年報a第十号b ISSN 1883-1524 北海学園大学大学院文学研究科 2013 年 12 月発行 新人文学 Annual Bulletin of the New Humanities 10 Vol. [巻頭言] 人間の慢心を戒め、 深く大地に根差して 上杉 忍 [論文] 長谷観音異国霊験譚の意義 追塩千尋 本田創造 著 『アメリカ黒人の歴史 新版』 は、 なぜ書き直されねばならなかったのか ―― 拙著 『アメリカ黒人の歴史――奴隷貿易からオバマ大統領まで』 に書かなかったこと 上杉 忍 “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 ― ―リチャード ・キャヴェルの 『空間におけるマクルーハン』 について 柴田 崇 鎌倉幕府の 「祭祀」 に関する一考察 ― 摂家将軍頼経期を中心に ― 竹ヶ原康弘 蘋[研究ノート] 留学生活を支援するための パターン・ランゲージ 森 良太 [彙報] 平成二十四年度 大学院文学研究科 学位論文題目一覧 文学研究科教育・研究発表活動覧 編集後記 Annual Bulletin of the New Humanities Vol. 10 December 2013 Contents Foreword Shinobu UESUGI Toward New Humanism : a Lesson from Centuries of Human Vanity Articles Chihiro OISHIO The significance of miraculous narratives on Hasedera-Kannon in foreign countries Shinobu UESUGI What I did not write in my new book, African American History : From Slave Trade to President Obama, 2013 Takashi SHIBATA An Analysis of McLuhan studies over “extension” ― On McLuhan in space by Richard Cavell Yasuhiro TAKEGAHARA A study about “the rite” of the Kamakura Shogunate. ― Mainly on the Sekke Shogun(Shogun from a regent family) Yoritsune “頼経” period ― Essays Yoshihiro MORI Notes Editorial Notes A Pattern Language for Foreign Students’ Life [巻頭言] 人間の慢心を戒め、深く大地に根差して 上杉 忍 ⋮⋮⋮ 長谷観音異国霊験譚の意義 追塩千尋 ⋮⋮⋮ 008 [論文] 本田創造 著 ﹃アメリカ黒人の歴史 新版﹄ は、 なぜ書き直されねばならなかったのか ︱︱ 002 上杉 忍 ⋮⋮⋮ 038 柴田 崇 ⋮⋮⋮ 086 拙著 ﹃アメリカ黒人の歴史︱︱奴隷貿易からオバマ大統領まで﹄ に書かなかったこと をめぐるマクルーハン研究の検証 extension Annual Bulletin of the New Humanities Vol. 10 [彙報] 平成二十四年度 大学院文学研究科 学位論文題目一覧 ⋮⋮⋮ 196 文学研究科教育・ 研究発表活動覧 ⋮⋮ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 200 編集後記 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 201 竹ヶ原康弘 ⋮⋮⋮ 120 ││ リチャード・キャヴェルの ﹃空間におけるマクルーハン﹄ について 195 (001) 鎌倉幕府の ﹁祭祀﹂ に関する一考察 │ 摂家将軍頼経期を中心に │ ◉研究ノート 第a十 号 b 目次 二〇一三年十二月発行 留学生活を支援するためのパターン・ ランゲージ 森 良太 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 新人文学 年報 [巻頭言] 人間の慢心を戒め、深く大地に根差して 上杉 忍 二〇一三年には、人文学部開設二〇周年と人文学会創立記念のシンポジウムが、それぞれ盛大に行わ れ、この﹃年報 新人文学﹄が第一〇号を迎えることとなった。 ﹁新人文学﹂の提言は、人間を慢心させた人文主義に対する反省から始まったと聞いている。しかし、 濱忠雄氏の﹁ ﹃人文主義﹄の意義を全否定するとしたら、それは﹃たらいの水と一緒に赤子を流す﹄のに 等しい﹂ ︵本誌第五号巻頭言︶との指摘は、近年、とくに重要であると思う。アメリカでは反テロを口実 とした愛国者法によって権力の不当捜査を禁止した憲法修正第四条が骨抜きにされ、日本では自民党憲 法改正草案が、国民の権利を﹁公益および公の秩序﹂の中に閉じ込めることを主張し、自然権思想にも とづく人権概念そのものを脅かしているからだ。 とは言え、人文主義が、 ﹁文明﹂の名のもとに自然破壊や植民地、黒人奴隷制、人種差別、女性差別を 肯定・促進してきたことは否定できない。国連が、これらを肯定する思想を克服目標に掲げたのは一九 六〇年代以後のことだった。 002 人文主義に対して最も体系的で強力な対案を突きつけたのは、マルクスとエンゲルスだった。しかし、 ロシアでレーニンが権力を奪取し、世界中に共産党という少数の結束した前衛党組織が広がり、彼らが 世界各地で革命運動を展開するようになるまでは、マルクスの提起が、広く世界に知られることはなかっ た。 ﹁革命﹂によってその社会の諸問題が一気に解決されるとの﹁夢﹂がこれほど急激に世界中の大衆の 間に蔓延したことは世界史上、まれなことだった。エリック・ホブズボームによれば、 ﹁その地球大の広 がりは、イスラム教成立後の最初の一世紀における征服活動以来、およそ類例のないもの﹂︵﹃極端な時 代︱︱二〇世紀の歴史﹄ ︶だった。 社会主義国家の時代は、ホブズボームの言う﹁総力戦の時代﹂とピタリと重なる。東西を問わない国 家権力を総動員した科学技術・文化政策の展開、生産力の飛躍的拡大、恒常的戦争準備、核エネルギー 開発、国家機構の肥大化、農村の衰微と都市の肥大化、自然破壊、地球環境の危機が一気に進行し、人 間が何でもできると言う﹁人間の慢心﹂がこれほど昂進した時代はなかった。言うまでもなく、現実の 社会主義国家は、生産力至上主義と人間社会改造への﹁人間の慢心﹂の道を突き進んだ。そして、社会 主義革命への道の設計図の鏡となる歴史の設計図、すなわち﹁史的唯物論﹂にもとづく理想社会への移 行の必然性を説く安易な﹁世界史の発展法則﹂が大きな力を持ち、法則が裸で歩いているような歴史が たくさん書かれ﹁千年王国論﹂を支えてきた。 地球の生誕、人類の発生から、自然と人間の歴史を鳥瞰し、危機的な現代世界の将来展望を模索して きた藤岡惇は、キリスト生誕から最初の千年紀を﹁神のミレニアム﹂と規定し、次の千年紀を﹁自己を 中心として世界が回っていると言う観念的な天動説﹂に染まった﹁人間のミレニアム﹂だったと整理し 人間の慢心を戒め、 深く大地に根差して 003 た上で、第三のミレニアムの課題は、 ﹁自然のミレニアム﹂への転換であるべきだと提言している。︵﹁帰 りなん、いざ豊饒の大地と海に︱︱平和なエコ・エコノミーの創造︱︱﹂ ﹃立命館経済学﹄六〇巻特別号 十一︶彼によれば、マルクスとエンゲルスは﹃共産党宣言﹄で、 ﹁農業経営と工業経営の統合、農村と都 市の対立の除去﹂を提言し、マルクスは晩年に入っても﹁大地への人間の回帰を﹃未来社会﹄にとって の必須条件﹂だと主張し続けたと言う。 ︵ ﹁ソ連の本質は﹃国家産業主義﹄だった︱︱大地・生産手段へ の高次回帰、自由時間の拡大を指標に考える﹂ ﹃立命館経済学﹄六一巻特別号十二︶ では﹁大地への人間の回帰﹂はどう実現されうるのか。池澤夏樹は﹁目前のあまりの不正と矛盾に対 する抑えようのない怒り。 ・・・自分の無力がわかっている分だけ苛立ちが募る。・・・一気逆転を夢見 るようになる﹂ ︵ ﹁終わりと始まり﹂ ﹃朝日新聞﹄二〇一三年十一月五日︶のは理解できると書いている。 だが、 ﹁一気逆転﹂の夢はもはや見ることはできない。 彼は、次のようにも書いている。 ﹁かつて﹃革命﹄という幻想がありました。革命というのは、ある思 想的な原理を実行に移して、社会全体を根本的に変えるということです。・・・そういうものがみんな 失われて、言ってみればわれわれは、壊れてしまった大きな物語の破片の間をうろうろしている。・・・ ですから、われわれは・・・全部の問題を解決して理想の社会を作るということは考えず・・・バラバ ラな問題の一個ずつを、個々に何とかしていくしかないということになる。﹂︵﹃世界文学を読みほどく﹄ 新潮選書、二〇〇五年︶ 破壊・解体も容易ではないが、建設は難しい。深く大地に根差して︵歴史家なら﹁大衆の日常生活、 あるいは生の史料﹂にあくまで忠実に︶ ﹁バラバラな問題の一個ずつを、何とかしていく﹂しかない。あ 004 くせく新しいパラダイムを追いかけ回すのは虚しい。そのうちきっと何かしっかりしたものが醸成され てくるに違いないと心待ちにしよう。 しのぶ・北海学園大学大学院教授︶ そんなわけで、私は四年前札幌に来て以来、平取のアイヌ民族の人たちの三〇〇年かけて山を再生さ せる植林運動に少しばかり協力させてもらっている。 ︵うえすぎ 人間の慢心を戒め、 深く大地に根差して 005 論文 長谷観音異国霊験譚の意義 追塩千尋 本田創造著 ﹃アメリカ黒人の歴史新版﹄ は、 なぜ書き直されねばならなかったのか︱︱ 拙著 ﹃アメリカ黒人の歴史︱︱奴隷貿易からオバマ大統領まで﹄ に書かなかったこと 上杉 忍 をめぐるマクルーハン研究の検証 extension │ リチャード・キャヴェルの ﹃空間におけるマクルーハン﹄ について 柴田 崇 │摂家将軍頼経期を中心に │ 竹ヶ原康弘 鎌倉幕府の ﹁祭祀﹂ に関する一考察 [論文] 長谷観音異国霊験譚の意義 はじめに 追塩 千尋 かって柴田実氏は、日本における仏菩薩への信仰は釈迦や薬師一般に対してではなく、善光寺如来と か長谷寺観音といった特定の本尊に対する帰依であること、それは神について語られる示現の縁起や功 ︶ 徳の物語と極めて相類似する、とされた︵ 。 そうした仏菩薩を佐藤弘夫氏は、すべての衆生に平等の ︶ 本の仏﹀は神と同レベルながらも神はそれより一ランク下、と位置付けた︵ 。 恩恵をもたらす形而上的・普遍的な仏とは区別されるべき形而下的地域神としての︿日本の仏﹀とし、 ︿日 1 柴田・佐藤両氏の指摘を筆者なりに表現するなら、日本の仏菩薩は普遍的仏菩薩を本地とした﹁垂迹 2 008 仏﹂ともいうべき存在である、といえよう。 ︶ 筆者は近年、説話集に現れた神々についてその機能面を中心に検討してきた ︵ 。 その中で神の特質 ︵ ︶ めた﹃長谷寺験記﹄︵以下﹃験記﹄ ︶ に五話語られている。すなわち、入唐した吉備真備が難題を切り 面観音は日本の神とは異なるものの、中国・朝鮮という異国にその霊験を及ぼした話がその霊験譚を集 はその機能を及ぼし得ないという限界を有することを指摘した。こうした中で長谷寺の本尊である十一 として、垂迹神ではあっても本地の仏菩薩の機能をそのまま継承するわけではなく、特に異国において 3 ︶ 問題を取り上げている︵ 。 た だ、 霊 験 譚 の 本 格 的 分 析 は 管 見 で は 池 上 洵 一 氏 を 除 い て は な さ れ て い な 長谷寺の霊験譚に見られる海外志向傾向については研究者も注目しており、野口博久氏はその成立の いえるのである。 がもっとあってもよさそうであるが、管見では目にしない。そうした点で長谷観音は極めて特異な仏と りランクが上、ということになろう。そうであれば、長谷観音以外の日本の仏が異国で霊験を示した話 であろう。そうした機能を示し得た点で、佐藤氏の言うように長谷観音は神とは同レベルながらも神よ 長谷観音が異国において霊験を示し得たのは、菩薩であることから生じるその普遍性故、といえるの したこと ︵上巻第十三話︶ の五話で、以上の霊験は皆長谷観音によるものとされている。 を得たこと ︵上巻第九話︶ 、新羅の照明王の后が王難を逃れたこと︵上巻第十二話︶、唐の堯恵禅師が往生 抜けたこと ︵上巻第一話︶ 、唐朝の馬頭夫人が端正な容貌を得たこと︵上巻第六話︶、梁の太祖が天子の位 4 ︶ いようである︵ 。 ただ、池上氏が考察の対象とした説話は五話中の一話︵上巻第六話︶のみで、その 5 分析視点も説話の構造論に向けられていた。したがって、本稿のように、神の機能の視点からの分析な 長谷観音異国霊験譚の意義 009 6 どは行う余地はまだ残されているといえよう。本稿は長谷観音を例に地域神化した仏菩薩の異国霊験譚 を素材に、形而上的仏菩薩と神との中間に位置するとされる形而下的仏の特質を考えることを課題とし たい。 長谷寺・長谷観音に関する研究は枚挙に暇なく、ここで振り返る余裕はない。ただ、基本文献として 永島福太郎﹃豊山前史﹄ ︵一九六三年、総本山長谷寺︶、川田聖見・永井義憲﹃長谷寺編年資料﹄﹃長谷 寺文献資料﹄︵共に一九七五年、総本山長谷寺︶ 、逵日出典﹃長谷寺史の研究﹄︵一九七九年、巌南堂書店︶、 林亮勝・坂本正仁﹃長谷寺略史﹄ ︵一九九三年、真言宗豊山宗務所︶などは欠かせないであろう。なお、 簡単な注が付された横田隆志﹃現代語訳長谷寺験記﹄︵二〇一〇年、総本山長谷寺︶は﹃験記﹄を理解 する上での良い手引き書である。総本山長谷寺は寺史に関する学術的出版を積極的に行っている寺院で あるが、それらの書が一般に出回らないのが惜しまれる。 また、長谷寺研究の近年までの到達点を参考文献も含めて知る上で有益なものとして、神戸大学文学 ︶ 部国語国文学会﹃国文論叢﹄三十六号﹁特集 長谷寺研究﹂︵二〇〇六年七月︶所収の諸論考 ︵ 、 中で も横田隆志他﹁中世長谷寺キーワード小辞典﹂をあげておきたい。 一、長谷寺の霊験寺院化 ︵一︶霊験寺院化の過程 7 010 日本における仏菩薩は柴田氏の指摘どおり、特定の本尊に対する帰依であり、抽象的・普遍的仏菩薩 が帰依の対象とはなってはいない。そのことは日本最初の仏教説話集である﹃日本霊異記﹄︵ ︶や、そ の 後 の﹃ 今 昔 物 語 集 ﹄ ︵ 以 下﹃ 今 昔 ﹄ ︶や﹃沙石集﹄︵ ︶などを見ても確認し得ることである。ただ、特 8 ︶ 町の田を寄進したという﹃続日本紀﹄の記述であろう︵ 。 その後﹁霊験﹂ということに着目するなら、 長谷寺のことが見られる確かな史料の最初は、神護景雲二年︵七六八︶に称徳天皇が長谷寺に行幸し八 ことも説かれるが、そこで語られる史実とされている事象は参考程度にしか扱えない。そうした点では ろ養老四年︵七二〇︶辺りが一つの画期とされている。もっとも、縁起類では八世紀以前に淵源を持つ が著名であるが、いずれも鎌倉期のものである。長谷寺創建を伝える確かな史料は無いが、現在のとこ 長谷寺に関する縁起類は、 ﹃験記﹄を初めとして撰者が菅原道真に仮託された﹃長谷寺縁起文﹄など の過程を確認の意味で追ってみたい。 確かな史料で確認し得る寺院の一つなのである。既に良く知られたことではあるが、初めにその霊験化 を集めるようになっていくわけではない。そうした点で長谷寺は、早くから霊験寺院化していたことが 定寺院の本尊としての功徳が語られたとしても、それらの寺院がすべて霊験寺院として広く貴賤の信仰 9 ︶ されている︵ 。 公的史料に﹁霊験﹂たることが述べられている最古のものである。長谷寺の本尊が霊 承和十四年︵八四七︶に長谷寺は壺坂寺とともに定額寺になるが、その理由が﹁元来霊験之蘭若也﹂と 10 験あらたかであることは貞観十八年︵八七六︶の長朗の申牒 ︵ ︶で述べられ、霊験寺院としての長谷寺 は九世紀においては自他共に広く認知されていた。 12 ︶ ただ、その霊験の中身については明確に記されることはなく、災疫防止や︵ 、 清和上皇の病気平癒 13 長谷観音異国霊験譚の意義 011 11 祈願などが期待されたこと︵ が知られる程度である。そうした中で、﹃日本霊異記﹄下巻第三話は具 ︶ 時期は、 もう一世紀ほど後の十一世紀末から十二世紀初頭辺りである。その一つが﹃江談抄﹄巻三の一﹁吉 異国において長谷観音の霊験が評判になっていた段階から具体的に霊験を示したことが語られ始める が唐土にまで及んでいたことが主張されていたことが知られるが、実際の機能面は語られてはいない。 土にだに聞えあんなり﹂と記される。すなわち、十世紀末から十一世紀にかけて長谷観音の霊験の評判 初頭頃︶ ﹁玉かづら﹂にも、 ﹁仏の御中には長谷なむ、日の本の中にはあらたなる験あらはし給ふと、唐 以後﹁利益アマネク、霊験モロコシニサヘキコヘタリ﹂とされている。続いて﹃源氏物語﹄︵十一世紀 ある。その初見が﹃三宝絵﹄ ︵九八四年成立︶下巻五月﹁長谷菩薩戒﹂の記述で、そこでは長谷寺建立 その霊験の評判が異国にまで及んでいたことが主張され始めたことが確認出来る時期が、十世紀末で も語られていたことが確認できよう。 以上のことから、長谷寺は創建後ほどなくして霊験寺院化していき、本尊である観音の具体的な霊験 る点で、八世紀半ばから九世紀初頭にかけての長谷観音の具体的霊験が知られる貴重な話といえよう。 日本紀﹄同年六月十六日条︶ 、かつ平安初期成立が明確である﹃日本霊異記﹄という書に掲載されてい 実の有無は確定できないにしても、船王が親王になったのが天平宝字三年︵七五九︶であること︵﹃続 うことである。弁宗は観音の利益により借金の肩代わりをしてもらったという話といえる。この話の事 音へ救済を求めていた大安寺僧である弁宗の訴願を聞き、親王は代わりにその借銭の返済をした、とい に船親王︵天武天皇孫︶は初瀬の上の山寺︵長谷寺︶に参り法会を設けた。その時借銭返済に困って観 体的な霊験の内容が知られる確かな部類の史料といえよう。話の概要は、天平宝字年中︵七五七∼七六四︶ 14 012 備入唐の間の事﹂で、この話は﹃験記﹄上巻第一話の先行説話とされている。霊験部分は、真備が唐に おいて文字が見えずかつ暗号のような野馬台詩を読むことを迫られ、住吉明神・長谷観音に祈ったとこ ろ文字が見えかつ蜘蛛の糸に導かれ無事読むことができた、という話である。ただ、真備がこの難題を 切り抜け得たのは、住吉・長谷観音いずれの働きによるものかは﹃江談抄﹄においては明確ではない。 もう一つは﹃今昔﹄である。その巻十一︱三十一話は徳道による長谷寺建立譚であるが、その結びの ところで﹁凡ソ、此朝ニシモ非ズ、震旦ノ国マデ霊験ヲ施シ給フ観音ニ御マス﹂とされる。さらに巻十 六︱十九話は、 ﹃験記﹄上巻第十二話の先行説話で、新羅国王の后が被った王難を長谷観音が救うとい う話で、話の最後で﹁念ジ奉ル人、他国マデ其ノ利益ヲ不蒙ズト云フ事無シ﹂とされる。 後述のようにこれらの話は﹃験記﹄ほど詳細ではなく、かつ后が難を免れ得たのが本当に長谷観音に よるものかどうか曖昧な点も残されている。しかしながら、十二世紀初頭においては異国における長谷 観音の霊験の具体相が広まっていたことが知られるのである。 以上の二例においては、長谷観音の霊験は今一つ明確ではないにしても、十一世期以降には異国にお ける長谷観音の具体的な霊験が宣伝されるようになっていたことは確認できよう。それが長谷寺だけの 一方的自己主張ではなく、一般的に認知され一定程度国内に広まっていたことが重要である。そのよう になっていく契機などについて、次に考えてみたい。 ︵二︶焼失と再建をめぐる宣伝活動 貴賤の信仰を集めるために宣伝活動を行うことは、どこの寺院でも共通しているであろう。十世紀末 長谷観音異国霊験譚の意義 013 以降に長谷観音の異国霊験が主張されて行く一つの契機について、十世紀以降繰り返される本寺の焼失 と再建活動との関係で述べてみたい。 長谷寺の焼失と再建の状況についても既に明らかにされているところであるので、ここではその確認 に止めておきたい。焼失のことは十世紀の半ばから確認されそのたびに再建されたことが知られるが、 ﹃験記﹄成立以前に限るなら五回の焼失が知られる。﹃験記﹄上巻第十話は長谷寺の焼失をめぐる霊験譚 であるが、そこで記される五回の火災は、天慶三年︵九四四︶、正暦二年︵九九一︶、万寿二年︵一〇二 ︶ 五︶ 、 永 承 七 年︵ 一 〇 五 二 ︶ 、そして嘉保元年︵一〇九四︶である︵ 。 焼失の深刻度は、本尊の損傷の ︶ 再建に際して勧進活動が行われたということである︵ 。 それまでは朝廷の支援もあり円滑に再建が行 〇九四︶の焼失とその再建であるとされる。氏が上げたいくつかの理由の中で注目すべきは、この度の これらの焼失の度に再建がなされるが、上島氏によると画期をなすのが第五回目である嘉保元年︵一 が頂上仏のうち三面は焼け残り、第五回目は本尊は灰燼に帰すが頂上仏は残ったことが知られる。 ったものの礼堂は焼け、第三回目は正堂にまで火は及ぶが内陣は類焼を免れ、第四回目は本尊は焼ける 度合いに関係していたようである。第一回目は本尊は灰燼と帰し、第二回目は観音堂の正堂は焼けなか 15 白河院に提出したとある。行仁は当時長谷寺に所在した流記などに継録したと考えられ、それが現在は 動を行ったのは行仁聖人︵一〇三二∼一一二〇︶で、彼はその時に﹁当寺の霊験建立の次第を継録して﹂ ﹃験記﹄上巻に収められている﹁長谷寺律宗安養院過去帳﹂では、嘉保元年の焼失後に再建の勧進活 示しているともされる。 われたが、この度は落慶供養まで四十年近くの歳月を要していることが勧進が軌道に乗るまでの困難を 16 014 散逸している﹃長谷寺流記﹄ ︵以下﹃流記﹄ ︶と呼ばれるものとされる。野口博久氏によると﹃験記﹄収 録の五話の異国霊験譚のうち三話までが﹃流記﹄に依拠しているとされ、長谷寺の海外志向は﹃験記﹄ ︶ 以前の﹃流記﹄に濃厚に現れていた、とされる︵ 。 こ の﹃ 流 記 ﹄ の 成 立 時 期 は 明 ら か に し 難 い が、 上 ︶ 島氏は﹃流記﹄は事実上は行仁新作ともされる︵ 。 そうであれば長谷寺の具体的な異国霊験譚は十一 世紀末までには成立・整理されていたことになる。そして、再建のための勧進活動の中でそうした霊験 譚が宣伝され、それらの話の一部が﹃江談抄﹄ ﹃今昔﹄などに取り入れられた、と考えられよう。 ︵三︶新・今長谷寺の建立 地域神化した仏菩薩がその仏威を及ぼせる範囲は、長谷寺を例にするならその所在地である大和限定 ではなく異国まで及ぶこととなった。その点が機能面において日本の神とは大いに異なるところであろ う。神の神威が及ぶ範囲は原則その祭祀圏内で、それを越える場合は日本国内に限られ、かつ神自身が 自ら赴いたり随行する︵あるいは神輿などに乗せ随行させる︶か、勧請という方法によらねばならなか った。特に後者の勧請は宇佐八幡が石清水八幡として勧請されたことなどに見られるように、身近に利 益を得たい場合にとられた方法であった。 仏菩薩に関しても長谷寺を初めとして清水寺や善光寺などに典型的なように、全国に﹁新・今∼寺﹂ などと総称される同名寺院が創建されていった。こうした現象は各寺の宣伝活動や勧進僧などによる教 線拡大の結果、という捉え方が可能であろう。神が勧請される前提は一定程度神威や知名度が上がった 場合であるのに対し、仏菩薩の場合はその霊験を広めるための勧進聖などによる宣伝活動の結果、とい 長谷観音異国霊験譚の意義 015 17 18 う違いがある。また、寺院と神社ではその数において後者の方が圧倒していることも違いの一つといえ る。 仏菩薩本来の機能からすれば、こうした勧請に相当する行為は必要なかったはずである。にもかかわ らず神の勧請と同様に盛んに行われたということは、地域神として受容されていた日本の仏菩薩が有し た一定の限界を示すものともいえよう。 そうしたことを踏まえて﹁新・今∼寺﹂建立状況をうかがう際に、真言宗豊山派仏教青年会編による ﹃大和長谷寺・全国長谷観音信仰﹄ ︵二〇〇六年、真言宗豊山派宗務所︶が便利である。これに先行する ︶ ものとして、杉岡美佐子氏が作成した﹁全国長谷寺地名表﹂がある︵ 。 そ こ で は 一 〇 五 カ 寺︵ 長 谷 寺 観音立像であること、ただそれに先行する十一世紀の作例があることを紹介し、十二世紀までに製作さ のは十三世紀以降で、現存最古の例は安貞二年︵一二二八︶造立の伝香寺地蔵菩薩立像胎内納入十一面 こうした新・今長谷寺建立の時期に関して福原僚子氏は、長谷寺式十一面観音像が各地で製作される でひとまずおくとして、地域的に多いのは本寺がある奈良で、関係寺院は四十三ケ寺に及ぶ。 一一五ケ寺に上ることが知られる。各寺院の建立時期などの問題は伝承的なことに属するものが多いの 赤星龍治氏による調査を基に二六九の関係寺社が掲載されており、﹁長谷寺﹂という名称寺院に限ると ょうこくじ﹂ ﹁ながやじ﹂など︶が列挙されている。それに対し﹃大和長谷寺・全国長谷観音信仰﹄には、 九十六ケ寺、新長谷寺七ケ寺、近長谷寺一ケ寺、長谷観音堂一ケ寺︶の長谷寺︵読みは﹁はせでら﹂ ﹁ち 19 れた大和長谷寺と関係がある十一面観音を中心とした立像を四十九例上げ、その地方展開の様子を述べ ︶ ている︵ 。 20 016 新・今長谷寺建立時期は十二世紀以前に溯れそうであることが知られるが、上限は十一世紀あたりで あろう。八田達男氏は長谷観音が錫杖を持つという特異な像容は、勧進による再興を行う必要から形成 ︶ されたもので、その時期は嘉保元年の炎上以後であるとされる︵ 。 また、伊勢の近長谷寺は天暦七年︵九 三五︶付の資財帳が存在するところから、最も早い新・近長谷寺の一寺院といえるが、それは勧進活動 ︶ に よ る 伝 播 で は な い こ と や、 ﹁ 近 ﹂ の 意 味 す る と こ ろ が 課 題 で も あ る こ と な ど を 述 べ て い る︵ 。 氏の ︵一︶異国霊験譚主張の時期的意義 二、異国霊験譚主張の背景 関して今少し補足しておきたいことがある。章を改めて考えてみたい。 活動の中で広められていった可能性が推測されよう。ただ、その異国霊験が具体化される契機や背景に 的に語られていた。霊験の具体化がなされる契機として、特に嘉保元年の炎上以後の再建をめぐる勧進 が評判になっていたことが主張され始め、十二世紀初頭までにはその霊験が実際に示されたことが具体 さて、ここまでの叙述を踏まえ改めて異国霊験譚の問題に戻るなら、十世紀前後に異国でもその霊験 紀初頭が画期であることが確認されよう。 指摘から、長谷寺にとっては、改めて嘉保元年の焼失とその再興活動が行われる十一世紀末から十二世 22 異国霊験主張の直接の契機や必要性は嘉保元年の炎上以後の再建をめぐる勧進活動を円滑に進めるた 長谷観音異国霊験譚の意義 017 21 めから生じたことであったとしても、唐突に霊験譚が創作される訳ではないであろう。国内のみならず 異国にも霊験を及ぼすことを主張することにより、長谷寺をクローズアッブさせねばならなかった固有 の事情や長谷寺の置かれていた環境などがあったからと思われる。その﹁固有﹂事情を探ることは極め て困難ではあるが、いくつかの可能性を述べてみたい。一つは他寺院との競合関係である。 ︵ ︶ 。 そのことを明確に示す史料は﹃東大寺要録﹄︵巻六末寺 正暦元年︵九九〇︶に長谷寺はそれまでの東大寺支配から興福寺︵興福寺僧平伝︶に押取され、以後 興福寺の末寺となっていくとされている ︶ どおり受け止めることに慎重であるべき、という意見もある︵ 。 ただ、ここで注目したいのは、その 章第九︶であることもあり、興福寺による末寺化を批判する東大寺側の一方的主張ともいえるので額面 23 ︶ ことが許された︵ 。 長谷寺が興福寺の支配を受けるようになる時期は、東大寺側には以上のような動 廷に奏請するが生前には実現せず、没年に弟子盛算による重奏により棲霞寺内の釈迦堂を清涼寺と号す 身釈迦像である。奝然は帰国後の永延元年︵九八七︶に将来した釈迦像を安置すべく清涼寺の建立を朝 ドの優塡王造立とされる釈迦像を模刻して将来した。それがいわゆる清涼寺式と呼ばれる三国伝来の生 周知のように奝然は別当になる以前の永観元年︵九八三︶に入宋し、帰国︵九八六年︶に際してイン 時の東大寺別当は奝然︵九三八∼一〇一六︶であったことである。 24 とされる。このうち、善光寺阿弥陀如来像は欽明天皇十三年︵五五二︶に百済から渡来し、寺の創建は 清涼寺の釈迦像は善光寺阿弥陀如来、因幡堂薬師如来とともに天竺・震旦・日本の三国伝来の三如来 東大寺別当らへの何らかの対応策を興福寺が打ち出す必要を感じていたことを推察するに難くない。 きがあったのである。長谷寺を支配下に置くに際して、異国からの将来像の功徳を広めようとしている 25 018 推古天皇十年︵六〇二︶に像が信濃に移された時とも︵﹃扶桑略記﹄︶、皇極天皇元年︵六四二︶の時と もされる︵ ﹃善光寺縁起﹄ ︶ 。しかしながら、善光寺は信濃地域においては早くから霊験寺院としての信 仰を集めていたものと思われるが、確かな史料に善光寺が登場するのは意外に遅く源頼朝が関わる十二 ︶ 世紀末を待たねばならない︵ 。 すなわち、三国伝来の如来の一つである善光寺如来は地方寺院であっ たせいか、長谷寺が興福寺の末寺化の道をたどり始める十世紀末時点では、まだ中央の人々にはなじみ がなかったといえる。 善光寺に対して因幡堂︵平等寺︶薬師はその縁起類︵﹃因幡堂縁起﹄、﹃山城名跡志﹄巻二十一所引﹁因 幡堂本尊伝﹂など︶によると、薬師像は天竺・竜宮経由で日本に漂着し、天徳三年︵九五九︶に因幡国 で霊験を示し、その後京都に移り長保五年︵一〇〇三︶に安置のための寺が創建されたとされる。因幡 堂に関しても同時代資料に欠けるものの、中野玄三氏は、因幡堂縁起の成立は遅くとも平安後期で、そ ︶ の成立に際しては三国伝来という点で清涼寺釈迦縁起製作の風潮・刺激があったと推測している︵ 。 が評判になっているという記述がなされた時期的背景として踏まえておきたい。 るという本尊の異国霊験であったのであろう。 ﹃三宝絵﹄﹃源氏物語﹄などにおいて、異国にもその霊験 がその霊験性を増強する動きをみせたとしても不思議ではない。その霊験の一つが長谷寺も異国と関わ した新参ともいえる異国仏の導入という動きに対して、霊験寺院としての伝統を積み重ねていた長谷寺 寺・因幡堂の二寺院が三国伝来の如来を目玉とした宣伝活動が行われていた、といえるのである。こう 善光寺はひとまず置くとして、長谷寺の近辺である京都では十世紀末から十一世紀初頭にかけて清涼 27 長谷観音に関する時期的にもっとも確実な縁起である﹃三宝絵﹄によると、観音は霊木で製作された 長谷観音異国霊験譚の意義 019 26 ものではあるが、それは近江国のもので異国の木ではない。すなわち、三如来のように三国伝来ではな いのである。異国で霊験を示すためには三国伝来仏の方が都合が良いように思えるが、そのことはさし たる問題ではないようである。しかしながら、長谷寺創建に関わった道明は唐僧であるといったような 異国伝承もみられるところから︵ ﹃東大寺要録﹄巻六末寺章九︶、長谷寺には何らかの異国性が関わって いることが主張されてもいたらしい。 その点で留意したいのは、長谷観音像の制作者とされる稽文会・稽主勲なる伝説的仏師についてであ る。これらの仏師たちについて詳論する余裕は無いが、大江篤氏の研究によると稽文会・稽主勲らは平 安期の仏師にとって記憶に留めておくべき霊像を造った仏師と認識されていたこと、造仏伝承は十二世 紀に藤原氏の氏神春日神の化身である仏師による造像という伝承として長谷寺の勧進活動の一環として ︶ 生成された、とする︵ 。 ︶ にもどったもの、と推測している︵ 。 天皇の時期に根本像の造立が行われた際に中国からやってきた実在の仏師で、造立後ほどなくして中国 されていない。岩佐光晴氏は一歩踏み込み、彼らの実態は不明ながらも﹃長谷寺縁起文﹄に見える聖武 稽文会・稽主勲という名はいかにも異国を思わせる名である。大江氏は彼らの実在性については明言 十一世紀半ば以前には長谷観音は稽文会らにより制作された、という伝承が語られていたことになる。 七日条の﹁或説云⋮養老五年長谷寺僧道明等建立、大仏師警文会云云﹂という記述である。すなわち、 彼らの造像伝承を語る確実な史料は、永承七年︵一〇五二︶の焼失に関連する﹃春記﹄永承七年九月 28 稽文会・稽主勲らが平安期の仏師に記憶されるべき仏師であったとしても、彼らが異国人であるとい 29 020 う認識がなされていたかどうか確認し難い。しかしながら、そのことが自明の前提であったとすれば、 彼らによる造仏伝承が語られ始める時期を鑑みるなら、長谷観音の霊験性に異国性が付与される一因と して稽文会・稽主勲造仏伝承は考慮すべきと思われる。 長谷寺創建に際して道明、稽文会・稽主勲らの異国人が関わっていたことが事実であったとして、彼 らにより導入された異国に関する知識などがその後長谷寺で管理され続け、必要に応じて宣伝などに使 用され形ある話として形成・成長していった、と考えることはあながち不可能ではあるまい。寺は大陸 文化を集積し発信していく一種の文化センター的機能を有していた、という一般論からもうなずけよう。 ただ、そうであるなら、長谷寺が大陸文化の中継的役割を果たしていた側面を、多少なりとも述べてお く必要があろう。直接的な説明は困難であるが、次節で少々述べておきたい。 ︵二︶異国霊験譚の導入 異国霊験譚の要素は創建以来長谷寺に蓄積されていた話であった可能性について前節で示唆した。し かしながら、そのことは可能性として皆無とはいえないまでも説得性には欠けるであろう。やはり、十 世紀末から十二世紀初頭にかけての動向の中で考えておくべきことであろう。それも本寺として支配力 を強めていく興福寺及び藤原氏との関係における間接的説明とならざるを得ないことを了承されたい。 ここで注目したいのが、大江定基こと寂照︵?∼一〇三四︶とその弟子念救の動向である。寂照につ いては改めて多言は要しないであろうが、長保五年︵一〇〇三︶に入宋し、帰国することなく宋で客死 した。寂照は在宋中しばしば書簡で中国の情報を日本に伝え、寂照とともに入宋した弟子念救は長和二 長谷観音異国霊験譚の意義 021 ︵ ︶ 、 勧進に際して中国事情を熱心に伝え歩いたら 年︵一〇一三︶に天台山勧進のため一時期帰国し、長和四年ころ再び入宋した。特に念救は、再度の入 宋に際して藤原道長から寂照宛の金品を託されたり ︶ しい︵ 。 つまり、寂照・念救らにより十一世紀初頭において藤原道長を初めとする有力貴族らに多く 30 ︶ さらに、この時期道長・頼通及びその関係者らがしばしば長谷寺に参詣していることを鑑みるなら︵ 、 の中国の情報がもたらされていたのである。 31 ︶ がいた︵ 。 別当は興福寺僧であった。その別当の一人に清範の弟子である真範︵九八六または九八七∼一〇五四︶ 清範︵九六二∼九九九︶などと交流もあり、東大寺から長谷寺を横取りしたとされる平伝以降の長谷寺 うした藤原氏の動向はその氏寺である興福寺・興福寺僧らにも影響を与えたであろう。寂照は興福寺僧 彼らにより長谷寺に寂照・念救などから得た中国の事情などがもたらされた可能性は否定できない。こ 32 の難を切り抜けた話は、後述のように﹃験記﹄上巻第一話で吉備真備が行った行為と同質のものといえ、 中でも渡宋後の話として、皇帝から飛鉢の行法を求められた寂照が﹁本国ノ三宝﹂に祈ることによりそ もう一話が巻十九︱二の出家譚で、寂照をめぐる多彩な説話のうちの主要部分により構成されている。 験性を説いた話と受け取れよう。 清範が文殊の化身であることを認識する、という話である︵巻十七︱三十八︶。中国に対して清範の霊 寂照と交流があった清範が死後宋帝の皇子に転生するが、渡宋した寂照がその皇子と会い霊験を示され よく知られた話ではあるが﹃今昔﹄の寂照をめぐる説話に幾分のヒントは求められそうである。一つは 寂照・念救らによりもたらされた中国事情の具体的中身が知られないことが大きな課題である。ただ、 33 022 その点で共通性がある。さらに、中国における寂照の話を真実性をもたせるためか、弟子念救により伝 えられたことが話の末尾に明記されていることも注目される。﹁本国ノ三宝﹂という部分に注目するな ら、三宝︵ここでは仏菩薩︶に﹁本国﹂という地名が冠せられてはいるが、特定の寺が指定されてはい ない。この話は事実ではないにしても、寂照の生存時期からするなら長谷観音の異国霊験が主張され始 めた時期と重なる。しかし、長谷観音が登場していないところに、その霊験譚が当時においてはまだ一 般には広まっていなかったことがこの話には反映していたとも考えられる。 この二つの例に共通することは日本の仏菩薩︵あるいは化身︶が中国で霊験を示したということで、 ︶ それは中国に対しての対抗意識・優越意識が寂照に体現されて語られたということでもあろう︵ 。 寂 照・念救らが宋において日本の仏菩薩の利益を説いていたのかどうか史実としては確認しがたいが、彼 らにそうした役割が求められていたことを﹃今昔﹄の話は反映している、と考えられよう。寂照・念救 らによりもたらされた中国事情の中にこうした日本の仏菩薩の異国における霊験に関わることも含まれ ていたのでは、 と思われるのである。長谷観音異国霊験が語られる直接的な背景とはいえないにしても、 踏まえておいて良いことと思われる。 とはいえ、この時期における肝心の長谷寺関係僧侶の動向が今一つ明確ではないため、以上述べたこ とも隔靴掻痒の感は否めず説得性に欠けるという批判は予想される。しかしながら、長谷寺周辺におけ る十一世紀初頭の異国に関わる動向として以上のことに留意し、異国霊験譚導入の直接的契機と捉えて おきたい。もう少し端的に言うなら、十一世紀において長谷寺は異国の情報を得ることができる環境に 置かれていた、ということである。 長谷観音異国霊験譚の意義 023 34 三、異国霊験譚の特質と意義 前提的な説明に少々紙数を費やしたが、ここで本来の目的である長谷観音異国霊験譚について触れた い。 ︵一︶長谷観音異国霊験譚 前述のように﹃験記﹄に収録された異国霊験譚は五話である。それに先立ち、﹃験記﹄の序文には、 長谷観音の霊験は計り知れないが﹁本朝異域ニ此寺ヲ移シ、此尊ヲ顕シ奉ル事処々ニ満リ﹂と、異国に も長谷寺が建立されその霊威が及んでいたことが述べられる。 五話は全て上巻に収められているが、次にその概要等を示す。 a 、一つ目は﹁吉備ノ大臣於大唐読野馬台詩ヲ帰朝事﹂と題された、入唐した吉備真備︵六九三∼七 七五︶にまつわる話である︵上巻第一話︶ 。時は元正天皇の世︵七一五∼七二四︶。真備はその才能を唐 の人々に妬まれ、四つの試練を課せられる。その試練のうち①楼閣に閉じ込め死を待つ、②﹃文選﹄を 正確に読む、③囲碁の勝負、の三つまでは真備自身の術と鬼神となった阿倍仲麻呂の計らいにより解決 する。しかし、暗号のような書き方をした宝志和尚作成の野馬台詩を読むという四つ目の試練は鬼神と も ど も お 手 上 げ と な る。 そ こ で、 入 唐 し て い た 元 興 寺 の 僧 代 智 の 勧 め に よ り 長 谷 観 音 に 祈 る こ と と し た。真備が祈願すると長谷観音が蜘蛛となって現れ、蜘蛛が描く糸のとおりたどると読む事が出来た、 024 という話である。真備が詩を読む様子を姿を隠して後ろで見ていた鬼神が、持参した数珠の環の間から 蜘蛛を見ると﹁十一面観音臍ヨリ光りヲ放、其光蛛ノ糸﹂となって文字の読み方を示した、とある。蜘 蛛が長谷観音の使いか長谷観音自身なのかどうか微妙ではある。しかし、ここでは、長谷観音が直接現 れることにより、四つ目の試練を解決し得たと解釈しておきたい。 真備が神仏の力に依拠する場面は、 吉備日本ニ向テ重テ心中ニ祈念シテ云、我朝六十余州ノ仏菩薩、大小神祇、別ハ国主天照大神住吉 八幡、殊ハ今顕ハレ御長谷寺ノ観自在尊、願ハ利生新ニ施玉ヘト祈申ス︵傍線は筆者︶。 となっており、日本における複数の神仏が列挙されているが、利益を及ぼしたのは長谷観音なのであ る。先行説話は﹃江談抄﹄巻三の一である。 b、二つ目は、 ﹁唐朝ノ馬頭夫人得端正成守護神事﹂と題された話である︵上巻第六話︶。時は陽成天 皇︵八七六∼八八四︶の世。唐の僖宗皇帝の第四后馬頭夫人が馬の顔のような容貌を治療しようとする。 医者が素神仙人を紹介するが素神は仙術では治せないので仏神に祈るべきことを言い、長谷観音を紹介 する。夫人は道場を設け祈願したところ、夢でも現でもない状態の中、東方から霊妙不可思議な様子の 僧が現れ、瓶水を顔に注いだところ美人になりますます皇帝の寵愛を受ける。 后はお礼として唐の乾符三年︵八七六︶に長谷寺に種々の宝物を送り、長谷寺の護法善神となること を誓願する。宝物は無事到着し長谷寺に送られた。しかし、馬頭夫人の意図などは知られることはなか ったが、元慶五年︵八八一︶に長谷寺に参籠した土師時躬の子に馬頭夫人が憑依し事情が語られ、以後 馬頭夫人の霊を護法善神として勧請しその善神の霊威が示されることになった、という話である。この 長谷観音異国霊験譚の意義 025 ︶ 話の先行説話は確認されていないが、前述したように池上氏の考察がある︵ 。 ︵極楽浄土の脇士︶ の御前で大願を起こす。百日が満ちる暁に一人の童子が現れ、長谷観音の霊場を示す。 花山院の御世︵九八四∼九八六︶ 。極楽往生を願っていた唐の天台山の僧堯恵は、天台山の如意輪観音 e 、五つ目が﹁唐ノ堯恵禅師ガ依冥ノ告来当寺往生事﹂と題された話である︵上巻第十三話︶。時は が朝鮮という珍しい話で、先行説話は前述のごとく﹃今昔﹄巻十六第十九話である。 王は過ちを認め后を許し、天暦六年︵九五二︶長谷寺に三十三の宝物を送った、という話である。舞台 れるため后は僧の勧めで長谷観音に祈願する。すると童子が現れ、折檻に苦しむ后を介抱する。やがて けている間に后と関係を持つ。怒った王は后の髪を木に縛り吊るすという折檻をする。その苦痛から逃 村上天皇の御世︵九四六∼九六七︶ 。新羅の照明王の美貌の后に横恋慕した近臣義顕は、王が戦に出掛 d、四つ目は﹁新羅国ノ照明王ノ后遁王難ヲ送宝物事﹂と題された話である︵上巻第十二話︶。時は や金峰山が崇拝されていたことが語られている点などが注目される。 示現の有無は曖昧である。また、異国に新長谷寺が建立されたこと、さらに唐代の人々から東大寺大仏 る日本の仏菩薩は、長谷寺の他は東大寺大仏と金剛山である、と結ばれる。本話において長谷寺観音の 唐宋州岩山に小観音像を模写し新長谷寺を建立した、という話である。最後は唐の人々が常に尋ねてい とになる。すると、東方から王冠が飛来し大祖の頭の上に乗る夢を見て勝利を収める。皇帝はその後大 不利になったため仏神に頼ることになり、日本の長谷観音が一際霊験あらたかということで祈願するこ 皇の御世︵八九七∼九三〇︶ 。唐では荘宗皇帝と大祖皇帝が天子の位を争っていた。大祖皇帝の形勢が c 、三つ目は﹁唐大梁大祖取国位建立今長谷寺事﹂と題された話である︵上巻第九話︶。時は醍醐天 35 026 堯恵は来日し童子が示した霊場は長谷寺であることを認識し、そこで苦行を行い往生した、という話で ある。先行説話は確認されていない。 ︵二︶異国霊験譚の意義 以上の五話からうかがえる長谷観音の異国霊験譚の特徴的なことや意義などについて考えてみたい。 話の番号は前節で付したアルファベットで示す。 第一は、話の時代は長谷寺創建期である八世紀から十世紀末に及んでいることである。前章で異国霊 験譚の出所の一つとして異国の僧や仏師による創建ということが関わっていたらしいことを可能性の一 つとして指摘した。その可能性があるとするなら、話に登場する固有名詞などからして創建期と時代を 同じくするa のみが時期的に該当する。他はそれ以降に付加されていった話、ということになろう。 第二は、b・dに見られる利益を被ったお礼に異国からではあるが長谷寺に宝物を送った、という話 である。b では﹁仏具一式、錫杖、鐃鉢、金剛鈴、玉幡、牛玉、法螺、虎皮、孔雀尾、如意﹂︵個々の 内訳などの記載は省略︶であり、dでは観音の三十三身に因んで三十三の宝物が列挙されている。その 一々は煩瑣になるためここでは記さないが、bで示されたものと重なる物も多く全体としてbをほぼ三 倍した詳細なもの、と見て大過はない。これらは寺の什物を構成する物ともいえるので、特にdで示さ れたものは、時期的に見て天慶四年︵九四四︶の焼失後の再建に際して揃えられた什物の一部を示して いる、とみることも可能であろう。 第三は、霊験を示す際の長谷観音の現れ方に関してである。a は既述のごとく微妙な所もあるが、真 長谷観音異国霊験譚の意義 027 備の神仏への祈りの言葉として引用した文の傍線部﹁今顕ハレ﹂という表現に観音が蜘蛛として現れた と解釈し得る余地がある、としておきたい。b は東方から現れた僧が観音の化身ということになろう。 c は東方から王冠が飛来したことが観音の計らいによるものであることを示しているが、観音が使者を 遣わした様子はなく、化身としても直接現れてはいない。観音は長谷寺に鎮座したままでその法験を異 国に及ぼした、という型の話といえよう。ここで注目したいのは新長谷寺が中国に建立されたことであ る。異国にも勧請されたことを主張した例である。c は長谷観音が直接にも間接にも現れなかったが、 そのことは勧請の必要性を説得的に主張することにあったとも考えられる。dでは折檻されていた后の ︶ 。 童子が長谷観音の化身か使者かの判断は難しいが、この場合は観音の使者と解釈しておきたい。 苦痛を緩和したのは童子であった。 ﹃験記﹄登場の童子は、観音の化身や使者として様々な働きをする ︵ 火災の時に、長谷観音が広隆寺の薬師如来に対し他方世界にしばらく移るのでその間衆生救済を依頼し 成立以前の五回にわたる長谷寺焼失と観音の霊験を語った話であった。そこでは、第一回の天慶七年の 薩同士の優劣のみならず、 如来にも適用されていることが知られる。前述のように上巻第十話は、﹃験記﹄ e の話は長谷観音は他の菩薩よりも霊験が優れていることが強調されている。﹃験記﹄においては菩 が設定されていることに興味を惹かれる。 ったことも注目される。長谷観音の霊験を強調することが目的であったにしても、同じ観音でも能力差 生しているのである。堯恵が当初往生を願った天台山の如意輪観音はその願いを果たすことが出来なか 観音の霊場を示すことにあった。堯恵は長谷観音の利益を直接得るために来日し、そこで苦行を重ね往 e に現れた童子も使者と思われる。その理由は童子の役割は直接堯恵を往生させるのではなく、長谷 36 028 ている夢を、広隆寺僧が見たことが記されている。菩薩が如来に命令しているわけではないが、菩薩が 如来に依頼ごとなどできるものなのかどうかについて考えさせられ、興味が惹かれる。少なくともここ では如来と菩薩は対等的である。 また、下巻第一話は、善光寺如来が翁の所願を叶えるため長谷観音の霊地を示したこと、久修園院︵木 津寺︶の釈迦像は長谷観音の制作であることが語られている。前者は善光寺如来が自ら翁の願いを叶え ることができなかったためか、代わりに長谷観音を紹介した型になっている。観音の霊験が如来のそれ を上回っていることを示しているようにも受け取れる。また、後者は悟りの度合いが一段低い菩薩によ って造られた如来像ではあっても、長谷観音であるが故にその如来像の功徳は劣るものではないことが 語られていると考えられる。以上の点で、長谷観音の抜きん出た霊力が強調されているのである。 ︵三︶形而下的地域神の特質 以上、長谷観音の異国霊験譚をめぐる諸問題について論じてきた。ここで当初の目的に戻り形而下的 地域神とされる日本の仏菩薩の特質等について、それより一段低い存在とされる日本の神々の特質を踏 まえながら整理しておきたい。 第一は、日本の神々は異国には神威を及ぼすことは出来なかったが、日本の仏菩薩はそれが可能であ った。それは寺側の一方的主張でもあるので、実際に異国で受容されるかどうかは別問題であったはず である。そうであるなら、多くの寺院で異国霊験が主張されてもよかったはずである。しかしながら、 現在のところそうした主張は長谷寺の例しか見られないところに、長谷寺の固有性があったといえよう。 長谷観音異国霊験譚の意義 029 本稿で述べた一般論的な理由のほかに掘り下げて検討しなければならない課題はまだ残されているとい えよう。 ﹁∼寺観音、∼寺釈迦﹂といったように特定寺院名︵地域︶が付された仏菩薩たちは、地域を越えて 縦横にその霊験を及ぼすことが可能であったといえよう。それは垂迹仏ではあっても仏菩薩の持つ普遍 性を継承していたからといえる。 第二は、 日本の仏菩薩は寺に鎮座したままで時空を越えて縦横にその霊験を及ぼせ得たとはいっても、 一定の制約を有していたようである。それが﹁新・近∼寺﹂が日本各地及び異国に建立されていること である。それは教線拡大のために取られた処置であったといえる。ただ、長谷寺を初めとして﹁新・近 ∼寺﹂の典型である清水寺や善光寺などはそれぞれ法相宗、天台・浄土宗ではあるが、もともと宗派性 は大きな問題ではなかった。教団勢力拡張という目的がなかったわけではないが、それが主たる目的で はなかったといえる。 ﹁新・近∼寺﹂の建立は既述のように、身近に霊験ある仏菩薩を呼び寄せその利 益を被るという神社の勧請と同質の行為である。神々の場合は神威を及ぼせる範囲が限定されていたの で利益を被りたい場合は直接鎮座している場に赴くか、勧請という方法がとられたのであった。しかし ながら、普遍性を持った仏菩薩の場合、理屈上はそうする必要性はなかったはずである。にもかかわら ず﹁新・近∼寺﹂などが建立されたのは、日本の仏菩薩は地域を越えて霊験を及ぼせるとはいっても一 定の限界があったので、その限界を克服するためにとられた行為、といえるのである。いわゆる形而上 的仏菩薩の持つ普遍的能力が希薄になった垂迹仏に対して取られた行為、ともいえるのではないかと思 われる。 030 本来普遍的であるべき仏菩薩は地域 ︵特定寺院名︶が冠せられることにより、地域性や日本という民族 性が付与されることになり日本の神々と類似の性格を帯びるようになった。その結果、国内はまだしも 異国において仏威は無条件には通用しにくくなったと考えられたのではないかと思われる。 第三は、異国霊験とは直接関係しないが、普遍性の希薄化ということに関して補足しておきたいこと である。形而下的仏菩薩は本地垂迹説における本地仏にはなり得ない、ということである。長谷観音に ︶ 即するならば、長谷観音は天照大神との同体説は主張されるが︵ 、 特定の神の本地仏にはなってはい ない。初瀬地域の地主神である瀧蔵権現とは習合を深めはするが、長谷観音と瀧蔵権現とは本迹関係に はなっていない。形而下的仏菩薩は形而上的仏菩薩の垂迹仏とも言うべき存在になっているので、その 点で本来有していた普遍性が希薄化しているといえるのである。したがって、特定の神の本地仏足り得 なかったのでは、と推測しておきたい。 おわりに 覚書程度のものにしかならなかったが、神々の機能をめぐる課題の延長として形而下的仏菩薩の機能 の問題を異国霊験譚に限定して考えてみた。長谷寺に入宋あるいは来朝僧がどの程度関与していたのか は、異国霊験を主張することになる直接契機であると思われるので検討すべき今後の課題であろう。そ れは特に十∼十一世紀の長谷寺に関わった僧侶の動向の分析の中で明らかにされるべき課題と思われ る。それは長谷寺をめぐる宗教的環境の検討ということでもあろう。 長谷観音異国霊験譚の意義 031 37 また、日本において仏菩薩信仰はなぜ特定寺院に張り付き地域神化した形で展開したのか。また、そ れは日本のみの現象なのか、という根本的ともいえる課題についても解明する必要があろう。日本にお いて神仏習合の歴史は仏主神従の形で展開すると考えられているため、神が仏教から被った影響に関心 が集中し、仏教側が受けた影響などにはあまり関心が示されていない嫌いがある。 神が常住する社殿の発生と仏像安置の伽藍建立の時期は、社殿発生時期が確定されていないため断定 できないが、社殿の方が少なくとも一世紀ほどは先行するものと思われる。社殿に祀られた神が一定の 祭祀圏を有していたように、伽藍に安置された仏菩薩は必然的に伽藍を取り巻く一定領域の地域神と化 していったとも考えられる。社殿と伽藍は相互に影響を及ぼしたのであろうが、仏菩薩の地域神化とい う特質は神祇信仰の影響によるといえるのかもしれない。そして、そのことを最も早く確認できる寺の 一つが長谷寺であるといえよう。 神仏習合を日本固有の宗教現象と捉えがちな傾向を戒める見解が近年出されており、神仏習合史の見 ︶ 直しが迫られている︵ 。 そ の こ と は 重 要 な 指 摘 と 思 わ れ る が、 神 仏 習 合 の 現 象 が 中 国 に も 見 ら れ そ れ ︵おいしお ちひろ・北海学園大学大学院教授︶ 必要であろう。 神仏習合研究を実りあるものにするため本稿で述べたことを今後も深化させていきたい。 が日本に導入されたとしても両国においてはやはり違いもあると思われるので、日本の固有性の検討は 38 032 [註] ︵ ︶柴田実﹁神と仏﹂ ︵初出は一九五六年、同﹃日本庶民信仰史﹄仏教編所収、一九八四年、法蔵館︶。 ︵ ︶佐藤弘夫﹃アマテラスの変貌﹄九十五・九十八頁︵二〇〇〇年、法蔵館︶。但し佐藤氏は柴田氏の見解には触れて いない。 ︵ ︶拙著﹃中世説話の宗教世界﹄第二編所収の諸論考参照︵二〇一三年、和泉書院︶ 。 ︵ ︶本文は永井義憲解説﹃長谷寺験記︿新典社善本叢書二﹀ ﹄ ︵一九七八年、新典社︶使用。本書には現行最古の写本 ︵ ︵ ︵ である鎌倉末期古写本と天正十五年︵一五八七︶古写本の二本の影印が収められている。永井氏によると﹃験記﹄ の成立は正治二年︵一二〇〇︶から承元二年︵一二〇九︶の間に限定され、撰者は長谷寺関係の勧進聖とされる。﹃験 記﹄の成立・撰者に関しては永井説に従っておく。 ︶ 野 口 博 久﹁﹃ 長 谷 寺 験 記 ﹄ と﹃ 流 記 ﹄﹂︵ 西 尾 光 一 教 授 定 年 記 念 論 集 刊 行 会 編﹃ 論 纂 説 話 と 説 話 文 学 ﹄ 所 収、 一九七九年、笠間書院︶ 、同﹁長谷寺験記﹂ ︵本田義憲他編﹃説話の講座﹄四所収、一九九二年、勉誠社︶。野口氏は 長谷寺の強い海外志向は﹃験記﹄を特徴付ける大きな要素の一つとし︵本注第二論考︶ 、小峯和明氏も長谷観音はも ともと国際的な面が色濃いともされるが︵同﹃中世日本の予言書︱︿未来記﹀を読む︱﹄九十四頁︿二〇〇七年、 ︶池上洵一﹁長谷寺対外霊験譚の構造︱長谷寺唐朝馬頭夫人説話と勝尾寺百済国王后説話︱﹂ ︵初出は二〇〇六年︶ 、 岩波新書﹀ ︶ 、なぜそうなのかの説明は両氏ともされてはいない。 同﹁勝尾寺百済国王后説話の構造と伝流︱対外霊験譚研究の一環として︱﹂︵初出は二〇〇七年、いずれも同﹃説話 とその周辺︿池上洵一著作集第四巻﹀ ﹄所収、二〇〇八年、和泉書院︶。なお、池上氏はこれより以前に﹁唐土にだ に聞こえあなり︱長谷寺の霊験︱﹂ ︵ ﹃むらさき﹄三十八、 二〇〇一年十二月︶なる論考があるが、それは本注の第一 ︶この中に収められた上島享﹁中世長谷寺史の再構築﹂は歴史学の立場からの長谷寺研究の現在の到達点を示す。 論文の中に組み込まれている。 同稿は﹁中世神話の創造︱長谷寺縁起と南都世界︱﹂と改題・改稿され、同﹃日本中世社会の形成と王権﹄に収録 ︵二〇一〇年、名古屋大学出版会︶ 。 ︵ ︶下巻第三話で既に長谷寺と十一面観音の功徳が語られている。 長谷観音異国霊験譚の意義 033 1 2 3 4 5 6 7 8 ︵ ︶ ﹃沙石集﹄では巻二などで仏菩薩一般の功徳が語られはするが、実際には釈迦︵嵯峨清涼寺︶、阿弥陀︵善光寺︶、 ︶ ﹃続日本後紀﹄承和十四年十二月二十一日条。壺坂寺とともに霊験寺院とされていたことは﹃日本三代実録﹄仁 和元年︵八八五︶十月三日条でも知られる。 ︵ ︶ ﹃日本三代実録﹄貞観十八年五月二十八日条。 ︵ ︵ ︶ ﹃続日本紀﹄神護景雲二年︵七六八︶十二月二十日条。 薬師︵横倉寺、熱田神宮寺︶ 、観音︵粉河寺、長谷寺、清水寺︶など特定寺院の本尊の功徳として語られる。 9 11 10 ︵ ︶同右、元慶四年︵八八〇︶十二月三日条。 れていることと関係するのかもしれない︵ ﹃日本三代実録﹄ ︶ 。 ないが、この年一月二十三日に災疫防止のため五畿七道諸国・太宰府に七日間の潔斎と金剛般若経の転読が命ぜら ︵ ︶同右、貞観八年三月五日条。香山・壺坂寺とともに金剛般若経の転読がなされている。その理由は明記されてい 13 12 ︵ ︶上島享注︵ ︶の論考。 無事であったためか︵ ﹃百錬抄﹄同年三月十七日条︶ 、焼失回数には入れられていない。 ︵ ︶この間長暦二年︵一〇三八︶にも火災があったことが知られるが、被害は塔と僧坊の焼失で、小規模かつ本尊は 15 14 7 ︶の論考。 5 7 ︵ ︶八田達男﹁長谷寺十一面観音の像容﹂ ︵初出は一九九六年︶ 。 ︶同﹁伊勢 近長谷寺と長谷寺観音信仰﹂︵初出は二〇〇〇年︶。注︵ ︱古代寺院の中世的展開︱﹄所収︵二〇〇三年、岩田書院︶ 。 21 ︵ ︶永島福太郎﹃豊山前史﹄二十六頁︵一九六三年、 長谷寺︶ 。逵日出典﹃長谷寺史の研究﹄第一編第七章︵一九七九 ︵ ︶ の 論 考 と と も に 同﹃ 霊 験 寺 院 と 神 仏 習 合 ︵ ︶福原僚子﹁遊行する仏たち︱長谷寺観音信仰の地方展開︱﹂ ︵ ﹃大和長谷寺・全国長谷観音信仰﹄所収︶ 。 である。 ︵ ︶本調査は、石田茂作﹁長谷寺の沿革と其の文化財﹂ ︵ ﹃大和文化研究﹄五︱二、一九六〇年二月︶に付されたもの ︵ ︶上島享注︵ ︵ ︶野口注︵ ︶の論考。 19 18 17 16 22 21 20 年、巌南堂︶ 。 23 034 ︵ ︶上島享注︵ ︶の論考。 ︶ ﹃吾妻鏡﹄における善光寺の初見は文治二年︵一一八六︶三月十二日条。 所収、一九七五年、大東出版社︶ 。 ︶中野玄三﹁因幡堂縁起と因幡薬師﹂︵東京国立博物館﹃学叢﹄五、一九八三年三月︶ 。同稿には東京国立博物館蔵 因幡堂縁起︵鎌倉末までに成立︶と文章がより整った東寺観智院本因幡堂縁起︵原型は一四二六年成立︶が対比・ 翻刻されている。 ︶ 大 江 篤﹁︿ 春 日 神 ﹀ 造 仏 伝 承 の 成 立 ︱︿ 稽 文 会・ 稽 主 勲 ﹀ 造 仏 伝 承 の 再 生 を め ぐ っ て ︱﹂ ︵ ﹃御影史学論集﹄ 二十四、 一九九九年十月︶ 。 ︶岩佐光晴﹁仏師稽文会・稽主勲をめぐって﹂ ︵村重寧先生・星山晋也先生古稀記念論文集編集委員会編﹃日本美 ︵ ︶ ﹃小右記﹄長和二年九月二十四日条には﹁入唐僧念救来、終日談説唐事﹂とある。 ︶ ﹃御堂関白記﹄長和二年︵一〇一三︶九月十四日、同四年七月十五日条など。 術史の杜﹄所収、二〇〇八年、竹林舎︶ 。 ︵ ︶長和元年︵一〇一二︶三月十四日には頼通、寛仁元年︵一〇一七︶には頼通の北の方隆姫と頼通の子教通らが長 谷寺参詣︵以上﹃小右記﹄十月六日・二十三日条︶ 。万寿元年︵一〇二四︶には道長が長谷寺に七日間参籠している ︵ ﹃小右記﹄同年十一月十六日・二十六日条︶ 。 ︶清範及び真範については拙稿﹁清範をめぐる諸問題﹂ ︵初出は二〇〇〇年︶ 、﹁真範について﹂ ︵初出は一九九九年︶ ︵ ︶池上洵一注︵ ︶の論考。 ︶森正人﹁対中華意識の説話︱寂照・大江定基の場合︱﹂ ︵ ﹃伝承文学研究﹄二十五、一九八一年四月︶。 も参照。ともに拙著﹃中世南都の僧侶と寺院﹄所収︵二〇〇六年、吉川弘文館︶。 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ 同著作集第七巻﹃浄土宗史・美術編﹄ ︵ ︶この辺の事情は塚本善隆﹁嵯峨清涼寺史 平安朝編﹂参照︵初出は一九五五年、 7 ︵ ︶横田隆志﹁伊勢﹂︵﹁中世長谷寺キーワード小辞典﹂所収︶。伊藤聡﹃中世天照大神信仰の研究﹄第二部第一章参 ︵ ︶この点に関しては横田隆志﹁童子﹂ ︵前述﹁中世長谷寺キーワード小辞典﹂所収︶を参照されたい。 6 照︵二〇一一年、法蔵館︶ 。天照大神の本地仏は十一面観音とはされるが、特定の地域が冠せられた十一面観音であ 長谷観音異国霊験譚の意義 035 25 24 27 26 28 29 32 31 30 33 37 36 35 34 る長谷観音とはされていない。 ︵ ︶吉田一彦﹁神仏習合︱東アジアの中の日本神仏習合︱﹂ ︵初出は一九九六年、 ﹁東アジアの中の神仏習合﹂と改題 し、同﹃古代仏教をよみなおす﹄収録、二〇〇六年、吉川弘文館︶ 。 38 036 037 長谷観音異国霊験譚の意義 [論文] 本田創造 著 ﹃アメリカ黒人の歴史 新版﹄ は、 なぜ書き直されねばならなかったのか ︱︱ 上杉 忍 拙著 ﹃アメリカ黒人の歴史 ︱︱ 奴隷貿易からオバマ大統領まで﹄ に 書かなかったこと はじめに 私は、二〇一三年春に出版した拙著﹃アメリカ黒人の歴史︱︱奴隷貿易からオバマ大統領まで﹄︵中 公新書︶の﹁あとがき﹂で﹁本書は、本田創造著﹃アメリカ黒人の歴史﹄︵岩波新書、一九六四年︶と ﹃アメリカ黒人の歴史 新版﹄ ︵同、一九九一年︶の内容を、その後の時代状況の変化を踏まえ、また、 038 この間のアメリカ史研究の蓄積にもとづいて、書き直すことを目指したものである﹂と記した上で、﹁こ こで繰り返すまでもなく、この五〇年間の世界の変化は、われわれの世界史認識の枠組み全体を大きく 変えてきた。特に冷戦の終焉と社会主義体制の崩壊は、史的唯物論にもとづく﹃観念的﹄進歩史観に重 大な変更を迫った﹂と書いた。そして、 ﹁読者のみなさんには、是非本書を、本田先生の﹃アメリカ黒人 の歴史 新版﹄と読み比べていただけるとありがたい。一読すれば、この間にいかに歴史認識が変化・ 発展したかを知っていただけるものと思う﹂ ︵二一三︱二一五頁︶と述べた。 しかし、新書では、事細かに拙著と本田氏の著書の内容との差異について説明することができなかっ た。ネット上で拙著に対する数多くのコメントをいただいたが、その中には、 ﹁この新書は、本田創造氏 の﹃アメリカ黒人の歴史﹄二〇一三年度版である﹂というものもあった。しかし、それは、取りように よっては、一九九一年に出た本田氏の﹃アメリカ黒人の歴史 新版﹄が取り扱うことができなかった新 たな時代を書き足しただけとの意味にも読み取れる。確かに本田氏は、 ﹃新版﹄では、一九六四年に出版 された﹃アメリカ黒人の歴史﹄の基本的枠組みに変更の必要を感じなかったため、新しい時代を書き加 えただけであると断っておられる。しかし、私としては、本田氏の著書の﹁基本的枠組み﹂のそのもの の組み立て直しを目指したつもりだったので、 このような指摘には当惑せざるをえない。それゆえ、私は、 ︶ この場を借りて、私が、本田氏の著書のどこをどのように批判し、書き直しているのかについて、明示 的にその要点を書いておく必要を感じたのである。︵ 私は、 ﹁この五〇年間の世界の変化は、・・・史的唯物論にもとづく﹃観念的﹄進歩史観に重大な変更 を迫った﹂ と書いたが、 拙著のこの部分を読んでくださった昔の友人の中には﹁ 、お前は立場を変えたのか﹂ 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 039 1 と心配してくれる人もいる。そこで、本稿では、まず、最近、私がたまたま読んだものの中から、現在 の私の歴史認識に関する基本的立場を手短に代弁してくれていると思われる文章を二つ紹介しておきた い。いずれも本田氏の歴史方法論とかかわるからである。 最初の文章は、ドイツ史研究者山根徹也氏のエッセイの一文である。 ﹁現在において未来への投企を志向する場合、そのような現在から未来に向けての視座の中にあら かじめ何かを排除するような機制がないかどうかを常に検討する必要があろう。かつてのマルクス 主義的歴史学のように、たとえば﹃世界史の発展法則﹄が実在するものと信じ、そこに価値判断上 の目的を見るような立場の場合、そうした危険性は大きい。あらかじめ想定された歴史発展の方向 ︶ 性があり、それをもたらす担い手、出来事のみが注目され、そのような発展に抵抗する者、そぐわ ない者は認識から排除されてしまうからだ。﹂︵ きな物語によって目標が確実に決まり、 それに合わせて人生が決まる。そのために奉仕すればよい。 と務める日々を送っている人の場合、その人の人生は革命に所属しているわけです。革命という大 すべて解消され、新しい社会が始まる。革命を起こすということを目標に掲げて、そのために営々 移して、社会全体を根本的に変えるということです。それによって今の社会が持っている問題点は ﹁例えば、かつて﹃革命﹄という幻想がありました。革命というのは、ある思想的な原理を実行に 次の文章は、池澤夏樹氏の京都大学での集中講義録の末尾の部分である。 2 040 そういう、 ﹃革命﹄が信じられていた時代がかつてあった。大きな物語がかつてはあった。革命で なくても、宗教でも、立身出世でも何でもいいのです。自分の人生を嵌め込める物語がある。そう いうものがみんな失われて、言ってみればわれわれは、壊れてしまった大きな物語の破片の間をう ろうろしている。それが今なのではないか。とりあえずその日その日で何を消費するかを考え、暫 定的に日を送っている。それだけではないのか。 ﹃革命﹄にあたって、かつてマルクス主義が機能しましたが︱︱社会をよくすることに機能したと いう意味ではなくて、社会をよくしようと意図する人々を動かす点において、機能したということ です︱︱でももうそういうものはない。根本的な改革を目指して一つの原理を打ち立てようとすれ ば、それはどうやったってみんな一種のパロディーになってしまう。・・・・・ですから、われわ れは全部を新しくする、全部の問題を解決して理想の社会を作るということは考えず、端の方から ︶ 一つ一つやっていくしかない。バラバラな問題の一個ずつを、個々に何とかしていくしかないとい うことになる。・・・オールマイティーはないのです。﹂︵ 本稿は、本田創造著﹃アメリカ黒人の歴史 新版﹄と拙著との差異を明らかにすることを基本的課題 としているので、その問題点の指摘が中心になることをあらかじめお断りしておかねばならない。しか し、私は、本田氏の業績から多くを学んできたし、その研究の意義を高く評価してきたことは言うまで もない。ここでは特にその優れた点をいくつか指摘しておきたい。 第一に、本田氏のこの新書の優れた点は、これまでの大部分のアメリカ黒人史のように、興味深い歴 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 041 3 史上の諸事実を時代順に羅列した﹁通史﹂には終わっておらず、しっかりした骨組みに支えられた脈絡 と物語り性のある﹁歴史﹂となっていることである。それはのちに述べるように、きわめて明確な﹁歴 史発展の法則に関する一貫した理論的枠組み﹂に依拠しており、それ自体非歴史的になっているという 問題点を持ってはいるのだが、その点については、順を追って具体的に論じていきたい。 第二の特徴は、本田氏は、アメリカ黒人の歴史を通じてこそ、アメリカ史の持つ矛盾を最も鋭く描き 出すことができるという立場に立って、 ﹁アメリカ黒人史﹂の研究に取り組んでこられたのであって、単 にアメリカ史の一部である﹁黒人史﹂を描こうとしたのではなかったことである。氏は﹁アメリカ黒人史 は、私にとってのアメリカ史の方法である﹂と述べておられた。それだからこそ、この黒人史を通じて 今まで見えてこなかったアメリカ史が見えてきたと言う新鮮な感動を読者に与え続けて来たのであろう。 私はその立場を引き継ぎ本書で次のように述べている。 ﹁炭鉱に入る際に有毒ガスを検知するため労働者が連れて行くカナリアのように、黒人は、アメリカ社 会の危機をいち早く伝える役割を果たしてきた。言い換えれば、黒人は、アメリカ社会・経済の矛盾を 最も敏感に感じ取り警告を発する存在だったのである。だからこそ彼らは、この国の問題を最も鋭くと らえ、南北戦争・再建期や公民権革命のときに典型的に表れたように、歴史的に、たんに黒人のためだ けの変革ではなく、アメリカ社会全体のための変革の最前線に立ち続けて来たともいうことができる。﹂ ︵一四、一五頁︶﹁このカナリアは、アメリカ史全体に目を見張り、警告を発し続けて来たのであるから、 この本では、 アメリカ史の重要な歴史上の諸事件すべてに目を配り、それをできる限り説明したかった。﹂ ︵二一六頁︶ 042 本田氏の新書の特記すべきもう一つの特徴は、 ﹁事実、アメリカ黒人は、・・・すでに三世紀以上の長 きにわたって、黒人奴隷制度と人種差別制度の重圧の下におかれながら、自らの解放とこの国の社会進 歩のために営々と闘いつづけて来た苦しくも輝かしい歴史をもっていた﹂︵八、九頁︶と述べているよ うに、アメリカ黒人を単に抑圧された存在としてのみとらえるのではなく、黒人の抵抗の歴史を最大限 発掘して、それを歴史の推進力として位置づけようとしていることである。とは言え、のちに述べるよ うに、それはなお抽象的なレベルを超えていないし、﹁輝かしい歴史﹂ばかりが強調され、﹁苦い経験﹂ は極力無視されている傾向は否定できない。 以上を確認したうえで、本田氏の﹃アメリカ黒人の歴史 新版﹄の問題点について時代を追って検討 していきたい。なお、紙幅の制限があり、私自身が拙著でどのように記述したかについては、一部を除 き、読者ご自身で確認していただくことにして、ここでは割愛させていただいた。 一 奴隷貿易、奴隷制をめぐって ① アフリカ黒人奴隷貿易の暴力性の真の推進力はなんだったのか 本田氏は、アフリカ人奴隷貿易について、まず、ポルトガル人による現地の﹁土人﹂の捕獲の場面を 描き﹁これがサハラ以南におけるアフリカとヨーロッパとの最初の出会いの場面である。・・・こうし て今から五五〇年ほど前の一五世紀半ばに、まずポルトガルの手によって開始された。・・・リスボン 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 043 の宮廷の熱心な支持のもとに、奴隷狩りはアフリカ海岸に沿って、ますます南の方に押し広げられてい った。それとともに、奴隷狩りは奴隷貿易という商取引の形を整えていった﹂︵二五、二六頁︶と述べ ている。しかし、氏は、現地のアフリカ人がこの奴隷貿易に大々的に加わったことについては全く触れ ていない。 しかし、このようなとらえ方では、アフリカ人奴隷貿易の残忍性が、ヨーロッパ人による﹁土人﹂の 生け捕りに特化されてしまい、西アフリカ社会を構造的に解体させてしまった大西洋奴隷貿易のメカニ ズムを読み取ることが困難になってしまう。商品交換としての奴隷貿易こそが問題なのであって、非人 間的で無慈悲な白人が、アフリカ人を暴力的に略奪したという﹁告発﹂を前面に押し出すだけでは、大 西洋黒人奴隷貿易の本質を正しく説明したことにはならない。これではアフリカ人は、単に略奪された 歴史上の﹁客体﹂にすぎなくなってしまうのである。 実際には、ヨーロッパ商人との大規模な交易の開始によって、アフリカでそれまで一般的に行われて きた奴隷貿易が一気に活発化され、アメリカ大陸での奴隷需要に応じて、奴隷捕獲のための部族間戦争 が激発し、一部のアフリカ人奴隷商人に巨額の富をもたらしつつその交易が展開されたからこそ、一二 五〇万人もの黒人奴隷を西半球に強制連行することが可能になったのである。もちろん、この人類史上 最も残酷な強制移住を引き起こした原動力が、ヨーロッパの勃興しつつあった近代資本主義 ︵ ︶であっ とは言えないのである。 アフリカ人奴隷貿易が一部のアフリカ人に当座の利益をもたらしていたことは、 多かれ少なかれ相互に何らかの利益をもたらすのであるから、ヨーロッパ人だけが奴隷貿易の責任者だ たことは言うまでもないが、それはアフリカ人を巻き込むことによって可能となったのだった。交易は 4 044 欧米諸国によって大西洋奴隷貿易が禁止された際に、奴隷貿易の停止に最後まで抵抗したのがアフリカ 現地の奴隷商人だった︵後述︶という事実からもわかる。 アフリカ人奴隷貿易を単なる ﹁白人によるアフリカ人の略奪﹂図式で描くなら、大西洋黒人奴隷貿易は、 今日、多国籍企業や中国資本がアフリカ諸国に進出していく際に、一部の現地人に依拠しながら、地域 全体を﹁近代化﹂させ、既存の社会関係を強引に解体していく過程とは全く異質の経済過程とみなされ、 その本質を見落としてしまうことになる。世界資本主義がアフリカを世界市場に取り込み、それに対応 してアフリカ内部の﹁奴隷狩り﹂という﹁経済活動﹂が活性化させられたのであり、それこそが、奴隷貿 易の﹁暴力性﹂の起源だったのである。 ② アメリカ革命は二重革命だったか 本田氏は、独立革命の性格について次のように述べている。 ﹁独立革命は基本的に二つの目的を持って戦われた。・・・その目的の一つは、・・・国の独立を勝ち 取ること、もう一つは、・・・・主として土地所有における植民地内部の前近代的諸要素を除去するこ とであった。すなわち、それは、外圧に対する﹁独立﹂戦争であると同時に内圧に対する﹁革命﹂戦争 であって、一言でいえば、植民地解放・民族独立のためのブルジョア民主主義革命だった。﹂︵四四頁︶ 氏は、独立革命と呼ばれる戦争が、西ヨーロッパのブルジョア革命と共通の性格を持った国内の﹁階 級闘争﹂に基づくものでもあったことを主張しているのである。本田氏が﹁アメリカには、世界史の発 展法則は適用できず、 ﹃階級闘争﹄は存在しない﹂とする一九五〇年代のアメリカにおける﹁コンセン 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 045 サス史学﹂に対する批判を意図していたことは疑いない。氏は、世界史に共通の﹁ブルジョア革命﹂で あるから、 ﹁前期的土地所有関係の打破﹂が課題になるはずだとの問題意識に立っていた。すなわちア メリカ革命は、民族独立革命だっただけでなく、国内の封建的土地所有関係を清算するブルジョア革命、 すなわち﹁二重革命﹂だったと主張しているのである。しかし、﹁主として土地所有における前近代的 要素の除去﹂がこの革命の目的だったとすることには違和感を抱く人が多いだろう。 そこで植民地時代の﹁土地所有における前近代的要素﹂とされている免役地代制度について検討した 鈴木圭介氏の議論を紹介しておきたい。 ﹁ニューイングランドの植民地においては、・・・実質的には免役地代の徴収も行われず、近代的フ リー・ホールドの独立した農民層の確立が見られた。・・・︵封建的な土地制度がオランダ支配時代か ら引き継がれ、最も色濃く残っていた︱筆者補足︶ニューヨークのマナーやパテントの封建的性格につ いては、専門の研究者の間でも・・封建性を否定する見解と、それが中世の荘園とは同一でないことを 当然としつつ、 ﹁準封建的﹂な特権的な存在であったとする見解に分かれているが、ニューヨークの大 ︶ 土地所有が、ニューイングランドのタウンの農民とは異なった特殊な特権的制度であったことは否定で きない﹂︵ けて次のように述べている。 それではこの﹁封建的土地所有者﹂は独立革命ではどのような立場をとったであろうか。鈴木氏は続 5 046 ﹁農民たちはマナーの領主たちに対抗したが、マナーの有力な領主たちのある者は、独立戦争の際に、 反英パトリオット右派の指導者となった。そのため反乱せる農民たちのある者は逆に、独立革命の側に 立つことができず、かえってロイヤリストとともに革命に背を向ける結果になった。とくに大マナー領 主リヴィングストン家の頭首ロバート︵ Robert R. Livingston, 1746-1813 ︶は、有力な革命の指導者と して独立宣言の署名者の一人となり、戦後にはヨーロッパ農業の新技術をアメリカへ導入した開明主義 ︶ Philip John Skuyler, 1733-1804 者として活躍したが、そのマナーの農民たちはリヴィングストンに反抗するあまり、ロイヤリストと協 力することになった。独立革命後にはマナー領主の一人スカイラー︵ は、その娘をアレグザンダー・ハミルトン︵ Alexander Hamilton, 1757?-1804 ︶とめあわせることによ って、政治的支配層と結合し、ハミルトンの忠告に従って、革命後の大土地所有の温存につとめたなど ︶ の出来事があった。・・・植民地からの独立のための革命が市民革命的性格を帯びた独立戦争において、 農民が反乱的になればなるほど、かえって反革命に加わったという複雑さと極限性とを持った。﹂︵ 以上のように、鈴木氏は、封建的性格の強いニューヨークの大土地所有制打破は、決してアメリカ革 命の課題にはなってはいなかったと述べているのである。 ところで、本田氏の﹁この戦争が基本的には二つの目的を持って戦われた﹂との規定は何によって論 証されるのだろうか。 ﹁国の独立﹂が目的になっていたことは、﹃独立宣言﹄という共通の目標が示され ているのだから明白なのだが、 ﹁土地所有における前近代的諸要素を除去﹂するというのは、誰がどこで 掲げた目標なのだろうか。それはどのような法律や憲法条項によって確認されたのだろうか。それは、 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 047 6 所与の﹁世界史の発展法則﹂が与えている目標なのではないだろうか。﹁世界史の発展法則﹂という絶 対者の存在はかえって、歴史認識を歪めることになる。 ︶ もし、この﹁革命﹂にブルジョア革命的性格を見出すとすれば、この戦争の過程で、不自由な白人︵年 季奉公人︶が激減し、ほぼ消滅したことに求めるべきだろう。︵ ③ 独立革命に黒人は積極的に参加したか 中に混血の黒人がいたことは知られていたが、反英活動家ポール・リヴィアが大衆動員の目的で描いた まず、クリスパス・アタクスは事件当時、同時代人にどう扱われていたであろうか。当時、犠牲者の あろう。だが、事実はどうだったのだろうか。 子たち﹂の活動家だったとすれば、それは、本田氏が取り上げるにはまさに絶好の﹁史実﹂だったので 混血の黒人でしかも﹁労働者﹂の彼が、アメリカのブルジョア革命を指導した組織である﹁自由の息 象徴的に示されている。 ﹂ ︵四三頁︶ が﹃自由の息子たち﹄の活動家だったことを考え合わせると、そこには独立革命に対する黒人の態度が の最初の犠牲者がクリスパス・アタックスという黒人だったということである。・・・そのアタックス ﹁重要なことは、 ﹂ボストン虐殺の犠牲者﹁五人がみな船乗りやロープ職人などの労働者で、しかもそ る。その象徴がクリスパス・アタクスである。氏は次のように書いている。 本田氏は、黒人が全体として、その革命に積極的に参加し、歴史の進歩に貢献したことを強調してい 7 048 ﹁ボストン虐殺﹂の版画には、特に彼らしき人物は描かれていない。 ﹁独立革命の大義のために戦った黒人最初の殉教者﹂として彼が祀り上げられたのは、事件から八〇 年以上もたった一八五六年に、奴隷制廃止運動の一環としてウィリアム・C・ネルによって出版された ﹃アメリカ革命の黒人愛国者﹄に添付された版画によってであった。その後、長いことクリスパス・アタ クスは、 ﹁革命の黒い殉教者﹂としてアメリカ史に描かれ続けて来たのであるが、具体的な史料にあたっ てみると彼について現在までわかっていることは、この事件が発生した時、バハマから着いた捕鯨船を 降りてボストンに上陸し、ノースカロライナに向けて出港する直前だったということ以上のことはほと ︶ んど何もない。また、彼が﹁自由の息子たち﹂の活動家だったという証拠は特に存在してはおらず ︵ 、 このような記述は少なくとも近年の歴史書には見当たらない。 次に、本田氏は﹁自由黒人も奴隷も、この革命が、彼らにも自由をもたらすべきものであることをか らだで︵筆者ゴシック︶感じ取って、率先してこの戦いの戦列に参加した﹂︵五一頁︶と述べている。 ここでは、まず黒人たちが、 ﹁からだで感じ取った﹂という表現について取り上げたい。本田氏は、彼 らは歴史の発展方向を本能的に感じ取って、基本的に﹁正しい﹂行動をしたと述べているわけだが、頭 ではなく、 ﹁からだで﹂感じ取ったという表現は、南北戦争中の黒人の動向について述べた場所で﹁黒人 たちは、 ・・・もしこの戦争で北軍が勝てば自分たちにも必ずや自由がもたらされるだろうということを、 からだで感じ取っていた﹂ ︵一一六頁︶として繰り返されている。 この表現は、頭の中で空論をこねくり回しがちであることを自省したマルクス主義的知識人が、階級 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 049 8 矛盾について実体験を通じて学んでいる大衆に対する﹁コンプレックス﹂から発したものではないかと ︶ 思われる。それはかつて倫理性の強い左翼的インテリ活動家の中でよく用いられた表現ではあった。リ チャード・フォーフスタッターは、これを﹁マルクス主義者の反知性主義﹂と呼んでいる。︵ に逃げ込んだと推定されていることには触れず、 ﹁進んで革命軍のもとにはせ参じたばかりではなく、ア 二、五三頁︶と述べている。氏は、現実には、革命軍に加わったよりもかなり多くの黒人がイギリス軍 うに、 逆に反対方向に現れたとしても、 それは、 彼らの罪ではなくて、むしろ独立革命の弱さであった﹂︵五 皮相な見方である。・・・黒人の潜在的エネルギーが歴史の進歩に向かって発揮できず、この場合のよ 後で﹁これらの黒人たちの行動を指して、かれらの無知と意識の低さを非難するのは容易だが、それは 人奴隷の多くがそこに解放の機会を求めて、ぞくぞくとプランテーションから脱出した﹂ことを述べた 氏は、ダンモア卿による﹁イギリス軍に味方して革命軍と戦う奴隷﹂を解放するとの布告が出ると﹁黒 列に参加した一部の黒人だけを、誇大に評価しているように思われるからである。 度の例証にしかならない。私がこのような﹁些細﹂なことを取り上げるのは、本田氏が、独立革命の隊 声を反映したものだったのだろうか。少なくとも、この請願だけでは、 ﹁こういう黒人もいた﹂という程 げている︵五二頁︶ことについてコメントを加えたい。それは、どれだけ﹁アフリカ系アメリカ人﹂の 続いて、本田氏が独立革命期に、自由黒人が各地の植民地議会に自由を求める請願を行ったことをあ か。大衆に頭脳をへずとも認知されうる天与の﹁歴史の発展法則﹂があるのだろうか。 わめて差別的かつ非科学的表現となってしまう。一体、からだで感じ取る﹁歴史の流れ﹂とはなんなの 注意深く読んでみれば、この表現は、 ﹁頭ではわからない﹂大衆は、﹁からだで﹂理解するという、き 9 050 メリカの同盟軍︵フランス軍︶にも参加した﹂︵五三頁︶黒人についてのみ触れている。︵ ︶ では、各植民地でその革命軍の兵員供出割り当て要求をこなすために奴隷主が奴隷を差し出したとい う事実があったことをどのように解釈すべきなのだろうか。少なくとも彼らは自由意志で革命軍に加わ ったわけではなかった。革命軍=進歩、イギリス軍=反動の二元的物差しだけで、黒人たちの行動を評 価することは適切ではないように思われる。 黒人大衆の立場に立って考えれば、この革命戦争を通じて、一〇万にものぼるであろう奴隷が逃亡に 成功したことこそ、奴隷制の基礎を揺さぶった何よりも重要な歴史的事実だったのではなかろうか。 ④ ジェファソンは奴隷を解放したか 本田氏は、 ﹁建国の父たちは、奴隷制に批判的だった﹂と次のような事例をあげている。 ﹁われわれは、 奴隷制度に非難の声を上げた多くの ﹃革命の父﹄ の名前をあげることができる。たとえば、 ﹃コモン・センス﹄の著者として一躍有名になったトマス・ペインは、・・・︵ある論説の中で ︱︱筆者 補足︶奴隷制の廃止とあわせて、解放された黒人に自由だけでなく生活手段としての土地も与えるべき であると主張した。トマス・ジェファソンは、自らその奴隷のほとんどを解放したし、ジョージ・ワシ ントンも遺言で自分の奴隷を解放するように言い残した。﹂︵五〇頁︶ トマス・ペインが奴隷制に関して、極めて急進的な思想の持ち主だったことは、よく知られているが、 当時の常識からすれば、彼の主張は例外的だったし、彼のこの主張がアメリカ社会にそれなりの影響を 与えたという証拠もない。 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 051 10 本田氏の指摘で重要なことは、独立宣言の起草者﹁ジェファソンが自らの奴隷のほとんどを解放した﹂ という歴史的事実の誤認である。今日までに分かっていることは、彼は治安維持のために、奴隷の個人 的解放を規制するべきだと主張し、自分が黒人奴隷女性サリーに産ませた子供二人が逃亡するのを見逃 し、サリーの兄二人を解放し、遺言でサリーに産ませた別の子供二人を解放したが、それ以外彼が所有 していた四〇〇人弱の奴隷は一人も解放しなかったという事実である。 また、ジェファソンは、奴隷制廃止のためには具体的な行動は何も起こさなかったし、彼がのちの時 代に全盛期を迎える﹁科学的人種主義﹂の先駆として、黒人の生来的劣等性を﹁科学的﹂に論証し、そ れを公に出版して宣伝していたことはよく知られている。 ジェファソンに関するこの歴史事実の誤認は、本田氏の近代啓蒙主義の理解の一面性に由来している ように思われる。 ﹁前近代﹂に対する﹁近代﹂の進歩性への確固たる確信は、本田氏の歴史認識全体を貫 そ れ を﹁ 進 歩 ﹂ だ と み な す こ と ︶ いているが、氏は、その啓蒙主義を﹁進歩﹂としてまず措定し、その限界を指摘するという立場に立っ ている。しかし、近代世界以前に黒人奴隷制は存在しただろうか。︵ 奴隷制を否定してはいなかったとする理解が今日では、支配的となっている︵ ︶。だとすれば、ジェフ 対する男性の支配を、理性に由来するものとして積極的に肯定していたのであり、近代啓蒙主義は黒人 間の征服と、ヨーロッパによる未開民族の文明化の使命、劣等人種に対する白人種による支配、女性に ができるのだろうか。神の支配に代わる人間の合理的支配を主張する近代啓蒙主義は、自然に対する人 11 矛盾もなかったのである。 ァソンが黒人人種劣等論を精緻化し、黒人奴隷制の廃棄を望まなかったことは、彼の啓蒙主義とは何の 12 052 ﹁建国の父たち﹂が、奴隷制に本来反対していたと﹁解釈﹂し、歴史を描きなおそうとしたのは、エイ ブラハム・リンカンであって、彼の﹁解釈﹂は、歴史的事実に裏打ちされてはいなかった。リンカンに ついての大著を最近出版したエリック・フォナーは、 ﹁そうした説明をするために、ためらいがちであい まいな言及さえも、れっきとした奴隷制反対論に仕立て上げられたのだ。実際、一七八八年の憲法制定 会議でなされた奴隷制に関する議論は、道徳的要素を全く持っていなかった。建国の父たちの多くは奴 隷制反対論を公にしたが、それを実行するために何かやってみた者はいなかったし、奴隷制を廃止した いなどとは全く思わなかった者もいた﹂︵ ︶ と述べている。 独立革命戦争の結果打ち立てられたアメリカ合衆国の本質を規定したのが合衆国憲法である。本田氏 の理解は、 ﹁憲法によって、一つの共和国の枠内で、北部と南部はそれぞれ異なった社会・政治制度を生 み出した。 ﹂ ︵四九頁︶ ﹁憲法によって奴隷制が容認されたという事実は、南部プランター寡頭権力の一 応の勝利だったが、しかし、それは、新しく誕生したアメリカ合衆国と言う共和国のすべての州、とり わけその後新たに連邦に加入した諸州においても、ことごとく奴隷制度がみとめられたということでは ない﹂ ︵五四頁︶というものである。 合衆国憲法には、奴隷を五分の三人と数える第一条第二節と他州に逃亡した奴隷の返却義務を規定し た第四条第二節という奴隷制度を保護する条項が含まれているが、これを、民主主義的憲法の一部の欠 陥とみなすのか、奴隷制保護を連邦の義務と明記し、連邦は奴隷制を禁止できない憲法規定を根拠に、 奴隷制を保護する憲法だと解釈すべきかについては、見解が分かれるところであるが、近年では後者が 有力になっているし、私もそのように解釈すべきだと考えている。 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 053 13 たとえば、北西部領地条例によって、オハイオ川以北で州に昇格する準州は、連邦議会の権限によっ て奴隷制を認めないことが定められていたが、法的に言えば、州に昇格してしまえば、その州は、州内 の人民の権利に関し決定する権限を与えられており、奴隷制を容認する決定権がみとめられていた。た とえば、この地域が州に昇格される以前から奴隷を所有していたフランス人奴隷主は、州に昇格した後、 その奴隷所有権を主張し続け、成功しなかったものの奴隷制の採用を試みた。 のちに奴隷制廃止主義者の一部︵ ︶やリンカンなどによって、憲法は本来奴隷制廃止の根拠として用 ︶ 15 について言及しているが、そこからわかることは、氏は、ブルジョア革命としての独立革命は、本来、 次に、本田氏は﹁合衆国憲法による奴隷制容認という事実に現れた独立革命の歴史的限界﹂ ︵六三頁︶ ⑤ 奴隷制廃止は、ブルジョア革命の課題だったか に支配されていたのであり、当時のアメリカ合衆国は﹁奴隷制共和国﹂と呼ばれるべきであろう。︵ て、連邦政府は、少なくとも南北戦争直前までは、大統領も議会も最高裁判所も基本的には奴隷主階級 隷制が、独立革命後、深南部で急激な発展をとげることができたのもこの憲法のおかげであった。そし 憲法は、連邦の原理として奴隷制にお墨付きを与えていた。事実、上南部で衰退に向かっていた黒人奴 十分にしか備わってはいなかったとは言え、逃亡奴隷を連れ戻す法的義務があったことは明白で、この しかし、法的にみる限り、連邦政府には、一八五〇年逃亡奴隷法制定まではその権力行使の手段が不 り、本田氏の解釈もその立場に立っている。 いることが可能だと主張され、その主張は、奴隷制が辛うじて憲法の中に生き残ったとの解釈につなが 14 054 奴隷制廃棄を目指すべきものとの大前提に立っているということである。 しかし、何故、ブルジョア革命は、奴隷制を廃棄することを課題とせねばならないのだろうか。ブル ジョア革命と奴隷制廃棄とは実際にはどのような関係にあるのだろうか。ブルジョア革命の﹁モデル﹂ とされてきたフランス革命は、奴隷制とどのように向き合ってきただろうか。 浜忠雄氏によれば、 ﹁一七九四年二月四日 フランス議会における植民地奴隷制廃止決議は、﹃人権宣 言﹄︵一七八九年八月二六日︶から起算して四年半後のものである事実に注目せねばならない。﹃カリブ 海の真珠﹄の死活的重要性とこれを保持しようとする国民的要求の前で、革命政府は、植民地奴隷制に ついて議論することを避け続け、サンドマングの革命が高揚し、イギリスとスペインの軍事介入によって、 サンドマング喪失の危機が現実味を帯びるに至ってからこの決議が出てきた。フランス革命議会は、﹃ユ マニテ﹄の精神によって奴隷制を廃止したのではない﹂︵ ︶という。 言い換えれば、フランス革命の精神も﹁黒人奴隷制﹂を否定するものではなく、彼らは、政治的方便 として﹁植民地サンドマング﹂をイギリス、スペインの略奪から守るために奴隷制廃止決議をあげたに すぎなかったのである。フランス革命の普遍主義は、植民地確保を大前提としていた。 そもそもアメリカの独立革命は、奴隷制の廃止をその課題とは意識していなかったのであり、独立革 命の精神が論理的に奴隷制の廃棄につながりうることに気が付いていた人物がいくらかは存在していた としても、当時のアメリカ合衆国の指導的な人物の中に、それをアメリカが抱える課題だとして取り組 もうとした人物はほとんどいなかったというのが歴史の事実であった。 ちなみに、いわゆる﹁市民革命﹂を初期に達成したとされる国のほとんどすべてが、黒人奴隷制を少 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 055 16 なくとも植民地において抱えており、黒人奴隷制のなかった国々の﹁市民革命﹂は、相対的にずっと後 になるまで達成されなかったと言う事実も無視できない。ここからは、黒人奴隷制と市民革命とは﹁コ インの裏表﹂の関係にあったことが想定されるが、この問題についてはなお十分な検討がなされていな いので、ここではこれ以上立ち入ることはしない。 ⑥ 奴隷貿易の禁止は黒人奴隷制廃止への道か 本田氏は、ジェファソンが起草した独立宣言の原案には、 ﹁黒人奴隷貿易を激しく非難した一条項が書 き加えられていた﹂が、 ﹁サウスカロライナとジョージアの機嫌をそこねないために﹂削除されてしまっ たことについて述べている。そして、南部のプランターは・・・黒人奴隷貿易禁止の一条項を完全に抹 殺してしまうことによって﹁かれらは黒人奴隷制度そのものを温存する決定的な足掛かりを固めたので ある﹂ ︵四六、四七頁︶と結論づけている。 ここで問われなければならないのは、まずジェファソンが、奴隷制廃止を目指して、奴隷貿易を非難 する文章を挿入しようとしたかどうかである。そして、奴隷貿易の維持が本当に﹁奴隷制度そのものを 温存する決定的な足掛かり﹂になったかどうかである。 事実はこうである。革命戦争期には、様々な要因によって奴隷貿易は激減していたが、すでに当時、 タバコの慢性的過剰生産のため小麦生産に転換し始めていた上南部のプランテーション経営者は、奴隷 ︶ の賃金労働への転換を進め︵ 、 そ の 結 果、 奴 隷 の こ れ 以 上 の 流 入 に よ り 自 分 た ち が 所 有 す る 奴 隷 が 過 剰となり、価格が低落することを恐れて海外からの奴隷輸入の抑制を要求し始めていたのである。その 17 056 利害を代弁してジェファソンが﹁独立宣言﹂に奴隷貿易非難の文章を挿入しようと試みたと考えても何 の不思議もない。 他方、深南部では、アフリカから直接輸入される奴隷が反乱にかかわり易いことを恐れ、反乱事件の 直後には、アフリカからの奴隷の輸入を禁止することもあったが、綿作プランテーション農業の発展が はじまり、奴隷輸入の継続要求が強まっていた。そして、革命後、深南部で綿花生産が再開され、大規 模な奴隷貿易が再開されると、政治的に大きな力を持っていた上南部諸州の奴隷所有者たちは、海外か ︶ らの奴隷輸入を禁止し、自らの奴隷を深南部に売却する国内奴隷貿易を活発化させることによって、奴 隷制を擁護すると同時に、自らの奴隷の価格維持を図ったのである。︵ ︶ らの奴隷貿易が禁止されても、より一層大規模な国内奴隷貿易によって、奴隷制は支えられ続けた。本 本田氏の誤解のもとは、海外からの奴隷貿易と奴隷制度を直結させたことである。実際には、海外か け、ついに退位させられた。︵ られたが、容易には応じず、あくまで抵抗したラゴス国王は、一八五一年にイギリスの軍事的圧力を受 だった。アフリカの諸国家は、イギリスの奴隷貿易廃止に対応した﹁奴隷貿易禁止条約﹂の締結を求め 抗し、密輸を積極的に行おうとしたのは、深南部の奴隷主たちではなくアフリカ諸部族の奴隷商人たち 隷制は﹁温存され﹂ 、急激な発展を見たのである。すでに述べたとおり、奴隷貿易の禁止に最後まで抵 足掛かり﹂ ︵四七頁︶を奪った後も、上南部で再生産された黒人奴隷が深南部に売却され、深南部の奴 それゆえ、アメリカ合衆国が一八〇八年に奴隷貿易を禁止し﹁奴隷制度そのものを温存する決定的な 18 田氏は、国際的奴隷貿易禁止要求の経済的動機を見失い、それを単なる奴隷制廃止への進歩的改革の一 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 057 19 歩と見なす誤りを犯したのである。 ⑦ 黒人奴隷制は﹁前近代的﹂な生産様式だったか ︵ 本田氏の黒人奴隷制論は、氏がそれまで中心的に最も力を入れて研究してきたテーマであり ︶ 、 氏 義化の深化を比較する過程で用いられてきた指標であって、現実の歴史過程を見ても、農業の分野での 本田氏の﹁労働力の商品化﹂という指標は、世界資本主義の中核的部分=先進資本主義諸国の資本主 資本主義世界の全体像をとらえることはできない。 たのでは、なお今日でも世界には﹁前資本主義的生産関係﹂が広範に広がっていることになり、今日の に続けられ今日でも続いている。これを世界資本主義の中核的部分と遮断して、﹁前近代的﹂ととらえ ﹁資本の本源的蓄積﹂の野蛮な過程は、世界資本主義的システムが膨張・深化していく過程で、恒常的 では、世界資本主義の外延的膨張と深化の全過程をダイナミックにとらえることはできない。いわゆる も明らかだが、しかし、 ﹁労働力の商品化﹂だけを、近代的=資本主義的性格の指標とする理解の仕方 奴隷制度のもとで、 ﹁商品交換の経済法則は生産の内部にまでは浸透していない﹂ことはだれが見て である﹂ ︵六二頁︶と結論づけている。 現は端的に経済外的強制によって行われ、商品交換の経済法則は生産の内部にまでは浸透していないの 奴隷労働という不自由労働であって、労働力の商品化という事実は見られない。つまり、剰余価値の実 たいが近代的=資本主義的な性格を持つものではなかった。・・・なによりも、そこでの生産的労働は、 の黒人史の中核をなす部分である。氏は、奴隷制プランテーションは﹁前近代的な搾取制度で、それじ 20 058 ﹁労働力の商品化﹂は、今日に至ってもなお一部にみられるだけなのである。 本田氏の﹁奴隷制プランテーション=前近代﹂規定は、次の文章と深くかかわっている。すなわち氏 は、 ﹁一九世紀の前半、アメリカは、合衆国憲法のもとに組織された一つの国家の枠内で、南部と北部 に、互いに異質であったばかりでなく敵対的関係に立つ二つの経済制度、すなわち前近代的なプランテ ーション奴隷制度と近代的な資本主義制度にもとづいた別々の社会が誕生し発展したのである。﹂︵一〇 八、一〇九頁︶と述べ、南北戦争・再建の革命が、近代的な資本主義制度が前近代的なプランテーショ ン奴隷制度を﹁打ち倒すことによってこの国の前資本制的関係を廃棄し、統一的な国内市場を基盤とし てアメリカ資本主義の全国的制覇をなさしめた点に、その経済的意味があった﹂︵一二六頁︶と結論づ けている。 すなわち、氏は、南北戦争が、 ﹁ 第 二 の ブ ル ジ ョ ア 民 主 主 義 革 命 ﹂ で あ る た め に は、 そ れ が、 前 近 代 的生産関係を打破したものと規定する必要を感じ、この戦争の革命的性格を明確にするために、それを ﹁南北の近代ブルジョアジーの覇権争い﹂に解消することはできないと考えたのである。 宮野啓示氏は、 ﹁この奴隷制プランテーションの性格をめぐる二つの見解の相違が意味するところは 大きい。前者︵資本主義経営説︶に立てば、南北戦争はいわば二つの産業資本︵北部産業資本対南部の プランター的産業資本︶の対立となり、戦争の必然性や意義は弱くなる︵修正主義的見解︶。また後者 に立てば、南北戦争は相対立する利害︵北部産業資本対南部奴隷制︶の死活の闘争と把えられる﹂と述 べ、本田氏が唱える奴隷制の﹁前期的経営説﹂の正しさを強調している。しかし、なぜ南部が﹁前期的﹂ でなければ、南北戦争が﹁死活的闘争﹂になりえなかったのだろうか。氏はそのことについては何も語 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 059 ってはいない。︵ ︶ ここで用いられている﹁家父長制﹂とは、日本で一般に﹁恩情主義﹂︵パターナリズム︶と呼ばれて った。 ﹂ ︵七六頁︶ 人間と人間の関係はすっかり影をひそめ、仮借なき重労働と鞭の強制による関係が全面的にこれと代わ 度になると、黒人奴隷はあからさまに主人である所有者の﹃動産﹄と化し、主人と奴隷のあいだには、 ﹁植民地時代の奴隷制度は、まだどことなく家父長制的な要素があった。だが、南北戦争前の奴隷制 ところで、本田氏は、アメリカの黒人奴隷制の転換について、次のような規定をしている。 ン=前近代﹂論では、その後の事態を説明できなかったことを示しているのである。 まい、そのブルジョア革命論は完結しないまま終わってしまっている。それは、氏の﹁プランテーショ なる。しかし、本田氏の著書では、これ以後、プランテーション農業に関する記述は一切なくなってし だとすれば、この﹁前近代的生産関係の克服﹂のための﹁第三のブルジョア民主主義革命﹂が必要に ろう。 に本田氏の﹁労働力の商品化﹂を近代の第一の指標とする立場からすればこのような規定は、当然であ 態に押しとどめておくことを目的にした前近代的な制度だった。﹂︵一四〇頁︶と規定している。たしか 分け小作制度は、プランターの大土地所有制度を解体する代わりにそれを温存し、彼らを昔ながらの状 ところが、本田氏は、南北戦争後に南部農業地帯で現れた﹁プランテーション奴隷制度に代わる刈り 21 060 いるもののことだと思われるが、右の本田氏の奴隷制の段階区分はあまりにも乱暴ではないだろうか。 アメリカ南部の黒人奴隷制は、暴力支配と温情主義が結びついて展開されたことは、多くの論者がみ とめていることであるが、近年では、本田氏の規定とは逆にむしろ奴隷価格が高騰してくる一八三〇年 代以後は、奴隷の価値の維持のために、奴隷の生活、労働条件が改善され、平均寿命も上昇し、人口増 加率も向上したとするのが、通説になっている。現に黒人奴隷人口は一八三〇年二〇〇万から一八六〇 ︶ 年四〇〇万まで倍増している。ただし、 ﹁仮借なき重労働と鞭の強制による関係﹂はいつの時代にあっ ても黒人奴隷制度の本質であったこと言うまでもない。︵ ⑧ 白人労働者階級は奴隷制に反対したか 本 田 氏 は、 ﹁奴隷制廃止運動は、・・・本質的には中産階級的急進主義に立脚していたとはいえ、こ の運動は黒人、農民、労働者、婦人、ならびに進歩的知識人の統一的な民主主義運動の中核であった﹂︵九 七頁︶と述べ、また南北戦争中に﹁奴隷制に反対する多くの農民や都市の小市民や労働者が、解放戦士 として戦場におもむいた﹂ ︵一一七頁︶とも述べている。しかし、それぞれの階層の運動へのかかわり については一部の黒人や知識人以外には具体的に触れていない。 ここでは、特に白人労働者はどう行動したのか見てみたい。当時、都市労働者、とりわけ移民労働者 の多くは民主党の影響下にあり、自由黒人との競争の中で、人種差別的傾向が強く、少なくとも労働運 動の主だった集団が奴隷制廃止運動に協力したという事実はない。たとえば、その中核をなしたアイル ランド人移民は、本国の反イギリス独立運動の指導者が、奴隷制廃止運動に共鳴し連帯を表明したにも 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 061 22 民主党は、リンカンの奴隷解放宣言が出ると﹁もし奴隷が解放されると黒人が北部 ︶ かかわらず、アメリカではアイルランド人移民は、全体として親奴隷制的立場をとり続けたことが明ら かにされている。︵ ︶ 24 すうに大きな影響を与えていたことは、南北戦争を近代世界史の中に位置づけて理解するために無視で 介入する機会を失ったことは、よく知られている。当時世界最強のイギリス帝国の動向が南北戦争の帰 全く触れていない。 ﹁奴隷解放宣言﹂発布によって、南部の期待に反してイギリスがアメリカの内戦に 入を避けることだったが、本田氏は南北戦争が当時の国際的緊張の中で展開されていたことについては 南北戦争中のリンカンの軍事・外交戦略の重要な柱のひとつは、当時最大の覇権国イギリスからの介 たすべき存在であり、資本家はその逆であるとするのはあまりに観念的ではないか。 もっぱら一部の﹁資本家﹂だったと語っている。労働者階級は、その存在からして﹁進歩﹂の役割を果 争と兵役義務に反対していた資本家仲間﹂ ︵一一八頁︶などとして、共和党の戦争努力を妨害したのが 本田氏は白人労働者階級の反黒人的傾向については一切語らないが、﹁﹃コッパーヘッド﹄と呼ばれ戦 実を見て、黒人たちに同情的になる者も現れたと語っている。︵ は、北部からやってきた白人兵士の多くが人種差別的だったが、南部の地に来て初めて黒人奴隷制の現 また、北部の白人市民のうち、どの程度が﹁解放戦士﹂になりえたのだろうか。エリック・フォナー 反黒人的動向については一切触れていない。 〇人以上の黒人を殺害した。この事実は、すでに早くから知られていたが、本田氏は北部白人労働者の 労働者は、金を払えば回避できる徴兵制に反発し、ニューヨークで反徴兵・反黒人暴動を起こし、一〇 に殺到し、仕事を奪うだろう﹂と白人労働者を脅した。アイルランド人をはじめとする貧しい白人移民 23 062 きない事実である。 二 奴隷解放からプランテーションの解体までの取り扱い方 ① 再建期の民主的改革は産業資本家を恐怖に追いやったか 再建期の政治過程については、本田氏は ﹃南北戦争再建の時代︱︱ひとつの黒人解放運動史﹄︵創元社、 一九七四年︶で詳しく描き上げているが、本書の再建期に関する叙述は、本著の中でも最も輝いている 部分である。それにもかかわらず、なお疑問を感ぜざるを得ない部分もある。 氏は、 ﹁一八六五年の夏から秋にかけて、南部各地ではジョンソン大統領の政策に反対し、黒人の自 由と権利を獲得するための大規模な大衆集会が広範に展開され、貧しい南部の白人たちも、率先してこ れに参加した。 ﹂ ︵一二九頁︶ ﹁南部における黒人と貧しい白人との同盟による民主的改革が着々と実現 され、北部では労働運動の波が高まり労働者が団結して自己の権利を主張し始めるのを目の当たりにす ると、戦時ブームに乗って飛躍的な成長を遂げた産業資本家は南部の再建運動がそれ以上進むのをおそ れるようになった﹂ ︵一三四頁︶と書いている。 しかし、ここでも、 ﹁ブルジョア民主主義革命﹂の中核的担い手である黒人の同盟者になるべき﹁貧 しい南部の白人﹂ の具体的姿はほとんど何も示されていない。実は、今日に至るもなお、南部史研究者は、 ﹁貧困な南部白人﹂の﹁革命への参加﹂の具体的な姿を描くことに成功していない。現在までのところ、 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 063 もっぱら彼らが人種差別主義的﹁白人共同体﹂に取り込まれてきた姿ばかりが見えてくるのである。 また氏は、 ﹁戦時中から共和党急進派によって北部の諸都市で連邦擁護の政治結社として造られたユ ニオン・リーグ﹂は、 ﹁南部の再建運動の開始とともに南部諸州に深く根を下ろし、最盛時の加盟員数 は五〇万人にも及んだが、その多くが黒人だった。﹂︵一三三頁︶と書いている。しかし、この﹁ユニオン・ リーグ﹂については、あたかもその中核に黒人がいた単一の革命組織であるとの印象を与えるが、具体 的なことは何も書かれていない。どこからその五〇万という数字が算定されているのか、疑わしいと言 わざるを得ない。 エリック・フォナーによれば、この組織は、南部の黒人投票者とほぼ重複しており、その指導者は北 北 部 の 奴 隷 制 廃 止 主 義 者 と 自 由 黒 人 が そ の 組 織 者 と な っ て、 元 奴 隷 ︶ 部から来た奴隷を経験したことのない自由黒人だった。支部の大半は人種隔離されていたが、一部には 人種統合支部もあったと言う。︵ たしかに共和党を通じて当初黒人たちが︵白人の多数が投票をボイコットした中で成立した︶州議会 武装組織を結成して、共和党州政府を攻撃した﹂︵拙著、五九頁︶というのが実状だった。 軍事力もなかったから、元奴隷主勢力は、税の不払い同盟やクー・クラクス・クラン︵KKK︶などの る力にはほとんどならなかった。戦後の経済破たんの中で共和党州政府には十分な財源がなく、独自の 元奴隷主が圧倒的に勝っており、連邦軍は広大な地域に少人数が配置されていただけであり、黒人を守 再建期当時の南部の現場での力関係を冷静に分析してみれば、﹁経済的にも軍事的にも情報の点でも ものとなるだろう。 を指導・動員する組織だったとみなすことができ、氏の記述が与える印象は、現実とは相当かけ離れた 25 064 に代表を出し、様々な立法活動で成果を上げたことの意義は十分評価すべきであるが、黒人大衆にとっ ては、何よりも、自分たちの身の安全を保障することこそが大事だった。そのためには、陪審員、裁判 官選出など、現地での司法制度の民主化こそが決定的に重要だった。しかし、一八六八年から一八七六 年までに南部白人武装集団は、白人共和党員を含め民主的再建の指導的担い手たち少なくとも二万人を 殺害し、共和党勢力に打撃を与え、自由な政治活動を許さなかったのであり、民主的司法制度の確立は、 遠く及ばなかった。それは、到底、 ﹁民主的改革が着々と実現され、産業資本家たちをおそれさせた﹂ という状況ではなかった。 北部共和党が南部の黒人を見捨てたのは、 ﹁共和党が一八七四年の中間選挙で下院の過半数を民主党 に奪われ、彼らは北部白人有権者の多数派を獲得することを最優先し、産業資本の投資先としての南部 の政治的安定を求めざるをえなくなった﹂ ︵拙著、六〇頁︶ことが原因だったとの説明の方がずっと説 得力がある。北部共和党は、 勝ち目のない南部共和党の民主的再建に肩入れすることを早くもあきらめ、 勝利しつつあった南部民主党との連合によって、南部の政治的安定をはかる道を選んだのだった。それ こそが北部共和党を支配していた産業資本家階級の要求だったのである。 ② 一二五万人の全国黒人農民同盟が、白人との人種的障壁を打ち破った? 本田氏の南部の貧しい白人と黒人の連帯への過剰な思い入れは、一九世紀末の全国黒人農民同盟に関 する以下の記述にも如実に現れている。 ﹁多くの黒人が南部農民同盟を支持し、全国黒人農民同盟=協同組合同盟を組織して、自ら人民党運 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 065 動の陣列に参加した。この黒人組織は、・・・たちまち全南部に広がり、最盛時には一二五万の黒人が これに加盟した。この組織は農民のほかに労働者も参加した当時の黒人の統一組織だった。そこに見ら れた顕著な特徴のひとつは、民主的再建の挫折過程に黒人と貧しい白人との間に生じた亀裂が回復して きたことである。・・・現実の闘いが、人種的障壁を打ち破ったのである。﹂︵一四一、一四二頁︶ 一九五〇年代以前の一部の著書には、全国黒人農民同盟が最盛時一二五万に達したという﹁説﹂が書 かれているが、実際にどのような運動があったのかについては、その後多くの研究者が解明に努めてき たにもかかわらず、ほとんど何もわかっていない。当事者がそう語っていたという以外の証拠がないの である。 ﹁人種的障壁が打ち破られた﹂ということを示唆する事実も見当たらない。ましてや﹁労働者 も参加した黒人の統一組織﹂が存在したとは想像もできない。 一九五〇年ジャック・アブラモウィッツは、﹁かつての歴史家たちは、黒人のポピュリスト党への貢 献を評価することに不注意だった。黒人のこの側面の研究は、アメリカの農民運動の意味を広げ、より 豊富にせずにはおかないだろう﹂ と述べ、意欲的に黒人農民同盟の研究を進めるべきだと呼びかけたが、 この分野の研究を進めたオーガスト・マイヤーらは、一九六六年﹁黒人農民同盟の公称会員数が本当だ とすれば、それはおそらくアメリカ史上最大の黒人組織ということになる。しかし、だからこそその存 在を示す証拠があまりに少ないのが一層不思議なのである﹂と述べなければならなかった。その後、こ ︶ の黒人農村住民の抵抗運動を実証研究したウィリアム・ホルムズは、極めて小規模な運動に対する厳し い弾圧の実態を明らかにするのが精いっぱいだった。︵ もちろん、ノースカロライナ州で見られたように、共和党と人民党が統一し、民主党と対抗した際に 26 066 黒人がこれに参加し一定の成果を上げたことは事実であるが、その際にも黒人が主体的にその過程をリ ードしたとは到底言えない。ちなみに本田氏は、ノースカロライナの経験については何も触れていない。 ③ リンチはKKKがやったことか 次に、世紀転換期に猛威を振るった南部での黒人に対するリンチについての本田氏の記述を取り上げ たい。氏は次のように述べている。 ﹁再建時代に猛威をふるったKKK は、・・・・南部の全体的風土の中に定着し、白人優越主義=黒 人蔑視の人種的偏見を大々的に宣伝したばかりか、絶えず暴力を煽動して黒人迫害の先頭に立った。記 録に残っているだけでも、黒人に対する非合法的制裁の最たるものであるリンチが、一八九〇年から二 〇世紀初頭にかけて猖獗を極めたのも偶然ではない。﹂︵一四六頁︶ 右の記述からすれば、 ﹁リンチ﹂は主にKKKが執り行った暴力行為であったように読み取れる。今 日でもテレビや映画ではアメリカ南部の人種差別とリンチは、KKKの映像とともに登場し、大衆の意 識には、 ﹁リンチ﹂と言えば﹁KKK﹂という脈絡が刷り込まれているようである。しかし、近年まで の歴史研究によれば、リンチは南部社会の人種的・性的・階級的支配体制を支える普遍的な社会的行事 だったのであり、特定の白人優越主義的組織とだけ結びつくものではなかった。 リンチ現場の写真が数多く残され、多くの歴史書に掲載されているが、そこに登場するリンチ執行者 が、KKKの白頭巾を着用していることはまずない。場合によっては数千から一万人もの参加者を集め 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 067 たリンチの儀式には、ごく普通の白人男女、老人・こどもの姿が見られるのであり、そのことは、リン チが南部の文化として多数の白人大衆が日常的に経験する行事だったことを示している。リンチは、K KKのような特殊な秘密結社によって執り行われたものではなかったのである。本田氏は、白人大衆に リンチの罪をきせることをあくまで避けたかったのであろう。 また、リンチは、単に黒人を脅迫するための暴力だったわけでもない。南部で起きた黒人リンチの多 くは、何らかの形で白人女性と黒人男性の性的関係を根拠としており、黒人男性に﹁強姦魔﹂とのステ レオタイプを押し付け、 ﹁性的野獣﹂である黒人男性から白人女性を守ることを、その正当化の根拠と していた。それは、白人女性を白人男性の専有物として従属させる南部家父長制の社会制度を補強し、 南部社会を白人男性の支配のもとに結束させる儀式だったのである。この南部社会は、白人女性を黒人 男性から隔絶させておくと同時に、白人男性による黒人女性に対するレイプを肯定する文化に支えられ ていたが、この文化を肯定し強化する儀式がリンチだったのである。 ただし、リンチをジェンダーの視点から解明するこのような研究は、一九八〇年代以後に一般化した ものであり、本田氏がそれを把握していなかったのはやむを得ないことだった。 ④ 一九三〇年代をスキップしてしまって良いのだろうか 公民権闘争の開幕に飛び、そこでは、一九四一年のワシントン行 本田氏の新書は、第七章 近代黒人解放運動で、一九世紀末から一九二〇年代までの黒人運動をブカ ー・T・ワシントン、W・E・B・デュボイス、そしてマーカス・ガーヴェイの運動にあてている。 ところがその後、一気に、第八章 068 進計画、大統領行政命令八八〇二号、白人予備選挙憲法違反判決について触れるだけで、すぐ戦後の教 育の人種隔離撤廃裁判に飛んでいる。 大恐慌とニューディール時代、そして第二次世界大戦期の黒人の動向を素通りしてしまったことは単 に一時代の欠落以上の意味を持っている。というのは、第一に、近年では、黒人公民権運動を、一九五 四年ブラウン判決以後の運動として括る方法に対して厳しい反省が求められ、一九三〇年代の労働運動、 なかんずく共産党をはじめとする左派の労働運動が黒人差別撤廃の活動に取り組み、その基礎の上に戦 後の公民権運動の担い手たちの成長が見られたことを十分意識し、公民権運動をより長いスパンでとら えなおす﹁長い公民権運動﹂論が支配的になっているからである。特に第二次世界大戦中の﹁国外での 民主主義のための戦争と、国内での人種差別との戦い﹂をともに勝利させる﹁ダブル・V﹂運動は、黒 人労働組合員や黒人運動組織メンバーの急激な増大をもたらしたものであり、戦後の運動の基礎となる ものだった。 このようにとらえなおすことによって、一九六〇年代を頂点とする公民権運動が、﹁経済的平等化﹂ とは切り離された﹁法的平等化﹂だけを課題とする運動だったとする従来のとらえ方を克服し、その運 動の中に﹁経済的平等﹂の要求や﹁ ︵ベトナム︶侵略戦争反対﹂の要求の芽が育っていたことを読み取 ることができると言うのが、その立場である。 一九三〇年代をスキップしてしまったことによるもう一つの問題は、すでに述べたとおり、本田氏に よって﹁前近代的﹂とされた刈分小作制にもとづくプランテーションが、この時代にその解体への道が 切り開かれたからである。それは多くの黒人大衆の生活と労働のありかたに大きな影響を与えた。一九 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 069 六〇年の政府統計は、公式にプランテーションの消滅を確認した。南部の公民権運動が、南部プランテ ーション地域から大量の黒人農民が働き場所を失って、南北の大都市に追い立てられていた時代に起こ った出来事だったことは、黒人史を語る際に欠かすことができない事実なのである。 三 公民権運動とその後のとらえ方をめぐって ①﹁魅力的な黒人女性﹂ ローザ・パークス? 本田氏のこの新書の第八章と九章は、それ以前の章が時代区分を意識しながら大きな脈絡の中で描か れてきた歴史だったのとは打って変わって、事件の時系列的羅列に終わり、その運動の質的転換や、そ の性格、影響の分析がほとんど見られない。この時代は、本田氏にとっては﹁同時代史﹂であり、まだ それを﹁歴史﹂として描くことがほとんど不可能だったからであろう。そのために、近年の膨大な公民 権運動史研究を総括したいくつかのアメリカにおける黒人史の描き方とはかなり異なっている。特に近 年の公民権運動研究には、冷戦下の外交政策とのかかわりや、赤狩り旋風のもとでの社会運動と言う脈 絡に置いた研究が多くなっているが、本田氏の公民権運動史には、そのような視点は全くない。 それは時代状況からして、やむを得ないことであるが、ただ、いくつか問題だと思われる記述につい てのみ指摘しておきたい。 氏は、公民権運動の発火点となったとされてきたモントゴメリー・バスボイコット運動のヒロイン、 070 ローザ・パークスのことを﹁この都市で、人種隔離の厚い壁に敢然と挑戦したのは、ダウンタウンの一 流デパートの裁縫工として勤めていた四二歳の魅力的な黒人女性、かつてNAACPのモントゴメリー 支部の書記をしたことのあるローザ・パークスであった﹂︵一七五頁︶と表現している。 些細なことであるように思われるであろうが、﹁魅力的な黒人女性﹂との表現は、革新的アメリカ史 研究者を標榜する歴史家としては、無防備な発言だと言わざるを得ない。二〇一三年二月オバマ大統領 がカリフォルニア州の司法長官カマラ・ハリス氏のことを﹁ずば抜けて美人﹂と呼び、﹁性差別的﹂だ との批判を受けて謝罪したことは記憶に新しい。 次に、氏は、 ﹁すでにこの都市には、働く黒人女性たち︱︱彼らの多くは婦人政治会議のメンバーだ った︱︱を中心とした人種差別撤廃組織が存在していた。﹂︵一七六頁︶と述べているが、これは誤った 印象を与える表現である。 おそらく多くの読者は、 ﹁ダウンタウンの一流デパートの裁縫工として勤めていた四二歳の魅力的な 黒人女性﹂であるローザ・パークスも当然ここに含まれると感じるだろう。しかし、この﹁働く女性﹂ たちが組織していた婦人政治会議メンバーの多くは、自家用車に乗り、日常的には公共バスを使うこと はめったにない黒人エリート女性︵大学教員その他の専門職︶だったのである。本田氏は、この運動が 労働者階級の運動だったとの印象を持ってこのような表現を用いたのであろう。たしかにバスをボイコ ットして長い道を歩いて頑張ったのは、家政婦を中心とする黒人女性労働者たちだった。そして、この 女性たちを上から指導していた団体のひとつが、この婦人政治会議だったのである。 しかし、この会議のメンバーたちは、この運動に加わったために職を失った﹁働く女性﹂ローザ・パ 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 071 ークスを経済的に支えることは何もしなかった。具体的には、ローザは書記の長い経験がありその能力 を証明されていたにもかかわらず、運動組織の有給の書記ポストは、ローザを素通りして、この団体の メンバーに割り当てられた。そのためパークスは、生活できなくなって、モントゴメリーを出て、結局 デトロイトに居を移さねばならなかった。 ここで見いだせることは、本田氏の黒人運動における階級的緊張関係、内部対立への視点の欠如であ る。そのことは次のワシントン行進の評価でも現れる。 ② ワシントン行進の絶賛で良いのか 次に本田氏のワシントン行進に関する叙述について述べたい。 氏は、 ﹁一九六三年は、戦後黒人解放運動における頂点であり、その歴史に最も輝かしい一ページを 刻み込んだ年である。キング牧師に象徴される非暴力的直接行動を基軸にした公民権運動は、もうそれ 以上の開花を望みえないまで最盛期に達していた。﹂︵二〇七頁︶として、ワシントン行進の集会の様子 を、あたかもその場に行って取材したかのように熱っぽく描写している。 ただし、以下の叙述﹁黒人歌手のマハリア・ジャクソンが立ってゴスペル・ソングを美しい声で歌い、 エヴァース未亡人が﹃夫の遺志を生かそう﹄と呼びかけた時には、感動のあまり頬に涙するものも見受 けられた﹂ ︵二一三頁︶は事実に反する。実際には、メドガー・エヴァース夫人は、この集会では演説 しなかったからである。集会のスケジュールの五番目で黒人女性の六人︵デイジー・ベイツ、ダイアン・ ナッシュ・ベヴェル、メドガー・エヴァース夫人、ハーバート・リー夫人、ローザ・パークス、グロー 072 リア・リチャードソン︶が紹介されることになっていたが、当初はその紹介をエヴァース夫人がする計 画だった。しかし、かの女は当日ボストンで所用があり、代わりにこの集会の準備を取り仕切ってきた ベイヤード・ラスティンがマイクの前でかの女たちを紹介した。この集会では、女性たちの要求にもか かわらず、結局一人も女性は演説しなかった。また、マハリア・ジャクソンが﹁ゴスペル・ソングを美 しい声で歌った﹂のは、黒人女性たちが紹介される前ではなく、ずっと後︵スケジュールの一四番目︶ のことだった。 ﹁感動のあまり頬に涙するもの﹂がいたのは間違いなかろうが、このような事実とは異 った描写は、文学作品ならば許されるであろうが、歴史叙述としては問題が大きい。 集会の中身について言えば、氏は、この集会で演説した主要黒人四団体代表のうち三人︵全国黒人向 上協会のロイ・ウィルキンス、人種平等会議のジェイムズ・ファーマー、南部キリスト教指導者会議の マーチン・ルーサー・キング牧師︶についてはそれぞれ演説を紹介しながら、なぜか、南部の人種差別 主義者と体を張って前面で闘ってきたもっともラディカルな学生非暴力調整委員会のジョン・ルイスの 演説の演説には触れていない。ルイスは、南部の人種差別主義者の暴力を放置してきた連邦政府を批判 し、戦闘的運動を呼びかける演説草稿を書いたが、事前に主催者の強い意向で、その内容をより穏やか で協調的なものに修正させられ、別の演説草稿を持って壇上に上がったのである。この﹁修正﹂は、こ の集会の性格を象徴的に表現していたのだが、本田氏は、そんなことはなかったように無視してしまっ た。 また、この集会はあくまでも男性中心の集会であり、すでに述べたように女性はその要求にもかかわ らず一人も演説しなかったのだが、本田氏はあたかもエヴァース夫人が演説をし、集会参加者の涙を誘 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 073 ったとの脚色までしてしまった。少なくとも本田氏には、この時点では、この集会が当時のジェンダー・ ロールの枠組みに抑え込まれていたという問題意識は全く存在していなかったようである。 すなわち、集会主催者は、ソ連との冷戦を戦うケネディー政権の許容する範囲内で﹁国民の祭典﹂と してこの集会を開催し、アメリカ民主主義の伝統を謳いあげ、さらに発展させるために公民権法が必要 だと国民に訴えようとしたのだった。この集会の名前﹁仕事と自由のためのワシントン行進﹂の前半部 分、すなわち﹁経済的平等﹂要求、具体的には、最低賃金の引き上げ、職業訓練、雇用創出のための公 共事業などの要求は、北部の白人中産階級に﹁富の再配分﹂を要求するものとみなされ公民権運動への 国民の支持を弱めるとして、抑制されたのである。この集会は、白人中産階級を中心とする国民の最大 多数の合意形成を目指し、公民権運動のひとつの頂点を示していただけでなく、運動が﹁反共ナショナ リズム﹂の枠にしっかりと押さえ込まれていたことを示していた。 それ故にこそ、早速、この集会の成功は、アメリカが人種差別の克服のために必死に努力している証 拠として世界に対して広く報道されたのだった。ソ連との冷戦を戦っていたアメリカにとっては、むき 出しの人種差別は何としても建前だけでも禁止したかったのである。本田氏の著書には、このようなワ シントン行進運動が抱えていた問題に関する指摘は、全く含まれておらず、ワシントン行進における黒 人運動の到達点を謳いあげるにとどまっている。 戦後の公民権運動に関して、どうしても指摘しておかねばならないことは、第二次世界大戦以後のア メリカ政府の公民権政策が、常に対外的世界戦略を基底にすえながら遂行されてきたことである。反フ ァシズム民主主義、および反共自由主義の旗印を掲げて戦った第二次世界大戦および冷戦を有利に推し 074 進めるためには、黒人を含む全国民の協力が必要であっただけでなく、黒人をはじめとする被差別集団 に対する差別が対外戦略上大きなマイナス要因となり、これを少なくとも﹁法的﹂には撤廃する必要が あると、政策立案者たちは強く意識していた。逆に、黒人公民権運動の指導者の中には、アメリカ政府 の弱点を利用して﹁アメリカの戦争に勝利するために﹂人種差別を解消する必要があると主張し、政府 に譲歩を求める姿がたびたび見られた。そのため、冷戦下の黒人公民権政策には、﹁反共ナショナリズム﹂ ︵冷戦を有利に展開する方向に沿って黒人の権利を保護する︶の色彩が拭いきれなかったのである。 しかし、運動の担い手たちは、差別の現場から、そして、民主主義実現の立場からこの運動に参加し、 成長したのであり、公民権政策を担っていた民主党リベラル派が遂行してきたベトナム戦争の﹁不正義﹂ を見抜き、これに反対する者も出てきた。民主党リベラル派にもっぱら依存してきた多くの黒人指導者 は、ベトナム戦争に反対することはできず、ベトナム反戦を主張し始めたキング牧師は、まもなく運動 の中心から放逐疎外されることになった。こうして、一九六八年にキング牧師が暗殺されると黒人運動 は、混乱に陥ったのである。 ③ 黒人が政治家に選出されれば、進歩が達成されるのだろうか 本田氏の著書の公民権運動以後の部分は、歴史としてではなく、その後の現状を素描するための統計 やいくつかの逸話を紹介している。 ここでは、一つだけ本田氏の認識のゆがみについてだけ触れておきたい。本田氏は、選挙によって選 出される黒人﹁公職者﹂の数は飛躍的に増大したことを指摘し、その積極的意義を強調している。しか 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 075 し、それが抱える問題点については何も語ってはいない。 たとえば、本田氏は、黒人ローレンス・ダグラス・ワイルダーが一九八九年にアメリカ史上はじめて 州知事︵ヴァージニア州︶に当選した事実を取り上げ、﹁かつての奴隷制権力のシンボルの地、南北戦 争当時の南部連合の首都リッチモンドの州庁の新しい主人の座に、かつての黒人奴隷の孫が座るなどと いうことを、二六年前のワシントン行進参加者のだれが予想したであろうか﹂︵二三四、二三五頁︶と その快挙を感動的に語っている。 しかし、現実にはワイルダーはどんな政策を執行したのだろうか。ワイルダー氏は、州知事に就任す るとその権限で次々と死刑を執行し、 ﹁法と秩序の守り手﹂であることを示して白人有権者を安心させ、 一〇代妊娠を防ぐとして黒人少女たちに強制避妊政策を実行し、さらに高速道路網整備などの公共事業 の拡大で﹁成果﹂を挙げ、多くの黒人貧困者の立ち退きを執行したのである。このような知事の当選を、 ﹁黒人にとっての進歩﹂と言えるのであろうか。 黒人が選挙で選ばれさえすれば、黒人の差別的状況の改善に役立つと考えるのは間違えである。選出 された少なくない黒人政治家が、都市財政の危機の中で、政治家として生き延びるために、一部の黒人 利権集団の利益や大資本の要求に奉仕し、大規模都市開発や厳罰化政策の先頭を切り、多くの黒人大衆 を放置したり、より一層の窮地に追い込んだりしている事実にも注目する必要がある。 076 まとめ 以上、本田氏の著書の問題点を指摘してきたが、全体としてどのようなことが言えるだろうか。 その第一は、山根氏が指摘しているように﹁﹃世界史の発展法則﹄が実在するものと信じ、そこに価 値判断上の目的を見るような立場﹂に立ち、 ﹁あらかじめ何かを排除するような機制が働﹂いているだ けでなく、 ﹁特定の事実だけを恣意的に拾い集めるような機制﹂が働いていると言わざるをえないこと である。歴史は単なる事実の羅列であっては無意味なものになってしまうが、一つの﹁論理﹂に沿う物 語を書くことも﹁科学的﹂歴史学とは言えないのである。 そして第二に、その﹁世界史の発展法則﹂は、近代への過大な期待にもとづいたものだった。そもそ も、前近代的土地所有の破棄を市民革命の課題として措定し、独立革命が前期的土地所有関係の克服を 課題としていたと規定し、南部プランテーション制度の前近代性を強調する本田氏の﹁世界史の発展法 則﹂理解には無理があった。一国内の内在的発展を何よりも重視し、世界資本主義の外在的圧力を副次 的にしか位置づけない、その方法は、日本の近代市民革命の不完全性を論証しようとする特殊日本的マ ルクス主義の目的意識に縛られた結果であろう。その論理破たんは、なお﹁前近代的﹂だと規定された 南部の刈分小作制プランテーションが、その後、本著からは消えてしまったことに如実に現れている。 そして﹁近代﹂への幻想は、啓蒙主義者ジェファソンに対する誤った事実認識に基づく過大な評価に も表れている。 第三に、本田氏の著述の中で明白な傾向として表れていることは、民衆の側の﹁弱点﹂には極力目を 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 077 つぶり、その﹁業績﹂を謳いあげていることである。しかし、そのつど指摘したように、多くの場合、 その具体性は乏しく、場合によっては﹁幻﹂を現実の歴史であるかのように描いている。このような記 述は、黒人に同情的感情を持っている読者を一時的に良い気分にさせることはできても、真に読者に科 学的確信を与えるものにはならないだろう。それはあえて言えば﹁気休め的民衆神話﹂と表現されるべ きであろう。 とくに南部の貧しい白人農民や白人労働者が持つ﹁反黒人的﹂側面については、本田氏は徹底してこ れを無視している。そして具体的根拠も示さず、黒人との連帯、歴史の進歩への貢献が繰り返された。 労働者階級や貧しい白人農民は、 ﹁潜在的な﹂進歩勢力であり、たとえ労働者が一時的に反動勢力に取 り込まれたとしても、それは﹁仮の姿﹂なのだと言うのは科学的見地とは言えまい。 近年では、デイヴィッド・R・ローディガーの著書﹃白人の割増賃金﹄︵ Wages of Whiteness ︶に刺激 ︶ されたいわゆる﹁ホワイトネス研究﹂によって、白人労働者の人種差別意識の根深さが、見直されてい る。︵ どに関する記述はあるが、概して具体性がない。 りである。たしかに、本田氏は、奴隷制廃止運動へのヨーロッパでのブルジョア民主主義革命の影響な そして第四には、アメリカの歴史を﹁一国史﹂の中に閉じ込めることによって生まれる歴史解釈の偏 のため、黒人解放運動が持つ中産階級的偏向に批判的視点を注ぐことができなかった。 とができなかったために、常に黒人を一体のものであるかのような印象を与える記述が散見される。そ また、本田氏は、黒人の間の階層分裂を無視し、黒人中産階級と黒人大衆の矛盾を的確にとらえるこ 27 078 しかも﹁ハイチ革命の成功は、その後ラテンアメリカ諸国を席巻した植民地解放闘争の突破口となっ た﹂ ︵五七頁︶という指摘は、事実に反しており、どう考えても無理である。 ハイチ革命が、ラテンアメリカの支配階級に危機感を呼び起こし、本国のナポレオンによる占領によ って後ろ盾を失ったラテンアメリカの現地支配層が、先住民や黒人の抵抗を抑えるべく、 ﹁独立﹂運動を 展開したと言うのが、ラテンアメリカ諸国の独立の実態だったからである。浜忠雄氏は、 ﹁ハイチ革命に 呼応し、あるいは多かれ少なかれその影響を受けて各地で展開された解放運動はことごとく鎮圧され失 敗に終わる。その決定的要因は、ハイチ革命に対するカウンター・レヴォルーション、つまり﹃サン= ドマングの二の舞﹄に対する警戒と﹃ハイチ型﹄の国家形成に対する忌避とに根ざした﹃対抗革命﹄がよ りいっそう強力だったことである﹂と述べ、ラテンアメリカ独立運動の指導者たちが、ハイチ革命に敵 対的な言動をしていたことについて触れている。例えば、フランシスコ・デ・ミランダは﹁神は、この ︶ 美しい国々が流血と犯罪の舞台となったサン=ドマングの二の舞になることをお許しにならない﹂と述 べ、シモン・ボリーバルは﹁黒人の蜂起はスペインの侵略より千倍も有害だ﹂と述べた。︵ また、 ﹁奴隷解放宣言﹂の発令には、当時の超大国イギリスからの軍事介入を食い止めると言う緊迫 した問題意識があったのであり、第二次大戦後の公民権政策には、冷戦が深くかかわっていたことは今 日では常識になっている。このようにアメリカの人民の抵抗運動は、アメリカ政府の﹁外交的配慮﹂を 強いてきた世界の民衆の眼に支えられてきたことをきちんと評価することによって、より正しく評価で きるし、世界の民主主義を求める民衆との相互関係も見いだせるのである。国内の﹁進歩と反動﹂の二 元的力関係だけで歴史の進歩を計測しようとする歴史学はすでに時代に乗り越えられている。 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 079 28 最後に指摘すべきは、本田氏のアメリカ黒人史にはジェンダーの視点が欠落していることである。そ れはリンチの説明などに鮮明に表れている。ただし、ジェンダーの視点の歴史研究への導入は、一九七 〇年代以後に始まったばかりのことであり、本田氏の著書がこの点を十分取り入れることができなかっ たのは必ずしも責められるべきことではない。 以上のような本田批判は、部分的にはすでに行われてきた。しかし、本田氏の著書は体系性を持って いるがゆえに多くの読者をひきつけてきたのであり、その体系的批判の必要が多くの歴史家によって感 じられていた。それにもかかわらず、近年の日本におけるアメリカ史研究の細密化と細分化によって、 個々の分野においては相当高度な研究成果が生まれているが、このような体系的批判という課題に取り 組むことが困難になっていたのである。研究者の中には、﹁本田氏のアメリカ黒人史はもはやあまりに も時代遅れになっており、それを今から掘りだして、批判の生贄にする意味がそれほどあるのだろうか。 むしろ、 ﹃古典﹄の座に置いておけばよいのではないか﹂との意見も聞かれる。しかし、本田氏のこの 新書はなお版を改め続け、アメリカの歴史に関心がある多くの人々に読み続けられているのである。 それゆえに、これをきちんと現在の歴史家の立場から批判することは、アメリカ史研究者の義務であ ると思われる。そこで、本田氏の数多くの教え子の一人であり、かつ黒人史を中心に研究してきた私は、 本田氏の歴史学に対する志に共感しつつ、あえて師を正面から批判することによって、その学恩に報い たいと考えたわけである。 ︵うえすぎ しのぶ・北海学園大学大学院教授︶ 080 ︶先ごろ、本田氏の著書と拙著をゼミで﹁比べ読み﹂をしながら読んでいるとのお便りをある友人からいただいた。 [註] ︵ ︵ ︶山根徹也﹁歴史への︽問い︾を考える︱︱歴史学の方法と現在﹂、 ﹃ 歴 史 と し て、 記 憶 と し て ︱︱﹁ 社 会 運 動 史 ﹂ そのような学生さんたちにぜひ読んでいただきたいとの思いを抱きつつ、本稿を書き進めた。 一九七〇∼一九八五﹄ ︵お茶の水書房、喜安朗・岡本充弘・谷川稔・北原敦編、二〇一三年︶ ︶二九三︱二九四頁。 ︶池澤夏樹著﹃世界文学を読みほどく﹄ ︵新潮選書、二〇〇五年︶四〇二︱四〇四頁。 ︵ ︶本田氏は、これを﹁近代的資本主義﹂ではなく﹁前期的資本﹂と見なしているようであるが、それについては後 ︵ に触れる。 ︵ ︶鈴木圭介編﹃アメリカ経済史﹄ ︵東京大学出版会、一九七二年︶一九︱四三頁。 ︵ ︶同上、四三、四四頁。 ︵ ︶エリック・フォナー著・横山良他訳﹃アメリカ自由の物語︱︱植民地時代から現代まで﹄上︵岩波書店、二〇〇 ︵ Patricia C. McKissack & Frederick L. McKissack, Black Hands, White Sails: The Story of African- ︶ た だ し、 彼 が 革 命 の 理 論 的 指 導 者 で も あ っ た サ ミ ュ エ ル・ ア ダ ム ズ の 激 し い 演 説 を 聞 き、 知 り 合 い だ っ た と 八年︶ 、一三頁。 い う 説 も あ る。 しかし、このような事実は容易に論証することができない。一八五 American Whalers, Scholastic Press, 1999, p.20. 〇年代の奴隷制廃止運動の高揚の中で、クリスパス・アタクスが独立革命の殉教者に祀り上げられる過程で、作り 上げられた逸話である可能性が強い。また、彼が、 ﹁自由の息子たち﹂の活動家だったという記録は今のところ示さ Henry Louis Gates, Jr., Life Upon These Shores : Looking at African American History, 1513-2008, れていない。そもそも﹁自由の息子たち﹂というのははっきりした会員制の組織ではなく、一般名詞として使われ ていたようである。 Alfred A. Knopf, 2011, pp.29, 30. ︵ ︶彼は、その著書で﹁共産党内でも一九三〇年代に知識人の勢力が拡大すると、ある反知性主義的傾向、特にプロ レタリアート崇拝が支配的となった。・・・多くの作家はひどく感傷的な考えに陥った。労働者階級はその苦難と ﹃歴史的使命﹄によって、 中産階級の知識人とくらべはるかにすぐれた固有の道徳を備えているという考え方である。 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 081 1 2 3 4 5 6 7 8 9 自らの穢れた出自とその中産階級的性格の罪ほろぼしのため、こうした知識人の多くが党に何らかの奉仕を行うこ とで、労働者階級に自らをささげなければならないと感じていた。・・・当時の共産党も、・・・自立的精神の流入 で党内秩序に危機がもたらされることを鋭く感得していたので、知識人をおとなしくさせておく手段として彼らの 罪悪感と自己嫌悪を利用する戦略を取った﹂と述べ、マルクス主義者の﹁反知性主義﹂的傾向の実態を巧みに描い ている。リチャード・フォーフスタッター著・田村哲訳﹃反知性主義﹄ ︵みすず書房、二〇〇三年︶ 、二五六︱二六 〇頁。 ︵ ︶大陸軍に五〇〇〇人、同盟軍に七〇〇人の黒人が参加したとされているが、必ずしも当時の軍隊では人種別統計 をとっていなかったので確かな数字は分からない。ちなみにイギリス軍に加わって様々な作業に従事した黒人は二 ︶確かに、黒人奴隷制を﹁前期的資本﹂の産物とみなし、﹁近代﹂はそれを克服する力だと解釈することも可能か 万人とされている。 もしれない。しかし、そうすると、 ﹁啓蒙主義﹂はその解釈のもとでは、 ﹁前近代的﹂なものとならざるを得なくなる。 ︶エリック・フォナー著・森本奈理訳﹃業火の試練︱︱エイブラハム・リンカンとアメリカ奴隷制﹄︵白水社、二 海学園学術研究助成共同研究報告書、二〇一二年三月︶二五︱三〇頁、参照。 〇一三年七月︶一〇四、一〇五頁。 ︵ ︶白人奴隷制廃止主義者ウィリアム・ロイド・ギャリソンは、合衆国憲法は奴隷制を容認しており、その破棄が必 ︵ ︵ ︶濱 ︹浜︺ 忠雄﹁ハイチから﹃新人文主義﹄を考える﹂ ﹃新人文主義の位相︱︱基礎的課題﹄︵平成二二・二三年度北 ︵ 10 11 12 13 ︵ ︶ Oxford University Press, 2001. ︵ ︶浜忠雄﹃ハイチ革命とフランス革命﹄ ︵北海道大学図書刊行会、一九九九年︶二〇五頁。 Don E. Fehrenbacher, The Slaveholding Republic : An Account of the United States Government’s Relations to Slavery, 奴隷制廃止を実現する立場に立っていた。 要だと主張し、実際公衆の面前で、その文書を破り捨てたが、黒人指導者フレデリック・ダグラスは、憲法に依拠して、 14 15 する方が労働力のコストを削減することができたからである。 ︵ ︶小麦生産の場合には、農繁期が集中する傾向があり、奴隷を一年中維持するよりは、農繁期にだけ賃労働を雇用 17 16 082 ︵ ︶奴隷の高価での売却が可能となると、それまでの奴隷の個人的解放︵奴隷の維持コスト負担より、賃労働者化す る道を選んだ結果でもある︶は影をひそめ、奴隷の﹁増埴と売却﹂が急増した。 ︵ ︶奴隷貿易禁止条約に基づいた奴隷貿易禁圧を口実としたイギリス海軍のアフリカ沖での展開を通じて、アフリカ 諸国に対する介入が強化され、アフリカの植民地化への道が付けられることになる。 ︵ ︶本田創造﹃アメリカ南部奴隷制社会の経済構造﹄ ︵一橋大学経済研究叢書、一九六四年︶ 九七二年︶二〇四、二二〇頁。 ︵ ︶宮野啓示﹁南部におけるプランテーション奴隷制の確立﹂ ﹃アメリカ経済史﹄ ︵鈴木圭介編、東京大学出版会、一 ︵ ︶ なお、 本田氏は触れていないが、 近年の奴隷制研究では、 その暴力支配が、 黒人女性に対する性的搾取と結びついて、 奴隷制社会を維持強化してきたことが強調されている。特に北アメリカでの黒人奴隷の高い人口増加率は、そのプ ラ ン テ ー シ ョ ン 奴 隷 制 の 引 き 続 く 膨 張 を 保 障 し て き た 重 要 な 要 因 で あ り、 奴 隷 家 族 の 分 断 と 国 内 奴 隷 貿 易 の 大 規 模 な展開とともに、北アメリカ黒人奴隷制の特徴となっている。 ︵ Routledge, 1995 ︶ , pp.6-31. ︵ ︶ Noel Ignatiev, How the Irish Become White, ︵ ︶エリック・フォナー、前掲書、二九一頁。 Eric Foner, Reconstruction: America s Unfinished Revolution, 1863-1877, Harpers & Row, 1988, p.238. ︶ 上 杉 忍﹃ 公 民 権 運 動への 道 ︱︱ アメリ カ 南 部 農 村 に お け る 黒 人 の 闘 い ﹄︵ 岩 波 書 店、 一 九 九 八 年 ︶一 〇 七 ︱ 一 一 ︵ ︶ ︵ 三頁。 Jack Abramowitz, The Negro in Agrarian Revolt, Agricultural History, 24, April 1950, do, The Negro in the Populist Movement, Journal of Negro History, July 1950, August Meier, Negro Thought in America, 1880-1915: Radical Ideologies in the Age of Booker T. Washington, University of Michigan Press, 1963, pp.100-118, August Meier and Elliott Rudwick, From Plantation to Ghetto; An Interpretative History of American Negroes, Hill & Wang, 1966, p. 180, William F. Holmes, The Laflore County Massacre and the Demise of the Colored Farmers Alliance, Phylon, 34, September 1973. ︵ ︶デイヴィッド・R・ローディガー著・小原他訳﹃アメリカにおける白人意識の構築︱︱労働者階級の形成と人種﹄ ︵明石書店、二〇〇六年︶ 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか 083 18 19 21 20 22 26 25 24 23 27 ︵ ︶この本田氏のラテンアメリカ革命論には、再び、近代啓蒙主義に対する幻想が、はっきり読み取れる。しかし、 波書店、二〇〇三年︶ 、一八六頁︱一九二頁。 実際には近代ブルジョア革命は、黒人奴隷反乱とは明確に敵対していたのである。浜忠雄﹃カリブからの問い﹄︵岩 28 084 085 本田創造 著『アメリカ黒人の歴史 新版』は、なぜ書き直されねばならなかったのか [論文] リチャード・キャヴェルの ﹃空間におけるマクルーハン﹄ について 柴田 崇 をめぐるマクルーハン研究の検証 extension │ はじめに ﹂という概念に基づく身体論によって構成されている。ここであえて extension ︶の思想には少なくとも一つの理論を認められる。本稿で取り上げるマクルーハンの理論 1979 個 々 の 事 実 を 統 一 的 に 説 明 す る 体 系 を 理 論 と 呼 ぶ な ら ば、 M・ マ ク ル ー ハ ン︵ Marshall McLuhan ∼ 1911 は、 ﹁エクステンション ﹁ 構 成 ﹂ と 言 っ た の に は 訳 が あ る。 マ ク ル ー ハ ン の 思 想 に お け る エ ク ス テ ン シ ョ ン は 少 な く と も 三 つ の 意味に分節でき、三つの意味からなる身体論の組み合わせによって理論が構成されているからである。 単に複数の意味を重ねるのではなく、複数の意味の構成による立体的な構造が存在する点に、マクルー 086 ハンの理論の特徴がある。 以上の理論については、既に別稿︵ ﹃マクルーハンとメディア論﹄︶で詳しく論じた。同書では、理論 の論証に加え、これまでのマクルーハン研究において上記の意味での理論研究がいかに疎かになってき たかも書いた。確かに、エクステンションに注目した先行研究はある。しかし、それら大部分が、この 概念がマクルーハンの理論を理解する手がかりになることを見落としており、一つ、または二つの意味 を分節するだけで満足してしまっていた。同書の主題は、三つのエクステンションを分節した上で、そ れらが構成する理論構造を提示するところにあったが、この主題は、これまでに書き綴ってきた小論を 集成するのに十分な字数を著書という体裁で与えられたことによって達成できた。 とはいえ、 ﹃マクルーハンとメディア論﹄では、一冊の著書として主題の一貫性を優先せざるを得なか った。論証に直接関わる議論を球体の太陽に喩えるならば、太陽の周囲に見える暈︵光軸︶の議論、特 Richard に先行研究の紹介と検証を割愛せざるを得なかった嫌いがある。本稿の目的は、 ﹁エクステンション﹂ に 注 目 し た 先 行 研 究 の う ち、 最 も 問 題 の 核 心 に 接 近 し た と 思 わ れ る カ ナ ダ の R ・ キ ャ ヴ ェ ル ︵ ︵ ︶ Cavell ︶の議論を紹介し、その成果と課題を検証するところにある。 論述の便宜上、本稿でも﹃マクルーハンとメディア論﹄で展開した議論を再録することになる。三つ の意味への分節を中心にした﹁エクステンション﹂の議論には、方法論上、その起源を特定する手続き が随伴する。正統な系譜を描く作業は、同時に、正統から外れる異端を描く作業にもなる。同書では、 正統を明確にすべく、異端に属する文献を可能な限り網羅したが、小論の体裁の本稿にはその余裕はな い。したがって、第一章では、本稿の議論に必要な範囲で、同書で展開した﹁エクステンション﹂に関 “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 087 1 する知見を抜粋して示すに留める。次いで第二章でエクステンションに着目したキャヴェルの議論を紹 介し、第三章で、第一章の知見に基づいてキャヴェルの議論を検証する。 ﹃マクルーハンとメディア論﹄でマクルーハンの思想の理論的側面を論じ尽くした直後に発表する本 稿は、まず、同書の補遺の性格を持つ。テクスト内の構造分析に特化しがちな理論研究は、テクストが 置かれた文脈を捨象する危険を常にともなう。この点を想起するならば、マクルーハンの理論研究も、 テクストの外にあるジャンルの観点、この場合はマクルーハン研究の観点から理論を捉えなおす作業を 経て初めて完成する。理論研究の核であるエクステンションについて最良の先行研究を紹介する本稿 は、書き落とした事項のまとめという以上に、同書を完成させるピースの一つであると言える。他方、 小論の体裁であることを理由に、本稿ではエクステンションの異端の議論を割愛してある。以上の意味 で、本稿は同書と相補的な関係にある。現時点での十全なマクルーハン理解のために、同書を併せて読 まれることをお願いしたい。 1.マクルーハンの思想における﹁エクステンション﹂ 第一章の主題は、マクルーハンの思想から分節できる三つのエクステンションを紹介するところにあ るが、エクステンションがマクルーハン研究の重要課題の一つであることを確認するために、この概念 の﹁起源﹂と先取権をめぐる論争を概観しておきたい。 ∼ Edward Twitchell Hall 1914 ︶の﹃沈黙のことば﹄︵ 2009 ︶から The Silent language, 1959 マクルーハンは、 ﹃グーテンベルクの銀河系﹄ ︵ The Gutenberg galaxy, 1962 ︶の中で文化人類学者のE・ T・ホール︵ 088 と見做 extensions ︶ エクステンションを含む文章を引用している︵ 。 引用の要諦をなすのが、﹁すべての人工物は、かつて 人間が身体、または身体の特定の箇所を使って行っていたことのエクステンション ﹂し、本来身体が行うべき仕事を人工物に代行させてきた。例えば、 extend せる﹂ ︵ McLuhan, 1962, p.4 ︶という箇所である。ホールによれば、道具をつくる動物の人間は、身体の ある部分を﹁エクステンド 今日の発達した輸送網は、かつてわれわれが足と背で行っていたことのエクステンションである。この ︶ 意味で、ホールにとってすべての人工物は人間の身体のエクステンションなのである︵ 。 ︶ クルーハンの記述からホールと同じ用法を見つけ出すこともできる︵ 。 とはいえ、後述するように、 エクステンションの語の使用にあたってマクルーハンがホールを参照したのは間違いない。また、マ 3 ﹁ ﹂︵ uttering ︶ と 言 い 換 え、 McLuhan, 1962, p.5 ︶と同義で使用する一方、﹃沈黙のことば﹄にはこの言い換えは登場し op. cit., p.265 、 あ る い は、 こ と ば に 表 出 さ れ た も の outering ﹂ ︵ externalization の外化 た か ら で あ る。 マ ク ル ー ハ ン は、﹃ グ ー テ ン ベ ル ク の 銀 河 系 ﹄ の 段 階 で、 エ ク ス テ ン シ ョ ン を﹁ 感 覚 は、当初から、言語や発話などの非物質的なものもエクステンションで記述できる人工物に含めてい ル が エ ク ス テ ン シ ョ ン で 記 述 さ れ る 人 工 物 を 物 質 的 な も の に 限 定 し て い た の に 対 し、 マ ク ル ー ハ ン 論争が起きた時期に限定しても、マクルーハンの剽窃を難じるのは無理がある。というのも、ホー るが、その時期はマクルーハンが三つの意味を提示した後である。 では、上記の意味でしかエクステンションを使っておらず、後年、この概念を複数の意味で使用し始め マクルーハンが使うエクステンションには少なくとも三つの意味がある。ホールは、﹃沈黙のことば﹄ 4 ない。論争の時点で二人は別の意味でこの語を使用しており、その後、ホールがマクルーハンと類似す “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 089 2 る意味でエクステンションの語を使い始たことで論争が複雑化したというのが事実なのである。 結局、両者の間で論争に決着は着かなかった。にもかかわらず、マクルーハン研究の分野では次第に ﹁マクルーハンの無断使用﹂が定説になっていった。一九六三年以降のマクルーハン研究を集めた﹃マ クルーハン 賛成? 反対?﹄ ︵ McLuhan : pro & con, 1968 ︶には編者による﹁現在までの伝記﹂ ︵ “Current ︶ が収められているが、そこではホールの主張が全面的に支持されている︵ 。 以後、 ︵ ︶ ︶ biography”, 1967 6 7 ︶を マ ク ル ー ハ ン と 共 著 し た B・ ネ ヴ ィ ッ ト︵ Take today, 1972 ︵ ︶ Barrington Nevitt ︶ 8 ∼ Edmund Carpenter 1922 と innering ︶。﹃ 探 究 ﹄ Hall, 1994, p.149 のプロセ outering と呼んでいた。悩みの種は、このメタファーが人々 outering ︶ ︶も、その後、ホールの総括を追認した︵ 。 2011 マクルーハンは最期までエクステンションの起源にこだわり続けた。そのこだわりには相応の理由が 9 あったはずである。以下、エクステンションの起源を探る作業を行い、こだわりの理由を解明する作業 ︵ 誌︵ Explorations ︶の創刊に携わって以来、マクルーハンと数々の共同研究を行ったE・カーペンター ス を 表 現 で き て、 な お か つ 一 般 人 に も 理 解 し や す く す る ヒ ン ト を 得 た ﹂︵ に 理 解 さ れ に く い こ と だ っ た。 私 の﹃ 沈 黙 の こ と ば ﹄ を 読 ん だ 彼 は、 innering と 格闘していた。彼はそれらを が、 同 書 は 当 事 者 で あ る ホ ー ル に 論 争 を 総 括 さ せ た。﹁ マ ー シ ャ ル は 早 い 時 期 か ら 二 つ の プ ロ セ ス と は、一九九四年に﹃マクルーハンとは何者だったのか?﹄︵ Who was Marshall McLuhan? ︶を編集した ﹃今を掴め﹄ ︵ マクルーハンの死後、彼の共同研究者や弟子たちとホールの間でこの論争の﹁和解﹂が成立する。 の攻撃目標になった。 エクステンションは、マクルーハンの無断使用癖への批判 ︵ ︶を中心に、反対論者︵ con ︶たちの格好 5 090 ﹂し、﹁拡張 substitute に取り掛かる。まず手始めに、ホールのエクステンションからこの語の系譜を辿り、その意味を画定し てみよう。 1︱1.拡張 ホールのエクステンションは、道具が本来人間の身体に備わった機能を﹁代行 ﹂することに重点が置かれていた。この意味と論理を持つエクステンションを、以下﹁拡張﹂と extend 表記する。道具が人間の仕事を代行し、人間に備わる機能や能力を拡張するという議論は、実は、ホー ∼︶ Simon Ramo 1913 ルに特有なものではなく、同時代に限定しても、コンピューターの未来を考えた論者たちの記述に多く 登場する。 一九四〇年代にマイクロ波とミサイル技術の開発に能力を発揮したS・ラモ︵ は、一九五〇年代から六〇年代には、草創期にあったコンピューター技術の利用法についても数々の論 文を発表するなど、コンピューター開発を主導した一人だった。コンピューターという新技術の未来像 を構想する際にラモが使用したのも、拡張のエクステンションだった。 一九六五年の﹁知的道具としてのコンピューター﹂には、﹁機械、そして情報処理における人間と機 は、今世紀︵二〇世紀︶の主要な技 extension ︶という予測とともに、本、ノート、計算尺やレジス Ramo, 1969 (1965), p.47 械のパートナーシップによる人間の知性の大規模な拡張 術的進歩になるだろう﹂ ︵ “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 091 ターが人間の脳の拡張であるのと同じく、諸々の電子システムは人間の脳のより広範な拡張である、と ︶ いう拡張の道具観が見られる︵ 。 一九六三年の﹁システム工学の本質﹂には、さらに明快に拡張の原 10 Ramo, 理が記述されている。 ﹁私たちは長い間、筋肉の機械による拡張と置き換えを経験してきた。そして今 日、機械の方が人間よりうまく遂行する機能を取捨選択するのがよい工学技術の条件である﹂︵ ︶ 。 こ れ ま で 人 間 は、 筋 肉 を 使 う 仕 事 を 機 械 に 置 き 換 え る ︵ 代 行 さ せ る ︶ こ と で 筋 肉 1969(1963), p.376 の機能を拡張してきた。ラモはこの発想を敷衍し、コンピューターが発達しつつあった時代に、脳と感 覚を使う仕事を機械に置き換える方法を模索したのである。 代行による拡張のエクステンションは、既に一九五〇年代後半には特異なものではなかった。コン ピューターにより人間の知性を拡張するという発想の嚆矢は、V・ブッシュ︵ Vannevar Bush 1890 ∼ ︶の知性増幅機械︵ IA : Intelligence Amplifier ︶にある。ブッシュは、﹁われらが思考するごとく﹂ ︵ “As 1974 ∼ Douglas Engelbert 1925 ︶は、後に、マウス 2013 ︶の中で、記憶拡張装置︵ memex : memory extender ︶の構想を提唱した。また、 we may think”, 1945 ブッシュとラモに触発されたD・エンゲルバート︵ A conceptual framework for やウィンドウの発明者としてコンピューターの歴史に名を刻むことになる。一九六二年にエンゲルバー トが著した論文もまた﹁人間の知性を増強するための概念フレームワーク ﹂、﹁増強 extend ﹂、﹁増幅 augment ﹂、﹁向 amplify ﹂と題されていた。ブッシュ、ラモ、エンゲルバートのいずれもが、 the augmentation of men’s intellect ﹂する可能性を論じた。 enhance コンピューターとの分業によって人間の知性を﹁拡張 上 ︶は、一九二〇年代に代行と拡 1971 拡張の系譜は、一九五〇年代からさらに遡ることができる。唯物論の立場から科学技術を論じたイギ リスの物理学者J ・D・バナール︵ John Desmond Bernal 1901 ∼ 張をもとに技術を考察し、大工業時代の後に来る未来を予測したが、拡張から人工物を考える視点は、 092 二 〇 世 紀 初 頭 の 技 術 哲 学 に 広 く 見 ら れ る も の だ っ た。 例 え ば、U・ ヴ ェ ン ト︵ ∼ Karl Marx 1818 ︵ ︶ Urich Wendt ︶ は、 ︶。ヴェントの技術哲学も、﹁粗野 op. cit. p.33 ︶の﹃資本論﹄ ︵ 1883 ∼ Das kapital, 1867 り分けることで労働力全体の量と質が拡張するという論理から成り立っている。 代行と拡張の論理は、K・マルクス︵ ︶ にも登場する︵ 。 大工業時代の機械装置を分析したマルクスは、機械装置が、労働対象に働きかける ︶ 1894 で単調な労働﹂を機械に代行させ、代行によって生じた人間の労働力をより思惟的で精神的な活動に振 的な労働水準を常に高める。これは技術の本質である﹂︵ とを目指しているのである﹂ ︵ヴェント , 1906 三枝他訳 , 1953, pp.32-33 ︶。﹁技術はそのもろもろの発明 によって人間労働力を絶えずより高い課題へと導き、絶えず筋肉力を少なく思惟力を多く要求し、平均 労働力を節約し、筋力を少なく、思惟力を多く要求する一層高尚な労働型式へこの労働力を解放するこ 仕事部屋と労働部屋とをもった地上工事、広大な焚火および照明装置など、これらはすべて人間の機械 またこの方向に働くのである。たとえば運輸機関の改善、道路、海、運河の諸工事の改善、河川の修理、 より精神化された活動へ解放される。単に機械のみがこの方向に働くのではなく、一切の技術的操作も 野で単調な労働は絶えずますます機械の世界へ引込まれ、そして人間労働力は絶えず肉体的により楽で 働力はより機械的な形態を保持するのではなく、反対により精神化された形態を保持するのである。粗 技術の進歩を精神化の進展と考え、機械化について次のように説明している。﹁機械によって人間の労 11 道具機、原動力を供給する動力機、そして両者をつなぐ配力機構で構成されていることに着目する。そ の上で、機械装置の成立を、まず、それまで人間によって操作されていた道具が機械装置の道具に転化 ︶ し、次いで、原動力を供給する動力機が転化される歴史であったと指摘する︵ 。 こ こ で も、 手 工 業 の 13 “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 093 12 道具から大工業の機械への発展が、人間が身体とは別の機構に仕事を移行し、代行させ、それまでの機 ︶ 能を拡張するプロセスとして捉えられている︵ 。 ︶の﹃パイドロス﹄︵ Phaedrus ︶に 347? B.C. ︶ 見であって、真実の知恵ではない﹂から、文字には、テウトの言うのとは逆の影響があると反論する︵ 。 分の力によって内から思い出すことをしないようになるから﹂、また、その場合の﹁知恵は、知恵の外 思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自 記憶力を高めるものとして文字を披露する。これに対し、タモスは、﹁書いたものを信頼して、ものを まで遡る。 ﹃パイドロス﹄では、エジプトの発明神テウトがエジプト王タモスに、エジプト人の知恵と 拡張の﹁原型﹂探しは、プラトン︵ Plato/ Platoˉn 427? ∼ 14 ︶ イボーグ論でも中心的な役割を果たしている︵ 。 このように、拡張は、プラトンの思想にその原型を 者のK・ウォーリック︵ Kevin Warwick 1954 ∼︶が﹃私はサイボーグ﹄︵ I, cyborg, 2002 ︶で展開したサ 拡張は、新しい技術を記述する際に使われるオーソドクスな概念で、最近では、サイバネティクス学 るいは縮小︶されることの二点が主題になっている。 ここでも、道具が人間の機能︵知恵と記憶力︶を代行すること、その結果として、本来の機能が拡張︵あ 15 ﹂ ︵ uttering ︶や、 ﹁ externalization ﹂ ︵ McLuhan, 1962, p.5 方、マクルーハンのエクステンションは﹁感覚の外化 ︶に言い換えられており、一見して、 op. cit., p.265 、あるいは、ことばに表出されたもの outering 論争の開始時期に用法について言えば、ホールのエクステンションは完全にこの系譜に属する。他 概念について使用の後先を論じるとすれば、その論争は不毛といわざるを得ない。 求められ、以来、各時代の技術水準を反映しながら使われてきた。最もオーソドクスで最もありふれた 16 094 拡張に回収できない意味を含んでいる。 と innering のプロセスを表現 outering ︶。明らかに拡張と異な Hall, 1994, p.149 と innering と呼んでいた。悩みの種は、このメタファーが人々に理 outering ホールによる論争の総括をもう一度見てみよう。﹁マーシャルは早い時期から二つのプロセスと格闘 していた。彼はそれらを 解されにくいことだった。私の﹃沈黙のことば﹄を読んだ彼は、 できて、なおかつ一般人にも理解しやすくするヒントを得た﹂ ︵ る意味が含まれるにもかかわらず、ホールの総括で論争が決着したのは、引用中の意味が拡張のヴァリ エーションの一つと見做されたからだと推測できる。結論を言うと、マクルーハンの発言からは拡張と は別系統のエクステンションを分節できる。以下、拡張と同じく系譜をたどる作業を通じて、この点を 明らかにしたい。 ホールも指摘したように、マクルーハンのエクステンションは、 outering 、および を内化、 innering に externalization 1︱2.外化 と対で使用されている。暫定的に、 innering 言い換え可能であり、さらにそれらは を外化と訳出しよう。 outering と言い換えられているのと即応して、内化 externalization お interiorization は、 わ れ わ れ の interiorization の 議 論 を 踏 ま え る と、 ︶ に言い換えられている。 ﹁ ﹃文字﹄のようなメディアの interiorization ﹃グーテンベルクの銀河系﹄では、外化が が 感 覚 比 率 を 変 え、 精 神 活 動 を 変 容 さ せ る か?﹂ と 題 し た 節︵ よび内化とは、ある文化圏に新しい技術が導入され、人々がその技術を慣習的に使用するようになる状 “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 095 17 態を指すのが分かる。内化の結果、感覚間の比率が変化し、精神活動の変容としてあらわれる。 す る と、 当 該 文 化 の extend では、外化は一体何を指すのか。それを理解する手がかりが、次の引用にある。﹁簡単に言うと、あ る新しい技術によって一つまたは複数の感覚をわれわれの外にある社会に したものを指す。引用の主題は、人工物が社会に産 extend 内部で、人々の感覚間に新しい比率が形成される︵ The Gutenberg galaxy, p.41 ︶﹂。新しい技術は、一つ または複数の感覚を身体の内部から外部に 出される様子の描写にある。内化と併せて解釈すると、社会に生み出された新しい人工物、すなわち身 は、第一義的に﹁内なるものを外に出す﹂=﹁外化﹂を意味している点であり、内 extend 体から外化した人工物が内化されることで、人々の感覚間に新しい比率が形成される、となる。 引用中の ︶ 化と対になって人工物が人々に影響を及ぼす因果を描写している点である︵ 。 これらの点を導きの糸 ∼ Ernst Kapp 1808 ︶の器官射影 1896 の ア イ デ ィ ア で あ る。 カ Organprojektion , 1977, p. 229/ ︶してつくられてきた。そこからカップは、道具を検証すれば体の内部機構を明 Kapp, 1877, pp. 29-30 ︶﹂︵三枝 Hervorwerfen, Hervorstellen, Hinausversetzen und eines Innerlichen ins Äussere 射影︵ ﹁内なるものを外へ投げ出す、前の方へ と 投 げ 出 す、 前 方 へ す え る、 外 へ う つ す︵ das Vor-oder と を 出 発 点 に す る。 道 具 は 人 体 を 意 識 的 に 模 倣 し て つ く ら れ た の で は な く 、 無 意 識 的 に 体 内 の 機 構 を ッ プ の 器 官 射 影 説 は、 人 体 の 諸 器 官 と 外 界 に 存 在 す る 道 具 が 形 態 、 機 構 の 点 で 類 似 性 を 持 っ て い る こ れ は、 E・ カ ッ プ︵ 技術哲学の歴史をひもとくと、マクルーハンが依拠したと思しき思想の系譜に容易に出会える。そ ションの存在が証明できるだろう。 として拡張とは別の系譜がたどれれば、マクルーハンの意図、すなわち拡張に還元されないエクステン 18 096 らかにできるのではないかと考えた。 ﹁ ﹃視覚器官がひとそろいの力学的仕掛でもって射影を実現し、そ してそれの解剖学的構造に戻してみた関係を知らせてくれるようになってきてはじめて、視覚器官の生 理学的謎が解かれることができたのである。人間は、無意識的に生理的な視覚器官にならって形づくっ ︶とJ・V・ポンスレ︵ 1818 。 , 1977, p. 232/ Kapp, 1877, p. ︶ 79 ∼ Gaspard Monge 1746 Jean た器械から、こんどは意識的なやり方で眼の中にある光線屈折のもともとの発生点へ、つまり﹃水晶体﹄ へと、名まえを移したのである﹄ ﹂ ︵三枝 射影幾何学の起源が一九世紀前半のモンジュ︵ ︶、G・デザル 1662 ︶を経てルネッサンス期のイタリアの透視図法、遠近法などの実用 1661 ︶の画法幾何学からB・パスカル︵ Blaise Pascal 1623 ∼ 1867 ∼ Girard Desargues 1591 ∼ Victor Poncelet 1788 ク︵ 幾何学に遡れることを考えれば、器官射影説に流れ込む系譜を外化の源流と見做すのには相応の説得力 ∼ Hippocrates/ Hippokráteˉs 460? ︶を 377? B.C. がある。しかし、器官射影説をより深化させた構図を持ちながら、西洋思想のさらなる古層を流れる系 譜が存在する。それが、古代ギリシャのヒポクラテス︵ ∼︶は、X線CT やMRIなどを駆使する現代 François Dagognet 1924 水源とする医学思想の系譜である。 科学哲学者のF・ダゴニェ︵ 金森訳 , 1996 , 1998, p. ではありませ extérioriser の医療技術について次のように述べている。 ﹁現代医学は、身体を外化しながらも、内部から読解する ための多くの手段をもっています。それは何も身体を文字通り外化すること ん。それはあくまで、内部を表す外なのです﹂︵ Dagognet, 1996, p.24/ ダゴニェ ︶ 。ここでダゴニェが前提にしている外化の発想は、西洋医学の祖とされるヒポクラテスの記述にも 20 見出せる。 ﹁何を見るのにも視覚によるのが誰にとってもいちばん良いのであるが、膿瘍の患者や肝臓 “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 097 もしくは腎臓の患者、総じて体腔部に疾患のある患者については目で見るわけには行かない。それにも かかわらず、医術は援けになる他の諸手段を発見したのである。すなわち音声の清濁、呼吸の遅速、そ れぞれ与えられた出口から排出される各種の体液の臭い、色、濃淡などの徴候を目安にして、すでに犯 されている体の部位や、これから犯され得る体の部位を判断するのである。もしこれらの徴候のないば ︶。医術は、まずは、身 , 1976, p.97 あいと、自然︵身体︶がおのずとそれらの徴候を示さないばあいには、人体に害をおよぼすことを避け ながら強制的に排泄させる方法を発見した﹂ ︵ヒポクラテス 小 , 川訳 体が自ずと外化した物質を手がかりに、体内の状態を判断する技術である。しかし、もし身体が内部を 知る手がかりとなる物質を自ずと外化しない場合には、人体に害のない範囲で、例えば、酸性の食物や 飲物を飲ませるなどの手立てで身体に働きかけて強制的に外化を促す技術も備えている。意識的に外化 を促して内部を知ろうとする医術の最先端に、文字通り身体の組織を外化させるのではなく、X線や高 周波磁界を使って非侵襲的に、映像という表象の外化を実現した現代の医療技術が位置しているのであ る。 ヒポクラテスとカップの発想は、外化したものが内部を知るための手がかりになるという点で共通し ている。但し、外部からの働きかけで外化を意識的に引き起こせるとする点はカップの器官射影説にな い。前者が後者の論理を包摂する点を考えると、ヒポクラテスを外化の起源と見做して問題ないだろう。 カ ッ プ が 器 官 射 影 説 を 構 想 し た 当 時、 医 学 思 想 の 系 譜 が た び た び 文 化 の 表 層 に 現 わ れ て い た こ と を が生理学者たちや心理学者たちから用いられ Projektion 示す記述が存在する。 ﹁カップは、感覚の外的なものへの関係を説明するために、なおまた一般に私た ちが表象をつくり出すことに対して、この語 098 ていることを指摘している﹂ ︵三枝 ∼ Sigmund Freud 1856 ︶の思想に 1939 Claude ︶。カップ自身は固有名をあげ , 1977, p.229. c.f. Kapp, 1877, pp.29-30 ︶の他、やや時代は下るがS・フロイト︵ 1878 て い な い が、 外 化 に 相 当 す る 発 想 は、 実 験 医 学 の 提 唱 者 と し て 名 声 を 博 し た C ・ ベ ル ナ ー ル ︵ ∼ Bernard 1813 の語を用いた。ここでも投影は、無意識を含む内部過程を解明する手がかりとし projection もみられる。フロイトは、内部の好ましくない感情を無意識的に抑圧して外部の対象に帰属させる防衛 機制に投影 ︶ て捉えられている︵ 。 外化のアイディアは、ヒポクラテス以来、時に伏在し、時に顕在しながらヨーロッパ思想界に連綿と 受け継がれてきた。マクルーハンが依拠したのは、この系譜のエクステンションなのである。その証拠 に、マクルーハンの著書における外化の概念は、﹃グーテンベルクの銀河系﹄以後、﹁内なるものを外に ︶ 出す﹂というベクトルを逆転し、身体内部を解明する意味で使用されるようになるのである︵ 。 ︶ のエクステンションには内部を知ろうとする契機が一切含まれていない︵ 。 ホ ー ル は、 意 識 的 に そ れ る。ホールは晩年、人工物の産出を描写するためにエクステンションを使用し始める。しかし、ホール マ ク ル ー ハ ン の 外 化 は、 こ の 概 念 に 特 有 の 論 理 を 正 確 に 継 承 し た と い う 意 味 で 正 統 に 位 置 づ け ら れ 20 ションは、マクルーハンのオリジナルではなく、外化の正統に位置づけられるアイディアである。マク 論争の決着については贅言を要しないだろう。一つ確認しておくならば、マクルーハンのエクステン のである。 を行ったかは疑わしいが、拡張に別の意味を上書きしつつエクスステンションの先取権を主張し続けた 21 ルーハンが主張しうるのは、外化の著作権ではなく、外化の系統の嗣子としての地位にすぎない。 “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 099 19 さ て、 マ ク ル ー ハ ン の 思 想 を 特 徴 付 け る の は 、 外 化 の ア イ デ ィ ア を 継 承 し た と い う 事 実 だ け で は な い。以下に説明するように、マクルーハンの著作からは、拡張と外化以外の、第三のエクステンション が分節できるのである。とはいえ、マクルーハンは、三つのエクステンションで人工物を重ね描いたわ けではない。エクステンションに焦点を絞ることで見えてくるマクルーハンの思想の特異性は、三つの エクステンションを立体的に組み合わせて理論を構築したところにあった。一九七〇年の著作で完成す る﹁探索の原理﹂がその理論である。 本稿で﹁探索の原理﹂の形成過程を追跡し、その全貌を提示する余裕はない。 ﹁探索の原理﹂の掉尾を飾る第三のエクステンションを概観するに留めたい。 1︱3.延長 第三のエクステンションは、道具使用の記述で頻繁に使用されるアイディアである。道具を使いこな すとき、その道具が、あたかも身体の一部になったかのように感じる。このような現象は、盲人にとっ ての杖、剣の達人にとっての刀などの比較的単純な機構のものから、自動車や重機、航空機などの複雑 や M・ メ ル ロ ー ︶ な機構を持つものにまで見られる。道具が身体の一部になり、道具の先端まで身体の感覚が伸びている ︶︵ 1969 ︶も延長で 1976 ︵ ︶ ︶ らのものが広く知られている。﹁暗黙知﹂や﹁創発﹂ 1961 ∼ Karl Jaspers 1883 ことから、このエクステンションを﹁延長﹂と訳出しておこう。 ∼ Maurice Merleau-Ponty 1908 延 長 で 記 述 さ れ る 現 象 に つ い て は、 K ・ ヤ ス パ ー ス ︵ =ポンティ︵ 22 の概念で科学における発見過程の解明に挑んだ M・ポラニー︵ Michael Polanyi 1891 ∼ 23 100 ︶ 道具使用の現象を説明している︵ 。 した極めて稀な一例である。 ギブソンは、一九六六年︵ ︶の記述は、自覚的にこの概念を使用 1979 の著作で、ともにハサミを例に挙げながら、道具を使 ︶ ∼ James Jerome Gibson 1904 と一九七九年︵ ︶ であり、手の付着物、または使用者自身の身体 extension によって記述している後者の該当箇所を取り上げて、その意義を解釈する。 extension の身体の一部となった道具の先端に移動する。 ︶。道具は、使 Gibson, 1986 (1979), p.41 用者の身体の一部になる。この時、皮膚の表面で固定していると考えられてきた生物の境界は、使用者 用されていない時には環境の一部を構成する遊離物にすぎないが、使用される時には身体に付着して使 観﹄の絶対的二元論が間違っていることを示唆するのである﹂ ︵ 定されてはおらず、移動しうるということを物語る。より一般的に言えば、この事態は﹃主観﹄と﹃客 外に存在するものでしかない。身体に何物かを付着させる能力は、生物と環境の境界が皮膚の表面で固 道具は環境中の単なる遊離物になる。この時、確かに掴むことも運ぶこともできるが、道具は観察者の の一部になっている。したがって、道具はもはや環境の一部ではない。しかし、一旦使用を離れると、 ﹁使用時の道具は一種の手の延長したもの を 用する時、触覚が握りの部分から道具の先端に移動する﹁現象﹂を記述しているが、ここでは﹁現象﹂ 26 ならない。次に見るギブソン︵ のはほとんど見当たらない。その理由は、延長を援用する者自身が、その起源に無関心であるからに他 延長のエクステンションについても枚挙に暇がないが、その起源に至る道筋を明確に示してくれるも 24 ギ ブ ソ ン が ユ ニ ー ク な の は、 ﹁ 現 象 ﹂ を 記 述 す る 際 に 延 長 の 概 念 を 正 確 に 使 う こ と で、 こ の 系 譜 の “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 101 25 原 型 に 斬 り 込 ん だ と こ ろ に あ る。 が R ・ デ カ ル ト︵ extension ∼ Rene Descartes 1596 ︶ の﹁ 延 長 1650 ﹂に由来することは容易に推測できるが、﹁主観﹂と﹁客観﹂の絶対的二元論の誤りを指摘す extensio るギブソンの記述は、デカルトの存在論の正確な読解を前提に展開しているだけでなくデカルトの二元 論を覆す点で、特筆に価するのである。 デカルトは、神なる無限的実体と、精神および物体からなる有限的実体とを区別した後に、思惟的存 在たる精神と延長的存在たる物体を分離した。後者、つまり心︱身の二元論は、﹁思惟するもの﹂であ る精神が存在するためにいかなる空間的場所をも必要としないのに対して﹁延長するもの﹂である物体 ﹂と﹁延長 cogitatio ﹂である。この段階では、精神ならざる身体は、当然、﹁延長﹂ extensio は端的に空間的な存在であるという、存在の資格の二元性を意味する。これら二つの存在の属性が、そ れぞれ﹁思惟 ﹂の存在であった。デカルトは、精神がその身体と結合する場所を﹁松 Homo の属性を有するものに分類される。心身二元論で問題になったのが、単なる精神でも単なる身体でもな い身心を兼ね備えた﹁人間 果体﹂に定め、物心分離的な理論哲学的立場と併設的に第三の実在としての﹁人間﹂を認めるという実 ︶ 践的立場を構えることでこの問題に対処した︵ 。 このような構制の結果、デカルトの存在論は、 ﹁延長﹂ なる物体を並存させることになったのである。 、身 extensum e (environment) デカルトの存在論は、心︱身だけでなく、こうした身︱物の二元論も包含する。延長 であることから、便宜的にいわゆる物体を extensum に置き換えてみると、ギブソンの記述の意義が鮮明になる。﹁﹃主観﹄と﹃客観﹄ extensum b (body) 性を備えたものが 体を の属 extensio の属性を有するいわゆる物体と、物体の属性を備えつつその他の物体とは異なる身体という、二つの異 27 102 extensum と e 考えられなければ の絶対的二元論﹂では、生物︵人間︶と環境の境界は、皮膚の表面で固定されていて決して移動しない。 この場合、道具は、使用される時にも、環境を構成する物体、つまり extensum に b なる︵前置詞 は﹁ 所 属 ﹂ の of extensum と e 考えられてきた道具は、使用時に身体︵手︶の延長 ならない。これに対し、ギブソンは、使用に供されている時、道具を単なる物体と考えるべきでないと 主 張 し た。 環 境 の 側 の 延 長 し た も の 、すなわち身体の側の延長したもの extension of the hand 意味で解釈すべきである︶ 。そして、身体と物体の間にあったはずの境界が道具と物体の間に移動する extensum の e 二元論を指す。ギブソンの﹁現象﹂の記述は、道具 ことを指摘する。ギブソンの言う﹁主観﹂と﹁客観﹂は、デカルトの思想から論理的に導かれる身︱物 の二元論、すなわち、 extensum と b の使用時にこの二元論がゆらぐことを指摘するものだと、ひとまず理解できる。 ギブソンは、道具の考察を次のように締め括った。﹁もっと語るべきことがあったかもしれないが、 ともあれ、今後、道具を考えるための導入にはなってくれるだろう。ここでは議論を比較的小さくて持 ち運びのできる道具に限定してしまったが、技術的存在である人間は、もっと大きな切断、掘削、粉砕、 圧搾のための道具と機械や、土木機械、建設機械、そしてもちろん移動のための機械もつくってきた﹂ ︵ Gibson, 1986(1979), p.41 ︶ 。ギブソンは、ハサミを例に展開した論理がより大きな道具や複雑な人工物 にも適用できることを示唆して考察を終えた。 延長の議論はあまたあり、また拡張の議論の中にも道具の着脱を問題にするものが散見される。しか し、ギブソンのように﹁境界﹂という空間的な観点を一貫させなければ、デカルトに遡る系譜に正確に 定位することも、デカルト流の身︱物の二元論がゆらぐ事態として道具の使用を記述することもできな “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 103 ︶ い︵ 。 ︶ この事実によって、三つの意味の分節が妨げられてきたと考えられる︵ 。 も人工物の多くは、その多寡の違いはあるにせよ、三つのエクステンションの意味を併せ持っている。 もある。達人の域に及ばずとも、日常的に、筆記具や眼鏡は身体の一部として使用されている。そもそ 一見、機能の拡張が明白な人工物もあれば、身体内部の機構を写し取ったようにしか見えない人工物 28 ︶ を 著 し、 エ ク ス テ ン シ ョ ン の 論 点 に 本 格 的 に 取 り 組 ん だ 。 あ る 種 の 合 McLuhan in space ︶ られている︵ 。 筆すべきである。同書の註にはフラーとホールとの論争はもちろんのこと、先行研究が手際よくまとめ 意の下で二〇世紀中に決着が図られた論点が二一世紀の初頭に掘り起こされた事実は、それだけでも特 ルーハン﹄ ︵ 現在ブリティッシュ・コロンビア大学で教鞭をとるキャヴェルは、二〇〇二年に﹃空間におけるマク 2.キャヴェルによるマクルーハン研究 線を画すものになっている。まずは、キャヴェルの分析を概観しよう。 次章で紹介するキャヴェルの仕事は、三つの意味の分節に到達した点で、他のマクルーハン研究と一 クルーハン理解は、この極めて稀な事態に気づくことから始まるのである。 一人の思想の中に三つの意味が分節されて登場するという事態は、極めて稀と言わざるを得ない。マ 29 キャヴェルはまず、マクルーハンが博士論文︵﹁当該時代の学習におけるトマス・ナッシュの位置﹂ 30 104 ︶を準備する過程で三科の三つの部門︵文法、 “The place of Thomas Nashe in the learning of his time” ︶ 修辞学、論理学︶の争いから西洋文化を捉える視座を獲得したと指摘する︵ 。 キ ャ ヴ ェ ル に よ れ ば、 ︶ 象徴するものである︵ 。 に scola prosthesis ︵ ︶ を e 付加した語頭音付加である 。 ︶を意味し、﹁語頭音付加﹂ Cavell, 2002, p.80 ︵ ︶ ︵ ︶ David Wills ︶ の説に注目する。修辞学における はラテン語の escuela ∼ Andreas Vesalius 1514 ︶の﹃人体の構 1564 ︶の﹃作品集﹄ 1590 の二つの身体論が争い、機械論が勝利を収めつつあった時代と mechanism という言説の同時代性に着眼したウィルズは、一六世紀半ばを、有 prosthesis と機械論 organicism 規定する。ここで言う有機体論は、すべての器官の共同的なダイナミズムから有機体の働きを考える点 機体論 修辞学と医学における ︵ Œeuvres, ︶が相次いで公刊されたが、二つの著作には、﹁切断 amputation ﹂と﹁︵義足などの︶補綴 1585 術による置き換え prosthetic replacement ﹂に関する重要な記述が含まれていた。 造﹄ ︵ De humani corporis fabrica, 1543 ︶とアムボラーズ・パレ︵ Ambroise Paré 1510 ∼ する。一六世紀半ばから後半にかけてA・ヴェザリウス ︵ ウィルズは、修辞学の歴史に語頭音付加が登場した頃、医学の歴史で目覚しい発展があったことを指摘 と訳出される。例えば、スペイン語の ﹂という用語 prosthesis の協調関係が終焉し、修辞学との覇権争いに論理学が勝利を収めつつあった一六世紀半ばの文化状況を マクルーハンが博士論文で取り上げたナッシュの特異な文体は、それまでバランスが取れていた三科間 31 次にキャヴェルは、中世的な知の統一の崩壊にともない修辞学のリストに﹁ が新たに加わったというD・ウィルズ︵ 34 は、 ﹁ ﹃語の頭に音節を付加すること﹄ ︵ Wills, 1995, p.218 ︶﹂︵ 33 で、器官の間の因果関係から身体の働きを説明する機械論の対極に位置する。諸器官のバランスを調整 “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 105 35 32 することで身体機能の回復を図るそれまでの医術は、有機体論を基礎にしていた。他方、新興の補綴術 は、各器官を部分に分割した上でそれらの部分を置き換え可能な対象と見做し、欠損部分を人工物で代 という言説が登場し prosthesis 行させる点で、機械論を基礎にする医術だった。ウィルズは、三科間の協調関係の崩壊は有機体論的発 想の終焉を意味し、有機体論に代わって機械論が台頭したことによって たと推論する。 キャヴェルは、このようなウィルズの説をもとに、マクルーハン解釈を展開する。機械論が台頭する 中、医学では補綴術が栄え、人文科学では因果的な数学に基礎を置く論理学が勝利した。そして、個々 の器官に注目する補綴術が勢力を伸ばすことで器官全体のバランスを図る医術が衰退したように、論理 ︶ 学が学問に君臨することで三科間のダイナミズムが失われた︵ 。 キャヴェルは、マクルーハンの記述 に類する用語が登場することに着目する。事実、キャヴェルが指摘するように、マクル prosthesis 38 が 社 会 に 介 入 し て く る 時、 そ れ ら は、 社 会 体 系 を ablations に 着 目 し た 理 由 は、 以 下 の 二 つ の 引 用 か ら 理 解 で き る。 一 つ 目 は、﹁ マ ク ル ablation 切除、切断、剥離﹂の語を使用している。 ーハンは﹃メディアの理解﹄ ︵ Understanding media, 1964 ︶︵ ︶や書簡 ︵ ︶の中で﹁ ablation ︵手術による︶ にも 36 ︵ は全体状況において新しい配置に即座に影響を及ぼす﹄ acceleration ︶という引用である。ここでキャヴェルは、メディアや技 Cavell, 2002, p.81 や extension ︶ ﹂ ︵ McLuhan, 1964, p.184 で あ り、 そ れ ら が 社 会 全 体 を 同 時 に 、 し か も 即 座 に 変 え る と い う マ extension 術は 、あるいは ablation し な い。 す べ て の 改 変 す る。 ceteris paribus ︹ 他 の 事 情 が 同 じ な ら ば ︺ と い う 条 件 は、 メ デ ィ ア や 技 術 の 世 界 に は 存 在 ー ハ ン が 指 摘 す る よ う に﹃ 切 除 し た も の キャヴェルが 37 106 であり、このような self-amputation 、また extension の間に新しい extensions ︶という引用である。ここでは、 Cavell, 2002, p.81 は、その他の器官や extension クルーハンの発想を指摘する。二つ目は、 ﹁ ﹃いかなる発明や技術も、私たちの身体の は自己切断 ︶﹂︵ McLuhan, 1964, p.45 による社会体系の配置の改変というマクロな運動が、有機体内部の比率の改変と extension 比率や均衡を引き起こす﹄ ︵ や ablation いうミクロな運動と相似の関係にあるというマクルーハン理論の特徴が指摘されている。以上二点を踏 を包含するメディアのダイナミクスを表現しようとした﹂︵ Cavell, 2002, amputation が医学と修辞学の二つの分野に見られる言説であり、二つの分野の言説が補 amputation と extension まえて、キャヴェルは次のような解釈を提出する。﹁彼︵マクルーハンは︶、補綴文化の二つの側面、す なわち ︶ 。 p.80 と extension 綴文化の形成に寄与したという点は、ウィルズの説で説明できる。しかし、ウィルズは、補綴文化は機 械論を基礎とし、補綴文化が広まることで、器官の間のダイナミクスを前提する有機体論が駆逐された ﹂ が 含 ま れ る と い う キ ャ ヴ ェ ル の 解 釈 は、 ウ ィ ル ズ の 説 と 矛 盾 す る こ と に な っ て し ま amputation と主張したのではなかったか。もしそうならば、メディアのダイナミクスに﹁補綴文化﹂、﹁ extension ﹂、 ﹁切断 う。ここでキャヴェルは、マクルーハンが、機械論を基調にする補綴文化の存在を念頭に、あえて補綴 という言説の︵医学と修辞学における︶歴史的な同 prosthesis にまつわる修辞を、その意味を反転させ、ダイナミクスを表現する有機体論的な意味で使ったと解釈す るのである。 キ ャ ヴ ェ ル は、 さ ら に こ う 続 け る。 ﹁ 時代性は、有機体論と機械論の拮抗を暗示する。この拮抗は機械論の勝利に終わり、機械論の覇権は電 “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 107 子時代の到来まで続いた。マクルーハンは、電子時代が到来することで、有機体論が覇権を取り戻し の修辞を使用した。マクルーハン extension た︵状況を反転させた︶と考えた﹂ ︵ op. cit. ︶ 。マクルーハンは、電子時代の到来によって有機体論の文 化が形成されることを見通して、新しい文化にふさわしい の思想は、機械論を相対化し、有機体論を復活させる射程を持っており、マクルーハンの思想における は、 prosthesis と親和性を持ちながら補綴文化の基礎にある機械論を超克する働きを担った。 extension 以上がキャヴェルのマクルーハン解釈である。 を 使 用 し た 思 想 家 と し て フ ロ イ ト の 名 を あ げ る。 フ ロ イ extension このようなマクルーハン解釈の文脈で、キャヴェルは、 extension の 起 源 に も 言 及 し て い る。 キ ャ ヴ ェ ル は、 マ ク ル ー ハ ン と 共 通 す る ︵ ︶ ト は、 ﹃文明とその不満﹄ ︵ Civilization and its discontents, 1930 ︶ の な か で﹁﹃ 人 間 は 一 種 の 補 綴 の 神 ︶と書いている。フロイトの記 Cavell, 2002, p.82 という文脈に置いている﹂ ︵ Cavell, 2002, p.82 ︶。フロイト自身は﹁﹃すべての補助的な extension に共通するメ extension ディアのダイナミクスを読み取り、次のように結論するのである。﹁フロイトとマクルーハンはともに、 結んでいるのだが、キャヴェルは、フロイトの補綴術の記述にマクルーハンの 綴具は人間に大きな混乱を与えることもあるだろう﹄︵ Freud, 1989(1930), p.44 ︶﹂︵ Cavell, 2002, p.82 ︶と 器官を身にまとった時、人間はまさしく偉大な存在になる。しかし、元々備わった器官でない以上、補 の力の 除きつつある﹄ ︵ Freud, 1989(1930), p.43 ︶ 。ここでフロイトは、マクルーハン同様、西洋文明史を人間 運動器官と感覚器官を問わず、自らの器官を完全なものにし、元々の器官に備わった機能の限界を取り 述をキャヴェルは次のように解釈する。すなわち、﹁フロイトによれば、﹃人間は、あらゆる道具によって、 になった﹄ ︵ Freud, 1989(1930), p.44 ︶﹂︵ prosthetic God 39 108 感覚の相互関係を変容させるものとして文明化の過程を理解した﹂︵ Cavell, 2002, p.82 ︶。 ︶で定 Beyond the pleasure principle, 1920 この結論を補強するために、キャヴェルは再びウィルズを援用する。﹁ウィルズによれば、フロイト 理論に特有の補綴の理解は、フロイトが﹃快楽原則の彼岸﹄︵ 義した﹃投影﹄の概念に見られる。 ﹃ ︵投影とは︶不快を大幅に増大させる内的興奮に対処するための⋮ 独特な方法である。人間には、その原因が、内部ではなく、外部にあるかのようにして内的興奮を処理 sensory completion感覚完成︶ ︶。キャヴェルは、マクルーハンが一九六〇年 Cavell, 2002, p.82 で﹁心理学ではSC︵ “Report on project in understanding new media” する傾向がある﹄ ︵ Wills, 1995, p.96 ︶ ﹂ ︵ の は投影と呼ばれている﹂と書いていることをあげながら、投影を次のように解釈する。﹁このように投 ︶。投影が内的興奮状態を変容させ、その結果、平静が Cavell, 2002, p.82 影の過程は、その機能の点で、感覚器官の間に感覚比率や感覚の均衡が存在するというマクルーハンの 考えに非常によく似ている﹂ ︵ 回復するように、補綴にも、内的な感覚の均衡を前提に、感覚器官の間の感覚比率を変容させる働きが ある。 こ う し て キ ャ ヴ ェ ル は、 内 的 状 態 に 作 用 す る と い う 点 で、 フ ロ イ ト の 補 綴 と マ ク ル ー ハ ン の を同一視する。そして、元々は機械論的で静的な意味を持つ補綴の概念によって動的な状況 extension の歴史の一面でしか extension を哲学的に理解するために最も重要なのは、デ extension は、より大きな prosthesis を記述するフロイトを、静的なことばの意味を反転させて人工物と身体のダイナミクスを表現したマク ルーハンの先駆けに同定するのである。 とはいえ、 ﹁精神分析で使われる意味での ない。物理学と哲学もこの歴史に含まれる。 “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 109 と理性を備えた心の res extensa の区別を理論化した。デカルトは、心 res cogitans カルトの作品である﹂ ︵ op. cit., p.83 ︶ 。キャヴェルはデカルトの哲学を次のように理解する。デカルトは、 身体を含む物質界の と身体を峻別することで真理を探究しようとしたが、そのような方法論を採用した背景には、感覚でき る物質界と感覚自体に対する不信があった。デカルトが信用できたのは、理性と理性の宿る心、そして ︶ 理性に基づく論理学だけだった︵ 。 当 然、 論 理 学 に 特 化 し た デ カ ル ト の 方 法 論 と そ の 根 底 に あ る 理 性 ﹁ と res cogitans の︵再︶統合を企てて、デカルト流の理性主義に res extensa ︶。 Cavell, 2002, p.83 延長の順でその内実を検証していこう。 キャヴェルの議論を概観すると、三つのエクステンションを示唆するかのように見える。外化、拡張、 評価 の補綴物と身体の存在を res extensa = extension と規定したデカルトによって哲学的基礎を与えられた の歴史﹂を指すものと理解できる。 prosthesis 紀半ばに始まった補綴文化を完成させるものだった。﹁ extension 全 体 の 歴 史 ﹂ と は、 義 足 や 義 手 な ど キャヴェルによれば、一七世紀前半のデカルトの哲学は、論理学と機械論を徹底した点で、一六世 のモデルを提案したのである﹂ ︵ 対抗した。その結果、デカルト哲学が提出した機械論のモデルに代わる有機体論︵究極的には生態学︶ マクルーハンは心と身体、 主義は、三科間のダイナミクスを回復しようというマクルーハンには受け入れられない。﹁したがって、 40 110 まず、 ﹁彼︵マクルーハンは︶ 、補綴文化、 extension 、切断 の︵医学と修辞学の︶二つの amputation と併記していた。さらに amputation を外化 extension と言い換 outer 側面を包含するメディアのダイナミクスを表現しようとした﹂︵ Cavell, 2002, p.80 ︶に見られるように、 キャヴェルは、 extension を切断 ︶ えている箇所もある︵ 。 ここから、キャヴェルは、マクルーハンのエクステンションを外化の系譜に “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 という文脈に置いている﹂ ︵ extension クルーハンにとって ︶。フロイトの言う Cavell, 2002, p.82 は、眼の﹃切断 extension ﹄によって耳が拡張 amputation は、人工的な補 prosthesis 属する。キャヴェルによるフロイトの引用は、キャヴェルがフロイトの拡張の議論を前提に extension は、同時代のバナールや後のウォーリックのサイボーグ論と同様に、プラトンに始まる技術論の系譜に った機能を代行し、増大するという拡張の系譜に定位するものと理解できる。フロイトの補綴術の考察 綴物を身に着けることで元々の器官の機能の限界が取り除かれるという点で、人工物が身体に元々備わ の ︶ ﹄ 。ここでフロイトは、マクルーハン同様、西洋文明史を人間の力 Freud, 1989(1930), p.43 の語を使用したことを裏づけるものである。さらに、キャヴェル自身による次のような記述もある。 ﹁マ 111 つつある︵ されるというよ enhance 器官と感覚器官を問わず、自らの器官を完全なものにし、元々の器官に備わった機能の限界を取り除き 次に、 ﹁拡張﹂の系譜についてどうか。 ﹁フロイトによれば、﹃人間は、あらゆる道具によって、運動 ともなわなかったために、原義の持つ論理に到達できなかったところに求められる。 ン理解は、外化について不十分だと結論できる。理解が十分でない一因は、分節の作業が系譜の探索を の母体の身体内部を解明するという契機への言及がまったく見られない。キャヴェルのエクステンショ 属するものと理解しているようにも見える。しかし、キャヴェルの記述には、外化したものを通じてそ 41 うに、 amputation とダイナミックに関係している﹂ ︵ ︶。ここでは、 extension が﹁拡張︵向上︶ op. cit., p.87 ﹂と明確に関連づけられている。また、外化との関連を仄めかしていた﹁切断﹂は、眼の機能 enhance を抑制することで耳の機能が相対的に向上するというように、﹃パイドロス﹄の説話で拡張と対になっ て登場した縮小の意味で使用されている。この引用は、キャヴェルが、感覚間の比率関係を前提に、機 res 能の拡張の意味でエクステンションを使用していたこと、そして、主に拡張に定位してマクルーハンを 解釈していたことを物語るものである。 特 筆 す べ き は、﹁ 補 綴 ﹂ へ の 着 眼 か ら、 キ ャ ヴ ェ ル が エ ク ス テ ン シ ョ ン の 起 源 に デ カ ル ト の をあげている点である。第一章で論証したように、第三のエクステンション、すなわち延長は、 extensa デカルトの思想にその起源を持つ。これでキャヴェルの記述に合計三つのエクステンションが登場した ことになる。 を﹁補綴﹂の起源と見做し、第三の意味を分節する作業を res extensa しかし、残念ながら、読者が三つの意味を読み取ることはおそらくできないだろう。というのも、キ ャヴェルは、一貫してデカルトの 行わなかったからである。 三つの意味を分節しうる点、正確に言えば、二つの意味の分節に加え、三つ目の意味を分節する手が かりを示した功績は、エクステンションを主題にしたマクルーハン研究の中で比肩するものがない。し かし、結果的にエクステンションの意味を拡張に収斂させたことでもっと大きな獲物を見落とすことに なった。この見落としは、論争の再評価の如何以上に、マクルーハンの思想の多層性を解読する鍵をみ すみす放棄することを意味した。その結果、マクルーハンの理論を把握する道が閉ざれてしまったので 112 ある。 むすび キャヴェルの議論は、一六世紀半ばに現われた﹁補綴﹂という拡張のヴァリエーションに着目してマ クルーハンを解釈した点に独創性が認められる。この仕事は、論争を再評価する観点からすると、ホー ルの先取権を無効にする効果があった。しかし、以上で検証した通り、それぞれのエクステンションの 理解が十分でなかったために、三つの意味を明示的に分節するには至らなかった。 本稿でエクステンションが構成する理論の全貌については紹介しなかったのは、小論という体裁の紙 面の都合からだけではない。誤解を恐れずに言えば、その必要がなかったからである。マクルーハンの 思想からは、エクステンションに注目することで少なくとも一つの理論を摘出できる。その作業には、 エクステンションから三つの意味を切り分ける作業が不可欠なのである。本稿の主題は、結局のところ、 エクステンションが構成する理論の是非以前の、エクステンションの分節の是非にあったということに ︶ なろう︵ 。 キャヴェルがエクステンションの分節に失敗した原因は、一言で言うと、原型に遡る系譜学的視点の 欠如に求められる。翻って、キャヴェルの仕事と比較したとき、本稿の課題も明らかになる。それは、 系譜学的な探究の手続きにおいて、歴史の時代区分を等閑する嫌いが認められる点である。歴史を縦断 する概念の継続性に着目する視点に、例えば、近代として考察されてきたある時代区分の特質をどのよ “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 113 42 うに取り込むべきか。今後の課題としたい。 ︵しばた たかし・北海学園大学准教授︶ 114 [引用・参照文献] ︵訳︶ 一九九七 われらが思考するごとく 思想としてのパソコン NTT出版 ブッシュ V 西 . 垣通 ︶ . 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T. 1959 : The silent language, p.79. ︵ ︶ホール、一九五九 國弘他訳、一九九七、八〇頁。 また、マクルーハンの最晩年の著作﹃メディアの法則﹄ ︵ ︶ E.g. McLuhan, 1964, p.64, McLuhan, 1972(1970a), 18. ∼︶ に 登 場 す る メ デ ィ ア 分 析 の モ デ ル︵ 四 次 元 モ デ ル tetrad ︶ は、﹁ 拡 張 ﹂ の 意 味 の ︵ Laws of media, 1976, p.129 を一つの項として構成されている。 extension ︵ ︶ Rosenthal(ed.), “Current biography”, p.19. ︵ ︶ホールは、この概念がR ・B・フラー︵ Richard Buckminster Fuller 1895 ∼ 1983 ︶に起源あるという説を唱え、 マクルーハンを論難した。論争に対するフラーの発言を含め、論争の詳細については、﹃マクルーハンとメディア 論﹄の第二章、および第六章を参照されたい。 Carpenter, 2001, p.256. ︶ Wagner, 1969, p.158. ︶生没年不詳。 ︵ ︶ ︵ ︵ ︵ ︶ Ramo, 1969(1965), p.48. ︵ ︶生没年不詳。 “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 117 1 2 3 4 5 6 7 8 11 10 9 ︵ ︶ Cf. Reed, 1996, p.9 ︵ ︶マルクス 向坂訳、一九七一、四八二頁、 cf. Marx, Engels 1952(1867), p.188. ︵ ︶Cf 城 . 塚、一九八四、一一四︱一一七頁。 ︵ ︶Cf プ . ラトン、藤沢訳、一九九三、一三三︱一三五頁。 ︵ ︶拙稿﹁サイボーグの理解﹂ ︵二〇〇︶および﹁ファイボーグの理解﹂ ︵二〇一一︶で詳説したので参照されたい。 ︵ ︶﹁ 我 々 は 闇 の 中 で 道 を 探 る と き、 杖 の 先 で 感 ず る。 自 己 空 間、 即 ち 我 々 の 解 剖 的 身 体 空 間 は 拡 大 し て、 杖 と 自 ︶拙著﹃マクルーハンとメディア論﹄第六章を参照されたい。 分 が 一 体 で あ る と い う 感 覚 と な る。 従 っ て 自 分 が 操 縦 す る 自 動 車 は、 私 が 思 い 通 り に 使 い こ な せ る と き に は 自 己 の よ う な も の で、 こ の 拡 大 身 体 の 中 に、 私 は 自 分 の 感 覚 を 具 え erweiterter Körper つ つ 至 る と こ ろ 居 合 わ せ て い る わ け で あ る。 自 分 の も の で な い 別 の 空 間 は、 私 が 自 己 の 感 覚 を 以 っ て 他 空 間 か ら の 空 間 に 属 し、 拡 大 し た 身 体 ︶。 来る対象に突きあたるその境界から始まる﹂︵ Jaspers 1913 : 75=1953 : 135-136 ︶ ﹁ 盲 人 の 杖 も、 彼 に と っ て 一 対 象 で あ る こ と を や め、 も は や そ れ 自 体 と し て は 知 覚 さ れ ず、 杖 の 尖 き は 感 性 Gibson, 1986(1979), pp.40-41. Gibson, 1983(1966), pp.111-115. Polanyi 1962=2001: 51-55 ︶。 Merleau-Ponty 1962(1945) : 167=1991 : 240 帯 へ と 変 貌 し た。 杖 は︹ 盲 人 の ︺ 触 覚 の 広 さ と 行 動 半 径 を 増 し た の で あ り、 視 覚 の 類 同 物 と な っ た の で あ る ﹂ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︵ ︵ ︵ ∼ 1961 ︶の﹁誘導語﹂が外化の一 ︵ ︶ダゴニェは、フロイトの﹁転移﹂とC ・G ・ユング︵ Carl Gustav Jung 1875 種であると指摘する︵ダゴニェ、一九八二 金森他訳、一九九〇、二二六︱二三二頁。 ︶拙著﹃マクルーハンとメディア論﹄第三章で詳説した。 を挙げた理由は、本稿の論証に直接関係ないため割愛した。両者 uttering が並置される理由については、拙著﹃マクルーハンとメディア論﹄の一一五ページ以下で詳説した。 ︵ ︶ McLuhan, 1962, pp. 24-26. ︵ ︶マクルーハンが outering と並行して 18 17 16 15 14 13 12 19 22 21 20 23 26 25 24 118 ︵ ︶所、一九九六、二八二︱二八三頁。 二〇〇六︶ で論じた。 ︶﹃ マ ク ル ー ハ ン と メ デ ィ ア 論 ﹄ で は、 本 稿 で 割 愛 せ ざ る を 得 な か っ た、 各 エ ク ス テ ン シ ョ ン の 正 統 を 受 け 継 い ギブソン心理学における﹁心﹂の問題についても確認されたい。 ︵ ︶ギブソンのデカルト批判が身︱物二元論のみならず心︱身二元論に及ぶ点は、別稿 ︵柴田 ︵ Cavell, 2002, p.79. Cavell, 2002, p.256. できたその他の思想以外に、ヴァリエーションも紹介した。該当箇所で確認されたい。 ︵ ︶ ︵ ︶ =Freud S. 1989 : Civilization and its discontents, Strachey, J.(trans.& ed.), Gay, P.(intro.), Norton, New York. cf. Molinaro et. al. (eds.), 1987, p.283, 285. McLuhan, 1964, p.5, 45, 57. Cavell, 2002, p. 80. Cf. Wills, 1995, pp.214-227. Cf. 2001 : The Concise Oxford English Dictionary, 10th edition, Oxford University Press. =Wills, D. 1995 : Prosthesis, Stanford U.P., Stanford. ︵ ︶ Cavell, 2002, pp.79-80. ︵ ︶生没年不詳。 ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ Freud S. 1930 : Das Unbehagen in der Kultur. ︵ ︶ Cavell, 2002, p.83. ︵ ︶ Cavell, 2002, p.80. ︶こ こ で あ え て 三 つ の エ ク ス テ ン シ ョ ン が 理 論 の 構 成 で 果 た し た 役 割 の み を 簡 単 に 説 明 す る な ら ば、﹁ 拡 張 ﹂ は ︵ メディアの機能に陶酔している現状を記述するために、﹁外化﹂はメディアを産出する身体の内部構造に議論の焦 点を移し、併せて現状を対象化する詩的言語を獲得するために、﹁延長﹂は詩的言語を使用してその効果を測るた めに用いられる。 “extension” をめぐるマクルーハン研究の検証 119 28 27 29 39 38 37 36 35 34 33 32 31 30 42 41 40 [論文] 摂家将軍頼経期を中心に│ 鎌倉幕府の ﹁祭祀﹂ に関する一考察 │ 1.本稿の課題 竹ヶ原 康弘 本稿は、鎌倉幕府摂家将軍期︵頼経の在任期間を中心とする︶の﹁祭祀権﹂に関する検討を通じ、改 めて摂家将軍の評価を試みようとするものである。 鎌倉幕府を将軍の出自によって時期区分する場合、通常は源氏将軍期・摂家将軍期・親王将軍期の三 つの時期に区分される。しかし、その三期の各時期の特質について連続面・断絶面も含めて明確に定義 されているか、といえば、疑問なしとはしない。 その要因として、鎌倉幕府の所謂﹁政治史﹂と将軍の出自との関連性が稀薄なことが挙げられよう。 120 鎌倉期を意思決定の方法を基準として時期区分した際、初期段階は源氏将軍期で将軍専政期という理解 でよかろう。しかし、頼朝の没後すぐにその図式は崩れ始め、北条氏をはじめとした有力御家人たちに よる合議制に変化した。本稿で扱おうとする摂家将軍期は、北条氏の執権を核とした合議制から、執権 ︵得宗︶専政へと移行しつつあった時期である。自然、過去の研究の視点も﹁如何に得宗専制は成立しえ たのか﹂という課題に向き、 ﹁将軍﹂は傀儡とされ、将軍そのものの意義については等閑視されてきたき らいがある。 こうした研究動向の中、摂家将軍の﹁権力﹂に目を向けたのが青山幹哉氏︵ ︶である。氏はまず﹁鎌倉 幕府将軍が最後まで存在しえた理由は、いったい何であったのか﹂という疑問を提示された。そして、 摂家将軍・親王将軍とその近習たちとの人的結合、将軍と幕府とを繋ぐ意思伝達機関︵氏はそれを﹁蔵 人頭﹂に擬した︶の存在を見て行くことで、当該時期の将軍権力として六種の権限に整理された。ただ、 氏の整理には重複する部分もあるので改めて筆者なりに再整理するなら、︵一︶祭祀権・︵二︶裁判権・ ︵三︶人事権の三種とみなすことができる。本稿の作業の目的はそのうちの﹁祭祀権﹂の具体的な検討に ある。青山氏による﹁祭祀権﹂の理解は以下の通りである。 統治者としての将軍は、彼に委ねられた世界の秩序維持の責任を負っている。その責任は人間の秩 序攪乱者に対処するだけでは果たしえず、人間以外の秩序攪乱者に対しても対処することを統治者 は要求されたのであった。 彗星・旱天・風雨・赤潮などの自然現象や奇形動物の出現が、神聖な世界秩序を乱すものと判断さ 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 121 1 れれば、将軍には秩序回復のために祭祀を執行し、徳政を行う義務があったのである。 氏は、幕府が営んだ儀礼の場への将軍奉幣使と﹁将軍﹂との人的関係の整理を通じて右記のような理 解をされた。改めて後述することになるが、頼経は長じるにつれて幕府の年中行事に参加するばかりで なく、自ら陰陽道祭の場に臨むようになる。また、安倍氏をはじめとした天文道の人間たち、即ち、実 際に天文を観測、判断をし、祭祀を営む人間たちとの密接な関係を持っていたことも﹃吾妻鏡﹄︵以下、 ﹃鏡﹄ ︶の記事にはみられる。そこには先の青山氏の指摘を補いうる、﹁将軍﹂の﹁何らかの意志﹂があっ たと考えられるのである。 そもそも、 ﹁将軍﹂の﹁祭祀権﹂とは一体どのような権限なのであろうか。源頼朝は治承四︵一一八〇︶ ︶ 年の挙兵時に陰陽道祭を営み、 ﹁合戦無為﹂を祈願している︵ 。 この﹁祭祀﹂は頼朝個人、及び頼朝を ものであった。その後、同年十月、頼朝が鎌倉入りした後に行ったことは鶴岡八幡宮の遙拝 ︵ ︶ と、﹁為 核とした集団の無事を願うという意味が込められた、いわば﹁特定の願望を実現させる﹂性格を持った 2 崇祖宗。点小林郷之北山。搆宮廟。被奉遷鶴岳宮於此所﹂︵ ︶と鶴岡八幡宮を整備し、祖先祭祀の場を 3 ︶ 素であろう︵ 。 青山氏の論攷にそのことを論じた部分はない。 のとの複数の意味を持っていた。祖先祭祀は同時代の﹁イエ﹂の概念を理解する際に避けて通れない要 も、将軍︵鎌倉殿︶の﹁祭祀権﹂とは、斯様に集団・組織を対象としたものと、 ﹁イエ﹂を対象としたも 整備したことである。これは頼朝の祖先祭祀に他ならない。ごく初期段階の﹃鏡﹄の記載を見る限りで 4 野口実氏 ︵ ︶は二代将軍源頼家の娘でかつ頼経の妻であった竹御所︵一二〇三∼一二三四︶に注目し、 5 6 122 竹御所の存在が摂家将軍期の﹁源氏将軍家﹂の祭祀を考える上では重要であり、その存在は今まで看過 されてきたのではないかと指摘された。また、その指摘を受けた金永︵ ︶氏によって竹御所と﹁源氏将 ︶ された︵ 。 つまり、摂家将軍頼経の﹁祭祀権﹂に源氏将軍家の祭祀の要素は含まれていないのではない 源氏将軍家の祭祀を継いだのは九条家出身の頼経ではなく源氏将軍家の血を引く竹御所であったと指摘 軍家﹂祭祀、頼経と﹁源氏将軍家﹂祭祀の関わりが詳細に論じられた。その結論として、政子亡き後、 7 か、ということである。しかし、頼経は辞職するまでの期間﹁征夷大将軍﹂として在任し続けた。この 事実から﹁将軍﹂の﹁祭祀権﹂をどう考えるかという課題が浮かんでこよう。 筆者は、この頼経将軍期こそが鎌倉幕府の﹁将軍﹂権力の固定化が図られた時期ではないかと推察し ている。依って、 以下では頼経の時期を中心に論を進めたいと思う。頼嗣期を考察対象から外したのは、 彼の在任期間が短く、またその幼さから﹁将軍﹂としての主体的な判断ができうる状態であったか否か 個別の検証が必要であると考えたためである。 以下、主史料に﹃鏡﹄を用いつつ、 ﹁将軍﹂頼経が有していた﹁祭祀権﹂、及びその史的位置づけにつ いて検討して行きたい。 2.九条頼経と鎌倉幕府の﹁祭祀﹂ 本章以降、摂家将軍九条頼経の﹁祭祀権﹂について考察を進めてゆく。本章では頼経の成長と、鎌倉 幕府の﹁祭祀権﹂とがどのような関係にあったのかの確認を通じ、摂家将軍期の﹁将軍﹂権力について 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 123 8 図1 九条頼経の血統図 九条良経 一条能保 一条能保女 九条頼経 坊門姫 藤原実宗 西園寺公経 持明院基家女 一条全子 一条能保 坊門姫 検討してゆく。 鎌倉下向時の三寅︵以下、 ﹁頼経﹂に統一︶は 二歳と幼く、後見人たる政子に諸事を掌握され ︶ て い た︵ 。 ま た、 そ の 将 軍 在 任 期 間 は 泰 時 と を振るうことになったことについては先行研究 政子が頼朝の﹁後家﹂として﹁将軍﹂の権力 た頼朝直系の血は絶えてしまった。 が、幕府の主として﹁祭祀﹂を主催し続けてい はじめとした御家人の合議体の手に移っていた た源実朝が頓死した。既に裁判権等は北条氏を 承久元︵一二一九︶年正月に三代将軍であっ の下向までの経緯を整理しておきたい。 るものと比すれば少ない。そこで、改めて頼経 その人に対する考察も同時代の執権たちに対す ﹁傀儡﹂と評価されがちである。自然、九条頼経 されてきた経緯もあり、その将軍権力はいわば 時頼とによって執権権力が伸張した時期と理解 9 ︶ に 整 理 さ れ て い る︵ 。 諸 の 案 件 の 決 定 につい 10 藤原公通 持明院基通女 持明院基家 平頼盛女 藤原通重 徳大寺公能女 源義朝 由良御前 西園寺綸子 (母方) 藤原季行 (不明) 藤原通重 徳大寺公能女 源義朝 由良御前 藤原兼子 九条道家 (父方) 家女房加賀 藤原忠通 九条兼実 図中の網掛けは両親が同じであることを示す 124 て政子は中心的な位置を占めるようになる。例えば後鳥羽の皇子の下向を打診したが拒否されたため、 次善の策として希望した摂関家の頼経を迎えるまでに政子が関与したことの経緯は﹃増鏡﹄﹃愚管抄﹄ 等に知られるところである。ここで、頼経の血統を図示しておく。 図1で知られるように父方祖母と母方祖母とに一条能保と源義朝女である坊門姫を持つという、極め て源氏将軍家と近しい関係にあることが確認できる。 頼経は幼くして下向しているため、必然的に本人の﹁意図﹂が﹃鏡﹄に見えるようになるまでは暫く の時間を要する。そこで、以下のように時期を区切って論を進めたい。 ︵一︶幼少期 承久元︵一二一九︶年∼嘉禄元︵一二二五︶年 頼経、二歳∼八歳 ︵二︶少年期 嘉禄二︵一二二六︶年∼文暦元︵一二三四︶年 頼経、九歳∼十七歳 ︵三︶青年期 嘉禎元︵一二三五︶年∼寛元二︵一二四四︶年 頼経、十八歳∼二十七歳 ︵四︶大殿期 寛元三︵一二四五︶年∼ 頼経、二十八歳∼ 時期をこのように四区分した基準を述べておきたい。まず、嘉禄元︵一二二五︶年の政子の死と頼経 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 125 の元服とを以て︵一︶期の終了とした。この時期だけに限らないが、頼経の成長は京都の九条家・西園 寺家にとっても関心事であったようで、頻繁に京の情勢について連絡がきていたことが﹃鏡﹄で確認で ︶ きる︵ 。 また、情報だけではなく、牛車をはじめとした物品も元服をはじめとした頼経の人生の画期 ︶ に合わせて送られていた︵ 。 11 ︶ が急遽執り行われている︵ 。 こ の 時 期 は 先 に も 述 べ た よ う に、 源 氏 将 軍 家 の 祖 先 祭 祀 は 竹 御 所 が 主 体 でもある。また、九条家の血と源氏将軍家の血の結合を目指したと思われる頼家の娘・竹御所との結婚 大将軍就任を果たしたためか、 ﹁将軍﹂として年中行事や天変関連の祈禱・祭祀に関与をし始める時期 ︵二︶期は頼経の嘉禄二︵一二二六︶年の征夷大将軍就任を以て開始とした。この時期は頼経が征夷 12 に変質が見られると考え、 ︵二︶期の最後とした。 14 を以て最後とした。この時期もっとも 15 だろう。 ︶ と記した程である︵ 。 こ の 経 験 が 将 軍 辞 任 ま で の 六 年 間 に 及 ぼ し た 影 響 は、 決 し て 小 さ い 物 で は な い の九条道家に接した期間であった。頼経はこの後、祈禱の願文に﹁父母に会えたことを喜びに感じる﹂ 年十月に鎌倉に戻るまでの八ヶ月程の期間は、頼経が物心ついてから始めて祖父である西園寺公経と父 注目すべき出来事は、暦仁元︵一二三八︶年の頼経の上洛であろう。二月に上洛し、閏二月を含んで同 ︵三︶期は寛元二︵一二四四︶年の頼経の征夷大将軍辞職︵ ︶ となって行われた時期であった。よって、文暦元︵一二三四︶の竹御所死去︵ ︶を以て将軍家の﹁祭祀﹂ 13 期のみ結論部と共に扱いたい。 最後の︵四︶期は征夷大将軍職を息子である頼嗣に譲った後、上洛までの時期を対象とする。この時 16 126 表1 九条頼経鎌倉幕府年中行事初参加一覧 儀礼名 式日 頼経臨席初見 時期 開始年 歳首 年内最初の 鶴岡宮参拝 『鏡』安貞2(1228)年 (二) 文治元(1185)年 2月3日 心経会 1月8日 『鏡』寛喜元(1229)年 (二) 文治2(1186) 年 1月9日 二所詣 1∼2月中 『鏡』嘉禎3(1237)年 (三) 文治4(1188) 年 2月21日 鶴岡臨時祭・神楽 2月上卯 鶴岡臨時祭・法会 3月3日 『鏡』安貞2(1228)年 (二) 文治5(1189) 年 3月3日 鶴岡臨時祭 4月3日 文治4(1188) 年 鶴岡臨時祭 5月5日 『鏡』嘉禎2(1236)年 (三) 建仁2(1202) 年 5月5日 鶴岡臨時祭 6月20日 『鏡』寛喜元(1229)年 (二) 文治5(1189) 年 6月20日 鶴岡放生会 8月15日∼16日 『鏡』安貞2(1228)年 (二) 文治3(1187) 年 8月15日 鶴岡臨時祭 9月9日 『鏡』仁治2(1241)年 (三) 文治5(1189) 年 9月9日 鶴岡臨時祭・神楽 11月上卯 建久3(1192)年 建久4(1193) 年 空白は頼経期に実施の記事が見えない行事である。 以下本章では︵一︶∼︵三︶期におけ る﹁摂家将軍﹂頼経と﹁祭祀権﹂との 二歳∼八歳 関わりについて見て行く。 ︵一︶ 幼少期 まず、表1として﹁九条頼経鎌倉幕 府年中行事初参加一覧﹂を提示してお きたい。 この表は﹃鏡﹄の記事を基に、頼経 がどの時期からどのような鎌倉幕府年 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 中行事に臨席していたかを整理したも のである。 まず確認できることとして、 ︵一︶ 期、 即ち幼少期に年中行事の臨席例がない ことが挙げられよう。この時期は政子 が健在であるが、当該期間中、表1の 行事に政子自身が関わったという記事 は﹃ 鏡 ﹄に 見 え な い。 ︵ 一 ︶期 は﹃ 鏡 ﹄ 127 ︶ の記事自体に偏りや欠落が見られる時期であるため断定はし難いが︵ 、 あるいは政子が祭主となった 幕府の年中行事は無かったのであろう。 ︶ 実行したとしても、幕府関係者は関与できなかったのかもしれない︵ 。 る穢れ、そして元仁元︵一二二四︶年の北条義時の死と凶事が続いた関東では、年中行事を式日通りに 当該時期に表1に挙げた行事への参加は確認できない。あるいは、実朝の死による触穢、承久の乱によ 他方、頼経は承応元︵一二二二︶年元旦の義時を皮切りに垸飯を受け始めた︵﹃鏡﹄同日条︶。しかし、 17 結局、入道前大膳大夫︵大江広元︶らが審議した結果、同年六月十二日に﹁就左府命。如入道前大膳大 天変は観測されませんでした、 と報告してきた﹂と答えるのだが、それで道家は納得しなかったのである。 のである。 ﹃鏡﹄同日条から鎌倉では﹁関東司天不伺見之由。令申之條﹂、つまり﹁関東の陰陽師からは 星に対し、関東では何故攘災祈禱を実施しなかったのか、という不満を幕府首脳部に対して寄せてきた ここでいう﹁左府﹂とは頼経の父九条道家を指す。道家は承久元︵一二一九︶年十二月に出現した彗 審。何無若宮御祈乎之由申之︿云云﹀ 。 経。 ︿薬師經﹀ 。東塔五百口。西塔三百口。横河二百口也。関東司天不伺見之由。令申之條。非無不 左府使下著。依去年十二月彗星事。公家被行御祈。所謂。去月廿四日於延暦寺根本中堂有千僧御読 で、看過できないと思われる記事が﹃鏡﹄承久二︵一二二〇︶年六月十日条に見られる。以下に引用する。 関東における頼経を北条氏以下の有力御家人たちがどのように認識していたかという課題を考える上 18 128 夫有其定。今日。於鶴岡。一日転読三部大般若経﹂︵﹃鏡﹄︶として大般若経が転読された。陰陽師たちは﹁於 関東不出見上者。不可及沙汰歟﹂として、 ﹁見えなかった以上は祈禱を実施しなくて良い﹂という立場 であったためか、この度の攘災祈禱には関与しなかった。 といった通過儀礼に関する 日 時 勘 文 で あ る。 ま た、 成 長 後 の 頼 経 も 天 変 や 日 時 勘 ︶ これを初度として、この後も道家は頼経に関わる行事に数度にわたって関与した。具体的には、頼経 ︶ の着袴︵ ・ 元服︵ ︶ からの決定を待つ姿勢を見せたのである︵ 。 これは頼経一人の決断と見るよりも、それまでの京都と 決しきれなかったところ、頼経は﹁可為変異者。自京都可申歟。其時可有御沙汰之由︿云云﹀﹂と京都 尺歟﹂ ︵ ﹃鏡﹄ ︶と彗星と思われる天変が発生した。関東の陰陽師たちがその現象を彗星か天変か否かを が挙げられる。同年二月四日に﹁白赤気三條﹂﹁赤気又出現。長七尺。彼変減。猶西傍赤気一條出現四 文については京都からの情報を尊重する態度を見せていた。例としては、仁治二︵一二四一︶年の天変 20 ︶ が生じ、最終的には京都からの連絡で決着しているからである︵ 。 関東の関係において理解されるべき事例であろう。というのも、貞永元︵一二三二︶年にも類似の事例 21 の呪術的距離﹂の近さ、換言すれば距離の遠近を問わない姿勢である。京都の公家たちの地理感覚・物 一方で当該条には道家の﹁祭祀﹂観が反映されているとも考えられるのである。それは、﹁京都と関東 いて考えておくことが必要であろう。道家の頼経可愛さからの幕府叱責と見ることもできよう。しかし、 話を﹃鏡﹄承久二︵一二二〇︶年六月十日条に戻すが、こうした道家の幕府への働きかけの動機につ 22 理的距離に関する無関心は﹃増鏡﹄における慈圓と頼朝との贈答歌によって知られるところである。慈 圓が頼朝に対して 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 129 19 あづまぢのかたに勿来の関の名は君を都に住めとなりけり ︵東国の方に、来てはならないという名の勿来の関があるのは、あなたに東国に来るな都に住めと いうことなのでしょう︶ と詠んだのに対し、頼朝は みやこには君に相坂近ければ勿来の関は遠きとを知れ ︵あなたに会うという名の逢坂の関は都近くにあるのですから、近くお会いする機会もありましょ う。しかし、勿来の関はずっと遠い所にあるので、私どもには関係のないものと思ってください︶ ︶ と 返 し て い る︵ 。 こ の や り 取 り か ら 慈 圓 の 地 理 知 識 の 稀 薄 さ を 指 摘 し て も 良 い が、﹁ 彼 我 の 間 の 物 ︶ 頼朝の死が京都に伝わった時、その死が﹁洛中穢になるか否か﹂が御卜の対象となった︵ 。 結果、﹁触 する。それは、頼朝以下、幕府の主要人物が死んだ際の洛中穢である。 理的距離に頓着が無かった﹂ともいえよう。また、そう考えなければ説明が付かない事例が他にも存在 23 ︵一一九九︶年三月十一日条に﹁鶴岡八幡宮去月神事。今日被遂行之。正月幕下将軍薨給。鎌倉中觸穢之 延期された。鎌倉で死去したと思われる頼朝の死を、鎌倉が穢とするのは納得ができよう。﹃鏡﹄正治元 穢之由卜申﹂として、二月中に式日が設定されていた祈年祭・大原野祭・釈奠が停止となり、春日祭は 24 130 表2 関東要人の死と洛中穢一覧 年 (西暦) 死亡者 穢の有無 出典 承久元 (1219) 年 実朝 仙洞丙穢30日 『百錬抄』同年2月6日条 元仁元 (1224) 年 義時 洛中穢30日 『勘仲記』弘安7(1284) 年 4月9日条「関東穢引来年々」 嘉禄元 (1225) 年 政子 洛中穢30日 『勘仲記』弘安7(1284) 年 4月9日条「関東穢引来年々」 仁治3 (1242) 年 泰時 洛中穢30日 『百錬抄』同年6月19日条 宝治元 (1247) 年 藤原頼嗣室・ 桧皮姫 天下触穢30日 『百錬抄』同年5月19日条 間。式月延引也﹂とあり、一月十三日に死去した頼朝の穢が三十日 間と設定され、その期間中に式日を迎えた二月の鶴岡八幡宮臨時祭 が一ヶ月延期された。しかし、物理的に隔たっている洛中までもが ﹁穢三十日﹂となるのは如何なる理由からであろうか。あるいは、 頼朝の場合を特別な例とみなすべきなのであろうか。 しかし、これ以降も幕府の主要人物が死去すると、﹁洛中穢﹂が 設定されることとなる。その例を整理したものが表2である。 表2を見る限りでは、頼朝が死去した際に三十日間の触穢が設定 されて以降、幕府の要人が死去すると京都は三十日の触穢とされる ようになったと考えて差し支えなかろう。本来、触穢は遮蔽物の存 在や、穢れの対象物との距離の遠近に応じて強弱が設定される。し かし、当代の知識人慈圓をしても彼我の距離を把握しかねる京都・ 鎌倉間という位置関係にありつつも、京都で鎌倉同様の﹁穢三十日﹂ を設定した理由は、本来﹁穢﹂は天皇から給う物であったという事 ︶ 実に求めるしか無かろう︵ 。 正二位まで昇進した公卿階級の人間 が地方に定住し、その地で死亡するという事例は、京都にとっては 初の出来事であっただろう。この初度の事態に際し、京都は卜の結 果をふまえ﹁︵元︶公卿が死んだのだから、穢を与えよう﹂という決 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 131 25 定を下したと考えられる。将軍家の実朝のみならず、政子や義時にまで﹁洛中穢﹂が及んだのは、 ﹁穢 を与える対象﹂として、彼らが認識されたことを示していよう。 天変に際して幕府が除災祈禱を実施しなかったことに道家が不満を顕わにしたのは、ここまでに述べ た﹁京都と関東の呪術的距離﹂の近さもさることながら、 ﹁朝廷﹂は天変を秩序紊乱者とみて除災祈禱を 実施したのに、幕府が朝廷の意向に沿わないのは不遜ではないか、という道家の価値観をも示している ともいえよう。 ﹁朝廷﹂によって﹁世上﹂は秩序を保たれている、という価値観を持った人物の関係者 を迎え入れた時点で、 ﹃鏡﹄承久二︵一二二〇︶年六月十日条と同様の事態は遅かれ早かれ発生してい たのではないか。 いわば、この︵一︶期は、頼経の下向を契機に、鎌倉の宗教的価値観・秩序観を京都のものに合わせ 調整することに充てられた時期とみるべきではなかろうか。そして、それこそが長じた後の﹁将軍﹂頼 経の﹁祭祀権﹂に繋がっていったのではなかろうか。 九歳∼十七歳 次に、頼経が実際に鎌倉幕府の﹁祭祀﹂に関与し始める︵二︶期に話を移したい。 ︵二︶ 少年期 当該時期は頼経が成人し、文字通り征夷大将軍として扱われはじめる過程にある。嘉禄元︵一二二五︶ 年七月に政子が死んだことで、 ﹁二位家﹂即ち﹁公卿の後家﹂として頼経を庇護してきた後見人が居な くなった。よって、頼経を独り立ちさせるための元服が急がれた。義時以下が如何ほど急いでいたかが 伺える記事が﹃鏡﹄に見られる。 132 ︵略︶然件日。云御移徙。云御首服。重疊頗可為卒尓之間。如先度御定。来廿日有移如何之由。被 尋于関東陰陽師等︵後略︶ 右の記事は嘉禄元︵一二二五︶年十二月八日に京都から勘文が到着した際の﹃鏡﹄の記述である。勘 文の内容は頼経の元服の日時に関わる事であるが、その中で示されていた日時が、政子の死後に進めら れた新御所の建築・移徙の日と重複してしまったのだ。そこで、﹁移徙を二十日に行い、元服を︵京都 からの勘文通り︶二十九日に実施してはどうか﹂と鎌倉在住の陰陽師たちに相談したというのである。 先の幼少期に確認したように、京都から指示のあった日時を、幕府では基本的に変更しない。恐らく、 日時を移動させることで生じる道家からの不興を畏れたのであろうし、鎌倉の陰陽師たちの相論をまと める﹁切り札﹂を失うことにもなるからであろう。今回もその方針は守られ、変更の対象は移徙の日で あった。 元服が済み、頼経に征夷大将軍位が与えられれば、政子亡き後の鎌倉﹁主﹂となるべき成長の日々が 待っていることを泰時以下の幕府首脳部は重々承知していたであろう。よって、政子が死んだ年内に頼 ︵ ︶ 。 また正五位下 経のための御所を設け、元服もさせねばならなかった。そのために日時勘文の衝突はどうしても避けら れるべき事態だったのであろう。 翌嘉禄二︵一二二六︶年正月の除目︵二十七日︶で、頼経に将軍宣下がなされた に叙され、右近衛少将に任じられた。この叙任のなされ方は摂関家の子弟に対して通常なされる慣例的 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 133 26 ︶ なものであり︵ 、 京都が頼経をどう扱おうとしていたかを窺い知ることができる。頼経はあくまで﹁九 ︶ 先 に 挙 げ た 行 事 は、 五 月 の 鶴 岡 臨 時 祭 を 除 い て は 頼 朝 期 に 開 始 さ れ て い る︵ 。 ﹁歳首﹂は頼朝の鎌 ことで、 ﹁将軍﹂頼経の﹁祭祀権﹂について検討して行く。 放生会﹂となる。これらの行事がどのような性格をもって開始され、頼経期まで営まれてきたかをみる で参加し始めた行事を挙げると、 ﹁歳首﹂ ﹁心経会﹂﹁鶴岡臨時祭︵三月︶﹂﹁鶴岡臨時祭︵六月︶﹂﹁鶴岡 当該時期における頼経の年中行事参加について見て行く。先に﹁表1 九条頼経鎌倉幕府年中行事初 参加一覧﹂を作成し、頼経が幕府の年中行事に参加し始めた時期を整理した。改めて表1から︵二︶期 条家の子弟﹂なのである。 27 恐︿天毛﹀申︿天﹀申︿久﹀ 。頼朝訪遠祖︿波﹀。神武天皇初︿天﹀日本国豊葦原水穂︿尓﹀令濫觴︿天﹀ ︵略︶前右兵衛佐従五位下源朝臣頼朝。礼代御幣。砂金神馬等令捧斉持︿天﹀。天照百皇太神廟前︿仁﹀ 窺い知ることができるのが寿永元︵一一八二︶年に奉った願文である。以下に引用する。 ﹁祖宗を崇めんがため﹂という目的で頼朝は鶴岡宮を再整備した。その延長線上にある頼朝の目的を 詣は継続された。 奉幣之日︿云云﹀ ﹂として開始された。これより後、元旦以外の日になることはあっても年初の鶴岡参 倉入りの翌年である養和元︵一一八一︶年の元旦より﹁参鶴岳若宮給。不及日次沙汰。以朔旦被定当宮 28 五十六代︿仁﹀相当︿礼留﹀清和天皇︿乃﹀第三︿乃﹀孫︿与利﹀。携武芸︿天﹀護国家︿利﹀。居 衛宮︿天﹀耀朝威︿須﹀ 。自尓以来。挿野心凶徒征罰︿須留﹀依勲功︿天﹀。恵沢身︿仁﹀余︿利﹀。 134 ※傍点は筆者による。 武勇世︿仁﹀聞︿倍﹀ 。和国無為︿仁志天﹀。有截克調︿天﹀。星霜三百余歳︿仁﹀覃︿布﹀所。 ︵以下略︶ これは寿永元︵一一八二︶年二月八日︵ ﹃鏡﹄同日条︶に頼朝が伊勢大神宮に奉幣使を送る際に添え た御願書の一部分である。傍点部﹁武芸に携わりて国家を護り衛官に居て朝威を輝かす﹂は、頼朝の率 直な自己表明といえる。非常時に武力を行使しうる立場に居続け、有事の際には朝敵を討滅することこ そが頼朝が考えた自己の存在意義であり、その意志が官位面で実現されたのが右大将位であり、﹁征夷 ︶ 大将軍﹂号であったのだろう︵ 。 ︶ ら後々まで実現していない︵ 。 他 方、 ︵二︶期で頼経が参加し始めた儀礼は、頼経に多少の不調が見ら ﹁二所詣︵伊豆・箱根の二所と三島への奉幣︶ ﹂があるが、これは毎年頼経自身の参詣が議題に上りなが 得る﹁源氏将軍家﹂の存在意義に関わる行事のみといえよう。将軍の年中行事として重視された儀礼に 以上の様に見てくると、 ︵二︶期で頼経が参加するようになった年中行事は、頼朝が想定したと考え 放生会﹂は﹁戦乱﹂を﹁除災﹂する際に伴う殺生を﹁悔過﹂する儀礼である。 ことと、発生したとしてもすぐに﹁除災﹂できることを願って行なわれたと考えられる。また、﹁鶴岡 ﹁鶴岡臨時祭﹂も﹁歳首﹂と同様、定期的に祖宗と八幡神を崇めて、﹁戦乱﹂を含めた天変が生じない 29 ︶ れても強制的に参加させた例が見られる︵ 。 如何に﹁将軍﹂による鶴岡八幡宮で開催される儀礼への参 加が重要であったかを示していよう。 31 ここまで、頼経と﹁将軍﹂として参加すべきものと位置づけうる年中行事の関係について述べてきた。 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 135 30 他方、 ﹁源氏将軍家﹂としての﹁イエ﹂の祭祀はどうであったかを整理しておきたい。 頼経の鎌倉下向後、義時が元仁元︵一二二四︶年、政子が嘉禄元︵一二二五︶年とたて続けに死去す るが、その回忌法会に頼経が臨席したと確認できる記事は見えない。寛喜三︵一二三一︶年の七月十一 日の政子の月忌も、前年に頼経と結婚した竹御所及び北条時房・泰時らは臨席したが、頼経は姿を見せ ︶ ていない︵ 。 ︶ 野口氏はこうした竹御所の活動を頼経との組み合わせの中で考えようとされた︵ 。 ま た、 金 永 氏 は ︵ロ︶寛喜三︵一二三一︶年一月二十四日に鶴岡参詣︵﹃鏡﹄︶。 ︵イ︶寛喜二︵一二三〇︶年閏一月十七日に二所詣の奉幣使を派遣︵﹃鏡﹄︶。 例はこれ以外にも見られる。 昇進し袍始を行うためだが、竹御所が﹁源氏将軍家﹂祭祀の主催者として位置づけられていたと思しき 竹御所が臨時祭に参宮したという記事も見える︵﹃鏡﹄︶。頼経が臨時祭に参宮しなかった理由は四位に この年の三月三日の鶴岡臨時祭・法会においては、頼経が鶴岡宮に勧請された春日社別宮に参拝し、 32 ︶ いか、とされた︵ 。 こうした竹御所の活動については、祭祀面で﹁源氏将軍家﹂を想起させる存在が求められたからではな 33 軍﹂としての職能・職務として位置づけられていたと思しき祭祀に臨席し、その責を果たそうとする一 私見としては、 金氏の指摘の方が ﹃鏡﹄ から窺える状況からは妥当ではないかと考えられる。頼経は﹁将 34 136 方、あくまでその立ち位置は﹁摂家﹂の子弟のそれである。昇進についても、また京都との関係も﹁摂 家﹂以外の何物でも無い。仮に、前将軍実朝が摂家の子弟相当の昇進をしたことで﹁イエ﹂の格が清華 家相当から摂関家相当に変わっていたとしても、﹁源氏将軍家﹂は﹁源氏将軍家﹂であったのであろう。 故に﹁竹御所﹂に注目が集まり、前述の様な﹁イエ﹂祭祀の主体となっていったと考えられる。源義朝 の血を濃く受け継いだ頼経が、頼家の娘である竹御所との間に男子を為せば、竹御所が担っていた﹁源 氏将軍家﹂祭祀と﹁将軍﹂祭祀は再統合されたことであろう。しかし、竹御所は三十二歳という当時に ︶ おいては高齢出産であった為か、難産の末頼経の子を死産した後、自らも死去してしまう︵ 。 てゆきたい。 ︵三︶ 青年期 という問題に繋がったであろう。先に挙げた様な竹御所の活動が表面化しはじめたのは頼経が正四位下 位以上には政所の開設が認可される。これは竹御所の生存中は曖昧にしえたであろう﹁政所の主は誰か﹂ ︶ 竹御所の死後、頼経は正三位に昇叙された︵ 。 従三位昇叙は貞永元︵一二三二︶年であったが、三 十八歳∼二十七歳 係は変化していったと考えられる。では、どのように変化したのかを︵三︶期の考察を通じて位置づけ の仏事には、正室であった竹御所が主体として関与したが、その死により﹁源氏将軍家﹂と頼経との関 としての位置づけも為されていったと整理できよう。他家出身であるが故に踏み込めない源家・北条家 ︵二︶期における頼経は、 ﹁摂家﹂の子弟として育まれながらも、﹁祭祀﹂への参加を通じて﹁将軍﹂ 35 に昇叙されてから四年を経、三位昇叙を果たし、頼経自身が政所の主であることを意識しても良い時期 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 137 36 でもあった。 ︵一︶期︵二︶期の政所の主は誰だったのか。鎌倉期前後には後家による家政機関・財産及び祭祀権 ︶ の相続が見られる事︵ や 、 ﹃鏡﹄ での扱われ方からいって政子である事は疑いあるまい。政子死後の︵二︶ ていた。頼朝は挙兵前後にこの三所で戦勝祈願を執り行わせ、その報償として所領の安堵や寄進を行っ 三島を加えた場合は計三所に将軍が自ら奉幣を行う儀礼であり、移動を含めて通常五日前後が費やされ 同時期に参加を始めた年中行事で強調されるべきは﹁二所詣﹂である。これは伊豆山・箱根の二所と とを示していよう。 臨時祭への参加が見られるようになったのも、頼経の﹁将軍﹂としての役割への期待が高まっていたこ 発生したとしてもすぐに﹃除災﹄できることを願ったと考えられる﹂との私見を述べたが、この期間に 臨時祭については、先に﹁定期的に祖宗と八幡神を崇めて、﹃戦乱﹄を含めた天変が生じないことと、 実施されていた﹁鶴岡臨時祭﹂が確認できる。 再び表1を見てみよう。この時期に頼経が参加し始めた行事として﹁二所詣﹂と五月・九月の節日に 祀﹂に関わっていたのかを見て行く。 化したとしても不思議では無かろう。以下、このような時期に頼経はどのような活動、特に幕府の﹁祭 し、政子と竹御所亡き後に﹁関東の政所は自分の家政機関である﹂と頼経の意識が客体から主体へと変 頼経が﹁征夷大将軍﹂位を帯びている以上、﹁将軍﹂の職能を逸脱することは適わないだろう。しか 期、特に頼経の従三位昇叙以前の時期は竹御所ということになろうか。 37 ︶ た︵ 。 頼朝挙兵以前から、この三所は関東の人々から特別な崇敬を集めていたが、頼朝期以降も挙兵 38 138 時を佳例とし﹁将軍﹂による直接の奉幣が求められたのであろう。また、頼朝は伊豆山に願をかけた際 に﹁凡於関東。可奉輝権現御威光﹂︵ ︶とも誓っている。この後の頼朝の勢力拡大を鑑みれば、伊豆山 に対する奉賛も兼ねていたのであろう。つまり、二所詣は﹁源氏将軍﹂が如何に勢力を伸張させたのか を再確認し三所に感謝すると共に、その勢力維持を再誓願するための祭祀であったといえよう。 頼経自らによる奉幣が検討され始めたのは、﹃鏡﹄上で確認しうる範囲では、征夷大将軍就任後二年 を経た頼経十一歳の安貞二︵一二二八︶年からである。それまでは奉幣使を派遣していたが、この年は 頼経自身が向かうことでほぼ決定していた。しかし、走湯山に火災が発生したため﹁依走湯山火災事。 令留給﹂と頼経自身による奉幣は中止された。翌、寛喜元︵一二二九︶年も奉幣使が送られているが、 これは前年に箱根社が焼失︵ ﹃鏡﹄安貞二年十月十八日条︶したため、前年から直接奉幣を行うか否か が議論された末の結論であった。この二件に対してとられた措置の原因を、﹁焼亡穢﹂︵ ︶を忌避したた ︶ 詣に関与した人物としては竹御所が見える︵ 。 それは自身による奉幣ではなく、奉幣使を派遣する形 頼経による直接の奉幣が検討され始めてから実際に頼経が出向くまでの十年弱の間、頼経の外に二所 くなる。 めて自ら奉幣に出向いた嘉禎三︵一二三七︶年まで、将軍自身による奉幣が検討された形跡は見られな めとか、社殿の未整備に配慮したためなど、と類推することは可能である。しかし、この後は頼経が始 40 よる﹁将軍﹂の役割の吸収﹂とは評価できまい。先に頼朝が二所詣を重視した理由として、謝恩と再誓 であるが、この年は一月二十日に頼経も奉幣使を派遣している︵﹃鏡﹄︶。この行為を直ちに﹁竹御所に 41 願との意味があったのだろうと述べた。竹御所による二所奉幣は﹁源氏の血を引く者による謝恩﹂とし 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 139 39 て位置づけ、あくまで﹁源氏将軍家内部﹂の宗教行為と看做す方が妥当であろう。 当該時期における最大の出来事として暦仁元︵一二三八︶年二月から十月の頼経の上洛が挙げられる。 頼経在京中の出来事の内、本稿の課題である祭祀権に関わる部分に注目してみたい。 上洛後、頼経は六波羅を宿所としたが、そこは在京中は将軍による祭祀の場ともなった。閏二月十三 日には﹁日有重暈﹂が生じ﹁可有御慎﹂として、陰陽頭安倍維範が六波羅殿で天地災変祭を奉仕した。 維範は十五日にも六波羅殿で属星祭を奉仕している。これらは頼経個人に関わる祭祀であるが、三月二 十二日には仁王会が営まれた。この日、道家は六波羅へ赴いて法会を聴聞している︵﹃鏡﹄、﹃玉蘂﹄︶。 当初、六波羅では法華八講が営まれる予定であったらしく、道家は自らの日記﹃玉蘂﹄に以下の様に 引用部分の大略を述べると、 ﹁三月二十二日に頼経が六波羅で仁王八講を営む。長年、関東では毎年 記している。 ︵略︶今日新大納言︿頼経﹀ 。於六波羅被行仁王八講。年来於関東。毎年一度被行法花八講云々。在 二親人息災被行法華八講之例不詳。於神社法楽者非其限。仍仁王最勝之間可宜之由。予加微諫。仍 二ヶ日所展此梵莚也︵以下略︶ 一度法華八講を営むというが、両親が健在な人が法華八講を営む先例を自分は知らない。神社での法楽 は両親が健在な人でも営むようであるが。従って、仁王講か最勝講のどちらかが良かろう、と自ら少々 諌めたところ、二日間の日程で法会が開かれることになったのだ﹂となる。 140 道家にしてみれば、自身と正室の綸子が健在な状況で、主として死者の追悼のために営まれる法華八 講を息子主催で営まれては違和感があろう。また、どうしても都人の耳目を集めがちな﹁将軍﹂が、当 時の規範に合わない﹁祭祀﹂を営めば、それは公家からの嘲笑と不信にも繋がるであろうという判断が あったことも想像できよう。そこで、自ら﹁微諫﹂を加えたと考えられる。この日、道家夫妻が直接六 波羅まで赴いたのも、恐らく﹁微諫﹂が聞き入れられたか否かの確認の意味もあったのであろう。 ただ、頼経以外の幕府関係者には上洛のこの機会に六波羅で法華八講を営みたいという希望があった のかもしれない。そして、その目的は政子の供養のためであったと推定しうる。同年七月十一日に泰時 は密かに園城寺に出向いている︵ ﹃鏡﹄ ︶ 。 ﹁左京兆密々参園城寺給﹂と密かに出向いたことを﹃鏡﹄が強 調するのは、あるいはこの三月二十二日の一件が関与しているのであろう。 ここまでにも幾度か述べてきたが、 ﹁摂関家の子弟﹂である頼経が源氏将軍家・北条家の法事に関与 しないことは、 ﹁鎌倉において﹂は共通認識であったと考えられる。道家の﹁微諫﹂が無く三月二十二 日に当初の予定通り法華八講が営まれていたとしても、頼経が主要な立場で臨席したかどうかは疑わし い。しかし、道家はそのような鎌倉の事情を把握しておらず、頼経の﹁政所﹂が法会を営む限り、それ は頼経個人や﹁将軍﹂主催の﹁祭祀﹂として捉えたのであろう。道家から﹁微諫﹂を加えられた過去が あったため、泰時は政子供養の法会で道家に誤解を抱かせるのを防ぐため﹁密密﹂の行動をとったので はないかと思われる。 在京中の頼経は、あくまで﹁摂家の子弟﹂としての行動に終始している。六月五日には春日社を参拝 し︵ ﹃鏡﹄ ︶ 、その後も石清水八幡宮︵ ﹃鏡﹄七月二十三日条︶、八月二日に春日社殿で一切経の供養︵﹃鏡﹄ 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 141 八月二日条︶ 、賀茂・祇園・北野・吉田社と︵ ﹃鏡﹄八月二十五日条︶と二十二社のうち主立った神社を 巡っている。しかし、頼朝が尊重し上洛時には直接参拝 ︵ ︶していた六条八幡宮には一度も出向いてい ︶ 体への評価も現時点では未確定といって良い︵ 。 し か し、 こ の 上 洛 は 頼 経 の 意 識 に 相 当 の 変 化 を も た ここまで述べた頼経上洛中の諸社参詣・法会開催に対する評価もさることながら、﹁頼経の上洛﹂自 ないことからも、 ﹁源氏将軍家﹂の﹁祭祀﹂とは距離をおいていたことが確認できる。 42 ︶ に際して行われた金光明経供養の願文にそれが伺える︵ 。 その願文は全体としては頼経自らの﹁将軍﹂ し、上洛して直接対面したことは頼経の親への感情を強めた様で、翌延応元︵一二三九︶年八月の天変 接対面するまで父道家を﹁書状の送り主﹂ ﹁下賜品の送り主﹂以上には認識できなかったであろう。しか まずは、道家と頼経との親子関係が改めて確認・強化されたことである。二歳で下向した頼経は、直 らしたのではないか、と考え得る点が見受けられる。 43 また、この年の五月に道家が急病に襲われたことが遠因となったのか、翌仁治元︵一二四〇︶年の年 うと述べてきたが、この願文からは頼経自身によるそうした意識が見て取れる。 感激を述べている。これまで本稿では幕府首脳は頼経を﹁摂家﹂の﹁将軍﹂として遇してきたのであろ として過ごしてきたが、上洛して両親に会ったこと、また、両親が出家する場面に立ち会えたことへの 之慈顔。因茲幸過少呉氏之仁恵︵中略︶矧亦子道云彰。面覩太閤准后之遂素意﹂と、それまでは﹁将軍﹂ としての自覚について述べられるところが多いが、願文の半ばほどに﹁︵略︶弱冠三七歳之時。始拝双親 44 ︶ 末には二所・三島・春日で毎日神楽を奉納したいと立願している︵ 。 費用が莫大な額に上ることから、 ︶ 毎日を毎月に改めて実施されることとなった︵ 。 46 45 142 道家の健勝を祈願するために頼経が﹁毎日神楽を奉納する﹂という立案をした理由は、恐らく頼経上 洛時の道家の﹁微諫﹂にあったものと思われる。道家は﹁微諫﹂の中で二親が健在な者の法華八講は許 ︶ さ れ な い が、 ﹁ 於 神 社 法 楽 ﹂ は﹁ 非 其 限 ﹂ と 指 摘 し て い た か ら で あ る︵ 。 そ の﹁ 微 諫 ﹂ に 従 っ た の で あろう。 道家の病に際しては天文道の面々による占いも行われ、﹁大事に至らず﹂という卦が大多数であった。 道家の回復後に頼経は剣一腰を陰陽師たちに下賜したが、その際に﹁被賞翫司天之輩﹂と﹃鏡﹄に頼経 ︶ が陰陽師たちをどう扱っていたかを伺うことができる一文が含まれている︵ 。 ︶ もある。嘉禎元︵一二三五︶年には頼経が天文道に直接命令を下した場面が﹃鏡﹄に見られる︵ 。 嘉 道家の病の例のみに留まらず、 ︵三︶期は頼経が天文や陰陽道祭祀に積極的関与を見せ始めた時期で その期待の表れであったのではないか。 解し、事前に危難を避けるために陰陽道祭を営むことができる陰陽師が必須となろう。この﹁叱責﹂も ての自覚と成長が伺える。頼経が﹁将軍﹂としての職能を維持するためには、天文が示す因果関係を理 ころ、頼経は﹁今度分明可窺旨。直被仰付﹂と天文観察に注文をつける場面も見られ、 ﹁将軍﹂頼経とし 他方、延応元︵一二三九︶年四月に奇雲が生じた際に陰陽師たちが﹁︵雲は︶不窺見之由﹂と述べたと 48 ここで︵三︶期について整理しておきたい。この時期は頼経が二所詣への直接参加の開始、また暦応 えた﹁将軍﹂としての職務の一部だったとみなせよう。 ︶ 禎三︵一二三七︶年以降は陰陽道祭が営まれる庭に直接出御し始める︵ 。 こ う し た 活 動 も、 頼 経 の 考 49 元︵一二三八︶年の頼経上洛を通じ、頼経に﹁摂家の一員﹂﹁将軍としての自己﹂という自意識を持た 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 143 47 50 せるに至った重要な時期といえるのではないか。 以下、章を変えて︵四︶期の特徴と、本稿全体のまとめについて述べたい。 3.︵四︶期、及び結論 本稿の冒頭において、 ︵四︶期は頼経二十八歳以降の大殿期、具体的には寛元三︵一二四五︶年以降 と設定した。 ︵三︶期の末期に頼経と幕府を支え続けてきた泰時が死去︵仁治三[一二四二]年六月十 五日︶し、執権は経時が継いだ。 結論から述べておくと、泰時の死後から頼経が征夷大将軍位を頼嗣に譲る寛元二︵一二四四︶年まで において、頼経が関与した祈禱・祭祀は泰時の生前と比較しても大差は見られない。これは︵三︶期の うちに﹁摂家将軍﹂がなすべき職務が大凡固まったからと見なせよう。 前章までで見てきた限り、 ﹁将軍﹂が実際に兵卒を率いて賊徒を平らげるような場面が生じなければ、 頼経が﹁将軍﹂としてなすべき最大の職務は﹁未然に兵革を防ぐ為の祭祀を欠かさないこと﹂と﹁有事 に神仏の冥助を受けられるよう、年中行事を営むこと﹂に集約しうる。 寛元二︵一二四四︶年四月二十一日に頼経は将軍位を元服したばかりの頼嗣に譲り、自らは﹁大殿﹂と呼 ︶ ばれる立場となった︵ 。 辞職後すぐには頼経は上洛せず、寛元四︵一二四六︶年七月十一日までの間鎌 ︶ 倉に留まった。その間、客星の出現について天文道の面々と相論をしたり︵ 、 天文勘文を僧侶たちに 51 52 見せ懇ろな祈禱を促したり ︵ ︶するなど、除災祈禱に関する活動に変化は少ない。しかし、 ﹁将軍﹂が主 53 144 ︶ となるべき鶴岡八幡宮の年中行事の場は頼嗣に譲っており、頼経は桟敷からの見物に留まっている︵ 。 ︶ えるに︵ 、 あるいは幼少の身には三所への奉幣は酷だと考えられ敬遠されたのであろうか。 また、二所詣は頼嗣ではなく頼経が奉幣に出向いた。後には頼嗣自身で奉幣に出向いていることから考 54 頼経が京に戻るまでの間の期間は、頼嗣への﹁摂家将軍家﹂故実の継承期間とも位置づけられよう。 対比のために実朝までの故実を仮に﹁源氏将軍家﹂故実と呼称するならば、そこには複数の連続面が認 められよう。具体的には鶴岡八幡宮をはじめとした関東諸社寺における﹁将軍﹂としての年中行事と、﹁源 ︵ ︶ 。 これは﹁将軍﹂の﹁祭祀権﹂の純化ともいえよう。頼経は﹁将軍﹂の職能 氏将軍家﹂の祖先祭祀である。政子の死後、祖先祭祀は頼経ではなく正室の竹御所に引き継がれ、その 死後は泰時へと移った の﹁呪術と技術の未分離﹂を指摘された︵ ︶が、筆者は﹁呪術即技術﹂・﹁呪術即論理﹂であろうと考え 代人が営んできた卜占や祭祀・祈禱の説明が付かないからだ。平雅行氏は﹁鎌倉仏教論﹂内で中世社会 底をなさない時期においては、それらの基底に位置しているとみなさねばなるまい。そうせねば、同時 さて、頼経期のみとは限らないが、 ﹁祭祀﹂は現在の我々の様に自然科学が﹁論理﹂・﹁世界観﹂の基 き部分を示していったのだとすれば、先に挙げた頼経の動きは説明が付こう。 に求められる年中行事・祭祀を営むことに集中していったからである。頼経は頼嗣に﹁将軍﹂の担うべ 56 金永氏は先に紹介した論攷 ︵ ︶の中で将軍と御家人との主従関係再生産のための﹁祭祀﹂を重視され、 る。そのような立場から摂家将軍が携わった﹁祭祀﹂の再評価を試みたのが本稿である。 57 必然的にその検討対象も源氏・北条氏の﹁イエ﹂祭祀に向かっている。そのため鎌倉で営まれた九条家 58 の﹁イエ﹂祭祀は御家人たちから評価されなかったと指摘された。これは﹁将軍﹂の職能が主従制の維 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 145 55 持にあるとみなされたからで、 ﹁聖﹂ ﹁俗﹂の分類からは﹁俗﹂権への考察に属するといえよう。総じて 鎌倉幕府の﹁祭祀﹂そのものが持っていた意義は未だ評価の途上にあるといえるのではないか。 本稿ではそうした課題意識から、時代を摂家将軍期に設定し、﹁祭祀﹂は同時期の﹁論理﹂﹁世界観﹂ の根底をなすものとした上で、 ﹁将軍﹂の職能そのものに対する検討をおこなってきた。 ここまでに述べてきた視座を基にした鎌倉幕府﹁祭祀﹂の再検討を親王将軍期も含めて今後行いたい やすひろ・平成十七年度文学研究科博士課程単位取得退学︶ が、この視座自体が適当であるか否か自体の検討も今後の作業課題として行きたいと考えている。ご批 判ご叱正を賜りたく存ずる次第である。 ︵たけがはら 146 [註] 九 ︵ ︶青山幹哉﹁鎌倉幕府将軍権力試論︱将軍九条頼経∼宗尊親王期を中心として︱﹂ ︵﹃年報 中世史研究﹄八、一九 中世社会の成立﹄︵二〇〇一年、東京堂出版︶に収録。 八三年︶ 。後、大石直正・柳原敏昭編﹃展望日本歴史 ︵ ︶ ﹃鏡﹄治承四︵一一八〇︶年八月十六日条。 ︵ ︶ ﹃鏡﹄治承四︵一一八〇︶年十月七日条。 ︵ ︶ ﹃鏡﹄治承四︵一一八〇︶年十月十二日条。 ︵ ︶ 源氏将軍と神仏との関係については、 永井晋氏が ﹁鎌倉幕府将軍家試論︱源氏将軍と摂家将軍の関係を中心に﹂︵﹃国 史学﹄一七六、二〇〇二年︶において一節を設け、頼朝・実朝と八幡神との関係を整理されている。 ︵ ︶野口実﹁竹御所小論︱鎌倉幕府政治史上における再評価︱﹂ ︵ ﹃青山史学﹄第十三号、一九九二年︶。 ︵ ︶金永﹁摂家将軍期における源氏将軍観と北条氏﹂ ︵ ﹃ヒストリア﹄第一七四号、二〇〇一年︶ 。 ︶ ﹃鏡﹄貞応二︵一二二三︶年四月二十八日に西御壺で手鞠会を開催した際、頼経の服に鳥の糞が付く事件が生じ 頼朝 ︵創始者︶ ︱頼家︱実朝︱政子︱頼経・竹御所︱泰時︵以降、北条氏︶ ︵ ︶金氏の論攷を参考に、 ﹁誰が鎌倉将軍家の祭祀を継いだのか﹂という流れを整理すると、以下のようになる。 ︵ た︵ ﹃鏡﹄ ︶ 。 そ の 後 十 月 五 日 に 政 子 が 許 可 す る ま で 外 出 禁 止 で あ っ た︵ ﹃鏡﹄︶ 。こうした事例から考えるに、頼経は ︶論文。あるいは﹁祭祀権﹂だけが将軍の手元に残った実朝期と、摂家将軍期は連続させて捉える 所謂﹁政務﹂に属する事象のみならず、日常生活に至るまで政子に管理されていた様である。 4 ︶貞永元︵一二三二︶年には、祖父の公経から洛中の出来事が二度報じられている︵ ﹃ 鏡 ﹄ 九 月 十 三 日 条、 十 二 月 べきなのかも知れない。 ︵ ︶注︵ ︶・︵ ︵ ︵ 3 ︶例えば、手習始の道具が元仁元︵一二二四︶年︵ ﹃鏡﹄同年四月二十七日条︶、安貞二︵一二二八︶年には牛車が 二十四日条︶ 。 届いている︵ ﹃鏡﹄同年七月二十九日条︶ 。 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 147 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︶ ﹃鏡﹄の貞応元︵一二二二︶年には三件の年中行事関連の記事︵一月八日の心経会、二月十二日の鶴岡臨時祭、 ︶ ﹃鏡﹄の嘉禄元︵一二二五︶年∼安貞元︵一二二七︶年分は北条本では脱漏部分にあたる。 ︶ ﹃鏡﹄延応元︵一二三九︶年八月十日条。 ︶ ﹃鏡﹄寛元二︵一二四四︶年四月二十一日条。 ︶ ﹃鏡﹄文暦元︵一二三四︶年七月二十七日条。 ︶ ﹃鏡﹄寛喜二︵一二三〇︶年十二月九日条。 ︵ ︶ ﹃鏡﹄承久二︵一二二〇︶年十一月二十三日条。 祭は﹁鶴岳神事如例﹂ 。放生会は﹁鶴岡八幡宮放生会。舞楽御経供養如例﹂とのみ見える。 八月十五日の鶴岡放生会︶が見える。何れにも幕府関係者の臨席は見られず、心経会は﹁今日。心経会如例﹂。臨時 18 17 16 15 14 13 星と決定された。 ︶ ﹃百錬抄﹄正治元︵一一九九︶年一月三十日条。 波書店︶によった。 ︵ ︶原文、及び訳は日本古典文学大系 ︵ 87 ︶井原今朝男﹃史実中世仏教﹄第二巻、二一三頁∼二一四頁。藤原忠通妻の宗子が死亡した際の史料の検討から、 穢れは自動的に伝播・波及したものではなく、同時代人が選択して受け止めていたのではないかと指摘された。同 時代の公家は、この﹁穢﹂の図式を頼朝以下幕府要人の死穢の扱いにも当てはめようとしたのであろう。 ︵ ︶ ﹃鏡﹄嘉禄二︵一二二六︶年二月十三日条。 ︵ ﹃神皇正統記・増鏡﹄ ︵岩佐正・時枝誠記・木藤才藏校注、一九六五年、岩 なかったため結局送られなかった︵﹃鏡﹄同日条に﹁被尋京都事。暫被閣云々﹂ ︶が、後日京都から勘文が届き、彗 申詞。可被尋京都﹂ ︵ ﹃鏡﹄ ︶と最終決定を京都の陰陽師に委ねようとしている。この書状はあまりに見解がまとまら の天変であるか﹂を議論させたが結論を出せなかった。そこで、 八日に﹁変気事。於関東有相論。未決之旨。注面々 ︵ ︶ ﹃鏡﹄貞永元︵一二三二︶年閏九月四日条﹁寅刻彗気見乙方﹂と彗星らしき物が観測され、 翌日陰陽師を集め﹁何 ︵ ︶ ﹃鏡﹄仁治二︵一二四一︶年二月十六日条。 ︵ ︶ ﹃鏡﹄嘉禄元︵一二二五︶年十二月八日条。 22 21 20 19 23 25 24 26 148 ︵ ︶当時の摂関家子弟は五位叙爵後に侍従・少将を経て中将となる官歴が一般的であった。院政期から鎌倉期までの 摂関家・将軍家子弟の官歴から見た家格決定の経緯については元木泰雄﹁五位中将考﹂ ︵大山喬平教授退官記念会編 古代・中世﹄所収、 [一九九七年、思文閣出版] ︶に詳しい。 また、平基親が正治年間︵一一九九年∼一二〇一年︶に記したとされる史料に﹃官職祕抄﹄︵ ﹃群書類従﹄官職部︶ ﹃日本国家の史的特質 がある。官職に補任されるべき者の身分・家柄・資格といった諸条件を述べたものだが、その中納言の項には﹁︵略︶ 更に、二条良基﹃百寮訓要抄﹄ ︵ ﹃群書類従﹄官職部︶の中納言の項には、 ﹁つかさどる所大納言に同。また任人も 所謂参議。大弁。同近衛中将。検非違使別当。摂政関白子息﹂とある。 大略同事也。中納言の中将と申は只一人有事也。執柄の臣より外はならず。但実朝の右大臣任ぜられたる事は別の 儀也﹂とある。 に挙げた行事の中では唯一頼朝の生存中 ︵ ︶頼朝が﹁征夷大将軍﹂号そのものを重視していたのか否かは意見が分かれるところである。高橋富雄氏は﹃征夷 存在していない。この欠落に当たる時期に開始されていた可能性も考慮に入れておきたい。 に実施例が見えない。しかし、 ﹃鏡﹄は頼朝の晩年にあたる建久七︵一一九六︶年∼建久九︵一一九八︶年相当分が ︵ ︶五月の鶴岡八幡宮臨時祭の﹃鏡﹄初出は建仁二︵一二〇二︶年と、表 1 大将軍﹄ ︵一九八七年、中公新書︶において、右近衛大将就任こそが﹁幕府﹂成立の要件であり、﹁公認された形式 に従って、その武門政権を鎌倉右大将家政所府、つまり鎌倉幕府として公権化したのであった﹂ ︵同、六四頁︶とさ れた。その上で猶﹁征夷大将軍﹂号にこだわったのは、﹁身、鎌倉にありての軍令権﹂ ︵同、六二頁︶ ・﹁前右大将家 他方、本郷和人氏は﹃新・中世王権論﹄︵二〇〇四年、新人物往来社︶で、﹁頼朝は、幕府は、どんな官職でも良 幕府を継承する公権様式として求められ﹂ ︵同、六四頁︶たとし、その必然性を説いた。 かったのだと考えている﹂ ︵同、二四頁︶と、官職の名称よりも自己の組織において主従的人間関係を維持するため に必要な名称を求めたのではないかと主張された。 私は、 頼朝の目的は﹁自己の﹁イエ﹂の格をどこまで高めうるか﹂にあり、それこそが﹁頼朝無咎過︿天﹀覃罪科︿布﹀ 含愁憤︿天﹀送春秋︿留﹀ ﹂ ︵ ﹃鏡﹄寿永元︵一一八二︶年二月八日条︶の願文に見える﹁愁憤﹂を晴らすことであり、 また、清華家相当まで高まった平家の家格を超えることもその一目的であったのだろうと考えている。事実、頼朝 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 149 27 28 29 ︵ ︵ の極官は清華家相当︵大納言・右近衛大将を経て大臣就任。また、子女を入内させうる︶であり、更に、実朝は中 実朝の昇進を喜ばない義時が大江広元を通じて諫めたが、 実朝は﹁飽帯官職。欲挙家名︿云云﹀ ﹂ ︵ ﹃鏡﹄建保四[一 納言中将と﹁摂関家の子弟﹂が通過する官歴を経て右大臣に昇進している。 二一六]年九月二十日条︶と、昇進して﹁イエ﹂の格を上げることにしか興味がないと返事をしているのは、頼朝 のことまで含めて考えれば示唆的であろう。 ︶初度は﹃鏡﹄安貞元︵一二二八︶年一月十九日条。実際に頼経が参詣し始めるのは嘉禎三︵一二三七︶年で、そ ︶ ﹃鏡﹄寛喜元︵一二二九︶年八月十六日条。 ﹁今日又将軍家御参宮︵中略︶御不例雖有余気。抑以両日御出。是依 れまでは奉幣使を派遣していた。 ︶天福元︵一二三三︶年の政子月忌も同様である。 為厳重神事。武州被申行之故也﹂ 。 ︶注︵ ︶注︵ ︶論文。 ︵ ︵ ︶樋口健太郎﹁平安末期における摂関家の﹁家﹂と平氏︱白川殿盛子による﹁家﹂の伝領をめぐって︱﹂ ︵﹃ヒスト ︶ ﹃鏡﹄文暦元︵一二三四︶年十二月二十八日条。 ︶ ﹃鏡﹄文暦元︵一二三四︶年七月二十七日条。 リ ア ﹄ 第 一 八 九 号、 二 〇 〇 四 年。 後 に 同 著﹃ 中 世 摂 関 家 の 家 と 権 力 ﹄ に 収 録。 [ 二 〇 一 一 年、 校 倉 書 房 ] ︶内で、近 衛基実の死後、後家となった平盛子は家産の管理権のみならず祖先の祭祀権も継承していた事を明らかにされた。 ︶伊豆山には﹁世情が安定したなら所領を寄進する﹂という念書を与えた記事が﹃鏡﹄治承四︵一一八〇︶年八月 十九日条に見え、十月十八日には安堵の書状を与えている。箱根権現には祈禱の賞として富士川の戦い直前の十月 十六日︵ ﹃鏡﹄ ︶に、三島社には富士川の戦いに﹁明神の冥助﹂があったとして直後の十月二十一日︵ ﹃鏡﹄ ︶にそれ ︵ ︶鴨川合社が天永三︵一一一二︶年十月二十九日に焼失した後、穢として扱われていたことが﹃殿暦﹄同年十一月 ︶ ﹃鏡﹄治承四︵一一八〇︶年八月十九日条。 ぞれ寄進がされた。 ︵ ︵ ︵ 4 ︶論文。 ︵ ︵ 3 ︵ 30 31 37 36 35 34 33 32 38 40 39 150 ︵ ︵ ︵ ︶ ﹃鏡﹄寛喜二︵一二三〇︶年閏一月十七日条。また、政子生存中の﹃鏡﹄貞応二︵一二二三︶年二月一日条に二 一日条に見える。 ︶建久元︵一一九〇︶年は十一月十一日に頼朝自身が向かった。建久六︵一一九五︶年の上洛時には奉幣使を派遣 所詣の精進始を示唆する記事は見えるが、実際の奉幣使派遣は確認できない。 し黒馬一匹を奉納した︵ ﹃鏡﹄同年三月六日条︶ 。 ︶上横手雅敬氏は﹃人物叢書 北条泰時﹄ ︵一九五八年、吉川弘文館︶において﹁幕府が解決を迫られる緊急の課 題もなく、政務にもいささかの余裕ができた。思えば頼経の成長の姿は承久の乱以降の幕府の成長の姿でもあるが、 頼経と幕府の成長した威容を京都に示す時期も訪ずれたようであった﹂︵一七七頁︶と、この上洛を﹁頼経・幕府の 成長を見せるため﹂とされた。 この指摘に対し、関口崇史氏は﹁幕府から見た頼経上洛の見解である﹂として、上洛時の頼経の父・道家の動向 を整理することでこの上洛を別視点から位置づけようとされた︵関口崇史﹁将軍頼経上洛時における九条道家の動 向﹂ [ ﹃鴨台史学﹄一、二〇〇〇年] ︶ 。しかし、幕府と京都との連携確認・強化以上の見解は提示しきれていない。他、 森茂暁氏もこの滞在が何をもたらしたかは興味深いとしつつ、特に意見を提示されてはいない︵同﹃鎌倉時代朝幕 関係の研究﹄二二頁、 [一九九一年、思文閣出版] ︶ 。 ︵ ︶ ﹃鏡﹄延応元︵一二三九︶年八月十日条。 ︵ ︶ ﹃鏡﹄仁治元︵一二四〇︶年十二月十六日条。 ︵ ︶ ﹃鏡﹄同日条。及び﹃鏡﹄仁治二︵一二四一︶年一月十七日条。 ︵ ︶ ﹃玉蘂﹄暦仁元︵一二三八︶年三月二十二日条。 ︵ ︶ ﹃鏡﹄延応元︵一二三九︶年七月二日条。 ︵ ︶ ﹃鏡﹄嘉禎元︵一二三五︶年九月二十四日条。 く。両日条を見る限り、陰陽道祭が営まれている期間中、頼経は毎晩臨席した様である。 ︵ ︶初例は﹃鏡﹄嘉禎三︵一二三七︶年十二月十二日条。次いで﹃鏡﹄暦仁元︵一二三八︶年十二月二十二日条と続 ︵ ︶頼経の辞任と頼嗣の就任については﹃百錬抄﹄四月二十八日条も参照のこと。頼経に対する﹁大殿﹂の呼称は﹃鏡﹄ 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 151 41 42 43 50 49 48 47 46 45 44 51 ︵ ︵ ︵ ︶ ﹃鏡﹄建長三︵一二五一︶年一月二十日条。尤も、頼経自身による二所奉幣は頼経十一歳時の安貞二︵一二二八︶ ︶ ﹃鏡﹄寛元三︵一二四五︶年八月十六日条。この日は鶴岡放生会の二日目にあたる。 ︶ ﹃鏡﹄寛元三︵一二四五︶年二月九日条。 ︶ ﹃鏡﹄寛元三︵一二四五︶年一月二十八日条。 寛元二︵一二四四︶年七月十三日条から見え始める。 ︵ ︵ 年から検討自体はされていた。 ︶政子に対する年忌は寛喜元︵一二二九︶年から﹃鏡﹄に見え始めるが、頼経が参席した例は見受けられない。頼 朝の法華堂にも泰時が行くようになり︵ ﹃鏡﹄天福元[一二三三]年一月十三日条︶ 、 暦 仁 元︵ 一 二 三 八 ︶ 年 の 年 末 ︶平雅行﹁鎌倉仏教論﹂ ︵岩波講座﹃日本通史﹄第八巻所収、一九九四年、岩波書店︶ 、二六〇頁。また、これより からは時房・泰時らが頼朝・政子・義時の法華堂に行くようになっている︵﹃鏡﹄同年十二月二十八日条︶。 早く﹁中世宗教の社会的展開﹂内でも﹁仏教が最高の科学・世界観であった時代﹂ ︵歴史学研究会/日本史研究会編 ﹃講座日本歴史﹄第三巻所収。二六〇頁、 [一九八四年、東京大学出版会] ︶とされた。大凡従うべき指摘であると考 文中の説明だけでは不足と思われるので、具体例として﹁病﹂を挙げておきたい。現在、我々が病を得た際には えるが、 ﹁科学・世界観﹂の根底を﹁仏教﹂だけに限定することには疑問無しとはしない。 細菌の感染や体細胞の変質を疑って検査を受け、 その結果に応じた治療を受ける。それを前近代の人々は﹁霊の仕業﹂ では無いかと疑って占いを立て、除災祈禱を行うと考えるのである。現代の我々が自然科学的知識によって人体の 構成や病を考えることと、前近代の人々が宗教的知識から人体の構成や病と治療を考えることとの間に﹁優劣﹂や 宇宙や大地の変動に対する認識も同様だと考える。 ﹁本質的差違﹂ はあるのであろうか。その時代時代で所有している最高の知識を投入しているだけではないだろうか。 近代合理主義は権力を﹁聖﹂ ﹁俗﹂に分けた後、 ﹁聖﹂即ち祭祀・宗教そのものの価値を評価せずに来たのではな いだろうか。筆者の過去の視座もその轍を踏んで居たであろうことを省み、﹁祭祀﹂の積極的評価を試みる本稿の立 ︶注︵ ︶論文。 場を取ったものである。 4 ︵ ︵ 55 54 53 52 56 57 58 152 成稿後、 赤澤春彦﹁鎌倉幕府における神事・仏事と将軍権力﹂ ︵遠藤基郎編﹃︿生活と文化の歴史学2﹀年中行事・神事・ ︿付記﹀ 氏の論攷と本稿とは、九条頼経の将軍権力について祭祀権から検討しようとする点では共通する。しかし、氏の論 仏事﹄所収、二〇一三年三月、竹林舎︶の論攷を知り検討した。 攷は﹁祭祀﹂そのものへの考察ではなく、 ﹁祭祀﹂の場や﹁祭祀﹂に携わる人間に対する﹁人事権﹂を核とした内容で ある点で本稿とは直接関わらないことを付記しておく。 鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 153 らかじめ行っている。 ( 9 )川喜田二郎氏によって考案された発想法。たくさんのカードに書かれたアイデア 同士の関連性をもとに、全体像を作っていく方法。今回はカードで はなく付箋(ポ ストイット)を使用した。 (10)実際に書き出された要素は更に多かったが、冗談で書かれたものや書き出した本 人も改めて見直すとどのような意味で書いたのかわからないといったものは省いた。 しかし、本文でも述べたとおり、ブレイン・ストーミングの段階ではこのようなも のも含めて、できるだけ多くの要素を書き出すことが重要である。 (11)心理的盲点。 (12)パターンの記述形式は多様であるが、井庭氏ら(2013)のように「No.0」を設定 する型は少ない。井庭氏によれば、 「No.0」を設定することの意義は パターンの核 を明確にすることであり、本論も井庭氏の形式に倣って「No.0」を設定した。 (13)ここで取り上げたパターンは No.0∼ No.4、No.9、No.13の七つである。No.0は本 文にある通り全パターンの核になるもので、 (図6 パターン図)のようにこのパ ターンを中心に全体を構成している。それに続くパターンは「体験に関するパター ン(No.1、4∼8)」「理解に関するパターン(No.2、9∼12) 」 「未来志向に関するパ ターン (No.3、13∼15)」の三つに大別できる。量的な問題もあり、今回は全パター ンを記述せずに中心(No.0)とそれぞれに分岐した上位パターン(No.1∼3)と、 それに続く下位パターンの一部(No.4、9、13)のみ提示した。 (14)ここに記述されているフォースはあくまでも留学生 6 名の記述により導き出され たものであり、普遍的かつ恒久的なものではない。 (15)井庭(2013)ではパターンのマイニング形式を三つに分けているが、三番目にあ げられている理論的側面からのアプローチは、今回の作成にあたっては行っていな い。 (16)学生間のコミュニケーションの希薄さは教育社会学をはじめ、他の学問分野でも すでに指摘されている要素であるが、ここでの記述は日本人学生が留学生に対して 興味を持たないということではない。日本人学生も留学生との協働や相互理解への 意識はあるが、その形が淡泊で相互干渉を好まない傾向にあるということを表して いる。 (17)基本的に大学での学習活動に対応できる日本語運用能力やそれを伸長させるため の日本語教育を指すが、広義の意味で「問題発見・解決型学習」や留学生を対象と した教養教育を含む場合がある。 (042) 154 大学国際化推進センター紀要』Vol.3 三代純平(2011) 「 「場」としての日本語教育の意味−「話す権利」の保障という意義と課題」 『言 語教育とアイデンティティ ことばの教育実践とその可能性』春風社 甕隆博(2012) 「留学生教育の展望に向けての視点−留学生予備教育の経験を踏まえて−」『東京 外国語大学留学生日本語教育センター論集』No.38 [註] (1) 「pattern language」の日本語訳表記に関しては現在のところ「パタン・ランゲー ジ」と「パターン・ランゲージ」の二つが併用されている。建築学では主に前者を 使用しているが、本論では井庭氏の型や作成形式を取り入れているため、日本語訳 表記も井庭氏に倣い「パターン・ランゲージ」とした。 ( 2 )アレグザンダー氏の作成したパターンは「1町(1∼94番まで) 」「2建物(95∼204 番まで)」 「3施工(205∼253番まで)」の三つのカテゴリーに別れ、その中には合計 253のパターンが記述されている。個々のパターンについては「C・アレグザンダー 他著 平田翰那訳(1984)『パタン・ランゲージ』鹿島出版会」に詳しい。 ( 3 )ベックとカニンガム両氏によるソフトウェア開発の分野におけるパターンの応用 過程とその後の発展については江渡(2009)に詳しい。 ( 4 )この概念については江渡(2009)でも述べられているように非常に解釈が困難で あり、多くの研究者の間でもいまだ議論の対象となっている。アレグザンダー (2009) では「生き生きとした街並が備えている自然発生的な特性」のようなニュアンスで 書かれている。 ( 5 )セミラティス構造とは(図 2:下)にあるツリー構造のように、枝分かれする各 要素が直列的につながるような構造ではなく、ある要素から分岐した下位要素が他 の要素とも複雑に関係し合うような構造をいう。 ( 6 )2012年度在籍学生 ( 7 )アレックス・オズボーンによって考案された発想法。「判断の先送り」や「自由 な展開」 、「質より量」 、「組み合わせと改良」などのルールに従って、参加者が多様 なアイデアを出し合う方法。 ( 8 )記述の仕方には特に制限を設けていないが、最低限のルールとして、「日本語で 記述すること」と「一般的な倫理概念から著しく逸脱しないこと」という指導はあ 155 (041) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ 『形の合成に関するノート/都市はツリーではない』鹿島出版会 スティーブン・グラボー著 吉田朗+長塚正美+辰野智子訳(1989) 『クリストファー・アレグザンダー』工作舎 田中共子 畠中香織 奥西有里(2011) 「日本人学生が在日留学生の友人に期待する行動−異文化間ソーシャル・スキルの 実践による異文化間対人関係形成への示唆−」 『多文化関係学』Vol. 8 多文化関 係学会 徳井厚子(2002) 『多文化共生のコミュニケーション 日本語教育の現場から』アルク 寅丸真澄(2011) 「日本語教室における意味の構築とアイデンティティ形成−ことばの意味世界を共 同構築する〈私〉〈他者〉〈教室コミュニティ〉」『言語教育とアイデンティティ ことばの教育実践とその可能性』春風社 ネウストプニー J.V. (1995) 『新しい日本語教育のために』大修館書店 藤井桂子(2012) 「留学生との交流が日本人に与える影響(2)−国際交流グループに所属する日本 人学生の変容に関する事例分析−」『横浜国立大学留学生センター教育研究論集』 第19号 細川英雄(2001) 「問題発見解決学習と日本語教育」『早稲田大学日本語研究教育センター紀要』 14号 細川英雄(2007) 「日本語教育における「学習者主体」と「文化リテラシー」形成の意味」『変貌す る言語教育』くろしお出版 堀井恵子(2006) 「留学生(初年次)教育をデザインする」『アカデミック・ジャパニーズの挑戦』 ひつじ書房 M・J・サンデル 菊池理夫訳(2010) 『リベラリズムと正義の限界』勁草書房 松瀬成子 マスデン眞理子(2012) 「教養教育に取り入れた留学生との交流活動−異文化理解の一助として−」『熊本 (040) 156 [参考文献] 井庭崇[編著] (2011) 『社会システム理論』慶應義塾大学出版会 井庭崇+井庭研究室(2013) 『プレゼンテーション・パターン』慶應義塾大学出版会 井庭崇 「井庭崇の Concept Walk」〈http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/) (2013年9月2日) 江渡浩一郎(2009) 『パターン、Wiki、XP −時を超えた創造の原則』技術評論社 大津友美(2013) 「留学生は日本人学生の会話行動をどう評価するか−中国人留学生と日本人学生の 初対面会話の場合−」『東京外国語大学留学生日本語教育センター紀要』No.39 岡崎敏雄(2010) 「持続可能性教育としての日本語教育」『日本語教育研究への招待』くろしお出版 神谷順子・中川かず子(2007) 「異文化接触による相互の意識変容に関する研究」 『北海学園大学学園論集』134号 神谷順子(2008) 「大学と地域リソースの融合による留学生の日本語学習デザイン−「学習力」養成 を目指したテーマ探求学習の実践 ‐ 」『北海学園大学日本語教育研究』第1号 川上尚恵(2011) 「学部留学生が抱える「留学生問題」とは何か−信州大学経済学部留学生・日本人 学生チューター・学部教員・学部職員から見た「留学生問題」−」『信州大学経済 学論集』Vol.62 川喜田二郎(2000) 『発想法』中央公論新社 C・アレグザンダー他著 平田翰那訳(1984) 『パタン・ランゲージ』鹿島出版会 C・アレグザンダー著 平田翰那訳(2009) 『時を超えた建設の道』鹿島出版会 C・アレグザンダー他著 難波和彦監訳(2010) 『まちづくりの新しい理論』鹿島出版会 クリストファー・アレグザンダー著 稲葉武司・押野見邦英訳(2013) 157 (039) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ なるか、また、作成する過程でどのような付加価値的効果や問題点が生まれる のかといった検証が必要となるであろう。 本論で提案した「パターン・ランゲージ」を留学生同士で自ら作成、運用す ることにより、彼らが直面するさまざまな問題を彼ら自身の手によって、より 効果的に解決できるようになれば幸いである。また、留学生の学習活動や日常 生活を支援する教師や学内スタッフ、日本人学生たちとも共有し、より多くの 人々の集合知として発展させていくことを目指したい。 (もり よしひろ・日本文化専攻修士課程修了 経済学部非常勤講師) (038) 158 ターン・ランゲージの認知度が低いため、このような状態を実現するには時間 を要するが、パターン自体が上記のような相互作用のための一つの指標となる ことは可能であろう。 おわりに ともすれば孤立しがちの留学生が生き生きとした留学生活を送るためには、 他者との関係性の中で自身を環境に位置づけることが重要となる。それは活動 を共にするだけではなく、その背景に潜む様々な知識をも共有することで、よ り多様で円滑な問題発見・解決へとつながると考えられる。パターン・ランゲ ージという共通言語を用いることによって、そのような新たな関係性を構築し ていくことの一助をなすことは可能であろう。 また、パターンは多くの留学生がもつ暗黙知を言語化することによってより 効果的な問題解決手法となる。そのためにはより多くの留学生に認知され、実 際に利用されなければならない。さらに、個々の生き生きとした留学生活を支 援する立場の教師もパターンを共有し、実現に向けて共により良い環境づくり に協力する必要がある。 留学生教育や留学生の異文化理解の分野においてパターン・ランゲージの導 入を試みた例は、管見の限り恐らく本論が初めてであろうと思われる。それゆ え、このような試みにどのような可能性があるのか、また、どのような方向性 を持たせることができるのか、筆者自身、まだまだ未知の部分は多い。しかし、 パターン・ランゲージがそれを作成する、あるいは使用する人々の「実践知」 であり、「集合知」である以上、生き生きとした留学生活や問題発見・解決の ための共通言語としての存在価値はあると言えるのではないだろうか。今後は 本研究において作成したパターン・ランゲージのモデルがどの範囲まで有効と 159 (037) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ には、そこに何らかのフォースが働いていると考えられる。そこには多分に文 化的要素も含まれることがあるため、留学生にとってはそれを理解するのが困 難であったり、場合によっては別のフォースとの関係性を見落とすことも考え られる。このようなフォースへの解釈の支援は留学生にとって必要であり、ま た、周囲の人間ができる有効な支援の一つであると考えられる。 もちろん、パターン・ランゲージは「共通言語」であるから、存在そのもの が認知されていなければ他者との問題発見・解決には機能しない。その意味で は漠然と「他者」といっても、それが示す範囲はごく限られた周囲の人間とな ってしまう。まずは前述のようなサークル等に所属する日本人学生たちに認知 してもらい、彼らとパターンを共有できるようになることが理想であろう。そ の上で、留学生の作成したパターンに日本人学生の視点が加われば、見落とさ れていた文化的要素などが補填され、より生き生きとした留学生活のためのパ ターン・ランゲージへと変容する可能性がある。 また、相互作用という点からいえば、神谷・中川(2007)や松瀬・マスデ ン(2012)、藤井(2012)などにも見られるように、留学生との交流によって 日本人学生の側にも異文化理解の重要性や外国語学習への動機付け、あるいは 他国への関心や日本文化の見直しなど、視野の広がりや意識変容が見られるこ とがある。それは、ある場面においては留学生によって日本人学生の「気づき」 が喚起されていると考えることもできる。これは日本人学生にとって留学生が 環境要因としての他者という存在になるということであり、仮に日本人学生が 「生き生きとした大学生活」を志向した場合、留学生はそれを実現するための 秘訣や問題となる事象の要素を抱える対象となりうるということでもある。つ まり、パターンを通して相手にとって自分がどのような要素であり、どのよう な関係性を構築することで、お互いにとって最適状態の実現が可能であるかを 模索することができるようになるのである。留学生教育の分野ではまだまだパ (036) 160 3.2.2 環境要因としての他者 本章3.1でもすでに述べているが、留学生自身、生き生きとした留学生活 のためには人間関係はとても重要だと考える傾向にある。特に学生同士の関係 性の場合はことさらその傾向が強いようである。学内には異文化交流を目的と したサークルや留学生会という日本人学生との、あるいは留学生同士の人的つ ながりを促進、保持する組織もあり、留学生はそのような組織を通じて学内に おける人間関係を構築している。このように、留学生が他者との交流や人間関 係を構築するための基盤はある程度整っているにもかかわらず、現状では必ず しもそれが十分に活用されているとは言えないようである。田中ら(2011) でも述べられているように、日本人学生と留学生との間では友人関係形成の上 で意識の差異があり、それを軽減するためには行動面での歩み寄りが必要とな る。今回のパターン作成においても田中ら(2011)と同様の傾向が見られ、 人間関係の構築には留学生側も工夫し、歩み寄るように努めているようである。 繰り返し述べてきたことであるが、パターン・ランゲージは元々アレグザン ダー氏が考案した街づくりのための理論である。そのため、基本的に対象はモ ノであり、コンセプトはデザインや創造性である。しかし、本論は井庭氏のよ うな人間行為のパターン・ランゲージと同質であるため、対象は基本的にモノ ではなく人である。それゆえ、建物のように他者を創造することはできず、ま た、思考や行為をデザインすることもできない。つまり、日本人学生にも人間 関係形成に関して留学生と同様の工夫や歩み寄りを求めることを他者がデザイ ンすることは基本的にはできないのである(仮にそれをしたとしても、それは 留学生自身の問題発見・解決にはならず、生き生きとした人間関係の形成には つながらない) 。もちろん、だからといって他者が全く介入できないというこ とではない。前述した通り、ある事象が個人にとって問題だと認識されるとき 161 (035) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ 教師がパターン・ランゲージを媒介として留学生とコミュニケーションをと る場面は主に二通り考えられる。一つは前述の井庭氏や本論のように彼らと共 に実際にパターンを作成するというケースである。この場合の支援とは活動を 円滑に行うための教育的配慮が中心であり、これについてはすでに本論第 2 章 でも実例を交えながら述べている。留学生個々人が共に協働的行為の中で創造 的学びを実践し、問題発見・解決の場づくりを促進し、彼らの自主的・自立的 学びをサポートすることが教師の役割となろう。もう一つは、既存のパター ン・ランゲージを活用して、留学生とコミュニケーションをとる場合である。 考えられる主なケースとしては気づきへの足がかりや注意の喚起、相談に対す る応答などが挙げられる。ここで注意が必要なのは、パターン・ランゲージは 問題発見・解決のための秘訣などを表してはいるが、それ自体が必ずしも「答 え」ではないということである。つまり、教師が「しなければならないこと」 として留学生に与えるものではなく、また、問題の本質的要素を見ずにパター ンだけを用いようとしても、予期通りの結果に向かうとは限らない。留学生が 抱えている問題は川上(2011)でも指摘されているように、必ずしも周囲がイ メージしている問題と同一であるとは限らない。そこで、経済面や言語能力と いった一般化された問題意識を前提に教師がパターンを「have to」として留学 生に与えたとしても、それは建築家が自身のデザインをユーザーに与えている に等しく、生き生きとした留学生活の実現にはつながらない。第 1 章でも述べ た通り、パターン・ランゲージの本質は生き生きとした質感をもつ建物や街の 創造にユーザー自身が関わるところにあり、留学生活に換言すれば、留学生自 らがそのプロセスに参与する必要があるのである。教師はあくまでもそのため の活動支援者として共通言語としてのパターン・ランゲージを共有し、活用す る立場なのである。 (034) 162 合、それが日本語運用能力によるものなのか、または個人のパーソナリティに よるものなのかも判断しにくく、とりわけ後者の場合は他者が問題に直接介入 しにくい。これらの要素は体験事例が多いためパターンとして明示化しやすい が、個人の感性によるところも大きく、本質を見極めにくいものである。 3.2 周囲の支援 ここまで、留学生自身による問題発見・解決のプロセスとパターン・ランゲ ージについて考察してきた。 ここでは、留学生と接する周囲の人々がパターン・ランゲージを通じてどの ような支援が可能であるのかを考察する。 3.2.1 支援者としての教師 留学生教育の分野では、留学生としての日本語学習者の支援に関してこれま で多数の研究がなされてきた。その方法や対象は多岐に渡るが、ここでは教師 による支援とパターン・ランゲージとの関係性を中心に考察する。 留学生教育における学習者支援を考えるにあたっては、やはり教室場面にお ける教師の学習活動支援に関する研究が中心となる。堀井(2006)などに見ら (17) れるような「アカデミック・ジャパニーズ」 はその中心的概念であり、その 必要性は甕(2012)などでも述べられている。また、個人のライフスタイルや 学習者自身による問題発見・解決という視座からは、岡崎(2010)の「持続可 能性日本語教育」や細川(2007)などの「学習者主体」論などが挙げられる。 本論の場合は教室での学習活動における支援が中心的テーマではないため「ア カデミック・ジャパニーズ」のような概念とは趣が異なるが、留学生と教師と の関係性という視点においては学習者主体型のような議論とは共通性があると 考えられる。 163 (033) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ た心的(非物質的)要素である。 多くの留学生は留学生活に対して何らかの目的をもち、それを実現、実行す るためのイメージを持っている。しかし、現実の場面では経済的問題や学習活 動などでしばしば予期外れの事態が起こり、必ずしも自身の思い描いた通りの 留学生活が実現できているとは限らない。また、留学当初は不慣れな生活様式 や人間関係のため適度な緊張感の中に身を置いているが、状況を把握し、周囲 の環境に慣れてくると、些細なトラブルが減少する反面、留学生活自体の限界 効用が逓減し、目標へ向かうモチベーションを維持するのが困難になる。この ような問題は個人の内側にある心的要素が大きいため可視化しにくく、外見的 なものからは他者による認知も困難な場合が多い。また、物質的要素とは異な り周囲の環境による影響も受けやすく、経済的問題を解決しようとしたがため にそこから新たに学習活動における問題が発生するなど、問題解決の要素が他 の問題の要素をはらむような再帰的な問題の連鎖に陥りやすい。これらの問題 は人間関係などの要素がフォースとして働き、かつ、質的変化を伴いながら自 己の中で繰り返し現れてくるので、解決のためのコツをつかむのに時間を要す ることもある。 最後に、彼らが最も重視しており、かつ、今回の記述でも多様性を帯びてい たのがコミュニケーションなどにみられる人間関係の要素である。留学生自 身生き生きとした留学生活のためには人間関係はとても重要だと考えており、 特に学生同士の間では共に遊び、学び合うことを重視する傾向があるようであ る。しかし、大津(2013)の調査分析でも示されているような非好意的評価(最 低限の返答や話題の切り上げなど)は今回の要素としても作用しているようで (16) あり、日本人学生のコミュニケーションの希薄さ や他国出身の留学生との考 え方の違いなど、予期における最適状態の実現を阻害するフォースも多い。 また、留学生の場合はこのような問題における視点を個人の内側に向けた場 (032) 164 顕在化したり、あるいは、不安として潜在化したりと、多様かつ複雑性を帯び たものとなる。 ブレイン・ストーミングによって表出された記述などにも見られるように、 留学生の持つ生き生きとした留学生活の秘訣や問題発見・解決のコツにおける 要素は多様である。しかし、これらが全て独立した要素として存在しているの ではなく、それらの事例にはある種の傾向があり、幾つかのカテゴリーに分類 することができる。 比較的理解が容易なものから言えば、最初に考えられるのが物質的要素であ る。それは学内外の施設といった社会的な要素から、自家用車や保険といった 個人的なものまで、幅広く存在する。パターンの作成プロセスには大きく二通 (15) りあり 、それは、成功事例(秘訣)からのアプローチと失敗事例(問題)か らのアプローチである。物質的要素の場合、前者の例としては図書館や学食、 あるいはパソコンや自家用車といったものをいかに有効に活用するかという視 点から、そのためのコツを考える。特に公的施設を有効に活用することは留学 生の活動の幅を広げることにもつながり、軽視できないリソースの一つだと考 えられる。 反対に、後者の例としては使用時間や使用方法など、自国とは異なるシステ ム面での問題があげられる。これらは個人のレベルでは変更ができない場合が 多く、問題に対するフォースとして機能してしまうものも見られる。これらの 要素は留学生活の充実度にも大いに影響が出てくると考えられるが、物理的な ものは代替物も多く、また、システムのような変更困難な要素は解決の選択幅 が狭いため、対応は比較的困難ではないようである。さらに、物理的要素は個 人の外側にあるため視覚的に認知しやすく、他者との問題の共有も比較的容易 である。 次にあげられるのが、文化的理解や自身のモチベーションの維持などといっ 165 (031) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ このように、様々な文脈や問題、そこに存在するフォースを考えながらパタ ーンを選択し、組み合わせることによって、個人の生き生きとした留学生活の 実現へ向けた一つの可能性や方向性を示すことができる。また、パターンを他 者と共有することによって助言や相談、協力して活動するときなどは、それら を円滑に行うための秘訣や問題解決のコツとして、お互いの意識の方向づけや コミュニケーションの促進が可能となる。ただし、パターン・ランゲージはあ らゆる問題を解決する万能マニュアルではない。それはあくまでも個人や周囲 の環境を劇的に変革させるためのものではなく、現状をしっかりと認識し、そ こから一歩ずつステップを踏み出すためのものである。 3. パターン・ランゲージの留学生教育における発展可能性 前章ではパターン・ランゲージの生成プロセスとそこから作成されたパター ンのモデルを提示した。そこには外国人留学生が実際に持っている留学生活に おける秘訣や問題発見・解決のための経験知・集合知が集約されている。ここ ではそのようなパターンの性質を踏まえた上で、作成プロセスから何が見える か、そして、留学生の問題発見・解決に対し、教師をはじめとする周囲の人々 がどのように対応、支援していくことができるのかという可能性を考察する。 3.1 パターンの生成プロセスから何が見えるか 本論のテーマに関わることでもあり、すでに触れてきたことでもあるが、外 国人留学生が制度や文化の異なる社会において、様々な困難に遭遇することは 想像に難くないであろう。しかし、留学生それぞれに個性があるように、留学 生活における問題も一様ではない。それは、個人の心的変化やそれに付随した 環境の変化などの影響を受け、また、滞在期間の中でそれが実際の問題として (030) 166 また、具体的な方法例として 具体例:美術館やスポーツ施設など、知り合い以外の人が大勢いる公共の 施設を利用してみる。また、一人で買い物やイベントに出かけた りして、知らない人とも会話する機会を積極的に作る。そのとき に必要な情報もできるだけ他人に聞かず、自分で調べてみるとよ い。 ということが挙げられている。そして、仮に A がこの解決法を実践した場合、 得られる結果は次のように記述されている。 得られる結果:今まで周囲がやってくれていたことを自分の力でやらなけ ればならず、 「No.15 自分を見つめる」ことで現在の自分に足り ないものが見えてくる。また、学外の人とも知り合いになること によって活動の幅も広がり、 「No.6 活動の足あと」も残しやす くなる。「No.5 依存からの脱却」でそのような自立的活動が増 えれば「No.3 未来へのステップ」へとつながる。 つまり、A が問題としている成長や経験に対して「No.5 依存からの脱却」 というパターンを参照すれば、上記のような結果が見込めるということにな る。もちろん、これは一例にすぎず、日本のように四季折々の行事がたくさん ある国では、 「No.7 季節の味わい」でその季節にしかできないことを優先し てやってみるのもよい。また、イベントに参加するにあたっても「No.12 地 産“知”消」でその土地のことを知った上で参加すれば、同じイベントであっ てもより味わい深い体験ができる可能性もある。 167 (029) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ フォース: ・日本人は外国人に優しい。 ・様々な文化的体験が学校のカリキュラム内である程度できてしまう。 ・レストランでの注文など、日本語が必要な場面では日本人の友人が率 先してやってくれる。 本例の留学生 A の場合もこれらのフォースは該当すると考えられるが、これ だけでは十分だとは言えない。A の場合、さらに以下のようなフォースも加わ ると考えられる。 追加のフォース: ・学校や社会のシステムに慣れてくると、日常的な発見や驚きの機会が 減少する。 ・学校の授業や住環境は人的流動性が低く、人間関係が固定化されてし まう。 すでに述べたことであるが、フォースとは「変えることのできない力や法則 性」のことである。つまり、A 自身の問題にとって、これらの要素そのものを 自身の意志ではコントロールできない。解決法を考えるときもそれを前提とす る必要がある。 そこで解決法であるが、パターンに記述されている解決法の例は、以下のよ うになっている。 解決法:自分の意志で判断したり、コミュニケーションをとったりしなけ ればならない状況を作る。 (028) 168 【パターンの活用例】 例えば、ある留学生(仮に A とする)がいたとする。「来日当初は日本語に よるコミュニケーションもままならず、日常的なトラブルが絶えなかったが、 半年以上過ぎた現在では学校や地域環境にも慣れ、順調な留学生活を送ってい る。しかし、環境に適応していくにつれ、自分自身、日々成長への実感がつか めなくなってきた。留学期間は限られているので、もっといろいろな経験を積 み、自分自身を成長させていきたい」と、A にこのような意識が芽生えてきた とする。そのときに「No.10 依存からの脱却」を参照する。 まず、文脈を確認すると以下のようになる。 文脈:留学生活に慣れてくると、日常の中で自身の成長を実感しにくくな る。しかし、現状に満足せずに、さらに自分自身を成長させたい。 そのためには限られた留学期間の中で成長の実感を得られるような 新たな経験を積む必要がある。 この文脈における留学生 A の問題は以下のようになると考えられる。 問題:留学期間中の様々な体験のために使える時間や費用は限られてい る。限られた条件の中で、自分自身の成長を実感できる体験をする にはどうすれば良いか。 ここで、この問題におけるフォースを考えてみる。パターンに記述されてい (14) るフォースは以下の三つである 。 169 (027) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ No.5 依存からの脱却 〔パターン名〕 他者依存的ではなく、自立的行動ができるよ うにする。 日常生活における友人関係や学びの環境が整 ってきた。 〔パターンが活用される状況(文脈)〕 ▼ その状況で 相変わらずいろいろな場面で友人に助けても らっており、自分自身、なかなか成長の実感 がつかめない。 〔問題〕 ・日本人は外国人に優しい ・様々な文化的体験が学校のカリキュラム内 である程度できてしまう。 ・レストランでの注文など、日本語が必要な 場面では日本人の友人が率先してやってく れる。 〔フォース〕 ▼ そこで 自分の意志で判断したり、コミュニケーショ ンをとったりしなければならない状況を作る。 〔解決案〕 美術館やスポーツ施設など、知り合い以外の 人が大勢いる公共の施設を利用してみる。ま た、一人で買い物やイベントに出かけたりし て、知らない人とも会話する機会を積極的に 作る。そのときに必要な情報もできるだけ他 人に聞かず、自分で調べてみるとよい。 〔具体例〕 ▼ その結果 今まで周囲がやってくれていたことを自分の 力でやらなければならず、 「No.11 自分を見 つめる」ことで現在の自分に足りないものが 見えてくる。また、学外の人とも知り合いに なることによって活動の幅も広がり、「No.7 活動の足あと」も残しやすくなる。 「No.10 依存からの脱却」でそのような自立的活動 が増えれば「No.4 未来へのステップ」へと つながる。 〔得られる結果〕 図14 (026) 170 なフォースの例としては「No.2 わかる喜び」にある「言語や文化の違いは無 くすことができない」などが考えられる。 パターンについても補足しておくが、今回作成したパターンはあくまでも「生 き生きとした留学生活」の実現を念頭に置いたものであり、別な要素や異なる 組み合わせによっては「生き生きとしていない、充実感のない留学生活」を実 現してしまうパターンになる可能性もある。このようなアンチパターンは理論 上、全てのパターンに対して存在すると考えられるが、わざわざ記述して体系 化し、併記しているようなパターン・ランゲージはほとんど見られない。パタ ーン・ランゲージの基本コンセプトは、あくまでもパターンを使用することに よって現状をより良い方向へと導くことにある。 2.3 パターンをどう読み解くか 次に、実際に作成されたパターンをどのような形で読み解き、活用するのか を考察する。以下でパターンの記述形式として、パターンとその具体例として 「No.5 依存からの脱却」を示した。ここでは、そのようなパターンをより詳細 な記述によって、「どのような背景、文脈(Context) 」によって「どのような問 題(Problem)が引き起こされ」 、それには「どのような解決法(Solution)が考え られるか」という活用例を考察する。 171 (025) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ パターンはそれ自体が意味を持つものではなく、生き生きとした留学生活の ためのコツや問題発見・解決のための創造的思考を促すためのメディアであ る。そのため、端的に、かつ象徴的に指示内容を表現していなければならない。 とりわけ、本論のようなパターンの対象が外国人留学生の場合、使用可能な日 本語表現が限られているため、表現に対する配慮はより重要である。 また、井庭氏の場合はそれぞれのパターンにイラストを、アレグザンダー氏 の場合は写真を添えている。これは、視覚的にもパターンのイメージを喚起し やすくするためだと考えられるが、今回の作成にあたっては時間的な問題や人 的リソースの不足など、条件が整わなかったため省略した。 2.2.3 パターンにおけるフォース 1章でも述べたとおり、パターン・ランゲージは背景(Context)における問題 (Problem)とその解決法(Solution)を共通の「ランゲージ(Language)」として 体系化したものである。ここでもう一つ、これらの関係性を考えるにあたり、 問題(Problem)の解決を困難にしている原因としての「フォース(Forces) 」と いう概念を付け加えておく。 フォースとは、端的に言えば「変えることのできない力や法則性」のことで あり、ある事象が問題となるのはそこに何らかのフォースが機能しているため だと考えられる。そして、対象となる問題の解決が困難なのはその問題に対し て幾つかのフォースが働いており、それらが影響を及ぼしているからだと考え られる。つまり、問題発見・解決にはどのような文脈においてどういうフォー スが機能しているか、そして、そのような関係性においてどのようなソリュー ションによって現状が形作られているかを考えねばならない。パターンはこれ らの関係性を象徴的に表したものであり、そこにある諸要素の本質を知るため の手がかりとなるものである。例えば、留学生に関する問題に見られる典型的 (024) 172 No.9 理解の橋渡し 理解することで理解される。 コミュニケーションの中で相手と本当に理解 し合えているのかわからないときがある。 No.13 つながりをつくる 人や場所とのつながりは留学生活をより生き 生きとしたものにしてくれる。 留学生活ではいろいろな人と出会う機会が多 い。 ▼その状況で ▼その状況で 適切な日本語を使って他者の考え方や習慣を 理解したり、自分の考えを理解してもらうの は難しい。 出会いの機会を有効に生かし、人や場所との つながりを大切にしたい。 ・外国人は日本人にいつも優しい。 ・個人より「留学生」「○○人」として見ら れてしまう場合がある。 ・文化の違いによって人間関係の距離感の取 り方も違うことがある。 ・一人でできることには限界がある。 ・出会いが少なければ、自分の国のことをよ く知ってもらう機会も減る。 ・出会いが少なければ、自分自身のことも客 観視できない。 ▼そこで ▼そこで より深く理解し、理解してもらうために、ま ずは自分からコミュニケーションのしかたを 工夫する。 学校の休み時間だけではなく休日などを利用 して、長い時間一緒に行動してみる。また、 話しをするときはなるべく簡単なことばを使 い、誤解されないように工夫する。歌の歌詞 などを調べて、日本人の考え方や今流行して いることばなどを知っておくのも良い。 学校行事などにも積極的に参加してみる。留 学生同志だけではなく、日本人学生とも一緒 に活動する。また、ランゲージ・エクスチェ ンジをして、お互いの言語を教え合うのも良 い。 ▼その結果 相手のことを積極的に理解することで、自分 のこともより理解してもらえるようになる。 流行している歌やその中に出てくることばな どを知っておけば人間関係の特徴もわかり、 より親しくなるきっかけがつかめる。 一緒に活動する機会を増やすことで、お互い に刺激し合ったり、励まし合ったりする友だ ちが増える。また、言語学習などを通じて地 域の人々とも知り合うことができる。そのよ うな友だちや知り合いが増えることによって 帰国後も交流が続けられ、再び大学や札幌に 来る機会ができたり、反対に自分の国に来て もらうことができるようになる。このような 人間関係は留学生活だけではなく、人生を「生 き生きとした」ものにする。 図12 図13 ▼その結果 173 (023) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ No.3 未来へのステップ No.4 足で学ぶ 留学生活は未来の自分を形づくる基礎になる。 「生き生きとした留学生活」の学びは、机の 上だけではない。 何をすると自分の将来にどう役立つのかがは っきりとわからないことがある。 ▼その状況で 学外にも様々な学びの場所や機会がある。 ▼その状況で 留学の目的や活動の優先順位を見失ってしま う。 学内だけの勉強に偏ってしまうと、意外な発 見や感動などの機会を逃してしまう。 ・現在の自分には見えていないものもある。 ・行動する前から結果はわからない。また。 行動してもすぐに結果が出るとは限らない。 ・留学生活の中で様々なものから影響を受 け、自分の考えが変化することもある。 ・ 「思わぬ」発見は、普段の自分の意識の外 側にある。 ・人やものとの出会いは、家の外にある。 ・メディアから得られる情報は最新のもので あるとは限らない。 ▼そこで ▼そこで たくさんの人と出会い、そこから刺激を受け る。また、自分の考えに変化があっても、そ れを一度受け入れてみる。 自分が学ぶだけではなく、自分の母語を興味 のある人に教えてみる。反対に、あまり興味 のない人には料理や音楽などを紹介して、自 分の国のことを知ってもらうのも良い。何で も無計画にするのではなく、生活のスケジュ ールをきちんと守り、自己管理をきちんとす る。 ▼その結果 友だちと出かけたり、旅行したりして、机以 外での学びの機会を増やす。 外に出て日本語を使う機会を増やす。本やイ ンターネットだけではなく、生のもの(一次 情報)に触れることは重要である。ジャーナ リストなどの情報を扱う仕事をしている人 は、実際に現場へ行ったりして「足で」情報 を得ている。「学ぶ」ことばかり意識せず、 友だちと「遊び」に出かけるのも良い。遊び からも得られるものがある。 ▼その結果 他者と触れ合う中で、留学中にしなければな らないこと、するべきことが少しずつ見えて くる。また、他者に何かを働きかけることに よって、帰国後も連絡しあえるような知り合 いができる。それらが「未来へのステップ」 の基礎となる。 実際のものに触れることによってより理解が 深まり、そこでの思わぬ発見などから学びの 幅を広めることができる。また、新たな出会 いによって、学外にも「No.13 つながりを つくる」ことができる。季節ごとのイベント に参加することも「No.7 季節の味わい」が より充実したものとなるので良い。 図10 図11 (022) 174 No.1 体験の獲得 No.2 わかる喜び 「体験の獲得」が「生き生きとした留学生活」 を生み出す。 人、 社会、言語を通じて「わかる」ことは「喜 び」である。 留学期間中には様々なことを体験する機会が ある。 留学生活では言語や文化の違いで「わからな い」ことが多々ある。 ▼その状況で ▼その状況で 与えられた機会にただ参加するだけでは、思 い出で終わってしまう。自分自身そこから多 くのものを得たい。 ・体験に意味付けしなければ、 「楽しい」 「つ まらない」といった感覚しか残らない。 ・教科書やインターネットの情報だけではな く、実際に体験することで別のものが得ら れることがある。 ・友だちと一緒に同じ体験をしても、そこか ら得られるものは一人ひとり異なる。 ▼そこで いろいろな機会を利用し、 活動の幅を広げる。 留学生同士、あるいは日本人の友だちと一緒 にいろいろな活動に参加してみる。学外の国 際交流イベントなどにも積極的に参加する。 また、勉強ばかりではなく、友だちと一緒に 旅行に行ったり、息抜きに珍しいものを食べ に行ったりするのもよい。慣れてきたら一人 で行動し、自立した人間に成長していくこと を目指すとよい。 ▼その結果 問題をうまく解決したり、互いに理解し合う ための方略が必要となる。 ・言語や文化の違いは無くすことができない。 ・ 「わからない」ことで、いらぬ誤解や無駄 な問題を引き起こす場合がある。 ▼そこで 自分から積極的に、 「わかる喜び」を得るた めの工夫をする。 「わからない」ことがあったら、まずは自分 の方から理解することを考える。日本の歌や 地域の伝統、慣習などを知ることで、理解の 手助けになることもある。また、ことばの使 い方など小さな違いに気をつけると、不必要 な問題を避けることができる。 ▼その結果 自分が理解することで相手にも理解してもら えることが多くなり、人間関係が良くなる。 ことばや文化が「わかる」ようになり、他者 とわかり合えることが増えれば問題が減り、 「喜び」が増える。 体験から獲得できるものはたくさんある。積 極的に行動することで、いろんな機会を得る ことができる。また、慣れてくると「No.8 依存からの脱却」で、自分自身をさらに成長 させることができる。 図8 175 (021) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ 図9 である。当然、作り手が異なればテー マが同じであっても別様のパターンが 作成される可能性は多分にありえる。 また、パターンの冒頭に据えた「No.0 生き生きとした留学生活」は今回のパ (13) 【パターンの例】 No.0 生き生きとした留学生活 留学生活を生き生きとしたものにする。 これから留学生活を始める。また、今の生活 をもっと充実したものにしたい。 ▼その状況で ターン・ランゲージの核になるもので ある。「No.0」から始まるパターンは通 常あまり見かけないが、これは前述の 井庭氏の作成するパターンに見られる 特徴の一つで、本論も井庭氏の形式に 倣って「No.0」を設定した。 また、No. 1 以後のパターンも井庭氏 の形式にならい、次のような内容で記 述している。 ・パターン名 ・パターンが活用される状況 ・問題 初めての経験や知らないことも多く、予想外 の問題も起こる。また、生活に慣れてくると、 ただなんとなく毎日を過ごしてしまう。 ・これまでの習慣や考え方が通じない場合が ある。 ・学習の面に限らず、生活の面でも次から次 へと問題や課題が出てくる。 ・問題の原因は一つとは限らない。また、あ る問題を解決することによって、別の問題 が起こることがある。 ▼そこで 経験や知識などをお互いに出し合い、共有す ることによって、自分たちの留学生活をより 良いものにする。 自分が抱えている問題を他者がどのように解 決したのかを参考にし、できることは取り入 れてみる。その時、一人で無理に問題を解決 しようとせず、他者と共有することで、問題 解決の足がかりを作れることもある。また、 今できていると思っていることでも、現状に 満足せず、他により良い方法があればやって みるのも良い。 ・解決案 ▼その結果 ・得られる結果 問題発見、解決の方法を知ることは、充実し た留学生活の基礎になる。 「NO.3 つながりを つくる」ことによって様々な問題の解決がよ り容易になる。また、留学生活でしかできな い「No.1 経験の獲得」もできるようになり、 自分を成長させる「No.2 わかる喜び」が得ら れる。それにより「生き生きとした留学生活」 の実現に近づくことができる。 図7 (020) 176 No. 8 エネルギーの補充 No. 7 季節の味わい No. 6 活動の足あと No. 5 依存からの脱却 No. 4 足で学ぶ No. 1 体験の獲得 No. 0 生き生きと した留学生活 No. 2 わかる喜び No. 3 未来へのステップ No. 9 理解の橋渡し No.13 つながりをつくる No.10 「ちょっと」の気づかい No.14 世間を広める No.11 「うち」からの理解 No.15 自分を見つめる No.12 地産“知”消 図6 パターン図 177 (019) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ パターン・ランゲージは単なる個々の要素の集合体を全体とみなして構成す るのではなく、個々の要素間の関係性を重視する。これは個人のみならず、個 人を取り巻く環境にとっても同様である。個々の問題はそれ自体が単一的な要 素によって構成されるものではなく、複数の要素が関係し合って一つの問題と なって表出する。さらに、問題の構成要素はそれ自体が他の問題の構成要素と 重複する場合もある。このような関係性をアレグザンダー氏は「都市はツリー ではなくセミラティスである」と表現している。 パターン・ランゲージがセミラティス構造をとるのは、問題に対しての解決 法が単一の、あるいは直列的な関係によって構成されるのを回避するためであ る。ツリー構造の場合、問題がどのようなパターンに分類されたのかという結 果によっては、他の問題と比較、検討するときに重要な情報がスコトーマとな って認識されにくくなってしまう恐れがある。そのようなパターンはユーザー 中心設計ではなく、教師や周囲の環境に位置する人々の主体性が強く反映され たものとなってしまい、パターンの本質がうまく表されなくなってしまう。繰 り返しになるが、パターンを構成する要素間の関係性を意識することが、パタ ーンの構造的把握には重要となる。 2.2.2 パターンの記述形式 (12) 本論で扱うパターンは全部で16(0を含む) であり、それらは要素同士の関 係性によって構成されている。記述されたパターンは次のとおりである。 今回は「No.0」から「No.15」までの16 個のパターンによって構成されている。 これが今回できあがったパターンの全容である。ただし、これらは生き生きと した留学生活の秘訣、あるいは留学生活における問題発見・解決のコツに内在 する全ての要素を網羅しているわけではない。これはあくまでも参加者である 留学生 6 名の「実践知」であり「集合知」をもとにしたパターン・ランゲージ (018) 178 であるように感じられた。要素の近接性について日本語で議論を行うと、どう しても既存の概念や論理の枠組みに組み込まれがちになってしまう。そのため、 今回は時間的な制約もあり、この部分は途中から筆者がリードして行った。 2.2 パターンの記述 2.2.1 パターンの構造的把握 次にブレイン・ストーミングと KJ 法によって抽出、分類された要素を基に パターンを記述する。今回の実践では上述のような作業工程によって以下の16 のパターンへと収束させることができた。 No. 0 生き生きとした留学生活 No. 1 No. 2 No. 3 体験の獲得 わかる喜び 未来へのステップ No. 4 No. 5 No. 6 No. 7 No. 8 足で学ぶ 依存からの脱却 活動の足あと 季節の味わい エネルギーの補充 No. 9 理解の橋渡し No.10 「ちょっと」の気づかい No.11 「うち」からの理解 No.12 地産“知”消 No.13 No.14 No.15 つながりをつくる 世間を広める 自分を見つめる 表2 16のパターン 179 (017) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ たパターンの生成にはつながらない。そのため、文脈・問題・解決の関係性に 潜む要素の本質を見いだすことへの意識づけが必要となる。例えば、前述の要 素中の例で言えば「雪まつりに行く」と「流氷を見に行く」は冬や雪などのイ メージがあるため一見関係性が近そうに見える。しかし、後者は単に観光的な 意味合いではなく、自立した行動を意識するという意味では「美術館に行って みる」に近いものがあるということになる。 また、ブレイン・ストーミングの段階ではあくまでも個人に内在する要素を 引き出すことが重要になるが、この段階に入ると、他者との協働による創造性 が求められる。 ブレイン・ストーミングによって創出された個々の要素は、総体的に見ると 自分の内面に存在するものだけではなく、他者によって導き出されたものも多 数混在している。そのため、記述されたものの中には他者にとっては問題であ ったとしても、自身にとっては問題として捉えにくいというようなものも含ま れることになる。そのような自身の中で距離感の異なる問題を川喜田氏の言う 「内容の上で親近感を覚える紙切れ同士」という基準で振り分けるのはそれほど 簡単な作業ではない。しかし、一見関係性を見出しにくいものの中から関係性 を発見することが、集合知の集積にはとても重要である。これは自分の内側に はなかった問題を自身の問題に置き換えられるか否かを考察することによって、 (11) 自身のスコトーマ を外すことにもつながる。そして他者との協働の中からこ れまでにない要素間の関係性の意味付けを行うことにより、より多様で創造的 なパターンが生み出されることにつながる。 しかし、KJ 法を実際に行ってみると、川喜田氏や井庭氏の提言にあるような ボトムアップの思考で要素間の関係性を意味付けするのは予想以上に困難であ ることがわかる。この行程については井庭(2013)でも同様の指摘はされてい るが、留学生の場合、日本語という言語的制約もあってか、それ以上の困難さ (016) 180 (9) 2.1.2 KJ 法 による要素の収束 次に、ブレイン・ストーミングによって抽出された要素を KJ 法によって収束、 分類する。今回の実践では40の (10) 要素が抽出されており 、それ らの間にある関係性に意識を置 雪まつり 流氷 美術館 …… きながら作業を行う (図 5 ) 。KJ 法を行うにあたり重要なのは、 既存の枠組みにとらわれずに単 純に要素間を見比べて両者の間 の関係性を見出し、それらに意 味付けすることである。川喜田 ↓ (KJ 法前) (2000)にもあるように「内容の 上で親近感を覚える紙切れ同士」 を集めることで既存の枠組みに 流氷 雪まつり 美術館 …… とらわれない独自の発想による 関係性の構築を目指すのである。 同様のことは井庭(2013)でも 指摘されており、既存の概念に よってグルーピングを行うので はなく、要素間の感覚の近さを 図5 KJ法による収束例 重視することが大切だとしている。これは、問題解決の最終形が「功利性」を 志向するのか、あるいは「合理性」を志向するのかという差異に現れる重要な ポイントだとも考えられる。ここで最初から既存のフレームに要素を当てはめ ようとすると、その文脈に潜む「名付け得ぬ質」を発見できず、生き生きとし 181 (015) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ 数の要素を提起するようなケースも見られた。基本的には一枚の付箋には一つ の要素、それをできるだけ簡潔に記述するという形式をとるのであるが、留学 生の場合、記述したい内容が一言でうまく言い表せないケースも出てくる。そ の場合、複数の付箋に小分けして記述するという方法をとるなど、多少まわり 道や無駄に思えるような行為でも、自ら工夫してやってみることが大切である。 井庭(2013)でも提言されているように、パターン・ランゲージの作成はそれ 自体が創造的学習行為であり、普段は意識しないような問題であっても、この ような思考の連鎖によって思わぬ発見がなされることがある。 写真をたくさん撮る。 日本語の歌を聞いて、歌詞の意味を調べる。 思い出をたくさん作る。 もし誤解があれば簡単な言葉を使って説明する。 日記を書いてみる。 外国人の恋人を作ってみる。 新聞や雑誌に出る。 他の外国人と交流して、様々な文化を学ぶ。 どんなことでもいいから、 日本人に認められる。 ホームステイをする。 北海道の雪を楽しむ。 自国ではできない経験をする。 (ジンギスカン・着物など) 雪祭りに行く。 日本の伝統的なことを経験する。 冬のスポーツをしてみる。 収入・年齢・結婚など、個人的なことは聞かない。 旅行をする。 日本人はいつも曖昧な表現を使う。 日本人の友だちと車でいろいろなところへ行く。 「ちょっと」 と使うときは、無理にさせない。 ひきこもりにならないようにたくさん外で遊ぶ。 日本人の友だちをつくる。一緒に学校行事に参加する。 ビールなど、北海道で有名な食べ物を食べてみる。 帰国後も連絡する友だちをつくる。 ランチタイムに食べ放題に行く。 日本人に自国の料理を作ってあげる。 回転寿司・とんかつを食べに行く。 自分の母語を学ぶ学生を手伝って、 親しくなる。 講演に行ってみる。 自分の国に興味のない人と友だちになって興味を持たせる。 美術館に行ってみる。 知らない日本人に話しかける。 流氷を見に行く。 自分の目標をかなえるために努力する。 日本語の映画を見る。 目標意識を持つ。 日本人の友だちに頼らないで、一人で行動する。 自分の生活のスケジュールを守る。 日本の友だちと一日中勉強してみる。 国民健康保険料をちゃんと払う。 表1 ブレイン・ストーミングによって書き出された要素 (014) 182 た問題やストラテジーは、留学生 という立場においてはより一般的 …… 日本… な問題であると考えられ、個人の 問題からシステムへの問題へと視 …… 点移行ができる可能性も多分には 私生活 らむ。そのため、むしろ重複しな 一緒… い単一の問題より全体性を帯びて いる分、有意味だと捉えることも …… …… できる。さらに、この時点では記 述したものに対して他者からの質 図4 土台例 問やフィルタリングも一切行なわ ず、ひたすら自らの思考を引き出すことに集中する。このようなシステムをと ることによって、参加者の心理的な負担もできる限り排除するように努めるの である。もちろん、これらの作業は全て日本語で行われるため、表現に関する 質問などは必要に応じて適宜学生間、あるいは教師による補助も行う。しかし、 それはあくまでも表現レベルの範囲を超えず、内容的な問題についてはたとえ それが主旨から逸脱していると思われるようなものであったとしても、かまわ ずそのまま書き出しておく。 今回は参加者のほとんどがこのような形式の実践は未経験であったため、開 始直後はなかなか作業が進まず、筆者から思考のヒントを出さざるをえない場 面もみられた。しかし、慣れてくるにつれ次第に問題発見のコツがつかめるよ うになり、一枚の付箋に書き出すスピードが速まっていった。中には当初割り 当てた枚数の付箋を使い果たし、一人で二十枚以上の付箋を張り付けた者もい た。また、前述のように重複や内容の質をいとわずにどんどん記述することは、 彼らの思考の連鎖を促進するという効果もあり、一枚の記述から芋ずる式に複 183 (013) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ 身が心がけていることなどを自由に記述してもらった。さらに、問題を客観的 に捉えるために、来年度の入学生や交換留学生に対するアドバイスとしての記 述も付け加えた。これは、文字通りアドバイスという意味合いもあるが、前述 のように個人的な問題を自身の問題から一度切り離すことによって「話題」と して提供しやすくなり、より議論が活性化することを促すためでもある。また、 各カテゴリーの項目はあらかじめ筆者が設定したものであり、その性質は意図 的に互いに近接性の高いものにした。多様性に富んだアイデアを抽出するため にそれぞれが独立し、なるべく関連性の低いもので行うのがよいという考え方 もあるが、今回は参加者のほとんどがブレイン・ストーミング未経験者である ことや、日本語による記述、時間的猶予などといった制約もあり、発想のしや すさを第一に考慮した。今回、本論で扱うのはこのうちの「私生活(学校外生 活)」に関する要素である。 (8) 記述の形式には特に制限を設けず 、自身の感じたこと、思いついたことを 抽象性、具体性の程度にかかわらずどんどん付箋に書き込み、白紙の土台に張 り付けた(図 3、4) 。この時点では「日 本人の友だちをつくる」や「一緒に学校 行事に参加する」など複数名から同様の 日本人の・・・ 記述が書き出されていたが、重複する ものがあったとしてもかまわず思いつい たものはどんどん記述してもらった。こ のプロセスはブレイン・ストーミングの ような発散思考では重要な要素であり、 一緒に・・・ 極力思考のフレームを狭めず、自由な発 想や意見の創出を第一に考える。ここに 図3 付箋例 見られる上記のような重複して記述され (012) 184 ならず、共時的、通時的な知の集積、共有にも有効な方法論である。この手法 を効果的に用いることで、生き生きとした留学生活の実現、あるいは周囲によ るその支援がより活性化すると考えることができる。 2 パターン・ランゲージの作成 2.1 パターンの作成プロセス 今回、留学生活のパターン・ランゲージを作成するにあたり、本校に在籍す (6) る 留学生 6 名に留学生活における問題や生き生きとした留学生活のためのコ ツを記述してもらった。国籍は韓国(4 名)と中国(2 名)で、前者が交換留 学生、後者が学部留学生である。ともに本校における在籍期間が 1 年未満(学 部留学生は 1 年生)である。日本語の運用能力には多少の個人差はあるが、今 回の実践にあたり必要な会話や筆記能力に著しく問題があるというレベルの学 生は一人もいなかった。また、作成にあたっての形式は前出の井庭氏の実践を 参考にし、留学生が実践しやすいように多少の変更を加えた。 (7) 2.1.1 ブレイン・ストーミング による要素の抽出 まず初めに、留学生活に伴う問題や生き生きとした留学生活のためのコツを 「ブレイン・ストーミング」によって書き出した。これにより個人が持つ諸要素 を文字化し、可視化することで、参加者全員が表出された個々の問題やコツを 明示的に共有することが可能となる。 ブレイン・ストーミングは初めに「学校生活」 、 「私生活(学校外生活) 」、 「日 本語学習」という大まかなカテゴリーを三つ提示し、それぞれに関して自身が 過去に体験した問題やその対処の仕方、また、より良い活動を目指すために自 185 (011) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ 決という行為がパターン・ランゲージを媒介することによってより活性化する ことが期待できる。後述する留学生の記述などから考察するに、問題はその性 質が深刻であればあるほど、また、個人的なものであればあるほど、他者とは 共有しにくい傾向にあるようである。結果、自身の思考の枠から抜け出すこと ができず、問題解決に至らないままいつまでも一人で悩み続けるという事態に 陥りかねない。しかし、そもそも問題とは「自身が認知したある事象による解 釈が予期外れであること」からなる認識であり、留学生活における同様の文脈 においては、他者も同じような問題を抱える可能性も大いに考えられる。そこ で共通言語としてのパターン・ランゲージを他者と共有することにより、問題 を一度抽象的な事象へと切り離すことが可能となる。その結果、その事象は個 人的な「問題」から共通の「話題」となり、他者とのコミュニケーションに伴 う心的抵抗が緩和されるため、創造的問題発見・解決のための行為がより活性 化すると考えられる。 さらに、パターン・ランゲージは共時的な知的共有のみならず、通時的な知 の集積にも役立つ。留学生活というのは個々人にとってはそれぞれのカリキュ ラムや状況に応じたある一定期間における体験であるが、学校という組織から すれば継続性を持ったプログラムの一部である。つまり、現在在籍中の留学生 が卒業、あるいは帰国した後も新たな留学生によってプログラム自体は継続さ れてゆく。その際、新旧の留学生同士のお互いの交流がなくとも、パターン・ ランゲージが存在することによって過去に在籍した留学生の経験知を新たな留 学生に受け継ぐことができる。また、パターン・ランゲージは一回性のもので はなく、新たな要素が加わればそれが全体にも影響を及ぼし、新たなパターン の創造につながるという再帰性を持つものであるから、現在の留学生が過去の パターンに加筆したり、あるいは状況に応じて変更することも可能である。 このように、パターン・ランゲージは個人の問題発見・解決に寄与するのみ (010) 186 (5) ーではなくセミラティス (図 2 ) 」構造をも つということになる。 であるがゆえに、同一の事象であっても それが個人によって問題として認識される か否か、また、問題であるとすればどの程 度の問題なのかが要素の関係性によって常 に可変的だということになる。つまり、表 面的には同一の事象のように認識されたと しても、そこに潜む本質的な要素の関係性 は異なる場合があるということである。そ こで、問題解決のためのストラテジーを模 索するためには、事象そのものだけではな く問題に内在する要素間の関係性に着目す る必要がある。パターン・ランゲージを使 用することによって、ある問題(Problem) はどのような背景、文脈(Context)によっ て引き起こされ、それにはどのような解決 法(Solution)が考えられるかということを 知ることができるようになるということで ある。 また、パターン・ランゲージは留学生活 といったような個人のライフスタイルをデ 図2 セミラティス構造:上 とツリー構 造:下 クリストファー・アレグザンダー著 『 形の合成に関するノート/都市 性をも志向する。それゆえ、留学生活にお (2013) はツリーではない』 より ザインすると共に、街づくりのような全体 いては他者との協働や創造的問題発見・解 187 (009) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ なろう。生き生きとした留学生活の実現のためには、異文化理解や異文化コミ ュニケーションという要素は軽視できないが、パターン・ランゲージにおける それは上記の点において従来の留学生教育における視点とは異なると考えられ る。 1.2 パターン・ランゲージで何が可能か 前述のように、パターン・ランゲージとは対象に内在する構造のパターンを 共通の形式によって体系化し、創造を支援するための手段である。アレグザン ダー氏は建築、デザインの分野でこの手法を考案したのであるが、では、具体 的に留学生活のパターン・ランゲージを作成することによって何が可能となる のであろうか。 第一に考えられるのは、留学生個々人に起きる問題がどのような要素からな るのかが明らかになり、それがどのような文脈で起こっているのかが把握でき るようになるということである。 問題を構成する要素は恒常的にそこに存在するのではなく、常に動的に変化 している。それはニクラス・ルーマンの社会システム理論にあるように、社会 を構成する要素たるコミュニケーションそのものが偶有性を帯び、かつ瞬間的 なものだからである。問題となる事象そのものは他の要素との関係性の中から 動的な平衡性を保ち、あたかもそこにあり続けるかのような感覚として認識し がちであるが、要素間の関係性は変化するがゆえに常に同一のストラテジーで は問題解決に至るとは限らない。これはアレグザンダー氏もアレグザンダー (2009)で述べているが、要素はそれ自体が関係性から成り立っており、その 関係性の要素も関係性から成り立っているという再帰構造をもっているためで ある。それゆえ、要素間の関係性が複雑になり単一のレイヤーの上できれいに 分類することができない。アレグザンダー氏のことばを借りれば「都市はツリ (008) 188 た個人の問題解決に活用するという意味では、上述の諸研究との共通点がある と考えられる。 しかし、アレグザンダー氏の理論には従来の留学生教育とは大きく異なる点 も存在する。彼の提唱するパターン・ランゲージは、ソーシャルデザインにユ ーザー自らが参加することによって、生き生きとした街づくりの創造が可能と なるというものであるが、そこにユーザー自身の変化は明示的に現れない。彼 の中心的な視点は街や建物における空間のデザインといった脱人称的対象に置 かれており、ユーザーはあくまでも建築家とともに建築・デザインの創造に関 与する対象である。アレグザンダー氏は建築家であるため、このようなフレー ムによって思考するのはごく自然なことだと言えよう。それは言語習得や文化 認知における主体的個人のアイデンティティーを対象とするアプローチとは趣 が異なる。両者ともに個人が全体を志向し、また、全体は個人のあり方に影響 を与えるという意味で思考のフレームには類似性があるが、視点における質的 要素は異なるものであると言える。留学生教育の場合、デザインの対象は学び のプロセスであり、また、文化理解などにおける自己の変容である。ここにあ る自己はマイケル・サンデル氏のことばを借りれば「状況づけられた自己」で (4) あり、自然発生的に「名付け得ぬ質(quality without a name) 」が備わってい るものではない。それは時に、異文化コミュニケーションにおける文化融合や 新たな文化創造の担い手として位置づけられる。パターン・ランゲージのよう な思考プロセスでは、異文化コミュニケーションを考えるにおいてその諸要素 を分析し、そこにある要素間の関係性を問題にするためにマクロ的な視点にお ける既存の文化融合や、それによる新たな文化創造を志向しないことは明らか であろう。学習者に視点の中心を置けば、個々の要素に潜む複雑性にいかにし て対応し、文化的背景の異なる者同士が共に生き生きとした空間を共有できる か、パターン・ランゲージはそのための共通言語を提供するものということに 189 (007) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ る形式(ランゲージ)で記述しようとした。このような背景には、生き生きと して多様性がありながら、それでいて調和がとれている街づくりはいかにして 可能かというアレグザンダー氏の問題意識がある。ここで重要なのは、従来の 建築・デザインの手法とは異なる、そこに住むユーザー自身が建築家や施工者 と共に創造に参加するというプロセスに重きを置いていることである。 アレグザンダー氏は建築デザインのプロセスにおいて、建築家のみならず、 ユーザーが参加することによって街や建物により深い情感が生み出され、それ が住民の愛着へつながると考えた。このようなアレグザンダー氏の志向した 「街づくり」へのコミットメントを、思考のプロセスをそのままに「留学生活」 と置き換えれば、留学生個々人(留学システムのユーザー)が自ら留学生活の デザインに直接関与することによって、学校、あるいは留学生活全般への愛着 へつながると考えることができる。 これまでの留学生教育に関する研究においても、場所と個人、あるいは社会 との関係性を視野に入れた研究が多数なされてきた。三代(2011)では教室を はじめとする「場」の議論の必要性を提示し、日本語教室の場も社会的文脈に 根ざしていることが指摘され、寅丸(2011)では、教室でどのように他者や教 室コミュニティーと意味世界を共同構築していくのかが問題提起されている。 また、徳井(2002)や神谷(2008)などのように、教室から日常的な社会への コミットメントと、学習活動における周辺環境や地域社会との関係に着目した 研究も多数見られる。これらの研究は学習者(学習システムのユーザー)が教 室や、あるいは社会のような不特定な場において、自己を取り巻く外的要因と 他者性をくぐらせた自己との間で相互に影響を与え合うという点で、アレグザ ンダー氏の問題意識との共通性がある。本論においても留学生自身と外的要因 との関係性やそこに現れる問題意識に対する視点は重要な要素となっており、 それを学習者個人という枠に留まらず、留学生全体の集合知として集約し、ま (006) 190 図1 「井庭崇の Concept Walk」 〈 http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/〉 “ラーニング・パターン” より 1.1.2 留学生教育との理論的関連性 前述のように、パターン・ランゲージはクリストファー・アレグザンダー氏 によって建築・デザインの分野における創造のためのメディアとして考案され たのが起源である。その後、コンピュータのソフトウェア開発に応用されるこ とで注目されるようになり、現在では様々な分野で幅広く応用されている。し かし、留学生教育の分野ではこれまでパターン・ランゲージを応用した例を見 ない。そこで、アレグザンダー氏の理論をさらに掘り下げつつ、ここでは従来 の留学生教育における諸理論との関連性を考察してみる。 アレグザンダー氏は街や建物など、デザインの対象となるものの基本構造に 内在する関係性のパターンを見出し、それらが生成されるプロセスを共有され 191 (005) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ ることとなった。プログラミングにパターン・ランゲージを取り入れるといっ た発想は、その後のソフトウェア開発の分野に大きな影響を与え、現在では「デ (3) ザイン・パターン」という概念として広く知られている 。 さらに、近年ではソフトウェア開発のみならず、組織デザインや環境設計な ど、パターン・ランゲージは民間企業をはじめとする様々な組織で幅広く取り 入れられるようになった。 また、教育の分野においてもすでにパターン・ランゲージを導入する動きが あり、その形式をいち早く取り入れたのが井庭崇氏である。井庭氏と彼の大 学の研究室に所属する学生たちは2008年に「ラーニング・パターン」 、2011 年 に「プレゼンテーション・パターン」、そして、2012 年には「コラボレーショ ン・パターン」と三つのパターン・ランゲージを作成し、web 上や書籍などで 発表している。中でも「ラーニング・パターン」は所属大学の初年度教育に も取り入れられ、発表から現在に至るまで共通の学びの指針として学生たち に活用され続けている(図 1)。また、井庭氏らは Plop(Pattern Languages of Programs)などの国際学会でも精力的に活動しており、人間行為のパターン・ ランゲージの製作、活用において学際的分野を越えてその研究における注目度 が高まっている。 本論も上記のような例に倣い、井庭氏らの作成したパターン・ランゲージを モデルにそれを留学生活へ応用しようという試みである。それにより、留学生 が自らの手で生き生きとした留学生活を実現するための共通言語を創造し、誰 もが問題解決のプロセスに参加できるようにすることを目標にしている。 (004) 192 でパターン・ランゲージの応用を試みたのは、管見の限り恐らく本論が初めて だと思われる。そのため、議論を展開するにあたり基礎的理論の概説による共 通理解が必要と思われるので、まずはパターン・ランゲージという方法論がい かなるものかを概観する。 1.1 パターン・ランゲージの応用への基礎 1.1.1 パターン・ランゲージの開発起源と応用の推移 (1) 「パターン・ランゲージ(Pattern Language) 」とは、1970年代に建築家でカ リフォルニア州立大学バークレー校教授(当時)のクリストファー・アレグザ ンダー氏によって提唱された建築・デザインにおける知識の記述形式である。 アレグザンダー氏は建物や街の形態に繰り返し現れる法則性とそこに住む人々 との関係を徹底的に調査、分析し、建物と人々の生き生きとした関係には、 (2) 253の「パターン」 (法則)があるとした 。そして、それらのパターンを、背 景(Context)における問題(Problem)とその解決法(Solution)として記述し、 そこに住むユーザーと建築家がともに街づくりに参加できる共通の「ランゲー ジ(language)」として体系化した。これが「パターン・ランゲージ」である。 アレグザンダー氏はパターン・ランゲージにおける諸パターンの組み合わせに よって、 「生き生きとした質感をもつ建物や街」が創造され、それを建築家、施 工者、ユーザーの三者の融合した創造性に寄与することが可能だと考え、その ための方法論としてパターン・ランゲージを提案したのである。 アレグザンダー氏の理論は当初、建築・デザインの創造性をパターンに帰結 させるという点において建築の分野では賛否両論の評価を受けた。しかし、そ の後1990年代に入り、ケント・ベック氏とウォード・カニンガム氏によってコ ンピュータのソフトウェア開発に応用され、建築以外の分野で大きく注目され 193 (003) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ 師や日本人学生など、周囲の人々から様々なアドバイスを受けるためのシステ ムや機会があるにせよ、それをどのように活用し、実践したらよいのかという 具体的方法論は、彼らにとって必ずしも自明なものとはなっていないようであ る。さらに、留学生個々の状況を垣間見ても、適応能力や問題解決能力には個 人差があるようである。 このような問題意識のもと、本論では留学生が日本で充実した留学生活を送 るための秘訣やそこに現れる問題発見・解決のコツを「パターン・ランゲー ジ」という手法を用いて記述することを提案する。パターン・ランゲージとは、 1970年代に建築家のクリストファー・アレグザンダー氏によって提唱された生 き生きとした街づくりを支援するための理論であり、以後、建築やデザインの みならず、コンピュータのソフトウェア開発をはじめ、様々な分野で応用され てきた知の記述形式である。 教育の分野でもすでにパターン・ランゲージを活用する動きがあり、井庭ら (2013)などが注目され、高い評価を受けている。 本論では、この「パターン・ランゲージ」を留学生教育にも応用することで、 生き生きとした留学生活のコツを記述するとともに、彼らが直面する様々な問 題を彼ら自身の集合知をもって合理的に解決していくための基礎を構築してい くことを目指す。 1.留学生活におけるパターン・ランゲージの応用可能性 冒頭でも述べたとおり、本論では生き生きとした留学生活の実現のための秘 訣や問題発見・解決のコツを「パターン・ランゲージ」という形式で記述する ことを目的にしている。 留学生教育、あるいは留学生の異文化理解・コミュニケーションの研究分野 (002) 194 ◉研究ノート 留学生活を支援するための パターン・ランゲージ 森 良太 はじめに 本学(北海学園大学) では、学部・大学院留学生をはじめ交換留学生、学部・ 大学院研究生など、様々な立場の留学生が在籍している。在籍期間も最短 3 ヶ 月から 4 年を超える長期在籍者までおり、その形態は様々である。彼らは日本 での滞在期間中に学内外で様々な活動を通じて、日本社会や文化を体験してい る。 しかし、実際の活動においてその全てを個人が円滑に行えている訳ではない。 彼らが日本で充実した留学生活を送るためには、日常的に現れる諸問題を一つ ひとつ効果的に解決していく必要がある。 留学生の多くは過去に日本、あるいは札幌での生活経験がほとんどなく、そ のため留学生活の中で日本の大学システムのみならず、札幌という地域の生活 様式をも理解し、柔軟に適応していくことが望まれる。それらの問題を自らの 手で解決していくためには、大学での学習活動を行いながら日常生活を円滑に 過ごすための環境を整えることが重要となってくる。しかし、このような環境 へのアプローチを留学生一人ひとりが自らの手で行うことは容易ではない。教 195 (001) ◉研究ノート 留学生活を支援するためのパターン・ランゲージ [彙報] 士 論 文 題 目 平成二十四年度 大学院文学研究科 学位論文題目 一覧 博 名 智明 紅敏 涵明 有子 柴田 幸子 千裕 侑奈 齋藤千代子 山本 内田 岩佐 李 楊 大原 氏 士 論 文 題 目 ︱﹃深い河﹄を中心に ︱ 遠藤周作の文学と信仰について ﹁いき﹂再考 ︱ とくに江戸社会との関連で ︱ ﹃現代の日本人と死の距離感について﹄ ﹁大宰帥大伴卿讃酒歌十三首﹂の研究 真言立川流の思想的意義 中国人学習者の日本語授受動詞の 使用に関しての考察 ︱ 使用実態と日本語教育への示唆 ︱ 日本語の感謝場面における感謝表現の研究 ︱ 初期作品﹃二百十日﹄の分析 ︱ 夏目漱石の物語における︿山﹀ 修 修士学位論文 名 博士学位論文 氏 ●日本文化専攻修士課程 学位記番号 博︵文︶ 秋元 裕子 乙第5号 瀧口修造研究 ︱﹁影像人間﹂の系譜 ●博士学位論文︵論文博士︶ 蚪 196 授業科目及び担当者 比較文学特殊研究Ⅱ 比較文学特殊研究Ⅰ 古代文学特殊研究Ⅲ 古代文学特殊研究Ⅱ 古代文学特殊研究Ⅰ 授業科目 追塩千尋 教授 テレングト・アイトル 教授 テレングト・アイトル 教授 テレングト・アイトル 教授 小野寺 小野寺 小野寺 担当教員 子 教授 子 教授 子 教授 英米思想文化特殊研究Ⅱ 英米思想文化特殊研究Ⅰ 欧米社会文化特殊研究Ⅲ 欧米社会文化特殊研究Ⅱ 欧米社会文化特殊研究Ⅰ 英米社会文化特殊研究Ⅲ 英米社会文化特殊研究Ⅱ 英米社会文化特殊研究Ⅰ 授業科目 岩崎まさみ 教授 岩崎まさみ 教授 岩崎まさみ 教授 担当教員 ●英米文化専攻博士 ︵後期︶ 課程 比較文学特殊研究Ⅲ 英米思想文化特殊研究Ⅲ ●日本文化専攻博士 ︵後期︶ 課程 日本古代中世史特殊研究Ⅰ 追塩千尋 教授 安酸敏眞 教授 追塩千尋 教授 欧米思想文化特殊研究Ⅰ 日本古代中世史特殊研究Ⅱ 欧米思想文化特殊研究Ⅱ 安酸敏眞 教授 日本古代中世史特殊研究Ⅲ 淳 教授 欧米思想文化特殊研究Ⅲ 濱 忠雄 教授 濱 忠雄 教授 濱 忠雄 教授 上杉 忍 教授 上杉 忍 教授 上杉 忍 教授 安酸敏眞 教授 仏教文化史論特殊研究Ⅰ ︵禅文化史論︶ 船岡 誠 教授 仏教文化史論特殊研究Ⅱ ︵禅文化史論︶ 船岡 誠 教授 仏教文化史論特殊研究Ⅲ ︵禅文化史論︶ 船岡 誠 教授 近現代史特殊研究Ⅰ 郡司 淳 教授 郡司 淳 教授 近現代史特殊研究Ⅱ 郡司 近現代史特殊研究Ⅲ 197 [彙報]平成24年度 大学院文学研究科学位論文題目一覧/講義題目 蚪 日本言語文化特殊講義演習ⅠA 日本言語文化特殊講義Ⅰ 表象文化論特殊講義演習B 表象文化論特殊講義演習A 表象文化論特殊講義 比較文学特殊講義演習ⅡB 比較文学特殊講義演習ⅡA 比較文学特殊講義Ⅱ 比較文学特殊講義演習ⅠB 比較文学特殊講義演習ⅠA 比較文学特殊講義Ⅰ 日本文学特殊講義Ⅳ 日本文学特殊講義Ⅱ 日本文学特殊講義演習ⅠB 日本文学特殊講義演習ⅠA 日本文学特殊講義Ⅰ 授業科目 中川かず子 教授 中川かず子 教授 中川かず子 教授 大石和久 教授 大石和久 教授 大石和久 教授 大谷通順 教授 大谷通順 教授 大谷通順 教授 テレングト・アイトル 教授 テレングト・アイトル 教授 テレングト・アイトル 教授 田中 綾 准教授 田中 綾 准教授 田中 綾 准教授 中村三春 講師 小野寺 小野寺 小野寺 担当教員 子 教授 子 教授 子 教授 アジア文化論特殊講義Ⅱ アジア文化論特殊講義演習ⅠB アジア文化論特殊講義演習ⅠA アジア文化論特殊講義Ⅰ アイヌ文化論特殊講義B アイヌ文化論特殊講義A アイヌ文化論特殊講義 北方文化論特殊講義Ⅰ 日本歴史文化特殊講義演習ⅢB 日本歴史文化特殊講義演習ⅢA 日本歴史文化特殊講義Ⅲ 日本歴史文化特殊講義演習ⅡB 日本歴史文化特殊講義演習ⅡA 日本歴史文化特殊講義Ⅱ 日本歴史文化特殊講義演習ⅠB 日本歴史文化特殊講義演習ⅠA 日本歴史文化特殊講義Ⅰ 日本言語文化特殊講義Ⅳ 日本言語文化特殊講義演習ⅢB 日本言語文化特殊講義演習ⅢA 授業科目 李 俊 鎬 講師 須田一弘 教授 須田一弘 教授 手塚 薫 教授 手塚 薫 教授 手塚 薫 教授 須田一弘 教授 船岡 誠 教授 船岡 誠 教授 船岡 誠 教授 郡司 淳 教授 郡司 淳 教授 郡司 淳 教授 中村英重 講師 追塩千尋 教授 追塩千尋 教授 追塩千尋 教授 門脇誠一 講師 德永良次 教授 德永良次 教授 担当教員 ●日本文化専攻修士課程 日本言語文化特殊講義演習ⅠB 菅 泰雄 教授 德永良次 教授 日本文学特殊講義演習ⅡB 日本文学特殊講義演習ⅡA 日本言語文化特殊講義Ⅱ 日本言語文化特殊講義Ⅲ 198 英米社会文化特殊講義ⅠA演習 英米社会文化特殊講義Ⅰ 授業科目 岩崎まさみ 教授 岩崎まさみ 教授 岩崎まさみ 教授 担当教員 欧米思想文化特殊講義Ⅱ 欧米思想文化特殊講義ⅠB演習 欧米思想文化特殊講義ⅠA演習 欧米思想文化特殊講義Ⅰ 英米言語文化特殊講義ⅡB演習 授業科目 佐藤貴史 准教授 安酸敏眞 教授 安酸敏眞 教授 安酸敏眞 教授 米坂スザンヌ 教授 担当教員 ●英米文化専攻修士課程 英米社会文化特殊講義ⅠB演習 常見信代 教授 常見信代 教授 常見信代 教授 英米歴史文化特殊講義Ⅰ 英米歴史文化特殊講義ⅠB演習 英米歴史文化特殊講義ⅠA演習 英米歴史文化特殊講義Ⅱ 上杉 忍 教授 上杉 忍 教授 上杉 忍 教授 濱 忠雄 教授 濱 忠雄 教授 濱 忠雄 教授 太田敬子 講師 欧米歴史文化特殊講義ⅠB演習 欧米歴史文化特殊講義ⅠA演習 欧米歴史文化特殊講義Ⅰ 英米歴史文化特殊講義ⅡB演習 英米歴史文化特殊講義ⅡA演習 欧米歴史文化特殊講義Ⅱ 柴田 英米言語文化特殊講義Ⅰ 英米思想文化特殊講義Ⅲ 英米思想文化特殊講義ⅡB演習 英米思想文化特殊講義ⅡA演習 米坂スザンヌ 教授 上野誠治 教授 瀬名波栄潤 講師 川上武志 教授 川上武志 教授 英米思想文化特殊講義Ⅱ 英米言語文化特殊講義Ⅱ 米坂スザンヌ 教授 崇 准教授 川上武志 教授 英米思想文化特殊講義Ⅰ 英米言語文化特殊講義ⅡA演習 199 [彙報]平成24年度 大学院文学研究科学位論文題目一覧/講義題目 15 文学 研 究 科 教 育 ・ 研 究 発 表 活 動 45 41 ◎二〇一三年度第一回﹁全体ゼミ﹂ ︵修士課程二年・中間報 告︶ ︱七月六日︵土︶ ︵ ∼ ︶ 、本学D 番教室 にて開催された。修士課程二年に在学する4名の大学院 生が、次のような題目で、修士論文の構想とその一部を 発表した︵参加者約 人︶ 。 山田 航﹁初期木下利玄﹂ 佐藤公美﹁ACTFL O - PI のテストとしての可能 性︱テスター間のインタビュー内容の差から の考察︱﹂ 大島直樹﹁ブラウン判決の冷戦的解釈︱アール・ウォ ーレンの一貫性を参考に︱﹂ 昭﹁中神宮寺の建立とその思想︱7世紀から9 世紀を中心として︱﹂ 高橋 30 ◎二〇一三年度第二回﹁全体ゼミ﹂ ︵修士課程一年・中間報 告︶ ︱十一月九日︵土︶ ︵ ∼ ︶ 、本学D 番教 室にて開催された。修士課程一年に在学する4名の大学 院生が、次のような題目で、修士論文の構想を発表した 40 13 00 12 ︵参加者約 人︶ 。 清水敏弘﹁現代本格ミステリ序論﹂ 10 45 41 か︱知識の制度化の過去・現在・未来︱﹂ 竹田麗華﹁知識はいかに保存され、伝えられてきたの 40 堺 達也﹁仮定法現在節の中の副詞﹂ 小川 ゆ う 紀﹁韓国人学習者の日本語教師に対するビリ ーフ調査 中・上級学習者を対象に﹂ 山森未央﹁中上級日本語学習者の学習ストラテジーを 探る∼よい学習者︵ Good Language Learner ︶ との関連において∼﹂ 200 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 編集後記 ◉﹃年報 新人文学﹄第 号をお届けします。前号は掲載論文の本数が少なく、編集委員のお詫びとともに編集後記を締め くくりました。その反省を胸に、本年度は早い時期から投稿募集を開始し、機会をとらえては各位にご投稿をお願いし てまいりました。その甲斐あってか、先生方の積極的なご協力を賜った結果、こうして貴重な論考が集まりました。執 筆と査読にあたられた方々に心よりお礼を申しあげる次第です。 ◉その一方で、残念ながら﹁原稿落ち﹂となるケースがあったことも告白しなければなりません。しかしこれも審査制度 を堅持する本誌の運命と考えるほかないだろうと思います。不本意な結果となった投稿者には、みずからを鍛える場と して引きつづき投稿という形で挑戦を続けられることを願っています。 研究者人生の大半を注がれ、その集大成ともいえる﹃アメリカ黒人の歴史 ︱︱ 奴隷貿易からオバマ大統領まで﹄ ︵中公 ◉上杉忍氏にはご退職を前に﹁巻頭言﹂をご執筆いただき、加えて論文までご投稿いただきました。アメリカ黒人研究に 新書︶を出版されたのは今年三月のこと。氏はそのご著書に書ききれなかったことを論文にまとめられ、それを後輩研 究者への励ましとして本号に託してくださいました。若い研究者がめざす目標として、今後もご活躍されることを期待 しています。 退職されます。氏は日本を代表するハイチ革命研究家で、本誌でも﹁浜忠雄﹂のお名前で創刊号より活躍されています。 ◉大学院研究科の同僚としては、二〇〇八年度から四年間研究科長を務められた濱忠雄氏も、同じく今年度かぎりで定年 全体ゼミで院生たちの発表にひとつひとつ温情あふれるコメントを加えられ、さらに研鑽を積むように激励されていた お姿が忘れられません。どうぞこれからもわたしたちをご指導、ご鞭撻くださいますようお願い申しあげます。 ◉昨年と同様、今年もユネスコ無形文化遺産保護条約の政府間会議に出席しています。開催地はアゼルバイジャンの首都 ﹂が無形文化遺産の代表リストに登録されることに決まり、文化庁長 バクーです。今年は日本が申請した﹁ WASHOKU 官を始め、日本政府関係者は歓喜に沸いています。元旦には多くの日本人が富士山を眺めながら伝統的おせち料理をい ただくことと思います。 ︵岩崎まさみ・大谷通順︶ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ 201 10 ﹃年報 新人文学﹄投稿規定 流を図ることを目的とし、年一回発行を原則とする。 一、 ﹃年報 新人文学﹄は、人文学に関する広範な分野の研究成果を掲載し、内外の研究交 編集委員会が認めた場合はその限りではない。 二、投稿原稿の著者は、当人文学部及び文学研究科の所属者でなければならない。ただし ①原著論文で未発表のもの、四〇〇字詰原稿用紙五〇頁程度。 三、原稿は、原則、日本語とし、縦書き、種類と分量はそれぞれ次のとおりとする。 ②研究ノート・資料・報告など、四〇〇字詰原稿用紙三〇頁程度。 ③書評など、四〇〇字詰原稿用紙一〇頁程度。 ④その他、編集委員会が必要と認めたもの。 四、原稿は編集委員会で厳正な審査を行い、採否を決定する。編集委員会は査読結果に基 づき、原稿の一部変更を求めることがある。 ﹃年報新人文学﹄編集委員会 北海学園大学大学院文学研究科 202 表紙の﹁ふくろう﹂について 第a 十号 b Annual Bulletin of the New Humanities 発行所︱︱北海学園大学大学院文学研究科 札幌市豊平区旭町四丁目一番四〇号 電話︵〇一一︶八四一︱一一六一[代表] 発行者︱︱追塩千尋 編集委員︱岩崎まさみ +大谷通順 〒〇六二︱八六〇五 北海道札幌市豊平区旭町四丁目一番四〇号 [代表] FAX︵〇一一︶八二四 ︱七七二九 電話︵〇一一︶八四一︱一一六一 北海学園大学大学院文学研究科内 発行日︱︱平成二十五︵二〇一三︶年十二月二十日 発行 編集者︱︱北海学園大学大学院文学研究科﹃年報 新人文学﹄編集委員会 年報 新人文学 新しき学問の地平をきり拓くべく、大いなる飛翔の場たらんとするものです。 本誌は、この﹁ミネルヴァのふくろう﹂と﹁シマフクロウ﹂にあやかって、北の大地から 鳥をコタンコロカムイ︵村の守護神︶と呼んで神聖視してきました。 が、その表情には思慮深い哲人を思わせる威厳があります。古来アイヌの人たちは、この シマフクロウは、北海道のなかでも手つかずの自然が残っている場所にしか生息しません もう一つの意味は、北海道に生息する天然記念物﹁シマフクロウ﹂に由来しています。 その飛翔を始める﹂と述べたことは、つとに有名です。 哲学者ヘーゲルが、 ﹁ミネルヴァのふくろうは、日の暮れ始めた夕暮れとともに、はじめて アテネの﹁ミネルヴァのふくろう﹂に由来する、 ﹁知恵ないし学問﹂の象徴という意味です。 表紙に描かれている﹁ふくろう﹂には、二重の意味が込められています。ひとつは古代 Z 年報 新人文学 Annual Bulletin of the New Humanities [第十号]平成二十五年十二月発行 北海学園大学大学院文学研究科
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