージに基づいて認識されているのかを示すものであるだろう。一
般に未知なる他者とは、その言語を理解し得ぬ存在である。民族間の階層的差異性においては、言
語理解の問題が大きく作用しているものと思われる。
第一章においては、中国人クーリー達を福州まで運ぶことに関する準備段階での打ち合わせの様
子が描かれる。ブン・ヒン商会の事務員である悲しげな、落ち着き払った中国人を連れてきたマッ
クワー船長は、機関長ラウト、次いで一等航海士ジュークスに次のように指示を与える。
Then Jukes was directed in the same subdued voice to keep the forward ’tween-deck clear of cargo. Two
hundred coolies were going to be put down there. The Bun Hin Company were sending that lot home.
Twenty-five bags of rice would be coming off in a sampan directly, for stores. All seven-years’-men they
were, said Captain MacWhirr, with a camphor-wood chest to every man. The carpenter should be set to work
nailing three-inch battens along the deck below, fore and aft, to keep these boxes from shifting in a sea-way.
Jukes had better look to it at once. “D’ye hear, Jukes?” This Chinaman here was coming with the ship as far
as Fu-chau―a sort of interpreter he would be. Bun Hin’s clerk he was, and wanted to have a look at the space.
Jukes had better take him forward. “D’ye hear, Jukes?” ( pp. 12-13 )
─ 50 ─
“Typhoon”における他者の構造
テキスト第一章の読解過程において読者の意識には、すでに鈍重なマックワー船長というイメージ
が形成されている。またそれと同時に読者には、船長の職務上の有能さを示すエピソードも提示さ
れている。マックワー船長は造船所において、ナン・シャン号の船室のドアの錠前の欠陥を一目で
見抜いて指摘したのである。(p.8) ここに引用した船長のジュークスに対する指示内容も、要領よ
く簡潔に情報が整理されており、航海の準備としては誠に的確なものである。ジュークスによる案
内の場面までテキストを読み進めることにより、福州までの航海期間中のクーリー達の船内におけ
る状態の概要が、イメージとして読者の意識に形成されていく。船長は、荒波に備えて櫃が動かな
いようにするための板を取り付けるよう指示を出している。このように荷物に関しても、適切な措
置が講じられる。しかしながら、結果的にこの措置は、後に遭遇する暴風雨に対しては、全く役に
立たなかったのである。クーリー達も含めて物語内の時間の経過における積荷の状態に着目するな
らば、整頓から散乱そして再整理へと変化している。船内全体の状況としてまとめてみるならば、
秩序から混乱そして秩序の回復として図式化することができるだろう。
ジュークスは船長の指示に従って、ブン・ヒン商会の事務員を船内へと案内する。その状況は、
先の引用部分に続けて次のように語られる。
Jukes took care to punctuate these instructions in proper places with the obligatory “Yes, sir,” ejaculated
without enthusiasm. His brusque “Come along, John; make look see” set the Chinaman in motion at his heels.
“Wanchee look see, all same look see can do,” said Jukes, who having no talent for foreign languages
mangled the very pidgin-English cruelly. He pointed at the open hatch. “Catchee number one piecie place to
sleep in. Eh?”
He was gruff, as became his racial superiority, but not unfriendly. The Chinaman, gazing sad and speechless
into the darkness of the hatchway, seemed to stand at the head of a yawning grave. ( p. 13 )
この場面においては、民族間の傾斜的関係性に基づいた人と人との間に生ずる言動の具体例が表現
されているといえよう。ジュークスの態度は人種的優越感に基づくぶっきらぼうなものであったが、
不親切ではなかったと語り手は説明する。ジュークスの言動を外側から客観的に見てみると、口調
や態度における微妙な揺るぎ、二重性が感じられるのである。これは、人種的優越感を自覚した上
で他者と関わる際に、この優越意識を自己の内面においてどう処理するかという複雑な心理的メカ
ニズムの、言語的および身体的表出として考えることができるだろう。福州まで同行する中国人事
務員は通訳の役割を担うのであるが、使用される言語がピジン英語であることに留意する必要があ
るだろう6)。意思疎通の手段としてピジン英語を使用することは、事務員、ジュークス双方に対し
て、心理的な影響を与えるであろう。双方のそれぞれが、ピジン英語という言語それ自体に対して、
不完全さ、不自由さといった感覚に基づく心理的距離感を抱くものと思われる。一般論として英国
人と中国人との間の言語コミュニケーションにおいては、ピジン英語を使用する場合以外には、中
国語を使用する場合とイギリス英語を使用する場合が考えられるだろう。異民族間の言語コミュニ
ケーションにおいては、使用される言語の種類に応じて、当事者の間にそれぞれ固有の心的力学が
生成してくるものと思われる。
説明を続けるジュークスは熱心になってきて、身体的動作を交え始める。その様子をテキストの
語りは、先の引用に続けて次のように描写する。
6)
『現代社会学事典』
(弘文堂、2012年)の「ピジン語」の項においては、次のように説明されている。
「ほと
んどの場合、ピジン語は標準的な文法や正書法をもたず、また必要な接触の場が消滅すると、言語自体も消
滅する傾向にある。こうした特徴からピジン語は権威ある言語とはみなされず、その話し手が社会的・文化
的に劣位に見られることも多い。
」テキスト内において中国人事務員および中国人クーリー達は、劣位の側に
位置付けられている。中国人達の共有する社会的、文化的価値観は、テキストの背後に隠れてしまい、テキ
ストの語りの視界に入っていない。このことに、現代の読者は留意する必要がある。
─ 51 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
“No catchee rain down there―savee?” pointed out Jukes. “Suppose all’ee same fine weather, one piecie
coolie-man come topside,” he pursued, warming up imaginatively. “Make so―Phooooo!” He expanded his
chest and blew out his cheeks. “Savee, John? Breathe―fresh air. Good. Eh? Washee him piecie pants, chowchow top-side―see, John?”
With his mouth and hands he made exuberant motions of eating rice and washing clothes; and the
Chinaman, who concealed his distrust of this pantomime under a collected demeanour tinged by a gentle and
refined melancholy, glanced out of his almond eyes from Jukes to the hatch and back again. “Velly good,”
he murmured, in a disconsolate undertone, and hastened smoothly along the decks, dodging obstacles in his
course. He disappeared, ducking low under a sling of ten dirty gunny-bags full of some costly merchandise
and exhaling a repulsive smell. ( pp. 13-14 )
熱心にパントマイムを演ずるジュークスとそれを見る中国人事務員との心理的差異は、読者の意識
に強く印象付けられるだろう。これは、民族間の傾斜的差異の構造が具体化された場面である。事
務員は、自分達自身の身体性、生活習慣を模倣したパントマイムを、説明という形式において見さ
せられているのである。おそらくジュークスの演ずるパントマイムは、クーリー達の民族的特性を、
ある程度の誇張を加えながら演じているものと思われる。中国人事務員は外面的態度と内面的心情
との落差を意識しながら甲板上を移動していき、やがてジュークスの視界から消える。この場面で
描かれているジュークスと事務員との間の関係性は、他者との接触において生成するところの言語、
身体、心的レベルにおける相互的反応のメカニズムの具体例として、読み取ることができるだろう。
テキストの語りは、物語内当時の民族的序列感覚を象徴的に表現しているのである。
3
一般に人間が他者を自覚的に他者であると意識するところの根拠は、何であろうか。自己と他者
とを比較対照的に認識する機会が付与され、そこに著しい差異性を見いだすとき、我々は他者の他
者性を強く意識するだろう。人間存在間には、様々なレベルにおいて差異が生ずるであろうが、そ
の中で最も顕著な差異の発生源として、言語を位置付けることが可能だろう。常識的なレベルにお
いて、高度な言語を使用することが人間を特徴づける重要な要素の一つであることを、我々は理解
している。一つの角度からの見方ではあるが、人間存在の基盤は言語であると言ってもよいだろう。
言語的差異は、他者性に関する意識、認識の有力な生成起点である。異なる言語間の接触において、
この言語的差異は最大値を示すことになるだろうが、同一言語内においても言語理解のレベル差と
いう形で言語的差異が生ずるのである。高度な言語使用のレベルにおいて、言語は言語それ自体の
特性により、様々な機能を発動する。例えば、含意、あや、比喩、曖昧性といった言語の働きは、
実際の言語使用者個別のレベルを超えて、一般的な言語の記号体系レベルにおいて把握、理解され
るものであろう。
テキスト内においてマックワー船長は、船内の英国的共同性に対して他者性を示している。その
他者性は、特に一等航海士ジュークスとの会話における言語理解の独特なずれとして複数回描写さ
れている。台風の接近に伴い蒸気が充分にあがらなくなったことにいら立つ二等機関士は、ジュー
クスとの会話において暴言を吐く。(p.24) この様子を目撃した船長とジュークスとの間に次のよう
な会話が始まる。
When Jukes turned, his eyes fell upon the rounded back and the big red ears of Captain MacWhirr, who
had come across. He did not look at his chief officer, but said at once, “That’s a very violent man, that second
engineer.”
“Jolly good second, anyhow,” grunted Jukes. “They can’t keep up steam,” he added, rapidly, and made a
─ 52 ─
“Typhoon”における他者の構造
grab at the rail against the coming lurch. ( pp. 24-25 )
船長が二等機関士のことばの表層的表現および態度を問題視しているのに対して、ジュークスは、
なぜそのような言動が発生したのかということばの深層レベルにおける心理的メカニズムを理解し
ており、二等機関士をかばっている。しかしながら、マックワー船長には、このようなジュークス
の説明は理解されないのである。テキストの語りは、次のように続けられる。
Captain MacWhirr, unprepared, took a run and brought himself up with a jerk by an awning stanchion.
“A profane man,” he said, obstinately. “If this goes on, I’ll have to get rid of him the first chance.”
“It’s the heat,” said Jukes. “The weather’s awful. It would make a saint swear. Even up here I feel exactly
as if I had my head tied up in a woollen blanket.”
Captain MacWhirr looked up. “D’ye mean to say, Mr. Jukes, you ever had your head tied up in a blanket?
What was that for?”
“It’s a manner of speaking, sir,” said Jukes, stolidly.
“Some of you fellows do go on! What’s that about saints swearing? I wish you wouldn’t talk so wild. What
sort of saint would that be that would swear? No more saint than yourself, I expect. And what’s a blanket got
to do with it―or the weather either. . . . The heat does not make me swear―does it? It’s filthy bad temper.
That’s what it is. And what’s the good of your talking like this?”
Thus Captain MacWhirr expostulated against the use of images in speech, and at the end electrified Jukes
by a contemptuous snort, followed by words of passion and resentment: “Damme! I’ll fire him out of the ship
if he don’t look out.” ( p. 25 )
ここでの会話においては、完全に字義通りにしか言語表現を理解し得ないというマックワー船長の
言語意識が、全面的に表出している。ジュークスの言説に対する疑問、批判という形で、彼特有の
論理が短いながらも鋭く展開されている。このようなマックワー船長の言説の強度は、同時に彼自
身の他者理解の不可能性の強度をも示しているといえよう。マックワー船長特有の言語意識は、言
語機能的に他者性を帯びており、言語共同体の中心部から意味論的に逸脱していくのである。上記
の引用場面によって読者は、言語使用における修辞的領域の機能の重要性を、改めて認識すること
になるだろう。我々の一般的な言語的経験に則して考えてみると、この修辞的領域は、無意識的な
レベルにおける他者相互の共通了解対象として、具体的言語表現の形で表出されていることが理解
されるのである。
台風の暴風雨に巻き込まれたナン・シャン号の船内においては、クーリー達の間に騒乱状態が発
生する7)。この騒乱は、やがて一等航海士ジュークス達船員の努力により沈静化する。テキストの
語りは、沈静化の様子を次のように描写する。
The coming of the white devils was a terror. Had they come to kill? The individuals torn out of the ruck
became very limp in the seamen’s hands: some, dragged aside by the heels, were passive, like dead bodies,
with open, fixed eyes. Here and there a coolie would fall on his knees as if begging for mercy; several, whom
the excess of fear made unruly, were hit with hard fists between the eyes, and cowered; while those who were
hurt submitted to rough handling, blinking rapidly without a plaint. ( p. 78 )
7)
クーリー達の騒乱に関しては、群集心理、モッブ、パニックといった社会学的概念によって説明が可能で
あろう。さらに、クーリー達の所持している財産が、数年間の苦役によって得られたものであるという物語
内事情により、この騒乱固有の心理的背景が理解されるだろう。
─ 53 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
集団的騒乱状態から個別状態へと引き戻されたクーリー達は、支配的他者であるジュークス達との
間の傾斜的力学関係によって、視られる存在、語られる存在としてテキスト化されていく。クーリー
達の騒乱は、同質的な集団内における争いであった。激しい騒乱にもかかわらず死者が出なかった
ことは、ジュークスを驚かせる。(p.80) このことに関しては、同質的集団であるがゆえに死を回避
するという、無意識的レベルにおける集団的相互了解のメカニズムが機能していたのではないか、
とも推測されるのである。
沈静化後のクーリー達の他者性の強度は、テキストの語りにおいて極度に増大する。クーリー達
は、次のように描写される。
Suddenly one of the coolies began to speak. The light came and went on his lean, straining face; he threw
his head up like a baying hound. From the bunker came the sounds of knocking and the tinkle of some dollars
rolling loose; he stretched out his arm, his mouth yawned black, and the incomprehensible guttural hooting
sounds, that did not seem to belong to a human language, penetrated Jukes with a strange emotion as if a brute
had tried to be eloquent. ( p. 80 )
ここで描写されているクーリーの様子には、ある程度までの客観性が保たれているであろう。しか
しながら、語りの主体によるクーリー表象言説の深層構造においては、心的レベルにおけるマイナ
ス方向へのイメージ化が行なわれているものと思われる。語りの主体の他者に対する認識の心的構
造において、強度の先入観が生成しているのである。母国語の異なる他者の発話は、状況次第で聞
く側にとっては、意味不明な雑音となり得るだろう8)。そこから動物の声、動物化、野蛮性といっ
たイメージの連鎖が生成し始めるのである。現代の意識的な読者は、テキストの語りの主体の認識
や判断それ自体の根拠を、常に相対化、対象化しながら、テキストの深層構造における他者表象の
メカニズムを解析する必要があるだろう。
“Typhoon”のテキストの最終段階は、一等航海士ジュークスの書いた手紙の文面となっている。
手紙を受け取った大西洋航路の定期船に勤務する親友が、同僚に手紙をみせるという形で、テキス
ト化されるのである。このジュークスの手紙の文面を語りのテキストとして精読していくと、この
語りの言説にも“Typhoon”のテキストの語りの言説に内在する特性と同質の特性が見いだされる。
ジュークスは、ナン・シャン号が台風を切り抜けた後のクーリー達の様子を次のように描写してい
る。
“The hatches had been taken off already, and they were all on deck after a night and a day down below. It
made you feel queer to see so many gaunt, wild faces together. The beggars stared about at the sky, at the sea,
at the ship, as though they had expected the whole thing to have been blown to pieces. And no wonder! They
had had a doing that would have shaken the soul out of a white man. But then they say a Chinaman has no
soul. He has, though, something about him that is deuced tough. There was a fellow (amongst others of the
badly hurt) who had had his eye all but knocked out. It stood out of his head the size of half a hen’s egg. This
would have laid out a white man on his back for a month: and yet there was that chap elbowing here and there
in the crowd and talking to the others as if nothing had been the matter. They made a great hubbub amongst
themselves, and whenever the old man showed his bald head on the foreside of the bridge, they would all
leave off jawing and look at him from below. ( p. 101 )
8)
Conrad の“Amy Foster”においては、船の難破により英国の田舎町に打ち上げられた男ヤンコーが、全く
言葉の通じない状況において、助けを求めているにもかかわらず、住民達から危険視される状況が描かれて
いる。
─ 54 ─
“Typhoon”における他者の構造
以上のテキストのジュークスの言説においては、西洋人と中国人との間に存在する著しい差異の感
覚が、無意識の前提となっているものと思われる。クーリー達の状態に関するジュークスの判断、
認識といったものは、すべて彼の心的構造に内在する中国、東洋に対するイメージに基づいている
といえよう。このような東洋的なものに関する原的イメージを起点としたイメージ化の作用により、
クーリー達の特性に関して、
“deuced tough”といった強い印象が与えられ、誇張的表現による語り
が生み出されているのである。
以上、テキスト“Typhoon”を他者という観点から読解し、このテキストが内包する問題点につい
て考察してきた。テキストの言説が生成するところの基層レベルに着目することにより、読者は他
者という概念の根拠を問い直すことが可能となるのである。このようなテキストを生み出した作者
Conrad にとって、他者とは何を意味していたのであろうか。英国に帰化したポーランド人 Conrad
にとって中国をはじめとした東洋はどのような原的イメージによって認識されていたのであろう
か。読者によるテキストの精密な読みを出発点とする作者像 Conrad の探求においても、テキスト
に内在する他者性の問題は、複合的、多層的意味の生成起点となっているのである。
─ 55 ─
オッド・マン・アウト方式を活用した英語語彙力増強の試み
A Trial of English Vocabulary Building by Utilizing the Odd-Man-Out Method
須 部 宗 生
Ⅰ.はじめに
Ⅱ.オッド・マン・アウト方式とは
Ⅲ.受験英語がもたらしたと思われる日本人英語学習者
の英語語彙の特徴と問題点
Ⅳ.過去における日本の英語語彙学習書の問題点・その
後の改善と今なお残る限界
Ⅴ.準備中の「オッド・マン・アウト」のサンプル
Ⅵ.
「オッド・マン・アウト」編集上の工夫
Ⅶ.
「オッド・マン・アウト方式」で期待される学習効果
Ⅷ.おわりに
Ⅰ.はじめに
日本の英語教育活動においては、理想的な
語彙指導が行われてきたとは考えられない。
確かに英語教師たちは、学生たちに英語力向
上のための語彙力の重要性を強調してきた
し、街の書店には多数の英単語・イディオム
集などの語彙学習書が並んではいる。しかし
ながら、これらの学習書はいずれも、いわゆ
る入学試験、あるいは各種英語検定試験の受
験のための必修語彙を扱ったものが主流であ
り、特に系統立てられた語彙論的研究に基づ
いて編集されたものではないし、生涯教育を
目的とした、いわゆる一般向けの語彙力増強
のために学習書とは言えない。しかも、語彙
論的な立場から見て、効果的な語彙増強法は
いかなるものかを意識した学習書は、日本人
にとって英語という外国語のみならず、我々
にとって国語であるはずの、日本語のもので
あっても、多くないというのが現状ではない
かと認めざるを得ない。それに対し、英米で
は、国語であるはずの英語そのもののボキャ
ブラリービルディングを目的とした学習書
が、語彙研究者によって伝統的に数多く出版
され、かつ国民の間で人気を博している。例
えば、筆者自身の限られた学習経験からも、
ノーマン・ルイス著のWord Power Made Easy
やアイダ・エアリック著のInstant Vocabulary
─ 57 ─
などを列挙できるし、いずれもかなりの売
れ行きを示していると聞く。因みに前者は
例 え ばintrovert( 内 向 的 な 人 ) な ど、 人 間
の 性 格 を 表 す 語 彙 を10種 類 ほ ど 挙 げ た り、
pediatrician(小児科医)などの、医師の種類
を表す語彙を、10種類など、類型別に語彙を
増やすという方式を採用したものである。ま
た後者は、英語語彙そのものに残るギリシャ
語・ラテン語語彙の語根を基に、語彙力を効
果的に増強する方法を採用したものである。
因みに両書とも、単なる英語試験の受験準備
のための学習書ではなく、文学をはじめとす
る幅広い一般教養を高めることを目的として
書かれたものであることに特徴がある。また
英米の学校では、伝統的にスペリング・ビー
と称した単語力コンテストがあり、一般庶民
の間でも、新聞のクロスワードパズルに、毎
日のように投稿することを趣味としている人
も多いようである。このように、英米では語
彙研究が伝統的に行われていて、その研究に
基づいた語彙教育方法が確立しており、語彙
力自体がその人のインテリジェンスを示す、
と考える傾向も強く、広く国民の間で語彙力
増強の活動が活発であると言える。しかし遅
まきながら、日本でも最近になって、やや専
門的な立場からの考察に基づき、英語語彙力
増強に的を絞って出版されたと思われる学習
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
書が見られるようになったことは喜ばしい事
実ではある。例えば、
東の著における、
例えば、
handを意味するmanuという語根から、manual,
manage, manifestなど9つの単語を一気に覚え
ようとする試みなどである。1)しかしながら、
以上のような日本における語彙学習書の様々
な試みにもかかわらず、いずれも、相も変わ
らず日本語訳による解説のついた、いわゆる
英和方式に留まっている以上、飛躍的な語彙
学習効果を望むことができるかどうか、はな
はだ疑問が残る。そこでこれを機に、本稿に
おいて、いかに効果的に英語語彙力を増強す
べきかという視点に立ち、和訳による解説を
介在しない、筆者自身の工夫で作成した、英
英方式による「オッド・マン・アウト方式」
の活用による英語語彙の増強法を考えてみ
る。
Ⅱ.オッド・マン・アウト方式とは
では、そもそも「オッド・マン・アウト方
式」とはいかなるものか。まず最初に断わっ
ておきたいが、
「オッド・マン・アウト方式」
とは筆者が独自で名づけた名称であることで
ある。そして、
そのネーミングのヒントになっ
たものは、元来子供の遊びの一種、
「除け者さ
んはだあれ」を意味するodd-man outである。
即ちこの遊びのように、1組の語彙の組み合
わせの中で、意味的に異なるものを選び出す
というものである。つまり、単語の組み合わ
せの中では、3つが同義語・類義語など、一
定の関係性により意味的につながっているも
のなのだが、関係のない全く別の意味の単語
を1つ、即ち「除け者さん」
(
「オッド・マン」
)
として、選び出すというものである。
具 体 例 を 挙 げ れ ば、 例 え ば、tomato,
cucumber, dog, pumpkin というように、1つだ
け種類上異質のものを入れ、学習者にそれ
を指摘させるやり方である。ここでは当然、
tomato, cucumber, pumpkinが野菜であって、唯
一野菜ではないdogが異質となる。またbrown,
hot, pink, yellowという組み合わせなら、色の
1)
種類を表す語彙ではない、hotが異質、即ち
「オッド・マン(変わり種)
」ということにな
り、それをpick out「ピック・アウト」する
のである。さらに、coffee, tea, cocoa, breadの
組み合わせや、obtuse, rectangular, acute, right
の組み合わせでは、各々同じ飲み物の種類や、
角度を表す概念のグループの中における異質
な単語、すなわち、breadとrectangularを探し
出したり、また、interrogate, answer, respond,
replyの中からでは、interrogateを選択するこ
とが 学習者の基本の作業となる。また「野
菜対動物」
、
「色の名称対寒暖を表す語彙」で
は、比較するのに若干易しすぎると考えれば、
trumpet, cello, viola, violinなどのように、弦楽
器対管楽器の組み合わせを変えることで、難
易度を挙げることもできる。いずれにしても
このように、オッド・マン・アウト方式は、
似た種類や概念の語彙が組み合わさる性格
上、形式的には、Ⅴ章で挙げるように、基本
的に名詞、形容詞、動詞など同じ品詞の組み
合わせになることが多い。しかし時には、例
外として、sharp, flat, blunt, naturalの場合によ
うに、1つだけ形容詞(blunt)で、他の3つは見
かけ上形容詞を装っているものの、すべて音
楽用語の名詞である場合も稀にありうる。
いずれにせよ、この方式を筆者が思い立つ
ことに至ったきっかけは、20年以上も前にさ
かのぼる。それは、筆者自らが自己研鑚のた
めに何度か挑戦した、研究社主催による「英
語VC(ボキャブラリー・コンテスト)
」で頻
出されていた1つの問題形式である。具体的
には次のような問題である。
「次の各組で、意味的に性質の大きく異な
るものを、(a)から(d)の中からそれぞれ1つず
つ選びなさい」
1) (a) Monthly (b) Annually (c) Spiritually
(d) Quarterly
2) (a) Silent (b) Loud (c) Quiet
(d) Chilly
3) (a) Silver (b) Steal (c) Iron
(d) Copper
4) (a) Bacteria
東信行『語根で覚える英単語』研究社2008 p.68
〜69
─ 58 ─
(b) Microbe
(c) Garment
オッド・マン・アウト方式を活用した英語語彙力増強の試み
(d) Germ
5)(a) Vulnerable
(d) Valuable
(b) Fragile
語学習者は、受験英語の影響で、かなり高度
で特殊な語彙を知っている反面、以上のよう
な、基本的な生活英語語彙が不自然に欠如し
ていることが多くあり、受験英語の弊害によ
る、語彙の知識のバランスの悪さが目立つ。
(c) Frail
2)
因みに正答に該当する語彙はイタリック体
で示したが、問題2)の正答である、Stealは
Steelとはせずに迷彩を聞かせている。いずれ
にせよ、この問題形式に初めて接して、筆者
は今までの語彙学習書にはない新鮮さを感じ
た。とりわけ日本語を介在させずに、英語の
語彙だけを比較しながら考える点に魅力を感
じたのである。そして、このような問題を多
く作成し日本語訳に接することなく、学習者
が、英語語彙のシャワーに繰り返し浴びるこ
とで、語彙の相互の共通性・類似性・相違性
を感じ続けることが可能となり、語彙が自然
かつ、理想に近い形で、効果的に、飛躍的に
増強していくはずだと考えたのである。また、
この簡単な問題形式により、今までの日本の
英語教育における英語語彙指導が改善でき、
特に次章で考察する、受験英語がもたらした
と思われる日本人英語学習者の英語語彙力に
おける問題点を解決できるのではないかと期
待したのである。
Ⅲ.受験英語がもたらしたと思われる日本人
英語学習者の英語語彙の特徴と問題点
ではここで、特に受験英語がもたらしたと
思われる日本人英語学習者の英語語彙の特徴
とその問題点を以下に列挙して考えてみた
い。
1)生活英語語彙の欠如
英米人ならば子供でも知っているはずの基
本的な生活語彙を知らないという問題点がま
ずあろう。この傾向は、いわゆる受験英語が
あまり生活語彙を扱ってこなかったせいだと
思われる。例えば、
「聴診器」(stethoscope)、
「家
庭用ミキサー」(blender)、
「分度器」(protractor)、
「ホッチキス」(stapler) などがある。日本人英
2)
全国ボキャブラリー診断テスト問題編集委員会
編『ボキャブラリー問題集』研究社出版1991 p.8
ll.13〜18
─ 59 ─
2)同意語、同義語、類似語、反意語、反対語、
対応語など関連語のネットワークの不足
例えば、cheat を知っているがswindleが分
ら な か っ た り、innocentは 分 る がingenuous
を知らなかったり、generalは知っているが
specificを知らなかったり、virtueは知ってい
るが、viceは知らないといった具合である。
確かに最近の受験用英語単語集でも関連語の
ネットワークを扱っているものも目立つよう
にはなった。しかし受験頻出語彙を重視する
あまり、未だ関連語のネットワークが十分と
は言えないようである。またこの関連語の
ネットワークの不足という問題は、のちの6)
でも挙げる日本人英語学習者の表現力不足に
もつながる問題とも考えられる。
3)他の教科や他の分野に関する、学習済み
の語彙を英語で表現できないという問題
例えば、社会科で学んだ「明治維新」のthe
Restoration of Meiji,「ガザ地区」のGaza Strip、
科 学 用 語 の「 光 合 成 」 のphotosynthesis、 数
学用語の「因数分解する」のfactorizeなど各
分野・ジャンルにわたって、枚挙にいとまが
ない。結果として、すでに知識として理解で
きていることも、英語で発信できないという
問題が残る。この問題は単に受験英語だけの
問題でもなく、日本の英語教育体制全体の問
題であろう。今後は可能な限り、
「イマ-ジョ
ン教育」を取り入れるなど、他の教科と関連
付けて英語教育を行うなどの改革が望まれる
し、この方向性に沿った受験英語の改善も期
待したい。
4)和製英語の弊害による問題
これも特に受験英語だけの問題でなく、今な
お和製英語が増え続ける日本語の特殊性が抱
える問題とも言える。しかし、受験英語指
導に焦点を絞った語彙学習の中で、この和製
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
英語の問題がないがしろにされてきた点は無
視できないと思われる。和製英語の問題に
関しては、筆者がすでに触れた3)ように、
「ガ
ソリンスタンド」のgas station、
「マナーモー
ド」のsilent mode、
「カンニング」cheating in
an examination、
「ランニングホームラン」の
inside-the-park home runなど、トリッキーな
語彙が多く、日本人英語学習者のみならず、
在日外国人留学生の抱える特有の問題でもあ
ろう。なおこの問題は1)で挙げた「ミキサー」
や「ホッチキス」などの生活英語語彙にも共
通する。
5)キリスト教文化や英米文学・ギリシャ・
ローマ文学など、英語の持つ言語文化的背
景に基づく知識不足に起因する問題
これも受験英語だけの問題ではないが、真
剣に英語の語彙を増強しようとする人なら、
少なくとも新約聖書は読むべきだ、というの
が筆者の考えである。なぜなら英語の語彙の
中には、聖書の記述に基づくものが多いから
である。例えば、prodigal という語彙の理解
には「ルカによる福音書」の15章11 ~ 32節
に登場する「放蕩息子」の話の背景的知識が
必須だろうし、talentも聖書のたとえ話の中
の、通貨の単位「タラント」が語源であるこ
とを知るべきだろう。また英語語彙の中には、
シェークスピアやギリシャ・ローマ文学や言
語に関連する語彙も多い。例えば、To be or
not to be: that is the question. もExpectation is
the root of all heartache. などのシェークスピ
アの名言は、英語学習者ならば知らなくては
ならないし、solarは、ローマ神話の太陽神sol
に由来し、ギリシャ語の数字の1 ~ 10の「モ
ノ・ジ・トリ・テトラ・ペンタ・ヘキサ・ヘ
プタ・オクタ・ノナ・デカ」が、多くの英語
の語彙に生きていることも理解したい。しか
し残念なことに、このような英語という言語
の源泉である文化的背景に関する知識が欠如
していることが、日本人英語学習者の特徴の
一つだと言える。この不足を補うために、系
3)
須部宗生 静岡産業大学論集『環境と経営』第19
号第2号2013 pp.127〜133
─ 60 ─
統的に学ぶことが現実として難しければ、語
彙学習レベルに的を絞ってでも、これらの文
化的背景に関して、英語の授業で、教える工
夫が必要だと思われるし、その工夫を視野に
入れた受験英語の内容的改善が必要だろう。
こうした、いわば急がば回れ的な学習も、英
語の授業には重要であり、この点で最近の英
語教育界における、実用主義一点張りの過熱
ぶりには警鐘を鳴らしたいと筆者は以前から
考えている。
6)受験英語によって限定されたボキャブラ
リー不足に起因する日本人英語学習者の表
現力の貧弱さ
大学受験にはおよそ5千~ 6千語の語彙が
必要だと言われる。しかしこのように限定す
ることで、結果として日本人の英語語彙は圧
倒的に貧弱になってしまった、と考えられる。
大学の入試英語の攻略そのものが自己目的化
し、それ以上の学習をしなくなる人も多いの
ではないだろうか。日本人はかなり英語を学
習するものの、身につかないとよく言われる。
しかし、冷静に改めて考え治してみると、英
語を学び続けよう、しかも生涯学習の立場に
立って、受験英語から脱却した方法で、特に
ボキャブラリーを学び続けようという人は、
現実には、少数派に属するという現状がある
のではないだろうか。かねがね、受験英語に
は、英語の本来持つ多様性を否定するモーメ
ントがあるという、一種の危険性を筆者は感
じてきた。いずれにせよ、英語の実力には、
このような多様性の体得につながる語彙力こ
そ重要であることは言うまでもない。そして
よく言われる、
「日本人の英語の発信力不足」
の根底にあるのは、実は他でもない、決定的
な数的語彙力の貧弱さそのものだと考えられ
る。例えば、
「元気な」を意味する時に、日本
人が決まって使う英単語は、いつもfineであ
る。当然これが間違いだということはないの
だが、他に表現する語彙を持たないこと自体
が、大問題だと考えられる。例えば「老人が
元気である」場合は日本語では、
「矍鑠(かく
しゃく)
とした」
と言うべきだろう。この場合、
英語では、hale (and hearty)とか、vigorousと
オッド・マン・アウト方式を活用した英語語彙力増強の試み
か表現したいし、
「彼は平然と答えた」と言い
たければ、He answered nonchalantly. のように
nonchalantlyなどの語彙が即座に頭に浮かぶ、
多様な語彙力こそが、豊かな表現力を身につ
けるには重要だと考えられる。
Ⅳ.過去における日本の英語語彙学習書の問
題点・その後の改善と今なお残る限界
では前述の受験英語に基づく日本人のボ
キャブラリーの特徴と問題点にも深く関係す
ると思われるが、ここで日本の英語教育を
担ってきたと思われる、英語語彙学習書の問
題点やその後の改善と今も存続するその課題
や限界性に関して触れたい。
筆者が英語学習者として、特に英語語彙増
強を目指して初めて、個人的に使用した学習
書は、思い出すにつけ今も懐かしい、旺文社
の、
俗に「豆タン」4)と呼ばれる単語集であっ
したものが数多く出版されるようになり、こ
れらの学習書はいずれもABC順ではなく、過
去のデータに対するコンピューター分析に基
づく、試験頻出度順の編集によるものが主流
になった。このような工夫は改善点として、
意味のあることだろう。中でも、相沢他の
『JACET800英単語』5)は日本人に必要な英単
語8000を8つのレベルにわけたことでかなり
使い勝手のいいものとなっている。さらに多
くの最近の語彙学習書には、反意語、同義語
が付記され、語彙が使用される文脈を示す例
文が加えられている。このように、文脈の中
で語義を理解することは、英語語彙指導者で
ある門田が心がけなくてはならないとする、
「文脈・場面(context)を利用する」6) に通
た。当参考書は、特に大学受験のために数千
の必修語彙を、アルファベット順に英和対訳
方式的に羅列したものであった。聞くところ
では、その後、7千800ほどの語彙を掲載した
ものが復刊され、今なおそれなりの人気を博
しているそうである。いずれにせよ、半世紀
ほど前の、日本の高度経済成長期においては、
高校生の2人に1人はこの豆単の利用者であっ
たそうである。これを丸暗記しさえすれば大
学受験の準備には完璧であるという半ば伝説
化した触れ込みで、好評であったことは事実
である。
しかしながら、今改めて考えてみると、当
書には大きな欠陥があったと考えざるを得な
い。その欠陥とは、英和辞典のように、ABC
順に編集されていて、当初のものは特に、大
学受験のための頻出語彙がどれか判断するこ
とが難しかったことに加えて、用例や例文が
なく、文脈の中で語彙を理解することができ
ないことであった。それでも、前述のよう
に、その後この豆単でも時代の要請に押され
る形で、若干の改良が施されたようである。
またそれ以外の語彙学習書でも、最近では、
各種の英語検定やTOEICテストの受験を意識
4)
赤尾好夫『英語基本単語集』
(初版)旺文社1935
─ 61 ─
じ、一定の評価ができよう。また、最近は前
述の英米の語彙学習書のように、ギリシャ・
ラテン語の語根を基本として語彙増強を目指
したもの7)や、コロケーションを切り口にし
た語彙参考書が目立つようになった。例え
ば、木塚の著作8)であり、佐藤の著作9)であ
る。このことは、例えば、最近堀が著した英
語コロケーション研究の入門書10)のように、
コロケーションの研究者自身が発言しだした
こととあいまって、好ましい傾向であろう。
また特に後者の場合は、かつて筆者自身も編
集に参加したコロケーション辞典、
『新編英和
活用大辞典』の根強い支持が根本にある結果
とも考えられ、筆者にとっても喜ばしい傾向
ではある。しかしながら、これらの語彙学習
書は、前述の改善点にもかかわらず、いずれ
も英和辞典のように、和訳による意味の説明
に留まっている点に一種の限界性を感じざる
を得ない。なぜなら、英語の語彙理解には、
特に単独の日本語に即置き換えること自体に
大きな、根本的な問題があると考えられるか
5)
相沢一美『JACET800英単語』桐原書店2005
門田修平『英語語彙指導ハンドブック』大修館
書店2006 p.8 ll.1〜11
7) 東信行『語根で覚える英単語』研究社2008
8) 木塚晴夫『英語コロケーション辞典』ジャパン
タイムズ1995
9) 佐藤誠司『コロケーションで学ぶ生活英単語』
Jリサーチ2009
10)堀正弘『英語コロケーション研究入門』研究社
2009
6)
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
5) 1. Hurler 2. Robber 3. Burglar 4. Thief
6) 1. Soprano 2. Tenor 3. Bass 4. Baritone
7) 1. Mutton 2. Beef 3. Pork 4. Noodle
8) 1. Branch 2. Twig 3. Root 4. Bough
9) 1. Worker 2. Drone 3. Queen 4. King
10)1. Hatchback 2. Sedan 3. Wagon
らである。即ちそれは、まず第一に、和英辞
典の編集の小島が指摘する、日英語の意味に
範囲のずれを誘発するという問題であると考
えられる。例えば、小島は「冗談≠joke」な
どの例を挙げ、
「He played a joke on me.のよう
に、日本語の「冗談」は口を使うものだけな
のに、英語のjokeには行為も含まれるという
ところに日英語の意味のずれがある」として
いる。11)言い換えれば、単語の意味範囲だけ
においても、単なる英和方式では、語意の完
全な理解にはつながらないし、和訳によって
かえって英語語彙の持つ微妙な意味合いをそ
ぎ落としてしまい、バランスのとれた語彙理
解に結びつかないと思われるのである。この
ことは、土屋の言う、明示的意味と暗示的意
味の混同の危険性12)にも通じる。いずれにし
4. Convertible
11)1. Bow 2. Stem 3. Stern 4. Yacht
12)1. Radius 2. Circumference 3. Rhombus
4. Diameter
13)1. Pentagon 2. Hexagon 3. Heptagon
4. Jargon
ても、そもそもこのような危惧感から、今回
本稿で考察する、英英方式採用の、オッド・
マン・アウト方式による英単語増強法の提案
に至ったわけである。故に、願わくば、この
メソッドにより安易な和訳に頼ることを避け
ることで、自然で、理想に近い英語語彙学習
が可能となり、以上に列挙した問題の解決へ
とつながることを期待する次第である。
14)1. Cub 2. Infant 3. Child 4. Kid
15)1. Stork 2. Lock 3. Latch 4. Bolt
16)1. Western 2. Comedy 3. Thriller
4. Legendary
17)1. Ruler 2. Sinker 3. Protractor
4. Compass
18)1. Reel 2. Fly 3. Muzzle 4. Hook
19)1. Iron 2. Racket 3. Putter 4. Wood
20)1. Mercury 2. Mars 3. Galaxy 4. Jupiter
21)1. Addition 2. Subtraction 3. Division
4. Abbreviation
22)1. Apartment 2. Flat 3. Mansion
4. Condominium
23)1. Ambition 2. Alternative 3. Choice
4. Option
24)1. Peak 2. Top 3. Bottom 4. Summit
25)1. Tyro 2. Novice 3. Beginner 4. Veteran
26)1. Discord 2. Air 3. Tune 4. Melody
27)1. Judge 2. Employee 3. Referee
Ⅴ.準備中の「オッド・マン・アウト」のサ
ンプル
ではここで、未完成ながら現在筆者が作成
中である、オッド・マン・アウト方式による
語彙学習の具体的なサンプルの一部を紹介
することとする。便宜上、①名詞、②形容詞
③動詞別に作成した。なお正答である語彙は
イタリック体で示してある。
4. Umpire
28)1. Result 2. Effect 3. Consequence
4. Cause
29)1. Partner 2. Adversary 3. foe 4. Enemy
30)1. Stagnation 2. Deflation 3. Recession
①名詞
1) 1. Shrimp 2. Lobster 3. Crab 4. Prawn
2) 1. Bee 2. Mantis 3. Wasp 4. Hornet
3) 1. Fog 2. Haze 3. Mist 4. Rain
4) 1. Clinic 2. Sanatorium 3. Planetarium
4. Depression
②形容詞
1) 1. Rare 2. Well-done 3. Medium
4. Boiled
2) 1. Spicy 2. Pungent 3. Bland 4. Piquant
3) 1. Young 2. Senile 3. Juvenile
4. Hospital
11)小島義郎『英語辞書学入門』三省堂1984
p.33
ll.1〜2
12)土屋武久『語彙の神話』学芸社2009 p.22 ll. 13
〜14
4. Adolescent
─ 62 ─
オッド・マン・アウト方式を活用した英語語彙力増強の試み
4) 1. Lofty 2. Vast 3. Broad 4. Spacious
5) 1. Evil 2. Wicked 3. Nimble 4. Bad
6) 1. Main 2. Principal 3. Chief
4. Secondary
7) 1. Weak 2. Feeble 3. Loud 4. Faint
8) 1. Optional 2. Compulsory 3. Mandatory
3) 1. Scratch 2. Scream 3. Yell 4. Shout
4) 1. Sob 2. Chuckle 3. Cry 4. Weep
5) 1. Finish 2. Commence 3. End
4. Conclude
6) 1. Respect 2. Admire 3. Esteem
4. Despise
7) 1. Dispose 2. Obliterate 3. Delete
4. Obligatory
9) 1. Elegant 2. Dainty 3. Awkward
4. Exquisite
10)1. Agile 2. Brisk 3. Slow 4. Nimble
11)1. Feeble 2. Weak 3. Sturdy 4. Faint
4. Erase
8) 1. Halt 2. Cease 3. Stop 4. Maintain
9) 1. Draw 2. Push 3. Tug 4. Pull
10)1. Bite 2. Crunch 3. Chew 4. Beat
11)1. Limit 2. Confine 3. Restrict 4. Expand
12)1. Bind 2. Lessen 3. Tie 4. Truss
13)1. Live 2. Reside 3. Move 4. Dwell
14)1. Bite 2. Drink 3. Sip 4. Gulp
15)1. Unite 2. Split 3. Separate 4. Divide
16)1. Abhor 2. Ignore 3. Hate 4. Loathe
17)1. Continue 2. Alter 3. Change 4. Modify
18)1. Swear 2. Vow 3. Vie 4. Pledge
19)1. Kill 2. Slay 3. Solicit 4. Murder
20)1. Kneel 2. Pray 3. Squat 4. Crouch
21)1. Cut 2. Chop 3. Cure 4. Carve
22)1. Follow 2. Catch 3. Chase 4. Stalk
23)1. Stain 2. Smudge 3. Smear 4. Smuggle
24)1. Whisper 2. Bawl 3. Yell 4. Shout
25)1. Chuckle 2. Giggle 3. Guffaw 4. Sob
26)1. Desert 2. Lead 3. Guide 4. Escort
27)1. Help 2. Attack 3. Aid 4. Assist
28)1. Censure 2. Blame 3. Laud
12)1. Needless 2. Vital 3. Essential
4. Indispensable
13)1. Comprehensive 2. Concise 3. Short
4. Brief
14)1. Trivial 2. Petty 3. Trifling 4. Trying
15)1. Adroit 2. Inept 3. Skillful 4. Dexterous
16)1. Cunning 2. Sly 3. Veteran 4. Crafty
17)1. Indifferent 2. Same 3. Identical
4. Equal
18)1. Robust 2. Healthy 3. Sound
4. Delicate
19)1. Straight 2. Odd 3. Strange 4. Peculiar
20)1. Tactful 2. Diplomatic 3. Suave
4. Clumsy
21)1. Poor 2. Affluent 3. Destitute 4. Needy
22)1. Rugged 2. Snug 3. Cozy 4. Comfy
23)1. Lofty 2. Spacious 3. High 4. Soaring
24)1. Reticent 2. Quiet 3. Loquacious
4. Taciturn
25)1. Filthy 2. Tidy 3. Neat 4. Orderly
26)1. Workable 2. Plausible 3. Possible
4. Feasible
27)1. Confidential 2. Secret 3. Clandestine
4. Evident
28)1. Moist 2. Damp 3. Arid 4. Wet
29)1. Delectable 2. Insipid 3. Delicious
4. Denounce
29)1. Startle 2. Inspire 3. Surprise 4. Amaze
30)1. Vanish 2. Fade 3. Loom 4. Disappear
Ⅵ.
「オッド・マン・アウト」編集上の工夫
では編集上の留意点や形式面および内容面
の工夫点としてはどんなものが考えられるで
あろうか。列挙して考えたい。
4. Tasty
30)1. Lax 2. Edgy 3. Nervous 4. Tense
1)問題作成におけるランダム性の確保
まず、オッド・マン・アウト方式は4つの
選択肢の中で1つを選び出すのであるから、
各組み合わせの中で正答である語彙の順番に
おけるランダム性を確保しなくてはならな
い。言い換えれば、正答が1番から4番まで万
③動詞
1) 1. Ignite 2. Kindle 3. Light 4. Quench
2) 1. Ponder 2. Deliberate 3. Validate
4. Meditate
─ 63 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
遍なく平均的にしかも不規則に、登場しなく
てはならない。このランダム性の確保のため
に、順列組合せの概念から考えれば、ABCD
という4つの語彙が作り出す組み合わせは数
学的には、
「4の階乗」である。即ち、
「4×3×2
×1」イコール「24」であり、具体的には、
ABCD BACD CABD DABC
ABDC BADC CADB DACB
ACBD BCAD CBAD DBAC
ACDB BCDA CBDA DBCA
ADBC BDAC CDAB DCAB
ADCB BDCA CDBA DCBA
の24通りである。従って、この24通りの頻
度をフルに活用し、なおかつランダム性を確
保しつつ、4択問題の作成に当たらなくては
ならない。また、正答に関しても、ABCDの
いずれかに偏らないように留意することが必
要であろう。もし人為的なランダム性の確保
が難しかったり、十分でないと判断されるな
らば、コンピューターの助けを借りること可
能であろう。
pledgeの組み合わせのように、少なくとも2つ
の語頭や語尾を同じにする工夫である。こう
することで、見かけ上の違いに誘発される、
安易な、アトランダム的な解答を回避させる
ことが目的である。
4)選択肢の語彙を繰り返して登場させる工夫
例えば、具体的にはサンプルでは、形容詞
グループの7番と11番のように、feeble, weak,
faintなどを異なる組み合わせの中で、複数回
同じ語彙を登場させる工夫である。こうする
ことで、異なるシチュエーションの中で語彙
の意味を推測することが可能となり、より確
かな学習効果が可能になると思われる。
5)意図的に発音上の類似点を有する語彙を
並べること
この工夫は上の3)で見た形の類似とも共
通点があるが、例えば、動詞グループの18番
のように、vie, vowなど発音上の類似を入れ
ることで、問題をややトリッキーなものとし、
あてずっぽうな解答に警鐘を鳴らし、かつ学
習者に心理的なプレッシャーを与えようとす
るものである。
2)和製英語に注意させる問題の作成
具体的には前章で挙げたサンプルの中の名
詞のグループの中の10番と22番である。
つ ま り、hatchback, sedan, wagon, convertible
と apartment, flat, mansion, condominiumの2組
である。この、日本語に氾濫する和製英語の
問題は、筆者が和製英語の考察でも見届けた
ように13)車種としての「ワゴン」と「マンショ
6)1つの基準で意味の異なる語彙を意図的に
入れて、実は正答を別の基準で選ばせる工夫
こ れ は、 例 え ば、 Ⅱ 章 に 挙 げ た、silent,
loud, quiet, chillyの組のように、音量の大小を
示す、反意語をも含む、silent, loud, quietを入
れ、実は、寒暖の程度を表すchillyが異質な語
彙と判断させる工夫を施すやり方である。4
つの語彙を落ち着いて比較すれば正答にたど
り着けるものの、最初のsilent, loud, quietの組
み合わせを見て、loudが正答だと早とちりす
る危険性を意図的に盛り込んだ問題作成であ
る。
ン」が和製英語であることを理解させること
を意図した問題である。
3)4つの選択肢語彙における形の類似を確保
する工夫
これは具体的には、サンプルの名詞グルー
プの13番と30番のように語彙の末尾を、また
動詞グループの18番のように、語彙の始めが
同じになるように工夫する試みである。つ
まり、pentagon, hexagon, heptagon, jargonの
組み合わせと、stagnation, deflation, recession,
depressionの 組 み 合 わ せ や、swear, vie, vow,
7)上位語と下位語の理解を促す工夫
人間の言語理解の基本として、
「メンタルレ
キシコン」の存在がある。言い換えれば、ア
イチソンが指摘するように、語彙は上位語と
下位語が整然と我々の頭脳の中で分類され、
枝分かれしながら蓄積されている。14) 従っ
13)須部宗生
静岡産業大学論集『環境と経営』第19
号第2号2013 p.128 l. l.15& p.129 l. l. 15
─ 64 ─
オッド・マン・アウト方式を活用した英語語彙力増強の試み
て、語彙力の育成には、上位語と下位語の理
解が重要であると考えられる。そこで考えら
れる具体的な編集上の工夫として、敢えて上
位語と下位語を混在させることで、両者を区
別させる訓練の機会を与えようとするもので
ある。例えば、autumn, season, winter, spring
やorgan, kidney, heart, lungなどの組み合わせ
を作成することである。即ちそれぞれの組み
合わせの中でseasonとorganは他の3つの上位
語であり、その他はその下位語であることを
意識させたい。
ンスの違いによって解く問題を編集したい。
その編集方法として、同義語の掲載とその解
説が最も充実していると考えられる、
『研究社
英和大辞典第6版』などを参照することが考
えられる。また同辞典を参考にして、解答に
おけるニュアンスの違いに関する解説を加え
ることも有効だろう。
8)語彙のニュアンスを理解させる工夫
例えば英語のscaryとfrightfulでは前者が日
本語の「怖い」に相当するのに対し、
後者は「恐
ろしい」に相当すると考えられ、両者の間に
は明らかなニュアンスの違いが存在する。同
義語、同意語などと一まとまりにみなす語彙
同志でも、当然ニュアンスが異なる場合も多
く、厳密には、語彙が異なれば意味が全く同
じであることはありえないと考えられる。し
かしながら、他の3つの語彙と異質な語彙1つ
を選び出す「オッド・マン・アウト」の性質上、
少なくとも3つは多少のニュアンスの違いを
あえて無視して、明らかに異質の1つを選択
する必要がある。それ故、多くの場合、オッ
ド・マン・アウト方式では、ニュアンスを無
視する傾向が強い。従って、時折、ニュアン
スだけの違いを意識させる問題を、特に上級
者用のために作成する工夫も必要であろう。
例えば、具体的にはlean, slender, slim, skinny
などを組み合わせることである。これらはい
ずれも「
(体型的に)痩せている」を意味す
るもので、一見すると、この問題は成立しな
いかと思われがちである。しかし最初の3つ
が、プラスイメージのニュアンスである語彙
であるのに対し、skinnyだけは日本語の「痩
せっぽち」に相当するマイナスイメージを持
つ語彙であり、ニュアンスの点で他とは異な
る。故に、skinnyが正答となる。このように、
特に上級者のための語彙学習書としては、同
意語だけの組み合わせに焦点を絞ってニュア
Aitchison Words in the Mind Blackwell 1994
p.93 Figure 8.5 Layers of superordinates
14)Jean
9)多義語理解のための工夫
「オッド・マン・アウト方式」による単純
な組み合わせだけでは、多義語理解に結びつ
きにくいのではないかという指摘も当然予想
されよう。それ故、このオッド・マンアウト
の方法で身につけた語彙を、様々なジャンル
の英文を多読することで理解が深まると考え
られ、当然多義語の理解のためには多読が重
要であると考えられる。しかし筆者は、この
オッド・マン・アウトだけでも、その編集上
の工夫により、多義語はかなりの程度、身に
付くのではないかと考えている。例えば、具
体的には次のような問題を作ることが考えら
れる。
例題1:Rabbit, Mouse, Display, Keyboard
例題2:Bat, Glove, Mitt, Base
例題3:Mitt, Bat, Rat, Mole
例題1では学習者は、最初の2つの語彙を見
て双方とも動物だと判断する。それ故、3つ
目のdisplayを見て、これが異質の「オッド・
マン」であると即断する誘惑に駆られる。し
かし4つ目のkeyboardを見て、この即断は過
ちであることに気付き、改めて全体を見通し
てみる。するとrabbitは動物であるが、2つ目
のmouseはコンピューター用語としての「マ
ウス」であることがわかり、次の続く2つの
語彙と同じグループに属することがわかる。
従 っ て、 唯 一 の 動 物 で あ る、rabbitが 異 質
(
「オッド・マン」
)であることがわかるので
ある。
次に、例題2と例題3を比較してみる。例題
2では、bat, glove, mitt, baseはすべて一見する
と、野球用語だと思われ、学習者はこの時点
で、この問題自体が成立しないのではないか、
と当惑するだろう。しかしこの問題はそのま
まに放置して、まず例題3を見てみるで、改
─ 65 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
めて成立することが再確認できる。つまり、
例題3のbatは動物としての「コウモリ」であ
り、それに続く、rat(ノネズミ)mole(モグ
ラ)のグループであると判断され、例題2の
batも「コウモリ」の意味と判断されるので
ある。このような出題方法の工夫は、
マッカー
シーの指摘するhomonymy 及びpolysemyの実
例が参考となる。15)このようなトリッキーな
例題を多く編集することで、特に上級学習者
は語彙学習がより楽しくなり、モーティベー
ションを高めることができ、結果として多義
語の理解が促進されることになると期待され
る。
Ⅶ.
「オッド・マン・アウト方式」で期待さ
れる学習効果
では、前章の編集上の工夫で考察したこと
と重複するが、オッド・マン・アウト方式に
よる学習効果とはどんなものかに関して、こ
こで改めて考えたい。
1)英語語彙を繰り返し浴びるシャワー効果
オッド・マン・アウトでは、4つの英語語
彙を、様々な組み合わせの中で、何度も登場
させることが可能となる。従って、
英語のシャ
ワーを繰り返し浴びることができ、充実した
語彙の記憶効果が期待される。
3)共通性のある3つの語彙をグループ化し、
意味を思い出す効果
4つの語彙のグループの中で1つだけ異な
る意味の語彙があり、3つはいわゆる、同義
語・類義語である。例えば、wit, humor, satire
などの場合は、おおよその意味さえ把握して
おけば、またはどれか1つの意味を思い出す
ことが出来さえすれば、忘れかけた他の語彙
もほぼ同じ意味だとおぼろげに理解すること
で、思い出す効果、わゆる「芋づる式」効果
なるものが存在し、これは柴田が指摘する、
humor, wit, fun, ridiculeなどのいわゆる「かぎ
の語」18)にも通じるものと思われる。またこ
の方式では、同義語、類義語の組み合わせが
基本となるので、同じような語彙を記憶する
と有利であるとする、類型別語彙学習法ある
いはグループ別語彙学習法のもたらす効果も
ありうる。筆者は過去に、この方法を活用し
て、例えば昆虫、樹木、動物などの語彙を集
中的に多数学習したことがあるが、経験上効
果があると考えている。
2)対比効果による記憶の鮮明化
同義語、類義語の組み合わせの中に1つだ
け反意語もしくは関連のない意味の語彙を入
れることで、対比的効果による意味の鮮明化
が期待される。この対比効果を狙うに対して
は、投野が言う、
「反意語を教える場合、1つ
の語を提示したら、それが完全に定着するま
で待ち、それから必要に応じて反対の意味を
持つ語を教えるべきで、また先に教える語は
より頻度が高く、一般性を持つ語であるべき
だとも主張している」16)という考えを考慮に
入れるべきかもしれない。しかし、オッド・
マン・アウトは多少の難易度の違いは基本的
15)Michael
には問題にならないことが多い。さらに言え
ば、意図的に難易度の異なる語彙の組み合わ
せを入れることで、問題作成の幅が広がるだ
けでなく、対比効果により、語彙増強の効果
を増す良問ができるはずであるし、結果とし
て学習者のモーティベーションノの向上にも
結び付くのではないだろうか。またこの対比
効果による意味の鮮明化は、Carterの言う、
structural semantics17)にも通じるはずである。
McCarthy Vocabulary 1990 p.23 ll.1〜5
p.70
4)英英方式による英語語彙理解の深化
オッド・マン・アウトではその性質上、す
でに知っている語彙が多く登場し、むしろ初
めて目にする語彙は少数なので、その点で
学習者の心理的負担は軽減されると考えられ
る。また馴染みのある語彙を手掛かりに、新
たな語彙を日本語訳に頼らず、英英方式で学
べる。和訳はピンポイントで即座に意味を分
からせるという便利さにもかかわらず、短絡
Carter Vocabulary: Applied Linguistic
Perspectives Routledge 1987 p.18 l.24
18)柴田省三『語彙論』大修館1975 p.328 l.29
17)Ronald
16)投野由紀夫『英語語彙習得論』河源社1997
ll.5〜8
─ 66 ─
オッド・マン・アウト方式を活用した英語語彙力増強の試み
的な意味の固定化を招くことが多いと考えら
れ、前述のように、本来の英語語彙の持つ含
蓄をそぎ落としてしまうことにつながり易い
と思われる。その点、オッド・マン・アウト
によって英語語彙の理解が表層的なものに終
わることなく、充実して深まり、その結果英
語力が高まると期待される。また、この効果
は、新しい語彙の学習だけにとどまらず、既
習の語彙の理解深化および定着につながると
考えられる。さらにニュアンスの差も同時に
身に付くことで、前章で見てきたように、結
果として英語の表現力が増すと思われる。
5)数量的な語彙増強による英語総合力の質
的な向上
数量的増強と質的な向上を別の次元で論じ
る向きもある。しかしながら筆者は、特に語
彙力に関する限り、まず数量的な増強なくし
て英語の総合力の向上はないと信じている。
英語総合力の貧弱さは、多くの場合、語彙力
の不足が原因となっていると思われる。従っ
て、大雑把にいって、英語総合力は、マスター
した語彙力の総量に正比例すると考えられ
る。そして、このボキャブラリー力における、
数的な増強こそ、本小論で提案している、オッ
ド・マン・アウトメソッドを活用することに
よって実現するはずである。
6)ゲーム感覚、自然かつ理想に近い形によ
る語彙習得の可能性
先に確認したように、既習の語彙が繰り返
し登場するので、ゲーム感覚で楽しみながら
未知の語彙を学習する感覚が味わえると考え
られる。またこの方法により、知らない語彙
の意味を徐々に感じとったり、類推しながら、
学習者が時には勘違いや思い違いを経験しな
がら、いわば試行錯誤・軌道修正しながら、
学び進めることができる。この過程は、一見
回り道のようではあるが、実は言語を習得し
ていく幼児が、意味を想像したり考えたりし
て、時には間違いながらもより正しい理解に
近付いていくという、自然で、本来的かつ理
想的な語彙習得の方法であると考えられる。
Ⅷ.おわりに
以上、
「オッド・マン・アウト方式」による
英語語彙増強法の提案にからめて、受験英語
がもたらしたと考えられる日本人英語学習者
の英語語彙の特徴と問題点、さらに過去の日
本における英語語彙学習書の問題点・その後
の改善点や今なお残る限界などを概観してき
た。しかしそもそも、その元凶は、日本の英
語教育における語彙指導の裏で、それを指導
する立場にある、文科省の姿勢自体にあるの
ではないだろうか。
文科省は、平成20年7月に発表した、英語
学習指導要領により、中学校段階での学習
語彙数を900から1200に、高等学校段階では
1300から1800にと、合計では2200から3000へ
と増やした。しかしながら筆者の考えでは、
世論に押されて実現した。この増加でも十分
ではない。この程度の語彙数では、英語によ
るコミュニケーション力を育成するには、は
なはだ不十分であると断言したい。繰り返す
が、日本人学習者の英語力不足の背後には、
この必修語彙の数的な貧弱さが根本問題とし
て存在するのではないかと憂慮される。また
このような文科省の指導の下で、さらに「語
彙力はインテリジェンスの指標である」とい
う、語彙力そのものを積極的に評価する、欧
米的な伝統や価値観が欠落する中で、日本の
語彙教科指導は、不幸にもおろそかになって
きた感が否めない。またさらに、語彙力強化
法を理論的に研究しようとする努力も同時に
欠けていたのではないだろうか。このことは、
皮肉にも、望月の、平成15年度出版の著の「は
じめに」の、
「英語を教える立場では、語彙に
対する関心が10年ほど前から高まってきてい
ます。国内外のジャーナルや学会で発表され
る語彙に関する研究は増加の一途をたどって
います」19) との発言でも明らかである。つ
まり日本の英語教育における語彙指導のため
の、組織だった研究も工夫も行われてこず、
ようやく最近になって英語教育者や研究者の
中から、語彙指導を組織的に行うべきだとの、
方向性が示されつつある段階に入ったと思わ
19)望月正道『英語語彙の指導マニュアル』大修館
書店2003 iii ll.8〜10
─ 67 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
れる。しかし我々英語教員は、ここでこのよ
うな英語語彙研究・指導の方向性が一過性の
ものとして終わらぬように、心がけるべきだ
と考える。今回筆者の提案した「オッド・マ
ン・アウト・メソッド」が微力ながらその一
助となることを念願する。そしていつの日か、
日本人英語学習者の間で、ボキャブラリービ
ルディングが人気を博し、やがて日本国内で
も、享楽的であまり知性が感じられない週刊
誌だけが氾濫するのではなく、アメリカのよ
うに、時には難解な語彙を駆使してでも、圧
倒的な語彙力と鋭い分析力で、ニュースを伝
える、国民的な人気週刊誌、
『タイム誌』のよ
うな存在が誕生することを願わずにはいられ
ない。
参考文献等
東信行『語根で覚える英単語』研究社2008
全国ボキャブラリー診断テスト問題編集委員
会編『ボキャブラリー問題集』研究社出版
1991
須部宗生 静岡産業大学論集『環境と経営』
第19号第2号2013
赤尾好夫『英語基本単語集』
(初版)旺文社
1935
相 沢 一 美 他『JACET800英 単 語 』 桐 原 書 店
2005
門田修平『英語語彙指導ハンドブック』大修
館書店 2006
木塚晴夫『英語コロケーション辞典』ジャパ
ンタイムズ1995
佐藤誠司『コロケーションで学ぶ生活英単語』
Jリサーチ2009
堀正弘『英語コロケーション研究入門』研究
社2009
小島義郎『英語辞書学入門』三省堂1984
土屋武久『語彙の神話』学芸社2009
Jean Aitchison Words in the Mind Blackwell 1994
Michael McCarthy Vocabulary 1990
投野由紀夫『英語語彙習得論』河源社1997
Ronald Carter Vocabulary: Applied Linguistic
Perspectives Routledge 1987
修館書店2003
太田垣正義『英語教育学・理論と実践の結合
-語彙指導と語彙研究』開文社出版1999
佐久間治『あの手この手のボキャブラリー増
強法』研究社2002
河本健『ライフサイエンス英語類語使い分け
辞典』羊土社2008
京都大学英語学術語彙研究グループ+研究社
編『京大学術語彙データベース基本英単語
1100』2009
浅田壽男『英語学研究』大学教育出版1997
上野景福『英語語彙の研究』1980
相沢一美・望月正道『英語語彙指導の実践ア
イディア集』大修館書店2010
須賀川誠三『英語色彩語の意味と比喩歴史的
研究』成美堂1999
堀正弘『コロケーションの通時的研究』ひつ
じ書房2009
大石強『英語の語彙システムと統語現象』知
泉書館2011
松中完二『現代英語語彙の多義構造』白桃書
房 2005
David Crystal Words Words Words Oxford
University Press 2006
Norman Lewis Word Power Made Easy Pocket
Books 1979
Ida Ehrlich Instant Vocabulary Pocket Books
1968
『新約聖書』日本国祭ギデオン協会
『研究社英和大辞典第6版』2002
『研究社新編活用英和大辞典』1995
『研究社英語学要語辞典』2002
文科省高等学校学習指導要領改訂案のポイン
ト(Adobe PDF)
(www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/
news/.../007.pdf )
柴田省三『語彙論』大修館1975
望月正道他『英語語彙の指導マニュアル』大
─ 68 ─
内水面漁業の資源管理
Fisheries management of inland fishery
谷 口 昭 彦
Ⅰ.はじめに
Ⅱ.滋賀県の漁業と経済
Ⅲ.計量分析
Ⅳ.推計結果
Ⅴ.まとめ
Ⅰ.はじめに
漁業というと海洋における漁業、たとえば、沿岸漁業や遠洋漁業をイメージする。本稿では海洋
における漁業ではなく、内水面、淡水における漁業を取り上げ、その現状と問題点を吟味する。内
水面漁業は湖や河川で行われているものだが、本稿では特に、滋賀県琵琶湖の漁業を取り上げて内
水面漁業を考察する。
Ⅱ.滋賀県の漁業と経済
滋賀県における水産業は、大別して「琵琶湖漁業」
、
「河川漁業」
、
「魚類養殖業」
、
「真珠養殖業」の
4つに分類できる。
琵琶湖漁業
琵琶湖は滋賀県の面積のおよそ1/6 を占める日本最大の湖である。海と隔絶されたこの広大な閉
鎖性水域では、長い年月をかけて多くの固有種を含む多様な魚介類が育まれてきた。現在、琵琶湖
に生息する魚貝類は106 種、そのうち44 種は琵琶湖固有種である。沿岸域には岩礁・砂浜・砂泥底
や水草地帯などが分布し、また北湖には深いところで100m にも及ぶ沖帯が広がっている。
琵琶湖漁業の漁獲量は、表1を見ると、昭和30 年初頭は約1万トンの漁獲量であったが、昭和30年
代後半までに約8千トンに減少し、その後も減少を続け、昭和50年代になると6千トンを下回るよう
になった。平成に入って約5千トンとなっていた漁獲量は、平成10年ころ約2千トンにまで減少して
いる。平成24 年の総漁獲量は1316 トンで、漁獲量の内訳をみると、アユ(鮮魚流通用、養殖・放
流種苗用)の漁獲量が525 トンで、全体の41%を占めている。
河川漁業
滋賀県には100 本以上の河川があり、琵琶湖から流出する唯一の自然河川は瀬田川であり、ほか
のすべての河川は周囲の山々から琵琶湖へ流れ込んでいる。これらの漁場では、竿釣りや投網など
によって、主にアユやアマゴ・イワナ・ニジマスなどを対象に漁業や遊漁が行われている。河川や
一般的な規模の湖沼は、水量が不安定であるうえ、自然の生産力に乏しいため、海や琵琶湖のよう
に資源が豊富ではない。このため、漁業や遊漁が無秩序に行われると、河川の資源は枯渇してしま
うおそれがある。そこで、河川漁業協同組合は、漁場となる河川や湖沼の資源が枯渇しないように
資源を増殖する義務を負い、稚魚の放流などを行っている。河川漁業経営においては、こうした増
殖にかかる費用や漁場を管理する費用の一部を遊漁事業によって賄い、漁獲による収益が少ない河
川漁業の経営を支える重要な事業となっている。
このほか、アユの冷水病対策、カワウの食害への対策などを行い、河川漁業を支えている。
─ 69 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
養殖漁業
養殖漁業では、アユやマス類などが中心となって生産されている。その中でもアユの養殖業は、
琵琶湖や流入河川で漁獲される豊かなアユ資源を背景に、活発に行われている。琵琶湖産のアユは、
養殖用や河川放流用の種苗として広く全国に供給されている。また、河川に放流された琵琶湖産の
アユは、なわばりをつくる性質が強く、友釣りでよく釣れるため、河川放流用の種苗として高く評
価され、全国に出荷されている。近年、人工種苗生産に取り組む自治体が増加し、琵琶湖産アユ種
苗の販売割合は低下している。
このほか、休耕田を利用した養殖事業や琵琶湖産鮎のブランド化などが行われている。
真珠養殖業
真珠養殖業では、昭和40 年代半ばに6000kg を超える生産量を誇り、昭和55 年には生産額が40 億
円を超えて最盛期を迎えたが、昭和50 年代後半以降、母貝とするイケチョウガイの不足に加え、母
貝の成長不良や原因不明の斃死が相次ぐようになり、中国産真珠の市場参入が追い打ちをかけて、
急激に衰退した。平成元年には生産額が1 億円を割り込み、平成24年には11kgの生産量となって
いる。
滋賀県発行の『滋賀水産』を参照し、滋賀の水産業を概観した。総じて確認できることは、最盛
期から衰退期に差し掛かり、水産業の将来は決して明るくはないということになろう。
滋賀県における漁業は、その特徴をまとめるならば、稚魚を放流し親魚を漁獲する。漁獲の際も
親魚の大きさを決めて資源管理をしている。さらに外来魚の駆除も行い資源管理に努めている。
表1 漁獲量と平均価格の推移(左軸:トン,右軸:百万円/トン)
12000
1.8
1.6
1.4
1.2
1
0.8
0.6
0.4
0.2
0
10000
8000
6000
4000
2000
22
18
14
6
10
2
57
61
53
49
45
41
37
33
昭
和
29
0
漁獲量
価格
滋賀県の経済状況
滋賀県の水産業を見たが、滋賀県の主要な産業は何か、県民経済計算のデータから確認しよう。
表2は2005年と2010年の産業別シェアを示したものである。農林水産業のシェアは2005年0.7%、
2010年では0.6%と減少している。最も大きなシェアとなっているのは製造業(38%、両年とも)で
ある。滋賀県では製造業が盛んであることがわかる。サービス業も大きなシェアを占める。2005年
では13%、2010年では14.5%のシェアとなっている。近年、日本全体では人口減少が続いているが、
滋賀県では大阪・京都などの都市圏と通勤圏内であることから、人口増加が続いている地域でもあ
る。人が集うことでサービス業が発展しているものと考えられる。
─ 70 ─
内水面漁業の資源管理
表2 産業別シェア(単位:%)
45
40
35
30
25
2005
2010
20
15
10
5
造
業
建
気
設
・ガ
業
ス
・水
道
卸
業
売
・小
売
金
業
融
・保
険
業
不
動
産
業
運
輸
情
業
報
通
信
政
業
サ
府
ー
サ
ビ
ー
ス
業
ビ
ス
生
産
者
業
鉱
電
農
製
林
水
産
業
0
表3は製造業の内訳である。全産業に占める各部門のシェアを求めた。2005年と2010年の比較では、
製造業のうち食料品、化学、窯業・土石製品が増加を示している。
表3 製造業内訳(シェア)
(単位:%)
8
7
6
5
2005
2010
4
3
2
1
機
送 械
用
機
械
そ 精密
の
他 機械
の
製
造
業
械
輸
電
気
機
品
一
般
製
属
金
属
金
鋼
鉄
鉄
非
石
油
化
・石 学
窯
炭
業
製
・土 品
石
製
品
繊
パ
維
ル
プ
・紙
食
料
品
0
表4では、産業別の就業者数を時系列で示した表である。農林水産業をそれぞれ見ていくと、減
少傾向であることがわかる。ただし、林業については、2009年以降、増加に転じている。水産業の
傾向に注目すると、就業者数減少に歯止めが掛からず、2011年には557人となっている。農業でも
減少傾向ではあるが、2011年現在で1万9千人の就業者が働いている。
就業者が多い産業は、製造業、サービス業が約19万人、約16万人の就業者となっている。滋賀県
─ 71 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
の中心的な産業は製造業やサービス業であり、農林水産業あるいは水産業は縮小傾向にあることが
わかる。
表4 産業別就業者数(単位:人)
農業
林業
水産業
鉱業
製造業
建設業
電気・ガス・水道業
卸売・小売業
金融・保険業
不動産業
運輸業
情報通信業
サービス業
2005
25,407
371
670
333
187,755
51,353
5,487
113,073
16,944
5,587
32,305
12,054
162,315
2006
24,084
440
648
330
196,023
49,342
5,319
112,487
16,624
5,554
31,980
12,214
159,879
2007
22,844
516
626
330
204,091
47,505
5,163
113,520
16,532
5,516
31,728
12,220
157,785
2008
21,595
579
604
298
203,286
46,360
5,096
113,897
16,610
5,552
32,072
12,429
158,781
2009
20,398
643
583
303
188,805
46,003
5,142
113,041
16,994
5,682
33,192
12,894
163,906
2010
19,206
700
561
303
189,374
44,298
5,019
112,670
16,779
5,627
33,086
13,123
162,536
2011
19,293
790
557
305
193,005
44,237
5,012
113,213
16,736
5,623
33,025
13,104
162,259
Ⅲ.計量分析
データ
データは漁獲量と生産量のデータを昭和29 ~平成21年 滋賀農林水産統計年報(近畿農政局 滋賀
農政事務所)
、平成22年~平成24年 内水面漁業生産統計調査(農林水産省)から引用している。価
格データは漁獲量と生産額から推計した。
モデル
各魚種別に供給関数を導出し、推計する。漁業における供給関数は、通常の市場で流通する財と
は異なり、フリーアクセスが可能な財となっているため、形状が異なる。
長期供給関数の関数形については、M.B.Schaeferのモデルから下記の通り導出する。Qは生産量、
Xは努力量、qは漁獲効率、Lは環境収容量、Kは内的資源増加率/環境収容量を表わす。このうち、q、
L、Kは定数である。
Q = qLX – (q 2 / K ) X 2
ここで、 qL = a 、
q2
= b として、生産関数は次のように整理できる。
K
Q = aX – bX 2 ・・・(1)
生産額関数は、上記式(1)に価格pを両辺に乗じると、pQは価格×数量=生産額となり、生産額関
数は次式(2)で表される。
pQ = apX – bpX 2 ・・・(2)
─ 72 ─
内水面漁業の資源管理
次に、利潤関数 ∏ を下記の通り仮定し、生産関数(1)を代入する。ここで w は単位努力量あたり
の費用(努力量価格)である。
∏ = PQ – wX
∏ = P(aX – bX 2 ) – wX
∏ = ( Pa – w) X – PbX 2
漁業の一般的な供給関数(オープン・アクセスまたはそれに近い状態)を導出する。共有資源の
漁獲均衡点はCPE(Common Property Equilibrium)であるため、利潤ゼロ点である。したがって、利
潤関数は以下のようになる。
∏ = ( Pa – w) X – PbX 2 = 0
Pa – w = PbX
∴X =
Pa – w
Pb
これをもとの生産関数に代入して、式を整理し、供給関数を得る。
Pa – w ⎛ Pa – w ⎞
|
– b|
Pb
⎝ Pb ⎠
2
Q =a
Q=
ここで、
Paw – w 2 a w 1 w 2
=
–
bP 2
b P b P2
a
1
= α 、 – = β とすると、
b
b
Q =α
w
w2
+β 2
P
P
w を一定と仮定すると、式(3)のように整理される。
Q =α ’
1
1
+β’ 2
P
P
[st.α ’ > 0, β ’ < 0]
・・・(3)
式(3)が長期供給関数となる。式(3)の最大生産量はMSY
(Maximum Sustainable Yield:最大持続生産量)
として知られた数値を示す。
Ⅳ.推計結果
魚種別に長期供給関数を推計した。
(3)式を推計しているが変数名の表記は便宜的にα βとしてい
る。推計した魚種(貝を含む)は、マス、アユ、コアユ、フナ、モロコ、ホンモロコ、シジミである。
推計した係数はすべて統計的有意と判断される。推計した式をグラフに書き実際の漁獲量をプロッ
トしたのが、下の各図である。
グラフは漁獲量と価格データの折れ線グラフと推計式と実績値のプロットである。漁獲量と価格
データは左軸にトンを右軸に百万円/トンの単位をとっている。推計式と実績値プロットは縦軸に
百万円/トンを取り、横軸にはトンを取っている。
─ 73 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
マス
変数
推計値
P値
α
25.7371
[.000]
β
-5.08281
[.000]
120
1.4
100
1.2
1
トン
80
0.8
60
40
0.4
20
0.2
22
18
14
6
10
2
61
57
53
49
45
昭
和
37
41
0
33
0
29
ます
ます 価格
0.6
(左軸:トン,右軸:百万円 / トン)
2.5
2
1.5
ます
ます
1
0.5
0
0
10
20
30
40
50
60
(縦軸:百万円 / トン,横軸:トン)
マスは、MSY(最大持続生産量)が32.5トンである。近年の動向を見ると約30トン前後で推移し
ている。価格は0.6よりも大きい水準になっている。このため、MSYを若干上回る水準の漁獲量であ
ることが確認できる。マスについては過剰漁獲となっていることがわかる。漁獲量を20トン以下に
すると供給曲線の左側にプロットされるので資源管理が可能となる。
─ 74 ─
内水面漁業の資源管理
アユ
変数
推計値
P値
α
1668.72
[.000]
β
-539.803
[.000]
3.5
2500
3
2000
2.5
1500
2
1000
1.5
あゆ 漁獲量
あゆ 価格
1
500
0.5
22
18
14
6
10
2
61
57
53
49
45
41
37
0
昭
和
29
33
0
(左軸:トン,右軸:百万円 / トン)
4
3.5
3
2.5
あゆ
あゆ
2
1.5
1
0.5
0
0
500
1000
1500
2000
2500
(縦軸:百万円 / トン,横軸:トン)
アユのMSY(最大持続生産量)は1289トンである。近年の状況を確認すると1000トン以下の漁獲
量となっているため、供給曲線の左側にプロットされる。有効な資源管理が行われているといえる。
稚魚を放流し大きさの基準を設けて漁獲している施策が資源管理に良い効果を与えていることが確
認できる。
─ 75 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
コアユ
変数
推計値
P値
α
268.006
[.000]
β
-16.8979
[.000]
1600
1.8
1400
1.6
1200
1.4
1.2
1000
1
800
0.8
600
0.6
400
0.4
200
0.2
22
18
14
6
10
2
61
57
53
49
45
41
昭
和
37
0
33
0
29
こあゆ 漁獲量
こあゆ 価格
(左軸:トン,右軸:百万円 / トン)
1.8
1.6
1.4
1.2
1
こあゆ
こあゆ
0.8
0.6
0.4
0.2
0
0
200
400
600
800
1000
1200
1400
1600
(縦軸:百万円 / トン,横軸:トン)
コアユについては、MSY(最大持続生産量)が1061トンである。近年の状況は600トン前後で価格
が1から1.2の付近になる。供給曲線からは大きくずれた上方に位置する。養殖が行われているので、
その影響を考慮しなければならないが、琵琶湖の自然増殖力を超えた漁獲量となるため、琵琶湖の
生態系を考慮に入れた資源管理が必要といえよう。
─ 76 ─
内水面漁業の資源管理
フナ
変数
推計値
P値
α
308.529
[.000]
β
-22.2205
[.000]
ふな
4
1200
3.5
1000
3
800
2.5
2
600
1.5
400
ふな漁獲量
ふな価格
1
200
0.5
0
22
18
14
6
10
2
61
57
53
49
45
41
37
33
昭
和
29
0
(左軸:トン,右軸:百万円 / トン)
4
3.5
3
2.5
ふな
ふな
2
1.5
1
0.5
0
0
200
400
600
800
1000
1200
(縦軸:百万円 / トン,横軸:トン)
フナについてはMSYが1069トンである。近年の状況では200トン以下の漁獲量となっているので、
供給関数の左側にプロットされる。資源管理としては有効な結果となっている。稚魚の放流は有効
な施策といえよう。ただ、価格のグラフを見ると安定して推移しているとはいえないため、価格の
変動が大きくなれば、今の漁獲量でも過剰漁獲となる可能性もある
─ 77 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
モロコ
変数
推計値
P値
α
359.987
[.000]
β
-67.4326
[.000]
もろこ
3
2.5
2
1.5
もろこ漁獲量
もろこ価格
1
0.5
22
18
14
6
10
2
61
57
53
49
45
41
37
33
0
昭
和
29
500
450
400
350
300
250
200
150
100
50
0
(左軸:トン,右軸:百万円 / トン)
4
3.5
3
2.5
もろこ
もろこ
2
1.5
1
0.5
0
0
100
200
300
400
500
600
(縦軸:百万円 / トン,横軸:トン)
モロコについてはMSY(最大持続生産量)が479トンである。近年の現状を見ると漁獲量の低下が、
供給曲線の左側にプロットされるので資源管理としてはよい状態となっている。価格水準は上昇傾
向となっている。このため、漁獲量の増加は過剰漁獲になる可能性がある。
─ 78 ─
内水面漁業の資源管理
ホンモロコ
変数
推計値
P値
α
383.177
[.000]
β
-108.809
[.000]
ほんもろこ
5
4.5
4
3.5
3
2.5
2
1.5
1
0.5
0
18
22
6
10
14
2
61
53
57
45
49
33
37
41
ほんもろこ漁獲量
ほんもろこ価格
昭
和
29
400
350
300
250
200
150
100
50
0
(左軸:トン,右軸:百万円 / トン)
5
4.5
4
3.5
3
ほんもろこ
ほんもろこ
2.5
2
1.5
1
0.5
0
0
50
100
150
200
250
300
350
400
(縦軸:百万円 / トン,横軸:トン)
ホンモロコについては、MSY(最大持続生産量)が337トンである。ホンモロコの漁獲量も近年減
少しているが、その減少が資源管理には良い影響を与えている。供給曲線の左側にプロットされる
から資源枯渇の心配はない。価格水準は上昇傾向にある。モロコと同様に漁獲量の増加となれば過
剰漁獲になってしまう可能性がある。
─ 79 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
シジミ
変数
推計値
P値
α
52.3603
[.000]
β
-0.14871
[.000]
しじみ
7000
0.4
0.35
0.3
0.25
0.2
0.15
0.1
0.05
0
6000
5000
4000
3000
2000
1000
22
18
14
6
10
2
61
57
53
49
45
41
37
33
昭
和
29
0
しじみ漁獲量
しじみ価格
(左軸:トン,右軸:百万円 / トン)
0.4
0.35
0.3
0.25
しじみ
しじみ
0.2
0.15
0.1
0.05
0
0
1000
2000
3000
4000
5000
(縦軸:百万円 / トン,横軸:トン)
シジミについては、
MSY(最大持続生産量)は4595トンである。ただし、
そのときの価格水準は0.008
となるので、
現在の0.3の価格水準とは大きな開きがある。現在の漁獲量は100トン以下となっていて、
価格が0.3の水準だから、かろうじて供給曲線上にある。資源管理を考慮すれば価格が上昇傾向を示
しているので漁獲量はこのまま低位で推移しなければ過剰漁獲となってしまう。
─ 80 ─
内水面漁業の資源管理
Ⅴ.まとめ
魚種別の供給曲線から滋賀の水産業を考察してみる。滋賀の水産業は衰退の一途をたどっている
ことは、グラフから読み取れる。このため、稚魚を放流するという施策が行われているが、概ね評
価してよい結果を出している。ただし、漁獲量を増加させて産業を発展させようとするならば、資
源枯渇の問題にぶつかる。漁獲量の増加を図るのならば、琵琶湖の生態系を考えた上で稚魚の放流
を行い、資源量がある程度回復するまで漁業を行わないなどの対策が必要だろう。また、価格の安
定も見逃せず、価格が不安定だと漁獲量を増加させても資源枯渇の状況を作ってしまい、滋賀の水
産業を破壊してしまう可能性がある。
滋賀県は人口増加している数少ない県でもある。また、製造業に強みもあるので水産業をどう位
置づけるかという議論が必要だろう。その上で、漁業の発展を目指すのならば、水産業の6次産業
化を進め、付加価値をつけることで価格の変動や漁獲量に対応していく漁業が必要となる。
参考文献
滋賀県 『滋賀の水産』各年版
─ 81 ─
精神障がい者の再就職支援のための音楽療法の効果
─ Aさんの事例を通して ─
The Effect of Musical Therapy on Rework of the Mental Patient (Case Study)
大日方 重 利
福 田 ゆ み
はじめに
Ⅰ.対象者
Ⅱ.療法の目標および方法
Ⅲ.経過・結果
Ⅳ.考察
終わりに
はじめに
一般社会において心身に何らかの障がいを
持つ個人(以下障がい者と称する)が、個人
としての尊厳を認められ、どのような処遇を
受けているかということは、その社会の成熟
度や文化のバロメーターであるといわれる。
また我が国においても、第二次大戦後の民主
主義理念の実現の一環として、障がい者の社
会参加なかでも経済活動への参加を保障すべ
く法制度やそれに基づく施策が図られてきて
いるが、戦後70年近く経ったとはいえ、まだ
まだ十分な状況とは言い難い。
例えば厚生労働省の報告によれば、2013年
に障がい者の法定雇用率(1.8%)を達成し
た企業数は40数%であって半数にも達してい
ないの現状である。さらに雇用されている障
がい者の内訳にも大きな違いがある。すなわ
ち身体障がい者の70%代に対して知的障がい
者は約20%と少ないが、精神障がい者にいたっ
ては僅か数%に過ぎない。
このように特に精神障がい者の雇用率が低
いのはなぜであろうか。そのわけの重要な一
つは雇用促進の法的制度の不十分さにあると
いえる。すなわち、現行の「障がい者の雇用
の促進等に関する法律」は、もともと身体障
がい者と知的障がい者の雇用促進を主として
おり、本法律によれば精神障がい者の雇用は、
─ 83 ─
身体障がい者や知的障がい者の雇用を含めて
人数が算定される。換言すれば、事業主は精
神障がい者を全く雇用しなくても、身体障が
い者もしくは知的障がい者を一定人数雇用す
れば、法定雇用率を満たすことができるとい
うことである。それゆえ、精神障がい者の雇
用率を高めるためには、精神障がい者に限っ
た法定雇用率を制定する必要がある。時期遅
しの誹りを免れないであろうが、幸いにも
2018年度から精神障がい者の雇用が義務化さ
れることになっている。
また法的整備だけでは十分とは言えないで
あろう。雇用主や同僚たちの理解や意識改革
がなされ、障がい者が安心して働くことの
できる職場環境の整備も欠かすことができな
い。さらに障がい者の日常生活行動や労働の
意欲を認め、精神的なサポートをしていくこ
とも必要である。これらのベクトルがうまく
協同的に作用することによって、障がい者の
経済活動への参加が保障されることになるで
あろう。
精神障がい者の就労やその継続への精神的
支援のためには、さまざまな手立てが考えら
れるが、本稿では音楽療法による支援の効果
を検討する。既に、音楽療法もしくは音楽活
動について教育、福祉、医療などさまざまな
分野における効果が実証されているが、古代
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
から労働と音楽活動は不可分の関係にある。
例えば、田植え唄や舟歌などは、労働の集団
的な意欲を高めるとともに労働の辛さを癒す
心理療法的(音楽療法的)な効果もあると考
えられる。また、上述のごとく音楽療法はさ
まざまな精神障がい者に対して、心を癒した
り、心情を表現したり、乱れた心を整えたり
する効果がある(村井1995,Bunt&Stig2014)
。
これらの事柄に鑑みて、本研究では障がい
者の就労支援のために音楽療法が有効であろ
うとの仮説に基づいて実践が進められた。
Ⅰ.対象者
個別音楽療法を受けた対象者Aさんは、青
年期になってからある種の精神障がいと診断
された20歳代の女性である。Aさんが再就職
を目指して個別音楽療法を受けるようになる
までの生活史の概略は以下のとおりである。
まず家族は両親(共働き)
、祖父、本人の
4人家族である。Aさんは3歳で保育所に入
所した。発達に関してやや遅れ気味であった
が特に支障はなかった。公立小学校に入学後
も、4年生までは通常学級に在籍していたが、
5年生になる際に特に算数の授業の困難を訴
えて、Aさん自身の希望もあって、算数など
一部の教科について特別支援学級での指導を
受けるようになった。その後時には「いじめ」
も経験したが、教師や保護者の適切な対応の
ため、あまり継続しないで済んだ。小学校卒
業後は特別支援学校の中等部と高等部で学ん
だ。
小学校時代から運動することが好きで、中・
高の6年間を通して卓球部に所属して楽しん
だ。また、小学校の中ごろから絵画とピアノ
のレッスンを続けていた。
高等部卒業後に商店に勤務した(1日5時間
で週5日勤務)
。Aさんには働く意欲は十分
あったが、職場同僚との会話において内容的
に理解しにくいことがあり、しんどかったと
いう。夜は公立高校夜間部に通学しており、
4年後の卒業とともに同商店を退職し、同年
4月に美術専門学校に入学した。しかし、同
級生たちとの絵画技術のギャップに悩んだ
り、不注意な言葉に傷ついたりしたために、
数か月後に一人で外出することができなくな
り、専門学校を退学した。
その後半年間ほど自宅で過ごしていたが、
両親の勧めにより個別音楽療法を受け、再就
職を目指して心身の調子を整えようと考え
た。
なお、対象者や家族のプライバシー保護の
ため、上記および以下の記述内容は若干変え
られている。
Ⅱ.療法の目標および方法
1.療法の目標
セラピスト(筆者の一人の音楽療法士)は、
初回面接においてAさんと母親に音楽療法の
意義、進め方、効果などを分かりやすく説明
し、療法を継続するように勧めたところ、本
人は十分に理解し治療意欲も持つことができ
た。これはまた、Aさんが年少時からピアノ
のレッスンを受けてきて、音楽活動に馴れ親
しんでいたことも与っていると思われる。目
標についても、セラピストはAさんの考えや
希望をよく聴き取ったうえで、次のような短
期目標と長期目標を設定した。
[短期目標]
①クライエント(Aさん)が好きな音楽や
好きな音をセラピストが認知すること。
②セラピストはクライエントと共に音楽を
演奏すること。
[長期目標]
①日常生活の望ましいリズムを回復するこ
と。
②再就職すること
2.方法
(1)音楽療法実施のためのアセスメント
まず音楽療法のセッションに入る前に、上
記のごとく目標を設定したり、実施プログラ
ムを作成したりするために音楽療法のための
アセスメントを行った。アセスメントは、ア
メリカ音楽療法協会が示している「音楽療法
査定(アセスメント)
」
(廣川恵理訳)にもと
づいて、Aさん本人と母親のそれぞれから情
報が集められた。その概要は以下の通りであ
─ 84 ─
精神障がい者の再就職支援のための音楽療法の効果
る(一部の項目は、上記の「1.対象者」の
内容と重複するため省略して示す)
。
るとともに、筆者のセラピストが行っている
個別音楽療法場面のビデオの視聴により、理
解を深めてもらった。
a.医学的診断:精神障がい(障がい者手
帳有り、投薬有り)
b.生育歴:省略(上記のとおり)
c.音楽歴:8歳ころからピアノ教室に通
う
d.音楽技術:楽譜を見ながら両手でピア
ノを弾くことができる
e.音楽の好み:学校で歌唱した歌、アイ
ドルのヒット曲
f.社会的技能/技術:交通機関の利用は
一人で可能、自分の金銭管理ができない、
約束の時間が守れないなど
g.認知機能/技術:食事・排泄・衣服の着脱・
入浴・移動などは自立できているが、認
知機能は全般的に低い(障がいは軽度レ
ベル?)
h.視聴覚:異常なし
i.その他、強化子等の好み:ディズニー
のキャラクター商品を好む
j.感覚面/環境的なニーズ:幼少時から
芸術文化に親しんでいる
k.外観:明るい服装でおしゃれである
l.長所:関心事が多く探究心に富んでい
る
m.現在のニーズ:優しいボーイフレンド
と交際したい
n.小目標:上記の短期目標と同じ
o.大目標:上記の長期目標と同じ
さらにアセスメントを精緻化するために、
毎回のセッションにおいてもクライエントの
様子を観察したり、時にはクライエントや母
親に質問をしたりした。
(2)事前の説明
セッション開始に先立ってなされた第2ス
テップとして、個別音楽療法はどのように進
められるかを事前に理解してもらうために、
クライエントと母親に対して上記のアメリカ
音楽療法協会による「アメリカ音楽療法協会
の実践基準」
(廣川恵理訳)に沿って説明をす
(3)療法プログラムの実施
200X年3月から、毎月3回のペースでほぼ
1年間にわたり全37回のセッションの個別音
楽療法が実施された。1週間に1回のペース
であるが、毎月の最終の週はセラピストの都
合で休みにした。また各セッションの時間は
50分であり、各セッションでは付き添ってき
た母親も同席した。母親同席によりクライエ
ントの安心感が得られたようである。
使用した楽器は主にピアノであるが、その
時や場の状況に応じてクライエントの好きな
弦打楽器も使用して演奏をした。
実践プログラムは、上記のアメリカ音楽療
法協会の実践基準に従って作成された。プロ
グラムの各セッションにおける基本的な流れ
は次のとおりである。
①まず母親も含めて和やかに挨拶を交わし
たりして、クライエントの緊張感を解き
ほぐす会話を交わす。
②静かな音楽を聴きながらクライエントか
ら近況を話してもらう。その際セラピス
トは熱心に傾聴する。
③クライエントとセラピストが一緒に、ク
ライエントが好きな歌(曲)を歌った
り、演奏する。この際、クライエントの
取り組みを鼓舞するための声掛けをした
り,僅かな上達も認めて褒める(正のスト
ローク)
。
④クライエントと一緒に次回のセッション
の内容を話し合い、終わりの挨拶をする。
この際、次回のセッションへの動機づけ
になるような言葉をかける。
⑤クライエントと母親が退出後、セッショ
ンの流れを記録し、かつ次回における留
意点などを確認する。
─ 85 ─
Ⅲ.経過・結果
全37回にわたる各セッションの経過につい
て、クライエントの心理状態や行動を全体的
に評価して、4つの時期に分けることができ
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
る。以下、それぞれの時期の特徴及び特筆す
べきいくつかのセッションについて述べるこ
とにする。
[第1期:音楽活動への親しみの回復 セッ
ション1 ~セッション4]
クライエントは8歳ころからピアノを習い
はじめ、高等部を卒業するまで続けていたが,
その後は何年間かピアノから離れていたの
で、演奏や歌唱など音楽活動への親しみを回
復するという、いわば音楽療法への助走の時
期である。
・セッション1
中学生や高校生の時習っていたピアノ教本
を持参してもらい、復習をした。中学・高校
時代に師事していたピアノ講師と、どのよう
にレッスンをしていたかを話し合いながら、
ピアノ演奏を進行すると安心した表情で「前
の先生とやり方が一緒や」と言った。
久しぶりにピアノを触ったためか、たどた
どしい演奏で『川はよんでいる』を両手で演
奏した。セラピスト(筆者)は、
「とっても上
手やね。
」と何回も、演奏中に声をかけると、
Aさんの緊張した表情が緩んだ。
以後のセッション2から4まで、ほぼ同様
なやり取りが続いた。
[第2期: 音 楽 療 法 へ の 積 極 的 な 取 り 組 み セッション5~セッション22]
クライエントは、以前のように単にピアノ
のレッスンということでなく、一緒に音楽活
動をしながらセラピストと会話をするとい
う療法的な取り組みを意欲的にするようにな
り、日常の精神状態の安定が図られた時期で
ある。
・セッション5
5線譜の音符を思いだしながら、ほぼ正確
に音符を読譜して『大きな古時計』を演奏し
た。右手、左手それぞれの片手では正確にリ
ズム演奏ができたが、両手による演奏は不正
確で間違った。このことに引き続いて、
「養護
学校のとき、勝手にツリーチャイムを触って
怒られた。
」と言いながら、ツリーチャイム
を鳴らした。
また「養護学校のとき、わたしの好きなよ
うに木琴を叩いて先生に怒られた。
」と言い
ながら、木琴を叩いた。さらに、
「お父さんに、勝手にパソコンを触って怒
られた。
」
「お父さんに背中を叩いて怒られた。セク
ハラや。
」
「お父さんに帰ってくる時間が遅いと言っ
て怒られた。
」などと、過去の嫌な経験を
続けて発言した。
セッションの終了後、母親に対して、6回
目のレッスンの時にAさんに「褒められたこ
とは何かあるの?」と質問することを予告し
た。
・セッション6
音楽活動を始める前にクライエントはセラ
ピストに、当日の来談するまでの出来事を話
してくれた。
「お母さんと、昼ごはんをフレンドリーで
食べた。
」
「夜、お母さんが焼肉をしてくれた。お母
さんと肉屋さんに一緒に買い物に行った。
お母さんがどのお肉にする?と、私に尋ね
てくれた。
」
「陸上の試合の日、お父さんが、B競技場ま
で見に来てくれた。お父さんが私のタイム
を計ってくれていた。
」
今回新たに、
「大きな古時計」の楽譜が読譜
し易いように、クライエントが自分で、ピア
ノ演奏を繰り返し間違える音に、鉛筆で書き
込みを入れるようにセラピストが提案をし
た。Aさんは、セラピストの提案を快諾して
くれた。
・セッション7
クライエントは前回の提案を覚えていて、
演奏の途中で書き込みを入れながら『大きな
古時計』を両手で演奏をし、その効果があっ
たのでほっとした表情を示した。
・セッション8
音楽活動をする前に30分以上、クライエン
トはセラピストに過去のことを話し続けた。
「小学校の時、
『算数がわからない。
』と、担
─ 86 ─
精神障がい者の再就職支援のための音楽療法の効果
任の先生に自分で言った。お父さんとお母
さんが、なかなか解かってくれなかった。
でも、
『Aがなかよし学級にいきたかったら、
そうしたらいいよ。
』とお母さんが言って
くれた。
」
「この時は本当につらかった。
」
「高校のときも、しんどかった。
」
「お店で働いていた時も、しんどかった。
」
セラピストが「働いていたとき、どんなこ
とがしんどかったの?」と尋ねた。
「同じ職場の人と、仕事帰りにマック(マ
クドナルド)やミスド(ミスタードーナツ)
に寄って、色々話をした。皆の話している
内容がわからへんこともあって、しんど
かった。でも、解かったフリをしていた。
」
と答えた。
後ろで聞いていた母親は、
「Aは何が分から
ないのか。どの程度分からないのか。どんな
ふうに分からないのか。それがよく私にはわ
からないので困っている。
」と発言し、さら
にAに向かって「分からないことは、ちゃん
と人に言いなさい。
」と言った。
その後、セラピストはその場の雰囲気を和
らげるためにピアノ演奏はせずに、
『翼をくだ
さい』を一緒に歌唱した。
・セッション9
来談するとすぐに、クライエントは最近の
経験を話し始めた。
「電柱が見張っていて、一人で外に出られ
ない。
」
「電波が走っている。
」
「パトカーが追いかけてくる。
」
「自転車に乗ってたら、止まろうとしても、
止まらなくなった。
」
30分以上、母親が止めるまでクライエント
は話し続け、セラピストはそれを傾聴した。
最後に、
『翼をください』をセラピストのピ
アノ伴奏に合わせて歌った。数回、繰り返し
て歌っている途中から、クライエントは手話
をしながら歌った。セラピストはそのことを
肯定的に受け止めて、
「次回は、私(セラピス
ト)とお母さんに手話を教えてね。
」とクラ
イエントにお願いすると、うなずいてくれた。
・セション10
いつものようにまず、過去の経験を話した。
「美術の専門学校の時、学校の先生とアメ
リカに行った。アメリカの動物園で絵を描
いていたら、描く紙の大きさが違うと先生
に怒られた。
」
「どの紙がB5なのか、どの紙がA4なのか、
紙の大きさがわかれへん。
」と何回も訴え
た。
その後、
『大きな古時計』をセラピストと一
緒にピアノ連弾で演奏をした。
最後に、母親と一緒に『翼をください』の
歌を歌いながら、セラピストに手話を教えて
くれた。お礼を言うとクライエントは大変満
足そうな表情を示した。
・セッション11
クライエントが、養護学校の卒業記念CD
を持参したので、最初にそのCDに録音され
ていた『翼をください』を一緒に聴いた。
CDを聴きながらクライエントは、地下鉄
の乗って養護学校に通学をしていたことや、
(セラピストも知っている)Bちゃんと一緒に
通学していた話をした。
「Bちゃんのお父さんはいつも、Bちゃんの
後ろからそっと、くっついて歩いているね
ん。
」
「Bちゃんのお父さんはBちゃんを学校まで
送ってから、会社に行っている。
」
「Bちゃんのお父さんは優しいので好き。B
ちゃんとBちゃんのお父さんは仲良しやね
ん。
」と羨ましそうに話した。
クライエントが話を始めてから30分以上経
過していたが、もっともっと話をしたそうで
あったので、そのまま聴くことにした。
「美術の専門学校の先生と絵画先生の教え
方が違ってしんどかった。
」
「お父さん、お母さんに怒られた。
」
「一人で外に出かけようと思っても、アン
テナに見張られていて、出かけられない。
」
など。
セラピストはゆっくりと優しい口調で、
「そ
う、怖いね。
」
「つらいことね。
」と優しく応答
するうちにクライエントは次第に落ち着いて
─ 87 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
きた。
「そろそろ、ピアノを弾こうか」とセラピ
ストが聞くと、
「うん。
」と頷いた。
本人にとって心地よいリズムや速さで一緒
に『大きな古時計』歌いながら、ピアノ伴奏
もした。
・セッション12
音楽療法への取り組みがかなり積極的に
なってきたので、音楽療法で演奏した楽曲を、
週2回自宅で復習することをクライエントと
約束をした。
同時にセラピストは、2枚のシールをクラ
イエントに渡して、自宅でピアノの練習をし
たら、その都度レッスンノートに貼るように
伝えた。
・セッション13
前回約束した復習は、1回だけして来た。
「復習する曜日を忘れてしまう。わからな
くなる。
」と訴えたので、二人で話し合って、
練習する曜日を決めた。更に、練習する曜日
には、その日の午前中にセラピストがクライ
エントにメールを送ることにした。
・セッション14
週2回の復習ができていた。
音の強弱に注意をしながら、ピアノが弾け
るようになった。
最後に、
「結婚したい。
」とか「養護学校の
ボーイフレンドじゃなくて、普通の人の友達
が欲しい。
」などと話した。
[第3期:音楽療法への発展的取組み セッ
ション23 ~セッション32]
これまでのように最初に自分の過去や最近
の出来事をしゃべることが少なくなって、す
ぐに音楽活動に取り組むようになってきた。
また、自分が気に入っている最近のアイドル
グループの曲をリクエストして演奏するよう
になった。
・セッション23
身体を左右に揺らしながら、
『赤鼻のトナカ
イ」
』を一緒にピアノ演奏した。ピアノを弾
き始めて10分ほど経過した頃から、演奏中に
身体や指先の緊張が解きほぐれて柔らかく
なったきた。
「身体が、楽になってきた。
」
「息がしやすい。
」
「身体がキーンとなれへん。
」
『赤鼻のトナカイ』の演奏後に、セラピス
トは「身体が楽になって、とても上手に弾け
たね。
」と褒めると、クライエントも嬉しそ
うにニコッとした。
・セッション26
音楽活動終了後クライエントは、クリスマ
スが近づいてきたので友達にクリスマスカー
ドを贈りたいと話し出したで、
「○○駅の△△
店に、いっぱいかわいいクリスマスカード
売ってたよ。
」教えると、そこのお店に行っ
てみようかなと元気よく応答した。
・セッション27
以前は「電柱に見張られていて、一人で
は怖くて外に出られない。
」と言っていたが、
来談日の数日前に一人で外出して、セラピス
トへのクリスマスカードを買ってきてくれ
た。
最後にアイドルグループ嵐の『マイガール』
を演奏したいとリクエストしたので、次回ま
でにセラピストが楽譜を用意することを約束
した。
[第4期:再就労への飛び立ちと終結 セッ
ション33 ~セッション37]
音楽療法のセッションを始めて1年ほど経
ち、クライエントに再就職への意欲が高まり、
一人で外出もできるようになってきたので、
最初に朝夕の障がい者送迎の補助係りを1か
月間ほど続けた。
このことに慣れて自信が付いたので、月曜
日から金曜日の午前9時から正午までは、清
掃会社に雇用されて清掃の仕事もするよう
になり、音楽療法を受けることへの終結に向
かっていった。
─ 88 ─
精神障がい者の再就職支援のための音楽療法の効果
・セッション33
アイドルグループ嵐の『マイガール』の
ピアノ演奏をした。クライエントは「
(演奏
法について)何か目標を持って演奏したい。
」
と言うので、どのような演奏にするのかよく
話し合い、エイトビートのリズムを聞きなが
ら一緒にピアノ演奏することを試みた。
また、障害者を送迎するための補助の仕事
を始めた。月曜日から金曜日までの午後4時
からである。クライエントは、送迎車の利用
者やその家族の人たちと話ができてとても嬉
しいと語った。
・セッション34
クライエントは自分の好きな『トイレの神
様』のレンタルCDを持参したので、一緒に
その曲を聞いているうちに「この曲を弾きた
い。
」と言ったが、楽譜がないので次回まで
にセラピストが用意しておくと伝えた。
・セッション36
セラピストが用意をしておいた『トイレの
神様』の楽譜を見ながら、ピアノ演奏をした。
大変満足そうな表情をした。
障がい者の送迎の補助だけでなく、清掃の
仕事も始めた。
・セッション37
清掃と送迎の仕事が終わってから、音楽療
法のために来談することが体力的に負担であ
るので、清掃の仕事に十分に慣れるまで、し
ばらく休みたいという希望がクライエントか
ら出された。セラピストもクライエントの状
況を十分に理解し、本人の社会参加(就労)
を高く評価していることを繰り返し伝えて励
ました。
その後も、メールや fecebook により本ク
ライエントと交流し、音楽の話をしたり、A
さんが関心を持ちそうなスイーツを紹介した
り、コメントしたりなどして、支援と励まし
をつづけている。
─ 89 ─
Ⅳ.考察
まず本事例について全体的・総合的に評価
すれば、短期目標(音楽活動に積極的に取り
組み且つ楽しむこと)と長期目標(再び労働
に従事すること)のいずれに関しても、十分
に達成することができたといえる。この第一
の要因は、クライエント本人と母親(さらに
家族全員)が、2つの目標をよく認識し、セ
ラピストもそれをよく共有し、3者(セラピ
スト、クライエント、母親)が毎回のセッショ
ンに意欲的に取り組んだためと考えられる。
このように2つの目標達成を支えたのは、
各セッションにおける3者による地道な取り
組みの積み重ねである。以下「結果」におい
て示されたように4つセッション群(時期)
ごとに経過を振り返り、それぞれの特徴や意
義について検討しよう。
第1期では、クライエントのこれまでの音
楽への関わり方を理解し、クライエントに即
した音楽療法プログラムを立てることを目標
とした。クライエントは幼少時から、親の勧
めもあって音楽や絵画などの表現活動に親し
んできていることから、音楽療法が本人の日
常生活や精神的安定のために極めて有効であ
ると判断された。
第2期では、本格的な個別音楽療法として
のセッションに移った。セラピストはクライ
エントの好きな音楽を一緒に聴いたり、演奏
したりするとともに、
「いつ」
、
「どんな時」
、
「ど
んなこと」がしんどく、辛かったかを話して
もらい、受容的に傾聴した。クライエントは
共に聴いたり、演奏したりするという共有経
験を持つことを通して、過去のしんどかった
出来事を冷静に振り返り、話すことができた
と思われる。特に、クライエントが好むとこ
ろの“優しい音色やゆったりとしたテンポの
音楽”で関わる体験過程が、
セラピストと「繋
がっている」という実感を持つことができた
ことが、効果的であったと考えられる。すな
わち選ばれた楽曲が、クライエントの感情状
態や精神テンポにマッチすることの効果(同
質の原理)が十分に働いたといえる。
第3期では、演奏中にクライエントの全身
や指先の緊張がほぐれて柔らかくなってき
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
た。このことは、過去のしんどかった経験か
ら解き放されて、演奏に集中し、かつ楽し
むことが十分にできるようになってきたこ
とを示しているといえる。同時に妄想など
の症状が和らぎ、一人で外出できるようにな
り、さらに仕事をすることの意欲が出てきた
ことが窺えた第4期では、予想どおり、クラ
イエントはまず障がい者送迎の補助的な仕事
を始め、さらに併せて清掃の仕事もするよう
になった。音楽活動においても、自分の好き
な音楽CDを持参して演奏したり、自分の好
みの表現を考えて、セラピストと一緒に演奏
したりすることにより、対等の立場に立って
音楽を創造するように発展した。
、すなわち、
クライエンは自分の生活を立て直していくた
めに、セラピストとの間にほど良い距離を持
つことができたといえる。
さらに、仕事と来談(音楽療法)を両立さ
せることはしんどいからという理由で、クラ
イエント本人から音楽療法の終結を希望した
ことも、クライエントの自立性の一面として
高く評価される。
最後に、従来何らかの精神障がい者に対す
る音楽療法の適用は主に、医療機関における
治療の一部としてなされることが多いようで
ある。例えば平間(2010)は、成人の精神障
がい患者に対し個別音楽療法を実施して、音
楽活動やそれに伴う対人コミュニケーション
が、妄想や幻聴などの世界から離れる時間を
作り出す効果があると示唆している。また医
療機関においては、集団音楽療法も多く試み
られているようである。例えば山口と森本
(2010)は、患者同士の集団音楽療法が対人
関係を広げたり、自発性・活動性などを高め
る効果を認めている。同様に坂下(2008)も、
精神科病棟における集団音楽療法の効果の条
件について報告している。これら従来の諸報
告とは異なり、本研究のクライエントAさん
は治療というよりは再就労を目指しての個別
音楽療法の適用という、恐らく従来見られな
い新しい試みであった(なお、Aさんは医療
機関での治療は継続していた)
。
このように精神障がい者などの精神的なダ
メージを軽減し、再び就労できるようになる
─ 90 ─
ための一助として、音楽との関わりが有効で
あるといえるが、今後は対象者の条件と音楽
活動の条件の両面から、その効果を高めるた
めの実証的・条件分析的研究が進められるこ
とが期待される。
終わりに
1966年に国際連合が採択(日本国発効は
1979年)した「経済的、社会的及び文化的権
利に関する国際規約(A規約)
」は、
「すべて
の者がその市民的及び政治的権利とともに経
済的、社会的及び文化的権利を享有すること」
の権利を認めている。さらに締約国は、労働
の権利を認め、それを保障するための適当な
措置をとることを求めている(この権利には、
個人が自由に選択した労働によって生計を立
てる権利を含む)
。したがって、この理念に
よれば障がい者などが、働きたくてもその場
が提供されていない(または奪われている)
ような社会であってはならない。
本クライエントのAさんは、人類普遍とも
いえるこの国際規約の理想を実現すべく労働
や社会参加に全力で取り組んでいる亀鑑と評
価されよう。音楽療法士としての支援活動に
は、まだまだ数多くの課題があるが、Aさん
が、音楽療法士の今後の活動への多くの貴重
な示唆及び励ましを与えてくれたことに感謝
したい。
文 献
Bunt, L. & Stig, B Music Therapy :An art
Beyond word,2nd ed. Routlege、GBR 2014
平間 史恵 統合失調症の妄想・幻聴に対
する音楽療法の検証~音楽療法によりコ
ミュニケーションが促進された2事例から
~ 第10回日本音楽療法学会学術大会要旨
集 p.8 2010
河村 美帆 重症心身障害を伴うA氏への個
別音楽療法への取り組み~コミュニケー
ション手段の拡大をめざして~ 近畿音楽
療法学会誌 Vol.10 68-75 2011
鯨岡 峻 発達障害支援の可能性 -こころ
とこころの結び目 花園学園大学発達障害
セミナー 4 2011
精神障がい者の再就職支援のための音楽療法の効果
森山 公夫 「統合失調症」
ちくま書房 2002
村井 靖児 「音楽療法の基礎」
音楽の友社 1995
斎藤 環 「社会的ひきこもりー終わらない
思春期」PHP研究所 1992
坂下 正幸 統合失調症に対する音楽療法の
効果に関する研究 -なじみの歌謡曲を使用
して生活リズムの改善をめざす取り組み-
立命館人間科学研究 17, 93-105, 立命館大
学 2008
山口 陽雄・森本美恵子 集団音楽療法活動
を通じて対人接触の広がりが見られた一症
例につて 第10回日本音楽療法学会学術大
会要旨集 p.88 2010
吉田 豊 統合失調症で長期間ひきこもっ
たAの事例を通して 日本音楽療法学会誌 Vol.9 168-175 2009
─ 91 ─
ガザ戦争とハマス
A Critical Essay on the War in Gaza
森 戸 幸 次
はじめに
第Ⅰ章 ガザ戦争の主役 - ハマスの歴史
第Ⅱ章 ガザ戦争の実態
第Ⅲ章 ガザ戦争後のハマス
第Ⅳ章 中東和平「2国家共存」構想の行方
「私たちパレスチナ人の前には2つの選択肢
がある。武器を捨ててオスロの仲間がやった
ように降伏するのか、それとも多大の犠牲を
払ってでも私たちの土地と人々に強いられて
いる占領を排除するためジハードを継続する
のかの二者択一である」-ハマス創設者アフ
マド・ヤシン師
戦争を通して中東紛争の主役の座に躍り出た
ハマスの歴史、思想、戦略、そしてこの背後
にある21世紀中東危機の構造変容について考
察してみたい。
はじめに
中東でまた新たな戦争が勃発した。世界は
今、この戦争の意味を真剣に問い始めてい
る。今夏、イスラエル人とパレスチナ人の少
年が相次いで殺害された事件を引き金に、イ
スラエル軍とパレスチナのイスラム原理主義
組織ハマスとの間で本格的な武力衝突に発
展した。主戦場のガザ地区では最近5年間で
双方が戦火を交えるのはこれで3度目であり、
1948年のイスラエル建国に伴う第1次中東戦
争以来の「第7次中東戦争」と名付けられる。
戦争が長期化し、ガザの戦場から連日悲惨
な光景に接し、日本をはじめ世界は、
「なぜユ
ダヤ人とアラブ人はいまだにパレスチナで
戦っているのか」
(英誌エコノミスト)と、あ
らためて問いかける声が広がっている。世界
中で最も根が深く解決が21世紀に持ち越され
た<中東百年紛争>の根源にあるパレスチナ
問題。歴史的、民族的、宗教的、思想的、文
化的な側面を備えたこのパレスチナ紛争の本
質を理解することは、解決が難しいのと同様
に、これまた私たち日本人にとっても至難の
業になっている。この小論では、今夏のガザ
第Ⅰ章 ガザ戦争の主役 - ハマスの歴史
パレスチナ人の国造りをめざす民族解放の
歴史の中でハマスはどのような系譜上に位置
付けられる運動なのだろうか。パレスチナ建
国闘争史を以下のような3つの時代区分にわ
けて概観してみる。
〈Ⅰ〉闘争第1期(1930年代から1967年まで)
第1次世界大戦後、英国委任統治下のパレ
スチナ(1920−48年)で「アラブの蜂起」を
指導したアミン・フセイニ、カデル・フセイニ、
シェイフ・イッザッディン・カッサーム師ら
革命第1世代が活動した時代。とりわけシェ
イフ・カッサ−ム師はパレスチを拠点にユダ
ヤ人入植地や英国軍への聖戦(ジハ−ド)を
実践した武闘派として知られる。1987年にガ
ザ地区で勃発した第1次インティファ−ダ(民
衆蜂起)を戦うハマスの軍事部門はイッザッ
ディン・カッサ−ム隊(隊長—ムハンマド・デ
イフ/44歳)と命名されている。
〈Ⅱ〉闘争第2期(1967年から2004年まで)
1967年の第3次中東戦争でエジプトが統治
するガザ地区がヨルダン統治の西岸地区とと
もにイスラエルに占領され、東エルサレムを
含めてパレスチナをイスラエルの占領から解
─ 93 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
放する「パレスチナの大義」を訴えるヤセル・
アラファトや、第1次インティファーダに対
応するためムスリム同胞団のパレスチナ支部
(初代アミン・フセイニ)を秘密地下組織「イ
スラム抵抗運動」
(ハマス、アラビア語表記の
略称/熱狂の意)に改組して1988年ガザで創
設したアフマド・ヤシン師ら革命第2世代が
活動した時代。
1993年、アラファトが率いた世俗派のナ
ショナリストを糾合したPLO(パレスチナ解
放機構)はイスラエルとの政治交渉を通じて
イスラエル占領下にあるヨルダン川西岸とガ
ザ地区に暫定自治を導入する和平取引に応じ
(オスロ合意)
、パレスチナ民族解放闘争は最
大の分水嶺を迎える。
「オスロ」後のパレスチナの国造り運動に
とって、中東和平を通してイスラエル国家と
の「2国家共存」路線を推進するアラファト
が主導するPLOの世俗的なナショナリスト勢
力の道か、それとも、あくまでも武力闘争を
通してパレスチナを解放してここに「イスラ
ム国家」の樹立をめざす「1国家」構想を推
進するハマスのイスラム主義勢力の道か、重
大な選択の岐路にさしかかった。
〈Ⅲ〉闘争第3期(2004年から現在まで)
2004年11月のアラファトの死後、パレスチ
ナ解放運動が「アラファト後」の革命第3世
代に受け継がれた時代。2005年5月、イスラ
エルが西岸・ガザ分離構想を実行して一方的
にガザ地区から撤退し、ガザ地区を拠点にイ
スラム主義勢力が影響力を伸張させた。アラ
ファトを後継したマフム−ド・アッバス率い
るファタハは2006年1月の暫定自治評議会選
挙でハマスに大敗し、世俗的なナショナリス
ト勢力が退潮した。両派の主導権争いは2006
年12月、双方に100人以上の犠牲者を出す内
部抗争に発展、この結果、1994年に導入され
たパレスチナ暫定自治区は、解放されたガザ
地区をハマスが、占領下にある西岸地区ファ
タハがそれぞれ自治区を分断して統治する分
裂化の道を突き進んでいる。
ガザ反占領・抵抗運動の最前線基地
このようにパレスチナ民族運動の解放闘争
史を概観すると、ハマスは、パレスチナの国
造りのためには、ファタハが主導する政治解
決の道ではなく、武力闘争を通してパレスチ
ナを解放し、このためにはガザ地区をイスラ
エルに対する反占領・抵抗運動の最前線基地
と位置付け、ガザを拠点に西岸地区の占領を
終結させることに目標を定めていることが明
らかとなる。このための占領終結・解放戦略
とはどのようなものなのだろうか。
ハマスの目標、戦略、対外関係などを定め
た「聖約」
(1988年)によると、
「パレスチナの
領土はすべてのイスラム教徒に付与されたワ
クフ(寄進財)
(第11条)であるとして、
「パレ
スチナの土地を一部であれ放棄することは宗
教理念に対する裏切り行為であり、平和解決
なるものもハマスの原則に相容れない(第
13条)
、したがって「敵が占領しているイス
ラムの領土を解放するため、ジハ−ド(聖戦)
がイスラム教徒の義務である(第15条)と,
「2国家共存」をめざすPLOのナショナルア
ジェンダを真っ向から否定し、パレスチナ
全土にイスラム国家を樹立してイスラム法
(シャリ−ア)に基づいて統治し、この国家の
枠内でパレスチナ人とユダヤ人が共存する「1
国家」構想を提唱する。
ハマスは、1988年の創設当時、ヤシン師ら
創設メンバ−7人で最高指導部「諮問評議会」
を構成、ヤシン師が最高指導者に就任、サラ
ハ・シェハダがジハ−ド戦略を担う実働部隊
として秘密の地下組織である軍事部門イッ
ザッディン・カッサ−ム隊を創設した。ヤシ
ン師は2004年3月にイスラエル軍に暗殺され、
後継のアブドルアジズ・ランテシも同年4月
に暗殺、その後、政治部門トップのハレド・
マシュアルが最高指導者に就任した。シェハ
ダは2002年に暗殺され、ナンバーツーのデイ
フが後を継いだ。
ハマスの軍事部門カッサ−ム隊は、2000年
秋に勃発した第2次インティファ−ダで神風特
攻型の自爆テロ戦術を採用、エルサレムやテ
ルアビブなどの各地でバスやレストランを
狙って次々に自爆攻撃を繰り返し、イスラエ
─ 94 ─
ガザ戦争とハマス
ル市民を恐怖に陥れた。
第Ⅱ章 ガザ戦争の実態
トンネル戦争
ガザを戦場にした2006年夏の第6次中東戦
争(第2次レバノン戦争)
、2008年12月—09年1
月のガザ戦争、そして今回のガザ戦争を見る
と、ハマスのジハ−ド戦略が浮かび上がって
くる。 2006年の戦争では、まずハマスが6月25日
にガザから地下トンネルを使って越境して
イスラエル兵を拉致(2011年に解放)
、イス
ラエル軍がガザに地上侵攻すると、7月12日、
レバノン南部を支配するイスラム原理主義の
シ−ア派組織ヘズボラがイスラエル北部に越
境砲撃を開始、同時に地下トンネルを使って
北部イスラエルに侵攻して国境警備のパトロ
−ル部隊を襲撃、5人を殺害して2人を拉致し
た。これを引き金にイスラエル軍が南レバノ
ンに侵攻して1982年夏以来の34日間に及んだ
第2次レバノン戦争が勃発した。筆者は2011
年2月、ヘズボラが実効支配するレバノン南
部を訪れ、網の目のように張り巡らされた地
下トンネルを見て回ったが、後ろ盾のイラン
からの支援を受けて軍備増強を着々と進めて
いる様子を実感した。
また、2009年のガザ戦争ではイスラエル軍
がガザに侵攻、地上戦で圧倒し、パレスチナ
側に1400人の犠牲者が出たがイスラエル側は
戦死者10人にとどまった(このうち6人は味
方による誤射)
。
7月17日、イスラエル軍がガザ地上侵攻に
踏み切る引き金になったのが、ハマスの地下
トンネルを使ったカミカゼ攻撃だった。
同日未明、ガザ境界から1.6キロ離れたイス
ラエル南部にあるユダヤ人の共同農場(キブ
ツ)スファにハマスの武装兵13人が地下トン
ネルから出没してイスラエル領内に侵入、こ
れを発見したイスラエル軍が空爆を加えて撃
退した。
7月20日午前1時(日本時間午前7時)
、イス
ラエル軍がガザ市東部にあるハマスの軍事拠
点シヤジャイーヤ地区に侵攻、市街戦に突入
した。イスラエル兵7人を乗せた兵員輸送車
─ 95 ─
が待ち伏せ攻撃を受け、対戦砲で大破、6人
が戦死、1人が行方不明になった。翌21未明、
シュジャイーヤ地区でイスラエル軍特殊部隊
を対戦車砲で襲撃、兵士2人を殺害、9人を負
傷させた。
7月28日午前6時、ハマスの武装兵が地下ト
ンネルを使ってガザ南部の境界線に近いナハ
ルオズ(キブツ)に出没、監視塔を襲撃して
イスラエル兵5人を殺害、トンネルを使って
逃亡した。
8月1日午前8時(日本時間午後2時)
、地上
侵攻後初めての人道的な一時停戦が発効、午
前9時30分、ガザ南部ラファでハマスの武装
兵がイスラエル領内に通じる地下トンネルか
ら出没、トンネル壊滅の準備をしていたイス
ラエル兵と遭遇、ハマス武装兵が自分の腰の
ベルトに巻き付けていた爆発物を爆破させ、
イスラエル兵2人が戦死、1人が行方不明と
なった。仲間を救出するためイスラエル軍部
隊がトンネルを通って追跡し、モスク内の出
口に到達したが、無人だった。停戦は数時間
で崩壊した。
8月5日午前8時(日本時間午後2時)
、地上
侵攻後2度目の人道的な一時停戦(72時間)
が発効、イスラエル軍はガザからイスラエル
領内に通じる地下トンネル32カ所を破壊した
と発表してガザから地上部隊を全面撤退し
た。同時に、ガザ戦争の引き金となった6月
12日のユダヤ少年3人誘拐・殺害事件のパレ
スチナ人容疑者逮捕を発表した(逮捕日は7
月11日)
。イスラエル裁判所の文書によると、
ヘブロン在住のホサ−ム・カワスメ(40歳)
がガザのハマス指導部から資金を得て武器を
購入、実行犯2人に指示した、と認めたとさ
れる。72時間停戦の期限が切れ、双方攻撃を
再開。
8月11日午前零時(日本時間午前6時)
、再
び一時停戦(72時間)が発効。8月14日午前
零時(日本時間午前6時)
、5日間停戦が発効。
8月18日に24時間停戦で合意したが、翌19日、
停戦協議が決裂し、双方が戦闘を再開した。
8月19日、イスラエル軍がガザ市にある民
家を空爆、ムハッマド・デイフの家族を殺害、
デイフの安否は不明。8月21日、イスラエル
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
軍が南部ラファを空爆、カッサ−ム隊の創設
メンバ−3人を殺害。
8月26日午後7時(日本時間27日午前1時)
、
無期限の長期休戦が発効。7月8日の開戦から
50日目。
今回のガザ戦争ではイスラエル兵65人が戦
闘で命を落としたが、これは主にハマスの自
爆攻撃によるものだ。イスラエル側は7月8日
以降、5262カ所を空爆、これに対し、ハマス
側はロケット弾4562発を発射、このうち3641
発がイスラエル領内に着弾したが、うち735
発がイスラエルの防空システム「アイアンド
−ム」で迎撃された。
世界保健機構(WHO)によると、ガザ戦
争による犠牲者は、人口180万人のうちパレ
スチナ人2100人以上、うち大半が民間人で子
供およそ500人、負傷者1万1000人、避難民約
60万人、家屋破壊1万7000軒、イスラエル側
民間人6人(ユダヤ人、アラブ人、タイ人)
を含む71人。
ハマスの2段階戦略
ハマス側は、ヘズボラとイスラエル軍が34
日間戦火を交えた第2次レバノン戦争(第6次
中東戦争)よりも大きな戦果を上げているた
め、強気の構えを崩していない。最高指導者
ハレド・マシュアルは,イスラエル側との停
戦に応じる条件として、
(1)イスラエルに
よるガザ封鎖の解除、
(2)パレスチナ占領解
放ー から成る2段階戦略を掲げている。
「人
間の生命維持は条件などではなく、パレスチ
ナに暮らすわれわれ人民の権利であり、この
ためには港や空港が必要だ。ガザ封鎖は集団
的懲罰なので、この解除を要求する。現在の
流血を終わらせるためには、ガザ問題の根源
である占領の問題に目を向けなければならな
い。ネタニヤフはわれわれパレスチナ人の希
望と夢をすべて打ち砕いた」
(米CBSテレビと
のインタビュ−、7月28日)
。ガザ戦争の指揮
をとる「カッサーム隊」のムハマッド・デイ
フは「ハマスは武装解除を拒否する。西岸を
占領から解放し、ユダヤ人国家を地上から抹
殺するまで戦う。ジハ−ドと反占領抵抗がな
ければ、2005年にイスラエルからガザ撤退を
勝ち取れなかった。明日のパレスチナはイス
ラエルにとって地獄になるだろう」
(ビデオに
よる覆面インタビュー、2005年8月)
。
ムハッマド・デイフは1970年、ガザ中部の
ハンユニス難民キャンプで生まれ、1987年
に始まった第一次インティ−ファ−ダに参加、
何度もイスラエルに逮捕・投獄を繰り返し、
1992年以後、地下に潜伏した。1990年代以降
は、イスラエル各地で続いたハマスによる自
爆作戦を指揮し、イスラエルが追跡するNO1
の
「テロリスト」
になった。2002年6月、
サラハ・
シェハダがイスラエルの空爆で暗殺されたあ
と、カッサ−ム隊の指揮をとり、2007年7月の
空爆で負傷したが、幾度も暗殺未遂をくぐり
抜けて来た。
ハマスは、
「レバノンのヒズボラのようにガ
ザ地区を軍事要塞化した」
(イスラエル国防
省)
。ガザ地区は2007年9月、イスラエルから
「敵対地域」と宣言され、経済封鎖が強化さ
れたが、07年7月以降、エジプトからの武器
密輸ル−トを確保するため、地下トンネルを
掘り、武器の備蓄を続け、
「イラン製過チュー
シャロケット弾、対戦車ロケット砲(RPG)
、
AK自動ライフル、爆発物などが地下トンネ
ルを使って40トンがガザに搬入された」
(ニュ
−ヨークタイムズ2007年9月19日付)という(地
下トンネルの地図参照)
。
ハマスは、カッサ−ム隊を中核に1万5千な
いし2万の兵力がガザ防衛のために地下壕を
使って侵攻イスラエル軍と戦う体勢を準備、
長期に及ぶ消耗戦に持ち込んでガザ封鎖の解
除や検問所の再開などを受け入れる停戦を勝
ち取ることを、政治目標に掲げている。これ
に対し、イスラエル側は、このようにガザを
軍事要塞化したハマスの非武装化を達成でき
ないと、地下トンネルの越境攻撃、ロケット
弾の越境攻撃を終わらせてイスラエル南部の
安全を確保できず、2006年夏にヒズボラが、
軍事力を温存したまま停戦した第2次レバノ
ン戦争の二の舞になりかねないだろう。これ
は、イスラエルにとって、今回のガザ戦争以
前への現状維持に他ならず、双方による新た
な「消耗戦」が延々と続くことになる。
─ 96 ─
ガザ戦争とハマス
第Ⅲ章 ガザ戦争後のハマス
しかしながら、2段階戦略を発動したハマ
ス側は、ガザ戦争が長期・消耗戦化するにつ
れて、第1段階のイスラエルによるガザ封鎖
の解除から、国際社会の世論の動向に訴える、
第2段階のパレスチナ(西岸)占領解放へと、
力の比重を軍事から政治決着へシフトする機
会を狙っていると思われる。8月23日、政治
局のアブ・マズル−クは「イスラエルは、力
と抵抗の言葉のみを理解する。ハマスはもは
やこれまでの暫定停戦には固執せず、パレス
チナ人がエルサレムと占領地(西岸)を解放
する闘争を継続する<抵抗>に焦点を定めた
『統一草案』の起草に動いている。ガザ戦争
に軍事解決の道はなく、政治解決を達成しな
ければならない」
(アルジャジ−ラとのインタ
ビュ−)
。パレスチナ自治政府のアッバス議長
も8月23日、仲介役のシシ・エジプト大統領
と会談、スラエルとの長期的な和平合意をめ
ざす考えを表明。国連を通して東エルサレム
を首都とするパレスチナ国家を、1967年の第
3次中東戦争以前の西岸・ガザに樹立するた
め、イスラエル側に占領の終結期限を設定す
るよう求める内容の安保理決議案の作成に向
けてエジプト,サウジアラビアなどアラブ各
国と協議している。この決議案が安保理で拒
否されたら、国際刑事裁判所(ICC)に提訴
する構えだ。
ハマスが8月26日、ガザ封鎖の緩和などエ
ジプトの2段階仲介案を受け入れ、イスラエ
ルに力による軍事対決の道を迫る第1段階戦
略から、ガザの統治と長期的な政治決着に
道を開くための第2段階戦略への転換に舵を
切った、と考えられる。
「われわれは、過去
数年間にわたってイスラエルによるパレスチ
ナ占領地を解放するため準備を進めて来た。
今回の戦争は、単にガザの境界線にとどまら
ず、エルサレムとパレスチナの全面解放が目
もはやイスラエルとの間でこれからどうな
るのか分からない和平交渉を2度と行わない。
われわれは、国連に対し、1967年の第3次中
東戦争以前の境界線に基づくパレスチナ国家
の樹立をめざす詳細な計画を提出する」
(アッ
バス・パレスチナ自治政府議長)
。
今回のガザ戦争の犠牲者を単純に比較する
と、パレスチナ側約2100人に対してイスラエ
ル側70人と、ハマス側は過去の中東戦争でア
ラブ諸国が一度も達成できなかった戦果を獲
得したことになり、
「パレスチナ人の抵抗がも
たらした勝利」
(同スポ−クスマン)と位置付
けている。双方はエジプトの調停案を通して
即時停戦とガザ検問所の再開と人道援助・復
興計画、ガザ沖合漁場の11キロ拡大を受け入
れたが、今後の間接交渉を通して(1)ガザ
の港と空港の建設問題、
(2)パレスチナ人の
釈放問題、
(3)イスラエル兵の遺体返還問題—
が焦点になる。
標だった」
(ハニヤ元首相)
。
「われわれは、イ
スラエル軍の不敗の神話を打ち砕き、差し
迫ったパレスチナ側の要求の一部を獲得し
た。今回の戦いを通して聖地エルサレムとパ
レスチナ占領地の解放に近づいた」
(ハマスの
サーミ首席スポークスマン)
。
「われわれは、
fjght in Palestine」と問いかけたように、世界
で最も問題の根源が深く、解決が至難なパレ
スチナ問題の解決に国際社会は向き合わざる
を得ないだろう。今回再噴火したガザ戦争が
いかなる決着の道を辿るにせよ、
「パレスチナ
の民衆に今残されているものは、過去にも将
─ 97 ─
第Ⅳ章 中東和平「2国家共存」構想の行方
この中東和平を通して「2国家共存」構想
を追求する米オバマ政権は2013年7月、9ケ月
以内の最終合意を目指した和平交渉の再開に
こぎ着けたものの、将来パレスチナ国家の領
土となる西岸地区でのユダヤ人入植活動の凍
結などをめぐり行き詰まり、イスラエル右派
のネタニヤフ政権との間で政治交渉を通じた
政治解決の道は、2014年4月に期限切れを迎
えて完全に閉ざされてしまった。仲介役のケ
リー国務長官は「和平交渉は崩壊の危機にあ
り、米国が費やす事ができる時間と努力には
限度がある」と断言、中東和平プロセスから
の後退を表明、中東百年紛争は長い冷却局面
に入った。
だがしかし、冒頭で引用した英誌「エコ
ノミスト」が、3年前のガザ戦争の時、
「The
hundred years`war ─ why Arabs and Jews still
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
来にも決して消え去ることのないパレスチナ
国家樹立への夢である」
(モハメド・H・ヘイ
カル)という根源的な真理は、今後も消え去
ることはないに違いない。
(了)
主要参考文献
1) 森戸幸次「中東の戦争と平和の条件」
、吉
田康彦編『21世紀の平和学』
、明石書店、
2005年。
2) 森戸幸次『中東百年紛争−パレスチナと宗
教ナショナリズム』
、平凡社、2001年。
3) 森戸幸次『中東和平構想の現実−パレスチ
ナに2国家共存は可能か』
、平凡社、2012年。
4) 森戸幸次『パレスチナ問題を解く−中東和
平の構想』
、筑摩書房、1996年。
5) 森戸幸次「アラブ民主革命−中東和平 重
大な岐路に」
、2011年8月30日付読売新聞
朝刊、
「論点」所載。
6) Al-Tahariir(アラビア語紙、カイロ)
、
December 21, 2013. December 28, 2013.
Janiary 4, 2014.
7) Muhammad Ali Khair, Al tariiq ila Qasr al
Uruuba(アラビア語、カイロ)
、
Sefsafa Publishing House, Cairo, 2011.
8) Michael Hudson, ARAB POLITICS, Yale
University Press, New Haven and London,
1977.
9) David E.Long, Bemard Reich, and Mark
Gasiorowski, The Govemment and Politics
of the MIDDLE EAST and NORTH AFRICA,
sixth edition, West view Press, 2011.
10)Rabab E L-Mahdi and Philip Marfleet,
EGYPT, Moment of Change, The American
University in Cairo Press, Cairo, 2009.
11)Asef Bayat, LIFE AS POLITICS, Stanford
University Press, California, 2010.
─ 98 ─
シンガポールにおける華人会館の変容と新たな役割 The Transformation and the New Role of the Chinese Clan
Association in Singapore
合 田 美 穂
1,はじめに
2,華人会館の成立の背景
3,華人会館の衰退
4,華人会館の転機:
「新加坡宗郷会館聯合総会」の設立
5,華人会館の新たな役割:中国・新移民とのつながりの強化
6,華人会館の活性化への「公的な」後押し
7,華人会館が直面する問題:
「伝統」か「脱伝統」か
8,むすびにかえて:
「華人会館」にしかできないことを再検討する
1,はじめに
シンガポール華人の歴史は、19世紀まで遡
ることができる。1)1819年、ラッフルズのシ
ンガポール上陸と同時に、シンガポールが貿
易港として開港し、中国から多くの人々が労
働者として流入した。彼らは出身地(主に中
国華南地域)ごとによるコミュニティを築い
ていった。その中核をなしたのが、華人が設
立した組織である。2)現地の政府から何の支
援も得られなかった華人たちは、相互扶助の
システムである出身地や方言を基礎とする組
織を次々と設立していった。3)これら華人た
ちの組織は、シンガポールでは一般的に、
「華
人会館」または「宗郷会館」と呼ばれている。
宗郷の「宗」は宗親つまり血縁を指し、
「郷」
は同郷つまり地縁を指す。華人会館とは、華
人の血縁および地縁による組織のことであ
る。
シンガポール独立前までは、地縁組織は増
加を続けていたものの、独立後の増加は、ほ
とんど見られなくなっている。華人会館のな
かには、
「広東呉氏書室」や「潮州楊氏公会」
1)
海外華人の歴史については、以下を参照:合田
美穂「華人の歴史」
、山下清海編著『華人社会
がわかる本』
、明石書店、2005年。
2) 呉華
『新加坡華族會館志 第一冊』
、
南洋學會出版、
1975年、1頁、22頁。
3) 王賡武「東南亞新興国家中的華人群族性」
、新
加坡亞洲研究学会、2006年、18頁。
─ 99 ─
といったように、血縁と地縁が一体化した会
館も少なくない。私の知人で先祖が広東省潮
安県出身という黄氏は、
「広東会館」
、
「潮州八
邑会館」
、
「潮安会館」
、
「潮州江夏堂(江夏とは
黄姓を示す)
」など、複数の華人会館のメン
バーを兼ねている。黄氏のように、先祖がそ
の土地の出身者であるというだけで、そこで
生まれ育っていないにもかかわらず、先祖と
関連する宗郷会館に重複して入会していると
いう人は少なくない。同義として捉えられが
ちな、海外における日本の県人会と異なる点
はここである。
本研究では、シンガポールの華人会館が、
シンガポールの独立を経てどのように変容し
てきたのか、また、特に近年になって、どの
ような動きがみられるのかといったことを考
察している。本研究ではまた、今後、華人会
館がどのように変容していくべきであるかと
いう提言も行った。
2,華人会館の成立の背景
シンガポールにおける華人会館は、大きく
3つの性質に分類されている。上述の血縁組
織および地縁組織以外には、生業を同じくす
る業縁組織がある。
血縁組織といっても、広義の意味での血縁
であって、親族であるとは限らない。先祖ま
で遡ると、血縁関係に辿り着くと考えられる
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
同姓によるものである。また、中には単一の
姓による組織だけではなく、いくつかの姓の
人々によって組織されたものもある。シンガ
ポールで最初の血縁組織は、曹を姓とする人
たちによる「曹家館(1819年設立)
」である。
シンガポールの血縁組織では、1920年代から
1930年代に設立されたものが半数以上を占め
ている。4)
地縁組織について言えば、省、府、県、郷、
村といった様々なレベルのものが存在する。5)
シンガポールの場合は、中国華南地方を由来
とするものが大半を占めているが、基本的に
は、それぞれの地域で使用されている方言に
基づいて組織されたものである。例えば、広
東省の場合では、広東語を使用する人々、潮
州語を使用する人々、海南語(現在の海南省
は、当時は広東省の一部であった)を使用す
る人々、客家語を使用する人々などによっ
て、組織が細分化されている。6)シンガポー
ルで最初に設立された地縁組織は、
「寧陽会館
(1822年設立)
」である。
19世紀末から20世紀初頭にかけてのシンガ
ポール華人社会では、華語(北京官話)がま
だ普及しておらず、華人は、主に自らが話す
方言ごとに、生活圏を異にしていた。当時
の業縁組織も、方言色が強かった。例えば、
「新加坡樹膠公会(1919年設立)
」7)は、ゴム
4)
当時設立された組織で、現在まで活動が継続さ
れている組織はいくつもある。例えば、
「南安会
館(1924年設立)
」は、福建省南安出身者によっ
て設立された地縁組織であり、設立の目的は、
同郷との交流を深め、福祉の向上にともに努め
ることと、
鳳山寺の運営である。
「義安公司
(1830
年設立)
」は、広東省潮州の出身者によって設
立された地縁組織であり、設立の目的は、同郷
との交流を深めることであり、かつては、墓地
を購入して同郷人のための埋葬業務も行ってい
た。
「福清会館(1910年設立)
」は、福建省福清
出身者によって設立された地縁組織であり、設
立20年以内に小学校、医院を設立するなど、同
郷人および現地の華人の福利厚生や教育活動に
貢献してきた。
5) 呉華
『新加坡華族會館志 第一冊』
、
南洋學會出版、
1975年、28頁。
6) 陳韋賰「従福州人移民海外談起」
、
『三山季刊』
、
第49期、出版年不詳、2頁。
7) 新加坡樹膠公会については、以下を参照:
「福
建省情資料庫」http://www.fjsq.gov.cn/ShowText.
asp?ToBook=3161&index=1880&
の製造及び加工品を取り扱う業者の組織であ
る。その大半の加入者が福建省南部(同安な
ど)を出身地とする華人であった。
「新加坡
当商公会(1920年設立)
」は、質屋を営む店
によって組織され、大半の加入者が客家系華
「新加坡車商公会
(1932年設立)
」
人であった。8)
は、設立当初は自転車業を営む業者によって
組織され、人力車、自動車業務へと発展した
組織であるが、
大半の加入者が福建省北部(福
清、
興化など)出身の華人であった。9)よって、
当時設立された多くの業縁組織は、地縁組織
を兼ねていたとも言える。10)
当時のシンガポールでは、これら地縁、血
縁、業縁組織が、華人社会では重要な役割を
果たしていた。当時、中国からの移民は、シ
ンガポールに到着すると、まず自分の出身地
または方言グループと関係のある組織に出向
き、その会館のメンバーとなり、場合によっ
ては、会館から仮の住処や仕事を提供しても
らうことが少なくなかった。11)華人会館は、
メンバーに対してこのような便宜を図るだけ
ではなく、故郷との連絡役(手紙の中継地)
を担ったり、また埋葬の手配などを行ったり
8)
新 加 坡 当 商 公 会 に つ い て は、 以 下 を 参 照:
「 新 加 坡 当 商 公 会 ホ ー ム ペ ー ジ 」http://www.
singpawn.org/index.cfm
9) 新 加 坡 車 商 公 会 に つ い て は、 以 下 を 参 照:
「 新 加 坡 車 商 公 会 ホ ー ム ペ ー ジ 」http://www.
autoparts.com.sg/
10)現在の業縁組織は、方言の衰退などによって地
縁的な色彩は薄れてはいるものの、一部の職種
(質屋など)はなおも9割以上が、同じ方言グ
ループによって独占されている。
11)当時の華人移民の形態は、大きく2つに分けら
れる。1つは、現地で建設業などの労働に従事
するために、渡ってきた「苦力」と呼ばれた
人々である。
「苦力」には、自費で渡ってきた
者、知人や仲介者などから借金をして渡ってき
た者、中には騙されて連れて来られた者もいた。
現地の雇い主は、彼らに簡易住居および食事を
提供した。労働は過酷であり、病気になったり
命を落としたりする人もいた。もう1つは、自
由に職を探した人々である。先に現地に渡航し
ている親族や同郷人を頼って渡航してから、職
を探す「連鎖移民」
、渡航費を工面して個人で
渡航して職を探す「流寓」などである。渡航後、
現地の会館を利用する移民は、主に、後者の「連
鎖移民」や「流寓」が多かった。詳細は以下を
参照:潘翎主編『海外華人百科全書』
、三聯書店、
1998年、60-61頁。
─ 100 ─
シンガポールにおける華人会館の変容と新たな役割
12)
もしていた。
当時の各組織の目的は、
「同郷人のための福
利厚生と教育」という点で、ほぼ共通してい
た。例えば「本館は、方言を同じくする者の
交流を図り、商工業の発展を推し進め、慈善
教育公益事業を行うことを目的とする」13)
(南
洋客属総会)
、
「本館は、交流を図り、情報を
交換し、相互扶助を行い、福利と社会公益を
推し進めることを目的とする」14)
(新加坡瓊
州会館)
、
「同郷人との親睦を深め、公益のた
めに相互扶助を行い、教育を推進することを
目的とする」15)
(新加坡潮州八邑会館)など
である。
華人会館は、特に19世紀末期から20世紀初
期にかけて、華人社会に必要な学校、病院な
どを設立し、教育、就労、福利厚生といった
面で、メンバーおよびその家族の生活を全面
的にサポートし、英国植民地政府に代わって
華人社会を支え、華人社会の中で不可欠な存
在として機能してきた。華人会館は、第2次
世界大戦中、機能を一時停止させたものの、
戦後になると、メンバーに対する教育、医療、
就労、祭祀、冠婚葬祭業務を再開させ、華人
社会のなかで、ふたたび重要な役割を担うよ
うになった。
筆者が、19世紀末期から20世紀初期にかけ
ての華人会館の役割の中で、最も重要な役割
の1つであると考えているのは教育事業であ
る。当時シンガポールの植民地政府は、民族
12)当時は、中国の故郷に遺体を移送する業務も行
われていたが、その一方で、現地で墓地を購入
し、会員のために埋葬業務も行う会館もあった。
例えば、応和会館は、雙龍山に墓地を所有して
おり(詳細は以下を参照:呉龍雲、洪燕燕、潘
慧珠「新加坡客家会館(上篇)
:応和会館、恵
州会館、広西 高州会館」
、黄賢強編『新加坡
客家』
、広州師範大学出版社、2008年、33、40頁)
、
三山会館は、三江公墓という墓地を所有してい
た(詳細は以下を参照:呉華『新加坡華族會館
志 第一冊』
、南洋學會出版、1975年、4頁)
。
13)南洋客属総会「南洋客属総会章程」
、
『南洋客属
総会第三十五至三十六周年特刊』
、南洋客属総
会、1967年、201頁。
14)新加坡瓊州会館「新加坡瓊州会館天后宮大廈落
成紀念特刊」
、新加坡瓊州会館、1965年、87頁。
15)新加坡潮州八邑会館「潮州八邑会館章程」
、
『新
加坡潮州八邑会館四十周年紀念特刊』
、新加坡
潮州八邑会館、1969年、199頁。
言語教育への支援には無関心であり、また、
強い排斥政策を行うこともなかったため、そ
の自由な空間のなかで、華人会館や華人企業
家が積極的に華文学校を設立していった。16)
1905年から1920年にかけての間に、華文学
校が36校設立された。当時設立された華文学
校は、ほぼすべてが、方言を教育媒介言語と
しており、華人会館によって設立された多く
の華文学校も同様であった。17)方言グループ
を基本とした華人社会が形成されていったの
である。
1920年代以降は、華語教育が普及し、教育
媒介語は方言から、華語に移行していくこと
になった。18)これら華文学校は、シンガポー
ル華人社会を支える人材を育成するための重
要な存在となり、華文学校は、中華文化の継
承および華人アイデンティティの涵養に大き
な役割を果たすことになった。そして、華人
社会は、華語を媒介語として、各方言グルー
プから、1つの華人社会としてまとまるよう
になった。その過程でも、華人会館と華文学
校は常に密接な関係を保っていた。
3,華人会館の衰退
1959年、シンガポールが英国から自治権を
獲得してからは、華人会館を取り巻く環境が
大きく変わることになった。1965年のシンガ
ポール独立以降、華人会館がこれまで担って
いた役割を、政府が全面的に担うようになっ
たからである。当時、シンガポール政府が積
極的に推進したHDB住宅(公共住宅)の建設
と土地開発によって、方言群による華人の住
み分けが解体されたことも、華人会館衰退の
16)合田美穂「新加坡與香港的福建社團及其教育事
業的比較」
『
、亞洲文化』2007年第31期、161頁。
17)例えば、
客家系の「応和会館」および「茶陽会館」
がそれぞれ設立した「応新学校(1905年設立)
」
および「啓発学校(1906年設立)
」は、教育媒
介言語が客家語であり、
「海南会館」が設立した
「育英学校(1910年設立)
」は、教育媒介言語が
海南語であり、
「福建会館」が設立した「道南学
校(1906年設立)
」や「崇福学校(1907年設立)
」
は、教育媒介語が福建語であった。詳細は以下
を参照:鄭良樹『馬來西亞華文教育史』
、
第1分冊、
1998年、162頁。
18)湯鋒旺
「二戦前新加坡華人“会館辦学”研究」
『
、東
南亞研究』
、2012年第4期、4頁。
─ 101 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
大きな要因であった。HDB住宅が建設された
新しい人口集中地区には、華人会館が新たに
設立されることはなかった。政府は、
そういっ
た地区には、
積極的にコミュニティ ・センター
を設立し、多民族からなる居住者に対して、
居住地への愛着心を植えつけることに力を費
やしたのであった。19)
また、独立直後のシンガポールでは、反共
産政策を掲げていた周辺諸国から、
「中国色の
強い国家」であると周囲からみなされること
を避けるために、できるだけ華人色を排除し、
シンガポール人としての国家アイデンティ
ティの創造および国民統合を推し進めなけれ
ばならなかった。20)政府にとっては、華人会
館を含めた各民族グループの組織による活動
は、政府の政策の大きな障害になると考えら
れるようになっていたため、華人会館の活動
を支援するような政策を、政府は一切採るこ
とはなかった。
このような背景から、1960年代以降、華人
会館の存在価値は、次第に低くなり、華人会
館は、とりわけ若い会員を獲得することに困
難を極め、衰退していったのである。21)シン
ガポール政府は、華人を含めたすべての国民
を保護するため、そして、国民の権益を守る
ために、数々の新しい政策を打ち出していっ
た。それによって、華人社会の支柱となって
いた華人会館が衰退していくのは自然な流れ
であった。
1957年に新教育法が施行されてからは、多
数の華文学校が政府の公立学校へと移行され
ることとなった。華人会館が運営していた学
校も同様であり、華人会館の学校に対する影
響力は弱まっていった。22)更に、1984年から、
華文、マレー語、タミル語の民族言語が、英
語を第1言語とする2言語教育体系の中に組
19)合田美穂「新加坡與香港的福建社團及其教育事
業的比較」
『
、亞洲文化』2007年第31期、12頁。
20)曾玲「社会変遷與当代新加坡華人宗郷社団的轉
型與発展」
、李元瑾編『新馬印華人族群関係與
国家建構』
、新加坡亞洲研究学会、2006年、84頁。
21)曾玲「社会変遷與当代新加坡華人宗郷社団的轉
型與発展」
、李元瑾編『新馬印華人族群関係與
国家建構』
、新加坡亞洲研究学会、2006年、84頁。
22)合田美穂「新加坡與香港的福建社團及其教育事
業的比較」
『
、亞洲文化』2007年第31期、4頁。
み込まれることとなり、1987年に、華文学校
と英文学校が完全に統合され、華文学校が消
滅することになったのである。以降、シンガ
ポール政府が積極的に推進した英文を第1言
語とする2言語教育によって、若い世代の華
人は英語を好んで使用するようになった。英
語運用能力が高い者が、シンガポールでの就
職や進学において、より有利になり、若い世
代の英語化が加速されていった。若い世代の
華人は、次第に、華文ならびに華人文化に対
して、一世代前の華人のように強い関心を持
たなくなったのである。23)
また、1980年代から始まった「スピーク・
マンダリン・キャンペーン(講華語運動)
」
によって、方言を話さずに華語を話すことが
奨励された。当時まだ多くの華人家庭で使用
されていた方言は、初等教育において英語と
華語の2言語を学習することへの障害になる
と考えられたからである。
「スピーク・マン
ダリン・キャンペーン」開始後、広東語によ
る香港映画は、華語による吹き替えに変わり、
テレビやラジオからも方言が姿が消えた。そ
の後、方言を話せない若者が増加した。そし
て、方言文化の色彩が強い華人会館(特に地
縁会館)に対して、関心や親近感を持つ若者
も減っていった。24)そういった変化によって、
人々の華人会館に対する関心や興味も、更に
自然と薄らいでいくことになった。
「シンガポールで生まれ育った華人の人生
観、世界観、そして、活動空間に至って、す
べて、地縁・血縁組織の限界を超えている」
25)
と、歴史学者である林孝勝がいうように、
現在のシンガポール華人にとって、華人会館
はもはや重要な存在ではなくなっていったの
23)曾玲「社会変遷與当代新加坡華人宗郷社団的轉
型與発展」
、李元瑾編『新馬印華人族群関係與
国家建構』
、新加坡亞洲研究学会、2006年、84頁。
24)当時の言語政策については以下を参照:合田美
穂「中国語教育の比較文化論:シンガポール
と香港を例として」
、
『甲南女子大学大学院論集 人間科学研究編』第2号、2004年3月、および、
合田美穂「シンガポールと香港における福建組
織の教育事業の比較研究」
、日中社会学会編『日
中社会学研究』第12号、2005年3月。
25)林孝勝『新加坡華社與華商』
、新加坡亜州研究
学会、1995年、270頁。
─ 102 ─
シンガポールにおける華人会館の変容と新たな役割
である。
4,華人会館の転機:
「新加坡宗郷会館聯合総
会」の設立
華人会館に転機が訪れたのは、1986年であ
る。1985年、主な華人会館の代表者が会議を
開き、華人会館の組織力および社会への影
響力を強化するために、各華人会館を統括す
る全国的な組織を成立させる方針を打ち出し
た。翌年、
オン・テンチョン第2副首相(当時)
の支持を得て、127の華人会館の賛同の下で、
華人伝統文化の継承および発揚、政府と華人
社会との間における架け橋としての任務の遂
行、
華人会館の組織力の強化を目的とする「新
加坡宗郷会館聯合総会」が設立された。26)
独立後のシンガポールでは、国民統合のた
めに、各民族グループによる活動が抑えら
れてきた。とりわけ、華人に対しては、
「中国
色」を排除する政策がとられてきた。しかし、
1980年代以降は、様相が変容していく。
「各
民族グループが自らの文化やルーツを知るこ
とこそが、国民統合の重要なカギになる」と
いう考え方が、政府によって語られるように
なり、華人会館の存在価値があらためて見直
されるようになったのである。
その後の10年間、
「新加坡宗郷会館聯合総
会」の主導の下で、各華人会館は、活動を徐々
に活性化させていった。例えば、華人伝統行
事に関するイベントの開催(2014年秋季の場
合は、符氏社や新加坡客属黄氏公会が、伝
統的な秋祭を実施)
、後継者育成のための青
年団の設立(2013年現在では、宗郷会館聯合
総会および31の華人会館に、青年団が設立)
、
華人文芸活動活性化のためのダンス部の設立
(岡州会館楽劇部27)など)
、合唱団の設立(南
28)
洋客属総会合唱団 など)
、ドラゴンダンス
26)曾玲「社会変遷與当代新加坡華人宗郷社団的轉
型與発展」
、李元瑾編『新馬印華人族群関係與
国家建構』
、新加坡亞洲研究学会、2006年、86‐
87頁。
「新加坡宗郷会館聯合総会」についての詳細は、
以下を参照:http://www.sfcca.sg/
27)岡州会館楽劇部は、1947年に組織されて現在に
至っている。最近の活動は以下を参照:http://
www.chinanews.com/hr/2013/11-04/5458203.
shtml
部の編成(鶴山会館国術醒獅団29)や岡州会館
舞獅国術部など)
、中国地域食文化の伝播の
ための食文化講座(2014年の場合は、
「潮州美
30)
食講座」 など)
、華人文化についての理解
を深めるための学術セミナーの開催(2014年
秋季の場合は、宗郷会館聯合総会主催の「関
公(関羽)文化講座」31)など)である。
「新加坡宗郷会館聯合総会」は、上述の諸
活動以外にも、南洋理工大学内に研究機関の
「華裔館」32)を設立したり、季刊誌『源』お
よび月刊リーフレット『宗郷簡訊』を発行し
たりしている。そして、
「宗郷会館聯合総会」
成立時には70であった団体会員数は、2000年
初期には2百近くになり、現在では3百以上
にまで増加した。
1957年に新教育法が施行され、多数の私立
の華文学校が政府の公立学校へと移行される
こととなったことは上述したが、華人会館は、
「華人文化の保存と継承」という形で、華人
会館が設立した旧華文学校とは、なおも関係
を保っている。華人会館が設立した旧華文学
校は、すべてが政府の公立学校へと移行され
たものの、華人会館は、伝統行事に関する活
動の開催、奨学金の授与などを中心に、継続
して手厚い支援を行っている。また、学校の
理事には、華人会館の理事が名を連ねている
ケースも多い。33)初等教育においても、旧華
28)南洋客属総会合唱団は、1987年に設立された。
2004年以降、国内外でのコンクールにおいて、
入賞を重ねている。例えば、
2006年のシンガポー
ル国際合唱コンクールにて金賞、2009年にも同
コンクールで特別金賞、2010年の北京国際合唱
コンクール高齢者の部で金賞を得ている。詳細
は以下を参照:http://www.sfcca.sg/node/1069
29)鶴山会館国術醒獅団の歴史は古く、1920年に設
立された。詳細は以下を参照:http://sghoksancl.blogspot.hk/p/blog-page.html
30)
「潮州美食講座」の詳細は以下を参照:http://
www.sfcca.sg/node/1308
31)
「関公文化講座」の詳細は以下を参照:http://
www.sfcca.sg/node/1377
32)
「華裔館」の詳細は以下を参照:http://chc.ntu.
edu.sg/Pages/index.aspx
33)筆者は、こういった理事について、
「象徴資本」
という見方から分析を行った。詳細は以下を参
照:合田美穂「シンガポール華人企業家にみ
られる象徴資本-黄祖耀を例として-」
、甲南
女子大学大学院論文集、
『社会学研究』第19号、
2001年3月。
─ 103 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
人会館系の学校は、伝統的な校風、華人社会
からの支援の厚さなどから、現在でも人気が
高い。34)
政府は、1980年代後半から、第2言語であ
る民族言語の重要性を打ち出した。中等教育
においては、伝統的な旧華文学校を「特選学
校」として制定し、華文を英文とともに第1
言語として履修させることとなった。リー・
シェンロン首相も、
「特選学校」の卒業生であ
り、華語も堪能である。こういった「2言語
エリート」を育成するのも「特選学校」の重
要な役割となっている。
「特選学校」
の一部は、
現在も華人会館からの支援を得ている。華人
会館は、かつてのように直接学校運営に関わ
ることはなくなったが、このような形で、シ
ンガポールの教育に貢献し続けている。
5,華人会館の新たな役割:中国・新移民と
のつながりの強化
近年、華人会館の活動に、新たな動きが見
られるようになっている。注目に値するのが、
華人会館、中国および中国系新移民とのつな
がりの強化である。1990年代以降、
シンガポー
ルと中国の国交樹立、中国の改革開放政策に
ともなって、華人会館と中国との間では、ビ
ジネスや人的交流を目的とした、交流団や視
察団などによる交流が増加した。2009年には、
アジア太平洋経済協力会議でシンガポールを
訪問していた胡錦濤国家主席が「宗郷会館聯
合総会」に「正式に」招待された。35)
近年は、文教方面における中国との関係も
深まっている。例えば、
「宗郷会館聯合総会」
は、毎年、5名の高校卒業生の中国著名大学
34)筆者の福建系会館関係者への聞き取りによる
と、一部の旧会館系の小学校では、会員の子女
の優先入学枠があり、そのために会員になる若
い親もいるほどであるという。
35)1990年代、筆者は、中国の大使館や領事などが
招待されている華人会館のイベントに、何度か
出席したことがある。また、1990年代、シンガ
ポールを公式訪問した中国の李鵬首相(当時)
は、旧知の華人会館の主席に招待されて、会館
関連のイベントに参加していた。しかし、こう
いった首相や大使などの会館への参加は、公的
なものではなく、会館が私的に招待したもので
あった。
への進学に際して、年間1万5千シンガポー
ルドルの支援を4年間提供することになっ
た。
中国系新移民の増加によって、近年、新移
民による組織(中国からの移民による「天府
会」
「
、山西会館」
「
、華源会」
「
、天津会」
、および、
36)
香港からの移民による「九龍会」 など)が
設立されるようになっているが、華人会館は
これらの組織との交流も積極的に行うように
なっている。
「新加坡宗郷会館聯合総会」は、こういっ
た新移民の組織に対してだけではなく、新移
民個人のために、
「新移民とシンガポール社会
シリーズ講座」と呼ばれる講座やイベント(例
えば、
「シンガポール社会との関わり方を紹介
する講座」
、
「シンガポール華人社会の行事で
ある中元節を紹介する講座」
、
「他民族を紹介
する講座」
、
「華人会館の人々との交流会」な
ど)を定期的に開催するようになっている。
37)
「新加坡宗郷会館聯合総会」は、2007年か
ら毎年、8月の建国記念日に合わせて、
「愛国
歌曲大合唱」を開催している。当初は、主に
36)筆者は「九龍会」の成り立ちについての調査を
実施した。詳細は以下を参照:合田美穂(共著)
「シンガポールにおける日本人会と九龍会の比
較」
、中牧弘孜編『日本の社縁文化』
、東方書店、
2003年7月。
37)最近では、2014年6月に開催された、
「シンガポー
ル社会に溶け込むための講座」では、新移民が
どのように現地社会に溶け込む方法、シンガ
ポール人の新移民に対する見方などが、弁護士
でもあり心理療法士でもある専門家によって解
説された。該講座についての詳細は、以下を参
照:http://www.sfcca.sg/node/1397
2013年10月に開催された「シンガポール人の集
団潜在意識を読み取る講座」では、心理療法士
である専門家によって、シンガポールの多民族
国家という背景や、シンガポール人の独特な思
考についての紹介がなされた。該講座について
の詳細は、以下を参照:
http://www.sfcca.sg/node/1258
興味深い活動は、2014年4月に開催された「シ
ンガポールのインド族の歌舞風情」を紹介した
講座である。ヒンズー教、ヒンズー教徒の習慣、
神話、伝統行事などを、流暢な華語で紹介した
のが、インド族である弁護士である。このよう
に華語を流暢に話せる非華人が多いことも、多
民族国家シンガポールならではである。詳細は
以下を参照:http://www.sfcca.sg/node/1362
─ 104 ─
シンガポールにおける華人会館の変容と新たな役割
シンガポール人が、この活動に参加していた
が、近年は、新移民も招待されて参加するよ
うになっている。例えば、2011年8月の「愛
国歌唱大合唱」の場合は、19の華人会館から
代表およびパフォーマンス要員が派遣され
た。その他、新移民組織の「天府会」および
「天津会」のメンバー、
「福建会館」が設立し
た南僑中学および光華小学校の児童生徒合わ
せて、合計4百人近くが参加し、パフォーマ
ンスを行っている。38)
その他、2013年4月、
「福建会館」が企画し
た「天福宮の見学会」に、150人の新移民が
招待され、シンガポールに根付く中国の地方
文化に触れた。また、
同年7月には、
「岡州会館」
が企画した「会館の文物展示会および地方劇
の鑑賞会」に、新移民を含む80人の人が招待
された。39)
華人会館と新移民のつながりの強化が目立
つようになった要因の一つには、リー・クア
ンユー元首相が、2011年に、
「新加坡宗郷会館
聯合総会」と「中華総商会」が主催するイベ
ントに出席した際の提案がある。リー・クア
ンユー元首相は、
「方言を話す若者が減ってい
く中で、シンガポールの華人会館、とりわけ
方言グループに基づく同郷会館は、21世紀の
時勢にかなうように変容しなければならな
い」
、
「新加坡宗郷会館聯合総会と中華総商会
はともに、将来の役割について、あり方を
見直さなければならない。同郷人や同姓の華
人を支援するだけではなく、広東、福建、上
海などから来た新移民が、シンガポールで仕
事をする際に必要とされる英語を掌握するた
めに力を貸し、新移民が順調にシンガポー
ルに溶け込めるように支援しなければならな
い」と意見を述べた。そして、具体案として、
「新加坡宗郷会館聯合総会と中華総商会はと
もに、政府と協力し合って、シンガポール全
域にあるコミュニティー・クラブ、コミュニ
ティー・センターにおいて、新移民のための
英語コースを開催し、新移民に毎週2~ 3時
38)
「愛国歌唱大合唱」の
詳細は、以下を参照:
http://www.sfcca.sg/node/393
39)司徒暁昕「新加坡多名新移民華人会館走透透 認識華族文化」
『
、聯合早報』
、2013年11月4日。
間の講義を受けさせるなどして、英語を掌握
させるのはどうか」と提案した。40), 41)
近年、中国との関係の強まり、新移民の急
増によって、華人会館の新移民に対する支援
は、一層重要になるであろうと考えられる。
中国からの新移民の多くが、シンガポールの
言語環境のみならず、英文教育を受けてきた
シンガポール人の思考方式、コミュニケー
ション方式に馴染めないといった話は、よく
聞かれるため、こういった企画は非常に有用
であると言える。
19世紀後期から20世紀初期にかけて、中国
から渡ってきたかつての移民が、華人会館を
頼ったように、現在、新移民たちも新移民組
織を頼る傾向がある。従来の華人会館が、新
移民組織とのつながりを強化すること、そし
て、新移民がシンガポール社会に溶け込んで
いけるような機会を提供することは、現在の
シンガポールにとって、必要なことであろう。
華人会館がその役割を果たし、それによって
活性化の機会が得られることは、一石二鳥で
あるといえる。
40)
「リー・クアンユー元首相の談話」について
の 詳 細 は、 以 下 を 参 照:http://www.sfcca.sg/
node/401
41)1990年代後半、筆者は、新移民のAさん(匿名
希望、インタビュー当時40代後半、男性、専門
職として中国からシンガポールに移民)より、
以下の話を聞いた:1990年代初期は、中国から
の新移民は、専門職、高所得者、高学歴者が中
心であり、人数もさほど多くはなかった。Aさ
んは、シンガポールへの移民当初、現地にあま
り知り合いがおらず、交友関係を広めたい、出
身地に縁を持つ人と知り合いになりたいという
気持ちから、自らの中国の出身地と関係のあ
る華人会館に、入会の意思を示した手紙を書い
たが、返信がなかったという。Aさんは、
「同郷
人ならだれでも、華人会館に入会可能であると
思っていたが、そうではなかったようだ。華人
会館にとっての同郷人とは、かつてシンガポー
ルに移民してシンガポールの礎を築いてきた人
ならびにその子孫を指しており、新移民は含ま
れないのかもしれない」と語っていた。しか
し、筆者の知るところでは、Aさんが入会の意
思を示したという会館は、近年、新移民のため
の文化活動を支援している。この会館の変容も、
リー・クアンユー元首相が、華人会館に対して、
新移民を支援することを奨励したことと無関係
ではないだろう。
─ 105 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
6,華人会館の活性化への「公的な」後押し
リー・クアンユー元首相が、華人会館の活
動に参加しはじめたのは、最近になってから
のことではない。1990年代以降、
「新加坡宗郷
会館聯合総会」や華人会館が主催する主要な
行事の場に、国会議員が、時には首相や大統
領などが「主賓」として出席することや、自
らの父祖の地や姓を同じくする会館の「名誉
顧問」として名を連ねることは、珍しくはな
かった。リー・クアンユー元首相も、1990年
代にはすでに「李氏総会」の名誉顧問として
名を連ねていた。
しかし、首相級の人物が、
「主賓」や「名誉
顧問」ではなく、
「公的」に会館に参与するよ
うになったのは、最近になってからのことで
ある。2011年8月、シンガポール建国46周年の
祝宴が「新加坡宗郷会館聯合総会」において
開催された際に、数名の閣僚とともに出席し
たリー・シェンロン首相は、総会設立25年目
に際して、
「新加坡宗郷会館聯合総会」の「初
代賛助人」42)となることを、初めて「公的に」
宣言した。そして、
「初めて、華人社会ととも
に手を取り、華人社会と政府との交流および
協力関係を強いものとし、現地華人社会の団
結と発展を促進し、華人文化を推進し、社会
の凝集力を強化していきたい」と表明した。43)
2012年1月、リー・シェンロン首相は、
「新
加坡宗郷会館聯合総会」および「通商中国」
44)
によって開催された新年の式典において、
「政府は、新加坡宗郷会館聯合総会がシンガ
ポール華族文化センターの設立を計画してい
42)中国語の「賛助人」とは、一般的には経済的な
支援者のことを指し、いわゆるパトロンと同義
語である。しかし、リー・シェンロン首相が、
実際に経済的な支援を行っているかどうかは定
かではない。
43)
「リー・シェンロン首相の談話」についての詳細
は、以下を参照:http://www.sfcca.sg/node/393
44)
「通商中国」は、2007年11月にリー・クアンユー
上級相(当時)が、中国の温家宝首相(当時)
の提案を受けて、正式に運営が開始された。そ
の目的は、
「通商中国」が、華文・華語を基本的
な交流の媒介語とし、シンガポールの多元文化
の伝統を保持しながら、中国ならびに世界各
地の文化および経済との懸け橋となることであ
る。
「通商中国」についての詳細は、
以下を参照:
http://www.businesschina.org.sg/
ることに対して、支持し、応援していく」と
正式に宣布した。45)このように、華人会館は、
政府関係者の支持を「公的に」得ることによっ
て、
「華人アイデンティティを支える組織」と
して、更にその存在がアピールされるように
なっている。
7,華人会館が直面する問題:
「伝統」か「脱
伝統」か
華人会館の活性化は、華人文化の継承や発
揚を考える意味でも、喜ばしいことである。
一時的に衰退していた華人会館の苦境を思
い、現在の活性化を喜ぶ会館関係者も多い。
しかしながら、これまでと同様に、若者の華
人会館離れ、後継者問題といった問題は潜在
している。
筆者は、華人会館が、現在の活動内容につ
いて、今一度、振り返る必要がある時期に来
ていると考えている。この問題について、考
えるきっかけとなった、2名の会館関係者の
話を以下に紹介する。
筆者が聞き取りを行った華人会館のメン
バ ー Bさ ん46) は、1980年 か ら1990年 代 に か
けて、2つの会館のメンバーを兼ねており、
会館の活動の企画に積極的に関わっていた。
1986に「新加坡宗郷会館聯合総会」が成立し、
華人会館の活性化の後押しとなったことに勇
気づけられ、Bさんは自らが所属する2つの
会館で、多くの活動を積極的に企画するよう
になった。
Bさんは、当時10年間、青年団の設立、伝
統行事に関連するイベントの企画などを実施
してきた。青年団は、現在でこそ、30以上の
華人会館において設立されているものの、当
45)
「華族文化センター」は、すでに着工されてお
り、2014年 9月 末に着工儀式が執り行われる予
定になっている。
「華族文化センター」の賛助
人でもあるリー・シェンロン首相は、着工儀式
でも主賓として招かれている。
「華族文化セン
ター」は、華人文化の保存、継承、発揚、なら
びに、現地の華人文化の推進し、同時に、各民
族グループ間の相互理解と和諧を促進すること
を目的としている。詳細は以下を参照:http://
www.sfcca.sg/node/1422
46)Bさん(匿名希望)は、インタビューした2007
年当時、50代前半、男性である。
─ 106 ─
シンガポールにおける華人会館の変容と新たな役割
時はBさんが所属する会館の青年団が、さき
がけ的な存在の1つであった。
華人会館では、著名な華人企業家が会長や
理事などを務めているケースが多い。普段の
生活において、なかなかそういった企業家と
面識を持つ機会がない若い華人が、青年団に
加入することで、会館に所属する華人企業家
と交流する機会を提供できるようにしたので
ある。その結果、30 ~ 40代を中心とする華
人が青年団に加入したという。
「ビジネスの
世界で活躍する著名な華人企業家との交流
は、一般の社会活動ではめったに得られない、
華人会館ならではのメリットである」とBさ
んは考えていた。
Bさんが企画したイベントは、華人の伝統
行事に関連したものが多いことも特徴的で
あった。例えば伝統行事と若者を結びつけた
「中秋節の月見パーティー」
、
「重陽節のハイキ
ング」
、
「新春華語歌唱コンテスト」などであ
る。
「伝統と現代化の融合」として、メディ
アに取り上げられたこともあった。
一方、別の華人会館のメンバーであるCさ
ん47) も、1990年代、所属する3つの会館の活
動に積極的に関わっていた。Cさんが所属す
る会館は、建物が比較的大きく、資金も潤沢
で、会館内部の設備も整っていた。Cさんも
Bさんと同様に、会館の活性化、特に若者の
参加を強く希望しており、ボランティアで熱
心に活動を企画した。
Cさんは、会館の幹部と交渉して、若い世
代の参加を目的として、会館の設備をフルに
活用した現代的なイベントを、他の会館に先
駆けて企画した。
「カラオケ大会」
、
「クリスマ
ス・ダンス・パーティー」などが代表的な活
動である。若者が興味を持ちそうな企画にし
たこと、参加費を無料にしたこと、非会員の
イベント参加も認めたことなどから、若い世
代の参加者は予想を上回ったという。その後、
多くの他の会館も、Cさんの企画に類似する
現代的な活動を行うようになった。
前者のBさんは、
「伝統行事」または「会館
ならではの特色」にこだわったために(例え
47)Cさん(匿名希望)は、インタビューした2007
年当時、50代後半、男性である。
ば、クリスマス・パーティーといった企画
は行わなかった)
、大幅な参加者を得ること
はできなかった。会館の他メンバーからは、
「もっと若者を獲得するために、伝統にこだ
わらず、若者を引き付ける現代的な企画をし
たほうがいい」と提案されたこともあったと
いう。
Bさんは、
「中国の地方に伝わる伝統的なグ
ルメ・フェスティバル」
「中国将棋大会」など
といった、伝統や中国と関係がある企画をす
れば、参加者は興味のある人や当事者に限ら
れてしまい、若者の大量参加は期待できない
ことは重々承知していたが、他の会館と差別
化のないイベントや、会館や伝統行事とは無
関係のイベントを企画すれば、会館の意義が
なくなってしまう。そこだけは譲りたくな
かった」と強調した。
Cさんが所属するような、設備が整った規
模が大きな会館や、潤沢な資本を持つ会館は、
無料でカラオケの設備を提供したり、広いラ
ウンジで立食パーティーなどを企画したりす
ることも可能であり、若者をひきつけるよう
な現代的なイベントを企画しやすい状況にあ
る。Cさんの考えは、
Bさんとは異なっていた。
「クリスマス・パーティーは西洋の行事で会
館行事としてふさわしくない」と高齢者のメ
ンバーから苦言を呈されたこともあったとい
うが、
「どんな内容であろうと、より多くの若
い人がイベントに参加してくれればいい。そ
れで、最終的に、それをきっかけにして、会
館というものに興味をもってくれる若者が、
その中から出てくれればいい。
」というのがC
さんの考えであった。
シンガポール華人にとって、会館が必要不
可欠な存在ではなくなっている現在、後継者
候補にもなりうる若者を、いかにして、より
多く呼び込むかということは重要なポイント
になってくる。実際に、華人伝統行事とは直
接関係のない大きなイベントを企画して効果
が表れているわけであるから、Cさんがこの
方法を勧めることも、他の会館が追随して同
様の企画を行うことも理解できる。
Bさんのように「伝統」に矜持を持ち続け
るか、Cさんのように「脱伝統」で活性化を
─ 107 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
図るか、というのは、現在、会館が直面する
問題でもある。
8,むすびにかえて:
「華人会館」にしかでき
ないことを再検討する
リー・クアンユー元首相が、2011年に、
「華
人会館は、21世紀の時勢にかなうように変容
しなければならない」と述べたように、
「時勢
に合わせた華人会館の在り方」を再検討して
いくことが重要であるだろう。筆者は、変容
が必要とされる状況で、それでも「華人会館
でなければできない活動」
、
「華人会館がシン
ガポールにとって重要な存在であることをア
ピールできる活動」
、
「国益にかなう活動」が
重要であると考えている。
1980年代以降、
「各民族グループが自らの文
化やルーツを知ることこそが、国民統合の重
要なカギになる」という考え方が、
政府によっ
て語られるようになった。その考え方は、現
在も変わっていない。むしろ、
「各民族の伝統
文化は、シンガポールの特色とであり、継承
していかなければならない文化遺産である」
という認識が、かつてよりも、より一層強調
されるようになっている。
その意味を考えると、まずは、華人会館は、
Bさんが企画した活動のように、
「華人伝統文
化の継承および発揚」を、より一層積極的に
行っていくべきであると考える。旧会館系の
学校に対する華人会館による支援も、
「華人伝
統文化の継承および発揚」の一環であると言
えるだろう。
2つ目は、華人会館が、
「民族間の架け橋」
としての役割を果たすことである。政府は、
独立以降、多民族国家をまとめるために、
「民
族融和」を常にアピールしてきた。華人会館
の存在は、一歩間違えば、民族を分裂させる
機能も持ち合わせている(と独立直後は考え
られてきた)が、
「民族間の架け橋」としての
機能を、それ以上に持ち合わせているといえ
る。
政府の民族融和政策を支持する動きは、早
い段階から徐々に始まっていた。例えば、
1977年に、
「晋江会館」が、一部の会館機能を、
晋江出身者以外の華人や、他民族にも開放し
ており、2007年に、
「福建会館」が、マレー語
会話クラスを開講している。また、
「同安会館」
もまた、マレー舞踊クラスを開講している。
48)
「新加坡宗郷会館聯合総会」も、
2005年以降、
マレー伝統文化館、回教寺院、ヒンズー教寺
院への訪問を企画したり、福建寺院見学や華
人文化講座にマレー系住民を招待したりする
などといった、
他民族との交流活動である「会
館走透透シリーズ」49)を開催している。そし
て、近年では、他民族と各民族の食文化を通
して交流するという趣旨の、
「種族和諧美食心
50)
連心」 と名付けられたグルメ・フェスティ
バルイベントも開催している。
実際に、シンガポールの他民族(マレー系、
インド系、アラブ系などの人々)は、華人文
化について一定の理解はあっても、中国の地
方文化についての理解は深くはない。他民族
が、華人会館が企画する交流イベントに参加
することによって、単なる「華人文化」に触
れるだけではなく、福建、広東、潮州、海南
といった異なる地域の華人文化を理解するこ
とも可能となるのである。そういう意味では、
こういった中国の地方文化理解の交流活動
は、
「華人会館」でなければできない活動であ
ると言えるだろう。
3つ目は、
「華人のネットワークの構築およ
び情報の提供」を行うことである。近年、華
人会館は、新移民および新移民組織との交流
に積極的であるが、その交流の中で、シンガ
ポールについて認識が浅い新移民が、シンガ
ポール社会に溶け込めるように、華人会館が、
同じ「華人社会の構成員」として、より多く
の情報を提供していくべきである。そして、
48)李焯然『回顧25:宗郷総会二十五週年文輯』
、
新加坡宗郷総会聯合総会、2010年、77頁。
49)最近の活動は、2014年4月18日に実施された「中
央シーク寺院見学」であり、40人を定員とする
参加者を募った。事前にシーク寺院を見学する
際の服装や禁忌についての説明もきちんとなさ
れていた。
「中央シーク寺院見学」活動につい
ての詳細は、以下を参照:http://www.sfcca.sg/
node/1345
50)
「種族和諧美食心連心」については、以下を参
照: http://www.sfcca.sg/news/2009-8-12-clanassociation-held-racial-harmony-heart-to-heartfood-of-the-general-assembly
─ 108 ─
シンガポールにおける華人会館の変容と新たな役割
彼らとの人的ネットワークを構築していくべ
きである。
従来から、華人会館は、海外の地縁・血縁
組織とのネットワークを構築することに貢献
していた。例えば、
「世界福清同郷聯誼会」の
ように、シンガポールの華人会館が中心と
なって、世界的な同郷組織を作るケースも、
1980年代以降、増加している。51)1990年代
後半までは、華人が表立って地縁・血縁団体
を組織することができなかったインドネシア
では、現地の華人企業家たちが、シンガポー
ルの華人会館のメンバーになり、シンガポー
ルの華人会館を通して、世界の同郷人たちと
ネットワークを築いていた。52) こういった
ネットワークの構築や情報の提供は、政府や
個人ができないことであり、華人会館である
からこそ可能なことである。シンガポールの
華人会館は、こういったネットワーク作りに
は、経験上からも長けていると言える。
以上のような「華人会館でなければでき
ない活動」
、
「華人会館がシンガポールにとっ
て重要な存在であることをアピールできる活
動」を積極的に行うことによって、華人会館
は、より一層の活性化を図っていくべきであ
る。それは、国際都市、多民族都市としての
シンガポールの強みともなり、シンガポール
の国益にもつながることになるといえるだろ
う。
51)合田美穂「新加坡華人会館與華族青年‐社会学
的考察」
『
、八桂僑刊』1992年第4期、13頁。
52)1980年代から1990年代にかけて、インドネシア
で活躍していた華人企業家の林紹良、陳子興は、
ともにシンガポール「福清会館」および「世界
福清同郷聯誼会」の名誉会員となり、
シンガポー
ルの「福清会館」を通して、中国の同郷との関
係を強めていた。同じくインドネシア華人企業
家でシンガポールの永住権を持つ唐裕は、シン
ガポールの「安渓会館」の主席を長年務めてお
り、同様に中国の同郷とも強いつながりを持っ
ていた。著名な華人企業家のみならず、一般の
インドネシア華人ビジネスマンも、シンガポー
ルの華人会館の会員となって、海外華人とのビ
ジネスの機会を得ていた者も多い。インドネシ
ア華人を取り巻く状況については、以下を参照:
合田美穂「近年におけるインドネシアの対華人
政策の変容」
、
『静岡産業大学研究紀要 環境と
経営』
、第18巻1号、2012年6月。
<参考文献・参考資料(引用順)>
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、第18巻1号、2012年6月。
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、
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リー・クアンユー元首相の談話:
http://www.sfcca.sg/node/401
リー・シェンロン首相の談話:
http://www.sfcca.sg/node/393
通商中国:http://www.businesschina.org.sg/
華族文化センター:
http://www.sfcca.sg/node/1422
中央シーク寺院見学:
http://www.sfcca.sg/node/1345
種族和諧美食心連心:
http://www.sfcca.sg/news/2009-8-12-clanassociation-held-racial-harmony-heart-toheart-food-of-the-general-assembly
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福建省情資料庫:http://www.fjsq.gov.cn/Show
Text.asp?ToBook=3161&index=1880&
新加坡当商公会:
http://www.singpawn.org/index.cfm
新加坡車商公会:
http://www.autoparts.com.sg/
新加坡宗郷会館聨合総会:
http://www.sfcca.sg/
岡州会館楽劇部:http://www.chinanews.com/
hr/2013/11-04/5458203.shtml
南洋客属総会合唱団:
http://www.sfcca.sg/node/1069
鶴山会館国術醒獅団:http://sghoksan-cl.
blogspot.hk/p/blog-page.html
潮州美食講座:http://www.sfcca.sg/node/1308
関公文化講座:http://www.sfcca.sg/node/1377
華裔館:
http://chc.ntu.edu.sg/Pages/index.aspx
シンガポール社会に溶け込むための講座:
http://www.sfcca.sg/node/1397
シンガポール人の集団潜在意識を読み取る講
座:http://www.sfcca.sg/node/1258
シンガポールのインド族の歌舞風情:
http://www.sfcca.sg/node/1362
─ 110 ─
研究ノート
免疫グロブリンスーパーファミリーのドメイン2
Immunoglobulin Superfamily Domain (2)
大 堀 兼 男
はじめに
IgSFの検索と系統樹の作成
IgSFタンパク質の数
IgSFsdの検索
おわりに
はじめに
免疫グロブリンスーパーファミリー (IgSF)
は、免疫グロブリン(Ig)ドメインを共通に持
つタンパク質のグループであるが、このグ
ループに属するタンパク質は動物などにおい
て様々なものが存在し、多様性に富んでいる。
すなわち、IgSFには、抗体やT細胞受容体な
ど免疫現象で働くもの、細胞接着タンパク
質として働くもの、細胞膜に存在して受容体
として化学信号の伝達に働くものなど種々あ
る。とくに、細胞接着タンパク質は、多細胞
生物において細胞から組織・器官等を構築し
て維持しているときに重要な役割を果たして
いる。また、哺乳類では、免疫反応に関与す
るIgSFが多く知られており、抗体(免疫グロブ
リン)は中心的な役割を果たしている。この
ように、多細胞生物において、IgSFは重要な
タンパク質のグループといえる。
一方、ゲノム研究の進展に伴い、様々な動
物のゲノム情報が明らかにされている。その
結果、単一のタンパク質の研究ではなく、様々
な動物における相同なタンパク質の相同関係
が検討できるようになった。そこで、IgSFの
進化を探るために、前論文1)では脊椎動物に
至る進化の系列の動物を対象に、IgSFの中で
単一の免疫グロブリン(Ig)ドメインを持つタ
ンパク質(IgSFsd)の相同性について検討した。
これらの動物を通して、共通の IgSFsdの存在
は認められなかったが、脊椎動物での共通の
IgSFsdの存在が認められた。本論文では、前
論文において検討対象ではなかった無脊椎動
物のIgSFのIgSFsdを同様に検索し、その進化
について検討する。
IgSFの検索と系統樹の作成
対象とした無脊椎動物は、平板動物のセン
モウヒラムシ、刺胞動物のイソギンチャク、
軟体動物のナスビカサガイ、環形動物のヒル、
線形動物の線虫と節足動物のショウジョウバ
エである。動物は側生動物と真正後生動物と
に大きく分けられる2)。側生動物には、海綿
動物と平板動物が含まれる。つぎに、真正後
生動物は放射相称動物と左右相称動物とに分
けられる。放射相称動物には刺胞動物が含ま
れる。一方、左右相称動物はさらに前口動物
と後口動物とに分けられる。前口動物はさら
に冠輪動物と脱皮動物とに分類される。冠輪
動物の中に軟体動物と環形動物が存在する。
脱皮動物には、線形動物と節足動物が含まれ
る。後口動物には、棘皮動物、半索動物及び
脊索動物が含まれる。すなわち、対象とした
動物は脊椎動物以外の分類のレベルでは「門」
の動物のグループから採用した。
各動物のIgSFは、SUPERFAMILY 1.75(Wilson
et al. (1999))のデータベースから検索し、ドメ
イン構造はInterProt(Hunter et al.(2011))および
SMART(Letunic et al.(2012))で決定した。また、
2)
1)
大堀(2013)
─ 111 ─
無脊椎動物の分類については、白山(2000)、佐
藤(2004)および藤田(2010)を参照のこと。
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
表1 各種生物が保有する免疫グロブリンスーパーファミリー数
生物名
種 名
動物群
タンパク質数
ドメイン数
センモウヒラムシ
Trichoplax adhaerens
平板動物
73
165
イソギンチャク
Nematostella vectensis
刺胞動物
195
451
ナスビカサガイ
Lottia gigantes
軟体動物
236
539
ヒル
Helobdella robustu
環形動物
261
600
線虫
Caenorhabditis elegans
線形動物
183
1718
ショウジョウバエ
Drosophila melanogaster
節足動物
444
3044
タンパク質の相同検索には、UnitPro(Wu et
al.(2006))を使用した。タンパク質間の相同性
を検討するため、Clustal 2(Larkin et al.(2007))
を使用して系統樹を作成した。系統樹の作成
には、Njplot(Perrière and Gouy(1996))を利用し
た。
IgSFタンパク質の数
SUPERFAMILYは、スーパーファミリーレ
ベルでのタンパク質のドメイン分類に基づく
モデルを含むデータベースである。このデー
タベースにより、様々な動物からのタンパク
質のドメイン分類が行われている。そこで、
このSUPERFAMILYに基づくドメインの分類
を引用して、検索対象とした無脊椎動物の
IgSFのタンパク質数とドメイン数を表1にま
とめた。平板動物のセンモウヒラムシのIgSF
の数が最も少なく、節足動物のショウジヨウ
バエのIgSFが多かったが、他の無脊椎動物で
はその数は200前後であまり違いはみられな
かった。一方、前論文に載せたカイメンの
IgSFの個数は314個であり、他の無脊椎動物
と比較してやや多かった。また、脊椎動物の
有顎類では1000以上となり、脊椎動物の段階
で複雑さの程度が進んだことが推測される。
IgSFsdの相同検索
センモウヒラムシのIgSFsdは、SUPERFAMILY
のデータベースより10個見つけたが、アミ
ノ酸数の少ないものや類似配列のものを除
き、4個が相同検索の対象となった。これら
のタンパク質と類似のIgSFsdはなかったが、
B3RQR33)は同じ動物のタンパク質B3RQR1の
1番目のドメインと類似していた(アミノ酸配
列の類似性は26.5%)。B3RQR1はIgドメインを
6個、フィブロネクチンタイプⅢ(FNⅢ)ドメ
インを3個持つ構造であり、細胞接着タンパ
ク質のL14)と類似の構造を持っていた。すな
わち、平板動物という初期の動物の段階です
でに2種類のドメインを持つ複雑なIgSFに属
するタンパク質を持っていたことになる。
刺 胞 動 物 の イ ソ ギ ン チ ャ ク のIgSFsdは、
SUPERFAMILYのデータベースより22個が見
つかったが、アミノ酸数が少ないものや類
似配列を除き、3個のタンパク質について相
同 検 索 を 行 な っ た。 し か し、3個(A7SKR5、
A7RYF7およびA7T483)とも類似のIgSFsdは見
つからなかった。この中、A7SKR5は、イソ
ギンチャクの他のIgSFのタンパク質(A7RYZ8
とA7RWV8)と 類 似 のIgド メ イ ン を 持 っ て い
た。しかし、両者とも複数のドメインを有し
ており、A7SKR5とは異なる構造になってい
る。つぎに、A7RYF7は同じ動物のA7SDB2の
3個のIgドメインの一つと類似していた。こ
のように、刺胞動物であるイソギンチャクに
おいても、IgSFは複数個のIgドメイン構成が
多くなっていると思われる。
軟体動物のナスビカサガイのIgSFsdは33個
あったが、同様に検索対象にしたのは、10個
のタンパク質だった。これらのタンパク質は
4つのグルーブに分類できた。1つはV4B7A5
である。このタンパク質は他の動物に類似の
3)
以後、タンパク質の名称はUnitProで使われてい
るAccessionコードを使うことにする。
4) L1については、Moos(2002)や Kiefel(2012)を参照
のこと。
─ 112 ─
免疫グロブリンスーパーファミリーのドメイン2
*
図1 ナスビカサガイのIgSFsdの系統樹
─ 113 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
*
*
*
図2 ヒルのIgSFsdの系統樹(その1)
─ 114 ─
免疫グロブリンスーパーファミリーのドメイン2
*
*
図3 ヒルのIgSFsdの系統樹(その2)
IgSFsdが見つかった。動物のグループとして
は、環形動物、線形動物、節足動物、棘皮動
物、脊椎動物が含まれる。これらのタンパク
質の系統樹を図1に示した。ヒトの類似IgSFsd
はF8WDG7であるが、このタンパク質は不
活性型のチロシンタンパク質キナーゼ7であ
る。このタンパク質はIgドメインは持ってい
るが、キナーゼのドメインが欠けている。ま
た、興味深いのは、検索でV4B7A5と類似の
ドメインを持つヒルのT1EE45を見つけたこ
とである。T1EE45はIgドメインを7個とキナー
ゼドメインを1個を持っており、チロシンキ
ナーゼと考えられる。2つ目のグループは4個
あったが、同じグループを形成し、他の動物
では近縁の環形動物で類似のタンパク質が見
つかっている。3つ目のグループは2個のタン
パク質で、同じグループを形成しているが、
他の動物などには類似のものは見つかってい
ない。4つ目のグループは3個のタンパク質が
あるが、これらは類似のタンパク質が全く見
つかっていない。
環形動物のヒルのIgSFsdは33個あったが、
検 索 対 象 に な っ た の は17個 だ っ た。1つ 目
の グ ル ー プ は、3個 の タ ン パ ク 質(T1FKL9、
T1EPK7、T1FG45)を含み、他の動物にも類似
のタンパク質がある。これらのタンパク質は、
ナトリウムイオンチャネルβ4とT細胞受容体
α鎖のグループであった(図2)。2つ目のグルー
プは2個のタンパク質(T1FHH6とT1FGA7)で、
環形動物や軟体動物のタンパクと類似してい
る(図3)。T1FHH6はナスビカサガイのV4B1P9
に近く、T1FGA7はイトゴカイ(環形動物)の
R7UHU1やマガキ(軟体動物)のK1PSP6に近い。
3つ目のグループは、T1FI29だけだが、イト
ゴカイのR7UPB3と類似している。4つ目のグ
ループもT1EUA5だけだが、他の動物に類似
のタンパク質は見つからなかった。しかし、
IgSFファミリーのタンパク質であるBasiginの
第2番目のドメインと類似している。残り10
個のタンパク質は類似なIgSFsdは見つからな
─ 115 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
かった。
線虫のIgSFsdは6個あったが、検索対象と
し た の は4個 で あ っ た。 こ れ ら の タ ン パ ク
質は3つのグループに分かれる。1つ目のグ
ル ー プ は、Q5WRU0とQ9N5Z2で あ る(図4)。
これらのタンパク質に類似のものが、節足
動物、線形動物および棘皮動物に見つかっ
た。その中で、アメリカムラサキウニ(棘皮
動物)のW4ZJB4は、同じ動物の他のタンパク
質(D2T1S8)のドメインの1つと類似であった。
D2T1S8は線維芽細胞成長因子受容体類似タ
ンパク質で、Igドメイン3個を持っている。2
つ目のグループはQ9NAF4であり、他の線形
動物のタンパク質に類似のものが見つかっ
た。3つ目のグループはQ22575であり、他に
類似のタンパク質はなかった。
ショウジョウバエのIgSFsdは5個あったが、
検索対象としたのは4個だった。Q9VTG8と
Q8SX06は同じグループに属し、線虫の1つ目
のグループに属することがわかった(図4)。つ
ぎに、Q9W258は他の動物と類似のタンパク
質は見つけられなかったが、ショウジョウバ
エのQ9W259の1番目のドメインと類似してい
た。Q9W259は4個のドメインを持ち、3個が
Igドメイン、1個が FNⅢのドメインである。
このタンパク質は、ニューロトリミニンに類
似している。ただし、大多数のニューロトリ
ミニンは FNⅢドメインは持っていない。最
後に、Q9W257は他のショウジョウバエで類
似のタンパク質が見つかっている。
おわりに
動物の起源は、立襟鞭毛虫のような単細胞
生物が群体化して、多細胞化したものと考え
られている。最初の動物は海綿動物であるが、
細胞間の結合はゆるく、細胞の分化はあるが、
明確な器官は見られない。進化上、海綿動物
のつぎの動物は平板動物で、個体性が明瞭に
なった。さらに、口と消化管を持つ刺胞動物
と有櫛動物が出現した。これらの動物は放射
相称だった。その後、左右相称性の動物が出
現した。これらの動物は、発生の段階ででき
る原口がそのまま成体の口となる前口(旧口)
動物と、原口が成体の肛門となり、口が新し
くできる後口(新口)動物とに分岐した。後口
動物から、棘皮動物が進化し、さらに尾索動
物、頭索動物、脊椎動物が進化した。一方、
前口動物は、脱皮動物(線形動物、節足動物)
と冠輪動物(環形動物、軟体動物)とに分岐し
た。そこで、本論文では、おもに平板動物か
ら前口動物までの進化の経路の動物のIgSFsd
を対象に相同性を検討した。
前論文と同様に、今回の無脊椎動物にお
いても共通のIgSFsdの存在は認められなかっ
た。一方、初期の動物である平板動物でも、
2つのドメインを持つ複雑なドメイン構成を
有するIgSFがすでに存在していた。このタン
パク質を含め、平板動物の段階でIgSFの多様
化が進んでいたと思われる。
無脊椎動物において共通のIgSFsdが存在し
なかったということは、これらのタンパク
質の分子進化速度が速かったことが考えられ
る。中立進化説5)によれば、機能の重要でな
いタンパク質ほど進化速度は高いことが推定
されている。たとえば、ヒストンはDNAと
結合してクロマチンを形成し、それが染色体
となる。このことから、ヒストンは染色体の
安定化に対して重要な機能を持っているとい
え、その進化速度は低い。また、ヘモグロビ
ンは全動物を通して存在しているが、その進
化速度はヒストンについで低い。それは、ヘ
モグロビンが酸素を運搬する働きがあり、呼
吸生物であれば必須であるからである。この
ようなことから、IgSFsdは単一ドメインゆえ
に他のタンパク質でも代替可能な機能を持っ
ていたと推定され、進化速度が早かった。し
たがって、大きな動物分類群の間では、相同
なタンパク質が残っていなかったと推測でき
る。
一方、動物では、複数のドメインを持つ
IgSFのタンパク質群が出現し、その結果、重
要な機能を有するようになり、様々なIgSFの
メンバーが種々の動物で機能するようになっ
たと思われる。動物のIgSFは多くのメンバー
が存在し、とくに、脊椎動物では細胞接着タ
ンパク質や受容体のグループに加えて、免
5)
─ 116 ─
中立説については、Kimura(1983)を参照のこと。
免疫グロブリンスーパーファミリーのドメイン2
+
+
*
*
図4 線虫のIgSFsdの系統樹
*は線虫のIgSFsd +はショウジョウバエのIgSFsd
─ 117 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
疫グロブリンなどの免疫系で働くIgSFのメン
バーが多数見られる。
このようなことは、調べたいくつかの無脊
椎動物でも、IgSFsdに類似のドメインを含め
て複数のドメインを持つIgSFが見つかってい
ることからも支持される。たとえば、センモ
ウヒラムシのIgSFsdは、IgドメインとFNIIIド
メインを持つIgSFと類似性があった。軟体動
物のナスビカサガイでは、IgSFタイプのチロ
シンキナーゼと類似のIgSFsdが見つかってい
る。線虫のIgSFsdは線維芽細胞成長因子受容
体類似タンパク質のIgドメインと類似であっ
た。ショウジョウバエでは、Igドメインと
FNIIIドメインを持つニューロトリミニンのIg
ドメインと類似のIgSFsdがあった。また、環
形動物のヒルではナトリウムイオンチャネル
β4とT細胞受容体α鎖と類似のIgSFsdが見つ
かっている。この場合は、他のタンパク質と
結合して複合体を作っている。
すなわち、無脊椎動物の進化の段階で、
IgSFsdは複数のドメインを持つIgSFに進化し
て、様々なタンパク質のグループとして働い
ている。とくに、動物は多細胞化を経て進化
してきたことから、細胞間の接着に関与する
細胞接着タンパク質の出現は重要であったと
思われる。このことは、平板動物ですでに細
胞接着タンパク質が存在することからも支持
される。B3RQR1はIgドメインを6個、FNⅢド
メインを3個を持っており、L1とその構造が
類似していることから、細胞接着タンパク質
と考えられる。また、同じセンモウヒラムシ
のB3SCK6は、Igドメイン6個、FNⅢドメイン
5個を持っている。また、C末端にはL1と類
似のドメインを有する。これもまた、細胞接
着タンパク質であることが推定される。Igド
メインとFNⅢドメインをもつIgSFに属するタ
ンパク質は、L1を含めて動物界に広く分布し
ており、組織・器官の形成に重要な役割を果
たしていると思われる。つまり、多細胞生物
である動物では、細胞の接着が必須であるこ
とから、細胞接着タンパク質の存在が必要で
ある。そこで、今後はIgSFに属する細胞接着
タンパク質についての研究が必要であると考
えられる。
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Genomics, Datamining and Sophisticated
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2009, pp. D380 - 386
Wu, C.H., Apweiler, R., Bairoch, A., Natale,
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S., Gasteiger, E., Huang, H., Lopez, R.,
Magrane, M., Martin, M.J., Mazumder, R.,
O'Donovan, C., Redaschi, N. and Suzek, B.
“The Universal Protein Resource (UniProt): an
expanding universe of protein information”,
Nucleic Acids Res., Vol. 34, 2006, pp. D187
- 191
─ 119 ─
翻 訳
ジョン・ノックスによる宗教改革文書(1)
The Reformation Pamphlets by John Knox (1)
― 1556年に神の御言葉の牧者であるジョン・ノックスからスコットランドの
摂政メアリへ差し出した書簡と1558年著者によって補足説明された文書(2)―
The Letter delivered to the Lady Mary, Regent of Scotland from
John Knox and the Addition (2)
伊勢田 奈 緒
1.緒言
2.翻訳
1.緒言
1558年 の 夏 に 発 行 さ れ た「 摂 政 へ の 書
簡」は1556年5月にジョン・ノックス(John Knox,1514-1572)がスコットランド滞在中
に摂政メアリ・ギ-ズ(Mary of Guise, 1515-
1560)に宛てた書簡の改訂版であった。
〔尚、
ここに訳したものは、前号、
『環境と経営』第
20巻第1号に掲載したものの後半のものであ
る。:Letter to the Queen Dowager, Regent of
Scotland (Augmented Version)1558, Geneva(STC
nos.15067), David Laing (ed.), Selected Writings
of John Knox, Edinburg, 1846, p.451-470〕
1556年の書簡からは、ノックスは摂政を説
得して、プロテスタント信奉者たちと調和さ
せ、宗教の改革を公式的寛容をもって行える
のではないかと期待し、また、摂政自身がプ
ロテスタントへ改宗することさえ可能かもし
れないと思っていたと考えられる。あくまで
も、ノックスの中心的目的は、彼女の義務は
神の御言葉に従って、宗教の改革を行うこと
であると教えることであった。しかし、1558
年版の書簡からは、ノックスの態度は硬化
し、摂政の夫と二人の息子が亡くなったこと
を、それは神の怒りと神の激しい不満の証拠
として紹介し、他方、女性たちが至福と喜び
を持って長く国を支配することは滅多にない
ことであると彼女に説いている。この二つの
書簡はノックスの政治的宗教改革思想の変化
を知る史料であると共に、摂政メアリの当時
のスコットランドにおける政治政策と宗教政
策の変化を考察するための重要な史料である
と考えられる。
2.翻訳
Letter(手紙)
しかし、貴方様は恐らく、宗教の監督は、
上級行政官たちに委ねているのではなく、彼
らがそれを称しているように、司教たちや聖
職者階級に委ねられているとお考えでしょ
う。しかし、貴方様ご自身、誤解してはなり
ません。というのは、司教たちが怠慢なため、
誤った判断で弾圧を必要としているのです。
実はそのために行政官の手が必要とされてい
るのです。なぜなら、彼らはあらゆることに、
不正に促進し、助成し、維持しているからで
す。偽りの不正な判断により財産は奪われ、
庶民の体は虐げられています。しかも、高慢
な高位聖職者たちは、その者たちのためにキ
リスト・イエスが血を流されたのに、その者
たちを王達に殺させ続けているのです。そし
て、彼らは命の真の御言葉を阻止したり、あ
るいは、今ローマ・カトリック教会で教えら
れているような有毒な教義を教え込もうとし
たりしているのであります。
─ 121 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
貴方様が、普遍的に受け入れられるその宗
教を私がいかに呪わしく、汚れたものだと
いっていることに不思議に思っておられるこ
とはわかります。しかし、閣下が、確かに
(聖書の創世記の1))初めから人間が神から
堕落したことを思われるならば、
(そればかり
か、神が民に神の法や預言者たちによって話
されたことを思われるならば)
、また、貴方
様が、地上の国民や人々や支配者や王たちが
激怒し、陰謀し、主に反抗し、油注がれたキ
リスト・イエスに反対して、会議を開き、そ
のことに聖霊が不平を言ったとお思いなら、
さらに、もし、人が、イエスご自身が「人の
子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだ
すだろうか」と言われたことに疑問を覚えら
れるならば、そして最後に、もし、閣下が神
の明白な侮りを思われたり、今日、全地上の
表面を罰することなく支配している神の聖な
る教えのすべてが侮りだとお思いなら、それ
はホセアが「真実もない、慈しみもない、今
日、人々の間には真実がなく、嘘、偽証、圧
制がはびこり、そして、流血に流血が続いて
いる2)」と不平を言っているように、
すなわち、
どの邪悪も別の邪悪に結ばれているからなの
です。そして、もし、私は言いたいのですが、
閣下が深く今日、すべての身分にはびこった
普遍的堕落状態をお考えになられるのでした
ら、その時、閣下は、
「多くの者が呼ばれ、選
ばれる者は少ない」ことを不思議に思うこと
はなくなるでしょう。そして、貴方様は、人々
を地獄へ連れていくことに震え、恐ろしく思
い始めることでしょう。聖パウロが預言した、
普遍的な背信というものは、態度だけでなく
宗教においても簡単に見いだされるものなの
です。世の中の堕落状態は明らかであり、そ
して宗教は神の明確な御言葉によって判断さ
れることもなく、測られることもなく、人の
慣習や慣例や意志や同意や決心によって判断
され測られているのです。
しかし、いつもむなしい人の心について熟
考し判断を下してこられた神が、神を前にし
て、人々が話し合い、そして同意する宗教を
受け入れてくださるでしょうか?閣下はだま
されませんように。神は嘘をつくことができ
ません。神は御自身を否定することは出来ま
せん。神は、
神ご自身の言葉によって、
命令し、
確証する以外、神を喜ばす宗教はないことを
初めから、証言して来られたのです。聖書自
体このことを述べています。
「人の戒めを教
えとして教え、むなしく私をあがめている」
と、また、
「天の父が植えなかった木はすべて
抜き取られてしまった3)」とあります。神の
最愛の御子が、肉をとって来られる前、神は
厳しく、サウルやウジヤやナダブやアビフに
おいて、読まれるように神の儀式や法を変え
るつまらぬ企ての一切を罰しました。そして、
神は今や、神の唯一の御子によってこの世の
人々と話すことを開始した後、
そして神は(神
4)
の言葉を )聞かれることを命じ、聖霊によっ
て使徒たちに話し始めた後、神は真の礼拝者
たちに最後まで耐えることを望む宗教を確立
なさったのです。いったい、神が忌まわしい
偶像崇拝に対して評価なさってこられた宗教
に関して、人の創意を神は今、認めることが
あるでしょうか?もし、人や天使たちが、神
がそれを認めるだろう、とか、あるいは、そ
れを認めるかもしれないと言うとしたら、神
御自身の真実は偽証として有罪となりましょ
う。この件について、神は、
「あなたの目に良
いと見えるものをあなたの神、主にしてはな
らない。しかし、あなたの神、主は、あなた
に命じ、命じたものをあなたはしなさい。そ
れに、何も加えることも、それから、減らす
こともしてはならない。5)」と語っておられ
ます。そして、新約聖書を封印しつつ、神は
次のように繰り返しておられます。
「あなた
が持っている物を私が来るまで堅く持ってい
なさい6)」と。故に、この点で、未だ、その
ことを再び,言わないのは残念で、そのこと
は、主なることであり、閣下は、多数の統治
者たちと同意してはならないのであり、ある
3)
マタイによる福音書15章9、13節。
訳者補足。
5) 申命記4章2節。
6) ヨハネの黙示録2章25節。
4)
1)
2)
訳者補足。
ホセア書4章1 ~ 2節。
─ 122 ─
ジョン・ノックスによる宗教改革文書(1)
いは、貴方様は、神の王国と栄光にあって、
キリスト・イエスと共に何も持つことは出来
ないのであります。
Addition(補足)
サタンの悪巧みが常に精を出していて、こ
の世を目の見えないままにしておこうとして
いることが分かったので、私は、かつて指
摘した点に2つのことを加えることにします。
すなわち、貴方様は、宗教の改革を振り払お
うと試みるべきではないということです。な
ぜなら、貴方様は、王国内の司教たちをもっ
ているからです。また、貴方様は、誤った慣
習により人々が受け入れているものを全く完
全な宗教だと判断するべきではないというこ
とです。この2つ点で、サタンは忙しく精を
出しているのです。第一に、行政官の中で、
宗教のことであえて認識しようとする者はい
ません。というのは、そのことは、教会の決
定に任せられているからです。第二に、長い
間、多くの会議が、多くの人々が、さまざま
な国や王国が、許し、権威づけ、立証してき
た、その宗教が誤っているのは、とても信じ
難いからです。
行政官の義務とは何か、そして、その場合、
人民が神に許されるのはどのような権力か、
この私の論題は、王国の貴族と身分制議会宛
にいくつかの書簡を書いてきましたので、退
屈を避けるため、今は、第一の件について、
繰り返すことはやめます。第二の件について
は触れます。もし、貴方様が、私が前に引用
した聖書の証言を正しく考慮なさるなら、私
が異議を唱えている訳を十分、ご理解頂けた
ことと思っています。というのは、もし、人々
の意見がいつも選ばれるべきならば、神は原
初の世界において不正を行ったということに
なります。それは、彼らはすべて心を一つに
して、すなわち、神に反対する魔法をかけた
からです。
(ノアと彼の家族は除くのですが)
。
そして、もし、古代にそのような場合を考慮
するならば、創世記の偶像崇拝ばかりでなく、
マホメットの偽宗教の方が、ローマ・カトリッ
クより選ばれることでしょう。それは、両者
とも、ローマ・カトリックの宗教よりも古く、
その上、マホメットの宗教は、ローマのいか
なる教皇が三重宝冠をかぶるより前に、コー
ランを確立していたからです。しかし、古代
に触れる時、私は、テルトリアヌス7)が「最
も純粋で完全な宗教であるように。そしてそ
れが、非常に古いという証明である。
」と言っ
たことに同意します。なぜなら、
これは、
私が、
地上ですべての司教たちと一緒の主要な点で
あるからです。すなわち、
私が言う宗教は、
(そ
れは今日あるように)神の前で受け入れられ、
真で唯一の宗教であるということであり、そ
れは、古さにあるのではなく、また後にキリ
スト教の制度という点で人によってゆっくり
と工夫され、故に嫌悪すべき、忌まわしいも
のとなったカトリック教会でもないのです。
これは、私たちの主なる提案です。すなわ
ち、それは、神の宗教において、神御自身の
言葉のみを、重んずるべきだということです。
この場合、人の権威も天使の権威も尊重され
ることはないのです。そして、彼らの会議に
ついては、その事(神の言葉のみを重んずる
べきだ)が試みられるとき、最も敬虔な最も
古い公会議が、誰のために非常に明白に語ら
れたかを簡単に見ることができるでしょう。
私は、神の言葉に確信のない、全体会議の決
定よりも、
(神の真理に根拠をおいている)一
人の人の意見の方が、権威があると理解しま
す。しかし、私たちが論駁する彼らの決定の
全ては、聖書の如何なる確証もなく、維持さ
れるばかりでなく、神の真理に反対して確立
されているのであります。その上、大部分は
かつての会議の法に反対していることを私
は、はっきりと証明できます。しかし、今は、
前の手紙の残りを手短に記すことにしましょ
う。
Letter(手紙)
神のメッセンジャーの一人として、貴方様
の臣民たちに母のように憐れむことを(今、
神の御手により高位に進まれた)貴方様に切
に要求します。すなわち、殺人者たちや圧制
者たちに反対するのに用いられるための曲が
7)
─ 123 ─
訳者補足。
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
らない正義と、強欲や不公平のない心と、王
国や国家(神は貴方様の上に置かれたのであ
り、それによって、貴方様を栄誉あるものに
したのでありますが)の維持に熱心で注意深
い心と、諸々の徳をもって、神の聖書ばかり
でなく、ただ自然の光に照らされ執筆する著
述家も、敬虔なる統治者に必要なのです。し
かし、宗教が堕落したところでのやり方を改
革するのを切望するのは、むなしいものです。
なぜなら、人が生まれてその生涯を(堕落し
たところで8))人としての務めを果たすこと
ができないように、父である神の下、喜んで
働く者には、偶像崇拝者たちの心に抵抗せ
ず、主イエスに従わないような人はいないか
らです。だから、最も敬虔なる支配者である
ヨシア、ヒゼキヤ、ヨシャファトは、宗教を
改革し始める前に、神のために、すべて、彼
らの民に頼ろうと求めたのです。それは、体
の中のお腹のようなもので、もし、お腹をこ
わせば、必然的に身体全体に影響を与えるよ
うなものです。故に、
(私は〔宗教の改革を9)〕
なされるべき事が非常に必要であることをし
ばしば繰り返してきたのですが)
、もし、閣
下がキリスト・イエスとともに主張できるの
でしたら、そのとき、貴方様は、神の真の宗
教を管理する義務があるのです。今日、貴方
様の王国においては非常にひずみをおこして
いるので、キリストの法のどの部分も初めの
頃の力や純粋性は、残っていないのです。で
すが、
(私は神を賛美しますが)
、私にとって、
語ることは危険なことですが、証明するのは
簡単なことです。私は何ものをも恐れていま
せん。それは一つには、永遠の命についての
愛はこの世での死の恐怖を和らげるからであ
り、また、私は聖パウロと共に、
(この世の喜
びに触れるものとして)私の兄弟を救うため、
そして、閣下の啓蒙を救うために、キリスト
からの罪に問われたいと思うからです。事柄
や働きや行いはつまらない言葉や書き物では
なく、私が証言し、告白しましょう。もし、
私がほんの40日だけ、話す自由を手に入れる
8)
9)
訳者補足。
訳者補足。
ことが出来るならば。
Addition(補足)
賢く雄弁なデモクリトスが書いた良く知られ
た文章があります。すなわち、
「誉めるに値す
るような働きを誉めることは、誠実であると
思う。しかし、邪悪なことを誉めることは、
人をだます心から生じる以外ないのである。
」
と。そして、有名な哲学者であるテミスティ
ウスは、ローマ皇帝がJovianホールをおべっ
か使いたちで満たそうとするのを見て、次の
ように言いました。
「彼らは神以上に王位を
崇めていることを彼らの振る舞いで認められ
る」と。このことは、彼らが皇帝が敬虔であ
ろうが不敬虔であろうが、気には留めておら
ず、彼らは自分が皇帝に気に入られることを
大事にしていることを示しているものです。
これらは、異教徒たちのものでありますが、
私たちは信じている神を、彼らは知らず、ま
た、彼ら自身、敵に対して不正をはっきりと
言い表すことはできないのですが(私たちは、
洗礼によって、また、私たちのキリスト教の
信仰告白によってなされてきましたが)
、し
かし、彼らは私たち少数のものを呪ってはい
ませんし、また、主として支配者たちに親交
があるのです。支配者や上級権力者が考案し
たものは何でも誉め、認め、保持するこの惨
めな時代にいったい、だれが罪を犯したこと
を裁くことが出来るのでしょうか。そのうえ、
貧しい人々を圧制し、奪い、彼らから命を取っ
ているのです。預言者は、次のように言って
います。
「彼らの骨を解体して、釜あるいは、
鍋の中の肉のように粉々に砕く」と。しかし、
私は言いたい。支配者たちは「それは、正し
い。それは国家のためである。王国を守るた
め、臣民の安堵のため。
」と叫ぶための判断
に欠けていたのではないと。最近の三階級の
あり方は、
「支配者は求めると、裁判官は彼自
身のではなく、貧しい人の命や血を与えよう
とする。
」と預言者が不平を言っていたとお
りであります。
身分ある者が、如何に自分の心の堕落を語
るのでしょうか。彼には、彼が語るものは何
でも誉め、認めようとするおべっか使いがい
─ 124 ─
ジョン・ノックスによる宗教改革文書(1)
ます。そして、支配者には彼らの気に入った
宗教にさせておくことは、大部分の人にとっ
ては同じ事で、神の、そして、神の栄誉と宗
教の自己犠牲の下、彼らは、裁判所との友好
関係を保っているのです。しかし、ああ、悪
用される支配者たちは何と惨めなことでしょ
う。そして、国家や帝国や王国のそのような
おべっか使いたちはなんと伝染しやすいペス
トであることでしょう。神は、彼らに耳を貸
し、そこから生じる害を初めからペンキで塗
りつぶすことを明らかにしてきました。古代
著述家たちは、彼らを売春婦、カラス、より
がつがつした野獣にたとえましたが、それに
は理由がないわけではありません。というの
は、売春婦たちには、彼女らの恋人が後悔や
冷静の心に戻ることに決して耐えられないよ
うに、おべっか使いたちには、たとえば、彼
らが欺くことが正しい判断となることに耐え
られないからです。そして、カラスが死んだ
肉の目を取り出すように、また、がつがつし
た野獣がむさぼり食べるように、おべっか使
いたちが(より残忍な者なのですが)
、生き
た人の目を取り出し、そして、彼らの理解力
と判断力の目を見えなくし、彼らをサタンに
さらし、サタンのために身体と魂をむさぼり
食べられるのであります。
私たちは神を冒涜する著述家たちによって
のみ、これは(語られるものでありますが)
しかし、聖霊は私たちに絶対信じられる真実
を教えたのであります。すなわち、それは、
邪悪が国家に支配された場所では、誰もがあ
えて、そのことを非難しようとすることは公
然と見られず、しかし、そこでは、突然、復
讐や破壊が起こってくるのです。なぜなら、
このことは、預言者エゼキエルによって「偶
像を造っている流血の都をあなたは裁かない
のか?どの統治者たちが彼らの力の限り、血
を流すのか?彼らは私の聖なるものを見下
し、彼らは邪悪を考案し、そして、そのこと
を成した。預言者たちの呪文は富んだ者を集
め、その呪文において、どんなものも価値が
あるのである。祭司たちは狂暴に私の法を引
き裂き、ずたずたにした。国の民は、だまし
を働いていた。彼らは貧しい者たちを抑圧し、
不当に寄留の外国人に暴力をなした。そして、
私は、塀を直し、私の前の破れ口に立つ人を
彼らから求めたが、だれも見いだすことは出
来なかった。だから、私は、彼らの上にどっ
と憤りを注ぎ、そして、私の高ぶった不満の
火によって、私は彼らを滅ぼした。10)」と述
べられているからです。注意して下さい、マ
ダム。というのは、これらは、死すべき人の
言葉ではなく、永遠なる神の言葉なのであり、
エルサレムにだけ語られたのではなく、罪を
犯したどの国に対しても語られたものだから
です。ここに挙げられた罪は全て、偶像崇拝
であります。つまり、統治者たちの強欲と残
忍性、邪悪な者たちを守る(偽)預言者たち
の呪文、一般の人たちの偽り、裏切り、暴力、
そして最後にだれも、これら残虐非道な行為
に非難をしないあらゆる人々の普遍的な沈黙
のことであります。
神のため、私は良心の平安をもって、貴方
様を、貴方様の議会を、そして前に挙げられ
た罪あるこの王国の偶像崇拝者たちを許し
たいと思います。行われる偶像崇拝は否定さ
れ得るよりもはっきりしています。権威ある
者と同じように貴方様ご自身の強欲や残忍性
は、事実によって知られることでしょう。な
ぜなら、評判は、
(大変な税金によって抑圧さ
れた)貧しい人々の声が、ここ一外国にいる
私たちばかりでなく、万軍の主の耳にまで届
くことを私は確信するからであります。そし
て貴方様の偽預言者たちの陰謀や呪文は世の
中で知られており、神が御自身を裁かれよう
とされる前に、貴方様に悔いることをあえて
訓戒するような、神に忠実で、閣下に慈悲の
ある者は未だ、だれも見いだせないからであ
ります。
私が悔い改めについて話すとき、見せかけ
の神聖さを示すのではありません。それは、
普通、偽善者に見いだされますが、しかし、
私が意味するものは、貴方様の権力を維持さ
せ、守られるために、貴方様が、その中で養
われ、そして貴方様を美しく見栄えあるもの
にしてきた、迷信や偶像崇拝の一切を呪いつ
10)エゼキエル書22章2
─ 125 ─
~ 3節、25 ~ 31節。
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
つ、貴方様の心全体から主なる神に真に改心
していただくことなのです。私が言いたいの
は、もし、この毒が貴方様の心を(貴方様の
見せかけの人生は決してこの世の前では決し
てきらめかないものですが)浄めないのでし
たら、神の前で忌まわしいものである以外な
いのです。その上、さらに、私は言いたいの
ですが、それは、そこに、へびのこの毒(こ
れは偶像崇拝を意味するのでありますが)が
心の中に潜んでいて、色々な時に有害な実を
作るのであって、おそらく、人の前では公然
としていなくとも、しかし、神の前では殺人
者、徴税人、売春婦という事実と劣らないほ
ど憎むべきものなのです。だから、私の以前
の手紙で、私は、その宗教が堕落している所
での改革の必要は無駄なことだと言ったので
あります。しかし、私はもう一度、閣下が、
深くこのことを重要に思ってくださることを
最後に繰り返します。さて、また、私の以前
の手紙の残りの部分に進みましょう。
Letter(手紙)
私は、普通の人が宗教の事柄をなにか刷新
しようとすることが、いかに危険なものかを
知らないわけではありません。そして、私は
一部には、閣下の権力は、非常に自由なわけ
ではないのですが、しかし公の改革が必要だ
と思います。もし、閣下が偽宗教の支持者た
ち全てに、必然的にのしかかっている永遠の
危険性や呪いを考慮なさるのでしたら、その
時、最大の危険性は簡単にむさぼり食べられ、
小さな危険性はますます飲み込まれることに
なるでしょう。閣下が永遠の命の神に仕えな
ければならないか、さもなければ、死やのろ
いの世に仕えなければならないかを熟考なさ
るなら、その時、人や天使はあなたを思いと
どまらせるにしても、あなたは、命を選び、
死を断ることでしょう。さらに、その時、そ
の命がただ、お一人の真の神そして神の御子
であるキリスト・イエスを知ることにあると
受け止め、そしてそのことと共に神の真の礼
拝と栄光を伴っていること、そしてそれは、
神の言葉で言い表された、神御自身のご意志
の証言が必要であり、そのような栄光は、神
を喜ばすものなのであるということに心から
ご理解なさることでしょう。もし、閣下が前
に述べた、これらのことを熱心に考えていた
だければ、貴方様がしようとしていることを
突然なさらないかもしれません。しかし、い
や、貴方様がなさるかもしれないことをする
ことをやめられないでしょう。閣下は急いで、
迷信を廃止することはお出来になれないで
しょうし、無駄な主任司祭を職務から取り除
くことはお出来になれないでしょう。預言者
エゼキエルは公の改革には必要であると語っ
ています。しかし、もし、閣下のお心に神へ
の賛美が強くおありでしたら、貴方様は、邪
悪な法による偶像崇拝を維持することもない
し、過去の時代において、習慣化してきたよ
うに、キリストの体である哀れなメンバーた
ちを殺したり、むさぼり食べたりする司教た
ちの激怒に苦しむこともないのです。もし、
貴方様が、目が見えず無知によって行ったり、
まだ、この王国内の他の人の楽しみのため、
なされることをお許しなさるのであれば、貴
方様が速やかに悔いられる以外、貴方様や貴
方様の子孫は、突然に貴方様を高位にあげた
神の御手を憂鬱なものとして、お感じになる
ことでありましょう。貴方様が戦うことを述
べた永遠なるものは、神であり、時を適度に
加減し、王国を配置し、従わないような権威
を斥け、神の満足に従って、他人を置くのは、
神であり、神を称えるものを称え、神の恵み
に反対する反逆者が捧げた統治者たちに軽蔑
を注ぐのは神であることを貴方様が欲しよう
が欲しまいが、知らされることでありましょ
う。
Addition(補足)
この包みの書簡を通して、私は貴方様を神
からそして、神の真の服従から呼び返すこと
への妨害を思い起こしました。また貴方様が、
どんな場合に神の前に畏れおののき、神の栄
光を促進するため、この世の栄光をすべて失
うことを企てなければならないかを考慮して
きました。私は、貴方様の権能は、特別に不
安定に、ただ借りておられるにすぎないと思
うのであります。というのは、貴方様が、そ
─ 126 ─
ジョン・ノックスによる宗教改革文書(1)
れをただ他の人々の許しによって、持ってい
るに過ぎないからであります。そして、滅多
に女性たちが至福と喜びを持って、長く(国
を11))支配するということはないことだから
です。なぜなら、自然は女性たちに良い政府
が変わらず続く風潮を与えないように、神は、
女性が男性を支配することを決して、認めず、
激怒と憤りを発してきたのです12)。貴方様の
非常に特別な友人たちは、さらにこの世のむ
なしさによって目が見えなくなり、その上、
ローマの売春婦の杯を飲まされ、キリスト・
イエスと神の真の宗教の不倶戴天の敵になっ
ているのです。これらのことは、恵みによる
確証のない一女性の心を簡単に当惑させるか
もしれないのであります。しかし、もし貴方
様が私と共に、神の栄光のため、すべての危
険を冒さなければならない理由をほんの少し
でも考慮してくだされば、先に挙げた恐怖は、
たちまち消えることでありましょう。
私は、偶然、他に起こっていることが最大
のことであると見なしてはいません。すなわ
ち、もし貴方様が、宗教のことの何かを刷新
しようと試みなさるのでしたら、その時、貴
方様の権威もまた、貴方様の現世的友達も失
うことでしょう。私は、さらに、すなわち、
神御自身がすでに、貴方様に貴方様のご子孫
に、そのうえ、支配している王国全体に、怒
りを述べ始めている神の裁きを見るのであり
ます。最初、貴方様のお二人のご子息様たち
が、突然、6時間内に命を奪われ、さらに、後
に貴方様の御夫君様が、
いわば、
暴力によって、
命と名誉が奪われ、その名前の記憶と継承と
王位が彼御夫君様自身とともに無くなったこ
とを運命のせいにしてはなりません13)。なぜ
なら、侵害する迫害あるいは、むしろ、いく
つかの王国の暴政は、女性が彼らの父祖の名
誉を受け継ぐことを許してきたからでありま
す。しかし、彼らの栄誉は一外国人の家に移
11)訳者補足。
12)イザヤ書3章。
13)メアリ・ギーズの二人の息子は1541年4月に突
然、数時間内に亡くなり、夫のジェームズ五世
も1542年12月に亡くなっている。彼女のたっだ
い一人の娘、メアリー・スチュアートは生まれ
てから六日目に即位した。
されなければならなくなるのです。故に、私
が言いたいのは、王国自身と共に王国の名も
継承も王位も葬られることになるということ
であります。そして、ここにおいて、もし、
貴方様が、神の怒りと激しい不満を認めな
いのでありましたら(同じ災いで、貴方様と
貴方様のご子孫を脅かすでありましょうが)
、
貴方様は、私が思っている以上に頑固になら
れることでしょう。神が大きな理由もなく、
そのようなまれな災いで王国や国家を罰して
来られなかったのでありますし、また、神は
(貴方様を)気落ちさせ始め、前の罪の復讐
を見つけられるまで、家の名誉や栄誉を回復
しようとはなさらなかったことを貴方様ご自
身、深く、じっくりと考えるべきだと私は思
います。
貴方様は、たぶん、貴方様の御夫君様にお
いて起こったことにおいて、貴方様に、ある
いは、神がひどく貴方様を罰した王国に、ど
んな罪があったかと疑念をもたれることと思
います。私は答えます。それは神の聖徒の
(彼
らは、そのことを苦労して知らせ、強く非難
したのでありますが)流した血をもって、多
くの恐ろしい偶像崇拝を維持し守ってきた罪
です。このことは、私は言いたいのですが、
(他の邪悪なことは省きますが)非常に神の
目の前での罪が大きいので、そのため、神は
王たちや彼らの子孫から、永久に名誉と尊厳
を奪い、彼らに非常な復讐を注いだのであり
ます。列王記の歴史によって非常に明かに示
されているのですが、すなわち、ヤロブアム
について「私はあなたを民の中から高位につ
け、私の民イスラエルの支配者とした。私は、
また、偶像崇拝のためダビデの家から、王国
を裂いて、あなたにそれを与えた。しかし、
あなたは私の僕ダビデのようではなかった。
」
等、そして「しかし、あなたは邪悪なことを
なし、とりわけ、あなたの先に行った。あな
たは自分のため、他の神々や鋳造の像を造り、
私を怒らせ、わたしを後ろに捨てた。だから、
わたしは、ヤロブアムの家に苦痛をもたらし、
わたしは、壁に対して小便をかけているすべ
ての(男の子を意味するのであるが)ヤロブ
アムに属する者を滅ぼすであろう。そして、
─ 127 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
汚物がなくなるまで、投げ出されるようにヤ
ロブアムの子孫も投げ出すであろう。14)」と
述べられています。この宣告は、この偶像崇
拝者に対する死刑宣告であるばかりでなく、
次から次へと続く王国における、偶像崇拝者
たちに対する宣告でもあるのであります。と
いうのは、バシヤに対して、神は、ヤロブア
ムの子孫を根絶する手段としてこのことを用
いました。つまり、
「あなたは、ヤロブアムと
同じ道を歩き、私の民イスラエルに罪を犯さ
せ、彼らの罪によって私を怒らせた。だから、
私は、バシヤの子孫と彼の家の子孫を滅ぼし、
あなたの家もヤロブアムの家と同様にする。
バシヤに属する者は、町で死ねば、犬に食べ
られ、野で死ねば、鳥にむさぼり食べられる
だろう。15)」とあり、エラとアハブは、同じ
運命の杯のため、同じ理由のため、さらに、
イエフの子孫も彼らの父祖の足跡をたどった
のでした。
これらの例によって、貴方様は、偶像崇拝
が、神が支配者たちの子孫を滅ぼした理由で
あることをはっきりと認めるでありましょ
う。最初の忌まわしい行為を行った者ばかり
でなく、彼らに続きそれを守った者たちにも
なされるのです。マダム、神は貴方様から厳
しく取り上げることを始められました。つま
り、二人の子供たちと夫を一緒に、取り上げ
られたことを考慮してみてください。私は言
いたいのですが、神は神御自身がお怒りにな
られていることを告げ始めたのであります。
貴方様は神の目を怒らせないようにお気を
つけください。神の面前で貴方様の大義を正
当化できるのは、見かけがおうへいな高慢な
人々や、権力ある貴方様の友人ではなく、ま
た大衆でもないのです。もし貴方様が、神に
対して反逆することをお考えになられるので
したら(そして、もし、貴方様が、神の名の下、
私の非常に小さな要望を否定なさるのであれ
ば、それは神に対して貴方様が反逆なさって
いることなのです。それは、私自身、危険を
冒しながらも、私は、今、貴方様が維持して
14)列王記上14章7
15)列王記上16章2
~ 10節。
~ 4節。
おられる、誤った、人を欺かせる宗教と神の
前の忌まわしい行為について、神の恵みと絶
対信頼できる聖なる御言葉の非常に明確な証
言により、証明しようと申し出ているのであ
ります。
)
、私は言いたいのですが、もし、貴
方様がこれを(神に対して反逆することであ
りますが)否定されるのであれば、神が貴方
様と貴方様のご子孫の敵であることを宣言す
るとき、貴方様のご友人の支持は、ほとんど
役に立たないことでしょう。そのことで、も
し貴方様が、神に対する敵意の旗印をお示し
になられるなら、貴方様ご自身に、神がまも
なく、このことをなさることで貴方様は確信
することでしょう。貴方様は、
他の子孫たちに、
つまり、君主たち、女王たち、王たち、皇帝
たちでありますが、神と神の誠実な訓戒を侮
辱するようなことを敢えて、なさらないで欲
しいのです。神が彼らの地位を任じたのでは
ありますが、彼らは神の怒りの杯を飲みまし
た。慈悲にあって、
(貴方様の隣にある王国以
外でありますが)神は貴方様や貴方様の王国
になされたように、神の恐ろしい鞭でしっか
りと打たれる王国はありませんでした。故に、
まず、貴方様は、屈服なさることになります。
貴方様が預言者イザヤにより実証された脅威
の宣告を除いては。すなわち、
「あなたの突然
の崩壊は崩れた壁のようであり、あなたの崩
壊は、容赦なく壊された陶器の破片のようで
あり、その破片からは、火あるいは、水も運
ぶこともできないようである。16)」と述べら
れています。それによって、預言者は、神を
高慢にも軽蔑する者や神の訓戒を軽蔑する者
が、あらゆる名誉心のために滅びることを、
そして、彼らはこの世における彼らの背後に
ある記憶に何も価値をもたなくなることを示
しているのであります。その上、もし、彼ら
が、何かを残したとしたら、それは無駄なも
ので、呪いの中にあって、神の選びは憎しみ
になることなのです。さて、私の前の手紙に
進むことにしましょう。
16)イザヤ書30章13
─ 128 ─
~ 14節。
ジョン・ノックスによる宗教改革文書(1)
Letter(手紙)
神に従い、悪魔や、暗闇、プライドや迷信
の統治者に対して闘う人間は如何に危険であ
ることか!もし、閣下、貴方様ご自身が楽し
むことを望み、今もまた永遠に名誉を持ち続
け、全能の神のご支配の下、貴方様ご自身を
時代に仕えるならば、神の御旨を受け入れて
ください。神の福音書を見下してはなりませ
ん。示された神の恵みを拒んではなりません。
神が貴方様を求める時、貴方様の耳を引き離
してはなりません。むなしい意見に盲従して
はなりません、そして、貴方様の教会は罪を
犯してはなりません。貴方様は、生活におい
て、キリストの真の使徒たちから堕落し、宗
教においてもさらに堕落している者たちに福
音が説かれるようにしてください。貴方様の
目の前の、神の書に目をおき、そして、私が
言うことを判断なさってください。もし、貴
方様が恐れや崇敬を持って、従ってくださる
のでしたら、ヨシアが預言者たちの訓戒にそ
うしたように、その時、神は(神によって王
たちが支配しているのですが)貴方様の戦い
に二重の祝福をもって王位に就かせられ、貴
方様のこの世の統治において、知恵と富と栄
光と名誉と長寿をもって、貴方様に報われる
ことでしょう。そして、永遠に続く命を持っ
て、すべての王の中の王(今、そのメンバー
たちが貴方様を求め叫んでいるのですが)で
ある主イエスが、神の天使たちを伴って私た
ちを裁くために現れる時、その方の前で、貴
方様の現在の統治を評価してくださるでしょ
う。その時、高慢で不服従の人々は、
「山々は
私たちに落ち、主の御顔から私たちを隠す。
」
と叫ぶでありましょう。しかし、その時では、
もう遅すぎるのです。なぜなら、神が愛情を
込めて呼んだ時、彼らは神の声を侮辱したか
らであります。
わたしたちの主イエス・キリストの父であ
る神は、聖霊の力によって、貴方様の心を動
かし、彼らが貴方様の正当な有罪の決定の証
言ではないと言った事柄を考慮し、受け入れ
させ、そして、全能なる神、主イエスの裁き
の日には、私は、閣下に誠実にお委ねします。
Addition(補足)
預言者エレミヤは神の命令で、イスラエル
とユダに対して語ってきた脅迫や疫病につい
て、神が語る言葉を書き記し、彼らに命じて、
彼の書記であるバルクによって読まれまし
た。なぜなら、彼自身、破門され、神殿に入
ることを禁じられていたからであり、神の摂
理によって、このことは伝えられ、ゲマルヤ
の子ミカヤは、語られた神の言葉を聴き、王
の家に伝え、残りの支配者たちにそのことは
伝えられ、彼らはまた、エレミヤが説教した
同じ巻物を読んだ後、その当時エルサレムを
統治していた王ヨヤキムに真実を隠しません
でした。しかし、高慢で向こう見ずの支配者
は、命じてその巻物を彼の面前で読ませたの
です。彼はその巻物の3、4枚を聞かない内に、
それを切り、火の中に投げたのでした。にも
かかわらず、その支配者の中には巻物を燃や
さないように懇願した者(全部とは思いませ
んが)もいました。しかし、預言者は、神に
よって命じられて再び書き記し、王ヨヤキム
に「主はこう言われる。
『お前はこの巻物を
燃やしてしまった。なぜ、この宣告に従って
それを書いたのか』と。必ずバビロンの王が
来て、この国を滅ぼし、人も獣も絶滅させる
と書いた。だから、主は王ヨヤキムにこう言
われた。
『ダビデの王座につく者は一人もい
なくなるだろう。彼らの死体は投げ出されて、
昼は熱に、夜は霜にさらされる。
(それによっ
て、預言者はひどく深いさげすみと残酷な苦
痛を示しているのでありますが)そして、王
と、その子孫と僕たちの邪悪を罰し、彼らと
エルサレムの住民たちとユダの人々にわたし
が彼らに対して告げてきたすべての災いをく
だすであろう。彼らは聞こうともしなかった
からである。
』
」17)と告げました。
これは、マダム、その時代のために書かれ
たのではなく、そういった罰がそのような軽
蔑する人の財産や社会的地位や身分をいか
に持ちこたえられるかを確信するためなので
す。私は、以前に貴方様に、良心を証明する
ことを、神の恐れの中で行い、聖霊の働きに
17)
─ 129 ─
エレミヤ書36章29 ~ 31節。
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
よって、それを行ったと書きました。
(合法
的で神の栄光に属している信仰の同胞たちの
要求に対して、私は聖霊の声だと判断せざる
を得ないのでありますが)
。しかし、
貴方様が、
私が前に書いたものをいかに受け取ったかを
私は、推測の他、理解できないのです。貴方
様がそれを最後までお読みくださったかどう
か、私には、不確かであります。私が知って
いることの一つは、貴方様が貴方様の高位聖
職者の一人にそれを渡し、
「枢機卿、この風刺
をお読みなさい。
」とおっしゃったというこ
とであります。私は寛容な心を持って、最高
の意味で、このことを(疑わしく語られてい
るのですが)解釈をしようとしています。し
かし、神に対する私の義務から(神は地上に
おける支配者にへつらってはならないと命じ
られるのですが)
、私は次のように言わざる
をえません。もし、貴方様が、神の警告を尊
重せず、枢機卿たちが風刺文のあざけってい
ることもお考えにならないなら、貴方様が同
じような仕方で冗談を言っておられなくなる
ようなメッセンジャーたちを、神はまもなく
貴方様におくることでありましょう。私、個
人として見解を述べさせていただきますと、
私は、敬虔なる人々がローマのパスキーノの
像に父を置くというスポーツを楽しいものと
する風刺18) よりも、恐ろしいものを認めら
れないということです。しかし、マダム、も
し、貴方様が、神が人を(さらに、身分が低
く、公然と最も卑しむべき平民たちでありま
すが)神のメッセンジャーたちとして用いて、
神の意志を普通の人々に知らせるためにばか
りでなく、非常に高慢な暴君や勢のある支配
者たちを非難するためにも用いるとしたら、
そのとき、貴方様は、その酒を外観や容器の
材質によって判断しないでありましょう。と
いうのは、貴方様は、多くの極上のワインが、
もろい木製の酒樽に入れられ、高価な軟膏が
しばしば、粘土製の壺に入れられているのを
知らないからであります。さらに貴方様が、
神が王国の罰に何も触れず、また、自分の心
の欲望などを殺して、人の判断ではなく神に
時々語るように強いられる神の言葉を語る預
言者たちが現れないとしたら、そして、もし、
このことを、貴方様が重要視なされば、その
時、貴方様は、
(神が19))現れないということ
を恐れることになるでしょう。
エリヤはただの人でありますが、聖ヤコブ
が証言しているように20)、彼と同じような人
でありました。彼が祈っているとき、偶像崇
拝者のアハブとイスラエルのすべての人は3
年6 ヶ月罰せられました。神は天を閉めて地
上に雨も露も降らせませんでした。そして、
最後に神は、エリヤを通して働かれ、最初バ
アルの祭司たちをまごつかせ、その後、正当
に罰せられました。そして、イゼベルが預言
者の血を求め、彼女は呪いによって、預言者
の死を決定しましたが、しかし、彼女はその
計画をだめにして、彼女自身の骨を犬どもに
隠しておくことは出来なかったのです。預言
者が、
(神がエリヤの語る言葉を支配している
のですが、
)その罰を、その前に、その邪悪
な女(イゼベル21))に行うように命じていた
のでした。マダム、今日、神のメッセンジャー
たちは、目に見える奇跡を用いて、送られて
はいないのではありますが、彼らが教えてき
たのは、世の初めから奇跡を持って確証され
てきた教義にほかならないのであります。し
かし、彼らの大使が罰や復讐を免れるという
侮辱に神は、
(神は最後まで神の哀れで小さな
群れを引き受けることを約束したのでありま
すが)耐えることが出来ないでありましょう。
というのは、真理それ自体が次のように言っ
ているからです。
「あなた方に耳を傾ける者
は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は私
を拒むのである」と。マダム、私は貴方様に
対し、前の手紙で語りませんでしたし、今も
語りません。風刺の件は、教皇や世俗の枢機
卿たちに対してでありますが、これについて
はあえて彼らの名前は言いません。しかし、
私は、キリスト・イエスの名前において、貴
18)ローマのパスキーノの像に年に一度、落首など
を貼ることが行われていて、教会と国家の最高
高官に対しての皮肉や攻撃の言葉が記されてい
た。
19)訳者補足。
20)ヤコブの手紙15章17節。
21)訳者補足。
─ 130 ─
ジョン・ノックスによる宗教改革文書(1)
方様が維持している宗教は呪うべき偶像崇拝
であることを確信するようになりました。そ
して、私自身、神の聖書の最も明らかな証明
によって言えることを申し出たいのでありま
す。この反目の中で、私は王国内のすべての
教皇主義者たちに反対することを表明いたし
ます。私が望むこととは、神の聖なる言葉と
私が語る自由にほかならないのであります。
神は貴方様の心を動かし、貴方様が、私の要
求を理解し、真理を知り、偽らずに真理に従
いますように。アーメン。
ヨハネの黙示録21章6-8節
「私ははじめであり、終わりである。私は
渇いている者に、命の水の泉から自由に飲ま
せよう。うち勝つ者は、すべてのものを受け
継ぐ。そして、私はそのものの神になり、そ
のものは私の子となる。しかし、臆病なもの、
不信仰なもの、忌まわしいもの、殺人者、淫
らな行いをするもの、魔術を使うもの、偶像
崇拝者、すべて嘘を言うもの、このようなも
のたちに対する報いは、火と硫黄の燃える池
である。それが、第二の死である。
」
─ 131 ─
環境と経営 第20巻第 1 号(2014年1月)目次
論 文
アフリカ大陸における自動車産業と縫製産業
山﨑 克雄
1
わが国スポーツ・ビジネスのグローバル展開の展望と課題に関する一考察
─ アルビレックス新潟シンガポールの事例から ─
青山 芳之
13
外国人家事労働者が香港に与える影響
─ 社会、家庭、国際関係への影響を中心に ─
合田 美穂
23
21 世紀「中東秩序」の構造変容
─「アラブの春」混迷の背後にあるもの ─
森戸 幸次
35
ステンドグラスを地域産業とする
可能性についての調査研究
佐藤 和美
47
静岡県における漁業資源管理 ─ 漁業供給関数をつかって ─
谷口 昭彦
61
石垣市を訪れる台湾人旅行者について
藤田 依久子・山川 和彦・温 琳・藤井 久美子
69
「ビブリオバトル」と「ディベート」を活用した大学生の
コミュニケーション力・論理的思考力の育成の試み
教職課程におけるアクティブラーニングへの試み
─ ライティング指導を中心にして ─
須部 宗生
87
浅羽 浩 103
翻 訳
ジョン・ノックスによる宗教改革文書(1)
― 1556 年に神の御言葉の牧者であるジョン・ノックスからスコットランドの
摂政メアリーへ差し出した書簡と 1558 年著者による補足説明文書(1)―
─ 133 ─
伊勢田奈緒 119
─ 135 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
─ 136 ─
─ 137 ─
環境と経営 第20巻 第2号(2014年)
執 筆 者 紹 介(掲載順)
永
山
庸
男
静岡産業大学経営学部
教
青
木 優
静岡産業大学経営学部
准
菊
野
春
雄
静岡産業大学経営学部
教
後
藤
隆
浩
静岡産業大学経営学部
准
須
部
宗
生
静岡産業大学経営学部
教
谷
口
昭
彦
静岡産業大学経営学部
非常勤講師
大日方 重 利
静岡産業大学経営学部
特任教授
福
田
ゆ
み
野瀬歯科・総合医療研究所
所
長
森
戸
幸
次
静岡産業大学経営学部
教
授
合
田
美
穂
静岡産業大学経営学部
非常勤講師
大
堀
兼
男
静岡産業大学経営学部
教
伊勢田 奈 緒
静岡産業大学経営学部
非常勤講師
─ 138 ─
授
教
授
授
教
授
授
授
経 営 研 究 所 所 員
三
枝
幸
文
松
本
幸
男
青
木 優
浅 羽 浩
天
野
利
彦
大
西
孝
之
大
堀
兼
男
菊
野
春
雄
窪
田
辰
政
熊
王
康
宏
後
藤
隆
浩
近
藤
尚
武
佐
藤
和
美
杉 山 三七男
須
部
宗
生
館 俊
樹
永
山
庸
男
丹
羽
由
一
禰
屋
光
男
葉
口
英
子
藤 田 依久子
牧
野
好
洋
森
戸
幸
次
山
劉 志
宏
青
山
芳
之
岡
田
修
二
大日方 重 利
服
部
勝
人
山
﨑
克
雄
山
﨑
博
昭
鷲
崎
早
雄
石
垣
美
佳
齋
藤
智
世
高
城
佳
那
─ 139 ─
田
悟
史
経営研究所運営委員兼編集委員
鷲
崎
早
雄
近
藤
尚
武
永
山
庸
男
丹
羽
由
一
森
戸
幸
次
牧
野
好
洋
環 境 と 経 営 第20巻第 2 号(通刊第40号)
2014年12月
発行者 静岡産業大学経営研究所
〒438-0043 静岡県磐田市大原1572番地1
TEL:0538−37−0191㈹
編集者 鷲 崎 早 雄
印刷所 中部印刷株式会社
静岡県浜松市南区東若林町1516-2
TEL:053−441−2557
E
ARTICLES
CONTENTS
Rethink of Innovation; The Fundamental Concept of
Sustained Competitive Advantages
Tsuneo Nagayama
Progress and Future Trends in High-Performance Computer Technology
1
Masaru Aoki
15
Do mothers with good theory of mind understand
children’s mind easily?
Haruo KIKUNO, Yuichiro KIKUNO, & Qi LI
41
The Structure of Others in “Typhoon”
Takahiro Goto
47
Muneo Sube
57
Akihiko Taniguchi
69
The Effect of Musical Therapy on Rework of
the Mental Patient (Case Study)
Obinata Shigetoshi・Yumi Fukuda
83
A Critical Essay on the War in Gaza
Kouji Morito
93
Miho Goda
99
A Trial of English Vocabulary Building by Utilizing
the Odd-Man-Out Method
Fisheries management of inland fishery
The Transformation and the New Role of the Chinese Clan Association in Singapore
NOTE
Immunoglobulin Superfamily Domain (2)
Kaneo Ohori 111
TRANSLATION
The Reformation Pamphlets by John Knox (1) :
The Letter delivered to the Lady Mary,Regent of
Scotland from John Knox and the Addition (2)
VOL.20 NO.2
DECEMBER 2014
Nao Iseda 121